2022年3月19日土曜日

『我国体観念の発達』 深作安文 東洋図書 1931 要旨・感想

『我国体観念の発達』 深作安文 東洋図書 1931

 

 

感想 筆者の主張する「国体」とは国学的「国体」である、つまり一切の外来思想を排斥する。その支えは、漢文を中心とする古典文献の読解能力という優越感ではないか。国体擁護論者の古典読解能力は素晴らしい。そのことは認めるが、西洋の文献も読んでもらいたいですね。自己中は片端ですよ。

 

 自己中国体論の正当性の論拠を記紀から始まる古典文献の中に求め、国体論の内容(万世一系とか天皇の仁徳とか)に少しでも合致する記述を見つけると、それで以て自らの国体論の正しさの論拠とする。しかしそれはあくまでもそれらしき記述の発見であって、自己中国体論の正当性の論証とはならない。その正当性の論証をするとすれば、例えば幕末以降の西欧の傲慢さを指摘する方がむしろ論理の組み立てにかなっているのでは。あるいは無政府主義やマルクス主義などの左翼思想の導入を含め、明治維新以来の欧化のスピードを誇ることもできたのではないか。しかし、所詮国体論は民族主義であり自分の殻にこもることになるから発展性がない。よそのものでもよいものはよいとして、国際主義に向かうべきではなかったか。

 

 私は筆者の自己中国体論の背景に幕末以降の尊王攘夷思想の影響を感じる。自己中国体論=尊王攘夷思想と言える。

 

この自己中国体論を日本独特のものだとしていい気になっている心性の原因は、島国根性つまり田舎者の付き合い不足、付き合い下手があるのではないかと憶測する。

 

 

感想 202228() 著者の論理は扇動の論理であって、理性の論理ではない。

 

 

感想 2022130() 深作安文は東京帝大教授である。本書は昭和61931年の出版だが、大正91920年の講演をまとめたものである。ただし大正9年の講演の直後にもその講演録が出版されていたようだ。

 

本書は深作安文が日本弘道会に依頼され数回にわたって行った講演の記録である。

 

現代では櫻井よしこが日本弘道会に、西岡力が深作安文に譬えられないか。

 

当時ますます本書の需要が高まったというが、今もその傾向がありやしないか。読売、産経、NHKなどはすでに右翼政権に与していないか。

 

「大正デモクラシー」と言われる大正時代でも、先駆的に国体を唱える東大教授がいた。深作は皇国史観ただ一つしか許さない。この雰囲気が高まる中で弾圧される学者が続出したことだろう。京都帝大の滝川幸辰(ゆきとき)教授1933や、天皇機関説の東京帝大教授の美濃部達吉1935らである。現代では学術会議で任命拒否された6人や、新聞記者だったが大学教授でもある植村隆らがこれに相当しないか。

 

 

要旨

 

 

 

001 大正91920年、著者は日本弘道会の依嘱により「我が国における国体観念の発達」と題して数回にわたって講演し、その筆記が同名の書冊となって世に出たが、誤植が多いまま今日に至っていた。

 この頃思想問題の解決が困難であることが漸く一般識者の知るところとなり、我が万邦無比の国体の闡明をその思想問題の一対策とする人が多い。その結果か、本書を求める人が多くなった。本書は発行後かなりの年月を経たため、これを街頭で入手することが不可能になった。従ってこの度東洋図書株式合資会社長永田与三郎氏の請をいれて、できる限り増訂し、面目を一新して再び世に問うことにした。昭和619318

 

感想 弘道会の「弘道」は、水戸の藩学弘道館008と同じ文字を使っている。

 

 

第一章       国体の意義 

 

一 国体の語源

 

003 我が日本において国体の観念はすでに遠く有史以前即ち神代でも儼として存在し、一度この国体が危うきに瀕すると、当時の人々は挙って国家的運動を起こしてこれを擁護した。当時は国体という文字はなかったが、その意味するものは存在した。

 

004 国体という文字が文書に現れた最初の場合と思われるものは、「出雲国造神賀詞」*であるが、その中に

 

「天穂比命乎(を)国体見爾(に)遣玉(給)時爾(に)…」

 

とある。これは「天穂比命*を国体見(くにがたみせ)に遣わし玉ひし時に」と読む。これは天祖天照大神が高天原からこの大八洲国の君主を御降ろしになろうとした時、まず天穂比命を国状・国勢の視察に御遣わしになったことを指す。ここでの国体という文字の意味は今日用いられているのとは大いに異なっている。

 

*「出雲国造神賀詞」天武朝の成立か。延喜式の祝詞27編中の雄編の一つ。出雲国造が新任のとき、出雲の神々(186社)を1年間潔斎して祭り、その神々の祝いの言葉を朝廷に出て奏上するとともに、臣従を誓うときの祝詞(のりと)。コトバンク

 

*天穂日命(あめのほひのみこと)064

 

 今日用いられている意味の国体という文字の起源はもともと支那にある。管子*の「君臣篇」に、

 

「四正五官は国の体なり」

 

005 とある。四正とは君臣父子を言い、五官とは百官を指す。古くは五行を四時に配し、百官が分担してこれを治めたから、百官のことを五官という。君臣父子の間柄や百官の職務遂行の如何は、国体にとって重要な意味を持つという意味である。

 

*管子 管仲(かんちゅう)の敬称。政治論。春秋時代の斉の政治家管仲の著とされるが、実際は戦国時代末から漢代にかけての何人もの論文をまとめたもの。政治、経済、軍事、教育、陰陽、地理などを論じる。

 

 さらに遡って前漢書*の「成帝記」の詔に、

 

「儒林の官は四海の淵源なり。宜しく皆古今を明らかにし、故を温めて新を知り、国体に通達すべし。故に、これを博士と謂う。」

 

とある。これは国体の研究者にとって深い関心を覚えさせる文字である。それは、「学者の官職は四海の淵源であり、国家の本源をなすから、世の学者は宜しく故(ふる)きを温めて新しいものを知り、国体の神髄を把握し、その本義に通達しなければならない。こうしてこそ博士と尊ばれる」という意味である。

 

*前漢書 漢書。歴史書。正史。後漢の班固著。高祖から平帝までの231年間を紀伝体で記す。司馬遷の「史記」とともに中国の史書を代表する。

 

006 されば、国体の何たるやも弁えず、徒に外来の新思想に心酔して、只珍しきが故に尊重し、新しきが故に喜び、その長短得失を無吟味のまま自国に紹介する如き学者がありましたなら、我々は之に博士という学会最高の栄位を許すことはできないのであります。

 

感想 極めて挑発的な言辞ではないか、橋下徹を連想する。これは排他的で、政権による反対者弾圧の根拠づけともなるような言論である。

 

それはともあれ、このあたりが今日普通に用いられる意味の国体という文字が支那の古典藉に現れた初めである。

 この文字が日本に入って来たのは儒教の渡来に伴ってであるが、種々の典籍を調べてみると、学者によって頻々に用いられるようになったのは、徳川時代になってからのことであるようだ。その事例を一二挙げてみると、山縣禎は「国史纂論」*で足利時代の僧侶が国体観念に暗いのを非難し、

 

「緇(シ、黒)徒は国体を弁えず」

 

007 と言っている。緇徒とは僧侶を言う。仏徒は仏を最高の存在として拝するから、往々にして我が国に特有な国体の尊厳性を無視する傾向があった。

 

*山縣禎は山口県出身の儒者(ヤフー・オークション)。「国史纂論」は弘化21845年8月跋(書き終えた)kosho.or.jo

 

 同時代に水戸の学者で青山延于(う*)は「続皇朝史略」の中で

 

「啻(ただ)にその父の遺命に負(そむ)くのみならず、寔(まこと)に国体を失す」

 

とある。足利時代に足利義満が明の国王から日本国王に封ぜられたという由々しい事件があった。その子義持はこれに関して、大義に悖るも甚だしい行為であるとして、明国との交わりを絶った。

008 これは名分を心得た態度として、当時の学者からも、後世の史家からも賞賛されている。しかしその子の義教は再び明国に使を遣し、祖父義満の行為に倣った。青山延于の前言は義教のこの行為を非難したものである。

 

*青山延于(のぶゆき)1776—1843 儒者。常陸水戸藩士。立原翆軒(すいけん)に学ぶ。江戸彰考館総裁となり、「大日本史」の校訂と上木(じょうぼく。版木に彫りつけること。出版)を促進した。藩主徳川斉昭に認められた。弘道館教授頭取。その著『皇朝史略』は日本通史として広く読まれた。コトバンク

 

 その他水戸の藩学弘道館の館記に、

 

「恭(うやうや)しく惟(おも)うに、上古に神聖が極を立て統を垂れたから、天地が位し万物が育つ。その六合に照臨し宇内を統御する所以のものは、未だ嘗てこの道に由らざるなし。宝祚(天皇の位)はこれを以て無窮であり、国体はこれを以て尊厳であり、蒼生(人民)は之を以て安寧であり、蛮夷戎狄(じゅうてき)はこれを以て率服する。

 

とあり、我が国体の尊厳なる所以を力強く説いている。

 

 また山鹿素行の著書には国体の語が盛んに用いられ、明治時代になると、その用例はますます頻繁である。

 

 吉田松陰の「武教小学」では次のように言っている。

 

009「国体と云うのは、神州は神州の体があり、異国は異国の体がある。異国の書を読めば、とかく異国のことのみを善と思い、我が国をば却って賤しみ、異国を羨むようになって行くが、これは学者の通患であり、神州の体が異国の体と異なる訳を知らないからである。」

 

 さらにこの国体という文字は何回となく明治天皇の詔勅に現れる。明治元年18688月の「奥羽に下す詔」では

 

「近時宇内の形勢は日に開け月に盛んなり。この際に方(あた)って政権一途人心一定するにあらざれば、何を以て国体を持し、紀綱を振はんや…」

 

とある。また明治218699月の「刑律を改撰せしむる詔」では

 

「我が大八洲の国体を創立する(ことに関して)邃古(すいこ、大昔)は措いて論ぜず。神武(天皇)以降二千年、寛恕の政を以て下を率い、忠厚の俗を以て上を奉じる」

 

010 その他に、明治418719月の服制更正の詔勅、明治1518821月の陸海軍人に賜った勅諭(軍人勅諭)、明治23189010月の教育に関する勅語などにも現れる。また大正天皇の即位礼勅語にも、

 

「万邦無比の国体をなせり」

 

の御言葉が拝されます。この事実は明治時代になって諸外国との関係交渉が複雑になるにつれ、日本国民の自覚が開け、その国体がますます重んぜられるようになった一つの証拠として深く注意すべきことである。

 

 以上を要約すると、国体観念はすでに早くから我が神代おいても存在したのだが、現在の意味におけるこの語は儒教の伝来とともに我が国に入り、徳川時代からは「自主的精神の学者」の書中に頻々と現れ、明治時代となってますますその重要性を高めた。

 

 

二 国体の定義

 

011 今日広く用いられている「国体」の意味について述べよう。地球上に大小強弱種々様々な国家が存在するが、これらの国家はすべて主権者、土地、人民から成り立つ政治的団体である点で共通している。つまり、一定の地理的領域とその中に住む人民と、これを支配し統治する主権者の三者を成立要素とする政治的団体であることはすべての国家に共通する。それはすべての国家を国家たらしめる普遍的条件である。これを国家の普遍性とする。

 

012 しかし国家にはこの普遍性に加えて、それぞれの国家に特殊性がある。それは国家組織の「体裁」である。このことを個人について考えてみても、すべての人は等しく人であるという通有性を持っているが、またその人特有の性質がある。敏活な人がいれば、魯鈍な人もいる。沈着な人もいれば、性急な人もいる。これらは各個人特有の性情である。人に通有性があるように、国家にも普遍性があり、人に特殊性があるように、国家にもそれぞれその国家に特有の性質がある。国家の普遍性がすべての国家を国家たらしめる一般的性質であるのに対して、各国家の特殊性はその国家を他の国家から区別する個別的性質を指す。

013 この国家の特殊性を私は国体と考える。

 

 それではこの国家の特殊性、即ち国体の別はどこから来るのか。それは国家の三要素間の関係によって生ずる。国体とは国家組織の体裁である。国体を表現する他の言葉に、国柄や国風があるが、これらは誤りではないが、内容が空しく同義語の反復であり、国体の証明にはならない。(意味不明)私は国体を定義して国家組織の体裁という。

 

014 国家組織の体裁を規定するものは何か。それは形式的と実質的の二方面が考えられる。形式的に国家組織の体裁を規定するものは、国家を統治する主権の所在である。主権がどこに存在するかがその国の国体を形式的に決定する。国家統治の主権が君主の側にあるのを君主国体といい、人民の方に存在するのを民主国体という。世界大戦以来広く深く世界の人々を動かしてきたデモクラシーDemocracyは、国体としては後者に属する。以上が国体を規定する形式的方面である。

 

015 次に内容の方面から国体を規定しよう。国体の内容実質を規定する条件が二つある。その一は建国の事情、つまりどういう事情でその国が建設されたかということであり、その二は、その国の歴史、即ち主権者と人民とを合わせて建国の第一歩を踏み出して以来、その国の歴史がどういう国家生活の道程をめぐって来たかということである。形式は抽象的で、理論的・概念的であり、これだけでは事柄の全部を窺うことはできず、その内実を知って初めて事柄の核心を把握し、その生命を認識できる。国体観念の内実はその国民が実際に営んできた国家生活の歴史である。

 

 

三 国体の分類

 

016 アリストテレスAristoteles 384—322BCは国体を分類した。彼の数世紀前の古代ギリシャで全ての学問が生まれ、国体や政治に関する考察も行われていた。ギリシャでは学者が同時に政治家でもあったから政治学が盛んであった。しかし多くは部分的考察であり、学問としての体系はなかった。学問が初めて厳密な自覚を以て体系づけられたのはアリストテレスによる。ほとんどすべての学問の源はアリストテレスに発する。

 

017 アリストテレスの分類によると、国体は一、君主国体Monarchy、二、貴族国体Aristocracy、三、民主国体Democracyの三つに分類される。この分類は彼の当時には適切であったかもしれないが、その後、政治哲学や法理学が発達し、アリストテレスの分類の不備が修正された。

アリストテレスの分類の貴族国体と民主国体で、前者の主権は一部貴族の手にあり、後者のそれは人民全体の手にあるとされたが、これは分量あるいは程度上の差異であり、品質上の差異ではない。

 

感想 貴族と人民とが質的に同じだとするこの論法は、比較対象を三つから二つにして国王を引き立てるためか。

 

018 分類は、ある原理を高次概念として、その下に幾項かの低次概念を包摂するが、それら各概念相互の間に他と流通しない独自の特質、即ち性質上の差異がなくては完全とは言えない。

 

 このアリストテレスの分類に修正を加えたのが、中世のイタリアの政治学者マキャベッリMacchiavelli 1459—1627であった。彼は国家は強い権力と優れた才能をもつ主権者によってだけよく統治されると考えて専制政治を謳歌した。そのため専制政治のことをマキャベリズムMacchiavellismという。

 

019 マキャベッリはアリストテレス以来の国体分類の欠陥を補い、君主国体と共和国体Republicの二つとした。主権者の数を分類の尺度にした点はアリストテレスと同じだが、民主国体と品質上差異のない貴族国体を削除した。共和国体は人民が代議士を選出して一国の政治を議せしめるデモクラシー即ち代議的民主国体をいう。マキャベッリの当時は貴族国体が廃れて、一般に共和国体を用いる風潮が強かった。

 

 ところがマキャベッリの分類を仔細に点検すると一つの欠陥がある。マキャベッリが新たに掲げた共和国体は代議的民主国体であり、代議制という点にその意味がある。これは国体というよりもむしろ政体である。国体と政体は区別されなければならない。

私は主権の所在によって国体を区別するという分類の原理ではアリストテレス以来用いられているものに従い、量的差異のものは除くという点ではマキャベッリとともにこれに修正を加え、さらに国体と政体との混同を避け、国体を君主国体と民主国体の二つに分ける。つまり君主に主権があるものを君主国体、人民に主権があるものを民主国体とする。(代議制を取り除いた民主国体ということか。)

 

 

四 国体と政体

 

021 国体と政体とは異なる。マキャベッリでさえも国体と政体とを混同していた。国体が形式的には主権の所在によって決まるのに対して、政体は主権者が主権を行使する形式である。国体は政体よりも根本的である。国体は国家の構成要素である君民の関係に基づき君民全体に関わる。これに反して政体は主権運用の形式であり、主権者だけに関する。その主権発動が一定の規定に従ってなされるものが立憲政体であり、そういう規定がなく全く無規定になされるものが専制政体である。ここで規定とは憲法である。我が国は政体と国体との両面から言えば、立憲君主国となる。

 

022 フランス大革命The French Revolutionは国体と政体とを混同したために起こった。当時のフランスの君主政治は極度に腐敗していた。貴族や僧侶など特権階級がこの腐敗を助長し、一般人民は専制に虐げられた。

023 しかしだからと言って直ちに君主を斥けよ、君主国体を葬れとするのは行き過ぎた感情論である。(腐敗の責任は国王にはなく、貴族や僧侶にあると言いたいようだ。)国体の変更を企てる以前に、その政体を改める方法があった。君主国体でも(日本のように)憲法を制定して君主の権力や主権発動の方式を規定すれば、悪政を除くことができる。フランス革命当時、あれほどまでにしないでもよかった。三権分立を唱えたモンテスキューMontesquieuの主旨はここにあった。(意味不明)しかしそれにもかかわらず古を空しくするほどの大革命を起こし、パリの街頭を血の海と化し、国王ルイ十六世Louis XVIを無残にもギロチンにかけたフランスの一般国民は、政体と国体とを混同して、国体の変更によってのみ悪政は除かれると考えた。国体は国家組織の体裁であり、政体は国家組織の一要素である主権発動の方式である。国体の変革すなわち革命は、一つの国家の滅亡と他の国家の継続的出現を意味する。これに反して政体の変革は、国家そのものの存立には何ら影響を及ぼさない。この区別を明らかにすることは、国家生活上必要である。

 

 

感想 筆者は国体と政体とが異なると言うが、分かりにくいし、曖昧だ。筆者が定義する国体と政体に関する表現を抜粋すると、

 

・国体「国家組織の体裁」021, 024「君民の関係に基いて起こるもの」021「君民全体に関わるもの」022

・政体「国家組織の一要素である主権発動の方式」024「主権者がその主権を行使する形式」021「主権者のみに関わること」022

 

 

 精選版日本国語大辞典によれば

 

国体

 

①国家の状態。国柄。

②国家の体裁。国家の対面。

③国家を統治権の存在状態によって区分した形態や特質。君主制、共和制、立憲君主制など。

④特に日本では天皇統治の観念を中核とした国のあり方をいう。幕末から第二次大戦前にかけて、民族的優位性を示す概念として用いられた。

 

政体

 

①政治の組織形態。君主制、共和制、民主制など。

②国家を統治権が運用される状態によって区分した形態。立憲政体と専制政体がある。国体と同義に用いられることもある。

 

以上の通り国体と政体とは紛らわしく、また同じ意味に用いられることもあるとも言っている。そして国体③と政体①とは実質的に同義である。ただし、国体②や③や政体②などは、著者が言っていることと一致している。

 

 

 Wikiによれば、その「概要」では、戦後は国体が民主主義に取って代わられ、国体という語は過去の言葉になったとするが、「戦後の国体を巡る議論」の中では、「国体」が捨て去られるどころか、為政者がそれを維持していたことが示されている。

 

 1946625日、吉田茂首相は憲法改正審議での答弁で、戦前は民主政治だったとする。「御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国は民主主義であり、君権政治や圧制政治の国体でなかった。民の心を(天皇の)心とせられることが日本の国体であります。」

 

 1946519日、食糧メーデーで、共産党員松島松太郎が「ヒロヒト 詔書 曰く ナンジ人民飢えて死ね」とのプラカードを掲げたら、不敬罪に問われた。

 

2000515日、森喜朗首相は「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く。」

 

 

「国体思想」 平凡社世界大百科事典 第2版によれば、

 

天皇統治の正当性または日本国の優秀性を唱える思想をいう。

〈国体〉の語は、政治学・法律学上その概念を使用する場合には、主権の帰属いかんによって国家を区別する場合に用いられ、通常、君主国体と共和国体に区別される。

しかし日本では特殊に、万世一系の天皇によって統治される優秀な国柄を表す概念として用いられ、(1)永久不滅の天皇主権を指す場合、(2)君臣の特別の情誼関係を指す場合、(3)国風文化全般を指す場合等、きわめて多義的な内容の概念として使用された。

 

この説明が事情をよく説明していて、ストンと来る。

 

 

筆者はフランス革命が国体と政体とを混同したために起こった歴史上の非常事件だとし、「一般人民は専制に苦しんだけれども、それであるからといって、直ちに君主を斥けよ、君主国体を葬れよと叫ぶのは、一歩行き過ぎた感情論であります。」023とするのだが、これは政治腐敗を国王以外の貴族や僧侶に押しつけるねらいがあるのではないか。

 また、フランス革命時の専制君主国を、日本のような立憲君主国にしていたら、残忍なフランス革命の問題がもっと穏便に解決していたということを言いたいのかも。

 

 また例えばイギリスなど、政治権力の実態のない主権者に基づく国体概念など無意味ではないか。

 

 

 

五 各国の国体

 

025 国体には原理的に君主国体と民主国体の二種しかない。しかしこれは原理上の分類であって、実際は君主国体にも種々の違いがあり、民主国体でも同様である。それは国体の上から所在が定まっている主権が発動する場合、つまり政体としては、種々の形式や段階があるからである。

 

026 英国は君主国体である。今日はジョージ五世George Vが君臨しているが、この国の国体の内容・実質は、君主国体というよりはむしろ民主国体である。英国では議会制度が発達し、議会の勢力が絶大で、一度議会で決議したことは君主でもどうにもできない。民意が即ち君意である。少なくとも政治的には民の意志以外に君の意志は認められない。英国の諺に「英国の議会はただ一事――男子を女子に、女子を男子に変えることの外、何事でもなすことができる」というように、英国の議会は絶大な権力を持っている。英国は議会の権限が最高点にまで達した議会万能・議会中心の国である。英国は表面は君主国体の国であるが、内容は民主国体の国である。デモクラシーは大統領の治下にある国に限られていると考えることは狭い考えであり、それは国体としてのデモクラシーと、政体としてのデモクラシーとを区別して考えられない人の間違った考えである。デモクラシーは君主国体の国の政体でもあり得る。

 

028 大革命後のフランスは共和制を採用する民主国体であり、大統領が主権を把握している。大統領は人民の選挙によって定まる。しかしフランスの大統領の多くは君主のような権力を与えられてきた。長い間君主国であったこの国には今日でも王統の子孫がいて、国家の有様にもどことなく君主国の趣がある。この点は同じ共和国でもアメリカと大いに趣が異なる。

 

 ヨーロッパで真の意味での君主国は戦前のドイツだろう。数多いヨーロッパの君主国のうちで戦前のドイツは最も堅固であった。しかしそのドイツでもカイゼルには宣戦の権利がなかった。

 

029 大戦でドイツがルクセンブルグを経由してベルギーの国境まで進んで一気にこれを蹂躙し、初期の作戦を有利に導いたことは、国際信義の上から当時やかましく論議されたが、この場合宣戦の権利がなかったカイゼルのウィルヘルム三世Wilhelm IIIは、やむなくベルギー通過の可否を議会に諮った。これを傍聴した駐独イギリス大使は直ちに本国に打電した。「唇なければ歯寒し」というが、ベルギーは英国にとって正に唇であった。英国が大戦参加の肚を決めたのはちょうどこの報に接した時であった。そしてドイツが大戦に敗北した根本原因は、実にこの英国の大戦参加であった。(何が言いたいのか。宣戦布告の権利は君主の特権にして秘密にせよということか。)

030 これはドイツのカイゼルに宣戦の権利がなかったことによって起こった重大な結果である。

 

 ともあれヨーロッパで最も完全と言われた君主国家ドイツですらすでにかくのごとく(民主的)である。ドイツよりもさらに厳密な意味での君主国体の国家は世に存在しないのか。日本はどうか。

 

 

六 我が国体

 

030 結論から言うと、世界には最も完全君主国が唯一つだけあり、それは我が日本であるということである。最も完全で殆ど理想的な君主国体を持つ国は、世界広しと雖も、我が日本をおいて存在しないのであります。その理由は、我が国が世界で唯一完全な君主国であるという形式的特質と、その特質が三千年の伝統と永遠な未来への約束を持っているからである。

 

 まず形式的方面から考察する。畏くも我が国の君主の権利は如字的(文字通り)に大権である。その理由は第一に、我が国では君主が信任する重臣が大命を奉じて内閣を組織し、閣員は君主に対して輔弼の責に任じて国務の実際に当たるが、国務大臣の意志を採用するか否かは偏に上御一人の自由であるからである。第二に、枢密院は天皇の諮詢に応えるが、その決議し奉答したことの採否も、天皇一人の自由である。

032 以上のように国務大臣も枢密院も大権に制限や拘束を加えることは絶対にない。第三に、我が国には上下両院からなる議会があり、議会は法律案や予算案を議することはできるが、大権を左右することはできない。最後に宣戦と講和締結はいずれも大権に属し、少しでも議会その他の機関がくちばしを容れることを許さない。

 

 このように我が国では君主の大権を制限する権利はどこにもない。君主国体は我が国において文字通りに実現されている。これを穂積八束(やつか)博士は「大権の独立」と言われ、その大権を「大権は親裁独断の権利なり」と解釈している。文字通りの君主国体、理想的君主国体は、我が国の外にない。(絶対的な君主制が理想であるというが、価値観がずれているのではないか。それも論理の筋から脱線していきなり。)

 

033 かつて文部省が明治大帝の「教育に関する勅語」を漢英仏独の四か国語に邦訳しようとしたが、勅語の中の「此れ我が国体の精華にして」の訳で、適当な外国語が見つからなかった。英訳は “the glory of the fundamental character of Our Empire”に、独訳は “die edle(edel気高い) Blüte(花)unseres Staatsgebildes” gebilde構造物)とした。前者の直訳は「我らの帝国の根本的特質」という意味であるが、これは「我が国体の精華」という文字が我々日本国民の心情を打つ深い言外の意味を伝えるにはまだほど遠い。おそらく他のどんな文字を用いても完全に(英語を含めた)外国語で表現することは不可能ではないか。「国体」の二字に関する我々の観念を他国の言葉で表現することは不可能であることそのことが深い意味を持っている。

 

感想 自らの意志を他者に疎通できないとして悦に入っている。それこそ自愛的自己中の根源ではないか。ぴったりした対応する表現がない場合は、注釈をつけることによって意味を伝えられるはずだ。またドイツ語では「国体」を直訳しているのに、英語ではなぜ直訳しないのか。そもそも「国体」という語が国際標準の語彙ではないのではないか。

 

034 国体の実質的・内容的側面 以上述べた国体の意義の形式的側面は、抽象的・理論的・概念的である。理論や概念に国境はないから、翻訳できないはずがない。しかしその翻訳が外国人に言葉の不十分さや意味の不明確さを感じさせる理由は、日本の主権が国務大臣・枢密院・議会などによって制約されない大権である(形式的側面)からだけではない。それは我が国の建国の特殊の事情、三千年来の久しき歴史を通じてこの大権の下に、この大権を戴いて、我が国民が営み来たった国家生活の実際が、我々の心の奥深くに刻み込まれた国民的信念や国家的感情のためである。(結局これはよそ者には分かるまい、よそ者は受け入れないという発想ではないか。)「我が国体の精華」という言葉を拝して(聞いたとき)、我々の胸に一切の言説を絶して迫って来る実感のためである。

 

 国体を実質的に規定する二条件のうち、まず建国の事情あるいは国家形成の経緯について、次に、第二章以下で国体観念の点で著しい人物を中心にして我が国体観念の発達の歴史を述べる。

 

 

七 国家形成の形式 批判を排除する独善的でアプリオリな国家神道の信仰

 

037 国家形成の形式には二種あり、一つは自然的経過をたどるものであり、もう一つは、人為的に形成されるものである。(アメリカ合衆国を想定しているのかもしれない。)

 

 二人以上の多数の人が相互に何らかの関係で結ばれたものを社会というなら、その社会には次の形態がある。①父母を同じにする血族の集合である家族、②会社・銀行・学校・教会・組合など各成員が一定の目的意識をもって組み立てる狭い意味での社会、③治者・被治者の関係にある個人が形作る社会である国家、④人類一般を包含する社会つまり世界と、以上四つを区別できる。

 

 家族はまず第一に発生する社会である。家族が膨張発展して氏族となる。源氏、平氏、藤原氏、橘氏などである。家族は同一の家に住んでいるが、氏族は必ずしも同じ屋根の下に生活するとは限らない。氏族は祖先を同じくする人々が造る団体である。氏族が漸次膨張して部族となる。部族は遠祖を同じくする者が形成する団体である。氏族ではその共通の祖先が誰々と明らかに分かっているが、部族では普通はっきりと分かっていない。学者がそれを突き止める場合もあるが、それでも多くは口碑や伝説によっておそらく誰々だろうと遠祖を推定するに過ぎない。

038 部族がさらに膨張発展して、国家となる。こうして家族から氏族、氏族から部族、部族から国家が生まれる。私はこの経過を国家の自然的形成という。この場合国家の君主は、家族の家長、氏族・部族の族長に相当し、(君主でなくて大統領でもいいのでは。)その主権は父権の(母権でもいいのでは。)延長に他ならない。

 

039 したがって自然的形成の形式を経た国家は、人為的形成の形式を経た国家に比べて「当然」その基礎が鞏固である。(一見もっともらしいが、その理由を明らかにすべきである。必ずしもそう(より鞏固)とも言えないのではないか。)我々はその最も理想的な例を我が国に見出す我が国の皇室は国民の大宗家であり、国民は陛下の赤子であります。(その理由は示されない。)君民は父子とともに一体なのであります。(唐突な断定)

 

畏くも明治15198214日に明治天皇が軍人に賜った勅諭(軍人勅諭)の中に、

 

「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。されば朕は汝等を股肱(ここう、ももとひじ、手足)と頼み、汝等は朕を頭首と仰ぎてぞ、その親(親しい間柄)は特に深かるべき」

 

と宣わせられております。これは単に軍人だけでなく、一般国民が謹んで心肝に銘ずべきことである。いつでも身命を御一人に捧げ奉る我国特有の美風は、(なぜ美しいのか。)我々を「股肱と頼み」給う大御心と、国民が陛下の股肱である国家的事実とに基づく。(なぜそれが事実なのか。)

 

040 このように組織された我が国は建国以来三千年、数度の試練を経ているが、上下一致の努力によって君民一体という国体の統一性を寸毫も損なわれずに今日に至った。この点で我々は島国の国民であることを少しも悔いることはない。(なぜ突然島国卑下が出てくるのか)なぜなら却ってそのために我々は些かの瑕(きず)も歪みもなく玉のように美しい国体の国家を盛り立てて来たからである。有史以来我が国を襲った大きな危機が、物的にも心的にも二回あった。物的危機とは武力によって外国がわが国家的存在を脅かした場合であり、その一は蒙古軍の来寇であり、他は露国艦隊の来寇であるが、両回とも君民一致の努力によってこれを撃退し、島帝国の国的独立に一指をも染めさせなかった。

 

感想 元寇と日露戦争とを同種の国難とみなすのはおかしいのではないか。著者がそれを同一視する狙いは、民衆に向かって日本民族主義を扇動し、その共感を得ることではないか。元寇の場合は「朝貢せよ、俺の僕になれ」と言われてそれを拒否するという防衛的性格であったが、日露戦争の場合は植民地争奪戦争、対外進出の帝国主義者的行動であり、両者は全く性格が違う。

 

また南北朝など内紛による危機には触れないのか。

 

041 心的危機とは「我が国の思想的独立」に対する脅威である。これも有史以来二回重大なものがあった。その一つは皇紀(紀元前660年を皇紀元年とする)1212538年欽明天皇13年(543年?)(仏教伝来は日本書紀では552年)の仏教渡来である。仏教渡来によって我が上下は精神的に激しい衝動を受けたものと思われる。有史以前にすでにあり、時代と共に培ってきた我が国民の国家的観念、国民的感情は、よくこの「波瀾」に耐え、外国文化に押し倒されることなく、これを「克服」し、我が文化の血肉となすことができた。これを「同化力」という。我が国民ほど同化力が強い国民は他に少ない。(自己陶酔)

 

感想 仏教の伝来を「同化した」とするのはおかしいのではないか。同化したのではなく、受け入れたのではないか。(再考)著者は真宗(王法と仁義)と日蓮宗(国家主義)は、国体を認める日本的仏教であると後に触れている。279

 

042 このことは帰化民にも見られる。「姓氏録」では我が国の人民を神別、皇別、蕃別に三分し、神別は天神地祇の後裔を、皇別は天皇皇子の後裔を、蕃別は支那朝鮮の帰化民とその子孫を指す。我が国の民族の根幹は神別と皇別であるが、今日でもこの区別を守ろうとする人はないだろう。我が国民に具わっている強い同化力がこの方面にも現れ、神、皇、蕃の区別は夙に消え去り、渾然一体と日本国民となった。

 

*「新撰姓氏録」は平安時代初期の815年に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑。

 

 次の我々の思想的独立上の危機は、明治維新から今日までに及んでいる西洋思想との接触によって起こった。これには第一の危機以上の複雑な事情がある。

043 今日の思想困難(自由主義や無政府主義、マルクス主義か)でも、我が国民が伝統によって強化され歴史によって引き締められた国体観念を振りかざしてこの怒涛を乗り越えるだろうと信じたい。しかし事態はすこぶる重大で、これに善処するにはよほどの覚悟と「戒心」が必要である。ここでも我が国体観念発達の歴史を顧みることが意義あることである。

 

感想 筆者は明治維新後の西洋文明について、それを「思想国難」ととらえ、それを日本の伝統や国体観念で押し退けようとするようだが、結局第二次大戦後それを取り入れた。そもそも、仏教や西洋思想は国難なのだろうか。

 

著者は日本人の優秀な「同化」力について、「外来文化に押し倒されることなく、却ってこれを克服して、我が文化の血肉となす」と勇ましく言っているが、それはいったい何を意味するのか。無意味な言葉の羅列に過ぎず、ただ民衆を日本主義(国体)擁護のために扇動しているだけではないのか。(再考)天皇中心主義を認める国家主義的仏教(真宗と日蓮宗278)の存在を示唆しているのかもしれない。

 

 国家形成の第二の形式つまり人為的形式は四種に区別される。その一は強者による征服即ち武力によって強い国民が弱い国民を征服し、その国を奪取併呑する場合である。その二は州と州との任意合同である。その三は植民地あるいは領土が母国から独立し新たに一国を建てる場合である。その四は州と州との連合である。

 

044 第一の例は中華民国以前の支那に見られる。支那では建国以来朝廷が二十朝以上も代わったが、皆強者が弱者を征服してできたものである。第二の例はアメリカ合衆国である。第三の例はオランダやポルトガルがスペインから独立した場合である。第四はプロシャが中心となってドイツ連邦を組織した戦前のドイツである。

 第二と第四の区別 第二の場合は各州が平等の権利を持っている。つまり各州の間に権利上の差がない。

045 これに反して第四の場合は、指導的な州とその他の州との間に権利上の差があり、全国の主権はこの指導州の主権者が握っている。ドイツ連邦でその地位にあったのがプロシャである。

 

 人為的に形成された国家の特色は人民の力が強いことである。政治、法律、その他すべての国家の活動が人民を中心として営まれる。民主的国家でこの傾向が強い。英仏米を想起されたい。憲法もこの種の国では人民の側が要求して成立している。英仏の憲法は人民のこの要求がなかなか受け入れられず、遂に血を出すことになった。

 

感想 「人為的に形成された国家の特色は人民の力が強いということであり、憲法も人民が要求してでき、イギリスとフランスでは血をもってそれを獲得した」とあるが、アメリカも日本もそうではないか。これに続けて次に「これに反して我が国の憲法は欽定憲法であります」とあるが、自由民権運動でも血を流したのではなかったか。それにはなぜ触れないのか。

 

 これに反して我が国の憲法は欽定憲法であり、憲法発布に当たって、畏くも明治天皇は次の告文を公にされた。

046

 

「皇朕は謹み畏み

皇祖

皇宗の神霊に誥(つ)げ白(もう)さく、皇朕は天壌無窮の広謨(こうぼ、国家の大系)に循(したが)い、惟(ただ)神の宝祚(天子の位)を承継し、旧図を保持して、敢えて失墜することなし。顧みるに世局の進退に膺(あた)り、人文の発達に随い、宜しく

皇祖

皇宗の遺訓を明徴にし、典憲を成立し、条章を昭示し、内は以て子孫の率由(そつゆう、従って拠る)する所となし、外は以て臣民翼賛の道を広め、永遠に遵行せしめ、ますます国家の丕(ひ、大きい)基を鞏固にし、八洲民生の慶福を増進すべし。ここに皇室典範及び憲法を制定す。惟(おも)うにこれ皆

皇祖

皇宗の後裔に貽(のこ)したまえる統治の洪範を紹(しょう)述するに外ならず。

而して朕が躬(みずから)に逮(および)て、時と倶(とも)に挙行することを得るは、洵(まこと)に

皇祖

皇宗及び我が

皇考の威霊に倚(い)藉するに由らざるはなし。皇朕は仰て

皇祖

皇宗及び

皇考の神祐(ゆう、助け)を祷(いの)り、併せて朕が現在および将来に臣民に率先し、この憲章を履行して、愆(あやま)らざらんことを誓う。庶幾(こいねがわ)くは

神霊がこれを鑒(かんが)みたまえ。

 

まことに畏くも畏い極みであります。我が国体の万邦に卓立する所以はここにも強く現れている。

 

 

八 結語

 

048 これまでの国体研究は主として法律学者の中でも特に国法学者によって行われてきたのだが、それは主として形式的方面に重きを置き、内容実質034の側(国体観念形成の歴史)を軽視閑却しがちであった。それは一時我学界を賑はした天皇機関説の如き法律学者の一面的研究の結果である。国体観念の正しき把握というふことは、現在の我が国情に於きまして格別に重要な根本問題であります。最近国史学、倫理学、社会学、教育学等の側からも国体の研究を遂げるやうになったが、それは国体研究上の一大進歩と言はねばならない。それ(諸学における国体研究の開始)が、国体の実質的内容が形式的内容よりもはるかに重要であることが意識された証拠であるからである。

 

049 現在我が国が面している思想的危機に際して、我々の態度を決める最後の根底は、我が国体観念のしっかりした把握ということ以外にない。そのためには国体の実質的内容に関して深い研究を進める必要がある。

 

感想 国体論研究を形式的国体論の研究と実質的国体論の研究とに分類し、実質的国体論の二分野として建国の事情あるいは国家形成の経緯と、国体観念の発達の歴史的過程とを挙げ034、実質的国体論の方が形式的国体論より優れているとし、その理由として思想的危機の打開を示唆するのだが、なぜそうなのかの理由を明らかにしない。したがって形式的国体論を研究する美濃部達吉がなぜ批判されなければならないのかも示さない。形式的国体論の研究はしてはいけないということか。おかしい。

 

 

第二章 八百万神 

 

一 天石窟の変 

 

050 我が国における国体観念の発達を人物中心に取り扱うという本書の趣旨から八百万(やおよろず)神を選んだ。

 

 神代即ち史前時代に、天石窟の変が起こった。伊弉諾尊と伊弉冉尊との間に天照大神、月夜見尊、素戔嗚尊の三人の子供がいた。伊弉諾尊の意志でその三人に領土が定められた。天照大神は高天原に、月夜見尊は夜食国に、素戔嗚尊は海原に封土を賜った。それら三か所が現在のどこかについては定説がない。ある人は高天原は天であり、夜食国は夜であり、海原は海であるとする。しかしこれでは解釈自体が神話的領域を出ていない。また一説に海原は韓国であり、本土に近いどこかの島であるという人もいる。

 

051 天照大神は高天原を支配することになったが、弟の素戔嗚尊がこの高天原の主権者としての地位を窺窬(きゆ、ひそかに身分不相応のことを願い望む)した。窺窬という文字は日本書紀による。素戔嗚尊は高天原に昇って行き、乱暴な態度で大神に向かった。大神は立腹し、男装して武器を身に着け、弟を詰問した。ところが素戔嗚尊は「自分は汚い心を持たない」と答えた。それに対して天照大神が「汝の心が清いことの証拠を示せ」と言ったところ、素戔嗚尊は一つの誓いを立てた。「私が産む子供が男子なら私の心が清いと思って欲しい。それに反して女子なら私の心が汚いと思ってもいい。」(男尊女卑の思想)ところが素戔嗚尊の子供は皆五柱とも男の子だった。

 

053 それ以降素戔嗚尊は一層乱暴になった。彼は生馬の皮を剝いで、機を織る天照大神に投げつけた。天照大神は天石窟に引き込んだ。天地は常闇となり、数多の悪神が競い起こった。

 

 八百万神はこのことを憂え、集まって善後策を協議した。普通の情なら天地が暗黒になり、万妖が悉く起こったのだから意気阻喪する所だが、八百万神は取り乱さず、泰然として善後策を協議した。

 

054 この評定があった場所を天安河原という。そこで思兼神という思慮の神が司会者となり、おのおのの部署を定めたようだ。女神の天鈿(デン、かんざし)女命は大胆奔放・機略縦横であり、石窟の前に桶を伏せ、その上に立って舞踊をした。そのとき天鈿女命は胸を露わに、身振りおかしい姿態をされ、それが滑稽で、これを見た八百万神は手を打って大いに笑い、その笑い声が高天原を揺り動かすほどだった。これを非凡な文筆の才を持った古事記の著者は「かれ高天原ゆすりて八百万神共に咲(わら)いき」と書いている。我々はここに日本国民の物に動ぜぬ楽観的な国民性の一面を覗うことができると思う

 

感想 困難な状況であっても陽気に振る舞ったことが幸いして天岩戸を開けることができた八百万神に日本の民衆を譬えておだて上げる。

 

055 天照大神は自分が天石窟に入って天地が常闇になったはずなのに、高天原をも揺り動かすあの朗らかな歓声はなぜなのかと思って戸を細目に開いてみた。戸の外に佇んで機を窺っていた大力の手力雄神が急いで戸の隙間に手を入れて引き明け、大神の手を取って出したので、天地は再び元の清明に復した。

 

 こうした大変は素戔嗚尊が原因だったから、八百万の神々は素戔嗚尊に対して刑罰を課した。その一は千座置戸刑である。千座置戸という刑がどんな刑であったかについて諸説ある。

056 千座の千は多数を意味し、置戸は武器を収めておく庫の意味である。従って千座置戸刑は多数の武器兵具を貯えて置く庫の徴発であるとする説が正しいだろう。これは神代における重刑の一つである。次に素戔嗚尊の鬚(ひげ)を切り、手足の爪を抜いた。これは当時の体刑である。さらに八百万神は高天原の平和を永遠に確保するために素戔嗚尊を根の国に追放した。その時大雨が降っていて、尊は草で編んで蓑笠を造り出かけようとしたが、あまりに雨がひどいので、雨が止むまで出発を猶予してほしいと乞うた。しかし八百万神は罪人に宿を貸すことはできないとして、素戔嗚尊はやむを得ず出かけた。

 

 

二 その国体論的考察

 

057 神話は一国民の文化にとってどんな意味があるのか。神話と歴史あるいは哲学との関係はどうかという問題は興味深いが今は触れない。ただ一つ、神話は自覚ある歴史、自覚ある哲学、自覚ある文学、自覚ある宗教を持つ以前の民族の生きた全文化的生活の記録である。即ち記紀に現れた我が国の神話は、有史以前に我々の遠祖が営んだ宗教生活、文学生活、哲学生活、歴史生活の一切を示すものと言える。そこで神話に対する色々な見方がある。

 

058 前述の天石窟の神話を「天然神話」と解釈する人は、天照大神と素戔嗚尊との争いを、太陽と嵐との争い、あるいは光明と闇黒との衝突を象徴したものとする。あるいは日食が起こり、人民が神に祈祷したと解する人もいる。これは神話によって民族の宗教生活を窺い、あるいは神話を、自然現象を説明する方法と見て、これによって民族の空想的・文学的感情または学問的思想を知ろうとする。

 

 これはもちろん道理ある一つの解釈であるが、ただそれだけではないと私は思う。私はむしろこれを「人事神話」として歴史的に解釈してみたい。神代に所謂「カミ」というのは、人と解釈してもいい場合がある。天石窟の神話を人事神話としてみると、天位を窺窬する者があり、それに対して当時の国民が一致して立ち上がり、これを防止したという風に解釈できる。

 

059 私は日本書紀の「窺窬」という文字を活かして考えたい。そもそも高天原の主権者たる地位は、伊弉諾神の意志で天照大神と確定していた。これに対して素戔嗚尊が窺窬の挙に出たことは、順逆の道を誤り、大義を蹂躙した行為である。ここに八百万神即ち当時の国民は敢然と立ち上って天位を擁護した。これは彼ら国民の間にすでに確固とした国体観念があったことを示すとみていよい。(考えすぎ、飛躍ではないか)我が国体の研究者は神代におけるこの事実に深く心を惹かれる。

 

 僧道鏡の悖逆(はいぎゃく)に対して身を捨てて起こった和気清麿の精神、足利氏の悪意志を挫くために努力奮闘した楠、新田、北畠の諸氏の精神は、このようなものであった。そしてそれは神代において、即ち今日の我々が推測しえる我が国最古の時代において、厳として存在していた。八百万神は史前時代の楠氏であり、新田氏であり、北畠氏であった。当時はもちろん国体という文字はないが、この文字が意味するものはあった。天位の尊厳を護るために、万民が挙って蹶起しなければならないという国体観念は厳として存在した。(すでに断定調)国体擁護は日本国民の臣道――臣民としての大なる道徳である。国体観念は我が国民道徳の根幹である。そしてそれは有史以前の神代に確立されていたのであります。

 

感想 記紀の「人事神話」的解釈から、いきなり国体観念の、有史以前を含めた歴史的実在性やその国民道徳的重要性へと飛躍する。ついていけない。

 

 

第三章 天照大神

 

一 葦原中国の主権確立

 

061 天孫(天照大神の孫)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が葦原中国(あしはらのなかつくに)を支配する以前に、出雲の国を中心に(葦原)中国の主権者たるの観があったのは大国主命である。以下記紀の作者の物語る我国の開闢時代の様子を述べる。

 

062 伊弉冉尊と伊弉冉尊の時、高天原は猶稚く、浮脂のように漂っていた。二神(尊)は天浮橋の上に立ち、その浮脂のようなものの中に天瓊矛(あめのぬぼこ)を入れて搔き探り、それを引き上げたところ、矛先から滴り落ちた潮が凝結して一つの島を生じた。これを磤馭廬島(おのころじま、伊弉諾・伊弉冉の二神が天降ったという島、日本)という。磤馭廬島が今日のどこかは明確に分からない。二神はここに降り、八尋殿(やひろどの)をつくり、そこに住み、ここでいくつかの島を生んだ。その島々は淡路、伊予、隠岐、筑紫、壹岐、対馬、佐渡、大倭豊秋津洲(おおやまととよあきづしま、本洲)の八島である。この故に「我が国を」大八洲国ともいう。葦原中国というのも、こうして生まれた我が国のことである。二神はこの他にも多くの小さい島々を生み、次いで、山、川、海、草、木を生んだ。ここにおいて二神は評議して、

 

「吾已に大八洲国及び山川草木を生んだ。何ぞ天下の主者を生まざるか」(日本書紀)

 

063 と言い、天照大神、月夜見尊050、素戔嗚尊の三神を生んだ。天照大神は、大八洲を治しめす君主をその子の正哉吾勝勝速日天穂耳尊(天忍穂耳尊あめのおしほみみみこと)に定める詔を(諾冊の二神から)賜った。天忍穂耳尊はこの国に下ろうとしたのだが、当時葦原中国は大国主神の支配下にあってその勢力が侮りがたく、また一般の情勢は未だ草昧に属していて、蛍のように輝く妖魔や五月蠅(ウルサイ)のように囂(かまびす)しい邪神がいて、草木がざわざわとし、鼎が沸くようであったので、高天原でこの様子を見ていた天忍穂耳尊は降臨を躊躇した。

 

064 しかし高天原の君主である天照大神は、同時に「天下の主」として諾冊二尊の間に生まれた神である。大国主神が(葦原)中国で支配権を揮うことは諾尊の意志に反し、順逆の大道に悖る。たとえ妖魔邪神が荒ぶる境であろうとも、撥乱(はつらん、乱れた世の中を治めること)の師(シ、かしら)を差遣すべきであると高天原の評議は一決した。そこで第一に天穂日命(あめのほひのみこと*)、第二に天稚彦(あめわかひこ*)を遣わしたが、不成功に終わった。そこで第三の使いとして武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬし)の二神(軍神)を選んだ。前者は鹿島神社、後者は香取神社の祭神である。二神は出雲国伊那佐の浜に下り、十握の剣を地に突き立て、その鋒端に坐して次の詔勅を伝えた。

 

*天穂日命 天照大神と素戔嗚尊が子供を生む競争をした時に玉から生じた男神のなかの一神。天孫の父である天忍穂耳尊と兄弟になる。記紀では交渉の使いとして大国主命のもとへ派遣されたが、そのまま大国主命の側についてしまったとするが、『出雲国造神賀詞』では大国主命に国を譲らせたとする。

 

*天稚彦 天国玉神(あまつくにたまのかみ)の子。

 

065 「汝の宇志被祁流(ウシハケル)葦原中国は、我(天照大神)が御子の知らさむ国言依賜う」(古事記)

 

ここで「ウシハク」と「シラス」とが区別されていることに注意されたい。ある学者は日本の上代には野蛮時代と名づけるべき時代はなかったと言っているが、言語学の上からみてそうであったろうと考えられる。言語は思想表現の方法であり、言語のあるところには必ずその言語に盛られた思想がある。我が史前時代においてすでに「ウシハク」と「シラス」の二つの言葉が使い分けられていたことから考えると、我々の当時の祖先は相当の文化を持っていたと考えられる。「ウシハク」と「シラス」との間には、概念上大きな差別がある。

066 「ウシハク」の「ウシ」は大人あるいは主人の意味で、「ハク」は「身に着け持つ」という意味である。「ウシハク」は「主人となって土地を領有し、支配する」「力によって一定の土地を領有する」ことをいう。古事記では「奄有」という文字をこれに当てている。これに反して「シラス」は「シロシメス」と同様に「知る」の敬語である。「ウシハク」が武力によって主権を行使するのに反して、「シラス」は民情を仔細に認識し、その上で仁徳をもってこれを支配することを言う。

 

 次に述べる天壌無窮の詔勅にも「就而治焉」*とある。ある学者はこの二語(「ウシハク」と「シラス」)の間に区別が認められないというが、私は以上のように解釈したい。本居宣長は明らかにこうした意味のことは言っていないが、両語の間に何らかの区別があることだけは認めているようである。(意味不明)

 

*就いて治らせ。(就而治焉)069

 

067 かつて文部大臣であった井上毅氏も以上の差別を主張していて「シラス」は正統の天皇が天下に君臨することであり、「ウシハク」は土豪が土地人民を私有することであると言っている。(井上毅『梧陰存稿』上巻)

 

 さてこの詔勅を拝した大国主命はその子事代主神と諮り、天神(天照大神)に国土を奉るべきだと答え、これを天逆手という宣誓によって固め、さらに天下平定の時に用いた広矛を献上した。大国主命はこの矛で天下を平定していた。これを献上したことは中国の統治権を完全に譲ったことになる。天祖(天照大神)の言葉を謹み拝した大国主命は、その中に含まれた順逆の道理を理解し、正しい国体観念に目覚めたと言える。ここに葦原中国の主権は正しく確立された。

 

 

*高天原はどこにあったか。信仰を重視する本居宣長や、戦前の皇国史観の人たちの多くは、神が住むところだから地上では不遜であるとし、天上や宇宙にあったとするが、神話を実在したものの反映と考え、地上説も盛んであった。(新井白石の常陸国説や、九州邪馬台国説など)また神話は作られたものであるから、どこにあったかを考えること自体が意味のないことだとする人もいる。(山片蟠桃や津田左右吉)Wiki

 

 

二 天壌無窮の神勅

 

068 葦原の中国の主権は大国主神の国譲りの断行によって天神(天照大神)の手に収められたので、新たに中国の統治者が君臨することになった。天照大神はその子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に降臨の詔を賜ったのだが、その後、天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)という天孫が誕生したので、天忍穂耳尊は瓊瓊杵尊の降臨を望んだ。(なぜか)そこで天照大神は三種の神器を天孫に伝え、そのとき神勅を賜った。

 

069 「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるべきの地なり。宜しく爾(なんじ)皇孫就いて治らせ。(就而治焉)行く矣(かな)。宝祚の隆んなる、当に天壌と与(とも)に窮り無かる(天壌無窮)べし。」(日本書紀)

 

この神勅には三点ポイントがある。第一は「是れ吾が子孫が王たる可きの地也」という言葉に現れている統治者の確立である。この言葉によって万世に一系たるべき我が君主の地位が定められた。他姓他系の者は断じて君主の地位に上ることができない。この地位は天祖の血統に属す者に限る。ここに我が国体の根本は確乎として据えられた。日本国の中心、日本国の礎、日本国体の神髄はこの言葉によって万世に渡って確立された。(排他的)

 

 主権授受の方法は二つある。一は徳力主義で、他は血統主義である。前者は支那の君位継承法であり、それは徳によるものと力によるものとに分かれる。徳の方は支那では禅譲と言い、力の方は放伐と言う。禅譲とは君主が己の意志によって有徳者に位を譲ることである。放伐は腕力で君主を放逐あるいは討伐して己がそれに取って代わることである。堯が他人の舜に位を譲ったのは前者であり、殷の湯王が夏の桀王を討ち、周の武王が殷の紂王(ちゅうおう)を伐ってこれに代わったのは後者の例である。

070 これに反して我が国の君位継承法は血統主義である。我が国の君位は必ず皇統に属する者が継承すべきであるということは、(天照大神の)神勅の言葉によって定まり、爾来数千年の久しきに亘り毫も渝(変)らず今日に至っている。

 後の章で扱うが、和気清麿が道鏡の悖逆(はいぎゃく、道理・法などに逆らう)な欲望を挫いたとき、

 

「我が国家は開闢以来君臣定まれり。臣を以て君となすことは未だこれあらざるなり。天の日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし。」(続日本書記)

 

と奏し身命を抛(ほう)って万乗(天子)の皇位を護ったのも、(天照大神の)神勅の精神を奉体して誤らなかった例である。

 明治大帝が憲法第一条で「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」とし、第二条「皇位は皇室典範の定むるところにより皇男子孫これを継承す」と定め、皇室典範第一条「大日本国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子これを継承す」と定めたのは、いずれも(天照大神の)神勅の趣旨を法制の上に闡明し、以て皇位を確保した例である。

 

072 イギリスや革命前のロシアのように比較的古い君主国では血統はある程度尊ばれているが、それは我が国のように明確な国家的意志に基づくものではないし、数千年の久しい歴史を通じて変わらないほど鞏固なものでもない。長くて千年前後である。血統主義の君主国であって建国以来今日まで綿々として皇統が一貫しているのは独り我が日本帝国だけであります。

 

感想 万世一系、男系男子、皇統の長さなどの点で日本が唯一だと誇らしげに言うが、多様性や差別などに考えは及ばないのだろうか。それには理屈がなく、信仰でしかない。

 

072 それではなぜ血統主義による君位継承法が我が国でだけ「絶対的」であるかの答は、(天照大神の)神勅の二点目によって解決される。(狂信的な時代錯誤)天祖(天照大神)は皇位継承の基準を定めた後に、代々の君主に治国の大綱を示した。「治焉」066という言葉である。「シラス」の意味については前述したが、我が君主たるものは人民に臨む際に仁慈の大道によって審らかに民情を認識し、人民のための政治、人民の安寧幸福を招来するための政治を施せという。(ありがたいことだ)

 

073 大殿祭の祝詞の中に、天祖(天照大神)が皇孫に与えた言葉として、

 

「天津日嗣を万千秋の長秋に、大八洲豊葦原の瑞穂の国を、安国と平けくしろしめせと言寄さし奉り給いて…」

 

とある。甚だ恐れ多い言葉を用いるようであるが、我が君主の道即ち君道は仁慈を大本とすべきであるということは、神勅のこの御言葉に於て明示されている。この理由で我が国では主権は皇位に存在し、皇位は皇統に存在する。(危なっかしい神話の援用)すなわち、神勅のこの言葉をこう解釈すると、血統主義は必然的に徳治主義と関係してくる。即ち血統主義の下に皇位につく君主が徳治主義を以て人民に臨むところに、我が皇統がよく万世を通じて一系であり得た理由がある。「皇位は血統によって定めよ、そして君主たるものの道はあくまでも「シラス」であって「ウシハク」であってはならぬぞ」と宣せられた天祖の大御心は、今日拝するだに畏き極みであります。天祖は我が国統治の大本を示したばかりでなく進んでこれを実行した。

 

074 天熊大人が保食神の屍から生じた稲、稗(ひえ)、麥(むぎ)、粟(あわ)、豆などを(天照大神に)奉ったとき、天祖(天照大神)は大変喜び「是の物は則ち顕見して蒼生(民衆)の食ひて活くべきもの、これなり」(日本書紀)と言って農蚕の道を講じたとのことである。我が国民を「蒼生」あるいは「青人草」と呼んで、雨露が草木に注ぐように(民衆に)仁慈を垂れるのは、天祖(天照大神)以来変わらない我が国の君主の大道である。

075 殉死の風を禁止した垂仁天皇、炊烟(すいえん)の濃淡に心を用いた仁徳天皇、農耕養蚕を奨励した雄略天皇、寒夜に自らの服を脱いで民の寒さを思った一条天皇、元寇の時に身をもって国難に代わろうと祈った亀山天皇――我ら国民の心は、これらの仁君名主の仁政を拝しまつるだに、胸を圧する感激に戦くのであります。(ありがたいことです)

 

 (天照大神の)神勅の第三点は、「宝祚の隆は当に天壌と与に窮りなきものなり」「宝祚之隆当與天壌無窮者矣」という言葉である。即ち皇統に属するものが代々皇位を継承し仁徳を統治の大本とすれば、宝祚の無窮は天地と共に極まりないという一大予言である。

 

 予言はキリスト教にもあるが、キリスト教の予言と神勅の予言とは違うところがある。メシア即ち救世主が現れるだろうというユダヤの予言は、キリストの出現によって実現されたとともに、反面から言えば、予言としては完了したことになる。ところが我が天祖の予言は完了する時がない。(意味不明。天皇が引き続き無限に現れるということか。)ここに帝国の無限に発展する理由がある。

 

076 以上私は(天照大神の)神勅を国家倫理的に解明した。我々が思いを潜めることが深ければ深いほど、考えを致すことが遠ければ遠いほど、感激と畏敬の念をもって胸を満たすものは、我が国体の尊厳ということである。我が国体が尊厳である理由は、ただその形式的意味においてそうであるばかりでなく、また実に深く遠い歴史的淵源を持っているからである。憲法第一条に「万世一系の天皇」とあり、また「教育に関する勅語」の中に「天壌無窮の皇運」とあるのは、単に文字上の形容ではなく、内容実質の深く篭ったお言葉なのであります。

 

感想 長薩の尊王攘夷の情念は幕末から昭和までずうっと生き続けていた。国体とは尊王攘夷である。

 

 

第四章 聖徳太子

 

一 聖徳太子略伝

 

078 天壌無窮(宝祚の無窮は天地と共に極まりない)の(天照大神の)神勅は、我が建国の太初において、我が国体の本質を極めて明確に規定したが、有史以後日本の国体を初めて明瞭な文字で言い表したものは、聖徳太子の十七憲法の中の第三と第十二である。

 

 聖徳太子は用明天皇の第二の皇子であり、母は欽明天皇の女穴穂部間人皇后(兄妹婚or弟姉婚)である。厩戸皇子が本名で、聖徳の名は「元享釈書」に「睿明仁恕。故曰聖徳」と、その人となりを叙している。

 

079 太子は聡明で、日本書紀には生まれながらにして話したとある。また一時に十人の訴を聞き、誤りがなく、八人が事を奏して一時によくこれを聞いたという。そのために太子のことを豊聡耳皇子ともいう。

崇峻天皇が亡くなった後、皇位が長い間空席となったので、群臣は炊屋姫皇后の践祚を請うた。皇后は欽明天皇の皇女で、敏達天皇の皇后であった(兄妹婚)が、(崇峻)天皇の崩御後「重きを朝廷になし給うた。」炊屋姫皇后は群臣の上表勧進に再三固辞したが、遂に皇位に上った。これを推古天皇といい、我が国最初の女帝である。

 

080 推古天皇は即位の初めにあたり、聖徳太子を皇太子とし、万般の政務を託した。太子はもとから深く仏教に帰依し、先ず難波に四天王寺を建立し、その後法隆寺、元興寺、中宮寺、橘寺、蜂崗寺、池後寺、葛城寺、日向寺などをつくり、太子の死後三年には、寺46所、僧816人、尼569人に達した。太子の仏教尊信は寺院の建立だけでなく、自ら教理に精通し、法華経の論議は僧慧慈を驚嘆させたという。太子の手になる勝鬘(マン、かずら)経、維摩経、法華経の疏(注釈)は、現在でも仏教研究上の文献となっている。

 太子は内治でも支那文化の長所を採り入れ、冠位、礼法、憲法の制定、暦の頒与などを行った。

 

081 このように太子は仏教の敬虔な信者であり、熱心な弘通(グツウ、仏教を広く世に広める)者であるとともに優れた手腕の政治家であったのだが、(その政治家としての気魄の点で)特に我々が痛快に感じることは、当時支那が南北統一の業を成就して方(まさ)に海東(日本)になそうとした隋の煬帝との外交に於て太子が示した盛んな独自的意気である。太子は広く彼の国の文物を採り入れて我が養いとしたいとの心から使節、留学生、学問僧を差し遣えたのだが、第一回に推古天皇の15年(?推古15年なら617年になる)607年、鞍作福利を通事(通訳)とし、小野妹子を遣隋使として遣わした。その時の国書の起こしは次の通りである。

 

「日出処の天子書を日没処の天子に致す。恙(つつが)無きや。」(隋書)

 

082 実に日東皇子の盛んなる御気魄が偲ばれる。これは太子の日本主義というか、自主的外交と言うか、堂々たる国家的自尊心の現われと思われる。今日の我が外交当局者はよろしく太子の御気魄に倣うべきであります。当時の隋の煬帝は世界最大の君主として得意の絶頂にあったときである。煬帝はこの国書を見て喜ばなかったという。隋は大業13年にして覆って唐となり、唐は斐世清など12人を小野妹子と共に答礼使として来朝させた。太子は新館を難波に造ってこれを歓待した。斐世清が帰る時、また妹子を大使に、吉士雄成を副使として遣わしたが、この時の国書にも次の文字が見える。

 

「東天皇敬(つつし)んで西皇帝に白(もう)す。」(日本書紀)

 

083 前と同じ堂々たる態度である。聖徳太子は内に向かっては深い信念で仏教を広め、また優れた経綸の才能を以て政治を見て、外に向かっては凛呼たる独自的観念を振り翳(かざ)して断乎として外交に当たった。

 

 

二 十七憲法の国体論的意義

 

 十七憲法は我が国体観念を有史後初めて明らかな文字で表したものである。この憲法は推古天皇12年(?推古天皇12年なら614年になる)604年に、太子が制定した。憲法というが今日の憲法とは大分趣が異なる。今日の憲法は天皇と臣民の権利・義務を法的に規定したものであるが、太子の憲法は天皇と宗教と道徳に関した法則あるいは太子の仏教的・儒教的思想に基づいて定められた道徳的・政治的基準である。次に各条の要旨を述べる。

 

一 上下和睦、必ず相忤(さから)うまじきこと。

二 仏教の教義は古今東西に通じる普遍的真理であるから、仏法僧の三宝を敬すべきこと。

三 君臣の分を明らかにすべきこと

四 治国の基はに存するから、上の群臣百僚から下の人民に至るまでこれを重んずべきこと。

五 訴訟では利益を捨てて公正を本とすべきこと。

六 悪を見たら直ちにこれを匡(ただ)し、諂(テン、へつらう)詐侫(ネイ、おもねる)媚の者を遠ざけるべきこと。

七 官の任免は宜しきを得べきこと。

八 群臣百僚は政務に精通し、早く朝(出勤)し、晏(おそ)く退くべきこと。

九 君臣共に信義を重んずべきこと。

十 忿(いかり)を絶ち、瞋(いかり)を棄てるべきこと。

十一 賞罰を明らかにすべきこと。

十二 国司・国造は苛斂(かれん、厳しく租税を取り立てる)なるべからざること

十三 官に任ぜられた者は職責の何たるかを自覚すべきこと。

十四 群臣百姓相嫉(ねた)むべからざること。

十五 公のためには私を捨てるべきこと。

十六 民を使うには時を以てすべきこと。(無制限に使役するなということか)

十七 大事を決するには衆議によるべきこと。

 

086 私が特に国体研究の立場から言いたい条文は、第三と第十二である。第三条に以下のようにある。

 

「君をば則ちこれを天とし、臣をば則ちこれを地とす。天が覆(おお)い、地が載せるなら、四時順り行き、万気通(みち)を得る。(それに対して)地が天を覆さんと欲すれば、則ち壊を致さむのみ。」

 

これは日本の国体を正しく言い表したものと言える。また君臣の分を明瞭に言い表したものと言ってもよい。君臣を天地に象(かたど)り、君は天、臣は地とし、地が天に覆われれば、万の気が通ずるが、地が天を覆おうとすれば、破滅せねばならない。これは国体の叙述である。君臣の大義名分の犯すべからざるものである。

087 素戔嗚尊が天位を望んだことは、地が天を覆おうと企てたのである。これに対して八百万の神、即ち当時の人民が百方手段を尽くして天位を擁護したことは、天が地を覆うという宇宙の理法を保ち、万気を通じさせようと努力したことを意味する。当時国体という文字はなかったが、国体観念はこのように存在していた。

 

 第十二条では、

 

「国司国造は百姓に斂(おさめと)ることなかれ。国に二君靡(な)く、民に両主なし。率土(天子の治下全体)の兆民は王を以て主となし、任する所の官司も皆これ王臣である。何ぞ敢えて公と共に百姓に賦斂せむ」

 

この言葉も君民の大義を明瞭に表現していて、有史以後における国体観念の最初の表現である。

088 「国司国造。勿斂百姓」という言葉に注意されたい。抑々(そもそも)聖徳太子が摂政であったころは、すべての点で大化改新への過渡期あるいは準備期であったのだが、特に十七憲法は、この気運を醸成する上で大きな力を働かせた。当時の族制政治には様々な弊害があり、ややもすれば皇室の意志が族長の跋扈によって抑えられる傾向があった。蘇我氏・物部氏や多くの巨族がいて、ともすれば皇室の御光を覆う傾向があった。これに対して太子は「民に両主なく、率土の兆民は凡て之れ君主の民である」と国体の大義を説かれ、「任ずるところの官司は皆これ王臣であり、政務の司に任ぜられているにすぎない」と群臣を諭し、百姓の賦斂を戒めた。ここに国体観念を見るとともに、来たる大化改新を促進した大精神の動きを見出す。

 

 

三 馬子の大逆事件

 

089 遺憾ながら聖徳太子の行動に関して後世の学者がそろって非難している点がある。十七憲法を書いた聖徳太子は皇室中心主義に立脚して国体観念に基き、万一誰かに我が国体に違背する行為があれば、これを撲滅すべきであった。そうして始めて太子の国体論に合った論理的態度と言うことができるだろう。太子の時に蘇我馬子の大逆事件が起こった。

 

蘇我馬子は物部守屋を亡(ほろぼ)して以来、急に専恣驕僭の風を加え、(天皇の)外戚の関係にあることに思い至り、聖慮に悖る行動が募った。当時の天皇を崇峻(すしゅん)天皇という。崇峻天皇は馬子の振る舞いを憎み、何らかの処置に出ることを太子に諮ったのだが、その時太子は

 

「今の如く大臣は驕臣と言うべきだが、仏教に六波羅蜜がある。その中に忍辱もまた仏の深誨(カイ、教え)なり。臣願わくは陛下この功徳を行い、よく推移する有らんことを。枢機(要)の順発は栄辱の主なり。陛下口に緘し、妄(みだ)りに発動するなかれ。」(聖徳太子伝暦)

 

その後天皇に野猪を献じた者があったが、天皇はこれを指して「この猪の頸(くび)を切るように、他日朕が嫌うところの人を斬ろう」と言い、それとなく多くの兵仗(ひょうじょう、武器を持った武官である随身)を殿中に集めた。これを漏れ聞いた馬子は大いに畏れ、天皇の即位559211月、東直漢駒という者に命じて天皇をその寝所で弑(しい)する大逆をした。

 

091 この時の聖徳太子の態度には、国体論の主張者としては受け取りかねる節がある。この報に接した太子は、

 

「陛下愚児の言を用い給わず。これ過去の報いなり」(聖徳太子伝暦)

 

と一言言っただけで、何ら施すところがなかった。「慈悲忍辱は仏教の教える徳目のうちで重大なものの一つである。この故に私があれほど忍耐をお勧めしたのに用いなかった陛下は、仏の教えに背いたのである。今この難に遭われるのも三世因果のしからしめるところで当然の報いである」という趣旨である。

 

092 これが後世の諸学者が太子のこの態度に関して、佞(ネイ、へつらう)仏である、仏教倫理によって国民道徳を破壊したと言って非難する所以である。

 

 水戸藩の「大日本史論賛」は安積澹泊(たんはく)が書いたものである。澹泊は義公の時の学者で、大日本史編纂で功績があった人だが、その「論賛」で我が国代々の天皇、皇族、皇子に批判論難を加えた。後に徳川治保が、「臣下の身分で皇族に非難を加えるのは差し控えるべきだ」として大日本史からこの論賛を削除した。だから今日の大日本史にはそれが載っていない。これ(論賛)をまとめたものが大日本史賛藪(ソウ)である。それによると、

 

093 「太子漠然として顧みるところなくして曰く、『これ過去の報い也。仏氏固(も)と三世の説を立ち、その要人をして悪を断ち善を修めしむ。而して流弊またかくのごときに至る。』今子がその父を弑(しい)し、臣がその君を弑し、而して過去の報い也と諉(ことよ、かこつける)せる。則ち天下得て治むべけんや。太子の志は則ち仏教にあり。綱常(コウジョウ、三綱五常。人の守るべき大道)にあらず。」

 

ずいぶん厳しいが道理なしとしない。

 

 また頼山陽は

 

「四天王の外に天王なし」

 

と言って非難している。四天王は太子の本願によって建立された四天王寺を指す。太子の眼中には四天王寺だけあって、日本の主権者である天皇はない、仏教道徳によって国民道徳を蹂躙したという。

 

094 「日出処天子致書日没処天子」と喝破し、当時の大国隋を脚下に見下し、旭日のような意気を示した太子が、馬子の矯傲を膺懲する相談を天皇がしたとき、「陛下ただこれを忍べ」などと「弱い」態度に出て、さらに国民として到底座視できない大逆を見ても「漠然として顧みるところがなかった」というのは、一面当時の馬子の勢力がいかに大きかったかを物語るものだが、我々として太子のために心から惜しむ所以である。

 

 

メモ 聖徳太子は後世の神道主義者から、天皇よりも仏教を重視するとして批判された。著者もその神道主義者の一人のようである。

聖徳太子は蘇我馬子が崇峻天皇の命に危害を加えても、天皇に、これは天皇が以前から忍耐心がなく、馬子に寛大でなかったことから生じた過去の報いであると言ったとのこと。

聖徳太子は皇室中心主義の国体観念に基づき、国体に違背する者は撲滅すべきであったと著者は言う。

 

感想 著者は崇峻天皇の人格の良し悪しよりも、とにかく天皇(の血筋)を重視する。そのことは神道が宗教であることを物語る。国体とは神道による支配である。聖徳太子が天皇に蘇我馬子への対応で一考を促したということは、天皇の側にも何らかの原因があったに違いない。著者はそのことにはまったく目を向けない。

 

 

第五章 和気清麿

 

一 中大兄皇子と中臣鎌足

 

095 有史以後我が国体が危機に瀕した場合が、僧道鏡以前に今一つあった。つまり国体擁護運動を起こすべき時がこの前に今一つあった。それは中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を誅した場合である。

 

 聖徳太子は蘇我馬子を大臣にし、共に仏教の興隆に努力した。太子の生前はその徳望と威令が入鹿(馬子の孫)をよく制したが、推古天皇30622年、聖徳太子が逝去した後は、馬子の専恣の振る舞いが募り、天皇に土地の領有をさえ願い出るほどだった。

この傾向は馬子の子蝦夷や孫入鹿になるとさらに甚だしくなった。推古天皇の崩御後に皇位を継いだ舒明天皇は、聖徳太子の子で徳望の大きかった山背王子を排して蝦夷が擁立した天皇である。舒明天皇は病弱で、蝦夷が政治の実権を握った。舒明天皇は在位12年で崩御し、次いで皇后天豊財重日足姫が皇位についた。これを皇極天皇という。

097 中大兄皇子は舒明天皇の皇子であった。蝦夷は自分と子入鹿の墓を今来に営み、自分のを大陵、入鹿のを小陵と称し、入鹿に紫冠を授けて大臣に任じた。また皇極天皇の2642年(年表は643年)、徳望のある聖徳太子の一族である山背大兄王を殺した。

 

 中臣鎌足は天兒屋根命の末裔で、小徳御食子の子である。早くから蘇我氏の暴戻を憎んでいた。中大兄皇子は鎌足と密かに策をめぐらし、皇極天皇の4644年(年表は645年)6月、大極殿に三韓が調を献ずる議式のとき、まず入鹿を誅戮し、翌日蝦夷を討ち、稲目以来百年に及んだ蘇我氏の本宗を断ち切った。

 

 入鹿を誅戮したとき皇極天皇は驚き、その理由を尋ねたが、その時中大兄皇子はこう言った。

 

 鞍作尽く天宗を滅してまさに日位を傾けんとする。豈天孫を以て鞍作に代えんや。(日本書紀)

 

 鞍作とは入鹿の別名である。天宗を滅するとは厩戸王子の一族(山背大兄王)を殺したことをいう。

099 「入鹿は皇族の方々を殺し、今や天位をも窺窬(きゆ、すきをうかがう、ひそかに身分不相応のことを願い望む)しようとしている。どうしてこれを黙視できようか。天位擁護のために鞍作の生命を絶ったのだ」と言った。

 

 日々に募った蘇我氏一門の暴戻は、もし中大兄皇子のような英明果断の皇子や、これを扶けた鎌足のような忠誠剛毅の士がなかったなら、どういう結果になっていたか、計り知れない。これは我が国体史上実に大きな事件であったと言わねばなりません。

 

 

二 和気清麿

 

099 この事件について注意すべき点が二つある。第一に注意すべき点は、明確な国体観念の下に断乎として大義の正道により、権勢を恐れず、身命を賭して国体擁護の使命を果たした和気清麿その人の無比な忠節、殆ど完全と言い得る国民道徳の具現である。

「皇胤紹運録」によれば、道鏡は皇族の末であり、天智天皇の血統を引く。(大日本史はこれを取らない)また称徳天皇も、天智天皇の弟の血統である。道鏡が皇位を窺窬(きゆ)することは、皇族が皇位を窺窬することであり、蘇我入鹿の場合と大いにその趣を異にしている。入鹿の場合は中大兄皇子という皇族の方が中心となって事に当たったが、清麿は従五位下近衛将監という一小臣である。

 

101 このように門地の上で大きな懸隔があっただけでなく、朝廷における道鏡の大勢力に対して清麿は太陽の前の星にも及ばなかった。

 

 道鏡は姓を弓削といい、小さいころから僧門に入り、法相を僧正義淵から学び、葛城山に籠って如意輪法宿曜法という修法を治めた。そして保良宮で療養中の孝謙上皇に侍し、修法の効験あらたかであったことが、上皇の寵遇を得た始めである。

 

 淳仁天皇は(孝謙)上皇に(道鏡の悪い点について)言うべきことがあったが、上皇は不機嫌でそれを聞かなかった。それどころか上皇は詔を下して、「朕は道鏡禅師を見るに、行為は至って浄く、仏法を盛んにし、皇祚を護らん」と宣した。

天平宝字77639月、(孝謙上皇は)山科寺の少僧都慈訓を罷めて、道鏡をこれに代え給い、次いで「出家の天子(孝謙上皇)には必ず出家の大臣(道鏡)なかるべからず」と宣せられ、大臣に道鏡禅師を任じ、さらに重祚764して称徳天皇となった。

 

102 称徳天皇は、天平神護元年76510月、道鏡を太政大臣禅師となされ、職分封戸とも、大臣に準ずることとし、群臣に拝賀させたという。

 

 道鏡の威勢は天下に並ぶものなく、月料(毎月支給される食料)は供御(きょうご、天子の用に物を奉ること。天皇の飲食物)に準じ、出入りには鸞輿(らんよ、天皇の乗り物)を用い、政務百般を決裁した。

群臣は道鏡の意に背かないようにし、当時の右大臣で大儒であった吉備真備藤原清河もどうにもできなかった。

 

 こうして道鏡は遂に臣下として神人共に許しがたい非望を懐くようになったと思われる。称徳天皇は孝謙天皇が重祚した女帝であるが、皇太子を定めていなかった。後世の史家は上皇が重祚したことも、皇太子を定めなかったことも、道鏡の非望に基づくと言っているが、これは無理のない説と思います。

 

103 神護景雲3769年、太宰主神中臣習宜阿曽麻呂が道鏡に媚びて「宇佐八幡の神勅に、道鏡を天位に上らせれば、天下泰平になるだろうとあります」と不臣極まる奏言をなした時、道鏡は年来の非望をいよいよ実現すべき機会が到来したと思いました。

 

 和気清麿が宇佐八幡の神勅を請ひまする使者に選ばれた時、「一近衛将監、もとより我が威命の前には何するものぞ」と思った道鏡は、目を瞋(いか)らし、剣を按(あん)じて(なでる、おさえる)「宇佐大神固より我をして皇位に上らしめんとす。汝よく我が欲するところを得しめば、則ち汝に授くるに大政大臣を以てせん。もしこれに違はば則ち重刑に処せん」と清麿を威嚇した。

 

 清麿は死を誓って往き、帰ってくると、次のように伏して奏上した。

 

104 「我が国家は開闢以来君臣定まれり。臣を以て君と為すことは、未だこれあらず。天の日嗣(皇位継承、皇位)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は渲(宜)しく早く掃除すべし。」

 

 和気清麿の忠烈は千古万古、人臣たるものの亀鑑(模範)であります。まことに清麿は我が国体史上の一大偉人と言はねばなりません。

 

 道鏡の事件について第二に注意すべき点は、仏教に帰依した称徳天皇がこの重大事の最後の決定を宇佐八幡の神教に御仰ぎになったということであります。

 

 称徳天皇は聖武天皇を父とし、光明皇后を母とする。聖武天皇はかの有名な東大寺を建立し、自ら受戒し、三宝*の奴(やっこ)と仰せになり、法名を沙彌勝満といった。これは我が国における天皇受戒の始めである。*三宝とは仏と経典と僧侶。

105 光明皇后もまた篤い仏教信者で、悲田院・施薬院など慈善的設備を起こした。「元亭釈書」によると、光明皇后は病める者や貧しいものをいたわるための浴室を造り、千人の垢を除こうと誓いを立てた。千人目の患者はひどい癩病だったが、国母陛下の尊い御身をもって、その癩病患者の身体を洗い、汚い膿を吸っておやりになったということであります。これは俗伝であり、歴史的事実ではないが、皇后が仏教徒として信仰が厚かったことはこれによって想像に難くない。奈良の博物館に皇后が親しく癩病患者の背を洗う絵巻が今日も残っている。

 

106 このような父母から生まれた称徳天皇も両親に優るとも劣らない仏教信者であった。称徳天皇が上皇であったとき、道鏡の専恣が募るのを憂えてたびたび諫めた淳仁天皇のことを、「天皇は不恭不順(失礼で素直でない)にして、朕(上皇)が言わないことを言ったとし、行わないことを行ったと欺く」と言ったが、それほどの(道鏡に対する)信任も、「出家の天子には出家の大臣なかるべからず」という気持ちから出たことと思われる。

 

 宮中で大嘗会の儀式があるが、大嘗会では従来極度に清浄を尚び、物忌みをし、仏や僧などの語は口にしなったが、称徳天皇は始めて僧侶を式に列せしめ、次のような詔勅を賜った。

 

「朕已に菩薩戒を受け、仏の奴である。故に先ず三宝を敬し、後ち天神地祇に及ばん。世に(神道の)神を以て全く三宝に関するところなしとなすものありと雖も、経典には『仏法を擁護するは諸神なり』とあり。故に、僧尼が(神道の)朝政に与かるがごときも、また忌むべきに非ざるなり。」(続日本紀)

 

107 このように仏教の尊信篤かった称徳天皇が、一方で之に劣らず神道の信仰をお持ちになったということは、特に我々の注意すべき点であります。称徳天皇は即位の当初から宇佐八幡の神をいたく崇敬し、その託宣によることは一つとして聞かないことがなかったと言われる。習宜阿曽麻呂103が道鏡に媚びて、臣下としてまた人として実に許しがたい不臣かつ卑劣な心を起こした時も、称徳天皇は聖慮(天皇の思慮)を蔽う(行き渡らせる)ために宇佐八幡の託宣を利用した。『皇位に関する重大事である、(道鏡を天皇に推戴することが)日ごろから尊信する宇佐八幡の神意であると言う者(習宜阿曽麻呂)がいる』と称徳天皇は宸襟を悩ませ、宇佐八幡の神意を確かめようと決断した。和気清麿が使いに立つとき、以下の勅命が(称徳天皇から)下った。

 

「昨夜、夢に宇佐八幡の神使が来て、朕に曰く、『大神は汝(和気清麿)の姉法均尼に憑(よ)りて告げるところあらんとす』と。(しかし)汝、姉に代わり、往きて神命を受けよ。」(続日本紀)

 

108 法均尼とは和気清麿の姉である。俗名を広虫という。法均尼は称徳天皇が孝謙天皇だった時代から信任が厚かった。孝謙天皇が落飾(仏門に入ること)し給うと、自らも尼となって法均尼と称した。

109 清麿は仏教を信仰した跡がないようだが、ここにまた我々が注意すべき点がある。宇佐八幡の夢のお告げに「法均尼を遣わせ」とあったのに、またその法均尼は天皇の信任が厚かった者であるにもかかわらず、勅使として清麿をお選びになったということは、皇位に関する重大事に関して称徳天皇の神道の立場に立とうとするお心と見ることができる。(称徳天皇が、明らかな仏教信者である姉を避け、仏教信者かどうか明らかでない清麿を選ぶことによって、仏教よりも神道を重視したと言いたいのか。中村孝也『新体国史』上065では「女性に行かせるのは不憫であると称徳天皇が思われたから」とある。)仏教信者の称徳天皇も事天子の御位に関する最も重大な場合には、慎重にも慎重な態度をお取りになり、宇佐八幡の託宣に依ろうとお考えになった。

 

110 道鏡の場合、我が国体は有史以来最も大なる危機の一つに当面したが、幸いに事なきを得たのは、称徳天皇の神道的御信仰と和気清麿の徹底した国体観念の賜物であった。

 

 

感想 和気清麿の物語はどこでも起こり得る権力闘争の物語であるが、それに神道的価値観を付随したのは後世の神道派歴史家である。和気清麿のストーリーは神道イズムによって後世につくられたものである。和気清麿当時の資料にもこのような神道イズム的歴史観が書かれていたとは思われない。 できすぎた作り話めいた話だ。

 

ネットkamuimintara.blogspot.com「若者への応援歌 4.日本と皇室を守った和気清麻呂」で、和気清麿(わけのきよまろ)の宣伝をしている。それによると、

 

「戦後アメリカの『歴史改竄指令』によって和気清麿や楠木正成の歴史記述が『禁止され』て教えられなくなった。奈良時代から戦前1945年まではずっと教えられてきた」

 

と言うのだが、それは間違いではないか。アメリカだけが悪者なのではない。歴史を宗教=神道に基づいて読み解くのではなく、客観的に史実としてみるべきだという理由で、神道の立場で和気清麿を英雄視するようなことが控えられたのではないか。

また「1945年までずっと教えられてきた」というのは言い過ぎで、神道史観が起こってからそう教えられるようになったのではないか。

 

またなぜ右翼が女帝を嫌って男系男子にこだわるのかが、この道鏡と女性天皇称徳との内密な関係から臆測できる。

 

 

 

第六章 北畠親房

 

一 北畠親房略伝

 

111 我が国の歴史で大義名分が蹂躙されたことは南北朝時代ほど甚だしきはないと申されませう。天祖の神勅はまさにその赫灼(かくしゃく)たる光を失い、国家はその永遠なるべき生命を絶たれんとした。我が国体擁護の上から見まして、実に重大なる危機であったのであります。

 この時楠、新田などの忠臣が協力一致よく南朝のために奉公申し上げたことは、我が国体の尊厳なる所以、微妙なる所以である。特に北畠親房は武将として功績を挙げるとともに、その間に我が国体観念を理論的に闡明した。そのことによって我が国体観念は一段と発達した。

 

112 北畠親房は村上天皇の皇子具平親王の末裔である。祖父師親、父師重は南朝の忠臣であり、四人の子供も南朝のために尽くした。親房父子の忠義に燃ゆる心は、北畠家に先天的に備わっていたといふことができます。それは永遠に人臣たるものの亀鑑となっている。

 

 元享31323年、親房は世良親王の養育係に任ぜられたが、親王が短命で世を去ると、哀悼甚だしく、剃髪して世を退いた。時の人はこれを惜しんだ。

 

 元弘31333年、後醍醐天皇が建武中興の大業を遂行されると、再び召出されたが、これを後の史家は「退くにもその時を得、進むにもその時を得た」と言っている。何らの操持(かたく守り抜くこと)もなく、権勢のために云為(うんい、言うことと行うこと)する現代の政治家はよく反省して親房に恥ずべきである。

 

114 親房が表面に立って活動を始めたのは建武中興以後である。同年1333年の冬、親房の子顕家は陸奥守に任ぜられ、義良親王を奉じて奥羽に行った。義良親王は後の後村上天皇である。この東国平定は後醍醐天皇の大御心から出たことである。この時親房も同行し、数か月で奥羽を平定した。

 

 延元元年1336年、足利尊氏が反旗を翻して京師(都)を犯すと、天皇は神器を奉じて延暦寺に落ちたが、親房はこれに扈従(こじゅう、こしょう)した。後に尊氏が降りを乞うと、天皇はこれを許し、京師に帰ったが、親房は叛臣の下風に立つことを喜ばず、伊勢に行った。

 

 尊氏が再び反すると、親房は尊氏の後を追い、賊軍を九州に走らせた。

 九州で兵を養った尊氏は、東上して同年13365月、湊川で楠木正成、正季の兄弟を破り、京師を陥れ、光明院を擁立して北朝を立てた。13368月のことである。

115 後醍醐天皇は尊氏によって花山院に幽閉された。諸国の勤王軍は頓に(すぐに)は振るわなかった。親房は伊勢に赴き、後図をめぐらしていた。

 

 同年133612月、天皇はひそかに京都から吉野に入り、楠木正行等が警護した。ここに南朝57年の歴史が始まった。

 その後、南風は競わず、親房の子顕家は延元313385月、高師直のために摂津で戦死し、新田義貞は同年閏7月、足利高経のために越前で斃れた。

 

116 この頽勢挽回の一策として、かねて南朝方に心を寄せた奥羽地方を再び錦旗の下に糾合してはどうかという議が結城宗広によって建言され、顕家の弟顕信が鎮守府将軍として義良親王を奉じて任地に赴くことになったが、親房はまたこの補佐として奥羽に出発した。

ところが一行の船は上総(かずさ、千葉県)の海で台風に遭い、義良親王と北畠顕信は伊勢に、親房は常陸に漂着した。親房はそこで神宮寺城に入り、次いで、阿波崎城に移り、小田城主小田治久、関城主関宗祐、真壁城主真壁幹重、大宝城主下妻政泰、伊佐城主伊達行朝等を糾合して、東国の経営を始めた。

 尊氏はその勢いを恐れ、(延元)41339年、高師冬を小田城に差し向けた。親房は陸良親王を迎え、師冬の大軍に当たった。

 

 その時結城宗広の子に親朝がいたが、彼は尊氏と通じていた。さらに小田城主小田治久が親房を裏切り、小田城は支えられず、親房は関城に落ちた。ここで親房は親朝に宛て諄々と大義を諭す書簡を認めた。これを関城書という。ここに親房の誠忠大節が現れている。

 寛永年間白河城主松平忠次の封内に結城宗弘の子孫がいて、親房に関する文書を所蔵していた。忠次はそれを取り寄せ、侍臣に整理させたが、その中に関城書というのがあった。整理の過程で幾分加筆した部分があるとのことだが、大体親房の手になったものである。「史藉雑纂」の第三巻に収まっている。

 

 親房は結城親朝が敵に降ったために終に城を棄てて吉野に帰った。正平61351年、親房は三宮に准ぜられ(許す、依る)、91354年、賀名生で死んだ。年63

118 親房の著述になる「神皇正統記」と「職原抄」の二書は、親房が南朝の式微(しきび、ひどく衰えること)を歎いて常陸の小田城にいたとき書かれたものである。この二書は広く国民が必ず一読すべき名著である。

 「神皇正統記」は三種の神器の所有者である南朝が正統の皇位継承者であることを力説し、「職原抄」は朝廷官制の沿革を述べ、その規則を定めたものである。吉野朝廷は行在所であり、儀式などの制度が不備であったからこれを補おうとして書かれたのである。

 神皇正統記は筆法謹厳・議論正大であり、史書や史論として不朽の光を放っている。

 

 従来普通の歴史家は南朝の忠臣として、第一に楠木や新田を、第二に北畠親房を挙げる傾向があるが、北畠は徹底した国家観念を文献の上に生かし、みずからそれを実現するために生きた。北畠を楠木や新田と同列に扱いたい。確かに楠木や新田は壮烈な活躍をし、北畠は帷幄(幕)の中で謀をめぐらし、地味で質実であったが、君側にあって実行力の伴わない議論を上下(上げ下げ)した坊門宰相清忠や、その言が容れられなかったとして身を引いた藤原藤房に比べれば、終始名分(名義と身分に伴って守らなければならない道義上の分限)に生きた親房は、南朝の柱石であり、人臣たるものの儀表である。

 

120 親房の四人の子供、顕家、顕信、顕能、顕雄はいずれも父の志に副(そ)う孝子であり、また忠臣であった。顕家は21歳で君国のために壮烈な戦死を遂げたが、その他の三人も忠誠が抜きんでている。家庭教育がおろそかでなかったことをうかがえる。

 

 北朝は南朝を否定するため南朝から与えられた官職を認めないが、親房だけにはその官位を認め、准后の称号で呼んだ。尊氏も、親房の卓抜な見識と凛呼たる節義に感じたのだろう。

 

 

二 親房の国体論

 

121 神皇正統記の始めは次の言葉で始まる。

 

大日本神国なり。天祖始めて基を開き、日神長く統を伝え給う。わが国のみこのことあり。異朝にはその類なし。この故に神国というなり。

 

何という堂々たる大文字でありましょうか。神国という文字は日本書紀神功皇后紀に出ているが、その意味は漠然としていた。親房はこれに明確な意味を与えた。

 

122 神の観念には一神教、多神教、汎神教などの宗教的・哲学的見解がある。どの民族も宗教発生の初めの神観は、多神教が普通である。その中に主神が生じて、漸次一神教的になる。この唯一の主神は天地の創造者、宇宙の主宰者として一切を統率支配する地位におかれ、宗教は哲学的思弁と関係してくる。その考え方は時間的・発生的であり、宇宙に超越する人格として説く。

 これに対して汎神教の神は宇宙と一致し、宇宙に内在し、その考え方は論理的・哲学的である。汎神教の神は非人格的な存在として説かれる。

 

123 我が国の神はその中のどれに属するのか。新井白石は「神は上なり」と言い、また「神は人なり」とも言う。白石の言うわが国の神は「人に上たる人なり」と解することができる。

 司馬江漢は「祖先の霊を祀ったもの」を「神」といい、荻生徂徠は「死した人を祀ったもの」を「神」と呼ぶ。その他いろいろの解釈があるが、それらの多くは我が国の神を歴史的人格と解する点でみな同じである。

 詳しく記紀をみると、汎神論的な神観は当時の日本人にはなかったようだ。それと同時に無秩序で不統一な多神教や、神の無政府的状態でもなかった。当時というものは、事実上、歴史的に生存した人であり、生前も死後も、我が国のために異常の力をふるい、我々の家を守り、国家を守る人格的存在を指したようである。

124 これらの神々はその中の最も偉大な一柱の神によって統一され支配されると考えられた。これが、天御中主神(あめのみなかぬしのみこと、日本書紀)に始まり、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、神皇産霊尊(かむむすひのみこと)など七柱の神やこれに続き給う四代の神を経て諾冊二尊に及び、その後代々高天原に君臨し給うた我が皇室の御祖先にあらせられる。*

 

 

*古事記による天地開闢における神々 Wikiより

 

(独り神)

造化三神(ぞうかさんしん)アメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビ

別天津神(ことあまつがみ)ウマシアシカビヒコヂ、アメノコトタチ

神世七代(かみよななよ)クニノトコタチ、トヨクモノ

(男神と女神)ウヒヂニとスヒヂニ、ツノグヒとイクグヒ、オホトノジとオホトノベ、オモダルとアヤカシコネ、イザナキとイザナミ

 

 北畠親房が「天祖始めて基を開き、日神長く統を伝え給う…この故に神国というなり」という意味は以上の意味においてである。即ち親房は「神国」という文字で「異朝にはその類無」き我が国体の特質を明らかにした。

 

 次に親房の国体論で注意すべき点の第二は、三種の神器に関する解釈である。天祖が天忍穂耳尊葦原中国に御降しになりますとき、これに三種の神器を授けたときの様子を、日本書紀は以下のように記述している。

 

125 「この時に天照大神は手に宝鏡持ち、天忍穂耳尊に授けてこれを祝いて曰く、『吾が兒この宝鏡を視んこと当になお吾を視るがごとくすべし。興(とも)にを同じうし、殿を共にし、以て齋鏡(いわいのかがみ)となすべし。』」

 

古事記には

 

「ここにおいて賜いて其遠岐斯八尺の勾璁(まがたま?)(と)鏡。及び草那芸(くさなぎ)の剣。また常世の思金神。手力男神。天の石門別の神などを副ひて詔するは、『この鏡を専ら我が御魂となし、吾が前に拝むがごとくいつき奉れ。』」(「いつく」とは清浄にして神に仕えるの意)

 

宝鏡とは石凝姥命(いしこりどめのみこと*)が天香山の銅を用いて造ったもので、天石窟開きの神楽の時に天太玉命(あめふとたまのみこと)が根引した天香山の真榊の中枝にとりかけて捧げ持ったと言われている。とは高御座や常の御在所、殿は天皇が天下に照臨し給う正殿つまり大安殿をいう。「同床共殿」とは「常にこの宝鏡と起居を共にせよ」との御心である。さらに「この鏡を視ること、我を視るが如くすべし」と仰せになっている。即ち「歴代の天皇はこの宝鏡を天祖の威霊と考え、日夜これに拝し、永久に天祖の心を以てその心となせよ」と仰せられたのである。

 

*石凝姥命 天照大神が天の岩屋戸に隠れたとき鏡を作った神。天孫降臨に従った五伴緒神(いつとものおのかみ)の一神。

 

 山崎闇斎が天壌無窮の神勅を「王道の元」となし、この齋鏡の詔125を「神道の祖」となしたのもこの御趣意を奉解したものと考えられる。

 

 北畠親房は三種の神器に三つの意味を見ている。第一の意義は、神器は天祖が天孫に始まる歴代の皇室に永久のかたみとして授けたものだとする。葦原中国へ君主として降臨する愛孫の首途(門出)を祝福し、記念として授けたものである。このことは「これを祝いて曰く。吾が兒この宝鏡を視んこと当になお吾を視るがごとくすべし」によく現れている。

 

 三種の神器を授けた第二の意義は、これによって君徳を具えるべきことを諭し、神器は君徳の象徴であるとみる。親房は神皇正統記の中で次のように語っている。

 

は一物を貯えず。私の心なくして万象を照らすに、是非善悪の姿が現れないということはない。そのすがたに従って感応することを徳とする。これは正直の本源である。は柔和善順を徳とし、慈悲の本源である。は剛利決断を徳とし、智慧の本源である。この三徳を合わせ受けないでは天下が治まることは実に難しいだろう。(この)神勅は明らかであり、(その)詞(ことば)はつづまやか(簡潔)であり、むね(旨、趣旨)が広い。剰へ(あまつさえ)(そのことを)神器に現わされたのである。実にかたじけないことである。」

 

128 北畠は三種の神器が正直、慈悲、智慧の君徳を示すと説く。普通は神器が知仁勇の三徳を象徴すると解釈されているが、これは儒教的見解である。それに対して親房の解釈は仏教的である。北畠は儒教や仏教に精通した人だった。

 

 親房の神器観の第三の意義は重要な意味を持っている。親房は三種の神器が天位の信、則ち我が国の天子たるものの正統であることを示す物的な証拠であるとする。これは神皇正統記の中心的な目的である。三種の神器があればたとえ叛逆の臣のために勢力が衰えても、正しく天皇であるとする。これは彼が心血を注いだ南朝正統論の根拠である。

 

次にいやしくも心あるものなら涙なしに到底読むことのできない後村上天皇の条を引用する。

 

130 さても旧都(北朝の京都)には戊(つちのえ)寅の年の冬、改元して歴応1338とぞいいける。吉野の宮には本の延元の号なれば、国々も思い思いの年号なり。もろこしにはかかるためし多けれども、この国には例なし。されど四とせにもなりぬる1339にや、大日本島根は本よりの皇都なり。内侍所・神璽(天子の位を示すしるし。神器)も吉野におはしませば、いかでか都にあらざるべき。

 さても八月の十日あまり六日にや、(後醍醐天皇が)秋霧に侵されさせ給ひて、崩れましましぬ1339とぞ聞えし。寝るが中なる夢の世、今にはじめぬならひとは知りながら、かずかず目の前なる心地して、老の涙もかきあへねば、筆のあとさへとどこほりぬ。むかし仲尼(ちゅうじ、孔子)は獲麟(かくりん、絶筆。孔子の『春秋』は獲麟の記事で終わっている。)に筆を絶つとあれば、ここにてとどまりたく侍れど、神皇正統のよこしまなるまじき理を申し述べて、素意の末をもあらはさまほしくて、強いて記しつけはべるなり。

 

131 これは念頭(心の中)の名分(道義)の外に何物もなく、忠節の外に何物もない南朝の柱石(中心人物、北畠親房)の限りなく床しい心境を偲ぶに十分な文字である。乱臣賊子に筆誅を加えるために「春秋」を書いた仲尼(孔子)の心事は、そのまま親房の心事であった。「神皇正統記」は親房の念願通り、日本の「春秋」たるに十分な大文字である。

 

 北畠親房は、大義名分が甚だしく危うきに瀕し国体の尊厳も失われようとした南北朝時代を通じ、一族を挙げて正統君子のために誠をいたし、帷幄の忠良として南朝の大方針に参画し、乱臣の討伐に東奔西走し、兵塵の間に「神皇正統のよこしまなるまじき理を」明らかにした名著を残した。我が国体観念発展史上における北畠親房の地位は極めて重要なりといはねばなりません。

 

 

第七章 徳川光圀

 

感想 202228() 皇国史観は中国の儒教に大きな影響を受けている。身分を弁えよとか、君主に対する忠義を尽くせなどである。水戸光圀はそれを強調した。弘道館記の中の「明倫正名」とは、人倫を明らかにし名分を正す139という意味である。戦前は封建時代の身分制儒教道徳が支配する時代であった。そして暴力的でもあった。楠木正成「七度生まれて国賊を亡ぼさん」136

 

一 大日本史

 

132 徳川光圀の謚(おくりな)を義公という。義公は(徳川)頼房(威公)の子で、徳川家康の孫である。「副将軍」と言われた。「水戸黄門一代記」は義公の伝記とされるが、大半が小説で、偉人の偶像化である。しかし全くの架空のものでもない。義公は引退後方々に旅行したからだ。

 

 義公は18歳の時に「史記」の「伯夷伝」を読んで感動した。伯夷・叔齊伝には譲国の美談がある。伯夷と叔齊の父孤竹君は、弟の叔齊を愛し、兄の伯夷をさしおいて叔齊に国を譲ろうとしたが、叔齊は弟の身で兄を差し置いて父の後を継ぐことはできないとし、また伯夷は父の意志を無視することはできないから、弟であっても叔齊が継ぐべきだとして譲らず、ついに二人とも世を退いた

133 義公にも頼重という兄がいた。兄が病弱だったので、父は弟の義公を水戸の二代に据えた。義公は兄をさしおいて父の後を継いだことに不安を覚え、伯夷・叔齊の大義名分を弁えた行為に感動した。

 

134 周の武王が殷の紂王を討とうとしたとき、伯夷・叔齊の二人は、武王の馬の轡(くつわ)を引いて武王を諫めた。「(武王の)父文王*が死んで未だこれを葬らないときに干戈に及ぶことは孝道に適っていない。そして紂王がいかに暴戻の君であるとはいえ、武王にとっては君である。臣下の身をもって君を討つことは忠道に適うものではない」と言って諫めた。これが容れられなかった二人は臣節を全うするために首陽山で餓死した。*文王は周を創建した。

 

 義公は史記のような立派な書物が後世に伝わっているために、国を異にし時代を隔てた自分が古人の道を知り、忠孝の大道を教えられると考えて大日本史の編纂を思い立った。

 

135 義公の大日本史編纂の第二の動機は以下のとおりである。当時は元禄の時代で、徳川氏の権力が一先ず確立し、世は昌平(泰平)の夢を深めようとしていた。徳川家康以来の幕府の巧みな施政の結果、人民は「将軍あるを知って天子あるを知らない」状態にあった。義公はこれを憂え、我が国の正しい歴史を編んで、我が国体の尊厳性を叙し、大義名分を明らかにしたいと思った。

 「天皇は我が主君にまします御方である、将軍は我が宗家(本家)である。万一幕府と京師との間で事を構えるようなことがあれば、水戸は先ず第一に錦旗(天子の旗)の下に馳せ参じ、禁闕(きんけつ、皇居の門)守護の一陣を承らねばならない。」これは水戸家の家訓であった。

 

 湊川にあり楠木正成の忠節を永遠ならしめている「嗚呼忠臣楠子之墓」という表忠碑は、義公が建立したものである。裏面に明の志士朱舜水が撰した賛が刻んである。義公のこの挙(表忠碑の建立)が、眼前に幕府をひかえてなされたことは、義公の国体観念の固い信念を物語る。水戸家は御三家の一つであるから、義公には「大義親を滅する」(大義のためには親兄弟をも犠牲にする。「春秋左伝」隠公四年から)という信念があった。

楠氏の「大表忠碑」(表忠碑とは戦病没者を表忠する碑)を湊川を往来する大勢の志士が仰ぎ、忠義の念を固くした。吉田松陰は湊川を往来するたびにこの碑の前で額づき、楠氏の心や義公の志と相語って泣いた。「七度生まれて国賊を亡ぼさん」(暴力的)といった正成の悲壮な志は、義公によって永遠となった。松陰自らまたその門下から輩出した幾多の志士が、維新の大業に身命を抛った(暴力的)ことを考えると、水戸光圀が維新の革新に貢献した功績は実に大きいと申さねばなりません。

 

137 義公は明暦31657年、史局を神田別荘に設け、寛文121672年、これを小石川邸に移し、彰考館と呼び、諸国から俊秀の学者を聘した。栗山潜鋒、三宅観瀾、佐々宗淳、丸山可澄らの名儒が集まり、諸国の遺書や遺文を求めた。安積澹泊(たんはく)092も史臣の一人であった。

 

 元禄101697年、義公の嗣(跡継ぎ)である綱條の時に本紀が成り、正徳61716年、列伝を脱稿し、享保51720年、大日本史を幕府に献上した。

138 大日本史編纂はさらに続き、享保121727年、志類の編纂を始め、その志表は明治391906年に完成し、同年大日本史全部四千百三巻を朝廷に献上したが、その間十二代二百五十年であった。このことから義公の深謀遠慮を窺うことができる。権威ある完全な大日本史は、その編纂目的である大義名分を闡明した。この長い編纂過程には深長な意味がある。

 

 

二 徳川光圀の国体論

 

139 弘道館は水戸の藩学である。天保91839年、齊昭(烈公)がこれを建てた。そこに本館の由来を叙した「弘道館記」を刻した巨碑があり、その中に「明倫正名」という文字がある。これは「人倫を明らかにし、名分を正す」という意味であるが、義公の志をよく表現している。義公は大日本史の外に、朝廷の礼法・儀式を(あつ)めた「礼儀類典」(五百十五巻)、歴代の国文を輯録した「扶桑拾葉集」(三十巻)を著したが、これも義公の素志を達するためになされた副産物である。

 

140 また「梅里先生碑」という寿碑があり、その碑文は義公の筆になったものである。その中に「皇統を正閏(せいじゅん、正統と正統でないものとを区別すること)し、人臣を是非す」という文字がある。潤は一年十二月に対する潤月つまりウルウヅキである。この言葉は皇統の正当・不正当を区別し、各時代の人臣の忠奸を批判するという意味であり、義公の南朝正統論の本旨である。この言葉の中に義公が大日本史を編纂した真意が込められている。

 

大日本史の三大特筆とは三つの特別に力を注いで書かれた箇条をいう。その第一は、神功皇后を皇妃伝に列して女性天皇から外したことである。

141 大日本史以前の史書例えば日本書紀では、神功皇后を天子の位を継いだとして仲哀天皇の次に列しているが、義公はこれに不満を感じた。仲哀天皇が崩御した後の天位は神功皇后が継ぐべきではなく、当然その胎内にあらせられた応神天皇が継ぎ給うべきであります。(胎中天皇)ところが皇后は三韓征伐から凱旋して、九州で応神天皇を生んだが、これに天位を継がせず、自ら69年間摂政を続けた。これはいかにしても大義名分に副ったものではない。義公は従来神功皇后を天皇として扱っていたのを皇妃伝に格下げした。これは義公の大見識であります。

 

142 第二は大友皇子弘文天皇)を本紀に掲げたことである。大友皇子は天智天皇の長子であった。天智天皇の皇后倭姫に皇子がなく、蘇我石川麻呂の女以下に数人の子があったが、その中でも家柄があまり尊くなく伊賀采女宅子娘の出である大友皇子は、明悟で、学を百済の学士に受け、博学だった。その皇子の作に「皇明は日月のごとく光り、帝徳は天地に載り、三才(天地人、万物)並びに泰昌、万国は臣義を表す」という絶句がある。これは日本人が作った詩で今に残る最古のものである。また大友皇子は武事にも熱心で、英邁(まい)であった。したがって天智天皇の心はこの皇子にあったが、天智天皇は皇弟(天皇の弟)大海人皇子を(皇)太子に立て、大友皇子を太政大臣に任じた。

その理由は大友皇子がわずかに若く、母の門地が高くなく、また民心の帰趨も大きな原因であった。

143 というのは天智天皇は当初中大兄皇子といい、後に天位を継ぎ、中臣鎌足と共に大化改新を遂げたが、その改新があまりに急進的だったので、新政に不平を抱く風が民衆の間にあった。そしてこの不平を抱く一派が心を寄せていたのが大海人皇子であった。また天智天皇と大海人皇子との間柄は相容れないことが多く、万葉集では額田女王を御争いになったという事実も伝えられている。

 

 天智天皇はこの情勢を察知され、最愛の大友皇子をおいて、病の枕辺に大海人皇子を招き、後事を嘱したのだが、その時大海人皇子は本心からでなく、病気がちだという口実のもとにこれを辞して吉野の宮に入った。

 

144 時の人はこれを評して「虎に翼して野に放つが如し」と言っている。大友皇子は天智天皇の崩御後是非なく天位についたが、吉野の大海人皇子はいくばくもなくこれに兵を向け、取って代わって天武天皇となった。(壬申の乱672)弘文天皇(大友皇子)の在位はわずか7か月、生年25歳であったという。

 

 日本書紀には弘文天皇在位のことが認められていない。義公が名分論の上から指摘した第二の点がこれである。

 義公はこれは名を正しくする所以でないと考えた。日本書紀は天武天皇の皇子舎人親王等の撰になったために、父帝(天武天皇)のために真実を蔽おうという主意であったのだろうが、義公の達識によって大日本史がこれを本記に列した。弘文天皇と謚(おくりな)したのは明治の初期のことである。

 

感想 思い入れや脚色の激しい文章だ。

 

145 第三は南朝正統論である。三種の神器を天位の証とし、その所在によって南朝が正統であると主張した北畠親房の説を義公は承けた。親房は第二回の陸奥行きの途中で台風に会って立ち寄った常陸の所々で南朝のために奮戦し、小田城で神皇正統記を著したが、その歴史的感化力は遠く義公の時代の東国一帯に残っていたに違いない。

当時「本朝通鑑」「王代一覧」という歴史書があったが、その二つともが北朝を正統の君主と認めていた。

146 義公はこれを排し、「三種の神器を天位の証とするのは(天照大神が皇孫瓊瓊杵尊ニニギノミコトを降す時に、八咫鏡とともに授けた)神勅の精神である。神器のない北朝を正統とするのは我が国体に悖る謬論である」として、大日本史に南朝正統論を「堂々と」掲げたのであります。

この時彰考館137にいた史家の中には義公の面を冒して諫めた者がいたとのことだ。「南北朝は後小松天皇の御代に合して以来今日に至り、現今の天皇は北朝の御末であらせられる。今北朝方の御代にあり、苟も臣下たるものがその皇統の正統でないことを主張するのは穏やかでない」と言った。それに対して義公は「それくらいのことは自分も存ぜぬではないが、大義のために筆を曲げることは到底できない。天下後世、もし我を責める者があれば、我一人がその責を負う」と言って直筆された。(強引、強情)

 ここでもまた我々は「我を知る者は、それただ春秋(孔子の著書130, 131)か。我を罪する者は、それただ春秋か」と言って獲麟に筆を擱(お)いた*孔子の心事を思い合わすことができる。

 

*「獲麟に筆を擱く」 「獲麟」(麒麟を捕獲する)とは「辞世の句」の意味であり、そこから「自分の本当に言いたいこと」を意味するのだろう。

理想的な帝王が出現するときに現れると信じられていた想像上の動物(麟、現代の麒麟とは異なる)が、今のような乱世に捕獲されたことを嘆いた孔子は、その出来事を整理編集中の「春秋」の中に書き込み(「春西狩獲麟」)、暫くして亡くなった。

 

147 これで我々は義公が大日本史を編纂された信念と抱負とを窺うことができる。

 

 明治に入り文部省は南北両朝平等説を取っていた。「両朝のいずれが正で、いずれが潤であるかという問題は、臣下として決定すべきでない。両朝は平等であるべきだ」というのだ。ここで南北朝問題は俄然学界の問題となった。「文部省は天に二日(太陽)なくとも、国に二君を認めるのか」との論が起こったのは当然のことです。(当然とは思えない。非論理的な心情論)そこで文部省は筆を洗って、今度は一朝説をとり、南朝を正しい皇統とした。文部省をここまで改めさせたのは、親房の神皇正統記や光圀の大日本史が与かって力があったのであります。

 

感想 学者の影響力の大きさが分かる。今の慰安婦問題でも安倍晋三や櫻井よしこなどは表面であり、裏の学者の影響力の方がより大きいのではないか。櫻井よしこも西岡力を引用したといっている。(映画『標的』)

 

 

 

第八章 山鹿素行

 

一 教育者山鹿素行

 

149 山鹿素行は会津の人である。幼時に儒学を林道春羅山)の門に学び、長じて北条氏長について兵学を修め、江戸で兵学を講じていた。承応(じょうおう)元年1652年、播州赤穂の城主浅野長直に藩士の教育者として招かれた。浅野長直は忠臣蔵で有名な内匠(ないしょう、官位名)守の浅野長矩(ながのり)の祖父である。

 

150 山鹿素行は赤穂に9年間いて、40歳の時に一旦江戸に帰った。素行はかねてから程朱理気の説に疑念を抱いており、この時「聖教要録」三巻を著して朱子学に論難を加えた。当時勢力の大きかった保科正之山崎闇斎の下で宋学を修めた者であったが、保科は山鹿素行の異説を憎んで幕府に建議し、造言の罪によって素行を赤穂に禁錮した。それで山鹿素行は再び赤穂に行き、赦されて江戸に帰るまで10年間赤穂の藩士に道を講じた。

 

151 主君浅野長直は素行が表面は罪人であるが、前回と変わらぬ待遇をし、自らその講義を傾聴したという。この時山鹿素行の接待係は大石義重であった。大石義重は忠臣蔵で有名な大石良雄(赤穂義士の頭領)の祖父である。大石義重は山鹿素行の崇拝者であった。当時大石良雄は9歳であったが、大石義重は良雄を伴って山鹿素行の講義を聞かせたと思われる。そして大石良雄より年長の吉田忠左衛門堀部彌兵衛などの赤穂義士は山鹿素行から武士道を教えられたに相違ありません。(推量)

 

152 山鹿素行の「山鹿語類」は、赤穂義士が討ち入りの際に示した周到さと綿密さを教えていた。同書巻十七は復讐を論じているが、復讐の要は一回の挙で事を決するにあり、再挑戦は許されないと述べている。

153 山鹿素行は赤穂義士に武士道精神とともに行動の指針を示したのである。

 

 山鹿素行は第一回目の9年間の招聘期を終えて江戸に帰るとき、(忠臣蔵の)赤穂侯浅野長矩の父浅野長友に次のように語った。

 

「方今世は昌平であり、私素行が教えた経書や兵法がすぐには形となって現れないかもしれないが、万一御藩に倫理の変があれば、私が教えたことは必ず形となって現れるでしょう。」

 

50年後の浅野長矩の殿中での刃傷を予言していた。討ち入りは元禄14170112月のことであった。

 

154 我々は真に生きた教育者としての山鹿素行の姿を、現代の一部教育者のそれと比較するとき、今更の如く素行の偉大さに感ぜさせられるのであります。(時代錯誤)
 

 山鹿素行の精神的感化は赤穂四十七士を奮起させたばかりではない。山鹿素行の真精神を、時代を隔てて後の世に生かした人に、維新の志士吉田松陰と軍神乃木大将がいる。

 

 和気清麿の国体観念が神道に由来し、水戸光圀のそれが大義名分論に基づいているとすれば、山鹿素行の国体観念は武士道を根拠とした。吉田松陰も乃木大将も玉木文之進の弟子である。玉木文之進は吉田松陰の叔父であるが、素行の崇拝者だった。文之進や松陰は素行を「先師」と呼んでいた。吉田松陰の「武教小学開講」の趣意書に、

 

「先師皇道を以て己の任となす。…我輩むしろ志斯道を衛(まも)るに励まざるべけんや。これ今日開講第一の主意なり。」

 

155 吉田松陰の「士規七則」は山鹿素行の武士道の本則を述べているが、乃木大将はそれを肌身離さなかった。「山鹿語類」が図書刊行会から出版された時、乃木大将はこれを何十部も取り寄せ、各師団や知人に配送した。

 

156 乃木大将は明治大帝の御後を慕ってこれに殉じ奉らんと決心する直前、当時皇孫であらせられた今上天皇に拝謁を乞い奉り、ゆくゆくは我が君主たるべき御幼少の殿下に老将軍の心底をこまごまと言上いたされたことは有名な事実でありますが、この時乃木大将は殿下に山鹿素行の「中朝事実」を献上した。

 

多くの志士を養成して維新の大業に少なからぬ力を致した吉田松陰、壮烈極まる臣節を全うして明治の大御代に対する万人の感銘をいよいよ深刻ならしめた乃木大将、――山鹿素行の精神的感化力は蓋し絶大といはねばなりません。(もう完全にはまっている。)

 

 

二 山鹿素行の国体論

 

157 山鹿素行の国体論の第一の要点は、神器論(天皇のあるべき姿を論ずる)である。

 

「玉は以て温の徳を表すべく、鏡は以て致格*のを表すべく、劔は決断のを表すべし。その象(かたど)るところやその形(あら)わすところは、皆天神の至誠なり。」(中朝事実)

 

*致格(格致)は「格物致知」の略。『礼記』大学編の一節「致知在格物、物格而知至」に由来する。格物窮理とも言い換えられ、事物の理を探求する行為。

 

つまり三種の神器は天祖天照大神真心を象(かたど)ったものであるとし、鏡・玉・劔を、知、仁、勇の三徳の象徴と見る。これは儒教的解釈である。

 

「三器は天神の功器である。(それらに)三徳の全てが備わっている。聖主がこれを用いて、内はその睿心(えいしん、天子の考え)を鑑み(鏡にうつしてみる、前例に照らして考える)、外はその治教(政治と宗教)を制する。それ乃ち神代の遺勅か。もし専ら三器を擁して内に正しくなければ、則ちそれは虚器であり、霊用なし。もしただ性心を弄(もてあそ)び、外を知らなければ、則ち雕(ちょう)空にして神器なきなり。」(同上)

 

則ち「我が君主たるものは、神器に現れた天祖の真心を以て、その御心(自分の心)をさらに磨き、外に対しては治教の範ともせねばならない」という。明治大帝が勅語の中で「この道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして…朕は爾(なんじ)臣民と倶(とも)に挙々服膺(ふくよう、他人の戒めを心にとめて忘れない)してみなその徳を一にせむことを庶幾(こいねが)う。(「教育に関する勅語」1890年明治231030日)」と宣はせられたのは、山鹿素行が説くところを自ら明らかにしたものだろうと恐察する。つまり山鹿素行の神器論では、今までになかった皇道論や帝王学が喚起されたといえる。乃木大将が今上天皇に「中朝事実」を進献した精神もここに明らかになる。(天皇を教育したということか)

 

158 山鹿素行は日本の国体に関して次のように言っている。

 

「本朝は天下の正統である。開闢から今日に至るまで一日の廃なし。その大義を、中華もまた企て望むべからず。学校の設が久しく絶え、教化の戒諭が未だ完全ではないのに、人々はなお綱常(三綱五常。人の踏み行うべき道。)を存し、乱臣賊子が数(しば)しば起こることがない。これは武臣が権力を握り、威力を専らにするも、また正統を立て、命令を天子に稟(う)け、爵位を王朝に拝するの餘治である。その風俗は自然に醇化し、父子君臣の倫理が正しい。これは本朝の大義なり。」(山鹿語類)

 

159 我が国で道鏡や(平)将門(武士の始まり)のように時に乱臣が起こることもあったが、それは数千年の歴史を通じてわずかに一二に止まるのであり、国民の心にはつねに五倫五常の大道が存している。これは皇位の絶対性が古来いささかも動かされずに今日に至った所以であるという。武臣が権を握り威を専らにしたことは我が国の歴史でたびたびある。これは源頼朝が征夷大将軍になった時に始まり、源氏の後の足利・徳川の二氏がまた征夷大将軍に任ぜられた。その他、藤原氏が摂政となり、秀吉は関白と称した。しかしそのどの場合も彼らの上に正統の天子が厳として在(お)はしまし、武臣の権も威も一に天子の命によったのであります。(どうかな)いついかなる場合にも我が国最高の御存在は正統の天子に在はしまし、天皇の御地位は常に神聖かつ絶対であります。わが国では、畏れ多い言い方でありますが、仮令(たとい)実権・実力の上で朝廷を凌ぎ奉る者があったとしましても、皇位は一指をも染めることが許されません。命令を天子から受け、爵位は朝廷から拝し、君臣の分は常に明らかであります。

 支那においては放伐――すなわち実権・実力の所有者が武力でもって当今に取って代わるということが、殆ど歴代の王朝交代の実相であった。その他世界のどの国家でも放伐の形式による王朝の更迭がない国は一つもない。武力による国体の変革を易姓革命(姓を易(か)え、命を革(あらた)める)というが、このようなことが決してあり得ないわが国では、皇室に姓の必要がない。我が皇室は日本に、いな世界に、唯一無二のものであり、カロリンヂアンでも、ブールボンでも、スチュアートでも、ホーヘンツオルレルンでも、ハブスグルグでも到底及ばないのであります。それはまさしく「天壌と共に窮(きわま)り無き」唯一の絶対なる一系であります。そしてそれを山鹿素行は過去の伝統の餘治とし、自然の、何らの巧みなき国民的信念となってきたという。

もとより我々は言説を尽くし、理論を究め、我が国体を擁護することができ、かつまた実際に現に見ている(現今の)国体擁護者がいるが、これらの言説理論の奥底にあるものは、一の抜くべからざる信念である。言説理論はこれ(この言説理論)に優るそれら(言説)によって破ることができる。そのことは哲学史が雄弁に語っている。もちろん優れた言説理論の生命は長いが、それは程度の相違に過ぎない。これに反して信念は牢固として抜くことができない人間の霊的生命である。この故に信念に生きた幾多熱烈な信徒が古来殉教の鮮血を喜んで流した。仮に人間の精神機能を知情意に三分して考える心理学説が正しいとすれば、人間を動かしている、諸種の行動に出させる大きな動機は、知よりも情意ではないかと思われる。そして信が、ある学者が言ったように、絶大なものに対する絶対帰依の感情であるとすれば、信念が人間の行動に対して大きな力をもっていることはよく理解できる。我が皇室の絶対性は、我が国民の信念であり我が皇室中心の思想は、実に思想ではなく、我が国民的宗教なのであります。(著者の本心を吐露したものと思われる。恐ろしい狂信。)

163 山鹿素行の日本主義に注目されたい。山鹿素行が『聖教要録』を著して宋学の性理説を論難したことが、再度の赤穂行きの原因となったが、この時の山鹿素行の心中に起こった転向の次第は次のようである。

 

「恒(つね)に蒼海(大海)の無窮なるを観(てい)れば、その大を知らず。常に原野の無畦(あぜ、ケイ)に居れば、その広(さ)を識らず。これ(は)久しくして狃(慣)れるからだ。(このことは)どうして唯に海野のみならんや。愚(私)は中華文明の土(土地、日本のこと)に生まれ、未だその美を知らず。専ら外朝の経典を嗜(たしな)み、謬謬としてその人物を慕う。なんぞそれ放心なるや。なんぞそれ喪志なるや。そもそも奇を好むや。将(は)た(ひょっとして)異を尚ぶか。それ中国(日本)の水土(水と土地)は、万邦に卓爾(たくじ、傑出)し、人物(は)八紘に精秀たり。故に神明(天照大神)の洋々たる、聖治の緜緜(めんめん、綿々)たる、煥乎たる(光り輝く)文物、赫乎たる(輝く)武徳(などは)、以て天壌に比すべきなり。今年の冬十有(加えて)一月(11月)皇統の実事を編し、令して児童をして誦してその本を忘れざらしむと爾(しか)云う。(うんじ、以上)

 

龍集(一年。多く年号の下に記す語。)己酉                                     山鹿高興謹誌

(中朝事実自序)

 

164 ここで「中華文明の土」とは我が国を指す。山鹿素行は「初めは支那の学問を唯一の学問と思っていたが、これは大なる誤りであった。我が国には卓越した人物がいる。神明(天照大神)がいる。聖治がある。文物と武徳がある。これらは天壌にも比すべきである」とし、翻然として外尊内卑の非を悟った。その後彼は日本主義に終始した。「中朝事実」の付録に次の一文があるが、素行の日本主義を窺うに足りる。

 

165 「蓋し我が土にいて、我が土を忘れ、その国で食べて、その邦を忘れる。その天下に生まれてその天下を忘れる者は、なお父母に生まれて父母を忘れるが如し。豈にこれ(は)人の道ならんや。ただ未だこれを知らずは、己にあらず。付会牽合(ふかいけんごう)して、我が国を以て他国となすものは、乱臣なり、賊子なり。」

 

我が国の共産党員たちは果たしてこの文字を知るでありませうか。

 

感想 2022211() これは共産主義の文献も読みもしない自己中の情緒的批判である。人が自分の生まれた国を愛することは、共産党員でも知っている。その愛は自分だけに当てはまるものではない。他人も他人の国を愛することが、自分が自分の国を愛することと同じであるということに、自己中愛国主義者の著者は気づいていないようだ。

 

 

第九章 会澤正志

 

一 尊王の風潮

 

166 会澤正志(正志斎、せいしさい、17821863、学者・思想家)の名は、字は伯民憩齊と号し、恒蔵といった。水戸の人で、水戸学の大成者の一人である。水戸藩祖の(徳川)頼房は、神道を深く信仰し、二代目の光圀(義公)は彰考館を開いて大日本史編纂を企て、それ以来水戸藩では皇室中心の学的伝統(水戸学)が形作られた。会澤正志は水戸第九代齊昭(烈公)の儒臣であった。

 

 会澤正志の師は藤田東湖の父藤田幽谷である。藤田幽谷は寛政三奇士の一人蒲生君平と同時代で、二人の間には交際があった。蒲生君平は会澤正志を見て、「この児は深沈・卓識である。後日藤田氏の学を伝えるだろう」と言ったとのことだ。藤田幽谷の子の藤田東湖も「弘道館記述義」を著し、尊王の道を鼓吹した。

 

 その他同時代の人に、史学に詳しい豊田天功がいる。政学の藤田東湖、経学(四書五経を研究する学問)の会澤正志、歴史の豊田天功の三人が水戸学を大成したと言われている。

 

 会澤正志は大義名分を明らかにしたばかりでなく、孝心が厚かった。文化元年に父が没し、その6か月後に母も没し、彼は三年の心喪に服した。また彼は死ぬまで一度も主君の方を後にして寝なかったという。「忠臣は孝子の門に出づ」とは真であります。

 

168 会澤正志の著書に「下学邇言(じげん、卑近でわかりやすい言葉)」、「廸彛篇」(てきいへん、廸は「みち」、彛は「法則」の意)、「草偃和言」(偃草(えんそう)は風が草を吹きなびかせるように、君子が人民を感化すること)、「新論」などがある。「新論」は忠孝道徳のテキストと言われた。当時は天下の志士の間に尊王論が喧しく、「新論」は彼らに深甚な影響を与えた。

 

 

 会澤正志の国体論に入る前に、我が国の尊王論の歴史の大略を述べる。

169 尊王論の勃興と言うと徳川末期を想起するが、思想としての尊王論は神代からあった。八百万神の神話がそうである。

江戸時代の尊王論は我が国体の重視だけではなかったと考えられている。江戸時代の尊王論の特色は、神道、国史、朱子学などの自覚的研究に基いて立てられた国体観念の学的主張にあると私は考えている。この意味での尊王論開拓の祖は儒学の鼻祖(元祖)と言われた藤原惺窩(せいか、1561--1619)である。彼は儒学と神道との一致調和を図った。徳川時代における神道の学的研究は彼に端を開いた。

 

 この思想を承けてさらに神道研究の気運を醸成した人に、その門人の林羅山堀杏菴(きょうあん、1585--1643)がいる。この学風は水戸に伝わって水戸学を形成する原因となり、尾州(尾張国)に伝わって徳川義直の「神祇宝典」、「類聚日本紀」となり、水戸学に対する尾州藩の尊王論を生み出した。そして水戸侯頼房は神道の熱心な研究者だった。

 

170 南朝正統論は光圀だけの主張であったのではなく、元禄前後の一般的思想であった。林羅山とその子の林鵞峰は、熱烈な南朝支持者であった。

 加賀藩主前田綱紀は、光圀より少し遅れて出た人だが、光圀が湊川に楠木氏の碑を建てるよりも前に、明の亡命者朱舜水に、その(楠木氏の)賛を選ばせ、狩野探幽の「楠公父子訣別の図」に題をつけさせた。湊川の楠氏表忠碑の裏にこれが刻してあるから、光圀の建碑は、当時の南朝論、従って楠公崇拝論の代表的な計画だったと言える。南朝尊崇(尊敬)の対象である楠公賛美は、皇室尊崇の念の一つの現われであるが、さらに進んでは、建武中興を規範とする明治の王政復古の理想でもあった。

 

171 その他、山鹿素行、山崎闇斎、熊沢蕃山、貝原益軒などの学者は皇室の尊厳、国体の卓越を説き、内外尊卑の別を明らかにした。熊沢蕃山(くまざわばんざん1619-1691)は理想としての王政復古を唱え、ついに幕府の忌諱に触れ、後の半生を幽居の中で過ごした。

 

 この気運に誘われたのが国学であった。それは国史、国語、神道の研究によって学的に国体を闡明にしようとする学風である。これには賀茂真淵、本居宣長、平良篤胤(あつたね、1776--1843)などが輩出した。

 

172 その他、儒学の見地に立って国体論を主張する傾向を継いだ者に、山崎闇斎の弟子の浅見綗齊(けいさい、1652—1711)、三宅尚齊神道の立場に立って国体論の主張者となった者に、同じく山崎闇斎の垂加神道の流れをくむ玉木葦齊がいる。後に熱烈な尊王論を唱えて投獄された竹内式部(たけのうちしきぶ1712-1767)は後者の、山縣大貳(だいに、1725--67)は前者の流れを汲む。

 

 時代の動きはますますこの方向に進み、高山彦九郎、蒲生君平、頼山陽などが出てきて、いよいよ熟した。藤田幽谷、藤田東湖、会澤正志は、尊王論史上のこの位置にある。尊王論の究極は、王政復古、幕府の存在の絶対的否定である。

 

 

二 会澤正志の国体論

 

173 会澤正志はその国体論の中で忠孝を説くが、これは水戸学そのものに共通である。会澤はその『草偃(えん)和言』の中で次のように述べている。(神器論)

 

「人倫に五品あるが、そのうちで大きなものは君臣父子であるから、忠と孝は百行の本である。昔天照大神が天位を皇孫に伝えて三種の神器を授けたときから、皇統は正しく、日嗣が変わらない。これこそ君臣の大義が明らかであるというべきである。(三種の神器絶対説)また三種の神器の中でも殊に宝鏡を天照大神がお持ちになりながら「我を見るが如くすべし」とおっしゃった。天孫は天祖の遺体であり、天祖を祭るとき、神鏡に映じるお姿は、則ち天祖の遺体が鏡の面に現れるのだから、日神(天照大神)の御形は今も九重にいらっしゃり、常に天祖に仕えまつらせ給ふなり。だから天孫は御世御世に天祖に孝行を尽くし、(そのことは)千万世といえども変わらない。父子の親(しいこと)が厚いことが、これよりも盛んということはない。」

 

174 会澤は齊鏡の詔勅の中に、人倫五品の大義である忠孝の教えを見出す。これは光圀以来の水戸学の伝統である。

 

 君臣論 会澤の「廸彛篇(てきいへん)」によれば、次のとおりである。

 

「神州(日本)は天祖が三種の神器を伝えて、君臣の分が定まり、天地が開闢した時から、一姓歴々として天日嗣が変わらず、今日に至るまで、天祖の遺体を以て臣民に照臨されているから、君臣の分は天地と共に易らず、臣民の祖先は往時(昔)歴朝の仁沢(じんたく、思いやって恵む)に浴した。今日の至尊(天子)はまさしく天祖の正胤(後継)であり、天祖と同体である。(このことは)天祖とともに始まった大義であるから、天地がある限り、易ることがあるはずがない。これを君臣ありといふ。

 

175 第一章で国体の意義の実質的方面の一つとして建国の事情について述べたが、会澤正志がここで説いていることはまさにそれである。すなわち、会澤正志は天孫の降臨を、天地の始源、国民生活の発端と解釈する。天孫降臨の勅語に含まれている君臣の分国体の大道は、我が国の存在理由であり、これなくして我が国は到底存在しえない。反対にこれある限り、すなわち神勅が示した国家機構が原理であり不動であるかぎり、我が国は永遠に存続してゆくでありませう。会澤は「下学邇言」で以下のように言う。

 

176 今日の日月は即ち太初の日月なり。今日の皇統は即ち太初の皇統なり。(今日の皇統は)もともと天壌と並び存在し、未だ嘗て革易せず」

 

何たる気魄でありませうか。また何たる光焔(えん、炎)でありませうか。(ここには)世の軽薄児(共産党員)をして後ろに瞠若(驚いて目を見張ること)たらしめる慨があります。また同書に以下の文字が見えます。

 

「神州(日本)は万国の元首なり。皇統は二あるを得ず、万民を以て一君を奉ずる。その義は臣子の分を尽くすことにある。…それ、道は天に(から)出る。既に天地の大道を見れば、則ち必ず一君二民の義を知る。苟も一君二民の義を知るならば、則ち万国の元首が二あるべからず、万民が一君を奉ずる国が二あることはあり得ないことを知る。また天胤(後継)は必ず移すことができず、万国の易姓(革命)がないことがあり得ないことを知る。即ちこれは天地の道であり、勢いそうならざるを得ない。」

 

177 一君二民論、一君万民論は会澤正志の国体論で注目すべき点である。これはもともと周易に見える説であるが、会澤はこれに日本的内容を盛り込んだ。我々はこのあたりに明治維新の力強い主動力を認めることができる。(世界制覇か。恐ろしい。)

 

感想 深作安文によれば、この会澤正志の考え方が明治維新に引き継がれたとのことだが、恐ろしく自己中の考え方である。島国ならではの思考パターンなのだろうか。

 

 

 

第十章 本居宣長

 

感想 2022213() 本居宣長の天皇観185 天皇は血筋が継続すればどんな馬鹿な天皇でも、どんな恐ろしい天皇でも構わないらしい。とにかく継続が第一のようだ。(万世一系)

 

一 国学の勃興と宣長

 

178 徳川時代の国学者の国体論になって初めて「本来の」国体論、真に日本主義に基礎を置いた国体論が生じた。この意味での国学の鼻祖は寛文1661-72、延宝1673-80のころ、将軍家綱の時代に生まれた下川辺長流である。下川辺は大和の人で、古事記、万葉集、古今集、伊勢物語などの研究をした。水戸光圀は下川辺を招聘しようとしたが、彼がそれに応じなかったので、光圀は彼に手紙で万葉集の注釈を著すようにさせ、下川辺もこれには応じたが、完成しないうちに没した。

 

179 下川辺長流の友人に摂津の人で僧侶の契冲がいた。光圀は契冲に万葉集の注釈の完成を命じた。契冲は「万葉集代匠記」を著し、光圀に献上した。契冲にはその他に「古今集餘材鈔」「和宇正濫(らん)鈔」「勢語臆断」等の著書がある。

 

 下川辺長流や契冲についで、京都に、国学隆盛の先駆となった荷田春滿が現れた。荷田春滿の弟子が賀茂真淵である。賀茂真淵は「契冲田を開き、先師(荷田春滿)之を耕す。皆未だ功を畢(おわ)らず」と称し、自らを「収穫者」に任じた。賀茂真淵は国学や和歌で業績を上げ、彼を慕ってくる人が三百人に及んでいる。

 

180 その一人が本居宣長である。宣長は伊勢松坂の人で、通称を舜庵といい、後改めて中衛といい、また鈴の屋と号した。宣長は書斎の柱に赤い紐で36個の小鈴をかけ、気が鬱し、神の倦むごとにこれを振り鳴らして心の鬱を散じたとのことである。宣長は古書を渉猟し、国学、国史、律令、記録、歌書、物語などに通じた。その著「古事記伝」四十九巻は彼が三十五年間の心血を傾けたものであるが、これは賀茂真淵が指示したものであった。

 

 宝暦111761年、真淵が松坂を訪れた時、宣長は旅宿に真淵を訪ね、国学について問うた。その時真淵は「自分には年来古事記の注釈を著したいとの念願があったが、この老齢では達しがたい。春秋に富む御身が自分に代わって是非これを大成してくれ」と宣長を激励した。これは宣長もかねて心にかけていたことだった。真淵はそのときアドバイスをした。「古事記の注釈を著すには準備が要る。全く漢意を離れて古の真意義を捉えねばならない。それには我が国の古言の研究、語源の吟味が必要である。それにはまず万葉集から入らねばならない。」と言った。宣長の「古事記伝」は国学・神道学の憑拠(ひょうきょ、拠り所)として今でも重視されている。晩年宣長は紀伊侯の召に応じて仕官したが、幾ばくもなく任を辞して京都で学を講じたところ、台閣(中央政府)の貴紳数百人がその学風を慕って来たとのことだ。享和元年1801年、宣長は松坂に帰って没した。72歳だった。

 

 

二 本居宣長の国体論

 

182 敷島の大和心を人問はば

朝日に匂ふ山桜花

 

これは宣長が61歳の時の自画像に認めた賛である。今日に於きましては、国華としての桜の意味など、学童すらも知る国民的常識でありますが、この花にこれだけの意味を初めて与えたのは宣長である。この歌は61年間の孜々(しし)たる研究沈潜の末に、この稀世の碩学が到達し把握した日本精神の本質を表現したものであります。

 

183 宣長の国体論はこの日本精神の上に築かれたものであり、純日本主義というべく、我々の心に迫って来る。

 

 宣長の国体論の初めに神道論が出てくる。宣長の神道論については北畠親房の章ですでに触れたが、宣長は神道に関して「直毘霊」の中で次のように言っている。「直毘霊」は明和81771年、宣長が42歳の時に、古事記伝の序文として書かれたものである。

 

「そもこの道(神道)は天地のおのづからなる道でもなく、人が作った道でもなく、この道は、畏るべきや、高御産巣日(たかみむすび)神の御霊によって、神祖伊邪(弉)那岐(諾)大神・伊邪(弉)那美(冉)大神が始め給いて、天照大御神が受け給い、保ち給い、伝え賜う道である。この故に神の道とは申すぞかし。

 

*天之御中主(あめのみなかぬし)神、高御産巣日(たかみむすび)神、神産巣日(かみむすび)神の三神は、古事記で、天地開闢の時に最初に生まれたとされる。宇宙の起源とされる。

 

184 天祖(天照大神)が諾冊二尊から承け、天孫に伝えたものとは、神器と神勅とその精神である。これが神の道、我が国固有の神道である。とは神勅の趣旨をそのままに体し守って行くことである。皇位継承では血統主義を取り、国家生活では皇室中心主義を取り、この地上に永遠に理想的国家を建設する(付け足しの美化)ことが、即ち神道に他なりません。後世我が神には幾多の神秘的・迷信的色彩をまとった流派が生じてきたが、これらの俗神道に対して、宣長のように解釈した神道は、純神道と言える。神が作り、神が伝えた我が国固有の国家的道義を、宣長は神道という。

 

185 宣長の「葛花」は、宣長の、皇位の不可侵性・絶対性に対する市川某の反対論に対する駁論である。これは山鹿素行の君位絶対論よりも徹底している。

 

「臣は君を諫めてもよいが、(天皇の)位を下すのは外国の悪風俗であり、大いに道に背く。武烈天皇のような大悪天皇でも、臣下がこれを下すことは(日本では)ない。陽成天皇の御代のことはすでに漢様なれば論に及ばず。そもそも外国では君臣の道が立たず、誰であれ強いものが君となる習慣であり、定まった主がない国であるから、君の私物化をいうこともあるのだろう。」

 

186 武烈天皇は仁賢天皇についで即位した人皇*第二十五代の天皇である。日本書紀によれば、

 

「(武烈天皇は)長じて刑理を好み、法令は分明である。日が曇っても朝に坐す。幽枉*必ず達し、断獄情を得る。また頻りに諸悪を造り、一善を脩(おさ*)めず。凡諸の酷刑は、自ら見ないことがなく、国内の居人は皆震え恐れる。」

 

*人皇(じんこう、にんのう)神代七代、地神五代に対して、神武天皇以後の天皇をいう。

*枉(まがる、しいたげる)

*脩(おさめる、ととのえる)

 

古事記は(武烈天皇に関して)何事も言っていない。一説に日本書紀の武烈天皇に関する叙述は、外国の暴君の叙述の竄(ざん)入であろうという。我々としても真実でないことを望むが、たとい不幸にして事実であっても、それは我が国体観念に些かも動揺を与えない我が国体観念は道理ではなく、信念である善悪・美醜の別を超越して存するところに、宗教的真理の存在がある。(居直り)「善人往生す。況や悪人をや」という点に大慈大悲の愛があるとすれば、「大悪天皇」でも、否それだからこそ、いよいよ臣下の節を尽くし奉るところに、真の忠道は成り立つ。仁治を施し給うから仕えるというのでは、救いを得たいがために信仰するというのと同じく、国民道徳の「取引化」である。この点で言を極めて「大悪天皇」とした宣長は、親房よりもさらに深く国民道徳の神髄に触れたと言える。(意味不明)

 

187 宣長が「陽成天皇の御代のこと」というのは、(陽成)天皇が病気のために日常の動作で尋常でない点があり、北畠親房が「人主の器に堪えず」と評したほどであったため、右大臣藤原基経は、天皇を二条院に移し奉り、自分の母方の従兄弟の時康親王を迎えて光孝天皇としたことを指す。

188 宣長はこれを漢様の所為、つまり基経のような者は、支那の風に倣った、我が国民道徳上の異端者であると考えた。支那の君位継承は、放伐、つまり武力主義であり、「君を私する」というやり方である。一方我が国の皇位はどこまでも名分により神聖であるべきであり、「君が君でなくても、臣は臣たるべし」というところに、真に貴い我が国民道徳の妙諦が潜む。宣長は我が日本精神、我が大和魂の根本を把握した人であり、漢様でない真に日本的なものの発見者である。ここに彼が国体観念発展史上で当然占めるべき重要な位置がある。

 

 

第十一章 平田篤胤

 

一 平田篤胤(あつたね1776-1843)略伝

 

189 平田篤胤は、荷田春滿(1669—1736、かだのあずままろ、179真淵の師)、賀茂真淵、本居宣長らと共に国学の四大人と言われる。平田篤胤は秋田藩士で、父を大和田祚胤(そいん)という。祚胤は篤胤が八歳の時に「もし孔子が日本に生まれていたら、必ずや支那のことは学ばないで、日本の学問をしていたであろう。お前は日本で生まれた以上、日本のことを学ばねばならぬ」と教えたそうだ。(この仮定自体が屁理屈である。中国の学問を否定せよということか。)

190 後年篤胤が(日本の)古学古道を極め、皇道を宣揚したのは、ここに由来するのではないか。篤胤はその後母に別れ、継母のために難儀し、20歳の時江戸に出たが、江戸近くの渡し場で路銀が絶え、船頭に無賃で渡してくれと頼んだが断られ、泳いで渡ろうとしたところ、船頭が渡してやろうと言った。ところが篤胤は「一度乗らぬと言った以上決して乗らない。お前も男なら一度断った以上どんなことがあっても前言を翻すな」と言って泳いで渡ったという。

191 江戸では車力、消防の人足、俳優――当時は河原乞食といって軽んぜられていた――になろうとし、炊夫までして傍ら勉強した。26歳の時宣長の古事記伝を見て感奮し、古学を志し、伊勢松坂の宣長を訪ねた。これは享保元年1716年のことである。ところが篤胤の気風は門弟と相容れず、同輩に憎まれ、宣長の講義を一度も聞くことができなかった。

192 後に宣長の子太平から宣長の肖像と自作の桜の笏(右手に持つ細長い板)をもらい、「一度も講義を聞かなくても、自分は正真の弟子であり、宣長も弟子として遇してくれた」と称した。

 

 篤胤は宣長の死後江戸に帰り、学を講じ、惟神(かんながら、神道)の大道を究め、盛んに儒仏二教を攻撃した。その代表的著作に「古史成文」「古史徴」がある。篤胤はこの二書を仙洞御所(太上天皇の御所。院の御所)に献じ、また乙夜(いつや、本来9pm—11pmをいうが、「乙夜の覧」として天皇が書を見ることをいう)の覧にも供して、献感に叶った。そして篤胤はこの時「天覧献感」の文字を印に刻んで使うことを許された。この二著は我が国古来の神道を主張し、儒仏二教に論難を加えた。篤胤はさらに幕府を罵り、王政復古を唱導した。それが著書「大扶桑国考*」の主張である。

 

*扶桑とは昔の中国で太陽の出る東方の海の中にあると言われた、葉が桑の木に似た神木。太陽。日本。

 

この書は幕府の忌諱(きい)に触れて絶版を命じられ、篤胤は江戸を追われて秋田に帰った。篤胤は

 

青蠅の空を飛ぶよにはつる身の

面を照らせ玉鋒(ほこ)の道

 

*玉鋒とは道中

 

の一首を残して江戸を去った。

 

193 篤胤は政治的に強い実際的な力を発揮した。幕府が思想に対するに力を以てするようになった以上、その運命もすでに傾き始めたと言わねばなりません。(共産党員弾圧など、このことは自らにも当てはまるのではないか)誤った思想や危険な思想は、正しい思想や穏健な思想によっての外抑止することはできませぬ。これに対するに政治的あるいは権力的の弾圧を以てすることは、結局思想上の敗北であります。

 

194 秋田に帰った篤胤は天保141843年、68歳で郷里で没した。維新の際に秋田藩が順逆を誤らなかったのは、彼の古道学の感化によること少なからぬものがあったのである。

 

 

二 平田実篤の国体論

 

 国学者の国体論は純日本主義に基づく。平田篤胤は純日本的なものつまり大和心を「古道大意」において次のように説く。

 

「(四書の)『中庸』に、『天の命をといい、性に率(ひき)ふ(従う)ことをといい、道を修めることを教という』とある。この意味は人間として生まれると、生まれながらにして仁義礼智のような真の情が自ら備わっているが、これは天津神が賦下したものであり、これを人のという。この性の字は、『生まれつき』と訓(よ)む。それほど結構な情を天津神の御霊によって生まれながらにして得ている。それなりに偽らず、枉(ま)がらずに行くことを人間の真のという。またその生まれながらにして得た道を、邪心が出ないように修し、斉(ととの)えて、近くたとえるならば、御国人は自からに武(たけ)く正しく直に生まれつく(生まれながらにしてそれらの特性を持っている。)これを大和心とも、御国魂ともいうのでござる。」

 

これは仏を究めて仏を排し、儒を究めてこれに囚(とら)わ)れず、以て外国崇拝の卑屈な考えを一掃して日本精神を高潮するものである。ここでの平田篤胤の『中庸』の句の引き方は、儒学者の態度とは全く異なる。大和心の特質は「武(たけ)く、正しく、直に生まれつき、」しかもそれは天津神の御霊によって生まれながらにして得たものだと言う。我が国民精神の特質は、山鹿素行の武士道の規定や国学者の大和心の規定によって、次第に明らかになってきた。

 

196 次に神国の意義について、同じく「古道大意」で、平田篤胤は次のように述べている。

 

「その神勅は空しくない。皇孫邇々(瓊瓊)芸(杵)尊(ににぎのみこと)から当今様まで、唯一日の如く御代を知らし食(めし)て、その御付属なされたる神々の御子孫とても、今もってその如く、連綿と御続きなされて、その末々が世に広がり、また世々の天子様の御末の御子だちへ、平氏や源氏などを下されて、臣下の列にもなされたるが、その末の末が増え広がって、ついつい御互いの上となったもので、なんと此の訳じゃものを、御国は誠の神国であるまいか。なんとお互いは誠に神の御末ではあるまいか。」

 

197 これは北畠親房の神国論をさらに一歩進め、その核心に触れたものということができる。何となれば、君民同祖を説いているからである。「神は人なり」の解釈に従って、家族の延長である我が国体の特質を力説し、この故に我が国は神国なりと断定する。

 

 最後に平田篤胤の天子という文字の純国学的解釈について述べる。これは牽強付会の嫌いがないでもないが、国学者の国体論の特色をよく現わしている。

 

「さて皇孫邇々(瓊瓊)芸(杵)尊(ににぎのみこと)は、まず筑紫の日向の高千穂の峰に御天降遊ばされて、大宮所となるべき処をお尋ねなされ、吾田の笠挟の御崎なる長屋の竹島という処を都となされて、天の下を所知食(しらしめし)たのでござる。ここにおいて国津神たちは、いずれもいずれも、皇孫(の)命(みこと)を天津神の御子と申して、畏(かしこ)み仕え奉られ、これより致し、世々の天皇を天津神の御子と申すことになったのでござる。右の訳故に天子と唱え申すは、字音にてもとより漢語であるが、この天津神の御子と申し上げる御称(となえ)によくかなっている言であり、実に天子と称えるべきものは、我が天皇に限ることであり、それについて諸越(諸外国)の王を天子ということが当たらない訳は、漢学の大意に論弁いたすつもりである。」

 

天子はもともと漢字であるが、それに従わず、天津神の御子であるが故に天子というとは、よほど穿った説であるが、平田篤胤の国体観念がいかに純日本的なものであったかを知るに足る。

 平田篤胤のこの天を突くような意気のこもった論理や文体は、いかにも痛快である。この調子で平田篤胤は幕府への攻撃をビシビシやったのだろう。幕府の当路者の苦々しい顔が偲ばれる。

 

 

三 結語 

 

200 以上述べた人々は国体観念の諸々の型を代表している。国体観念の実質的・歴史的意義が国体観念そのものの生命や核心であるとすれば、これらの人々こそ、我が国民生活の歴史において最も高い功績と最も深い意義とを記念されるべきである。

 

 現代我が国民精神生活史上で第二の危機に面している。第一の危機は我らの祖先の明晰な国体観念によって乗り切ることができた。今第二の危機に臨んでいる。その歴史的責任は一に我々の双肩にある。

 

 私は以上述べた通りの美しい伝統に培われた我が国民が、必ずや挙って国体擁護の聖戦に参加し、万邦に卓越する我が国体の存在を永遠ならしめるであろうことを信じて疑わないものであります。次に第二の思想的危機たる現代の思想状態、特にマルクス主義と呼ばれるものの内容を検討し、その対策を述べる。

 

 

 

感想 2022215() 国学者の国体論は純日本的である。純日本的とは一切の外国思想を排斥する恐ろしい自己中の極致を意味する。著者の念頭にある国体論は国学者の国体論であるようで、それが昭和30年代を代表する国体論だとすれば、戦前の日本を蔽った思想状況は、恐ろしい自己中の思想だったと言わねばならない。

 

 

 

第二篇 思想問題

 

 

感想 著者は労働者の窮状に対するマルクスの同情を、たまたまマルクスがそうであったユダヤ人という人種的観点から説明しようとする。著者はあくまでも人種や民族に関心があるようで、普遍的人間として労働者の窮状に同情しようとする視点が欠けている。228

著者はマルクスの剰余価値説を含む経済学ではなく、むしろその弁証法や唯物論を批判の対象にしたいようだ。その方がマルクスを批判しやすいのかもしれない。

著者は弁証法批判の中で、ヘーゲルや、ヘーゲル左派Young Hegelianで唯物論者のフォイエルバッハに言及するが231、弁証法はヘーゲルのころに初めて生まれたものではなく、プラトンの対話的論証法を起源とする長い歴史に支えられている。

著者はマルクスの労働価値論に触れず、労働価値論の系譜の中でマルクスを遡るアダム・スミスやデイヴィッド・リカードなどにも触れない。

 

 著者が説明するところのマルクスの剰余価値説は間違っている。著者は「原材料費」、「労賃」、「儲け」などによって商品価格が決まるとしている241が、マルクスは『資本論』の中で、商品価値は労働時間によって決まるとしており、恰も合法的な「儲け」という発想はない。『資本論』におけるこの「儲け」に相当するものは、使用価値としての労働力商品=労働者から、労働者の生活維持に必要な交換価値としての労働時間を上回る労働時間の搾取である。

 

共産党宣言1848の中の個々のスローガンは時代が変わっても変わらない不変のものではなく、時代と共に変わり得るものであるが、その精神は生きているのではないか。共産党宣言の80年後に宣言の個々のスローガンの揚げ足を取るのはいかがなものか。242

マルクスが宗教を批判したことは著者の指摘のとおりだが、マルクスが「精神や道徳の価値を否定した」とするのは揚げ足取りではないか。それは唯物論や物質主義の間違った解釈である。261

 

著者はその国体論では出典を明らかにしているが、批判の対象とするマルクス主義の文献では出典を示さない場合がある。著者は堺利彦や幸徳秋水による邦訳『共産党宣言』を参考にしているはずだが、それを明記しない。

 

著者は保守層の囲い込みを目論み、マルクス主義文献の中で、事情を知らない人が一見して感情的反感を持つようなことをあげつらう。

 

・国家の消滅246, 269

・共産党宣言の十か条243

・第一インターナショナルの決議箇条244

 

著者は経済的にゆとりのある人の立場に立つ261。著者は労働者の惨状を理解しているようなことを言うが、それは経済的にゆとりのある人の貧窮者に対する同情的なまなざしであり、貧窮者の側に立つものではない。だから問題の解決策を提案する場合でも、ピントの外れているものばかりであり、読んでいて時々滑稽に思えることがある。労働者が一株株主になるとか、資本家が1日でも労働者の仕事をやってみるとか、親が子供を優しく育てればマルクス主義に向かう子供はいなくなるとかである。

 

 

要旨

 

第一章       外来思想概観

 

205 私がここで問題とする外来思想とは、外来思想一般を言うのではなく、明治維新以後に我が国に入ってきた思想の中でも、国体に関する限りで日本的でないものを言う。明治以後今日まで我が国の思想界は目まぐるしい変化を経てきたが、特に政治、経済、社会思想の変遷は甚だしかった。尤もこれは日本だけでなく世界一般の思想界でも言われることであるが。

206 社会主義は一時その言葉を口にすることだけでも恐れられた時代があったが、現在では社会主義ばかりでなく、それ以上に突き進んだ主義を標榜する政党すら「公認」されている。社会主義の中にも相異なった流派があり、その定義は難しい。

 

 民主主義的思想は四種に分類できる。即ち政治的、社会的、産業的、国際的のそれである。政治的民主主義とは、政治において民衆の意志を主とすべきであるという思想である。今日の米国はこの主義が最も強く働いている国である。

 

207 この民衆意志本位の主張を社会的生活へ導くと社会的民主主義、いわゆる社会主義Socialismが生じる。社会主義は社会生活における一切の不平等を除去しようとする主張であり、その論拠は、人間の平等性と人格の自由性である。人間は生まれながらにして平等であるが、現実の社会には種々の階級があり、その階級には種々の特権がある。これは不合理であるから一切の階級と特権とを除去し、平等・無差別の社会をつくり、各人の生存上の機会を均等にすべきであるという。

208 社会主義の主張の根拠は、人間の平等性と人格の自由性であるが、すべての人間は生まれながらにして必ずしも平等ではない。したがって人間の平等性を論拠とする民主主義的思想をそのままに受け入れることは到底できない。(冷淡にも端から否定)

 

 しかし、民主主義的思想の根拠には平等の外に自由がある。自由と平等とは同義語ではない。両者は却って相反するとさえ考えられる。平等論を基礎とした民主主義思想は成立しえないが、自由を基礎とした限りでは必ずしもそうではない。というのは人格としての人間はどこまでも自由でなければならないからだ。民主主義思想の中で真理を包含しているものと思われるのは、「正しい」自由の観念に立脚した主張である。そして民主主義のこの方面の主張は日本でも時代と共に認められつつある。否、立憲君主国たる我が国体そのものが、最も正しい意味での民主主義的国体である。(苦しい論理)

 史家ツキディデスThucydides, 460—400BCは、ペリクレスPerikles治下のアテーナイを評して、「最も君主政治的な民主政治であった」と言っている。純粋な民主主義的国家も、その極盛時では、則ち民主政治の最も理想的な発達を遂げた時期に於いては、君主政治的特質を「多分に」帯びてくるのである。民主政治はその黄金期では君主政治化いたします。(屁理屈)

 

 第三は産業的あるいは経済的民主主義である。これはマルクスMarx1818—1883によって体系づけられ、今日資本主義に対する意味での社会主義すなわち共産主義と呼ばれている。

210 従来の産業組織は資本家・企業家を本位とし、その利益を目的としたものであるが、社会層の大部分を構成する労働階級の不幸、ひいては「社会悪」の大部分はこれに原因する。従来の組織を改めて、労働者――工場なら職工――の利益を目的とするものに変えなければならないという。

 

 以上の国内における民主主義を国際的に延長すると、国際的民主主義が生じる。世界には大小強弱いろいろの国家がある。そのおのおのは生存権を持っている。即ち地球上でおのおのの国家的存立を営む権利がある。だから相互にこの生存権を尊重し合ってゆかねばならない。言い換えれば、大国や強国は小国や弱国に向かって、征服・併合等をすべきではないという。

211 この国際的社会主義は、一に民族自決主義と言われる。民族自決主義が1919年のヴェルサイユ会議において、当時の米国大統領ウイルソンWilsonによって提唱されて以来、大戦後数回にわたって世界各国の間で開かれた軍備縮小会議の目的はここにあった。

 

しかしこの他に我々日本国民として深く戒心(用心)して面さなければならない社会思想がある。それはマルクスが学的に体系づけ、以後世界各国の社会思想に重大な影響を与えつつある共産主義と、労農ロシアが採用したボルシェヴィズムの主張である。

 

 

感想 2022218() 著者は「正しい」自由と言い、その「正しい」自由に基づく民主主義が発達すればするほど君主制に近づくなどとツキディデスを援用して述べるのだが、嘘も堂々と言えば嘘でなくなるようだ。それだけ当時は国体・君主制の前提が強制され、人々を圧迫していた時代だったのかもしれない。差別を前提とした民主主義などあるはずがない。

 だから著者は平等を端から否定する。平等は君主制と整合しないからだ。そして民族自決の民族主義は肯定するが、マルクス主義やボルシェヴィズムに対しては日本国民として用心せよという。マルクス主義は差別を否定するから、差別を前提とする君主制にとって不都合なのだろう。

 

 天皇の名の下に徳川幕府を倒して権力を握った明治政府が、その権力の正統性を担保するためには、天皇はなくてはならい存在だった。悲しい性。

 

 

第二章       マルキシズムの誕生

 

一 空想的社会主義者

 

212 いかなる思想にもそれを生む歴史的事情がある。

 マルクス主義の発生事情を知るためには、18世紀の英国の労資関係に遡ってみないといけない。当時の英国は産業的に多くの欠陥があった。工場法労働組合など産業的経営を規制するものが何もなく、飽くなき資本家・企業主の経済的貪欲が放任されていた。一般労働者の悲惨な生活状態には、実に目を蔽うものがあったのであります。(筆者は口だけ)当時の工場は通風、換気、採光などの施設に全く留意せず、極めて不潔、不衛生であった。この不健康な工場で男工は一日12時間前後の労働を強制された。彼らはこれに対して全く無抵抗で、今日的に言えば階級的に目覚めていなかった。女工の惨状も男工のそれに劣らず、その結果著しく健康を害して、遂に受胎不能に陥り、たまたま児を挙げても、弱い母胎で育ったために間もなく死ぬ状態にあった。

 

214 英国は有名な石炭産国であるが、当時は幼稚な技術と不完全な設備によって採掘したため、石炭の運搬に当たった女工は荷車の梶棒(かじぼう)を首に結いつけ、狭い坑道を匍匐(ほふく)して、牛馬の如く車を挽(ひ)いたという。まさに奴隷状態を通り越して牛馬状態にあった。さらに幼年工は人道上黙視できない状態にあった。幼年工の売買市場が開かれ、五六歳のあどけない幼児が資本家の手によって奴隷の如く売買され、日夜殆ど休養の暇もなく、激しい労働に鞭と鉄鎖で酷使された。しかも彼らに労銀が支払われず、ただ粗末な食物が給与されたにすぎなかった。これが18世紀における最も進んだ工業国英国の産業界の事実であります

 

 

感想 2022219() 大分前のことで記憶が定かでないが、『資本論』にはイギリスの労働者の窮状が書かれていたが、人身売買までされていたという記憶がない。少年の人身売買が行われていたという筆者はその出典を明らかにしていない。『資本論』第一巻第七編 資本の蓄積過程第23章「資本制的蓄積の一般法則」の中で、比喩として「白色奴隷」という表現が出てくるが、これは実際に奴隷だったというのではなく、奴隷と言えるほどひどい状態だったことを表現するためのものである。(筑摩書房『資本論』第一巻下巻445)その記述は以下のとおりである。

 

「サドラーは当時、下院で農村労働者を「白色奴隷」と命名し、一人の僧正はこの形容を上院でも繰り返した。」

 

また救貧院の記述もあり、救貧院が内職仕事と引き換えにパンをくれたようだ。(同436

 

 東大の偉い先生は国家神道のためなら民衆をごまかしても許されると考えたのだろうか。出典を示しているのは日本の国体関連の文献を除けば「共産党宣言」くらいで、その他は他人からの伝え聞きか。

 

 

215 割合に「公平な」議論をすることのできる当時のある経済学者は、「貧富は経済学上の法則に支配されるから、人間の力で貧者を富ませることはできない」といった。つまりそれは資本家や企業主の意を迎える説である。またある倫理学者は個人主義の立場から、「社会の要素は個人である。個人が富めば社会も富み、個人が幸福になれば社会も幸福になる。従って産業界では自由競争を認めてよい。政府は人民の産業経営に干渉してはならない。産業界における自由競争は個人を富ませて幸福にし、それがやがて社会を富ませて幸福にする」と論じた。これも資本家や企業主に有利な論である。

 

216 当時は工場法がなかった。工場法は19世紀になってはじめてできた。当時は労働者が団体をこしらえて賃金値上運動をすることを英国の法律は禁じていた1824年になってはじめて英国の法律で賃金値上げのための(労働)運動が許された。*

また当時の英国政府は労資問題という新しい問題に対策を講じなかったが、見るに見かねる場合は企業主を呼んで「お前の工場では労働者をあまりに酷く扱っているではないか」と忠告した。すると企業主は「無論賃金を高く払い、労働時間を短くし、退職手当を十分に出すことがよいことは私どもも知っているが、それでは収支が償わない。私どもは儲けるために企業をしているのだから、算盤の採れないことは致しかねる。もともと一私人の企業に対して政府がくちばしを容れることは果たして正当でしょうか」と論駁した。

 労働者には社会のどんな方面からも同情がなく気の毒な境遇に置かれていた。*

 

*コトバンク(日本大百科全書)では「イギリスで1833年、労働運動の結果、工場監督官制度が創設された。」とある。

吉川弘文館『標準日本史年表』では「1825年、イギリス工場法」とある。

 

*これより後のことになるが、『資本論』は労働者の窮状を指摘する人の存在について触れている。「1850年制定の工場法は専門の監視人として内務省直属の工場視察官を置き、その報告書が半年に一度議会で公表された。」(筑摩書房『資本論』第一巻上巻p. 350

 

217 産業革命は英国で18世紀末に、ヨーロッパでは19世紀に起こった事件である。これは政治革命であるフランス革命と並んでヨーロッパの二大事件と言われている。政治革命は立憲政治を生み出し、産業革命は資本制度を生み出した。産業革命はわが国でも緩い程度で行われつつある。

 

218 中世から産業革命までの間の欧州の産業、特に英国のそれは、小資本の下に手先で物を造ったので、手工業と呼ばれている。また労働が家の中で行われ、父母を中心として子息も娘も労働に協同したので、家内労働とも呼ばれている。小資本・手工業・家内労働は、当時の産業の特色であった。

 

 英国のネルソン提督が戦死した英仏間のトラファルガーの海戦1805の結果、英国は大西洋の制海権を得て、その結果外国との貿易が盛んになり、手工業で造った貨物だけでは不足となった。

 

219 1766年、ハーグレーヴスが紡績機を発明し、これに刺激されていろいろの産業用機械が発明され、これまで貨物は手先で造られていたのが、今度は機械で造るようになり、機械工業が起こった。そして大きな機械を家の中に据え付けることは不可能だから、新たに工場という建物を造って、そこで大資本の下に労働が行われるようになった。これを工場労働という。大資本・機械工業・工場労働は近世の産業の特色である。

 

220 機械工業が勃発し大量生産が行われるようになり、英国では沢山の貨物が一時に溢れ、全英国の消費能力を超過した。当時すでにゼームス・ワットが蒸気機関を発明し、汽船や汽車ができていたので、この余剰貨物をこれらの輸送手段によって英国からヨーロッパ大陸に売り出した。莫大な富が英国の企業主の手に入った。これを資本家という。当時は資本家という言葉は新しい言葉で、新しい階級を表現した。これをフランス語でブルジョワジー(有産者)という。この資本家に対して労働力という商品を賃金という代金で売りさばく「専門家」が生じた。これが労働者である。

221 労働者も当時は新しい階級を示す新しい言葉であった。これをフランス語でプロレタリア(無産者)という。

 

 このブルジョワジーとプロレタリアとは利害が反する。ブルジョワジーの方は、労働時間をできるだけ長く、賃金はなるべく安く、待遇はなるべく簡単にしたい。ところがプロレタリアの方は、その反対で、労働時間は短く、賃金は多く、待遇は手厚くしてほしい。その結果両階級の対立が生じた。この対立をマルクスは階級闘争という。

 

 こうして利害を異にする二つの階級が英国の社会で相反目するようになった。これを産業革命という。即ち産業革命は手工業が亡んで、工場組織による大規模な機械工業が起こり、その結果労資両階級が相争うようになった事実を言う。

 

222 産業革命の結果生まれた資本主義的経済組織の発達は、労資の対立をますます深刻にした。この新しい組織に立つ経済界に雄飛するには、資本の力によらねばならない。卓越した生産技術や優れた企図は、工場と機械とを利用しうる資本の力を必要とする。無資力の労働者が工場に依存する度合いはますます大きくなる。(生産手段を奪う農地の囲い込みについて触れていない。)さらに工場組織の中では企業の規模が大きくなるにつれて、労働の単位は個人を捨てて個人の群れとなり、分業の傾向が強まる。

223 スイスのある時計工場では一個の時計を完成するのに三百人の職工の手を経るという。従って労働者の「経済能力」はますます制限され、一旦工場を離れると生存が不可能になる。こうして資本家側の酷使の度合いはますます進み、労働者の惨状もますます甚だしくなった。ここに労働者の悲惨な生活状態にいたく同情し、産業制度の改善を唱える学者・思想家が現れた。

 

 政府はこの未曽有の変動に直面しても無為無策で、冷静公平であるべき学者もその本分を忘れて、金権におもねり、労働者の味方はいなかった。ここに義憤の情熱に燃える人々が勤労階級の惨状に同情し、社会の改革を叫び、現代の社会思想なるものが誕生した。

224 その主な人々は英国のロバート・オーエンRobert Owen, 1771—1858、フランスのサン・シモンSaint Simon, 1760—1825、フーリエーFrancois Marie Charles Fourier, 1772—1837、ルイ・ブランLouis Blanc, 1811—1882らの闘志である。彼らは現実の社会の惨状に目を蔽い(現状分析をしないでという意味か)、理想的なユートピアを描いた。「社会悪は貧富の差に原因する。そしてその貧富の差は、産業の自由主義、財産の私有制度の結果であるから、社会の変革はこの二つのものの撤回によって行われる。理想社会では財産の私有がない。従って資本による強制がない。各人は好むところによって共通の資本に基づく無強制の労働を楽しみ、所得は均等に分配され、老いも若きも、弱きも病める者も、等しく生活の保証を受けられる。このような生活を送ることに伴って、人間の利己心や偏見は次第に消え、人間相愛の美しい感情に浸るようになる。資本を擁することや労力を提供することが生活の条件ではなく、等しく人間であることが生活の絶対条件でなければならない。」これが彼らの主張である。

 

225 要するに彼らの主張は現実社会の悲惨な勤労階級への同情から生まれたものであり、その説の基づくところは、権利や義務や実力や競争ではなく、温かい人間愛である。これを道徳的共産主義という。人間の道徳化をその目的とするからである。彼らは憎み、悲しみ、歎き、苦しみなど一切の人間苦から自由な、相愛の一大理想郷を描いた。

 

226 ロバート・オーエンは英国のニュー・ラナークにこのような理想社会を計画した。その企ては間もなく失敗に終わったが、彼はさらに米国に渡り、九百人の同志を募ってインディアナ州に同様の企画を始めた。しかし彼は今回も失敗した。その理由は彼が現実の彼岸に、人類永遠の努力によってのみ打ち立てることのできる(実現不可能な)理想を、直接現実の此岸に築こうとしたからである。

道徳に立脚した人間の理想的社会――我々はこれに価値を認めない訳ではないが、現実の人間、現実の社会に直にこのような要求をすることは、人間性の実相に対する認識が不十分であるといえる。現実の人間はこのままでは完全な道徳の主体ではない。我々には欲求があり、そこに現実の人間の経済活動の根源がある。現実の社会改善の企ては、この人間のありのままの姿に基いて行われなければならない。人間の経済的欲求の「正しい」統制に社会政策の目的がなければならない。オーエンやフーリエーの主張は人間性に対するあまりにも楽天的観察に基づいた空想であり、オーエンの理想国建設の企てが失敗したのは当然の結果であった。カール・マルクスはオーエンやフーリエーの道徳的共産主義を空想的として斥け、「空想から科学へ、幻想から実行へ」を標榜して現れた。

 

 

二 ユダイズム

 

228 以上は社会思想史上から見たマルクス出現の論理的必然であるが、この他にマルクスを生んだ民族的理由と哲学的理由とがある。民族的理由とはマルクスがユダヤ人であったという一事であります。ユダヤ人は世界の「特殊民族」として欧州の全歴史を通じて昔から世界的迫害を受けて来た民族である。明治以前我が国にも社会の侮蔑を受けた特殊民があったが、ユダヤ人の境遇もこれと「少し」似ている。迫害に苦しむ者は、反抗に燃え立つことを常とする。ユダヤ民族の反抗心は先ず金力によってその目的を達しようとする黄金狂となって現れた。ベニスの商人は、ユダヤ民族の心情を物語っている。

229 さらにユダヤ民族の敵愾心をより正しくより高い形で代表したものが、スピノーザ、アインシュタインらの碩学である。マルクスはこれらの人々に流れているユダヤ民族の敵愾心の血潮を、最も多量に受け入れて生まれた。

 

感想 2022220() 学問的議論でこれほどまでに民族主義的要素を強調しなくてもいいのではないか。何かにつけて民族を物差しとする著者の思想的傾向の現われか。

 

 

三 哲学的発展

 

230 マルクスを生んだ哲学的理由は、ヘーゲルHegel, 1770--1831とフォイエルバッハLudwig Feuerbach, 1804--1872にある。ヘーゲルはカントの先験哲学の中に潜む唯心的部分を承けて、これを極点まで発展させた。即ちカント哲学の唯心論的あるいは観念論的方向は、ヘーゲルに於いてその極点に達した。

そもそもカント哲学は、認識の客体と主体、対象と観念、物と心など両方面のどれをも偏重しないで、これを綜合統一し、観念論と実在論の超越的綜合を目的としたが、困難点も多く、彼の著書の所々に観念論的部分も実在論的な臭味も残存している。カントの観念論的方面の発展者であるヘーゲルに対して、実在論的・唯物論的方面を代表する反対者がヘーゲル門下から出た。これを、唯心論的方面を継承するヘーゲル右党(派)に対して、ヘーゲル左党(派Young Hegelian)といい、その代表者がフォイエルバッハである。マルクスの哲学はこのフォイエルバッハの実在論と、ヘーゲルの歴史観から組み立てられた。

 

 

第三章       マルキシズム

 

一 マルキシズムの根柢

 

232 ヘーゲルの歴史哲学における弁証法(ドイツ語でディアレクティク、ギリシャ語でディアレクティケー)は、プラトンが初めてこれを用い、その当初の意味は議論や討論を意味する。当時ディアレクティケーに対して、レトリケー(修辞術)とエリスティケー(論争術)があった。レトリケーは美辞麗句や音韻法などの工夫を凝らして内容の空疎な演説をする術である。またエリスティケーは巧みに論理の過誤を蔽って対手の判断を晦(くら)ます術である。一例を示せば、「アキレス(韋駄天という渾名のあった快速の英雄)でも亀を追い抜くことはできない。アキレスが亀の位置に至った時、亀はたとえアキレスの何百万分の一の速力を持つとしても、その分アキレスに先んじているから、アキレスと亀との距離は無限に縮められても、その距離が永久に存在するからである。」この論法はエリスティケーの祖であるツエノーンが用いた。

234 レトリケーとエリスティケーは、プラトンと同時代のソフィステス(詭弁学派)によって用いられた。プラトンは、論者が相互に理解承認した確実な命題から一歩一歩と論旨を進めて真理を把握するという師ソークラテースの方法を引き継ぎ、それをディアレクティケーと呼んだ。ディアとは「相互に」の意味で、レクティケーは動詞レゴー「話す、言う、論ずる」から来た語である。ソークラテースにおいては青年の無知を自覚させるための教育的方法であったが、プラトンはこれを彼が真理とするイデアの探求方法つまり認識の方法とした。

 

 ヘーゲルによれば、歴史の過程には自ずと法則がある。歴史上のある一時代を出発点とすれば、これに続く時代はその特質において前時代の反対のものである。これは時代の中に潜む矛盾が次第に大きなり、ついに反対の時代として前時代を克服するからである。ところがこの新しい時代もまたその中に包蔵する矛盾の発展によって、さらに第三の時代に代わられねばならない。ところがこの第三のものは前二時代と全く無関係ではなく、その中に、相反した前二時代のおのおののまさにあるべき意義を生かしてこれを綜合したものである。甲がある主張を行ったのに対して、乙がその反対論を提出し、そのおのおのの批判によって、そのいずれをも含み、そのいずれでもない結論に達するというソークラテースやプラトンの弁証法的考えと同様の思想をヘーゲルは歴史観に取り入れた。ヘーゲルはこれを正律(テーゼ)、反律(アンティテーゼ)、総合律(ジンテーゼ)と呼ぶ。テーゼとは「置く、据える、提出する」という意味のギリシャ語から来ている。綜合はまた将来に対して新しい正となって反を発展させ、さらに高い合に達する。

 

236 ヘーゲルによれば、プラトンのイデアに相当する宇宙の本体はロゴス(言・論理・精神等)であり、歴史はこのロゴスが弁証法的に自己を開展させる過程であるとする。例を日本の最近世史にとる。明治維新に急進主義があった。つまり条約改正の目的を達成するためには欧州の文化を盛んに取り入れて、日本文化をその程度にまで高めなければならないとする伊藤公や井上侯らの考えであり、鹿鳴館の舞踏会もその一つの現われである。これを正とすると、これに対する反即ち保守主義の一派が現れた。谷干城鳥尾小弥太という人たちである。そしてこの二派を綜合する改進主義が大隈侯らによって唱えられ、高田早苗尾崎行雄などがその傘下に集まった。これが合である。

 

 ヘーゲルはロゴスを宇宙の根本実在としたが、これは純粋な唯心論である。これに対してヘーゲル門下のフォイエルバッハは唯物論・実在論である。フォイエルバッハによれば「在るものは人間と自然である。人間と自然よりも高級な実在とされてきたものは、実は人間の空想の産物であり、人間の個性の反映に他ならない」とする。この立場に立って宗教を論じたものが、フォイエルバッハの「クリスト教の本質」である。従来神は人間を離れた超絶的実在と解されてきたが、このようなものを一切認めないフォイエルバッハは、神を人間の中に引きずり下ろし、神は人間の所産であるとした。当時この大胆極まるクリスト教観が一世を震撼させたことは想像に難くない。造物主と信じられていた神を人間の所産としたことは、まさしく宗教史上のコペルニクス的転向ということができる。

 

 

二 マルキシズム

 

239 マルクスの哲学はヘーゲルの歴史観とフォイエルバッハの実在論の上に立った歴史観(唯物史観)である。マルクスの言う物とは、フォイエルバッハの言う人間と自然ではなく、経済的な物であり、マルクスの歴史観を経済的歴史観という。管子に「倉廩(リン、蔵、米蔵)が実れば則ち礼節を知り、衣食足れば、則ち栄辱を知る」とあるが、これはマルクスの思想に似ている。

マルクスは「歴史の推移を規定するものは、社会の経済的関係である。経済的関係が変わるとき、社会の諸種の関係組織も変化を受ける。なぜならば、政治や道徳、哲学、宗教などのすべては社会の経済的基礎の上に立てられた上部構造であるからである。これ(経済的関係の変化に伴う、社会の関係組織の変化)を革命という。従って人間の歴史は不断の革命の連続である。経済的関係の内部に矛盾が生じ、組織がこの矛盾に堪えられなくなって内部から崩れ落ちて新しい組織を生む」と説く。

 

240 マルクスはこの歴史観の上に立って、現在の経済組織を解剖・批判する。「現代は資本主義の経済制度である。生産に従事するものは資本家と労働者の二階級である。何らかの企業を遂行しようとする者は、資本によって材料を購入し、工場・機械・設備等の生産手段を、一定の報酬で雇った労働者の労働力で運転し、これによって生産された物質を商品として市場に売り出す。商品には価格がある。価格の内容を構成するものは、商品の材料、生産手段としての設備・器具などの消耗費、労働賃金と若干の「純益」である。*この「純益」は資本家の収入となるが、これはすべての生産費を価格から差し引いた残額である。マルクスはこれを余剰価値という。*余剰価値は資本家だけが独占すべきではなく、本来なら労資両側が均等に分配すべきである。ところが事実上、資本家は生産費の一部である賃金をなるべく低く抑え、これによって生ずる剰余価値を全部独占しようとする。従って彼ら資本家階級はますます富み、被抑圧階級は永遠に隷属的階級として、大勢の妻子を扶養することはおろか、自分自身の生活すらおぼつかなくなる。「これ(労働者の生活の窮乏?)」*をマルクスは搾取という。搾取はもともと略奪と訳された言葉である。ここに現代資本主義産業組織の一大矛盾がある。資本主義は今や没落して、新たな経済関係を基礎とする新たな世紀が来なければならない。即ち共産主義社会が生み出されなければならない。」

 

*マルクス経済学に関する著者の不十分な理解を示している。「第二篇 思想問題」の感想205を参照。

 

 マルクスの主張は、1847年のロンドンでの共産主義大会で発表された「共産党宣言」となって現れた。共産主義社会とは何か。その宣言書に十か条の綱領が記されている。

 

一、 土地所有の禁止。地代の公共目的のための使用。

二、 重い累進率による所得税の賦課。

三、 相続権の廃止。

四、 移民及び反逆者の財産没収。(大金持ちの移民の財産の没収ということか)

五、 大資本及び絶対特権を持つ国立銀行の設立。

六、 運輸機関及び交通機関の国有。

七、 工場及び生産機関の国有。共同計画の下に荒地の耕作と土地改良。

八、 労働の平等責任(等しく労働をしなければならないということか)、農業に関する産業軍隊の設立。

九、 農工業の連絡。田舎にも人民を分配し、都会と田舎の区別の廃止。

十、 児童の公的教育。幼年工の廃止。教育と産業との連絡。

 

つまり私有財産制度に基づく現在の経済組織を根本から覆して、共産主義の組織に改めようとする。

244 以上の共産党宣言の結びに、一段と大きい活字で「すべての国家の無産者よ、結束せよ」とある。ここにインターナショナル即ち国際的共産党の発端がある。

 

1864年ロンドンで万国博覧会が開かれた時、共産主義を信じる各国の労働者が集合したのを機会にマルクスが企てた無産者の国際的団結が第一インターナショナルである。その時の決議箇条の主なものは、

 

一、 土地、鉱山、山林の国有。

二、 運輸機関及び交通機関の国有。

三、 生産の共同経営。

四、 地代・利子・純益の廃止。

 

などである。その後、第一インターナショナルは壊滅し、マルクス死後の1889年、第二インターナショナルが、さらに1916年に第三インターナショナルが結成され、共産主義の主張は漸次「尖鋭化」してきた。

 

245 マルクスの国家観 「現代の社会を構成するものは、資本家即ち搾取階級と、労働者即ち被搾取階級の二つがある。前者はその大きな富の力で、後者に対する圧迫・搾取を一層大きくする。しかしこのような不自然で不合理な状態は永続すべきではない。やがてこの不条理に覚醒した被搾取階級は団結して資本家階級との闘争に奮起するだろう。ここに自らの搾取的地位に対する脅威を感じた支配階級は、現在のままの秩序を維持して自己の安全をはかる必要に迫られる。このようにして生まれたのが今日の国家である。国家とは強者が弱者を圧迫強制する手段である。」マルクスの協力者エンゲルスEngels, 1820—1895は、「古代ギリシャ・ローマの国家は奴隷制度を維持するための国家であり、中世封建時代の国家は貴族地主のための機関であり、近世の国家は資本家の利益擁護を目的とする制度である」という。

 

246 マルクスの国家観(続き) 「政治は経済関係の基礎の上に建てられた上部構造の一つである。この基礎が崩れる時、上部構造も自ずと壊滅するだろう」というのがマルクスの立場である。「プロレタリア解放運動の当面の目的は、ブルジョワジーとの闘争によってひたすらこれを滅亡に導くことである。下部構造(基礎工事)の覆滅を急がねばならない。こうして対立する搾取・被搾取の階級別が消滅するとき、その一方を擁護し、他方を圧迫するための機関としての国家もまた自ら亡びるだろう。」

 

 「しかし過渡期ではブルジョアジーから一切のものを奪ったプロレタリアが、各人の自由な生存発展を条件としてプロレタリア国家を組織するだろう。しかし、すでに階級がなくなった社会では、階級維持のための手段としての国家は必要でない。こうして一定の過渡期が終わった後では、国家という強制機関は全く消滅するだろう。」

 

248 マルクスの共産主義を最も「極端」な方向に発展させ、これをロシア固有の虚無主義と結合したものが、労農ロシアのボルシェヴィズムBolshevismである。ロシア社会民主党にメンシェヴイキイとボルシェヴイキとがあり、ボルシェヴィズムはこの後者の名による。ボルシェヴィズムは、資本家との一切の妥協や提携を排し、革命的手段で一挙に従来の国家組織を覆滅し、共産主義の目的を達しようとし、プロレタリアの独裁政治を実現しようとするものである。この革命理論を体系づけ、その実行的指導者となったのが、レニンN. Lenin, 1870—1924である。

 

 

第四章       マルキシズム批判

 

一 諸学者の批判

 

249 ベルンシュタイン(予言が外れたとしてマルクスを批判する後付け的批判。改良主義的批判) ドイツ社会民主党の長老ベルンシュタインBernstein 1850—は機関誌「社会民主党」を主宰した。ビスマルクの政治を攻撃して一時国を追われたが、帰国後社民党の重鎮として活躍した。ベルンシュタインによれば「マルクスの主張は事実認識の点で間違っている。マルクスは共産党宣言の中で『近世資本主義の経済制度には矛盾がある。この矛盾は新しい共産主義社会として自己を止揚するだろう。その時期はすでに至っている』と言うが、これは事実に反する断定である。近世資本主義の生産制度はマルクスが死んでから半世紀になるが、動揺しないどころか、ますますその基礎を固めつつある」(確かにマルクスの予言は外れたが、それで良いと言いたいのか。)

 

250 ベルンシュタインの第二の批判は「マルクスは『搾取階級はますます富み栄え、被搾取階級はいよいよ窮迫する』というが、事実はそうでない。労働組合の組織化や工場法の制定も見ず、労働者の団体的行動が一切禁じられていた十八世紀の英国における男女労働者の惨状は甚だしかったが、その後工場法が制定されて横暴な資本家の搾取が監視され、また一般労働者の権利や利益が保護されるようになった現在と当時を比べると、労働者階級の惨状が年と共に増大すると断定したマルクスの予見は明らかに間違っていた。」

 

251 ベルンシュタインはこの二点からマルクス主義を修正した。さらにベルンシュタインは、「マルクスはその目的を遂げる手段として革命を選ぶのだが、このような暴力行為はいかにしても許すことができない。(抑圧の度合いに応じて労働者の戦術の強弱も変わるのではないか。)我々は革命ではなく改革によって改めるべきところは改める。社会主義の将来は道徳と知識の力によって左右され、道徳を無視し知識を軽視する社会主義に将来はない。(その根拠はどこにあるのか。マルクスはどこでそんなことを言っていたのか。)マルクス主義はこの二点(道徳と知識)を欠いている。暴力革命は道徳的欠陥であり(抑圧の度合を見ない論点ずらしではないか。)、事実認識で誤るのは(工場法など将来の改良を予見できなかったに過ぎないのではないか。)知識を欠いているからである。我々は『理想主義』に基づいてマルクス主義を修正しなければならない。現実にとらわれ、現実の産業組織の不備を罵り、現実の社会の欠陥を呪って暴力革命に訴えることは戒めるべきである。」(現実の不備を批判したらまずいのか。)

 

252 日本の若きマルキシストはドイツのマルキシストによって主張される修正主義の存在を果たして知っているでせうか。

 

オイケンEucken 1846—1926の神学的マルクス批判 オイケンはフランスのベルグソンBergsonとならんで世界哲学界の二巨星と仰がれた。彼の哲学は19世紀以来の世界で栄えた唯物論的哲学を斥け、フィヒテやヘーゲルなどのドイツ古典哲学に立ち返り、「精神の王国」を建てようとした。オイケンは「社会主義の主張はマルクスのそれ(社会主義)よりもはるかに広汎である」とし、また「社会主義の理想はマルクスの示した方法とは異なった方法で実現されるべきである」とする。

「マルクスは経済事情を極度に重視し、社会改良はその経済的基礎に向かって加えられなければならないと主張したが、経済は人間の社会生活においてそれほど重大だろうか。教育、哲学、宗教、芸術は社会の『上部構造にすぎない』(マルクスはそう定義しただけなのでは)のだろうか。経済事情にだけ囚われると、社会主義の主張は『狭隘に堕する』外はない。」(意味不明)

254 次にオイケンは「マルキシズムはその理想の実現方法で誤っている。マルクスは宗教を否定した無神論者である。しかし人間の宗教心や宗教的衝動を否定することは到底できない。人は自らの弱小を意識するとき、自ずと帰依すべき超人間的存在を求める。人間は人間相互の物的関係に止まらず、自己よりも高いものとの精神的交渉によって自己の内心を浄化しなければならない。この点でマルクスの主張には間違いがある。」

 

クローチェBenedetto Croce, 1866--のマルクス批判 イタリアが生んだ大哲学者クローチェはその名著『マルクスの唯物史観と経済学』の中で、「マルクスがその批判の対象とし、議論の出発点とした資本主義的社会は、イギリス・フランスの過去においても、また西ヨーロッパ・アメリカの現在においても、事実として存在する社会ではなく、マルクスがある仮定から導いた思想上の形式的社会であった」と言う。(思想とは当然そういうものでは)英仏の近世社会思想を空想的社会主義だと嘲笑したマルクスは、自己の学説に対する嘲笑の言葉(クローチェのそれ)を後世に残した。

 

感想 2022222() このことはどんな偉大な思想家でも甘受しなければならない宿命ではないか。しかし著者のマルクス批判はここまでで終わり、マルクスの何を批判しようとしているのか不明のままである。こんな批判の仕方が許されるのか。そして著者はこのマルクスのスティグマを補強するために次のようなことを付け加える。)

 

 ベルンシュタインは「マルクスを反駁する最も有力な対手はマルクス自身である」と言っている。(これもそれだけでは何を言っているのか分からない。ただ批判したいと言っているだけ。)

 

 以上三種のマルクス主義批判は、いずれも我々が深く心して味わうべきものであります。(論拠も示されないのでは、味わうことはできない)

 

 

二 私のマルクス批判

 

256 批判とは批判対象の長所を取って短所を捨て、自らの精神を発展させることである。マルクス主義にも幾多の「許すべき点」も見当たる。その一は、搾取階級に痛烈な警告をしたことである。富は人生の手段にすぎず、富を人生の目的にすると人は堕落する。資本家がこの富を増やすという目的のために手段を選ばないとすれば、マルクスの説を取り入れて反省すべきである。(それですぐ反省するような人の良い資本家はいないのでは。)

 

257 第二の長所はマルクスがその学説を哲学的歴史観の上に建てたということである。これは経済学者としてのマルクスの特異な点である。科学はその研究対象を分析して闡明するが、その事実に関することしか扱わない。科学の目的を指示しその任務を明らかにするのは、科学でなく哲学である。マルクス経済学が今日これほどまでに世界の人々を支配している理由は、彼の学説が空想的社会主義と異なって、「ともかくも」哲学的基礎の上に立っているからである。彼の哲学は歴史哲学である。マルクスの唯物史観は、ギリシャ以前から近世までのヨーロッパの経済に対して深くて広い歴史的観察をした結果生まれた。

一方我が同胞の立てる経済政策の内には、効果が少なく全く間違ったものがあるとのことだが、それは我が国の経済事情の歴史に対して深い研究をしていないからである。特に今日では、我が経済関連の責任者は、我が国の経済史を見つめて経済政策を立てなければならない。

 

258 一方マルクス主義の短所は「あまりにも一面的」なことである。

259 マルキシズムの根柢をなす哲学的見解で、マルクスは唯物論を基礎としている。唯物論は、哲学の本体論に属する一つの立場であるが、それは物を宇宙の本体や原理とする。しかしこの立場からは精神的事実を説明して理解することができない。我々の肉体が存在するのと同じように、我々の精神も存在する。唯物論は一面的である。従って宇宙生成について唯物論は機械論を唱える。機械論は目的論と対立する。我々の精神・意識・心の「原本性」を認めない唯物論は必然的に機械論となる。

260 我々は生物学や生理学の原理によって個人の運動を無限に分析することができるが、この個人にこの運動をさせた所以のものを、機械論によっては説明できない。ここに生成の問題に関する唯物論の一面性がある。そして道徳に関しては、唯物論は物質主義・快楽主義となる。

 

 しかしマルクスの唯物論は以上述べた唯物論と全く同じものではない。彼は本体論として唯物論を説いたことも、倫理観として快楽主義を唱道したこともない。しかし人間の物質生活によって精神生活が規定されるとする彼の立場は、論理的に突き詰めると前述の唯物論になるということである。

 

261 人間の精神が物質によって影響されることは少なくないが、物質的に貧しくても精神的には富んだスピノーザのような人がいた。(物質的に貧しければ精神的に貧しくなると前提すること自体がおかしいのではないか。物質的に貧しいからこそ精神的に豊かになるとも言えるし、物質的に豊かであるほど、精神的には貧しくなるとも言えるのでは。)物質的に貧しくても高遠な宗教的理想に生きたイエスもいた。物質的に貧しくても優れた道義の心肝を貫いたソークラテースがいた。「人はパンのみにて生きるものにあらず。」人の人たる所以は、物質に生きて物質に動かされず、(物質に動かされず、全く空の中を舞っているような人がいるだろうか。)物質的窮乏の前に毅然として己の理想を失わない人に見いだされる。(「物質的に貧しくても」でなく、物質的窮乏こそがそういう毅然たる精神をもたらすのではないのか。)貪欲な一部の資本家に警告するところのあるマルクスは、実は彼らの処世訓をその哲学で支持している。(これは言い過ぎ。曲解)

 

 

感想 2022222() 著者はマルクスを脇に置いて、唯物論と唯心論との比較を一般論として展開して唯物論を批判し、その結果を敢えてマルクスに当て嵌めようとするが、それは的外れではないか。

唯心論で以て貧しく清く何でもやっていけるという論法は、経済的にゆとりのある人が採れる立場ではないか。

 

262 マルクスの唯物弁証法批判 ヘーゲルのディアレクティクは歴史を説明する一つの契機だが、そのすべてではない。地理的環境も歴史に作用するし、偉人や英雄が歴史を左右する場合もある。弁証法的論理で歴史のすべてを説明できない。(弁証法は地理的環境も偉人や英雄も含んだ上での話ではないのか。)

 仮に歴史が矛盾の自己止揚によって発展する弁証法的過程であると認めても、マルクスはこの歴史観を「考え方」として提示したものであり、「主張」として説いたものではない。すなわちマルクスは歴史を観察した結果、歴史を導く原理として彼の唯物史観に達した。現代の社会がマルクスの言うように矛盾を含む資本主義社会であり、この矛盾がいずれ革命となって「爆発」し、新たな共産主義社会が現れるとしても、これは歴史の一つの学問的認識であって、そこから「歴史はこうでなければならない」とか「世界の労働者は結束して資本家を倒せ」という「当為」は生じない。カントの言葉を借りれば、マルクスの歴史観は歴史の事実を扱ったものであって、その立場から「権利の問題」に触れるべきではなかった。事実認識と当為との間には越えることを許さない論理的境界がある。(詭弁。もちろん事実認識と当為との区別はあるが、事実に関する認識を実際に当て嵌めない理論など無意味ではないか。)

 

263 資本家の抑圧能力の過小評価 マルクスは労働や労働者を「正当以上に」重視し、他方資本や資本家を正当以下に軽視する。これは資本に関して大きな偏見に陥っているからである。産業経営上労働は重要であるが、資本の力も同様に重要である。(資本をなくしたら産業が成り立たないことは当然であるが、マルクスは資本を少数者が独占していることを問題としているだけである。ところが筆者はそういう意味で資本が重要だと言おうとしているのではなく、以下に示すように資本家の労働者に対する抑圧能力が大きいことを言おうとしている。)

264 (第一次)大戦中にアメリカで「四角ストライキ」という同盟罷業が行われた。鉱山従業員、運輸従業員、交通機関従業員、石油採掘従業員の四者が提携し、労働条件の引き上げを資本家に迫った。これに対して多くの資本家が雇主同盟を作り、解雇労働者の再雇用を拒否した。そのため罷業労働者側は「総崩れ」になった。このことは産業における資本の意義が重大であることを示している。(著者は労資紛争での資本の抑圧的な力と、産業維持の上での資本の必要性とを混同している。)

 

265 資本論批判 ――資本は搾取によらずに蓄積された―― マルクスは資本論の中で資本は資本家の搾取の結果であるとする。現代の資本家の中には「搾取階級」の名に相応しい人もいて、マルキシズムはそういう資本家への警告であるが、今日の全ての資本家が搾取者だとは思われない。(社会構造問題の人格問題へのすり替え)マルクスは(あくどい)少数の資本家の事例を全般に推し広めようとする。

仮に現今の資本家の全てが搾取者であるとして、過去の歴史を振り返ってみよう。ヨーロッパ中世の手工業時代は小資本家時代と言われている。即ち農工商の三業は小規模な組織によって行われていた。この小資本家の資本は搾取によって蓄えようとしても搾取すべき相手がいない。それは小農、小工、小商の勤勉や節倹によって蓄積された。この資本が産業革命後の資本家や企業家によって兼併(合併)されて大資本になった。(その過程が問題ではないか。)搾取によらない資本主義の経済時代があった。それを見逃したのはマルクスの事実誤認や隠蔽である。

 

 

感想 著者は中世と近代とを混同している。著者は中世の小農が搾取者ではなかったからその小農の資本を「兼併」した大資本は搾取ではないとするようだが、その「兼併」の過程が問題である。資本の蓄積は小農の土地を取り上げたことから生じ、増殖を続けた。マルクスの言う資本の蓄積は資本制生産が始まった以降のさらなる資本の蓄積の時期も指している。(筑摩書房『資本論』第一巻 下 第二四章「いわゆる原初的資本蓄積」501

 

 

266 階級闘争 階級闘争についても以上と同様のことが言える。私もマルクスが言うように昔から今まで階級対立・階級闘争があったと思う。古代ギリシャでは自由民と奴隷とが、中世では貴族と平民、組合長と労働者とが、近世では資本家と労働者とが、相対立し抗争してきたことは事実である。

しかしいずれの社会でも階級闘争と共にその融和があった。(それでは階級闘争はなかったということになるのではないか。)マルクスは「これまでの社会の歴史は階級闘争の歴史であった」、「古代ギリシャでは自由民と奴隷とが抗争した」というが、それはむしろ例外であって、ギリシャの奴隷状態は今日この語が我々に想像させるほど悲惨ではなかった。教育という語を外国語ではペダゴギイあるいはペダゴギイクという。ペダはパイダが詰まったもので、ギリシャ語のパイスつまり「子供」から来ていて、アゴーはギリシャ語で「導く」という動詞で、子供を学校に導き、かつ家庭で教育に当たった人のことをいった。そしてこの役目は奴隷が当たった。

268 マルクスは「ギリシャでは衣食の準備を奴隷が行ったので、自由民は文化創造に専念することができた」というが、これは階級闘争ではなく階級融和と見るべきだ。(そうかな。だったら奴隷という存在はいらないのではないか。)各自の長ずるところに従って業務を担当したのであるから、分業である。そして分業は融和を想像させる。ギリシャの文化は自由民と奴隷との融和・協力の結果生まれたのであり、マルクスの言うような反目・嫉視の結果とは到底考えられません。(表面的な「融和」は闘争ではないというごまかしの論理)

 

守旧的国家論 マルクスは歴史の弁証法的発展の結果、現在の資本主義社会が没落し、やがて国家は消滅すると言ったが、果たしてどうか。

269 これまでの歴史を考えてみると、「自然的過程」を経た後に国家生活が消滅すると想像できなくもない。個人から家族が、家族から氏族や大家族が、そしてさらに国家が生まれたように、今日の世界の各国・各民族を一丸として世界国家に発展するかもしれない。

しかしそのためには国語の合一や風俗習慣の混一、とりわけ国民意識の解消が必要である。それは各民族間の接触交渉が国家の形成を促進したように、各天体(地球)人の接触交渉が可能となった時に達せられる「自然的推移」でなければならない。それまでは我々の人間的生活の単位はどこまでも国家である。(マルクスも同じ考えではないか。)アリストテレスは「人間はその本性上政治的動物である」と考え、プラトンは「人として生きることはアテナイ人として生きることを言う」と言っているが、これらは人間的生活が国家的生活であるという意味である。(未来でなく古い過去を援用する保守的な考え方)資本主義的経済制度の没落が「直に」(マルクスはそんなことを言っていたのか。)国家そのものの消滅をもたらすと考えることができません。この方向でマルクスの思想を継いで祖国を無視するインターナショナルの一派が唱えるが如き世界国家が実現するには、先ず今日の「人間」概念からして本質的に変えなければならない。(保守愛好家。著者は歴史の古い、天皇を中心とする日本民族の独自性を失いたくないのだろう。)(第一次)大戦後今日までの世界各国の人民の愛国的覚醒は果たして何を物語っているのでしょうか。(民族自決主義はそれまで民族としての存在を抑圧されてきた状態からの解放をめざしたものであり、いずれインターナショナルに至るまでの過渡的段階ではないか。)

 

270 マルクスは共産社会を現実の社会に対して理想の社会として説くが、その理想的社会を実現するには先ずその手段も理想的でなければならない。優れた目的は優れた動機に基づくべきである。ところがマルキシズムは憎悪・怨恨・敵意など人間感情の最も醜悪なものを動機として、闘争や革命という破壊的手段に訴えてその目的を達しようとする。

 

感想 2022223() 筆者は何でもいいからあらさがしをしようとする。ロシア革命はロシアのツアーの非人道的圧政の反作用と考えられる。またロシアのボルシェヴィキ革命は実際はそれほど暴力的ではなかったとレーニンは言っている。その後の列国の干渉の方が問題ではなかったのか。同様に18世紀の労働者が置かれた過酷な状況なら、そう(憎悪)ならざるを得なかったのではないか。今日のような比較的安定した時期では考えにくいことだが。

 

271 最後に共産主義の社会は実現できるのか、(やる気がなければできない)もし実現できるなら、それは理想的なものか、(理想的と考えるからやるのでは)これはマルキシズムにとって決定的な問題である。これらの問いに対して、労農ロシアが格好の解答例を示している。

ソヴィエト・ロシアはレニンやトロツキーTrotzky 1877—などに率いられ、マルキシズムを奉じてその実行に大胆な一歩を踏み出した。1917年、ロシアのロマノフ朝が没落し、次いで資本主義的政府が一時出現したが、ボルシェヴィキが激しくこれに反抗し、遂にすべての権力を無産者の手中に収め、土地は農民に貸与し、工場の管理権は労働者に委ね、法律、警察、軍備、議会等一切の旧政治機関を廃棄し、無産者が組織するソヴィエト(議会)を共産露国の最高機関とした。

 

 ところがレニンは農民の反抗に会い、1921年、共産制度の欠陥を看破し、ある程度の国家資本主義を採用した。これが新経済政策である。レニン死後の1924年、この新経済制度がさらに拡張され、新々経済制度が実行された。その主な箇条は、

 

一、 大工業の国営廃止

二、 都市内の不動産相続に対する国家の干渉の廃止

三、 土地賃借の許可

 

である。さらに翌1925年、商業に対する従来の(国家による)干渉を廃止し、個人の財産所有を認めるようになった。これを新商業政策という。現在一人の所有最高額は50万ルーブル(邦貨にして50万円)である。

こうして「全体国家」に適用された共産制度は、今日の地球上にどこにもなくなった。(この現状分析は間違っている)建国この方ソヴィエト・ロシアは国家生活に関する世界的試験の対象であり、全世界が批判のメスを揮う解剖台であった。

少なくともその共産制度は不成功に終わった。(どうかな)去る623日、労農政府の巨頭スターリンはソヴィエト産業首脳者会議で五か年計画の「失敗」を告白し、方向転換の必要性を説いた。(修正はどこにでもあるのでは)破壊は創業には必要なこともあるだろうが、「守成」には建設が必要である。

 

274 共産社会は「人間生活の幸福」(誰の)を招来する理想であろうか。(短絡的)この問いにソヴィエト・ロシアの現実が力強く「否」と答えている。(どうかな)今日労農ロシアは経済的に極端な悲境に面し(シベリア干渉も影響しているのでは)人民は白パンを口にすることがほとんどできないそうだ。(伝聞)その結果極端な労働が強制されている。

首都モスクワに六つの名物がある。乞食、孤児、不良児、掏摸(とうぼ、スリ)、売春婦、酔漢である。「極端な」自由観念や平等観念は、今日多くのロシア人の頭脳からほとんど道徳意識を取り去ってしまった。司法官は結婚後一日乃至二日で離婚する者に労農刑法第百五十二条に照らして姦通罪と断じつつある。

 

 

感想 2022224() 他人のあらさがしをして自らを美化する。ここまでくるともうこれは批判の名に値しない悪口や中傷に過ぎない。

 

 

第五章       思想問題

 

一 思想試練

 

275 最初に我が国に入って来た外来思想は儒教中心の支那思想だった。古事記は応神天皇の時に大陸との文化的交渉が始まったとしている。(始まったと思われます。)

 

「百済の国主照古王は牡(おす)馬一疋(ひき)と牝(めす)馬一疋を以て阿知吉師に付けて以て貢上する。(この阿知吉師は阿直史等の祖である)亦(また)横刀及び大鏡を貢上がる。また百済国(を)科賜ひて、もし賢人者があれば、(それを)貢上せしむ。故に命を受けて以て貢上れる人で名は和邇吉師という人が、即ち、論語十巻、千字文一巻、並びて(合計して)十一巻をこの人に付けて即ち貢進りぬ。」

 

276 このように百済が論語と千字文をもたらしたと古事記は記している。

 

儒教中心の思想は家族制度の国である支那で発達した。我が国も家族制度の国である。従って儒教中心の支那思想は我の思想や信仰と矛盾しない。孔子の説や孟子の論の全ては、我が国民が言おうとして言えなかったこと、あるいは不十分にしか言えなかったことを力強く明らかに言っている。

 

 ところが儒教には国体観念に関する限り、我が国民道徳と相容れない一点がある。それは禅譲放伐である。それに対して我が国民は厳正な批判を加え、我が国体に合するものは採用し、反するものは捨てた。

 

277 次に入ってきた外来思想は仏教中心のインド思想で、それは欽明天皇のときであった。仏教には日本国民の思想信条と相容れない点がかなりある。第一に仏教の厭世観である。この世の生活はこれを経験する値打ちに乏しいとし、この世を火宅と言って生きるのに苦しい所とし、あるいは穢土(えど、汚れた世界。浄土の反意語)とも言って汚い所とし、現世の生活を引き下げて来世の生活を引き上げ、永遠の世界は来世にあるとする厭世観である。

 

第二に仏教には超国家主義の思想が含まれている。仏教の創始者の釈尊は国家を見捨て、王位の貴きを捨て、妻子の愛を断ち切って深山に入り、二十九出家、三十五成道、六か年の苦行をなされた。従って仏教の中には眼中に国家を置かない主張がある。

 

我々の祖先は仏教のこの厭世観と超国家主義を採用しなかった。採用した部分は、仏教のそれ以外の宗教の部分と、インド哲学である。また第二義的であるが仏教芸術も採用した。その影響力は諸所の寺院をみればすぐ分かる。

 

こうして我が祖先は仏教に対しても取るべきは取り、捨てるべきは捨てた。こうして日本的仏教が創唱された。ことに真宗日蓮宗が産声を上げた。これは日本仏教であり国家教と言ってもいい。いずれも日本国を重んじている。真宗では「王法を本となし、仁義を先となす」といい、蒙古軍の襲来する少し前に日蓮が著した「立正安国論」は、純然たる国家主義の立場から気を吐いた。

 

279 このように厭世観が色濃く超国家主義的主張をもつ仏教がなぜ我が国に来て国家教になったのかというと、これは我が国民の「厳正なる批判的精神」が活躍した結果である。今日の世界で仏教の最も奥深い部分即ち大乗仏教(小乗の方が厳しそうだが)は、日本以外に存在しない。それはインドでも支那でも滅び、独り我が国にのみ残っている。

 

280 先ごろシルバン・レヴイというフランスの仏教学者が日本に来て、仏教辞典を編纂したが、彼は仏教研究のために最初インドに行ったが果たせず、支那に行っても果たせず、そこで日本に来て、我が国の碩学について学んだ。大乗仏教は仏教の郷国(故郷)では亡んでも、日本では命脈を繋(つな)いでいる。

 

儒教も同様で、中華民国ではすでにその力を失っている。もし中華民国で儒教がその勢力を持っていたら、中華民国というデモクラシーの国は出現しなかっただろう。(日本の方が遅れているのでは)儒教は大義名分を重んじるから、一国の君主を押しのけて臣下がそれに取って代わることは許されないはずである。袁世凱が清朝の君主を引き下ろして自ら初代の大統領になり支那の主権を握ったということは、大義名分の上から見て大いに議すべきものがあります。こうして儒教の神髄もその郷国で亡び、独り我が国にのみ存している。(韓国はどうか。儒教の国だったのではないか)

 

 第三回に我が国に伝来した外来思想は、キリスト教中心の欧米思想である。これにも仏教同様の厭世観の部分と超国家主義の部分とがある。キリスト教の超国家主義と我が国体観念とは全く相容れない。キリスト教は人類を以て皆アダムとイヴの子孫とするから、互いに兄弟である、従って平等であるとし、君主でも神の子としては他の人間と平等であると説く。この点は我が国民の対君主の思想や信条とどうしても相容れない。

 

282 キリスト教の厭世観についても仏教のそれと同様のことが言える。キリスト教によれば、永遠の国家は地上にはなく天上にあり、この世の生活はあの世に行く準備であると説く。このためキリスト教も伝来の当初は日本の思想や信仰と背馳し、ある学校の外人教師は御真影を拝することを拒み、またあるキリスト教主義の学校では教育勅語を捧(奉)読しなかった。またある東大教授とキリスト教学者との間に交換された「教育と宗教との衝突」という論争*は、一時我が国に大きなセンセーションを引き起こした。

 

*『教育と宗教との衝突』1893の中で東大教授の井上哲次郎は、キリスト教を反国家的であるとして攻撃した。井上は天皇制国家主義のイデオローグとして終始した。

 

 ところがキリスト教も「だんだん日本化」しまして(弾圧によって)、今日では教育勅語を捧読しないキリスト教主義の学校はほとんどなく、御真影を拝せぬ外人教師もいない。殊に京都の某私立大学にはキリスト教の中に我が武士道を取り入れて説くキリスト教学者もいるとのことである。その他実際的方面でキリスト教の信仰は日本人の教養に役立つところがある。

 

 こうしてキリスト教に対しても我が国民は取るべきは取り、「取るまじき」は取らない、という「批判的態度」を失わなかった。これは外来文化や外来思想に対して我が国民の有する「伝統的作法」といふことができませう。この作法が働く限り、我が日本国民は、外来文化や外来思想に禍(わざわい)されないのであります。

 

 (第一次)世界大戦後我が国に入って来た主な思想は社会思想であり、これは第四回目にあたる。これに処するには、我々は果たしていかにすべきかの態度・覚悟につきましては、何人も熟考すべきことと思ひます。我が大和民族の独自的精神は、断じてその美しき伝統を汚してはなりません。我々の遠き近き祖先が国民的努力によって堪へて来た数次の試練を徒なるものに了(おわ)らせては決してなりません。(もう信仰だね)既に振り返ってこの美しき伝統を顧みた我々は、現実の姿相をその正面から直視して、澎湃たる世界思想の怒涛の中に我ら大和民族の足踏みしめて行くべき道を見出さねばなりません。

 

 

二 思想問題対策

 

284 思想問題対策は遺憾ながら見当たらない。この重大問題に対して対策がないというのは、問題の性質のためか、あるいは識者の責任か。その対策を立てることは、苟も帝国の将来を念とするほどの者が断じて躊躇を許されない喫緊事である。以下私が平生思うところを率直に述べる。

 

 思想善導に携わる者はまず第一に対手の思想を認識する必要がある。対手の大部分が青年であることは共産党事件1928.2.15被告人の年齢統計が明示する通りであるから、思想善導者は青年真理を認識しなければならない。平生努めて青年男女に接触し、その考え・希望・信念・企図などを知らなければならない。

 

286 次に善導者は現代(社会)を認識することが肝腎である。思想問題は現代が醸成した問題であるからだ。現代においては新しい問題、好ましくない問題が矢継ぎ早に起こり、それを捉えることが難しくなりつつある。(これが現代の第一の特色である)

287 現代の第二の特色は、現代人のほとんどの思想が解放されていることである。人々を支配してきた昔からの伝統的な生活原理から人々は解き放たれて身軽になっている。しかし現代に生きて何らの差支えがないほどの新たな生活原理を持っている人は多くない。そのことは彼らが日々の実生活で躓き、過ちを犯すことによっても推断できる。

 

288 産業上の対策 今日の我が国の企業主のほとんどすべては、産業が自らの富を生む手段であると考えている。一方彼らのために雇われている職工や労働者は、産業を自分と家族を支える財貨を得る方法であるとしか考えていないようだ。ここで今日の企業主も労働者も、その産業の概念を修正する必要がある。(それは無理)産業は私的に解すれば自らの富を積む手段に違いないが、公的に考えれば、国富を創造する手段でなければならない。産業を私的に考えると、企業主の利益と労働者のそれとは多くの点で一致しないが、これを公的に考えれば、労資両階級の一致点を見出せる。資本と労働とがあって始めて一国の産業が成り立つからである。この国富創造という一段高い所に労資両階級を運ぶにはどうすべきか。私は労資一元という考えを持っている。(夢物語)会社や工場で労働者を資本家にするのだ。つまり忠実で模範的な労働者に一株や二株を持たせるのだ。これは労働者を資本家にする。また企業主や資本家は1年のうち何日でも労働者になり、職工や労働者の苦しみ悩みを体験するのだ。(不可能)以上のことをすれば、労資の間に理解と同情が生じ、産業は私的にだけ解すべきでなく、公的に解して始めて、各自が正しき利益、真の利益を得ることが分かって来る。

 

290 社会上の対策 今日の社会には社会の一員でありながら好んで反社会的生活をし、自らも満足せず、同類からも排斥され、甚だしい場合には、日本人でありながら日本の大道(道路)を白日の下に闊歩できないような者もいる。約(つづ)めて言えば、我と我が社会人たる資格を滅してしまう。社会人とは己の生命がそのままで社会そのものの生命となり、己の脈拍がそのままで社会そのものの脈拍となる人をいう。(体制迎合の人)どうすれば我々はそういう社会人になれるのか。それは己の長ずるところを以て社会に奉仕することである。富める者は富を以て社会に奉仕し、知識のある者は知識を以て、信仰ある者は信仰を以て、技術ある者は技術を以て社会に奉仕する。社会は少数者の(ための)社会ではなく、社会各員の(ための)社会であるから、一人でも社会的に弱い者を少なくし(どのような方法でか)、一人でも社会的に強い者を増やすようにすれば、社会人ができ、社会の健全性が養われる。社会の反抗児・叛逆児は社会の中に住みながら非社会人である。

 

感想 社会や国家権力を批判する者を先験的に悪者として排斥し、権力との一体感を強制する。

 

291 政治上の対策 政治家批判 政権に与している場合とそうでなく(落選して)民間にいる場合といずれの場合でも、我が国の政治に携わる者は、政治を知らなければならない。政治は公事であるから、これに携わる者は玄人でなければならない。政治の専門家になるための条件が少なくとも三つある。第一は高い理想、第二は実際的な手腕力、第三は鋭敏な責任感である。ところが我が眼前の政治家を見る時、特に思想善導という観点から見て、遺憾な事実がある。一部政党者流の頭脳から政権(獲得)衝動を引き去れば、その後に何が残るか。彼らの言動は思想悪導となるばかりである。幸いわが国では普通選挙が行われるようになったから、すべての有権者はその貴い選挙権を活用し、真に自分の政見を代表する人物を議会に送り、立憲国日本の発展に寄与すべきである。

 

293 教育上の対策 我が国の「思想罪」を犯すものの中に官立私立の高等学校や大学の卒業生や学生がいることは遺憾なことである。彼らの中には身体が健全な者が多く、卓越した頭脳の持ち主も多い。彼らは小学校から大学に至るまで多くの教師から何度も我が国体の万邦無比な所以を説かれたはずである。ところが、国体変革という大それたことを企てるようになった。それは我が教育制度や教育者の態度などに欠陥があったはずである。

294 したがって教育制度や教育家の態度に根本的革新を加え、小学校から大学まで、この日本帝国に関して、知識で知り、信念として信じさせるような教科を多くし、(強制すれば考えが変わると考えている)徹底的に教えなければならない。その教科は修身を始め、国史、国語、漢文、地理などがその主なものであるが、これらの諸科によって児童学生に日本国民としての国民意識と国民感情を培わせなければならない。

 

一般民衆対策 第一に、各自の家庭を平和にすることである。最近発表された再建共産党事件の責任者の中には、その母を自殺させた者がいたし、その父を公職から退かせた者もいた。(これは弾圧の結果ではないのか。)古来わが国に「忠臣は孝子の門に出ず」という諺がある。今では不忠の臣が不孝の子の門に出た。その由来(原因)を考えてみると、その一の理由は家庭の事情に帰せねばなりません。青年男女を持つ父母は深く思いをこの点に潜めて、自分らの仕打ちが子女の反抗心を培うことのないようにし、温かい愛情を以てその子女に接し、(馬鹿らしい)断じて子女の心が荒むようなことのないようにし、「自分は少なくとも思想の点で父と母を憂いしめることがあれば誠に相済まぬ」という感じを持たせたいものであります。(家族ぐるみ)最近司法官は思想的に心の荒んだ子をその父母に渡してその精神の「負傷」を癒させようと努めつつある。

 

 第二(最後)に(神道教育)、我が全ての同胞が我が帝国の(神道の)実相を知り、それを信念として信じるようにさせることである。今や我が同胞の多くは昼夜その生活の忙しさに心の全体を奪われ、祖先以来深い恩義のある祖国の実相を顧みる時間がない。

我が建国の当初の三つの詔勅が拝せ(見)られます。その一は、高天原の根本神である神漏伎(かむろぎ)、神漏美(かむろみ)の二神*が、諾冊の二尊に賜った詔勅であり、その二は、天祖(天照大神)がその子忍穂耳命(おしほみみのみこと)に賜った詔勅であり、その三は、神勅(天照大神が皇孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を降ろすときに八咫鏡とともに授けた言葉)である。この三つの詔勅にはいずれも「しらす」という建国祖神の言葉がある。「しらす」とは「知る」という言葉の敬称である。「知る」とは君主が臣民の実生活を認識することである。その時君主は臣民の中に病気で悩む者や、生活難や事業の失敗などで困る者がいることをみそなわす(見るの敬語)に違いない。その結果君主の頭脳に民を憐れむという真心の動きが起こる。これが動機となって行う政治が「しらすの政治」である。徳治主義の政治である。この政治によって支配される臣民は衷心から感謝し奉り、同じく真心を傾けてこれに仕え奉るようになる。(宗教的信仰)そこで君主の真心と人民の真心とが直接に接触するようになり、かの君民一体という我が国体美が成り立つのであります。この点から言えば、我が国には最初から悪政の可能性はなく、また下剋上の可能性もない。これが政治の上から見た我が帝国の実相でなければならない。

 

*神漏伎(岐)や神漏美は伊弉諾や伊弉冉と同義。fuushi.k-pj.info

神漏伎(かむろき)は高皇産霊神(タカミムスビ)や伊弉諾尊などの男神の尊称で、神漏美(かむろみ)は神皇産霊神(かみむすひのかみ)、伊弉冉尊、天照大神などの女神の尊称。(広辞苑)

以上、同義や総称としているが、著者は伊弉諾・伊弉冉の上位の神と見做している。

 

297 次に我が国の君位継承法として血統主義があることは、神勅に「これ吾が子孫王の地とすべし」と宣らせられたことによって拝察できる。このために我が国の主権は皇位に存し、皇位は皇統に存することとなる。主権が主権たるためにはそれが絶対で不動であることを要件とする。(そうかな)我が国ではこの主権が血統主義の下に授受されるから、この条件を十分に満たす。(そうかな)この意味で日本国は国家中の国家であり、日本国の主権は主権中の主権である。このような国家の国体の変革を企てるのは、これを企てる者がこの国体を知識として知らず、信念として信じないためである。そこに彼らが恐るべき罪悪を犯すスタートが切られた。

 

299 方向転換(転向) 第二次日本共産党事件1929.4.16の責任者として拘禁された後に、自分がこれまでに取った態度に誤りがあることを知って方向転換したものが若干いる。その理由は、我が国体と共産主義との関係について獄中で研究する機会を与えられたからである。彼らの多くはひたすら共産主義だけを信じてきて、まっしぐらに共産主義だけを信じてきて、我が国体と共産主義との関係の有無について考える暇がなかったのだろう。我が国体に関する真の知識とその信念とには、その真摯な研究と認識が前提とされるからである。共産主義を十分に理解せず、マルクスの理論の機構が全く不明瞭で、徒に誘惑や脅迫の捕虜となった者が、我が国体と共産主義との関係の有無の研究を等閑に付したことは無理のないことだと言わねばならない。獄窓の下にあって感慨極まりなく、特に自分を再吟味する機会が多くなった時、あるいは静かに祖国の歴史を繙き、あるいは深く瞑想に入って新しい良心に目覚め、漸く我が国体の輝かしさを知り、左傾的自我の「自壊作用」が始まったことは自然の成り行きである。だから我が帝国の実相に関する知識と信念を、広く我が一般同胞に持たせねばならない。もしこの小著が上下三千年の伝統によって培われた我が国体観念の歴史的意義を深く正しく読者に伝える上で些かの助けになれば、私の目的は達せられるということができる。

 

以上

 

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