2020年4月15日水曜日

ヤルタ会談でのソ連の対日参戦時期に関する記述 20200415


ヤルタ会談でのソ連の対日参戦時期に関する記述 20200415

以下の二つの文章をどう読みますか。

(1)「日ソ間には、ノモハン事件以後の1941年4月に締結された中立条約があり、その有効期限は5年、つまり、1946年までとされていた。日本が関東軍の精鋭を満州から済州島に移したのは、敗戦のぎりぎりまでソ連の参戦を予測できなかったためであった。日本政府は、無条件降伏を求めたポツダム宣言が7月26日に発せれた段階で、これにソ連が加わっていなかったことから、この期に及んでもソ連に講和のための仲介を期待する始末であった。
 だが8月8日深夜、ソ連は日本との中立条約を破棄し、アジア極東への怒涛のような進撃を始める。(『済州島四・三事件』文京洙054
(2)「1945年4月5日に日本との中立協定の破棄を宣言したソ連は、8月8日に対日宣戦を布告した。」(『朝鮮近代史』姜在彦316

ドイツ降伏後の「3ヵ月後に」、「90日後に」、「3ヶ月以内に」、「2、3ヶ月以内に」など諸説があるのですが、私見では「2、3ヶ月以内に」が正しいのではないかと考えています。

ドイツ降伏後の「3ヵ月後に」と「、3ヵ月以内に」では意味合いが違うと思います。
「3ヵ月後に」の含意は以下のようになるのではないでしょうか。
「ソ連はドイツ降伏後すぐに対日参戦をしないで3ヶ月待て。ドイツ降伏後3ヶ月以内に米国が日本を降伏させ、戦後処理は米国主導でやるつもりだが、それができなかったらソ連が対日参戦してくれ。」とか、
「ソ連はできるだけ早く対日参戦したい、自己の領土的欲望を満たしたいと思っていて、協定で約束されたところの、ドイツ降伏後3ヶ月が経つと、待ってましたとばかりに日本に攻めて来た。しかも中立条約を破って不意に、そして敗戦間際だと言うのに、攻めてきた。そして降伏後でさえ、攻撃を止めなかった。」というものです。
一方「2、3ヶ月以内に」の含意は、「米国は対日戦で手を焼いている。米国青年をこれ以上死なせたくない。できるだけ早くソ連が対日参戦し、日本を早期に降伏させるよう協力してくれないか。戦争の準備もあるとしても、ドイツ降伏後2、3ヶ月以内に参戦してくれ。」というものです。

ソ連がドイツ降伏後すぐに対日参戦しないで、最長3ヶ月後まで待ったのは、国民の命を無駄にするような対日参戦をできたらしたくなかったのかもしれませんし、また、その戦争の準備が整っていなかったのかもしれません。そしてヤルタ協定に書かれたソ連の領土的利益条項は、米国がソ連に対日参戦を要請するために、ソ連に示したご褒美だったのではないでしょうか。
このソ連の領土的利益条項の中には、日露戦争の結果を否定し、ロシアを揶揄し、その雪辱を果たすような条項が盛り込まれています。南樺太の返還、大連でのソ連の優先的利益の擁護、ソ連の海軍基地としての旅順港のソ連の租借権の回復東清鉄道と南満州鉄道の中ソ共同運営とソ連の優先的利益の保障、千島列島の引渡しなどの利権をソ連に認めるというものです。
さすがに外蒙古=モンゴルの現状維持と、港湾・鉄道に関しては、中国のいないところで欠席裁判はできないと考えたからか、協定条文の後段に、「蒋介石の同意を要する」と書かれています。
そして条文の最後には、日本が降伏した後でも攻撃の手を緩めなかった理由となるような文章が書かれています。「三大国の首班は、ソビエト連邦の右要求が、日本国の敗北したる後において、確実に満足せしめらるべきことを協定せり。」
また、会場もワシントンではなく、ソ連のお膝元のヤルタで行ったのも、ローズベルトのスターリンに対する気遣いだったのではないでしょうか。

以下は、私が調べた文献とその関連記述及び私の考えです。

姜在彦『朝鮮近代史』316 では「二~三カ月以内」としているが、これが正しいようだ。ウイキペディア日本語版の「90日後」、同英語版の “three months after the defeat of Germany” 、岡部伸『消えたヤルタ密約緊急電』新潮選書2012 035の「2カ月または3カ月後を経て」は間違いのようだ。姜在彦『朝鮮近代史』の訳文と一致する二つのネット上の資料 (britannica. com HISTORY.COM EDITORS)を見つけた。それには “within two or three months after Germany’s surrender” とある。

ソ連は日ソ中立条約の破棄を宣言1945.4.5し、8月8日に日本に対して宣戦布告をしているから、全くいきなり日本に攻めて来たのではない。(『朝鮮近代史』姜在彦316

種村佐孝『大本営機密日誌』によると、「在ソ連日本大使館の婦女子がしきりに帰国を急いでいて、本日漸く酒田に出帆帰国した」1945.7.24とし、その「帰国の目的に関し、ソ連の対日参戦が近いこと、或いは空爆避難」と両論併記293し、また、7月27日に知ったポツダム共同宣言294にソ連の署名がないことの、大本営の中での解釈に関して、二つの予測を示し、一つはソ連の対日参戦はない、もう一つは参戦が近いとしており、また、7月30日に、「白木ロシア課長が、ソ連の対日参戦は8月10日頃であろうと極言していた。」295と述べ、8月4日には、種村自身が、後任の山田大佐に引き継ぐとき、ソ連の参戦を考慮した作戦を立てることの必要性を教示している。296
従って日本がソ連の対日参戦に対して、全く無防備だったとは思われない。

 『消えたヤルタ密約緊急電』岡部伸 新潮選書 2012 は、迫水の回想を引用し「米英との和平交渉には軍が反対するから、ソ連による仲介和平案しか期待できるものがなかったので、それが非現実的だとしても、それに縋り付いた。」としているから、ソ連の対日参戦を「予測できなかった」というより、奇妙な話だが、予測はしていても、それを否定したかったのではないか。453

以上

2020415()

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