2020年6月15日月曜日

魔術からの解放――近代的人間類型の創造 大塚久雄 1946年12月号 1946.10.17 要旨・抜粋・感想


魔術からの解放――近代的人間類型の創造 大塚久雄 1946年12月号 1946.10.17


 学生時代に「岩波文化人」と揶揄する言葉を聞いたことがあるが、安倍能成、大塚久雄、丸山真男などを読んでみて、ああこういうものかと思った。彼らは、戦時中は何ら反戦活動をせず、戦後になってここが悪かった、あそここが悪かったなどと自分の専門分野を交えて饒舌に説明して見せ、戦前・戦後を通じて、大学で尊大に構えて、観念の世界で遊んでいる。知識人よ、もし知識があるのならば、もっと政権=現状を批判せよ。


大塚久雄は民衆が低脳だった(魔術=天皇制を信仰していた)から戦争が避けられなかったのだ、戦争を避けるためには民衆を教育せよと実質的には言っているように思われるが、それでは逆に民衆の方から、知識人が、体制内における自らの保身のために、声を上げなかったから戦争が避けられなかったのだなどと言われることがあり得るだろうか。まずあり得ないだろう。それは不公正で、一方的な断罪である。世の中=政治のことをいくらかなりともよく知っていて、為政者に対してある程度の発言力があった知識人こそ、何もせず傍観していたことが咎められるべきではないか。

 日本が戦争に負けたことは歴史的必然だ058などと涼しい顔をして言っているが、自分が戦前その日本国の中で大学教授として給料をいただいて生活し、恩恵を受けてきたこととどうつじつまをつけるのか。あなたは戦争を阻止するためにどんな活躍をされたのか。ただ観念の世界で遊んでいただけではないのか。

 彼は戦前の日本が「国際的な栄誉」を享受していたと考えている。058安倍能成同様大塚久雄も、戦前の日本の植民地支配や侵略戦争を肯定しているようだ。


魔術の一形態として「人間」を上げる。これは暗に天皇を指すと思われるが、そのことは直接に触れない。ずる賢い。奴隷は主人(天皇)に殴られ(召集・戦死)ても、そのこと(殴られたこと=戦死)で身体的に主人(天皇)に近づけたことを誇りにし、そのことを他人に見せびらかすという。057

マックス・ウエーバーや聖書からの引用が多いが、それは単刀直入に自らの考えを述べるのを避けるための隠れ蓑のようにも思われる。


大塚久雄の略歴はウイキペディアによれば、次の通りである。彼が本論分を執筆した時期1946.10.17は、39才で、東大助教授の頃である。やはり岩波書店と東大との関係は深い。彼は三高時代、片脚を負傷し、後に切断したという。
大塚久雄1907.5.3—1996 三高、東京帝国大学経済学部卒業1930、大学では本位田祥男や内村鑑三に師事した。法政大学非常勤講師1933、同大助教授1935、同大教授1938、東京帝国大学経済学部助教授1939、同大学教授1947、同大名誉教授1968

以下、要旨をまとめる。

一 

048 幼少の頃の訳の分からない暗黒の恐怖(天皇制)をほほえましく懐かしく思い出すが、今でもその非合理な圧迫感に憎悪さえ感じる。
 マックス・ウェーバーは「魔術からの解放」Entzauberungを唱えた。それは非合理的な魔術からの、合理的で自発的な、民衆の心理的解放である。
049 朝日新聞記者の青鉛筆1946.10.12に次のような一文があった。「福の神」を自称する男が長野の村々を歩いて廻り、十銭札をただで村人にやり、それを「お札」と見なせば、「五穀豊穣・家内安全」を保証すると、経文や呪文を唱えるのだが、最後はりんごを戴いて帰るというものだ。
 ここで村人は魔術に取りつかれているが、記者は魔術から解放されている。村人が魔術に取り付かれるのは、それを受け入れるだけの社会的素地があるからだ。それをウェーバーは魔術の園Zaubergartenという。
 それは中国の風水や我国の家相でもある。私自身も、数年前大病した時、「家相」が悪いとか、「窓をいじったから」とか言われたり、いかがわしい療法を親切に紹介されたりし、病気のための弱気のせいもあって、彼らの真面目さと真剣さに押されがちだった。
050 原始社会(それとも古アジアか056)の宗教的雰囲気が最もよく「魔術の園」を現している。そこで魔術(師)は社会の全機構に強大な力を揮っている。
 魔術は無知や愚昧以上に強大な現実的な力を持つ。魔術からの解放は、魔術力に対する抵抗と戦闘と勝利を意味する。
 詩篇91から引用 「神(=魔術師)は、神を神として崇め奉れば、その者を庇護してやるが、神を信じない他の者は倒れて死んでしまう。」


051 

 ウェーバーによれば、魔術Zaubereiは現実的な利益と結びついている。例えば、魔術は雨を降らせる。しかしその因果関係は非合理的で間違っている。
052 魔術には最低限度の合理性があり、その意味で経済活動=生産活動である。雨(の生産)がそれだ。
 しかし最低限度の合理性だから、非合理的であり、恐るべき力を持つ場合がある。
 魔術は、反復的・経験的規則Erfahrungsregelnに基づく。人々は魔術的たたりを恐れるので、伝来の生活様式の変革を忌み嫌う。その心理が伝統を一層強化し、伝統が神聖化され、合理性と革新は阻止される。
053 また魔術が支配層の利害と結びつくと、非合理性と保守性が最高度に達する。原始無階級社会、アジア的、古代的、封建的、資本主義的などの発展段階のうち、原始階級社会(アジア的かもしれない)における魔術の支配力は最強であった。その社会構成は家族の拡大に止まり、その構成原理は自然的・血族的で、全社会が家族的である。階級関係は親子関係として現れ、(天皇制)秩序を支える心理は、家族的恭順Familienpietätであり、それが絶対的absolutになる場合がある。(天皇制が家族を模して民衆の支配に使われたことを言っているのだろう。「家族主義!」などと二回も強調している。)

三 

054 魔術からの解放過程は闘いの歴史だった。合理的な予言が、民衆を魔術から解放したが、その過程には三段階があるようだ。
055 第一段階では、古イスラエルで偽予言者が追放され、第二段階では、ペテロが「立て、我も人なり」と自分に跪く人(コルネリオ)を引き起こしながら語りかけるように、神秘化を拒否して平等を実現し、第三段階では、ルターの良心や、清教徒による宗教儀式=魔術の排除である。
056 古アジアと近代的資本主義社会との中間段階で、魔術は依然としてその力を揮い続けた。それには二つの類型があり、第一の類型は、魔術が人間=顔として現れる場合である。それは非合理的な権威となる。例えば、奴隷は主人の前にひれ伏し、主人に擲(なげう)たれても主人に近づけたという意味で、そのことを仲間に誇る。
057 第二類型は、魔術としての伝統である。それは非理性的である。慣習・儀礼・手続に価値があり、慣習的強制を伴う。
058 そして、科学的合理性と批判的精神は窒息させられ、解釈学的教養学や文献学が学問として支配する。


 現在の我国の民衆のうちでは魔術が力を揮っている。我国の平和的再建は民主主義に向かうべきであるが、それが自主的・本格的に行われるためには、民衆が「近代的人間」にならなければならない。そのことは我国が世界史上「再び」国際的な名誉を回復できるかどうかを左右する。

1946年10月17日

以上

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