2021年4月14日水曜日

二 「歴史の回顧と革新の力」 平泉澄 至文堂 大正15年、1926年 要旨・感想

二 「歴史の回顧と革新の力」 平泉澄 至文堂 大正15年、1926年 『国史学の骨髄』 平泉澄 至文堂 昭和7年、1932年 定価1円80銭 所収

 

 

二 歴史の回顧と革新の力

 

 

感想 2021413() これは何事でも物事を為すにあたっては過去の教訓を学んでからやるべきだというごく常識的な論であり、その意味で納得できるが、そのことを庶民が知らないかのような口ぶりには納得しかねる。エリート意識か。

 

追記 筆者の言う過去とは、日本史における過去を前提にしていて、それだけを考えているのかもしれない。つまり、欧米の過去や庶民の過去など眼中にないのかもしれない。

追記 筆者は大正末年の「国粋」や「改造」を疑問視している。右翼を一つからげにはできないようだ。

追記 本論文は筆者の日本中世史家としての本領発揮である。

 

 

要旨

 

018 「庸愚暗劣の徒」は、歴史を回顧することと、将来に向かって革新的事業を行うこととが常に対立し矛盾するものと考え、どちらか一方だけを採用しがちだ。過去だけを重視する者は保守退嬰に陥り、歴史研究は骨董的玩弄になり、他方革新だけを重視する者は、破壊反逆を事とし、理想の追求は新奇を衒い(てらい)流行に流されがちだ。両者とも浅薄で愚劣であり、流行とともに両者が相互に入れ替わることもある。

 しかし歴史が示すように、偉大な精神ではこの二つは矛盾せず、歴史を回顧することによって自己の使命を悟り、心は純粋になり、理想を高く持ちながら現実を理解し、「陋」と「邪」を去って正義を顕すためにあえて破壊し、革新をおこなう。(破壊とは物騒な。)

 

019 我が国の歴史で大革新の時は少なくないが、明治維新や大化の改新が最も優れている。そしてある点では大化の改新の方が明治維新よりも優れている。

 大化の改新は大化一朝の事業ではなく、それ以前の推古天皇の時代から始まり、それ以後の文武天皇の時代に大成した。推古天皇の時代の皇太子である聖徳太子は21、22歳の時、氏族制度の弊害を見て、政治・制度・思想など各方面で改革を施そうと決意し、推古天皇の11年、十二階の冠位を制定し、翌12年、諸臣に冠位を賜ったが、それは臣下尊卑の等級を定めたものである。

020 従来の氏族制度では氏族の尊卑や官職は固定していたが、個々の官吏として臣民としての等級はなかった。今や天皇が臣下を統御し、その功労によって品等を分ち尊卑を明らかにし、従来の氏姓によらずに人材登用の道を開き、天皇が名誉の源泉となった。その目指すところは族長専制の打破であり、中央集権であった。

 この冠位を諸臣に賜ったのは12年正月で、その4月に憲法17か条を作った。その第三条は、「君臣の関係は天地のように天が覆い、地は載せるものである。もし逆に地が天を覆うならば、破壊自滅するだろう。それと同じように、君臣の分を乱すと必ず自ら滅亡するから、謹んで臣子の分を守り、君に忠なるべきこと」を諭した。

 また第十二条は「国に二君なく、民に両主なく(二人の君主がなく)、民衆はすべて天皇の臣である。ところが国司国造等が猥(みだり)に権力を専らにして、百姓に賦斂(れん)することは不都合であり、今後厳にこれを戒め」た。これは強大な氏族の擅権(せんけん、恣の権利)を排し、氏族制度の牢固な因襲を打破しようとする計画であった。

021 これらの旧弊を一新するために、頻りに支那大陸の文化を輸入し、留学生を遣わし隋の制度を研究させ、各方面に大改革を断行しようとしたが、蘇我氏のような強大な閥族が存在した。そして十分にその事業を成し遂げる前に聖徳太子は亡くなり、その皇太子も閥族の手で殺された。

 次に聖徳太子の主義の上での継承者である中大兄皇子が現れて蘇我氏を亡ぼし、大化の改新を断行した。つまり、土地・人民の私有を禁じ、一切を国家に直属させ、行政区画の改定を行い、初めて戸籍を作り、班田収授の法を立て、新たに租庸調の法を布き、八省百官の制度を立てた。

 こうしてすべての国民は直接に国家の保護と監督のもとに立ち、平等に田地を支給され、平等に労働に従事することになった。一般国民をその社会的・経済的隷属の窮状から解放し、秩序を重んじ、清廉を尊ぶべきことを諭し、自由平等が放埓に堕すことのないように注意したが、そのことは高邁な計らいであった。

022 その後半世紀間をこの改新の実現と修正に費やし、文武天皇の大宝律令制度に至って、その大成をみた。つまり、推古天皇の摂政聖徳太子が理想を掲げ、改革の準備に着手し、孝徳天皇の皇太子中大兄皇子が中心となって改新を断行し、文武天皇のときの大宝律令制定によって大成するまでの約100年間は、我が国の歴史において比類のない大変革の時代であった。

 このような大変革を敢行した人たちが隋唐の文明を模倣し新奇に赴いたのかというとそうではなかった。彼らは大陸文明を十分に研究し、その精髄を採用したが、一方で我が国の歴史に「沈潜」し、国家の原理を日本の歴史の中に見出し、外国文明を取捨した。聖徳太子の国史の研究は、天皇記、国記、臣連伴造国造百八十部と公民など本記を(から)選んで記述したとされる。

023 これは我が国で修史事業(歴史研究)が成功した最初の事例であった。しかし、聖徳太子の死後、これらが蘇我氏に保管されたため、蘇我蝦夷(えぞ、入鹿の父)が誅に伏した(自殺した)時、火災にあって焼失した。ところが、船史恵尺が火の中からその一部分の国記を取り出して、中大兄皇子に奉った。中大兄皇子は敬慕する先覚の苦心の歴史を見て、国史に注意したとのことだ。当時の大詔がいつも我が国の歴史から説き起こしているのを見れば、あの大改革がその原動力を国史の中から採ったことが分かる。その(中大兄皇子の)皇弟は天武天皇であるが、天武は編集委員を定めて帝紀などを選んで記録させ、偽りを削って、真実を定め、正しい歴史を後世に伝えようとした。この努力は後に継承されて、古事記の記録となり、日本書紀の編纂となった。

 

024 その後この大改革の精神は数百年間ほとんど忘れ去られ、政治制度が紊乱し、藤原氏の専権となり、王朝は衰微し、遂に武家政治の世となったとき、後鳥羽上皇順徳条項などは、幕府を滅ぼし王威を輝かそうとした。その目標は延喜天歴時代にあった。上皇らのこの革新の動機は国史の回顧から出たものであった。後鳥羽上皇は公卿に命じて古い日記を調査させ、王朝盛時の儀式に戻そうとして盛んに習礼(礼儀作法)をやらせて、旬習礼、大嘗会習礼、任大臣大饗祭習礼、臨時祭習礼などが行われ、公事(政治)の論議が盛んになり、後鳥羽天皇自身が「世俗浅深秘抄」を著したと推定でき、順徳天皇は「禁秘抄」を著し、有職故実(学識経験者や儀式・法令)を研究し、近代と上古とを比較し、近代の「乱離」を嘆き、上代に復すべきことを説いた。

025 この計画は承久の乱となり、これは残念ながら失敗したが、その精神はその後長く続き、後醍醐天皇に至り元弘の企てとなり、鎌倉幕府を滅ぼし、天皇親政の大業が一時的であったが成功した。この建武中興は承久以来の復古の精神を受け継ぎ、天皇自ら後醍醐天皇と称してその目標(醍醐天皇)を明らかにした。延元元年6月晦日の日光銅鋺(えん)銘に「当今皇帝還城再位、預聞以後醍醐院自号焉」とある。

 また神皇正統記や太平記に散見することだが、延喜天暦の古にかえすということは、この大改革の根本精神であった。後醍醐天皇は年中行事や日中行事二巻を撰述したが、これは再興した王朝の古い儀式を永く将来に残したいという考えから出たものだ。また後醍醐天皇が源氏物語を研究したことが、仙源抄から察せられるが、これも王朝の歴史研究を目的としたものだった。後醍醐天皇はその理想を歴史の中に見つけ、それが建武中興の大革新の原動力となった。後醍醐天皇は各方面に大改革を断行し、「今の例は昔の新しい儀式だ。私が行う新しい儀式は未来の先例になるだろう。」としたが、このことは松梅論に見られる。ここでは大改革の力と歴史の回顧とが一つに融和している。

 

026 後醍醐天皇のこの精神はその後長く伝わり、南朝五十余年の奮闘となった。そして近世の初めに南朝に対する同情が盛んになると、この精神は広く国民の間に浸透し、大日本史、日本外史などの史書で熱を帯び、遂にその勢いが激発して志士による命を惜しまぬ運動となり、幕府が瓦解し、明治維新の大業が成った。

 この維新の大業は初め延喜天暦の昔に帰ることを理想としていたが、その後、玉松操*の建言によって神武天皇の創業の古を目標とするようになった。維新の大業も歴史の中からその原動力を得たと言える。

 

*玉松操(真弘、1810.4.20—1872.3.23)国学者。操は通称。雅号は毅軒。

 

 武家においてもこのような例は少なくない。足利尊氏は覇権を握ったとき、学者を集めて、中国や日本の(漢家本朝)治乱興廃の歴史を研究させ、延喜・天暦の二人の聖人による徳化(徳政)や、義時・泰時父子の行状を鏡にしたが、特に後者に重きを置き、武家全盛の跡を追おうとした。このことは建武式目に明らかに見られる。

 

027 徳川家康は歴史を重んじることによって政治の要諦を会得した。家康は甲州を治めるために武田家の旧制を調査し、関八州(関東8か国の総称)を治めるために北条氏の古法を研究し、天下の政治を行うに際しては、源頼朝以来の鎌倉幕府の歴史を参考にし、そのために吾妻鏡を研究した。吾妻鏡は戦国時代の武将に広く読まれ、関東の上杉氏や北条氏、中国の右田氏、九州の島津氏などもこれを愛読したが、家康はいつも東鑑を手にしてこれを反復玩味した。そして慶長10年、これを活版印刷にして、17年、林羅山に東鑑綱要を撰述させた。

 

つまり足利幕府の創始者尊氏も、徳川幕府の開祖家康も、武家政治の先蹝(せんしょう、先例)を追い、鎌倉幕府の歴史に特に注意を払った。

028 また家康は法律の制定をしたが、綿密な古法の調査から出発し、数年前から五山の僧侶に古書から資料を収集させ、元和元年7月に発布した武家法度(7日)、公家法度(17日)、諸宗法度(下旬)などは、この結果生まれたものだ。

 

 その後の江戸時代の偉大な政治家には、六代将軍家宣を補佐し、元禄の弊政を改めた新井白石、また幕政の中興と言われる八代将軍吉宗、そして十一代将軍家齋を補佐して寛政の改革を断行した松平定信らがいる。白石は歴史家であり、吉宗は家康を尊敬してその施政の跡を追った復古主義者であり、松平定信は吉宗や家康を目標として政治を復活させようとした。

 

 古来偉大な人格においては歴史の回顧と革新の力とが常に相提携し、合致して唯一無二である。両者が分離するときその思想は浅薄愚劣に陥り、その行動は根底のない、表面的な妄動に過ぎなくなる。今日「改造」とか「国粋」とかいうが、歴史の骨髄をつかみ本来の面目に徹し、日本人の真の使命を自覚しているのだろうか。

 

大正15年、1926年9月

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