青柳雄介『袴田事件』文春新書2024
裁判所への要望
(1) 公判時に録音・録画を許さないことは、知識の独占であり、非民主的・権威主義的・高圧的である。またスマホや小さいバッジなどの持ち込みを禁止し、さらにはその禁止事項を失念するくらいの些細な事で警察を呼んだと聞くが、これも極めて権力者然としていて、非民主的である。
(2) 弁護側・検察側双方の陳述書のコピーを傍聴人にも配布し、裁判を民主化してもらいたい。裁判所だけが陳述書を独占するとは、全く前時代的な慣習である。聞いてメモをするだけでは、とてもすべての情報は入手できません。
(3) 静岡地裁・国井恒志裁判長は、社会的に関心の高い袴田裁判には大きい部屋を使い、また入りきらない人のために別室でスクリーン表示して傍聴できるようにしてもらいたいという江川紹子氏らによる事前の要望を無視したが、これは全く権力丸出しの対応であり、一般常識を疑う。236
(4) 静岡地裁の国井裁判長が傍聴人に対して「午後は異臭が漂うので、異臭に弱い人は退廷してください」と呼びかけ、これに反応した某傍聴人が「毒じゃないんですよね」と裁判長に尋ねたところ、退廷させられたというが、これも権力的な対応であり、一般常識を疑う。241
(5) 熊本典道裁判官のように、他の二人の裁判官に反対されて自分の気持に反する(有罪)判決を書かざるを得ないというのはおかしいのでは。そういう場合は無罪にすべきではないか。166
警察・検察による捏造の証拠、裁判長期化の原因
(1) 「血染めのパジャマ」の嘘 パジャマに付着した血は実際は肉眼では確認できない程わずかなものだったことが後に判明したが、警察(取調官)は「思いっきりお前のパジャマに(血が)ついてるんだよ」と嘘をついて袴田さんを脅迫するとともに、「血染めのパジャマ」と大々的に報道にリークすることによって袴田犯人説という警察の見立てを合理化し、その結果その後の裁判官の判断にも世間を気にして有罪とせざるを得ないという悪影響を与えた。警察の罪は重い。
またパジャマに「被害者と同じ型の血液がついていた」というが、血液型が同じ人は何人もいて、またこれは袴田さんの血液型については述べていないので、袴田さんを犯人とする証拠にはならないのではないか。048, 245
(2) 5点の衣類のカラー写真は、1年2か月間味噌に漬かっていたとは思われない、鮮明な色彩を示していた。鮮やかな赤色の血痕が付着した鉄紺色ズボン、ネズミ色スポーツシャツ、白色半袖シャツ、白色ステテコ、緑色ブリーフなどである。
支援者による詳細で長期間にわたる実験によって、血液の赤みは1年2か月間味噌の中に漬かれば黒褐色になるということが現実に証明されている。また酸素濃度論や乾燥論などにより、赤みが維持されるかもしれないという可能性論は、人一人を犯人と断定する根拠にしては極めて無責任で弱い論証ではないか。
(3) 5点の衣類の一つである「白半そでシャツ」の右肩部分についていた被害者以外の、つまり犯人のものとされる血液のDNA鑑定で、第二次再審請求で弁護側から提出されたDNA鑑定は、袴田さんの型と一致しなかった。また被害者の型とも一致しなかった。そしてそのことは検察側と弁護側とで共有していた。2012/4/13ところが後になって弁護側のその鑑定を検察側が疑問視し、「DNA分解論」という経年劣化論によってその信憑性を疑ったのだが、これは重箱の隅をつついてひっくり返すという論法に思われてならない。しかもこれを論拠に再審開始に異議を唱えて即時抗告し、再審開始を引き延ばしたからたちが悪い。052, 149
(4) 録音テープと自白供述調書とが食い違っている。テープでは袴田さんの供述が揺れている。供述の順序を入れ替えて供述調書を恣意的に組み立てている。
また取調べ時間は連日12時間、長い時で16時間とされているが、明け方近くまで取調べた可能性が濃厚であり、極めて非人道的である。そして小便を取調室でさせるという屈辱を味合わせ、しかもそれを公判廷では袴田さんの任意であるかのように装っている。誠にけしからん。そして袴田さんは書簡の中で「罵声を浴びせられ、髪の毛を引っ張られ、棍棒で殴られた」と言っている。誠に許しがたい。135-140
(5) 「右足脛の傷」は、逮捕当日の身体検査調書、事件4日後の開業医の診察、逮捕時の鑑定書、留置人名簿などには記載されていないから、「専務に蹴られたからできた」のではなく、拷問の結果と思われる。146-147
(6) 二つの着衣(鼠色のスポーツシャツと白半袖シャツ)の損傷の位置・数が、袴田さんの右肩の傷跡の位置とずれている。147-149
(7) 再審開始要件の「無罪を言い渡すべき新規明白な証拠の発見」は、ほとんどの証拠を警察や検察が握っていて、彼らに不利な証拠は開示しないから、再審開始のハードルは高い。全ての証拠を最初から開示せよ。157
(8) ズボンは控訴審での装着実験で袴田さんには小さすぎて穿けなかった。その時検察は「ズボンのタグにBとあるのは84㎝のサイズを示し、味噌につかっている間に縮んだ」とし、確定判決でもそれが認定されたが、その後の証拠開示によって、Bは色を示すものだと製造業者が説明していた調書が存在した。検察は裁判所や弁護団を欺いていたのだ。159
業者によれば実際は「B色」なのに、検察は肥満体を示す「B体」と偽り、袴田さんが「5点の衣類」の一つであるズボンが穿けないことを取り繕ってきた。捏造が疑われる。また検察は再審請求審の際に、弁護側が業者を呼ぶように請求したところ、「その必要はない」としつつ、極秘に業者から調書を取ろうとしていた。213
(9) 再審開始決定に対する検察側の抗告は、審理を長期化させる。今回でも再審開始決定2014/3から再審開始2023/10までに9年かかった。再審開始決定後の検察側の抗告は禁止すべきである。異議があれば再審公判で争えばいいではないか。また再審請求審では証拠を検察が独占しているので弁護側は不利である。全ての証拠を最初から開示せよ。160
(10) 警察の監獄や拘置所で「親戚や弁護人以外は面接禁止」というのもおかしいのではないか。被告人のことを心配している人は他にもいるし、大勢の人に勇気づけられることは人道的でもあり、必要なことではないか。165
(11) 「疑わしい時は罰せず」という白鳥決定1975の精神を再確認すべきではないか。156, 169
(12) 「袴田巌に見覚えがある」という菊光刃物店の妻・高橋みどりの証言には、警察の誘導尋問が疑われる。というのはみどりの息子・国明が「母は袴田を見たことがない」と証言しているし、警察は袴田さんだけ、その写真を二枚みせてみどりに記憶させるというトリックを使っている。202
(13) 刃がもろくて弱いくり小刀では人は殺せないというのが刃物の専門家の常識であり、犯行時に使われたとされるくり小刀が破損していないというのは、非常識で奇怪である。202
(14) ズボンの共布の怪 味噌に漬かって変色していたはずのズボンと「同じ色で同じ生地」の共布だと「一目でわかった」と発見当時思ったという警部補の証言は不自然である。それ程簡単に同一の布の共布と分かるはずがない。そして警部補に同行した警部は、警部補の1時間前に袴田さんの実家を訪ねていて、後で現れた警部補に開口一番「タンスを捜せ」と指示している。警部補は上司から手袋とベルトを発見するよう指示されていたので、警部の指示には不満だったという。215
(15) 袴田さんのものとされるゴム草履には血痕も油もついていないと鑑定で示された。236
(16) 五点の衣類の一つであるステテコは、ズボンの中に穿くものであるはずなのに、ズボンよりも大きいというのは不自然である。また五点の衣類の色彩も、1年2か月間も味噌につけられていたにしては、鮮明な白や緑であるというのも不自然である。実際の実験結果でも、五点の衣類に似た生地は味噌の色に染まった。242
(17) ステテコはズボンの中に穿くものなのに、ズボンよりも付着した血痕の範囲が広く、大量についているというのも不自然である。243
(18) 被害者の写真に見える、手首や足首に残るロープ痕や遺体周辺の縄の断片様のものから、単独犯ではなく複数犯による犯行と思われる。248
感想 各章の冒頭に掲げられた袴田巌さんの獄中日記や書簡の抜粋を読んで、この人は殺人を犯すような人ではない、というのが私の率直な感想である。是非ご一読ください。きっと著者自身もそう考えたからこそ袴田さんの文章を掲げたに違いない。例えば、
「今朝方、お母さんの夢を見ました。元気でした。夢のように元気でおられたらうれしいのですが。お母さん!遠からず無実を立証して帰りますからね。他事ながら私は元気でおります。ご安心下さい。」(1969年10月4日、母宛て書簡より)
「拷問して自白らしいものを取り、それで捜査は終わったと思っている。それが間違っていることは言うまでもない。拷問の中で取り調べを受けると、ほんとうはやりもしない犯罪を、自白する者の心理も分かるような気がする。何度も何度もそういわれている内に面倒になってくる。そういう時に肉体的苦痛を与えられると、人間はやりもしない事を自分がやったといいさえすれば、この場から逃れられるように思うのである。これが人間というものではなかろうか。(1973年1月26日、兄宛書簡より)
「無実の袴田が獄中11年余という合法的謂われなき、この権力の暴挙をどうして許せようか。この暗黒のデッチ上げ裁判死刑弾圧を続けさせることがどうして出来ようか。本件の司法殺人大暴挙に、心ある人民の怒りは心底から煮えたぎっている筈だ。獄中の私の血の叫びはどこまで届いているだろうか。不条理の下で操作された本件有罪判決に対する、私の怒りは胸はりさけんばかりである。(中略)本件のどす黒い体現、暗黒デッチ上げ裁判粉砕のために、必要な全てを直ちにやってのけなくてはならない。一日も早く、一刻も早く晴天白日無実の私は正義に守られて共に勝利せねばならない。つまるところ横川判決(控訴棄却*)は外部にも内部にも弁解の余地は全くない内容の決定的産物だ。」(1978年3月13日、支援者あての書簡)*1976年5月18日、東京高裁の横川敏雄裁判長が控訴を棄却した。
プロローグ 「神」になるしかなかった理由
017 袴田巌2014年7月、浜松市の自宅で
「神の国の儀式があって、袴田巌は勝った。無罪で勝利した。袴田巌の名において。その袴田巌は去年まで存在したが、今はいない。全知全能の神である自分が吸収した。それに伴って死刑制度を廃止し、死刑の執行をできないようにした。東京拘置所、監獄は廃止された。尊敬天才天才、尊敬天才天才…」
019 2014年11月、袴田巌とひで子は、島根県弁護士会のイベントに招かれた。袴田は黒いスーツに黒の蝶ネクタイ姿だった。巌「出雲に招かれたんだから蝶ネクタイくらいせんと、な」
袴田巌挨拶
「全知全能の神である袴田巌は、この度日本銀行の総裁、最高裁判所の長官に就任しました。善良な市民に給料を支払い、幸せな日常を保証し、悪を裁いてまいります。それが袴田巌の役割でございます。神(真実)である私に嘘をついて反対しても、神はお見通しだ。嘘が多い世の中になると、人類は成り立たなくなる。…平和で幸せな世の中を構築してまいります。」
第一章 ボクサーとしての前半生
第二章 事件
嘘の塊警察 取調べ室で便器で小便させる 裁判での警官の証言の嘘041
拷問の横行 棍棒で殴る、髪の毛を引っ張って叩く042、長期間の拘留(人質司法)、
041 嘘 一審法廷で、袴田の取調べに当たった警部は、
「小便がしたい、それじゃ袴田、便所に行くかと言ったところが、表には新聞記者が放列しているがどうかと。それじゃ困ると。便器を持ってきてもらいたいと言うので、留置場の便器を持ってきて、そうして小便をさせたわけです」
ところが開示された録音テープによると、
別の捜査員「(袴田と)トイレに行ってきますから」
(先ほどの)警部「便器を持ってきて、ここでさせればいいから」
042 拷問 袴田事件弁護団HPより袴田の書簡
「殺しても病気で死んだと報告すればそれまでだ」と言って脅し、罵声をあびせ棍棒で殴った。そして連日2人一組になり、3人1組のときもあった。午前、午後、晩から11時、引き続いて午前2時ころまで交替で蹴ったり殴った。それが取調べであった。」
一審公判での袴田巌の証言「髪の毛を引っ張ったり叩くなどの虐待のようだった」
第三章 「五点の衣類」 「血染めのパジャマ」の嘘、白色半袖シャツの血痕のDNA鑑定は袴田のものと一致しないと判明。
048 「血染めのパジャマ」の嘘 そこに被害者と同じ型の血液がついていたという。(同じ型なら何人もいるのでは)
取調官「思いっきりお前のパジャマに(血が)ついてるんだよ」
049 しかし実際は後に血は肉眼では確認できない程わずかなものだったことが判明した。
5点の衣類 鮮やかな赤色の血痕が付着した鉄紺色ズボン、ネズミ色スポーツシャツ、白色半袖シャツ、白色ステテコ、緑色ブリーフ
052 5点の衣類の一つである「白半そでシャツ」の右肩部分についていた被害者以外の、つまり犯人のものとされる血液のDNA鑑定。 第二次再審請求で弁護側から提出されたその血痕のDNA鑑定は袴田のものと一致しなかった。
第四章 一審死刑判決の真実
057 一審で、捜査官の松本久次郎or松本義男が、熊本典道裁判官に「黙秘権(があること)を(袴田巌に)告げて、特に変わった(拷問をしない)取調べはしていないから(自白調書は)任意だ」と拷問をしながら嘘を平気でつく。
058 刑事訴訟法では「(どんなに拷問によって得られた、任意性のない)自白調書でもその任意性を認めるべきだ」という説が有力だった。(おかしい)
062 死刑判決は3人の裁判官の多数決ではなく全員一致にすべきではないか。
第五章 東京拘置所での日々
067 袴田巌は1968年石川一雄と東京拘置所で出会い、1974年に石川が無期懲役に減刑されるまでの6年間二人の交流は続いた。
070 バー・メッカ事件の死刑囚正田昭1929-1969は、東京拘置所でカトリックの洗礼を受け、模範囚として静かに過ごしていた。正田は袴田や石川を励ました。小説家。慶応大学卒。証券会社を首になり、53年7月、バー・メッカに知人の証券外務員の男性を呼び出して殺害し、現金を奪った。63年に最高裁で死刑が確定し、1969年12月9日に死刑が執行された。(以上Wikiの情報も加味した。)
071 1971年、東京拘置所は巣鴨から小菅に移転した。布川事件の杉山卓男(たかお)も未決囚のころにここで袴田巌と仲間になった。無期懲役が確定した杉山は、29年間服役後、1996年に仮釈放となり、逮捕から44年後の2011年に再審無罪が確定した。逮捕から無罪までにかかった期間として現在のところこれが最長である。しかし無罪確定から僅か4年後に杉山は69歳で死去した。
073 元警務官で当時は法務省職員だった坂本敏夫が袴田と会ったのは、最高裁で死刑が確定する直前の1980年7月。収容者の待遇改善のための面接においてだった。30歳で逮捕された袴田は44歳になっていた。坂本はこう語った。
「袴田さんはいわゆる凶悪犯とは違って無味無臭、ごく普通の人でした。法務省職員としては疑うことは許されないのですが、話しているうちに一つひとつの言葉の重みに触れ、次第に『袴田さんは真犯人ではないのではないか』と思うようになっていきました。」
学業に一生懸命励まなかったことを悔いているという袴田の、次のように語った言葉が坂本の胸に突き刺さったという。
「(拘置所で)本当に必死に勉強しました。裁判所に提出する上申書を書くために難しい言葉も覚えました。拘置所には法律の専門書はないのか、貸してもらえませんでした。兄や姉が食費を削って差し入れてくれたお金で買うしかないのですが、もったいなくて使えません…。僕は裁判所を信じています。ビクビクしているのは、僕を犯人に仕立て上げた警察です。」
075 無実の死刑囚に死刑執行
1974年に起きた福岡事件 殺人の主犯とされた西武雄は、無実を強く訴えたが、1年後の1975年に刑場の露と消えた。
1992年の飯塚事件 少女二人を殺害したとされる久間三千年(くまみちとし)は、冤罪を疑われながら16年後の2008年に死刑が執行された。
再審無罪の場合
免田栄は29年間の獄中生活の後に再審無罪を勝ち取った。
財田川事件の死刑囚谷口繁義も無罪を勝ち取った。
第六章 神になっていく袴田巌
第七章 死刑判決を書いた裁判官の告白
089 2007年の「報道ステーション」2007/2/26や、院内集会2007/3/9で、1968年9月の一審死刑判決の39年後に、熊本典道元裁判官は「当時無罪の心証を主張したが、残り二人の裁判官(石見と高井)に反対され、死刑の判決文を書かされた」と告白した。残り二人の裁判官は他界していた。
091 2007年1月、袴田ひで子が支援者を通して福岡を訪ねて熊本に面会した。そして2007年3月7日に熊本への私の取材が決定された。
熊本は1966年12月の第二回公判から左陪席(主任裁判官)として当裁判を受け持つことになった。熊本曰く「袴田巌君が『私はやっておりません』とはっきり言った姿が今も忘れられません。そして『被告人を死刑に処す』との判決言い渡しに際して、袴田君がガクンと肩を落とし、頭を垂れた光景。これが脳裏に焼き付いて、一日も頭から離れなくなりました。」
096 起訴された刑事事件の有罪率99%
第八章 再審開始決定
103 2014年3月27日、東京拘置所の職員が、戸舘圭之(とだてよしゆき)弁護士と袴田ひで子に「荷物が段ボール箱11箱ありますが、着払いでお送りしていいですか。それと、靴がないようなのでお貸ししますが、使用後はすみやかに返却するようにしてください」何を言っているのか、ひで子には分からなかった。すると、紙袋を手に提げた袴田巌がいきなり現れポツリと呟いた。「釈放、された…」職員「退庁時間の五時までに出てください」事務的。村山浩昭静岡地裁裁判長の「拘置停止」は即日釈放を意味した。
105 ところが静岡地検は「即日釈放」という地裁の決定に対し、職権で拘置を続けるよう異議を唱えた。しかしその異議は退けられ、地検は釈放を指示せざるを得なくなった。刑訴法448条2項に、「再審開始決定は、刑の執行を停止できる」とあるが、(死刑囚を)拘置し続けるかどうかについての規定はない。
村山浩明裁判長「A(袴田巌)は、捜査機関により捏造された疑いのある重要な証拠によって有罪とされ、極めて長期間、死刑の恐怖の下で身柄を拘束されてきた。無罪の蓋然性が相当程度あることが明らかになった現在、Aに対する拘置をこれ以上継続することは、耐えがたいほど正義に反する状況にある」
107 2012年、村山浩明裁判長は静岡地裁に着任、袴田事件の再審決定を出す前年の2013年12月、覚せい剤取締法違反で起訴された男性の一審で、静岡県警の捜査員が男性に対して暴行を加えるなど、違法な捜査があったことを認定し、無罪判決を言い渡した。その判決理由「警察官が男性を殴打し傷害を負わせた事実は、疑いの域を超えて、事実として認定することができる。違法な逮捕、弁護人選任権を侵害した疑いがある」と判示した。
袴田巌が釈放された2024年3月27日の時点で、国内にいる確定死刑囚は133人。袴田の釈放で収監確定死刑囚が132人、娑婆に1人となった。
袴田は都内のホテルで一泊後、東京の病院で2か月、その後故郷浜松の病院に転院して1か月入院。そして今は姉ひで子の自宅で静かな日々を送っている。
108 袴田巌は浜松で入院中の6月26日、在所へ48年ぶりに里帰りし、真っ先に仏壇の前へ進んで行き、手を合わせて言った「袴田巌、遅ればせながら帰ってまいりました」
第九章 姉・袴田ひで子
115 「お母さん、僕の憎い奴は、僕を正常でない状態にして犯人に作り上げようとした奴です。神さま。僕は犯人ではありません。僕は毎日叫んでいます。ここ静岡の風に乗って、世間の人々の耳に届くことを、ただひたすらに祈って僕は叫ぶ。お母さん、人生は七転八起とか申します。最後に笑う人が勝つとか申します。また皆さんと笑って話すときが絶対に来ます」(逮捕翌年の1967年2月、母への手紙)(感想 これを読むとこの人が犯人だとはとても思えない。)
116 1976年、東京高裁が控訴を棄却した。
117 第二次再審請求中の2012年4月、犯人のものとされる血痕のDNA型が袴田のものと一致しないことが判明。
118 再審開始決定が覆された場合、袴田が再び収監されるのではないかと危惧する声も多かった。
第一〇章 冤罪の原点
二股事件 1950年1月、静岡県磐田郡二俣町(現・浜松市天竜区二俣町)で、一家4人が惨殺された。逮捕されたのが須藤満雄という18歳の少年だった。満雄は自白の強要に堪えかねて一旦は自白したが、公判で一転無罪を主張するも、一審で死刑判決、二審でも棄却。しかし最高裁は「これを破棄せざればいちじるしく正義に反す」と死刑判決を破棄し、審理を地裁に差し戻した。無罪確定は事件から8年後だった。二股事件は戦後初めての死刑判決逆転無罪となった冤罪事件である。
この二股事件の捜査を主導したのが、当時の国家地方警察(国警)の紅林麻雄警部補だった。
123 弁護士・清瀬一郎『二股の怪事件』によると、二股署の土蔵で「頭の毛を纏めてつかみ、最後に振り回し、頭を拳骨で殴った」とあり、満雄は一日に何度も気絶した。警察には確固たる証拠はなく、自白に頼った。
紅林は戦後間もなくの難事件を次々に解決した名刑事としての誉れが高かったが、実は強引に自白を得ていた。幸浦事件1948、小島(おじま)事件1950、島田事件1954など、死刑や無期懲役が下された事件を紅林が「解決」したが、後に全て逆転無罪が確定した。
2008年に満雄が亡くなったとき、妻の須藤春子は満雄の背中に拷問の痕を見つけた。満雄は生前妻に背中を向けようとしなかった。
124 袴田の次姉・やゑ子から須藤春子は60年前のこんな話を聞いた。「二股事件のすぐ後、二股署の近くを通りかかると、土蔵から怒鳴る声と悲鳴を聞いてびっくりした。あれが須藤さんだったのね…」
須藤春子(2023年5月没。享年85)は、病身でも袴田ひで子を支援し、封印していた自らの半生を語った。春子は若いころ人生をはかなんだことがあったが、たまたま通りかかった満雄によって一命をとりとめた。
袴田は2014年の後半の一時期に死刑廃止について発言したことがある。
第十一章 リングの中は、嘘がない世界
129 袴田事件が起きた1966年6月、アメリカのニュージャージー州で3人が射殺される事件が起こり、黒人ボクサーのルービン・ハリケーン・カーターが逮捕され、終身刑を言い渡された。事件の背景に人種差別があった。彼は無実を訴え、公民権運動と連動して市民デモが起った。やがて検察が隠していた新事実が発見され、1988年、カーターは19年ぶりに釈放された。カーターも袴田もお互いの存在を知っていた。カーターは2014年4月、袴田が釈放された1か月後に亡くなった。
130 2014年5月、袴田は入院中だったが外出して後楽園ホールのリンクで、その年の4月に世界ボクシング評議会WBCから授与されていた名誉チャンピョンベルトを腰に巻いた。このベルトは袴田とルービン・カーターの二人にしか与えられていない。袴田は2014年の大晦日のテレビでボクシングの世界戦を観戦し、こう言った。「ボクシングは、負けた者が本当はこっちが勝ったなんて言うわけがない。正しい世の中が存在しなきゃしょうがない。」
第十二章 鑑定意見書が暴く調書の「偽装」
「無実の袴田が獄中11年余という合法的謂われなき、この権力の暴挙をどうして許せようか。この暗黒のデッチ上げ裁判死刑弾圧を続けさせることがどうして出来ようか。本件の司法殺人大暴挙に、心ある人民の怒りは心底から煮えたぎっている筈だ。獄中の私の血の叫びはどこまで届いているだろうか。不条理の下で操作された本件有罪判決に対する、私の怒りは胸はりさけんばかりである。(中略)本件のどす黒い体現、暗黒デッチ上げ裁判粉砕のために、必要な全てを直ちにやってのけなくてはならない。一日も早く、一刻も早く晴天白日無実の私は正義に守られて共に勝利せねばならない。つまるところ横川判決(控訴棄却*)は外部にも内部にも弁解の余地は全くない内容の決定的産物だ。」(1978年3月13日、支援者あての書簡)*1976年5月18日、東京高裁の横川敏雄裁判長が控訴を棄却した。
135 奈良女子大学名誉教授浜田寿美男(供述心理学)は、2017年9月、「袴田事件取調べ録音テープについての鑑定意見書」を提出し、以下のように厳しく指弾した。
「証拠を改竄して真犯人らしく偽装し、さらにはそれに基づいて公判廷で偽証するという不正が、単に個人の行為としてではなく、組織としてなされたと言わざるをえない。このことが今回開示された録音テープの分析、検討から明確に証明された。これはきわめて衝撃的な事実であって、このことが露呈してしまった以上は、もはやこれを看過することは許されない。」
この録音テープ46時間分は、県警倉庫から「偶然見つかり」、2015年1月30日に開示された。このテープは1966年8月15日から10月18日までの取り調べの一部を扱っているが、弁護士との接見が盗聴されるという違法捜査も明るみになった。そして浜田名誉教授は、「袴田の供述は犯行の体験者がその体験を語ったものではなく、確定判決の判断を維持できない」と結論付けた。浜田は語る、
「(テープから分かったことは、)自白調書と取調官たちの公判証言などの文書データから推認されていたこととは異なる取調べ状況だった。偽装、改竄、取調官の公判証言の偽証が強く疑われた。」
137 警部から取り調べを引き継いだ警部補の法廷での証言によれば、袴田は自白転落した9月6日、
「本当に今まで長い間、○○さん(警部補名)、お手数をかけて申し訳ない」
と謝罪し、涙を流しながら犯行の全体を自白した、とするが、そのことはテープでは確認できない。
またこの警部補は袴田に「黙秘権を告知した」と証言するが、これもテープでは確認できない。
そして警部は「留置人出入簿」の記載を根拠に、公判廷で「この日の昼食は12時から12時30分まで留置場の房で摂らせた」と証言するが、テープではこの時間帯にも取り調べを続けている。
さらに「出入簿」の記載には「深夜24時に(袴田が)留置場に戻った」とあるが、テープでは翌日未明まで取調べが続いていた疑いが濃厚である。
「袴田に対して一日平均12時間、最長で16時間の取り調べが続いた」とされているが、これより大幅に長い時間取調べが行われた可能性がある。
138 浜田名誉教授「取調官たちは作成した調書の順番を入れ替え、自白転落後一気に犯行の筋書きを語ったかのように偽装した」「取調官たちは6通の自白調書の作成順序を並べ替え、法廷ではこれを裏付けるかのような偽証を行い、いかにも真犯人のものらしく偽装した。その結果録音テープとは全く異なる自白過程が描かれることになった。」
検察側が提出した6通の調書は提出された順序通りに読んで解釈するものと思われていた。それに従えば、9月6日朝、袴田は真犯人として涙ながらに謝罪し、自白に転じ、動機や犯行態様、奪った金の処理、凶器の購入経緯などを具体的に詳細に語っている。その上で取調官が問題点を追及してさらに自白を得るという自然な流れになっているように表面的には見える。
ところが録音テープでは、涙や反省、謝罪のシーンはなく、しかも取調べの順序が調書と異なる。
139 例えば罪を認めた二通の短い調書が取られた後、調書では、奪った金の隠し場所や凶器の入手状況をスラスラと自ら語っていくが、テープでは、はっきりしない答えが続き、とてもすぐに調書を録取できる状態ではなく、時には否定し、あるいは曖昧に話し、内容が転々とし、それぞれが矛盾しているのである。
一通目の調書で、「専務一家を殺したのは私です。誠にすみませんでした。詳しいことはこれから話します」と、素直に殺人を認めた真犯人とは思えない。そこで取調官が把握した証拠の状況と合致するまで執拗に説教を繰り返した結果、自白がさらに二転三転する。
浜田名誉教授は「テープから判断すると、真犯人が涙ながらに自白に落ち、詳細な自白調書を語ったという解釈は難しい」とする。そして「自白調書6通が一応整合的に見えるものとなったのは、もともとこの9月6日に取られた6通の自白調書を、その(取調官たちの)解釈にふさわしい形で(に)順序を入れ替え、またそのタイトルに作成順序を偽った漢数字を書き入れる偽装を施し、合わせて「留置人出入簿」の記録も改竄し、さらには取調べを担当した4人の取調官たちが、互いに情報をすり合わせて、そろって公判廷で偽証したからに他ならない。この偽装、偽証、改竄が単に取調官によって個人的に行われたのではなく、全員を巻き込む形で整合的に行われたのである。」
140 これは「極めて衝撃的な事実」である。
第十三章 右足脛の傷はいつできたのか?
「小生は現在、濡れ衣を着せられて東京拘置所で捕らえられております。一、二審において、満腔の怒りを込めて権力犯罪を糾弾すると共に、一応の真実――正直正銘「小生は無実である」ことを訴えてきました。それは、文字通り小生の血叫びでありました。しかしこの真実である血叫びが過去十三年にわたり未だに容れられません。この司法の無責任さに、小生怒りで肌があわだつ思いです。」(1980年1月、郡司信夫氏*宛書簡)(*郡司(ぐんじ)信夫1908-1999はボクシング評論家。)
2006年ころ、浜松市の支援者であるクリスチャンの女性が、袴田の書簡集を読んで無実を確信し、2016年、確定判決文を熟読し、袴田が犯人である根拠として、右足下腿(もも)の4か所の打撲擦傷跡に関する記述があり、自供2日後に撮影された写真にもこの傷があるが、2016年3月22日に検察が開示した逮捕当日の身体検査調書には4か所の傷についての記述がないことを発見した。また事件4日後、警察医が同席して袴田が開業医の診察を受けた際にも、逮捕時の鑑定書にも、留置人名簿にもこの傷についての記述がないことを発見した。つまり逮捕時には傷はなかった。傷はその後につくられたはずだということを発見した。ところがその傷は(自白調書では)被害者との格闘の際にできたものとされていたのだ。袴田は「犯行時に専務に蹴られた」と供述させられた。この傷は取調べの際の暴行や拷問によってできた可能性が非常に高い。
147 そして弁護団は、逮捕当日の身体検査調書を「新規、明白な証拠」として、東京高裁に「検察官の即時抗告を速やかに棄却すべき」という意見書を、再審請求審の即時抗告審で提出した。
また逮捕時の録音テープにより「警察官による違法捜査が明らかになった」として再審請求理由の追加も申し立てた。つまり、被疑者・被告人には弁護人を依頼する権利があり、(検察・警察の)立会人が同席することなく弁護人と接見することが認められている。この接見交通権は「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(自由権規約)で認められていて、日本もこの条約を批准・承認している。ところが袴田と弁護士との面会が、秘密裏に捜査側によって録音されていたことが録音テープから明らかになった。これは違法捜査である。
二つの着衣の損傷の位置が右肩の傷跡の位置と矛盾(ずれ) もう一つの新証拠
148 袴田の釈放後、支援者が、袴田の右肩の傷あとの位置が、犯行着衣とされる鼠色のスポーツシャツと白半袖シャツの傷の位置(右肩の付け根近く)よりずっと下の方にあることを発見した。袴田は取調べ当初「消火活動を手伝っていた時にできた」と主張していたが、「犯行時に格闘したときにくり小刀で刺した」と供述を変更させられた。
149 2014年に再審開始決定を行った村山浩昭裁判長「鼠色スポーツシャツと白半袖シャツは捏造であり、別々に傷をつけられたとすれば、この食い違いが生じたことは当然である」
検察による即時抗告申立理由補充書「(弁護側が主張するように)肌着と上着とで損傷の位置や数を違えることは不自然である。むしろ実際の出来事の中で偶然に起きたことと見る方が自然である。」(意味不明)
弁護団「再審開始決定(原決定)は、5点の衣類に付着した血痕のDNA鑑定の結果と、同衣類や付着血痕の色などから、同衣類は袴田のものではなく、犯行着衣でもないから、捏造証拠である可能性が高い」「上記2点の衣類(鼠色のスポーツシャツと白半袖シャツ)の損傷部位、数などの相違があっても、それが捏造証拠であれば当然である」
150 すでに1996年に、静岡大学助教授澤渡千枝の鑑定結果は「上記2点の衣類の損傷部分と請求人の傷が、請求人がこれらの衣類を着用中の同一の機会にできたものとは考え難い」としていた。「白半袖シャツの右袖上部の内側から付着している2個のB型血痕は、請求人が着用中に右腕上部の傷から出血した血液とは考え難い」
検察「損傷等は格闘中に衣服が引っ張られて生じた可能性があり、袴田が犯行中に着用している際にできたと見ることは不可能ではない」
支援者「もし引っ張られたとすれば、シャツの損傷部位以外にも血痕が付着しているはず。ひっぱられたシャツが、ずっとそのままの(元の)状態であるはずがないからである。しかし血痕は損傷部位にしか付着していない。」
二審東京高裁判決文「作業服の右肩部分にも内側からB型の血液が付着していた」
支援者「シャツからこの作業服に着替え、その作業服にも血痕がついていたとすれば、血がずっと出ていたことになる。血が出続けていたのに白半袖シャツの損傷部位にしか血痕が付いていないというのはあり得ない。もっと広く、シャツの他の部分にも血痕は残るはずだ。」
袴田自身も1981年に獄中で「下着は腕の付け根で肌に密着している、移動したままになることはあり得ない」
第十四章 重大事件にみる再審制度の問題点
「無実は明白である。その私が無罪という天裁を待つには、人の一生は短すぎる。私の怒りの感情が、唯、出口を求めて荒れ狂うだけのことです。
(中略)
私は裁判を通して、唯、人生を相手にして勝負しているような気がしてならない。おしむらくは過去十年に渡って誤った裁判に、我人生負け続けてきた。この意味では、私は、我人生から背を向けられ続けたのである。しかし、男たる者ここらで我人生に復讐しなければ治まらないのである。(1976年9月1日、支援者宛書簡)
再審開始決定2014/3/27の根拠は、シャツに付着した血液のDNA型が被害者のものとも袴田のものとも一致しないことが分かったことであったが、検察の即時抗告を受け、東京高検は、弁護側のDNA鑑定の検証実験を行った鑑定人への追加意見書などを提出し、弁護側と争う姿勢を示した。
これまでに確定死刑囚が再審無罪を勝ち取った事件は、免田事件1948、財田川事件1950、島田事件1954、松山事件1955の4例で、無期懲役判決が確定して再審無罪となった事件は、布川事件1967、足利事件1990、東電OL事件1997、東住吉事件1995など5つの事件である。他に現在再審開始を求めている事件に、大崎事件1979がある。大崎事件では再審開始決定が三度出たが、検察側の抗告によって三度とも覆されている。狭山事件1963も再審請求中である。名張ぶどう酒事件1961は、一審で無罪だったが、二審で逆転死刑になってそれが確定し、第七次(再審)請求審で最高裁の差し戻しまで行ったが、認められず、奥西勝は2015年、獄中で89歳で亡くなった。
156 再審開始の転換点は1975年の白鳥決定である。1952年、札幌市で白鳥一雄警部が射殺された事件の再審請求で、最高裁は請求を退けたが、「再審制度においても『疑わしいときは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用される」とし、それ以降1980年代に確定死刑囚の再審無罪判決が4件相次いだ。
157 再審開始要件の「無罪を言い渡すべき新規明白な証拠の発見」は、ほとんどの証拠を警察や検察が握っていて、彼らに不利な証拠は開示しないから、ハードルが高い。
布川事件の第二次再審請求審で検察側が開示した証拠の中に自供と矛盾する証拠があった。自供では扼殺(手で絞めて殺す)であったが、開示された死体検案書には、絞殺(ひもで絞めて殺す)とあった。また開示された毛髪鑑定書は、被告人のものでも被害者のものでもない毛髪の存在を明らかにした。「ない」と言っていた自白時の録音テープも開示され、編集された痕跡が確認された。誘導・捏造の証拠である。また被害者宅付近で被告人とは異なる人物が目撃されたという証言も出てきた。
158 東電OL事件では、東京渋谷のアパートで女性が殺害され、2003年、ネパール人のゴビンダ・プラサド・マイナリの無期懲役が確定した。2005年に再審請求し、東京高裁は弁護側の要求に基づき、現場で採取された物証のうち、DNA鑑定をしていないものについても鑑定するように要請した。その結果、それはゴビンダのものとは一致しないことが判明した。検察はさらにそれまで明らかにしていなかった証拠42点を開示した。その中には遺体に付着していた唾液の血液型がO型であるという科捜研の鑑定書が含まれ、ゴビンダの血液型はB型、つまり捜査陣は当初から唾液がゴビンダとは別人のものであることを知っていて、その鑑定書を隠していたのだ。しかし再審開始が決定的になっても、検察側は徹底抗戦を止めなかった。
冤罪事件には捜査側の予断、偏見、誤認があり、それを成立させるために証拠隠し、捏造、自白の強要などが常態化している。
159 袴田事件では第二次再審請求(2008年4月)後の2013年7月、これまで未提出の証拠130点が開示されたのを皮切りにぼちぼち開示され、その数は600点に及んだ。「ない」とされてきたカラー写真のネガ93点は、再審決定後の2014年9月に出され、これまた「ない」とされてきた取調べ録音テープ(46時間分)は、2015年1月に開示された。
5点の衣類のカラー写真は、1年2か月味噌につかっていたとは思われないほど鮮やかな赤色(血痕)・白色(シャツ)・緑色(ブリーフ)だった。
ズボンは控訴審での装着実験でも袴田には小さすぎて穿けなかった。その時検察は「ズボンのタグにBとあるのは84㎝のサイズを示し、味噌につかっている間に縮んだ」とし、確定判決でもそれが認定されたが、今回の証拠開示によって、Bは色を示すものだと製造業者が説明していた調書が存在した。検察は裁判所や弁護団を欺いていたのだ。
検察官の抗告
160 再審開始決定に対する検察側の抗告は、審理を長期化させる。今回でも再審開始決定2014/3から再審開始2023/10までに9年かかった。再審開始決定後の検察側の抗告は禁止すべきである。異議があれば再審公判で争えばいいではないか。
また再審請求審では証拠を検察が独占しているので弁護側は不利である。
足利事件では検察側が菅家俊和に謝罪した。「17年余りの長期間にわたり服役を余儀なくさせて取り返しのつかない事態を招いたことを誠に申し訳なく思っています。」
東電OL事件でも検察側は被告の無罪を主張した。
2017年、袴田巌「無実である証拠が最初からあったはずだ」
袴田ひで子「巌の身体は釈放されて娑婆にありますが、心はまだ拘置所に囚われたままのようです。早く再審が始まり、無罪判決が確定しないと、精神の大きな負荷は取り除けないのではないでしょうか」
2011年3月10日、袴田巌は「世界で最も長く収監されている死刑囚」としてギネスブックに登録された。日本の恥辱。
第十五章 熊本典道元裁判官
この文章も無実の人を思わせる。犯罪人にはこんな文章は書けない。
「春一番が吹いた。獄庭の木の葉が高く高く翔(か)けてゆく。木々が身を忙しくゆすって声援を送る。植物はどんなに寒くても待つしかない。それだけに本日の早い南風は有難かったであろう。実際私自身がうれしかったので、梢が手をたたいて喜んでいるように見えた。ひとしきり吹いたが、私はもっと吹けもっと吹け、と呟きながらあかずにみていた。
小鳥たちはこの強風に飛ばされてみえない。猫は不思議そうに揺らぐ梢を眺めている。こうした私の姿は一見人並みに幸福そうに見えるだろう。だが様々な悩みに苦しんでいるのだ。(1983年2月15日、獄中日記。これは最高裁が上告を棄却1980/11/19し死刑が確定1980/12/12した後である。)
思い遣りの神髄は他者に対して本当の事を言うことである。(1984年6月25日、獄中日記)
165 2018年1月9日、袴田巌は姉ひで子とともに、福岡市内の病院で、袴田の死刑判決文を苦渋の判断で書き、その後後悔の念に苛まれ続けた元裁判官・熊本典道80歳と50年ぶりに再開した。これは元裁判官の強い希望だった。熊本は謝罪したかったのである。
熊本典道元裁判官は静岡地裁の主任裁判官として1968年、袴田に対して無罪の心証を持っていたのだが、死刑の判決文を書いた。熊本元裁判官は袴田の再審請求中に、裁判所に、無罪の心証を持っていたと異例の意見書を提出した。東京拘置所に何度も訪れたが、親戚や弁護人以外は面接禁止だった。これも変えろ。
166 2014年、袴田が釈放されると熊本の方が体調を崩し、脳梗塞で入院した。言語障害が残り、鼻には管が通っていた。
2018年1月8日、袴田が旅行したいと言うのでひで子は福岡の熊本元裁判長を訪れることにした。
熊本「いわおぉー…」「いわおぉー…」「いわおぉー…」「悪かった~」
袴田は最後まで何も話さなかった。8分間の面会だった。
東京地裁で熊本の同僚だった木谷明元裁判官「私は無罪判決を30件以上出し、全て確定させた。他の二人の裁判官に反対されて自分の気持に反する(有罪)判決を書いたこともある」
169 袴田は浜松に戻り「一審の時の裁判官に会って来たんだが、顔が変わっちゃっていて、寝ていたし、わかりゃせんだ。自白の任意性の問題で、袴田巌の無実を主張していた、無実という事実を認めた、この裁判官はね。まあ、生きているうちに会えたということだでね」(これ本当か)
熊本元裁判官はその後の2月13日、「無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会」を通して東京高裁に、2007年以来三度目の陳述書を提出した。「刑事裁判は、国家機関である検察官が、こうこうこういうわけだから処罰してくれと言って来たとおりの証拠があるかないか、それだけでしか判断できません。人間が人間を裁くことはできません。『疑わしい時は罰せず』という原則に立ち戻るしかないのです」
熊本元裁判官は袴田の再審無罪を見届けることなく2020年11月、83歳で亡くなった。
第十六章 刻み込まれた傷と「幸せの花」
2014年の釈放直後の袴田は、無罪になって釈放され、自由を取り戻したと思っていた節がある。釈放から半年ほどは非常に穏やかに過ごし、「自分は勝利した」「事実が全てを語る」という発言が多かった。時折冗談も飛び出すほどだった。ところが新聞やテレビの記者がしばしば訪れ、「即時抗告審の見通しはどうですか?」「再審無罪になったら何をしたいですか?」などと質問を投げかけられ、異なった世界に迷い込んだようだ。
2018年2月8日、袴田ひで子は東京高裁で、即時抗告審を担当する大島隆明裁判長に提出する陳述書を読み上げた。「巌に一番効く薬は自由しかございません。どうぞ、ぜひ自由をお与えくださいませ」
2018年3月11日、袴田とひで子は京都での死刑廃止シンポジウムに出席し、翌12日、袴田弁護団による東京高裁と東京高検への要請行動のために、京都から東京に向かった。
大崎事件第三次再審請求 検察側の即時抗告棄却 原口アヤ子(2018年当時90歳)は義弟を殺したとされ、懲役10年の実刑を受けて服役した。本人の自白や物証はない。福岡高裁宮崎支部は鹿児島地裁に続き再審開始を認めた。大崎事件弁護団の事務局長は鴨志田由美である。ところが3月19日、検察側は最高裁に特別抗告した。その理由は弁護側が提出した死因に関する鑑定は、「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」を「新たに発見したとき」場合に当たらない「判例違反」であるとしたのだ。
無罪判決に対する再審は認められていないし、より重い刑罰を求める再審も認められていない。そして英米においては再審開始決定や再審無罪判決に対する検察側の抗告や不服申し立ては認められていない。
176 2018年3月12日、袴田とひで子、袴田弁護団は東京高裁と東京高検に要請に行き、東京高裁第八刑事部に「再審開始の早期決定」を求める文書を提出した。東京高裁の次の訪問先である検察庁前に4人の警備員がいた。袴田は退いた。ひで子「こっちだよ」巌「離せ」と腕を振りほどき、「終わったんだ、もう終わったんだ。関係ねえんだ。ばい菌なんだ、あいつら。捕まるわけにはいかないんだ」と検察庁の向かいの日比谷公園に入って行った。
袴田はみずからを神と位置づけ、最高の力を持つ世界を構築することで、自分を保ってきた。
179 2018年5月18日、静岡市にある袴田弁護団事務局長・小川秀世弁護士の事務所の壁に「袴田巌さんの壁」というボードが掲げられた。袴田は「幸せの花」とボードに書いた。そこには誰でも自由に書き込める
180 小川秀世「プラハの「ジョンレノンの壁」は、チェコの民主化運動や平和運動の象徴であり、抵抗の意志を示すものである。6月11日に東京高裁で静岡地検の即時抗告は棄却されるのは間違いないが、最高裁への特別抗告を絶対に阻止したい。上川陽子法務大臣に指揮権を発動してもらい、特別抗告をやめて欲しいと伝えたい。」(楽観していたようだ)
ひで子「巌から『幸せ』なんていう言葉が出たのは初めてのことです。」ひで子は壁に「無実」と書いた。
182 1982年8月18日、死刑確定から2年が経った日の夜、袴田は書簡で支援者に訴えた。
「1966年8月18日、私はイケニエにされた。国家権力は、威信と面子の失墜を恐れて、明らかに犯人たり得ない私を、16年前の今日投獄したのである。忌まわしく、死の暗黒の不当に血塗られた日も、今日のように嫌らしく熱さを私に強いた。本件を図式した悪党は、今怯えているに筈である。遠からず天が鉄槌を振り下ろすであろう。
市民の小さな犠牲は偉大な英雄のいかなる犠牲よりも更に大きいことを、私共は知っている。今は審理を勝利させるために努力する時である。私共の哀しみで、喜ばしい歴史を造ろう。苦難の道を走り終え、笑顔で手を取り合って語り合おう。正を制限する方法それ自体を私共は、必ず、正義の批判と歴史の審判で打ち砕かん。一八日夜記、熱さと怒りを祈りで押さえる。」(この文章も袴田さんが絶対に犯人ではないことを示唆する)
再審開始決定に対する即時抗告のポイントは、本田克也による、五点の衣類の一つ白半袖シャツの右肩部分の血痕のDNA鑑定を、検察が信用できないとすることであった。そこで東京高裁は、鈴木広一大阪医科大学教授に、本田鑑定の検証実験を委託し、2017年秋、両教授への鑑定人尋問を実施した。
疑問 これは検察による引き伸ばしでは。検察の言うことを聞きすぎるのでは。年表282頁に、2012年4月13日、弁護側・検察側双方の鑑定人とも、白半袖シャツ右肩部分の血痕のDNA型が、袴田のDNA型と一致しないとある。)
第十七章 再審開始決定取り消しの衝撃
「断ち切られても断固としてよみがえる勇気、真実と愛の中で生きることを期待する意志、その来るべき明るい春を皆様方と共に待ち望んでいる。」(死刑確定1年後の1981年12月20日、獄中日記)
186 2018年6月11日の午後1時半近く、雨の降る日だった。東京高裁の15階。女性書記官から手渡された茶封筒の中に「決定書」が入っていた。
「原決定を取り消す。本件再審請求を棄却する。」予想外。戸舘圭之弁護士「まさか。良い判断は確実と信じていたのに。」1階では西澤美和子弁護士が連絡を待っていた。高裁前には200人の支援者たち「あり得ない。」ひで子「何をかいわんやです。次に向かって進みます」
189 決定書「刑の執行停止の裁判に関する判断」として「再審請求棄却決定が確定する前に刑の執行停止の裁判を取り消すのが相当であるとまではいい難い」「直ちに死刑及び拘置の執行停止の裁判を取り消すことはしない」
新聞によっては「袴田さん」が「袴田元被告」に変わったところもある。
ひで子「身柄を拘束しないということは書いてありますので、まず一安心はしています。巌が帰ってきたということが大きいんです。再審開始が棄却されたですが、そんなことは何とも思っておりません。まだ私も三年や五年は持つからね。生きている限りは闘い続けていきます。巌も私も、少なくとも100まで生きるように努力します。」
191 国会 死刑と釈放との共存に関する解釈
高裁決定から4日後の6月15日、衆議院法務委員会
階猛(しなたけし、国民民主党)は、再審制度の不備や問題点について最高裁に質した。階はすでに2014年の再審開始決定の時点で、再審請求の審理が長期間にわたる点など、再審制度に法の不備があるのではないかと質していたのだが、その後一切検討されることはなく、今回の高裁による再審決定棄却となった。
階「再審開始決定の取り消しと同時の、刑の執行停止つまり、死刑と拘置の執行の停止という判断について、法的な根拠があるのか。
一、決定文「再審請求を棄却する決定をしても、原決定の再審開始決定の効力が確定的に失われない」という法的根拠は何か。
二、決定文「再審請求事件が抗告審に係属する(取り扱い中)ことに伴い、当該抗告裁判所は、原裁判のした刑の執行停止の裁判の変更・取消をする権限をも併有する」という根拠は何か。
三、決定文「再審開始決定の取り消し決定に伴い、原裁判所のした刑の執行停止決定をも、職権により取り消すか否かは、事案の重大性や、有罪の言い渡しを受けた者の生活状況、心身の状況等を踏まえた身体拘束の必要性、上訴の見込みの有無等を踏まえた抗告裁判所の合理的な裁量権に委ねられている」とあるが、刑訴法448条2項に「再審開始の決定をしたときは、決定で刑の執行を停止することができる」という条文がある。それなら反対解釈として、「再審開始決定が取り消されたら、刑の執行停止も取り消さなければならない」と思うが、法的根拠は何か。
安東章・最高裁判所刑事局長「個々の事件において、それぞれの裁判体が検討し判断すべき事項であり、最高裁判所としてはお尋ねの三点についての答えは差し控える」
階「条文上の根拠はないということか」
安東「(最高裁は)何等の評価も示していない」
階「法文を示せないのか」
安東「個別事件の裁判体の判断に影響を及ぼすことはあってはならない」
階「条文上の根拠があるのかないのか、答えて欲しい。条文上の不備があれば立法府として手当しなければならない」「再審開始決定を取り消しておきながら、死刑と拘置の執行停止は継続する。分かりにくい。過去の裁判の誤判を認めたくないし、また高齢で健康状態も思わしくない袴田さんを再び死刑囚として収監すれば、裁判所が世間から批判を浴びるだろうということか。
194 階は一人の人間の生と死が、法的根拠に基づかず、人間の恣意に委ねられていると指摘する。憲法31条は「何人も法律の定める手続きによらなければ、その生命もしくは自由を奪われその他の刑罰を科せられない」とし、また無辜の救済という再審制度の目的も鑑みて、検察側に(再審)抗告が認められていることは、刑訴法の不備であることは明らかだ。
源間謙太郎(国民民主)は上川陽子法務大臣に質問した。
源間「再審開始決定から4年もかかって、しかもその決定を覆す。これは大きな問題だ」
上川「個別事件は裁判所の判断に関わるから答えない」(個別問題について聞いているのではない)
階「法務省は問題意識が欠如している。袴田さんは長年冤罪を主張して来て、再審開始の決定が下りたと思ったら4年もかかってからそれが取り消される。これからも死刑執行の恐怖に怯えなければならない。死刑の執行もあり得る。法的手当てが必要であると考える。」
2014年の再審開始決定と釈放の主たる根拠は、白半袖シャツの血痕のDNA鑑定と五点の衣類の色であったが、無罪証拠は他にもあると裁判所は指摘した。このことは大事なことである。戸舘圭之「地裁は確定判決で死刑を成立させた他の様々な事実や証拠に大きな疑問があると認定した。196 証拠をつぶさに俯瞰すれば袴田犯人説に合理的な疑いが生じる。」
1975年の最高裁の白鳥決定は「再審制度においても『疑わしいときは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用される」156としている。無罪を言い渡すべき明らかな証拠をことごとく否定した大島隆明高裁決定は暴挙である。
198 袴田巌は再審開始決定の取り消しという高裁決定のニュースが流れるとスイッチを切ってしまった。
2018年6月18日、袴田弁護団は、憲法違反、判例違反、諸権利の蹂躙などを理由に最高裁に特別抗告した。
女性5人が殺害された名張毒ぶどう酒事件で死刑が確定した奥西勝は強く無罪を主張し、第七次再審請求で名古屋高裁が再審開始を決定2005したが、検察側の不服申し立てが認められ、再審開始が取り消された。その後、最高裁が高裁に差し戻したが、「棄却」が確定し、奥西は第八次再審請求中の獄中で無念の死を迎えた。89歳だった。
鹿児島県で男性が殺された大崎事件でも、原口アヤ子に対して、2018年3月、三度目の再審開始決定が出たが、やはり検察側の特別抗告によっていまだに(再審が)確定していない。1979年の事件であり、原口も2024年7月現在ですでに97歳となっている。
袴田巌獄中日記「何れにしても、冤罪は生きてそそがなければ惨め過ぎるのだ」
欧米では、再審請求審で、検察側の不服申し立てが認められていない国が多い。再審開始決定が一度出れば、すぐに再審が開始される。検察側に反論があれば再審公判で行えばいいという考え方だ。またアメリカでは、無罪判決に対する検察側の上訴権もない。日本ではいたずらに時間ばかりを要し、元被告が不利益を被っている。この制度は歪んでいる。
袴田事件では第一次再審請求1981から数えて33年、事件から半世紀を要してようやく再審開始の重い扉が開いた。再審無罪確定へと近づいていることを誰もが疑わなかったが、さらに重く分厚い再審制度の不備というもう一つの扉が聳えていた。
第十八章 証拠開示で明らかになる違法捜査
202 弁護側の要求と裁判所の勧告により、2013年7月、130点の証拠品が開示されたが、これは初めての開示で、2014年9月にはこれまで検察が「ない」としてきた五点の衣類のカラー写真のネガが93点、2015年1月末には、これも「ない」とされてきた取り調べ時の録音テープ46時間分が「県警倉庫から偶然発見」された。以降その数は600点に及んだ。
犯行時の凶器とされたものは、犯行当時に落ちていた刃渡り12センチの「くり小刀」である。袴田がこのくり小刀を購入したとされるのは、当時静岡県沼津市にあった菊光刃物店である。
事件直後の1966年7月初めに二人の警察官が菊光刃物店を訪ね、写真を見せた。長男・高橋国明は警察が店に来て、母親や職人らに写真を見せていたことが複数回あったとはっきり記憶している。
この店を夫と共に経営し、原審で検察側の証人として出廷した、当時42歳の高橋みどり(2023年没、享年97)の公判調書によると、
1967年7月20日、静岡地裁第一審14回目公判
――こがね味噌の会社の従業員の人達の写真を(警察が)持ってきて、「この中に見覚えのある人はいるか」というようなことを聞かれたことがありますか。
「はい」
――こがね味噌の従業員の写真というのは、何枚くらい持ってきましたか。
「20枚以上あったと思います」
――それをあなたに全部見せて、どういうことを聞いたんですか
「一人ひとりの写真を見せてくれまして、この中に見覚えのある顔があるかって聞かれました」
――それであなたは、一つ一つ見ましたか。
「はい、一枚一枚全部見ました。」
――その中に見覚えのある顔はありましたか。
「一枚あったんです」
――それでそれを、「この人に見覚えがあります」と言って警察の人に示しましたか。
「はい」
――まだその人の名前は分からなかったですか。
「全然、知らなかったです」
――見たところその人は、どのような服装で、いくつぐらいのようでしたか。
「30歳くらいで、毛を長髪にしていました」
――あなたがその写真を警察の人に示したところ、警察の人は何か反応を示しましたか。
「はい。私がこの人に見覚えがあると言いましたら、警察官が二人いましたが、二人顔を見合せたんです。それで私もちょっと変だなあと思って裏返したら、「袴田」と名前が書いてあったんです。それまでは裏、全然ひっくり返さずに、ただ顔だけ、一枚一枚見てたんです」
――あなたはその写真を見た当時は、まだ袴田という人の名前などは、新聞やテレビで見たことなかったんですか。
「全然、見ていません」
――写真なども、前に見たことがなかったんですか。
「見たことないです」
――その後、見覚えのある人について、実物を警察で見せられたことありましたか。
「はい、ありました」
――やはり、見覚えのある感じでしたか。
「そういう感じでした」
――その見覚えのある人というのは、どこで見たという記憶でしたか。
「おそらく店で見たんじゃないか、と思います。
――店以外では、別にそういう機会はないですか。
「少ないです」
――あなたはたいてい店におられるのですか。
「ほとんど朝から晩までおります」
――そういうことから、店で見たというんですか。
「そうです」
――店におられたお客として見た、ということになりますね。
「そうですね」
――いつごろ見たという感じですか。
「比較的、その写真見せられて新しい時期に、二、三カ月前のような記憶なんです」
――三、四月頃くらいという感じですか。
「じゃないかと思います」
――その人に品物を、あなたの店で売った記憶はありますか。
「何か売ったような記憶はあるんです」
――くり小刀を売ったかどうか、覚えていませんか。
「それは全然覚えていません」
菊光刃物店は多数の客が来店して繁盛していた。犯行時の凶器とされる1本500円のくり小刀と同一の刃物は、菊光刃物店でも扱っていた。その年の3月ころに15本仕入れ、証言の時点では13本が売れていたという。
取調べ時の録音テープ46時間分が、2015年に開示された。その中に凶器とされたくり小刀に関連する「自供」が含まれている。1966年9月6日のことである。
――あの晩、何か持って行ったものある?
袴田「刃物です」
――どこで買ったの?
袴田「沼津です。沼津に遊びに行ったときに、その店の前を通りまして、刃物を見ているうちに何となくほしくなった」
208 くり小刀は被害者の一人である次女の足下に落ちていた。袴田の自白は変遷している。当初は「奥さん(被害者の一人)にもらった」(9月6日付調書)となっているが、その後の調書では「2月か3月に沼津の金物屋で買った」と修正している。
2014年のまだ寒いころ、高橋みどりは病床に伏していた。「私、袴田さんを見ていないんです。本当は見覚えがなく、思っていることとは違う証言をした…」
みどりの長男・国明の記憶によれば、静岡地裁での証言から戻ってきたみどりに国明は声をかけた。「終わった?どうだった?」みどり「証言の仕方って、教えてくれるのね」警察・検察の誘導が疑われる。
みどりが警察や法廷で見せられた28枚のプリントには、袴田の写真だけが二枚忍ばせてあった。弁護人の尋問によれば、
――写真は袴田のが二枚あるようですが、そのうち一枚だけに見覚えがあるんですか。
「そうです」
――証人(みどり)のお店には平均して一日何人ぐらいの客が出入りしていますか。
「平均しますと、七、八十人になると思います」
――それで、三、四か月前のお客さんの記憶がありますか。
「ある人もおりますし、わからない人もおります」
――袴田の場合は憶えていた、というのは、何か特徴があってのことですか。
「特徴があったか何か、よくわからないですけれども、写真見たら偶然、この顔に見覚えがあったんです」
国明は事件当時母親のもとへ警察が何度も訪れたことをよく覚えている。そのたびに数十枚の写真を見せられていたが、母は「見覚えのある顔はない」とはっきり答えていた。あるときは二人の捜査員が来て、「犯人がこの店で刃物を買ったと言っている」と言いながら、犯人が書いたという手書きの地図を示した。駅から店までの地理関係がほぼ間違いなく記されていたため、みどりは「そうなのであれば、店に来たのかもしれない」と答えた。手書きの地図は検察官によると、
「被告人は、くり小刀は、沼津の菊光刃物店で買い、金額は500円、鞘は茶色、売ってくれた人は40くらいの和服の女性と述べ、沼津駅から菊光刃物店までの道筋まで図に書いた」
となっている。
「袴田の写真に見覚えがある」とみどりが発言したことは一度もなかったと国明は言う。
1990年代、再審請求運動支援者らの会合に出席したみどりの夫・福太郎と国明は、凶器とされたくり小刀の刀身は、先端部分がわずかに欠けているだけで、ほぼ原形をとどめている、ということを知った。
国明「それはあり得ない。くり小刀は無理が利かない、細かい仕上げ工作専用の木工道具で、非常にデリケートである。荒使いには適していない。凶器とされるくり小刀の刃渡りはわずか12㎝、柄の部分の刃幅は2.2㎝しかない。被害者4人に計40か所以上の傷を負わせ、硬い肋骨の切断や貫通といった傷を負わせた場合、刀身は折れるか、大きく曲がり、切刃も大きく破損してしまい、ほぼ原形をとどめることは絶対にない」
国明はこの点について「沼津朝日」(2010年6月27日付)に投稿した。読売新聞もこれに呼応した。
くり小刀には袴田の指紋も血痕もなく、血痕それ自体がついていなかった。警察は火炎による高温で、指紋も血痕も消失したという。
1993年、日本大学医学部教授押田茂實が、くり小刀について鑑定書を提出した。「凶器とされるくり小刀では、被害者の遺体にあるような損傷はできないことが明らかだ」と言う。
213 「B」についての検察側による虚偽証言
控訴審の東京高裁で、五点の衣類の一つであるズボンの装着実験が三回行われたが、袴田には小さすぎて穿けなかった。検察側は「味噌につかってズボンが縮んだ」と言った。またこのズボンには「B」文字のタグが付いていた。検察は「B」が肥満体用を示す「B体」であると主張し、それが認定された。つまり「ズボンが縮んだ」という主張が通ったのである。
ところが五点の衣類の発見当時に、捜査員がズボンの製造業者を訪れたとき、業者の役員が「Bの文字はB体ではなく、色を示す記号である」と供述していた調書が、再審請求審で初めて開示されたのである。つまり、検察は「B」が色を示すことを知っていたのだ。
214 再審請求審のときにその調書が開示されて慌てた検察官は、業者を訪れ、「Bが色を示すというのは、勘違いじゃないか」業者「いえ、絶対に間違いありません」
弁護団が再審請求審の法廷に業者を呼んで証人尋問するよう請求したところ、検察側は強く「必要ない」と主張したのだが、それから暫くして業者から弁護団に「検察から連絡があって、改めて調書を取りたいから来てほしいと言うのですが、どうしたらいいでしょうか」との情報が入った。検察は業者の証人尋問には反対しておきながら、極秘に調書を採ろうとしていたのだ。
ズボンの共布捏造問題
215 1966年、袴田の逮捕後に、袴田の実家も捜索されたが、犯行に結びつく証拠は何も発見されなかった。ところがその1年2か月後に「五点の衣類」が発見されると、その12日後に、実家が再び捜索された。その時ズボンの共布が発見され、五点の衣類のズボンが袴田のものであるとされた。その時の実家の捜索は捜査本部の警部と警部補が行ったのだが、1993年支援者らがその警部補に聴き取り調査を行った。警部補曰く、
「上司からは手袋とベルトを発見するように指示されていた。」警部補が「袴田の実家に到着すると、すでに警部が1時間前に来ており、開口一番『タンスの引き出しを探したらどうか』と指示した。警部補が「やや不満を感じながら、タンスの最上段の引き出しを開けると、その一番上にズボンの共布がポンと置かれていた。」警部補が「押収の手続きを取っていると警部が、『もうこれが発見できたから、引き上げよう』といい、捜索はあっけなく終了した。静岡県警の捜査報告書によれば、警部補は共布について、
「タンク内より発見された黒色様ズボンと同一生地同一色と認められ、前記ズボンの寸をつめて切り取った残り布と認めた」
発見したその場で、味噌に漬かり変色していたズボンの共布だと一目でわかったという。おかしい。 前年の捜索で発見できなかった共布がいとも簡単に見つかった。おかしい。
支援者が「共布は警部が家人の目を盗んで、急いでタンスの引き出しに入れておいたのではないか」と言うと、警部補は「うーん」と否定も肯定もできずにいたが、「俺も年金生活者で、年金を削られたり止められたりすると困るんだ」
支援者「警部補もおかしいと考え、偽装工作の可能性が思い浮かんだが、それを軽々に口にすれば年金等で不利益を被らないとも限らないと、そんな意味で話されたのかと感じた。」
217 狭山事件1963でも同じ構図がある。石川一雄の自宅の家宅捜索が三回行われたのだが、初めの二回は10人以上の捜査員を動員し、2時間、井戸の中や天井裏まで徹底的に捜索した。ところが三回目の捜索では、3人の刑事が入り、20分後に、一人の刑事が石川の兄に鴨居のあたりを指さし、「探してくれ」と言うと、被害者の万年筆が発見された。しかもこの鴨居の高さは175.9㎝しかなく、やや離れた位置からみれば簡単に目につくはずである。
第十九章 最高裁の差し戻しと再審開始確定
「これらの事実は客観的に見るなら、誰の目にも無罪という結論を導き出す有力かつ決定的な武器なのであります。
(中略)
初めに有罪という歪曲された結論があって、そのために都合のよい解釈を集めて廻すというのでは、これはもう裁判ではありません。私から公正な裁判をうける権利さえ奪ってしまったのです。
(中略)
さて、とみに反動の波高い最高裁に於いて公正、平明が必ずや守られるという保証はない。この意味で、冤罪者が裁判の正義を託せるものがあるとしたら、それは唯一皆様であります。どうか皆様方の厳しい監視によって司法権の混迷に楔を打ち、全ての裁判官に公正と正義を堅持させて下さい。
心ある貴方へ。」
(1979年11月8日(東京高裁控訴棄却1976/5/18後、最高裁上告棄却1980/11/19前)、袴田巌さんの支援者あての書簡、青柳雄介『袴田事件――神になるしかなかった男の58年』文春新書220頁)
221 2020年12月22日、最高裁の林道晴裁判長「審理が尽くされていない。東京高裁による静岡地裁再審開始決定の取消決定は、著しく正義に反する」と審理を東京高裁に差し戻す決定をした。
2023年3月13日、東京高裁が再審開始を決定し、これに対して検察側が特別抗告をするかと見られていたが、結局断念し、再審開始が確定した。
東京高裁の大善文男裁判長は、この前の差し戻し審の段階で静岡地検に行き、検察側の味噌漬け実験を直接確認し、審理終盤の2022年12月には袴田と面会し、「お体はどうですか」と問いかけた。そして、再審開始決定の理由として、
「以上検討した通り、原審(静岡地裁再審開始決定2014/3)において提出された前記味噌漬け実験報告書等の新証拠は、「無実を言い渡すべき明らかな証拠」に該当する。したがって、前記味噌漬け実験報告書等について、刑訴法435条6号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」であると認めた原決定の判断に誤りはなく、本件再審を開始するとした原決定も、その結論において是認できる。
そして、原審は、本件再審開始決定に際して、A(袴田)に対する死刑及び拘置の執行を停止する旨の決定をしたが、同決定についても、Aが無罪になる可能性、本件再審開始決定に至る経緯、Aの年齢や心身の状況等に照らして、相当として支持できる。
本件即時抗告の趣旨は理由がない。」
袴田ひで子は巌に「もう大丈夫。安心しな」袴田無言。
223 過去に4人が死刑確定から生還できた一方で、無実である可能性がありながら、死刑が執行されてしまった例がある。敗戦後すぐの福岡事件の西武雄や、1992年に起きた飯塚事件の久間三千年(2024年6月10日、妻が第二次再審請求審で福岡高裁に即時抗告)などである。
久間の有罪の根拠とされたDNA鑑定は、このころ技術的にまだ不正確であり、別のいくつかの重大事件でも証拠とされながら、その問題点が指摘されている。
久間は死刑確定後2年で死刑が執行された。異例の早さである。当局がDNA鑑定の不備を隠すために執行したとも言われている。
刑訴法475条2項は「死刑確定から6か月以内に執行しなければならない」とするが、秋葉原通り魔事件の加藤智大は、死刑確定から7年5か月後に執行された。2012年~2021年の、死刑確定から死刑執行までの平均期間は7年9か月である。
袴田は1980年の死刑確定から44年も経過している。なぜか。それは法相も法務省も検察も、袴田が犯人でないことに気付いているからである。といって今さら「無実でした」と自らの汚点を認める勇気もない。だから再審請求審でできるだけ引き伸ばそうとし、あわよくば袴田が死ぬのを待っているかのようである。
今回の東京高裁の決定(2023年3月13日)でも、五点の衣類は、捜査側の捏造の蓋然性が指摘されている。
大善文男裁判長「1年以上味噌漬けされていたと確定判決が認定した事実に合理的な疑いを生じさせる」「事件から相当期間経過した後に第三者が隠匿した可能性が否定できず、事実上捜査機関の者による可能性が極めて高い」と、証拠捏造に言及した静岡地裁再審開始決定を指示した。
袴田ひで子「再審開始になりました。本当にうれしいです。私はね、57年間闘っているんですよ。本当にこの日が来るのを心待ちにしておりました。これでやっと肩の荷が下りたという感じです。」
袴田も支援者から言われて笑顔で応えたという。「今日はまあ勝つ日だと思うがね。最後の結果がこれから出るんだね」
検察はこれ以上抵抗できなかった。東京高検山本裕史次席検事「特別抗告の申し立て事由があるとの判断に至らず、抗告しないことにしました。」
第二十章 再審法廷
「神さま、僕は犯人ではありません。僕は毎日叫んでいます。ここ静岡の風に乗って、世間の人々の耳に届くことを、ただひたすらに祈って僕は叫ぶ。
お母さん。人生は七転八起とか申します。最後に笑う人が勝つとか申します。また皆さんと笑って話すときが絶対に来ます。」(1967年2月、母宛書簡)
228 袴田は78歳で釈放され、88歳になっていた。釈放からの数年間は、ひで子によれば「獄中にいた時の緊張感の名残りなのか、あくびをすることが一度もなかった。」
2023年10月27日、静岡地裁で再審初公判が行われた。検察の出方次第では早期決着の可能性もあったが、検察側は「(味噌に1年2か月漬けても)血痕の赤みが残る可能性がある」とする専門家の鑑定書を新証拠として用意し、有罪立証する方針であった。そのため公判の回数が増え、判決までの時間がかかると予想されたが、裁判所は2024年中に判決を出すことを明らかにした。
ひで子「あと1年だから、今できることは何でもやる。検察には100歳まで闘わせないで、とお願いしました。」
2023年10月27日、静岡地裁で再審初公判。国井恒志裁判長、検察官3人、弁護側は18人の弁護士とひで子。ひで子が「補佐人」を勤める。大崎事件弁護団事務局長の鴨志田祐実弁護士が激励に駆けつける。
2023年3月の東京高裁再審開始決定では「血痕は1年以上味噌に漬かっていれば黒褐色になる」としていた。
検察「袴田が被害者を突き刺し、現金などを奪って放火し、被害者4人を殺害した」「赤みが残り得ることを立証していく」「被告の犯人性を裏付けていく」
これは「赤みが残り得る」という可能性論にすぎない。そんなことで有罪死刑とされたらたまらない。再審請求審で結論は出ている。
小川秀世弁護団事務局長「有罪立証は不可能。有罪立証を放棄することこそが検察官の職責である。犯行は、状況証拠から、怨恨による複数犯である。検察は自白調書の日付や内容を変造した。袴田巌さんに今日この日に出廷できぬほどのダメージを与え続けたのは、野蛮な警察・検察です。どうかこれ以上の有罪立証はやめてほしい。」
233 被告の罪状認否では袴田に代わって姉ひで子が証言台に立った。
「袴田ひで子でございます。1966年11月15日、静岡地裁の初公判で弟の巌は無実を主張しました。それから57年にわたって紆余曲折、艱難辛苦がございました。本日、再審裁判で、再び私も、弟の巌に代わりまして無実を主張いたします。
長き裁判で、裁判所、ならびに弁護士および検察庁の皆様方には大変お世話になりました。どうぞ、弟の巌に真の自由をお与えくださいますようお願い申し上げます。」
これまでひで子は非公開の三者協議(裁判官、検察官、弁護士)で審理される再審請求審では意見陳述したことがあったが、傍聴人もメディアもいる公開の法廷に立ったのはこれが初めてだった。
ひで子「最後は無意識のうちに声が震えてきました」
「無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会」の樋口郁子は「艱難辛苦」という言葉を聞いて胸が熱く締め付けられた。弁護人席にいた女性弁護士も涙を抑えきれない様子で、それがまた傍聴人の涙を誘った。
小川秀世弁護士「裁かれなければならないのは、信じがたいほど酷い冤罪事件を生み出してしまったこの国の司法制度です。」裁判や再審請求の過程で虚心坦懐に事実と向き合えば、この事件が虚偽自白と捏造証拠に基づく冤罪だと気づいた関係者も多かったのではないか。
11月10日、第二回公判。高橋国明73が傍聴に来ていた。凶器のくり小刀を袴田が購入したとされる菊光刃物店の長男である。事件に関わる重要な生き証人である。国明の母みどりは再審開始決定の1か月前、2023年2月に97歳で老衰のため亡くなっていた。
236 弁護側は犯行に使われたとされるくり小刀の実物を提示し、それが廷内のスクリーンに映し出された。被害者4人に40か所以上の傷を負わせたにしては刃こぼれもなく折れ曲がってもいない。弁護団「このくり小刀では、被害者にある傷は作れず、犯行は困難」「12㎝のこの小さな刃物で4人も殺せますか」
また弁護団は犯行時に袴田が着用していたとされる雨合羽や、放火に使用されたとされる混合油のポリ樽、袴田のゴム草履などを提示した。ゴム草履には血痕も油も付着していないという鑑定書も示した。
第三回公判 この裁判は史上五件目で、36年ぶりの死刑確定再審であり、社会的にも大きな注目を集める再審である。傍聴希望者が多くて傍聴できない人が出ることは容易に予測できた。それにもかかわらず静岡地裁は、一般傍聴者が30名弱しか入れない202号法廷を使った。しかもジャーナリストの江川紹子らが地裁で最大の201号法廷で審理を行い、別室にモニターを設置して傍聴できるようにと事前に要望書を提出していたのにである。裁判所はこの要望を全く顧みず、201号法廷が開いているのにも関わらず、202号法廷を用いた。その理由を静岡地裁に問い合わせたところ、「裁判体の決定です」と木で鼻をくくったような答えだった。袴田裁判という特異な出来事に集まっている国民の関心に、裁判所は応える気がまったくないようだった。(大問題)
238 五点の衣類については、2014年の静岡地裁(村山浩明裁判長)での再審開始決定や、2023年3月の東京高裁(大善文男裁判長)での再審開始決定でも、「捜査機関による捏造の疑いがある/捏造の可能性が極めて高い」を指摘されているにも関わらず、検察側は改めて、「五点の衣類は袴田の犯行着衣であり、従って袴田が犯人であるとし、また捏造は非現実的で実行は不可能である」と強く否定した。しかしこれは議論の蒸し返しである。それを承知でやるとは厚顔無恥そのものである。
また検察側は(味噌会社の)元同僚の証言などから「事件の前に被告が着用していた衣類と酷似する」として、五点の衣類が袴田のものだと強調した。
検察側はズボンの共布が袴田の実家から発見されたとして、ズボンが袴田のものであるという主張も蒸し返した。前述の通り、警部が先に行って共布をタンスの中に見つけやすいように隠し、後から行った警部補にそれを発見させたと疑われる。これはB体とB色、装着実験とも関連する。
検察側は「捏造するという合理的根拠がない」とし、五点の衣類を味噌タンクに隠匿することに関しては「味噌会社の協力なしには著しく困難」「従業員などの告発から捏造が公になるリスクが高い」などとし、「大規模な捏造計画を企図し、実行することは考え難い」とした。
240 ひで子は検察側の態度に関して「今日の裁判は何か書いてあるものを読んでいるだけという感じでしてね、味噌工場のタンクは味噌会社のたっての希望で検査しなかったと言うんですよ。これじゃ冤罪はなかなかなくならないなと思いました。」
241 第四回公判 弁護側の要求で五点の衣類のうちのズボンとステテコの実物が法廷で公開された。
国井裁判長「午後の法廷は異臭が漂うので、異臭に弱い人は退廷してください」
傍聴席三列目にいた浜松市の68歳の男性「毒じゃないんですよね」
何人かが失笑
裁判長「次も声を出したら退廷を命じます。席の番号は何番だね」
職員「○○番です」
裁判長「○○番の人、次は退廷です」ええ?
後程68歳の男性「法廷は声を出しちゃいかんのですね。この空間は裁判長のもので、我々傍聴人はただじっと黙って聞くだけ見るだけしか許されず、大人しくしていないといけないのですね」おかしい!
242 鉄紺色のズボンとステテコ、それに五点の衣類が入れられていた麻袋が公開された。ステテコは白から茶色に変色していた。弁護側が「手に持って見て欲しい」と要望したが、破損の恐れがあるとして、テーブルの上に置いて示され、麻袋も段ボールの中に入ったままの状態で示された。
国井裁判長は弁護団に促され、その場で立ち上がって衣類を見ていた。左陪席の裁判官は証言台近くまで移動して見つめた。
弁護団はステテコのサイズがズボンより大きいこと、そしてそれは不自然であることを指摘した。また五点の衣類に似た白や緑の生地を1年2か月間味噌につける実験をしたところ、それが味噌の色に染まると主張し、それなのに発見された時の五点の衣類は元々の生地に近い色の白や緑のままで見つかっていると指摘した。つまり五点の衣類は発見直前に入れられており、それは捏造した証拠だと訴えた。
243 また弁護団は、「再審請求審でも二度にわたり、捜査機関が、事件からしばらくして味噌タンク内に隠匿した捏造の可能性が高いと判断された」と指摘し、「検察側の主張は、確定審から何も変わっていない」と指摘した。
ステテコはズボンの中に穿くはずなのに、ズボンよりも血痕が広範囲に、大量かつ鮮明に付着している。
244 静岡地検の奥田洋平次席検事「経年劣化して衣類の状況が変わっていると、誤った事実を読み取る可能性があり、衣類の状況から捏造だとするのは誤りだ」とした。
2023年12月20日、第五回公判 年内最後の再審公判
五点の衣類が発見されるまで犯行時の着衣とされていたパジャマが法廷で開示された。このパジャマは警察のリークによって、「血染めのパジャマ」と報道されたが、実際は肉眼では確認できない程の染みがある程度だった。
ひで子「検察官はこの期に及んで、まだ巌に死刑を求刑するというのでしょうか。…これはもう絶対に勝つ、と思ったんです。」「巌はね、四人も惨殺するような人間ではありません。どちらかというと寡黙で大人しいような人間です。私は、必ず無罪判決が出ると信じています。なぜなら、巌は無実なのですから。いま巌は私と家で暮らしています。一つ屋根の下に弟がいる。手が届くところに巌がいる。私はそのことをとてもうれしく感じます。無実が決まったら巌とのんびり旅でもしたいですね。」
2024年1月16日、17日、第6回、第7回公判 弁護側の主張立証
西嶋勝彦弁護士の姿がなかった。西嶋勝彦は1965年、弁護士登録。八海(やかい)事件1951、徳島ラジオ商事件1953、仁保(にほ)事件1954、島田事件1954など重大冤罪事件をいずれも無罪に導いた。1990年から袴田事件弁護団に加わり、2004年から団長を務めていた。2024年1月7日死去。間質性肺炎。享年82
248 小川弁護士「被害者の写真から、手首や足首に縄で縛ったような痕が確認できる。遺体の近くに縄の断片のようなものも写っている。刺し傷は被害者の胸に集中している。」弁護側はこの事実を2024年になってから発見した。小川「金銭目的の袴田さんの単独犯行というのは誤りで、怨恨による複数犯による犯行であることが確実だ。」
静岡地検「ロープ痕だと判断することはできない。遺体には縛られた痕も、紐もない。」
小川弁護士は裁判中に「異議あり」とし、「検察は事実の取捨選択をしており、客観性がない」「証拠に基づかず、検察官の想像にすぎない」と異議申し立てをしたが、裁判長はほとんど取り上げなかった。
2月15日、第九回公判 1年2か月間味噌に漬かった衣類に付着した血痕に赤みが残るかどうか
弁護側「衣類が1年以上味噌漬けにされたことに間違いなく、それでも赤みが残るという証明がなければ有罪とは言えない」
検察側「犯行着衣だと示す様々な証拠がある。付着した血痕に赤みが残る可能性があれば、犯行着衣だと言える」
笹森学弁護士「検察側は実験もせずに、赤みが残るという抽象的可能性だけでよしとし、必ず赤みが残るという立証ができていない」
地裁は五人の法医学者らの証人尋問を第10回公判以降に実施することにした。
3月25日、第十回公判
検察側と弁護側双方とも法医学者二人ずつの証人が出廷した。検察側は赤みが残る可能性があるとし、弁護側は黒くなる。
検察側証人の池田典昭・九大名誉教授「1年以上味噌漬けされた血痕には赤みは残らない。だから黒くなるという結論は正しい。(従って五点の衣類が)1年以上味噌漬けされたかどうかは疑わしい。」池田は黒色化が正しいと言う。「赤みが残らないことは常識中の常識。(残るという説には)違和感がある、無理がある。赤みが残るかどうか、本来残るわけがない」「五点の衣類の写真は、味噌漬けされたにしてはあまりにも白く違和感があった。」としつつ、次第に論調を変え、「例外条件を考慮しなければならない。血液と血痕の性質の違いとか、酸素濃度や乾燥という変色の進行を阻害する要因が、弁護側の鑑定では考慮されていない。」
検察側証人の神田(こうだ)芳郎・久留米大教授「赤みという表現は主観的であるが、赤みは残り得る。」へえ。「当時の味噌タンク内の酸素濃度や乾燥状態などは正確に想定できない。赤みが残らないとした東京高裁決定には科学的リテラシーがない。血痕に赤みが残る可能性は、いろいろな条件を考えれば否定できない。」しかし、これでは赤みが(確実に)残るということは証明できない。
翌3月26日、第十一回公判 証人尋問二日目
神田芳郎は検察側の「共同鑑定書」の作成を主導した。その鑑定書では「赤みは残り得る」としているが、そのことに関して弁護側証人の清水恵子・旭川医大教授「(赤みが残り得るというのは)普遍的な科学論争から逸脱した稀な事象である。「共同鑑定書」は抽象的な可能性を指摘するだけで、科学的反証とは言えない。」
「共同鑑定書」は、「味噌タンク内に隠された五点の衣類に、酸素が少なく、血痕の黒色化の速さが遅く、赤みが残る可能性がある」としているが、実際にどういう状況で、どのくらいの酸素濃度の時に赤みが残る可能性があると明言していない。
清水恵子「(味噌タンク内に)黒色化の進行に十分な酸素があった(はずだ)」
三日目の3月27日、第十二回公判
裁判官が検察側証人と弁護側証人の計5人に、同時に尋問を行った。対質尋問という。
裁判官 1年以上味噌に漬かった血痕の赤みが黒くなるメカニズムに異論があるか。
清水恵子(弁護側) ない。
池田典昭(検察側) ない。
裁判官 当時の状況を踏まえて赤みが残る可能性はあるか。
神田芳郎(検察側) 当時の状況を踏まえて可能性がないとは言えない。弁護側が赤みが残らないと断言することに違和感を感じる。
清水恵子(弁護側) 当時の状況を100%再現することは不可能であるが、科学者として実証実験を行い、より起こり得る現象を結果として導き出している。赤みは残らない。
256 検察側が「必ず赤みを失うとまでは言えない」というのは曖昧であり、これでは有罪立証はできない。検察側が「五点の衣類が(袴田を有罪とする)間違いのない証拠だ」と言えなければ、「無罪推定の原則」に従い、無罪とすべきだ。赤みが残るかどうかわからないのであれば、五点の衣類が有罪の証拠であるとは言えるかどうかわからない。どちらも決定的でないとすれば、無罪が順当である。
袴田から一人息子への詫び状
4月24日の第十四回公判で審理がほぼ終了した。
257 検察側は「五点の衣類が味噌につけられていた1年2か月間に、血痕のDNAが分解された可能性が高い」とし、(DNA鑑定の結果、袴田の型と一致しないとしても)「五点の衣類が犯行着衣であることを否定するものではない。弁護側の鑑定は信用できない。犯行着衣でないことを示す証拠にはならない」
2018年、再審開始を取り消した東京高裁即時抗告審の大島隆明裁判長「五点の衣類が劣化している可能性が高く、(DNA鑑定には)個人を識別する証拠価値がない」として、(DNA)鑑定結果の信用性を認めなかった。
DNA鑑定で袴田の型と一致せず、五点の衣類の赤みの残存に大きな疑義が生じている。
4月24日の公判で、小川秀世弁護士が立ち上がった。「『主よ、いつまでですか』を証拠として取り上げてください」
『主よ。いつまでですか 無実の死刑囚・袴田巌獄中書簡』(新教出版社)は、袴田が獄中で綴った手紙や日記などを集めて一冊にまとめた書籍で、「無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会」が編んだものである。潔白の訴えと再審を願う祈り、肉親への切々たる思いなどが感動的な文章で記されている。身に覚えのない罪で獄中の人となりながらも、決して絶望や自暴自棄に陥ることなく、真実が白日の下にさらされる日を待ち望みつつ、一日一日を大切にし、ひたむきに生きてきた袴田巌の心情に接することができる。
小川秀世弁護士「ここに袴田さんの有名なフレーズがあります。一人息子に宛てて書いたもので、父は不当な鉄鎖を断ち切る闘いをしている、という意味のことが記されています。これはまさに袴田さんの人格証拠ではないでしょうか」
検察官「我々は事実と証拠に基づいて証明している。証拠採用には不同意です」
小川「この書籍は第一次再審請求の際にも採用されているものです。当時の袴田さんの心情を知る上で非常に貴重な証拠です」
検察官「書籍は編集・編纂されており、事実とは異なる部分があり、事実そのものではない。」(屁理屈。事実を編集したのでは)
結論は持ち越しとなったが、同書から読み取れることは、袴田が気の遠くなりそうな長い年月の間、終始一貫して無実を訴え続け、紛れもない無実の意識を記録し続けることで、彼の無実の傍証となっている点である。冤罪を晴らそうと必死にもがき続けていることが非常によく表現されている。また袴田から息子への手紙の中で、
「警察はチャン(袴田)を逮捕したが、その間違いは必ず判ってもらえると信じていたが、その道理がこなごなに砕かれてしまった。」「私は今度の濡れ衣でお前(息子)の面倒をみてやることができなかった。本当にすまなく悔しくてならない」
有罪立証がないのに死刑を求刑 それは検察の組織論理だ。
2024年5月22日の第十五回公判で結審となった。
検察側「犯人は味噌工場関係者であることが強く推認される。袴田さんは犯人の行動をとることができた。(そういう風に仕組んだからでは)五点の衣類は犯行時の着衣であり、事件後に袴田さんが味噌タンクに隠した。左手中指の傷など、袴田さんが犯人であることを裏づける事情が他にもある。」
弁護側「被害状況などから、犯人は一人ではなく、複数犯。強盗目的ではなく、怨恨に根ざした犯行。五点の衣類は、捜査機関が袴田さんを犯人とするために逮捕後に捜査機関が味噌タンクに隠した捏造証拠だ。袴田さんの自白は、捜査機関に強要されたもの。(袴田さんを犯人とする)直接的で確かな証拠はなく、袴田さんは犯人ではなく、無罪である。」
被害者遺族の意見陳述書を検察官が代読した。事件当時親類宅にいて難を逃れた、専務の長女の遺族の意見は、
「尊い4人の命が奪われたことをどうか忘れないでほしい。船で釣りを楽しんだり、東京見物に出かけたりしていた仲の良かった家族だった。さみしい。一人ぼっちになっちゃった。落ち込むことが多かった。事実を精査し、真実を明らかにしてほしい。」
体調がすぐれない袴田に代わって姉・ひで子が最終意見陳述を行った。
「ひとたび狙われて、投獄されれば、肉体深く食い込む虐待、あの虚構、虚構の覆われた部屋、あの果てしなく、底知れぬ眩暈(げんうん、めまい)、最早正義はない、立ち上がって、眩暈(くら)む、火花、壁に飛び散る赤い血、昔の悲鳴のように、びくりとし、立ち上がっても、投獄されれば、最早帰れない。最早正義はない。十三夜のお月さんが、南東に昇った7時の獄である。
息子よ。お前はまだ小さい、分かってくれるか、チャンの気持を、勿論分かりはしないだろう、分からないと知りつつ声を限りに叫びたい衝動に駆られて成らない、そして、胸いっぱいになった、真の怒りをぶちまけたい。チャンが悪い警察官に狙われて逮捕された、昭和41年8月18日その時刻は、夜明けであった。お前はお婆さんに見守られて眠っていたはずだ。
今朝方、母さんの夢を見ました、元気でした、夢のように元気でおられたら嬉しいですが、お母さん、遠からず真実を立証して帰りますからね。
弟巌の手紙です。そして47年7か月、投獄されて居りました。獄中にいる時は、辛いとか哀しいとか一切口にしませんでした。
釈放されて、10年経ちますが、いまだ拘禁症の後遺症と言いますか、妄想の世界に居り、特に男性への警戒心が強く、男性の訪問には動揺します。玄関の鍵、小窓の鍵など知らないうちに掛けてあります。就寝時には電気をつけたままでないと寝られません。釈放後、多少は回復していると思いますが、心は癒えておりません。
私も一時期夜も眠れなかった時がありました。夜中に目が覚めて巌の事ばかり考えて眠れないので、翌日の、仕事に差し支えがあるために、お酒を飲むようになり、アルコール依存症のようになりました。今はと言うより、ずいぶん前に回復しております。
今日の最終意見陳述の機会をお与えてくださいまして、ありがとうございます。
長き裁判で裁判長様はじめ皆様には大変お世話になりました。
58年闘って参りました。私も91歳でございます、巌は88歳でございます。余命幾ばくもない人生かと思いますが、弟巌を人間らしく過ごさせてくださいますよう、お願い申し上げます。
袴田ひで子」
ひで子は弟の思いを必死に伝えようとしていた。引用は母親に宛てて書いた手紙などをもとにしている。しかし実際はこの手紙が書かれたときには母親はすでに他界していた。
午後は検察側の論告求刑から始まり、検察官は淡々と死刑を求刑した。
その刹那田中薫弁護士が、抗議の意味で、右手で机を強く5、6回叩いた。その音は静寂な廷内に響き渡った。傍聴席からも憤懣やるかたない声が上がった。「えっ?」「どういうことだ!」その直後村崎修弁護士が「裁判官!」裁判官はそれを顧みることなく「休廷します。」村崎弁護士が検察官席に詰め寄ると、国井裁判長がそれを制止した。「休廷です。弁護人、退廷してください。」
村崎弁護士「こんなのないですよ。検察は何一つきちんとした立証ができていません。袴田さんが犯人の可能性があるという程度のことだけで、まったく証明になっていない。証明がないのに死刑求刑なんてできるはずがありません。してはいけないことです。これは検察官による職権乱用です。私は検察官に対して職権乱用の告訴状を事前に用意していたくらいなんです。無実の袴田さんに対して“死刑に処す”という暴挙は、殺人未遂罪での告訴でもいいくらいだと今でも思っています。これは国家による重大な犯罪行為ですよ。こんなことがまかり通るようであれば、日本の司法は崩壊していると言わざるを得ません。」
弁護側の最終弁論は2023年3月の東京高裁での再審開始決定時と同様、「検察側の立証はすべて否定されている。証拠価値のないものだ」とし、五点の衣類についても「袴田さんを犯人に仕立て上げるために捜査機関が捏造した証拠」だと主張して、無罪を求め、結審した。
再審公判は2023年10月から始まり、2024年5月22日までで7か月に渡った。市村寛は佐賀地検時代の佐賀市農協背任事件で主任検事を務めてから、弁護士に転じ、現在「日弁連再審法改正実現委員」をして冤罪防止に取り組んでいる。市村は言う。
「こんなデタラメな証拠構造では、袴田さんに無罪判決が下されるのは間違いない。検察側もそう思っているはず。ただ一つ検察が譲れないのは、判決の中で証拠捏造が言及されることだ。これはどうしても避けたい。それに触れられなければ、一審で無罪が確定するだろう。そうでなければ検察は沽券にかかわるとして控訴するだろう。検察とはそういう組織です。」
エピローグ 階段を登りきる日
270
「生命の崩壊が、どれほど精神的混迷であるかは、死刑判決を受けたものでないと分からない。思えば、三年半前の今頃は、私は死刑確定で悲痛のどん底であった。あの肌あわだつような感覚は、凡そ一般人の想像を絶する。当時再審の壁は限りなく厚く、気軽に再出発するにはすでに過去が重かった。そうかといって真実に目をつぶり、諦めて行くには無実のこの肉体が承知しない。正に価値の転倒をしなければならない。(1984年12月7日、獄中日記)
「死刑囚、これは正しく底辺にうごめく者である。俺の望むものは真実である。それが外から内からさまたげられることなく現実となっていけたら、どんなにうれしいか。(中略)事実に基づいて再審開始が好転することは限りなく心強い意識で満ちる。(1982年3月11日、姉宛書簡)
271 2014年3月27日、袴田は47年7か月ぶりに釈放された。釈放されてから半年間、外出は散髪1回きりだった月もある。8月末に肺炎で倒れて入院し、その時胆石も見つかり、除去手術を受けた。1か月後に退院して体調がよくなり、東京や京都などにも出かけるようになり、笑顔も多く見られるようになり、会話も弾むようになった。
272 翌年の2015年、一人で浜松の街中へ外出することが日課になった。1日2回、計8時間出かけた時期もあった。2017年、同行者の歩数計で1万5000歩、袴田の歩幅では3万歩近くと思われる。灼熱の太陽の下でも、極寒の冬の日でも変わらなかった。行きつけの店で好物のラーメンを楽しむようにもなった。
再審公判が始まった2023年、ひで子「不思議なことに再審が始まるまでの直前の半年の方が(それまでの57年間よりも)長く感じました。」
袴田は拘置所に収監されて16年が経過したころ、身体を鍛えていた。袴田は釈放後も連日8時間超歩き続けた。273 袴田は拘置所に収監されていたころから狭い独房の中を歩き回った。
「獄窓に寄ると南の上空にお月さんが橙色の光を放っていた。久しぶりに見るお月さんに私は言い得ぬ46歳の憤りといまにみてろ出ていってやるから、という正義の気魄の躍動を両足で支え、希望を見て笑った筈なのに、いつしかお月さんぼんやりぼやけて目に映る。涙なんか今は無用なんだ。私は自分の肉体に怒りを覚える。私の肉体はどこまで正しいのか。迷路に立たされた時こそ足下を見、周囲を見極めて具体的に解いていかなければならないのだ。そう努力すれば必ず新しい勝利の視点が私にも与えられるに間違いないのである。私が生きるとは権力の犯罪を粉砕することです。共に闘うとは共に生きるとは、苦しみ悩み、汗し、重荷を負って高く遠い坂道を登っていくことです。」(1982年7月3日、ひで子宛ての手紙)
袴田が歩くことは、生きることは、どんな艱難辛苦に見舞われても決して諦めることなく、坂を登って高みを目指し、権力犯罪の闇を暴き、真実を明らかにする闘いであるように思われる。
274 浜松の街を歩く理由を袴田に聞いたことがある。
「袴田巌が浜松の街を歩いて、だんだん菌(悪)がいなくなったんだね。菌がいたんじゃ、しょうがねえっていうこと。それでも見回りを続けないと(菌が)出てきてしまうんで、神である袴田巌がいつも見回っているんだ。歩いていると年が若くなっていくのがわかる。どんどん元気になって、街は平和になっていくんだね。」
権力がどんなに袴田を極悪人に仕立て上げ悲哀を舐めさせようと、ありたけの勇気をかき集めた袴田の心の自由まで奪うことはできなかった。
275 袴田は支援者から贈られた二匹の猫に毎日愛情を注ぎ、慈しむように餌の心配をする。
私は2006年から袴田事件の取材を開始した。当時は輪島功一らボクシング界の支援が盛り上がっていた。もう18年になる。そのころひで子は勤務先の社宅に住んでいた。笑うことはなく表情は落ち込んでいるように見えた。ところが2014年に釈放された袴田と同居するようになると、見違えるような表情に変わった。破顔一笑。
その後袴田の拘禁症が解けたら、事件のこと、獄中のこと、死刑のことなどを聞いてみたいと私は浜松に通い詰めた。勢いあまって浜松に部屋を借り、二年間暮らして毎日袴田家へ顔を出した。しかし、拘禁症は解けることがなく、日によっては悪化しているのではないかと思えることもあった。
277 2024年9月26日の再審判決の言い渡しを待つばかりとなった。記者たちが「もうすぐ再審判決ですね」と問うと、袴田は「再審なんかとっくに終わったんだ。そもそも袴田巌を犯人だとする事件なんか最初からないんだ。変なことばかり言うのなら帰ってくれ」
あと一歩だ。
以上
本書は月刊『世界』2017年1月号から2018年12月号に連載された「神を捨て、神になった男 確定死刑囚・袴田巌」に加筆して編集し、また「第二十章再審法廷」は『サンデー毎日』への寄稿レポートを元に構成したものである。
袴田巌に関する年表(別紙参照)
以上
2024年10月13日(日)
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