2020年6月30日火曜日

大正天皇御臨終記 入澤達吉 1953年、昭和28年1月 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 要旨・抜粋・感想


大正天皇御臨終記 入澤達吉 1953年、昭和28年1月 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988


感想 筆者は律儀で従順な下僕であり、自らの感想を一言も語らない。下僕であることを誇りとしているかのようだ。例えば、「余は後に改めて召されて聖上のお口に綿にしめしたる水を捧ぐ、皇后宮侍立しおられ、永々日夜御苦労なりとのお言葉を賜る。」021筆者はこの時内心では歓喜の涙を流していたのではないか。個人として自立せず、共同体の責任を上司に任せ、自らは責任を負わない、これが戦前も戦後も変わらない日本人の典型なのではないか。2020630() 

しかし、ウイキペディアを読むと、これは誤解だったかもしれない。1894年、筆者は宮内省侍医局での東宮附きに任じられたが、2ヵ月後に依願退職し、開業している。東宮附きなどの閑職よりも、むしろ実践や研究に興味があったのかもしれない。御用掛1920--24や侍医頭1924--27についても、進んでなったというより、やらされたというのが正しいのだろうか。また、筆者は1926年、日独協会理事長になり、フライブルク1926やハイデルベルク1936から名誉学位を贈呈されるなど、ドイツ医学会との交流に意欲的で、また、様々な学会の名誉職に推されていたようだ。2020630()


『週刊金曜日』で竹田恆泰が「調和を重んじる日本人」の従順さ=奴隷根性がコロナ渦を終息させたと言っているらしいのを知り、また、この入澤達吉の一文を読んで、日本の現在の右翼が、戦前のように皇室がその栄光と絶対的な権力を誇っていた時代の再来を夢見ているのではないかと想像した。
皇室の安泰を維持するものは、敬語と制度や儀式かもしれない。

本文は1953年、昭和28年に文芸春秋に公表されたというから、1926年、大正15年当時は、公にされておらず、昭和28年頃に文芸春秋の記者が発掘したのだろうか、それとも筆者本人が公表を望んだのだろうか。

敬語の濫発で読みにくい。「聖上」「拝診」「御体温」「御平生」「御病中」「御寝具」「御寝室」…

侍医は入澤の他にも何人かいたようだが、入澤が大正天皇の侍医の中で中心人物(侍医頭)だったようだ。
筆者は皇室から大金を貰っている。
「6月18日、御内儀より御満那料(金300円)および白絽(ろ、織り目の透いた薄い絹織物)一疋を下賜せらる。澄宮および高松宮より賜物あり。(澄宮35円、高松宮50円)定例の中元賜物なり。017
12月16日、皇后宮より金750円及び反物を賜る。」019
官位制度が整っている。
即位の儀式が素早い。大正天皇が死んだその日12月25日(午前)「3時15分、新帝践祚(せんそ、即位)および剣璽渡御(けんじとぎょ)の儀式あり、数分にてすむ」とある。また「昭和」の年号についても、「12月25日(午前)5時過ぎ、新帝と新皇后が車で本御用邸に向い、これからすぐに枢密院で年号を制定する会議に臨まれるとのこと。その前に内閣は閣議を開いていた」とある。021

葉山から原宿まで汽車で来て、原宿駅から宮城に戻る大正天皇の棺を、国民が垣根のように大群をなして迎えたとのこと。(「堵(と、垣根)のごとし」)また天皇の病状や死を報道機関にも定期的に伝えていた。017

死後、水で湿らせた綿を口に含ませる儀式があるのを初めて知った。
人は死ぬ間際は、脈拍が数えられないくらい多くなり(頻脈)、体温が40度以上になり、呼吸が激しくなり、ついに息絶えていくようだ。021


ウイキペディアによると、
入澤達吉 1865—1938  1865年、越後国新発田藩藩医入沢恭平の長男として南蒲原郡今町(現見附市)に生まれた。1877東京大学医学部予科入学。1883年、同大学同学部本科に進級。1889年、東京帝国大学医科大学(学制変更による改名)を卒業し、ベルツに師事し、内科無給助手となる。1890年、ドイツへ私費留学。1894年、帰国後の同年3月7日、宮内省侍医局で東宮附きとしての勤務を任じられたが、同年5月30日、依願退職し、開業。1895年4月21日、医術開業試験医院に命じられ(翌年依願退職)、10月12日、東京帝国大学医科大学助教授となる。1897年、足尾銅山事件調査委員に任命される。1901年、東大教授に昇進。1912年5月、満州からシベリア鉄道でヨーロッパを、1913年、アメリカを訪問。1913年5月、帰国し、東大教授に復帰。1920年12月、宮内省御用掛に任ぜられる。(大学評議員1919から医学部附属医院長1921、医学部長1921など大学の役職を兼任していたようだ。)1924年、宮内省御用掛を免じられ、宮内省侍医局侍医頭を命じられる。1925年東大医学部教授を退任。1926年、日独協会理事長となる。同年、ドイツ・フライブルク大学名誉学位を贈られる。1926年、葉山での本文の件があり、1927年宮内省親任官の待遇を賜い、8月勲一等瑞宝章を授与され、9月侍医頭を辞任する。1928年、日本医史学会創立に参加した。1930年ドイツ赤十字第一等名誉賞を賜う。1936年ドイツ・ハイデルベルク大学名誉学位を贈られ、日独協会名誉会員となる。同年、科学ペンクラブを石原純らと創設する。1938年脳溢血で死亡。
筆者は大正時代、東大での60歳定年制を主張した。「赤門の空気を一洗し、優秀な学者を多数集めておくには、定年制に限ると思う。」「今日の如き、駆け足で欧米の先進国に追随する過渡的時代には、なるべく働き盛りの活気の多い年代のみを利用して、少し老朽の傾きある時は、直ちに壮年有為の者と更迭せしむるが良いと思う。それには60歳の停年が妥当な制限である」と主張した。筆者が閑職を嫌う理由はここにも現れているように思われる。


メモ

015 編集部注からのメモ
 
大正天皇の名前は「嘉仁」といい、大正15年12月25日になくなった。当時、次の第124代天皇(昭和天皇)に即位することになる裕仁親王(当時の皇太子)は、摂政をしていたようだ。
「昭和」の意味は、『書経』の中の「百姓昭明、協和万邦」からとられ、その意味は“万民安寧、世界平和”とのことだが、現実がその意味とは逆の結果になるとは皮肉なものだ。

本文からのメモ

1926年1月30日(土)若槻礼次郎が内閣総理大臣に任ぜられた。
2月17日(水)スイス在の秩父宮が麻疹に罹ったという電報を受けた。
2月19日(金)東宮女嬬で元赤十字の看護婦の佐藤ゑいと、赤十字看護婦の逸見ソメを、皇后職御用掛として「奏任待遇」*で任用した。
*任官にも格式があるらしく、「奏任」は太政官が補任者を天皇に奏上して任命する。勅任・奏任・判任の順に位が下がる。ただし、明治時代では、天皇が内閣の奏薦によって任命することをいう。
4月14日(水)東瀛(とうえい)詩選を一冊借りて写本をさせた。(当時はコピー機がないから手書きで写したようだ。)
大正天皇は病気のためお風呂に入れなかったらしく、百十余日ぶりにお風呂に入ったと書かれている。
夜の8時半からの蜂竜での宴会に幣原外務大臣に招かれて行った。その会に同仁会支那行の人を招待した。
当時は気温を華氏を用いていたようだ。017
8月3日(火)住友で5000円を引き出し、丸善で買い物をする。
(妻の)常子が本郷4丁目の東京貯蓄銀行に1万円を6ヶ月間の定期預金に預けた。
9月11日(土)大正天皇はたびたび脳貧血のような発作(失神)を繰り返していたが、9月11日、はその3回目であった。2回目は5月11日、1回目は12月19日で、その時、新聞紙に発表した。
 山川、荒井、筧と私など侍医は不寝番をした。
016 12月16日、脈が弱くなり、皇后を呼んだ。正午から夜の12時まで2時間ごとに容態を発表した。西園寺公望、東郷平八郎、その他元帥各大臣および大臣待遇者ならびに宮内官の一部が礼拝に来る。皇后宮、皇太子殿下、妃殿下、後列に四内親王が起立していた。私は夜を徹して翌朝の4時まで寝室にいた。
019 臨時汽車が東京から葉山まで出た。東京で新聞の号外が続々と発行された。
12月17日、今日から4時間ごとに容態を発表した。
東宮(皇太子)、妃殿下、東京の照宮様(満1ヶ月)が来たが、夜、御本邸に帰った。
内親王*(竹田、北白川、朝香、東久邇)が交互に来た。
*天皇の姉妹および皇女(天皇の娘)のことだが、明治以降は、皇室典範で、嫡出の皇女および嫡男系嫡出の皇孫(天皇の孫)である女子をいう。
12月19日(日)、毎日、総理大臣、元帥、大官連、宮内大臣がやって来る。枢密顧問官も東京に帰らないで、日蔭の茶屋に、国務大臣は養神亭に、各宮様は逗子ホテルに詰切りである。葉山は大混雑だ。
12月21日午後三時、毎日例の如く山本権兵衛、後藤新平が、侍医室にやって来る。
12月22日、16日から玄関脇の八畳の間に四人で寝ていたが、平均三、四時間しか眠れないので、今夜から御用掛3人のうち2人は交代で長者園に宿泊し、私は診察室用の六畳の間で寝ることにした。11時に就寝し、翌朝4時半まで快眠できた。
12月23日(木)今夜から鼻腔からの栄養を一時中止し、滋養浣腸を始めた。呼吸、脈、体温とも多いため、夜、西園寺公、若槻総理大臣等が集まったが、急変しないと見て退出した。今日、荒木寅三郎が来た。
021 12月24日、12月25日、晴、朝から容体が悪い。報告を出した。
 昼から容体がさらに悪化した。午後1時30分、非常召集の準備をする。元老、大官、宮様方みな参集し、東京の枢密顧問官等を招致した。
 午後2時から一時間毎に報告を出す。体温が上がり、脈や呼吸も増悪する。カンフルなどの注射をする。体温は40度から最高41度に達する。呼吸は80以上、脈は数えられない。翌日1時25分、心音がやみ、呼吸も止み、ただちに危険の発表をした。
 皇后宮に、締切(こときれ)を伝えた。
 皇后宮、両殿下、高松宮、内親王が小綿棒に水を浸して口元に当てた。つづいて女官も水を捧げた。私は八代侍医ともう一度検診し、崩御を確認し、最後の発表文に、私と御用掛、侍医の姓名を連記し、一木宮内大臣に渡した。一木大臣はそれから皇后宮に様々な要件を話した。
3時15分、新帝の践祚(せんそ)と剣璽渡御の儀式があった。数分で済んだ。
 内大臣、宮内大臣以下が決別の礼をした。私は改めて招かれ、水を捧げ、皇后宮から「永々日夜ご苦労なり」との御言葉を賜った。(筆者はこれが言いたかったのではないか。)
 5時、牧野内大臣、一木宮内大臣が共に侍医寮に来られ、侍医や御用掛一同の多大なる尽力を謝す。5時過ぎ、新帝と新皇后は車で本御用邸に向った。これからすぐに枢密院で年号を制定する会議に臨まれるとのことだ。その前に内閣は閣議を開いていた。
 侍医一同で、硼酸アルコールで身体を洗って拭いた。7時過ぎに別荘に帰った。
 鼻、口、肛門に綿をつめた。後で氷袋50個に氷をつめ、身体をその上に載せる用意をした。
 別荘に前夜から常子が来ていた。入浴し、朝飯を食べ、新聞を読んで、9時過ぎに寝た。昼飯前に眼を覚まし、午後常子や利平と散歩をした。
022 夕方新聞記者が来たが、何も語らなかった。記者から年号が「昭和」になったと初めて聞いた。夜早く寝た。
12月26日(日)皇后宮自身の願いで「南無妙法蓮華経」の文字を一枚の紙に48個認めたものを多数作った。
夕刻5時、御舟入の式があった。「綿と灯芯と茶」を入れた5尺4寸の袋詰めを多数お棺に入れ、氷袋を多数入れ、7時、附属邸を「霊柩御出門あり。」
 馬車の霊柩車に移し、供奉はみな徒歩、皇后宮だけが自動車で本御用邸に移動した。
 一時間通夜し、夜10時すぎ別荘に帰った。
12月27日、朝10時、附属邸に至り、後、本御用邸に至り、大臣に面会する。霊柩の安置されている部屋の隣で一時間座る。
 皇后宮も部屋に座られた。午後3時、新帝と皇后宮が東京に向った。午後4時40分、大行*天皇霊柩は葉山御用邸を出発し、皇太后宮(先帝の皇后)は自動車で同行し、一同も供奉(同行)し、逗子駅を5時30分出発。霊柩車内に霊柩を移す。7時5分、東京原宿宮廷用の停車場に到着した。行列を皇族の一部や大官が出迎えた。
*大行(だいぎょう)は、真宗で、阿弥陀仏から衆生に与えられた称名念仏またはその仏の名号をいう。
 馬車で宮城へ向う。沿道奉迎するもの堵(と、垣根)のようだ。私は徳川侍従長、奈良武官長と同車した。
 8時5分宮城に到着。南御車寄せで皇族や外交官等が出迎えた。霊柩を滑り台に載せ、御座所(居間)、鏡の間に安置した。豊明殿の次の間で夕飯を食べた。総理大臣、宮内大臣以下みな食事をし、夜9時すぎ帰宅した。
 博愛は、二重橋前の広場で奉迎したと帰宅してから聞いた。

1953年、昭和28年1月号


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