寺平忠輔『日本の悲劇盧溝橋事件』読売新聞社1970年昭和45年
感想 2026年2月18日(水)
侮蔑的で見下した言辞が多い。牟田口連隊長の次の言葉など。
446 私はムカッと腹が立った。「ヨシッ、先方がそういう魂胆なら、この次やった時には承知せんぞ」と腹を決め、中隊長以上を集め、この旨を訓示した。(牟田口連隊長はすでに1年前の1936年から、不拡大方針から感情的好戦姿勢に傾いている)
寺平さんは日中戦争「不拡大」の自身の努力は強調するが、「侵略」という言葉は一度も使わない。日露戦争自体が、中国への侵略を意味していたのだが、日本人はロシアによる中国侵略をそのまま受け継ぎ、侵略=いじめだということに気づかなかったのだろうか。侵略が列強世界の常識で、侵略が意識にすら登らなかったのだろうか。
感想 2026年2月11日(水)
寺平忠輔さんの性格は非常に几帳面という印象を受ける。おそらくいつもメモをとっていたのだろう。終章の盧溝橋事件勃発時の分析は圧巻である。各種見解を紹介する。
その中で極東裁判での中国側の主張に対して事実に基づいて反駁する。満州事変の場合と違って、盧溝橋事件では日本側の謀略はなかったと主張したいのだろう。私もそれに同意する。それまでの日本側による中国側に対する圧力の存在は別にして直接的きっかけとしては日本側の謀略はなかったのだと。
またその意味で、寺平さんが所属していた北京機関が、日中衝突不拡大主義だったことも主張したいことの一つだろうと思われる。
極東裁判については、国会図書館がデジタルで公開しているようだ。
張学良の功績
028 張学良は満州事変後満州を追われ、その雪辱を考えていたようだ。そこで1936年8月、周恩来と会って抗日統一戦線論(国共合作論)を説き、1936年12月12日、西安事件で蒋介石を軟禁した。
その後1937年2月15日、「三中全会」が開かれ、抗日統一戦争が提起された。
感想 2026年1月10日(土) 小説風に委細に歴史を再現しているが、逆に言えば、微視的で、木を見て森を見ず。それ故、日本の優位性や反共産主義を不問にしているように思える。寺平忠輔は元々は陸士出身の軍人で、その後東京外語で3年間中国語を習い、1937年3月、北京特務機関(諜報謀略機関)の補佐官に任ぜられた。032, 034 037 京劇「女起解」の一節を「西皮快板調」で披露し、038 「中国の軍歌を高唱する」という中国通で、特務機関員になる前に4回中国を訪れている。
メモ 7月7日の第七中隊、第八中隊、大隊の行動
清水節郎大尉の第八中隊が夜間の演習視察に備えた練習的な演習を実施。空砲射撃後、中国側から実弾らしき弾がこちらの頭上に、一名が見当たらない。集合ラッパを吹くと、また弾が中国側から撃ち込まれる。そこで中隊を三つに分け、不明者を探しに行く班と、この事実を大隊長に連絡しに行く班(岩谷曹長)と、本体に分け、本体は中国軍を北に迂回して西五里店に向かう。
大隊長に連絡する班は、途中第七中隊と遭遇後、大隊長に面会、大隊長は大隊を非常召集し、西五里店に向かい、第八中隊と遭遇。斥候を派遣して、一文字山を捜索し、中国兵がいないことを確認後、大隊が一文字山を占領。中国側が発砲したという確かな証拠がないので、中国兵を捕虜にしようとし、数名がトーチカを探したが、中国兵はいない。次に向かった堤防で中国兵に遭遇。中国兵が大勢出て来たので、退散。
056 清水節郎大尉第八中隊長
穂積大尉第七中隊長
岩谷曹長
野地少尉
山本少尉
一木少佐大隊長
牟田口廉也大佐第一連隊長
河辺旅団長 南大寺に出張中087
旅団副官 松山少佐 出張中
荒田副官 北京に出張中 亀中尉が代理
安達禎作第九中隊長
久保田尚平大尉歩兵砲隊長
中島大尉が大隊を指揮
085 堤防上の相手は29軍だと分かった。29軍とは仲良くして行くべき相手である。
087 林耕宇
091 秦市長
092 小野口旅団副官
森田徹中佐は牟田口連隊長代理
092 周永業は綏靖公署の交通副処長・参議
093 木原少佐大隊長は通州から北京に帰還しようとしている。
094 慿(ひょう)治安は中国側の師長 土手の29軍の師長のようだ。
感想 「不拡大」と言いつつ、日本軍側の言葉遣いが横柄である。
076 通信班長の小岩井中尉「大隊長殿!中国兵のやつとうとうオッ始めおったですなあ!痛快ですなあ!今度こそ徹底的にたたきつけてやりましょうや」
082 清水大尉が「大隊長殿!これからいったいどうなさるお考えですか」と尋ねると、大隊長は言下に「やるんだ!」と、やにわに鞭を振り上げ、それをたたきつけるような恰好をして、自信満々といった態度と口ぶりを示すのだった。
087 北京特務機関の愛沢通訳生「そりゃ愈々面白くなってきましたね。大いに気合を入れてやりましょう。この前の豊台みたいなんじゃ下らないから!」
094 旅団の小野口副官の提案に見られる強硬な要求
「行方不明の兵隊が見つかり、日本側に損害はなかったが、中国側が「不法射撃」をしかけたことは重大な侮辱行為であり、糾弾しなければならない。連隊長と相談したところ、つぎの二条件を中国側に要求したい。
第1 中国軍の師長慿治安自らこちらに出てきて謝罪すること
第2 盧溝橋に駐屯している219団第3営を即時撤退させること
096 「軍司令部」とは日本本土の司令部のことか。盧溝橋現地へ派遣の際に、歩兵1ケ中隊を派遣し、宛平県城の東門を固めよとのこと。
盧溝橋の現地へ行く人
日本側から桜井、私、赤藤庄次少佐憲兵分隊長
中国側から林耕平、王令斉(宛平県長)、周永業
寺平忠輔『日本の悲劇盧溝橋事件』読売新聞社1970年昭和45年
感想 2026年1月12日(月)
驚くべきことですが、日中戦争の発端となった盧溝橋事件は、なんと日本軍側の不思議な意思疎通の乏しさ、軍の実践部門による独断専行によって開始されました。戦争を取り仕切る部門(北京特務機関)と、戦争を実践する部門(牟田口連隊長)との意思疎通がなく、牟田口連隊長の独断で戦端が開かれたようです。当時は連絡手段として主として有線電話が使われていて、戦場でも電線を引っ張っていたようです。また無線についての記述もあるが、それが使われたという記述が見当たりません。また馬も使われていました。しかし問題は通信手段ではないと思うのですが。
それに日中紛争の原因が極めてたわいないことであったことも気になるところです。1936年の豊台での紛争原因は馬の尻を叩いて馬上の人がバランスを崩したことであり、1937年の盧溝橋では、実弾が三回頭上を飛んで来たことであった。(その際実害はなかった。)つまり要は面子を潰されたということが紛争の最大の原因であったようなのだ。
本書の執筆者寺平忠輔が、日本軍の対中交渉の代表(軍使)として、中国第29軍*の少校営長の金振中に向かって、「北清事変議定書」122によって、日本を含めた列国の軍隊が中国の宛平城内を通過する権利を認められているなどと言っても、それ自体が不平等条約であるならば、中国としては当然面白くないでしょうね。
日中戦争に突入する背景には、満州事変以後の侵略に対する憎しみがあったに違いありません。その後満洲から追い出された張学良が、蒋介石に共産党との連携を訴えた背景には、満州事変に対する不信感があったに違いない。その後河北に「冀東防共自治政府」という傀儡地方政権がつくられたことや、それに対抗して中国側が作った「冀察政務委員会」の首班・宋哲元が日本側に懐柔されたことなどに対する不信感もあったことでしょう。
* 第29軍は冀察政務委員会の軍隊であった。
098 松井機関長
檜垣機関員
盧溝橋談判に行く人
森田中佐(連隊所属、爆弾三勇士で有名な廟行鎮へ突入した時の指揮官)
私
桜井顧問120
斉藤
周
林耕宇外交委員 宋哲元の代理の資格があるか。
王冷斉(宛平県長)
赤藤104
鈴木石太郎
加藤富士松
近藤保
大塚
荒田
関公平(毎日新聞)
以上
102 1936年9月18日の豊台事件の発端は、日本人軍人(小岩井中尉)の乗った馬の尻を中国兵がひっぱたいたことから始まったという面子問題。1937年7月7日の盧溝橋事件も、鉄砲の実弾が頭をかすめたことが三回繰り返されたことを問題としている。人的実害はなかった。
103 秦市長
106 三度目の攻撃は3発。なめられたと言って、竜王廟包囲作戦を決定する。107
108 一文字山の第三大隊(一木大隊長)→牟田口連隊長→軍司令部
7月8日3時20分、一文字山占領
108 宛平県城は攻撃しない。
109 牟田口が攻撃を了承
110 作戦部と顧問部とが食い違う。
111 宛平城攻撃を中止
117 荒田中尉
小岩井中尉
私は大尉
119 営長 金振中
感想 2026年1月13日(火)
127, 132, 138 状況分析 中国側(冀察政務委員会の第29軍)が実弾を3回に渡って撃って仕掛けてきたことは事実であるが、中国側にとっては、日本側がそれまでに夜間演習を行い、宛平城を奪取されるのではないかと恐れていた。
127 連隊長代理の森田中佐が一文字山に来て、射撃開始の中止を命じたが、(一木)大隊長は、森田中佐に攻撃開始許可を求める伝令を派遣している間に、兵隊に朝飯を食べさせ始めた。ところがそこを中国側が撃ってきた。それが朝の5時30分。
129 第八中隊は敵が確実に第29軍の正規兵だと分かり、すぐさまとびかかって行って攻撃したいところだった。
130 大隊本部の書記が第八中隊に対して大隊命令として、「第八中隊は敵の左翼を包囲するごとく前進し、敵が射撃を始めたらこちらも射撃開始せよ」と命令してきた。これはすでに日本側が戦闘をやる気であったということを意味し、清水第八中隊長が中国側を挑発したということらしい。
130 大隊主力も一文字山で「疎開前進」を始めた。
130, 131 5時30分、大隊主力の戦闘開始の10数秒前、清水第八中隊長が中国軍に迫ると中国側が撃ってきた。
「5時30分における戦闘開始は、世間に伝えられるごとく、一木大隊の攻撃を頓挫したと侮って撃ちかかってきたのでは決してない。清水中尉に対する対応射撃が原因で、それが全線に波及したと見るのが至当であろう。この点は清水中隊長もまた確かにその通りだということを自認している。」
これはどういうことか。「対応射撃」とはどういう意味か。清水第八中隊が、中国側の「止れ」という制止を無視して中国側に向かって前進するという挑発に対応した射撃ということらしい。
132 清水第八中隊長に対して、大隊本部による突撃命令が、亀中尉から連絡された。それは「大隊主力が前進中に敵が射撃を始めたら、第八中隊は敵陣地の左翼めがけて突入せよ」というものであった。
133 中国側から白旗が出ても、(一木少佐の大隊本部を構成する)穂積大尉第七中隊長は突撃を命令した。
寺平忠輔『日本の悲劇盧溝橋事件』読売新聞社1970年昭和45年
感想 2026年1月13日(火) 盧溝橋事件の発端は、一般的な不安定状勢の中で、作戦司令部(北京特務機関)が交渉するから待てと言っても、実戦部隊(牟田口廉也大佐第一連隊長)が待たなかったというのが実情のようですね。
・一般的不安定状勢 127,
132, 138 中国側(冀察政務委員会の第29軍)が実弾を3回に渡って撃って仕掛けてきたことは事実であるが、中国側にとっては、日本側がそれまでに夜間演習を行い、宛平城を奪取されるのではないかと恐れていた。
・実戦部隊の先行 130,
131 5時30分、大隊主力の戦闘開始の10数秒前、清水第八中隊長が中国軍に迫ると中国側が撃ってきた。
「5時30分における戦闘開始は、世間に伝えられるごとく、一木大隊の攻撃を頓挫したと侮って撃ちかかってきたのでは決してない。清水中尉に対する対応射撃が原因で、それが全線に波及したと見るのが至当であろう。この点は清水中隊長もまた確かにその通りだということを自認している。」
これはどういうことか。「対応射撃」とはどういう意味か。清水第八中隊が、中国側の「止れ」という制止を無視して中国側に向かって前進するという挑発に対応した射撃ということらしい。
感想 2026年1月14日(水) 第七章 乱弾下の折衝
この部分は日中停戦(不拡大)協議の日中担当者の動静を描く。
筆者寺平がエドガー・スノーに遭遇とはなんという奇遇。寺平らはスノーのジープを借り、宛平県城から日本軍陣地まで移動。1937年7月8日の午後頃のこと。
兵隊の合言葉は「ご苦労様」ほんとに命をかけて/無駄にしてご苦労様。
疑問 よく分からないが、演習や衝突を契機に、日中間で陣取り合戦をしているようだ。日本側は次第に陣地を広げている/広げようとしている。それが交渉の条件で示されている。川の土手の手前から川の東岸へ、そして川を越えて川の西岸へと進み、交渉条件として、川の東岸へ後退するといいつつそれは実は、住民を追い出して宛平県城をいただく内容となる。
感想 そもそも日本側がなぜこの地で夜間に演習するようになったのかが明示されていない。兵士の言葉からすると、それはどうも宛平県城の略取が目的だったように思われる。それは中国側の危惧とも一致するし、上に記したとおり、その後の停戦条件での陣地割にも現れている。
メモ
140 宛平県城内
金振中・営長
周永業
桜井顧問
斉藤秘書官
寺平忠輔
141 秦徳純・副軍長
142 林耕宇
142, 153 王冷斉県長
耿(こう)錫訓
145 吉里文(吉鴻昌の甥)
152, 153 馮治安師長の命令に背くことはできない、と金振中営長はいう。永定河の東側を放棄することは馮の命令に背くと金振中は言う。
153 アヘンの漢字は「鴉片」
155 今は7月8日午前11時
155 森田中佐は日本軍の第一線にいる
156 中国の新聞記事
157 北京の独逸病院、ロックフェラー病院
鉄路巡警二人
金振中に森田中佐から手紙
158 米旗星条旗を掲げた自動車
観戦武官
158, 162 王啓元・参謀が姿を隠した王冷斉県長の代理を務めて寺平に同行。
159 ロンドン・デイリー・ヘラルドの通信員エドガー・スノーと寺平が遭遇。
林耕宇、37師参謀・王啓元(現地第29軍の代表)、寺平の三人で県城を出発。
161 大塚通信生
162 森田中佐
163 赤藤憲兵分隊長
163 憲兵隊の自動車を略して「北憲」
第八章 その夜1937/7/8の不拡大交渉
感想 やはり1937年7月7日だけではなく、これまでにも日中軍の間で陣取り合戦をしていたようだ。中国軍は1936年9月まで豊台にいたが、その年の豊台での日中間トラブルで、今の宛平県城に後退することになった。*そして今の交渉における、寺平忠輔北京特務機関補佐官が示す第一案では、兵隊が寝泊まりできる建物も何もない永定河の西岸に追いやられようとしている。それでも秦徳純市長は暴力的な第二案を示す寺平に脅され、その「不拡大案」つまり第一案に納得したと応じた。ただし最終決定は仲間との会議後としているが。*「181 秦徳純市長「前の特務機関長松室少将や天津軍方面の強硬なご意見で、今の盧溝橋宛平城まで撤退したわけなんです。」
当時日本軍は北京近郊だけではなく、いくつかの拠点に大規模な軍隊を擁していた。天津軍、関東軍、朝鮮軍、それと本土軍。筆者はそれらに言及して市長を脅す。
メモ
164 私は機関長、今井武官、西田顧問らが食事中のところを、特務機関に到着した。
165 私と西田顧問は、秦徳純市長のところに交渉に行くことになった。
165 機関長が、橋本群少将天津軍司令部参謀長に電話で盧溝橋の状況・対策を報告。
秦徳純は馮治安師長の邸宅(西域大院胡同)に行き、そこに魏宗翰(かん)外交委員会主席も来ているとのこと。
166 ところが秦徳純は馮治安師長の邸宅にはおらず、外交委員会に向かっていて、馮治安も不在だった。そこで私は外交委員会に向かう。そこは魏宗翰の根拠地である。
166 外交委員会には魏宗翰、喩煕(き)傑、林耕宇(「亜州日報」の社長)らがいたが、秦徳純はいなかった。いずれここに来るとのこと。しかしまた、市長の行動予定が変わったとのこと。私は市長の家に行くことにしたが、その前に市長に電話をかけてみると、市長はこれから西宛の三十七師司令部へ行くとのこと。私は電話で第一案と第二案についてかいつまんで説明したが、私の意見を聞くのは三十七師司令部へ行って来てからだとして電話を切られた。
168 午後1時50分、宛平県城との電話が復旧し、桜井顧問から特務機関に電話があった。私が馮治安邸を訪れていたころである。
桜井顧問によれば、藤尾心一中尉通州守備隊長から、午後2時15分、「天津を主発した機械化部隊が今から30分後に通州に到着できる距離にいるので、至急朝陽門通過について中国側と交渉してほしい」と言って来たが、「北京の空気は生易しくないから、木原大隊と同じく、北京南方地区から豊台に向かうようにされたい」と回答した。
また午後2時20分、重松博治少尉(憲兵隊)から「至急責任ある(中国軍の)高級幹部を現地に派遣するよう交渉して欲しい」という要求があった。
ところが中国側は、秦徳純と馮治安が密議の最中だった。日本側の二つの提案に反対し、馮治安は「日本側が勝手に引き起こした問題だ、撤退すべき理由は中国側にはない」と息巻いた。
169 午後3時、牟田口連隊長が北京から盧溝橋に到着し、「宛平県城を攻撃するつもりだ。」「一木大隊は本日日没後直ちに行動を起こし、西岸の陣地を撤去し、竜王廟北側付近で永定河を渡り、部隊を大瓦窑(よう)付近に集結すべし」と命令した。勝手に(自主的に)西岸から東岸に集結させるというものである。森田中佐も側にいた。牟田口連隊長「宛平県城を攻略せにゃいかん」
170 鉄路巡査=路警を使って、宛平県城に、通告書(住民を避難させること)を送ることにした。県城内には吉星文団長、金振中第29軍営長、王冷斉県長、桜井顧問らがいた。
大日本軍指揮官牟田口大佐からの通告書
・午後6時までに住民を避難させよ。(今は5時だから1時間以内に)
・29軍も同時刻までに全員永定河西岸地区に撤退を完了せよ。
金振中と吉星文「誰がやるものか!」王冷斉もそこにいて発言した。
171 回答文「さらにあと2時間の猶予を与えられたい。」城壁上の工事の増強にとりかかった。住民を城内に残し、比較的安全な場所に移動させた。
172 牟田口による、桜井顧問、王冷斉、金振中との会見希望を中国側は蹴った。
日本軍大隊砲の榴弾三発が宛平県政府正庁の三棟にそれぞれ落下した。金振中は怒った。
173 7月7日夜中すぎ、菅島連隊川村中隊の検閲を視察していた河辺正三少将支那駐屯歩兵旅団長は山海関の大隊副官松尾新一大尉から、初めて盧溝橋事件の勃発を確認し、南大寺から豊台に到着した。
(7月8日)午後3時30分河辺が到着し、小野口副官が出迎えた。(盧溝橋)駅前の守備隊兵舎に旅団司令部を設置した。河辺旅団長はこの時以降、日本軍を統括指揮し、作戦指導にあたった。
午後6時30分、牟田口が、旅団作戦命令甲第一号を受け取った。そこには「桜井少佐、寺平大尉の救出に努力すべし」とあったが、私はそのころすでに北京にいた。情報が遅れていた。
7月8日午後4時10分、秦徳純の代表として、市政府参事祝惺元が特務機関を来訪し、松井機関長、私、今朝天津軍司令部から増援のために187やって来た和知鷹二(ようじ)参謀中佐が応対した。
祝惺元「今日(7月8日)のお昼過ぎ、貴軍の橋本参謀長から、天津市長の張自忠を通じて、秦市長に連絡があった。橋本参謀長の意見は、「日本軍は竜王廟へ、中国軍は宛平県城へ撤退する」というもので、それに馮治安師長も賛成した。ところが寺平補佐官から別の注文があり、それには馮師長は絶対反対である。元来宛平県城は219団が平時から駐屯している土地である」と言った。
それに対して和知は祝を外して「橋本参謀長の意見は朝の時点での判断と思われる。寺平の方が最近の状況を把握している」と述べた。
174 竜王廟と宛平城とはほんの1キロしか離れていない。橋本案ではなく、現地案で押し通そう。
175 今井・秦徳純交渉
ちょうどそのころ(7月8日)北京の全城門が閉鎖され、交通も遮断され、北寧鉄道(北京・山海関、現在は京哈(けいは)線といい、哈爾浜(ハルビン)と北京を結ぶ)も運転を中止し、夜には北京全城に戒厳令が敷かれた。三十七師長馮治安中将が戒厳司令に、憲兵司令邵(しょう)文凱中将と警察局長陳継庵が戒厳副指令になった。
大使館付武官今井武夫少佐は、午後6時半、不拡大交渉を推進させるために、西域航空署街の秦徳純を訪ねた。百三十二師長の趙登禹(う)中将が出迎えた。
176 秦徳純、馮治安、張維藩、賈(こ)徳耀らがそろっていた。賈(こ)徳耀は冀察政務委員会の委員である。
事件の責任は馮治安の三十七師にかかっている。
秦徳純の公邸の隣に張允栄邸があり、その客庁に今井は案内された。
177 今井は埒があかず、席を立った。これは衝突後の最初の日華当事者間の直接交渉だった。
私は機関にいた。秦徳純からの電話をタイピストの檜垣が受け、私に報告。「話を聞きたいので航空署街の秦市長公館へ来てくれ。午後9時40分受け。」
私は秦市長に電話をかけた。シボレーの新型車が迎えに来た。
178 私は西田と向かった。イタリアの兵営を通過した。秦徳純邸の隣の張允栄の屋敷に到着。林耕宇と喩煕傑もいる。
中国側は今朝の情報(林耕宇の報告)しか持っていないようだ。
180 寺平が自身の第一案を説明し、「日本側としては冀察との親善関係には絶対にヒビを入れたくない」嘘。
秦徳純「中国軍が宛平城に入り、日本側は戦闘開始以前の態勢に戻る、即ち西五里店に集結するのはどうか。」
寺平が再度自身の案を説明し、「二十九軍はあくまでも友軍であって敵ではない」嘘。
秦徳純「中国軍は1936年9月まで豊台にいたが、その年の豊台での日中間トラブルで、前の特務機関長松室少将や天津軍方面の強硬なご意見で、今の盧溝橋宛平城まで撤退したわけなんです。永定河の西岸は原っぱで、兵隊が寝泊まりできる建物も何もない。」
182 寺平が第二案を説明し、「二十九軍から首脳者、特に三十七師の師長か旅長を、盧溝橋の現地に派遣していただきたい。吉団長と金営長では統制できない。」
秦市長が金振中営長に対する人情論を打つ。
184 寺平「不拡大交渉が停頓したら、貴国側は今後、長辛店、保定、石家荘、鄭州、あるいはもっと南の方から京漢線を通して大兵団をこの戦場に送って来るだろう。また日本軍も、天津軍、関東軍、朝鮮軍、内地師団が送ってきて、日華両国の前面衝突になるだろう。しかも金営長は第一案に賛成した。今は馮師長の命令を待っているだけだ。」
秦「良く了解できたが、綏靖(すいせい)公署の連中と二十九軍の首脳者とが今会議をしているので、みんなに相談する。」
185 林耕宇主宰の中国語新聞「亜州日報」記事は、日本軍がひとりで戦争を始めたような一方的な書き方だった。
「至今晨四時許 到達宛平県署 寺平仍堅持日軍須入城捜査 我方未允 正交渉間 忽聞東門外 槍砲声大作 我軍未予還撃鎮静如故 継因日軍砲火更烈 我軍為正当防衛 万不得已 始加抵抗…」
今朝午前4時頃、万平県政府に到着した寺平は、依然として日本軍が市内に入って捜索を行うべきだと主張しました。我が軍はこれを拒否しました。交渉が続く中、突然、東門の外から激しい銃声が響き渡りました。我が軍は反撃せず、冷静さを保ちました。しかし、日本軍の砲撃が激化するにつれ、我が軍は自衛のため抵抗せざるを得なくなりました。
186 私と秦徳純市長との交渉が終わったのが(7月9日の)零時半。秦徳純は「3時までに張允栄を秦徳純の代表として私の方に送り、会議の結果を知らせる」として、私は秦徳純と別れた。
感想 「日中友好」と言う日本側の言葉は、苛められている子に対して、いじめる側が「俺たち仲良しだよな」と言うようなもの。今井武官「お互いに両国の幸福、ひいてはアジアの平和のためです。」177 寺平「日本側としては冀察との親善関係には絶対にヒビを入れたくない」「二十九軍はあくまでも友軍であって敵ではない」180
指令のまとまりのなさ、あるいは敢えてそうしているのか。交渉と言いつつ、一方ではすでに県城を攻撃している。172
第九章 宛平県城の接収
187 北京機関 1時10分、外交顧問部の松尾隆男秘書が、張允栄の来訪を告げる。張允栄は秦市長代理だとして、「撤退はやむを得ないが、1ケ小隊を死傷者の整理・手当のために残置したい。」
松井機関長、私、和知鷹二中佐参謀が対応した。
188 「丸腰で50人なら結構」と和知。松井もそれに同意。
第二の問題は、「北京から500人の保安隊を宛平県城に入れたい。」「多すぎる100人ならよい。」
そこに天津の軍参謀部の鈴木嘉一少佐から電話。「盧溝橋の29軍は午前4時に撤収ということで秦市長と妥結。仲介は天津市長張自忠。細目はない。」
189 細目のあるなしについて、張自忠と張允栄との食い違いについて、機関長が軍参謀長橋本群少将と電話。結局、張允栄の面子を立てることになった。
航空参謀塚田理喜智から電話。先ほどの鈴木嘉一の電話の変更。「馮治安の希望で午前4時撤退は無理なので午前5時にしてもらいたい。参謀長もそれで認可した。」
第二は竜王廟の北の地区に出て来た37師の一部は、その北の衙門口(ヤーメンコー)に撤退する。
第三は、天津からの盧溝橋への日本軍隊の移動と弾薬類の輸送は中止する。
電話は盧溝橋の停車場とも連絡できた。今は7月9日の午前2時半である。
一木大隊東岸へ撤退
盧溝橋の一木大隊 8日夜。
190 清水中隊は7日の夕食から何も食べていない。畑のスイカを食べる際に、数をメモ。損害賠償に必要。(そんな律儀なのか。不思議。)
一木大隊は永定河の中州にいた。
午後8時前後、大瓦窑の日本軍歩兵砲が、中の島に大砲を打ち込んだ。(ええ?)転進のための援護射撃である。死傷者の収容と同時に転進。午後9時。渡河。
竜王廟付近で小岩井通信班長中尉が(一木)大隊長に「連隊本部によると、兵力不明の新たな敵が八宝山付近に進出して南下し、衙門口から竜王廟北側に向かっている。」(一木大隊長)「西宛37師の主力だろう。大隊命令の一部を変更する。これから渡河する中隊の渡河点は鉄橋のすぐ北側とする。」
191 午後11時前、(一木)大隊は竜王廟南側に集結。8名の死体、12名の重傷者を擁して、線路の北側を盧溝橋駅に向かう。すぐ左前に清水中隊も盧溝橋駅に向かう。
盧溝橋駅着(牟田口連隊の河野副官)
第三大隊(一木大隊)一木少佐「戦死者9名、負傷者30名」
192 第一大隊長木原義雄少佐が現れた。「今朝通州を発って夜の8時過ぎにここに着いたばかりだ」
牟田口連隊長「明日9日の早朝宛平城を攻撃する。(人質がいたのでは。)
193 旅団司令部と筒井少佐の第二大隊はいま豊台にいるが、夜明けにこちらに到着予定。」
亡き戦友の復讐戦、不遜な29軍に天誅、膺懲戦だ。(筆者)
感想 日本人が中国軍の顧問をしているとのことだが、どういうことなのだろうか。中島弟四郎中佐は29軍の軍事顧問だそうだ。199
筆者は日本人兵隊の戦死を悲しみ、中国軍を憎むが、中国軍でも死者が出ているだろう、それも痛ましいという気が回らないのだろうか。「亡き戦友の復讐戦、不遜な29軍に天誅、膺懲戦だ。」(筆者)193
中国軍の協定不履行 これは不履行ではなく伝令できなかったことによる行き違いである。「不履行」とするのは誤り。
193 河辺旅団司令部から牟田口連隊本部へ作戦命令(7月9日午前3時、豊台にて)。不拡大の方針が告げられる。河野又四郎が筆記電話を牟田口や森田中佐に朗読。
一、午前5時に29軍が宛平城から永定河右岸に撤退すると確約した。
二、旅団は盧溝橋駅付近に集結し、中国軍の協定履行を監視する。
三、歩兵第一連隊は午前5時、「射ち方止め」の喇叭と同時に、一部を一文字山東側に留め、主力は盧溝橋駅付近に集結。
四、中国軍の撤退に敵対行動をとって宛平城内に兵を進めてはいけない。
ここに命令が変更され、払暁攻撃計画は中止となった。牟田口は愚痴をこぼした。
194 午前5時、兵力を集結し、後方へ退却し始めた。そのとき迫撃砲弾が一文字山陣地に落下。さらに猛射撃が続く。
元の位置に戻り監視。松井元之助小隊長が負傷。応戦はせず。
牟田口連隊長が旅団長に電話。「これは中国軍の常套手段。言語道断。横暴きわまる。歩兵砲で制圧射撃したい。」
196 「城内に住民や桜井顧問がいるのでは」「城壁を主として威嚇射撃する」「一任する」と攻撃を再開した。
機関は29軍の親戚か!
このとき私は北京機関にいた。豊台の旅団司令部の鈴木京大尉(士官学校同期生)から苦情の電話。「機関は作戦行動の妨害となっている。旅団は宛平城を攻撃する。軍の行動にくちばしをいれないでもらいたい」
私は「後は成り行きに任せるよりしかたがない」と考えたが、天津軍司令部の鈴木嘉一少佐から電話。「協定の監視が重要だ。私は旅団に、あなたは29軍に指導してください。」
197 軍司令部は冷静だ。前線のように猪突猛進ではいけない。不拡大主義で一貫しようと私は思い直した。
私は林耕宇に電話した。林「それはおかしい。そんなことは絶対ないはずだ。」その後林が確認。
198 林「金振中に伝えようとしたのだが、電話が不通。鉄道電話で豊台駅へ連絡。豊台駅から駅員が宛平城にむかったが、交戦中で引き返した。」
中国側の申し出に従って、撤退時間を(午前5時から)午前9時に変更した。
中島顧問現地に向かう
198 日支両軍撤退の円滑化のため、双方がそれぞれ2名の代表を現地に派遣し、実地指導と行動の監視をすることになった。
張家口からやって来た29軍軍事顧問で日本側代表の中島弟四郎中佐と、29軍の周思靖参謀は、9日の朝方、秦市長邸に入った。
199 中島顧問が秦市長に「お互いが誠意をもって交渉しさえすれば、決して拡大することなんかありません。」中島は秦の地図を見て「八宝山に37師の主力がいて、38師は南苑から豊台の虚を突こうという態勢を取っている。」200 「華北に日本軍がいったいどれだけいると思いますか。」(少ないということを言いたいようだ)
中島顧問が林耕宇と周参謀を伴って秦の応接室を出る時、37師長の馮治安中将に遭遇。中島が馮にも同行を求めたが、馮は辞退。
中島顧問、林耕宇、周参謀、それにもう一人37師の上校参謀が、現地盧溝橋に向けて出発。西五里店の原っぱにつくと銃声。東門は封鎖されていたので、北壁沿いに西門へ。鉄橋付近で銃声。林耕宇「あれは皆日本軍の射撃ですよ!」中島「高い所からよく見て見ろ。」
201 周参謀が長豊線の線路上を白旗を振って射撃をやめさせる。宛平城西門に入り、吉星文団長を訪ねる。金営長、吉団長が対応。中島「桜井顧問はどこにいる」吉団長「保護している」中島「吉団長、日華間で停戦協定が成立した。」吉団長「9時停戦を1時間半伸ばしてほしい」中島「僕が責任を負って承認する」
雨の中の不拡大工作
202 桜井顧問は着剣した歩哨に監視されていた。
203 中島が桜井に「10時半撤収開始という変更を日本側の河辺旅団長に連絡しなければならない。」桜井「同行しましょう」
中島・桜井両顧問と周参謀は、自動車に分乗して宛平城を出発。
日本軍は京漢鉄路の路盤により、中国軍は宛平城の城壁により、戦闘中。中島は長豊支線の線路上から白旗降って射撃中止を両軍に勧告して歩く。今度は中島は一文字山の日本軍(木原大隊)に射撃中止を求めてから、盧溝橋の駅舎にいる旅団長・河辺少将のところへ向かった。
バケモノ保安隊
補佐官室 張家口から今朝帰還したばかりの29軍軍事顧問の笠井半蔵が自身の軍功が少ないのを嘆く。
204 残る問題は、中国側保安隊の宛平城入城の誘導である。
7月9日午前9時、私は冀北辺区保安隊総司令の石友三に電話。「張允栄の要望で保安隊を宛平城に入れることになったが、その保安隊は石友三の冀北辺区保安隊であるとのこと。隊長はだれか。」「宛平城に行くのは、先農壇に駐屯している河北省保安隊(省長・馮治安)である。これは戒厳令が敷かれたときに、私の指揮下に入った。私の司令部からは黄雅山参謀をつける」
205 その日の午後1時半、カーキ色の軍服をまとった200余の保安隊が北京から盧溝橋に向かった。笠井軍事顧問、広瀬秘書、愛沢機関通訳生が誘導・監視。途中で笠井が先行して西五里店へ向かう。(笠井)顧問がそこにいた中国兵らしき一人に尋ねた。
206 北京から来た保安隊で、今朝、日本軍が盧溝橋の原っぱから撃ってきたので、散開して応戦したという。そこへ中島顧問と周参謀が、家の中から出て来た。中島顧問「命令が二つ出ているらしい。ここにいる保安隊は河北省(者)保安隊の命令らしい。外套は29軍の灰色だった。」
やがて石友三の(冀北辺区)保安隊が西五里店に到着した。
保安隊宛平に入城
207 私は特務機関で盧溝橋駅の参謀(豊台の旅団司令部の鈴木京大尉196)と電話。鈴木京「保安隊を宛平城に入れたくない。北京街道から灰色の大部隊が散開隊形で向かって来た。食い止めようとしたら射撃して来た。正当防衛で戦った。」「そのことは笠井顧問から連絡があった」「日本軍に銃口を向けた保安隊は城内に入れるわけにいかない」「そのことは別の保安隊が入るから大丈夫だ」
208 笠井顧問と中島顧問は保安隊の編成・装備を再検討し、重火器、軽機関銃も、携行させない。弾薬の数も一人10発に制限、人員は150人に限定した。保安隊が、笠井顧問と、愛沢通訳生、広瀬秘書ら機関員205に引率されて入城。残余の50名と河北省からの保安隊は、中島顧問が北京に引率。
9日午前10時半、宛平県城駐屯隊長金振中は、部下全員に移駐命令を出し、盧溝橋を渡って永定河西岸へ撤退した。入れ替わって午後4時、西門から保安隊が入城し、笠井顧問が訓示し、県長の王冷斉や警察官の李巡査と別れた。
感想 これで決着がついたのでは。
第10章 停戦協定の締結
感想 2026年1月19日(月) 「不拡大」といいつつ関東軍が軍隊を準備していた。天津軍は不拡大の方針のように思われるが。またこの本を読んでいて、政府関係者が出てこない。交渉に当たるのは筆者を含めて軍関係者ばかり。中国側は市長が出て来る。日本側は武官が出て来るが、武官は軍関係者ともいえる。
*関東軍から至急官報215, 216
*大使館付武官の今井武夫少佐 今井・秦徳純交渉175
停戦条文がまとまった223のに、東京が軍備の増強を決定した。222
停戦条文
一、第二十九軍代表 対於日本軍表示遺憾之意並懲罰責任者 以及声明 将来負責防止再惹起比類事件
二、中国軍 為日本在豊台駐軍 避免過於接近 易於惹起事端起見 不駐軍於盧溝橋城郭及竜王廟 以保安隊維持其治安
三、本事件 認為多胚胎於所謂藍衣社 共産党 其他抗日系各種団体之指導 故此将来対之講究対策 並徹底取締
以上所提各項 均承諾之
中華民国二十六年七月十一日
第二十九軍代表 張自忠
第二十九軍代表 張允栄
I. 第29軍代表は、日本軍に対し遺憾の意を表明し、責任者の処罰を発表するとともに、同様の事件の再発防止に尽力することを表明した。
II. 豊台に駐留する日本軍との近接性および潜在的な衝突を回避するため、中国軍は盧溝橋要塞および竜王廟に部隊を駐留させず、治安部隊を通じて秩序を維持する。
III. この事件は、いわゆる藍衣社、共産党、その他の反日団体が発生源であると考えられるため、今後の行動は慎重に計画され、徹底的に鎮圧される。
上記のすべての点について合意に達した。
第11章 竜王廟の夜襲
感想 この話は第11章となっているが、時間的には停戦協定がまとまった(7月11日午後8時)第10章の前日7月10日のことである。従ってこの話は停戦協定違反とは言えない。
日本側では、中国側の対応がどうあれ、停戦協定を守るべきだとする上層部(河辺旅団長231)は、それを部下(牟田口連隊長)に明言せず、牟田口の中国軍に対する応戦を黙認する。無責任ではないか。
中国側は永定河の右岸から迫撃砲を打ち込み、北から竜王廟に向けて南下していた。
また中国側(宋哲元将軍)が(交渉中の)停戦協定に飽き足らず、7月10日夕7時に、日本軍に攻撃を仕掛けるという情報が、米海軍の無線から入った。*そしてそれが、実際その通りになったようだ。232
*東京の北多摩大和田の海軍無線傍受所が、7月10日午後2時、在北京米国大使館付海軍武官補佐官オペレッチ中佐発本国海軍作戦部長宛ての電報を傍受し、これを陸軍省に連絡したが、陸軍省副官の川原直一少佐がこれを無視した。
第12章 大紅門事件と団河事件
感想 このころ中国の29軍では反日・抗戦の気運が盛り上がりつつあった。29軍はもはや友軍にはできない。29軍に顧問を置くことも無用である。29軍の上層部には話が通じる*が、下部では日本軍に反旗を翻すようになっていた。
*239 桜井顧問は38師の呉参謀に案内されて団河に着き、そこの騎兵特務団を訪れ、営長薫少校を詰問し殺害を白状させた。薫は騎兵第九師長鄭大章中将の直轄であった。(桜井「顧問」も29軍の「顧問」という意味かもしれない。)
7月15日午後7時30分、行方不明になり中国軍38師に殺害された日本兵の捜索(団河事件)から帰って来た桜井顧問「38師はすっかり変わり、「俺たちは中国軍だ。徹底抗戦だ」と幹部級までが息巻いている。29軍を友軍に引き込もうとするのは昔の夢である。29軍にもう顧問の必要はない」と悲憤慷慨した。
234 その2日前の7月13日午前11時、(北京南方の)永定門附近で、中国軍38師が日本軍の自動車を爆破し、4名が死亡。通州から豊台に向かうところだった。
236 笠井は29軍の顧問である。
237 7月14日午前1時30と2時に哈達門で爆竹。共産分子が日中間の紛争を誘発しようとする工作だった。
(それ以前の)大紅門事件では14名の日本軍人が行方不明になったが、通州守備隊に帰還した。
239 7月14日午後5時、馬の蹄鉄が外れて(落鉄)部隊から遅れて道に迷った近藤百男二等兵と大垣軍曹は、(北京の)南苑南方の団河の大百堂周辺で、中国の騎兵特務団薫少校営長らに襲撃され、近藤は即死、大垣は逃れ、7月15日に通州に帰還した。
第13章 王城北京を兵火から護る
241 天津軍司令官田代一郎は病弱で、天津軍参謀長橋本群少将が代行していた。橋本群参謀長は不拡大の方針の下に、停戦協定(7月11日午後8時)をまとめた。
教育総監本部長香月清司中将が天津軍司令官に任命され、7月11日、橋本秀信、菅波一郎、堀毛一磨等三中佐を帯同してまず京城に向かい、錦州からは暗雲が低迷する華北に突入するので関東軍戦闘機が護衛して天津に向かった。
廟議は不拡大、現地解決、兵力不行使の方針だったが、中国軍が京漢線沿線の中央軍に北上の命令を出すと、日本側(中央)は「目下三ケ師団動員の準備あり」という電報を発した。
242 また関東軍は独断で兵を動かし、長城線を越えて冀東地区に乗り込んだ。乃ち鈴木重康中将の熱河独立混成第十一旅団に属する、麦倉・奈良の両連隊は、北京の北方、密雲・懐柔に兵力を集結し、酒井鎬次少将の公主嶺機械化混成第一旅団は、熱河の山岳地帯を突破して古北口に兵力を集結し始めた。
この行動は塘沽停戦協定第二条*に基づくものであり、日本に許容された範囲内のものであり、中国に対する主権侵害ではなかった。(どうかな。停戦区域内に兵力を移動したのでは。)
*塘沽停戦協定第二条 長城線と(北京市)通州・(天津市)塘沽ラインの間(ラインの北側及び東側)の地域に、中国軍は再駐留しない。
第一条 中国軍は(上記)ラインから撤退し、停戦区域内では抗日武装行動を停止し、この(停戦)地域内の治安維持は、抗日団体ではない警察(保安隊)が担当する。
この結果、日本軍は長城線以北に退却する(実際そうならなかったのでは)が、中国側は日本の満洲および熱河省の領有を黙認することになった。
ネット「世界史の窓」によれば、この協定の結果、中国政府は河北省19県の統治権を喪失した。また協定の一項で、中国側は抗日運動を取り締まることを義務付けられ、それを履行しないときには日本側が武力を行使する余地が残された。後に華北で抗日の動きが強まったことに対して、日本軍は協定の履行と、違反に対する懲罰を要求し、その結果、1935年6月、梅津・可応欽協定を強要した。つまり、中国軍は河北から撤退し、抗日運動は禁止された。それに対して、1935年8月1日、中国共産党は「抗日民族統一戦線」の結成を呼び掛け、中国国内で反対運動が高まり、北京の学生は12月9日、学生運動を行った。
242 7月12日、松井特務機関長が北京の文化財の保存の必要性を説き、保存工作に着手し、各界に働きかけた。
ウオーナー博士の絶賛
7月20日、一部華字紙の社説は「北京城を永遠に戦禍を見ない都にしたらどうか」と書き、「商務総会」は、陳情団や投書で、29軍の自発的撤退を嘆願した。十余年間米国への留学経験のある新聞人の欧大慶は、外人工作を担当した。
246 ランド・ウオーナー博士は東洋の古文化財の研究家であり、「王城北京を兵火から護る」という言葉は「実に素晴らしい」と絶賛した。ウオーナーは京都・奈良の空爆を阻止した献策者でもあった。
247 機関長が天津軍司令部に連絡し、天津軍は7月28日の総攻撃の時、北京城内に対する砲爆撃を禁止した。
7月15日、補佐官は長城線に行き、関東軍最高兵団長・鈴木重康中将に連絡したところ、鈴木は「北京城を兵火にさらすがごときは、断じて文明国軍隊たるもののなすべきことじゃありません」と表明した。関東軍は当初最も難物視されていたのである。
7月26日午後7時、広安門事件が勃発。広部大隊が北京城に入城して両軍が交戦を開始したが、広部大隊は広安門内で孤立した。機関の嘱託川村芳男が広安門上で戦死し、桜井顧問が重傷を負った。補佐官と笠井顧問は現地に急行して広部大隊を7月27日の午前2時半までに公使館区域に誘導するよう機関長から命令された。
248 7月26日、宋哲元に対して最後通牒が発せられたが、彼はそれを黙殺した。日本軍は北京城の四周を囲んだ。
(北京の南方に南苑があり、その北に北京城の永定門があるようだ。)南苑攻撃での南正面の担当は朝鮮兵団の山下泰文で、東正面は天津駐屯の萱島歩兵連隊で、西正面は河辺旅団長だった。
7月28日の黎明、徳川飛行集団が南苑柳営を大爆撃し、38師の将兵は北京街道を城内に遁走した。遁走する38師に永定門をくぐらせないよう、河辺少将の処置により、牟田口連隊が北京街道上の天羅荘に転進し、敵の退路をふさいだ。7月28日正午、一木大隊が敵の北京への遁入を阻止した。
進徳社にいた冀察の総帥で国民革命軍第29軍の軍長である宋哲元は、7月28日夜遅く、北京城西直門を脱出した。それは自主撤退であった。
249 通州で邦人130余人を残忍にも殺した冀東の反乱保安隊は、7月30日未明、北京城の朝陽門を開けさせようとしたが、特務機関は警察局に、北京の全城門を閉めさせた。
また北京の北郊北宛の阮玄武の1ケ旅は、今井武官によって、総員3200が無条件に日本軍に投降した。関東軍の船引正之参謀が現地指導して武装解除した。
ここに一千年の文化と150万の民衆の安全を守り抜くことができた。後日北京地方維持会主席江朝宗は、北京特務機関に頌徳表を奉り、松井機関長の銅像建立を提案したが、機関長は「北京城を戦禍から守ったのは民衆だ」として断った。
第14章 関東軍との連絡 これは前章で少し触れられた関東軍工作の詳細である。
250 北京機関で、北京城を戦禍から護るための工作の任務分担をした。前章で触れたように、武田嘱託がその計画を立案したのに続いて、私は関東軍に、北京城を戦禍から護るよう説得に行くことを志願した。そして中島顧問は29軍の工作を担当し、桜井顧問は秦徳純工作を担当した。
7月15日の早暁、私と愛沢通訳生は、北京機関の車を中国の車に偽装し、服装も商人風に変装して懐柔在の関東軍麦倉連隊へ向けて出発した。通州→順義→懐柔城の順である。
懐柔で関東軍独立第11連隊長の麦倉俊三郎大佐と面会し、私の(天津軍の)考えを述べたが、麦倉は「関東軍は関東軍の方式でやる」と言って私の意見を聞き入れようとしなかった。
ところが当連隊の副官が、(関東軍)旅団司令部に私がここに来訪したことを電話したところ、旅団長が私に来てほしいとのことで、私は古北口の関東軍独立混成第11旅団司令部の旅団長鈴木重康中将のところへ行くことにした。途中南下する関東軍の戦車の大軍団の兵隊から、小さい車では渡河が難しいと聞き、私は一人で徒歩に切り替え、夕方に古北口に着いた。
私はこれから関東軍が行こうとしている北京の実情を詳述した。
255 阮玄武の独立歩兵第39旅は日本側に寝返ると約束していること、
黄寺、清河鎮、南口に駐留している冀北辺区保安隊も、日本軍との戦闘を回避したいと望んでいて、その指揮官は石友三であること、
非常時の場合、北京城内の日本居留民は、東交民巷の公使館区域に籠城することになっていること、
などを説明した。
翌16日、私は通州まで関東軍の軽飛行機に乗せてもらい、通州からは、懐柔で待っていた愛沢に電話して反転させ、正午近くに北京機関に帰着した。
感想 2026年1月22日(木) 意思決定の分散、無責任
盧溝橋事件で、現地での停戦交渉を「現地解決」と言う。つまりそれは暗に政府は現地軍に関与しないということを意味する。
「世界史の窓」は「塘沽協定」1933に関して中国政府が日本政府を抗議した時、広田弘毅外相は「軍事事項である塘沽停戦協定の延長線上にある問題には政府は関与しない」という態度を取った、とある。軍が締結した協定だからとして、日本政府の関与は断るということである。
本章で出て来るが、筆者が関東軍に北京城の保存について要望したところ、「それは天津軍の意向であるから、関東軍はそれに与しない」と返答されたという。つまりこのことは、軍の部隊間でも、統一した方針がなかったということを意味している。非常に無責任な軍事行政である。つまり日本はその軍事的意思決定においてバラバラだったということである。
第15章 宋哲元の北京入り
7月19日、宋哲元が北京に帰って来ると、北京の町は親日的な雰囲気になってきた。しかし宋哲元を出迎える北京正陽門東停車場には、今事変での一番の当事者である馮治安の姿がなかった。
7月19日、停戦協定7/11第三項267の細目は、抗日的な要素を弾圧する方針を明らかにした。つまり共産党が真っ先に弾圧の対象となった。
メモ
259 宋哲元は山東省の楽陵に逃避していたが、秦徳純から度重なる連絡を受け、7月9日、秦徳純に「私は平和を愛している。日中の円満解決を望む」と返信した。
7月12日、宋哲元は楽陵から天津へ向かった。
7月13日、私は機関長から宋哲元工作立案を任命された。その日、大紅門事件が起こり、日本人4人が殺されていた。234
私の宋哲元工作原案
一、29軍に対し、対日無抵抗を命令すること
二、北京市の戒厳を緩和すること
三、逮捕した日本人を釈放すること
四、北寧鉄道交通の正常化を計ること(日本軍移送のために)
さらに、仮に日中両軍が戦うようになった場合も、北京城を守るために、城内の29軍を城外に撤去すること。日本軍も城内に入れないだろう。その際の日中両軍の衝突の一切の責任は、当然貴国側にある。(すごい傲慢では)
261 宋哲元がなかなか北京に来ないので、私は間接的に宋哲元に連絡しようと、秦徳純との接触を試み、7月17日、中島軍事顧問が秦徳純を訪れた。
7月17日の夜10時、天津の陳覚生から電話。宋哲元委員長が「日本側に絶対無抵抗」という方針を出したが、「対日無抵抗を命令せよ」を「日本軍との摩擦を厳禁する」と改めたい。その理由は外聞(おそらく南京の国民党政府)を気にしているからである、とのこと。
262 7月18日午後1時、天津の宮島街の偕行社で、宋哲元は日本軍司令部香月中将と会見した。7月16日、前司令官田代皖一郎は死亡していた。そのとき宋哲元は、張自忠、張允栄、陳中孚、陳覚生らを帯同した。
7月19日午前7時、宋哲元は天津を出発し、北京に向かった。
265 宋哲元は北京正陽門東停車場から、京綏(すい)鉄路局長兼総参謀の張維藩と、車で進徳社に向かった。(ちなみに、綏遠(すいえん)は内モンゴルの首都フフホト、旧名帰綏)
宋哲元の公館は西域の武衣庫胡同にあった。中島・桜井の両顧問は宋哲元を訪問し、日本側との意思疎通を要望するとともに、顧問が日中間の潤滑油であることを忘れないよう釘を刺した。
天津の張自忠と張允栄は、7月11日に締結された「停戦協定」第3項の細目を作成し、橋本参謀長との間でそれを調印した。
停戦協定第三項細目
一、共産党の策動を徹底的に弾圧する
二、双方の合作に不適当な職員は、冀察において自主的に罷免する
三、冀察の範囲内に、他の方面から設置した各機関の排日色彩を有する職員を取り締まる。
四、藍衣社、CC団のような排日団体は、冀察においてこれを撤去する。
五、排日的言論、及び排日的宣伝機関並びに学生・民衆等の排日運動を取り締まる。
六、所属各部隊、各学校の排日運動を取り締まる。
中華民国二十六年七月十九日
第二十九軍代表 張自忠
第二受給軍代表 張允栄
第16章 不徹底な撤退作戦
まとめ
蒋介石の廬山声明7/19 蒋介石の中国人向けの放送は中国人に抗戦を訴えるものであった。中国の領土の保全を訴えた。272 「屈辱だ」「満洲失陥以来六星霜」と満洲についても不満も述べている。「盧溝橋の次は、北京、南京と続くだろう、冀察政権の地位は中国の中央政府の決定に基づくものである。救国のためには犠牲を辞さない」と述べている。
秦徳純と馮治安の「陰謀」 馮治安が宋哲元の撤退命令を下部(八宝山と盧溝橋の部隊)に伝えていない(握りつぶした)ことを秦徳純は知っているようだ。
メモ
269 (蒋介石の中国)中央軍を銃撃す
諜報はスパイ網(動的諜報)と電波(静的諜報)とがある。後者の電波によって、蒋介石の中央軍が京漢線や津浦(しんぽ)線で北上していることを掴んでいた。
中央直系軍、関麟微の25師が、「梅津・何応欽協定」に違反して7月13日の夜、兵1500を保定に進めたという情報を私は掴んだ。関麟微の25師はこの協定により華北を追われていた。この情報は東京参謀本部特情第18班がつかんだ。
7月18日午前10時半、日本の偵察機が天津から飛び立って西南に飛び、京漢線に沿って河南省の境まで行った。邯鄲(かんたん)、磁州、順徳に進み、午前11時20分、漳河上空で、40輌の列車を発見。
270 中国軍が小銃や機関銃を乱射し、高射砲で射撃してきた。日本側も機関銃150発で応戦した。中国側の死者2名、重軽傷者十数名とのことだった。その後偵察機は北に向かい、石家荘、保定、涿(たく)州、瑠璃(るり)河方面の中央軍の配置状況を偵察し、反転して天津に引き返した。
関東軍、朝鮮軍が盧溝橋に近づきつつある。
このころ北京城内では事件不拡大の交渉中であった。7月20日午前9時、冀察の元老・斉燮(しょう)元が特務機関を訪れ、松井機関長と私が応対した。斉燮(しょう)元によれば、
停戦協定第2項について、当の事件の責任者である二百十九団第三営長の金振中を7月12日に罷免したとのこと。
271 金振中は負傷し、不拡大の信念に徹底していたので、私は金よりも師長馮治安の方が処罰されるべきだと思った。また斉燮(しょう)元によれば、
昨7月19日夜に天津で締結した(停戦協定第3項の)細目協定に基づき、取締りと弾圧を行う。宋委員長は、今朝5時、37師の撤退に関し、
一、北京附近にある37師は、本20日、西苑に集結を開始し、明21日にそれを完了する。
二、その集結中、警戒のため、石友三部隊は一部を八方山付近に位置させ、37師の集結完了後、翌22日、これを撤退する。
以上が第一段階の措置で、第二段階は、さらにこれを永定河の西側に移動させる、と宋委員長が言った。
(日本側の)軍事顧問に、明7月21日午前8時、(中国側の)戒厳司令部に来てもらい、秦市長と打ち合わせ、周永業処長と周思靖参謀も同道し、この撤退に立ち会ってもらいたい、との宋委員長の話である。
272 前線の撤退は午前10時から12時ごろまでの間に実行する、と宋委員長は述べたとのことであった。
蒋介石の廬山声明をご紹介します。これは満洲国から冀東防共自治政府へと、万里の長城を南下して華北にも日本の勢力範囲が拡大してきて、さらには、中国側が作った冀察政務委員会の中にもその影響が浸透してきて、その二十九軍が西に追いやられようとしているときに出されたものです。民族国家としての危機意識を感じることができます。
蒋介石の廬山声明
昨7月19日の夕方、機関の臨時嘱託が南京ラジオ放送の要旨を私のところに持ってきた。それは蒋介石が国民の戦意高揚をはかるものだった。
「今次事変は決して偶発的ではない。本年(1937年)初頭以来、日本の外交政策や世論が、はっきりこれを匂わせている。最近の日本新聞紙は、塘沽協定の範囲拡大、冀東政権の組織の強化、29軍の華北撤退、冀察首脳部の罷免更迭等を論戦している。
今回の軍事行動は綿密周到に企画立案されたものであって、今日の段階では、和平を論議すべく、すでにその時期を逸した観がある。
今華北に一時的の静謐を願おうとするならば、我国土をほしいままに彼らの蹂躙に任せ、我軍隊は彼の命のままに随所に移駐撤退し、また、彼発砲すとも我は隠忍、一発の応射すらもあえてしない場合においてのみ、それが可能であろう。
273 このような屈辱に甘んずる国はないだろう。
満州失陥以来、ここに六星霜、今や北京至近の距離盧溝橋に再度の点火をみた。
盧溝橋を一度日軍の手に委ねようものなら、故都北京は容易に第二の奉天と化し、華北は第二の満洲となること必定である。
その暁、ひいては南京がさらにまた、第二の北京と化すことを何人かこれを否定し得よう。
換言すれば、盧溝橋の健否こそ、実に中国の命運の係るところ、実に国家最後の関頭とも称すべきである。
我々は戦いを欲する者ではない。しかし生か死か、二つに一つという土壇場に追い込まれた我々には、活きんがために戦うこともまたやむを得ず、という理論が許されるべきではなかろうか。事変が全面的抗戦に移行するか否か、今なお和平の護持が可能であるか否か、これを決定づける鍵は一に日本側が握っている。
我々はあくまで和平を欲求しよう。しかしそこには絶対譲歩すべからざる最後の一線というものが厳存する。それは
一、中国の主権と領土の侵害は断じてこれを許さない。
二、冀察政権の地位は、中央政府の決定に基づいたものである。これを非合法的に改変することは絶対許すべからざるものである。
三、冀察政権の人事は、中央政府の権限による以外、断じて他の圧迫によって左右されることはでき得ない。
四、29軍の駐防地に関する限り、他からの干渉は断乎これを排撃する。
以上四点は対日交渉の基本であり、最低限度の主張である。我々は断じてかりそめの静謐は求むべきでない。
救国のための抗戦とあらば、我々には徹底的の犠牲をさえ敢えて辞せない覚悟がある。国民は挙国一致、国家の統制に服し、この非常時突破のため、勇往邁進せんことを切望してやまない。」
274 ここで中国側は中央軍を北上させ、その目的を日本軍の華北侵略阻止という一点に絞り、日本側が挑戦しなければ、敢えて自らは攻撃しないと言明している。一方日本側は、居留民を保護するため、やむなく必要最小限の兵力を派遣するが、これは決して戦争を目的としたものではない、と声明している。(それは本当だろうか。誰がそれを信じられるか。居留民の保護など口実ではないか。)
感想 ここで著者は蒋介石が和平を考えていて、日本の華北への軍備派遣は最小限であり、日本人居留民の保護のためであると言うが、この蒋介石の一文を読んでみると、とても和平を目的としているとは考えられない。実際日本軍は中国軍を華北から追い出そうとしているし、蒋介石は華北への侵略を阻止しようとしているのだから、戦争は必死である。
また日本が華北に軍備をつぎ込もうとしているのは居留民保護のためというが、とても現実認識が間違っている。著者は実情を知っていながら嘘をついているのかもしれない。
宛平城に対する砲戦
274 斉燮元に約束していた通り、7月20日午後3時、松井機関長、今井武官、和知参謀が、宋哲元と会見した。和知は本日午前11時に天津から戻ってきたばかりである。宋が言う。
「37師を永定河の西岸から保定に移動させる。北京城内には保安隊と今北上中の趙登兎(う)の132師の一部を入城させる。」
7月20日午後3時、盧溝橋の原で変事が勃発した。宛平城の城壁上に中国兵の姿が見える。これは停戦協定違反である。それどころか彼らは小銃や軽機関銃で我が第一線に射撃を開始した。
盧溝橋の駅舎にいた牟田口連隊長「懲らしめの砲火をもって報いる。重砲と連隊砲は城壁に砲撃開始!」
旅団長河辺少将は戦闘指令所を豊台から西五里店に推進させた。永定河西岸の37師が一文字山に向けて砲撃を開始した。我方の即死者1名、負傷者1名。
その夜斉燮元が特務機関に来訪。事情を説明。
八宝山部隊撤退せず
7月21日、中島・笠井両顧問が朝8時に航空署街の秦徳純邸に向かった。そこには39軍の参謀長の張越亭、保安隊第一旅長の程希賢、交通副処長の周永業、軍参謀の周思靖らがいた。軍事顧問部の斉藤・広瀬両秘書と朝日新聞の常安特派員も(撤退の確認に)同行した。
午前8時半出発。阜城門→八里庄→半壁店→田村。そこで第110旅長の何基澧(れい)少将が出迎えた。その後黄村→楊家村→衙門口に11時半着。
278 冀北辺区の保安隊であった。何基澧の部隊一ヶ大隊は午後1時過ぎ磨石口に向かって撤退を開始した。ところが何旅長は「37師の八宝山の部隊は撤退命令を受けていない。また盧溝橋の西岸にいる吉星文の219団は私の隷属だが、今は馮師長の指揮下にある」と言う。
279 八宝山に二ヶ大隊、八里庄・半壁店に各一ヶ中隊が陣地についたままである。宋の命令が伝わっていない。秦徳純と馮治安がおかしい。斉燮元と今井武官に事情を説明。
松井機関長が、斉燮元と中島顧問とともに進徳社へ乗り込む。今井武官も同行。秦徳純と張越亭が応対。
松井機関長「日華親善と東亜の和平を念願している。280 (中国側は)日本側をペテンにかけている。故意に事を荒立てようとする態度さえ見受けられる。八宝山では敵対意識が旺盛だ。今から我々は我々の信念に基づいて独自の行動をとる。」
281 秦徳純「八宝山の37師は今夜8時までに必ず撤退させる。西宛や城内の37師は明日22日保定に撤退させる。」
松井機関長「今晩顧問を派遣する。」
第17章 共産分子の策動
要旨 夜になると砲声が鳴り響く問題で、日中双方がその責任を擦り付けあっていたところ、調査してみると、大学生が共産党の指示の下に、日中が喧嘩するようにという目的で、爆竹を鳴らしていたことが判明した。7月7日の中国側による発砲も、その中に共産党員が入っていたという疑惑が生まれた。
メモ
午後8時、中島顧問と周永業参謀は、宋哲元の命令書を持って八宝山の何基澧のところに行った。
285 発砲地点は、10万分の一の地図で、交会法を用いて、曹家墳や古子墳付近であることが判明し、「中間策動者」の存在を私は疑った。何基澧は部隊(五ヶ中隊と予備の三ヶ中隊)を黄村に撤退させた。
私は憲兵分隊長の赤藤少佐に依頼し、22日午後、密偵を曹家墳に送った。10名余の便衣のうち数名を逮捕した。土炮や爆竹を鳴らしたのは学生だったことが判明した。「我々は学生です。救国のためにこうして日本軍の側面を脅威しているところです。許して下さい」
北京の西北、万寿山街道にある精華大学の学生を中心に、共産系の指導の下、日華両軍交戦地帯に潜入し、土砲や爆竹で両軍を刺激し、事変の拡大を企てていた。彼等の背後で、共産党の全国総工会書記で中共北方局主任の劉少奇などが采配を振るっていたことも判明した。7月13日、大紅門事件の起こった日の真夜中に永定門外で爆竹を鳴らしたのも彼らの仲間だった。
287 23日朝、中島顧問は秦徳純を訪ねた。秦徳純「北京天津間に駐在する藍衣社第四総隊らしい。同総隊の軍事部長は李杏村、社会部長は斉如山、教育部長は馬衡、新聞部長は成舎吾である。(第四総隊は)西安事変当時に西安にいた第六総隊の一部を参加させ、盧溝橋を中心に、日本軍と二十九軍とを衝突させようと画策していたようだ。七七事件は三十七師が彼等の術中に陥った結果である。」
七七事件は大局を弁えない心なき中国兵が、疑心暗鬼から、上官の許可も受けずに始めたと私は思っていたが、共産党がその時から入っていたとなると、三十七師が被害者だという説は成り立たなくなる。
第18章 三十七師の撤退工作
要旨 三十七師を北京の南西の河北省の保定に撤退させるべく、日本側が盧溝橋付近の電話線や鉄路を補修した。中国側は一部の軍隊を撤退させたが、殆どが北京に残ったままである。
日本人の行方不明者もいて、朝鮮人が監獄につながれていて、新聞は排日記事を書き続けていた。
メモ
盧溝橋は京漢線の側にある。第一陣として歩兵二百十八団の一ヶ営と迫撃砲連を輸送したが、第二、第三陣は車両の準備が整わないとして、翌23日に延期された。
23日、三ヶ列車が2000名を輸送し、37師の218団は完全に永定河の西に撤退した。しかしこの37師は事変発生後に北京に増加されたものであった。
劉自珍の111旅は城内に残っている。また22日、趙登禹の132師の二ヶ団が、日本側に無断で城内に潜入した。
37師の司令部では撤退の準備をしていない。田村・磨石口にいる何基澧の百十旅は、八宝山や衙門口から撤退したままの状態である。112旅の張凌雲は、門頭溝に兵を集結したままである。盧溝橋事件を起こした吉星文の219団は、永定河の西岸の長辛店にいる。
機関長は秦徳純に抗議・要望した。「林耕宇の「亜洲日報」は日本軍を「非人軍」と表記している。居留民の奈良教文は、阜城門附近で行方不明になったままであり、綏靖公署の牢獄で監禁されている朝鮮人が大分いる。即刻釈放してほしい。」
第19章 趙登禹将軍の北京入城
感想 冀察政権の第29軍は「日本と親しく」*、「不拡大」の方針を表面的には認めつつ、実際は、南京からのテコ入れがあり、秦徳純の妻子は人質として南京に拉致されており298、秦徳純や馮治安らは対日抗戦の意を固め、第29軍の宋哲元軍長も、優柔不断ながらその方向に舵を切ったようだ。
そのような状況判断の難しい中で、本章で登場する趙登禹将軍は、北京城に入城するのを待ってくれという日本側と、2ヶ団入れろという中国側との板挟みになり、自分はこれまで「不拡大」と言われていたから、日本側の意を受け入れて、1ヶ団を撤退すると約束したが、中国側からは叱られることになる。*293 松井機関長「もともと29軍も日本軍とはいわば兄弟みたいな間柄」
メモ
132師の北京入城
293 7月21日午前11時過ぎ、交民巷(ちゃおみんしゃん)の特務機関に、第29軍132師中将師長趙登禹将軍が来訪。松井機関長、和知参謀、私、武田嘱託が応接。
趙登禹「宋軍長の命で北上し、近日中に北京に入城する」
松井「北上については異存はないが、現在馮治安の37師の保定への移動が完了していない。これに代わる132師の北京入城については、宋委員長と具体的な話がまだないので、北京入城は当座差し控えられたい。」
趙登禹「今後交渉は斉燮元を通してやってほしい。」
294 趙登禹の原駐地は河北省中部の任邸であったが、7/7事件後、北上を開始し、7/15、固安に、7/18、北寧鉄路上の黄村に到達し、北京南郊の警備を担当していた。
特務機関は、北京城内の治安維持だけが目的なら、保安隊と警察隊で十分と考えていたが、天津軍司令部が、宋哲元に、趙登禹の北京入城を承認していた。ただしその詳細は特務機関との連絡を条件としていた。
特務機関は、37師の撤退状況を勘案しながら、目下は1ヶ団くらいの入城を考えていて、入城時期については改めて連絡する、と考えていた。
7月22日午前10時半、桜井顧問と私は、機関長に斉燮元のところに行ってその点を警告するようにと言われ、進徳社で斉燮元と会見し、その点を了承させた。そして132師が交替入城する場合の兵力は、差し当たり1ヶ団以下と希望した。
295 ところが7月23日の朝、斉燮元の代理が機関に来て、趙登禹の1ヶ団が昨夜北京に入城したと通知した。これは裏切りだ。
しかも機関の密偵が確認したところ、昨夜6時頃、1ヶ団ではなく2ヶ団が永定門から入城し。1ヶ団の独立歩兵第27旅の679団は天壇に、もう1ヶ団の同旅681団は緑米倉(るーみーつあん)に集結していたことが判明した。
秦馮ブロックには明らかに戦意がある。斉燮元はロボットではないか。
北寧招待所での会談
7月23日午後4時、私は東城煤渣胡同(めいちゃーほーとん)の北寧鉄路局招待所に、斉燮元の代理の謝呂西委員を訪ねた。謝呂西が驚いて趙登禹に電話したところ、趙登禹は2ヶ団の入城を認めた。斉燮元は2ヶ団については知らなかった。
趙登禹が招待所にやって来て、「入城を控えようとしたが、部隊がすでに高米店(かおみーていえん)から入城を開始していて命令できなかった。」
私「謝委員からは1ヶ団だけという通告があったのだから、緑米倉の1ヶ団を今晩中に撤退させてほしい」
趙登禹「承知した。2ヶ団を同時に入城させるというのは宋軍長の命令であった。宋軍長の了解を取ってから返事をする。明日の正午まで待ってほしい。」
私「了解」
私は謝呂西に「昨日と今日の午前、京漢鉄路を通して、37師の4ヶ列車分2600名を送っただけである。今は準戦時態勢なのに、旅客を優先し、軍事輸送は当分中止とのこと。これは挑戦的である。天津軍司令部は、徳川飛行集団の百数十機を北京上空に飛来させて監視すると言っている。」
秦徳純、趙登禹を面罵す
297 趙登禹は直ちに鉄獅子胡同(ていえしーずほーとん)の進徳社に行き、会議中の29軍軍長宋哲元、副軍長秦徳純、軍参謀長張越亭、37師長馮治安の前に出頭した。(以下は筆者の想像だろう)
秦徳純「何の用で日本特務機関の補佐官なんかと会見するんだ。我々の肚はすでに決まっている。しかるに貴官は彼等の口舌に丸められ、北京警備の任についたばかりの2ヶ団(1ヶ団では)に対し、即時城外撤退という重大問題を軽々しく受諾するとは、いったい29軍の威令はどうなったってかまわないと思っておられるのか」と扇子で卓を叩きながら詰め寄った。(こう記述する根拠はどこか)
298 馮治安「趙師長がどの辺まで受諾したかは分からないが、守土抗敵は我が29軍の信条である。喜峰口の一戦以来、我軍の赫々たる武勲はすでに天下に喧伝されている。趙師長よ、宋軍長以下の気持も解せず、このような屈辱極まる撤兵を、もし受諾したとするなら、今次盧溝橋の一戦に、頑として敵の襲撃に抗して立ち上がった我が29軍の愛国的熱誠は、ことごとく地に堕ちてしまうではないか」
秦徳純「そうだ」
趙登禹「まだ確約はしていません。ただ、「肚はすでに決まっている」という只今のお言葉、ここで初めて伺ったばかりです。私は一意、宋軍長の意図を奉戴し、情勢の安定化、即ち正面衝突の回避、事件の不拡大という方針のみに徹して、一切の行動を律してきました。こうした基本方針の変更をなぜもっと早く、私の部隊に知らせて下さらなかったのですか。」
決戦か不拡大かについて宋哲元は先日来悩み続けていた。自身の優柔不断が趙師長を苦しめている。
先日南京から蒋介石の特使、熊斌(ゆうひん)将軍がやって来て、秦徳純の妻子を「拉致」して南京に連れて行った。秦徳純と馮治安の二人は完全に南京側に与し、宋哲元の意図を汲む真の協助者ではない。日本側の意志に従っても、この冀察政権はあといつまで続けられるか。冀察政権が樹立されてから1年余しかたっていない。
馮治安「趙師長よ。盧溝橋にせよ、今日の問題にせよ、撤退すべきは我々ではなく、むしろ日本側である。彼らの要求は即刻断固排撃されよ。(根拠を示せ。これは全くの作文である。)
疑問
・豊台守備隊の沿革 1901年、「北清事変最終議定書」に基づき設置。支那駐屯軍に属す。盧溝橋事件の当事者。
・天津軍の沿革 天津軍は「支那駐屯軍」のことであり、前記の豊台守備隊を含む。
・塘沽条約の意味 1933年5月、満州事変の停戦協定。中国軍の河北省東部からの追い出しと抗日運動の禁止。それを名目(違反した)とした武力介入の言いがかりとなる。塘沽は天津の近郊。広田弘毅外相は「これは軍関係の条約だから政府は関与しない」とした。
・梅津・何応欽協定の意味 1935年6・7月、天津軍=支那駐屯軍司令官梅津美治郎と中国国民政府の北平軍事分会代理委員長・何応欽との協定。国民党の機関や中央軍を河北省から撤退させる。抗日運動禁止。
・山東出兵
1928年(昭和3年)4月8日、蔣は北伐を再開、4月末に10万人の北伐軍が山東省に突入したため、支那駐屯軍の天津部隊3個中隊(臨時済南派遣隊)と、内地から第6師団の一部が派遣され、4月20日午後8時20分、「臨時済南派遣隊」が済南に到着、4月26日午前2時半、内地からの第6師団の先行部隊の斎藤瀏少将指揮下の混成第11旅団が済南に到着し、6千人が山東省に展開した(第二次山東出兵)[8]。山東省内で日本軍と北伐軍が対峙し、睨み合いながらも、当初は両軍ともに規律が保たれていた。Wiki
第20章 最後の通牒
感想
300 7月25日の午後、郎坊で、日本軍に宿舎を提供するしないでもめ、射ち合いに発展した。とりあえず五ノ井中隊を派遣したが、数倍の敵に包囲されたので、天津から軍の総予備だった鯉登連隊(朝鮮軍314)を派遣して空襲も行い、中国軍は逃げた。
7月26日、天津軍司令部は、北京特務機関長を通して中国軍29軍の宋哲元に対して「第29軍に与うるの書」という最後通牒を突きつけた。宋は仮病を使って秦徳純と張維藩が対応し、領収証を書かせた。
メモ
300 大城戸大佐の出現
7月25日、松井機関長が午前零時半の(天津)軍参謀長の招電により、朝6時の列車で天津に向かい、夕方6時にスーパー機で戻った。機関長「(天津)軍の不拡大方針は変わらない。最高統帥の命令に従って動きさえすればいい。」
南京駐在武官の大城戸三治大佐が、欧亜航空で上海から天津に行く途中に機関を来訪した。
301 大城戸は「日本政府は優柔不断である(対中強硬策を取れ)」とし、南京政府の抗日政策を論難し、「華中全域で抗日意識が旺盛で、対中開戦はやむなし」と言う。我々はそれに強く反対した。
郎坊事件の勃発
7月25日の夜11時、(北寧鉄道の)陳覚生から電話があり、「今日の午後4時半ごろ、郎坊の駅で日本の兵隊さん一ヶ小隊が、宿を貸せ貸さぬで中国軍と睨み合っている」とのこと。
愛沢通訳生が天津の軍司令部に確認の電話を入れると、「郎坊付近の電線修理や鉄道保護の一ヶ中隊が、宿舎問題で夕刻以来中国側と交渉中だ」とのこと。
豊台連隊副官河野少佐からも、旅団の情報将校浅野少佐からも、同内容の電話がかかって来た。つまり「郎坊の中国軍が日本軍を包囲し、午後11時30分、軽機関銃で射撃開始したが、日本軍側は応射していない。ただしもう事態は収まったようだ。」
302 愛沢通訳生は趙自忠師長を呼び出し、「部下に摩擦を避けよと言ってほしい。あなたは停戦協定の責任者でもある」と依頼した。1937年の5月に29軍の首脳部が日本の見学旅行をした際に、愛沢はこれに同行し、その時趙自忠と仲良しになっていた。
9月26日午前2時、交通顧問部の河端秘書が豊台に電話したところ、そこの浅野少佐によれば、「郎坊で中国軍がまた発砲し、それに日本側も応戦し、中国側は迫撃砲まで出して来た。日本軍の損害は重症2、軽傷4、計6名である。天津(軍)から、朝鮮から来た鯉登行一大佐・連隊長が指揮する歩兵二ヶ大隊を(郎坊に)救援にやる」とのこと。
鯉登連隊長の掃蕩戦
9月26日午前2時半、機関会議を開催し、また中国側当局や、陸軍武官室、天津軍司令部に電話した。
午前3時、豊台の佐藤中尉から「郎坊は沈静化した」との電話があったが、中国側の29軍の代表者2名(周参謀?)と、機関員の桜井顧問が現地の郎坊に行くことにした。
ところで前日の9月25日の夕刻、天津の海光寺の(天津)軍司令部が、五ノ井中隊を(郎坊の)現地に派遣したところ、その真夜中に、数倍の敵に重囲され、(天津軍司令部は)軍の総予備の鯉登連隊を郎坊に急派することに決定していた。
鯉登連隊の第一梯団と第二梯団は、二列車に分かれ、砲兵や、天津軍の広部大隊も同行した。7月26日の午前3時20分、第一梯団が出発し、日本空軍戦爆連合も郎坊に向かった。
7月26日朝6時過ぎに(鯉登連隊が)郎坊に着いた。空軍が爆撃した。敵の迫撃砲が列車側の高粱畑に着弾した。三輪寛少佐の(空軍)戦闘機隊が爆撃し、敵は退走した。敵は38師113旅の劉振三の隷下部隊の226団であるが、趙自忠師長の命令を無視した。
軍用電線切断さる
7月26日午前6時30分、今井武官から機関に電話があったが、それは軍司令部からの上述の内容と同じであった。笠井顧問「武力解決が一番はっきりしていていい」
これより先、軍司令部から連絡があり、広部部隊が北京(の邦人)を救援するとのこと。そこで7月26日午前8時、広部大隊の北京入城の経路を研究した。
高橋猛中尉通信所長から電話があり、「今朝、北京と豊台との間で軍用電線が切断されたので、修理用の鉄道を出すよう、中国側と交渉して欲しい」とのこと。私はたまたまそこに居合わせた北寧鉄道の陳覚生と林耕宇にそれを依頼した。
午後1時半、高橋猛中尉通信所長の修理班に、機関の笠井顧問と広瀬秘書、29軍からは周思靖参謀が同行した。
南欠口の城門を過ぎると電柱が3本倒されていた。修理は夕方の6時までかかった。
306 帰途、南欠口の中国兵が城門付近で、銃や手榴弾を(修理班に向かって)構えた。それに周参謀が注意し、7時、無事正陽門駅に到着した。
鉄の如き皇軍の決意
このように29軍の不信行為が続いたため、天津軍司令部も業を煮やしていたが、郎坊事件によってその憤激は極度に達した。ここにおいて(天津)軍は、自衛権の発動の見地から、軍本然の任務に還元し、断固膺懲の師を起こすことに決した。
7月26日午前11時半、天津軍司令部から北京特務機関長あてに「第二十九軍に与うるの書」という最後通牒的文書が発せられた。
東京三宅坂の軍中枢にもその決意が報告された。(天津軍だけで決められるのか。政府は関与しないのか。)
参謀本部作戦部長の石原莞爾少将は北進論の急先鋒で、ソ連をたたくためには中国など顧みている余裕はないという考えで、盧溝橋事件に際しては徹頭徹尾不拡大方針を堅持し続け、中央の空気を引きずりまわしていた。石原莞爾はこう極論した。「中国と事を構えるくらいなら、いっそうのこと天津軍司令官以下一兵に至るまで、ことごとく満洲国境まで引き退げてしまえ。」しかしその石原も、郎坊事件以降はその考えを変えたようだ。ここにおいて最高統帥は天津軍司令官に、その要請を認可した。
307 7月26日午後2時30分、(天津)軍司令官香月清司中将は、松井機関長あてに「貴官は直ちに宋哲元と会見し、前電第二十九軍に与うる書を手交すべし」という電報を発した。
新聞通信員達が機関の玄関前にカメラの包囲陣を布き、機関長一行の出馬を待ち構えていた。
松井機関長、駐屯軍参謀大木良枝少佐、私、通訳として武田嘱託が進徳社に同行した。
控室で10分待たされ、次に大客庁に案内された。京綏(すい)鉄路局長兼冀察総参議の張維藩が出迎えた。
308 張維藩「宋委員長は頭痛で休んでおり、私が代理として責任を持って伝えます。」
機関長「私は日本軍司令官の代理として来ました。どうしても宋委員長とお会いしたい。病室まで伺いたい」
張維藩「都合を伺って来ます。」
15分後、張維藩は秦徳純を伴ってやって来た。「二人で宋委員長の代理をしたい。」
機関長「病室まで行きたい。」
両者が10分間押し問答
機関長「全面的衝突を覚悟の上で、この通告書を撤回しろと言われるんですな。」
(私は考えた)彼(宋)には誠意がない。否、宋が会わないのは本意ではないだろう。秦徳純と馮治安が妨げているのだ。
張・秦「もう一度伺ってまいります」
20分経過
秦徳純「私達を信頼してください。」
秦徳純と張維藩は日本文の通告書を読んだ。
「第二十九軍に与うる通告書
昨二十五日夜、郎坊において、通信交通の援護のため、派遣せる一部我が軍に対し、貴軍の不法射撃に起因し、遂に両軍の衝突を見るに至りしは遺憾に堪えず。
かくのごとき事態を惹起するに至れるは、貴軍が我が軍との間に協定せる事項の実行に誠意を欠き、依然挑戦的態度の緩和せざるに起因す。
貴軍において、依然事態不拡大の意志を有するにおいては、まず速やかに盧溝橋、八宝山付近に配置せる第三十七師を、明日正午までに長辛店に後退せしめ、また北京城内にある第三十七師の部隊は、北京城内より撤退し、西苑に在る第三十七師の部隊と共に京漢線以北の地区を経て、本月二十八日正午までに永定河以西の地区に移し、爾後引続きこれ等軍隊の保定方面への輸送を開始せらるべく、右実施を見ざるにおいては貴軍に誠意無きものと認め、遺憾ながら我が軍は独自の行動を執るのやむなきに至る。
これの場合起こるべき一切の責任は、当然貴軍において負わるべきものなり。
昭和十二年七月二十六日
日本軍司令官 香月中将
第二十九軍長 宋哲元殿
*香月清司(かづききよし)中将は、天津軍=支那駐屯軍の司令官
311 決裂だ、戦争だ、そしていよいよ冀察政権最後の日来る!…
秦徳純「軍の方のご要求はたったこれっきりなんですか」
機関長「要件は通告書に書いてあるだけです」
秦徳純「日本側の要求は単にこの間お約束した協定事項の期日が若干早まったに過ぎないようです。が今の場合、すぐそうしろと言われても、実際問題として到底困難な事ですから、どうか今しばらく期日を延期していただきたい。」
機関長「ただこの通告書を宋委員長に伝達することだけをしていただきたい」「伝達を拒まれるのならこの交渉は決裂の他はない」「冀察と日本との衝突の動機をつくる者は実に貴官である。」
秦徳純「宋委員長に伝達します。そうするとこの書類はあってもなくても同じようなものですから、どうぞお持ち帰り願います」
機関長「あなた方二人が責任をもってこれを宋委員長に伝達する、と今私の目の前で一札お書きなさい」
秦徳純「相談してまいります」
今5時20分、交渉に半日もかかった。
313 秦徳純「伝達します。領収証を書きましょう」秦徳純と張維藩はそれぞれ署名捺印した。
2時間の折衝だった。その時桜井軍事顧問から広安門事件勃発について連絡してきた。
第21章 広安門事件
314 7月26日、ちょうど宋哲元に最後通牒を突きつけた日に、日本側は「邦人保護」を名目に、日本軍部隊(広部広少佐の天津駐屯歩兵第二連隊第二大隊)を北京城内に入城させようとした。
桜井顧問が中国側と交渉し317、閉じられていた広安門を開門させた。ところが日本軍部隊の一部が城内に入ったところで中国側が銃撃を始め、それが顧問の説得で一旦収まりかけたが、日本軍側の広部大隊が反撃に転じ、城壁の上では中国兵が桜井顧問を銃撃して来て、それを川村芳男機関員が制止しようとして銃撃をまともに受けて亡くなった。桜井顧問も太腿に銃創をうけて転落し、小屋の中に逃げ込んだ326。城内の日本軍は大勢の中国軍に包囲された。河辺旅団長はその救出のために、戦車部隊の投入を決定した。
感想 盧溝橋事件での「不拡大」方針は懐柔だね。日本(軍)は懐柔しながら現状維持を保ち、満洲から華北へとその勢力圏を伸ばそうとしていたのだろう。それは、蒋介石が中国国民に抗日を訴えかけているように、中国にとっては面白くない。華北の冀察政権も、日本の言うことを聞いてばかりはいられない。
苛めはよくないということを日本(軍・政府)は判らなかったのだろうか。軍部は攻めることが仕事だから分からないだろうが、政治家も同類だったのだろうか。
「塘沽協定」1933に関して中国政府が日本政府を抗議した時、当時の広田弘毅外相は「軍事事項である塘沽停戦協定の延長線上にある問題には政府は関与しない」と相手にしなかったらしいが、これはシビリアンコントロールの欠如ではないか。こうなると歯止めがきかない。
メモ
314 北京の危機刻々迫る
日本大使館は居留民に内地への引き上げ勧告をしなければならなくなった。居留民の多くは内地や朝鮮に引き揚げ、7月下旬現在で北京に残っている日本人は、事件前の半分2000人だった。この2000人を保護する日本軍の兵力は歩兵二ヶ中隊だけだった。これに対して中国側は三ヶ旅とおびただしい数だった。北京の留守警備隊長岡村勝実中将中佐は、お手上げだった。
天津軍司令部には応援部隊を出す余裕がなかった。郎坊事件でも朝鮮から鯉登連隊の派遣を要請していた。ひとたび城内の中国軍が蹶起したら、尼港事件の残虐が再来するだろう。
7月26日、午前1時過ぎ、香月軍司令官は、軍の総予備である天津駐屯歩兵第二連隊第二大隊に対して、「直ちに天津を出発して北京に急進し、北京警備隊長岡村中佐の指揮下で、居留民の保護に任ずべし」と命令をした。
7月26日の朝5時30分、広部広少佐の大隊が、天津海光寺の兵営を出発し、東站停車場から乗車した。
315 救援隊入城法の検討
7月26日午前8時、北京特務機関は広部大隊の北京入城の方法を検討した。一つは列車で豊台から北京の前門駅に乗り付ける方法で、もう一つは豊台から自動車に乗り換えて広安門経由で公使館区域に入る方法である。
前者の列車による方法は、北京城外永定門駅に中国軍の歩兵1ヶ連が常時駐留している。事変以来ここを行き来する日本人は、列車の中でほとんど裸体にされるほどの取り調べを受けていた。列車がさらに城内に進むと、南欠口、東辺門、哈噠門、前門などで、それぞれ1ヶ連が駐留していて、城壁の上からは列車をにらんでいる。
後者の広安門にも1ヶ連がいるが、この1か所だけである。また盧溝橋事件以後も1、2ヶ分隊くらいの日本兵なら出入りしていた。
中国側への連絡は、拒否されるかもしれないので、直前にすることにした。7月8日、木原大隊は朝陽門からの入場を拒否されていた。連絡を直前にして中国側に対応の時間的余裕がないようにさせる。また兵力内容も明確にしないことにした。
316 特務機関から、これより先に、軍事顧問中島中佐に斉藤秘書を同道させ、広部大隊誘導のために豊台駅に差し向けてあった。
広部大隊豊台に着く
7月26日午後2時、広部部隊が豊台駅に到着し、トラック26台に分乗した。
広部が河辺に「鯉登連隊は郎坊で残敵掃蕩に当たっていた。土民の言によると、敵は本早朝の爆撃で損害を被り、今は静粛である。」
中島中佐は純白の中国服であった。
斉藤秘書を先行させて連絡を取らせた。
桜井顧問の準備工作
317 桜井顧問は秦徳純の秘書の張我軍に、午後3時半までに特務機関に来るように連絡した。張我軍を通じて広部大隊の入城を連絡するはずだった。しかし張我軍は時間に来なかった。
広安門附近で特務機関の愛沢通訳生ら数名の密偵が、偵察したところ、状況は平穏だった。
3時50分、桜井顧問は張我軍が来ないので、川村芳男と広安門に行くことにした。川村は中国服を着ていた。運転手は勇敢な中国人の高だった。
318 一方、これより先に豊台に出向いていて、今は広安門の警察分所にいる斉藤秘書から機関に電話があった。斉藤と寒宣撫班員は、広部部隊の先発隊として広安門に到着していた。斎藤「日本軍の入場を知った中国兵は、武装して門を閉めようとしている。今王連長と交渉中である。機関からも中国側に交渉して欲しい。広部大隊は間もなく到着します。」
他方、桜井の車は、広安門大街を城内の方から広安門警察分所に停まり、桜井、川村、各新聞社の特派員を斉藤と寒が、警察分所に案内した。
桜井顧問は37師の王連長に会い、「城内の居留民を保護するために日本軍がやってくる。通してくれ。」王連長「戒厳司令部が城門を閉鎖しろと命令した。」桜井「もう一回戒厳司令部の劉自珍旅長と交渉してくれ」王連長「差しつかえないとのことです」
便衣の男妨害を企てる
319 斉藤秘書と寒宣撫班員は、後続の広部大隊にこの旨を連絡するために自動車を反転して城外に出た。
広部大隊は午後4時50分に豊台を出発した。広部大隊長は中島顧問と共に先頭の車に乗り、その車に毎日新聞の本田親男特派員も同乗した。戦車隊長の早川大尉と桜井中尉の先兵車両がこれに続いた。 本隊は、大隊本部、第五、第四の両中隊、機関銃中隊、材料車両の順で編成され、総勢26台、北京の警備隊を目指した。
広安門の西1キロに小井村があり、斉藤秘書は1時間ここで待った。5時50分、広部部隊を発見したのでそこに停車させ、状況を報告した。部隊が再発進した。斉藤はまた先行して城門で待った。
320 斉藤が城門に着くと、城門は閉まっていた。城壁上に土嚢が積み上げられ、武装した中国兵が陣地についている。
斉藤は特務機関と豊台の旅団司令部に連絡しようと、(なぜ広部大隊に戻って連絡しなかったのか)城門の西方200メートル、京漢鉄路踏切近くの石炭屋の電話で連絡した。
ところが、前述の通り、桜井顧問が王連長と開門の交渉をしていた時や、王連長と劉旅長が電話連絡していた時、その傍らで白色便衣の中国青年が立ち聞きしていた。その青年は電話でどこか(秦徳純)と話し、王連長にその電話に出させた。その青年はすぐいなくなった。
王は桜井顧問に「秦市長が直ちに門を閉めろとの厳命です」
城壁上には守備兵が土嚢を積み上げ、鉄の城門は閉められた。
桜井顧問は劉自珍旅長と直接談判するために川村機関員と車で戒厳司令部へ行った。従軍記者もその後に続いた。
城門再び開かる
321 桜井顧問が戒厳司令部につくと、劉自珍旅長は進徳社の軍事会議に出向いて留守だった。桜井顧問は機関に戻り、進徳社にいる私に連絡した。その時は最後通牒を手交したところだった。私は秦徳純と珍覚生に開門を要求した。彼らは即答しなかったが、結局、秦徳純は「では直ちに開門させることにしましょう」
中国側から外交委員会の林耕宇が開門処理に立ち会うことになった。桜井顧問は川村、吉富両機関員を伴って、広安門に向かった。門につくと林耕宇はまだ来ていなかった。王連長を先に立てて、広安門の城壁上に登った。
322 西の楼門はまだ閉まっていたので、桜井顧問は、吉冨機関員に門を開けさせ、部隊が通り終わるまでそこで監視させた。
東西の楼門と城壁には土嚢が積み上げられている。銃眼に小銃や機関銃が城外に向けて配置されている。西の楼門に37師の武装兵が6、70名、東の楼門とその一帯の城壁上に132師の兵が6、70名。37師の兵は桜井顧問の顔を知っているが、132師の兵は数日前に河北省南部から出て来たばかりで、桜井顧問の顔を知らない。中国兵は今日は警備交代の日で、引き継ぎをやっていた。桜井顧問は中国兵に絶対無抵抗を要求するつもりだった。
この時宋哲元の秘書、張祖徳が城壁を登ってきた。張祖徳は「林耕宇がいないので、宋委員長の代表として開門の立ち合いにやって来た」と言い、開門を確認した。桜井顧問「王連長、中国兵に鉄砲を下に置かせ、兵に下をのぞかせるな。」王連長は幹部にそのむね指示した。132師も同様にした。
吉冨機関員は片側開きの門扉で監視した。桜井顧問と川村機関員は城壁上の楼門北側で監視した。
323 桜井顧問は城壁上から、橋のたもとにいた巡警に、名刺を落として、それを踏切のところにいる日本軍の中島顧問のところに持って行かせた。
城壁上より不法射撃
323 広部大隊は、広安門の西方1000メートルの接待寺付近に到着した時、広安門が閉鎖されていると聞いてそこに止まり、中島顧問の交渉結果を待った。
午後7時、中島顧問が車で来て、大隊長に「桜井顧問が城門にいる。すぐ入城するように」
天寧寺を過ぎる。広安門街道を進む。一隊26輌のトラック。本田特派員の車がトップ。次に広部少佐・中島顧問の指揮官車。
桜井顧問と嘱託川村芳男は、西楼城壁上から白旗を振って合図し続けた。
先頭車が入城。三番(目)が入る。続いて先兵が乗った三車両が入ろうとしたとき、東楼門の南側50メートルから銃声。城壁上のあちこちから小銃や機関銃から日本軍目がけて発射。
城壁上の桜井顧問は、近くにいた機関銃の中国兵を押し飛ばし、「連長、射撃を止めさせろ。」また中国兵には「射撃をするな」と中国語で叫んだ。川村も射撃中止を命じた。
324 東楼132師の兵は手榴弾を投げ始めた。
広部部隊は速度を上げた。指揮官車は城門から東350メートルの関帝廟前で停車。そこに集結した車両は12台。14車両以後は城外に。
城内に入った部隊は、大隊本部、第五中隊、第四中隊(長以下18名だけ)、市川中尉の機関銃1ヶ小隊の合計140名。自動車(トラック)隊長早川大尉は、トラックを胡同内に収容。多くのトラックが損傷を被った。
城壁上の桜井顧問と川村嘱託は説得を続け、銃声は下火に。
桜井顧問は張祖徳を呼び、宋委員長に報告させ、宋から射撃を中止させる命令を下させた。王連長も射撃を中止させた。
川村芳男機関員の最期
325 広部大隊長は反転して広安門の敵を攻撃して城門を奪取しようと決心した。(この判断はどうだったか。川村の死を招くことになったのでは。)
午後8時戦闘開始。負傷者を生じた132師の兵は激昂し、「日本人を殺せ」「顧問を斃せ!」顧問は連長によってそれを阻止しようとしたが無駄だった。顧問は間近の中国兵を殴り倒した。川村芳男は桜井顧問に向けられた機関銃を遮り、「壮烈な戦死」を遂げた。
326 敵は太刀と拳銃で、桜井顧問に迫った。東楼と西楼から挟み撃ちした。拳銃弾が一発顧問の左内股から外股に貫通し、茶碗大の肉片が飛び散り、白い大腿骨が見える。顧問は王連長に組み付いた。突く、蹴る、殴る。顧問は丈余(一丈、3メートル)の城壁の内側に飛び降り、地上4メートルのところにあるコンクリートの屋根の上に落ち、右足首を捻挫骨折した。体は電線にひっかかり、跳ね返って家と家との間の狭い空地に肩から転落した。近くの物置小屋に横たわり、武器として棒切れや煉瓦を集めた。連長と格闘した際に連長が拳銃の銃口で顧問の胸に突き込んだところが痛む。
自動車隊の奮戦
326 攻めようとしても城壁を登るとっかかりがないので、北綫(せん)閣の北側の土塀で囲まれた家屋に集結した。夜の10時である。そのとき後方の自動車隊付近で銃声がした。背面から敵が来襲したのである。
1ヶ団もある優勢な城内の中国軍が包囲し始めた。
菜市口から真西、広安門街道をやって来た中国兵は、関帝廟で日本軍の自動車部隊と対峙した。新聞記者も手榴弾を投げ、敵は後退した。
今度は敵が真東、自動車隊の側面に現れた。さらに別の敵が真北にも現れ、三面包囲された。自動車隊の早川大尉は、二、三の兵とともに本道方面、敵の真ん中を斬り込んだ。大尉は手榴弾の破片を下半身に浴びた。
敵はそれ以上襲ってこず、東の方へ後退した。自動車隊はその位置を確保し、車両の援護もできた。
河辺旅団長増援を決意
328 中島顧問は城内の民家の電話から特務機関を呼ぼうとしたが、冀察当局は電話局を統制下に置き、交換手は「お話し中」「応答なし」と応対しない。そこで豊台駅に電話し、河辺旅団司令部に現状を報告した。
河辺少将は参謀鈴木嘉一少佐からその報告を聴取した。
河辺旅団長は鈴木参謀に(天津)軍司令部に報告させ、また松山副官には、戦車隊長福田峯雄大佐を呼ばせた。
河辺少将は福田峰雄戦車隊長に「北京入城の目的をもって本夕豊台を出発した広部大隊は、広安門において中国側の不法射撃に端を発し、城内城外に分断され、ことに広部大隊長以下の城内部隊は、新たに増援してきた数倍の敵の重囲に陥り、目下交戦継続中である。貴官は歩兵1ヶ大隊、砲兵、工兵、各1ヶ小隊、及び戦車一中隊を指揮し、即刻広安門に急行し、城内部隊を救援せよ。」
福田部隊は午後9時半、豊台を出発した。(これではもう戦争である。)
第22章 広部部隊救出工作
感想 排他的仲間意識と死の美化
軍隊は生死を賭けた喧嘩である。必然的に仲間意識が高まり、その逆に敵に対しては排他的になるという宿命がある。だから戦争は止めておいた方がいい。
死の美化 「護国の神」「英霊」などとその死を修飾し、壮大な葬式を挙行する。
「たった今さっき、護国の神と化し去ったばかりの英霊に対し、私は敬虔な態度で、感謝と哀悼の真心を捧げた。」339
「(機関の嘱託)川村の死体は殺された直後、城壁上から城外に放り落とされ、城門南側、小屋の裏手に埋められてあったのを、数日の後、和田嘱託が現場に赴いて掘り起こし、丁重に荼毘に付した後、北京本願寺で盛大に葬式を営んだ。日華各界の要人から贈られた花輪は堂を埋め、香煙縷々として立ち昇る仏壇の前で機関員たちはそぞろ凄壮を極めた広安門の一夜に想いをめぐらし、懇ろに彼の霊を弔ったのである。」342
メモ
「南苑」は北京市豊台区の一街区。豊台の南東にある。
340 東交民巷に「公使館区域」があり、そこに「日本人居住区」、「北京警備隊」がある。
東交民巷は北京市東城区にある胡同(フートン)の一つ。旧外国人公使館エリア。
・私達(29軍の周思靖参謀と、111旅の副旅長軒上校と、私と機関の愛沢通訳生、広瀬秘書等6人)が、中国軍を(公使館区域or進徳社から広安門までの)道路から撤退させたことにより、中国軍に攻められることなく、広部大隊を公使館区域に無事に連れて来られたということは上出来だった。340
・中国軍は、日本軍(福田部隊)が城外から攻めてくるという情報を聞き、それに備えて軍隊一ヶ団を準備していた。それは事件から3か月後の10月28日に、29軍の周思靖参謀から聞いた話である。343 もし広部部隊の公使館区域への移動が遅れていたら、大惨事になっていたことだろう。私は広部部隊の移動の途中で、広部部隊を救出するために向けられた福田部隊328の派遣を、特務機関に電話をかけて止めた。340
第22章 広部部隊救出工作
メモ
329 松井機関長、軍の自粛要請
天津海光寺の(天津)軍司令部の幕僚会議では「今まで馬鹿正直なまで不拡大主義を徹底してきた。昨夜は郎坊で、今日は広安門で、中国軍は不信行為を続けている。これ以上の温情は無益であり、最後通牒の28日正午を待たずに、明朝27日の早々に全面攻撃する」という参謀の発言が大勢であったが、池田参謀だけはそれに同調しなかった。
そこで参謀長橋本少将は松井機関長に電話し、現地の意向を確かめた。松井機関長は「即攻撃には反対である」とし、その理由として、
「第一に、市街戦になり、戦術的に拙劣である。
第二に、北京城内のあちこちに散らばった二千の居留民は、略奪・殺戮の被害に会うだろう。
第三に、北京城内の150万の民衆を兵火にさらし、人道上の見地から許されない。また一千年の古都を破壊したら、世界の侮蔑を背負い込むことになろう。それは大国の襟度(度量)として慎むべきである。
320 いずれ全面攻撃は避けられないかもしれないが、広安門事件は局地で解決すべきである。」
橋本参謀長はそれに全面的に賛成した。また池田参謀は「北京城や万寿山などの名勝に砲爆撃をしないこと、それらの地域に陣地を占めている敵は、側背脅威などの方法で、戦いを交えることなく退却させるよう作戦命令の末項に書いておきたい。」
軍司令官香月中将もこれを採択した。
調停の軍使広安門へ
密偵によれば、広部大隊は中国軍の大軍に包囲されていて、さらに中国軍の増援隊が集結中とのこと。また新聞記者によれば、「入城部隊が内門と外門との間に閉じ込められ、城壁の上から手榴弾を投げられている」としたが、これは虚報であった。
331 午後8時過ぎ、冀察の代表として交通委員長の珍覚生が特務機関を来訪。陳覚生「中国軍は広安門の城壁とその東側に位置し、広部部隊は城門外の西側に集結する。現在城内に進入している広部大隊の主力は、広安門外に撤退させてもらいたい」
特務機関「すでに城内に入った日本軍は公使館区域の日本の警備隊内に収容したい。城外に残っている部隊は豊台に引き揚げさせる」
陳覚生は日本案を持って宋委員長のもとに帰った。
陳覚生が去ったあとに周参謀が来訪。「(日本の)入城部隊は公使館区域へ、城外部隊は豊台に帰す。これに38師の趙自忠師長も同意見である。」
松井機関長が私と笠井顧問を呼び、「中国側も局部的解決に同意のようだが、手段・方法の点で相当の開きがある。我々はこちらの考えで押し通そう。広部部隊を公使館区域に誘導する。君たち二人に両軍を説得し引き離してもらいたい。次に、中国軍の間を濾過*し、大隊を公使館区域迄誘導してもらいたい。」*異物を取り除く「日本側だけではうまく行かないから、進徳社の秦徳純を説得し、29軍からも高級幹部を一人出してもらう。」
私は機関から愛沢通訳生、顧問部から広瀬秘書、それと周参謀を伴って広安門に行くことにした。死に恥をさらしたくないのでせめて肌着でも着替えて行く。
進徳社に着いてから20分も待たされたので、周参謀が中の様子を見に行った。周は111旅の副旅長軒上校と戻ってきた。軒は29軍の代表として一緒に現地に出向く。笠井顧問「我々独力でやってしまおう」総勢6人、2本の白旗と2台の車に分乗して広安門に向かった。
中国兵を路次の奥へ
鉄獅子胡同から北池子大街へ、そして中山公園から西長安街へ。西単牌楼を左折し、宣武門の下に。城門は完全に閉鎖され、土嚢が積み重ねられている。周参謀が開扉を交渉する。土嚢で狭められた宣武門を通り抜ける。
京漢鉄道の踏切を越える。宣武門外大街を3、400メートル進むと29軍の兵がうようよしている。周参謀が通過の交渉をする。
その時広安門の方向に銃声、手榴弾が爆発。早川自動車部隊が銃撃を受けていたのだ。周参謀に「帰りに中国兵がいると衝突するから、それを路次奥に引っ込ませ、日本軍に攻撃しないように連長に言ってくれ」と要請。中国軍は胡同の奥へ引っ込んだ。
遂に広部部隊を発見
途中機関へ電話すると、豊台を出発した福田部隊は、明7月27日午前2時半に広安門の攻撃を開始するという。和平交渉に必要な時間は4時間しかない。数百メートルごとに中国兵に誰何される。中国軍の最前線は東北大学運動場の付近にいる。広安門上の中国兵が機関銃を撃って来るが、突き進んだ。
335 広安門に近づく。広安門大街と北綫閣との交差点。機関銃小隊長の市川貞一中尉に大隊本部の位置を尋ねる。周参謀に城門上の中国兵が射撃をしないように注意をしてもらう。
広部大隊長を説得す
335 笠井顧問と私は伝令兵に案内されて北綫閣(ほくせんかく)の通りを北に進み、土塀の中の大隊本部へ向かった。広部大隊長「今夜の2時半に城外部隊が攻撃を開始すると電話で知った。大隊は城外部隊の攻撃に先立って広安門を夜襲するために今から出かけるところだ。ここにいる高須大尉は今夜の強風を神風として、広安門内側の民家に火を放とうという。」「思いとどまってもらいたい。大隊の公使館区域への移動が本来の目的である。機関長も城外部隊の攻撃中止を豊台に連絡する、とさっき電話で言っていた。ここで戦闘が始まったら2000人の居留民が虐殺されるだろう。大隊は居留民保護が目的である。」「戦死した部下の仇だけは何としてでもとってやらなければならない。」「28日の正午から29軍剿滅(そうめつ)の行動を起こすことになっている。天津の軍司令官も現地解決という私の考えと同じだ。」「公使館区域に入るさいに中国軍と戦いになるなら、勝算の確実な広安門を攻撃したほうがいい。」「ここへ来る途中、包囲の中国軍を本道上から撤退させた。
338 中国軍参謀に私どもの通訳兵1名をつけて今来た経路をもう一度引き返させ、撤退状況を再点検させている。」「高須大尉、山本副官、何か意見はないか。」「トラックが損傷をうけて運転できるかどうか。」「中国軍が不法射撃をして来たら」「たたき破れ」
桜井顧問消息を絶つ
上島成人軍医と丹羽一郎軍医がトラックの上の負傷兵の手当てをしている。大隊を誘導して来た中島弟四郎中佐軍事顧問と遭遇した。今7月27日午前零時30分である。戦友向俊暁の死体を人力車で引いている。
死の美化 「護国の神」「英霊」などとその死を修飾する。
「たった今さっき、護国の神と化し去ったばかりの英霊に対し、私は敬虔な態度で、感謝と哀悼の真心を捧げた。」339
前原初年兵の遺骸も運ばれてくる。同盟通信の三木雅之助特派員も負傷している。中島顧問が姿の見えない桜井顧問を探して呼びかける。
周参謀一行が宣武門から西単牌楼まで状況偵察に行って帰ってきた。桜井顧問は周参謀が探してくれることになった。
さながらの葬送行進
340 7月27日午前1時、10数台の車両部隊は東交民巷の北京警備隊を目指して前進した。途中菜市口付近の中国側の団本部の前あたりで車が故障し、兵を乗り換えさせて牽引した。午前1時50分、宣武門着。
私は宣武門内の警察局派出所から周参謀と偽って特務機関に電話。
341 機関長に城外部隊の広安門攻撃を中止するよう豊台に連絡してもらう。
戦争とは自己中なもの。以下抜粋
「我々はほっとして、張り詰めた全身の力が一度に抜け、ただ、わけのわからない涙が溢れ出てきた。」
「大使館の前では武官室はじめ、多くの職員や家族達が、この真夜中にまだ寝もやらず、各々手を振って部隊の到着を歓迎していた。警備隊の正門前、土嚢が築かれた掩体の辺りには日本兵や新聞社の人たちが一杯つめかけていて、部隊の到着を今か今かと待ち受けていた。
午前2時20分、広部大隊は全員警備隊兵営に到着した。…広部隊長が粛然、岡村警備隊長に対して行った申告は万感胸に迫って時々杜絶えた。新聞記者たちは一カ所に寄り集まって、お互いに「おめでとう。よく助かったな」「いや、俺はもうあの時、とても駄目だと思ったよ」と感激の握手を交わしていた。」
毎日新聞社の本田親男特派員が私に礼を言った。周参謀は桜井顧問を探しに広安門に戻った。
桜井顧問の救出
342 軍事顧問桜井徳太郎少佐、川村、吉富、斉藤等機関員の姿はない。周参謀は広安門大街外四区の警察分所に着き、巡警に捜索をさせた。7月27日午前4時、(桜井と)顔見知りの巡警が、広安門の真下の物置小屋の中に桜井顧問を発見した。桜井は警察分所で応急処置を受け、午前4時半、特務機関に運び込まれた。
壮大な葬式
「(機関の嘱託)川村の死体は殺された直後、城壁上から城外に放り落とされ、城門南側、小屋の裏手に埋められてあったのを、数日の後、和田嘱託が現場に赴いて掘り起こし、丁重に荼毘に付した後、北京本願寺で盛大に葬式を営んだ。張自忠、張壁、斉燮元はじめ、日華各界の要人から贈られた花輪は堂を埋め、香煙縷々として立ち昇る仏壇の前で機関員たちはそぞろ凄壮を極めた広安門の一夜に想いをめぐらし、懇ろに彼の霊を弔ったのである。」342
部隊入城の際に、城門の開扉に当たった吉冨、斉藤の両機関員は、城外に脱出し、翌朝未明苦力に変装して豊台の旅団司令部にたどり着いた。
343 事件から3か月後の10月28日の午後、私はこの戦跡に閑院宮春仁王殿下を案内した。周参謀はそのころ北京外四区の警察局長として北京に留まっていたので、広安門上で彼を殿下にお引き合わせした。
殿下が帰還されたあと、周参謀「あの時日本軍が城外部隊の兵力を増して城門突破を決心したが、その時29軍は城外の日本軍を左側背から攻撃すべく、一ヶ団以上が阜城門を出て、ここから見えるあの天寧寺の後ろに集結していた。」広部部隊の誘導が遅れていたら大惨事になるところだった。
第23章 趙登禹将軍の最期
感想 筆者は前章での周参謀でもそうだが、日本側に配慮がある人については詳述する。本章の趙登禹についても、筆者は決して悪い印象を持っていない。ひいきしている。それに対して北京市長秦徳純や三十七師長馮治安中将については酷評する。
本章はついに堪忍袋の緒が切れた7月28日早朝から始まった日中全面衝突後の第一の悲劇である。
344 南苑柳営の大爆撃
(7月28日の)4日前、137師の師長趙登禹は進徳社での軍事会議で秦徳純に厳しく怒られた後、石牌胡同の自宅で過ごしていたが、7月27日、副官と参謀一人を伴って南苑の柳営に赴いた。昨日26日の朝に郎坊事件が起こり、その夜には広安門事件が起こったので、部隊に指示を与えるためであった。
趙登禹は7月28日の朝、南苑の132師の司令部で寝ていた。朝6時20分、日本軍戦爆連合の大編隊が爆撃を開始した。参謀馮洪国が部下に対する連絡を手伝った。
馮参謀はクリスチャンゼネラル馮玉祥の息子で、昭和4、5年1929、1930年ころ、日本の陸軍士官学校に留学したことがあり、周参謀とも同窓である。
次に砲声が南苑の南方、団河村方面から、次には東方の双橋無電台方向から、さらに西方の豊台の方からも始まり、三方面から包囲された。
一木大隊、天羅荘への転進
345 南方の北寧線方面から、朝鮮から来た山下泰文少将の第40旅団が、東方から通州を通って萱島高大佐の天津歩兵第二連隊が、西方の豊台から河辺旅団牟田口連隊が進出し、三方面から砲撃した。
牟田口連隊の第一線の一木大隊は、南苑の西北方の槐房という部落を攻撃した。そこに連隊本部から曹長を通して口頭による命令が届いた。「(牟田口連隊の)第三大隊は、主力を南苑北方の天羅荘の三差路に進出し、敵の北京方面への退路を遮断すること。別に戦車隊が、その一部を永定門南方地区に進出し、貴大隊と同一任務を担当するだろう。」
346 この命令の前にもすでに牟田口連隊長は河辺旅団長から「貴連隊の一部は北京街道を遮断し、敵の北京遁入を拒止するように」との命令を受けていた。清水中隊の二ヶ小隊と、穂積中隊の山本小隊が天羅荘に向かった。
敵騎兵隊を急襲す
7月28日午前11時、天羅荘付近の一木大隊は散兵壕の中に沈んでいた。400騎の騎兵隊が街道を進んでくる。銃撃を開始し全てを殲滅した。その直後の午前11時30分、重機関銃と大隊残余の中隊が到着した。南苑からの敵の脱走兵が三々五々徒歩や自転車で北上してきたが、惨状を見て高粱畑にもぐりこんでしまった。
将軍車中に死す
趙登禹は正午過ぎに脱出を決心し、便衣に着替え、29軍の副軍長佟凌閣(とうりょうかく)と共に北京城内に潜行するための計画を立てた。
348 馮洪国参謀は最後の措置を講じるために残り、午後零時50分、趙登禹は車に乗って天羅荘に向かった。銃撃終了後、死んだ真似をしている兵が二、三いたが、哀れを催してそのまま見逃した。
副官のポケットに第132師中将師長趙登禹という名刺がたくさん現れた。背広や、信書、つまり蒋介石主席から宋哲元に宛てた電報や、宋哲元が趙登禹に与えた命令、書簡、132師将校の勤惰表などがクッションの上にあった。
乗用車の前後二台のトラックに乗っていた兵士は全員が死亡した。
便衣の男からは29軍副軍長佟凌閣という名刺が何枚か見つかった。
「趙登禹将軍陣没す」という報に接し、もっとも身近な人が亡くなったような愕きで私の胸はいっぱいだった。
趙登禹の遺骸は中島軍事顧問の手によって丁重に収容され、戦局小康を得た8月初旬、竜潭寺に手厚く葬られた。特務機関や武官室、軍事顧問部から幾多の麗しい生け花を贈り、趙師長生前の功を称えた。
独白
彼の口からはもう永遠に東亜の和平を聞くことはできなくなってしまった。――しかし将軍よ、乞う意を安んじて瞑目せよ。君を最も苦しめた秦徳純、馮治安等はすでに北京から追い退けられ、君は永遠にこの憧れの森の都、北京に骨を埋めることになったのである。私が独語しながら彼の墓前に注いだウイスキーの一瓶、それは和平が達成された暁、心おきなく飲み明かそうと語った彼とのかねての約束を果たすべく、そして真の日華提携を祈念する意味であることを知る者は、恐らく彼の霊以外、何者もなかったであろう。
感想 「東亜の和平」とか「真の日華の提携」とはどういう意味なのだろうか。それは自分と趙登禹しか知らないと筆者は言う。
第24章 抗日戦線の表面化と犠牲
350 中共の工作表面化す
昨夜7/26の広安門事件後の7/27、機関員とその家族も含めて、北京城内の日本人居留民は、公使館区域に引き揚げて来ることになった。
愛沢通訳生から、密偵が東単牌楼で、二人のソ連人が民衆に演説していたという報告が上がった。その内容は、
「盧溝橋に事件が勃発した。これは日本側の計画的行動であり、日本はこれを機会に、東北に第二の満州国を作ろうとたくらんでいる。中国は敢然起って反撃を加え、満洲の失地を収復するのは今である。今を措いて決して再びは訪れないであろう。奮起せよ。中国の兄弟よ。」
彼等は拍手喝采を受け、車で同趣旨のビラ(伝単)をまきながら東西牌楼の方へ走り去った。伝単の終わりには「中華紅軍総指揮 朱徳 毛沢東」と署名があった。
彼等の抗日地下工作は盧溝橋事件の前から始まっていた。日本人や欧米人が公使館区域に引き揚げた後でこうした工作を始めたようだ。
共産学生一千の爆滅
351 私のところに陳継良という工作員がやって来た。陳継良は早稲田大学を卒業後、土肥原将軍にかわいがられて使われていたが、それを私が工作員として引き継いでいた。陳は言った。
「私が西単牌楼で洋車に乗っていたら、抗日学生1000名がすごいデモ行進をしていた。彼らは華北や満洲各地から集まって来た大学生で、昨日まで西苑の兵営で訓練を受け、これから愛国学生義勇軍として南苑の兵営に移るところだった。」
西苑の兵営では、共産党の北方局主任の劉少奇や、25師長の関麟徴が時々やって来て、抗日をアジっていた。
「学生たちは東北大学や南開大学とか校名入りの旗を掲げていた。」
抗日教育は梅津・何応欽協定に違反し、今度の停戦協定第三条にも違反している。(265停戦協定7/11第三項267の細目は、抗日的な要素を弾圧するとある。)先日秦徳純に軍事訓練の即時停止を申し入れたはずだ。停戦協定調印の責任者張自忠が、自分のなわばりの南苑に学生を入れるのを承諾したのだろうか。
その翌日の7月28日、日本軍は南苑や北京周辺の29軍に総攻撃を加え、38師の兵と1千の学生は抗日戦の犠牲となった。
第25章 宋哲元の都落ち
秦馮ブロック俄然硬化す
353 7月24日、謝呂西がやって来て、私に情報を提供してくれた。
「7月22日に南京から参謀次長熊斌(ゆうひん)が北京にやって来て、連日冀察首脳部と懇談している。それで秦徳純と馮治安の態度が硬化してきた。宋委員長は秦や馮が中央系に寝返ったので、今後発言権がなくなるのではないか。宋が下した37師主力の撤退命令も実施されるかどうか怪しい。」
宋哲元精彩に乏し
7月25日、機関長は天津に行って一日不在だった。
既述の熊斌は、岡村寧次将軍や永津佐比重中佐の前で結んだ塘沽協定の当事者であるから、日本に対して遺恨を持っているかもしれない。
中島顧問は午後2時過ぎ武衣庫の宋哲元の公館に向かい、37師の撤退について問いただすと、宋哲元は
「天津で橋本参謀長に1か月以内と約束したが、昨日池田参謀が来たときには、後10日くらいと答えた。しかし、池田参謀がそれをさらに3日ぐらいに、と言われた。それに対して私は5日以内ぐらいと答えた。趙登禹の132師については、3ヶ団を城内に留めて警備を担当させるが、今日張自忠が天津から戻って来るのではっきりするだろう。また今後の日本側との交渉では、秦徳純、斉燮元、趙維藩、張自忠以外の言葉は軽々に採択しないよう希望する。また熊斌は私が(中国の)中央軍の北上中止を要請するために招電して来てもらったのである。」
開戦を電話通告す
355 この日7月25日の夕方、郎坊事件が勃発し、翌26日の午後、日本側が最後通牒を突きつけ、続いてその夜広安門事件が突発した。
秦・馮の急進派は7月19日の蒋介石の廬山声明の「対日抗戦4原則」を盾にとり、一方穏健派の張自忠らは、7月20日に蒋介石から宋哲元宛てに送られた親展電報「今次事件に関する原地協定は中央でも容認する。和平解決への努力に遺漏なきを期すべし」を根拠に反駁した。
7月28日午前零時、天津軍の池田参謀から機関長宛てに電話があった。それは「宋哲元に対して開戦の通告を発するというもので、その内容は、
「協定実行の不誠実と屡次(るじ)の挑戦行為は、最早我が軍の隠忍し能わざる所なり。就中、広安門における欺瞞行為は、我が軍を侮辱する事甚だしきものにして、断じて許す能わず。軍は茲に独自の行動を執ることを通告す。なお北京城内に戦禍を及ぼさざるため、即刻、全部の部隊を城内より撤退することを勧告す。
昭和十二年七月二十七日
日本軍司令官 香月中将
二十九軍長 宋哲元 殿」
さらに池田参謀はそれに付け加えて「軍は本日正午を待つことなく、早暁から行動を起こし、全面的に二十九軍に対する掃滅戦を開始します。」
武田嘱託が北京市政府秘書の朱毓真(しゅいくしん)を呼び出し、秦徳純を通じてこの開戦の通告を宋哲元に提出した。28日午前2時であった。
松井機関長悲壮の訓示
357 機関員一同は暗然として、一語を発する者もない。我々は7月7日以来専心一意、不拡大工作に徹底してきた。
機関長「親愛なる冀察を、そして二十九軍を、何とかして我々と共に歩ませようとした努力もむなしかった。我々はただ東亜の和平と日華の共栄をだけを希った。我々の任務はこれで終わったわけではない。あくまでもこの北京城を護らねばならない。これは非常に崇高な重大な任務である。」
私は直ちに特務機関の非常警備を発令した。和戦両様ではなくなったからだ。私は背広から軍服に着替えた。
358 7月28日の朝、北京城外でゴーッというものすごい爆声が振動を伴って響いてくる。フランス駐屯軍は平常と何ら変わりなく、朝から喇叭のけいこをやっている。
ここ交民巷は北清事変議定書に基づく列国共同の租界であり不可侵地帯だ。これを犯したら、それは中国の自殺行為である。
機関の表門に土嚢が積まれ、広部大隊の重機関銃が一挺据えつけられた。タイピストたちはそおっと機関銃に手を触れて見ながら、いかにもそれがたのもしいといった表情を浮かべてほほ笑んでいた。(これは高市早苗の今の気持だろう)
作戦兵団から情報電報が機関に集まった。
南苑は川岸兵団が確実に占領した。
鈴木重康兵団は沙河鎮で交戦中。
豊台は危機に瀕したが、河辺兵団が南苑の攻略後に反転し、ようやく危機を脱した。
高市早苗の防衛意識とはこんなものかも
1937年7月7日の、北京城南西方向に位置する盧溝橋付近での日中衝突事件から始まった日中戦争ですが、その後もいくつかの衝突事件があり、その一つに7月26日の広安門事件というのがあります。北京城内の日本人居留民の保護に向かった日本軍が広安門を通過中に、中国軍が城門を閉ざして城壁の上から射撃を始めたというものです。結局日本軍は死者や負傷者を出しながらも、日本の諜報機関(北京機関)と中国軍との交渉により、何とか日本人居住区にたどり着けたのですが、その後防衛のために、居住区となる公使館区域の周りに土嚢を積んだという話の後に次の本文が続きます。
機関の表門に土嚢が積まれ、広部大隊の重機関銃が一挺据えつけられた。タイピストたちはそおっと機関銃に手を触れて見ながら、いかにもそれがたのもしいといった表情を浮かべてほほ笑んでいた。
撤退監視役派遣問題
進徳社から電話があり、「宋哲元は決心を変更し、北京城内に132師の2ヶ団だけを留め、宋軍長、秦徳純副軍長以下29軍全部が、今夜11時に阜城門を経由し、門通口を通って、永定河右岸に撤退する。ついてはその時刻に阜城門に日本側から確認に来てほしい」というものであった。
討議の結果、(時間をはぐらかして)視察は7月29日明朝の市内ドライブで行うことにした。
宋哲元西直門を脱出す
7月28日の夕方、進徳社の首脳たちは、南苑の38師が潰滅して趙登禹が戦死したという知らせに衝撃を受けた。また特務機関斡旋の手づる、親日分子の張壁の工作は、日本側の峻拒によって断ち切られた。
宋哲元は張自忠に冀察の後を委嘱した。張自忠は親日家である。彼を北京に留め、日本側との善後交渉に当たらせる。斉燮元、張允栄、張壁などの長老や、若手でも知日派なら北京に残留された。
宋哲元の都落ちは、憲兵司令の邵文凱(しょうぶんがい)中将にも秘密にされた。宋哲元らは7月28日の午後10時、北京城西直門を出発した。先頭の車に秦徳純、2番目の車に宋哲元と張維藩、3番目の車は、誰か分からなかった。(長辛店楊駅長の証言)馮治安ではなかった。馮治安は1時間前にすでに門頭溝に向かっていたからだ。
宋哲元の一行は万寿山街道を走ってまず西山へ、そこから門頭溝へ向かい、7月29日午前零時過ぎ、永定河を越えて門頭溝に到達した。そこには37師の兵が大勢いた。馮治安はここで宋哲元らと合流し、保定に南下した。
29軍撤退後の北京
361 7月29日午前4時、北京市政府秘書鄭文軒から特務機関に電話があった。「北京城内にあった29軍は、132師の一部を除いて、全部が撤退を完了した。宋委員長は(中国の)中央軍の北上を阻止するため、また病気療養のため、昨夜、冀察政務委員会委員長と綏靖公署主任の代理を張自忠に命じ、また北京市長の職もこれに兼任させ、秦徳純や陳継庵等と共に保定に向かって出発した。機関長や武官によろしくとのこと。」
夜が明けると今井武官は東単牌楼や鉄獅子胡同、西単牌楼などを視察し、特務機関の数名も、天壇、先農壇、緑米倉等、昨日まで29軍が充満していたところに行ってみたが、そこには中国兵はいなかった。城門の警備は巡警がやっていて、土嚢を片付けていた。
宋哲元と都落ちした要人の家々はこの日から英米独伊仏の国旗が翻っていた。財産維持のためだろう。
感想 「抗日」「侮日」「匪賊」などの意味が分かりました。それは日本軍に対する抵抗であり、強力な日本軍を侮辱する行為であり、そうする人たちは日本軍から見たら盗賊のような匪賊のように見えるのでしょう。「抗日運動の取り締まり」に関して日本軍は、中国側との協定(塘沽停戦協定)の中にさえ、その文言を入れています。その協定を中国側が破れば、つまり日本軍に対して失礼な行動を執れば、武力行使をしてもいいという条約を結ばせています。それは武力行使の口実を作りたかったのかもしれません。
第26章 通州事件 通州は北京城の南東に位置する。
感想 通州事件7/29の原因を、29軍の宝通寺部隊(713団の第1営)に対する攻撃での、保安隊への誤爆7/27と考える説もあるが、前日7/28の南苑に対する攻撃に対する反撃とも考えられるのではないか。
日本軍は7月28日の正午を最後通牒の期限としていたが、それも半日早めて早朝から南苑の攻撃を行い、その前日の27日には、最後通牒付き攻撃と同等なことを、29軍の宝通寺部隊に対して行っている。7月26日午後7時に、広安門事件が発生。通州事件は7月29日の早朝に発生した。
感想 平頂山事件1932.9.16→通州事件1937.7.29→南京事件1937.12.13等住民虐殺事件
通州事件は平頂山事件や南京事件等に匹敵する中国側による一般人を含めた日本人に対する略奪、惨殺事件であるが、これは、平頂山事件の仕返しとも考えられないか。平頂山事件の報に接した多くの中国人が撫順から南方に逃げ、米人のジャーナリストも世界に報道していたから、通州の中国人もその話を聞いていたに違いない。(日本人は南京事件についても平頂山事件についても、極東裁判まで知らされていなかった。)
また通州事件7.29当時、日本軍はその前日の7月28日の朝から最後通牒を実行に移して北京市の南苑で軍事行動を起こしていたし、2日前の7月27には、通州の(29軍の)717団第一営に対する軍事行動(宝通寺攻撃1937.7.27)を起こしていたから、それらの影響もあるのではないか。それとさらに冀東保安隊に対する誤爆事件7.27が起こり、そういった影響の中で、中国人による暴動事件・通州事件が起こったと考えられる。
冀東政府の概貌
363 通州は冀東政府の根拠地である。 (関東軍による)関内作戦*が終わって塘沽停戦協定が結ばれ、北京に戦区政務整理委員会ができ、同時に通州に薊密(そみつ)区督察専員公署ができ、殷汝耕が督察専員となって通州にやって来た。
専員公署は冀東防共自治員会に、さらに冀東防共自治政府に名称変更された。
364 冀東防共自治政府(長官・殷汝耕)は、カーキ色の(日本軍の)美しい軍服を着た冀東九千の保安隊を養い、それを4つの総隊と1つの教導総隊に分け、それを長官が統括指揮をした。
365 保安隊の兵隊は18歳から20歳台の若者で、通州の城門や要所を固め、日本の将校に対して捧げ銃の敬礼をした。
この保安隊は塘沽協定第4条「非戦地区の治安は特に定めるところの警察隊をもってこれを行う」に基づき、規模は大きく、蒋介石軍に対抗するつもりだった。冀東保安隊は機関銃も野砲も持ち、保安隊幹部訓練所は日本の陸軍士官学校のようであった。
殷汝耕が南京に盾ついて一旗揚げたと聞くと、候補者が殺到し、俸給をもらって天津や北京で遊んだ。その数200人であった。面積は四国くらい。一方で「冀東解消」という叫びも起こっている。
*関内作戦 関内作戦(かんないさくせん)は、1933年(昭和8年)の熱河作戦の直後、日本軍(関東軍)が万里の長城を越えて山海関(関内)以南の河北省北部に侵攻した軍事行動。長城線まで熱河を占領した日本軍は、さらなる安全確保と中国軍の排除を目的にこの作戦を行い、この後5月31日に塘沽協定(タンクーきょうてい)の締結に至りました。
主なポイント
時期・場所:1933年4月〜5月、万里の長城以南の冀東(きとう)地域。
目的:熱河作戦の拡大版として、長城を越えて中国軍(国民党軍)をさらに南へ押し出し、満洲国の安全と関東軍の対ソ連戦略的優位を確保する。
結果:日本軍が河北省の大部分を占領し、長城以南に非武装地帯を設ける塘沽協定に結びついた。
この作戦は、満洲事変(1931年)から日中戦争(1937年)へ至る過程の重要な軍事衝突の一つです。
通州特務機関の人々
366 通州特務機関長の細木繁中佐は、冀東政府を指導し、「諸政革新大綱」を立案した。冀東(政府)が彼に豪華な機関長邸宅を提供しようとしたが、細木繁は言下に辞退した。
補佐官の歩兵少佐甲斐厚は冀東(政府)の運営を企画・指導し、保安隊の顧問を兼任した。(冀東政府が傀儡だということが分かる。それも関内作戦の成果なのだろう。)
優柔不断な傳(ふ)営長
鈴木重康中将隷下の奈良晃歩兵連隊は、これより先、錦州(大連の北西)を出発し、天津に赴き、さらに通州を経由して、北京の北郊、順義高麗営*方面に転進し、すでに北京の大包囲陣を完成していた。(*順義は北京市の北東。高麗営はその鎮。順義区高麗営鎮)
また天津駐屯の歩兵第二連隊は、先に広部大隊を広安門経由で北京に入城させたが、その主力は萱島連隊長が率い、北京東方地区からその包囲陣を完成すべく、そのころ通州の省立師範学校に待機していた。
367 通州特務機関は、通州新南門外宝通寺に駐屯している29軍の1ヶ営の「処理」問題を抱えていた。この部隊は独立第39旅長阮玄武隷下の歩兵少将傳鴻恩(ふこうおん)営長の717団の第一営である。
傳鴻恩は盧溝橋事件直後、細木機関長に対して「万一事態拡大の暁には、私は第一営を提げて、さっそく日本側に寝返ります」と密使を通じて申し出た。細木機関長はその具体的な方法の取り決めに関して憲兵を連絡に出したが、傳鴻恩は曖昧な態度で、重火器を持ったまま冀東保安隊に改編して欲しい様子を示した。これではいつ冀察側に寝返るかも知れず、機関は26日夜、次の通告文を作った。
通告
29軍は常に不信と不義を以て我に対応し、本日(7月26日未明)また郎坊で重大な事態を惹起した。貴部隊が停戦協定線上に駐屯することは、冀東の安寧に害があるので、貴軍に対し、27日午前3時までにその武装を解除し、北京に向かって撤退することを要求する。
もしこの要求が実行に移されなければ、(日本)軍は爾後独自の行動に出る。この際生じる責任は当然貴方において負うべき性質のものである。
なお、武装解除に応じる場合、将校に限り、刀を帯びることを許可する。
宝通寺部隊を攻撃す
368 その(7月26日)夜の深夜、通州守備隊で、萱島大佐(天津歩兵第二連隊)、細木中佐(通州特務機関長)、小山砲兵隊長、藤尾守備隊長らが軍事会議を開き、新南門外宝通寺に駐屯する29軍に対する武力決行を決定し、萱島連隊長が作戦命令を起案した。品部大隊が南西城壁に、小山哲郎中佐の砲兵隊は無線電信所付近に位置した。
午前3時、中国軍から何ら返事がなく、7月27日午前4時、城壁の上から機関銃が火を吐き、砲声が鳴動し、友軍の爆撃編隊が爆弾を落とした。
わが軍は将校以下6名が戦死し、26名が負傷した。これは新設連隊の初陣だった。27日の午前11時までに残敵掃蕩が終わった。
保安隊誤爆事件
この宝通寺の29軍に対する攻撃に際して、爆撃隊が、宝通寺の兵営と隣接する冀東保安隊幹部訓練所を誤爆し、死者と負傷者それぞれ数名を出した。
細木通州特務機関長は、冀東防共自治政府の殷汝耕長官に陳謝し、遺族と負傷者への慰謝・療養方法を申し出た。
7月27日、機関長は現場を視察し、遺族に弔意を表明し、翌7月28日、教導総隊幹部を冀東政府に招いて慰撫した。その結果、保安隊員は表面立って爆発しなかった。
デマに躍った保安隊
南京の放送局は満州事変以来デマ放送を流していたが、盧溝橋事件以後は活発な宣伝を始めていた。7月27日ごろ、北京特務機関は南京放送ニュースを傍受した。
「日本軍は盧溝橋の戦場で我が優勢な29軍と交戦の結果、支離滅裂の敗戦に陥り、豊台と郎坊は完全に我が手に奪還した。
北京及び天津方面の日本居留民は家財をまとめ、目下満洲、朝鮮、本国に向かって引き揚げを急いでいる。日本軍は旬日のうちに華北一帯から姿を消してしまうだろう。
我が中央軍は津浦(天津・浦口)、京漢(北京・漢口)両鉄道によって、華北の戦野に兵を進めており、蒋介石委員長も、今すでに河南省鄭州に達し、一両日中に保定に赴くだろう。
なお最近北京における軍事会議の結果、蒋介石委員長は近く29軍を堤げて大挙冀東を攻撃し、偽都通州を屠り、逆賊殷汝耕を血祭りにし、満洲失地恢復の第一声を挙げることを決議した。」
通州のような田舎では情勢に疎く、冀東の保安隊にはこの放送が魅力と迫力を以て浸み込んだ。
371 もし宋哲元が日本軍を撃破して冀東に攻め込んだ場合、殷汝耕についていれば危険である。殷長官を生け捕りにして北京の宋委員長に献上したらどうか。今日本軍の兵力は一番少なくなっている。
冀東の保安隊総隊長の張硯田と張慶余は反乱計画を立てたらしい。郭鉄夫が彼ら総隊長をたきつけ、共産学生もこれに合流した。
宝通寺攻撃のあった7月27日、辻村中佐が兵站司令官として通州に着任し、事務所を通州守備隊の中に開設した。
萱島部隊が27日に宝通寺へ出て行った(出撃した)ので、今28日現在の通州の防衛は、通州守備隊の藤尾小隊の40名、山田自動車中隊の50名、それに憲兵、兵站、兵器部その他を集めて110名である。
通州守備隊暁の敵襲
372 7月29日の明け方の4時、辻村中佐は銃声で目を覚ました。新南門には6名の監視兵と保安隊の一部が警戒に出ていた。敵兵力は1000名以上で、傳鴻恩の一ヶ営くらいのものではない。
辻村中佐は守備地区の高級先任者として、藤尾(守備隊の小隊)、山田(自動車中隊)の両隊を統括指揮した。非戦闘員も銃を持った。
山田自動車中隊の50名は7月26日の夜以来この守備隊の北側兵舎に泊っていて、これから弾薬輸送のために出発しようとしていた時だった。中隊長の山田正大尉は、郡司准尉を西正面に、望月少尉を東正面に、望楼と衛兵所北側の突角に、大塚上等兵を配置し、杉山分隊と堀尾分隊は予備隊として(山田)大尉のそばに置いた。
敵が冀東の保安隊であることが判明した。
藤尾守備隊長の陣没
辻村司令官と藤尾守備隊長は本部屋上で指揮していた。通信所の有線は切断され、無線で交信しようとしたが、応答がない。藤尾守備隊長が双眼鏡で見ようとした途端に敵弾が命中した。
ガソリン2500罐の大爆発
7月29日午前9時、敵は、守備隊の東北方向2、300メートルのところにある満洲電電公社の高い建物を占領し、その脚下の広場に野砲4門を据え付けた。守備隊は軽機関銃と、小銃、手榴弾だけで重火器は持っていなかった。
山田自動車隊は榴弾を受けてほぼ全壊した。山田中隊長の目の前で堀尾栄一上等兵に野砲が命中し、影も形もなくなった。
午前11時、営庭の東南角にあった2500罐のガソリンが砲弾を受け、あたりの視界がなくなり、敵は砲撃を中止した。その時日本軍機が1機東南方面からやって来た。鈴木混成旅団のプスモス機で、満洲航空の飯島が操縦していた。私が7月16日に乗せてもらった飛行機だった。しかし通州の上空を数回回った後、北の熱河を目指して飛び去って行ってしまった。1時間沈黙していた敵の砲撃が再開した。砲弾の近距離射撃はすさまじい。砲弾がトラックの弾薬に命中し、砲弾の破片が周囲に飛散した。
熱河空軍の大爆撃
敗色が濃くなった辻村中佐は、香月軍司令官宛てに二通の報告書を書き、中国人通訳にそれを託した。
砲弾が当たった弾薬は午後4時まで4時間爆発し続けた。
熱河承徳の中富秀夫大佐隷下の戦爆連合の三編隊10機が飛来した。飯島飛行士から連絡を受けて来た。中富の独断によるものであった。
辻村中佐は、飛行機からの信号拳銃に答え、敵の方角を示す矢印を屋上に描いた。爆撃が始まり、敵は城外に敗退した。
米俵や麦俵や藁布団を土嚢代わりにして入り口に積んだ。
5名の朝鮮婦人が駆け込んできて、通州邦人の大虐殺のおおよそを伝えた。
救援隊派遣の入電
376 7月30日の深更1時半に、河辺旅団司令部から、萱島部隊の主力を派遣するとの無電が届いた。
それとは別に、関東軍の酒井機械化兵団司令部付の大島修理重兵大尉が到着した。大島は右腕に負傷していた。
大島は順義に駐屯していたが、昨日7月29日、反乱保安隊が襲撃して来た。大島は通州で保安隊が叛乱を起こしたことは知らなかった。大島は城外の北門附近で大勢の保安隊に遭遇し、制止されたが逃げた。保安隊の規模は100名から200名位で、城門の外に弾薬多数と野砲4門が放置されていた。順義で戦死11名、負傷は私(大島)の他1名。無傷の者が萩原曹長を含めて10名であった。
河辺旅団長に以下の通り電報で報告した。
「冀東保安隊は29日夜は攻撃して来なかったが、目下城北の教導総隊付近に集結している。兵力は砲兵一中隊、歩騎工合計2000名である。我が方の損害は、戦死、将校2、兵18、負傷、将校1、下士官1、兵11。計33名である。」
第27章 惨劇の跡を弔えば
通州特務機関の全滅
7月30日の朝から一般の避難者が守備隊に逃げてきた。
通州特務機関員の生存者平沢、鎌田らの話によれば、
7月29日の未明、反乱保安隊の主力は通州守備隊を襲撃したが、中尉の指揮する1ヶ中隊は特務機関を、腰だめ軽機関銃、自動小銃、太刀、銃剣等で襲撃した。機関員は拳銃と軽機関銃で応戦した。
少年給仕の西村、杉原が、情報室の暗号書や情報諜報上の機密書類を焼却したところで、機関銃で殺された。甲斐少佐も銃弾に倒れた。島田福太郎嘱託、緒方次吉、村尾正直、今岡逸治機関員も死亡し、通州特務機関は全滅した。
通州城北門の公館にいた機関長細木中佐について、通州城をいち早く脱して北京に逃げた冀東政府建設庁長の王厦材によれば、
細木中佐は7月29日朝5時近く、冀東政府門前で保安隊に取り囲まれて車の外に出たところを殺された。
浜田巡査部長一家の惨劇
380 通州邦人大虐殺の報が伝わると、日本国民の血は、にわかに逆流し始めた。――中国を叩け!蒋政権を倒せ、通州殉難二百の仇を報ずるまでは、断じて戦の矛を収めるべからず――世間はごうごうとして、日本全土を風靡した。
領事官警察巡査部長、浜田末喜氏夫人静江談
381 「やがて夜は次第に明け放たれてきました。平常顔見知りの近所の中国人がだんだん集まって来て、このありさまをジーッと冷たい眼で眺めているのが、本当に口惜しゅうございました。」
「北門内の銃殺場、女子師範学堂に引っ張られて行きました。私より先に捕まえられた20人あまりの内・鮮人が来ておりました。」
382 「この掠奪は保安隊だけがやったのではなく、近所の住民がこのドサクサに便乗し、何から何まで運び去ったことは明瞭でした。」
浜口特務機関員兄妹の死
通州特務機関員浜口良二氏の夫人、茂子さんの話。
385 「でもあの日、日本軍の飛行機の爆音が聞こえた時のうれしさ――ああこれでやっと助かる――生まれてこの方、こんな有難いと思ったことはありませんでした。」
386 「こうして主人は遂に命を堕としてしまいましたが、でも、光栄ある特務機関員の一員として、お国のために大陸の土となりましたことは、どんなに本望だったことでございましょう。」
「兄妹そろって靖国神社にお祭りしていただけるとうかがいまして、今となってはただそれだけが、せめてもの…」と言ったまま、夫人はハンカチで顔を掩って嗚咽した。
近水楼の大虐殺
386 同盟通信特派員、安藤利男は銃殺場を脱出し、北京にたどり着いた。
387 ホテルのガラス戸超しにカーキ服の保安隊、黒服黒帽の学生らしい者が走っている。
「皆さん逃げましょう」絹を裂くような女の声!一散に城壁の崩れを上へ上へと駆け上がりました。
391 萱島救援部隊の到着
7月30日午後4時ごろ、増援隊の斥候6名が到着し、萱島連隊長の伝言を述べる。「部隊は28日、南苑での戦闘で30数名の死傷者を生じた。その運搬に守備隊から自動車2、3輛を至急拝借したい。」山田自動車隊が西へ向かった。
7月30日午後、望月少尉の偵察隊が在留邦人を探索した。特務機関、旭食堂、領事館警察、法人家屋、近水楼、北門脇の細木機関長の公館を回る。城壁近くの女子師範学堂の広場にカラスや野犬が群がる。70何人という日本人の銃殺死体だった。
冀東二カ年の栄華の歴史は遂にここ通州事件という一大残虐史を以てその幕を閉じた。
第28章 殷汝耕救出記
感想 ここは通州事件の後始末。殷汝耕の処分問題と、29軍のボスが去った後の北京市の統治問題(第29章 治安維持会の成立)について扱う。殷汝耕は冀東政権の表向きのボスだったから、その保安隊の反乱に責任ある立場であったが、叛乱軍からみれば、殷汝耕は日本側の傀儡であるから、突き上げられて29軍の審判を受けるべき人物でもあった。そこで反乱軍に捕らえられた殷汝耕を救出するという問題が生じた。
朝陽門外の反乱保安隊
395 7月30日、荒木五郎という品格のありそうな男が機関を来訪した。朝陽門外で通州反乱保安隊が武力で開門を要求しているとのこと。私は警察局長・潘毓桂(はんいくけい)に門を開けないように連絡するとともに、朝陽門へ荒木とともに急いだ。荒木は北京市に住む元軍人の浪人で、満洲に移住していた。実は荒木は張作霖の模範旅長の黄慕将軍だった。私は黄慕や張宗援将軍(伊達順之助)をかねてから知っていた。
396 朝陽門の城壁の上に上がって見ると保安隊の規模は800人くらいだった。私は機関に戻って機関長に報告した。また通州特務機関の全滅を知った。
張硯田、張慶余遁走す
反乱保安隊は朝陽門から北側の東直門へ、そこから西北方の安定門へ、徳勝門へ、西直門へと向かった。西直門は万寿山へ通じる枢要な街道である。
保安隊総隊長の張硯田、張慶余は、宋委員長や秦市長が保定に向かい、北京市の政務を日本軍が代行し、盧溝橋の戦いで中国軍が永定河の西に敗退したことを知ると、万寿山の方向へ向かった。7月30日午前9時半のことである。副官は総隊長(張硯田)の命令を部下各隊に伝達し、各隊は北京城の北側を西進し、京綏(けいすい)鉄道*を横切り、西直門から万寿山に向かうアスファルト街道に出ようとした。*京綏鉄道は、北京と内モンゴル自治区の綏遠(現・フフホト)を結ぶ。
7月29日正午、清河鎮の攻略を終わった関東軍の鈴木兵団242はその夜、清河鎮の南、八家という部落で宿営し、夜11時、兵団命令を下した。
命令
一、兵団は本夜7/29、有力な一部を以て西苑を奪取し、主力は明30日、西苑、五堆子、西直門を連ねる線に向かって前進す
二、酒井機械化兵団は、依然前任務を続行すべし
三、右縦隊(麦倉連隊を基幹とするもの)は30日午前6時、七軒房を出発し、西苑に向かって前進すべし
四、左縦隊(奈良連隊を基幹とするもの)は30日午前6時、八家を出発し、五堆子に向かい、前進すべし。
鈴木兵団と反乱保安隊は期せずしてアスファルト道路の万寿山街道で遭遇することになった。
この関東軍は田舎の熱河から出てきた。
午前10時50分、反乱保安隊が奈良部隊に猛射撃した。
保安隊は殷汝耕を宋哲元に献上しようとして縛って連行してきていた。
張硯田と張慶余は全てをなげうって便衣服に着替えて高粱畑に隠れた。
落魄の殷汝耕と語る
7月30日午後零時30分、保安隊は頭首を失い、残された幹部は殷汝耕の縄目を解いた。殷汝耕長官は保安隊員に「私はすでに長官としての立場を失ったのだから、皆さんの指揮はできない。皆さんが今後どうしたらよいかを問われるなら、私に日本側と交渉させなさい」と言い、安定門外環状鉄路の駅舎から日本大使館の今井少佐武官に電話した。私は武官室から連絡を受け、安定門へ向かった。保安隊は大人しくなっていた。私は保安隊の一人に殷長官を呼びにやらせた。
1935年昭和10年2月、私は殷汝耕と、玉田保安隊移駐勧告のために玉田県城に乗り込んだ。殷汝耕が薊密区督察専員だったころである。その時が初対面だった。殷汝耕の妻は静岡の三浦女学校卒であり、私も静岡の出身だった。彼はその後池田墨を伴ってよく天津明石街の私の家を訪れた。
反乱保安隊対策会議
400 殷汝耕の救出処理は武官室の仕事で、反乱保安隊の対策措置は特務機関の仕事である。私は殷汝耕から通州事件の真相を聴取した。
殷汝耕を憲兵隊の牢屋に抑留すべきか、それともホテルに宿泊させて保護すべきか、武官室は軍の意向を確かめた。結局、渡辺雄記事務官が数名の憲兵とともに安定門に行き、殷汝耕と専属伝令1名だけに(北京城)入城を許可し、東交民巷の六国飯店に、見張りの憲兵をつけ、局外者との面接を遮断した。
特務機関は反乱保安隊に対する対策会議を開いた。笠井半蔵少佐や広部大隊を誘導した中島弟四郎中佐は殺してやると言ったが、機関長は「憲兵や警察局が保安隊の武装解除をした。武器を持たない者を殺すのはどうかな。」私も「列国軍が環視している、武器を持たない者を殺せば、日本側に不利になる。飯を食べさせることはないが」
結局殷汝耕以外の保安隊を放棄した。保安隊は関東軍に北京北郊から追われて張家口へ向かい、湯恩伯の軍に合流したようだ。
殷汝耕は数日後、天津の軍司令部に護送されて軍律会議にかけられた。関東軍は極刑を求めたが、通州事件は彼が引き起こしたものではないことがはっきりしたので、1か月後に釈放され、北京安定門内前円恩寺16号金粟軒の自宅に落ち着いた。
第29章 治安維持会の成立
治安善後対策の考察
403 7月29日の朝、特務機関で、宋哲元の北京撤退後の北京の冀察政権の運営方法に関して連絡会議を開催した。
宋哲元が張自忠に政務を引き継いで出て行ったから混乱はなく、機関も張自忠政権に対して従来通りの対応でいいかと思っていた。しかし市政府秘書の鄭文軒が冀察政権の新機構案を(日本側の機関に)提示してきたところ、天津軍司令官がそれを否認した。
冀察政権は、南京行政院が本会議で可決した法案に基づいて成立しているのだから、日本側はそれを否定できないのではないかという考えに対して、満洲国を日本側が作ったとき、諸列強は、それを認めるのも認めないのも自由だったから、冀察政権も日本側が認めなくてもいい、という意見でまとまった。従って冀察政権の顧問という立場も棚上げになる。(民族自決という原理のない勝手な論理)
北京城内の治安維持は、張自忠に任せるのか、それとも柳条溝事件直後の土肥原機関のように、軍政を敷いて機関がそれを監督するのか。後者のような占領地行政は、宣戦布告もしてないのだから、無理だ。当たらず触らず民衆に自発的に治安を維持させるのがいい。老北京の今村佼廉医師や大倉洋行の林亀喜らの意見を聴いてみたらどうか。満州事変とは異なり、日本の官吏は措くべきではなく、北京人、華北人が政務をやり、日本人は表に出るべきではない。
今村と林は、中国でよく見られる伝統的な過渡的統的形式の治安維持会を推奨した。そして北京財界の冷家驥(れいかき)や鄒泉孫(すうせんそん)に計画を立てさせたらどうかと勧めた。そこで(今井)武官を含めて5人が審議した。
江朝宗の出馬懇請
405 冷家驥は豪商で、鄒泉孫は資産家で、共に北京の商務総会を牛耳っている。
冷家驥or鄒泉孫「我国の歴史は治乱興亡幾変遷だが、こういう時の善後処置は決まっていて、手腕力量が卓越した声望家を民間に求めるべきであり、野心家や軍閥的な人はいけない。」「江朝宗が第一番です。北京の全民衆に信望がある。もともと国務総理を勤め、人格高潔で一点の私心もない。しかし七十何歳という高齢で引き受けるかどうか。」
冷家驥、鄒泉孫、今村佼廉、林亀喜の4人が江朝宗に出馬を依頼したところ、江朝宗は今の北京の苦境を思いやり、治安維持会主席を引き受けた。
今井武官と松井機関長は、江朝宗を特務機関に迎えた。
この日7月29日午後2時、江朝宗の家で準備委員会を開催。中国側7人、日本側は今井武官など冀察関係の顧問数名が「オブザーバー」として参加。(なぜ日本人が関与するのか。すでに傀儡。)
決定事項
一、この会を「北京特別市地方維持会」と称呼する。
二、本会の主席に江朝宗を推薦する
三、北京公安局を維持会の下に置き、局長として藩毓桂を任命する
四、起草委員として梁亜平、鄒泉蓀、呂均、冷家驥、林文竜の5名を任命し、細部の条項を立案する。
明日7月30日、地方維持会成立典礼会を開催。29日の真夜中に運営事項の詳細が決定した。
ああ傷心の張自忠
7月30日午前8時、特務機関に張允栄、張璧、鄭文軒(通訳)を伴って張自忠が訪問した。張自忠の親日的の部下38師は7月28日に全滅したが、一方、抗日の馮治安の部下37師は、永定河の西で健在である。
張自忠は冀察政務委員会代理委員長として訪問した。張自忠「宋委員長は、和平目的のために中央軍の北上を阻止し、また37師の保定移駐を指導する目的で保定に行った。私は宋委員長の和平主義に則り、華北の明朗化を実現するよう努める。」
機関長「今北京城内梅檀寺の兵営に132師の一部が保安隊に改編して残留しているようだが、これを即刻城外に撤退させてもらいたい。」
北京地方維持会の結成
7月30日午後3時、私は江朝宗邸での維持会典礼に出席した。
中国側は一流の人材を網羅し、その構成分子は、政治的な手腕力量よりも、民衆の輿望をもつ有力者の方が優先された理想的人選だった。
江朝宗は各主任委員を任命し、9章からなる規定を決定した。
北京公安局の隣に事務所が開設され、維持会成立の佈告が街のあちこちに貼りだされた。
維持会は、現銀南送防止装置、敗残兵、共産党、藍衣社の策動封止などの対策を行った。
笠井顧問を機関の政務部長にし、維持会の運営に協力した。
*藍衣社 蒋介石直属の国民政府の情報工作機関
第30章 北宛の武装解除
今井武官、工作を指導す
410 北京城の南の郊外に南苑の兵営があり、西の万寿山のほとりに西苑の兵営がある。そして北方の郊外には北宛の兵営があり、そこでは阮玄武将軍が29軍直轄の独立歩兵39旅を指揮していた。それ(独立歩兵39旅)は、石友三将軍の黄寺の兵営から東北に2キロのところにあり、事変勃発直後、北京城の北面警備を担当する冀北辺区保安隊総司令石友三の隷下に入れられていた。
石友三は日本軍との衝突を回避しようとし、何回も私や今井武官に連絡してきた。阮玄武も石友三と同意見だった。
7月15日、私は関東軍との連絡のため古北口に赴いたとき、鈴木重康旅団長に阮玄武のこの意向を伝えておいた。
関東軍はその主力を、密雲、懐柔に集結し、高麗宮、順義に第一線を置いた。
7月28日、日本軍による全面攻撃の命令が下され、(関東軍の)鈴木、酒井の両兵団は北京北郊一帯の敵陣地に向けて殺到した。この報に接した北宛の指揮官阮玄武は、日本大使館の今井武官を訪ねた。
411 今井武官が降参の意を示す白旗を掲げるように勧めると、北宛の兵営は白旗を掲げた。
7月28日、(関東軍の)鈴木、酒井の両兵団は、攻撃の重点を右翼の、精河鎮や沙河鎮方面に集中し、北宛は避けた。
7月31日、阮玄武は今井武官を訪ねて、武器の接収を願い出たので、8月1日に接収を開始することにした。
両軍代表の会見
8月1日、阮玄武と、武官室の渡辺雄記事務官と浦野大尉とが北宛に向かったが、安定門の城内に冀東の反乱保安隊がうろついていて、警察局長が城門の開扉を禁じていたので、この日は断念した。
関東軍の奈良連隊は、北京の西北地区で残敵掃蕩をしていて、7月31日の夜は半壁店で露営し、8月1日朝、清河鎮に向かった。途中、川岸兵団の岡崎騎兵隊の大浦騎兵将校斥候(長)に会い、その斥候長は、(奈良連隊に)「北宛の3000余の中国兵が白旗を掲げている」と伝えた。
8月1日午後3時、清河鎮に着いた(奈良)連隊長は、旅団の小林参謀を通じて、北宛の武装解除を具申した。それを鈴木中将が認可し、(鈴木中将は)船引高級参謀を奈良部隊に派遣して指揮させた。
船引参謀は奈良大佐連隊付きの堀井富太郎中佐と相談し、北宛の阮玄武あてに、通告文を認めた。
「善後措置の協議のため、8月1日午後5時30分に、長以下7名の軍使を北宛の西1キロの窪辺部落東端に派遣せしめられたし」
これを通信筒におさめ、プリモス機で北宛上空から投下した。各大隊は北苑を包囲した。
阮玄武旅長を代表して副官長董樹彬上校が部下6名とともにやって来た。中国語が堪能な堀井中佐が交渉委員長となり、船引正之中佐が武装解除を担当した。中国側は無条件降伏を承認した。
船引参謀や堀井中佐、小嵐大尉の第二中隊、第一機関銃中隊の主力は、午後8時20分、(阮玄武側の)軍使とともに北宛の兵営内に入った。
11時30分、安定門外盧井の部落、奈良連隊の背後で銃声が聞こえたが、第三大隊が応戦して間もなく鎮静化した。また8月2日午前3時、昨日軍使が会見した窪辺部落を300の敵が来襲した。そこで宿営していた連隊の大行李に他の全員も加勢して対応し、交戦1時間後に終了した。
414 砲撃を阻止すべく
今井武官から私に電話があり、奈良連隊長が、北宛部隊の一部が、奈良部隊の大行李を襲撃したとして、午前8時に、北苑を攻撃すると阮玄武に通告したという。私の車に阮玄武の中校参謀と新聞記者が同乗し、武官室の浦野大尉の車の2台で、景山の北徳勝門から城外に出た。
私は奈良連隊長に攻撃中止を勧告し、このことは古北口でも鈴木旅団長に了解済みだとも付け加えた。
奈良連隊長は間違いを認め、城内の栴檀寺兵営から132師の敗残兵が城外に出て、奈良部隊の大行李にぶつかったのだということが、捕虜を調べてわかったと言った。
武装解除順調に進む
奈良連隊長は堀井中佐を武装解除委員長に任命し、小嵐中隊を指揮させた。
私は堀井中佐を5年前から知っている。堀井中佐は第一次上海戦当時、私に代わって白川大将の軍司令部付として出征した。
弾薬は北京から来た中島中佐が爆破処理した。
第31章 北京籠城記
居留民の対応。この文章で扱われている時期の終わりごろ、つまり、7月28日の朝に日本軍が全面攻撃を仕掛け、宋哲元が北京城を脱出(7月28日午後10時)した後では、北京市在住の日本人にとっては住みやすくなったようだ。
居留民会活動を始む
417 7月7日夜10時40分、盧溝橋畔で不法の第一弾が放たれた。
7月8日午前5時半、日華両軍が本格的な交戦状態に入った。
このことを北京の一般大衆が知ったのは日中だったが、ボスは大使館を通じて知っていた。大使館に集合した人々は以下の通り。日本居留民会会長で医師の小菅勇、民会議長で医師の今村佼廉、東京日々の三池亥佐夫支局長、島津久大書記官、安藤吉光官補。このとき寺平と桜井顧問は宛平城内で交渉していた。
7月8日午前8時、居留民会会議室に民会役員が集まった。小菅会長「時局特別委員会を設置する。引き揚げの準備をする。領警の石橋丑雄が大正15年に作成した引き揚げ計画がある。民会の統制に服せ」
明治33年1900年の北清事変の時にも北京に籠城した。37年前の当時は、公使西徳次郎男爵、石井菊次郎一等書記官、武官柴五郎大佐、文学士服部宇之吉以下軍民合わせて145名だった。
今回は内鮮人合わせて4000名、守備兵はわずか2、30人、大使館は食糧事情から居留民の数を減らしたかった。しかし(北京奉天間の)北寧鉄道は止まってしまった。
島津久大は副領事であり、居留民関係の仕事を担当していた。島津は人道上という立場を振りかざして中国側と交渉し、婦女子送還列車を出させようとするとともに、居留民会に内地引き揚げ勧告を出した。
交民巷へ引き揚げの諸準備
7月9日午前4時、西城新街口南大街14号の忠順飯店に宿泊していた松田実男の部屋に15、6名の中国兵が乱入し、拳銃5、6発を乱射し、夫人の顎を銃剣で刺して重傷を負わせ、金品を奪った。このとき主人は不在だった。
以後西城に住む者は、夜間はできる限り東城の知人宅や居留民会の施設に宿泊させた。物価が高騰した。
居留民の兵役関係者を集めて義勇隊を組織した。隊長は小菅軍医少佐、副隊長は文部省の研究員で予備役少尉の麓保孝が当たった。
西城では「日本人に食糧を売ったら3年間の禁錮刑」「日本人に自動車を貸したら死刑」という風説が流れた。
420 日本人経営の華字紙「進報」(武田南陽経営)や「新興報」(猪上清四郎経営)は、事件後、中国側が検閲時間を手間取らせ、昼頃に発売許可を出した。
7月9日午後、北京阜城門駅で文林洋行の主人奈良教文が失踪した。下車時に中国兵が逮捕し、城壁上に連行し、銃声が2発したという噂が伝えられた。
7月14日、事件後初めて列車が北京から出て、300人が天津や大連や内地へ引き揚げた。以後毎日日本人ばかりを載せた列車が走った。7月23日、島津書記官から私に、現在の内地人の数は1100名、朝鮮人が1300名合計2400名残っていると連絡してきた。
公使館区域内の旧オーストリア兵営に朝鮮人が収容された。大勢の木匠が建築を急いだ。英国駐屯軍がテントをいく張りか提供してくれた。
大使館のテニスコートに仮小屋が立てられた。大使館階下の大ホールに107名が寝泊まりできた。加藤伝次郎書記官の官舎には107名が寝泊まりできた。
情勢いよいよ急迫す
421 島津書記官が私のところに連絡に来た。「東単牌楼を中心に、哈噠門大街と東長安街で、中国兵2、3ヶ中隊が、公使館区域を包囲し、機関銃口を向け、夜は練兵場の柵を越えて来ている。また公使館区域内の東単牌楼の西側に塹壕を掘り始めている。」
7月20日、宋哲元が山東省樂陵から北京に来ると、土嚢が撤去され、戒厳の兵隊数も減り、宋哲元の布告が貼りだされた。「市民よ、軽挙妄動するなかれ。意を安んじて業にいそしみ、平静を保持することが肝要である。時局の鎮静も近きにあり」
しかしこれはほんの一時的小康にすぎなかった。2、3日後、「学生抗日慰労団」という大旗を掲げた一隊が、乗用車やトラックで北京市内を練り歩き、29軍の兵士を激励して扇動した。また「民族先鋒隊」が、「全日本人を虐殺せよ」とわめき、共産党員徐仲航が指導する「北京文化界抗敵後援会」は、文化人100名を動員し、「王城北京を護れ」を標榜する和平派の文化人と意見の対立をきたした。
422 北京は天津と違って近代工業に従事する労務者はほとんどいない。また万余の洋車工会には組織力がない。しかし大学生が29軍や保安隊に働きかけ、夜になると、29軍がたむろしている胡同から抗日歌を合唱した。
7月26日朝の時局特別委員会で小菅委員長は「昨夜郎坊で日華両軍が衝突し、戦闘は今なお継続中である。天津から北京居留民保護のために1ヶ大隊が急派された。」とのこと。しかし広部大隊は午後3時には入城の筈だったが、現れない。5時、西城の広安門から機関銃と手榴弾の爆声が聞こえた。
居留民引き揚げの諸様相
423 事件勃発の1週間後、森島守人*参事官が北京大使館の総元締めとして内地から赴任した。森島は、広安門事件の晩に、天津軍が北京総攻撃に踏み切るという決意を聞いて、協議会を開いた。協議会の参加者は、加藤伝次郎(一等書記官)、山田久就、島重信、島津久大(三等書記官)らである。森島は居留民全員の(公使館区域への)引き揚げの決意を固め、その旨を、27日午前零時半、竹中末夫書記生を通じて、小菅民会長に伝達した。
*1937年4月、東亜局長、5月、北京・上海大使館参事官。Wiki
27日の明け方6時、大使館からの引き揚げ命令を義勇隊員が各戸に伝達し、昼までに9割8分が公使館区域に集まった。但し東方文化事業総委員会の横川時雄と小竹文夫等は文献を守るために東廠胡同の書庫に残った。午後3時15分、民会委員20余名は正金銀行の内庭で会合を開いた。
424 河辺旅団の北京入城
28日の黎明、日本軍が南苑や西苑で攻撃を開始した。(公使館区域の)交民巷を29軍が包囲した。午前8時半、王府井大街の南口で、中国兵が、公使館区域から出ようとした米国憲兵5名の騎馬隊を狙撃し、2人に負傷を負わせた。
米英当局も(公使館区域への)引き揚げ命令を出しており、それ以外の国の外人も引き揚げを始めた。
朝鮮人会の食糧事情は悪かった。
29日の朝、宋哲元の都落ちの報を聞き、居留民はほっとしたが、北京城内には29軍の残兵が便衣隊となって潜伏しているとの流言が伝わったり、通州邦人虐殺の報が届いたり、反乱保安隊が朝陽門に押しかけてきているとの情報に接したりして、居留民は立ちすくんだ。
8月4日、酒井機械化兵団が盧溝橋から北京を通過して通州に向かう際に、居留民は午前10時、交民巷前の舗道で日の丸の小旗を振って迎えた。市内の治安は急速に回復した。
8月5日は正午から午後6時まで、6日は朝6時から午後6時まで、居留民の自由外出が許可され、北京地方維持会警察局の巡警が巡回し、略奪はなかった。
8月8日11時、北京常駐の河辺兵団司令部が盧溝橋から北京市内に帰って来て、河辺旅団長、牟田口連隊等の入場式が行われた。東単牌楼で北京地方維持会主席の江朝宗が河辺旅団長を出迎えた。
426 8月9日早朝、大使館は全居留民に避難解除命令を出した。ただし西城の76名は2、3日間自宅復帰を見合わせた。
オーストリア兵営の管理国であるオランダ公使館は、土地の貸与代として18円しか受け取らなかった。
7月7日から8月8日までの33日間、苦しかった。現地軍官民は終始一貫不拡大方針に徹した。あの大きな時局の波に抗して、王城北京を兵火の巷から救った。
第32章 事件の分析と考証 盧溝橋事件の検証
427 不法第一弾の実体は何か?
7月7日夜10時40分、不法の第一発が清水中隊の頭上を飛んだ。何者がそれを放ったのか、今日までまだ何らはっきりとした結論は得られていない。
総理大臣近衛文麿は日本側が怪しいとし、後の法務大臣犬養健は、中共の中間策動に違いないとした。近衛は日本軍が華北権益の把握を焦慮した結果の謀略行為だとし、犬養氏は、事件後頻発した中共の策動から推定した。
射撃を目撃した野地小隊長や清水中隊長、それに一木大隊長や赤藤憲兵分隊長は、29軍による仕業と考える。私もそう考える。
「発射地点に関する考察」
私は事件直後現地で清水中隊長以下下士官兵に直接確かめた。彼らは異口同音に「発射地点はあの竜王廟南側、トーチカ付近の堤防上だとし、弾数は合計18発ぐらいだったと記憶します」と教えてくれた。戦傷を負ってその当時入院中だった野地小隊長の手記にもそう書かれている。
従って「両軍の中間地点から」とか「死角から」撃ってきたという説は覆される。
中間策動説は否定される。日本軍の方には飛んで来たが、中国側には飛んで行かなかったからである。中間策動だとすると、中国側もびっくりするはずで、馮治安に急報し、通信連絡で既設線を利用するだろうし、中国側から(日本側に)「不法射撃をした」と抗議があるはずだ。私は事件勃発以来日中交渉に当たったが、日本軍による不法射撃だと言われたことがない。私以外の交渉に当たった人も同様である。
当時の小銃18発は、一人や二人で撃ったものではない。目撃者によれば、閃光はかなりの間隔をもって行われたとのことだから、少なくとも数名が交互に発射したと想像される。
両軍の距離は僅か1000メートルで、平坦な土地であるから、この中間に何名かの工作員が割り込んでくることは、実際非常に難しい。また発射位置は死角という、射撃しやすく離脱しやすい場所からではなかった。以上の通り、中間地区からの策動説は影が薄くなる。
「中国兵がやったという事実」
秦徳純は8日午前2時半、桜井顧問に「城外には断じて配兵していない」と弁明したが、これは事実に反する。乃ち7日夕刻に中国兵は陣地を掘っていたし、河務局工兵の証言によれば、夜間は一ケ小隊くらいが陣地についていたとのことであるし、8日の午前4時に清水中隊長が発射点近くの堤防上で親しく中国兵と談話しているし、さらに交戦後、発射位置付近に29軍の正規兵の死体が点々と転がっていた。これらのことからすると、中国側が城外に配兵していたことは明らかである。
前記の副軍長秦徳純の言葉は、原則論であり、現実論ではなかった。
日本軍の河辺少将旅団長は、この堤防上の工事の進捗状況に気を配っていた。
推察
6月中旬、南京の軍中枢部から、何応欽の名で、29軍に対して、訓電が発せられた。「最近軍事緊迫の折り柄、日本軍の夜間演習に対しては特に警戒を厳重にし、虚に乗ぜられて不測の事態を生起せざること肝要なり。」
29軍219団の団長吉星文は部下に「日本軍は演習の名目の下に、近く宛平県城を奪取する企図を抱懐している。現地守備兵はこれに対し、万遺算のないよう昼夜警戒を厳重にせよ。」
この命令に基づいて現地指揮官は堤防上に塹壕を掘り始め、終夜これに配兵し始めたと思われる。そして7日の夕刻、竜王廟の東に清水中隊が固まっているのを見て、中国兵は徹宵陣地を離れなかった。清水中隊が遠ざかってゆくと思いきや、とたんに午後10時40分、軽機射撃が始まった。恐怖心、警戒心、敵愾心が働いたのだろう。思わず2、3発?064 続いて集合喇叭が鳴り始めると、これを攻撃開始の合図と思って、撃てと18発。
これが一番真相に近いように思われる。
「二十九軍の計画説」
430 もし29軍自らがあの事件を計画したとすれば、その指令は馮治安から出ているはずだ。馮治安は抗日の権化であり、盧溝橋部隊の直系師長でもあるからだ。
しかし我々が直接団長や営長に会って話したことからすると、工作命令が吉星文団長や金振中営長を経由した形跡がない。例えば8日の朝5時30分、両軍がいよいよ本戦惹起の時、金振中はびっくりして我々との会見室から飛び出し、部下を大声で叱呼し「撃つな、撃つな!」と連発した。さらに城壁上に駆け上がり、身を挺して兵の射撃を抑制し、部下の幹部を面詰した。もし彼自らが命令して起こした事件なら、その部下の目の前で、あれだけ大胆な制止抑圧ができるはずがない。また吉星文が宛平城内で私に「本当に困ったことが起こってしまいました。」と言いながら眉をひそめた表情は、ごまかした態度とは受け取れなかった。
結局これは連長や排長以下の行動となる。また計画的行動なら、戦術上の見地から一文字山には一部の兵が配置されてしかるべきである。計画的としても、連長以下の無謀な蛮勇か、嫌がらせくらいにしか解釈できない。
「馮玉祥の策動説」
431 クリスチャンゼネラル馮玉祥*は日本嫌いで、かつてその最高顧問の松室孝良に「日本の政策は性分に合わない」と洩らした。一方、ソ連や中共とは親しくしていた。
*馮玉祥 1933年1月の長城事変に危機感を持った馮玉祥は、5月26日、吉鴻昌、方振武らと共に張家口で「察哈爾(チャハル)民衆抗日同盟軍」を結成し、その総司令に就任した。しかし蒋介石と汪兆銘は「同盟軍」の存在を許さず、8月5日に下野し、泰山に隠居した。Wiki
馮玉祥は反蒋運動に失敗してから、西北の地盤と兵力を失った。盧溝橋事件当時は、軍事委員会副委員長という実権の伴わない空名を与えられ、南京と廬山(江西省、南京の南西方向)の間を往復していた。中共が企図する「逆九・一八」構想を知っていたに違いない。
馮玉祥は火付け役になろうと決意し、旧部下だった馮治安を扇動した。これによって中共側の計画よりも先に盧溝橋事件が引き起こされたという説である。
彼は共産側とつながりがあり、同じ系統の石友三、韓復榘から策謀に関する情報が流れていた。馮治安を扇動したことは確かだが、それを受けて馮治安がどう動いたかについては、具体的な根拠がつかめていない。
「日本側の策謀説」
432 民間右翼団体説と軍の中堅幹部説等があるが、中間策動か死角の利用でもしないかぎり不可能である。第一発の発射地点が堤防上であるから、日本側の工作員が中国兵のいるところまで潜入しなければならない。それは考えられない。
右翼団体は昭和8年1933年1月1日、山海関事件*を作為した。満洲国国境警察隊を使嗾(そそのか)して日本憲兵隊に手榴弾を投げさせ、日華両軍を抗争に導いた。しかし盧溝橋事件では、憲兵や領事館警察に尋ねてみたが、そのような形跡はまったく見かけなかった。
*山海関事件 満州事変後の1933年1月、日本軍は満州国と熱河省との接点である万里の長城の山海関で中国軍を攻撃し、そこを占領した。これは熱河作戦の引き金となり、その後の華北進出と、満洲国の国境拡大を決定づけた。
軍の策謀説 盧溝橋事件が、和知機関、茂川機関、北京特務機関などによる策謀だとする説は当初は喧伝された。
和知中佐は軍の高級参謀であり、軍の不拡大方針に尽力した。つとに「西南派工作」に力を注ぎ、盧溝橋事件では軍参謀長の命をうけ、不法射撃の数時間後、北京特務機関に来て、不拡大工作に尽力した。
茂川少佐は回教工作の権威である。関東軍参謀の田中隆吉中佐が、茂川を盧溝橋事件の黒幕だと決めつけた。田中は7月9日天津に来て、茂川を盧溝橋事件の火付け役だと面と向かって決めつけた。
433 北京機関説 柳条溝を奉天機関がお膳立てしたように、今度は北京機関がやったとする説である。補佐官が当夜十河信二と飲んでいたのがあやしい。子分が盧溝橋に行くことも可能だ。
しかし、柳条溝の時は事件後軍は素早く行動した。一方盧溝橋では旅団長は南大寺の検閲に出張していたし、北京駐屯の木原大隊は、通州で徹夜で演習していた。そして軍司令官田代中将は病気危篤であった。
また清水中将は7日の夕食を食べたままで、その後の食糧の用意はしておらず、31時間空腹で戦闘を続けた。また演習の装備であり、鉄帽も被っていなかった。
「冀東側の策動説」
434 1936年から1937年にかけて「冀東解消」という呼び声が(中国側の中で、それとも日本側の中で?日本側の中でか?それならなぜ?)高まってきた。冀東を冀察に合併し、完全な河北省として宋哲元政権を強化しようというのである。これは「華北処理要綱」の狙いであった。
一方、(冀東の長官)殷汝耕は、冀察の地盤を崩壊させようとしていた。殷汝耕は匪賊の劉桂堂や軍閥の孫殿英と交流したり、関東軍参謀の田中中佐や、天津軍参謀の専田少佐に相談したりした。専田少佐は土肥原少将の女房役であり、冀東政権樹立工作を担当した。専田少佐は殷汝耕の話を聞くと、馮治安の37師の少校参謀の李を手なずけた。李参謀は朝鮮籍である。李のもとに専田参謀を通じて冀東から工作費が送られた。しかしこれは日本側の某機関から馮治安に警告が発せられ、結局、李参謀は、何もできなかった。盧溝橋の不法射撃が李によって計画されたとは考えられない。
「中共側の策謀説」
中共側は声を大にして「逆九・一八」を呼号していた。中共側が(日中戦争の)拡大者だったという確証はいくらもあるが、最初の一発が中共によるものであったという証拠はつかめていない。
(盧溝橋)事件全般を通じて、中共側の常套手段は「中間策動」だった。常に学生を使嗾し、土砲*と爆竹を用い、本物の鉄砲は用いなかった。
*土砲とは鉄パイプなどを用いた原始的な自家製火器。
また工作員の身の安全と正体を暴露させたくないという見地から、常に両軍の陣地からかなり隔たったところでやっていた。八宝山の場合では、両軍との距離は6キロも離れていた。そして退避に容易なように、中心線より少し外れたところでやっていた。それに対して、盧溝橋の第一発は、その距離わずか1キロ足らずであった。中共側が、青年学徒にそれまでの危険を要求したかどうかも疑問である。
また中共が青年共産党員など多数の工作分子を29軍の中に混入させたのか、あるいは29軍の兵士を買収懐柔して射撃させたのか。それなら清水中隊長が、午前4時、彼らの目と鼻の先に現れたときに彼を射殺したら、それは立派な「逆九・一八」になる。それをしなかったのは、中共側だとしても、単なる末輩者の私的行為に過ぎなかったのではないか。
秦徳純以下の幹部も、29軍の中に断じて共産分子は介在しないという。無智な中国兵が単に疑心暗鬼や恐怖感から引鉄を引いたと見るほかない。清水の大胆な行動を見て、背後の日本軍の大軍を想像し、自分たちの方がやられてしまうと考えたのではないか。
436 もう一つの見方 馮治安は今井武官に「宛平城に向かって毎晩機関銃を発射した者がある」という。中国兵はこの矯激(過激)な分子に対して反感を抱いていたに違いない。そのとき日本側の仮説敵の空砲射撃3、40発を耳にして応射した。
岡村寧次大将の所見「私は軍司令官として3年も北京に在住し、その間盧溝橋の戦跡を訪ねた。宛平県城の弾痕は真北からの弾痕が大部分である。つまり中国側が宛平城に向けて撃ったのである。竜王廟にあって日本軍を射撃した中国軍は、29軍ではなくて共産軍ではなかったか。日中両軍に向けて撃ち、両者の戦闘を誘発したのではなかったか。竜王廟奪取後、遺棄死体に29軍将校を装わしたのも理解しにくい」
しかし宛平城北側城壁の弾丸の大半は日本軍のものであり、それは戦闘詳報にもある。
総合判断すると、あの第一発は偶発的で計画的ではなかったと思われる。
現地最高指揮官だった北京駐屯歩兵旅団長河辺正三少将「私は盧溝橋事件に関し、市ヶ谷法廷でも証言したが、日本軍の立場に暗い所はない。あれだけ日本の立場を無視した東京裁判においてすら、この事件に関する限り、ついに一言も、「日本軍の謀略行為だった」とは申しておらぬ。」
この点、奉天柳条溝事件を「計画的なものであった」と断じたのに比べ、全く異なっていた。
行方不明の兵の動向
437 エドガー・スノー「7月7日の夜遅く、一人の兵士が脱走したのを口実に、日本軍は不意に宛平の町に入り、城内の捜索を要求した」
志村菊次郎は東京下町の出身で、1937年3月、豊台の清水中隊に初年兵として入隊した。旧制中学を中退し、身体はあまり丈夫ではなく、保護兵の扱いを受けていた。彼は中隊長のもとに伝令に出され、その帰途、方向を失った。
私は事件直後、野地小隊長の手記を読んだり、清水中隊長からも話を聞いたりした。日本軍では逃亡兵などめったにいなかった。
またある知識人の研究雑誌に、「この兵は用便のために一時隊列を離れた」とあったが、軍紀厳正な演習中に無断で隊列を離れるような大胆不敵な行動は絶対考えられない。
第八中隊長清水節郎大尉「野地少尉のところから伝令が来たそうだが、私はそのとき兵の教育のために中隊指揮班の位置を離れていて、その報告は三浦准尉が聞いたと思う。私はその伝令に全く気が付かなかった。私は手記の中で用便云々について記したが、それは仮定の話であり、事実ではない。」
東京裁判での秦徳純の供述書「松井特務機関長から(宛平)城内捜索の申し出があった。日本軍が中国側に何等の了解もなく実施した演習において、たとえ兵が行方不明になったとしても、その責任まで一々負わされていてはかなわない。またもし捜索の必要があるなら、我々が宛平城内の県警察に命じ、捜索させたらことは足りる。あえて日本軍の入城などは必要としない」ごもっともな理屈である。
これに対し、北京特務機関長松井太久郎大佐「武力をもって城内を探索させろなど、そんな無茶なことは言えるはずがない。これは連絡を取り継いだ林耕宇がでっち上げて秦徳純に報告したか、秦徳純が作為したか、いずれかに違いない。私は林耕宇に対し、(盧溝橋)事件の真相調査と、衝突防止のために、人を現地に派遣されたい、と電話しただけで、兵の捜索など要求していない」
中国側の著書『八年抗戦』にも同様のことが記されており、これには、私と桜井顧問が宛平城内に入ってから兵の捜索を要求したことになっている。しかし私も桜井顧問も、すでに発見された兵の捜索など要求するはずがない。
7月8日の夜、私と西田顧問が、秦市長の迎えの車で、張允栄邸に赴いた晩、林耕宇が自らが発行する『亜州日報』を持って来て私に見せた。そこには「寺平は城内に入って兵を捜索する意見を堅持して譲らず」とあり、それに私が抗議すると、林耕宇は「実情を知らない記者が書いた。私だったらこんな嘘は書かない」と言った。
(兵の捜索要求が)創作でなければ、林耕宇が、志村一等兵が20分後に発見されたということを聞き逃したのだろう。
私が主張した東門の開放と兵の行方不明とをからませ、(林耕宇が)城内捜索要求をでっち上げたのかもしれない。
またこのように白黒はっきりしたことを秦徳純が国際法廷に持ち出すのは軽率である。
演習実施上の諸考察
439 当時華北には米英仏伊の各国軍も駐屯していて、(中国に対する)「共同防衛」の場合には、日本軍司令官が統括指揮することになっていた。
演習を熱心にやるのは日本軍だけで、列国軍は国際儀礼軍隊の感が深く、きらびやかな服をまとい、パレードのような教練をやっていた。米軍は夜、自国のダンサーや中国人女性クーニャン姑娘とともに、軍楽隊が演奏する中を舞踏に興じていた。
一方日本軍は「国防の最前線を守る作戦軍」を自覚していて、ロンドンタイムズの特派員は「日本軍は実に頻繁に演習をやっているが、これで事故が起こらなければ奇蹟である」と評した。
440 演習の権限は、北清事変議定書、特に1901年6月の追加事項にあり、それは駐兵権に伴う付帯事項である。
私は米国の「植民地第十五連隊」の野外演習の観戦武官として同行したことがある。彼らは鉄道から20キロも離れた田舎に泊りがけで演習をした。議定書には演習実施場所に関する規定がない。(中国側から)抗議もなく、議定書改定の試みもなかった。ただ実弾演習だけは、場所と日時を中国側に予告することになっていた。
一木大隊が駐屯していた豊台部落は、花卉や蔬菜など農場地帯だったので、不便だったが4キロ離れた盧溝橋の原で演習をした。この原は過去の永定河の氾濫のせいか、砂まじりで石がごろごろしていて、砂利取り場になっていて、作物は落花生くらいしかできなかった。
永定河の中州で実弾演習をすることもあり、中国兵が橋の上から見物した。日本軍が宛平城内を行進したことも何回かあった。
441 あのような緊迫した時期になぜ夜間演習を強行したのか。当時、4、5月ごろから、抗日の空気が華北全域に兆していた。当時は「中期検閲」が予定されていて、流言蜚語ぐらいでとりやめることはできなかった。(やはり無理筋か)
反省すべきことは、軍上層部が検閲実施の緩和策を講じていたら、あのような事態にはならなかったのではないかということである。また夜間演習に重点をおいた理由は、当時陸軍が、対ソ戦一辺倒で、ソ連の稠密火網を避けるために、夜間や黎明、払暁の攻撃を考えていたことである。事件直前、千葉の歩兵学校から千田大佐が豊台に出向き、この(夜間)戦闘法の指導をする予定であった。
秦徳純は7月7日の演習について、法廷で「中国側に何らの許可もなく実施した演習だ」と供述し、法廷もそれを認め、「あの夜事件が起こったのは、そうした緊張と不安の雰囲気の中においてであった」と断じたが、演習予告は旅団の松山副官から林耕宇を経て提出されていて、林耕宇も私に受け取ったと認めている。秦徳純の供述には根拠がない。
衝突回避の事前対策
「(中国軍と)絶対衝突を起こしてはならぬ」これは上は三宅坂から下は現地の一兵卒に至るまで一貫した方針だった。参謀本部作戦部長石原莞爾少将は、北進論の主唱者であった。
442 北京駐屯歩兵旅団河辺正三少将「私は1936年5月、新編旅団長として華北に赴任するに当たり、石原作戦部長に挨拶に行った。その際、石原莞爾は「参謀本部には中国と事を構える考えは毛頭ない」と言い、私もそれを了解した。翌年1937年6月、岡本中佐が天津軍の動向視察に来た。彼は私がベルリン大使館付武官をしていたときの補佐官だった。」
北京旅団副官松山良政少佐「私は岡本中佐を旅荘に訪ねた。岡本は「今頃(満州事変の)柳条溝みたいな事件を引き起こしても、中央は全然取り上げない。今、軍備充実五カ年計画の実施第一年度だから」と語った。」
豊台第八中隊長清水節郎大尉「日本陸軍が対ソ戦に全てを投入して準備・訓練し、二面作戦の愚を避けることに努めつつあったことは明瞭である。1937年の春、私は軍からある方面の地形偵察の密命を受けたが、その時調査班長長峯喜一中佐は、私に、「対ソ戦の初期において中国側がもし日本軍を攻撃して来るようなことが起きた場合、天津軍は独力でこれを拒止しなければならない。そして状況悪化の場合、軍は長城線まで後退し、この線を死守することによって関東軍に後顧の憂いのないようにする。これが対ソ戦に即応するための天津軍の重大な責務である。」この話を聞いて私は初めて(対中国)徹底不拡大の精神が納得され、日華親善の重要性が心に刻み込まれた。」
443 1937年5月、天津軍参謀長橋本群少将は、隷下に大勢の帰趨を説いて軍の軽率妄動を戒めた。
旅団長河辺正三少将は、事件直前の7月5日、検閲視察のために南天寺に赴いたが、その出発間際まで電話で、一木大隊長に自重自戒を要望し、中国の策動の乗らないように注意するとともに、特に永定河堤防上での中国軍陣地構築作業については細心の注意をするように言った。(それなのに実際は挑発に乗ったのではなかったのか。)また、松山(良政)高級副官に対しては、中国側に演習通告をするように厳命した。
清水中隊長の事件勃発時の措置は慎重だった。応戦せず、兵をまとめ、西五里店に引き下がった。戦術常識からすれば、一文字山に兵を集結すべきだったが、もし中国側がそこに兵を配置していたら衝突が起こるだろうから、絶対の安全を考えて、西五里店に引き下がった。
各級指揮官の心境
混沌とした状況下での責任者の状況判断や決心は微妙であり、苦衷そのものである。
当夜の指揮官第八中隊長清水節郎大尉「不法射撃を受けた直後、速やかに上司に報告しなければならないと考え、岩谷曹長を伝令として豊台に飛ばせた。次に中隊として今後取るべき行動について考え、四つの選択肢が浮かんだ。
一、直ちに堤防上の中国軍を攻撃し、状況によっては宛平城を武力で占領する。
二、堤防上の敵を襲って俘虜を獲得し、敵情を捜索し、一文字山の要点を占領する。
三、現状を維持して、上司の指示を待つ。ただし敵兵策動の顧慮ある場合、若干、その位置を移動する。
四、兵全員の集結が終わったら、状況に拘泥することなく、直ちに部下を率いて豊台に戻る。(私だったらこれだね。不拡大の方針なのだから。)
第一案 中隊単独でも成功の自信はあったが、軍の方針、上司の訓諭を思い浮かべ、これは明らかにその意図に反すると判断した。
第四案 これは余りにも消極退嬰に過ぎはしないか。敵から弾を食っておりながら、その実情さえ確かめようとせず、敵に背を向けて引き下がって行くことは、日本軍としてのプライドがどうしても許さなかった。(プライドなどと言っているから大事になるのだ。)
第二案 これは極めて緊要な措置であるが、これを強行すれば、不期戦を誘発しかねず、軍の方針を壊してしまう。やるにしても上司の指示を仰いでからでも遅くはない。そこで中隊としては第三案を採ることに決めた。
携帯の弾薬は各人30発だったが、この弾薬量は少ないとは思わなかった。夜間であるから、必中は期せられない。また必要なら豊台迄まで4キロ、伝令を飛ばせば十分補給が間に合う。」
1938年6月23日、東京帝国ホテルで開かれた朝日新聞主催の座談会(私も参加)で、一木豊台第三大隊長「私は中国軍から撃たれたということだけならピンと来なかったが、兵隊が一人いないということを聞いて一大事だと思い、すぐに警備呼集をやる決心をした。」
それに対して第八中隊長清水節郎大尉「兵の行方不明は重大問題であるが、あの時の状況では、兵が敵に捕まったり、鉄砲で殺されたりしたとは私は考えず、捜索しなくてもやがて戻ってくるものと信じていた。私が岩谷曹長を豊台に飛ばせたのは、不法射撃を報告するのが目的であり、兵のことは付帯事項に過ぎなかった。岩谷曹長がどう報告したか、大隊長の感じとしては兵の行方不明の方が重点みたいになってしまったらしい。」
この考え方の相違は大隊長が午前2時3分、一文字山で清水中隊長から、兵発見の報告を聞いてご破算となった。
1940年5月、千葉市登戸の一木氏宅において一木大隊長が私に語った。豊台第三大隊長一木清直少佐「大隊は一文字山を占領し、夜明けを待って宛平城内の中国軍と交渉しようと思っていた。ところが午前3時25分、再び先方から三発の射撃を受けた。私はこんなことを繰り返していたのでは、交渉を始めるといったところで、果たして先方が素直にこれに応じるのか疑問である。宛平城を攻撃し、一つひっぱたいた後で交渉するのも一法だと感じた。」
「午後4時過ぎ、牟田口連隊長から電話がかかって来た時、私はこの心境を報告し、「断然攻撃すべきだと思います。連隊長はお許しになりますか」と水を向けた。」
「連隊長から即座に「やってよろしい」との返事があったので、今度は私の方が面食らってしまった。私は「えらいことになりますが本当にやってよろしいのでしょうか」と念を押した。すると牟田口連隊長は「やってよろしい。今4時20分、私は確実に命令を下した。」と言った。私は天下晴れて堂々の攻撃ができる。」
「宛平城を攻撃せず、竜王廟堤防の線に向かったのは、桜井顧問の意見に基づいたものである。」
446 (牟田口)連隊長の心境 1961年7月7日、市ヶ谷台上防衛研修所戦史室において、牟田口連隊長は、私にその心境を述懐した。第一連隊長牟田口廉也大佐「前年の9月18日の豊台事件のとき、一木大隊長は「断乎当面の中国軍を武装解除する」と言ってきかなかったが、私はそれを認めなかった。また私は37師の副師長の許長林少将に、「私の部下は御覧の通り今激怒の極に達している。しかし貴軍がすでに誠意をもって謝罪された以上、我々は友軍たる29軍に対し、武装解除の汚名を着せるようなことをしたくない。日本軍のこの気持をはっきり宋委員長に報告しておいて欲しい」と説明した。
ところが桜井顧問が29軍の公文書を見たところ、許長林の提出した報告には「日本軍は中国軍の威に怖れを抱き、遂に武装解除すらやり切らず…」と記されていた。これでは猛り立つ一木大隊長を押しとどめ、武装解除を止めさせた(私の)武士の情けも水の泡、却って彼から(私は)馬鹿にされた形である。
私はムカッと腹が立った。「ヨシッ、先方がそういう魂胆なら、この次やった時には承知せんぞ」と腹を決め、中隊長以上を集め、この旨を訓示した。(牟田口連隊長はすでに1年前から、不拡大方針から感情的好戦姿勢に傾いている)
7月8日の未明、(交渉のために)森田中佐を盧溝橋に派遣するにあたり、(私は森田に)「中国側が、「相手を日本軍と知らずに射撃した」と言ったら、その言い逃れを認めてやるように、事件は絶対起こしてはならぬ」と言い聞かせた。
午前4時過ぎ、(一木)大隊長が2回目の不法射撃を報告してきたとき、私は明暗(その時の明るさ)を問いただしたが、大隊長は「日本軍だとはっきり分かる明るさです」と答えた。
私は日本軍だと分からずに撃ったということを平和解決の唯一の手掛かりにしようと思っていたのだが、先方は意識的に挑戦してきたのである。それでもさらに「そこから敵陣は分かるのか」と問いただしたところ、「手に取るように分かります」と答えた。
いたずらをした子どもを叱る時、なまじのなだめ方をすると却ってだんだん大きいいたずらをするものである。事件を最小限に食い止めるためには、この際一喝を食わすことがもっとも賢明な方法ではないかと私は考えた。そこで遂に4時20分、戦闘開始の命令を下した。」
当夜の旅団長河辺正三少将について、旅団高級副官松山良政少佐が語っている。
「7月7日の深夜、河辺旅団長は南大寺の演習場で、軍無線の高井大尉から暗号電報を受け取った。空電のため意味がはっきりつかめない。盧溝橋付近で何か事件が起こり、一方の軍が発砲したらしい。河辺旅団長は豊台に行って不拡大の処理をつけるといい、軍の飛行機で山海関の北郊、天下第一関の外側飛行場を、8日早朝に出発し、天津に戻った。
天津では飛行場で大木参謀から事件の顛末を聞き、軍参謀長と不拡大の措置を打ち合わせた。
正午過ぎの列車で豊台に着き、盧溝橋駅頭で牟田口連隊長と会見した。永定河の方から砲声が轟いていた。
感想 「不拡大」とは対中国戦争の不拡大を意味し、それは対ソ戦争に備えるためであった。それでも牟田口にも見られるように、非常に日本は横柄であり、不拡大方針を破っている。
拡大派と不拡大派 (天津軍の)大木参謀の発言に関する「北京特務機関交渉日誌」
「7月8日午前2時40分、小野口旅団副官から電話
(豊台の)旅団が(天津の)軍の指示を仰いだ。それに対して(天津軍の)大木参謀は「不法射撃に対しては断乎中国側の陳謝を要求すべし。現地に交渉に赴くにあたっては、一ケ中隊を帯同し、宛平城の東門を占領し、中国軍を西側城門まで退避せしめ、双方の代表はその中間地区に在って交渉を開始すべし。必要に応じ、武力発動をも敢行すべし」との指示があった。」
これより先、午前零時10分に、事件の第一報が機関にもたらされた時、松井機関長は即決「不拡大処理」の肚を決め、「直ちに代表を現地に派遣」という構想を描いていた。
事実一木大隊から一ケ中隊を抽出する余裕はなかった。私は(天津)軍の(大木参謀の)指示に拘泥せず、単身城内に飛び込んだ。
中国側と交渉する時に、私は東門云々について触れておくべきだと判断した。森田中佐が後から一ケ中隊を東門に差し向けたら衝突は必死だからである。交渉は余計なことだ。
午前3時、橋本参謀長は松井機関長と、「絶対不拡大」を確認し合っている。
天津軍参謀長橋本群少将「私は細かい指示まで軍命令として出した覚えはない。大木参謀の指示内容は貴下(松井機関長)同様、私も不可解である。細部の手段方法は現地の状況に応じて臨機応変に処理すべきである。
これは敢えて推測すれば、電話での問答の結果をまとめたものではないかと推測できる。「武力発動をも敢行すべし」は、軍の意図に反する。大木がそんなことを言うはずがない。」
第一連隊長牟田口廉也大佐「私も当時小野口副官から大木参謀の言として同様のことを聞いている。しかし個々の具体的な行動は、森田中佐が現地の状況に応じて適宜取るべき手段であり、軍から一々指示される性質のものではないと考え、私は格別の指示は与えなかった。
大木参謀は交渉の安全を期するために、あのように言ったのではないか。これ以上不祥事を起こさせてはならないという意味だったのかもしれない。(戦闘が起これば、それは不祥事ではないのか。)不拡大方針に悖るとは考えない。(この判断には異議あり。)」
大木は繊細で女性的であり、向こう見ずの急進派ではない。
天津軍の将兵は不拡大について徹底した信念を持っていた。例外もいたが。
一木大隊の通信班長小岩井中尉は、事件勃発の報に踊り上がって喜んだ。前年1936年の9月18日、彼は中国兵から馬の尻を叩かれて憤激し、豊台事件の初動をなした。実害をもたらすことはなかったが。
(天津)軍の専田盛寿少佐参謀も、事件を知って会心の微笑を洩らし、7月11日、天津から北京の今井武官に電話で「停戦協定に調印するのは見合わせろ」と言ってきた。また彼は私に次のような(通州からの)情報を送ってきた。
「9日、秦徳純は三路抵抗軍を編成して自ら総参謀長となり、張自忠、馮治安、劉汝明の三軍を指揮し、三方より日本軍を包囲攻撃すべく決定した。
9日、冀察は、張璧、張允栄、潘毓桂の三名*を冀東解消員に任命し、いよいよ解消工作を推進すべく決定した。*この三名は冀察における親日系人物だった。
10日、宋哲元は楽陵より秦徳純に電話し、「日本側が撤退を承諾せざる以上、断乎武力をもって解決せよ」と厳命した。
20日、馮治安は北京を撤退するに当たり、城内に火をつけ、宮城を灰にして引き揚げることを計画している。」
以上は誰もが嘘と判断できる幼稚で扇動的な離間策ばかりである。機関員はこのような通州の情報を敬遠した。これは冀東政府の策謀だった。
不拡大派 天津軍の不拡大派は軍参謀長橋本群少将、経済参謀池田純久中佐であり、(北京)現地では松井特務機関長、今井武官らであり、現地限りで問題解決できる見通しが持てるようになった。
言論機関 事件発生の報は日本全土を熱狂の坩堝に投げ込み、国民の世論が国策を戦争へ引きずりこんだ。石原少将の北進論を聞く者はなく、政府も中国打倒に突き進んだ。
国士中野正剛の東方会は「戦わんかな時至る。積極的に軍事行動を推進し、南京政府を撃滅せよ」と声明し、随所に熱狂的な演説会を繰り広げた。
当時の政党出身の大臣は、民政系の逓相永井柳太郎、政友会の鉄相中島知久平の二人だったが、閣議の席上、二人は中国打倒の意見を主張した。
当時の陸相杉山元大将はこの閣議の後に風見内閣書記官長に「馬鹿なやつらだ、驚いた、困ったもんだ」と洩らした。
杉山陸相は拡大論者のように世間では思われているが、私は彼が不拡大派を支持していたと思う。陸軍省の業務内容記録「大日記」には、杉山は、事変が上海に飛び火した後も、閣議で「我々は不拡大の根本方針だけはあくまでも堅持することが肝要である」と主張し、事変の早期終結を望んでいた。
他方、近衛総理は「事態はすでにこうまで悪化しており、国民の志気またこれほどまでに昂騰している今日、私としてはもはや、これを抑えることはできません」
国民の一部は現地軍を歯がゆいと思い、「軟弱橋本(天津軍参謀長)、松井、池田(天津軍参謀)の三名は、世論に恥じて自殺せり」というデマをばらまくようになった。
関東軍 事件の第二日目に、関東軍司令官の辻政信大尉が盧溝橋にやって来て、牟田口連隊長に「関東軍がご援助いたします。思う存分やってください」と言っている。
関東軍はこれより先、8日の早暁、幕僚を糾合し、対華北情勢判断を検討し、天津軍に「まさに絶好の機会なり。徹底的に中国軍を膺懲し、迷夢を醒されんこと切望にたえず」と打電した。また別に関東軍声明も発表し、「暴戻なる29軍の挑戦に起因し、今や華北に事端を生ぜり。我が関東軍はここに、多大の関心と重大なる決意を保持しつつ、厳に本事態の成り行きを注視す」と宣言した。時の関東軍参謀長は東条英機中将だった。
先に第一次上海事変1932.1.28-3.3を画策し、後に百霊廟事件*を計画した田中隆吉(関東軍)参謀は、早速天津にやって来て、長期にわたって滞在し、日夜天津軍を扇動する工作に専念した。
*百霊廟事件=綏遠(すいえん)事件 1936年末、関東軍と内蒙古軍とが中国の綏遠省に進出したが撃退された。
変身 新たに天津軍司令官に任命された香月清司中将は、7月11日、東京を出発する際に中央部から「不拡大方針の下、兵力不行使、極力現地解決を図るべし」という指令を受けたが、途中京城に立ち寄り、一晩、朝鮮軍司令官小磯国昭中将と話し合った結果、翌12日早暁、記者団に、次のような決意を表明した。
「中国側の不信極まる態度並びにその暴虐は、今や黙視しているわけにはいかない。ここにおいて日本軍は正義の軍を進め、彼の暴戻を断乎膺懲する事となったのである。軍司令官としての決心、並びに用兵作戦はすでに決まっている。どうか国民はしばらくの間、皇軍の行動を見ていてもらいたい」
これは中央に対する重大な叛逆であった。
453 12日午後、天津に到着したときの香月の第一声は、不拡大方針に基づく時局収拾策ではなく、全面作戦に対する準備のための命令であった。
柴山軍務課長は巣鴨拘置所を出た直後に私にこう語った。
「7月13日、中央は香月軍司令官から一通の電報を受け取った。それによると、天津軍は、関東軍や朝鮮軍からの増援を待ち、一挙29軍を撃滅し得るよう展開を準備し、20日ころまでにはほぼこの態勢を完成させてしまう。それ以前でも、中国側に協定違反や不誠意な言動が発見された場合には、軍は躊躇することなく断乎武力を発動し、これを黄河以南に追っ払ってしまうというものであった。
(陸軍)大臣*や石原さんたちは怒り、中島閣下*と僕が、軌道修正のために、天津まで出かけていくことになった。中島閣下は参謀総長宮*のお使者、僕は陸軍大臣*の使者という資格で。名目は戦況視察だった。」
*陸軍大臣 杉山元 1937年2月9日~1937年6月4日(林銑十郎内閣)、6月4日~1938年6月3日(第一次近衛文麿内閣)
*中島弟四郎中佐軍事顧問のことか。
*閑院宮載仁(ことひと)親王元帥 参謀総長在任期間1936年~1940年
以上
付記
454 一、「北京」の名称 1928年に国民革命軍による北伐戦が完成したとき、蒋介石は首都を南京に定めた。蒋介石は北京と南京と一つの国に二つの都があるのは不吉だとして、「北伐平定」にちなみ、6月20日、北京を北平に変更した。このころ、直隷省が河北省と、中央公園が中山公園と呼ばれるようになった。1937年の秋、紅朝宗を首班とする北京特別市政府が成立したとき、北平を北京に変えた。盧溝橋事件は、本来なら北平とすべきである。
二、盧溝橋の沿革 盧溝橋はマルコポーロブリッジとも呼ばれる。この橋はマルコポーロの旅行記で初めて欧州に紹介された。この橋は金の章宗の時代、明昌3年1192年、築造されたという記録がある。欄干に狛獅子が140あり、一つひとつ形が異なる。盧溝(ルーコー)はマルコにちなんだものかと思ったら、永定河の旧名「盧溝」による。この河の水神を祀るために明の英宗が正統2年1437年、橋の上流に竜王廟を建立した。宛平城ができたのは明の荘烈帝、崇禎7年1634年である。城内の部落も盧溝橋という。「一文字山」は1936年の夏、一木隊長が命名した。