2026年8月13日木曜日

日本国憲法作成時の年表

 

日本国憲法作成時の年表

 

1945

 

927日、昭和天皇が東京・赤坂の米国務省(米大使館)を初訪問し、マッカーサーとツーショット写真を撮った。

104日、GHQが近衛文麿国務大臣に憲法改正を示唆

109日、幣原内閣成立

1011日、マッカーサーが幣原に憲法の自由主義化を示唆

1025日、憲法問題調査委員会(松本委員会)が設置される。

1122日、近衛文麿が「帝国憲法改正要綱」を天皇に奉答。(AIによれば、1122日当時、前年に解散した大政翼賛会に代わる政党はなく、近衛は内大臣府御用掛として憲法改正草案(近衛草案)を奉答した。近衛は貴族院議員(公爵議員)であった。)

1226日、憲法研究会が「憲法草案要綱」を発表。(AIによれば、憲法研究会は民間団体で、その憲法草案要綱は民主的で、後の日本国憲法やGHQ草案にも大きな影響を与えた。国民主権、天皇は国家的儀礼を司るだけの存在とされ、生存権、男女平等、信教の自由、寄生地主の廃止、…などを含んでいた。作成者は、高野岩三郎、鈴木安蔵、森戸辰雄ら知識人や学者7人が中心となった。首相官邸やGHQに提出され、新聞でも報道された。)

 

 

1946

 

11日、昭和天皇「人間宣言」

21日、毎日新聞が「松本委員会試案」をスクープ

23日、マッカーサーが3原則(象徴天皇制、戦争放棄、封建制度の廃止)を提示。民政局にGHQ草案の作成を指示。(ベアーテ・シロタ・ゴードンによれば24日)

28日、日本政府がGHQに「憲法改正要綱」を提出。

213日、GHQが「憲法改正要綱」を拒否し、日本側にGHQ草案を手渡す

36日、日本政府が、GHQとの協議に基づいた「改正要綱」を発表。

417日、日本政府がひらがな口語体の「憲法改正草案」を発表。

522日、第1次吉田内閣が成立。(選挙の結果、吉田茂が率いる日本自由党などの野党勢力が躍進して第一党となった。幣原は首相退任後、日本進歩党の総裁となった。それ以前は貴族院議員(無所属)だった)

620日、第90回帝国議会に改正案を提出。

 

以上

日本国憲法

 

日本国憲法

 

 

日本国憲法を読んでみた。「7条解散」、臨時国会開催要求、国家による宗教への介入の禁止などの懸念事項に係る条項があった。

 

 

1章 天皇

 

7条 天皇の国事行為

 

 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行う。

 

三 衆議院を解散すること これは、天皇の行為(国事行為)を制限するための規定であり、それを横取りして勝手に解散する根拠にはならない。戦後最初に「7条解散」を始めたのは誰か。1952年、吉田茂が「抜き打ち解散」を行った。

 

 

3章 国民の権利及び義務

 

20条 信教の自由 宗教への国家介入禁止の件では、自衛隊による靖国の集団参拝を思いついた。

 

1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない

3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない

 

上記の2と3に、自衛隊員による靖国集団参拝は、抵触するのではないか。

 

26条 教育を受ける権利と受けさせる義務 生保との関連

 

1 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する。これに関して、生保の子弟に対して、大学や大学院教育を受けることを禁じているらしいが、それは憲法違反ではないか。「法律の定めるところにより」が、生保を非対象の理由とするなら、それは差別ではないか。

 

34条 何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与えられなければ、拘留又は拘禁されない。これは被告人に弁護士をつける権利があることを言っている。警官の接見で弁護士をつけることも言っているのではないのか。

 

37条 すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利がある。

「迅速な裁判」を受ける権利があるのに、今の裁判は23年単位でかかるのでは。とても迅速とは言えないのでは。

 

38条 

1 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。これこそ全く守られていないのでは。

2 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く拘留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。まさにこれは袴田事件、狭山事件などの冤罪事件に当てはまることである。

3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない

 

 

4章 国会

 

44条 議員及び選挙人の資格

 

両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない。これは、在日朝鮮人に国政選挙での被選挙権や選挙権がないことが憲法違反であることを言っているのではないか。「人種」の代わりに「国民」概念を持ち出すのは屁理屈ではないか。

 

54条 臨時会

内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いずれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣はその召集を決定しなければならない。ここに期日の記述がないとして、これを無視するのは憲法違反である。

 

63条 国務大臣の出席

 

内閣総理大臣その他の国務大臣は、両議院の一に議席を有すると有しないとにかかわらず、いつでも議案について発言するため議院に出席することができる。又、答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない

 

 

5章 内閣

 

66条 内閣の組織と責任

 

2 内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。これは自衛隊員が議会に関与することを禁じたものと思われる。最近、元自衛隊員の議員が増えているが、グレーな懸念材料である。禁止すべきではないか。

 

 

7章 財政

 

89条 公の財産の用途制限

 

公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。これによれば、私立学校に助成するのは憲法違反ではないか。

 

以上

 

2026年8月12日水曜日

インドネシアの対日感情

 追記 2026年8月12日(水)


今日図書館で2、3日前からの朝日新聞をまとめ読みしていたところ、BBCの調査として、インドネシアの親日感情は、85%が良好だとあった。

確かに戦争直後から1974年のマラリ事件のころまでは反日感情があったが、その事件以降、日本側が経済だけでなく、文化交流も重視するようになってから好転したようだ。1977年、福田赳夫が「心と心のふれあい」を重視し、インドネシアの文化も学ぼうという姿勢を示したのである。

1974年のマラリ事件は、田中角栄がインドネシアを訪問したことをきっかけに、学生を中心にジャカルタで起った反日・反政府暴動で、3日間で、11名が殺され、770名が拘束され、1000台の車両が破壊され、144棟の建物が破壊された。その中には日系ばかりでなく、華人系商店も標的にされた。スハルト政権時である。

1958年に賠償協定が行われ、その後ODAが行われたが、それを「経済支配」とみなす懸念があったそうだ。

2026年8月11日火曜日

幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について 平野三郎 鉄筆文庫

 

日本国憲法 9条に込められた魂 鉄筆編 鉄筆文庫 006 2016

 

 

付録5 「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」 平野三郎氏記 憲法調査会事務局 昭和3919642

 

 

感想 202686()

 

幣原さんが戦前、世界平和のために献身し、国際協調に尽くしたことが、憲法9条を決断した原動力だった。幣原さんの考えを手短に要約してみよう。

世界平和のためには、世界政府に武力を集中する必要がある。武力は必要だ。

世界政府をつくるためにはその前に世界各国が協議をする必要がある。軍縮でも協議が必要である。しかし軍縮協議は簡単ではない。各国が利己主義を捨てきれないからだ。軍縮協議にはそういう堂々巡りのジレンマが付きまとう。そういう場合に自己否定的なお手本が必要だ。その役割を日本が引き受けよう。このように幣原さんは決断した。

 

 

メモ

 

128 第一部

 

私が幣原先生から憲法についてお話を伺ったのは昭和2619512月下旬であり、それは先生が同年310日に急逝される10日ほど前のことであった。

 

 

129 憲法9条は占領下の一時的な規定ではなく、長い間僕が考えた末の最終的の結論というようなものだ。

130 原子爆弾ができた以上、世界の事情は根本的に変わってしまった。戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。

 

131 僕は世界は結局一つにならなければならないと思う。各国の交戦権を制限しうる集中した武力がなければ、世界の平和は保たれない。その武力は一個に統一されなければならない。ある協定の下で軍縮が達成され、その協定を有効にするために必要な国々が、進んでまた誠意をもってそれに参加する。各国の軍備が国内治安を保つに必要な警察力程度に縮小され、国際的に管理された武力が存在し、それに反対して結束するかもしれない如何なる武力の組み合わせよりも強力である、というような世界である。

 

原子爆弾が出現した以上、この理論を現実に移す秋が来たと僕は信じた。

 

133 恐らく世界にはもう大戦争はあるまい。原子爆弾という異常に発達した武器が、戦争そのものを抑制するからである。いかなる理想主義も人類の生存には優先しないことを各国とも理解するからである。

 

世界同盟実現の成否は、偏に軍縮にかかっている。軍縮協定なき世界は静かな戦争状態である。しかし軍縮ほど難しいものはない。交渉者に与えられる任務は、如何にして相手を欺瞞するかにあるからだ。原子爆弾の登場によって軍縮交渉は行われるだろう。しかし軍縮交渉は合法的スパイ活動の場でもある。原子爆弾は世界中に広がり、遂に身動きの取れない瀬戸際に追い詰められるだろう。軍拡競争は一刻も早く止めなければならぬ。しかし自衛のために力が必要だ。その結果がどうなるか、そんなことは分からない。責任は自分にはない。責任は相手にある。

136 果てしない堂々巡りである。集団自殺の先陣争いと知りつつ、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景――それが軍拡競争の果ての姿であろう。

 

137 ここまで考えを進めて来た時に、第九条というものが思い浮かんだのである。そうだ誰かが自発的に武器を捨てるとしたら―― 何という馬鹿げたことだ、恐ろしいことだ。まさに狂気の沙汰である。しかし僕は何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとして来たのか。このとき僕は天命をさずかったような気がしていた。

 

138 武装宣言は正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だ。世界は今一人の狂人を必要としている。何人(なんぴと)かが自ら買って出て狂人にならないかぎり、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。日本人は原子爆弾という悪魔を投げ捨てることによって、再び神の民族になるのだ。僕が言うところの「死中に活」というのはその意味である。

 

139 日本の独立後に他国が侵略して来ても、第九条を堅持することが日本のために必要だと思う。強大な武力と対抗する陸海空軍は有害無益だ。我国の自衛は徹頭徹尾正義の力でなければならない。そしてその正義は世界の公平な輿論によって裏付けられなければならない。そうした輿論が形成されるように必ずなるだろう。世界の秩序を維持しなければならないからだ。そして第三国が日本の安全のために必要な努力をするだろう。

 

 

問 そうしますと憲法は先生の独自のご判断でできたものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています。草案は勧告という形で日本に提示されたが、あの勧告に従わなければ、天皇の身体を保証できないという恫喝があったのですから、事実上命令に他ならなかったと思いますが。

 

答 ここだけの話にしてもらいたいのだが、僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。(この表現だけでは幣原自身の天皇制観がどうなのかは分からない)元来、第九条のようなことを日本側から言い出すようなことは、できるものではない。(自殺行為だから)まして天皇制の問題に至ってはなおさらである。(絶対主義的天皇制を象徴天皇制に格下げするのだから)

 

幸いマッカーサーは(どういう経過かは知らないが)天皇制を存続する気持ちを持っていて、米国本土からもその線の命令があった。しかし、豪州とニュージーランドは、日本人は天皇のためなら平気で死んでゆくと、戦中の皇軍に怖れをなし、天皇制廃止をとなえ、ソ連に同調しようとしていて、対日理事会での票決で、アメリカが孤立する恐れがあった。

 

143 しかし、豪州やニュージーランドが恐れるのは日本の再軍備であり、天皇制そのものではない。戦争を放棄するならば、天皇が名目的に存続するだけなら反対はしないだろう。この構想は天皇制の存続と第九条の実現の、一石二鳥の名案である。

 

しかし、象徴天皇制への移行は国体に触れることだから、日本側から口にすることはできなかった。憲法を押し付けられた形をとったが、そうでなければできなかった。僕はマッカーサーに命令として出してもらうように決心したが、首相自らが国体と祖国の命運を売り渡すという国賊行為の汚名を覚悟しなければならないという大問題だったので、僕は松本君*にも打ち明けなかった。(*松本烝治。幣原内閣の憲法改正担当国務大臣)

僕は誰にも気づかれないようにマッカーサーに会った。昭和21124日のことである。僕は二人きりで長時間話し込んだ。

 

144 マッカーサーは(豪やニュージーランドなどからの天皇制廃止の主張にあって)非常に困った立場にいたが、僕の案はそれを打開するものであり、うまくいった。マッカーサーも第九条の永久的規定には驚いたようだったが、賢明な元帥は最後にはよく理解し、感激して握手した。

 

元帥が躊躇した理由は二つある。(日本を米の対ソ連戦争に捲き込むという)アメリカの将来的戦略と、共産主義者に対する影響であった。僕は元帥に言った。

 

 「幸か不幸か日本が戦争に負けたことは、戦争放棄を提起しやすい立場にある。これは世界史的任務である。貴下さえ賛成するなら、現段階における日本の戦争放棄は、対外的にも体内的にも承認される可能性がある。歴史の偶然を今こそ利用すべきである。日本を(対米従属ではなく)自主的に行動させることが世界を救い、したがって(結果的に)アメリカを救う唯一の道ではないか。

 また、日本の戦争放棄が共産主義者に有利な口実を与えるという危険はあり得るが、(世界滅亡という)より大きな危険から遠ざかる方が大切だろう。資本主義と共産主義とのイデオロギー的対立は絶対的に不動のものではない。マルクス・レーニン主義はやがて歴史のかなたに埋没するだろう。米資本主義が現に共産主義の理論的攻撃にもかかわらず、いささかの動揺もないことは、資本主義がマルクス・レーニン主義の理論に先行し、自らを創造発展せしめたからである。(資本主義にそんな理論があるのか。)彼らロシア人の敵はアメリカでも資本主義でもない。世界の共通の敵は戦争それ自体である。」

 

 

天皇制存廃問題

 

 私は吉田茂・外務大臣(憲法公布・施行時は首相)と、マッカーサーの草案をもって天皇を訪問した。僕は天皇に反対されたらどうしようかと内心不安だった。陛下は言下に「徹底した改革案を作れ、その結果天皇がどうなっても構わない。」と言われた。この英断で閣議も納まった。憲法も陛下の一言が決したと言ってよい。

天皇が権力に固執されたら、おそらく今日天皇はなかったであろう。日本人の常識として天皇が戦争犯罪人になるということは考えられないであろうが、実際はそんな甘いものではなく、当初の戦犯リストの冒頭に天皇の名があったのである。それを外してくれたのが元帥だった。元帥の草案に天皇が反対されたら、情勢は一変していたに違いない。

 憲法は天皇と元帥の聡明と勇断によってできたといってよい。天皇と元帥が一致しなかったら、天皇制は存続しなかっただろう。

 

 去年、金森君*に聞かれたときも僕は断った。(*金森徳次郎。吉田内閣の憲法問題専任国務大臣)

このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならない。そのつもりでいてくれたまえ。

 

 

150 第二部 前記第一部の結論に至るまでの思考過程

 

感想 202688()

 

幣原さんは戦争中にマルクス主義の文献を読んだようだ。恐らくソ連を隠然たる勢力として気にかけていたに違いない。本書に書かれている限り、その思考過程についてはよく分からない。どの文献を読んだかについても記されていない。マルクス主義といっても、唯物弁証法という歴史的発展論であり、剰余価値説については触れられていない。

 

ダーウインについても述べている。おそらくマルクス主義と同様、歴史的発展という点で共通するからなのだろう。

 

 

メモ

 

150 私は一生を平和のために捧げてきたようなもので、そのため長い間ずいぶん苦労した。しかし、そのために図らずも憲法改正という大事業を引き受けることになった。私は二度と戦争が起こらない保証を新憲法で確立したいと決心していた。

 

151 憲法改正案がたくさん出されたが、満足できるものは一つもなかった。自由党は天皇制護持に熱心なだけであり、進歩党は宣戦と講和の大権は議会の協賛を要するとしていたが、統帥権をやめるというに過ぎなかった。共産党は「日本人民共和国は侵略戦争を支持せず、それに参加しない」とするが、侵略戦争は行わわれたためしがない(どういう意味か)。結局、戦争をなくそうとするものはなかった。

 

人間は平和を願いながら実際は血なまぐさい歴史を綴ってきた。

ナポレオン戦争時のプロイセン軍将校だったカール・フォン・クラウゼヴィッツは、戦争の原因を政治であるとした。

マルクスは、資本主義社会では、階級闘争が帝国主義になり、それが戦争に発展するという。マルクス主義では、(クラウゼヴィッツの言う)政治は経済である。

 

こうした学説では戦争の問題は片付かない。社会主義なら平和になると言っても、現に今度の戦争は資本主義と社会主義の同盟軍がやった。またやがて資本主義と社会主義との最後の決戦はさけられないだろう。

 

ダーウインは、生存競争が生物進化の法則であると言った。私はこの生物学から戦争と平和の問題を考えるのが順序だと思った。政治的原因や経済的原因だけでは平和の問題は解決できない。ダーウインの進化論が核心である。

 

兄弟同志は戦争を始めるが、兄弟は相互扶助して外敵と競争する。人間は他人と競争するが、さらに大きな外敵と競争するために、これまで競争相手であった他人と相互扶助をする。その過程で人間は進化する。

154 戦争と平和は、生存競争と相互扶助ではないか。戦争と平和は人間の進化のために必要な二つの条件であり、人間の本質だ。これは歴史の宿命か。戦争の固まりみたいに思われた大日本国憲法も、平和を基調としていた。

 

ヘラクレイトスは「戦争は万物の王である」と言い、ムッソリーニは「人類は戦争を通じてのみ偉大な存在となる。永久平和など不合理な童話は、世界に存在したこともなく、将来も存在しないだろう」と言った。

 

私は諦めかかった。

 

156 恐竜は肉体が強大になり過ぎて滅び、鹿は角を伸ば過ぎて自らの行動を失い、キリンは首が長くなったために運命を危うくしているし、馬は人間が必要としなくなれば存在理由がなくなるだろう。スカンジナビア半島に棲息するレミンダスという鼠は、繁殖が頂点に達すると一列になって大移動し海に飛び込んで溺死する。死の行進である。

 

157 人間はどうか。人間もやがては滅びるだろう。人間は戦争を繰り返し、今や原爆という武器を手に入れた。原爆は進化における究極兵器である。人間も死の行進をするようになった。

 

158 進化論は科学であるが、科学とは何か。科学は増長した。科学は何事も解決できると増長した。しかし科学は倫理と無関係である。科学は人間を指導することはできない。人間は進化論を批判できる。それは哲学である。哲学は科学を征服する。人間は原爆の世界でも世界の修正を思い立つことができる。

 

160 人間は歴史を作れるだろうか。私には自信がない。

 

人間の意志は決して実現できない。実現できるなら今度の戦争も防げたはずだ。私がいかに戦争に反対し、平和を叫んでみても、怒涛のような戦争の激流を阻止することはできなかった。英米と戦うことが無理だということは、心あるものには分かっていた。しかし日本には必勝という信念があった。一度も負けたことがないからである。つまり今度の戦争は誰が何と言ってもどうしても避けることができなかったと思われる。

 

161 歴史の流れは人間の意志とは無関係に流れていくものではないか。何者か人間を超越した大きな力が、歴史を貫いてゆくように思われる。歴史とは何か。

 

 唯物史観によれば、歴史は物質の反映である。物質は人間の精神に優先し、精神の外部に独立して存在する。物質は科学が説明する。人間の認識は不十分で不正確である。科学の発展の過程で、人間は自然の中から新しいものを認識する。

 

 なるほど。しかしこれは永遠の法則といえるだろうか。人間の認識は事物の外観だけに限られ、真理の認識に至らない。その疑問に対して唯物論者は弁証法で説明する。エンゲルスは、「人間の認識は常に相対的誤謬の中で実現されるが、真実性を主張する無条件的権利を持っている。それは限りない世代の連続の中で解決される矛盾である。」と。レーニンはこのことに関して「そこには相対的真理と絶対的真理との弁証法的関係が見事に描き出されている」と感心している。

 

163 しかし(原爆が出現した)今日では「限りない人間世代の連続」があるかどうかは疑わしい。第三次世界大戦が起こり、究極兵器が発射されたら、人間は消滅するだろう。唯物論者は、精神はなくても物質は存在するというから、「かつてここに愚かな生物ありき」と立札を建てるだろうか。

 

 しかし唯物史観も人間の精神の自由を極力認めようとしている。レーニンは「自由とは自然の法則を特定の目的のために計画的に作用させる可能性の内にある。それは自然の必然性の認識に基づいて、外的自然を支配することである。つまり、自由とは必然性の洞察である」と言っているが、そのような自由は外的自然に支配されている自由だから、歴史を動かし得る人間本来の自由とは呼べないと私は思う。(幣原さんは「歴史を動かし得る人間本来の自由」は物質の外に存在できると考えているのか。)

 人間の精神は客観的実在を認める。しかしその精神は物質の反映にすぎない。その不十分で不正確なしがない影である客体が、なぜ主体を絶対の真理だと認めることができるのか。(むむ。)確固たる第三者がそれを認めるに違いない。それは人間の精神から抜け出した第三者であるはずだ。それは主体と客体を見比べ、物質を客観的実在だと宣告する。つまり唯物論者は人間ではなく、神である。唯物論者は神を否定するが、彼自身は神とならなければできない芸当をした。唯物弁証法は物質を神と見立て、物質という神に向かって旅を続ける永遠の旅人である。この哲学には根拠がなく、歴史の証明はできないと私は思った。

 

 一方、観念論は問題にならない。感覚や観念と客体とが不可分だとしたら、精神の及ばない世界には何ものも存在しないことになる。しかし、実際、南極大陸は精神とは無関係に存在している。

 

166 哲学史は物質と精神のいずれを主体とするかという論争の歴史であったが、それは無益な水掛け論にすぎない。

 真の本性は、観念論がしたように、外面という表皮ではない。また唯物論のように、内面にあるために予感し規定はできるが、決して到達できないような秘められた実在でもない。そのような存在は初めから存在していない。私は真の存在は、精神と物質の連鎖の中にあるのではないかと思う。

 私はすこし分かった気がした。宇宙の存在は精神と物質の連鎖の中にある。歴史は人間と離れて存在するはずがない。確かに歴史には一定の方向があり、それは個々の人間の意志とは別個に動いてゆく。しかし、人間のいないところに歴史が綴られることがない以上、自然の歴史などあり得ない。(恐竜時代は)

167 歴史は時間であるが、時間は本来無である。つまり、過去はすでにないし、現在は無限分割の極限であり、これも無である。未来も固より無である。その時間が一個の時計のように存在するというのは、弁証法的に統一されるからである。弁証法は、ヘーゲルが言うように、綜合的・内面的であり、観念の中だけで実現する。それは本来、唯物論とは結びつかない。時間は観念の統一である。時間は人間の観念によって組織される構造である。歴史も観念による人間的構造である。歴史には人間の意図がある。

 

 私はようやく一つの確信に達した。人間と遊離した歴史の必然など存在しない。歴史は人間のものだ。人間が人間の歴史を構成する。人間は歴史をどのようにも書き換えることができる。

 

168 歴史は今新しい段階に達しようとしている。究極兵器の登場によって人間は戦争進化の頂上に達した。戦争に向かうか平和に向かうか。新しい時代がやってきた。前史の閉幕である。戦争に血塗られた過去の歴史は去った。人間開花とは戦争のない世界である。どうして戦争をなくせるか。生存競争と戦争を区別すればよい。

 

169 戦争で大勢を殺すほど褒められるのは、生存競争と戦争を混同した錯覚に起因する。生存競争と相互扶助は車の両輪である。生存競争と戦争は同義語ではない。殺されることがなくなれば人間は退化するという人がいる。逆である。進化が滅亡の段階に達した今、大転換を図る必要がある。ムッソリーニは言った。「人間は戦争を通じてのみ偉大な存在になる」と。しかしスパルタクスの競技を通して競争者の数は減少し、進化は断絶する。そこで殺人と競技が分離し、殺人を目的としない競技に進化した。平和的生存競争である。平和的生存競争の花が開く。

 

以下の論考は第一部と重複するので重要部分だけを記す。

 

170 どうして戦争をなくすか。平和的方法で解決するには武器に頼らないことだから、武器を持たないことが一番確実だ。

老子の大道国家や、カントやルソーの永久平和案は夢に過ぎない。争いの解決には武力が必要だが、その武力は一つに統一されなければならない。

173 徳川幕府は武力を統一したが、将軍の永久支配というイデオロギーを凍結しようとしたため、学問の禁止という愚民政策を強行せざるを得なかった。そのために徳川幕府は300年しか持たなかった。人間は常に自由を求めてやまないのである。

 

174 資本主義と社会主義との戦いが予想されるが、原爆の出現がその戦争を抑制する。資本主義も社会主義も目的ではなく(平和に向けた)手段にすぎない。いかなる理想主義も人類の生存には優先しないということを人々は知るからである。よって世界同盟は必然である。

 

問題の成否は軍縮にかかっている。

 

178 「もし誰かが自発的に武器を捨てるとしたら――」と私は思いついた。

179 武装宣言が正気の沙汰と言えるか。

180 世界は今一人の狂人を必要としている。

武力は弱者の武器に過ぎない。

181 死中にこそ活がある。

私は人間天皇と戦争放棄とを一緒にマッカーサーに進言した。このことは彼の名においてのみ可能であることを彼は知っていた。

私としては松本君らに(マッカーサーとのこの内幕を)打ち明けることができなかったことは忍び難いことだったが、やむを得なかった。

 

182 マッカーサーが同意するまでには、日米軍事同盟という観点から、かなりの躊躇があった。

私は言った。世界が滅びれば、アメリカも滅びる。

183 「アメリカさえ賛成すれば、現段階における日本の戦争放棄は、対外的にも対内的にも承認される可能性がある」と私はマッカーサーに言った。

イデオロギーは絶対的に不動ではない。

184 マルクスの予言と論理は現実の中に消滅し、やがて歴史の彼方に埋没してゆくものである。二つのイデオロギーは徐々に接近し、いずれは区別のつかないものになってしまう時代がやがてくるだろう。

敵はロシアでも共産主義でもない。戦争それ自体である。このことはやがてロシア人も気づくだろう。彼らの敵はアメリカでも資本主義でもない。

 

以上

難癖、疑問点

 

151 日本は未だかつて侵略戦争は行ったことがない。

153 資本主義と社会主義との決戦は避けられない。(資本主義社会内部で社会主義化される可能性を見落としている)

155 大日本帝国憲法は平和を基調としていた。

165 唯物論は物質を「神」だとする。

175 二つの世界は妥協するしかない。

184 資本主義は社会主義に先行している。

 

 

梗概

 

いくつかの憲法草案が出されたが、満足できるものはなかった。(天皇制の護持(自由党・進歩党・社会党)や侵略戦争不参加(共産党))

私は戦争について根本的に様々に考えてみた。戦争論、生物学、歴史学、哲学、共産主義理論(唯物論)、… そして心に留めておくべきことは、今、究極兵器としての原爆が生まれた時代に、戦争は人類の滅亡を意味するということだ。

 

戦争を回避するためには、国連などを利用して、世界の交戦力を一つにする必要がある。しかし軍縮交渉は難しい。

 

私はふと戦争放棄を思いついた。狂人の思想と思われるかもしれない。しかし軍備を持つことは正常か。それこそ狂人ではないか。原爆の時代に。

 

世界中の全ての国が戦争放棄を実行するのが無理なら、一つの国が戦争放棄を言い出したらどうか。戦争に負けた今の日本はそれを言い出しやすい。

 

また私には天皇制維持という使命があった。米国もそのつもりだった。しかし、オーストラリアやニュージーランドはソ連と同様に天皇制に反対だった。戦時中の皇軍を恐れていたからだ。

 

私は、戦争を放棄すれば人間天皇制(象徴天皇制)にオーストラリアやニュージーランドも賛成してくれるのではないかとマッカーサーに提案した。

マッカーサーはすぐには賛成しなかった。日本が軍備を持たなければ、ソ連との軍事関係で不利となるからだ。(しかし結局はマッカーサーも賛成してくれたようだ。)

 

(シロタさん*の証言によれば、シロタさんらが日本国憲法の草案を作成するように依頼された時、マッカーサーの三つの基本方針(マッカーサー・ノート)が示された1946.2.4。それは身分制の廃止と同時に天皇制の維持と戦争の放棄である。

つまり、この時にすでに、マッカーサーの考えの中では、天皇制の維持と戦争の放棄が基本的な方針として決まっていたことになる。*ベアーテ・シロタ・ゴードン『部屋で唯一の女性』)

 

私は戦争の放棄や人間天皇制は、日本人の口からは言い出しにくいので、マッカーサーに言ってもらうことにし、松本君*には悪いけれど黙っていた。(*松本烝治。幣原内閣の憲法改正担当国務大臣)

 

以上

 


2026年8月10日月曜日

岩根承成「群馬発の非戦論から日本軍の戦争を考える」

 

講演会 岩根承成「群馬発の非戦論から日本軍の戦争を考える」202689() 前橋市芸術文化れんが蔵

 

 

感想 三点

 

日本は朝鮮や中国だけ(それも不十分でしかも修正しようとしている)でなく、東南アジアの国々に対しても、戦中の行為に関してきちんと謝罪し続けなければならない運命にある。今日本で修正主義者が跋扈しているような状況は、ドイツでは考えられないことである。謝罪した上での真の友好関係が求められる。財力で脅した「友好」関係では駄目だ。インドネシアやフィリピンでは、小中学校の教科書で、戦争中の日本の行為について厳しく指摘している。知らないのは日本人だけ。資料1

 

日本の歴史修正主義者は執拗である。高崎連隊所属の某兵隊が南京戦に従軍していたという資料「戦闘詳報」が、その兵隊の前橋の実家で発見されたことを、岩根さんが「高崎市史」の増補用冊子で発表したところ、某歴史修正主義者*がその実家を調べ当て、その原本を持ち去ってしまったという。証拠隠滅目的である。

 

*講演では「東中清三(当て字、せいぞう)という防大の修正主義者に原本を渡してしまった」と言っていたようだが、ネットで調べると該当者がいない。

 

日清戦争でも日本軍による一般市民に対する虐殺行為が行われていた。資料2

 

 

資料1

 

フィリピンの中学用教科書 ザイデ『普通中学用フィリピン史』1959

 

「彼ら(日本人)がフィリピン人に語ったことは、彼らは、フィリピンを西洋の抑圧から解放するためにやってきたということ、彼らとフィリピン人は兄弟であるということであったが、彼らは街を尊大な「スーパーマン」のように闊歩したり、ちょっと気に障ることがあると、人々の顔を叩いたり、散々に殴ったりした。彼らはこの国を略奪し、男を日本軍の事業に強制的に働かせ、女を凌辱し、多くの罪のない民間人を虐殺した。…すべての鉱坑と工場は日本人の手で運営された。フィリピンの土地の大部分は、日本が綿花を緊急に必要とするために、綿の栽培にあてられた。…あの占領の暗黒時代に、日本軍はこの土地に住み、米、カモテ、果実、野菜その他の食糧を大量に消費していた。当然、国民は飢え、ぼろをまとい、―厳しく反日的になっていった。」

 

インドネシアの小学校5・6年用教科書『わが民族の歴史』1962 (世界の教科書を読む会編『軍国主義』1971、江口圭一『十五年戦争小史』1991

 

「ニッポン人はインドネシアの「支配」を始めた。オランダの物資は日本の保有するところとなった。…さらにすべてのニッポン人は「日本の旦那様」と呼ばれるにいたった。まさに日本は、オランダがそうだったように、インドネシアの主人になろうとしたのである。…日本はインドネシアに多くの要塞を建設した。我々は要塞づくりの労働を強制的にやらされた。…我々は「ロームシャ」(労務者)にされた。「ロームシャ」とは日本人によって強制労働させられた人のことである。農民、労働者はあたかも奴隷のように家屋敷を捨て、他の地方、つまりジャワ、スマトラ、イリアン(ニューギニア)、ビルマ、タイなどに連れていかれた。(強制連行)彼らはジャングル、沼沢地、海岸などで働かされた。わが民族の苦しみは極めて大きかった。コメを日本軍に強制供出させられて、我々は飢えた。着物も、薬も不足した。不足しないものはなかった。人々は恐怖と不安の日々を送った。日本に反抗しようとする気配をみせれば、逮捕され、拷問にかけられ、そして投獄されるか殺されるかしたものである。老若男女の区別はない。学校の生徒たちは「奉仕作業」に狩りだされた。子供たちはまた、日本の歌を歌えなければならず、日本語でしゃべれなければならなかった。同様に日本式の服装まで奨励された。あたかもインドネシア人は日本人に変化しなければいけないかのように。」

 

資料2 日清戦争時の旅順での一般市民に対する虐殺行為 十五連隊第三大隊二等卒の兵士 窪田仲蔵の『従軍日記』明治2719941121日の記事 長野県で発見された。

 

「支那兵と見たら粉にせんと欲し、旅順市中の人と見ても皆討殺したり、故に道路等は死人のみにて行進にも不便の倍なり、人家に居るも皆殺し、大抵の人家二・三人より五・六人死者のなき家はなし、其の血は流れ其の香も亦甚だ悪し 捜索隊を出し或は討ち或は切る敵は武器を捨て逃るのみ 之を討ち 或は切る故 実に愉快極りなし … 後日の調に依れば、婦女四十余人を殺したりと云ふ」

 

以上

メモ

 

 

浅尾 2010年、私は麻屋デパートを平和資料館にしようと運動をしたが、それはならず、2014年から、この煉瓦蔵(前橋市芸術文化れんが蔵)を前橋市から借りている。

 

 

石原まり バッハなどのチェロ演奏とトーク 30分 チェロを9歳の時から習い始め、ベルギーに留学。現在38歳。箱田町の出身。

 

 

石根承成「群馬発の非戦論から日本軍の戦争を考える」

 

 

内村鑑三1861.3.23-1930.3.28 69歳没)は、高崎藩の藩士の長男として生まれた。(以下、Wikiも加えつつ)高崎英学から東京外語へ。そこから札幌農学校へ。クラークと接し、キリスト教に入信。

 

明治231890年、一高(現・東大教養学部)の教員に就任。翌年の明治241891年、教育勅語奉読式で、偶像崇拝(奉拝)を拒否して最敬礼しなかった。学生が注視していた。不敬事件で退職。

 

その後、教会関係の仕事をしていたが、1897年、朝報社に入社して『万朝報』の英文欄を担当し、足尾鉱毒問題を取り上げたが、自己都合で翌1898に退社し、『東京独立雑誌』を創刊した。その間の1899年、「女子独立学校」の校長に就任。1900、内村の問題で『東京独立雑誌』を突如廃刊・解散した。旧社員は『東京評論』を創刊して対立したが、内村は『聖書の研究』を創刊するとともに、その創刊の1か月前に生活のために万朝報に客員として復帰し、今回は日本語で寄稿。また自宅で「角筈聖書研究会」を開く。

1901年、講演がてら足尾を訪問し、万朝報に『鉱毒地遊記』を書く。その後「鉱毒調査有志会」が結成され、「社会改良理想団」の結成にも関わり、佐野の被害地を再訪した。

しかし1902年には、内村は聖書研究に沈潜した。

ところが日露戦争前の1903年、東大の七博士が主戦論を展開する中を、内村は、「戦争廃止論」を万朝報に発表したが、108日、万朝報が世論に押されて主戦論に転じると、幸徳秋水や堺枯川と共に退社した。

内村は不思議なキリスト理論に基づいて兵役拒否希望者を説得して兵役につかせた。

その後内村はキリスト教関連の「教友会」を結成したり、聖書改訳の開始・中断をしたりした。また階級闘争という敵対関係の社会主義を批判した。

その後も教会関係の仕事に関わった。…心臓発作で69歳でなくなった。高崎に内村の屋敷跡がある。

 

感想 内村はキリスト教信仰に基づく不敬事件で退職に追い込まれ、足尾鉱毒問題では古河市兵衛を批判し、日露戦争前には戦争に反対するなどして世に知られる一時期もあったが、その後は社会主義に反対するとともに、勝手気ままにキリスト教関係の仕事をし続けたようだ。英語はよくできたようだ。

しかし石根さんが示す、万朝報(明治36630日)の「戦争廃止論」には、内村の「戦争絶対廃止論者」の決意のほどがよく分かる。曰く「戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得ようはずがない。」

 

 

柏木義円1860-1938は新島襄の弟子で、新潟県人である。

 

越後国与板藩の真宗大谷派西光寺の住職の家に生まれた。

1878年、東京師範学校を卒業し、群馬県碓氷郡土塩村(現・安中市)で小学校の教員となった。その時新島襄が伝道に安中を訪れ、それを契機に「同志社英学校」に入学するも学費が続かず、1年で安中に戻り小学校の教員に。安中教会で海老名弾正に影響され入信した。

1884年、同志社普通学校に再入学し1889年卒業。同志社予備校で教職勤務。1892年、熊本英学校事件で辞職し、同志社予備校に復職。

 

1897年、日本組合基督教会安中教会の牧師となる。1898年、大久保貞二郎と『上毛教界月報』を創刊し(193612月まで459号)、足尾鉱毒事件、廃娼運動、未開放部落問題、朝鮮人虐殺問題などの政治・社会批判を展開した。日露戦争や第一次大戦、満州事変、国際連盟脱退を批判し、「無戦世界の実現」を訴え続けた。満州事変では、軍部を批判して『上毛教界月報』が発禁処分となった。

 

「日本新聞紙の報道が、往々にして悉く信じ難くなる。しかし世界の新聞はあからさまに之を伝える」(『上毛教界月報』396号、19311020日)これは満州事変1931.9.18後のことである。

 

 

『憲兵情報』1931109日によれば、「大阪毎日新聞の記者・野中成童は、事変後の922日に満洲に派遣され、102日に帰国したが、「鉄道破壊は日本軍が自ら爆破して、中国側の行為としたものらしく、真相を知るにおよび、馬鹿らしく、到底真面目に勤務する能わざるを以て社命を俟たず帰来した」と友人に語った。」

 

『憲兵情報』19311019日によれば、「『朝日』(大阪朝日新聞社)は19311012日、重役会議で「今後の報道方針として軍備の縮小を強調するは従来の如くなるも、国家重大事に処し日本国民として軍部を支持し国論の統一を図るは当然の事として、現在の軍部および軍事行(動)に対しては絶対非難批判を下さず、極力之を支持すべきこと」を決定し、編集局幹部にこの方針を示達した。」

 

感想 恐るべきこと。1937年ではなく1931年でもすでにマスコミは信用できなくなっていた。

 

 

高崎十五連隊

 

近くに死亡した兵隊のためのお寺と病院(陸軍病院)がある。現在の国立高崎病院である。

 

沼田にも赤城山麓に「迫撃第一連隊」がある。これは松江から19404月に移転したもので、毒ガス隊である。国立沼田病院はその関連病院である。AIでは194112月以降、島根県から化学戦(毒ガス戦)部隊の「迫撃第一連隊(東部第41部隊)」が移駐して駐屯した。赤城山麓の北面(昭和村)に専用の演習場があった。

 

 

P2

 

パリ不戦条約1928.8.27には日本も参加していたが、日本は「戦争」とは言わずに「事変」と称し、これは戦争ではないと戦争を続けた。

 

旅順虐殺事件 明治271121日、日本軍は中国人の市民や婦女子を無差別に虐殺した。事件直後、NYワールドやロンドン・スタンダードがそれを報道した。柏木義円は世界の新聞を読んでいてそのことを知っていた。

 

 

高崎連隊には時の経過につれて連隊が10個ある。

 

日清戦争旅順『従軍日記』は長野県で発見された。

 

日清戦争時に、従軍記者や作家、絵師がいた。洋画家の浅井忠は、『時事新報』の画報隊(通信員)として、914日から126日までの3か月間、遼東半島、金州、旅順などで従軍し、スケッチ、水彩画に残し、帰国後『旅順戦後の捜索』や『樋口大尉小児を扶くる』などを発表した。現在それは国立博物館にある。高校の教科書にもその絵が掲載されている。

 

 満州事変

 

満州事変では日本軍は工作鉄道爆発の直後に中国側の「北大営」を攻撃している。

 

 

明治4年、高崎に県庁がおかれたが、明治5年、高崎に「兵部省」がおかれ、県庁は分散し、前橋に移った。長野県と埼玉県には連隊がおかれず、長野と埼玉の人は高崎連隊に入った。

 

P7

 

ベルリン・オリンピック1936.8のマラソンで朝鮮人が優勝したが、東亜日報は日の丸の絵を消して報道した。

 

以上

 

日本国憲法作成時の年表

  日本国憲法作成時の年表   1945 年   9 月 27 日、昭和天皇が東京・赤坂の米国務省(米大使館)を初訪問し、マッカーサーとツーショット写真を撮った。 10 月 4 日、 GHQ が近衛文麿国務大臣に 憲法改正を示唆 。 10 月 9 日、幣原...