2026年1月8日木曜日

中国帰還者連絡会(中帰連)編『新編三光』第1集 光文社1982

 

中国帰還者連絡会(中帰連)編『新編三光』第1集 光文社1982

 

 

 

これは1955年ころ撫順戦犯管理所に収容されていた日本人戦犯が書いた手記である。

 

 

004 まえがき 本多勝一

 

007 本多勝一が言うように、確かに中国人に対して非人道的なことをしたのは、戦中に幼少だった私ではなく、壮年だった日本人である。しかし、だから私は中国人に対して謝らなくてもいいのだろうか。本多が言うように、戦争を起こさないように政治活動をやることの方が重要だ、というのはその通りなのだが、何かちょっと腑に落ちないところがある。本多は1971年、戦中の日本軍人の残虐行為を取材する旅に中国に出かけた時、例えば南京で、被害者家族の中国人を前にして謝らず、上述のような内容の感想を述べるだけだった。

 

 

015 1 日本鬼子――軍医の野天解剖 小美野義利 19409月、新京(現・長春)

 

026 小美野義利伍長「私は自分の犯した罪を心から反省するとともに、再び戦争を引き起こすことだけは制止せねばならないと思っております。私自身が苦しみを与えた多くの人々のためにも、平和のために余生を捧げるつもりでおります。」

小美野さんは本書の出版に際して、実名で公表することに同意し、また手記の書かれた1955年ころから本書が出版される1982年まで30年弱経過していても、以上のような反戦の心境を明確に語っている。

 

019 小美野は日本刀で中国人の首をはねた。015 拷問してもはかない三人の国民党地下組織容疑者の中国人を殺すのだが、そのうちの一人は小笠原軍医大尉によって毒を注射され、その後に遊びのような解剖=内臓剔出までされている。

 

 

2 細菌戦――七三一(石井四郎)部隊の蛮行―― 田村良雄(防疫診療助手、兵長)

 

生体実験・生物・化学兵器工場・飛行場 ハルビン市平房、19424

 

田村良雄の戦後1982年、昭和577月、36歳の時の反省文(犯行時1942年は21歳)

 

「日本でも最近、緊縮財政の中で軍事費だけが大きく突出し、平和の象徴である福祉が切り捨てられつつある。戦争準備を止めて、その金を福祉に、世界の飢えた人々に、アジア各国との友好に、世界の恒久平和のために使ってくれというのは、多くの日本国民の願望ではないだろうか。」

 

 

感想 生体実験はある地域の数か村を5か所に集め、それを外部から封鎖して行われた。そこには飛行場があり、そこから中国の各地に散布して効果を実験した。実験の過程で病気に感染した日本人(須藤良雄)も実験台にされたようだ。病原菌を強くするために、何度も実験を繰り返したようだ。038 凍傷の実験をするために指を切られた人もいた。

 

 戦中の哈爾浜(ハルビン)では日本人も生体実験に供されたようです。日本人を実験台にする時の口実は何だと思います。「天皇」です。「天皇のために死んでください」というものです。戦前は何でも不都合なことは、天皇を口実に実行されたようです。

 

043 「オイ準備だ」と言いながら入ってきた課長・大木啓吾少佐(ボス)は、いつになく顔に笑いを浮かべながら、「今度やるのは須藤良雄だ、いいな極秘だ」。私はもう少しで手に持っていた指頭消毒器を取り落とすところでした。大木はジーと鋭い眼で(私を)見つめておりました。テストをしていることを感じ取った私は、内心の動揺を抑えて平静を装い、「そうでありますか」と大木の顔を見ました。

「よし、お前も一人前になった。須藤良雄をここに入れておいたのも、みんな天皇陛下の御為だなあ」大木は珍しく私の肩を抱き、自分で防菌衣をつけ始めました。

 

 須藤良雄は第四部第一課の雇員として、最近のペスト菌の大量生産でペスト菌に感染し、細菌実験を行う特別班に入れられているのでした。私は何が何だか分からず、自分の頭を叩きさえして解剖室に入りました。

 

 

3 胎児――妊婦の腹を裂く―― 種村一男(仮名、指揮班長、曹長)

 

妊婦の乳房を突き刺す。次には妊婦に、30分間、二回に渡って水を多量に飲ませ、その腹の上に足で乗っかった。水が噴き出た。次には乳房の上に乗っかった。死にかけたときに刀で腹を切り裂き、出てきた胎児を蹴って殺す。さすがに腹を切れと言われてもやりますと名乗り出る兵隊はおらず、主人公が「野戦仕込みの腕」を披露した。

 

集団狂気、ボスもその一員。止まらない。それでいて戦後は反省。「もう戦争はしない」という言葉のなかに、「戦争だったから止むを得なかった」という気持ちが隠れていないか。

 

八路軍狩りのための、山東省萊蕪(らいぶ)県・章邱県県境の大王義付近の某村での出来事。19435月。ボスは村越支隊長。

 

 

4 焼け火箸――拷問の挙句に斬首 佐藤五郎(仮名、分隊員、上等兵)

 

感想 山東省南部の沂州(ぎしゅう、江蘇省徐州の北)。八路軍狩り。捕まえたある男を拷問し、殺害する。いつものパターン。狂気の集団。

狂行はある一人の命令だとやりやすい。天皇制はその意味でとても便利なツール。人は上だけを見て横を見ない。自分一人で考えなくてもいい。簡単なことだ。主人公も最初は拷問することに逡巡していたが、襟章の星(昇進)欲しさに、また男に唾を吐かれたことをきっかけに、拷問作業に献身する。069

主人公の名前は佐藤五郎。これは仮名である。

 

066 山東省南部の沂州(ぎしゅう)の憲兵隊の話。時は19456月中頃。

083 佐藤五郎の戦後の反省の辞「侵略する軍隊は人間を狂わせてしまいます」19827

076, 077 ボスは青山隊長、班長は拷問好きの梅田班長。

 

 

5 糧穀の略奪――冷酷非情な取り立て 引地章(警察署長・警正) 江戸時代の悪代官による年貢米の取り立てや女による接待を思わせる。

 

19413月、引地章が(黒竜江省北東部、満洲の)三江省依蘭県公署警務科科附警正として着任。

19427月、佳木斯(チャムス)市の食糧が輸送の都合で間に合わないから、依蘭県の備荒用の糧穀200トンを出すことになった。

一方、双河警察署管内の三道崗村の村長以下農民450名が、県公署に食糧事情で陳情。(一旦供出した)粟(義倉)を開放し、それを食わせてくれと陳情。

 

095 194212月、三道崗村での引地章・警察署長・警正*の演説「お前たちがいま生きているのは誰のおかげだ。みな日満軍警があるからではないか。命を誰が守ってくれているのか。貴様たちは犬や獣ではないだろう、それくらいは考えがつくはずだ。日満一徳一心と言うが、日本と協力して日本の戦争の勝利に感謝する考えが少しでもあったら、三度の飯を二度にし、粥をすすっても辛抱できるし、日本軍に出す乾草も、半値でも光栄ではないか。文句を吐く奴は抗日反満分子だ。そういう奴は徹底してやっつけるぞッ」*(黒竜江省北東部、旧満洲の)三江省依蘭県公署警務科科附警正

 

095 三道崗村の村長宅で接待。

 

双河鎮大街の十字路でバス二台を検索(臨検)し、12名を逮捕・拘束。

 

曹警察署長による接待。

 

099 19431月、依蘭県公署で三味線入りの接待。

 

出荷量が予定量の70%にしか達していないとして、120日から、村の略奪を開始。依蘭県永発村永発屯に100余名の検索隊を動員。

100 林警尉は中国人だが情容赦がない。

103 隠されていた穀類を発見し、逮捕。

 

104 倭背河の草原で糧穀10数袋を発見し、留置・拷問。

大平鎮の1000人の警察自衛団、学校生徒、地方民が引地章を堵列(とれつ)して出迎え、その晩歓迎会。

違反者の拷問。聶(しょう)署長は中国人で、農民の苦境を知っていた。詫びて拷問を緩めた。

その晩また宴会で接待。

108 引地章はこう考えた。「無理だろうがなんだろうが戦争に勝つためだ。俺の立身出世だ、首に関わるんだ。若い娘が裸でいようと、子どもたちが飢えと寒さに震えていようが、貧乏人が泣いていようが、かまうもんか」

 

引地章は戦後、宮城県の耕地40アールで農業に従事。「日中国交回復署名」を社会党国会議員西宮弘に依頼し請願し、革新系各級の選挙等で協力したと語る。

 

 

 

6 釘うち拷問――残忍極まりない取調べ 原田左中(憲兵軍曹)

 

1941年、八路軍の討伐のために、河北省密雲県曹家路村に、関東軍第二独立守備第七大隊第三中隊(中隊長大尉中山照治以下130名)が派遣された。

19421月下旬、中山中隊長が、二週間、五竜山地区の八路軍を討伐すると激を飛ばした。「よし、星を一つ増やすために頑張ってやろう。この機会に俺が一番手柄を立ててやろう」と兵隊たちは心に誓い、私も「一人でも多く殺してやる、憲兵の威厳を示すのはこの時だ。部隊の兵隊や下士官の鼻っぱしをへし折ってやるぞ」と心に誓った。

 

12時過ぎに、大樹峪村を通過したあたりで三十歳前後の一人の男を捕まえた。棍棒で殴ったり、足でけったり、後手に縛ったりした。

 

夜も更けたころ、ある村にたどり着き、家の中にいた70歳を越えていると思われる祖母さんを外に出し、男を中に入れた。

 

朝になった。八路軍の情報を言わせるために、男の腿に五寸釘二本を打ち込んだ。

 

昼近くに、中山大尉が来て「なあに中国人の一人や二人殺したところでかまうもんか。もっと叩きあげろ、ハハハ」私は「よし、中隊長の前で俺の腕前を見せてやろう」と心の中でつぶやき、男を後手に縛って天井につるし上げた。大尉も軍刀を鞘ぐるみ、男の肩先に唸り飛ばした。中隊長は「原田伍長もっと叩きのめせ。打ち殺してもかまわん」と言って外に出て行った。

 

それから3時間。男に水をかけた。男は「鬼子快殺死我(鬼め、早くさっさと俺を殺せ)」と吐き出すように叫んだ。

 

日は暮れていた。部隊指揮班の勝俣軍曹が中隊長の命令として、「取り調べの後で男を殺害するように。部隊は今晩10時にここを出発する」と言った。

 

126 私と部下の憲補博士元は、男を山中に連れて行って銃殺した。男は倒れる前に叫んだ「八路軍万歳」と。それから30分後、部隊は出発した。私は深い谷底に自分が落ち込んで行くような恐ろしさに襲われた。

 

 

7 毒ガス実験――8名の農民を生体実験に―― 三上忠夫(仮名、軍曹)

 

感想 村人8人を銃剣で取り囲み、自分らは防毒マスクをつけて、毒ガスを5分間放出。村人が倒れたとはあるが、村人が死んだのかどうか、何も書いていない。場所は山東省泰安の岩流店。何年とも書いていない。富山少尉がボスで教官。大隊長は中村。「独立混成10旅団45大隊」の初年兵ガス教育隊。ガスの名称は赤筒。くしゃみ性の一時ガス。目的は八路軍についての情報収集。

 

 

8 犬 嫌がる少女を銃剣で脅して――富島健司(伍長、分隊長)

 

感想 「犬」とは婦女暴行の意味。男は殺す。娘は辱めるが殺さない。翌日278歳の母親を強姦。場所は河北省の渤海湾沿岸。時は今1956年から13年前の1943128日。中隊長は白井中尉、小隊長は青木四郎少尉。二個小隊。朝鮮出身の権藤通訳。

 

8人の女性と3人の赤ん坊を発見。目をつけた一人のきれいな女を苛め、次に178歳のきれいな少女を苛めて銃剣で突く。殺しはしなかった。男は殺したが。翌日私は278歳の母親を強姦した。

 

 

9 軍需工場――強制労働の実体―― 大沢剛(特高班員、軍曹)

 

感想 工場内に労働者に見せかけたスパイ*を置き、労働者の動静を監視していた。*新京憲兵隊本部の伊藤曹長は除隊兵として本工場に就職していた。

私は、機械を運搬する時に躓いて機械を壊した中国人の劉を殴る蹴る、終業時にも残してリンチを延々と加えた。それが私の仕事だった。

 

194538日、戦況が不利になる頃、集会で中国人は、君が代は歌わない、訓示も聞かない、号令をかけても最敬礼もしない。

長春の南公主嶺の某工場での話。「満洲飛行機株式会社公主嶺製作所」

殴る蹴るの毎日。

 

私は憲兵伍長で「軍需監察班員」として勤務課の職員になりすまして工場内を監視していた。

 

夜中に逃げる中国人もいた。中国人は奉天で失業した者や、警官が引っ張って来た者らであった。

旅行証明書がないと駅で切符を売らない。

 

154 工員の構成は、日本人職工、中学生200名(佳木斯チャムス中学の勤労報国学徒動員隊)と中国人300名。

 

集会を取り仕切る者は、

航空参謀本部から派遣された軍需監察官の江口中尉は、桐箱の中から取り出した巻物「聖戦の詔勅」を読み上げ、

「満洲飛行機株式会社公主嶺製作所」所長は西村 

満洲国副県長から同所総務課長になった宮本は「東洋平和のために聖戦を起こしてから四年、赫々たる戦果を挙げた皇軍は…」これはお決まりの文句。

その子分で同じく副県長で、中国人を騙して荒く使う手腕を買われてきた同所勤労課長の恒成

 

156 中国人は奉天で失業した人や、憲兵や警察に人狩りのように労務動員された人であった。

昨年194412月、奉天にあったこの飛行機工場は、米軍の爆撃を受け、公主嶺に移転した。

日本人の職工も、貧乏で出稼ぎに出た百姓出の人が多く、農村の次三男で開拓団に行くはずが途中でこの工場に入れられた156歳の少年が200人いた。

 

159 結局この工場では、発動機が一個もできず、飛行機は飛び立たなかった。

 

「満洲飛行機株式会社公主嶺製作所」でのリンチ

 

私が劉にリンチを加えている傍らで、鈴木軍曹も日本人青年にリンチを加えた。

 

母が病気で工場を辞めて日本に帰りたいという青年も殴られた。鈴木軍曹「貴様はそれでも日本人か。戦争が嫌いなのか。嫌いなら嫌いなようにしてやる。来い。」と言って横面を殴る。「今頃南方では、貴様がつまらぬことを言っている間に、皇軍の兵士が死んでいってるんだぞ」

 

いつ果てるともなく鞭の音と人のうめきが冷たい夜空にひびいていた。

 

 

10 群鬼――捕らえた農民の生き胆をとる―― 藤岡順一(股長(係長or課長)、警佐(中尉相当))

 

感想 小隊長藤沢警部補168が農民を殺した目的は、自身の花柳病を治療するために、農民の腹を切り開いて生き胆を取ることだった。

 

169 「恨みの血がしたたっている人間の胆を眺めて、にんまりと笑った小隊長は、農民の被服を引き裂いてそれを包み、さらにそれを白地のタオルで包んで無造作にポケットにしまい込み、血刀を拭いて鞘に納めると、初めて気が付いたように皆の顔をぐるっと睨めまわし、…」

 

場所は遼寧省奉天近郊。本渓湖の東南約10キロの山岳地帯。東辺道から三角地帯の岫巌(ちゅうがん)に通ずる交通の要地。時は19362月上旬。

 

安奉線(安東(現・丹東)と奉天(現・瀋陽))各駅に、警察隊と関東庁奉天警察署伊藤警察隊とが活動していた。

 

「私は二日酔いだった」とか「分隊長久松巡査部長は達磨のような体を…」とかあるように、上層部はうまい食事を食べられたようだ。

 

今朝の10時、赤い春聯(しゅんれん、正月のめでたい対句)を飾った村落に侵入し、一人の農民を捕まえた。分隊長久松巡査部長は、険しい山の中腹で休憩し、荷物の運搬に使い、密偵と疑った農民の首を日本刀ではねた。その後小隊長がその男の腹を裂いて生き胆を取り出した。

 

 

11 強姦――赤ん坊を殺し母親を犯す―― 石田幹雄(兵長)

 

感想 戦前は女を「買う」ということが合法だったせいか、筆者は兵隊になる以前にそれにはまっていたようだ。そして兵隊になると、強姦が楽しみになり、この例では、赤ん坊の泣くのが邪魔だとして、煮えたぎった窯の湯の中に打ち込み、その後母親を犯した。

 

メモ・抜粋

 

178 「私は隣国の中国の領土に侵入し、何の恨みもなく平和を愛する勤勉な沢山の人たちを殺し、多くの婦人を姦(おか)してきたことを振り返るとき、あまりにも獣に似た自分の行為を責めずにはいられない。」

 

173 「私は入隊以前に満洲や上海からの兵隊の帰還者から戦地の話を聞き、その猟奇的なものに心を惹かれ、俺も戦地に行きたいものだと思っていたのだが、それが30歳の補充兵として実現されたのであった。二回、三回と「村落掃討」が重ねられる中で、村から逃げ遅れた女を見つければ、決まって古参兵たちは、私たち初年兵を門番にして、その婦人を手籠めにした。都会で育ち16才にして銭で女一人を一晩弄ぶことができる世の中を知って以来、多くの女を弄んできた私は、それ(古参兵の例)を見せつけられて官能を刺激され、早く自分もあの真似をやりたいと考えるようになっていた。」

 

173 古参兵「討伐に行けば酒も女もついてまわるし、賭博のもとでも転がっているもんだ。員数(命)さえ飛ばぬように気をつけりゃ、討伐様々だ」

 

194211月下旬、午後3時ごろ、私たち59師団直轄自転車中隊は、魯東*作戦中の大熊兵団に配属され、福山県城から67キロ隔てたこの村に着いた。田島少尉が命令し、仲間は山口上等兵だった。

 

*魯東は山東省東部、地図では福山とある。

 

174 「日本のためにならない匪賊を退治するのが戦争だと、学校の先生も、お役人も、坊さんもそう教えた。私はお国のために尽くせる兵隊となって戦地に渡った。…銃剣を持っているがゆえに、何も持たぬ中国の人たちを思いのままにできることで有頂天になっていた。なんの抵抗の意志もなく、野良仕事をしている百姓を射ち殺し、百姓の家を焼き払い、婦人を凌辱して喜んでいた。」しかし、「私が匪賊だと教えられたのは、他でもないこの野良仕事に精出していたお百姓さんであり、悪者だと信じていたのが、平和で幸福な生活を侵略者どもにぶち壊されるのを防ごうとして闘った人たちだった。」

 

176 「戦争に勝っている者が負けた者を好き勝手にするのは当たり前だと思っていた」

 

石田幹雄 1913年、山梨県の中農の家にうまれる。1928年、小学校卒業後、東京で印刷労働者になり、19411020日、補充兵として東部63部隊に入隊。19425月末、中国に侵略。1945822日、59師団54旅団110大隊一中隊分隊長、兵長として、朝鮮でソ連により武装解除を受けた。

 

 

12 良民証――問答無用の虐殺―― 吉本明(内務班長、伍長)

 

感想 断崖の狭い道での壮絶な試し切り。まさに問答無用。その行為に意味はない。良民証とは中国人に発行し、所持者の身の安全を保証する証書。184

 

195 良民証の一例

 

日本軍九江憲兵隊発行 江西省徳安県城外

陳竜建 四十二歳 農民

 

 

メモ

 

180 中隊長 「中太」はあだ名。

西原曹長 坊主出身。

 

瑞昌県城(長江の南)に大隊本部がある。大老家を包囲した。

分隊長 伍長

182 田中曹長

 

捕らえた43名中5名を残し、(初年兵に)刺突訓練。残る5名は後に首切り練習用。

清水軍曹

小水連大隊

吉本上等兵(筆者)

183 若杉一等兵

186 徳安県城

 

 

13 謀殺――予防注射を口実に毒殺―― 中島宗一(属官)

 

感想 この一文にはちょっと信じられないところがある。経歴を見ると彼は農民だというのだ。それに非常に口がうまい。農民の第一印象は朴訥という印象を受けるが、彼は非常に口がうまい。また医学に関心があり、医学に関係している人のようにも見える。本文の末尾で「私は日本の医学に誇りを感じていた」というし、冒頭では医学の手術教室の様子を語っている。百姓だというのは変だ。まさに謀略の年季が入った人だと感じる。また謀略に長けた人は、所詮国家主義者でしかないように思われる。最後の筆者からの一言の中で彼は米軍の日本駐留に反対している。そして最後では為政者の言葉を信じるなと警告している。彼は謀略の年季を積んでいるように思える。

 

時は19456月半ば、日本が本土決戦を準備し、ソ連の参戦が予測され、中国人民の抗日活動が日増しに公然と活発になってきたころの話である。

彼の最後の所属は旧竜江省警務庁特務科で、被捕日時・場所は、1945108日、旧斉斉哈爾市チチハル市白済工廠。これは真実らしい。

 

特務科の成績を上げるために事件をでっち上げる工作を考え、「ソ同盟在満諜報工作員」として1944年初ころ、斉斉哈爾(チチハル)市で30歳くらいの一朝鮮人を検挙した。

ところがいくら拷問を加えても「白状」しないし、死にもしない。ずっと保安局に置いておくわけにもいかず、斉斉哈爾市警察局の留置場に移して、すでに一年が経過していた。そこで逃がすのではなく、科長が交代したところで、毒殺してしまえということになった。

毒薬は、1941年に中央保安局に特別室を加えて第八科とし、東大医学部出身の元吉某を科長にし、毒薬の研究と試作を行って完成した。200

これは国家的・組織的犯罪ではないか。証拠もなく一朝鮮人を引っ張って来て、拷問で「自白証拠」を得ようとする。

 なぜ釈放しないのか。「重要容疑者」198として上に報告済みであるというのは口実に過ぎない。どうして自分の責に甘んじないのか。

 

211 関東軍はソ連の侵攻を阻止するために、松花ダムの決壊も企画したという。となれば、開拓団だけでなく、吉林・長春両市民を含め、幾万人の生命・財産を一気に奪う結果になっただろう。

 

 

14 窒息――倉庫に押し込め窒息死させる―― 加藤周二(分隊付、伍長)

 

感想 ストーリーの展開が複雑で、状況がつかみにくい。おそらく筆者自身が、書く時にまた実際の過去の状況でも、混乱していたのではないかと思われる。「窒息」の場面は最後に出てくる。中国人を煉瓦で囲まれた部屋(倉庫)の中に入れて、目張りして窒息させるというものだ。

 どういう展開なのかよく分からないのだが、日本軍下にいたはずの中国兵が、八路軍に寝返りを打ったらしい。そして「やはり私は中国人だ」と日本兵に向かって堂々と歯向かった。

 

 

メモ

 

212 1941、山東省済南市西北100キロの武城県城内。この町の西北に「独混10旅吉野大隊混成坂田中隊」が駐屯していた。私は9月上旬、教官の樫本少尉と警備分遣としてこの中隊に到着した。

私たちは初年兵だった。古年兵を古年次という。

 

夕方、八路軍が襲ってきたので、私たちは衛兵所前に集まり、中隊長坂田中尉の後をついてゆく。八路軍は城の東門から入り、県警備隊がそれに応戦した。私たちは中隊駐屯地の望楼の中に逃げ込んだ。坂田中尉は「討て」という。八路軍は勝利のラッパを鳴らして退散した。

 

敗戦の報が望楼にいる中尉の所に届いた。八路軍が東門から衛河を渡って移動したこと、県警の指導官の山中軍曹が言うには、300名の県警が、日軍から貸与された装備をつけたまま八路軍に合流し、残った400名の県警は、副大隊長が統制していること。また衛兵が「劉官屯宮地分遣隊は、苦戦中で、救援を求める電話をかけてきたが、切断された」と伝えた。

 

214 坂田中尉が「楊副大隊長を呼べ」と言う。衛河の対岸の劉官屯から火の手が見えた。

翌朝、宮地少尉以下27名の全滅が正式に報告された。旅団命令を受けて43大隊の山田中佐(大隊長)が現れ、「閣下に(は)何とお詫びするのか。腹を切れ」と坂田中尉に言ってから、劉官屯分遣隊の整理に向かった。

 

215 夕方、中国人が鞭で叩かれる音が聞こえた。私加藤と大山上等兵は物置の煉瓦倉庫の扉を開けた。後手に縛られて来た男は、県警の楊副大隊長だった。坂本上等兵が銃剣を楊に突きつけている。大山上等兵は楊の胸倉をつかんで、倉庫の中に入れた。

 

 この日の昼頃、県副大隊長と坂田中尉とが話をしていた。坂田中尉は楊を隊長室に招き入れて楊に言った。「この一年来協同して県警の編成や教育に努力してきた。昨夜の事件は意外だった。」

217 坂田中尉は楊に言った。「僕は君たちを援助したい。八路軍への投降を扇動したのは誰だ。」

楊は言った「坂田、私はたった今から日本語と日本軍とは永遠にサヨナラをしようと決心したのです。私は中国人です。」「この裏切り者め。」

 

218 30人近い中国人の商人、農民、労働者、婦人が後手に縄をくくられてやってきた。倉庫に抛り込んだ。

219 副官のは倉庫の中で、「八路軍は俺たちを見殺しにはしない。俺たちは息のある限り生きるんだ。そして日本鬼子の最後の息の根を止めるまで闘うんだ」と言っていた。「你(にい)公(中国人のことらしい)なんか一人だって信用できるもんか」と、私は心の中で、谷崎兵長の李スパイ説に頷いた。

221 倉庫の中に捕まっている女性教員は、昼間、衛兵所前で、坂田中尉に抗議していた。「私は中国の教師です。私が中国の児童に愛国教育をやることは当然です。このことは外国人から干渉を受ける必要も、報告する義務なんかもありません…」また労働者風の男は、額から流れる血を拭いもせず、「八路軍のことなんか仮に知っていたって、お前なんかに言えるか!」と言った。

明け方、ある男が望楼の階段目がけて走っている。歩哨が銃剣で叩く。男は倒れる。男の綿鞋(くつ)が震えた。男は煉瓦を叩いていたのだ。

私は濱口兵長の後を倉庫に向かった。直径30センチの穴が開いていた。

坂田中尉が煉瓦の目張りをさせた。黒土で入り口を踏み固めさせた。

朝食後倉庫を開けてみると、死臭とガス、大小便と血の匂いが吐き出た。三日前までは元気に生きていた人たちだった。

 

 

15 汚された泉――井戸へ放り込み惨殺―― 杉本千代吉(大尉)

 

感想 八路ではないかと疑い、いじめを楽しむかのようにして惨殺する。この場合は井戸に突き落として、上から石を落として殺してしまう。石を落として殺したのが、筆者杉本であった。

 

メモ

 

194110月上旬、山東省。村人は日本軍を接待した。これこそ恩威ならび行われる無敵皇軍の姿であると私は感じた。

私たちは泰安県城から西南に20キロあまりの夏張という田舎町に分屯していた。ボスは中隊長山野中尉。宣撫行軍の帰り道で、逃げる奴は怪しい奴だとして40歳前後の農民を捕らえた。私は山東に来てから半月あまりだった。

山野は昨日は泰安からの帰りに、六郎坂の村落で、農民親子二人を斬殺してケロリとしていた。

230 山野は農民を井戸の中に突き落とした。

私は石を落とした。農民は死んだ。山野は満足そうだった。私は一人前の将校になったとうきうきした。

 

以上

 

2026年1月2日金曜日

セプデ・ファルシ監督の映画『手に魂を込め、歩いてみれば』

 

セプデ・ファルシ監督の映画『手に魂を込め、歩いてみれば』20260102

 

 

イラン出身でフランスに亡命中の女性映画監督セプデ・ファルシが、ガザの女性フォト・ジャーナリスト、ファトマ・ハッスーナにスマホで取材2024.4-25.4して映画化した本作の、カンヌ映画祭での上映が決定された翌日2025.4.15、ファトマは家族7人もろとも、イスラエルの攻撃で亡くなる。享年25歳。殺害されたガザの多くのジャーナリスト同様、ファトマの存在はイスラエルにとって不都合だからなのだろう。近くにイスラエルのスパイがいるのかもしれない。

 

ファトマはいつも明るい。しかし2024年の秋ごろから、つまり戦闘が開始されてから1年もするころから、空腹のため、集中力がなくなる。顔の色つやもあまりよくない。吹き出物ができているようにも見える。ただ眼前の事物をぼんやり見ているだけで、物事をじっくり考えることができなくなったという。

 

 

ファトマ「もし死ぬのなら、響き渡る死を望む」

ファトマが語ったアラブの諺には含蓄がある。それはコーランの言葉かもしれない。残念ながら今それを思い出せないのだが。

ファトマの願いは世界旅行である。ガザ監獄から抜け出したい。しかしガザには思い出があるからまた戻って来たいと言う。

 

 

ファトマは外に出られない。出ると狙撃兵に狙われるという。空からは常に飛行機やドローンのブーンという音が聞こえる。

 

 

ファトマは自分は英語が上手でないと言うが、積極的に自己表現しようとする。ファトマの音声は電波状況が悪いためにとぎれとぎれになり、何を言っているのか聞き取れないことが多いのだが、不思議なことに、ファトマの音声は字幕の中で再現され、時には修正されることもある。

 

 

2026年1月1日木曜日

本多勝一『中国の旅』朝日新聞社1981

 

本多勝一『中国の旅』朝日新聞社1981

 

 

 

また耳の痛い話ですが、私たちのお父さんやお祖父さんの若かりし頃の話です。その頃、共産党員や横浜事件の出版社員に対して、言語を絶する拷問が行われました。それと同じことが、中国でも朝鮮でも、行われていたであろうことは想像に難くない所ですが、満州国での中国人に対する仕打ちもそれと同じです。

 

これは、本多勝一記者が、1971年、戦後26年にもなるのに、加害の事実を知らないでは済まされない、と思って中国へ旅をして被害者から実際に聞いた話です。以下は戦争準備の労働力として駆り出され強制連行された中国人の話です。

 

本多勝一『中国の旅』朝日新聞社1981p.20

 

これは瀋陽市郊外に住む呉希忠51さんの話である。呉は、19427月、日本人から指示された地主の村長から、労工として働くよう命じた。断ると村長は用心棒の手下を連れて来て、強制的に村役場から瀋陽市の労務係まで連行した。呉はここから貨物列車に乗せられた。兵隊が警備する貨物列車は、狩り集められた労工で満載され、真っ暗な車内は身動きできないほど詰め込まれ、大小便も車内でやらされた。

 

黒河省嫩紅県にある金水駅に着いて、貨物列車の労工たちは降ろされた。いつまで働かされるのか、何人いるのかなどは一切知らされなかった。一行はムシロのテントに収容され、戦備工事をさせられることになった。野生の草や、腐った粟、豆カスなどの、家畜のような食事がつづいた。力が出ないので活発に働くことができない。日本人の監督がしょっちゅうなぐりつけた。未明からテントを出て、夜は暗くなってから帰る強制労働の日々が続いた。

 

 あるとき、二人の労工が脱走したが、まもなくつかまって連れ戻された。二人は裸にされて後手に縛られ、木の枝にぶら下げられた。日本人監督がやるリンチを「見せしめ」として公開するために、労工たちが集められた。木の棒や天秤棒で二人をたたきのめす。気絶すると水をぶっかけた。再び乱打。気絶。また冷水。ふらふらになって、しかもまだ生きている二人は、飢えた軍用犬のたむろする中へ放り込まれた。中国人を「餌」として食うことに慣れている軍用犬の群は、たちまち二人にとびかかり、音をたてて食った。

 

「万人坑」とはそういう死者たちの山をいう。

 

 

 

048 矯正院という拷問部屋

 

瀋陽市大東区の「老瓜堡子小学校」は、日本による満洲統治時代には「思想補導矯正院」という拷問専門の監獄であった。その周辺の畑からは今でも人骨が出てくる。

「治安矯正法」と「思想矯正法」023の公布直後の1943年に着工され、同年末に完成した。二棟の牢屋と、事務室、取調室、刑具室などがあった。1年半で中国人2000人余が入れられ、次々に殺された。

051 三人以上集まることを禁止され、三人集まって話をすれば思想犯とされた。

孫助金は米を食ったとして経済犯とされた。

052 矯正院から生きて出るためには強制労働か金による賄賂以外になかった。

053 スパイ犯とされた楊六は、鞭や棍棒で拷問されて皮膚が破れ、頭を割られ、脳みそまで出して死んだ。ある脱走者とされた男は、熱湯をかけられ、短刀で頭のてっぺんから皮膚を切られて下に剝がされた。

 

055 付近の住民は次のような歌を歌った。

 

矯正院は閻魔殿。

入る時には生きていて

出てくる時には死んでいる。

消された者は数知らず

白骨るいるい山をなす。

 

 

 

057 人間の細菌実験と生体解剖

 

感想 こんなことは二度としてはいけない。しかしなぜそんなことが起きたのか。私は差別、蔑視だと思う。(不平等条約、ホロコースト)いじめられた子(日本、イスラエル)は、今度はいじめる側に回る。

 

058 満洲医科大学は満洲に34年間居座った。1911年、日本が「南満医学堂」を設立し、1922年、それが「満洲医科大学」に昇格した。現在はそれが「瀋陽医学院」になっている。

059 731部隊は敗戦時に証拠を隠滅したが、残っていたものがあった。

 

086 731部隊(石井部隊)の石井四郎部・隊長は、

 

戦後米軍は731部隊(石井部隊)の資料を独占するために、その資料の提供を条件に、元中将石井四郎部隊長ら同隊関係者を東京裁判で起訴しないという取引を行った。この事実はアメリカの月刊誌『ブルティン・オブ・アトミック・サイエンティスト』に載った米人ジャーナリスト・ジョン=パウエルの「歴史の隠された一章」という論文で明らかにされた。

 

083 参考文献 森村誠一『悪魔の飽食・三部作』角川書店、1981年~83

 

083 北野政次は、敗戦直後、上海にいたが、19461月、東京のGHQから呼び出され、米軍機で帰国し、中国人の法廷で裁かれることはなかった。(『週刊新潮』19721815日合併号)

 

059 北野政次は1936年から42年まで満洲医科大学で微生物の主任教授として勤務したが、その後陸軍少将となり、731部隊の隊長となった。

 

060 医学博士・北野政次の論文「発疹「チフス」及び満洲「チフス」の予防並びに治療に関する研究(二)」(『日新治療』第295号(昭和17910日発行)所収)

 

「我々は臨江地方で10人の志願者と3人の死刑囚を使って人体実験を行った。かかる実験は、我々が最初でもなければ、我々の発明でもない。欧米各国は早期より死刑囚を利用して医学実験を試みてきた。我々が実験に使った人体は、発疹チフスにかかったことがなく、かつその他の急性的熱性病にもかかったことのない、32歳から74歳までの健康な男性であった。」

 

065 第13例「曹〇光」男66歳(死刑犯人)接種19日目発汗、37Cに下がる。本人も「楽なった」という。この日すぐ生体解剖」

 

084 現在ミドリ十字の北野医師は、本多勝一記者の取材に、生体実験に関してあいまいな言葉で対応し、強くは否定しなかった。

 

 

 

087 撫順

 

撫順炭鉱は1903年、ロシア帝国主義が清国から奪い、1905年、日露戦争後のポーツマス条約によって、今度は日本が奪った。撫順炭鉱は長春・旅順間の南満州鉄道の付属工場ではなかったはずなのに、日本軍国主義者は、これが鉄道と関係があるとして奪った。*その後日本軍部の管轄から、1907年、南満州鉄道株式会社の管理下に置かれた。撫順炭鉱は40年間日本の支配下に置かれた。

 

*ポーツマス条約第6条には「ロシア帝国政府は、南満州鉄道に属し又はその利益のために経営される一切の炭鉱を、清国政府の承諾を以て、日本帝国政府に移転譲渡すると約束し、そのことに関して、両国は、清国政府の承諾を受けるべきであることを約束する」とある。

 

089 大山坑では、1916年、炭鉱火災で200人が死に、翌年の1917年、917人がガス爆発で死んだ。1928年には480人が水害で死んだ。事故が起きると坑道の中に労働者がいてもすぐに出口をふさいだ。

091 劉振山4319422月にこの炭鉱に連れて来られたが、村から一緒にやって来た40人中の半分は「防疫惨殺事件」で死に、最後まで生き残ったのは6人だけだった。年間25000人の労働者を募集の名のもとに騙して連れてきた。

日本軍による「討伐」の結果、強制連行された人もいた。例えば山東省の済南からは8万人が集めた。

 

092 1924年、8つの炭鉱で賃上げの連合ストライキがあった。

193810月、老虎台鉱と竜鳳鉱で、労働者が日本人の侮辱に抗議して労務係の部屋を破壊した。憲兵100人と対峙し、憲兵隊は追い払われ、今後侮辱しないと約束させた。また集団脱走したり、頭目を殺して埋めたりもした。

 

 

 

095 平頂山

 

感想 南京事件については東京裁判によって虐殺事件があったことが日本人に知られるようになったが、その具体的内容については一部の関係者を除いてはほとんどの日本人は知らなかった。平頂山事件についても一般の日本人は知らなかった。095

 

平頂山事件の首謀者について本稿では未解明な部分があるが、それを明らかにした井上久士さんの功績は大きい。

 

 

096 夏延沢(66、当時27歳)、韓樹林51、趙樹林50さんの語る惨殺実話はものすごい。本多勝一さんの語りも素晴らしく迫力がある。

114 これは余談だが、韓さんの撫順炭鉱落盤事故での奇蹟的生還談も圧巻。

 

112 満州国では踏み絵があった。親日的か反日的かを判別する質問「お前は誰だ」に対して「満人です」と答えると親日的と判断されるが、「中国人」と答えると反日的な危険分子と判断された。ある時夏さんは怒りを抑えきれずに、その問いに対して敢えて「中国人だ!」と答えた。夏さんは逃げる時右の耳元を切られた。

 

115 日本軍は平頂山の隣村の千金堡で逃げ遅れた40人を殺害し、家を焼き尽くし、楊柏堡も襲い、匪賊容疑者として20人を逮捕・虐殺した。さらに日本軍は撫順から50キロ離れた東の新賓鎮へ行き、周囲の10数か村の家々を全て焼き尽くし、住民を見つけ次第殺した。二つの万人坑が残っている。

 

さらに日本軍は撫順の周囲10キロ以内の全村を焼き尽くす計画を立てていたが、炭鉱の経営者が軍に対して、経営面で人手がなくなると主張して助かった。

 

116 虐殺を指揮した人間は1948年秋の解放当時は(中国に)いなかったが、次の4名の名が上がっている。しかしK炭鉱長は冤罪との説もある。

 

K陸軍大尉 川上精一撫順守備隊長 (実名は井上久士『平頂山事件を考える』044

O准尉(憲兵隊分隊長) 小川一郎憲兵隊撫順分遣隊長

M警察署長 前田信二警察署長

K炭鉱長 久保孚(とおる)炭鉱次長

 

117 夏延沢さんに抱かれて救出され、当時乳飲み子で、現在は42歳の夏維栄「かつての日本の犯罪行為は軍国主義とその一部の指導者に問題があり、一般の日本人民には責任がない、ということを毛主席の教えによって私もよく理解しています。」(やはりこれは毛沢東の考え方だったようだ。よく聞く言葉である。)

 

118 文献

 

『満洲戦犯獄中書簡集――国民政府下に於ける』奉天極友会(愛知県愛知郡豊明町千人塚、宇都宮仁方)

平野一城(浜松市和田町8313)『最後の引揚牧師の手記――終戦後の奉天三年』平野一生発行

満鉄東京撫順会『撫順炭鉱終戦の記』石崎書店

愛新覚羅溥儀『わが半生』小野忍他監訳・大安094

久野健太郎『朔風挑戦三十年』謙光社1985

班忠義『曾おばさんの海』朝日ジャーナル臨時増刊号1992

澤地久枝『昭和史のおんな』(文藝春秋1980)の中の「井上中尉夫人『死の餞別』

田辺敏雄『追跡・平頂山事件』図書出版社1988(田辺敏雄は守備隊長K大尉の娘婿であり、侵略とか無差別虐殺などについて一切反省がなく、虐殺者数を400800と過小評価している。)

石上正夫『平頂山事件』青木書店1991

撫順問題調査班、文責小林実『リポート「撫順」1932』都立書房1982

 

 

 

133 鞍山と旧「久保田鋳造」

 

133 日本は日露戦争後、鞍山鉄鋼場の建設を密かに計画し、1908年、南満洲鉄道株式会社が密かに鞍山の探鉱をし、1919年には銑鉄の生産を開始した。134

 

134 病気の労働者のために妻が米を届けると経済犯とされて投獄された。また妻が精白されたコーリャンを届けると、日本人門番はそのコーリャンの弁当に泥を入れ、鼻汁をつけた。

 

135 ストライキが頻繁に起り、機械を破壊した。

 

日本人監督はささいなことで暴力を振るった。その暴力は度を越えていて、脚のふくらはぎにドライバーを突き刺し(1942年、李鉄庫48さん、当時13歳の場合142)、ある時は蹴って棒で殴り、気を失わせ、翌日には死亡させるような場合もあった。(胡殿録(39、当時数え年10)少年の父親35の場合。145,146

 

141 中国人労働者が工場で労働災害に会うと、まぬけだと叩かれて首にされ、その後は乞食になるしかなかった。

143 李芳普4916歳の時に久保田鋳造という鉄管鋳造工場で仕事を始めたが、ある時左手が機械にからまり、指4本が砕けた。泣いている李少年を「倉持」という日本人監督は蹴飛ばして、「大したこともない怪我で何だ。中国人なんかいっぱいおるんだ。死んだってどうってことないさ」と言った。仲間に工場の事務室に担ぎ込まれ、中国人看護婦に赤い薬を塗って包帯してもらい、宿舎で休んでいると、工場からクビの通告が来た。

 

137 三紅旗とは総路線、大躍進、人民公社を意味し、1958年、毛主席が提唱した。

136 中国の工業は周辺諸国の不親切や妨害を乗り越えて発展した。日本や蒋介石は敗戦時に工場を破壊し、ソ連のフルシチョフはソ連技術指導者を引き上げた。しかしソ連の技術者の中には良心的な人もいて、設計図を残したり、ソ連に引き揚げたあとでも手紙で指導してくれたりする人もいた。138

 

 

 

万人坑

 

感想

 

・会社経営上の問題点

 

満洲国での日本の会社は、中国人労働者の生活や生命を軽視し、生産性を上げることを至上目的とし、非人道的な経営方針に徹していた。許されないことだ。

172 「南満州鉱業株式会社」の万人坑とは、事故や暴行で死んだ労働者や、まだ生きているのに使い物にならないとして殺された労働者を積み重ねたもので、今その骨が層状になった状態で展示されている。南満州鉱業株式会社には三つの万人坑(161 虎石溝、馬蹄坑、高荘屯)があり、その死体数は万単位である。南満州鉱業株式会社は現在、「鞍山鉄鉱公司大石橋マグネサイト鉱山」となっている。

 

170 許殿波43の兄が事故で死んだとき、日本人監督は「満人なんかいっぱいいる。一人や二人死んだって、どうってことねえだろ」と言った。

 

・中国人労働者が、労働者の人権を尊重する毛沢東になびいたことは、過去の惨状を考えれば当然のことであろう。

 

・矯正院166という弾圧・拷問機関があり、多数の中国人を日常的に殺していた。

 

・満洲国では「病院」の中で、生体実験という鬼畜のような恐るべき非人道的なことを医者がやっていた。しかもそれを「諸外国もやっている」として正当化していた。恐るべきことだ。

 

 

153 南満州鉱業株式会社沿革

 

1913年 試掘開始

1918年 大連から大石橋に本社が移転

1931918日以降、労働者に対する態度が暴力的になった。

 

155 高木六郎社長は「中国の苦力がわが社にいれば、その肉も骨もわしのもの」と豪語した。

 

労働者の種類

 

・少年工と女工は賃金が成人男性の半分から1/3だったので、全体の34%~35%くらいと数が多かった。

・「華工」は30%くらいで、これは山東や河北や、場合によったら四川から、失業者や貧農を騙して連れてきた労働者。

・臨時工 25% 比較的近隣の破産した農民。

・理工 10% 大工や左官。比較的待遇がいい。

 

以下は無賃労働者

 

・犯罪人 米の飯を食った「経済犯」、三人で話した「政治犯」。169 「どういう人?」「中国人」と答えたら、政治犯とされて懲役1年。

・労工 強制連行、地主の割り当て命令。寄付。

・勤労奉仕隊 満洲国兵隊検査での不合格者。

 

157 星の消える夜明けに出勤し、星が出始める頃仕事を終える。労働時間は冬は12時間、夏は15時間。日本が大東亜戦争で大勝利すると「大増産報国」として労働が強化された。

 

176 「不忘階級苦」

 

 

 

178 盧溝橋の周辺

 

179 「日本の広範な人民は、一部の親米派と軍国主義者を除いて、中国人の真の友である」という毛沢東の言葉が、太子務生産大隊の集会所の黒板に歓迎の印として書かれていた。

 

193779日、盧溝橋事件の2日後、日本軍がこの村にやって来た。一般の農民は他村に逃げたり、畑の中に隠れたりしたが、地主の李生香は日の丸を掲げて日本軍を迎えた

 

180 23日後に大勢の男たちが日本軍に捕まったが、その中の「馬大力」と呼ばれていた力持ちの貧農が、生き埋めにされた。

兵隊は食料と女をさがした。氷定河の対岸の村民は皆殺しにされ、家も焼き尽くされた。

やがて地主は傀儡組織の「治安維持会」をつくり、日本軍に食事を提供した。

1938年の夏、日本の飛行機が爆弾を7個落とし、李興太と李喫(口へんでなくさんずい)祖母さんが即死した。

 

181 砲台間を結ぶ壕を掘るのに徴用された。そのために潰される家もあった。日本兵は仕事を始める前に全員をぶん殴った。貢物を持って行ったら、なおさら殴られた。根性をすえさせようとする日本的発想だったようだ。意味もなく殴られるのは不可解だった。

182 毎日二、三人が、うつぶせにさせられ、背中に大きな石を載せられた。あと暫くは歩けなくなって這った。

日本語の勉強と銃剣術をさせられた。全員が水をかけられたこともある。

183 「鉄砲を出せ」と言われ、ないので出さないと、十数人を選んで殴り、焚火の燃えさしを押し付けて拷問した。また三人の辮髪を結んで頭を互いにぶつけた。

十数人に56人が追加され、計20人が皇軍の拠点に(銃を出すまでの)人質として連行された。現金や卵などで人質を貰い下げた。

旱魃で十数人が餓死した。それを日本軍や傀儡軍は無視した。

王福奎らは地主の庭に集められて裸にされ、水をかけられた。王が「小銃はないが狩猟用の散弾銃ならある」と答え、「他にも持っている者がいるだろう」と言われ、王が別の村の地主の「李生之が持っている」と答えた。ところが行ってみると猟銃はみつからず、王は蹴飛ばされた。

 

186 王振東39の祖父は逃げる時に背中を撃たれた。王は77事変の時は4歳だった。祖父が治るのに4か月かかった。

 

(この村では)日本敗戦までに6人が殺され、19人が負傷し、改嫁が11人、餓死者は47人、爆撃による家の焼失が5軒、八路軍のゲリラが隠れるところがないようにと、10万本の木が切り倒された。

 

187 文献

 

秦徳純『七七事変紀要』

寺平忠輔『盧溝橋事件』読売新聞社

島村喬『聖戦』新人物往来社

 

 

 

188 強制連行による日本への旅

 

感想 

 

・強制連行 強制連行=人さらいを成立させるためには、中国人協力者を必要とした。そしてそれは中国人の地主だった。日本人だけで中国人を引っ張って来るというようなものではなかった。本多勝一の「旅」というタイトルには賛成しかねる。

・暴力 不必要で人間の尊厳を貶めるような暴力が日常的に行われていた。そしてそれは殺人へといとも簡単に移行した。暴力の自己目的化。それは支配の手段。

・非人道性 非人道的な要求を行った。「女を探してこい」などという非人道的な要求が堂々と行われていた。

・劣悪な日本の炭鉱 炭坑での生活はひどかった。習慣のように殴られ、食事も貧弱だった。

・低い生存率 主人公崔さんと同じ村から4人が日本へ連行されたが、生きて帰れた人は2人だけだった。

 

 

メモ

 

1937年、崔振英60の家に、日本兵10人が拠点に兵舎ができるまでの間宿泊していた。ある時日本兵が「女をさがしてこい」という。日本兵が鉄砲に弾を込め始めたので、崔は逃げ出し、父親もその後を逃げ出したが、撃たれて死んだ。

父親を亡くした崔振英60は、稼げる男が崔しかいなくなったので生活は厳しかった。家族は7人だった。翌1938年、義姉とその子供を北京市に連れて行って再婚させた。翌1939年、妻と下の子(当時3歳)を地主に頼んで雇ってもらったが、地主はこの二人を町の資本家に売り飛ばした。翌1940年、母親も地主の家で働き始めたが、翌1941年、母親が過労で死んだ。翌1942年、崔自身も地主の作男になった。

1943年、日本軍がこの地主に、日本へ連行する人夫を一人出すように命じた。作男の中から崔が指名された。地主は崔に日本行きを隠して、「北京の長幸店駅へ行って働く」と嘘をついた。

崔が隣村の楡房へ行ったところ、同じようにして集められた作男が70人いた。日本兵と二人の傀儡兵に監視され、長幸店に深夜に着いた。廟の庭で寝た。食物は見張りに頼むしかなく、高額を請求された

190 1週間後、日本兵と傀儡兵は、2人を縄で縛り、もう2人を縄のもう一方の端で縛り、4人で1組にした。貨物列車に乗せられ、そのとき初めて日本行きを知らされた。天津に向かった。

天津の収容所では10人一組にされ、日本語の勉強や整列点呼の教練をやらされた。何か言うとむやみに殴られた。便所に行くときも、「寝たままで頭を上げずに『報告』と言え」と言われて殴られた。

豆かすとトウモロコシをまぜたおにぎり「窩々頭」(ウオウオトウー)二個が1日分の食事だった。死者が出た。死者をムシロに包んで海から捨てる仕事をさせられた

その翌日、19431月中旬、旧暦の1223日、収容所の700人は小型の石炭運搬船にぎっしり詰め込まれた。足を伸ばして横になれない。日本へ着くまでに70人が死んだ。天津から大連へ、大連で石炭を積んで、門司へ。天津から門司まで1か月と3日かかった。

192 石炭運搬船では、死んだか死にそうなものは海に捨てられた。任という中国人傀儡通訳と二人の華工係の傀儡中国人がその作業をした。その作業は3日に1回あり、34人が海に投げ込まれた。小便や大便は、海が荒れている時は、停泊して甲板からやらされた。

 

193 門司からトラックで万田炭鉱*へ着いたが、1か月間の栄養不足で、歩く力もない。7日間休養した。米と豆かすを混ぜた食事を12回。8日目から入坑。*福岡県大牟田市原山町。

入坑時、日本人監督が「早く」と言って意味もなく殴る。午前中4時間、午後4時間の労働。

194 1週間に1回体重測定し、増えると減食された。崔さんは少ない時で当初の55キロから敗戦時の35キロになっていた。この炭鉱では、当初の1500人の中国人は700人になっていた。

 

815日、米や牛肉が食べられるようになり、3か月で元の体に回復し、体重が135斤(きん)68キロになった。

11月、トラックで長崎へ。貨物船で港外に出て、米艦に乗り換えて天津へ。天津はまだ国民党の支配下にあったが、故郷は人民解放軍による第一次解放下にあった。売られた妻は解放とともに帰り、6歳だった上の子(長女)は8歳になっていた。その後国民党の支配が一時あったが、北京陥落と同時に最終的に解放された。

 この村から4人が日本へ強制連行され、そのうちの王は日本で行方不明となり、劉連弁は日本で死亡し、帰って来たのは崔さんと李慶和の二人だけだった。李慶和は北海道へ送られていた。*

 

*北海道に強制連行されて脱走し、13年間隠れていた中国人・劉連仁がいた。このことに関して、欧陽文彬『穴にかくれて十四年』三好一訳、三省堂がある。

 

196 参考文献

 

中国人強制連行事件資料編纂委員会編『草の墓標』新日本出版社

平岡正明『中国人は日本で何をされたか』潮出版社

中国帰還者連絡会(正統)編『中連――日本軍国主義の告発は日中友好の原点である』

金巻鎮雄『中国人強制連行事件』みやま書房

石飛仁『中国人強制連行の記録』大平出版社

赤津益造『花岡暴動』三省堂新書

野添憲治『花岡事件の人たち』評論社

 

 

 

上海

 

金月妹の場合 「いい女はいないか」に対して「いません」と答えたら、一家皆殺し。赤ん坊を刀で突き刺して肩にかけたという。193711月、上海西方の某村(虹橋)での話。金月妹は事件当時不在だった。

 

 馬林英の場合 母親は街に米を買いに行って殺された。その事情は分からない。死体を発見しただけだった。

 

 張鴻舟の場合 米を農村から都会に運ぶことは日本軍によって禁じられていた。父は農村から米を運んで帰る途中、有刺鉄線をくぐろうとした時に日本兵に見つかった。父は熱い鉄板の上を歩かされ、熱いのでそこから降りると、日本刀で斬り殺された。以上は日本軍司令部で働いていた中国人から聞いた話。

 

 

 

214 港 上海埠頭 宗継泉の話 

 

恐らく労働の厳しさに耐えかねて一人の労働者が昼休みにいなくなると、残った労働者が叩かれ、太陽で熱せられた鉄板の上を歩かされたり座らされたりした。

拷問で死ぬ者も珍しくなかった。

 

1944年、落ちていた銅貨を拾ってポケットに入れたトラックの運転手は石の重りをつけて海に沈められた。

 

219 戦後日帝に代わって米帝が蒋介石を助けるために上海にやって来て、「狼が去って虎が来た」と言われた。

 

 

 

220 「討伐」と「爆撃」の実態

 

220 呉燿舗43 日中戦争当時、上海近郊の馬路湖村に在住。日本軍による討伐が三回あった。

 1939年、日本軍は目の悪い父を銃剣で刺し、目標もなく発砲し、山砲を撃ち、3人死亡した。

221 1940年、隣家が焼かれた。

1941年、ロバを奪われて殴られた。伯父(母の兄)は爆弾でけがをし、不具者に。「卵を出せ」「ない」 銃身で祖父を殴り、祖父は死亡した。

222 砲台の周りの壕を掘らされた。

 

 

阮成書76 現在は朝陽新村在だが、当時は上海西北の南通市在。日本軍は付近の狼山を絨毯爆撃し、そこに避難していた500人中300人が死亡した。妻と子ども2人もその時死んだ。

 

谷招娣59 当時上海市閘北区に住んでいた。住民の誰かが日本兵を殴った。日本軍が同区を閉鎖し、餓死者がトラック23台分出た。

 

 

 

南京

 

 

感想 避難していた難民区の中から若い男性が集められて大量処刑された事例が詳細に報告されている。揚子江沿岸での処刑である。ドイツのガス室同様、合理的な処刑法である。2000人を揚子江脇の倉庫にぎっしり詰め込み、10人一組にして、揚子江までの通路の両脇を、銃剣装備の兵隊の間をくぐらせて揚子江に到着。そこで川に飛び込ませて、銃撃隊が銃殺。滞留した死体は、揚子江に停泊している戦艦のスクリューで流れをつくって揚子江の本流に押し流すというもの。

それにしてもよくこの惨状から脱出したものだ。平頂山事件でもそうだが、必ず奇蹟的な生存者がいるもの。彼の場合、水泳が上手で、しばらく水中にもぐり、水中に突っ込んでいた貨車の陰に隠れて首だけ出していたり、死体の下に身を隠したり、生きていると発見されて発砲されても腿のあたりで急所をはずれ、日本人と「維持会」(傀儡中国人)が、死体処分のために連れてきた労工にも「良人」と判断されて奇跡的に生き延びた。運の強い人だ。陳徳貴さん53歳である。243

 

 

メモ

 

231 「永利亜化学工場」の労働者が日本軍による強制連行に反対すると、その場で腹を断ち切り、心臓と肝臓を抜き取った。日本兵はそれを後で煮て食ったという。日本兵は工業用硝酸をぶっかける場合もあった。

234 日本兵は婦女子を片っぱしから強姦した。強姦された相手が裸で泣いている横で、自分も並んで記念写真を撮った例が多い。強姦のあと、腹を切り開いた写真、そのあと局部に棒を突き立てた写真、…

 

 

235 19歳の李秀英は「獣兵」と格闘した。「獣兵」は李を銃剣で刺し殺したが、まだ生きていた。

 

 

238 姜根福さん一家は長江際の下関に住んでいた。貧乏でサンパン(小舟)生活していた。父母と弟3人、姉3人の7人兄弟、9人家族だった。姜さんは当時9歳で長男だった。一番上の姉は他人に贈られた。(売られた。)

 

農村へ避難しようと長江を漕ぐと浸水してしまった。石梁柱地区を通りかかった。そこで土手に上がった。住民は皆逃げていた。空き家は危ないので、長江本流と運河との間の芦の湿原に隠れた。父と姉二人のグループと、母と男兄弟のグループとに分かれた。満一歳の末っ子の弟が泣き出し、日本兵に見つかった。日本兵は母を強姦しようとした。母は抵抗した。日本兵は赤ん坊を地面に力いっぱいに叩きつけた。赤ん坊は即死した。日本兵は母を後ろから撃った。母は死んだ。

二、三日後、父のグループも日本兵に見つかり、日本兵は父に背嚢を担がせて連行し、それっきりになった。

 

241 子ども五人が残された。2日後、日本兵に気づかれ、一番上の13歳の姉が日本兵に連行された。日本兵は抵抗する姉を軍刀で斬った。

 

11歳の姉から5歳の弟まで4人が残された。布団を1枚持っていたが、雨や雪が降ると寒いので、空き家に行った。白菜の漬物が甕二つに一杯あった。

 

早春、十数人の武装した維持会(裏切り)の一隊が4人を見つけた。彼らは小銃を持っていた。維持会は4人を三汊河へ連行し、そこで11歳の姉を売った。姉に縋り付く姜さんを維持会の連中は蹴飛ばした。5歳の弟も売られた。

 

9歳の姜さんと7歳の弟二人になった。乞食になった。

 

その後姜根福さんは、港湾労働者の姜書文に引き取られ、弟は楊国真に引き取られた。二人はそれまで徐という姓だった。1949423日、南京が解放され、売られた姉と弟の消息も分かった。

 

 

243 陳徳貴53は「宝塔橋難民区」に避難した。そこにはイギリス人が経営していた「和記洋行」という肉類加工工場があった。南京城の西北の城外にある。イギリスの租界地にある。

この難民区に維持会がやって来た。維持会は金持ち中心の漢好である。

12月下旬、維持会の20人が煤炭港の日本軍兵営に行った。日本騎兵78人がその日の午後難民区にやって来た。

244 翌朝200人の日本兵が現れ、成人男子を維持会の協力の下に駆り集めた。難民数千人中、二千人の青壮年男子が狩り出され、煤炭港まで歩かされ、倉庫に入れられた。10人一組にして、揚子江までの通路の両脇を、銃剣装備の兵隊の間をくぐらせ、揚子江に到着すると、そこで川に飛び込ませ、銃撃隊が銃殺した。滞留した死体は、揚子江に停泊している戦艦のスクリューで渦の流れをつくって揚子江の本流に押し流した。

 

私は水泳が上手で、しばらく水中にもぐり、水中に突っ込んでいた貨車の陰に隠れて首だけ出していた。それから隣の埠頭の桟橋まで移動し、死体の中に混じって横になった。

桟橋の上の日本兵が、川に浮いている死体に向けて手榴弾を放った。日本兵の一人が桟橋を降りてきて、橋脚のそばまで来て、私を撃った。弾丸は両太ももの内側と、そこで両手を合わせていた薬指を貫通した。

私は水際に移動して死体の下に身を隠した。

私は日本人と「維持会」(傀儡)の中国人が死体を処分するために連れてきた労工に見つかった。私は日本兵に「良民だ」と言い、労工も「良人」だと加勢してくれた。維持会の通訳が通行証を日本語で書いて渡した。私は難民区に戻った。その後、傷が治り、元の住所(洪門口の石牆外一号)に戻った。

 

 

252 小規模な集団虐殺 梅福康50の場合

 

家族7人を含めて計9人が惨殺された。

193712月、村には6世帯20人が住んでいた。皆親戚同士である。

200人の兵隊が来て、「家を提供せよ」と言われ、外に出された。

別室の女たちが夜中に逃げた。男12人と老女1人は女たちとは別室だった。

長兄は隣村で日本兵のために炊事をさせられた。

次兄は体温が高く、水を茶碗で飲もうとしたら、日本兵が茶碗を頭にたたきつけた。

日本兵は12人を集めて円陣を組ませ、布切れで互いに結びつけ、それに向けて手榴弾を投げた。12人中9人が死んだ。

梅さんの家族は、祖母、父、次兄、甥、従兄3人の計7人だった。

 

 

256 蔡周さん60の場合

 

193712月、南京郊外の蔡さん農村に十数人の日本兵がやって来て、放火した。

日本兵は夫を銃剣で突き刺し、発砲した。即死した。

日本兵は蔡さんを銃剣で7回突き刺した。腸が出ていた。

 

村は淵の中の島に婦女子を集めた。日本兵が「女を探してこい」と言ったが、黙っていた男は水を腹に一杯入れて拷問され、殺された。

身分証明書を持っておらず全裸にされた人が二人いた。その後殺されていたのを発見した。また日本兵は56人の農民を生き埋めにした。

日本軍司令部が「兵隊に今後婦女暴行を厳禁にしたから安心して家に帰るように」とお触れを流したが、その後も、蔡さんの近所の王さんの娘や、李さんの娘、温さんの娘が連れ去られ、その後の消息はない。

蔡さんも乞食をしていて売られた。

 

 

262 姜根福「幸せです。毛主席は私たちに第二の人生を開いてくれた。今の私たちがあるのも、全く毛主席と党のおかげです。この恩恵は、あの悲惨な旧社会に生きてきた私たちにとって、どんなに強調しても足りないくらいです。毛主席の恩は天と地よりも大きく、党の恵は河や海よりも深い。

また中国で犯した日本の罪悪は、軍国主義の罪悪であって、日本人民の罪ではありません。毛主席の教えに従って、私たちは現在も日本の人民と反動政府を見分けています。その反動政府の中でも、政策の決定者と従わされている人々とは区別しなければなりません。私たちがこうした過去の体験をあなたにお話ししたのは、日本人民に対する中国人民の友誼の現れでもあるのです」

 

262 文献

 

洞富雄『近代歴史の謎』新人物往来社、後に改訂して『南京事件』

エドガー・スノー『アジアの戦争』みすず書房

新島淳良「立体構成・南京大虐殺」(雑誌『潮』19717月号特集、雑誌『新評』19718月号所収)

平岡正明「日本の三光作戦」(雑誌『日本の将来』二号所収)

黒田秀俊『南京・広島・アウシュビッツ』大平出版社

ティン・バーリイ『外国人の見た日本軍の暴行』龍渓書舎

 

263 百人斬り競争について詳述。

 

昭和121213日付の東京日日新聞の記事。

月刊誌『丸』19711月号、当時の記者が取材状況を語る。

月刊誌『中国』徳間書店197112月号は、N少尉が故郷の小学校で語った自慢話を聞いた志々目彰の話を紹介している。

 

「ニーライライと呼びかけると、支那兵はバカだから、ぞろぞろ出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る。」

 

この二少尉は国民党蒋介石政権によって南京に呼ばれて死刑が執行された。

 

元陸軍将校の機関誌『偕行』は19707月号から711月号まで7回に渡ってN被告の遺言を掲載。

二少尉を弁護する鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』文藝春秋

それを応援するイザヤ・ベンダサンこと山本七平『日本教について』『私の中の日本軍』文藝春秋

それを批判する洞富雄『南京大虐殺』現代史出版会や

鵜野晋太郎「日本刀怨恨譜」(本多勝一篇『ペンの陰謀』潮出版社所収)

本多勝一『殺す側の論理』朝日文庫はベンダサンを批判している。

 

 

 

三光政策の村

 

 

267 三光作戦は1940年頃、八路軍が活躍し始めた頃、軍上層部が計画して行われるようになった。

 

268 河北省の天津の東に唐山があり、その65キロ東北に、途中豊潤を通過したところに藩家峪がある。豊潤県火石蛍人民公社藩家峪生産大隊がある。豊潤県革命委員会代表の沛が出迎えた。

 

藩広林48の証言

 

毛沢東が人々に呼びかけた。「全国の同胞よ、中華民族の危機を救うには、全民族の力を動員して抗戦しなければ活路は開けない」(1937.7.25「すべての力を動員して抗戦の勝利をかちとるためにたたかおう」)に呼応して藩家峪の住民も遊撃隊を組織した。道路を破壊し、通信線を切断し、地雷を使って待ち伏せ攻撃した。食糧の徴発に反抗し、身分証明書や戸別冊(世帯員名簿)を焼き捨てた。この村には傀儡政権ができなかった。

 

270 陳三奶々(だいだい、人名ではなく、三番目の陳さんの奥さん)はゲリラの隠れ場所を言えと拷問された。藩国生(民兵)は小銃一つで、敵に囲まれたゲリラを救出した。藩樹盛は銃一丁で掃討軍を撃退した。

 

1940125日、旧暦1228日に、日本軍がこの村の掃討に来た。

 

271 当時村には2411500人が住んでいた。出稼ぎや、村外の親戚に行っていた者が200人いて、実際には1300人だった。そのうち1230人が殺された。燼滅(じんめつ)作戦という。

 

124日の夜、3000人の日本軍と2000人の傀儡兵がこの村を包囲した。

125日の朝、藩広林の家族は7人だったが、父親は3日前に日本軍に連行されて拷問を受けていた。弟13歳はゲリラに参加するために前日に村を去っていた。17歳の長男の藩広林と祖母65、母36、妹二人(7歳と5歳)が残っていた。藩広林は逃げようとしたが、すでに包囲されて逃げられなかった。

 

村人は駆り出された。老衰や病気の者はその場で刺殺された。藩鳳柱の母78や、藩忠元の祖父80や隣家の藩樹弟の祖母らである。

 

村の西の氷結した池に民衆を追い込んだ。日本軍リーダーの佐々木が言った。「村長、武装班長、民兵、武器を持っている者、八路軍に協力した者は前に出ろ」「八路軍の兵器工場はどこだ」と言った。誰も出なかった。無作為に20人を引っ張り出し、銃剣で惨殺した。

 

274 佐々木は「大東亜共栄圏」「日中親善」などと言いながら訓話を始めた。

 

池から100メートル先に地主の家があった。高さ2メートルの壁に囲まれていて、42メートル×75メートルの台形をした敷地である。そこに1300人を入れた。庭には高粱の殻や松の枝が敷き詰めてある。石油のにおいもする。四方の壁に銃を構えた兵隊がいる。最後尾にいて入るのをためらった一人が刺殺された。

275 午前11時、放火。機関銃と小銃の一斉射撃開始。手榴弾も次々に飛んで来た。

 

一回目の点検直後、門に錠がかけられる直前に、藩国生(50270)が叫んだ。「このままではどうせ死ぬんだ。日本兵にとびかかれ。一対一で殺して逃げ出せ。」藩国生の後ろに20人が続いた。機関銃で10人が倒れた。藩国生は機関銃にとびかかり、奪い取って機関銃手を跳ね飛ばした。銃剣が彼を串刺しにした。その間に10余人が外に逃げた。山に向かった45人が撃たれたが、5、6人が逃げられた。

 

点検時に首を斬ってぶら下げ、腹と胸を切り開き、内臓を散乱させた。

 

277 範広林の家族は、彼以外は、全て殺された。

 

祖母は手榴弾を投げつけられ、五体がバラバラに飛び散った。二度目の機関銃掃射休止の時、日本兵は5歳の妹を母から引き離し、両足を掴んで振り子のようにして頭を石に叩きつけた。母がその子に覆いかぶさって抱くと、日本兵はその背中を突き刺した。上の7歳の妹が母の死体に抱き着くと、兵隊は妹の一方の足を踏みつけ、他方の足を引っ張って引き裂いた。腹まで裂かれた。

 

278 45歳の子が洗濯用の大きな石を頭に載せられて潰された。藩国文の妻は両足の付け根を切り落とされた。妊婦は銃剣で腹を裂かれ、腸とともに胎児も放り出され、動く胎児は突き殺された。20人から30人いた妊婦のほとんどが、機関銃で殺されなかった場合は、こういう殺され方をした。

 

内壁と家との間の狭い通路で、子ども200人が一度に殺された。

 

藩善緒さん67の証言 藩善緒さんは当時36歳だった。

 

三度目の機関銃掃射休止のとき、もう村人の半分は殺されていただろう。西側の壁の上にいた日本兵が熱さに耐えきれず、壁の外に降りた。その時私は犬小屋の屋根から豚小屋の屋根に上り、外へ飛び降りた。煙ですぐに見つからなかった。壁沿いに北へ20メートル走ったところで3人の兵隊にぶつかってつかまった。二人の兵隊に地面に押さえつけられ、三人目の兵隊が銃剣で顔を突き刺そうとしたが、身をかわして耳を切られただけで済んだ。私は二人の兵隊を跳ね返して起き上がった。三人目の兵隊の銃剣から身をかわし、こぶしでその兵隊の目をついた。片目が飛び出した。残る二人の兵隊の一人の頭を石でどやしつけるとひっくり返った。残った一人がまごまごしている隙に北の山に逃げた。

 

280 村中の家が放火され、その煙のために逃げやすかった。

 

藩広林の場合

 

北側の壁の入口の東側に、古い入り口が煉瓦で塞いであったが、小さな穴が開いていた。藩樹密の母の藩劉氏54、劉は婚前の姓)など何人かの女性がそこに走って来た。東の壁の上にいた日本兵が藩劉氏に手榴弾を投げつけた。藩劉氏はその手榴弾を拾って日本兵に投げ返した。爆発と同時に数人の日本兵が壁から落ちた。そのすきに藩劉氏は煉瓦の崩れた小さな穴に飛び込んで抜け出した。

藩広林は一気に多数が飛び出すために、三度目の休止のときに、藩広林ら10余人がその穴を広げた。藩広田が最初に走ったが射殺された。2番目の張鳳雨も射殺された。しかい穴はだんだん大きくなった。そこで藩広林ら56人が次々に飛び出した。

 穴の外に警備兵二人がいた。そこへ中国人が通りかかった。兵隊の一人がその中国人を追いかけた。もう一人の兵隊がよそ見をした時に、藩広林は飛び出した。反対側の(家の)壁の門が開いていた。飛び込んで扉を閉めた。兵隊が発砲した。藩広林らはその家の構内を北に走り、中庭の門を走り抜けた。火と煙が幸いして見つからなかった。北の山に逃げた。

 藩広林と共に脱出した56人はすべて射殺された。このあと10数人がこの穴から無事に脱出した。

 

282 地主の敷地内で隠れ通した人が29人いた。そのリーダー格が藩輔定60代である。藩輔定は当時31歳だった。10歳の息子と3歳の娘を両手に抱いていた。20人の青年が側にいた。食料倉庫に逃げた。逃げるとき上の子を落としてしまった。20人の青年も(食糧倉庫に)飛び込んだ。先客が78人いた。合計29人となった。斧、農機具、秤の分銅など、何でも手にして武器にした。

食糧倉庫の上にいた日本兵4人が、倉庫内に一斉射撃したが、部屋が暗く、煙もひどくて当たらなかった。倉庫に窓はなく、村人は入り口で抵抗した。抵抗は十数分続いた。反対側の家が燃えて熱い。食料倉庫の中のものに火が付き、煙が充満した。兵隊は攻撃を中止して引き揚げた。機関銃掃射が再開された。倉庫内で燃えているものを外に出した。29人は倉庫内で待った。

 

285 無意識に生き残った幼児もいた。藩樹藩の妻は4歳の男の子を抱いていた。西側の壁際に走り寄ったが射殺された。その4歳の男の子は生き残ったが、神経に異常をきたした。藩作明という。30歳になっても治らない。

 

日本軍がその日の夕方全戸の家宅捜索に来て、老人と子どもばかり32人を捕まえ、銃剣で突き刺され、川の崖から突き落とした。

 

29人の生存者は食糧倉庫から出た。藩広林や藩善緒なども山から戻ってきた。午後10時ころ八路軍第12連隊の700人が現れた。この時の八路軍は『白毛女』などに劇化された。元気な生存者60人、重傷者43人、計100人。殺された人が1230人。翌日八路軍の県政府から医療隊や食糧隊が派遣された。

 

288 死者の800体は識別不能だった。墓をつくった。

289 生存者100人と村外にいた者200人、計300人が村の再建に取り掛かった。大人の全員が民兵に加わり、そのうち22人は八路軍の正規軍になり、「復仇団」と称した。山に洞窟が掘られた。

8年間の抗日戦争中1937-1945に、日本軍はこの村に138回来た。この虐殺事件以後、日本軍とこの村との間で54回の戦闘が行われた。

藩樹盛270は虐殺の翌年1941318日、日本軍に捕まり、拷問の後銃殺された。

復仇団が参加する部隊は、1942年の旧暦7月、灤(らん)県の榛子鎮での戦闘で、前述の佐々木を含む日本軍150余人を撃滅した。

293 地主の家の中庭に「打倒日本帝国主義」と大書されている。

親指以外の指の先が欠けている男が近づいて私に指を示した。当時のやけどで失ったのだ。

展示館に当時の証拠写真が展示されている。

藩広林の父は拷問に耐えて生き残った。

記念撮影のとき藩広林の子どもたちは毛沢東語録を胸にかざして笑った。

 

296

 

「三光作戦」は中国の呼称であり、日本では「燼滅作戦」と呼ぶ。平岡正明『日本人の三光作戦』(季刊誌『日本の将来』第二号)

 

 

 

あとがき 本多勝一

 

 

解説 高史明

 

304 1931123日の衆院本会議で、松岡洋右は政友会を代表して「満蒙問題は、私はこれは我が国の存亡にかかわる問題である、我国の生命線であると考えている」

満州事変当時、軍部は戦争に踏み切るときに世論を考えて躊躇した。前関東軍司令官本庄繁中将「わが国民の輿論はどう動くだろうか、いささか懸念なきにあたわずであった――日露戦争当時ですら一部に非戦がおこなわれたのだから――しかるにこれは全くの杞憂であって挙国一致の後援だ」

 

307 日中戦争後の日本人死者は500万人、中国人死者は千数百万人であった。

 

以上

 

 

中国帰還者連絡会(中帰連)編『新編三光』第1集 光文社1982

  中国帰還者連絡会(中帰連)編『新編三光』第1集 光文社 1982       これは 1955 年ころ撫順戦犯管理所に収容されていた日本人戦犯が書いた手記である。     004  まえがき 本多勝一   007  本多勝一が言うように、確...