2026年10月20日火曜日

BEATE SIROTA GORDON “The Only Woman In the Room"

 

BEATE SIROTA GORDON “The Only Woman In the Room  A MEMOIR OF JAPAN, HUMAN RIGHTS, AND THE ARTS”  University of Chicago Press 2014,  Originally published in 1997

 

 

メモ

 

第1章 帰郷

 

005 序文2013/2を書いているジョン・ダワーJohn W. Dower1938.6-は日本近代史の学者である。

 

014 彼女の家族は戦前は乃木坂の近くに住んでいた。

015 その付近でも家が焼かれないで残っていて戦後もそこに住んでいる人もいた。ドイツ人歌手のMrs. Netkeとかいう人である。

 

戦時中は外人は皆軽井沢に住まわされていた。

 

1945年12月末ころ、日本人は国会議事堂前で野菜を育てていた。

米国人は電車に乗ることを禁じられていた。

 

016 父母ともにその家系はロシア系のユダヤ人である。父方はShirota、母方はHorensteinである。

両親の親族は、オーストリア、スイス、フランス、ソ連に住んでいた。親族が多かったが、ナチスの強制収容所に送られた人が多い。中には逃げられた人もいた。

父は3回結婚している。

両親はロシア系のユダヤ人で、オーストリアで暮らしていた。

 

ベアーテさんのご親族十数人の消息

 

オーストリア在住の親戚すべては、ナチの収容所に送られた。

 

父には4人の兄弟がいて、弟のPeterはMaurice Chevalier社で働いていたが、フランスのVichy政権下で暮らした時に逮捕され、アウシュビッツに送られた。しかし運よくピーターの娘のTinaは逃げることができた。甥のIgorはノルマンディー作戦時に戦死した。

 

母の兄弟は本人を含めて16人いて、甥のJosefはスイスで健在とのこと。

 

 

017, 012 私は日本に来た時、WAC billetを宿舎としてあてがわれていた。WACとはWomen’s Army Corps, billetとは兵営。

 

私の東京での勤務先はGovernment Section of SCAP (Supreme Commander Allied Powers)とだけ知らされていたが、東京に来てからPolitical Affairs Divisionに配属された。ボスはCoronel Pieter K. Roestであった。

 

私は両親に銀座のArmy PXで買った板チョコと香水をプレゼントした。PX=post exchange 基地内の売店

 

019 日本人は西洋人と交流することを禁じられていたが、母は近所の家族の子ども4人が全員赤痢にかかり、食糧を何かをいただけないかと乞われた時、配給のジャガイモを全部上げた。浅間の噴火でガラス戸が壊れた時は、父の教え子が母親と共に東京からガラスを運んできて窓枠に入れてくれた。

 

020 父母を軽井沢から東京へ移送

 

空襲で焼けなかったビルは米軍人でいっぱい。YMCAの神田会館でも断られ、結局、唯一コンタクトが取れた父の生徒である金子茂子さん宅の二間を借りることになった。父母の薬代は、食糧に困る医者にチョコレートで払った。最終的に、駐留軍の医者にビタミンをもらうことができた。

 

021 職場の様子

 

GHQの第一生命ビルが、皇居と相面していたとは皮肉であるが、これは意図的でもあったのかもしれない。GSはその6階にあった。SCは同じ階にあった。

 

マッカーサーと、私のGSのボスであるホイットニーGeneral Courtney Whitneyはおっかなかった。ホイットニーは迫力ある男だった。彼は大晦日の晩に私達部下に向かってこう言った。

 

「日本人に向けて出す命令に対する君たちの意見を求める。若い連中は上級将校と同じくらい賢明である。それ以上ではないとしても。これは嘘ではない。君たち中尉が私の部屋にいきなり入って来て、私の机を叩きながら「おい、generalホイットニー、これは間違っているぞ。これをマッカーサーに承認を求めるなんて、どうかしているぞ」と言ってくれる日が早く来ることを望んでいる。」

 

“I look forward to the time when a lieutenant will barge into my office, bang on my desk and say, ‘Goddammit, general, such-and-such a proposed directive is preposterous, …”

 

 GSの同僚は法律家が多かった。ルーズベルト大統領のニューディール政策の信奉者だった。

ホイットニーはいつもマッカーサーと一緒で、筆跡も似ていた。毎日1、2時間二人きりで話し込んでいた。ホイットニーはマニラ時代にマッカーサーの法律顧問をしていた。

 

副官のCol. Kadesは連邦政府顧問官で、スペイン系のユダヤ人だった。40そこそこの若さであったが、聡明で指導力もあり、私は好感をもった。一つ気に入らいないことは彼が、戦前に日本人の特高が日本人を拷問して虐めた竹刀を机の横に掲げていたことだ。

 

私が配属された政治部の3人のメンバー

 

Col. Pieter K. Roest, 47,

Dr. Harry Emerson Wilds, 55, 最年長だった。

私、22

 

ロエストはオランダ生まれの文化人類学者で、インドのカーストを研究し、アジアや中東をよく旅行していた。ベジタリアンで、アジアの医学に関心があり、妻はWACとしてGHQに勤めていた。

ワイルドは経済学者で、1924年から25年まで慶応義塾で教え、気まぐれmercuricalだったが、日本の習慣をよく知っていた。

 

023 職場での会話と私の評価 私は6か国語話せる語学の専門家

 

 私はロエストの質問に答えて、ウィーンの生まれで、日本ではドイツ語学校に通い、フランス語とロシア語を家庭教師から習い、アメリカの大学ではスペイン語を習ったと言った。ロエストは「日英合わせて6か国語が話せるんだね」と感心した。

 

日本事情について教示された。

 

私達の最大の関心事は、民主主義の根幹としての日本の政党を学習することだった。民主主義の拡大のためには、国家主義者を追放しなければならない。また私は女性だから、政治における婦人の地位や少数政党を研究することが私の任務だった。占領政策も学ぶ必要があった。

 

1945年8月30日以降の日本の出来事について教えてもらった。ホイットニーはマッカーサーから日本に関する指示を書き留めていた。

軍国主義の撲滅、代議制政治形態の樹立、女性への参政権付与、政治犯の釈放、農民の解放、労働運動の確立、自由経済の奨励、政治的抑圧の廃止、自由で責任ある報道、教育の自由化、政治権力の分散、…などである。

 

当初連合軍は日本人が従順だとは予測していなかった。私はニューヨークで日本の事情を聞いていた。熱血青年軍人の小集団が、天皇のポツダム宣言受諾を拒否して、皇居近郊や厚木飛行場でクーデターを起こしたが、失敗して、皇居前で自殺したこと、戦争が終結したその日に、日本空軍の特別攻撃部隊が九州から飛び立ち、そのまま帰らなかったことなどである。

 ところがそういう反抗は見られなかった。そのため予定していた軍政による直接統治を改めて、日本政府による間接統治に変更した。しかし日本人はGHQの三部門(政府、経済・科学、市民の情報教育)が日本を統治していることは十分知っていた。

 

東條英機を始めとするA級戦犯の軍国主義者が逮捕され、新聞、出版、報道、映画、郵便物が検閲された。

 

マッカーサーは近衛文麿を憲法改正に用いたが、NYTやNYヘラルドトリビューンなどはそれを批判した。

 

1日後、衆議院がSCAPに促されて改正選挙法を布告し、婦人参政権が実現した。1946年1月の最初の週に、経済界、商業界、農業界を含めて右翼が追放された。

 

025 男女交際 ある親切な海軍の男が、軍に捕まる危険を顧みず、食糧難で病弱の私の両親のために軍の食糧をくすねて運んでくれた。

 

連合軍軍人20万人の中で、女性は60人しかいなかったので、独身の私は男どもになにやかやと声をかけられたが、ほとんど無視した。しかし海軍中尉lieutenantのWarren Brownは、私が食糧獲得のためにチョコレートを貯めていることに気づき、彼のPXカードを差し出したが、私は断った。翌週彼は電話で会おうと言って来た。彼はいつも乗っているジープよりも大きい武器運搬用のトラックに乗ってきた。「ご両親に会いたい。」私たちは二、三回しか会っていないが、彼は決然としていた。

海軍の二、三箱の中には、木製の四箱があり、その中には、牛肉、バター、ジャム、イワシ、砂糖、粉末アイスクリーム、チョコレートが入っていた。それにLuxの石鹸も。母は何年も洗濯石鹸しか使っていなかった。

027 ブラウンは、これは廃棄品だと言ったが、軍法会議ものだ。それから彼は二、三回会ってから他に転じた。彼は25歳になったばかりだった。

 

027 ロシア人に招かれたパーティーで、私はウオッカによる数回の乾杯に堪えられず、二杯目以降は全てを流しに捨ててしまった。

 

帝国ホテルでロシア代表のGeneral Derevyanko将軍がMarquart将軍を招待した。マルカート将軍の秘書Virginiaが、私の昔の同室仲間だった。私はカクテルがせいぜいだった。ロシアの副官がワインを持って来てくれた。

 

 

028 日本人女性にとって参政権は喫緊の課題ではなかった。まず食糧を確保することで毎日を過ごしていた。私自身もその時までに一度も投票したことがなかった。

 

父母の下宿の近くで、以前私の乃木坂の家の女中だった沢辺美緒さんに会った。彼女は赤ちゃんを背中に負ぶっていた。二人とも防空頭巾をかぶっていた。彼女は炊いているご飯を入れた容器をリアカーで引いていた。

彼女は乃木坂の私の家で8年間女中をしていた。

彼女は沼津の彼女の家から干魚も持ってきていた。米はジャガイモ、大根、タケノコなどを混ぜた雑炊だった。母がその中にバターを入れた。

 

婦人参政権は必要だが、この食糧難の時代には贅沢であった。

 

 

第2章 私の生誕の地・ウィーン

 

 

2026年10月18日日曜日

加須狭山裁判支援市民の会 2026/10/17

 

加須狭山裁判支援市民の会 2026/10/17 土 2:00-4:30pm

 

 

今日は加須の狭山裁判支援市民の会の集会に行ってきました。袴田さんと石川さんに関するドキュメンタリー映画『うそがほんとに、ほんとがうそに』の上映会です。2010年以来の密着取材です。上映後監督の金聖雄さんのトークもあり、今日ほやほやの東京と同時封切とのこと。できるだけ大勢の人にこの映画を見てもらい、この理不尽な冤罪事件の解決に少しでも役立てばとおっしゃっていました。

 

それと聞き捨てにならないこと。石川さんの第四次再審請求では、この9月に、検察側が再審請求を棄却したらどうかなどとふざけたことを言っているとのこと。これから三者協議があり、その後裁判所の判断が示されるとのこと。

 

ちなみに袴田ひで子さんは、最近92才のころ、フランスのマクロン大統領に会い、その時に5年のパスポートではなく10年のを取り、私は102歳まで生きると言ったとのこと。ひで子さんは毎日腹筋運動をしていて、難なく上体を持ち上げられます。びっくり。

 

赤嶺菊江さんによれば、

 

日弁連はこれまではそっぽを向けていたのだが、最近は関与してくれるようになった。共産党も協力してくれるといいのだが。小さな違いには目をつぶって、それを乗り越えて行かなけらばならない。

 

 赤嶺さんのFB返信によれば、

 

さまざまな冤罪事件が再審無罪を勝ち取る中で、狭山だけがずっと取り残され続けてきました。どの冤罪事件の支援運動より、大きな闘いを取り組んできたし、数多くの無罪の証拠もある中で、何故再審開始にならないのか?

数年前に加須にも来てくださった、菊池事件や飯塚事件を担当する徳田弁護士が、「狭山事件を担当する裁判官は、余程の覚悟と能力が要する」と、話されていました。

第三次だけでも10人の裁判長が代わりました。みんな何もせずに、任期が終わるのをじっと待ち、逃げて行ってしまうのです。

検察が一番悪いのですが、裁判所も悪い。石川一雄さんは裁判所に見殺しにされたと言っても良いのではと思います。

 

 「裁判官の余ほどの覚悟」とはどういう意味なのだろうか。狭山闘争の歴史がネックとなっていて、無罪判決を出して法曹界からつまはじきにされるのを恐れているという意味か。正義という一点で、もっと単純に考えられないのか。

 

以上

 

2026年10月15日木曜日

菊池事件パンフレット 菊池事件再審弁護団、菊池事件国民的再審請求人団 2024 

 

菊池事件パンフレット 菊池事件再審弁護団、菊池事件国民的再審請求人団 2024 

 

 

感想・メモ

 

状況証拠としてはもっともありそうな設定だが、証拠とされたものに重大な疑問点がある。

 

その一つは犯行に使われたとされる凶器であるが、不思議なことに、その凶器が変遷していて、当初は草刈鎌だったが、後には短刀に変わった。しかもその短刀からは血液反応がないのである。おかしい。これを証拠と言えるだろうか。そして被疑者Fさんの衣服にも血痕がないのである。

 

二つ目の証拠は、親族(伯父、大叔母、この両名からその話を聞いたという親族)の証言である。しかし伯父の証言は、叔父が別件逮捕・拘留されたときに得られた証言である。また、この親族証言について心理鑑定がなされ、その証言が具体的な事実(体験)に基づいた証言ではないとされている。(対立仮設検討型供述分析)

 

三つめは本人の自白証言であるが、これは逮捕時に警官によって腕を被弾して痛みで苦しんでいた時に取られたものである。本人はその後一貫して否認している。

 

 

事件の背景

 

菊池事件はらい患者やその疑いのある者を隔離収容しようとする国策に基づき、行政がらい患者を探って駆り集めようとしていた時代に起った。

その国策をFさんが拒否し、Fさんを付け回す行政官Aを恨み、A宅にダイナマイトをしかけ(第一事件1951/8/1)、刃物で殺害する(第二事件1952/7/6)という、いかにもありそうな場面設定である。

 

 

メモ

 

1954年4月、ハンセン病患者の子どもによる不通学運動(黒髪校事件)が発生した。学校父兄による通学妨害ともされる。

 

1962年9月11日、法務大臣がFさんに対する死刑執行指揮書に押印した。第三次再審請求中である。

翌日の9月12日、第三次再審請求を棄却。

翌日の9月14日、死刑執行。

 

 

019 再審法には、再審できる事例として、憲法に違反した裁判手続きが書かれていない。これも争点。

 

この事件の再審請求は当初、親族からではなく、検察官に再審を要望するという形で行われたが、後に2021/4遺族が再審請求をするようになった。遺族がハンセン病差別を恐れて、公の場に出るのを恐れていたからである。今回も匿名での再審請求である。

 

「菊池」は、熊本県北部の地名である。

 

ちなみに、この菊池事件をテーマとした映画の上映会が、来週開催される。

 

らい予防法人権侵害謝罪・国賠訴訟勝利25周年記念上映会 2026年10月24日(土)1回目10:30 2回目 14:30 群馬県勤労福祉センター 1000円 中山節夫監督 映画 「新・あつい壁」

 

以上

 

2026年10月14日水曜日

『上毛新聞』に見る敗戦後の群馬県 大沼久夫

 

共愛学園前橋国際大学ブックレットⅢ 『上毛新聞』に見る敗戦後の群馬県 大沼久夫 上毛新聞社 平成23年2011

 

 

020 不思議 上毛新聞アンケでは社会、共産が上位にいたのに、実際の選挙結果は進歩がトップになった。

 

群馬県での支持政党アンケ1946.3.5 1646人中

 

社会326人

共産128

自由 94

進歩 83

未定・興味なし534

 

本来ならこうなるはず

 

社会5.1人

共産2.0

自由1.5

進歩1.3

 

032 ところが戦後第一回総選挙1946.4.10結果は 定員10人

 

進歩 5

社会 3

自由 1

無所属1

計  10

 

033 上毛新聞もそれを「予定の戦果、人民戦線未だし、旧勢力が依然圧倒的」とした。

 

023 天皇の地方巡行は、衆院選で保守に有利であった。

031 天皇制廃止・人民共和国を唱えるのは共産党だけで、他は社会党を含めて、天皇制維持、国体維持であった。

 

 

1か月という短時日のうちに、これほど民意が変化することがあり得るのだろうか。しかもこの選挙は全県1区で、2名連記、当選者10名という投票方法だから、全県比例区選挙032であり、現在の小選挙区のような死票がない。考えられることは何らかの不正があったということである。買収などのあくどい方法とか、選管による意図的な結果捏造とかがあったに違いない。

 

感想 この後038, 039を読んでみると、軍政部による反共宣伝工作が1947年ころから始まっていたことが分かる。日本国民は占領軍によって反共意識を植え付けられていたのである。マッカーサーが離日するとき、大勢の日本人が涙の別れを告げたというから、日本人は完全に米軍のとりこになっていたのである。*008「日本人は在任中の元帥宛に50万通の手紙を書き、解任された元帥を20数万人の日本人が羽田空港までの沿道に並び、別れを惜しんだ。」

 

メモ

 

034 その中でも1946年4月10日の朝日新聞は、選挙を「民主革命の出発点」とし、保守政党の戦争責任を追及し、革新政党への投票を呼びかけていた。ところが選挙結果は保守政党の大勝となり、社会党と共産党の議席は100議席に及ばなかった。

 

自由140

進歩 94

社会 92

協同 14

共産  5

諸派 38

無所属81

計 464(再選挙区2選挙区)

 

037 吉田茂宛マッカーサー書簡が勧めた、1947年の第二回衆院議院総選挙は、選挙法を改正し、中選挙区単記制になった。

 

038 第一回統一地方選挙1947/4/5を前にして、1947年3月20日、高級軍政官ブレア・A・フォードが布告を出した。それと同時に3月25日、GHQ民政局のステートメント「民主的選挙とは」が発表され、その見出しは、「民主主義確立へ第五列(共産主義)と戦え」「侵略的共産主義と戦え」「戦うべきものは侵略的共産主義」と反共を露わにし、選挙で共産党に投票しないように日本国民に促した。

 

040 1947年4月20日、第一回参議院議員選挙

4月25日、戦後第二回衆院議員総選挙

4月30日、地方議会選挙

 

4月27日、マッカーサーが選挙結果に関する声明を出した。

4月28日、「朝日新聞」の見出し「共産主義を排除し、民意は中道を選ぶ」

 

041 1949年1月23日、戦後3回目の衆院議員総選挙

1月24日、GHQ渉外局の声明「自由世界の各国民衆は、熱意と秩序ある日本の総選挙が、アジアの歴史における危急な時期において、政府の穏健な考え方に対し、明確かつ決定的な委託(信託)を与えたことに満足するであろう」

1月26日、マッカーサー「この選挙は満足すべき結果である」との声明を出した。

 

感想 この1949年の総選挙では社会党が大敗し、共産党が躍進したのではなかったか。

 

民主自由264

民主69

社会48

共産35

国民協同14

労働者農民7

農民新6

社会革新5

 

 

042 戦後の労働運動は共産党が主導したが、早くも社会党系で反共産主義の「日本労働組合総同盟」(総同盟、1946/8/1結成)と、共産党系の「全日本産業別労働組合会議」(産別1946/8/19)とに分かれ、その後も統一することはなかった。

1948年2月現在の組合数は3万6157、組合員数は684万9千人であった。

公務員の賃上げは吉田内閣によって拒否されていた。共産党の影響が強い官公庁労組(国鉄、全逓など)は、民間の支援を受けて1947年2月1日に全国規模のゼネストを計画したが、GHQに中止され、その後、共産党系の労働運動への規制が強化された。

 

043 1947年3月2日の朝日新聞は、マッカーサーが「日本の民主化は共産主義の防壁」と語ったと報じた。

 

1947年3月17日、マッカーサーは記者会見で「日本の貿易を許す必要がある」と発言した。

 

1948年1月1日、ロイヤル米国陸軍長官が「日本を反共の防壁にする」と発言した。

1948年4月1日、ソ連占領下の東ドイツ領内の西ベルリン(米英仏管理下)に対して、ソ連軍が陸上輸送網を封鎖した。

 

敗戦前後の日本には朝鮮人が200万人居住していた。うち百数十万人が帰郷したが、GHQによる持参金や物品の制限のために、60万人が帰郷を見合わせていた。

 

1945年10月15日、在日朝鮮人は「在日本朝鮮人連盟」(朝連)を結成し、「国語講習所」を開設し、朝鮮人学校を設立した。

 

1948年1月24日、文部省が朝鮮人学校の閉鎖を命じた。それに対して4月、反対運動が大阪、神戸を中心に起った。(阪神教育闘争)4月24日、1000人の朝鮮人が、県市等が対策会議を開いていた兵庫県庁知事室に乱入した。

第8軍司令官アイケルバーガー中将は「暴徒行為は占領政策に妨害する」として、神戸地区に非常事態宣言を発令し、350人を拘留した。(4月27日記事)

4月28日の記事では、「全関係者逮捕、首謀者7人は共産党員、その中に朝鮮共産党員も混じっている」と報じた。

共産党の神戸市議は有罪判決を受けた。

 

044 共産主義の脅威

 

1949年8月17日に起きた松川事件は、戦後初の冤罪事件である。この事件の背景に米スパイ組織G2(参謀第2部、諜報、保安、検閲などを担当)が関わっていたらしい。真犯人は未だ不明である。

 

「団体等規制令」(1949.4.4公布)により、1949年9月、「在日朝鮮人連盟」等、朝鮮人4団体が解散を命じられ、幹部が追放された。

 

1950年2月、共産主義者とその同調者が職場から追放された。

1950年6月6日、共産党幹部が追放された。

1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。軍事力では北が(南より)優位だった。

 

 

047 1950年6月26日、GHQが『アカハタ』の30日間発行停止を指令した。その理由は同紙が「朝鮮戦争が、韓国軍・米国軍の攻撃で開始された」と報道したからとされた。警察は『アカハタ』を各駅で押収した。

1950年6月27日の上毛新聞記事によれば、「高崎駅670部、桐生駅480部、渋川駅450部、富岡駅130部、倉賀野駅95部、他」とある。(『アカハタ』の発行部数は1949年9月30日現在、29万5750部であった。)

1950年6月28日付上毛新聞社説『アカハタの責任』によれば、「『アカハタ』の記事の影響は、国を治める上にどれほど困ることか想像に難くない。『アカハタ』の発行禁止処分は、言論の弾圧ではない。(韓国軍が先制攻撃したという)考え方を改めないなら、元帥の(発行停止の)指令を甘受するより仕方ない。」

 

048 警察予備隊への応募

 

 1950年7月8日、マッカーサーは、吉田茂首相に、7万5千人の「国家警察予備隊」の創設と、海上保安庁の8千人増員を指令した。

1950年7月29日の衆院本会議で、吉田茂首相は「警察予備隊の設置の目的は治安維持以外なし」と(虚偽の)答弁をした。

それでも1950年7月29日付上毛新聞社説は「我々は余りにも軍隊や特高の横暴による被害にいためつけられている。そこで、今度はどんなことがあっても、軍隊や警察が政治に関与したり優位したりすることを排除したいのである」と抵抗した。(やはり戦争体験の苦しみは生きていたといえる。)

1950年8月10日、警察予備隊令が公布され、即日施行された。

 

県警察学校長が募集・採用試験の責任者となり、5地区の警察署で1日おきに常時試験が行われ、試験期間は8月13日から9月15日までだった。警察官採用試験より簡単な知能(国語、算術、常識)考査が行われ、入隊予定日は8月23日で、階級は13だった。

1950年8月16日の上毛新聞記事「第2日で定員1600名を突破した。3357名が応募し、高崎の予備隊受付では、志願書の印刷が間に合わない。」

 

全国の志願者数は38万人に上った。

 

 

1950年8月25日の上毛新聞社説「憲兵とも軍隊とも解釈しうるこの時代の奇形児(警察予備隊)が、どうしてこんなに人気の対象になったのか。それは青壮年失業者が多いことを物語っている。最低5千円の給与が支給され、食事・宿舎・被服など一切が官給であったから、危ない橋を渡ってようやくその日を生活しているカツギ屋などは、喜び勇んでこれに来たり投ずる。この予備隊という奇形児が再軍備の性格を持つか否かをいまさら真剣に議論するのはおかしい。再軍備と見るものは見るべし、警察の一機関と見るものは見るべし。(投げやりな思考停止)朝鮮動乱は、今度の予備隊結成を急がせる動機にはなったけれども、中共その他アジアの赤化攻勢は、日本をしてこうした措置に出でしむる必然的コースを予約せしめていたのである。(今後)予備隊警察の力強い生長が望まれると共に、その発足に当たって、国民の予備隊設置に対する理解の完全ならんことを希望するものである。」(戦前来の思想・生き様、つまり、長い者(戦前の為政者、戦後のGHQ)にはまかれろ、自分の頭で考えない思考停止。生きるためには嘘でも語れ、という節操のない言論機関・上毛新聞の姿勢がここに如実に現れている。)

 

1950年9月20日付上毛新聞記事「本県の志願者数約7800名。そのうち前科者171名がはねられた。元部隊長も志願。大部分が旧陸軍将校。元強盗も含まれていた。(大部分が元軍人上層部の将校であった。)

 

1950年9月14日付上毛新聞記事「県庁で反占領軍の反米ビラが多数まかれた。」

1950年9月15日付上毛新聞記事「富岡の工場、桐生市内、高崎機関庫でも反米反占領軍ビラがまかれた。」

 

戦争に反対する朝鮮人は、「祖国防衛隊」を組織し、共産党とともに火炎瓶放火未遂事件を起こした。

1952年6月以降、「祖国防衛隊」による警察予備隊に対する工作事件が起こった。

 

在日本朝鮮居留民団(民団)は、韓国防衛のための「在日韓僑自衛軍(韓国学徒義勇軍)」を組織し、韓国軍、国連軍に参加した。他方、北朝鮮を支持する朝連系の朝鮮人は、北朝鮮擁護、戦争反対の「祖国防衛隊」を組織した。

 

1949年春から実施された、インフレ抑制、財政金融引き締めのドッジライン政策による不況は、朝鮮特需により一時的に好況に転じた。

 

052 独立回復――占領の終わり

 

1951年に署名された日米安保条約第1条は、「外部からの教唆・干渉により日本で内乱が起きたら、日本政府の要請に基づき、米軍が鎮圧できる」とする。これを内乱条項という。これは1960年の日米安保条約では第5条となり、内乱に代わって「外部からの武力攻撃への共同対処」になった。

 

055 終わりに

 

GHQは新聞、ラジオ、雑誌を検閲し、手紙を開封し、電話を盗聴していた。そのため占領軍兵士による犯罪や事件はほとんど掲載報道されなかった。

 

以上

 

BEATE SIROTA GORDON “The Only Woman In the Room"

  BEATE SIROTA GORDON “The Only Woman In the Room  A MEMOIR OF JAPAN, HUMAN RIGHTS, AND THE ARTS”   University of Chicago Press 2014,   Orig...