2018年10月30日火曜日

『群馬事件』 藤林伸治編 現代史出版会 徳間書店 1979 要旨・抜粋・感想


『群馬事件』 藤林伸治編 現代史出版会 徳間書店 1979


「浅間颪に抗して」 藤田伸治

008 『東陲民権史』(1903、関戸覚蔵)は『自由党史』とともに群馬事件を伝えるが、『自由党史』は『東陲民権史』をもとにしている。

以下『東陲民権史』よりの抜粋

008 明治17年4月、清水永三郎、日比遜、三浦桃之助らが企画した政談演説会(会場は光明院)に、自由党本部より杉田定一、宮部襄、照山峻三(スパイでいずれ殺される)が来会した。

続いて、下仁田町菅原村の両所で演説会を開催し、同郡の湯浅理兵が、清水、日比、三浦らと面会した。

感想 やはり、彼らが列車襲撃、要人(顕官)の捕縛、高崎兵舎の攻め破りを計画していたのか。権力のデッチアゲではなかったのか。そして宮部らは制止したとあるように、これは単なる跳ね上がりか、それとも民衆の側に本気で「革命」を目指していたのだろうか。一体どんな革命を目指していたのだろうか。

009 日比が総長、三浦が副総長を務めた。
高崎線開通式が二回(5月1日、5日)延期され失望しているところを、三浦が東京自由党本部の宮部襄、清水永三郎らに計画を打ち明け他と頃、宮部、清水はその計画を認めなかった。
しかし、それでも日比・湯浅は「この際断然決死。以って革命の旗を挙げんには、事未だ必ずしも成らずと言ふべからず」とし、決起をすることになったようだ。
三浦は小柏常太郎、新井某と共に秩父へ向かった。
明治17年5月16日午前二時、生産会社の住宅倉庫を焼尽し、その後松井田警察分署を襲撃、署員は狼狽して潰走した。次に高崎兵営を襲わんとしたが、糧食尽きてメンバーは逃げ出した。各人は潜伏したが、各地で捕につき、群馬監獄に幽せられた。
010 1880年、明治13年、国会期成同盟結成。
1884年、明治17年4月、農民たちが妙義山麓に決起し、デモ行進。当時デモは禁制だったとのこと。筆者は、これは「革命」だというが本当なのだろうか。
1884年、明治17年、高崎線開通。
利根川の舟運は大正まで行われ、絹が運ばれた。舟運は安政の大地震以降隆盛になっていた。
1859年、安政6年6月、沼賀茂一郎は、烏川を利用し、座繰り糸取り器工場を完成した。これは明治40年代まで続き、改良座繰揚げ返し方式の原型となった。
012 星野長太郎県議会議員は、製糸ブルジョアで、国会期成同盟や民権運動に手を貸すこともあったが、後に保守に転じ、寄生地主となった。
1880年、明治13年、国会開設署名が1万2千集まった。(群馬県内のことか)014
1881年、明治14年、小正月、佐位郡島村の田島弥平宅での演説会で、末広重恭、草間時福が、養蚕や生糸輸出に関する講演を行った。
013 1881年9月板垣退助が来県し、講演した。
1881年11月、土佐出身で自由党の板垣退助、谷重喜、宮地茂春が島村を来訪し、講演した。
このころ県庁移転にまつわる騒動や農民の秣場(まぐさば)騒動があった。
またこのころ政界=高崎の有信会と農民との交流はなかったが、1883年、明治16年ごろから農民との交流が始まった。
「明治16年騒擾」は、春と秋の二回行われ、この時、上毛自由党が生まれた。
015 1882年、明治15年、福島事件で、三島通庸*(みちつね)が自由党員に対して弾圧を加えた。この時群馬県からも応援に駆けつけ、そのときの逮捕者6人が釈放され、群馬に戻った。長坂八郎、伊賀我何人(わなと)、山口重脩(しゅう)らである。

*内務官僚。栃木県の県令のころ、反対派を押し切って土木工事をすすめ、「鬼県令」と呼ばれた。

 山口重脩は、土佐の立志社の宮地茂春富松正安と交流があった。富松は自由党員で、明治17年の加波山事件*で死刑の処せられた

*加波山事件は、1884年、明治17年9月23日、河野広躰らが栃木県庁に来る高官の襲撃を計画したが、追いつめられ、16名が加波山で蜂起した。
栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件。爆弾製造中に誤爆したために発覚し、加波山で蜂起し、「圧制政府転覆」などのビラを撒いた。また警察署や豪商の襲撃も行った。自主解散後次々に逮捕され、7名が死刑判決、3名が無期懲役となった。このとき民権家300人が逮捕され、田中正造もその一人だった。
1894年までに全員が特赦で出獄した。死刑判決のうち1人が獄死した、とウイキペディアでは言うが、富松正安のことだろうか、筆者は処刑と言っているが。そのほか、ウイキペディアでは「特赦」と言っているが、富松を含めて、保田駒吉、玉水嘉一、平尾八十吉ら4人が妙西寺に葬られたとあるのは、どういうことなのか。
 
山口は猶興社を結成し、栃木、茨城の自由党のメンバーつまり、加波山事件の鯉沼九八郎、仙波兵庫らと交流した。
015 東京の『自由新聞』記者・中野信多、土佐の青木茂春、森脇直樹らが来県した。
長坂、伊賀は「雑話会」を結成した。
明治16年5月30日、室田で自由党演説会が開催された。
016 そのとき宮部襄(のぼる)が講演した。
明治16年の集会数は361回(届出数)、うち不許可が22回。
新井毫、内田基一は結社設立工作中に、集会条例違反で検挙された。
明治16年、11月、12月、群馬県各地で農民騒擾事件が多発した。京目村の農民は深沢戸長に「地券状を地価いっぱいの値段で県庁から金を借りてきてくれ」と要求した。
前橋藩士族で学校教員の三上春秋(桃井小学校の久野初太郎*らしい)が嘆願書を書き、青木シゲマサ(土佐の青木茂春らしい)は高崎で代言人をやっていたが、警察は彼らを追い回した。

*久野は明治18年、大井憲太郎が指導した大坂事件で逮捕され、獄死した。

018 身代限りに処せられるものも多かった。
民権運動で農民が鉄砲、弾薬、脇差で武装したのは、群馬事件と秩父事件だけだった。
019 1866年、慶応元年、福沢諭吉が『西洋事情』でアメリカ独立宣言を紹介した。
1878年、明治11年の竹橋事件とは、東京鎮台における近衛兵の反乱を言う。自由民権運動で最初の激化事件。内田定吾少尉は終身刑を受けた。以後新聞、雑誌、教科書からアメリカ独立宣言とフランス人権宣言は消し去られた。内田「革命とは政府の不善なる他より起ちて改革するものにて、不良のことにあらず」021
1878年、明治11年10月、『群馬新誌』新聞紙条例違反で編集長小田仁爾は禁獄40日、罰金15円、投書した伊藤清谷は、讒謗律(1875年制定)違反で禁獄35日、罰金12円50銭に処せられた。「巡査は何役ぞ――人民を見ればこれを大睨し、寸過あれば無暗にこれを叱呵し、実に論解の二字を忘る者」
1880~1881年、明治13~14年、榛名山秼(しゅ)場騒動。
1882年、明治15年、福島・喜多方事件。



「上毛民権のたかまり」 清水吉二

1874年、明治7年、板垣退助は政府から退いた8名と共に民選議員設立建白書を政府に提出し、高知で立志社を結成した。立志社は後に愛国社になった。
1875年、讒謗律、新聞紙条例制定。
1880年、集会条例制定。
1880年10月、8,980人分の署名を携えて、群馬の長坂八郎、木呂子退蔵らは国会開設請願運動を行った。
1880.11 国会期成同盟第二回大会に、群馬代表は12,106名分の署名を持って参加した。全国の署名数は13万人。政府は国会開設の勅諭を出した。
1881年、自由党が結成された。ついで立憲改進党が結成された。政府は対抗して、立憲帝政党を組織した。
1881年、松方正義が大蔵卿に就任した。
025 1877 伊勢崎で協同社が結成された。大地主、織物買継商、県議、町長、舟問屋など上層部である。1879年、明協同社と改称した。国会、条約改正、繭糸(けんし)の改良を目指し、討議した。
 1880年頃協同社と同類のものが県内に十あった。

協同社 明治10年 伊勢崎
有信社 明治12年 高崎 数百名
精成社 明治13年 前橋 小勝俊吉、久野初太郎、猪谷秀麿ら旧氏族、教員、神官ら266名
暢(ちょう)権社 明治13年 前橋 亀岡長二郎
集義社 明治13年 前橋
大成社 明治13年 前橋 斎藤壬生雄(みぶお)
尽節社 明治13年 大間々 新井毫、藤生金六、野口与八、小林武平
交親会 明治13年 館林 木呂子退蔵(旧館林藩士)
新田郡連合会 明治13年 木島
不憙(き)社 明治13年 山田郡龍舞村

026 1880.4 集会条例「政治に関する事項を講談論議するため結社する者は、結社名、社則、会場及び社員名簿を管轄警察署に届け出てその認可を受く可し」
1879.4、明治12 高崎の有信社は、士族層である旧高崎藩士の宮部襄(のぼる)、長坂八郎、深井寛八、深井卓爾、伊賀我何人と、前橋藩士の斎藤壬生雄、浅岡剛平、小勝俊吉と、館林藩士の木呂子退蔵、山口重脩、森六郎、また農村の名望家である黒保根村の新井毫、北甘楽郡高瀬村の清水栄三郎、南甘楽郡法久村の新井愧三郎らで構成されていた。
 記念撮影写真では、以上のほかに、深井新蔵、大沢愛次郎、山下善之、豊島貞蔵も写っている。
 宮部、長坂は上流階級とはいえ、明治2年の高崎藩の農民が貢租減額の騒擾事件を起こしたとき農民側に立ち、旧態依然たる藩幹部を批判したという。宮部、長坂は一度県の役人になったことがある。
 生糸の輸出で生活が豊かになった時期もあり、西欧文化を学ぶゆとりもできたようだ。
029 1875 龍舞村(太田市)の篤農家で戸長の武藤幸逸は、第一回地方官会議に傍聴人として出席した後、福島の河野広中と「民選議員を公選するの儀」を元老院に提出した。武藤は共農社を設立するとともに、公選民会、国会開設運動にも参加した。1879年、県会が開催されたとき、県会議員になった。
030 1880.3.15 製糸業界のボスや地主等各地の代表者34名が、上毛連合会(2月時点では上野連合会)を結成し=すべく、殖産興業、国会開設に関する討議をしたが、殖産興業を優先すべきだという議長団の方針に飽き足らないグループが退場し、民選議員開設のための上毛同盟会を結成した。
 当時の運動体は、愛国社―国会期成同盟系の運動と、地方連合会系の運動とがあり、上毛連合会は後者の流れに属するものと思われる。地方連合会系の運動とは、1979年に桜井静小西甚之助らが主唱した、全国各府県会議員による国会開設運動である。
上毛連合会議長団派は、後に繭糸改良会と改称し、集会条例1880に対決せず、民権運動から姿を消した。

 上毛同盟会のメンバー 

民権派県会議員の武藤、中島
国会期成同盟推進の農村指導者 藤生金六、新井毫
士族 藤生壬生雄、長坂八郎、木呂子退蔵

030 中島祐八 佐位郡小方村(赤堀) 地主、質屋、県議(明治13年)、上毛協和会創設(明治15年)、衆議院議員(明治25年)、民権拡張、国会開設運動に参加、卓明協同社に参加
新井毫 国会期成同盟の起草委員(1880.11)、自由党結成

上毛連合会の議長団は国会開設よりも製糸業新興を優先し、仮会頭、仮副会頭に県会議長、副議長がそのままあたる。

宮崎有敬 上毛連合会仮会頭、伊勢崎藩用達、県官、内務省官吏、製糸業者
星野長太郎 上毛連合会仮福会頭、勢多郡水沼村、豪農、製糸業者012

議長団に反対して退場し、国会開設を優先するグループは、尽節社の藤生金六や、国会開設地方連合会創立事務所の段證依秀と合流し、上毛同盟会を結成した。

 上毛同盟会は、県会議員だけでなく、豪農、旧士族らの混成チームであった。
032 1880.4.18 上毛同盟会は集会条例施行に伴い解散した。
集会条例 1880年、明治13年4月5日太政官布告第12号=集会条例が公布された。
033 上毛同盟会解散後の国会開設運動は、国会期成同盟系、後の上毛自由党に連なる、肝っ玉の座った人が担うようになった。新井毫「身首を異にするも敢えて辞せず」
1880.9.12 斉藤壬生雄小勝俊吉らを中心として、上毛有志会決議案が採決され、演説会や署名集めを行った。
1880.10.11 長坂木呂子連名の「国会開設を願望し奉るの書」を太政官に提出しが、却下される。
1880.3 国会期成同盟会が開催された。
1880.11.10~24 国会開設と全国政党=自由党結成準備のための討議がなされた。平民派である福島の河野広中、福井の杉田定一は、土佐・愛国社に批判的であった。
034 「国会期成同盟会」を、「大日本国会期成有志公会」と改称した。これには長坂、木呂子、斉藤壬生雄、新井毫らが参加したが、新井が最も積極的だった。
新井は起草委員に選ばれ、愛国社系の主流派を批判し、「小島の説は誠に卑屈千万なり」「我より避けて残酷無比なる集会条例の為に道を開かば、政府は愈々(いよいよ)抑圧の威を逞しうし、人民は愈々卑屈の域に陥らん」
 新井毫、藤生金六らは大活躍した。
035 1881 関東同志会が結成された。
1881.10 政府は1890年を期して国会を開設する約束をした。
1880.10 自由党が結成された。自由党は板垣退助を総理とする日本最初の政党であり、旧士族と豪農・商人などの平民とが結びついた運動を展開した。
1881.10 自由党結成会議が開かれ、斉藤壬生雄、宮部襄、上毛自由民権運動士族派が参加した。
 国会期成同盟――有志公会――自由党という時系列のつながりがある。
1882.6 集会条例改正により政党の地方支部が禁止された。
群馬県下の自由党員数は1884年5月時点で201名だった。党員数で多かったのは、秋田、栃木、東京、群馬の順である。
036 1881末 明巳会(めいしかい)が新町で豪農の高津仲次郎三俣素平らによって設立され、自由党とは異なる運動を展開した。
1882.4 全国政党の立憲改進党が結成された。1881年、明治14年の政変で野に下った大隈重信、河野敏鎌、小野梓らは、都市のジャーナリスト、代言人とともに立憲改進党を結成した。
上毛協和会は、群馬の自由党に入れなかった人々、特に民権派県会議員が結成した。
037 1881.10 新井毫は大坂で自由党系の立憲政党に加盟したので、群馬の自由党は斎藤、宮部、長坂、木呂子ら士族派が指導した。自由党本部は、九州派、東北派が退き、土佐・愛国社の士族層が総理以下の役職を独占した。彼ら士族の欠点は、農民層とのパイプがないこと、また制限選挙と資金不足のために、県会議員にもなれなかったことだ。
 宮部、斎藤、長坂は本部役員や常議員になり、地元との接触を欠くようになった。
038 宮部は1881年、自由党機関紙『自由新聞』の主幹、1882年、党幹事、代言人事務所・厚徳館館長、1883年、常議員選挙委員及び常議員、1884年、東海担当の巡回員などを歴任した。ちなみにこの時斎藤も奥羽担当となった。『自由党秘録』の著者、伊藤痴遊は、宮部がなくてはならぬ存在だったと記している。
1882.11 福島事件で福島自由党員は、県令三島通庸の暴政に抗して立ち上がったが、福島自由党員や群馬から応援に駆けつけた青年らや長坂八郎までが逮捕された。つまり、伊賀我何人、山口重脩、大木権平、松井助一、高橋壮多などの青年である。
039 上毛自由党の構成メンバーの中には、士族層ばかりでなく、清水永三郎、新井愧三郎などの豪農もいた。
1883.5.27 久森烏暁は、榛名町出身の自由党員の豪農だったが、高崎から、宮部、伊賀、豊島、深井卓爾らを招き、長年寺で演説会を開催した。
 久森家は名主役で、酒造業者であった。1879年、久森は県会議員となり、同村農民の入会地が官有林に編入されるのに抗議して、県令楫取素彦を相手取り東京控訴院に出訴したが、この時自由党の代言人の星亨の協力を得た。
1882.11 久森は自由党に入党し、1879.8 座繰糸の揚返しを行う昇旭社を設立し、1880.11 上毛繭糸改良会社の設立に参加し、同伸会社を利用して生糸を直接輸出したが、1882年以降の糸価暴落で破綻した。
040 下里見村の中曽根大衛は、同じく中室田村で演説会を主催した一人だったが、1882.12 自由党に入党した。
新井毫は1890年、明治23年、第一回衆議院議員選挙に当選し、1894年の第三回、第四回選挙にも当選した。
 緑野郡の小泉信太郎は明巳会に参加し、養蚕業に打ち込み、山口清兵衛水沼鷲五郎とともに養蚕製糸改良の順気社を起こした。彼の叔父は、高山社社長の高山長五郎である。
041 1882.10 佐位郡島村の村民36人が自由党に入党した。同村の田島弥平、田島群次郎は養蚕製造業者で、直接輸出に関わり、1881.1 代表が仏伊に渡り、蚕種を販売し、西洋の民主主義に触れた。
1881.1 田島弥平宅で末広重恭と草間時福の演説会を開催した。また同年11月、田島弥四郎宅に板垣退助、谷重喜が来訪し演説をした。島村勧業会社が蚕種の販売を行った。
1882.7 桐生やその周辺の新宿村、新田村の大勢の農民が自由党に入党した。笠原才四郎は、京都の製織紋工、小平半兵衛の技術と連なり、バッタン機の改良、木製ピアノマシンを創製した。
1884.3 自由党大会に、伊賀我何人、深井卓爾、金井只五郎とともに、桐生の若田部惣七が参加した。
042 1883年、明治16年、自由党は実質的に分裂したようだ。板垣(解党派044)、星亨(妥協派)ら主流派は、板垣の外遊からの帰朝後、政府批判を緩め、来るべき国会の準備政党になろうとした。
 それに対して、政府密偵から「関東決死隊」と目される、党本部では大井憲太郎を中心として、宮部、斎藤、長坂らが茨城、栃木の党員とともに結集し、反政府、反権力を強め、農民層と連帯しようとした。
 1880、81年の頃と比べて、1883年、明治16年ころは、農村の不況と政府の弾圧強化のために、豪農層が民権運動から離脱し始め、自由党と改進党とが中傷合戦を行った。
 板垣退助や後藤象二郎が金権の愉悦を味わったのに対して、上毛自由党員は禁欲的で清貧志向が強く、後にキリスト教に入信する人が多く、専制政府打倒へと突き進んだ。
043 1883.11~12 農民の集会、請願、騒擾が関東一円で多発した。
 集会のテーマは、当初は専制政府、偽党改進党攻撃、自由、立憲政体などだったが、1884になると地租軽減が加わった。
1884.3 伊賀我何人(わなと)は、党中央より片岡健吉、植木枝盛を高崎に招き、地租軽減の集会を開いた。以後、長坂、伊賀、深井卓爾らは、碓井、甘楽で懇親会や演説会を開き、農民たちに接近した。一の宮光明院や下仁田町龍栖寺での大演説会もこの一環であった。
1883.11~1884.5までの間に下仁田、鬼石で80名が自由党に入党した。
044 清水永三郎008, 009, 039、新井愧三郎ら在地の活動家が活躍した。入党者の中には資産家も平凡な農民もいた。
日本のどこかで爆裂弾製造準備も行われていたという。
1884 北甘楽郡から清水栄三郎が県会議員に当選した。
045 今までオルグの対象外だった下層農民が自由党に入党し、自由党を「世直し政党」だと誤解した。高利貸し=生産会社の打ち壊しや専制政府の転覆を下層農民は志向した。
 北甘楽、碓井両郡で、群馬事件に関わった農民は、上層・下層を問わず、登録していないのに、自らを自由党員だと官憲に供述している例がある。例えば、上層農民で内匠村の戸長湯浅理平、片山村の野中弥八、古立村の深沢孝三郎らであり、下層農民では、東間大吉、山田米吉らである。
 群馬事件は宮部たちにとっては「心外な」暴発であったが、農民に働きかけたのは、上毛自由党であり、明巳会036, 040や上毛協和会030, 036ではなかった。
 しかし、群馬事件や照山峻三殺しは、上毛自由党指導者の逮捕につながり、1884.10 自由党は解党し、上毛自由党も解体した。

ここで話の流れが変わる。
046 高津仲次郎036は、緑野郡中島村(新町)の出身で、農蚕経営を業としていたが、板垣に共鳴し、板垣の自由党結成に刺激され、1881年、明治14年末、一致社を結成し、明巳会と称した。
 三俣素平、三俣愛作、小泉信太郎がメンバーで、創立当初の演説会には、嚶(おう)鳴社幹部の沼間守一、堀口昇らが参加した。
また埼玉の賀美郡藤木戸村の豪農、松本庄八も参加した。彼は発暢学舎という英語塾を創設した。
講師斡旋には、自由党幹部の末広重恭012, 041が当たった。
小泉信太郎は自由党にも入党しているし、松本庄八は自由党結成以来の党員であった。
改進党系の上毛協和会の中島祐八、竹内鼎三とも交流があった。
1884 高津、三俣素平は県会議員になり、廃娼問題、郡長・県官公選建議を行った。
1887 高津は、1884年の自由党の解党以降、新井豪と連携し、上毛倶楽部を結成し、「言論出版集会の自由を得る建白」を元老院に提出した。また、旧自由党員の桑原静一上毛政社を起こし、県政を研究し、保安条例違反で拘引された。
1888 上毛倶楽部、上毛政社を結合して、自由党系の上毛民会を設立し、大同倶楽部の植木枝盛と連携し、条約改正延期の建白を元老院に提出した。
ここからは立憲改進党について
1882年、明治15年3月14日、立憲改進党が設立趣意書を発表し、同年4月16日、結党式を行った。旧官僚、代言人、ジャーナリストら在京の知識人が主なメンバーであり、地方豪農層の参加はなかった。そこで府県会議員懇親会の設立を図った。
1882.3.15 上記の流れの中で、上毛協和会が県会議員によって結成され、その中心は、
湯浅治郎 安中藩用達、醸造業
中島佑八
野村藤太 大地主
竹内鼎三 教員
であった。目標は、民権拡張、地租軽減、自由気運の発達であったが、合法活動を遵守し、漸進主義をこととした。
048 改進党は、国政レベルだけでなく、各府県会での建議活動も行った。東京府会の沼間守一や神奈川県会の島田三郎、肥塚竜らであり、営業税・雑種税の制限解除=不公平税制撤廃、郡区長公選、娼妓廃止052等の建議を行った。
1880.5 群馬県会でも郡長公選建議を起こし、1881 同建議に県議全員が賛成し、提出したが、1883.5 内務卿山田顕義はそれを却下した。建議の論拠論法は、東京府会の沼間に準拠したようだ。
1883 上毛協和会は一年足らずで解散した。会員の例会への欠席、議決不能、会費未納などが理由である。
機関誌『上毛新報』を、1883.1.26から4.28まで発行した。
地主、製糸ブルジョアを主たる構成員とし、農産物価格の低落や重税、借金返済苦などは問題にしなかった。

049 1882年、明治15年3月、政府派で保守的な地域政党、立憲帝政党が結成された。首謀者は、福地源一郎、丸山作楽である。帝政党員は、福島県下で、自由党員を襲撃した。それは県令三島通庸の指揮下で行われた。旧氏族層が構成員であった。
 群馬県で帝政党に尽力したのは警官と郡吏だけであったが、警官の親戚・故旧に自由党員がおり、宮部の部下が富岡警察署の署長・小島金八郎であり、「臨監すこぶる寛大」であった。1884年以前は、群馬県での帝政党員や官憲派壮士の勢力は微弱だった。

050 1878 M11 府県会規則発布
1879.5.2 群馬県会が発足
地方税で支弁すべき経費の予算、その徴収方法を議定する。
議員数44、議長宮崎有敬、副議長星野長太郎
民権派は三名のみ、武藤幸逸、久森烏暁、野村藤太、他は旧名主の区・戸長、ほとんどが農・商出身
1884.3 副議長星野耕作*、議員数66
民権派は13名
自由党系 
清水永三郎
金井只五郎…酒税減額の建白書を酒屋会議参加者と元老院に提出
宮口二郎*…高津らと上毛倶楽部を創設1887、高津、関農夫雄らと三大事件建白
改進党系
湯浅治郎*、中島祐八、野村藤太*、竹内鼎三…上毛協和会
真下珂十郎、角田喜右作、島田音七、天野宗忠*、黒沢信一郎…上毛同志会1888
その他
武藤幸逸
*常置委員、地方税の諮問担当
1884.4 湯浅が議長になった。
052 1879以来の懸案である娼妓廃止を実現し、営業税・雑種税の制限解除=不公平税制撤廃で、政府から一定の譲歩を勝ち取った。
1882.3 地方官民選の建議は、県令、書記官、郡長までも県内から公選しようというもので、上毛協和会系の湯浅、中島、野村、竹内、真下、佐藤喜一郎(島田音七の兄)らが提出したが、11対19で否決された。
1884年以降、県会は佐藤与三郎知事の辞職勧告を出した。
1879 M12 3月 群馬県町村会規則が施行され、町村会議員を公選することになったが、「安寧・公益と協議費の徴収方法を議定する」ことだけが目的とされ、政治上の議論は禁止され、また郡・戸長が会議を中止し、県令が会を解散させることができた
053 1881.2 北甘楽郡神農原村、上小林村の村会議員選挙で、戸長佐俣源吉が、戸長派からの議員のみを選出し、村民に非難され、戸長を解任された。
1879 甘楽郡大島村の村民が「村の帳簿を公開せよ」と要求した。このとき地方税や協議費の徴収方法で疑惑があった。
1880 北甘楽郡下高田村では、村民共有地を戸長が独断で処分し、それを農民が咎め、戸長が辞職した。
江戸時代から名主を公選していた村もあった
演説会数が突出した年は、1880年M13と、1883年M16であった。前者は、国会開設運動が高揚した年であり、後者は上毛自由党の運動が活発だった年である。
054 1884年、明治17年3月、安中で坊主・鎌倉魏秀が、キリスト教会に信者を奪われるのを危惧し、「仏教は自由教であり、ヤソ教は束縛教だ」と演説したとき、二千三四百人が集まったとのこと。
1883 北甘楽郡役所の役人が、県令への報告の中で「人知大に進歩を加え、事着実に出て、自治自由の説を唱ふる者甚だ大し」と書こうとしたが、最終的にはこの部分を削除して報告したとのこと。…公文書改竄ではないか。




「生産会社と農民騒擾」石原征明 

感想(056-075) 自由民権運動とは何だったのか。この『群馬事件』のこの章で見る限り、それは単なる農民一揆、江戸時代の農民一揆、お上への嘆願程度のものでしかなかったように見える、そこには思想がない、生活が苦しい、インフレ時に借りた借金返済に迫られるが返せない、土地を取り上げられる、税金も上がった、返済を猶予していただきたい、とその程度のものでしかなかったようだ。1883(明治16)年頃というが、まだ西欧の思想は群馬の地には流れて来ていなかったみたいだ。
この感想は間違い。後述を読むと、そう思わせたいのが政府の狙いで、実は、自由党の植木枝盛は、自由党のボス板垣退助とは異なり、共和制を志向しており、全国を回って運動を指導していた。
しかし、再度私はこの私の見解にも疑問を感じた。本書228ページ、長坂、木呂子、斎藤の建白書の中の斎藤壬生雄の、太政大臣 三条実美宛の「上る書」は、卑屈で、身分的上下関係を前提しており、天皇を崇め奉り、ナショナリズムの国権を唱導し、その観点から条約改正を提唱する。とても「共和主義」のにおいはどこにも感じられない。がっくりした。これでは「自由民権運動」という名称はやや買いかぶりの観がありはしないか。むしろ、「国会開設嘆願運動」とか、欧米と肩を並べられるくらいの「国家主権復権運動」とか、万世一系の「天皇国家観推進運動」とかして、農民蜂起は単なる騒擾事件と看做したほうが正確な評価なのかもしれない。これは明治十三年のものである。斎藤壬生雄は、群馬県前橋の人。235ページ参照。自由党員。明治16年3月2日入党。
天皇を乗せた列車が高崎に来るのを襲うとか、高崎の軍隊(高崎鎮台分営)を襲うとか、各地の警察署を襲うとかは、自由党を窮地に陥らせるための、官憲スパイがでっちあげた作り話ではないかという気がしてきた。明治17年5月15日・16日のこの蜂起の目的は、単に岡部為作宅襲撃の憂さ晴らしでしかなかったのではないか。20181016()

056 高利貸は収税業務を兼ねていた有力者だった。
057 群馬県で1877年ごろ、金貸し事業家=銀行類似会社=「生産会社」が設立された。その設立には、出資金を出し合い、政府の勧業政策の一環であった。
1880年には10の生産会社と36の分社があり、類似機関を合わせると50あった。『群馬県統計書』
碓井では共同で碓井座繰精糸会社=碓井社北甘楽精糸会社=甘楽社を設立した。東上州は特権的に国や県から資金貸与を受けたが、西城州ではその特権はなかったので生産会社が多かった。
059 生産会社の経営者は、質屋、酒屋、穀屋が多かった。
『北甘楽郡治概略草按』
前橋の第一生産会社の発起人、勝山源三郎、下村善太郎は生糸貿易業者、下村はのちに前橋市長、その第一分社の中之条生産会社の創立者田中甚平はのちの県会議員、町長。町田儀平は素封家で戸長。
060 第三生産会社=富岡生産会社の発起人の横尾三衛、岡部栄太郎は、豪農、保阪正堂は旧七日市藩家老で区長、
北甘楽郡の上丹生生産会社の経営者岡部為作は、豪農、後に村長、県会議員。
 秩禄処分による士族の資金が生産会社に出資された例もある。七日市生産会社=第五生産会社、小幡生産会社=第三生産会社第一分社の出資者の中には、七日市藩士族、小幡藩士族がいる。
061 五年を一期として、満期になれば精算し、その後は解散か再出発かどちらかであった。イギリスの初期資本も、一航海ごとに資本を出し合って、利益を出資金に応じて分配した。生産会社は明治10年代後半に急速に消滅した。
 役員は、社長、副社長(頭取、副頭取)、取締、書記、主計(会計)、筆生、算生などである。
 社長、副社長、取締は大株主の中から投票で選ばれた。議決は多数決によった。出資者は有限責任社員で、
062 貸付額は、貸付抵当の価値=地券面代価の二分の一とされ、開墾、牧畜、坑業、養蚕、製糸に対して優先的に貸し付けられ、臨時入用金、農工商の創業資金のための貸付は第三等とされ、不利な扱いを受けた。
成功率7分の者には、貸与金25円につき利子一ヶ月25銭、つまり月1%=年利12%、不動産抵当は六ヶ月限り、
成功率5分の者には、貸与金20円につき利子一ヶ月25銭、つまり月1.25%=年利15%、不動産抵当は六ヶ月限り、
雑種臨時入用=事業を起こすための資金や生活資金援助などの場合は、利子は金高に応じ、制限により=利息制限法年20%以下、不動産抵当は三ヶ月限りとされた。
063 五年が経過した後の、次の一期の貸付条件が厳しくなった。
・元金貸与の時に利子の半額を払う、つまり、元金からその利息分を差し引いて貸す、残りの利子は返済時にまとめて払う。
・期限が来ても返済できない場合は、元金の二割を入金させ、証書書き換えをする
064 例 100円を月利1.25%で6ヶ月借りる。
利子は0.0125×100円×6ヵ月=7.5円、その半分は、3.75円、これを借りる時にまず払う。つまり、96.25円しか借りられない。この方式だと、額面記載の利子率より高くなる。この利子先取り方式は「切り金貸し」と呼ばれた。
しかも貸与期間は3~6ヵ月で、払えなければ証書の書き換えをする。これは「月しばり」という。
例 書き換え時に2割を入金しなければならないから、
120円の新しい証書を書く、20円入金する、利子の残り3.75円と、新たな契約の利子の半分、つまり、4.625円を納める。?
0.0125×120円×6ヵ月×0.5=4.5円 ?
1年後に144円、2年後に207.36円と借財は増大する。これに利子を含めるとさらに大きくなる。?
1881年、明治14年に、生産会社のこのような経営強化の方針が打ち出されたが、この時期は、松方デフレ政策が打ち出されようとするころだった。
064 松方財政1881-, M14-により、地方税が、地租の五分の一から三分の一に引き上げられた。これは公立学校費、府県庁舎建築修繕費、監獄修繕費が、国費負担から地方費負担になり、土木費や教育費に対する国の補助金が打ち切られたためである。
 明治13年の藤岡警察署建設費用や、明治15年の藤岡警察署万場分署建設費用は、地域住民の寄付金で賄われ、他に、学校費、道路費、協議費も負担させられた。
学校費負担のために頼母子講*(たのもしこう)がつくられた。
 *組合員が掛け金を出し、金融の融通を目的とした民間互助組織。融資は籤や入札によって行う。
066 1883 三ヶ月の納税猶予期間が廃止された。
生産会社出資者の利益配当は、100円につき1ヶ月1円56銭M13から、1円70銭M15に上昇した。これは年利にするとそれぞれ18.72%、20.4%である。
『北甘楽郡治概略草按』『朝野新聞』は当時のデフレ事情を知らせている。
068 北甘楽郡、碓井郡における土地の書入・質入比率1883-1886は、全耕地の30%だった。明治17年の碓井郡では56%だった。群馬県平均は20%だった。
069 明治16~18年の三年間の農地の売買状況から判断できることは、群馬県全体で(年間)全農地の5~6%が、北甘楽郡・碓井郡では、年間4%が売られた。全国平均は、この時期毎年耕地の5%が売却され、16%が買入・質入された。地主による土地所有化が進んだ。
070 『明治十六年北甘楽、東・西群馬、南勢多郡人民集合一件』は裁判、督促、召喚を伝えている。
071 身代限りへの転落、
1883年、明治16年2月、北甘楽郡相野田(あいのた)村、蕨村、後架村など数か村、及び諸戸村、菅原村の農民が立ち上がった。指導者は、塚本治平次、新井泰十(重)郎、茂木角太郎などである。竹槍、むしろ旗を掲げて、返済期限の繰り延べを生産会社に要求した。
同時期3月8日ころ、北甘楽郡、下高田村他十余か村でも、神戸民八、本田吉平、本多藤吉らを指導者にして、富岡の生産会社に対して返金の延期を強要し、通らなければ打ちこわすと叫んだ。
072 同時に五箇条を掲げ、県と郡役所に嘆願した。そのうちの三つを挙げると、
1.利息制限法を超えた利子を課している。
2.検査もしないのに、抵当物件の検査料を取っている。
3.返済が滞った場合、日数に応じて違約料を取っている。
『上野新報』明治16.3.16 「警官十数名が北甘楽郡を目指して…」「昨日北甘楽郡の下高田村の貧民騒動を伝えたが、事実相違につき取り消すべき旨、本警察署より達せられしにより、謹んでこれを取り消す」としたが、その後の記事で、事の真相を伝えている。
073 現地警察官や郡吏だけでは手に負えず、県の警察本部から警官隊が急行した。
 多胡郡小棚村、片山村、本郷村、東谷(ひがしや)村の農民も、指導者、野中弥八、江藤勝太郎らを中心にして、400人が富岡生産会社へ談判しようとした。
 当局は郡吏や戸長を派遣して説諭するとともに、警察力で威圧した。
明治16年11月、西群馬郡京目村、島野村、矢島村、西島村の203人が集会を開き、郡長に訴状を突きつけた。
074 要求項目は、
1.租税を地価の百分の一にして欲しい。「租税御上納の事は、百分の一に願度」
2.借金の利子率を下げ、年賦償還にしてもらいたい。
3.利息制限法を越えているし、債主は旅費とか検査料とかの手数料を取っているが、止めさせて欲しい。
12.9 夜半、京目村他27か村から集合し、示威運動を行った。
1883.11.30 南勢多郡女屋村等20か村の農民400~500人が示威行動をし、借金の5年据え置き、10か年の年賦償還を要求した。
075 12.5 東群馬郡徳丸村など13か村の農民114人が示威行動をした。
12.7 北甘楽郡小幡村の住民20~30人が、新井新太郎、茂原百一郎を指導者とし、借金の返済延期、5年年賦、利子減額を求めて集合した。交渉には長厳寺の住職巌川澄吉、宝泉寺の住職小林林田が当たった。
1883 明治16.12 碓井郡安中町、板鼻駅、八幡村、中里見村で集会が行われた。
076 『上野新報』は、妻を売り、娘をひさぐ有様を伝えている。
077 M12 北甘楽郡で、生産会社、生糸改所、仮郡役所を、富岡町の同じ場所に、建築費用、営繕、租税等は生産会社持ちで建てられた。
078 北甘楽郡長の小林義夫は富岡生産会社の出資であり、2400円を拠出した。
 中之条生産会社は、田中甚平、町田儀平らが経営に当たっており、吾妻郡役所へ納めるべき金や、戸長給料、郡吏の俸給、国税、地方税、土木費などの金が、この生産会社を通じて支払われ、納付された。
079 1880.11 臨時県議会に「備荒備蓄法施行規則」が上程され、毎年各戸より地租の百の二分二厘を拠出すべきと決定されたが、これは本来、村落共同体が備荒備蓄を行っていた役割を取上げるものだった。さらにその集めた金の保管場所は、1882.8 「県議会で決定する」とされ、そこには第三十九国立銀行、第四十国立銀行だけでなく、地元の有力者や生産会社も含まれた。生産会社の例は、碓井郡安中駅、中之条町、藤岡町、富岡町、桐生町、新田郡尾島町の六ヶ所である。
 当時は銀行制度が整わず、郵便貯金制度もなかったとはいえ、官民癒着が深まる原因となった。
080 M16.3.12付けの資料は、生産会社が農民に対して共同戦線を張ったことを意味する。農民から破壊、焼き討ちなどをかけられたら、共同してその保証をするという盟約である。
081 盟約書に名を連ねている生産会社は、…丹生(にゅう)生産会社…など、大部分富岡生産会社を本社とする20社である。その中に、『北甘楽郡治概略草按』によると、民権運動をしていた清水永三郎が、高瀬生産会社の中に名を連ねている。彼は自由党の中心人物だった。
082 郡役所は「自由党員等、人民の究迫を奇貨とし、扇動せしを以って、陰かに組みし」というとらえ方であった。『郵便報知新聞』によれば、長坂八郎、清水永三郎らが南北甘楽郡を巡回し、「自由党に入れば、租税は減ぜられ、徴兵は免除になる」と説いている。
083 M16.3 『上野新報』は、広徳館主・宮部襄の名で公告を出し、紛争の仲裁、願書や伺書の文案作成、官衙へ請願する際の代理人の紹介などを呼びかけた。その時、自由党の星亨、大井憲太郎、林和一、中島又五郎、北田正菫(きん)、植木綱二郎らが協力した。
『富岡警察沿革史』によれば、M17.1以降、宮部襄、深井卓爾、伊賀我何人、清水永三郎らが、学校廃止、減租請願を農民に呼びかけたとしている。
1884 M17.3.22 一の宮の光明院で演説会が開かれた。参加者1000人、清水永三郎、日比遜(ゆずる)=小林安兵衛、三浦桃之助らが計画し、自由党本部から、杉田定一、宮部襄、照山峻三=スパイ、高崎から、伊賀我何人、深井卓爾らが演説した。聴衆は、鏑川、鮎川、神流川流域の村々から集まった。
 この後、菅原村、下仁田町でも政談演説会が開かれ、国会開設、条約改正、減租、負担の償還延期、徴兵問題などがテーマだった。
 4月 八代演説会
 5月中旬 陣場が原集合
085 M13.5 北甘楽郡13組の生糸揚返工場が、直輸出のための共同販売、座繰生糸の改良を目的とし、北甘楽精糸会社を創設した。M28に甘楽社と改称した。
086 菅原村の東間重平は群馬事件で重禁錮1年6ヶ月の刑を受けた。
087 同村の東間代吉は上丹生の生産会社を襲撃し、重禁錮2年6ヶ月に処せられた。彼は、岡部為作、横尾寿平、須藤小太郎らから借金をしていた。
088 1884.7 M17 群馬事件後、富岡生産会社は、第二期の事業を解消し、10月30日までに元金=正金が返済されれば、第一期の延滞利子は取らない、証書の書き換えは今後しない、書き入れ抵当は示談に応じるという約定書を出した。
 問題点 延滞利子は取らないが、借金の年賦償還とか、利子の減額はなかった。10月30日という期限があった。
089 土地の集中が行われたこの時期は、日本における資本の原始的蓄積期、イギリス資本主義の泡沫会社時代に相似している。




「妙義山 群馬事件の実像」岩根承成 


感想(092-099) 立憲改進党の『郵便報知新聞』や自由党機関紙の『自由新聞』によると、所謂自由民権運動を担った立憲改進党や自由党も、妙義山付近の村の騒擾事件には関わりないと言わんばかりの口調だ。098

 『自由党史』(『東陲民権史』に準拠)『東陲民権史』…(A

裁判資料は農民騒擾事件を民権運動に結びつけている。

『裁判言渡書』はこれまでにAの記述の改竄(強盗*)や誇張(参加人数)を指摘する資料とされてきたが、『予審終結言渡書』を見ると、Aと符合する点が多くなる。尋問調書は現段階で未発掘である。

*「強盗のためにあらずして自由党に加盟を勧むる為なり」「強盗を為さんとして行きたる覚へ毫もなし」「強盗に行きたること毫もなし」


092 群馬事件の1週間後に「東京鎮台高崎分署」は「歩兵第十五連隊」として増強され、半年後の秩父事件発生の直後、岩鼻火薬庫から徹夜で火薬を移し変えた。
093 群馬事件で当局は兇徒聚衆などの名目で46名を裁判にかけた。前橋重罪裁判所の『裁判言渡書』は次の八項目から構成されている。
1.佐藤織治…官文書偽造、官印盗用、二重抵当M15.11.9
2.湯浅理平…戸長職中の税金窃取M17.3.26
3.神宮茂十郎…藤田錠吉殺害M17.4.3
4.三浦桃之助…茂十郎蔵匿M17.4.14
5.小林安兵衛、湯浅理平、三浦桃之助、上原亀吉、深沢孝三郎、野中弥八、野中和三郎…大河原泰助宅へ押し入り、金品強盗M17.5.2
6.小林安兵衛、湯浅理平、上原亀吉、新井太六郎、野中弥八、野中和三郎…堀越忠三郎宅と清水藤蔵宅への強盗未遂M17.5.7
7.小林安兵衛、湯浅理平、野中弥八…岡部為作宅襲撃を指導M17.5.16
8.宮坂初次…巡査傷害M18.10.20
094 以上42名で、他に新井太六郎には、分離裁判が行われた。M20.12.10
 一方『予審終結言渡書』は、先の判決の前段階で行われ、前橋軽罪裁判所の予審係判事(補)による予審終結の言渡である。日付は、M19.3.31となっている。被告数は46名である。
 『裁判言渡書』の全てが判事の作文であるのに対して、『予審終結言渡書』は、予審係や警察署での被告の答弁が引用されている。
 『東陲民権史』(M36.7発行、関戸覚蔵編)と『自由党史』(M43.3発行、板垣退助監修)は群馬事件の経過を語っている。
前者は、加波山事件を中心とするが、福島、群馬、大坂、飯田、名古屋、静岡の各激化事件についても事件参加者の目を通して叙述している。
後者は、憲政党=旧自由党の解党*(M33.9)に際して、自由党の真の後継者を自認して、星亨を中心にして、編纂が目論まれたが、星が暗殺され、M35板垣の下で編纂が始められた。群馬事件については、岩波文庫『自由党史』下巻第八編に記述され、それは『東陲民権史』の記述に基づいている。(松永長昌)
 *政友会に合流。
095 『自由党史』は、藩閥と民党との野合である政友会を批判し、藩閥と闘う姿勢が貫かれている。
 ただし、集会参加者数が『裁判言渡書』とは異なるとか、強盗事件に触れていないとか、筆者はそれが捏造だと言うが(筆者は捏造説を後で否定する)、それは前者についてはこの種の件ではいつも見られることだし、後者はそれを権力者の側に立って、微視的に見て捏造だとするのだろうが、それはいかがなものか。
096 さらに判決原本に載っていないことを書いているとして、これもこれまで捏造だとされてきた。事件の指導者である、小林安兵衛(日比遜)、湯浅理平、野中弥八らが、山田と連合したと両書には書かれているが、判決原本にはない。博徒新井一家の親分、碓井郡土塩村(ひじしおむら)の山田平十郎(城之助)とその子分関綱吉の関与の件である。しかし、『予審終結言渡書』にはその記述があり、これが捏造ではなかったことがわかる。
 また判決原本にはない「三浦は来たらず」に関しても、同様。
また強盗の件に関しても、予審で被告たちは「強盗のためではなく、自由党の加盟を勧めるため」「強盗をやろうとして行った覚えは毫もなし」と言い切っている。
097 『北甘楽郡治概略草按』は、北甘楽郡の郡長が県令に報告した草稿である。「自由党員等が人民の急迫を奇貨とし扇動し…」「究民等40~50名」が「家屋を破毀し、火を放ち、尽く焼尽せり」
『富岡警察署沿革史』は、明治八年富岡警察署設置以来の警察業務の記録である。「自由説誤信の暴徒等数十名」が「乱入、放火、発砲したる」
098 『郵便報知新聞』は、M5に前島密の企画で報知社より創刊され、後民権派の政論新聞となり、M15立憲改進党の機関紙となった。
『自由新聞』はM15年発刊の自由党日刊機関紙である。
 前者は「人民不穏」、後者は「人民暴挙」と題し、集会、武器掠奪、2000人による岡部宅襲撃を描写し、事件の原因は「村々のものが県庁・裁判所へ願い出をしたが、かえって岡部為作に告訴され、身代限りの処分を受けたことにある」とし、またその後の経過について、前者は「兇徒護送」と題し、後者は「県令が現地に出張して説諭し、一般農民まで暴徒の捜索に当たらせた」としている。
099 これらの記事には自由党が関係する民権運動としての側面はなく、その点で官側資料と異なる。
100 『北甘楽郡臨時農事調書』から判断できることは、北甘楽郡で商品生産が発展し、横浜開港以後急速に商品貨幣経済が浸透したことである。
101 富岡警察署の資料によれば、「当管内で身代限りとなったものが92人」「負債のため逃亡したものが78人」としている。警察でさえも「当時貧民生活の如何に惨憺たるかを察するに足るべし」としている。
 『北甘楽郡治概略草按』によれば、当地は「維新以降製糸の輸出高は増加し、」好景気の時に「愚昧の細民は前途の目的なく驕奢に流れ、」生産会社が出現すると「細民等金融の便を得、非常の負債をなし、或いは徒費し、」物価が下落すると「前債を償う途なく、初めて財貨の貴重なるを悟りしも及ばず」と郡長は書いている。
102 岡部為作の丹生生産会社での返済不能率は、M17年は77%であった。
 『北甘楽郡臨時農事調書』によると、農家は、肥料代、器具購入、養蚕に要する工男女の賃金などに出費した。
県庁所蔵の『北甘楽・東西群馬・南勢多郡人民集合一件』や『緊要雑件機密書類』は、M16.2~4と、11~12までの農民騒擾事件を扱っている。
M16.11.20 西群馬郡京目他4か村人民総代が、郡長に提出した嘆願書には
1.租税御上納のことは百分の一に願いたし。
2.負債利子の儀は(八朱利)と相定め、借用元金へその利子を相添え、7ヵ年年賦の救助を請う。
 これは利子の減額と年賦償還を要求しているものである。
103 自由党内で、板垣、星らが政府に妥協的になっていくのに対して、大井憲太郎を中心とする「急進派」が台頭した。
 『三島通庸文書』の中の密偵報告によると、急進派=決死隊の首領は、大井憲太郎、前橋の斎藤壬生雄、高崎の宮部襄であり、茨城、群馬、福島、高知、熊本に500名、「有名なるものは」群馬の、吉田文蔵、深沢寛一郎、山崎重五郎、南関三、久野初太郎、新井愧三郎、長坂八郎、清水永三郎、岩井丑五郎である。
104 『郵便報知新聞』3月10日号によると、3月3日、高崎若松町の竜広寺で、県下有志数十名が、「農民懇談会」を開き、地租を地価の100分の1にせよ、「正租減額の儀をその筋に請願すべし」と決議した。中心人物は、長坂八郎、伊賀我何人、深井卓爾であった。
 3月4日には北甘楽郡富岡で時局を語る「雑話会」が開かれた。
 『朝野新聞』4月1日号によると、毎月4日、10日を定例会とし、上毛自由党の伊賀我何人も加入したとある。
 『旧群馬県史』によると、3月、伊賀我何人は、東京から、片岡健吉、植木枝盛らを高崎に招き、減租請願大会を開催した。
 富岡警察署史料によると「明治17年1月以降物価暴落…この時にあたり高崎町の士族自由党員宮部襄、深井卓爾、伊賀我何人の輩、当郡高瀬村の破壊的政事家清水永三郎方に入り込み」党勢拡張の手段として、「不良の民を糾合し、郡内いたるところに、学校廃止、減租請願の扇動演説をなしたる」「容易ならざる状況を呈したり」
M17.3.22 一の宮光明院で「政談大演説会」083が開催された。上毛自由党の高瀬村の清水永三郎、光明院住職の小林安兵衛=日比遜、三浦桃之助らの発意で始まった。自由党本部から杉田定一、宮部襄、照山峻三=スパイを招いて行われた。
杉田定一の「上毛紀行」(『自由新聞』4月1日号)によると、「当日は天気晴朗…聴衆堂内に満溢し、堂外に佇立する者も頗る多く、凡そ千余名あり。斯くの如き寒村僻地には未曾有の盛会」婦人も「百余名」出席していた。
 弁士は、自由党本部からの前記三名と、上毛自由党の深井卓爾、伊賀我何人の五名。『東陲』によれば「代天誅逆賊」=天に代わって逆賊=政府を誅罪すると大書された旗が掲げられた。
 杉田定一ら五人は25日、下仁田の龍栖寺で700名を集めて政談演説を行った。このころのテーマは「減租請願」であった。
 内匠村戸長の湯浅理平、清水永三郎、小林安兵衛、三浦桃之助の四人は、『東陲』によれば、天下の人士=自由党本部は「民権自由」「立憲政治」を唱えているが、それは「皮相の空論」であり、今日の段階は「成敗を干戈に訴える」ことである。そのためには三谷頑冥の民=農民を組織することが第一であると一致し、甲信の地にまで行き同志を集め、黒瀧、大桁、妙義の山中で軍陣進退の訓練をした。
 富岡警察署資料によれば、「妙義山中の岳大黒天堂に数百名を召集し、…政府転覆の密議をなし、日夜砲術の練習をなす」
106 4月、松井田町と妙義町の中間の八城で、政談演説会が開かれ、高崎の伊賀我何人、小林安兵衛、三浦桃之助、清水永三郎らが参加した。
参集した人々は竹槍、むしろ旗を持っていて、松井田警察分署長吉川迪(テキ、みち)が、竹槍、むしろ旗を撤去せよと迫ると、人民は警官を追い払って開会せよと叫ぶ。弁士に警官数名が飛び掛ると、土塩村の山田平十郎=城之助が、子分100名を連れて乗り込み、警官は圧倒されて退散した。
107 M16.7.28 上野熊谷間開通、運転開始。日本鉄道株式会社。
M10.21 本庄まで延長
M12.27 新町まで延長
『自由新聞』17.3.27号によると、高崎まで竣工。
4.8 開業式延期
5.1 開業式延期
6.25 開業式挙行。参加者は、天皇、高崎停車場便殿で昼食、供奉員は、宮内卿伊藤博文、宮内省御用掛副島種臣、宮内省出仕寺島宗則ら21名、招待客は、井上馨外務卿はじめ、大臣参議、各国公使、陸海軍士官、勅奏任官、新聞記者。
 小林安兵衛は「城之助の手下と綱吉の手下を招集し、5月1日の開通式に臨める某顕官等を襲い撃たば勝を制せんこと必せり」と考え、それに三浦桃之助が賛同し、高崎観音寺=観音山清水寺で計画。
 本庄で列車を襲い、高崎鎮台を襲う。前者の担当は、小林、三浦、湯浅理平、野中弥八らが、多胡、緑野の党員3000名を引率し、後者は、山田平十郎、関綱吉らが、碓井、甘楽、南佐久、小県の博徒2500を率いるとした。関綱吉は服役中に逃走し、山田城之助とともに来会した。
 関は17.2.18 群馬県警察署で懲罰10年、過料金500円の処せられ服役中だったが、17.4.19 外役先で、相川要太郎、萩原平内、松原万吉とともに看守に暴行を加え、逃走し、…」(6.21付け前橋軽罪裁判所の宣告)
109 『東陲』によれば、5月1日開業式延期により、小林、三浦らは、坂本治平次、新井泰十郎、白石杢太郎(もくたろう)らを先導として高崎に向かい、山田、関らと連絡を取り、5日の手はずを整えた。
その帰り、白井杢太郎=スパイは、北甘楽郡相野田村戸長大河原泰助について「平素政党員を嫌悪し、…今や義挙の首途(かどで)、天誅を行うては如何」と述べ、小林も同意し、大河原宅へ向かったが、泰助を討つこと能わず。後日、「泰助より、日比(小林)、三浦らを持兇器強盗犯として告訴し、白石がその証人となった」
M19.3の『予審終結言渡書』、同9月の『宣告書』では以下のとおり。湯浅、小林、野中、三浦、野中和三郎、上原亀吉、深沢孝三郎の七名は、5月2日、「東京本部に立ち越す旅費金、近村の豪商に到り押借せんと」…途中深沢は辞退し、…「財物を差し出さざれば放火せんと脅迫し」「赤毛布一枚、半纒(はんてん)一枚、紙幣二円六十銭、天保銭四円五十銭、銅貨二円」を奪取した。
110 これに対して小林は「強盗のためにあらずして自由党に加盟を勧むるため」と故障申し立てをした。
白石は相野田村の隣村藤木村の出身である。また、白石とともに先導した坂本治平次、新井泰十郎は、M16.2の「北甘楽郡相野田村外人民集合」事件で、「後賀村塚本治平次(恐らく坂本治平次)、蕨村新井泰十郎外数名、愚民を扇動しこの挙に及びたり」とされている。
 開通式襲撃計画は予審段階での裁判資料では触れられておらず、『東陲』『自由党史』が触れているだけだ。
しかし、『三島通庸文書』の中の密偵報告「自由党の政略及び内情」では、「高崎は頗る不穏」とし、自由党員は、「新井愧三郎、長坂八郎の怨*を雪がんため、哀訴嘆願せんと猶興館(ゆうこうかん)に集合」したとしている。
*17.3.6南甘楽郡柏木村島田安太郎宅での懇親会を集会条例違反として起訴された。
また博徒については「かつて貸し金家(=岡部宅)を暴行5.16し、丈之助(=山田城之助=平十郎)ら40余人が捕縛され、御臨幸の際に、哀訴嘆願せんと、処処に集会し、頗る紛々の勢」としている。
 山田は事件には不参加だったのに、逮捕されている。密偵の誤報か、あるいは予防拘禁か。
111 さらに「群馬県の中村正道外二名が上京し、汽車並列の順序を調査」している。「高崎に集合するものは、自由党決死派の人々と、博徒丈之助(目下拘引中)の子分百余名と、妙義山に潜伏している者である」「その計画が哀訴となるか、非常の挙に出るか、頗る紛々なり」としている。
 また加波山事件の仙波兵庫について「関根等とともに決死奔走するとの説あり」「上野浦和間の鉄橋で妨害しようとしている」とか、長野県決死派の富田某は「三名の決死派を引き連れて高崎に滞留し」ているとしている。
112 5月5日の再延期後、三浦桃之助は上京して自由党本部の宮部や清水永三郎に計画を打ち明けたが、二人は「その軽挙を制し、時期尚早」と反対した。
 宮部は三浦と会ってから一ヵ月後に関西の懇親会へ出席したが、『東陲』はその直後としている。
 『予審終結言渡書』によると、小林、三浦ら数十名は、埼玉県児玉郡蛭川村平民上野文平(上野家は名望家)宅で相談した。(ここからは『東陲』を典拠としているようだ)小林、湯浅は「この際断然決死」と主張し、「秩父の党友田代栄助、村上泰治を説いて、埼玉の兵を挙げ」「妙義山麓陣場が原に勢ぞろいし、一挙に富岡、松井田、前橋の三警察署を屠(ほふ)り、進んで高崎分営を攻略」することを提案したが、これに対して三浦は反対し、野中弥八、上野文平が仲裁した。三浦は「小柏常太郎、新井某と秩父に赴き」陣場が原に向けた準備に取り掛かった。
113 予審係への陳述で、野中弥八は、自分(野中)、湯浅、小林の三人は山田宅へ向かい、三浦は武州より南甘楽地方の党員を誘うことになった、と述べた。
三浦に同道したのが『東陲』の言う小柏常太郎(多胡郡上日野村)、新井某であろう。新井某は新井愧三郎とは断定できない。
この数日前の5月7日、小林、湯浅、野中、野中和三郎、上原亀吉と、多胡郡下日野村新井太六郎の六名が、上日野村堀越忠三郎宅及び下日野村清水藤蔵宅で、強盗未遂を働き、重罪の言渡しを受けている。小林らは「提灯を借用せんとしたるのみ」と故障を申し立てている。
114 以上を整理すると、5月14日に妙義山麓陣場が原に集会を持つことにし、武州秩父、南甘楽郡は三浦、小柏、新井某が担当し、多胡郡、緑野郡は新井太六郎が担当し、碓井郡は上原亀吉や山田が担当したようだ。
 『予審終結言渡書』によると、菅原村の東間重平は、M17年4月、岡部より借金がある人々が菅原村の東ママ(陽)雲寺に集会した際に出席し、彼らを岡部に引き合わすべく示談した。
 菅原村の東間代吉や諸戸村の山田米吉らは自由党に加盟し、村民をオルグした。
115 野中弥八が言うには、11日、小林、湯浅、野中らは、諸戸村の田村源吉宅に宿泊、ここに山田米吉ほか5、6名が来会し、山田平十郎、東間代吉へ14日に関する回状を送り、12日、中里村奥太郎方で集会、小林が演説、13日、八木連村で40~50名規模の集会を開催し演説をした。
116 中里村の神宮茂十郎は、東京より自由党員が来て、彼らを岡部に引き合わせるために、15日に妙義山麓原に集会しようと代吉から聞き、父が岡部のために逃走中でもあり、参加を約束したとのこと。
 5月15日、小林、湯浅、野中ら指導部と山田米吉ほか数十名が陣場が原に終結したが、山田平十郎から20日でないと人数が集まらないとの連絡を受け、20日に延期となった。
 野中弥八によれば、13日に山田平十郎(碓井勢)が「不首尾」であるとの情報が入り、衆人の中に疑心が湧き起こり、退散しそうになったが、今夜山田が来ると偽って妙義の原に人を誘った。
117 このように山田不参加で、しかも武州や西上州=三浦からの連絡もなかったが、集会を強行しようとしたのだが、妙義山下に集まった人数は35名くらいだったので、結局延期したのだが、その後について、予審尋問で小林ら3名は次のように述べた。
 20日に延期が決定された後、小林ら指導部三名は、陣場が原を退散途中、菅原村に東間代吉神宮茂十郎らが集まっているから来会せよとの連絡を受け、そこへ向かった。すると、そこには30名ほどが集まっていた。そこで岡部為作の話が出て、「費用も要るから金穀を借受けん」ということになった。小林らは彼らを制止したが、承諾しなかった。ところが岡部宅へ行ってみると、既に暴行・放火がなされていた
 岡部宅事件は、小林ら指導層の自由党員よりも、東間代吉、山田米吉ら、負債農民を指導する在地オルグ層の主導で実行されたようだ。
118 野中弥八は、次の通り、予審尋問とは少し違う形で警察署の尋問に答えている。
 30名が集合した所で、小林が「現政府を転覆することに尽力ありたし」と演説し、自由党本部より受け取った委任状(これはおかしい)を読み上げた。小林・野中は、わずか30人でも高崎鎮台を乗っ取ろうとしたが、これに対して湯浅は「この人数では高崎鎮台を襲うことはできない、富岡で警察署を襲ったらどうか」とし、この湯浅説が有力となった。また道中岡部宅で金穀を奪おうということになったが、これは指導部ではなく農民側の提案だった。
5・15 この日には二ヶ所で集会があった。一つは、陣場が原で、小林ら指導層の自由党員と山田米吉ら諸戸村農民ら数十名が参加した集会で、もう一つは、東間代吉らが呼びかけ、菅原村の農民数十名が、菅原村で集結した。前者のグループと後者のグループが、夜八時に合流し、小林、湯浅、野中らも後でやってきた
 神宮茂十郎(中里村)と田村七五郎(古立村)は、午後六時にこれに加わった。彼らに寅吉がついて来た。
 郡役所と警察資料によると、一隊は大桁山に集合し、中腹の立石原で隊列を立て直した。
119 字大久保の辻で付近の家(岩井広吉、岩井林蔵などの家)から武器を徴発した後、多衆を三隊に分けた。先手は東間代吉、重平、中央は神宮茂十郎、初五郎、後手は小林ら三人と田村七五郎が指揮をとった。
 岡部宅の放火後、『東陲』によると、松井田分署に迫ると、署員は狼狽し潰走した。高崎兵営を襲わんとしたが、糧食尽きて、残る人員が少なくなった。
 『郵便報知新聞』5月20日号によると、大桁山集合後、大久保村の民家を脅し、600人分の炊き出しを命じ、裏山から妙義山の奥に入った。
 『富岡警察署史料』では、「岡部宅へ日比教宣、中村政三郎、湯浅理平等、軍用金調達し、発砲放火事件あり、次いで北甘楽郡役所を襲い、貢金を奪わんとして果たさざる事件あり」
120 田村七五郎は、岡部宅襲撃の後、多衆を大桁山に引き上げさせ、16日の夜、菅原・諸戸村の村民数十名が集結し、北甘楽郡行沢村の酒造家に押し入り、酒樽を奪取・飲酒し、扇動罪に認定された。

感想 この文章には疑問がある。資料の相違から起った矛盾なのか、この文章自体に矛盾・疑念がある。例えば、小林がいつから参加したのか、最初から参加していたのではなく、後から参加したかのような記述がある。また岡部宅に着いたら既に火事になっていたという記述があるが、それでは実際に放火したのは誰だったのか、それについての説明はない。

120 妙義山麓を駆けた人々

事件の指導部は、
・清水永三郎…北甘楽郡高瀬村の県会議員。
・小林安兵衛…京都府下矢田村日比斉方同居。日比家に生まれ。M12小林家の養子になり、日比遜とも称した。M16東京で集会条例違反で逃れ、群馬の無住の一の宮光明院に住みつき、「日比教宣」「光明院住職板垣実王竜」(王竜は一字)と詐称し、M17.5.2 詐称罪で、二円の罰金刑に処せられた。佐久間猛とも別称した。
・三浦桃之助…茨城県西石田村井上嵩峰方同居。M17清水永三郎方に寄留。井上嵩峰の二男、M13三浦家の養子。井上桃之助と称することもある。
・湯浅理平…北甘楽郡内庄村。父親は戸長。本人もM14戸長。M17.3.26 戸長在職中、村民の納税金60円19銭を郡役所に納金せず逃走した。これは『三島通庸文書』によると、大井、宮部らが3月中に各戸長役場の納税金を奪い取ることを指示したことによる。秋葉宗祀と別称。
・野中弥八…多胡郡片山村栄吉長男。中村政造と別称。
 富岡警察署史料によると「高崎支部幹事は宮部襄、伊賀我何人、長坂八郎、木呂子退蔵…第一位、清水永三郎…第二位、小林、三浦、湯浅…第三位。」
 以上から指導部は、菅原、諸戸村とは直接の関係はなかった。
122 菅原村、諸戸村の在地オルグの中心的存在は、
東間代吉…農民を引率して、米吉らの一隊と菅原村で合流した。岡部の蔵に放火した。
山田米吉…15日、陣場が原に諸戸村村民を引率した。岡部の居宅に放火した。
上記両名とも自由党員であり、刀剣を持参して集結するようにとの村への回覧板を数通つくった。
東間重平…上記両名を支援し、15日、大吉とともに菅原村へ数十名を集合させた。
田村七五郎…古立村出身、岡部宅襲撃の際の後手の指揮者。
神宮茂十郎…中里村出身、岡部宅襲撃の際の中央の指揮者。
123 指導層の小林らは、警察署・鎮台襲撃のために兵糧、軍用のために、岡部宅の金穀を奪おうとしたのに対して、農民は岡部の高利のためのみ参加した。
124 群馬事件は、現政府・国家権力との対決を目論み、南甘楽、碓井、多胡、緑野等の連合戦線を組む手はずだったが、そうならなかったのは、農民がただ高利のみを闘いの対象としていたからだろう。




「“密偵”殺し」 福田薫


感想 特高の原型がすでにこのころ明治17年頃に現われ、拷問死もあった。「探偵」の原型はどこか、日本独自のものか、それとも、ひょっとしてアメリカからの輸入ではなかろうか。
照山殺しにおいては、民権運動指導者を冤罪に陥らせるように裁判がやり直され、書き換えられた。照山峻三は当局の回し者であり、運動を徴発しておきながら自分は決して危険な目にあおうとしなかったので疑われた。彼は殺されることになった。予審終結言渡書と裁判言渡書142とで、ストーリーが書き換えられ、民権運動トップの宮部襄を逮捕し、長期間拘留し、活動を禁止するように捏造された。当局の民権運動に対するおびえがここに見て取れる。
「やくざ」は所謂現在のやくざではなく、当時は民権運動に関与するような人たちであり、当局は民権運動を貶めるために、民権運動をやくざや強盗事件に関連づけようとした。


126 密偵は、民権党の中枢にまで入り込み、内部から分裂を仕掛けたり、挑発したりする謀略機関となっていた。民権党の主立の大半が、殺害事件とともに官憲に追及され、その後の群馬と秩父の局面を決定的に変えた。そして「一斉蜂起」は「分散蜂起」を余儀なくされた。
群馬事件直後らしい時期の密偵報告(『三島文書』*)によると、

――大井憲太郎は宮部と外面親密の如くなるも、その実は宮部を疑うこと甚だし。然るに宮部はこれを知らず。故に今回宮部は早晩照山の轍を履むも計り難し。(照山新(ママ)三は、自由党の疑いを受け、高崎において殺害されし者)

これは宮部が工作によって盟友大井の手で狙われていたことを語っている。

*『三島通庸文書』三島は警視総監だった。

127 上州博徒と警察の密偵
M17.4.1 町田鶴五郎神宮茂十郎を尋ねた。神宮茂十郎は博徒仲間から足を洗っていた*が、町田は、同じ博徒仲間=兄貴分=親分の関綱吉が、藤田錠吉にはめられて、懲役10年、科料500円の、他の博徒と比べても大きな罰を受けたことに対する仕返しをしようと神宮に提案した。
*綱吉と親分子分の関係を絶っていた。
M17.1 「博徒犯処分規則」が太政官第一号で布告され、従来より刑が重くなっていた。関綱吉は群馬でのその第一号であった。
三人とも山田丈之助と親分子分の盃をしている。綱吉は二人の兄貴分である。
128 神宮は一の宮光明院の住職教宣や湯浅理平らと付き合うようになっていた。
藤田は1月に関綱吉が賭場を開いたことを密告した。
後年神宮は三浦桃之助にこの件について語り、三浦は『東陲民権史』の著者玉木嘉一にそれを伝えた。『東陲』によると、「藤田譲吉は関綱吉に賭場を開いたことを自首すれば、今は新しい処分規定が出たばかりで旧規定ですむから、罰は60~70日くらいの軽い罰ですむだろうと自主を勧めたが、出た判決は上記の通り重いものだった」
 ところが警察の文書によると自主とはなっておらず、現行犯で踏み込まれたことになっている。「三之助=関綱五郎(ママ)は、密告があって捕縛され、その後藤田錠吉を敵視するようになった」とある。
16.3 京都の大親分会津の小鉄は重禁錮10ヶ月、罰金百円だった。
129 17.2 東海道の次郎長こと山本長五郎が挙げられ、その判決は懲役7年、罰金400円だった。関綱吉などほんの山峡(かい)のびた銭博徒に過ぎないのに、どうして?
二人は4月3日の夜、松井田宿の境の橋で会う約束をした。
4月3日夕方6時、新堀村の橋で神宮は町田鶴五郎を待ち、合流後、町田鶴五郎は町田の家から長短二本の剣を持ち出し、短いほうは町田が持ち、長い方を神宮に渡した。
午後10時、梅久保*の藤田の家に着いたが来客があり、客が帰るのを待った。
*梅久保という地名は現在は存在せず、横川駅の東、碓井川沿いの崖下、碓井関の刑場跡地あたりから川下を梅久保といった。
130 藤田錠吉は愛知県出身で、民権史は「錠吉其の筋の探偵たるをもって」とし、自由党史は「諜奴」としている。警察側の上申書や報告書それに裁判言渡書にも彼の身分・職業は明らかにされていない。
 関綱吉が重い罰を受けたのは、自由党と山田丈之助との関係について口を割らなかったことだろう。民権史・自由党史は、関綱吉の罰金を500円ではなく50円としている。
131 客が帰ると、屋内には藤田夫婦以外にもう一人男が寝ていたという。町田が火をつけ、火事だと叫ぶと、藤田が斬りかかってきた。町田は刀を抜く暇もなく、薪をもって応戦したが、倒れた。藤田は神宮と斬り合いになり、藤田が倒れた。神宮は町田を背負って逃げた。
 裁判言渡書では「錠吉の家内より立出でたる処を、町田鶴五郎は棒を以って殴打し、神宮茂十郎が抜刀して斬りつけ格闘し」とし、藤田譲吉が素手で戦ったような記述だが、町田が薪を手にしたのは刀を抜く暇がなかったことを物語り、町田は藤田の刀で致命傷を負ったから死んだのだ。
132 警察の資料=探索書によれば、「…二人にて(藤田に)斬りかかり、藤田錠吉も刀を持って飛び出し、…」と、藤田が素手ではなかったことを明記している。藤田は6日まで、3日間生きていた。
 神宮は町田を担いで高墓村に出て、山田丈之助の家に向かったが、高墓村の辻堂で町田が息を引き取ると、南下して行沢に出て、友人の臼田喜三郎宅に身を寄せた。
133 神宮の娘かめが着替えを持ってきてくれた。神宮は臼田の家に2日世話になった後、高田川に沿って下り、光明院に着いた。そこで小林安兵衛と三浦桃之助に大変な義挙だと褒められた。
134 三浦が清水永三郎の居候だったことから、神宮は清水の家の物置*に隠れることになった。
*清水永三郎の孫清水政福によると土蔵とのこと。
今も古老の伝えばなしが残っていて、密偵の家から火事が出て、斬り合いが始まり、博打打が勝つと、背中にメンバ板を背負って博打打は逃げたという。神宮が町田を担いでいくのを見ていたのだ。
4月4日、町田の死体が発見され、町田の妻たみは、亭主が錠吉を怨んでいたこと、その晩の行動については警察に話したが、共犯については語らなかった。
135 4月15日、神宮は小林安兵衛、三浦桃之助とともに十国峠(民権史では白井峠)を越え、信州に逃げた
4月19日、関綱吉は岩鼻監獄で外役中に逃亡した。

謎の照山殺し

伊藤痴遊自由党秘録』によると、照山峻三M16植木枝盛と論争した後、単独で帰京した時、静岡県警部長香取新之助に懐柔された。その後杉田定位一と論争し、藤田錠吉とも連絡があった。
照山が「自由党を社会党に変えてしまえ」といったところ、宮部襄に𠮟られた。
136 『東陲民権史』によると、「照山峻三は長坂の一壮士なりし。陰険傲愊、智弁あり、よって信を有志の間におかれた。しかるに、演説会場では常に突飛過激の言論を試みるも、事の困難に当たりては巧みにその場を避け、ひとたびも危うきに近寄らず。或いは言う、峻三は国事探偵なりと、人々ようやくこれを疑う」
 照山峻三(富岡市龍光寺の過去帳では峻蔵)は茨城県生まれとされるが、龍光寺過去張では、東京府士族とのこと。『群馬県巡査一覧』によると、M11.3、群馬県の三等巡査であった。
 年齢不詳。伊藤痴遊『自由党秘録』によれば、M15官吏抗拒の罪で重禁錮2ヶ月、その時、原籍は群馬、年齢は24歳と答えているから、M17では26歳となるが、前期過去帳では30歳となっている。
137 照山は寄席で講釈をやったという。
伊藤痴遊によれば、照山は腕力が強く、芳町の自由亭、外神田の千代田亭などで政府攻撃の熱弁をふるった。その相棒は奥宮健之である。
M16、高崎の藤守座で通俗政談「浮世夢物語」という話をした。
138 自由党内でだんだん仲間から嫌がられるようになった。傍若無人でおしゃべりな性格のせいかもしれない。
M20.1.25の浦和軽罪裁判所の予審終結言渡書とM22.3.30の浦和重罪裁判所の裁判言渡書を参照してみよう。
後者によると、次の者に言渡された。宮部襄、長坂八郎、深井卓爾、新井愧三郎、岩井丑五郎である。このうち宮部、長坂、深井と予審終結書に出ている鈴木新太郎それに被害者の照山峻三が旧自由党員である。
 長坂のところに、照山が反対党の間者だという匿名の投書が来た。
139 照山は宮部に、長坂が自由党の分担金を着服していて、新井愧三郎がそのことで怒っていると言い、今度は長坂に、宮部がその分担金を無駄遣いするのを愧三郎が怒っていると言って、両者を仲違いさせようとしたが、しだいにこれが「照山峻三の讒言(ざんげん)にして離間策」であることがわかってきた。
 自由党は「一君万民的」なものに近い党であり、つまり天皇制護持の党であり、照山は「共和の政体を全美なりと称導」しているから、それは自由党の命取りになる。
 痴遊は照山の共和思想が、大和の人樽井藤吉の影響だとしているが、筆者は土佐の人奥宮健之の影響だと考える。奥宮は大逆事件で死刑になった。
140 奥宮はM15.10.4、人力車夫による「車会党」を結成し、自由党の中で労働者の組織化をした最初の人だった。その直後、奥宮は投獄され、車会党はつぶれた。奥宮はその後M20、名古屋事件で投獄され、M29出獄した。
浦和重罪裁判所の裁判言渡書では、照山殺害の理由として考えられる要因は、照山が反対党の間者だったこと、および、照山の共和思想とであるが、浦和軽罪裁判所の予審終結言渡書では、前者の理由しか現れない。
予審で村上と岩井だけが無期や死刑となり、宮部は無罪となった。
宮部が再逮捕されてから、「共和思想」が付け加えられた。
 自由党の幹部は尊王論者でないと言われることを極度に恐れた。宮部は「照山を遠ざけると自党に害を与えるだろう」と恐れた。それはお召し列車襲撃計画の漏洩だろう。当襲撃計画は、予審終結言渡書にも裁判言渡書にも書いてない。また照山が国事探偵であるとも書いてない。
 お召し列車襲撃計画は『民権史』と『自由党史』に書いてあるだけだ。
共同謀議
142 M17.4.13 鈴木新太郎と新井愧三郎が、宮部襄宅で、照山と論争になった。『裁判言渡書』によると、
 その論争の後、鈴木新太郎は照山殺害を愧三郎に提案し、新井愧三郎が同意した。二人は地元の闘士である。そのことを鈴木は宮部に話すと、言渡書によると宮部は「斃してしまえ」と言った。
143 14日、宮部は新井にも許諾を与えた。鈴木は長坂の同意も得た。照山の党員間の離間策や分担金の私費などを理由としてあげながら説明したところ、長坂も同意したのだ。
 14日夜、鈴木新太郎と新井愧三郎は、照山を誘い出そうとしたが、照山は乗ってこなかった。二人はその晩、深井卓爾の同意も得た。
 15日、三人は再度照山を誘い出そうとしたが、照山は埼玉へ行くのはいやだと言ってのってこなかった。そこで深井は別れ、宮部宅へいき、秩父の村上泰治に会った。予審終結言渡書では、「村上に事情を話して照山殺害を頼んだらどうか」と、新井愧三郎が深井に言っていたからだ。
144 深井は「宮部、鈴木、長坂、新井らが照山を殺すと申し合わせている」「秩父地方で殺してくれ」と村上泰治に話した。
照山は17歳の村上の言葉を真に受け、4月16日午後3時、村上は、宮部の家から照山を連れ出し、吉原で一夜を過ごした。
4月17日午後4時、児玉郡下日野沢村字重木の村上泰治の家に着いた。そこに岩井丑五郎南関三が来ていて、村上は、照山を殺すように、宮部、深井、(長坂、鈴木も…『終結書』では追加)から頼まれた(「協議した」…『終結書』)ので、南関三といっしょにやってくれと岩井丑五郎に頼んだ。
145 ここから先が『予審終結書』と『裁判言渡書』では話が違う。
『言渡書』では、三人が、風呂に入っている照山を殺し、――村上はピストルで心臓を打ち抜き―ー担いで峠まで運んだとあるが、『予審終結書』では、杉野峠で照山を殺害したとあり、さらに村上が、岩井丑五郎に、南関三といっしょに照山を殺してくれと依頼したとしている。ただし両文献とも、顔を滅多切りにしたとしている点は共通している。
146 岩井は、照山が集会条例違反で警察から目をつけられていることを知っていたので、安全な場所を案内しましょうと誘い、杉野峠で、岩井丑五郎が短銃で、南関三は仕込み杖で殺し、顔を滅多切りにしたとしているが、岩井は出獄後そんなことは絶対していないと、小幡兵内に語っているし、『郵便報知新聞』でもその残虐行為に触れていない。
147 4月18日、村上は丑五郎、関三を上京させ、宮部に報告させた。
4月18日、深井卓爾と宮部襄は、長坂八郎を訪問してから外出し、宮部の家に戻ると、新井愧三郎が来ていた。夜、岩井丑五郎と南関三がやってきた。同郷の新井が応接した。
『東陲民権史』によると、宮部はその晩、岩井丑五郎と南関三の二人を、大井憲太郎の家に送った。宮部は茨城の党員仙波兵庫に相談し、仙波が二人を引き取ることになった。
148 二人は、富安正安、谷島弥兵太、尼子義久などの家を転々とした。
5月12日の『郵便報知新聞』は、「四五日前杉木峠で殺害された男あり。死体を仮埋葬した。」と報じたが、それから判断されることは、死体が発見されたのは5月7日か8日ということになる。
ところがこの新聞発表の前に死体が発見されていた。「木公堂日記」である。農業柴崎谷蔵(号木公堂青雪)の日記で、慶応3年正月から明治34年12月25日、87歳で死亡する前日まで記録されている。
それによると、4月23日、「杉野峠二人殺有」とある。
149 また「木公堂日記」によると、M17.6.2、日の沢泰治(=村上泰治)を先日巡査20人で召捕に行く。女房包丁を持って騒ぎ、その間に亭主は迯逃(とうそう)した」これは5月21日早朝の出来事である。また新井蒔三(まきぞう)は、村上夫婦を助けた。
妻はんは口を割らなかった。
村上は東京の松久町で逮捕され、浦和に送られた。彼は謀殺の容疑で6月30日、浦和監倉に収監された。
150 5月16日の件で群馬の自由党は壊滅的打撃を受けていた。
6月5日、星亨、大井憲太郎、宮部が関西懇談会に出席した。『民権史』には清水永三郎、伊賀我何人も参加したとある。大井、伊賀は帰京し、案内人の紀州の人井伊常太郎も大坂に帰り、宮部、清水は高野山に留まった。宮部は山中源次郎と変名し、僧侶に変装し、釈文亮と称した。高野山を下りる時、木村八十八と変名し、京都に向かった。
 深井卓爾は長尾敬蔵と変名したが、新潟県三条市で検挙された。
 宮部は、井伊家にいたころ、村上が逮捕され、長坂、新井が教唆罪の嫌疑で拘引され、宮部にも令状が出ていることを知った。井伊は渡韓したらと勧めた。
8月21日、宮部が捕まった。
『自由燈』では8月7日付けで、「宮部氏は大坂で捕縛された」としている。
その8月9日付けは、『民権史』とは異なり、井伊家ではなく、大和吉野郷の富豪土倉庄三郎の家に泊まり、翌日、僧形で熊野に落ちていく途中で逮捕されたとしている。
岩井丑五郎、南関三、鈴木新太郎は、茨城で逮捕され、関係者全員が逮捕された。
感想 もうちょっとはしょってまとめてもいいのでは。資料があちこちに飛んでいて、論旨が錯綜している。
南関三と村上泰治の拷問死
151 宮部らは前橋監獄、村上泰治は浦和監獄に入れられた。村上家は名門で、泰治は秀才だった。当主蘭渓は禊教(はらい、みそぎ)信者だった。教組井上正鉄の権力を恐れない不動の良心が、泰治の心をとらえた。蘭渓は布教をしている時、新井愧三郎から自由党への入党を勧められ、M15.11、65歳で入党した。泰治は16.4.6、入党したが、この年に蘭渓が死んだ。
152 泰治の妻はんは、泰治を破獄させようとしたが叶わなかった。
浦和の監倉で南関三が拷問死した。彼は群馬県南甘楽郡三波川畔で育ち、剣術は神武流をよくした。
 村上泰治は村に伝わる話では、髪を長くし、蒼白く、痩せ型であり、『自由党史』では「温柔婦人の如し」とされ、常に朱鞘の短刀を忍ばせていた。
 この気性の潔癖で鋭く激しい若者が、言うに堪えない過酷な取調べ=拷問を受けたのだ。死ぬより辛い屈辱だった。
M20.1.26 予審終結言渡書が送達されたとき、村上泰治は送達書に自分の名前を書くことができなかった。加藤看守は、「病気につき自書不能代筆」とし、泰治は拇印だけ看守に手をとられて押させられた。
 予審の結果は、「教唆して重罪を犯させたものは正犯となす。謀殺の罪だから死刑だが、二十歳未満だから一等を減じて無期徒刑とする」
 岩井丑五郎は「予め謀って人を殺したる者は謀殺となし、死刑に処す」
 宮部襄、長坂八郎、新井愧三郎、深井卓爾、鈴木新太郎は、間接の教唆だからとして無罪となった。
 村上泰治は終結後百五十日ばかり生きて、6月18日浦和の監倉で死んだ。「日の沢村史」に泰治の葬式の時の写真がある。
謀略
154 予審が終わり半年がたった8月12日の『郵便報知新聞』によると、宮部、長坂両氏が拘引され、浦和裁判所に護送された。しかしその拘引の理由はいまだ詳らかならず。
二人は榛名山麓の中野曠原(こうはら)など数十か村を作ろうとしていたが、8月10日、突然警察に連行され、浦和に送られた。
岩井丑五郎が反訴したため、つまり「変節」したとされた。そして宮部が直接の教唆者に仕立て上げられた。しかし、岩井は出獄後死ぬまでそれを否定した。彼は晩年欝になり、気が変になってしまった。
M20.1.25 予審が終結したとき、政府部内はがっかりした。M17年、政府は自由党員の暴動で手を焼いた。18年は小康を得た。19年、静岡事件が発生したが、それは未発に終わり、自由党員の蠢動を抑えることができた。
M19.10、星学、中江兆民らが発起して、在京の旧自由党員を中心にして、全国有志大懇親会を開いた。M20.5.15、大阪でも旧自由党員が中心になって、全国有志懇談会が開催された。この日は板垣退助や星学も出席し、星は、改進党、自由党、独立党など、その主義のわずかな差に拘泥しないで、小異を捨てて大同につくべきだと演説した。板垣も同様の演説をした。
155 星は宮部と代言人同士で、自由党に入党するときも、宮部と大井健太郎の紹介で党員になった。宮部も星の運動に参加するだろう。この際、何としても宮部を投獄しておくほうが無事だ。政府が裁判所に弾圧を加えた。宮部を直接教唆に仕立てる、そのためには、村上が殺しに加わったことにしなければならない。
 当局は村上に、彼の予審の供述を変更させる必要があった。彼は拒否した。村上の病状が悪化した。当局は村上の死を待った。獄中での不完全な治療をしておれば、必ず死ぬ。それから村上の供述を変えればよい。一方、岩井に死んでもらっては困る。村上の供述変更を彼に認めさせねばならない。当局はどちらか一方が死ぬことを望んだが、村上が死ぬことが理想だった。それは、村上が決して供述を変えるような男ではないからだろう。
 岩井は頑健な男だった。拷問に耐えた。北海道集治監(樺戸)に入れられてからの行状録によると、「採炭土方等に従事、頗る勉励。特技はないが、如何なる強役にも耐え…」
156 村上の死後、村上の供述が変えられた。いかに厚顔な権力者でも村上の息のあるうちはさすがに気がさしたのだろう。宮部や深井は無期、悪くすれば死刑だ。裁判はやり直しになった。
6月18日までの村上が生きている間に、村上の供述を変えることはできない。
村上はM20.6.18に亡くなった。葬儀は6月22日に行われ、板垣退助、伊藤仁太郎(痴遊)ほか会葬者の名簿も、香典料領収書も残っている。そこにも葬儀が6月22日であることが明記されている。
157      ところが役場戸籍簿には、M20.9.25泰治死亡と記載されているそうだ。(日野沢村史
しかし、役場では、M43年の出水で帳簿類は流失したとのことだ。
 日野沢村史には次の裁判書類が掲載されていた。

言渡書
村上泰治
右謀殺事件に付き、監禁之置くところ、なお事実発見のため、更に10日間監禁せしむるものなり
明治20年9月27日
浦和軽裁判所 予審係判事補 小沢甚一
書記 山本矢十郎

これはM19年の間違いではないか。予審はM20年1月25日に終結している。
「歴史学研究」No. 186 四方田稔、中畝正一「村上泰治の裁判」によると、「岩井が認めればそれで犯罪は成り立つが、それだけでは証拠として不十分だから、村上の生命を延長する必要があったのではないか」とのことだ。つまり、村上が死んでから供述を変更したのではなく、村上が生きている間に供述が変更されたのだとして、もっともらしくしたかったのだろう。
死亡日は裁判言渡書には書かれない。裁判所内部で死亡日を延長して帳面ずらだけ合っていればそれで構わない。
158 悪人にも良心の咎めがあったのか。
M22.3.30、判決が下りた。判決理由とその経過は次のとおりである。
被告宮部襄、深井卓爾、岩井丑五郎各有期徒刑十二年に処す…被告長坂八郎、荒井愧三郎は、証拠不十分に付き無罪放免す
明治22年3月30日、浦和重罪裁判所において言い渡す
右謄本なり
明治26年3月10日 浦和地方裁判所検事局に於いて
160 もし教唆というのなら、鈴木、新井、長坂も同罪ではないのか。殺人予備罪ではないにしろ、共謀共同の教唆ではないか。
 宮部と深井は大審院へ上告した。
1.            新井と鈴木が照山殺しを決心・画策したのであり、宮部は同意しただけだ。
2.            深井卓爾は殺人計画にほとんど関係がない。
3.            村上に殺人を依頼した証拠がない。4月14日夜、宮部は照山の秩父行きを中止するように言っている。そのことについて長坂欽吾が知っているから法廷に召喚してくれというのに召喚してくれない。
4.            4月15日夜は、宮部も深井も不在だった。そのことに関して証人がいるからといっても法廷は取り合ってくれない。
M22年6月29日、上告は棄却された。
岩井は上告しなかったので6月20日に、宮部、深井はM22年9月10日に、樺戸監獄に入れられた。
161 林和一、中島又五郎、大岡育造が弁護に当たった。
 岩井丑五郎は出獄後、同村法久村の小幡兵内に、予審のときの供述が正しいのだが、どうしようもなかったと言っている。

照山の死亡日に関して疑念が残る。「木公堂日記」の「4月23日、杉野峠に殺人あり」と、5月12日付『郵便報知』の死骸発見記事とで、照山の死体は4月23日記述のほうに違いない。
「木公堂日記」6月2日の項に、「日ノ沢泰次、村上泰治というものが、杉ノ峠で殺した」と書いた記事がある。
そして「木公堂日記」8月28日の項に、

6月2日の説の杉ノ峠の人殺、峠茶屋の女なり。召し捕らえになり、この女が、三人人殺したる白状したしかるなり。

杉の峠の人殺し――4月23日の記事の死体――は、峠茶屋の女の仕業だという。そしてその他に二人殺している。5・7発見の死体と、4・23発見の死体とは同一ではなく、どちらか一方が、または両方とも峠の茶屋女に殺された。
5・7発見の死体――茶屋女が殺した死体――を、警察は照山の死体に仕立てた。
照山に衣装を着替えさせて、それまでの衣類は照山に持たせた。その衣類は、4・23の照山の死体が持っていた荷物の中にあった。
4・23の時点で警察はまだ犯人のめどがつかなかった。捜査の間の5・7に、また死体が発見された。警察は死体を損壊し、これを照山に仕立てた。4・23の照山の死体は別人として葬られた。この説には根拠がある。
M20.1.26、予審終結言渡書が村上に送達された。村上はそれから150日間生きながらえ、6月18日に死んだ。死ぬ150日前に自分の名前が書けないだろうか。それは死体損壊の罪をなすりつけられたことに対する怒りで、そんなことはしていないと主張したかったのではなかったか。
富岡市龍光寺の過去帳に照山峻三の記名がある。
盛説白劔居士 四月二十二日 東京府士族照山峻蔵(ママ) 埼玉県秩父郡杉木(ママ)嶺にて死す施主田島新作 三十年 
この戒名の右に、清山林光居士 四月十八日入沢権八事という文字が挿入されている。
田島新作は富岡市の自由党員である。四月二十二日は4・23の前日である。
164 清山林光や入沢権八事は照山のことだと思う。「事」という字がついているではないか。それに4月18日ではないか。
 死亡日は死体発見の前日とした。4月22日に照山が殺されたといううわさがあったからだろう。
 田島新作は後で照山が、秩父の八幡山近傍の寺に埋葬されていることを知った。それで秩父でつけられた戒名と名前を、脇に書き入れてもらったのではないか。死亡日は正確な日がわかってから書き入れた。
 樺戸に収監された直後は、宮部も深井も自分の過去に悔いることはなかった。しかし、典獄大井上輝前の感化で、二人ともキリスト教に入信し、罪の意識を持つようになり、二人は模範囚となった。岩井も立派な働きぶりで、大井上輝前は、司法大臣に特赦を上申し、M28.6放免となった。
宮部、深井、岩井の樺戸での行状録は、福田薫『蚕民騒擾録』青雲書房を参照されたし。



群馬事件から秩父事件へ  藤林伸治


感想 税金のひどさ、様々な名目をつけて税金を取り立てた。177


168 当時、新聞は検閲を受け、白けていたようだ。「当局より訂正せよと言われた」と但し書きを入れている。それでもそう書き入れることで、新聞は政府に抵抗する姿勢を示したのかもしれない。幕藩政府をやじりとおした『朝野新聞』の成島柳北のように。
1884年、明治17年は、群馬事件に続き、8月の加波山事件をはさんで、秩父事件、飯田事件、武相困民党事件と続く。数年来、ヒステリックな言論弾圧の中で、これらの事件の報道も一面的に捻じ曲げられた。「その筋のお達しにより昨日の記事を取り消す」という社告が、秩父事件報道にしばしば見られる。群馬、飯田、武相の事件は、ほんの小さな単発事件にされ、社会面の片隅に追いやられた。警察と裁判所の密室で、農民の政治要求は消し去られ、自由も民権も圧殺されて、博徒、暴徒による火付け強盗事件に作り変えられた。
戦後、犯罪を犯した「米兵」のことを「大男」と呼ばないと、GHQ新聞課に呼び出されて、大目玉を食らったのと似ている。
169 群馬事件1884は、焼き討ちであるが、大きな弾圧が加えられた。
55名が銃殺刑となった竹橋近衛兵反乱事件1878.8.23は、自由民権運動の始まりとなり、その後福島喜多方事件1882.11、高田事件1883、群馬事件1884、飯田事件1885と続いた。
事件の結果よりも計画そのものが判決の上で大きい比重を占め、福島事件では謀略的なでっち上げが顕著になる。群馬事件も実際の行動よりも、その計画が、天皇の政治に歯向かう危険なものだったところに大きな弾圧が加えられた理由があるのだろう。
170 政府は列国並みの陸海軍をつくることに躍起だった。そのために税収奪、弾圧機構の確立、思想支配政策を打ち出した。
湯浅理平「成敗を干戈に」(『東陲民権史』)
岡部家襲撃の後、松井田警察署を襲った。
171 国事犯としてではなく、火付け、強盗、殺人の暴徒という烙印で処理する方針が貫かれた。相野田村と日野村の事件で、日野村の新井太六郎は秩父の困民党の組織活動に加わったが、判決文では秩父には一言も触れていない。新井は、日野村での二件の強盗未遂事件の首謀者に祭り上げられ、他の被告と切り離され、三年の実刑をうけた。
 福島事件や秩父事件が一ヶ月から六ヶ月の間に判決・処刑が済まされたが、群馬事件では三年二ヶ月もかけられ判決が下された。また被告の数がごく一部に限定され、他の事件であれば当然起訴されるはずの関係者のうち、三浦桃之助と深沢孝三郎の二名しか検挙されていない。これは同時に進行していた照山峻三殺害事件で、自由党左派の宮部、深井卓爾、新井愧三郎などの指導者を、群馬事件につなぎあわせる思惑があったのではないか。宮部と深井は群馬事件の一ヵ月後に再逮捕され、照山事件の犯人にでっち上げられ北海道に送られた。
M17年5月6日、上日野村の小柏常次郎は、児玉の上野文平方で激論の末、群馬事件から手を引き、国峯村の遠田宇一や下日野村の新井太六郎らとともに、群馬県南西部と埼玉県北西部にかけて、困民党上州自由隊を組織した。また、三浦桃之助深沢孝三郎も(群馬事件から)途中で離脱した。
群馬県警は騎馬、村田銃などの補充と、定員増を行い、電話・電信網、幹線道路網を短期間で整備した。
173 北甘楽郡造石村の長岡直吉が、秩父への援軍は難しいと小柏常次郎に返事*をしたが、そのとき長岡の兄の長岡伊太郎は、翌日の秩父蜂起に向けて、遠田宇一とともに、新井薪蔵の留守宅で準備中だった。

*上丹生村暴動事変(岡部家襲撃事件)の後は、自由党は皆寝入りて、左様なるところへ出る者は一人もいない。御手配の厳しき故、誰あって出るものなし。(これを竹内嘉市が小柏常次郎に伝えた)

M17.10.31 秩父事件蜂起を前に集会が行われた。(ウイキペディア)

 竹内嘉市の長男竹内道太郎も、遠田宇一の実弟斉藤林次郎とともに、秩父と上州との間の伝令係りをしていた。ところが秩父事件被告の中に、長岡伊太郎、竹内道太郎、斉藤林次郎はいない。ただし、長岡伊太郎は別件で検挙された。斉藤林次郎は秩父郡井戸村で十年間かくまわれ、子供までもうけている。小柏ダイ(小柏常次郎の妻)も捕らえられたが、三人の若者の名前を口にすることはなかった。
174 「とんび」の親玉が県庁であり、明治政府だった。八の字の髭を生やした「役人とんび」は、巡査と一緒に戸長役場に現れ、とぐろを巻いて税金を取り立てた。
 M16年の春、酒税の増税による販売不振で、吉井町の酒造販売業の木村茂平が身代限りとなった。それまで酒屋は金持ちの代表格と言われていて、質屋、高利貸を兼ねる地主層が多かったが、酒造営業専門家は、こういう運命になった。「自飲製」が公布され、焼酎を造れるようになったこともその一因だった。
M15年末、酒造免許税を30円、造石税*を一石につき、一類四円、二類五円、三類六円にそれぞれ二倍に増税した。タバコも同様だった。*酒、醤油などが醸造された石高を造国数という。
M16年2月13日、群馬県下174名の酒造家は、44名の総代をたて「酒税減額並酒造税制改正の儀に付き建白」を元老院議長に提出した。前年植木枝盛は、京都で全国酒造会議を開き、群馬県からも二人がこれに参加していた。
渋川の狩野、相川、安部は「自由大演説会」を開いた。総代の中には自由党員の県会議員金井只五郎や森田四郎もいた。
 M18年2月、山県内務卿は、西群馬郡横堀村の佐藤広吉の、M17年の田畑一反あたりの生活費に当てる残高が、M13年比で十分の一に減っていることを訴える『朝野新聞』への投書「農家出納計算表」を援用し、負担能力を超えた農村の徴税法を緩めるように、「地方経済の改良の儀」という意見書を提出した。
 佐藤広吉M14年、学習結社「共立社」の創立に加わった。
 税金やその他の賦課金は多種多様だった。国税、地方税、町村協議費と、さまざまな公租・公課、たとえば、戸籍調査費、印章代、役所からの脚夫代、講費*、祭礼行事、初穂費、自家用の鳥獣漁、官公有林での落葉、下草採り手数料、印紙代などである。最大は教育費、道路費、衛生費の順で、さらに学校、警察署の損増設費は、全額管内の町村に戸数割で強制寄付金が賦課される。*相互扶助目的の貯蓄。
177 藤岡警察本署新築費では、戸数割のほかに「新築費献納願」として有志で拠出した。
「耕宅山林税地価増徴第一期取立簿」には、苛酷な徴税事情が記されている。そこに記されている「追徴令による税金」とは、郡役所の裁量による恣意的な「徴発」=賦課金である。
山村農民は現金収入を求めて様々な仕事をした。薪炭、屋根板、下駄材、杣(そま、きこり)、木挽(ひ)きなどの山稼ぎのほかに、行商、祭文*などである。
*死者の哀悼、雨乞い、邪鬼の駆逐のために祭りのときに読み上げる文。
これらもM15年以降は鑑札調べが厳しくなり、鑑札受料と営業税がかかる。雑多な賦課金の総計は地方税の五~十倍に上った。
178 「面(わら)税」とは、建築土木費で赤字が出たときに徴収される税金である。
南甘楽郡野栗沢村では「学校頼母子講」を設けて、学校建設資金を徴収した。
野栗沢村は、慶応四年の世直し騒動に全戸をあげて参加した。山中谷一千の農民とともに、白井峠を越え、信州佐久平におしかけ、米の安売り契約を取り付けた。
村々の連名の助命嘆願で釈放された黒沢倉十郎は、M17.1.7、秩父困民軍が神流川沿いを上がってくると、村の金持ちから軍資金300円を出させ、全戸を動員し、白井まで追ってそれに合流し、官に抗敵した。
M17.9.30「借金あるものは野栗峠に10月1日に出づべし」の火札が、山中九か村に張りだされた。
179 M8の熊谷県布達「官民有区分」は、多くの山林原野を農民から取り上げた。M15年までは目こぼしで入会権を認めてきたが、16年、17年と徐々に厳しくなり、官林、公林での下草刈りや落ち葉広いまでが厳禁された。
 希望者は願書と料金を出さねばならなかった。
「下戻し運動」が全県に広がったが、認められたのは三件にすぎなかった。それも「部分木契約」で、植林義務や官三民七などの賦課金を課された。
 農民は密猟や盗伐で捕まった。
「新井庄蔵訊問調書」で新井は広く人民の助かることなれば、悪しきこととも存ぜず」と述べた。




「思想史から見た群馬事件」 家永三郎 インタビュー 聞き手 藤林伸治

感想・要旨
191 明治初期の天皇観と 共同体見直し論 明治十年代と天皇制

江戸時代の共同体は、上層部による下層部に対する収奪だけではなく、上層部が下層部を庇護する側面もあり、そのことが、天皇制を受け入れる素地となった。また明治初期に天皇制を宣伝した人*1がいたことも天皇制が発展・浸透する上で一定の役割を果たした。しかし、注目すべきは、明治十年代ではまだ天皇を尊ぶ風潮はさほど浸透しておらず、まだ徳川家の方が偉い*2と思っている人が、特に天領・旗本領の多い関東ではいえる。

*1 平田銕胤(てついん)派の国学者は、大教宣布運動の名のもと敬神尊皇思想を浸透させるために全国的イデオロギー工作を行った。
*2「禁廷様より公方様の方がえらい」

191 明治初年には共和主義の思想が一部の知識人の間にあった。参考文献 『「天皇制」論集』久野収・神島二郎編集 「日本における共和主義の伝統」家永三郎
192 明治維新はフランス革命と違って、人民の下からの蜂起によって徳川幕府を倒したのではなく王政復古が一つの柱になっていたから、天皇制が表向きのオーソドックスの思想として通用していったことは、当然なことであった。
また共同体が封建社会では支配の末端であると共に、収奪に対する抵抗体にもなりえ、相互連帯の組織として機能したので、天皇制との親近性があった。そして、後年に展開した寄生地主とは異なる形での在地地主は、搾取とともに恩恵も与えた。


青年の拷問死、二名*、デッチアゲ裁判*、スパイ*、明治十年代の頃からすでに戦前の特高警察によるスパイ、拷問の原型が既に出来上がっていた。

128 均衡を失する不当な裁判、関綱吉が藤田錠吉の甘言に乗って自首すると、重禁錮十年、科料五百円の判決。
130, 132 藤田錠吉はスパイで、町田と神宮が関綱吉の恨みを晴らすべく藤田を殺害した。
135, 137 照山峻三もスパイで、139 照山はしきりに「共和の政体を全美なりと称導」している。141 言渡書では照山のことを国事探偵とは書かず、反対党の間者としている。

126 「三島通庸(みちつね)文書」 三島は警視総監だった。

143 村上泰治 
152 浦和の監倉では、拷問に継ぐ拷問で南関三がまず死んだ。身体も丈夫だったこの人が、浦和でいつ死んだかは分からないが、拷問で責め殺された。
152 村上泰治という人は、村に伝わる話では、由井正雪のように髪を長くし、顔色は青白く、痩せ型で、いつも何か考えているような顔つきで歩いていたという。『自由党史』では「温柔婦人の如し」と表現されている。この気性の潔癖で鋭く激しい若者が、言うに堪えない過酷な取調べを受けたのである。死ぬより辛い屈辱だった。
153 宮部襄、長坂八郎、新井愧三郎、深井卓爾、鈴木慎太郎は、間接の教唆だからというので(一旦は)無罪になった。
163 村上泰治が、予審終結言渡書に自書できないので看守が代筆し、拇印を押させたというけれど、予審終結の言渡書は、明治二十年一月六日午後五時に村上に送達されている。村上はそれからのち百五十日ばかり生きて六月十八日に死ぬのだが、死ぬ百五十日ばかり前に自分の名前が書けないだろうか。

20181017()
感想 編者藤林伸治は、群馬県下で自由民権運動が社会主義運動につながった244というのだが、どう繋がったのか。私はそうは思わない。幸徳秋水は植木枝盛と何らかの思想的なつながりがあったのだろうか。私が思うには、日本の思想運動は海外の影響下に、個々の思想家・活動家が海外と呼応する形で、独自に或いは小集団の組織で、自由民権運動、アナキズム、社会主義運動として発生し、継続し、終息したのではないか。つまり日本人の間での縦の繋がりはなかったのではないかと思う。というのは自由民権運動と社会主義とは、例えば自由民権運動の天皇に対する卑屈さを考えてみると、あまりにも思想的にかけ離れているように思えるからだ。アナキズムと社会主義との間には人的つながりがあったようにも見えるが、当初のアナキストは、第一次共産党を組織するが、その後自ら解党し、第二次共産党とは袂を分かって、労農派となった。


再読・要旨

182 家永三郎は『植木枝盛研究』を著した。植木枝盛はM16末からM17にかけて五回群馬に来ている。
184 植木枝盛は、当時の日本として最高水準の主張を展開しながら、実際には板垣退助の土佐派の枠の中でしか行動しないと言われるが、植木は飯田事件の檄文を作成した。それは民権思想を訴えかけているだけではなく、実力蜂起をアジテイトしている。
 加波山事件に関して『自由新聞』は「一部の暴挙」であって、自分たちには関係ないといいますが、植木は、後年、富松正安らが処刑されたとき、衷心からの同情をこめ万斛(こく)の涙をそそぐ和歌を詠んでいる。
185 植木枝盛の1881年の「日本国国憲案」は、抵抗権・革命権を謳っている。
植木枝盛は民権数え歌の原作者である。「昔し思へば亜米利加の独立したるも筵(むしろ)旗」
186 飯田事件では、反乱軍幹部の公選が行われているが、これは植木の影響かもしれない。また植木は「兵の本意」という演説の中で、軍隊を民権派に巻き込もうとしている。そして鎮台の兵士に反乱を起こさせる計画を立てている。
 植木枝盛は酒屋会議を独自に指導したが、経済には弱かった。当時の国会開設運動は、予算審議権を与えよという要求が主眼となっていた。官憲は集会を弾圧し、開かせないようにした。枝盛は、淀川の船上で会議をしたり、大阪で弾圧されれば、京都で開いたりした。一方酒屋の方は、営業の自由を守ることに主眼をおいていた。
188 激化諸事件のころの農民がどう思って運動に参加したか。その運動は生存権を求める運動であり、江戸時代の百姓一揆の伝統を受け継ぐものであった。また江戸時代の百姓一揆は、結果的に、封建社会を揺るがし、幕末には「世直し」の展望を持つようになった。
 『明治前期の憲法構想』の中で、家永、江村栄一、松永昌三は、当時の憲法草案40本を集めて刊行した。あの段階で生存権の保障は問題になっていない。生存権が条項として初めて書かれたのはワイマール憲法であり、それが社会主義憲法の中に発展していく。
189 しかし、実定法上はなくても、法理念、社会思想としては、生存権の思想は古来からあった。生存権の思想は、律令時代の班田農民の闘争、中世の土一揆、近世の百姓一揆、明治の農民運動へとつながる。
 安藤昌益は生存権の理念を理論的に集約した。安藤昌益は農民、医者だった。
 このような土着的・内発的な思想の流れに、明治になって啓蒙思想が入ってきた。明六社の人たち、福沢諭吉、神田孝平、箕作鱗祥は、近代民主主義思想を古典的に説いた。それは大正時代の民本主義のように日本的に変容されない、古典的民主主義そのものである。
190 植木枝盛は明六社の人々から民主主義を学んだ。次に急進士族民権派の理論を学び、牙を抜かれた明六社の民主主義を戦闘的な民主主義に改造した。こうして植木は、抵抗権・革命権の保障を定める「日本国国憲案」を構想した。それと同時に立志社を通して実践的経験をつんでいった。
 農民にどれだけ思想的な深みがあったかはわからないが、いくばくかの民権思想の影響があっただろう。M9年の三重県農民一揆は、民権運動につながるものだ。農民意識については、戸井昌造『秩父事件を歩く』を参照されたい。
191 天皇制と共同体論
 天皇制イデオロギーが確立したのは、明治憲法・教育勅語体制の成立以後である。『ベルツの日記』では、紀元節の日に国民のほとんどが国旗を掲げていない。天皇制イデオロギーは、明治十年代では、たてまえ、決まり文句の形で、新聞や雑誌に出ているが、それほど浸透していない。人民の内心を掴むまでには至っていない。沼田出身の作家、生方敏郎は、子供のころ多くの年寄りが「禁廷様*より公方様*のほうが偉い」と思っていた。
*禁廷様とは、宮中を意味し、公方様とは、朝廷も意味するが、幕府・将軍も意味する。
 明治初年には、はっきりとした共和主義の思想が、一部の知識人の間にあった。家永は『「天皇制」論集』の中の「日本における共和主義の伝統」で、その資料を示した。
192 明治維新は、フランス革命と違って、人民の下からの蜂起によって徳川幕府を倒したのではなかった。そして王政復古がひとつの柱になっているから、天皇制イデオロギーは、表向きのオーソドックスな思想として通用しただろう。
 維新政府の中には、平田銕胤(てついん)派の国学者がいて、大教宣布運動*で敬神尊皇思想の全国的イデオロギー工作を行った。
*明治3年1月3日、明治天皇の名を借りて詔書を出し、天皇を神格化し、神道を国教と定め、日本(大日本国)を「祭政一致の国家」とする国家方針を示した。キリスト教を排撃し、宣教使による神道振興と国家的保護を打ち出した。
 一方、共同体は、確かに権力に対する抵抗力にもなり、相互連帯機能もあるが、それは封建支配の末端であり、天皇制的なヒエラルキー構造を持っていて、天皇制を受け入れる上で好都合だった。そして寄生地主とは違って在地の地主は、搾取する一方で恩恵も与え、天皇制を支える基盤になった。
民権と国権
193 自由民権運動の主流は、条約改正という意味での国権論ばかりではなく、東洋の近隣諸国に対する侵略を意図する国権論を目指していた。したがって、民政党は侵略主義に堕落したのではなく、侵略主義を推し進めただけである。
越前自由党の杉田定一の場合、国内に対する民主主義と、アジアに対する侵略主義が結びついている。
自由党の主流は侵略主義であった。自由党、その後身の政友会は、後年、侵略主義に走り、民権論は消えてしまった。改進党の後身の憲政会も同様である。政友会のほうが、侵略的傾向が強かった。
194 しかし植木枝盛は主流派とは違う。彼の『無上制法論』は、板垣退助の言ったことを筆記したことになっているが、板垣にはそういう理論を編み出す能力はない。これは植木枝盛の思想である。
 ここでは軍備全廃、世界政府、戦争廃止が追及されている。植木枝盛も、明治十年代後半になると、屈辱的な外交に対する批判としての国権的色彩が強くなるが、侵略的な要素は最後までなかった。
 権力者の側にも、明治後半期以降の権力者とは違う姿勢があった。
 農民も、明治前半期には、江戸時代的な共同体が生きていて、上からの行政町村体制による完全な中央政府による支配に組み込まれていなかった。ところが、明治後半期から大正、昭和となると、行政町村体制、在郷軍人会、青年団などの上からの官製組織によって、中央政府の政策に農民が完全に飲み込まれ、農村は帝国主義戦争のための一番勇敢で忠良な兵士の培養源になり、反体制分子はむしろ都市の方から出てきた。
宗教と民権運動、底辺の思想状況
195 宗教はそれ自体非合理的であるが、現実の利害打算を超えて、人々を立ち上がらせる面もある。権力に迎合する面と、反発する面とがある。後者の場合が丸山教で、江村栄一が研究している。禊教(みそぎきょう)は、民権運動とは思想的に異質であったが、共同動作もとった。
196 明治前半期のキリスト教――プロテスタント教会――と民権運動とは、それぞれ相互利用したに過ぎなかったが、ある程度まで連帯するようになった。高知教会の片岡健吉は、民権論者であるとともにプロテスタント信者でもあった。武市安哉や坂本直寛(竜馬の甥)などもそうだ。
 宗教は非合理的だから、天理教や大本教は、時には権力の尖兵になったり、時には権力から蛇蝎のように恐れられたりした。
 M16年、群馬でプロテスタントの青年団が結成され、『大日本青年投書新聞』という機関紙を発行し、廃娼運動で活躍した。
 初期の青年団は若者組*の変形が多い。
*若者組は伝統的な地域社会において、一定の年齢に達した地域の青年を集め、地域の規律や生活上のルールを伝える、土俗的な教育組織である。(ウイキペディア)
それは官製が作らせたのではない。その点で明治後半期に地方改良運動の中で再組織される、上からの官製青年団と本質的に違う。
 群馬ではキリスト教の公会堂や英学校が、明治十年代にたくさん生まれた。
“一斉蜂起論”
197 一斉に蜂起する計画があったのかどうか。群馬事件に関して、当時の密偵報告には、新潟、栃木、茨城などから結集する動向が記録されている。福島事件では、群馬、高知の民権家が関係を持っている。
家永も村上貢編『自由党激化事件と小池勇』を援用して、広範な連携について触れている。福島事件、群馬事件、秩父事件、静岡事件、飯田事件、加波山事件などの間に横のつながりがあったのか、それとも散発的な運動に過ぎなかったのか、家永はつながりがあったのではないかと言う。
手塚豊も「自由党静岡事件裁判小考」の中で、『明治叛臣伝』によると、鈴木音高と富松正安が連携したのは、M17年の春としている。村上貢も『小池勇自叙伝』に基づいて連携を肯定している。
植木枝盛が、群馬の後に、東海地方4.19、長野8、北陸と奔走している。植木は本部の計画で出向いているのだが、個人的な意見を言わなかったはずがない。
198 『自由党史』は全国的な繋がりを記述している。
家永は激化事件に関して教科書検定で不合格とされた。
 中央による計画や指導によるものではないにしても、下のほうで相互の連絡があった。
地方史研究運動の意義
200 植木枝盛の研究は、戦前鈴木安蔵が手をつけただけだった。
今郷土史研究は、お国自慢の郷土史から脱皮しつつある。郷土史は、国や世界の視点を持たねばならない。
201 1950年代の一時期に「国民の歴史学」が提唱されたが、最近の郷土史研究は、その精神を受け継ぎつつさらに発展している。歴史学をアカデミズムの独占にしてはならない。


上州民権の人脈をたどって――あとがきにかえて


240 『群馬新誌』は、国会開設を求め、庶民に呼びかける。
「群馬県令布達」集によると、
M7.12.26 「村吏、正副戸長のうち、争訴を好み、人民の依頼を口実として、本務を打ち捨て、代書・代言もあいならず、はなはだしきは一ヶ月のうち、在村わずか五、六日に過ぎないものもいるから、今後はかねて申し渡している職制を堅く守れ」
M9.8.17 「旧来、炎暑のころより盆踊と称し、夜中男女集合して、踏舞し、淫猥の所業もあるので、以降、戸長はとくと説諭し、やめさせるように」
M10.5.31 「抜刀して二人が既決檻、未決檻に乱入、囚人ともども200名ほどで高崎駅へ逃走したから、追捕せよ」

241 群馬事件から四ヵ月後の加波山事件で、後に処刑された富松正安は、石川諒一著『加波激挙録』によると、
M16.11 鯉沼九八郎、山口重脩等と、自由青年大運動会を飛鳥山に催す。ついで大井憲太郎、仙波兵庫等と、政談演説会を茨城県古河町太田楼に開き、「…奮躍剣に依って専制政治を倒さん…」と演説した。
福島事件から釈放された群馬の山口重脩らが、富松らとともに、M16年11月23日、飛鳥山で自由党関東決死派を集め、高官暗殺計画を合議した「運動会」の主催者となった。『加波激挙録』はさらに、
「ラ・ファイエットは年齢僅か二十で、合衆国独立運動に感動して書を国会に送り、自費で義勇軍に加わり、ワシントンを助け、バイロンは剣を枕にして斃れた」
242 『加波激挙録』は、1915年、青年石川が、玉水嘉一ら事件関係者からの聴き書きと資料をもとに編纂したものである。
 山口重脩や湯浅は何をしていたのだろうか。
7月10日、加波山頂の会議に群馬からも出席している。伊賀我何人は、加波山グループから爆弾の製造法を教えられた。舘野芳之助の尋問調書によると、「群馬県甘楽郡山ノ井と申すものより、爆裂薬を、その方宅に持参したることあるはずなり、如何」と追及されている。
福島、群馬、加波山、秩父と続く事件の人脈には繋がりがある。
秩父事件に参加した、佐久自由党の高見沢薫は、山口重脩に次のような書簡を送った。
「自由党員の歌集を出したいから、君の広告を掲載させてくれ」
M17.4、清水永三郎は、高見沢を頼って官憲から避難した。茨城の三浦桃之助は、清水宅に来て、群馬事件に関わった。秩父事件の幹部として菊池貫平とともに働いた、佐久の井出為吉は、清水の村の人と再婚し、前後して出獄した湯浅理平と戸長役場の筆生を勤めた。
群馬の新井毫は、名古屋や京都、岡山、九州に出かけている。高山彦九郎とは時代も動機も違う。
群馬の民権結社である明巳会の高津仲次郎、三俣素平、内田源六郎は、本庄の松本庄八らの明巳会の設立発起人である。
群馬の明巳会の藤岡の水沼忠造は、秩父事件で処罰を受けた。また小泉信太郎も秩父事件に参加したそうだ。
青木虹二『明治農民騒擾の年次的研究』によると、M17年の農民騒擾は167件で、明治で最大だったとのこと。


以上  20181030()



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