2023年10月21日土曜日

関東大震災朝鮮人虐殺事件「講演と映画の集い」2023年10月21日

 

「今、改めて問う! 関東大震災朝鮮人虐殺事件「講演と映画の集い」20231021()14—17pm 群馬県教育会館5階ホール

 

 

司会 「連帯する会」 浜田光江

挨拶 実行委員会事務局 宮川邦夫  角田義一体調不良のため代行

講演 呉充功監督 在日二世。横浜の日本映画学校(日本映画大学の前身)卒業。『払い下げられた朝鮮人』1985、『隠された爪痕』など、これまでに3本のドキュメンタリー映画を製作。今も製作中。

 

本日上映されたドキュメンタリー映画『払い下げられた朝鮮人』(呉充功監督1985)の素晴らしい点は、出演者の言葉が伝聞ではなく、現実の加害者の口から加害の事実を証言し、直接現場を見た人の口から証言していることである。

 

2023831日の「関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年犠牲者追悼集会」(文京シビックセンター大ホール)に1300人が集まり、韓国人遺族3人と、中国人遺族20人も参加し、大盛況だった。私の祖父は当時日本への留学生だったが、幸い犠牲者とはならなかった。

 

犠牲者を「三国人」とか「異国人」として、「朝鮮人」としないし、犠牲者の名前も明らかにしないのはおかしい。

 

19858月、高津観音寺に韓国から鐘が運ばれ、韓国人の手によって「普化鐘楼」が、なぎの原に、大震災から63年後に建立された。映画に出演した日本人は自分の言葉で語ってくれた。

 

韓国で関東大震災朝鮮人虐殺をテーマとした戯曲を作成中になぎの原を訪れた金義卿と沈雨晟が、朝鮮人犠牲者を慰霊する施設をつくりたいと韓国の芸術家と基金を募って建設した慰霊の鐘楼が観音寺に運ばれ、韓国の木柱や屋根、韓国瓦を用い、丹青に彩色された「普化鐘楼」が、観音寺に韓国職人によって組み立てられた。

 

関東大震災時、関東各地の警察署などに予備検束・収容された3500人の朝鮮人と700人の中国人を、千葉県習志野の陸軍高津支鮮人(中国・朝鮮人)収容所戒厳司令部の指示で、「保護収容」を目的に(同収容所に)移送した。道中の船橋や江東区大島では、興奮した民衆と自警団が、警察の制止を振り切って朝鮮人集団に襲いかかり、女性・子どもを含めて惨殺した。戒厳軍は、負傷して習志野の収容所に到着した朝鮮人を、周辺の村々の自警団に「朝鮮人をくれてやるから取りに来い」と、村役場を通じて払い下げる。

 

高津観音寺に陣取っていた自警団本部は、集められた朝鮮人15名を4つの部落に分け、農民で構成された自警団は、朝鮮人の名前も聞かないで日本刀と猟銃で殺害した。この自警団による虐殺を記録した日記が残されていて、観音寺の住職は密かに供養を続けていた。また当時朝鮮人移送を担当した野戦砲隊の元陸軍兵や、船橋警察署の警察官の証言が本映画に出てくる。

 

1998年、6人の朝鮮人犠牲者の遺骨が掘り出されたが、その時、写真、メモは不可で、ただ見ることしか許されなかった。その発掘の経緯は、「自警団日記」に基づき、高津区の震災当時の人間と、○○、××の三者の合意に基づいて、発掘が行われた。192397日に5人が、99日に残りの1人が日本刀で切られて埋められたが、発掘時に、1人の位置がずれていたことはこの証言を裏付ける事実と言える。

 

『隠された爪跡』は1923年の大虐殺をかろうじて生き残った在日朝鮮人チョ・インスン1902-1984や事件を直接目撃した20人の証言を集めたものである。チョ・インスンは習志野収容所に収容されていた。『払い下げられた朝鮮人』では、実際虐殺に加担した村の住人の君塚をはじめとする村の人々は払い下げられて縛られた朝鮮人に「(お前らは)長くは生きられないだろう。どのように死にたいか」と尋ねる。君塚はカメラに向かって自身の加害体験を告白する。

 

虐殺事件は騎兵連隊から始まり、戒厳軍発表によれば、朝鮮人3200人、中国人900人が犠牲となった。「保護」と言いつつ実際はそれは虐殺を意味した。

 

 

現代史料 関東大震災 新版 関東大震災虐殺の記録 姜徳相

 

臨時震災救護済事務局警備部

 

93日 臨時震災救護事務局決定事項 第4 適当処分――

 

『容疑なき朝鮮人は之を保護する』

『危険なる朝鮮人は適当処分する』(この「適当処分」の記述から、軍→村役場→自警団という虐殺の指令系統の存在が分かる)

 

94日 午後4時 第一師団司令部 ――戒厳令第3号――

 朝鮮人は習志野捕虜収容所に収容す。 第一師団長石光真臣

 

――95日 「鮮人問題に関する協定」――(これで政府は警察に朝鮮人がとにかく悪いことをしたのだと認めさせた)

 

 

93日の「海軍→内務省警保局→船橋送信所→各地方長官」というデマ伝達の事実を、福島瑞穂が政府に問いただしたところ、防衛省は「その記述を保管している」と答弁した。

 

群馬県に朝鮮人慰霊碑が20か所あるが、その碑には「朝鮮人」とは書かず、「異国人」としていて、犠牲者の名前も書かれていない。藤岡は例外だが。日本政府は犠牲者の名簿をつくるべきだ。また遺骨をどう処分したのかも明らかにすべきだ。中国人犠牲者については日本政府はその事実を認めているが、朝鮮人犠牲者については認めていない。日本政府は朝鮮人犠牲者が朝鮮のどこから来て、どこで働き、どう処遇され、どこに戻ったのかという足取りを明らかにせよ。

 

戦前(1923年~1945年)、日本政府は朝鮮人の慰霊祭さえ妨害した。東京都横網町慰霊堂には朝鮮人の名前はなく、招待もされていない。その5メートル離れたところに朝鮮人追悼碑がある。「そよ風」は去年まで追悼碑の後で集会を開いていたが、今年は碑の前で開こうとしたため、日本人の青年100人が座り込んでそれを阻止した。「そよ風」は「朝鮮人に殺された日本人がいるとしてそれを追悼する」「朝鮮人が軍に抵抗したから殺されたのだ」とする。

 

前述の「普化鐘楼」の修繕のために600万円が集まったがまだ足りない。

 

 

閉会挨拶 藤岡成道寺住職 小野分

 

藤岡事件の裁判の罪状は朝鮮人を殺した殺人罪ではなく、官庁(警察署)を襲ったことが罪とされている。映画福田村事件「朝鮮人だったら殺してもいいのか」

 

以上


 

大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社1990

  大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社 1990       第一章 枝吉家の人々と副島種臣 第二章 倒幕活動と副島種臣 第三章 到遠館の副島種臣     19 世紀の中ごろ、佐賀藩の弘道館 026 では「国学」の研究が行われていたという。その中...