2023年8月27日日曜日

川合義虎君 ―― 社会運動犠牲者列伝一 ―― 相馬一郎  (原文)

 

川合義虎君

―― 社会運動犠牲者列伝一 ―― (原文)相馬一郎            

 

028 川合君は鉱山坑夫を父に持って、明治三十五年1902年足尾銅山のむさくるしい坑夫長屋に短い二十二年の生涯の産声を揚げた生粋のプロレタリアである。陰惨な地下に鞭打たれつつ虐使される坑夫達の呪詛の焰は、幾度も暴動となって、悪鬼古川に向かって焰上した。

 川合君の幼年期は実に斯うした環境裡に過ごされたのである。君の父が暴動事件に連座して未決監に繋がれた時、母に手を引かれて君は、鉄窓の中にある父に会うことは何よりもうれしかった相だ。獄屋は稚(いと)けない君にとっては、実になつかしい所であったに違いない。若くして社会運動に身を投じた君に、こうしたことが抜くべからざる潜在意識として強く働きかけなかったろうか。

 転々として坑山から坑山へと渡る生活は坑山坑夫の常である。坑夫の子の君も殆ど流浪の旅をつづけて安住の地を得なかった。蒼白い顔をした地下奴隷の群がる坑山こそは、幼児の君が知る世界の全てであった。

 不逞労働者の罪名の下に君の父が、足尾を逐われて遠く秋田の椿坑山でカンテラを腰にした。椿坑山は日本海に面した詩的情味の豊かな所で、川合君の小学校時代はここで送られたのである。ロマンチックな、そして情熱的な君の性情は、実に追分(分岐点)の悲調につれて赤々と海の彼方シベリアに沈む夏の夕陽と、或いは白牙をむき出して灰色の空に吠ゆる冬の海とに育まれたものであろう。

 君が十四の時、またしても椿を後に茨城の日立鉱山へと立った。

 日立鉱山は社会主義者としての君の誕生地である。君と同じ環境のもとに育って来た僕が君と知ったのも亦日立鉱山であった。

029 坑夫を父に持つ君と僕は、当時から極めて親密な仲にあって、よく周囲の人々から羨望の眼をもって見られて来た。

 大正七年1918年小学校を卒えて君は鉱山付属の鉄工場へ旋盤小僧に入った。油服を着けて機械の前に立つことは、親孝行な君をイヤに喜ばせた。「うちの奴も一人前になった」君の工場へ行く姿を見送って、こういって喜ぶ両親の声をききながら、愉快相に君は口笛を吹いて忠実に通勤したものだ。

 当時の君は順良な少年職工であった。貧しい生活を気にもとめずに、来るべき日のアブラハム・リンカーンを夢みて小羊の如く働いた。しかしそうした従順な小羊としての君の存在はあまりに短かったのだ。その頃洪水の如く全国に渡り渡った社会改造の潮は聡明な、そして感激性の鋭敏な君をジットさせてはおかなかった。

 大正八年1919秋、熱狂せる数千の坑夫に擁せられて、友愛会の鈴木文治、麻生久、棚橋小虎氏等が組合運動宣伝に来山した。そして熱と力に満ちた声を張り揚げて資本主義の横暴を露(あば)き、労働者の結束を説き立てた時、正義に対する火の様な恋慕を抱く川合君は、殆ど狂せんばかりの感激をもって、勇ましい労働運動者、正義の使途の姿にあこがれたのであった。「今ぞ俺らの起つべき時だ」君はかく叫んで会社の警戒線を突破して阪路(坂道)一里の夜を演説会場へ通ったのであった。

 「オイ相馬、麻生と棚橋は馬鹿に仲がいい相だ。ああした演説会から帰ると二人が抱き合って寝るんだとさ。いいなあ!俺等もそうなろうじゃないか。俺がチト太いから麻生、君は痩せているから棚橋という風になあ」川合君はよくこう言って僕の手を握りしめたものだ。米国奴隷解放の父、リンカーンに共鳴した川合君は、この時から近代産業奴隷解放の志を堅くその胸に植えつけたのである。間もなく組合員なるが故の理由のために友愛会員は即日即刻馘首下山を強要された。年末に近い初冬の坑山の空は実に冷たかった。蒼ざめた顔をうなだれて囚人の如く追い立てられる組合員の下山して行く姿を君と僕は幾十人ともなく見た

 君は黙々としてはふり落ちる涙を拳で払った。「そして俺等はこの事実を忘れてはならぬ事を誓わねばならぬぞ」と強く僕の胸に抱きついて啜り泣いた。

030 全国に蜂起するストライキの報道と東京に於ける活発な改造運動者の活躍は悉く強烈な感動をそそって君の胸を衝いた。狭苦しい坑山生活は知識に飢えた君には、とても堪えられなかった。

 「東京へ行きたい」君のこの宿望が叶って、大正九年1920年九月、坑夫達と別れを惜しんで復仇戦の門出となった。

 上京後、日立鉱山の先輩、岡陽之助君を訪ね、同君の紹介で高津正道君等の暁民会に入った。田舎出の君には大学生等と席を同じくして語り合う事は光栄と思われた相な。しかし君はそれ等のインテリゲンチャに迎合してゆく事を潔く思わなかった。が、兎に角君は難解な目新しい熟語で書かれた新思想の雑誌図書を根気よく読みふけった。

 何事にも大胆な君は1920十二月六日早稲田の八千代クラブに於ける社会問題講演会で、角帽の学生を前に並べて、鉱山の悲惨と資本主義の暴戻を罵り、「私はこうした事実を眼前にみた時、この社会組織というものを何とかしてやりたくなったのです」と、結び、非常な拍手を送られた。だが翌日、この演説が祟って、君は失業に出会した。これと前後して、加藤一夫君の破壊の連続の哲学という加藤君一流の講演をきかされて、川合君の心は益々荒んでゆかなければならなかったのである。

 社会主義同盟大会がある事を耳にした時、反抗気分に充ち満ちた君は小躍りして、青年会館へと急いだ。社会主義の何たるかを未だよく知らなかった君も、官憲の「中止解散」の暴圧的態度に拱手傍観は出来得なかった。情熱焼くが如き君の事だ。どうして或る種の行動に出でるを我慢して居られよう。

 上京後僅かに三カ月、1920年大正九年十二月十五日君は市ヶ谷監獄(巣鴨監獄107)に鉄窓を友にしなくてはならなかった。

 翌年1921四月、桜散る頃、若い田舎出の川合君は一人前の前科者の焼印を捺されて在獄六ケ月、反逆者製造所の門を出た。しかし官憲の奸計はウマク当たって、君の出獄を待っていた同志達と暖かい握手すらも交すことを得ずして、翌日母方の郷里長野へ連れ帰されねばならなかった

031 一度獄屋の洗礼(バプテスマ)を受けた君は反逆の火玉として社会の一切に対しての戦いを宣した。親孝行、妹思いという評判の高い君も、親族寄ってたかっての監視の下にジットして、いい子になっている事はトテモたまらぬ苦痛であった。大正十年1921六月、健康の回復を得た君は瓢然家庭の束縛の荒縄を断ち切って上京した。

 しかし一面、情にもろい君は老父の追跡を知って、泣いて悲しい心境を僕に訴えたこともあった。自由人、労働者、五月会という風に君は転々としてそうした所へ転げ込んで荒みゆく心のままに、混乱の頂にあった当時の思想の波にゆられて、放浪的生活に入って行った。しかしこうした裡にも、真面目な君は事実の直視と、理論の研究を怠らなかった。「俺は共産主義者だ」この決定的態度を言い切る事は、アナーキスチックな団体、個人に深い関係を持って居た当時の君には大胆な行為であった。漸次、狂燥的言語活動から遠ざかって行った君は、熱心にボルシェヴィズムの立場から大衆の組織化を目論んでいた。

 1922大正十一年一月亀戸に来て、両親と妹を呼びよせて、家庭的には、善良を装うて病床の妹をいたわりつつ工場通いをした。

 五月、不孝な子を持つ君の父は、君の前途に心痛めつつ淋しく資本主義の餌食となって逝去した。その一生をモグラの如く地下で虐使され頼りなく死んだ父の冷たいむくろを前にした時、君の思いはどんなであったろうか。

 しかし経済的逼迫を告ぐる裡にも君は実際運動への衝動抑えがたく、父の死後旬日を出でずして、同宿せる北島吉蔵君と共に労働組合組織の計画をすすめていた。

 間もなく亀戸にマルクスを熱心に研究していたグループの存在を嗅ぎつけて、それらの人々との提携を求めた。渡辺政之輔、安田貫志、佐々木節君等そのグループを構成するマルキストであった。川合はこれ等の人々の存在に百倍の勇を鼓して南葛労働会の創立委員ともいうべき人々を集めて、共産主義の実際的適用を研究し合った。計画的に着々と進められたこの研究会は十一月七日ロシア革命第五周年を機に南葛労働会の創立を宣言した。この間君の献身的活動は非常なもので、南葛労働会創立の産婆役ともいうべきものであった。組合員としての君は文字通り昼夜の別なく奔走して、倦(う)むところを知らなかった。君の快活な活動は若い組合員に強い感銘を与えずにはおかなかった。理事としての君は、その責任感強く、緊急要件の突発の時は、深夜、戸を叩いて意見の交換を要求することは稀でなかった。こういう君の率直な性格は、あたりかまわずグイグイ事をやってゆかねば承知出来なかった。

032 若くして、よく組合員の信望を得、その指導的地位に立って事物を敏速に運んで行く君の行動は同志の者の等しく敬服する所であった。「我々は先ず思想的に支配階級的教化から独立しなくてはならぬ。労働者の把握せる労働者自身の知識は階級闘争の武器である」君は口ぐせの様にこういって、盛んに自分自身の勉強を怠らなかったと同時に、組合員の知的開発に力を注いだ。研究会、演説会、読書会等への出席はウルサイ程しいた。

 君の晩年は青年労働者の組織的思想運動であった。或は舌に或は筆に君は驚くべき精力をこの青年運動の分野に傾注した。

 ああした死を予想してかと思われるほどの決死的努力を以て組合運動の暇をとらえて地方へも出かけて農村青年の無産階級陣列への集団的参加を宣伝した。

 川合君!君の短い本当にみじかい運動史を貫くものは真摯なる不断の献身的努力であった。労働階級解放のために!この一句は実に君を勇敢に行動させる至上命令であった。

 この言葉の前には君は奴隷の如く忠実であった。

 「汝の担う銃を逆に!」君の叫びは青年兵卒に徹しなかった。そして君は二十二の若い共産主義者としての生涯をミリタリズムの銃剣によって閉じた。

 川合君!「汝のものを汝へ!」僕等はこう叫ぶ。ボルシェヴィストは銃剣に絶対の価値を見出すものである。君の肺腑を貫いた同じその銃剣の光が敵陣にひらめく時も遠くあるまい。僕等は生きている。行き残されている!

(雑誌『潮流』19244月、創刊号、発売禁止。法政大学大原社会問題研究所所蔵)

 

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