2023年9月11日月曜日

丹野セツ 革命運動に生きる 山代巴・牧瀬菊枝編 勁草書房1969

丹野セツ 革命運動に生きる 山代巴・牧瀬菊枝編 勁草書房1969

 

 

感想

 

 

・関東大震災中の社会主義者や朝鮮人・中国人の虐殺は、海軍内閣内務省軍隊警察側の社会主義者や朝鮮人・中国人に対する常日頃の恨みや憎しみが、震災を奇貨として、このさいやっちゃえとなったのではないかと思われる。そういう臨機応変で機敏な行動は、喧嘩好きの軍人的発想ではないか。

 

・内務省警保局長が海軍無線電信所船橋送信所から各地方長官(知事)宛に通達したと言われるが、それは新聞社がその通信を傍受したことから発覚したようで、このことから内閣・内務省が極秘に行おうとしていたことが分かる。この極秘裏に行おうとする態度は、事件の発表が1か月後の10/11(新聞報道)ころに行われたことからも推察できる。*三・一五弾圧の場合も1か月後の4/10に報道解禁。

 

・朝鮮人や社会主義者に「不逞」をつけて虐殺を正当化する。『大阪朝日新聞』大正12192394日によれば、025

 

「武装軍隊の厳戒、不逞団蜂起の流説に備えて

 

帝都混乱の機に乗じ不逞団が盛んに暗躍試みると伝えられるので、武装せる宇都宮、高崎、千葉、高田等の各軍隊出動し、厳重に警戒し、場合によっては斬り捨て、或は銃剣で突きさすべく厳戒中であると。

 

  各地でも警戒されたし、警保局から各所へ無電

 

 神戸に於ける無線電信で、三日傍受したところによると、内務省警保局では、朝鮮総督府、呉、佐世保両鎮守府並に舞鶴軍港部司令官宛にて、目下東京市内における大混乱に附け込み不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり、中には爆弾を持って市内を密行し、又石油缶を持ち運び混雑に紛れて大建築物に放火せんとするの模様あり、東京市内に於ては極力警戒中であるが、各地に於ても厳戒せられたし、とあった。」

 

 

・警察署長の責任として、上部の政府内務省に責任が及ばないようにする。この陰険さは今も昔も変わらない。

 

023 「前記亀戸に於ける社会主義者並に自警団(社会主義者や労働者も自警団をつくらされていたようだ021)ら十四名を田村憲兵少尉が刺殺した事件につき、憲兵司令官は面会を避け、この問題に対する当局の処置に就ては同副官も口を緘して語らないが、探聞する所に依れば、陸軍では田村少尉等の取った態度は戒厳令下に於ける軍隊の当然執るべき処置に出たものと認め、田村少尉等は既に騎兵十三連隊に帰隊している。…古森亀戸署長は、「やむを得ぬ処置」として、「死体は高木警部に命じて人夫を雇い、大島町四ツ木橋、荒川放水路付近で其他の死体と共に私が独断で焼却しました」と語っている。」(東京朝日新聞 大正1219231011市内版)

 

 

 

・警察は弁護士に追及され、おそらくその時いくつかの証拠を示され、隠しきれないと分かってようやく川合義虎や北島吉蔵らの殺害の事実を開示したように思われる。

 

024 丹野セツ「その後、弁護士の布施さんがいろいろ追及されたので、警察は隠しきれなくなったのでしょうか。検束された人たちが殺されたことが分かってきました。警察は『93日の晩、四ツ木橋の下に埋めた』というので、…」

 


 

要旨

 

はじめに

 

003 牧瀬菊枝は十数年来主婦のサークルで生活記録を書き、母の戦争体験『引き裂かれて』(鶴見和子・牧瀬菊枝編1959年、筑摩書房)をまとめたが、母たちの戦争中の戦争責任の追及はできなかった。一方山代巴も広島の農村サークルで民話と生活記録を育てて来たが、同様な壁にぶつかっていた。

 山代巴は(多くの一般の母たちにとっての)一つの座標、動かない座標(原点・模範)として丹野セツを挙げた。丹野セツは日本の労働者解放運動の黎明期の精神といわれる「南葛魂」の中で育ち、その伝統を守り、今日まで権力に抵抗を続けてきた。私たち(山代巴と牧瀬菊枝)は丹野セツの話を聞き書きし、さらに討論追求した記録をつくり、これを中心にして自分たちのサークルで書く母たちの歴史を戦争責任の追及にまで深められるのではないかと考えた。

004 (私達は)丹野セツを中心の語り部として、その周りの亡き人も含めて、ともに闘った人たちの話も掘り起こし、丹野セツを育てたものは何だったのか、その生きた時代の思想を追求しようとしているのだと丹野を説得した。

 丹野は二年余後に私達のやろうとしていることを理解し、また丹野自身も自分の体験を現在の時点から振り返って位置づけようとし、私たちの要望に応じることになった。さらに丹野の指導で解放運動に入り、四・一六事件、昭和十年と二度の検挙によって長い獄窓に耐えた田中ウタにもこの仕事に加わってもらった。また丹野の古い同志の方々の協力も得て、五年の歳月をかけてこの記録をまとめた。

 

 本書の題字は久津見房子のものである。

 

196910月  山代巴 牧瀬菊枝

 

 

008 丹野セツの歩み

 

 1902年、福島県小名浜港に大工の子として生まれ、日立鉱山の長屋で育つ。日立本山病院看護婦のとき、社会主義思想を抱く青年労働者川合義虎、北島吉蔵、相馬一郎の影響で、労働者解放の思想に目覚める。社会主義思想を学ぶために三度も家出をして上京。大正期の社会主義団体、暁民会、赤瀾会、八日会などに参加。日立以来の三人の友人とともに労働者の町亀戸に移り、渡辺政之輔らが組織した南葛労働組合に加わる。関東大震災のさいの憲兵(MP軍警察)による社会主義青年労働者の虐殺、いわゆる亀戸事件で、日立からの友人、川合義虎、北島吉蔵を奪われる。その夜、同じ事務所にいて、危うく死を免れた。その時第一次共産党事件で獄舎にいた渡辺政之輔が出獄後、その指導による東京合同労働組合の結成に参加。渡辺政之輔と結婚。労働者として働きながら婦人労働運者の組織づくり、日本労働組合評議会婦人部長として、頻発する大争議に活躍。1926年、日本共産党再建の際に入党。日本共産党初代書記長渡辺政之輔とともに党婦人部長として、ともに非合法活動に入る。三・一五共産党検挙を免れた渡辺政之輔は台湾基隆港で権力の手で射殺される。この報を留置場で知らされるが、この打撃にひるまず、三・一五、四・一六共産党検挙の婦人同志たちの先頭に立って闘う。佐野・鍋山の転向に続く大量転向のなかで非転向を貫き、肺患のため瀕死の状態で宮城刑務所に下獄。*

 

*「瀕死」の病人を刑務所に入れるのか、執行停止や仮釈放の間違いでは。――「瀕死」という解説はやや誇張のように思われるが、後述218によれば、丹野セツはこのころ腸結核226で葛湯しか食べられず、実際体調がすぐれない状態で下獄し、本人ももう生きては出られないと思っていた。というのは公判闘争の方が苛酷であり、それにはもう耐えられないと考えたからであり、控訴を取り下げて下獄することにしたのである。

 

 1928年の検挙以来十年の獄中生活の間、権力との対決姿勢を崩さず、戦争たけなわの1938年、満期出獄。党組織はすでに壊滅していた。特高の包囲の中で非転向者として迫害にさいなまれ、中国への脱出を試み青島に渡るが、病気のために失敗して帰国。転々の末、ようやく保健婦の資格を取り、非人間的な労働環境にある戦時の労働者の健康を守る仕事を始めたところで敗戦となる。

 20年ぶりに治安維持法撤廃。初めて自由を得て、再び思い出の地、南葛に移り、労働者の支持で病院を建設。南葛労働者の健康を守る仕事に専念している。

 

 


 

第一部 回想

 

回想Ⅰ 亀戸虐殺事件

 

南葛労働組合

 

009 牧瀬菊枝 渡辺政之輔ら青年労働者が日本で初めて左翼労働組合南葛労働組合」を結成し、丹野さんはそれに結びついたが、権力は関東大震災の混乱に乗じて亀戸で社会主義青年を虐殺した。

 

丹野セツ 大正111922全国労働組合総連合創立大会が大阪で開かれ、合同派連合派との対立が激しくたたかわれ、「アナかボルか」の意見の対立があり、失敗に終わった。

 この大会の影響を受けて暁民会の中でも赤色労働組合の問題が取り上げられ、「工場へ!労働者の中へ!」のスローガンが掲げられた。

 このころ渡辺政之輔らの南葛労働協会*ができたのだろう。南葛の組合の人達が暁民会に来ていた。(暁民会に参加していた人たちの中で)労働者では日立鉱山時代からの友人、川合義虎、北島吉蔵、相馬一郎の他に、いつも菜っ葉服姿の二人が着ていた。後で亀戸に来てから、それが吉田光治、南巌の兄弟だと分かった。

 

010 *当初渡政が南葛労働協会と命名したが、労働者の間では通称で南葛労働会とか南葛労働組合と呼んでいた。

 

 (暁民会に参加していた)その他(労働者以外の人達)はほとんどインテリだった。だから暁民会は思想団体であり、思想の研究をしていた。(ところが)ここで「労働者の中に入ろう!」という方針が提起され、私も看護婦をやめて工場に入ろうとして亀戸に来た。それは震災の前年1922年の秋だった。暁民会や赤瀾会のような思想団体や婦人団体の中で思想の研究をしていても革命は起こせないと思って工場に入り、工場を中心に活動するようになったが、それは私にとってごく自然な道だった。そのころはちょうど(上述の)南葛の組合ができ始めたころだった。

 

 そのころの亀戸は、今の通りのところ、駅から天神様の通りまで汚いドブがあり、狭い町だった。その裏に十軒通りというのがあり、そこに日立の病院で一緒だった看護婦の黒沢さんが(住んでいて)自分は働きながら弟さんを大学にやっていた。(私は)その家の一部屋を借りた。そのころは貸家や貸間はいくらもあった。日立の病院のときの看護婦で下級生の坂上きよさんという人がいて、私はたまたまこの人の本籍を知っていたので、「坂上きよ」という名前で精工舎に入った。本名を使っては入れなかったからだ。精工舎は日給82銭で、当時の女の給料としては最高だった。そのころ紡績で62銭から65銭、三田土ゴムで72銭から73銭だった。初めて工場で働く私はダライバン(旋盤のオランダ語)の前に立ったとき、ベルトの唸り声に耳が遠くなる気がした。

 

011 (私は)亀戸に移ってからも暁民会の会合に続けて出ていた。

 

 亀戸には古くから労働者を組織した島上勝次郎さんや渡辺満三さんがいた。島上さんと渡辺さんは東京市電(現在の都電)の組織をつくった。渡辺さんは時計工組合もつくった。渡辺満三さんは後に第一次共産党事件で検挙され、早く亡くなった。一方島上さんは震災の時に被服廠で焼死した。今の社会党の代議士の島上善五郎さんはこの島上さんの娘婿である。このほか亀戸には藤沼栄四郎、加藤高寿、川崎甚一、出井紀作、渡辺政之輔がいた。こういう労働者の人達に会って私は非常に力強く感じた。

 精工舎には、時計工組合をつくって首になった立原正さんの奥さん立原こうさんも働いていて、三沢丁三さんもいたので、私はこの人たちと(精工舎の)組織をつくろうとして二、三回集まった。立原こうさんとは赤瀾会の会員で以前から一緒だった。こうさんは立原さんが亡くなった後、世田谷の東京時計工組合で働いていたが、戦後は梅津はぎ子さんのお世話で板橋の養老院に入り、そこで亡くなった。

 川合義虎は、社会主義同盟創立のときに捕まって巣鴨監獄を出てから王子飛鳥山にいた無政府主義者の中名生幸力(なかのみおこうりき)のところにいた後、日立から母と妹を呼んで、北島吉蔵と一緒に亀戸に住んでいた。相馬一郎は一家ごと日立を引き上げ、亀戸駅近くの城東電車(現在、都電)の水神森のそばに大きな家を求めて下宿屋をしていた。これで日立から出て来た私達4人は皆亀戸に集まった。

 南葛労働会は川合母子が住んでいた二階を事務所として使い、(この事務所には)組合活動を通して次々に新しい会員が入ってきた。朝鮮人の全虎岩山岸実司、福田、安田など、いつも67人が川合の家の二階に住んでいて、川合の母は朝早くから食事の支度をし、弁当を作って工場に出してやり、よく面倒をみていた。当時の工場はどこも朝7時から夕6時までが定時だった。

012 川合義虎は組合活動で飛び歩いていて働く時が少ないので川合の母はよくこぼしていた。当時は有給常任などはないから、自分で働いて食べ、交通費も自分持ちで組合運動をしていた。北島吉蔵は杉浦(文太郎018)さんと同じ広瀬自動車で働き、川合義虎も相馬一郎も自転車工場で働いていた。渡辺政之輔は永峰セルロイドの争議が終わって首になったあとで、すぐ前の石鹸工場で働いていた。

 あのころ戸沢仁三郎、平沢計七さんなどアナーキストの人達が大島に組合をつくっていたが、それとは別なものを渡辺たちがつくった。当時はアナとボルとの分かれ道だった。私が初めて亀戸に行ったとき、「黒旗立てて…」と歌っていた。

 

田中 何もない時代に亀戸の一角にどうして革命の核みたいなものが急にできたのか。

丹野 やはり友愛会の影響だろう。それと理論的には出井紀作011さんがインテリで、種蒔く人の役割を果たした。また藤沼栄四郎011さんの影響もある。藤沼さんは純粋の鋳物工で、亀戸に来る前に室蘭製鋼のストライキで入獄し、出て来て日立で友愛会をつくって刑務所に入り、出て来て亀戸に住みついた。室蘭では日の丸を立てて君が代を歌いながら労働組合をつくったという時代からの古い人である。

山代 本当の開拓者ですね。

013 丹野 黙々とやり、決して表面に出ない人で、指導者タイプではない。当時40歳前なのに私達20代の者は藤沼老人とか藤沼元老と呼んでいた。

 

感想 2023819() 友愛会がすでに存在していて、その上に立って労働組合が建設された。思想的には暁民会があり、そこではインテリを中心にマルクス主義理論が研究されていた。そういう状況の中に渡辺政之輔らのマルクス主義的労働者が入り込んできて労働組合をマルクス主義的方向に持って行く。それが東京合同1924/2/22設立、1924/4総同盟加入042)であり、評議会であった。アナーキストとの確執もあった。1922年の大阪での全国労働組合総連合創立大会はそれで(合同派か連合派か、アナかボルかで)分裂した。渡辺政之輔らの南葛労働協会ができたのはそのころだった。

 

理論に走ると分裂を招く。南葛労働組合は「南葛魂」と言われ、血をもって闘う労働者の戦闘的な集団であり、それが東京を中心として全国的な支持を得たという。Wikiでは「共産党系が総同盟から除名された」とするが、実は総同盟の2/3が評議会に移ったという。046, 048 戦後の全共闘も精神ではこの南葛魂に似たところがあるが、戦前のような支持を得ることはなかったし、南葛労組が関東大震災で虐殺されたような血の洗礼も受けたこともない。

 

若さ・未熟 南葛魂は権力を侮り、警官を挑発し、表面的には威勢がよかったようだが、その点は戦前の南葛労組も戦後の全共闘も似ている。

 

友愛会19128月に鈴木文治15名の同志と共に結成した労働者団体で、キリスト教的な友愛の精神と共済組合的精神に基づき、労働者の団結と友愛を計り、争議を支援し、社会運動を導き、1921年に労働総同盟に発展したが、この総同盟は19254月に共産主義者を除名して分裂し、共産党系は5月に評議会を結成した。Wiki046

 

 

長屋の『資本論』研究会

 

013 牧瀬 渡政の最初の印象はどうだったか。

 

丹野 渡辺政之輔と同じ長屋の端に、亀戸事件で虐殺された加藤高寿011の家があり、そこが南葛の皆が集まる場所になっていて、研究会を開いていた。寒い時だったので渡政は丹前を着こみ、大きな黒板の前ですごく大きな声を出して『資本論』を一生懸命に講義していた。私は『共産党宣言』の研究会くらいにしか出たことがなかったので、労働者でも『資本論』の講義ができる人がいるのかと驚いた。*渡政は(東大)新人会とつながりがあった。050

 

私は川合義虎とは日立のころから親しく、亀戸にも川合に引かれて来た。私が南葛の事務所の川合の家に出入りするようになると、川合の母は「運動をする女なんか、うちへ入れたら困る」と言って私をすごく嫌った。そしてある日川合は私を渡辺のところに連れて行って「指導してくれ」と頼み、私には「つき合ってみたら」と言う。運動の中で私は渡辺を知っているのに、わざわざ私の目の前で紹介したのだ。

牧瀬 川合は母の反対で(あなたを)あきらめたのだろう。

014 丹野 あきらめたというより、川合は自分より私が渡辺の方を好きになると思ったのかもしれない。(これは後述のように嘘)一方渡辺は私と川合との関係を知らないから、私と付き合うものと思ったようだが、私は工場へ入ったばかりで、社会主義の勉強もしなければならないし、夢中だった。当時の南葛事務所では、あちこちの工場に行っている人がそれぞれの工場の労働者を一人ずつ連れて来て毎晩勉強会をした。時間が遅くなり早朝の勤務もあるから個人的なことを話し合うことはできなかった。親が反対したからといって、そんなことを言うなんて、これでは恋愛なんていえない。人を馬鹿にしている、と思って川合との問題はそれっきりになった。そのころ川合の母は川合の従妹を秋田から呼び、川合といっしょにするつもりで炊事を手伝わせていた。私は川合を軽蔑したような気持でもう何も思わなかった。一方渡辺とはその後研究会などで会っても、べつにどうということもなかった。ただ川合より渡辺の方が指導力はあると思った。後になって第一次共産党検挙があって渡辺がいなくなったら、急に恋愛を感じた。

 

 そのうちに私の兄が東京に出て来て私を小名浜の実家に連れ戻した。

 ある日突然何の連絡もなしに渡辺が小名浜の家に迎えに来た。私は渡辺の姿を見ると外に飛び出した。家の人達は渡辺の話をいろいろ聞いたが理解できず、渡辺は一人で帰ることになった。私は駅まで送って行こうと思ったが、それもいけないと言われ、兄が駅まで送った。

015 後で渡辺の話によると、私の家を突き止めておいて、夜連れ出そうと思っていたが、突然私が飛び出して来たのでまずかったと言っていた。

 

 私はその後ようやく誰もいないときに着のみ着のまま逃げ出した。これは日立を飛び出したときから数えると三度目の家出で、大正121923年の1月のことだった。やはり亀戸に来た。

 

 

野田醤油争議応援

 

牧瀬 (丹野さんは)1923年大正1238の日本で最初の国際婦人デーの集会に参加しましたね。318日日曜日の朝日新聞によると、その日の失業防止大会で渡辺が司会をやり、堺真柄と丹野がここで検束された。(集会参加だけで) それから1日おいた320に野田醤油争議に応援に行く。

 

丹野 私たちは南葛の組合として野田の争議に応援に行くことになった。西雅雄の奥さんの(西)たい子さんが赤瀾会の仲間だったので誘って行った。南葛の組合のできたばかりのころだった。金がなく電車賃が払えないので、朝早く起きて草鞋で歩いて行く。わらじが二足擦り切れた。野田の町に着いたのはお昼だった。長い江戸川の堤を歩いて野田の町へ入るところまで来ると、争議団の人達が迎えに出ていた。その時は絶えず連絡員が往復していたので、私たちの着く時間も分かっていた。その時出されたお醤油の入った御飯のおむすびのおいしかったことは今も忘れない。

016 工場の寄宿舎の屋根が演壇になり、屋根に上って私は生まれて初めて争議団の人達に挨拶した。何を言ったか覚えていない。

 

牧瀬 そのことが新聞に出ている。

 

赤旗を翻して応援団繰り込む

南葛の組合本部から

 

 東京府下亀戸町南葛労働組合本部の幹部二十余名は、目下罷業中の野田聯合会罷業激励のため(3月)20日午前金町から赤旗を翻しながら革命歌を高唱し、松戸、流山の江戸川堤を徒歩で歩き、正午過ぎ聯合会幹事以下200余名の出迎えを受けて野田聯合会本部に入ったが、同2時から罷業団2000余名を第一寄宿舎大運動場に集合せしめ、窓から激励の演説をなし、4時終了した。(東京朝日新聞、大正12321日)

 

革命歌を高らかに歌い、赤旗を翻して長い堤を歩いてゆくのは、お金がないということもあるが、一つのデモンストレーションですね。

 

 

共産青年同盟結成と第一次共産党検挙

 

017 丹野 川合に呼ばれて事務所に行くと「日本に共産党があると思うか?」と聞かれた。「あると思う」ととっさに答えると、「こんど共産青年同盟をつくり、若い労働者を組織し、革命のために闘って行く。入らないか」と誘われた。

 

 共産青年同盟は19234に結成され、川合が委員長となり、私はこれに入った。

 今まで赤瀾会の研究会で佐野学高野実などから『共産党宣言』の話を聞いたことを思い出し、「いよいよ日本にも怪物が現れたんだなあ」とうれしいような不安のような気持で胸を躍らせた。そして「ああ、革命は近づけり…」「来たれ、牢獄、絞首台…」と腹の中で歌ってみた。当時は革命歌を歌おうものならすぐ検束されてしまうのでなかなか歌えなかった。(歌ぐらいで)

 革命歌を歌うたびに渡政のことを思い出す。ずっと後のことだが、ある夜遅く、渡辺と二人で帰る時、淋しいのと誰もいないだろうという気持ちで、革命歌を歌いながら歩いていると、亀戸天神橋の交番の巡査がとんできて、いきなり検束しようとした。渡辺は格闘して巡査を川の中に投げ込み、すたすたと帰って来た。どうなることかと不安な気持ちで寝ていると、(当時は亀戸署の近くに住んでいたから)トントンと戸を叩く音がする。起きてみると、亀戸署の巡査がやって来た。

018 「今、天神橋を通ったのは、渡辺さんですか。」「そうだ!」「お手柔らかに!」と言って帰って行った。このように革命歌を歌う自由もなかった。

 

 この年1923年の6に(第一次)共産党の検束があった。私は「ああ、やっぱり日本に共産党があったんだな」と思った。渡辺も川合も検挙されたかと思っていたら、二人は一週間ほどして帰って来た。当時の組合員杉浦文太郎の話によると、「どこからか連絡があり、組合の者は姿を隠すようにというので、行き場のない人達を渡辺が市川菅野の母の実家に連れて行って隠れていたのだが、川合の母の連絡で、警察が『だれか党員だというのを一人出せ』というので集まって誰が出るか相談したが、『俺が出る、俺が出る』と希望者が多いので、結局『渡辺は先輩だから花を持たせろ』ということになった」とのことだ。渡辺が自首し、亀戸署長が車で迎えに来て、市ヶ谷の未決監に入った。当時は治安警察法で最高10か月だから、10か月くらい独房で勉強して来るという気だったのでしょうね。ドイツ語の本を懐に入れて行った。

 

牧瀬 当時の青年は投獄されることが花だという誇りがあったわけですね。

 

 

関東大震災

 

丹野 それで(渡辺政之輔が第一次共産党事件で入獄して)渡辺の母が一人きりになったので、黒田寿男(現社会党代議士)が留守番に来た。そのころ黒田は東大新人会の学生で、南葛組合の書記をしたり、学校へいったりしていた。後に黒田と結婚した川上愛子は女子医専の学生で、黒田のところにドイツ語を習いに来ていた。

019 19238月の終わりごろに黒田がチフスになり、駒込の避病院に入院した。渡辺の母はまた一人になり(丹野セツが渡政と結婚したのは翌1924315日)熱も出していたので、私が泊まりに行くことになった。

 私はそのころ本所の八百屋の二階を借りて住んでいた。831日にそこを開けて渡辺の母のところに越してきた。

 

 毎月1日と15日が精工舎の休みで、私は1日が休みなので、八日会*を毎月1日にすることになっていた。91日に八日会の会合が小川町上田茂樹宅であるので、それに出るつもりだった。上田茂樹のところには奥さんの前川西雅雄が住んでいて、「赤旗」を出していた。*日本で初めての社会主義の婦人団体赤瀾会が192338日の第一回国際婦人デー015を行う前後から八日会の名称に変わっていた。

 

 昨夜引っ越しの荷物を預けた近藤弘造宅に着替えを取りに行き、戻る途中で地震に会った。ひどい揺れで亀戸のドブの水が打ち寄せるほどだった。私が立っていたすぐ前の家が倒れ、その上を乗り越えて渡辺の母のところに戻った。ちょうどお昼で、寝ている母にご飯をあげようと思ってご飯を炊いてあったのだが、帰って見ると、熱のある母も氷枕をかかえて外に出ていた。近所の人もみんな外に出て、「南無妙法蓮華経」を唱えている人もいる。家へ入って食事をしようとしても、壁は落ち、ご飯の蓋もとんでしまって、壁土が入って食べられない。パンを買いに行ったが、すでに売り切れで、相馬(一郎)の家へ行こうとすると、亀戸駅は市内の方から逃げて来る人で一杯だった。あちこちの様子を見て帰ってきたら、志賀義雄が食パンの大きいのを一本かかえて見舞いに来てくれ、これでみんなは昼食にありつくことができた。

 

 そのうち地震がだんだんひどくなるので、相馬の家に連絡したり、南葛組合の事務所に連絡したりしたが、昼間なので事務所には誰も工場から帰っていなく、川合の母と妹だけだ。

 そのうちに火事になり、ひどいけがをした人たちがどんどん流れてくる。亀戸の駅の周辺は人で一杯である。私達も逃げようと組合に連絡し、北島吉蔵山岸実司011が帰って来たので、私は川合の母と妹と渡辺の母と葛西橋を渡って逃げた。その途中組合の川崎甚一011の家が地震で潰れていたので寄ったが、そのうち葛西橋の方から津波が来るというし、朝鮮人についての流言も出て来た。一晩中寝ないでいた。

 

92日、案じていた川合義虎が帰ってきた。雑誌『労働組合』の編集をしていたとのこと。

 

 

亀戸虐殺事件

 

93、壊れた川崎甚一宅の整理を手伝いに行き、その晩は事務所に帰って泊まることになった。(町内会からか)「自警団を組織して出してくれ」というので、男の人たちを二組に分け、(夜の)12時交代ということで、川合義虎、北島吉蔵、加藤高寿が先に出た。川崎甚一のお母さん、加藤高寿の奥さん、渡辺の母、川合義虎の母と妹と私の女六人は二階で休んでいた。当時相馬一郎は父と一緒に新潟に仕事に行って留守だった。

 

12時になったので次の番の人達を起こそうとしたとき、いきなりどやどやと憲兵が三人二階へ上がってきた。寝ているところを起こされたのでびっくりした。一人ずつ名前を聞かれたので、私はこの時「坂上きよ」という名前を使っていたので「坂上きよ」と言うと、「どうしてここに来ているんだ」というので、「避難先で一緒になったけれど、行くところがないから、ここへおいてもらっているんです」と言って済んだ。

 

その後私服の特高が来た。私は私服から顔を知られているので、さあ大変と、二階の出窓へ急いで出て障子を閉めて小さくなって隠れたので助かった。男の人達は全員連れて行かれた川合義虎、北島吉蔵、近藤弘造、山岸実司、加藤高寿、鈴木直一の六人が連れて行かれた。川崎甚一は家がつぶれて組合に来ていなかったので助かった。交代で帰って来たなかで、もう一人は外で立小便をしていて危ない所を助かった。組合の事務所に住んでいた安田011福田011はどこで別れたのか、自警団から帰らなかったので助かった。平沢計七012は大島から、吉村光治、佐藤欣治は南葛の組合の吾嬬支部から検束されて殺された。

 

検束されるとすぐ、私は大島の藤沼栄四郎011, 012さんという組合の元老と言われる人のところへ行き、この事件を連絡したが、「夜中だから明日の朝にしよう」というので私は帰って来た。

 

022 あけの日、警視庁へ行って調べようと思ったが、混乱の最中でとても行けない。亀戸署へ行ったら「ゆうべ出した」と言う。(嘘)

 

 渡辺の母が刑務所にいる渡辺のことを心配するので、私が出かけることにした。両国橋まで来たが橋は焼け落ちている。横川橋は焼け落ちたが、板を渡してあるというので、行ってみたが、川の中には死んだ人がいっぱい浮いていて、恐ろしくて渡れない。仕方なく被服廠の方へ廻って来ると、ここも死人が山になって焼けている。私は気持ちが悪くなり、やっとの思いで事務所に帰った。

 

 精工舎は焼けてしまい、一時解散することになり、「解散手当を出すから集まれ」という張り紙が出たので、行って金をもらってきた。十何円でしたか、これで当分食べていけると思って、用意を整え、95日に弁当を持ち、草鞋履きで出かけた。焼けた両国橋の上に、今度は板が渡してあった。その上をやっとのことではって渡り、歩き続けて麹町の堺さんの家に着いた。そこには上田茂樹019の奥さんの前川もいた。「今刑務所に行っても面会はできないから、行ってもだめです」と堺さんが言う。でも刑務所の渡辺をはじめみんな元気だというのでほっとした。(どこからの情報か)泊まらなければ帰れないので、その晩は泊まり、また歩き続けて亀戸に帰った。小川町の「赤旗」の事務所は全部焼けた。上田茂寿、西雅雄は刑務所に行っていなかった。(第一次共産党事件か)あの地震のときの刑務所の中のことを野坂さんが書いているが、渡辺たち共産党の人達を憲兵が「引き出せ」と言ったのを典獄が拒否して渡さなかったという。(やはり憲兵(軍)は共産党員全員を殺すつもりだったようだ)

 

023 牧瀬 東京の朝日新聞社は震災で焼け、910日までガリ版刷りで出していたが、亀戸虐殺に関して「復も社会主義者九名、軍隊の手で刺殺さる。亀戸署管内における怪事件、死体は石油を注いで直ちに焼却す」という見出しで、事件1か月余後に新聞発表し、「当日検束された目撃者の恐ろしい話」として次の記事がある。

 

「私が無理やり検束されて行った時、亀戸署内はもう検束者で一ぱいになっていた。(私が)その中に突き飛ばされて暫く経つと、演式場右側広場で恐ろしい悲鳴が聞こえたので、ハッと驚いてみると、二十歳前後の男が斃れている。その北端には乱闘の人影が見える。小使室付近の空地にも騒ぎが起こった。皆声をひそめて了ったが、なお物凄い悲鳴が闇の中に暫く聞こえていた。後で誰かが殺されたと聞いてのち、私は一週間ほどして釈放されたが、キラキラと闇の中に閃いた白刀の光と、あの悲鳴はまだ私の目に残っており、身体の痛みと、その時受けた恐怖で、この通り寝込んでいる。(以下略)」

 

 この後に、「警官が抜刀で乗込んで来た。文句なしに検束、丹野節子身慄いして語る」の見出しで、丹野が検束時のことを語り、その終わりの方にこうある。

 

「その時、私までが捕まっては後始末に困ると思って、変名を使って渡辺政之輔方へ逃れました。」その後、刑事が来て(被検束者の関係者が)六名の行方を尋ねるそうですが、「どう(死体をor六名を)処分したかに就て警察でも随分狼狽している模様でした。その頃丁度亀戸の広瀬自転車工場で百二十名の職工解雇から争議が始まろうとしていた矢先だったので、高等係も特に注意深い目で監視していたのではないかと思います。検束される時、一同は非常に大人しく出て行きました。」(中略)

 

前記亀戸に於ける社会主義者並に自警団ら十四名田村憲兵少尉が刺殺した事件に就き、憲兵司令官は面会を避け、この問題に対する当局の処置に就ては同副官も口を緘して語らないが、探聞する所に依れば陸軍では田村少尉等の取った態度は戒厳令下に於ける軍隊の当然の執るべき処置に出たものと認め、田村少尉等は既に騎兵十三連隊に帰隊している。(中略)古森亀戸署長は、「やむを得ぬ処置」として、「死体は高木警部に命じて人夫を雇い、大島町四ツ木橋、荒川放水路付近其他の死体と共に私が独断で焼却しました」と語っている。

(東京朝日新聞 大正十二年十月十一日市内版)

 

感想 

 

新聞報道で犠牲者数が当初の「社会主義者9名」から「社会主義者と自警団ら14名」に変化しているが、9名が社会主義者で、残る5名はそれに同調する労働者ということか。

 

「復も」とあるからそれ以前にも社会主義者が当局によって殺されていたということらしい。

 

この事件は、軍(憲兵)が警察署(亀戸署)内で殺したということである。このことから軍と警察との関係が分かる。

 

裁判も経ずに人を殺すとは、江戸時代そのものである。それを「戒厳令」を口実に不問にするとは傲岸不遜そのものである。

 

犠牲者を焼却して証拠隠滅してしまえという上からの方針を警察署長がかぶって、上の責任を回避している。

 

024 この後に自警団による埼玉・群馬の良民虐殺、社会主義者に対する検挙、暴行事件などたくさん発表され、戒厳令下の血腥い状況が語られている。

 

丹野 その後弁護士の布施さんがいろいろ追及したので警察は隠しきれなくなったのだろうか、検束された人たちが殺されたことが分かってきた。警察は「93日の晩、四ツ木橋の下に埋めた」というので私たちは何回も四ツ木橋の下を掘ってみたが、何も出てこなかった。私たちは何か記念にしようと考えて、杉浦文太郎018が大きな石を持って行って置いた。すると、二回も三回もその石が取られてなくなってしまう。

 そのうちに「警察の中で銃殺された」という噂が広がり、大杉栄、伊藤野枝たちが殺されたことも分かってきた。

 南葛の組合では藤沼栄四郎013南巌009がその後つかまった。いよいよ私もやられると思って野坂竜さんの住んでいた武蔵小山の家に行った。この時野坂参三は第一次共産党事件で(市ヶ谷)刑務所にいた。藤沼、南巌はひどいテロに会い、死なんばかりだったとのこと。長く警察におかれたが、やっと帰された。また南葛の組合の人で朝鮮の全虎岩さんはつかまって習志野へ送られたが、無事に帰ってきた。

025 山代 「社会主義者を殺せ」という命令が出たのでしょうね。

 

牧瀬 『大阪朝日』9/4は次のように書いている。

 

武装軍隊の厳戒不逞団蜂起の流説に備えて

 

帝都混乱の機に乗じ不逞団が盛んに暗中飛躍試みると伝えられるので、武装せる宇都宮、高崎、千葉、高田等の各軍隊出動し、厳重に警戒し、場合によっては斬り捨て、或いは銃剣で刺すべく厳戒中であると。

 

各地でも警戒されたし、警保局*から各所へ無電 *警保局 内務省の警察を所管した内部部局

 

 神戸に於ける無線電信で、三日傍受したところによると、内務省警保局では、朝鮮総督府、呉、佐世保両鎮守府*並に舞鶴軍港部司令官宛にて、目下東京市内に於ける大混乱に附け込み不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり、中には爆弾を持って市内を密行し、又石油缶を持ち運び混雑に紛れて大建築物に放火せんとするの模様あり、東京市内に於いては極力警戒中であるが、各地に於いても厳戒せられたし、とあった。*鎮守府は海軍の根拠地

(大阪朝日新聞、大正十二年九月四日)

 

 それから916に行われた大杉氏らの事件を(10日後の)925日に新聞発表し、亀戸事件については(1か月後の)1010日と11になって発表している。

 

山代 初めから殺すつもりで来たんですね。

丹野 そうですよ。最初から殺すつもりで来たんですね。それで憲兵が(警察よりも)先に来たんですね。その晩のうちに処理されたらしいですね。布施さん方などから追及されて、最後になって、「革命歌を歌って騒いでどうにも手がつけられなかったから殺した」というわけだが、朝鮮人も連れて来られていっぱいだった。

牧瀬 その時「亀戸署には七百数十人が検束されていた」と警視庁正力官房主事が言ったと新聞記事にある。一つの警察に七百数十人も詰め込んでおくことがむちゃだが、新聞記事によると、どの警察署も社会主義者や労働運動者、朝鮮の人達で満員である。自警団が社会主義者の家に押し掛け、危険で仕方がないから保護検束を願い出た人もいる。

丹野 朝鮮人がどれだけ殺されたか分からない。みんな数珠つなぎになって引っ張られて行く。

田中 中山道あたり、ことに熊谷、神保原あたりはひどかったですよ。

丹野 日本人か朝鮮人かを調べるために何か合言葉を使った。

 

牧瀬 あの時東京朝日新聞は焼けてしまって、縮刷版を見ても10日までは大阪朝日を入れてある。手書きのガリ版刷りの特報として帝劇内の仮事務所から出ているだけだ。ラジオもないし、殺されてもまるで闇から闇である

丹野 戒厳令が布かれている。日本人にとって戒厳令は初めての体験である。

田中 群馬の私の家の近所でも「社会主義者はみんなぶち殺したほうがいい」と聞こえよがしにいうので、父は木剣を持って家の周りを警戒していた。

牧瀬 千葉県館山市船形の西行寺の前住職故島野禎洋氏も当時労働運動をする左翼学生だったが、震災のとき、村人は「お寺の息子が主義者になって、東京で、中国人や朝鮮人を唆して火をつけた」と言いふらし「今度来たらぶっ殺してやる」と言われたそうだ。後に島野夫人となった赤瀾会の矢部初子さんも大杉栄夫妻が殺された翌日917日に憲兵隊にひっぱられ、危うく命拾いした。*『思想の科学』19676月号、牧瀬菊枝「島野初子の思想と仕事」

027 山代 共産青年同盟に入っている人たちが殺されるというのは、すでにそのころ社会主義者として周囲から注目されていたのか。

丹野 そうだ。それまでに亀戸の特高は南葛の組合につきっきりで、川合には「常時尾行」がついていた

田中 川合は群馬にもオルグに来て、兄が加わった「群馬共産党事件」にも参加している。私は震災後に出た福田狂二の雑誌『進め』や、大阪の雑誌『潮流』に載った、相馬の書いた川合・北島追悼文を涙を流しながら感動して読み、東京へ飛び出した。

山代 川合は秋田の人とも結婚しなかったのか。

丹野 そうだ。結婚せずに亡くなった。

牧瀬 田中さんが涙を流して読んだ相馬が書いた追悼文が大原社研の厚意で見つかった。『潮流』にはこのほかに「加藤高寿君」021と題して渡辺政之輔が書いた追悼文が掲載されている。

 


 

川合義虎君

―― 社会運動犠牲者列伝一 ―― (原文)

相馬一郎            

 

028 川合君は鉱山坑夫を父に持って、明治三十五年1902年足尾銅山のむさくるしい坑夫長屋に短い二十二年の生涯の産声を揚げた生粋のプロレタリアである。陰惨な地下に鞭打たれつつ虐使される坑夫達の呪詛の焰は、幾度も暴動となって、悪鬼古川に向かって焰上した。

 川合君の幼年期は実に斯うした環境裡に過ごされたのである。君の父が暴動事件に連座して未決監に繋がれた時、母に手を引かれて君は、鉄窓の中にある父に会うことは何よりもうれしかった相だ。獄屋は稚(いと)けない君にとっては、実になつかしい所であったに違いない。若くして社会運動に身を投じた君に、こうしたことが抜くべからざる潜在意識として強く働きかけなかったろうか。

 転々として坑山から坑山へと渡る生活は坑山坑夫の常である。坑夫の子の君も殆ど流浪の旅をつづけて安住の地を得なかった。蒼白い顔をした地下奴隷の群がる坑山こそは、幼児の君が知る世界の全てであった。

 不逞労働者の罪名の下に君の父が、足尾を逐われて遠く秋田の椿坑山でカンテラを腰にした。椿坑山は日本海に面した詩的情味の豊かな所で、川合君の小学校時代はここで送られたのである。ロマンチックな、そして情熱的な君の性情は、実に追分(分岐点)の悲調につれて赤々と海の彼方シベリアに沈む夏の夕陽と、或いは白牙をむき出して灰色の空に吠ゆる冬の海とに育まれたものであろう。

 君が十四の時、またしても椿を後に茨城の日立鉱山へと立った。

 日立鉱山は社会主義者としての君の誕生地である。君と同じ環境のもとに育って来た僕が君と知ったのも亦日立鉱山であった。

029 坑夫を父に持つ君と僕は、当時から極めて親密な仲にあって、よく周囲の人々から羨望の眼をもって見られて来た。

 大正七年1918年小学校を卒えて君は鉱山付属の鉄工場へ旋盤小僧に入った。油服を着けて機械の前に立つことは、親孝行な君をイヤに喜ばせた。「うちの奴も一人前になった」君の工場へ行く姿を見送って、こういって喜ぶ両親の声をききながら、愉快相に君は口笛を吹いて忠実に通勤したものだ。

 当時の君は順良な少年職工であった。貧しい生活を気にもとめずに、来るべき日のアブラハム・リンカーンを夢みて小羊の如く働いた。しかしそうした従順な小羊としての君の存在はあまりに短かったのだ。その頃洪水の如く全国に渡り渡った社会改造の潮は聡明な、そして感激性の鋭敏な君をジットさせてはおかなかった。

 大正八年1919秋、熱狂せる数千の坑夫に擁せられて、友愛会の鈴木文治、麻生久、棚橋小虎氏等が組合運動宣伝に来山した。そして熱と力に満ちた声を張り揚げて資本主義の横暴を露(あば)き、労働者の結束を説き立てた時、正義に対する火の様な恋慕を抱く川合君は、殆ど狂せんばかりの感激をもって、勇ましい労働運動者、正義の使途の姿にあこがれたのであった。「今ぞ俺らの起つべき時だ」君はかく叫んで会社の警戒線を突破して阪路(坂道)一里の夜を演説会場へ通ったのであった。

 「オイ相馬、麻生と棚橋は馬鹿に仲がいい相だ。ああした演説会から帰ると二人が抱き合って寝るんだとさ。いいなあ!俺等もそうなろうじゃないか。俺がチト太いから麻生、君は痩せているから棚橋という風になあ」川合君はよくこう言って僕の手を握りしめたものだ。米国奴隷解放の父、リンカーンに共鳴した川合君は、この時から近代産業奴隷解放の志を堅くその胸に植えつけたのである。間もなく組合員なるが故の理由のために友愛会員は即日即刻馘首下山を強要された。年末に近い初冬の坑山の空は実に冷たかった。蒼ざめた顔をうなだれて囚人の如く追い立てられる組合員の下山して行く姿を君と僕は幾十人ともなく見た

 君は黙々としてはふり落ちる涙を拳で払った。「そして俺等はこの事実を忘れてはならぬ事を誓わねばならぬぞ」と強く僕の胸に抱きついて啜り泣いた。

030 全国に蜂起するストライキの報道と東京に於ける活発な改造運動者の活躍は悉く強烈な感動をそそって君の胸を衝いた。狭苦しい坑山生活は知識に飢えた君には、とても堪えられなかった。

 「東京へ行きたい」君のこの宿望が叶って、大正九年1920年九月、坑夫達と別れを惜しんで復仇戦の門出となった。

 上京後、日立鉱山の先輩、岡陽之助君を訪ね、同君の紹介で高津正道君等の暁民会に入った。田舎出の君には大学生等と席を同じくして語り合う事は光栄と思われた相な。しかし君はそれ等のインテリゲンチャに迎合してゆく事を潔く思わなかった。が、兎に角君は難解な目新しい熟語で書かれた新思想の雑誌図書を根気よく読みふけった。

 何事にも大胆な君は1920十二月六日早稲田の八千代クラブに於ける社会問題講演会で、角帽の学生を前に並べて、鉱山の悲惨と資本主義の暴戻を罵り、「私はこうした事実を眼前にみた時、この社会組織というものを何とかしてやりたくなったのです」と、結び、非常な拍手を送られた。だが翌日、この演説が祟って、君は失業に出会した。これと前後して、加藤一夫君の破壊の連続の哲学という加藤君一流の講演をきかされて、川合君の心は益々荒んでゆかなければならなかったのである。

 社会主義同盟大会がある事を耳にした時、反抗気分に充ち満ちた君は小躍りして、青年会館へと急いだ。社会主義の何たるかを未だよく知らなかった君も、官憲の「中止解散」の暴圧的態度に拱手傍観は出来得なかった。情熱焼くが如き君の事だ。どうして或る種の行動に出でるを我慢して居られよう。

 上京後僅かに三カ月、1920年大正九年十二月十五日君は市ヶ谷監獄(巣鴨監獄107)に鉄窓を友にしなくてはならなかった。

 翌年1921四月、桜散る頃、若い田舎出の川合君は一人前の前科者の焼印を捺されて在獄六ケ月、反逆者製造所の門を出た。しかし官憲の奸計はウマク当たって、君の出獄を待っていた同志達と暖かい握手すらも交すことを得ずして、翌日母方の郷里長野へ連れ帰されねばならなかった

031 一度獄屋の洗礼(バプテスマ)を受けた君は反逆の火玉として社会の一切に対しての戦いを宣した。親孝行、妹思いという評判の高い君も、親族寄ってたかっての監視の下にジットして、いい子になっている事はトテモたまらぬ苦痛であった。大正十年1921六月、健康の回復を得た君は瓢然家庭の束縛の荒縄を断ち切って上京した。

 しかし一面、情にもろい君は老父の追跡を知って、泣いて悲しい心境を僕に訴えたこともあった。自由人、労働者、五月会という風に君は転々としてそうした所へ転げ込んで荒みゆく心のままに、混乱の頂にあった当時の思想の波にゆられて、放浪的生活に入って行った。しかしこうした裡にも、真面目な君は事実の直視と、理論の研究を怠らなかった。「俺は共産主義者だ」この決定的態度を言い切る事は、アナーキスチックな団体、個人に深い関係を持って居た当時の君には大胆な行為であった。漸次、狂燥的言語活動から遠ざかって行った君は、熱心にボルシェヴィズムの立場から大衆の組織化を目論んでいた。

 1922大正十一年一月亀戸に来て、両親と妹を呼びよせて、家庭的には、善良を装うて病床の妹をいたわりつつ工場通いをした。

 五月、不孝な子を持つ君の父は、君の前途に心痛めつつ淋しく資本主義の餌食となって逝去した。その一生をモグラの如く地下で虐使され頼りなく死んだ父の冷たいむくろを前にした時、君の思いはどんなであったろうか。

 しかし経済的逼迫を告ぐる裡にも君は実際運動への衝動抑えがたく、父の死後旬日を出でずして、同宿せる北島吉蔵君と共に労働組合組織の計画をすすめていた。

 間もなく亀戸にマルクスを熱心に研究していたグループの存在を嗅ぎつけて、それらの人々との提携を求めた。渡辺政之輔、安田貫志、佐々木節君等そのグループを構成するマルキストであった。川合はこれ等の人々の存在に百倍の勇を鼓して南葛労働会の創立委員ともいうべき人々を集めて、共産主義の実際的適用を研究し合った。計画的に着々と進められたこの研究会は十一月七日ロシア革命第五周年を機に南葛労働会の創立を宣言した。この間君の献身的活動は非常なもので、南葛労働会創立の産婆役ともいうべきものであった。組合員としての君は文字通り昼夜の別なく奔走して、倦(う)むところを知らなかった。君の快活な活動は若い組合員に強い感銘を与えずにはおかなかった。理事としての君は、その責任感強く、緊急要件の突発の時は、深夜、戸を叩いて意見の交換を要求することは稀でなかった。こういう君の率直な性格は、あたりかまわずグイグイ事をやってゆかねば承知出来なかった。

032 若くして、よく組合員の信望を得、その指導的地位に立って事物を敏速に運んで行く君の行動は同志の者の等しく敬服する所であった。「我々は先ず思想的に支配階級的教化から独立しなくてはならぬ。労働者の把握せる労働者自身の知識は階級闘争の武器である」君は口ぐせの様にこういって、盛んに自分自身の勉強を怠らなかったと同時に、組合員の知的開発に力を注いだ。研究会、演説会、読書会等への出席はウルサイ程しいた。

 君の晩年は青年労働者の組織的思想運動であった。或は舌に或は筆に君は驚くべき精力をこの青年運動の分野に傾注した。

 ああした死を予想してかと思われるほどの決死的努力を以て組合運動の暇をとらえて地方へも出かけて農村青年の無産階級陣列への集団的参加を宣伝した。

 川合君!君の短い本当にみじかい運動史を貫くものは真摯なる不断の献身的努力であった。労働階級解放のために!この一句は実に君を勇敢に行動させる至上命令であった。

 この言葉の前には君は奴隷の如く忠実であった。

 「汝の担う銃を逆に!」君の叫びは青年兵卒に徹しなかった。そして君は二十二の若い共産主義者としての生涯をミリタリズムの銃剣によって閉じた。

 川合君!「汝のものを汝へ!」僕等はこう叫ぶ。ボルシェヴィストは銃剣に絶対の価値を見出すものである。君の肺腑を貫いた同じその銃剣の光が敵陣にひらめく時も遠くあるまい。僕等は生きている。行き残されている!

(雑誌『潮流』19244月、創刊号、発売禁止。法政大学大原社会問題研究所所蔵)

 


 

北島吉蔵君

―― 社会運動犠牲者列伝三 ―― (要旨)

相馬一郎

 

033 銃剣一閃!かくして若き同志北島吉蔵君の二十歳の生涯は終わった。

 北島君は明治371904秋田県小坂坑山に生まれたプロレタリアである。坑夫の忰の定めとして転々として漂浪の生活を余儀なくされ、転校六回、大正71918茨城県日立坑山で小学校を卒った。

地下奴隷の群れは君の父、兄弟、友人であった。獣化され切った坑夫生活以外の世界を知らなかった少年の君にはその頃何等不満もなく、ひたすら馬鹿げた小学校の教師の人生訓を忠実に、雲をつかむような成功の希望を抱いていたに過ぎなかった。

 

 日立鉱山はブルジョワ久原房之介の王国である。北島君は15歳の春、少年職工として久原の従順な養豚として親友川合義虎君と同じ工場に通い始めた。

 赤く禿げた畳々の山間の鉱山生活は実に単調そのものである。東京へ!君の心は漠然と明るみの都会へと急いでいた。

034 大正81919秋、陰鬱な鉱山の空気が殺気を帯びてどよめき立った。坑夫達は遂に忍従の沈黙を破り労働歌を怒鳴った。友愛会日立支部の提灯が闇を走り、久原の飼犬共を戦慄させた。

 積水の狂奔する如く労働者は続々と組合旗の下に雪崩込んだ。

 その当時機械に足を噛(かじ)られていた北島君は跛であったが、松葉杖で演説会に通った。むさ苦しい坑夫長屋の窓を演壇にして会長鈴木文治氏が悪鬼久原の非道を怒号し、労働者の結束を絶叫するとき、地下奴隷は拳を挙げて示威喊声を放ってやまなかった。

 屈従の美徳は消散し、君の眸(ひとみ)は火のような憎悪に光って、呪わしく回転するベルトに注がれるようになった。

 君は昼休みに工場の屋根の上で川合君とひそひそと語り合い、間もなく『デモクラシーと社会主義』という赤表紙のパンフレットを読んでいた。

 久原は狼狽し、組織的に、組合加入の労働者に不法な馘首を迫って来た。

 坑山の晩秋は階級闘争の凄気で漲った。サーベルと棍棒が共同し、弾圧的追山の手段が襲った。悲惨な家族は途方に暮れ、追い立てられて下山して行った。

 16歳の少年北島君は何ら為すところを知らなかった。こうして君の坑山生活は閉じられた。

 

 大正91920、君は川合君の後を追って上京し、亀戸に来て、工場通いの傍ら新知識の理解に耽ったが、その静かな生活は短期間で終わった。

035 頼りにしていた同志川合君が入獄したのである。この時君は社会主義の研究に向きを変えた。温和な社会改造から社会革命へと向かった。

 君は運動のプランを立てながら、川合君の帰りを待った。

 大正1019214、半年の獄中生活を終えて川合君が出て来たとき、君は暁民会その他の思想団体の連中と知るようになった。労組には入っていなかったが、組合の演説会、講演会、示威運動には必ず参加した。

 大正1119221月、同志川合君が(両親と妹を連れて031)亀戸に住むようになった。その夏突然君は「オイ、謄写版を買おうじゃないか」とニタリ笑った。僕と川合君と連れ立って上野の博覧会へ急いだ。

 蚊の名産地亀戸の8月の夜は窒息しそうに息苦しい。君は幾日か夜を更かして一冊の檄文を摺り上げた。

 それは当時論議されていた「無産階級独裁を通じてのみ労働者の真実の解放来る」という内容であったと記憶する。そして組合創設の手段として個人同志の糾合につとめた。

 大正11192211、南葛労働会の創立委員として奔走した。

 

036 北島君は理論家ではない。同志達の激論を熱心に聞くだけだった。

 しかし君の落ち着いた行動には同志が皆感服した。また思想的に不断の研究をつづけ、暁民会へ多くの労働者を誘った。

 大正12192321、赤露の同志ヨッフェ君が横浜に入港した。官憲の目は異様に光り、ヨッフェ君の身辺に近づく者の上に注がれた。

 「遠来の同志に日本青年コンミュニストのインターナショナルの精神を告げよう」北島君は他の同志には内緒で山岸実司君と共にその前夜思い出したように横浜に急行した。途中幾多の難関を抜き切って一睡もせず寒い街頭で夜を明かした。スパイ共に取り囲まれながら自動車に乗ろうとするヨッフェ君に、群がる犬共(特高刑事)を突き飛ばして君は油に汚れた手を伸べて「タワリシチヨッフェ」と叫んだ。青年労働者の心からの挨拶に、ヨッフェ君はニッコリ握り返した。君は山岸君と目配せして飄然とどこかへ消え去った。

 翌日の新聞に曰く「蒼白い二人の怪少年…犯人厳探中」と。北島君は行動の人である。

 

 君は組合中の年少者であったが、常に理事その他の重要な地位にあった。

037 質実剛健な君は華やかな活動に気乗りがせず、血気にはやる青年闘士が一笑に付したがる学生運動等に留意し、新人会系の有望な学生に接近して、学生の知的独占に横棒を入れて青年労働者との融合を図った。

 薄給を忍んでも大工場へ出ることを拒み、工場労働者の組織化に異常の努力を払った。

 また、休日を利用して遠く秋田、信州に出かけ、農村青年と都市青年との共同策戦に奔走した。

 君が最後に手掛けた反軍国主義宣伝運動では、丁年未満の君は積極的に入営を同年労働者に説き、軍隊内部からの赤化を目論んだ。

 

 あまりにはかない君の二十歳の生涯は、生き残った僕らに哀惜の慟哭を与える。

 君を追悼する時、君が口ぐせにしていた啄木の歌「墓碑銘」こそ、君の死屍に呼びかけるにふさわしい言葉であると思う。

038 コンミュニストのみが知る「強き誇り」こそ、君の最後を告げる微笑であったろう。

呪わしい銃剣の穂先に、僕らは君の面相を見る!

 

 

牧瀬 啄木の「墓碑銘」は幸徳秋水の死刑の5か月後に書かれている。

 

 

墓碑銘

啄木

1911.6.16 TOKYO

 

われ常にかれを尊敬せりき、

しかして今も尊敬す――

かの郊外の墓地の栗の木の下に

かれを葬りて、すでにふた月を経たれど。

 

実(げ)に、われらの会合の席に彼を見ずなりてより、

すでにふた月は過ぎ去りたり。

かれは議論家にてはなかりしかど、

なくてかなわぬ一人なりしが。

 

或る時、彼の語りけるは、

「同志よ、われの無言をとがむることなかれ、

われは議論すること能わず、

されど、我には何時にても起つことを得る準備あり。」

 

「彼の眼は常に論者の怯懦(けふだ)を叱責す。」

同志の一人はかくかれを評しき。

然り、われもまた度々しかく感じたりき。

しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。

 

かれは労働者 ―― 一個の機械職工なりき。

かれは常に熱心に、且つ快活に働き、

暇(ひま)あれば同志と語り、またよく読書したり。

かれは煙草も酒も用ゐざりき。

 

彼の真摯にして不屈、且つ思慮深き性格は、

かのジュラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。

かれは烈しき熱に冒されて、病の床に横たはりつつ、

なほよく死にいたるまで譫言(うはごと)を口にせざりき。

 

「今日は五月一日なり、われらの日なり。」

これはかれのわれに遺したる最後の言葉なり。

この日の朝(あした)、われはかれの病(やまひ)を見舞ひ、

その日の夕(ゆふべ)、かれは遂に永き眠りに入れり。

 

ああ、かの広き額と、鉄槌のごとき腕(かひな)と、

しかして、また、かの生を恐れざりしごとく

死を恐れざりし、常に直観する眼と、

眼(まなこ)つぶれば今も猶わが前にあり。

 

彼の遺骸は、一個の唯物論者として

かの栗の木の下に葬られたり。

われら同志の撰びたる墓碑銘は左の如し、

「われには何時にても起つことを得る準備あり。」

(石川啄木「呼子と口笛」)

 


 

041 「回想Ⅱ 東京合同・評議会時代 南葛労働組合再建と東京合同結成」以降は要旨ではなくメモとする。

 

 

『丹野セツ』メモ

 

 

075 「日本紡績女工の夜業は人類文明の汚点」

英国前労働次官ボンドフィルド嬢口汚く日本を罵倒す(ジュネーブ特派員二日発)

 

「地底にあがく五万の女坑夫、日本政府は保護を加えぬ」楢崎猪太郎労働代表訴う。「日本において石炭採掘に従事する婦人労働者の数八万三千、そのうち四万八千は全く日の目も見ずして地底の深部に就役し、そのうちの七百は十五歳以下の女子である」と述べ、政府が今まで適当な保護の法律を発布せざるを遺憾なく論じた。

(東京朝日新聞、大正十五年1926年六月四日、国際労働会議の報道)

 

077 富士紡績保土ヶ谷工場のアジビラ「川崎工場に続いて立て!」

 

一、近親の危篤の電報が来たら、すぐ帰せ

二、借金があっても外出させろ

三、熱がなくても病気のときは休ませろ

四、貯金の引き出しを自由にさせろ

五、面会を自由にさせろ

六、労働時間の一時間短縮

 

*富士紡川崎工場争議は大正1419251116日から始まっていた。女工である。

 

069 感想 「予備検束」といってメーデーや渡政の出所1926.8.4の前に、民衆が大騒ぎして政権に不都合なことにならないように、関係者を逮捕したというが、それはどういう根拠なのだろうか、不思議でならないし、よくもそこまでやったものだ、それが残念ながら100年前の日本の権力と民衆との関係だったということだ。

 

 

087 感想 回想Ⅲは丹野セツの「思想の揺籃時代」つまり幼少のころの生活を紹介するのだが、お母さんの偉大さにびっくりした。体もがっちりと心構えもしっかりしていて、仕事もよくでき、人には気前よく物を与え、子供の教育に熱心で、当時では進学者の少なかった高等科にも(セツを)出してやり、裁縫も教えられずに、着物をほどいて縫い方を身に着けた。文盲だったが、孫と一緒に字を覚え、戦後の選挙には出かけたという。

 丹野セツ本人も兄弟姉妹も勉強がよくでき、丹野セツは小学校ではいつもトップで、賞品として教科書をもらっていた。丹野セツは看護婦見習として就職した後は家からは一銭ももらっていないとのこと。その前に師範学校の試験に合格していたが、金がかかると父親が反対し、看護婦を目指した。上の姉二人も看護婦だった。

 父親は腕のいい大工で、宮廷の別荘の大工に雇われたこともあり、決断が早く仕事一途の人だった。

 丹野セツが川合義虎や北島吉蔵、相馬一郎の三人と会ったのは、一年先輩の看護婦相馬サダの弟相馬一郎が鼻の手術で丹野セツの勤めていた病院に入院していて、川合や北島が見舞いに来てからである。労働者の解放を目指して川合が最初に上京し、逮捕された時、丹野セツは着のみ着のまま面会に行ったという。丹野セツは看護婦になった頃からフェミニズムの『婦人公論』を読んでいて院長に注意された。

 

 

167 戦後になって某特高の「私は拷問などしていない」は、権力者だから言える嘘。

丹野セツ「富坂署で192810456の三日間渡辺について猛烈に追及され、ひどい拷問を受けました。特高の山県が最近「自分は拷問をしなかった」(『文芸春秋』19674月号)と書いていますが、とんでもない嘘です。私は山県にすごくやられたのですから。」

 

渡政(渡辺政之輔)が自殺したと権力は言うが、それはあり得ない。その理由は、

 

・渡政が素晴らしい指導力と行動力と知識を持っていたことを権力が恐れていたからだ。というのは亀戸事件で殺された川合義虎や北島吉蔵も断乎とした決意と行動力があり、それを権力が恐怖していたと思われるからだ。渡政は労働者出身でありながら旅行中に一冊の本を四回読んで頭に入れ、それをすぐ実行に移したという。この実行する点がただのインテリとは違う点だ。

・戦後、渡政を銃殺したという高橋実警部の馬島への証言がある。19697月の牧瀬による馬島先生への聞き書き。189

・渡政は死刑より無期懲役の方がいいと言っていた、それは生きていることが同志に伝わり、同志を勇気づけるからだ。これは丹野セツが無期くらいなら死刑の方がいいという発言に対する渡政の対応である。

 

警察が渡政の葬式参列者まで検束するとは何ということだ、そこまでやるのか。極めて非人道的で排他的である。193

 

 

・かっこいい人がいる。上野(平山)謙吉227という人だが、Wikiには出ていない。非転向獄中16年である。彼の言葉を引用する。

 

「転向をどう考えるかは人それぞれによって違うから、一般的に言えるものではありません。一人一人について慎重に考えなければなりませんね。

 転向をある程度利用しようとした場合もあるし、理論的未熟もある。誰にだって自己保存の本能はある。僕は外では同志たちが闘っているのだし、プロレタリアートが必ず政権を取るのだから、ここで死のうとどうしようとかまわないと思っていました。ここで死んだっていいのだと思っていればなんともない。電灯が暗いから明るくしろとか、食糧改善とか、医療規則の改革とか、ぼくは獄内では徹底的に闘ったですね。毎日役人と喧嘩して懲罰を食ってばかりいた。「三・一万歳事件」記念のとき、ぼくは剣道をやるから、あばれて看守長を殴った。平常憎まれている看守長だから看守は見ても助けようとしない。この時は「革手錠」の懲罰をくった。「革手錠」というのはひどいもんですよ。動けば動くほど体が絞めつけられるんですから。」

「問題を具体的に解決する能力、人民の悩みを具体的に解決するのが革命家です。統一戦線というものを歴史的に謙虚に考えなくてはならない。職場の中には、毎日絶えず問題が起っているのだから、これを政治闘争に高めることです。その根本としては人間関係が大切ですよ。人間、信頼がなくて、どうして命をかけてやる党に入って来られようか。革命家というものは、要するに、如何にしたら敵を倒せるか、それだけに全力をあげるべきです。それ以外のことは考えなくてもいいのです。資本主義社会における基本的矛盾だけを考え、たたかえばいいので、それ以外のことで迷うのは、だめです。」

 

・鍋山貞親は労働者出身の党員だったが転向した。転向した人の多くは文化情宣員(宣撫班員)となって軍に協力したり、仏門(南無妙法蓮華経)に入って満洲に行ったりし、戦後は反共で民社党系の流れをくむ人が多い。この鍋山貞親や佐野学、三田村四郎らである。この三人は市川正一とともに「四巨頭」と新聞で評された党トップである。218, 228

・共産党のスローガンはかっこいい。しかし鍋山はこの1年くらい前から転向を決めていたらしく、このかっこよいスローガンと転向との落差を党員に見せつけて落胆させるというのがスパイ側の策略だったようだ。217

 

一、七時間労働制、資本家全額負担の失業保険、労働条件の徹底的改善!

二、大土地所有の没収、農民への分配、借金棒引、租税の徹底的軽減!

三、帝国主義戦争反対、ソヴェート干渉戦争反対、中国ソヴェート及び満洲侵略戦争反対!

四、朝鮮、台湾の独立!

五、天皇制の廃止!

六、資本家、地主政府の打倒、労働者農民の日本ソヴェート政府の樹立!

七、最後にこれらのスローガンの全部を一括して一層強く要求する。米と土地と自由のための人民革命のために、その先頭に立って闘う共産主義者を監獄の門を開いて、即時無罪釈放せよ!

 

 

・多くのインテリが転向した。

・スパイが赤旗の活版印刷を進めたようで、赤旗が獄中で読めたという。

・仏教 真宗が転向に一役買っていたようだ。224

・刑務所当局は勝手に信書の一部を消したり、全部を没収したりしていた。信じられない個人の自由の制約だ。211, 213

 

正にプロレタリア丹野セツ 「刑務所は苦痛でなかった。242なぜならばそれまでまともな自分の部屋(家)がなかった232し、実家からの面会は一度もなかったからだ。237ここから出たいとも思わなかった、体が弱っていたのでここで死ぬだろうと思っていた。医者や看守長はいい人だった。233, 235

 

家族関係 世論に振り回される家族

 

出獄後の家族の対応 家族は戦前近隣からいじめられたようで、自分たちは世間様と同じ考えなのに、セツだけが悪者だと考えていたのだろう。244

 

戦後の父「やはり共産党は正しかったのかなあ…」と口では認めつつ、「(自分が老後世話になるはずの)兄さんに迷惑をかけられない」と、セツを籍から分けて追い出す。256

 

渡政のおっかさんの終末も哀れだ。同志の人達に送られず墓に。264

 

川合義虎と北島吉蔵の虐殺に関するあの立派な追悼文を書いた相馬一郎が自殺したとは気の毒だ。その原因をつくったのは丹野セツだった。丹野セツは公判廷で相馬に「頑張って変わらないで出て来よう」と約束していたが、相馬は獄中に転向し、某陸軍大将の下で情報局のロシア語の仕事をしていた。相馬はクートベで5年間学び、立派な成績を残していた。そこへ非転向の丹野が突然訪れた。相馬は申し訳ないと言った。相馬は結婚して妻は妊娠していたのに、母が訪れた後に妻が母を送って行ったときに風呂場で首つり自殺した。相馬は繊細だった。1940年のころだった。同じ境遇の服部麦生は戦後党に復帰したのに、相馬は無名戦士の墓にも埋葬されなかった。265

 

309 宮城遥拝は工場内で行われただけでなく、宮城、明治神宮、靖国神社の前では電車の中でも車掌が号令をかけ、乗客を起立させて礼拝させた。

 商人も「企業整備」で徴用工となって工場で働かされた。当時は夜中まで働かされた。

1941年ころ「国民訓練所」で日本精神を訓練する「みそぎ錬成」をしてから軍需工場で働かされた。

 

314 連れ立って行おうとしたことが逮捕につながったということは理解できるが、また「一人でもやる」という決意も大事だが、一人だけではやれないのではないかと考える。

 

321 治安維持法の拡大解釈 1942年昭和176月の山代巴の公判廷で、某判事「被告にはこれという確かな証拠はないが、治安維持法を拡大解釈すれば、党再建活動を幇助したのである。幇助とは見て見ぬふりすることだ。これを立体的に見れば、幇助は、日本共産党再建活動と同じである。」

 

予防拘禁法 前歴のある者は「何かやるだろう」と向こうが想定すれば、有無を言わさず予防拘禁法で検挙投獄した。

 

328 苦しい暗黒時代の中で光明を与えた本

 

・野呂栄太郎・羽仁五郎『日本資本主義発達史講座』19325月(このころ岩波書店に勤めていた牧瀬菊枝によれば、削除・発禁の連続で、編集係は検閲係から絶えず呼びつけられていた)

・『世界文化』昭和101935年創刊。

・武谷三男(谷一夫・筆名)「自然の弁証法」昭和1119363月号の『世界文化』に所収。

・週刊紙『土曜日』昭和111936年創刊。

・ねず・まさし「フランスのファッショと人民戦線」『中央公論』特集号「日本人民戦線の胎動」昭和119月に所収。

・羽仁五郎『白石・諭吉』19376月は岩波書店「大教育家文庫」の一冊。

・羽仁五郎の「ミケルアンジェロ」1939

・尾崎秀美『現代支那論』19395

・『文化の擁護』101935年 パリでの反ファッショ国際作家会議19356月における世界の作家240人の記録。

・ウェールズ『少年世界文化史』

・「小国民文庫」新潮社

・石原純・恒藤恭『人間はどれだけの事をして来たか』

・吉野源三郎『君たちはどう生きるか』

・オスロトフスキー『鋼鉄はいかにきたえられたか』、『嵐に生まれいづるもの』

・キュリー夫人の娘『キュリー夫人伝』

・仏映画『格子なき牢獄』

・エドガー・スノー『中国の赤い星』

・アグネス・スメドレー『第八路軍従軍記』

・アグネス・スメドレー『女一人大地を行く』尾崎秀美(白川次郎・筆名)訳

・宮本百合子『明日への精神』『文学の進路』

・ロマン・ロラン『魅せられたる魂』昭和17年頃

 

329 岩波文庫の社会科学書を「自発的に増刷を中止せよ」と当局が指示し、単行本では美濃部達吉、矢内原忠雄、野呂栄太郎、平野義太郎の著書が休刊となり、193911月に岩波新書が創刊され、羽仁五郎の「ミケルアンジェロ」1939年がその一つとなったらしい。

 

332 宮本百合子は執筆禁止となった。

 

339 丹野セツ「伊藤律はスパイではないか」「女なんかにわかるか!」丹野セツはこの言葉で党中枢を去り、自分でできることをしようと思った。1956年に四ツ木診療所を創設し、1963年に鉄筋三階建ての四ツ木病院を建設し、その理事職となったのはその延長上にある。四ツ木病院は「南葛一帯の権力批判の拠点」だと牧瀬菊枝は評する。346

 

340 丹野セツは19463月に上京後、国民救援会、自由病院勤務を経て、進駐軍労働組合青年部・婦人部で二年間活動したが、党の西沢隆二(たかじ、ひろし・ぬやま)によるダンス指導についていけず、そこを辞め、元の自由病院の看護婦に戻ろうとしたが、丹野セツがやかましいからと入れてくれなかった。その後は小豆沢病院創立に加わり、そこの板橋出張所に移り、みなみ診療所に行ったが、丹野が仕事に厳しすぎるのや働き過ぎるのとで、自分の地位を守ろうとする人に排斥された。(田中ウタ評)

341 丹野セツは1954年昭和29年から1956年昭和31年まで鹿浜診療所で勤めた後、泉盈之進の診療所で拾われたが、そこでは看護婦がいるので掃除婦をした。

 

田中ウタも救援会から排斥され、山代巴も1949年昭和24年からやっていた党中国地方委員会の婦人部・文化部から排斥され、掃除と風呂焚きに回された。

342 山代巴はコミンフォルムによる日本共産党批判後に分裂した主流派・国際派のいずれにも属さないことからいずれからも排斥され、田舎に籠った。1955年の六全協による統一の呼びかけも、山代の考える「党の戦前の反省」とは結びつかず、山代のその考え方は、「党よりも個人を重視する反党行為」とみなされた。

 

345 「二七会」とは1927年に婦人同盟ができたころの人達の集まりだが、その人たちが丹野に資金協力して、丹野は四ツ木に土地を購入し、医師を見つけ、丹野が看護婦を勤め、医師と丹野二人の診療所を1956910日に開設した。そして1963年昭和384月に蒲原分院をつくり、同年196361日に25ベッド、鉄筋3階建ての四ツ木病院を建設した。出資者は600人。1967年昭和42年渡辺病院と合同し、1968年昭和43年に青井診療所を開設し、現在は医師、看護婦、事務員、炊事婦など従業員99人となった。

346 しかし思想面では全員にいきわたっているとは言えない状況だ。

 

348 山代巴がまとめる本書の成果

 

第一、権力に対する甘えを残さない権力批判の目

第二、家族や地方権力を見る目

第三、思想と感覚が統一されているかどうかを見抜く目

第四、セクト性を見抜く目

 

以上

202398()

 

 

 

 

 

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