2020年4月30日木曜日

済州島四・三事件 「島(タムナ)のくに」の死と再生の物語 文京洙 平凡社 2008 要旨・抜粋・感想


済州島四・三事件 「島(タムナ)のくに」の死と再生の物語 文京洙 平凡社 2008


感想 韓国解放後の歴史は、冷戦という世界政治の影響をまともに受け、それをどう克服し、和解するかという解決策を提示しているように思われる。済州島四・三事件に関する『真相調査報告書』の取り組みが、その解決策を象徴しているかのようだ。世界のイデオロギー的対立が今なお続いているが、韓国の解放後の歴史がそれを解決するための方向を示しているのではないか。韓国の歴史は、単に韓国一国だけの歴史ではなく、世界の歴史として、興味深い。20200425

感想 四・三事件とは、1948年4月3日の、単選(単独選挙)・単政(単独政府)099に反対し、これまで弾圧(検挙・拷問死・銃殺)を行ってきた警察に対する、民衆を巻き込んだ蜂起なのだが、この日の死者数14人102よりも、その後の軍・警察による包囲・絶滅作戦による死者数1万5千人127の方が圧倒的に多く、さらに、この事件を通じて逮捕され、陸地半島部の監獄に収監されていた人達2万人144が、朝鮮戦争にまぎれて韓国側によって殺されたということが、この事件の大きさを物語っている。また同じように収監されていた人たちのうち、開戦初期に北朝鮮軍=人民軍によって解放された人たち1万7千人は、行方不明とのことだ。144

追記1 李承晩は、冷戦時代の反共の急先鋒で、選挙違反を追及する学生を中心とする批判を浴びてフランチェスか夫人とともにハワイに亡命し、その後韓国に戻ることもなく死んでしまったが、(文京洙『新・韓国現代史』085)朴正熙は、クーデターで政権の座についたものの、韓国の近代化に貢献し、韓国を新興工業国NICsとか、漢江ハンガンの奇蹟160とか評されるまでにし、済州島に関しても独自の開発・生活向上プランを持ち、済州島の近代化にも尽くし、大統領選挙では金大中よりも得票数が多かった166, 1971という。
 金大中が大統領のとき、四・三事件の真相を究明することが政治の任務とされ、反共の立場から異議があったが、『四・三事件真相調査報告書』をまとめることができた。194この金大中の取り組みは、突然起ったものではなく、1987年6月の学生の取り組み170や、済州島での反開発・反本土資本(=反外地人資本)運動(済州道開発特別法制定反対運動)175, 178, 180などの運動の積み重ねの上の成果であった。

追記2 神戸では1948年4月24日、非常事態宣言(「限定付非常事態」)が出され、27日までに、日本人の共産党員を含む1664人が検挙され、大阪では、26日、大手町公園での(朝鮮人)学校閉鎖に抗議する3万人参加のデモに、警察が発砲し、当時16歳の金太一が死亡し、27人が負傷した。
 この事件は、GHQの占領政策が、日本の非軍事化・民主化から、経済復興や反共に変化する中で行われたが、神戸で適用された非常事態は、間接統治方式を取った日本占領政策で、米軍は、このときだけ直接介入した。
1948年4月10日のGHQ文書(GHQ, FEC, Staff Study Operation, “STRETCHABLE, Edition 1,” 10 April 1948, MacArthur Memorial)は、単独選挙前に韓国で大規模な反対運動が起こることを予想して、「在日朝鮮人のうち、特に大阪地区在住の異端分子は、南朝鮮での大規模な暴動と連帯し、在日占領軍を困難に陥れる目的のために示威運動を行い、暴動を起こし、他の民衆運動を支援するかもしれない」としている。米占領当局は、日本での民族学校をめぐる騒動を、韓国での単独選挙問題と結びつけて考えていた。206

追記3 著者の立場は、左右のイデオロギー的対立の中で、権力に対する抗争は支持するが、左派に与せず、左派による民衆殺害を批判し、地域性や階層性218を重視する脱イデオロギーを目指しているようだ。

感想 朝鮮の戦後史は複雑でまだ十分理解できていないが、いくつかの勢力が乱立しており、それを以下に列挙する。なお、数字は本書の頁を示すが、(姜○○)は、姜在彦『朝鮮近代史』平凡社の頁を示す。

 日本政府から戦後の日本人の生命・財産と治安維持を依頼された呂運亭が、どうして日本人から交渉相手として抜擢されたのか、その経過は分からないが、呂は、日本統治時代1944に建国同盟という秘密結社を組織した(姜319)共産主義者*だったが、政治組織・建準=朝鮮建国準備委員会061を立ち上げるのに際して、左右両翼を網羅した超党派的な政府を樹立した。(姜320) *呂はモスクワとペトロ不ラードで開かれた極東諸民族大会1922.1.22—2.2に参加し、議長団に選ばれ、報告・発表を行い、大会の運営に当たった。(姜221--222
 戦時中から重慶を根拠地にしていた民族主義的組織=大韓民国臨時政府057があった。そのボスが金九である。もう一人の右派=民族主義者の李承晩がアメリカにいて、金と李承晩が民族主義者=右派を形成した。
 北朝鮮の事情について本書は詳しく論じていないが、ソ連に庇護された金日成が中心となって一つの政治集団を形成していたと思われる。059
 物理的にも早くも終戦前からソ連軍が北朝鮮に進駐し、38度線まで来てそこで止まり、38度線上の鉄道や電話線を切断し、38度線以北を掌握し、そこでソ連は、ソ連のヘゲモニーの及ぶ政治組織を作りたかったのだろうと推測される。
 左翼にはもう一つ、中国共産党系左派もいたようだ。金日成も中国共産党の中で活動したことがある。254年表
 南で朴憲永によって共産党が再建される1945.9.11と、建準に代わって共産党が人民委員会を掌握するようになる。071 
1946年の初めころ、人民委員会は、民戦=民主主義民族戦線に再編される062が、これは米軍政が朝鮮人民共和国を認めない1945.10.10ことに対処するための生き残りの処置なのだろう。
 1946年の10月人民抗争の前後から、共産党は北と南にはっきりと分断され、北が民主基地論(姜321)を持ち出してヘゲモニーを握るようになる。

上記以外の政治勢力として下記のものがある。

西北青年会は、北の土地改革059=土地没収政策を嫌い、南に逃亡して来た右翼暴力集団である。「越南民」という呼称もある。060
米ソ共同委員会は、信託統治という過渡期を経て、朝鮮民主主義臨時政府をつくる任務を持っていた。(姜322
・在南朝鮮の米軍政米本国政府との間で食い違いがあった。米軍政は、南の左翼運動を嫌い、それを弾圧した。060
・日本統治時代の親日的な警察・官吏・地主などは、右翼と連携するようになった。057, 062


はじめに

007 四・三事件とは、1948年4月3日の未明に、300人余の島民が武装蜂起した事件をさす。武器は日本製99式銃30挺と竹槍、斧、鎌であった。
 当時は、済州島は米軍政下にあり、1948年5月10日の、分断国家(大韓民国)建国のための単独選挙を控えていた。また、1947年から米軍政は、本土から、左翼封じ込めのために、警察や右翼を導入し、警察や右翼は島民に対して横暴な振舞をしていた。
008 この抗議活動の結果、130余の村が焼かれ、3万人近くの島民が犠牲になった。当時の島の人口は28万人余だった。

009 四・三事件は1980年代までの韓国の歴代政権によって闇に封印されてきて、これについて語ることはタブーだった。
 2000年1月に、四・三特別法(済州四・三事件真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法)が制定されたが、それまでに、民間レベルの研究、調査、聞き取り、報道などの努力が積み重ねられてきた。

第Ⅰ章 済州島とはどんな島か ―― 神話時代から植民地期まで

第一章 皐(こう)民(海の民)の時代

火山島――三多の島

014 漢拏山(ハルラサン)は、朝鮮半島では、白頭山(ペクトウサン)に次ぐ第二の高峰であり、海抜1950メートルである。
 地誌研究家の桝田一二は「済州島の地域性素描」の中で、済州島の美しさについて語っている。桝田淑郎も『済州島と父・桝田一二』の中で、父一二と済州島について語っている。
 地質学者の原口九萬も済州島について『朝鮮地理風俗下』所収の「済州島」の中で語っている。
015 文化人類学者の泉靖一(せいいち)は1936年1月に漢拏山に登り、遭難して友人・前川智春を失った。(藤本英夫『泉靖一伝――アンデスから済州島へ』)

 済州島は石と風、女が多い。
016 済州島では昔から風よけのために、畑や家の周囲に火山岩を用いた石垣を築いてきた。

耽羅(タムナ)の国
 
 朝鮮半島には、桓因(帝釈天)の孫檀君を始祖とする建国神話があるが、それとは違って、済州島には、天上にある万物の主宰者である玉皇上帝の娘ソルムンデ・ハルマン(ハルマンはおばあさんの意味の済州方言)が済州島をつくったという言い伝えがある。また、高(コ)、良(ヤン、梁)、夫(ブ)の三人が地中から現れて耽羅王国をつくったという神話もある。(後述)

017 女神ソルムンデ・ハルマンが西帰浦(ソギボ)の弧根(グン)山に尻を当てたために、弧根山の頂上に平たい噴火口ができたとされる。(済州文化院発行『済州女人像』)

 済州島で「陸地」とか「陸地部」は、朝鮮半島を意味する。

018 ソルムンデ・ハルマンの神話は、朝鮮王朝時代(1392年~1910年)に定着した。
 済州島は水田や綿花の栽培に適さず、自給自足が困難で、馬やワカメを陸地部に輸出し、米、塩、生地などの生活必需品を輸入していた。済州島と陸地部を結ぶ橋の神話も、貧困を脱するための掛橋を意味していた。(李ヨングォン『新しく書く済州史』)

高・良(梁)・夫の三神人

 三姓穴(サムソンヒョル)は、済州市の中心部にある。朝鮮王朝時代初期の16世紀以来、「品」の形に開いた三つの穴の周囲が聖域化され、今でも4月、10月、12月の各10日に祭事が行われている。
019 1451年に「正史」として編纂された『高麗史』によれば、高乙那(コウルナ)、良(ヤン、梁)乙那(ウルナ)、夫(ブ)乙那の三神人が毛興穴(モフンヒョル)から湧き出て、狩猟生活をしていたが、ある日、五穀の種と家畜(子牛・子馬)と三人の姫を乗せた箱舟が漂着し、三神人はそれぞれ姫を嫁に娶(めと)って農牧を営んだ。

 これは三姓神話と呼ばれている。朴や李など氏が根付くのは高麗時代以降だ。乙那は指導者や王の意味である。乙那から姓への言い換えは、朝鮮王朝による格下げであるという見方がある。朝鮮王朝は、三神人を豪族にとどめ、王の誕生とはしたくなかった。(全京秀「乙那神話と耽羅の散考」)。

海の帝王・張保皐(チャンボゴ)

020 耽羅国は紀元前後に鉄器を使用していた。
 『三国史記』によれば、476年、耽羅国が百済に朝貢したとある。(李ヨングォン『新しく書く済州史』)
 この時代は高句麗、百済、新羅が鼎立した三国時代であり、耽羅国は高氏(高句麗らしい)の下にいて、唐、百済、新羅、日本(倭国)と交流があった。(耽羅国は百済に朝貢するとともに、高句麗にも服属していたのか。)
 耽羅の人は「三乙那神話」によれば、地中から現れたとされ、そのことから済州島の洞窟に住んでいた人々とされるが、その説は地質学上の根拠に乏しい。
 3世紀の『三国志』の「魏書・韓伝」や、5世紀の『後漢書』の「東夷伝」によれば、「南西海上の大島に州胡(ジュホ)という種族がいる。身体は短小で、言語も韓人とは異なる」とある。
021 中国南部や東南アジアから漂着した人々が済州島に定着したと考えられている。
 三乙那神話の箱舟でやってくる三人の姫は、架空の理想郷の碧浪(ピョンナン)からやって来たとも日本からやって来たとも言われる。『瀛(えい=海)州誌』(ヨンジュジ)*によれば碧浪国からやって来たとされるが、『高麗史』1451では日本からやって来たとされている。

*『瀛州誌』は高氏の族譜と考えられ、朝鮮王朝時代の初期に書かれたと推定されている。瀛州は済州島のことである。

 大和朝廷が送り出した遣隋使や遣唐使はたびたび済州島に漂着した。白村江の戦い663の前後に百済が亡び、唐や新羅の時代となったが、この時代に済州島(耽羅国)と日本とは公的にも私的にも密接な関係にあった。(高野史男『韓国済州島』)
022 676年、新羅が朝鮮半島を統一し、商人主導の民間貿易を重視した。
 このころ新羅の南西海岸に海賊が出没し、住民を拉致し、唐に奴隷として売り払っていた。張保皐(チャンボゴ、こう)(?~846)は唐の徐州で軍務についていたが、新羅王の許可の下、全羅南道南端の莞島(ワンド)に清海鎮を設け、その大使となり、海賊を掃討した。
 その後張保皐は新羅の王位継承をめぐる内紛に干渉して勢力を拡大し、日本に貿易使節を送り、唐には遣唐売物使を送り、新羅・唐・日本の三角貿易を独占し、海上王国を築いた。張保皐は、中国の広州、長江河口、山東半島、莞島、鶏林(慶州)、耽羅、博多、能登、十三湊*(とさみなと)など広範囲に活躍した。

*十三湊遺跡は、青森県五所河原市にある中世の港町の遺跡。町並みや館の遺構が確認され、中国・高麗製のものを含む大量の陶磁器などを出土した。(日本国語大辞典)

 張保皐は中国の『新唐書』に記述があり、『続日本後記』にも張保皐が民間人として貿易したと記述されており、円仁の「入唐求法巡礼行記」にも記述がある。円仁は9年間唐で修業したが、張保皐の船団の助けを借り、張保皐のことを張寶高(チャンボゴ)と畏敬の念を込めて呼んだ。
023 張保皐は済州島を重視した。1983年、済州島の法華寺が西帰浦の跡地に再建された。張保皐は、この法華寺や、莞島の法華寺、山東半島の赤山法華院を建立し、信仰と物資の保管場所として利用した。

 このころ耽羅の民は、海に生きる皐民(こうみん)であった。(金重明『皐の民』) 皐は「みぎわ」と読む。

第二節 海の時代から陸の時代へ

モンゴルの遺産

024 918年、新羅が亡び、高麗王朝が成立した。938年、耽羅の星主*(ソンジュ)・高自堅(コウジャギョン)は、太子の末老(マルロ)を高麗に入朝させ、耽羅は高麗の支配を受け入れた。(金イルウ『高麗時代耽羅史研究』)

*星主とは耽羅の最高位の官職・爵位

 1105年、耽羅は高麗の耽羅郡として行政区域に編入され、高麗から送られてきた官吏(京来官)が耽羅の民政を掌握した。
 13世紀の高宗の時代1213--59に、耽羅は「済州」という名称に改められた。

 耽羅とは「島の国」を意味する。耽牟羅(タムモラ)、乇羅(タンナ)、度羅(トラ)など様々な呼称がある。また、耽羅とは「高いところ」だという解釈もある。(高野史男『韓国済州島』)

 済州の「済」は「大海を超える」という意味で、「州」は上位の行政区域を意味する。

 済州島民は京来官の悪政に苦しめられ、良守(ヤンス)の乱1168煩石(ボムソク)・煩守(ボンス)の乱1202文幸奴(ムンヘンノ)の乱1267などの民乱が起こり、高麗からは「難治の島」と呼ばれた。

025 高麗の高宗時代、モンゴルが侵攻し、高麗は朝廷を江華島(カンファド)に移して抵抗したが、元宗の時代1259--74の1270年、モンゴルに屈服した。
 しかし、1270年から73年まで、三別抄*(サムビョルチョ)は、珍島(チンド)を経て、済州島に陣を構え、元・高麗の連合軍と戦った。

*三別抄とは、高宗時代に組織された軍隊で、左夜別抄、右夜別抄、神義軍の三部隊からなる。「別抄」とは本来、戦時に特別に組織される軍隊の意味だが、実質的には、当時形骸化しつつあった王朝軍に代わる高麗の主力軍であった。

 元は三別抄の乱を平定し、済州島を高麗から引き離し、1275年、再度「耽羅国」とし、軍隊や達魯花赤(タルカチ)*を置いて、蒙古馬を放牧した。また170人の罪人を済州に送った。

*タルカチはモンゴル人の代官で、鎮圧者の意味がある。

 元・高麗連合軍は二度の日本への侵攻に失敗し1274, 1281、元の支配力は弱まった。1294年、高麗の忠烈王1274--1308は、済州島の支配権を名目的であったが獲得した。
026 しかし、実質的にはモンゴルから送られてきた牧胡が支配した。

*牧胡とは馬の放牧で暮らすモンゴル人という意味である。

 1368年、南京に明朝が起こり、元の勢力が弱まりると、高麗は「親明反元」に転じた。牧胡はこれに抵抗し、1374年、牧胡の乱を起こすが、高麗は2万5000人の軍を派遣して、牧胡を殲滅した。
 モンゴルの支配は1世紀に渡り、その間に古代以来の農業中心の高氏社会が解体した。(高銀(コウン)「連載『済州島』草原の中世」)
 この間モンゴル人が官僚として、軍人、牧胡として多数移住し、文化と血統の交流が進んだ。牧胡は九州の倭人女性とも交わり、そのことは、済州島の海女技術を発展させた。

 牧馬に関する言葉はモンゴル由来のものが多い。馬は朝鮮語でマルだが、済州島ではモルといい、それはモンゴル語と共通している。寄生火山はオルムというが、これもモンゴル語に由来するらしい。*済州名物のトルハルバンは、モンゴルからもたらされたとのことだ。

*オルムの語源は、朝鮮語の「登る」오르다(オルダ)とする説が有力である。
*トルハルバン돌하루방とは「石で作ったおじいさん」の意味で、安寧と秩序を守護する石神像である。

 牧胡の「胡」はモンゴル人を意味する。
027 済州島の人の姓で左(チャ)はモンゴルに由来する。それは陸地部ではほとんど聞かれない姓だ。『新増東國輿(よ)地勝覧』*によれば、済州島には元を、一族の発祥の地(本貫)とする姓がある。趙、李、石、姜、鄭、張、宋、周、秦などである。

*16世紀に編纂された朝鮮の地理書。

 牧胡の乱1374の前後から15世紀初頭にかけて、朝鮮半島南部沿岸で倭寇*が猛威を振るった。

*これは前期倭寇であり、16世紀後半の倭寇を後期倭寇といい、中国人が中心だった。)

 倭寇には済州島人や朝鮮半島出身者が多く含まれていた。だから済州島民は倭寇の被害者でもあり、加害者でもあった。高野史男は、倭寇が、「北部九州の日本海人と済州島の海民との合流であり、これに蒙古馬とモンゴル系人とが結びついたもの」と推定している。

流刑の島

028 1392年、李成桂(イソンゲ)が朝鮮王朝を起こし、475年続いた高麗が滅びた。李は倭寇討伐で名を上げていた。また中国では、1368年に明が起こり、モンゴルが亡んでいた。

 新羅や高麗の時代は、仏教文化を東アジア世界と共有した。それは雄渾で華麗だった。しかし、朝鮮王朝の時代は仏教を排して、儒教(朱子学)を政治や文化に採用した。
 済州島では星主(ソンジュ)024や王子(ワンジャ)の身分が廃止され、行政区画は三邑体制に再編された。つまり、北部の済州牧、南東部の旌義(チョンイ)県、南西部の大静(テジョン)県という一牧二県に再編された。*済州牧には牧使(モクサ、任期3年)が派遣され、二つの県には県監(ヒョンガム)が派遣された。学校(郷校、ヒョンギャ)が置かれ、済州人も科挙に応じたり、軍務に就いたりすることができるようになった。

*朝鮮王朝は強力な中央集権を志向し、全国を8つの道に分け、監察使を派遣し、その下に、府、牧、郡、県を置き、それぞれ府使、牧使、郡使、県監を派遣した。監察使は、各道の行政の長である。

 済州島は良馬の産地として、また倭賊からの防衛という観点からも、民族の一体感のためにも、内地化が進められた。
世宗(セジョン)の時代1418--50に済州島の人口は増え、6万3000人に増えた。世宗は訓民正音をつくった。

029 16世紀、島外に逃れる者が増加した。牧使の苛斂誅求、飢饉と疾病、倭賊の略奪などが原因だった。
 仁祖(インジョ)の時代1623--49、済州島人は島外に出ることを禁じられ、島の女は半島の男との結婚を禁止された。この出陸禁止令1629--1830は200年間続き、船舶の建造も禁じられた。島民は痩せた土地、過酷な賦役・軍役に苦しみ、人口は5万人前後で停滞した。

 済州島は牧使として派遣されたり、政治犯として流されたりした両班にとっては呪われた島であった。仮病をつかって済州行きをサボタージュする者もいた。

030 済州島はソウルから遠く離れ、流刑地として利用された。朝鮮王朝時代、党争(派閥争い)に敗れたり、国王の不興を買ったりして、200人余がここに流された。
 流刑された両班は野蛮な済州島人に対して儒教的啓蒙の使者としてふるまった。主に流刑された両班からなり済州島の文化の発展に寄与したとされる五賢人もそうだった。*

*金浄、鄭蘊(うん)、宋時烈、宋麟寿、金尚憲の5人である。前三者は政争に敗れて流配され、残る二人は牧使など、中央から派遣された役人だった。

抵抗の伝統

 500年間の朝鮮王朝による儒教的支配にもかかわらず、済州島民は昔からの信仰や習俗、言葉を堅持した。
 済州島では巫俗(ふぞく)信仰(シャマニズム)が盛んで、儒教を重視する朝鮮王朝の下で、シャーマンは賤民として差別され、巫俗信仰は半島では衰えたが、済州島では盛んだった。シャーマンがクッ*を営む堂*が現在でも346カ所ある。

*クッは神霊を招き、村や家の安寧、病気治癒などを祈る儀式である。
*堂は、クッのための、わずかな空き地に碑石、祭壇、紅白の布などで飾られた祈りの空間である。

 シャーマンは半島では巫堂(ムーダン)と呼ばれるが、済州島では神房(シンバン)と呼ばれる。神房はその語りの中で、陸地からやって来た両班の権威主義や家父長的仕来りをあざ笑った。

031 済州島は高麗の時代から「難治の島」と言われた。19世紀、北部の平安道を中心とした洪景来(ホンギョンネ)の乱1812や、南部の全羅道に発する東学(甲午)農民戦争1894など、周辺部で大規模な民乱が起こったが、済州島でも20世紀の境目に、房星七(パンソンチル)の乱1898と、李在守(イジェス)の乱1901が起こった。
 房星七は、東学の系譜をひく南学教徒を名乗り、貪欲な官吏と汚い官吏を懲らしめ、済州に独立の理想郷を築こうとした。
 李在守の乱は、不平等条約の朝仏修好通商条規1886に便乗した仏人カトリックの横暴に抵抗した。民乱は島民に支持され、一時済州島の行政を掌握した。
032 この民乱で済州島民は個別の村を越え、全島民の自治的な討議や意思形成の枠組みである民会をつくった。民会は当初、重税やカトリックの横暴に抗議し、平和的に建議(等訴)を決定したが、カトリック教徒の急襲を受け、武力闘争に変質した。民軍の指導者(壮頭)になったのが李在守であった。第二次大戦後の済州で、住民の自治組織としての人民委員会はこの民会に発していると言われている。(高昌勲「四・三民衆抗争の展開と性格」)

第三節 植民地時代の済州島

植民地化

032 1910年の日韓併合により、それまでソウルから派遣されていた役人、牧使府使に代わって、日本からやって来た島司が島を支配した。島司は警察署長も兼任した。
 済州島は日本にとって大陸侵略という観点からは重要でなく、済州島は、全羅南道に属する付属島嶼に格下げされた。
 日本から役人、軍人、商人がやって来た。原口九萬「済州島」(『朝鮮地理風俗 下』)によると、1930年代の済州島は以下の通りであった。

「島の人情風俗や言語も、朝鮮本土と異なる点が多い。性質は剽悍で、古来難治とされ、個人主義的で、活動的である。古来「女護の島」と言われ、女子は経済的に自立し、海女の数は1万余であり、朝鮮唯一の海女の産地である。普通学校を各地に建設し、30歳以下の者は日本語がよく通じる。しかし、山間部は獣帽獣皮をまとう火田民がいて、蒙古人によく似ている。
 人口が23万余あり、生活難のため、日本や朝鮮本土へ移住する。近年大阪との交通が便利になり、大阪に移住する人が激増している。」

034 第一次大戦後、済州島から日本への渡航が増加した。日本はヨーロッパ列強に取って代わり、(朝鮮では)綿製品など日本の軽工業製品への需要が増大した。また日本では重化学工業化も進み、内地の労働者や職工が不足し、済州島から労働力を求めるようになり、紡績工業などの職工募集のために、日本人が来島した。出稼ぎ帰還者の物質生活も向上した。(舛田一二「済州島の地域的素描」)

 当時朝鮮人は日本の職工募集員を「人買い」と呼んだ。
035 関東大震災後、半島部では渡航規制措置が取られたが、済州島ではそれがなく、1933年まではむしろ推奨された。(震災で虐殺されたことを恐れなかったのだろうか。)
 また土地の耕作権を剥奪する「土地調査事業」が、済州島から日本への移民に拍車をかけた。国有地であった中山間の広大な牧草地では、朝鮮時代末期に朝廷に馬を献上する慣習が廃止され、その後は農民がこれを耕作し、土地買売が行われるほど耕作権が確立していたが、名目上は公有地であったため、土地調査事業によって農民の耕作権が否定され、総督府によって召し上げられた。召し上げられた土地は朝鮮全国では3%だったが、済州島では10%だったと言われる。
 済州島の土地はやせていて、余剰を搾取する大地主がいなかったため、農民たちは小作にもなれず、労働力となって島外に出た。

君が代丸

036 1923年2月、尼崎汽船会社が「君が代丸」を大阪・済州島間に就航させた。その後、朝鮮郵船、鹿児島郵船、朝鮮人独自の東亜通行組合などもこの航路に参入し、1933年頃のピーク時には、3万人に近い済州島人を大阪に運んだ。
 1934年8月1日、舛田一二は、尼崎汽船の「第二君が代丸」919トンで大阪から済州島に向かった。当時、定期船が月に6回、1と6の日に大阪から出港した。その時の様子は次の通りだ。

「1日と16日は最も多くの出稼ぎ人が、みそかと中の勘定日の現金を携えて帰島する。
037 定員は365名であるが、出稼ぎ船客定員として685名まで許されていた。本航海では563名である。上等客は7人で、そのうち内地人は私を含めて2人である。他に移動警察官として、大阪府警察署の思想係のO氏、大阪築港水上署のW氏と島の巡査が、いずれも私服で乗っている。
 下等の船賃は、済州島の15の港のどこで降りても6円で、食事つきである。客は若者が多く、17歳から30歳くらいが大部分だ。まげを結って、馬の尾で編んだ冠をつけ、あごひげをはやした人もいる。人の頭の3倍もするパカチ(干瓢かんぴょう)と、木を丸く曲げた枠にかがった大きな網籠などをそばに置いて乳飲み子に乳房を含ませている者などもいる。血色の良い逞しい体から、出稼ぎ海女の帰還者と思われる。顔の青白い女工らしい娘や青年たちもいた。
 船室内は横になる隙間がないほどである。早朝の甲板は恐ろしく不潔になっていた。(舛田一二「済州島の地域的素描」)

038 君が代丸が就航した翌年1924年から1933年までの10年間で、朝鮮全体の人口は15%増加したが、済州島は逆に10%減少した。大阪への年間渡航者数は、1922年の3500人からピーク時の1933年には3万人となり、在日済州島人は、1万人から5万人へ増加し、1933年には島の人口の四分の一が日本に在住することになった。(済州島庁『済州島勢要覧』1937年版)
 1930年代は朝鮮半島全体でも人口の流出が激しかった。北部朝鮮での重化学工業の進展で人手不足となり、済州島でも水産物加工の缶詰工場が、主として日本人によって起こされたが、1939年に、工場数が80余、労働者数が873人、つまり、島の人口の1%に過ぎなかった。
039 当時の済州島経済は自作農中心で、出稼ぎによる商品経済が肥大化した。

表Ⅰ 「済州島の人口推移と在日朝鮮人の人口推移1923—1934」の参考文献は以下の通りである。

李映勲「日帝下済州島の人口変動と経済社会構造」
『金英達著作集Ⅲ 在日朝鮮人の歴史』
済州島庁『済州島勢要覧』1937

マルチ・エスニシティ都市・大阪

040 第一次大戦後の大阪は、世界的に見ても大いに発展した都市である。1920年代、関東大震災の被害や罹災者の疎開のため、東京市の人口は、1920年の217万人から1930年の207万人へ減少した。一方、大阪市では同時期に125万人から245万人に倍増し、生産額でも、1930年、東京の8億1800万円に対して、大阪は9憶9600万円だった。ただし、1932年、東京市は市域を拡張し、300万人近い人口を持つ周辺の町村を合併し、人口と生産額で圧倒的に抜きん出た。

 1930年において、大阪では内地外の出身者が3.4%であり、これは神戸の3.0%を上回る。そしてその内地外出身者の大半は朝鮮人だった。1930年の大阪市における朝鮮人の人口は7万7000人で、比率は3.1%であった。1935年には5.4%、1940年には7.3%、1942年には10%を超えた。大阪にはこの他に、近隣の農村の被差別部落や沖縄からも人口が流入した。

 転入者は、集住地域や職業を異にしていた。1925年に大阪市の市域拡張が行われ、大阪の東側の東成区が大阪市に編入されたが、ここに朝鮮人が集住していた。ここは大阪東部の新興工業地帯だった。在阪朝鮮人の三分の一がここに集中し、東成区では1935年に区人口の13%、4万人近くが朝鮮人であり、その比率は1941年に、25%、9万人以上となった。
 生野区は現在でも人口の4人に1人が朝鮮人だが、東成区から1943年に分区してできた区である。この分区によって、それまでの猪飼野地域は、東成と生野の両区にまたがることになった。そして1973年、猪飼野の地名がなくなり、猪飼野は、鶴橋、中川、桃谷に分けられた。

 このころの朝鮮人の職業は、坑夫、人夫、職工、学生などで、大阪では化学・繊維・金属・機械など中小零細企業に従事する職工が多かった。職工は、道路や港湾・河川工事などに携わる人より定着率が高く、定住化した。
042 在日朝鮮人の出身地は、全国的には慶尚南道が最も多いが、大阪では済州島出身者が多く、在阪朝鮮人の中で済州島出身者の占める割合は、1920年代で3~4割、1930年代で2~3割と推定される。「推定される」というのは、済州島が全羅南道に属していたため、その統計が断片的であるからだ。
 同じ大阪でも、済州島出身者と慶尚道出身者とでは、居住地域や職業が異なる。慶尚道出身者は人夫など土木建築労働者が多かったが、済州島出身者は、男は職工、女は紡績工が多かった。また東大阪の零細工場と済州島の村との結びつきも見られ、「メリヤスは月汀、印刷は杏源」という表現は、そのことを表している。(伊地知紀子「済州島と日本における済州人の生活」)

 1933年の大阪府による調査によると、渡来した朝鮮人の一世帯は4人家族で、年齢は31歳から35歳、配偶者の99%は同じ朝鮮人、済州島を含む全羅道と慶尚南北道出身者が大半で、前者が55%、後者が36%であり、渡日して3、4年が経過し、渡日時の所持金は旅費以外にほとんどなく、一日9時間から11時間働き、1円から1円50銭の収入で、これは日本人の収入の7~8割で、世帯主の6割が無学で、片言の日本語を話す者が54%、全く解さない者が23%、内地名を持つ者が6%で、15歳以下の児童は1万6500人で、そのうちの半分が日本で生まれ、学校に通っている者は、7~17歳の学齢児の半数にも満たなかった。(大阪府学務部社会課「在阪朝鮮人の生活状態」)

043 また1936年の「大阪府内鮮宥和事業調査会」の報告によると、

朝鮮人は、1戸平均8人余りが密集し、低級なる生活を営むもの大多数を占めるが故に、生活圏は内地人の生活圏と分離し、内鮮人間の精神的疎隔を増大しつつあり、朝鮮人部落、朝鮮人市場、朝鮮人料理屋街等が発生している。
(「在住朝鮮人問題と其の対策」)

 このころの朝鮮人は、東成区や東淀川区などの市周辺に集住し、朝鮮人部落をつくっていた。同じ調査によれば、当時大阪には50戸以上集住する朝鮮人部落が137地区あり、それは戦後の在日朝鮮人社会の基礎となった。

044 済州島人の大阪への出稼ぎ労働の経済的な意味は、済州島という村社会の人口が、大阪という近代資本主義の再生産のための賃金労働者=要素として吸収=包摂されていたと表現できる。


海女(ヘニョ)たちの反乱――済州島の抗日運動

045 金章煥(クムジャンファン)は1919年の三・一運動を経験してから、郷里の済州島に戻った。3月22日から24日にかけて、朝天(チョチョン)を中心に独立万歳を叫ぶデモがあり、23人の島民が検挙された。

 3・1後の独立運動は、『東亜日報』を拠点とする名士中心の民族運動と、アナーキストを含む社会主義運動とに分化した。
 済州島では朝鮮本土と比較して、地主・小作への階層分化が進展せず、労働運動や小作争議はほとんどなかったが、社会主義者の運動が浸透した。
 金明植(キムミョンシク1892--1943)は早稲田大学で学び、社会主義の指導者になった。
 金文準(キムムンジュン1893--1936)は大阪を中心とした労働運動のリーダーになった。1927年から在日本朝鮮労働総同盟や日本共産党系の全協(日本労働組合全国協議会)傘下の化学労組大阪支部などで活躍した。

046 1930年末から1932年初めにかけて、済州島の海女たちが反日反乱を起こした。海女たちは指定販売制のもとで、海女漁業組合による海産物の買いたたきに苦しめられていた。もともと海女漁業組合は海女たちの権益擁護を目的として済州島人によってつくられたものだが、1925年以降、日本からやって来た島司032が組合長になった。
 済州島の北東部の村々で1万7000人が抗議行動を行った。1932年1月、海女たちのデモ隊は、視察目的で旧左面を通った島司を包囲し、つるし上げた。島司は譲歩し、指定販売制撤廃要求を受け入れた。これは日帝権力に癒着した海女漁業組合に対する、海女を中心とした村共同体の団結であった。(姜在彦「済州島の抗日運動概説」)

 島の当局は、海女抗争の背景に社会主義者の存在を疑い、1932年3月、全島で100人余りの活動家を検挙した。姜昌輔(カンチャンボ)、呉大進(オデジン)、李益雨(イイグ)、呉文奎(オムンギュ)、文道培(ムンドベ)、宋性澈(ソンソンチョル)などの済州島の社会主義者22名が、3年から5年の実刑判決を受けた。逮捕理由は1931年5月に、再建朝鮮共産党済州島ヤチェイカ(細胞、露語)(第二次ヤチェイカ)を組織し、海女の反乱を背後で操ったというものだった。これは済州島では治安維持法適用の大事件であった。

047 1925年、済州島で「新人会」が組織され、1927年に、これが朝鮮共産党済州ヤチェイカとなった。1925年朝鮮共産党が創建され、1928年、朝鮮共産党員が全国的に検挙された。(第一次ヤチェイカ事件
 1931年5月再建朝鮮共産党済州島ヤチェイカ(第二次ヤチェイカ)が、姜昌輔らによって再建された。
 姜は第一次ヤチェイカ事件で逮捕され、1930年12月に出獄していた。姜は前述の海女事件に関連して再度逮捕された1932.3が、脱獄して、日本で全協の活動をした。1943年に姜は朝鮮窒素興南肥料工場で活動する目的で朝鮮に潜入したが、逮捕され、1945年1月に獄死した。拷問か。

日本の社会主義運動と済州島人

048 1922年、東京と大阪で朝鮮労働同盟会が設立された。
 1925年、朝鮮で朝鮮共産党が創設され、東京・大阪・兵庫など12の労働組合が「在日朝鮮労働総同盟」を創設した。
 1926年、朝鮮共産党日本部が結成された。またこのころ、新幹会高麗共産青年会などの支会や日本部がつくられた。
 1928年、朝鮮共産党日本部は、朝鮮共産党日本総局として再編された。

 山川均は「当面の問題」(『前衛』二巻二号、1922.9)の中で、「朝鮮労働者を日本の労働運動に吸収しなかったら、日本の労働者を叩くために、朝鮮労働者が資本家に利用されるだろう」と言っていた。こうして在日朝鮮人運動は、日本の共産主義運動に解消されていった。

 1930年1月、日本共産党の指示によって、在日朝鮮労働総同盟が日本労働組合全国協議会(全協)に解消された。 
 1931年12月、朝鮮共産党日本総局と高麗共産青年会日本支部は、連名で、解散声明を『赤旗』61号に発表した。
049 この声明の中で「在日朝鮮人の党組織の結成時から、近い将来、日本のプロレタリア運動へ解体=解消することを予定していた」と述べている。そして朝鮮人は一翼どころか日本の共産主義運動を支える屋台骨・戦力となった。
 次の内務省警保局の報告がそのことを示唆する。

在留朝鮮人の共産主義運動は、1929年(昭和4年)末、朝鮮人独自の極左団体が、内地人団体へ解消して以来、運動の各分野において、全く内地人と合流提携するに至り、爾来、極左団体内の朝鮮人分子は極めて多数に上りつつあり、本年後半期から一般の極左運動が著しく凋落衰退しているにもかかわらず、依然として執拗な闘争を継続敢行している。(1934年「社会運動の状況」)

 1932年から34年までの朝鮮人の、治安維持法による被検挙者数は、3044人で、全体の1割近い。済州島出身者の多い大阪ではそれが3割になっている。

 済州島の1920年代の新人会やヤチェイカによる抗日運動の主体は、インテリや中小ブルジョアジーだった。
050 海女事件後の大量検挙後の1930年代半ばに、済州島の運動組織は「赤色農民組合運動」となって蘇った。この運動は、主として咸鏡道、江原道、慶尚南道など地方の農民組合を部隊として、共産主義者の指導の下に闘われた非合法の農民運動であり、土地・食料・耕作権の略取や、高利搾取・親日機関などへの反対のスローガンを掲げた。この運動には1920年代のコミンテルンのテーゼや、日本の共産主義運動に見られた階級闘争の姿勢が反映された。そして済州では、運動の主体が、インテリ・中小資本から貧農や帰還労働者に転換した。それは日本帰りの活動家の主張を反映していた。(朴贊殖「済州島抗日運動と<四・三>の連関性」)

 1930年代末、日本の弾圧が厳しさを増すと、この赤色農民運動も影を潜めた。解放直後、この日本帰りの運動家は、人民委員会の活動で済州島の政局をリードした。

「決七号作戦」

 1941年、朝鮮半島で国家総動員法が適用され、1944年4月、徴兵制が、19歳から21歳の男子を対象に適用され、サハリンや北海道の炭鉱に、南洋諸島に駆り出された。家屋や土地も軍事作戦上必要に応じて徴発され、金属類は法事用の祭器まで召し上げられた。

 戦争末期には対米決戦の最後の砦として済州島の要塞化が進められ、飛行場建設や陣地構築のための土木作業に、10代半ばから60歳代の老人までが強制動員された。(済州民報四・三取材班『済州島四・三事件』第一巻)

052 グアムやフィリピンが陥落し、硫黄島への米軍の上陸1945.2.19を間近に控えた2月9日、日本軍は「決号作戦」と称して七つの方面に本土決戦に備えた作戦計画を決めた。
 済州島では、「決七号」とされ、「決二号作戦」の北海道とならぶ重要地点とされた。硫黄島が陥落し、沖縄で死闘が始まった4月、1945年1月に朝鮮半島の守備のために新設された第17方面軍の下に、第58軍が済州島の防備強化のために編成された。8月、関東軍の二個師団(第111師団、第121師団)を含む4個師団半、8万4000人が済州島に投入された。(塚崎昌之「済州島における日本軍の『本土決戦』準備――済州島と巨大軍事施設」)

 航空基地、地下壕、海上特攻基地などの構築が南西部を中心に全島で行われ、80余の地域に、700余の洞窟や地下壕が掘られた。
 日本軍が予測した米軍の兵力は2~5個師団で、上陸時期は9~10月とされた。日本軍は米軍が上陸すれば海岸線や東部中山間地帯は放棄し、南西部の中山間地帯で、住民を巻き添えにして持久戦をするつもりだった。


第Ⅱ章 四・三事件への道のり

第一節 信託統治の挫折

ソ連の参戦

053 1945年2月、近衛文麿は、敗戦に伴う共産革命=天皇制崩壊を憂慮し、戦争終結を天皇に上奏した。
 1945年2月、ローズベルト・スターリン・チャーチルは、クリミア半島のヤルタで会談し、ドイツ打倒後の3カ月以内*に、ソ連が対日戦に参加するとの密約を結んだ。

*日本の国立国会図書館版の “Yalta Agreement” 「ヤルタ協定」条文の、「二、三ヵ月後に」*が正しいのかもしれない。* in two or three months after Germany has surrendered and the war in Europe has terminated” 以下いくつかの資料を掲げる。
姜在彦『朝鮮近代史』316 では「二~三カ月以内」とし、ウイキペディア日本語版では「90日後」、同英語版では “three months after the defeat of Germany” 、岡部伸『消えたヤルタ密約緊急電』新潮選書2012 035では「2カ月または3カ月後を経て」、二つのネット上の資料 (britannica. com HISTORY.COM EDITORS)では “within two or three months after Germany’s surrender” としている。
 「90日後」では、90日経たなければ参戦できないという解釈が成り立ち、それ以前の参戦を禁止するかのように受け取られ、まずいのではないか。詳細は拙著「ヤルタ協定条文」「ヤルタ会談でのソ連の対日参戦時機について」を参照されたい。

054 ノモハン事件後の1941年4月、日ソ中立条約が締結され、その有効期限は5年であった。*
 日本は関東軍の精鋭を満洲から済州島に移した。*その理由は、日本がこの時点でソ連の参戦を予測できなかったからだ。*

*ソ連は日ソ中立条約の破棄を宣言1945.4.5し、8月8日に日本に対して宣戦布告をしているから、全くいきなり日本に攻めて来たのではない。(『朝鮮近代史』姜在彦316
*関東軍の精鋭は、すでに南方に向けられていて、満州に精鋭は存在していなかったのではないか。
 
*種村佐孝『大本営機密日誌』によると、「在ソ連日本大使館の婦女子がしきりに帰国を急いでいて、本日漸く酒田に出帆帰国した」1945.7.24とし、その「帰国の目的に関し、ソ連の対日参戦が近いこと、或いは空爆避難」と両論併記293し、また、7月27日に知ったポツダム共同宣言294にソ連の署名がないことの、大本営の中での解釈に関して、二つの予測を示し、一つはソ連の対日参戦はない、もう一つは参戦が近いとしており、また、7月30日に、「白木ロシア課長が、ソ連の対日参戦は8月10日頃であろうと極言していた。」295と述べ、8月4日には、種村自身が、後任の山田大佐に引き継ぐとき、ソ連の参戦を考慮した作戦を立てることの必要性を教示している。296
従って日本がソ連の対日参戦に対して、全く無防備だったとは思われない。

 『消えたヤルタ密約緊急電』岡部伸 新潮選書 2012 は、迫水の回想を引用し「米英との和平交渉には軍が反対するから、ソ連による仲介和平案しか期待できるものがなかったので、それが非現実的だとしても、それに縋り付いた。」としているから、ソ連の対日参戦を「予測できなかった」というより、奇妙な話だが、予測はしていても、それを否定したかったのではないか。453

 7月26日にポツダム宣言が発せられ、これにソ連が加わっておらず、ソ連に講和の仲介を期待した。*

*少なくとも種村佐孝にとっては、ソ連に講和の仲介を依頼するとしても、それは作戦の一つであり、それに全く依存していたのではなかったのではないか。

 8月8日深夜、ソ連は極東に進撃を開始した。
 8月9日深夜、御前会議でポツダム宣言の受け入れに動いた。
 8月10日深夜、アメリカの三省調整員会(SWNCC)で、東アジアに散在する日本軍が降伏すべきそれぞれの連合国が指定され、朝鮮半島では北緯38度線を境とした米ソによる分割占領が決定された。戦後の日本占領に関する国務省・陸軍省・海軍省の政策は、三省調整委員会で調整され、統合参謀本部の賛成を得たうえで、米政府の政策とされた。
 ソ連は、朝鮮半島の分断を規定事実として(「表向きは」ということか)乗り込んだのではなかったが、実際は、北部朝鮮を非敵対的な地域にしたいことが事実によって裏付けされる。8月24日~26日、ソ連は南北をつなぐ三つの鉄道*を遮断し、9月6日、電話線を遮断した。これはアメリカがソウルに来る前のことだった。(韓国戦争学会編『韓国現代史の再照明』)

*ソウルと元山(ウオンサン)間の京元線、ソウルと新義州(シニジェ)を結ぶ京義線、京畿道の開城市近くの土城(トソン、開風郡)と黄海道海州(ジェジュ)を結ぶ土海線。

054 1945年9月20日、スターリンは、ソ連極東軍総司令官に、北朝鮮の占領政策に関して暗号電文を送り、「反日的民主主義政党および広範囲のブロックを基礎とするブルジョア政権を樹立するよう」指示した。(『毎日新聞』1993.2.26

感想 次の項目の信託統治案がローズベルトから提起されていたが、それと同時進行的に、すでに南北分断のシナリオが双方からできていたと言える。そして朝鮮の民衆はそれをはねのけるほどの独自の力を持たなかった。この独自の力に欠けるという点は、現代の日本の外交についても言えることだ。

信託統治

056 1943年3月12日の、米・英・中によるカイロ宣言は、「朝鮮人民の奴隷状態に留意し、適当な手はずを経て(in due course) 朝鮮を自由かつ独立の国にする」と謳っていた。ローズベルトは、この「適当な手はず」の具体化として、朝鮮を一定の期間信託統治の下におくことをソ連側に示し、それは1945年12月の米英ソ三国外相会議に引き継がれた。
 ローズベルトは、米英の協調関係の中にソ連をパートナーとして引き入れ、そのパートナーシップの下で、信託統治案が合意された。

 しかし、ローズベルトは1945年4月に亡くなり、米ソの協調は薄れた。トルーマンは1945年7月16日に原爆実験に成功すると、ローズベルトの対ソ政策を見直し、米軍当局による朝鮮半島の独占を考慮したが、ソ連の対日参戦が迫ってくると、ソ連による朝鮮半島独占を牽制しようとした。(李ワンボム「朝鮮半島分断の性格――国際的性格が優勢な複合型分断」)38度線案は、この過程で確定した。

 モスクワでの三国外相会議1945.12は、信託統治の内容として、「朝鮮人自身による統一的な臨時政府の樹立と、米英ソ中の四大国による5年間の後見」というものであった。

 北方の朝鮮人であるプロテスタントの民族主義者である曺晩植(チョウマンシク)は、信託統治案に反対した。また、南方の朝鮮人であり、右翼民族主義者金九(キムグ)は、重慶の大韓民国臨時政府(臨政)を母体とする独立国家の即時樹立を掲げて、信託統治に反対し、これに、李承晩反ソ・反共の右翼が合流し、日帝時代の親日派もこれに便乗した。
058 (南方の)左派は、当初信託統治案に反対だったが、1945年12月28日朴憲永(パッコニョン)ら共産党指導部秘密裡に平壌を訪問し、それ以後は、信託統治案賛成に転じた。

 朴明林は『朝鮮戦争の勃発と起源』の中で、次のようにこのことをまとめている。

信託統治をめぐる亀裂で、1945年秋の、民族主義者共産主義者との競争的共存期は消滅した。また、この対決は、親日派の蘇生と反共主義者の拡散をもたらし、北では、民族主義者の脱落となった。プロテスタントの民族主義者の曺晩植の反対に直面したソ連軍政は、その時まで堅持してきた民族主義者との連立政策を放棄した

感想 朝鮮の人は「民族主義」にこだわらずに、一旦は信託統治を受け入れたらどうだったのか、そうすればうわべだけだったにしても、米ソの協調は保たれていたかもしれない。それとも米ソ協調ということはもはや受け入れられないほどイデオロギー的に分断されていたのだろうか。

分断に向かって

059 1946年2月、北朝鮮地域では金日成が、ソ連軍の後ろ盾を得て、中央権力機関としての北朝鮮臨時人民委員会をつくった。これは信託統治の具体化を協議する米ソ共同委員会の開催以前に行われた。北朝鮮臨時人民委員会は、民族主義者を排除した社会主義者の単独支配だった。
 1946年3月、米ソ共同委員会が始まったが、ソ連側は、統一的な臨時政府樹立に向けた話し合いをしながら、民主改革の名の下に、北朝鮮地域での既成事実を積み上げた。そしてそれは、李承晩ら右派による南朝鮮での単独政権づくりを触発した。
 北朝鮮での民主改革は、南朝鮮での左右の対立に影響を及ぼした。土地改革、重要産業の国有化、男女平等などの民主改革が、自前の土地と平等を求める人々の要求に見合う進歩であったが、その改革のやり方は、「問答無用の民族反逆者処断と地主追放」(金時鐘『なぜ書き続けてきたか なぜ沈黙してきたか』)をともなった。土地改革は、親日的な大地主ばかりか、勤勉と倹約によって中小の地主に成長していたプロテスタントたちをも打ちのめし、北から南への多数の人口流出(越南民)をもたらした。一般には1946年~47年にかけて100万人が越南したとされるが、韓国国防部は、1945年9月から1948年1月の間の越南者数を、80万人としている。(国防部戦史編纂委員会編『韓国戦争史』)そして越南者は、南で、徹底した反共主義者として、警察や右翼として、左翼攻撃の先頭に立った。
060 済州島に投入され島民に暴力と迫害を恣にした西青(ソチョン、西北青年会)などの右翼集団も、こうした越南民である。
 北朝鮮で民主改革が始まったころ、南朝鮮の米軍政も、本国政府が示した米ソ協調による問題解決=信託統治路線の枠組みの中にありつつも、事実上はこれとは別の政策を考案した

 1945年10月13日、米三省調整委員会は、初期の基本指令を承認し、現地の米軍政に、ソ連と交渉し、米ソによる過渡的な分割占領から、四大国による信託統治に移行するように指示した。
 日本の敗戦直後の南朝鮮では、市民社会の爆発が起こり、草の根的な社会革命の気運と、新国家建設への動きが盛んだった。これに直面した米軍政は、ソ連との協調よりも、南での左派封じ込めに傾き、信託統治の賛否をめぐる対立論争でも、米政府の方針に反して、事実上右派と組んで、反信託統治世論を煽った

感想 北朝鮮臨時人民委員会を、信託統治の具体化を協議する米ソ共同委員会の開催以前につくったように、共産主義の側が先んじるという形で、自己主張するのは理解できる。理論的にも自らが正当だと自任しているからだ。そしてお金持ちがそれに対して反感を持つというのも理解できる。自らの財産を奪われるのだから。となると反ファシズムで協力しはしたが、ファシズムが収まれば、両者の対立は避けられない流れか。「競争的共存」058は不可能か。

人民委員会と米軍政

061 1945年9月8日、米軍が仁川に到達し、9月9日、ソウルに到達した。
 8月15日からこの9月9日までの間に、ソウルでは、呂運亭(ヨウニョン)と安在鴻(アンジェホン)が中心となって朝鮮建国準備委員会(建準)を結成し、8月16日、建準地方組織の発足を全国に訴えたところ、各地が呼応して建準や人民委員会ができた。これは自治組織である。8月31日までに、全国で145の建準支部ができ、9月6日、中央で、朝鮮人民共和国の樹立が宣言され、建準は人民委員会と改称された

 人民委員会は、住民の代表による討議と政策形成と政策の実行を行う自治機関である。実際にも郡レベルを中心とする地方人民委員会の大半が、行政機能を掌握した。委員会には、組織・宣伝・治安・食糧・財政、場合によっては労使関係や小作料、帰還同胞問題を扱う部署を備え、その綱領には、日本人財産の没収土地の分配、工場の管理・所有、男女平等など、日本支配の清算と民主化に関連する項目が掲げられた。
062 委員会を指導したのは、地方の名望家や日本などで学んで故郷に帰還した学生、釈放された政治犯などであった。(名望家とはどんな人なのか。)そこには親日派以外のあらゆる階層が網羅され、学生・青年・女性・労働者・文化人・宗教者などさまざまな分野や階層の大衆組織と結びついた。ここで親日派とは、日本支配と結びついた地方の役人・警察・地主を言う。

 米政府は、占領統治の構築に後れをとった。当初は地方の治安維持や民政問題の多くを人民委員会に依存し、これと協調した。しかし、1945年末から1946年初めころになり、信託統治問題で論争が始まると、米軍政は、朝鮮総督府の残した人材や機構に頼るようになり、左派主導の人民委員会を忌み嫌った。日帝下の行政警察機構と人員が、軍政の庇護の下で息を吹き返し、右派や保守勢力が勢いづいた

 1945年10月10日、米軍は、呂運亨らによって立ち上げられた朝鮮人民共和国を否認した。中央の左派勢力は、呂運亭朝鮮人民党朴憲永(パッコニョン)の朝鮮共産党などの、党派活動を始めるようになった。また、大部分の人民委員会も1945年末から1946年の初めにかけて消滅し、民主主義民族戦線という統一戦線の地方組織になった。

063 米政府は、ソ連とのパートナーシップを維持しようとしたが、軍政は、左派を封じ込めようとした。

 1946年1月16日から2月5日まで、米ソ合同委員会の予備会議が開かれ、1946年3月20日、第一次本会議が始まったが、臨時政府樹立にむけて占領軍と協議する「朝鮮の民主的政党および社会団体」の定義をめぐって紛糾し、1946年5月26日の第24回会議以降は無期延期となった。

左右合作と10月人民抗争

 第一次米ソ合同委員会の流会1946.5.26後、米国務省は、信託統治に抵抗する金九李承晩を退け、呂運亭金奎植(キムギュシク)など左右の穏健派を取り入れ、諮問会議をつくり、信託統治下の臨時政府を構築しようとした。(左右合作運動)呂運亭は穏健左派だった。
 1946年7月25日、左右合作を具体化するための第一次正式会談が開かれたが、当初協力的だった左派が反対に転じた。この前の7月22日に、朴憲永は、5週間の平壌訪問から帰ると新政策を掲げ、米軍政と極右勢力への攻勢を強め、対米協調・合法路線をやめて対決路線に転じ、運動が急進化した。それに対して米軍政は、朴憲永李康國(イガング)などの共産党指導者に逮捕状を出し、左翼系の新聞を停刊にした
064 朴憲永は新戦術の一環として、嶺南(慶尚南北道)の大邱を中心として、9月から10月までゼネストを行った。南朝鮮社会は解放後、米軍政が失敗し、インフレと食糧不足で悩んでいた。共産党の影響下にあった労働組合全国評議会(全評、1945年11月結成)の労働者をはじめ、学生や一般大衆25万人が、デモや暴動に参加した。
 このゼネストは、10月から11月にかけて慶尚南北道から忠清南道、京畿道、全羅南道など全国各地の秋収暴動、つまり、秋の収穫時の農民反乱を触発した。
 これは「10月人民抗争(ハンジェン)」と呼ばれ、1919年の3・1運動以後最大規模の抗争になった。(徐仲錫『韓国現代史60年』)この抗争の鎮圧に、警察以外に極右青年団体が大挙投入され、共産党や全評は大きな打撃を受け、地方に残存していた人民委員会は徹底的に破壊された。(実際はどんなことだったのか。)

 この10月抗争の最中に、米軍政は、左右合作を支持する穏健右派や中道派による準立法機関としての南朝鮮過渡立法議院構想を打ち出した。この過渡立法議院の半分を占める45人の官選議員は、中道右派が多数を占めたが、10月末に選挙で当選した45人の民選議員のほとんどは、韓国民主党などの右派だった。10月抗争を闘う左派の大半は、この過渡立法議院をボイコットした。ただし、済州島の人民委員会から2人が立候補し、当選した。

065 左右合作運動には、左派だけでなく、金九や李承晩など右翼も反発した。1947年7月10日、米ソ合同委員会第二次会議が決裂し、16日、呂運亭が暗殺されると、合作運動は終焉した。

第二節 済州島の人民委員会

解放直後の済州島

 半島部で展開された1946年の10月人民抗争は、済州島には及ばなかった。済州島では生活が困窮していて、左右の政治闘争どころではなかった。日本など国外から帰還する島民が増え、食料が不足し、また1946年夏にコレラが蔓延し、南朝鮮で7000人、うち済州島で400人が犠牲となった。

 徴兵や徴用で引っ張られていた若者3万人が済州島に帰って来た。済州島にはまだ日本兵が6万人残っていた。残留日本兵を除いて、解放当時済州島には22万人がいたが、1946年には28万人になった。
066 済州島は植民地期に工業製品の4割を日本に依存していたが、それが来なくなった。米軍政は、日本からの帰還者が所持できる搬入物品の範囲を250ポンドに押さえ、所持金は上限を1000円*に抑えたので、日本からの密輸が増えた。また米軍政と癒着して荒稼ぎする「暴利輩(モリベ)」による「暴利輩天国」となった。(『東亜日報』1947.2.5

*敗戦直後の日本は超インフレだった。1946年2月「総合インフレ対策」の一環として「新円切替」が行われたが、その時大蔵省は、都市の5人家族の1カ月の生活費を500円とした。

 食料生産も戦前の60~70%に留まり、ヒジキと麦の小糠(ぬか)などを混ぜて作るトッパ토밥が流行った。(姜龍三・李京洙『大河実録・済州百年』)

 済州島では解放から軍政が敷かれるまで3カ月あり、その間人民委員会がヘゲモニーを握った。9月28日にグリーン(Roy A. Green)大佐率いる第184歩兵連隊の38人が済州島にやって来たが、彼らは、残留日本軍の降伏受理と武装解除しかやらなかった。10月22日に、第749野戦砲兵大隊が来島したが、その任務は、日本軍の送還業務だった。
067 11月10日、第20連隊(全羅南道を統括)に所属する第59中隊が済州島に進駐し、済州島の軍政業務が初めて開始された。スタウト(Thurman A. Stout)少佐がこの中隊を率いていたが、総勢47人(将校7人、士兵40人)だった。
 その間5万人の日本軍が済州島にとどまっていた。日本軍は、解放直後5万8千人いたが、そのうちの5万人は10月まで済州島に留まっていた。済州島守備を任務とする日本の第58軍は、満洲からの関東軍のような精鋭と、内地からの臨時召集兵で構成され、訓練や装備が貧弱な部隊もあった。彼らは駐屯地を出ることもなく、食料調達のために住民と接触したが、案外良好な関係だったという。(高村竜平「太平洋戦争末期日本人の済州島駐屯経験」)
 植民地の末期に物資調達や勤労動員で住民を直接苦しめたのはむしろ、邑・面・里など末端の行政機関の朝鮮人官吏だった。

済州島建準の組織化

068 1945年9月10日、済州島で建準061が結成されたが、このころ半島部では、朝鮮人民共和国が宣言されて、地方の建準が人民委員会に名称変更する時期であった。

 植民地時代の末期に木浦(全羅南道の南西部の都市)に身を潜めていた呉大進(オデジン)、金正魯(キムジョンノ)などが、木浦での建準結成にならって済州島で建準を結成したという説がある。(李運芳「聞き書き 済州島人民委員会の結成過程」)
 当時済州島は前羅南道の一つの郡であった。
 一方で、済州島では建準結成以前に、面や郡で、建準の自発的な組織化が進められていたという説もある。

 済州四・三研究所は、済州島の大静面(現在は大静邑)の歴史を研究するために調査・取材をしている。大静面は伝統的に済州島の抵抗運動の震源地だった。また植民地末期には、西帰面(現在は西帰浦市)と並ぶ行政の中心地だった。ちなみに西帰面では8月20日に建準が組織されたようだ。

 大静面では解放直後、青年を中心に、治安隊が自主的に組織され、対日協力者を処罰したそうだ。9月初旬、日本や陸地から帰還した青年たちが中心となって大静青年会が組織され、夜学で住民に啓蒙活動を行ったという。
 9月7日、大静面建準が結成されたが、この前の9月3日から5日にかけて、里単位で建準が組織され、その代議員が面建準を組織していた。
 大静面建準の組織化を担った人たちは、李辛祜(イシンホ)、李運芳(イウンバン)、文達珍(ムンダルジン)などの抗日運動家だったが、委員長として推されたのは、日帝末期時代に摹瑟浦レーダー基地監視所長の禹寧夏(ウニョンハ)だった。

 9月10日、面・邑単位の建準代表100名が済州農業学校に集まり、済州島の建準を結成した。北朝鮮の平安北道でもこういう下からの組織化が見られたが、南では稀だった。

 済州島建準の組織は、実務幹部である常任執行委員会と、中央委員にあたる執行委員会からなった。
070 その構成メンバーは以下の通りである。

委員長  呉大進(大静面) 副委員長 崔南植(済州邑)
総務部長 金正魯(済州邑) 治安部長 金漢貞(中文面)
産業部長 金容海(涯月面)
執行委員 金時澤、金弼遠(以上、朝天面)、金任吉、李元玉(以上、大静面)、趙夢九(表善面)、玄好景(城山面)、文道培(旧左面)など10余名(済州四・三事件真相調査報告書作成企画団『済州四・三事件真相調査報告書』以下、『真相報告書』)

 委員長の呉大進や金正魯、金漢貞、文道培などは、再建朝鮮共産党済州ヤチェイカの社会主義者だったが、地域の長老や名士も重責を占め、年齢は40~50歳代で、イデオロギー的な色合いが薄かった。

 9月、(済州島の)建準青年同盟が組織され、「自主独立を妨害する外勢と反民主主義的なあらゆる勢力に対する闘争」を掲げた。初代委員長は文在珍(ムンジェジン、済州邑)だった。建準青年同盟は済州島の11の邑・面のすべてに支部を置き、城山面の玄好景のように、建準の執行委員が、建準青年同盟の面委員長を兼任する場合もあった。

人民委員会への移行

071 1945年9月12日、ソウル市人民委員会が最初に結成され、11月10日、京畿道人民委員会が最後に結成され、南朝鮮7道12市131郡全部の人民委員会の組織化が完結した
 建準の人民委員会への再編は、朝鮮共産党が再建される時期と重なり、全羅南道では9月15日、朝鮮共産党全羅南道党の結成準備会議が開かれた。人民委員会の組織化は共産党のイニシアティブにより行われ、この過程で地域の名望家や穏健・保守勢力が排除された。全羅南道でも人民委員会への再編過程で、穏健保守勢力が脱落し、左派がイニシアティブを握った。(安鐘澈「済州人民委員会と全南(=全羅南道)人民委員会の組織関係」) 
 朝鮮共産党が、建準の人民委員会への再編を主導した。例えば、李益雨は、済州ヤチェイカのメンバーで、済州海女闘争を背後で指導した人物だが、朝鮮共産党のメンバーであり、全羅南道の人民委員会の組織化を担い、結成後は書記局長になった。

 一方、済州島では半島部と異なり、建準の執行部が人民委員会でもほぼ留任し、おおむね脱イデオロギー的であり続けた。各面の人民委員会の委員長になった人で、反日運動を経験した旧左面の文道培や、朝天面の金時範などのような人は珍しく、ほとんどが建準期と同様に、地域の名士だった。
072 南朝鮮労働党南労党)済州島委員会の政治委員で、4・3事件で重要な役割を演じた趙夢九の兄である趙範九は、表善面の委員長に推されたが、植民地時代には面事務所に勤めたことのある地方の名士だった。

 大静面の人民委員会でも同様だった。大静面人民委員会の宣伝部長だった李運芳(イウンバン)は「より多様な階層を引き入れることを考慮し、政策面で穏健で地方の名士であった禹寧夏を(建準時代)そのまま人民委員長に推戴した」と言っている。
 大静面の人民委員会は、村の行政、治安、敵産管理(在朝鮮日本私有財産の管理ということらしい)、教育、文化、保健などの公益事業に従事した。米軍政が植民地期の統治機構を復活させたときも、人民委員会が実質的に行政を管掌した。(人民委員長の)禹寧夏は面長を兼任し、ほとんどの里で、人民委員長が里長に就任した。面事務所は、行政業務を実施する時、人民委員会の方針に即したそうだ。米軍政も人民委員会に協調せざるを得なかった。

開かれた人民委員会

073 済州島の人民委員会は、学習会、講座、体育会、演芸会など文化・啓蒙活動を行い、小学校や中学校を管轄下に置き、島で唯一の新聞『済州新報』を発行したとBカミングスは『朝鮮半島の起源2』の中で言うが、人民委員会が『済州新報』を発行していたことを裏づける記録はなく、言い過ぎだ。

 解放直後、人民委員会や地域住民は、小学校(国民学校)や中等学校を設立した。解放から1947年までに小学校が44校新設され、95校になり、学生数は、1946年の2万人から3万8千人になった。中学校は10校新設され、11校になり、学生数は300人余から3600人に急増した。
 『済州新報』(創刊時は『済州民報』)は、1945年10月1日、「済州地方の言論史上最初の地方新聞」として発刊され、発刊当初の発行部数は300部程度で、1946年1月26日、軍政庁に登録され、1947年から法人化され、道内各地に支局を置き、ソウルに特派員を送った。

074 1948年当時、同紙の編集局長の金昊辰(キンホジン)は、4・3事件が勃発後の10月、「武装隊に協力し、そのチラシを印刷した」として処刑されたが、『済州新報』は、人民委員会や左派の機関紙ではなかった
 カミングスはミード*に基づいて、同紙が人民委員会の発行だとしているが、人民委員会や左派系組織の宣伝関係の人員と同紙の編集人は重ならない。*E. Grant Meade, American Military Government in Korea
 済州島の人民委員会は、治安維持を担当する保安隊、青年団体、農民組合、工場管理組合、消費組合など島の多くの結社と関係しており、『済州新報』もその一つで、人民委員会の声明や決定を伝えた。

わが道を行く人民委員会

 半島部で信託統治をめぐる左右の対立が深まり、第一次米ソ共同委員会が決裂1946.5.8し、米軍政の左翼に対する攻勢が本格化した時も、済州島の人民委員会と米軍政とは協調関係にあった。
 しかし、済州島が1946年8月に、全羅南道に属する郡から独立し、道に格上げされた時、この協調関係が崩れたという説がある。(ジョン・メリル『済州島四・三蜂起』)
 確かに、道に昇格したとき、右翼団体が新設・強化され、警察機構が改編され、警備隊(第九連隊)が創設され、関係に亀裂が生じつつあった。
 また、米軍政が穀物徴収政策*を強行したとき、済州島人民委員会は、穀物収集拒否運動を展開し、民衆もこれに呼応した。1946年、南朝鮮全体では、割当量の70%が買い入れられたが、済州島では1%だった。
(最大が忠清北道の86%、済州以外の最低が、江原道の17%だった。)

*米軍政は当初日帝時代の穀物管理制度を廃し、米国式の自由販売制を導入したが、買い占めや投機により米価が高騰し、1946年に、米穀供給制度を復活させた。

076 しかし、済州島や江原道は、もともと穀物生産量が少なく、あまり全体に対する影響力はなく、それよりも全羅北道の35%の方が問題で、この地方では「共産主義者が、穀物収集計画を組織的に阻止するための宣伝と反軍政活動に主力を傾けている」としている。(米24軍団『G-2報告書』1947.1.22
 また、済州島の人民委員会は10月抗争1946に参加しなかったし、全国の左翼勢力がボイコットした「過渡立法議院」選挙に参加し、左翼としては全国で唯一当選者を出した。文道培金時鐸の二人である。ただし立法議院には参加しなかった。
077 1946年の10月抗争は、本土の共産党と残存した地方の人民委員会を壊滅したが、その後は済州島の左翼に目が向けられ、済州島は「アカの島」とみなされ、反共意識と済州島への差別意識とが相まって、右翼勢力が米軍政と一体となって攻撃するようになった。

第三節 三・一節事件

済州島の左派勢力

 1947年3月1日、済州邑(現在の済州市)で開かれた、3・1節28周年記念集会後のデモ隊に軍政警察が発砲し、十数名の死傷者が出た。四・三特別法は、この三・一節事件を、四・三事件の始点としている。(後述)

 済州島の警察は、植民地期から100名余で推移してきたが、道昇格後330名に増強され、三・一節事件の一週間前には本土から100名が増派されていて、デモ隊に発砲したのは、この増派された警察隊だった。彼らは済州警察への不信感と、「済州島はアカ」という先入観を持っていて、10月抗争以来、デモ隊に対して過敏であった。

078 一方済州島の共産党組織も、この3・1節事件のころから、中央と連動しつつあった。

 解放後、朝鮮共産党が再建され、左派勢力を結束した。つまり、1945年9月11日朴憲永などの火曜派(再建派)*が李英などのソウル青年会系(長安派)を吸収した。この共産党は、北朝鮮共産党も含んだ。つまり、これから1カ月遅れて北朝鮮の共産党組織が成立したが、当初はこのソウルの共産党の分局(朝鮮共産党北朝鮮分局)を名乗り、ソウルの共産党に形式的ながら服属した。

*火曜派もソウル青年会系も、植民地期に主に国内で活動した共産主義勢力で、火曜派は、日本などの海外留学経験者を中心に結成された火曜会(1924年創立)に起源をもち、1925年の朝鮮共産党の創建を主導した。一方、ソウル青年会系は、留学経験のない国内出身者を中心に結成されたソウル青年会(1921年創立)に発し、火曜派と対立していた。

 再建された共産党は、全評(全国労働者評議会)や青総(全国青年団体総連合)などの外郭団体を指導し、民戦(民主主義民族戦線062)をつくって、それも指導した。しかし、内部に複数の潮流を含み、北朝鮮との主導権争いもあった。

 1946年の10月闘争後、共産党は一部の進歩政党と合党し、南労党(南朝鮮労働党)を名乗った
079 この改編は1946年8月末に北朝鮮の共産党組織が、北朝鮮労働党に再編されたことを受けたものだった。そしてこのとき、全国的な社会主義運動の主導権は北朝鮮に移った北朝鮮労働党は「民主基地路線」を採用した

 全羅南道の共産党は、済州島党(済州島の共産党組織)の上位組織であるが、1945年9月15日、党結成準備会議を開いたが、派閥間の確執がひどく、1945年12月5日にようやく党結成大会が開けた。

 済州島党の結成時期と活動内容は不明な点が多い。李運芳大静面南労党の責任者を務めたが、彼によると、「済州島党は1945年10月初旬に、朝天面の金正魯のイニシアティブで、210人で結成され、金正魯が済州島の共産党を指導したが、共産党としての特別な看板を掲げた記憶はない」という。(『済州島四・三事件』第一巻)

 済州島の左派勢力は共産党を含めて1945年10月以降も、人民委員会の一員として活動したようだ。

南労党済州島委員会

080 1946年11月23日、ソウルで南労党がつくられ12月、済州島党が、南朝鮮労働党済州島委員会に衣替えした。済州島南労党の主なメンバーは、安世勲*(アンセフン)、金瑬煥、金誾煥(キムウナン)、呉大進、金正魯、金漢貞、金澤銖、文在珍、趙夢九、玄好景、文道培、夫秉勲、宗泰三などである。これは、人民委員会のメンバーと重なる部分もあるが、委員長は、人民委員会では、大静呉大進だったが、南労党では、朝天出身で古参の社会主義者の安世勲となった。

*安世勲は、1893年生まれで、安堯儉(アンヨゴン)という名で知られ、1920年代、満州で民族的啓蒙運動に従事し、1942年に治安維持法違反で懲役刑を受けた。

 この際、路線論争や友党との合党はなかったが、主導権は朝天地域に移動した。

 ソウルの南労党は「新戦術」064以後の非合法路線を清算し、合法的な大衆政党として出発し、党員倍増運動を展開した。済州島党もそれに倣い、党員倍増運動に取り組み、1947年の3・1節事件の頃には、党員数が3000人に拡大したと言われる。
082 また済州島では分野別・階層別の大衆組織も、これまでは組織されていなかったが、1947年初めに組織されるようになった。これは陸地部ではすでに組織されていたものだった。
 1947年1月12日、民青済州島委員会が結成され、済州島の各面がこれに続いた。民青とは、朝鮮民主青年同盟の略称であり、米軍政と結びついた右翼青年団体(西北青年会060か)に対抗して、中央では1946年6月に結成されていた。済州島では建準青年同盟が、民青済州島委員会の結成まで続いていた。
 1947年1月25日、済州島婦女同盟が結成されたが、これは、1945年12月に朝鮮共産党の外郭団体として結成されていた全国婦女総同盟の地方組織としての性格をもっていた。
 1947年2月23日、済州島民戦が結成されたが、ソウルでの民戦結成から1年遅れていた。済州邑の朝一クラブで結成大会が開かれ、500人余が参加した。議長団に、安世勲、僧侶の李一鮮、済州中学校校長の玄景昊(ヒョンギョンホ)などが選出された。
 以上民戦などの組織・団体は、人民委員会と異なり、済州島党によって上から組織されたが、朝天の民青結成大会には、面の支署主任が祝辞を述べ、民戦の結成大会には、道昇格後初代知事になった朴景勲(パクキョンフン)が挨拶を述べた。
083 ソウルの南労党中央は、無期休会となっている米ソ合同委員会を再開させ、信託統治へのプロセスを軌道に乗せることを課題としていた。1947年、南労党は、3・1節記念行事を、米ソ共同委員会の開催要求と結びつけた。

三・一節発砲事件とゼネスト

 南労党済州島委員会は、3・1節に向けて総動員令を発し、参加団体、地方支部、職場の細胞に指示を出した。1947年2月27日、3・1闘争記念準備委員会が結成され、委員長に安世勲がついた。軍政当局は安世勲を呼びつけ、デモを禁止し済州邑の外の済州飛行場(現在の済州国際空港)で行事を行うように言い渡した
 3月1日午前11時、第28周年3・1記念済州島大会は、済州邑の中の済州北国民学校で開かれた。(言いつけに従わなかったのだ)3万人の島民が参加し、10の面で別途に開かれた記念行事にも、それぞれ数千人が集まった。
 午後2時、記念行事が終わり、街頭デモが始まった。デモ行進が済州邑中央の観徳亭前広場を通り過ぎるとき、騎馬警官が乗った馬に6歳くらいの幼児が蹴られた。(挑発かもしれない)騎馬警官がそれを無視して立ち去ろうとすると、デモを見学していた群衆が、それを非難しながら騎馬警官を追い立てた。騎馬警官は観徳亭脇の警察署に向かって逃げた。署内の警官が一斉射撃をした。群衆が警察署を襲撃すると誤解したというのだ。(状況を見ていれば分かったのではないか。言い訳ではないか。)
 発砲で15歳の少年を含む民間人6人が死亡し、6人が重傷を負った。さらに観徳亭近くの道立病院にいた警官が、銃声と血まみれで運び込まれた負傷者を見て、小銃を乱射し、通行人2人が重傷を負った。(動顛したというのだが、わけが分からない。)
085 警察当局は道立病院前の発砲については「無分別な行為」と認めたが、観徳亭前の発砲については「治安維持のための正当防衛」だとした。さらに、翌日3月2日、3・1節記念行事の実行委員会の幹部や学生を逮捕し、この日だけで25人を連行した
 南労党は反警察行動を繰り広げ、3月10日のゼネストを決定した。金融、通信、教育、企業、食糧機関など160の団体がゼネストに加わり、一部の警察官も含めて軍政庁の官吏の75%が参加し、後に「近世の済州島の民乱と抗日運動の伝統を引き継いだ民衆運動史の絶頂」(朴贊殖「済州島抗日運動と<四・三>の連関性」)と評された。

米軍政の対応

 3月8日、米軍政は、駐留米軍司令部と中央軍政庁とで構成される、発砲事件に関する共同調査団を済州島に派遣した。済州警察当局は、米軍調査団の派遣に動揺したが、ゼネストには強硬に対応した。
 3月13日、米軍調査団は島を離れたが、調査結果は発表されずじまいだった。

086 このころの米軍の情報報告書がある。これから米軍共同調査団の調査結果と、済州島に対する当時の米軍政の態度をうかがうことができる。
 3月14日の情報報告書によれば、「ストライキの根本原因は、3・1暴動当時の警察の行動に対する憎悪心であるようだ。南労党はこの憎悪心を住民の扇動に利用している」(米第6師団『G-2報告書 Periodic Report1947.3.14
 3月20日の情報報告書によれば、「済州島は、その人口の70%が左翼団体の同調者や関係者であり、左翼の拠点として有名だ」(米第6師団 『G-2報告書Periodic Report1947.3.14

 3月14日、警察総帥趙炳玉(チョウビョンオク)警務部長*が来島し、ストライキ中の済州道庁を訪れた。その場に居合わせた道職員によれば、趙はストライキの中止を求めながら、「済州島の人々は思想的に不穏である。建国の邪魔になるなら一気に片付けてしまうこともいざとなればできる」と語ったとのことだ。

*趙炳玉は1914年忠清南道天安に生まれ、植民地期に抗日運動に参加し、解放後は、米軍政庁警務部長として左翼鎮圧を陣頭指揮した。建国後は、国連韓国代表、内務部長官を歴任したが、李承晩大統領と衝突し、野党の指導者になった。1960年、民主党大統領候補として出馬したが、病気になり、米国で加療中に死亡した。

 趙炳玉が来島した翌日、3月15日から18日までに、応援の警察官300人余がストライキ鎮圧のために増派され、さらに右翼の西北青年会のメンバーも大挙来島した。趙炳玉はストライキ主謀者の検挙を指示し、18日までに200名が検挙された。19日、趙がソウルに戻った後も検挙が続き、4月10日までに検挙者数は500名に達した

087 米軍政は、ストライキが下火になると、済州島の軍政首脳部を入れ替え、済州道軍政長官にラッセル・バロスRussel D. Barros)中佐を任用し、3・1節の集会やゼネストに同調した朴景勲知事を解任し、後任に柳海辰(ユヘジン)を任用した
 柳海辰は、当時米軍政庁の民政長官の安在鴻(アンジェホン)のバックを受けていた。安は、朝鮮解放の日に呂運亭と共に建国準備委員会を立ち上げていた中道右派で、呂とともに左右合作運動に取り組んだこともあった。
 柳は赴任当初、「極右・極左を排し中道路線でいく」と言明したが、内実は極右反動そのものだった。米軍政も彼を an extreme rightist と見なしていた。柳は西北青年会のメンバー7人を護衛隊として来島し、常にサングラスをかけ、島民に強面で接した。
088 米軍政の済州道特別監査1947.11.12--1948.2.28結果報告書によれば、

 柳は独裁的手法で政治理念を統制しようとしている。これによって左派は地下に追いやられ、その活動はますます危険に変貌し、その数と同調者は増加している。(柳は)済州道の警察幹部をすべて本土出身者に入れ替え警察はテロ行為を恣にしている。済州島の留置場は、全国の行刑施設の中で最悪だ。10×12フィートの監房に35人が収容され、この小さな留置場に365人の囚人が収監されている。知事は収監者の大部分が左翼だとしているが、それは、左翼を右翼に転向させようとする彼の計画の一端を示すよい見本だ。 (“Report of Special Investigation-Governor Ryu, Hai Chin of Cheju-do Island”)

 この調査を担当した米軍政の特別監察官は Lawrence A. Nelson であるが、彼は、この調査結果に基づいて、柳知事の更迭や済州道警察行政の調査などの建議を軍政長官に行った。しかし、ディーン軍政長官は、過密留置場の調査など道行政の一部是正命令は出したが、柳海辰は留任させた

 「全島は鬱憤と呪いで満ち溢れ、村ごとに職場ごとに、秘密集会が開かれ、ビラが撒かれた。」(玄基榮『地上に匙ひとつ』)

西北青年会

089 柳海辰知事の下で、西北青年会(西青)は、左翼や島民へのテロに明け暮れた。西北青年会は、漢字で「西北」と書かれた腕章を巻いていた。
 西北青年会は、1947年の前半は、太極旗や李承晩の写真などの押し売りを収入源としていたが、1947年後半になると、警察や行政機関、教育分野に登用されるようになった。
 西北青年会は、北朝鮮での社会改革を嫌って南朝鮮に渡った越南青年で組織された反共右翼団体である。朝鮮王朝以来、朝鮮北部が「西北」と呼ばれていたことが、その名称の由来だ。彼らは「西北(ソブック)」とか「西青(ソチョン)」と略称された。
 1946年11月30日、西北青年会は、ソウルの鐘路(チョンノ)のYMCA会館で結成式をあげ、700人が参加した。結成当時の代表は鮮干基聖(ソヌギソン)であった。
 1947年9月、大同青年団が右翼青年の総結集を掲げて結成されたとき、鮮于基聖らがこれに合流したが、残った者が西北青年会を引き継いだ。残留派の団長は、文鳳済(ムンボンジェ)であった。
 西北青年会の結成当時の団員は6000人、最盛期は7万人超と言われる。西北青年会は李承晩や韓国民主党などの右翼勢力の後押しを受け反共テロ活動や政敵の暗殺や対北朝鮮工作などに利用された。(怖い)
090 軍政警務部長官の趙炳玉は、西北青年会を支援し、彼らを済州島に送り込んだと言われる。西北青年会には、「警察官を制約する(法的な)縛りもなく、アカ狩りを名分に、無差別テロを行い、さらに、3・1節事件以後は、治安の乱れに乗じて、ゆすり、脅迫、所場代などギャング顔負けの非道の限りを尽くした。」(ジョン・メリル『済州島四・三蜂起』)
 1947年11月2日、西北青年会済州道本部の結成大会が、済州邑の済州劇場で開かれた。委員長は張東春だった。
 米軍政は、ゼネストが、島民に発砲した警官への憤りの表現であることを知りながら、ゼネストを力づくで封じ込めようとし、島に引き入れられた陸地警察や(西北青年会など)極右集団の横暴とテロを黙認した。こういう米軍政の対応は、4・3事件以降、より大規模に行われたテロと報復テロの悪循環を引き起こした。

 大同青年団は西北青年会ほどひどくはなかった。大同青年団は「大青(テチョン)」と呼ばれた。
091 1947年9月、大同青年団は右翼勢力の大同団結を目指して結成された。
 1947年当時、済州島には、大韓独立促成青年連盟などいくつかの右翼団体の支部や支会があったが、中央の動きに合わせて、1947年11月4大同青年団への統合声明が発表された。1947年12月21日、(済州島の)大同青年団の結成大会が開かれた。結成当時1000人の団員*を擁し、警察の補助要員などとして左派勢力に対抗した。大同青年団の団員は(済州島の)地元出身者だったので、西北青年会ほどひどくはなかった。

*一方、西北青年会は、4・3事件以前に(済州島に)760人いたという。(金奉鉉・金民柱『済州島人民の四・三武装闘争史』)


引き裂かれる済州島社会

 1947年3月12日、トルーマンドクトリンが発表され、米ソの対立が深まった。また中共軍が反攻に転じ、中国情勢はアメリカにとって危機的だった。朝鮮では、1947年5月21日、第二次米ソ合同委員会が再開されたが、7月10日に決裂しアメリカは信託統治の合意を反故にして、朝鮮問題の戦後処理を国連に委ねた
092 国連は全朝鮮での総選挙の実施を決めたが、北側がこれを拒んだ北側は、金九など民族主義者を平壌での南北連絡会議252に召請した1948.4が、事態は動かず、南北分断は避けられず、1948年5月10日、南だけの単独選挙が行われた
 1947年8月以降、済州道軍政庁による左翼に対する弾圧と、警察と極右集団の活動が激しくなり、暴力とテロが渦巻き、3・1節事件から4・3事件勃発までの間の逮捕者数は2500人に及んだ。左翼やその同調者と見なされた者は、検挙やテロにさらされ、さらには、警察・役所・学校などの職場から追われた。解放の夢を抱いて日本から帰って来た若者たちの中には、日本に逆戻りした者が多い。*

*少年パルチザンとして4・3蜂起に加わった金民柱は、「済州青年3000人が解放後日本に渡ってきたが、それは主に1947年のことだ」と述べている。

 拷問やテロと、柳海辰による強硬な米穀徴収政策は、島民の不満や怨念を募らせ、済州島の左翼勢力を一層急進化させた。1947年の夏頃から左翼気質の若者たちは、漢拏山に入山し始めた。漢拏山には1300余の自然洞窟があり、逮捕やテロから逃れるための避難場所となった。
093 済州島の若者は、山に入るか、警察・警備隊・右翼などになって軍政の手先なるか、この地を捨てて日本などに逃れるかという、三つの中のどれかを選ばざるを得なくなっていた。玄基榮の祖母曰く「家を捨て村を離れることができない事情ならば、二人の息子のうち一人は、山の方につけなければならない」(一人は道庁の公務員だった。)その何れにするかは、イデオロギーの問題よりも、生き残るための方便ともなっていた。

第Ⅲ章 四・三事件の経緯と殺戮

第一節 武装蜂起

追い詰められた南労党

095 1948年1月22日、軍政当局は朝天面の南労党のアジトを急襲し、106名を逮捕し、1月26日までに、村の住民221人を南労党員だとして逮捕した。これは、1月中旬に済州島党組織の連絡責任者が逮捕され自白したために引きこされた事件だった。当時朝天面は済州島党組織の中核をなしていた。組織部長は、四・三蜂起での武装隊司令官となる金達三(キムダルサム、本名は李承晋、大静面出身)であり、1925年生まれの23歳だった。
096 金達三はこの時逮捕されなかったが、安世勳、金煥、金誾煥(キムウナン)、李佐久李徳九などが逮捕された。金徳九はやがて二代目の武装隊司令官となるが、この時拷問され、鼓膜が破れ、足の指を折った。単独選挙を控えた3月、国連臨時朝鮮委員会の要請で特赦になり、全員が釈放された。
 1948年2月、国連臨時朝鮮委員会による総選挙推進活動に反対する二・七ゼネスト南労党によって組織され、済州島でも、2月9日~11日にかけて、デモや警察署襲撃が行われた。これに対して、軍政当局は、南労党本部などを襲撃し、一斉検挙した。3月6日、朝天支署で21歳の学生が、3月14日、摹瑟浦支署で27歳の大静面の青年が、3月末、翰林面で22歳の青年が、拷問死や銃殺死した。
 軍政警察・右翼の攻勢は厳しさを増した。南労党内では穏健な古参の社会主義者が退き、復讐心や敵愾心に燃える急進的な若手指導者の発言力が高まった。
097 李三龍(イサムニョン)は当時の南労党の主要メンバーで、武装蜂起に参加し、その後日本に逃れたが、武装蜂起の決定の様子を次のように証言している。

「1948年2月末から3月の初め頃武装蜂起が決まった。新村で会議が開かれ、島党の責任者と各面の責任者など19人が新村のある民家に集まった。参加者は、趙夢九李鐘佑(イジョンウ)、姜大錫(カンデソク)、金達三、私(李三龍)、金斗奉(キムドボン)、高七鐘(コチルジョン)、金良根(キムヤングン)など19人だ。李徳九はいなかった。金達三が武装蜂起を提起した。彼は短気だった。
 強硬派と慎重派に分かれた。慎重派は趙夢九城山浦など7人で、「我々は失うものもない。もうちょっと成り行きを見よう」とした。それに対して強硬派は、私(李三龍)と李鐘佑金達三など12人だった。
 当時中央党の指令はなく、済州島自身で決定した。金斗奉の家が本拠地だった。解放後、姜文錫*(カンムンソク)は一度も済州島に来ていない。金達三は20代だったが、組織部長で実権を握っていた。長老たちは獄中にいるか逃げていた。安世勳、呉大進、金澤銖などの長老は、すでに済州を発った後だった。」「情勢把握もできず、慎重さを欠いたまま、金達三に煽られて武装蜂起を決定した。」(『真相調査報告書』)

098 *姜文錫は、南労党の中央委員で、金達三の岳父だった。
 この決定は、3月15日全羅南道党のオルグが参加する中で開かれた済州島党常任委員会で確認されたようだ。『済州島人民遊撃隊闘争報告書』(以下「報告書」)は、済州島党が作成したようだ。この報告書は、李徳九が1949年6月に戦死した戦闘のとき、警察が入手したもので、当時警察官だった文昌松が1995年にこの「報告書」の筆写本を編集・刊行した。張ユンシクは米軍の「情報報告書」などとこの「報告書」とを付き合わせた結果、「ある程度信憑性がある」とのことだ。(張ユンシク「済州四・三初期の武装隊の組織と活動」)
 「報告書」によれば、「島常委は事態が悪化することを看取し、3月15日頃道(全羅南道)派遣のオルグを中心に会合を開き、第一に、組織の守護と防衛の手段として、第二に、単選・単政(単独選挙・単独政府)反対の救国闘争の方法として、適当な時期に全島民を決起させる武装反撃戦を企画・決定した。」*「決行の日時(4月3日午前2時~4時)が決まったのは3月28日だった。」としている。
*(文昌松『漢拏山は知っている――埋もれた四・三の真相』)

感想 この「報告書」は警察が作ったものとも考えられる。こんな「報告書」を、まだ勝利もしていない時に、当事者が書くだろうか。信じられない。

決起の日

1948年4月3日午前1時、漢拏山中腹のオルムに烽火(のろし)があがり、信号弾が放たれた。以下は南元支署の補助要員で大青団員の金碩訓の証言である。(『済州島四・三事件』第二巻)

暴徒に角材で頭を打たれ、棍棒で打ちのめされ、一瞬気を失った。気づくと右の手首がぶらりと垂れ下がっていた。なたでやられたのだ。窓を飛び越え隣家に逃げた。

100 武装隊(ムジャンデ)が襲ったこの南元支署には5人の警官が勤務し、大青団員が補助要員として毎晩5人ずつ交代で支署の警備に当たっていた。南元支署の警官の一人、高一秀巡査は、3月の摹瑟浦での拷問死事件の担当者だった。武装隊は宿直室にいた高巡査を斬殺し、石油をかけて燃やし、武器庫からカービン銃や九九式銃、弾丸などを奪い、悠々と引き揚げた、と金碩訓は述べている。
 1948年4月3日午前12時、涯月面旧厳里(クオムリ)の三つのオルムに烽火が上がった。村は修羅場になった。武装隊の100人が参加し、4組から5組に分かれて、3時間、右翼の要人宅を攻撃した。「良民は外に出ないでください」と叫びながら、狙いをつけた家で殺人・放火をした。(当時の旧厳里長の証言)
101 旧厳里は大青団員など右翼が支配する村だった。隣村の新厳里は、日本の大学を卒業したインテリなどのいる左翼の村だった。この二つの村は、3・1節事件の頃から対立し合っていた。この日、右翼幹部の当時14歳と10歳の二人の娘を含む5人が殺され、10人が負傷した。警官1人が重傷を負い、武装隊側も2人が死んだ。武装隊の死体には白い襷(たすき)がかけられていた。
 4月3日の攻撃目標は、警察支署と右翼団体の事務所であり、島内に24あった警察支署のうち12の支署と右翼団体の宿所や要人宅が襲撃された。南元里と旧厳里、夭北(済州邑)、細花(旧左面)、於道(涯月面)、翰林、大静などで襲撃があった。この日の犠牲者は、以下の通りである。

警察 死亡4人、負傷6人、行方不明2人
右翼など民間人 死亡8人、負傷19人
武装隊 死亡2人、逮捕1人

死亡は14人で、右翼やその家族の犠牲が目立つ。
 襲撃に参加した武装隊の数は『真相調査報告書』によれば、300人とされている。銃火器は旧式の日本製九九式銃が30挺、大半は、竹槍や斧・鎌であった。

 蜂起側の武装勢力の呼称は、武装隊、遊撃隊、自衛隊、人民解放軍、山の人(サンサラン)、山軍、山部隊など様々である。「報告書」では、遊撃隊、自衛隊、特警隊となっている。遊撃隊人民解放軍が、主力部隊で、自衛隊は村ごとの組織で遊撃隊を助ける補助部隊で、特警隊は偵察や諜報活動を担当する特務部隊であった。

武装蜂起の性格

103 武装隊「済州島人民遊撃隊」の島民への檄文

市民同胞よ!
敬愛する両親、兄弟よ!
四・三 今日、あなたの息子・娘が武器をとって立ち上がりました。
売国的単選(単独選挙)・単政(単独政府)に命がけで反対し、祖国の統一・独立と完全な民族解放のために!
あなたたちを苦難と不幸に貶めた米帝人食い人種とその手下らの虐殺蛮行を阻止するために!
今日、あなた方の骨髄に染みた怨恨を解き放つために!
我々は武器を持って決起しました。あなた方は終局の勝利のために戦う我らを保衛し、我々と共に祖国と人民が誘う道に決起しなければなりません。

 
武装隊「済州島人民遊撃隊」の警察への警告文

親愛なる警察官よ!弾圧ならば抗争だ。
済州島遊撃隊は人民を守護し、同時に人民と同じ立場に立っている。
良心的な警察官らよ!
抗争を望まないなら人民の側に立ちなさい。良心的な公務員らよ!
一日も早く我々の側に立って、任務を遂行し、職場を守りながら、悪質同僚らと最後まで闘え!
良心的な警察官、大同青年団員らよ!あなた方は誰のために闘うのか?
朝鮮人ならば我が領土を踏みにじる外敵を跳ね除けねばならない。
国と人民を売って、愛国者らを虐殺する売国・売族奴らを倒さなければならない。
警察官たちよ!
銃口はやつらにむけろ。あなた達の両親・兄弟達に銃口を向けてはならない!
良心的な警察官、青年、民主要人らよ!一刻でも早く人民の側に立ちなさい!
反米救国闘争に呼応して、決起しなさい。

104 「弾圧ならば抗争だ」の表現は、南労党員や島民の自衛的反攻を含意する。
105 「骨髄に染みた怨恨を解き放つために」は、自衛や報復的な性格を物語る。

第二節 阻止された単独選挙

国防警備隊

 1948年4月5日、済州非常警備司令部が設置され、その司令官に軍政庁警務部公安局長・金正浩が派遣された。応援警察官100人を本土から派遣し、西青団員500人も、趙炳玉・警務部長の要請で済州島に送られた。この応援警官は無関係な住民を銃撃するような不祥事を起こした。
106 1948年4月17日、軍政当局は、済州駐屯の第五九軍政中隊長・マンスフィールドJohn S. Mansfield)を通して、朝鮮国防警備隊(以下、警備隊)第九連隊に出動を命じた。18日、ディーン軍政庁官は、マンスフィールドに、「済州島の暴徒を鎮圧し法と秩序を回復するのに軍部隊*を利用せよ」「大規模な攻撃に臨む前に、貴官は騒擾集団の指導者と接触し、彼等に降伏する機会を与えるのに全力を尽くせ」と命じた。*釜山から新たに派遣する一個大隊
 警備隊は1946年1月16日、軍政下の軍事組織として誕生した。装備は警察より貧弱で、警察の補助機関で正式の軍隊ではないとも言われていた。この警備隊の第九連隊は済州地域の郷土連隊として組織されたが、他の連隊が地元の要員を募ったのに対して、第九連隊は光州から54人の人員を援助されて創設された。中には「左翼不純分子」も含まれていた(国防部戦史編纂委員会『韓国戦争史』)が、1947年から済州の現地からも人員を募るようになり、四・三当時、800人の兵力を擁していた。
 武装隊はこの警備隊との衝突を避けていたし、第九連隊も四・三事件勃発当時は介入を避けていた。米軍政からの討伐命令が下されてからも、討伐よりも宣撫活動を優先させた。第九連隊の金益烈(キミンニョル)連隊長は「私の職権の範囲で知りえた事実」として、四・三事件を「米軍政の監督不足と失政によって島民と警察が衝突した事件であり、官の極度の圧制に耐えることができなかった民の最後の手段として起った民衆暴動」であったと「四・三の真実」の中で語っている。

四・二八交渉

107 1948年4月28日、警備隊第九連隊長の金益烈と武装隊司令官の金達三が、大静面の九億小学校で交渉し、次の三つの条件で戦闘を中止することに合意し、済州島の軍政当局もこの結果を承認した。

一、72時間(3日*)以内の戦闘の完全中止。もし散発的な衝突があれば、連絡ミスと看做し、5日以降の戦闘は背信行為と看做す。*5月1日が3日目か。
二、武装解除は暫時行うが、約束を違反すれば、直ちに戦闘を再開する。
三、武装解除と下山がなされれば、首謀者の身の安全は保障する。

108 和平の約束は守られなかった。4月28日ころ、ソウルの米軍政首脳部は強行鎮圧に傾いていた。(『真相調査報告書』)5月1日、大青団員が、警察を後ろ盾にして、済州邑吾羅里(オラリ)村を放火した
ディーン米軍政長官らソウルの軍政首脳部が来島して圧力をかけ、交渉はご破算となった。5月6日、金益烈が警備隊第九連隊長を解任され、後任に朴珍景(パクチンギョン)が就き、鎮圧作戦のために水原で創設された第11連隊が追加派遣され、済州の第九連隊はこの第11連隊に吸収され、5月15日、朴珍景が第11連隊の司令官になった。朴珍景は「暴動事件を鎮圧するためには、済州島民30万を犠牲にしても構わない」と言ったという。(金益烈「四・三の真実」)
 駐韓米陸軍司令部(米24軍団)の「情報報告書」によれば、4月3日から4月29日までの済州島での死亡者は65名とされる。

単独選挙

109 米軍政は警察・警備隊・右翼の増援部隊を済州島に投入した。3月30日、単独選挙の選挙人登録が始まった。4月20日ころ、選挙事務所や投票所が襲撃され、選挙管理委員が殺害され、選挙関連職員は選挙人名簿閲覧などの選挙関連業務を嫌い、朝天面では半数の選挙管理委員が辞任した。(米軍『情報報告書』1948.5.11
 武装隊は説得と「暴力」と「脅し」によって、投票拒否のために住民を入山させた。以下は、奉蓋洞(済州邑)の某体験者談である。

4月末にはみんな山に避難した。選挙に反対しなきゃならないと言って避難させられた。単選に反対するように言われ、山に完全に追い込まれた。私ら自らの意思ではなく… でも分断は願わなかった。選挙が終わったのですぐ山を下りる許可が出て、山を下りた。  (許栄善『済州四・三』)

110 5月10日の選挙当日、済州島内13の邑・面のうち、中文、城山、表善、旧左、朝天、涯月の7つの邑・面で選挙妨害があり、警察官1人、右翼7人、武装隊21人が死亡した。
 5・10選挙は、米軍政が総力をかけて取り組み、全国200の選挙区で、投票率は95%だったが、済州島の3つの選挙区では、63%だった。3つの選挙区のうち、南済州郡では86%だったが、北済州郡の甲乙2つの選挙区では、甲区は43%、乙区は46%だった。
 5月26日、ディーン軍政長官は、この二つの選挙区の選挙無効を宣言し、6月23日に再選挙をするとしたが、武装隊の攻勢が止まらず、済州道選管は、6月初め、中央選管に再延期を建議した。済州道選管曰く「済州島内2郡1邑12面に1206人の選挙委員がいたが、そのうち15人が殺害され、5人が重傷を負い、南済州の選挙委員は身を隠し、後患を恐れて出たがらない。…北済州郡内133ヶ所の投票所にあった選挙人名簿の半分が奪取や放火で紛失し、新しく作成できない状況である。」
111 6月10日、ディーン軍政庁官は済州島での選挙の無期延期を発表した

鎮圧に乗り出した警備隊

 米軍政は5月10日の選挙後、討伐作戦を強化した。5月20日ころ、光州に駐屯していた第六師団第20連隊長のブラウン(Rothwell H. Brown)大佐が、済州地区米軍司令官として派遣された。ブラウン曰く「本官の計画通りに行けば二週間で平定されるだろう」(趙徳松「流血の済州島」)このブラウン大佐の下で、朴珍景の第11連隊が鎮圧作戦にあたり、7月までに2000人規模になった警察がこれと連携した。警察は「海岸地域の治安を引き受け、国防警備隊は海岸地域を除く地域を引き受けた」( “Disturbances on Cheju Island”
112 米軍報告書によれば、第11連隊は、1948年5月下旬から6月にかけての6週間で4000人を逮捕し、尋問の結果、約500人を拘束したが、逮捕された人々のほとんどが、武装隊の勧誘や警察・右翼の横暴を避けて入山した一般人や中山間の村人だった。以下は、1948年6月、済州を取材した従軍記者・趙徳松の証言である。

捕虜たちが護送されてくる。…捕虜たちは暴徒に見えない。12歳から13歳の少年、60歳を越える老人、さらに婦女子までが暴徒と看做されていた。話しかけると彼等は後ろを向く。私が鉄兜と軍の腕章をしているからだ。(「流血の済州島」)

 6月1日、軍政は朴珍景を大佐に昇進させた。「無差別逮捕作戦」がディーン将軍の目にかなったのだ。ところがこの朴は6月18日、進級祝賀会の翌朝、この作戦を不満に思う部下によって暗殺された。
113 鎮圧作戦はかえって住民を山に追いやることになった。「済州島人民遊撃隊報告書」によると、6月18日の第四次組織整備の時、武装隊勢力は266人だったが、7月15日の第五次組織整備完了時には501人に増え、M1銃6挺、カービン銃19挺を含む小銃が147挺、日本製の軽機関銃1挺、摘弾筒2門、手榴弾43発、ダイナマイト69発、拳銃8挺など、4月に比べて充実した装備になった。(これも怪しいのでは。装備が豪華すぎる。弾圧を正当化するための作文ではないか。)

第三節 分断国家の下で

建国

114 1948年5月末、単独選挙で選出された議員からなる制憲国会は、国号を大韓民国と定め、憲法は、李承晩の強引な主張で大統領中心制とし、大統領は国会が選出するとされた。国会は大統領に73歳の李承晩を、副大統領に79歳の李始栄(イシヨン)を選出し、8月15日、政府樹立が公布されることになった。
 政府樹立までに済州島問題を決着させるため、警備隊が再編された。第11連隊の司令官に、暗殺された朴珍景の後任に、崔慶禄(チェギョンノク)中佐が任命され、副司令官に宋堯讚(ソンヨチャン)少佐がついた。ところが、7月15日警備隊総司令部は、第11連隊から第9連隊を分離・復活させ、連隊長に宋堯讚を昇格させ、残余の第11連隊は水原に戻り、その穴埋めに第3連隊の二個大隊が第九連隊に配属された。
115 米軍は宋堯讚を「強靭で勇敢」とし高く評価していた。米軍は住民の虐殺に及び腰だった崔慶禄司令官に業を煮やし、宋を司令官に挿げ替えたのだ。(『真相調査報告書』)

宋堯讚は1918年忠清南道で生まれた。日本軍の特別志願訓練所上がりで、李承晩政権末期に陸軍参謀総長を勤め、朴正熙による1961年の5・16軍事クーデター以後は、軍政下で国防長官首相を歴任した。

海州会議

 一方、北朝鮮では、南の単独選挙に対抗して独自の立法機関と政府づくりを目指し、南北両地域での統一選挙を行った。北朝鮮地域では、最高人民会議(国会)の代議員を選出し、南朝鮮地域ではこれが困難なので、地下選挙で選ばれた代表者が北朝鮮の海州(ヘジュ、黄海道)に集まり、そこで人民代表者会議を開き、代議員を選出する間接選挙を行った。1948年7月中旬、済州島でも地下選挙が行われた。
116 陸地部では、夜半に住民を集め、全権委員が選挙の説明と候補者を紹介し、投票した。しかし、済州島では準戦時下にあったため、白紙に署名や指紋押捺するという、全くの白紙委任だった。(済州四・三研究所『四・三抗争』)
 1948年8月初旬、このようにして選出された金達三など5、6人の南労党幹部が済州島を抜け出し、北に向った。8月21日から26日まで海州会議での初日、(南からの)1000人の参加者の中から35人の主席団が選ばれた。済州からは20代の金達三が、許憲朴憲永など大物左派とともに主席団に選ばれた。南側から360人の代議員が選ばれたが、済州島からは5人の代議員が選ばれた。金達三、安世勲、姜圭燦、李貞淑、高珍姫らである。金達三は討論者として壇上に立ち、済州島での単独選挙ボイコットを報告し喝采を浴びた。
 金達三はその後済州島に戻らなかった。太白山地でパルチザン活動を行ってから、再度北に脱出し、朝鮮戦争時に戦死したとのことだ。済州島では当時28歳の李徳九が、金達三の後任として武装隊の司令官になった。
 金達三ら武装隊指導部の海州会議への参加は、事態悪化を前にしての戦線離脱として非難されている。済州では民衆の指導者は状頭(チャンドゥ)と称された。
117 李在守がチャンドゥだったが、チャンドゥは、圧制との闘いで一定の成果を収めた後、自ら命を差し出し、民衆に累が及ばないようにしたと伝えられる。
 また、地下選挙と海州会議が、済州島の蜂起勢力と北朝鮮との結びつきを公然と示すことになり、武装隊の活動が、初期の自衛的反撃から、南北の分断政権の正当性をめぐる争いへと変化した。

本格的討伐戦への準備と米臨時軍事顧問団

 1948年8月28日、800人の応援警察部隊が済州島に動員され、警察は、海岸線の封鎖と旅客出入り検査を強化した。済州島の討伐は、国際冷戦の最前線での熱戦の前哨戦となった。
 8月15日、行政権が米軍政庁から韓国政府に移り、8月29日国防警備隊海岸警備隊国軍に編入され、9月、それぞれ陸海軍となったが、国軍の指揮権は、8月24日に締結された韓米軍事安全暫定協定によって、引き続き駐韓米軍司令官が握っていた。
118 韓国軍を指揮統制する駐韓米軍の中心機関は、臨時軍事顧問団PMAGであった。PMAGの済州島討伐戦への関与は10月から表面化した。
 10月5日、穏健派で地元出身の金鳳昊(キムボンホ)済州警察監察庁長がいきなり更迭され、後任に平安南道出身の洪淳鳳(ホンスンボン)がついた。洪の出身地の平安南道が北朝鮮であるためか、西青団員が大挙して済州島に渡ってきた。
 10月11日済州道警備司令部が設置され、司令官に光州第五旅団長の金相謙(キムサンギョム)大佐が、副司令官に宋堯讚が就いた。済州道非常警備司令部は4月3日の蜂起直後に設置されていたが、これは済州警察監察庁内の警察組織であったが、この済州道警備司令部は、軍隊組織であり、また連隊から旅団に格上げされたことを意味した。済州道警備司令部は、宋堯讚の第九連隊、釜山の第五連隊から来た一個大隊、大邱の第六連隊から来た一個大隊、海軍艦艇の一部隊、済州警察監察庁などをその指揮下に置いた。さらに第五連隊の隷下にあった麗水駐屯の第十四連隊の一個大隊(後に反乱を起こした。121)が済州島に増派されることになった。
 米軍の臨時軍事顧問団PMAG済州道警備司令部の設置や第九連隊の討伐作戦を方向づけた。済州道警備司令部が設置される2日前、PMAG団長のロバーツW. L. Roberts)准将は、済州島を管轄する光州駐屯第五旅団の顧問官・トレッドウエル(H. W. Treadwell)大尉に対して、「第九連隊114の済州島作戦に欠陥があり、米顧問官が韓国人の指揮チャンネルを通して速やかに修正することが求められる」と指示した。( “American Advisor Capacity in the 5th Brigade” October 9, 1948)済州道警備司令部は、この指示を具体化したものだ。ロバーツは、第九連隊による「焦土化作戦」が進展していた11月8日の報告書でも「CIA(済州道警備司令部を指すものと思われる)は立派に業務を遂行しているし、第九連隊の宋堯讚中佐の活動は強力で積極的である」と称えた。( “Weekly Activity of PMAG” November 8, 1948)また11月15日、「CIAの活動は優秀である」とし「韓国軍の三個大隊を、主として西北青年会団員で充員する計画である」としている。咸玉琴は焦土化作戦へのアメリカの関与を研究したが、次のように述べている。

強行鎮圧作戦は、米軍顧問官の統制下で実施された。ロバーツ顧問団長は、済州島作戦に関する全ての状況を、済州島に派遣した顧問官バージェスF. V. Burgess)大尉を通して報告を受け、これを駐韓米軍司令官に報告し、李範奭(せき)総理や申性模国防長官の軍事作戦に一部始終関与した。(「<済州四・三>の焦土化作戦と大量虐殺に関する研究」)

120 1948年10月17日、第九連隊長・宋堯讚(ソンヨチャン)は「本道(済州道)の平和を維持し、民族の栄華と安全の大挙を遂行する」と称し、次の布告を発表した。

軍は、漢拏山一帯に潜伏し何人も憤怒する蛮行を敢行する売国極烈分子を掃討するため、10月20日以降、軍の行動終了までの期間中、全島の海岸線から5キロメートル以外の地点、及び山岳地帯の不許可通行禁止令を布告する。この布告に違法する者は、その理由の如何に関わらず、暴徒の輩と看做し、銃殺の刑に処す

海岸村を除いた大部分の中山間の村が対象になった。この布告の直後、海軍の七隻の艦艇と水兵203人が済州の海岸を封鎖した。これは焦土化作戦の布告であった。

麗順(ヨスン)(麗水(ヨス)・順天(スンチョン))反乱事件

 1948年10月19日、全羅南道の麗水に駐屯する第十四連隊が、済州島への出動を拒んで反乱を起こした。
121 全羅南道は南労党など左派が強く、第十四連隊は、左翼の将兵が多い光州の第四連隊を中心に編成され、警察への反発も強かった。四・三事件以降、軍隊内で左翼の摘発と処分(粛軍)が行われ、それがこの第十四連隊にも及び、左派将兵が追いつめられていた。(『麗順事件実態調査報告書』)
 2500人の反乱将兵に民間左翼や学生が合流し、反乱は順天(スンチョン)など各地に広がり、警察や右翼に対する人民裁判が行われ、戒厳司令部発表では、麗水だけでも1200人が殺害された。(前掲書)
 1948年10月22日、戒厳令がしかれた。23日艦砲射撃が始まり、一ヶ月間の陸海軍による鎮圧作戦と二ヶ月余の特殊警察による摘発が行われた。この鎮圧作戦を指揮したのが、米軍事顧問のハウスマンJames H. Hausman)であった。鎮圧作戦は強硬で、民間人を含む多数の犠牲者を出した。全羅南道保健厚生部発表によると、死者2634人、麗水地域社会研究所によれば、死者884人とされる。
122 反乱軍、左翼、学生は山に逃れ、それ以前に山にこもってゲリラ活動を行っていた野山隊(ヤサンデ)と合流し、江原道の五台山から、太白山、智異山、漢拏山などの山岳地帯で武装闘争を行った。湖南地域智異山で、パルチザンの根拠地が構築された。
 金相謙は、麗水の第十四連隊が所属する第五旅団と済州道警備司令部の司令官を兼任していたが、罷免され、済州道警備司令部副司令官の宋堯讚が司令官として抜擢され、済州島での陸海軍と警察による鎮圧作戦のトップになった。

軍服を着た西青、そして戒厳令

 1948年11月から12月にかけて、1000人以上の西青団員が、警察や警備隊員=軍人として採用された。宋堯讚は、西青団員を軍の「特別中隊」として編入し、憲兵や将校に向って「特別中隊に手出しをするな、手を出せば死ぬ思いをするだろう」と脅し、西青団員の無軌道振りを許容した。
123 陸軍参謀本部の『共匪沿革』でさえ、「西北青年団の無差別行動が、良民を共産分子にした」とし、これを四・三事件長期化の原因としている。
米軍が西青の済州島導入に関与していた。『米軍情報報告書』によれば、「済州島の西青が警察と警備隊を支援するようになったのは、米軍将校の推薦による。」1948.10李承晩大統領と内務部長官の合意により、西北青年団員が、韓国軍に6500人、国立警察に1700人、供与される予定で、彼等は韓国全域にある九つの警備隊と各警察庁に配置される」1948.12.6としていた。
 1948年12月19日、250人の西青団員が済州島に到着したが、その一人である朴亨堯(パクヒョンヨ)は当時を回想し、「李承晩大統領がソウルでの西青総会にやってきて、募兵と激励の演説をした。」「李承晩大統領の許しもなく、誰が、裁判もなしに民間人をやたら殺せる権限をもてるだろうか。…なりふり構わず共産党を無くさなければならないという名分だけで、現地の事情を知らない隊員を大挙投入するなど、李承晩は我々を利用した」(嘘っぽい!)
124 1948年11月以降、「通行禁止地帯」=敵性地域=中山間地帯での殺戮が始まった。11月、明確な法的規定を欠いたまま戒厳令が布告された。*戒厳令が宣言される以前の犠牲者は、若い男子に限定されていたが、11月中旬からは、3、4歳の子どもから80代の老人まで老若男女が銃殺された。戒厳令は、済州島民に、裁判の手続なしに、数多くの人命が即決処刑される根拠とされた。(『真相調査報告書』)
 1948年4月から9月までの犠牲者数は1000人だったが、10月以降、特に11月の戒厳令布告後以降に犠牲者が集中した。軍警・右翼は常軌を逸していた。漢拏山とその周辺の平原の雪の中に6000人が隠れていた。(『地上に匙ひとつ』玄基榮)討伐隊は難を避けて入山した島民を暴徒とみなし、即決処分した。さらに命令に従って海岸部に疎開した沢山の老人、女性、子どもが、暴徒の家族と看做され処刑された。

*憲法では「大統領は法律の定めるところにより、戒厳を宣布する」と規定されていたが、戒厳法が制定されたのは1949年11月24日であった。1997年『済州民報』は、「1948年に宣布された戒厳令は違法だった」という記事を掲載したが、これに対して、「植民地期に勅令で施行された戒厳令の規定に依拠するから違法ではない」との反論が提起された。

焦土化作戦の背景――米軍撤退問題

 米軍は1948年12月までの撤退を決めていた。1948.4, 252米軍は冷戦の主戦場をヨーロッパと見ていて、韓国の戦略的価値を低く見ていたが、それに対して米国務省は、冷戦の最前線としての朝鮮の重要性を認め、長期駐留を主張していた。その折衷案が1948年4月の国家安全保障会議による12月までの米軍撤退決定だった。(NSC-8)1948年9月15日、秘密裡に撤退が始まっていた。(Foreign Relations of the United States, 1948 Vol. VI
126 ソ連は金日成政権という安定的な政権を築いた上で撤退できたが、李承晩政権は、済州の反乱や他の不安定要因を抱えていた。1948年9月22日反民族行為処罰法が公布され、若手議員を中心に、親日派批判が高まり、親日派の官僚や警察を政権に取り込んでいた李承晩政権を追求した。1948年10月19日、麗水反乱が起こり、11月2日、大邱の第六連隊が反乱を起こした。12月のパリでの国連総会に向け、金九092*は全朝鮮での選挙を主張しており、ソ連が国連総会で、済州の選挙無効を追及する恐れがあった。
 (李承晩政権内では、)米軍撤退の延期が議論され、李承晩政権に反対する勢力の排除が求められ、1948年11月20日、日本の治安維持法の焼き直しと言われた国家保安法が採択されると、親日派弾劾が弱まり、反共大合唱が始まった。米軍撤退が予定される1949年6月末までには、親日派処罰を訴えた若手議員たちは、国会のスパイ=フラクションとして弾圧されるようになったし、1948年6月26日金九092*は、駐韓米軍防諜隊CICの要員とされる人物に暗殺された。李承晩は安定した反共体制を作りたかったのだ。*金九は1948年4月、北朝鮮の南北連絡会議に招かれ演説していた。092, 252

第四節 焦土化作戦

朝天面での殺戮

127 1948年12月、第九連隊はその任務を終えた。焦土化作戦中、毎日数十名が虐殺され、漢拏山と中山間地帯の130余の村が焼失した。
 2003年までに申告された被害者数は1万4028人である。当時済州島は1つの邑と11の面からなっていたが、済州邑での被害者数3890人に次いで、面の中での被害者数は朝天面が一番多く、1841人であった。
 朝天は高麗時代から済州島の関門であり、陸地との交流の拠点であり、島内では文化・教育の先進地域であり、日帝下では多くの反日運動の指導者を輩出した。
128 解放後も南労党など左派勢力が強かった。(済州民報四・三取材班『済州島四・三事件』、『真相調査報告書』)
 1948年11月13日、朝天面で大規模な殺戮が行われた。深夜の2時、討伐隊が橋来里を襲撃・放火し、100戸の村が灰燼に帰した。2日前に武装隊が朝天支署を襲ったことに対する報復であった。死亡した30人全員が3歳から70歳までの老人、女、子どもだった。以下は現場にいた梁福天の証言である。

軍人たちは私を押して銃を放った。3歳の娘を負ぶったまま私は倒れた。9歳の息子が「お母さん」と私の方に走りよってきた。軍人は息子に銃を放ち、「この野郎、まだ死ななかったのか」と息子に向って言った。息子を撃った銃弾は息子の胸を貫通し、心臓が飛び出した。背中に負ぶっていた娘の足にまで銃弾が貫通し、手のひらほどに穴が開いた。(許榮善『済州四・三』)

討伐隊は日が開けるころ臥屹里一区に移動し、これを襲撃した。犠牲者の大半は婦女子で、2歳の赤ん坊まで含まれていた。この11月13日の討伐では、涯月面の召吉里、安徳面の上川里、上倉里、倉川里でも虐殺が行われた。
129 1948年11月21日、討伐隊は朝天面善屹里を放火した。住民は善屹岬の茂みに潜んでいたが、25日から3日間の間に、トトゥル洞窟、モクシムル洞窟、ベンティ洞窟に隠れているところを発見され、即決銃殺された。討伐隊はガソリンで死体を焼却した。

パッソンネの虐殺

 1948年12月21日、朝天面の住民200人は「自首」の呼びかけに応じて朝天面咸徳国民学校(小学校)に収容された。そのうちの20代の青年を中心に150人を、討伐隊は、済州邑内のパッソンネという川辺に連行して集団虐殺した。次は一人だけ生き残った金太準の証言である。

…12月21日、「討伐に行く」ということで収容者の一部が呼び出された。また一部の者は、討伐に行けば自由になれると思い志願した。私も志願した。…済州農業学校に到着すると、軍人たちは突然私たちの手を針金で後ろ手に縛り、10人ずつ数珠繋ぎにしてスリークォーターに乗せた。途中臥屹里出身の2人が脱出した。針金が不足しあざ縄で縛られていたのを解いて車から飛び降りたのだ。パッソンネに着くと指揮官は「皆さんがきれいに死んでくれれば家族に知らせて屍骸だけは収容させよう。」と言った。軍人たちは銃殺に先立ってポケットからお金や貴重品を奪った。10人単位で川辺の岩の上で銃殺し、遺骸を川に突き落とした。私は左の肩と右腕に被弾したが、気を失わずにいて、次の10人が引き立てられてくる3~4分の間に針金を切って岩の隙間に隠れた。私のようにまだ生きている人がいたが、のた打ち回っているところを発見されて、ガソリンで燃やされた。私は明け方まで隠れていて、現場を抜け出した。

若者の消えた村、兎山里(トサンリ)

 海岸の村に疎開した住民も大量虐殺された。1948年12月14日から19日にかけて、表善面兎山里で虐殺が行われた。兎山里は、海岸から2キロ離れた上兎山と、海岸村の下兎山からなり、いずれも疎開令の対象ではなかった。
131 12月12日、上兎山の住民に下兎山への疎開が命じられ、住民はそれに従った。15日、突然、主に18歳から40歳までの男たちが、表善の砂場に引きずり出され、19日から20日に、157人が一挙に虐殺された。
同じ12月20日ころ、海岸線から3キロ離れた南元面の新興里表善面の表善里で集団虐殺が起った。表善里では、討伐隊は、命令に従って疎開した住民を表善国民学校に集め、戸籍を確認し、家族の中で一人でも抜けていれば、逃避者家族と決めつけ、76名を集団虐殺した。以下は当時23歳だった呉泰京の証言である。

兎山里の倉庫の付近でも銃殺が行われた。人々を集め、それを見物せよという。そして銃殺する時拍手をしろと言う。銃殺の時、子どもが這って上のほうへ上がっていくと、その子どもにも銃を撃った。(許榮善『済州四・三』)

132 12月下旬は第九連隊による虐殺のピークであった。大田に駐屯する第二連隊との交代が12月末にあり、功をあせっていたと思われる。

代殺――逃避者家族の虐殺

 「代殺」の本来の意味は、殺人罪を犯した者を死刑にするという意味であるが、当時の済州島では、戸籍に照らし青年がいなくなった家族を、子どもが山に入った「逃避者家族」だとして、年老いた両親や妻子が身代わりに虐殺されることを「代殺」と呼んだ。涯月面蓋水洞飛鶴(ピハク)トンサンでこの代殺虐殺が行われた。トンサンとは小山の意味である。
 1948年12月5日蓋水洞に近い外都支署から、10人の若者を指名し、自首するように勧告があった。この頃自首の勧告に従って出頭したところ、虐殺されたり、行方不明になったりしていたが、若者一人が試しに出頭してみることにした。ところが12月7日、その青年は出頭するとすぐに銃殺された。残りの若者は逃走した。家族は蓋水洞に残った。
133 12月10日、警察と大同青年団員が村に押し寄せ、住民を飛鶴トンサンに集めて、村を捜索し、残っていた住民を虐殺した。当時13歳だった安仁行は、血まみれの母親の死体の下敷きになって生き延びることができた。まず他の村から疎開してきた父子二人が殺された。以下は安仁行の証言である。

ある女性が引きずり出された。25歳くらいの妊婦だった。警察はその女性を榎(えのき)に縛りつけ、警察3人が銃に帯剣をはめて突き刺した。皆が背を向けると、警察は「ちゃんと見物しろ」と叫んだ。それから警察は住民を選別し始めた。暴徒家族を選ぶのだ。私たち家族も引き立てられた。…12人がまとめて縛られ、畑に引き立てられた。警察は「剣で刺して殺そう」「時間がないので銃で撃とう」と言っていたが、その瞬間銃声が鳴り響き、直ぐ横にならんで縛られていた母が私を覆うように血まみれになって倒れた。警察が銃に当たらなかった者がいるかもしれないと、一人ひとり銃剣で刺した。私は母の下敷きになっていたため、無事だった。私たち4兄弟は、突然孤児になったが、7歳の弟は麻疹で、乳飲み子の末の子は乳がなくて死んだ。

134 蓋水洞の住民に対してその後も何度か虐殺があった。あちこちに隠れ潜んでいた青年たちも結局捕まって銃殺された。某住民が言うには、戸籍や族譜を対照して調べたところ、蓋水洞には当時43戸・56世帯が住んでいたが、このうち63人が犠牲になったという。

失われた村

 討伐隊は、難を避けて入山する者を武装隊とみなし、その家族を探し出して虐殺した。安徳面東広里の虐殺もこの例である。東広里は中山間の村だったが、疎開令が明確に伝わっていなかった。1948年11月15日の早朝10人余が犠牲になってから、住民の捜索・虐殺が散発的に起った。討伐隊は、虐殺が行われた現場で待ち伏せし、遺体を収拾しに来た住民を虐殺した。住民たちは雪の降り積もる平原に散在する洞窟に隠れ住んだ。クンノルケという洞窟に120人の住民が40日間隠れ住んだ。1949年1月、この洞窟が発覚し、住民たちは洞窟近くのオルム(寄生火山026)へ逃れようとしたが、捕らえられ、翰林面や正房瀑布(滝)付近でほとんどが虐殺された。東広里ムドゥンイワッという集落は、討伐隊の攻撃によって完全に消滅し、現在も再建されていない。
 このように四・三によって失われた村は、全島で84ヶ所ある。(「四・三特別法」に基づき済州道に設置された済州四・三事件実務委員会による2001年から2002年の調査)
以下は玄基榮『地上に匙ひとつ』からの抜粋である。

雪の中の土を掘り起こし、屋根を竹と雪で偽装し、座ってやっとという高さの洞穴をつくり、糧食を惜しみつつ、彼らは一ヶ月あまり過ごした。討伐隊の襲撃が頻繁になると、何も持たずに雪の洞穴から飛び出し、逃げ惑う。…老人、子ども、子どもがまとわりつく女性の犠牲が大きかった。速く駆けることができないからと、わが子を、牛を殴るように殴り、死に顔になっておろおろし、銃弾に倒れた若い女。倒れた母の横で泣いている子どもさえ、銃剣で串焼きの串で通すように、突き刺したという。

水葬――知識層の虐殺

136

 焦土化作戦前の、1948年10月末から11月初めにかけて、第九連隊の将兵100人余が「赤色分子」「細胞」と看做され、処刑された。
11月1日、85人の警察官が「南労党のフラクション」だとして検挙され、うち20人から33人が正式な裁判もなく即決処分され、遺体を済州沖に捨てられた。(「済州島赤化陰謀事件」)
 11月5日、旧日本資産(敵産)の管理を行う新韓公社の職員30人余が「左翼フラクション」だとされ、済州沖に沈められた。このような水葬処分は朝鮮戦争時にしばしば用いられた。
11月中旬、裁判長や検事などの法曹関係者や、教育、言論の有力者が、第九連隊の本部があった農業学校に連行され、大半が処刑された。(恐ろしい!)
137 このとき、1947年末から済州島に支社を置いていた『京郷新聞』支社長の玄仁廈(ヒョンインハ)と『ソウル新聞』支社長の李尚熹(イサンヒ)が、この農業学校で処刑された。
済州新報』の編集局長金昊辰が、武装隊司令官の李徳九名義の「宣戦布告文」などを新聞社で印刷したとして処刑され、済州新報の社長・編集局長が更迭され、『済州新報』は西青に接収され、討伐軍の情報紙となった。
 済州邑で犠牲となったこれら有力者・知識人は、三・一節事件後のゼネストに参加したり同調したりして検挙された人たちだった。朝鮮戦争時には大勢の「予備検束者」が処刑されたが、これはその前触れだった。

武装隊による殺戮

 2003年までに申告された1万4028人の犠牲者のうち、武装隊による犠牲者も13%、1764人いる。
 1948年4月3日の武装隊による民間人への攻撃は、警察や右翼の家族や協力者だったが、12月以降は、武装隊に非協力的で討伐隊側と看做された村が無差別攻撃された。南元面南元里為美里では11月28日に約50人が、旧左面細花里では12月3日に約50人が、表善面城邑里では1月13日に38人が、武装隊による無差別攻撃で一夜にして犠牲になった。犠牲者のほとんどは民間人だった。民衆は昼は「アカ」として、夜は「反動」として双方から痛めつけられた。

北村里の悲劇――最大の虐殺事件

139 1948年12月29日、第九連隊が退き、咸炳善中佐が指揮する第二連隊が済州島に駐屯した。第二連隊は当初避難住民に下山を説得した。
武装隊はこの連隊の交代時に反攻に転じ、1949年1月3日、200人の武装隊が済州市に迫り、討伐隊側は陸海空軍合同で反撃し、その時住民が巻き込まれた。
 1949年1月6日、涯月面で、ほとんど老人、子ども、女性が避難していたピルレモッ窟が発覚し、外に出された30名余が銃殺された。梁泰炳は当時25歳だったが、洞窟内に留まり、虐殺を免れたが、梁によれば「討伐隊は子どもたちの足を掴み、岩にたたきつけて殺した」「2歳の子供を背負い、洞窟の中に深く入り込み道に迷い、飢え死にした母子もいた」とのことだ。(許榮善『済州四・三』)このピルレモッ窟は総延長12キロに及ぶ。

 1949年1月7日朝天面北村里(プクチョンリ)で最大規模の虐殺が行われた。
 朝天面咸徳(ハムドク)付近で第二連隊の某部隊が武装隊の奇襲を受け、2人の軍人が死亡した。
140 北村里の長老たちは、死体を担架に載せ、咸徳の第二連隊の大隊本部に向ったが、軍人たちは警察の家族1人を除いて長老たち全員を射殺し、村に放火し、1000人余の村人全員を北村国民学校の運動場に集め、「歩哨が不手際だった」として民保団*の責任者を即決処分した。軍人たちはパニックに陥った住民たちを数十名ずつ畑に連行して射殺した。夕方大隊長が中止を命じた。300人余が犠牲となった。大隊長は住民たちに「翌日咸徳の大隊本部へ出頭するよう」命じた。一部の住民は山に逃れたが、命令に従って咸徳に向った住民は、犠牲となった。この2日間で400人(1月8日は100人か)余が犠牲となった。
*「郷土防衛を民間自らが担う」として、1948年8月8日に創設された民間による軍隊・警察の補助組織で、歩哨や村を囲む壁積みなどに動員された。

 1960年4月19日(学生革命249)以後、国会で四・三事件の真相糾明の気運が高まったとき、『朝鮮日報』1960.12.22は、この北村里事件を報じたが、「寡婦の村 有権者中、男子は女子の3分の1」と伝えた。

最終討伐戦、そして金時鐘(キムシジョン)

 金時鐘(キムシジョン)は南労党の党員で、済州島武装隊の一員だった。現在在日朝鮮人で詩人だが、当時のことを振り返り「1948年の末頃は、仲間は互いに疑心暗鬼になっていた」という。
141 1949年3月2日済州道地区戦闘司令部が設置され、武力鎮圧と宣撫活動を併行させる討伐作戦が始まった。このころ4月の李承晩の済州島訪問と、5月の再選挙が予定されていた。
 漢拏山一帯に帰順を促すビラが撒かれ、宣撫工作員が山野をめぐり帰順を呼びかけた。
「帰って来い、温かい胸に/はためく太極旗を仰ぎ見て /この地にふたたび喜びを呼ぼう」
 この宣撫工作の歌は子どもたちにまで流行ったという。(玄基榮『地上に匙ひとつ』)飢えと寒さ、死の恐怖に憔悴しきった人々が続々と山を下ったが、下山の最中に犠牲となったり捕虜になったりする者もいた。総計1万人。下山した住民は済州邑内の酒精工場に閉じ込められ、多くは軍法会議にかけられ、量刑も罪名も知らされず、韓国本土の刑務所に送られた
 ジョン・メリルは、この最後の討伐戦の期間(1949年3月2日~4月12日)が「反乱が起って以来最も血なまぐさい時期であったろう」(『済州島四・三蜂起』)と述べ、この期間中の1日の平均死亡者が100人と推計している。武装隊は力尽き、霧散し、飢えのため食糧を奪うために村に入り、歩哨に立っていた住民を虐殺することもあった。金時鐘はこの時のことを「連絡が途絶え、完全に孤立していた」と振り返る。
142 1949年4月9日、李承晩大統領が来島し、5月10日、再選挙が実施され、国会議員が選出された。武装隊の幹部クラスのほとんどは射殺されるか逮捕され、5月15日、済州道地区戦闘司令部141も解散した。武装隊司令官の李徳九も、6月7日、警察部隊との戦闘で戦死した。警察は李徳九の死体を木の十字架に縛りつけ、丸一日済州警察署の正門前に晒してから火葬した。康実(カンシル)は李徳九の甥(姉の息子)で、在日本済州島四・三事件遺族会会長だが、当時のことを次のように振り返る。

遺骸はこめかみに銃弾一発を受けた以外はきれいだった。遺骸は1日だけ晒された。朝から縛り付けられ、夕方には臭いがひどくなった。警察は火葬後父に「骨だけでも収拾せよ」と言ったが、翌日は大雨で、全てを流してしまい、収拾できなかった。

143 金時鐘5月半ば日本へ密航すべく済州島から30キロ北の無人島クァンタル島に逃れ、そこから密航船に乗った。6月初め、密航船は神戸沖に接岸し、翌日金時鐘は大阪の鶴橋に着いた。島に父母を残して。(金石範・金時鐘『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか――済州島四・三事件の記憶と文学』)

戦時下の虐殺

 済州道地区戦闘司令部が解散したあと、独立一個大隊が残余の武装隊掃討に当たった。1949年10月、中国革命が勝利すると、金日成の「解放戦争」への情熱が掻き立てられ、1950年6月25日、北朝鮮人民軍が甕津、開城、春川など、38度線の主要地点で攻撃を開始すると、韓国軍は総崩れで敗走し、4日目(6月29日)にソウルが占領された。
144 韓国政府は1950年7月初め刑務所服役者国民保導連盟員*、要視察者を処分し始めた。大田刑務所では済州道出身者300人を含む服役者1800人を、7月の第1週の3日間で処刑した。(朴讚殖「朝鮮戦争期済州四・三関連受刑人虐殺の真相」)
朝鮮戦争勃発当時、全国各地の刑務所の在所者は3万7335人で、そのうち、西大門、麻浦、富川、永登浦、春川、開城、仁川など、開戦後すぐに人民軍に掌握された刑務所に収監されていた囚人が1万7106人で、彼らは人民軍による解放後、ほとんどが行方不明となった。大田、木浦など平澤以南の在所者は2万229人で、そのほとんどは韓国側に惨殺されたらしい。

 *1949年6月につくられた、左翼活動経験者やその疑いがある者を転向させるための「思想善導団体」で、約30万人が組織されていたそうだ。

 さらに国民保導連盟員要視察者が「予備検束」され、全国各地で殺害された。「予備検束」は植民地下の1941年の治安維持法改定によって導入された予防拘禁制度*に起源を発しているが、「朝鮮思想犯予防拘禁令」は米軍政令によって廃止されていた。朝鮮戦争下の「予備検束」は、戦争勃発直後の内務部治安局長の指示*によるもので、何ら法令や規定上の根拠もなかった。この予備検束による被害者は、全国で最小5万人、最大10万人以上と推定されている。(徐仲錫『韓国現代史60年』)

*朝鮮への適用は、日本より1ヶ月早く、1941年2月12日に公布された政令「朝鮮思想犯予防拘禁令」による。
*「全国要視察人取締り及び全国刑務所警備に関する件」

 済州島でも保導連盟が組織され、朝鮮戦争が勃発するころには2万7000人が加盟していた。村によっては男子全てが加入を強要された場合もあった。1950年7月から8月にかけて、この保導連盟員のうちの壮丁が予備検束され、そのうちの多くが虐殺された。(恐ろしい)
145 済州邑では、1950年8月4日、済州警察署や酒精工場に押し込められていた予備検束者500人余が、済州島の沖合で水葬され、1950年8月19日、済州警察署に収監されていた数百名の予備検束者が、済州飛行場で銃殺され、闇埋葬(アムメジャン)された。2007年この遺骨が発掘された。西帰浦、城山補などの警察署や収容所でも同様に行われたが、人数は不明である。
 摹瑟浦では、予備検束された住民252人が、安徳面南端の松岳山の旧日本軍弾薬庫で集団虐殺された。7年後遺族が132の遺体を収容したが、身元の識別が困難なため、「100人の祖父に一人の孫」という意味の「百祖一孫之碑」を建立した。1993年以降、「予備検束」された7月7日(陰暦)を命日とし、合同慰霊祭がもたれている。
 予備検束されたが虐殺を免れた者は、本土での戦争に狩り出された。この予備検束者も含め、沢山の済州の若者が海兵隊などの身分で戦地に出征した。「島の若者になすりつけられた『暴徒』の汚名を抜ける道は、ひたすら出征しかなかった」(玄基榮『地上に匙ひとつ』)
146 大田の刑務所1950.7の事例もそうだが、反乱罪で全国各地の刑務所に送られた四・三事件関係者の運命も同様だった。1948年12月と1949年7月、四・三事件の渦中に、民間人を対象に軍法会議が行われた。1999年9月、この二つの軍法会議に関する『軍法会議受刑人名簿』(政府記録保存所(現・国家記録院)所蔵)が、秋美愛議員(当時の金大中政権与党の新政治国民会議所属)によって発見された。この資料によれば、一度目の軍法会議にかけられた871人のうち38人が、死刑に処せられ、その他はほとんど本土の刑務所に送られた。二度目の軍法会議にかけられた1659人のうち345人死刑となり、その他は各地の刑務所に送られた。つまり1950年頃、大田の300人を含め、2500人の四・三事件関係者が、反乱罪などで各地の刑務所に送られていた。また、一般裁判でも200人余が収監されていた。
147 済州島出身者が最も多く収監されていたのは木浦の刑務所で、466人だった。ここでは1949年9月に脱獄事件があり、在所者の多くがこの事件の鎮圧過程で犠牲になったらしい。(金ヤンヒ「1949年木浦刑務所集団虐殺事件」)
この木浦を除いて、朝鮮戦争勃発時2000人近い済州島人が各地の刑務所に収監されていたが、そのほとんどが、朝鮮戦争停戦後も済州島に戻らず、行方不明のままとなっている。

最後の武装隊

 米軍が国連軍の名目で参戦し、1950年9月、仁川に上陸し、人民軍を中朝国境まで追いつめたが、1950年10月、中国志願軍が参戦し、米韓軍は37度線まで押し返された。このころ避難民が済州島に押し寄せたが、これに乗じてそれまで息を潜めていた武装隊が攻勢に転じた。漢拏山に残っていた武装隊は80人余で、この武装隊に対して1951年1月17日から3月末まで、海兵隊一個中隊を主力に、討伐戦が再開され、武装隊の50人余が射殺された。(『真相調査報告書』)
1953年1月末遊撃戦特殊部隊「虹部隊」が投入され、掃討作戦を展開し、武装隊を一掃した。
1954年9月、漢拏山の禁足令が解除され、残った5人の武装隊員が、毎年1人2人と逮捕されたり射殺されたりした。
1957年4月、武装隊の最後の1人、呉元権(オウォングォン)が逮捕された。


第Ⅳ章 その後の済州島――沈黙の壁を越えて

第一節 沈黙と停滞

クェンダン共同体=雑姓村落

149 済州島は、土地が痩せて貧しく、身分の上下や財産の多寡が生じにくく、植民地期には半島部ほどの階層分化が見られなかった。済州島は「乞無」「盗無」「大門無」(家に門がない)の「三無の島」として知られているが、朝鮮王朝時代の初期から豊臣秀吉の朝鮮侵略のころまで(14世紀から16世紀)にこのような共同体ができたといわれる。済州島は古代・中世に多様な漂流民やモンゴル人を加え、朝鮮王朝の一地方になってからも、陸地部からの移住民を受け入れた。
150 陸地部では一族門中同じ祖先をもつ父系の血縁集団)が村を構成することが多いが、済州島の村は、多数の門中が共存する「雑姓村落」であり、済州では、親戚よりも村共同体が重要だと言われる。(申幸澈「済州島のマウル(村落)の共同生活圏としての性格とその変化」)
クェンダンは、父系だけでなく母系や妻系の親族を含む、一族門中を越えた共同体である。済州島民は外敵に対して団結し、民乱や反植民地の闘いを行った。
 作家・玄基榮はこれを分離主義的自治の共同体精神と呼び、為政者の干渉を排し、農民の自治能力への信頼を説いた老子の小国寡民の理想になぞらえる。また玄基榮は、三・一節事件から始まる官憲の弾圧が、島の抵抗の記憶を蘇らせたという。(「四・三の探求から再発見したいくつかの論点」)

レッド・コンプレックス

151 四・三事件の弾圧は、済州島民の伝統的な異議申し立ての精神を打ちのめしてしまった。道義や社会正義が、暴徒や逃避者と看做された。(単純化しすぎないか)四・三事件の最中、「朝と晩、昨日と今日、そして明日」が命を左右した。

法廷の判決に何の合理性もなかった。「山の人」が判事となる時間は、彼らの言葉と行動が法であり、軍警と右翼が現れる時間は、彼等が法を定める。…順応することが命を保てる道だった。権力に対する沈黙と従順が、確実な生き残るための戦略として受容されざるを得ない時代だった。(金ソッチュン「済州地域の選挙 概括的検討と再解釈」)

 四・三を生きのびた人々は、体制やお上への不満や異議は一切口にせず、とにもかくにも強者につくことが生き残る術と思い込むようになった。済州島は久しく「政権与党の票田」といわれてきた。今でも自らの意見を言わず、集団の中に埋もれていないと安心できない「無所信の処世術」が見られる。(金鐘旻「四・三以後50年」)
152 これはレッド・コンプレックスと言われてきた。「誰もアカの悪霊から自由でなく、誰かが私を罠にかけてアカにしようとしている、アカが捕まえに来る」というのが、1950年代から1960年代にかけての精神病患者の最も多い訴えだったという。(黄サンイク「医学史的側面から見た四・三抗争」)
 討伐隊によって殺害された家族は、暴徒の家族として子や孫の代まで日陰者扱いにされた。連座制*が支配する中で、反共団体に身を投じ、権力に過剰に忠誠を尽くし、アカ呼ばわりから逃れようとする人が多かった。朝鮮戦争に海兵隊として出征した済州島の若者は、仁川上陸作戦など激烈な戦火の中で、戦史に残るほどの荒々しい攻撃性を示した。反共の戦士に過剰に徹することでしか、四・三事件で受けた暴徒やアカの汚名を拭い去ることができなかった。
133 韓国政府は四・三事件を「共産分子の跳梁や消極的な治安対策や国防警備隊内部への細胞の浸透などによって、8割以上の島民が赤化し、全済州を共産系烈の手に渡そうとする恐るべき暴動だ」とした。(内務部治安局『大韓警察全史第一集――民族の先鋒』)これは韓国社会で語ることが許された唯一の見解だった。韓国社会は、朝鮮戦争以後、反共が、倫理や道徳の規範として人々の内面を呪縛してきた。「八割以上が赤化した島民たち」と看做されたが、これは負い目の意識として済州島の人々の自我や情緒を押しつぶした。若者は故郷を忘れてしまいたい、捨ててしまいたい、故郷が幸福や出世の正反対と受け止められた。(玄基榮、前掲書)

*連座制 韓国政府は1984年12月、連座制を廃止したが、その後も「暴徒家族」は公務就任や昇進などで差別され、事実上効力をもったといわれる。

ポリッコゲ

 朝鮮戦争中に10万人が本土から済州島に殺到した。1952年、済州島は旱魃と台風に見舞われ、秋の収穫が半減し、救護食糧の配分をめぐり、避難民と島民との間で軋轢や混乱が起こった。1953年3月、救護食糧の支援対象者が4万2000人になり、物乞いや泥棒が溢れた。(李起旭『韓国人類学叢書14 済州農村経済の変化』)『済州新聞』1953.3.25は、翰京面(当時は翰林面)の某村で、物乞いする老母を殺害して埋めるという殺母埋葬事件を報じた。
154 1950年代は「ポリッコゲ(麦峠)=春窮期=飢餓時代」だった。済州島の人口28万人の9割が、麦、甘藷、陸稲、粟、豆など自給のための雑穀を生産する零細農民で、夏や秋に収穫された食料は12月になくなり、1、2月には甘藷を食べ、春窮期の3月から麦の収穫期までは、政府の貸与食糧に頼った。ポリッコゲ(麦峠)とは、この春窮期を指す。
 政府から借りた穀物は、麦の収穫期に倍にして返さなければならないので、翌年の春窮期にはさらに沢山の貸与食糧を必要とする。朝鮮戦争以後1955年、56年、57年、58年、59年と、台風や旱魃に見舞われ凶作だった。1957年3月15日、国会絶糧事態特別調査班が済州島を訪れ、10万人が食糧不足だと報告した。(夫萬根『光復済州30年』)
155 こういう窮状でも島民は沈黙し従順だった。1956年の大統領選挙の投票率は95%、李承晩の得票率は88%で、全国平均より18%高かった。前代未聞の不正選挙といわれた1960年の選挙では、信憑性に乏しいものの、投票率・支持率ともに100%に近かった。
 1958年11月、済州市観徳亭前で、四・三事件の軍警民合同追悼式が開催され、警察142人、軍人47人、右翼団体関係者335人の位牌を前にした追悼式で、その遺家族や傷痍警察官に、記念品が贈呈された。これは四・三事件の8割の犠牲者とその遺族を愚弄するものだったが、済州島の人々はこれに異議を唱えなかった。

4・19学生革命

156 1960年4月19日の学生革命によって李承晩政権が倒れた。この運動に、ソウル、大邱、釜山などで学生を中心に50万人が参加した。4月19日、済州島の中高大の学校が臨時休校になった。4月21日付けの『朝鮮日報』は、「済州島は平穏」の見出しで次のように伝えた。

全国の多くの都市で戒厳令が布告されたが、済州島は平穏だ。しかし、警察は警備態勢に入った。

 4月26日、李承晩が下野し、自由党政権から張勉(チャンミョン)民主党政権への橋渡し役の許政(ホジョン)選挙管理内閣が成立した。4月27日から3日間、済州島で不正選挙に抗議する学生の集会とデモがあった。29日、道知事と警察局長が罷免され、軍隊が治安維持に当たった
157 7月の総選挙で民主党政権が成立し、「反民主行為者公民権制限法」を成立させた。それは審査後、不正選挙関連者や不正蓄財者の公民権を5年から7年間停止するというものだった。済州島ではこの法律によって20人が5年間の公民権を制限された。(夫萬根『光復済州30年』)
 封じ込められた歴史の掘り起こしや再解釈が行われた。1960年5月23日、国会は居昌(コチャン)事件*などの朝鮮戦争時の「良民虐殺事件」の調査を決め、居昌、山清、済州島(6月6日)に調査団が派遣された。済州島の学生や道議会を中心に、四・三事件の真相究明に動いた。済州大学で7人の学生が「四・三事件真相糾明同志会」をつくり、摹瑟浦で真相究明要求大会が開かれた。

*1951年2月、戦線の後方で人民軍残留兵やパルチザンへの討伐作戦を展開していた韓国軍第11師団が、慶尚南道の居昌で、14歳の子ども385人を含む719人を殺害し、これを「共匪討伐の成果」とした。同様の事件が咸陽や山清などでも起った。

 『済州新聞』(このころは『済州新報』)は、これまで四・三について沈黙してきたが、真相糾明に動き出し、6月2日の社告で被害申告を呼びかけた。6月10日までに1259件、1457人の犠牲の申告があった。
158 道議会は四・三事件の調査と建議文提出に動き、6月4日、『済州新報』が、北村里での集団虐殺など各市各郡単位で調査結果を報道した。『朝鮮日報』が1960年12月22日付けで、北村里の事件を報じた。140ソウルの在京済州学友会が「700人の学徒の叫び」というアピールを発表し、四・三事件の真相糾明を求めて国会前でデモ行進をした。
 中央・地方の議会、言論、学生や市民団体などを通して自由な発言や意思疎通の機会が増え、四・三事件もその一つとして扱われるようになったが、事件の直接の体験者の多くは沈黙していた。四・三事件の異議申し立ての主役は学生で、一部のジャーナリストや道議会議員有志がこれに加わっただけだった。『済州新聞』の被害者申告数1457人は、30年後の「四・三特別法」に基づく申告数1万5000人に比べて少ない。

 1961年、軍事クーデターが起り、真相糾明の芽が摘み取られた。学生、地域の有志、地元紙幹部が逮捕され、安徳面の遺族が建てた『百祖一孫之碑』も、警察によって壊された。
159 1962年、四・三事件当時焦土化作戦を指揮した宋堯讚(ソンヨチャン)が内閣首班となり、一層人々の口が閉ざされた。
 事件から50年経ち「四・三特別法」が制定1999.12されても、証言を拒んだ被害者家族も少なくなかった。

第二節 変わる済州島社会

漢江の奇跡

 朴正熙は、貧困の解消と経済開発を目指した。韓国の1960年の一人当たりのGNPは80ドルで最貧国だった。今日の韓国は2万ドルである。
 1963年、朴正熙は軍服を脱ぎ、第三共和国の大統領に就任した。強力な統治権力の下で、輸出工業化を目指し、1960年代後半に目覚しい経済成長を実現した。
160 1970年代の維新体制下で、鉄鋼、化学、機械、造船、電子などの重化学工業化が進展し、1977年、輸出が100億ドルとなり、建国以来初めて国際収支が、1000万ドルだけだったが、黒字化した。一人当たりのGNP1970年代後半に、1500ドルになり、1978年OECDは、『新興工業諸国の工業生産・貿易への影響』(The Impact of the Newly Industrializing Countries on Production and Trade in Manufactures)の中で、韓国をNICs「新興工業国」の一員と位置づけ、韓国経済は「漢江の奇跡」として世界の脚光を浴びた。韓国経済は1970年代末の石油危機や無理な重化学工業化がたたり、一旦頓挫したが、1979年10月の朴正熙暗殺事件から1980年5月の光州事件などの政治的激動を経て、1980年から87年までの新軍部の全斗煥(チョンドファン)政権期でも経済成長が続いた。
 四半世紀の軍事政権の間に、韓国は農村中心の伝統社会から都市中心の近代社会へ急展開し、人々は大量生産、大量消費、大量伝達を通して都市的な生活様式や意識を分かち合うようになった。農村でもセマウル運動*によって都市的生活様式が浸透した。1988年、民主化を実現したが、その時70%の世帯がカラーテレビを持ち、冷蔵庫・電話・電気炊飯器の普及率は90%になった。
*1970年代に朴正熙が呼びかけた、農漁村の「自助・自立・協同」という、生活環境の改善や所得増大を目指した官製の社会運動。セマウルとは「新しい村」の意味。70年代半ば以降、都市や労働現場にも導入された。
161 しかし、首都圏や韓国東南部(嶺南)に比べ、西南部(湖南)は人口流出と過疎に苦しんだ。また北部の江原道と並び、済州島の工業化は停滞した。済州島は観光の役割を振り当てられた。しかし、軍事政権期の経済発展で済州島でも「道、水、電気の革命」と言われるように、インフラが整備され、観光開発と換金作物による現金収入が増え、生活が変革した。

飢餓からの脱出

 朴正熙(パクジョンヒ)は、済州島の開発に関心を抱いていた。1961年9月、朴正熙は国家再建最高会議議長として済州島を初めて訪れ、済州島の開発潜在力について語った。朴正熙はその後折りに触れて来島し、済州島民の自助・自律の気風を持ち上げ、開発政策の全般にわたっていちいち指示を与えた。朴正熙は外貨稼ぎを経済成長の要諦と考えるようになっていて、観光資源が豊かであるこの島に目を着けた。観光にはインフラが欠かせない。1960年代に「道・水・電気の革命」、特に交通網の整備が進められた。
162 1960年代の道の革命とは以下の通りだ。漢拏山を南北に横断する南北横断道路の舗装延長工事(66年竣工)、島を巡る一周道路の舗装、――これは島民の悲願で、植民地期から新作路(シンジャンノ)と言われていた――中山間巡回道路、済州・大静間を結ぶ西部産業道路、済州と表善を結ぶ東部産業道路、済州と中文間の第二横断道路(73年竣工)などがつくられ、全島が一日で結ばれるようになった。
 海上交通でも、済州・木浦間、済州・釜山間の定期旅客船が開設・増便され、済州空港が1968年に国際空港に昇格し、1969年、大阪・済州間の空路が開かれた。1969年、電信電話も済州・陸地間のマイクロウェーブ通信が開通し、国際電話も可能になった。以上の交通・通信網の拡充は、戦前来の日本との関係を絶たれ、四・三事件で閉鎖的になっていた島民の目を、再び外界に向けることになった。
 朴正熙は、漢拏山頂上北西にあるオルム(寄生火山)である御乗生岳を利用して、東西送水管路や支線の布設やダム工事などの資源開発を行ったと言われるが、これは済州島民にとってはまさに革命であった。解放当時、済州市や西帰浦(ソギホ)市などを除いて上水道はなかった。海岸部落は海辺の湧き水に頼り、中山間部落では農業用水を含めて雨水(奉天水)に頼っていた。1971年、水資源開発が完成し、1日に生活用水1万トン、農業用水3000トンが供給されるようになった。済州島の年輩の女性たちにとって、허벅ホボク、水がめ)をかごに入れて背負って水汲みをする苦労は、貧しかった時代の済州島を象徴するものだった。
163 60年の電化率は9.2%であったが、72年に50%、84年、牛島に送電する海底ケーブルが敷設され、済州島の全ての村に電気が供給されるようになった。(金奉玉『増補・済州通史』)
 60年代には絶糧や飢餓から解放されるようになった。1963年、麦の収穫が半減し、絶糧農民が5万人を超え、日本赤十字から救護物資の援助を受けたが、その後は、農薬や肥料の供給、種子の改良、政府の価格維持政策と金融支援などにより、食糧増産を実現し、65年以降はポリッコゲという言葉が聞かれなくなった。
164 一人当たりの道民所得は、60年の8342ウオンから72年には9万9809ウオンになり、食生活も雑穀から、都市部では米に、農漁村では米と雑穀の混穀に変わった。済州島は自給農業から半島部の商品経済に組み込まれた。政府は派手に開発資金を投入し、これに群がる大小の資本が、済州島を市場や投資の対象とした。

蜜柑と在日

 1960年代、蜜柑の栽培が本格化し、これがのちに済州島の主力換金作物になった。これまでは気候が温暖な西帰浦地域だけで市場向けの蜜柑の栽培をしていた。1961年の栽培面積は230ヘクタール、生産量は388トンだった。
陸地部との交通網が整備され、60年代初めに日本から苗木を取り寄せ、政府や道行政も融資や技術援助を行い、1968年、国務総理の金鐘泌(キムジョンピル)が奨学財団名義で中文面に13万坪の蜜柑栽培団地を始めた。その後政府の助成があり、資金や販路を獲得し、一般農民でも蜜柑栽培ができるようになった。
165 在日の済州島出身者が柑橘苗木の寄贈運動を行った。朴政権は在日朝鮮人に「包容政策」を取り、在日の資金を経済開発に利用しようとした。1962年以降、在日の訪問団が頻繁に島を訪れ、開発事業に関与した。電力開発でも在日が日本で済州道電力開発推進委員会を組織し、募金や資材を集め、済州空港の国際空港への昇格に向けた拡張工事でも、在日の資金が導入された。在日は学校施設や村の公民館、農機具、医薬品、電気製品などの寄付や送金も行った。在日の故郷訪問は日韓条約以後急増した。1967年の1423人から1971年の5477人に増加した。71年に故郷に喜捨した金額は3億ウオンになった。
 しかし韓国政府は総連系の在日との接触を堅く禁じた。日本での接触、個人の送金や仕送りまで、総連系の在日によるものは、警察や情報機関が取り調べ、処分の対象とした。
166 インフラ整備と飢餓からの解放は、朴正熙の支持率の拡大にもつながった。1971年朴正熙は金大中と大統領選で戦い、投票率は83%だったが、そのうちの57%が朴正熙に、38%が金大中に投じた。

観光開発

 1970年代から80年代にかけて、観光開発を中心に、換金作物・牧畜などの一次産業の開発が進んだ。産業別就業人口を見ると、第三次産業では1971年の17%、1981年の25%から、1990年の54%に上昇した。観光客数は91年に300万人となり、1986年に観光所得が蜜柑所得を上回った。
 1970年代から80年代にかけて、野菜や果物はソウルや釜山に供給されるようになった。農林漁業の就業人口の比率は少なくなってきたが、全国より多い。それは換金作物の栽培のせいだ。
 70年代のセマウル運動で、藁葺き屋根がスレート屋根に変わり、農道が舗装され、80年代には辺境にも近代化が行き及ぶようになった。
168 農家一戸当たりの粗収入は、高いインフレ率であったが、70年の11万5000ウオンから80年の228万8000ウオンに、90年には1000万ウオンになった。90年代に過剰生産や貿易自由化で農産物価格が低迷したが、70年代と80年代は、済州島農業の全盛期であった。伊地知紀子は済州島北東部の海岸村杏源里を訪れたが、次のように語っている。

80年にかかるころ、島の南部で量産され高値をつける蜜柑畑に出稼ぎできるようになった。その後近隣の人参畑で仕事ができるようになった。海産物の対日輸出も伸びた。鮑(あわび)やサザエの養殖・輸出が促進された。春にニンニクの収入があり、秋の海産物、冬の蜜柑や人参畑への出稼ぎと、生活にリズムができた。観光産業の広がりでノカタ(土方)仕事も増えた。人々が生活に余裕ができたと語るのは、80年代だという。(『生活世界の創造と実践――韓国・済州島の生活誌から』)

反共・安保の論理が、人権・民主主義・自治の論理を圧倒していた時代は過ぎ去ろうとしていた。
169 ただし、70年代から80年代の観光開発は、陸地部の財閥資本の済州島経済への浸透・支配をもたらした。土地の買占め、囲い込み、利ざや目当ての投機が著しく、外地人による土地の支配として済州島民の怒りを買うことになった。

第三節 蘇る済州島

六月抗争

 軍部中心の強権態勢がもたらした社会変化は、強権態勢そのものを掘り崩した。経済成長が産んだ労働者や中間層は、中央政府や職場・地域の権威的な意思決定に不満を持つようになった。光州事件1980.5.18--27は、マルクス主義や主思派(チュサッパ、NL派)*など急進的社会運動の潮流=運動圏をもたらした。この運動圏の主体は、30歳代で、80年代に大学に進学し、60年代に生まれた三八六世代であった。
 運動圏は、1980年代の半ばに生まれた。当時、学生や野党、宗教界、在野の運動団体は、大統領直接選挙制度を盛り込んだ改憲の要求を中心に、民主化を求めた。それに対して新軍部政権*は現状維持を計ろうとしたが、六月民主抗争1987.6がそれに決着をつけた。

1979.10、朴正熙が射殺された
1979.12、粛軍クーデター
1980.5.18—27、光州事件
1981.1、金大中の死刑が確定、即日無期に減刑
1981.3全斗煥が大統領に就任。第5共和国。蘆泰愚新軍部勢力と共存
1988.2蘆泰愚が第13代大統領に就任。第6共和国。

1987年6月の民衆デモは、それを実力で押さえつけようとした軍事政権をねじふせた。ソウル大学生拷問致死*への抗議と改憲を求める国民大会が、6月10日に開催され、6月26日、民主憲法争取国民平和大行進が行われ、6月29日、新軍部政権は、直選制改憲などを盛り込んだ「六・二九民主化宣言」を発表した。(蘆泰愚)この運動の主体は、民主憲法争取国民運動本部(国本)であったが、学生とくに運動圏の学生・青年が、戦闘警察=機動隊と対峙し、デモを主導した。
*主思派=NL派は、1980年代半ばの社会変革論争を通して台頭し、金日成の主体思想を受容した。もう一つの急進的社会運動にPD派がある。PD派は労働現場での階級的課題を重視した。一方NL派は反米自主・南北統一を重視した。
*1987年1月、拘留中のソウル大学生朴鐘哲は、手配中の他のソウル大学生の居場所を追及する警察による水攻めや電気拷問で、拷問死した。
 六月抗争では、地方都市の学生・市民の抗議行動が重要な意味を持った。6月10日の国民大会は、22の地方都市でも行われ、デモは連日行われた。6月18日、釜山では10万人がデモを行った。6月19日以降、光州、全州、清州など湖南や中部の都市でも大規模なデモが行われた。済州市でも学生・市民の抗議行動が行われたが、6月10日には大きなデモはなかった。国本の済州島本部ができたのも、6・29民主化宣言の後である。
171 6月21日、済州市で最初のデモが行われた。『済州新聞』1987.6.22はそれを次のように報じた。
済州大学生500名余(警察推算)が午後、済州市の中央ロータリーなどで、護憲撤廃のデモを行った。…火炎瓶を所持した一人の学生が事前に摘発された。教授に導かれ、投石や催涙弾の投擲はなく、平和的に終わった。
172 済州大学校教授・高昌勲がデモを主導したが、彼によれば、この日のデモの参加者は数千人であったという。デモは23日まで続き、23日には、警察の催涙弾に対して学生が投石で応戦し、21人の学生が連行された。26日の国民平和大行進には、警察発表でも済州市で学生・市民1000人余がデモに参加し、西帰浦でもデモがあったと(新聞が)報じている。
 済州島では民主憲法争取国民運動済州島本部が結成された後に、それと、地域開発への異議申し立てや補償要求という生存権闘争とが結びついてから、運動が本格化した。

スヌルム、固有の文化の再発見

 1980年代末、済州島で社会運動が起ったが、これは六月抗争の影響であると共に、それ以前の1970年代半ばに、興士団*の大学生アカデミーや民族サークルを通して急進的社会思想を学び、秘密裡に四・三の追悼会を開いていたことの影響でもあると、1970年代半ばに済州大学の学生だった許尚秀(ホサンス)が証言する。
また1978年、玄基榮の「順伊(スニ)おばさん」が発表され、ソウル在住の済州島人の小グループが、読書会や四・三追悼会など、四・三運動の出発点となる取り組みを始めていた。(姜南圭・許尚秀証言)
173 光州事件は、学生や、当時20代後半から30代の解放後生まれの済州島人の心を動かした。また1980年8月「劇団スヌルム」*は、マダン*劇「タンプリ」*を初めて公演し、その時「文化宣言」を発表した。

耽羅は文化の辺境であり、行政上の僻地であるが、民族の魂と命脈が生きている。ここは辺境ではない。廃れてしまった私たちの伝統文化に新しい活力を供給する前衛の地だ。(文武秉「済州島の文化運動 診断と提言」)

174 公演「タンプリ」は、外地人=財閥資本による済州島の土地の買占めをマダン劇で揶揄し、その後も「スヌルム」は、済州を拠点にして蒙古軍に抵抗した三別抄や、植民地下の海女の抵抗運動などを素材にして公演を行った。しかし、1983年の「テソンタン」が済州の土地問題を扱い、当局が「住民の扇動を憂慮する」として解散させられた。
 1980年代初めのスヌルムの公演は、済州文化運動の新しい転換点となった。それは済州島の伝統を再発見し、済州島人の自律を模索した。このスヌルムは、後に、四・三をテーマにしたマダン劇で知られるノリペ・ハルラサンの母胎となり、1987年の済州文化運動協議会や、1994年の済州民族芸術人総連合に繋がった。

*興士団は1913年に組織された独立運動団体で、解放後も政党に吸収されずに活動を続けた。1922年に結成された韓国YMCAとともに伝統的な市民団体である。
*スヌルムは、「労働の相互交換」を意味するプマシを表す済州島の表現である。
마당マダンとは「広場」
*タンプリとは「土地にまつわる怨恨を解きほぐす」という意味である。

立ち上がる海女たち

175 済州市の北方の海岸地帯・塔洞(タプトン)は、海女たちの漁場で、海女たちは昔からチャムス会――チャムスは海女を意味する――をつくり、サザエ、鮑(あわび)、ウニなどを採っていたが、建設部が埋め立てを計画し、1987年7月、埋め立て業者が埋め立てを開始した。その後、これまでの補償交渉で予測された被害よりも大きいことが判明し、1988年、海女たちは新たな補償を求めて陳情書を提出し、デモをし、行政や業者を相手に工事差し止めを要求して篭城した。
176 行政側は海女たちの住む地域のごみ収集をサボタージュする嫌がらせをし、家族特に夫を脅し、夫たちに海女たちを篭城から引き戻させようとしたが、海女たちの団結力の方が強かった。
 学生たちや国本など在野勢力が海女を支援し、補償問題だけでなく環境問題も問題にした。海女たちは50日間篭城し、埋め立て会社から補償を勝ち取ったが、学生や在野団体の環境闘争はその後3年間続いた。
 塔洞の闘いは、済州島の他の地域の似たような問題で泣き寝入りしていた人たちを勇気づけ、1988年6月、塔洞の西隣の龍譚洞(ヨンダンドン)の海女たちが、埋立工事に伴う漁場汚染の被害補償を求めて篭城した。そのうちの6人が在野団体の支援を受けてソウルに行き、金大中・平民党(当時)中央党舎で55日間篭城した。業者側は1億ウオンの被害補償金を支払うことになった。
 1987年は翰林西帰浦でも海女たちが、開発に伴う漁場被害補償を求めた。朝天でも塔洞同様、海岸を埋め立てて遊園地をつくる計画が明らかになり、住民たちは「朝天遊園地開発阻止推進対策委員会」を立ち上げ、陳情書の提出や署名運動を行った。また済州市東端の道頭洞や、北済州郡の善屹里松堂里では、下水終末処理場建設反対や補償を求める運動が起こり、また大静面の摹瑟浦では、松岳山の軍事基地設置反対運動が起こり、1990年以降は、ゴルフ場建設問題が起った。
 李芝勲は20代でこの運動に関わったが、「塔洞での勝利はその後の運動の基礎になった」と振り返る。姜南圭も「負ける気がしなかった」と振り返る。この運動は「済州道開発特別法」反対の住民運動につながった。

済州道開発特別法

178 1990年4月23日蘆泰愚大統領が済州島を訪問し、済州道民が主体となって済州島を世界的な観光地として開発するための済州道開発特別法の制定を打ちだした。特定の地域だけに適用される特別法の制定は、初めてのことであり、道の行政や道民の中には歓迎する人も少なくなかった。しかし「道民が主体となって」という言葉は守られず、道民のつんぼ桟敷で政府・与党・道当局による特別法試案の策定作業が行われた。それは済州道による試案という形を取り、中央政府主導による開発の効率性が目立った。
『済州民報』は8月28日、「地域開発よりも観光開発を重視し、実質的な開発の主導権が中央政府にあり、地域住民を阻害している」と批判した。
 特別法試案の策定過程は、行政側の家父長的性格を物語るものであった。行政側の眼差しは、四・三事件という逸脱を犯した罪人、自治能力を欠いた被保護者に対する眼差しであった。朴正熙の眼差しもそうだった。
179 島民は60年代以来開発を通じて疎外感を抱いてきた。80年代の外地人による観光開発や土地投機の実態を島民はよく知っていた。巨大ホテルやゴルフ場建設で島民の土地は囲い込まれ、利益の大半は本土に吸い上げられた。1989年9月の新憲法に基づき実施された道当局への国政監査によると、国公有地を除く半分以上の土地が、外地人の手に渡っていた。
180 公聴会、有識者の紙面討論での論争、デモ・篭城などの反対運動が、1990年半ばから1年半続いた。運動の組織的母体は、「済州道開発特別法制定反対汎道民会」(以下「汎道民会」)であり、神父、牧師、言論人、民主党済州道支部委員長、済州大学教授、学生(済州総学生協議会議長)などの各界代表と、大静、城山、安徳、朝天、翰林などの地域代表が共同代表となった。
梁東允はその共同代表の一人であったが、「汎道民会は、地元の年長世代による草の根的運動が中心となり、これに在野の運動団体が合流した」と振り返る。少年時代に四・三事件を経験した地域社会のリーダーたちが多数参加した。1991年11月、3000人が集会に参加し、デモを行った。
 1991年11月、青年梁龍賛が特別法反対の遺書を残して焼身自殺をした。梁は1966年生まれの南元出身で、西帰浦で運動に参加していた。これを契機に特別法反対運動は反政府運動になった。法案を力づくで押し通そうとする政府与党に対して、中央や地方から反対運動が行われ、デモ、学生による火炎瓶投擲、篭城、断食などで政府に対峙した。これは済州島版の六月抗争であった。中央政府や陸地財閥主導の開発論理に対して、島民主体・環境保護・地元産業育成の論理が対置された。(文京洙『済州島現代史――公共圏の死滅と再生』新幹社)
 法案は何度も修正されたが、蘆泰愚・金泳三・金鐘泌による三党合同1990.2によって成立した巨大与党民自党によって抜き打ち採択された。1991.12この運動は済州島の人々にとってはレッドコンプレクスから立ち直り主体的に蘇るきっかけになり、さらに四・三事件をタブーから引きずり出し、「四・三運動」という島民による四・三事件の問題解決に向わせた。


第四節 四・三特別法への道

闇を穿つ作家たち――玄基榮と金石範

182 「四・三運動」とは、四・三事件の真相究明と名誉回復、補償、歴史的位置付け(「歴史定立」)、責任追及、遺骸や遺跡の発掘、これらの措置を法的に担保する制度作りなどをいう。この四・三運動を本格的に開始したのは六月抗争であるが、強権態勢の下でも沈黙の壁を突き破ろうとする作家がいた。朴正熙の維新体制下で、玄基榮(ヒョンギヨン)は『創作と批評』の中で「順伊おばさん」1978を発表した。
 玄基榮は1941年生まれで、四・三事件を幼少期に体験し、親族の多くをその渦中で亡くし、故郷の村は「焦土化の炎で灰燼に帰したまま、地図の上から永遠に消えて」しまった。(『地上に匙ひとつ』)青年期の玄基榮にとって、済州島は「悪夢の現場、金縛りの歳月」であり(「海龍の話」)、「私の願いは済州の島を脱出してしまうことだった。」(「私の小説の母胎は四・三抗争」)故郷を捨て、ソウルで中学や高校の英語教師をつとめる傍ら、内省的な欧米文学に傾倒し、1975年、東亜日報の新春文芸に、短編「父」が当選し、文壇にデビューした。「維新の抑圧的な状況」と「純文学」との葛藤に苦しみ、「怒りを眠らせ」ることに自責の念を感じ、状況に立ち向かおうと決心した。(「小説における歴史意識」)1978年玄基榮は、四・三の悲劇を素材とした「順伊(スニ)おばさん」を発表した。作品集『順伊おばさん』は1979年に刊行された。
 集団虐殺から家族で一人生き残った順伊おばさんは、30年生きながらえた後、虐殺で犠牲となった二人の子どもが埋められている自分の畑で自ら命を絶った。
彼の封印されていた痛みの記憶は、状況に立ち向かおうとしていた済州島の若者にも共有される。玄基榮は「順伊おばさん」などを収めた作品集が、当局によって筆禍とみなされて連行され、1ヵ月間拘留され、全身が黒紫色のあざとなるような苛酷な拷問を受け、作品集は発禁処分となった。
184 玄基榮の逮捕の際の家宅捜索のとき、隠し持っていた『鴉(からす)の死』*が発覚し、押収された。『鴉の死』の著者・金石範(キムソツポム)は、執念の大作『火山島』で知られるように、自らが本来はそこにいなければならなかった四・三の悲劇を書き続けた。在日の二世が四・三を理解できたのも、『鴉の死』や『火山島』のおかげだ。
 1984年、金石範は発禁処分の解けていない玄基榮の「順伊おばさん」を日本語に翻訳した。
*「鴉の死」は『文芸首都』1957.12に掲載され、『鴉の死』新興書房1967に収録され、『鴉の死』講談社1973として単行本となった。これは金石範のデビュー作であり、1949年2月・3月ころの極限状況をスパイ(丁基俊)の視点から描かれている。

四・三運動の胎動

 1987年6月の抗争は、孤立分散していた挑戦を一つの潮流に変えた。1987年12月の大統領選挙で、金大中候補が初めて四・三事件の真相究明を公約に掲げた。1988年、東京とソウルで、四・三事件40周年記念行事が開かれた。金石範、金民柱、玄光洙(ヒョングアンス)ら「済州島四・三事件を考える会」の旧総連系の人々が、東京で「済州島四・三事件40周年追悼記念講演会」*を開催した。ソウルでは、「四・三学術セミナー」が開かれたが、主催者は、運動圏の人々やこれに近いソウル在住の済州島出身者が組織した済州社会問題協議会であった。
*『「済州島四・三事件」とは何か』新幹社1988に所収
 1988年、梁漢権(ヤンハングオン)や林明林の修士論文*、ジョン・メリルの『済州島四・三蜂起』、金奉鉉・金民柱編『済州島人民の四・三武装闘争史――資料集』などを収録した『済州民衆抗争Ⅰ』が、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ(アラリ)研究院から刊行された。1989年、「済州四・三研究所」(初代所長、玄基榮)が設立され、『済州新聞』が、「四・三の証言」と題した企画を連載し、済州島現地でも、学術、文芸、言論、社会運動などで四・三事件についての論議が本格化した。
*梁漢権「済州島四・三事件の背景に関する研究」と朴明林「済州島四・三民衆抗争に関する研究」は、いずれも『「済州島四・三事件」とは何か』にその一部が収録されている。
186 1987年6月抗争後は「公安政局」*と言われるゆり戻しの時期であり、急進的な社会運動や労働運動に対する規制が厳しくなった。『済州民衆抗争Ⅰ』を刊行したアラリ研究院長・金名植(キムミョンシク)は、国家保安法の利敵表現物製作・配付容疑逮捕され、懲役1年6ヶ月を宣告された。1991年、済州島の在野10団体からなる「四月祭準備委員会」が企画した追悼行事の一部が不許可になり、これに抗議する学生市民と警察が衝突し、200人以上が逮捕された。
*公安政局とは、1989年文益煥などが北朝鮮を訪問したところ、盧泰愚政権は公安合同捜査本部を設置し、南北統一運動と関連する在野団体を捜査し、「不法デモ」に対して「聖域なしに」公権力を投じた。
 5・10単独選挙の阻止を目的とした四・三武装蜂起を、民族的大義にかなう正義の抗争(ハンジェン)として位置づけることは、韓国という国家の正当性をゆるがしかねない重大事であり、4・19や光州事件などの民主化運動とは次元が異なっていた。
 済州島民も四・三となるとためらった。1987年の大統領選で四・三の真相究明を訴えた金大中の済州島での得票率は19%(全国では27%)と振るわなかった。1989年に『済州新聞』の四・三連載企画「四・三の証言」の取材班キャップに命じられた梁祚勲(ヤンジョフン)は次のように回顧している。

キャップに命じられ、内心当惑した。身内や知人は、私がこの仕事を引き受けないように忠告した。(「韓国における<歴史の和解>」)

 四・三武装蜂起を民族解放闘争の中に位置づける運動圏の論理は、済州島民の心に届かず、両極化するばかりだった。
 市民レベルでの反共保守勢力の巻き返しも強烈だった。『朝鮮日報』は四・三関連書籍を、北の体制を賛美する「アカの書籍の氾濫」1988.6.23と警告を発した。
188 1989年にようやく済州島で開催された41周年の追悼行事は、前年1988に組織された「四・三事件反共遺族会」と在野の「四月祭共同準備委員会」との分裂開催となった。1989年末、「四・三の証言」を連載した『済州新聞』で、言論民主化を求めてきた記者が大量解雇された。この連載は、1990年6月に創刊された『済民日報』に移され再開するまで半年間中断された。

受難と和解

 1991年から放映された大河テレビドラマ『黎明の瞳』は、四・三事件を含む解放直後の混乱期を描き、空前の視聴率だった。ドラマは苛酷な弾圧に追いつめられた民衆の自衛的な生存闘争として四・三事件を描き、四・三事件を、硬直した左右の理念闘争から解き放つ上で役立った。
 1990年から『済州日報』で再開され1999年8月まで全456回連載された「四・三は語る」(日本語版は『済州島四・三事件』新幹社)は、『済州民報』による開発特別法の批判と同様、重要な役割を果たした。「四・三は語る」は、6000人の証言と2000種の資料を報道した。
189 1992年の大統領選挙で、金大中候補が四・三特別法の制定を公約に掲げ、これがその後の運動の目標になった。1993年、金泳三の文民政権が成立したことも大きい。
1993年3月済州道議会四・三特別委員会が設置され、調査や慰霊事業に乗り出した。四・三特別委員会は、二年間の調査を行い、1万1665人の犠牲者名簿を掲載した『四・三被害調査第一次報告書』を発表した。その中には10歳未満の子ども649人と61歳以上の老人673人が含まれていた。犠牲者のうち9674人(83%)が、軍警など討伐隊によるものであり、武装隊による犠牲者は11%に過ぎず、暴行による蛮行を強調した反共遺族会などの見方を覆した。(済州道議会四・三特別委員会『済州道四・三被害調査報告書(修正・補完版)』)
 1994年4月、運動圏中心の「四月祭共同準備委員会」と「四・三遺族会」による合同慰霊祭が道議会の仲介によって実現した。梁東允によれば、合同慰霊祭実現に際してのネックは「私たち運動圏内部の問題が難しかったのであり、議会や遺族会の問題ではなかった」と回顧しているが、在野勢力側は、四・三武装蜂起を、抗争民族解放闘争とする見方が根強く、それが一般の住民感情と乖離し、合同を難しくしていた。
190 姜南生も、「第二遺族会の立ち上げを主張する強硬論もあり、激論があった」と振り返る。結局、右派の言い分である「共産暴動」や、左派の言い分である「抗争」という左右のイデオロギー的な解釈を棚上げし、無辜の犠牲者の視点、受難と和解の視点が合同の前提となった。
 合同慰霊際は道当局の支援を受けて、毎年開かれている。受難と和解という視点は、その後の四・三事件解決運動の基調となった。1996年2月、「四・三遺族会」の会長と会長団の改編があり、それまでの反共一辺倒だった上層部が退き、討伐隊による犠牲者遺族を中心とするものに変わった。これによって反共という枠組み以外では沈黙を余儀なくされていた事件の当事者たちの声が汲み上げられるようになった。

特別法制定に向って

 1995年12月金泳三政権時の国会が、1980年の光州事件の問題解決に関わる5・18特別法(5・18民主化運動等に関する特別法)を可決した。これは、反民特委の挫折*以来、韓国の国会が初めて過去の問題と正面から向き合おうとした立法である。

*反民特委(反民族行為特別調査委員会)は、1948年11月、国会で制定された反民族行為特別調査機関組織法によって設置され、植民地時代の対日協力や反民族的活動の調査活動を実施したが、実を結ばないまま、李承晩や警察の妨害によって解散した。

 金泳三政権は、「歴史を見直し、光州での流血は民主主義の礎であり、現政府はその延長線上の政府である」としたが、四・三に関しては依然として頑なだった。
1997年金東満(キムドンマン)製作のビデオ・ドキュメンタリー『眠らない歓声 四・三抗争』と、同じく四・三を扱った『レッド・ハント』(釜山ハニ映像製作)をめぐり、前者は製作者の金東満が、後者はこれを映画祭で上映した徐俊植(ソジュンシク)が、それぞれ国家保安法違反容疑で連行されたが、すでに民主化が進んでいて、この逮捕劇は、四・三に関する議論を圧殺するどころか、その関心を広げるばかりだった。反共団体による、四・三事件の真相糾明や特別法制定への取り組みに対する非難や妨害が絶えなかったが、四・三についての議論や表現を抑圧することは難しくなっていた。
192 1998年、金大中政権がスタートし、4月、済州島を始め、各地で四・三に関する記念行事が開かれた。ソウルでは進歩派で構成された「済州四・三第50周年記念事業汎国民委員会」が主催する、学術・文芸・慰霊などの行事や集会が開かれた。済州島では「第50周年汎道民慰霊祭」が開かれ、与野党の代表が参列し、真相究明の決意を語った。日本では大阪で、講演会、追悼コンサート、展示会が開かれた。
 1998年3月末、与党・国民会議が、党内に「済州島四・三事態真相調査特別委員会」を構成した。1999年3月、済州島で「済州四・三真相糾明と名誉回復のための道民連帯」が発足し、済州島の官民が一丸となって特別法制定促進に動き出し、公聴会、学術シンポ、集会、四・三の遺跡地紀行、講演会、マダン劇、絵画展、国会や大統領への請願などが行われた。1999年12月四・三特別法をめぐる与野党間の調整が進み、12月16日、法案が国会で議決され、2000年1月、大統領によって制定・公布された

『済州四・三事件真相調査報告書』

193 2000年8月、四・三特別法第3条「済州四・三事件真相糾明および犠牲者名誉回復委員会(以下、四・三委員会)を国務総理の下に置く」に基づき、国務総理を委員長に、委員20名からなる四・三委員会が発足した。この委員会は、四・三について議論し、真相を調査し、報告書を作成することを義務づけられていた。2001年1月真相調査報告書作成のための企画団が発足し、その下に専門委員5人と調査要員15人など、20人からなる実務真相調査チームができた。この実務真相調査チームのキャップが『済州民報』の四・三取材班の班長だった梁祚勲だった。
 実務真相調査チームは米国、ロシア、日本などで調査活動を進め、蒐集した資料は、全12巻の資料集として刊行された。討伐作戦に参加した軍司令官や在日同胞を含む事件関連者503名に取材し、証言内容は7巻の証言録として編集された。2003年3月、『四・三事件真相調査報告書』が完成した。報告書は、犠牲者数を2万5000人から3万人と推定し、このうち軍警討伐隊によるものが80%を越えることを明らかにした。報告書は犠牲に対する国家公権力の責任について次のように述べている。

 1948年の済州島では、国際法(1948年のジェノサイド防止協定、および1949年のジュネーブ協定)が求める文明社会の基本原則が無視された。とりわけ法を守らなければならない国家公権力が法を犯し、民間人を殺傷した。討伐隊が裁判の手続なしに非武装の民間人を殺傷したこと、とくに子どもや老人まで殺害した点は重大な人権蹂躙であり、過ちである。

 2003年3月29日、四・三委員会は、激論の末、この報告書を条件つきで採択した。「共産暴動説」に固執する軍警側の委員がこの報告書の内容に反発し、6ヶ月の猶予を置いて、新たな資料や証言が発掘されれば内容を修正して最終的に採択するという条件をつけた。しかしそのような資料や証言は現れず、2003年10月15日、『真相調査報告書』が最終的に確定した。10月31日、済州島を訪れた盧武鉉大統領は、済州島民に対して国としての正式の謝罪を表明した。
195 梁祚勲は、『真相報告書』が、「かつてのような理念中心の見方から脱して、人権中心の視覚から糾明したことを特徴としている」と述べ、「共産暴動というイデオロギー的な見方に、別のイデオロギー的見方を対置するものでない」と強調している。『真相報告書』は、人間の尊厳性、人権という、最低限の価値規範と、実証性を拠りどころとしており、公共的議論が成り立つ最大公約数的な土台である。国家の過ちを指摘するが、多義的な性格を包み込み、多様な体験と思いをもつ人々が和解に向けて議論しあうことのできる土壌と、新しい時代に向けた過去にまつわる議論の作法をこの『真相報告書』は示唆している。

感想 この『真相報告書』は、今後の南北問題、朝鮮の統一という問題を解決するための土台とも言えるのかもしれない。そう著者は願っているのかもしれない。


終章 記憶をめぐる対話に向けて

第一節 残された課題

四・三特別法の改定

197 四・三委員会は『真相調査報告書』の結果を踏まえ、次の7項目を、政府の取るべき措置として建議した。

①政府が謝罪すること
②四・三追悼記念日を制定すること
③『真相調査報告書』を教育材料として活用すること
④四・三平和公園を作るのを支援すること
⑤遺族に対して支援すること
⑥集団埋葬地の遺骸や遺跡地を発掘すること
⑦追加的な真相糾明と記念事業を行うこと

 この建議によって大統領の謝罪が実現し、犠牲者申告の期間が延長され、その範囲も、軍法会議による受刑者にまで拡大され、2007年3月までに1万3564人が四・三事件の犠牲者として認定された。
198 四・三平和公園は、済州市奉蓋洞の12万坪の用地に、2004年3月までに、第一期工事が完成し、記念広場と位牌奉安室が完成した。2008年4月までに、四・三史料館などの第二期工事が完了する予定である。2003年の55周年以降、4月3日の慰霊際はこの平和公園で挙行され、2007年末の大統領選挙では、有力候補者のほとんどがここを参拝した。
 四・三委員会の建議によって、長期的・持続的な活動の推進のために、四・三特別法の改定問題が提起された。2007年1月、与野党合意でこれが実現し、2007年4月、四・三特別法改定施行令(大統領令)が公布された。改定法は、犠牲者の範囲に、受刑者を含めることを再確認し、集団虐殺地の調査・遺骸発掘事業を進めることが明記された。また政府の支援による平和人権財団の設立などが規定され、調査・発掘や慰霊行事をこの平和人権財団(2008.3設立)が行うことになった。
 残された課題 調査・発掘、慰霊事業が政府の手を離れ、財団という民間に委ねられるのではないかとの懸念がある。2008年1月、李明博政権与党のハンナラ党が、四・三委員会そのものを廃止し、真実和解委員会に統合する法案を国会に上程した。さらに米国の責任問題、第九連隊や第二連隊などの討伐軍や警察関係者の処分問題など残された課題は多い。
199 また被害補償問題も見通しが立っていない。四・三特別法には医療支援金や生活支援金の規定はあるが、補償についての規定がない。改定法でも補償は実現しなかった。2005年に成立した「真実・和解のための過去事整理基本法」(過去事法)に基づいて設置された真実和解委員会は、2007年11月、大静面上摹里ソダル・オルムで、朝鮮戦争開始直後の「予備検束」による虐殺犠牲者として218人を認定し、政府による謝罪と、被害についての「実質的補償」を勧告した。しかしこれは、時期や犠牲の類型によって、補償の扱いが異なる可能性を示唆している。

遺骸発掘

 『真相調査報告書』の建議による取り組みのなかに、闇埋葬された遺骸の発掘事業がある。二度の軍法会議146, 1948.12, 1949.7で民間人が死刑を言渡され、集団銃殺され、また、朝鮮戦争中、多くの予備検束者が、済州飛行場145, 1950.8.19(現在の済州国際空港)や大静面上摹里、西帰浦、摹瑟浦などで集団虐殺された。これらの虐殺は徹底的に秘密裡に行われ、日時や場所が曖昧なままとなっていた。遺家族は死者との交流の場としての祭祀(チェサ)も行えず、墓は遺体もなく仮墓とされた。また「保安監察対象者」としての連座制のため、苦痛がさらに大きかった。(朴贊殖「抗争と隠蔽の四・三――遺骸発掘の現場報告」)
 2006年11月、遺骸発掘事業の第一段階がようやく始まった。済州市禾北洞で行われた発掘では、完全遺体が10体、部分遺体80点余が収拾された。今後DNA鑑定して遺家族に返されることになっている。2007年1月、四・三特別法の改定法が成立し、「集団虐殺地・埋葬地の調査及び遺骸発掘収拾に関する事業」が改めて規定され、9月、済州国際空港南滑走路の西北側で発掘が行われた。この地で1950年8月、予備検束者の集団銃殺が行われ、500人~600人が闇埋葬されていると推定されている。
201 金石範は「済州島を思う」1983の中で、次のように語っている。

かつてアメリカ軍の飛行場だったところは集団死刑執行場であり、虐殺死体の穴埋め場所だった。近くの済州警察の、立錐の余地もなく放り込まれた留置場から、どれだけ多くの人が裁判もなしに、トラックで飛行場に運んでこられ、そして死んでいったことだろう。…済州空港の一隅に、その下に眠る無数の愛国者の墓碑が建てられるのはいつのことだろう。これはたわけ者の空想か。

202 11月までに完全遺体が36体、部分遺骸が737点発掘された。現場では、虐殺に使用された弾丸や薬莢、犠牲者のものと思われる履物やボタン、印鑑、メガネ、煙草のパイプなど多数が発見された。

四・三事件と在日

 四・三特別法第10条は、「委員会は、大韓民国在外公館に、被害者及び遺族の被害申告を受け付ける申告処の設置を要請しなければならない」としているが、この種の規定は、朝鮮戦争時の国軍による民間人虐殺事件や、光州事件の問題解決関連法令にも見られず、四・三事件と在日社会との関連を示唆する規定である。四・三事件が在日社会へどんな影響をもたらしたのかは、未解決の課題だ。
 1930年代、大阪を中心に済州島出身者のコミュニティが作られた。このコミュニティは済州島住民の生活圏の一部となり、四・三事件前後、済州島からの密航者が身を隠す拠りどころとなった。解放時の200万人以上の在日朝鮮人のうち150万人が本国へ戻ったが、大阪からも70%から75%、30万人が本国に帰還し、済州島出身者も5万人が帰国した。
203 しかし帰還した済州島の食糧難、コレラ、三・一節事件などを嫌い、1947年までに3000人が日本に戻った。(『真相調査報告書』の中の金民柱の証言)オーストラリア文書記録館所蔵のイギリス連邦軍作成資料によると、1948年6月から8月にかけて、愛媛県西宇和郡の漁港に密航した朝鮮人290人のうち281人が済州島出身者だった。(藤永壮「済州四・三事件の歴史的位相」)分断国家の成立する1948年8月以降、とくに10月以降、海上封鎖が強化され、実態は今でも正確に把握されていない。
 GHQの記録では、日本への密入国者数は、1946年が2万2132人、そのうち98%が朝鮮人で、1947年5月外国人登録令*が公布され、密入国者は6630人に減少したが、1948年の8408人、1949年の9437人へと増加した。
*日本の占領期1945.8—1952.4を通して、在日朝鮮人は、日本の司法権に従い、納税義務を果たす「日本国民」とされながら、新憲法の公布直前に、勅令で制定された外国人登録令第11条の「見なし規定」により、在日朝鮮人は、登録義務を課され、違反者への退去命令を伴う外国人とされた。
1949年の密入国者9437人のうち70%が逮捕されている。G-2の覚書 Data of Illegal Entry of Korean for the year 1930(?)-1949にこれらが記録され、「外国人登録令の後も相当数のKoreanが入国を企図して成功している」としている。
204 これらの密航者や、北朝鮮からの情報によって、済州島の惨状は日本の在日朝鮮人社会に逐一伝えられた。1949年初め、大阪や東京の済州島出身者の集住地域を中心に、犠牲者の追悼と虐殺への抗議を掲げた集会が開かれた。1949年3月1日、朝連(在日本朝鮮人連盟、1945年10月結成)生野支部が中心となった「救国闘争犠牲者追悼人民大会」には1万人が参加した。(村上尚子「プランゲ文庫所蔵の在日朝鮮人刊行新聞にみる済州四・三認識)

阪神教育闘争と四・三事件

 1948年4月、済州島では四・三武装蜂起が起ったが、その時同時に、在日朝鮮人の民族教育をめぐる阪神教育闘争事件が起った。解放直後、朝連204などの在日朝鮮人組織が推進した民族教育事業に対して、GHQと日本政府は、当時の在日朝鮮人が法形式上は日本国民であるからとして、この民族教育事業を否定し、弾圧した。(文京洙『在日朝鮮人問題の起源』クレイン)
 神戸では1948年4月24日、非常事態宣言(「限定付非常事態」)が出され、27日までに、日本人の共産党員を含む1664人が検挙され、大阪では、26日、大手町公園での(朝鮮人)学校閉鎖に抗議する3万人参加のデモに、警察が発砲し、当時16歳の金太一が死亡し、27人が負傷した。
 この事件は、GHQの占領政策が、日本の非軍事化・民主化から、経済復興や反共に変化する中で行われたが、神戸で適用された非常事態では、間接統治方式を取った日本占領政策で、米軍は、このときだけが直接介入した。その米軍の意図を見抜くべきだ。
 日本の占領当局は、当初から朝鮮半島の情勢に重大な関心を抱いていた。駐朝鮮米軍総司令官・ホッジを据えたのはマッカーサーだった。マッカーサーはGHQの最高司令官(SCAP連合国最高司令官)であるとともに、米太平洋陸軍司令官だった。
206 GHQの政策は、朝鮮半島と日本を含む極東情勢全体の文脈のなかで策定された。米軍は1948年5月10日の単独選挙を重視していた。1948年4月10日のGHQ文書(GHQ, FEC, Staff Study Operation, “STRETCHABLE, Edition 1,” 10 April 1948, MacArthur Memorial)は、単独選挙前に韓国で大規模な反対運動が起こることを予想して、「在日朝鮮人のうち、特に大阪地区在住の異端分子は、南朝鮮での大規模な暴動と連帯し、在日占領軍を困難に陥れる目的のために示威運動を行い、暴動を起こし、他の民衆運動を支援するかもしれない」としている。米占領当局は、日本での民族学校をめぐる騒動を、韓国での単独選挙問題と結びつけて考えていた。(文京洙「四・三事件と在日朝鮮人」)
 GHQが直接四・三事件に言及した資料は今のところ見い出せないが、GHQや国務省が単独選挙を意識して、「南朝鮮での大規模な暴動」という場合、済州島での動向が念頭にあったものと思われる。

日本の四・三運動

207 韓国政府、北朝鮮労働党いずれも1960年代以降、四・三事件に触れることを嫌っていた。済州島出身の在日も、済州島に住む親族や北朝鮮への帰国者を気遣い、口をつぐんでいた。
 その中で元総連系の知識人や作家が、四・三事件を執拗に問い続けた。1950年代金石範は「看守朴書房」(『文芸首都』1957.8)と「鴉の死」(同、1957.12)を書き、1960年代金奉鉉・金民柱『済州島人民の四・三武装闘争史』1963が出版された。在日二世が四・三事件をイメージできるのは彼らのおかげだ。日本社会も『鴉の死』に関心を持った。『済州島人民の四・三武装闘争史』は、1980年代の韓国の運動圏のバイブルとなった。
 これらは前史である。日本での四・三運動の画期は、1988年4月、東京で開かれた「済州島四・三事件40周年追悼記念講演会」である。これは「済州島四・三事件を考える会」が主催し、当会はその後も、講演会、記念行事、出版活動を行った。1991年以降は、大阪でも開催し、記念行事を開催したが、大阪のほうが沈黙の壁は厚かった。
208 沈黙の壁が揺らぎはじめたのは、1998年四・三事件50周年記念事業だった。東京で、ブルース・カミングス、金石範、梁石日などの連続講演会が企画され、1998年4月に記念コンサートが開かれた。(金石範・金時鐘『なぜ書き続けてきたか、なぜ沈黙してきたか――済州島四・三事件の記憶と文学』)大阪では講演会に続いて、済州島からシンバン(神房。陸地ではムーダンという030*)を招待し、趙博など在日ミュージシャンの演奏と合わせて追悼会が開催され、一世のハルモニ(おばあさん)たちをはじめとする500人の参加者が、シンバンの慰霊の舞いと語りに笑い、涙した。1998年8月、前年1997年の台湾に続いて、済州島で、「東アジアの冷戦と国家テロリズム」第二回シンポジウムが開催されたが、そのとき日本事務局は重要な役割を果たした。
*ブルース・カミングス1943.9.5-- 米国の歴史学者、政治学者。朝鮮半島を中心とする東アジア政治。
*ムーダン(무당巫―)、シャーマン、巫女(みこ)
 2000年の四・三特別法の制定は、沈黙の壁を突き崩すのに大いに貢献した。2000年10月、「在日本済州島四・三事件遺族会(会長、康実)」が発足し、日本での犠牲者申告の取り組みが始まった。2003年、「55周年記念講演とマダン」や、ノリペ・ハルラサンの東京朝鮮中高級学校での公演、2004年の大阪での56周年慰霊祭「済州島四・三事件 その希望の始まり」などの慰霊行事が行われ、在日の民団や総連の支部委員長や支団長がその共同代表となった。

209 しかし、在日朝鮮人と四・三事件との関連の調査・研究はまだ緒についたばかりだ。

第二章 記憶をめぐる戦争

韓国の過去清算

210 2006年4月、盧武鉉大統領が再度済州島を訪れ、四・三事件58周年の慰霊祭に参加した。2005年1月、済州島は「世界平和の島」として韓国政府によって指定されていたが、盧武鉉はその指定の理由を、「済州島が四・三という歴史の痛みを乗り越えて、真実と和解という過去清算の模範を示した」と述べ、また国家権力の誤りや逸脱行為の清算(整理)について次のように語った。

国家権力による誤りは、整理せずに済ませることはできない。国家権力は如何なる場合にも合法的に行使されなければならず、逸脱に対する責任は、特別に重く扱われなければならない。赦しと和解を説く前に、無念の思いで苦痛を強いられた方々の傷を治癒し、名誉を回復しなければならない。これは国家がしなければならない最小限の道理である。それでこそ国家権力に対する国民の信頼も確保され、共存と統合を語ることができるようになるだろう。

211 盧武鉉政権2003.2—2008.2は、過去清算が最も徹底して進んだ時代だった。2004年、朝鮮戦争時の民間人虐殺に関する「韓国戦争前後民間人犠牲者事件真相糾明名誉回復などに関する立法」や、植民地期の強制連行に関する「日帝強占下強制労働犠牲等に関する特別立法」や、親日派清算のための「日帝強占下親日反民族行為真相糾明に関する特別法」などが制定された。
 またこれらの特別法を総括する母法(基盤法)として、植民地期から軍事政権期にいたる全ての事案に適用して、真相糾明や責任の追及、補償などを整合的・効率的に実施できる特別法の立案・制定が模索され、2005年5月「真実・和解のための過去事整理基本法」(過去事法)が成立した。この法律は、植民地期の独立運動弾圧、解放から朝鮮戦争にいたる時期の民間人集団虐殺、建国後に不当な公権力の行使によって発生した疑問死、逆に大韓民国の正統性を否定するテロ行為など、近現代史の人権蹂躙、疑問死、テロなどを包括的に対象とする。
212 日本では「日帝強占下親日反民族行為真相糾明特別法」だけが、対日ナショナリズムを煽る反日法として注目されたが、韓国での過去清算はそれだけでないし、またそうだとしても、それは韓国国内での植民地主義の清算を問題にしている。
 過去清算の出発点は、光州事件の5・18特別法と四・三特別法だった。四・三特別法は、受難と和解を明言し、政府による真相調査、国の責任の明確化と謝罪など、過去清算の範例の最初の事例だった。2007年3月、第12回四・三委員会に臨んだ権五奎(クオンオギュ)総理代行は、「四・三委員会は、真相糾明と和解・共存など、過去清算の実践的モデルである。」とした。
 難問がある。四・三事件は単選・単政反対の武装蜂起であり、現在の韓国は、その単選・単政として生まれた国家であるという難題である。光州事件では、軍事政権期の住民虐殺や人権侵害における権力行使の行き過ぎや誤りの訂正が問題であるが、四・三では、韓国という国家の正当性が問われている。
 これは韓国一国家で清算できるものではない。南北両政府、米ソなど全ての関係諸国が、東アジアの戦後体制を問い直す上での課題である。

記憶をめぐる内戦

 韓国で過去の清算が進んだ「新しいミレニウム時代」に、東アジアでは、記憶をめぐる歴史戦争(徐仲錫『韓国現代史60年』)が展開された。小泉純一郎総理の靖国神社参拝、歴史教科書問題、島根県の「竹島の日」制定などをめぐり、日本と韓国・中国との間で、歴史認識をめぐる齟齬が生じ、非難の応酬が続いた。また中国の進めた歴史研究プロジェクト「東北工程」の成果が2004年に明らかになり、そこで高句麗と渤海を中国史の一部としたことに韓国が反発し、中韓の外交問題になった。
214 1995年の村山談話*「戦後50周年の終戦記念日にあたって」は、1980年代以来の日本人の他者意識の変化や加害者としての自覚が国民的に共有されたことの現われだったが、一方では同時期に、過去の反省は、日本の近代そのものの否定であるとか、日本人のアイデンティティを揺るがすとかいう危機感を表明し始めた。「新自由主義史観研究会」1996や「新しい歴史教科書をつくる会」1997などの歴史修正主義が台頭し、戦後責任を踏まえた民主主義の潮流と拮抗し、これを圧倒し始めた。それは相互依存のグローバル世界での日本外交の行き詰まりとなり、安倍政権が倒壊する一因となった。

*村山談話 自・社・さきがけの連立政権の首相村山富市の談話。日本が「遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで、国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」と総理大臣として過去の反省を語り、これが日本政府の公式見解となっている。

215 民主化以後の韓国でも、植民地期の親日派問題は、今でも内戦状態である。『真相調査報告書』の確定でも論戦が続いた。四・三委員会は、国務総理を委員長に、法務・国防・行政自治・法制局などの現職閣僚・長官8人と民間人12人の20人で構成される政府・民間の粋を集めた公論の場であったが、2003年3月、『真相調査報告書』草案がこの委員会に示されてから確定するまでに8ヶ月かかり、その間8回の会議を開かれ、激しい論戦が繰り広げられた。国家の誤りを認める草案の主旨は損なわれなかったが、中央委員の二人と専門委員が反対し、辞任した。(梁祚勲「済州四・三と平和の島」)2007年7月、43の保守団体が19万の署名を集め、『真相調査報告書』と大統領の謝罪が憲法違反であるとの訴えを起こしたが、憲法裁判所はこれを却下した。
216 第17代大統領選挙2007.12で李明博ハンナラ党候補が圧勝したことによって、反共保守勢力がにわかに活気づき、2008年1月、在郷軍人会をはじめ星友会*、ニューライト全国連合など、韓国の保守右翼団体の代表が「国家正統性確立国民協議会(仮称)」を結成するための発起人大会が開かれ、四・三事件を「武装暴動」として再検証すると宣言した。

*星友会 1989年設立された陸海空軍と海兵の予備役将校の団体。
*ニューライト 2004年ころ台頭した政治潮流で、従来の反共保守勢力(オールドライト)と(左翼)運動圏との双方を批判し、民主主義や言論の自由を前提に、市場経済の擁護、植民地近代化論*などを主張している。ソウル大学名誉教授安秉直など。
*植民地近代化論 「日本は朝鮮を収奪しなかった。強制徴用はなかった。日本軍「慰安婦」らは性奴隷ではなかった。親日することが愛国である。」などと主張する。論者には、イ・ヨンフン元ソウル大教授、ハンスンジョ元高麗大学教授などがいる。

四・三事件の「歴史的定立」

 四・三特別法制定直後の四・三委員会で、李漢東(イハンドン)国務総理は、四・三事件犠牲者の審議外対象者として次の者を挙げた。①四・三事件勃発に直接責任がある南労党済州島党の「核心幹部」と②軍警の鎮圧に積極的・主導的に対抗した武装隊の「首魁級」である。蜂起を計画した南労党幹部と武装隊司令官は犠牲者として認定できないというのである。

 韓国では悪政に対する民衆の正当な抗議行動を抗争(ハンジェン)という。光州事件での学生・市民の抗議行動も抗争として公式に位置づけられている。四・三運動は、四・三武装蜂起の歴史的意義づけ(歴史定立)を棚上げにし、国家公権力による犠牲・受難として進められてきた。四・三特別法でも、『真相調査報告書』でも、この精神が貫かれている。しかし、この考え方は、四・三事件を共産暴動とする反共保守勢力からも、四・三の武装蜂起を抗争と見なす運動圏からも批判された。後者の運動圏の立場に立つ人に梁正心がいる。

 彼女は『真相調査報告書』に象徴される四・三運動が「良民虐殺」という被害の側に過度に焦点をあてていると批判する。四・三の被害者の多くが、左翼や「共産暴徒」とは無縁な無辜の「良民」であったと強調することは、左翼や「アカ」なら虐殺されても仕方がない、という論理になりかねず、彼女もこの点を指摘する。

四・三特別法を支えている言説は、民衆の苦痛と受難に重きを置くことで、真正の抗争の歴史の叙述よりも、罪もなく死んでいったことを暴くことに終始している。抗争の歴史ではなく、受難の歴史、つまり加害者の歴史を越えることができない。この点は国家テロリズムに関する主張も同様だ。当時の済州島民は被害の当事者である前に、四・三を起こした抗争の堂々たる主体でもあった。

218 四・三武装蜂起は、南北分断に反対し統一国家を目ざす抗争であった。済州島民の多くは、左翼勢力と有機的に結合していた。(「排斥された記憶――済州島四・三抗争の歴史」)

 こういう「民族解放闘争」的な見方に対して、朴贊殖は、同じ抗争説に立つが、三・一節事件後のゼネストへの「全島的(地域)かつ全道的(階層)済州民の参加に着目し、そこに示された「地域自治に対する熱烈な期待感」を重視する。(朴贊殖「済州島抗日運動と<四・三>の連関性」)
 四・三武装蜂起には、陸地からやって来た軍政警察や右翼の横暴に対する自衛的・限定的な反攻という側面と、単独選挙阻止に見られる民族統一運動との二つの側面があった。人民委員会の自治共同体的性格や、反外勢的伝統に視点をあてれば、前者の側面が強く、南労党の革命戦略としての反帝(反米)民族運動に視点を当てれば、後者の側面が強い。
実証的研究からすれば四・三武装蜂起は、前者の性格が強かった。単独選挙阻止・民族統一を目指すものであったなら、単独選挙を間近に控えた4月28日に、武装解除を含む和平に武装隊が応じた107事実を説明できない。これは自治共同体の危機に根ざす外部勢力(陸地警察や西青)に対する反撃であった。しかし、一旦このように始まった武装闘争は、単独選挙阻止闘争から海州会議115を経て、南北の分断政権が成立する頃には、否応なしに、北朝鮮の民主基地路線に基づく統一戦略の一環に組み込まれたのではないか。客観的にはそのようなものと見なされざるを得なくなったのではないか。
 武装隊の闘争を正当化すれば、武装隊に殺害された1764人の犠牲者遺族は無念の思いに沈むのではないか。彼らの中には軍警でも右翼でもない、無辜の良民が数多く含まれている。
220 記憶の戦争から記憶の対話へ向うべきではないか。

感想 著者は脱イデオロギー的だ。中庸と言うか。

おわりに

221 済州島四・三事件に関して、何も語らないままこの世を去った当事者が多い。だから四・三の歴史叙述は不完全である。
私は東京の済州島出身者の集住地域で育ったが、ここでも沈黙の壁は厚かった。私の父は1912年生まれだが、同郷のつてで大阪に渡り、活字拾いの職工になった。父からも四・三について何も聞いていない。父は解放(ヘバン)後、済州島に一旦帰ったが、畑仕事や漁業ができず、1946年に大阪に退散した。1947年、母もその後を追った。それはちょっとした出稼ぎ気分の密航だったかもしれない。父は1989年に亡くなったが、それまで済州島には一度も帰らなかった。母は半世紀後、済州島に戻り、父の死後10年ほど生きながらえたが、四・三については何も語らなかった。

222 1990年代前半までの大阪の在日の社会では、四・三について語ることを憚る雰囲気があった。日本での四・三運動は、そういう雰囲気を突き破ることを目的の一つとしていた。1998年頃にはその目的はかなり達成できた。

 以上の意味で、『済州日報』取材班が10年間に渡り、500人~600人の証言を集めた功績は大きい。
223 『済州日報』取材班の梁祚勲・金鐘旻は、『真相調査報告書』の作成にあたっても、国内外の2000人の証言を得た。本書は彼らの功績(『済州島四・三事件』全六巻や『真相調査報告書』)に依拠している。

 本書は四・三事件40周年1988の頃から20年近くにわたる日本での四・三事件の問題解決をめぐる取り組み(四・三運動)の中で生まれた。

2008年3月14日
文京洙

235 「済州四・三事件真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法」2000.1.12公布、2000.5.10施行
241—254 植民地期から2007年までの済州島と南北朝鮮の年表を別仕立てで詳細に作成している。

文京洙 1950年、東京生まれ。立命館大学国際関係学部教授。

以上
2020428()


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