マッカーサー大戦回想録 中公文庫2003 (『マッカーサー回想記』上下 朝日新聞社1964より、第三~五部、「太平洋戦争」、「日本占領」を抜粋)
感想 マッカーサーの言説はころころ変わる。その点トランプの言説によく似ている。マッカーサーに一貫する思想があるとすれば、それは反共と自己利益だろう。
幣原が顔を涙でくしゃくしゃにして「100年後には私たちは予言者と呼ばれますよ」と書いた直後で、マッカーサーは、「攻撃されて自己防衛しないというのは自己保存の法則に反する」と九条を再定義し、(その後)「再軍備を日本に提言した」と厚顔にも言ってのける。457~459
371 第五章 廃墟の日本
終戦
感想 マッカーサー自身は多くを語らず、資料集のように、他者の言葉を長々と引用することが多いが、自らが語る場合、キリスト教的な神の御加護による米国の優越を臆面もなく語る。
マッカーサー「372 ソ連はそれ(日本へ宣戦布告8/8)までの4年間、これ見よがしの中立を守って、シベリア国境の防衛にひきつけておいたはずの日本軍を、ニューギニアやフィリピンの攻撃へ思うままに向かわせていた。」
感想 これはヤルタ会談で決まっていたことであり、何も不満を述べることもないと思うのだが。それに、日米関係と日ソ関係とはそれぞれ独自の国際関係である。マッカーサーの自己中的解釈の感がする。
375 マッカーサー「この偉大な戦いがいまやようやく終わろうとしていることを、私は恵み多い神に感謝する。崇高な戦いののち、勝利を勝ち得た素晴らしい男女たちは、遂にやがて故郷に帰り、かつての民間の仕事に戻れることになった。」
376 「この決議に接して、幼年のころ以来初めて、私は泣きそうになった。(これはフィリピン議会がマッカーサーを褒めたたえる決議をしたときの感想。)」
377 第一歩
マッカーサー「厚木は神風隊の飛行士たちの訓練基地で、この精鋭部隊の隊員たちは飛行場やその周辺に宿営していた。この決死隊員たちの多くは降伏を拒んで反乱を起こし、天皇が日本降伏の詔勅を録音したレコードを捜して皇居内に乱入し、鎮圧されるまで近衛師団長を殺し、首相鈴木貫太郎氏の邸宅に火をつけた。」
382 降伏式
383 日本側代表団の一人外である交官の加瀬俊一が天皇に提出した報告からの長い引用。その中にマッカーサーの発言の引用が入る。
391 マッカーサーの米国民向け放送「392 ペリー提督の目的は、日本に英知と進歩の時代をもたらし、世界の友情と貿易と通商に向かって、孤立のベールを引き上げることだった。(ペリーの侵略者性を気づかない)しかし恐ろしいことに、それによって西欧の科学から得た知識は、弾圧と人間奴隷化の道具に利用され、迷信と武力に訴えることによって言論の自由、行動の自由、さらには思想の自由までが否定されたのである。」
393 「米国はフィリピンにこの新しい自由なアジアの範例を築きあげた。(侵略性に気づかない)
「米国民諸君、皆さんの息子さんや娘さんたちは、米国軍隊の兵士の持つ、落ち着いて、慎重で、しかも断乎とした戦闘精神を発揮し、皆さん方の期待に十分応えたことを私は報告する。この戦闘精神は、敵の狂信的な態度が神話的な作り話から生まれたのとは違って、歴史的な真実に根差す伝統から生まれたものであった。彼らの精神力が私達を勝利に導いてくれたのである。」
加瀬俊一「394 マッカーサー将軍は平和の人なのだ。将軍は光明の人である。将軍の寛大な魂が放つ光は燦然と輝きながら地球を包み、将軍の足跡は世界に明かりを投げかけている。結局我々は、戦場で、すぐれた兵器の下に敗れたのではなく、精神的な勝負で、より高い理想に打ち負かされたのだ。」(加藤はマッカーサーをおだて上げる。マッカーサーはそれを最上のもの384として引用する。)
マッカーサー「私が述べた哲理、つまり人間は自分の持っているもや自分が知っていることで滅ぼされることはあるが、自分がどのような人間であるかによって救われるものだ、という真理に立脚した哲理は、(加藤俊一の感想に見られるように)たちどころに無条件に良い結果を生み出した。」
396 「私がその時に感じた、私の祖国の不滅の勝利に対するあふれるような誇りは、今もなお胸に焼き付いている。」
397 「米国は今、人間の頭脳が宇宙の基本的な秘密を引き出す進化の時代への道しるべとなっている。」
402 第六章 占領の課題
402 至上の権力
感想 軍人は事大主義というか、表面的できらびやかな言葉が多い。
402 ソ連のモロトフ外相は「四国委員会」をつくって私と置き換えることを要求した。
403 米国の新聞やラジオは、天皇制維持に猛烈に反対した。
406 この島国には異常な封建主義がはびこった結果、その兵力は無敵であり、その文化は卓越しているというほとんど神話的で狂気じみた信念が生まれた。
409 私は輝かしい経歴を持つ私の父から教わった教訓、つまり、父がフィリピン軍事総督だった時の経験から生まれた教訓を思い起こそうとした。
410 私は最高司令官に任命された瞬間から、その後天皇と日本政府の機構を通じて実施しながら進めて行くための政策を作り上げていた。まず軍事力を粉砕し、次いで戦争犯罪者を処罰する。代表制に基づく政治形態を築き上げ、憲法を近代化し、自由選挙を行い、婦人に参政権を与える。政治犯を釈放し、農民を解放する。自由な労働運動を育て、自由経済を促進する。警察による弾圧を廃止する。自由で責任ある新聞を育て、教育を自由化する。政治的権力の集中の排除を進める。そして宗教と国家を分離するというものである。
410 占領目的
412 私はあらゆる職業の日本人の代表団が西欧を訪れることを勧めた。
日本は二十世紀文明の国とはいうものの、実態は西欧諸国がすでに四世紀も前に脱ぎ捨てた封建社会に近いものであった。
神人融合の政治形態は、西欧社会では3000年の進歩の間にすっかり信用されなくなったものだが、日本ではまだそれが存在していた。(これには異議あり。西欧は今現在、キリスト教から脱皮できているのか。)
413 天皇の権力は、軍部、政府機構、財界を支配する少数の家族などによって支えられ、民権は無論のこと、人間としての権利すら認められていなかった。支配層は一般国民の財産や生産品の一部あるいは全部を思いのままに取り上げることができ、一般国民は国策に反する思想を私的に持つことも許されない状態であった。(これにも異議あり。米では今でも一握りの独占資本が富を独占しているのではないのか。)
1937年から1940年の間に「危険思想」のかどで秘密警察によって投獄された国民の数は6万人を超えている。
414 私たちは(戦犯の処罰と)同時に、新しい日本国民に、自由と正義と、ある程度の防衛力を与えるような日本を建設することが、占領目的を達成する最上の手段だと感じていた。(「ある程度の防衛力の付与」は、朝鮮戦争が始まった1950年ころの思いつきが含まれているのかな。)
415 私は、当時出した声明の中で「日本国民がより高い原則と理想と目的に向かって進むように導き援助することが我々の課題だ」と表明した。
415 一部の日本人は飢餓状態に陥っていた。日本がかつて被占領地域の食糧を略奪したことを思えば、敗戦後の今、それ以上の待遇を期待する理由はなかったが、私は日本の食糧事情が底をついていることを見極めるや否や、(米)占領軍が現地(日本)の食糧を消費することを禁止し、ワシントンに対して救済物資の緊急輸送を要請した。
その効果はてきめんで、日本政府は型通りの行儀良さから、開けっ放しの信頼へと態度を一変し、警察も、国民に「(米軍を)心配するに及ばず」という触れを出した。そして最初は半信半疑だった新聞も、一致して称賛の辞を述べ始めた。
416 占領初期の問題
私は日本軍人の復員と武装解除を日本の陸海両相にやらせた。
418 日本は国際問題で軍事力ないし軍事的影響力を振るうことはできなくなり、日本人が今後生存して行くためには、平和的手段を求めざるを得なくなった。
日本の大衆は(アメリカのような)自由な人間のもののやり方(日本兵に対して復讐しないやり方)を初めて目撃し、その驚きから新しい考えと思想を学んだ。
419 日本軍は互いに支援し合うことができないまま、個々に戦闘を強いられ、分断されていた。
420 陸軍長官の名で、日本のサイクロトロンを破壊するよう命令が来たが、私はかねてから反対していた。この機械が科学用のものだからである。世界中の科学者がその破壊に抗議した時、陸軍省は私に責任を転嫁した。
しかし、マサチュセッツ工科大学学長のカール・T・コンプトン博士は、陸軍長官への手紙の中で「サイクロトロンは原爆を製造する能力がない。ロンドンの新聞はマッカーサー将軍がその破壊を命じたと言っているが、将軍には責任がないと確信している」と述べている。
422 コンプトン博士はその後私にも手紙を送ってきて、「陸軍長官は破壊命令が自分の事務所から出たことを認めているが、自分は知らなかったと言っている」と述べている。
423 天皇との会見
私の幕僚たちは、(米国の)権力を示すために、天皇を総司令部に出頭させたらどうかと私に勧めたが、私はそれには反対だった。そんなことをすれば日本人の国民感情を踏みにじり、天皇を殉教者に仕立て上げることになるだろうと説明した。
424 天皇の方から自発的に私に会見を求めて来た。モーニングに縞のズボン、トップ・ハットという姿で、ダイムラーに宮内大臣と向かい合わせに乗って大使館に到着した。
私は天皇に日露戦争終結の際、天皇の父君に拝謁したことがあるという思い出話を語った。天皇は落ち着きがなく、緊張していた。通訳官以外は退出させ、私と天皇は迎賓館の暖炉の前に座った。私が煙草を差し出すと、天皇は礼を言って受け取った。私がその煙草に火をつけて差しあげた時、天皇の手は震えていた。
私は天皇が戦争犯罪者として起訴されないようにと自分の立場を訴え始めるのではないかと懸念していた。連合国の一部、特にソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めるようにという声がかなり強かった。これらの国が提出した最初の戦犯リストの筆頭に天皇の名があった。私はそれがいかに悲劇的な結果を招くことになるかが分かっていたので、そういう動きに強力に抵抗した。
ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時、私は、もしそんなことをすれば、少なくとも百万の将兵が必要になるだろうと警告した。天皇が起訴され、絞首刑に処せられることになれば、日本中に軍政をしかねばならなくなり、ゲリラ戦が始まることは間違いないと私は見ていた。結局天皇の名はリストから外されたのだが、天皇はそういう事情を知らなかった。しかし私のその懸念は根拠のないものだった。
天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって政治・軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにお訪ねした」と言った。
私は大きい感動に揺さぶられた。天皇は、明らかに自身に帰すべきではない責任を引き受けようとしている。この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄まで揺り動かした。私はその瞬間天皇が、個人の資格においても、日本の最上の紳士であると感じ取った。
425 天皇自身の戦争責任受諾発言は、マッカーサーの本書によるものだったのか。本書でそれが現れている。つまり「私が、日本国民による軍事的・政治的な、決定と行動の全責任を負い、私の身柄を諸国の裁決に委ねる」という昭和天皇の発言である。
426 私はその後しばしば天皇の訪問を受け、世界のほとんどの問題について話し合った。天皇はどの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけていた。天皇は日本の精神的復活に大きい役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実な協力と影響力に負うところがきわめて大きかった。
427 公民権指令
私が10月に出した「公民権指令」は、欧州の連合諸国の新聞で批判にさらされた。その筆頭はソ連だった。米国でも私が国務省の許可を得ずにやったと非難した。当時は、新任のディーン・アチソン国務次官補が極東を担当していた。
しかし米国の多くの新聞は、私の行動を称賛した。アーサー・バンデンバーグ上院議員も支持のメッセージを私によこした。蒋介石もしかり。
428 11月26日、トルコのニューレティン・アルテム氏から、トルコ言語学協会第五回会議で、私は名誉会員に指名されたが、このトルコの友情がその後の朝鮮戦争へ引き移されるとは想像していなかった。
私は11月初め、英国陸軍参謀総長アランブルック元帥の訪問を受けた。アランブルックはその後日記を刊行した。以下それを引用する。
「マッカーサーは太平洋での戦争で、点から点へと飛び石に進み、大量の日本兵を置き去りにして無用の長物と化した。マッカーサーはややドラマチックな言動に傾く気味はあるが、不愉快なほどではない。むしろ彼は好んでお殿様といった態度を取り、しかもそれを気品をもってやってのけた。」
430 「マッカーサーはオーストラリアのカーティン首相や同国国民との接触で政治的手腕を発揮した。マッカーサーはオーストラリアを太平洋作戦の基地に仕上げた。彼はオーストラリア部隊を指揮し、ニューギニア経由の蛙飛び作戦を展開した。ただし、アーニー・キング米海軍作戦部長は明らかにマッカーサーを好きでなかったようだし、マーシャル米陸軍参謀総長も、マッカーサーにあまり好意をもっていなかったようだ。」
433 第七章 占領政策
433 極東委員会の混乱
416 ソ連のデレビヤンコ将軍は北海道の領有を主張したが、マッカーサーはデレビヤンコを含めてソ連兵を投獄すると言って頑として受け付けなかった。
433 英ソ両国は、米国による単独管理でなく、連合国による分割統治を要求した。
私の知らない所で、分割統治が画策されたが、それに対して私は、連合国の75%を米国が出していることを指摘して反対した。これらの国々は太平洋戦争中、米国が兵力を欲しがっているときに提供せず、結局米国はオーストラリアと戦争の負担を背負った。
434 1945年12月、英ソが米をモスクワに招き、マッカーサーの日本統治に替わる、11か国から成る「極東委員会」(ワシントン)と、その諮問機関としての「対日理事会」(東京)が設けられたが、それは実質的な行動は何も行わず、自然消滅した。
このモスクワ会議に仏中は招待されなかった。私はその会議の中味を新聞で知った。
「対日理事会」は米英中ソの4か国で構成され、その目的は私を監督することだった。
しかしトルーマンは違っていた。トルーマンは回顧録の中でこう述べている。「ポツダムでの経験から、ソ連を対日管理に参加させないと私は決めていた。」
435 モスクワでの決定が米国民に批判されると、米政府は私に責任を転嫁しようとした。トーマス・ブレイクという国務省の官吏は、極東委員会を代表して、「マッカーサー将軍は、モスクワ会議での承認以前に、新しい日本管理計画を見ていて、反対しなかった」と言った。
それに私は即座に反論し、国務省は私の反論を認めた。
極東委員会を構成する4か国は、それぞれ拒否権を持っていて、会議は手間取り、その活動は占領軍がやったことを追認するだけだった。
ソ連はこの委員会を宣伝に利用しようとし、米国の占領政策を批判した。私はそれに応戦した。「ソ連は日本を共産主義思想の勢力圏に吸収しようとし、日本に不和と摩擦の種を振りまこうとし、無神論と全体主義の観念を植え付けようとした。しかしその試みは、日本の良識と保守主義、占領下に根を下ろした民主的な自由の観念、そして生活条件の改善のために失敗した。ソ連が暴虐行為や労働の自由や、自由経済について喚き散らす姿は、アナニアスでも顔を赤くするだろう」と。
極東委員会は最終的な対日平和条約の調印により、いつの間にか消滅した。
438 占領政策の原則
日本の首相は、降伏当時から10月ごろまで、天皇の叔父の東久邇宮殿下であったが、天皇はこの親族関係は、占領軍が行う改革に有害だと感じられ、日本で最も尊敬され、経験豊かな外交官である幣原男爵と交代した。
438 私は幣原首相に7つの条件(占領原則、見解)を示し、幣原はそれに積極的に答えた。
一、婦人に参政権を与えて解放する。婦人が政治に参加し、政治が家庭の福祉に奉仕するという観念を日本にもたらす。
二、労働組合の組織化を推奨する。労働者を搾取から守り、その生活水準を向上し、労働組合に強い発言権を与える。
三、幼年労働の悪習を除く。
四、自由な学校教育を行う。事実に基づく知識によって将来の発展を計画し、政府が国民の主人ではなく僕となる制度を理解し、その恩恵を受けられるようにする。
五、秘密裏の尋問と虐待で常時国民を恐怖に陥れた諸制度を廃止する。専制的、強制的、不正な手段から国民を守る裁判制度を打ち立てる。思想の自由、言論の自由、宗教の自由を維持せねばならない。能率にことよせて大衆を統制化することは、停止せねばならない。
六、経済機構を民主化する。生産・通商手段の私有権、および収入の広範な配分を保証する措置を講じ、独占的産業支配を止める。
七、行政面では、悪疫、疾病、飢饉その他の社会的災害を防ぐために、国民の住宅、食糧、衣料に関し、政府が直ちに行動を起こす。
しきたりや神話、従来の政策立案制度を永久に打ち壊すには、日本人がその理由を知らねばならない。日本人の自主性がなければ、占領軍が去れば元の木阿弥になる。
1946年1月1日、私は日本国民に向けて声明を発表した。「もはや将来が僅かの人間によって決められることはなくなった。軍国主義、封建主義、心身に対する統制の足かせは取り払われた。思想統制と教育の乱用ももはや見られない。全ての国民は、宗教の自由と、不当な制約を受けない言論の権利を持っている。集会の自由も保障されている。このように全国民の奴隷化が取り除かれたことは、日本に自由を与えると同時に、一人ひとりに、自ら考え自分の意思で行動する義務を課す。日本人は自らを治める権利を獲得した。為すべきことはすべて、日本人によってなされねばならない。」
441 戦犯裁判とパージ
マッカーサーは「軍人の風上にも置けない」として山下奉文大将に対する処刑を命じた。
1946年2月23日、山下奉文大将はマニラで絞首刑となった。山下はシンガポール攻略作戦の最高指揮官に次いで、1944年昭和19年10月、第十四方面司令官となり、マニラの防衛に当たったが、当時の日本軍の残虐行為の責任を問われた。
443 次に本間雅晴将軍は、「バターンの死の行進」という残虐行為で、1946年4月3日、マニラで銃殺刑に処された。これはしばらく日本の公衆には伏せられていて、それを知った天皇は本間を免官にし、勲章を没収した。
本間に対する寛大な措置を嘆願する夫人との会見は、私の生涯で一番つらいものだった。私は夫人に言った。「戦争というものがいかに邪悪に満ち、それに何の関係も打つ手もない夫人のような人たちに、いかに惨めな結果を及ぼすかが、これほど深刻に示されたことはない」と語った。
私は1946年3月21日、この事件の審査書を提出した。
「私はまたもや大きな戦いでのかつての敵に最後の審判を下すという、不愉快な義務を課された。
445 敵を信じて投降した兵員に対するこの暴虐行為ほど忌まわしく悲劇的な行為は他にほとんど類を見ない。騎士道の掟を犯すものである。
本法廷の裁判権だけでなく、裁判の方法と妥当性をも否定した米連邦最高裁判事諸氏の少数意見も考慮したが、彼らは死刑の厳しさから尻込みする少数者にすぎない。
すでに戦争能力を失った無力な者たちを、軍の権力や軍事的必要に名を借りて大量殺戮することは憎むべき危険な犯罪である。彼を処罰しなければ、世界の社会組織の存立が脅かされ、人類の自由や、基本的な尊厳、文明の将来がよって立つところの基本的な自由が脅かされることになる。
448 超国家主義的な人物の公職からの追放はポツダム宣言に書いてあるが、私は日本再建に必要な人もいるので、この措置には疑問をもった。そして日本国民一般からも不評だった。
憲法改正
日本に自治の機構を維持するためには新憲法が必要だった。
連合国諸国は、日本の戦後の統治形態で、民政府ではなく軍政府を主張した。
日本国民は基本的人権を知らなかった。
450 私は民主化と人権を広めるよう日本側に求めたが、強制はしたくなかった。
旧憲法の改正は1945年10月、一閣僚の松本烝治博士を委員長とし、政界の指導的人物ばかりで構成される「憲法問題調査委員会」に委ねられた。
日本国民各層から多くの助言が寄せられ、新聞も社説で意見を表明し、街頭や新聞紙上や各家庭で議論された。共産党までが、かなり熱心に論議に加わった。
451 しかし同委員会は自由主義的な人と抜本的改正を避けようとする人とに分かれていて、采配を振るう松本は極端な反動家で、1月に示された案は旧憲法の字句を変えた程度のものだった。つまり、天皇の権力は少しも削られておらず、「神聖にして侵すべからず」が「最高にして侵すべからず」に変わっただけだった。人権宣言(英国の「権利の宣言」1689や、米国の「権利の章典」)を盛り込まず、既存の権利を取り上げた。例えば、信仰の自由は「法令により別に規定される場合を除いて」認められるに過ぎなかった。
452 日本の議会は、私の提案で、婦人の投票権も認めるように選挙法を改正し、1946年4月10日に総選挙を行うことになっていた。私は憲法草案をそれまでに作り上げ、その信任投票という形に持って行きたかった。
しかし松本案を議会で信任させるのはまずいので、私は幕僚たちに、日本側に援助と助言を与えるよう指示した。
やがて(GHQ)改正案ができあがり、それを読んだ天皇は「国民の福祉と日本の再建の真の基礎となるに違いない」と述べた。新憲法は天皇を権力から遠ざけ、皇室財産の大部分を国家に還元するものであった。
453 修正意見が出てきたが、全体として草案は国民の気に入り、反対したのは、当然予想されるところだが、共産党だけだった。(共産党は九条の自衛の戦力を持たないことに反対した。)
4月10日の総選挙の結果、新憲法の採択を表明した議員が大多数を占めた。そして新憲法案は8月に衆議院を通過し、9月に貴族院を通過した。
454 新憲法には多くの国の憲法の良い点が取り入れられた。議会が国家権力の最高機関となり、国民は基本的人権の保障と保護を受けることになった。裁判所が司法省から独立することになり、旧弊が取り除かれた。全ての裁判所は、法の範囲内で、独自の手続き規定を設けることが認められた。そして独自の予算を立て、議会の承認を仰ぐことになった。
新憲法による政体は、米国の行政制度と、英国の議会制度を組み合わせたものである。首相は任期4年の衆議院議員の中から選ばれ、首相が議会で討議する問題について支持されないときは、首相は辞職して衆議院に後継者を選ばせるか、衆議院を解散して総選挙を行うかのどちらかを選択する。この制度には政府を安定させる効果がある。議会の各党派が不用意に行動すると、新しい選挙運動の費用を被るから、首相の行政をいたずらに批判できないからである。
455 1946年の帝国議会で新憲法に加えられた付加条項は、国民投票で憲法を修正できるという規定である。有権者の2/3の票が集まれば、憲法の修正が成立する。(これはマッカーサーの誤解)
極東委員会にはソ連の拒否権があったから、新憲法に関する審議を極東委員会に頼っていたら、この憲法は生まれなかったろう。
戦争放棄条項
456 旧憲法改正の諸原則を書き下ろすことが(GHQによって)考慮されるずっと前のことであったが、幣原首相が、当時日本ではまだ新薬だったペニシリンを(私から)もらって病気が良くなった礼を述べるために私に会いたいと言ってきた。それは松本博士の憲法問題調査委員会が、憲法改正の起草に取り掛かろうとしていた時であった。
幣原男爵は1946年1月24日の正午に私の事務所を訪れてペニシリンの礼を述べたが、私はそのあと男爵がなんとなく当惑顔で、何かためらっているらしいのに気づいた。私は男爵に何を気にしているのかと尋ね、それが苦情であれ、何かの提議であれ、首相として自分の意見を述べるのに少しも遠慮する必要はないと言ってやった。
首相は私の軍人という職業のためにどうもそうしにくいと答えたが、私は軍人だってよく言われるほど勘が鈍くて頑固でもなく、大抵は心底はやはり人間なのだと述べた。
幣原首相は新憲法に戦争放棄条項を含めると同時に、軍事機構も一切持たないと決めたいと提案した。そうすれば旧軍部がいつの日か再び権力を握るような手段を未然に打ち消すことになり、また日本には再び戦争を起こす意志は絶対にないことを世界に納得させるという二重の目的が達せられると幣原氏は説明した。
457 幣原首相はさらに日本は貧しい国で、軍備に金を注ぎ込むような余裕はもともとないのだから、日本に残されている資源は経済再建に当てるべきだと付け加えた。
私はこれを聞いて腰が抜けるほど驚いた。私は長年の経験から驚いたり興奮したりすることに不感症になっていたが、この時は息も止まらんばかりだった。戦争を国際間の紛争解決の手段とすることは時代遅れであり、戦争を廃止することは、私も長年熱情を傾けてきた夢だった。
私ほど戦争とその破壊を経験してきた者は恐らくいないだろう。私は20の局地戦、6つの大規模な戦争に加わり、何百という戦場から生き残った老兵として、(さらに)原子爆弾の完成により、私の戦争を嫌悪する気持ちは最高度に高まっていた。
すると今度は幣原氏がびっくりして、私の事務所を出る時には感極まるといった風情で、顔を涙でくしゃくしゃさせながら、私の方を向いて「世界は私達を非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし、百年後には、私たちは予言者と呼ばれますよ」と言った。
458 憲法九条は人間の持つ基本的な性質に反していると冷笑する者もいたが、私はこれを憲法に織り込むことを勧めた。私はこの条項はあらゆる思想の中で最も道義的なものだと確信し、それにこれは当時連合国が日本に求めていたこととぴったり一致していた。私が受けた指令は「日本は陸海空軍、秘密警察組織、民間航空を保有してはならない」と述べていた。
ただし九条は国家の安全を維持するため、あらゆる必要な措置をとることを妨げてはいない。誰もが持っている自己保存の法則に、日本だけが背を向けると期待するのは無理である。攻撃されたら当然自分を守ることになる。(これはマッカーサーの朝鮮戦争後の追加なのだろう。)
私は九条は他国による侵略だけを対象にしたものであることを新憲法採択の際に言明していた。(「他国による侵略」ではなく、「他国を侵略すること」の間違いではないか。)その後(朝鮮戦争が勃発し)、もし必要な場合には防衛隊として陸兵十個師とそれに見合う海空兵力からなる部隊をつくることを(朝鮮戦争時に)提言した。
私は日本国民に明言した。「世界情勢の推移で、全人類が(共産主義による攻撃からの)自由の防衛のために武器をとって立ち上がり、日本も、直接攻撃される危機にさらされる事態になった場合、自国の資源の許す限り、最大の防衛力を発揮すべきである。九条は最高の道義的理想から出たものだが、(こちらが)挑発しないのに攻撃された場合でも自衛権を持たないという選択は、どうこじつけても出てこない。(明らかな軌道修正)」
「この条項は、剣に敗れた国民が、剣を頼りにしない国際的道義心と正義感の終局的勝利を信じていることを宣言するものだが、国際的な盗賊行為が地上を舐めまわし、その貪欲さと暴力で、人類の自由を踏みにじることが許されるかぎり、憲法九条の高遠な理想が世界に受け入れられることは容易ではないだろう。しかし物事にはすべて初めがなければならないことは鉄則である。」
459 1946年4月10日の総選挙の投票率は75%で、新議員466人が選ばれた。1300万人の女性が初めて選挙権を行使した。日本では近代でも首相が議員の大部分をお手盛りで選ぶ習慣だったが、この古手の連中はほとんど落選し、当選したのは6人にすぎなかった。かつては弁護士や実業家で占められていた衆議院に、農民や教師、医師、労働者が入り込み、また年齢的にも若返った。
私は日本人に明言した。「リンカーンは、人民は支配者より賢明であると言ったが、この言が正しいことは歴史が証明している。」
「この選挙で日本国民は、政治思想の両極端、大衆の統制化と人権の抑圧に通じる極右と極左の両極端を信奉する指導者を排し、国民の利益に最もよく奉仕する均衡のとれた政策を発展させるため、広範な中道を選んだ。」
「選ばれたものを批判することは正しくない。」
461 婦人の地位向上
5年間で婦人警官が2000人生まれ、150万人が労組に入った。婦人は男と同等の賃金を得られる法律を要求して認められ、男子より長時間働くことはなくなり、産休を要求して認められた。
低学年以外での男女共学も実現した。結婚、離婚、姦通に関する法律が改正され、契約結婚や妾も禁止された。
私は日本人に明言した。「女性は政治の動向に対する主権者としての地位を男子と同等に担っている。」
婦人参政権に対する非難も多かった。欧米の日本通の人の多くは、日本婦人は夫への服従の伝統に染まり過ぎ、政治的に独立して振舞うことはできないと言った。
しかしトルーマン大統領やバーンズ国務長官は私の政策を支持した。
経済と労働
464 日本の耕地面積は国土の16%に過ぎず、米その他の食糧を輸入していた。
私は、飢餓で苦しむ日本人のために、米軍が太平洋地域で蓄積していた食糧の中から350万トンを輸入したが、それに関して米下院歳出委員会は、米陸軍の予算を使ってかつての敵国を養うことをどう正当化するのかと疑問を呈した。
私はそれに対してこう説明した。「近代戦での勝利は、戦場での勝利で決まるものではない。敵国の物的な戦力だけでなく、戦争を始めようとする意志も潰してしまわねばならない。将来的にもそれが通用するような敵国の精神的改革をしなければならない。」
「餓死状態の日本人に対する懲罰行為は、バターン行軍で米兵のおかれた立場と同様に、正当化できない。飢えは大衆を不穏にさせ、混乱と暴力を引き起こす。」
「いつまでも食料を供給し続けるつもりはない。私たちは日本人が自給できるような計画を立案した。私たちは爆撃された工場を再建し、機械を動けるようにし、汽車を走らせ、ある程度の商船隊をつくり、電信、ラジオ、新聞を活動させた。最後に、海外貿易の復活と均衡予算の樹立という課題が残った。」
「日本のそれまでの財政は、国庫の大部分が戦争努力に向けられ、税は信じられない程高く、貧しい者は全財産を没収され、戦争の最後には納税拒否運動が起こり、徴税を怖がる徴税吏者もいた。税制を立て直すために米国から税制の専門家を招聘した。私は日本政府に収入の範囲内で賄うことを求めた。私が日本を離れる当時の国債は、7200億円以下にとどまっていた。」
自由な企業経営
日本の生産配給手段は、財閥と呼ばれる10の家族に独占され、全企業の90%がこの家族に握られていた。このトラストは一部解体され、競争に基づく自由企業体制が打ち立てられた。私たちはこれらの大企業の持ち株を買い取り、この連中の勢力は絶たれた。
労働組合
日本の労働者は占領軍によって初めて団体交渉権を与えられた。1947年までに、労働組合は1万7千に、組合員総数は400万人以上になった。
ところが労働戦線は左右に分裂し、日本独特の労働不安が発生するようになった。コーラス・ガールたちは「半スト」と称して、足をいつもの半分しか上げなかったし、鉄道従業員のある組合は、同時に1分間汽車の汽笛を鳴らすという「吹鳴戦術」に出た。
私は労働争議を、一般大衆の利害を考慮するような常識ある活動に育てようとしたが、あまり成功しなかった。共産党がこの労働運動に乗じていざこざを起こし始め、ついにゼネストを決行しようとした。
468 私は気が進まなかったが、一握りの共産党指導者がストを政治的武器として利用し、経済を破壊するのを許さなかった。
私は「現在の日本の貧しい、衰え切った状態の中で、そのような危険な社会的武器を使うことは許さない」と通告・命令した。
「都市は廃墟と化し、産業は静止状態にあり、国民は飢餓線上をさまよっている。ゼネストで輸送と通信を麻痺させれば、国民を養う食糧も、重要な公益事業を支える石炭も運べなくなり、かろうじて活動している産業まで止ってしまう。その結果は必然的に麻痺状態が起り、膨大な数の日本人が餓死寸前に追い込まれ、社会の上層から下層まで、今度の争議の直接の利害を持っているかどうかに関わらず、全ての日本人の家庭が恐るべき影響を受けるだろう。」
「今でも米国民は日本の飢餓を防ごうと、自分の食糧を大量に日本に放出している。ゼネストに関係している人たちは、日本国民の中のわずかな一部にすぎない。しかしその少数のグループが、つい最近まで日本を戦争に投げ込んだ少数のグループと同様に、またもや日本の大衆を破局に追い込もうとしている。」
ゼネストの試みは崩れ去った。
しかし共産党員はまだあきらめず、今度は重要な輸送関係の組合に浸透し始めた。これらの組合が所属する産業は、主として政府が所有して動かしていた。私はこの浸透戦術を政府全体を脅かすものとみなして、全従業員を公職制度の枠の中に入れる(外に除外する?)よう政府首脳に勧告した。その結果、その趣旨の法律が成立した。*
*AIによれば、鉄道労働者を国家公務員から切り離し、国家公務員ではない「公共企業体」(日本国有鉄道)の職員にした。1948年。
ところがこの処置を非難する声が各国に沸き起こった。私は労働者の敵と呼ばれた。米国政府内部にもこの法律を批判する連中がいた。そこで私は米公職委員会にこの法律についての批評を求めた。委員会は「議論の余地なく、米公職制度関係の法律より進歩的だ」と評価してくれた。その結果、日本の労働界は共産党と縁を断つことになった。
470 私は日本の経済状況について次のような見解を述べた。「日本人に許された選択は、工場を維持するのに必要な原料を獲得し、その生産品を販売する市場を確保することか、あるいは世界の人口の少ない地域へ、国民が大量に自発的に移住することである。いずれも他国の善意と政治的寛容にかかっている。それがなければ日本は死んでしまう。人間は飢える前に戦うものだ。」
470 精神革命
日本人は何世紀もの間、常に戦争の技術と武士階級の制度を研究・崇拝してきた。
日本人の大多数は、僅かな例外を除いて、伝統と伝説と神話と統制の完全な奴隷となった。ところが戦争に負けると、封建的な支配者と軍人階級に向けられていた偶像的崇拝は、憎しみと蔑みに変わり、敵(米国)に対して抱いていた憎しみと蔑みは、敬意の念に変わった。
私はクリスチャンとして育ち、キリスト教の教えを信じているが、東洋の宗教の基本的原則に共感を抱いている。(マッカーサーはプロテスタントだった。)
私は宣教師を日本に招いた。
473 古くて後ろ向きで、国の管理と補助を受けている神道を、徹底的に改革する必要があった。1945年11月、私は神学上の攻撃を加えることを避けながら、神道に対する国家補助の停止を指令した。そして1946年元日、天皇は私から提案を受けたり、私と相談したりすることなく、自ら神格を公に否定する詔書を出した。
ポケット版聖書連盟は、私の要請で、一千万冊の日本語の聖書を配布した。私はキリスト教のゆるぎない教義に占領政策のあらゆる面を適合させようとした。そのため日本国民の大きい部分が、キリスト教の根底をなす原則と理想を理解し、実践し、敬愛しようとしている。」
475 その他の改革
教育制度
中央が学校を統制し、地方の教育委員会はなく、教育長もいなかった。
文部省が国定教科書を選定し、教科書は軍国主義的・反米的だった。476 私は教科書の発行を文部省の管轄から外して出版業界の競争に委ね、軍国主義的で超国家主義的な宣伝色を教科書から追放した。
教職者に完全な学問の自由を持ってもらいたかったので、文部大臣に次の指令を発した。
「自由主義的で反軍国主義的な意見を述べたことによって免職や休職をさせられた教職者や教育関係官吏は、直ちに復職する資格があると公表しなければならない。人種、国籍、宗教、政治的思想、社会的地位などによって、学生、生徒、教職者、教育関係官吏に差別的待遇を与えることを禁止する。彼らが政治的、公民的、宗教的自由にかかわる問題を、何の拘束も受けずに討論することを奨励する。」
477 その結果、日本の児童は、軍国主義から一般の職業や日常の世界に興味を持つようになった。何百人もの子どものうち軍人志望は、マッカーサー将軍になりたいという私の忠実なファン一人だけだった。
衛生
天然痘やジフテリア、チフスなどは、米国では1920年までにほとんど消滅していたが、1945年の日本ではまだはびこっていた。結核も全国的に流行していた。
終戦時の日本には衛生官が二人しかいなかった。日本には衛生専門の省がなかった。(注:厚生省はあった。マッカーサーは厚生省内に、公衆保健局など衛生三局を新設した。)
米国の医療当局の援助と協力を得て、集団予防接種を実施した。種痘により、流行していた天然痘がおさまった。全国民に結核検診を行い、接種を施した結果、結核患者の数が79%減少した。ジフテリアの予防接種を行い、患者数を3年間で86%減少させ、チフスとパラチフスは接種と教育により消滅させた。赤痢は教育でほとんどを抑えた。コレラは1947年初頭までに消滅させた。
農地改革
私は日本占領の数か月後、「土地を耕す者は、その労働による収穫物も自分のものにする」という法律をつくらせ、小作農制度をなくした。土地を小作人が買えるようにしたのである。
479 総司令部に天然資源局を設け、その二、三年後には法律を整備して、日本政府が不在地主から土地を買い上げ、それを長期支払契約で小作人に売り渡した。こうして1950年までに500万エーカー(200万町歩)を再配分し、耕地の89%以上が、その土地の上に住む農民に所有されるようになった。これは農村への共産主義の進出を食い止めた。
警察
480 私は吉田首相に言った。「中央集権的な警察官僚機構は、全体主義的独裁制をもたらす。敗戦前の10年間の軍部の武器は、全国に張り巡らされた思想警察と憲兵隊によるスパイ網を敷いて、言論、集会、思想の自由を抑圧した。一方、国民の公僕としての警察の方が、国民の信頼と親近感が得られ、治安維持の効力を発揮できる。」
日本の国会が、地方は条例を制定し、地方の財産や地方の行政事務を管理してもよいという地方自治法を制定した。
私は声明を発表した。「民主主義は一般国民の理解と信念から発する。地域的な問題は、一部の権力者が支配するのではなく、国民自らが処理したいという希望と決意から自然に沸き起こる。県、市、村で、国民が意思表示できることを通して、国民は民主政治を学ぶものである。」
私は(昭和23年1948年)日本で初めて人身保護制度を導入した。1901年、私の父もフィリピンで同じ制度を導入した。それは強制的な拘禁を防ぐものである。(正当な理由なしに逮捕された場合、すみやかに裁判所の判断を求め、自由を恢復することができる。)
484 付記
占領政策への批評
以下の人々が私に協力してくれた。ホイットニー少将(総司令部民政局長)、マーカット少将(経済科学局長)、ウィロビー少将(幕僚第二部長)、サムス代将(公衆衛生福祉局長)、ドッジ(経済顧問)、モス(経済科学局歳入課長)、シェンク(天然資源局長)、シャウブ(税制使節団長)、ケーディス(民政局次長)
東京にやってきた米人
アイゼンハワーは古い同僚で、当時陸軍参謀総長だった。486 私はアイゼンハワーに弟のような愛情を抱いていた。アイゼンハワーやNYTは私を褒めてくれた。NYT「英中は対日理事会でソ連の政策を支持した。」
486 アイゼンハワー「日本国民を新しい生活様式に導く任務でのあなたの努力に感謝する。」
ゴードン・ランゲら5人の英国下院議員が来日した。
487 ゴードン・ランゲ議員団のスポークスマン「(あなたは)日本に英国の議会政治の観念を植え付けようとしている」
487 パターソン陸軍長官も私を褒めてくれた。
488 1946年7月4日、フィリピン独立記念日での演説「48年前、(フィリピンの)解放者(米国)の寛大な主権で、フィリピン人の福祉を損なわない限り、できるだけ早く(米国の支配を)取り払うと約束した。米比間の関係は、相互の理解、相互の尊敬、相互に対する愛情で固められた。
力のみによって一国民を支配する時代はもはや終わり、弱者をその意志に反して強引に強者に結びつける帝国という政治的なつながりはもはや過去のものである。」(今でもそれを実行してもらいたいですね。)
1947年の春、私は日本国旗の掲揚を許した。木村小左衛門・農林大臣「天皇は、国民がマッカーサー将軍を〝神風″と考えているとおっしゃった。マッカーサー将軍はアメリカの心を日本に向かって開いてくれた」卑屈。
英国民が、英国の存亡の危機を救ったチャーチルを首相の座から降ろしてクレメント・アトリーに代えたことは、「すさまじい民主主義」だ。私には理解できなかった。
チャーチル「あなたが日本国民を軍部の投げ込んだ落とし穴から救い出したことを嬉しく思う。将来我々は日本人を我々の友にしておくべきである。」
491 平和を祈りながら
新憲法採択後程なくして、5人の日本人が天皇をおおっぴらに批判したが、検事総長は公訴を提起しなかった。
私は指摘した。「米国の大統領も、英国の国王も、特別な法の保護を受けていない。リンカーン大統領が暗殺した犯人は、一般市民を殺した場合と同じ扱いを受けた。」「この検事総長の処置は、全ての人間が法の前に平等であり、たとえ天皇でも普通の市民に与えられない法的な保護を受けてはならないという観念を実行した。すべての国民は、政治的、社会的、経済的問題で、何でも自由に討議する権利を持つ。」
「思想を自由に交換し、意見を自由に述べ、官吏や官庁の機構を自由に批判することは、国民のための政府が生命を保ち、成長して行くために欠かせない。民主主義は生命力に富むダイナミックな思想である。全ての市民が自由に発言できなければ、その生命を保てない。」
1946年5月19日の食糧メーデーでの「プラカード事件」で、当初検察は「不敬罪」で起訴したが、GHQが難色を示し、1946年11月、東京地裁は、名誉棄損罪で、懲役8か月の判決を下した。しかし翌日の1946年11月3日、大赦で釈放(免訴)された。
その後被告は、名誉棄損そのものの違法性を訴え控訴・上告したが、最高裁は「公訴権が消滅している(大赦されたため)」として上告を棄却した。
492 極東国際軍事裁判
私は戦争中、捕虜や被抑圧者に残虐行為を加えたり、それを許したりした敵の現地司令官やその他の軍関係者に対する刑罰は承認したことがあるが、戦いに敗れた国の政治的指導者に犯罪の責任を問うという考え方は、私には極めて不愉快であった。そのような行為は、裁判というものの基本的ルールを犯すことになるというのが、私の考えだった。
私は日本の政治指導者の責任を問うなら、真珠湾攻撃に対する告発に留めるべきだと進言した。事前の宣戦布告を経ないで行われたからだ。
その後私は当裁判の裁判手続きからはずされた。裁判は1946年1月4日始まった。裁判の最終的な判決を伝えてそれを実行することが私の義務だった。
私はポツダム宣言の「全ての戦争犯罪者を厳罰に処す」に該当する人々を投獄した。東京ローズから東条英機まで数百人を投獄した。重大な犯罪でない東京ローズや連合国捕虜を虐待した収容所の多数の看守も除外された。
A級戦犯は28人だけで、うち裁判を受けたのは25人で、残る3人は、死亡したり、狂気に陥ったりした前者の25人はすべて有罪となった。
私は裁判手続きを審査した。各連合国の代表にも意見を聞いた。1948年11月24日、審査書を発表した。
「この裁判のもつ人類普遍の基本的な事柄を評価するのは私の目的ではなく、また私はそれに必要な卓抜した英知も持ち合わせていない。この問題は人類が歴史以前から解決に苦しんできたものであり、永久に完全には解決されないだろう。裁判を構成した博学な裁判官諸氏ですら完全に同じ意見ではなかった。」
495 「私はそうする(死刑を執行する)にあたって、この悲劇的な罪の償いが、全能の神によって一つの「象徴(生贄か)」とされ、(世界中の)全ての善人が、人類の最も残酷な苦しみであり、最も大きな罪である戦争というものが、いかに徹底的に無益なものであるかということを知り、やがて全ての国が、戦争を放棄することを祈る。」
死刑執行の場面を新聞社真に撮らせてほしいという依頼が殺到したが、日本人や世界中の良識を持つ人々の感情を害するという理由でそれを拒否した。
決定を覆して欲しいという要望も来たが、国際的資格で行動しているからという理由で応じなかった。
刑が実際に執行されたことを世界中に納得してもらうために、私は対日理事会の代表たちに処刑に立ち会うことを求めた。全代表があまり気の進まぬ風だったが、応じてくれた。
496 日本国民は、裁判手続きが公正で、検事側に報復的な態度がなかったことに感銘を受けている様子だった。それは意外だった。戦犯自身やその家族から、我々の公正さを感謝する手紙が来た。日本側に反感が芽生えた気配は認められなかった。(本当か)
私は共和党大統領候補に上がったが断った。一国の首班になりたいという気持ちはなかった。このことに関して、私はもっとはっきりと態度を示すべきだった。与党(民主党)の悪口雑言が私に降り注いだ。私は報復を受けた。
以上
感想 2026年9月19日(土)
マッカーサーは戦犯を処刑するのには抵抗があったようだ。マッカーサーは自問した。戦争に敗れた敵対国の政治指導者を裁くことができるのか。そしてマッカーサーは戦争のない世界を望んだ。これは幣原喜重郎と意気投合した時の話(平野三郎文書)とも合致している。マッカーサーは連合国の各代表にも処刑の場に立ち合わせた。彼らはいやいやながらやって来たという。
AIで調べてみると、欧米ではこのころすでに死刑廃止論もあったというから、戦犯の処刑は国際的に大問題であったに違いない。ちなみに中国は戦犯を処刑することはなかった。卓見というべきだろう。
496 マッカーサーは日本統治時代に政争に巻き込まれたと言って、突然本書が終わりになる。つまり、「私が報復を受けるのは時間の問題となった。」
AIで調べてみると、米国の共和・民主の政争は当時も熾烈であり、特に中国が共産党政権に支配されるようになったとき、反共色の強い共和党とマッカーサーとはうまが合った。
そして遂に1951年4月11日、トルーマンはマッカーサーを連合国軍最高司令官から解任し、後任に米陸軍中将のマシュー・リッジウエイを任命した。朝鮮戦争が勃発1950.6.25して1年経ったころである。マッカーサーは中国本土にも攻め入り、原爆の使用も唱えたという。マッカーサー解任の1年後の1952年4月28日に、日本は独立したが、その前の1951年9月に、サンフランシスコ平和条約を結んでいて、その発効が1952年4月28日である。そして旧日米安保と日米行政協定も同日に発効している。
マッカーサーに関する疑問三点
1、マッカーサーは「自由」とか「基本的人権」とか立派なことを並べ立てるが、徹底的・盲目的な反共主義者である。マルクスの著書を読んだ上での反共主義者なのだろうか。
2、マッカーサーの死刑に対する疑問は矛盾している。為政者と軍人とを区別し、前者に対しては死刑を疑問視するが、後者に対しては容赦ない。二重基準である。
3、平和論での矛盾。マッカーサーは幣原に戦争放棄を支持するといいつつ、その後の朝鮮戦争では、中国大陸に対して原爆を使用するなどという。共産主義者は人間ではないと見なしているのか。
以上
498 訳者あとがき 朝日東京本社外報部 津島一夫 1964年10月1日
500 本書は『マッカーサー回想記』上・下巻の縮約である。『マッカーサー回想記』上・下巻には、生い立ちや、第一次大戦のころ、朝鮮戦争のころ、帰国後、政治的見解などを含むようだ。
朝日新聞掲載分(1964年1月6日~6月23日)も部分的掲載であり、マッカーサーは朝日掲載後も加筆訂正していて、それを朝日に送っていたとのことである。
いずれにしても、『マッカーサー回想記』上・下巻が完訳である。
502 旧日本軍関係者によるマッカーサーの記述の間違いの指摘。1964年4月8日、元日本軍関係者7人から朝日新聞が聴取した。些少なことのように思える。
504 防衛庁戦史室・冨永謙吾による、マッカーサーの一人指揮官戦術の間違いの指摘。日本軍は米陸海軍の両面作戦で悩まされた。
米国軍本部は、マッカーサーの主張する一人指揮官戦術と、米海軍の主張する中部太平洋突破戦術とを慎重審議した結果、海軍側を支持しながらも、マッカーサーのニューギニア・ミンダナオ作戦も継続した。
508 解説 増田弘 東洋英和女学院大学教授
はじめに
ダグラス・マッカーサー18801.26-1964.4.5 84歳没。
本書はDouglas MacArthur Reminiscences, 1964を底本として和訳した『マッカーサー回想記』上・下 朝日新聞社の、第三・第四・第五部を抜粋した『マッカーサー大戦回顧録』上下、中公文庫、2003を一巻にまとめたものである。
マッカーサーは80歳ころから逝去までの3年間でこれを書き上げた。
省略
510 フィリピンでの屈辱 第一章「敗北の記」
514 オーストラリアからフィリピンへ 第二章「ニューギニア戦」および第三章「戦略の転換」
518 フィリピンから日本へ 第四章「フィリピン戦」および第五章「廃墟の日本」(ただし、第四章のフィリピン統治以降は読了)
520 住本利男『占領秘録』中公文庫
521 日本占領――第六章「占領の課題」および第七章「占領政策」
523 「マッカーサーは日本占領時に言論統制や恣意的なパージをした」とは具体的にどういうことか。
525 筆者住本は、バターン行軍(死の行進)の原因の一部をマッカーサーのせいにして日本軍を擁護しているがどうか。日本の慣習が捕虜を否認するなら、捕虜を殺してもいいということか。
526 そして「部下を捨てて敵前逃亡した失格将軍という汚名浄化のために本間の極刑は不可欠だった」とする。
マッカーサー・ノートが4点から構成されているというのは初耳だ。それに内容も異なる。
1、立法府が代表となる
2、天皇は政治的権力を持たない
3、予算は英国の制度を模範とする
4、戦争と軍隊を放棄する
4について、「私がケーディスに直接聞いたところ「その(幣原提案)可能性はない」と断言した」とあるが、なぜ断言できたのだろうか。幣原・マッカーサー会談は、通訳もなく二人きりのものだったのだから、どうしてケーディスが二人の会話内容を知っているのだろうか。
そして「ケーディスは、マッカーサーがホイットニーに口述して、それをホイットニーが筆記した可能性を指摘した」とあるが、それは当然の手続きであり、幣原提案説とは無関係である。
「マッカーサーは直属の上部機関であるワシントンの統合参謀本部JCSから、憲法改正を指令されておらず、マッカーサーが独断で憲法改正をすすめた」などとはあり得るのだろうか。
おわりに
527 増田弘『マッカーサー』
528 マッカーサーはエピスコペリアスコペリアン(監督派)に所属した。
「マッカーサーは占領政策の転換や日本の再軍備化阻止に全力を尽くした」とは本当なのだろうか。
以上
005 ダグラス・マッカーサー略年譜
父親のアーサー・マッカーサー・ジュニアが軍人であったせいか、
1899年、19歳の時、軍人学校(ウエストポイント陸軍士官学校)に入学した。
1903年、同校を首席で卒業し、10月、フィリピン勤務。
1905年、父親が駐日大使館付武官となり、10月、ご本人も副官として東京に赴任。
1918年、第一次大戦時はフランスへ。
1919年~22年、ウエストポイント陸軍士官学校の校長に就任。
1928年、フィリピンに3度目の配属。
1930年、陸軍参謀総長を経て、
1935年、4度目のフィリピン赴任。
1937年、退役。
1941年、現役復帰し、米極東陸軍司令官に就任。
1942年、南西太平洋方面軍(米英豪蘭連合軍)総司令官に就任。
1945年、日本本土の軍政最高責任者に任命された。
1948年と1952年に、共和党の大統領候補となったが、いずれも予備選で敗退した。
以上