2018年12月15日土曜日

板垣退助監修 遠山茂樹・佐藤誠朗校訂 『自由党史』上 岩波文庫 1957 要旨・抜粋・感想


『自由党史』板垣退助監修 宇多友猪・和田三郎編纂 M43 遠山茂樹・佐藤誠朗校訂
1957 岩波文庫

上巻

感想・緒言 百五十年前の日本語がこんなに難しいとは思いませんでした。難解な漢字、漢文調の語順、主語のはっきりしない文章、江戸時代の儒教を原典とすると思われる諺、日本書紀からと思われる神話など、躓くことばかりでしたが、なんとか上巻を読み終え、要旨と感想をまとめることができました。校訂者が漢字のルビを振ってくれたことには感謝です。それがなかったら、おそらく読み通せなかったことでしょう。
本書を読んでみて、一般の日本史教科書や現代作家による歴史解説書を読むよりも、ずっとリアルに明治維新から十三年頃までの歴史を知ることができました。他人から間接的に話を聞くのではなく、現物に当たってみる値打ちというものでしょうか。
私のこの要約は下手な日本語ですが、原文よりもいくらか読み易く、大雑把に本書の内容を掴む上では価値がある、と認めて下さったなら幸甚です。しかし、原文が難解で、読み間違えもあり、おかしいなとお思いでしたら、原著書に当たって下さい。段落始めの数字は原著書のページを示しています。また、感想に対するご批判・ご感想をお寄せください。m.of.kanai@gmail.com

20181214()
金井正之


題言    板垣退助  明治四十三年三月

009 感想 日本だけが唯一、欧米と違って革命の乱がなかったのは、諸外国には見られない日本の2500年に及ぶ美質な伝統=継続観念があったためだというが、その根拠は薄弱だ。そして革命の乱がないことがいいことだと捉えていることも問題だ。革命の意義を理解していないのではないか。
009 「自由党の主義は、国家観念によりて調節せられたる個人自由の主義、すなわちこれなり」というがどんなことを指しているのかよく分からない。
013 宇多友猪が資料を収集し、和田三郎が編纂に当たったようだ。 2018111()

感想007-011 板垣退助のこの巻頭言は、美辞麗句が多く、抽象的、現代の価値判断からすれば、どちらかと言うと国家主義的、この一文が書かれたのは明治43年、すでに日清、日露戦争を経験した後の記述であるからかもしれない。

第一篇 総説
第一章 維新改革の精神

025 わが日本の国家は、実に万世一系の天皇が公領するところに属し、決してその私領、家有するところにあらず。…「自由民権運動」といっても、天皇制の枠組みから外れることはなかった。明治維新の動力のスローガンが天皇だったから、その枠組を越えることは不可能だった。
026 人君=天皇の天職たる、もっぱら天に代わって民を治むるにあり。
 王道の公と臣節の正と、…(今までの歴史で)天子にして暴虐、臣民を損なうものあるを聞かざるとともに、臣民にして反逆、皇位を窺がうものあるを見ず。…暖かい夢のような理想の国家としての日本を、そしてそのなかに住まう自分自身を捉える、ナショナリズムの表現でる。
明治維新は、門閥階級=武士階級、幕府の政治を破壊した。
027 明治維新を最初に担った主体「先ず臂(ひじ)を払い、衣を掲げて奮起せるもの」は、当時の浪士、藩士の徒にして、…しかし、それだけでは明治維新を成功させることはできなかった。明治維新を成功させた主体は、国民そのものであり、国民の自覚に基づくところの公儀、輿論の頸力が骨幹となった。
028 全権は朝廷にある。以上「維新史」第四巻より。
かの会津が天下の雄藩を以って称せらるるに関わらず、その滅ぶるにあたって、国に殉ずるもの、僅かに五千の士族に過ぎず。農工商はみな逃避せし、…会津藩が敗れた理由は、けだし上下隔離、互いにその楽しみをともにせざるがためなり。
030 朝旨を遵奉し、…人間とは階級によらず、貴重の霊物なるを知らしめ、各自に知識技能を淬励(さいれい)し、人々に自主自由の権を与え、…全国億兆をして、各自に報国の責めを抱かしめ、…明治3年11月「土佐藩政録」より。
会津藩が敗れた理由は、防衛を武士階級だけが担当し、庶民は力を貸さなかったからである。天皇を中心として君臣一体となって協力する国家、天皇が臣民を思いやり、臣民は天皇を尊崇するような国家のなかで、臣民は、学問を修め、知識を増やし、国家のために一丸となって尽くす、これが明治維新の精神だ。これが自由党の言う民権であり、日本的な天皇制下での自由平等である。「公儀輿論」028とは、そういう意味である。江藤新平や牧野群馬の郡県論とはそのような体制をいうようだ。028「自由平等」とはいえ、天皇は別格であった。

031 強兵の方略よりして、四民均一の制を選択し、…
 民の富は朕の富なりと宣えるがごとく、民の強もまた天子の強にして、…このような日本独特の美風は、王朝の古よりして、不文の憲法にして、存在せるところの大義なり。
 国民の自由、および民権の義、明確なるにしたがって、皇室の尊栄ますます顕彰するに至るべく、尊王と民権を一にして、終に二到なきを見るなり。
032 維新改革の精神を推繹一歩すれば、直ちに立憲政体を確立して、君民和協の名義を完くし、…
 各個人の権利、自由を完保し、之をして自主、独立の機能を遂げしめ、而して国家共同の目的を達せんがために、万機を公論に決し、結合一致の協力を発揮して、…
 即ち立憲政体は、この規模を全うするにおいて、唯一の方法にして、蓋し、もっぱら民権の発達するをもって富強の原資となし、進んで国権の拡張、国利の増殖を期し、平和雍睦の光栄を宇内に宣揚せん、…
 「維新改革の後未だ数年を経ざるに、…」(この文章が書かれたのは本書が出版された明治43年ではないようだ。)
033 立憲政体の創設の誓いをしたのは、時はまさに明治七年にして、板垣、後藤、副島等の首唱せし愛国公党即ちこれなり。
自由党は即ち愛国公党ならびに愛国社の後を受けて起こりたる、…
かの欧米各国に見るがごとき大乱を実歴するに及ばずして、憲法を制定し、国会を開設するを得しは、また実に陛下広運の至徳によってしかるなり。
維新革命の精神を引き継ぐものは、国体破壊、不忠不臣を以って讒毀(ざんき)中傷せられし政党に存せしは、当然のこと、…
034 尊王といい攘夷というも、その実は、名をこれに借りて幕府専制の政治を覆し、閥族階級の害毒を掃蕩し、以って国民の積鬱を晴らさんがためにして、…
 公議輿論を以ってその唯一の政綱となし、…
 民権自由の首唱と立憲政体建設の運動とが、一大経綸なるを疑はんや。
035 方今政権の帰するところを察するに、有司に帰す。それでは天下の治安は得られない。
 開国交通の結果、ますます民権思想を涵養し、即ち立憲政体が比較上、古今傑特の政体なること、および自由主義が東西通有の公道なることを一般に確立するに至れるのみ。
036 K=慶応3.10.14 大政奉還
K3.12.9 王制復古の大令、総裁、議定(ぎじょう)、参与を定めた。
戊辰正月3日、幕兵大挙して入京、伏見鳥羽の衝突起こり、薩長藩の兵一撃してこれを退けた。そして東征の号令忽ち煥発し、…
M元年正月10日、大政復古を各国公使に周知し、…
17日、職制を定めて、三職の外に、神祇、内国、外国、海陸軍、会計、刑法、制度の七科を設け、総裁これを総統し、議定これを分督し、参与これを分掌し、これと同時に、徴士、貢士の制を始め、広く人材を収拾し、…
2月3日、再び職制を改めて、三職、八局(総裁、神祇、内国、外国、軍防、会計、刑法、制度)となし、…
2月10日、諸藩に令して貢士制度の実施に着手した。大藩三貢、中藩二貢、小藩一貢(「法令全書」M元年)
037 総裁は皇族これに任じ、今の総理大臣相当、議定は有力の諸侯、門望の公卿これに任じ、大臣相当、参与は、公卿中の俊秀を上参与となし、勤皇の諸藩士を下参与となし、各省総務長官相当で、実権はむしろこの参与にある。
 徴士は天下の有才を抜擢し、参与に登傭し、国務に当たらしむる。貢士は諸藩の選任により、議事官として朝政に参し、藩論を代表するものに属せり。
 特に貢士を徴するにあたり、国論代表者を選挙せよと令せしを見れば、この性質一種の選挙法に基づく代議士にして、中興政府は事実においてすでに議員制度の精神を是認したるものにあらずや。
038 M元年3.14 天皇が五条の誓文の宣べさせ給う。これは参与福岡孝悌(土藩)と由利公正(越藩)が起草したものである。
・広く会議を興し万機公論に決すべし
・上下心を一にして盛んに経綸を行うべし
・旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし
・知識を世界に求め大に皇基を振起すべし
「法令全書」M元年
 公卿諸侯、皆帝誓を拝して感奮し、死を以って奉答せんことを誓った。…白々しい。起草したのは若い僕チンでなくて、福岡や由利であるのに、教育勅語も、憲法も然り。

感想 -039 なんか批判したら怒られそうな感じがする、一つの名詞にあれこれ難しい漢字で、特に新たな意味も付与するでもなく、修飾する。当時、こんな文章を読んで、人々は何か創造的なことを考えたのだろうか。否。あり得ない。自らの権勢と立場を維持せんがためのもったいぶった修辞的な文章と言わざるを得ない。下らん。
この当時に限らず、戦前の文章を読むと、こういう感じを受けるものが多い。だから創造的な人は海外に逃げたのかもしれない。

感想 明治維新は王党派による市民革命と言えるのではないかと思った。一方では封建的な遺制を打破しようとしたが、他方では幼少であっても天皇の存在を利用して、言論を封殺する傾向が見られる。たとえば、本書38ページで、「五箇条御誓文」に対する人々の対応の仕方が記述されているが、もうこれ以上の議論の可能性を封殺するかのような雰囲気だ。当の御誓文自体が、二人の知識人によって起草されたに過ぎないのに。2018113()

039 K4.閏4、政体書頒布 太政官 副島種臣が草した。(慶応四年閏四月というのは明治元年のことではないのか、それなのになぜ慶応を使うのか)
040 ・天下の権力、総てこれを太政官に帰す。これによって政令二途に出るの患(うれい)無からしむ。太政官の権力を分けて立法、行政、司法の三権とする。即ち偏重の患なからしむなり。
・立法官は行政官を兼ねるを得ず。行政官は立法官を兼ねるを得ず。但し、臨時都府巡察と外国応接はなお立法官がこれを管する。
・親王、公卿、諸侯にあらざるより(でない人)が、その一等官に昇るを得ざるは、親(しん)を親しみ、大臣を敬うの所以なり。藩士庶人といえども、徴士の法を設け、なおその二等官に至るを得る者(=こと)は、賢を尊ぶの所以なり。
・僕従の儀、親王、公卿、諸侯は、帯刀6人、小者3人、それ以下は、帯刀2人、小者1人。蓋し、(親王らに対する)尊重の風を除いて、上下隔絶の弊を無からしむる所以なり。
・官にある人、ひそかに自家において他人と政事を議するなかれ。もし議を抱いて面謁を乞う者あらば、これを官中に出し、公論を経べし。…安倍晋三くんよく聞きたまえ!
・諸官4年を以って交代す。ただし、今後初度交代のとき、その一部の半を残し、二年を延ばして交代す。断続よろしきを得せしむるなり。もし、その人衆望の所属あって、去りがたき者は、なお数年を延ばさざるを得ず。
・諸侯以下農工商各貢献の制を立てるのは、政府の費用を補い、弊費を厳にし、民安を保つ所以なり。故に位官の者、その秩禄官給30分の1を貢すべし。
・各府、各藩、各県、その政令を施す、またご誓文を体すべし。ひそかに爵位を与えるなかれ。ひそかに通貨を鋳造する無かれ。ひそかに外国人を雇うなかれ。隣藩あるいは外国と盟約を立てるなかれ。これ、小権を以って、大権を犯し、政体を紊(みだ)るべからざる所以なり。
041 官制改革 三職、八局を廃して、太政官中に、議政、行政、神祇、会計、軍務、外国、刑法の七官を置き、
議政官の中に、上下二局を設ける。
上局に、議定、参与、史官をおく。政体を創立し、法制を造定し、機務を決裁し、三等官以上を選考し、賞罰を明らかにし、条約を締結し、和親を宣言することを掌る。
 下局に、議長二人、議員若干を置く。上局の命を受けて、租税を定め、駅逓(てい)の章程を編し、貨幣、権量を造り、条約の締結、通商章程、辺境の開拓、宣戦講和、行政権の一部を以ってする。
行政官は、天皇を補佐し、議事を奏宣し、国内の事務を督(うなが)し、宮中の庶務を総判するを掌り、神祇、会計、軍務、外国の四官はこの行政官である。
刑法官は、司法事務をつかさどり、議政、行政の二機関と、三方に鼎立する。
地方政治を分けて、府、藩、県の三治となす。
042 有司公選法
 各藩の貢士を議政下局の議員となす。有司を公選とし、四年交代とする。
貢士対策規則
 閏4月29日、兵制、理財の方法、東征の方略等に関して、貢士に策問し、5月24日、貢士対策規則を定めた。
・貢士対策定日は、毎月、5日、15日、25日とする。…会議の開催日のことらしい。
043 貢士を称して公務員となし、さらに改めて、公議人と称し、輿論代表の任を尽くさせる。
 9月19日、新たに議事取調局を設け、議政官を廃し議定、参与をして、行政官を兼務させた
 その理由は、「自然実情」としている。「会計は議事が行われなければ成り立たないから」として議政官を廃止した。議参両職と史官は、そのまま行政官になった。このことに関しては当面「官中のみ心得て、天下には議政が整った後で知らせる」「政体書はそのままにしておく」
044 これは後々輿論公議を度外視する機微の原因となった。
 しかし、同月21日、公議人を東京に赴かせ、空論浮議を絶ち、公議を振起しようという令を出した。
 議政官廃止の理由は、藩の論がまだ定まっていなかったり、一己の私見を以って、衆説に雷同するという弊害も出てきたりしたからだ。…「法令全書」M元年
 彼我の区別をするようにという御沙汰が出た。
・公議人は各藩とも一人とする。
・前回は藩論を代表する人を選出するとのことであったが、今回は執政や参政より一名を選出することとする。
・これまでは主人が在職していれば、公選人は不要だったが、今回は主人がいるいないに関わらず、公選人を出すことにする。「法令全書」M元年
国典確立の御沙汰 
同13日、「彼我の私見を去るべし」との令が出された。「太政官日誌」第169号
046 M2.3、公議所が遂に開会された。そのとき会議親裁の詔が出された。
「礼法を貴び、協和を旨とすべし、皇祖の遺典に基づき、…」「公議所日誌」第一
公議所は毎月27日に開かれることになった。各藩選出一名、各庁の四等官以上の者のうち一人、東京諸学校より一名が出席した。
M2.3.12、「下情壅(よう)塞の患を剿(そう)絶するために」待詔局を設置した。
有志の者、草莽(そうもう)卑賤に到まで、その意見を聞こうとする目的だった。「法令全書」M2
047 有司公選の実行
M2.5.13、初めて三等官以上の権官を投票させた。
新政府の組織 
有司公選の法はこの時に起こり、この時に止み、以後絶えてしまった。
048 当時の政府組織の人選一覧
上局会議を廃止し、下局会議=公議所を改めて、集議院とし、侍詔局を改めて侍詔院とした。また弾正台を置き、内外諸政の非違を糾弾する任にあてた。
これが意味することは、議政官の廃止とともに、議政権は萎縮し、行政の威力は徒に強大になったことだ。集議院の議決の採否如何は、行政官の任意であった。これは新政府の公議採取の衰漸につく一兆であった。
049 集議院はM4.8.14、左院ができて、廃止になった。立法機関が、公議を集約し、行政、司法に対峙することができなくなった。
人心倦怠、議政権衰漸
朝廷は勲功のある藩の勢力に頼み、自ら断ずることができなかった。そして時勢が小康を得て、文武の官は奢微(び)にふけり、声利に走り、遠大の志も無かった。
 西郷隆盛は廟堂の情勢を快しとせず、郷里に帰り、板垣退助も、一二勲藩が、勢力に恃(たの)んで専制を事としたので、第二の足利尊氏を恐れ、非常時に備え、郷里に帰って若者の教育に当たった。
050 一人大久保利通だけが岩倉具視と親善し、威力を朝政に振るった。
中央集権を強化するために、薩長土三藩の兵を朝廷に献ずるという議があった。大久保と木戸は、西郷を、西郷と木戸は、板垣を連れて、上京した。
4月6日、内閣更迭。西郷、木戸を参議とし、大久保は大久保卿となった。
7月14日、列藩を廃止して、郡県を置いた。板垣、大隈重信は参議に任ぜられた。
これは薩長土肥の勲藩を収攬(とりまとめ)し、朝野の一致を謀るものであり、これにより中央集権が強まった。
再度の官制改革
29日、官制を改革し、新たに正院、左右両院を置いた。
正院は、天皇親臨や万機を総判し、太政大臣、納言、参議を置く。
右院は、諸省の議事を審査し、法案を草し、各省、長、次官で構成された。
左院は、議院を三等に分けて、行政官でこれに当てた。これは集議院の代わりとなるものだが、取捨、施行の権限は、みな正院が握り、左右両院は正院に隷属した。
集議院は各藩の代表で構成されたが、左院は官選議員で構成され、その人事権は正院が握った。
051 議会制度の変遷図
板垣退助左院の権限を争う
すでに廃藩置県は行われていたが、板垣は、木戸に言った。「廃藩置県は集議院を開いて決定すべきだ。廃藩置県は為政者が行ったものであり、これは専制だ。今となっては集議院を再興することはできないから、ここで民選の議院を創設し、天下の公議に従って、政令を施すしかない」と。
ところが衆に諮ったところ、これは時期尚早だとされ、そこで左院を立てることになった。2018113()

052 感想 ここに木戸孝允の長文が掲載されているが、同じことをくどくどと、論理的というよりは情緒的に述べているきらいがある。木戸は何かを恐れているのだろうか。溌剌とした精神の発想がない。木戸の言いたいことはただ一語、「政治のあり方が、法に基づいていなければ、国は強国にはなれない」ということだ。

 自由主義、立憲主義の立場であったものは、板垣泰助、後藤象二郎、江藤新平、福岡孝悌、由利公正くらいのものだ。
 木戸孝允はM6年の秋に欧米の視察から帰ると、次のような、政治の規則(=憲法)や法典を整えて、文明の政治をなすべきだとする一文を報告した。
 欧米各国の存亡の原因は、政治の規則=憲法や法律が整っているかによる。
053 ポーランドの失敗を見よ。ポーランドには法規がなく、人々が勝手気儘にやっているから、周囲の国々、ロシア、プロシャ、オーストリアの三国によって三分割されてしまったではないか。それはポーランドには、独立の実績がなく、国民に固有の権利がなかったからだ。
054 日本の朝廷は法律の基礎を打ち立て、五箇条の御誓文は、人民の方向性を定めた。その題言は、国是を定め、制度規律を立てるとしている。版籍奉還、侯・伯の廃止、国力の統一などは、列強の論理と同じだ。
055 この五箇条は、日本の政治規則=憲法の基となった。文明国では君主でも制度を自分勝手に運用できない。人民は政府に全権を委託し、官僚は民意にそむいた行動はできない。ただし、国民が文明の域に達していない場合は、暫く君主が人民の意をおもんぱかって政治を行うこともありうる。御誓文もその一つだ。これは欧米の民意に基づいた政治と変わるところがない。政治規則=憲法や人民は精神であり、有司=官僚はその肢体である。
056 国政は人民のためのものである。私がフランスのフルツクナルから聞いた話だが、彼は、フランス人はイギリス人に及ばないと言っていたのだが、その訳は、イギリス人は政府から与えられる権利を全て行使するが、フランス人は与えられた権利の半分も行使しておらず、政府が人民に与えない権利を奪おうとするからだと。
法規とは、権利を行使し、天賦の自由を享受し、また一方では負担を担って公の行動に尽力することだ。
君主国は人民の生活をつぶさに観察し、人民に配慮している。
057 一国の力に応じたことをやれ。一部の富者がいただけでは国は治まらない。多くの人民が立ち上がらねばならない。日本の現状は、人心が一方に偏していて、権利を尽くさず、徒に開化の真似事をし、負担も負わず、みだりに文明を模する。また法令がころころと変わる。以上が木戸の提言である。
058 政規=政治規則とは憲法を言い、典則は法典を意味する。
木戸は因循で、漸進主義者だ。板垣は、公議制度は必須であり、すぐにも実施すべきだと考えている。木戸も立憲政体をよしとしている。よく議論を尽くせばよかったものを、不幸にして、明治六年の征韓の件で、西郷、板垣、副島、後藤、江藤の参議等は辞職し、藩閥の弊習がこれより甚だしくなった。2018114()

感想 政治に天皇を利用しようとする考え方が、すでにこの木戸の一文に見られる。人民の衆議で政治を決するのではなく、――おそらく為政者にとって民主主義的決定手法は面倒くさいのだろう――鶴の一声に依存して決定する、誰が依存するのか、それは政治権力者=藩閥等である。「大衆の知力が未発達である状態では」とか、「大衆の何もかもを御覧になっている天皇の慧眼にお任せする」のが「ごく自然だ」などの論理である。

055 「文明の国にあっては、君主ありといえども、制度をほしいままにせず、人民が一致協力してその意を致(表明)し、国務を行い、裁判を行い、一局=統治者=政府に委託し、官僚に政権を実行させる」
「もし人民未だ文明の域に達していなければ、暫く君主の英断を以って民意の一致と看做し、民意の代わりに国務、裁判を官僚に任せ、だんだん人民を文明化することは、自然の理である」
056 政府が人民に権利を「与える」ことを当然視し、人民は政府が与える権利で満足せよ、人民が権力から権利をうばおうとすること(=人民が権利を行使すること)を、「これは混乱を招くものであり」それは国力を弱めるとしている。
この論理は、アジア太平洋戦争中の日本でも言われたことだが、結局日本は民主主義国に負けてしまった。ただし、アメリカにはアメリカ自体の問題点があり、一概に単に「民主主義」の言葉で全ての問題を解決できないが。例えば第一次大戦時でのウイルソンによる反戦・平和主義者の弾圧など。
056 「君主の英断に基づき民意を迎える国では、よく視察をおこない、人民の開化の度に応じて政治を行うことができる」
「やむを得ない事情がなければ」などは、言い訳がましい、法制度適用の除外の予告にすぎない。2018115()


第二章 征韓論

感想 これは中公新書の毛利敏彦著『明治六年政変』1979 の論稿を裏付ける内容である。西郷隆盛は「征韓」論の主唱者ではなかった。西郷隆盛の主張は、韓国に対して武力を用いるのではなく、言葉を尽くして友好関係を求めるというものである。
 西郷隆盛は、板垣泰助に対する書簡でも読み取れるように、すごく、悪く言えば、ねちこい性格だ。しかし、それは表面的な捉え方であって、政治に失望し、一遍は政界を退き、北海の地に隠遁しようとしたのを、板垣に説得されて政治活動に打ち込もうと決心した後でのことだからこそ執拗だったのかもしれない。ねちこいと言ったら失礼か。
 それに西郷の書簡の文体から受ける感じは、すごく周囲に対して気を使っているということだ。封建時代、上下の配慮が身についていたのだろうか。
 しかし、征韓論をめぐって、西郷、板垣、三条らの間で議論らしきものが行われていたことは、日本も一歩前進したことを示すものかもしれない。

059 西郷、板垣は、木戸、大久保の勧めで、政界入りしたが、政治的な意見が異なり、また陸海軍人は維新後、世の中が平穏になると、腐敗に傾き、山城屋和助の切腹事件、三谷三九郎の破産事件などが起こり、板垣は黙視できなくなった。
一方西郷は嫌気がさし、北海道に余生を過ごすつもりだと板垣に言ったが、板垣が説得すると、政界の腐敗を打破するために尽力すると誓った。そのころ朝鮮事件がおこり、二人はこの機会を利用して政界を立て直そうとした。
060 二人は三条に乞い、M五年八月、陸軍中佐北村重頼、同少佐別府晋介を韓国に、池上四郎、武市熊吉、彭(ほう)城中平を満州に派遣し、地理、風俗、形勢を調査させた。その後で池上が、芝罘(ちーふ)に行って清国の調査をしたいと西郷に頼むと、西郷は板垣に書簡を送ってその同意を求めた。
M元年11月、韓国との幕府からの旧好を引き継ぎ、王制維新や天皇の皇位継承を伝えるために、日本の朝廷は韓国に国書を送ったが、その中に、皇帝、奉勅の文字があったのを、韓国の朝廷は、修好書契の礼をなしていないとし、傲然として我が国書を退けた。
さらに、日本側が、幕府や対馬藩を廃止し、それに代えるに太政官、外務卿を置くと伝えたが、それも退けた。
これに対して日本側が書面で韓国側を諭したが、応じなかった。
M6.5 韓国の東莱、釜山の両府使は、日本公館の壁に啓示物を貼って、日本を侮辱し、日本の官吏を威嚇して、退去させようとした。こうして征韓論が高まった。
061 M6.6 外務大臣の上野景範が例の韓国が壁に張った文書を持参し、全権大使を派遣して、折衝するか、あるいは日本人居留民を全員退去させる*かのいずれかだ、と言った。啓示物は扇動的な内容だった。  *戦争開始のため、それとも単なる避難か。
板垣は、これまで朝鮮とは中国以上に親善関係にあったのだから、その関係を反故にしてはいけない、居留民保護のために、英仏に倣って軍艦を派遣すべきだと言った。
それに対して、西郷は、それでは韓国に疑いを起こさせる。全権大使を派遣して平和の談判をなすべきだと言った。
すると板垣はそれを認め、西郷の言うことは穏当だ、私は前言を撤回すると言った。
三条もこれを認めた。しかし、海軍を随行すべきだと言い添えた。
それに対して西郷は、否、海軍は不用だ、自分に行かせてくれと言い、衆参議も西郷に同意した。その後、数回会議を重ね、使節派遣を決定した。
062 この時、黒田清隆は北方を担当し、桐野利秋は、熊本鎮台司令長官として西方を担当していた。
 黒田は樺太の日本人漁民がロシア兵に殺されたのを国際問題化しようとし、桐野は琉球人が台湾の生蕃に虐殺されたことをもって、征台を要求した。しかも黒田は自説が入れられなかったので、征韓論を阻害しようとした。
板垣は「黒田は奸(かん)物なり」と評した。ロシアは条約国だから、官憲に知らせて、処分をしてもらえばよい、黒田は自分の手柄だけを考えていると板垣は黒田を諭した。
黒田は後に岩倉に与し、征韓論を攻撃した。
 遣韓大使の選任は未定だった。副島は自らが外務卿だから自分が韓国に赴くと主張した。三条は決定に躊躇した。
063 薩摩の子弟は西郷の身をおもんぱかって西郷派遣を止めようとした。桐野利明は土佐の北村重頼、山地元治らとともに、板垣に、西郷派遣阻止を依頼した。
西郷は板垣に語った。桐野が私のところに来たとき、「あなた(桐野)の従弟の別府晋介は、わたし(西郷)に、『今回こそ死んでくれ』と言っているのに、あなたは止めさせようとする。恥ずかしく思わないのか」と言って桐野を𠮟ったと。廟儀は副島に決定しようとした。
西郷は板垣に頼んだ。7月29日から9月3日までの西郷の板垣宛の書簡がある。
064 西郷の板垣宛7月29日の書簡。日本側が韓国に軍隊を先に送れば、韓国側は在留邦人の引取りを求め、もしそれを日本側が拒めば、戦争になるのではないか。それでは使節の当初の目的=親善に反する。だからまず使節を先に送るべきだ。しかし、それでも先方が暴挙に出てくれば、戦争の大義も生ずる。樺太ではロシアが武力行使しているのだから、日本側が朝鮮に対して武力を用いてもいいのではないかとも考えられるが、そんなことをしたら将来的に困ることになるだろう。それよりも、韓国に対しては使節をまず派遣し、そうすると韓国側が暴挙に出るから、私を送ってくれ。
感想 西郷は平和主義者なのか、それとも好戦的なのか。矛盾した発言をしている。西郷は、使節を単なる戦端を開くための手段と看做しているのだろうか。この西郷の書簡は『明治六年の政変』にも出ていたような記憶がある。
065 8月3日付けの西郷の板垣宛書簡。これに西郷の三条への意見書も添付した。
 8月3日付け西郷の三条宛意見書。
 「副島が今も休暇中というのは解せない。私が何もしないで人からとやかく言われるのはいやだ。だからこのようにご意見申し上げる。早く評決をして誰を派遣するかを決定して欲しい。
 朝鮮に関して、三条さんは、最初から韓国との親睦を求めていないようだ。三条さんは何かいい方法を持っておられるはずだ。一方、私は韓国と戦争をするつもりはない。使節を派遣して、彼らの言い分を明らかにすることが重要だ。私を派遣して欲しい」
 西郷は副島に会って自分を派遣して欲しいと冀い、副島はそれを了解した。そこで西郷が板垣に8月14日付けの書簡を送った。
067 「会議に出て来いというなら、出向くつもりだ。韓国との戦争を避けることはできないとされているが、私のように温順な考えでも、戦いを引き起こす可能性がある。私が死ぬのが不憫だなどと考えないで欲しい」
 16日、西郷は三条を尋ねた。三条は岩倉の帰朝後に大使問題を決すべしとしたが、西郷の決心が固く、三条は折れ、廟義を開くことを約束した。西郷は板垣に8月17日付けの書簡を送った。
 この書簡によると、16日に、板垣が西郷を訪れていたようだ。
068 先日西郷は正院で自分の意見を述べたようだ。「韓国との戦いをすぐに始めるのではなく、二段で行う。公法に則って今戦いを起こすこともできるが、それでは説得力が弱いので、今回は戦いの意図を持たないで、韓国側が隣人の付き合いを薄くするのを責め、その不遜を正し、将来は付き合いを厚くしようという意向をもって使節に望み、もし先方が日本側を軽蔑するようなことがあれば、使節を暴殺するはずだ。
(花房という人が以前派遣されたようだ。)私の提案を参議で検討すると約束してくれた」
069 17日の廟儀で、岩倉が帰朝後に、西郷を派遣大使として正式決定することになった。岩倉の帰朝後に非征韓論者となった大木、大隈も、この日は異議を唱えなかった。天皇もこれを承諾し、三条は西郷を招きこれを伝えた。その後西郷は板垣を訪ねたが不在だったので、8月19日付けの礼状を送った。ここで「条侯」とは三条のことらしい。
 これより先に桐野が西郷派遣に反対していた。またこの廟議決定後も、三条が憂慮していたので、板垣は三条を訪ね、こう言った。「非常の功を建てんと欲する者は、必ず非常の難を冒さずべからず」「西郷の決心を以って事に当たらしめば、死地に入りて却って生を得、大功を成すや必せり」
 板垣は西郷を訪ね、三条に言ったことを西郷に語った。西郷はそれに対して、後日板垣に礼状を送った。
070 私は死を恐れないが、過激を好んでわざわざ死のうとするつもりもない。しかし後で私が死を急いだなどと言う人もいるかもしれないが、それでは物事は進まない。
071 9月12日、右大臣岩倉具視が帰朝した。4月10日、岩倉は木戸、大久保、伊藤らを従えて欧米視察に出かけていた。三条は大久保が入閣しなかったので、会議の開催を引き伸ばした。岩倉は西郷等の論に異議があった。西郷は三条に書簡を送り、会議の開催を促した。そしてその追伸の中で、要求が満たされなければ自害すると三条を脅した。
072 「世間で噂されているようだが、派遣する人を入れ替えるような動きがあるが、それはやめてくれ。万一入れ替えがあれば、私は自害する」(…西郷は一徹な人だ。こんなに柔軟性がない人には、政治家は務まらないのではないか。危なっかしい。)
 10月14日、ようやく正院で廟儀を開催した。出席者は、三条、岩倉、西郷、大久保利通、板垣、江藤、後藤、副島、大隈、大木喬任であった。木戸は病気で欠席。
岩倉は樺太問題の方が、国境策定をする必要があるから急務だとしたが、それに対して、板垣、後藤、江藤が反駁した。樺太問題は一兵士と人民との衝突であり、またロシアは締盟国であり、交渉で解決できる問題だ。また台湾は国家や政府のない野蛮人だけだ。使節など派遣する必要はない。一方朝鮮問題は、皇威の汚隆、国家の消長に関わる問題だ。
それに対して岩倉は、今は内政を整理し、外征の力を蓄えるべきときだとした。この日は議決できなかった。
073 会議で大隈は発言しなかったが、この時すでに大隈は、岩倉のために斡旋していた。
 15日、廟儀が再開され、西郷の説を取り入れ、遣韓大使を決定した。
 大久保の日記
 「私は前の通り主張した。副島、板垣、その他参議は、西郷に任せるとのこと。会議はご両人=三条・岩倉にお任せすることにし、一旦休憩したが、再開後、これは西郷の進退に関わることで、大事だから止むを得ず、西郷の見込み通りにするとのこと。私は前に言っていた通り、両公御治定=お二人に一任するつもりだったので、異存は言わなかったが、心は以前と同様だと明らかにし、以前からこうなったら辞表提出を決意していたので、その場を引き取った」
074 三条は自ら海陸軍総裁の任に当たり、その決意を岩倉に書簡で送った。
「自分の考えを変えてあなた(岩倉)には申し訳ない。私に海陸軍の総裁職を命じて欲しい。兵権を求めるつもりはない」
 岩倉は大久保に書簡を送った、その際三条のこの書簡も添えた。
075 「昨日の評議で私は遠慮していた。私は断然貫徹するつもりだったが、面目ない結果となった」
 17日、木戸、大久保、大隈、大木の諸参議は連袂(べい)辞表を提出した。岩倉も三条に辞職の決心を告げた。三条は西郷の出使始末書を持って岩倉を訪ね、帰ってから岩倉の意思を西郷に話したが、西郷は応じなかった。(…このまま彼らの辞表を受理していたらどうなったのだろうか。結果は同じか。民衆には関係のないことか。)
西郷の出使始末書
「護兵一大隊を韓国に派遣することには賛成できない。戦争になっては当初の趣旨=親善に反する。先方が敵意を明らかにするまでは、戦争行為に出てはならない。それまでは可能性があるのだ。戦争に備えつつ交渉に臨むというのは、失礼に当たる。交誼を厚くし、当初の趣旨を貫徹すべきだ。先方が暴挙に出て初めて、戦争の大義が生じる。相手の非のみを責めてはいけない。十分に尽くすべきことを尽くすべきだ。真実を知らねばならない。10月17日」
18日、三条が精神に異常を来たしたため、岩倉に太政大臣の事を代理させた。
非征韓党はここで盛り返した。大久保の日記によると、
077 18日、大隈が伊藤を誘って岩倉を訪ねた。私は岩倉を励ました。岩倉は私にも頑張れと言ったが、私は様子見をすると答えておいた。
 19日、三条を見舞う。松方、小西郷、岩下、黒田がやってきた。私には秘策があった。黒田はそれを諒解し、吉井にもそれを伝えるよう頼んだ。
 21日、得能、吉井、小西郷がやってきた。伊藤とも会って話した。
 20日、病気中の木戸も、岩倉に手紙を送り、決起を促すとともに、岩倉に、大久保、伊藤と組むよう勧めた。木戸の手紙によると、「大久保は沈重謹慎な性質だから、よく話をした方がいい。伊藤は剛凌剛直かつ細案精思だから登用してくれ」
078 22日、西郷、板垣、後藤、副島、江藤が、岩倉に遣使の決行を促したところ、岩倉は抗弁し、あくまで同意できないという。江藤が、岩倉は三条の代理なのだから、三条の決定を執行すべきであり、私意でもって三条の決定を阻んではならない、と言ったところ、岩倉は、俺は太政大臣だ、俺が職権をもって、前議を取り消すと言い、それに対して江藤が、既に天皇の裁可を得ている、と言うと、岩倉は、『たとえ陛下がいかに仰せらるるとも、この岩倉が断じておさせ申さぬ』と言った。五参議は『それまで承れば沢山でございます。我々はもはや閣下の下に立つことはできませぬ』と辞して去った。
 ここで明治十年の役*をここで断行していたら、政府を覆すことができただろう。
*明治十年、1877年、西南の役。鹿児島の士族が反乱を起こした。
079 東洋の禍根はこうして残ることになり、朝党、野党つまり、非立憲党、立憲党の二大潮流は、このときに生まれた。
 西郷は、篠原、桐野と共に鹿児島に帰った。土佐の陸海軍人、教導団の学生も、官をやめて板垣と行動を共にしようとしたが、板垣は、私の場合は参議としての決断であり、君たちの場合とは異なるとして、慰留した。
 学生は留まったが、軍人等は、西郷が陸軍大臣であるにもかかわらず、子弟を連れて職責を全うしないのを黙視する政府をなじり、我々にこの件を担当させよと迫ったが、政府は何もできなかった。土佐の陸海軍人は、不規律、無節制を潔しとせず、片岡健吉、谷重喜以下は職を辞した。
 板垣が、別れた後でも交友関係を持ちたいと言ったところ、西郷はほっといてくれと言い、板垣がさらに、民選議院の設立を提案すると、西郷は、言論では目的を達せられない、むしろ自ら政府を掌握すべきだ、と答えた。
080 その後の政府の実権は、右大臣岩倉と内務卿の大久保利通に帰した。木戸は位があるだけだった。
 ところが民間では政論が勃興し、政府攻撃の声が高まった。
081 日本はここ300年間の太平の余習から脱しておらず、民衆は卑屈で独立の気象に乏しかったが、新政府は公議輿論を採用し、西洋の学問が次第に入ってきて、識者は忌憚なく陋習弊俗を指弾し、国事に関して意見を述べるものが多くなり、新聞紙上の言論が自由になった。
ところが寡人専制の政府は、言論の自由を最も恐れた。そして6年10月、政府は新聞紙条目を制定発布し、言論を統制した。これは後年峻厳なる新聞紙条例讒謗律=名誉毀損律を発する伏線となった。これで政府は民心の激昂を招いた。
新聞紙発行条目
第一条 各個の新聞紙は各個の題号を備うべし。
第二条 新聞紙の付録には必ず本紙の題号を記すべし。
第三条 新聞紙の本紙を出さずして唯付録のみを出すべからず。
第四条 官準を乞ふて書面に一たび許可の印を得れば、毎号を出して検査を受くるに及ばず。但願書は書籍出版条例の雛形によるべし。
第五条 毎号印行の年月日、印行の地名、編集者・印刷者の苗字名及び号数を記すべし。
第六条 刻成後一部宛文部省及び管轄庁に納むべし
第七条 天変地異火災軍事物価物産貿易生死嫁聚(かしゅ)官報文学工芸遊宴衣食田宅洋書訳文海外雑話その他世情の瑣事等、事に害なき者録入を許す
第八条 四方より寄せ来る書類並びに贈答の書牘(とく)文章雑話等、苗字名を知るを得べきに於いては皆之を記すべし
第九条 官準を乞わずして新聞紙を発するを禁ず
第十条 国体を謗(そし)り、国律を議し、及び外法=外国の法律を主張宣説して、国法の妨害を生ぜしむるを禁ず
第十一条 政事法律等を記載することにつき、妄(みだ)りに批評を加ふる事を禁ず
第十二条 猥(みだ)りに教法=宗教を記入し、政法の妨害を生ぜしむるを禁ず
第十三条 衆心を動乱し、淫風を誘導するを禁ず
第十四条 無根の言に託して人罪を誣(しう)ることを禁ず。
第十五条 在官の者、官中の事務はもちろん、或いは外国交際に関わる事類は些細の件といえども、私に掲載することを禁ず。(…秘密法!)
第十六条 凡そ記載したる事件に錯誤あらば必ず之を改むべし。
第十七条 凡そ記載の事件につき疑問すべき事ある時は編集弁解の責に任ずべし。
第十八条 禁令条例にそむきたる時は、律に照らし処断すべし

感想 新聞紙条例の前身の「新聞紙条目」の条文を見て驚いた。権力者の恐怖が何処にあるのかが分かる。明治六年制定とのこと。明治六年の政変は、政権が一部の権力者による、衆議によらない専制政治でしかないことを如実に示すものだ。081
 この頃も、今でも、日本では、下からの=庶民による民主主義運動は弱かったから、五箇条の御誓文で衆議を尊重するとの掛け声が上からなされたとしても、これまでの封建的社会システムに乗っかって、専制政治がいとも簡単に構築できたのではないか。2018117()

083 こういう禁制が出されても、識者の間ではそれを無視して活発に民権思想=言論活動を行った。征韓論の破裂は、有司専制の恐るべきことを国民の脳裏に印象づけた。そういう中で7年1月、民撰議院設立の建白が出た。
 維新の改革は、公議輿論の力を借りて武門政治を打破し、階級特権の制を破り、七百年来鬱結していた国民の自由の権利を回復した。五条の皇誓は、国是としての公議輿論を定め、上下一和、政治の根源を宣明した。しかし一二の閥族専裁の弊習が生じ、貢士対策所、公議所、集議員、左院と、公議輿論の皇謨(ぼ、天皇の政治)を推進するための機関は、その権限を次第に削られ、遂に立法府を行政府に隷従させ、無意味なものにした。
なぜ寡人専制となったのかは、三藩の兵を朝廷に献じ、中央集権をなし、政府はその力に頼んで、廃藩置県を公議輿論に図らず、二三の有司の英断で決めてしまったことにある。その後は、立憲派と非立憲派とが廟堂で軋轢し、それが征韓論で爆発し、その後両者は分かれて朝野の二大潮流となった。
084 自由党は、維新の改革の精神を受け継ぎ、皇権を回復し、民権を擁護し、公議輿論を尊重する。万機公論の政治は、聖明の大志であり、皇謨が準拠するものだ。この二つは緊密に連携している。政党は、国民の聡明な智恵と美徳(懿(い)徳)を代表し、皇謨を翼賛する。それで国家は隆盛するはずだ。自由党が生まれたのは偶然ではなく必然だ。

351 注 本書52ページの木戸孝允の政規典則論を、「岩倉公実記」下巻より引用している。刊本と、「岩倉公実記」や「木戸孝允関係文書」とで、字句の相違があるとのこと。
351 列強の中で国家として自立するためには、封建制は不可であり、中央集権が必要であると説く。
352 個人的な私情を捨てて、国家に奉じなければならない時がある。
 「聖王の叡慮遠大にして…」(…天皇様さま!)
 「蓋し政規は、一国の是とするところ所によりて之を確定し、百官有司の随意に臆断するを禁じ、…」(とあるが、誰がその政規を提起するのかは問題にしていないというかごまかしている。現実は天皇の名によって藩閥が決定していたのに。)
353 文明国では民意によらなければ官僚は濫りに行動してはならない。然りと言えども、一国なお不化に属し、文明未だ治(あまね)からざれば、暫く君主の英断を以って一致協合せる民意を迎え、代わりて国務を条列し、その裁判を課して、有司に付託し、以って人民を文明の域に導かざるを得ず。
 政規は精神なり、百官は肢体なり。欧州の通説に、政規は精神、百官は肢体という。又一説には、人民を精神とし、百官を肢体とす。政規は即人民一致協合の意に出づれば、二説異なりと言えども、理は即一なり。(…これは、当時人民主権の思想がすでに日本でも広まっていたことを物語るものだ。しかし、その後の経過は、天皇の権力を大きくする一方で、為政者はそれを利用する方向に向かった。)
354 (政規=五箇条の御誓文の自己目的化 なぜ御誓文が重要なのかについては、あまり述べられていない。それが広く人民の意見を聞くということであったのに。)
 (権利義務で、義務の強調)
 民間にたまたま一二の賢い人がいたり、数名の富者がいたりしても、一般の人民が貧しく愚かで品位がなければ、その国は未だ富んで強い文明の域に達したとは言えない。
355 (上から目線) 政府は国民を教育し、徐々に全国の大成を期すべきだ。
356 (国家主義) ポーランドでは政規が確立しておらず、公侯や豪族は私利に走り、人民の不満が募って全国で蜂起し、公侯を懲らしめ、豪族に復讐し、その騒擾がロシア、プロシャ、オーストリアにも波及し、三国が残賊を膺懲する名目でポーランドに介入し、三分割に到った。私は、汽車に乗ってポーランドをプロシャからロシアに向かって旅行した時、物貰いがいるのにびっくりした。政規・典則がなかったからこういうことになったのだ。

感想 自由党が民権=衆議を掲げたことは評価できるが、天皇制の枠組みを、意気高揚とした文体で、掲げていることは、当時の思想的枠組みはこの程度であったのかと、残念でならない。そしてこれ084は地の文であり、明治43年の頃の評と思われるから、当時の天皇制強化の影響を受けて、なおさらそういう傾向になっているのだろうか。ただし、『群馬事件』で述べられているように、同じ土佐の自由党構成員でありながら、植木枝盛は、共和制を唱えていたらしいから、そういう海外の思想も当然のことながら、日本人の何人かには当時でも影響を与えていたのかもしれない。それにしても明治維新は、天皇をかつぎ上げて倒幕運動の大義名分にしたということの影響が大きいのだろうか。084 2018118()



第二編 民選議院の建白と愛国公党
第一章 民選議院建白と自由党の前身

感想・要旨 征韓論で敗れた土佐の人達が岩倉を暗殺しようとしたり、征韓論で敗れた江藤が佐賀の反乱の際に佐賀に戻ったために、結果的に乱を掻き立てることになったりしたことは、民選議院制度を政府に進言する上で、好ましくない結果となったが、これはそもそも明治六年の征韓論をめぐる対立に起因するものであった。しかし、それにもかかわらず大衆の民選議院に対する期待は大きくなった。085

085 人民の支持の上に立たなければ、よい政治はできない。岩倉、大久保の二人は、公議輿論を顧みなかった。
 板垣退助は、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平らと公議輿論の制度を確立すべく会合し、さらに片岡健吉、林勇造らに参加を要請したが、二人はその能力がないと一旦は断った。彼らには維新の初年に官命で欧州に遊んだ経験があった。
 板垣はまず後藤に声をかけた。後藤の推薦で、イギリス留学から帰ったばかりの小室信夫、古澤滋と面会すると、意見が合った。板垣はそれから副島、江藤に謀った。
087 板垣、後藤、副島、江藤は、小室、古澤だけでなく、元東京府知事の由利公正、元大蔵大臣だった岡本健三郎とも会った。そして民撰議院の建白と政党の創設とを目標に、銀座に倶楽部=幸福安全社を設立した。それを蒔田魯之が管理をした。由利は、小笠原某ら数名を連れてきて、小室は井上高格を連れてきた。また長屋忠明、福岡孝悌、奥野慥齋(そうさい)、坂崎斌(ひん)も加盟した。愛国公党を組織した。
 愛国公党本誓
一 人は生まれながらにして、人によって奪われることのない権利をもって生まれてくる。これは等しく与えられるものである。しかし、未開の社会においては、人民がその権利を持てないことがある。日本では、数百年来封建武断の制度が人民を奴隷扱いしてきたために、その余弊が抜け切れていない。我が党は、この人民の通義権理を主張し、それが天賦であることを保証したい。これは君を愛し、国を愛する道である。
一 この道は、天皇陛下の御誓文の趣旨を奉戴することであり、公論公議を以ってすることである。
一 我が党の目的は、人民の権利を保証し、人民を自主自由、独立不羈にすることである。そして君主人民を一体にし、日本帝国を隆盛ならしむることだ。
一 このために我々は一生懸命に努力するつもりだ。(注2…調印者名357
088 M7.1.12 副島種臣の家で愛国公党本誓署名式を行った。
356 注2 連署名者は以下の通り。副島種臣、後藤象二郎、板垣退助、江藤新平、由利公正、小室信夫、岡本健三郎、古澤迂郎、奥宮正由
国会図書館所蔵 旧憲政史編纂会蒐集写本甲135 この写本は生沼豊彦氏が所蔵していたものの写しである。尾佐竹「明治政治史点描」p. 285参照
ついで、古澤が草した建白書が成り、連署し、M7.1.17、左院に提出した。
 「岩倉大使が欧米を視察し、斟酌し(民撰議院を)提起するとの評議もあったが、岩倉大使が帰朝してから数ヶ月が経つのに、いまだになんら提起されていない、今のように輿論が梗塞しているのは残念だ、早く御評議をされたい」

高知県貫族士族 古澤迂郎
同       岡本健三郎
名東県貫族士族 小室信夫 (名東県は阿波、讃岐、淡路)
敦賀県貫族士族 由利公正
佐賀県貫族士族 江藤新平
高知県貫族士族 板垣退助
東京府貫族士族 後藤象二郎
佐賀県貫族士族 副島種臣

民撰議院設立建白書
090 国家興隆のために必要なことは、公議を広め、民撰議院を創設し、有司の権限を制限することである。
 人民は、税金を払う限り、国家の政治に関与する権利がある。
 今人民は無学・無知であるから、民撰議院は時期尚早であると、民撰議院の設立を阻もうとする者は言うが、民撰議院を通して人民は学び、知識を得るものである。人民が自主的に学ぶのを待っていたのではいつになることかわからない。さらに民撰議院は、愚者を集めるばかりだと言うのは、人民蔑視である。有司諸君も自分よりも優れた人がいることを知っているはずである。
091 知識は使うことを通して増えるものであり、また政府には人民を啓蒙する責任がある。政府の強さは、政府が人民と一体となって、人民の協力を得ることである。
092 民撰議院の設立は軽率だと言う人もいるが、創造することは軽率とは異なる。また、欧米の民撰議院制度は一朝にしてなったものではないと言うが、それでは電気や蒸気機関を日本人が発明するまで待てと言うのか。民撰議院についても同じことが言える。「日新真事誌M7.1.18」
093 赤坂喰違の事変
 M7.1.14の夜、高知県士の武市熊吉、武市喜久馬、山崎則雄、島崎直方、下村義明、岩田正彦、中山泰三、中西茂樹、澤田悦彌太の九人が、岩倉具視を赤坂喰違で襲撃した。岩倉は堀に転落し、傷ついたが一命はとりとめた。17日、九人は捕らえられ、7月9日、斬に処せられた。武市熊吉は、元軍人で、征韓論に敗れて職を放棄していた。
094 木戸が板垣を招き、民撰議院設立建白書を見たいと言ったので、小室が日新真事誌を送ったが、木戸は気分を害したという。木戸も民撰議院設立には関心を持っていたので、出版する前に見たかったということらしい。政府の中には、征韓党が政権を奪取するのではないかと危惧していた人もいた。民撰議院設立は国民の受けが良かったが、政府が採用することにはならなかった。
 一方佐賀の士族の中には新政府を好まず、旧制度に復したいと謀るものがあった。これを憂国党という。当初憂国党と征韓党とは相対峙していた。秋田県令だった島義勇が佐賀に諭しに行ったが、却って憂国党の首領となってしまい、さらには征韓党と合同し、東京にいた江藤新平が鎮撫のため佐賀に戻った。
095 これは建白提出の数日前のことだった。江藤が出発する前日、1月12日の夜、副島と江藤が佐賀に鎮撫のために出かけることに関し、板垣は、君たちは佐賀では重望だから、君たちが佐賀に帰れば、憂国党は勢いづくに違いないから、東京にいて手紙を送って鎮撫したらどうかと勧めた。そうすれば憂国党も江藤一人を東京に残して決起することなどないだろうと言ったが、江藤は、副島を東京に残し、私は佐賀に行く、これは勢いだ、と言った。
江藤が佐賀に帰ると、憂国党は勢いづき、2月1日、小野商会を脅かし、15日、県庁を襲撃した。江藤は心ならずも暴動の首領になってしまった。官兵が憂国党を数日で打ち破り、3月、島義勇以下13人は、鹿児島県下で捕らえられ、江藤以下数人は、高知県下で捕らわれ、4月13日斬に処せられた。
096 内務卿大久保利通は佐賀に至り、過酷に処分した。それを見た、日本に駐箚していた外国使臣や居留民は、日本の司法権の独立を疑い、この件は条約改正にも影響したという。
 以上民撰議院設立のためには不利な事件が相ついだが、民意は民撰議院の設立に賛同し、その声は益々高まった。以下は、新聞紙に掲載された論評である。

第二章 民撰議院の論争

097 加藤弘之はドイツ学者で、宮内省四等出仕の官であったが、民撰議院設立建白書に最初に異議を唱えた。加藤によると、
 国家治安の基礎を固めるためには公議を発展させることが必要だと言うが、公議が必ずしも最もよい議論を導くとは限らないという難点がある。
議院を設立するのは国家治安の基礎である制度憲法を制定するためである。議院で求められるものは知識であり、司法で求められるものは公正さであると欧州の碩学は語っているが、公議には、公正さはあるとしても知識は欠けるものだ。
また制度憲法が紙上の空論に堕し、真に国情に合致しない場合がある。ドイツのフレデリック大王は、君主専権の時代であっても、自らの君権を制限したが、民撰議院を興すことはなかった。それは当時のドイツ人民の政治的識見が不足していたからだ。ロシアは今でも民撰議院がないが、ロシアの人民が政治的知力に欠けているからだ。日本では農民や商人は無知不学を自ら甘んじ、進んで政治に参加しようとしない。士族はこれよりは大いに優るが、よく事の理解ができるものは10%ぐらいしかいない。

感想 民撰議院設立建白書を批判する加藤弘之の一文M7.2.3は、この時代としては、現代の文体に近く、分かりやすい。西郷隆盛の「御坐候」、「不可言」、「被仰付候」など江戸時代の文体とは異なり、論旨もすっきりしている。「ドイツ学者」とのこと。ただ難点は、人民の知識レベルが国家を論ずる能力に達していない時に民撰議院を設立することは、国家にとって不都合が生じるという点に関して、それは尤もらしいのだが、具体的な事例を挙げて説明してもらいたい、一般論ではあまり説得力がないということだ。しかし彼が最初に指摘している点で、民主主義が政治制度として最もよいものかどうかは疑問であるとしているが、そのことは今日でも当てはまるような気がする。衆愚政治というか。今日の日欧米での右翼的国家主義の台頭は、危惧するところだ。097

099 これでは国家にとって害悪であるし、治安を害することにもなる。民撰議院は、開化した国家には必要だが、未開の国では害があるとドイツ人の政治学者ビーデルマンが言っている。以下その要旨を示す。
 国家を維持するための制度憲法は、そのときの時勢・民情に合致していなければならない。人民に優しく、人民の利益を保証する、近隣諸国の制度憲法をうらやんで、それを真似して治安の悪化を招いた例がある。各国とも開化が進めばそれに向かうだろうが。
100 民撰議院制度を制定すべき適当な時期と、その程度を考慮すべきだ。それを判定できるのは賢者だけだ。それを誤ると自由を与えられた人民は、自暴自棄に陥るだろう。また逆に、人民の知力が十分あるのに旧態依然としていたのでは、人民の擾乱をもたらすだろう。
 民撰議院開設の弊害は以上の通りだから、民撰議院の開設によって人民を開明する余裕などない。また、官僚=有司は驕るなかれというが、今の官僚以外で優秀な人材は数十名ぐらいしかいない。人民を蔑視するつもりはないが、暫くは天下のことを官僚=有司に任せないわけにはいかない。
101 政府が人民を教化すべきだとの説はごもっともだ。今の日本の人民は従順すぎる。しかし、人民の教化は、ただ議院を設立することによってではなく、学校教育で漸進的に行うべきだ。プロシャのフレデリック第二世が教育を重視した結果、プロシャの人民は意欲的になり、プロシャは強国になった。改革を急に進めると、軽々しいものとなる。漸次進めるほうが良く、民撰議院設立もその意味で時期尚早である。
102 すでに二三県で行われているように、士族や、平民のうちでも上中層を対象に、選挙権を与え、府県議会を設立し、府県内のことだけを評議させたらどうだろうか。但し決定権は知事にあるとする。しかしそれで利益がもたらされるかどうかは不明だ。「日新真事誌」M7.2.3
時の論評はこの加藤の説を評して、「迂儒時務を知らず」とか「藩閥に侫(ねい)媚する曲学の徒」と罵ったそうだ。
加藤のこの論文に対して、板垣らは、古澤滋をして反論を書かせ、それに副島と福岡孝悌が潤飾した。
103 これまでの維新の改革は、最下層の武士階級からの提起に始まって、上は天皇にまでたどり着いた。ところが廃藩置県の後、政府は公議人を置かなくなり、政治勢力を有司専制とした。これはオリガアーキーだ。
フレデリック第二世の独裁的善政のような偶然に任せるのではなく、他の制度でこの善政を実施することが可能だ。ミルも言うように、シヤアーレメイン、ペートル、ウイリアム第三世などは、歴史上の偶然でその善政を行ったに過ぎない。一方、日本の天皇はまだ幼く弱い。フレデリック第二世などの啓蒙専制君主はヴォルテールを師としていた。ロシアのペートル大帝は、英武の皇帝で、賢明の宰相と共に善政をなした。「ただ人民の進歩開明の度を以って言うならば、ロシアの人民が、どうしてひとり、グリーキ*の人民に譲らんや」(グリーキとは古代ギリシャ人のことらしい。現代のロシア人民も、古代ギリシャ人に比すれば、開明しているのだから、ロシア人民を馬鹿にするなということか。)

感想 民撰議院派は、加藤が古澤の論文に反駁できなかったとして嬉々としているが、私は加藤のほうが論旨がしっかりしていて分かり安いと思った。民撰議院派は、加藤のドイツ人への言及に対抗して、ミルなどを持ち出して論駁するのだが、わざわざミルを出してきたという感じで、衒学的である。また、同じフレーズの繰り返しで、説得力ない。また学校で学ぶのではなく、実際に行政に関わることによってしか知識は身につかないというのも、一面的な感じがする。加藤が論駁しなかったのは、民権派の論旨が論駁するに値しなかったからではないかと思った。103

105 人民が従うばかりで自主性がないから、開化が遅れているのであって、あなたが言うように、開化が遅れているから、人民の自主性がないのではない。江戸時代の制度が古臭かったせいで、人民の自主性がないのだ。そういう人民が自主的に開化することは考えられないとミルも言っている。だから古い制度を改めなければならない。
ミルは言う。野蛮な人民に必要なものは専制政治だ。奴隷状態を脱した人民に必要なものは民撰議院だと。
エジプトのハヤラアーキーや中国の父母自居るの政府の弊害*は、人民をその殻の中に閉じ込めたことだ。  
*ネットで調べると、日本の明治時代の文献の中で「父母自居政府」が扱われているらしいのだが、その論文自体が中国語で書かれていて、理解不能だ。おそらく「父母自居政府」の意味は、国家権力が父母のような権力によって、人民を子どものように扱う政体を言うのだろう。
106 政府の形態は人間の進歩を物語る。人民に政治権力を分担させるほど進歩と言える。政府には人民を次のステップに進ませる義務がある。
 ミルは言う。人間はやることを制限されると、感覚も狭くなると。独裁制下では愛国者は君主一人しかいない。
ミルの人民の状態の三大要件
第一 人民が、人民のためにつくられた政治政体を好まないが、反抗はしない必要がある。
第二 人民が前記政体を維持するうえで、政治に参加できる必要がある。
第三 人民が前記政体の趣旨を向上させるうえで、政治に参加できる必要がある。
107 我々は、代議士を選出する際に、選挙人として全人民を対象にしていない。当面、士族、豪農、豪商だけを対象とする。彼らは維新の義士、功臣であったし、我々の民撰議院設立建白書に関する意見を新聞に投稿している。上記ミルの三要件は、今の日本人に備わっていると言える。
 あなたは議会を開設しても愚か者の集団にしかならないとおっしゃるが、指導者に一人でも賢者がいれば、他のものはそれに従うものだ。
108 教育の対象には、道徳(=仁人)と実務能力=脳力とがある。人が一般に考えるところの教育は、道徳を想定しているが、他方、民撰議院に人が参加することは、人の実務能力を向上させ、人を学ばせ、人を知者にする。
 日常の仕事をしているだけでは、その人の脳力を思想・感覚にまで開発することはできない。読書をしても、社会的な行動に出ることにはつながらないし、有能な人に遭遇することにもならない。
ところが人民が政治の実務を担えば、そのことを通して学ぶことができる。昔のアゼン都士*の知識が豊かだったのは、その脳力を磨いたことによる。  
*古代アテネ人のことか
 自由政府の事業に参加することによって、知覚と感覚を磨くことができる。トクビルは言っている。教育はただ読書だけで得られるものではない、人は仕事から学ぶことができると。行動や習慣の力は大きい、平生の業の教育力は大きい。自己の生業をやっているだけでは視野が狭くなる。公共のことに関与しないと、ただ私利私欲に陥るだけだ。公共の仕事をして初めて、その人の思想を高めることができる。
110 人民全般の知識の向上は、公共の事務を決定しうる権利を人民に広く与える度合にかかっている。「日新真事誌」M7.2.20
民論は、一学者の一言でさえぎることはできない。
大井憲太郎は馬城臺二郎の筆名で加藤を論駁した。次に森有礼が議院論を批評し、西周が(議院)反対説を唱え、津田真道は賛成し、西田茂樹が建白した。
大井、古澤は『日新真事誌』や『報知新聞』で議院開設論を展開し、福地源一郎は『東京日日新聞』で加藤を応援し、政府を擁護した。
111 大井憲太郎=馬城臺二郎は、加藤を批判した。
 国会を開設しないでおくと、有司専制が継続し、民衆はその政令を信じないだろう。他方民衆の意見を取り入れれば、いかに民衆の考えが取るに足りないとしても、民衆は政令を信ずるようになるだろう。「人民自らが制定して、自らを守る」というではないか。
 フレデリック大王の善政の時代と今とは違う。今は人民が専制に服す時代ではない。今は有司専制に堪えられない。時代と国情を考慮すべきだ。112
112 (359ページ注四で指摘されているように、ここで論旨の流れに合わない部分が挿入されている。以下、次のカッコ*へ続く)立法と行政とを混同してはいけない。そしてさらに二三の有司が事を決定すると、その弊害は大きくなる。
十中八九の愚論を採用する必要がないのと同じように、有司の愚も採用する必要はない。民撰議院は、行政権の横暴を抑え、有司専制の弊害を取り除き、人民の不満の捌け口を提供する。人民の不満が高まれば、政治的不穏をもたらす。さらに、人民の中に有司と同レベルの人材がいることを考慮すべきだ。(*120ページに掲載された、大井の二度目の反論で書かれたことがここに入り込んでしまったようで、論旨が飛んでいる。ここの論旨は、プロシャの国情と日本の現在の国情が違うことを考慮すべきだという論旨とはかけ離れた、愚民(人民)の意見を採用することの重要性と、立法権の行政権からの独立の必要性という論旨になっている)
113 愚論と言えど、人民が参加して憲法を確定すれば、人民はその憲法を信奉する。そして有司も、人民の人情を理解できるようになるはずだ。
 教育を重視するばかりで、民撰議院は急いで設立する必要はないとするのは、人民を反発させたままにしておくことになる。
 有司だけが有能であるとは限らない。人民も参加させて、世情に当てはまる憲法を制定すべきだ。人民にも情報を提供すべきだ。憲法制定事務を専ら人民に任せよ、と私は言っているのではない。人民が法案を審議し、政府も人民の意見を聞くべきだといっても、民権にも制限がある。政府案と矛盾することは許されない。(…それではあまり意味がないのではないか。)
114 これまで世襲の士族は、人民の実態を知らなかった。代議士を旧士族だけに絞れば、県の実情が分からなくなるだろう。
 税とは何か、政府とは何か、軍役の義務とは何かを民衆が知らないと言うが、有司の多くがこれを知ったのは政権を担当したからではなかったか。人民の政治意識も同様だ。したがって、民撰議院は必要だ。それに上下の意思疎通もよくなるはずだ。
115 人民に国会開設の権利のあることを知らしめよ。そうすれば人民は政治の仕組みが分かり、税負担が高いからと言って暴動を起こすようなこともなくなるだろう。人民の自主性=敢為の気も出てくるはずだ。
 民撰議院開設を引き延ばして、ゆっくりやったほうがいいと言っていたら、人民の政府に対する不信感は高まり、不測の事態が起こらないとも限らない。民撰議院を開設して民衆の不満を発散させることは、統治にとっても有効であるはずだ。
116 地方議会を開くことよりも、国会を開く方を優先すべきだ。国会は、国家予算、税金など、人民の生活に直結する重大なことを審議するのだから、人民に議論させるべきだ。地方会議ではそれができない。「日新真事誌」M7.2.3
 馬城臺二郎に答ふるの書 加藤弘之
117 野蛮国で有司専制に対抗して民撰議院を設立すれば、さらに有司専制がひどくなるだろう。有司専制の弊害を除去するためには、もっと立派な有司を任用すればよい。
 フレデリックは独裁的な政治を行わず、常に人民の進歩を考えていたが、他の独裁制国の人民は、独裁制に抗して民権を伸長しようとした。
 政府が人民の愚かな決定を覆せば、さらに人民の反発は高まることになるだろう。
 教育の目的は人民に学問を勧めることだ。すぐに教育効果が現れるものではない。それはやむを得ないことだ。
 有司者以外にも優秀な人材がいれば、政界に抜擢する必要がある。民権旺盛の国の人民は、人民の自主の権利に制限があることをわきまえているが、未全開国の人民は、それをわきまえないので暴行に訴えるものだ。
118 人民自主の権利は私権であり、参政権は公権であるから、同じ土俵で論じてはいけない。上旨を下に達するためには、賢い人を地方官に当て、人民を説諭することだ。
119 明治維新と廃藩置県は、当時のいくつかの雄藩と数百の有志が名義を正し、その智と権力で企てたものだ。これを民撰議院でなし得られただろうか。「東京日日新聞」M7.2.22
 加藤を再駁する書 馬城臺二郎
 賢い有司を採用することは民撰議院を設立する以上に難しいことだ。
120 立法権を確立することは行政権を堕落させないためにあるのだ。(次は名文なので、そのまま引用する。)

「民撰議院の権を制限するには政府あり、元老議院あり、参議院あるが如く、立法行政の権は互いに相対峙せしめて以って其当を得、国を維し民を保す、苟しくも偏倚(へんき)するところあれば、決して其当を得ず、有司専制の弊より延(ひ)いて百般の弊に至ること目前に在り」

 有能な有司がいないから有司専制の弊害が生じるというのは本当だろうか。今の有司諸君は人民が未開だから、我々賢明な有司が事に当たっていると言っているではないか。この論理に従えば、立法のための議院は不必要になり、司法では覆審院や検事局も不必要になる。
 彼我の論でどちらがいいかを決定するための機関が参議院だとすれば、民撰議院こそそれを判定するための機関ではないか。民撰議院は行政権の専横を許さず、有司専制の弊害を取り除き、人民の不満を解放し、上旨を下に達せしめるためのいい方法である。
 民権と暴力とを区別されたい。民権の制度が濫りに政府と矛盾するようなことは、あってはならない。
 人民には自主の権利があり、政府はこれを犯してはならず、その権利を保護すべきだ。
122 教育だけを前面に出していたのでは、不測の事態への対処がおろそかになる。不測の事態にどう対処するのかを等閑視してはいけない。
 私は、あなたのように三年前に民撰議院の設置を求めたのではなく、今求めている。
 明治維新と廃藩置県は、輿論から起ったものでないことは知っている。七八年前は、有司専制の弊害は、今よりもひどかった。維新の功績は憂国者にあり、廃藩置県の功績は公議にあった。これは有司専制の賜物ではない。
123 当時は公議人を各藩から出し、藩の意見をまとめて提言していた。
愚民が民撰議院を構成するのではない。時勢が変わったことを認識せよ。手遅れにならないように英雄を起用し、法を運用せよ。「民撰議院集説上」M7.7
 森有礼の議院建白批判
感想 森有礼の批判は、民撰議院の本質を批判するというよりは、末梢的な事項を揚げ足取り的に批判する、あまり価値のない批判である。「その文義穏やかならず」と、森こそ穏やかでない批判をしている。
124 一 政権と国民とが対立し、国家が崩壊しかかっていると言われるが、その責任は、今民撰議院開設を唱えている人たちにもある。彼らは朝鮮を撃つの議を主張していた人たちである。(この考え自体が間違っている。このことは、すでに当時でさえ、こういう誤解があったことを例証している。彼らは朝鮮を撃とうなどと考えていなかった)そしてこの朝鮮征伐の提案が決定されていたら、民衆の不満が爆発しなかっただろう、というのは信じ難い。(そんなこと関係ないことだ、板垣はその前から民撰議院を考えていた)彼らは昨年十月の新聞紙発行の条目*決定に不満ながらも賛成した。政権と人民との対立には、彼らの責任もあり、現在の有司だけの責任ではない。
*国体をそしり、国律を議し…、外法を主張し…、国の妨害を生ぜしめ…、政事法律をみだりに批評する…、教法で政法を妨害する…、等々を禁ずる。P82
 二 『朝出暮改政刑情実に成り賞罰愛憎に出』などというのは誤っているから、引っ込めろ。
 三 民撰議院は、政府が命令し、政府に申告し、政府が許可するのだから、人民主体など担保できるはずがない。それは人民の議院ではなく、政府の議院だ。(全く理解していない)民撰ではなく、政府が議員を選考・命令して決めるものだ。(理解していない)だから議院自体を政府が廃止することも可能だ。そして議院は、政府に従順で、政府の政策を称揚することになり、世間の笑いものになるだろう。「明六雑誌」第三号
125 西周の民撰議院を駁する議 「駁旧相公議一題」
同じ西洋から導入するにしても、民撰議院を導入するのと、電気や電信を導入するのとでは事情が異なる。政治、法律、宗教などは、物理、化学、機械とは異なる。人事には不確定要素がある。
126 政治に関しては、人民の開化の度を考慮しなければならない。
ルソーが言っていることは本当だろうか。ルソーは言う、人民と政府とは約束で成り立っている、税金を出しているのだから、人民には国家によって保護される権利ある、国家の統治が放縦にならないように、法制を定めその範囲で国家を治めよと。
127 しかし、参政権は、税金を納めることと同じことだろうか。政府は約束事ではない。自重自尊は、学識者でしか持ち得ない特性だ。学識を学校ではなく参政権に求めるのは不可能だ。天下のこと=政治に関して、先に議院を開いておき、その後で政治について考えるなど、許されるのだろうか。君たちは政府を批判するが、君たちが政府を離れたのはほんの六ヶ月前のことではないか。今政府を批判することは、自分の顔に唾を吐くことだ。議院開設は尚早だ。君たちは多くの偽の論理を使っている。それで人民を扇動してはいけない。「明六雑誌」第三号
128 津田眞道の賛成論 民撰議院賛成論(政論の三)
 最近地方官会議開設の特詔があり、また華族会議を創設するという話もある。
 縉(しん)紳華族は封建時代の旧藩主であり、社会の事情に疎く、知識に欠ける人たちだ。
縉紳華族のために華族学校を創設し教育を授けた上で、上院を起こし、彼らが政界に入り、内閣の一員になることを私は希望する。したがって今すぐ華族会議を創設するのには反対だ。
129 他方、地方官は行政官であるから、代議員としての資格に欠ける。それは天皇の代議員であり、人民の代議員とは言えない。
民撰議院は、人民が選挙するものであり、真に国民の代議人である。
130 選挙権は参政権であり、知識を必要とするから、婦人、子ども、廃疾者、無学文盲の人には選挙権は与えない。一方被選挙人には制限がない。選挙権から無学文盲の人を除外する基準の選定は難しいから、納税額で選別するのも一法であり、やむを得ないことだ。
 士族はよく文字を読み、平民は豪富者だけがよく文字を読む。華士族と、平民のうち多額納税者だけに選挙権を与え、都会では200円から1000円以上の地券を持つもの、村落では、50円から100円以上の地券を持つものとする。また徒以上の刑に処せられた者も除外する。
これを初選者とし、その百人のうちの一人を本選者とする。
131 代議士の数は、全国民3千万人中の60名から120名とする。代議士は4年を以って一期とし、代議士を分けて、二(三)年ごとに半数を一新する。その他欧州各国の制度に倣うべし。民撰議院の制度は、御誓文の「万機を公論に決す」を拡張したものだ。
 代議士は議決することを任務とし、それを実行するのは代議士ではなく、天皇だ。
代議士は歳入歳出を監督する権利を持つ。これは政府の専横を防ぐだろう。これまで不自由だった人民の意気をあげるためにも、民撰議院の制度は必要だ。「明六雑誌」第十二号
感想 また「天皇」が出てくる。どんなに進歩的なことを言っていても、この当時の人々は、天皇が身分的差別を意味することを問題にしていなかったようだ。それだけ深く身分差別が人々の心の中に食い込んでいたと言えるのかもしれない。
132 西村茂樹の建言 
 民撰議院の制度は、公平を期するためのものだ。欧米諸国はそのために富み、国力を充実させてきた。副島数氏の提言は、激しいが善がある。凡そ非常の功は、その激しさによって成ることが多いものだ。同じ激しいといっても、ワシントンやフランクリンは善の例で、ロベスピールやダントンは不善の例だ。
133 民撰議院設立が時期尚早とは言えない。イギリスで議会が始まったのは、西暦1200年で、その頃のイギリスの人民は、今日の日本の人民より劣っていたはずだ。イギリスでは始めに貴族の議院を開き、次に民撰議院を開いた。国の富強や民の開化は、議員開設の成果である。
日本ではこれまで民撰議院を起こそうとしてこなかった。遅すぎる感がある。日本には政体に関する法制度がまだ整っていない。技術より政治体制のほうが本体であるはずだ。政体を画定すべく民撰議院を興すべきだ。私は国のため民のために、黙っているつもりはない。「日新真事誌」M7.4.23
134 明治7年創立の愛国公党は、日本の政党の嚆矢であり、自由党は愛国公党から生まれた。当時、地方の有志の上京旅費は、創立者の給与から出し、党費は首領等の負担だった。
当時、板垣退助は官僚だったが、喰違や佐賀の乱で有司の嫌忌が高まり、建白は受け入れられなかった。建白の目的は藩閥打破であったが、政権を奪取する野心はこのときはなかった。M7.3、板垣は古澤滋を従えて土佐に帰った。


第三篇 愛国社の興起
第一章 立志社并びに愛国社の創立

137 立志社を創設した理由は、輿論を盛り立てて、藩閥を一掃し、公議制度を確立することである。未熟な輿論を統率・鍛錬し、万古不抜の国礎を定めなければならない。
愛国公党の仲間は、それぞれの県に戻って、地方政社の団結に力を投じ、その後で合同して政党を組織することで一致した。
板垣は東京を去り、途中大坂で10日ほど留まり、明治7年4月、土佐に帰った。そして片岡健吉、林有造、谷重喜らとともに、県全体の子弟を集め、政社=立志社を高知城下に興した。
 立志社設立之趣意書
社会の力の増進と人々の努力とは相待つものだ。
138 今我国は二千五百有余年来の大変革に遭遇し、古い習慣が崩壊しつつあるが、新たな政治体制がまだ整っていない状況だ。我々は奮励勤勉して、天下の元気を維持振起し、相共に我が天皇陛下の尊栄を増進し、我が日本帝国の福祉を昌盛するように努めなければならない。
 諸君と共に民撰議院設立のために力を尽くしたい。
 我々は日本帝国の人民であり、尽く平等で、貴賎尊卑の別はなく、権利、生命、自主、職業、福祉、独立を享受しなければならない。
 この権利は、権威や富貴を以て奪うことはできない。それは天賦のものだ。しかし、権利を維持するためには、人々は勤勉でなければならない。
 人民がその天賦の人権を保有するためには、自らが治めようとする気構えがなければならない。中国やインドの人民が欧米に負けたのは、人民各人が自立の精神に欠け、政府に頼ろうとしたからだ。

感想 「立志社設立之趣意書」の中でも「天皇」が出てくる。当時は幼少の天皇が何か人より優れた能力を持っているのでもないことは明らかなのに、天皇が出てくる。思うに、これは、欧米列強によって不平等条約を押しつけられた弱国日本の国威の回復だとか、日本人民の自主や、権利や、自治など、彼らが理想としていたものを庇護するというか、精神的な支えとするか、一種の正に宗教的な信仰のようなものを天皇の中に感じていたのかもしれない。当時の人々にとって天皇は、アジア・太平洋戦争における天皇のような、武力的で好戦的で侵略的な負のイメージとしてではなく、これから人々が進んで国威を回復しようとする際の精神的支えとしての、いわば「自由の女神」的な存在として捕らえていたのかもしれない。はっきりは分からないが、読んでいてそんな気がした。以下、抜粋すると、

今我国二千五百有余年来の大変革に遭際し、…実に我輩奮励勤勉、以て天下の元気を維持振起し、相共に我
天皇陛下の尊栄を増進し、我日本帝国の福祉を昌盛するを努むるの秋(とき)なり。138

139 しかし残念ながら今の日本では、ずる賢く詐欺を働きながら、恥じない者もいる。
 政府は人民の権利を守るために設立されたものだ。人民は自らを尊重しなければならない。卑屈、狭獪(きょうかい=悪賢い)、猥褻(ひわい)、無恥ではいけない。それでは信義や廉恥も失ってしまう。
 今日本人はややもすると、蒼皇(そうこう)狼狽=慌てふためいて、卑猥で、恥知らずだ。敢えて自ら任じて相共に我日本帝国の隆盛を致すを謀らん也。
140 人民の権利を伸ばすための民会を設置し、それを維持するためには、人民が自立し、自らを修め、自ら治める意気がなければならない。
 自修自治とは、自らを尊重し、信義を重んじ、廉恥を崇(うやま)い、自主自由で、結社合力し、職業に勤勉し、危険を避けず、困難を畏れず、忍耐して挫けず、敢為して完遂し、同社の志を持ち、艱難(かんなん)相恤(あわれ)み、利益を分かち合い、一般の公益を謀り、開化文明を遂げるなどをいう。
 そのためには一人ではなく団結しなければならない。欧米人はよく団結している。日本にもこれまでに俗語、組合があったが、良いものは修正して利用すべきだ。
141 結社の条目規則や着手の方法については、会議の中で皆さんの意見を聞きながら決定したい。明治7年4月  
国会図書館所蔵 植木枝盛「立志社始末記要」

 立志社規則
先に党員になったものを等班とし(発起人)、後で党員になったもの(加入人)を、在籍期間(=6ヶ月以内)によって権限附与を制限するなど、差別をしている。第三条
入社のためには、社員が保証人となることを必要とし、誓約書を書かせ、誓約書には族籍を書かせている。第六条
142 社員資格の剥奪 第七条 
・同等の公権、民権を持たないものは社員になれない。(これは身分の差を言っているのか)
・土佐州民でなくなれば、社員になれない。
交際員(第十条)、客員(第十一条)
総会、委員会(第十三条)
組は、住所地による社員の組み分けである。(第十四条)
商局、書籍局、法律研究所(第十五条、第十六条、第十七条)
144 物産局、演説討論会 (第十八条、第十九条)
議会は、方面組合より一人の代議士で構成する。(第二十一条)
委員会は、議会より社員何名かを公選する。(第二十二条)
社長、副社長は、社員が公選する。任期一年。(第二十四条)
会幹(第二十六条)
145 土佐には藩時代から盛組という青年子弟の社団があった。
板垣退助は東征の後すぐに四民同権を唱え、農商民を武士と同等と看做した。
趣意書を発表後、社長に片岡健吉、副社長に福岡精馬(病死後は谷重喜之)を推した。
学舎を設け、人民の弁護活動を行った。
商局は林有造、中村貫一を責任者とし、彼らは、大坂の巨商中村道三郎、大三輪長兵衛と売買した。
法律研究所は、島本仲道が所長となった。島本は官を辞した後、北洲社を開いた人だ。
公会堂で討論演説を開始した。
146 立志学舎趣意書
学問の重要性は、まず人の品行を高めることだ。国家は教育の上に立つ。今学術技芸は日ごとに進歩し、外面的には進歩している感があるが、内面的には退却しているように見えるのが残念だ。
 敢為するから、忍耐できる。この二つで事が成る。元気だから敢為できる。そして元気の根源は信義と廉恥である。一方、信義を尊重せず、智功、儇詐(けんそ)では元気を失い、必ず失敗する。信義と廉恥が大事だ。
M7.4 立志学舎 国会図書館所蔵 植木枝盛「立志社始末記要」
147 法律研究所緒言
法律は人民の権利を保全するためにある。法律を知らないと、罪を犯したり、破産したりする恐れがある。今の代書代言人は、貧乏人のためではなく、お金持ちのために働いている。この研究所を設立する目的は、法律を講じるとともに、貧乏人の代言人になることだ。
国会図書館所蔵 植木枝盛 「立志社始末記要」
 小室信夫は阿波に帰り、井上高格などとともに自助社を創設し、土佐と気息を相通じた。

感想 これはひどい。ずる賢い。「議院憲法」のごまかし。148
1.天皇の利用。まるで天皇を全知全能であるかのように扱っていることだ。実際はそんなはずはない、幼少の天皇だ。そしてその権威・権力を利用するものは誰か。言わずと知れた、権力闘争で勝ち上がった藩閥の重臣たちだ。議決しても、それを実施するかしないかは、朕=藩閥であり、議長の選任権も「当面」朕=藩閥である。
2.「漸次に」という言葉の意味がここではっきりした。つまり、権力が指名した県令=地方長官をして議論させ、それを人民の議会と看做すというごまかしだ。
3.議会の回数が少ない。一年に一回しかない。そんなことで国政の全てを議することはできない。そのことは結局藩閥による密室での政治を意味する。
4.それにしても多数決原理を採用している点や、ごまかしとは言え、このように一応体裁の取れた法案を作成できたことは、明治7年としても、一つの進歩だったのかもしれない。
5.しかし、この「議院憲法」なるものを見ると、当時の藩閥の心底がどんなものだったかが理解できる。
6.これは明治憲法の原型と言えるのではないか。

149 議院憲法 
M7.5.2 政府は民意の高揚に押されて、詔勅で、地方官会議を興し、人民に代わって律法を議せしめんと「議院憲法」なるものを頒布した。
 「朕践祚(せんそ、天子の位につくこと)の初、神明に誓いし旨意に基き、漸次に之を拡充し、全国人民の代議人を召集し、公議輿論を以て律法を定め、上下協和、民情暢達の路(みち)を開き、全国人民をして各其業を安んじ、以て国家の重を担任すべきの義務あるを知らしめんことを期望す。故に先づ地方の長官を召集し、人民に代て共同公議せしむ。及(すなわ)ち議院憲法を頒示す。各員夫れ之を遵守せよ」
議院憲法
第一条 毎年一回開き、常例とする。臨時会は特旨で布告する。
第三条 開院時と終会時に朕自らこれに臨み、諸大臣を従えて式を執行する。
第四条 朕から提出する議案もある。
第五条 会議の結果は朕に報告せよ。議案の結果を執行するかどうかは、朕の一存で決定する。
第七条 多数決で決定する。同数のときは議長が決定する。
第九条 朕の提案が不適当なら勅旨で撤回する。
第十二条 議長の選任は議院の中での互選とするが、そういう良い方法が決定されるまでは朕が指名する。
「法令全書」M7
150 これは民撰議院ではなく、官撰議院を創立するものであり、人民が望むものではなく、木戸一派の漸進説を取り入れ、民心を慰安しようとしたものだとはいえ、民撰議院建白運動の一つの成果であった。専制政府になる議院憲法によって、民撰議院建白が破棄されたという人もいるが、これは、当時の政府が、大久保の指揮下にあったとはいえ、時勢に逆行できなかったことを物語る。(楽観的ではないか)しかるに人々は政府の誠意を信じず、議院憲法が、姑息な政略で、万着で、国会の偽物だと批判を強めた。
 政府はこの問題を外に振り向け、武人の歓心を得ようとし、台湾征伐を提起したが、それは、以前は征韓論を時期尚早で内政を重視すべきだと大久保内務卿が言っていたことに反するものだ。
また、大久保が征台論を唱えたのは、鹿児島の内部問題にも絡んでいた。征韓論で西郷に惰弱だと思われたくなかった。大久保はただ政権を維持したかっただけだ。
151 一方木戸は、大久保の威を憚らず反対し、容れられないとなると山口に帰った。
ところが征台の議を決した後で、木戸長州派の反対を受けたり、英米の支持が得られなくなったりして(=英米公使が局外中立を宣言した)、征台を中止した。
 権(ごん)小内史金井之恭を長崎に遣わし、台湾蛮地事務支局長官大隈重信に東還を命じ、同征討都督西郷従道に進発中止を命じた。西郷はこれに納得できず、軍艦は出航してしまった。
他方、伊藤は木戸の意見に反し、大久保に与した。
 土佐では日清戦争に備えて、林有造を総代にして義勇兵を起こし、「寸志兵編成願」を提出した
152 寸志兵編成願之事
 文武の方向に関して、開明した諸国では文を外に、武を内に向けているが、日本では、武を外にし、文を内にしなければならない。四民の兵役義務はそのことの現われである。
153 富んで志ある者は、寸志兵を立てるべきだ。今の日清関係を座視していられない。
明治七年八月十五日 高知県権令岩崎長武殿
 岩倉や大久保は、清国に関する十分な情報を持たず、交渉の順序や企画の完全さを追求し、いざ軍隊を派遣しようとしたときに、内外の物議を招き、派遣を止めさせようとしたが、止められなかった。岩倉自身も自責の念に駆られ、「…外国の誹譏(ひき)を招いてしまった」とし、左大臣島津久光を通して辞表を提出した。
 岩倉の辞表
 これまで一生懸命頑張ってきたが、欠けるところを補うこともできず、宜しくないこともやってしまった。それでも天皇は寛大だ。喰違の件も私の不徳のせいだった。…私どもは「要」を誤り、軍隊派遣を中止し、天皇を辱め、内外の紛議をもたらした。私を処分してください。
「岩倉公実記」下
島津久光はこれを提出しなかった
156 M7.9.1 大久保利通は弁理大臣となり、北京の総理衙(が)門と折衝した。清国は封土の広大であることを武器にして日本を軽侮し、今にも戦争になりそうになった。
三条は土方久元を板垣に遣わし、大久保が自殺するかもしれないので、軍の采配を取ってくれと、密書を送った。
 三条の密書 (この三条の文体、板垣に対するお願いではなく、命令と受け取れる。)
清国より彼是異議を起こし、そのため葛藤を生じ、柳原全権大使や大久保弁理大使を前後して派遣した。その顛末について旨趣書を添付した。台湾問罪の挙(=台湾への挙兵)は、前年既に廟議で決定していた。対清戦争は両国の不幸をもたらすので、できるだけ避けたい。しかし万一の時は、国権を維持し皇威を辱めないために、上下一致協力し、国難に対処すべきことは当然である。しかるに戦いの勝敗は将軍の力量による。そのときは板垣君、必ず進んで国家のために尽力してもらいたい。いずれ天皇から御沙汰があらせられると思うので、あらかじめ申し入れておく。あなたの高見があれば腹蔵なく示してもらいたい。七年十月
追伸 この手紙と旨趣書は秘密なので、取り扱いに注意してもらいたい。
板垣を閫外(こんがい、敷居の外)の将と為さんとす
板垣は土方に言った。軍隊は非常の時に普段から養って準備しておくもの。在野の者にこの大任を授けるとは事の順序を間違っているのではないか。しかし私も国家のために身命をなげうつ覚悟はしている。
156 三条からの例の密書を土方から知らされた林勇造が、在郷の谷重喜、片岡健吉に宛てた書簡がある。林の書簡によると、(「権令」というのは土方のことらしい)権令(土方)が鹿児島県に帰省したとき、私(林)に漏らした。西郷にも三条から依頼文が届いたようだ。板垣に天皇からの「ご沙汰」があっても、(板垣は)「その節は直に受命とも到り難く」、西郷君も天皇からのご沙汰があっても「不動と存候」(=受けないだろう)と推察します。

感想 三条実美が板垣や西郷に中国=清との戦争になったら軍人として出陣してくれと密に頼んだというが、虫のいい話だ。早く言えば、俺は残るが、お前たちは死んでくれというものだ。154, 156

 大久保の、清国との談判の結果は要領を得なかった。
157 一 貴国は、生蕃の地が自国の版図内にあると言うが、どれだけそれを開化をしたのか。
 一 今は万国が交友するときだから、航海者の安寧を保護するべきだ。貴国は仁義道徳の国であったのに、生蕃が外国漂流民を害するのを見て懲戒しないのはなぜか。
大久保は賠償を要求したが、清国は拒み、「貴国より我属土に派兵したのに、賠償を出して撤兵を乞うというのは面目が立たない。代わりに難民賑恤(しんじゅつ)で決着することを乞う」と言ったが、その数目も掲げようとしなかった。
そこで大久保は台湾を無主の地と看做し、これから台湾に日本の政治を施すと宣言し、談判を中断して帰ろうとしたが、英国のウエート公使が仲裁し、大久保は救恤銀50万両を得て帰った。
 大久保はあまりいい結果を得られなかったので、帰国後は辞職しようと決心していたが、横浜に着いたらその決心を翻したと言う。
 木戸は長門に退いた。また台湾問題で、軍人は功名心を満足できず、長州の武官山田顕義、鳥尾小彌太、三浦梧樓らが辞職した
158 愛国社創立集会
 M8.2.22 オルグ活動のために各地に散らばっていた愛国公党同盟の諸氏は、今や土佐立志社の掛け声の下に、大坂で決起集会を開き、愛国社を結成し、合議書を発表し、本部を東京に置いた。結集した諸氏は、加賀の島田一郎、陸義猶、筑前の越智彦四郎、建部小四郎、豊前(=大分の北部と福岡の南部)の増田宗太郎、梅谷安良、薩摩の鮫島某、肥後の宮崎八郎、因幡の今井鐵太郎など。さらに、安芸、伊予、讃岐からもやってきた。また阿波からは小室信夫、井上高格、高知からは、板垣、福岡孝悌、岡本健三郎、片岡健吉、林有造、西山志澄などが出席した。
 愛国社合議書
同志関係で親睦を深めるためには、同士が集まって合議することが必要だ。
天皇陛下の尊栄福祉を増し、我帝国をして欧米諸国と対峙屹立せしめんと欲す
第二条 各県各社より其社員両三名を東京に出し、毎月数次、期日を決めて相会し、大政、天下の形勢、一般市民の利益を謀ることなどを協議討論し、情報を各社に報知することに努める。
第三条 前条の他、毎年、二月、八月の十日に、東京に会同し、事務を議定する。
第五条 二季の会同や臨時会同を催す暇がない緊急時には、在京社員が協議のうえそれを処分し、事後すぐ各社へ報告する。
第六条 各県結社の体裁・規則、会議の方法、施設などは、それぞれの県に任せる。そのことを互いに照会し合おう。
160 第七条 交際親睦を深めるために、相互往来通信し、各県の決議も情報交換しよう。
M8.2.22
国会図書館所蔵 植木枝盛「立志社始末記要」
 この時集まった人は、わずか数十名しかいなかった。当時、封建の余習、なお一般の民心を腐食し、政府の権威を見るに、あたかも鬼神の如く、一方、自由を説き、民権を唱えるを以て、乱賊の行為と信じ、一般の弊風はこれを忌避した。参加者の中には富豪縉紳はなく、一剣単身、ただ赤誠を国に許す士族の徒ありしのみ。
愛国社は、維持資金が続かず、数年後解散となった。
第二章 大坂会議 政界での大久保の孤立の打開策として、井上馨が仲介して、かつての政界の大物たちの旧交を温める動きがあった。
 井上馨は元大蔵大輔だったが、野に退き、大坂で先収会社*を創立していたが、政界の分裂を憂え、小室信夫、古澤滋とともにその調停に乗り出した。
*先収会社は、明治7年3月、野に下った井上馨と益田孝らが設立した商社・政商。三井の前身である。
 M7.11 井上は、木戸、大久保と明治八年の春に大坂で再会する段取りをした。一方小室、古澤は、東京で板垣に会ったが、そのとき板垣は、あまり乗り気でなかったが、木戸が先般板垣を来訪したのに返礼していないので、会ってもいいと言った。
 M8.1 板垣は、小室、古澤と大坂に向かったが、大坂に着いてみるとすでに大久保、伊藤、木戸は着いていた。
井上が仲介して、板垣は木戸と数回会った。さらに板垣は木戸の紹介で、大久保、伊藤にも会った。
 大久保は木戸に接近し、再び政界に入れたかった。一方木戸は板垣も政界に加えたかった。また井上は薩摩閥の専恣を牽制したかった。(井上は安芸(山口)の出身)
大久保は立憲政体の創立に関しては何ら関心を持っていなかった。
162 大久保は薩摩で孤立していた。西郷の勢力が強かったし、民間党が大久保を批判していた。大久保は伊藤に木戸との接近を依頼した。大久保が直接木戸を迎えるために山口まで出向こうとしたところ、伊藤はそれでは政府の威信が薄れるから、使いを送って大坂で会ってはどうかと勧めた。
 大坂で大久保は板垣とは一回しか会っていない。木戸は立憲政体に関心を示していた
163 立憲政体に関して、木戸は板垣と大筋合意したが、木戸は漸進論であり、まず地方官会議を開き、漸次国会を開くというものであったが、板垣は、木戸が最終的には国会を開設するという意志が強いと見て同意したという。
大坂会議の決議は四項ある。
第一 政府が二三の専権に流れないように、立法事業を鄭重(ていちょう)にし、他日国会を開く準備として元老院を設置する。
第二 裁判を強固にするために大審院を設置する。
第三 地方官会議を起こし、漸次上下の民情を通じ、立憲の礎とする。
第四 聖上親裁を強化する。行政の混交を避けるために、内閣と各省とを分離する。諸元功は内閣にあって、天皇の輔弼に任じ、第二流の人物を行政に当たらせる。
 木戸の改革図案
164 天皇――内閣・左右太政大臣・参議――上 元老院 下 地方官
――大審院
――行政
明治八年四月の改革は、大坂会議の結果である。
これとは別に、板垣・井上草案があり、これを在野に下っていた陸奥宗光が修正した。その草案=大坂会議申合草案の内容は、立君定律の政体、議院制度、多数決主義(一旦決まったらその後は少数意見を言うな)などの採用を誓約するものであった。
 会議は二月で終わった。当時の神奈川県令の中島信行は、陸奥宗光とともに板垣を助けた
大坂会議はかつての名士が会合したので、「徳星大坂に集まる」と言われたそうだ。
166 この会議を契機に木戸は復職した。板垣も入閣を勧められたが、愛国社の中には賛否両論があった。片岡、林、西山は不可とし、岡本健三郎、古澤滋は入閣を是とした。板垣は一定の期間、進退を自分に任せてくれとし、了承された。
三月八日、木戸が参議に任ぜられたが、板垣は固辞した。板垣は、木戸・大久保と約束した改革が成し遂げられれば、官に着く必要もない、としていたのだが、聖上が侍従森寺常徳を板垣邸に遣わし、内諭を伝え、八日に板垣を召して、聞食(きこしめ)し給い、内勅を賜うと、板垣は、深く聖恩の優渥(ゆうあく)なるに感激し、恐懼(きょうく)措く所を知らず、三月十二日、遂に再び参議の職を拝せり。
十七日、板垣は、木戸、大久保、伊藤の諸参議とともに政体取調の命を奉じ、二八日、取調案が成立し、それを上奏した。
政体取調案
167 君主政治、君民同治、民主政治を折衷して、政体を創設する作業がまだできていない。
正院、左右院を太政官に置くべきだ。
天皇は正院に御し、三大臣がこれを輔弼する。
右院は太政大臣が長となり、左右大臣、参議、諸省長官とともに政治を議す。
左院は、左右大臣、参議の内から一人が長となり、議員を選任して、立法上の事を議するが、判決の権利はない
訴訟や入獄で、裁判が上手くいかない時は、司法省がその理由を、右院を経て、天皇に上奏し、決定する。
欧州の三権分立を採用すべきだ。
貴族及び勲功学徳ある者を以て上院とし、下院は地方官会議所とし、それを民撰議院の始めとすべきだ。

感想 20181116()
板垣退助が天皇の勧めを受け入れ、自説を翻し、参議になることを承諾した。M8.3.12
板垣が自説を貫徹しなかったことを責めるべきか、天皇をそそのかして板垣に翻意を勧めた周辺を責めるべきか、自らの力の強さを自覚しないで、周囲にそそのかされた天皇を責めるべきか。これが天皇制の怖さだ。167

168 天皇がこれを裁可し、四月十四日に大詔を出した。
 「朕…神明に誓い、国是を定め、万民保全…。祖宗の霊…。元老院を設け、…大審院を置き、…地方官を召集し、…漸次に国家立憲の政体を立て、汝衆庶とともに…。汝衆庶、…よく朕の旨を体して、翼賛せよ」  「法令全書」M8年
 大坂会議の結果として、左右二院に替えて、新たに元老院、大審院を興した。大審院は司法独立の基礎を定め、元老院は、立法府の上院として、貴族・耆(き)宿*が献替*する所となし、その下院たる地方官会議と並立させた。
*学識経験豊かな老人
*献替=主君を助けて、善をすすめ、悪を捨てさせること。

板垣は、「自分は入閣は気が進まなかったが、天皇が依頼するのでやむなく入閣したが、天皇は西郷にも入閣を希望されている」と、林有造を通して西郷に伝えようとしたが、西郷は林に面会しようとしなかった。林が帰ろうとしたところ、大山綱良が林に留まるように頼んだが、林は去ってしまった。
大山は西郷に林の伝言を伝え、西郷が「入閣しなければならないかな」と言うと、傍らにいた桐野が、「西郷さん、板垣の言いなりになるのか」と質した。西郷は迷ったようだった。西郷は以前板垣と分かれるとき、板垣の提案を蹴ったことを悔いていた。

これより先、林*は以前から挙兵しようと思っていた。林は副島種臣とともに清国から帰ってきたとき、征韓論が破裂し、職を辞していた。M7.1、林は樺山資綱から鹿児島の様子を知り、樺山とともに、西=鹿児島へ向かった。*林有造は土佐の人。
そのとき副島は、門下の山中一郎を林に紹介し、山中を同行するよう林に依頼した。山中は佐賀の人で、米国から帰って来たばかりだった。
林は樺山とともに横浜に行き、汽船に乗った。そこには山中の他に、江藤新平、香月経五郎、会津の長岡久茂、青森の杉山某らがいた。
170 林は三菱社長岩崎と旧交があったので、上等室をあてがわれた。
神戸に着くと、警官が船に乗り込んできた。ある人が言うには、昨夜岩倉右大臣が刺された(M7.1.14の夜093)とのことだ。林は大阪に行って調べようとしたが、岩倉が死んでいないとの事で、再び薩摩に向かった。
樺山は西郷の腹心で、林をよく知っていた。
鹿児島に着いても、林は西郷にすぐには会わなかった。他の者が西郷に会いに行くと、西郷は避けた。樺山は篠原国幹の家で林を西郷に会わせた
林は西郷に言った。「あなたは陸軍大将近衛都督を命令もなしに去った。政府はあなただから咎めることができなかった」
林は西郷に挙兵を共にしようと提案すると、西郷は言った。「木戸は俺を殺したいのだが、土佐藩の連中が俺を助けるのを恐れて、それができないのだ。土佐藩が木戸と組んで、俺を撃たせるように、林君に仕組んでもらいたい」
林はそれを拒否した。「あなたは驕り高ぶっている。それでは勝てない」
しかし、西郷は自説を曲げなかった。
171 林が、「薩摩の人を見極めるにはどうしたらよいか」と西郷に尋ねると、西郷は『芋連』という字の下に、西郷と篠原、桐野などの名を記し、『芋腐連』の字の下に、大久保、川路利良らの名前を記した。林は西郷の気持ちを察した。(=西郷が政府と戦う腹だということらしい。)
林は西郷と別れて佐賀で江藤と会い、「せいていはいけない」と諭して言った。「兵を制せられなくなるまで待って、そのときになったら一斉に放て。兵を九州で挙げるなら、熊本の鎮台を押さえろ。四国で兵を挙げるなら、大阪の鎮台を押さえろ」
この直後に佐賀の乱が起こった。林は自分の言を江藤が用いなかったことを惜しんだ。

こうして明治八年、板垣は林による仲介に失敗し、板垣と西郷とはそれ以後通じなくなった。
林には以前から兵を起こそうという気はあったが、林の十年の陰謀*は、西郷と通じていたからではなかった。林は薩南の乱に乗じて平生の志を遂げようとしたのだ。
*林は西南戦争に呼応して明治10年8月、土佐で政府転覆を企て挙兵しようとし、逮捕、入獄した。これを立志社の獄という。ウイキペディア
 板垣は民撰議院を目指しており、林は武力闘争を考えていたから、両者の話が合うことはなかった。林も板垣にその計画を打ち明けなかった。
M8.6.20 地方官会議が開かれた。天皇は車駕で親臨し、詔を下した。(その内容は形式的なもので中味がない)
 「朕親ら臨みて汝各官に詔(つ)ぐ。朕経国治民の易(やす)からざるを思い、深く公論衆議を望むことあり。…誠に能く同心協力し、努めて其急を先にし、議論異同あるも、其帰を一にし、…」  「朝野新聞」M8.6.22
172 M8.6.21 地方官会議長木戸孝允は、各議員とともに宮内省に候し、奉答書を奏した。「臣ら恭(うやうや)しく聖旨を奉し、…。聖意の仁慈に藉(か)り、…」
「朝野新聞」M8.6.23
 それに対してまた勅語を賜った。「朕は去年の五月に初めて地方官会義を興そうとし、すでに召集の時になったが、外事(=台湾・対清問題)が起こり、止むを得ず中止した。…汝議員其(それ)此を欽(つつし)め」   「朝野新聞」M8.6.23
173 天皇の孔彰(こうしょう)なお言葉をいただき、立派な儀式を執り行って開始された、民意を代表するためのこの地方官会議は、数年も経たないうちに行政諮問機関となってしまった。
 地方官会議は、幹事に兵庫県令神田孝平、神奈川県令中島信行、千葉県令柴原和を推薦し、テーマを以下五つに定めた。
一 道路堤防橋梁や民費
一 地方警察
一 地方民会
一 貧民救助
一 小学校設立、保護法
 七月七日、会議は警察や道路橋梁に関して、予定20日間のうちのほとんどを費やし、残る数日で、肝腎の地方民会について討議しなければならなくなり、各県の傍聴者は、七月六日、幸福安全社087に集合し、建言を議場に提出した。
174 傍聴者たちは「越俎(そ)の罪(=越権行為)を犯して上言する」とし、建言した。…卑屈!
議場がこの建言を受けつけなかったので、元老院に建白書として提出し、議会への督促を要望した。そこで政府は地方官会義を三日間延長し、民会案を討議させた。議論百出し、暫時の区戸長会案、区戸長と公選議員との混同民会案、民会は開くべきでない、などの案が出されたが、一人中島信行は、公選の民会を設けるべきだとした。しかし、採決の結果、区戸長会案が可とされた。
同月十七日、天皇が来て閉会式を行った。その詔に曰く、
「汝各官が言を尽くすを嘉(よ)みす。さらに元老院の議を徴し(=求め)、…。…わが治を助けよ」
 地方官会議が町村会設定だけに留まったため、人々の不満は募った。中島信行は、この会議を真正の代議院にしなければだめだと主張したが、聞き入れられなかった。
 元老院が七月五日に開かれ、天皇が来て、その開院式で言葉を述べた。
「東京日日新聞」M8.7.6
176 元老院の議官数は二十余名で、副議長に後藤象二郎が選ばれた。元老院は当初は弾劾権を持っていたが、政府が後にこれを削ろうとした。板垣は反対してこれを止めたが、板垣が去ってからこれを削り、元老院は養老院と化した。民間では「元老院十を除けば元左院」と揶揄された。
 板垣と木戸との間も次第に距離が大きくなった。木戸は漸進説を唱え続け、二人の対立は、元老院章程の討議で、陸奥宗光(=板垣説、報知新聞)と、鳥尾小彌(や)太(=木戸説、東京日日新聞*)との対立として現れた。  *半官報的性質を持っていた。
 民間の志士論客は失望し、民権自由の説を唱え、寡人専制を攻撃した。
評論新聞、采風新聞、草莽雑誌などの報道機関を通して、論客の成島柳北、末廣重恭、加藤九郎、小松原英太郎、関新吾、杉田定一、栗原亮一、坪田繁、中島勝義、林正明、植木枝盛、楠(横か)瀬文彦などが声を上げた。
7月28日、政府は新聞条例を更訂し、讒謗律を新設し、弾圧を強化したが、世論は益々激しくなり、これが為に法に触れ、罪に落ちる者が相つぎ、M9年までに獄に投ぜられた者は、成島柳北、末廣重恭、加藤九郎、杉田定一、植木枝盛、横瀬文彦、小松原英太郎など、数十名に及んだ。それでも、民権自由の大潮流は、日を追って勢いを増した。
178 讒謗律
第一条 事実の有無を論ぜず、人の栄誉を害す行事を摘発公布する者を讒毀とする。人の行事を挙げるのではなく、悪名を人に加え公布することを誹謗とする。
第二条 乗輿(=天皇)を犯すものは、禁獄三年以下、罰金千円以下。
第三条 皇族を犯すものは、禁獄二年半、罰金七百円以下。
第四条 官吏の職務を讒毀する者は、禁獄二年以下、罰金五百円以下。誹謗するものは、禁獄一年以下、罰金三百円以下。
第五条 華士族平民を讒毀する者は、禁獄一年半以下、罰金三百円以下。誹謗するものは罰金百円以下。
第六条 検官若しくは法官に罪犯を告発或いは証言する(=チクル)者は、第一条の例にあらず。ただし、故造誣告(ぶこく、嘘をついて人を陥れること)は誣告律による。
第七条 (意味不明。讒毀の事犯があっても、讒毀を受けた者が、刑法犯罪を犯している場合は、讒毀罪を適用しないで、当該の刑法犯罪を優先する、ということらしい。)
「法令全書」M8
179 新聞紙条例
第一条 新聞紙、雑誌の持主または社主は、府県庁を経由して、内務省に願書を提出し、允準(いんじゅん=許可)を受けよ。允準を受けないで発行したものは罰する。発行を禁止し、持主若しくは社主及び編集人印刷人各々罰金百円。偽って官準の名を犯すものは、各々罰金二百円以下を課し、印刷機を没入する。
第二条 願書には次の事項を書け。
一 題号
二 印刷の時期
三 持主の姓名住所。会社の場合は、出資者を除き、社主の姓名住所。
四 編輯人の姓名住所。
五 印刷人の姓名住所。
右(以上五項目)につき詐謬ある者は、発行を禁止または停止し、百円以下の罰金。
第三条 編輯人が退任した時は、十五日以内に新たな編輯人の姓名・住所を、持主若しくは社主が届けよ。違反した場合は、発行を停止し、持主若しくは社主に罰金百円。
 第二条の変更があった場合も、十五日以内に、持主若しくは社主及び編輯人の連名をもって届けよ。違反した場合は、持主若しくは社主及び編輯人各々罰金百円。
180 第四条 持主、社主、編輯人は内国人に限る。
第六条 毎紙、毎巻の終わりに、編輯人印刷人名を署名せよ。違反したら編輯人もしくはその代理人は、罰金五百円以下。印刷人の罰金は百円。また紙面の内容については、編輯人の責任とする。
第七条 第十二条以下や讒謗律に関する責任は、編輯人を主とし、筆者を従とする。
持主若しくは社主も、事情を知っていれば同罪とする。
第八条 筆者は、内外国事、理財、人情、時態、学術、法教、議論、権利に関わる(ことを書く)場合は、(筆者の)姓名住所を記せ。
筆者が変名を用いた時は、禁獄三十日、罰金十円。他人の名を書いたものは、禁獄七十日、罰金二十円。
第九条 翻訳者名を記せ。また翻訳者は、第十二条以下の罪や讒謗律に関しては、第七条の従に該当する。
第十一条 内容について訂正を求める書を寄せられたら、その書を次号に書け。違反したら、編輯人、罰金百円以下。
第十二条 教唆して罪を犯させた者は、犯す者と同罪である。教唆に止まる者は、禁獄三年以下、罰金五百円以下。
教唆し、兇衆を扇起し、官を強逼(きょうはく)した者は、犯すものの首班と同罪。
第十三条 政府を変壊し、国家を転覆するの論を載せ、騒乱を扇起しようとする者は、禁獄三年以下で、実行した首犯者と同罪とする。
第十四条 法律を見くびる論をなす者は、禁獄一年以下、罰金百円以下。
182 第十五条 (犯罪が発生し、その)公判前の人(つまり警察に拘留されている人のことか)の名を載せることは禁ずる。審判の議事を載せてはいけない。違反者は禁獄一年以下、罰金五百円以下。
第十六条 院省使庁の許可を得ずして上書建白を載せてはいけない。違反者は前条と同じ。
「法令全書」M8年
感想 なんだ、これは。明治八年にしてすでに圧制・専制・弾圧の恐怖政治ではないか。明治の為政者はよっぽど衆議を尽くしたくないことがここにはっきり読み取れる。

 板垣が言っても容れられず、孤立するようになり、勇退しようかと思い始めた。人々は新聞条例と讒謗律を憎み、「板垣は自由主義の主唱者なのに、どうしてこんな残虐な法律を作るのを抑止できないのだ」と板垣を批判した。
大阪会議で決まった内閣各省分離案は、閣中で是認されたのに実行されなかったので、板垣は島津久光とともにその実行を迫ったが適わず、そのうちに板垣は病気になり、二三ヶ月病に伏した。
M8.8.20 江華島で韓国側が日本の艦船に砲撃した。
これより先、森山茂外務大録が韓国から帰り、板垣に、日本の軍艦を釜山で演習させたら韓国は屈服するのではないかと言ったので、板垣は、三条に、明治六年のときは内政を重視し、外国のことは後に回すとしていたではないか、それに釜山で演習などすれば、戦争になるのは必死だ。戦争をするつもりならいいが、と言った。
板垣はさらに、薩摩の人(=大久保か)は海外で事を起こそうとしている。台湾の時もそうだったと三条に言うと、三条はそれに納得した。
ところが海軍省が軍艦派遣の命を受けて準備を開始した。これに対して三条は、これは例年の練習であり、軍艦を韓国に派遣するのではないと板垣に説明した。
今度は軍艦が対馬にまで到った。板垣が三条に忠告すると、三条は、これは練習だと返答した。
暫くして釜山で示威的練習の報が入ったので、板垣は三条をなじった。それに対して三条は、これは誤報だと返した。
そして江華島事件が起こった。
板垣は考えた。これは国際上の大問題だ。先ず内閣と省卿の職責を分離すべきだと。それに対して三条は岩倉と謀って、内閣省卿分離は、対韓問題が終わってからだと返した。これに対して板垣は島津佐府とともに岩倉と争ったが、岩倉は聞かなかった。
板垣は十月十二日に参内し、天皇に自らの考えを表明し、二十七日、島津佐府とともに野に下った。以下は板垣と島津の上奏書である。
185 板垣退助の上書
 「 板垣退助謹んで奏す。 猥(みだり)に不才を以て陛下の寵眷(ちょうけん)を辱(かたじけのう)し、…」(…何、これ。これが人権家か!)
 本年三月、太政大臣三条実美、臣(=板垣・私)を招き、その時木戸孝允も同席していたのだが、三条は、臣を諭して曰く、内閣を各院省使より分離し、各参議が、院、省、使長官を兼任するのを廃止し、内閣は、大臣及び三四の参議が陛下を輔弼し、大政を総理し、各院省使を統括する、このことを政府が議決したと。
 さらにあなた(天皇)もそのことを私に言ったので、私は復職した。そして木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などと共に3月17日、政体取調の命を奉じ、3月28日、それを三条に提出した。そこで4月14日、あなた(陛下=天皇)は大詔を出し、元老、大審の二院を設けた。
186 これより先、三条や木戸が私に言うには、内閣の分離をこれと同時に行うが、まだ元老院が開かれていないし、いま内閣の分離を行うと紛糾するから、この際、伊藤博文に先ず各院省使の事務章程等を調べさせ、元老院開設のときに、内閣分離をやろうとのことだった。
 ところが7月になって元老院が開設されても、内閣の分離は行われず、それどころかそれに反対を唱える人もいるらしい。また伊藤の取り調べ結果も聞いていない。私は三条に数回促した。
 参議は大臣に次ぐ重任である。各院省使も重任である。それを一人でやることはできない。また参議は数人が分任している。
187 本月4日、あなた(天皇)が正院に来られたとき、あなたは私に、今朝鮮がわが軍を砲撃している、諸臣と協力せよと言った。しかし事があるからこそ内閣を分離すべきで、三条もそれを認めていたが、本月七日、三条は考えを変えて、今朝鮮問題があるから、却って不便だという。
明治八年十月十二日 
  「岩倉公実記」下

感想 板垣の職を辞す際の天皇への上奏文「板垣退助の上書」を読んで、当時の日本人は、少なくとも板垣は、天皇制の枠組みから抜け出すという発想をまるで持っていなかったようだ。また天皇自身も、その詔勅の文案を自分自身で作ったのか、誰かが作文してくれたのかは判然としないが(おそらく後者)、次第に自己の力を誇示するようになっていくように見受けられる。明治天皇(1852--1912)は、明治八年1875当時、23歳である。ちなみに、明治維新の時は16歳である。185  20181119()

188 島津久光の上書
感想 島津久光は、この文で見る限り、『明治六年政変』毛利敏彦 中公新書 1979で指摘されているほど、やんちゃな男ではないと感じた。率直で、ずけずけと三条を批判することは確かだが。
 左大臣従二位島津久光誠恐誠惶謹て上言す。太政大臣三条実美、百官の統括の術に乏しく、事務忽卒(そうそつ)遅緩、情実や愛憎に出で、苛令…。参議は各省の長官を兼任し、皆自ら恣(ほしいまま)にして、無用の冗費を厭わず、不急の土木を起こして、…金貨濫出、故に大に英断の政を行うべきだ。(天皇親政?)三条は外国の鼻息を仰がんとするが如し。また三条は、…陛下の聡明を眩惑し奉り、(天皇利用)…。今政府責任の大臣なく、ただ参議に依頼し、…。早く兼任をやめ、しかる後に外征のことを議すべきなり。全ての官僚に責任感がなく、皆責任を天皇陛下に帰し奉る。不臣の至というべし。(天皇を利用した乱暴な論理)
189 天皇は天祖に代わらせ給いて万民を統御し給うの御大任なれば、…上は天祖の神慮を安んぜられ、下は億兆を撫育し給い、寳祚(ほうそ、天皇の位)を不朽に伝え給うこそ、御孝道の第一と申奉るべけれ。(感想 天皇制の枠組みに取り込まれている)天皇陛下が三条を退けなければ、皇国は西洋各国の奴隷となってしまうだろう。先日天皇陛下に手紙を送ったが、まだ返事がない。忌諱(きき)を憚らず、譴怒(けんど)を畏れず、国家のために鄙言(ひげん)を吐露す。天皇陛下が私の言葉を疑い、賢明な判断ができないのなら、私は官を退いて天皇陛下の返事を待つだけだ。  明治八年十月十九日
「岩倉公実記」下
 翌M9.3木戸は職を辞して内閣顧問となった。そのとき後藤象二郎も、元老院副議長を辞して野に下った。こうして再び大久保の専制になった。
 民間の政論は、政府が弾圧を加えても、愈々勇奮し、論調は激烈になった。
190 M9.7.5 政府内務省は、国安を妨害すると認めた新聞雑誌を発行禁止・停止処分にし、評論新聞、草莽(もう)雑誌、湖海新報、中外評論等を禁止した。これに対して保守革新を問わず、全国民が不平を表明した。
 M9.9.6 天皇が太政官代に行き、元老院議長の有栖川熾仁親王を召し、元老院で憲法を取り調べるように命じた。そのときの詔勅は以下の通りである。
 「私は、広く海外各国の成法を斟酌し、国憲を定めるつもりだ。汝等は草案を起草し、報告せよ、私が選択する」  「法令全書」明治九年
 そこで有栖川熾仁親王は、議官を集めて憲法取調局を元老院に置き、中島信行、柳原前光、細川潤次郎、福羽美静、神田孝平を委員とした。民心は感激した。しかし翌十年西南の乱が起こり、この一件は中止となった。
十月熊本の士族大野鉄平ら二百余が反乱を起こした。神風連の乱である。次いで萩で元兵部大輔だった前原一誠が兵を起こした
191 十二月、常陸で農民一揆が起こった。ついで三重でも農民一揆が起こり、濃尾大和寺に乱入した。
翌明治十年一月四日、地租軽減の詔が出され、地価百分の二分五厘とした。
一月、鹿児島の私学校の生徒が兵廠を掠奪し、西郷隆盛は「新政厚徳」の旗の前に擁せられ、一万五千の壮丁を率いて罪を政府に問うた。
以前愛国社社員だった宮崎八郎は肥後で立ち上がり、越智彦四郎、建部小四郎等は、福岡で決起し、増田宗太郎は中津で立ち、かつて民権を首唱した小倉處平は飫肥*(おび)に帰って西軍に投じた。この戦いは九月まで続いた。
*飫肥は宮崎県日南市中央部にあり、もと那珂郡飫肥村で、飫肥城を中心とした伊藤氏飫肥藩5万7000石の旧城下町である。ウイキペディア

第三章 国会開設の建白
 西郷が百二都城*を出ると、国民は迷ったが、西のほうの人は西郷に、東のほうの人は政府に与した。板垣は血気盛んな土佐の人を抑えるために、二月十四日東京を立ち、土佐に向かった。

*「百二都城」の「百二」は、史記・高祖本紀の中で、秦の地勢が険しく、少数で多勢の敵兵に対することができる、要害堅固の土地を説明している文脈で出てくるらしい。(東京大学詩吟研究会blog
また第七高等学校造士館の校歌集の中の、大正十年 対五高戦応援歌『百二都城に』がある(www.sci.kagoshima-u.ac.jp)から、鹿児島県と何らかの関係があると思われる。

板垣は東京を立つとき、同志に向かって次のように言った。
192 「わが党にはわが党の主義ある。わが党はいずれにも与しない」
板垣が去った後、後藤象二郎が顧問となり、島本仲道が事務局長になった。
 板垣が土佐に帰ると、護郷兵が団結したり、国会開設の議をたてたりしていた。
 このとき噂があった。政府が土佐に募兵し、立志社員をして薩摩を撃たせ、この命令に従わなければ、叛賊として土佐を討つというものだ。この考えは、板垣と考えを同じにしない土佐の人が政府に建議したものらしい。土佐の人は思った。国会を開設し衆議でそう決まったのならそうすると。先に板垣、後藤は国会開設の建白をしていたが、土佐人全体としては建白をしていないから、ここで建白をしようということで、立志社建白書を物し、片岡健吉が総代の任を受け、建言書を西京の行在所*(あんざいしょ)に提出した。十年六月のことである。

*「行在所」は「行宮」(あんぐう)ともいい、天皇が行幸した時、仮に設けられた御所のこと。

立志社建白書
 「天威を憚らず上書具陳する所あらんとす」
 「陛下は臨御以来…警保を設け(警察組織のことか)、海陸の軍備を厳にし、…。士民の騒乱や外国の凌侮の原因は、陛下が任ずるところの大臣が、専制を尊び、公議を容れざるによる。
194 徳川幕府が亡びた原因は、公議を用いなかったことにある。これを他山の石とすべきだ。臣下は公議を用いず、専断を採用し、政府が何をやっているのか、全く推測の域を出ない。
政府の目的は、人々の生活を安定させ、人々を自主自由にすることだ。
196 アジア各国の政府は専制抑圧的で、人民は卑屈陋習で、自国の興廃に無関心だ。
以下今の日本が抱えている問題点を八つあげよう。
その一 公議を採用しないで専制に走っていることだ。それは明治元年三月の五箇条の御誓文に反するし、明治八年四月の聖詔にも反する。後者は三権分立を唱え、元老院の設置と地方官の召集=立法権の確立を約束したものだった。
197 地方官の召集は、これまで一回しか行われていない。二回目は東北の巡幸を名目に停止された。また元老院の章程を改竄してその権限の一部を削除し、元老院はかつての左院と同じになってしまった。また大審院は、司法のもとにおかれ、各省の下に位置することになって、独立を維持できなくなった。
 副島種臣の民撰議院建白書を今の官僚は好まない。官僚は人民がまだ馬鹿だというが、それでは自らは賢いのか。そのやり方はかつての幕府と同じだ。これまで薩長土肥が大臣を独占してきた。官僚は人民が公議を唱えるのを弾圧し、讒謗律や新聞条例を設け、人の口をふさぎ、人の耳を覆い、網羅をはって人を陥れ、政治的発言をする者を逮捕監禁するばかりだ。
 その二 政治システムが不全である。今の官僚の全てが、戦争の功労者であり、特に何処かが優れているわけでなく、彼らは役所をたらい回しされている。仕事ぶりはノロノロしていて、近親者を私情で優遇し、一定の決まりがないから決定不能となり、太政大臣はその決定で困り果てている。
立法では全体を統率するところがなく、行政は長官の偏向に左右され、裁判では各省が相談して決定し、内閣では各省間で争い、いったん決まったことをまたやり直し、書類は山のようにうず高く積もるばかりだ。
ある政令が下されても、それがすぐ変わるから、人民はそれを信じていいものやら、迷うばかりだ。よく議論しないで決定するから、このようなことになる。
維新の始めに官僚を四年で交替することにしたが、それは結局名ばかりで終わり、政界は官僚の住処となった。
200 その三 過剰な中央集権 中央の権力に抵触することは実行不能だ。県令に県の運営を任せるべきだが、全てのことについて中央政府の認可を必要としている。税金は全て大蔵に吸収され、県内の瑣事に至るまで内務に報告される。その報告のための文書は山のようになる。予算は少ないのに、その限度内で仕事を無限に課す。予算の配分は偏向し、県内の行政区分をしきりに変える。昨年、地方官の任期の令を下し、やや県令の自主性を認めたが、それは地方官同士の競争をなくそうとしたにすぎない。(このあたり難解で意味不明)
201 その四 徴兵制を専制政体の下で行うと、人民はついていかない。なぜならば人民との合意がないからだ。自治の精神が、納税や徴兵に応ぜしめる。専制政治体制では、君主や有司は無限の権力をもって人民を抑圧する。絶対君主の政体は、君主私有の兵隊で防衛し、人民は関与しない。
今の徴兵制は、武士の常職を解いた後に、官僚とかつての武士とが一体となり、徴税で組織を維持し、人民にも国を守る気概を持たせようとするが、そういう今の徴兵制で悪くはない、ただ時期が悪いだけだ。
202 軍隊の装備は立派に整い、兵隊に巡査を当てたが、それでは名実が伴わない。一国の官僚が大金持ちでありながら、他方の人民が貧乏に苦しんでいる状態では、もし当該国軍が他国の軍隊に破れるようなことが起これば、人民は、その国軍を管轄する政府の手から逃げてしまうだろう。
203 巡査は人民の安寧を維持するためのものに過ぎない。警官を兵隊にし、将校にすれば、人民の兵隊よりも効果が倍増し、わざわざ兵隊を募るよりも簡単だとしても、そういう軍隊組織は、強権を頼って威張っているに過ぎない。人民に政治を分担させずに徴兵することは、人民の血を奪うことだ。
 その五 財政が秘密裏に置かれている。これまで軍事や土木で効果があったが、財政を節約しているだろうか、財政を公表しているだろうか。今、国家や地方の財政を掛け屋に出納させているが、その掛け屋の財産や人物を問わないで一任している。ところがそれが破産し、かれらが狡猾だと分かって、損害賠償を求めても、今ある現金も戻ってこない。
204 政府は懲りた。根拠となる法律が同一のために、府県もこの掛け屋の破産の影響を受け、(政府管轄下の)商店は破産した。政府はその対策として勧業を興したが、有司は、工商の権を独占し、限られた会社にだけ数十万の融資をし、各省への配分額も、その省の長官の力次第だ。事業を行うための予算配分ではなく、予算配分があって事業を行っている有様だ。税金は取る時は厳格だが、使うときは放縦だ。予算案はあるが、決算報告はない。予備費や各省の予算で、残金があると聞くが、その実体は不明だ。そして都会には予算を十分配分するが、地方は衰退している。土木軍事費は増えるばかりで、内外の国債費も高額だ。
205 その六 国は人民保全のためにあり、税金はそのためのものだとすれば、人民も納税に納得する。立憲制のもとでは、人民は納得して税金を納める。これと違って、専制政治の下では、税金は人民のために使われない。専制政治は人民を奴隷とみなし、税金を独断で使い、収納の方法も次々と変化し、煩雑で過酷であり、人によってまた地方によって税額が異なる。検田査租は厳密で、地価が今でも定まっていない。(このあたり意味不明)
M10.1.4に地租を減額したが、人民はまた増額されるのではないかと不安だ。徴税で人や地域によって厚い薄いがある弊害や、労逸(労働を強いられたり、免れたりすることか)の偏りなどを救済することができない。
206 その七 専制政治は士民平等の原則を崩す。
 かつての武士階級は愛国愛君で、自尊心や廉恥心が強く、節操があり、藩主に忠実で、主君に善悪を諭し、国の安全や危険に関心を持っていた。従って藩主は、粗暴な行為やよこしまな行為をすることができなかったし、そうする者は藩主の地位におれなかった。
明治になって江戸時代の古臭い習慣を止め、武士は江戸時代の職を失ったが、その務めを無くした訳ではない。そして一般人民も士族に見習うだろう。明治天皇の聖旨の趣旨もそこにある。
207 他方、士族のこのような美徳を人民から奪って、人民に旧来のような卑屈な陋習をとらせ、官吏が暴力的でよこしまでも唯々諾々とさせるならば、それを士民不平等という。
 かつて武士は政治に関与し、精神を高尚にしてきた。明治維新以降これまでの間で、士族は政治を率先してやってきた。
無為であることは憂愁をもたらす。両肥薩隅(ぐう)*の乱はそれが原因だ。政府軍が勝利し凱歌を挙げているようだが、その声に隠れて不満の声が聞こえて来ない。
*両肥とは肥前(佐賀・長崎)と肥後(熊本)
208 その八 専制政府は外国からの干渉に対する処置を誤った。
 立憲政体でないと、人民は政府の失策を追及する。現政権は四件の対外政策で失策をしでかした。台湾、朝鮮、樺太、条約改正である。
 朝鮮はこれまで日本の使節を侮蔑し、日本の提案を拒絶し、日本を敵視して、抗衡(対抗して譲らない)なのに、政府は朝鮮への大使派遣を中止した。西肥の乱が起こったのはそのためだ。
 その直後に台湾問題が起こり、日本は軍隊を派遣したが、それは理解できない。台湾は君主または政府が制御している地ではなく、台湾原住民は蒙昧で、他国の民を虐殺しても平気である。一方朝鮮は建国の体裁を整え、政府がある。朝鮮との交流は、始まって以来もう幾百年にもなる。その無礼を問わないで、台湾の蛮族に対しては詰問するとはおかしなことだ。
 軍隊が長崎(崎陽、きよう)を出航する時、琉球の帰属は、はっきりしていなかったらしい。台湾の版図も決まっていなかった。そこで外国の公使の説を取り入れ、急に使節を送ることに決定し、征台軍は留まらせようとした。ところが将校はそれに従わないで、伝染病の流行する台湾に向かった。
209 台湾の蕃民から受けた侮辱に対して、弁理大臣は、救済金を清国に要求し、五十万錠の銀貨=償金を得て、軍隊を撤収した。それで台湾は、日本の領土ではないことになった。また琉球の帰属もはっきりできなかった。
 そして江華島事件が起こった。この事件が、朝鮮の一部暴徒の仕業か、それとも朝鮮政府の起こしたことなのかはっきりしなかった。(意味不明。ここで政府は大使を派遣したようだ。そしてそれは以前の我国に対する辱めを不問にするものだ、ということらしい。)
樺太問題 自分のものを他人が取り上げたら許すはずがない。自分の一つのものを以て、彼が自分のものだと強引に主張するものと交換することなんてできるはずがない。それが樺太問題だ。
徳川有司の処置を見ると、樺太や千島の版図は我にあり。ロシアが次第に強引に侵入してきて、一旦は北緯五十度で仮に国境を定めたが、ロシアはそれを越えて利益を得ようとしている。
樺太には明治維新以来開拓使を設け、教育や勧業のために数百万円を投じ、草木禽獣の園や、学校・市街の創建をした。
210 ところが樺太が条約でロシアの手に渡ろうとしている。(渡ったのか、渡ろうとしているのか、不明)
琉球藩は、名目上は藩王の版図であるが、(日本の)鎮台や郵便があり、(日本の)内務が(役人を)派遣している。
ところが藩王は名目上の日本の領土から逃れようとし、琉球の人民は日本の管轄から逃れようとし、中国は琉球を手放そうとしない。
 欧米諸国との条約改正の時期が来ているが、先般、特命全権大使が諸理事官百余名を引き連れて、数万の財を費やして、欧米諸国を巡回して来たが、条約を改正することができなかった。
211 以上八項目が、専制政治から起ることは明らかだ。九州の反乱軍を押さえられたとしても、人民に益するところがないだろう。現政権はますます排他的傾向を強めようとしている。有志の徒や公議の士は仇敵視せられ、愚人視せられているが、それは徳川氏の滅亡を招いたやり方と同じだ。弾圧すればするほど、人民は公議のほうに与し、人々は血を以て徳川家を倒した。諺にあるように、馬丁が馬に過度に厳しくすれば、馬は脚で蹴って逃がれようとするものだ。現政権よ、我々を煮釜で煮るのなら煮てくれ、煮釜は飴よりも甘い。こんな時に外国が襲ってくれば、人民は逃げてしまうだろう。
 天皇や大臣が今までやってきたことは、以上の通りだ。そして大臣は、宸断(しんだん)と言い、親裁といい、自らの責任を逃れようとしている。国家が滅亡しても大臣は富を失うだけだ。天皇だけがその責任を負い、人民は禍を蒙ろうとしている。
 公議を募り、民撰議院を設立し、立憲政体を確立すべきだ。そうすれば人民は自ら奮起し、国家の安危に任じるだろう。公議を抑えることはできない。公議を尊重する制度をつくれば、士民は騒乱をやめ、外国の陵辱を絶つことができるだろう。
高知県下土佐国立志社総代
片岡健吉
宇田友猪家文書所収パンフレット

感想 20181121()
片岡健吉の「立志社建白書」やその前の部分を読んで分かることは、江華島事件が起きた頃は、板垣や後藤象二郎が野に下り、木戸が政治の前線から引きこもった頃である。つまり、江華島事件は大久保やその配下の伊藤が策した可能性が強いということだ。専制の弊害はこの片岡健吉の「立志社建白書」の中でも指摘されているように、一二の権力者が全く恣意的に政治を行うことが可能であったので、例えば財政に関しては、一部の人に税金を配ることによって殖産興業に努めたらしい。
 それともう一点は、天皇制という宗教だ。他の部分を読んでいてもそうなのだが、片岡のこの文章を読んでいて、天皇を神として扱うことは、政治家自らが責任を引き受けるという心構えを最初から失っているということを意味しないか、と危惧される。
天皇を神として扱うことがもたらすさらに危険な結果は、天皇が単に宗教的な神としてでなく、政治にも関与してくること、つまり、政治家が、天皇の名においてどうにでも政治を変えられる武器を持っているということだ。当の片岡自身がそのことを述べている。なぜその陥穽に気づかなかったのだろうか。

213 以上の建白書は、植木枝盛と吉田正春の手になり、竹内綱が潤色したものだ。そしてこれを持参して片岡健吉が上京し、三条実美に建白の趣旨を述べたいと依頼したところ、越えて十二日になって、政府が片岡を呼び出し、内閣書記官の尾崎某が出てきて、「陛下に叡慮あり、また本書中に不遜の箇所があるから受け取らない」言った。片岡は「これは天皇に当てたものだ」と言い、「受け取らない理由は、天皇がすでにこれを読んだからなのか、それとも官僚の恣意で返却するというのか」と尋ねた。すると書記官曰く「陛下と内閣とは一体だ、大臣の命は陛下の命だ」と。
このとき熊本落城の報が町を賑わし、政府は自信をもったようだ。こうして国家の多事を以て立志社の建白は退けられたが、この建白書は印刷されて全国に配布され、人民を深く感動させたという。
 島本仲道は、東京で板垣と呼応して、義勇兵を募った。島本は、西軍(=鹿児島のことか)が東に向かって来ても、わが党は加担することも逃げることもしないで、独立すべきだとしていたが、三月、鷲尾隆聚とともに、政府に捕まってしまった。
すると東京の同志は主義をあっさりと変えて解散した。彼らが発刊していた報知新聞は、自由主義と土佐の挙動を罵倒した。改進党はこの人たちだ。
214 二月、小室信夫は郷里の丹後に帰り、同志を集めようとしたが、政府につかまった。
 立志社はこのころ武力派と国会論派とに分裂していた。土佐では片岡、板垣が国会論を提唱していたが、東京では林有造後藤と組み、兵力で政府を転覆しようとした。
 この年の二月に西南の変が始まり、林はそれに合わせて準備をした。林は上海から銃器数千挺を購入し、一方では刺客を送って廷臣を殺し、自ら死士八百名を率いて、(政府軍のほとんどの部隊が鹿児島に派遣された後の)大阪城の虚をつき、土佐や紀伊などと呼応して決起しようとした。大阪城には伏見の一中隊しか残っていなかった。
 六月十四日、先に政府軍が占領していた日向に至り、熊本城と連絡が取れ、薩摩軍が日向に入ると、初めてこれと通じた藤好静、村松正克らが逮捕された。次には、岩神昂、川村矯一郎らも逮捕された。
八月八日、林有造が東京で捕まり、十七日、片岡健吉、谷重喜、山田平左衛門、岩崎長明、池田應助(ようすけ)、弘田伸武、野崎正朝、左田家親らも逮捕されたが、さらにその後、陸奥宗光、大江卓、岡本健三郎、竹内綱、中村貫一、林直傭など四十余人が逮捕された。これを高知の大獄という。
越えて翌十一年八月、それぞれに刑が言渡された。
林、大江、陸奥らは、政府を転覆し、以て立憲政体を建てんとしたるの罪状に座したとして、禁獄十年、或いは五年に処せられ、片岡は、らの計画に反対し、戦場に到っても戦線に着くのは難しいと看做され、またカンパをしたくらいだったのだが、罪もないのに冤罪で禁獄百日に処せられ、岡本、竹内、中村らは、銃器弾薬を購入したから、禁獄三年、若しくは二年、一年に処せられた。この高知の大獄は、立憲政体樹立のために兵を以てした最初の事件だった。
このときから政府にへつらい、自由民権を罵倒する声が大きくなった。
215 片岡の宣告文        「高知県土佐国土佐郡中島町四十六番地居住
高知県士族  片岡健吉
 其方儀明治十年鹿児島賊徒暴挙の時に際し、藤好静、村松政克より、日向の賊巣に赴かんとの協議を承け、一旦之を止むると雖も、尚両人の望に依り、其意に任せ、かつ旅費金として金百五円を貸し与えしを以て、藤好静、村松政克、遂に賊巣に至り、賊将桐野利秋に面会し、暴挙の事を申し合わせに及びたり。
 右利(とが)により禁獄百日申し付け候事。」
国会図書館所蔵 植木枝盛「立志社始末紀要」
 (以下陸奥までの宣告文(判決文)が続く。)
215 高知県士族の谷重喜は、池田応介、岩崎長明、山田平左衛門らと密会した。谷は、藤、村松が桐野と面会したことを知っていながら、それを隠した。つまり谷は、逆謀を承知していたから、除族の上禁獄一年に処する。
 高知県士族の林有造は、兵を挙げて政府を転覆しようと企て、明治十年二月中に、岡本健三郎に依頼し、外国商に小銃八百挺と付属弾薬を差押えさせ、また、同年四月、中村貫一に依頼し、外国商に小銃三千挺と弾薬を差押えさせ、貫一をして外国商に金銭を渡させた。さらに同年、岩神昴、川村矯一郎らによる重臣暗殺の企てにも与した。終身刑を減刑して、除族の上、禁獄十年とする。
217 高知県士族大江卓は、林有造、岩神昴と共に政府を転覆しようと企て、陸奥宗光に(そのことを)話し、川村矯一郎に重臣暗殺を教唆し、林有造が外国商より銃器弾薬を差し押さえることに関わり、金銭をその外国商に渡した。除族の上禁獄終身のところ、除族の上禁獄十年とする。
 高知県士族の竹内綱は、岡本健三郎の依頼を受けて、小銃八百挺と付属弾薬を差し押さえる交渉をした。除族の上禁獄一年とする。
 和歌山県士族の陸奥宗光は、元老院幹事であったが、大江卓が林有造と共に兵を挙げ、政府を転覆しようとする企てを知っていた。また陸奥は、岩神昴から重臣暗殺の陰謀を聞いていた。陸奥は、大江卓と共謀して、明治十年四月二十一日、京都からの暗号電信を以て、大江に約束していた密謀の(自分への)報知を(大江に)促した。翌二十二日、大江が電信私報の禁令を犯し、元老院の暗号を用いた詐称官の電信を以て、挙兵を牒合する報知を(陸奥が)受け、大江の下坂を待った。(下坂は下阪か)
明治十一年八月二十日  大審院
「郵便報知新聞」M11.8.22
218 西郷隆盛の軍勢は、兵器や糧食で不足していた。「熊本城の連絡成りしより」、負け続け、西郷は敗兵と共に鹿児島に帰り、九月二十四日、城山で亡くなった。
 西郷軍の兵士の一部は節を変じ、隠居した。また木戸も五月に病のため、西京=京都で亡くなり、大久保一人が中央集権を強めた。
219 全国から板垣を慕って人が土佐に集まって来た。明治十年の冬から十一年春までに来訪した人は、福岡の頭山満、越前の杉田定一、三重の栗原亮一、岡山の竹内正志、豊前の永田一二、それに(福島三春の)河野広中(こうのひろなか)もやって来て意気投合した。
林、片岡、谷、山田等が逮捕され、立志社は衰退しかけていたが、M10.8.25、立志社は「海南新誌」を創刊し、政府の一敵国の観があった。板垣は同志を集めることが大事だと考え、愛国社の再建を目指した。客人の杉田、栗原、県人の安岡道太郎がこれに賛同したが、高知疑獄の判決が出るまでは待て、愛国社再建は時期尚早だ、という意見も強かった。しかし板垣は、片岡の刑が重くなっても、片岡は日本のためならば甘受するはずだと説いた。
220 愛国社再興の説が広まると、全国からスパイが土佐に集まったが、板垣はスパイでも大勢いたほうが良いとした。スパイは徴発して危険なことも言い、立志社内部は混乱したが、板垣はスパイも同志にすべきだとした。
板垣が逮捕されるのではないかという流言も生まれた。東京を往復する船が入港すると、板垣は自宅で謹慎し、逮捕に備えた。板垣は酒場で逮捕されるのは面目ないと考えたからだ。板垣が恐れたことは、自分が逮捕された後で、周囲が暴動を起こすことだった。板垣は周囲の人を集めて言った。自由主義は天地の公道である。私は恥じるところがない。逮捕されても怨まない。後を頼むと。人々は粛然として感じ入った。
 政府は丸亀の屯営を分けて、軍隊を高知の旧陳営に置き、降伏した鹿児島県人を徴して警察官にし、数百人を土佐に派遣し、威圧した。
221 民衆はそれに反発した。民衆は兵隊と鬩(せめ)ぎあい、巡査と闘い、兵士が発砲することもあった。立志社の人たちはこれを抑えた。
 M11.4 愛国社再興の議を決定した。立志社がその盟主となり、遊説員を各県に派遣し、以前からの盟友関係を再興し、九月、大坂で集会を開くことに決定した。そのとき「愛国社再興趣意書」を書き、栗原亮一が記載した。遊説員はそれを持って全国を回った。四月二十九日のことだ。杉田定一、安岡道太郎は紀伊や西海道九州に、植木枝盛、栗原亮一は、南海、山陰、山陽を遊説して回った。その趣意書は次の通りだ。
 愛国社再興趣意書
 人が国家を建てるのは、人が自らを愛し、自らの権利を保全し、幸福を享有するためである。国家があるから、人にそれらを保証することができる。
222 自己愛と愛国心とは同一だ。愛国社は国家公共のために活動してきた。途中で頓挫したが、今でも当初の目的に変わりはない。今これを再興しようとし、本社を大坂に設けた。再興の趣旨は次の八点である。
 第一 人々の相互交際は、各自の幸福のためである。交際は国全体で行われるべきだ。国民は方向を一つにしなければならない。江戸時代では藩屏(はんぺい)内で相互に親しんでいたが、廃藩置県で藩屏の結合がゆるみ、人民は方向性を失った。廃藩置県の狙いは、門閥因習の弊を除き、政令多岐の憂をなからしめることであった。全国の人民が相互に交際し、全国一致の方向を目ざさねばならない。現在の日本は、全国的な交流はもとより、旧来の各地での人民の相互交流が薄くなり、全国的に一致できていない。全国的な相互交流が必要だ。
第二 国政を常に公議輿論によって監視すべきだ。国法は民心に従うべきだ。かつて封建諸侯は生殺与奪の権を持っていたが、臣下は君の暴政に諫言する任務があり、君主もそれを聞く義務があった。
224 従って封建の士族は参政権を持っていたと言える。藩政を廃止し、士族の参政権の制度を廃止したが、それは参政権を全人民に等しく与えるためであった。しかし、人民はまだその権利を得ていないし、士族も参政権を失ったままで、国会も開かれていない。新聞雑誌はその役割の一部になっているが、全人民の声とは言えない。従って各地人民が会合して国政の利害得失を協議し、国会に代わる議会を起こさなければならない。
 第三 文学=学識だけでは役に立たない。人が集まって時事問題を討議することによって、人は智力=実学を高めることができる。欧米では国会で人民が議論し、識見を広めている。良い議論を流布するためには討論が必要だ。悪い議論も討論しなければ悪い議論だということを自覚できず、悪い議論がはびこることになる。そういう議論の場を、国会以外に設けなければならない。
225 第四 社会的結合は人民の道徳を高める。法律は道徳心を育成しない。法律は人の外見的行動を制限するだけだ。社会に対する憚りが、道徳心をもたらす。封建時代では社会的結合が強く、廉恥・品行を乱せば社会で生活できなくなった。最近道徳心が欠如してきている。社会の結合は、人に毀誉を憚らしめ、道徳を守らしめる。その意味で全国的な人民の結合が必要だ。
 第五 人民は自らの身体と財産を自ら守る気概を持て。緊急時には国家は人民を守れないから、人民はそれを国家に依存してばかりいてはいけない。
 我国人民は、封建時代から専制政治に馴致し、自治自衛の気象に乏しく、国家に依存する傾向が強かった。
226 明治維新以来の騒乱で、人民は散々な目にあったが、もし人民に自治自衛の気性があれば、騒乱を起こす者も意気が挫けるだろう。自治自衛の精神は、人民の結合力に深く関わるから、各地の人民が交通し、力を合わせて結合すべきだ。
 第六 財は国力の元である。ところが今、各地の人民の交流が密でないために、財の産出に関して十分な検討がなされず、効果的な生産ができていない。人民の交流が必要とされる。
 第七 封建時代は地方の権力が大きかったが、明治になって封建時代の地方割拠を改めて中央集権にしたため、全国が平均化し、地方の力が出なくなった。その原因は政府にだけでなく、地方の代表者にもある。地方の代表者には、忍耐力も自立心もない。そして官僚になろうとして、地方を去って都会に出たがる。各地の有力者は協力しなければならない。
 第八 一国の国力は、智愚貧富の差だけでなく、国民が元気で一致団結していることにも左右される。今日本は外交で対等でなく、真に独立しているとはいえない。封建時代には藩内で結合していて、外患に防御できたが、今は全国の結合がなく、各地の結合もなくなった。国民の元気と民力の結合が求められる。
明治十一年四月
国会図書館所蔵パンフレット
228 今や政府は驕って天下に望み、軽薄の士庶は権力に迎合し、民権党を朝敵国賊とみなし、自由を唱えるものを蛇蝎の如く憎悪している。公議の声は聞こえない。京阪の本屋は、立志社の発行する雑誌を店頭に並べるのを拒否するほどだ。
しかし禍は予期せぬときに起こるものだ。五月十四日の早暁、参議兼内務卿大久保利通は、参朝の道中で、紀尾井坂清水谷*の畔で、首をはねられた。四十九歳だった。刺客は、石川県士族島田一郎(一良)、長連豪、脇田功一、杉本乙菊、杉村文一、島根県士族浅井壽篤の六名であった。彼らは斬奸状を持っていた。その表現は激しかった。
*紀尾井坂は、東京都千代田区にある坂で、清水谷(公園)から西に上って喰違見附に至る全長200メートルの区間で、清水坂とも呼ばれる。ウイキペディア
229 島田、長らはかつて愛国社のメンバーだった。
斬奸状は、公議を途絶し、民権を抑圧したことを大久保の第一の罪とし、大久保の政略に反対し、西郷の死を悼んだ。しかし、残忍な行動は誤りである。
 斬姦状
 石川県士族島田一良等、天皇陛下に上奏し、国民に普告する。
 国の政治を司る人間は、国家を自らの家のように思って、国政に任ずべきなのに、今の官僚は、自分の私利私欲に走り、人民の意見を取り入れない。
その罪状を述べれば、以下の五点である。
一、公議を無視し、民権を抑圧し、政治を私する。
二、法令を漫然とつくり、情実を受け入れ、威張り散らしている。
三、不急の土木工事や無用の修飾に国費を使い、国財を徒費している。
四、社会正義の人を排斥・嫌疑し、そのため内乱を生ぜしめている。
230 五、外交で誤り、国憲を失墜させた。
 公議は国是を定め、民権は国威を立てる。法令は国家の大典、人民の標準である。法令を漫然とつくることは、天皇を蔑視し、人民を欺くことだ。国家の財は、国家の急に備えるためのものだ。社会正義に身をささげる人は国の元気の元だ。
231 私たちは、前記五点の罪状のある人たちを生かしておいてはならないと思った。対象として、木戸、大久保、岩倉の三名は巨魁だ。大隈重信、伊藤博文、黒田清輝、川路利良も許せない。三条実美等は器量が小さいから物の内に入らない。
ところで同志の数が少ないから、数名をやるのは難しい。まず、木戸、大久保のうちの一人を除こうとしたが、木戸は病気で死んでしまった。だから大久保だ。
232 その他、岩倉以下の者は、他の人がやってくれるだろう。
私どもは一死を以て国家に尽くす。
速やかに民会を起こし、公議に取り、以て皇統の隆盛、国家の永久、人民の安寧を致さば、我々は死して冥す。決死の際いささか卑意を述べる。
明治十一年五月十四日 
石川県士族
島田一良 印
 連豪 印
杉本乙菊 印
脇田功一 印
杉村文一 印
島根県士族
浅井壽篤 印

233 五罪
其一 公議途絶、民権抑圧、政治の私物化
一 明治維新のときに、万機公論に決すということが、公卿列藩の前で確認され、当初は公議所を開き、諸藩の公議人を会集し、傍ら人民の建議を取ったが、いくばくもなくこれを廃し、暫く集議院を設け、また廃して、左院を設けた。しかし近来は元老院を立て、左院を廃した。
 集議院や左院では建白を出せば、その姓名住所を記録し、時に建白者を召致して、その旨趣を陳弁させ、建議を可とすれば、それを太政府に送り、否なら建白者に下付し、可否相半するときは、院中で後日の参考に備えた。そして建白者にその経緯の全てを告示した。建白者に異論があれば、議官等が面接して討論し、建白者の意を尽くした。
 しかし今日では、建議の可否を論じないし、採用したかしないかも示さない。ただ黙って受理するだけである。それでは全く無益である。話を聞いてくれない。話に応じるという名目はあるが、実際に話すことはない。
 官吏輩が言うには、西洋各国では建白の可否を論じないし、採用の有無も令しないと。しかし西洋では国会があり、人民に言論を保証している。ところが日本にはそれがない。日本ではどうやって人民の言論をくみ上げるのだ。また西洋の役所では、個人的な問題に対応してくれる。だから、西洋では建白の必要がない。日本では人民の意志を政府に伝えるには建白の方法しかない。
 明治八年四月、政府は立憲政体の建立を保証した。西洋では三権が分立し、立法権は議会の占有事項で、政治の大綱を人民が議定している。
明治六年、副島種臣が民撰議院の建白をした。当時、これに関する論は相半していたが、今日ではこれを非とする者はいない。官吏輩はこれを非としているのか。
官吏輩はまだ人民の開化の度が足りないと言っているが、政治形態、規則、屋舎、道路、器具、雑品など、人民の開化の度を問わずに西洋の真似をしているではないか、どうして民撰議院だけはそうしないのか。
維新の時の御誓文の後に立憲政治の詔令があった。官吏輩は自分に不利だから民撰議院の開設をしないのか。
一新の始めに官吏の任期は四年とされ、公選で採用するとされていたが、今までのやり方は不十分で、まるで門地を以て官吏を採用しているかのようだ。官吏輩は、表面的には公平を称しているが、陰では私的に行っている。
235 其二 法令を漫然と施行し、請託が公然と行われ、政府は威張って人民を服従させる。
 政府は、人民の利益を考えないで法令を設け、人民はその煩雑で過酷なことに苦しんでいる。
236 愚民は官僚が言うところの「職掌」とか「義務」とかいう言葉の意味を解さない。西洋の法律の意味がわからない。唯々黙々と従うだけだ。官僚の権勢は犯すべからざるによって、人民は恨みを呑み、苦を忍び、空しく黙視するのみだ。
官吏は虚勢を張り、私曲を行う。官吏でも下のほうほど甚だしい。
井上馨の銅山事件*は、官吏による国政私物化を物語り、小野組転籍事件*の槇村正直は、司法に拘留されたが、急に特命で釈放された。

*前大蔵大輔・井上馨は、新工部卿・伊藤博文に、利益供与を要求した。税の廃止または免除、鉱山の払い下げ又は貸し付け等である。尾去沢銅山事件099とは、長州出身者による官民癒着銅山強奪事件である。『明治六年政変』毛利敏彦 中公新書 1979

*小野組転籍事件とは、京都府で実権を握っていて、木戸孝允の機密金を三井源右衛門に相談したことのある京都府参事・槇村正直が、豪商・小野善助と小野善右衛門の、京都から東京への転籍を、裁判の判決を無視してまで押し留めようとし、刑事訴訟という中央の政治問題にまでなり、槇村が拘禁されることになった。
102 小野組転籍事件は、長州出身者による税収確保104のための転籍拒否事件。また井上・三井(=小野の商売敵)の関与も疑われた。
裁判所の判決を履行しない罪を問われて、京都府の長谷知事=公卿出身、槇村参事=長州出身は贖罪金それぞれ8円と6円を課された。彼らは伏罪を拒否し、槇村は拘禁された。

当時の司法の官吏数名がこれで首になった。
尾崎三郎、井上毅が、井上三郎、尾崎毅の論説を自らのものと偽り、新聞社に対して訴訟を起こし、司法官はこれを受理したが、このことは確証なしに裁判が行われうることを示している。
 新聞条例で逮捕されたものは、どういう罪なのか分からないことが多かった。法官の恣意で罪状を決めたこともあったらしい。
227 黒田清隆=利良は、警視の長であったが、妻を殴り殺した。官僚は被害者の親族が訴えるのを待ち、先延ばしし、事件を握りつぶそうとした。
 其三 不急の土木工事、無用の修飾、国財の浪費
 一 「近来姦吏輩の施設する所、専ら営築工造、或いは道路市街を繕い、或いは官宅府庫を作り、或いは宮室器具の粧(よそお)い、華を競い美を争い、形容虚飾を之務め、以て天下の経営此れに止まると為すが如し」開化文明とは形容ではなく実力だ。
238 西洋諸国の現在の状態は、英雄が輩出し、境域を開き、威力を四外に張り、国が富み、兵も強く、独立し、その後の余力で修飾をしている。しかも長年かけている。それを一時にやろうとすることは、本末転倒だ。
 其四 憤り嘆く忠節の士を疎外し、国のために敵と戦う意気のある憂国の人を疑うことは、内乱の元をつくることだ。
 一 明治六年十月の西郷らの下野以来、内乱が続いている。西郷下野の時、政府は公議を十分に尽くさず、仲間内で陰険に結託した。
 政府は佐賀県士の征韓論の意図を邪推し、兵隊を派遣し、挑発したために、武力衝突となった。
 前原一誠の挙は、官吏が彼を疎外したために起った。
239 江藤・前原の件で、彼らが全て正しいとはいえないが、政府にも失態があった。政府は彼らを賊と看做したが、官吏こそ真の国賊だ。彼らは憂国の情からあの挙に出たのだ。
 昨年の鹿児島の事件は、官吏輩の陰謀だ。この事件については不明な点が多いので解説する。
西郷・桐野が下野した時、近衛兵は西郷について鹿児島に下った。西郷は学校をつくって彼らを教育した。西郷は、政府が怠っていた国防教育を施した。政府はそれを誤解し、スパイを送り、西郷、桐野、篠原を殺そうとした。官吏輩は、刺客が学校関係者だと言うが、それは嘘だ。
240 中原已下(いか)数十名が、自主的にスパイを遣る(=する)はずがない。中原らが(官吏輩に)スパイをやらされたのでなければ、どうして自ら刺客云々のことを吐露(自白)するはずがない。それも一人や二人ではなく、数十名がスパイをやらされたと証言するのだ。どうしてそれが嘘だといえるか。中原証言が嘘だと言うのなら、西郷の挙兵を咎めるのと、中原の(スパイをやらされたという)嘘を糺するのと、どちらを先にやるべきか。
西郷軍は中原の証言を信じて立ち上がった。政府は中原から事情を聞くべきだったが、あいまいにした。官吏輩は事実を糺すのを嫌い、武力で覆い隠そうとした。
官吏輩は言う、西郷は国憲を乱した、誅滅すべきだと。
241 官吏側自身に、罪を免れないものがあったからこそ、官吏側は、西郷を欺かざるを得なかった。そして自らの姦計の跡を覆ったのだ。
世の人は真実を知っているが、政府の暴威のために黙っているだけだ。
 西郷は国憲を損ねたのではない。国憲は人民を保護すべきだ。西郷は事由を糺そうとしたのだ。西郷は国家のために立ち上がったのだ。

感想 これは特ダネだ。政府は西郷に対してスパイを送るどころか殺害もしようとした。34人ものスパイ暗殺部隊を派遣した。明治17年の群馬事件でもスパイがいて、そのスパイ殺害事件がもとで、群馬の民権派の指導者宮部襄、深井卓爾にまで累が及び、北海道網走の牢屋に入れられた。また戦前の大正・昭和時代の日本共産党にもスパイが付きまとった。スパイ査問事件、共産党過激行動事件、或いは地下に隠れていた人の逮捕などがそれを物語る。
スパイ文化、これは権力の常識なのかもしれない。これを知らない人にとっては、怒り心頭だったに違いない。西郷はそれで立ち上がった、とこの文章に書いてあるように読める。
日本政府のスパイ利用は、いつからどのように行われるようになったのか。それは闇の中、灰の中に埋もれている。敗戦後駐留軍の上陸までの一週間に、市谷の文書は炎々と燃え続けたという。

其五 外交での失敗、国権の失墜
今日本は外国から侮られている。外国は力でもって日本を拒み、日本は情でもって外国に従う。特に通商においては、外国は驕り、日本を屈服させている。
日本は順序良く落ち着いて挽回しなければならないが、条約改正が緊急を要する。条約改正ができないのは、日本の武力が弱く、国力が欧米と拮抗できないからだ。条約改正のためには国費を節約し、軍備にあてなければならない。
243 今の政府はそれをしていない。
明治七年の台湾事件は、武を汚し、兵隊を傷つけ、国財を消費し、支那の篭絡するところとなった。清から道路修繕費の名目で僅かの金額をもらい、日本国内では賠償金だと公言している。
このたびの朝鮮修好の件は無稽(でたらめ)である。応神の頃から三韓は、日本に従属してきた。それ以来韓国は日本の天子に捧げ物を送ってきた。それは中世の時、日本が内乱で一時中断したが、豊臣秀吉が武力で元に戻し、その後対等の関係が続いた。
ところが韓国は今でも中国に使いを送り、礼物を贈り、臣僕の礼を尽くしている。すると日本は支那の下僕のような立場になる。これでは国体が汚れる。
樺太交換の件は、名目は交換だが、実際は攻奪だ。日本がロシアに与える土地は有用の土地で、ロシアより日本が受け取る土地は役に立たない不毛の土地だ。またこの件はロシアから臨んできたことだ。こんなことは開国以来始めてのことだ。
244 (また天皇の出現!) 
今上陛下をして
皇祖の神意に負かしむるは、即ち姦吏輩の所為にして、その大罪誅に容れざるものなり。
琉球が日本に依頼しているのだから、日本は支那と交渉して、琉球を日本の版図にしたらどうだ。中国は琉球の弱さにつけ込んで、強迫し、琉球の国政に干渉している。これはロシアの件とも共通する。日本の外交は、強いものにはひれ伏し、弱いものには威張り散らす。本来の外交は、弱きは侵略せず、強きに屈せず、条理を正し、信義を重んずることだ
姦吏輩は偸安(とうあん=安きをぬすむ)を以て国体を汚し、益々外侮をまねくばかりだ。
国会図書館所蔵「三条家文書」所収原本

感想 本文で、外交の基本は「弱きを侵略せず」とあるが、対韓国外交では、なんだか威張っていないか。対琉球外交でも威張っていないか。
韓国に日本の天皇に贈り物をさせてきたとか、今のように韓国と対等なら、天皇の怒りを買うのではないかとか、琉球を「我版図にする」とか、気になる表現だ。侵略性を、この当時の民権を唱える人が持っていたと言えないか。彼ら旧武士階級(=知識人)のこのようなスタンスが、当時の日本人の一般的な考え方だったのだろうか。

大久保の死後は、伊藤と大隈が台頭した。伊藤は大久保の後を次いで内務卿になり、大蔵卿の大隈重信と共に閣中の権力を掌握したが、政策は依然として変わらなかった。大久保の刺客事件以来、政府は警察に力を注ぎ、偵吏を張り巡らせ、戒厳益々急なり。
245 この時より有志の来往には騎兵数名が剣を装備して前後を護衛するようになった。警察政治の始まりだ。
 大久保殺害事件によって、植木、栗原、杉田、安岡等の愛国社再興の全国遊説員の活動は困難になり、全国的に士気が上がらず、人心は遊説員を疑い、恐れ、自由主義提唱を謀反と同一視し、遊説員を、刺客に通じた人物と看做し、進んで同盟しようとしなかった。人々は遊説員に賛同しつつ疑った。
大久保の刺客は土佐人ではないかという誤解が生じ、人々は土佐人を忌み、恐れた。そしてスパイが横行し、遊説員は旅館に泊まれず、野宿する場合もあった。
九州では旧盟の士は難に殉じ、或いは獄につながれ、両肥豊筑の四国では、同志数名がいたにすぎず、南海、山陽、山陰でも、阿州徳島のように、かつて自助社があったが、すでに解散し、旧盟の士は獄につながれ、意気消沈して遊説員のもとにやってこない。讃岐高松で讃岐立志社あったので、有志がようやく再興に賛同してくれた。松山や岡山で多少の同志を得て、九月の大阪での会盟を約束した。
246 明治十一年九月、大阪で愛国社再興会議を開いた。数十名が集まり、西山志澄を議長とし、愛国社再興の議を定め、合議書十二条を採択した。しかし、スパイが入り込み、会議を攪乱した。入場資格を団体員に限ったのにこの有様だった。主だった参加者名をここに記す。*
翌明治十二年三月の再開を約して散会した。

*肥前佐賀 
木原隆忠(嘉四郎、古老、副島と名を齊(ひとし)うす、委員外)、
鍋島克一、武富陽春
紀州和歌山 三東一郎(直砥)、兒玉仲兒、千田軍之介
豊前豊津 友松醇(じゅん)一郎
筑前久留米 川島澄之助
備前岡山 小林樟雄、中川横太郎(委員外)
松山公共社 高木明輝、内藤正格
鳥取共立社 坪内元暁、岡島清潔
福岡成美社 進藤喜平太
愛知 宮本千眞木
熊本 佐野範太
高松 細谷多門
岡山 竹内正志
石川 齊藤幹、戸田九思郎
委員外 鳥居正功、岩澤仲通
福岡 頭山満、
三重 栗原亮一
越前 杉田定一
立志社 総代西山志澄、森脇直樹、山本幸彦、植木枝盛
土佐
有信社 前野正身
南洋社 片岡甫、西原筧
南嶽社 兒島稔、行宗貞晟、濱田(竹かんむりに内)ママ
共行社 高田逸馬、池添祥陽、原篤治
宿毛合立社 林包(中は巳)明、濱田三孝
板垣、大石正巳、寺田寛

247 愛国社再興合議(書)
 我々の提案の大本は、愛国の情である。愛国の情、自己愛、人々の相互交流と親愛などは同根であり、それに基づいて各自の自主の権利、人間本分の義務を果たすことによって、天皇陛下の尊栄福祉を増し、我帝国を欧米各国と対峙屹立せしめたい。そのために以下の約定を定めた。
248 条文は最初の結成時のものとほぼ同じようだ。
 付則はスパイ対策と思われる。会員資格を定めている。団体員であること、都府での結成団体の入社は認めないとするが、例外も設けている。また近隣の団体によるチェックも規定している。
国会図書館所蔵パンフレット
249 社局を大阪の土佐堀三丁目に設置し、事務局員を、立志社員の山本幸彦、森脇直樹、とした。しかし規定にもかかわらず、各社は一人の委員も大阪に置かず、社局の維持費は立志社が担った。
 また当時の世論は、この愛国社の再興の動きを、冷笑し罵倒するものが少なくなかった。郵便報知新聞もその一つである。これはかつて民撰議院建設運動の一翼を担い、後に改進党の有力な機関となったのだが、次のような言説を放った。
(360ページの注の最初の部分から続いて本ページに戻り、本ページの中略部分がまた360ページにあり、その後、本ページに戻る。その内容は、2018年現在の政党「維新」や「国民」と同様、世の流れに逆らわず、「現実的」に目先の利益を優先させて生きて行こうとすることらしい。郵便報知新聞は大隈重信の立憲改進党の一翼を担ったようだ。曰く、)
260 「時代の流れに沿わないものは、神風連*や前原党*の轍を踏むことになる」
「郵便報知新聞」明治11.10.5

*神風連…1876年(M9)、熊本市で起こった。敬神党の乱ともいう。10月24日、旧肥後藩の士族、太田黒伴雄、加屋霽(さい)堅、斎藤求三郎ら170名が敬神党を結成し、廃刀令に反対した反乱である。ウイキペディア
*前原党…1876年(M9)10月、山口県の前原一誠は、萩で反乱を起こした。ウイキペディア「士族反乱」

第四章 政社の勃興
 地方組織は少なくとも十名の団結を要し(附則第一条)たため、再興後第一回の当時は、地方組織ができておらず、団体からの派遣は、ほとんどなかった。
団体ができたものは、熊本の相愛社、名古屋の覊(き)立社、参河(三河)の交親社、雲州(出雲)の尚志社などであり、土佐では市や郡の至るところに団結ができ、武を練り、文を修めた。以下に、土佐の嶽洋社、出雲の尚志社、肥後の相愛社、尾張の覊(き)立社、土佐の合立社、南山社、伊予の公共社等の設立書を示す。
251 嶽洋社主意書(土佐高知)
 「人には生まれながらの、天が授けた権理と自由がある。人はその通義を尽くすべきだ」(この通義は本書でよく見かける言葉だが、これは英語のcommon senseを直訳したものではないかと、ふと思ったが、どうだろうか。)
 この通義を尽くさなければ、人は恥辱だ。人は権理と自由によって、才能を高め、知識を広め、社会の富強文明を増進しなければならない。欧米人の富強文明は、各人の権理を全うし、自由を得、才能と知識を増進したことによる。
一方アジア諸国は、専制政治の下におかれ、権理自由を知らなかった。日本では国内の政法が定まらず、人民は元気がなく、自主的でなく、外交では独立国の大権を欠き、侮辱されている。
252 「一は以て天の責に答え、一は以て己の分に応じ、一は以て国家に奉ぜんと欲す」

尚志社趣意書(雲州笠津)(雲州は山陰の出雲のことである)
 国家とは、共同であり、相互扶助、共同防衛であり、それは義務だ。
不均衡の通商貿易は損失をもたらし、政界では仲間割れをし、民衆は暴動を起こし、条約も改正できない。その原因は民権が保証されないからだ。民権が保証されないと、愛国心が生まれない。自由、愛国心には、富、国権が伴う。
「欧語に言う、国は人民反射の光なりと」「権力は正理の源である」「約書万巻以て盟を固めるは、百の兵を以て守るに如かず」
255 専制、卑屈は、国家の富強をもたらさない。自治自由であらねばならない。
 時事を知れ。そのためには講習、討論が重要だ。
志を異にする人も来て討論されたい。

感想 明治6年の、維新戦勝武士同士の内輪もめの頃から、明治10年頃の本書のこのあたりの頃256までに、所謂「自由民権」運動は、民撰議院という、民意を政治に取り入れる政治システムを導入せよという「民主的」な要素を持っていたが、この趣意書253を読んでわかることだが、それは「愛国」つまり、欧米諸国に負けないだけの武力を持たねばならない、条約よりも先ず武力をもつことを優先せよという愛国的対外武力国家像と抱き合わせのものだったことが読み取れる。レーニンやウイルソンの指摘する国際協調などは、全く考慮外である。
それと並行して中世的武士政権は、民衆の政治活動を弾圧する制度を整備していく。新聞紙条例、集会条例である。戦前の日本の、対外武力的・対内弾圧的、中世的武士階級による強権政治は、急に発生したというよりは、自らの内面=中世的身分差別として、もともと備わっていたものを表面化したものに過ぎなかったのではないか。20181129()

256 相愛社趣意書(肥後熊本)
 国家は人民の賢さの現れである。国民は自らの品位を高め、国家の光栄を高めなければならない。それは国民の義務だ。そのためには、共に協議し、団結し、政治を学習せよ。「知識は勢力なり」という。一人の英才よりも民衆の団結の方が優れている。
欧米で国民の権利を伸長させ、国家予算を民会で決定しているのは、自主の精神や国政参加の気持ちを人民が持たせるためだ。
政府の権利は、人民の権利を保全するためにある。特定のある一人が、公衆の自由を妨害することを禁ずる。国民の道徳は政府の関知するところではなく、政府はそれを束縛してはいけない。自由は、国家の経済力の礎である。
258 「主上の明詔にこたえ、愛国の心を表す」

覊立社趣意書(尾州名古屋)
 国家の安全は、人民が相互に交際し、助け合うことによってもたらされる。維新の改革は、人民を一つの方向に団結させるためのものだ。(これは上から目線の考えではないか)ところが現状では人民は分裂して私利に走り、国家の安危を考えない。我々は相互に交際し、文学=学問や商工業で精を出し、天皇陛下の尊栄を造益し、我日本帝国の福祉を昌盛にし、人民の権利を伸張したい。不羈自立を以て人間本分の義務を尽くしたい。
内藤魯一家文書所収パンフレット

合立社趣意書(土佐宿毛)
259 交際や結社は、男子の本懐とするところであり、智富徳の源泉だ。「我合立社の趣意たる、各固有の権利を伸張し、参政の権利を進取し、以て自由の清泉に沐(もく)し、自主の快風に梳(くしけず)るの栄を営み、以て畢生(ひっせい、一生)の事業を務めずんばあらず」
260 知徳を増進し、演説や弁論を通して抑圧的政令を論破し、不羈独立の人民たるに恥じず、護国の責に任じたい。これは男子の功業だ。

南山社趣意書(土佐佐川)
人民は協力して国の福祉を図るべきだ。国家の福祉の増進こそ、知識を磨き、諸物の理を明らかにし、民権を主張する理由だ。

公共社趣意書(伊予松山)
 国家は人民の幸福を保証する城砦だ。私は国威を外に輝かせ、万邦を服従させたい。ところが現在国内では相共に闘い、外国からは脅(おびやか)されている。我大日本帝国をポーランドの二の舞にしてはいけない。国威を八方に輝かし、内は人民を興起し、その天性を遂げさせるべきだ。国民は長い封建的抑圧のために、自己固有の権利・自由を放棄して顧みないし、国家のことも考えない。だから日本は欧米諸国に及ばず、人民の権利を回復できない。
我々は団結し知識を増やし以て人民の権利を強め、人民の義務を励まし、政府の一方的な権限強化を防ぎ、「万邦懾伏(しょうふく、畏れ伏)し、永く我大日本帝国の光輝をして四荒八表に煥発せしめんとす」
河野広中家文書所収パンフレット

262 愛国社再興の檄は、全国の同志を激励した。明治11年4月、政府は反省して二回目の地方官会義を開き、府県会規則、地方税規則、郡区村編成法の三案を提示した。
11年7月、政府はこの三法を公布し、地方代議制の実施を約束し、明治12年3月、地方議会が初めて開設されたが、これは政熱誘導の媒をなした。
 ところが政府は、明治11年7月15日政令を府県に発し、言論の自由を束縛し、官吏の政談演説を禁止した。これは後の集会条例となった。

263 「近来地方で国事政体を談論する目的で何某社と称し、演説会を開き、多数が集合しているようだが、これについて警察官が観察し、万一その挙動が民心を扇動し国安を妨害すると認められたときは、東京府下は警視庁官、地方はその長官より禁止せしめ、その事情を内務卿に届け出るべく、この旨相達し候事。」
「法令全書」明治11年

 明治12年3月27日、愛国社は第二回大会を大阪江戸堀で開催した。参会者は、

熊本相愛社 月田道春、前田下学、
観光社 高橋長秋、
名古屋覊立社 宮本千眞木、
三河交親社 内藤魯一、
松山公共社 宮本積徳、
久留米共勉社 川島澄之介
福岡正倫社 箱田六輔
雲州尚志社 野口敬典
西京正心社 伊澤彦三郎
東京親睦社 藤瀬定
丹後天橋義塾 法貴發
因州共立社 岡島清潔
佐賀 武富陽春
豐津(とよつ、大阪府吹田市) 杉生十郎
土佐立志社 社長片岡健吉(昨年の暮出獄)、副社長西山志澄
嶽洋社 坂本南海男(直寛)、橋本濟、
開成社 落合臆蔵
合立社 林包(中は巳)明、廣瀬正猷
南山社 堀見凞(き)助、西村約
その他 岡山、和歌山、石川、大分、山口諸県の有志、
合計八十余名、18県21社に及んだ。
議長に西山志澄を、幹事に坂本南海男、藤瀬定を選出した。全21社を四国、九州、中国、大阪以東の4組に分けた。経費は各社40円、不足分は立志社負担とし、4月2日に閉会した。第一回に比べれば増えたが、関東や東北はまだ手付かずだった。
八月下旬、立志社は山本幸彦を九州に派遣し、遊説させた。また福島三春の河野広中が、三師社と石曜社の委員として高知を訪れ、共闘を約した。
264 11月7日、第三次大会を大阪江戸堀で開催した。参会者は、
久留米共勉社 厨良秀
豐津(とよつ)合一社 杉生十郎
福岡共愛会 平岡浩太郎
出雲笠津社 若山茂雄
松山公共社 宮本積徳、野間友徳、
高松立志社 細谷多門
肥前島原 眞田幸勝
磐城三春三師社及び石陽社 総代河野廣中
鳥取共立社 坪内元暁
三河交親社 内藤純蔵、中村喜太留、
越前自郷社 杉田定一、
常陸潮来社 關澤忠教、
熊本相愛社 廣田尚、
山梨 佐野廣乃、
佐賀 武富陽春、
中津 宮村三多、
土佐
立志社 片岡健吉、西山志澄、島地正存、
聯(れん)合各社委員 植木枝盛、北川貞彦、谷重中、
宿毛合立社 林包(中は巳)明、

 福岡共愛会は、条約改正の建白案提出を希望し、山陽地方を遊説してから本大会に参加したが、一方立志社は、板垣の指導で、国会開設願望の建議案を大会に提起することを決議してから大会に臨んでいた。
 福岡共愛会は条約改正建白の議を提出し、国権拡張を唱えたが、立志社の片岡は、国会開設の願望の議を提起し、「輿論の一致、挙国一致がなければ、条約改正の建白の効果も上がらないだろう、国会開設の議も本会議でよく議論し、意見を合わせる必要がある、全国的にも意見を合わせる必要がある」と主張した。また立志社の島地正存は「我大日本帝国に国会を開設することを天皇陛下に願望し奉るべし、その方法案は各社が来年三月の大会に提出できるように準備し、また各社は組織拡大のために近隣を遊説すべし」と提案したところ、衆議はこれを一決した。
 次に全国を分割した。すなわち、九州、四国、山陰、山陽、近畿、中仙道、東海道、北陸道、関東、奥羽等に分割し、各地政社より遊説員を派出することも約束し、遊説委員に河野広中(石陽社)、杉田定一(白郷社)、北川貞彦(高知聯合各社)を選挙した。
次に方法に関して討議した。国会願望書は来春三月、再審議し、愛国社に一括し、その名義を以て提出する案と、各地の同盟社団から別個に提出する案とがあったが、結局、各地社団の有志が個別連署の上、愛国社に総括し、総代を選んで、天皇の前に棒呈することに決まった。
また河野広中の建議である、東京分社設立案は、結局、全国を二分し、関西は大阪に、関東は東京に社局を置くことに決定した。国会願望その他の文案は、植木枝盛が起草することに決定し、13日に散会した。
国会開設願望の提出方法で、建白かそれとも請願かに関して、当初は建白しか思いつかなかったが、北川貞彦が、立志社の議を代表して請願にすべきだと提案し、それが採択された。
256 建白に関しては法的に規制があったが、請願に関してはなかったし、建白は政府に対してであり、請願は天皇に対してであり、建白は、政府によって中途で捨てられる恐れがあった。
 国会願望の議は明春三月に大阪で再開のときに、その願望書を棒提しようと約束したが、この年の12月、岡山県有志が単独に願望書提出を決議した。岡山県は愛国社第三回会議のとき傍聴していただけだったが、岡山県は、両備作三州の各郡委員を岡山に会し、西毅一其が議長となり、願望書の議を決定し、総代に備前の三村久吉、備中の忍峡稜(りょう)威兄、美作の井手毛三を選び、同月29日、次の檄文を四方に移して、翌13年1月、願書を元老院に提出した。

同胞兄弟に告ぐ
 「嗚呼我同胞三千五百有余万の兄弟よ」(かなり情緒的に当時の日本の民権と国権の弱さを嘆じている。また当時の日本の人口が3,500万人だったことが分かる)
267 民権は今伸長しているか、国権は拡張しているか。
「今や外人は鴟梟(しきょう、鴟はとび、梟はふくろう)の欲を逞うし、我々民人を見る事、雀鴉(じゃくあ、鴉はからす)のごとく、児童の如く、卑屈なる奴隷の如く、条約改正の期既に迫ると雖も、未だ彼が許諾を得る能ず、独立の体面は果たして何のところにあるか」
一人ひとりが国事を考えよ。国会を開設し、衆知を集めよ。国会を開設すれば、民権が伸長し、民権が伸長すれば、国権も伸張するはずだ。人民の知恵や勇気に活路を与えよ。国会を開設せよ。
 「明治初年の御誓文と明治八年四月十四日の聖詔とは、我叡聖文武なる 天皇陛下の美徳に出で…」(維新当時十六歳の天皇が自ら作文したかのように考えている。)
268 ところがこの美挙(国会開設)が、未だに実行されていない。政府に開設を任せておいてはいけないと考え、本日哀訴懇願する次第だ。
 福岡県下でも共愛公衆会を開き、国会開設の建議をするとのことだ。国会開設は、我岡山県や福岡県にとどまらず、五畿八道三府三十五県三千五百有余万の同胞兄弟も同感である。
明治十二年十二月二九日  岡山県両備作三国有志人民
「大坂日報」M13.1.11
269 福岡共愛会も十二月二十六日、委員六十五名が集まって、条約改正と国会開設の請願を決定し、箱田六輔、南川正雄が総代となって、十三年一月十六日、元老院に捧呈した。
 こういう名を取ろうとする行為は、封建割拠の余習である。行動は一致して力を集めるべきだ。
 立志社は遊説者を各地に送った。九州に山田平佐衛門と森脇直樹を、奥羽に山本幸彦、平尾喜壽を、そして、坂本南海男を東京・北陸に、弘田徹を東海道と長州に送り、さらに翌十三年一月、桐島祥陽を山陰道に、それぞれ派遣した。
また片岡健吉を、東京の愛国社分社の担当とし、山田平佐衛門を片岡に代わる立志社の社長に、島田正存を副社長にした。
 大阪では愛国社の機関雑誌『愛国志林』を発行し、植木枝盛がその主筆となり、記者は永田一二が勤めた。
270 この雑誌に板垣が寄稿し、政府を批判した。後に雑誌の名称を『愛国新誌』と改めたが、明治14年8月、自由党が将に興ろうとするときに廃刊となった。

第四編 国会期成同盟
第一章 国会開設の請願
 
感想 ひどい!集会条例M13.4.5だ。良くぞここまでずうずうしく言ってくれる。大弾圧だ。太政官布告とのこと。伊藤博文は、民撰議院開設の要望が全国的に高まると、それに耳を傾けるのではなく、弾圧に回る。弾圧こそ彼の特色だ。これでは独裁政治突進の一語に尽きる。なんとこの時期M11に山県有朋によって統帥権の独立が決定されていたという。(『週刊金曜日』2018.11.30半藤一利)279

271 国会開設の声が、沈黙を破ると、これまで愛国社の再興を嘲っていた人たちも、国会開設を唱和するようになった。
 愛国社同盟27社の志士は、十三年三月、大阪に集まった。そのとき同盟社団以外にも参会した全国有志の結合体が五六十に及んだ。参加者は以下の通りである。
岩手 鈴木舎定、岩鍵(館か)迂太郎、
宮城 村松龜(き)一郎、
福島 岡田健長、山口千代作、河野広中、松本芳長、
新潟 木村時命、尾本二一郎、
石川 吉田栄(さんずい+哥)、野原凞(き)磨、稻垣示、高島伸三郎、脇屋氏義、
福井 杉田定一、
長野 折井親信、松澤求策、
岐阜 柴山忠三郎、
滋賀 伏木孝内、高塚雄磨、
愛知 内藤魯一、
茨木 岩澤仲通、大津淳一郎、
東京 山川善太郎、
福岡 松本俊之助、前田貢、
熊本 池松豐(とよ)記、厨幾太郎、
大分 上田長二郎、
長崎 眞田幸勝、
島根 岡島正潔、石原常節、若山義雄、
廣島 宮本音吉、森島鼎三、
兵庫 法貴發(はつ)、筒井辨(べん)治、
大阪 渡邊禎一郎、
堺 木下日出十、光澤了照、
徳島 河原文水、
愛媛 小島忠里、西條欣吾、橋本是哉、木庭繁、別宮今次郎、富永太一郎、細谷多門、田中胖、黒瀬幸太郎、山崎惣六
高知 片岡、西山、植木、寺田寛、明神安久、森脇直樹、濱田三孝、岡田助太、前田清遠、深尾重城、野村篤、堀見凞助、松本正守、林包(中は巳)明、一圓正興、小島義次、桐島祥陽、前野正身、立田義明、黒田兆亮、小藤龍也、谷重中、上岡三枝、鍋島直實、黒岩保教、西村躍、池正俗、楠瀬正利、土方美土志、久保達枝、井上弘、谷内榮久、北川貞彦、能瀬源之助、宮地茂春、島崎恆道、川添良生、弘瀬重正、青木茂樹、蓼原寅之助、西尾霽見、門田智など四十余名であった。

二府二十二県の八万七千余人の総代百十四名が、明治十三年三月十五日に喜多福亭に会合し、十七日に北野大融寺で大会を開き、議長は片岡健吉、副議長は西山志澄、幹事は杉田定一、内藤魯一とし、会の名称を愛国社から国会期成同盟に改称した。十七日より会議を開いた。司計(司会のことか)に、三師社の河野廣中、民政社の渡邊禎一郎(大阪府)を選挙し、国会願望書起草員に松澤求策(長野県)、永田一二を指定し、審査委員に片岡健吉、河野廣中、岡田健長、植木枝盛、杉田定一、小島忠里、村松龜一郎、北川貞彦を挙げ、願望書捧呈委員に片岡健吉、河野廣中を為し、四月九日に閉会した。

272 (以後人名は主要ポストを除き省略する。)

 国会期成同盟規約緒言
 国会開設願望書捧呈は、一回だけで諦めない。人民は団結しなければならない。大勢の人民が要求するにもかかわらず政府がそれを認めなければ、政府の負けだ。
273 国会期成同盟規約(364ページにこれの原案が提示されていて、それを見ると、かなり修正されていることがわかる)

第二条 この願望書を天皇に捧呈する。
274 第三条 東京に常備委員二名を置く。常備委員は公選で選出する。
第五条 国会開設が認められた場合、国会憲法を制定すべき全国の代理人を出す方法を政府に建言し、またはその方法につき同盟の望むところを政府に乞うべきだ。
第六条 そして国会憲法を政府に建言し、または国会憲法について同盟の望むところを政府に乞うべし。
第十条 国会開設願望が聞き届けられなかった場合は、全国遊説をし、本年十一月十日より大集会を東京に開き、今後の方向を定める。
275 第十三条 遊説の分担案 日本全国を十二の大区に分ける。(省略)
276 第十四条 以後同盟に加入を許可する者は、その府県内において居住する者または寄留する者で百名以上の組合人がある者に限る。
第十五条 第十四条はこれまでの組合にも当てはめる。
明治新聞雑誌文庫所蔵パンフレット
277 会議は盛況だったが、委員は会議のやり方に不慣れだったため、また地方感情が強かったためもあり、喧々囂々(けんけんごうごう)として制御不可能に陥り、議長の片岡は一時休憩を命じ、その後副議長西山に交替したが、混乱は納まらなかった。
西山曰く、今や薩長政府は戦勝の勢いをさしはさんで圧制の政をしいているのに、この有様だ。私はこのような志士の資格がない者と話をしたくない。私は去る。皆さん勝手にしてくれ。
議長の片岡が委員を諭すと、会議は少し沈静化した。
今大会は、昨年十一月の大会と比して、委員数は倍増したし、伊予松山の委員小島忠里は百円をカンパした。
一方、土佐の委員数は他県と比較して多かったので、少なくしようと努力はしたが、資格があるので禁止もできなかった。
278 しかし他県は不満だった。また正副議長も立志社の者だった。中には会議を分裂させようとする者もいた。
河野廣中、内藤魯一は、功労者は数が多いものだ、多数を望むなら、自らも功労をなせと説諭した。そうすると委員は静まり、さらに集会条例が発布されたことを知ると、会議は静粛になり、その後は整然と会議が進行した。
一方、西山志澄は島津前左府(左大臣)に会うために薩摩に向かった。
政府は国会願望運動がまだ整っていないのに乗じて未発に圧倒しようと、集会条例を公布した。
279 苛令酷律の圧迫は、漸くこのときより盛んになろうとしていた。

集会条例 明治十三年四月五日太政官第十二号布告
第一条 政治に関する事項を講談論議する為に公衆を集める者は、開会三日前に、講談論議の事項、講談論議する人の姓名住所、会同の場所、年月日を詳細に記し、その会主または会長、幹事等より、管轄警察署に届け出て、その認可を受けるべし。
第二条 政治に関する事項を講談論議するため、結社する者は、結社する前に、その社名、社則、会場、及び社員名簿を、管轄警察署に届け出て、その認可を受けなければならない。その社則を改正し、及び社員の出入りがあったときも同様にせよ。この届出をなすに当たり、警察署より尋問することがあれば、社中のことは何事たりともこれに答弁しなければならない。(明治15.6.3追加 前項の結社及び、その他の結社において、政治に関する事項を講談論議する為に集会をなさんとする時は、なお第一条の手続を行え)
第三条 講談論議の事項、講談論議する人員、会場及び会日(会の開催日)の定規がある場合は、その定規を、初会の三日前に警察署に届け出て、認可を受けたときは、その後の例会は届出に及ばずといえども、これを変更するときは第一条の手続を行え。
第四条 管轄警察署は、第一条、第二条、第三条の届出において、国安に妨害ありと認めるときは、これを認可してはいけない。
第五条 警察署は、正服を着た警察官を会場に派遣し、認可の証を検査し、会場を監視させることができる。
第六条 派出の警察官は、参会者が認可の証を開示しない時や、講談論議の届書に掲げていない事項に渡る時や、人を罪に教唆・誘導する意図がある時や、公衆の安寧に妨害があると認める時や、集会に臨むことができない者に退去を命じてもこれに従わない時などは、全会を解散させなければならない。
(明治13.12.23追加 但し、本条の解散を命じたとき、その情状により、東京は警視長官が、その他は地方長官が、その結社を解散させ、またはその管内において、一年以内、その会員の、公衆に対して政事を講談論議することを禁じることができる)
第七条 政治に関する事項を講談論議する集会に、陸海軍人で常備、予備、後備の名籍にある者、警察官、官立、公立、私立学校の教員生徒、農業工芸の見習生は、これに臨会しまたはその社に加入することができない。
第八条 政治に関する事項を講談論議するために、その旨趣を広告し、または委員若しくは文書を発して公衆を誘導し、または他の社と連絡し及び通信往復することはできない。
第九条 政治に関する事項を講談論議する為に、屋外において公衆の集会を催すことはできない。
第十条 第一条の認可を受けないで集会を催すもの、会主は、二円以上二十円以下の罰金若しくは十一日以上三月以下の禁獄に処し、その会席を貸したものや、会長、幹事、およびその講談論議者は、各二円以上二十円以下の罰金に処し、第三条の規定を犯したものも本条による。
第十一条 第二条の規定に背き、社則或いは社員名簿或いは改則、社員の出入りを定期において警察に届け出ず、または尋問するところの事項を回答しないときは、社長は、二円以上二十円以下の罰金に処し、偽作の社則または名簿を届け出て、或いは尋問をされて偽答するときは、社長は右罰金の他、さらに十一日以上三月以下の禁獄に処す。
281 第十二条 第五条の規定に背き、派出警官の臨席を拒否するとき、会主、会長、及び社長、幹事は、各五円以上五十円以下の罰金、若しくは、一月以上一年以下の禁獄に処し、その警察官より演説者の姓名を尋問しても答えなかったり、または偽名を答えたりした者は、同罪に処し、再犯に当たるものは、十円以上百円以下の罰金、若しくは二月以上二年以下の禁獄に処す。
第十三条 派出の警察官が解散を命じた後でも退散しない者は、二円以上二十円以下の罰金、もしくは十一日以上六ヵ月以下の禁獄に処す。
第十四条 第七条の制限を犯したとき、会主、会長、及び社長、幹事は、二円以上二十円以下の罰金、若しくは十一日以上三月以内の禁獄に処し、その他情状の重い場合があれば、その社を解散させる。その制限を犯して入社し、または臨会する者は、二円以上二十円以下の罰金に処す。
第十五条 第八条の制限を犯した場合は、会主、会長、及び社長、幹事は、二円以上二十円以下の罰金、若しくは、一月以上一年以下の禁獄に処し、その社を解散させる。このことに関する者も、また同罪に処し、脅迫する者及び再犯の者は、十円以上百円以下の罰金、若しくは二月以上二年以下の禁獄に処し、その社長、幹事は、一年以上五年以下の期間、結社または入社を禁ずる。
第十六条 法律で規定するところの集会は、この限りにあらず。
「法令全書」明治十三年
四月十七日、片岡健吉、河野廣中は、代表となって、太政官に左の国会開設の請願書を天皇に捧呈した。
282 国家を開設するの允可を上願する書

312 感想 この上願書が太政官にも元老院にも受け入れなかったことを示す顛末書を読んで、この交渉が非常にナイーブであると痛感した。紳士的交渉なのだ。迫力がないのだ。2018122()

282 (ここでもまた「臣民」が出てくる。)「日本国民臣片岡健吉、臣河野廣中等、敢えて尊厳を畏れずここに謹んで恭(うやうや)しく、我天皇陛下に願望するところあらんとす」
 第一 天は人民に生まれながらの自由と能力を与え、人民に福祉を享受させた。国家と政法もそのためにある。専制政治の下における不自由は恥ずべきことだ。
 第二 国家は人民の協力を必要とする。そのために民撰議院は必要だ。王室の安泰は立憲政体によって保証される。
283 第三 (維新時の五か条の御誓文を一条ごと挙げ、民撰議院の必要性と関連付けて説明するが、若干こじつけの感がないでもない。)
 一 会議と公論による決定 これは国会開設そのものだ。公論とは挙国人民の意志である。
 二 心を一にして政治を行え 専制政治は上下の心を隔てる。しかるに国会は政府と人民の心を交通しうる手段だ。
 三 官僚・軍隊・全人民の能力の発揮 専制政治は庶民の志をふさいでしまう。
284 四 陋習打破 専制政治は陋習である。立憲政体は公論にかかわり、適切な処置である。
 五 知識を世界に求め皇紀を振興する 
(御誓文の最後に「天地神明に誓い」が出てきて、「衆も協力せよ」と続く。こういう宗教的な時代だったのだ。)
第四 陛下は翰文(かんぶん、手紙)の中で、「近来宇内各国四方に雄飛し、我国のみが形勢に疎く、旧習を固守し、各国の陵辱侮辱を受けることを恐れる。万里を開拓し、国威を四方に宣布し、天下を富嶽の安きに置くことを欲する」とおっしゃられた。(これ自体すごく侵略的だ)専制政治は陋習だ。それでは「列聖を辱める」ことになる。
第五 陛下は明治八年四月の詔で、「御誓文の趣旨に沿って元老院を設け、大審院を置いて審判の権を強くし、地方官を召集して民情を通じたい。朕の趣旨を翼賛せよ」とおっしゃられた。
286 漸次に国会開設を望むならば、今すぐ第一歩を踏み出すべきだ。
 第六 明治四年の廃藩置県は、全国的結合を求めるものであり、それは愛国心を高めたが、国会開設もそれに寄与する。また明治五年の徴兵制によって、武士だけでなく、全国民が一致協力するようになり、一層強固な軍隊を作ることができたが、そのためにも国会開設は一番効果的だ。
287 明治六年に地租を改正し、地券を行ったが、租税は国家の所有物ではなく、全国人民の所有物であり、国家の共有物であるからには、その使途に関しては人民全てが協議すべきである。
 第七 人民の国家における義務は、人民が安全・幸福を受けたいためにある。ところが維新以来十年間騒乱が続いた。このような混乱を収拾するには国会が必要だ。
288 第八 国家と、人民の安寧とは深く関わり合っている。それは国家の財政とも関わる。今、国債や紙幣が多すぎ、物価が高騰し、さらに外債も発行している。これは騒動が多いからだ。だから変乱の根本を正さなければならない。国会を開設し、人民の自主性と愛国心を高め、一致団結することが求められる。
 第九 今各国が四方に雄飛しているが、国家の独立を保ち、対外的に開拓し、国威を四方に宣布することは、陛下と我々の希望するところだが、今の日本は完全に独立しておらず、屈辱を受けている。
289 国民の自主自治の精神や、権利がなければ、国家は独立できない。国会を開設すべきだ。
 国会開設は国家にとって必須のものだ。
 陛下、早く国会を開設してもらいたい。
明治十三年四月
各社団の総代・代理の署名
明治新聞雑誌文庫所蔵パンフレット

307 ところが太政官の吏員はこれを受理しなかった。吏員が言うには、立法に関することは元老院だから、元老院に提出せよと。そして元老院と太政官を往復したが、太政官は、政治に関する人民の請願書を受理する成規がないとし、元老院は建白以外は受理しないとし、いずれも受理を拒否した。さらに下級官吏は、人民に請願の権利はないと傲言(ごうげん)した。片岡、河野は「九重の天を仰いで、空しく慷慨の涙をのみ、」「痛恨地を蹴ると雖も、奈何(いかん)ともする能ず」だった。結局、奔走二十余日、遂に上書の路絶えて、一篇の顛末書をつくり、各地の人民に報じた。

 請願顛末書
 四月十七日、我々捧呈委員は、太政官に出頭し、太政大臣に面会を乞うたが、大臣は出てこず、内閣書記官谷森某に面会させた。谷森書記官は、願望書を持って中に入り、我々は、一時間待った。
一時間後書記官は、「これは内閣で受理する書面ではない」「指図するつもりはないが、立法に関することだから、元老院がいいだろう」と言った。
我々は、「建白書なら元老院だが、これは建白書ではなく、国会開設の允可を天皇に願望する書だから、太政大臣が担当ではないか」と言った。
すると書記官は、「太政大臣はすでにこれを閲覧し、願望書であることは知っているはずだ」と言った。
我々はそのときこう思った。元老院が願望書を受理しないという成規はないのだから、元老院に提出してもいいのかなと。それで副願書を持って元老院へ向かって、議長に面接を乞うたが、議長は会わず、書記官森山某に面会させた。書記官は願望書を熟読し、受理した。我々は「願望書に関して何か疑問な点があれば連絡して欲しい」と言って帰った。
 数日しても何の連絡もなかったので、二十四日、元老院に出頭したところ、書記官森山某は、「手続書を付して上奏した」と答えた。
我々は言った。「これは建白書ではなく、陛下への願望書であるから、何らかの連絡があってもいいはずだ」と。
すると書記官は、「建白書に関しては、それを取捨したかどうかについて連絡すべきだという規定がない」と言った。
我々は言った。「これは建白書ではなく、願望書だ。その趣旨をかいつまんで説明すると、第一、国民の本分としての国会を開設し、国民が参政権を得ること、
第二、国会を開設しないと、国家人民の安寧権理を保全しがたいこと、
第三、天皇が五箇条の御誓文に基づき、八年四月に、君主専制を立憲政体に変えると言ったこと、
このような趣旨なのだから、陛下や廟堂は、これを拝聴すべきだ。これは全国の人口に比較すれば僅かだが、全国の有志人民の奉る願望書なのだから、一般の建白書のように、受理しただけでなんら連絡もないというのでは困る」と言った。
 書記官は答えた。「そのことは議長によく言っておく。なお、他に係りの議官がいるのでそれに話して欲しい」と。我々は退院した。
三月二十六日、元老院に出頭すると、森山某は「一昨日の件について、議長・幹事がいるところでよく話した。係の議官が今日は一人しかいないので、三人揃ったところで連絡する」と言った。我々は退院した。
二八日、三十日に出頭せよとの手紙が来た。
三十日、健吉は病気で、伊藤、物部が代理をし、廣中と共に出頭した。本田、安場の両議官が面会した。我々は「これは建白書ではなく願望書だから、連絡があってしかるべきだ」とし、先日森山に言ったとおりのことをここでも繰り返し言った。
議官が言った。「元老院はこれを建白書と看做し、すでに内閣に回して提出しようという評決をした。ところが君たちはこれが建白書ではないという。それでは元老院がこれを受理したことは間違っていた。受理できない。再考してくれ」と。
我々は言った。「十四日に森山書記官は、『内閣へ手続書を付して回した』と言った。内閣から元老院へ連絡があったはずだと思っていたが、書面を内閣に回すという評決をしただけか」と。
議官曰く。「書記官が、内閣に回すという評決をしたといったのを誤解したのではないか」と。
我々は「願望書についてもっとよく考えろ。しかし我々に再考せよというのなら再考する」として退院した。
健吉は、本願望書の性質を変えるべきではないとしたので、五月一日、廣中、伊藤、物部が元老院に出頭した。安場、本田の両議官は、「昨日のことは間違いで、書記官の言ったように既に内閣に回っている」と言った。
我々は、「これは願望書であって、その性格を変えるわけにはいかないので、評議の結果を連絡してほしい」といった。
 議官は言った。「これが願望書であることを証明する書類を新たに作って提出せよ。評議はそれからだ」と。
 我々「内容を見れば願望書だということが分かるではないか」
 議官「それなら新たな書類は不要だ。評議の上連絡する」
 我々は退院した。何も連絡がないので五月四日、健吉と廣中が、元老院に出頭したが、議官がいなかったので退院。
 五日、元老院へ出頭。
本田議官が「遅れているが、今日明日中に願望書を返却する」と言ったので、我々は退院した。四日待った。
八日、元老院より即刻出頭せよとの連絡が入った。
行ってみると、本田議官は願望書を返却した。
十日、太政官に再び出頭した。太政大臣に面会を求めたが、不在とのことで、谷森書記官が対応した。
312 谷森は、願望書を受理して退き、暫くしてから戻ってきて言った。「このような書面は太政大臣が執奏すべきものではない」「願書の体裁や、書類を提出する順序・手続が問題ではない。そもそも人民には、政体上に関する事項を建白する権理はあるが、天皇に願望する権理はない」
我々「なぜだ」
谷森「敢えて弁明しない」
我々は「(あなた方に)御明解あらざるを信ずるを以て、敢えて伺問(しもん)せざるなり」と言って、太政官を去った。願望書捧呈の路は絶たれた。
明治十三年五月十一日
片岡健吉
河野廣中
森田六輔殿
河野廣中家文書所収パンフレット

313 これまでのことをまとめてみると、岡山県や福岡県の有志の請願が先ず却下され、続いて国会期成同盟の上書が政府の拒むところとなったが、国会開設の願望は、全国で燃え上がった。
 信州松本の奨匡(きょう)社員、茨城地方の請願委員磯山清兵衛、越後地方の有志総代山際七司、島田茂、山梨地方の有志総代古屋専蔵、田邊某など、願意を徹底しようと努力した。
 奨匡社の松澤求策、上條螘(あり)司は、二万一千五百三十五人を代表し、五旬(五十日)の間、太政官、元老院に迫り、有栖川左府宮に拝謁を乞うて許されず、哀訴状を提出しようとして斥けられ、ようやく岩倉右大臣に面して、衷情を訴えた。
松澤・上條「政府は請願を拒否するが、そもそも人民にこの権理がないと考えるのか」岩倉「然らず。政府がどうして天から与えられた権利を奪おうか」
松澤・上條「なぜ請願を天皇に執奏することを否定するのか」
岩倉「国会は日本全州に関することであり、一部一地方の人民が請願する根拠がない」
松澤・上條「全国人民が請願したら受理するか」
岩倉「然らず。許否は天皇が決めることだ」(ここでも天皇。天皇は為政者にとって便利な口実だ)
314 有志は失望し、踵を返して去った。
 近衛歩兵伍長の小原彌惣八は、政府が言路を塞ぐことを憤り、一封の上書を懐にし、宮城の前で自決しようとしたが、取り押さえられ、軍律に処せられた。
 新潟県人赤澤常容は、太政官の門を叩き、意見を表明する方法がないのに怒り、自刃(じん)した。

感想 一 帝国主義 二 天皇主義 三 請願 四 自殺   2018123()
 この四点は一つの根源から来ているように思われる。自由民権を唱えた人たちは、最下層ではなかった。士農工商の中の上層部である武士階級、そして武士階級の中でも恐らくその上層部にいたのではないか。
一 帝国主義 日本が欧米諸国に不平等条約を押し付けられ、苦しんだ体験を持っているのなら、それと同じ苦しみを近隣諸国にしてはいけない、ということをどうして思いつかなかったのか、という問いへの解答は、ここに得られるのではないか。
二 天皇主義もこの観点から解答されるのではないか。天皇が権力の放縦を認める根拠になっていて、自らが苦しめられているのに、それを否定的に捕らえない。それは根底で差別構造を否定したくない特権階級としての本音が現れているのではないか。
三 大人しく行儀の良い請願行動。不許可とされ不満を抱きながらも、本質的には納得したと相手に看做され、すごすごと退く。
四 そしてその不満は一部では自らの死でもって解決する。弱弱しい限りだ。
 こういう行儀よさや弱弱しさは、特権階級のお坊ちゃま的な自らの出自によるのではないか。

314 当時の経済問題、インフレ
 このころ経済が混乱し、それに乗じて民撰議院開設の声も高まった。
 政府は維新以来、硬貨主義を取り、藩札や官札など不換紙幣を廃止しようとしたが、明治六年、大隈重信が財政を担当し、歳出の増加を、債権や増税で乗り切ろうとし、不換紙幣を発行し、紙幣廃止政策を止め、さらには未発行の予備紙幣も流通させ、明治十一年銀貨が高騰した。
315 また明治十年までの輸入超過は、六千六百余万円で、正貨は海外に流出し、西南戦役には四千余万円を費やした。
明治十二年九月、長州の商人(鉅商、きょしょう)中野梧一(ごいち)、藤田傳三郎らが紙幣贋造で逮捕され、その金額は幾千万円とされ、またこれに長州の諸参議が連坐しているらしかった。
紙幣流通額は急増した。
明治十一年   一千二百余万円
明治十二年 一億一千三百余万円
明治十三年 一億  八百余万円
官僚はこれを「投機者の仕業で、一時的なものであり、また銀貨が高騰したのであって、紙幣が下落したのではない」などと、紙幣濫発の事実を覆い隠そうとしたが、実際はできなかった。
 今度は、大隈重信は外債を募り紙幣を回収しようとする議を内閣に提出した。
 征台の役、西南の乱以後、当局が私的な富を肥やしているのではないかと疑われ、それとともに民撰議院設立の声は高まった。

第二章 政府の狼狽
316 明治十二年十二月、右大臣岩倉具視は、太政大臣三条実美と図り、密に欽定憲法の調査を手がけ、その案を上奏した。
十二月、参議山県有朋が立憲政体に関する意見を天皇に上奉した。
十三年二月、有栖川熾(し)仁親王が左大臣に任命され、(岩倉右大臣は)有栖川左大臣と共に、衆参議に命じて、立憲政体に関する意見を奏陳させた。
 ところがこのとき守旧派の大教正であった千家尊福(せんげたかとみ)*は、手紙で岩倉を、「国家の柱石たる大臣が、民間有志と面議討議することは、穏当でない。大臣の威徳を汚す」と諫止した。
*大教正とは、教導職の最上位である教正のうちでもその最上位。教導職は、明治5年3月に始まった大教宣布(神道国教化)運動のために設置された宗教官吏である。
教導職は敬神愛国、天理人道、皇上奉戴の三条の教則にもとづき、社寺で説教を行った。
千家尊福(せんげたかとみ)は、出雲大社の宮司。神社大社教管長、司法大臣1908、ウイキペディア
317 この衆参議の建議は姑息で、一時的な糊塗に過ぎず、根本的に公議輿論の政治を断ずるものはなかった。次に、山県有朋、黒田清輝、山田顕義、井上馨、伊藤博文、大木喬仁らの建議を掲げる。

山県有朋*の建議 *長州出身の軍人。
 「臣有朋 謹みて啓す」維新から今までの十二年間の発展振りは、歴代王朝と比しても希に見るものだ。蒸気船車、郵便、電信、大小学校、地租税法の改正、徴兵の典令、刑法諸律修正、勧業勘農、銭幣の定則、量衡の正表、商行開設、結社の業など様々な点で改革した。
 また陸海軍も皇張した。現在の日本は、欧米諸国に決して引けを取らない、ただ日が浅いだけだ。以上が政府の実績だ。
 ところが民衆はその政府の努力に応えず、政府を奉戴せず、政令に甘服せず、猜疑して政府を見ているが、一体それはどういうことだ。政府は民衆のためを思ってやっているのだ。
318 このように民衆が政府を信頼しなくなった原因は、
第一に、維新の業務が急激だったことだ。
第二に、維新の改革がまだ表面的な段階に止まり、効果がまだ出て来ていないことだ。
第三に、維新の改革が旧慣を廃することだったために、士族や、豪農商の一部で資産を失ったものも多かったことだ。
第四に、欧米に習い法治主義を採用したため、道徳が崩れたことだ。子どもは家庭では父兄を軽侮し、社会では目上の者を蔑視するようになり、教師を金で買うようになり、財利を競い、権義を争い、僅かなことで比較するようになった。自由の思想は、傲慢をもたらし、自律もできない人間が、官僚を批判して自慢するようになった。
319 実質的には政令がこのような結果をもたらした。これは必然の結果だ。
今日の太平は、維新の成果だ。ここ数年の内乱の時期は、民心が政府から離れていた時期だったが、聖徳の隆盛と廟議の確定によって、それを何とか凌いできた。民心が政府から乖離し、隣国問題や条約問題を抱えている今日、政事を強固にしないわけにいかない。そのためには三権を分立する必要がある。(これは意外な発言、ただのジェスチャーか)
320 民心を得るためには、国憲を確立すべきだ。国憲を草せしむるために、明治九年に元老院に下した詔勅は、そのことを語っている。国憲は政事の方向を一定にし、それで民心が得られるはずだ。
憲法の中にはまず、皇統一系は犯すべからず、ということを入れるべきだ。
地券を下付し、土地所有権を人民に附与したのだから、皇室財産も限定すべきだ。親王の碌も制度化しなければならない。
321 一番の難題は、君民両権の制定である。明治八年の詔勅は、徐々に立憲政体に移行することを示し、地方官会議を開いた。そして今年は、府県郡区の会議を開いた。
直ちに民会を開くのも結構だが、民会は、君民の権を分割するものだから、慎重に扱わねばならない。民会は重要だから、それを始めるのも容易ではない。しかし、早晩民会を開かざるを得ないだろう。
臣有朋 密に思う。民会は重要でやむを得ないものであるが、枢機に関すること、つまり大過をもたらす恐れのあるものは、先に明言しないで、実行を先にすべきだ。暗にその実を行い、つまり実験し、間違いがないと分かったときに、初めて名を改めて言明しても遅くはない。
 したがって、先ず特撰議院を開くことが上策だと思う。特撰なら馬鹿なやつは入ってこないからだ。(「智にして賢なるを撰して、これを選抜できる」からだ)
 府県会の中には立派な人物がいる。彼らを選抜して議会をつくり、国憲の条件を議せしめ、また立法もやらせ、これを数年やってみて、立法が上手く機能すれば、そのとき民会にしたらよい。
322 或いは特撰議会という名を設けず、府県会中の投票で二三人を選び、議会を構成してもいい。そしてその過程で選挙法を研究して民会に移行してもいい。
そのとき集合解散の権は政府が持つものとし、議決も必ずそれを実行しなければならないとしなくてもいい
これには反対もあるだろう。これでは元老院を二つ置くようなものだと。しかし、元老院は皇族や官吏の四五等以上の者の会である。一方この議会は、構成員を各府県で十五歳以上とすれば、おのずと異なるではないか。そしてこれはいずれ民会になる性質のものなのだ。
 またこのように議会の権限を狭小にすれば、議会は政府・官吏に対して唯々諾々としているから、意味がないという人もいるかもしれない。欧米では人民が国政にくちばしを入れる権利があるが、そのまま欧米の真似をする必要はない。そうした望みは「万一」の望みだ。民会の端緒が得られれば、それでいいのだ。
 またこれは政府の権謀だと言う人もいるかもしれない。しかし事は慎重にすべきであり、正論だけでは利害を損ねることがあるということを考慮せよ。
以上、後来確乎たる民会を起こすための基礎をなす大意に過ぎず、各論ではない。民会は漸次成立し、民意も政府を支持する時が来るだろう。
323 明治十二年十二月
陸軍中将兼参議 山県有朋
国会図書館所蔵「岩倉家文書」

317 感想 非常に分かりにくい文章なのだが、山県は民撰議院の設置を一応は認めつつ、実際は民撰議院の決定では現実の政治は動かしにくいとし、民撰議院そのものを本質的に信用していない。そして民撰議院に徐々に移行すればいいとしてはいるものの、実際はその気がないことを示しているように受け止められる。
 「枢機に関することは、民撰議院では大過を招く恐れがあるから、そういう場合は、声言を先にせず、その実行を先にすべきだ」321とし、「特撰議会」につなげる。
つまり、いきなり民撰議院に移行せず、名称も民会としないで、その予行演習として、府県会から選抜した特撰議会で実際にやってみたらどうか、というこことである。
 しかし、特撰議会の議決を尊重しなくてもいいとか、欧米のように人民が政府のやる政治にくちばしを入れるのは、「万一のこと」だとする考え方からすると、そもそも山県には人民の意志を尊重する気はないようだ。そういう山県でも、「民会は必死のこと」と捉えはじめているようで、これは民権運動の成果と言えるかもしれない。2018123()
 山県は実務的である。

 黒田清隆*の建議
*黒田清隆(1840.11.9—1900.8.23薩摩藩出身の陸軍軍人。明治10年、熊本城の反乱を平定した。
324 国会設立の問題は、降って湧いたような話ではない。
天皇は、明治戊辰二(三)月、万機公論の御誓文を発せられ、東北を平定した後、天下の侯伯を召集し、大政を諮詢(諮問)せられ、待詔院、集議院を建て、言路を開通し、諸侯封土の奉還の請を允(ゆる)し、知藩事を置き、今日、郡県の治を馴致(なじむようにさせる)した。
325 元老、大審を置き、その聖詔の中で、漸次立憲政体を設立することを明言した。地方官会議を現在までに三回開いた。また府県会を開き、議員を公選して、地方税支弁について論議させた。政府はこのように国会開設のために努力してきた。
 ところが世の論者は、これを自らの論の口実として利用している。彼らは愛国者とは言えない。彼らはこれを徒に政府に抵抗する材料として用いている。前参議の後藤象二郎や副島種臣らは、朝鮮問題で意見が合わないからとして下野し、民撰議院設立に連署し、それに不平の徒が付和雷同したが、今の国会論者も、多くはこの類だ。
 国会を今すぐ開設することは時期尚早だ。文明開化には利益もあれば弊害もある。今、人民は虚飾、浮薄であるし、民権論者も、欧米の書物の生齧(かじ)りで、それを誇大に強調しているに過ぎない。
日本の教育は未だ十分な成果が出ていない。学校はできたが、生徒は浮ついていて強豪さや実用の精神に欠けている。それでは国家を指導する人材は育たない。
325 今、内外多事であり、国家の基本も強固でない。民撰議院のような前代未聞のこと(創挙)は、今はできない相談だ。国家の方策を失えば、弊害がすぐに出てくる。(これが黒田が民撰議院即時設立に反対する唯一の理由である)
朝廷が民撰議院不採用を一旦決めれば、民権論者の意見がどんなにたくさん出てきても意に介するに値しない。民撰議院は将来の話だ。
 日本では民法がまだ整備されていない。そのため外人の言いなりになっているので、国権を伸張できない。国会開設は、民法整備の後だ。
 プロシャやスイスの学校教育では、操練(軍事教練)を行っている。国家有事に備えるべきだ。アメリカでは州ごとに農学校を建て、その兵学科では操練を教えている。それは国本を厚くし、民心を壮(さかん)にするはずだ。
 農業に基づく物産は国益につながる。農工商を新興せよ。今それに関する専門の省がなく、内務や大蔵の一局に過ぎない。フランスやプロシャ(仏孛諸国、孛は孛魯西)に倣い、農商を専門とする省を設け、人民を指導せよ。そうすれば、農業、物産、鉱物、漁業、製造、貿易、運輸、財源、国本などすべてが充実するだろう。そして金貨の高騰、米価の沸騰、輸入超過などの問題は、恐れることはなくなるだろう。
326 国庫を民間に閉ざしてはならない。全国的に最も利益(洪益)があるもの二三を選び、そこに国庫を投入し、支援すべきだ。その財願は国債や紙幣の増刷で賄うべきだ。
人民が産業に精を出せば、無頼で不平の徒の、無用な言論や不急のことは、減少し、実用的な人材が世に出るだろう。国会開設は、それからでも遅くない。
明治十三年二月十二日
黒田清隆
太政大臣三条実美殿
右大臣岩倉具視殿
国会図書館所蔵「黒田清隆意見書類」

山田顕義*の建議
*山田顕義(やまだあきよし、1844.11.18—1892.11.11山口県萩市出身の陸軍軍人。
327 諸外国の立憲制は、それぞれ固有の慣習と状況によって制定されたものだ。我国は、開闢以来、天祖の遺詔と固有の慣習に基づき、神聖を受け継ぎ、不動にして今日に到っている。日本では、未だかつて人民が政権に参与することがなかった。ところが維新以来、天皇は世界に学び、その権利の一部を分割した。天皇の恩を感じ取れ。人民が主体的に政権に参加したいと主張するなどもってのほかだ
 しかし専制には害がある。徐々に立憲を定めるのが良い。それは君主の大権が決定することだ。(この論理に一貫性がないのは明らかだ)
 人民に参政の権を与えるとすれば次の四点だ。
一 人民の権利に限った法律の制定(天皇には触れるなということか)
二 租税徴収と決算報告書の検査
三 予算書の検査
四 国境の変換
憲法を仮に定め、その勅許を得て、四五年間は元老院と地方官会儀で試行し、その憲法の可否を決め、その後憲法を確定し、特命で布告するのがよい。

財政に関して
物事の利害を考えよ。財政の対象は以下の七項目だ。
328 一 金銀本位制を廃止する。貨幣はその形態のいかんに関わらず、物品の価値を代表するものだ。物価本位制を採用しても、貨幣としての価値が低下するわけではないし、需要に追いつかなくなることもない。紙幣を金銀に交換してもらいたいという要望に対しては、金銀でなく物品で代用できるはずだ。こうして物品本位制が成立し、輸入超過にもならない。(どうして輸入超過にならないのか不明)
二 輸出品は洋銀で決裁する。
三 国債で資金を調達し、紡績機械、鉄、砂糖製造機械を建設する。
四 同一事業を一局に集中する。
五 官庁で不用な外国製品の使用を禁止する。
六 地方特産品で輸出可能な物品の製造技術を特別学校で教育する。
七 減税 (綿、砂糖、麦、蘆粟(ろぞく、あし、あわ)、鉄工所)

陸海軍拡張
一 私の考えは、海軍卿の意見とほぼ同じである。
二 執銃運動を中学校で教育する。

その他
官立諸学校の試験科目に漢学を加える。
外国交際の目的を定めよ。
六月
山田顕義
国会図書館所蔵「岩倉家文書」

327 感想 山田顕義の建議 支離滅裂 この程度のものが、当時の政界の一般的な意見だったのかもしれない。

井上馨*の建議 *安芸=広島県西部出身
329 私は先に岩倉閣下と、輿論公議を尊重し、皇基を堅固にするにはどうしたらよいかについて議論したとき、まず民法、憲法を制定し、その後で、輿論に基づく国会を開設することを提案したが、それを以下の通り記述する。
 政体は風土・民族に従って組織するものだ。(それならすぐ民意を尊重せよ)
330 政体には必ずそれが依拠する原理があるものだ。例えば、強権、君主の知力、強兵、仁徳などである。今の政府にはそのような根本的原理がない。それでは「皇国の福利」は達成できない。(空語)現政権には人民を感服させる威力がない。明治初期にはそれがあったが、今はない。そして徳義もない。地方政務への参与は、徳政に関することなのに、人民は政府を怨んでいる。
321 人心を迎えるはずの政策が、水泡に帰したばかりか、さらには政権への弊害にもなった。
 人民の教化や殖産が十分でない。輸入は超過し、金貨は喪失し、国会論者は政府の失策を咎めている。
 今なすべきことは輿論を尊重し、国会を開設し、政府の組織を一変し、国家の原理を定めることだ。(これは彼の論述と矛盾している)
332 明治六七年の変の後、民撰議院論が起こったとき、識者はそれを尚早だと笑ったが、現在ではこの時期尚早論は迂論となった。人民に対して権力で対峙することができなくなった。(これも彼の論旨と矛盾)
 国会開設は、政府組織を一変し、政策原理を確定するだろう。法制や予算は、国会が論定することになるだろう。政権の政策原理なければ、衆論に左右される恐れがある。(論旨が一貫していない)
 国会開設は、民意に従って国家の福利を増進し、政府組織を改編し、政権の政策原理を確立するためには必要だ。
 意図よりも結果を評価する。フランス革命で国王の首を市内で刎ねるとは、不幸な狂乱的な結果であり、これがフランスの国俗となった。一方国力があり、他国の国土を奪っても、勝てばそれが正当化されることもある。だから意図はどうあれ、結果がよければいいのだ。(打算的)
333 国会を開設しても、国家が紊乱しては、元も子もない。英米のような平穏な政権交代ではすまなくなる恐れがある。フランスのような兇暴な政権交代となってはいけない。
 国会を興す前に民法を整備せよ。所有、戸婚、家督相続、契約、行政区域、行政裁判、訴訟法、商法、会社法などを整備し、法治主義を人民に衆知させよ。また将来の国会議員の選挙権や被選挙権の法律制定においても、このことが寄与するはずだ。民法の後に憲法を制定し、王室、政府、人民の権限を判然明確にし、その後で国会を開設すべきだ。
334 先ず国会を開いて、烏合の衆たる人民が囂囂(ごうごう)と民法に関して議論したのでは、「美果」は得られない。その理由は、今日の地方官会議や府県会で実証済みだ。王室、政府、人民の権限を区画することは、最重要事項だ。民法や憲法は、命令でなければ、その「完美」を得られない。
民法や憲法の制定に際して配慮すべきことは以下の通りだ。
第一 元老院を廃止して、上議院を設け、将来の民撰議院(下議院)に対抗させる。
第二 上議院の議員は、華士族から百名選抜し、その一部は公選とし、一部は勅撰とする。ただし、平民のうち学術に秀でたものや、国家に大勲功ある者は、勅撰で命ずることができる。
第三 上議員の議定事項は、予算、制度、法律とする。
第四 民法案や憲法案の策定に当たっては、上議院の外に、内閣の若干名の委員が「調整」した後で、上議院に議決させる。「事実に適さなかったり、議論が三つ以上に分かれたりした時は、天皇が決める
 民法編纂では、皇国古来の風習・慣行を採用し、不足する事項や、条理にかなった他国の法を採用する。
 今、太政官に民法編纂局を設置しているが、それはフランスの民法を抜粋している。それでは「完美」なる我民法は編纂できない。
335 習慣・風俗は、民法そのものだ。我国には成文法がないだけだ。他国の法をそのまま移入するのは間違いだ。我習俗をあえてそれに合わせることはない。良い憲法は、自国の習俗からなった民法を基礎として編纂されるものだ。
第五 上議院が関わる憲法は、暫くは命令で仮に決定し、民法の制定後、憲法を制定するときに、改定すべきだ。人民が囂囂と議論する下議院の開設後にこれを議論させてはならない
 以上をまとめると、国会は憲法に基づき、憲法は民法に基づき、民法を編纂するのは上議院である。国会は、政府の基礎を強固にし、天皇の政治を翼賛するものだ。
今春内閣の改革があったとき、私は岩倉閣下に私の考えを口頭で述べたが、軽々にそれを吐露して民権派の謗(そし)りを招いてはまずいと思っていた。しかし、黙っていたのでは国家のためにならないと思い、また岩倉閣下が憂国の士で、深く人民を愛しておられるのだから、私は今、満腔の熱衷を吐露する次第だ。少しでも何かの補いとなれば幸甚だ。
明治十三年七月
井上馨
岩倉右大臣閣下
 国会図書館所蔵「岩倉家文書」

329 感想 井上馨の建議 どっちつかずで八方美人的に見えるが、彼の論旨は結局は、今すぐ民撰議院開設を認めるのではなく、まず民法や憲法を、民撰議院で審議するのではなく、現政権で決定してから民会を開設すべきだとする。つまり彼は、上から目線で物事を進める側についているようだ。彼が八方美人を装うのは、これまでに大阪で、板垣と大久保政権との仲介を取ったことがあることによるのかもしれない。

伊藤博文の建議
336 (いやらしい、やにへりくだった表現で書き始める。)
臣博文 誠惶(こう、おそれる)誠恐、臣、叨(みだり)に重職を涜(けが)し、深く時難を思う。竊(ひそか)に惟う、今日の事実に、曠古(こうこ)の世運に際し、風朝の勢、寖(ようや)くに変革の機に臨めり」
現今の軽はずみな新説に従えないことは、初めから分かりきったことだ。しかしだからといって、廃止すべき旧習もある。
現今の問題の原因は以下の通り二つあり、その措置については後述する。
第一 維新変革に伴う、旧士族の給料取り上げと、それに対する旧士族の不満
 維新以後の兵制の変革によって、碌を失った士族の数は数十万人に上る。急士族が旧習を慕い、不平・不満を訴えるのは理解できる。しかし、極端な場合は、過激な論陣を張り、政府に対抗し、世論を盛り立てて、いい気分になっている。
士族は、かつては平民の上に位地し、教育があり、国事(軍務、政治)に任じてきた。だから今日でも好んで政治を論じ、庶民は士族の言うところに耳を貸している。今日の士族の傾向は、王室に対して反抗的だ。
第二 現在の事態は、全国的様相を示し、大変制御が困難である。
今から百年前のフランス革命1789の時、その騒乱はヨーロッパ中に伝播し、乱となったものや、今でも続いているものもある。名君や賢相が、先見の明によって、国を固められたものもあったが、どれも皆、専制をやめ、人民と政治を分担することを免れなかった。
士族の間には西洋の文物が浸透し、政体の新説が共有されている。それは蔓延し、防ぎきれない。彼等は軽はずみで上意をわきまえず、病気でもないのに、苦しみがり、その兇暴さは人を惑わす。
338 以上二点は、時勢の流れであり、いかんともしがたい。政府のやるべきことは、調整であり、圧制を避けることだが、かといって放縦にはさせず、徐々に進歩を図り、緩急よろしくことにあたるべきだ。
元老院を拡充し、元老議官を華士族から選出する
 国会を今すぐ開設すべきではない。これは私が権力を維持したいから言うのではない。君民共同統治は結構なことだが、事は国体の変更に関わることで重大である。そのことは陛下もご存知のはずでしょう。
 欧州では上下両院が牽制し合っている。欧州の帝王国では、元老院(上院)を設け、それが国家保持の要となっている。またその構成員を庶民の老成や、勲望碩学からも選んでいるが、たいていは貴族から採用している。それは帝室を維持するためだからだ。
 漸進的な改革のためには元老院を拡充して、元老院の構成員を華士族から採用すべきだ。
339 明治八年の元老院開設時の木戸や大久保の考えもこれとほぼ同じだったが、今その内実の拡充が求められている。
国事を担当し、文明を率先できる人は、士族から選ぶしかない。士族は貴族の一部だ。士族を華族の下に置き、元老議員を華士族から公選し、同時に、国家の勲旧と士庶の碩学からも選び、その定員を百人とし、法律の文案は、元老院の議を経させる。そうすれば士族は栄用され、報効を与えられ、王室を輔翼させられる。これは、平均的で穏当な処置だ。
公選検査官を設置する
 検査院員外官を府県会員の中から採用し、財政を公議する端緒とすべきだ。
 国民の、国家に対する猜疑心は、国家予算に関することが多いから、立憲国家では財政を国民と共有負担している。
 これまで政府は、海陸軍の創設、裁判法の改良、学校の興隆、警察制度の確立、監獄の建造、鉄道電信の創設、道路の開通など、公益のために尽力してきた。
340 また、地租改正は、農民を豊かにし、資本を投下して殖産に努めてきた。現在の国会財政の赤字はこれが原因だ。これまで政府は公明だった。今、政府を批判するものは、実態を知らないだけだ。事実を捏造する者さえいる。
 府県会議員の中から公選で検査院外官を選出し、官撰検査官と共に検査に当たらせる。ただし、予算には口出しさせない。これは、漸進的に財政を公議する端緒となるし、人民に実務を習得させる機会にもなる。
 この二件は、行政を束縛することになり、諸臣の責任も一層重大になるだろう。その組織、権限、選挙方法などの細目を慎重に決めるべきだ。なぜならばそれは治安に関係することになるだろうからだ。その裁定断行は、天皇が決めよ。
天皇が方向を決定せよ
天皇が(伊藤が考えるところの)漸進主義を採用する、と国民に公言せよ。立法の権を人民と分担するのを決定するのは天皇の占有事項であり、臣下が議論することではない。その実施時期についてもだ。臣下が喧嘩・議論することではない。(これは責任回避)
天下の臣下で王室に信頼を寄せる者は、天皇の一声で、政治の方向性を知り、無知の民は兇暴の徒に惑わされなくなるはずだ。
明治十三年十二月十四日
参議 伊藤博文
国会図書館所蔵 「岩倉家文書」

感想 伊藤博文の案は老獪だ。漸進主義に名を借りた、民意否定の正当化だ。伊藤は西洋の事情をよく知っているが、伊藤が西洋から学ぶことは、西洋の歴史での「暴動」を否定的に捉え、その革新的な民衆運動を否定することだ。ずるいところは、最後は天皇の責任に転嫁するところだ。伊藤が国民を信用していないことは、他の論者と共通する。

大木喬任*の建議 

*佐賀県政策部広報公聴課は、キッズサイトTOPで、彼が初代の文部大臣を務めた佐賀七賢人の一人としている。国立国会図書館は、彼が佐賀藩の藩政改革を推進した、としている。大木喬任1832—1899は、明治十四年当時は、既に49才である。伊藤1841--1909より9歳年長だ。維新時は36歳。

342 最近誰もが唱えている国憲論は、国体に関することであり、軽率に扱うべきでない。
明治八年の詔勅は、国体変革の基を開いてしまったが、これを前提として、これを乗り切るための私の考えは、この問題を外国の国憲に倣わないで、日本独自のもの(国体)を政体とは区別し、これを日本の建国の歴史に基づいて解釈することだ。これは一種奇妙な論のように思われるかもしれないが、日本建国の礎は、世界に比類のないものであり、特別な解釈をしても当然だと思う。後ほど帝権と政体の二案を提出する。開明者流から見れば、これが笑いものになることは、もとより覚悟の上だ。
 今世界は弱肉強食の時代であり、日本が、天皇独裁のもとに、世界に進出することを政略の基本とすべきときなのに、八年の詔勅が取り消せないことは残念なことだ。
343 私の基本的な考え方が失われないようにとの目論見で、私は国会を興すべきだという結論に止むを得ず達した。
明治十四年五月
大木喬任
大臣公閣下

国体を定めることを願う書
国体はアプリオリーに重要だ。国体がないことを「廟謨(びょうぼ、謨は、「はかる」の意)なし」という。
陛下のおかげで維新の事業が速やかに成し遂げられた。
344 輔弼大臣も懸命に働いた。しかし、国の権力は進展せず、風俗が乱れ、財政も困窮し、政府と民間とが疑い合っている。これを廟謨なしという。
 今、有司が案を立て、主者が検閲し、閣議を経て、天皇が決裁している。立法は元老院が議論している。しかし、建国の体を明らかにしているとは言えない。
 我国の建国の体は、数千年前に定まった。ところが維新政府は、海外のまねをした。各国ともそれぞれ立国の礎は異なるはずだ。
 国が違えば文化も違い、国体も違う。一箇所に住む人民の心は、一致していて、そこから報国の念が生じ、国防の観念もそれに基づく。
 ヨーロッパには三つの建国形態がある。君主独裁、君民同治、共和政治である。海外の国々の始まりは、弱肉強食の状態から、ボスを選び、それを君主にした。
345 人民の中から選んで統領とするところもある。そして、君民間で契約し、権限を規定して憲章にし、それを国憲とし、建国の礎としている。だから国民は、君主よりも国憲を尊重する。そして、一旦変革が起こると、国憲も変更する。だから国憲といえど、永遠のものではない。(「頼みにならない」)したがって、海外諸国では(時代を超えた)一定の君主が存在せず、国家権力を人民が選び、それを政治の手段としている。
 ところが日本では天祖が詔を垂れ、天孫が降臨した。したがって(時代を超えた)一定の君主が存在し、君民の境界が定まった。天孫の降臨は(アプリオリーに)人民のためのものだ。人民がそれを獲得したのではなく、天が命じたものだ。天の詔は、太陽や月のように明らかで、「天安河(あめのやすかわ)の議は、海岳(かいがく)と共に著しい」
 天祖天孫が、万世に渡り、地上の天皇の上にあり、人民を知り、国を治める理由は、人民に上を望ませず、人民の気持ちを一つにし、紛争を起こさせないためである。
 天位の一系は偶然ではない。陛下はこれを列聖・聖皇から受け、列聖・聖皇はこれを天祖天孫から受け継いだ。天祖の遺詔や安河の議は、建国の基礎である。
 二つの書物(典)がある。それは私が選んだのではない。先皇が定めたものだ。春はその年を祈って祀(まつり)し、秋は穀を供えて祭す。それは陛下が、天祖天孫を奉じ、列聖聖皇に仕えるからだ。数百千年間に渡って、人民は天皇を奉戴し、謀反を起こさなかった。維新事業が滞りなく行われた理由はこれによる。(天皇教の極致だ。天皇教はすでにこのころよりまとまった形で存在していた。ただ民衆レベルまで普及していなかっただけのようだ)
 日本と欧米とは、政治の方法だけでなく、国家の礎においても異なる。地球を挙げて、日本のような国は他にない。
 維新以来、人々は是非を問わず海外の文物を輸入し、己を忘れて海外に従っている。明治八年の立憲政体の詔勅を下した陛下の本意を悟らない書生は、日本の不文法は下らない、日本の古典は未開だとし、ミル(美爾)やルソー(爾須)を引用して人民を惑わしている。
維新以来、陛下は美を欧米に求めたが、明治八年の詔勅は、我国固有の礎を捨てるものではなかった。元老院は立法を広め、大審院は法律の力を固くする。規章(憲法)を守ろうとするのは、天皇の仁愛による。外形は外国に倣うが、素材を採用しただけで、日本の国礎を放棄したものではない。
347 昔、王仁(わに)が日本にやって来て、書物を提供した。律令は大宝に備わり、格式は延喜にその詳細が決まった。これは中国の模倣だが、国礎は不変だ。知識を四海に求めるのは先皇の遺制だ。陛下が今国礎を捨てる意図があったとしても、列聖聖皇に対峙することはできない。
 (民権)論者は国礎を変えるつもりはないという。しかし他国の国礎に倣えば、日本の国礎は外国の国礎に様変わりする。天祖天孫が定め、列聖聖皇が守るものの一部をその中に取り込んでも、それでは全体としては外国の国礎である。
 帝位の授与、設官、臣民の権限、審判の限界など、ことごとく海外の国憲を採用し、その変更を衆議に任せるなら、不朽の国憲とは言えない。
348 外国の国憲に倣うべきではない。陛下は、法律制度を備えた後で、国会を興す時期を示すべきだ。帝憲は、国礎のあるところや、天皇が民を安んずる所以や、帝室の憲章などを明示すべきだ。政体は、三権分別、設官、議会の綱領などを明らかにすべきだ。帝憲は不朽だが、政体は変更可能だ。これでは外国の憲法と変わらないようだが、本質は違う。
 外国の国憲は人民と協議したあとで定まる。国憲は建国の基礎だ。帝憲や政体を定める者は、これを改めて作るのではない。この帝憲と政体の二つは、陛下が欽定する。
 直ちに、帝憲と政体を定め、国会を興すべき時を明示する必要がある。
349 また、国会を興し民衆に自由を与えるのは、外国に則ることだから、それでは国体を変更することになりはしないか、という人もいるだろうが、(建国神話で)神々を集めたのは、天の安河の会に基づくものだ。自由は、人が天から授かるものだ。自由を、西洋の言葉では理辨羅(りべら)という。日本では古くから人民を奴隷視したことはない。但し政体は変化した。天皇が独裁し、大臣大蓮(むらじ)が征伐し、藤原氏が政治を担当し、将軍が天下を統治したことがあった。陛下が規章を人民と共に守るのは、仁愛によるもので、これは国体に反しない。
陛下は国体を審定する局を設け、国家の基礎を定めるべきだ。
明治十四年五月
参議兼議長 大木喬任
国会図書館所蔵 「大木家文書」

感想 天皇教信者。この小論のほとんどが、くどくどと、ねちねちと、日本天皇教の宗教的論理を展開する。それは論理というよりは信仰の吐露である。そして明治八年の、国会開設につながる詔勅を、それが西洋の論理に基づくのではなく、天祖・天孫の国体に基づくものだと、合理化する。だから彼の論理は自己矛盾しているのであるが、それを合理化で切り抜けようとする。自らがそれを認めている。

以上が衆参議の建議である。府県議会議員の中から特撰して一種の諮問議会をつくり、元老院と相俟って立法の府とするという説、人民に参政権はないが、専制の弊害があるから、徐々に立憲の制度を立てるべきだという説、民意を拒絶すれば不測の事態になりかねないから、人民の国会願望熱に乗っかって、政府の基礎を固めるのがよいという説など、皆、姑息な見解であるが、ともかく国会を開くことはやむを得ないことだと思わせ、保守恋旧の廟堂を動かしたのは、国会期成同盟の功であった。
350 陸軍中将の鳥尾小彌太は、王法論を有司に贈り、立憲政体の主旨を公にして辞職した。

以上 上巻終わり
2018127()


自由党の創設過程とその規制 (年号は明治)

6.10.19 新聞紙発行条目81
6.10.22 五参議が下野78
7.1.12 幸福安全社p.87を基礎に愛国公党を結成p.33
7.1.17 民撰議院設立建白書p.90
7.4 立志社をはじめ全国各地の社p.140
8.2.22 愛国社p.160
8.7.28 新聞紙条目を廃し、新聞紙条例179を定む。讒謗律制定178
10.6 立志社による国会開設の建白p.193
11.4 愛国社再興趣意書p.221
11.7.15 集会条例の原型となった政令262
11.9 愛国社再興会議p.263
12.3.27 愛国社第二回大会p.263
12.11.7 愛国社第三回大会p.264
13.3 愛国社第四回大会p.271
13.3.15 国会期成同盟p.272
13.4.5 集会条例太政官布告
13.4.17 国会を開設するの允可を上願する書を捧呈する試みp.282


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