2023年4月30日日曜日

朝鮮学校「歴史教科書」を読む 萩原遼・井沢元彦 祥伝社新書 2011年 萩原遼・井沢元彦の意見

朝鮮学校「歴史教科書」を読む 萩原遼・井沢元彦 祥伝社新書 2011年 萩原遼・井沢元彦の意見

 

 

感想 『週刊金曜日』と『朝鮮学校「歴史教科書」を読む』を読んで 2023423()

 

『安倍晋三回顧録』に関する御厨貴の感想「安倍晋三の個性は人間不信であり、客観性が欠如し、自分と同じ意見なら取り込んでかわいがってやらせるが、自分と考え方の違う人は徹底的に排除する。」(『週刊金曜日』)

 

このことは『朝鮮学校「歴史教科書」を読む』の共著者である萩原遼や井沢元彦にも共通に見られる態度である。大人の友好共存よりも、子供みたいな好き嫌いが軸となっている。

朝鮮学校で使っている歴史教科書で、朝鮮戦争をどちらが「始めた」か、金日成の出自がおかしい、金正日の生誕地が間違っている、金日成に敬語を使い過ぎて神格化している、などと様々に指摘し、結局は朝鮮学校に対する高校授業料無償化という民主党政権の政策を批判するのだが、在日も税金を払っていること、在日が日本に住むようになった歴史的いきさつ、どの人も平等に扱われるべきだという普遍的な価値観などには考えが及ばないようだ。

 

 

感想 2023418()

 

萩原遼が朝鮮学校の歴史教科書を翻訳したり、アメリカの図書館で3年間も朝鮮戦争関連の米軍押収文書を調べたりした努力には敬意を表するが、いかに自らの主張が正しくとも、北朝鮮に対してあまりに目くじらを立てたら、世界平和にとってマイナスではないか。世界平和にとっては、譲り合いの精神が大事ではないか。萩原遼自身も、その貧しい生い立ちから、助け合うことの重要性や、争いからは何も得られないことが分かっているのではないか。032

為政者・金日成の神格化は、日本でも戦前は記紀信仰としてやっていたことだし、朝鮮戦争をどちらが先に開始したかという問題も、どちらかに一方的な責任があるのではなく、ロシア・ウクライナ戦争や戦前の日米戦争同様、双方に原因があるから戦争になるのではないか。

 

 

宮本顕治が北朝鮮に特派員を置かなくなった理由は、赤旗特派員だった萩原遼の北朝鮮からの追放に基くのだろうか。030

 

 

萩原遼が「赤旗」から追放され、日本共産党を除名処分になったのはなぜか。萩原の頑なな右傾化が原因か。032

 

 

 

040 一章 授業料無償化と「歴史教科書」 (3)朝鮮学校はいま 2023419()

 

朝鮮学校生徒数の南北の割合は、最初は北が多かったが、最近では南が多いとのことだが、実際は変わらない。というのは北籍の人が南籍(韓国籍)に変更しているらしいからだ。それは韓国籍にした方が生活しやすい。つまり北籍のままだと様々な政治的制約があるのだ。040

 

朝鮮大学校の学生は総連の幹部候補なのだが、学生数の減少に伴って学生の質の低下傾向が見られるとのこと。055

 

1960年頃から北に「帰国」した人が約10万人いて、その人の子孫が今40万人くらいいるらしいが、その人たちが在日の人達に、朝鮮学校に進学するように半強制的に勧めているらしい。そして同校に進学しないと彼らが北でいじめられるらしい。それを筆者は「人質」と表現している。059

 

 

二章 虚構の上に成り立つ金日成の実像 (1)朝鮮の開国と近代化 2023420()

 

朝鮮学校歴史教科書には出典がないというが、日本の教科書でもいちいち出典は書かないのではないか。072

 

「迎恩門」を「独立門」と名称変更したが、どの国からの独立かを明記せず、あたかも日本からの独立のような記述になっていると批判するのだが、「日本からの独立」とは明記していないのだから、批判はできないのではないか。086, 087また同様に「慕華館」は「独立会館」と名称変更された。089

朝鮮の人にとって独立と言ったら日本からの独立と考えるのが人情であり、1896年の昔の(清朝からの)独立087ではなく、1945年の最近の(日本からの)独立の方が強烈な印象があるだろうし、上層部だけの独立ではなく、痛めつけられた下層部の独立のほうが民衆にとってはリアルではないか。

ともあれ、日本政府は今でも日本による朝鮮支配は合法的だったなどと帝国主義的植民地支配の事実を否定するようなことを言っていないで反省すべきではないのか。

萩原遼よりも井沢元彦の方が感情的な日本中心主義で、反韓・嫌韓的感情がもろに出ていて非論理的な印象を受ける。

 

萩原遼は1972年、平壌特派員として北朝鮮にいたが、073そのころ60歳になった金日成に対する過度な敬称が使われた。

 

 

二章 虚構の上に成り立った金日成の実像 (2)「金日成」神話の誕生 2023421()

 

 

・日帝時代に朝鮮の人々にメシアとして考えられていた金日成という偶像を、ソ連が金成柱キムソンジュに適用してソ連による北朝鮮支配に利用した。

 

金日成については1920年ころから語られ始め*136、彼は朝鮮の人たちにとってはメシアや英雄のような伝説的風聞のようなものだったらしいが、全くの空想でもないらしく、そのモデルになるような人が、李命英113の研究によれば、4人いたらしい。その4人かどうかは分からないが、本書は金光瑞キムガンソ116、朴憲永パクホニョン、崔庸健チェヨンゴン、武亭ムジョン122などの名を挙げている。

 

1920年ころ、朝鮮民族と日本軍との軋轢・戦闘があり、金日成の活躍が「平壌日報」で報じられた。136

 

しかし北朝鮮が言うところの金日成は上記の候補の中にはおらず、それよりも20歳くらい若い人であったため、金日成が例の噂の金日成として19451014日に平壌公設運動場(現、金日成スタジアム)で紹介された時、聴衆の一部からおかしいという声が上がったらしい。*1

 

その根拠は萩原遼が1991年にタシケントで面会した(116、萩原遼『朝鮮と私 旅のノート』文春文庫)愈成哲1917年生、ユソンチョル115)の証言である。愈成哲は金日成とともにソ連の軍隊*2に属しロシア語の通訳をしていたが、戦後は朝鮮人民軍作戦局長を務めた。

 

1金日成は1945919日、ソ連船プガチョフ号でウラジオストクを出港し、元山に上陸した。119

韓載徳(ハンジェトク「私は金日成を告発する」)は「この男は偽物だ」と言って南に逃げた。韓載徳はジャーナリストである。124

 

2第八八特別狙撃旅団。金日成はそこで大尉だった120。但し中国は中国の独自性を主張し、別の呼称(第八八独立歩兵旅121)で呼んでいた。金日成は1941年満洲からソ連に逃げた。112

第八八特別狙撃旅団の構成は、朝鮮人70人、中国人約200人、他はソ連人だった。121

 

 

・八月宗派事件(粛正)

 

1956年、八月宗派事件115と言われるクーデターが起って投獄などの粛正が行われ、愈成哲は身の危険を感じて自身の故郷のタシケントに逃げた。150

 

・本書ではいつかは明記していないが、スターリンによって沿海州の朝鮮人がタシケントに強制移住150させられ、ウズベキスタンやカザフスタンには朝鮮人が(現在でも)40万人いるらしい。150

 

・コミンテルンによる人民戦線方針と朝鮮独立方針の採択と朝鮮内紛の収拾

 

125 1935年のコミンテルン第七回大会で、ディミトロフ書記長が演説し、統一戦線へ方針変更され、朝鮮独立の方針が採択126され、日本がつくった謀略組織・民生団126にまつわる内部紛争が解決された。127

 

・朴金喆の金日成への抗議的自殺

 

132 日帝時代に朴金喆パクキムチョルは、朝鮮北部の甲山にとどまってパルチザン活動を行い、朝鮮労働党の副委員長まで勤めた人だが、196754日~8日の朝鮮労働党第四期第十五回中央委員会総会で金日成に批難され、投身自殺した。これは金正日が中央委員会に入った直後のことである。

 

・金正日生誕地の間違いと神格化

 

139, 140 金正日は白頭山ではなく、ハバロフスク近郊のブヤツコエで誕生したとされる。1992年、萩原遼は金正日の中国人乳母・李在徳に面会して聞き取った。金正日の母の金正淑は乳が出なかった。

 

・その他

 

144 「学びの千里の道」の「千里」は、日本の100里つまり400キロであり、それは平壌から満洲国境までくらいの距離である。

153 一橋大学名誉教授の藤原彰は、米韓が朝鮮戦争を始めたと言っていた。藤原は陸士出身で少佐まで昇進した。萩原遼『朝鮮戦争』文春文庫参照。

 

 

感想 2023425() 

 

三章 世界の歴史常識が通用しない、恐ろしい戦後史(1)南北分断と朝鮮戦争

 

本節はおかしい。根拠のしっかりした論理展開がなく、信憑性に欠ける。嫌悪感情を吐露しているとしか思われない。メモをする気にもならない。

 

 

三章 世界の歴史常識が通用しない、恐ろしい戦後史 (2)金・絶対王朝の確立 (3)日本人拉致問題 四章 元朝鮮学校生徒の証言

 

感想 2023426()

 

 根拠が示されないから信用できないのだが、状況証拠として頷ける部分はある。

 

・萩原遼の金正日による金日成暗殺説の根拠

 

1990年ころから餓死者が出始め、引退していた金日成と金正日とが対立した。197

1992年、金日成は農業振興を称え、金正日によって失脚させられていた姜成山カンソンサンを首相に復帰させた。

199476日、金日成は金正日の軽水炉論を廃して、火力発電に決定した。201

199477日、金日成が急死した。

199478日、金正日の側近・姜錫柱カンソクチュが、米からの経済援助を協議する予定で、すでにジュネーブ入りしていた。その時軽水炉か火力発電かどちらかを決断する必要があった。

 

・日本人拉致に在日朝鮮人が加担していたという可能性。それが当時の北朝鮮の政策だったのだから、そのくらいの準備はしていただろうと推測できる。朝鮮学校に「学習班」という工作員(協力者)を養成する組織があった。ただし現在はないとされる。243

・日本人拉致被害者が500人くらいいるのではないか213という推測。第一に、食事中に突然行方不明になるような「特定失踪者」とされる人が400人いること。第二に、脱北者の多くは帰還事業で北に渡った人であり、その人の証言というのだが、その人のお父さんが100人くらいの日本の子供たちが日本に帰りたいと言って泣くのをなだめる仕事を、国内留学という名目で、三年間やっていたという話215がある。

・帰還者の日本残留家族への寄付の強要。これは映画『ちょっと北朝鮮まで行ってくるけん。』にもあった。

 

過去の朝鮮学校の負の側面

 

・朝鮮学校の生徒が日本の高校へ進学しようとしたら、校長に数時間訊問され、朝鮮学校職員だった父親も脅迫され、結局朝鮮高校に行かされた。241

・朝鮮学校の級友が日本の大学に進学しようとしたら、クラス内で数時間非難され、それを著者が弁護すると弾劾された。242

・朝鮮学校は1960年以降(特に1967年)の金日成神格化の時代に影響を受けたようだ。179

 

朝鮮学校で改善された側面

 

・日本人拉致問題が発覚してからは、小学・中学では金日成や金正日の写真が取り外され、唯一絶対思想教育も薄れ、拉致は悪いことだったと表明した。ただし同校に在籍していた人(元朝鮮学校生徒・元智彗ウオンチヘ)は、それは表面だけだというが。240 なお、拉致事件の発覚以降、韓国籍を取得する人や、日本へ帰化する人が多くなったという。247

 

 

本書に賛成できない点

 

・本書の結論は「朝鮮学校を潰すべきだ」ということのようだが、それは現実には難しく、反北朝鮮感情を煽るための単なる宣伝に過ぎないのではないか。

 

・井沢元彦の「似非民主主義者」発言249は、安倍晋三の「こんな人たちに皆さん、私たちは負けるわけにいかない」という発言同様、分断を生み出す言葉である。私は分断は嫌いだ。和解と協調で行きたい。

 

・朝鮮戦争後の北朝鮮指導部内でソ連批判が起った160としていながら、ソ連から莫大な支援があった187とあるが、矛盾していないか。

 

以上

 

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