幸徳秋水『帝国主義』1901 岩波文庫2004 山泉進校注
幸徳秋水「社会主義神髄」1903.7 『日本現代文学全集』32 社会主義文学集 講談社 昭和38年1963年
メモ
愛国心は「中古時代的」である。
037 「ビスマルクの理想や、実に中古時代未開人の理想たるを免れず。而して彼がその陳腐野蛮の計画にして能く成功するを得たるゆえんの者は、社会の多数が道徳的に心理的に、未だ中古時代の境域を脱出すること能わざるに由るのみ。」
039 山縣有朋はプロシャのビスマルクに倣った。
041 愛国主義は近世社会主義によってとってかわられるだろう。
日清戦争時の日本人の「愛国心」を痛烈に批判します。
043 「日本人の愛国心は、征清の役に至りてその発越坌湧(ふんよう)を極むる振古かつてあらざりき。彼らが清人を侮蔑し嫉視し憎悪する、言の形容すべきなし。白髪の翁媼(おうおう)より三尺の嬰孩(がい)に至るまで、殆ど清国四億の生霊を殺し殲(ほろぼ)して後甘心せんとするの慨ありき。虚心にして想い見よ、むしろ狂に類せずや、むしろ餓虎の心に似たらずや、然り野獣に類せずや。」
フレームアップにより大逆罪で処刑された幸徳秋水ですが、天皇に対してずいぶん気を使っています。
045 「我皇上は自由と平和と人道を重んじ給う、豈にその臣子をしてヘロット(奴隷)たらしむるを希い給わんや。我は信ず、我兵士をして、皇上のためと言うよりは、むしろ進んで人道のため正義のためと言わしめば、これ皇上嘉納し給うところなるを、これ真に勤皇忠義の目的に合する者なるを。」
感想
幸徳秋水1871-1911は、Wikiによれば、幼少時に四書五経を習ったとのことで、本論も漢文調で格調高い。
中学を中退して上京し、中江兆民の下で学習した。板垣退助の自由新聞、中央新聞を経て、萬朝報の記者となった。その記者時代に、義和団の乱における日本軍による馬蹄銀横領容疑を批判して山縣有朋の怨みを買ったようだ。
また萬朝報勤務時代に国民英学会でも学んだ。本論文でも各所に英文が出てくるのはそのためかもしれない。また幸徳秋水は1年弱(1905年11月~1906年6月)渡米している。
幸徳秋水は博識である。ギリシャ・ローマ史を始め、西洋史を良く知っている。また英仏独などの事情をよく知っている。
054, 060 軍備と徴兵が文芸を生むというのは大嘘である。
感想
当時の政権は暴力的に問題を解決しようとする。1901年5月、幸徳秋水らが結社した社会民主党を即日禁止にするという有無を言わせない頑なさ。そして同年1901年6月、それを社会平民党と改名しても即刻禁止。また1904年、共産党宣言の翻訳を即日発禁処分に。そしてついに1905年、新聞紙条例を根拠に政権は幸徳秋水を投獄した。
感想 2025年3月28日(金)
評者のスタンスは気に入らない。評者は山本正美から幸徳秋水の遺稿を譲り受けたのだから、その帝国主義論についてもっと熱く語るべきだ。それに比して山元正美の幸徳秋水評は素晴らしい。
私たちの明治以降の先輩方は、大戦中は軍の秘密保持を口実に沖縄の人達を集団自決させ、明治期には、民衆を大事にする思想家・幸徳秋水を拘禁・殺害し――而も未遂で、かつフレームアップで殺害し――その啓発的な書物を発禁にするという凶暴な先輩方だった。そういう先輩方に対して抗議・異議を申し立てようではないか。日本の民衆よ。
幸徳秋水のように有能で影響力のある社会主義者を政府が殺すとは、非常に残念なことだった。そのことは日本のその後の歴史に大きなマイナスとなった。
山本正美の幸徳秋水評 「幸徳秋水は当時の革命的社会主義者の最良の指導者の一人であり、わが国プロレタリアートを、一個の独立的な、わが国人民の解放の歴史において、指導的役割を演ずべき階級として結集させた。(幸徳秋水はその)輝かしい反帝国主義論、反戦論によって、明治30年代(1900年代)初頭に初めて階級意識に目覚め始めたこの幼い日本の革命的プロレタリアートに、国際的連帯性の意識を植えつけ、世界人類の解放のなかに自己自身の終局的開放をみるほどに生長した世界プロレタリアートの一部隊にまで育てていった。『帝国主義』は、秋水のこの反帝国主義論・反戦活動の成果の集約であった。それは徹頭徹尾、帝国主義ならびに侵略戦争に対して――すなわちその近隣の弱小民族の経済的・軍事的略奪・抑圧たるのみならず、わが国人民自身を帝国主義者・軍国主義者の奴隷と化する野蛮に対して――火のごとき憎悪心と革命的闘争心をもって書きつづられている。帝国主義は、秋水(ならびに自覚せるプロレタリアート)にとっては、人類の文化を踏みにじり、人類の進歩を妨げ、人間を野獣化し奴隷化するところの、それゆえに、一刻も早く退治すべき二十世紀の――すなわち搾取と隷属の最後の制度たる資本主義社会が、自由にして平等な社会主義社会にその席をゆずるべき時代の――怪物であった。」179
評者は山本正美から(幸徳秋水の『帝国主義』の)未公刊のゲラを譲り受けた。179
評者とは山泉進である。
『日本現代文学全集』32 社会主義文学集 講談社 昭和38年1963年
065 幸徳秋水「社会主義神髄」1903.7
感想
発禁・投獄 当局は幸徳秋水に目をつけていた。幸徳秋水の理知と名文を恐れたのか。当局もすでにマルクス主義の存在を知っていたようだ。その害悪を欧州の敵同士と共有していたのかもしれない。フランスの二月革命や1971年のパリコンミューンなどで欧州の当局もマルクス主義に震撼としていたのかもしれない。
『二十世紀における怪物帝国主義』1901は、1901年に発禁処分。
翻訳『共産党宣言』1904は即日発禁。
1905年、新聞紙条例違反で投獄。
「明治初期日本人のパリ・コミューン観」戸田文明(四天王寺大学紀要 第64号(2017年9月))によれば、
西園寺公望は「コミューンは、「姦猾無智之徒」が「共和政治」を名として「愚民ヲ煽動」して「偽立」した不法な政権(賊)である」とし、暴徒に批判的である。
二月初六日始て仏の巴里斯に入、方今ハ府下之学校ニ入塾いたし先以無つつがなく恙勉強仕候間乍はばかりながら憚御顧念被くだされまじく下間敷候。(中略)欧州之光景段々在此地相探候得ば、本州にて考しとハ相違し各国之盛衰其評論頗多端なり。就中仏ハ昨年普に打負しより国内更ニ紛乱し、遂ニ解兵の時より事起り共和政治を名とし、姦猾無知之徒大ニ愚民を煽動し以干戈ヲ用にいたれり。政府ハ之を鎮定する事不能、却て此賊を避けベルサイユと云地に引移れり。賊ハ則巴パリス里斯に拠政府を偽立し頗暴威を張る。是より政府両立之形となり日々砲声止ム時なく、万民之疾苦実に不可言。然ども賊ハ是れ多ハ各国浮浪之屯集、其暴行日々相益し人望尽ク去れり。(『西園寺公望伝 別巻一』212・213頁)
感想
幸徳秋水に関する平野謙の解説*を読み、なぜ幸徳秋水の思想が、マルクス主義から所謂無政府主義に変遷したのか、についてのヒントが分かった。その理由は弾圧の凶暴さ(結社の禁止、発禁処分、新聞紙条例違反による拘禁など)ではないか。幸徳秋水が大逆事件予審終結後の1910年12月18日、3人の弁護士に宛てに獄中で書いた陳弁書の第一節「無政府主義と暗殺」*によれば、
「無政府主義は老荘思想と同じく一種の哲学である。暗殺者の有無はその主義主張というよりも、特別の事情と特別の気質が相触れるときに生じる。例えば、政府が極端な圧迫を加えて言論出版集会の自由はもとより、生活の方途さえ奪う場合とか、富豪が暴戻を極めて窮民の飢凍みるに忍びざる場合とか、到底尋常な平和手段では対処する道のないときに、はじめて多感な青年などによる暗殺や暴動が生ずるのであって、それは一種の正当防衛とも言うべきものだ。」
*『日本現代文学全集』32 社会主義文学集 講談社 昭和38年1963年 413頁
*『世界評論』1946.4に初めて公表された。
感想 2025年3月30日(日)
幸徳秋水の『帝国主義』1901と『社会主義神髄』1903を読み比べてみると、秋水が前者1901から後者1903へとわずか2年の間に、マルクス主義理論の研究を深化したことが分かる。両者とも説得的である点では共通しているが、後者で取り上げられる欧州のイデオローグの数ははるかに多く、また前者がイギリスのジョン・M・ロバートソンJohn Mackinnon Robertsonの論文「愛国主義と帝国」 “Patriotism and Empire”1899を元にした、どちらかと言うと翻訳調であるのに対して、後者は秋水本人が様々な原典を咀嚼した後で、読者に分かりやすく論述しているように思える。
日本のマルクス主義研究はこの1903年の時点で完全に欧州から吸収したと言えるのではないか。
明治政権がこういう有能なマルクス主義者を葬り去ったことは、日本の進路にとって惜しいばかりである。
鎌田慧さんが、大杉栄『叛逆の精神』平凡社2011の解説で述べているように、「幸徳事件」と言われるが、事実は、社会主義者の宮下太吉が爆弾を作ったということだけは真実だとしても、実行でも未遂でもなく、計画もない「煙のような座談」(菅野須賀子『死出の道艸』)でしかなかった。それと「明治天皇を暗殺しようとした」に結び付けたり、さらには幸徳秋水に結び付けたりすることは、あり得ないことだった(Wikiの解説はこの点で間違っている)。
この秘密裁判を担当した小山松吉でさえ、「証拠は薄弱だが、幸徳は此の事件に関係のない筈はないと断定した」と、司法省内の講演会で語っている。そして小山の上司である検事局次長・平沼騏一郎は「秋水が首魁に違ひない。先ず幸徳を捕えねばならぬ」と、その『回想録』の中で語っている。まさにフレームアップであった。平沼騏一郎はその後首相に、小山松吉は検事総長や法務大臣に栄転した。「我々の任務は赤を逞しう出来ぬやう、撲滅するやうにしなければならぬ」と、平沼や小山は考えていた。262
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