2023年4月30日日曜日

原菊枝『女子党員獄中記』春陽堂 1930年昭和5年12月

原菊枝『女子党員獄中記』春陽堂 1930年昭和512

 

 

感想 2023125() 戦前の共産党員の人々、特に女性たちが、厳しい弾圧の中をなぜかくも戦闘的に闘えたのか、いつも疑問に思っていた。その理由を思いつくままに記せば、ロシアが革命に成功したばかりだったこと、革命に成功した国がとにもかくにも世界で生まれたということ、また貧乏人の窮状がひどかったこと、女工ら工場労働者の過酷な労働、長時間労働、貧農、食い減らし、身売りなどの人々の窮状。それを裏付ける原菊枝の言葉は以下の通りである。

 

046 … ×旗を歌って見るが、(警察での拷問、監獄での過酷な生活、貧弱な食事、不衛生な衣類や部屋、医療放棄などによる健康被害によって)呼吸が苦しくて、つづけて歌う事が出来ない。唯一つの力強さ、それは最後の勝利は吾等がものだ。如何に奴等が、狂い廻ろうとも、一刻一刻と世界の同志は革命へ革命へと粛々と進みつつあると云う確信だ。奴等に殺されるものか、此処にヘバッて死んで行けば、奴等の間接的手段によって敗北してしまう丈だ。きっと元気になって戦ってみせる。私は今ではそう思うが、この気持ちがなかったら、今頃は死んでいただろうと。」

 

 

当時の労働者数、賃金、労働時間、農民数、漁民数、ホワイトカラー層の数などを調べてみようと思ってネットで検索したら、ある書物の紹介があった。それによると、当時(昭和初期ころか)の中流階級の年収は3000円とのことである。(岩瀬彰『「月給百円」サラリーマン 戦前日本の「平和」な生活』 書評・野中幸宏 2016.09.25

 

 

 国立国会図書館サーチによれば、「著者標目:原菊枝1905-1946」とある。41歳で亡くなったのか。過酷な人生だったに違いない。ご苦労様。1905年生まれだから、逮捕された1928年は23歳である。

 

 

感想 202322() 076-082

 

私は本書を読み始めた当初本書は筆者が出獄直後に書いたもので、ただ獄中の状態を記述したものに過ぎない、西村桜東洋さんが戦後になって1929年の416逮捕拘留当時を思い出して書いたものに比べて歴史的スパンでの解釈がない、とそう思っていたのだが、獄中の嫌なことを並べ立てている中で、幾人かの同志が気が狂うことに対して冷静な分析をしていることに頭が下がる。若くして冷静で肝っ玉が据わっている。狂気の原因は当人の気持の弱さ、遺伝的な弱さもさることながら、根本の原因は当局にある。閉鎖的な住環境の中での看守の長期間に渡る虐めや小言が一番悪いと指摘している。

 

081 第一は極度の栄養(不良)である。一年もいると皮膚には何の艶もなくなって、鳥膚のようなブツブツがいっぱいできてくる。第二は箱詰めにしたように密閉して、精神にまで目張りをするように閉じ込めることだ。男の方はよくわからないけれども、女の方では百成り婆というような奴らが、声を出して本を読んでも叱る。足を出しても叱る。寝たら勿論怒る。唯怒るだけではない。連続した小言が大変だ。また自分が怒られるよりも他の囚人被告が朝から晩まで、うるさく馬鹿馬鹿しい小言を言われているのを聞いているだけでも、気持ちが晴れ晴れとすることはない。別にそれと気にかけて聞いているわけでもないが、何しろすぐそばでガンガン言われているのだから。まえに囚人が泣きながら弁解しているという騒動を、来る日も来る日も聞いていることは、ほんとうに耐えられない。監房の中から「もう大抵にしてよしてくれ!」と怒鳴りたくなる。この小言が一時間や、二時間で済めばいい方だが、大抵は半日以上、次の日も次の日も、それが話題に上ってゴタゴタしてることがある。…」

 

 

当時の刑務所では未決と既決とが同居していた。現在では未決は拘置所か。

刑務所が音楽を聞かせ始めたとあるが、よく考えたものだ。確かに音楽は麻薬のように思考を麻痺させる。というか、癒しになるとも言える。084

 

 

原菊枝『女子党員獄中記』春陽堂(昭和5193012月)を読み進めていますが、原菊枝1905-1946さんは41歳で亡くなったらしい、若いですね。死因は何か、どなたかご存じでしたら教えてください。202326()

 

原菊枝さんはすごい。刑務所の看守をやり込めている。095, 096 看守の「ここで何年食わせてもらっているんだ」という表現にカチッと来た。やり過ごしてもいいかと思ったが、暇つぶしにこだわったという。以下、当該箇所から抜粋。

 

「乞食も一度食を与えられればいつまでも恩を忘れない」とか、「お前さんは二年もお世話になって乞食より悪い」のだそうだ。それから「この有難い法律があればこそ」、私たちは「無事に悪漢に襲われないで暮らしているのだ」そうだ。刑務所の中に!「誠に有難い御世だ」とか、泥棒の親分を保護するために合理的にプロレタリアートを牢獄に放り込み、生まれつきの声を少し大きく出したからとて怒鳴りつけ、右へ向いた左へ向いたで、譴責を食わして法律のお蔭様だなんて、よくも図々しくお説教したものだ。…こんなお説教を私は余ほど黙って聞いておこうかと思ったが、退屈で仕様がないし、奴らの態度を反駁してやりたくもあったので、

 

「乞食と云う問題について質問しますが?乞食より悪いとは一体誰のことか?」

「それは君たちの態度が例えて云えばそう云うことだが、それがどうしたと云うのか?」

「私たちは刑務所に何もすき好んで飛び込んできたのでもなければ、従って世話になどなってるはずがない。長く入っていれば朝晩の挨拶もするし、話もする普通な気持で付き合ってもいるけれど、微塵もあなた方から施しを受けるどころか、より以上の束縛さえ受けている。あなた方は法律がどうのこうのと云うけれども、そんならそれさえ忘れ果てて、私たち被告を自分たちが世話してやってるのだと思っているのか、とにかく刑務所の○○主任とも云われる人がこんな見当違いの言葉をはかれることは私には解らない。」

「それはただ問題をわかりやすくするために例をひいてみただけで、決してそうした侮辱した意味でも何でもないのだから、気にかけないで欲しい。」こんな風に、奴はいつも問題をごまかすのだ。

「いくら問題をわかりやすくしたとしても、問題の筋にはかわりがないでしょう。何も怒って主任に盾つくわけではなし、私にはさっきの乞食の話を私に例として話されたとすると意味が分かりませんから、唯々質問しただけです。」

「まあ、そのことは、何でもないことだし、あの場合少々言い過ぎたかもしれないから、悪く思わんように。」

「いいとか悪いとか云う問題ではありません。ただ意味が通じないから質問しているのです。あなたがどうお考えになっておられようとそれはあなたの勝手なことだから、どうしようと云うわけじゃない。」

「あの時は朝早いし、あんな場合だからね、それは失言だから取り消す。どうか悪く思わんように、毎日こんな場所で顔を合わせるのに気まずいことがあってもいけないから、それは取り消す。」とうとう尻尾をまいてしまったが、奴等の被告人、囚人に対する態度はここで自ずから暴露しているのだ。…

 

 

097 懲罰中で読書ができない時に小窓から見る雀についての細かな観察

100 別の容疑で新たに入って来た入所者から、小窓を通して新たに逮捕された党員に関する情報の入手。そしてその入所者は「共産党関係の逮捕者は取調でも元気がいいからすぐわかる」という。

101 刑務所での「棒責め」の常識。革命歌を歌う二回目のデモをしたら、看守長がやって来て「棒責めにしろ!」「棒責めにしろ!」と連呼したが、女性看守はそれを実行することはなかったという。

 

 

感想 2023212()

 

117, 118 当時(昭和51930年ころ)の人間の方が人間味があったような気がする。意地悪の女看守Aが袴を盗まれたと騒ぎ、いつもきれいな身なりをしている看守Bを疑い、周りの看守が思い違いもあるだろうからと諌めても聞かず、Bがそれなら自分の家を家探しして見よと言っても見つからず、Aはきまり悪くなったのだが、頑として謝罪はしなかった。実にのんびりしていた。

 

126 当時の日本では「妻が夫の不利になることをしゃべったら夫は妻を離婚することができる」という法律があったらしい。今の日本でも妻は、自分の体であるのに、「妊娠中絶するのに夫の承認を必要とする」(母性保護法)というのもその名残ではないか。

 


 

要旨

 

 

 

001 2年間不当に拘留・監禁されていたために、世間の事情がつかめない。監禁中は外との連絡が取れなかったので、無産階級運動の発展過程が何もわからない。

002 ×番、×番と呼びつけられていたのが、娑婆で自分の名前を親しく呼ばれると、自分の名前の人が遠くから徐々に浮かび上がって来て、もう一人他にいるような気もする。そして改めて自分の名前が懐かしく感ずる。自分で起(た)って、自分で戸を開けて、どこへでも出歩かれる。中にいたときには、広い原っぱへ出て寝て大空を見つめたい、あの緑の草に触れて長々と寝そべったら、と思っていた原っぱへも自分勝手に飛び出して行けるのだ。沢山の知人やいろいろな人と話し合って、何処でも勝手に出歩けるのが、何だか不思議なように感ずる。

 まだよくない体はしょっちゅう熱を出し、一か月くらいは娑婆に住み慣れるために諸器官の忙しい変化が生じて来て、なかなかやっかいだ。

 刑務所で感じたことでも何でもいいからを書くように、と難波氏に勧められ書いたが、言いたいことの幾分をも言えない。

003 私は出た!けれども多くの同志は出る見込みさえついていない。私たちはあの長い不当拘留と拷問の中に闘う同志をプロレタリアートの手に奪還しなければならない。組織と闘争と、私もまたこの同志を取り戻す一員であらねばならぬことを深く誓うものである。

 

 

三月十五日

 

003 314日は夜の12時頃まで空腹の中を二、三人の同志と小声で歌いながら、忙しく働き続けた。

 

くるめく*輪だち

火花散り

べるとはうなりて

鎚(つち)は響く

此処にぞ鍛(きた)ふ鋼鉄(くろがね)の

友の腕(かいな)よ、我の腕よ

固く結びていざ行かん

我等が×き旗の下に。

 

*「くるめく」くるくる回る

 

004 仕事場を出たのは12時半か1時ころである。身が切れるような風が吹いて、月はよく冴えて、ほほも切れるような夜である。人通りも少なく、おでん屋の屋台にも、人気がなくなりかけて、そろそろ店じまいの時刻である。

 二、三人の同志と坂を登りかけると、一人の同志が支那蕎麦屋を見つけた。私は支那蕎麦を食べるのはこれで生まれて二度目である。私はそばやうどんなど細長くて白いものは食べられない。支那蕎麦通の一人の同志は、東京中でこんな上手な支那蕎麦屋はないという。

005 (店内で)ふと傍を見ると、どうも面白からぬ顔つきの男がいる。三人ともこいつは嫌な奴だと感づいたが、今(蕎麦を)出しかけているのに、食べずに出るわけにもゆかないし、食べ始めた。

 私は半分くらいやっと食べて、傍の変な目つきの奴も気になるし、さっさとそこを出た。

006 (私達)三人とも物も言わないで二、三間歩き出し、「あれは変だね」「うん張ってるな」と話が一致し、停留所に急いだ。

 目礼して右と左に別れて、私は省線に乗った。私には尾行(つい)ていないようだった。この時の奴は蕎麦通の同志についていたのらしい。

 電車は上野に着いた。市電で本所の方面に帰るのだが、そこから私に変な奴がついて来るようだ。電車の中はその変な奴と私きりであるから、どうしても顔を睨(にら)み合わせる。私は眠そうに間抜けたようにトロリトロリと眠っているように見せかけて、それとなく注意している。あの道はあそこへ行くし、あの辺から曲がれば、大抵あの辺に出られるだろうと奴をまくために準備して、やがて市電を降りて、小さな路地を歩き回って1時半ころに無事に家に帰ったつもりだったが、豈計らんや、翌朝5時半というのにもうたたき起こされて、全くたたき起こされたのだ!そしてドカンと留置場の中に座り込んでしまったのだ。

 

三月十五日

 

感想 2023329() 当時の警察の取り調べ状況がよくわかり、希少価値があるので、できるだけ原文のまま書いておく。原菊枝さんは記憶力がいい。伊藤千代子との獄中でのやり取りもよく覚えている。

 

007 昨夜は(私服を)マイたつもりだったが、やっぱりつけられていたのか。あるいはともするとずっと以前からぼんやりしていて知らずにいたのかもしれない。

 

008 夫もゆっくり起きて着物を着換えている。私が着物を着換える前に一人の刑事がついて来て、女のお腰にまで手を出して触ったりひっぱったりして調べる。調べるのに事を欠く*とはこんなことだろう。何と面の皮の厚いことよ!

 

*他に適当なことがあるのに、よりによってわざわざそんなことをやったり言ったりすること。

 

 一つの箱の中に焼却処分しなければならない物が入っていた。批判したり他人の意見を聞いたりしたいと思って残していたものである。

009 マッチを袖の中に、書類の箱を足で火鉢と揮発油の側へ、袖のマッチを取り出してマッチをつけ、箱から紙を取り出して揮発を手に持ち、あと1秒で完成というところで、五人の刑事が私を取り囲み、中でも強そうな大男が私を背に担ぎ上げて畳の上にうつぶせに投げつけ、私は胸をひどく打った。三、四人の刑事が私の背中に乗っかり、声もろくに出せない。手を取り、足を取り、髪をつかみ、首を絞め、あらゆる残虐を尽くそうととびかかった。

「何だ!のぼせやがって!」「騒ぐない!」「女だと思っていれば人を馬鹿にして!」

 一体どちらが人を馬鹿にしているのだ。便所へ行くにも大の男が二人もついてきて、便所の中まで見張りしている。夫は先に連れ出された。検事が拘引状を持ってわざわざ(夫を)迎えに来た。この先四、五年はお別れである。

010 寂しくもおかしくもあった。四、五年だか、六、七年だか知らないが、年が経ってから会ったら、お互いにいい婆さんと爺さんになっているだろうと思ったからだ。そして元気よく行っていらっしゃいと安心させてやりたくなった。寒くないように一番暖かい綿入れを着てもらった。シャツも、ズボンも二、三日前に買った新しいものを出して、足袋も一番新しいものを出して、お金も二十円持っていたのを半分に分け、外套を持って行くようにすすめ、私は当分お金もあるし、心配ご無用。それから歯磨き粉、ブラシ、石鹸、タオル等みな持って行ってください。ではお互いに元気でいましょう。さようなら!と先に出した。後には刑事五人に私一人である。畳の下、床の間の塵、火鉢の底もかき回し、何かを燃した証拠があるからということで、紙切れの黒く燃えてしまった炭まで袋に詰めて私を連れて署まで来た。

 

011 警察署はナポレオンがエルバ島からパリ―へ押し寄せたときのような勢いで、前古未曾有の事件とあって凱歌に轟いて緊張と歓喜に満ちている。

 

「どうだい!」とさっきからうれしそうにしていた一人の警官が言う。渋顔の一人が大威張りで弁じ出す。「いくらお前たちが何をやろうたって、この俺たちのお腕前にはならないだろう」「何しろこっちには権力があるんだからな、お前達も気の毒だが、丁度天草四郎等の一派のように、お前さんたちの立場は殉教者というようなものだよ」

 

「おい!そんなに黙り込んですましてなくとも、こっちの聞くことによく答えるんだよ。」「こーら、そんなに、ホッとした顔をするもんじゃない、せっかくの顔も台無しじゃないか。」「俺たちは昨夜から一睡もしていないんだぜ、手こずらせるとなぐるぞ。」「逃げようたって、こうなれば逃げられはしないしな、早く話して早く帰るようにしたらいいじゃないか。」

012 「お前の家へは沢山の人が出入りしたろうね?誰なんかがよく来たね。」「知らんことはない、黙ってないで早く話さんか。そんなに手こずらせるとひどいぞ。」「こら!」ぐっと後から髪を引っ張る。「これくらいのことは何でもないじゃないか、当然のことだ、聞くことに簡単に答えれば、こんなにしなくとも済むじゃないか、お前の方の出方一つだ。」

「さっきお前の亭主に聞いたら、お前も一緒にやっていたことだから、お前もよく知っていると言ったぜ、…Kが来ていたろう。IMへもお前が連絡をとっていたのだろう。」「女は皆レポになっていたというからな。Sの妻君だって、Kの妻君だって皆さすがに偉いものだよ。お前のような卑怯者は一人もいないよ、Mの妻君だったと思うが、それはそれは勇敢に振舞ったよ、お前のように卑怯に黙り込んでやしないよ、『私は××党員であります。だから私どもは決して不正なことや、恥ずかしいことまでやってはしませんから、もうこうなったら、今更隠しだても致しません、他の人のことはとにかく、自分のことで差支えない範囲で申し上げます』とな、立派なもんだよ、そうあってこそ我々も××党員として敬意を表することもできるし、まず少々くらいは何とかしてほかの人たちよりも自由にできるようにも司法の方へ話しておくことにするし、何も人のことまでも喋ろ!というのじゃない、自分の家のことぐらい誰に遠慮するまでもないことだ。誰々の妻君なんかそこからいえば馬鹿だよ、人のことまで皆言ってしまっているからな、しかしそんな風にあっさり気持ちよくお前の方で出れば、何時までもここに置こうというのじゃない。よく話さえ分かればすぐに帰してやるのだ。」

「オイ!」「よく考えてみな」…「いつまでもここに手こずらせれば、何時になっても帰されないだろう。」「さっさと家へ帰るように、あっさり白状した方が、怜悧(りこう)じゃないか。」「ほんとうにお前のために言ってるのだぜ、我々だってお前らを憎いばかりにこうしてるのじゃない。商売だから仕方がない。」

014 「お前らの言うこともある点は最もだと思うし、そうなったら我々もどんなにかいいと思う、がしかし何でも極端にやったら外の者が困るからね。お前らの言っているように××の廃止、××の没収というようなことは時期の早いことだ、もう少し考えて人の迷惑にならん程度にやるんだね。」

 

「さあ、どうだね、少しは落ち着いたかね。」「Kが来ただろう。大きな男で、顔は四角で、髪がこんな風に少々うすい、そして髯が生えてる人だよ、見たことあるだろう。…」「何もお前が言ったからとて、誰にもお前が言ったとは言わないよ、××はもうちゃんと白状してるからね。」「お前にわざわざ聞かなくともわかるにはわかってるのだが…」

 

015 「おい!」「そんなら手紙が随分来たろうね」「来ない!」「そんなことがあるか、どこの家でも、お親父(やじ)や親類からは時々来るものだ。ちっとも来ないということがあるかい。手紙が来たら、お前が取りに玄関へ出るだろう。だからお前が一番よく知ってるから聞くんだ。どんな手紙が来たい?宛名だけで裏には差出人の住所も何も書いてない奴がよく来たろう!」「知らん?」「知らんことがあるかい?お前は強情だね。手紙ぐらい受け取ったと言ってもいいじゃないか、どこの家へでも手紙が来るのが当然(あたりまえ)でそう言ったからとて何も××党員だというわけでもあるまいし、手紙はお前が出て受け取るだろう。だから聞くんだよ。」「私が取るわけときまったものでもないって?お前の家は××主義者だから、みな平等に仕事をするのかい。」「『さあ手紙が来ましたよ、取っていらっしゃい』とな、そしてご亭主は飛び出して行って取ってくると!いやはや俺たちの家とはまるで様式が違うのだからさっぱりわからない、アハハハハ」

 

016 「オイ!ほんとうに茶化すない。お前のためと思うから親切に聞いてやるんじゃないか。これが男であれば、ヒッぱたいて、蹴り上げてやるのだ。女だと思うからやさしくしてるのじゃないか。いい加減にしろ!自分が正しいことだと思ってやってきたのなら言えないことはないだろうがな!あきれた奴だ。これでも××主義者か。全く問題にならない。」「なー、さっきも言っただろう。お前のためだ。よく考えてみるがいい。いくらここで強情張っても糞にもならない。お前が強情を張っていれば、仕方がない、こっちにも方法があるからね、そう思ってもらいたい。」「何しろお前の細胞のキャップは皆白状してるんだぜ、まあよく落ち着いて考えるんだね。」

 

一人のスパイが突然言い出した。「こうやっていじめて、こんどこの連中が出たら、頭から肥桶(こえおけ)でもぶっかぶされるだろうな。」(これは警官の本音だろうね。警官本人も自分達が人間としてやってはいけないことをやっていると分かっている。そう思わない人もいたかもしれないが。)

 

 朝飯も食べないで、冷え切ったたたき*の上に、四、五時間も、わいわいからかったり、怒ったり、急に優しくなったり、千変万化の芝居を演ずるのを見せつけられて、お昼少し前に留置場へ、無造作に放り込まれた。

 

*「たたき」 赤土、石灰、砂利などににがりをまぜ、水で練って叩き固めて作った土間。

 

017 私はわいわいスパイどもによってたかって責められながら、支那の同志たちのことを考えていた。そしてこんないじめ方くらいでは、支那の同志たちの何万分の一にも足りないのだと思うと、益々力強く、平気でいることができた。たとえ今殺されるような暴行を加えられても、落ち着いて自分のなすべき行動はとれるという自信を持っていた。なすべき行動とは、殺されるとなれば、また暴行を加えられるとなれば、奴等にもそれと同等な行動を取っていい、そして逃げることだ。(すごい。しっかりしている。)

 私は娑婆にいる時、同志からこんな話を聞いた。広東事件*の時、蒋介石は支那の共産党員を何百人も殺し、女党員は殺される以上に残酷な拷問に会った。

 蒋介石の軍は女党員に暴行を加えた。手足を後ろから蹴上げて、上につるし上げて鞭で打った。気絶すると体を降ろして水をぶっかけ、息を吹き返すとまた上につるし上げる。これを数回繰り返し、まだ白状しない同志は、上へつるし上げて張り切っている胸の乳房の辺りを小刀で切って楽しげに拷問したのだそうだ。それでも支那の女の同志たちは白状しなかったという。その上奴らは策尽きて車に乗せて兵士に護らせて、「この女は蒋介石の妾になったぞ!」と、全市を引きずり回したそうだ。

018 私はこの話を聞いて本当に頭が下がった。闘争の深刻化とは、このような金鉄も及ばない鞏固な意志で闘う勇敢な同志がどんどん出て来たということを立証する。

 

 

留置場

 

 (たたきの上での四、五時間の取調べの後で)留置場に来てみると満員だった。我々同志だけでいっぱいで、普通のスリや泥棒は小さくなって隅の方に、しかも愉快気な顔をして座り込んでいる。唐沢五十嵐などの堂々たる人たちを始めとして、多くの同志がすし詰めになって、しかもこんな目に会うことはお手のもんだといった顔をして、退屈そうに座り込んでいる。

 

019 女の人たちも四、五人入っていたが、あの年寄った病気の、渡政のお母さんまで放り込まれている。お母さんは体が悪いので留置場でもずっと寝ておられた。お母さんを引っ張って来て叩いてみても、いじめてみても、何が出るもんか。そんなことは奴等でも少しは察しがつきそうなものだが、全く奴らの非常識と悪辣さにはあきれるほかはない。人情どころかブルジョワの手先となった奴等は完全にこの世の鬼である。

 

 この大事件。この時まで何とか外で活動している人たちにこの事を知らせて一刻も早く隠家の場所を換えなければと色々考えてみたが、この様子ではほとんど合法的な人達はやられているらしいが、とにかく検束くらいで出る人に伝言しなければならない。

 

この日はわあわあ房中で騒ぐ同志や、元気よく笑ったり歌ったりする同志と共に暮らして、虱だらけの毛布をかぶって、一枚のせんべい布団の上に四人、女が頭を並べて寝た。男の方でも大変だ。二畳か三畳の房に五、六人もが寝ようというのだから、頭がつかえる、足のやり場がない。

020 「オイ、もっと布団がないのかね?」と要求している者もいる。いくら虱布団でも寒い時節であるから、引っ張りだこだ。

 

 隣の同志が(私に)小さい声で話し出した。「スパイの奴がKPのことについて聞いていたが、あなたにもそうですか。(私は)KPなんて何も知らないのに、何しろ昨日田舎から出て来たばかりなのだから。わざわざ捕まりに東京に出て来たようなものだ。」と。気の毒なことだ。そういえば男の方でも何も知らない青年が、妹を訪ねて久しぶりに組合に来たら、ちょっと来いと留置されて、プンプン怒っている。

 

夜も不断に酔っ払いや迷子が入って来て誠に騒々しい。枕もとのたたきの廊下をガランガラン入って来たり、酔っぱらって暴れて来て殴られたり蹴られたりされている人たちもいる。大声で泣き叫ぶ気狂い、朝鮮人のアイゴーアイゴーの鳴き声等、夜も昼ものべつに入ってくる。しかし私達は今朝まで働きづめの寝不足で、そんな事件も夢うつつで、しかも何十匹かの虱にかみつかれながら眠ってしまった。

 

021 留置場が狭くて汚いことは常識でも考えられ、今の人たちは留置場の話くらいは聞きなれているだろう。世の中が不景気になり、犯罪が急速に増えている今日、留置場の話は珍しくもないだろう。しかしここの留置場の騒ぎ方は大変だ。大きな声で話して笑う。歌う。拍手喝采する。看守をヤジる。ず抜けて大きな欠伸をする。入った当日は大騒動でも起きたようだった。

 

 女が入れられた保護室は、わずかに斜めに入って来る日光に浴するために、その日光の線に沿って坐って話したり、笑ったり、歌ったりで、まるで愉快な懇談会のようだ。私はそれまであまり歌など知らなかったが、この時に大体の歌を教えてもらって覚えた。私はこの一、二年こんなに陽気な女の友達の中で笑ったり歌ったりしたことがなかったので、のんきな明るい娑婆に引き出されたように愉快に暮らした。

 

022 (これから)なすべきこと、考えるべきことなどなどが、ほとんど頭の中で整理され、後は自分勝手なのんきなことでも考え出して楽しんでいればいい。家のことも両親のことも心配するものはない。

 

 男の人たちの方でもまた面白がっている。或る同志がひどく横痃*(よこね、おうげん)が悪く、膿が出て困っていて、病毒が体中に回るのを心配し、看守に「特高を呼んでくれ、痛くてたまらない。医者に行かねばならない。幾日もこんなところに置くつもりなら医者にかけろ。俺はここへ来る時まで医者通いしていたのだ、腐りかけている。」と怒鳴った。

 しかし奴らは自分の事でないから平気で、ちっとも来てみてもくれない。支配階級にとっては一人でも早く死んでくれれば、これほど好都合なことはないのだ。

 

*横痃 横根。鼠蹊リンパ節の炎症性腫脹。性病。

 

023 そこで我々同志は監房会議を開き、満場一致で「即時医者へ行かせろ!」というスローガンを掲げ、看守に「特高を呼んで来い!」と頑張って歌を歌うなど、留置場が割れそうな騒ぎである。新しい看守が交代して来るが仕方がない。看守は私達と利害関係がないから、ニタリニタリ笑って放っておく。監房会議といっても一つの房に集まるわけではなく、大きな声でどなるだけだ。「異議ないか」、「異議なし」で終わる。この会議が(昼の)十二時ちょっと前だったので、一人の同志が空腹のために「昼飯を食ってからにしよう」と言い出したところ、女の一番若い娘が叫んだ。「何だ、日和見主義者め!だら幹を排斥しろ!」と。これが二十代にもならない位な若い娘さんの意気である。この激励がいつも当たっているかどうかは時と場合によるが、ここではこの元気な娘さんの主張に皆が拍手喝采して賛成した。

 

024 愉快な一日が暮れ、女の人たちは皆帰ってしまった。男の方でも多少は帰って行ったが、女がただ一人になってしまうと、急に黒雲が天にかかったようになってしまった。男の方でもヒソヒソと「今回の事件が普通の検束ではないのでは」と話し合う人たちも出てきた。

 

 二日目、三日目は筆跡を見るために字を書かせたり、写真を写したりしたが、私は看守が見ていないすきに左手で書き、写真も写すときに心持尻を浮かせておいて、撮影の瞬間に低く下げた。ところが刑務所に送る二、三日前に、不思議にも「少し散歩に出すから出てこい」と、しかも特高課長がニコニコやって来た。階段をズンズン上る。「どこへ何しに行くのか」と尋ねても、ただ笑っている。散歩などさせるはずがない、買収でもするつもりかとついて行くと、屋上に出た。十何日ぶりで懐かしい労働者街を眺める。あそこが三刃土(じんど)で、あそこが私たちの家でと思った瞬間、小屋の後ろから写真班が前面に現れ、パチリと撮影した。私も写真班だと気づくと同時に、遅れ毛を顔に掻き下げて目をつぶった。今その当時の新聞に出たのを見ると、遅れ毛がきれいに取ってあるが、誰だかさっぱりわからない。しかし後で聞いてみるとこんな努力も無駄だった。国(故郷)の方で私の写真をスパイに渡してやったと姉が言った。

 

 来る日も来る日も底気味の悪い取調べが続く。昼間に調べることはほとんどない。大抵夜の89時になると警視庁のスパイがやって来て何とかかんとか聞き始める。方々から人の調書などを持ち込んで、そろそろと虐(いじ)め始める。「もう誰々がこんな風にしゃべっているから、君一人がいくら頑張っても仕様がないじゃないか、僕たちの方で嘘を言うと思うなら、これを見るがいい」と、もろくも白状した連中の調書を得意そうにパラパラと開いて見せる。「君の細胞の誰々が君のことをこう言っている。君一人頑張っても駄目だ。言わなければ言わないで、こっちにもその手があるから」と。

こんな風に奴らが出ていることは、私には何の障(さわ)りもない。少々大きな声で怒鳴っても、うるさいくらいで、自分の勝手なことを考え、また奴らの態度・能力等を観察して、一人で楽しむこともできる。奴らが何としようと、私には白状する何物もない。引っ張り出すから引っ張られて出るだけで、また奴らが脅かしたり、怒鳴ったり、本当に真っ赤になって怒ったりしてるのを見てるだけだ。泥靴を蹴り上げ、拳を固めて怒ってくる。髪の毛をぐっと後ろの奴が引っ張ってみる。淫売婦を前に見ているような下劣な罵詈(ばり)暴言を吐く。奴らが殴ったり、蹴ったりすることはお茶の子のことで、これが人間の面かと呆れるばかり凄まじい惨(むご)たらしい御面相を呈する。世に鬼の顔、悪魔の顔を実見したい人は、一度このブルジョワジーのスパイ共の無智な悪辣な凄まじい御面相を拝見するがよい。

 

027 搾取に悩み、暴圧に苦しみ、権勢にしいたげられて打ちのめされた人間が、その上に残酷に打ち据えられる、このブルジョア機関の警察、刑務所こそ、世の中の地獄である。

 しかし私共に施す拷問は、このための検挙の人たちよりも多少は楽だったのかもしれない。私たち(の場合)は、殴る、蹴る、髪を引っ張る、棒切れを指と指の間に挟ませてギュギュ手を握りしめる、その傷跡は紫色になって棒のあとだけへこんで、やがて膨れ上がって手もつけられないくらいに痛み出して熱くなってくる、こんな拷問は誰もがやられて来たことではないだろうか。あるいは裸にされて殴られ、全身に打撲傷を負わされた人もあるそうだ。またある人は乳房をひどく殴られ、そのあとが膨れ上がり、熱を持ってとうとう病院へ行かなければならなくなったそうな。こういう事実を数限りなく聞き、また経験して、何として白状などできるものか。

 

 留置場の生活が長引けば長引くほど、虱が全身に蔓延して来る。一日や二日くらいは四、五匹しかついていなかったのが、一週間十日経つと、取っても取っても取りつくせなくなる。着物の縫い目に一杯卵を産みつけて、それが次から次へと孵化して這い出すのだから堪らない。しょっちゅういたるところがかゆくなる。毎朝三十匹以上大きな奴が着物から取れる。スパイ共は心地よさそうにこれを見て笑ってゆくだけである。食物もまた寒い時でも腐りかけたような飯を時々持ってくる。味噌汁の臭いのに、一つまみの漬物、いずれも豚の食物の一部分のようなものだ。豚には時には御馳走の残りが落ち込むことがあるかもしれないが、留置場では太陽が西から昇ってもそんなことはない。何しろブルジョワ共のケチな厳格な方針の下に料理されるのだから。留置場を豚箱という。誠によく言ったものだ。

 

 

028 入所

 

 細長い窓の外で雀が飛び出したり、また二、三羽一緒にやって来たりしている。鉄の棒に寄りかかり、楽しそうな小鳥の遊びを眺めていると、鉄棒を破って自由に飛び出したくなる。スラリといつものスパイが入って来て「さあ今日は他の方へ行くんだから、下駄をはいてすぐ仕度するように」と言う。自動車に乗せられて裁判所へ、裁判所の段々をいくつもいくつも昇って予審判事室へ連れ込まれた。何が何やらさっぱり分からない。予審判事に「被疑者は、被疑者は」と連発され、何のことか分からないうちに、「これこれの証拠と疑いがあるから強制処分にいたします」と片づけられ、ドンドン刑務所に運ばれてしまった。もう少しこの方面の知識があったら、結局放り込まれるにしても、こんなに訳も分からず放り込まれてはいなかったろうに。

 

 奴らに捕まった以上は、取調べ以外に自己の意志・能力は一分一厘も認められない。刑務所に至っては徹底している。

029 先ず戸籍調べをやる。ここではこれを身分調べと言っているようだ。次に素裸にされる。病気で熱が出ていて食物も食べられなければよく立ち上がることもできないような病人でも容赦しない。無理やり着物を脱がせて立ち上がらせ、体を調べる。

030 「ここでは何も隠すことはできないのだよ。この傷跡は何のあとだね。」これは索引というものに書き込まれる。「腰に灸が六つと、肩に四つ」「よく前を向いて手をちゃんと上げるんだよ」と一通り注意深くほじくり出して書き上げる。髪の毛が黒い赤い、少ない多い、アザが何処に何個あるとか、手の掌(ひら)の皮は堅い柔らかい、目が大きい小さい、鼻がどうとかありとあらゆる御面相を書き込む。これが奴らの手に保存され何かの場合は全国に回る。この素裸の取り調べも夏ならまだ有難いが、寒風肌をつくような冬の日でも、看守共は事務的に木切れか棒切れを取り扱うような気持で平気で小突き回して調べる。

 

031 次に刑務所の着物を着せられる。被告は青、既決は赤を着るのだが、その丈の長いのやら短いのやら千差万別で、それをまた大きい人にも小さい人にもお構いなしに着せるから、小さい人は手がろくろく出なかったり、大きい人はニョキリと手を出して、ツンツルテンの着物を着ている。私に着せた着物なども、まるで十二、三歳の子供のように短くて、脛(すね)がニョキニョキ出て寒くてしょうがない。それに夜も昼もそれ一枚きりである。それでも被告の間は翌日くらいに、着物の検査と消毒が済めば、返してよこすので多少は助かるが、懲役になったら全てのものを取り上げてしまう。

 

 

監房

 

 私たち(共産党関係者)は誰でも独居房に放り込まれる。入ったときに真っ先に感ずることは、威嚇的な建築である。外から見ても冷酷に見えるあの建物は、中はますます馬鹿げ切ったまでに惨(むご)たらしい建て方である。たたきの廊下に立ち並ぶ太い木の鎧窓、それに続いて天井に太い棒を立て並べたような、まるで猛獣か殺人鬼でも入れておくような建て方だ。そして鎧窓は廊下の方からは自由に覗いて見ることができるが、中からはいくら外を見ようとしても、廊下の天井をわずかしか見る事が出来ない。この鎧窓は廊下の方が高く、監房の方へ見下ろすようになっているから、間近に来る人か上の天井より他には見る事が出来ない。おまけにその鎧窓の他には縦に鉄棒が細かくつきり立てられている。後ろの窓は伸び上っても背の高い人でやっと頭の先がすれすれに出るくらいで、とても地面など見ることができないほど高いところにある。それでも雑居房は部屋も四畳半位で広いし、窓も高くとも一間四方くらいはありそうだが、私たちの放り込まれた独房は、三尺(90㎝)四方もないくらい小さい窓が見上げるほど高いところについていて、房の中は薄暗く、すぐ窓の下の羽目板の辺りは何がどうなっているのか見分けがつかないくらいである。朝二十分ばかり少々明るいかと思うと、もうそれから一日中太陽はどこを廻っているか、薄暗くなってしまう。だから運動の時間に監房の戸が開けられると、急に夜が明けたようにパッと光が入って来て、普通の光でさえまぶしいくらいに感じる。

033 こんな部屋だから水でもこぼせば時節の悪い時にはいつになっても乾かず、遂にカビがいっぱいに生えてくる。しばらく刑務所に入って出てくると、全身に刑務所臭(くさ)いにおいが浸み込んでしまう。この中は所謂監房臭い一種独特な臭気が充満している。暫く入っていると嗅覚が鈍って自分では大して苦にもならなくなるが、初めて入って行った時や入梅のころには、猛烈にこの臭いが鼻についてたまらない。せめて運動時間に出て行ったあとでも、戸を開け放しにして新鮮な空気を入れてもらいたいと思っても、決して彼らはしてくれない。一年入っていても、二年入っていても、そんな親切はほとんどしてくれない。たまたましてくれようと思う看守がいても、その上の奴がそうすることを禁ずるので、もしお巡りでもあると困るというので、決して開け放しにしておくことはしない。監房の看守共は、娑婆でブルジョワ共に苛め抜かれてきた人達を、更に仰せに従って、この限られた中でいじめる役割を忠実に尽くしている。布団等も被告の間は自分の布団でも、制限された数ではあるが、入ることは入る。しかしこの中に放り込まれねばならない多くの人々の境遇を考えてみれば分かるが、差し入れをしてまで贅沢に暮らせる人間などは、政府関係の小橋・小川*のような奴等や、その他、プロレタリアの血を吸いつくした餓鬼どもの醜悪な事件で入って来る連中より他にはない。こういう奴等を除いた大多数の犯罪者は、刑務所のせんべい布団、しかも二尺(60㎝)巾をもっと細く縫いつめた巾の狭い布団と、同じくうすい四幅の掛布団を与えられるのだ。そして幾年入っていようと、その一人の人間がいる間、取り換えるとか、干すとかすることは決してしてくれない。「干させてください」と願って、やっと干させるのだが、誠に渋い顔を時々はされる。私たちは一体におとなしい。無茶な暴れ方は決してしない。だが奴らのばかばかしい行為ややり方を見て、つい談判することがある。それだけに奴等の方では余計に私たちに気を兼ねたようなそぶりをしているまた特に親切に取り扱うように見せかける。それでも骨髄迄刑務所臭くなっている婆さんたちは、ヒステリカルないじわるを常にやるのだから、普通の犯罪者に対する奴らの態度など、見かねることばかりである。

 

普通の犯罪者

 

035 そもそも刑務所はブルジョワが飽くなき搾取をするために必然的に必要とする場所であり、また奴等政治家の無能力を隠ぺいするためにもなくてはならぬ場所である。はっきり言えば、奴らによる人民への挑戦である。この合理的挑戦に負けたプロレタリアートは、宗教の麻酔にかけられて泣き寝入りするのである。

 

 私が入った当時最も驚いたことは、女十六人の被告のうち四人までが、監房に打ち込まれてから発狂したことである。奴らは言う。自分の心のやましい点があるから狂うのだと。看守共までが、己の社会的地位も知らずに、この口車に乗って、白目でしかも陋劣(卑しく劣っている)に(被告を)取り扱うのである。私どもは決して奴らの合理化した欺瞞に乗ってはならない。

 

 一人の狂った女は毎朝三時半、四時ころから娑婆にいたときの習慣を忘れずに、「納豆や!納豆!」「納豆はいりませんかいね!」「納豆!納豆」「お早うございます」「毎度ありがとうございます」と、薄明るくなった空を見て叫び出していた。きれいな声でしんみりした声である。その声を聞くと、朝早くからこの寒空に納豆を売ってどんなにつらかっただろうと、この女の家庭の事も想像されて、思わず涙が流れるのを禁ずることができなかった。今もあの淋しい透き通った声が遠くの監房から聞こえてくるような気がする。

 

036 また一人の女の人は放火か何かであったらしい。それもこの不景気から生活に非常な打撃を受けて苦しんでいる矢先、体質に多少欠陥もあるらしいが、乳飲み子を引き離され、その子供のことを心配して、遂に狂ってしまった。またこの女は老いた人の(他人の)父親のことをひどく心配していた。この順良な性質を持った女が、資本主義社会の弊害を被って遂に精神に異状を呈した結果、放火をしたのである。ブルジョワ搾取の小僧を務めてる近代の保険会社の制度もまた、大いに影響されることだろうが、こうした社会的欠陥と弊害とから生まれた行為を、犯罪として重刑にするのだ。そしてこの間に立って、宗教はうまく屈服せしめるのである。

 

037 とにかくこうした貧困に苦しむ多くのプロレタリアが自ら死ぬのでなければ罪を犯すよりほかにとるべき道は絶無と言ってもいい社会なのである。働くに職なく、食うに金なく、住むに家なく、ここまで追い詰められた多くのプロレタリアは、如何にして生きるべきか。死か犯罪である。ブルジョワ共は公然と間接に自殺を奨励し、犯罪を構成させ、合理的にあのむごたらしい檻の中に放り込む道を設けておく。ここに宗教という麻酔がなかったら、誰でもが刑務所に入ったら、そしていかに鈍感な人間でも、法とはいかなるものかを考えて呆(あき)れない者はいないだろう

 この二年間ただじっと独房に座りながら、いかに多くの悲惨な事件を目にし耳にしたことか。私の隣へ放り込まれた人は、やはり放火犯だと話していたが、自分は全然知らないこと(身に覚えのないこと)であり、ただ台所続きで隣の家から火が出た、それだけのことで、他に犯人という人が見つからないので、一度(警察が)家に帰しておきながら、十日も経たないうちにまた引っ張って来て、放り込んだのである。考えて見るがいい。(台所続きの燐家を)自分で放火しておめおめと自分の家で捕まって、また帰されてからも、どこへ行くこともなく平和に家庭に暮らしているというようなことができるだろうか。またその人を見ても、誠に優しい利口な女であった。なぜこの人を引っ張ったかはだんだん分かってきたことだが、一つは奴らに犯罪に対する手掛かりが何もなくて困ったことと、一つは丁度この女が妊娠していたので、生理的変化の時期だから犯罪を構成する可能性があると、これだけのことで、自分らの無能力を隠蔽するためにしたことである。だから見るがいい。この人は執行猶予で出た。如何に奴等でも、実際の放火人と、そうでない、奴ら自身が犯人とした放火人との間には、処刑の上に多くの差が生まれてくるのである。

 

038 春も長けて五月である。一日一日が誠に退屈で長いようでも、無為の生活は後で考えて何も頭に残るものがない。一月ぐらいは体の疲れが出て、いい骨休みという状態で暮らしてしまう。急に放り込まれた普通の犯罪者が、春の陽気に頭もしどろもどろになるのだろう。家の事を気にし、子供を思い出して、自分の無実の罪を着せられることに悩みながら、亡霊のように力なく青ざめて、高い塀についてふらりふらりと運動をしている途中でたまりかねて泣き伏してしまう。無智な多くの人たちは一度嫌疑をかけられれば、殆ど逃れる事ができない。脅かされ、騙されて、もがいているうちに、罪は警察、警視庁、裁判所という順序でうまく出来上がってしまう。

 

 

病気(原さん、負けてたまるかですね)

 

039 ここの食事は麥七分に米三分というのだが、その米が日本米ならまだ食べやすいのだが、台湾米の粉米(こごめ)のようなのが入っているから、どこに米があるのかよくよく見つめるようにして探さないと見当たらない。いくら健康な人でも、また貧乏人でも、一時は喉につかえてなかなか食べられない。私が入った時、最初から半分食べたというので看守に驚かれた。普通の人は一週間はよく食べられないそうだ。

しかしこの飯も、一週間、十日と経つうちに、とても美味しくなって、おまけに麦飯だから、腹が減って腹が減って、朝起きるともう腹が減って堪らない。昼も十時ころになると昼まで待ちきれないほど空腹を感じる。夜は寝る時間までにはペコペコになってしまっているから、自然に美味しく食べられるのかもしれない。だからよくできた飯は舌鼓を打つほど美味しい。

空腹を感じるもう一つの理由は、量が少ないことだ!一食二合二勺が普通の被告の定量だが、事実は疑わしい。何しろ一握りしかない。その他副食物としては、朝昼は味噌汁一杯と漬物一切れ、晩飯はおかずに漬物一切れ。そのおかずはゴミ箱から集めて来たようなもので、ゴボウの切れ端や鰹節の出しがらや豆の塩煮、ジャガイモの水煮のような、味のないようなものを明けても暮れてもくれる。秋には一度茸を食べさせると、経費を食い込んだとして、次の一か月くらいは、おかずの量が半分くらいになったり、はなはだしい時には飯の量を三分の一くらい減らしたりする。飢えることは大変だ。食べた時から空腹である。

だから長くここにいる人は誰でも栄養不良になって、遂にいろいろな病気になる。金でもたくさんあって、弁当でも適当に食べていれば、多少体力は維持でき、栄養不良にもならないだろうが、そうでない人は、一日一日と栄養不良がひどくなって行く。

041 私の病気はこの栄養不良と、スパイ共に投げつけられて背中をひどく踏まれたり打たれたりしたことに原因する。(1928年の)五月初めころから毎日毎日肩が凝り始め、眼が熱でピリピリ痛む。そして頭が痛む。顔色は真っ青になり、半月からは、胸から背中が猛烈に痛み出した。少し大きく呼吸しても胸や背中が蜂に刺されたように痛い。取締り(女の方では看守と言わないで、こう呼ぶ)は「何だ、意気地なしが、風邪でも引いたのだろう」と少しも取り合ってくれない。或る日洗濯をした後から堪らなく体が熱い。検温器を借りて計ってみると、三十九度五分もある。それでやっと寝ることを許した。寝たからといってどうしてくれるわけでもない。ただせんべい布団の中でぽかんと寝ているだけで、医者が来て風邪だと診断した。咳が出る、胸が痛む、寝汗が出るといくら言っても、風邪だと言って診てくれない。四十度以上の熱が一週間も続いて、その間発汗剤ばかりくれるので、汗が玉となって流れる。汗が出ても熱は下がらない。遂に呼吸困難に陥って、夢中で二日二晩過ごしたように記憶している。ただ三足で行き着く便所も、死ぬか生きるかという苦しみを押し切って、やっと這うようにして目をつぶりながら行かねばならなくなった。

042 こうして死ぬような状態になって、奴らはやっと普通に診察して、これは肋膜だと騒ぎだした。水が溜まっているから水を取らなければ危ないと分かったようだ。急に荒療治で水を取る。やっと氷枕に氷嚢を持ってきた。そして医者の言い分は笑わせる。「君が胸の痛いことを聞かせてくれなかったのが悪いのだ。」何と低能なことだ。毎日毎日胸が痛い、咳が出ると言ってやってる。しかし奴らの低脳はブルジョワの犬として意識的に低脳なのだ

 こうして重態に陥った私は、半年は完全に寝床の中で暮らした。(5月から10月までか)一分間の運動にも出ることができない。検事が慌てて様子を見に来た。私が案外元気な声で話したので、「大丈夫だ。寝てれば直る病気だからゆっくり寝てなさい。」私が、「保釈にしてください」と言ったら、「これくらいで保釈になるものか。それにまた取調べにも出ていないのだから、まあ出せないよ。気をもまんで寝てるがいい」と。こんな人間を人間とも思わないご挨拶で、とっとと帰ってしまった。

 このことを取調べの時に抗議して取調べを中止したことがある。検事も刑事もブルジョワ機構の完全な尖端機関である。法の自由なんておめおめと騙されてはならない。奴らは口にこそ、態度にこそ、欺瞞的な真似もする。年長者になればなるほど、その技巧がうまくなるだけだ。奴らの手中では、人間の生命も意志の自由も、粟粒ほども許されない。

 

043 肋膜の水を取ってから一週間ばかりして病舎に移された。この部屋の汚さ!部屋には東側に高い小さな窓が開いているのだが、青桐が窓一杯に葉を広げていて、光はほとんど入らない。前は廊下で、そこは何年も張り替えたことのないような茶色にすすけた障子が立っている。だから光の入る量がまるで少ない。おまけに廊下の向こう側は羽目板になっているから、いつでも夕方のように暗い。従ってジメジメとしてゲジゲジやコオロギがいつでも這いまわっている。

私の所に時々看病に来る前科者の囚人の話によると、朴烈事件の時に金子文子さんと一緒に入った何とかいう女の人がここの部屋で肺が悪くなり、とうとう死にかけて、どこかの病院に連れて行かれたそうだ。また前科者の泥棒の婆さんもこの部屋で死んで、引き取り人がないために一週間も棺の中に入れたまま放ってあったとか。それで皆が気味悪がってこの監房の前は通らなかったという。

044 私が入ってからも、この部屋には狂人が入れられていた。このようにこの部屋は余程ひどい病人でなければ入れられないらしかったので、私も考えた。私もきっと死ぬかもしれないと奴らに思われてるのだな!と。全くこの部屋はそう思って見るせいか、陰惨な感じがする。畳はトブトブに腐りかけ、あっちこっちに血のような黒ずんだしみがついている。先輩か誰かが喀血したあとだろう。(ここに入ってから)一年も経ってから私が畳を取り換えてくれと要求したら、「ここへは汚い病人ばかり入れるのだから換えてもしようがない」と言っていた。だから私は憤慨した。「病人などは気持ち次第で良くも悪くもなるものだ。それをよりによってこんな不衛生な部屋に入れて、畳からはウジが湧きそうじゃないか。こんなに虐待すれば、良くなる病人も死んで行くだろう」と。奴らは平気でこんなことを言うのだ。長い間こんな地獄に生活していると、人間らしい温かさも、常識も無くなってしまうのだ。

 

 六月も暮れ、七月も半ばになった。毎日毎日熱が出て苦しい。でも七月には体を動かさないように静かにしていれば、七度五、六分しか出なくなった。けれども、何しろ一杯の粉米の粥と梅干と牛乳二合、これが明けても暮れても変わることがないのだから堪らない。二月もこれで暮らしているのだから、食欲が出るはずがない。体の衰弱は極度に達して、髪は半分以上、三分の二くらい抜けて、一本並べ*になってしまったし、体は半分くらいに小さくなったと言ったら皆笑うだろうが、全く細くなってしまった。入る前までは十五貫(56キロ)という体重で大威張りだったのだから。

 

045 八月ころになって運動に出てみた。驚いたことに庭一面、緑の森と化している。ダリヤは咲き乱れ、女郎花(おみなえし)は今を盛りと咲き誇っている。世の中にもこんな美しい所があるのかと、何から先に眺めていいか、どれから先に香りをかいでいいか、天国へでも遊びに行ったような感激である。たった五分くらいで監房へ入るように医者に言われてるのだけれども、あまりの嬉しさに十分くらいも超過して、遂に発熱してしまった。

こうした感激から監房へ連れ戻されることは誠に嫌な気がする。より一層穴蔵の中という感じがする。そして疲れた体をドタリと床に横たえる時、今更ながら穴の底に放り込まれたという気持ちを味わう。

五分読書すれば、十分以上眠って起きなければならないほど、体が疲れて何一つ読むことができない。×旗を歌ってみるが、呼吸が苦しくて続けて歌うことができない。ただ一つの力強さそれは最後の勝利は吾等がものだ、如何に奴らが狂い廻ろうとも、一刻一刻と世界の同志は革命へ革命へと粛々と進みつつあるという確信だ。奴らに殺されるものか。ここにへばって死んで行けば、奴らの間接的手段によって敗北してしまうだけだ。きっと元気なって戦ってみせる。私は今でもそう思うが、この気持ちがなかったら、今頃は死んでいただろうと。

 

046 私はこの病気の間、取締りの意地悪い奴からは特にいろいろ苛め抜かれた。奴らは人間として最も悪い性質を誰よりも多く持っている。それは当然だ。ブルジョワ教育を丸のみ込みにした上に、囚人を取り扱う時はあさましくも意地悪くならなければ務まらないのだと思っているらしい。この憎むべき性質はブルジョワ教育の所産であり、また奴等がプロレタリアを酷使する時に必要な性質なのである。

 

 

同志

 

049 (要旨・感想 伊藤千代子さんに初めて声掛けできてうれしい。原菊枝も学生だったのか。しかし原は『時代の証言者 伊藤千代子』の中の女子学連の役員表065には出ていない。また伊藤が学連の運営を批判していたようだ。)

 

 八月も近づいたが、私にはまだ差し入れがないので、セル(薄地の毛織物)のままで寝ていた。一日中寝ていても、さすがに暑い。このころ漸く検事調べが始まったが、ちなみに翌年192910月に予審が済んだ。このころ中間検挙で四、五人が入ってきた。丹野さん(丹野セツ1902.11.3—1987.5.29、中間検挙。渡辺政之輔の妻)も入ってきた。相変わらず元気だ。またこのころから私はそろそろ起きられるようになり、もう故人となった伊藤さんと話し始めるようになった。

 

 私の病室の前を足音も静かに運動に出て行く人がいる。(一般の健常の囚人には)病舎は元来使わないのだが、私たち同志がかなり大勢入って来たので、監房が足りなくなって、健康の人まで病舎に入れるようになった。(伊藤さんは)一番奥かもう一つ手前の辺りから出て来るらしい。或る時戸の隙間からのぞいていると、通った、通った、伊藤さんが!正しく伊藤さんである。よし、もうしめた。意気揚々として寝床に入って一人悦に入っていた。運動から帰ったら呼んでやろうと考えていると、三十分の運動時間がジレッタクなって堪らない。今日T(伊藤)さんの運動時間はおまけがあるのかしらなど考える。癪に障るほど長い。半年ぶりで同志と話し合えると思うと、胸がわくわく跳る程うれしい。こんなに待ち遠しがっていても、実際は監房へ帰ったからとてすぐに話せるものではない。取締がうるさく廻って来る。食事の時間が近づけば、看護の囚人が薬を持ってくる。やがて食事になる。また少し経てば、食後の薬がある。次に取締が来る。男の看守長というお役人が視察に来る。囚人が何か仕事を持って走って通る。せっかく起きても人の足音のするたびに寝床へもぐりこまねばならない。

050 なぜってこの頃はまだ始終動くことによって、発熱が多かったり少なかったりするので、起きることを禁じられていたからだ。しかしこんな風に十数回も起きて寝て、起きて寝て、表面だけはごまかしても、夕方には熱がグングン昇って、体や足が痛くなるほど疲れて、もう話どころの元気も出なくなって、その日は残念ながら中止してしまった。医者からは翌朝「何をやったのか、監房の中で何か暴れたのだろう」と少々小言を食っただけだが、自分の体が堪らない。その翌日も頭が痛くて見合わせることにしてしまって、計画してから三日目くらいにやっと計画を実行することができた。

 

 丁度取締が事務所に一人になったような様子だ。何しろこれをやるには奴らに見つからないようにうまくやらなければならないから、このことを計画してからは、耳が極度の緊張を持って活動していた。耳が確かに一人しかいないと聞き分けている。この一人がどこかへ用に出ればいいのだが、と待ち構えている。(建物の)中では門の鈴の鳴る音を聞かなかったという。その時運よく鈴が鳴った。門の外から用のある人が来た場合は、女囚の門まで来て門の鈴を鳴らすようにできているのだ。よし、戦機は熟せりとばかり、勇敢に飛び起きて廊下の窓添によって「伊藤さん、伊藤さん」と大部大声で呼ぶと、伊藤さんの方でもさる者、すぐに「ハーイ」と大きな声で返事をした。その痛快なこと。胸の中がスーとその呼び声で空っぽになってしまって、お互いに大声で笑って、後は何の話もしないうちに取締が帰って来てしまったので、その日は大勝利を得た戦士もかくやとばかり、床の中に入り込んでからも、熱の出るのも忘れて、背中を子どものようにピョコピョコ持ち上げて喜んでしまった。

 

 この事件でまた発熱して、二日ほど中止せねばならなくなった。取締に「何か心配事でもないのか、こんなに度々熱を出してはいけないから、あまり考え込んではいけません」などと注意を受けながら、胸はおかしさと愉快さとで今にも爆発しそうである。

 

 最初この仕事を計画した時は大部困難でなかなか機会がないようだったが、次からは一回ごとに機会を見つけるのがうまくなって、しょっちゅう話し合うようになった。

052 伊藤さんはよく理論闘争時代*の先輩の話をして憤慨していた。また女子学連の活動に対して真面目に批判していた。しかし明けても暮れても過ぎ去った話以外に新しい話題がないので、お互いに退屈を感じることは以前と同様である。お早う!と言い合って、あとは、アーとあくびして座り込んでしまうこともある。またお互いに知っている歌を聞かせ合って歌うこともある。歌はどんな短いのでも一日で覚えることはなかなか困難だ。歌おうとすると人の足音がしたり、いろいろな妨害が入ったりで数日これで日を送る。一つの話を出しても同じことだ。それに全く仕事のない暇な空漠たる時間をどうして潰すかが問題なのだから、いつまでも一つの話を捨ててしまうことはしない。縦から考え、横から考え、前から後ろからあらゆる方法と全ての知能を搾って話し合うのである。だから歯が悪いという話から、人の嗜好の話に行ったり、またいよいよ脱線して二重人格の話をしたりしている。どこへどう話が広がって行くか無限である。また語学のことで時間を潰すこともある。単語の言い合い、文法上の解釈等。主にこういうしかつめらしい勉強の話は、懲罰を食ったときにやる。懲罰の前には大抵丹念に単語を爪で紙切れに刻み込んでおくから、これを引っ張り出して勉強する。だから何週間懲罰で本を取り上げられても却って心機一転して、体にも脳にもいい影響を及ぼすくらいなものだ。

 

 

十月の×××(「十月の×××」とは神嘗祭10/17のことか。)

 

053 ×××と言えば、飛行機が数百台私たちの頭の上でデモをやったことを第一に思い出す。ブンブン空を覆って飛び回る音は、私たちのすべてのエネルギーを反帝国主義に集中してしまった。一日中何物も頭に上る余地がないほど興奮してしまい、外で活動していた当時の戦争反対の闘争を話し合い、益々この闘争をしっかりやらなければならないことや、そのために婦人は如何に闘争して行かねばならないかなどを討論した。そして捕虜になっていることがどんなに口惜しかったことか。こうして問題を真面目に話し合っていると、オメオメと捕虜になったことがひどくすまないと思われてきて、全同志に対してどんなに済まなく思って涙を流したことか。

 

054 この日刑務所では囚人を工場に集めて君が代を歌い、天皇陛下万歳を三唱して君主に光栄あれと祝った。隣の詐欺犯が叫んだ。「何だ、しらじらしい。人の金を搾り取った金で酒盛りなどをしやがって。この不景気に、飯だって腹一杯は食えないじゃないか。それだのに提灯をつけろ、やれ旗を作れ、そらこの度の×××に何をしなければならないから金を出せって、困る人のことなど微塵も考えてやらないじゃないか、馬鹿にしてやがる!」全くだ。これ以上説明することはない。支配階級の欺瞞政策も、それ自身大衆をどん底に突き落とす役割以上に何の働きもできなくなって来た。

 

 この日獄中の私達同志は連絡がうまく取れなかったので、歯を食いしばって黙り込んでいた。奴らの鬨の声を聞いていると、再び苦々しくも捕らえられていることが癪に触る。総選挙前に奴らが検挙するかもしれないことは皆思っていたのじゃなかったか!それだのに一網打尽という状態にやられなくともよさそうなものだ。どこからこんな風に手がついたのだろう。党員名簿を提供した人があるとか、こんなに打ちのめされてオメオメと何もかも白状してしまう人も多いとか、いろいろな噂が再び胸に浮かんでくる。飛行機が群れをなして私たちの頭上を飛翔する。大砲が続けざまに轟き出す。万歳の声が囚人の口から一斉に聞こえてくる。感慨無量とはこんな頭の状態をいうのだろう。腐りかけた小鯛(だい)の煮つけや鯣(するめ)などいろいろごちそうが出る。御馳走になったら下痢か嘔吐でも催しそうなものばかりである。プロレタリアートは日一日と仕事を奪われて食から引き離されてゆくのに、プロレタリアの膏血を搾り取って奴らは乾杯して鬨の声を張り上げているのだ。しかしあの万歳の声はやがて奴等支配階級を覆(くつがえ)す声となるのだ。

 

 夜寝床に入ってガチャガチャとサーベルの音が聞こえて、大勢の靴音が真っ暗な監房に響いてくる。大きな声で荒々しく話している看守長の声が聞こえる。翌朝聞いてみると大赦とかがあって、それからまた寝てる囚人はたたき起こされて、工場で京都の方を拝まされたのだそうだ。そして特殊な犯罪人以外は皆多少刑をまけてもらって喜んでいた。なんで昨夜はあんなに看守長が怒っていたのかと一人の囚人に聞いたら、大赦令が出るのが例なのに早々と寝させたのが悪いのだそうだ。刑をまけてもらう人もいるが、中にはまけてもらえない人もいるのだから、何も起きて待ってなくともいいじゃないかとその囚人も笑っていた。

 

 

渡政の殺されたことその他

 

056 丹野さん*が(刑務所に)入って来て間もない(1928年)11月ごろだったと思うが、誰かが検事局に呼びだされて行って渡政の死を聞いてきた。しかしほとんど全部の同志が半信半疑で、信じられる点も多分にあるし、一方奴らの逆宣伝で、私たちの気持をくじくために言っているようにも考えられるし、一週間も十日も寝ても覚めてもこの事ばかり考えていた。レポートにもそのことばかりが問題になっていた。何とかして真相を知りたいものだと気をもんでいるが、外から聞く術(すべ)はなし、誰かが面会に来たら確かめることと、他の方にも頼んで、この重大事件の調査を一刻も早く進めることばかりに熱中して、日に一時間かせいぜい二時間の真面目な勉強も手に着かなくなってしまった。運動に出たときは忘れずに塀や土の上に何か落ちていないだろうか、誰か新しい報告を書く人はいないかと、隅から隅まで探してみるが、なかなか真相が手に入らない。

 

057 そうしているうちにとうとう解(わか)る時が来た。渡政のお母さんが丹野さんへ面会に来られたのだ。「四十六番!面会」と電話で話しているのが事務所から聞こえた。何事があっても私の房が最も事務所に近いので、何もかにも注意さえしていれば分かるのだ。確かに四十六番と言ったがと耳を澄ませ、取締がどっちの監房へ錠をはずしにでかけるかを注意していると、やはり四十六番の方だ。今度こそ事件の真相がわかるぞ!というので読みさしの本を放り投げて飛び立つと堪り兼ねて「伊藤…さん!伊藤さん」と呼んでみる。向こうも抜け目のないもの。「何だ!何だ!何事が起ったのか」とせき込んで聞いてくる。「四十六番だよ、四十六番だよ、今の面会は」「ああそうか。今度こそ解るね」ともうお互いに一刻も早く知りたいという念で一杯だ。まだ帰ってこないかしら、明日はきっとわかるよ、とその日は勉強もそっちのけである。

 

 果して翌日運動に出てみると書いてある、爪で。しかしいくらよく見ても「Xさん、政が殺された。」とのみで、何も書いてない。何時間も取り締まりの目を盗んで書くのだから、これ以上何も書けないのも無理もないが、この問題はこれ以上進まないで遂に年越しになり、四・一六の人達が入って来るまで半信半疑だった。四・一六の人が入って来て早速この問題を聞き出すことに苦心して、よく聞いてみると、自殺ということが明らかになったので、またまた驚いた。自殺!渡政が自殺する!そんなことがあるだろうか。コンミニストとして偉大なるあの指導者が自殺するとは?何と考えてみても不可解である。いろいろ理由をつけてみても、やっぱり最後にはどうしても自殺という渡政の考えが分からない。また分からなくてもいいことだ。しかし党としてはこの自殺に対して何と批判したか。

 

*丹野さん 丹野セツ。渡政の夫人。中間検挙で検挙された。

渡政 渡辺政之輔1899.9.7—1928.10.6 基隆キールンで自殺or他殺

 

 

夏から秋

 

 房の夏は飛び切り暑い。風の入る窓が一つもない。真夏になると食器口の戸を開けるのを許し、この五寸(15㎝)四方位の小さい口から入る風がせめてもの慰めである。そこだけがステキに涼しい場所だ。頭の先を出してソヨソヨと入る風に吹かせてみたり、頸を延べて涼味を味わうという情けない有様なのだ。寝る時もこの食器口の方を枕にして、せめて頸筋へでも風が当たってくれたら少しは眠れるが、蒸し暑く風のない日は十一時になっても十二時になっても眠れない。普通の家なら夏は十二時ころまで縁台で涼んで、面白い話に花を咲かせているのだが、この中は七時半か八時十五分前には就寝の号令がかかって寝てしまうから、房の中は蒸せ返るように暑く、体が涼しく感ずることなどない。大抵どの監房の人達もこの食器口の方を枕に寝るのに利用して話を始めるが、大抵これも聞きつけられて、「×番、聞こえますよ。話をしてはいけません。」と、それから何とかうるさい小言を十分くらい聞かされたりするので、せっかくの話も暑さしのぎとはならないでしまう。食器口の前に立ちふさがれたり、おまけに食器口を閉めてしまうとか意地悪を言い出されるので、たまたまの話も胸のすくところが大変な災難になる。

 

059 それでも時には飛び入りの呑気者も来ることがある。十八、九の妻君で、最初は朝から晩まで泣いてばかりいたが、いろいろ慰めたり、事件の内容を聞いてみると、馬鹿馬鹿しいようなことで連れ込まれていることが分かったので、皆で元気をつけてやると、それからその妻君も元気になって、鴨緑江節や草津節やを歌い出した。ところが草津節などは私達には初耳なので、どんな文句か分からない。とうとう退屈なものだから草津節を覚えることにきめて、勉強が済んで少々退屈になると、「アア若(も)し若し」と呼び出しては歌を教えることをせがんでは歌ってもらうのだが、何しろ私の房は事務室のすぐそばではあるし、うっかり話しているとすぐ聞こえるので、歌の内容を聞き取ることができない。それでもこの妻君は一生懸命に教えてくれる。

 

060 「いいかね?」「高い山から麓を見れば」「ああわかった」「そこはよく聞こえるよ。その次がどうしても聞き取れないのだ。」「あのね、笠や…が散歩する。」どうもまだ分からない。「笠と何が散歩したのだね」「あのね」と言っていると、「×番また話をしていますね」「あなた方がきかなければ、こっちでも転房するか懲罰か、そう思ってください」とか何とかクドク怒り出す。せっかくの太平気分が一瞬にしていが栗のような苛々(いらいら)した気持ちになってしまう。うるさい。始まってけりか、と空を見つめて云うだけの小言を聞き流している。やっと帰ったようだと思っていても、こんな日は奴らが、こっちの方へばかり神経を集中して、足抜きをしたり、いろいろな悪態を演ずるので、殆どその日一日は楽しみを奪われてしまう。

 

061 「高い山から麓を見れば、笠や…が散歩する」ハテこの分からない場所は何という字が入るのかしらなど、様々に引っ付けて見るが、どうもいい加減なことは気になるもので、はっきり聞かないうちは承知ができない。又翌日、「もしもし」と呼びかけて、やっと、「うん、そこまで分かったから、その次は?」と聞いていると、また見つかってしまう。こうして辛苦惨憺して数日を費やし、数回小言を食って、麦飯と豆から得た僅かなエネルギーを濫費してやっとやっとわかってみると、これはまた何とあっけない。「笠」と思っていたのは梅毒の「カサ」で、その次は「淋病」ということだったので、馬鹿馬鹿しくはあるし、ここでなければこんなことに数日を費やして努力することもないだろうと思うと、一時に笑いが腹の底からこみ上げて来て、ワハハハハと笑ってしまった。近所の同志やそのまた隣の監房の人達までがこの滑稽さにくすくす笑っていたのに、もう我慢しきれなくなって、ドット一帯に笑い声が爆発してしまった。

サア大変だ、ゴソツと音がして飛び出してくる取締だ。奴らが監房の前へ来る頃には、一同笑いを腹の底へ押し付けて、しかめ面をして本を読んだふりをしているが、それくらいのことで隠せることではない。私が大きな声で笑いを誘発させたことは一分かりだし、他の監房の連中が一斉に笑ったことによって皆で一致した話をしていたことも明らかだ。こうなるともう覚悟だ。誰かの所へ罰が廻って来ることはお決まりだ。何しろ同志があっちにもこっちにも一つ置きか二つ置きくらいに入っているので、同志のことを転房させても(奴等にとって)何の効果もないので、こんな時はその話を聞いたり、または話し相手になった普通の被告が、大抵隅っこの、隅っこの淋しい監房へ移される。しかしどこへ行っても、すぐ隣か一つ置いて隣に私達同志がいるので、このコソコソ話をすることを覚えた被告たちは、二、三日中には、すっかり何とかして話し込む工夫をしては、笑い興ずるようになる。

 

062 夏は夕方から夜にかけてが最も面白い。真昼の暑さはとても堪らない。暑い日でも外気に触れる日陰ならば多少は助かるのだけれども、全く薄暗く蒸し返っている箱である。立ち籠った蒸し暑い空気は、栄養不良にかかっている乏しいエネルギーをすっかり汗とともに消耗してしまう。本などとうてい読めない。健康だと言ってる人たちでさえ、頭が痛み出して起きていられないくらいだから、まして左の肋膜に打撃を受けている私などは、こうなると心臓が動かなくなってしまいそうだ。バケツに一杯の井戸水を請求して監房の中へ持ち込んで、自分で暑い盛りを二時間じっと寝て心臓を冷やして夕方を待つ。

こんな暑い最中でも自分の番になれば運動に出るのだが、日影さえろくにない庭に放されたところで運動ができるものではない。弱ってる体はギラギラと照りつける強烈な光線でぶっ倒れそうになる。監房の近くの木陰へ行こうと思っても、行くことを禁じられるし、また無理に行こうとすれば、運動を停止するとくるのだからしようがない。酷暑の三十分の運動などは少しも有難くないことがしばしばだ。この三十分が長い獄中生活者にはどんなに重要な時間であるかということなどは、奴等には考えられないのだ。また考えられても、それに対して設備をしてくれるほどの同情などは微塵もない。

一年以上入っている人たちは大抵栄養不良から、こうした夏の時期になると月経がなくなるか、またあっても量がぐっと減ってしまうのが普通らしい。私の同志で亡くなった伊藤さんの話では、夏から冬にかけて二か月に一回しかなくて、しかもほとんど分からないくらいしかないので、中性になってしまったと言っておられたことがある。夏の暑さに大抵は極度に体が栄養不良になる。いくら強い人でも、麥飯と味噌汁が明けても暮れても続いては、夏など全く参ってしまう。この衰弱が冬になっても回復するはずもないし、また厳冬になれば一層ひどくなる。だから一年以上になれば、次の夏、次の冬には、一層栄養不良の症状がひどく出て来るだけだ。

 

064 赤い衣に包まれた囚人たちは、来る日も来る日も名物の洗濯と縫い返しに追い使われる。I(市ヶ谷)刑務所では十二、三人から多くて十七、八人位の囚人しか置かない。ここは未決監であるから、既決になれば皆栃木の刑務所に送られて行くので、ここに残されてるのは、必要なだけの十数人しかいない。その十数人が洗濯、裁縫、ミンシ張り(これは娑婆から注文をとって金儲けをやらせるのだが)、取締りの小使いから、お風呂の日には、お風呂番から、板張り、取締りの風呂は毎日とらせるのだし、庭の掃除、便器の掃除、甚だしいのは取締りのお腰までも内密に洗わせる。(取締りが)自分たちの着物や家の着物などを(刑務所に)持ち込んで洗わせることは公然の秘密である。それさえ少しまごまごすれば、𠮟りつけられ、小言の百万言も浴びせかけられるのだ。

 

065 ところで取締りのお腰まで洗う役を務める奴はどうも癖が悪い。大抵は囚人間のスパイを務める奴だ。何とか取締りからよく思われたり、正直な人間だと思われたりしたいケチな奴が、この公然の秘密を喜んでやるのだ。こんな奴は時々他の囚人に憎まれたりして、喧嘩をしてるのが普通だ。スパイという奴はどこにでもいる奴だが、こういう奴は強盗、殺人鬼、破廉恥罪の人からも見下げられる。しかしこうした光景は見ていても誠に小気味よいことである。

 

 赤い人たち(既決の囚人たち)は五時か五時半に起こされて、六時には工場へ出る。これを出役(しゅつやく)という。出役の時間には炊事場の汽笛が鳴る。するともう男の方では、便所掛のトロコの音が枕に響く。遠くから塀の外をゴロゴロと響いて来て、やがてギー・ガタンと鉄の小さい門が開かれて外へ出る。男の方の状態は女の方からは分からない。女囚でも汽笛と一緒に工場に出るということになっているが、大抵取締りの寝ぼけ頭があわてて寝床から抜け出してくるくらいなもので、男の方のように規則正しくない。

 

066 (未決の)被告はこの出役のボーで起床し、約半時間か一時間以内に食事を済ませるのだが、囚人はこのころはもうせっせと働いている。五、六人が裁縫を受け持ち、次の五、六人が洗濯を受け持ち、残りの二、三人が洗い張りをやる。洗濯といい、裁縫といい、千人位の人達のを全部やるのだから、大変な仕事だ。その間に毎日毎日の男の方から来るフンドシ、仕事着、股引(ももひき)などの洗濯がある。だから明けても暮れても洗濯だ。冬になれば夏の物をやらねばならないし、洗濯掛は入ってから出て行くまで、明けても暮れても素足で水に浸かって洗っていなければならない。干し物場では炎天の光を受けて、色のさめた青と赤の二色がベッタリ重なり合って下がっている。

とにかくこんなふうに何年でも刑が終わるまで、洗濯工は水から上がれないから、よほど強い人間でない限り脚気になる。医者が来る。例によってフン、フン、よしよしで帰り、わけも分からない薬をくれて放っておく。指で押せばズブズブと凹(へこ)むほど腫れ上っている人を、歩ける間は洗濯舟の中に追い込んでおく。医者が水に浸ってはいけないと特に言い出さない限り、取締りは見て見ぬふりをしている。死んでもいい。使えるまでこき使う。駄馬のように。

我慢しきれなくなって工場の隅に倒れてしまう。側の囚人が堪り兼ねて取締りに申し出る。「×番さんを休ませてください。」取締りの渋い顔が工場に現れる。「一体どんなんだ」「あなただけ勝手に休ませることはできない」「お医者様が、休まなければならないくらいなら、休ませろと仰るに決まっている。それを少々苦しいからとて、我が儘を言っちゃあしょうがないじゃないか」と小言を言う。それでも起きる気力もなくなった囚人は、涙を流して嘆願する。「お取締り様、とても胸が苦しくて、頭が痛くて」後は涙である。それでも取締りは自分には分からないから、もしどうしても休みたいなら、お医者さんに診察(み)てもらってからにしろ」と頑張る。そしてヘボ医者を連れてくる。それからやっと寝てもいいということになれば、監房に帰って寝ることができるのだ。病気に対する不親切では、I刑務所はすばらしいものだ。栃木へ行けばこんな患者は重症者として病舎に移されるそうだ。

 

067 秋になる。夏からガンガン言われて洗って縫っても、十人やそこいらの人間で千人の綿入と布団が間に合うはずがない。十一月の終わりごろに漸く綿入になった年さえある。それでもまだ足袋は間に合わなくて、裸足である。監房の水も凍る頃なのに、霜やけとあかぎれで目も当てられないような痛々しい足を、ピョコピョコさせて腰をかがめて歩く様子は、地獄の亡者が鬼にいじめられている物語の光景にそっくりだ。寒さに震えて口もよくきけない老人もいる。手の指が腫れ上がり、とても細かい仕事はできない。だから時々は我慢しきれない老人等は、こっそりと下着を二枚着ていて、こっぴどく叱られたりすることがある。いくら寒くとも火の気のない工場や監房の中で、木綿の半着(はんぎ)と木綿の二巾(ふたはば)のお腰と綿入れ一枚だけなのだ。そのまた綿入れも新しい上等の綿でも入っているならまだしも、何十回か打ち返したボクボクのネバリも何もない塵(ちり)あくたのような綿を詰め込んでおくのだから、一日二日着ているうちに、保温量がドンドン減って、一週間もすれば、大して暖かくもなくなってしまう。こんな綿を入れるのだから、綿がつくったまま現状維持ができないので、一寸(3㎝)四方位の角度で板の目のように綴(と)じつけてある。渋色の不格好な綿入れの筵(むしろ)をかついだようにバタバタと着ている囚人の姿は、人間だか何だか分からない。鉄の鎖につながれた奴隷でなければ、こんな風景は現代社会には見当たらない。

 

069 囚人はそれでも十二月の末とはいえ、とにかく綿入れを着ることができたけれども、私達同志の中には差し入れもなし、刑務所でも綿入れが足りないというので貸してくれないので、寒中単衣(ひとえ)一枚で通さねばならない人さえいたという。こうした人たちは多分郵税を払う金さえなく、外へ言ってやることもできなかったのだろう。この話を聞いて私たちは何とも申し訳なく思った。とにかく私たちは皆暖かい綿入に包まれていたのだから。外の人達もこのことが分かったなら、こうは放っておくはずがなかったろうに。

裁判所の不誠意、刑務所のこのむごたらしい人情は、驚くに余りある。綿入を間に合わせようと思えば、方法はいくらもある。栃木へ送る人間を減らしたらいい。自分たちの水洗濯物をさせるのをやめたらいい。また甚だしきは女囚でこの忙しい囚人を使ってウドン屋をさせ、刑務所の職員の昼食にしていたことだ。こんな自分たちの都合や、ケチ臭い節約?で、あくまで囚人を酷使し、その報酬は寒中に綿入がないという不始末を出し、多くの同志や囚人を虐待したのだ。だから同志が単衣で放っておかれ、そのことがばれれば刑務所としても失態であるから、こんなことは極力否定するのだ。こんなことはいくらもある。病気の時でも、食事のことについても、また懲罰の時も、みな外に漏れることを恐れ、このような奴等の責任問題について被告または囚人が面会人と話す場合は、次から面会を差し止めるとか何とか脅し、外へ漏れないように揉み消しをやるのだ。この状態を見ている私たちは黙っていられない。例え一枚でも二枚でもいいから、できる限り綿入れを縫うから、監房へ入れてくれるように頼んだのだが、もう間に合いましたとかいろんな嘘をついて、遂に一枚も縫わせなかったのだ。奴らは綿入れの中へレポでも入れられたら困ると考えたのだろう。そんなことよりも食を減らし、着物を与えない方がより重大な失態ではないか。

 

 

冬 (「冬」という題だが、刑務所での冬の厳しさから、共産主義運動を担う主体と狂気との関係や、名指しはしないが、翌年1929年夏の伊藤千代子の狂気について、やりきれない気持を述べる。)

 

070 冬になって面白いことがあった。それは私の隣へ文部省の判を偽造して教科書を出版したというので入って来た前科者が毎日運動に出ない。取締りが運動を知らせに来るたびに、胸が痛いとか、お腹が痛いとか、夕べはとうとう吐き出してしまったとか、いろんな仮病をつくって出ない。とうとう取締りが怪しみ出して、布団や何か監房の道具をかき回し出したようだ。たちまち取締りが不正を発見したらしい。「これは何だ?なぜこんなことをやるのか?」大変な剣幕である。「ハイ、どうもお腹が痛いのでたまりませんから、少し暖めたらよくなるだろうと思ったもので。」「そんなに悪いならお医者さんに診察してもらうなり、薬をもらうなりしたらいいじゃないか。お前の顔を見ていると、ちょっとそんな顔には見えないよ。寒いからそんないい加減なことを言ってるのじゃないか。」「お取締り様、それはあんまりでございます。嘘なんか決して申しません」というようなことを繰り返し弁解して、やっとやっと三十分くらいで取締りが引き上げた後でそっと聞いてみると、何でも土瓶を抱いて手足を暖めていたのだそうだ。ここでは毎食後に土瓶にお湯を少しずつもらうのだが、舌の焼けるような暑いのは、一週間に一回くらいのもので、時には水臭いお湯もある。気の利いたお釜番がいれば少しは暑いのも飲めるけれども、人の気持ちを考えるような優しい気持ちで暮らしている人間はほとんどいないから、被告はいつもみじめにも生ぬるいのを飲まされる。この前科者は却って落ち着きはらっているので気が利いていることが多い。私たちはこの前科者を豪傑と称していた。

 

072 ところがこんな事件も割合に少なくなった。それはこの(刑務所の)中も、この二、三カ月に急に資本主義的に発展してきて、お金さえ出せば、ある程度の必要品は買えるし、お菓子や、お茶や、果実や、何でも買えるからだ。しかも昨年の秋あたりからは、「安全あんか」というものが刑務所にも入って来て、相当高いものではあるが、それもお金持ちには大した問題ではないし、お金持ちはあの中でも豪奢な生活を続けているのである。まるで社会の縮図だ。取締連もお金持ちには何くれとなく便宜を図って猫なで声を出しているが、何べんも来るようになる貧乏人には、けんもほろろに当たるのである。同じ監房にいても、金のある人は暑いお茶を飲み、お菓子を食べてお客様にでもなったような様子に見えるが、そうでない人は座布団も借りることができないし、毛布も持たない、氷るような部屋の中で、石のように固く青ざめて座り込んでいるのだ。足を崩しても、話しても、笑っても叱られるのだから、貧乏な人たちにとっては、昔も今も牢獄の苦しみは同じことだ。

 

073 夏の息づまるような暑さに引き換えて、冬の寒さは血潮も凍りつくような厳しさだ。夏には風の吹きこむ穴もないこのうっとうしい部屋も、冬になれば床には一分*位の隙間が発見されてくるし、羽目板がガタガタになって、あちこちに隙間がある。窓の戸は両側が二分くらい斜めになってよく閉まらない。冷たく凍えそうになっている体に、身も切るような隙間風が遠慮なく吹き込んでくる。懐中で暖めた手先が、頁の二、三枚もめくっているうちに、痛いまでにかじかんで、黒くなった凍傷がピリピリと痛んでくる。この中に入っている人間は、十一月ごろからそろそろ霜やけにかかる。娑婆では霜焼け知らずの人も、一様に手足の指が膨らんで、ひどい人はビリビリと水が出て、崩れて行く。明けても暮れても座っているのだから、血液の循環が悪い。足の指の辺りは一番最初にできる場所だ。手は懐中手(ふところで)をすると、丁度懐から出たばかりの境目が霜焼けになる。

 

*分 曲尺(かねじゃく)で0.3

 

杓(しゃく)を使ってかければ落ちる雫(しずく)がすぐに落ちないで、つららとなって下がってゆく。これが昼太陽が外で最も暖かく照りつけている真昼間の温度なのだ。こんな時でも外で運動に出れば、監房の中の仕度では羽織を脱がねばならないくらいである。だから私たちは運動から帰るときは、また冷蔵庫の中へ入るのだという気がする。じっと座っていると第一に足の感覚がなくなって来る。体の芯がヒシヒシと冷たくなってくる。顔にブツブツと粟(あわ)ができて、唇の色がなくなる。そして遂に変な眠気を催してくる。何と我慢しようと頑張っても、ひとりでに眠り込んでしまう。麻酔薬を飲んだ人のようだ。凍傷で死ぬ人は丁度これを延長したものだろうといつも思った。そうなると仕方がないから立ち上がって体操をするが、体をふらふらと動かしてダンスでもするより外に道がない。そうすれば少しは血液の循環も良くなるから、少しは暖かになるので、その元気でまた座り込んで本を読む。空腹を感じない時はこれでもまだ助かるが、腹が減ってきたらもう駄目だ。背筋からお腹の底までも冷え切ってジタバタ手足を動かすくらいではとうてい温まらない。

 

ものすごく冴えた月の光は、薄暗い電燈の光に打ち勝って畳に落ちてくる。寂(せき)とした房の中に照らし出された桐の枝が、ものすごくゆらゆらと揺れている。茶碗を洗ったときの雫があちらこちらに凍り付いて、杓も、雑巾も、がっきりと板に凍り付いて、一足歩くたびに、監房の床と、床を伝って羽目板とが、ミシリミシリと鳴り響く。

 

075 遠くの方で同志の咳やクサメの声が聞こえる。男の方の監房からも元気のよいクサメが一晩に二つくらいずつ響いてくる。やがて空腹を抱えて寒さに胴震いをしながら寝床に入る。寝ながら側の便所を眺め、洗面台を眺め、水桶を眺め、ガチガチにしがみついた雑巾を眺めて、これでも弾圧の中に闘う同志や、多くの路傍にさ迷うプロレタリアートよりも、より保障された呑気な生活であることを考えて夢を結ぶのだが、なかなか夢を結ぶまでが大変だ。七時ころに寝る。それから眠るまでには三、四時間もかかる。いつまでも足が冷たくて、三度くらいは便所に起きなければならない。あまり縮まってもぐり込んで寝ているせいか、体が気持ち悪く暑くなって、胸の辺りへ冷や汗がにじみ出てくる。顔は暑くほてって、頭が無性にかゆくなる。だからどうしても眠れない。十二時か一時ころに漸く眠り出す。

 

 こんな寒い晩に塀の外をチャルメラを吹いて通る声がよく響いてきて、娑婆を懐かしく思い出す。殊に渡政のお母さんがおでん屋を始められたという話を或る友人から聞いてから、あの淋しい江戸情緒ともいうようなチャルメラの声が、凍りついた空気を伝わって聞こえてくると、きっと思い出す。それにお母さんがどんな風に店を営んでおられるのか委しく聞いていなかったために、もしやあの老いの身に、街頭に立って売っておられるのではないだろうかなど、お母さんの寒そうな姿を胸に画いては、いつまでも眠れぬままに考えつめた。尾を長くピロロロと悲しそうにも聞こえる声が、だんだん遠くなって、しまいに聞こえなくなると、それがお母さんのチャルメラの声であるように、懐かしく感じられ出して、もう少しこの辺を吹いてくれたらと、いつまでももっと聞こえはしまいかと耳を澄ませたりする。

 

076 もう一つ、この寒さに向かってくる頃に淋しい思い出がある。それは一人の同志が極度の神経衰弱にかかったことだ。何も驚くことではないのだが、割合に体質の弱い女性が牢獄に打ち込まれ、色々な変化が精神的にも肉体的にも来ることは当然だ。しかし、一方から言えば、共産党員とも言われる人間は、一年や半年では決して極度の精神的変質は起こさないものだと、英雄主義的に考えていたイデオロギーを根っこから覆されることだ。あの一種異様な叫び声と余りにも変わった考えを口走りながら暴れる音を聞いていると、胸の血潮が一時に頭に上って来るような、恥ずかしさと憤(いきどお)ろしさをどうすることもできない。ピチブル性を発揮したのだ。ピチブルの弱点が見事ここに暴露されたのだと考えると、憤ろしさとともに恥ずかしさが身に迫って、今まで(私たちが)大威張りで睨んでいた取り締まりや看守長の顔も、まともに見たくないくらいに気が引けてくる。しかしそれはそれとして、正しく科学的に見た場合には、これもまた仕方のないことである。何と言っても奴ら支配階級の不当拘留がこんな結果を生むに至ったので、その(彼女の弱い)体質よりも、奴らの不当拘留に対して断乎として闘わねばならないところである。私はこの脳の変化を知ったときに、床の中で身震いをした。しかも幾たびか幾たびか身震いした。恐ろしいものでも見つけられたように、とうとう一方の牙城が崩れたのだ。何と情けないことだろう。同志である伊藤さんは最も憤慨した一人だ。伊藤さんは憤慨のあまり、一日、監房の中をグルグル歩き回って、顔を真っ赤にほてらせたそうだ。この同志はいつも泣いていた。そしてお父さんやお母さんを思って泣いていた。どんなに父母が心配しているだろうと言っては泣きだした。本当に、父や母のある人達は、放り込まれる人よりも親たちの方が気の毒だ。どこの親たちでも自分の子が憎らしい親はない。いくら(共産主義者になった子どもを)怒ってみても、こんな中に放り込まれた息子や娘のことを考えたら、いても立ってもいられないような気持になるだろう。刑務所といえば普通、生き地獄のように響いてくる。殊に老人であればあるほど、昔の牢の話などが深く胸に刻まれている人たちなのだからなおさらだ。それでもこの同志は間もなく父母の手に引き取られて行ったので、皆どんなに安心したことか。外へ出ればきっとよくなるだろうと期待して喜んだ。

 

078 ところがこの同志を最も憤慨した一同志が、翌年1929年の夏になって狂ってしまった。何という驚きだろう、そして何という淋しいことだろう。しかもこれが今問題となっている解党派の意見書を見てからというので、これを聞いた同志の憤慨は一通りでない。こんなに長い拘留のために心身ともに弱っているときに、今それほど必要でもなくつまらない論文を読ませて狂わせるとは、まるで奴らの戦術にうまうまと乗ったようなものだ。発狂させて殺したのは解党派と検事局の仕業だと、明らかにそういう攻撃の声が監房の隅々から聞こえてくる。

 (解党)派の意見を少しずつ誰かに聞き込んで来てはいつの間にか全体に広める。一体どこからあんな意見が生まれてくるのだ。そんなことで××(天皇)とか、土地の没収の否定になるのか。××(共産)党とはどんな性質でなければならないか?戦略とは?戦術とは?しかしてプロレタリア革命を遂行するためには、いかなる党でなければならないかが、長い長い間かかって、あっちの隅から、こっちの隅から意見を出して討議して出したのだ。解党派の或る人に対しては、どうなれば「××(天皇)に光栄あれ!」とかいうスローガンだか何だかが生まれて来るのかを検事局を通じて質問した。しかし何の返事も得ることができなかったので、同志の憤慨はますます募った。これがお互いに外で会うような機会があったら、ただでは済まない形勢である。

こんな形勢の下に狂った同志は、日に日に痩せ、言葉さえ忘れ、話もできなくなり、涙を流して寝ていたり、何か歌ってでもいるように叫んでみたりしていた。だが誰もこの解党派になって狂った同志を憎む者はなく、かえって気の毒になってしまって、せめて側へ行けないまでも、いろいろと(当局に)要求を出し、できるだけのことをしてもらうように、監房の中から監視した。四、五日前まで、愉快に運動に出て行く足音や話声が聞こえていたのに、今は同志の頭さえ恐ろしく分からないのだろう。それでも時々は私の名前などを大声で呼んだりする声も聞こえる。あの声が正気で呼ぶのなら。そしてやがて外へ出た時に手を取り合って呼ぶのだったら。

私は入って間もなくからこの同志と同じ棟に住んでいたので、お互いに同志が自分のすぐ近くにいるのだという安心と、それによって和らげられた暖かい気持ちで呑気に暮らしていたのだが、一瞬にして嵐に吹き折られた花畑を眺めるような寂寞(せきばく)と孤独とに襲われ、その四、五日は何も手につかないし、運動に出て花を眺めても、何の感じも起きない。魂の抜け殻のような体を機械的に運んでいたようなものだ。

 

080 人間の脳髄なんていつどうなるか信じられないものだ。まさか自分は気狂いになりたいとか、なってもいいと考えたのでもあるまいに、不可抗力的に脳髄が狂ってしまうのだ。私は渡政の自殺や、もう一人の同志のことを考えて、いつの時か知らないが、だんだんできて来たこの親代々譲り渡された脳が、どんなにいろいろな異なった悪習慣をたくさん持って来ているかを考えて、もうこんなことを深く見つめたり、考えたりするさえ恐ろしいような気がした。(精神病を遺伝病だと考えている)

 

 この問題もようやく忘れ去るころに(1929年秋頃か)またまた一人の同志がこれでやられた。段段考え込んでいるうちに、ドンドン狂って行ったのだ。この同志は本当に静かに静かに狂って行った。そしてそれだけに病気の性質も執念深く、抜け去ることができないように見られた。

こうした恐ろしい脳の破壊が何処から来たのか?それは第一に投獄されたことだ。投獄されて狂うという過程には極度の栄養が第一だ。これは如何なる人でも(お金持ちで差し入れが十二分の人は特別だが)、免れることができない。一年いると皮膚には何の艶もなくなり、鳥肌のようなブツブツがいっぱい出来てくる。太る人もいるというが、それは栄養不良から来るのと、もう一つは運動が少ないために変質的にくる症状だ。だからここに入っていて太った人の肉は青膨れで、心臓病か腎臓病の人のようだ。第二に箱詰めにしたように密閉して、精神にまで目張りをするように閉じ込めることだ。男の方はよく分からないが、女の方では百成り婆というような奴等が、声を出して本を読んでも叱る、足を出しても叱る、寝たらもちろん叱る。ただ怒るだけではない。連続した小言が大変だ。また自分が怒られるよりも、他の囚人・被告が朝から晩まで、うるさく馬鹿馬鹿しい小言を言われているのを聞いているだけでも、気持ちが晴れ晴れすることがない。別にそれと気にかけて聞いているわけでもないが、何しろすぐそばでガンガン言われるのだから。前に囚人が泣きながら弁解しているという騒動を、来る日も来る日も聞いていたことは、ほんとうに堪えられない。監房の中から「もう大抵にしてよしてくれ!」と怒鳴りたくなる。この小言が一時間や二時間で済めばいい方だが、大抵は半日以上、次の日も、次の日も、それが話題に上って、ゴタゴタしたことがある。小言等言い慣れない、また聞き慣れない私達には馬鹿馬鹿しくじれったくなってしまう。こんなことでどんなに静かな気持ちを害され、精神を疲れさせられるか。もしこれを計る機械があったら。おそらく女囚牢獄の中での被告の疲労は、取締まりの無智とひがみとからくる囚人苛めと、想像さえつかない人間意志の無視、則ち奴隷社会の実地に、全ての自己の中心を失って闇に沈んでしまう、拠り所ない煩悶からくるだろう。まるで低脳扱いにされて、右へも左へも監視付きのもとに向かなければならないのだから、そうなると自分自身などどこにも影をとどめることができなくなって来て、途方に暮れてしまうのだ。そしてこういう境遇に置かれることによって、益々自分の犯罪や家庭のことに思いが集中して、遂に狂わなければならなくなってくるのだ。

 

 

お正月

 

083 あまりうっとうしいことばかりだから、お正月のことを書こう。お正月には二日間毎朝餅だ。餅と言っても決してお汁粉や御雑煮が来るわけではない。口厚い餅がいつもの御飯の上に乗っかってくる。焼いてあるのだけれども、真っ黒けになっていて、おまけに心が固かったりして、美味しく焼けていることなどほとんどないが、いつも味噌汁に麥飯ばかりの口には、頬っぺたが落ちるほど美味しい。その他胡麻塩を一匙(さじ)もらって、豆粒くらいな数の子を一つまみに、ガス溜(ため*)から拾ってきたようなごまめに、生姜(しょうが)の一切れもつくというごちそうだ。

 お正月のうちには少し臭いようなきんとんやするめをくれることもある。またミカンを二つくらいはくれる。こことしては大したごちそうだ。お正月の三ケ日で全ての食欲を奪われて、一切の(他の)食物に飽きてしまうのが普通らしい。(お正月の後で他の通常の食べ物を)無理に胃袋に入れた人たちは、胃を害して薬を飲まなければならなくなるという、気味悪い御馳走攻めだ。

 おまけに今年の正月から高声(こうせい、大きな声)の蓄音機を各舎に引くことになり、でたらめにたくさん聞かされたはいいが、「××××主義」とか何とかやり出すかと思えば、塩原多助の浪花節、坊主のお説教のようなもの――これはほんとうは何だか分からないので、多分お経だろうと思っていたが――、またそうかと思うと、君が代の奏楽という目覚ましい曲が響いてくる。また気まぐれのように、ウイリアムテルの嵐の曲が聞こえるが、一度も曲名を聞かせることがないので、自分の知っているものでなければ何が何だかちっとも分からない。

084 いくら音楽は人を慰めるものといっても、労働者など洋楽などさっぱり分からない人たちに、ガーガー聞かせても何になるものか。また無実の罪で放り込まれたり、家庭の苦労を山ほど背負いながらここにつながれている連中に、何の慰めになるものか。監房に錠を下ろしておいて、音楽で慰めてあげましょうとは、犬を鎖でつないでおいて、頭をなでてやるようなものだ。それにしてもお正月中はこんな風にして大いに好意を見せたつもりでいるからおかしい。それに取締達の言うのに、「これも皆お上の御親切からだ」と。全く私達も皆お上の御親切で監房に放り込まれているのだから、音楽も拘束も同じ御親切である。全くありがたくてあくびが出る。

 

 

三・一五の記念日

 

085 (刑務所の)外ではこの日デモをやるそうだと誰かが聞き込んできた。(そのことが)直ちに次から次へと伝わって行った。(刑務所の)中でも何かやるのが当然だとどこかで言っている。恨みは深き三・一五だ。まだ三・一五の記念日には十日の余裕がある。大至急準備行動を開始しなければならない。

そのために一人の同志がすぐ今日の運動時間を洗濯に変更した。そうすれば、一人が裏へ行くし、一人が表へ出れば、少しは(連絡の)仕事ができるからだ。洗濯に出た同志は取締りの目を盗んで、勇敢に裏側の監房を走り廻り、「三・一五には『××』の一番を歌って、××党万歳を三唱するのだ」と言って廻って来た。時間は起床のボーを合図にすると決めて。

「皆が賛成したのか?」

「ウン」「とても皆元気よく、よしよしわかった!わかった!と言っておったから大丈夫だ」とのことで、裏側はまず済んだ。次に(裏の人達が)私共の裏へ運動に出るのを待っていて、相談しなければならない。このためには毎日毎日本は一ページも読まないで、誰かこっちへ運動に出ないか?取締りは今どこにいるだろうということを聞き分けなければならない。よく聞き分けてから敏捷に小さい窓に上りついて、「オイ」と呼ぶのだが、向うでもよく注意している時はすぐ聞きつけてくれるが、そうでもないと低い声で呼ぶのだから、なかなか聞こえない。同志に聞こえる前に事務室にいる取締りの耳に入ってしまうので、少しもの油断ができない。しかしこの激しい暴圧と監視の中に、三日くらいで全部へ連絡をつけることができたので一安心だ。

ところで大事な歌を知らない連中がいるのには全く閉口してしまった。仕方がないので、そんな人たちには明日運動時間にどこかへ歌を書いて落としておくから注意しろと伝えてやる。またどこの塀口(に)注意しろという方法で、大急行で一番だけ教え込んで、いよいよ十五日の朝を待つことになったが、その待ち遠しいことは、一年完全に黙り込んでいたのだから、一年ぶりで大声を出すのだと思うと、うれしくてたまらない。ガミガミと言うヒステリーの奴らがどんなにあわを食うだろう等考えたり、あの看守長の奴きっとこんな風に怒ってくるだろうとか、一体こんなことをやればどんな罰を食うのだろうとか、いろんなことを考えて、夜も眠れないくらい待ち遠しい。何か嬉しさが腹の底からわくわく上ってくるようだ。普段は大人しくとも、やる時には一致団結してやるというのが、組織的な活動をしてきた者の訓練されたところだ、などと一人喜んで嵐の前の静けさといった気持で待つのだ。

 

087 いよいよ三・一五の朝だ。もう五時半には起きて着物を着換えて、そっと待っている。ボーボーとキテキが鳴ったところで合図することになっていた真ん中の房の人が、いつまで経っても何にもやらない。一分、二分。仕方がないから私がやることにして、精一杯大きな口笛で×旗の一くさりを吹くと、すぐに歌い出した。私の奥の方の同志(伊藤千代子か)と、北監房の方でも歌う声が聞こえるが、あとはどこからも聞こえない。勇敢にやった者はただの三人きりだ。あとの六人か七人の人は完全に裏切ってしまったのだ。

私達三人はさっそく看守長の前に引っ張り出されて、うんと叱られて懲罰だ。もちろん懲罰などは思い設けたことであるから何でもないことだ。私ともう一人の同志とは一週間の読書禁止、私の奥の同志は一番先に大きな声を出したから、主謀者として三十日間(二十日間)ということになった。それでは私達として黙っているわけにゆかない。そうかといって奥の同志が二十日間だということを連絡でもとらなければ知るはずがないのだから、無鉄砲に奥の同志の二十日間の懲罰を私たちと同じにしろと抗議することができない。「君たちはやっぱり連絡を取ったな」と言われては今までの苦心が水の泡だ。しかし奴等もなかなかそういうことは言いたくないのだ。なぜと言えば、自分の看守長とかいう職業柄からも、(被告たちが)連絡を取ったとなれば、取締り上手抜かりとなって、ただではすまなくなるからだ。歌を歌ってもこれは一つの事故として、裁判所だか司法省だかへ不名誉な報告書を出さねばならないのだから、なかなか連絡を取ったということを問題にしたくないらしい。その代わりいろんな悪辣な方法で弾圧して来るのだ。

それで何としてもこの一人だけが二十日間ということには黙っておられないから、何でも同志の監房の前を通る時には大きな声で、「お取締りさん、二十日間とは懲罰も長いですよね」とか何とか言うことに決めた。さっそくその同志が運動に出る時に三、四間も遠くまで聞こえるような大きな声で、「二十日間の懲罰とは長すぎますね、他の人達も皆そうですか」と聞いている。もうこれで下ごしらえはできたというので、点検に来るたびに看守長を捕まえては抗議を申し込む。「あの同志は同じことをやったのに二十日とはひどいですね。何かこじつけた理由でもつけなければ、こんなに長くなるはずがない。ここ(この時)から戒護への報告が違ったのではないでしょうか。一緒に同じことをやったのだから、同じくしてください。でなければ私達も承知できない」と言っても、別に飛び出してあばれることもできないのだけれども、奴等にしてはまた何かやられては困るという懸念もあるので、とうとう十日にして懲罰を解いてしまった。

 

089 だが、裏切った人たちは一体どうしたのだろう。後で段段責めてみると、三・一五の朝、来たこともない次席看守長などが出て来たりしたので、すっかり奴等のデモに参ってしまったのだということが分かったので、私達より偉い人達が柄でもないとさんざん憤慨されて、真面目な人たちは皆大いに後悔して、そのことは済んでしまった。(どういう意味か)

 

 

ロシア××記念日 (ロシア革命記念日か。だとすると、1025日(117日)になるが、315日から離れすぎている。二月(三月)革命なら223日(38日)だが、315日の前になる。本文092では「十月十一日」となっている。また1929年だろうか、そうすると伊藤千代子はもういない。)

 

 今度こそ三・一五のような失敗を繰り返してはならないというので、約一か月前から準備行動が非合法的に行われた。歌は何番と何番を歌うとか、歌だけではあっけないから、何か当面の切実な要求を怒鳴ろうではないかということになった。

090 一体私たちのスローガンといえば、不当拘留絶対反対!即時釈放しろ!である。また怒鳴った後で待遇改善要求を署長に差し出して、裁判所へは即時保釈しろ!の上申書を一斉に出して要求する。

 またこれらをやった外に、運動に出たら必ず「同志よ固く結べ」の歌を歌うこと、またその次の懲罰を食ったら、皆でドシドシ大あくびをすること、咳払いすること、クサメをすること等、詳細に渡る意見書などもできて、なかなかまとまらない。何しろ非合法ではあるし、電話も電信もないだるまさんのような生活だから、ちょっとでは間に合わない。一口で済むような問題でも、厳重な警戒の中で、三十分の運動時間を利用してやるのは大変な苦労である。取締りが運悪く見張りを続けていては何もできない。こうなると期日は切迫して来るし、次の日は雨が降って運動に出られなくなる。次の日はせっかく出ても、運動場が違っていて何の役にもたたない。こうして日は遠慮なく障害物を投げ出してどんどん暮れてゆく。

091 もう一週間しかないのに、この意見がうまくまとまるだろうかと、近いAとの間ではそろそろそれが問題となって、ブツブツ癪に触ってくる。

「明日私が前の方へ出るようにするから、あなたは新洗濯の方へ出て、何か機会を捕まえてやってくるんだね」「アアよしよし、明日こそはうまくやってみせるよ!」と次の日の行動を協議して、また明日を待つ。

「あまりスローガンをたくさん怒鳴っていると、万歳までがうまく一致しなくなるかもしれない。皆ポツリポツリと離れているのだから、お互いに揃うようにうまく調子をとらないと醜態だよ!」とか、「一致した行動を取って私達プロレタリアートの団結の威力を見せるのに意義があるのだから、あまり子供っぽいのも変だぜ、大あくびをすることとか、クサメを盛んにすることなんていう決議は止そうじゃないか。退屈になったら、いつでも大あくびをすればいい。それに運動に出たら歌を歌うなんて、いつまでも締めくくりのつかないような子供っぽいことは止そうじゃないか。」

次から次へと一人の提案に対して修正意見が出る。その意見を娑婆のように、こういう意見が出たが皆はどう考えるか?なんて協議するわけにはいかないのだから、誰か執行権を持った人が裁決して指令を出す。一渡り協議されてからの意見には賛成という方法である。

 

092 十月十一日は、その前日から大警戒である。一番偉い監守長を先頭に、ポツリポツリとデモに来る。夜寝る前にも図々しく女の房内を覗き廻りに来る。こっちは明日が楽しみで寝ても眠れないくらいだ。明朝は寝過ごしては大変だから、早く眼が覚めるように、寝る前に不浄へ行かないで寝ることにして、床に入った。

 

 夜が明けた。ボー!ボー!と汽笛が鳴ると同時に歌声が一斉に起こった。鎧窓は丁度警戒の役割を務めて、×旗の歌声は女区を震駭せしめた。

 

「帝国主義戦争絶対反対!」

「××××××××万歳!」(プロレタリア独裁万歳!か)

「×××万歳!」(共産党万歳!か)

「万歳!」

「万歳!」

 

093 後は拍手拍手!喝采で無事終了。

明治381905年にこの建築物が出来上がってから未だこの朗らかな鬨の声を聞いたことがない屋上の煤は、如何にのどかに飛躍したことか!この日の朝飯のうまいこと、久しぶりでの活動に倦怠していた胃袋が猛烈に活動し出して、昼飯も待ちきれないほど空腹である。

 

 お昼ごろに例の如く引っ張り出されて、小言を言われて、懲罰の言い渡しで、私は二十日間、他の人は十日間ということになった。何でも私は一番古いのに、前科者ときているから、主謀者に上げられたらしい。「乞食も一度食を与えられればいつまでも恩を忘れない」とか、「お前さんは二年もお世話になって、乞食よりも悪い」のだそうだ。それからこの有難い法律があればこそ、私たちは無事に悪漢にも襲われないで暮らしているのだそうだ。刑務所の中に!誠に有難い御世(みよ)だとか、泥棒(資本家)の親分を保護するために合理的にプロレタリアートを牢獄に放り込み、生まれつきの声を少し大きく出したからとて怒鳴りつけ、右へ向いた左へ向いたで譴責を食わして、法律のお蔭様だなんつって、よくも図々しくお説教したもんだ。あんな馬鹿げた法律論を得意気に振り回すお上のお役人は誠にお目出たい××だ。ブルジョワはなかなか上等な××をたくさん持っているから幸福だ。

こんなお説教を私は余ほど黙って聞いておこうかと思ったが、退屈でしようがないし、奴らの態度を反駁してやりたくもあったので、

 

「乞食と云う問題について質問しますが?乞食より悪いとは一体誰のことか?」

「それは君たちの態度が、例えて云えば、そうだということだが、それがどうしたというのか?」

「私達は刑務所へ何もすき好んで飛び込んで来たのでもなければ、従って世話になどなっているはずがない。長く入っていれば朝晩の挨拶もするし話もする普通な気持ちで付き合っているけれど、微塵もあなた方から施しを受けるどころか、より以上の束縛を受けている。あなた方は法律がどうのこうのと云うけれども、そんならそれさえ忘れ果てて、私たち被告を自分たちが世話してやっているのだと思っているのか。とにかく刑務所の○○主任とも云われる人が、こんな見当違いの言葉を吐かれることは私には分からない。

095 「それはただ問題をわかりやすくするために例をひいてみただけで、決してそうした侮辱した意味でも何でもないのだから、気にしないで欲しい」こんな風に奴はいつも問題をごまかすのだ。

「いくら問題をわかりやすくしたとしても、問題の筋には変わりがないでしょう。何も怒って主任に盾つくわけではないし、私にはさっきの乞食の話を私に例として話されたとする意味が分かりませんから、ただ質問しただけです。」

「まあ、そのことは何でもないことだし、あの場合少々言い過ぎたかもしれないから、悪く思わんように」

「いいとか悪いとかいう問題ではありません。ただ意味が通じないから質問しているのです。あなたがどうお考えになっておられようと、それはあなたの勝手なことだから、どうしようというわけじゃない」

096 「あの時は朝早いし、あんな場合だからね、それに失言だから取り消す。悪く思わんように、毎日こんな場所で顔を合わせるのに気まずいことがあってもいけないから、それは取り消す」とうとう尻尾をまいてしまったが、奴らの被告人や囚人に対する態度はここで自ずから暴露しているのだ。

 

 またこんな懲罰事件があると、(奴らは)面会を警戒する。この刑務所の事故を外へ漏らしたくないのだ。また外の大衆へのセンセーションともなるからだ。だから懲罰のことや事件のことを面会で話さないという条件で、監房から面会所へ連れて行くのだ。

 

 また奴らの下劣な手段として、他の同志は裏切っているとか、同志愛が全くなくなっているとかいうことを強調する。そしてお互いを切り離して行こうというのだ。囚人に向かってもそうだ。一方で親切にしなければならないとか、そしていても、それは刑務所の仕事をする時だけに利用されているようだ。「一緒に助け合って仕事をするのが人間だ」なんて言っているかと思うと、盛んにスパイを賞揚する。誰がお取締り様をどう言っているとか、誰が下着を二枚持って監房に入ったとか、誰が歯磨の塩を飯にかけて食べたとか、誰が針を折ってこっそり別な方から針を出したとか、誰と誰が被告からお菓子をもらったとか、それらは皆お互いに囚人のスパイによって嗅ぎ出される。そしてお互いに嗅ぎ出し合いをやっているようなものだ。だからこんな中へ一度入ると、決して素直な人間どころか、ますますケチケチしたスパイ根性が養われるのだ。

 

 

懲罰の間

 

097 先にも書いたが、私の親友の伊藤さんがよく御不浄の蓋を起こし、それを踏み台にして窓から外を覗いて自然の美しさにつくづく感嘆の声を漏らしておられた。小さい声で、Kさん、Kさんと呼ぶ声が聞こえる。ツと立って私も御不浄の板を立てて、乗って外を見る。

 (伊藤さんは)「まあ、きれいだこと。あの鮮やかな山吹の葉は」と、春先に萌え出た山吹を五分も十分も取り締まりの足音が聞こえるまで眺めておられたが、懲罰になると(読書できないので)その自然がなお一層友人のように懐かしく感ずる。

 雀が窓際にチュチュと飛び群がり実に騒々しいけれども、それがまるで友達のように懐かしくてしようがないのだ。あっちへ飛び、こっちへ追っかけ、じっと見ているとこっちが眩暈(めまい)がしそうになる程チラチラ動いている。そしてしばらく見ていると、喧嘩をしたり、葉の先に巣くっている虫を食べたり、いろいろなことをやり出す。雀に一定の標準語があるらしい。何でも同じ調子の声で泣き続けると、チョコチョコとそっちへ集まるとか、猫が足のきをしてにらんでくるのを一羽が見つけると、けたたましく鳴き叫び、それを聞いた他の雀は、一斉に飛び立って逃げてゆく。また朝ほのぼのと夜が明けかけると、一羽の雀が目を覚まして軒から軒へチョコチョコ同じ調子で鳴いて廻ると、次から次から起き出て、十分間も経つと皆軒の屋根の雨ドヨへ立ち並んで、チューチュクチューチュクと鳴きだす。こんなことを目も離さずに眺めて、最もよく活動する雀はどれかとか、また最もきかん坊の雀はどれかとか、そんなことにまで興味を持ってくる。

 

またすぐ窓の下をカラコロカラコロと普通の被告が運動に来る。そして時々は外の方からオイオイと呼ぶ。例によって御不浄の板を起こして乗ってみると、最近来たばかりの普通の被告が立っていることがある。

 

「今呼んだのはあなた?」

「ええ、あのね、××警察に私が挙(検挙)げられたら、私より先にいた人であなた方の友達って人がいましたよ。」

「私たちの友達って、あなたは何だか知っているの?」

「××党の人達でしょう」

「ああ、そう。その人は何さんと云ってました?」

「××ってね。そして××さんに、行ったら宜しくと云ってましたよ。元気で闘っているから、あなた方も元気で頑張ってくれってね。」

「どうもありがとう。」

「その人はね、拷問されてお乳が膨れ上がって熱が出て、とうとう済生病院とかへこっそり移されて行きましたよ。とても元気のよい人でした。それからもう一人は、若い断髪した娘さんで、この人もとても元気がいいのです。が何しろ三月も警察から警察へ蒸し返されて廻ってるのだそうで、足がひどく膨れてやっとやっと歩いていました。(四・一六で逮捕された西村桜東洋さんか)あなた方の友達は看守と喧嘩したり、とても元気がいいのですぐわかります。あなた方の友達が、まだここにも沢山入っているでしょう。私の隣の監房にも元気のいい人がいますね。」

 

100 懲罰と云えば、監獄法の中に懲罰の種類が規定されている。譴責処分とか、文書図書閲読禁止とか、被告私有の品物全部を取り上げる(布団や着物その他一切)とか、甚だしいのは睡眠をとらせないで座らせておく法。また真っ暗な室に何十日も入れて置くとか。減食など云うこともあったと思う。まだそのほか辛い体刑が書かれてあったように思うが、こうして幾種類から規定されている。私たちはいつも文書図書の閲読禁止である。しかしこれも度重なればこれくらいのことでは済まなくなるだろう。

 第二回目のデモの時には、一番偉い看守長が来て、「棒責めにしろ!棒責めにしろ!」とか、「殴れ、蹴れ」と云うようなことを教えて行った。私たちの監房迄聞こえるような大きな声で「棒責め、棒責め」と云うから、さてはござんなれと心待ちに待ったが、さすが女の取締は、こうした暴行はしにくいとみえて、無事にすんだが、もう少し(長く)入っていて、第三回目デモ、第四回目デモとなったら、棒責めも食わねばならなかったろう。

101 また庭の隅に奇妙な小さい小屋がある。中は一坪より小さいようだ。真っ暗で憚りの装置も何もないようだ。縦(高さ)が低くて中へ入っても、頭がつかえそうに見える。入口の戸は一尺五寸(45㎝)四方位で、人間一人がやっとやっと入って行くくらいだ。入口の下の方に、四寸(12㎝)角位の食事を運び込む穴が開いていた。何でも暴れるとこの中に入れられるのだそうだが、だんだん重い懲罰になったら、こんな中に打ち込まれるのだろう。

 普通の被告には私達ほど厳重に看守がつかないから、よくこんな長い会話をして別れることがある。それでまた誰がやられてるなどいうことが飛び入りにわかったりして、懲罰の時でも結構退屈しない。

 

 

青桐 (植物としての青桐の研究)

 

 北側の監房と赤い煉瓦塀の間に、高い青桐が並木になって、夏は一番涼しい所だ。入った当時は同志も少ないので、ここを散歩することができたが、だんだん同志が多くなると、北側へも同志が入って来たので、ここは歩かせられなくなった。(原菊枝さんは南側の監房にいたようだ)

 

102 私が三月に入った時は、握り拳(こぶし)のような枝がツイツイと出て無骨だったのが、五月の(私が)病気になるころには、羽二重*のような柔らかくきれいな葉が、薄赤いような、紫のような色で顔を出してきた。

そして幹もまた鮮緑の中に赤、橙(だいだい)、紫などが織り出されて、錦を見てるようだったのが、六月頃には葉がすっかり緑になってしまった。そして幹もまた華やかさを失って、黒みがかった緑色になってしまった。まだ若い葉が出てるときは、昔の物語に出て来る美しい若様という感じがして、いつも私は幼い時に母から聞かされた王子様とか若様とかいう夢のような美しい絵巻物を頭の中に画いてみたりした。葉がだんだん大きく広がって、そよ風にもササと豪気を立てているのを聞くと、逞しく鍛え上げられた一人前の武者を思い出す。いかにも鷹揚に豪然と構えている無骨者、これが六月頃の青桐の感じであった。

ところがそれから間もなく花が咲いて実が出てくる。今まで雄々しく聳えていた青桐はがらりと変わって、鼻たらし小僧の五六人も産んだお袋という感じになってくる。むっくりと肥(ふと)った実が枝もたわわにぶら下がって、だらしなくぶらぶらと下がってくる、お乳を出して平気でいるお袋のような、何とも言えないだらしない感じに変わってしまう。私はもうこうなったら桐の木の下へ散歩に行きたいとは思わなくなった。

私はこの実をとって毎日割ってみる。一つの房に何十ものさやが下がるのだから、その一つを毎日のように調べてみる。そして胚が目に見えてきてから二週間で完成するという断定を下して、一人で科学者になったように喜んでいた。

 

*羽二重 優良な絹糸で緻密に織った純白な絹布。薄手でなめらかで艶がある。

 

 

猫の恋 (姦通罪 夫のある女性が夫以外の男性と性交した場合、その女性と相手の男性とに成立する罪。1947年の刑法改正で廃止。)

 

103 三匹の男猫が(女監房の敷地内に)持ち込まれた。(そのうちの)二匹はどうなったか(分からないが)、一匹だけは一人前の若者になった。この若者に、男の(監房の)方にいる夫婦猫の雌が恋をしたというのだ。こっち(女監房)の男猫も大部恋心があったらしいが、とにかくこの雌はいい婆(ばばあ)のくせに(こちらに)逃げてきて、若い燕(女監房の雄猫)を持った。そしてとうとう可愛らしい赤ん坊を五匹産み落とした。向う(男監房)の男猫の方では血眼になって探した結果、一か月以上も経ってから、自分のおかみさんが女囚の若者と一緒になっていることを発見した。ここの若者と違ってその親父猫は猛烈な気性と見えて、怒った、怒った。隙さえあれば女囚へ復讐に来る。子猫もここに生まれていることをかぎつけて、それまでも自分の方へ運び込んで、おかみさん(雌猫)も、ここの制度に倣って監禁したのか、ちっとも来なくなったし、毎日数回若者は姦通罪で、親父猫に死ぬ目に会わされる。激しい戦いの声を聞くと、囚人の二三の人は一生懸命応援に馳せつけるので、やっとやっと若者は逃げて来るのだ。私もこの喧嘩を見ると、親父猫の方がいかにも図々しくてブルジョワのように油ぎって肥っていて、猫のくせに、嫌がるおかみを独占しているのが癪で、ここの若者に加勢した。

 猫の社会には姦通罪という法律もないが、姦通するとなかなかひどい目に会わされる。姦通罪の囚人被告たちも大いに考えさせられたことだろう。(原菊枝さんは姦通罪が正当だと考えているようだ)

 

 

天麩羅 (欠食の中での食欲は、病気(食べ過ぎ)、妬み、意地汚さの原因となる)

 

104 天ぷらを食べるといつも思い出す。

105 男の方で絶食同盟を結んで食事の改善闘争をやったおかげで、天ぷらを山ほど夕食にくれたことがある。こんなに山ほどおかずをもらったことは、(ここで)一年も暮らしていて初めてのことだ。それに娑婆で食べるのと同じ色をした美味しそうな天ぷらなので、残す勇気はとても出ない。後は野となれ山となれで、皆平らげてしまったが、夜中に食当たりを起こして下痢をする、熱が出る、さんざんな目に会ってしまった。(普段)豚の食物のようなものをちょっぴり食わされていると、天ぷらにさえ七転八倒するお腹になってしまうのだ。こんな打撃を受けたのは私くらいかと思っていたら、大抵の人達が熱を出さないまでも、薬をもらったりしていたようだ。

 

 男の方で皆が絶食同盟を結んで闘っているのに、裏切って差し入れ弁当を食っていた人が、余りごちそうを食べ過ぎて、医者よ、薬よと騒いでいたそうだ。こんな病人には同情者一人もなしで、敵の陣営でさえ笑い声が起っていたようだ。

 

 天ぷらを見て食欲を逞しうしたのは私達だけではない。哀れにも取締達までが大騒動を起こしたというのは、気の毒にもあまりごちそうにありつかないせいか、それとも(取締が)相当老境に達した人たちだから、食べ汚くなったというものか、猛烈に天ぷらに引き付けられたのだ。何とかしてあれを一皿平らげたいものだと、よだれが流れ出んばかりの様子だ。

 

106 「ね、×番!副食物を数えてごらん」「三十六番だって、一つ多いじゃないか」

「ハイ、多うございます。御取締様、一つ召し上がりますか?」と小声である。顎で向うへ(事務所)と合図をしたのだろう、やがて×番がカサカサと竹皮草履を引きずって事務所へ入る気配がする。

 ほとんど食事を配ってしまった頃に、チンチンと門の鈴が鳴って取締が飛び出して、また飛び込んできて、小声で話し合っている。それが口惜しまぎれに段段大きくなって一聞こえだ。

 

「まあ憎らしいわね、(副食物の配達係が)『確かおかずが一つ多いはずですが、病舎で足りなくなったから一つもらって行きます』って云うのよ。私が『おかずはちょうどいいでしょう』と云ってやったら、『確かに一つ多い』と頑張るんだよ。フフフフ」後はさも口惜しそうに、恨めしそうに笑っている。

 

「×番、あれ門へ持っておいで、『数えたら一つ多かったから持って来ました』って」

 

 

副食物 (横領、検食)

 

107 ここで思い出した。何十円の鯛(たい)にも金蠅がたかり、道端の一塊の糞にも金蠅が寄り集まる。ここの住人則ち哀れなる囚人・被告の、一切れの副食物(おかず)を横領する奴がいる。余ったら真っ黒になって働いている囚人たちへ廻してやればいいのに、食事が配られる前に、ただ一切れの副食物である漬物を横取りするのだ。

 

「今日のはきれいな色だね」あとは小声で、または目か顔のしかめようで、自分たちのテーブルの布巾の下に運ばせるのだ。こうして僅か一切れの、麥飯の唯一のおかずとなる漬物を横領して行くのだ。

まだある。時々副食物の中に砂が一杯入っていて、とうてい食べられないことがある。抗議を申し込むと、「検食すればいいのですけど、忙しいものですからついしないで」とか何とか言う。(一方)美味しそうなものは何はともあれ、一皿くらいは検食してみなければよく毒見ができない人たちだった。

 

108 ところでこの検食とはまことによくできている。私共が入って来ない時には検食と称して、外からの差し入れ弁当の御馳走を皆一つか二つずつ取って、自分たちの中食の御馳走にしていたそうだ。私達が入って来てから、さすがこれはできないと見えて、指をくわえていたようだ。

 

 

うどん

 

 私の監房の前に立つと、洗濯場やお風呂が見える。お風呂の隣り合わせにうどんを煮る所があって、そこで刑務所の官吏たちのうどんを煮て、丼に盛って出すのだ。半年も一年もそれ以上もこんな中にいると、嫌いなものなど一つもなくなる。何でもいいから毎日毎日の麥飯と味噌汁以外のものを口に入れたい。そういうガツガツに飢えている連中にうどん屋をやらせるのだから、なかなか御規則通りにはいかない。

 

 取締が留守だとなると、小さく疲れ切ったようなうどん屋婆さん(囚人)の目がキョロリと光る。一つの(うどん)玉が紛失する。とんでもない工場の二階の押し入れの中あたりから(そのうどん玉が)発見される、取締りがわめく、さんざん「情けない人だ」とか何とか罵られたり怒られたりして、うどん屋はしばらく中止という罰を食う。

 

109 「オイ」と(うどん婆さんが)友人を呼ぶ、友達が目で合図をしながらうどん場に入ってくると、入れ換えに婆さんが見張りに出て行く。(うどん婆さんの友達が)ちょっとしゃがんで向うを向いて、スルスルと(うどんを)口の中へ運ぶ。運んでしまうと、口の周りを赤い前掛けで拭きながら、ニタリと嬉しそうに笑う。

 

 (某囚人が)湯釜へ火を焚きに降りて来る。あの囚人はたしか釜番ではなかったはずだと、じっと見ていると、またヒョイと後ろを見て、懐から何か団子のようなものを出しては、灰落としの中に放り込む。一つ、二つ、三つと。そしてその仕事が終わると意気揚々としてスーと工場へ飛び込む。取締りは自分のお洗濯か何かで夢中である。一分もするかしないに、またさっきの(囚人)が(工場から)出て来て、灰の中から(団子を)拾い出してチリ紙に包んで懐に入れ、元気よく洗濯物を入れに、私のすぐ窓先まで来る。辺りを見廻して安心した、例の赤い着物の娘さんは、紙包みを解いて、まだ焼けきれないのか、固そうにもぎ取って食べている。外は日がカンカンに照っているし、中は薄暗い。ことに監房の中は暗いから、娘さんからはちっとも(私のいる監房の)中が見えないので、中からも見えないと思っているのだろう、時々伸び伸びと背をそらして青空を仰いで(団子を)かじっている。

 

110 私のところへ来た看護の囚人の話によると、監房では毎晩うどんやうどんのお汁を、うどん屋婆さんからもらって食べているのだそうだ。この看護人は前科者の中の前科者で、娑婆へ出て十日も経たないのにまた入ってくる。刑務所付き洗濯婆に生まれてきたようなお勤めぶりである。こういう連中は刑務所の麥飯と味噌汁でほとんど生きているのだが、青白くゴテゴテと肥って、形も何もあったものではない。(彼女の)顔がゴリラのような御面相だったので、私は(彼女を)ゴリラと称していた。このゴリラ看護人はなかなか忠実に働くが、いたって頑なな大酒のみで、酒を飲んでは犯罪を犯して入ってくるのだそうだ。この刑務所通のゴリラ先生は、「自分はそんな不正な食物は絶対食べません」と大威張りで話していたが、刑務所だけで不正な食物を食べないのではしようがないものだ。私が「こんな栄養不良の中にいるのだから、何でも食べたらいいじゃないか」と云ったら、「私はどうもお酒でなければ、別に欲しいとも思いません」とすましていた。

 

 

××××さんの室

 

113 私の入っていた病舎は、朴烈事件の時に金子文子さん達と一緒に入っていた××さんが死にかけるまで入れられていた室だそうだ。この事も例のゴリラ看護婦さんから聞いたのだが、「××さんは数回ここであなたのように寝ていて喀血し、本当にお可哀そうでした」と聞き、私もぞっとした。

「こんな風にこっちを頭にして寝ておられましたか?」

「ええ丁度ここでした。この辺に血を吐いてね。」

「いやもう沢山だ。私だってそんな死に方をしないとも限らないのに、まあそんな死にかけた話は、もっとよくなってからにして下さい。」と私も陰鬱な気持ちになってしまった。

 

 文子さん達の時は、新しい畳と敷き換えて、厳重に警戒もしたそうだが、また取り扱いも丁寧で親切だったそうだ。運動時間に外に出る時は、その運動場をきれいに掃き清めて、さあどうぞと、まるで貴族の姫様方を取り扱うような調子だったそうだ。それに活動写真や芝居を見に時々行ったと、例のゴリラさんが話していたが、外の被告人に聞こえてもいけないし、芝居や活動へ行った話はしないでくれと取締が頼んでも、監房へ帰って来るとすぐ大きな声で、「いや今日の芝居は実におもしろかったな。何がどうして、何がどんな風で」と独り言を言い出して、取締を困らしていたそうだ。また鉛筆や紙も許されていて、いつも何か論文を書いておられたそうだ。

 

114 こんな話を聞くと、私たちはまるで役違いな扱いを受けている。私の畳なんかその喀血の跡が、何か凄惨な血の跡が残っていて、おまけにもう破けてボロボロで、垢で黒光りに光っている。布団でも枕でも、腐れかかったような古いしみだらけのものばかりだ。社会主義運動が大衆化して来て、刑務所でも女囚の被告の半数も、いやこれ以上も、私たちが占めてくるようになっては、社会主義者も優待どころではなくなってくるのだ。

それと同時に、(社会主義者は)どこへ行っても(他の囚人たちと)すぐにある程度親しい友達になってしまう。大抵他の被告や囚人は、あらゆるすきを見つけて私たちに好意を示してくるし、話し合いたがっている。だからゴリラさんも言っていた。「犯罪を犯すなら今のうちだって連中が言っていますよ。」連中とは前科者のことを言っているのだろう。豪傑連は度々入ってみてよく知っているから、社会主義者が入っていると大喜びである。私達が入ってくると、取締達の小言が少なくなるし、あまりうるさく監視もしなくなるのだそうだ。私達がいる前では(他の囚人たちに)小言を言っても大変遠慮しているのがよくわかる。また態々(わざわざ)鷹揚であると言わんばかりに振舞ってみせることもある。

 

 

ケチな婆さん(年季の入った刑務所看守)

 

115 「お取締さん塩を下さい!」

「何にします。」

「どうも座ってばかりいると便秘がして困ります。もう四、五日分の麥飯がお腹に一杯詰まって苦しくてしようがありません。」

「それじゃ一度薬を飲んだらいいでしょうがね。」

「それでもいいですが、薬ばかり飲んでいると、利かなくなってしまいますから、朝起きたら塩水をうんと飲んで、排出しようと思うのです。」

 

 やがて婆さんの持ってくるのを見ると、まるで一つまみで、四、五日間もの根強いのにはとても間に合わない。

116 「折角ですが、これではとても間に合いませんから、もっと下さい!」

また婆さんの持ってくるのを見るに、耳かきに一杯くらいだ。

「お取締さん、こんな少しでは利きません。劇薬でも何でもないのですから、思い切ってたくさん下さい。」

これでまたご苦労にも戻って行って、一つまみ持ってくる。何度足を運んでもいいが、一なめの塩が惜しいらしい。

 

この婆さん、実にケチ臭い。まるでケチの権化のように忠実にケチである。

柿の木が一本あった。二年ぐらい経ったものらしい。それが工事の関係から引き抜かれて、男の方へ運ばれた。翌日になってそれを知った婆さん、ジダンダを踏んで惜しがった。そしてとうとう取り返したのかどうかして、庭の隅に植えてもらった。時期が悪いのか、間もなく枯れて、幹が真っ黒になって、葉が一つも出ない。折ってみるとボキンボキンと何の粘り気もなく折れてしまうのに、それでも「もう一年放っておいてごらん、今にきっと芽が出て柿がなるから」と、頑張っていた。全く超然としてケチなのだ。

 

117 何かの風の吹き回しで、花を折ってくれたことがある。爛漫と咲き乱れている花畑の中から今にも散りそうな、または散りかけた花を、誠にもったいぶって、二、三輪折ってくれる。そしてそれをくれるのに、大した功徳でもしたようなものの言い方をする。

 

 またこんなこともあった。(看守の)被服は皆所謂お上からもらうのであるが、自分は新しい袴をちっともはかずにしまっておいたつもりで安心していたのだが、ある時その袴を出してみようと思うと、さあ影も形もない。驚いて物置の隅から隅まで探してみたがない。やがて工場の棚までもひっくり返して探したがない。そこで誰かが持って行ったということになって、いつも身だしなみのいい中くらいに若い取締に目をつけてしまった。あの人はいつもきれいな袴をはいているから、あれは自分のをはいているのだと思い込んで、それにもう間違いはないのだと決めてしまった。老眼鏡をかけなければ字も見えないこの婆さんは、人の腹の底を見抜く時などは実にすばやく見破ってしまったように吹聴する。この千里眼も当たってくれれば無難だが、大変なことになった。中年寄(ちゅうどしより)の取締り、怒ったの怒らないのと、泣きながら憤慨している。

「いくら何でも私が盗んだなんてひどい。」

 気の小さい女だけに子供のように泣いてばかりいる。婆さんは喜んだ。「それ見ろ。自分が悪いことをしなければ、泣く必要なんかないじゃないか」と大威張りである。他の取締が、「思い違いもあるものだから、そうそう決め込んでしまうのはいけない」と仲裁しても、頑として聞き入れない。まるで姑の嫁苛めというありさまだ。とうとうにらまれた取締りは自分の家の行李から箪笥まで、婆の疑いを晴らすために搔き廻され(せ)たが、相変わらず、影も形もない。さあこうなると婆さんの立場が天地にひっくり返って、今が今まで泥棒呼ばわりしていて何とも顔向けができなくなってきた。バツの悪いこと一通りでなくなった。他の取締連も、あきれてものが言えない。婆さん「帰る」とか、「止める」とか、さんざんだだをこねて、とうとう「済まなかった」の一口も言わずに、今もなお大威張りだろう。どうも驚いた婆さんだ。長く勤めると女は皆こうした人間になるらしい。泥棒呼ばわりされた取締は名誉棄損罪の訴えを出すと息巻いていたが、それもそのまま泣き寝入りの体で、和解していた。

 

 

魔法使いの婆さん(六十近い異様な女看守)

 

121 冬になると朝など時々奇怪なものを見ることがある。霜に凍り付いたガラス戸の廊下を、ズーバタ、ズーバタと歩いてくる。これは黒く切れかけた古草履の音である。御不浄に起き出たついでにそっと覗いて見ると、18世紀ころの男の和服の上に着るオーバーのような形で、後の袖の中くらいの高さの辺りへ、横に帯のついた黒のオーバーを着て、大抵毛糸の襟巻や、手拭などを頸に巻き付けているが、その顔は寝不足で青黒くくすんでいる。髪はボーボーとして全くおとぎ話の中の魔法使いの婆さんそっくりである。例のケチな婆さんなどは、顔の造作までが魔法使いの婆さんそっくりなのに、髪は半白で、モジャモジャと乱れかかっている。黒の毛糸の襟巻までがまた何とも古臭い、だらだらと延びたのを頸にグルグルと巻き付けて、ゾットするような形である。こんな婆さんが一つ一つの監房を覗き穴から囚人らの顔を眺めて行く光景は、誠に凄惨な感じがする。

 この婆さんにはもっと面白いことがある。夏になると帷子(かたびら*)の、五十年も着古したのを着て来るらしいが、切れて切れて、ボロ布巾よりひどいのを平気で着ている。しかし朝早くソッと覗き穴から覗いて見ると、まるで今度は二十八の乙女である。大きな花模様、しかも背中に二つか三つしかないくらいの大きな花模様だ。といっても、もちろんハゲチョロケてはいるが、その中に燃えるような赤い紐を巻き付けて、しかもわざわざ真っ黒な袴(はかま)の上までも引っ張り出して歩いているのだ。或る時曰く、

「隣のお父さんが、『あなたはなかなか色気がある』って言ったよ。」そして婆さんは嬉しそうに入歯を出して笑っていた。もう六十近いのだろうに。

 

*帷子(かたびら) 裏をつけない布製の衣類。

 

 

男見るのは眼の毒だ(男女が互いに見るのも禁止)

 

122 「石炭が入ります!」門の方で男の声が聞こえる。

「××さん(取締りの名前)、石炭が入りますよ!」

事務室の側の廊下の窓を開けて精一杯怒鳴ると、工場の監督をしている取締りはまるで夕立が来たように叫び出す。

「何番!何番!男が来るから工場の中にお入り。何番は湯殿へ入ってしゃがんでおいで。そら!何番はこの幕を湯殿のガラス戸に引いて、早く!早く!!さっさとしなさい。」

123 こうした叫び声が雨霰(あられ)と囚人の頭上に降りかかって、囚人たちは上を下への大騒ぎを演じる。それぞれ仕方なくなくに、湯殿へ飛び込んだり、幕を張り廻された工場の中へ追い込まれたりして、戸をピシャリと閉めてしまうのだ。用意ができるとやっと男の囚人たちがヨッサヨッサ石炭の籠をかついで来て、側の石炭小屋に入れて、またさっさと男の担当さんに引率されて帰って行くのだ。

 

 とにかく男が女区へ入る場合は、幕の張り廻された室の中や小屋の陰やへ追いやられる。娑婆から引き離された女囚は、男とては、サーベルを下げた看守長より外に見ることがないのだ。だから物陰に追いやられた女の囚人たちは、男の声を聞くだけでも、ちょっと呑気な顔をして、聞き耳を立てて男の話声を聞いて喜んでいる。少し図々しい女たちはわざと逃げ遅れたりして、キャッキャッ叫びながら物陰へ走ったりして、取締りに叱られる。女囚たちはいくら叱られても、面倒な幕張りをさせられても、男たちの入ることに嫌悪を感じてはいない。時々私の監房の前へ追い込まれる囚人たちは、ヒソヒソ囁(ささや)いて取締りの目を盗んで覗き見をして喜んでいた。

 

124 「大きな青坊主のおとと(弟)がござったよ。」

「アレ嫌だ。何番さんたら。」

というような会話をして嬉しそうに笑っていた。

 

 私たちが運動をしていると時々フイに男たちが入って来ることがある。取締りは慌てて袖を引っ張るようにして、運動場の一角にある所属の便所の中に連れ込んでカチリと錠をかける。そして男たちの帰るまで臭い便所に閉じ込められるのだ。男たちの方でも気の早い囚人が担当さんよりも早く門の中に飛び込んで来て、女たちを目撃して、「オイ、姉さん」とか声をかけて愉快そうに笑うことがある。男の担当さんは大抵仕方がないから苦笑して「こら!」とか形式的に叱っただけにしておく。

段段半年、一年と長く入っていると、やっぱり相当長く入っている男の囚人で、時々女囚を知る大工さんたちは、番号をすっかり覚えてしまって、しかもそれが共産党員であることも感づいてしまって、仕事をしながら、「この人も長いな!」とか慰め声で話したりする。また休憩時間などに房の外で話しながら、何か議論などし出して、フット思い出したように、

「オイ!この中には××党のバリバリが入っているのだから、あまりわからんことを言っていると笑われるぜ」とか言って、聞こえよがしに笑ったりする。

 

125 取締の話では、少し油断していると、男と女の囚人が話し合うのだそうだ。

「何も話し合って悪いことはないじゃありませんか。」

と言ったら、見下げたような目でジロリとにらみつけた。話し合ったら何かたたりでも来るのだろう。

 

 

裁判所行き (お疲れさんです)

 

 

 私は裁判所行きが嫌いだった。入った当時はまだ春だったので、検事局の窓の側に桜の花がのどかに咲き誇っているので、それを見るのはどんなにうれしかったかしれないが、イヨイヨ検事の取り調べになると、うんざりしてしまった。爪の垢ほどの事でもほじくり出して犯罪に関連させようとする。また女だというので、一つは夫との関係から、犯罪の手蔓(てづる)を引き出そうという計略でやってくる。

126 「お友達は来ませんでしたか?何という人たちが来ました。」「夫が旅行したのを覚えていないとはおかしい。確か、二晩、何日頃家を開けたことがあるでしょうがね?」という風に、まるで人の取調べに引き出されているようなものだ。こんな取調べ方にある方面で成功している奴らは、粘り強くやってくる。全く馬鹿馬鹿しい。

 

「いい加減によしてほしい」と言いたくなる。「私の取調べのためでなかったのなら、もう帰してください。人のために拘留されるなんてもっての外ですから。何しろ日本では妻が夫の不利になることをしゃべった場合、夫は妻を離縁することができるという法律があるのですから、その点から言っても、決して夫のことなど話そうとは思いませんから。」と冗談を半分に言ったつもりだったのが、法律家は何と思ったか、「少しは妻女に覚えがあるだろうと思って聞いてみたのだが、そう言われればもう止しましょう。」と言って、それからは人の取調べに私を取り調べるようなことはしなくなった。

 

後になってもう一つ嫌なことは、肺が悪くて心臓も極度に弱っているのに、四階まで歩いて昇ることだ。三階へ昇る階段の前へ立つと、思わず一番上まで見上げる。そして見通しをつけておいて大なる勇気を振って昇って行く。四階の階段の前だ。もう死にそうに呼吸がはずんでくる。胸にウンと力を入れて、足だけ機械的に上へ上げる。目の前が真っ暗だ。よくこれで心臓が破裂しないものだと、油汗を拭きながら休んだ。同志の病気は脚気と肺とがほとんどで、病気のパーセンテーヂ(のほとんど)を占めているのだ。栄養不良で心の弱くなった多くの同志や、肺をやられている多くの同志が、皆この階段を呼吸をせきながら上がるのだ。後で聞いた話だが、一同志が脚気で階段を昇れないでいると、上まで蹴上げられたということだ。その同志はますます悪くなって、とうとう死にかけて一時保釈になったそうだ。

 

裁判所も時々行くと面白いこともある。第一に刑務所から裁判所までの道中が面白い。半年ぶりもそれ以上も(19289月以降のころか)で娑婆の風物を見るのだから、目が覚めるようである。一番目につくのは女の美しいことである。よく牢獄から出た男の人が言っているように、先ず第一に女の美しいのが目につく。男でなくとも美しいと見とれるのだから、男の人にはなおさら美しく感じることだろう。久しぶりで娑婆の男たちを見ても何とも感じないし、また見ようとも思わないが、女の人の満艦飾(まんかんしょく*)を見ないわけにゆかない。全く「まあ」と叫び声を上げたい程美しく珍しく感じる。髪の毛のみずみずしく結い上げられているのや、すっきりと美しく化粧した後ろ姿、殊にイキにしなを作って歩く様子などを見ると、何か芝居でも見ているような、また人形を見ているような感じがしてくる。毎日赤と青の着物に包まれ、しかも半年も一年も、もっともっと二年、三年という長い年月を、一度もカミソリを当てない日に焼けた囚人たちばかり見ている目には、こんな美しい人たちを見るのが実にうれしいのである。殊に目立って美しく見えた人の姿などは、自動車の網の目にできるだけ顔を当てて長く見ようとする。

 

*満艦飾 旧海軍の儀礼の一つで、艦首から艦尾までの檣(やぐら、帆柱)に信号旗を連ね、そのてっぺんには軍艦旗を掲揚する。

 

 こんな楽しみな裁判所行きの自動車も、後になってからはすっかり監房式に目隠しされ、外の景色どころか、鼻のつかえるような二尺(60㎝)か二尺五寸くらいの正方形の箱になってしまったので、僅か十分か十五分の間であっても、頭が痛くなって胸が苦しくなってくるので、裁判所へ運ばれることは何より嫌なことになってしまった。

 

 走りながら外の見える時は、捕らえられる前までここもよく通ったし、ここの喫茶店に二度ばかり入ったことがあったっけなどと振り返ってみたり、あああの禿げ頭の果物屋の主人がまだ店に出ているとか、見るものにつけて活動していた当時を懐かしく思い出す。

 

 そしてひとりでに「囚人」とつぶやきたいような気持になる。こんな風に忙しく次から次へと変わる景色を見ながら、その一つ一つに対して懐かしい、いろいろな感じを起こし、また一人で批評して見たり、どこか心の奥底で「囚人」と言ったような、淡い淋しさを感じたり、またそれと同時に、ますます闘争的な気持ちに燃え立ったりする。

 

そしてこうした心の活動に対しても、また懐かしさを感じる。房に閉じ込められていると、こんな気持ちの変化などは一つも起こらない。だからこんな気持ちに駆り立てられると、自分の神経もまだまだ活動する力があるんだと考えさせられたりする。裁判所の留置場に放り込まれても、まだ今見て来た世の中の様子が頭から去らない。

 

一般に不景気ということがピンと頭に響いている。そして次から次へと、不景気や恐慌に伴う労働者、農民、小ブルジョワの闘争の過去の姿で(が)頭の中へ上ってくる。選挙闘争の時の各種のスローガンや、自分たちの工場での争議の事、アジの模様などが、まだすぐ先日であったように思いだされてくる。そして同志の取調べから帰ってくる足音や呼び出されて行く足音に瞑想は破れるのだ。そしてできるだけ前の鉄の格子戸の所へ寄って行って、知っている同志が通りはしまいかと覗いてみる。同志だとはっきりわかれば、挙手の礼をしたりして微笑み合うこともある。やがて呼び出されて静かに歩みながらいろいろな世間話を看取から聞いて笑ったりするのが楽しみで、もう行くところへ落ち着けば、すっかり興が覚めてしまうのである。書記の前で大威張りする検事や判事の前で座り込んでいることは全く退屈でやりきれない。

 

だから留置場へドカリと座り込むと、少し気持ちが清々するし、同志の顔でも眺めれば、また愉快だ。――何月何日から絶食しろい!なんていう書置きを、壁から見い出すのも楽しみだ。

 

あんなに閉じ込められた暗い三畳の室でも、自分の家だと思っていればかわいいものだ。調べが済んで自動車に運ばれて、自分の監房へドンと入ると、まるで本当の自分の室へでも帰ったようにうれしい。さっそく帯を解いて、何はともあれ疲れた体を長々と伸ばして二畳の畳一杯に、しかも斜めになって寝て手足を伸ばす。アアと一つ大きな呼吸をする。「疲れたでしょう」などと取締役に言われると、お隣のお母さんにでも呼びかけられたようないい気持になる。そして自分ながらおかしくなる。こんな穴倉に放り込まれて、こんなにのびのびと安心していい気持になるなんて、全く苦笑せざるをえない。私は大抵裁判所から帰ると熱が出たので、早く寝ることを許された。そして今日の取調べに対して軽い興奮と頭痛を感じながら、特に手足を長々と伸ばして、子供のように眠ってしまうのである。

 

 

南京虫(姿の見えない南京虫との格闘。これも拷問の一つ)

 

131 私たちの入っている病舎だけは南京虫が住んでいなかったのが、昨年(1928年か。否、28年は肋膜で苦しんでいたのだから、1929年かもしれない)の夏ごろだったか、少し普請をしてから、その時に持って来た古板について入ったらしい、南京虫が出るようになった。どんな姿か話だけではさっぱり分からないが、朝起きると、頭と言わず、手に足に一杯大きく膨らんで、痛痒い。こんなに蚊が沢山入っていたのかしらと、初めは少々不審に思っていたが、取締に聞いてみると、蚊ではなくて南京虫の跡だという。幾日経っても痒いし、痛いし、水が出るし、ホトホト困ってしまって、朝起きると素っ裸になって着物を調べたが、一匹もいない。それから布団、毛布、羽目板の間、隙間という隙間は全部暇にまかせて探したが、影も形も見えない。本の一頁一頁までめくって探したが、とうとう見当たらない。全く癪にさわる。そしたらお昼ごろになって隣の放火で入っている人の監房でつかまったと騒いでいた。きっと私の方のが避難して行って捕まったのに違いない。しかし間もなくまた出るようになって、イマヅ粉くらい散布してもさっぱり効き目はないし、遂に奴にかまれたら塩でこすっておくことにして、観念してしまったが、警察の留置場などは、蚤(のみ)やしらみと同じ程度に沢山住んでいるのだそうだが、これも拷問の一つとして存在しているのかもしれない。

 

 

塩でもむ(薬の代わりに塩を使う。塩をため込んでいないか取締がわざわざ点検する)

 

135 「塩でもむ」と言えば、私の耳には一つの熟語として響く。刑務所の婆さんたちは、虫にかまれたと言えば、塩でもめ!南京虫にかまれたと言えば、塩でもめ!歯が痛むと言えば、塩をかみしめていろと言う。誰でも何か外科的異常を訴えると、大抵塩で治療するのが普通で、また祖先伝来の妙薬の程度(よう)に、万病に効くものと断定しているから、囚人や被告等が何と言っても、とにかく自分が年長者である点においても、なかなか経験を持っているというので、厳然として固守している。しかしこれはどこでもつきものの年寄の頑固かもしれないが、一つは薬を使いたくないケチに違いない。

 

 塩についてもう一つ思い出すことは、囚人がこの塩をたくさんためておくことだ。何しろ味噌汁と七分三分の麥飯では、何か味が欲しくなる。そこへ歯を磨くために塩が一日おきくらいに配給されるのだから、普通の人間なら歯を磨いて使ってしまうより、飯にかけて食べたほうがましだと思うだろう。それで配給された塩を取っておいて、スパイの囚人に訴えられたり、取締に叱られたり、泣いたり、大変な騒ぎになるのだ。まるで赤ん坊同志の喧嘩が二日も三日も続くことがある。そしてケチな婆さん達は、一つまみ位の塩の事で、一つ一つ塩壺を検査して、少し多いところは皆取って行ったりする。よくもこんな忙しい中にあんなケチな囚人いじめをしていられるのか不思議なくらいである。

 

 

絶食(絶食「闘争」で勝ち得た自由)

 

136 ここ(刑務所)では(囚人や被告に)絶食されると一番困るらしい。私の隣に栃木だか群馬だかその辺の人が精神鑑定に来ていたことがあった。何か少し用があっても「お取締様」と丁寧に呼んでいる。その声は誠に可愛らしいので、まるで十五、六の小娘のような愛くるしい声で呼んでいる。いつか一度見てやりたいと心がけていると、丁度運動場ですれ違いに会った。声だけを聴いていると何とも申しようのない可愛らしさだが、その顔は本当に低脳というのか、悪人というのか、出来上がった悪人面をしている。取締りの話では少々変わっているのだと言っていたが、朝晩に男の看守長が来て点検する時には、きれいな着物に着換えるんだそうだ。普段は自分の着物をたくさん持っているのに、刑務所の青い着物を着たりしていた。

 

 それがどうしたことかある朝からふっつりと食を断った。取締は手を換え品を換えて食事をとるように勧めるが、どうしても食べない。「穀絶ちをして神様に願をかけているのではない」などと聞いてみていたが、何とも返事もしない。医者が来てなだめる、看守長が来て慰める。あらゆる手段を尽くしてもとうとう食べないで一か月以上も平気でいた。運動にも出るし、お湯へも入る。まるで平気で、少々顔が青くなったくらいで、別に痩せもしない。刑務所としては絶食が最も困るらしいので、被告側から言えば、これより外に奴等を屈服させる方法はないのである。ところがこの被告は、一か月以上も絶食していて、とうとう首を吊るという芸当をやり出した。首を吊るといっても、窓には細かい網が張ってあるし、紐の通しようがないのだが、この被告はよくも考えたもので、二間もある高い屋根裏のすぐ下の隙間になっている棒を見出して首を吊った。そこへ何とかして昇りついたのかと驚いて聞いてみると、畳をはいで縦に立てかけ、その上に禅の板を縦にして乗っかったのだそうだ。それにしてもよく昇れたものだと、皆この新発明の首吊法に驚嘆していた。

 

137 こんな風に勇敢に世を捨てるかと思えば、それから数日して「お腹が少々痛む」と言って「湯たんぽが欲しい」とか大騒ぎで、生きんためにもがいていた。そしてこの事件以来すっかり寵愛を一身に集めたように取締に甘えて、塩豆が食べたいとか、浅草の何とか煎餅が食べたいとか言って甘えている。そして自由に運動に出ることを獲得して、まるで監房の錠など開け放しにしているという豪気な生活になってしまった。これもまた命を投げ出しての闘争の結果としての運動の自由の獲得だと皆感服していた。

 

 

人殺しした人たち

 

138 人殺しをやるにも、なかなかうまい人たちが多い。それと同時に殺さない人が人殺しになってドンドン打ち込まれてくる。

 

 ある利口な看護婦が夫を持ちながらまた一人男をつくった。そこで夫と何とかして離れようと考えたが、うまくゆかなくて、一策を案じた。夫を針で刺し殺して、その悲鳴で他の人が駆け付けて取り押さえられたのだが、それを検事局や予審で、生活に困って夫と情死しようとしてし損ねたと白状した。刑は十カ月で、見事に芝居は完成したのだそうだ。

 

139 また五十くらいのおばさんが、甲府から送られてきた。このおばさんは自分の子供を殺したという嫌疑で引っ張られて、そのまま人殺しになってしまって、三年か四年の刑になって、暫く刑務所で風呂の火をたいたり、洗濯工として働いていた。お風呂に行くといつも悔しがって話していた。「これがないから」と指を固く輪にして「自分の思うこともよく喋れない。私たちは病気で死んだ子供を私が殺したなんていう恐ろしい罪でこんな目に会わされて」といつも目をしばたたいていた。「×さんは自分の夫を殺して一年ぐらいで出て行くが、あの人は大金持ちの奥様で、弁護士の五、六人も使ってやったのだから、全く金の世の中でござんすよ」とうらめしそうな目に涙を一杯ためて話した。

 

 

犯罪をつくる人は誰か?(それは警官だ)

 

140 二十歳くらいの若い細君が放火で入ってきた。明けても暮れても泣いてばかりいる。やっと少し静かになったかと思うと、また堪り兼ねたように泣き出す。私のすぐ近くなので、夜も気になって眠れない。泣き止んだすきをみて呼んでやると、その細君は驚いて「まあ、そこにも人が住んでいるんですか。私ばかりこんな穴倉のような所へ入れられたかと思っていたら」と嬉し泣きをしていた。

 

 この細君の話によると、細君たちは新婚早々で、一つの店を持って、二階を伯父さんに貸していたのだそうだ。その捕まる日は、何か用があってご亭主の友達が五、六人集まって、昼の一時ころに帰った後に火が燃え上って、障子一枚くらいで消し止めた。大したことではないし、まあまあ良かったと皆が喜んでいると、これをかぎつけた一人の刑事がやって来て、とにかく警察に一度来て大体の報告だけでいいからしてくれと言ったので、この細君は気立ての優しい人だからお茶を出したりして、ちょっと着物を着換えてついて行った。

行ってみると報告どころの騒ぎではない。否応なしに留置場に放り込んで家に帰してくれない。早く帰してくれと頼めば、白状しろという。白状といっても火をつけたわけでもなし、どうしていいか訳が分からなくなって、勘弁してください、勘弁してください、とただ泣いてばかりいた。刑事連はお前が火をつけたに相違ないだろう、なぜ火をつけようと思うようになったのか、と責めてくる。それに昨日入ったばかりの保険帳を見つけて、保険の金が欲しくてやったのだろう、保険の金をとって何に使おうと思ったのか、とぶったり、蹴ったり、しまいには箒を股に通してズーズー引っ張る、股は赤く傷ついて血が出てくるこうなっては弱い女の人は、嘘でも何でもいいから白状した方がいいと思ってしまう。そして嘘をついた。

お母さんにお金を上げて喜ばしてやりたかったのです。私のお母さんは本当のお母さんじゃないのです。そして小さい時から私は子供奉公に出されて、お母さんへ少しずつ金を送っておりましたが、自分が結婚してしまって、お母さんがどんなに困るだろうと思って、保険の金が取れたらお母さんに送って、小さな店でも出して、一人で暮らしていけるようにして上げたいばかりに火をつけました、と述べ立てて、こんなことを言えば誠しやかであるから、大体の犯罪は立派に作成されて、泣く泣く刑事局に送られて、検事にも謝ってみたが、許してくれない。家に帰れるのかと思ったら、こんな監獄に来てしまった、というのだ。

 

142 これを聞いた私たちは皆憤慨した。「今度検事局に呼び出されたら、ありのままを言いなさい、どうせ刑を受ければ一年や二年ではきかないのだから、一年頑張っていると思って、何と言われても、例え死ぬような目に会わされても、嘘などを言ってはいけませんよ」と元気づけてやった。

 次の取調べに出て帰って来て、警察でいじめられて嘘をついてしまったことを話して来たと言って喜んでいた。そして「その朝火が出たらおじさんがあわてて石油コンロの石油を破れたヤカンに入れて置いたのを(その火に)かぶせたので、一時燃え上がったのですよ。私はそのことも皆話して来ました。そしたら検事局でも予審でも、その時にいた人達を皆呼んで調べてみると言っていましたから、家の人達も嘘をついてくれないように、検事さんに頼んで来ました」と言っていた。

 

 こうして警察で罪をでっち上げられてそのまま囚人にまでなる人たちがどんなに沢山いることか。全く警察のやり方は、暴力行為の伴わないのは皆無といっていいくらいだ。ある女の被告さんは、警察であまり虐められたので、「刑務所に来たら、地獄で仏様に会ったようだ」と言っていた。こんな刑務所でさえ仏様なのだから、警察官の拷問は並大抵のものではないと考えられる。

 

 

絵描き姉さん

 

143 「お取締様、筆と墨を少しお貸しなすって」

「何かするのかね」

「ヘィ、私がこの松やコスモスを描きますと、五円や六円になりますので、大変お取締様のお世話になりますから、お礼に描きましょうと存じまして。」

 

 この被告さんは二十二、三の狂人である。何でもお父さんも絵描きで、自分もまた絵を描くのだそうだ。下町で芸者の扇や羽織の裏にいろいろな絵を描いて金をとっているらしいので、刑務所に来た時も絵の具を持って来て、「これは盗んで来たのじゃないかね」などからかわれていた。

 

 いつも取締連にからかわれたりして陽気になっているかと思うと、間もなく何か思い出しては泣き出す。この人の普通の顔などあまり見たことがない。笑うか泣くか、どっちかだ。

 

144 刑務所は地震があるとすぐわかる。建物が高いのに、大地震で大部故障ができていて、小さな地震でも猛烈に感ずるのだ。ミシミシ、ユラユラと今にも潰れそうに動き出す。これも慣れてしまえば平気だが、最初のころは少なからず驚く。例の狂人の被告さんは、(関東大)震災に驚いて狂ったらしいので、地震となるとキャアキャア叫び出す。地震の響きよりも叫び声の方が大したものだ。

こんな狂人でも一人前に公判廷に出て裁判を受けるのだから変なものだ。これでも執行猶予とかで出て行ったが、公判から帰って来て、「私は帰るんでございますよ、お取締様、どうもありがとうございました。判事さんがね、執行猶予四年と仰いましてね。私は嬉しくて、嬉しくて、どうもありがとうございます、どうもありがとうございます、と十ぺんばかりお礼を申し上げて来ましたから、櫛がどこかに吹っ飛んじゃいまして、こんなに髪が解けてしまいました。」と髪を振り乱して帰って来た。それに腰に着物の上からお腰を巻き付けて、「これで娑婆に出られるかへ?」なんて陽気に帰って行った。

 

 

栄養不良(酷い!刑務所生活それ自体が拷問だ。)

 

145 今もうすら寒い風が吹いて、すっかり秋らしくなっている。(刑務所の)中にいると、今頃は猛烈に髪の毛が抜けて、心細くなって行くようだ。夏の暑い中に栄養不良ときているから、髪の毛にまで滋養が行くはずがない。何べん(髪を)といても次から次へと髪が抜けて、櫛の歯も見えないくらいに(髪の毛が引っ)かかってくる。そしてわずかな風にも頭の中まで風が浸み込んで行くように冷たく感ずる。私は自分の頭の三分の一にも足りなくなった髪の毛をさぐってみて、老人の被(かむ)るようなキンカ帽子が欲しいと思った。寒い冬の風の吹く日は、頭まで毛布に包まれてみたり、手拭を巻き付けてみたりした。

 

 私の友達などは、栄養不良から足が悪くなって腫れ上がって来た。それがだんだん悪くなってリューマチになって、踵の裏からふくらはぎ迄、黒い斑点が一杯できてきた。それでも医者は胃の薬くらいで放っておいた。

146 とにかく極度の栄養不良は万病を産み出してくる。それで頸に沢山のリンパ線炎を起こしてきた友達もいる。ところでここの医者はそれに水銀軟膏をくれて、「上からこすりつけておけば直る」と言っていた。水銀軟膏といえば、子供が頭に虱が湧いて来た時に塗り付ける薬だ。こんなものでリンパ腺に巣くった黴菌(ばいきん)が殺されようとは考えられない。

それに刑務所中の医者は決して病名や病気の進行程度を教えない。「どこが悪いか、どの程度に悪いのか」と聞くと、「そんなことは聞く必要がない。ちゃんとこっちでいいようにしておくから」と言う。いいようにとは?何と恐るべきことだろう。ここを出されるのは、大抵もう間もなく死ぬというようになった時だ。それまでいいようにしておくのだそうだ。なぜまかせない(真実を言わない)のかと、さんざん抗議したら、奴らは白状した。「病名をまかせれば、勝手にそれを盾にして保釈願いを書いたり、外の人に知らせたりするからだ」と。事実支配階級は我々を病気にして虐待しているのだ。それを隠蔽するためには、病人のことなどを外へ漏らされては大変なことだ。

麥飯の一握りや、味噌汁の一杯や、ゴボウの切れ端で、一年も二年も三年も持久戦に堪えているのだ。しかも夏は蒸し風呂のように暑く、冬は北極か南極のように寒く、火の光りとてはほとんど入ることのない薄暗い湿っぽい室である。病人が次から次へと出てくるのは当然だ。私達同志の間でも病人が次から次へ出て来て、女囚などはほとんど薬を飲まない人がいないくらいのことさえあった。自然に弱ってくる体だから、急にドット倒れるようなことはないにしても、体は心から弱ってくるのだから堪らない。規則正しい生活をしていなかったら、とても長く続けることはできない。一日に二時間の勉強と、三十分の運動と、その他は随意に考えたり読んだりする。これ以上続けて頭を使い、また体を使えば、きっとひどい疲労が来て、暫く恢復を待たねばならなくなってくる。

 

147 またここでは食事に脂肪分を取らせないから、少し寒くなったら手でも足でも顔でもヒビがきれるし、カサカサになってしまう。だから囚人たちの手足は目も当てられないくらい惨憺たるものだ。

 

 

通信

 

148 中にいるとどんなことを最も外の人からして欲しいかというような質問をよく受ける。私たちは中でいつも他からの情勢報告を待ちわびた。誰か暇人であったら、何でもいいから外の様子を聞かせてくれればいい。一体娑婆では今どんな問題が問題になっているのだろう、内閣は今でも同じことかしら、無産団体の陣営はどんなふうに進んでいるのかしら、弾圧後の活動はどうなったろうとか、いつでもこんなことが考えられてくる。それにしても忙しく活動している外の同志たちに対しては、たとえわずかなことであろうとも、迷惑はかけたくない。迷惑がるようなことなどちょっともないと分かっていても、プロレタリアートとしての闘争の時間を、私たちのような何の働きもできなくなった者に聞いてもらうことは、階級的立場に立っても要求すべきでない。それでふらふら遊んでいる家族や、何もしていない友達に、何か外の様子を書いてくれと頼んで(手紙を)やると、大抵は心配しているとか、子供が笑ったとか、梨が店に出たとか、どこかへ散歩に行ったとか、淋しいとか悲しいとか、そんなことぐらいしか書いてよこさない。これでは全く何の役にも立たない。失望させるだけだ。

 

149 誰かの所に手紙が一枚運ばれてくる。近くの監房であれば、「オイ、同志からか?」と聞く。「アア、同志からだよ」と言わないうちに「ウララー!」とか鬨の声を上げる。手紙の全文を聞いたり、聞かせたり、その文章に書かれている感嘆詞さえ忘れずに報告する。こうしてこの手紙のことで一週間も十日間も楽しく話題にして、いつの間にか全監房の同志に脈々として流れ込んで行く。そしてどこからともなくその反響が聞こえてきて、外へ流れ出して行くのだ。

 中にいる間は何を聞いても身動きができないのだから、委しい自分たちの陣営の事ばかりでなくていいのだ。むしろ世の中全体のあらましの問題の筋さえ連続して聞かされれば、どんな喜ばしいことだろう。また外へ出てからも多少はそのために利あることにもなるだろうと思われる。二年も三年も外とふっつりと連絡がなくて外へ放り出されても、人の使っている言葉さえ意味が分からなくなってしまう。そしてこの長い間の過程を飛び越した頭は、何を見ても、何を読んでも、相変わらず遠くかけ離れたことのように考えられるのだから、一月に一回くらいでも結構だから、外の問題を送り込むようにしたら、どんなにいい激励になることだろうと思われる

 

 

保釈(原菊枝さんは当局からにらまれていたか、家族の引受人がいなかったかして、長く入っていたようだ。次々節「共犯者からの手紙」ではお兄さんも逮捕されていたと書かれている。布施氏とは誰か。救援の人か。)

 

150 皆一緒に出て行きたい、これがお互い同志の気持である。(しかし)奴らが一人ずつポツリポツリと出してやることは、奴等として重要な戦術である。誰が何処へ行ったか訳が分からないようにポツリポツリと知らないうちに出してやる。そしてほとんど親元に帰される。親の所へ帰らなければ保釈を許可しないというのが普通だ。だから引受人がうまく準備されていないと、それを口実に決して出さない。また裁判所では、犯罪に対して調べるだけで、決して各自の思想には立ち入らないと宣言しておきながら、その人間の考え方の如何によって、保釈もするし、死んでも出さないというような法を適用している。私が肋膜のために二度ほど危険な状態に陥った時も、「女ではあるし気の毒だが、頭が固いから出せない」と、布施氏*に言ったそうだ。検事もまた「(あなたは)死ぬときにならなければ出せない人だ」と、見舞いに来て言って行った。何というあさましい奴らの態度だろう。今更言うまでもないが、裁判所は我らの×(癌)である。××××(司法制度)はここでまた目に見えない×問(拷問)を続けて行くのだ。

 

151 支那の同志は投獄されても体を丈夫にして外の鬨の声を待っているそうだ。私達同志もまたこの×××を待たないものがあるだろうか。ポツリポツリと煙のように消え失せるのではなしに、私達同志は、××××××××、同志の陣営に帰ることを待ち望んでいる。

 

 

差し入れの本

 

 一度放り込まれたらちょっとでは出られないのだから、何なりとも暇つぶしに勉強をやり出す。外にいる時は大抵忙しくて、専門的な勉強などしていられない。それで中へ入った時などは、こうした本を読むのに最も適しているので、大抵語学やその他の勉強をしようと心がける。

けれども差し入れの本が十分でなく、また金もない多くの同志は、一冊の講談を何べんも読み返して暇をつぶさなければならないことが往々にしてあると思う。最近は差し入れが十分にできるようになったと聞いているが、私たちの時には一か月に一度差し入れがあれば上出来な方で、二カ月に一冊などいうこともあった。

しかしこういうことも一方から言えば組織の不十分もあるが、働く同志が次から次へと放り込まれるのでこうした結果になるのだろうと、中でも想像しているし、そんなことを不平に思う人はおそらく一人もいないと思う。

そしてできることならば、一つのまとまった勉強がしたいと誰しも望んでいることで、歴史ならばずっと古代史から近代まで、数学でも植物学でも動物学でも、すべてできるだけ詳しくまとまった知識を学ぶことを切実に要求している。大抵の同志たちは、歴史と自然科学を最も望んでいるように思う。

 

152 三・一五の当時は五月二日までマルキシズムに関する本を読むことができたので、こんな時にこそマルクスの資本論を勉強しようと、せっかく入れてもらって読み始めると、五月二日に司法省からの命令というので、すっかり取り上げられてしまった。さて取り上げてどんな効果があったのか。奴等の悪辣なる挑戦とハッキリ見ただけだ。

 

 

共犯者からの手紙

 

 共犯者の間では通信が許されていないのが普通で、私たちは一度刑務所に入れば、幾年間でも会う機会も書く機会もなくなるのだと思ってあきらめていたら、突然N刑務所にいた兄から手紙が届いた。

 私は飛び上がった。内容など読む暇がない、オイオイ!手紙が来たよ!手紙が!一番近くの監房にいる友達が驚いた。

「手紙…誰から?」

「兄からだ」

「共犯者じゃないか、文通ができるのか」

友達がまた驚いた。

「とにかくそんなことは知らないが、来たのだ!」

「ウラー!」*

「ウラー!」

 

キリル文字でYpa, ラテン文字でUra, ロシア語で「万歳」。愛国心を鼓舞したり、決死の突撃をする際などに多用される。

 

156 嬉しさが腹の底からこみ上げて来て、顔の相好をくずさないわけにはゆかない。無人島で救船でも見つかったような喜びと希望が、胸に生き生きと盛り上がってくる。

「何が書いてあるの?」

友達はうらやましそうに聞いてくる。

「まあ読んでないのだから、ちょっと待って」

兄の手紙がまた振るっている。兄もまた三・一五にやられた。それで私の様子が分からないので、どうしたのかと心配していると、取調べに出て裁判所で聞いたそうだ。それで「長らく通信しないし、どこにどうしているかと心配していたら、刑務所に住んでいると聞いて安心した。とにかく落ち着いて為政者の恩恵に浴しているがいい」というのだ。それに何だか呑気な俳句などが書き並べてあったので、私も作ってやろうと思って、暇に任せて小さな窓をにらんで、半日くらい名句を考えてみたが、とうとう何も出て来なかったのでよした。しかし私は暇なので時々は一生懸命に頭を振って名句を考えては作ってみたが、やっぱり何の句にもならなくて終わってしまった。

 

 

英雄閑日月有(腹をくくった達観。英雄は小事にとらわれずに悠然としているので、暇な日々を送っているように傍らからは見える。)

 

157 コンミニストを英雄と云っては当を得ていないけれども丁度そんな風に、娑婆では猛烈に戦った闘志もこうした境遇に置かれれば、またそれで悠悠閑閑として何ものかを楽しみにしている。もちろん未来は我らのもの、何ものをも恐れ何に屈することあらんやである。日々に規則正しい勉強と規則正しい運動とを欠かすことなくやる。規則正しくやることは、ここでは必然的に行うようになる。体が一定の規則的な生活に当てはまってしまって、それを守らないと却って悪い結果になるからだ。

 ある友人は夫との間に、昔の物語にも出てくるように、恋文の交換をやって楽しんでいたとか。恋文と云っても、趣味も豊かな和歌とか俳句とかでやるのだ。とにかくここでも親、兄弟、夫婦は必要に応じて文通ができるのだから、こういう楽しみもまた味わう機会があるわけだ。

158 私もそんな才能をうらやましく思った。けれどもお互いに和歌の和の字も心得がなくして、才能の僅かさえ持ち合わせていない悲しさに、何の芸も発揮することなしに終わてしまった。そして色々恋の歌を教わるとはなしに教えてもらったのだけれども、どれ一つとして記憶にも残っていない。よくひょうきん者の看守長が廻って来て、「俺がポストになってやるから、用がないか」と言っては笑っていた。しかしこんな方面でののどかさは、わずかに限られた範囲の人々に過ぎない。一般に語学とかその他の本を読みながら、そこから得た知識の全部をやがての闘争に利用すべく計画して落ち着いて勉強している。あの中での落ち着いた試練は、闘争の日に当たって必ず役立つに違いないと思われる。

どんなに大きな地震が来ても、本錠は外しても仮錠は外すことがないから、自分自身の危険を除(の)ける自由さえ与えられていない。こういう中にあっては、何事が起ころうとも平気でいるより外に仕方がない。だから大きな地震の時などに、普通の被告囚人が、助けて!助けて!と叫び出すようなことがあっても、私達同志は平気で寝ている。一方から言えば、まるで禅坊主の試練にでも耐えているような形だ

159 考えるまでもなく、大震災のような事件かまたは何かの騒動が起これば、籠の鳥は一撃のもとに次から次へと倒されて行くのは分かり切ったことだ。(関東大震災時の朝鮮人や中国人や社会主義者の虐殺を知っているに違いない)こんな状態の下に置かれた私達同志は、英雄でなくとも、なんで度胸を据えないでおられようか。だからある演説の巧い同志は、悠悠と同志の窓添に押し寄せて、朗らかに挨拶して取締に叱られている。しかしそんなことは婆の念仏位にしか感じていない。誠に、英雄閑日月か何か知らないが、先端的行動をも泰然としてやってのけるような気持になってくる。

 

 

組織を持たなければ駄目だ!(当局は家族まで巻き込んで逮捕者を虐めた。だからそれに対抗する救援組織が必要だ。)

 

 照る日にも曇る日にも、一日三十分の運動時間には忘れず訪ねて虫を取り草を取って楽しみに育てた運動場の菊も、やがて早いのはつぼみも見えかけて来ても、家からは何のやさしい便りも来ない。別にやさしい便りを当てにしているわけでもないけれども、やがては二年にもなろうとする刑務所生活には、外からのやさしい便りが何より待ち遠しいものの一つだ。家も親しい友達も何もない人がいたら、おそらく贅沢なプチブル的な考え方だと笑うかもしれないが、それは笑われても仕方がない。手にも足の指にもとうとう霜焼けができかけて、囚人のヒビに割れた赤い指が痛そうに洗濯場で働くころになっても、まだ私の所には何の冬物の差し入れも新しくは入って来なかった。それでも去年からの綿入も襦袢も持っていたので、これで間に合うには間に合っていたけれども、刑務所から一時間もかからないところに家がありながら、本も着物も入れてもらえないということは寂しいことだ。

 

160 姉が、私たち(兄と私)が無責任に家を放り出して刑務所に入ったということに対して、ひどく喜んでいるというような話を聞いたけれども、こんなにまで姉の心から私が放り出されようとは思いもよらなかった。何が何のことかさっぱり分からないために、多少は気にもかかったし、淋しくもあった。

 (すでに出所していた)兄が夏ごろ面会に来た時、とにかく姉は、殊に私が姉を少しも慰めてやらないばかりか、(姉が)苦しい家の生活を維持しながら、子供たちの世話をしていることに対して(私が)少しも感謝していないと怒っていたという話を聞かされて、私はすっかり見当がつかなくなってしまった。考えてみても何のためにそれほど私は恨まれているかが分からない。兄が社会主義者になったのは私のせいだとでも考えなければ、そんな理屈が生まれて来るはずもないし、私は入る以前からずっと兄たちの家にもいなかったので、こんな所へ責任とか感謝とか言って、兄たちの家庭へ結びつけられて恨まれる理由がどう考えてもちっとも分からない。それで私はそのまま兄がどうにかうまくするだろうと思って放って手紙も出さずにいると、形勢はなかなかそうではないらしいので、私はとうとう委しい手紙を書いて姉に出した。もちろん一年間兄の留守中はいろいろ心配をかけて申し訳がなかったこと、けなげに働いてくださったことを深く感謝するということ、第三には、出たら姉にはあまり心配をかけないようにするということ(などを書いた。)また考えてみて、私は姉に心配などさほどかけていないつもりでいたが、それでも、このことを書き加えなければ、姉に対して手紙を書く効果がないと思ったので、そんなことまで書いて出したが、やっぱり姉の憤激をおさめることはできなかったのだ。

 

161 私がまだ(兄夫婦の)家にいる時、姉はよく言ったものだ。「この子のためにも私より外に適当な保育者はいないのだから、何としても育てるし、社会主義にもまた反対ではない」と。

162 しかしこんなことは言うも馬鹿らしいことであるが、それと同時に、このことは如何に犠牲者の家族にまでも官憲の手を借りてブルジョワ共が迫害を加えたかという一つの明らかな証拠となるのだ。奴らは全ての機関を利用してあらゆる悪罵を飛ばし、(社会主義者を)恐るべきものとしてデマを流した。それで田舎町では右へも左へも行くことができない。甚だしきはプチブル層にいる親兄弟までがこのデマに乗って迫害者になってゆくのだ。罪のない子供までが、如何にこの残酷な支配階級のデマのために泣き叫ばなければならなかったか。或る地方ではプロレタリアの子供たちに石を投げ、棒で殴って苛めることを教えた。犠牲者の家族は働くにも仕事を与えてくれる何人もいなくなった。

こんな状態が姉のプチブル性を遺憾なく発揮せしめる原因となったのはもちろんだ。だからこの悲しむべき没落の原因は、支配階級の弾圧以外に何ものもないのだ。私たちは強固な救援組織によってこの犠牲者及び犠牲者の家族を結び付けなければならないのだ。工場に農村に、がっちり組んだ犠牲者を中心とする組織が、プロレタリア大衆とともに街頭へ街頭へ!と、支配階級の陣営に肉薄して行かなければ駄目だ。そしてプロレタリアの家族及び取り残された可憐な子どもたちを泣き叫ばさせないように守ることだ。

 

 

千代子さん!(伊藤千代子さんは裕福で育ちがよく聡明であると同時に、他者に対する思いやりもある優しいお嬢さんだったようですね。入獄1年後のころ、出所できるのではと期待しつつ、また貧しい同志に対する心配りからでしょうか、自分の布団を使わず、同僚と同じ刑務所の煎餅布団で寝て、同じ気持ちになろうとするなど泣けてきますね。)

 

163 「私が来たときにはあの塀の向こう側は草茫々として、崩れかけた塀のかけらがゴロゴロして、それはそれはとても淋しかったのよ!」

 私たちが最初に監房と監房で連絡した時に、千代子さんはつくづくと思い出して、淋しそうに当時のことを話した。もう千代子さんが逝くなってから丁度一年だ。

 

 千代子さんは駒込の方のどこかの警察に引っ張られたのだ。千代子さんは短時間ではあったが、非常に仲良く話し合った人の一人で、お互いにその性格をよりよく知り合っていたので、この人が狂い出して亡くなった時には、恋人を失ったくらいに私は寂しくてたまらなかった。だから私は千代子さんの房の近くではあったし、知っている範囲において思い出を語る場合には、きっと語らなければならない一つとして頭に残っているのだ。

 

164 当時千代子さんは駒込方面のある家へ使いに行った。そして「御免ください」といつものように玄関に立つと、大きな声で「いらっしゃいませ、お待ち申しておりました」との返事が聞こえて来た。変な聞きなれない声だ。奥さんの声ではなし、スパイだ!と一瞬間に感じた。そしてスタコラと街頭に逃げ出した。前の洗濯屋の小僧さんたちは何事かとばかり、家の前へ駆け出して来て眺めていたそうだ。町の人達も、朝早くからしかもきれいな若い女の人がトットと駆け出すのだから、何事かとばかり驚く中を、全速力で走ったが、大きな男にはとうてい勝てない。とうとう電車道で取っ捕まってしまった。町の人は珍しい活劇を黒山のように集まって、何だ何だと眺めていた。そして大の男二人に捕らえられて、縄で片手を縛られ、自分の帯の所に括り付けられた。

懐には大切な何かが二つ三つ入っていた。何しろ片手を縛られているのだから、全てに不都合だ。電車の中へ両方から挟まれて座らせられる。どっちを向いてもスパイの目が憎々しく光っている。ああ口惜しい。懐の中のものも取られなければならないのか。手に持っていたものはもう先に取られてしまっている。見つかった時は仕方がないと腹を決めて、片手を懐に突っ込んだ。何しろ寒い時であるから、懐手をしてもさほど怪しい行為ではないから、スパイもまんまと欺かれた。懐の中の状袋を静かに解いて、中からそろそろと引き出した。次には音のしないように、感づかれないように、それを裂き始めた。何といっても三通もあったのだそうだから、一通りの苦心ではない。音のしないように早くしなければならない。細く切れたものから先に、羽織の陰から足の方へ徐々に落としては、下駄で腰掛の奥の方へ見えないようにしてやる。こんな手数のかかる仕事も、十分か十五分の電車の中で、完全に成し遂げなければならないのだ。この苦心な仕事がもう少しで終わろうとするときに、電車は奴らの目的地に達してしまって引き下ろされた。もう少し懐に残っている。これを何としたらいいだろう。前と後ろに、また停留場で待っていた二、三人のスパイに周囲を取り囲まれて、何ともすることができない。そしてとうとう警察に来てしまった。千代子さんは考えた。

「済みませんが、御不浄へやらして下さい。」

「一通り身体を調べて見なければ、」と一人のスパイが言い出した。

調べられては全てが終わりだ。

「今、体の調子が悪いのです。月経ですから、とにかく、御不浄へ先にやって下さい。」

スパイもしばらく考えていたが、「女って奴はしようがないな、まあ行ってこい」ということになって、とうとう大勝利。このことは、不浄場で完全に消滅されてしまったのだ。

166 千代子さんは実に偉かった。この話でも分かるように、実に機知に富んでいた。そして真面目で勇敢だった。私はこの話を聞きながら、感激した。

「貴女(あなた)は本当にうまくやった。落ち着いていたからだ!愉快なことだ」と。

 

 千代子さんはいつも真面目に党のことを考え、勇敢に戦った。だから警察でも殴られたり、蹴られたり、頭の毛を引っ張られたり、指の間に鉛筆を挟んで拷問されたりした。そして市ヶ谷へ送られて間もなく発熱して、しばらく起きることができなくなってしまった。

 明けても暮れても熱が引かなくて、十日間くらいほとんど寝てばかりおられたようだ。長い間警察で入浴をさせないので、体に一ぱい小さな吹き出物が出て、このためにもしばらくの間は困っておられたようだ。

 

167 千代子さんは一方から見れば、デリケートな感覚の所有者であった。よく刑務所に来た時の夕暮れの思い出話をされた。

 「草がボウボウと茂ってね、軒端に二、三羽の雀がチュウチュウと淋しそうに鳴いているばかりで、人の影も見えないのよ。ここへ連れられて来ても、誰が何処に入っているのやら、話声一つ聞こえないし、ただ赤い着物を着た囚人が一人出ていて、私を素っ裸にさせてから青い着物を持って来て着せた。私は本当にただ一人ぼっちに放り込まれたという気持ちがした。今になってみれば、隣から隣迄人がぎっしり詰まっていることも分かって、相当にぎやかな声もするのに…」

「それに私の室は私が入る前、幾年もの間、物置にも使っていたのを、だんだん同志が入って来て、監房が足りなくなって、あわてて中の道具を出して、その代わりに私を詰め込んだらしいので、蜘蛛の巣が一杯かかっている。御不浄の板を上げて見れば、この中も塵(ごみ)と蜘蛛の巣で、足などとても踏み込めそうでもない。取締を呼ぼうと思っても、何しろ取締りのいる事務室からは遠く離れていて、並大抵の声ではとても聞こえない。羽目板の厚さが何寸あるか分からないほど厚くて密閉されているのだから、いくら呼んでもちょっとでは聞こえるはずもない。自分で掃除をしようと思っても、水もなし、雑巾もなし、箒もなし。こうなると全く口惜しいやら、淋しいやらで、涙が流れて来る」と当時を思い出して淋しく笑っておられた。

168 ここ(市ヶ谷刑務所)で初めてお菓子の購入が許された時も、千代子さんの所には取締りが教えに行かなかったそうだ。何しろ物置の一番奥の方の房へ入れられているのだから、何事があっても一人取り残される危険が多分にある。

 

 私が五日(月)に病気になってとうとう千代子さんの側の病舎へ移されてきたとき、千代子さんはとても驚いた。誰か同志に違いないと思っていたが、五、六間は十分離れているから、はっきり分からない。それで多分渡辺さん*だろうと思っていた。ところが長く注意している間に、渡辺さんではないこともはっきりして来て、私だと分かったので、益々驚いた。それでも千代子さんの所へは誰も訪ねて行かないので、ひっそりかんとしているのに、私の房へは、重態の病人だから、朝から度々人が出入りする。そして案外ににぎやかな笑い声などが聞こえてくるので、自分も病気になったらこんなに淋しくなくっていいだろうと、うらやましく思ったそうだ。それでも毎朝沢山の苦しそうな咳をするのを聞いて、千代子さんは自分の毎朝の仕事も何も手につかないほど心配して耳を澄まして聞いていたと言っておられた。だから神経衰弱がひどくなってからも、その時のことがボツと頭に浮かび上って来たのだろう、取締を呼びつけて「菊枝さんの病気は悪いのだから、早く心臓を冷やしてやってください。早くですよ!早く!」とせき込んで頼んでおられた。私達同志は、狂ってもなお同志を思うこの心に皆涙を流してしまった。

 

*渡辺多恵子 東京女子大時代の千代子の先輩

 

 ここの刑務所でもお茶を買って飲むことを許された時に、千代子さんは面会で小川一味*が入所していることを知った。そして奴等のためにお茶が許されたのだ。奴らのことならば何でもすぐに許すのだ。私はお茶など飲まないと言って、お互いに笑った。

 小川一味といえば、女区(じょく)へもあの小川の妾さんが入って来た。デップリと肥った女で、入って来た時から、取締や医者や看護長やの態度がどうも普通の被告に対するとは違って丁寧だと思っていたら、新入りの被告の話によって小川の妾と分かった。民衆の吸血鬼小川の妾だけに、その生活の豪奢なことは、絹布に包まれて、薄暗い刑務所の中に一人、殿様のような生活をしている。三度の食事が最も上等な差し入れ弁当であることはもちろん、足袋やお腰や襦袢などは一度も洗濯することはない。一度汚れれば皆捨てて、新しいのを次から次へと買って使うのである。あんかよ、湯たんぽよと、取締連は小間使いのように従属する。運動時間も普通の被告よりも長いし、丁寧な取り扱いを受けて威張っている。取り調べは毎日毎日続いて、日曜日も休まずに裁判所へ出ることがある。一体こうした政府関係の連中が入ってくるとすぐわかる。というのは全てに丁寧であると同時に、毎日毎日休まず取調べて早く保釈にしてやるからである。私達同志は一年はおろか、二年も三年もの間一度の取り調べもなしに放り込まれているのに、奴等ブルジョアやブルジョアの手先共は、その日から取調べが始まって、瞬く間に保釈ということになる。何と×××(裁判官)が法の自由とか何とかごまかそうとも、事実によってすべては暴露されているのだ。

 

171 千代子さんの話をそらしてしまったけれども、千代子さんの監房における生活ぶりは実に輝けるものだ。何故って千代子さんは多くの外に働く同志のこと、そして中に同じく入っている金銭にも衣服にも困っている多くの同志のことを考えて、決して自分だけの生活の満足を計るようなことはしなかった。誰々が困っている、誰々は本がない、と敏感に頭を動かして、全て自分のものをその方へ入れるように努めておられた。(私が)「貴女は体が弱いのだから、少しは栄養を取らなければ」と言っても、「それはそうですけれども、男の方では金どころか、冬になっても単衣物(ひとえもの)を着ていなければならない人もあるというのに、自分のことでお金を使ってしまうことはできない」と言っては、(家族から)もらったお金の一銭をも無駄に使ったことがない。

 千代子さんにはいつも一月に一回面会があった。そんなことも他の面会のない人に対して済まないと言っては、自分の面会をできるだけ広く利用するようにしなければ、他の同志に対して申し訳がないと言っておられた。全ての行動を同志と同じように、自分だけいい条件の下にいることはできないといつも言っておられた。

 

172 千代子さんの体は弱かった。一か年経った頃には頸部のリンパ腺が四つも五つも大きくなって上に現れてきた。医者に診てもらったら水銀軟膏を少しくれた。どうするのかと言ったら、その腫れ上がった上に塗り込んで殺菌するのだと言った。私たちはこの話で大笑いした。まさか虱ではあるまいし、水銀軟膏を上から塗ったくらいでリンパ腺炎が直るものか。また寒さがひどくなって来た。暮れごろから脚の裏に黒い斑点ができてきた。座ると痛いと言って困っておられた。医者はリウマチだから仕方がないと言って放っておいた。

 

 こんな風に体がだんだん悪くなっても、医者はいつも大したことではないと言って、病名さえ明らかには知らせないようにしていた。裁判所も、元気がいいから大丈夫だと、幾度も保釈願いを出しても突き返して取り合わない。私の病気が時々悪くなって保釈願いを出すと、千代子さんも競争で出した。ばらばらに保釈運動なんかしたって駄目だ。女区(にょく)では三・一五の連中はもう三人になってしまったのだから一斉に出そうというので、お互いに時期を等しくして保釈願いを出してはいつも突き返されていた。今野さん*も出すようにしなければならないというので、今野さんの監房の前を通るときは大きな声で保釈の話を取締に話しかけてそれとなく知らせることにした。それで意志は十分に通じて、今野さんもまた盛んに保釈願いを書いておられたようだ。

 

 明けて1929年一月、二月ころは体がずっと衰弱して来て、月経がほとんどなくなって、「私はとうとう中性になった」と。千代子さんはそれでも元気でおられた。「中性ってちょっとも気持ちのいいものではないね」と話しておられたが、その当時から「どうも頭が悪くなって物忘れをして仕方がない、語学の方も一日休むとすぐやり直しをしなければならなくなるし、カントの実践理性批判を買ってみたけれども、ちょっとも分からない。何べん熟読しても分からないから、もう宅下げするんだ」と癪にさわらして、そのまま下げてしまった。あの最後の病気がこの当時から多少頭に食い込んでいたのではないだろうかと、私は後になって思い合わせている。また今度こそ保釈運動を外の人にも頼んで、出るようにすると言って、五月か六月ころに自分の布団を皆宅下げして、刑務所の煎餅布団に包まれて、この方がみなと同じだから気持ちがいいと言って愉快そうにして、もう本当に出るような調子で話し合って笑った。

174 私が出たらきっとあなたを出してあげるから待っていらっしゃい、と言う話で、本当にそうなるのかと思っていたら、先は先だけれども、あのようなことになって、私より先に保釈になってしまった。

 

 諏訪の湖水に帰りたいと繰り返した千代子さんはもう一年をあの土の下に眠っている。寒くなったら諏訪の温泉に行こうと語った当時の千代子さんが思い出される。

 

 支配階級の手先である裁判所は、奴らの拷問と虐待によって被告が発病して死にかけても、あるいは働く人を失って飢えに泣く老父母や幼い子供たちのいる家庭の事情を知っても、露ほどの同情も起こさないのだ。全ては××の名の下に、見事に××××であることを曝(さら)しているのだ。奴らの私達を監禁する目的は取り調べのためではない。一時たりともブルジョワの××を擁護するための長き拘留なのだ。

 この不当なる拘留のために、直接または間接的拷問のために、病む多くの同志を私達は擁護し奪還しなければならない。

175 この長き数カ年に渡る拘留と、従って体の衰弱、病気等に打ち勝って堂々と戦うことは、実にプロレタリアートでなければできないことだ。未来は我らがもっと固く団結したプロレタリアートの誇りだ。

 

以上

 

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大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社1990

  大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社 1990       第一章 枝吉家の人々と副島種臣 第二章 倒幕活動と副島種臣 第三章 到遠館の副島種臣     19 世紀の中ごろ、佐賀藩の弘道館 026 では「国学」の研究が行われていたという。その中...