2019年4月13日土曜日

『何が私をこうさせたか』獄中手記 金子文子 岩波文庫 2017.12 メモ・抜粋・感想


『何が私をこうさせたか』獄中手記 金子文子 岩波文庫 2017.12

底本 金子ふみ子『何が私をかうさせたか――獄中手記』(春秋社1931


序文 

本書は韓国映画『金子文子と朴烈』のストーリー以前の、彼女の生い立ちから朴との同棲生活に入るころまでのことを記述したものである。
金子文子は立松予審判事から本書を書くように命じられて書いたとのことだが、自らの死刑の可能性を知った後に書き始められた本書は、彼女の遺書とも言え、自らも「本書を世の親たち、教育家、政治家、社会思想家、全ての人に読んでもらいたい」と述べている。020
文子は5歳のとき父に捨てられ、8歳のとき母にも捨てられ、9歳から16歳までの朝鮮在住時にはブルジョワ的悪徳を代表するような父方の祖母に特にひどくいじめられた。文子はその時自殺しようとしたのだが、いじめた者たちに復讐するために生きるのだと堅く決意して自殺を思いとどまった。
そして東京の正則英語学校で知り合った苦学生たちから、アナキズムや社会主義の思想を知り、社会主義思想は自らの苦渋に満ちた半生をよく説明できる理論だと気づいた。
朴烈には、その詩を読んで強く惹かれるようになり、自分から朴に求婚する。朴はもう口や筆への興味を失っていた。上海や吉林から爆弾を取り寄せて、東京と京城で同時爆破する計画を立てていたと山田昭次氏の解説には書いてある。行動派である朴に、文子は惹かれたのかもしれない。
 山田氏の解説によれば、文子は死刑判決後、天皇による恩赦で減刑され無期懲役にされたことを示す文書を見せられたが、それを破り捨てたとのことだ。そして宇都宮刑務所栃木支所で縊首する。


メモ・抜粋・感想

 文子の父・佐伯文一は、母・金子きくの(きり)を遊びの対象としか考えず、籍に入れなかった。そのため文子は無籍者となり、小学校へも正式には通えなかった。*文子は勉強したかった。

*私設の学校や、もぐりで、普通の小学校に通学したことはある。また9歳の時、母の父親の金子冨士太郎の五女として入籍した。1912.10.14

父は母を捨て、文子は母に育てられることになった。父は母の妹・たかのに手を出したのだ。文子の弟・賢は、父と叔母に引き取られた。
 母は男がいないとやっていけないような弱弱しい女だった。母は、父に捨てられてから、何人か男を変えた。中村という年上の男、小林という年下の男。変えた理由は、ろくでもない経済力のない男だったからだ。貧窮のため、文子は母に女郎屋に売られるところだった。しかし、母が娘を遠くに行かせたくなく、娘を自分が見られる範囲に置いておきたかったために、その商談は不成立に終わった。
 小林の郷里である山梨県の山村・小袖に行ったが、そこへ実家の弟・金子共治が迎えに来て、それまでに生まれていた小林と母との間の子つまり文子の妹・春子を小林の下に置いて、母と文子は実家に帰ることになった。
 ところがそのとき母に縁談があり、母は私を置いて、金持ちの家(雑貨商)の古屋庄平の嫁になって行ってしまった。そうこうしているうちに、父方の祖母で、朝鮮に住んでいる佐伯ムツがやってきて、私を引き取るというのだ。その祖母の娘カメ(父の妹)は、朝鮮で岩下敬三郎と結婚したのだが、子どもが生まれないとのこと。私は祖母について行くことになった。岩下家は裕福そうだった。

感想 『寒村自伝』の荒畑寒村さんが、小学校しか出ていないのに文章が上手であるのと同様に、この金子文子も、小学校もろくに出ていないのに、*文章が上手だ。二人とも才能に恵まれていた上に努力を積み重ねたことの結果が、文章表現として表れたのだろう。また金子は記憶力が良い。五歳ころのことを記憶している。201947()

*その後文子は高等小学校を卒業し1917、東京で正則英語学校や数学の研数学館に通っている。
 
感想 ジャガイモ事件の中に日本のブルジョアのプロトタイプと進歩的西洋思想との対比が描かれている。先生の、労働すること、愛することの尊重、日本だけでなく他のどこの国でも同じことが言えるとする国際性、それに対して、祖母のブルジョワ的・差別的態度。

144 先生「不思議だろう!こんな泥みたいな(ジャガイモの)塊から芽が出てきて、それからまた子を産むんだ、そしてそれが人間の口に入って滋養になるんだ。だがだ、百姓のうちでこれは一番やさしい方だが、それでもほったらかしておいては好く実らない。充分可愛がって世話をしてやらなけりゃいけない。その骨折りは一通りでない。だからみんな、百姓を馬鹿にしちゃいかんぞ。百姓こそ日本国民の親だ。いや、日本だけじゃない。どこの国だって同じことなんだ。」
145 さらに先生は「人は互いに愛し合わなきゃいかん。いや、人ばかりではない。何をでも愛さなきゃいかん。だが、ほんとの愛は自分で骨を折って育てなきゃ起らない。」
146 先生「百姓を軽蔑しちゃいかん。百姓は生命の親だ。」
147 それに対して祖母(父の母)は言う。「今すぐ(百姓の授業を受けるのを)やめななきゃいけないよ。わしの家じゃ、月謝を出してまでも百姓なんか習わせる必要がないんだからなあ、それにせっかくだがお前なんかに百姓して稼いでもらわなくても、まだ生計(くらし)には困らんでな…」
「お前はよく下駄の鼻緒を切って来るが、ありゃきっと、あの、何とかいうブランコにぶら下がって飛んだり、男の子なんかと一緒になって跳ね回るからだろう。下司(げす)の貧乏人の子の真似ばかりしてさ。女の子なら女の子で、少しゃ高尚な女の子の真似でもしてみるがいい。」147 

感想 文子は賢すぎた。それを祖母は気に入らなかったのだろう。文子は11歳か12歳のころ、四桁同士の掛け算を暗算ででき、尋常二年のときは六年の読本が、三年の時には高等二年の修身が、たいした苦痛なしに読むことができたという。そして祖母がやるように言った学校の復習などいらないと祖母に言ったのだ。107, 108
文子は岩下家の後嗣ぎから下され、下女にされ、後嗣ぎは貞子という祖母の兄の子に回されてしまった。142

感想
1920年代は今と違って人々は早熟で、結婚する年齢が早く、性的にもおおらかで、悪く言えば性的に放縦だったのではないか。だから文子の父母のように、できちゃった婚が多かったのではないか。
 また世代の間隔が短く、祖父母の活躍する場が多かったのかもしれない。文子の父方の祖母のように、祖母が孫を育てることが、希なことではなかったのかもしれない。

153 朝鮮の叔父・岩下敬三郎は以前鉄道に勤めていた。体が弱かった。
155 カーキ色の憲兵が朝鮮人を裸にして尻を引っぱたいていた。
157 ジャガイモ栽培授業に対する祖母の悪い評価を、文子が先生に述べると、先生との関係も悪化してしまい、文子にとって学校も逃げ場でなくなってしまった。そんなとき文子にとって山=自然が唯一の救いの場となった。「自然は素直で、自由で、人間のように人間を歪めない。」
159 操さんは、福原という医者の細君で、祖母の姪である。
161 「いやならいやとはっきり言えばいいんだよ」と祖母が言うから、操さんの赤ん坊の子守をするのを断ると、祖母は文子を縁側から地べたに仰向けに突き落とした。祖母「百姓の鼻たれっ児の子守だったくせにさ。お前はうちにゃ用はないから出て行ってもらおうよ。さあ出て行っておくれ。たった今出て行っておくれ。」
165 朝鮮人の女性が声をかけてくれた。「またおばあさんに𠮟られたのですか。」「麦御飯でよければ、おあがりになりませんか。御飯は沢山ありますから。」と言われ、文子は「この時ほど私は人間の愛というものに感動したことはなかった。」しかし、祖母が「鮮人の家などで貰って食うような乞食は、うちに置かれない」と怒りだすのをおそれ、文子はそれを辞退した。
172 鉄道への飛び込み自殺や川への入水自殺など、一旦は自殺をしようと思ったが、ふと思いとどまり、「世にはまだ愛すべきものが無数にある。美しいものが無数にある。私と同じように苦しめられている人々と一緒に、苦しめている人々に復讐してやらねばならぬ」と考え、自殺するのをやめた。

感想 日本ブルジョアのプロトタイプのような存在が、この岩下家の祖母だ。働かず、買い物を蔑視し、労働を蔑視し、自らをお金持ちだと自称し、衣服をめかし、着飾る。彼女がよく言う「出て行け」は、自らのような豊かな場所から、貧窮の場所へ出て行け、という意味である。

194 朝鮮の祖母はけちだった。
200 円光寺の千代さんが私を迎えに駅に来てくれていた。円光寺には父がかつていたことがあった。
201 母の実家に帰る途中で叔父の寺に泊まった。
206 私が朝鮮に行ってから、母は相変わらず男を何度も変えた。
208 「田原」は今母が嫁いでいるところらしい。
211 元栄(もとえい)という叔父は、彗林寺の望月庵に住んでいた。私はここが好きになった。エネルギーが出てきたように感じた。
218 父が興津に住んでいたころ、叔父がやってきて居候していた。叔父は坊主に飽きて、寺から逃げ出してきた。そしてその後船員になったが、一度航海して帰ったところを、家人に呼び戻された。
218 叔父の経歴。
224 私は浜松に住んでいた父について浜松へ行った。
227 父は私を坊主の叔父に嫁がせ、望月庵の財産を狙っていた。そして坊主の叔父は、処女である私の体を求めていた。
227 その叔父は水島という美人の女性の妹を追いかけたこともあった。
229 父は浜松下垂町の借家に住んでいて、恐喝の新聞記者をしていた。
232 父、叔母、弟が、毎朝床の前に座って、佐伯家系図に向って礼拝を捧げた。
233 私は浜松の実家女学校に通わされた。それは坊主の叔父の要望だった。
234 夏休みに母の実家に行こうと甲州に向った。塩山駅に着くと雨が降っていて、私が傘を借りに母の家に行くと、母は娘と話していて、結局私は傘を借りられなかった。母の家では、母に子どもがいないことになっていた、つまり私は存在しないことになっていたので、母以外の人に会うとまずかったのだ。
236 塩山駅に戻り、汽車酔いと雨にあたったのとで吐いてしまった。休んでいると、小松屋の叔父(浜松の叔母の妹の夫の弟)が来て、傘を借りてくれると言うのでついて行ったが、料理屋の二階に上げられ乱暴された。結局それは人違いで、甲州の叔母の家(母の実家)の近所の男だった。239

240 私は杣(そま)口の母の実家に帰って来た。千代さんの兄にも話を通され、寺の叔父と親密な千代さんの縁談が起った。千代さんと寺の叔父とを引き離すためである。
241 千代さんは、石和(いさわ)の、千代の姉の嫁ぎ先から急に呼び出された。
243 また母の実家の家人は、私を叔父から引き離すためにも、母の嫁ぎ先の二番娘であるよしえさんを叔父に奨めた。また叔父には、奈良の坊さんから、その娘の婿になってくれという話もあった。

244 小松屋の叔父や祖母、叔母とともに、私は活動を見に行った。
246 映画館の中で瀬川が話しかけてきた。
251 祖父たちは、私が叔父の寺に入り浸らないように、私は、小松屋に引き取られ、裁縫塾に通わされた。
252 瀬川は中学4年で退学し、私が小松屋に来た時分には、東京で簿記学校に通っていた。
253 千代さんは円光寺で叔父さんと最後の夜を共にした。
253 円光寺で千代さんの嫁入り祝いをしたが、千代さんは沈みきっていた。
255 千代さんの嫁ぎ先は医者であるらしく、彼女は叔父に捨てられたことも忘れて、新婚生活を楽しんでいるようだった。
257 私は官費で通える女子師範学校を出て教員になり、経済的に自立してから、自分の好きな勉強をしたいと考え、経済的支援を求めて、叔父にその話をしたが、叔父は受け入れてくれなかった。
259 叔父は私を祖母とともに浜松へ行かせ、後からやって来た。叔父は話が済むと、その日のうちに帰ってしまった。叔父は私が瀬川と遊んだことを理由に、父が持ちかけていた私との縁組を拒否したようだ。261 
263 たかのさんは父の妻である。
266 賢ちゃんは私の弟で、三つの時に父に引き取られていた。
270 賢ちゃんは中学に合格できた。賢ちゃんの通学用の靴の値段を実際よりは高く言う父を、私は父に聞こえるように批判した。父は私に暴力を振るい、「出て行け」と言った。父は家系や法律を重視し、賢ちゃんを法律関係に進ませたがった。しかし私は、父が賢ちゃんに強制するのを好まなかった。

280 東京の大叔父(祖父の三番目の弟)を頼って東京に出た。大叔父は古物商をしていた。
284 大叔父の長女の花枝さんは、婿として継母(はは)の甥の源さんと結婚させられていた。
288 電柱に貼られた蛍雪社(白旗新聞社)の求人広告には、「苦学奮闘の士は来たれ」と書かれていた。
292 私は英語を正則で、数学を研数学館で、漢文を二松学舎で学ぼうと学費を払ったが、二松学舎には一度も行けなかった。私は女学校検定試験を受け、女子医専に行くつもりだった。
293 白旗新聞社の従業員の中には、藤田、吉田、奥山という苦学生と、一般社員の「腕の喜三郎」(元工員で右腕をなくした男)、「長髪」、「ハイレキ」などがいた。
294 早稲田の哲学科を卒業した平田さんもいた。
297 路傍での新聞販売は4pmから12amまでの八時間労働であった。
299 新聞販売をしていた場所の近くで、救世軍が路傍で説教し、社会主義者が演説やビラ貼りをしていた。仏教救世軍も来た。
300 その社会主義者に原口という男がいて、パンフを40円のところ、原価の20円で売ってくれた。私は「仲間」になった。彼らは巣鴨の労働社の人たちだった。初めて私に本を渡そうとした男は高尾だったが、(仲間割れでもしたのか)高尾は米村に殺された。
305 同じ研数学館に通う学生で、伊藤という救世軍の軍人がいた。彼はキリスト教徒で、獣医学校の学生だった。
307 白旗には先妻と後妻と、さらに他にも女がいた。
311 夜中の12時に白旗の後妻が私の部屋で金勘定をするので、私はやむなくその間お勝手仕事をし、寝るのは午前1時から2時くらいだった。朝は7時に起き、子どもの通学の付き添いまでやらされた。朝の授業には1時間から2時間遅刻することが多く、居眠りばかりしていた。体が言うことをきかないのだ。
312 私は白旗新聞社を出ようとしたが、12円から13円の前借金があり、伊藤や原口(社会主義者)に相談しても頼りにならなかった。そして私が辞めそうだという話を耳にした白旗は、私を急に首にした。私が出るとすぐ、白旗は大叔父に私の借金を払わせたとのことだ。

315 私は伊藤に紹介された萩原という救世軍小隊長のところへ行った。ちょうど集会があり、伊藤も来ていた。私は救世軍の仲間になった。
319 伊藤は湯島の新花町に間を借りてくれ、伊藤の知り合いから粉石けんを買ってくれ、私は粉石けんの露店商人になった。
324 仕事の上がりは夜の10時で、11時頃帰宅した。遅くなって起こしては悪いと思い、神田明神の見晴台で野宿したこともあった。
325 私は露天商では上がりが少ないので、行商に転じてみた。
330 学校は正則だけにして、数学はやめた。学校では社会主義者の妹の河田から、弁当の一部をもらった。
332 代数の参考書を古本屋で売った。伊藤がたまには食事代を出してくれた。伊藤が私に日曜礼拝に必ず出て、奉仕もしなければならないと言ったので、私は言われる通りに、日曜礼拝に出て、下宿の便所掃除もした。
333 私は3日間何も食べなかった。伊藤が払ってくれた間代が切れて、私は追い出された。キリスト教の教えることは、ごまかしの麻酔剤に過ぎないのではないか、欺瞞ではないかと思う。

335 秋原(救世軍小隊長315)の世話で浅草聖天町の仲木砂糖店の女中になり、学校はやめた。337
仲木家には若夫婦の夫の弟の銀さんと、その下で末の伸ちゃんがいた。伸ちゃんは学校に通っていた。338 
社会主義者の、河田330の兄が印刷所を経営することになり、私はそこでの仕事を河田に勧められた。学校にも通えるという。しかし仲木家の大奥が私を引きとめ、その年いっぱいはとどまることになった。340
河田は伊藤への私の借金も肩代わりできるとし、25円送金してくれていた。私が今年中は仲木家で働くことになったからいらないと言っても、河田はそれを受け取らなかった。そこで私はこの25円を伊藤に送った。
342 私は伊藤にさらにお金や座布団や枕を送った。11月30日、伊藤は私に愛の告白をすると同時に、もうこれを限りに会わないと言って去った。

348 伸ちゃんは7時に家を出て学校に行き、銀さんは10時起床、大奥は11時に起床し、夜中の1時2時までしゃべっている。だから私は5時起床、午前2時就寝とならざるを得ない。
350 仲木は12月31日までの3ヶ月と1週間の給料として、僅か15円しかくれなかった。

352 私は「主義者」の間を一、二箇所居候した挙句、大叔父の家に戻った。大叔父から月5円の小遣いを貰って、学校へ通った。2円は月謝、2円30銭は電車賃。朝5時起床。
353 学校での知り合いに徐がいる。徐は社会主義者で、休み時間に『改造』を読んでいた。徐は一年後、朴(私が一年後に同棲した男)や私と機関紙を出したり運動したりした。しかし彼は病弱で、郷里の京城に帰って、私が入獄した最初の冬に病死したらしい。
354 もう一人の学校での知り合いの大野は、東京電鉄ストで首になったことがある「信友会」員だったが、「でも社会主義者」だった。
355 社会主義思想は今までの私の生活を整理してくれる理論だった。私は生命を犠牲にしても闘いたい

355 突然瀬川に会った。瀬川は私の消息を追っていたのだ。瀬川は役人になっていた。
356 父から4円だったか7円だったか送金があり、一度帰って来いというので、浜松の家に帰ったが、また喧嘩になって出た。
357 次に甲州の母のところに行ってみたが、母は田原家を出て、独り精糸場で働いていた。
358 私は八月末東京に帰った。瀬川博361の下宿へ行った。
360 瀬川の友人が二人来ていた。朝鮮人の(日本名は松本)とである。
361 瀬川は私に子どもができても「知らない」と言う無責任な男だった。瀬川は私をおもちゃにしていたに過ぎなかったということが分かった。
363 玄は東洋大学哲学科の学生で、朝鮮京城の資産家の一人息子だった。無責任な瀬川が、玄と話している私に干渉したので、私は彼に怒鳴りつけた。
369 玄から社会主義者の久能女史が病気だという電話があって行ってみると、それは嘘だった。久能は三木本と大阪に行って不在とのこと。久能は私の着物を質流ししてしまっていた。私は労働社や社会主義者は信じられないと思った。

377 寺の叔父が病気で、東京の病院で診察してもらうために、大叔父を訪ねてきたので、わたしは叔父を連れて病院めぐりをした。叔父はやつれていて、私は別れるときこれが最後の見納めだと思った。
378 趙や玄はドイツへ留学するという。「それは結構です」と私は言った。玄は私に、一緒に住むための家を捜そうなどと言っていたのだ。

380 私は日比谷の小料理屋で働くことにした。主人は社会主義の同情者で、私の夜学校の月謝と電車賃を持ってくれた。
学校で新山初代に会った。初代は当時21歳で、郷里は新潟だった。
381 初代の父親は、初代が女学校2年の時になくなった。
382 初代は府立第二か第三を優等で卒業したが、妹がいたので、タイピストになって、正則の夜間部で英語を勉強していた。
384 私は初代から『労働者セイリョフ』や『死の前夜』などの本を借りて読んだ。初代から、ベルグソン、スペンサー、ヘーゲルや、スティルネル、アルツィバーセフ、ニーチェなどの思想を、少なくともその名を知った。
学校近くの、玄の友人鄭の下宿で、玄から私宛の手紙を読み、「母が危篤のため急いで出立した」とあったが、それもまた嘘だった。
鄭が発刊しようとしていた月刊誌の最後にあった詩に私は感動した。その詩の作者は朴烈であった。
385 私は苦学するのをやめた苦学しても偉い人間になれるはずがない、偉い人間は下らないということが分かったからだ。
389 今夜美土代町の青年会館で開かれる「社会思想講演会」に初代を誘って行った。
389—390 すばらしい筆者の決意をまとめた一文がある。(後述)
391 鄭の宿へ行き、朴烈に会った。
392 朴烈は、中華青年会館でのロシア飢饉救済音楽会に参加していたのではないかという私の質問に答えず出て行った。
395 私は朴烈を待ったが、彼は現れなかった。私はタイピストになろうかとも思った。3月5日か6日ころ、朴が私の店にようやくやってきた。
399 私は朴に求婚した。
401 私は朴が独立運動をする民族運動者ならいっしょになれないと朴に言った。
402 朴は慶尚北道の農家で常民として生まれた。彼の父親は、彼が4歳の時なくなった。彼は7歳の時村の寺子屋に通い、9歳の時新設された普通学校に通った。百姓もした。
朴は15歳の時大邱の高等普通学校に合格し、早稲田の講義録を取り寄せた。
朴は民族運動では指導者が変わるだけだと考え、17歳の時東京へ出た。口や筆への興味を失った
404 朴は木賃宿での生活や秘密出版を私に提案した。私がクロポトキンの『パンの略取』の翻訳を提案すると、朴は自分たち自らの言葉で書きたいと言った。
私は学校を卒業してから朴と一緒になることを心の中で朴に提案した。

以上


389—390 筆者の決意をまとめたすばらしい一文がある。おそらくこれはアナキストの立場なのだろう。(抜粋)

 この頃から私には、社会というものが次第に分かりかけてきた。今までは薄いヴェールに包まれていた世の相(すがた)が段々はっきりと見えるようになった。私のような貧乏人がどうしても勉強も出来なければ偉くもなれない理由も分かってきた。富めるものがますます富み、権力のある者が何でもできるという理由も分かってきた。そしてそれゆえにまた、社会主義の説くところにも正当な理由のあるのを知った。
 けれど、実のところは私は決して社会主義思想をそのまま受け入れることが出来なかった。社会主義は虐げられたる民衆のために社会の変革を求めるというが、彼らのなすところは真に民衆の福祉となり得るかどうかということが疑問である。
 「民衆の為に」と言って社会主義は動乱を起こすであろう。民衆は自分たちのために起(た)ってくれた人々と共に起って生死を共にするだろう。そして社会に一つの変革が来たったとき、ああその時民衆は果たして何を得るであろうか。
 指導者は権力を握るであろう。その権力によって新しい世界の秩序を建てるであろう。そして民衆は再びその権力の奴隷とならなければならないのだ。しからば、××(革命)とは何だ。それはただ一つの権力に代えるに他の権力をもってすることにすぎないではないか。
 初代さんは、そうした人達の運動を蔑んだ。少なくとも冷ややかな眼でそれを眺めた。
 「私は人間の社会に対してこれといった理想を持つことができない。だから、私としては先ず、気の合った仲間ばかり集まって、気の合った生活をする、それが一番可能性のある、そして一番意義のある生き方だと思う」と、初代さんは言った。
 それを私たちの仲間の一人は、逃避だと言った。けれど、私はそうは考えなかった。私も初代さんと同じように、既にこうなった社会を、万人の幸福となる社会に変革することは不可能だと考えた。私も同じように、別にこれという理想を持つことができなかった。けれど私には一つ、初代さんと違った考えがあった。それは、たとい私たちが社会に理想を持てないとしても、私たち自身には私たち自身の真の仕事というものがあり得ると考えたことだ。それが成就しようとしまいと私たちの関したことではない。私たちはただこれが真の仕事だと思うことをすればよい。それが、そういう仕事をすることが、私たち自身の真の仕事である。
 私はそれをしたい。それをすることによって、私たちの生活が今ただちに私たちと一緒にある。遠い彼方に理想の目標をおくようなものではない。

感想 私の立場はこれと異なる。これは良いと同時に悪くもある。良いというのは、気楽で、自分の現実を肯定できるからだ。悪いというのは、それは自己満足にすぎない、政治権力が社会全体に及ぼす影響を見ていない。それは「逃避」だと本文では言っている。
これは共産党に対する見方にも及ぶ。アナキストは言う。共産党も支配者だ。共産党の支配下でも民衆の生活は以前と変わらないと。しかし、私は永遠の過渡期と捉えたいのだ。そうでなければ進歩を放棄することになる。共産党を修正して行かなければならない。それは今の日本会議を修正しなければならないのと同じだ。好きなもの同士の殻に閉じこもっていてはいけない。
ただし再読してみると、彼女が最後で語っている「自分の仕事」は、案外私が考えていることと同じなのかもしれない。2019411()


金子文子年譜

429 転居先の山梨県小袖は、母の第三の夫(愛人)小林の郷里である。1910
430 次の転居先の山梨県杣口は、母の実家である。1911
431 本文に出てくる寺院名や人名が、実際と異なるものが二つある。

一つは、本文で彗林寺は、実は恵林寺、1919
もう一つは、本文で救世軍の伊藤は、実際は鈴木音松である。1920


解説 山田昭次

410 1924.1.22、文子は東京地裁での尋問で、皇族や政治の実権者に対する爆弾攻撃をばらした。「両者の階級に対し爆弾を投げ様かと考えたこともあり、朴と同棲後其の話合をした事もあった位であります。」(再審準備会編『金子文子・朴烈裁判記録』黒色戦線社、1977
1924.1.25、尋問で、文子は、皇族と政治の実権者に対して爆弾を投げるために、朴烈と相談の上、朴がアナーキスト金重漢に、上海からの爆弾入手を依頼したことがあったと陳述した。(前掲書)
412 1925 夏か秋、文子は本書を執筆し始めた。

413 1926.3.25、若槻礼次郎首相は死刑判決後、死一等を減ずることを摂政宮(後の昭和天皇)に上奏した。
1926.4.5、恩赦で無期懲役に減刑された。若槻首相「聖恩の広大なる事誠に驚懼の至りに堪えません」
江木翼(たすく)法相「我が皇室の仁義の広大である事を証するもの」
414 文子は減刑状を破り捨てた。朴烈は受け取りを拒否したが、秋山要・市ヶ谷刑務所長の途方にくれた顔を見て、「君のためにその恩赦状を預かってやろう」と言って受け取った。
秋山要市ヶ谷刑務所長「朴烈と文子は感謝して受け取った」と記者団に発表した。

414 文子の死後について。
415 1926.11、文子の遺骨は、朴烈の故郷である韓国慶尚北道聞慶郡麻城面梧泉里の北方8キロの同郡聞慶面八霊里の山に埋葬されたが、憲兵は墓参を許さなかった。
415 1973.7.23、墓碑『金子文子女史之墓』の除幕式が、前記の墓地で行われた。
2003、前記の墓は、韓国の朴烈の実家の裏に移された。
428 2012.10.9、韓国慶尚北道聞慶郡麻城面梧泉里に、朴烈義士記念館が設立された。

416 1903.1.25、文子は横浜市で生まれた。
426 1922.4・5、東京府荏原(えばら)郡世田谷池尻の下駄屋の相川新作の家の二階の六畳の間を借りて朴烈との結婚生活を始めた。
426 1923.3、東京府豊多摩郡代々木富ヶ谷の借家に転居した。
427 1923.4中旬、朴烈と文子は不逞社を組織し、最初の集まりを持った。

416, 425 朴烈について。
1902.3.12、慶尚北道聞慶郡麻城面の地主の家で誕生したが、その後朴の家は没落し、慶尚北道尚州郡化北面の小作人となった。
1919.3.1、独立運動に参加し、独立新聞を発行した。
1919.10、東京に来た。
1920.11、朝鮮人苦学生同友会が設立され、幹部となった。
1921.10、無政府主義や社会主義の在京朝鮮人学生や労働者で組織された義挙団に加入し、上海から爆弾を入手して東京と京城で同時に使う計画を立てた。
1921.11、朴烈、鄭泰成、白武、金若水などの、無政府主義思想に共鳴した在日朝鮮人が、黒濤会を結成した。
1922.7.10、黒濤会の機関誌『黒濤』を創刊した。
 朴烈は、ソウルの金翰(ハン)を通じて、日本の支配者や朝鮮人親日派に対する暗殺計画を目的として中国東北地区吉林に朝鮮人が結成した義烈団から爆弾を入手しようとしたが、実現できなかった。
1945.10.27、秋田刑務所から出獄した。
1946.1.20、新朝鮮建設同盟を組織して委員長に就任した。
1946.10.3、前記同盟が、在日本朝鮮居留民団(民団)に改組され、その委員長に就任した。1949.4.1・2、民団全大会で団長選挙に敗れた。
1950、韓国に帰り、朝鮮戦争中に北朝鮮に連行された。
1956.7.2、在北平和統一促進協議会の常務役員となった。
1974.1.17、死去。享年77歳。

414 文子は自伝の原稿と、その添削についての希望も添えて、不逞社の仲間である栗原一男に渡した。文子の死後五周年にあたる1931.7、『何が私をかうさせたか』が、栗原の回想「忘れ得ぬ面影」を添えて出版された。
 1926.7.23 早朝、文子は宇都宮刑務所栃木支所で、麻縄で首をくくって自殺した。

参考文献 山田昭次著『金子文子――自己・天皇制国家・朝鮮人』影書房、1996

感想 2019412()
 文子が皇族や政治の実権者に対する爆弾攻撃の計画をばらしたのは大逆事件1911の後だから、文子が大逆罪を知らなかったはずがないと思われるのだが、なぜばらしたのか。類が朴烈を始め、仲間に及ぶことが分からなかったはずがない。なぜか。ひょっとして彼女は、そんな配慮などどうでもいい、死などどうでもいいなどと考えていたのだろうか。それが彼女の美学なのだろうか。それとも拷問のせいでばらしたのか、詳細は分からない。

2019年4月5日金曜日

『「慰安婦」公娼説を論駁する 国際公聴会の証言を読んで』金井正之 2019年4月3日(水)


『「慰安婦」公娼説を論駁する 国際公聴会の証言を読んで』 金井正之 201943()


序言 

右翼は言う、戦前の「慰安婦」事業に日本の軍事政権は関与していなかった、従って「慰安婦」は、戦前まで一般的に行われていた公娼だったとしか考えられないし、また商売なのだから、強制的に連行したなどとも考えられないと。この説は本当なのだろうか。そう考えたい右翼は、戦前の日本軍が一般市民である少女を性奴隷にするために各地に連れて行ったなどというみっともないことを認めたくないのだろう。日本軍がそんなことをするはずがないと。だから彼らは、一般市民の強制連行だったと認める人たちを「日本を貶める」とか「国賊」とか「売国奴」などと言うのだろう。
しかし本当だろうか。以下『昭和天皇の終戦史』(吉田裕 岩波新書 1992)と『「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録』東方出版 1993.5 の証言に基づいて論駁する。



①強制連行での軍関与の否定をほのめかす2007年の閣議決定

安倍晋三が「人さらいのように連れて行った事実があったかどうか証明されていないことは閣議決定している」*(2012.11.30付『日経』)と言う中の「証明されていない」とは、「旧日本軍の資料によって証明されていない」ということであろう。ここで安倍が、旧日本軍の資料のような、最初から見つからないと分かっている資料を見つけようとし、それをあたかも資料が廃棄処分されずに沢山残っているかのようなそぶりをし、それを調べてみて見つけられなかったという欺瞞的な言辞をはいていることに注目すべきだ。

*「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行直接示すような記述も見当たらなかった」と閣議決定した。*
*ネットで調べてみると、これは2007.3.16の、「辻本清美君提出の質問に対する答弁書」を指し、それが閣議決定された後に示されたということらしい。

安倍はこうして「元『慰安婦』の証言の裏づけとなる資料は無かった。だから元『慰安婦』の証言は信憑性に欠け、疑わしい」という結論を導き出すのだろう。
また「直接」という表現の中に、「人さらい」ではなく「騙して連れ去ること」は含まれないということを含意しているようだ。ずるい表現だ。そしてその含意は、「騙すことは強制ではないから許される」ともとれる。1992年1月、吉見義明・中央大学教授が防衛庁図書館で発見した、旧日本軍が慰安所設置や慰安婦募集統制に関与していたことを示す資料は覆せないことを意識した表現なのだろう。騙して連れ去ることは強制ではなく、同意なのだろうか。後に示す元「慰安婦」の証言を一読されたい。


反証① 最初から見つけられないと分かっていて資料を見つけようとしたということの根拠

市ヶ谷の陸軍省や参謀本部は、駐留軍が上陸するまでの二週間に証拠隠滅の為に書類を延々と燃やし続けたと言う。

『昭和天皇の終戦史』(吉田裕 岩波新書 1992)によれば、

機密文書の湮滅(いんめつ) ニュルンベルク裁判では、ドイツ国内に進攻した連合軍が押収したドイツ側の文書の中から、ナチスの犯罪を立証できる証拠書類を入手できたが、東京裁判では、連合軍の日本本土への侵攻直前に「終戦」となり、ポツダム宣言の受諾決定から最初の米軍先遣隊が厚木飛行場に到着する八月二八日までのほぼ二週間の間に、日本側は軍関係文書を焼却した。「終戦の聖断直後、参謀本部総務課長及び陸軍省高級副官から、全陸軍部隊に対して、機密書類焼却の依命*通牒が発せられ、市谷の黒煙は、8.14から16までつづいた。」(元陸軍大佐の服部卓四郎『大東亜戦争全史』)
*文書などによる代理権による命令。
176 憲兵司令部は、8.14・15日、「秘密書類の焼却」を各憲兵隊に通牒を発し、8.20日、再度通牒を発し、「引き出しの奥」「机の脚の下等に挟んだもの」「棚の奥または下等に落下したもの」「焼却場に焼き残りたるもの」「参考書に綴じ込みたるもの」「床下に散乱せるもの」「家宅捜査を考慮して各自の私宅に所有しある書類ならびに手紙類にいたるまで全部調査焼却すること」と徹底した。(「極東国際軍事裁判速記録」第148号)
177 軍の焼却命令は、市町村レベルの兵事文書にまで及び、警察のルートを通じて、陸海軍の動員関係の書類の焼却が、各市町村の兵事係に命じられた。そして動員関係以外の兵事文書まで全て焼却してしまったようだ。(『村と戦争』)
 また軍は、各新聞社に対しても、「戦争に関する記録写真をすべて焼却すべしという圧力」をかけ、毎日新聞社などを除く多くの新聞社で、フィルムや乾板の処分が行われた。(『新聞カメラマンの証言』)

安倍日本会議は、河野談話における「軍の関与」がよっぽど気に入らないらしい。あくまでも「公娼」や「商売人」だったとしたいらしい。証拠資料を燃やしたり、嘘をついたりするのは、彼等にも悪いことをやってしまったというそれなりの良心のかけらがあるのだろうか。


②1994.5、永野茂門(しげと*)法務大臣が「慰安婦は公娼であり、それを今の目から、女性蔑視とか韓国人差別とかは言えない」と発言し、アジア諸国から反発を受け、引責辞任した。

*永野茂門1922—2010 は、日本陸軍軍人及び陸上自衛官で、退官後、参議院議員を二期務めた。

③1996.6、奥野誠亮(せいすけ、せいりょう*)・自民党「明るい日本」国会議員連盟会長は「慰安婦は商行為強制連行はなかった」と発言した。

*奥野 誠亮(おくの せいすけ、1913年(大正2年)712 - 2016年(平成28年)1116日)は、日本の内務官僚、政治家。「おくの せいりょう」と呼ばれることもある(有職読み)。浪速製氷冷蔵社長、奈良県議、御所町長を務めた奥野貞治の子。

奈良県御所市出身。みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会初代会長平城遷都1300年記念事業協会特別顧問。奈良大学理事。

第二次世界大戦中の昭和18年に鹿児島県警察部特高課長として新興俳句弾圧事件の一つであるきりしま事件を指揮。

長崎への原爆投下がされた翌朝に、内務省が各省庁の官房長を集めて会議を開いたが、当時、同省地方局戦時業務課の事務官をしており、ポツダム宣言に「戦争犯罪人は処罰する」(第10条)と書かれていたため、戦犯を出さないように公文書の焼却(=証拠隠滅)を提案した[1]。(出典は「戦後70年 あの夏 占領前文書焼却を指示元法相 奥野誠亮さん」読売新聞 2015810日)

④2013.5、橋下徹大阪市長が、「慰安婦制度は世界各国の軍が持っていた」「慰安婦制度は必要だった」「米海兵隊は風俗業を活用して欲しい」と米を挑発した。

 前記②③④のように、「慰安婦」は本当に公娼だったのだろうか。ただし、④は、②や③と違って、軍による慰安婦制度の存在を公言しているだけに、さらに挑発的である。


反証②

金学順さんの証言ばかりが元慰安婦の証言ではない。次の証言を読むと「軍の関与がなかった」などとても言えないことが分かる。元慰安婦の証言は生々しい。

『「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録』東方出版 1993.5(英語版は1993.6)によれば、

韓国馬山*出身の元「慰安婦」の女性姜順愛(カンスネ)は「弟よ、私を避けないで」と題して、次のように証言した。(段落最初の数字は英語版のページを示す。)

*馬山は釜山の西方にある。

016 私が11歳の時、私の家族は永久の住処とすべく、私たちの故郷である慶尚南道(South Kyongsang Province)の馬山に戻った。私は1927年12月15日、東京で生まれ、11歳の時までは、韓国と日本とを行ったり来たりしていた。

父、母、兄弟の苦悩

父は16歳の時、測量技師として、釜山の影島Yongdo橋の建設現場に連行され、強制的に働かされた。その橋が建設されると今度は日本に送られ、東京の橋の建設の測量技師として働かされた。父は韓国に一時的に戻るとすぐに母と結婚した。結婚一ヶ月後、父は日本に戻り、私の姉が二歳になるまで、韓国に戻らなかった。この時一家はそろって東京に移住することになり、そこで私が生まれた。私が三歳の時、私たちは韓国に戻り、そこで弟二人が生まれた。
 私が7歳の時、また日本に行くことになった。今度は私の伯父も同行した。父は京都のトンネル工事の現場主任として掘削作業にあたり、母はそこで200人の作業員のために食事を用意した。ある日韓国人の作業員が、シャベルで頭を殴られた。彼が一瞬背を伸ばそうとしたことが、勤務怠慢だとされたのだ。その作業員が血を流して地面にくず折れると、父は怒って日本人に頭から突進した。父は投獄された。
 父が解放されてから数ヶ月後のこと、ある日本人が母の左手の甲を日本刀で切りつけた。食事を速く出さないからと言うのだ。母の四本の指の筋が切られた。父はその日本人の首を殴りつけた。父はその男を殺しはしなかったが、また父は投獄されることになった。
017 姉は10歳の時、ある日本人に連れ去られた。その男は、姉が大村武夫という日本人警官の家族の子守になるだろうと説明した。当時私は8歳だったが、それ以来姉の消息はない。
 私が「慰安婦」の生活を終えて家に戻ったときには、Tae Jinという私の上の方の弟は亡くなっていた。日本人警察官の岩本という男に、刀剣の鞘で殴られて死んだのだ。母と一緒に飲み水の配給をもらいに行ったとき、その男が退けと言って弟を殴り、殴られた弟は冬の凍りついた地面にくず折れて死んだのだという。弟が11歳の時であった。

日本の国歌「君が代」を歌うことと引換えに米の支給

 私が14歳だった時の4月、1941処女供出」がますます激しくなった。当時の韓国人は、日本人警察による若い韓国人女性の捕獲のことをそう言っていた。私は捕獲されるのではないかと恐れ、14日間火葬場の中に隠れていたが、結局家に戻った。当時既婚女性は捕獲から免れていたので、母はピニョpinyoという既婚女性だけが普段身につける簪を作ってくれた。母は割り箸でこれを作り、私が警察に未婚だと分からないようにしてくれた。
 ある日私はこの簪を身につけて小麦の麩(ふすま)を集めに母と一緒に新馬山の埠頭にある精米所に行った。当時村人たちは新馬山駅の前で月に一度配給品を受け取っていた。私たちは僅かな米と二合(0.36 リットル)の小麦と靴(komshin)を配給されていた。日本人が私たちに彼らの国歌を歌えと言い、私たちが歌えなかったり、歌わなかったりすると、何もくれなかった。私の祖母が彼女の配給品を受け取りに行った時、祖母は日本の国歌を歌えず、結局泣きながら手ぶらで帰って来た。
 精米所で小麦の麩を集めていると、30歳くらいの、村長の息子Kim Yong Maが、二人の軍人と一人の警官とともに近づいてきて、私の祖母が君が代を歌えず、これから配給品を受け取れないことになるだろうし、私なら君が代を歌え、祖母の配給品も受け取れるだろうからと言って、私に配給品を受け取りに行ったらどうだと言った。すると警官が私の腕を掴み、私を配給所に連れて行った。私は役人の前で君が代を歌い、米を受け取った。その米の量はいつもの二合よりも多かった。私はさらに缶詰と、弟や祖母のための黒いゴム靴を二足もらった。この話が村中に広まると、村人は、これまで隠れていた娘を配給所にやり始めた。これはおとりだった。警察は馬山の娘を捕らえることができた。捕獲された少女たちの数は、総計14人であった

以上読んでみると、これは騙しである以上に、村長、警官、軍人が関わり、腕を掴んで連れて行くなど、実質的に「強制的」であったと言える。
それとこれは国家的・組織的・計画的な事業であり、業者が売春婦を連れ歩いていたというレベルの話ではないことが分かる。

日本軍人に捕獲される

1941年4月中旬、私が配給品を受け取ってから三日後に、私は祖母の誕生日の準備をするために祖母と新馬山の市場へ出かけ、市場で購入したいわしをかごいっぱいに詰め込んで家に帰って来た。家に着くと腕に赤い腕章をつけ、銃剣を肩に担いだ三人の軍人が来ていた。彼らは私について来いと命令した
019 父がいきなり家の中から出てきて、軍人の一人の制服の襟を掴み、自分の首を指差しながら、「娘に何かする前に、俺を殺せ!娘は連れ去らせないぞ!」と叫んだ。軍人が父を押しのけると、父は釜のそばの地面に倒れた。父は包丁を掴み、立ち上がって軍人に襲い掛かろうとした。そうすると軍人は冷静になり、父に煙草一箱を渡し、私が日本に行って「大阪仲子(ナカシ)(?)」会社に勤めれば、お金を稼げ、専門的な技術を身につけ、二人の弟が勉強するのを助けることもできるだろうなどと説明した。結局父は家の中に引きこもり、母は気を失ってしまった。(こういうのを強制連行というのではないか!)
 私は鞄に荷物をまとめて軍人の後について行くしかなかった。後で知ったことだが、父はこの事件で馬山刑務所に拘留されたとのことだ。父は「赤城」とか言う裁判官の助けで釈放された。しかし、父は私に会いに釜山に来た時、このことを話してくれなかった。とは言っても、父はその時刑事に付き添われていたのだが。
 例の軍人は私を釜山駅前の蓮池洞Yongji-dong 大東旅館“Daito(?) Innへ連れて行った。旅館の前庭には警備員が配置されていた。中にはおよそ10人の女の子がいた。それは1941年4月中旬のことだった。私たちはそこで特に何をすることもなく一週間過ごした。私たちの滞在中に女の子の数が10人から35人に増えた。その中には、大邱出身で16歳のカン・クンスン “Kang Keun Soon” と14歳のカン・オクスン “Kang Ok Soon” 姉妹がいた。
 私たちはその旅館におよそ20日間いた。そのとき私たちは朝の5時半に起床し、中庭で30分体操し、「君が代」を歌い、その後訓練を受ける決まりになっていた。訓練は主に船酔い対策で、波の動きに逆らわないことだとか、口に糸を銜えることなどだった。
 出発前に私たちはそれぞれ、天皇の肖像が描かれた50銭(1銭=1円の100分の1)紙幣を渡された。また私たちは出発前に自分の家の住所と面会したい人の名前を書かされた。それから切手代として一人につき20銭徴収された。私は母の名前を書いた。しかし、翌朝10時に面会に現れたのは父だった。父は跪き、「順愛Soon E よ、我娘よ」と言って泣いた。

広島で「舞子」という名前をつけられた

 午後7時ごろ私たちは下関行きの船に乗り込んだ。下関に着くと、そこから広島行きの列車に乗り換えた。私たちが講堂(劇場)に着くと、私たちよりも前に30人の女性が来ていた。彼女たちは自分たちが韓国北部の有名なキーセン(芸者)でハチュンセン “Hee Chun Song” と呼ばれていると言った。彼女たちは年齢が20から30くらいで、満州に連れて行かれ、そこで二、三年過ごしたと言っていた。

キーセンが最初に慰安婦にされていたのか。キーセン以外にも公娼がいただろうから、そういう人達が最初に駆り出される可能性はおそらく高かったかもしれない。しかし、本証言で見るとおりの普通の女子も駆り出さなければ足りなかったのだろう。

 広島で私たち全員に日本名が与えられた。私には「舞子」という名前が与えられた。船の準備が整っていなかったので、私たちはそこで待機しなければならなかった。私たちは数ヶ月広島にいた。そこで私たちは船の乗り方を教えられたり、日本語の学習や体操をしたりした。またハチュンセン “Hee Chun Song” のお姉さんたちが、私たちに歌を教えてくれた。残りの時間は果樹園で作業した。みかんやイチジクを摘み取って箱詰めにした。私たちは果樹園で約2ヶ月働いた。
 私たちは夜間自由にトイレに行くことを許されなかった。それは私たちが逃亡するのを防ぐための予防的措置だったからだ。彼らは私たちがトイレに行く機会を利用して逃亡するのを恐れていたのだ。トイレに幽霊が出たという噂があり、それで私たちは夜トイレに行けなくなり、部屋の中のたらいを利用せざるをえなかった。しかし二人の女の子が実際トイレに行ったのだが、一人は気絶して死んでしまった。後で私たちは幽霊を捕まえたが、それは幽霊ではなく、二人の日本人の男と女だった。次の日、軍の高官が来て、私たちが夜トイレを使えるようにしてくれた。
 また私たちはこの講堂の近辺に、民家や売春宿があると聞いた。

船で連れ去られる

 5、6ヵ月後、私たち一人ひとりに、一重の着物やパンツ二枚、スニーカー一足、足袋(着物用の日本の靴下)一足、タオル、ハンカチ二枚、白粉、クリーム、櫛、爪切り、リボン、髪留め用のゴムなどが支給され、「すぐに家に帰れるから、心の準備をしておくように」と言われた。(ここでも嘘をついて騙す!)また私たち各人は50銭を与えられ、それで私たちはコチュジャン(韓国の香辛料)や唐辛子、ニンニクなどを買った。夕方近くに私たちは集まって喜んだ。
021 5日後、私たちは埠頭に連れて行かれた。その日の朝、私たちは夜明けに起こされ、「船のデッキに着くまで、よそ見をしないでまっすぐ歩け」「二列で歩け」「海面を見るな」などと注意を受けた。(私の記憶では、私たちが乗り物で埠頭までたどり着いたという記憶はない。)
 乗船後私たちは日本人将校から、命令に従っていさえすれば何も心配することはないと言われた。私たちが乗船すると、韓国北部出身のキーセンのお姉さんたちの姿が無いのに気づいた。船中で私たちは栗本准尉Sergeant Majorと木村軍曹Sergeant First Classの支配下にあった。二人とも神戸出身だった。
 翌朝トイレからの帰途、私は二人の韓国兵に会った。彼らはイム・チャンスIm Chan Soo少尉とヤン・オンチョルYang On Choi少尉だった。二人とも慶尚北道North Kyongsang Provinceの出身だった。彼らは17歳の時志願兵として徴兵され、これまで満州で軍務についていた。(満州から南方への作戦変更、対ソ戦から対米英戦への作戦変更に伴い、軍人も慰安婦も南方に移動されたことが分かる)二人が言うには、この船は女性たちを連行するために南太平洋に向かっているとのことだった。またこの船の名前は「水戸丸」といい、軍人を乗せた三艘の船と潜水艦という見張用の海中の船を伴っていると、ヤン・オンチョルYang On Choiが私に説明してくれた。
 港を出航してから三日目の午前3時ごろ、船の底を目がけてやって来る明るい火の玉が見えた。それから爆発音がし、同時にサイレンが鳴り始め、船が沈みかけた。体ごと海中に引きずり込まれるような感じがした。二人の仲間が海中に投げ込まれ、それ以後二度と姿が見えなくなった。
 デッキではドラやサイレンの音がし、私たちは海中に飛び込むように命令されていた。私はとても怖くてそんなことはできなかった。むしろ私は友達とこの船と一緒にこのまま海中に沈みたかった。しかし、軍人が日本刀で私たちを脅しつけ、海中に飛び込むよう要求した。私たちは大きな風呂敷で頭を覆って飛び込んだ。私の隣の女の子も飛び込んだが、彼女は海中に沈んでしまった。波が高く上がり、私は右ひざの関節を痛め、以後トイレに行けなくなった。さらに左腿が裂けた。今でもその傷跡がある。
022 幸運にも私はヤン・オンチョルYang On Choiに助けられた。午後の4時か5時ころ、上空を3機の飛行機が飛び交い、紅白の旗で合図を送ってきた。その合図の意味は、「心配するな。諸君を救助する。」という意味だった。その飛行機の後を海軍の救助船が着いて来た。
 私たちは海軍島に連れて行かれた。その島には海軍基地があり、事故現場の近くにあった。そこで私たちはパイロット用の制服や靴下、底の平らな靴、陸軍の下着などを支給された。その日遅く私たちは空軍の制服を脱ぎ、短パンと半袖の陸軍用の服を与えられた。
 辺りを見回すと、二人の女性が亡くなり、生き残ったのは33人だと分かった。海軍島を去る前に、私は軍の高級将校のところに行き、その足にしがみつき、家に帰してくれとせがんだ。そうするとその将校は「よし」といい、私の頭をなで、私と一緒に泣いた。しかし暫くして「大阪丸」という大きな船が来て、私たちは南太平洋の島に連れて行かれた。船には大勢の軍人が乗っていた。

目的地 パラオPalau島の陸軍慰安所

 (パラオ島はフィリピンの東方にある。)

 この船に乗船していたある人の話によれば、私たちが広島を出航してから1ヶ月と3日で南太平洋のこの島に到着したとのことだ。私たちはパラオ島の本土町にトラックで連れて行かれた。この目的地に着くと「陸軍慰安所」という看板が眼に入った。私たちよりも先に来ていた女の人達が、私たちを出迎えにやって来た。医者も来て私たちを診察した。それから私を含む一番若い10人の女の子たちが、慰安所に配置された。咸鏡道Hangyong Provinceの元山Wonsan出身のキム・オクスンKim Ok Soonという女性が、慰安所の管理をしていた。彼女は私たちにドレスやハイヒールを支給した。彼女は、品川という、慰安婦を管理する将校と暮らし、慰安婦を監督し、私たちが間違いをすると、時々私たちをはたいた。
 慰安所には、玄関を入って右側に三部屋、左側に三部屋、そして奥の方に将校用の七部屋が配置されていた。建物の両脇に巨大な水のタンクが設置されていて、飲料用に雨水をためていた。沖縄出身の女性約十人が慰安所で働かされていた。私の部屋は狭く、一枚の毛布で部屋全体を覆うことができるほどだった。
023 到着した翌日から慰安婦としての私の生活が始まった。最初の日は13人を相手にしなければならなかった。午前9時から午後9時までは下士官を、午後9時以降は将校を相手にしなければならなかった。将校たちは一晩中留まっていたが、翌朝の5時か6時頃には立ち去った。
 軍人はやって来ると、受付に切符を渡した。その切符には彼等が所属する部隊の名前とスタンプが押されていた。切符は集められ、およそ週に一度の割合で、それぞれの部隊に返却された。暫くの間私たちは週一度の検診を受けた。担当医はユロロ病院 “Yuroro(?) Hospital” の軍医だった。この検診はアルコール消毒と「606号」という注射だった。痛みがひどいときはモルヒネかアスピリンの注射もした。さらに痛みがひどいときは、催眠剤をくれた。
 軍人にコンドームをつけさせるために、上の棚にコンドームが備え付けてあった。しかし全く何も装着しようせず、私がつけるように頼んでも、私の忠告を受け入れようとしない人もいた。それどころか私の腹を蹴っ飛ばすのだ。幸運なことに私は性病にかからなかったし、妊娠もしなかった。しかし今でも私はすぐ息切れがする。
 戦争中そういう軍人たちは自分勝手なことをやった。例えば彼らは女性が準備に手間取るからと言って、女性の乳首を噛み切ったのだ。女性の胸や性器を銃剣で抉り取る日本人軍人さえもいた。私たちが準備に時間がかかるのは当然だった。私たちが軍用のズボンを着いていたので、すぐには脱げなかったからだ。後で私たちは簡単な衣服とスリップを支給された。
 そこに滞在中、私を含めた一番若い10人くらいが選抜されて、一時期ガスパンGaspan(?) のウイヤマシWiayamashi(?)やサイパンに派遣された。そこでも私たちは慰安婦として働かされた。一日およそ15人の軍人を相手にしなければならなかった。私たち一人ひとりは薬袋を支給され、マラリアの患者の治療にも当たった。
 パラオ(コロール島か)に帰る途中、空襲がますますひどくなり、女の子一人と軍人二人が亡くなった。
024 食糧補給が尽きると、ジャガイモを栽培し、私たちも百姓仕事をし、その収穫物で何とか生きながらえた。後になって米軍の空襲が激しさを増すと、私たちは6000人を収容できる防空壕を掘り、その中に逃げ込んだものだ。防空壕の外に20張りのテントを張って、それを慰安所として用いた。テントの外で軍人たちが列をなした。私たちはこのテントの中で、一日に20人から30人の男の相手をした。彼らは私が従順でないと思うと、日本刀で私の右目や額の下、首の後ろ、頭などを斬りつけた。今でもその傷跡が残っている
 戦争が益々激しくなると、山の中にテントを張り、そこで私たちは一日に50人から60人の軍人の相手をした。一日が終わる頃には、私たちは気を失ってしまった。大村准尉が私たちをかばってくれた。本当にありがたかった。
 逃亡はあり得なかった。ある女性が将校を刺したが、将校は死ななかった。彼らは土盛をして、その中に彼女を首まで埋めた。彼らは私たちを集め、彼女の首が刎ねられるのを見させた。あまりにもぞっとする光景だったので、私は今でも過敏症や心臓病、胃炎などに悩んでいる。

爆撃で数箇所の負傷

 パラオ島に上陸して数ヶ月後に再び空襲が始まり、ユロロ病院 “Yororo Hospital” が爆撃された。爆撃が激しさを増したある日、私は防空壕に避難するときに負傷した。爆弾の破片が私の体内に食い込み、私は土の中に埋もれてしまった。幸い4人の日本人軍人が私を助けに来てくれた。この時私は両肩の下部に深さ15センチの傷を負い、臀部の肉が爆弾の破片で抉り取られ、脚の一部が感染症で壊死した。私たちはウイヤマシ “Wiayamashi” 023があるガスパン島 “Gaspan Island” へ避難した。ところが彼らは私に最も恐ろしくひどい生活を強いたのだ。こんな状況の中でも、彼らは私に慰安婦として働かせたのだ。そして食糧も殆ど底をついていた。
 暫くして私はカン・ウンチョル Kang Eun Choi から、広島に原爆が落とされたと聞いた。
 米軍が上陸する前に、大きな飛行機が一機、上空を飛んだ。この大きな飛行機が越山部隊 “Koshiyama Unit” の上空を飛んでいた時、日本人が高射砲でこの飛行機を撃墜し、その飛行機はパラオ島の南洋神社の向こう側に墜落した。私たちが飛行機を探しにそこへ行くと、飛行機は破壊されていなかった。中で二人の女性と三人の軍人が死んでいた。食糧と軍用品もあった。私たちはその軍需品をいくつかの部分に分けて運んだ。その日の朝、私たちは発見した肉でスープを作って食べた。
025 後になって部隊の司令官が演説し、あれはアメリカの偵察機で、女性は高級将校の娘だと話した。この事件の後で、日本の将校たちが自殺した。私たちはびっくりして軍人に理由を尋ねた。彼等が言うには、東京である事件が起こったということだった。
 9月中旬、米軍が上陸して来た。彼らは私たちを集合させ、私たちは取調べを受けた。彼らは通訳を通して、韓国人、日本人、沖縄人に分け、一人ずつ写真を取った。それから私たちは解放された。遂に私たちは米軍が手配した船で韓国に帰ることができた。
 私たちが馬山に着いたのは、陰暦で1945年12月31日(陽暦では1946年2月16日)だった。翌日は私の19回目の元旦であった。
 私は一人前の女性として立派に生きていくことができないほど、全身に怪我をし負傷していた。当初私は結婚する機会がなかった。年老いた両親の世話をした後の、33歳だったころ、私は年下の夫にめぐり会えた。私たちはともに生活し、助け合った。彼が今年の3月に亡くなり、今私は全くの孤独である。私は生活の糧に花を栽培しているが、最近では視力が衰え、もう働き続けるのが難しい。医療費も大きな負担である。
 私は夫が死ぬ前は秘密を打ち明けたくなかった。私の過去が人にさらされるのは、ひどく恥ずかしかったからだ。しかしもうその夫も死んでしまったのだから、それに私のただ一人の生きている弟でさえ、私が慰安婦だったことをひどく嫌って私を避けることに対する憤慨が益々高じたので、私はこの忌まわしい社会に向って私の名誉を回復したいと強く思っている。
 私と同じ境遇の他の犠牲者たちが、人道的な行為を避け続けている日本政府を相手取って闘っていることを知り、言い表しようのない屈辱と迫害を受けた一人の人間として、私の経験を語ることによってこの問題を解決するために私の一生を捧げたいと私は決意した。
026 日本が過去の自らの残虐行為を改めなければ、国際社会からの非難を逃れることはできないだろう。こういう結末にならない前に、今私たちが直面している問題が解決できることを私は切に望んでいる。


 以上の証言から分かることは、次の通りである。

①この女性が公娼ではなかったこと。当時韓国では「処女供出」=「処女狩り」として、日本の警察による少女の拘引が一般に恐れられていたこと。
②会社での仕事だから稼げると嘘をつき、また道中でも家に帰れると言って嘘をつき、遠い南太平洋まで少女たちを連れ出し、監禁状況で「慰安婦」を強制した。
③逃げられないということは、将校を殺害しようとした女性が残虐な公開処刑されたことから分かる。
④以上のことから、慰安婦制度は、業者による事業ではなく、村長、警官、軍人などが行った国家的事業でなくてはできない大掛かりな事業だったことが分かる。
⑤日本人軍人の中にも、少女が家に帰りたいと泣いてせがむと、同情して一緒に泣いてくれる人がいたり、一日60人もの相手をさせられ、人事不省に陥った女の子の面倒を診てくれる軍人がいたりと、日本人の中にも、置かれた状況の範囲内で少女たちに配慮をした人もいたようだ。


以上
201943()



大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社1990

  大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社 1990       第一章 枝吉家の人々と副島種臣 第二章 倒幕活動と副島種臣 第三章 到遠館の副島種臣     19 世紀の中ごろ、佐賀藩の弘道館 026 では「国学」の研究が行われていたという。その中...