2020年11月27日金曜日

運命の海戦 草鹿龍之介 1949年10月号  「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 要旨・感想

運命の海戦 草鹿龍之介 1949年10月号  「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

メモ

 

ウイキペディアによれば、

草鹿龍之介1892.9.25—1971.11.23  住友本社理事の長男。一高に合格したが、兵学校に進んだ。

 

1945年8月25日から総理大臣・東久邇宮稔彦王の命で鹿屋連絡委員長*になり、米進駐軍との交渉に当たり、1ヵ月後に任を終えた。10月15日、予備役に編入。

戦後は公職追放を経て、化学肥料会社の顧問を務めた。

 

*占領軍受け入れを担当する連絡委員会が厚木、横須賀、鹿屋の三ヶ所に設置された。武装の撤去、危険物の除去、進駐軍の受け入れ準備を促進した。

 

1942年5月27日~6月14日 ミッドウエー海戦に機動部隊の参謀長として参加。海軍中将。

編集部注の「運命の5分間」とは、ミッドウエー島攻撃のための地上爆撃用爆弾を空母攻撃用の魚雷爆弾に装着し直すのに時間がなく、その間に敵の攻撃を受け、爆弾を積んだ(赤城)艦上の飛行機54機が爆発して、54倍の威力となって船をやられてしまった。(この遠因は、情報収集能力不足)しかし、敗因として筆者は、空母にレーダーがなかったこと、ミッドウエー島奪取(奪還ではなく奪取。それまで日本が領有したことはなく、アメリカが領有していた。)を狙ったことで自身の位置が米側にばれたこと、偵察用の飛行機が不足していたことなども敗因として挙げている。

当時日本海軍では伊勢と日向の二艦だけに電波探知機(レーダー)が取り付けられたばかりだった。一方、アメリカでは航空母艦にもレーダーが全部ついていたそうだ。523

偵察機にもレーダーがない。519黎明二段索敵をやらなかった。519敵の航空母艦三隻を見逃した。

基地もなく、潜水艦もなかった。520

 

最初の段階で、天候が悪く、濃霧で、補給部隊が発見できず、補給部隊が無線を発信して敵艦に自らの位置を教えてしまった。変針の連絡でも無線を使った。「無線封止」の原則を破った。515, 516

「見つかったっていい、力押しだ、腕は強いのだから構わない」517という慢心があった。

ミッドウエー島を地上から攻略する部隊(陸海軍部隊で編成された上陸参戦部隊)は5月24日にサイパンから出航したが、早く着きすぎて敵に発見されてしまった。

 

 山本五十六連合艦隊司令長官*が5月29日に出航した。

 

*山本はこの作戦に直接加わることはなく、別行動で遠くから監督していたようだ。

 

 キスカとアッツを取ろうと見せかけて、アリューシャン方面の陽動作戦を実施した。

 

敵機動部隊はいないと決定され、雷撃機の魚雷を陸用爆弾に装備換えし、第二次ミッドウエー攻撃に転用した。521

そこへ、4時頃から6時半まで、敵機が来襲した。ミッドウエー島からのものだった。この時は事なく切り抜けた。

魚雷を下し陸用爆弾に替えている最中に、5時頃、敵艦(空母)がいるという情報が入った522

逆の装備替えはあと5分あれば完了でき、飛行機が発進できたのに。第一機の発進は7時24分だった。

 

悪天候で敵機を発見できず、急降下爆撃を受けた。日本にはレーダーがなかった。523

加賀が4弾やられた。523艦橋に一撃を受け、艦長以下首脳部が即死した。524

蒼竜が4弾、赤城が3弾やられた。523

赤城から将旗を外して駆逐艦の内火艇に移った。525

飛竜が最後の攻撃に出かけたが戻ってきた者は少なかった。526

ヨークタウンを攻撃できただけだった、残る2隻(エンタープライズ、ホーネット527)は無傷だった。3艦分の航空兵力を保持している。ヨークタウンはその前に攻撃を受けていたから無意味だった。

空母飛竜は4発の直撃弾を受けて失った。第三次攻撃を中止して帰還した。

米側にはレーダーがある。こちらが追いかけると引いていく。

作戦が中止された。第七戦隊の三隅、最上が逃げ遅れた。

 

大本営は鳴り物入りで戦捷を報じた。海上において悪戦苦闘する者の身になれば、国民が真実も知らずに、有頂天になっているのを見ると何とも情けない。東条首相が東亜共栄圏を飛びまわり、これらの人々のを呼び集めてヒトラー張りの演説等を行うのを見て嫌気が差した。

529 ミッドウエー作戦には無理があった。だいたい戦争自体に無理があった。人も艦も疲れていた。自分の心に驕りがあったと反省する。

 ミッドウエーは不沈空母である。不沈空母に食らい付いて自らの所在を示さざるを得なかった。この作戦計画に第一の失敗原因がある。

 

私は今微生物肥料の研究に没頭をしている。人に書けと言われたからこの一文を書いた。

 

要旨

 

編集部注

 

1942年6月のミッドウエー海戦での大敗で一挙に逆転した。筆者は元海軍中将。ミッドウエー海戦では機動部隊の参謀長。いわゆる爆装転換による「運命の5分間」を一番早く世に示した。(私は「運命の5分間」という時間的口実を信じない。装備の優劣が勝敗を決定した。レーダーを持っている米軍は雲間を利用して、急降下爆撃で日本側が気づかないうちに爆弾を多数命中させた。523

 

本文

 

514 南雲忠一海軍中将が機動部隊を指揮し、5月27日、広島湾を出航した。その編成は、南雲長官が直接指揮する第一航空戦隊赤城、加賀)、山口多聞少将が指揮する第二戦隊飛竜、蒼竜)、航空母艦が4隻。それを掩護する戦艦榛名、霧島)、巡洋艦(利根、筑摩)、軽巡洋艦長良を旗艦とする第十戦隊の10隻の駆逐艦であった。

 5月29日、連合艦隊司令長官山本五十六大将が、戦艦大和、伊勢、日向、山城、長門)、10隻の駆逐艦航空母艦鳳翔、旧式、上空直衛・対潜警戒)を伴って出航した。同時に攻略部隊指揮官近藤信竹中将が第二艦隊の巡洋艦(鳥海、摩耶、妙高)を指揮して出航した。

 

 ミッドウエー上陸作戦部隊は5月24日、サイパンから出航した。これは陸海軍部隊で編成された。一個師団程度の兵力で、輸送船16隻である。これを第二水雷戦隊(旗艦神通以下7隻の駆逐艦)が護衛した。またグアムから出航した第七戦隊の巡洋艦(熊野、三隅、最上)がこれを掩護した。

 

 6月4日、アリューシャンのキスカとアッツを奪取すると見せかけるため、ダッチハーバー*を空襲した。一方6月5日ミッドウエー攻撃を予定していた。アリューシャンは牽制作戦である。5月27日角田覚治中将*が指揮官となり、航空母艦(神鷹、竜驤)と若干の駆逐艦を従えて、大湊の要港から出航した。

 

*アラスカ州ウナラスカのアマクナック島の港湾都市。

 

515 6月1日、天気が悪くなった。霧が深くかかり、山本主力部隊、南雲部隊は補給を必要としていたが、補給部隊を発見できなかった。霧のわずかな晴れ間を見て、鳳翔(山本部隊)から飛行機を飛ばしたが発見できなかった。

 

 補給部隊のタンカー鳴戸が「位置知らせ。われの位置ここ」と無電を打った。これは敵に呼びかけたことになる。

 

 6月1日から4日まで悪天候だった。6月3日が一番ひどく、濃霧だった。探照燈が役に立たない。探照燈が朧月のように見える。

 

 ミッドウエーの北西600マイルの地点に到着し、ここから6月3日の午前10時に方向転換し、ミッドウエーに向けて転針することになっていた。

 

 南雲部隊は6月5日にミッドウエーを空襲し、6月7日の上陸作戦に協力する予定になっていたが、また南雲部隊は、米航空母艦4隻を発見して叩く予定にもなっていた。そのためには場所や時間の制限がないはずだが、またミッドウエーも叩くことになっていたので、時間と場所の制約を受けるという矛盾があった。(二兎を追う)

 

 作戦には隠密が第一だ。それを「無線封止」という。

 

 南雲は考えた。「偵察していないので敵の機動部隊を叩くことができない。敵は真珠湾にいるかもしれない。真珠湾からミッドウエーまで1000マイルあるから、時間的に余裕がある。ミッドウエー攻撃を優先しよう。」

そして、今変針点に来ているからとして、無線を発して各艦に命令した。天候が悪かったので手旗が機能しなかった。旗旒(りゅう)信号という。夜なら探照燈だ。無線も微勢力電波のつもりだったが、500マイル離れた大和まで通じてしまった。当時、2、300マイル離れたところにいた米機動部隊に傍受された。速力も分かる。

 

 サイパンを出航した輸送船団は劣速なので、早めに出したが、早過ぎて、5月3日、ミッドウエーから700マイルの地点に来た。ミッドウエーの南西方向は天気が非常によく、米偵察機と日本の偵察機が遭遇した。米側は毎日策敵哨戒機を出している。

 6月1日、日本側が飛行艇を索敵に出した時に遭遇した。互いに1機ずつで空中戦闘をした後に分かれた。

 他の方面に出た哨戒機が、ミッドウエーから400マイルの地点で、米潜水艦2隻を発見した。10隻や20隻が散開線(散らばること)を張って哨戒しているようだ。

 

517 「見つかってもいい、力押しだ。腕は強いのだ。構わない。敵空母を誘い出すのだ。ミッドウエーを叩き終わった時、米側の空母がハワイからミッドウエーに到着するだろう。」という判断だった。

 

 6月3日、南雲司令長官は無線で機動部隊に変針を命じ、5日早朝を期してミッドウエーに向った。

 水中聴音は敵潜水艦のスクリュー音を報告し、上空見張りは6月4日夕方、西方に10機の敵機を発見し、戦闘機を発進したが、何もなく帰還した。戦機を掴むことは偵察から得られる。従来の砲戦魚雷戦はのんびりしていたが、今は違う。

 

 6月4日の日没後、輸送船団が敵に発見され、1時間、敵の飛行機1機が執拗に輸送船団に付きまとい、また(米)陸軍の爆撃機B17が10機来たが、被害はなかった。夜半、陸上の大型機1機が魚雷を輸送船団の補給船1隻に命中させたが、「擦り傷程度」で落伍することはなかった。

 

 6月5日の夜明け、米飛行艇が日本の機動部隊の上空に現れた。この日はミッドウエー攻略予定日だ。日の出前の30分、東京時間で午前1時半*、ミッドウエー空襲隊は発進した。

*現地時間で午前4時半くらいか。ミッドウエーは西経177度。東経135度との差は、45度+3度=48度。 時差は48÷15=3.2時間。

518 空襲隊の編成は、総指揮官が飛竜(南雲忠一下の山口多聞隊)の飛行隊長友永大尉。制空を担当する戦闘機36機を(友永が)直率し、急降下爆撃隊が36機、大きな爆弾を持った水平爆撃隊が36機、計108機が出発した。

 

 日本艦隊はその後米機に発見され、米飛行艇が触接を始めた。日本の戦闘機が追いかけると雲間に隠れる。それを何度か繰り返し、日本の様子を掴んで電信で送り始めた。この時、近所に米航空母艦がいるという懸念はないでもなかった

 

 飛び立った飛行隊は発艦後15分でミッドウエー上空に着いたが、地上に敵機がいない。友長は空振りで第二次攻撃が必要だと(午前4時(7時)に)連絡して、その後帰還した。

519 東京時間で午前1時半(現地時間で午前4時半)前に哨戒飛行をすべきだったが、やらなかった。飛行機が足りないことと地味なことを嫌がる傾向があった。

黎明二段階索敵をやらなかった。300マイルが最長距離である。レーダーはない。肉眼でやる。夜は見えないから、300マイル進み、そこで夜明けになる。出発は夜中になる。そうすると300マイル以内の敵を見逃すので、1時間遅れて第二段を発進させる。索敵線を扇形に何本も出せば敵を発見できる。しかし、ミッドウエー攻撃に多数の飛行機を使うことが優先された。

 

 6月5日、日の出前1時間に出すべき索敵機が少し遅れて攻撃隊の出発直前に発進した。赤城、加賀から一機ずつ、榛名から一機、その中央に位置する利根、筑摩から一機ずつ計5本の索敵機が300マイルまで出されることになっていた。

520 赤城、加賀からはすぐ発進できた。榛名もカタパルト(射出機)から発進させた。利根、筑摩からはカタパルトが故障したのか発進できず、30分遅れた。それは(扇形の)真ん中で、その中に敵機動部隊がいた。

 その中の1本の線上にいた敵を見逃した。天気も悪かった。別の索敵線の飛行機が300マイル行って帰るときにそれを見つけた。午前4時(7時)であり、予定なら1時間前に発見するはずだった。しかも南雲長官のもとに報告されたのが5時(8時)だった。(どうしてか。無線を使わなかったのか。)

 

制空戦闘機隊36機、降下爆撃隊36機、雷撃隊36機を艦上に用意していた。

日本には潜水艦がなかった。(この時用意しなかったということか)

 

 午前4時(7時)、友永から第二次攻撃が必要だと連絡があった。敵機動部隊はいないと(私は)判断した。それで艦上に待機させておいた攻撃隊をミッドウエーの第二次攻撃に用いることにして、魚雷を外して地上用の爆弾に入れ替えはじめたところを敵機が来襲した。4時(7時)ころから6時半(9時半)まで、すべてミッドウエーからの陸上機だった。

日本側も戦闘機を発進した。2、3時間。幸い切り抜けた。この間でも装備替えをしていた。

 

 5時(8時)ころ、「ミッドウエーから240マイル、針路150度、速力20ノットの敵らしきもの10隻身ゆ」という連絡が入った。偵察機が4時20分(7時20分)に打ったものだ。(悠長)南雲長官のもとに5時に届いた。「艦種を知らせろ」と(私は)言った。

522 「敵は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻なり」

5時半(8時半)ころ、「敵はその後方に空母らしきものを伴う」と連絡が入った。その後、「敵はさらに巡洋艦2隻見ゆ」と連絡が入った。

 

今使えるのは急降下爆撃の36機だけだ。戦闘機に守られない爆撃機はもろい。戦闘機は今戦闘中で上空にいる。敵空母を攻撃するなら着艦して給油する必要がある。着艦させることにした。そこへミッドウエー空襲部隊が帰ってきて着艦を求めた。

 

 私は戦闘機なしでも出すべきだったと思う。陸用爆弾は十分でないが、800キロ爆弾が甲板に命中すれば滑走路用甲板は使えなくなる。しかし南雲長官は戦闘機なしでは出してはならぬとし、帰還部隊を収容することにした。

 飛行機を格納庫に入れ、ミッドウエーからの飛行機を収容した。この時敵機の来襲はなかった。

 

雷撃兵装に復帰することにした。陸用爆弾を魚雷に替える作業を始めた。その時敵航空母艦から艦載機がやって来た。最初の、戦闘機を伴わない雷撃機は打ち落とした。

 7時半(10時半)に準備完了予定とのこと。7時10分(10時10分)ころ、ミッドウエーからの敵機が艦載機に入れ替わった。7時10分、7時15分襲来の敵機は撃墜した。7時20分の「7時30分準備完了予定」との報告に、「準備次第発進せよ」と命令した。7時24分第一陣の一機が発進した。赤城ではあと3分で全機が発進完了できる。

赤城から第一機が発進した直後に、急降下爆撃があった。来るまで全く知らなかった。そのころ乱雲が増えて見張りがきかなかった。

 日本海軍は伊勢と日向にしか電波探知機を取り付けていなかった。航空母艦にもついていなかった。米航空母艦には全部ついているそうだ。加賀に4弾、蒼竜に4弾、赤城に3弾が命中した。

 甲板上にいる飛行機の燃料、爆弾等の相乗効果で、被害は敵機54機が体当たりしたのと同じ結果となった。

 加賀は艦橋に一弾を受け、艦長以下首脳部が即死し、総員が海に飛び込み、駆逐艦に救われた。

524 私は旗艦赤城の艦橋にいて南雲長官を補佐していた。機動部隊は緊縮隊形*で行動していたが、やがて支離滅裂となり、加賀や蒼竜は全艦が煙に包まれた。(私は)駆逐艦の数隻を割いて人員救助と防火に協力させた。

 

*緊縮隊形 連続急降下を受けた場合、各艦との距離が大きくなり陣容が崩れがちになる。母艦等を援護する場合は特に緊縮隊形の保持に留意すべきだ。ツイッター サムライ@戦史&九六式25mm機銃研究家@samurai_25mm

 

 この間飛竜は無疵だった。赤城では3発の爆弾が飛行甲板を大破し、飛行機を吹き飛ばし、爆弾や魚雷が自爆するたびに全艦が地響きを立てて震撼し、自爆機の銃弾は豆を煎るように無軌道に眼前を交錯する。無線も信号も役立たない。

 榛名や霧島は健在だった。長良と駆逐艦数隻はまだ戦闘に役立ちそうだ。これらを糾合してさらに最後の一戦を交えよう。(と私は考えた。)

 

 私は、南雲長官に旗艦を変更し、将旗の移揚を進言した。南雲長官は「まだ大丈夫」と言う。青木赤城艦長は、「私は最後までここに残る。南雲長官は他に将旗を移し、全艦隊の指揮を取られよ」と言い、私も司令部の移転を進言し、遂に南雲長官の気持ちを動かした。

 

 青木赤城艦長と決別し、さしあたり駆逐艦に移乗することにした。艦橋から下方の甲板への昇降口、通路は、西林副官の偵察で、通行不能のこと、艦橋からロープで火の回っていない前部に脱出した。

525 私は途中で捻挫と軽度の火傷を負った。司令部の幹部は駆逐艦内火艇*に乗り移った。艦隊機関長の田中実機関大佐は相当の重傷らしい。後で大腿骨折していたことがわかった。

 

内火艇 日本海軍の水陸両用車。1942年採用。

 

木村少将の乗る巡洋艦長良が接近してきたので、直ちに長良に移乗することにし、縄梯子で上った。ここ(長良)の檣(しょう)頭に南雲長官の中将旗を掲揚した。飛竜、榛名、霧島、利根、筑摩と数隻の駆逐艦が集まり、さらなる一戦を企画した。

 

 加賀は総員退去し、駆逐艦に移乗し、数時間後に沈んだ。蒼竜は3時間燃えて沈んだ。赤城は、90マイル離れたところに敵艦隊がいて曳航されるとまずいので、赤城の青木艦長が「処分して良いか」と尋ねてきた。南雲長官が命令を下す前に、500マイル離れたところにいる大和から「処分を待て」と来た。「自分で沈めるには及ばぬ」と命令してきた。

 

 これより先、赤城の青木艦長は総員を退艦させ、一人留まっていた。(センチメンタル)

 山本長官(大和)が(赤城を)曳航できないかと言ってきた。

 航海長が赤城に行って、「曳航して帰れという命令です。駆逐艦に移って曳航作業を指揮してください。」と青木艦長に懇望し、青木艦長も駆逐艦に移乗した。

 その後山本長官の命令で赤城を沈めてしまった。

 

 加賀、蒼竜、赤城は燃えて沈んだが、飛竜は一発も敵弾を受けていなかった。飛竜には第二航空戦隊の司令官山口多聞少将が乗っている。赤城の南雲中将が指揮をとれないとなると、山口少将が航空作戦の指揮官となる。

526 飛竜の航空部隊だけは予定通り発進した。戦闘機が6機、急降下爆撃機が18機。小林大尉を指揮官として攻撃に出かけた。米航空母艦の上空に到達したが、大半はやられてしまった。

 6発は投下して、命中した。(これはヨークタウンであった。)

指揮官小林大尉がやられた。戦闘機3機、爆撃機13機が帰ってこなかった。帰ってきたのが爆撃機5機、戦闘機3機である。

 ヨークタウンは大被害を受けたが、甲板の上には飛行機がなかったから、その分被害は少なかった。

アメリカの空母は損害の復旧が非常に早い。(敗戦の兵の勝者に対するおべっかか。)設備が優秀だ。二度目に攻撃に行くと普通に航行し、甲板の修理もほとんどできていた。

 

 山口少将は飛竜の飛行隊長友永大尉に命じて、(友永はミッドウエーから帰ってきたばかりだったが、)雷撃機10機、戦闘機6機を出発させた。このころには敵の航空母艦は3隻だと分かっていた。

 敵空母を発見したのだが、それは戦闘不能で全部の飛行機を他の空母に移したヨークタウンだった。しかし、ヨークタウンを別の新しい空母だと思って攻撃してしまった。だから無傷の敵の空母は残る1隻だと勘違いした。

 友永大尉は艦上の銃砲火と戦闘機の邀撃(ようげき、迎撃)の中を、魚雷3本を命中させた。米側の発表では「雷撃機16機のうち、8機が来たに過ぎない」と言っているが、雷撃機は10機で、戦闘機6機がそれについた。そしてその中の5機が雷撃に成功し、そのうちの2本は回避されたが、3本は命中した。米側の記録では「この日本の搭乗員は全員戦死した。彼等はヨークタウンを道連れにした」としている。

 友永指揮官はじめ雷撃機5機、戦闘機3機が還らなかった。ちょうどそれぞれ半数が喪われたことになる。

 

527 機動部隊はさらに一戦を交えるべく、飛竜を先頭に夜戦に進出した。

 米の第一次攻撃で日本の3隻がとどめをさされた。米側は、エンタープライズ、ホーネットの二艦にヨークタウンの飛行機を収納し、3艦分の航空兵力を保持していた。米側は第二次攻撃として、13機で飛竜を攻撃した。日の出後12時間、東京時間で午後2時(午後5時)ころである。

 飛竜は4発直撃弾を食らった。榛名、利根、筑摩も襲われたが、被害はなかった。

 その少し前、飛竜は第三次攻撃をかけようとしていたが、飛行機が足りない。全部で戦闘機6機、急降下爆撃機5機、雷撃機4機、計15機だけだった。薄暮攻撃をすることにして待機していた。

 そこへ4弾が命中し、赤城、加賀、蒼竜と同様に、甲板に並べてあった15機が互いに誘爆し合い、火の海となった。飛竜も僚艦と運命を共にした。

 

 (飛竜の)全員を駆逐艦に収容した。翌日の明け方、駆逐艦の魚雷で(飛竜を)沈めた。

 最後の空母飛竜が喪われた。しかし「戦いはこれからだ」というジョンポールジョンの言葉が私の背を打った。敵も相当の被害があるはずだ。今や100マイル以内にいるはずだ。夜襲をかけようと沸き立った。しかし、日没になっても敵を発見できなかった。日本側の飛行機の報告による敵位置は不正確であるが、米側にはレーダーがある。偵察機もある。日本側には旗艦長良の水上偵察機があるだけだ。敵の所在をつかむことは難しい。夜襲の成算もないということになった。

 

 夜戦が駄目なら明朝の黎明戦を考えた。しかしこれも成算がなかった。再起をはかることにした。その時、聯合艦隊から「北西に避退し本隊に合同せよ」との命令に接し、夜のうちに退いた。

 作戦中止が下命され、輸送船団も帰って来た。

 第七戦隊の三隅、最上が逃げ遅れてやられた。これでミッドウエー海戦は終わった。

 

 若い純情な幕僚は、長官以下司令部幹部全員が自決して、罪を国民に謝すべきだと提案して来た。私は、戦局は重大で、己の出処進退を潔くすることだけが能ではない、生存して自分の任務を果たすべきではないか、とこれを退けた。南雲長官にも軽はずみなことをしないように言った。

 

 数日後、長良は洋上で大和と会合した。私は杖をついて大和に行き、山本長官に会い、報告と今後の希望を述べ、連合艦隊司令部には戦況発表を真実のまま伝えるように希望した。(本当か)しかし、例によって大本営の発表は鳴り物入りの戦捷(しょう)を報じた。真実を知り、真に憂喜を共にしてくれてこそ働き甲斐がある。東条首相がいわゆる東亜共栄圏を飛び廻り、これらの人々を呼び集めてヒトラーばりの演説等を行うのを見て嫌気がさした。(すべて東条になすりつけか)

 戦いには見通しがなければならない。

529 ミッドウエー作戦には無理があった。戦争全体に無理があった。人も艦も疲れていた。自分にも驕りがあった。

 ミッドウエーのような陸上基地は不沈空母だ。敵空母の位置が分からなかったので、不沈空母にまず食いついて自らの位置を示さざるを得なかった。米側からみればミッドウエーを好餌として日本の機動部隊の動静を調べ、弱点を見つけて襲い掛かれる。偵察機が早く敵を見つけなかったことも不運だった。

 

 私は今平和日本再建の捨石と思い、役にも立たない残骸に鞭打って微生物肥料の研究に没頭している。時々往時に対する雑音が入る。人の勧めによって過去を回想し、筆を取った次第だ。

 

1949年、昭和24年10月号

 

以上 20201126()

 

 

 

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