遠山茂樹・今井清一・藤原彰 昭和史 岩波新書 新版1959.8.31、初版1955.11.16
感想 2026年10月5日(月)
・丸山眞男的断罪、生々しい。同時代を批判するからなのだろう。私と同世代の戦後の歴史学者の方が批判の鋭さという点で、緩い感じを受ける。
・満州事変はクーデターではなく、政権の意思だとする。
・共産党・社民党に対する厳しい批評。
・幣原喜重郎や鈴木貫太郎に対する厳しい批評。ただし、幣原批評はやや緩い感じを受けた。
・朝鮮戦争発端をアメリカだとする論調。ソ連に対して融和的で、期待しているかのような印象を受ける。戦争直後の世相を反映しているのか。
・憲法九条の発案者をマッカーサーだとする。平野三郎文書の存在を知らない。本書が刊行された時(新版1959年、初版1955年)の4年前の1951年2月に平野は幣原から聞き取っていたが、それが公にされたのは、憲法調査会からの要請があった1964年2月以降と考えられるから、まだ知らなかった。
メモ
031 幣原喜重郎は1924年から1927年までの護憲三派内閣から憲政会内閣にかけて外務大臣を勤めた。
幣原が外相を勤めた期間
1924年6月11日~1927年4月20日(加藤高明内閣1924年6月11日~1926年1月30日、第一次若槻内閣1926年1月30日~27年4月20日)
1929年7月2日~1931年12月13日(浜口内閣1929年7月2日~1931年4月14日、第二次若槻内閣1931年4月14日~1931年12月13日)
1927年4月20日~1929年7月2日までの、立憲政友会総裁の田中義一内閣(1927年4月20日~1929年7月2日)の時は、外相はやっていない。田中義一が外相を兼任した。
感想 2026年9月25日(金)
1920年ごろから1930年代前半のころまでを読んでいるのだが、1930年代前半の右翼の台頭(政友会や軍部の対外積極政策)は、民政党・幣原外交の対外融和・軍縮政策や共産党の公然化1928, 043、出版界や知識人・学生の間でのマルクス主義の高揚などに対する反発として現れたのではないかとふと思った。他人が見栄を切ると、それを真似るが人の常。
1929年の世界恐慌の余波(1930年の春076)を受け、労働者の賃下げ、首切り、小作料減免から小作契約の継続への要求065、農民と工場労働者との連帯066、東京市電のストライキ061、鐘淵紡績スト061などが派手に行われた。これらは恐らく右翼の耳目も引いたに違いない。
三月事件1931、満州事変1931、十月事件1931、血盟団事件1932、五・一五事件1932は、右翼・軍部の一貫した方針であり、対外軍事膨張は、それを支える国内体制の変革・革命と一貫したものとして捕らえられていた。078
問題解決方法における両者の根本的な違いは、自民族の利益だけを考えるかどうかである。
本書は俯瞰的で、同時代的である。著者の遠山茂樹は1930年から1945年にかけて、16歳から31歳だったから、同時代をつぶさに見てきたと思われる。遠山茂樹1914.2.23-2011.8.31、藤原彰1922.7.2-2003.2.26、今井清一1924.2.7-2020.3.9
遠山茂樹は東京帝大国史学科卒、文部省維新史料編纂事務局、東京帝大史料編纂所、東大教組委員長。
藤原彰は、戦前は陸軍士官学校を卒業後、中国戦線へ。戦後は東京帝大文学部史学科卒。
今井清一は一高・東京帝大法学部政治学科卒。丸山眞男に師事した。
政友会だけでなく、後には民政党も変容し、軍部の対外膨張政策を支持するようになった。
118 力尽きた知識人 美濃部達吉の天皇機関説は天皇を冒涜するとして、まず右翼が口を切り、政党がそれに呼応し、政府がそれに追随し、発禁処分だけでなく、犯罪(不敬罪、出版法違反)として断罪され、美濃部達吉は貴族院除籍を条件に起訴猶予された。美濃部を批判する者は天皇機関説の中味を知らなかったのに、それを葬ってしまった。
このときは2年前の滝川幸辰事件のときとは違って、滝川事件では滝川に応援して一緒に退官した人たちがいたが、この時は誰もが沈黙していた。もう軍部は怖い者がいない。
戦前日本における日常的な戦争=人殺しが、関東大震災時の朝鮮人虐殺や、五・一五事件の政治家殺害の誘因である。殺人が当たり前の事、日常的なこととしてその敷居が低くなる。
そのことは現在の米ロ、イスラエル、アフリカ、フーシ、ハマスについても言えるのではないか。ロシアではリトビネンコやナワリヌイがいとも簡単に毒殺され、米では税関・国境警備局CBPや移民税関捜査局ICEが民衆を殺害している。2026年のことである。
本書執筆陣のか弱さを感じる。単に事実を説明することにとどまり、反撃への姿勢が見られない。
感想 2026年9月29日(火)
日本人は保身のために、強いもの(軍部)に与して徒党を組むものだと痛感する。ブルータス、お前もか、社会大衆党。166
1941年ころの日本 政党解体と「新党」(大政翼賛会181)結成。
「乗り遅れるな」 欧州対英仏戦でのドイツ戦勝のころの「乗り遅れるな」とは、独に負けた仏蘭の東南アジアの植民地や、もとドイツ領で第一次大戦後に英仏領となった南太平洋の島々を、今がチャンスだ、いただこうとする軍部の動きである。178
それまで軍部は「防共」「防共」と喧伝していたが、ドイツがソ連と不可侵条約を結ぶ1939.8.23と、思考停止に陥っていた。しかし欧州でのドイツ勝利を契機に、独伊軍事同盟に参加した(1940年9月27日)。それは米国を対戦相手にすることを決意することも意味した。179, 180
ノモハン事件1939.5での敗北1939.9.16は、ソ連の近代的武器にかなわないことの理解を意味した。それまで戦った中国の武器は大したものではなかったのだろう。この失敗で左遷された参謀は、復帰して対米英戦を決定した。171
感想 2026年10月1日(木)
日本軍人は面子、今まで対中国戦や対ロシア戦や対朝鮮戦で勝利してきたという面子があったせいか、それとも精神主義で物事が解決できるという極端な主観性のせいか、ミッドウェーで空母の大半を失い、マリアナ沖海戦で、航空戦力が失われたという不利な状況なのに、ガダルカナルなど南方戦線で無理な兵力投入をし、レイテ決戦に挑んで大敗した。さらに沖縄戦でも大敗したのに、本土決戦を本気で考えていた。
ヤルタ会談でソ連の対日参戦の時機は、ドイツ降伏後の
2か月から3か月後、
3か月後、
2か月後、
はっきり決まっていなかった、
のいずれか。
AIによれば、
1945年2月に開催されたヤルタ会談の極東に関する秘密協定において、ソ連の最高指導者スターリンは「ドイツが降伏し、かつ欧州の戦争が終結したのち2か月または3か月を経て、ソビエト連邦は連合国に味方して日本国に対する戦争に参戦する」ことに同意しました。
1945年当時の日ソ不可侵条約の契約終了日はいつか。
AIによれば、
1945年当時、一般に「日ソ不可侵条約」とも呼ばれる日ソ中立条約の本来の契約終了日(有効期限の満了日)は、1946年4月25日(日本政府の説明では1946年4月24日)でした。
この条約は、1941年4月25日の批准書交換から5年間有効と定められていました。
しかし、満了の1年前までに不延長の通告がない限り自動延長される規定になっていたため、ソ連は満了1年前の期限にあたる1945年4月5日に「不延長(廃棄)」を通告しました。
この通告により「1946年4月(当初の5年間)をもって契約を終了させる(自動延長しない)」ことが確定しましたが、条約自体は1946年4月まで有効のまま残るはずでした。しかしソ連は、有効期間内であった1945年8月8日(日本時間9日未明)にこの条約を破って日本へ宣戦布告し、参戦しました。
日本はミッドウェー海戦で空母の大半を失ったが、海軍はそれを陸軍にも伏せていた。
日本は航空戦力の大半を失った。
日本は空母も航空機もないのに、フィリピン奪還を断行したが、途中で沈没させられた。
日本は本土決戦を本気で考えていた。
日本は空母も航空機もないのに、フィリピン奪還を断行したが、途中で沈没させられた。
AIによれば、
おっしゃっている歴史的状況は、1944年(昭和19年)10月のレイテ沖海戦(比島決戦)や、それに伴うフィリピン防衛戦の局面ですね。
当時、日本軍はアメリカ軍によるフィリピン奪還(アメリカ側から見た奪還)を阻止するために、残された戦力を総動員して迎撃作戦(捷一号作戦)を断行しました。ご指摘の通り、この作戦は空母の艦載機(航空兵力)をほとんど失った絶望的な状況で行われ、結果として多くの主要艦艇が沈没させられる悲劇的な結末を迎えました。
この戦いの実態について、いくつか重要なポイントを整理します。
1. 空母と航空機がない状態での出撃
同年6月のマリアナ沖海戦で、日本海軍は事実上、空母で戦うための航空機と熟練パイロットを完全に失っていました。そのため、レイテ沖海戦では以下の苦肉の策が取られました。
• 囮(おとり)にされた空母部隊: 小沢治三郎中将率いる空母「瑞鶴」などの部隊は、航空機をほとんど乗せないまま、アメリカの機動部隊を北方へ引きつけるための「囮」として出撃し、フィリピン北方のエンガノ岬沖で沈没させられました。
• 大和・武蔵の突入: 空母の援護がないため、栗田健男中将率いる戦艦「大和」「武蔵」などの主力戦艦部隊が、アメリカ軍の揚陸地点(レイテ湾)へ直接突入して輸送船を叩く作戦が立てられました。この途中で、世界最大の戦艦だった「武蔵」が米軍機の猛烈な空襲を受け、魚雷と爆弾を無数に浴びて沈没しました。
2. 神風特攻隊の開始
航空機が圧倒的に不足し、まともな空中戦でアメリカ軍に対抗できなくなったため、このフィリピン戦から組織的な「神風特別攻撃隊(特攻)」が本格的に開始されることになりました。
3. なぜそれでも断行したのか?
フィリピンをアメリカ軍に奪われると、日本本土と南方(インドネシアなど)の海上交通路(シーレーン)が完全に遮断され、戦争を継続するための石油(燃料)が一切入らなくなるためです。当時の海軍軍令部総長だった嶋田繁太郎らは、「フィリピンを失えば、艦隊が生き残っても燃料がなくて動かせない。艦隊を解集して戦わせる、これ以外に道はない」と判断し、全滅を覚悟で出撃を命じました。
このフィリピンをめぐる激戦について、さらに詳しく知りたいポイントはありますか?
1. 世界最大の戦艦「武蔵」が沈没にいたるまでの戦闘詳細を知りたい
2. 栗田艦隊の「謎の反転」(なぜレイテ湾を目の前にして引き返したのか)について知りたい
3. フィリピンでの陸上戦(ルソン島やレイテ島の戦い)のその後の展開を知りたい
日本はミッドウェーで空母の大半を失ったが、海軍はそれを陸軍に秘密にしていた。
AIによれば、
おっしゃる通り、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦における大敗北(主力空母4隻の喪失)を、海軍は陸軍に対して徹底的に隠蔽しました。
これは日本の敗戦原因としてもよく挙げられる、「陸海軍の不和・セクショナリズム」を象徴する極めて重大な歴史的事件です。海軍の隠蔽工作とその影響について、詳細を整理します。
1. どのようにして隠されたのか?
海軍は敗戦の責任追及を恐れ、また陸軍に対して優位に立ち続けたいという組織防衛の心理から、情報を遮断しました。
• 陸軍トップへの嘘の報告:
海軍は、時の首相兼陸軍大臣であった東條英機や、陸軍の最高統帥機関である参謀本部に対して「空母1隻喪失、1隻大破(のちに沈没)」と虚偽の報告をしました。主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を全て失ったという真実は伏せられました。
• 負傷兵の監禁: 帰国したミッドウェー海戦の負傷兵たちは、陸軍や一般国民に事実が漏れるのを防ぐため、夜間に人目を忍んで病院に搬送され、外部との連絡を一切絶たれて実質的に監禁されました。
• 国民への「大勝利」発表:
大本営発表では「敵の空母2隻を撃沈し、我が方の損害は空母1隻」という、事実とは真逆の「大勝利」が国民に向けて宣伝されました。
2. 陸軍が真実を知ったタイミング
陸軍が「どうやら海軍は空母をほとんど失ったらしい」と薄々気づき始めたのは、数か月後のガダルカナル島の戦い(1942年8月〜)が始まってからです。
前線で海軍の航空支援が全く受けられないことを不審に思った陸軍が独自に調査を進め、徐々に真実を把握していきましたが、海軍から公式に全貌が明かされたのは、戦争が終盤に差し掛かってからでした。
3. この隠蔽がもたらした致命的な結果
この情報隠蔽は、その後の日本の戦争指導に壊滅的な影響を与えました。
• 誤った戦略の継続: 陸軍は「海軍にはまだ十分な空母がある」前提で作戦を立てたため、ガダルカナル島などの南方戦線に無理な兵力投入を続け、泥沼の消耗戦に引きずり込まれました。
• 国家資源の無駄遣い: 制海権・制空権がない場所に陸軍兵士を送り込んだため、多くの輸送船が沈められ、補給が途絶した前線では戦闘ではなく「餓死」による犠牲者が続出することになりました。
感想 2026年10月2日(金)
社会党が共産党と共闘しないのには訳があった。社会党は、民主化を求めて共産党に傾く民衆運動のガス抜きなのですね。
米政権はそれを望んでいた。米政権は、ルーズベルトが死んで、トルーマンが大統領になったころから反共的姿勢を明らかにし始めた。米は今も昔も共産嫌いなのですね。トランプによく似ている。
268 社会党の片山哲内閣時1947.5.24-1948.2に社会党と連立した民主党(芦田均民主党総裁)も、それを望んでいた。芦田均民主党総裁「社会党との連立の第一の理由は、労働攻勢を抑えうる政党は社会党しかないからである。」
社会党は戦前の社大党つまり社会大衆党である。今の国民民主によく似ていて、時勢にすりよる美人なのですね。
社会党は、共産党が人民戦線の結成で共闘しようといっても、そっぽを向いた。261
労組を分裂させた。261, 269
1946年8月、全日本産業別労働組合会議(産別)と日本労働組合総同盟が別々に結成された。261
片山内閣1947.5.24-1948.2は、「日農」に対して「日農主体性同盟」を、「国鉄労組」に対して、「国鉄民主化同盟」を、「産別」に対して「産別民主化同盟」を対置してつくるのを推進・援助した。
266 本書は憲法九条マッカーサー発案論を取っている。つまり「象徴天皇制と戦争放棄は、変更することのできない二大原則であり、天皇制維持のために必要だ」とマッカーサーが幣原に説得したとある。
262 財閥、官僚、軍人は、軍需品を東久邇内閣からただでもらい、物資が不足して物価が高騰するとそれを売ってぼろもうけした。また資本家は、戦中に注文を受けた軍需品の代金を、納入も生産もしていないものを含めて「補償」として受け取った。
メモ
066 革命運動の挫折
066 『中央公論』『改造』など総合雑誌には、前衛党と大衆的労農政党との関係や、マルクスの価値論、地代論についての論争というような論稿が毎号掲載され、論壇は左翼によって支配されているという声すら出ていた。(1930年、1931年ころと思われる)
067 文学では小林多喜二の「蟹工船」「不在地主」、徳永直の「太陽のない街」、窪川(佐多)稲子の「キャラメル工場から」、中野重治の「春先の風」などのプロレタリア派の作品が登場した。
068 1930年後半期には、この極左的誤謬の自己批判をめぐって分裂し、党内部は混乱状態に陥った。
アジトに転々としていた彼らは、争議の頻発や知識人急進化の現象に眼を奪われて、革命的情勢は成熟しつつあると主観的に断定し、武装蜂起を指令するという誤りを犯したのであった。
070 満蒙問題
071 1931年に中国は、関税自主権を一応回復すると、続いて治外法権の撤廃を取り上げ、3月には日本と交渉を始めた。満洲の実権者である張学良も、アメリカ資本の援助を期待して、満鉄線包囲線の建設と葫蘆島(大連の西側の海沿いの町)の築港を始め、また日本人の土地商組権を否認して問題を起こした。日本の対満投資の63%を代表する満鉄の鉄道収入は、30年度には、大恐慌の影響も加わって前年度の3分の1の下回り、1906年創業以来の不成績を示した。
こうした状況に対し、軍部、枢密院や政友会が幣原外交を軟弱だと非難したことはもちろん、『朝日』『毎日』などの大新聞も満蒙の権益擁護を強行に主張し始めた。
武力行使によって満蒙問題を解決しようとする軍部の動きは活発さを加えた。第二次山東出兵1928.4当時の満洲占領計画が流産に終わった直後に、陸軍中堅将校の間には、政治家頼むに足らずとして軍自身の手で満洲問題を解決すべきだという気運が高まった。関東軍や朝鮮軍の重要ポストは同志で固められ、満洲では河本大作や甘粕正彦(大杉栄暗殺の下手人)らが呼応した。
077 満州事変の発端
077 1931年8月、南次郎陸相は師団長会議で満蒙の危機を強調して軍縮論を非難する演説を行い、とくにこれを公表して政府に挑戦した。民政党がこの演説を攻撃すると、陸軍では、「血をもってあがなった満蒙を幣原外交に任せることはできない」と反駁した。政府と陸軍の関係は険悪になった。既に陸軍当局では、政府に働きかけ、内外の世論にも訴えたうでで、満州問題の武力解決を図ろうとする「満州問題解決の方針の大綱」を決定していたのである。(今村均「満洲火を噴く頃」『秘められた昭和史』所収)
078 この事件(万宝山事件1931.7)は、恐慌による窮乏のため、満州に移住する朝鮮人が増えたことに対して、中国側ではこれら朝鮮人を日本帝国主義の手先だとして敵視したことに基づくものであった。日本側でも朝鮮人の民族意識を日本からそらさせるために、この事件を宣伝した。このため朝鮮各地で報復暴動が起こり、多数の中国人が殺された。
陸軍はこの事件(中村震太郎大尉事件1931.6~8)を絶好の口実に、鉄道問題などの懸案を一挙に解決しようとして、強硬な要求を張学良につきつけ、外務省もまたこれに同調した。
081 十月事件
082 政府は1931年10月26日、中国の排日運動が収まらない以上は、中国政府の保障に信頼して撤兵することはできないと、第二次声明を発表した。続いて幣原外相は、溥儀の擁立にこそ賛成しなかったものの、満州各地の治安維持会を充実するよりほかには事態の解決は望みがたいとして、軍部の満州独立方針に同調し始めた。
083 上海事変と「満洲国」
084 1932年1月18日、托鉢中の日本人僧侶が中国人に襲撃されるという事件*が起こると、情勢は一層緊迫した。
*この事件は、満州独立を行うため、「上海で事を起こして列国の注意をそらさせて欲しい」という関東軍の依頼で、上海駐在武官輔佐官田中隆吉と重藤憲兵少佐とが、中国人を買収して日本人僧侶を狙撃させたのが真相だという。(田中隆吉「上海事変はこうして起こされた」『秘められた昭和史』)
085 満州事変の意義
086 侵略の時期や方法に意見の差はあったが、満州を支配する必要性については、軍部も、元老、政党、財界も、一致していた。満洲占領は「不動の国策」とされた。
087 ソ連は1931年末、日本に不戦条約の締結を提案したが、日本はそれを拒絶した。
090 血盟団事件と五・一五事件
090 血盟団事件1932.2.9, 3.5と青年将校(藤井斉大尉、3月に上海で戦死)との関係は当局の調べで明らかになったが、軍人たちにはなんらの処置も取られなかった。*
*当時、現役軍人を取り調べて逮捕することは憲兵にしかできなかった。それだけでなく、井上日召が右翼の大御所頭山満邸に隠れると、鈴木喜三郎内相は逮捕をためらい、自首を待つありさまだった。
092 社会民主主義者の戦争支持
1932年、農業恐慌は最も深刻になり、東京をはじめ全国の都市・農村で、失業者や貧農を先頭に、米よこせ闘争が起った。
労働運動は弾圧と分裂のために弱体化していてこの闘争を吸い上げることができず、むしろ農本主義者がこれを拾い上げた。彼らは五・一五事件1932の被告に思想的影響を与えていた。
農本主義者・権藤成卿らの自治農村協議会は請願運動を組織し、これに全国市町村会、農会、農民組合が参加し、議会に押し寄せ、農家負債のモラトリアム、満蒙移住費5千万円補助などを求めた。そして「農業勤労だけが尊い」と説き、都市の奢侈逸楽と富者の私利私欲に反発し、農地が狭いから農家の二、三男は満州に移住せよ、純朴勤勉な農民こそが時局を解決できるとした。こうした宣伝が官民の指導者によって行われ、農民を軍部の大陸政策支持に向かわせた。
094 労働運動や革命運動に対する取り締まりは、非常時を名として激しくなった。1932年2月の第3回普選で、無産政党の当選者5名中、左翼は1人もなく、うち2名はやがて国家社会主義に走った。
社会民衆党は、満州事変が起こると、片山哲、島中雄三らの満蒙調査団を派遣し、1931年11月、
「国家社会主義へ向かう道程として、社会主義日本の建設を必然的段階と信じる我らは、日本国民大衆の生存権確保のため、満蒙における我が条約の権益を侵害さるるは不当なりと認む」
という声明を出し、1932年2月の総選挙では「満蒙の権益を民衆へ」と主張した。
全国農民大衆党は、満州事変開始直後に、「対支出兵反対闘争委員会」を組織し、総選挙には「帝国主義戦争絶対反対」をスローガンにした。しかしその基盤の造船・金属工組合から、「満蒙より手を引け」というのは、労働者大衆の現実の利益を無視するものだという非難が起こり、戦争反対はうやむやになった。1932年5月、その一部が脱党して、先に社会民衆党を脱退していた赤松克麿や平野力三らと結び、日本国家社会党をつくり、「一君万民の国民精神にもとづき、搾取なき新日本の建設を期す」と綱領に謳った。
国家社会主義派の脱退によって動揺した社会民衆党、労農大衆党は、同年1932年7月合同して、社会大衆党をつくり、「反資本主義、反共産主義、反ファシズム」の三反主義の看板を掲げた。そしてその一部には、「軍部は無産階級の味方であり、日本の革命は軍部と結んで資本主義を打倒することにある」と説く動きが生まれた。
095 全協(日本労働組合全国協議会、共産党系)は、1928年3月15日、「日本労働組合評議会」が三・一五弾圧で、治安警察法を根拠に解散命令された後の同年1928年12月25日に発足した。
096 1933年後半期から、共産党、全協の内部分裂が激しくなり、ついで全農全国会議派が潰され、1935年2月に『赤旗』の発行が停止され、共産党の全国的活動は終わった。
098 1933年3月28日、日本政府は「東洋平和確立の根本方針につき連盟と全然その所信を異にする」として連盟を脱退した。この時出された連盟脱退の詔書は、この問題に対する国内の批判を封ずる役割を演じた。満州事変によって醸し出された国民的興奮の雰囲気の中で、日本は国際的孤立に向かって決定的な歩みを始めた。
112 満州国承認1932.9の後に、関東軍司令官が駐満大使と関東長官を兼ねた。1934年12月、対満事務局が置かれ、陸相がその総裁を兼任し、対満政策の決定権は陸軍の手中に帰した。さらに駐満大使のもとに関東州や満鉄付属地を管轄する行政事務局が置かれ、その長は関東軍参謀長が兼ねうるとされた。こうして満洲全土に憲兵政治の網の目が布かれた。
116 1934年10月、陸軍省新聞班が「国防の本義と其強化の提唱」というパンフレットを発行した。すでに陸海軍とも「1935、36年の危機」を説くパンフレットを発行していたが、この「提唱」は、はっきりと国内の政治・経済機構の改革を主張し、「たたかいは創造の父、文化の母である」と書き出し、国防目的のために国家の全活力を綜合統制すべきだとした。そのため「個人主義的自由主義的経済観念」を退け、国防国家建設の必要性を力説し、国防の一環として国民生活の安定と農山漁村の更生を計るべきだと主張した。各新聞はこれを大きく掲げて世論を煽ったが、それは軍部の圧力によるものだった。一人『朝日』はこれを黙殺したが、陸軍当局から注意を受けた。
こうした軍部の攻勢に対して、政民両党の中に軍部批判が起きた。1935年初めの第67議会で、民政党の斎藤隆夫や政友会の安藤正純は、軍人の政治干与や予算の軍事費偏重を攻撃した。高橋蔵相は健全財政を唱えて、これ以上軍事費を膨張させて公債を増発するのは危険だと答弁し、広田外相は協調外交を強調した。こうした軍部批判に対する軍部・右翼の反撃のきっかけは天皇機関説問題であった。
119 この事件は、天皇や国体を盾に取れば、どんな非合理な言辞も大手を振るってまかり通ることができ、それが世論を煽り立てて暴力的な威力を発揮することを、まざまざと証明した。文化人や良心的政治家は、満州事変以来社会の底辺で積み上げられてきたファッショ的地盤が、ここまで大きくなっていたかを改めて思い知らされた。彼らは国体の暴力の前には、抵抗しても無駄だと諦めて沈黙してしまった。
122 広田外相は国民政府を利用して排日運動を抑えようとし、大使を交換した1935.5が、陸軍は国民政府との協調は一時的な仮装に過ぎないとして広田外交に反対した。1935年5月末、華北(河北、北京、天津など)では、酒井隆支那駐屯軍参謀長は、梅津(美治郎支那駐屯軍司令官)・何応欽協定を結び、チャハルでは、土肥原・秦徳純協定を結んだ。
これらの華北工作は、板垣征四郎関東軍参謀副長、土肥原賢二特務機関長らが、酒井支那駐屯軍参謀長や参謀本部と結んで実施した。
この出先軍部による専断工作は広田の対華外交方針を妨げるものであったが、外務省は、統帥権の発動であるとしてこれを承認した。1935年9月27日、外務、陸海軍、大蔵四省間で決定された対華外交の基本要綱は「満州国と接壌関係にある北支においては積極的経済提携の実現を急ぐと共に、政治上においても日満支三国共同して赤化防衛に努め、以て北支の特殊的地位を確立すること」と謳った。
133 1936年、二・二六事件で岡田内閣が倒れ、広田弘毅が組閣することになったが、陸相候補の寺内寿一大将は、新内閣の顔ぶれが「依然として自由主義的色彩を帯び、現状維持的」であると反対し、国防強化など国策の樹立を要求し、広田はこれを受け入れ、1936年3月9日ようやく組閣を終えた。
戒厳令は7月まで解かれず、言論・報道・集会の自由は極端な制限の下にあった。3月22日までの1か月間は、二・二六事件に関して陸軍当局発表以外の記事を載せることが一切許されなかった。
135 1936年8月7日、広田内閣の首相、外相、蔵相、陸相、海相の五相会議は、対外政策に関する「国策の基準」を決定したが、その内容は一切公表されなかった。これはその後の戦争政策の見取り図であった。
136 「帝国の根本国策は、外交国防相俟って東亜大陸に於ける帝国の地歩を確保すると共に、南方海洋に進出発展するに在り。」そのために「国防軍備の充実」「外交の刷新」「政治行政機構の改革」「財政政策の確立」を掲げた。日本が「東亜の安定勢力」として「東亜共栄圏」の盟主になるとの構想や、対ソ攻撃、中国侵略とならんで、南方進出の方針が政府方針として決定された。
143 政友・民政両党と軍部との対立で広田内閣1936.3.9-1937.2.2が総辞職した後に組閣を命じられた宇垣一成は、政党との密接な関係や軍縮方針を陸軍中堅層に反対され、組閣が流産した。軍部大臣現役制のため陸相が得られなかった。
その後に成立した元陸相の林銑十郎内閣1937.2.2-1937.6.4には政党代表者の入閣がなく、池田成彬の推薦によって日本興業銀行総裁結城豊太郎が蔵相となった。三井財閥の代表者の池田は5年前には血盟団事件の暗殺リストに載っていた。
結城の財政方針は軍事費以外の行政支出を削減し、本格的な戦争経済に乗り出そうとするもので、結城は「これからは財界と軍部は抱き合ってゆきたい」(抱合財政)とした。そして日本経済連盟会は「今後二、三年間は国防費一本槍の方針の下に予算編成を行うべし」と声明した。
165 石川達三「生きている兵隊」(『中央公論』1938年3月号)は、戦争の非人間性を描き、戦意高揚の妨げになるとして発禁にされた。
169 平沼騏一郎内閣1939.1.5-8.30 平沼は右翼団体「国本社」の首領であった。独ソ不可侵条約締結1939.8.23により自滅。「複雑怪奇な新情勢」172
1939年2月、日本の陸海軍は海南島を占領し、さらに3月、フィリピン西方海上の無人諸島の領有を宣言し、「新南群島」と名付け、英米を刺激した。
中国では日本軍占領地域での経済的困難が増すと、国民政府の法幣が通用する英仏の租界を経済的に支配しようとして、(英仏と)対立し、6月、天津の英仏租界を封鎖した。東京で有田八郎外相と英クレーギー大使とが会談したが、7月、アメリカが日米通商条約を破棄したので、イギリスも硬化して日英会談は決裂した。
171 関東軍はノモハン事件1939.5-9に敗北した。これは近代的装備を持つ相手と戦った最初の体験だった。植田謙吉関東軍司令官は辞職し、「精神力と並んで物力も顧慮しなければならぬ」とする陸軍当局者談が発表された。関東軍の作戦参謀は転勤を命ぜられたが、その後中央部の要職につき、対米英戦の主張者となった。(林三郎『太平洋戦争陸戦概史』)
172 陸軍大将・阿部信行内閣1939.8.30-1940.1.16 民衆の厭戦気分や生活苦を見て衆議院が退陣を要求。軍部も不支持。 阿部信行内閣は欧州戦不介入方針。172, 178
176 海軍大将・米内光政内閣1940.1.16-1940.7.22 陸軍「バスに乗り遅れるな180、米内は物足りない」と、畑陸相が単独辞職。179
176 斎藤隆夫「反軍演説」1940年2月2日 新聞はその内容を明らかにせず、官報速記録も後半全部を削除していて詳細は分からない。軍部は「聖戦を冒涜する」とこれを非難し、これに民政両党や社大党が同調し、斎藤を議会から除名した。ただし、政友会久原派の牧野良三ら5名が除名に反対し、社大党では安部磯雄、片山哲、水谷長三郎ら8名が採決を欠席し、党から除名された。
政党は軍部と結びつくことで政党勢力の回復を目論んだが、それは自ら議会での言論の自由を否定することであった。
この直後から政友・民政・時局同志会、社大党の「革新派」議員は「聖戦貫徹議員連盟」をつくり、既成政党の解散と親軍の挙国政党の結成を求めたが、それは政党の存在そのものを否定することになった。
179 第二次近衛内閣1940.7.22(政治革新、新体制運動)-1941.7.18 日米交渉打ち切りを主張する松岡洋右を更迭。
1940.7.26 「基本国策要綱」を閣議決定。
1940.7.27 大本営政府連絡会議が「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定し、南方へ進出し、場合によっては対米戦も予定した。
191 1940年11月、ルーズベルトは異例の三選を勝ち得た。ちなみにルーズベルトは後に四選された。
198 第三次近衛内閣1941.7.18-1941.10.18
200 前年の1940年12月、「内閣情報局」ができ、陸海軍、外務、内務各省の関係事務をあわせて「対外思想戦」の中核となり、言論統制を強化した。
出版界では同月、内閣情報局の下請機関として用紙割当権限を持つ「日本出版文化協会」をつくり、図書・雑誌の企画に干渉した。
新聞連盟は、内閣情報局次長や警保局長が参与理事となり、「官民一体一如」の名のもとに、政府・軍部の宣伝に奉仕した。
202 東條内閣1941.10.18-1944.7.22
201 1941年10月2日、米国は先の4原則192*の確認と、(満州を除く)中国と仏印からの日本軍の全面撤兵を要求する覚書を野村大使に手交した。それに対して、陸軍は絶対承認できないとし、海軍は近衛首相に決断を一任した。近衛首相は、対米戦決行も、対米交渉継続も決断できず、内閣を放り投げた。
192 日米諒解案(民間案) これは、日中間の協定による日本軍の中国本部からの撤退、中国による満州国承認、蒋・汪両政権の合流、日中間の防共共同防衛などを条件として、米国による日中間の和平の斡旋、日米間の通商及び金融の提携、日本が南方の資源を獲得することへの米の協力、太平洋の政治的安定などを含んでいた。
米政府は以上の民間案に、次のハルの4原則をつけて、日米が約束するために、ルーズベルト・近衛会談開催しようと提案した。
*米国務長官ハルの4原則「全ての国の領土と主権の尊重、内政不干渉、全ての国の平等の原則の尊重、太平洋の現状維持」
203 1941年9月1日、海軍は開戦の準備を始め、戦時編成を発令し、船舶の徴用を行った。
9月18日、陸軍も作戦準備の命令を出し、大兵力の華南、台湾、北部仏印への移動や、兵站基地での資材の集積を進めた。
10月18日、東條は組閣を終え、天皇や重臣の意見も汲んで日米交渉を再度考慮するとしたが、それは口先だけのようだった。
11月1日、日本は「大本営政府連絡会議」で対米開戦を決定した。「帝国国策遂行要領」を決定し、武力発動の時機を12月初旬とし、日米交渉は12月1日を期限として続け、それまでに要求が通らなければ、交渉を打ち切るというものだった。
11月5日、「帝国国策遂行要領」を御前会議で採択。
11月5日、日本は海軍・陸軍とも開戦の準備の命令を出した。海軍は九州佐伯湾に集結中の連合艦隊に作戦準備命令を出し、真珠湾奇襲のための機動部隊はそれぞれの根拠地を出て、発進基地である千島の単冠(ひとかつぶ)湾に集結を始め、南方作戦部隊も行動を始めた。
11月6日、陸軍は寺内寿一を総司令官として南方軍の編成を発令し、マレー、フィリピンなどの攻略部隊は輸送船によって海南島や仏印の根拠地に集結し始めた。
11月5日、来栖三郎大使が(米国にいる)野村大使の交渉を補佐するためにアメリカに飛び、野村大使は会談の再開を申し入れた。アメリカ政府は日本側に交渉打ち切りの口実を与えないように、日本に最初の一発を発砲させて参戦の名目を立てるべく、交渉の再開に応じた。
11月18日、臨時議会で、各派共同提案の「国策完遂決議案」を全会一致で可決した。その趣旨説明で島田俊雄は「鉄は白熱の時に打たねば駄目である。かような意味において吾々は、政府が戦争目的遂行の一本鎗でやって行かるることを希望する。道草を喰うことは止めてもらいたい」と演説した。
(日本人全体に戦争責任がある。軍部だけではない。)
11月20日、野村・来栖両大使は、さきの御前会議決定11/5に基づく日本の最終提案をハルに提出した。それは「日本が仏印以外の東南アジアにこれ以上武力進出を行わぬことを条件に、アメリカは資金凍結以前の状態に通商関係を戻し、日本が蘭印などから物資を獲得するのを援助すること、蒋介石政権の援助をやめること」などを要求するものだった。しかもこれは最終案でこれ以上一歩も譲れないという但し書きがあった。
これに対してアメリカは11月26日、回答(ハル・ノート)を野村大使に手交した。その内容は「中国や仏印からの全面撤兵、アジアの状態をすべて満州事変前の状態に戻す」というものだった。11月27日、米陸海軍省は前線司令官に戦争警告を発した。
真珠湾攻撃に先立つ1時間50分前に、日本軍の先遣部隊はマレー半島のコタバルに上陸を始めていたが、イギリスにはなんの通告も送られなかったし、マレー、フィリピンに対する航空攻撃もすでに始まっていた。宣戦布告に先立つ奇襲は、日清、日露戦争以来の日本軍の常套手段であった。
また米に真珠湾攻撃の30分前に手交するよう計画されたものは、宣戦の通告ではなく、単に交渉打ち切りの通告であった。
207 1941年12月8日、日本陸軍はマレー半島北部のシンゴラとコタバル*に上陸し、シンガポールに向かって南進した。ほとんど妨害を受けなかった。
*シンゴラはソンクラーの旧称でタイ南部に位置する。コタバルはマレーシアの北東。
208 1942年3月7日の「大本営政府連絡会議」の結果(攻勢的戦略体制)に表現されているように、日本軍は初期作戦(第一段作戦)で予想外の成功を収めて気持が大きくなり、海軍はハワイやオーストラリアの攻略や、インド洋への進出を考え、陸軍は兵力の大部分を対ソ作戦へ向けようとしたが、結局は陸海軍の折衷案を取り、豪米間の遮断とミッドウェー攻略作戦に落ち着いた。
210 開戦の日、東條内閣は、かつて左翼運動に関係した者や、戦争に対して批判的な意見を持つ者を、予防拘禁、スパイ容疑、その他の名目で大量に逮捕した。つづく第78議会では「言論出版集会結社等臨時取締法」を制定した。例えば、時局に対して「造言飛語」をした者や、人心を惑乱すべき事項を流布した者を、懲役刑とした。そしてその内容が真実であり、確実な根拠に基づくものでも、本罪を構成するとされた。(小野清一郎『刑法講義』)
1942年4月、「翼賛選挙」が行われた。前年議員の任期が満了していたのを延期していたのを5年3か月ぶりに実施したのだが、政府は国民の反抗が現れないだろうと踏んでいた。また戦争下の圧力で選挙干渉を公然とできた。政府の手でつくられた「翼賛政治体制協議会」が、迎合候補者を定数いっぱいに推薦し、政府・翼賛会、市町村の下部組織などを総動員した。しかし選挙結果は84名の非推薦者が当選した。
選挙後、非推薦者を含めて、「翼賛政治会」が作られて他の政治結社は禁止された。そして議会は東條首相の演説に拍手を送り、政府案を無条件に通過させる機関となった。地方選挙でも同様であった。
戦争が始まった翌日、内閣情報局は、出版社を呼びつけ、「世論指導方針」を命令した。戦略的にわが国が絶対的優位にあることを鼓吹すること、わが経済力に対する国民の自信を強めさせること、敵国の政治経済的ならびに軍事的弱点の暴露に努めること、国民の中に米英に対する敵愾心を執拗に植え付けることなどを指示した。さらに、厳重に警戒すべき事項として、
一、戦争に対する真意を曲解し、帝国の公明な態度を誹謗する言説。
二、開戦の経緯を曲解して政府および統帥府の措置を誹謗する言説。
三、開戦に際し独伊の援助を期待したとなす論調。
四、政府、軍部との間に意見の対立があったとなす論調。
五、国民は政府の指示に対し服従せず、国論においても不統一であるかのごとき言説。
六、中・満その他外地関係に不安動揺ありたりとなす論調。
七、国民の間に反戦・厭戦気運を助長せしむるごとき論調。
八、反軍的思想を助長させる傾向ある論調。
九、和平機運を助長し、国民の士気を沮喪せしむるごとき論調。
十、銃後治安を攪乱せしむるごとき論調一切。(歴史学研究会『太平洋戦争史』Ⅲ)
この言論取締によって、東海地方の大地震1944.12.7や昭和新山1943.12.28の出現も新聞に報道されなかった。
214 1942年6月5日、連合艦隊の主力を投入したこのミッドウェー作戦で、主力航空母艦4隻が全滅し、飛行機と熟練した搭乗員の大半を失った。この敗戦によって日米海空戦力のバランスが完全に逆転し、海軍は積極的な作戦に出る力を失った。緒戦の勝利は半年しか保ち得なかった。
しかも海軍はこの敗戦をひた隠しにし、国民に向かって相変わらず勝利を宣言しただけでなく、陸軍に対しても、海軍部内でさえも、少数の関係者を除いて被害の実相を秘密にしていた。そのためこの後の戦争遂行に支障となった。
215 1942年8月、米軍がガダルカナルとツラギに上陸した。日本軍は航空援護を無視して兵員を送ったが、輸送途次に撃沈させられ、1943年2月、陸軍の二個師団半がほぼ全滅し、軍艦38隻、第一線飛行機と使用した輸送船の大半を失い、ガダルカナルを敗退(軍部は転進)した。同時にドイツ軍もスターリングラードで敗退した。
北アフリカでは1942年秋以来米英軍が攻勢に転じ、1943年7月、シシリー島に上陸し、ムッソリーニが失脚し、バドリオ元帥を首班とする政権ができたが、同政権は同年9月、連合軍のイタリア本土上陸とともに降伏した。
225 物資が不足し、闇取引や物々交換が行われた。41年2月、東京で米の配給が開始された。41年に東京で野菜の行列買が開始された。
「世の中は星に碇に闇に顔 馬鹿者のみが行列に立つ」「星」は陸軍、「碇」は海軍、「顔」は隣組の組長や町のボス、地主、配給所の職員となった米屋。
227 玉砕が太平洋の各島で多発した。1943年5月、ベーリング海のアッツ島で、同年11月、ギルバート群島のマキン、タラワ両島で、1944年2月、マーシャル群島のクェゼリン、ルオット両島で玉砕した。またソロモン群島、ニューギニアでも全滅あるいは密林や孤島に取り残された。
1944年6月、マリアナ群島のサイパン、テニアン両島で、日本海海戦の信号であるZ旗を掲げて海空軍の決戦を企図したが、決戦に先立って基地航空部隊と航空母艦の主力を失った。その後、日本軍航空兵力の再建はついにできなかった。1944年末から、米軍はマリアナを基地に、日本本土空襲を始めた。230
229 陸軍大将・小磯国昭内閣1944.7.22-1945.4.7 小磯内閣の総辞職の原因は、小磯首相の繆斌(びゅうびん)工作*に重光葵外相が反対し、天皇の不信を買ったことや、自らが陸軍大臣を兼任しようとしたところ、軍に拒絶されたことなどである。*小磯首相が国民政府の要人を利用した和平工作。
東条独裁に対する反感が広まり、特にサイパン陥落(1944年7月)後は不信が表面化し、岡田啓介ら重臣は、海軍の反東条気運をとらえて東条打倒を策し、木戸内大臣ら宮廷勢力を巻き込んだ。東条は内閣改造で危機を切り抜けようとしたが、重臣がボイコットし、7月18日、総辞職した。
これは戦争を終結するための好機であったが、重臣は一人としてその責任を引き受けようとせず、押し付け合った末に、朝鮮総督の小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大将とが協力内閣をつくることになった。
231 フィリピンのレイテ島戦 1944年10月、米軍は日本本土と南方とを遮断するために、フィリピンを目指した。そしてフィリピン上陸援護のために、沖縄と台湾を空襲した。日本の基地攻撃隊はこれを反撃し、大本営は、「航空母艦10隻、戦艦2隻を撃沈する大勝利を得た」と発表し、国民に酒の特配をした。
232 しかしこの大戦果は、訓練不足の搭乗員が目測を誤った幻影にすぎず、実際は1隻の米軍艦も沈めていなかった。
誤った戦果に基づいて日本軍はレイテ島での決戦を企てた。ルソン島からレイテ島に向けて陸軍の大兵力を送ったが、途中で沈められた。また海軍は制空権がないのに、連合艦隊の主力を突入させ、大損害を被った。
このとき初めて特攻隊を用いたが、実際上の効果は少なかった。「命は鴻毛より軽しといふことが揚言せられる。そして人の子を犬の子、いなごの如く殺した。命をあまり軽く見ることが、防ぐのみならず、攻める武器の発達をも阻害した。」『木下杢太郎日記』1945.7.7
234 鈴木貫太郎内閣1945.4.7-1945.8.17
次期首班を決める重臣会議では和平を言うものはなく、あくまでも戦う内閣でなければならないと強調されたが、政治上今までの行き掛かりがなく天皇への誠忠に厚いということで、先の侍従長鈴木貫太郎が選ばれた。国の内外から密かに和平内閣ではないかと思われたが、本土決戦、一億玉砕を国民に説き続けた。
237 1945年7月26日、米英中三国の名でポツダム宣言が発表された。ソ連は対日参戦と同時に参加した。
日本国内ではポツダム宣言の全条項は発表されず、後半の条件部分しか発表されなかった。つまり、第6項、第7項、第10項などが削除された。第6項は軍国主義の除去、第7項は本土の占領、第10項は戦犯処罰について述べられていた。
軍隊の降伏を要求した条項(第9項)の中で「各自の家庭に復帰し、平和的且つ生産的な生活を営むの権利を得しめらるべし」の部分は削除されていた。
日本国内でポツダム宣言について発表されたのは7月28日の新聞紙上であった。その見出しの表現は「米英重慶、日本降伏の最後条件を声明 三国協同の謀略放送」というものであった。日本政府は公式にはこれを無視(黙殺)し、鈴木首相は軍部の要求に屈して国民に向けて「ただ黙殺するのみである。我々は戦争完遂に邁進する」という談話を発表した。AIと237
237 戦争終結の機会をつかもうとしていた東郷外相ですら、この宣言を直ちに受諾するのではなく、ソ連を仲介とした政治的かけひきによって、より有利な条件をつかもうとしていた。支配者たちは、戦後処理問題で表面化してきた米ソの対立に眼をつけ、この中で活路を見出そうとしていた。
当初米国は日本はすぐには降伏しないだろうと予想していた。だから5か月前の1945年2月のヤルタ会談では、米国はソ連による対日参戦を期待した。さらに米国の1945年6月の計画では、同年11月に九州上陸作戦を、1946年春に関東上陸作戦を予定し、これに500万人の米兵を当てる計画をし、1945年の7月と8月には、日本の稲作に対する細菌作戦を計画し、その細菌兵器を乗せた船は、マリアナ諸島に向かっていた。(ハンソン・ボールドウィン)
しかし1945年4月12日にルーズベルトが急逝してトルーマンに代わり、ドイツが敗北し、日本の戦力も急速に崩壊すると、米国はソ連が参戦する前に日本を単独で占領することを考えるようになった。原爆投下にはその意味が込められていた。(ブラッケット『恐怖、戦争、爆弾』)
原爆だけでは日本の支配層を降伏させることができなかった。このことについて最高戦争指導会議も閣議も開かれなかった。
8月8日の深夜、ソ連は「連合国の求めにより、戦争の終了を促進するため」との理由で、対日宣戦を布告し、翌日未明から満洲に進入した。
8月9日、ポツダム宣言受諾に関する外相案と軍部案とが対立し、天皇の裁断で外相案に決した。
239 8月10日、「天皇の国家統治の大権に変更を加うる要求を包含し居らざることの了解の下に」ポツダム宣言を受諾する、という日本の申し入れがラジオ*と中立国を介して行われた。*日本国内では同盟通信社が、ラジオやニュースを通じて報じた。
8月12日、バーンズ国務長官の回答を知り、軍部と平沼騏一郎枢密院議長とは、「国体護持の保障がない、再照会を要求し、もしそれが保障されなければ、戦争を継続すべきだ」と主張した。しかしこの時、「バーンズ回答中の米国の真意は、暗に日本の申し入れを認めたものだ」との米紙情報が入り、8月14日の御前会議で天皇が決定して、無条件降伏に決まった。(軍部は会議のたびにその要求を下げながら、何としてでも本土決戦に持って行きたかったようだ。)
241 戦闘の停止が遅れたのは満州と華北だった。満州では指揮系統が壊滅し、関東軍は軍人と軍閥とその家族の撤退に夢中で、降伏決定後40日間、開拓移民団員は戦いに駆り出され、多くが犠牲になった。
華北では、国府軍が到着するまで日本軍に残って中共軍と戦うよう要求し、その後も日本軍の一部を対共内戦に使い、46年まで戦闘を続けた。
248 第二次大戦には三つの性格がからみ合っていた。一つは帝国主義間の戦争であり、二つ目は反ファッショ、平和と民主主義の闘いである。1942年1月の「連合国共同宣言」*は戦争目的を「生命・自由・独立・宗教的自由を擁護し、自国のみならず他国においても、人権および正義を保持するため」と謳われた。三つめは民族解放戦争である。*26か国がワシントンで署名し、共同戦線と単独不講話を約した。
250 ソ連の戦死者は全西欧連合国のそれの10倍になり、国際的地位を高めた。中東欧諸国は人民民主主義国となり資本主義体制から抜け出た。(とあるように筆者のソ連への思い入れの深さが想像される。)
フランスでは45年10月の選挙で共産党が第一党になり、イタリアでも46年6月、共産党が大進出し、両国とも社共を含む連立政権が誕生した。
仏領インドシナでは45年9月、ヴェトナム民主共和国独立の宣言を発表し、英仏軍に対抗した。
252 日本の占領にあたったものは、マッカーサーを総司令官とする連合国軍であったが、実質はアメリカ軍の単独占領であった。46年2月、イギリス連邦軍が占領に参加したが、それは米占領軍の一部に過ぎなかった。45年9月につくられた「降伏後初期におけるアメリカの対日政策」によれば、「日本が再度アメリカの脅威」にならないことが占領の究極目的とされ、占領軍は「万一主要連合国の間で意見の不一致が生じた場合は、アメリカの政策に従うものとする」とされた。
東久邇内閣は戦争中の指導者を含んでいた。東久邇内閣は、皇族の権威を利用して軍隊の武装解除を実現し、支配勢力を温存することを使命としていた。降伏文書調印直後、外交界の長老芳沢謙吉は枢密院で、
「ソ連の東亜への進出はわれに脅威を加ふるものなるが、これに関連してせめても我が国にいくらか有利なるやと思はるる点は、ソと米と東亜において競合牽制するの情勢を生じたることなり。どちらかと言へば、米の好意をつなぐ方向に舵をとりたし」
と説き、重光葵外相もこれに同感している。(深井英吾『枢密院重要議事覚書』)
内地部隊400万の復員は2か月で終わったが、それは軍政の直接統治を恐れたからであった。東久邇内閣は近衛師団を禁衛府として残そうとしたり、憲兵隊を残してそれに正規将校を編入させようとしたり、警察力を拡充してそこに軍人を警官として転用しようとしたりしたが、その都度占領軍に禁止された。
降伏調印式翌々日の9月4日、東久邇首相は、議会で、敗戦の原因につき「国民は総懺悔せよ」と言い、「天皇に絶対帰一してポツダム宣言を誠実に履行し、平和的、文化的日本の建設に邁進しなければならない」と説き、貴族院では「聖旨奉戴に関する決議」を、衆議院では「承詔必謹決議」を可決した。
9月27日、天皇はマッカーサー元帥を訪問したが、それは天皇の地位についてマッカーサーの諒解をとりつけるためだった。『朝日』『毎日』『読売』は、天皇とマッカーサーが並んだ写真を掲載したが、これに対して政府は、天皇の権威が失われることを恐れて、発禁処分にした。
岩田宙造法相、山崎巌内相は、外人記者団の質問に、治安維持法の廃止、特高制度の廃止を否定した。10月初めまで、横浜事件の被告は次々と治安維持法違反で有罪の判決を受けた。
10月4日、司令部は「民権自由に関する指令」を出した。それは全政治犯の釈放、思想警察の廃止、治安維持法を始めとするすべての自由抑圧法令の撤廃と、内相の免職を要求した。翌5日、東久邇内閣は総辞職した。新聞は「辞職の最大の原因は、天皇・皇室制度に対する自由討議制限の撤廃の指令」と報じている。(『毎日新聞』194510.9)
256 9月11日、東條英機ら38名が戦争犯罪人として逮捕され、それ以来戦犯逮捕の指令が相次いだ。46年1月1日、天皇は神にあらずとの詔書が出され、4日、軍国主義指導者の公職追放と右翼団体の解散を要求する指令が発せられた。
259 1946年4月10日、戦後初の選挙が行われた。極東委員会は選挙を遅らせるよう勧告し、国内の民主勢力も早期選挙に反対したが、司令部は選挙を急いだ。それは日が経てばたつほど、革命的気運が高まり、民主的勢力が伸びて来るのが明らかであったからである。
既成政党では45年11月、大政翼賛会所属代議士を中心に進歩党を、鳩山一郎ら非推薦議員を主に自由党をつくった。いずれも国体護持を旗印としていた。選挙結果は、進歩党が大幅に後退し、自由党が第一党になった。社会党は92名、共産党は5名が当選した。大都市では社会、共産が優勢であった。
260 進歩党の幣原政権は議員数も少なく、社会党の提唱で、社会、自由、共産、協同党の4党は「倒閣委員会」を結成し、退陣を求めた。
食糧事情が悪く、民衆の間でも幣原退陣の要求が高まり、4月7日、「幣原内閣打倒人民大会」が開催され、赤旗が首相官邸を取り巻いた。4月22日、幣原政権は総辞職した。
それからの1か月間は、民衆運動が高まり、民主戦線統一ができそうな状況となった。11年ぶりの5月1日のメーデーには、全国で100万、宮城前に50万人が集まり、『読売政治年鑑』によると、「大内山(皇居の美称)の翠(みどり)越しに見る『赤い広場』である。5月1日、わが宮城は『静かなクレムリン』の表情に打ち沈んでゐた」と報じた。
5月12日、「米よこせ」を叫ぶ市民が赤旗を振って宮城内に入り、「天皇の台所公開、宮城内の食糧を人民管理へ」と決議し、同月19日の「食料メーデー」には25万人が集まり、「民主人民政府の樹立」を決議した。
ところが民衆の運動はそれまでで、5月22日、自由・進歩両党の保守連立による吉田茂内閣ができた。(5月3日、自由党総裁鳩山一郎は公職追放になり吉田が総裁になっていた。)
261 メーデー直後の対日理事会(東京)で、米代表アチソンは「共産主義を歓迎せず」と言明し、マッカーサーは食料メーデーの翌日に、「暴民デモを許さず」と声明した。これは日本の支配層の立ち直りを勇気づけ、社会党は共産党から離反した。ところが共産党は相変わらず「連合軍は民主勢力の味方」だと述べ続けた。
262 1947年、「独占禁止法」と「過度経済力集中排除法」が公布されたが、政府はその実施を引き延ばして緩和しようとしたため、指定を受けた83社中、実際に解散したのは16社にとどまり、しかも銀行はこれから除外され、財閥系銀行は財閥本社に代わって、その後の財閥復活の推進力となった。(揖西光速(かじにしみつはや)『続日本資本主義発達史』1957)
263 農地改革は占領軍指令の拍車で成立したが、戦前にもすでに小作解放の動きがあった。1939年、「小作料統制令」が出されて小作料の引き上げを禁止し、1941年、農業生産の減退と供出サボタージュに対して、地主からの小作米供出価格よりも生産者の供出価格の方を高くし(二重価格制)、また物納小作料は、在村地主の飯米以外は、小作人が地主に代わって供出し、その代金で小作料を地主に払うことに改めた。
幣原内閣の松村謙三農相は、(米の)増産と供出増加や、小作争議の解消のため、農地解放を手掛けた。(第一次農地改革案)(住本利男『占領秘録』下)
第二次(農地)改革を促した原因は、対日理事会で英ソが改革案を出したことや、第一次改革の結果、地主と小作人との争いが生じたことによる。
264 それでも地主はその勢力を温存した。寄生地主から耕作地主として、また山林地主として、薪炭、採草、山仕事を通して農民を支配し、農業委員会を通じて官僚と結びつき、劣悪地を手放して優良地を確保し、水利権を支配し、供出割り当てでも優越的地位を維持した。
266 マッカーサーは幣原に「象徴天皇制と戦争放棄こそ、変更できない二大原則であること、これのみがソヴェトの反対を押して天皇制を維持できる道である」と説いた。
天皇制廃止論はソ連だけではなかった。米世論調査でも71%が天皇制廃止を求めた。
中国国民政府は日本人の国民投票によるべきだとした。天皇制は日本国内でも大きな問題となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。占領軍司令部は、日本政府による憲法改正原案に対する(日本国内の)激しい世論の反対を考慮する必要があった。(米政府への報告書)日本政府がその原案と似ても似つかぬ総司令部案を呑んだ理由は、「もし日本政府が総司令部の期待通りに行動しないならば、マッカーサー元帥は、自身でこの問題を人民の前に出す用意がある」と申し渡されたためであった。(『国家学会雑誌』65巻1号)
政府は国民が天皇制に関して討議する余裕を得ることによって国内世論が湧きたつのを恐れた。日本国民の民主的成長に先手を打ち、また国際批判を和らげるために、憲法改正を急いだ米側の企図は、日本の支配層の利益と一致していた。政府や保守党の指導者は、口では新憲法にもられた民主と平和の精神を褒めたたえたが、吉田首相は議会で「新憲法ができたがゆえに日本国民の政治的性格が変更するとは断じて考えていない」と言明した。(『毎日新聞』1946.6.25)支配層は、現実には国体は変わらないというたてまえをとり、新憲法を旧憲法的感覚で解釈運用しようとした。
267 46年9月、ニューディール派最後の閣僚であった商務長官ウォーレスは、対ソ協調外交を説いたため辞職させられた。
268 片山哲社会党内閣1947.5.24-1948.2は、社会、民主、国民協同党の連立内閣(中道内閣)であったが、その性格は反共であった。組閣に当たり社会党左派の指導者とされていた鈴木茂三郎と加藤勘十は、「共産党と絶縁する」と声明し、民主党の芦田均総裁は、社会党との連立理由を、「第一、それは労働攻勢を抑えうる政党は社会党しかないからである」と述べた。また片山内閣の施政は、自由党を含む4党間の政策協定に縛られていた。片山首相自身も「社会民主主義こそ共産主義ともっとも果敢に闘うものだ」と声明した。(48年年頭の辞)片山社会党内閣は、労働戦線を分裂させてその力を弱め、反ソ反共を明確にした米占領政策に協調させられた。
片山内閣は労働戦線を分裂させた。労働組合と農民組合を共産党の影響から切り離すために、アメリカの反共組合育成方針に従って、第二組合を作った。日農主体性同盟をつくって日農を割り、国鉄民主化同盟をつくって国鉄労組を割り、産別民主化同盟をつくって産別を割った。
芦田均内閣1948.2-1948.10 これも三党連立の中道内閣である。社会党左派からも入閣した。米の対日援助に縋り、軍事化を進めた。
1948年7月、芦田内閣は、マッカーサー書翰をたてに、政令201号を出し、公務員の罷業権と団体交渉権を剥奪した。労働争議には警察とMP(占領軍憲兵)の暴力弾圧が露骨になった。
同年10月、昭電疑獄が政府首脳を巻き込み、内閣は倒れた。
270 米国の戦後の極東政策は中国を支配することだった。米軍は日本が降伏するに際し、中国共産党軍が日本軍を破る(中国の主要都市を解放する)以前に中国主要都市を占領し、それを国民政府軍に引き渡した。
272 日本自由党1945-1948.3.15+幣原派の民主党→民主自由党1948.3.15-50.3.1
第二次吉田内閣1948.10.15-1949.2.16 民主自由党の単独政権だったが、少数与党だった。
1949.1、戦後三回目の総選挙
民自党が絶対多数の264
民主党69
社会党が48 これまでの2/3の95議席を減らした。
共産党が35 4名から躍進
国民協同党14、
農民協同党7、
諸派・無所属58、
計495
第三次吉田内閣1949.2.16-1952.10.30
273 1948年12月、米国務・国防両省が、日本経済安定計画を発表した。これを経済安定9原則という。その内容は、
・単一為替レート 品目・取引に関わらず同一レートとする。
・予算の均衡 歳入・歳出を同一にする。
・補給金の整理 補給金とは赤字補填。
・徴税の強化
これはつまり、対日援助額を減らし、日本経済を対米従属させ、軍事化を進めようとするものだった。「ドッジ・ライン」のドッジは、デトロイト銀行の頭取で1949年2月、公使として来日した。ドッジ・ライン経済政策は、革命運動や労働運動を弾圧することを条件としていた。
1949年4月、吉田内閣は開会中の国会にも諮らず、ポツダム政令として「団体等規制令」を公布した。これは法務総裁の認定により「暴力主義的」と認定された団体をいつでも処分できるというもので、言論・集会・結社の自由を侵害する法律であった。
1949年5月、労働組合法と労働関係調整法を改訂し、政府が「公共事業」と指定する分野の労働運動の争議権をいつでも抑圧できるようにした。
274 こうして労働法規を改悪し、弾圧体制を整えた上で、吉田内閣は労働者の首切りと共産党員の排除を行った。つまり「行政整理」と称して官業労働者26万人の首切りを、「企業整備」と称して民間産業労働者30万人の首切りを断行した。労働組合は当然反対闘争を強めた。ちょうどその時、下山国鉄総裁の死亡事件や、三鷹事件、松川事件が相次いで起こった。
275 北朝鮮からの平和統一の呼びかけに韓国民衆が呼応し、1949年5月末、李承晩派が惨敗した。(惨敗したが李承晩は退任はしなかったようだ。)
こうした情勢を反映して、日本国内における軍事化も早まった。マッカーサーは「日本国憲法の規定は自衛権を否定したものとは解釈できない」と述べ、それに呼応するかのように吉田首相は「自衛権は放棄せず」と国会で声明した。内外の支配者たちは、4年前の言葉を忘れたかのように、平和と民主主義の憲法を踏みにじり始めた。
276 1950年5月、朝鮮半島情勢がいよいよ急迫した。マッカーサーは「共産党を法の保護の外におくことが考慮される」と声明し、その非合法化を示唆した。一方、軍事基地化反対、生活危機打開を目指す闘争が広がった。
5月30日、東京での労働者のデモを、マッカーサーは米軍を出して弾圧し、軍事裁判にかけた。
6月、マッカーサーは共産党中央委員会の解散と、全中央委員と『アカハタ』編集幹部を公職追放し、共産党を半非合法化した。
6月16日、マッカーサーは、無期限に、全国で、一切の集会と示威行進を禁止した。これにはなんら法的根拠がなく、戒厳令そのものだった。
6月22日、ダレス国務省顧問、ジョンソン国防長官、ブラッドレー統合参謀本部議長が、東京でマッカーサーと協議し、「極東において積極的行動に出ることを決定した」(NYT)
23日、在日米空軍戦闘機部隊が北九州に集結した。
25日、北朝鮮軍が攻めてきたという理由で、韓国軍が38度線を越えて進撃した。
26日、北朝鮮軍が38度線を越えた。米国は韓国援助を声明した。
27日、米海空軍の朝鮮半島出動を命じた。
28日、国連安保理が緊急会議を開き、ソ連不参加のまま、北朝鮮を侵略者と断定し、武力で制裁することを決定した。シカゴの『サン・タイムズ』は「状況証拠によれば、どうやら我が国の指導者たちは、朝鮮での奇襲侵略を歓迎したようだ」と報じた。(『広島からバンドンへ』)
朝鮮戦争は内乱ではなく、はじめから国際的な戦争として起こされた。
278 7月8日、マッカーサーは、7万5千人の警察予備隊の創設と、海上保安隊の8千人の増員を命じた。そしてその費用の捻出は国会の承認を経ずに行われ、正規の予算補正の手続きも取らずに行われた。
開戦の翌日、マッカーサーは『アカハタ』の1か月停刊(つづいて無期停刊)を命じ、8月、全国労働組合連絡協議会(全労連、共産党系)を解散させた。そして官公庁や新聞報道や重要産業部門でレッドパージを断行した。
279 民主勢力は敗退し、共産党は分裂して活動力を失った。
共産党の影響力の強い産別系労働組合では、占領軍当局の援助を受けて民主化同盟派(民同)が指導権を握り、産別を離れて、社会党系の日本労働組合総評議会(総評)を作った。
281 ダレス「講和ができて占領軍が引き揚げれば、日本は軍事的な真空状態になる。真空の箇所には共産主義の侵略の空気が必然的に侵入する」という比喩が、49年以来、日本のマスコミによって国民の間に浸透していた。
しかし平和を守ろうとする国民の声は根強く流れていた。文化人や平和団体の活動が大きな役割を果たした。
49年1月、「平和問題懇談会」(安倍能成、大内兵衛、矢内原忠雄ら50数名)の「戦争と平和に関する日本科学者の声明」や、日本学術会議の平和声明、同年4月の「平和擁護日本大会」の平和綱領などが先駆をなした。
50年1月、「平和問題談話会」が全面講和の声明を出し、総評も、51年3月の大会で、「全面講和、中立維持、軍事基地反対、再軍備反対」の平和四原則を決議したが、それは総司令部労働課長の「占領目的に違反する」という警告を排したものであった。数か月前の結成時には考えられないことであった。
283 1951年4月、中国本土の爆撃と国民政府軍の使用を企てたマッカーサーはトルーマンに罷免されて日本を去った。
1952年4月28日に講和条約が発効したが、その前の同年2月、安保条約に基づく「日米行政協定」が調印されていて、非常に広範囲の駐留への協力義務と治外法権とが決められた。
講和条約発効の日に、吉田政権は蒋介石政権との間に日華平和条約を結んだ。サンフランシスコ会議で米英の意見の不一致から、中華人民共和国か中華民国かを選ぶのは、日本の選択に任せられていた。台湾を選んだのは、米国の圧迫と吉田政権自体の反共政策による。
さらに吉田政権は警察予備隊を拡充し、破防法を決定した。独立は、従属と反動の自主性となって現れた。
5月1日、皇居前広場(当局は使用禁止にしていた)で、植民地化と軍事基地化に反対する2万の労働者に、東京中の武装警官隊が、拳銃と催涙弾、棍棒をもって襲い掛かり、1000人前後の死傷者を出した。(血のメーデー事件)
破防法制定や労働法規改悪に反対する、総評・社会党を中心とした、知識人、学生、青年、婦人団体などによる戦線が作られ、4月から6月にかけて、300万人の労働者が、3度ストライキを行った。一方、共産党は少数精鋭分子による火炎瓶戦術により大衆から孤立した。
自由党1950.3.1-1955.11.15
287 1954年11月、自由党が分裂し、反吉田派が改進党と合同し、日本民主党(総裁鳩山一郎)を結成した。
日本民主党1954.11.24-1955.11.15
第4次吉田内閣1952.10.30-1953.5.21
第5次吉田内閣1953.5.21-1954.12.10退陣
第一次鳩山一郎内閣1954.12.10-1955.3.19
第二次鳩山一郎内閣1955.3.19-1955.11.22
第三次鳩山一郎内閣1955.11.22-1956.12.23
石橋内閣1956.12.23-1957.2.25
第一次岸内閣1957.2.25-1957,7.10
287 鳩山内閣も、対米協調の基調は変わらなかったが、平和を求める国民や、対ソ・対中貿易を希望する経済界の動きを反映し、日ソ国交回復、日中貿易改善など、自主外交を唱えた。しかし「独立の完成」と称して、再軍備のための憲法改正を意図した。
288 1956年10月、鳩山内閣がようやく日ソ交渉を妥結し、戦後11年ぶりに国交を回復した。しかし交渉は55年6月からロンドンで進められたのだが、与党内部に南千島の返還を要求する声が強く、財界も対米関係の悪化を顧慮して批判的だった。その結果、領土問題は棚上げして、講和条約は結ばれず、その代わりに国交回復と抑留者の釈放などを約した日ソ共同宣言と、通商議定書とが調印された。しかもアメリカは日ソ復交にあたって、日中国交回復に反対する警告を日本政府に送った。
290 戦後の経済界は政治に介入するようになった。特に1954年以降それが目立ってきた。先の吉田内閣の退陣や保守合同の実現は、「保守安定政権」を望む経団連(経済団体連合会)、日経連(日本経営者連合会)、経済同友会、日本商工会議所など財界の意志を反映したものであった。そしてそれらの献金プールである「経済再建懇談会」は、莫大な金を自民党につぎ込み、その金が、町内会、部落会、業界団体、農民団体、旧軍人組織、遺族団体に流れた。選挙に強いのはそのためである。(自民党の金権体質は、今も昔も変わらない。)
以上