2020年11月10日火曜日

総動員法問答事件 佐藤賢了 1955年、昭和30年8月号 三十五大事件 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988 感想・要旨

総動員法問答事件 佐藤賢了 1955年、昭和30年8月号 三十五大事件 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988 感想・要旨

 

 

感想 2020119()

 

 

・佐藤の「黙れ」という脅し文句とクーデター説とで、議会は沈黙させられた。(軍部による政治支配権の確立409)それを佐藤が「曲解だ」409とするのは、佐藤が自分の立場と議会制度を理解していないことを示している。

 

・佐藤は軍人である、つまり実務家である。佐藤は議会制度の大切さが分かっていない。佐藤は東京裁判の結果獄中にいることの不当さを抗弁したいようだ。「獄窓から議会の諸事件を眺めて、議会政治はどこへ行くか。」とする。409

 

ウイキペディアによれば、佐藤は最年少のA級戦犯で、終身刑の判決を受け、1956年3月31日に釈放されたが、一番長く拘留された。

 

・当時の首相・近衛文麿は八方美人で総動員法の答弁に立ちたがらなかった。また答弁に立たないように唆した人が側近にいたようだ。406

 

・政府は総動員法の実態を詳しく知らなかった。406

 

 

「戦争を知れば知るほど人は自己中心的となる」(『昭和百人一首』の編者高崎隆治の発言の要旨)と言われる。軍人はその一人で、佐藤賢了は軍人だ。二・二六事件など「革新」派による政界襲撃事件が連続する中で、議会の中で「私の発言を妨害した」議員に向って軍人が「黙れ」と言い、そのことを軍内部では「反省」したと言いいつつ、黙れと言われた議員にはおそらく謝罪しなかっただろう。この事件の直後「クーデターのデマ」が「黒幕」から流された。(佐藤はその黒幕の名前を知っているのに、あえて明らかにしない。)それでは議会は沈黙するはずだ。それを佐藤は「その後審議はきわめて順調に進んだ」と嘯いている。軍部による議会圧殺はこれで完了したと言える。(軍部による政治支配権の確立409)しかし、佐藤はそれを「誤解」だと言ってのける。「曲解されたことは遺憾である」「野次を封じたに過ぎない」「真面目に答えようとして犯した過失」「議会政治の威信失墜の根元は、議会の腐敗(野次妨害、政権争奪の場、不真面目な審議、政府によるごまかしの答弁、謀略による威嚇)であり、それを軍部の圧迫のせいなどというのは見当違いだ」と言う。409

 

 

ウイキペディア 佐藤賢了 1895.6.1—1975.2.6 金沢第一中学校から陸士へ進学。

 

「やめさせろ、討論ではない」という野次が、佐藤の陸士時代の教官で立憲政友会の宮脇長吉らから飛んだ。それに対する佐藤の「黙れ」という発言は、政府側説明員に過ぎない人物の国会議員に対する発言として、板野友造らに問題視されたが、佐藤は席を蹴って退場してしまった。委員会は紛糾して散会となった。杉山元陸軍大臣が(委員会で)陳謝したが、佐藤は処分されなかった。佐藤は戦後のインタビューで「総動員法は必要だった。」「軍備のない平和など幻想にすぎない。」と語った。佐藤は死の直前まで大東亜戦争は聖戦だったと主張した。

 

 

要旨

 

編集部注

 

 政府は日中戦争の泥沼化に困窮していた。1938年2月、政府は国家総動員法を議会に上程した。この法案は憲法を無視すると政党は猛反発した。3月3日、陸軍省軍務局の佐藤賢了中佐は、議場で長々と説明中に、その発言を制しようとした代議士に向って「黙れ!」と怒鳴りつけた。このときは政党の最後の抵抗であった。

 

本文

 

405 支那事変は長期戦の様相を呈し、戦時体制を確立するために「総動員法」制定の必要が起ってきた。(アメリカはこういう直接的・強制的なやり方とは違った方法を取ったが、アメリカでも強制性は否定できなかったような気がする。 (“Over Here”)

 総動員法は、戦時立法である。資本主義が動揺し、政党政治が「腐敗堕落」し、そのため三月事件や二・二六事件など「革命的な」事件が頻発し、政局は混乱していた。この法律は、「革新」派と現状維持派との激突を予想させながら、(軍部内では)時代の脚光を浴びて登場した。

 

 総動員法は、経済的には自由主義的資本主義機構を国家的統制機構に変革し、政治的には政府の命令権を増大し、議会の権能を弱めるものであった。

 それは戦争遂行のために国家の総力を結集するためにやむを得ない措置だった。(そこまでして戦争をやるな。戦争を始めた軍部自身の責任を問え。)議会は「革新」の旋風が吹き荒れる(脅しの)中で、「現状維持」の「最後の牙城」を守ろうと反発した。

 

 1938年1月、議会が再開された。政界では倒閣運動、新党運動、電力(の)国家管理反対運動があった。この三つの運動は政府と議会との「衝突を希望する」点では同一だった。(そういう雰囲気の中で)「衝突の具として総動員法がうかがわれている」ことがわれわれ軍人の眼には映じた。

 

 総動員法の審議で紛糾が予想されたので、近衛首相になるべくこの法案の審議に出席しないようにと進言した人がいた。「不届き」な進言である。本会議に総動員法が上程された時、近衛首相は欠席した。

 

 牧野良三議員が最初に質問をした。

406 牧野議員は、総動員法が、法律で規定すべき事項を勅令に委任してある点を指摘し、「本法案は議会の立法権を政府に白紙委任するものであり、違憲である」とした。*

 

*これがどうして腐敗なのか。また総動員法では、国民の動員根拠が全て勅令に基いているから、議会は不要となる。ウイキソースによれば、第4条 徴用、第5条 総動員業務、第6条 雇用・解雇・賃金、…と第50条まであり、例えば、第4条「政府は戦時に際し、国家総動員上必要あるときは、勅令の定むるところにより、帝国臣民を徴用して総動員業務に従事せしむることを得。但し兵役法の適用を妨げず。」

 

 近衛が不在だったので広田外相が代わって答弁したが、広田はこれは憲法上の問題だからとして、法制局長官に答弁させようとしたため、議会が収まらなくなり、混乱して、休会となった。(政府が答弁できないということは、軍部と政府との調整が不十分だったせいではないのか。なぜ近衛だけの責任に転嫁するのか。)

 近衛が出席しないのは不誠意であり、私は憤慨した。

 

政府は爾後の審議の答弁を法律問題だからとして塩野司法大臣に答弁させた。塩野は総動員業務の実態に必ずしも明るくはなかった。(塩野が明るくないのは、軍部の責任ではないか。)

 

 議会側の反対気勢は日に日に高まった。

 「反対するだけ反対させておけばよい、決して否決など出来やしない。最後には必ず通過する、」と政府はたかをくくっていた。政府は議会慣れした老朽な態度だった。それは政党の無力に対する増上漫だった。政府は背後に軍部を控えているから、否決はできまいという安心感を持っていた。(既に軍国主義政治になっていたということだ。)

 

 近衛内閣は、政党内閣が絶え、「政局混乱」が続き、「革新」陣営から待望されていたが、近衛公は「革新」政策として具体的な案を持ってはいなかっただろう。近衛は、貴族院議長のような立場にあって、現状不満の訴えに耳を傾け、抽象的「革新」論に共鳴して「革新」派を喜ばし、その反面、現状維持派にも希望を持たせるという「白面」貴公子の程の良さが持ち味だった。それでも近衛は政局混乱の収拾のためになくてはならぬ一枚看板(この人しかいない)であり、近衛内閣が成立した時、各方面も、軍部もホッとして、大いに期待した。

 

407 本会議では政府側の不手際があった。その後の委員会でも反対論は議場を圧した。反対論の主なものは、違憲論と、「国民を犬猫同様に扱うもので、日本人の『忠誠心』を無視するものである」とする「水掛け論的な悪口」であった。

 

 政府が不用意な答弁をした。政府は反対の気勢を緩和する意味で、「本法を支那事変に発動する意志はない。さらに大きな戦争を予想して準備のために制定するのだ」と答弁した。

 私は直ちに法制局長官に答弁の訂正を求めた。

 法制局長官は「法案が通れば、いつでも発動すれば良い。答弁に拘泥する必要はない。」と言った。

 これはごまかしだ。また、支那事変に使われないのなら今制定する必要なないからとして審議未了にされる恐れがあった。

408 また「準備のためなら、準備規定だけに止め、実施規定は全部削除せよ」との議論が出た。(これが議会の腐敗か)しかしそれでは戦時立法としては無意味になる。

 

2月末、板野議員が実施規定の削除論を強調した後で、「この法案は若い軍人や官僚たちが起案したもので、政府の諸侯は分かっていないから、適切な答弁ができないのだろう。誰でもよいから分かった人が説明してくれ。」と言った。

これに私はバネ仕掛けの人形のように立ち上がった。私は当時陸軍省軍務課の政策班長で、中佐であり、政府委員の資格が与えられておらず、説明員だった。説明員は、議員の質問に応じて自ら進んで答弁する資格がなく、国務大臣や政府委員の指示により、かつ委員会の同意があって初めて、一定の限定された事項の説明ができるだけであった(が、佐藤は板野議員の言葉をいいことにでしゃばった。それを佐藤はこう言っている。)板野議員の「誰でもよいから説明してくれ」との要求は、私にとっては渡りに舟であったから、好機逸すべからずとして飛び出したのであった。(許可も取らずにいきなり発言したのか。)

 

「毎日毎日駄問・愚答と悪口雑言が繰り返されている」(横柄な言い方だ)のに、政府委員の後に座って、出るに出られず、歯がゆかった。

 

議員らは抽象論でなく具体的だったせいかよく聞いてくれた。30分近く長口舌をふるって問題の核心に入ろうとしたとき、宮脇長吉議員が立って、「委員長、この説明員にどこまで発言を許すのか」と食ってかかった。私は「誰でもよいから説明してくれとの要請に応じて説明しているが、止めろというなら止めます」と言った。(委員長は何をしていたのか。)

小川郷太郎委員長は、説明を継続させるべきかどうかを委員会に諮ったところ、ほとんど全員が継続に一致し、委員長の指示により私は説明を再開した。

すると宮脇氏がさらに立ち上がって、「私の発言を妨害した。」

私は「黙れ、長吉」とどなりつけた。長吉の部分は飲み込んだ。(同じこと)

委員会は混乱し、(佐藤自らが「混乱」をつくっているではないか)休憩が宣せられた。(ウイキペディアでは、佐藤は委員会が混乱・休憩となる前に、退場した。)

 

409 私は杉山陸軍大臣に𠮟られた。私は塩野司法大臣(その時の委員会出席大臣)に詫びた。私は爾後自発的に登院を遠慮した。(宮脇長吉や議会に対して謝罪しなかったのか。)

 この事件後、法案の審議は「きわめて」順調に進み(恫喝がきいたのか)、成立した。(戒厳令、緊急事態法、議会死滅法案の可決。ヒトラー(全権委任法)も同じことをやった。)総動員法成立は、「怪我の功名」と言われた。(これは「恫喝圧政」による軍部専制政治の確立ではないか。また、佐藤が軍部内では褒められていたということをこのことは物語る。)

 

 その裏側には「奇怪な」事件があった。事件直後、院内に「熱海会談」という次の「デマ」が流布された。

 

 「二・二六事件の一周年記念日の二月二六日に、陸海軍の少壮将校が熱海で会合して、「議会が国家の大事を忘れ」(これは思い込みに過ぎない)「蝸牛角上の内争」に耽る「暴状」に憤慨し、クーデターを目論んだ。佐藤もその会談に出席した。黙れ事件は会談の結果に基く計画的行為であった。」

 

 この事実無根デマ議会に相当の衝撃を与えたとのことだ。この謀略の主は、政界の黒幕某氏であり、その行為は、議会側を脅して、法案の通過と反政府的政争に水を差そうとするものだった。その黒幕氏は近衛内閣の熱心な擁護者だった。(知っているのなら、名前を明らかにせよ。追求だ。民主主義の意味が分かっていない。議会制民主主義を根幹から覆そうとする勢力が、政界にも、軍部内にも、一大勢力になって存在したことが、戦前の問題点か。)

 軍部が議場で議員を脅かし、黙らせ、総動員法のような強権法を押し通し、軍部の政治的支配権を確立するのに、私個人のこの「過失」が役立ったと「曲解された」ことは遺憾だ。(結果的にそうなったし、また佐藤自身の真意もそこにあったのではないのか。)

 東京裁判でもこのように印象づけられたかもしれないが、実際は「正反対」(曖昧な表現)で、私は「私の説明を妨害する野次を封じたに過ぎない。」(それは本質を捻じ曲げている。本質は議員の軽視であり、民主主義の軽視だ。)これはむしろ議員の「質問」にまじめに答えようとして犯した過失だ。

 

 いたずらに野次妨害をこととしたり、(議会を)政争争奪の場と化したりして、議会側が真面目に政策・法案等の審議に努力しないから(偉そうな)、政府側も議会ずれした老朽さを発揮し、他を言い(まともに正面から答えず)、ごまかし、瓢箪鯰(なまず)的な答弁をし、お茶を濁すのが、当時の議会の姿であり、そのため議会政治の威信は失墜した。(これは議会軽視の議会不要論ではないか。)議会政治の威信失墜はここにあり、軍部の圧迫など見当違いだ。

 戦後の議会は国政上で比重を増大したが、議会政治のまじめさは進化したか退歩したか、私にはわからない。議会で起こった最近の事件を獄窓から眺めながら当時を回顧し、議会政治はどこへ行くか、感慨ひとしお深いものがある。(民主主義の意義が分かっていない。)

 

昭和30年8月号 三十五大事件

 

以上 20201110()

 

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