2021年1月16日土曜日

朝鮮戦争の正体 孫崎亨(うける)祥伝社 2020.7.10 要旨・感想

朝鮮戦争の正体 孫崎亨(うける)祥伝社 2020.7.10

 

 

感想 2021112()

 

朝日新聞 「これが国防軍の創設や警察国家への逆転などと全く関係ないことは、政府が繰り返し強調するところだ。」(全く真実を伝えていない。恐ろしい自己規制。マッカーサー元帥による警察予備隊創設命令翌日1950.7.9の報道。205

 

日本経済新聞は見出しで「報道界の赤色分子解雇」とセンセーショナルに報じた。(報道関係レッドパージ翌日1950.7.29の報道221

 

日本人は戦前の右翼暴力の圧政と、戦後の米軍の圧政から立ち直らなければならない。死んではいけない。声を上げなくなったらお終いだ。

 

感想 資料は豊富なのだが、十分に整理し切れておらず、あちこち飛んで分かりにくい点がある。また英文和訳が直訳で分かりにくい。202112()

 

 中国の教科書は、今でも韓国側が最初に朝鮮戦争を仕掛けたと教えているらしいが、真実を教えるべきではないか。202113()

 

 論理的経過説明が弱く、独断的判断の嫌いがある。2021111()

 

 法律は政治がつくり、裁判の判決も政治がつくる。警察予備隊違憲裁判での田中耕太郎の判決を読んでそう感じた。政治は政治家ではなく、民衆がつくる方向に向けたい。2021112()

 

 

要旨

 

はじめに

 

005 ソ連、中国、北朝鮮は、朝鮮戦争の経緯・意図に関する真相を今まで公表してこなかった。

 

『トルーマン回想録2』恒文社1966

『フルシチョフ回想録』タイムライフインターナショナル1972 の真偽が問われているらしい。

フルシチョフはスターリンに登用されたが、1956年スターリンを批判した。ウクライナ出身である。

A・V・トルクノフ著『朝鮮戦争の謎と真実』草思社2001は、ロシア大統領資料館の極秘資料を元にしている。

 

シカゴ大学教授ブルース・カミングス著『朝鮮戦争の起源』1981(邦訳は、シアレヒム社発行、影書房発売1989—1991。明石書店再刊2012)によると、

 

朝鮮戦争の争点は1945年8月15日直後の3ヶ月間ですでに明らかになった。この争点のために、農民反乱、労働争議、ゲリラ戦や38度線での公然たる戦闘が続発し、朝鮮戦争以前に10万人が死んだ。

 

009 海上保安庁は、米英韓国軍の指揮官の下で、機雷掃海に従事した。011, 198 当時の吉田茂首相は、大久保武雄海上保安庁長官に、「掃海隊の派遣とその行動については一切秘密にするように」と命じた。(鈴木英隆「朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊――その光と影」防衛省防衛研究所『戦史研究年報 第8号』2005.3

 

010 毛沢東は西側諸国のニュースで、北朝鮮の攻撃を初めて知った。

ダグラス・マッカーサーは、米国の守備範囲から朝鮮半島を外すと言っていた。

011 トルーマン大統領は朝鮮戦争で原爆を使うかもしれないと発言している。177

 

朝鮮戦争時に、日本の民間の船舶が借り上げられ、日本の船員が、米軍や装備の運搬をした。

1950年7月8日、マッカーサー元帥は、吉田首相に「事変・暴動等に備えるための治安警察隊」として7万5000名のNational Police Reserveの創設を求めた。8月10日、吉田内閣は、国会の審議を経ずに、警察予備隊令という政令で警察予備隊を発足させた。米軍は日本社会党委員長の浅沼稲次郎を脅迫し、国会審議をさせなかった。

 

後藤田正晴(警察予備隊警備課長、官房長官)や内海倫(ひとし)(警察予備隊教養課長、防衛事務次官、人事院総裁)は、「米国は警察予備隊を朝鮮半島に持っていくつもりだ」としている。また加藤陽三(警察予備隊本部人事局長、防衛事務次官)は、「米国の要請に応じて警察予備隊を使用される恐れが多分にある」としている。

ジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問(対日政策責任者)は、日本人をどうしたら朝鮮戦争に使えるかを考えていた。

 

013 米国政府は朝鮮戦争時に、日本の民主主義体制を害しても、日本の軍事力を米国の戦略に使うことを考えていた。

 

1950年7月29日、日本経済新聞「報道界の赤色分子解雇 朝日72、毎日49、読売34、日経10、東京8、日本放送協会104、時事16、共同33」

これはマッカーサー元帥の「共産党員とその同調者を排除せよ」という書簡に基く。

 

014 このとき日本の政治家、マスコミ、学者の中で、マッカーサーたちに「あなたたちが強制した憲法の中の基本的人権や、自由・権利の保持義務(自由や権利は不断の努力によってこれを保持しなければならない)に、(レッドパージが)違反するのではないか」と迫った人は一人もいなかった。

 マッカーサーは朝鮮戦争の実情と日本政府の動きを、日本国民に知られたくなかったに違いない。マッカーサーは日本国民に「共産主義は怖い、だから日本をこれと戦う国にしなければならない」と思うようにさせたかったのだ。

 

 

序章 忘れられた戦争

 

ピカソ『朝鮮の虐殺』1951.1.18、パリ国立ピカソ美術館所蔵

 

022 朝鮮戦争での犠牲者数がはっきり確定できない。民間人死者数は膨大らしいが、はっきりとした数字がない。『日本大百科全書』小学館1987によれば、「韓国民間人106万人余、朝鮮・中国側の軍要員の死者数だけで、200万人以上と推定された」とあり、北側の民間人の犠牲者数は述べられていない。中国の公式発表によると、「北朝鮮側は非常に多くの市民の犠牲を出した」とあり、数字がない。

 

025 1950年10月17日から12月7日までの52日間、国連軍の占領下の北朝鮮黄海南道信川郡で、3万5383人、住民の4分の1が虐殺された。(信川(シンチョン)虐殺事件)加害者は、国連軍・韓国軍とされるが、その時、国連軍が生物兵器を使ったらしい。(細菌戦)

026 こういう説もある。「北朝鮮と中国で発生している伝染病の原因は、米軍による細菌戦である。米軍による細菌戦は、旧日本軍731部隊の研究成果を引き継いだ。731部隊の石井四郎が関与した。」

 ウイキペディアによれば、「石井四郎は、極東国際軍事裁判(東京裁判)で戦犯容疑を問われたが、研究資料を提供したため、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のダグラス・マッカーサー最高司令官とチャールズ・ウイロビー少将との協議で、訴追を免れた」としている。朝鮮戦争時、石井四郎が朝鮮半島にいたという説もある。

 2020年2月7日付けの京都新聞によれば、「ないはずの戦後公文書が、細菌生産を明記していた。『(総勢は)部隊長石井四郎中将以下約1300人内外で、その本部は(ソ連による対日参戦)開戦と共に、全部北朝鮮方面に移動すべく』と、満州から日本に帰国するまでの経路が図説されている」とある。

 

1951年から52年にかけてピカソによって描かれた、南フランス・コートダジュールのヴァロリス礼拝堂の壁画『戦争と平和』は、英国テート・ブリテンの解説によれば、

 

朝鮮戦争で細菌戦が行われたことを元に描かれたとされる。しかし、米英仏は1950年代、60年代、それを共産主義者の嘘だとして否定している。チャペルは長く閉鎖されていた後の1958年に開かれたが、すぐ閉じられた。これはピカソとフランスのゴーリスト(ド・ゴール路線)政府との緊張関係を示す。

 

027 ピカソの『ゲルニカ』は、1937年4月26日の、ドイツによるスペイン・ビスカヤ県ゲルニカの無差別爆撃をテーマにしたものだ。スペイン内戦はフランコ将軍がドイツ・イタリアの支援を受けて共和国政府に挑戦したクーデターだ。ソ連や、欧州の人民が義勇兵として共和国を応援した。スペイン内戦は1936年から39年に起った。

028 ピカソは共産党員だった。ピカソは1944年に共産党に入党し、米国の監視下に置かれた。

032 ピカソは『朝鮮の虐殺』のために反米画家と看做された。

1955年12月、ジョセフ・マッカーシーが上院に不名誉と不評判をもたらしたと、上院が譴責決議を可決し、赤狩りは終焉した。

034 ブルース・カミングスは『朝鮮戦争の起源<1>』の序文で朝鮮戦争の悲惨さを語っている。

 

035 米では朝鮮戦争後、世界各地に軍事的に介入する論理(内政干渉)と、そのための国家機構(巨大な国防予算、軍需産業、それを理論面で支えるシンクタンク等)が誕生した。

036 ブルース・カミングスは『朝鮮戦争の起源<1>』の中で、

 

朝鮮戦争は米にとって覇権を構築する契機となった。アチソンは「朝鮮が現れ、我々を救ってくれた」と言ったが、朝鮮戦争の結果、ケナンの限定的な封じ込め政策が、ニッツェ・ダレスの無差別介入に発展した。

 

孫崎亨『日米同盟の正体』講談社2009はアイゼンハワーの言葉を紹介している。

 

アイゼンハワーは大統領を辞任するとき「産軍共同体が自由と民主的動向を危険にさらさせてはいけない」と警告した。

米は徴兵制度を廃止したが、その代わりに補給部門を民営化した。そのため、古い兵器を捨てて新しい兵器に置き換えるばかりでなく、新たな戦争が必要になった。イラク戦争の推進者であるチェイニー副大統領(当時)は、補給企業と関係を持っていた。

 

038 アイゼンハワーは語る。「米では350万人が防衛産業に従事している。アメリカの全ての会社の純収入よりも多い金を毎年軍事に費やしている。」

 

 

第一章 朝鮮戦争はなぜ起ったか 米国・北朝鮮・ソ連・韓国・中国の犯した誤り

 

『マッカーサー回想記<下>』朝日新聞社1964に、朝鮮戦争勃発時に東京にいたマッカーサーのあわてた様子が描かれている。

 

044 「6月30日、北京政府が台湾解放を宣言。」(朝日新聞)

 

 トルーマン著『トルーマン回想録2』によると、

 

1950年6月25日(日)、私の要請に基いて国連の安全保障理事会が緊急会議を招集した、とアチソン国務長官が伝えてきた。

046 米側の会議の中では、全力でこの(北朝鮮の)侵略に対処しなければならない、と米国の関係者全てが認めた。(ただし、事前の雰囲気はそうでなかった。)

会議の中では、海軍と空軍の出動だけで十分だ(バンデンバーグ空軍参謀総長とシャーマン海軍作戦部長)という意見と、韓国軍が敗れたら地上軍が必要だ(コリンズ陸軍参謀総長)という意見とに割れた。また、ブラッドレイ統合参謀本部課長は、どこまで戦うかを決めるべきだと言った。

 

047 政治学者グレン・ペイジ『アメリカと朝鮮戦争』(サイマル出版会1971)は、朝鮮戦争開始1週間の米国政府の入手した情報とそれに対する決定を整理している。つまり、日時、参画者、情報、価値、選択肢、決定、補足等である。

 

 

情報                                                           決定

                                                                 

空・海の支援が決定的になるだろう         台湾を中立化する(060参照。台湾放任から介入に一変。)

ソ連は介入しないだろう                           極東における共産主義の拡大を厳封(封じ込め)

北朝鮮制裁への国連による強い支持         インドシナへの軍事援助を急ぐ

宥和しないという決意の共有                    米国の行動を国連に報告する

軍事的困難の報道                                      空・海作戦を北朝鮮に拡大する

ジョンソン勧告                                         韓国で現役軍を行使する

ソ連の穏健な反応                                      釜山地域へ戦闘部隊を派遣・防禦する

韓国軍は敵の前進を遅らせられない         戦闘地域に一連隊規模の戦闘団を出動

ソ連の侵略は切迫していない                    マッカーサーに指揮下の戦闘部隊を使用させる

 

 

049 米は朝鮮戦争の教訓から、それまでの封じ込め政策から抹殺政策へ転じた。

 

抹殺政策は、敵味方とも損害を被るが、封じ込め政策は、敵の内部崩壊を期待できるし、ソ連の周辺を固めておけばよいというもので、ジョージ・ケナン国務省政策企画部長が、封じ込め政策の主唱者であった。

 

050 ヘンリー・A・キッシンジャー(大統領補佐官、国務長官等を歴任)『外交<下>』によると、

 

封じ込め政策は、最強のアメリカの下での受動的な外交である。

第二次大戦後、ソ連は西側の立ち直りを妨害したが、アメリカはソ連圏の拡大に抵抗した。

ケナンは「ソビエト対外行動の源泉」を1947年7月に発表したが、その当時は筆者名が明らかでなかった。

3年間の封じ込め政策の下で、NATOが軍事面で、マーシャルプランが経済・社会面で、西欧を強化した。

封じ込め政策の欠点は、第二次大戦後、敵がはっきりしなくなったことを認識していなかったことや、共産主義者が自壊しないということを認識できなかったことだ。

そこでアメリカが対応しにくい地域でソ連が突破しようとしたことを認識できなかった。

051 1950年6月25日、米防衛境界線の外側の、全米軍が前年1949年に撤退していた国(韓国)に、共産主義者の代理人(北朝鮮)が軍事攻撃したとき、封じ込め政策の欠陥に気づいた。

トルーマン大統領は、北朝鮮による攻撃の数日後に、今までアメリカの計画で考慮されず、議会にも提案されたこともなかった地域(朝鮮半島)の防衛のために、十分訓練されていない日本占領軍の中から派遣軍を編制した

これまでのアメリカの態度から、北朝鮮やソ連は、朝鮮半島への米の軍事的介入を予想していなかった。

052 北朝鮮やソ連は、アメリカが1980年代後半の和解的態度から一変して、1990年のペルシャ湾での大規模な軍事展開をしたときの、サダム・フセインのように驚いただろう。

彼らは、中国での共産党の勝利をアメリカが黙認した後で、朝鮮半島の半分を共産党に乗っ取られることに抵抗しないだろうと考えた。また彼らは、アメリカが、「共産主義者による攻撃に対する抵抗は倫理的な義務である」と繰り返し言うことの重要性を理解できなかった。

 

 

053 『金日成選集<第二巻>』三一書房1952の「祖国解放戦争の時期 朝鮮人民に呼びかける演説」1950.6.26によれば、

 

「6月25日、売国奴李承晩政権は、38度線以北地域に全面的な侵攻を開始した。

我々人民が渇望する祖国の統一と独立を保障する名誉ある勝利を闘いとろう。」

 

 また、金日成著『祖国解放戦争』青木書店1953によれば、

 

「6月25日、売国奴李承晩傀儡政権は、38度線以北に全面的な侵攻を開始した。」

 

055 朱建栄は中国人学者で、『江沢民の中国』中央公論社1994を出版したが、2013年7月に拘束された。また朱は1991年『毛沢東の朝鮮戦争』岩波書店を刊行していた。(同書は2004年、岩波現代文庫で再刊された。)

 

朱建栄『毛沢東の朝鮮戦争』によれば、周恩来首相の秘書や、朝鮮戦争当時の軍総参謀本部情報担当幹部や、外交官などが、朱の取材に応じ、「1950年6月25日の戦争は、当初、朝鮮側にとっての祖国解放戦争であった」と語り、(戦争を)金日成が発動したことを示唆した。つまり、

 

初代中国駐朝臨時代理大使の柴成文は、「1953年、周恩来総理は政治協商会議の中の朝鮮戦争に関する報告の中で(どちらが先に攻撃したかについて)言及しなかった。…国共戦争で、たとえ中国共産党が先に国民党に発砲したとしても、人民を抑圧していた国民党側に正義があったということにはならない」と(朱に)答えた。

 

056 中国の公式見解や教科書は、「李承晩グループが米帝国主義の支持の下で発動した侵略戦争」としてきたが、柴成文はあえて、周恩来や彭(ほう)徳懐が、(どちらが先に攻撃したかについて)「言及するのを避けた」とした。(筆者はそれを北朝鮮側が先に攻撃した証拠としている。)

 

感想 中国はなぜ真実を語らないのだろうか。かえって信頼を失うことにならないか。

 

057 師哲は毛沢東の側近で、中共中央書記處政治秘書室主任だった。(師哲の著書)『毛沢東側近回想録』新潮社1995の前書きの中で、国家副主席を歴任したことのある王震が、師哲の経歴を語っている。毛沢東の妻紅青は師哲を嫌い、師哲は19年間収監され、審査後追放されたが、後に復活した。

 

師哲『毛沢東側近回想録』新潮社1995によれば、(次の項は、師哲とは別の人が語っている。)

 

中国共産党中央は6月25日の戦争の勃発を事前に知らなかった。

師哲は次のように述べている。「6月26日の早朝、中南海にある毛沢東の住居の豊沢園へ行くと、毛沢東は、『昨夜パリからの報道で朝鮮戦争が勃発した』と私に語った。」と。

 6月28日、戦争が勃発してから4日目に、朝鮮から佐官1名が戦況を知らせに北京に派遣されて来た。毛沢東は師哲に不機嫌そうに語った。「彼らは我々の近隣だが、戦争勃発を我々と相談せず、人様が反攻する時になってから、やっと知らせに来た」と。(人様とは誰のことか。米か。)

 そのころ我々は福建沿海一帯に大勢の兵力を集結し、台湾解放を積極的に準備していた。その後朝鮮の戦局に変化がなかったならば、台湾解放の戦役の日は、そう遠くはなかったはずだ。

 

059 蔣介石は1949年12月7日、中央政府機構を台湾に移し、台北を臨時首都にした。

060 トルーマンは1950年1月5日、「台湾問題に関する声明」を発表し、「米には台湾や中国その他の領土を略奪する意図はない。米は、台湾に軍事基地を建設する意思を持っていない。米政府は、台湾にいる中国軍に軍事援助や助言はしないだろう」と述べた。(『原典中国現代史<第6巻>外交』岩波書店1995

 

 そして1950年1月12日、ディーン・アチソン国務長官は「米が責任を持つ防衛ラインは、アリューシャン列島、日本、琉球、フィリピンまでである。それ以外の地域には責任を持たない。」と演説した。

 

 ところがトルーマンは、朝鮮戦争が始まった直後の6月27日、「台湾海峡中立化に関する声明」を出し、それまでの方針を一変した。

 

朝鮮に対する攻撃は、共産主義が独立国を征服するため、転覆手段に訴える範囲を越えて、今や武力侵略と戦争に訴えようとしていることを明らかにした。この状況の中で、共産軍による台湾の占領は、太平洋地域の安全と、同地域で合法的で必要な職務を遂行している米軍部隊に脅威を与えるだろう。私はこのため台湾に対する攻撃を阻止するよう第七艦隊に命令した。

 

翌6月28日、周恩来外交部長は「我が国の全人民はアメリカの侵略者の手から台湾を解放するために奮闘する」と述べた。

 

062 指導者の失敗が朝鮮戦争をもたらした。

 

(1)アチソン国務長官は北朝鮮が攻撃しても米国は反応しないと思わせた。

 

 1950年1月12日、ディーン・アチソン国務長官は「日本を恒久的に防衛する。米が責任を持つ防衛ラインは、アリューシャン列島、日本、琉球、フィリピンまでである。それ以外の地域には責任を持たない060

このそれ以外の地域への攻撃が発生した時、こうした攻撃がどこから来たかを言うのを躊躇する。初期は攻撃された人々が抵抗し、次いで、国連憲章下の文明世界が対応する。」と演説した。

 

(2)マッカーサーは「韓国の防衛は不可能だ」と言った。

 

064 ウイリアム・ジョセフ・シーボルト連合国軍最高司令官総司令部外交局長(国務省の代表で、駐日大使に相当)は、その著書『日本占領外交の回想』朝日新聞社1966の中で、

 

米は終始朝鮮における外国軍隊の撤退を主張していたが、1948年9月20日にそれを再確認し、「それは朝鮮民衆の利益にかなうことだ」と声明した。

 マッカーサーでさえ、私(シーボルト)に「韓国は軍事的に防衛不可能だから、米軍の撤退は当然である」と語った。また、1949年3月1日、マッカーサーは「米の防衛線は、アジアの沿岸の鎖状の島々を走り、それは、フィリピンから沖縄などの琉球諸島、日本、アリューシャンなどを経て、アラスカに至る。」と記者に述べた。(これはアチソンと同内容である。)

 

065 『トルーマン回想録』の中でトルーマンは次のように語っている。

 

統合参謀本部は1947年9月、米が僅かな兵力の占領部隊を朝鮮に残しておくのは、戦略上利点がないと報告した。当時の統合参謀本部のメンバーは、リーヒー提督、アイゼンハワー将軍、ニミッツ提督、スパッツ将軍であった。彼らは国防長官に次の覚え書きを述べた。

 

「米国が朝鮮に現在の(僅かな)兵力や基地を置いても、戦略的利益がほとんどない。その理由は、朝鮮にある現在の(僅かな)兵力は、軍事的負担である。本格的増援を受けなければ、敵対行動を維持できない。また、アジア大陸で攻撃作戦をする場合、朝鮮半島を迂回する可能性が大きい。

066 航空兵力作戦は地上作戦よりも実施しやすく、損失も少ない。現在の在朝鮮兵力(二個師団4万5千名)は少な過ぎる。」

 

 ロイヤル陸軍長官が1949年2月上旬マッカーサー将軍と話したとき、マッカーサー将軍は「南鮮から早く米軍を撤退するのがよい」と語った。

 韓国は軍隊の兵員数が6万5千名に達し、訓練は十分だったし、米国陸軍の5千名の軍事顧問団が(韓国軍を)援助していた。この軍事顧問団を除いて、米軍の最後の部隊は、1949年6月29日に韓国を引き揚げた。

 

 

067 キッシンジャーは自著『外交<下>』の中で次のように述べた。

 

北朝鮮やソ連の指導者は、アメリカのこれまでの態度から、北朝鮮が38度線を越えたら米が武力行使することが予測できなかった。彼らは米が1980年代後半の和解的態度から、1990年のペルシャ湾での軍事介入に一変したときのサダム・フセインのように驚いたに違いない。

 ソ連や北朝鮮の共産主義者は、アメリカが朝鮮半島を防衛境界線外としたことを真に受けた。

 アメリカが中国共産党の勝利を黙認した後で、朝鮮半島の半分を共産党によって乗っ取られることに抵抗しないだろう、と彼らは考えていた。「共産主義者による攻撃に対する抵抗は倫理的な義務である」とアメリカが繰り返してきた宣言のほうが、戦略的分析よりも重大だということが、彼らには理解できなかった。

 

 

068 アメリカの政策はころころ変わる。

 

 1988年、イラン・イラク戦争が終結した。

アメリカはイランによる宗教支配の拡散を恐れ、イラン・イラク戦争中に、イラクのサダム・フセインに武器を供与し、イラクによる化学兵器使用を黙認した

069 1988年3月16日、イラクのクルディスタン地域のハラブジャ科学兵器が使用され、多数の住民が死亡した。恐らくCIAアメリカ中央情報局の人物が、ハラブジャの土を採取したのだろう。

 イランは1988年7月、安保理決議を受諾し、8月20日停戦となったが、その直前、イラク軍はイラン南部のイラン兵に化学兵器を使用した。イラクはイラン南部の油田を確保しようとした。この時米国はイラクに苦情や抗議をしなかった

 

 サダム・フセインはアメリカが自分の後ろ盾になっていると確信した。(筆者は、サダム・フセインがエジプトにいた時、CIAと関係を持ったのではないかと推理する。)1963年、サダム・フセインはエジプトから莫大な資金を持って帰国した。(そんなに金があるのは米ぐらいだと筆者は言う。)

 イラクはイランと戦うとき、サウジアラビアとクウエート(いずれもイラク同様スンニ派)から資金を調達した。戦争が終わって、クウエートは資金の返済を求めた。それまでイラクとクウエートは国境線の石油鉱区をめぐり争っていた。サダム・フセインは武力でその石油鉱区を取り返そうと考えた。

 サダム・フセインは駐イラク米大使のエイプリル・グラスピー(女性)を呼び、クウエート侵攻の意図を述べた。グラスピーは「アラブの問題はアラブの中で解決して欲しい」と言った。フセインはこれをOKと解釈した。おそらく米国政府の態度もそうだったのだろう。

 

070 ところが、イラク軍がサウジ国境まで進軍すると、米国は一変してクウエート侵攻は許さないとした。

 

 北朝鮮やイラクの事前調査では、攻撃しても米国は黙認するだろうと思われたが、軍事行動をとると、これまでの発言と矛盾して、米国は強硬な対応を取った。

 それはこれはこれまで政策決定に関与していなかった人々が参画してきたためだ。朝鮮戦争ではそれはトルーマンだった。

 

 

060 トルーマンは1950年1月5日、「台湾問題に関する声明」を発表し、「米には台湾や中国その他の領土を略奪する意図はない。米は、台湾に軍事基地を建設する意思を持っていない。米政府は、台湾にいる中国軍に軍事援助や助言はしないだろう」と述べた。(『原典中国現代史<第6巻>外交』岩波書店1995

 

ところがトルーマンは、朝鮮戦争が始まった直後の6月27日、「台湾海峡中立化に関する声明」を出し、それまでの方針を一変した。060, 061

 

朝鮮に対する攻撃は、共産主義が独立国を征服するため、転覆手段に訴える範囲を越えて、今や武力侵略と戦争に訴えようとしていることを明らかにした。この状況の中で、共産軍による台湾の占領は、太平洋地域の安全と、同地域で合法的で必要な職務を遂行している米軍部隊に脅威を与えるだろう。私はこのため台湾に対する攻撃を阻止するよう第七艦隊に命令した。

 

ソ連の動向 『フルシチョフ回想録』より

 

 フルシチョフはウクライナ共産党の責任者だった。フルシチョフは1949年12月、ウクライナからモスクワに戻った。フルシチョフはスターリン死後の1953年9月から1964年10月までソ連共産党第一書記を務めた。失脚後回想録を執筆し、米国のタイム社に密かに原稿を送った。偽物ではないようだ。

 

071 『フルシチョフ回想録』によると、

 

1949年の終わりに私がモスクワに戻ったころ、金日成が代表団を率いて訪れ、スターリンと協議した。金日成は「最初の一突きで南朝鮮の内部に爆発が起り、人民の力が勝利を得る、また、この闘争は朝鮮人が自分たちだけで解決する内部問題である」とした。

 スターリンは「よく計算し、具体的な計画を練ってから戻ってくるように」と金に説いた。

 金は再びやって来た。私はスターリンが疑惑を感じていたと記憶しているスターリンはアメリカの介入を心配していた。我々は、戦争が迅速に展開すれば、アメリカの介入は避けられるだろうと考えた。

072 スターリンは毛沢東の意見を打診することにした。スターリンは金を思いとどまらせようとしなかった。私も同様だった

 毛沢東の答えも肯定的だった。(朝鮮戦争にソ連や中国が関与していなかった、とは言えないのではないか。)毛沢東は「これは朝鮮人が自分たちで解決すべき国内問題だから、アメリカは介入しないだろう」とした。

 

我々はすでにしばらく前から北朝鮮に武器を供給していた。北朝鮮は、戦車、大砲、小銃、機関銃、機械設備、対空兵器などを望んでいた。

 所定の日時が訪れ、戦争が始まった。金が予言したこと、内部の蜂起と李承晩政府の転覆は実現しなかった。金は南朝鮮に党の組織が張り巡らされていて、合図を送れば人民は反乱を起こすと信じていた。

 

073 中国の参戦

 

鴨緑江まで国連軍が追いつめた時、毛沢東は参戦に積極的だったが、他の幹部は消極的だった。

 

『原典 中国現代史<第6巻>外交』によると以下の通りだ。

 

毛沢東「義勇軍派遣に関するスターリン宛電報」1950.10.2

 

我々は義勇軍の名称で、朝鮮領内に軍隊を送り、米とその走狗・李承晩と戦い、朝鮮の同志を援助することにした。朝鮮全体が米に占領されれば、米侵略者は一層猛り狂い、極東全体にとって不利だからだ。

 

 毛沢東「朝鮮戦争参戦についての周恩来宛電報」1950.10.13 この電報は、周恩来がソ連に派遣され、避暑地でのスターリンとの会談を終えて、モスクワに戻った時のものである。

 

1.政治局の同志と協議した結果、我が軍が朝鮮に出動することが有利であると一致した。

2.それは中国、朝鮮、極東、世界にとって有利だからだ。敵が鴨緑江まで抑えれば、国内的・国際的に反動の鼻息が高まり、不利になる。東北にとって不利になる。東北国境防備軍の全てが引き付けられるし、南満の電力が制約される。

 

「周恩来の抗米援朝に関する政協常務会での報告」1950.10.24

 

 抵抗せずあっさり負けると、次々と受け身の立場に立たされ、どこまでも敵の侵略を受けることになる。

 

 

第二章 朝鮮半島を分断せよ

 

078 1945年8月14日、御前会議でポツダム宣言を受諾し、同日、スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨が連合国側に伝えられ、8月15日正午、日本政府はポツダム宣言の受諾と降伏決定を国民に発表した。

 

 朝鮮半島が混乱すれば、在朝鮮の日本人への略奪・暴行が起りうるので、朝鮮総督府政務総監の遠藤柳作は、朝鮮半島が無政府状態に陥るのを恐れ、朝鮮人による政府樹立を、人望のあった呂運亮に要請した。

 

 呂運亮は上海で設立された大韓民国臨時政府に参加していた。1930年、呂運亮は上海で逮捕され、朝鮮で3年間服役し、1933年、朝鮮中央日報社の社長に就任した。

 

079 1945年8月15日夜、呂運亮は建国準備委員会を発足させ、委員長は呂運亮、副委員長は安在鴻がつき、朝鮮総督府は権限をこれに委譲した。

 

 1945年9月6日、建国準備委員会は「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言した。

 

主席 李承晩(この時は海外にいた。)

副主席 呂運亮

国務総理 許憲(明治大学卒、弁護士、北朝鮮で最高人民会議議長、金日成総合大学学長、1951年8月死去。)

内務部長 金九(上海で臨時政府に参加、大韓民国臨時政府の警務局長、1940年から47年まで同主席、李承晩と対立し、1949年6月、暗殺された。)

外交部長 金奎植(プリンストン大学で修士号取得、1919年4月、大韓民国臨時政府の外務総長、朝鮮戦争時に北朝鮮に行き、当地で死亡。)

財務部長 曺晩植(戦後、平壌で活動。金日成に代わりうる人物だったが、ソ連が受け入れず、1946年1月から軟禁され、朝鮮戦争で平壌陥落が目前に迫った1950年10月18日、処刑されたらしい。)

保安部長 崔容達

文教部長 金性洙(東亜日報、高麗大学校、韓国民主党などを設立。政治家、教育者、実業家。1951年から1年間、李承晩大統領の要請で副大統領)

司法部長 李観述

書記長 李康国

 

080 米軍はこの臨時政府を承認せず、9月7日、軍政の実施を宣言し、9月11日、アメリカ軍政庁(United States Army Government in Korea)を設置した。

 ソ連軍も38度線以北に対し、10月3日ソビエト民政庁の設置を宣言し、朝鮮人民共和国を認めなかった。

 

 

分断

 

米のラスクが朝鮮を分断した。ラスクは “As I Saw It”(回顧本)を刊行した。

アジア情報アナリストのマーク・バリーは、北朝鮮関連のニュースサイトNK Newsに「朝鮮の分断」The US and The 1945 Division of Koreaという記事を書き、ラスクが回顧したことを以下のように引用している。https://www.nknews.org/2012/02/the-u-s-and-the-1945-division-of-korea/

 

1945年8月14日の夜、国務・陸軍・海軍の三省調整委員会SWNCC*が開かれていたが、ボーンスティール大佐(後に駐韓国連軍司令官)は隣の部屋で、朝鮮半島における米国の占領地に関して、朝鮮半島北部に自然な地理的(境界)線を見つけられなかったので、首都ソウルを含めるようにして、北緯38度線を選択して進言したが、我々の司令官たちは特段の論議もなく受け入れ、驚いたことにソ連も受け入れた。(これはラスクの回顧談)

 

SWNCCState, War, Navy Coordinating Committee

 

 しかし、マーク・バリーは、ラスク書簡に言及しつつ、次のように記述している。

 

SWNCCの陸軍省代表であるマックロイ陸軍次官は、私とボーンスティールに、米軍ができるだけ北上して日本軍に降伏を認めさせるようにということと、米軍の能力の限界も考慮して線引きするように要望した。

 

 ラスクはSWNCCが8月14日に開かれたと言うが、マーク・バリー等は、8月10日から11日の深夜にかけて開かれ、14日にトルーマン大統領の承認を得たとする。また、ラスクは38度線の決定に関して「特段の議論もなく」とするが、マーク・バリーは、以下のように、論争があったとしている。

 

ガードナー将軍が39度線を提唱し、それにフォレスタル海相とハリマン(駐ソ米104)大使が賛成した。しかし、両大佐(誰のことか。38度線を提案したボーンスティールとラスクらしい。101)の上司であるリンカーン准将は、「(39度線では)ソ連が同意しないだろうし、北への進軍が難しい」とし、ダン国務次官はリンカーンを支持し、「(それは)バーンズ国務長官の考えでもあろう」とした。

 

084 38度線を主張したラスクは、ジョージ・マーシャル参謀総長の側近であったから、ラスクの進言にはマーシャルの考えも反映されていると思われる。

 

 

共同信託統治から分割統治へ

 

ルーズベルトが米中ソなどによる朝鮮の信託統治を考えていたので、朝鮮における米ソの勢力範囲は確定していなかった。

 

カミングス『朝鮮戦争の起源<1>』によると、次の通りだ。

 

戦後世界におけるアメリカ像について、アメリカ国内で議論があった。

第一は、資本主義の長所を強調し、自由貿易、開放社会、世界市場、議会制民主主義、福祉、気前のよい大国主義である。

第二は、米国の国益追求を重視し、領土拡張、経済支配区域の拡大、米的生活様式を敵視する国との対決である。

ルーズベルトは前者を提唱した第一人者だった。

 

1944年8月から10月にかけて、ワシントンで、ダンバートン・オークス会議が開かれた。その時のソ連の代表はアンドレ・グロムイコであった。ここで国際連合が提案・採択された。

1945年4月から6月にかけて、サンフランシスコで会議が開催され、国際連合憲章を採択し、国際連合の設立を決定した。(米の国際協調主義)

 

086 冷戦が始まったのは、1945年4月にルーズベルトが死去し、国益重視のトルーマンが大統領に就任してからだろう。

 

1943年から1946年まで実践が試みられた、朝鮮の多国間信託統治案は、米の国際協調主義を物語る。シャーマンによれば、ルーズベルト式帝国主義は、貧困地域の発展と引換えに、服従とその体制の安定の保障が求められるとする。

 

信託統治案には難問があった。1943年3月24日、ルーズベルト大統領とイギリスのイーデン外相がワシントンで会合したとき、ルーズベルトは、戦後に信託統治が適当な地域として、朝鮮とインドシナを挙げた。(しかし、この時期のイギリスは植民地を保有していたから、信託統治構想はイギリスの植民地支配を脅かす考え方であった。イギリスがスエズ運河から東の植民地を放棄したのは1970年である。)

 

 朝鮮の信託統治国の候補は、中国、米、ソ連だった。

 

087 カイロ会談に米、英、中が参加し、1943年12月1日、共同声明を発表し、その中で朝鮮独立を支持し、「やがてin due course朝鮮を自由かつ独立の国にする決意がある」とした。

 朝鮮人はカイロ宣言のこの誓約を歓迎したが、「やがて」には憂慮した。

 

 ヤルタ会談の1945年2月9日、信託統治が討議にかけられると、ウインストン・チャーチルは反対した。アメリカは数週間後フランスにも屈服した。(フランスはアフリカやインドシナに植民地を持っていたからだ。)

 

 1945年4月、トルーマンがルーズベルトの後任となったが、彼は一国独占主義者だった。

 

 1945年7月3日、ハリマンはモスクワからトルーマンに電報を打ち、スターリンと中国代表の宗子文が話した内容について、「スターリンは宗に、朝鮮の4カ国信託統治実施案に賛成した」とした。

 

088 ルーズベルトやスターリンは、戦略的に朝鮮半島が必須とは考えていなかったようだ。ポツダム会談のこの時点で、米ソとも、軍事的な必要性から朝鮮を占領するはっきりとした考えはなかった。

 

 (しかし)1943年の末ころから国務省の政策担当者(主として領土分科委)たちは、朝鮮がソ連の手に落ちた場合を心配し始め、1944年の初めころになると、朝鮮を部分的ないしは全面的に軍事占領するという計画を立て始めた。国務省の領土分科委のメンバーたちは、1940年代の全期間を通じて、アメリカの朝鮮政策で重要な働きをしたボートン*、ヴィンセント*、ラングドン、ベニングホフのような人々である。

 

*ボートンは東洋史学者で戦後の対日政策に関与した。

*ヴィンセントは国務省東アジア部長で、1945年、蔣介石と中国共産党との融和を目指すマーシャル・ミッションに参加し、赤狩りの中で批判された。

 

感想 アメリカの中でも国務省の一部は、朝鮮占領を考えていたようだ。トルーマンもその部類か。

 

 

鉄のカーテン演説

 

089 チャーチルは1946年3月、ウエストミンスター大学で演説した。「バルト海のシュチュティン(ポーランド)からアドリア海のトリエステまで、鉄のカーテンが下された。」1945年7月5日の総選挙で保守党は労働党に敗北したため、この時チャーチルは首相ではない。

 1947年3月、トルーマンは議会に対して、「世界の幾多の国が、最近全体主義体制を強制された。米政府は、ポーランド、ルーマニア、ブルガリアでの、ヤルタ協定に違反した強制と脅迫に抗議した。」(トルーマン・ドクトリン)

 1947年6月、マーシャル国務長官は、ハーバード大学で、「米は(鉄のカーテン内部の国々を含めて)欧州に復興援助を供与する」と表明した。(マーシャル・プラン)

 これに対してスターリンは、「自分の支配圏をドルの供与で切り崩す意図だ」と反発した。

 

 1948年6月、ソ連は西ベルリンに向う鉄道と道路を封鎖した。(ベルリン封鎖)軍事的衝突の危険を孕んでいた。

 1949年4月、北大西洋条約がつくられた。

 

090 1945年8月30日午後、マッカーサーが厚木に到着した。

091 ジョン・リード・ホッジ司令官と、沖縄の第24軍団は、9月5日、21隻の船で沖縄を出航し、9月8日、仁川に到着した。これはソ連の南進を抑える意図であった。

第二次大戦の終了時、米国は、日本を米軍が直接統治する可能性を持っていたので、そのための人員を用意していた。結局米は日本を、日本政府を通じた間接統治にしたが、解放された朝鮮は、直接統治した。

 9月8日、仁川に到着した要員は、将校87名、兵卒247名だった。そして9月27日までに、450名が到着又は出発予定だった。

 

092 米軍は朝鮮の民主化ではなく逆コースを実施した。

 

 金日成は「朝鮮半島の解放」をスローガンに朝鮮戦争を開始したが、米軍=外国軍からの解放もその中に含まれている。

 

 ブルース・カミングス『朝鮮戦争の起源<1>』によると、

 

アメリカ国家権力は朝鮮で、ソ連の革命勢力ではなく、朝鮮人の革命勢力に遭遇した。(米軍内部に)インナーナショナリスト=国際協調派=信託統治派がいなくなり、一国独占主義者が登場した。そして一方的に朝鮮内部に反共の防波堤を築こうとし、南朝鮮に単独政権を樹立させ、封じ込めと対決の前線を形成し、反共主義が存在理由のすべてであるような社会を作り上げようとした。

 

093 (朝鮮では)冷戦は日帝の敗退後3ヶ月以内に行われた。

 1945年9月から12月まで、米占領軍は、日本の朝鮮総督府の官僚機構を復活させ、そこで勤務していた朝鮮人職員を呼び戻し、日帝時代の警察機構を復活させ、朝鮮人警察官を復職させ、南朝鮮に国防軍を創設し、南単独の政権樹立に向った。

 これは(ソ連に対して)一方的に、またソ連よりも先に行われた。朝鮮の占領政策は、日本の占領政策とは対照的だった。

日本では連合国軍最高司令官総司令部GHQは、当初民主化・非軍事化を進め、1948年までは改革を目指し、民主主義的な憲法体制まで樹立した。しかし、1948年、米は日本を共産主義の防波堤にすべくその政策を転換した。

 

朝鮮では、アメリカの野望と、朝鮮人(一部の事大主義者を除く)の念願とは常に対立していた。

095 朝鮮の労働者、農民、学生、日帝に動員に駆り出された後故郷に戻った人々にとって、建国準備委員会から人民共和国への解放政権は、命を賭しても戦う価値のあるものであり、彼らの闘いは日が経つにつれて激しくなり、衝突では果敢に闘った。騒擾が激しかったのは、日帝時代に人口の移動と農地をめぐる紛争が行われた地方だった。この地では、団体を組織する時間的余裕があった。

 

日帝の朝鮮総督府時代の朝鮮人役人が戦後の弾圧政権に雇用されたことの日韓関係への影響

 

 ・旧朝鮮総督府時代の韓国人役人は、李承晩政権に繋がった。

 ・韓国の人々の日本に対する反感*は、韓国(の右派)政権に対する不信感と一体のようだ。

 ・李承晩政権は民族主義的であると共に、弾圧も行う。

 ・弾圧政権が行った日本との協定は、反発の対象となる。

 

感想 *この下線部を筆者は「反日」という右翼の用語で表現するのだが、私は非常に違和感を覚える。私は「反日」とは「反・日本民族中心主義」であり、極めて排外主義的な用語だと考える。筆者はその右翼の言う「反日」の「日」に、右翼以外の日本人一般も含めているようだ。「共に民主党」などを代表とする韓国の人々は、日本人一般を嫌っているわけではない。植民地支配を合法だと考える日本人に反発しているに過ぎない。

 

095 ソ連による朝鮮占領

 

米が対日参戦をソ連に要望したのは、米が日本本土の上陸作戦を予定していて、満州や朝鮮で戦う余力がなかったからだ。

 

 ソ連は1945年8月8日、対日宣戦を布告し、8月9日午前0時、軍の攻撃を開始した。

 

1945年4月26日、ソ連軍がベルリンに突入した。

 

 孫崎亨『日本の国境問題』筑摩書房2011によると、

 

ポツダム宣言で、日本の主権は、本州、北海道、九州、四国と、連合国側が決定する小島とされた。1946年1月の連合軍最高司令部訓令で、「千島列島、歯舞群島、色丹島を除く」とされた

 ルーズベルトは米軍の犠牲者をできるだけ少なくして、日本の無条件降伏を引き出したかった。その点は、ルーズベルトもトルーマンも同様だった。トルーマンは『トルーマン回想録』の中で、次のように書いている。

 

「軍事専門家は米軍が日本本土に侵入すれば、日本軍の大部隊をアジアと中国大陸に留めさせた場合でも、50万人の米兵の死傷を見込んでいる。ソ連の対日参戦は、非常に重大なことだった。」

 

 米は、テヘラン会談1943.11—12でソ連に対日参戦を要請した。ヤルタ会談1945.2で「千島列島がソビエト連邦に引き渡されること」を含む協定が結ばれた。このことは『グロムイコ回想録』読売新聞社1989に次のようにある。グロムイコは元ソ連外務大臣であった。

 

097 私はヤルタでスターリンに会ったが、その時スターリンにルーズベルトからの書簡が届いた。アメリカはサハリンの南半分(この時北半分はソ連領)とクリル列島(千島列島)の領有権を承認すると言ってきた。スターリンは大喜びだった。スターリンは言った「米がソ連の対日参戦を求めてくるぞ」と。

 すでにテヘラン会談のときにルーズベルトはスターリンに対日戦への協力を依頼していたが、テヘランではこれらについて原則的な理解に到達していたが、確固たる合意はなかった。サハリンとクリル列島に対する言及があって初めて最終合意が結ばれた

 

098 1945年8月8日、モロトフ外務大臣から日本の佐藤尚武・駐ソ連大使に対日宣戦布告を伝え、ソ連軍の攻撃は8月9日午前零時に開始された。

 ソ連は、朝鮮半島では、羅津*、清津*、雄基を爆撃する間に、地上軍は豆満江方面から進軍し、8月13日、一個師団が清津に上陸した。*いずれも豆満江の南西の日本海岸の都市。

 

 『朝鮮でのソ連の目的と朝鮮戦争の起源』キャスリーン・ウェザースビー1945—50によると、

 

8月14日、スターリンは朝鮮半島の米ソによる38度線分割案を議論もなく承認した。

スターリンは、朝鮮への進攻においては、米が9月初めまで朝鮮半島に到着せず、ポツダム合意に反するが、「38度線で留まるように」指示した。

 

*疑問 ポツダム合意ではソ連の朝鮮半島南進に制約がなく、朝鮮全土で徹底的に日本軍を打ちのめすことになっていたのか。しかし、このことと8月14日の38度線の設定との整合性はどうなるのか。

 

ソ連軍は38度線を封鎖し、38度線を越える郵便を停止し、石炭の南部への輸送を止めた。

 

099 『韓国戦争<第一巻>』韓国国防軍史研究所編、かや書房2000によると、

 

平壌では曺晩植が中心となり、国内の共産主義者も含めて建国準備委員会平安南道支部を結成し、解放以後の政府樹立に備え、各道の中心都市に建国準備委員会が結成された。

 38度線以北を占領したソ連軍は、イワン・チスチャコフ大将指揮下の第一極東方面軍の第25軍12万名を主体とし、これに太平洋艦隊の海軍施設部隊やその他3万名を加え、総計15万名で構成された。

 ソ連軍は軍政を実施するために人民委員会を組織した。この人民委員会は外見は自主的のように見えるが、実質はソ連軍政局が支配し、時の経過と共に、人民委員会組織から民族陣営勢力を排除して、ソ連の共産主義者に掌握された。

10月14日、ソ連軍政当局が平壌で群衆大会を開き、ソ連軍大尉金日成を北朝鮮住民の前に登場させ、(ソ連の勢いは)最高潮に達した。金日成はこの時からソ連軍政の忠実な手下となって権力を掌握し始めた

 共産党が民族主義者を抹殺する工作を遂行した。

 12月17日、(ソ連軍政は)金日成を朝鮮共産党北部朝鮮分局責任秘書に据え、彼を北朝鮮における共産党の第一人者に仕立てた。

 

 

フョードル・テルツキー*「金日成はどうやって北朝鮮の偉大な指導者になったか」NK News, 2018.11.5によると、(*テルツキーは韓国で活動している。)

 

1945年8月から9月の間に、今日の北朝鮮の骨格が出来上がった。

1945年8月8日、ソ連が帝国日本に宣戦布告したとき、朝鮮分割の計画はなかった。(スターリンはルーズベルトが提案した信託統治案に賛成していた。)

101 極東ソ連軍司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は、朝鮮人に、日本に対して蜂起するように呼びかけ、ソウルは自由になり独立できるだろうと述べた。赤軍は朝鮮行政府の中央に進もうとしたが、実現しなかった。

 マーク・バリーが言うように、朝鮮を分割する案は、チャールズ・ボーンスティールとディーン・ラスクという二人の大佐によって作成された。(1945年8月14日、p.82)38度線である。この案はスターリンに送られ、驚いたことにスターリンは反対しなかった。

 

モスクワ国際関係大学学長のトルクノフは、著書『朝鮮戦争の謎と真実』*の中で、次のように語った。

 

*草思社2,420円+459円。中古品は500円で、京都大垣書店オンラインが販売。

 

1945年から49年末まで、スターリンは朝鮮半島に武力行使しようとしなかった。むしろ、敵が北側を攻撃するのではないかという不安をますます募らせた。これは、第二次大戦直前のソ連のドイツとの関係と同様で、ソ連の指導者は、ワシントンとソウルを挑発しなように現状維持に努めた。

102 これを裏付けるものがある。1947年5月12日、在北朝鮮ソ連代表部のキリル・メレツコフテレンティ・シトゥイコフ*がスターリンに次のような緊急電報を送った。

 

南北朝鮮の統一と朝鮮臨時政府の成立までに、ソ連の専門家が北朝鮮に到着しないと、朝鮮臨時政府は、アメリカ人専門家を朝鮮に呼び寄せ、我々の国益に反して、朝鮮における米国の影響力が強化されることになる。ソ連人専門家の北朝鮮派遣を早めるよう、貴下の指示を請う。

 

これに対してスターリンは、「ソ連人専門家518人を送るが、我々は朝鮮問題に深く立ち入る必要はない。」と指示した。

 

*朝鮮問題米ソ共同委員会ソ連代表。後、在平壌ソ連大使。

 

委任統治から分割統治へ

 

 1945年8月15日、遠藤柳作・朝鮮総督府政務総監は、呂運亮に建国を要請し、9月6日、朝鮮人民共和国が成立した。閣僚には、一方で、李承晩や、李承晩政権下で副大統領(金性洙80)や大法院長を務めた人(金炳魯80)がおり、他方で、後の北朝鮮最高人民会議議長や金日成総合大学学長を務めた人(許憲79)もいた。また日本に対して「テロ攻撃」*した人もいれば、財界人や言論人もいた。オール朝鮮だった。しかし、米軍政はこれを認めなかった。

 

*疑問 植民地支配に対する抵抗は「テロ」なのだろうか。

 

 朝鮮の独立を認めない流れは1945年以前からあった。(信託統治案)

 米国の軍政は韓国国民の抵抗に会った。

 

 ルーズベルトの理念は各国が各国民の政権を樹立する自由を持つことだった。1941年8月14日、ルーズベルト大統領とチャーチル首相は大西洋憲章を発表した。

 

大西洋憲章第三条

 

三、(米英)両国は、全ての国民がその政体を選択する権利を尊重する。両国は、主権や自治を強奪された者に、主権や自治が返還されることを望む。

 

ところがルーズベルトは朝鮮半島信託統治案を提案した。

 

1943年3月24日、ルーズベルト大統領は、ロバート・アンソニー・イーデン英国外相と会談し、朝鮮とインドシナの信託統治案を提示した。

104 米英中は1943年12月1日、カイロで共同声明を発表し、朝鮮については

 

「三大国は朝鮮人民の奴隷状態に留意し、やがてin due course 朝鮮を自由で独立の国にすると決意した。」

 

と表明した。(カイロ会談は1943.11.22—1943.11.26に開催。発表は12月1日。)

1943年11月28日から12月1日にかけてのテヘラン会談で、ルーズベルトは、「朝鮮人にはまだ独立政府を運営する能力がない。だから40年間は後見人の下で訓練する必要があると」とスターリンに述べ、スターリンもこれに同意した。

 

 1945年2月8日ヤルタ会談の非公式会談で、朝鮮に対する信託統治期間は、20年ないし30年は持続すべきだというのがルーズベルトの考えだった。また、スターリンは短いほど良いとした。

 1945年4月12日、ルーズベルトが死去し、一国独占主義のトルーマンが大統領を引き継いだ後も、連合国の同調を求める政策を継続した。

 

 ポツダム会談で、ハリマン駐ソ米大使*は、モスクワからトルーマンに次のような電報を打った。

 

*1943年から46年まで駐ソ米国大使

 

 スターリンと中国代表の宗子文*が、朝鮮について話し合った。スターリンはその中で「朝鮮に4カ国信託統治を実施することに同意する」ことに確認を与えた。

 

*蔣介石の外交部長。姉妹に、孫文の妻・宗慶齢、孔祥煕の妻の宗靄(あい)齢、蔣介石の妻・宗美麗がいる。

 

105 ポツダム会談*のとき、スターリンは、朝鮮でこそ信託統治が最初に行われるべきだとしたが、チャーチルの介入で、朝鮮の戦後処理問題は棚上げされた。(以上カミングス『朝鮮戦争の起源<1>』)

 

トルーマンが大統領になって信託統治から分割統治に変わったが、スターリンはルーズベルト案を暖めていたと言える。

 

*ベルリン近郊のポツダムで1945年7月17日から8月2日まで開かれた。米英中によるポツダム宣言は、その期間中の7月26日。

 

 

李承晩と金日成

 

朝鮮は中世以来統一国家だった。高麗は936年から1392年まで、李氏朝鮮は1392年から1910年まで、1897年に国号を大韓と改称したが、統一国家として続いた。日本統治時代も統一していた。

 

李承晩

 

106 トルーマンの登場後、韓国では米に近い人は信託統治に反対し、ソ連に近い人は信託統治に賛成した。

107 38度線による分断化を李承晩が推進した。

 

呂運亮                 1945年8月、建国準備委員会を立ち上げた。

金九                     1940年から47年まで大韓民国臨時政府主席。

金奎植                 1919年4月に大韓民国臨時政府外務総長。プリンストン大学修士。右派。

元世勲                 韓民党総裁。右派。

許憲                     明治大学卒。朝鮮共産党創設に参加。1948年、金日成総合大学学長。

 

108 統一を唱えた呂運亮や金九は暗殺された。

 

 1945年8月15日、呂運亮は日本総督府の助言を受け入れて、建国準備委員会を発足させ、9月6日、朝鮮人民共和国を発足させた。

 1946年10月7日左右合作七原則が合意され、「朝鮮の独立を保障するモスクワ三カ国外相決定により、南北を通じた左右合作で、民主主義的な臨時政府を樹立すること」とされた。

 1947年5月21日、第二次米ソ共同委員会で、信託統治案が棚上げされ、米国は、中道派中心の南北統一政府樹立案から、李承晩による南朝鮮単独政府樹立へと進路を変更し、呂運亮は邪魔な存在になった。

 1947年7月19日、呂運亮が暗殺された。

 その後金九が統一のために尽力した。金九は1940年から1947年まで大韓民国臨時政府主席だった。

 1949年6月26日、金九が暗殺された。

 

 自主を唱える(日本の)政治家は失脚した*が、韓国では暗殺まで行く。(*孫崎亨『戦後史の正体』創元社2012

 

110 1919年、呂運亮は原敬内閣に日本に招待されたとき、吉野作造らと会い、朝鮮独立を主張した。吉野は呂を尊敬すべき人物だと評した。ところが原敬が呂運亮を赤坂離宮に案内すると、貴族院がこれを問題視した。

 1919年、米大統領ウイルソンが14か条の平和原則を発表すると、民族自決の意識が世界中に高まった。1919年3月1日、朝鮮で独立運動が起こり、呂運亮はこれに関与したが、日本人は呂を犯罪人と看做した。

1920年2月1日、「原敬が呂に皇室関連の赤坂離宮を訪れさせたのは何事か」と貴族院が紛糾した。原敬は「元来呂運亮は犯罪者ではないから、彼を招いて意思疎通をしたことは無駄ではないと私は思う。また呂を操縦しておくことは、将来朝鮮統治の上で効果があるはずだ」と述べた。(『江木千之(かずゆき)翁経歴談<下>』江木千之翁経歴談刊行会1933

 1921年、原敬は東京駅で暗殺された。

 

 

 金日成も李承晩も「相手を攻めて統一を果たす」と述べていたことは、戦争をもたらす原因となった。李承晩は「北進統一」を主張した。白井京「李承晩と朝鮮戦争――北進統一論を中心に」(赤木完爾編著『朝鮮戦争』慶応義塾出版会2003)によると次の通りだ。

 

1948年8月15日の国家樹立後、李承晩は、南北統一のための北進について何度も言及した。

単独政権論とは、分断された南朝鮮でいったん過渡政府を樹立した後に、南北朝鮮を統一するというものだ。

 

1946年5月6日第一次米ソ共同委員会が決裂し、その後、米のそれまでの朝鮮政策は変化した。それまで米は「李承晩や金九を中心に南朝鮮の政治勢力を統合する」と考えていたが、「ソ連との合意を容易にするために、中道派との提携を試みる」ようになった。

1946年、米国務省は米軍政に新たな朝鮮政策を送り、「アメリカの目標達成に不必要で、ソ連との合意に困難を及ぼす人物(李承晩)を、韓国の代表機関から除去するように」示唆した。

(李承晩の)単独政権樹立構想は、アメリカの政策に反対することだった。ホッジ軍政長官(在任1945—48)と李承晩との仲は険悪になった。

 

1947年8月第二次米ソ共同委員会が決裂したとき、米は朝鮮政策を転換した。米はソ連との共同行動と朝鮮の統一を断念し、李承晩の単独政府樹立論と合致するようになった。

李承晩の単独政府樹立論は「先独立、後統一」という国家独立論の一環であった。

総選挙が、南北会談に出席した金九や左派・中道派の諸政党や団体が不参加のまま、1948年5月10日に実施された。(単独選挙)

 

李承晩の北進統一発言は、1949年の初めから見られるようになった。

李承晩の北進統一論の背景には、国連が大韓民国を正式に承認したことがある。1948年12月12日国連総会は大韓民国を朝鮮半島における唯一の合法政府であると宣言した。(これはおかしい)

もう一つの北進統一論の背景に、北朝鮮からソ連軍が撤退したことがある。

1948年9月、ソ連は北朝鮮駐留軍を1949年1月までに完全に撤退すると表明し、1948年12月末、撤退が完了したと発表した。

 

1949年5月から6月までの南北の衝突は、G2(連合国軍最高司令官総司令部参謀第二部)の報告によれば、韓国側が仕掛けたとされるが、38度線上での紛争は、韓国側だけではない。

 

1949年後半から、李承晩は北朝鮮に対して、一層強硬な態度を取り、北進統一発言を繰り返し、1949年秋、それが最高潮に達した。1949年10月7日、李承晩は「3日あれば平壌占領は可能だ」と記者会見で述べた。北進統一論は軍首脳も唱えていた。

李承晩は、彼が(戦争を)決断すれば、北朝鮮人民がこれに同調し、傀儡政権を打破するだろうと言った。金日成もこれと同様に、南進すれば南朝鮮で蜂起が起り、人民が自らの側につくと考えていた。

 

 

金日成とスターリン

 

アンドレイ・ランコフ『スターリンから金日成へ』法政大学出版局2011によれば次の通りだ。

 

*アンドレイ・ランコフはレニングラードに生まれの学者。

 

1945年8月11日、ソ連第25軍が中国と朝鮮との国境を越えた。

1947年初めまでは、朝鮮問題は、軍によって扱われていて、多くの決定は現地で行われた。モスクワは当初はアメリカとの妥協を排除しなかった。1946年3月になっても、ソ連軍の専門家は全朝鮮の将来像を起案していた。ここで金日成には比較的控えめな国防相の地位が想定されていた。朝鮮現地の共産主義運動は大変弱かった。

 

ソ連軍は当初曺晩植*を味方につけようとした。

 

*曺晩植は8月15日の解放と同時に平壌で平安道治安維持会を結成し、委員長に就任した。

 

しかし、ソ連当局はまもなく地方の民族主義者との同盟が不安定だと感じるようになった。曺晩植の政策はソ連の計画と矛盾した。ソ連軍当局は新たな政治的連合と人物を探し始めた。

金日成は1945年9月末に平壌に戻った。ソ連第25軍第7課長グレゴリー・K・メクレル少佐が1945年9月30日、金日成と曺晩植との会見をお膳立てした。1945年10月14日、金日成がソ連軍歓迎集会で大衆の前で初めて演説した。演説の原稿はソ連軍第25軍政治部が書いた。金日成は北朝鮮を支配する3人の政治家、曺晩植、金日成、金鎔範*の一人となった。

 

*金鎔範は、1930年代コミンテルンによって朝鮮の地下活動のために送られた。

 

北朝鮮では最初から(ソ連の指導に対して)抵抗にあった。平壌では民族派と、ソ連に支援された共産主義者とが対立を深めた。

朝鮮戦争時の1950年10月、平壌(勢力)が退却するとき、曺ら政治犯は、スターリン式のよいやり方で射殺された。こうして1945年に最も人気があった平壌の政治家で、北朝鮮で一番最高権力にふさわしい候補であった人物(曺晩植)が亡くなった。

 

追放された民族右派はソ連体制=新体制に抵抗したが、その抵抗は弱かった。一方、南では体制に対する抵抗は強かった。南では1946年末、左派反対派は内戦で挑んだ。ストや反対集会に何十万人が参加し、何千人が共産ゲリラに参加するために山に入った。北側はこれに訓練、武器、支援を与えた。北でも新義州で暴動が起こったが、規模は小さかった。北朝鮮での抑圧は無慈悲だったが、(北での体制に対する抵抗の弱さの原因は)そればかりではなかった。

解放直後の北朝鮮の体制に対する人気は、本物だった北の政府は南より効率がよく、腐敗していなかったと(民衆に)思われた。(宣伝か)

 1946年7月22日朝鮮民主主義民族統一戦線がつくられ、すべての政党は共産主義者の厳格な指導のもとに入った

 

 

117 トルクノフ『現代朝鮮の興亡』共著、明石書店2013によれば、以下の通りである。

 

*トルクノフはモスクワ国際関係大学学長。同大学はロシア外務省付属大学で、外務大臣を輩出している。

 

 曺晩植から金鎔範、そして金日成へ

 

118 1945年9月末、金日成がウラジオストクから元山に海路でやって来て、平壌市の衛戍本部補佐官に任命された。

 

 ソ連当局は北朝鮮指導者として当初曺晩植にかけていたが、彼はソ連の指導を断った。曺は反共産主義的で、北朝鮮エリートの左派的潮流に協力しなかった。

1945年10月10日、平壌に朝鮮共産党組織局が(ソ連の)北朝鮮支局として創設され、この支局を金鎔範が指導した。金鎔範は1930年代、コミンテルンが、非合法活動のために、朝鮮に派遣していた。

 

 1945年当時、金日成1912.4.15—1994.7.8は33歳の赤軍大尉だった。スターリンが金日成を北朝鮮の指導者に指名した。

119 植民地時代、金日成はパルチザン運動の伝説的指導者として崇められていた。1945年10月14日、金日成がチスチャコフ将軍から紹介されたとき、金が白髪の指導者ではなく若かったので聴衆は驚いた。

 

 1945年8月、スターリンは北朝鮮の将来の指導者として可能な候補を選ぶように指示した。曺晩植のようなブルジョアでは不味かったからだ。曺晩植は民族主義的で、解放後に現れた左派的代表と共に働くことを好まなかった。

 

 北朝鮮の指導者として5つの集団からの名簿がスターリンに提出された。

 

第一グループには1920年から30年代にかけて、地下の共産主義集団づくりのためにコミンテルンから派遣された人々が入っていた。彼らはソ連の学術機関を終えていて、金鎔範、朴正愛*などがいた。(第四グループのソ連派とどう違うのか。)

 

*朴正愛 モスクワ労農大学卒業。女工時代から朝鮮革命運動に参加。投獄数回。戦後平壌で出獄。1945年民主女性同盟委員長。以後朝鮮労働党中央委員会常務委員、最高人民会議常任委員。

 

120 第二の集団は延安からやって来た人達である。金枓奉。(初代最高人会議常任委員長。1958年、粛清されたようだ。)(延安派)

第三の集団は、曺晩植など地元の民族派。(国内派)

第四は、朝鮮民族籍のソ連人で、アレクセイ・イワノヴィッチ・ヘガイ。ヘガイは、労働党政治局員、副代表、朝鮮名は、許哥而(ほがい)、許哥誼。(ソ連派。176 第一グループとどう違うのか。)

第五は、パルチザン指導者で、金日成、崔庸健(初代朝鮮人民軍総司令)など。(パルチザン派)

 

ソ連の指導者は、金日成の若さと操作しやすさ、ソ連が(金を通してソ連の)政治路線を遂行できると、当初は考えられた。

 

1947年頃、北朝鮮はまだ金日成の独裁ではなく、四派が存在して、権力闘争をした。1947年末、労働党の指導者内に四派(国内派、延安派、ソ連派、パルチザン派(満洲派)ができ*、パルチザン派が勝利した。当時はソ連軍の支配下にあった。*第一グループは消滅したのか。

 

121 トルクノフ『朝鮮戦争の謎と真実』によれば、次の通りである。

 

・スターリンから駐北朝鮮ソ連大使シトウイコフ宛至急電1949.4.17

 1949年5月に米軍は南朝鮮から日本近隣の島へ撤退するようだ。その対応策を検討せよ。

・シトウイコフからスターリン宛報告1949.4.20

 朝鮮人民軍の戦闘準備が不足している。

・アレクサンドル・ワシレフスキーソ連極東軍総司令官とシトウイコフからスターリン宛報告1949.4.20

 我が軍部隊の撤退後の、38度線地域での秩序を乱す南側の行為は、挑発的で、常習的だ。

・シトウイコフからスターリン宛報告1949.5.2

 米軍の撤退準備と南朝鮮軍の北朝鮮侵攻準備に関して、南朝鮮政府は大規模な軍部隊を38度線に隣接した地域に集中させている

・金日成のシトウイコフとの会談での発言1949.6.5

 今、朝鮮全域で総選挙が実施されれば、左派や社会主義が勝利するだろう。左派と社会主義組織は、北側の80%の支持を、南側の65%~70%の支持を獲得するだろう。だから南朝鮮と米は軍事的解決に執着する。

・シトウイコフからスターリン宛至急電報1949.6.22

 在平壌の北朝鮮軍部隊は十分でない。南側からの軍事行動が始まった場合、南朝鮮軍は効果的に(北朝鮮軍部隊を)打撃するだろう。38度線の警備を担う北朝鮮のこの旅団部隊は、前線に沿って延びているので、南側からの侵攻があれば、断固たる抵抗ができない。

123・スターリンからシトウイコフ宛指示1949.8.3

 南朝鮮政府内の影響力のある人物が、北朝鮮への侵攻を主張しているらしい。この潜在的な敵を挑発しないように、また、軍事行動が始まった場合、ソ連が一線を画するために、モスクワは、自らの海軍基地と在北朝鮮空軍代表部を閉鎖することにした我々の平和志向を宣伝し、敵を心理的に武装解除させ、南の侵攻に対して起りうる戦争(受けて立つ戦争)に我々が引きずり込まれないように、我々の軍事施設を撤去するのが正しいと、クレムリンの文書は述べている。(クレムリンとスターリンは違うのか。)

・スターリンからシトウイコフ宛電報1949.10.30

 あなたが中央の許可なしに、南側に対する活発な(挑発的な)行動を北朝鮮政府に勧めることは、禁止されていたはずだ。また38度線付近で計画された行動と、発生した出来事に関する報告を中央に提出するように指示されていたはずだ。

 あなたはこれらの指示を行っていない。

 あなたは、(北朝鮮の)第三警備旅団の大規模な攻撃準備について報告せず、この軍事行動に我々の軍事顧問が参加することを(北朝鮮に)許可した。

 あなたの行動が間違っていること、そして上級機関の指令を遂行しなかったことに対して戒告し、あなたに、指令の厳密な執行を要求する。

 

124 以上、スターリンが米と戦うことを警戒していることが分かる。

 

・シトウイコフからモスクワへ伝達

 平和的な再統一をソウルは拒否している。北側には、南側への侵攻準備を開始する以外にない。南進は、李承晩体制に反対する南側の大規模蜂起を喚起するだろう。

 われわれが侵攻を開始しなければ、朝鮮人民は理解に苦しみ、我々は朝鮮人民の信頼と支持を失い、祖国統一のチャンスを失うだろう。(これは宣戦布告みたいなものではないのか。)

・シトウイコフからモスクワへの報告。以下は、シトウイコフが北朝鮮に伝えた内容である。

 

 同志スターリンは、1949年3月11日のモスクワ会談で、次のように述べた。

 

『北朝鮮は仮想敵に対して優勢の状況でない。またソ連と米国との間には38度線についての合意事項がある攻撃が正当化できるのは、南側が最初に北側に攻撃した場合だけだ。』

 

感想 筆者はスターリンが北朝鮮の開戦に慎重だとしているが、そしてソ連が米に気を使っていることは分かるが、この一連の文章は、受け取りようによっては、開戦準備ともとれないか。ともかく、非常に危なっかしい状況であったことは確かだ。

 

スターリン・金日成会談1950.4

 

 金日成は1950年3月30日から4月25日までモスクワに滞在し、スターリンと3回会談した。トルクノフはこの会談記録をソ連公文書館で発見できなかった。(怪しい)トルクノフは、某将軍の資料や会談に参加した人々との面接から、その内容を次のように推定した。

 

スターリンは来訪者(金日成)に次のように語った。

 

・朝鮮統一のために積極的行動を取れるようになった。(開戦か)

・緊急事態が起った場合、中華人民共和国が軍隊で支援する。

 ・米が戦いに介入しないと確信できないといけない。そして、朝鮮における解放闘争への北京の支持がさらに重要だ。

 ・戦争は電撃戦でなければならない。敵に北側に入る機会を与えてはならない。

 ・あなたはソ連の直接参加をあてにすべきでない。(Goサインだが、自分は怪我をしたくない。)

 

126 1949年9月11日、スターリンは駐北朝鮮大使に、金日成の南北朝鮮軍勢力観を問うように指示した。(開戦を検討しているということだ。)同大使は9月12日、13日、金日成と会って、その結果をスターリンに報告した。その中の南朝鮮軍の評価の中で、日本人と中国人(台湾人)の軍隊派遣を可能だと判断している。

128 北朝鮮軍は戦車を操縦できそうもなく、ソ連兵が操縦したという説もあるが、シトウイコフはスターリンに次のように報告している。

 

金日成はスターリンに次のように確約した。

 

機械化旅団編成は、各33両の戦車を保有する2個戦車連隊を1949年5月までに完了する。また戦車33両をもつ独立部隊を元山に配備し、戦車搭乗員訓練用に、独立部隊として戦車訓練連隊を確保する。

 

シトウイコフからスターリン宛の報告1950.5.27

 

金日成は(南への)侵攻準備の経緯を(私に)報告した。金日成は6月末までに軍事行動の準備が整うと言った。金日成の指示に従って、朝鮮人民軍総参謀部は、ワシリエフ将軍参加の下、作戦計画を作成した。金日成は6月末に侵攻を開始することを望んでいる。(これは明らかに北朝鮮が最初に手を出したという紛れもない証拠だ。中国は教科書で真実を教えよ。)

 

129 米軍撤退

 

 1949年6月29日、最後の米戦闘部隊1500人が仁川港から出航した。ただし、500名の駐韓米軍事顧問団と、金浦空港を運営する米空軍150名が残った。(カミングス『朝鮮戦争の起源<2下>』)

 米軍が撤退した理由は、ソ連軍が既に撤退していたこと、そもそも米軍にとって朝鮮半島は重要でなかったこと、朝鮮は戦略的敵国であるソ連や中国に隣接していて守りにくいこと、当時韓国に疫病が流行していたこと、李承晩が北進を主張していて、戦争に巻き込まれる恐れがあることなどである。(実際李承晩は米軍撤退を阻止するために、38度線近辺で衝突を起こすように司令官に命令していた。)

 

 中華民国は台湾への軍事顧問団派遣を米に要請したが断られた。

 

130 シーボルト

 

 ウイリアム・ジョセフ・シーボルトは、1947年から1952年までジョージ・アチソンの後任として駐日政治顧問と連合国軍最高司令官総司令部外交局長を務めた。シーボルトは国務省の駐日大使役である。

 

 孫崎亨『戦後史の正体』によると、次の通りだ。

 

 1979年、新藤栄一が米国公文書館の資料を元に「分断された領土」と題して論文を発表した。それは、戦後昭和天皇の側近で元外交官の寺崎英成がGHQに接触して米側に伝えた、沖縄に関する天皇の発言である。

 

 マッカーサー司令部政治顧問シーボルトより、マッカーサー元帥への覚書1947.9.20

 

 天皇の顧問寺崎英成が、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するように天皇が希望していると言った。さらに天皇は、沖縄と他の、米が必要とする諸島に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借――25年ないし50年、あるいはそれ以上――が行われるべきだ、と考えている。」(この部分は朝鮮に無関係の余談)

 

 

 シーボルトは『日本占領外交の回想』の中で次のように語っている。

 

モスクワは1948年までに3個師団の北朝鮮人民軍を訓練した。それは1950年春までに10個師団に増強され、その他に、歩兵数個連隊、機甲旅団、空軍、海軍の小部隊があった。

132 一方、韓国陸軍は、1950年までに、8個師団、10万人だけだった。李承晩は、常に好戦的な態度を示していたので、米顧問団は戦車、重砲、軍用機などを与えるのを拒否していた。韓国の部隊は大部隊作戦の訓練をしていなかったし、対戦車防衛訓練もしていなかった。

 

 朝鮮戦争では戦車部隊が大活躍した。

 

 

1949年の韓国による北朝鮮への侵攻

 

133 ブルース・カミングス『朝鮮戦争の正体<2下>』によると以下の通りだ。

 

1949年5月初めから10月下旬まで、南北で戦闘が行われ、何百人もの命が奪われた。南は当時戦争を望んでいたが、北は戦争を望まなかった。アメリカも望まなかった。1949年の戦闘は、甕津(おんじん)半島で始まり、開城に広がり、春川(ちゅんちょん)へ、そしてついに東海岸へ達した。だから韓国が無垢で、戦争の意思も能力もなかったわけではない。

駐韓米軍事顧問団団長のウイリアム・L・ロバーツはこう語った。「韓国人は北を侵略したいと思っている。38度線で発生した突っつきあいには、北も南も責任を負う。」

134 李承晩は国軍を急速に拡大した。2つの新しい師団が1949年6月に編制された。韓国陸軍の兵力は、1949年7月までに、8万1000人に達し、8月末までに、10万人になった。これは推定される北朝鮮兵力を大きく上回っていた。

 

 1948年初めに38度線で戦闘が激発した。ジョン・R・ホッジ中将*は「戦闘のほとんどは西北委員会の挑発に起因する」と報告している。*1945年から48年まで、南朝鮮米軍政長官。

 1949年夏、南は米軍を引き留めるために戦闘を仕掛けようとした。北は米軍の撤退を望んでいたので南より抑制的だった。ただし全く受け身だったわけではない。北は戦闘に統一要求を絡めていた。

 1949年の戦闘は、5月4日、開城で始まり、交戦は4日間継続した。米と韓国の公式発表では、兵士の死傷者数は、北が400人、韓国側が22人で、開城では100人以上の民間人が死んだ。

 

 

第三章 朝鮮戦争の開始

 

1950.6.25、ソ連欠席の国連安保理が、米提出の北朝鮮非難決議を採択した。

6.26、GHQがアカハタの発行停止命令を下した。

6.27、米海空軍を韓国に出動させ、第七艦隊を台湾海峡に派遣した。

6.28、北朝鮮軍がソウルを占領した。

6.30、米地上軍を韓国に出動させた。

7.1、米地上軍が釜山に到着した。

7.7、安保理が国連軍の韓国派遣を決議した。

7.8、GHQが日本に警察予備隊創設を命令した。

7.26、16カ国による国連軍の編成が完了し、マッカーサーが最高司令官となった。

7.28、日本でレッドパージが開始され、報道機関が対象となった。

7.31、マッカーサーが蔣介石と会談

8.1、マッカーサーが台湾防衛を声明

8.20、北朝鮮軍が釜山橋頭堡を除く韓国の90%を支配下においた。

9.15、国連軍が仁川に上陸し、北朝鮮軍が退却を開始した。

9.28、国連軍がソウルを奪還した。

 

 

139 『マッカーサー回想記<下>』によると、下記の通りだ。

 

 6月29日、韓国政府は大邱へ移っていた。私はソウルの南32キロの水原(すうおん)に着陸し、戦況を観戦した。

 8月、北朝鮮軍は13個師団で釜山橋頭堡に迫り、全世界はダンケルクのアジア版を予告した。(1940年、ドイツ軍に追われた英仏軍40万人の将兵を、ダンケルクから船で脱出させた。)

 8月末、かなり安定した防衛線を築くことができた。

 

140 トルクノフ『朝鮮戦争の謎と真実』より、図2「朝鮮戦争の戦線の移動」

 

141 デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』文藝春秋2009によると下記の通りだ。

 

米は準備不足だった。アメリカ人には人種差別観、白人のアジア人に対する優越信仰があった。「たかが朝鮮人だ」と言っていた。ビル・ディーン少将は7月末、大田(てじょん)防衛を指揮し、行方不明になったが、北の捕虜になっていた。そのディーンは、北は死を厭わない点で米軍にないものをもっていると語っていた。

144 北の武器は米軍より優れていた。敵のT-34戦車を阻止できるバズーカ砲を補給しても、惨敗した。韓国軍はほぼ壊滅した。先陣の米軍(第24師団)も敗走した。北朝鮮軍の3分の1は、中国での国共内戦を経験していた。

 

145 1950年8月初旬になると、洛東江(なくとうがん)で対峙する北朝鮮人民軍の攻勢も鈍化した。

146 橋頭堡の形状は、南北160キロ、東西80キロである。洛東江の流れは緩やかで、水深は最深部で2メートル、川幅は400メートルから800メートルだった。

北朝鮮にソ連から入ったソ連派と呼ばれる人々の相当部分は、1930年代末、沿海州に住んでいた朝鮮人がウズベキスタンに強制移住させられた人々だった。

 

8月31日、金日成は、13個師団を洛東江に投入したが、そのころ戦力は互角になっていた。10万人の北朝鮮軍は、第8軍の8万の米兵と対峙した。

147 9月2日から15日までの洛東江での戦いは、16日になっても終わらず、9月15日のマッカーサーの仁川上陸作戦と呼応して戦い、洛東江でも反撃を開始した。

 

 シーボルト*『日本占領外交の回想』によると、

 

*日本占領時代に連合国軍最高司令官総司令部外交局長を務めた。

 

148 米第8軍と再編韓国軍二個師団は、釜山橋頭堡(ペリメーター)を守った。橋頭堡に8個師団を投入した。その内訳は、米軍3個師団と、ハワイからの第8連隊戦闘隊などだった。8月末、米韓軍のほうが兵員数と兵器で優勢になった

 1950年9月中旬、仁川上陸作戦が成功し、橋頭堡からの出撃も始まった。

 

仁川上陸作戦

 

149 マッカーサーが仁川上陸作戦を敢行した。この作戦が成功すれば、北朝鮮軍の補給路を断つことができるが、潮の満ち引きが大きく、短時間で上陸作戦を行わねばならず、察知されたら全滅の恐れがあった。

 

 シーボルト『日本占領外交の回想』によれば、下記の通りである。

 

仁川上陸作戦は難しい作戦だった。上陸には大潮が必要だが、3日間しか続かない。水位は31フィート上がるが、干潮には深い泥沼となる。9月15日を決行日と決めた。明け方の満潮時に海兵隊一個師団が月尾島(うおるみど)に上陸し、補給作戦が3日以内に順調に進んだ。

 この作戦には各軍の最上級指揮官が反対したが、マッカーサーは押し切った。これは橋頭堡(ぺリメーター)から出撃した第八軍の作戦と呼応した。

 

『マッカーサー回想記<下>』によると下記の通りだ。

 

私は仁川上陸作戦で、一か八かの勝負に挑んだ。敵の後方深くその側面を突いて、敵の補給線を切断し、ソウル以南の敵部隊を包囲するという計画だ。私はこれまでにも同じようなことをしたことがあったが、今回は危険が多かった。しかし、成功すれば決定的な成果を生む作戦だった。

 (マッカーサーは計画を7月3日にワシントンに発送したが、)ワシントンの軍部の強力な筋に反対された。統合参謀総長ジョーゼフ・ロートン・コリンズ将軍と、海軍作戦部長フォレスト・シャーマン提督が東京に来て、私に諦めさせようとした。

 

 激しいやり取りの後で、8月29日、統合参謀本部が同意したが、ワシントンはそれでも逡巡していた。

 9月15日午前8時、海兵隊が上陸した。その後、ソウルと金浦飛行場の奪取に向かい、9月28日、ソウルを奪取した。

 

感想 この辺りの記述は戦記物だ。

 

中国側は仁川上陸作戦を予想していた。

 

 朱建栄『毛沢東の朝鮮戦争』によれば、雷英夫が、米軍の仁川上陸作戦を予言したという。

 

153 雷英夫は周恩来に「米軍は上陸作戦を行うのではないか。仁川の可能性が高い。その理由は6点ある」と報告した。

 周恩来がそれを毛沢東に連絡すると、毛沢東は雷英夫と作戦部の李濤部長を連れてくるように周恩来に言った。毛沢東は「道理がある。重要だ。我々の見解をスターリンと金日成に通報し、参考にするように」と命じた。

154 その理由の6点とは、一、釜山の米軍・韓国軍の13個師団は撤退も増援もしない。それは朝鮮人民軍の全主力部隊をひきつけるためだ。

二、米軍は日本に陸軍第一師団と第七師団(後の第10軍)を集結しているが、それを朝鮮戦場に増援する気配がなく、戦闘訓練を続けている。

三、地中海、太平洋に配備していた米英の艦隊が、朝鮮海峡(対馬海峡)に集結中だ。

四、朝鮮半島は南北に長く、東西は一番細いところで100キロしかない。仁川に上陸することは戦略的価値が一番大きい。

五、マッカーサーと彼の第8軍は、敵後上陸作戦に慣れている。

六、人民軍が洛東江まで前進したのは勝利だが、補給路が延長され、兵力が分散し、後方が空虚になっている。一方敵は集中防御で、反撃する余裕があり、戦場での主導権を握り始めている。

 

年表

 

1950.9.28、国連軍がソウルを奪回した。

10.3、韓国軍が38度線を突破し、更に北進した。

10.8、国連軍が38度線を突破し、更に北進した。毛沢東が中国人民志願軍の編成を命令した。

10.9、周恩来が訪ソし、スターリンと会談した。

10.13、中国人民志願軍の朝鮮出動を決定し、彭徳懐が司令官(司令員)となった。

10.15、トルーマンがウェーキ島(ウェーク島)*でマッカーサーと会談した。

 

*南鳥島東南東1400キロにある米の環礁。日本が一時1941--1944占領統治し、大鳥島と命名した。

 

10.19、国連軍が平壌を占領した。中国人民志願軍が鴨緑江を渡河した。

10.25、中国人民志願軍が朝鮮戦争に参戦した。

 

 

156 38度線を越えることは、金日成体制を倒すことを意味する。

 

 国務省政策企画部長のジョージ・F・ケナンは、共産圏に対する封じ込め政策に基き、38度線を越えて北進すべきでないと主張した。

 『ジョージ・F・ケナン回想録』読売新聞社1973によれば、下記の通りである。

 

北朝鮮による南朝鮮への侵入に対して武力で抵抗することには私は賛成していた。しかし、次のような限定した目的を想定していた。つまり、朝鮮半島における原状回復であり、軍事的成功を収めても、38度線を越えない、ということだ。

 1950年7月、私は38度線以北への進攻に反対したが、賛成されなかった。ジョン・フォスター・ダレスは、政府の安全上から私の主張に反対した。私は9月、ワシントンを去った。

 

 

中共やソ連の大軍が北朝鮮に入らなければ、38度線を越えてもいいというのが当初の米側の案だった。

 

158 シーボルト『日本占領外交の回想』によると、

 

北朝鮮軍の一部が撃滅された時、国連軍が38度線を越えるべきかどうかという問題が起った。1950年9月27日、マッカーサーは、統合参謀本部から、敵軍を完全に撃滅するために38度線を越えてもよいという許可を受け取った。ただし、この許可には、中共やソ連の大軍が北朝鮮に入らなければという条件がついていた。

 10月1日、マッカーサーは北朝鮮総司令部宛に降伏要求を放送したが、返答がなかった。翌日、マッカーサーは、国連軍がすでに(前掲の年表では10/8)38度線を越えたと私に語った。

 

 当時米国内のマッカーシズム旋風の中で、中国の共産化が問題視され、中国通のシャイナハンズと言われる人々は、国家に対する忠誠に問題ありとされ、要職から追放された。

 

スターリンは中国の参戦を求め、それに対して毛沢東は参戦の意思を表明したが、1950年10月初め、毛沢東は中国の参戦はないかもしれないとスターリンに告げた。

 

 6月30日にトルーマンが陸軍投入を決めてから、中国軍内では、北朝鮮支援のための出兵の可否、米軍が鴨緑江を越えて中国領に入った場合の軍の配備や作戦などについて検討を始めた。

 ・スターリンから周恩来宛通告1950.7.5

敵が38度線を越えた場合、中国が義勇兵的行動として9個師団を中朝国境に結集することは当然だ。我々は航空隊で援護を行うよう務める

・スターリンから北京宛の電報1950.7.13

あなた方が中国軍9個師団を朝鮮国境へ配備する決定をしたのかどうか、はっきりしないが、もしそういう決定を下したのなら、我々はこれらの部隊を支援するため、124機のジェット戦闘機師団を派遣する準備を整えるつもりだ。

・スターリンから毛沢東・周恩来宛至急電1950.10.1

朝鮮の同志たちの状況は絶望的だ。5~6個師団でもいいから、38度線に即座に中国軍を移動する必要がある。

毛沢東からスターリン宛返信1950.10.3 ローシチン大使経由

敵が38度線を越えて北に出撃する時点で、朝鮮の同志たちに援助を供与するために、数個師団の志願軍を北朝鮮に進める計画をしていたが、入念に検討してみると、このような動きはかなり深刻な結果を引き起こすと今は考えている

第一に、数個師団では解決が難しい。我が軍の装備は貧弱で、米軍に対する軍事作戦を成功させる自信がない。

第二に、米国と中国との全面衝突を呼ぶ公算が高く、その結果、ソ連もまた戦争に引きずり込まれるだろう。

 中国共産党中央委員会の多くの同志たちは、ここで慎重さを発揮する必要があると考えている。

 我々が数個師団を送り、敵が我々を退却させるならば、これは米国と中国との公然たる衝突となり、我々の平和建設の計画は挫折する。これまでの戦争によって人民にもたらされた心理的ショックはまだ癒されておらず、平和が必要である。

 このため今は我慢して軍隊を送らず、将来敵と戦争になったときのために力を蓄えるのがよい。

 朝鮮は一時的に敗北するが、パルチザン闘争へと戦争形態を変えられる。

 われわれはこれから党中央委員会を招集する。まだ最終的な決定は下されていない。

 もし貴殿が同意してくれるなら、貴下とこの問題を審議し、また中国と朝鮮との間の問題を報告するために、我々は周恩来と林彪を貴下の休暇先(ソチ)に派遣する用意がある。

毛沢東 1950年10月2日

 

ローシチン大使は自らの感想を付記してスターリンに毛沢東の書簡を同送した。

 

毛沢東の返事は、中国指導部の当初の考え方からの変化を示している。原因は、朝鮮状況の悪化、中国人の破局を避けるための忍耐と抑制を呼びかけたネルー・インド首相を通じての英米の陰謀などの影響が考えられる。

 

北朝鮮を支援できなくなった中国国内の事情

 

162 軍人の林彪高崗が義勇軍を送るのに反対していたようだ。高崗は東北の党・政・軍を担当していた。

163 8月5日、毛沢東は高崗に9月上旬には実戦に投入できるよう準備すべきだと指示したが、高崗は、東北辺防各部隊の幹部会議の結果を踏まえて、それはかなり難しいと報告した。

 9月初旬、駐北朝鮮臨時代理大使・柴成文が北京に来て、周恩来や林彪と会談したが、林彪は柴に、「我々が朝鮮に出兵せず、朝鮮労働党がゲリラ戦をやることについてどう思うか」と尋ねた。柴は「中央内部に出兵反対の主張があるのに驚いた」と証言している。(朱建栄『毛沢東の朝鮮戦争』055、朱建栄は中国指導部に拘束されたことがある。)

 

164 朱建栄『毛沢東の朝鮮戦争』第7章「大論争」に、出兵をめぐる党内の論争が書かれている。

 

10月1日、毛沢東は朱徳、劉少奇、周恩来、任弼時*の4人の書記(常務委員)を集め、出兵の方向で調整した。*10月27日、脳出血で急死。46歳。

10月2日、中央政治局常務委員の朱徳、劉少奇、周恩来と、政治局委員や各地区の責任者、中央の党・政府・軍の指導者が出席し、政治局拡大会議を開き、2週間の準備期間を設定し、参戦時期を10月15日とした。

 

 ところが毛沢東に総司令官と目された林彪が拒否した。林彪は慎重だった。

10月4・5日、中央会義を開催。

10月4日の即時出兵論者は、毛沢東、周恩来、潜在的支持者は、朱徳、鄧小平、彭徳懐

出兵反対派は、高崗林彪もそうらしい。出兵消極派は、劉少奇、陳雲、張聞天、李富春など。

10月5日の即時出兵主張者と支持者は、毛沢東、周恩来、朱徳、彭徳懐、鄧小平、劉少奇など。

出兵消極派は、陳雲、李富春など。

166 林彪や高崗など軍関係者が反対なので、軍関係者である彭徳懐に白羽の矢が立った。

 

彭徳懐『彭徳懐自述』サイマル出版会1986によると、

 

1950年10月4日、北京から飛行機が来て、会議に参加するよう要請され、同日午後4時、中南海に到着。会議中だった。

167 私が会議に参加する前に、毛主席は出兵不利の理由を参加者に述べさせた後、「それにはそれぞれ理由があるが、隣人が国家危急の折、我々が傍観しているのはいたたまれない。」と言っていたとのことだ。私は救援すべきだと考えていたが、この日は発言しなかった。

 翌日の10月5日、私は発言した。「朝鮮救援に出兵は必要だ。アメリカが鴨緑江や台湾に張り付くと、中国侵略戦争を引き起こす口実を見つけられる」と。

  その会議で毛主席は私を朝鮮に派遣することに決め、私も進んで応じた。

 

 彭徳懐の語る朝鮮戦争

 

1950年10月18日夕刻、私は志願軍の第一陣と共に鴨緑江を越えて朝鮮に入った。(以下は戦記物なので省略。168--169

 

 

年表

 

1950.10.25、中国人民志願軍が朝鮮戦争に参戦した。

11.30、トルーマンが朝鮮戦争で原爆を使用するかもしれないと発言した。

1951.1.4、北朝鮮軍と中国人民志願軍がソウルを占領した。

3.14、国連軍がソウルを再び奪回した。

3.24、マッカーサーが中国本土を攻撃するかもしれないと言った。

4.3、38度戦をめぐる攻防

4.11、マッカーサーが解任された。

 

6.10、毛沢東は高崗と金日成をモスクワに送り、スターリンと会談6/10, 6/13させ、停戦が有益である旨を伝えた

1951.6.23、マリク・ソ連国連代表が朝鮮停戦交渉を提案した

6.25、トルーマンが平和解決に応じると言った。

1951.7.10、開城(後に板門店)で停戦会議本会議が始まった

 

 『ジョージ・F・ケナン回想録』によれば、

 

1951年5月18日、私はワシントンに呼ばれ、国連安保理ソビエト代表ヤコフ・アレクサンドロヴィッチ・マリク氏と非公式に接触するよう依頼され、1951年6月1日、マリクと話し合った。

172 正式交渉が間もなく始められた。交渉は長く、退屈で、腹立たしかった。*

 

*スターリンは戦争継続がソ連にとって利益があると考えていた。

 

戦争の大半が停止された。

 

ソ連は適宜空軍を投入するが、陸上で命をかけはしない中・米が疲弊するのはソ連にとって好都合である。(きたないやつだ。)

173 ・グロムイコ外務大臣からヴィシンスキー国連ソ連首席代表宛電報1950.12.7

 「朝鮮からすべての軍隊を即座に撤退すべきだ、朝鮮問題解決は朝鮮民族に任せるべきだ」と国連で提案すべきだ。(戦争中にこんな提案がなされたのか)

 ・スターリンから毛沢東宛電報1951.6.5

 朝鮮戦争の完遂(終結)を急ぐ必要はない。戦争によって中国軍は戦いの技術を習得し、米トルーマン政権を弱体化させ、英米の戦争の威信を低下させられるからだ。(よくこんなことが言えたものだ。)

174 ・グロムイコからラズヴァーエフ駐北朝鮮大使宛電報1951.11.20

朝鮮での平和的解決を加速させるという朝鮮の友人の国連への呼びかけに関して、貴殿の行動は許しがたい。国連総会と安保理に対して朝鮮の友人が呼びかけた意図は、軍事行動の即時停止、前線からの軍隊の引き揚げ、3キロの非武装地帯の創設、朝鮮での戦争を引き伸ばしている者の責任追及などであったが、朝鮮の友人のこの要求や、誰の主導でこういう国連への要求が出されたのか、一切知らされていない。(何で貴殿は北朝鮮に勝手に和平交渉をさせているのだと言いたいのか。)

 

 ・彭徳懐から毛沢東宛電報1952.1.16

1952年1月16日に朝鮮外相の朴憲永が私の元に来訪した。彼は「朝鮮の全人民が平和を求め、戦争継続を求めていない。たとえ、ソ連と中国が戦争継続を有利と考えるとしても、(北朝鮮の)労働党中央委員会は、どんな困難も克服してでも、自己の立場を維持するつもりだ。(早く戦争を止めさせて欲しい!)」と私に言った。

 

スターリン死去

 

年表 (以前の年表から1年が経過。この間は何があったのか。)

 

1953.3.5、スターリン死去。

3.19、ソ連が閣僚会議を開催して方針を変更し、「戦争を終わらせる必要」を決議した。

4.11、朝鮮休戦会談で傷病捕虜の交換協定に調印した。

7.27、朝鮮戦争休戦協定に調印

8.6、北朝鮮内で、李承燁(イサンヨプ)ら南労党系12名に有罪判決。(李承燁は呂運亮の民族主義運動に関わりを持っていたとされる。)

8.25、許哥而(ホガイ)・北朝鮮副首相が自殺したと発表された。(許哥而はロシアに移民した朝鮮人で、ソ連名はヘガイ。許哥而はソ連の代理人とも言われるソ連派の中心人物。120

 

176 金日成による粛清

 

 金日成は、戦争中における自分に対する絶対権力の集中や、自分を操ってきたスターリンの死、それに伴うソ連指導部の軟化などを背景に、粛清を始めた。

 国内派とソ連派はこれまで力を持っていたが、これらが粛清の対象となった。

 8月6日、国内派李承燁ら南労党(南朝鮮労働党)系12名が反革命で有罪判決となり。8月25日、ソ連派のホガイが自殺したと発表された。

 ソ連グループには、ソ連派とパルチザン派がいたが、ソ連派はもともとソ連の構成民族で、ソ連の教育を受けてきた。一方、パルチザン派は満州でパルチザン活動を行い、ソ連軍の庇護下に入った。金日成を長とする。

 後に延安派が粛清された。

 

トルーマン大統領は現地司令官の判断で原爆を使用できるようにした。

 

 Carl A. Posey「なぜ朝鮮戦争は核を使用しそうになったのか」(“Air & Space Magazine” 2015.7)によれば、

 

・北朝鮮が38度線を越えたときから核使用が話題になった。

・朝鮮戦争が始まったころ1950プルトニウム型原爆M4が300個製造されていた。

・このころ1950、米が核兵器を独占していた。ソ連の核実験は1949年8月に成功していたが、空中投下は1951年になってからである。米の核兵器は米国原始力委員会が管理し、軍には渡されておらず、米国外には持ち出されていなかった。

・1950年7、8月,大統領令で、核攻撃可能なB29をグアムに配備した。核爆弾は米国内にあった。

・(中国軍が密かに北朝鮮に兵士を送り込んでいたが、1950年11月下旬になって初めて大攻勢に打って出た。)1950年11月、中国が鴨緑江を渡って北朝鮮に入ったが、中国に対する核の脅し11/30は機能しなかった。

11月30日、トルーマン大統領は、「核兵器の使用を含め、朝鮮で勝利するためにすべてのことを行う。それは現地の司令官の判断で行われる」と述べた。

1951年4月核弾頭つきの爆弾が沖縄に送られた。(3/14国連軍がソウルを再奪還。)

179 ・総司令官が、マッカーサーからマシュー・リッジウエイに交代4/11し、リッジウエイに、彼が必要と感じた時に核弾頭を使用する権限が与えられた

1951年10月、ハドソン湾作戦という模擬(核攻撃)訓練を行う予定だったが、批判にあって訓練の度合いを下げた。

 

核兵器が使用されなかった理由には、通常兵器で十分な効果が上がったこと、ソ連を刺激するのを避けたこと、原爆投下による中国への脅しが無効だったことなどがある。

 

 

180 1951年4月11日、トルーマン大統領はマッカーサーを解任した。マッカーサーは中国本土(満州)への攻撃を主張したが、トルーマンは望まなかった。これはトルーマンが戦争終結を望んでいたことを示す。

 

赤木完爾編著『朝鮮戦争』によれば、トルーマンは1954年4月24日に当時を回顧して次のように説明した。

 

マッカーサーは中国志願兵が鴨緑江を越える2ヶ月前のウエーク島での私との会談で、中国は参戦しないと言っていた。

(マッカーサーやマーク・クラークなどの)将軍たちは満州の飛行場への原爆投下が、鴨緑江までの勝利をもたらすと言ったが、それは北京、上海、広東、奉天、ウラジオストク、ウラン・ウデ(バイカル湖の東、東シベリアのブリヤート共和国の首都)も破壊することに繋がっただろう。そしてソ連は北海や英仏海峡まで進撃し、我々は400万ものソ連の大軍を阻止できなかっただろう。また、中国の諸都市と2500万人の中国人非戦闘員と婦女子を殺しただろう。

日本への原爆投下は交戦中だったし、(原爆投下で)戦争を終わらせ、(日米)双方の莫大な損害を救ったが、朝鮮で我々は国連軍とともに警察行動を戦っていた。

私は第三次世界大戦への命令を下すことができなかっただけだ。

 

朝鮮戦争後の米の軍事大国化

 

ジョン・ハリディとブルース・カミングス『朝鮮戦争――内戦と干渉』によれば、

 

183 内戦は朝鮮人によって終結したのではなく、外部の力で凍結された。

 

184 1950年以前に朝鮮人が独自に統一するチャンスが2回あった。終戦後から米ソの軍政が始まるまでの間と、1948年に米ソ両軍の主力が撤退した時である。ところが、米ソとも民族主義者ではなく、傀儡を指導者に据えた。

 

ジョン・ハリディとブルース・カミングス『朝鮮戦争――内戦と干渉』によれば、

 

朝鮮戦争後NATOや西側主要諸国の軍事予算は増加した。米軍は、朝鮮戦争中に兵力150万から350万に、国防予算は1950年の150億ドルから500億ドルに増加した。

 

 朝鮮戦争は冷戦体制を固めた。米では軍産複合体が国を掌握し、リベラル志向が後退し、全体主義的民主主義が西側の主流となった。

 チャップリン、ジョン・ヒューストン、ウイリアム・ワイラーなど共産主義者や共産主義同調者がマッカーシズムで糾弾された。

 

 

第四章 日本の朝鮮戦争への関与と、警察予備隊編成過程での日本の民主主義の崩壊

 

 

感想 筆者は米が日本国憲法を「押し付けた」と言うが、幣原喜重郎など戦前において国際協調派だった人が主体となって憲法案をつくった面もあったのではないか。また「共産党や労働組合の弾圧は起っていたが、露骨な人権無視は行われていない」という認識にも賛成できない。共産党員の人権は無視されてもいいと考えているのか。188

 

189 ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』1999によれば、

 

日本占領当初米国人は非軍事化と民主化を日本におしつけたが、それは独善的で、空想的で、傲慢な理想主義であった。米国人は独裁的権力で日本に民主主義を押し付けた。

また米国人は日本を去るときには、自由主義的傾向の少ない連中と協力して、この旧敵国を再軍備し、冷戦の従属的パートナーとし始めた。

 

 イギリス人記者オーナー・トレーシー『カケモノ』文藝春秋社1952によれば、

 

日本の民主化は人民の大多数の意思による国家の政治ではない。(なぜならば)(アメリカ人の)誰かがそれ(憲法草案)を何回かに分けて文書または口頭の指令で日本人に与えた。日本の指導者たちはこれを侵犯すれば解職になるとう制約の下で、その指令を実行するように強要された。だから日本の民主主義は実は日本の専制政治だ。(悲しいね。)

 

190 そして朝鮮戦争が起ると今度は独裁的権力で、国会、人権、戦争放棄などを無視した。

報道機関は300人以上の人を、共産党員ないしその同調者として解雇した。共産党内に、ソ連と中国共産党の指示を受け入れ、武装の準備と行動を開始しなければならないという勢力はあったが、そうでない人もいた。新聞社内で共産党に同調して暴力革命を選択した人はわずかだっただろう。(中ソに同調して暴力革命を目指した人は、当然パージされるべき対象なのか。)

 マッカーサーは、共産党員とその同調者の解雇を要請した。これに新聞社など報道機関は抵抗しなかった。新聞社幹部は米軍を恐れた。これから数年、新聞は真実を伝えなくなった。

191 釜山橋頭堡の防衛と仁川上陸作戦で、日本は軍事協力をした

 兵隊、船員や武器弾薬を輸送するとき日本人の船員の日本の船舶が使われた。

 仁川上陸作戦では、日本人は、戦車・兵士を運んだ戦車揚陸艦(LSTLanding Ship Tank)に従事した。また海上保安庁は機雷の除去を行った。

 

 朝鮮戦争での日本人の関与は極秘扱いで、当時は報道されなかった。1977年、朝日新聞は朝鮮戦争時の日本人戦死者22名を報道した。

 

192 1950年11月15日、元神奈川県職員が、米海軍の艦船LT(大型引き船)636号*に乗り組み、22人が、元山沖付近で機雷に接触して沈没し、戦死した。(*県職員は米艦船の曳航、兵員・軍需物資の運搬を担当していた。)このことを当時日本側窓口であった神奈川県船舶渉外労務管理事務所長の元神奈川県職員・佐川彌一が明らかにした。犠牲者の一人の未亡人によると、夫は機関長をしていて、戦前商船の乗組員をしていたので、徴用されるようにして米軍に労務提供させられ東南アジアや朝鮮半島に行っていた

 

193 『商船三井の百年 風濤の日日』日本経営史研究会編、大阪商船三井船舶1984によると、

 

高砂丸934トンは昭和25年1950年2月、ソ連からの帰還業務を終え、その次に28年、1953年2月から中国からの引き揚げにあたったが、この高砂丸の記録は、1950年2月から1953年3月までの3年間はブランクとなっている。

 当時高砂丸に乗り組んでいた人の記憶によると、朝鮮戦争が勃発した日6月25日、舞鶴に停泊していた高砂丸は「直ちに佐世保に回航せよ」という米軍の命令を受け、6月29日、佐世保に入港、以降米軍の輸送に当たった

 大阪丸も米軍輸送に当たった。船長は安藤純一で、南米航路に回航するため神戸の三菱造船所に停泊していたところ、出航準備ができしだい、大阪に回航せよとの指示が届き、大阪港に着くと、米軍人がやって来て直ちに釜山に行けと言う。

 

194 日本郵船『七十年史』1956には、朝鮮戦争関連の米軍への協力記述は見当たらない。

 

川村喜一郎『日本人船員が見た朝鮮戦争』朝日コムニケーションズ2007によると、

 

MSTS FAREASTは、米海軍の極東方面後方支援輸送船隊であり、その所属船舶は、客船、貨物船、油槽船(タンカー)など計24隻である。乗務員は米日人の混合で、日本人船員の雇用主は、日本政府の業務を代行する神奈川県庁であり、管下の船舶渉外労務管理事務所が、船員の乗下船を管理した。

 

2019年2月3日放送のNHKスペシャル「朝鮮戦争秘録――知られざる権力者の攻防」は、日本人2000人が軍事作戦に従事したと報じた。

 

日本人2000人は、国連軍の仁川上陸作戦1950.9.15において、戦車・兵士を運んだ戦車揚陸艦LSTに従事した。日本人が運航したLSTは30隻で、全体の6割を占めた。現地の地理を熟知している日本人船員を、マッカーサーGHQ総司令官が日本商船管理局に命じて招集した。

 

196 石丸安蔵「朝鮮戦争と日本の関わり――忘れられた海上輸送」(防衛省防衛研究所『戦史研究年報 大1号』2008)によれば、

 

米軍には十分な船舶がなかったため、米が日本政府に貸与していたLST(Landing Ship Tank、戦車揚陸艦)や日本の商船を利用した。LSTには日本人が乗り込んだ。

 

1945年9月3日、日本船舶(1000総トン以上)は、米太平洋艦隊司令官の指揮監督下に置かれ、その管理は当初GHQ艦隊連絡部が担当し、10月10日、GHQにSCAJAP(Shipping Control Authority for Japanese Merchant Marine、日本商船管理局)が新設され、日本艦船の運航、新造、改造、修理、処分などを総括的に管理した。

 

197 1949年10月、MSTS(Military Sea Transportation Service)が設立され、SCAJAPの船舶を指揮していた第96・三任務群指揮官は、以下の任務を付与された。

 

・日本人乗員の船舶を海上輸送のために提供すること。

・指定された海上輸送を統制すること。

 

 LSTQ058号(LST649)は、戦車と車両を運び、高砂丸は2500人の部隊を乗せた。

1950年7月10日現在の日本船舶チャーター隻数は29隻、7万4000容積トンで、5日後に40隻にまで増加した。

 9月14日から25日までの仁川上陸作戦で、第90任務攻撃隊の用兵指揮下に組み入れられた日本商船は、福寿丸、松南丸、Fuji Maru、海光丸、第十五日の丸、扇洋丸であった。

 

掃海艇

 

198 鈴木英隆「朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊――その光と影」(防衛省防衛研究所『戦史研究年報 第8号』2005)によると、

 

日本掃海艇の朝鮮海域への(米からの)派遣要請について、大久保(海上保安庁)長官から報告を受けた吉田首相は、「分かった。出しましょう。国連軍に協力するのは日本政府の方針である。ただし、掃海隊派遣とその行動については、一切秘密にするように」と述べた。

 戦時下の朝鮮水域に掃海艇を派遣することは憲法9条に抵触する恐れがあり、政治問題化することが予想され、また具体化し始めた講和条約締結問題にも悪影響を及ぼす可能性があった。

 

199 日本の特別掃海隊は、占領軍の要請により、1950年10月初旬10/21, 10/10,  201から12月中旬まで46隻の日本掃海艇1隻の大型試航船1200名の旧海軍軍人が、元山、鎭南浦(鎭をつけるのは、日本が占領していたときの名称)、群山などの掃海に従事し、327キロの水道と、607平方キロ以上の泊地を掃海し、機雷27個を処分したが、掃海艇1隻が触雷・沈没し、死者1名、重軽傷者18名を出した

 

 戦後旧軍関係者は戦時中に敷設した日本海沿岸の機雷を除去し、掃海従事者は1946年2月の旧職業軍人公職追放令から除外され、1949年3月末、掃海従事者数は1400名となった。掃海艦艇数は1947年12月末現在で45隻となった。その後米国海軍が傭入していた掃海艇が返還され、1950年6月現在で79隻に増加し、朝鮮戦争を迎えた。

 

 (1950年)7月10日、ウラジオストックからソ連製の機雷が東海岸の鉄道で南方に輸送され、以後、国連軍がその鉄道を破壊するまでに、4000個の機雷が元山を経由して運ばれ、8月1日以前に、元山や鎭南浦に機雷が敷設され始めた。

 

200 仁川上陸作戦9/15の時期の、9月26日から10月2日までの間に、朝鮮半島東海岸では、触雷で米国掃海艇1隻が沈没し、米国駆逐艦、韓国掃海艇など4隻が大破した。

 

 (旧海軍関係者で構成される)海上保安庁の掃海艇は、東京湾口、銚子沖、佐世保港外を含め日本各地の沿岸航路や瀬戸内海の(戦時中に敷設された機雷の)掃海作業に従事していた。

 9月2日*、米極東海軍参謀副長のアーレイ・バーク少将は、海上保安庁長官・大久保武雄を極東海軍司令部に呼び、「元山上陸作戦や他の主要港湾での掃海が必要」であり、日本掃海隊の助力に期待し、その派遣を要請した。

 

*この日日から考えられることは、米韓に被害が出るずっと以前から、旧日本軍の掃海艇を使うことが、米軍の規定の計画だったようだ。

 

 しかし、朝鮮戦争下の掃海作業は戦闘行為であり、海上保安庁法第25条には、「海上保安庁は非軍事的部隊である」とされていた。

 この時期は講和条約締結前で「微妙な」立場だったので、日本の特別掃海隊の作業は秘密裡に行うことになった。大久保長官は掃海艇20隻を至急門司に集結せよと命じた。

201 10月21日から湾内水路と泊地の掃海を開始した。10月25日に元山港が啓開され、10月26日に米軍の元山上陸が行われた

 元山における日本特別掃海隊は、10月10日から12月4日までの掃海作業で、計8個の機雷を処分し、MS(Mine Sweeper、掃海艇)一隻を失い、死者1名、重軽傷者18名を出した。

 

 元山のほか、仁川、海州(へじゅ)、鎭南浦、群山でも、米英韓国軍の指揮下で、掃海活動を行った

 

 韓国人の反応

 

 「日本人が入ってくるなら北朝鮮軍と戦うのを止めて日本人と戦う。」(これは冗談でしょう)と言う人もいれば、日本の「貢献」を評価する韓国人もいる。(これも大袈裟でしょう)

 

 

警察予備隊

 

年表

 

202 1950.6.28、ソウル陥落

6.29、マッカーサーが韓国の戦況を視察し、直ちに一個連隊を投入すると共に、二個師団への増強を進言した。

7.1、(米国の)第21連隊が博多の板付飛行場から韓国へ向った。

7.3、第24師団を率いるディーン少将が韓国に入った。北朝鮮が猛攻を仕掛けた

7.8、GHQが警察予備隊の創設を命令した。

7.20、大田が陥落した。ダレスが日本人の戦争参加を検討した。

7.28、レッドパージが開始された。

8.10、警察予備隊令(法律でなく政令)が発令された。

10.25、中国人民志願軍が朝鮮戦争に参戦した。

11.30、トルーマンが朝鮮戦争で原爆を使用するかもしれないと言った。

12.31、マッカーサーが日本の再軍備を示唆した。

1951.1.4、中国人民軍がソウルを再占領した。

3.14、国連軍がソウルを再奪回した。

3.24、マッカーサーが中国本土(満州)攻撃をするかもしれないと言った。

 

204 マッカーサーが吉田首相宛書簡で警察予備隊の設立を促した。

 

 私は(吉田首相に)7万5000名の国家警察予備員national police reserve を設立する権限を認める。

 

マッカーサー書簡の日本語訳では警察予備隊創設の理由がはっきりしない。英文は以下の通りだ。(いずれも国立公文書館保管。邦訳は「昭和25年(1950年)7月8日付吉田内閣総理大臣宛連合国軍最高司令官書簡」)

 

To insure that this favorable condition will continue unchallenged by lawless minorities,* here as elsewhere committed(狙う) to the subversion of the due processes of law and assaults of opportunity(攻撃の機会) against the police and public welfare.  *とは共産党を指すのか。

 

here as elsewhere の elsewhere は朝鮮半島や中国を指す。当時の新聞はこの部分を訳していない。

 

朝日新聞

 

これが国防軍の創設や警察国家への逆転などと全く関係ないことは、政府が繰り返し強調するところだ。(全く真実を伝えていない。恐ろしい自己規制。1950.7.9

 

吉田茂首相(『回想十年<第二巻>』1957によれば、

 

要請の目的そのものは、誰でもすぐ諒解された。すなわち朝鮮戦争のため前線に移動した米軍部隊の欠陥を補い、国内治安維持の実力を強めるものと解された。

 

206 増田弘『自衛隊の誕生』2004によれば、

 

警察予備隊から保安隊、そして陸上自衛隊へと変遷する陸上部隊の特色は、一貫して米国軍事顧問団が、編成、訓練、装備、統制などあらゆる面で指導・監督したことだ。(これが真実)

 

葛原和三「朝鮮戦争と警察予備隊」(『防衛研究所紀要 <第八巻第30号>』2006.3によれば、

 

(米国)軍事顧問団の参謀長になったフランク・コワルスキー大佐は、後の回想で、「(日本国憲法第9条が)軍隊の健全な発展を阻害することに鑑み、マッカーサー元帥は憲法の一部(第9条)を改正すべきであった」と述べている。(これが本音だ。)

 

207 1950年7月20日、対日政策担当の国務長官顧問のダレスは、日本人が個人の資格で国連軍に参加するという案を提示したが、それに対して国務省政策企画部は、(日本人を)連合国軍最高司令官が雇う案を示した。

 

 ダレス発国務省政策企画局長へのメモランダム1950.7.20(大嶽秀夫編・解説『戦後日本防衛問題資料集<第一巻>』1991)によれば、

 

現在(日本人を朝鮮戦争で使うために)とり得る可能性は、国連憲章第43条*に従って、日本人が国連軍に編入できるようにすることが考えられる。国連憲章第43条には、(たとえ日本が国連加盟国でないとしても)個々の日本人の国連軍参加も含まれると推察される。

 

 国務省政策企画部局スタッフメモランダム1950.7.26によれば、

 

然るべき条件に合致した日本人が占領軍において軍務に携わることをSCAP(Supreme Commander of the Allied Powers: 連合国軍最高司令官)が承認する等の(ダレス案に対する)代替案が考えられるだろう。

 

 *国連憲章第43条

 

1.国際の平和及び安全の維持に貢献するため、全ての国際連合加盟国は、安全保障理事会の要請に基き、かつ1又は2以上の特別協定に従って、国際の平和及び安全の維持に必要な兵力、援助及び便益を、安全保障理事会に利用させることを約束する。この便益は、通過の権利が含まれる。

2.省略

3.前記の協定は、安全保障理事会の発議によって、なるべく速やかに交渉する。この協定は、安全保障理事会と加盟国との間又は安全保障理事会と加盟国群との間に締結され、かつ、署名国によって各自の憲法上の手続に従って批准されなければならない

 

感想 日本はこのとき1950国際連合に加盟1956していないし、また憲法9条もあるから、この国連憲章第43条に基いて日本人を朝鮮戦争に参加させるという考え方は無理筋だろうと思われる。だからSCAPが承認すればいいという国務省政策企画部局スタッフの代案が出てきたのではないか。

 

 

警察予備隊の運営の中核は警察官僚が担ったが、その中核にいて、この組織が朝鮮戦争に使われるのではないかと不安を感じた人が少なくとも3人いた。後藤田正晴、内海倫、加藤陽三である。

 

後藤田正晴・警備課長

 

(警察予備隊を創設した米国の本当の狙いについての質問に、)指令が内閣を経て私のところに回ってきた。編成表を見ると、米歩兵師団そのものだった。その中に冷凍中隊というのがあった。意味が分からなかったので尋ねると、戦死者の内臓を取って、冷凍して本国に送るという。火葬はしない。野戦に連れて行く予定であることが分かる。(後藤田正晴『情と理――後藤田正晴回顧録<上>』1998

 

内海倫・警務局教養課長

 

後藤田さんが一度アメリカの(警察予備隊用の)倉庫を見せてもらおうと言い、CASA(民事局別室)に申し入れた。(装備は全て米側が準備していた。)その結果、例えば7万5千人の隊員に対して、7万5千着の一人用のテントがあった。ある食料品は20万人分、薬品は、包帯、防毒用サックが何万ダースとか用意されていた。表ではアメリカは朝鮮戦線に連れて行くなどと言わない。(防衛省防衛研究所戦史部『内海倫 オーラル・ヒストリー』2008

 

加藤陽三・人事課長

 

GHQのPSD(公安課Public Security Division)に招致され、予備隊について説明を聞いた。軍隊といってよい。しかも米国の要請に応じて使用される虞れが多分にある。(日記1950.7.21

(保利茂)労働大臣官邸で昨夜に引き続いて予備隊を審議した。自分はこれが米国の傭兵であってはならぬと主張した。(日記1950.7.25)(大嶽秀夫編・解説『戦後日本防衛問題資料集<第一巻>』)

 

212 警察予備隊は法律ではなく政令で創設されたが、政令は国会を通さずに内閣でつくり、憲法41条の国会の地位をないがしろにする。

213 また、朝鮮戦争にもっていかれる可能性のある警察予備隊は、憲法9条違反でもあった。

 

政令で済まそうとする米側の説明

 

読売新聞戦後史班編『「再軍備」の軌跡』1981によれば、

 

GHQ民生局局長コートニー・ホイットニーは秘密会議で次のように発言した。

 

我々が法律でなく政令でというのは、日本政府の措置を推進し、国会審議の過程で生じる遅延や政治的圧力を避けるためである。

 

214 加藤陽三・国警本部総務部長(当時)(人事課長211)は、「法律に則って正規の組織にすべきだ」と主張した。

 

GHQが野党に圧力

 

朝日新聞1950.7.13によると、

 

社会党の浅沼委員長と国民民主党*の苫米地義三(とまべちぎぞう)最高委員長は、ウイリアムス民生局国会担当課長と会った時7/13、ウイリアムスは、「警察予備隊創設に関する一切は政令によってなされる。この件に関する限り、国会は何らの審議する権限を持たない。この政令に反対することは、最高司令官命令に反するものと看做される。」

 

*国民民主党は、1950年4月、民主党が分裂して、その野党派が、野党の国民協同党と合同してできた政党。メンバーは、苫米地義三、三木武夫(幹事長)、芦田均(民主党から合流)。一方の連立派は、3月、民主自由党(吉田茂・総裁)に入党し、その後自由党になった。メンバーは、犬養健、保利茂ら。

 

年表

 

1950.7.3、第24師団を率いるディーン少将が韓国に入った。北朝鮮が猛攻をかけた。

7.8、GHQが警察予備隊の創設を命じた。

7.13、浅沼社会党委員長らが米側に脅かされた。

7.20、大田が陥落した。

7.28、報道関係のレッドパージが開始された。

8.10、警察予備隊令が発令された。

 

 マッカーサーによる「共産分子の排除」の指示に従い、各報道機関は7月28日、社員の解雇を申し渡し始めた。初日7/28でも、朝日72人、毎日49人、読売34人、日経10人、東京8人、日本放送協会104人、時事通信16人、共同通信33人に及んだ。

 

216 警察予備隊違憲訴訟

 

 サンフランシスコ講和条約が朝鮮戦争中の1951年9月8日に署名され、1952年4月28日に発効した。

 1952年3月、日本社会党委員長・鈴木茂三郎は、警察予備隊違憲の提訴をした。

 提訴理由は、「政府は警察予備隊の名のもとに、警察と称して、軍備すなわち戦力を保持している。戦力を保持することは、憲法9条に違反する。」「警察予備隊の組織は、総監の下に、旧日本陸軍類似の階級に分けて統率され、訓練内容は白兵戦、渡河作戦など全く戦争のためのもの」であると指摘した。(大嶽秀夫編・解説『戦後日本防衛問題資料集<第三巻>』三一書房1993

 

 これに対して最高裁(裁判長・田中耕太郎)は、1952年10月、「本件訴を却下する。」その理由は、「わが裁判所が現行の制度上与えられているのは、司法権を行う権限であり、司法権が発動するためには、具体的な争訴事件が提起されることを必要とする。我が裁判所は具体的な争訴事件が提起されないのに将来を予想して、憲法及びその他の法律命令等の解釈に対して存在する疑義論争に関して、抽象的な判断を下すごとき権限を行い得るものではない。」「この裁判は裁判官全員の一致の意見によるものである」(川添利幸編『憲法重要判例集』文久書林1962

 

 しかし、日本国憲法の次の条文を考えて見よ。

 

第76条「全て司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。」

第81条「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が、憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」

 

田中耕太郎は、松川事件、レッドパージ訴訟、砂川事件等の裁判を担当した。

 

孫崎亨『戦後史の正体』によれば、

 

戦前日本を戦争に導いた人は、占領軍によって戦後の重要ポストから追放された。しかし、対米追随を示して枢要ポストを占めることが許された。

218 これは政界、官界、報道、司法等重要機関すべてに行き渡っている。戦前治安維持法等に関与した検事が検察のトップになった。井本臺吉(だいきち)や布施健は公安検事であり、弾圧に関与したが、戦後、検事総長になった

 田中耕太郎は、1937年、東京帝国大学法学部長に就任し、戦前の体制の中核にいた。

 

田中耕太郎の言う「具体的な争訴事件が提起される必要」に関する憲法学者の見解

 

 長谷部恭男「違憲立法審査権の性格」(樋口陽一編『憲法の基本判例』有斐閣1985によると、

 

憲法81条が最高裁に対して憲法審査権の公使をどのように認めるのかについて四つの見解がある。

第一、国家行為の合憲性を直接審査する抽象的違憲審査権が与えられていて、特別な手続法規がなくても、最高裁はこの権限で法令の抽象的な違憲審査ができる。

第二、違憲立法審査権は認められているが、その権限を行使するためには、法律でその手続を定める必要がある。

第三、憲法81条は、抽象的違憲審査権を排除しないが、法律でこの権限を最高裁判所に与えることは許される

第四、憲法81条は、具体的な訴訟事件の解決を任務とする司法裁判所が、その作用を行う前提として、また国家行為の違憲審査を行う前提として、国家行為の違憲審査を行う附随的審査権のみを認める。(宮澤俊義、佐藤功、清宮四郎、伊藤政巳の文献)

(この文章何を言っているのか意味不明。要するに、最高裁判所=「司法裁判所」には、具体的な訴訟事件でなければ、国家行為の違憲審査はできないということらしい。「付随的」は「具体的」と共通する言葉として使われているようだ。それに対する言葉が「抽象的」である。)

 

 法律がないから違憲審査権を行使できないということは、本来あるはずの司法の権限を排除する権限が立法機関にあることになる。

 以上の四つの解釈は、鈴木茂三郎による警察予備隊違憲訴訟での田中耕太郎判決後に、憲法学者が考え出したものである。

 

警察予備隊の武装強化

 

220 ブラッドレー統合参謀本部議長がマーシャル国防長官に宛てた「警察予備隊についてのメモランダム」*1951.2.9によると、 

 

*マーシャル国防長官から国務長官に宛てた極秘文書(ワシントン、1951.2.15)に付属する文書。

 

マッカーサー将軍は陸軍に「現在の状況は、韓国での必要と同じ優先順位で、日本の警察予備隊をできるだけ早く装備することが緊急に必要であることを示している。」と報告した。(東京発の電報1951.2.15)(『戦後日本防衛問題資料集<第二巻>』)

 

これは1950年11月、中国軍が朝鮮半島に入り、米軍を37度線まで押し返した時期である。

 

報道でのレッドパージの結果と報道(表現)の自由の剥奪

 

日経は見出しで「報道界の赤色分子解雇」とセンセーショナルに報じた。(日経1950.7.29

報道関係者326人もの人が解雇された。

 

222 『1950年7月28日 朝日新聞社のレッドパージ証言録』朝日新聞レッドパージ証言録刊行委員改編 晩聲社1981によると、

 

朝日新聞社の社員104人が、一片の退社命令で追放された。それはマッカーサー元帥の書簡に基くものであり、戦争に反対し、対米批判をする動きを一切抑圧しようとした緊急措置であった。

 当時の経営陣と大半の労働組合は、マ元帥の書簡に基く違法な措置を何の抵抗もなく受け入れ、マ元帥の要求に進んで便乗して解雇を行ったとさえ言える一連の事実もあった。

 憲法、労働組合法、各組合の規約・労働協約などによって、労組員はその思想、信条の自由が保障されているはずだった。

戦争を防ぐことと言論の自由を守ることとは一体である。

 

 本書の中の、新井直之・創価大学教授「レッドパージの今日的意味」によれば、

 

レッドパージの問題点は、第一に、犯した行為に対する処罰としての解雇ではなく、犯すかもしれないという惧れに基く解雇であって、予防拘禁的であったことである。第二点は、朝鮮戦争に対する報道が完全に一元化し、多様な視点による報道や多元的な情報による報道が行われなくなったことである。

 

222 裁判の判決は占領体制に隷属した

 

日経連(日本経営者団体連盟)編『レッド・パージの法理』日本経営者団体連盟弘報部1953によれば、

 

・京都新聞社事件(京都地裁、仮処分決定1951.3.30

要旨(1)マ書簡は占領政策を表現したもので、公共的報道機関から一切の共産主義者及び同調者を排除すべき法的規範を設定したものであるから、国内法の適用を排除する。(2)マ書簡は、被排除者の選定手続き及びその運用を新聞経営者の自主的判断に委ねた。(自主的であるはずがない。)

 

朝日新聞事件(東京地裁、判決1952.12.22

要旨(1)マ書簡は公共の報道機関に対し、その機構から共産主義者又はその支持者を排除すべきことを要請した指令であって、その範囲で法規を設定したものであるから、その限りで、国内法の適用を排除する。

 

・名古屋新聞社事件(名古屋地裁、決定1950.11.15

要旨(1)マ書簡は占領地域内に、その機構内から日本共産党員及びその同調者を排除すべき旨の法規範を設定し、その規範の枠内で、被解雇者の選定その他の手続を経営者の判断に委ねた。(2)占領下においては、日本国民は国内法の支配をうけると共に連合国軍最高司令部の制定する占領法規の支配も受けるが、連合国最高司令官の権力は日本憲法の統治権に優越するから、占領法規の効力は、国内法に優先する。(一片の書簡が法規なのか。日本の為政者は戦前も戦後も奴隷根性丸出しだ。)

 

226 東京地裁判決はサンフランシスコ条約発効1952.4.28後の話である。日本は独立国であった。

 

 1966年、国際人権規約が国連総会で採択され、日本は1975年に批准した。それによると、

 

市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約<B規約>第2条3「この規約の各締約国は次のことを約束する。(a)この規約において認められる権利又は自由を侵害された者が、公的資格で行動する者によってその侵害が行われた場合にも、効果的な救済措置を受けることを確保すること。」

 

朝鮮戦争と日本経済の活況

 

227 中村隆英『昭和史<下>』東洋経済新報社2012によると、

 

1949年は第二次大戦後はじめての景気後退期だったが、1950年に朝鮮戦争が起り、軍用物資の買い付けでドル収入が増加した。日本の輸出は1949年に5億ドル、1950年には8億ドルだったが、1951年は13億ドル、1954年は16億ドルになった。

 

228 スターリンの死1953.3は株価を暴落させた。(それでも鉱工業生産指数は、1949年から1954年にかけて年を追うごとに順調に伸びている。227

 スターリン一は、南北双方に勝利の見込みのない戦争の続行を求め続けていた。戦争で潤っていた日本経済もスターリン同様だった。

 スターリンは1953年3月1日、脳卒中で倒れた。スターリン死去のニュースが次第に世界に広がった。3月4日、日本でスターリン重体のニュースが伝わり、翌5日、死去が報じられると、日本の株価が大暴落した。

229 米国の軍需産業にとっても、戦争継続が望ましかった。

 

 

第五章 冷戦後の国際政治と朝鮮半島問題

 

234 1991年12月25日、ゴルバチョフがソ連大統領を辞任した。この時の米国の選択肢は、軍事から経済に重点をうつすこと、もう一つは世界最強の軍を維持することだった。

ロバート・マクナマラ元国防長官は上院予算委員会で、「ソ連の脅威が減じた今、3000億ドルの国防予算を半分に減らせる」と証言した。

 しかし米は軍を維持する選択をした。当時の統合参謀本部議長だったコリン・パウエルは「米国の軍事力――今後の課題」フォーリンアフェアーズ誌1992, 1993冬号で、次のように述べた。

 

「米ほどの力を持つ国は他に存在しない。他の国から力を行使すること期待されるのは米だけだ。我々はリーダーシップを取ることを義務づけられている。米軍の存在なくして米がリーダーシップを発揮することは不可能だ。」(傲慢そのものだ。)

 

 1993年レス・アスピン国防長官の下で、以下の内容の軍事戦略「ボトムアップレヴュー」を作成した。これはその後の米の戦略となった。

 

・重点を東西関係から南北関係に移す。

・イラン・イラク・北朝鮮など不安定な国が大量破壊兵器を所有することは国際政治上の脅威だ。これらの国が大量破壊兵器を所有するのを防ぎ、またこれらの国が民主化するために、必要に応じて軍事介入する。(力で民主主義を根付かせるという恐ろしく傲慢な態度だ。)

軍事の優先的使用を志向する。(恐ろしい)

軍事行動の目的(目標)は米国が設定する。

 

 1945年からソ連崩壊までの米の北朝鮮政策は、ソ連・中国との関係を考慮していたが、ソ連崩壊後は、北朝鮮がイラン・イラクと並んで、最大の脅威となった。

236 イラン、イラク、北朝鮮は、米国の軍事力に比べれば、圧倒的に弱いから、彼らから先に米国に攻撃を仕掛けることはない。緊張を継続するためには、米が挑発して軍事力を行使する必要がある

 

国連憲章

 

第二条

1 この機構はすべての加盟国の主権平等の原則に基礎をおいている。

4 全ての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するもの(武力行使)も、また、国際連合の目的と両立しないいかなる方法によるものも、つつしまなければならない

第五十一条

この憲章の如何なる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が、国際の平和及び安全の維持に必要な措置を取るまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。

 

 つまり、国連憲章は、何らかの理由でその国は危険だということで攻撃するのを禁じている。米国のソ連崩壊後の方針(軍事の優先的使用を志向する。軍事行動の目的(目標)は米国が設定する。)はこれに反する。

 

クリントン大統領の、イラン、イラク、北朝鮮との協調路線の模索

 

237 クリントン政権の末期に、イラン、イラク、北朝鮮との平和外交が模索された。

 

・イランとの国交を回復し米国民を守るという口実で、イラン国内に総領事館を持つ。

・北朝鮮と朝鮮戦争を終結する平和条約を締結し、国交を樹立する。

・イラクへの敵対関係を軟化する。

 

238 クリントンが以上のことを模索し始めると、大統領弾劾の動きが出てきた。1998年1月、クリントン大統領(当時51歳)が、1995年から97年にかけて、27歳下のホワイトハウス実習生モニカ・ルインスキーと性的な関係を持ったとする疑惑が浮上した。ジョン・F・ケネディは大統領時代に活発な女性関係を持ち、マリリン・モンローもその一人と言われるが、弾劾の動きは出なかった。

 

米は今も、北朝鮮とイランを敵と見なしている。

 

米国は、北朝鮮敵視よりも、イラン敵視のほうがひどい。それはイスラエルが存在するからだ。J・J・ミアシャイマー、S・ウオルト『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策』2007参照。

 

239 補給を行う民間企業は、アフガニスタン戦争やイラク戦争で利益を得た。この勢力は核兵器を製造する企業以上の政治力をつけた。

 

北朝鮮は戦後一貫して核兵器の脅威にさらされてきた。

 

米国は莫大な軍事予算を維持するために北朝鮮との敵対関係を必要としているので、北朝鮮を核兵器開発のほうに追い込んで、敵対関係を続ける。

 

 ガバン・マコーマック『北朝鮮をどう考えるか』平凡社2004によれば、

 

米国にとって北朝鮮の核は過去10年間の主要問題であったが、北朝鮮にとって米国の核の脅威は過去50年間絶えず続いてきた。

休戦協定が調印された1953年の4年後の1957年、アメリカは休戦協定に違反し、核弾道弾、地雷、ミサイルを韓国に持ち込んだ

1991年、核兵器が韓国から撤収されたが、米軍は北朝鮮を標的と想定した長距離ミサイルの演習を続行した

以上のことから、北朝鮮が核抑止力を開発しようと考えたことは驚くことではない。

 

241 2003年、米国防省核兵器管理司令部戦略指揮STRATCOM:Strategic Command に、核兵器の使用を許可する作戦計画CONPLAN8022が与えられ、現場指揮官の判断でイラン、北朝鮮に核兵器が使用できるようになった。(本当か。大統領抜きでか。信じられない。)

 2004年春、ラムズフェルド国防長官はこのCONPLAN8022 常に実施できるよう緊急指令を出した。

 

 2017年、北朝鮮を攻撃するbloody nose(鼻血)作戦が検討・実験された。

242 英国のテレグラフ紙は以下のように報道した。

 

米国は北朝鮮の核兵器計画を止めさせるためbloody nose 作戦を練っている。米国の軍事力を見せつけて核兵器開発を阻止しようとする米国の意思を示し、北朝鮮を交渉に導こうとした。

 

 朝日新聞は次のように報道した。

 

北朝鮮へ先制攻撃「鼻血作戦」 トランプ暴露本で判明2018.9.12

 

ボブ・ウッドワードによるトランプ政権の内幕本『FEAR』に、北朝鮮への先制攻撃計画やシリア大統領殺害指令など、即興的・感情的なトランプ大統領の姿が記述されている。『FEAR』では、トランプ就任1ヶ月後の2017年2月、トランプは、米軍制服組トップのダンフォード統合参謀本部議長に対し、北朝鮮への先制攻撃計画をつくるように指示した。2017年10月、北朝鮮と地形が似ているミズーリ州オザーク高原で、爆撃機を使った空爆のシミュレーションを行った。米空軍には北朝鮮の指導者を殺害する複数のプランがあった。パイロットは北朝鮮の指導者がいると思われる場所と交信し、最大の威力が発揮できるよう低空から爆弾を投下するというものだ。2017年4月、アフガニスタンで、ISの地下施設を破壊するために投下された大型爆弾も使われた。

 

243 金正恩の異母兄の金正男が2017年2月13日、マレーシアのクアラルンプール国際空港で殺害された。金正男はCIAと接触している。金正男が正恩の居場所を提供していたのかもしれない。

 また、米国の朝鮮問題専門家ビクター・チャは、ワシントン・ポスト紙に、2018年1月31日、「北朝鮮に鼻血を与えることは米国民に多大のリスクを与える」という論文を発表した。チャは駐韓大使に内定していたが、北朝鮮への軍事作戦に反対し、この内定が取り消された。

 

244 キッシンジャーは『核兵器と外交政策』日本外政学会1958の中で、次のように述べた。

 

核保有国間の戦争は、中小国家であっても、核兵器の使用につながる。

熱核兵器を持つ国は、それを使わないで全面降伏はしないだろう。またその生存が脅かされていると信ずるとき以外は、戦争の危険を冒さないだろう。

無条件降伏を求めず、どんな紛争も国家の生存の問題を含まないという枠組を作ることが、米国外交の仕事だ。

 

245 これは国連憲章第2条4の考えと同じだ。236

 

第二条4 全ての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するもの(武力行使)も、また、国際連合の目的と両立しないいかなる方法によるものも、つつしまなければならない

 

  米国は北朝鮮と平和条約を結び、互いに軍事的な敵対行動はとらないと約束すればいい。北朝鮮はずっとこれを要求してきたが、米国はそれに応えなかった。

 

246 リチャード・ハースの提言「北朝鮮の核開発プログラムからの十の教訓」Project Syndicate, 2017.7によれば、

 

①核はいずれ開発されるものだ。

②外部からの核開発支援を閉ざすことはできない。利益が上がれば核市場が成立する。

248 ③経済制裁も効果がない。

④国際的価値観が各国によって異なる。中国は分断された朝鮮を望み、米はアフガニスタン政策でパキスタンの協力を望んでいたので、パキスタンの核開発を黙認した。

⑤核兵器を持つことは自国の安全を高めると考えられている。イスラエルがそうだ。ウクライナ、リビア、イラクは米の圧力で核兵器開発を諦めたが、その結果、攻撃を受けた。北朝鮮はそれを避けた。

⑥NPTは自発的である。

⑦国連総会での核兵器禁止のための外交努力はあまり効果がない。

⑧某国が核兵器を開発しようとした場合、それを止めさせる基準がない。

⑨1990年代の初め、米国は核の軍事使用を考えたが、朝鮮戦争を引き起こすかもしれないので止めた。

⑩全ての問題の解決は不可能で、いくつかの問題が管理できるだけだ。

 

トランプの対北朝鮮政策は、日和見的なご都合主義である。つまり、米国民の世論に追従しているだけだ。つまり何もしないということ、外交努力も武力攻撃もしないということだ。

 

朝鮮半島の統一のために

 

252 ①南北の経済的協力関係の促進。②南北の形式的連邦をつくる。各10人の代表を出し、年に1、2回閣議を開いてとにかくしゃべる。

 

 

おわりに

 

朝鮮戦争のとき、「ソ連や中国が北朝鮮を唆して戦争を始めた。これを許せば、世界中が赤化する。」という言論が大手を振って歩き始めた。

 

 

2020年6月  孫崎亨

以上 2021114()

 

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