2020年6月16日火曜日

最後の日記 東条英機 1948年11月12日~17日 「文芸春秋」にみる昭和史 1988 要旨・抜粋・感想



最後の日記 東条英機 1948年11月12日~17日 「文芸春秋」にみる昭和史 1988


『「文芸春秋」にみる昭和史』をぺらぺらとめくっていたら、何と東条英機の「最後の日記」とあったので、早速読んでみた。これは、理由は分からないが、戦後すぐには公表されず、15年後に、これもどういう状況でかは分からないが、文芸春秋が発見したとのことだ。15年後というと1963年か。何か曰くありそうだ。なお、東条の死刑執行は1948年12月23日、平成天皇の誕生日である。


天皇=日本国の正統性、「東亜共栄」、反共がキーワードだ。その理由はない。アプリオリーに信じていただけなのだろう。

政治家は嘘をつくことを商売としている。
東条英機自らは捕虜虐待の事実を知らず、それを一部の者の責任にしているが、中国から日本に連行して鉱山で働かせていたことを知らないはずがない。つまり東条にとって、捕虜とはアメリカ人だけをさし、中国人は含まないのだろう。095

「二 裁判判決そのものについては、この際言を避く。いずれ冷静なる世界識者の批判により、日本の真意を了解せらるる時代もあらん。ただ捕虜虐待等、人道上の犯罪については、如何にしても残念。古来よりこれある日本国民、陛下の仁慈及び仁徳の徹底せしめ得ざりし、一に自分の責任と痛感す。
 而して、これは単一部の不心得より生ぜるものにして、全日本国民及び軍全般の思想なりと誤解なきを世界人士に願う。」095

ここで東条はこう言っている。

・戦争は正しかった、間違ってはいなかった。
・捕虜虐待に関して、天皇の責任はない、自分の責任でもないが、その責任を一人で引き受ける。日本人全般の責任でもなく、一部の不心得者の仕業にすぎない。

この立場は、今の右翼の言説に通じる。戦争は正しかった、捕虜虐待=南京事件はなかった。

ここでは捕虜虐待の責任について触れているが、戦争責任そのものについては触れていない。というより、戦争は正しかったと考えている。東条は法廷での証言で自らの戦争責任を避けようとし、そのため戦争責任が天皇に及ぶと危惧されたため、木戸幸一が獄中の東条を訪れ、証言の撤回と東条自らが責任を引き受けるよう迫り、天皇に戦争責任が及ばないようにしたことについては全く触れられていない。政治家は嘘つきだ。*

*『昭和天皇の終戦史』(吉田裕 岩波新書 1992)によれば、

113 田中隆吉と江口航(新聞記者)は、天皇に罪がかからないように、また被害者をできるだけ少なくしようとして、一部の人だけに罪をなすりつけようとした。(『田中隆吉著作集』『日本の曲り角』)
 松平康昌は田中隆吉とともに、天皇に罪が及ばないようにした。(「かくて天皇は無罪になった」)1947.12.31、東条英機は「陛下の御意思に反してかれこれするということはあり得ぬことであります」と証言したが、キーナンは田中隆吉・松平康昌に働きかけ、松平は拘留中の木戸幸一に東条説得を依頼した。すると東条は、1948.1.6、前言は「国民としての感情を述べたものであって、責任問題とは別だ」と証言した。田中隆吉は天皇からジョニーウォーカー・レッドラベルをいただいた。(田中隆吉の息子田中稔談)

それにここでは同僚の死刑を思いやり、死刑は自分ひとりでいいといっているが、それは法廷での証言と喰い違うのではないか。そのことについて丸山真男がどこかで触れていたような気がするのだが、確認できなかった。

「唯広田、土肥原、板垣、松井、殊に木村、武藤等共に絞首刑とは驚く、気の毒千万なり。」092


以下要旨

092 (1948年)10月12日(金)刑の宣告があった。唯広田、土肥原、板垣、松井、殊に木村、武藤等共に絞首刑とは驚く、気の毒千万なり毛布5枚。(宮本の網走生活とは段違いだ。)入れ歯やメガネなど全ての所持品を取り上げるという米軍の処遇は、馬鹿馬鹿しい。洋食には閉口したが、贅沢は言えない。

11月13日(土、晴)熟睡した。午後、武藤が、夜、木村が部屋にやって来て話し合った。
11月14日(日、晴天)昨夜紙と鉛筆を要求したところ、鉛筆一本と紙十枚を受け、この日記を書き始めた。朝寝して6時半ごろ起こされた。昨日も今日も、室外での散歩を許されない。詩歌を思い起こし、書き止めて、時間を潰した。「正気の歌」を独唱し、文天祥の人格を思う。
11月15日(月、晴)熟睡。係官の監視がうるさい。ドイツでは死刑執行前に自決する例があるので無理ないことだとは思うが、「日本人の心理」を理解していない。(日本でも当時何人かが自殺していたのではないか。)私は立派に死刑の執行を受けたいため、処遇改善願を所長に差し出した。

私の最後の唯一の希望は、絞首刑の執行を冷静に立派に受け、「日本人として」最後の責務を全うしたいということだけである。健康と修養に努め、死への準備をしたい。ドイツでは死刑執行前に自決する場合があるというが、そのようなことは「思慮ある日本人」はしない。次のことを要望する。(要望は一つだけではないようだ。)

1、下級者(警吏)が思慮のない侮辱的な言動をするので、戒めてほしい。
私は敗戦者でしかも最高の責任者であるから極刑を受けるのは当然だ。世界にその責任を明らかにすべきで、それを私は喜んでいる。(法廷での発言と喰い違うのではないか。観念したのか。)しかし、罪に問われた行為は、見る立場によって異なる私としては、その行為は一点の私心もなく、専ら愛国の至情に発せるものだと自負している。その点は勝者の諸官に劣るものではない。アメリカ人の皆さんが冷静に立場を換えて(つまりアメリカが負けた場合を想定して)考えれば、そのことは明白に察せられるだろう。
 恩や恨の気持ちもなく死のうとする今、思慮のない下僚の侮蔑的言動を戒められ、人情をもって「武士道的」取扱をしてもらい、米軍に対する好感を持って死にたい。
(欄外に)東條
2、宗教上の自由を認めてほしい。宗教上の自由は各条約で約定されている。どの国でも有刑の者も、それが許されている。死刑囚には死ぬ者の権利としてあらゆる便宜が与えられるべきだ。
 仏教信仰者として、仏前の礼拝、布教師との面接、経典類の所持などである。
3、死刑前に健康でいたい。
 日光を受けたいのは生物全ての要求だ。捕虜条約でも、それを特に定めている。今警戒監視上全く一室に閉じ込めておき、それにも一理はあるが、一日に一回位は日光に接する機会を与えてもらいたい。これは刑の執行を立派に受けるためだ。(他者に与えたこれまでの数々の拷問をどう考えているのか。)
4、私は死ぬ前に精神的に修養したい。今の警戒監視はあまりにも神経質で、静かに修養することを妨げている。夜間睡眠を妨害することを止めてほしい。
5、この遺書は家庭その他に交付してもらいたい。「死する者の言や善し」という。死に直面する私の言葉に嘘はない
 (欄外)死刑囚が相互に談話でき、決別できる取り計らいをしてくれ、感謝する。お礼を申し上げる。

11月16日(火、曇)手紙の第一信を出した。
11月17日(水、晴)花山師(坊主)と会ったので、次の事項を
095 一 刑は私に関する限り当然のことである。ただ責任を自分一人で負うことができず、多数の僚友に重罪者を出したことが心苦しい。本裁判で、陛下に類を及ぼすことがなかったことがせめてものことだ
二 判決そのものについて今は言わない。いずれ、冷静な世界識者の批判により、日本の真意を了解してくれる時代もくるだろう。ただ捕虜の虐待等、人道上の犯罪については、如何にしても残念だ。古来からの日本国民が、陛下の仁慈や仁徳を徹底することができなかったことは、私一人の責任であると痛感している。
 これは一握りの不心得の者から生じたものであり、全ての日本国民や軍隊の思想だと誤解しないよう世界の人々に願う
三 1948年の現在、極東情勢は波瀾含みで日本国の将来に関して懸念があるが、3000年間にわたって培われた日本精神は、一朝にして喪失するものではないと確信するから、極東においては国民の努力によって立派に立ち直ると信ずる東亜の民族の将来も、この大戦を通じて世界の識者に正しく認識され、同情され、その将来は栄光に満ちていると信ずる。(まだ諦めていないようだ。)
四 戦死者、戦病死者、戦災者等の遺族について、政府を始め聯合国軍側も同情ある救済処置を願いたい。これらの人たちも赤誠を以て国に殉じたのであり、もし彼等に罪があるとするならば、我々指導部の責任であって、彼らの罪ではない。我々が断罪されたのだから、彼等を悲運に泣かせてはいけない。彼等を今のままに放置すれば、遂に全国を赤化に追い込むことになるだろう。現在巣鴨に拘留されている戦犯者の家族についても、既に本人が罪に服しているのだから、情けある処置をお願いしたい。ソ連に抑留されている者が一日も早く内地に帰還することを願って止まない。

 (欄外書込み)敗戦及び戦渦に泣く同胞を思う時、私が刑死するとしても、その責任を償うことができないことを…

私用お願い
一 健康で気分も爽快だ。刑の執行の一日も早いことを期待し、朝夕御仏とともに暮らしていて、平静だ。
二 花山師の教導が本日あった。経を受けられるのを光栄とする。
三 11月16日の第一信は届いただろうか。
四 宣告の時、輝雄と敏夫の姿を認めた。あり難い。
五 妻勝子と四人の娘、君枝、幸枝、満喜枝、光江との面会が許可されるかもしれない。連絡してくれ。
六 あまり問題ではないが、判決には財産没収の宣告はなかったから、用賀の宅地はそのまま使用できるのか。ありがたいと思っている。

以上
2020615()

附記 2020618()

ウイキペディアによれば、
東条英機1884.7.30—1948.12.23(64歳没)陸軍士官学校卒業1905、陸軍大学校入学1912、同校卒業1915、駐在武官としてスイスに単身赴任1918、ドイツに駐在1921、陸軍大学校教官に就任1922参謀本部員1923、陸軍大学校兵学教官に就任1926、陸軍省整備局動員課長就任1928、歩兵第一連隊長就任1929参謀本部総務部第一課長1931関東憲兵隊司令官・関東局警務部長1935関東軍参謀長就任1937、陸軍次官・陸軍航空本部長1938、陸軍大臣1940総理大臣1941、大政翼賛会1941-1944

日本降伏後拳銃自殺を図ったが、連合国軍による治療で一命をとりとめた。(最後の日記と矛盾する。最後の日記ではドイツ人はするかもしれないが、日本人は自殺などしないと言っている。)A(開戦の罪)BC級(殺人の罪)で起訴された。
東條氏(安房東條氏)は、安房長狭郡東條郷の土豪で、江戸時代に宝生流ワキ方の能楽師として、北上して盛岡藩に仕えた家系である。

ウイキペディアによれば、東條ら関東軍軍閥は、既に満洲事変のあたりから、北方の対ソ戦、南方の対英米戦を計画していた。嘘か本当かわからないが、対米戦直前、天皇が対米和平を主張したため、東條首相は和平に舵を切ったとのことだが、ハルノートを宣戦布告と見なして、「天皇の意に反して」*対米英戦に踏み切った、とウイキペディアは書いている。今でも日本の歴史には嘘が付きまとっているのは残念なことだ。その意味でまだ戦争は終わっていないのかもしれない。

*天皇も当初は対米英戦を躊躇していたが、説得されてゴーサインを出したということを、吉田裕か粟屋憲太郎かどちらかで読んだような気がするが、そのどこかを発見できない。それらしきところを以下に示す。

昭和天皇の終戦史 吉田裕 岩波新書 1992 によれば、

陸軍の参謀本部戦争指導班の「大本営機密戦争日誌」は、対英米開戦を決意し武力発動の時期を12月初旬と定めた11月5日の御前会議の前後における天皇の言動を、「お上のご機嫌うるわし、参謀総長、すでに御上は決意遊ばされあるものと拝察し安堵す」「御上もご満足にてご決意ますます鞏固を加えられたるがごとく拝察せられたり」と記録している。015

以上 2020618()


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