2020年6月13日土曜日

剛毅と真実と智慧とを 安倍能成(よししげ、1883--1966)『世界』主要論文選 1946—1995 1995

剛毅と真実と智慧とを 安倍能成(よししげ、1883--1966)『世界』主要論文選 1946—1995 1995 

 

 

本書を大分前に買って読まずに本棚に並べておいたのですが、日本現代史に関心を持ち始め、本書をめくってみました。これは本書の最初の論文です。敗戦直後の哲学がご専門の東大の先生のお考えがどんなものだったのか、おぼろげながら分かりました。本書の次の論文は、例の丸山真男の軍部批判「超国家主義の論理と心理」(1946年5月号)です。岩波書店と東大との親近性が伺われます。

 

 

戦前の学者(安倍はカント哲学者)は、朝鮮や台湾、太平洋の島々などの植民地の人々の苦しみや願望、中国の人々に加えた残虐行為などに思いを馳せることはなかったようで、彼の最大の関心は国民・国家の過去の失敗や現状の惨状と将来への心配でしかないようだ。それを彼お得意の道徳論を通して学者ぶって述べるのだが、当時こんな一文を読んで感銘した人が何人いただろうか。安倍自身が自己満足して読むか、ごく一部の数人の仲間が読んでくれるかどうかといったところではなかったか。しかし、今はこの一文を読む価値がある。戦前の知識人が、国際感覚という点で、どの程度の人間であったかが、この一文を通して分かるからだ。

 

以下はウイキペディアに基づく筆者の略歴である。

安倍能成1883--1966は、哲学者、教育者、政治家。

松山中学から第一高等学校(入学1902)を経て、東京帝国大学文科大学に進学し、東京帝国大学1年制の時、夏目漱石を訪問して以来、漱石を尊敬・師事した。同大学哲学科卒業1909

法政大学教授1920、ヨーロッパ留学1924—1926京城帝国大学教授1926第一高等学校校長1940貴族院勅選議員1945.12、文部大臣1946.1--5貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長、学習院院長1946.10--1966

本論文を執筆した時期は、これが1946年1月号に掲載され、論文末に1945年11月とあるから、第一高等学校の校長をしていたころと思われる。

 

 本論文から読み取れることを以下に列挙し、その箇所を抜粋する。

・彼は国家主義者であり、愛国主義者である。

・日本の軍隊を自分の軍隊のようにいつくしみ、アメリカにやられて悔しいと思っている。

「今やかつて日本人の誇りであった陸海の軍隊は、アメリカによって無残に負られると共に、解体されてしまった。我々は国民としてどうしてこれを喜ぶことが出来よう。殊に軍隊といっても、真に国民の敵たる者は少数の軍閥であり、中には本当に至誠尽忠の純粋な武士もあり、…心なき国民が今までの阿諛追従と裏腹に、軍隊を悪罵し軽蔑する態度に対しては、我々は義憤をさえ覚える者である。」020(天皇主義者)

・朝鮮や台湾に対する所有権を今でも主張している。

「聯合国司令部を代表するアメリカ政権は、日本人の再教育を主張し、その言論信仰の自由を声明し、…日本の軍隊を撤廃し、日本の産業を拘束し、日本の領土を占領し、海外殊にアジア大陸における已得の成果を奪って将来の活動を禁じて居る。」021

・中国人への残虐行為に対する反省がない。

・戦争に狩り出された人に対する思いがなく、戦争を「国民が従うべき国家が行う行為」と考え、個人としての兵隊を無視している。

「戦争という如きは国家の一大事であり、それは国民全体の利害休戚と国家の興亡を賭して行われるものであって、これこそは国民全体の同意、それが不可能なりとすれば、国民大多数の同意を得て始めて行わるべきものであり、一億玉砕というが如きは、その戦争を已むに已まれぬものとした道徳的意義の真実と深層とがこれをおいては国民の生存を単なる動物的生存に終わらしめるよくよくの場合にのみ承認せらるべきである。」020

・戦争の責任を一部の軍閥に押し付け、それ以外の軍人は正しかったのだとし、また対米戦争開戦の間違いだけに焦点を当て、植民地抑圧や中国侵略についての反省が全くない。

・他者に対する道徳心の大切さを強調するが、それがどうして植民地の人々や中国の人々に向けられないのか。彼の愛国心は、自己中愛国心でしかなく、国際的には通用しない。

・またそのことは、負けた戦争=対米戦争だけが失敗であり、その他のこれまでの勝った戦争と軍隊は正しいとし、戦争の責任を一部の軍閥だけの責任とすることにつながる。

 

 以下、要旨と感想を述べる。

 

一 

 

015 今の日本人は道徳に基づき、与えられた条件に制約されつつそれに反発し、それを克服し、新天地を築かねばならない。今の日本人は戦時中の不自然な無理や緊張から解き放たれて弛緩し、疲労し、茫然とし、虚脱している。政治を聯合国が握り、独立国民としての「誇り」が奪われ、道徳的意思が低下しがちだ。軍備が解体され、産業・貿易が制限され、大陸その他の多年経営してきた成果を皆蹂躙され、家や所有物を焼かれ、インフレは必死とのことだ。(植民地支配や中国侵略という観点は見られない。)

016 戦争は勝っても負けても、国を挙げての強行から無理が生じ、人間性を傷つけ、部分的に道義の昂揚はあっても、更に多くの道義の傷害と頽廃をもたらす。そのため利己的欲求が高まり、理想的欲望を枯渇させる。現在日本では物が不足し、生活が困難で、政府や社会の制裁力が低下し、それが不秩序と混乱をもたらし、米不足につけ込み自己の利益のために米を独占している人がいるが、これを政府が制御できなければ、暴動が起こるだろう。

 蓋しこのようなずる賢さは戦争中でも、滅私奉公とか統制の美名の下で、盛んに行われた。闇取引も、「道義心に訴える」などと言われたが、軍や軍需会社によって真っ先に行われた。戦争中、出世主義が排撃されたが、現実は出世主義が蔓延っていて、それが世間の常態で、他人と国家全体を顧みない人が多かった。一方国民は無為・怠惰であったが、生存困難の極限では「狂態」を演じるだろう。戦時中国民道徳が喧伝されたが、国民は国家社会全体と個々の国民生活との関連を知らず、権力者が国家の秩序を破り、国民の生活を脅かし、政府がそれを制御できず無為・無力だったが、国民はそれが自分に降りかかって来なければ平気で見逃すため、権力者の放恣は継続し、政府も自己の責任を国民から問われることもなく、一時逃れをしていた。(よく分かっていたのならなぜその時行動しなかったのか。)

017 この一方の利己欲と他方の無気力が、日本の現在の悪条件をもたらした。今道徳的意志力が求められる。

 

二 

 

018 「個人の全体に対する関係が、単に強制的、あるいは物的たるに止まるとき、即ち単に法律的、経済的たるに止まる限りでは、それは道徳的であることはできない。…全体が個人に内在し、個人が全体に関与することによって、国民の道徳的活動は始めて国家的たることを得、国家の行動は始めて国民と離れざるを得るのである。軍部に対する奴隷的盲従は、国民の道徳性を骨抜きにする。自己の自覚的な参加と戮力(りくりょく、協力)とによって、これを多少とも左右する可能性を全然欠如する国家の活動が、果たして国民の忠誠を要望しうるであろうか。…政府や軍部の命令は作文となり擬勢となり、うそで固めたものになり、ごまかしになり、そこに真実な迫力と浸透力とがなくなってしまった。…魂なき国家の行動は、その形式的統制を糊塗するあらゆる努力に拘わりなく、常に支離滅裂をきわめ、到る処に分立や重複や摩擦や衝突や相剋が簇(そう)生した。」(これは戦後に言うのでなく、戦前に堂々と言ったらどうだったのか。丸山真男についてもそういえる。)

019 「利己的生活はそれを克服して利他的なる、或いは奉公的なる道徳的生活の築かるべき自然的基礎であって、それは制限され支配さるべきものではあるが、これを絶滅し尽くすことはできない。」「この辺の自覚の貧しさが、我が国民を強権や暴力の前に卑屈ならしめると共に、国家社会の統率を破壊して自己の利益を追求する行動を安易に横行せしめたのである。戦争という如きは国家の一大事であり、それは国民全体の利害休戚と国家の興亡を賭して行われるものであって、これこそは国民全体の同意、それが不可能なりとすれば、国民大多数の同意を得て始めて行わるべきものであり、一億玉砕いうが如きは、その戦争を已むに已まれぬものとした道徳的意義の真実と深層とがこれをおいては国民の生存を単なる動物的生存に終わらしめるよくよくの場合にのみ承認せらるべきである。」(場合によっては一億玉砕も可。「利己的生活」=「一部の軍閥」も、奉公のためには必要)

020 これまでのいくつかの戦争に勝ちつづけたこと、戦争が海外で行われ、本国が戦禍を受けなかったこと、戦争が簡単明解だったことなどのため、日本人は先の戦争を甘く見た。政治の指導力がなく、教育が間違っていて、国民は国力の真実を知らず、戦争論者は無思慮で、戦争反対者は(はい)逆不忠の徒であるという考えを世間に通用させ、すべきでなかったこの戦争を、無計画に無知慮に相手の厭戦気分や神風を頼みにして強行した。(無計画・無知慮でない戦争は可)

 隷従では、国民は国家を自分の国家と考えることができなくなり、国民の国家に対する活動はよそよそしくなり、平常心の素直さや粘り強さを欠くことになる。公的な国家によい意味での「私」が通わなくなったため、この国家を「私」が跳梁する国家にしてしまった。

 

三 

 

021 心無き国民が、軍隊に対する今までの阿諛追従と裏腹に、軍隊を悪罵し軽蔑する態度に対して、我々は義憤をさえ覚えるものである。一部の軍人大賭博によって大屈辱大惨敗を来たしたことに憤りを感じる。承詔必勤が国民の分であるが、このことを制止できなかった国民つまり我々の無気力と怠慢の責任を感じる。(「我々国民」ではなく、国民の一人としての自分の責任には触れないのか。)

 アメリカは日本人の再教育を主張し、言論や信仰の自由を声明し、日本の軍国主義を絶滅し、そのために日本の軍備を撤廃し、日本の産業を拘束し(財閥解体が良くないことなのか)、日本の領土を占領し、海外特にアジア大陸の日本の既得権益を奪い、将来のそこでの活動を禁止した戦時中に軍部に屈服したようにマッカーサーに屈服したくない。アメリカは民主主義や信教の自由や平和を言っているが、日本の特殊性を尊重するとも言っている。日本政府はアメリカに卑屈になり、無気力になってはいけない。らの正当な主張をすべきだ国民はアメリカに頼りすぎてアメリカの言いなりになってはいけない。アメリカにかつての軍部と同じ過ちを犯させてはいけない。政府や国民は剛毅な道徳的気骨を持ってアメリカに接してもらいたい。政府の責任者は面倒な困難な問題の交渉を部下に任せて傍観していてはいけない。イギリスのチェンバレンがヒトラーに面会するためにミュンヘンに向ったように、支那事変の時、日本の為政者は中国に行って蔣介石に会うべきだった。失敗を恐れてはならない。

 

四 

 

022 敗戦以前、一般の日本国民も知識人も、軍部に隷従し、現実から逃避して傍観し、冷笑していたが、それと同様にアメリカ人に隷従するというのは良くないことだ。日本人はアメリカ人に対して自主性を持たねばならない。

 戦争に負けたことの理由を知らねばならない真珠湾攻撃から戦争を始めたことが敗北の原因であったことを承認せざるを得ない。真珠湾奇襲は、若い青年士官の「必死の忠誠によって成功したが、それは結局失敗をもたらした。アメリカ大使のグルーは、日本国民が真実から遮断されていて、開戦以来一度も負けたことがないことになっていたと言った。国民も真実を知ろうとせず、空頼みで「重大な国難」の時代を過ごしていた。我々は今や見せかけの「第一等国にふやけていることはできぬ。

023 日本は敗戦によって国家発展の条件を奪われ、武力を奪われたが、文化や道義を養うことはできる。日本にはこれしか残されていない。日本の前途に光明あれ。(1945年11月)

 

感想 何か悲愴な感じが漂う文章だ。戦争は勝たねばならない、日本は第一等国であると言っているようにも聞こえる。

 

以上

2020613()


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