2019年10月1日火曜日

常小梅さん証言 「私の父は南京大虐殺幸存者の常志強」感想・要旨


2018年南京大虐殺81ヵ年 証言を聞く東京集会報告集 全水道会館 2018.12.12


常小梅さん証言 「私の父は南京大虐殺幸存者の常志強」


感想 

常小梅さんのお父さんの体験を聞いて、我々日本人の祖先がどれほどむごいことをやったか、大変申し分けないと思った。常さん家族がなぜこんな目に会わなければならなかったのか、日本のやり方は間違っていたとしか言いようがない。近隣諸国は仲良くしなければならない。日本はどこかで判断を間違えたに違いない。言い訳は許されない。貪欲、差別、自己中天皇制か。

常さんのお父さんの家族は大所帯だった。曾祖母、祖母、父母、姉、弟4人の10人家族だった。そのうちの6人、父母、弟4人が、日本兵に殺され、姉も、その後細菌をばらまかれて、発疹チフスで亡くなってしまった。取り残された父は、苦しい人生を送ったが、助けてくれる人もいた。
父の家族の体験を彫像で表現したものが、南京の侵華日軍南京大虐殺遭遇同胞起念館*に展示されている。

*大屠殺、遭難、遇難など様々な表記がある。


要旨

父の名前は常志強という。1928年2月4日生まれで、現在(2018)91歳である。私は父の娘で1960年生まれである。
私の父の家族は、南京の夫子廟で小さな雑貨店を営んでいた。父は聡明で聞き分けがよかった。
1937年8月15日、日本の戦闘機が南京を無差別爆撃した。父の祖母と曾祖母は纏足で逃げることができなかった。1937年の冬、二人をおいて難民区へ逃げることにした。
1937年12月12日の午後、南京城を守る中国軍はいなくなっていたが、住民はそのことを知らなかった。1937年12月13日の早朝、南京は陥落した。日本軍は城内に砲撃を加え、城内は火の海になった。しばらくすると城内に日本軍が入ってきて、日本兵は、誰彼構わず難民に向かって撃ちまくり、人を見るとすぐに刀で切りつけ、銃剣で刺した。父の母が、泣き始めた一番下の子供小来来を抱いて乳を飲ませようとしたとき、日本軍人が銃剣で母を刺したが、まだ子供を抱きしめていられた。しかし、二度目に刺されると、子供を放してしまい、子供は大声で泣いた。日本兵は銃剣で子供の尻を突き刺して放り投げた。他の弟たちが日本兵に向かって噛み付いたり、服を引っ張ったり、足にしがみついたりして、母を守ろうとしたが、日本兵は、その三人の子供を銃剣で突き刺した。父はこのとき9歳だった。父は気を失った。父の姉も何度か銃剣で刺され、気を失った。
二人が目を覚まし、小来来を母の胸元に抱かせ、乳を飲ませようとしたが、母は次第に目を閉じていった。また父の父は、拳銃で背中を撃たれて死んでいた。
翌日父と姉は中年の女性に助けられた。彼女を「太ったママ」と呼んだ。張という人だった。殺された彼女の夫は演劇の役者だった。日本兵が入ってきて、太ったママに歌を歌わせた後、彼女と父の姉を強姦した。父の姉はそのとき11歳だった。
三人で金陵大学に逃げた。20万人の難民がいた。その後二人は優しい夫婦に出会った。夫は姜阿州と言い、二人を引き取って育ててくれた。
難民は運動場へ追いやられ、男の群れと女と子供の群れとに分けられた。日本軍は、男の中から一人を引っ張り出し、その人に知人がいなければ、縄で縛って集団虐殺した。
難民区が解散すると、一人の知人が現れ、二人を家に連れ帰り、父の祖母と曾祖母に会えた。父と姉は王府園へ行き、家族の死体を捜した。王府園の人は、母親にしがみついたまま凍死した子供がいたこと、その母子を離すことができなかったことなどを話してくれた。
祖父は39歳で犠牲者になり、祖母は30歳だった。私の大叔父は8歳、二番目が6歳、三番目が4歳、四番目は2歳になっていなかった。
父の姉は日本人が経営する被服工場で長時間働き、父は柴を刈り、野菜を掘り、炊事をした。油条(中華風長揚げパン)や焼餅(中華風焼餅)を売り歩き、米を買って来て売った。日本兵は米を袋ごと水につけ、売ることも貯蔵することもできないようにした。
1938年から1940年にかけて米価が4倍になった。1942年に日本の偽政府は配給を始めたが、それだけでは不足だった。老人や子供は並んでも米を買えなかった。

昼に米を買いに行き、夜城に戻る。
少年は数十里も歩く。
勇気を出して墓地を抜け、
生きるために両肩を腫らして、

1943年から1944年にかけて、南京では多くの人が流行性の疫病にかかった。当時は日本軍がばらまいた細菌の毒によるものだとは知らなかった。当時日本軍第1644部隊の本部が、南京城内中山東路北側にあった。元は陸軍中央病院だったところだ。細菌武器と毒ガス武器の実験がここで行われていた。当時明故宮空港から飛び立つ飛行機から、よく一種の霧状のものが撒かれていて、まもなく疫病が蔓延した。父と父の姉は時々明故宮空港の付近で草刈をした。ある日草刈に行った姉が、突然高熱を出した。高熱は7日7晩引かず、身体中斑点だらけになった。医者は発疹チフスと診断した。姉はなくなった。
 今日侵華日軍南京大虐殺遭遇同胞起念館の彫像広場に、乳飲み子を抱いたまま横たわっている母親とそれを脇で見る子の彫像「最後の一滴の乳」がある。私の父の母と父の末の弟と父の像である。

現在父は、幼い頃住んでいた南京夫子廟と、自分の家族の受難の光景がある南京大虐殺遭難同胞記念館によく足を運んでいる。
父は今絵を描くのが好きだ。

南京大虐殺の惨劇は中国人民にとって、心を切り裂くような歴史の一ページである。このことは私たちの努力によって、世の中の人たちに警告しなければならない。歴史を教訓とし、今日の平和を尊び、悪魔のような戦争から遠ざからないといけない。中日両国民の友好が何代も続きますように。

以上 2019930()

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