2019年1月20日日曜日

『英国策論』 遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄 3 萩原延壽(のぶとし) 朝日文庫 2007 要旨・抜粋・感想 2019.01.20


『英国策論』 遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄 3 萩原延壽(のぶとし) 朝日文庫 2007 要旨・抜粋・感想 2019.01.20


感想・序言

本書の特徴は、

・イギリスの文献を中心に、日本の文献も含めて、詳細に記述した。
・物語風で穏やかな記述スタイルである。

タイトルは「アーネスト・サトウ日記抄」であるが、サトウの日記だけに基づいているのではなく、上司のパークス公使や同僚のウイリス、フランスのロッシュ公使、日本では、西郷隆盛、勝海舟、それに現代の歴史学者石井孝*などの史料・研究も引用している。
私がもし本書の副題をつけるとすれば、「第二次長州討伐に際して、イギリスはどう対応しようとしたか」だろうか。イギリスは常に国益を考え、第二次長州討伐では、どちらが勝つのかを計算し、勝った方につこうと考えていたようだ。それどころか、長州が勝つだろうと予想して、その後の対応を計算していた節がある。パークス公使の部下である通訳のサトウの『英国策論』それ自体が、薩摩藩の、「天皇を中心とした諸大名会議論」を後押しする論文であった。

*石井孝1909—1996は、岩倉具視が孝明天皇を毒殺したと唱えた。ウイキペディア

 著者萩原延壽1926--2001は、イギリスに留学した経験を生かし、そこで得たイギリスの膨大な史料から日本の幕末を描こうと思ったに違いない。英国国立公文書館に保管されていたアーネスト・サトウの日記45冊を調べたとのこと。そして、イギリスから帰国後、大学に招聘されたが、断ったという。ウイキペディア

 著者の論調は穏やかで、特にこれと強調するものはない。その意味で単調とも言えるが、丁寧に政治の流れの裏を探ろうとしている心意気が感じとれる。

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 「パークス着任」の章を再読しての感想だが、端的に言って、イギリスは強圧的だ。イギリスの側からすれば、幕府がイギリスと条約を締結したのだから、イギリスには、幕府が条約を条文どおりに実施することを要求する当然の権利があるということになるのだろうが、幕府の側には、その通りに実施できない国内事情がある。幕府に対して、天皇の勅許を要求したり、大名会議の開催を要求したりする、薩長や公家など、幕府に敵対する勢力の台頭がある。イギリスは、そうした幕府の事情に配慮するのではなく、兵庫遠征によって武力を誇示し、幕府に天皇の勅許を得させる圧力をかけ、結果的に諸大名や公家に対する幕府の権威を相対的に弱め、ひいては、幕府の長州征討を阻止しようとする、そういう目論見をイギリスは兵庫遠征に際して持っていたのではないか。
 兵庫遠征は、幕府を含めて、京都朝廷や京都周辺諸大名に対する武力的威嚇であった。パークスの次の発言の中にそのことが端的に現れている。「兵庫遠征は、京都朝廷周辺の諸大名に対して我々の軍事力を誇示することになる。」078
そしてパークスは、次の言葉の中で、幕府の兵庫遠征中止の要望を無視しかつ嘲笑している。パークス曰く、「彼等に熱意は感じられず、むしろ、兵庫遠征を歓迎しているようだった。」087
 イギリスの側から見れば、幕府のように弱々しく、統率能力に欠け、何かと口実をつけて、条約の実施を先延ばしするものよりも、薩摩のように、ころりと豹変して、積極的にイギリスの指導を仰ぐ勢力の方が扱いやすく、またイギリスの国益にかなうと計算していたのかもしれない。

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感想 「兵庫沖」の第一節を再読した後での印象だが、『一外交官の見た明治維新』の記述よりも、この『日記』の方が、サトウの日本人に対する強引な言動が目につく。『一外交官の見た明治維新』は、サトウが後年、自身の日記を参照しながら回想したものだから、不都合な部分はカットしたものと思われる。不都合な部分とは、日本人に対して横柄に振る舞い、日本人を小馬鹿にするような部分である。
 この第一節の歴史資料的価値がどれだけあるのか疑わしいが、上記のようなサトウの当時と後年の日本人に対する態度の変化を知る意味では役に立つのかもしれない。  
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パークス着任


020 パークスは、アロー号事件1856--60の時には広東領事であり、北京で捕まり、拷問を受けた。
1860.9.18、パークス、エルギン*の秘書を含む約40人の英仏人は、通州での交渉が決裂し、逮捕された。
*エルギンは英全権大使。
パークスは11日間、首と手足を鎖でしばられ、低い天井の梁につながれた。パークス自身は三週間の投獄後に解放されたが、つかまった約40人中の半数以上が虐殺された。

1857.12、英仏連合軍が広東を攻撃し、占領した。占領は1861年まで続いた。
1858.6 このときまでに英仏軍は天津に北上していた。
1860の夏~秋、英仏連合軍が北京へ遠征した。
1860.10.13、英仏連合軍が北京に入城して、24、中英北京協定、25、中仏北京協定が結ばれ、アロー戦争は終結した。

022 オールコックの最終報告書(1864.11.19付)は、次のように述べている。

 「日本と結ばれた条約は、全て日本に強制されたものである。日本人の性格、制度、そして政治の上に巨大な変化が生じるまでは、そのようにして成立した条約を、宗教的禁欲、つまり、手段としての武力の行使を断念すること、によって保持できると考えるのは無益なことである。」

024 1865.7.8、オールコック駐日公使の後任として赴任したパークスは、小学校の教育しか受けておらず、14歳の時から20年間以上、中国で生活していた。

025 1860年当時のイギリスのアジアに対する見方は、「乗りこなされる馬」*1であり、「砲艦外交」*2の対象であり、「条約港文化」*3の場であり、イギリス人たちは「奴隷所有者的な心理」を持ってアジア人に接していた。(坂野正高『近代中国政治外交史』)

感想 しかし、これはステレオタイプ的で、為政者の側からの見方ではないか。アーネスト・サトウが、離日時に催された送別会で日本人から受けた歓待ぶりは、これとはやや違うように思われる。

*1Gordon Daniels, “Sir Harry Parkes, British Representative in Japan, 1865—1883,” Japan Library, 1996
*2Gunboat Diplomacy
*3Treaty Port Culture


感想 回想的で、これといって何を言いたいのかが感じられない文体だ。基本的には日本ナショナリズムの感性を土台としているようだ。

035 慶応元年5、1865、第二次長州征討で、将軍家茂は、五万の幕兵を連れて大阪に向かった。
036 そのとき将軍に扈従(こじゅう)した老中は四人で、残った者は二人だった。前者は、阿部正外(まさと、豊後守)、松前崇広(たかひろ、伊豆守)、松平(本荘)宗秀(伯耆*(ほうき)守)、松平康直(周防守)であり、後者は、水野忠精(ただきよ、和泉守)、本多忠民(ただもと、美濃守)であった。
 *伯耆は現在の鳥取県。
 1865.9.7、7.18、パークスが幕府と三度目の会談を行ったとき、1864年、元治元年10月、二人のイギリス士官、ボールドウィン少佐とバード中尉を鎌倉で殺害した清水清次の共犯者、間宮一が逮捕されたことを知らされた。
 間宮は10.30、9.11、清水と同様に、横浜の町を引き回しの上、処刑された。
037 またこのころ、長崎領事館に勤務するラウダーの日本語教師タイゾウと、ラウダーの従僕デンキチが、長崎奉行所に逮捕され、江戸に連行され、それに対して抗議したが、実は彼等が長州藩のスパイだったことを幕府側が明らかにした。
039 このころ木戸孝允は、幕府による長州征討に備えて、例外的に、砲台の建設を許可してもらいたいと、パークスを通して四カ国に要望しようとしたが、パークスはこれを斥けた。
040 当時、桂小五郎は長州藩で下関奉行をしていた。休戦協定は前年1864年の8月(旧暦)に締結されていた。
043 このころ伊藤俊輔と井上聞多は、薩摩藩士と称して、薩摩藩家老小松帯刀に庇護されて滞在していた。(長崎領事ガウアーの報告書、1865.9.16付)(グラバーからの薩摩名目での武器購入のため)
047 このころサトウの兄エドワードがコレラのため上海で亡くなった。『イギリスにおけるサトウ家年代記』The Family Chronicle of the English Satows
048 1865、サトウは日本人石橋政方の協力を得て、『英和口語辞典』An English-Japanese Dictionary of the Spoken Languageの編纂を開始した。これは明治9年に完成し、出版された。

三 

048, 058 函館でも領事館が火災にあい1865.1、再建費用二万ドルを幕府が持ち、毎年の賃借料(建設費の10%)をイギリス側が払うと取り決められた。
051 サトウは当時無神論者だった。
054 『パークス伝』The Life of Sir Harry Parkes, 2vols, London, 1894の邦訳は『パークス伝――日本駐在の日々』平凡社、東洋文庫。ディキンズというイギリス極東艦隊の軍医1861--1866が日本の部分を執筆した。
057 サトウはアイヌの村を訪問したとき、早速、アイヌ語を調査した。Pirika menoko, tonasumo mokoroとは、「美しい娘よ、はやく眠りたい」の意味であるが、さっそくそれを使ってみた。
060 ジャパンタイムズの前身は、「リッカビーの新聞」と呼ばれていた。
1865.10.30、9.11、サトウはフラワーズらとともに、戸部(刑場)で、ボールドウィン少佐とバード中佐を殺害した第二の犯人、間宮一の尋問と処刑に立ち会った。

四 

要旨

・イギリスのラッセル外相からパークス公使に訓令が届き、それは、四カ国による兵庫への軍艦外交につながった。1865.8.23、7.3付け訓令の横浜到着は10.22、9.4だった。
・パークスは、仏蘭米と協議し、兵庫沖へ軍艦を派遣することで合意した。
・イギリスはこの兵庫遠征で、幕府の長州征討を押し留め、日本の「平和」を維持することを考えていた。(しかし、「日本の平和」は、口実に過ぎないのではないか。薩長への配慮とも考えられる)
・イギリスは、薩英戦争や馬関戦争後に友好的になった薩長との貿易を望んでいた。イギリスの目的は自由貿易による利益の追求だった。
・フランスはパークスの提案に賛成したが、幕府側にパークスの唱える対日三条件の内容を伝えた。
・幕府は薩長と対立関係にあった。
・薩長は、幕府と天皇との友好関係を好まなかった。
・薩長は表向きは外国との友好関係を喧伝しているが、天皇の前では攘夷を唱えている。(幕府側の見解)
・薩摩は役人や留学生をロンドンに派遣しており、その役人は、薩摩がイギリスとの貿易を望んでいるとイギリスの政府関係者に伝えた。

感想 全体的に輻輳していて分かりにくい。特にパークスと幕府側代表者との対話の筋が掴みにくい。パークスは、幕府側の意向に耳を傾けようとする気が無いように見受けられる。また、本書はイギリス側の資料を元にしており、幕府側の資料に当たれば、また話は違うのではないだろうか。
 公武合体論を破壊し、武力で問題を解決しようとし、外威に阿て、内乱を画策したのは薩長であったように思える。201916()

061 ラッセル外相からパークス公使宛訓令全文。

062 日本は今、外国との交際から生じた、内乱の危機に瀕している。
062 エルギン卿は、将軍が日本の事実上の主権者であると看做して日本と条約を結んだ。
063 ところがその後、将軍よりも高次な権力が存在すること、将軍の行使する権威は、天皇と呼ばれる精神的君主によって委任されたものであること、強大な封建諸侯が存在すること、つまり彼等は位階において将軍よりも高位にあり、将軍が服従を強制する手段を持っているときだけは、将軍に服従するという、諸侯(公卿か)が存在することが判明した。
 ある種の日本人は、将軍との間で結ばれた条約が拘束力を持つためには、天皇の批准を経なければならないと主張する。しかしこの点に関して日本国内に矛盾があり、例えば薩摩藩主は、将軍に条約締結権があるとしている。
 イギリス政府は、これまで当然の権利として、将軍が条約によって拘束されているものと考えてきた。
 
イギリス政府が、フランス、オランダ、アメリカの諸政府とともに、新潟と兵庫の開港、そして、大阪の開市の延期に同意したのは、幕府の困難に対する思いやりの精神に基づいている。
ところが幕府は最初から、日本人の外国人に対する嫉妬心と嫌悪のために、また、外国との一切の交際に反対であり、将軍の強制力が及ばないほど強力ないくつかの有力な大名のために、条約の完全な履行は不可能であると述べてきた。
064 幕府の以上の主張を裏付ける、攘夷を主張する有力な藩である、薩摩藩と長州藩に対する遠征は成功裏に終わった

感想 「成功裏に終わった」という表現から推察できることだが、「前任公使の勇み足による人事異動」とか「武力行使をしないようにという内容の通達が、郵便事情のために間に合わなかった」とかいうのは、武力行使に対する批判をかわすための口実に過ぎなかったのかもしれない。また公使が日本に武力行使をしておいて、そのまま居続けるのは、公使の身の上に危険だという配慮があって、公使を交替させたのかもしれない。

064  イギリスと薩長との戦争の結果、幕府の口実の信憑性が揺らいできた。
駐日外国代表を訪れた薩長の使者によれば、彼等が外国人を攻撃し、外国人との交際に反対したのは、将軍の命令に従ったまでのことであり、彼らは外国人のために彼らの港を開く用意があり、それが出来ないのは、将軍が妨害しているからだという。また将軍が外国貿易から得られる利益を独占している、とも言っている。
065 事実、薩長の藩主は、諸外国と友好関係を結ぶことを切望しており、留学生や当該藩の役人をイギリスに派遣している

 イギリス政府は幕府と結ばれた条約を今後も遵守するが、次の二点に留意すべきだ。
 第一に、イギリス政府は、幕府の申し出に従って、条約で定められた、日本のある港でイギリス人が貿易する権利を主張することを控えてきた。
 第二に、幕府は下関砲台の破壊後、賠償金を払うか、或いは下関ないし海峡に面した他の適当な港を外国貿易のために開放するか、という選択を与えられたとき、賠償金の支払いの方を選んだ。

 イギリス政府は、条約で述べられている、諸港の開港が、幕府にとって危険であると看做されるかぎり、条約上の権利を一時停止することに応じた。

 しかし、いまや幕府にとって開港に伴う危険は事実上存在しない。新たな開港は、有力な大名にとって望ましいと思われる。
 066 イギリス政府は、幕府の言う不十分な根拠で、英国民が日本の新たな港から排除されることを黙視するつもりはない。

 あなたはあなたの目で以上のことが真実であるかどうか確かめてもらいたい。

 イギリス政府は、幕府が見え透いた嘘をついて、賠償金の支払いを遅らせ、それを艦船や武器の購入のために流用することを決して許さない。

(ラッセル卿よりパークスへの訓令、1865.8.23付)

感想 これは幕府から薩長側への、イギリスの交渉相手のシフト第一弾と考えられる。
 イギリスの対日行動における国際的同盟国の中に、ロシアやドイツが含まれていないのはなぜなのだろうか。066

068 松本弘安(寺島宗則)、五代才助(友厚)、新納刑部(にいろぎょうぶ、中三(なかぞう))らは、当時ロンドンに滞在していた薩摩藩の役人である。

 林竹二は、ロンドン大英博物館所蔵オリファント書簡から、イギリス外務省が、薩摩藩内での開港を薩摩藩に働きかけていた事実を発見した。

 1865.3(旧暦)、松木、五代、新納と15人の薩摩藩留学生がイギリスに向かった。
 1865.5(旧暦)、松木は旧知のオリファントと接触し、英外務省に働きかけた。

 オリファントは駐日英公使館員として江戸に滞在したことがあるが、当時下院議員だった。
 林竹二は、オリファントが、7.3(陽暦)ごろ、英外務省の政務次官レイヤードに送った書簡を発見した。その中で、
 
 「この書簡を持参する日本人は、幕府の了解なしに、英政府が薩摩藩と直接関係を結び、藩内に港を開くことを希望する旨の覚書を持っている。」
 「薩摩藩がそうすることを許すことが、将軍の利益にもなることを、パークスを介して、将軍に理解させられないものだろうか。薩摩藩がそうすることを将軍が妨害しないという約束を、将軍から取り付けられないものだろうか」
 (林竹二「幕末の海外留学生――その四」、『日米フォーラム』一九六四年六月号)

 松木はこの一年後の1866年春、クラレンドン外相に会い、(おそらく同上の内容の)重大な提案を行った。

071 8月23日付のラッセル外相からパークスへの訓令には草稿があり、その草稿は、条約の勅許のために、兵庫への遠征を提案していた。
 
 「条約の勅許に関して将軍の閣老と明確な了解に達することが不可能であると(あなたが)判断した場合、あなた(パークス)は、彼等に次の点を明らかにせよ。
 ・あなたが、大阪に進出し、天皇と直接連絡を取り、条約の勅許を得よ、と本国政府から命令されていること、
 ・あなたが、条約で定められた港や、他に天皇の領土内の港を開放させるべく、天皇と交渉を行うつもりだということ」である。

072 「あなたは、極東艦隊司令長官キング提督が、あなたの使用にゆだねる軍艦を率いて、大阪の外港の兵庫に進出すべきだ。」
「あなたの大阪訪問が友好的であることを、天皇の閣僚に伝えるべきだ。」
「条約で定められた港を開港し、下関や鹿児島の港を開放することの重要性を、彼等天皇の閣僚に強調せよ。」
(ラッセル外相よりパークスへの訓令草稿、1865.8.23付)

073 すでに前年1864年の秋、下関遠征直後に、オールコックが、天皇の条約勅許を求める幕府を側面援助するために、四カ国による兵庫遠征を提案していた。

074 9.7、陽暦10.26、パークスは仏公使ロッシュ、蘭総領事ポルスブルックと会談し、四カ国代表が艦隊を率いて兵庫沖に進出することを提案し、その同意をとりつけた。米代理公使のポートマンも後日これに同意した。
075 この会談の第一の議題は下関賠償金問題であった。

 この年の春、パークスの前任者ウインチェスターは、賠償金300万ドルの三分の二を免除する条件として、次の三条件を幕府に実施させることで、ラッセル外相の承認を得ていた。

・慶応元年11.15、1866.1.1を期して、兵庫を開港し、大阪を開市すること、
・条約の勅許を得ること、
・輸入税を一律5%にし、どんな場合も10%を超えないこと、

しかし、フランスのドルアン・ド・リュイ外相が、賠償金総額の支払いを望み、問題解決は、現地日本駐在の英仏代表にゆだねられた。

 9・7会談でフランスは以前の要求を取り下げた。その理由は、以前は、賠償金の支払いか、それとも下関ないしその近傍の港の開港かであったが、今回の三条件のほうが優れているからだとした。

感想 分かりにくいのだが、フランス側は、「この年の春」の段階では「三条件」を知らず、「以前」というのは、065ページの「昨年の馬関戦争終了後の協定時」を指すのかもしれない。

076 第二の議題は、主要メンバーが大阪にいる幕府との交渉方法だった。
「11.15、陰暦9.27を期限とした最後通牒を長州が受諾しないなら、将軍は開戦するか、不名誉な撤退をするかのどちらかである。」
077 「不慮の事故の発生(四カ国による兵庫遠征)は、将軍の威厳を損なわずに紛争を回避し、行き詰まりから幕府を救出するかもしれないから、遠征を幕府は歓迎するだろう。」

 パークスはラッセル外相に報告した。

078 「兵庫遠征は、京都朝廷周辺の諸大名に対して我々の軍事力を誇示することになる。」
「幕府が兵庫開港に同意しない場合でも、1862、文久2のロンドン覚書で認められている猶予期間が過ぎれば、直ちに兵庫での居留権を主張するつもりであることを予め知らせておく上でも、兵庫遠征は効果的だ」(パークスよりラッセル外相への報告、1865.10.30付)

079 さらにパークスによると、ロッシュに関して、
 「ロッシュ氏は、我々の兵庫遠征が、幕府の長州攻撃を延期させる口実を将軍に与えるだろうと固く信じていた」(同上)としている。

080 ところが、石井孝によると、「パークスの信念があまりに固いので、ロッシュは表面的には同意しても、内心では同意していなかった」としている。(『増訂明治維新の国際的環境』)

 兵庫遠征は、9.13、陽暦11.1と決まった。

081 9.11、陽暦1865.10.30、四カ国代表は共同の覚書を作成し、それぞれが、大阪行きを告げる通達を幕府に送ったが、この通達は、下関賠償支払方法の協議のみで、上記三条件は含まなかった。

9.8、陽暦10.27、若年寄酒井忠(ます、飛騨守)は、パークスに兵庫遠征中止を訴えた
082 酒井「大名は外国人を憎悪しておらず、むしろ、将軍を嫉妬している。だから、大名は外国人に敵対的行動をとっている。外国人との友好関係を唱える大名(薩摩)も、天皇の前では攘夷を唱え攘夷は将軍の義務だと言っている。」
 「薩摩は本心では外国人と将軍を敵視している。長州のあからさまな態度表明は例外的だ。」
083 「大阪遠征を長州問題解決まで延期してもらいたい。」

084 パークスはそれを断り、「幕府は、大名が外国人に敵意を持っているというが、外国人と接触するようになった大名は、外国人に好意を抱いている。」
 酒井「大名の攘夷政策は、将軍と天皇との離間を策するものである。彼等は、天皇の許可を得ずに、幕府が条約を締結したことを問題視している。」
 パークス「条約の勅許が行われれば、幕府攻撃の根拠はなくなるだろう。」
 酒井「大名は、天皇に、条約勅許をしないように画策し、天皇と将軍との和解を阻止しようとしている。」
 酒井「兵庫遠征は、将軍への圧力という印象をあたえ、将軍の立場を困難にする。」
085 パークスはそれには答えず、「幕府はなぜ大名に外国貿易を許さないのか。」
 酒井「そのためには天皇の裁可が必要だ。」
 パークス「それなら、将軍の権威は限られたものだということになる。」
 酒井「幕府は大名の外国貿易参加方法を検討中だが、大名が将軍の利益に反することをするかもしれない。」
 パークス「条約は、あらゆる日本人と自由貿易をする権利を、外国人に与えている。1862年、文久2年のロンドン覚書は、この権利が大名にも適用されることを認めている。」
 酒井「外国人は、いずれ、大名との通商関係が不可能であることに気づくだろう。大名の嫉妬心は強く、相互の争いが絶えないからだ。」
086 酒井「長州問題が片付けば、天皇、将軍、大名間に和解が成立するだろう。」

この会談に関するパークスの感想
「酒井の発言の要点は、次の二点であるようだ。
第一、幕府と大名との対立の根本にあるのは、条約ではなく、将軍の最高権力保持であり、
第二、両者それぞれが、外国人敵視政策を捨て始めている。」
 「薩長は依然として攘夷であるとする酒井の発言は、外国人の薩長に対する好意を弱めようとしている。」(パークスからラッセル外相への報告、1865.10.30付)

087 9.10、陽暦10.29、幕府は老中水野忠精(和泉守)と酒井を再度パークスへ派遣した。
 パークスによれば、「彼等に熱意は感じられず、むしろ、兵庫遠征を歓迎しているようだった。」(同上)

088 石井孝によると、9.10、陽暦10.29、水野忠精、酒井らは、ロッシュを尋ね、イギリスの三条件を知らされ、フランスがパークスの行動を牽制する意向である、と伝えられた。(『増訂明治維新の国際的環境』)

感想 イギリスは強圧的だ。


兵庫沖

一 

089 慶応元年9.13、1865.11.1、パークスは、キング提督の旗艦プリンセス・ロイヤル号で、兵庫沖へ向かった。公使館員の、サトウ、シーボルト、マクドナルドが同行し、ウィリスは残留した。
091 フランスのゲリエール号は、兵庫沖到着後間もなく、指揮官オリヴィエ大佐とともに、サイゴンに向かった。(オリヴィエより海軍省への報告、1865.10.31付、フランス極東艦隊司令長官ローズより海軍省への報告、1865.11.29付)
091 サトウの日記によると、
 「11.1、遠征の目的は前記075の三点である。」

・条約の勅許を得ること、
・賠償金を支払うか、慶応元年11.15、1866.1.1を期して、兵庫を開港し、大阪を開市すること、
・輸入税を一律5%にし、どんな場合も10%を超えないこと、

092 「江戸に残っている老中などは、四カ国の代表のこの予期しない突然の動きに当惑の体である。」
 「老中水野和泉守(忠精)や若年寄酒井飛騨守(忠毗)は、パークスにどう抗議しても無駄であることを知っており、パークスに何がしかの助言を与えることで満足した。老中がイギリス公使を訪ねて来たのは、これが初めてである。」
 「11.2・3、陰暦9.14・15、洋上。」
093 「11.4、陰暦9.16、午後1時半ごろ、兵庫港に碇を下した。沿岸見回りの役人が数名やって来て、我々の目的、どこから来たのか等々、ありとあらゆる出すぎた質問を繰り返したが、我々は彼らの質問にほとんどまともに答えなかった。」

094 メルメはフランス人通訳で、メルメ・ド・カションといい、宣教師の出身だった。
 パークスが用意した老中宛の書簡の中には、三条件のうち条約の勅許だけが記されていた。(パークスよりラッセル外相への報告、1865.11.17付、付属文書)

095 「11.5、陰暦9.17、マクドナルド、シーボルト、メルメの一行は大阪に向かい、天保山の近くで上陸した。」
 「その後、マクドナルド、シーボルト、オランダのヘクトの三人は、徒歩で大阪に向かったが、時間がかかりすぎたので、小船で引き返してきた。」
 「老中格小笠原壱岐守(長行)と老中阿部豊後守(正外)*が現れた。小笠原は以前に図書頭と言われていた。」

*これは間違い。阿部はこの日、将軍に扈従して京都に出かけていた。サトウはこのとき、大阪行きに参加せず、これは間接的な情報であった。

096 「彼らは会談を11.9、陰暦9.21に、プリンセス・ロイヤル号上で行うことを了解した。」
 「私はジョーンズ艦長とともに上陸し、牛肉、水、石炭の購入に関して交渉した。」
 「かれら(兵庫の役人)は、(外国の士官に)迷惑をかけないように、外国の士官が上陸する旨の布告を出すと約束したが、上司の大阪奉行に対する責任上、上陸する仕官の一団に、一名ないし二名の日本側の護衛をつけないわけにいかない、と言った。」
097 「与力頭(よりきがしら)や徒目付(かちめつけ)と二十人の小人目付が現れ、その場の指揮をとった。小人目付(こびとめつけ)の一人は東禅寺時代のイギリス公使館員を何人か知っていて、名前をムロタサクゴロウといった。」
098 「11.6、陰暦9.18、以下の覚書を筆写した。イギリスとオランダの覚書は、三条件を示し、それを満たせば、賠償金の支払期日の延期とその三分の二の放棄に同意する用意があるとした。フランス政府も、幕府が外国人に公正な態度をとるなら、(賠償金の)支払期限の延期に同意できるが、それは四カ国の代表に一任するとし、アメリカ代理公使は他の三カ国の意向に合わせるとした。」「この文書はフランス語で書かれていた。」
099 「神戸の湊川にかかる水車は、脱穀機を動かすのに使われていて、65の杵(きね)を動かしていた。」
 「11.7、陰暦9.19、強風のための横揺れと船酔いで、大阪で使者を上陸させることが出来なかった。キアンシャン号は動くことができなかった。」
100 「11.8、陰暦9.20、パークス、ポルスブルックとともに上陸し、外国人居留地として適当なところを物色した。」「日本人を立ち退かせることは良くないことだ。稲と綿の木が植えられている海岸沿いの土地がよさそうだった。」
 「明日、阿部豊後守(正外)ではなく、松前伊豆守(崇広)が、四カ国の代表と会うためにやってくる予定である。」
101 「11.9、陰暦9.21、陸上での会談も想定していたのか、私とメルメ・ド・カションは会談場所を探し、能福寺を見つけた。」
「艦に戻ってみると、薩摩藩の汽船胡蝶丸の船長と部下が来ていた。そのうちの一人は私が鹿児島に行ったことを覚えていた。」
102 「彼らは、私を招くために明日、迎えの船を寄こすと約束した。」

 西郷吉之助は偵察活動をしていたが、そのことが、西郷から京都にいる大久保一蔵宛書簡からわかる。(慶応元年九月十七日付、西郷隆盛全集編集委員会編『西郷隆盛全集』第二巻)

102 サトウの日記より、
老中は皆京都に呼び出されているからとして、代わりに、二人の大阪町奉行、井上義斐(よしあや、主水正)と松平信敏(大隈守)が来て、老中松前崇広(伊豆守)の来訪を11.12、陰暦9.24に延期したいとのこと。
パークスは約束違反を十分しかりつけ、老中は一日早く11.11に来られたい、とした。
11.10、陰暦9.22、パークス、キング提督、ポルスブルックと摩耶山へ出かけた。私とキング提督は麓にとどまり、茶屋で摂海や、兵庫*と神戸の町の全景を眺めた。

*兵庫港、兵庫津。かつての大輪田泊(おおわだのとまり)。大輪田泊は、兵庫県神戸市兵庫区の港、現在の神戸港西側の一部。和田岬の東側に位置する。ウイキペディア

103 山陽道は市街部を除き、幅3メートルしかなかった。
 11.11、陰暦9.23、シーボルトと私は、オランダ総領事の書記官ヘクトとともに、大阪に向かった。阿部正外の来訪が予定されている日である。途中、阿部豊後守と大阪町奉行を乗せた翔鶴丸に会い、そのとき彼等が寄こした役人二人を連れて船に戻った。また、シーボルトは彼らの船で兵庫へ帰った。
 大阪に来て投錨すると、港の役人が来るまで上陸用ボートに乗るな、という同乗の役人の言葉を無視して、我々はボートに乗り込んだ。
106 以前マクドナルドとシーボルトが泊まったことのある家に入ろうとしたところ、役人は、病人がいるから入るなという常套文句を述べたが、我々はそれを無視した
 ビールとハムを食べた。
 町外れの市岡新田に、幕府側が用意した、四カ国代表の宿舎があった。
 我々は町奉行に会いに行こうとしたが、役人はそれを止めた。
107 川をロープと船で塞いだところで船から降りた。相手がこれは奉行の命令だと言うので、口論になったが、我々は、同行した役人に、奉行のところへ行くか水路を開けるかどちらかにせいとし、水路を開けさせ、大阪城の近くの京橋まで進んだ。途中橋の上から、我々に石を投げつけたり、うまいあだ名で呼んだりする民衆がいた。京橋で届けをしろと言うので上陸すると、同行した役人と地上の役人とが口論となった。地上の役人が手の施しようもないので、我々は(まずいと直感して、)乗船し、川を下って戻った。京橋にはヨーロッパ風の訓練をされた部隊もいた。108
ロープで遮断した所から我々に同行した一人の役人の名前は、ニワといった。

感想 『一外交官の見た明治維新』の記述よりも、この『日記』の方が、サトウの強引な態度が目につく。

二 

感想 日本の幕府(老中阿部)と四カ国(三カ国*)との会談における双方の主張を整理してみると、次の通りである。

*フランスは単独に交渉した。

・幕府側の主張は、兵庫の開港は、長州征討が終わるまで待って欲しい。兵庫の即時開港よりも、賠償金全額を分割払いで支払う方を選びたい。
・パークスの主張は、現に幕府は、大名の貿易窓口に一定のルールを設け、大名の自主的な貿易を制限しているが、それは条約違反である。だから、諸外国は、ロンドン覚書による開港猶予を取り下げ、即刻開港を要求できる立場にある。それよりも、賠償金の三分の二を免除してもらって、兵庫を即刻開港したらどうか。

感想 イギリスは金でつっている。また、薩長と幕府との対立や、薩長の貿易希望を利用して、幕府の設定する貿易ルールを、条約違反の貿易制限だと看做している。パークスは、三条件を既定方針として提示し、融通性がないように思える。

110 11.11、陰暦9.23、老中阿部正外(豊後守)、外国奉行山口直毅(駿河守)、大阪町奉行井上議斐(主水正)と、パークス、オランダ総領事ポルスブルック、アメリカ代理公使ポートマンら三カ国連合との会談が行われ、続いて場所を変えて、フランスのロッシュとも会談が行われた。(パークスよりラッセル外相への報告、1865.11.17付、および付属文書)

幕府対パークスら三カ国連合との会談の議事録より、

パークス 条約履行上の困難とは何か。
阿部 日本人は一般に、現在の日本の外交状況を知らない。将軍の国際友好方針を妨害し、攘夷を天皇に勧め、入れ知恵をする。長州藩は攘夷を主張している。
パークス 長州藩攘夷説は昔の話だ。曖昧な攘夷勢力を言われても、配慮できない。もしそういう攘夷勢力がいれば、鎮圧するのが権力者の義務だ。われわれが入手している情報と、幕府の言うこととは食い違っている。(そんなことは勝手だ。)
112 阿部 条約の勅許が得られれば上手くいくだろう。
ポルスブルック(蘭) 長州藩は、下関開港の用意があると述べた。
阿部 長州藩の友好的態度は一時的なものだ。
パークス 日本との友好関係は、賠償金の支払よりも、貿易の拡大によって促進される。貿易から得られる利益を、将軍が独占していれば、天皇や大名は、貿易反対を唱えるだろう。日本の内政上の不和を以て、我々の条約上の権利の行使が妨害されるのを許さない。
阿部 新しく港を開くには勅許が必要だ。勅許を得ずに紛議を招けば、日本にとっても外国にとっても利益にならない。
パークス あなたの言う困難の意味が分からない。我々が入手する情報からすれば、困難が本当に存在するのか疑わしい。
ポルスブルック 幕府は過去六年間、曖昧な言葉を繰り返してきたので、信用できない。
ポートマン(米) 幕府自身が困難の元を作っているか、幕府が無力かのどちらかだ。
阿部 新しい港を開くよりも、賠償金を支払うほうを選ぶ。長州征討が終わり、海軍建設、砲台整備ができるまでは、新しい港を開くことは出来ない。大名の貿易に関する制度を改善する。今、大名は、自己の代理人を通してでなく、幕府の運上所の役人を介してしか、貿易を許されていない。
115 パークス その貿易制限こそ、条約違反だ。砲台の建設よりも、条約の履行を優先すべきだ。
阿部 兵庫の開港と大阪の開市は、長州征討が済んだ後になる。慶応3.12*以前に、兵庫の開港が出来ると信じている。

*ロンドン覚書で定められた開港の時期、1868.1、慶応3.12

116 パークス 諸外国は一定の条件*で兵庫などの開港延期に同意した。その条件が満たされていないなら、適当な時期に開港を要求する権利を諸外国は持っている。

*一定の条件の中には、大名の貿易活動に対する制限の撤廃も含まれていた。

パークス あなたは、兵庫開港時期の決定権を持っているのが、将軍だけではないこと、諸外国がいつでも1862年の譲歩を撤回する権限を持っていること、を理解できたはずだ。
117 パークス 幕府が、三条件の受諾を拒み、賠償金の支払を選ぶならば、賠償金の三分の二の免除を逃すばかりか、兵庫などの開港を余儀なくされるだろう。
118 パークス 今すぐ兵庫を開港し、大阪を開市することは、将軍に困難や危害をもたらすとは考えられない。(それは勝手)幕府の閣老は、我々が諸大名と、彼らの港で交際するのを禁止する条項が、条約のどこにもないことを銘記せよ。
阿部 明日9.24、陽暦11.12午前十時までの散会を希望する。

119 サトウの日記には、「阿部はしきりにジンシンフオリアイ(人心不折合)を引き合いに出した」とある。

 翌24日、安部は来艦せず、使者が来て、9.26、陽暦11.14まで延期することを提案した。

サトウの日記によれば、

 11.12、陰暦9.24、シーボルトと薩摩藩の胡蝶丸を訪ねた。
船長の有川弥九郎(矢九郎)は、先日のオンナゴチソウ(女御馳走)の約束を果たせなかったことをわびた。彼は自分の汽船で、私を、鹿児島や琉球へ案内できると言い、また、どこの国の軍艦でも、薩摩にやってきたら、必ず砲撃すると付け加えた。
120 有川と最初に会ったときは、実に無作法で不愉快な男だったが、今度は愛想がよく、礼儀正しかった。有川は船長としての腕前を磨くために、我々の軍艦に水兵として乗り込ませてくれないかと要望した。

 午後柳原の遊廓へ出かけたが、別手組*の役人が来て、果たせなかった。数冊の本を買った。

*別手組とは、外国公使などを護衛するための組織。

11.14、陰暦9.26、阿部豊後守は、病気を理由に姿を見せず、若年寄の立花出雲守(種恭、たねゆき)が来て、「将軍は、これまで条約の勅許を天皇に奏請したことがないが、今それをするつもりで、そのために15日間の猶予が欲しい」と述べた。
 阿部が奏請の使命を帯びて京都に向かったものとばかり考えていたので、四カ国の代表はびっくりしたが、十日間の猶予を与えた。
勅許が得られれば、会談は再開されるだろう。そうでなければ、多分戦いになるだろう。そのほうがずっと気持ちが良い

122 石井孝によると、

 四カ国提案に対して、幕府内で分裂が起り、幕府の独断で直ちに兵庫開港を承認すべきだとする、老中阿部正外(豊後守)、同松前崇広(伊豆守)など、将軍直属の幕吏と、他方は、回答期日の延期を図り、朝廷の了解を取り付けるべきだとする、禁裏御守衛総督一橋慶喜、京都守護職松平容保(かたもり)、京都所司代松平定敬(さだあき、桑名藩主)など、一橋派だった。
ちなみに、阿部代理で来艦した立花121は、後者に属した。(『増訂明治維新の国際的環境』)

まとめ パークスによる三条件つきつけを契機に、幕府内が分裂し、将軍家茂は、一橋慶喜への退位を奏請し、江戸に戻った。天皇が開港推進派の老中二名を首にしたことがその発端である。

 9.26、陽暦11.14の第二回会談も、立花とパークス、ポルスブルック、ポートマンとの会談と、立花とロッシュとの会談と、二回に分けて行われた。
 前者の議事録によると、(パークスからラッセル外相への報告、1865.11.17付、および付属文書)
123 将軍がこれまで条約の勅許を天皇に奏請したことがないとサトウがいうところの根拠となる立花の発言は、
立花 将軍はこれまで国内の不和にわざわいされて、対外関係に全ての注意を向けることが出来なかったが、今後は、これ以上条約の勅許を遅らせないようにつよく主張するだろう。

立花 これまで将軍は開港決定の権力を持っていたが、今は天皇の同意を得なければならない。現在ではこの国の真の王である天皇から許可を得なければならない。

124 立花 条約の勅許を得られるかどうかは、幕府の存続にも関わることである。

 サトウの日記によれば、
125 11.14、私は、胡蝶丸へ行き、情報を収集した。胡蝶丸の船長が言うには、天皇は諸大名を召集し、長州征討の命令を出したとのこと。

126 このときサトウが胡蝶丸で会った島津サチュウとは、西郷のことだった、と日記の欄外に記入がある。
127 薩摩藩の西郷、大久保一蔵らは、当時、長州問題や外国交際問題などの処理で、将軍による決定権を、朝命で召集された列藩会議に移し変えようとしていたが、9.21、幕府側が、長州征討の勅許を得て、その案はつぶれた。
 西郷らは列藩会議の実現を目指して、島津久光、宇和島の伊達宗城、越前の松平慶永らの上京を求め、西郷は久光説得のために、鹿児島に戻った。そのとき下関まで同行したのが、薩長同盟を実現した坂本龍馬であった。(『西郷隆盛全集』第二巻、平尾道雄『龍馬のすべて』)

 サトウの日記によると、
 11.15、陰暦9.27、会津と肥後の家臣が内緒で来艦した。彼等によると、
 天皇は、条約全般や、長崎、函館、下田の開港には、同意していたが、その後、天皇の同意を得ずに、下田が取りやめになり、その代わりに神奈川が開港された。天皇は兵庫開港に同意しないだろう。長州は、外交問題を、将軍から権力を剥奪する手段として利用している。

128 当地兵庫の奉行の名前は、池野山城守(好謙)である。
 11.16、陰暦9.28、シーボルトは一分銀一万枚を借り入れに大阪に向かった。
 11.18、陰暦10.1、若年寄立花出雲守が来て、散々𠮟りつけられた。将軍は頭痛のため、勅許奏請のために京都に行けず、老中阿部豊後守(正外)と老中格小笠原壱岐守(長行)は、気分がすぐれず、パークスに会いに来れないとのこと。
129 彼らは勅許を得る望みをほとんど持たず、我々は自分たちの手で勅許を要求せざるを得ないだろう。彼らの言葉は大部分が嘘であると思われる
130 パークスは、立花の言葉について、「幕府は良い結果を得られると楽観している。」(パークスからハモンド外務次官宛半公信、1865.11.18付)
 前日の陰暦9.29、一橋慶喜は朝議を動かし、兵庫開港承認を主張していた阿部と松前嵩広(伊豆守)の二人を朝旨によって老中職から追放した。本日10.1、それに反発した将軍家茂(いえもち)は、条約の勅許を請い将軍職を辞し後任に慶喜を推す上書を提出する意を固めた。(『続再夢紀事』四、および、「幕末の形情」、『匏庵(ほうあん)遺稿』所収)
132 10.3、将軍家茂は江戸に向かった。

まとめ 陰暦10月4日の四カ国による最後通牒(10月7日が期限)に、日本側は屈し、1868.1、慶応3.12の兵庫開港に応じた。一橋慶喜が切腹を決意し、天皇が決断した。

135 11.21、陰暦10.4、阿部と松前が罷免されたという正式の知らせが入ったので、将軍に送る同文の四通の通牒が起草された。内容は以前将軍の閣老に渡されたものと同じである。
 パークスよりラッセル外相への報告、1865.11.28付によると、

 これまで老中の罷免は、将軍の手で行われてきたのだから、これは従来の慣例を破る、重大な決定である。

136 同文の通牒は、三条件を記し、十日の猶予期間が与えられたことに触れた後、

その十日の内、既に七日が経過した今、我々は、先に、我々と会談するため、陛下Your Majesty(将軍)によって兵庫に派遣された老中が、その地位を剥奪されたことを知った。

そしてこの行為は非友好的な好意であるとし、

如何なる事情があろうとも、我々は十日という約束の期間内に、前述の提案に対する明確な回答を陛下よりいただかなければならない。この回答は諾否いずれの場合にも、文書でなされなければならず、そして、もし定められた期間内に回答に接しない場合には、我々は提案が陛下によって正式に拒絶されたものと看做すであろう。その場合には、我々は、自ら適当と判断する方法に従って行動する自由を有するものと考える。(パークスよりラッセル外相への報告、1865.11.28付、付属文書)

137 10.3に大阪を発ち、東帰の途についた将軍家茂は、伏見で一橋慶喜の説得により、辞職と東帰を思いとどまり、四日に京都に入っていた。

サトウの日記によれば、

138 「将軍(家茂)は、天皇の命令で、道中で引き止められたという話を聞いた。」
139 「11.24、陰暦10.7、マクドナルド、シーボルトと私は、兵庫奉行を訪ね、明日、艦隊が大阪に向かい、そこで幕府の回答を待つと告げた。」

 この日の午後、幕府の代表は海路兵庫に来た(来艦した)

140 「11.24、陰暦10.7、小笠原壱岐守が病気のため、代わりに老中松平(本荘)伯耆守(宗秀)がやってきた。」

「将軍は条約の勅許を得た。一橋は、もし天子が同意しなければ、自分は腹を切らねばならない、と宣言し、天子も『よろしい。公卿に諮ろう』と言ったということである。」

「彼らは、(ロンドン覚書で)定められた時期、1868.1、慶応3.12に開港することを約束した。」

「老中から届いた文書には、全ての外交問題の処理を将軍に委任する、という朝旨を伝える関白の布告が同封してあった。また、これを全国に公布することを約した箇所は、パークスの要請に基づいて、後で松平伯耆守が付け加えたものである。」
141 「幕府の譲歩取り付けて、兵庫を1866.1.1、慶応元年11.15に開港させることについては、誰も楽観的な期待を抱いていなかった。」
「ロンドン覚書の条項を遵守するという約束を、老中が正式に再確認した。さらに昨年九月の協定(下関賠償金の支払を定めた協定)も、完全に履行してもらいたいものである。」


感想・まとめ 
・四カ国による兵庫遠征は、条約の勅許をもたらした。ただし、兵庫開港に関して、永久に開港しないという日本側の条件は、諸外国には伏せられていて、サトウはそれを後日知った。
・関税5%は、当時は問題視されずにそのまま受け入れたが、それは明治以降問題となった。
・対外関係でそれまで意見が合わなかった一橋慶喜と将軍(家茂)とが一致協力して、公卿や薩長勢力を抑え、条約勅許に導いた。会議はまるまる一日かかった。

142 一橋慶喜は、将軍家茂の東帰を思いとどまらせ、すぐに朝議の開催を奏請した。
10.4の酉(とり)の刻(午後6時)から翌5日の戌(いぬ)の刻(午後8時)まで、小御所会議が開かれた。
 出席者は、幕府側から、一橋慶喜、京都守護職松平容保(会津藩主)、京都所司代松平定敬(桑名藩主)、老中格小笠原長行(壱岐守)など、公家側から、関白二条斉敬(なりゆき)、朝彦親王などと、天皇であった。

以下は、渋沢栄一『徳川慶喜公伝』第三巻より、

143 一橋慶喜「これまで幕府において許し置ける三港御許容願いたく、…さもなくば、恐れ多き申条ながら、外夷は天皇の尊きを弁えず、京都に殺到せんも計りがたき勢いなり、ついては明朝までに必ず御返答あらまほし」
 それに対して関白二条斉敬は、「外威兵威を以て迫るとも、不承知の者多ければ、御許容には成り難し」
 また、この時、在京薩摩藩士の意見が、内大臣近衛忠房を通して伝えられ、それは列藩会議開催という幕府のこれまでの決定権を縮小するものだったので、慶喜は反対した。
 在京薩摩藩士の意見「兵庫開港(正しくは従来の三港)勅許の儀は、有名の侯伯御召しの上、天下の公議を以て御評決相成り、侯伯の来会するまで時日遷延の応接は、朝廷より然るべき御方を(兵庫に)差し向けられ、弊藩に随従仰せ付けられなば、…」
 一旦この意見が採用され、勅使として大原重徳(しげとみ)を兵庫に派遣し、薩摩藩士の大久保一蔵と岩下佐次衛門(方平、みちひら)を、これに随行させることが内定した。
144 これは、この機に乗じて外交問題の処理を、幕府の手から列藩会議に移すことを意味するから、幕府側はこれを阻止し、朝議を覆した。
 慶喜の意見が入れられ、在京の諸藩士三十四人の意見が徴されたが、薩摩藩の大久保一蔵と備前藩の花房虎太郎(義質、よしもと)が、「外患を退帆せしむべき」ことを主張したが、おおむね条約の勅許を支持し、現行の条約は他日改定すべきであると述べるに留まった。
 また慶喜は「斯くまで申し上ぐるも御許容なきにおいては、それがしは席を引きて屠腹すべし、それがしの一命はもとより惜しむところにあらず、されどそれがしにして命を絶たば、家臣の輩(ともがら)は各方に対して如何様のことを仕出かさんも知るべからず、その御覚悟ある上は存分に計かわるべし」と言い放った。
 そこで関白以下、別室に退いて協議するうちに、条約勅許の宸翰(しんかん)が出され、それに基づいて次の御沙汰書が作成された。
145 「条約の御許可あらせらる、至当の処置致すべき事」「斯く仰出されたる上は、是までの条約面、品々不都合の廉(かど)もあり、叡慮に応ぜざるにより、新たに取調べて伺うべし、諸藩衆評の上御取極(きめ)相成るべき事、兵庫は止められ候事

 陽暦1865.11.24、陰暦10.7、最後通牒猶予期間の終了日、老中本荘宗秀(松平伯耆守)が外国奉行山口直毅(駿河守)を伴い、プリンセス・ロイヤル号を訪れた。
146 本荘は、兵庫の開港と大阪の開市についての勅許が得られなかった理由として、兵庫と大阪における外国人の安全を保障しえないことをあげ、治安の維持に当たる常備軍の育成をめざしており、先にイギリスなどへ士官の招聘を要求したと説明した。
 パークスは、ロンドン覚書中の条件を幕府が履行していないことを根拠に、イギリス政府はいつでも兵庫などの開港を要求できることを指摘し、いかなる事情があろうとも、今から二年以内に、つまり、ロンドン覚書で認められた猶予期間が切れる以前に、兵庫などの開港が行われなければならないことを強調した。
147 パークス「幕府の言い分では、外国交際に反対しているはずのある種の大名たちが、自分たちの領内の港を外国貿易のために開放する意向を表明しているのは不思議ではないか。」
本荘「幕府の同意がなければ、大名は領内の港を開くことはできない。またたとえある種の大名がそのような意向を表明しているとしても、彼等が真実それを希望しているのかどうか疑わしい。」
 「将軍は、下関を、他の条約港と同じ条件で、外国貿易のために開放されるのを歓迎するだろうが、長州はそのような取り決めに反対することは間違いない。」
 「関税5%を基準にした四カ国の提案には同意する。」
以上、パークスよりラッセル外相への報告、1865.11.28付

148 本荘は、この会談は口頭で行われたが、幕府側の回答を文書にしたものを、その夜の内に、四カ国の代表に届けると約束した*が、老中松平康直(周防守)と老中格小笠原長行(壱岐守)の署名を得るのに手間取り、結局、文書が届いたのは翌8日の午前2:30ごろだった。
*本荘に随行した外国奉行山口直毅(駿河守)によれば、これは、ロッシュの示唆による。151
149 『一外交官の見た明治維新』によれば、サトウは、このとき日本側が兵庫の永久不開港の決定を伏せていたことを、後で知ったとしている。サトウは、「将軍に対して、兵庫と大阪を外国貿易のために開港するという約束の取り消しを命じた追加条項」が隠されていた、としている。
 それでいて本荘は、兵庫の即時開港には応じられないが、少なくともロンドン覚書で定められている慶応三年十二月(1868.1)の開港は確約するとしていた。
150 一橋慶喜は、その取り扱い方法を次のようにまとめている。(渋沢栄一『徳川慶喜公伝』第三巻)
 「『その(兵庫開港)差し止めのことは曖昧に付し置き、『開港差し止め』とあるは、期限が着たらざるがゆえなり』と弁解せしむることとして、ひとまずこの局を収めんと議定せり」

さらに、パークスに対して「兵庫は止められ候事」を隠しておけば、「期限が着たらざるがゆえなり」などと弁解する必要もなくなると本荘は判断したのだろう。

151 ただし、本荘に随行した山口直毅(駿河守)は、「兵庫は止められ候事」を含めてパークスに全文を示したとしている。(「幕末の形情」、『匏庵遺稿』所収)
 また、松平、小笠原、本荘の署名についても、山口は「暗記するところの花押*(かおう)」を使用したとしている。
*花押はサインの一つ。楷書のサインを自署といい、草書のサインを草名といい、それ以上くずして図案化したものを花押と言った。
8日、朝、午前二時半ごろ、幕府側の回答をしるした三閣老連名の文書と、条約勅許の御沙汰書の写しが四カ国代表のもとに届けられた。
152 パークスの兵庫交渉の評価(パークスよりラッセル外相宛の報告、1865.11.28付)

 「条約の勅許は、これまで大名たちが、将軍と、将軍がこの国に入ることをゆるした外国人とを攻撃する際に使用してきた主要な口実を、大名たちから奪うものである。」
153 「将軍に敵意を持つ大名についても、将軍を支持する大名についても言えることだが、彼らは、この国の心臓部で、首都に近い場所に外国人が住みつくことに対して、強い嫌悪の念を抱いている。それは、生活必需品の価格が高騰し、危険な思想が民衆の間に広まるからだ。」

154 ロッシュの評価(ロッシュよりドルアン・ド・リュイ外相への報告、1865.11.30付)
 「将軍の誠意はもはや疑うことができない。」「一橋は最近まで彼(将軍)の競争相手だったが、今や彼の最も強力な同盟者になった。」
156 補足事項
・御沙汰書の中で、兵庫開港そのものが否定されたことは、その後の幕府攻撃の材料となった。
・関税5%は、従価5分という極度に低い輸入税率を生み出し、この問題は、明治維新後の条約改正運動に持ち越された。
・「兵庫の民衆は好意的で、戦艦への自由な訪問が許された。幕府はこれを喜ばず、禁止したが、私はそれを撤回させた。」(パークスよりラッセル外相への報告書、1865.11.25付)


まとめ 

パークスは兵庫から上海へ向かう途中、下関で伊藤や高杉に会ったが、彼らの意外な対応にびっくりし、これまでの認識を改め、幕府が言っていたことが嘘ではなかったと知ったのだ。164, 170
つまり、長州藩は、外国と貿易するために、あえてその領内の港を開きたくはないことを知らされたのだ。165
 また長州藩は、様々な品目で貿易をますます活発化するよりも、船舶・武器・弾薬など限られた品目を入手できればそれでよかったのだ。長州藩は、そのころ薩摩藩の船で、武器・弾薬を長州藩内に陸揚げしているとのことだ。167, 172
長州藩は長崎などすでに開港されている港で、売買できればそれでよかったのだ。169
 パークスは、上海でも、グラバーが長州藩のために、武器・弾薬などの貿易を斡旋している事実を知った。168
 長州藩は、領内に港を開くことによって、藩内の攘夷派をあえて刺激したくもないし、藩内の外国人を保護する責任を負いたくもないのだ。170

 当時外国貿易に関心のあった藩は、公然と表明した長州のほかに、加賀、越前、土佐、宇和島などがあった。169
 イギリスの公使館の変遷 東禅寺→大中寺(三田)→新築中(泉岳寺)159
 この年の3月、長州藩(高杉と伊藤)は、イギリスの代理領事ガウアーを通して領内の港で外国貿易を希望する旨を伝えていた。164

 本年の初めに下関で外国人との商取引が行われていたが、今では中止されている。167
 イギリス商人も密貿易禁止の布告が出されてからは商取引を控えるようになった。167
 幕府も最近は長州藩が直接外国と接触・貿易することをかつてほど妨害しなくなった169


まとめ

ラッセル英外相は、中国や日本に駐在するイギリス領事に対して、中国人や日本人の役人に対して、不遜な態度で接しないように回状を発した。
これは中国で、某イギリス領事が、中国官憲に対して不遜な言動をしたことを咎めた北京駐在のイギリス代理公使ウエードThomas F. Wadeが、ラッセル外相に報告したためにとられた措置であった。179
駐中国イギリス領事の一人が、中国側に送ったある文書の中に、不遜な言動が見られ、それをウエードが批判した文書を、ウエードがラッセル外相に送付した。179

ウエードはオールコックが着任するまでの北京駐在の代理公使だった。

抜粋 ラッセル外相の回状 「穏やかな言語と態度をもってせよ。」180

「中国人は独特な性格をもった民族であること、彼らは、強圧的な手段だけが物を言う野蛮人ではなく、東洋的な意味での高度な文明を身につけた人々であること、諸外国代表が理解にみちた態度で接すれば、彼らは喜んで、その理性的な説得に耳を傾け、その道徳的な感化に身をゆだねる人々であることを、中国に勤務するイギリスの官吏は、念頭にとどめておかなければならない。」
「相手を脅しつける行為は、必ず相手の感情を傷つけ、成功の価値を半減させることになる。」
 「我々は中国人の独自な性格に対してばかりでなく、彼等が取り組まなければならない困難に対しても、最大限の配慮を示さなければならない。さらに中国政府が、大規模な反乱(太平天国)の残した難問に悩まされ続けていることも、我々は記憶に留めておかなければならない。」

感想 これは戦前における日本の、韓国に対する態度を考える時、教訓とすべきことである。「帝国主義時代」と言われる時代でも、イギリスは権力むき出しの態度ではなかったようだ。ただし、これは、イギリスが19世紀の中ごろから植民地主義から自由貿易政策へと転換したことを示すものかもしれない。

陽暦10.18、イギリス首相のパーマーストンが病死し、ラッセル外相が首相に昇格し、その後任にクラレンドンが任命された。178

 日本側は三条件のうちの二条件(条約の勅許と関税の改定)を満たしたのだから、下関賠償金300万ドルの残り200万ドルを、二年後の兵庫開港の時期まで遅らせるように、四カ国に要望した。*
 *老中水野忠精(和泉守)の書簡(10.28付)176
 フランスはこのことに理解を示し、本国政府に取り次ぐ意向であった。176
 アメリカとオランダも、イギリス同様、幕府側の要請に反対したものの、米蘭は、幕府の財政窮乏に理解を示した。(パークスよりハモンド外務次官への半公信、1865.12.30付)177
 下関賠償金を、3ヶ月ごとに50万ドルずつ払う約束が、前年の9月の協定で決まっていた。175

 裁判管轄権をめぐって横浜駐在の英米領事間で対立があった。177

 11.12、陽暦12.29、幕府の陸軍奉行松平乗謨(のりかた、縫殿守(ぬいのかみ))より、軍事教育のためにイギリスに二十名を派遣したいとの申し出があった。177
 フランスに対しても、砲兵、騎兵、歩兵を指導する五名の士官と12名の準士官の派遣要請がなされた。


英国策論


感想 幕府が下関賠償金支払の先延ばしを要求してきたのを好機と捉えたパークスは、六ヶ月間かけて、八か条の要求を飲ませたが、輸入関税を除いて決して悪い内容ではない。194

まとめ

1866年、慶応2年3月中旬、パークスが自由貿易や自由な渡航などを含む八か条を幕府側に提案した。
1866.6.25、慶応2.5.13、関税交渉を含む同上の交渉が完了し、改税約書が、四カ国の代表と老中水野忠精(和泉守)との間に調印された。191

交渉の実務を担当したのは、勘定奉行小栗忠順(ただまさ、上野介)と外国奉行菊池隆吉(伊予守)、同星野千之(備中守)であった。(田辺太一『幕末外交談』)192

1.世界の如何なる場所とも貿易を行うことの自由。開港場における貿易の完全な自由。諸大名は、開かれた港で自由に貿易できるようになり、これまでの幕府の規制は撤廃された。クラレンドン外相も、商業によって全国的に、富裕にして開明的な中産階級を育成して、幕府自らの立場を強化することが望ましいことを、パークスが幕府に強調すべきだ、と訓令していた。197, 198
2.全ての階級の日本人が外国船を購入できる。これによって商人階級・中産階級が生まれる可能性が生じた。196
3.日本人は、農民であろうと、市民階級であろうと、誰であろうと、パスポートがあれば、海外に自由に旅行できるようになった。
4.7、陽暦5.21、幕府は、旅券を所持する全ての日本人に、海外渡航を認める布告を出した。196
ちなみに、慶応3年の春、幕府は、パリ万国博覧会への参加を認める布告を出した。196
4.日本人が政府の許可を得て、外国の技術者を雇用し、外国の機械を使用する自由。
5.保税倉庫*の設立、もしくは払い戻し税制度*。

*保税倉庫とは、外国から輸入された貨物を、税関の輸入許可がまだの状態で、関税を留保したまま置いておける場所。(密輸の恐れはないのだろうか。)
*払い戻し税とは、国が一度徴収した輸入関税を、ある一定の条件が満たされた場合、その一部または全部を払い戻すこと。

6.諸港、そして瀬戸内海や海岸線のある地点に灯台の設置。
7.自由な造幣所の設立。
8.日本の産物が、通過税、もしくは現在交渉中の税則で規定される関税以外の如何なる税、をも課せられないという約束。

1866.6.25、慶応2.5.13、上記八か条の交渉を含む関税交渉が完了した。
老中水野忠精(和泉守)と四カ国の代表との間に、改税約書が調印された。その内容は、石井孝、『増訂明治維新の国際的環境』によると、12か条からなり、

第一条、第二条は、安政の通商条約に代わる新しい税側を定めた。

関税を、直近4ヵ年の平均物価をもとにして、その5%を輸入関税とする。これを従量税方式という。
これまでの従価格方式では、商品の価格をその都度決めなければならなかった。
これまでの輸入関税は、従価20%であり、輸出関税は従価5%であった。これは上記八項目と並行して交渉していた。

第三条から第十一条まで 貿易上の制限の撤廃と、貿易に対する便宜の供与を定めた。パークスの八項目の提案のほとんど全てが、この部分で実現された。199

第十二条 慶応2.5.19、1866.7.1から、改税約書が発効するとされた。200

 パークスは、大名間の嫉妬を指摘したり、薩摩藩の幕府に対する敵対的態度が、口実に過ぎないのではないかと指摘したり、従来の大名贔屓を改めている。201
 
 パークス「賠償金を幕府に支払わせることによって、彼の力を弱めることが適切であるかどうか疑わしい」193

二 

感想 ロッシュとパークスの幕府や薩摩藩に対する評価に関して、相違点よりも共通点の方が多いのではないか。パークスは決して薩摩を信用しておらず、開港による商業的な利益の追求を最優先している。

まとめ

 ロッシュは、対薩長戦争後の薩長の対外国政策の変化には目を閉ざし、条約を締結した当事者である将軍を日本の元首と看做すべきだとする。
 それに対して、パークスは、対薩長戦争後の薩長の外国人評価の変化にも注視し、幕府以外の大名との交際も積極的に行おうとする。
 外国人との交際の拡大は、薩摩藩の希望であったし、パークスの希望でもあったようだ。薩摩藩としては、それが、貿易による利益をもたらすとともに、幕府への牽制にもなるとの思惑があったし、実際それをすでに享受していた。
 
202 1866.2.15現在、パークスは、薩長と幕府との武力衝突の恐れがあると認識していた。
203 イギリスの方針は、どちら側にも与するな、どちら側を支持するという意見の表明もするな、ただし、大名に外国貿易への参加を許すことは国内平和を維持する上で望ましいことだと述べるのは構わない、つまり、政治的には口出しするな、貿易の発展だけを考えよ、という立場だった。
 そして、個々の大名と個人的な取り決めをしてはならない、大名たちに、天皇や将軍と協力するよう勧めるべきだとした。

 他方、フランスのドルアン・ド・リュイ外相は、ロッシュをパークスと比較し、楽観的だと評価した。
204 そして、ロッシュが大名との通商関係に反対しているのはなぜか、と疑問を投げかけた。
205 外相に対するロッシュの報告で、ロッシュは、
「皇帝陛下(ナポレオン三世)は、条約を締結・調印した者以外は元首とは認めないとしている。」
206 これは、老中本荘宗秀(松平伯耆守)が、将軍を元首と認めるかどうかをロッシュに問い質したことに対する返答であった。
 「将軍に敵対している諸侯(薩長)に接近することは無分別であり、幕府の信頼を破壊してしまい、将軍を侮辱することになる。」
 「将軍が倒されれば、これほど長期間にわたって条約の承認を拒み続けてきた勢力に、我々は再び直面することになる。」
207 「私は将軍が敵(薩長)を粉砕する決意を固めることを希望する。その敵を服従させておくには、説得ではなく、武力だけが役立つ。」

 ロッシュは、対薩長戦争後の、薩長の開国論への転換や外国貿易への関心に目を閉ざしている。

208 パークスは、兵庫沖の会談の際の、薩摩側文書(朝廷への上書)に現れる、薩摩の、諸侯連合による兵庫開港阻止という考え方を信用しない。たとえ兵庫開港阻止が、将軍を辞任させるためという口実であろうとも、兵庫開港に反対すること自体が、イギリスの利益にならない、と考える。

 パークスは言う、
 「幕府の言うように、薩摩が強い排外的な感情を抱いているというのは事実ではないかもしれない。しかし兵庫の開港は、幕府の力を強めることになるから、長州と同様に薩摩も、兵庫開港に反対するのはありえないことではない。」

 パークスはこの薩摩文書の信憑性を長崎代理領事のガウアーに調べさせた。
209 兵庫沖の会談のころ、西郷や大久保が、幕府の手から列藩会議へ、外交問題処理を移そうと企てていた。

パークス「長州藩は江戸の藩屋敷を没収されたから、薩摩藩は藩邸をイギリスに売却したい、との情報が入った。」

210 パークスはガウアーに薩摩側の上書の信憑性を確かめさせた。薩摩側の意図は、排外的な行動を主張することではなく、将軍を辞任に追い込むことである、とのことだが、パークスはこれを信用しなかった。
211 ガウアーからパークスへの報告

 「二人の薩摩の家老(桂右衛門(久武)と岩下佐次右衛門(方平)213)が、私を訪ねてきた。二人が言うには『大名会議は、まだ条約に反対している少数の大名たちを説得する機会になり、また、それによって、大名の港を外国貿易のために開放することはできないとしても、外国人がそういう港を訪問したり、大名が外国人を教師や技師として雇ったりすることに対する将軍の反対を撤回させ、最終的に、日本人の海外渡航を禁じている法律を無効にさせることができたかもしれない。』と彼らは言った。」
212 「もし全ての大名がこれに同意すれば、彼らの家来が我々外国人に対して犯罪を犯した場合、安全な隠れ場所を見つけることができなくなるであろう。」
 「薩摩の家老・岩下佐次右衛門(方平)は、以上の点と、薩摩藩主が貴下と鹿児島で内密に会談したいことを貴下に伝えるために、横浜に向けて出発した。」

213 1866.1.27、12.11、二人の薩摩の家老(桂右衛門(久武)と岩下佐次右衛門(方平)は、グラバー邸でガウアーと面談した。

214 パークスは、薩摩藩主に面会して、「外交問題を利用して将軍を攻撃するのは危険であり、かつ目先のことに捕らわれた政策である」と説こうとした。
215 「日本人の海外渡航を禁じている旧来の法律の廃止、大名による外国人の雇用、外国人を大名の領内に招待する権利などを薩摩の家老が取り上げ、それが自由な交際を促進しうるとしているが、それは既に事実上薩摩藩は行使している。」
将軍が薩摩の力に敬意を払っているためであろうが、現在、薩摩は、将軍から何の反対も受けることなしに、これらの点についての自由を完全に行使している。」

 パークスからクラレンドン外相宛の半公信によれば、

216 「薩摩にはっきり説明しておくべきことは、将軍を攻撃する目的で我々に妨害*を加えても、我々から何の罰も受けずにすむと薩摩が考えているとすれば、それは大きな誤りである、ということだ。」
 「ガウアーの報告によって、薩摩も長州も、領内の港を条約港として開放するつもりはないということを確認した。また、彼等は外国人と自由に接触したいとしているが、それは自分たちの考えを広めたり、自分たちの専売品を売りさばいたりするのに好都合であると彼等が判断する限度内で望んでいるに過ぎないことを確認した。」

*兵庫開港に反対すること。

 このころ、ガウアーは函館の領事として転出し、後任として、それまで横浜で代理領事を勤めていたフラワーズが、長崎代理領事として着任した。

 パークスよりハモンド外務次官への半公信、1866.4.28付、によれば、

 「私と日本人(数名の薩摩藩士、おそらく岩下を含む)との交際に関して、老中と折衝したところ、今日(3.14、1866.4.28)やっと彼等が訪ねてきた。明日、江戸の薩摩邸を訪問するつもりだ。」

この時、パークスは江戸の公使館(大中寺)で面会した。218, 219

「その翌日、薩摩の江戸留守居役が、目付けを同行せず一人で私を訪ねてきた。」222

*この文書の日付、つまり、パークスからハモンド外務次官宛半公信の日付が、1866.5.16付となっているから、目付けが付き添わずに薩摩藩士がパークスを訪問したのはこのころのことであって、前述の1866.4.28の会談とはべつの会談のようだ。

219 パークスはこれまでにも非公式に薩摩藩士と会っていた。
「江戸表において岩下君二度談判これあり候由、英人は余程解け候由」(『西郷隆盛全集』第二巻、2.18(陽暦4.3)付、西郷から蓑田伝兵衛への手紙)
 さらに同じ手紙の中で「何分近来幕吏大いに横浜夷館へ立入候儀を相禁じ、御国人(薩摩藩士)は尚更付き添い居り候由にて、存分の咄(はな)し合い出来兼ね候向きに御座候」
220 パークスは3月中旬、鹿児島訪問の招待を受けた。
221 パークス「薩摩の江戸留守居役は、私を訪問することで老中たちの怒りを買うことを恐れていた。」

223 「薩州邸へ此の頃英の都督往来。岩下へ逢接。その訳知らず。薩の御嫌忌、甚だしくと云う」(「海舟日記」、3.20・21の頃、『勝海舟全集』第18巻)


まとめ

在英の薩摩藩士(松木弘安(寺島宗則))がイギリスに提案したことの多くは、日本でパークスが改税約書を仕上げて、実施済みのことであった。英国本国のイギリス人(クラレンドン外相、ハモンド外務次官、オリファント下院議員)は、薩摩の考えに従順に同調していたようだ。

時は、5.29、陰暦4.15頃の話である。

薩摩藩士の提案とは、

・大名会議を開催すること、
・外国貿易を幕府が独占しないようにということ、

パークスの念頭にあったもので、先見的なものは、

・日本における合議制の必要
・そこでの将軍や天皇の位置づけ
・革命の必然性についての予測
・御しがたい大名相互間の閉鎖性

感想 条約の効力に関して。 薩摩の唱える大名会議の方が、政治システムとしては、進んでいると私には思われる。そしてそれは明治初期の政治システムで採用された。それは、もともと、サトウが後藤象二郎を通して示唆したことがもとになっていた。
しかし、パークスは、そうなると、せっかく条約の勅許が取れてお墨付きを戴いたところなのだから、それを今やるのは不要だし、ぶり返しとなり、さらに各大名の承認も必要になって、これまでの努力がご破算になってしまうと考えていた。それに、もともとパークスは、勅許など取らずに済めばその方がいいと考えていた。

・イギリスは、日本の政治システムを将来的にどうしたらよいのかに関して、日本の主体性を尊重し、仮にアドバイスするとしても、日本の主体性で結果が生じたと思われるような関与の仕方を基本としていた。それを示す部分を抜粋すると、

抜粋237

幕府の国内的な動きに対して、貴下があまりにも熱心に干渉することにより、イギリス政府の立場を危うくすることのないよう、留意されたい。
日本において体制の変化が起きるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない。
その変化は、我々の考え方と異なる仕方でおきるかもしれないが、それが真に恒久的なものであり、且つ有益なものであるためには、徹頭徹尾、日本的性格という特徴を帯びていなければならない。(ハモンド外務次官よりパークスへの半公信、1866.4.26付)

・本節が扱う頃のイギリス本国は、薩摩の唱える論理にすっかり取り込まれていたようだ。この点は幕府のロビー活動が遅れていたといえる。

その他

・パークス「大名たちは非常に誇り高い階級である。藩主自身が外国の訪問者と直接接触するのは、自らを卑下することになる、という一般的な感情が依然として存在している。」232
 「しかし薩摩藩主は良い模範を示した。最近彼は鹿児島でグラバー氏を引見し、もし私が彼を訪問するつもりなら、喜んで会うと、グラバー氏に確言したのである。」

 これは、諸大名の閉鎖性を批判しているとともに、他方では、薩摩の進歩的態度を高く評価し、親近感を持っていることを示す発言だ。

239 パークス「改税約書の第九条と第十条とは、全ての日本人が外国貿易に参加することの自由と、海外に渡航することの自由など規定した箇所である。」
 「大名をはじめ、あらゆる階級の日本人が、日本の開港場と外国とにおいて、貿易活動を行うことの自由、この権利の承認は、決して取り消すことのできないものであり、…」1866.6.27
241 大名たちの合議体や代議制度に関して、パークスが言うには、「日本でも様々な討議が始まっている。」
 パークス「中央権力が形成されなければならず、そしてそれは、封建制度のもつ恣意的で、混乱にみちた支配を、次第に駆逐していくであろう。」
242 パークス「非常に厄介な問題は、このような合議体との関連における将軍の地位、さらに、将軍及びこのような合議体との関連における天皇の地位を、どう定めるか、ということである。」


蛇足 イギリスが始めた戦争の直接の発端は何か ウイキペディアより

・清英(「アロー号事件」)戦争が起った直接の原因は、イギリス人が拉致されたことだった。薩英戦争が起った直接の原因は、イギリス人が殺されたことだった。長英戦争(馬関戦争)が起った直接の原因は、長州が外国船を砲撃したことだった。

ウイキペディアによれば、(清英(「アヘン」)戦争が起った直接の原因は、)林則徐は、九竜半島でのイギリス人船員による現地民殺害を口実に、8月15日マカオを武力封鎖して市内の食糧を断ち、さらに井戸に毒を撒いてイギリス人を毒殺しようとしたとある。これは発端がイギリスか

ウイキペディアによれば、(清英(「アロー号事件」)戦争が起った直接の原因は、)1856.10、広州湾に停泊中だったアヘン密輸船のアロー号に対して、清朝官憲は海賊の容疑で立入検査を行い、船員を逮捕した。イギリス領事パークスは、アロー号は、イギリス領の香港船籍の船であり、掲げていたイギリス国旗が引き摺り下ろされたことはイギリスへの侮辱であるとして抗議した。

 以上見てくると、アヘン輸出など道義的遠因はともかく、また、第一次アヘン戦争の場合を除いて、戦争の直接の発端は、中国や日本の武力的行為であったと言える。


四 『英国策論』

感想

 サトウの『英国策論』は、薩摩にとっては好都合な論文だっただろう。また、英本国の外務省関係者の歓心も買うものだっただろう。その点パークスは、実直で実務的かもしれない。サトウには出世の下心もあったのかもしれない、それは言い過ぎか。
 サトウがイギリスに帰国してから学者になるのではないか、と周囲から評されただけあって、これは理路整然とした立派な論文だ。
 サトウのこの論文は、ずけずけと、将軍を現在の地位から一大名に引き摺り下ろし、薩摩の言うように、権力を、天皇を中心とした大名連合に代え、その権力と新たに条約を結び直す、というものだ。
 確かに、サトウが言うとおり、将軍が大名の一人に過ぎないとの評価は、事実を反映していて、その証拠はいくらもある。
 サトウのこの論文は、最初ジャパンタイムズに投稿され、それが、一冊の『英国策論』という本にまとめられたようだ。そして、ジャパンタイムズに三回に分けて発表されたのだが、第二回分の投稿は現存していない。しかし、本となった『英国策論』によって、その第二回目の分の内容を知ることができるようだ。247
以下、重要な点だけをまとめるが、原文にお目にかかれるチャンスはあまりないだろうから、できるだけ原文も抜粋してみたい。この論文の原文は国立国会図書館にしかないと思っていたら、早稲田大学の図書館にもあり、また日本近代思想体系1『開国』(田中彰編)にも収められているようだ。245, 249

244 「イギリスが日本と締結した条約は、我々が将軍の直轄地の住民とだけ貿易を行うことをゆるし、この国の大半の人々と交渉を持つことから、我々を締め出すものであった。」
 「私は、条約の改正と、日本政府の組織の改造とを要求した。」
 「私の提案は、将軍は大領主の一人という本来の地位に引き下がるべきであり、将軍に代わって、天皇を元首とする諸大名の連合体が支配権力の座につくべきである、というものだった。」
246 「…その写本が方々に出回り、翌年(1867年)旅行に出てみると、その途中で出会った大名たちの家臣が、みなこの写本を介して私のことを知っており、私に好意を持っていることに気づいた。」(『一外交官の見た明治維新』)

『英国策論』第一回分投稿

248 「薩摩侯所属の船が先週横浜港に入り、積んでいた日本の物産をヨーロッパの商人に売り渡そうとしたのであるが、幕府の役人が、士官や乗組員の上陸を許さず、貿易を妨げられた。」
249 サトウ『英国策論』の書き出しは、

 横浜港にある軍艦の旭丸の旗を立つは外国商人共の常に見る処也。而して四五日以前より中檣(しょう)の上に独立大名の旗号を見ては意少しく激せざる能ざる也。薩州の船一艘、数ヶ月以前函館を発し、日本西北海にて佐渡隠岐二島辺を測量し、夫より当港え帰着し、其艦長条約面第十四ヶ条の規定通り積来たり日本産物を外国商人に売り払う事を願へり。然るに当港官吏共、船長及び水夫の上陸及び売り払い等一切許容せず。

 「外国商人は、条約第14条を根拠にして、幕吏による貿易の妨害に抗議するよう諸外国の代表に訴えてもよいのだが、大名の家来がむやみに居留地に入り込まぬよう幕府に要請したのは、我々外国人の側なのだ。」
250 「将軍は、日本の政府を指導していると公言しているが、実際は、諸侯連合の首席に過ぎず、この国の半分ほどしか彼の管轄に属していないのだから、将軍が我々と条約を結んだのは、実に僭越至極な行為であった。」
251 「外国貿易に対する独立の諸侯の期待は、まず武器の購入に端を発し、続いて藩内の物産の販売を希望するようになり、今や大名たちの中には、藩内の港を外国貿易のために開放しようとする者さえ出てきた。」
 「大名たちは将軍に圧力をかけ、常に江戸幕府の役人の監督下でおこなわれるという条件づきで、武器を購入する権利という大きな譲歩を将軍から獲得した。」
 「大名たちが物産の販売を希望するようになったのは、武器購入の代金を賄うためであった。」
 「こうして大名たちは巨大な独占業者となり、領民の正当な商人を排除した。」
253 「独立大名の数はほぼ二十に上り、その領内で港を開くとすれば、そのうちの一つか二つで十分だろう。」
256 サトウは、政権を、将軍から「連合諸大名」あるいは「諸侯連合」に移すこと、まさしく根本的な変革を考えていた。しかし、
 「そのために革命は不要である、なぜならばそのことは既に起こっているからだ。」
257 「天子による条約の勅許を得ずして諸侯も承諾せず。」「このことから、天皇は将軍よりも上位にあると、人々が結論したのは当然である。」
 「しかし、天皇自身は条約を結ぶことができないであろう。なぜならば、天皇は条約の遵守を強制することができないからだ。」

258 サトウは、勅許の必要性を認めつつも、天皇を名目的な皇帝と看做していたから、実力組織としての有力な大名に目を向け、諸外国はその有力な大名たちと交渉すべきだと説く。

259 「条約の第十四条(貿易の自由を定めた条項)は、幕府によって拒否されてきたが、幕府に圧力を加えれば、幕府が第十四条を死文と看做し続けることはできないはずだ。」

第二回分の投稿

261 サトウは、連合諸大名との条約を以て現行の条約に代える、という自分の主張は、同じ意見が既に日本人の中にも醸成されていたことに端を発したものだと述べている。
262 「我等是までの条約を取り除き、今度新たに日本諸侯一致したる条約を取り結ぶべきこと、以前新聞紙に出板せしごとく、同意の者少なからず。此の議論の発端は、此事を引き続き取り行うべき才力ある者より、自然我々等をして此の説を起こすべく感じ成らしめし也。其人と云うは、外国人のみならず、日本憂国有識の者ども也。」
 「大君、天子の命を以て上洛せしめられしより、その威権大いに挫けり。」
263 「千八百六十三年(正しくは一八六二年)九月の切害(生麦事件、リチャードソン殺害事件)は、現在大君政府に知りながら、彼等主人の威力を以て刑罰するを免れり。故に此の条約は国家を制御すること能ざる者と結びしと言こと、鹿児島一挙(戦争)は、彼れ我々に向い妄動する罪を伐(うた)ん為、やや干戈を動かせしなり。」

第三回分の投稿

264 「将軍と結ばれている現行の条約を廃棄し、天皇及び日本の連合諸大名との一層公正で包括的な協約を以て、これに代えるべきだ。」
 「現在の条約及び貿易規定が、一般的に不十分であることを明らかにしなければならない。」
265 「将軍は、そう呼ばれる権利を持っていない、別のより高い地位に属する名称(大君Tycoon)で諸外国の代表との条約に調印した。」
266 「実質的に元首である限り、将軍の呼称はどうでもいい」(と言っておきながら、)将軍に「陛下」Majestyという称号をつけるのはまずい。(と言う。そして)「だったら天皇の立場はどうなるんだ。」(失礼ではないか。さらに続けて、)
267 「将軍は事実、日本人の間では『殿下』Highnessと呼ばれている。」「将軍は『殿下』以上のものではない。」

 日英修好通商条約1858.8.26では、将軍に「陛下」という呼称が用いられたが、その日本語訳は「帝国大日本大君」あるいは「日本大君」とされ、「陛下」ではない。同様にイギリスの女王も、「陛下」でなく、「大貌利太泥亜(大ブリタニア)および意而蘭土(アイルランド)の女王」とされている。

268 「実際条文では注意深く、国土を指すとき、the countryとは言わずにhis territoriesとかhis dominionsとされている。第一条で『属領』という表現は、日本語では『所領』となっている。」
「前文のHis Majesty the TycoonHis Highness the Shogoonに変更すべきであり、そうすれば用語と現実とが一致する。」
269 「我々は江戸、関八州、そして大日本列島に点在しているいくつかの辺境の地を支配している者と条約を結んでいるのであって、仙台、長州、薩摩、さらにその他の強大な大名に対しては、人間関係において果たさなければならない一般的な義務であると、彼等自身がすすんで考える以上のことを、我々は彼らに要求できない、というのが現実なのである。」

 「是日本統一の天子と条約を結びしに非ず、只江戸関八州并(なら)びに諸郡、大日本にて区々たる一方の地を領したる君主と、なり。抑(そもそも)仙台(長州の間違い)薩摩及び他の大諸侯と称する者は、その如何なる説を立つべきや、我未だ知らざるなり」

270 続いてサトウは各条文を取り上げて問題を指摘する。

「第四条は、『イギリス人相互の間の紛争は、イギリスの官憲によって裁かれる』とするが、これもその効力は、将軍の領内に限られることになる。したがって、次のようなことも起りうる。」
「尾張侯が、その沿岸で不幸にも難破したイギリスの船の乗組員を残虐な拷問で死に至らしめ、その頭蓋骨を自分のヨーロッパ珍品博物館に陳列したりすることも、少しも阻止することにはならない。」
271 また第十四条は、貿易の自由を定めているが、(ただし、軍需品を購入できるのは幕府と外国人に限られるが、)「開港以来この条項はたえず破られてきた。」
272 
「第十四ヶ条、交易の為に開かれたる各港において、『ブリタニヤ』人民、何品にても商売の品を輸入し又輸出すること自由たるべし。(又士農工商を不論(ろんぜず)、日本人と売買すべし。)且ケヤウ(かよう)なる売買の払い方等の節は、一切日本官吏立ち合いなかるべし。」
「此の条、交易規定に於いて尤も大切なる部也。開港以来常に此の条破られ来たれり。此の外条約の破れし廉(かど)少なからず。」

「我公使共この条約を廃し、新たに建立すること尤も急務にして、諸事規則通りに行う迄は、我々の交易も繫昌せず、又日本の富昌すること有るべからず。」

『英国策論』はここで終わっている。

274 サトウは、これを実現するのは、条約締結諸国の代表、つまり、公使パークスだと考えていたのだろう。

五 慶応2年(1866年)前半期における、サトウ、薩摩(松木)、パークスの考え方の比較(省略)

六 

282 勝海舟「サトウが韓国語を習い始めた。」
285 ウイリス「御殿山のイギリス公使館は焼かれたが、今回泉岳寺前に出来た新しい公使館は、そうなりませんように。」


大名

一 パークスの薩摩藩主訪問

286 ウイリス「グラバーは、世慣れていない住民に武器を売っている。」「薩摩藩主はグラバーに多額の負債を抱えている。」

5.27、パークスが長崎に到着した。
288 6.3、陽暦7.14、薩摩藩家老新納刑部が、長崎にパークスを訪問した。

289 パークス「私の薩摩藩主訪問は、幕府の職についていない一大名が、外国公使との個人的な面談を希望する初めてのケースである。」
 パークス「私の薩摩藩主訪問の目的は、天皇、将軍、大名間の相互理解を勧めることだ。」
290 長崎奉行は、パークスが薩摩藩主を訪問することに難色を示したが、パークスが押し切った。ところが、パークスは、「長崎奉行が、さらにもう一人の大名(宇和島藩主)宛の書簡を書くことを約束してくれた」と言っている。(石井孝『増訂明治維新の国際的環境』)

291 パークス「5.25、陽暦7.7、下関を通過した。」
 日本側の記録では、「5.24、下関に着船」とある。(『鹿児島県史料 忠義*公史料』)
 *忠義(ただよし)は、斉彬の後継。19歳で藩主になる。薩摩藩最後の藩主。父は久光。
 また別に「6月初旬、英公使パークス馬関に寄港す。公使帰路公(藩主)に会見せんと約し去る」とあるから、長州藩主にも面会を求められていたことになる。

292 パークス「イギリス政府は薩摩藩主と公式の関係に入ることを求めていない。」
295 パークス「幕府は、イギリスからの陸軍教官の派遣を断ったが、海軍教官の派遣を要請している。」

二 パークス・西郷会談によって、パークスは薩摩に心を寄せ掛けたようだ

感想 人は互いに近づくと親しくなるものなのか、パークスも、リチャードソンを殺した当の人に招待されたのに、昔のことは忘れ、新たな関係を構築しそうだ。
ただし、これは西郷の見方であって、パークスの見方は、もっと客観的であるようだ。そして、パークスは、西郷に、イギリスの立場を明確に示した。

・変革は平和的に行われなければならない。
・変革は急いでやってはならない。
・変革の際、国の統一を維持しなければならない。

西郷は挑発的である。312

・兵庫開港を幕府がやるつもりはない(というよりも、幕府がとてもそこまで朝廷を説得できなかったというのが真相ではなかったか145)、ということを、西郷はパークスにチクったが、パークスがそのことを幕府に話すとすれば、情報源の薩摩の名がばれ、気まずいことになりはしないか、と問うた時、西郷は、どうぞ薩摩の名を幕府にばらしても結構ですよ、と言うのだ。

302 島津久光(三郎)と島津斉彬とは兄弟の関係。藩主島津茂久(忠義)は、久光の子、斉彬の養子になって藩主を継いだ。現在27歳。斉彬は前藩主。パークス曰く「藩政は久光が完全に掌握している。」321

310 幕府側は、「兵庫は止められ候事」とういう朝旨があったにもかかわらず、それを四カ国に秘していた。

 以下、『西郷隆盛全集』より、
6.18、陽暦7.29、西郷隆盛とパークスとの会談に、イギリスから帰国した松木弘安(寺島宗則)と家老の新納刑部が陪席した。
311 パークス「天皇の批准(勅許)は不可欠ではない。」
314 西郷「条約締結などの外交交渉を、幕府ではなく朝廷の手で行うようになった際、朝廷から五六藩の諸侯に外交交渉をゆだね、兵庫港の関税収入は朝廷に納めるようにすれば、幕府役人が賄賂を貪ることもなくなる。」
316 パークスは「長崎、横浜、函館の三港の関税のうち、三分の一を是非とも朝廷に納めるように、たびたびイギリスから幕府に建言した」と語り、さらに「将軍を大君と称するのは適切でない」と西郷に申した。
317 当方(薩摩藩側)から「日本と条約を締結した五カ国(英仏米露蘭)が、諸藩と自由に交渉を持つように、という布告を出すように、幕府に要求して欲しい。そうなれば、幕府の筋の通らぬことも、外国人に理解されることであろう。」
318 西郷はパークスの要望に答えて、江戸の薩摩屋敷にスポークスマン(信頼できる連絡員)を置くことを請合った。(これは、薩摩が幕府との戦争に備えて、江戸の薩摩屋敷から人や物など全てを引き払ったことを物騒と見るパークスの懸念を示すものかもしれない。)そのスポークスマンは、イギリス帰りの松木弘安(寺島宗則)であった。

以上は、西郷が岩下方平に宛てた書簡による。

次は、パークスがハモンド外務次官に送った半公信による。(パークスはクラレンドン外相への報告の中では西郷との会談について触れていない。)

パークス「私は、鹿児島の貿易量については、高く評価していないし、藩主やその家来たちも、鹿児島を外国人一般に開放したいとは望んでいない。」
322 「大阪は現在彼等にとって自由港であるが、それが将軍の直接の支配下に置かれるようになれば、多くの制限を課せられるであろうことを彼等(薩摩藩の閣僚たち)は恐れている。」
323 「彼等(薩摩藩の閣僚たち)は、将軍は天皇から条約の批准(勅許)を獲得したが、これは三港(長崎・横浜・函館)の開港だけに限定される、という保証に基づいているものだと言っている。」
 「この種の情報は非常に役に立つ。幕府は、外部からの全ての光から我々を遮断することに懸命に努めているからである。」(パークスの認識は、実に客観的である。西郷が言うように「随分幕手を、英は打ち離し候賦(つもり)に御座候」319とは少し趣が違うようだ。)
324 「私は藩主の閣僚たちに、彼等が自分たちの政府(幕府)に目論んでいる何らかの変革は、平和的で武力を用いない手段によって行われる必要があることを、熱心に強調した。」
 「そして私は、彼等が将軍に何の悪意も抱いていないし、王朝の変革ではなく、ただ制度の変革を望んでいるだけである、と宣言するのを聞いて、喜んだ。即ち、彼等は、此の国の諸侯は、国政の運営において、少なくとも、その立法過程において、発言権を認められてしかるべきであると、宣言しているのである。」1866.8.2(この時点ではこれは本当だったのだろうか。それとも、内乱を懸念するパークスに対する、薩摩の一時しのぎの方便か。)

 「大名やその代理人たちによって、次の点が確言されるのをどこへ行っても耳にする。即ち彼等は、兵庫と大阪の開港は行われず、天皇による条約の批准(勅許)は、兵庫と大阪を除く、という条件つきのものであったという訓令を幕府から受けているという。」「これは幕府に対する不信についての非難を裏付けるものだと心配している。」

326 「大名たちやその家来たちと交わした私の議論のすべては、最も厳密な意味で中立的な性格のものだった。」
 「私は、制度的な変革を導入する際の配慮と慎重さ、そして、国の統一を保持することの絶対的な重要性について、彼等に忠告を与えた。」

三 第二次長州征伐調停の試みの失敗

まとめ 

 ・第二次長州征伐が始まると、パークスとロッシュは調停を試みたが、双方とも和解する意思がなく、失敗に終わった。ロッシュの和解案は、長州が幕府に楯をつくなというもので、幕府寄りの調停案だった。342, 351
 ・幕府と長州との武力対決があった場合に備えて、前年、外国船に対して下関海峡を海上封鎖しないという合意がなされていたが、幕府はそれを破り、それに対して言い訳をした。328, 347, 348
 ・パークスは中立を維持し、双方に対して内戦を遺憾とすると伝えた。352
 ・ロッシュと小笠原は、パークスには秘密で、会っていた。343
 ・パークスとロッシュは、互いにライバル意識を持って、木戸や小笠原に対応した。351

328 「6.13、陽暦1866.7.24、長崎奉行能勢頼之は、老中小笠原長行(壱岐守)の命令に基づき、外国船の通行に対して、下関海峡を封鎖することが賢明である、と長崎に駐在する全ての外国領事に通告した。」
「各国船が、長州領内の諸港に繋泊するのは勿論、下関海峡通行も見合わせるよう、告知方を申し入れてきた」(石井孝『増訂明治維新の国際的環境』)
 パークス「その通告は、昨年、全ての外国代表と老中たちとによって、十分検討され、戦闘が勃発した場合にも、海峡は外国船にたいして封鎖されるべきではない、という了解に達していた。」

 慶応元年5.28、1865.6.21に、パークスの前任者のウインチェスターが、元治元年八月、1864.9の下関遠征に参加した他の三カ国(仏蘭米)の代表とともに、共同で作成した三原則の第一項に、下関海峡の自由航行の確保が規定されていた。

330 パークス「私は、私との私的な交際が薩摩だけだと誤解されないように、他のいくつかの藩にも呼びかけたが、宇和島藩が即刻面会を求めてきて、会うことになった。」
332 長崎に来たロッシュは、薩摩藩から招待を受けたが、断った。

 「私とロッシュは横浜への帰路、下関海峡を通過することで一致した。どちらが戦争を回避しようとしているかを確認するためである。」
335 「下関奉行(桂小五郎)が、われわれ(パークスとロッシュ)のところにやって来たとき、ロッシュ氏は私に、長州藩への和解調停案を見せたが、その内容は、『毛利大膳(敬親)の大君への敵対的態度』を『不法であると認め』、『長州侯の、大君への降伏問題について、名誉ある取極』を周旋しようとする意図を表明したものだった。」

336 6.24、陽暦8.4、パークスとロッシュは、船上を訪れた下関奉行桂小五郎と伊藤俊輔らと、それぞれ個別に会談を行った。

337 桂は、和解が決裂した理由を次のように説明した。

 「慶応元年、1865幕府が発した召喚命令に長州が口実を設けて応じなかったのに対して、同年の末、幕府は、大目付永井尚志(なおむね、主水正)を広島に派遣し、長州藩の使者を糾問した。」
338 「その中で、長州藩が外国人と親しい関係にあることが問題となったが、それは、元治元年8月、1864、四カ国の海軍指揮官等と締結することを余儀なくされた協定によって、全ての国の船舶にたいして友好的な態度で接し、それらの乗組員に上陸をゆるし、食糧、石炭、その他の必需品を彼等に供給することを義務づけられているからだと説明した。」
 「我々が外国人と行った折々の交際が、我々の藩主の『罪』の一つに数えられているのを知った。」

 「幕府は、永井尚志に続いて翌慶応2年2月、1866、老中小笠原長行(壱岐守)を派遣したが、長州藩は再び藩主らに対する召喚命令を拒み、その名代として、宍戸備後助(璣、たまき)を出頭させた。」
 「幕府の処分の内容は、藩主の領地十万石の削封藩主父子の永蟄居などであった。」
 「関係方面から嘆願書が提出されたが、小笠原はそれらの受理を拒み、5.9、使者の宍戸を捕らえ、処分令を受諾しなければ、幕府は長州を攻撃すると迫った。」
339 「6.7、四艘の幕府の船が藩内の大島に来航し、村を砲撃し、男、女、子どもらを殺し、民家を焼き、米などを掠奪した。」
 「我々は小瀬川(芸州)、石州(石見)、田ノ浦の三方面の全てで奇襲をかけ勝利した。」
340 「我々は今防衛しているから、紛争解決の提議は、幕府から来るべきものだ。」
 「将軍は圧政的だから、多くの大名から微力な支持しか受けていない。」
 「長州藩は将軍を、天皇の主権の代理人であると認めている。しかし、将軍は勅命を越えて行動している。」
341 「将軍は、長州に科そうとした判決が、天皇の承認を得たものであるとは告げなかった。また天皇は、公正な裁きを下すように将軍に命じた。」

 以上が和解決裂に関する桂小五郎の説明である。

343 ロッシュ「長門(長州)が、将軍と対等に交渉することを主張しているから、私は、如何なる調停も不可能だと確信した。長州は、将軍こそ謝罪すべきだとまで言い張っている。」

6.24・25、ロッシュは小笠原と秘密会談をした。
 6.26、陽暦8.6、パークスとロッシュが、陸上で小笠原壱岐守とそれぞれ別に会談した。

344 6.25、長州藩主から、「将軍との調整の問題」を持ち出さないことを条件に、ロッシュやパークスとの会見を求める回答が届いたが、両者とも断った。

345 6.26、パークスと老中小笠原長行とが会談した。
346 小笠原「外国船の下関海峡通行停止の通告の真意は、危険が伴うことを外国船に警告することだった。」「昨年の、老中と諸外国の代表との取り決めは、知らなかった。」
パークス「昨年の取り決めは、正当な貿易業者を保護し、密貿易を阻止するために、下関海峡に軍艦を停泊させることを意図したものだった。」

348 慶応元年5月、1865、四カ国の代表は、三原則を決定し、それに基づいて、取り決め346がなされた。三原則とは、

・下関海峡の自由航行の確保。
・内戦に対する絶対不干渉。
・密貿易、特に戦時禁制品の密貿易阻止のために幕府がとる措置を支持する。

小笠原「四カ国の軍艦が海峡周辺に停泊することに反対しない。」
小笠原「幕府による大島に対する攻撃の6週間前に、長州は、備中に略奪者を送り込んだ。戦争を開始した責任は長州にある。」

 この年の4月中旬、脱走して藩外に出た長州の第二奇兵隊の一部、約百数十名が、幕府直轄地の倉敷の代官所を襲撃し、さらに隣接の浅尾を侵し、幕府軍が出動した。
長州藩は岡山藩に対して、これら脱走兵を容赦なく処分するように依頼した。というのは、長州藩は幕府との開戦時期を引き延ばしたかったからだ。
350 パークス「小笠原は、(現在使用している)イギリス軍艦のうちの一艘を売却または貸与してもらえないかと尋ねたが、イギリス本国に注文するようにと答えた。」
351 パークス「幕府と長州との交渉は、二年にわたって行われたが、双方とも議論に嫌気がさしたようだ。」

石井孝「小笠原はロッシュに軍艦や大砲の購入周旋を依頼し、ロッシュは幕府に尽力すると約束した。」(『増訂明治維新の国際的環境』)

352 パークス「桂や小笠原との会談の過程で、私は、両陣営に、内戦の惨禍を遺憾とし、イギリス政府は紛争にさいして、完全に中立の立場を保持するということを確認させた。」

四 宇和島藩で家族的な歓迎をうけ、艦船を市民に開放した

要旨

宇和島藩の前藩主・伊予守・伊達宗城(むねなり)は、安政五年の将軍継嗣問題で、現在の将軍ではなく、一橋慶喜を擁立し、また、大老井伊直弼が勅許を待たずに日米修好通商条約に調印したことに反対したために、幕府により藩主の地位から罷免され、弟宗徳(むねえ)に譲ることを余儀なくされた。353
 宇和島藩は、これまで、余剰の物産を薩摩の代理人を通して長崎で売りさばいていたので、兵庫開港に期待した。355
宇和島藩が使用していたエンフィールド銃とは、前装式滑腔の小銃。Enfieldが発明した。355
シーボルトの娘いね(楠本伊禰)が、宇和島藩主一族の主治医をしていた。358
シーボルトの長男は、このときパークスの下で通訳をしているアレキサンダー・シーボルトである。358

五 下関海峡での外国船舶の航行のあり方について 輻輳していて分かりにくい

・陰暦7月23日の規則は、下関海峡周辺で、イギリス商船が停泊して、長州側に武器を密輸することを禁じるものである。
・陰暦7月27日の規則は、イギリスの船が、幕府の兵員や武器を運ぶのを禁止する措置である。
パークスはこの二つの規則によって、戦争当事者に対して中立的なバランスが保てると考えている。そしてそのことは、イギリスに対する危険を避けるためでもあった。

長州が砲台や野砲を建設することについて

長州藩主は、その書簡で、長州藩が昨年、砲台に大砲を置きたいとパークスに求めたが、拒否されたので、今度は野砲では如何か、と要求した。それに対して、パークスは、協約違反であると「抗議」しつつも、諸外国の代表(公使)に「報告」するに止め、罰則などそれ以上の措置は考えなかった。386, 384
 
感想 筆者は野砲を砲台と取り違えているようなのだが、私の読みが浅いのだろうか。387

360 パークスが横浜に帰ると、外国船舶は下関海峡を航行しないようにという文書が老中から届いていた。アメリカやオランダはその指示に従って同国人にその旨通告・要請していた。
しかしパークスは、「私は長崎駐在の領事に、下関海峡をイギリス船が利用できる、という訓令を送った。」
361 「しかし、それには条件があり、幕府の敵が(武器を購入するために、)外国船と交際することができないように、戦場から外国船を遠ざけるという条件である。」

感想 基本的な英文和訳の間違い。「…海峡が外国船に対して閉ざされることは、望ましくないが、しかし、…通航は行われるべきであると要求するのは、当然と看做されてよい。」これは間違いで、「望ましくな、…通行は行われるべき…」とすべきである。

パークスは、外国船の航行に関する、諸外国(米蘭仏)との協議の際に、次の条件を提示して、一致した。

・外国船が碇泊或いは停止するのを禁じる。
・積極的な軍事行動が行われている最中に通行することを禁じる。
・危険の警告が発せられたときの下関海峡の通航を禁止する。371

362 7.3、陽暦8.22、パークスは江戸で老中井上正直(河内守)や老中格松平乗謨(縫殿頭)と会談し、了解を得た。「彼等は私の提案に満足した。」
 また「外国船が下関でこれまで受けてきた石炭やその他の補給ができなくなるので、それに代えるに小倉を要請した。」

363 パークスと幕府とで同意された規則

「イギリス船が、長さ約四マイルの海峡の入り口を含む一定の水域内において、海峡に停泊し、停止することを禁止し、さらに、イギリスの軍艦の指揮官によって、危険であると警告された時には、海峡を利用することを禁止する」

パークスはキング提督に「この国におけるイギリスの利益に極めて大きな影響を及ぼすかもしれない、戦争における両陣営の動きを観察せよ」と要請した。(スタンレー外相への報告、スタンレーは陽暦7.6、クラレンドンの後任の外相となった。)

364 規則に付随して、次の場合に罰則を科すことにした。

・将軍に対して戦争を起こすこと
・戦争を起こす人を助けること
・開港場ではない港で貿易を行うこと(密輸)

 パークス「一時は外国人と長州との間で行われていた、限られた交易(密輸)が、ほとんど完全に中止されてしまっているのを確かめました。」「その理由は、長州の人々が必要とする外国品(武器・弾薬)を供給するため、日本人(薩摩藩)の仲介が、長州に対して開かれているためであろう。」「最近下関に上陸した士官は、外国の武器が妥当な価格で(安価で)店で売られていたのを確認し、店員は、供給があまりにも多く、利益は通常ととんとんだと述べた。」

366 海軍士官に対するパークスからの注意事項

・中立的な態度を保持せよ。
・長州の人々との接触は禁じられていないが、幕府に疑われるような行為は避けよ。

 長州側の下関砲台再武装に関して、前任者ウインチェスター代理公使が、慶応元年5月、1865、四カ国によって取り決められた三原則に基づき、ルアード艦長に宛てた書簡を、パークスは踏襲した。つまり、再武装を実質的に黙認した。

367 ケストレル号事件とは、8.12、陰暦7.3、イギリスのグラバー商会所属の商船ケストレル号が、下関海峡を通過したとき、幕府側の小倉から十発の砲弾を受けた事件である。

ところがこの認識は後で修正され、実は、事件当時は、戦闘中で、しかも夜間で、また遠く離れていて、どこの国の船舶か分からないような状況だったことが判明した。したがって、イギリスに対する攻撃だと判断できない、ということである。370

この事件の後の7.23、陽暦9.1、幕府の同意を得て取り決めた規則が公布された。
 
フラワーズ長崎代理領事「これは幕府の非友好的な背信行為である。」「長崎奉行は事件を知らなかったと言い、小笠原壱岐守(長行)の指示を受けるとのこと。」
フラワーズ「当時は、戦闘中でなかったし、危険についての警告も受けなかった。」ところが、これはで、

370 パークス「ケストレル号の機関士マーシャルによると、当時は暗夜で、長州軍と幕府軍との戦闘が行われていていた。」「通過した幕府の四隻の軍艦は、ケストレル号を攻撃しなかった。」

パークス「私は(フラワーズ代理領事に、)ケストレル号の船長が軽率だったことが事件の原因だとグラバー商会に告げるように訓令した。」

317 チュウサン号事件とは、陰暦7.21、イギリス船チュウサン号が、船主レイノルズの要望で幕府の役人を乗せたとき、ライフル銃五箱、弾薬十箱、装具一箱を運んで欲しいと要望され、また長崎では、幕府の軍艦ジンキー号(順動丸)の艦長、7名の士官、64名の水夫を乗せ、小倉まで輸送し、長州側から砲撃を受けた事件である。

374 パークス「長州側からの砲弾は、信号砲であったと考えたい。」「砲撃はチュウサン号に向けられたものとは考えられない。」としつつ、
375 パークス「長州側に攻撃の理由はあるが、長州側は交戦権を要求できない。イギリス船は、小倉を訪問し、日本人乗客や軍隊を輸送できる権利を持っている。長州の攻撃は正当ではない。」

376 イギリスは、幕府が日本政府であるとみなしていたから、長州には交戦団体としての資格はない。

 パークス「イギリス船が軍事輸送したことは望ましくなかった。」

イギリス船を雇用する規則は、中国ではあったが、日本ではまだなかった。

377 パークス「イギリスと幕府との船舶雇用契約を、幕府が拡大しようとしていたので、私は、雇用を制限することにし、9.5、陰暦7.27、規則を作り、公示した。

・イギリス船が、下関海峡で、日本の軍隊、軍需品、ならびにイギリス領事によって許可された人数(20人~30人)以上の日本人乗客を輸送することを禁ずる。

パークス「この規則は、イギリス船が幕府の軍隊を海峡の近所まで軍隊を運ぶことを禁ずるもの(非合法)ではないが、下関海峡でそうすることは、国益に反する可能性が高い。」

パークス「私は長州藩主に面会できないから、あなた(キング提督)は、イギリス軍艦の指揮官に、長州側からの説明をもとめる権限を与えると同時に、(イギリス側からの)遺憾の意の表明と再発防止の約束を(長州側に)伝えるように言って欲しい。」(要するに長州に対してすまなかったとわびている。)

379 パークス「イギリス船に対して、下関海峡へまた同海峡を経由して、(合法ではあるが、379)軍隊あるいは軍需品を輸送することを禁じる規則を新たに公布した。その理由は、国益に反するからである。」

パークス「(以上の条件整備がされた上は、)海峡に停泊しているイギリスの海軍力は、攻撃に対して報復できる。」

7.27、陽暦9.5、パークスは新規則を公示した。

381 仏米蘭代表に向けて、パークス「私は、イギリス船が下関海峡へ、あるいは同海峡を経由して、日本の軍隊ないし軍需品を輸送することを禁止した。その理由は、

・中立を遵守したい。
・(日本の)外国との(新たな)紛争が、さらに問題を深刻化することを避けたい。

382 この第二の規則に関して、フランスのロッシュ公使は、イギリス船に対する適用には反対しなかったが、国際法上の問題で、フランス船に対しては不要であるとしたようだ。
 当時別のイギリス船が幕府の軍隊を横浜から送ろうとしていたことから、ロッシュは、貿易を混乱させないように、また四カ国への(幕府や長州からの)攻撃を阻止(回避)するための、パークスの措置(第二の規則)を正当だと看做した。

 パークス「ロッシュは、昨年5月の取り決め(四カ国による三原則)以上の、フランス船に対するそのような措置(第二の規則)は不要であると感じていた。それはフランスの商船団が、この海域にほとんど存在しなかったからでもあった。」
 
スタンレー外相に向けて、パークス「幕府が下関海峡での外国船の締め出しを要求していたのだから、今回イギリスが幕府の軍隊の輸送を断ったとしても、幕府がそれを要求するのは理に適っていない。」

384 軍艦アーガス号に乗船した通訳アストンによると、
 8.13、陽暦9.21、アーガス号のラウンド艦長が、下関で長州藩士と会見したとき、
「ラウンド艦長は、長州藩が砲台を建設し、そこに大砲を載せたことは、1864年、元治元年の協約に違反するものであると指摘し、抗議した。」それに対して、
385 長州藩士「これは要塞ではなく、数門の大砲を樹木の間に置いただけであり、また、これは自衛の措置である。協約を破ることを余儀なくされたことは、遺憾だ。ラウンド艦長が(強く)主張すれば、撤去する。」それに対して、
ラウンド艦長は「イギリス公使に報告する」とだけ述べた。

9.7、陽暦10.15、桂小五郎が、イギリス公使宛の長州藩主の書簡と、桂自身のラウンド艦長の抗議書に対する返書を持って来艦した。
 藩主の書簡は、「昨年、防衛のために、短期間、砲台に大砲を置く希望をパークスに伝えたが、拒絶され、止むを得ず野砲を編制したが、その大砲は、砲架を備えおらず、樹木や岩石の間に置かれたもので、戦争後、直ちに撤去するので、承認されたい」という内容だった。

386 パークスからスタンレー外相へ「私はこの書簡に返答しない。イギリス海軍士官が伝えるべきだ。また、この長州藩の行為は、さほど問題とすべきことではない。(長州が勝つかもしれないからだ。386--387)」

パークスからキング提督へ「我々イギリスの利益に反しない限り、長州の防衛行為は結構なことだ、と藩主に伝えて欲しい。こういう長州藩に対するイギリスの穏健な態度は、イギリスの幕府に対する友好的態度が、条約を忠実に守る長州藩や他の大名にも拡大されるものであることを、長州藩主に確信させるだろう。」

以上 2019116()



年表

1865.11.4、陰暦9.16、午後1時半ごろ、四カ国の艦隊が兵庫港に碇を下した。093
1865.陰暦10.4、四カ国が兵庫開港に関する三条件を突きつけ最後通牒を発した。軍艦外交。
1865.陰暦10.5、小御所会議で、これまでの条約を勅許したが、兵庫の開港は、永遠に不可を決定した。
1865.陰暦10.6、京都在住の将軍家茂のところに四カ国の最後通牒が届いた。
1865.11.24、陰暦10.7、最後通牒猶予期間の終了日。145

1866年、慶応2年3月中旬、パークスが自由貿易や自由な渡航などを含む八か条を提案した。
1866.5.21、慶応2.4.7、幕府は、旅券を所持する全ての日本人に、海外渡航を認める布告を出した。196
1866.6.25、慶応2.5.13、関税約書が、四カ国の代表と老中水野忠精(和泉守)との間に調印された。191


参考文献

ディキンズ『パークス伝』F. V. Dickins, The Life of Sir Harry Parkes, vol. II, 224
サトウ『英国策論』(日本近代思想体系1『開国』(田中彰編)所収)
J・R・ブラック『ヤング・ジャパン』平凡社、東洋文庫300
『薩藩海軍史』302
『西郷隆盛全集』309
石井孝『増訂明治維新の国際的環境』328



大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社1990

  大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社 1990       第一章 枝吉家の人々と副島種臣 第二章 倒幕活動と副島種臣 第三章 到遠館の副島種臣     19 世紀の中ごろ、佐賀藩の弘道館 026 では「国学」の研究が行われていたという。その中...