BEATE SIROTA GORDON “The Only Woman In The
Room A MEMOIR OF JAPAN, HUMAN RIGHTS, AND THE ARTS” University of Chicago Press 2014, Originally published in 1997
メモ
第1章 帰郷
005 序文2013/2を書いているジョン・ダワーJohn
W. Dower1938.6-は日本近代史の学者である。
014 彼女の家族は戦前は乃木坂の近くに住んでいた。
015 その付近でも家が焼かれないで残っていて戦後もそこに住んでいる人もいた。ドイツ人歌手のMrs. Netkeとかいう人である。
戦時中は外人は皆軽井沢に住まわされていた。
1945年12月末ころ、日本人は国会議事堂前で野菜を育てていた。
米国人は電車に乗ることを禁じられていた。
016 父母ともにその家系はロシア系のユダヤ人である。父方はShirota、母方はHorensteinである。
両親の親族は、オーストリア、スイス、フランス、ソ連に住んでいた。親族が多かったが、ナチスの強制収容所に送られた人が多い。中には逃げられた人もいた。
父は3回結婚している。
両親はロシア系のユダヤ人で、オーストリアで暮らしていた。
ベアーテさんのご親族十数人の消息
オーストリア在住の親戚すべては、ナチの収容所に送られた。
父には4人の兄弟がいて、弟のPeterはMaurice Chevalier社で働いていたが、フランスのVichy政権下で暮らした時に逮捕され、アウシュビッツに送られた。しかし運よくピーターの娘のTinaは逃げることができた。甥のIgorはノルマンディー作戦時に戦死した。
母の兄弟は本人を含めて16人いて、甥のJosefはスイスで健在とのこと。
017, 012 私は日本に来た時、WAC billetを宿舎としてあてがわれていた。WACとはWomen’s Army Corps, billetとは兵営。
私の東京での勤務先はGovernment Section of SCAP (Supreme Commander
Allied Powers)とだけ知らされていたが、東京に来てからPolitical Affairs Divisionに配属された。ボスはCoronel Pieter K. Roestであった。
私は両親に銀座のArmy PXで買った板チョコと香水をプレゼントした。PX=post exchange 基地内の売店
019 日本人は西洋人と交流することを禁じられていたが、母は近所の家族の子ども4人が全員赤痢にかかり、食糧を何かをいただけないかと乞われた時、配給のジャガイモを全部上げた。浅間の噴火でガラス戸が壊れた時は、父の教え子が母親と共に東京からガラスを運んできて窓枠に入れてくれた。
020 父母を軽井沢から東京へ移送
空襲で焼けなかったビルは米軍人でいっぱい。YMCAの神田会館でも断られ、結局、唯一コンタクトが取れた父の生徒である金子茂子さん宅の二間を借りることになった。父母の薬代は、食糧に困る医者にチョコレートで払った。最終的に、駐留軍の医者にビタミンをもらうことができた。
021 職場の様子
GHQの第一生命ビルが、皇居と相面していたとは皮肉であるが、これは意図的でもあったのかもしれない。GSはその6階にあった。SCは同じ階にあった。
マッカーサーと、私のGSのボスであるホイットニーGeneral Courtney Whitneyはおっかなかった。ホイットニーは迫力ある男だった。彼は大晦日の晩に私達部下に向かってこう言った。
「日本人に向けて出す命令に対する君たちの意見を求める。若い連中は上級将校と同じくらい賢明である。それ以上ではないとしても。これは嘘ではない。君たち中尉が私の部屋にいきなり入って来て、私の机を叩きながら「おい、generalホイットニー、これは間違っているぞ。これをマッカーサーに承認を求めるなんて、どうかしているぞ」と言ってくれる日が早く来ることを望んでいる。」
“I look forward to the time when a lieutenant will barge into my
office, bang on my desk and say, ‘Goddammit, general, such-and-such a proposed
directive is preposterous, …”
GSの同僚は法律家が多かった。ルーズベルト大統領のニューディール政策の信奉者だった。
ホイットニーはいつもマッカーサーと一緒で、筆跡も似ていた。毎日1、2時間二人きりで話し込んでいた。ホイットニーはマニラ時代にマッカーサーの法律顧問をしていた。
副官のCol. Kadesは連邦政府顧問官で、スペイン系のユダヤ人だった。40そこそこの若さであったが、聡明で指導力もあり、私は好感をもった。一つ気に入らいないことは彼が、戦前に日本人の特高が日本人を拷問して虐めた竹刀を机の横に掲げていたことだ。
私が配属された政治部の3人のメンバー
Col. Pieter K. Roest, 47,
Dr. Harry Emerson Wilds, 55, 最年長だった。
私、22
ロエストはオランダ生まれの文化人類学者で、インドのカーストを研究し、アジアや中東をよく旅行していた。ベジタリアンで、アジアの医学に関心があり、妻はWACとしてGHQに勤めていた。
ワイルドは経済学者で、1924年から25年まで慶応義塾で教え、気まぐれmercuricalだったが、日本の習慣をよく知っていた。
023 職場での会話と私の評価 私は6か国語話せる語学の専門家
私はロエストの質問に答えて、ウィーンの生まれで、日本ではドイツ語学校に通い、フランス語とロシア語を家庭教師から習い、アメリカの大学ではスペイン語を習ったと言った。ロエストは「日英合わせて6か国語が話せるんだね」と感心した。
日本事情について教示された。
私達の最大の関心事は、民主主義の根幹としての日本の政党を学習することだった。民主主義の拡大のためには、国家主義者を追放しなければならない。また私は女性だから、政治における婦人の地位や少数政党を研究することが私の任務だった。占領政策も学ぶ必要があった。
1945年8月30日以降の日本の出来事について教えてもらった。ホイットニーはマッカーサーから日本に関する指示を書き留めていた。
軍国主義の撲滅、代議制政治形態の樹立、女性への参政権付与、政治犯の釈放、農民の解放、労働運動の確立、自由経済の奨励、政治的抑圧の廃止、自由で責任ある報道、教育の自由化、政治権力の分散、…などである。
当初連合軍は日本人が従順だとは予測していなかった。私はニューヨークで日本の事情を聞いていた。熱血青年軍人の小集団が、天皇のポツダム宣言受諾を拒否して、皇居近郊や厚木飛行場でクーデターを起こしたが、失敗して、皇居前で自殺したこと、戦争が終結したその日に、日本空軍の特別攻撃部隊が九州から飛び立ち、そのまま帰らなかったことなどである。
ところがそういう反抗は見られなかった。そのため予定していた軍政による直接統治を改めて、日本政府による間接統治に変更した。しかし日本人はGHQの三部門(政府、経済・科学、市民の情報教育)が日本を統治していることは十分知っていた。
東條英機を始めとするA級戦犯の軍国主義者が逮捕され、新聞、出版、報道、映画、郵便物が検閲された。
マッカーサーは近衛文麿を憲法改正に用いたが、NYTやNYヘラルドトリビューンなどはそれを批判した。
1日後、衆議院がSCAPに促されて改正選挙法を布告し、婦人参政権が実現した。1946年1月の最初の週に、経済界、商業界、農業界を含めて右翼が追放された。
025 男女交際 ある親切な海軍の男が、軍に捕まる危険を顧みず、食糧難で病弱の私の両親のために軍の食糧をくすねて運んでくれた。
連合軍軍人20万人の中で、女性は60人しかいなかったので、独身の私は男どもになにやかやと声をかけられたが、ほとんど無視した。しかし海軍中尉lieutenantのWarren Brownは、私が食糧獲得のためにチョコレートを貯めていることに気づき、彼のPXカードを差し出したが、私は断った。翌週彼は電話で会おうと言って来た。彼はいつも乗っているジープよりも大きい武器運搬用のトラックに乗ってきた。「ご両親に会いたい。」私たちは二、三回しか会っていないが、彼は決然としていた。
海軍の二、三箱の中には、木製の四箱があり、その中には、牛肉、バター、ジャム、イワシ、砂糖、粉末アイスクリーム、チョコレートが入っていた。それにLuxの石鹸も。母は何年も洗濯石鹸しか使っていなかった。
027 ブラウンは、これは廃棄品だと言ったが、軍法会議ものだ。それから彼は二、三回会ってから他に転じた。彼は25歳になったばかりだった。
027 ロシア人に招かれたパーティーで、私はウオッカによる数回の乾杯に堪えられず、二杯目以降は全てを流しに捨ててしまった。
帝国ホテルでロシア代表のGeneral Derevyanko将軍がMarquart将軍を招待した。マルカート将軍の秘書Virginiaが、私の昔の同室仲間だった。私はカクテルがせいぜいだった。ロシアの副官がワインを持って来てくれた。
028 日本人女性にとって参政権は喫緊の課題ではなかった。まず食糧を確保することで毎日を過ごしていた。私自身もその時までに一度も投票したことがなかった。
父母の下宿の近くで、以前私の乃木坂の家の女中だった沢辺美緒さんに会った。彼女は赤ちゃんを背中に負ぶっていた。二人とも防空頭巾をかぶっていた。彼女は炊いているご飯を入れた容器をリアカーで引いていた。
彼女は乃木坂の私の家で8年間女中をしていた。
彼女は沼津の彼女の家から干魚も持ってきていた。米はジャガイモ、大根、タケノコなどを混ぜた雑炊だった。母がその中にバターを入れた。
婦人参政権は必要だが、この食糧難の時代には贅沢であった。
第2章 私の生誕の地・ウィーン
感想 2026年10月20日(火)
カチンとくること 欧州人は、いやそれとも音楽家は、いとも簡単に離婚する。子どもがいるのに、いい男を見つけたら、子どもと男を置き去りにして離婚する。子どもがかわいそうだ。そうは言っても、それは両親の責任であって、ご本人の責任ではないが。また母親が離婚・再婚しなければ、彼女は生まれて来なかったのだが。
欧州人にとって日本人はまったく同一人に見えるようだ。少なくとも、初めて日本を訪れた小さい彼女にとってはそう思えたようだ。黒い髪、細長い目、…
彼女は幼少のころから人付きのいい、愛想のいい女の子だったようだ。
母親はかなり金持の家の娘だったようだ。写真がすごい。032頁参照。まるでファッションショーに出て来るモデルみたいだ。
父親は幼少のころから音楽の才能があったようで、幼少のころから著名な音楽家たちとの交流を勝ち得ていた。
彼女は1923年10月に生まれ、1929年、6歳の時に日本にやって来た。その後両親は1945年までの16年間、私は1939年までの10年間、日本に住むことになった。
メモ
039 父の帰宅 1928年、父がピアニストのEgon
Petriとの1年間に及ぶ演奏旅行から帰ってきた。私はその時5歳だった。父はウクライナから、ウラジオストックへ、そして中国東北地方へ演奏旅行した。
040 ハルビンには1896年からロシアの租界があった。そこで山田耕作から日本へ招待された。山田は前衛的なロシア音楽に関心があった。父は日本で富士山に魅了された。「日本は将来素晴らしい国になるぞ」と父は言った。そして山田耕作は父に半年間の日本での帝国大学での音楽教授をオファーした。
041 父の生い立ち 父Leo Sirotaは1885年5月4日、キエフのユダヤ人家庭に生まれた。祖父は干乾物業を営み、父は5人兄弟の4番目であった。家にはピアニストのMichael Winklerが間借りしていて、父は5歳の時からウインクラーから音楽を教えてもらった。
父は9歳のとき初めてのリサイタルを開き、同年キエフの帝国音楽学校に入学した。級友のSergei Tarnowskiは後にVladimir Horowitzの師匠になった。
父は10歳のときに、ロシアに、音楽旅行に行った。Paderewskiは父の音楽を聴き、一緒にパリに来て音楽を学ばないかと勧めたが、父の母親が断った。
11歳の時、父は音楽教師になり、9歳年上の人を教えた。
14歳の時、キエフ国立オペラの首席音楽コーチになった。大声楽家Fyodor Chaliapinと共演した。
帝国音楽学校卒業後、セントピータースブルグへ行き、そこの音楽学校で芸術学士Diplomaの称号をもらった。そこの指揮者directorで作曲家のAlexander Glazunovは、イタリアの作曲家でピアニストのFerruccio Busoni宛ての紹介状を書いてくれた。ブソーニはちょうどその頃ウィーンで教えていて、MahlerやSibeliusの仲間だった。ブソーニは新旧音楽の融合を唱えていた。
042 このブソーニは父に色々と面倒を見てくれた。
1904年7月にロシアの内相が暗殺され、革命が起こった。ロシアの民衆は政治家や軍隊にだけでなくユダヤ人に対しても不満を持った。また父の二人の兄弟はパリとワルシャワに住んでいたこともあり、祖父母は父がウィーンに行くことに抵抗はなかった。1904年のことだった。
ウィーンは人口200万の、オーストリ・アハンガリー帝国の首都であった。ウィーンは華やかだった。それに比べて故郷のロシアは日露戦争中で、惨めだった。ある婦人が父にアパートを提供してくれた。
父は最初ブソーニ宛ての紹介状を使わず、自ら教師を捜した。Josef Hoffman、Leopold Godowsky、Ignace Paderewski、それとブソーニなど、何人かの音楽家のオーディションを受けていずれも合格した後で、紹介状をブソーニに提出した。ブソーニは紹介状など要らないと言った。
043 それから4年後のある日、父Leoはレッスンでリストの「ドン・ジュアン・ファンタジー」を弾いた。最初教師のブソーニは黙っていたが、大股でピアノに近づいてきてピアノの蓋を閉め、こう言った。「素晴らしい演奏の後では、もう今日はこれ以上他の誰の演奏も聞きたくない。」そして机に向かって彼の作品Elegienの楽譜にこう書いた。「キエフの若き同僚の「ドン・ジュアン・ファンタジー」のために、1908年5月4日、ウィーン、心から、Ferrucio Busoni」
その日はレオの23歳の誕生日だった。父はこの「同僚」という表現をいつも誇りに思っていた。ブソーニは彼の「Giga, Bolero e Variazione(モーツアルト研究)」にも「レオに」と記した。
当時のウィーンの音楽熱はすごかった。熱心な音楽家たちが認めてもらおうと様々なコンテストに臨んだ。アーサー・ルビンシュタインは、レオの生涯の友人になったが、あるコンテストでの思い出を記している。「私の作品はどれもとてもコンテストに堪えられない代物だった。私は音楽的に素晴らしい概要を表現することはできたが、細かい技術的なフィニッシュを無視していた。それは長年の私の欠点だった。そのコンテストの三日目、Edwin Fischerがいつものように最初に弾いた。彼の次にシロタ、Pyshanow、そしてある英国人の演奏を聞いた。私は憂鬱になった。彼らはうますぎる。その4人には私にはない技術的な磨きがあった。彼らは曲調―悪魔を決して逃さなかった。」
1910年、ヨーロッパ中の音楽ファンの関心をひくある出来事が、レオ・シロタの人気を急上昇させた。12月18日、ブソーニがトンクンスツラー・オーケストラを指揮し、「ドン・ジュアン・ファンタジー」と、モーツアルトの「二つのピアノのためのソナタD調」を、ブソーニとシロタが共演した。しかし最大の見せ場Pièce de résistanceは、ブソーニの最高作品「ピアノとオーケストラとコーラスのための協奏曲」であり、そこで父がソリストとして演じた。カーテンコールが16回も行われた。父は若干25歳だった。
しかし1914年6月、オーストリア大公フランツ・フェルディナンドがサラエボで暗殺され、8月には、戦禍がヨーロッパ中に拡大した。
044 しかし父はまだ幸運だった。ロシア国籍だったので、オーストリアの兵役から逃れられ、ブソーニとともに音楽を継続でき、ウィーン大学で哲学や法律、音楽史も学習することができた。そのとき、同じキエフの出身のヤーシャ・ホーレンシュタインに会った。ホーレンシュタインは指揮の練習をしていて、レオもそれに参加した。
恋の始まり ホーレンシュタインは妹のオーグスチンAugustineに――オーグスチンも熱心なピアニストであった――レオの演奏を聞くように勧めた。オーグスチンは派手なmauve chiffon dressで出かけた。彼女はその演奏に魅了された。舞台裏で兄に紹介され、温かい握手をした。レオは31歳、オーグスチン(Gisaギサ)は23歳だった。
レオは求婚した。しかしギサは人妻だった。子どもが一人いて、見合い結婚だったが、忠実な旦那だった。しかし二人はレッスンを口実に会い続けた。ロシア革命が二人の亡命者を一層近づけた。
悪い奴。
ギサの父はキエフでは大金持ちの地主だったが、革命で財産と使用人を失った。今は三人目の若妻とウィーンに住んでいる。
045 ギザはこう考えた。女にとって必要なものはわずかだ。上等な毛皮のコート、エレガントなスーツ、美しいダイヤの指輪、イブニングドレスと立派な絵画であり、それがあれば世界中の何処へでも行けると。
1918年、戦争がようやく終わり、人々は芸術を求め始めた。
046 戦後のベルリンはロシア人亡命者の町と化し、音楽熱も高まった。その中心は指揮者のSergei Koussevitskyで、1921年、シロタをベルリンに招待し、ルビンシュタインやチャイコフスキーのコンサートを開き、大成功を収めた。1921年12月1日付のMusical Courierは、あるソリストについて「その高潔さと熱情がベルリンを魅了した」とし、彼の華々しい将来を予測した。そして「その理由は彼が高潔だからだ」とし、「チャイコフスキーの持つ様々な色合い、その憂鬱と勝利、つまり人生そのものが、このスラブ出身のマスターによって解釈される時に出現する。ロシア人はピアノの技術を独占したのだろうか。」
シロタは著名な指揮者の下で演奏した。Carl
Nielsen, Bruno Walter, Horenstein, Koussevitsky, Busoniなどである。ウィーンのWiener Morgenzeitungは「リストやアントン・ルビンシュタイン同様、失われつつある名人」と評した。
レオとオーグスチンは文通はしていたが、なにしろオーグスチンは子持ちの既婚者であるから、会うことはままならなかった。そこでブソーニが二人を家に招いた。Ferruccio Busoniはオーグスチンに「レオは卓越した音楽家だ」と言った。
047 彼女はプレッシャーを受け、離婚を決意し、ようやく話し始めた子どもを夫に託して離婚した。1920年、レオと結婚した。
彼女は音楽家や知識人を家に招き、料理と会話で接待した。彼女は一人息子を手放したことを、レオに尽くすことで償った。
私は1923年10月に生まれた。母がStefan Zweigの作品Frau Beateにちなんで名付けた。
そのころヒトラーはすでに頭角を現し始め、ドイツで人目につくようになってきていた。ハーケンクロイツの腕章をつけ、失業者や不満を持つ人々に向かって演説した。ヒトラーは、ユダヤ人は悪性インフレの原因であり、世界を征服しようとしていると大声で怒鳴った。恐怖と無知が結合した。そして多くのドイツ人がドイツを救おうという運動に参加するようになった。ところが両親はそれに気づかなかった。
母は私を父が弾くピアノの上の引き出しの上に置いたという。
私はおませで人付きのいい子だったようだ。
父はロシア人であることを気にしていたが、革命後のロシアに戻るつもりはなかった。そしてオーストリア国籍を取得した。
父が1年余の演奏旅行から帰宅した晩には、日本で暮らすという話が再び出ることはなかった。大戦後のオーストリアとドイツはインフレがひどく、演奏会を企画しても、ヨーロッパ中でよくキャンセルになった。母はいやいやながら6か月間だけなら極東に行くのもいいだろうと妥協した。そうすればその間にオーストリアの経済も好転するだろうからと。アパートを人に預け、1929年の夏、私たちはウィーンを去ったが、その2か月後にウオール街の株が急落し、世界的な不況が始まった。
ウィーンからモスクワへ、そこからチェリャビンスクへ、そしてそこでシベリア横断鉄道に乗り換えた。私は車掌と仲良しになり、チョコレートを上げたりした。
終点はウラジオストックで、立派なホテルを予約したと思っていたが、ベッドはノミとシラミだらけ。結局父の音楽仲間の家に泊めてもらい、父と母はソファーでシーツにくるまって座っていた。
翌日日本海を渡り、4週間の旅の最終目的地である横浜にたどり着いた。横浜港は、陸地に囲まれたオーストリアとまるで違い、大きな客船や、その間の蟻のような沢山の小さな船を見てびっくりした。
タグボートの男たちを見てびっくりした。髪は黒く、皮膚は黄色く、まるでウィーンの男たちとは違っていた。女性もいたが、皮膚はすべすべしていて、平べったく無表情な顔で、細長い目をしていた。
050 「ママ、あの人たちは皆兄弟姉妹なの。」これが私の最初の日本の印象だった。
両親は6か月間の予定で日本に来たが、結局16年間住むことになった。私は10年間住んだ。
第3章 乃木坂の家
055