2021年9月8日水曜日

吉田熊次『教育史教科書』 感想・まとめ

 

吉田熊次『教育史教科書』

 

 

感想 202196()

 

 

日本の学校教育は奈良時代から中国に倣って始まったが、教育の対象は支配階級ばかりだった。しかし空海がほんの一時的であったが、庶民に教育を施した時期もあった。

 

鎌倉室町の文化教育の暗黒時代でも、京都の公家や寺院で学問が継続し、頼朝は京都から公家の文化人を招聘した。足利学校や金沢文庫が開かれた。

 

徳川家康は円光寺を建てて学舎を開き、林羅山を用いた。家光の時、林羅山は書院と塾舎を築いた。これは昌平坂学問所(昌平黌、ひいては東京大学)の前身である。教育内容は儒学であった。

江戸時代には寺子屋(寺子屋は関西での名称で、関東では手習師匠)や家校で庶民の教育も行われ、大岡忠相はそれを奨励した。また庶民の教育機関は他に石門心学があった。

 

 

西洋中世キリスト教社会はギリシャ・ラテン文化を排斥し、アテネ大学を潰した。「キリスト教は西ヨーロッパに普及し、ギリシャ・ローマの思想を異端・邪説と見なして圧迫し、529年、アテネ大学に閉鎖を命じた。」078

 

ルネサンスは自由主義、個人主義、理性主義、主観主義を広め、現代にまで影響を及ぼした。

 

宗教改革=新教は一般大衆向けの小学校を普及した。

宗教改革(新教キリスト教)に抗して厳格な旧教主義(エスイタ宗徒、イエズス会)が起こり、フランスはその支配下におかれたというが、恐ろしい事だ。しかしその厳格さは新教に批判された旧来の堕落を是正するという意味もあったのかもしれない。

 

ミルトン1608-1674は先進的だ。「道徳の根本は自由であり、その中に宗教的自由、市民的自由、家庭的自由がある。第一は信仰の自由であり、第二は言論の自由で、第三は結婚・教育・思想の自由である。」118

 

ルソー1712-1778は主観を、ペスタロッチ1746-1827は社会を重視した。

 

 

感想 202197()

 

 西洋と日本の思想史の相違

 

 西洋では宗教(カトリック)を批判する力が起こった。ペトラルカ13041374に始るイタリア・ルネサンスを源流とする人文主義、理性主義、自然主義の言論は西洋の思想的主流である。

 

新教キリスト教はルネサンスの批判を受け入れつつ、またそれに抗して起こった。新教はキリスト教を維持する勢力でもあった。またカトリックは新教の批判に抗して厳格化(結果的にさらなる右傾化)して自己保存を図った。

 

 

日本はどうか。天皇制国家神道を明治維新時に掲げたが、突如明治2年にそれを止めた。それは単なる条約改正のための西欧思想の模倣のためか。それは西洋思想との思想的対決を避けたとも言える。

ところが日清・日露の戦争は国民的愛国心を高め、為政者は天皇主義を復活した。日本人は西洋思想との思想的対決・思想的訓練を省略してしまったようだ。文部卿福岡孝弟1881や文部大臣井上毅1893らの復古的言辞は、西洋思想の咀嚼や対決を経て生み出された教訓ではなかったようだ。それまでの西洋思想の吸収は条約改正のための単なる模倣に過ぎなかったのかもしれない。

 

日本人はこれまで西洋ルネサンスのように宗教(国家神道)を批判してこなかった。それに触れることを恐れてきた。慣習だと偽ってきた。日本は西洋のような思想的内乱状態(例えば宗教的内乱である三十年戦争1618--48)を経験してこなかった。日本人は国家神道を批判しなければ、思想的に自立できないのではないか。今でも歴史修正主義がまかり通っているのはそのせいではないか。

 

2021年9月7日火曜日

教育史教科書 吉田熊次 目黒書店 大正6年、1917年12月19日 感想 ・要旨

 

教育史教科書 吉田熊次 目黒書店 大正6年、1917年12月19日 感想・要旨

 

 

感想 202194()

 

日清・日露戦争を通じてそれ以前からも示されていた教育勅語を重視する国民教育がここに至って前面に大きく打ち出されてきたようだ。恐ろしい積極的軍国主義への始まりだ。

筆者は国家主義が大いに台頭してきたとは言うが、それに加担している風でもない。筆者は西洋の教育思潮と日本古来の国家主義思想との議論を望んでいるようだが、はっきりとは明言しない。*ただ淡々と語るだけだ。

 

 *明治131880年から明治231890年までの間に英米仏独の沢山の教育書が翻訳され、その中でもスペンサーやペスタロッチの教育説が最も広く行われた。しかし(福岡孝弟の)小学校教員心得(268 明治14年1881年6月)で力説された徳育主義と以上の教育説との関係については未だ十分に顧慮されていないようだ。(意味深長な言葉だ)276

 

感想 202193()

 

 歴史は事実を語ると言っても、教育者や思想家の生い立ちとか学校の修業年限や教科目に終始し、教育思潮の説明は一言三言で終わる、それでは、歴史的変遷がなぜ行われたのかについての真相がつかめない。筆者は明治初期の教育制度が模倣に過ぎなかったと言い、また君権・国権を意識した発言をしているが、筆者の行き着くところは歴史的変遷の真意を見極めることのないまま復古調に安住した感を受けるが、どうか。

 

感想 2021813()

 

 本書は本書出版の10年後の大正15年1926年刊行の中村孝也『新体国史』に比べれば、天皇制国家主義的色彩が少なく、比較的自由で独立した学問的言論を張っていたのではないかと感じた。

中村孝也は明治初期を「輸入に忙しかった、『国民的』自覚がなかった」と評するのだが、それは自らの自己中的史観を正当化するための口実に過ぎず、西洋の文物・思想の良さや先進性を全否定し、自民族中心主義史観の殻の中に閉じこもる正当な理由にはならない。西洋思想の長所を吸収しつつ、それに日本独自の改良を付け加えていくことも選択肢だったのではないか。

 

追記 2021815()

 

 著者吉田熊次は戦前に東大を退官1934(昭和9年)しているからGHQに教員不適格者とされることはなかったのだろう。ただし、1942年に国粋運動に関与(国民精神文化研究所研究部長)していたようだ。

一方『新体国史』の著者中村孝也1885.1.2—1970.2.51945.10ころ教員不適格者とされた。中村孝也60は東大教授を依願退官1945.10し、その後も大学教員を希望したが、GHQに教員不適格者と判定された。中村はその時の日記に「中村孝也、昨日を以て死去した」と綴っている。中村671952年、教職追放解除後、明治大学の教授になり、195974歳の時、同大教授を退職した。

 

感想 2021730()

 

本書の西洋教育史の部分を読んでいての感想だが、西洋が宗教至上の中世から文芸復興、宗教改革を経て、自然主義、理性主義と言われる時代になっても、依然としてキリスト教の影響を受け、キリスト教が人々の精神的拠り所になっていたようだ。明治時代に先進的と思われていた西洋の人々が精神的にキリスト教に根強く依存していることを当時の日本人が知るにつけ、そういう西洋のキリスト教のような巨大な精神的バックボーンを持たない日本人が、それに類するものが何かないものかと考えた時、天皇制を思い浮かべたことは自然なできごとだったのかもしれないと感じた。

 

本書の西洋教育史の部分は西洋の何らかの教育史に関する教科書(ドイツの?)を元にし、筆者がそれを要約し、感想を含めながら記述したものと思われる。概説的で何を言っているのかいまいち分かりかねる部分が少なからずあるが、やや詳述しているところもあって、そこは興味深い。

 

 本書は「聖徳太子」ではなく「厩戸王子」と記述し、日本の歴史時代(文字使用)は応神*から始まるとしている。そしてカタカナ(万葉仮名)やひらがなの発明はそれ以後だとしている。

 

*追記 応神天皇実在説を疑問視する人もいて、Wikiによれば111歳で死んだというが、信じられない。しかし日本書紀や古事記で応神天皇が生存していたと言われる時代に、歴史的事実(好太王婢391)があったことは確かである。

 

 それ以前の2世紀~3世紀、魏志倭人伝の中に邪馬台国の記述が出て来るが、それは遺跡(考古学)と中国の文献で想像することしかできない。

 

感想 202184()

 

本書最終の二章、第四編「明治以後に於ける本邦教育」第五章「明治三十三年より同四十年迄の本邦教育」と第六章「明治四十年以後の本邦教育」に関する感想

 

筆者は「戦捷」289*1とか「国民道徳」292*2とか淡々と語ってとぼけているが、「国民道徳」とは自民族中心主義の人間を育てるための道徳であり、戦捷とは武力による戦勝である。あるいは筆者はあえてとぼけているのではなく、もうとぼけないとやっていけない時代になっていたのだろうか。筆者は私利だけを求め、他人の不幸などどうでもよいと、エリート然としていたのだろうか。

 筆者が指摘する通り、教育勅語、日清戦争、日露戦争と経るに従ってますます「国民の自覚」が高まり、「国民教育」290もそれとともに整えられて行った。戦争は民衆の自民族意識を高め、教育もこれまでの輸入物の教材ではなく、小学校の修身(教育勅語の解説と例話)、国語、歴史については文部省がその内容を指定するようになった290ようだ。

 

*1「蓋し明治二十七八年戦役は、国民の自覚と共に国家主義を盛んならしめ、同三十七八年戦役は更にその傾向を一層深からしめたるなり。」とあるように戦争がナショナリズムを高揚させたことを指摘している。そして「海外においてもまた我が戦捷(勝)の原因を以て我が国の『(教育)勅語本位の徳育』に帰する者ありき。此の如く『国家・社会を本位とする思想』は次第に勢力を得たりといへども、それを徹底せしめんとの努力は、明治四十年、1907年以後において始めて大に現れたり。」

 

*2「是より東京・大阪二府を始め、他の府県に於いても大に『国民道徳』の講習に力め、教育に関する勅語の研究は大に興り、また漸く学術的となれり。」

 

 差別・選別の教育 中学校は尋常小学校とは違うんだ。エリートを養成するための学校なのだ。これが明治の教育政策だったようだ。

 

 「明治14年、1881年には改正教育令に基づき、『中学校教則大綱』を発布し、『中学校は高等の普通学科を授くる所にして、中人以上の業務に就くが為め、又は高等の学校に入るが為に必須の学科を授くるものとす』と規定し、」とある。271

 

 本書は日本の古代から江戸時代まで、西洋の19世紀までの教育、思想、明治以降の日本の教育の三部構成となっていて、それぞれが独立している。

 

 

要旨

 

001 凡例

 

一、本書は学校教育の実際と理論の発達を明らかにし、学校教育を(歴史を通して)根底から理解させることに努めた。

一、本書は著名な教育者の小伝を略述した。これは教育者の苦心を尋ねるとともに、(諸兄の)教育者的精神を激励し、その人の教育説の淵源を明らかにするためである。

一、欧州の教育理論と実際を詳述し、本邦教育の発達を説くことは簡略であるが、これは本邦現時の教育が多くは明治以後欧米のそれを移植したものであるからであり、明治以前の本邦教育は未だ複雑な発達を遂げなかったためであり、彼を重んじ、此れを軽んずるにあらず。(こういう言い訳が必要だったと解釈できる。)

002 一、本書は明治以前の本邦教育を説くに当たり、学術・文芸の進歩や、儒者の伝記・学説は省略した。これらは寧ろ文芸史に属するものと思ったからである。本書を授業で使用する際には、便宜本邦の歴史等と連関して教授して欲しい。

 

001 目次

 

第一編 緒論

 

第一章 教育史の意義

第二章 教育史研究の効果

第三章 本書の組織

第四章 未開民族の教育

 

第二編 明治以前に於ける本邦教育

 

第一章 本邦太古の教育

第二章 本邦上古の教育

第三章 奈良・平安時代の教育

002 第四章 鎌倉・室町時代の教育

第五章 江戸時代の教育

第一節 学校教育の実際

第二節 学校教育の理想

 

第三篇 欧米に於ける教育の発達

 

第一章 ギリシャ時代の教育

第一節 古典時代の教育

第二節 ギリシャ民族時代の教育

第三節 ギリシャの教育家

第二章 ローマ時代の教育

第一節 上代の教育

第二節 古典時代の教育

003 第三章 中世の教育

第一節 キリスト教と教育

第二節 中世の大学

第三節 騎士の教育

第四章 文芸復興時代の教育

第一節 文芸復興の伝播

第二節 人文主義の教育説

第三節 文芸復興時代の教育の実際

第五章 宗教改革時代の教育

第一節 宗教改革時代の教育の特質

第二節 新教主義的教育思潮

第三節 人文主義的教育思潮

004 第四節 宗教改革時代に於ける教育の実際

第六章 西暦第十七八世紀の教育

第一節 エスイタ宗徒の教育

第二節 自然主義的教育思潮

第三節 汎愛主義の教育思潮

第四節 宗教主義の教育思潮

第五節 西暦第十七八世紀に於ける教育の実際

第七章 西暦第十九世紀の教育思想

第一節 文芸的新人文主義の教育思潮

第二節 理性的新人文主義の教育思潮

第三節 社会的新人文主義の教育思潮

第四節 自然科学主義の教育思潮

005 第八章 西暦第十九世紀の学校教育

第一節 ドイツにおける学校教育の発達

第二節 フランスに於ける学校教育の発達

第三節 英国に於ける学校教育の発達

第四節 北米合衆国に於ける学校教育の発達

 

第四篇 明治以後に於ける本邦教育

 

第一章 明治初年の教育理想

第二章 明治五年より同十三年までの本邦教育

第三章 明治十三年より同二十三年迄の本邦教育

第四章 明治二十三年より同三十三年迄の本邦教育

006 第五章 明治三十三年より同四十年迄の本邦教育

第六章 明治四十年以後の本邦の教育

 

 

001 第一編 緒論

 

第一章 教育史の意義

 

 教育史は教育の事実と理論の発達・進歩を明らかにする。教育の事実はどんな社会にも存在する。教育の理論は教育の事実の後に起こったものだが、教育に関する思想は教育の事実と共にある程度は存在したから、現今の教育説は皆過去の思想と脈絡・連関する。だから現今の教育事実と教育思想を理解・批判するためには、教育史を講究しないわけにいかない。

002 狭義の教育と広義の教育とがある。狭義の教育は未開民族の間では未だ著しく発達していない。狭義の教育が発達した後でも時代や民族によって教育の趣を異にする。

003 狭義の教育は一定の目的を持ち、具案的・継続的に行われるから、必然的に一定の理想によって統括される。こうして教育理論が生ずる。教育の理論は民族の理想によって規定されるが、思想界の変動によって左右されることが多い。これを明瞭にすることも教育史の任務である。

 

第二章 教育史研究の効果

 

004 本邦の小学校教育は明治初年合衆国のそれに倣って実施し、後にヨーロッパ諸国の教育を参考にして現在のように改善された。合衆国の教育もヨーロッパ諸国から学んだものであるが、ヨーロッパ諸国の小学校は中世に始まり、ギリシャ時代・ローマ時代の教育思想の影響も受け、幾多の変遷を経て、近世になって大いに発達し、今日に至っている。教育史を研究することは現今の教育を根本的に理解するのに役立つ。

005 教育がその発達の過程で社会の事情と時代の思潮の影響を受けてきたのだとすれば、世の中が進化するとともに、教育の中に現今の社会の事情と学術の発達に適合しないものが混入するのは当然である。どんな教育事実とどんな教育思想がこういう欠点を持っているのかを明らかにするのも教育史研究の効果の一つである。教育史研究は教育の改善・進歩に指針を与える。

 教育史は教育者の精神修養に資する。それは教育史上の古今の人物は教育のために多大の努力を捧げたからだ。教育史を学び、古今の教育の変遷を尋ね、民族の興亡と教育の消長との関係を明らかにするとき、教育の重要性が分かるから、教育史研究は教育的精神を激励する効果が大きいと言える。

 

第三章 本書の組織

 

006 本邦の教育は本邦の歴史と国情とを基礎とするから、本邦に於ける教育史は本邦を中心としないわけにいかないが、明治維新以後の本邦の教育は実際でも理論でも欧米に学んだところが多い。従って、本書では第一編「緒論」に次いで第二編を「明治以前に於ける本邦教育」とし、次に第三篇「欧米に於ける教育の発達」を挿入し、その後に第四篇「明治以後に於ける本邦教育」を置いた。これは欧米教育の起原と変遷を叙し、その長短を明らかにし、次に明治維新以後に於ける欧米教育の影響を述べることにより、読者に本邦現時の教育を根本的に理解させるとともに、教育の理論と実際に対する態度を確立させるためである。また「緒論」の中に未開民族の教育を加えたのは、教育の原始的状態の一班を知らせる必要があるからである。(実際筆者は日本の教育史よりもむしろ西欧の教育史に重点を置いているが、この言はそれをカバーするための言い訳か。また言い訳をする必要を感じたのか。)

 

第四章 未開民族の教育

 

007 未開民族の間で行われる教育は概して広義の教育に属し、家庭教育もしくは社会教育が多い。父母は自然の教師であり、子はその生徒であり、教育の目的は生活に必要な起居動作を学習させることである。その方法は模倣と実習であり、ほとんど無意識的・偶発的に行われるに過ぎない。時として部落の長老が教育することもあった。

008 未開民族の間に行われる狭義の教育は、貴族の間に始まる。社会の中に階級的差などが生ずると、その貴族は自己の身分に相当する修養を幼年者に行わせる必要を感じ、やや具体的・継続的に教育を施すようになる。古代のメキシコ、古代のインド、その他の未開民族の間で行われた教育は、凡そこのようなものであった。その教師はその社会で最も高位の宗教家であることが多い。

 

009 古代メキシコ民族には三階級の別があり、狭義の教育は主として貴族の間に行われ、宗教家がその教師であった。広義の教育は家庭の間に行われ、男児は、伐木、釣魚などを学び、女児は家事の雑事を学んだ。男児は青年となると、宗教家から宗教的舞踏や唱歌などを学び、また読書、習字なども学び、女児は宗教に従事する女子を教師にして、女徳と女工を学んだ。

 

 インドの民族には古代からブラーマ、クシャトリア、ヴァイシャ、スドラの四階級があり、狭義の教育を受ける者はヴァイシャ以上の三階級だけであった。ブラーマは宗教を司る神聖な身分で、教師の職は全くこの階級の者が占有した。教育の内容は、ヴェダ教の経典の暗誦であり、その間に読書、習字、文法を学び、またその他の専門学を学んだ。女児は概してこの種の教育を受けなかった。

 

010 未開民族の間で行われた教育は幼稚で、その方法は機械的記憶による場合が多かった。しかし社会の要求と教育の内容とがよく一致した事例があったのは、たまたま教育の職能を事実に徴して明らかにする機会を与えるものと言える。

 

 

第二編 明治以前に於ける本邦教育

 

第一章 本邦太古の教育

 

011 本邦に漢籍が渡来したのは応神天皇*の御代だが、当時の教育は専ら家庭と社会で行われていた。日本で初めて学校の制度が定められたのは、天智天皇の御代である。応神天皇以前は、未だ文字も存在しなかったようだ従って本邦太古の社会には全く教育というものがなかったと言うべきか

 

Wikiによれば没年齢が111歳とか130歳(古事記)とかあるが信じられない。

 

 教育は社会に於ける文化の伝達授受の作用である。社会の文化は時代により多少の変化があるとしても、どんな社会にも文化が全くないということはない。従って教育がどんな社会にも存在しないということはないが、ある社会の教育は家庭もしくは社会において無意識的・偶発的に行われ、ある社会の教育は学校で有意具案的に行われるという別がある。本邦太古の教育は前者に属する。

012 本邦太古の教育内容はその時代の文化によって推定できる。本邦太古の文化は古事記や日本書紀などの記載によって明らかであるように、非常に「進歩」していた

「神代」に保食神(うけもちのかみ、うかのみたま、穀物の神、日本書紀神代上)がいた。類、類を貯えていて月夜見尊を饗しようとしたが、(月夜見)尊は保食神をで撃ち殺してしまった。ところがその頭(頂)は牛馬に化し、頭(顱、ろ、どくろ、頭の骨)の上にが生じ、眉の上に(蠒、まゆ)を生じ、腹の中にはを生じ、陰に大豆・小豆を生じたという。これは固より神話に属する伝説であるが、本邦太古の社会にはこの種の農業に属する文化が存在したのではないかと知ることができる。

013 この種の文化は何らかの方法で代々相伝えなければならないから、当時ある種の農業教育が行われていたのではないかは明らかである。また神代には木工、鋳工、鍛工、玉手、織工などの神々がいて、機、杼(ひ)、韛(ふいごう、皮で作った袋状の送風器)、量(はかり)などの器具も備わり、弓箭(や)、刀剣、矛楯などの武器もあり、琴や笛などの楽器も用いられていたから、工芸に関する技能も頗る進歩していたと言うべきだ。また思兼神(おもいかねのかみ)が思慮を尊ばれ、大己貴命(おおなむぢのみこと)が医薬を用いられたことなどの伝説は、文化が高かったことを想像させる。(これは太古のことではなく、古事記712や日本書紀720が書かれた時代を反映していたとも言えるのではないか。)

 これらの文化はどんな手段で伝達授受されたのか。それは主として家庭教育として父子相伝えたようだ。これは氏々が職を世襲するようになった理由である。蓋し、太古では工芸が進歩しておらず、交通も不便であったため、器具や機械などを得ることは極めて困難で、生活の余裕も少なく、学習の便も乏しかったので、父子、兄弟の一族の間でなければ文化の伝達授受が行い難く、まして本邦のように家族制度を社会組織の根本とする国(どこでも同じでは)では、氏族がその職を世襲することは自然であるからである。こうして玉作氏は代々玉を作ることを業とし、鏡作氏もその業を世襲した。以上のように、一切の文化は家庭教育によって次の時代に伝えられた。

015 本邦太古の教育は全く経験的に行われたので、未だ教育の理論を徴す(証明する、求める)べきものはないといえど、すでに教育的活動が存在した以上は、その間に教育に関する思想も存在したはずだ。なぜならば活動は思想の直接的反映であり、とくに反省自覚されなかったに過ぎないからだ。こうしてわが民族は太古から現世的活動を重んじ(どこでも同じでは)、また家族的団体生活を旨としたために、教育もこの主義に基づいた。太古で職業に貴賤の別を立てず(さてどうか、信じられない。)、各々がその家業に勉励したことは注目すべきことだ。

 

 

第二章 本邦上古の教育

 

016 本邦に固有の文字があったという説がないわけではないが、多くの学者はこれを否定し、漢字が渡来した後になって初めて日本で文字が使われるようになったという説が広く行われている。漢字が日本に渡来したのは支那や朝鮮と交通していた当時であったはずだと言うが、公式に伝わったのは、応神天皇の御代に、百済の王仁が、論語十巻、千字文一巻*を持ってきた時が始まりであるとすべきである。

 

*千字文 中国の小学書。一巻。四言古詩250句、1000字からなる。

 

 太古の教育同様、父子が相継いで家業として子孫に漢字を授けたようだ。王仁の子孫は西文氏(かわちのふみうぢ)と云い、河内にいて、代々文筆を掌った。また、阿知使主の子孫は代々大和にいて、文筆を伝え、東文氏(やまとのふみうじ)と称した。大宝令の学令の中に「凡そ大学生五位以上の子孫及び東西史部の子を取る」とあるが、この東西史部とはこの両族を言う。履中天皇の御代に諸国に置かれた史官も、蓋しこれらの氏族から任用されたのだろう。

 

017 その後も三韓や中国から大勢の学者が渡来した。継体天皇の時代に百済が五経博士の段揚爾を貢(推薦)し、その数年後、五経博士の漢高安茂を推薦し、段の代わりをした。

 

 推古の時、との交通が開け、文化が進み、仏教が伝来し、漢字の使用がますます広まった。厩戸皇子は漢文の造詣が「極めて」深く、自ら憲法17条を作り、仏書に注疏(解釈・敷衍)を施した。(「施し給えり。」)(歴史書でも「極めて」と感情的に強調し、「給えり」と敬語を使わなければならなかったのか。)

018 小野妹子が隋に派遣されたときに従った学生は、倭漢直福因、奈良訳語恵明、高向玄理、新漢人大国、学問僧新漢人僧旻、南淵漢人請安、志賀漢人恵隠、新漢人広齊などで、大方は帰化人の子孫であった。この中で僧旻はかの地に25年止まり、請安玄理は33年して帰朝した。玄理は大化元年に国博士となった。蓋し、これらの留学生は大化の革新に参与し、日本の文化を一変した。

 

 漢字が渡来すると漢文が書かれ、経学、法学、史学などが伝わり、この他に、詩、書、画、医術、暦、天文など、三韓や中国の文化が伝えられたものが非常に多く、殊に仏典は仏教の教儀を伝えた。

 

019 日本固有の文章や歌などを写すのにも漢字が用いられ、こうして万葉仮名が生まれた。これら文化の伝達授受は父子相伝によったため、広く誰にでも伝わらなかったようだが、これらの文化を伝える所以の教育思想は、仏教や儒教の影響を受け多少変化した。

 

 

第三章 奈良平安時代の教育

 

孝徳天皇の大化5年649年に八省百官の制*が定められたが、(原文は「…を定められたが、」と敬語)これは三省六部を参酌取捨したものである。その中に学校に関する制度があったかどうかは不明だが、一代を経て、天智天皇の時代(「御代」)の662大学頭*が置かれ、その後、文武天皇の大寶元年、701年に律令が定められ、学令を設けて学校教育に関する制度が詳しく規定された。これはカロロ大帝が教育令を発する100年前のことであった。

 

*八省百官の制 これは701年、大寶1年の律令以前に早くから太政官制度ができていたことを示したいと思った日本書紀の編者の記事(日本書記の大化52月の条「国博士高向玄理(たかむこのくろまろ)と僧旻(みん)に詔(みことのり)して置いた。」)を元にしているようだ。(佐藤宗諄、コトバンク)

*大学頭(だいがくのかみ) 律令制における大学寮の長官。従五位上相当。学生(がくしょう)の試験と釈奠(せきてん、孔子を祭る儀式)を管掌した。

 

020 大寶(宝)令では学校を大学国学の二つに分けた。大学は五位以上の子弟と東西史部の子を教えるところであり、これを京師*に置き、国学は郡司の子弟と13歳以上16歳以下の者を選抜して教育するところであり、これを諸国に置いた。

 

*京師(けいし)京は大、師は衆。大衆のいるところ。帝都。

 

大学の学生は式部省が補し、国学の学生は国司が補し、入学の際に束脩(そくしゅう、入学金)の礼を行い、これを教師の間で分けた。こうして初めて学問が広く人々のできるところとなり、父子相伝の古制を破るに至った。しかし、大学に入学できるものは五位以上の子弟であり、その他は八位以上の子弟に限って情願によって特に許可されたが、一般人民は全くこれに入学できなかった。

021 大学は大学寮が所管し、大学寮には頭が一人、助が一人、大允(いん。当たる)が一人、少允が一人、大属が一人、少属が一人、博士が一人、助教が二人置かれた。また、音博士が二人、書博士が二人、算博士が二人置かれた。

 博士と助教は教授を掌り、学生は400人いた。大学は経学部、音部、書部、算部に分かれ、音部は経学部の学生も学習した。

 

 大寶令では大学の博士が紀伝*と法律を、経学と兼ねて教授したが、後世になると別に、文章博士、明法博士、紀伝博士が設けられ、延喜大学式*では、明経博士、明法博士、文章博士が併存した。

 

*紀伝(道) 奈良・平安時代の大学寮の学科の一つで、中国の正史や文選、詩文等を教授した。

*延喜大学式(延喜式) 平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)。905年、延喜5年、醍醐天皇時、藤原時平らが編纂を開始し、藤原忠平に引き継がれ、取捨選択後、927年、延長5年に完成し、967年、康保4年から施行された。

 

022 大学では当初専ら中国の経書を講じたが、後に紀伝道が置かれて史記、漢書も講じるようになり、明法道では日本の律令を講じた。経学、音、算では教科書があったが、それは唐の規定と同じだった。

 

 大学の教授法や試験は唐の制度を模倣した。十日目ごとの小試験、一年の終わりの大試験があったが、これは唐の旬試、歳試と同じ(模倣)である。在学9年で貢挙*に堪えない者は解退させた。貢挙は唐の制度のように、秀才、明経、進士、明法の四科とし、それらに及第した者は正八位以上に叙した。

 

*貢挙(こうきょ) 令制で、一定の試験を経て、人格・能力によって適格者を選び、官吏やその候補者として推薦すること。式部省の省試、大学寮の寮試など。中国の科挙にならった。

 

023 国学は国ごとに設けられたが、大宰府には学業院があり、これは両築(筑前・筑後)、両豐、両肥六国の国学を兼ねていた。

国学の職員は国博士医師が各一人で、学生大国では50人、上国では40人、中国では30人、下国では20人とし、医生はその5分の4を減らした。(5分の1)貢挙の制度もあり、国学が推挙する人を貢人と云い、大学が推挙する人を挙人と言った。

 

大寶令によれば、大学寮は式部省に属し、典薬寮、陰陽寮、雅楽寮はその他の省に分属した。典薬、陰陽、雅楽の三寮には、医博士や針博士、陰陽博士や暦博士、天文博士、歌師や仙師*などがいて学生を教授した。また他に画工司があり、画師がいた。

 

*仙師は仙人の尊称、道士に対する敬称。

 

024 大学や国学などの官立学校の他に、同族の子弟を教育するための私学校が勃興した。唐の弘文館や崇文館などが皇親*、外戚や貴近の子弟を教育していたが、これに倣ったものだ。しかしこれは日本固有の氏族制度にその原因を求めることもできる。

 私学の最も古いものは、和気氏の弘文館であり、その他藤原氏の勧学院、橘氏の学館院、在原氏の奨学院、菅原氏の文章院などがあった。その教授する内容は大学のそれと大同小異であった。

 

 後世大学寮は東西二曹に分かれ、東曹では菅原氏が代々曹公となり、西曹では大江氏が曹公となり、そのため大学寮は菅原・大江二氏の私学のようになった。村上天皇の天暦4年、京都に大火があり、大学も火災を蒙った。また一条天皇の永延の時、大学は震災の難に遭い、一旦これを修復したが、この時から次第に頽廃していった。また高倉天皇の治承元年1177年、京都に大火があり、大学寮は私学と共に焼失し、これ以後学舎を建てることもなく、大学頭以下の職名だけが残存した。

 

 上述の官学も私学も一種の貴族学校であるが、これに反して一般庶民のために開かれた私立学校は、僧空海が開いた綜芸種智院である。

仏教の寺院は昔から一種の学校教育を施していたようだ。法隆寺は法隆寺学問寺と称し、金堂の後ろに講堂を設けて諸学の道場とした。しかし、これは欧州中世の僧庵学校のように僧侶のための修業場であり、一般庶民には開放されていなかった。しかし綜芸種智院は唐の閭(りょ、村の門)塾や郷学に倣い、貧賤の子弟を集め、普く童蒙を救おうという趣意でできたもので、これは日本最初の庶民学校といえる。これが創建された年は淳和天皇の天長5年、827年であった。綜芸種智院の敷地は堀川通の東方、左京九条にあったがすぐに荒廃し、30年も経たずに東寺の所領になった。惜しむべきことなり。

 

 奈良・平安時代の学校教育の範囲は概して貴族社会に限られ、その内容は専ら儒教主義であった。この他当時発達した和歌や国文は、その他の技芸と共に、学校で教えられたのではなく、その道に堪能な個々人に就いて伝授された。これは一種の家塾教育と言える。ギリシャの上代にこれに似たものがあったが、ギリシャでは日本のように学芸を一家の世襲とする風習はなかった。

 

 当時の一般人民は全く無知文盲でもなかった。カタカナが吉備真備によって発明され、ひらがなが弘法大師によって作られたという説があるが、これは必ずしも信用できないとしても、カタカナ、ひらがなが既に世に行われていたことを考えれば、これを学んだものが少なくなかったと想像できる。(しかしこれは底辺の一般民衆の間でも教育が行われたという証拠にはならない。次に示される女流文学の主体は上流階級であった。)これを多く用いた人は上流社会の婦人で、男子は主として漢字と漢文を用いていたようである。弘法大師の著とされる実語教も、安然和尚の作とされる童子教も、全て漢文体である。当時の庶民教育は幼稚で、家庭や社会での偶発的出来事にすぎなった。

 

 

第四章 鎌倉室町時代の教育

 

028 鎌倉室町時代は戦乱の時代であり、文教の暗黒時代であった。奈良平安時代に発達した学校教育も他の文物同様にほとんど滅亡したが、僅か五山その他の僧侶の手で命脈をつなぎ、また家学を継ぐ学者が京都に存在し続けた。

029 前述の通り、治承(じしょう)元年1177以後、大学は復旧しなかったが、形式的に貢挙の制度が行われ、菅原と大江の二家がこれを取り扱った。024

 

 鎌倉幕府が開かれ、大江広元、三善康信、中原親能らの学者が京都から鎌倉に下って頼朝に仕えた。中でも藤原兼良は「最も博学」で、朝儀に熟し、和歌をよくし、神道に通じ、仏書に渉った。また菅原氏や清原氏は朝廷で儒家と言われ、経学、文章を主とした。その他の諸家も故実、詩歌を伝えた。

 

 鎌倉時代に新たに栄えたものは、禅僧が宋から伝えた朱子学である。虎関玄慧は「その最も卓越した」者で、北畠親房は玄慧に学んだとのことだ。

030 朱子学は禅宗と共に武士が喜ぶところとなり、この時から学問は僧侶に移ったかのようだ。藤原明衡の「雲州消息一名明衡消息」のような往来物が僧侶によって編述された。「庭訓往来」は虎関の著とされ、「釈氏往来」は藤原兼良の作で、公家や武家の手習草子として広く行われた。

 

 戦乱の当時でも多少の教育が行われていたことは、前述のような通俗的著書が多いことから明らかだ。しかしこれらの書が、後世に発達した寺子屋のような機関で教えられたのか、家庭の中で授けられたのか、または知人の元に行って学んだのかは明らかでない。室町時代では寺に行って学問をした実例が多いが、鎌倉時代にそれが行われていたかは分からない。当時寺子屋教育のような通俗教育が行われていたことは疑いないが、その範囲は京都の公家や鎌倉の武家に限られ、一般庶民には及んでいなかったようだ。その意味で当時の教育は貴族教育であった。

 

031 鎌倉室町時代に金沢文庫と足利学校とがあった。金沢文庫(横浜市金沢区)は北条顕時が創設した。北条氏は代々学問を尊び、政子菅原爲長に頼んで貞観政要を国文に訳させ、泰時貞永式目を定め、時頼はその子の時宗に文武を講ぜしめた。泰時の孫の実時が越訴奉行となって金沢の地を領有し、その子顕時が文庫を建てた。あるいは実時が文庫を立てたという説もある。実時、その子の顕時、その孫の貞顕は講学に志があり、和漢の書を蒐集した。文庫を建てたのは顕時であったらしい。

 北条氏の子孫や諸将の子弟はここ(文庫)に至りて学習した。貞顕の子貞将の時に北条氏が亡び、金沢文庫も頽敗したが、後に上杉憲実がこの文庫を修理し、多くの書籍を納め、学徒講習の場所とした。

 

032 足利学校の起原については異説が多く、小野篁(たかむら、たけやぶ)が建てたとする説と、足利義兼が建てたという説とがある。足利学校が昔の国学の遺跡であったとする説が有力のようだ。足利基氏が関東管領となり、これ(国学それとも学校の施設?)を振興し、上杉憲実が関東管領となり、学校を再建し、多くの書籍を納め、学田(学校付属の田畑)を附し、禅僧の快元に管理させた。ただし仏学を講ずることは厳禁した。憲実の子の憲忠や孫の憲房は兵馬騒乱の時でも文事に配慮し、校舎の設備を整え、来校者は堂内に満ち、天正1573—1592、文禄1593—1596の時代に学生が特に多かった。

 

033 鎌倉室町時代には金沢文庫と足利学校以外に学校がなく、僧侶が教授する寺子屋の前身のようなもので僅かに学芸を伝えたに過ぎなかった。京都の公家では家学を継続したが、一般社会の人々は家庭で家業を伝承する以外に特殊の教育機関で教育を受けることはなかった。

 

 

第五章 江戸時代の教育

 

第一節 学校教育の実際

 

034 江戸時代は明治以前では「最も」文教が旺盛であった時代で、徳川家康は文事に意を用いた。文禄2年、1594年、家康は豊臣秀吉の朝鮮征伐に従い、肥前の名護屋にいたとき、藤原惺窩(か、むろ)を陣中に招いて貞観政要を講じさせた。

家康は、関(が)原戦役1600の翌年の1601年、伏見に円光寺を建て、田地200石を寄付して学舎を開き、足利学校の長老僧の三要を校主とし、僧俗(僧侶と俗人)の入学を許可した。慶長9年、1604年、藤原惺窩の高弟の林羅山を採用した。

 

035 寛永元年、1624年、林道春(羅山)は徳川家光の侍講となり、同7年、1630年、忍岡の宅地5000坪と金200両を(家光から)賜り、書院塾舎を築いた。これは昌平坂学問所つまり昌平黌の前身である。

昌平校は当初林家の私塾であり、特別の名称はなかったが、徳川家綱の時(第4代将軍、在職1651--1680)、林道春の子の鵞(が)峰弘文院の号を(家綱が)賜い、元禄3年、1690年、幕府はこれを湯島坂上に移し、昌平坂学問所と改称し、それ以後は幕府の学校となり、学長は代々林家から出た。

寛政年間1789—1800柴野栗山、岡田寒泉を聘して儒員として林氏を助けさせ、後に尾藤二洲、古賀精里を召して儒員とした。寛政5年、1893年、述齋が入って林家を継ぎ、昌平黌は再び「名声」を回復し、幕末に至った。

 

036 教育内容 昌平坂学問所とその前身の林家の私塾では専ら儒学を教授したが、これは昔(上古や奈良平安時代)の大学での教育とよく似ていた。

 寛政5年、1793年の学規によれば、入学、行儀、脩業、講会、放繳(しゃく、練らない糸)の五則がある。

 

 一、入学資格 僧徒、商工、楽伎、優雑(な者)と君父(主君と父)から離れた者などは入学できない。但し、商工でもその本業を捨て、奮志篤学の者は生徒の末に加えることができる。

 二、行儀 篤実退譲で必信必礼、国政に関して議論せず、国法に戻ることなからしめた。

三、脩業 経史・作文は四書と小学により、敗俗非聖の書や新奇怪異の説を禁じた。毎年大試験を行い、三年で成らない者は黜(ちゅつ)去した。

四、講会 義理を討論する時には必ず依拠がなければならない。無稽臆説を厳禁し、詩を作るに際して文字・句・声律も、先輩について質問させた。

五、放繳 門限 学門啓闔(こう、門の扉)は卯時(4時から6時)に放ち、酉時(午後5時から7時)に繳(しゃく)し、病気以外は外泊を禁じ、外から入ってきて泊まることを禁じた。

 

 また少年童科を置き、15歳以下11歳以上は四書・五経を学ばせ、10歳以下8歳以上は四書・小学を学ばせ、それぞれ試験をした。

 

昌平坂学問所の生徒は主として幕臣だが、諸藩の士も入学を許された。寄宿生と通学生とがあり、共に束脩や謝儀は不要であった。二種の通学区分があり、一つは句読生で、毎日稽古所に行って教授方、出役などから教授を受け、小学・四書・五経を読んだ。もう一つは、寄宿寮内に通学するもので、これを寄宿竝(なみ)南二階通稽古人(きしゅぐなみみなみにかいかよいけいこにん)と称した。またこの寄宿にも二種あり、一つは寄宿寮といい、もう一つは書生寮と称した。前者は旗本(将軍に御目見えする資格がある者。御家人に対する語。)や家人が寓するところで、後者は諸藩士や処士が寓する所である。書生寮はもともと儒官の塾生のために起こったものである。

学科は四書・五経・史記・漢書・左伝・国語などで、一般庶民にも聴講を許す場合もあった。試験にも規則があったが、これは往時の大学と同様だった。

 

幕府の学校には、昌平坂学問所の他に、甲府に徽(き)典館、駿府(静岡市)に明新館があった。また日光学問所、佐渡に修教院、長崎に名倫堂などがあり、皆漢学を教授し、幕臣や地方の庶人(一般大衆)を教育した。この他後に天文学、医学、洋学に関する学校も起こした。

 

040 諸藩の学校 諸藩も幕府に倣い学校を起こした。その中でも「最も有名」なものは、金沢の明倫堂、岡山の閑谷学校、尾張の明倫堂、水戸の弘道館、熊本の時習館、鹿児島の造士館、仙台の養賢堂、会津の日新館、米沢の興譲館、萩の明倫館などである。これらは皆漢学を教授する学校で、その盛大なものは大成殿を設けて孔子を祭り、年々釈奠(せきてん、孔子を祭る)の礼を行ったが、これは昌平坂学問所と同様であった。

041 私学 江戸時代は私学も盛んだった。江戸時代の私学は平安時代の私学のように一族の子弟を入学させるものではなく、一人の学者の下に、四方から門弟が集まって来たものである。福山藩士菅茶山の塾、京都の伊東仁齋堀川学校、大阪の中江甃(しゅう)庵懐徳書院などが最も有名である。以上は皆漢学塾であるが、本居宣長平田篤胤(あつたね)など国学者の下にも来て学ぶ者が多かった。

 

 これまで述べてきた教育は主として上流社会の人々のためのものである。すなわち貴族教育であり、専門教育であったが、寺子屋では庶民教育が行われた。

寺子屋は鎌倉時代に始まる。元来寺院の一部で寺僧が教授したが、後に民家を校舎に仮用し、手習師匠が経営する家校となった。徳川幕府も夙にこれを奨励し、徳川吉宗(在職1716--45)は管野彦兵衛に土地を給し、金30両を賜い、学問所を建てさせた。次いで享保(きょうほう、1716--36)年間に大岡忠相が町奉行となると、この種の教育を奨励した。

 寺子屋は関西における名称で、関東では手習師匠と言い、また手跡指南、筆道指南、筆学所などとも言った。教科目は習字、素読、算術で、習字の部ではいろは、数字、五十音、名頭字*、国尽(くにづくし)*、童子訓、往来物などを教科書にし、素読の部では三字経、実語教*、童子教、古状揃*、孝経*、四書などを用い、算術の部では相場割、差分(さぶん)*、平方術に至るものもあった。

043 就学年限は一定していなかった。男女共に6、7歳から3、4年ないし6、7年に及ぶのを常とし、中には10歳以上から10年に及ぶものもあった。江戸時代の末にこの種の学校が全国に散在し、その数は「極めて」多かった。

044 江戸時代の庶民教育の一機関として石門心学*があった。石門心学は享保年間1716—35石田梅巌が開いた。石門心学は商人の間で広く行われ、京都はその根源地で、後江戸やその他の都会に伝播した。京都の本舎は明倫舎であり、その他に五楽舎、時習舎、修正舎、恭敬舎、養性舎、観行舎、楽行舎、健順舎などもあり、全国にもこの種の舎が200以上あったという。心学は精神の修養を目的とし、その教儀は神儒仏老荘であり、その方法は静座道話*を用いた。道話は手島堵(とつ)庵以後次第に発達した。

 

*石門心学は王陽明の学説に神道・仏教の趣旨を調和総合した実践道徳の教義。心を正しくし、身を修めることを説く。

*道話とは訓話。もともと仏道についての対話。

 

第二節 学校教育の理想

 

045 江戸時代の学校教育は大概漢学を教授したので、その理想も儒教の教育と同じく、教育の目的は治国平天下であり、学習の動機は官に仕えて俸禄を受けることであった。この教育理想が変動しなかったため、教育理論を述べた者は極めて少なかったが、貝原益軒は詳細に教育論を述べた。

 

 貝原益軒は筑前の黒田侯の侍医の子であった。寛永7年、1630年、福岡に生まれ、28歳で京都に遊学し、松永尺五、木下順庵、山崎闇斎らと交わり、京都に3年間滞在した後、福岡に帰って藩の儒員となり、40余年間藩の子弟を教育し、正徳4年、1714年、84歳で没した。彼は英国のジョン・ロックより2年前に生まれ、ロックの死の10年後に死んだ。

 

046 貝原益軒の著書は「甚だ」多い。その中で専ら教育説を述べたものは「和俗童子訓」であるが、「大和俗訓」、「初学訓」、「文訓」などの所々にもその教育説が散見される。

 

 「大和俗訓」の中で貝原益軒は教育の目的を述べている。

 

「凡そ人と生まれたる者は、人の道を知らずんばあるべからず。人の道を知らんとならば聖人の教えを尊びて其の道を学ぶべし。いかんとならば、聖人は人の至極なり。後代に残し置き給ふ四書・五経の教は万世の鑑なり。」

 

 彼の他の著書でも所々でほぼ同様の説を述べている。また「大和俗訓」に、

 

「凡そ人は天地の万物を生み育て給ふ御恵の心を以て心とす。此の心を名づけて仁と言ふ。仁は人の心に天より生まれつきたる本性なり。仁の理は人を恵み、物を憐れむを徳とす。此の仁の徳を保ち失わずして天地の生み給へる人倫を厚く愛し、次に鳥獣草木を憐れみて、天地の人と万物とを愛し給ふ心に従い、天地の御恵の力を助くるを以て天地に仕へ奉る道とす。これ即ち人の道とする所の善なり。」

 

047 これは彼の教育説の哲学的基礎とも見られる。

 

 貝原益軒は四民ともに教育を受けるべきだとしたが、武士の子には学問の暇に弓馬、剣戟、拳法などを習わせるべきだとした。また小学と大学とに分け、小学は「小子」(年少の者)が学ぶところで、「小なる学問」を言い、大学は15歳以上の者が学ぶところで、身を修め、人を治める、大きな道理の学問であるとした。「和俗童子訓」では、「幼少の時から早く『善き人』に近づけて、道を教えるべきであり、『左右の人』(身近な人?)を選ぶべきで、偽ることと気ままなこととを早くから戒めるべきであり、幼少の時から愛を過す(度を越す)べきでなく、『三分の飢えと寒さ』を忍ばせるべきだ」と懇切な注意を羅列した。

048 「和俗童子訓」の中にある「随年教法」によれば、学問は6歳から始め、その教材としては、一二三から十百千万億の数の名と東西南北の方位の名を授け、利鈍を量って和字を読ませ、これを書き習わせるべきであり、それに先立ってアイウエオ五十音をひらがなに書き、縦に読ませ、書き習わせるべきだとし、また世間往来の仮名文の手本を習わせた。

また幼少の時から尊長を敬うことを教え、尊卑・長幼の別を知らしめ、言葉遣いも教える。七歳で和字の読み書きを教え、男女の席を分ち、また礼法を授け、八歳からは厳に礼儀を習わせ、尊長や僕に対する心得から、友と交わる方法、賓客に対する作法などを習熟させ、孝悌(従う)・忠信・礼儀・廉恥の道を教えてこれを行わせる。また習字は真(楷書)と草を習わせ、その文句は孝経、小学、四書から取り、大字から始めて小字に及ぶものとする。10歳になれば、五常*の理や五倫*の道の大略を説き聞かせ、この年ごろから小学、四書、五経を読ませ、暇なときに文武の芸術を学ばせ、15歳からは専ら「義理」を学び、身を修め、人を治める道を教える。その時から20歳までの間に小学、四書などの大義に通じさせ、聡明な者にはこの他にも広く学ばせるべきだとした。貝原益軒はまた読書法や手習*法に関して次のように論じた。

 

*五常 儒教で人が常に行うべき五種の正しい道。通例、仁義礼智(知)信を言う。

*五輪 儒教の五つの基本的対人関係。父子・君臣・夫婦・長幼・朋友。五常と同じ。

*手習 習字のこと。

 

「凡、書を読むにはいそがはしく早く読むべからず。詳緩(ゆるやか)に読之て字々句々分明なるべし。一字をも誤るべからず。必、心到り、眼到り、口到るべし。この三到の内、心到を先とす。」

「凡、書を読むには早く先を読むべからず。毎日返り読みを専ら勤むべし。返り読みを数十遍勤め終わりて其先を読むべし。…書を読んでも学進まざるは熟読せずして覚えざればなり。」

「小児に初て書を授くるには文句を長く教ゆべからず。一句二句教ゆ。また一度に多く授くべからず。多ければ覚え難く、覚えても堅固ならず。」

 

これらは皆今日でも参考とすべき意見である。なお手習法に関しては道徳主義を取り、「書は心画なり」という古人の言を取り、「書の本意は只平正(公平、平ら)にして読み易きを宗とす」と言った。

051 また貝原益軒は女子教育に関しても意見を持っていて、「教女子法」の論がある。世に行われる女大学*はこの論から出たものである。

 

*女大学は江戸時代の女子向けの教訓書。享保年間1716—36頃の刊。

 

荻生徂徠と細井平洲 貝原益軒の他にも当時の漢学者は皆多少教育に関して言議しない者はいなかったが、多くは道徳や哲学に関する説で、教育説は少ない。しかし、その中でも荻生徂徠と細井平洲は教育に関して少し論じた。

 荻生徂徠は漢字修業の方法として、支那音を学び、直読して義理を解すべしとし、また人々はその性質を異にし、その徳を異にしているのだから、性質は変えられないとした。また教育の方法は人巧を排斥し、人心自然の発達を助成しようとする。これは欧州の自然主義の教育説に似ている。

 

052 細井平洲は一般人民に普通教育を施すべきだとし、官の命で郷県に講学所を設けさせ、自ら巡回して教授した。また細井平洲は荻生徂徠と同様に人の個性の相違を認め、その性質や能力に応じて発達させるべきだとした。

 

 

第三編 欧米に於ける教育の発達

 

第一章 ギリシャ時代の教育

 

第一節 古典時代の教育

 

053 気候温和で風光明媚な地に栄えたギリシャ民族は、自ずから自然を楽しみ、現世主義的・活動的であった。従ってギリシャ時代の教育は多方面で趣味を持ち、個性の調和的発達を重んじた。ギリシャ時代には貴族社会を形成した自由民の他に多数の奴隷がいたが、ギリシャの教育は自由民の教育を意味するため、自ずから貴族的色彩に富む。教育は人格の発展と装飾とのためになされるべきものとし、職業教育と全く区別すべきものとし、経済的生活を少しも顧慮しないことを教育の本義としたが、これは当時の社会事情の影響を受けたものである。

054 ギリシャ時代は紀元前4世紀までとそれ以後とに区別される。前者はギリシャ古典時代と言う。この時代はギリシャ民族が最も隆昌を極めた時であり、学術、文学、美術などが大いに起こり、燦然たる光輝を放った。後者はギリシャ民族時代と言う。この時代はギリシャ民族が衰頽を極めた時であり、ギリシャ諸国はその主権者を失い、ギリシャ民族は四方に散在し、僅かに昔日の文化を伝承したが、四囲の境遇に制約されて特殊の思想を生じた。だからギリシャの教育は、その実際においても思想においても、紀元前4世紀の前後で著しく変化した。

 

一、スパルタの教育

 

055 スパルタはギリシャ民族が建てた諸国の内で最も古いものの一つで、また最も早く自由民に教育を施した国である。自由民の児童は7歳になると家庭を離れて公立営舎に入り、公費で養われ、国家の吏員によって監督された。

その日課は心身の鍛錬を主とし、従順の徳の涵養に努め、知的教養は最小限度に限り、僅かにホーマーの詩と、リクルグスの法律とを断片的に暗記させたに過ぎない。これに反して身体の訓練は教育の主要部分であり、走り方、飛び方、角力、鎗投げ、拳闘などの遊戯をした。よく困苦に耐え、最後の勝利を得るための修養を積まさせ、固い床に寝て、衣服を少なくし、食物を節して、専ら欠乏に打ち勝つ習慣を養った。スパルタの自由民の任務は心身を鍛錬し国家を防衛することであり、その教育はこの目的に適応していた。

 18歳になると若者の仲間に入り、軍事教育を受け、20歳から軍籍に入り、10年間要塞を守り、この間に最も克己的生活をする。30歳になり結婚して一家を立てても、なお公立営舎の中で起居することが多かった。

057 またスパルタの女子は家庭で教育され、公立営舎に収容されることはないが、心身の鍛錬に力を用いたことは男子と異ならなかった。スパルタの教育は男女を通じて国家主義を励行するものと言える。

 

二、アテネの教育

 

 アテネでは18歳までは家庭で教育され、その後公立の営舎(兵営)に入った。アテネの自由民は7歳で公立体操場に入ってギリシャの五芸*(遊戯)を学び、私塾の音楽稽古場に行って読書、習字、唱歌を学んだ。教僕(奴隷か)は児童を学校へ送り迎えし、家庭ではその復習を援助した。

058 男子は16歳で教僕の手から離れ、公立体操場で国家吏員の監督の下に、組討、弓術、騎馬、競争を学び、18歳で若者の組合に入り、それから2年間、軍事教育を受け、その間に徳性も涵養した。若者は組合に入るとき、国家への忠誠を誓うとともに、祖国の神々と道徳とを奉ずべきことも誓った。最初の一年はアテネ市の付近で市街守禦に当たり、後の一年は遠く国境の要塞を防衛した。

059 20歳以上は自由の市民となり、この間でも文学的修養を続ける者もいた。一方女子の教育は「極めて」幼稚であり、僅かに家事に関する初歩的心得を授けただけだった。

 紀元前5世紀になりアテネ市は繁昌したが、秩序が破れて詭弁学徒が起こり、文物が進歩するとともに文学的修養も行われるようになった。しかし古典時代のギリシャ民族は新思想(詭弁学徒)に支配されず、18歳から20歳までの2年間、若者の組合で厳格な訓練を受けた。個人主義と自由主義の教育が支配したのは次のギリシャ民族時代になってからのことである。

 

第二節 ギリシャ民族時代の教育

 

060 紀元前4世紀、ギリシャ諸国はマケドニアに主権を奪われ、内乱が続き、教育も変化した。アテネでは若者の組合は随意となり、後に年限が2年から1年に短縮され、軍事的訓練を廃止して、知的修養を旨とするようになった。寄宿してあちこちの学校に通学する者が多くなった。組合にアテネの自由民以外の者も加入することを許し、紀元前2世紀末、ローマの属領となった時には、組合員の多数は外国人となった。

061 古典時代のギリシャの教育は体育を重んじ、知育よりも徳育を重視した。この点で古典時代の教育は今日の学校教育とその見解を異にする。ところがギリシャ民族時代におけるギリシャの教育は、体育や徳育よりも知育を旨とするようになった。古典時代の教育は訓練を主とし、方法は実行によって意志の習慣を作ることであったが、ギリシャ民族時代の教育は知育を主とし、記憶と推理を重んじ、訓練でも教訓によって道徳的理解を図った。

 古典時代の教育は国家主義的であったが、民族時代の教育は個人主義となった。古典時代に詭弁学徒が個人主義を唱えたが、教育でそれが採用されることはなく、むしろアテネ市民から迫害を受けた。ところが民族時代の思想は学派の如何に関わらず悉く個人主義且つ世界主義で、教育もこれに支配された。

062 民族時代に多くの私塾的学校が起こった。修辞学校はその一つで、修辞と雄弁で成功の術を授けることを目的とし、普通教育の機関として当時広く設置された。修辞学校の淵源は詭弁学徒であるが、その具体的な起原はイソクラテス(436BC—338)の修辞学校である。

哲学校は修辞学校の上位に位置して専門教育を施し、その中にアカデミー派、ストア派、エピクルス派があった。

063 紀元前4世紀アテネ市にアテネ大学が起こった。アテネ大学は修辞学校と哲学校とを包含し、前後約800年間ギリシャの教育の中心となった。

 この種の大学はギリシャ以外の地にも起こった。アレキサンドリア大学は後にアテネ大学を凌駕するようになった。これらの大学は中世のヨーロッパの大学との直接的つながりはないようだ。

 

第三節 ギリシャの教育家

 

一、ピタゴラス ピタゴラスは紀元前6世紀の人で、サモス島に生まれた。イタリア半島南端にあるギリシャの植民地クロトン市に学校を開き、12歳から17歳までの青年を教育した。全生徒を寄宿舎に収容し、厳格な訓練を施した。スパルタの教育に似て、秩序を重んじ、克己を旨とした。またアテネの教育に似て音楽、数学、文法などの学術を授けた。

 

二、詭弁学徒 プロタゴラスとゴルギアスは詭弁学徒に属する。共に紀元前5世紀の人である。プロタゴラスは「個人個人は万物の標準である」と説き、真偽善悪を決定するのは個人の主観的判断にすぎないとした。ゴルギアスは真理の存在を否定し、あるとしてもそれを認識することはできないとした。またこれを認識するとしてもそれを他人に教え伝えることはできないとした。

 彼らは月謝を取ってその成功術を教授し、自らを道徳教育者と自称した。市民に成功の手段を教え、それを新道徳に応ずる生活法とした。彼らの個人主義と主知主義は世人の反対を受け、プロタゴラスはアテネから追放され、その著書は焼き捨てられた。

 

三、ソクラテス ソクラテスは紀元前470年頃アテネ市に生まれた。父は彫刻家である。幼年の時自由民としての普通教育を受け、その後、幾何学、天文学、哲学を学んだ。ソクラテスは3回従軍した。

ソクラテスは詭弁学徒の新道徳主義に反対し、善悪の標準は個人によって異なるものではなく、何人にも共通でなければならないとしたが、知を重んずる点では詭弁学徒と同様である。ソクラテスは知徳合一説を主唱した。

彼は人が不善をなすのは、それが不善であることを知らないからであり、人を善人にするためには、その人の道徳観念を正しくしなければならないとした。彼が道徳問答法を重視した理由はこれによる。彼は人の道徳的観念を正しくするために、その人の有する観念を正しいものと仮定し、問答法によって次第にそれが正しくないことを悟らせた。これは産婆が赤児の出生を助けるのと同様に自然の方法であるとした。ソクラテスの産婆法とか反語法ともいう。正しくない道徳的観念を仮に正しいと装い、後にその誤りを悟らせるからである。

067 ソクラテスは国家主義の教育家であった。紀元前399年、彼が無実の罪により死刑の判決を受けた時、門下生の中には頻りに国外に遁れることを勧めたが、彼は国法に服することはアテネ市民の務めであるとし、其の言を退け、毒を仰ぎ死に就いた。これは主義において古典時代のギリシャ思想と一致するが、主知主義的新思想に属する面もあった。彼の知徳合一説や道徳問答法・反語法は後者に基づく。

ただし、ソクラテスの門下生が概して20歳以上の者であったためにこの種の方法を実際に適用しても悖るところ(不都合な点)が少なかったが、今日の初等教育でこれを採用する際には十分な考慮を要する。(意味不明)

 

四、プラトー プラトーはBC427年アテネ市に生まれ、20歳の時からソクラテスの死に至るまでの18年間ソクラテスに師事した。プラトーは「名家」の出で、3回従軍した。彼の思想は「最もよく」ギリシャ民族の理想を代表すると言われる。

 彼は極端な国家主義的教育論者である。彼の理想国では18歳までの男児は悉く、体操、読書、音楽等の教育を受け、その後性能の劣等な者は学を廃して実業に就き、優等なるものは18歳から20歳まで軍事教育を受け、国家防衛の任に当たる。更に性能の秀逸な者には、20歳から30歳まで数学、哲学等の学科を学ばせて国家の吏員にする。

069 プラトーの教育説は古典時代のギリシャ民族の理想に合致したものである。プラトーは社会の秩序が漸く破れ、古典時代のギリシャ理想が次第に亡び去ろうとするのを見て世を救おうとし、理想国を説き、教育の復活を述べたようだ。しかし彼は一方ではソクラテスのように主知的で、一層文学的であった。彼の教育説は新人文主義を通して後世の欧米の教育界に影響した。

 

五、アリストートル アリストートルはBC384年、マケドニアに生まれたが、後にアテネに出て来て20年間プラトーに師事した。彼もその著「国家学」において教育説を述べた。彼は幼年者の教育に関する注意も説き、7歳までは家庭に任せ、7歳から21歳までは国家が教育に関して規定すべきだとし、画一的国家教育を主張した。彼の「国家学」は全部脱稿に至らなかったが、初等教育の学科は、読書、算術、体操、音楽などで、大体プラトーと同じである。しかしアリストートルは、プラトーがホーマーの詩を徳育に害があるとして禁止したことに反対した。

 

六、プルタークス 以上はギリシャ古典時代の教育思想家である。その後の民族時代で教育に関して説を述べる者は殆どなく、一人、プルタークスの論文と言われるものの中に、児童の教育に関するものがあるだけである。プルタークスはAD一世紀の人で、アテネに出て勉学し、ローマにも往復した。彼は徳育の可能性を信じ、天性と学習と実習の三者によって初めて完全な道徳を養うことができるとし、しかも天性よりも学習と実習に重きを置き、教育の万能を信じ、もっぱら教訓によって訓練の目的を達しようとした。プルタークスはアカデミー派に属す思想家で、プラトーの説を継承するところが多いが、民族時代の思想の影響を受け、児童の自由を尊び、体罰をなす権利を持つ者は両親だけだとした。

 

第二章 ローマ時代の教育

 

第一節 上代の教育

 

072 ローマ民族はギリシャ民族と同じく自然主義を奉じ、現世的活動を理想とし、その社会組織もギリシャと似ていた。ローマ民族の「重要な仕事」は戦争と、政事と、敬神であり、人民は愛国心が強く、質実剛健であった。この状況は上代から紀元前3世紀ころまで続いた。

ところがBC2世紀、ローマ帝国がギリシャを属領にすると、ローマ帝国は当時のギリシャ思想家の影響を受け、大きな変化が生じた。ローマの古典文学がギリシャ文化の影響を受けて勃興したため、BC2世紀以後をローマの古典時代と言い、それ以前をローマの上代という。

073 ローマの上代では教育は専ら家庭で行われ、父母は自然の教師であった。家族制度が厳重に行われ、家族に対する家長の権力は絶対的であった。そのため教育は家長の意志によって決定された。教育の方法は未開民族と同様で、父母が身を以て模範を示し、子女にローマ市民としての資格を修得させた。女子は手芸、裁縫、家事に関することを学んだ。

 ローマ上代の末にローマ固有の民風を維持しようとして、最後のローマ人と敬称された大カトーがその子を教育する様は、ローマ上代における教育の典型である。彼はその子の前では神前にいるかのように言行を慎み、朝早くローマ市に出かけて公判に列したり、市会に臨んだりするとき、常にその子を座右に置き、ローマ市民としての作法を学ばせた。また農場に出て耕作するときには、その子を伴って勤勉力業の徳を見習わせた。彼はその子のために教科書を編纂して、ローマ市民として心得るべき歴史・法律等を教えたという。

 

第二節 古典時代の教育

 

074 ローマの古典時代ではギリシャ人を家庭教師として雇い、子弟にギリシャ語を授けた。上代の末に小学校、文法学校、修辞学校が起こった。

075 一、小学校 読み、書き、算数の初歩を教え、後にはギリシャ語も教えた。私立であり月謝で維持された。

二、文法学校 ギリシャ語とラテン語の文法を教授し、中等教育を授けた。元来私立で、後に政府から補助を受けた。

三、修辞学校 高等教育機関である。民族時代のギリシャのそれ(修辞学校062)を移植した。AD2世紀、政府もこの種の学校を起こしたが、間もなく政治や道徳が腐敗し、教育も閑却された。

 

076 上代では家庭が教育の中心であったが、古典時代では学校が教育の中心となり、家庭は堕落し、子弟の訓育を破壊した。(どういう意味か)学校はギリシャで発達した学術を教科目に採用し、知育を進歩させた。訓育では自由放任に傾き、教師の権威は殆ど行われなかった。

 

 クインチリヤヌスはローマの大教育家である。AD315年、イスパニヤのカリクリスに生まれ、後ローマに出て学校を開いた。彼は雄弁術教授を詳論した。教育の目的は雄弁家を養成することである。雄弁家になるためには、ラテン語、ギリシャ語のほか、百般の知識を要するばかりか、徳性の涵養に努めなければならないとした。鳥は飛ぶべく生まれ、獣は走るべく生まれれるように、人は理会するために生まれる。人の天性は善であり、これを自然に発達させれば皆善である。注意の如何によって賢愚の区別が生ずるに過ぎない。教育は児童を本位とし、その性能を発揮させることに努めるべきだ。訓練も児童の徳性を鼓舞すべく、体罰は有害無益である。個性を尊重し、その自由な発展を教育の本旨とする。近世における個人主義の教育説の淵源はここにある。

 

 

第三章 中世の教育

 

第一節 キリスト教徒教育

 

078 中世は西ローマ帝国が滅亡してからの約千年間を言う。この時代を歴史家は暗黒時代というが、今日の欧米の学校教育はこの間に始まった。

キリスト教は西ヨーロッパに普及し、ギリシャ・ローマの思想を異端・邪説と見なして圧迫し、529年、アテネ大学に閉鎖を命じた。ギリシャ・ローマの文化は痕を断ち、キリスト教的文化がこれに代わり、キリスト教主義の学校が起こった。これが今日欧米で行われる学校の起原である。

 キリスト教の思想は、ギリシャ・ローマの自然主義に対して超自然主義である。キリスト教からすれば、現世的生活は来世の準備にすぎず、現世的欲望は道徳上価値がない。人生の理想は、来世における生活のために現世における欲望を禁圧し霊的修養を積むことにある。その教育主義は神を愛し、神に祈り、自己を抑制して神に仕えることである。

079 僧庵学校はキリスト教主義の学校のうちで古いものである。僧庵は熱心なキリスト教徒が宗教的修養をするために世俗的生活を離れて居住したことから始まる。その起源はエジプトや小アジア地方であるが、次第に四方に広がり、AD5世紀ころは広くヨーロッパの各地に起こった。僧庵に付属する学校を設け、宗教家となろうとする者の他に世俗の子弟も収容するようになった。これは今日の小学校の始まりである。

080 その学科目は読書、習字、算術、唱歌であり、もっぱらキリスト教に関する文書を理解することと、キリスト教的儀式に関する修養とを行った。僧庵学校の訓練は極めて厳重で、体罰が行われ、教授法は専ら機械的暗記によった。

後、各教会に付属して起こった寺領学校は初等の宗教教育を授け、大寺院に付属して起こった寺院学校は少々高尚な宗教教育を授けたが、教育の実質と方法は、僧庵学校と大差なかった。

081 中世においてカロロ大帝普通教育を奨励した。学者アルクインを聘し、宮廷に学校を起こし、各僧庵に命令して学校教育を奨励した。AD802年、全ての児童を学校に送り、学に就かしむべきことを全国に命じた。これは義務教育の嚆矢である。しかしそれが実施されたかどうかは明らかでない。またその教育はキリスト教的で僧庵学校と大差なかった。

 中世末に都市が発達するとともに、全く市民生活の必要から起こった習字学校ラテン学校があった。これらは僧庵学校と少々趣を異にしていたが、当時の教師はキリスト教的な宗教家であったために、中世における世俗的教育も、概して僧庵学校に近いものであった。ただし中世の末には職業組合徒弟教育のために学校を設けた地方もあった。

 

第二節 中世の大学

 

082 中世の大学は「すこぶる盛大」であった。今日の欧米の大学はその流れをくむ。その最も古いものはスペインのコルドヴァなどに起こったムハメット教徒の大学であったが、今日の欧米大学は、イタリアやフランスで初めて起こった。

083 イタリアのサレルノ―大学の医科、ボロニヤ大学の法科、フランスのパリ大学の神学科は「殊に名高く」、AD13世紀以後盛大になった。英国のオクスフォード大学とケンブリッヂ大学はパリ大学を模範として設けられた。ドイツやオーストリアの大学も同様である。

 中世の大学はその初めは専門学校とも言うべきもので、次第に文科、法科、神学科、医科を併設するようになった。文科では文法、修辞学、弁論法、算術、幾何、天文学、音楽を授け、他の三科では専門学を授けた。文科は他の三科の予科であり、先ず文科を終ってから他の専門研究に入ることを常とせり。

084 教授法 中世ではまだ印刷術が発明されていなかったため、文書は写字によった。大学では写字に基づく文書を教科書とし、これを翻読し、それに関する注釈を筆記させた。講義は朗読を主とし、学生はこれを筆記し、機械的に暗記した。この他に討論があった。これは一定の題目を設けて学生が互いに論難し合うものであるが、推論式により形式的議論を闘わすだけで、新たにその理を発見しようとするものではなかった。また大学における用語はラテン語であり、文書も皆ラテン文であった。

 中世の大学は学位を授ける特権を持っていた。文科大学はバッカラウレウスとマギステルの学位を授け、神学科、法科、医科の各専門科大学も、バッカラウレウスとドクトルの学位を授けた。学位の名称や種類は各大学で一定しておらず、時代によっても異なるが、先ず文科大学でマギステルの学位を得てその後に専門科大学のバッカラウレウスの学位を取ることが普通であった。ドクトルは最も高い学位で、これを授けるときは荘重な儀式を行った。

 

第三節 騎士の教育

 

085 ヨーロッパの中世の教育は概してキリスト教主義であり、ギリシャ・ローマの現世主義的教育とは全く趣を異にしていたが、表面上はキリスト教主義を奉じながら、実質はギリシャ・ローマの古代の教育とその趣を同じにしていたのが騎士教育であった。これはむしろキリスト教が西ヨーロッパ固有の社会的組織に同化したものとみなすべきである。

086 騎士は中世封建制度によって生まれた武士の階級である。カロロ大帝が崩じて後中央政府の権力が衰え、地方の小民は付近の権勢家に頼り、居住の安全を保った。こうして自ずから主従の関係が生じ、遂に騎士という階級が生じた。彼らは専ら武を講じ、戦いを事としたが、その点は古典時代のギリシャの自由民と同じだった。

 騎士の子弟は7、8歳までは家庭で母から教育を受けた。この時キリスト教に関する教授を受け、長上に対して礼儀を厚くし、尊敬と従順の徳を守るよう習わされた。7、8歳になると貴族の家に預けられ、小姓として主君や主婦の雑用を処理しつつ、騎士の作法と遊戯を学び、14、5歳になると楯持になり、主として主君に仕えて武芸を練り、21歳の時厳粛な儀式でもって騎士に列せられた。ここでキリスト教を信じ、キリスト教を保護することや、主君と祖国に忠誠を尽くことを誓った。

088 騎士の教育はその主義において矛盾している。一方ではキリスト教の博愛主義を奉じ、他方では武勇を尊び、名誉を重んじたからである。

11世紀ころ女子に仕える作法が堕落し、淫卑な風習を作ったが、騎士精神とその作法は近世まで長く欧米の教育に影響を及ぼし、中等以上の学校でのその勢力は頗る大きかったことを忘るべからず。

 

 

第四章 文芸復興時代の教育

 

第一節 文芸復興の伝播

 

 文芸復興とはギリシャ・ローマの文芸を復興することであり、14、15世紀に起こった運動である。その目的は中世におけるキリスト教主義を脱し古代の文化に帰ろうとすることである。中世のキリスト教主義は人間の自然的欲望を禁圧する超現世主義であり、人間本位の文化ではなかった。これに反して古代の文化は人間の自然的欲望を重んじ、現世における名誉ある生活を理想とする。文芸復興は古代の理想に復帰しようとしたので、その思潮を人文主義という。

089 文芸復興は先ずイタリアに起こった。イタリアはローマ時代の文化の中心地であり、その時代の遺跡に富んでいて、その時代の文書等もたくさん保存されていた。また当時のイタリアには王侯があちこちに割拠して相争っていたため、人心が覚醒された。各国とイタリアの都市との交通貿易が盛んで商工業が発達し、中世の禁欲主義に不満を抱き、古代の人間本位の文化を渇迎した。

 

090 ペトラルカ1304--1374はイタリアの文芸復興の先駆者である。ペトラルカ以前にダンテ1265—1321が「神曲」の中で文芸復興的情緒を述べたが、その思想の根底は中世のキリスト教主義であった。ところがペトラルカは中世の超自然主義を棄却し、現世的生活の美と楽とを憧憬し、古代の文化を慕い、ラテン文学の復興に努め、1341年、ローマの大学から詩聖の月桂冠を得た。

 

 ボッカチオ1313—1375はペトラルカの門人で、主情主義者となり、宗教と道徳を眼中に置かなかった。18世紀以後の主情主義的教育思想はペトラルカに起源がある。

 

091 文芸復興運動は古典語研究をもたらした。学を講じ、文を習うものは必ず古典語を研究しなければならない。これは近世の欧米を支配した輿論である。古典語とはギリシャ語とラテン語であり、文芸復興時代に最初に始まったのはラテン語の研究であった。ラテン語は中世の学術語であったが、中世のラテン語は転訛が多く、古典的ラテン語でなかった。そのため文芸復興運動は古典的ラテン語を復活させようとした。15世紀末、シセロ(キケロ)の文体を学ぶことに全力を用い、人文主義はシセロ主義となった。

092 イタリアに起こった人文主義運動は印刷術の発明と共に西北に伝播した。15世紀末、多くのイタリア人文主義者が英仏独に赴いて教鞭を取った。そして人文主義は漸く北欧に伝わり、アグリコーラ1443—85ロイヒリン14551522ヴィンぺリング14501528エラスムス14671536蘭、メランヒトン14971560などの学者を輩出した。中でもエラスムスは北欧人文主義者の泰斗(たいと、泰山北斗。権威者)であった。

北欧の人文主義者はイタリアの人文主義者とその思想で異なる。イタリアの人文主義者は文芸を主とし、自由を旨とし、個人主義、主情主義を奉じ、宗教と道徳を顧みない傾向があったが、北欧の人文主義者は宗教と道徳を重んじ、イタリア人のような自由な生活を喜ばなかった。ただしイタリアの人文主義の中でも教育に興味を持つ者は、このような思想(宗教と道徳を重視)を持っていた。

 

第二節 人文主義の教育説

 

093 イタリアにおける文芸復興は頗る自由主義的で、宗教と道徳を軽視する傾向があったが教育上の説をなす者の間ではこのようなことが少なく、北欧の人文主義者と同じく保守的であった。教育の説を発表する者は頗る多く、ベルゼリオ13491428ヴェジオ14061458ピッコロミニー14051464などがその主な者であった。彼らの教育説の根本思想はローマのクインチリヤヌス076から出たもので、個性を重んじ、自由を尊び、訓練でも中世で多く行われた体罰を不可とし、一般に体育を奨励した。しかし、宗教や道徳に関しては中世におけるようにキリスト教を基本とした。

 

 北欧の人文主義者の中で教育論者として注目すべき者はアグリコーラ、ヴィンペリング、エラスムスであり、この他にスペインのヴィーヴスの教育説も注目に値する。

 

 一、アグリコーラはリエージ大学で古典を学び、パリに出てヴェッセルに師事した後、イタリアに行き、研究を続けた。その後ハイデルベルグ大学に聘せられ、古典を講じた。

彼はその著「研究法論」において学術の対象と学習の順序を論じた。学術の対象は教材論であり、学習の順序は教授法論である。

学術の対象では、各人の能力に応じて法学、医学、論理学などを研究するのはよいが、実践哲学は全ての者が学ぶべきものとした。

 学習の順序に三通りあり、第一は学習事項を理解すること。第二は学習事項を記憶すること。第三は学んだことの中から何物かを導き出すことである。これは教授段階説である。

 

 二、ヴィンペリングはエルザス(アルザス)に生まれ、早くから人文主義の教育を受け、後に大学教授になり、ヨハネス・ストゥルムと共にストラスブルグのギムナジウムで教鞭を執った。その著書に「読書入門」や「青年期」などがある。「読書入門」は彼の教育説であり、そこで彼は教育の大切さを説き、教育は宗教の基礎であり、身の飾りとなり、国家自衛の素地を作るとした。彼は善良な教師が教育上必要だとし、またラテン語を最も重視すべきだと説いた。

 

 三、エラスムスはオランダのロッテルダムに生まれ、9歳でデベンテルに行き、人文主義の学者に就いて古典を学んだ。13歳の時母と別れ、デベンテルを去り、僧院に入り、仙僧的生活を学んだが、法王から放逐を命ぜられ、仏、英、伊の諸国を流浪し、スイスのバーゼルで没した。

 

097 彼の教育思想は、その著「幼少時から児童に自由教育を施す必要」「研究の方法について」「児童に必要な作法」「シセロ学徒」などによって知られる。

 教育の目的は敬虔、学習、道徳的本務、作法を授けることであるとし、教育は貧富を問わず、男女を論ぜず、全ての人に施されるべきであり、教育の種類・程度も、個人の能力に応じて定められるべきだとした。彼の思想は近代的であった。

 彼は幼少の児童は教育しやすいから早く教育を始めるべきだとし、その教授法は機械的暗誦を斥け、絵画や遊戯などで興味を以て学習させるべきだとした。これは後世における理想主義的・快楽主義的教育論の先駆である。

098 教材に関してはキリスト教に関するものと、ラテン語の書籍とを主とし、その教授では明瞭で正確な発音から始めるべきだとした。

 

 四、ヴィーヴスはスペインの人で、幼少の時、厳重な旧教的教育を受けたが、パリに留学して古典の研究をし、後リエージュに移り、全くの人文主義者になった。

教育に関する彼の主な著書は「知識入門」と「教授科目問答」である。「知識入門」で彼は教育の理論を説いた。彼の教育の理想は宗教的人物を養うとともに現世的活動に適する人物を造ることであった。学校では宗教道徳と実際生活に必須のものの他は課さなかったが、感覚、記憶、理解の形式的陶冶を重視した。家庭では妻が夫の指導の下に教育の任に当たり、父はその子の性能を検して相当の職業を定めるべきであるとした。理想としては一人の仲間を作り、家庭教師を雇って教育するのがよいが、それは実行上困難であるから、学校を設ける必要がある。その教科目は学校の程度によって一様でないが、キリスト教的精神に満ちた貴族学校が最も理想的である。その生徒は優良な性能たるべく、試験の上で入学の許否を決定する。貧困な生徒には国家から補助を与える必要がある。教師は学力豊富で、徳行に秀で、教育的修養の十分のものでなければならない。教育を三期に分け、第一期は7歳から15歳まで、第二期は15歳から25歳まで、第三期は25歳以降とする。第一期では言語に関する準備教育を主とし、ラテン語に最も重きを置き、宗教に関する教授も加える。第二期は哲学、修辞学、自然科学、数学の初歩を授け、その教授法では実物を用いさせる。第三期では社会の実際を見て、古老の言を聞き、先に理論として学んだことを補充させる。彼は教授法に関して次の諸項を挙げた。

 

一、個性を十分に尊重すること

二、興味を以て自由に学習させること

三、直感と帰納法を重んずること

四、個々の場合から全般に進むこと

五、既知から未知に進むこと

六、易きから難きにすすむこと

七、練習、反覆、総合を重視すること

 

101 これは17、18世紀における自然主義的教授法の端緒といえる。

かれはまた「キリスト教婦人の教育」を著し、旧教主義の女子教育論を述べ、少女の監督を厳にし、結婚までは男子と多く交際させないで、高尚な教育は女子に必要なく、専ら家事に関することと宗教と言語に関することを学ばせるべきだとした。

 

第三節 文芸復興時代の教育の実際

 

102 文芸復興は貴族社会に起こり、王侯の保護を受けて栄えたため、この時代に勃興した教育は中等以上の学校教育に属し、また人文主義は貴族教育を盛んにした。

 

 人文主義の学校はイタリアに多く起こった。フローレンス、ベニス、パドゥア、ヴェローナなどの都市にはその地の王侯の保護の下にこの種の学校が起こった。

マントゥアの学校はビットリノ・ダ・ヘルトレが監督した。ビットリノは45歳の時、マントゥア侯に聘せられ、23年間その学校を監督した。その学校は田園学校と言うべく、周囲は牧場で、建築は善美を尽くし、生徒にはマントゥア侯一族の他にその他の貴族の子弟も交わり、皆学校の近くに寄宿し、ビットリノ自身も生徒と起居を共にし、生徒の食物、衣服、健康状態等を監視し、生徒が遊戯する際にはその中に加わり、共に遊んで楽しんだ。

103 彼の教育の理想は一般の人文主義者と同じく、心身の調和的発達を旨としたが、実際的・社会的活動の準備をすることも目的とした。学科目はラテンとギリシャの文法と文学であり、その教授法は対話と遊戯を用い、学習を愉快にした。ただし10歳以上の生徒には記憶や暗誦をさせた。また長じた生徒にはラテン、ギリシャの文学の他に、キリスト教に関する書籍を講じ、数学とその実際的応用も授けた。この他体育に関しても注意した。

 

104 16世紀にドイツに起こった王侯学校はイタリアの貴族学校と同種であると言える。マイセン、ポルター、グリンマー、ロッスレーベンはその中でも有名である。

一方、中世に起こったギムナジウムも次第に人文主義的教育を施すようになり、ストラスブルグやニュルンベルグのギムナジウムは、最も早く人文主義を採用した。後に、ヨハネス・ストゥルムが改革したストラスブルグの人文主義的ギムナジウムは特に有名である。次いでメランヒトン092が現れると ドイツの中等学校は殆ど皆人文主義的教育を施すようになった。これはメランヒトンが「ドイツの学校教師」と言われる所以である。

 

 人文主義は英国中等学校に対して顕著かつ長く後世に影響を及ぼした。英国の中等学校は中世に始った公衆学校(パブリック・スクール)と文法学校であり、16世紀の初め、その数は300あったが、エラスムスの人文主義が英国に伝わると、次第にこれに基づいて改造された。

1509年、ジョン・コレットによって起こされたセント・ポールス学校は人文主義学校の模範であり、その教育はキリスト教主義と古典主義の結合であったが、次第に字典、文法、熟語の機械的暗記を旨とするようになった。これはイタリアの場合と同様である。

106 人文主義は元来大学教育と相性が悪かった。それは人文主義を最初に唱えたイタリア人が概して大学以外から起こり、当時の大学を非難し、神学、法学、医学を賤しんだからである。しかし北欧では次第に人文主義が大学教育に浸透し、宗教改革運動が起こると、新教と結んで大学教育を一新させた

 

 

第五章 宗教改革時代の教育

 

第一節 宗教改革時代の教育の特質

 

107 宗教改革は文芸復興の延長といえるが、逆にその反動ともいえる。宗教改革者は、文芸復興時代に復活した自由主義、個人主義、主観主義で以て中世的キリスト教を改造し、一般的キリスト教主義を主張した。一方文芸復興は古典語、古典文学の復興に急ぎ、宗教界や道徳を忘れがちな面もあり、これに反して宗教改革はキリスト教の復活を目的とした。その意味で宗教改革は文芸復興の反動ともいえる。

 

108 ルーテル14831546はドイツのアイスレーベンに生まれ、父は市会議員で、母は信仰厚く、子に対して厳粛であった。ルーテルは15歳の時アイゼナッハの親戚の元に寄寓し、その地の人文主義者に学び、3年後、エルフルト大学に入学し、人文主義的感化を受けた。ルーテルの父は彼を法律家にさせようと、一般的修養を積ませたが、彼は古典と古典哲学も研究し、シセロを愛読し、19歳の時、哲学のバッカラウリウスとなった。5年後、哲学のマギステルとなり、父の意に反して僧院に入り、宗教的修業を積み、聖書を研究した。翌年ウイッテンベルグ大学に聘せられ、29歳で神学のドクトルを授けられ、同年学長となった。5年後の1517年、贖罪符に反抗し、宗教改革の端緒を開いた。ルーテルは宗教改革を唱えるとともに普通教育も鼓吹した。それは神の子である一般庶民に神の教えを理解させ、自ら神に祈祷と讃美歌を捧げることができるようにするためであった。

 

 ツイングリー1484-1531はスイスの人である。ラテン学校に入り、人文主義の感化を受けた後、大学で学び、チューリヒの牧師となった。1523年、宗教改革を宣言した。教育に熱心で、ラテン学校、神学校を起こし、一般キリスト教的国民教育を鼓吹した。

 

110 カルビン1509-1564はフランスのリオンに生まれ、宗教を学んでから法律と古典を学んだ。1532年、宗教改革者としてパリに赴いたが、1年後パリを去り、2年後に戻ったが、放逐され、スイスに逃がれた。ジュネーブに招かれ、ここに彼の理想とする共和国を造り、諸制度を定めた。教育を重視し、人文主義的中等学校を起こした。

 

 以上のとおり、宗教改革者が教育を重視したため、新教の伝播と共に学校教育の勃興を見た。ドイツではルーテル宗が広まり、スイスではツイングリー宗が栄え、オランダや英国ではカルビン宗から派生した清教徒が起こり、新教主義の教育も起こった。

111 後に北米合衆国が開かれ、新教主義の教育がその勢力を増した。これら諸宗の間に相違がないわけではないが、いずれも神の子として等しく教育を受けるべきとしたため、一般普通教育が進歩した。欧米諸国の初等教育の発展は新教に負うところが大きい。

 

 宗教改革運動は16世紀の欧州の時代思想を形成したが、全てがこれに同化したわけではない。依然としてキリスト教旧教の勢力は多大であった。また人文主義を継承して宗教から遠ざかり実理を重視し、実用に傾く思想もあった。17、18世紀に栄えた現世主義、実証主義、経験主義はこの時に萌芽を有していた。教育に関する思想の中にはこれに属するものが非常に多い

 

第二節 新教主義的教育思潮

 

112 新教の教育説はその主張に応じて個人的・主観的である。彼らはいずれも一切の人類を神の子として平等であるとし、神に似た者と見なし、全ての人類は悉く同等に教育を受ける機会を持つべきだとした。つまり一般的キリスト教主義は一般的教育主義となった。その教育の目的は、個人を神に似たものとなすから、個人の人格を陶冶することを旨とする。新教主義の教育説は人格主義を高調し、その人格は個人主義的で主観主義的傾向がある。但しルーター教会では英国教会と同じく団体的・国家的傾向もあるが、カルビン教会と英国の清教徒はその特質を最も鮮明にする

113 新教主義の教育説は宗教改革者自身が唱える。ルーテルは初等教育に最も熱心で、ドイツにおける小学校の発展はルーテルの力によると言える。ドイツのトロッツェンドルフや英国のミルトンなどはこの派の教育論者である。

 

114 一、ルーテルの教育説 ルーテルはその教育説をその著書「結婚者についての説教」「ドイツ各市の市会議員に宛て、キリスト教的学校を起こすべきことを諭すの書」「児童を学校に送るべきことの説教」の中で説いた。

 ルーテルによれば、児童は神の賜だから、両親は児童を教育し神を信じさせるべきであり、これは親としての神に対する最大の本務である。家庭は国家町村の基礎であり、最も大切なものだから、家ごとに「宗教問答」を備え、常に神に関する物語を子どもに聞かせ、心の底から神を祈り、神に感謝する心を養うべきであるとする。ルーテルの教育説は新教的信念を養うことである。なお彼は児童の体育を重んじ、訓練に関してあまり厳重にならない方がよいとし、体罰を禁じた。

115 学校教育は男女ともに受けるべきであり、教科目は宗教、読書、歴史、体育等であった。唱歌は讃美歌を習わせるために授ける。ルーテルは中等学校や大学の教育に関しても説いた。

 

二、トロッツェンドルフ1490-1556 トロッツェンドルフは彼が生まれた地名であり、本名はバレンチン・フリードランドと言う。彼の父母は信仰が篤く、彼は幼年にして僧庵に送られた。父母が没し、ライプチヒ大学に学び、後学校教師となったが、ルーテルが宗教改革を起こすと、その職をやめ、ルーテルの許に行き、5年間その感化を受けた。また彼はこの間にメランヒトン092, 104の影響もうけた。晩年ゴールドベルグで25年間、大学予科を兼ねた中等学校を経営した。その目的は神学研究の基礎を造ることであり、「宗教問答」(教理問答、カテキズムcatechism教理解説。種々の版がある。)は最も必要な教材で、祈祷も重要な教育手段であった。言語教育も宗教を理解するために必要で、文法は他の学科の母としたが、文法上の法則はできるだけ少なくし、実際的実例を明瞭に授けることを旨とした。この他、算術、天文、音楽も授けられるべきとした。

117 彼は訓育を重視し、学校は最善の国家の形式に従うべきであるとし、監督を置いて、校内の秩序を保った。一学級を更にいくつかの組合(グループ)に分け、一週間交代で生徒の中から委員を設けた。今日北米合衆国で多く唱えられる生徒の自治はここに始ったのだろう。(先進的。日本はその意味が分からなかったのか。)

 

 三、ミルトン1608-1674 ミルトンは文豪で「失楽園」の著者であるが、教育に関しても意見を述べた。彼はロンドンで生まれ、父は宗教心に富む公証人で、母は慈悲心が深かった。彼はセント・ポールスを経てケムブリッヂ大学に入り、古典語、文学、自然科学、哲学を研究した。

118 ミルトンは大学卒業後イタリアに行き、1639年英国に帰り、23人の児童を自宅に集めて教授した。10年後、クロンウェルの秘書となり、共和党を弁護した。1644年、「教育論」を著した。それは評論的であるが、それから清教徒の教育思潮を知ることができる。

彼は道徳教育と宗教的陶冶が必要であると主張した。道徳の根本は自由であり、その中に宗教的自由、市民的自由、家庭的自由がある。第一は信仰の自由であり、第二は言論の自由で、第三は結婚・教育・思想の自由である。(進んでいる。)

彼は教育の一般的目的に関して理論的方面からと実際的方面から論じた。教育の目的は、理論的方面からは、宿罪のために失った正しい道を再び獲得するためにある。実際面方面からは、神を愛し、神に従い、神に似た者となるためにある。教育の要は道徳を本とし、信仰によって最高の完全に到達させることを旨とする。

ただし、彼は現世的修養を無視せず、戦時・平時とも、正しくまた巧みに、本能を全うしうるように教育する必要があるとした。

教授に関しては、吾人(生徒)の理解力を感覚的世界に限らず、それを超越する世界に及ぼさせるために、自国のことだけでなく他国のことも教えさせ現在のことの他に過去のことも学ばせ、言語教授に関しては、先ず方法によって言語の根本的形式を練習させ、それが終ってから書物を読ませるべきだとした。また容易な知識を先にし、感覚的のものから始めるべきとした。これはコメニウス1592-1670に負うところがあるようだ。彼は12歳から21歳までの中等教育を主として評論したが、その中には教育全般に関する意見も多数あった。

 

第三節 人文主義的教育思潮

 

120 宗教改革と人文主義とで相連関するところがあることについては先述した。新教主義の教育思潮は人文主義と共通するところがあるが、新教主義の外に立って人文主義的教育説を主張する者も多かった。これらの説の中には17、18世紀の理性主義のように、経験を重んじ、実利を旨とする傾向もあったため、その中には実利主義的教育説と言われるものも多かった。それはこの種の教育論者が事物の経験実際生活を重んじたためである。

 

 一、ラブレー1483-1553 ラブレーは文学者であり、その教育説を小説の中で述べた。彼はフランスの南部で生まれ、近所の僧庵で教育された後、あちこちの僧院で修業した。この間に古典語、法律、医学を学び、モンベリー大学で医学を研究し、医術に従事した。

彼は文芸にも趣味を持ち、1533年、匿名で風刺小説を著した。その中から「ガルガントゥアとパンタグルエル」の伝記を抜粋して単行本として刊行したが、その中で彼は教育思想を述べた。

 

122 ガルガントゥアは巨人の意味で、パンタグルエルは悪魔の意味である。「ガルガントゥア」では小説的にガルガントゥアの伝記を叙述しながら彼の教育に関する理想を説いた。ガルガントゥアは朝4時に起き、身体を従僕にもませながら、従僕に聖書の一節を読ませ、体を休める間に前日学んだところを復習し、その後天体を観察する。衣服を着て髭をそる間も教授を続け(させ)、問答をして学んだところを実際生活に応用する方法を明らかにする。次に3時間の講義をし(受け)、その後遊戯をしてから昼食を取る。食事の間も面白い物語を読ませ、古典を利用して食物の性質について問答し、自然の博物学の知識を得る。食後に祈祷をしてから、遊戯で数学の初歩を学び、幾何学、天文学について問答し、音楽を練習してから2時間講義を聴く。それから体操や武芸をし、夕食までの間その日学んだところを復習する。食後讃美歌を神に捧げ、数学的遊戯をし、祈祷をして就寝する。これはラブレーが青年時代に対する教育の理想を示したものである。

彼はまたパンタグルエルの中で、教授科目を論じ、第一にギリシャ語、次にラテン語、その次にベブリュー語(ヘブライ語か)を挙げ、特にプラトーやシセロの文を模範とした。この他地理学、幾何学、算術、音楽を重んじ、天文学、民法、理科学の必要を認めた。

 

 二、モンテーニュ1533-1592 モンテーニュはフランス貴族の出身で、モンテーニュ城に生まれた。父はボルドーの市民で、武芸に長じ、イタリアでの戦争から帰るとき人文主義の学者を聘して来て教育顧問とした。モンテーニュが受けた教育は自由自然とを旨とし、家庭教師に伴われて田舎に行き、対話で自らラテン語を学んだ。彼の教育思想は彼が自ら受けた教育を理想とする。彼は6歳の時田舎からボルドーに帰り、コレーヂに入学し、13歳で卒業し、それから法律を学び、イタリアに遊び、後選挙されてボルドーの市長となった。

124 モンテーニュはイタリアから帰って幾多の論文を書いたが、その中に教育論がある。教育は幼少の時から始めるべきで、家庭教師は学殖が深いよりも理解の明に長じ、知識よりも道徳に優れた人が良い。教師は自ら語るよりも生徒に話させるべきであるとした。これは生徒の個性を明らかにしてそれに応じた教育を施せという意味である。彼は家庭教育を推奨し、学校での集合教育を排斥した。教授は単なる知識を授けるだけでなく、実行を助け、実際生活に役立たせるべきである。教科目で最も大事なものは哲学即ち実践哲学としての倫理学であり、自由学科はその予備であるべきだとした。文学は形式よりも内容を重んじた。語学教授は直説法であるべきだとし、文法よりも講義を重んじ、生徒の要求を主として教授すべきであり、これは語学教授上の新主義であるとした。かれはまた体育を重んじた。

 

三、アッシャム1515-1568 アッシャムは英国の人で、父は某貴族に仕えた管理人であった。彼は父が仕えた貴族の子弟と学び、ケムブリッヂ大学に入り、後、皇女エリサベスの教師となった。彼は「学校教師」を著し、教育上の問題を論じ、ラテン語教授法を説いた。

児童に学習を愛好させる方法は如何の問いに答え、教育は児童に対する愛と親切によるべきで、体罰は決して加えるべきでない。もし児童に少しばかりの悪いことがあっても将来の発達を考えて多く罰するべきでないとした。

天性の怜悧な者と愚鈍な者とを如何にして区別すべきかの問いに対して、彼は、幼少にして怜悧なる児童は物に上達しやすいが、これを保持しがたく、何事にも熱心だが、すぐ飽きる。また迅速に理解するが、深く詮索しない。だからこの種の少年はすぐれた詩人にはなるが、博識な雄弁家にはなりにくく、弁舌に長じても判断が鈍く、道徳を実行する力に乏しいとした。

127 学習に適する天性の有無を如何にして知るかの問いに対して、彼はプラトーの意見に同意する。第一は身体の健康、第二は記憶力の秀逸、第三は学習を好むこと、第四は勤勉を喜ぶこと、第五は人から物を聞くことを楽しむこと、第六は復習を好むこと、第七は賞賛を願うことなどである。

 

 彼は児童を導く際、親切と慈愛を以てすべきであり、体罰を加えたり威嚇したりしてはならないとした。

 如何に青年を放浪生活から遠ざけるべきかの問いに対して、彼は旅行の害を述べた。これはモンテーニュと全く意見を異にする。

 

第四節 宗教改革時代における教育の実際

 

128 宗教改革は後世の欧米の教育に一定の典型を与えたと言える。ドイツと英国の大学はこの時代に改革され、中等教育も改造され、初等教育は初めて行われるようになった。大学や中等学校では人文主義的教育が行われ、初等教育では新教主義的宗教教育が行われた。

 

 ドイツでの宗教改革の中心はウィツテンベルグ大学であり、ルーテルやメランヒトン092, 104は人文主義的にこれを改革した。文科つまり哲学科を重視し、10名の正教授を置き、教授法を改良した。

129 ライプチヒ大学もこれに倣って改革し、16世紀に新設されたマーブルグ大学、ケーニヒスベルグ大学、エーナー大学などは、新教的人文主義的教育の中心地となった。

 

 英国でも、ケムブリッヂ大学は新教主義に基づき改革運動を起こし、後、オックスフォード大学もこれに加わった。両大学の職員はキリスト教信者に限り、ギリシャ語やラテン語を毎日学生に聞かせ、学年に応じて数学、修辞学、哲学などを修めさせた。文科大学を卒業後さらに神学部、法学部、医学部に入学して専門的修業を積んだが、これは中世と同様であった。

 

130 中等学校での改革も人文主義的であった。当時の中等教員は皆大学の教育を受けた者ばかりだったから大学教育の精神は中等学校にも及んだのだろう。ドイツではメランヒトン092, 104は殆ど当時の中等教育を支配し、1528年のサクセン国の「教育令」はメランヒトンが立案したもので、その学科は宗教古典語を中心としていた。

 英国の公衆学校(パブリックスクール)もアッシャム125を通じて新教主義的に改造された。アッシャムはドイツの人文主義教育者ヨハネス・ストゥルム96, 104の影響を受けた。カルビン派のコレヂでも宗教と古典語を主としたが、オランダや英国でもその伝統が見られた。

 

131 宗教改革者は初等教育に熱心だった。ルーテルは聖書をドイツ語に翻訳し、一般世人の理解に便し、自ら「宗教問答」を編集して、キリスト教の要旨を明らかにした。ルーテルは初等教育の普及を説き勧めたが、これは新教主義のキリスト教を広めるためであった。(ルーテルは)町村が小学校を設けない場合、教会の番人に「宗教問答」、読書、習字、賛美歌を教えさせた。

 

 オランダでも宗教改革者は宗教、読書、習字などの初歩を授ける教育を広めたが、スコットランドではジョン・ノックスがカルビンの影響を受けて宗教改革を唱え、無月謝の小学校を各寺領に設けるように規定した。1646年、法律で各寺領に一つの小学校を起こすこととし、それを守らなければ寺領を監督する長老に小学校を設けさせ、寺領にそれを維持させた。

133 イギリスでは19世紀の中葉まで義務教育の制度がなかったが、私立の宗教団体が初等教育を貧民に施すようになった。これは新教主義の結果である。

 

 

第六章 西暦第十七八世紀の教育

 

第一節 エスイタ宗徒*の教育

 

*イエズス会 Societas Jesu 16世紀、イグナティウス・デ・ロヨラによって創立された、カトリック教会に属する男子修道会。ジェスイット教団、耶蘇(ヤソ)会ともいう。

 

17、18世紀のヨーロッパの教育界に二つの勢力があった。一つはエスイタ宗やその他の旧教徒であり、もう一つは理性主義者である。両者は宗教改革に対して起こった。

宗教改革には宗教的方面と古典的方面とがある。宗教的方面を高調し、宗教改革以上に進み、中世期的反動となったものが、エスイタ宗徒に依って実行された旧教主義の教育である。もう一つは古典的方面を高調し、純学究的研究に進み、理性の支配下に確実な知識を基礎としたものが理性的教育主義である。自然主義の教育や汎愛学徒の教育はこれに属する。

フェヌロンフランケなどの教育説は両者を兼ねる。前者は旧教に依り、後者は新教を奉じた。

 

 エスイタ宗は1540年、ローマ法王の認可を得た宗教団体で、キリスト教会を軍隊的に保護しようとする。エスイタ宗の開祖をイグナーチウス・ロヨーラ1491-1556という。

134 彼はスペインの騎士で貴族ロヨーラ家に生まれ、戦陣に臨み、1520年に戦場で負傷し、その療養中に聖者の伝記を読み、深く感じるところがあり、宗教のために一身を委ねようと決意した。それからイェルサレムに巡礼し、帰ってから学業に励み、パリ大学に留学し、フランソア・ザヒエーと相親しみ、遂にエスイタ教会を起こした。エスイタ教会とはキリストの教会という意味である。晩年ロヨーラはローマに止まり、この宗の将軍となり、終生このために尽力した。没する時ローマ法王から聖者の尊号を与えられた。

135 エスイタ宗は中等以上の教育に力を用いる。軍隊における士官養成に倣ったものだろう。学級はコレヂと称し、その中に下級・上級の別がある。前者は中等学校に相当し、後者は大学に相当する。中等学校は盛んで、17、18世紀におけるフランスの中等教育は全くエスイタ宗の掌中にあった。18世紀の初めにこの宗派に属する中等学校は712、師範学校は157、大学は24あった。

 エスイタ宗の長は将軍と称し、終身その職にいる。将軍は絶対の権能を有し、全世界の宗徒を監督する。エスイタ宗が広まっている範囲を多くの行政区画としてのに分ち、州ごとに知事を置く。知事は将軍に直属し、知事の下に教育総長がいた。総長は州の教育を管理し、将軍から直接任命される。総長の下に学事監督官があり、知事によって任命される。学校生徒も細かに区別し、各組に互いに相制御させた。斥候を放ち他を監視するのはこの宗の特色である。

 エスイタ宗は大いに力を教員の養成に用いる。この宗の教師には4種あり、教授、助教、得業生、試補である。試補は下級コレヂの一部分を終え、二年間宗教的準備をした者である。得業生は上級コレヂの神学科を卒業した者で、助教は(それを)卒業後6年間の経験を積んだ者の中から選ばれる。

137 助教でさらに師範教育に関する訓練を受けて終身教員となった者が教授である。教員養成にこれほど力を用いた例は他にはない。

 

 エスイタ宗の教育は意志の陶冶を主とする。謙遜はこの宗の教育の神髄で、長上に対して絶対的服従し、従順は極端に励行され、合図があれば、書きかけた文字があってもそれを中止し、正確に合図に従わねばならない。

138 生徒は毎日の一般的祈祷や特別の精神的修養を行う。この宗派では保護と監督とを厳にし、生徒は皆寄宿舎に入り、教会の祝祭日の他は、休業を許されず、学校の教科書も厳密に限定され、古典の中でも不適当な文句は抹殺された。この宗派以外の教義を聞くことは絶対に禁じられ、教師の話は一言半句も聞き逃してはならない。訓練に関しては威嚇主義であり、厳に体罰を与え、特別に腰掛を置き、懶怠(らんたい)な者や命令に違反する者をここに座らせた。名誉心を鼓舞し、生徒に競争者を定めさせてこれに勝とうと努めさせた。

139 教科目は大学つまり上級コレヂでは神学を主とし、哲学、自然科学は補助学科として授け、医学や民法は課さなかった。寺院法は神学科の一部分である。下級コレヂは五級に分け、文法、修辞学、古典を授け、教授は教科書に依るものも、教師が口授するものもあった。下級コレヂでは機械的記憶が多く行われ、上級コレヂでは筆記が多かった。反復練習は最も重視され、毎日教授が始まるときに、前日授けたところを反覆させ、授業の終わりにはその日授けたところを復習させた。また褒章をかけて勉学させた。

 

第二節 自然主義的教育思潮

 

140 自然主義的思潮経験的理性主義に源を発し、経験的理性主義は人文主義に通じてギリシャ・ローマ時代の哲学思想から伝わったようだ。古典の復活はストアやエピクロスの理性主義や経験主義をもたらし、更にアリストテレスの思想も伝播し、中世思想の抽象と独断を捨て、事実と経験を旨とし、自然界と実物を重んじ、自然主義的思潮を生じた。フランシス・ベーコン1561-1626はその元祖である。

 

 自然主義とは自然のままの発達自然に従う教育を意味する。その中には主観的自然主義と、客観的自然主義とがある。主観的自然主義とは、理性体が本来主観の中に持つ本性をそのまま自然に発達させることを旨とし、客観的自然主義とは、自然界が示す自然の順序によって理性を発達させるべきだという。ルソーは前者の代表で、コメニウスは後者の代表である。ラートケーはコメニウスの先駆者であり、二人ともベーコンに依って代表される英国の経験的理性主義の感化を受けたようだ。ジョン・ロックの教育思想も大体これに属するようだ。

 

 一、ラートケー1571-1635 ラートケーはドイツの人で、父は彼が幼少の時に亡くなり、母の手で育てられた。ロストゥク大学に入り哲学と神学を研究し、宗教家になろうとしたが、転じてヘブリュー語を研究し、アムステルダムに8年間とどまった。彼が新教授法に思いついたのはヘブリュー語を研究していた時だと言われるが、アムステルダム滞在中、英国の経験主義を伝聞したことにもよるようだ。彼は自らが発明した新教授法を諸侯に採用させようとし、遂に1617年、ケーテンに聘せられ、そこで教科書を編纂し、男生徒231人、女生徒202人を得て、学校を開いた。その学校は6学級から成り、初めの三学級で国語を教え、次の二学級でラテン語を授け、最後の学年でギリシャ語を教えた。この他祈祷、格言、算術、唱歌を授けた。ラートケーは久しからずして宗教上の争いでこの地を去り、あちこち彷徨し、病んで2年して没した。

 

143 ラートケーの教育と教授で特に主張した原則は以下の通りである。

 

一、男子には一般国民教育を授けるべきである。

二、初めに国語を授け、かつ読み方と書き方とは同時に教えるべきである。

三、同時にはただ一つの言語もしくはただ一つの学科を教授すべきである。

四、全て自然の順序と経過によって教授すべきである。

五、まず実例を挙げ、その後に原則を示すべきである。

六、全て強迫しないこと。例えば体罰は廃し、暗誦をやらせないこと。

 

144 ラートケーは教師の資格も論じた。教師は児童の地位に身を置くべきである。教師は勤勉で注意深く、決して生活を過労にしてはならない。生徒の天賦の差異に注意すべきである。授業時間を連続させてはならない。賞罰は、生徒が教師に対する愛情を減少させない程度になすべきである。

 

 二、コメニウス1592-1670 コメニウスはオーストリアのメーレンの新教徒である。10歳で父を失い、次いで母も失った。ナッサウ大学に入って神学を学んだ後、ハイデルベルグに移って学を続けた。この間にアムステルダムに旅行し、卒業して郷里に帰り、牧師となった。1618年、26歳の時、フルネックに在職中に、その地の学校の管理もすることになった。当時は宗教に関する戦乱の時代(三十年戦争1618-48ドイツの宗教戦争)で、その居所を追われ、ポーランドのリッサに行き、そこに13年間留まった。その間にギムナジウムの教員を兼ねた。この時彼は大著『大教授学』(デタクテカ・マグナ)を書き始め、1697年アムステルダムでようやく出版できた。また『世界図絵』(オルビス・ピクトウス)の原稿をニュルンベルグに送り、3年かけて漸く出来上がった。

 

 『大教授学』は最初の系統的教育学書と言われる。全巻四編からなる。第一編は教育の本質と目的を論じ、第二編は一般教授に就いて説き、第三編は道徳的・宗教的陶冶と学校訓育を論じ、第四編は学校系統を述べた。

146 コメニウスによれば、教育の任務は人間の使命によって定まる。人間は理想的創造物であり、他物を支配する神の肖像である。この使命を全うするために、第一、全ての事物に対する正確な知識を得て、第二、自己を支配する力を養い、第三、神聖にして完全なものとならなければならない。つまり、教育の要旨は知識の教養、道徳の修養、敬虔の修得にあるとする。彼は学校がこのような教育をするのに適当な場所だとし、モンテーニュに反して集合教育の長所を称揚した。彼はまた学校系統を論じ、保母学校、国民学校、ラテン学校、大学の四種とすべきであるとした。

 

 コメニウスの教授法論はその主義の点で、ラートケーと同じである。教授は自然の秩序に従うべきであり、自然の為すところを学ぶべきだとした。その根底は宗教的世界観にある。これは17、18世紀の自然神学的見解に合致する。彼の教授法の原則は次の通りである。

 

一、教授は自然が為すように正当な時と所を見て為すべきである。即ち(イ)徐々に段階的に進むこと、(ロ)児童の発達に相応すること、(ハ)平易なものから困難なものに、欠陥なく遷ること。

二、事物の知識を先にし、言語の発表と応用を後にすべきこと。

三、教授は直感から出発すべきこと。

四、教授は常に連関を旨とすべきこと。

五、教授の際、生徒に興味を起こさせること。

 

148 コメニウスの『世界図絵』は実物の図絵に、その説明を付したもので、彼の教授法に基づく教科書と言える。

 コメニウスは訓練の必要を認め、「訓練のない学校は水のない水車のようなものだ」という諺を信奉した。訓練の要旨は、児童の行儀を良くし、神を敬し、人を愛する心を養うことである。その適当な手段は自然に倣うことにある。太陽が光と熱を地上に送り、時に雨を降らし、風を起こし、雷鳴を起こすことを訓練の手本とすべきである。教師は常に愛を以て生徒に接し、時として忠告と苛責(かせき、厳しく責める。呵責、かしゃく)を加え、また罰を加えることもあるべきだとする。

 

 三、ロック1632-1704 ロックはイギリス人である。父は法律家である。父は極めて厳格な人で、非常に徳義を重んじ、子を育てる際にも厳格であった。しかし子が長ずるに及んではむしろ友人として彼を遇したという。ロックは14歳でエストミンスター学校に入り、19歳の時にオクスフォード大学で学んだ。初め神学を志したが、後に古典語、哲学を学び、自然科学、医学も研究した。1665年、公使の随員としてドイツに行き、帰ってから再びオクスフォード大学に入り、シャフツベリー伯の秘書となり、官途についたが、その間、フランスに留学した。1693年、『教育意見』と題する小冊子を著した。その内容は彼がサー・マッシャム家の家庭教師をした際に得た経験を基礎としたものである。

 

150 『教育意見』はミルトンの『教育論』のように長編の論文である。初めに体育のことを論じ、次に徳育を説き、その後に学科に及び、ついに(最後に)保養、作業、旅行のことを述べたものである。

 彼は最も熱心に体育の必要を唱え、巻頭に「健康なる精神は健康なる身体に宿る」という格言を置いた。彼の体育論は自然的鍛錬主義である。第一、あまり暖かに身体を覆うべきでない。第二、毎日冷水で足を洗うべし。第三、水泳は健康に益あり。第四、戸外に出て遊戯をなすべし。第五、衣服等を以て胸部を圧迫すべからず。

 以上は重なる法則であるが、この他に飲食物に注意し、睡眠を十分にとり、規則正しく生活すべきことなどを戒めた。

151 ロックは訓育でも厳粛主義を取った。身体の強壮が身体の鍛錬に負うところが多いように、心の健康も、心の鍛錬に因るべく、道徳の根本は己が欲望を制して理性の命に従うことあるとした。彼は家庭において父母が子女の愛におぼれることを戒め、幼少のときに子女にへつらってその本性を堕落させ、他日その害毒を見て初めて驚くことの愚を嘲った。訓練の方法は自然主義により、賞罰についても人為的のものを嫌い、体罰に反対した。

 要するにロックの教育は紳士を養成することを目的とする。紳士が要求するところは、第一に道徳、第二に知巧、第三に作法、第四に学芸である。学芸に関しては、読書、習字、フランス語、ラテン語、博物、理科、幾何、天文、解剖、歴史、法律、修辞学、論理学等である。

152 教授の方法は一定の順序によるべきであり、一度に授ける分量はなるべく少なくし、学んだことは深く記銘させ、その手段は自分が学んだことを他人に伝えさせることが必要だとした。ロックは最期に旅行の必要を述べ、旅行は紳士の最良の修養法とした。しかし、20歳以前の旅行は適当でないとした。

 

 四、ルソー1712-1778 ルソーは主観的自然主義の代表者であり、その影響は大きい。彼は元来文学者で、教育的経験はなかったが、時弊を摘発し、教育界の刺激剤となった。

 

153 ルソーはジュネーブに生まれた。母は牧師の娘で感情的小説を好んだが、産後病で斃れ、彼は叔母に育てられた。父は時計製造業者で、その祖先はパリの貴族の出であった。ルソーは生まれながら感情的で、読書に耽り、六七歳の時から父と共に小説を読んだ。彼が八歳の時父はジュネーブを去り、彼は叔父の家に預けられた。しかし叔父はその子と彼を田舎に送って牧師に託した。十歳の時彼は牧師の許を逃れ、ジュネーブの叔父の家に帰ったが、次第に放浪生活に慣れ、16歳の時、ジュネーブを出奔した。寡婦マダム・ワランの紹介でイタリアのチューランに行き僧院に入ったが9日で去り、放浪生活に入った。

154 3年後、マダム・ワランの許に帰り、ワランの紹介で種々の仕事をしたが、長続きせず、遂にマダム・ワランと共にシャンベリーで同棲した。ここで彼は9年間読書に耽ることができた。29歳の時、パリに出て、多くの文士と交わった。その間、大使の書記としてベニスに行き、18カ月間滞在した。1750年、デジョンのアカデミーに提出した「科学や芸術の進歩が道徳の進歩に貢献するか」と題する懸賞論文に当選した。また第二回の懸賞論文「人類間の不平等の起原と原因」では賞を得ることができなかったが、彼の名声は高まった。1762年、「社会契約論」を著し、同年、教育小説「エミル」も公にした。

156 彼はこの二書のために迫害を受けてパリを去り、スイスやイギリスを彷徨した後、パリの近くに帰って死んだ。彼に内縁の妻があり、五子を挙げたが、彼はそれを悉く棄児院に送り、遂にその行く所を知らなかった。

 

 ルソーの教育説は「エミル」によって知ることができる。その根本思想は、二回の懸賞論文と、「社会契約論」にある。彼は学究の人ではないから、理論的に教育を説くこともなく、むしろ随筆的に自己の所見を述べたに過ぎない。

彼は自然を以て理想とした。彼の自然の観念は明瞭でないが、自然界の自然を基本としているようで、人為的なものを罵った。これは彼が社会を呪い、自然を理想とする所以である。自然の本性は自ら各人に天から賦与されたものだから、教育の要は人の本性の自然的発達に他ならない

156 「エミル」の始めに「神の手を離れるとき全てのものは善であるが、人の手に移ると全てのものは堕落する」とある。人は自然に善美な本性を有するから、教育の手段は主として消極的にならざるを得ない。教授も訓育も自然のままにすべきである。実物教授と自由主義の訓練とはルソーの教育説の枢軸である。

「エミル」は五巻からなる。初めの四巻で「エミル」が成人になるまでの教育を説き、第五巻で「エミル」の妻「ソヒー」のことについて述べ、女子に関する意見を述べている。ルソーは自分の実行に反して、極力父母は子女に対する自然の教育者であると説き、自ら子女を教育しない父母を罵倒した。子女の教育は自然的であるべきで、人為的であってはならない。幼少の児童は自然の必然的理法に従うべきであり、人為的に保護されたり、阿諛されたりすべきでない。田舎で自然を友とし、自然のままに成長させるべきだとする。

「エミル」は12歳の時まで実物教授を受けるが、文字や文章を学ぶことはなく、ただ自然を友とし、地理や物理に関することを学ぶだけだ。12歳から15歳までは直感で知識を収得し、その知識はなるべく実用的のものであり、手工もその中に加えられる。15歳から20歳までは専ら心情の陶冶に努め、社会的関係を学び、宗教、道徳、歴史を授けられる。

158 ルソーの教育説の一つの特色は訓練方法である。彼は人文主義者のように主知主義を取らず、意志の実行と習慣を重んじ、なるべく児童の個性に基づいて、児童の心的経験に近い道徳観念を事実から授けようとした。後にスペンサーによって主張された自然主義の訓練は「エミル」の中に詳述されている。ルソーは極端な個人主義だが、その主義は未だ女子には及ばず、女子は男子を慰めるためにあるものとした。

 

第三節 汎愛主義の教育思潮

 

158 汎愛主義とは広く児童を愛護・教養することであり、バゼドー*が建てた汎愛学校から起こった名称であり、18世紀の時代思潮である理性主義に基づくものである。合理的に児童を教育すべきとし、児童を理性体として愛護する。バゼドー*とザルツマンはこの派の重要な人であり、この説は主としてドイツで行われた。

 

Wikiによれば、ヨハン・ベルンハルト・バゼドウJohann Bernhard Basedow, 17241790は、啓蒙主義時代の教育改革運動の一つである汎愛主義の指導者の一人である。1771アンハルトレオポルト3世の招聘を受け、デッサウに赴き、汎愛学院、彼の言葉では「人間性の苗床学校」を創立。様々な出自の子どもを身分に応じて教育した。

 

Wikiによると、クリスティアン・ゴットヒルフ・ザルツマン1744-1811 Christian Gotthilf Salzmannは、福音派の牧師で教育学者である。1784年、ゴータの近くにあるシュネプフェンタールという町で汎愛派の学校を創立し、ペスタロッチの学校と並ぶ影響力を教育界にもたらした。その前の1781-1784、ヨハン・ベルンハルト・バゼドウがデッサウに創立し指導していた汎愛学院Philantropinで学ぶ。彼のこの学校での協力者の一人は、ヨハン・クリストフ・グーツ・ムーツとヨハン・マイトス・ベヒシュタインだった。

 

 一、バゼドー1724-1790 バゼドーはハンブルグに生まれた。父は鬘(かつら)製造業者であった。父は厳格な人であった。バゼドーは学校でも厳格な訓練を受けた。ライプチヒ大学に入り、道徳と神学を学びながら家庭教師をした。その時英独の哲学書を研究した。ライプチヒに1年いてから故郷に帰り独学し、翌年、某貴族の家庭教師となり、ラテン語を教えた。在来の教授法は専ら暗誦と反復を続け、児童の精神を鈍くすると感じ、新教授法を考案し、自由に戯れながら教えることにし、また十分道理を説明して授けることに努めた。その効果が現れ、10歳の児童がギムナジウム程度の学力を修得するようになった。

160 次いで1752年、教授法に関する論文をキール大学に提出した。デンマークの某騎士大学の教授に聘せられ、8年間その職にあった。アルトナの騎士大学に移ったが、宗教上のことで世の反対を受け、デンマーク王の保護を受け、著述に従事し、1771年、デッサウの大名に招かれ、その地に汎愛学校を開いた。これは汎愛主義の淵源であり、ザルツマンやカンペなどはこの学校の経営に従事した。後、バゼドーは再び自らその任に当たった。しかしそこを去らざるを得なくなり、晩年その子に従って、あちこち転任し、1790年、マグデブルグに没した。

 

161 バゼドーの教育説は時代思潮の影響を酌み、現実生活における幸福を最高の目的にしたようだ。教育の手段は、養護・訓練・教授である。養護はロックやルソーの説と同じく、体操、遊戯、水泳、入浴、手工などを奨励した。訓練では道徳的習慣を養い、有用な市民にするように努め、罰は寛大を旨とし、体罰は課さない。善行を行った者には善行評点を与え、これを善行表に記入して一般生徒に示し、その著しい者には休暇を与え、徽章(きしょう)を授け、特に食物等を取らせた。

162 教授では実物によってこれを為すことを常とする。良家の子弟には7歳からフランス語を授け、長じてラテン語を教え、特に実科と近代外国語に力を用いた。

 またバゼドーは自然宗教*主義の宗教教授を採用した。

 

*自然宗教 人為宗教(創唱宗教)や啓示宗教に対する。人間本来の理性に基づく宗教と、民族宗教や原始宗教のように自然発生的な宗教とがある。前者は18世紀の啓蒙思想や理神論にみられ、D.ヒュームの奇跡の否定や、ディドロの、啓示宗教の異端視など、無神論へ傾斜した。

 

教授方法では生徒に興味を持たせるように努め、生徒の自発的活動を重視し、遊びながら学ばせようとした。例えば外国語を用いて遊戯をさせるとき、動植物の名を黒板の背面に書き、これを読み当てた児童に賞として菓子を与えた。また文字を書いた骨牌(はい)やサイコロなどを用い、文字を現した菓子を作り、これを読み終わった後に食べさせた。

 

 二、ザルツマン1744-1811 ザルツマンは中部ドイツに生まれ、父は牧師だった。彼も神学を修め、牧師になったが、教育を趣味とし、ルソーやバゼドーの教育説を研究し、1781年から1784年までデッサウの汎愛学校を管理し、1784年、ゴータ―市に近いシュネッペンタールに自らの理想の学校を創立した。彼は生涯この地で子女の教育に当たり、学校は一大家族のようで、生徒も彼を父と呼んだ

 

 ザルツマンは学校の教育に従事する傍ら、多くの著述をした。それらはみな通俗的教育書であり、教育思想を普及する上で大きな貢献をした。

164 その一を「蟹(かに)の書」といい、またこれを「不合理な児童教育についての忠告」ともいう。これは当時広く行われていた誤った教育法を物語体で書き記したものである。その二を「コンラード・キーファー」、一名(別名)「合理的児童教育についての忠告」という。これはルソーの「エミル」のように、コンラード・キーファーを主人公にし、正しい教育法を叙述した。その三を「蟻の書」一名「合理的教員養成についての忠告」という。これは教員養成が必要である理由を説き、教員は健康で、快活に子どもと交わり、子どもと共に事をなすべきだと力説した。

 ザルツマンの教育思想はバゼドーとほぼ一致する。健康で、快活で、理解力に富む善良の人を作り、自他の幸福を進めることを教育の目的とした。実際教育に関しては特に体育を重んじ、組織的に体操や遊戯を課し、散歩、旅行、入浴、水泳、雪投げ、氷滑、手工、園芸などを課した。体操科教授の元祖とされるグーツムーツ*はバゼドーの学校で体育科を教授した。

 

*ヨハン・クリストフ・グーツ・ムーツJohann Christoph Friedrich GutsMuths(Guts Muths), 1759—1839はドイツの教育学者で、体操の創始者の一人。クヴェードリンブルクに生まれ、ハレ大学で神学を学ぶ。1785年から1837年まで、シュネッペンタールの学校で体操と地理を教えた。規律正しい身体教育を唱え、広い運動場を作り、ナポレオン戦争を目前にして『祖国の子らのための体操の本』が広く読まれた。

 

訓練では家族主義を取り、道徳的習慣の養成に努めた。実例を直感させ、自然に感化することを旨とし、賞罰はなるべく用いず、用いるときは自然的賞罰主義を取った。教授科目は宗教、修身、国語、古典語、近代語、数学、実科、体操、手工などで、教授の方法は直感を旨とし、自然の事物に接させた。

 

 汎愛学徒として最も有名な人は以上のバゼドーとザルツマンの二人であるが、この他にカンペ1747-1818、トラップ1745-1818、ロヒョー1734-1805などの教育者がいる。

 

 

第四節 宗教主義の教育思潮

 

166 17、18世紀は理性主義的思潮が盛んであったが、依然として中世の伝説や宗教改革運動の影響がヨーロッパ思想界の一角を支配していた。教育に関しても宗教主義を説く者が少なくなかった。フランスのフェネロン(133ではフェヌロン)、ドイツのフランケ、オーストリアのフェルビーゲルらがそれである。

 

 一、フェネロン1651-1715 フェネロンは貴族の出であり、フェネロン城に生まれた。12歳で学校に入り古典語を学び、パリに出てサン・スルピースの宗教学校に入学し、卒業して宣教師になった。1678年、新教徒の少女を集めて旧教主義の教育を施すことを目的とする団体の長に選ばれた。後、ボービリエー公の女児の教育を託され、また公の推挙でルイ14世の孫の教育を委嘱された。彼の著書「女子教育論1687は彼がボービリエー公の女児を教育した時の経験に基づく。同書は当時喝采を受けた。後、「テレマック」と題する小説を著し、その中でも教育意見を述べている。

 

 フェネロンの教育説は「女子教育論」から知ることができる。同書は18章からなる。

168 彼は旧教徒であり、ヤンセン派*に同情したが、時代思潮の影響も受け、理性主義、実理主義に近い説も持っている。教育は愉快に遊びながら学ばせることを可とする。教授の中に遊戯を交え、教授は苦しいもので遊戯は楽しいものだという考えを捨てるべきだとした。身体の運動は誰でも必要であり、殊に児童は愉快に運動させるべきだ。ただし決して強迫してはならない。これは中世の旧教主義とは大いに異なる。

 

*ヤンセン派 17世紀中葉から18世紀初期にかけてフランスのキリスト教会内で起こった教派。ヤンセンの教会改革精神を基本とし、原罪、自由、恩恵について厳しい倫理を主張した。コトバンク

 

 教授科目については歴史から始めることを可とする。宗教も大切な科目である。その教授法は事実について説明すべきであるとする。女は虚飾に流れやすく、殊に流行を追う風があるので、それを戒めるべきだ。女子の教育は、子女を教育して家庭を治めるのに適当な資格を与えることにある。日常必要な知識と宗教を授け、また経済に関する識見も持つべきである。倹約しても吝嗇(りんしょく、けち)に陥らず、節制を守り、清潔を尊び、秩序を重んじることが肝要である。早くから奴婢を使役することに慣れさせるべきであるとする。彼の教育説はやや保守的だが、18世紀におけるフランスの女子教育に大きな影響を与えた。

 

 

 二、フランケ1663-1727 フランケはドイツ北部に生まれた。父は法律家であった。フランケは幼少の時から敬虔の情が深く、父は彼に神学を学ばせようとした。7歳の時、父を失い、私立学校に行ったり、自宅で学んだりした。16歳の時、エルフルト大学に入り神学を修めた。後、キール大学に移り、3年間在学した。22歳の時、ライプチヒ大学で講義を聞いた後、1692年、29歳の時、ハレ大学の教授となった。ここに35年間止まり、大学で講義する傍ら、ペダゴーギウムと称する教育所を起こして、敬虔主義*の教育を行った。今(大正6年、1917年)でもこの教育所はハレに存在する。

 

*敬虔主義 独Pietismus, Pietism 特定の教理の遵守にでなく、個人の敬虔な内面的心情に信仰の本質を見る立場。ドイツのフィリップ・シュペーナー1635-1705は敬虔主義の父と呼ばれる。シュペーナーの後継者アウグスト・ヘルマン・フランケは「真の愛の一滴は知識の大海よりも尊い」と主張し、学校や工場を設置し、伝道者を海外に派遣し、プロテスタント教会の宣教活動の先駆者となった。Wiki

 

 フランケは神学教授と牧師を兼ねた。ペダゴーギウムは元々貧民や孤児のために起こした教育所であったが、後に良家の子弟も託せられ、中等教育も施すようになった。だからペダゴーギウムの中には、貧民学校、市民学校、孤児院、ラテン学校などを包括し、この他にも教員養成所、女学校などの施設もあり、また図書館、印刷所、薬店などもあった。

 

171 フランケの教育説は純然たる宗教主義である。神を敬する精神を養うことを教育の目的とし、神を敬する意志と情操を陶冶することを主眼とした。その手段として、第一、父母、祖父母らの模範に依ること、第二、宗教問答に依ること、第三、聖書を読ませること、第四、朝夕訓戒を加えること、第五、道徳と罪悪とを例を挙げて説明すること、第六、命令や教訓を加えること、第七、悪心を起こさせないこと、第八、愛・従順・勤勉の三徳を養うこと、第九、祈祷を重んずること、第十、悪い仲間に入らないことなどの事項を挙げて詳述した。

172 フランケは専ら宗教主義の教育を主張したが、時代思潮の影響感化を免れることはできず、自然科学に関する学科も採用し、その教授法として実物教授、実験、実習を重視した。後に大いに開いた実科学校(レアール・シウレ)*の主唱者がフランケの門下生から出たのも偶然ではない。

 

*実科学校(レアール・シウレ)はドイツの中等学校の一つで、その歴史は18世紀の初頭に遡り、工業、商業、技術の発達に伴い、市民階級における実学への要求の高まりとともに発展した。19世紀になり、ギムナジウム(中等学校)とフォルクスシューレ(初等学校)との中間に位置する学校の一つとして整備された。コトバンク

 

 

 三、フェルビーゲル1724-1788 フェルビーゲルはオーストリアのシレージェンに生まれ、神学を研究した後、サガンの僧院の主となった。彼は小学校教育に熱心だった。彼は汎愛学徒158のロヒョーと交通したが、ベルリンで開かれたフランケの門下生ヘッケルの実科学校から得るところも多かった。

 フェルビーゲルはオーストリアにおける小学校の制度を定め、自ら教科書を編纂した。マリア・テレシヤ*に知られてウイーンに移り、一般小学校令の制定に尽力した。この時からオーストリアの小学校教育は一時に大いに勃興した。

 

*マリア・テレジアMaria Teresia1717-1780 神聖ローマ帝国のローマ皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク・ロートリンゲン朝の皇帝フランツ1世シュテファンの皇后で共同統治者。オーストリア大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王で、ハプスブルク帝国の領袖であり、女帝である。

 

 フェルビーゲルによれば、小学校教育は何人にも必須であり、理解力と応用力とを養い、国家に必要な一員を作り、合理的・キリスト教的信徒を作ることを目的とした。市民的・経済的生活に関する教訓も必要であるとし、小学校では男子に、園芸や農作を課し、女子には手芸を課すべきだとした。

174 教授方法は、集合教授を可とし、斉唱を奨励し、問答法によって生徒に理解力を養わせるべきだとした。黒板の利用法を奨励し、綴り字法に関する新たな方法を発見した。訓練に関しては温和主義を採り、体罰はできるだけ避けさせた。

 フェルビーゲルは宗教主義の教育を唱えたといっても、汎愛学徒や敬虔学徒の説を採用したものが多い。これは時代思潮に感化されたものと言うべきである。

 

 

第五節 17、18世紀における教育の実際

 

175 17、18世紀における欧州の教育の実際は、宗教改革時代のそれと大差がない。思想界では理性主義勢力が漸く強大になったが、教育の実際では未だこの主義は行われず、特に小学校ではそう言える。中等学校では宗教改革時代と同じく、人文主義、つまり古典語主義の教育が行われ、大学も同様であり、理性主義が行われるようになった。その様を以下、ドイツ、フランス、イギリスの場合で見てみよう。

 

 一、ドイツにおける教育の実際

 

(イ)大学教育

 

176 17、18世紀のドイツの大学教育は主として人文主義であったが、多少理性主義も混ざるようになった。国語即ちドイツ語を大学でも使用する端緒が開かれた。一般にヨーロッパの大学では中世以来ラテン語が学校語であり、大学の講義や問答は一切ラテン語であったが、1687年、トマシウス*がライプチヒ大学の講師となると、初めてドイツ語で講義題目を掲げ、講義もドイツ語で行った。その後トマシウスはハレ大学に移ってからもドイツ語で講義し、フランケ170その他の教授も次第にこれに倣った。また教育内容も変わった。註脚や訓詁だけでなく、独立に学理を講義するようになり、歴史的・政治的講義と自然科学の講義が盛んになった。

 

*クリスティアン・トマジウス1655-1728 ドイツの哲学者、法学者。ドイツ啓蒙主義の父。

フーゴー・グロチウスの『戦争と平和の法』の講義を聞き、法に関心を持つようになった。

ザミュエル・フォン・プーフェンドルフの『自然法と万民法』を次に研究した。フランクフルトで法学を学び、1684年、ライプチヒ大学で自然法の教授職を得た。1687年、ライプチヒ大学の掲示板に1687年から1688年にかけての冬学期にドイツ語で講義を行うと宣言した。これがドイツ啓蒙主義の始まりとされる事件である。

三十年戦争後、領邦君主は専制政治を確立しようとして政治の中心となり、スコラ哲学は無用となり、大学に代わり貴族学校や騎士アカデミーが設立されるようになった。この流れの中でトマジウスはドイツ語の使用によって大学を学外に開き、生徒たちに宮廷風の礼節を身につけさせ、政治の場に送り込もうとした。

しかしそれは大学からも宮廷側からも支持されなかった。大学はキリスト教の敬虔さと非世俗的学究を是とし、宮廷は政治問題を大学で教育することは厚かましいと考えた

 トマジウスは田舎町ハレに遁れた。ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世(後のプロイセン王フリードリヒ1世)は1694年、トマジウスにハレで大学を設立させた。ところが1713年、フリードリヒ1世が死去し、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が即位すると、ヴィルヘルム1世は父親の宮廷趣味を排除し、プロイセンを軍事国家に改造しようとした。そしてトマジウスの宮廷哲学も無用となった。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は代わりに敬虔主義を保護した。Wiki

 

 (ロ)中等教育 当時の中等教育も大体は宗教的人文主義であった。1661年に創立されたハレ市立ギムナジウムの規定によれば、学年は10年で、最後の4年間ではラテン語を教えるためにあらゆる手段を取るべきだとしている。宗教教授も各中学校で行われ、ラートケー141やコメニウス144等の実科主義を採用するものも次第に加わり、特に騎士学院リッター・アカデミー*は宮廷生活の準備をすることを目的とし、フランス語、数学、歴史、地理なども学科目の中に加え、この他に騎馬、撃剣、舞踏などの世俗的修養も加えた。女学校もこの時代から開けた。

 

179 この時代の新しい中等学校のなかで実科学校がある。1707年、ゼンムラーがこの種の学校を起こそうとしたが、成らず、翌年その志を達したが、2年半で倒れた。ところがフランケ169の門下生のヘッケル1731747年に、ベルリンに実科学校を設けた以後は長続きした。19世紀になって盛大になった実科学校はこうして起こった。

 

 (ハ)小学教育 小学校では16世紀以降宗教科を必修科目とした。ラートケー140やコメニウスの説に基づいて改善を試みる者もいた。

 

1674年、ゴーター公学校令を定め、一般義務教育制度を布き、5歳の時から卒業試験に合格するまで男女の児童に修学の義務を課し、欠席すれば罰金を処することとした。教科目として宗教、読書、習字、算術、唱歌を置き、別に理科を課した。教授法は、教材を各学科に分配し、根本的に学習した後に初めて先に進ませ、暗記する前に理解させ、直感に訴えるなどである。教員を養成するために師範学校を作る計画を立てたが、三十年戦争に際会して実行できなかった。

プロイセンでは1736年、フリードリヒ・イルヘルム一世の代に一般教育令が発布された。その中に、小学校建築と教員のことを規定した。5歳から13歳までの教育を国民の義務とし、教科目は宗教、読書、習字、算術、唱歌であった。その子のフリードリヒ二世即ちフレデリック大王も教育に配慮し、1763年、一般地方学校令を発布し、村落小学校を計画した。

 

 二、フランスにおける教育の実際

 

182 (イ)大学教育 17、18世紀のフランスの教育は旧教主義そのものであり、大学の教育は専らローマカトリック教に依った。

1624年、国会で古い教権に背くものは死刑に処すと決議し、1638年、大学で新教徒に学位を与えることを禁じた。1663年、フランスの大学はデカルトの著書を禁止した。

183 当時のフランスの大学は全くのローマ旧教主義であった。但し、数学、自然科学、国文学、民法、自然法に関する講座を新設したが、これは時代思潮であった理性主義の影響だろう。

 大学ではドイツと同様に教授にラテン語を用いた。1612年、フランス語で講義することを願い出た者がいたが、許可されなかった。1679年、民法の講座が新設され、この時はフランス語を用いたが、その他の学科は全てラテン語を用い、1782年まで、実験物理学もラテン語で教授された。

 フランスの高等教育の特色は、専門学会内で学術研究が行われたことである。1629年、文学を研究する学会が起こった。1639年、アカデミー・フランセーズが設立され、国王や政府の保護のもとに文学を研究することになった。1694年に出版されたアカデミーのフランス語辞書は、フランス語の標準を定めたものである。1666年、アカデミー・ドゥ・シアンスが起こり学術を研究した。大学が衰え、アカデミーが大学に代わって高等教育の府となった。

 

184 (ロ)中等教育 16、17世紀(17、18世紀ではない)のフランスの中等教育は、第一節で述べたように、専らエスイタ教会の手にあった。

この他にオラトアール教会などが中等学校を起こした。オラトアール教会はデカルトの哲学を採用し、比較的に自由主義に傾き、その学校教育は、国語、近代外国語、歴史、地理、自然科学、哲学などを重視した。体罰を不必要とし、賞賛、譴責、報酬によって十分に訓練できるとした。

 

185 (ハ)初等教育 当時フランスの初等教育に最も尽力したのはヤンセン宗徒168であった。この宗派は1621年、ルヴァン大学教授コルネリウス・ヤンセンに依って組織され、後にフランスに伝わった。(ヤンセンはフランス人168ポール・ロアイヤールの僧庵がその中心であった。

この宗徒は、旧教に属すと称したが、実際は新教に近かったので、エスイタ教会やローマ法王から迫害を受けた。

初めポール・ロアイヤールに小学校を設け、少人数の児童を受け入れ、世俗から隔離して悪魔の襲撃を避けようとした。後、同種類の小学校をあちこちに設けた。

186 この派の教育主義は、全校の生徒数を20名あるいは25名に限り、それをさらに細分して、一人の教師は5、6名の生徒だけを受け持ち、日夜目を離さず、訓練した。生徒は9歳又は10歳の者を入学させ、青年期の間に教育し、教科目や教科書で知識を授けることよりも、性格の陶冶を主とした。初めは国語を重視し、ラテンやギリシャの古典の翻訳書を読ませ、後学年はラテン語を学ばせた。文法はできるだけ少しだけ教え、文章を読ませることを主とし、成長の後に論理学幾何などを授けて理性を練り、教科目は概して文学的のものであり、自然科学と体操にはあまり注意しなかった。教授法は発音法によって言語教授を行った。哲学者パスカルはこの派の教授を賞賛した。

 

187 この他にパリなどで慈善的に起こった小学校もあったが、初等教育は概して大きな発達はなかった。

 

 (ニ)女子教育 1686年、マダム・ドゥ・マンテノンはベルサイユの近くに女学校を起こし、貧民の女児に教育を施すとともに女教員を養成した。教育内容は社交界における会話に巧みなことを旨とし、美的陶冶を重視した。17世紀の中葉に多くの女学校が設立された。フランスに於ける女子教育は他の国よりも早く開けた。

 

 

 三、イギリスにおける教育の実際 

 

(イ)大学教育 17、18世紀におけるイギリスでの大学教育は前の時代とほとんど変わりがなかった。教育は主としてコレヂで行われ、12歳前後の生徒もいた。大学で最も盛んだったのは文科であった。オックスフォード大学では17人の正教授の中の12人が文科に属した。大学では専らラテン語を使用し、神学科の説教もラテン語で行われた。ただし、1600年ごろ、文科や法科の試験が英語で行われるようになった。

 

(ロ)中等教育 中等教育では依然としてイートン、ハロー、エストミンスターなどの公衆学校(パブリックスクール)が中心的存在であった。

ラテン語やギリシャ語の暗誦を主とし、訓練は極めて厳にして、体罰も盛んに行われ、上級生は下級生を使役した。

エストミンスターの公衆学校での生徒の日常生活 朝は5時15分に組長の点呼を受け、次にラテン語で祈祷をし、それから二人ずつ並んで6時までに学校に行った。学校では6時から8時までラテン語とギリシャ語の文法を復習し、8時から9時まで自習をし、9時から11時までは宿題の練習をし、それから昼食をとるが、その時ラテン語で聖書の一節を読んだ。1時から3時までシセロ、ホメーロスなどのラテン文学、ギリシャ文学を読み、文法と修辞学を学び、3時から4時まで散歩をし、4時から5時まで修辞学を復習し、それからラテン語とギリシャ語の翻訳をしてから夕食を取る。その際にまたラテン語の祈祷がある。夕食後は1週間に3、4回教師に招かれて地学等の講義を聞くが、これは上級生に限られる。木曜日の朝は賞や罰が与えられる。

 

(ハ)小学校の教育 小学校は全く宗教団体によって経営され、国家は全く関係しなかった。宗教改革以後宗派的意識が高まり、1662年、画一法が制定され、小学校の教員は地方牧師の承認がなければその職に就くことができなくなった。17世紀の末にこの禁令が廃止された。清教徒など異教徒の中には宗教上の迫害から免れるために教育的活動に入る人が出て、慈善学校や私立学校が創設された。

1698年、英国教会もキリスト教的知識増進会を設けた。ジョン・ウェスレーは庶民教育に尽力し、そのため日曜学校が発達した。18世紀の末、日曜学校奨励会が起こり、当時のイギリスでは日曜学校が小学校の代用をなしたようだ。

 

 

第七章 西暦十九世紀の教育思想

 

第一節 文芸的新人文主義の教育思潮

 

 19世紀の欧米の思潮は新人文主義実証主義とに二分でき、教育思潮もそのどれかに属す。

 

193 新人文主義は17、18世紀の理性主義の反動として起こり、人文主義と新教主義との復興である。その中にはギリシャ古典時代の思想を憧憬するものと、理性主義の痕跡をとどめるものとがある。

新人文主義は上代(古典時代)の文化をそのまま模倣するのではなく、その精神を採り、現代の文化を促進しようとする。人文主義は上代の古典を直訳的に伝承しようとしたが、新人文主義は意訳的である。新人文主義は人文主義を理性主義化したものである。また自然科学主義は理性主義の継続であり、理性的研究を経験的事物に応用したものである。

 

194 新人文主義の思潮はギリシャ古典を尊重する文芸趣味をもつ。つまり主情主義である。文芸復興時代以来の欧州の思潮を継承するから、主観主義で個人主義である。新人文主義の思潮を細分すると、文芸的なもの、理性的なもの、比較的に国家・社会的なものに分けられる。それらは過去の思潮の復活であるとともに新しいものも包含するから、過去のものと同一ではない。文芸的新人文主義は文芸復興時代の人文主義のように主情主義に偏せず、ギリシャ上代の思潮のように調和的であるが、主観主義的・個人主義的根本思潮を脱却することはできなかった。(意味不明)

 

195 文芸的新人文主義の教育思想家として、ヘンデル、フンボルト、シラー、ラスキン等がいる。前三者はドイツ人で、ラスキンはイギリス人である。

 

 一、ヘンデル1744-1803 ヘンデルは教会の番人の子で、幼少の時から苦学した。15、16歳の時牧師の従者となり、その人の家で使役され、夜間その家の蔵書を借りて勉強した。後に知人の助けを得て大学に入り、神学、哲学、歴史、語学を研究し、卒業して5年間寺院学校で教鞭をとり、それから家庭教師となってパリに行った。1776年、ワイマー(ワイマールか)に招かれて家庭教師となると同時に、教会と学校を監督した。

 ヘンデルは教育に興味を持ち、在職中に師範学校を創立し、教科書を編纂した。彼は中等学校の改善に尽力した。ヘンデルは夙にルソーの教育説を知り、自然科学も重視し、晩年はギリシャ主義を主張した。彼は大著「歴史哲学」で人文的陶冶を力説し、精神と身体の調和的発達を理想とし、中でも情緒と性格の陶冶を重視し、単なる知識を排斥した。国語と近代外国語を先に学ばせ、古典語は後に授けるべきだとした。そ(語学)の教授法は、初めは手近な事物から出発し、目から学ばせるよりも耳から学ばせ、その後で文法を学ばせるべきだとした。これは輓近の語学教授法と一致する。

 

 二、フンボルト1767-1835 イルヘルム・フォン・フンボルトは教育者というよりも学者もしくは外交家である。貴族の出で、新人文主義の言語学者ハイネの感化を受け、19歳の時、ソクラテスやプラトーに関する論文を書いた。外交官としてイタリアに5年間滞在し、その間に学術や文芸の修養を積み、1809年、プロイセンの教育局長となり、中等教育を新人文主義に改良した。ベルリン大学の創立にも尽力し、国費多端だったが、それを決行した。

 

 三、シラー1759-1805 シラーはゲーテと共にドイツ文学史上の明星である。教育者というよりもむしろ文学者である。

198 美的教育に関する彼の論文は文芸的新人文主義の教育思潮を発表した。シラーの父は軍人で、彼も兵学校を卒業した。しかし彼は夙に文芸に趣味を持ち、在学中の時から詩作を試みた。後ワイマールに行き文学者となった。1789年、エーナー大学の教授となり、歴史を講じた。

彼は人文の極致は芸術であるとし、芸術は単に美を美とすることではなく、真善美を兼ねるものであるとした。つまり、芸術の神髄は、自由な享楽であり、真と善とを自発的に自由に享楽することであるとした。道徳を義務的なものとせず、それより一層高尚なものとした。シラーは劇場を徳育の道場とした。

 

 四、ラスキン1819-1900 ラスキンはイギリスの文芸評論家で、芸術的教育に影響を及ぼした。幼少の時から自然を愛し、夙にラテン語やギリシャ語を学び、15歳の時、オクスフォード大学に入り、後、イタリアに遊んだ。シラーと同じく美を人生の極致とし、それを教育の根本とした。19世紀末の芸術教育の思潮は、彼に刺激されたものが多い。

 

 

第二節 理性的新人文主義の教育思潮

 

 一、ジャン・パウル・リヒター1763-1825 リヒターは元来文学者であるが、家庭教師をしたことがあり、「レバーナー」と題する教育論を著した。レバーナーとはローマ神話の中に出てくる幼児を守護する神である。

 教育は理想人を現出するためにあるとする。人は皆先天的に善良な本性を持ち、それを調和的に最高に発達させれば理想人になれる。教育の根本は天賦の本性を啓発することである。この点で彼はルソーとよく似ている。

個人と個人との関係は音と音とが調和するような状態にあるべきであるとするが、これは機械的社会観と言える。教育は理想的社会の理想人を造ることを旨とすべきだから、その時代を超越しないわけにいかない。教育は現在のために為すものではなく、将来のために為すべきものであり、ストア学徒のように脱俗的人物の養成をすべきだとした。彼は快楽主義に反対したが、快楽な情操を養うべきだとし、遊戯を教育上重要な手段とし、楽しみながら学ばせることを称賛した。この点では汎愛学徒と似ている。

 

 二、カント1724-1804 カントは教育学者と言うよりは哲学者である。当時ドイツの大学では哲学講座を担当する教授は教育学も講じ、カントも教育に関する講義をした。

カントは理性主義者と同じく教育は万能だとした。ジャン・パウル・リヒター200のように人の本性は先天的に善だとし、この本能を調和的に発達させることによって、至善の人にすることができると考えた。

教育は人と人が相接触することによってなされる、つまり、社会においてのみその効果を十分に発揮しうるとした。これは新カント派のナトルプが社会教育学を唱えるようになった理由である。

教育の最終目的は、カントも新カント派も、個人の人格の完成であり、人格の完成とは、各人が生まれながらに持っている本性の調和的発達である。これは個人主義である。カントは世界主義的人生観を理想とした。

 

203 教育の目的を達する手段に四種あり、一、訓練、二、教化、三、文明的陶冶、四、道徳的陶冶である。訓練とは性質を矯正することである。教化とは教授に近く、技能を養成することである。文明的陶冶とは、人類社会に適応する知巧な人間にすることである。道徳的陶冶とは情操を陶冶することであり、カントはこれが教育上最も重要なものであるとし、知識を明確にすることによってこの目的(道徳的陶冶)を達成することができるとした。カントは宗教問答のような道徳問答を案出した。

 

 

 三 ヘルバルト1776-1841科学的教育学の唱道者であり、教育学を科学として論究した最初の人である。祖父は長く中等教育に従事した人で、父は司法官であり、母は怜悧果断であった。

彼は幼少時に身体虚弱で学校に入らず、家庭教師から学んだ。この家庭教師から哲学的趣味を養成され、形式論理学の訓練を受けた。14歳の時、自由論に関する小論文を書いた。12歳の時、ギムナジウムに入り、理性主義の哲学を学んだ。

18歳の時、エーナー大学に入り、父の意志に従って法学を研究したが、フィフィテの講義を聞き、哲学に興味を持ち、後、カントの道徳哲学を研究し、教育の目的に関する信念を固めた。

在学3年後、スイスに行って家庭教師となり、当時の教育説に対する態度を定め、ペスタロッチをブルグドルフに尋ねた。

後、ドイツに帰り、転々としたが、1802年、ゲッチンゲン大学の志願講師となり、教育学を中心として実践哲学、論理学、純正哲学を講じた。1806年、「一般教育学」を著し、1808年、「実践哲学」を公にした。

1809年、カントの後任としてケーニヒスベルヒ大学に聘せられ、哲学と教育学を講じ、教育研究所を設置した。1833年、再びゲッチンゲン大学に戻りその教授となり、1835年、「教育学講義綱領」を著した。

206 ヘルバルトは教育学を複合科学と見なし、倫理学で教育の目的を定め、心理学でその方法を諭定すべきだとした。教育の目的は道徳的性格を養うことであり、その内容は、内心の自由、意志の完全、好意、正義、報償を掲げたが、これはカントの倫理説を祖述したものである。

ヘルバルトの教育学は管理・教授・訓練から成り、体育を加えなかった。管理とは教授や訓練の準備であり、両者の妨害となるものを取り除くことである。これは児童の現在に関するものであるが、教授や訓練は児童の将来に関するものである。教授は新旧観念の融合であり、訓練は直接的意志の陶冶である。

 ヘルバルトの教育説で小学校教育に影響を与えたものは形式的段階説である。五段階教授法*はヘルバルト学徒に依って後に組織された。

 

*五段階教授法 1890年代日本に導入され、ヘルバルト派のラインの五段階教授法が現場に普及した。ラインWilhelm Rein 1847—1929 の五段階とは、予備(新しい観念の統覚に必要な既有の観念の整理)、提示(新教材の提示)、比較(新旧観念の比較)、総括(新旧観念を一つの体系に組織化)、応用(体系化された知識の応用)である。心理学に基づく。教科や教材の性質を無視して一律に適用したため、形式主義の弊害を生んだ。コトバンク

 

ヘルバルトは明瞭・聯合・系統・方法の四段を提示した。明瞭は授けようとする新観念を明瞭にすることであり、聯合とは新旧観念を聯合することであり、系統とは新旧観念を連絡統一して系統をつくることであり、方法とはこのような観念系統を個々の場合に応用することである。ヘルバルトは教授の最近の目的は興味を与えることだとし、六種類の興味を説いた。

 

208 ヘルバルトは訓練と管理に関して、賞を与えることを否認した。これはカントの厳粛主義的倫理説に基づく。(カントは)賞を得るために善行を為すことは道徳の大本に反するとし、カントは善のために善をなすことを道徳の本義とした。

しかし(私は)幼少の児童の心理状態からすれば、教育上必ずしもこのような見解に拘泥すべきでないことは児童心理学が示すところである(と考える)。

 

 四、ヘルバルト学派

 

209 ヘルバルトの教育説を継承するものに二派があり、一つは、ヘルバルトの説を忠実に祖述する。ストイやフリックらである。もう一つは、ヘルバルトの説を改正し、敷衍するもので、チラーやワイツである。

 ストイはエーナー大学の教授で、教育研究所を起こし、フリックはハレ大学の教授で教育学を講じた。先年没したザルイルクもこの派の人である。

チラーはライプチヒ大学の教授で教育学を講じ、教育研究所を起こした。彼は科学的教育学会を起こし、文明史段階説中心統合説五段教授法を大成した。エーナー大学のライン教授は、チラーの説に依る。ワイツはチラーの説に従わなかった。

この他に実際派がいた。デルフェルド、ロイツらである。彼らは折衷的で実際的方面を研究した。

 

210 ヘルバルト派の教育説は19世紀末にイギリスや北米合衆国に伝わった。デガルモー、マクマレーは北米合衆国のヘルバルト派の先駆者である。

 

 

第三節 社会的新人文主義の教育思潮

 

211 新人文主義はギリシャ主義の継続であるが、その解釈には注意すべき点がある。ギリシャ古典時代は社会的団体生活を本位として理想を構成したので、社会的人文主義は純乎たるギリシャ主義と言うべく、その思潮はギリシャ古典から湧出したと言えるかもしれないが、欧州近代のギリシャ思想はラテン文学を経て伝わったので、ギリシャ民族時代の個人主義的色彩が著しい。従って、新人文主義の中の社会団体本位の思想が専らギリシャ古典の産物だとすべきではない。欧州固有の団体的思想と当時の社会状態国家社会的団体思想を生み、ギリシャの古典はその応援していたに過ぎない。社会的新人文主義もギリシャ思想と同じく、文学趣味であり、論理的正確を旨とし、意志活動を最重要視した。

 

 

 一、ペスタロッチ1746-1827スイスのチューリヒに生まれた。6歳で父を失い、二人の姉妹と共に母の手で育てられた。彼は幼少の時から感情的で、身体も弱く、遊び仲間もおらず、沈思に耽っていたという。彼の祖父は牧師で、彼は祖父に接し感化を受けた。彼はチューリヒで小学教育を受け、後、ラテン学校に入り、更にコレーヂに入学した。当時このコレーヂに歴史と法制を教授するボードメレという愛国者がいた。彼は学生に感化を与え、その愛国的団体に加入する学生が多かった。ペスタロッチもこれに加入したとのことだ。

213 ペスタロッチは初め牧師になろうとしたが、後に法律で身を立てようとした。ところが在学中に体を弱くし、友人の許に身を寄せて静養した。この間の1768年、ペスタロッチは農業を改良して貧民を救済しようとし、チューリヒの近くに土地を購入し、これをノエホーフと名づけ、理想的な農場を作ろうとした。ペスタロッチは30年間この地に留まったが、農場経営は失敗に帰した。

1775年、貧民学校を起こしたが、この学校経営も失敗し、5年で閉鎖した。当時ペスタロッチはルソーの教育説に私淑し、実物教育を採用した。この時から彼は20年間著述に従事し、「リエンハルドとゲルトルード」を著した。

214 1798年、政府の旨を受けてスタンツに行き、孤児院を開いた。彼はこの時学校教師になろうと決意した。しかし当地に半年ばかりしてから戦乱(ナポレオン戦争か)が起き、このためにスタンツを去り、ブルグドルフに移り、旧城址に小学校を設けた。彼の教育思想はこの時に成立した。この頃からペスタロッチの名声は内外に高まり、国内では委員を設けて彼の教育説を調査した。国外からも彼の教授法を習おうとやってきた者が多かった。「ゲルトルードは如何にしてその子を教えるか」はこのブルグドルフ時代の著作である。

 

215 1804年、彼はブルグドルフを去り、ミュンヘンブフゼーに行き、次いでイヴァドンに移った。イヴァドンに20年間留まり、彼の名声はますます高まり、各国から学びにやって来た。しかし、彼の部下の間に争闘が起こり、1825年、ノエホーフに帰った。

216 ペスタロッチは冷静な学校経営者ではなかった。門下生のシュミッドは人格の高潔を欠き、助力者ニードラーは野心家で、彼を無視した。

 ペスタロッチが再びノエホーフに帰った年の翌年に彼は自叙伝を書いた。またニードラーも自叙伝を書き、ペスタロッチの説に反駁した。他にもペスタロッチを罵る者がいた。1827年、ペスタロッチは病没した。彼は死ぬとき全ての敵を赦し、自分の死が敵の心を和ませることを望んだという。

 

217 ペスタロッチの教育主義は多方的調和を旨とする。人は本来諸種の精神的能力を自然的に賦与され、これらの力を自発的・調和的に発達させることを教育の根本原理とした。これはルソーの主観的自然主義と合致し、ギリシャの調和的発達思想の流れをくむ。家庭と社会が教育に及ぼす影響は大きく、社会団体生活を各個人の教育の最高原理とした。

 ペスタロッチは直接教授を重視した。ノエホーフの時代から夙に実際に事物を直感させることの重要性を説いたが、これはルソーの影響だろう。直感を重んずる説はコメニウス以来一般に行われていたし、汎愛学徒もこれを重視したが、ペスタロッチはこれを組織的に研究した。彼はブルグドルフ時代に、数、形、語を直感の根本とし、外界知覚を正確にするためには、この三つを元とすべきだとした。これによって認識を正確にし、知能を啓発できるとした。また算術教授で単元図を用いた。これは直感を正確にするためのものであった。

 

219 ペスタロッチはドイツ教育界に大きな影響を及ぼした。当時ドイツはフランスの武力に悩まされていて、教育に力を用い、国運の挽回を計ろうとし、ペスタロッチの教育方法を学ばせるために多くの教育者をイヴァドンに留学させた。

ロシアのアレキサンダー一世もペスタロッチに資金を送り、ペスタロッチ全集の出版を援け、セント・ピータースグルグ(ペテログラード)にペスタロッチ学院を設けた。

220 ペスタロッチの教育説はイタリア、スペインにも伝わり、またイギリスには、メーヨー兄妹によってペスタロッチの実物教育説が伝わった。後、北米合衆国にも渡り、オスエーゴー運動を起こしたが、これはメーヨーの学校から伝わったものである。

 

 ドイツのペスタロッチ派の教育者はオーベルベルグ、ディンテル、ハルニッシュ、ディーステルエッヒらである。ディーステルエッヒ1790-1866は長くベルリン師範学校長を勤め、ペスタロッチ主義を北ドイツに宣伝した。後、ディーステルエッヒは直感教授の説を誤解してそれを煩瑣な問答法に変え、機械的記憶を主とし、教育界から非難を受けた。ドイツにおける教授は大学から小学校までペスタロッチ主義の影響を受けた。

 

 

 二、シュライエルマッヘル1768-1834は神学者・哲学者であるが、晩年教育に興味を持った。父は牧師で、シュライエルマッヘルは幼少のとき宗教学校に送られた。あちこち転学しながら神学を学び、1790年、ベルリンで牧師の試験に合格し、その後牧師や教師として活動した。

1804年、ハレ大学の教授となったが、三年後、ハレ大学はナポレオンによって解散を命じられたため、ベルリンに行き、教会で仕事をした。1810年、ベルリン大学が新設され、その教授となった。またプロイセン政府の教育顧問となった。彼の教育学に関する著書は、ベルリン大学在職中の講義の筆記である。

 

222 シュライエルマッヘルの教育論 教育とは古い時代の人々が若い時代の人々に与える影響であり、教育の目的はその社会の精神的財産を伝えることである。シュライエルマッヘルは教育上の原理を保護、反動、助成とした。保護とは、外部(フランス?)の悪い感化から善良な性質を保護することであり、反動とは悪い性質と行為に対して処罰を加えることであり、助成は善良な性質を助けて十分に発達させることである。彼は幼児の教育や児童の教育、職業の教育について、以上の三原則を詳論し、教育と社会との関係を論じた。

 

 

 三、フィヒテ1762-1814は哲学者である。父はリボン製造業者で農業も経営した。彼は7、8歳のころある人の助けに依って教育を受け、12歳で貴族学校に入り、その間密かにドイツの文豪を研究し、レッシング*を尊崇した。

 

*ゴットホルト・エフライム・レッシング1729-1781はドイツの詩人・劇作家。フランス古典主義からの解放を目指した。その転生思想は現代日本に影響した。

 

18歳でエーナー大学に入り、初め神学を学び、後に哲学を研究した。大学卒業後はあちこちで家庭教師をし、スイスに行った。

1794年、エーナー大学の教授に聘せられ、そこに5年間止まった。宗教問題に関する争論のため職を辞し、ベルリンに行き、1805年、エルランゲン大学に聘せられた。その年の12月、フランスの侵入を受け、彼は大学を辞して従軍を志願したが、認められなかった。

ケーニヒスベルヒに行き乱を避け、後、コペンハーゲンに行き、ペスタロッチの教育書を研究し、1807年の冬から翌年にかけてベルリンで14回の公開講演を行った。「ドイツ国民に告ぐ」と題する彼の著書はこの講演の筆記である。これは彼の教育意見を述べたものである。

 

224 フィフィテはペスタロッチの教育説に従い、ドイツ国民の精神を強大にすることが教育の目的であるとする。永遠の生命をもつ自我活動を重視した。

個々の自我の活動は個人の一生と共に生滅するから、永遠の生命を持てない。これに反して、個人の属する社会団体は永遠に存続するから、その社会団体の道徳的秩序の存続に翼賛する個人の努力は永遠の生命を享有する。フィフィテはこういう生活を理想とし、目前の快苦と個人の利害の他に、人生の目的を定めるためには、心眼を開かせなければならないとした。彼はこのためにペスタロッチの教育によって、性能を調和的に発達させ、精神の力を強大にしようとした。彼は体育を奨励しペスタロッチの作業主義教育に賛成するが、要は強いドイツ国民の養成を教育の根本原理とした。

 

 

 四、フレーベル1782-1852は幼稚園教育の開祖である。ペスタロッチに師事し、作業主義を重んじ、社会団体を重視した。

226 フレーベルは牧師の子で、1歳の時母を亡くし、継母の手で育てられた。村落で初等教育を受け、卒業後は林業を習った。

1800年、18歳の時、エーナー大学に入り、数学と自然科学を学んだが、学資が不十分で中途退学し、再び林業に従事した。

1805年、フランクフルト市に出て学校教師となった。某貴族の家庭教師となり、1808年から1810年迄、二人の子どもと共にイヴァドンのペスタロッチの許に止まった。後ドイツに帰り、学校教師となり、独立戦争に従軍した。やがて自ら学校を起こしたが成功しなかった。

スイスに行って、孤児院などを経営したが、1836年、妻が病気をしてドイツに帰り、1840年、ブランケンブルクに幼稚園を開いたこの新教育はプロイセン政府が了解せず1851年、幼稚園の閉鎖を命じられた。彼はその翌年に没した。

 

228 フレーベルはシェリングの哲学を奉じ、物と心の同一を信じた。自己活動を自我の本質し、作業によって発表的活動に慣れさせ、心身を発達させることを重視した。これは彼の幼稚園で恩物*を用いて作業をさせ、遊戯を奨励し、心身の発達を企画した理由である。心の調和的発達を旨とし、個人的性能の陶冶を重視したが、共同的精神の養成にも注意し、遊戯でも共同的遊戯を奨励した。

 

*恩物 Gabe(神の賜物)の訳語。フレーベルが考案した遊具。幼児の自発的活動を促し、表現力や創造力を養うためのもの。球・円筒・立方体・板・ひも・棒などからなる。

 

 幼稚園はドイツでは不幸な運命に遭遇したが、英仏米では次第に発達した。ドイツでも1861年、その禁が解かれ、英国では1874年、公立学校の系統の中に幼稚園を加え、フランスでは1870年以降小学校の下に幼稚園を置くことにし、北米合衆国では1860年以後あちこちで幼稚園ができ、作業主義教育は広く教育思想界に影響を与えた。

 

 

第四節 自然科学主義の教育思潮

 

 19世紀の英仏の教育思潮の多くは自然科学主義である。この思潮は17、18世紀の理性主義の継続であるが、さらに精確な実験的・経験的事実によって真理を求めようとする。ドイツではヘーゲルの哲学説に対する反動としてこの思潮が勃興した。

230 自然科学主義教育思潮に三分派がある。

その一は、純自然科学主義で、イギリスのスペンサーの教育説である。

その二は、心理学的自然科学主義であり、自然科学的研究法での観察と実験を心理学に適用した。イギリスのベーンの教育説である。最近盛んに伝えられるようになったモイマンライなどの実験教育学もこれに属する。またフランスのジャコトーは夙にこの種の教育説を述べた。

その三は、社会学的自然科学主義であり、観察や実験に基づき社会的事象を研究する。フランスのコントは実証哲学を著し、夙にこの種の思想を述べ、ドイツのベルゲマンの社会的教育学説もこの派に属す。

 

 

 一、スペンサー1820-1903は進化論に基づいて総合哲学を組織した。生物学の見地から各般の科学を論究した。1861年に出版した「教育論」は別々に起稿した四個の論文集である。それは英米に影響を及ぼした。

231 スペンサーは生物学的進化論と実利主義的快楽説の見地から、知育、徳育、体育を論じたが、これは17、18世紀の自然主義的教育思潮と呼応している。

「どんな知識が吾人に最も価値があるか」と題する論文の中で、スペンサーは、知識の価値は完全な生活に役立つことによって定まるとし、その完全な生活に次の五種類の活動が必要であるとする。

 

 第一は、直接に自己保存に関する活動、

 第二は、間接に自己保存に関する活動、

 第三は、子孫の教養に関する活動、

 第四は、社会的・政治的関係に属する活動、

 第五は、閑暇なときを満たす活動

 

 第一に関する教科目は生理学であり、第二に関する教科目は数学、理科、社会学で、第三に関する教科目は育児法、心理学で、第四に関する教科目は歴史、社会学で、第五に関する教科目は文学、美術であるとする。

 彼は以上の順序に従って教科目の価値を定めるべきであるとし、当時の教育が生理学その他の自然科学や育児法、心理学などを授けないことを非難した。

233 自然懲罰説的徳育論 懲罰は人為的にすべきでなく、児童の経験に委ね、自然に因果応報の理に基づいて罰を受けさせるべきだとした。この説はルソーが既に唱え、英国の経験主義者の思潮を汲んでいるが、彼はそれを詳細に論じた。彼は体育と知育でも自然的発達を主張した。

 

 二、ジャコトー1770-1840は貧しい家に生まれ、幼少の時から自学自習した。25歳の時工業学校の副校長になり、後、科学研究法を教授した。彼の教授法は自由討議を主とし、自由な質問と反復練習を旨とし、生徒自身の研究に委ねた。

彼は後に古典語や東洋語などの教授をする際にも同じ方法を採用した。1818年、彼はベルギーに行き、ルヴァン大学でフランス語を教授したが、その時新しい言語教授法を発見した。その方法はできるだけフランス語を用いて問答し、生徒の自学と練習を重視し、一字一句を正確に学習させようとするものであったが、彼は後に模範語法を発見した。ジャコトーは実験教育学の先駆であると言える。

 

 

第八章 19世紀の学校教育

 

第一節 ドイツにおける学校教育の発達

 

235 ドイツにおける今日の学校教育は19世紀前半に完成した。それは他の文明国の先駆となった。

 

 一、高等教育の発達 ドイツの大学教育は19世紀の初めに進歩した。ウイルヘルム・フォン・フンボルトが1810年に創立したベルリン大学はその典型である。

18世紀までのドイツの大学は中世の大学のように神学科、法科、医科、文科から成り、文科は他の三専門科の予科に過ぎなかったが、新人文主義の勃興は文科の研究事項を専門化し、文科の地位を高め、文科が独立の専門科となった。

 

236 四分科の入学者はギムナジウムを卒業した者に限られ、その在学年数は制限がなかったが、三年以上の者でなければ学位を請求する資格がなかった。高等官吏や中学教員も大学で3年以上在学しなければ、国定試験を受験できなかった。医科大学の修業年限は法科や文科よりも長かった。

 

 ドイツの大学では教授と学習が自由であった。教授はどんな学説も自由に講ずることができ、どんな問題についても講ずる自由があった。学生も自由にその好む所に従って自由に聴講でき、聴講するもしないも自由であった。ドイツの大学は綜合制度だったので、文科の学生も他科の講義を聴くことができ、他科から文科に来ることも自由であった。

大学の各科にそれぞれ学長がいて、その科の教務を司り、大学に一人の総長がいて、大学を代表した。総長と学長は教授の互選により、その年限は1年だった。

 

237 ドイツの大学には学生組合があった。その起源は中世にある。近代の初め、イタリアの大学にヨーロッパ各国から集まった学生の組合が多かった。

19世紀初めのドイツの大学生の間に新しい学生組合が起こり、愛国的運動を行った。学生組合は規約を設けて時々集会を開き、ビールを飲みながら議事を行い、決闘の演習もした。ただし決闘の演習についての可否の論は未だ決していない。次第に旧来の習慣を墨守しない学生団体も生じたが、学生の中心は今でも学生組合に属する者にあると言える。

 

238 ドイツの大学は以上の四分科であるが、その中に工科、農科、商科がなかった。18世紀末に商工業が発達し、それに伴って工業高等学校がフランスに起こり、スイスを経て、ドイツに伝わった。ところがドイツの大学はこれを大学の一分科とすることを拒んだので、工業高等学校は独立的分科大学となり、その入学資格、在学年数、学位授与などは大学とほぼ同様であった。また商業高等学校には工業高等学校と同程度のものがあったが、中には程度の低いものもあり、日本の専門学校のような(程度の低い)ものもある。

 

 二、中等教育の発達 

 

239 従来ドイツの中等学校はラテン学校から発達したギムナジウムであったが、18世紀に実科学校が起こり、これが中等学校の一種とみなされるようになり、1850年、プロイセンはギムナジウムの他に、第一種実科学校、第二種実科学校、高等市民学校を認めた。

 第一種実科学校はギムナジウムと同じく修業年限が9年で、高等市民学校は修業年限が6年であった。第二種実科学校の修業年限は一定していなかった。

240 ギムナジウムはラテン語とギリシャ語を重視したが、第一種実科学校は自然科学や近代外国語を重視した。

 その後も中等学校に関する議論が継続され、1882年、現行制度の基礎が確立された。つまり、中等学校をギムナジウム、実科ギムナジウム、高等実科学校の三種とし、各9年の修業年限とし、満9歳以上の児童を入学させ、ギムナジウムは古典語を重視し、実科ギムナジウムはラテン語を課すが、自然科学を重視し、高等実科学校は古典語を課さず、自然科学と近代外国語を重視するとした。1902年、プロイセンは中等学校令を定めたが、その内容はほぼ以上の通りである。最近になってこれらの学校の卒業生は皆大学に入学する資格を得たが、どの分科にも入学できるのはギムナジウムの卒業生だけである。また修業年限が6年の実科学校があり、それは実業学校と連絡を持っている。

 

 三、初等教育の発達

 

241 ドイツの小学校は既に19世紀以前に整っていた。19世紀にはペスタロッチの教育説に基づき、教授法を改め、また師範学校も強化された。

 普仏戦争(1870.7.19—1871.5.10、ドイツの勝利)後、プロイセンでは小学校、中学校、師範学校の規定を改め、小学校は概して満六歳からの8年間を義務とし、中学校は満六歳から9年間または10年間を修業年限とし、上級では近代外国語を課した。師範学校は本科と予科からなり、修業年限は計6年であった。

 プロイセン以外の国でも多少の相違はあるが大同小異であったが、師範学校の年限はプロイセンが最長であった。

 

 

第二節 フランスに於ける学校教育の発達

 

242 19世紀のフランスの学制は変化に富んでいる。18世紀末の革命運動は教育を国家管理に移し、師範学校を起こし、新理想を培養しようとし、種々の教育改正案を提出した。この時のコンドルセ―*の影響は後世に及んだ。

 

*コンドルセ17431794、コンドルセは侯爵の名称で、本名はマリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタ。数学者、哲学者、政治家。共和主義者、公立教育委員会議長1791.9。恐怖政治に反対して逮捕され、獄中で自殺した。コントに影響を与えた。)

 

1802年、ナポレオンは小学校、中学校の制度を定め、1806年、帝国大学の名の下に全国の公立学校を統一し、1808年、法令でこれを確立した。

王政が復し1815、キリスト教旧教徒が学制を変更し、1833年、革命(7月革命1830.7.27—29)によって再び師範学校が起こされ、小学教育は自由主義となった。後再び反動時代(ナポレオン三世1852--1870か)に戻ったが、第三共和政治1870--1940になってから現行の教育制度が確立した。

 

 一、現行小学校 

 

現行制度は1882年に制定された。7歳から13歳までを(尋常)小学校での義務教育とし、その中に初等科、中等科、高等科を置く。5歳或は6歳から7歳までを幼稚科とし、2歳から5歳或は6歳までを保母科とする。

尋常小学校の上に高等小学校があり、その修業年限は2年又は3年で、その中に普通科と実業科の別がある。高等小学校と同程度で修業年限1年のものを補習科と言う。

師範学校の修業年限は3年で、高等小学校卒業程度の者を入学させ、卒業後2年間の試補期を経て尋常小学校の教員に任じている。高等小学校の教員になる者は、師範学校の教員と同程度の試験に合格する必要がある。

 

 二、現行中等学校

 

244 フランスでは中等学校をリセーという。男子のリセーの修業期間は7年で、そのうち第一期が4年、第二期が3年である。リセーの入学資格は尋常小学校4年級卒業程度であるが、リセーの中に予科があり、尋常小学校を経ずに、初めからリセーに通学できる。

男子のリセーの第一期はABの二組に分かれ、A組はギリシャ語とラテン語を課し、B組はこれを課さず、近代語と自然科学に多くの時間を割く。A組は三年級からラテン語だけを課する組と、ギリシャ語とラテン語を課する組とに分かれる。第二期はABCDの四組に分かれ、A組はギリシャ語とラテン語を主とし、B組はラテン語と近代語を主とし、C組はラテン語と自然科学、D組は自然科学と近代語を主とする。

 女子のリセーは修業年限が5年で、第一期は3年、第二期は2年である。ただし大都会では更に1年を加えるものもある。女子のリセーでは古典語を課さないので、男子のリセーのように同一学年で組別をしない。男子同様予科の制度がある。

 

 三、現行大学その他の高等教育機関

 

246 フランスの現行大学制度は1896年、ドイツの大学に倣って制定された。法科、医科、文科、理科の綜合制度であるが、中にはこのうちの二科または三科しかない大学も多い。

大学の他に四種の高等師範学校がある。男子リセーの教員養成、女子リセーの教員養成、男子師範学校の教員養成、女子師範学校の教員養成の四種である。

この他に工芸に関する高等専門教育を施す機関もある。

 

 

第三節 英国における学校教育の発達

 

 英国では19世紀になって初めて小学教育が整った。ただし、先に述べたように、オクスフォード大学やケムブリッヂ大学や中等学校は夙に開けていた。

 

 一、19世紀前半の小学校

 

247 19世紀初めの英国の教育は大中小を通じて、もっぱら私人若しくは私立団体の経営によるものであった。初等教育に関わる学校は専ら「大英国及び海外学校協会」と「貧民教育奨励国民教会」によって設置されていた。前者はランカスターの学校を補助するために起こり、クェーカー宗徒が多く、後者はドクトル・ベルを聘して前者に対抗させ、英国教会に属する。

教生制度つまりモニトリアル・システムは、当時両協会が採用した教授法であった。19世紀の初めに工場で使用される児童を保護するために議会が法律を設け、さらに地方団体に小学校設立の権能を与える議が起こったのだが、1833年、先の両協会に補助金を与えて小学校を増設させることになった。

 

 二、19世紀後半の小学校

 

249 1870年、初めて地方団体が公立小学校を設立できるようになり、この年に文部省を設置し、小学教育を督励した。公立小学校でも月謝を徴収したが、宗教的教授を禁止した。1899年、文部省を改造し、初めて中等教育と実業教育も文部省が監督するようになった。

 

 三、現行学制

 

250 英国の小学校は7歳以上の児童を入れ、修業年限は7年で、その上に修業年限3年の高等小学校がある。中学校の年限は一定しないが、およそ12歳の児童を入学させ、16歳以上まで在学させる。優良な中学校は12歳から18歳までの生徒を在学させ、高等普通教育を施し、中には古典語科と近代語科に分けて教授する中学校もある。

 英国の大学は今でも多くは私立であるが、ケムブリッヂとオクスフォードのような古い大学の他に、ロンドンやマンチェスターなどに新しい大学が創立された。英国の中でもスコットランドは大中小の学制で多少異なっている。

 

 

第四節 北米合衆国における学校教育の発達

 

251 米国は植民時代から教育を重んじた。米国を開いた英国移民の多くは清教徒で、皆熱烈な信仰と理想を持ち、教育でその理想を社会に実現しようとした。しかし植民時代では普通教育を義務として課すまでには至らず、18世紀末に英国から独立してから、ゼッファーソンらが熱心に普通教育を唱導したが、十分に発達しなかった。

19世紀の中葉になり、ホレース・マンやヘンリー・バーナードらが輩出し、漸く普通教育が勃興し、ニューイングランド特にマサチュセッツ州はその先駆となった。

 

252 現行制度 米国の学校教育は各州が独立にこれを定め、全国を通じた画一的な制度はないが、大体多くは異ならないようだ。満6歳或は満5歳の児童を収容し、8年間の義務教育を小学校で施し、その上に4年の中学校がある。さらにその上に4年のコレヂからなる大学がある。コレヂは普通教育の連続であるとともに、専門教育も施す。コレヂの上に大学院があり、これはもっぱら研究をする。

これらの多くは男女共学であるが、中には男子や女子に限って入学させるものもある。師範学校も種々ある。小学校教員を養成する師範学校は、中学校を卒業した者を入れ、2年間修養させる。また修業年限が4年で中学校の教員資格を与える師範学校もある。またコレヂでも小学校や中学校の教員養成を行っている。

 

 

第四編 明治以後における本邦教育

 

第一章 明治初年の教育理想

 

254 明治初年における教育の理想は本邦固有の皇道を中心とし、漢土、西洋の学を兼ねた。明治元年、学習院を再興し、それを大学寮代となし、寮中に皇祖天神社を設け、大学別当(長官)がその神主となり、四時(春夏秋冬)に一度祭祀を営み、長官から学生まで悉くこれに奉仕させた。また(京都に256皇学所漢学所を起こし、その規則の初めに次の二項を掲げた。

 

一、国体を弁し、名分(名義・身分に伴い、守るべき道義の分限)を正すべきこと

一、漢土・西洋の学は共に皇道の羽翼たること。

 

これは五条の御誓文中の

 

一、知識を世界に求め、大に皇基を振起すべし

 

とある条項に照応するものであり、実に明治初年の教育理想の雄大なりしを知るに足るべし。

 

255 明治2年、都を東京に移し、徳川幕府の昌平黌を再興し、後これを大学校とし、大学分局を三カ所に置いた。大学分局とは、開成学校、兵学校、医学校である。昌平黌は大学本校である。大学本校は「神典・国典により、国体を弁え兼ねて漢籍を講明」することをもって要旨とする。また明治3年、大学で定めた大学規則には学体として次のように記した。

 

「道の(が)たる(ことは)、物として在らざるなく、時として存せざるなし。その理は即ち綱常(人の守るべき大道。道徳)、その事は即ち政刑(政治刑罰)。学校はこのを講し、実用を天下国家に施す所以のものなり。然るは即ち孝悌(従うこと)彛(い、法則)倫(彛倫とは人の常に守るべき道)の教、治国平天下の道、格物*窮理日新の学、これみな宜しく窮覈(かく、調べる)すべき所にして、内外相兼ね、彼此相資(たす)け、所謂天地の公道に基づき、知識を世界に求むるの聖旨に副はんを要す。勉めざる可ん哉」

 

*「大学」の「致知在格物」(知を致すは、物に格るに在る)の中の「物に格(いた)る。」究極の目的としての「平天下」に至る道程での最初の段階。

 

256 大学の学科として、教科、法科、理科、医科、文科があり、教科では神教学修身学を授け、文科では紀伝(中国の歴史や詩文)学、文章学、性理学を授けた。

 

 明治初年の大学は皇道を復活し、奈良・平安時代の大学の学科を行い、さらに西洋の学芸を加えた。ところが京都の皇学所漢学所は明治2年9月に廃止され、明治3年7月、大学本校(昌平黌か)を閉じ、生徒を教授することを止め、皇道主義の教育は一変して専ら西洋模倣主義となった。明治4年7月、文部省が設置され、文部省は明治5年8月に学制を発布したが、これは範を西洋に取ったものだ。

 

257 大学分局の一つである開成学校は旧幕府が創建したものである。幕府はそれを当初洋学所と称したが、安政3年1856蕃書調所と改称した。文久2年1862一橋門外護持院原(今の神田錦町三丁目付近)に新校舎を建築し、洋学調所と改称し、さらに文久3年1863開成所と改称し、明治維新の時の戦乱で一時閉鎖したが、明治2年1869に再興し、大学南校と称した。当時の学科は、大学予科に過ぎなかったが、明治6年1873開成学校と改め、専門学部を開き、後、これを東京開成学校と称した。これは今の東京帝国大学の前身で、その中に、法科、理科、鉱山科、工業科などがあり、もっぱら外国語の教科書を講読した。(三つの大学分局255は残ったようだ。)

258 (大学分局の一つである)医学校も旧幕府が建設したもので、明治2年1869大学東校と改称した。これは東京帝国大学医科の前身である。

 

 当時の大学は教育機関としての学校と教育行政とを兼ねていた。明治3年1870、大学規則の中で小学と中学の規定を設け、大学は小学と中学を監督した。東京、京都などの大都会や地方でも既に小学校や中学校が設けられ、明治3年1870には東京に小学校が6校あった。しかし、学校教育の真の発達は明治5年1872以後のことである。ただし福沢諭吉の慶應義塾や近藤真琴の攻玉社は旧幕時代の創立であり、明治初年の新文明の源泉となった私立学校であった。

 

 

第二章 明治5年から明治13年までの本邦教育

 

259 明治51872の学制はフランスの制度を元にし、全国を八大学区に分け、各大学区に大学校を一校置き、さらに一大学区を32の中学区に分け、各区に中学校を一校置き、さらに一中学区を210小学区に分け、各区に小学校を一校置いた。文部省が全国の学政を総括した。

260 大学区ごとに督学局を一局設け、そこに督学を置き、区内の学校を監督させ、中学区ごとに学区取締10名から1213名置き、区内の人民を勧誘して子弟を就学させ、また学校の設立や保護などの小学区内の学務を担当させた。

 小学校には普通の(都会のお金持ちの男児で、公立の)小学校の他に、女児小学、村落小学、貧人小学、小学私塾、幼稚小学、廃人学校などがある。

幼稚小学は男女の子弟で6歳までの者を収容し、普通の小学には6歳から9歳までの下等小学と9歳から13歳までの上等小学とがある。中学は小学校を卒業した生徒に普通の学科を教える所であり、14歳から16歳までの下等中学、17歳から19歳までの上等中学とがある。大学は「高尚の」諸学を教える専門科の学校であり、理学、文学、法学、医学の四科とした。

 

261 明治5年1872年9月、小学教則を頒布し、小学校教授細則を明らかにし、明治6年1873年5月、この小学教則を改正した。

下等小学の教科は14種ある。綴字、習字、単語、会話、読本、修身、書牘(トク、ふだ、文書)、文法、算術、養生法、地理大意、理学大意、体操、唱歌である。ただし唱歌は当分なかった。上等小学では下等小学の教科の他に、史学大意、幾何学、罫(線)画大意、博物大意、化学大意を加え、土地の状況に応じて、外国語、記簿法、画学、天球学を斟酌して教えることができた。

明治8年1875、(小学校の)学齢を改め、満6歳から満14歳までとした。

 

262 明治121879、学制を廃して、教育令を発布した。フランス式の画一制度を止め米国式の自由制度に改めた。小学区を廃して、各町村や数町村の連合体に公立小学校を設置させ、学務委員に学区取締をさせた。小学校の教科は読書、習字、算術、地理、歴史、修身の初歩とし、土地の状況に応じて罫画、唱歌、体操などを加え、さらに物理、生理、博物の大意も授けることができるとした。女子には裁縫などの科を設けることができるとした。修業年限は8年としたが、土地の事情に応じて4年にまで短縮できた。児童は学齢の間に少なくとも16カ月は普通教育を受けるべきだとしたが、学校に入らなくても別に普通教育を受けられる者は就学と見なした。

 

263 明治5年1872に学制が発布されると、文部省は小学校の教育法を研究し、その教員を養成する機関を設置すべく、明治5年1872年9月、師範学校を旧昌平黌跡に起こし、米国人スコットを教師とし、教科用図書、教具、器械など全てを米国に注文し、米国の師範学校をそのままに模倣した。次いで、大阪、宮城、愛知、広島、長崎、新潟に官立の師範学校を設け、東京に女子師範学校を起こした。明治8年1875、東京師範学校に中学師範科を設け、明治9年1876、東京女子師範学校に幼稚園を開設した。

 

 明治1018774月、元の大学南校である東京開成学校と元の大学東校である東京医学校を合併し、東京大学とした。本校を法学部、理学部、文学部に分け、綜理を置いて三学部の事務に当たらせ、医学部には別に綜理を置き、医学部の事務に当たらせた。

 

264 明治5年の学制頒布時代の教育思想は、明治初年の皇道主義がいつしか忘却され、英米の実利主義が盛んに流行した。学制頒布に関する「被仰出書」の中に、

 

「人々自ら其身を立て、其産を始め、其業を昌(さかん)にして以て其生を遂るゆえんのものは他なし、身を修め、智を開き、才芸を長ずるによるなり」

「学問は身を立るの財本ともいうべきものにして、人たるものは誰か学ばずして可ならんや」

 

とあるが、これは時代思想の反映とみることができる。さらに、

 

「自今以後一般の人民(華士族卒(ことごとく)農工商及婦女子)必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」

 

とあるが、いかに教育の普及を重んじたかを知ることができる。

福沢諭吉の「世界国尽」と「学問のすすめ」なども盛んに実利主義を唱導した。

 

265 学制頒布以後の本邦教育界は、教育の実際でも思想においても米国の影響を強く受け、明治6年1873、米国人ダヴット・モルレーを聘し、学監とした。文部省も雑誌を発刊し、西洋の教育に関する論説を翻訳してこれに掲載し、その中に自然主義的教授論が紹介されることが多く、その他にウイッケルシャム学校通論ハート学室要論ノルゼント教師必読ページ教授論ノルゼント小学教育論など、多くの米国教育書が訳述された。

 

 

第三章 明治13年から23年までの本邦教育

 

266 明治13年1880から明治23年1890までの「本邦」の教育は「なお」欧米の「模倣」を旨としていたが、少しばかり明治初年の皇道主義が復活した。この時期に教育研究のために英米仏独などに派遣されていた留学生が帰朝し、欧米諸国の教育の事情が紹介されたが、この時期の末頃1890年近くには、条約改正のために欧化主義を唱道する者と、これに反対して国粋保存主義を説く者とがいて、思想が混乱した。しかし明治23年1890に教育勅語が下り、漸く教育の根本の確立を見た。(筆者のスタンスはここに現れている。)

 

267 明治12年1879教育令は「余りに」放任主義であったため、急に教育事業が弛頽し、明治12年187912教育令が改正され、再び学区制が復活し、就学の督促を厳しくし、義務年限を改めた。(その詳細を説明してくれ)明治14年1881年5月、文部卿が頒布した「小学校教則綱領」によれば、小学校を初等科、中等科、高等科に分け、初等科と中等科の修業年限は各3年、高等科は2年とした。初等科の教科目は修身、読書、習字、算術の初歩、唱歌、体操であり、中等科はこの他に、地理、歴史、図画、博物、物理の初歩を加え、女子には裁縫を課した。高等科はさらに、化学、生理、幾何、経済の初歩を加え、女子には経済の代わりに家事経済の大意を加えた。修身、読書、習字、算術の他は土地の状況によって取捨できた。

 

268 明治14年1881年6月、文部卿福岡孝弟は「小学校教員心得」を定め、大に忠孝本位の徳育を奨励した。その訓諭に曰く。

 

「小学教員の良否は普通教育の弛張に関し、普通教育の弛張は国家の隆替(盛んなことと衰えること)に係る。その任たる重且大なりと言うべし。今夫小学教員其人を得て、普通教育の目的を達し、人々をして身を修め業に就かしむるにあらずんば、何によりてか尊皇愛国の志気を振起し、風俗をして淳美(淳は人情に厚く素直)ならしめ、民生をして富厚ならしめ、以て国家の安寧、福祉を増進するを得んや。小学教員たる者宜しく深く此の意を体すべきなり」

 

(明治5年の)学制頒布以来、実学を奨励するに急にして、徳育を顧みるに遑(いとま)がなかったが、ここにおいて大に忠孝本位の道徳教育を重んずるようになった。

 

269 明治18年1885年8月、文部省は再び教育令を改正した。同年12月、森有礼が文部大臣に任ぜられ、明治19年1886年、小学校令を発布した。それによれば、小学校を尋常科と高等科に分け、その修業年限を各4年とし、6歳から14歳までを学齢とする。父母や後見人は、その学齢児童が尋常小学科を卒らない間は就学させる義務がある。ただし土地の事情によって修業年限3年の小学簡易科を置いて尋常小学校に代えることができる。

尋常小学校の教科は、修身、読書、作文、習字、算術、体操であり、高等小学校の教科は修身、読書、作文、算術、地理、歴史、理科、図画、唱歌、体操、裁縫(女児)とする。土地の事情によって尋常小学校に図画、唱歌、裁縫(女児)のうちの数科を、高等小学校に英語、農業、手工、商業のうちの一科もしくは二科を加えることができる。そして唱歌は省くことができるとした。(変更の精神が分からない。)

 

270 明治141881年、文部省は師範学校教則大綱を府県に頒布した。当時地方の官立師範学校は廃止され、府県立となっていた。明治161883年、師範学校通則を発布し、明治191886年、師範学校令を定め、高等と尋常に分けた。

文部大臣森有礼は教員養成を重視し、(師範学校の生徒に)順良・信愛・威重の三徳を備えさせ、兵式体操を課した。

 

 教育令1879中学校を「高等の普通学科を授ける所」と定めたが、明治121879年ころ、中学校が濫設され、全国に780余校が設置されていた。明治141881改正教育令1879.12に基づき、中学校教則大綱を発布し、「中学校は高等の普通学科を授くる所にして、中人以上の業務に就くがため、または高等の学校に入るがために必須の学科を授くるものとす」と規定し、中学校を初等と高等に分け、その修業年限を合計6年とした。

 

 明治171884中学校通則を定め、中学校は「高等の普通学科を授ける所」とし、明治191886年更に中学校令を発布し、中学校を修業年限5年の尋常中学校と2年の高等中学校に分けた。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を5区に分け、各区に一校を置いた。高等中学校に法科、医科、工科、文科、理科、農業、商業を設けた。

 

272 女子の中等教育 明治51872年、文部省は東京女学校を設立した。明治101877年、これを廃止した。

明治151882年、東京女子師範学校附属高等女学校を設け、高等の普通学科を授け、「淑良」なる婦女を養成することを目的とし、修業年限は5年とした。

明治191886年、東京師範学校附属高等女学校を文部省の所属とし、次いでこれを東京高等女学校と改称し、明治201887年、独立の一学校とし、修業年限を4年とした。後、明治231890年、再び女子高等師範学校(前記では「高等」がない)の付属とした。

各府県も文部省に倣って女学校の教規を改正した。

 

273 東京大学は明治181885年東京法学校を法学部に合併した。東京法学校は明治41971年、司法省が設置した明法寮に基づく。

明治191886年、帝国大学令が公布されて新たに帝国大学を置き、東京大学と工部大学校を合併した。工部大学校は明治41871年工部省に置かれた工学寮に基づく。

帝国大学は国家の須要に応じる学術技芸を教授し、その蘊奥(うんおう)を攻究することを目的とし、文科大学や大学院から成る。

明治151882年、東京大学文学部に古典講習科を置き、本邦歴代の制度・文物を研究させたのだが、学生を二回募集したところで廃止した。

 

教育学説 当時もっとも広く行われた教育学説は、スペンサー、ジョホノット、ペスタロッチ、コムペレーなどの説である。ヘルバルト学徒のリンドネルなどの教育説も明治211888年には翻訳されたが、それが大いに行われたのは明治231890年以降のことである。

 

274 スペンサーの教育論は、明治131880年以後三種類の翻訳書があり、盛んに行われた。学制頒布(明治5年1872年)以来の実利主義的傾向は、最もよくスペンサーの教育主義に適合していたので、スペンサーの教育論は大きな歓迎を受けた。

 ジョホノットは米国人で、明治171884高嶺秀夫がその教育書を翻案し「教育新論」を著し、有賀長雄も同書を訳述した。ジョホノットの教育論はスペンサーと同じく自然科学を重視したが、ペスタロッチ主義の実物教授に近い面もあった。

 

275 ペスタロッチの教育主義は夙にページ265の教育書から間接的に伝わっていたが、高嶺秀夫が米国で実物教授法を学習して帰朝してから広く行われるようになった。

明治151882年に出版された伊澤修二の教育学は、米国で聴講した教育学講義の翻案であり、知育、徳育、体育を説き、心理学主義を加味していた。

 明治161883年、若林虎三郎白井毅が編纂した「改正教育術」は、ペスタロッチ主義の開発・教授を鼓吹した。その自序の中で、「ペスタロッチは初めて心理学主義を教育に応用したが、その時からフレーベル、アガシスなどがこれを紹介し、近来(近頃)スペンサー、ベイン(ペーン?)などが教育の根拠を心理学におかなければならない理由を論述したため、ペスタロッチの功績がますます顕れ、米国で教育を説く者は多少の見解を異にするといっても、要するにこの範囲を出ない。」とした。

276 明治201887年、山県悌三郎が翻訳したペーンの原著「ペスタロッチ氏の主義及応用」も広く読まれた。コムペレーはフランスの教育学者であり、心理学を主として教育を説いた。明治211888年、能勢栄がその教育学を訳した。

 

 明治131880年から明治231890年までの間に英米仏独の沢山の教育書が翻訳され、その中でもスペンサーやペスタロッチの教育説が最も広く行われた。しかし(福岡孝弟の)小学校教員心得268 明治14年1881年6月)で力説された徳育主義と以上の教育説との関係については未だ十分に顧慮されていないようだ。(意味深長な言葉だ)

 

 

第四章 明治23年から明治33年までの本邦教育

 

277 明治2318901030日、「教育に関する勅語」を下し賜ったときから、本邦教育の大本が漸く一定し、特に徳育に関して、過去20年間の「紛乱」の「鎮定」を見た。明治2728年、18941895年の戦役(日清戦争)以来国民の自覚が高まり、教育上の進歩も頗る著しきものありき

 

 明治231890年の勅令によって、明治191886年に発布した小学校令269を廃し、新たに小学校令を公布し、普通教育に関する全般の法規を網羅した。「小学校は児童身体の発達に留意して、道徳教育及国民教育の基礎並びにその生活に必須なる普通の知識技能を授くるを以て本旨とす」という現行の小学校令は、以上の改正小学校令第一条の規定をそのままに保存している。

ただし(この)小学校令は市町村制の実施に関連して改訂されたものであり、その趣意は以前の小学校令と多くは異ならない。つまり、小学校は尋常小学校269と高等小学校の二種とし、両者を併置するものを尋常高等小学校という。修業年限と教科目は以前の小学校令とほぼ同じである。各郡に一名の郡視学を置き、郡内の学事を監督させ、市町村に学務委員を置き、市長村長の教育事務を補助させた。

明治241891年「小学校教則大綱」と「学級編成に関する規則」などを発布し、単級学校多級学校の編制を初めてこの時に定めた。

 

279 修身科 「教育に関する勅語」が下賜されてから修身教授に一大変動が起こった。従来の修身書の多くは東西の嘉(か、良い)言善行を羅列するに過ぎなかったが、勅語が下賜されてからは、専ら勅語の文句に註解を施し、それに例話を加えるようになった。多くの新修身書が編纂されたが、明治241891年「小学校修身教科用図書検定標準」を発布し、明治261893年、文部大臣井上毅は修身教授に関して特に訓令を発した。

 

「修身科の教育におけるは、神経の(が)全身に貫通しその作用を霊活ならしむるに(のと)同じく、(修身科を)他の科目と例視(同一視)すべきにあらず。教員たる者は時を以て(時間をかけて)諄諄(ねんごろに)訓告し、児童の年齢及び男女の別に従い、都鄙(ひ)の風習、各地人文の発達及び生活の程度を察し、また各人各個の性質に依り、精密なる注意を用い、この重要なる科目の目的を達することを力むべし」

 

当局は勅語の御趣旨の徹底に意を用いたが、未だ十分な効果を上げられず、明治401907年以後になって漸く国民道徳論の勃興を見るに至れり。

 

280 明治2918963月、「市町村立小学校教員年功加俸国庫補助法」を公布し、明治301897年、市町村立小学校学級数を制限し、明治311898年、公立学校に学校医を置き、明治3319008月更に小学校令小学校令施行規則を発布した。

 

中等教育 尋常中学校に関して明治241891年、設備規則を設け、明治271894年、学科及び程度を改正し、また実科規定を定め、明治321899年、中学校令を改正し、尋常中学校を改めて単に中学校と称し、その目的を男子に必須な高等普通教育をなすにありとし、一府県に必ず一個以上の中学校を設置すべきと規定した。

明治281895年、文部省令で高等女学校規定を定め、その修業年限を6年とし、修業年限4年の尋常小学校の卒業生か、これと同等の学力を有する者を入学させることとした。明治321899年、勅令で高等女学校令を発布した。その目的は女子に必須な高等普通教育を施すとし、入学程度を高め、修業年限を4年とし、各府県にこれを設置する義務を負わせた。

 

282 実業教育の中でも高等なものは(以前から)専門教育を施し、多くの高等の専門学校が実業教育を施していた。井上毅が文部大臣になってから初等の実業教育を奨励した。明治261893年、実業補習学校規定を制定し、実業教育費国庫補助の制度を設け、毎年国庫金15万円を支出した。また工業教員養成の途を設けてから実業教育が進歩した。明治321899年、実業学校令が制定され、工業学校、農業学校、商業学校、商船学校、水産学校なども規定され、農業学校、商業学校、商船学校が甲種・乙種に分けられた。

 

 明治291896年、学政の最高諮問機関として文部省に高等教育会議を設置し、文部省に視学官を、府県に地方視学を置き、明治301897年、明治191886年に定めた師範学校令270を廃して、更に師範教育令を制定し、尋常師範学校を単に師範学校と改称した。また京都大学を設けた。

 

283 明治231890年から明治331900年までの本邦教育界では、ヘルバルト派の教育説が全盛を極めた。明治221889年、帝国大学文科大学内に教育科特約生を置き、ドイツ人ハウスクネヒトがその主任となり、教育学を講じた。それ以来ケルン、リンドネル、フレーリヒ、ラインなどの教育書が翻訳され、後にヘルバルトの著書も訳述された。ドイツに留学してラインに師事した人々が帰朝し、ますますヘルバルト主義が流行し、五段教授法が全国の小学校を風靡した。修身教授の例話に関してもヘルバルト派の情操教材から学び取り、人物本位の修身教授が明治301897年前後に大いに行われた。

この時期フランスのフィーエー、ドイツのディーステルエッヒなどの教育説も紹介されたが、多くの世人の注意を引かなかった。社会的教育学が行われるようになったのは明治331900年以後のことである。

 

 

第五章 明治331900年から明治401907年迄の本邦教育

 

284 明治331900年から明治401907年迄の本邦の教育は、これまでの10年間の進歩の継続であるが、これまでのやや急速の理想主義に走って来た改革に対してちょっとばかり反動を呈した。明治3738年、19041905年の戦役(日露戦争)の結果、国勢が愈々加わり、明治401907年にはついに国民義務教育の年限を6年に延長した。

 

285 明治331900年の小学校令施行規則に「設備準備」の一章を置き、屋外体操場の形状・面積、教室の構造、廊下の造方などについて詳細に規定した。これは学校衛生上の原理に基づくものだったが、地方の経済事情に適さないという論がやかましかったため、明治361903年にこれを削除した。また上記小学校令の「教則」の中で、字音・仮名遣いについて新法を定め、尋常小学校で教授すべき漢字の数を制限したのだが、また世論の反対を受け、明治411908年これを廃止した。

 明治361903年、小学校教科用図書を国定にした。これまで小学校教科用図書の審査・検定に関して種々の困難と弊害があったため、国家が編纂することにしたのである。しかし修身書に関しては明治331900年から文部省内に設けられた修身教科書調査委員会が既に編集していた。

286 明治341901年、中学校令施行規則が発布された。その中に設備に関する細則を定めたが、明治371904年、これを削除した。しかし、現在でも大体においてこれに準拠している。

明治351902年、中学校教授要目が告示された。これは日本で初めての教授要目制定である。明治341901年には高等女学校令が発布され、その教授要目は明治361903年に公にされた。

 

287 高等教育の改正 明治361903年、専門学校令公私立専門学校規定が発布された。専門学校とは高等の学術・技芸を教授する学校であり、公立と私立がある。修業年限は3年以上で、入学資格は中学校或は修業年限4年以上の高等女学校を卒業した者か、これと同等の学力を持つと検定された者である。

明治351902年以後、多くの私立専門学校が私立大学と改称した。

 

 ヘルバルトの教育説は道徳的人格の陶冶を最高目的としていたが、個人主義的傾向が強かったので、これに満足しない者が社会的教育学説を傾聴するようになった。社会的教育学説もドイツに起こり、その中に分派があるが、わが国でもっとも行われたのはベルゲマン、ウィルマン、ナトルプらの説である。

288 ベルゲマンはヴントの倫理説を奉じ、社会学的考察を基礎とする。ウィルマンは旧教を本とし、社会的団体生活を理想とし、ナトルプは新カント学派の哲学者で、社会的方面を重視した。

 

 これらの人々の教育説は渾然とした(一体となった)体系になっていなかったが、余りに一定の典型に固まったヘルバルトの科学的教育学に厭きた教育界は、これらの人々の教育説を歓迎した。

しかし、社会的教育学説が勃興した一大原因は、国家主義の復活であった。明治2728年、18941895年の日清戦争国民の自覚と国家主義を盛んにした。明治373819041905年の日露戦争は更にその傾向を強めた。海外でも我が日本の戦捷(しょう、分捕る)の原因を我が国の勅語本位の徳育に帰する者もいた。

 こうして国家社会を本位とする思想は次第に勢力を得たが、それを徹底しようする努力は明治401907年以降に初めて大いに現れた

 

第六章 明治401907年以後の本邦教育

 

289 明治4019073月、小学校令を改正し、尋常小学校の修業年限を6年とし、それを国民の義務とし、高等小学校の修業年限を2年または3年とした。これは現行の小学校制度である。明治4019074月、師範学校規定を定め、本科を第一部と第二部に分け、修業年限1年の予科を置いた。次いで明治431910年、師範学校教授要目を定めた。

 

290 明治4119089月、教科用図書調査委員会官制を定め、小学校修身と歴史と国語の教科用図書を調査・審議させた。国定教科書制度が行われた時から文部省内で小学校用教科用図書の編集をしてきたが、ここで特に(編集のための)委員会を設置した。修身、歴史、国語の三科は小学校教育の「骨髄」であり、国民教育上殊に枢要の教科に属するがためなるべし。

 

 中学校では明治441911年に教授要目が改正され、高等女学校の教授要目も同年に改正された。明治431910年、高等女学校の中に実科を置き、または独立の実科高等女学校を置いた。

 

明治401907年、東北帝国大学を設置し、明治441911年、九州帝国大学を置き、明治411908年、奈良女子高等師範学校を設置した。

 

291 明治401907年以後の教育界で注目すべき事項の一つは、実業教育が勃興したことである。これは明治373819041905年の日露戦争の結果巨額の国債が生じたため、実業教育を盛んにして国家の富を致すという国策に基づいたものであろう。明治441911年、高等小学校の教科目の中の農業、商業、手工を必修とし、中学校でも新たに実業の一科目を加えた。高等女学校でも実業を奨励した。

 

明治411908年、畏くも戊申詔書が下賜された。

292 国民教育論の勃興も当時の教育界の一大事件である。これもまた(日露)戦後の教訓に基づく。明治411908年、小学校教科用図書調査委員会290が設けられ、その第一部では専ら国民道徳の徹底を旨として修身書を改定した。明治431910年、師範学校修身科講習会を文部省に開設し、専ら我が国民道徳の特質を伝え、師範学校、中学校、高等女学校の教授要目改正の際にも大に此の意を示した。この時から東京、大阪二府を始め、他の府県でも大に国民道徳の講習に努め、教育に関する勅語の研究が大に興り、漸く「学術的」となった。

 

 この時期に伝えられた教育思想は非常に多い。

293 早くは実験教育学や低能児教育論が大に行われた。これらは実験心理学と医学の研究から発達したもので、自然科学を主とする。実験教育学の中でもモイマンの説とライの説とは異なる。低能児教育論でも低能児の意義は人に依って異なる。

社会的教育学や実験教育学などの実証論的傾向の対局として教育美学と人格的教育学があった。両者は「文芸的趣味」に富み、理知よりもむしろ情意を重視した。これは19世紀初めの新人文主義の復活と言えるだろう。米国のドゥエーの教育説はこれらを調和したものともみられるが、その旨は社会的で実用主義的である。

 

294 最近の教育界での著しい出来事は、大正619179月に設置された臨時教育会議において、多年の懸案であった学制問題を解決したことである。大正7191812月に公布された大学令と高等学校令は同会議の決議に基づく。大正819192月、小学校令、中学校令、帝国大学令などを改正し、中学校では高等学校と同じく国民道徳の養成に努むべきことを明記した。

 

以上 202194()

 

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