2026年10月5日月曜日

遠山茂樹・今井清一・藤原彰 昭和史 岩波新書

 

遠山茂樹・今井清一・藤原彰 昭和史 岩波新書 新版1959.8.31、初版1955.11.16

 

 

感想 2026年10月5日(月)

 

・丸山眞男的断罪、生々しい。同時代を批判するからなのだろう。私と同世代の戦後の歴史学者の方が批判の鋭さという点で、緩い感じを受ける。

 

・満州事変はクーデターではなく、政権の意思だとする。

・共産党・社民党に対する厳しい批評。

・幣原喜重郎や鈴木貫太郎に対する厳しい批評。ただし、幣原批評はやや緩い感じを受けた。

・朝鮮戦争発端をアメリカだとする論調。ソ連に対して融和的で、期待しているかのような印象を受ける。戦争直後の世相を反映しているのか。

・憲法九条の発案者をマッカーサーだとする。平野三郎文書の存在を知らない。本書が刊行された時(新版1959年、初版1955年)の4年前の1951年2月に平野は幣原から聞き取っていたが、それが公にされたのは、憲法調査会からの要請があった1964年2月以降と考えられるから、まだ知らなかった。

 

 

 

メモ

 

031 幣原喜重郎は1924年から1927年までの護憲三派内閣から憲政会内閣にかけて外務大臣を勤めた。

 

幣原が外相を勤めた期間

 

1924年6月11日~1927年4月20日(加藤高明内閣1924年6月11日~1926年1月30日、第一次若槻内閣1926年1月30日~27年4月20日)

 

1929年7月2日~1931年12月13日(浜口内閣1929年7月2日~1931年4月14日、第二次若槻内閣1931年4月14日~1931年12月13日)

 

1927年4月20日~1929年7月2日までの、立憲政友会総裁の田中義一内閣(1927年4月20日~1929年7月2日)の時は、外相はやっていない。田中義一が外相を兼任した。

 

 

感想 2026年9月25日(金)

 

1920年ごろから1930年代前半のころまでを読んでいるのだが、1930年代前半の右翼の台頭(政友会や軍部の対外積極政策)は、民政党・幣原外交の対外融和・軍縮政策や共産党の公然化1928, 043、出版界や知識人・学生の間でのマルクス主義の高揚などに対する反発として現れたのではないかとふと思った。他人が見栄を切ると、それを真似るが人の常。

1929年の世界恐慌の余波(1930年の春076)を受け、労働者の賃下げ、首切り、小作料減免から小作契約の継続への要求065、農民と工場労働者との連帯066、東京市電のストライキ061、鐘淵紡績スト061などが派手に行われた。これらは恐らく右翼の耳目も引いたに違いない。

三月事件1931、満州事変1931、十月事件1931、血盟団事件1932、五・一五事件1932は、右翼・軍部の一貫した方針であり、対外軍事膨張は、それを支える国内体制の変革・革命と一貫したものとして捕らえられていた。078

問題解決方法における両者の根本的な違いは、自民族の利益だけを考えるかどうかである。

 

 

本書は俯瞰的で、同時代的である。著者の遠山茂樹は1930年から1945年にかけて、16歳から31歳だったから、同時代をつぶさに見てきたと思われる。遠山茂樹1914.2.23-2011.8.31、藤原彰1922.7.2-2003.2.26、今井清一1924.2.7-2020.3.9

 

遠山茂樹は東京帝大国史学科卒、文部省維新史料編纂事務局、東京帝大史料編纂所、東大教組委員長。

藤原彰は、戦前は陸軍士官学校を卒業後、中国戦線へ。戦後は東京帝大文学部史学科卒。

今井清一は一高・東京帝大法学部政治学科卒。丸山眞男に師事した。

 

 

政友会だけでなく、後には民政党も変容し、軍部の対外膨張政策を支持するようになった。

 

118 力尽きた知識人 美濃部達吉の天皇機関説は天皇を冒涜するとして、まず右翼が口を切り、政党がそれに呼応し、政府がそれに追随し、発禁処分だけでなく、犯罪(不敬罪、出版法違反)として断罪され、美濃部達吉は貴族院除籍を条件に起訴猶予された。美濃部を批判する者は天皇機関説の中味を知らなかったのに、それを葬ってしまった。

 

このときは2年前の滝川幸辰事件のときとは違って、滝川事件では滝川に応援して一緒に退官した人たちがいたが、この時は誰もが沈黙していた。もう軍部は怖い者がいない。

 

 

戦前日本における日常的な戦争=人殺しが、関東大震災時の朝鮮人虐殺や、五・一五事件の政治家殺害の誘因である。殺人が当たり前の事、日常的なこととしてその敷居が低くなる。

そのことは現在の米ロ、イスラエル、アフリカ、フーシ、ハマスについても言えるのではないか。ロシアではリトビネンコやナワリヌイがいとも簡単に毒殺され、米では税関・国境警備局CBPや移民税関捜査局ICEが民衆を殺害している。2026年のことである。

 

本書執筆陣のか弱さを感じる。単に事実を説明することにとどまり、反撃への姿勢が見られない。

 

 

感想 2026年9月29日(火)

 

日本人は保身のために、強いもの(軍部)に与して徒党を組むものだと痛感する。ブルータス、お前もか、社会大衆党。166

 

1941年ころの日本 政党解体と「新党」(大政翼賛会181)結成。

 

「乗り遅れるな」 欧州対英仏戦でのドイツ戦勝のころの「乗り遅れるな」とは、独に負けた仏蘭の東南アジアの植民地や、もとドイツ領で第一次大戦後に英仏領となった南太平洋の島々を、今がチャンスだ、いただこうとする軍部の動きである。178

 

それまで軍部は「防共」「防共」と喧伝していたが、ドイツがソ連と不可侵条約を結ぶ1939.8.23と、思考停止に陥っていた。しかし欧州でのドイツ勝利を契機に、独伊軍事同盟に参加した(1940年9月27日)。それは米国を対戦相手にすることを決意することも意味した。179, 180

 

ノモハン事件1939.5での敗北1939.9.16は、ソ連の近代的武器にかなわないことの理解を意味した。それまで戦った中国の武器は大したものではなかったのだろう。この失敗で左遷された参謀は、復帰して対米英戦を決定した。171

 

 

 

感想 2026年10月1日(木)

 

日本軍人は面子、今まで対中国戦や対ロシア戦や対朝鮮戦で勝利してきたという面子があったせいか、それとも精神主義で物事が解決できるという極端な主観性のせいか、ミッドウェーで空母の大半を失い、マリアナ沖海戦で、航空戦力が失われたという不利な状況なのに、ガダルカナルなど南方戦線で無理な兵力投入をし、レイテ決戦に挑んで大敗した。さらに沖縄戦でも大敗したのに、本土決戦を本気で考えていた。

 

 

ヤルタ会談でソ連の対日参戦の時機は、ドイツ降伏後の

 

2か月から3か月後、

3か月後、

2か月後、

はっきり決まっていなかった、

 

のいずれか。

 

AIによれば、

 

1945年2月に開催されたヤルタ会談の極東に関する秘密協定において、ソ連の最高指導者スターリンは「ドイツが降伏し、かつ欧州の戦争が終結したのち2か月または3か月を経て、ソビエト連邦は連合国に味方して日本国に対する戦争に参戦する」ことに同意しました。

 

1945年当時の日ソ不可侵条約の契約終了日はいつか。

 

AIによれば、

 

1945年当時、一般に「日ソ不可侵条約」とも呼ばれる日ソ中立条約の本来の契約終了日(有効期限の満了日)は、1946年4月25日(日本政府の説明では1946年4月24日)でした。

この条約は、1941年4月25日の批准書交換から5年間有効と定められていました。

しかし、満了の1年前までに不延長の通告がない限り自動延長される規定になっていたため、ソ連は満了1年前の期限にあたる1945年4月5日に「不延長(廃棄)」を通告しました。

この通告により「1946年4月(当初の5年間)をもって契約を終了させる(自動延長しない)」ことが確定しましたが、条約自体は1946年4月まで有効のまま残るはずでした。しかしソ連は、有効期間内であった1945年8月8日(日本時間9日未明)にこの条約を破って日本へ宣戦布告し、参戦しました。

 

 

日本はミッドウェー海戦で空母の大半を失ったが、海軍はそれを陸軍にも伏せていた。

日本は航空戦力の大半を失った。

日本は空母も航空機もないのに、フィリピン奪還を断行したが、途中で沈没させられた。

日本は本土決戦を本気で考えていた。

 

日本は空母も航空機もないのに、フィリピン奪還を断行したが、途中で沈没させられた。

 

AIによれば、

 

おっしゃっている歴史的状況は、1944年(昭和19年)10月のレイテ沖海戦(比島決戦)や、それに伴うフィリピン防衛戦の局面ですね。

当時、日本軍はアメリカ軍によるフィリピン奪還(アメリカ側から見た奪還)を阻止するために、残された戦力を総動員して迎撃作戦(捷一号作戦)を断行しました。ご指摘の通り、この作戦は空母の艦載機(航空兵力)をほとんど失った絶望的な状況で行われ、結果として多くの主要艦艇が沈没させられる悲劇的な結末を迎えました。

この戦いの実態について、いくつか重要なポイントを整理します。

1. 空母と航空機がない状態での出撃

同年6月のマリアナ沖海戦で、日本海軍は事実上、空母で戦うための航空機と熟練パイロットを完全に失っていました。そのため、レイテ沖海戦では以下の苦肉の策が取られました。

• 囮(おとり)にされた空母部隊: 小沢治三郎中将率いる空母「瑞鶴」などの部隊は、航空機をほとんど乗せないまま、アメリカの機動部隊を北方へ引きつけるための「囮」として出撃し、フィリピン北方のエンガノ岬沖で沈没させられました。

• 大和・武蔵の突入: 空母の援護がないため、栗田健男中将率いる戦艦「大和」「武蔵」などの主力戦艦部隊が、アメリカ軍の揚陸地点(レイテ湾)へ直接突入して輸送船を叩く作戦が立てられました。この途中で、世界最大の戦艦だった「武蔵」が米軍機の猛烈な空襲を受け、魚雷と爆弾を無数に浴びて沈没しました。

2. 神風特攻隊の開始

航空機が圧倒的に不足し、まともな空中戦でアメリカ軍に対抗できなくなったため、このフィリピン戦から組織的な「神風特別攻撃隊(特攻)」が本格的に開始されることになりました。

3. なぜそれでも断行したのか?

フィリピンをアメリカ軍に奪われると、日本本土と南方(インドネシアなど)の海上交通路(シーレーン)が完全に遮断され、戦争を継続するための石油(燃料)が一切入らなくなるためです。当時の海軍軍令部総長だった嶋田繁太郎らは、「フィリピンを失えば、艦隊が生き残っても燃料がなくて動かせない。艦隊を解集して戦わせる、これ以外に道はない」と判断し、全滅を覚悟で出撃を命じました。

 

このフィリピンをめぐる激戦について、さらに詳しく知りたいポイントはありますか?

1. 世界最大の戦艦「武蔵」が沈没にいたるまでの戦闘詳細を知りたい

2. 栗田艦隊の「謎の反転」(なぜレイテ湾を目の前にして引き返したのか)について知りたい

3. フィリピンでの陸上戦(ルソン島やレイテ島の戦い)のその後の展開を知りたい

 

 

日本はミッドウェーで空母の大半を失ったが、海軍はそれを陸軍に秘密にしていた。

 

AIによれば、

 

おっしゃる通り、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦における大敗北(主力空母4隻の喪失)を、海軍は陸軍に対して徹底的に隠蔽しました。

これは日本の敗戦原因としてもよく挙げられる、「陸海軍の不和・セクショナリズム」を象徴する極めて重大な歴史的事件です。海軍の隠蔽工作とその影響について、詳細を整理します。

1. どのようにして隠されたのか?

海軍は敗戦の責任追及を恐れ、また陸軍に対して優位に立ち続けたいという組織防衛の心理から、情報を遮断しました。

• 陸軍トップへの嘘の報告: 海軍は、時の首相兼陸軍大臣であった東條英機や、陸軍の最高統帥機関である参謀本部に対して「空母1隻喪失、1隻大破(のちに沈没)」と虚偽の報告をしました。主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を全て失ったという真実は伏せられました。

• 負傷兵の監禁: 帰国したミッドウェー海戦の負傷兵たちは、陸軍や一般国民に事実が漏れるのを防ぐため、夜間に人目を忍んで病院に搬送され、外部との連絡を一切絶たれて実質的に監禁されました。

• 国民への「大勝利」発表: 大本営発表では「敵の空母2隻を撃沈し、我が方の損害は空母1隻」という、事実とは真逆の「大勝利」が国民に向けて宣伝されました。

2. 陸軍が真実を知ったタイミング

陸軍が「どうやら海軍は空母をほとんど失ったらしい」と薄々気づき始めたのは、数か月後のガダルカナル島の戦い(1942年8月〜)が始まってからです。

前線で海軍の航空支援が全く受けられないことを不審に思った陸軍が独自に調査を進め、徐々に真実を把握していきましたが、海軍から公式に全貌が明かされたのは、戦争が終盤に差し掛かってからでした。

3. この隠蔽がもたらした致命的な結果

この情報隠蔽は、その後の日本の戦争指導に壊滅的な影響を与えました。

• 誤った戦略の継続: 陸軍は「海軍にはまだ十分な空母がある」前提で作戦を立てたため、ガダルカナル島などの南方戦線に無理な兵力投入を続け、泥沼の消耗戦に引きずり込まれました。

• 国家資源の無駄遣い: 制海権・制空権がない場所に陸軍兵士を送り込んだため、多くの輸送船が沈められ、補給が途絶した前線では戦闘ではなく「餓死」による犠牲者が続出することになりました。

 

 

感想 2026年10月2日(金)

 

社会党が共産党と共闘しないのには訳があった。社会党は、民主化を求めて共産党に傾く民衆運動のガス抜きなのですね。

 

米政権はそれを望んでいた。米政権は、ルーズベルトが死んで、トルーマンが大統領になったころから反共的姿勢を明らかにし始めた。米は今も昔も共産嫌いなのですね。トランプによく似ている。

 

268 社会党の片山哲内閣時1947.5.24-1948.2に社会党と連立した民主党(芦田均民主党総裁)も、それを望んでいた。芦田均民主党総裁「社会党との連立の第一の理由は、労働攻勢を抑えうる政党は社会党しかないからである。」

 

社会党は戦前の社大党つまり社会大衆党である。今の国民民主によく似ていて、時勢にすりよる美人なのですね。

 

 

社会党は、共産党が人民戦線の結成で共闘しようといっても、そっぽを向いた。261

労組を分裂させた。261, 269

1946年8月、全日本産業別労働組合会議(産別)と日本労働組合総同盟が別々に結成された。261

片山内閣1947.5.24-1948.2は、「日農」に対して「日農主体性同盟」を、「国鉄労組」に対して、「国鉄民主化同盟」を、「産別」に対して「産別民主化同盟」を対置してつくるのを推進・援助した。

 

 

266 本書は憲法九条マッカーサー発案論を取っている。つまり「象徴天皇制と戦争放棄は、変更することのできない二大原則であり、天皇制維持のために必要だ」とマッカーサーが幣原に説得したとある。

 

262 財閥、官僚、軍人は、軍需品を東久邇内閣からただでもらい、物資が不足して物価が高騰するとそれを売ってぼろもうけした。また資本家は、戦中に注文を受けた軍需品の代金を、納入も生産もしていないものを含めて「補償」として受け取った。

 

 

メモ

 

066 革命運動の挫折

 

066 『中央公論』『改造』など総合雑誌には、前衛党と大衆的労農政党との関係や、マルクスの価値論、地代論についての論争というような論稿が毎号掲載され、論壇は左翼によって支配されているという声すら出ていた。(1930年、1931年ころと思われる)

 

067 文学では小林多喜二の「蟹工船」「不在地主」、徳永直の「太陽のない街」、窪川(佐多)稲子の「キャラメル工場から」、中野重治の「春先の風」などのプロレタリア派の作品が登場した。

068 1930年後半期には、この極左的誤謬の自己批判をめぐって分裂し、党内部は混乱状態に陥った。

アジトに転々としていた彼らは、争議の頻発や知識人急進化の現象に眼を奪われて、革命的情勢は成熟しつつあると主観的に断定し、武装蜂起を指令するという誤りを犯したのであった。

 

070 満蒙問題

 

071 1931年に中国は、関税自主権を一応回復すると、続いて治外法権の撤廃を取り上げ、3月には日本と交渉を始めた。満洲の実権者である張学良も、アメリカ資本の援助を期待して、満鉄線包囲線の建設と葫蘆島(大連の西側の海沿いの町)の築港を始め、また日本人の土地商組権を否認して問題を起こした。日本の対満投資の63%を代表する満鉄の鉄道収入は、30年度には、大恐慌の影響も加わって前年度の3分の1の下回り、1906年創業以来の不成績を示した。

こうした状況に対し、軍部、枢密院や政友会が幣原外交を軟弱だと非難したことはもちろん、『朝日』『毎日』などの大新聞も満蒙の権益擁護を強行に主張し始めた。

 武力行使によって満蒙問題を解決しようとする軍部の動きは活発さを加えた。第二次山東出兵1928.4当時の満洲占領計画が流産に終わった直後に、陸軍中堅将校の間には、政治家頼むに足らずとして軍自身の手で満洲問題を解決すべきだという気運が高まった。関東軍や朝鮮軍の重要ポストは同志で固められ、満洲では河本大作や甘粕正彦(大杉栄暗殺の下手人)らが呼応した。

 

077 満州事変の発端

 

077 1931年8月、南次郎陸相は師団長会議で満蒙の危機を強調して軍縮論を非難する演説を行い、とくにこれを公表して政府に挑戦した。民政党がこの演説を攻撃すると、陸軍では、「血をもってあがなった満蒙を幣原外交に任せることはできない」と反駁した。政府と陸軍の関係は険悪になった。既に陸軍当局では、政府に働きかけ、内外の世論にも訴えたうでで、満州問題の武力解決を図ろうとする「満州問題解決の方針の大綱」を決定していたのである。(今村均「満洲火を噴く頃」『秘められた昭和史』所収)

078 この事件(万宝山事件1931.7)は、恐慌による窮乏のため、満州に移住する朝鮮人が増えたことに対して、中国側ではこれら朝鮮人を日本帝国主義の手先だとして敵視したことに基づくものであった。日本側でも朝鮮人の民族意識を日本からそらさせるために、この事件を宣伝した。このため朝鮮各地で報復暴動が起こり、多数の中国人が殺された。

 陸軍はこの事件(中村震太郎大尉事件1931.6~8)を絶好の口実に、鉄道問題などの懸案を一挙に解決しようとして、強硬な要求を張学良につきつけ、外務省もまたこれに同調した。

 

081 十月事件

 

082 政府は1931年10月26日、中国の排日運動が収まらない以上は、中国政府の保障に信頼して撤兵することはできないと、第二次声明を発表した。続いて幣原外相は、溥儀の擁立にこそ賛成しなかったものの、満州各地の治安維持会を充実するよりほかには事態の解決は望みがたいとして、軍部の満州独立方針に同調し始めた。

 

083 上海事変と「満洲国」

 

084 1932年1月18日、托鉢中の日本人僧侶が中国人に襲撃されるという事件*が起こると、情勢は一層緊迫した。

 

*この事件は、満州独立を行うため、「上海で事を起こして列国の注意をそらさせて欲しい」という関東軍の依頼で、上海駐在武官輔佐官田中隆吉と重藤憲兵少佐とが、中国人を買収して日本人僧侶を狙撃させたのが真相だという。(田中隆吉「上海事変はこうして起こされた」『秘められた昭和史』)

 

085 満州事変の意義

 

086 侵略の時期や方法に意見の差はあったが、満州を支配する必要性については、軍部も、元老、政党、財界も、一致していた。満洲占領は「不動の国策」とされた。

 

087 ソ連は1931年末、日本に不戦条約の締結を提案したが、日本はそれを拒絶した。

 

090 血盟団事件と五・一五事件

 

090 血盟団事件1932.2.9, 3.5と青年将校(藤井斉大尉、3月に上海で戦死)との関係は当局の調べで明らかになったが、軍人たちにはなんらの処置も取られなかった。*

 

*当時、現役軍人を取り調べて逮捕することは憲兵にしかできなかった。それだけでなく、井上日召が右翼の大御所頭山満邸に隠れると、鈴木喜三郎内相は逮捕をためらい、自首を待つありさまだった。

 

092 社会民主主義者の戦争支持

 

1932年、農業恐慌は最も深刻になり、東京をはじめ全国の都市・農村で、失業者や貧農を先頭に、米よこせ闘争が起った。

労働運動は弾圧と分裂のために弱体化していてこの闘争を吸い上げることができず、むしろ農本主義者がこれを拾い上げた。彼らは五・一五事件1932の被告に思想的影響を与えていた。

農本主義者・権藤成卿らの自治農村協議会は請願運動を組織し、これに全国市町村会、農会、農民組合が参加し、議会に押し寄せ、農家負債のモラトリアム、満蒙移住費5千万円補助などを求めた。そして「農業勤労だけが尊い」と説き、都市の奢侈逸楽と富者の私利私欲に反発し、農地が狭いから農家の二、三男は満州に移住せよ、純朴勤勉な農民こそが時局を解決できるとした。こうした宣伝が官民の指導者によって行われ、農民を軍部の大陸政策支持に向かわせた。

 

094 労働運動や革命運動に対する取り締まりは、非常時を名として激しくなった。1932年2月の第3回普選で、無産政党の当選者5名中、左翼は1人もなく、うち2名はやがて国家社会主義に走った。

 

社会民衆党は、満州事変が起こると、片山哲、島中雄三らの満蒙調査団を派遣し、1931年11月、

 

「国家社会主義へ向かう道程として、社会主義日本の建設を必然的段階と信じる我らは、日本国民大衆の生存権確保のため、満蒙における我が条約の権益を侵害さるるは不当なりと認む」

 

という声明を出し、1932年2月の総選挙では「満蒙の権益を民衆へ」と主張した。

 

 全国農民大衆党は、満州事変開始直後に、「対支出兵反対闘争委員会」を組織し、総選挙には「帝国主義戦争絶対反対」をスローガンにした。しかしその基盤の造船・金属工組合から、「満蒙より手を引け」というのは、労働者大衆の現実の利益を無視するものだという非難が起こり、戦争反対はうやむやになった。1932年5月、その一部が脱党して、先に社会民衆党を脱退していた赤松克麿や平野力三らと結び、日本国家社会党をつくり、「一君万民の国民精神にもとづき、搾取なき新日本の建設を期す」と綱領に謳った。

 

国家社会主義派の脱退によって動揺した社会民衆党、労農大衆党は、同年1932年7月合同して、社会大衆党をつくり、「反資本主義、反共産主義、反ファシズム」の三反主義の看板を掲げた。そしてその一部には、「軍部は無産階級の味方であり、日本の革命は軍部と結んで資本主義を打倒することにある」と説く動きが生まれた。

 

095 全協(日本労働組合全国協議会、共産党系)は、1928年3月15日、「日本労働組合評議会」が三・一五弾圧で、治安警察法を根拠に解散命令された後の同年1928年12月25日に発足した。

096 1933年後半期から、共産党、全協の内部分裂が激しくなり、ついで全農全国会議派が潰され、1935年2月に『赤旗』の発行が停止され、共産党の全国的活動は終わった。

 

098 1933年3月28日、日本政府は「東洋平和確立の根本方針につき連盟と全然その所信を異にする」として連盟を脱退した。この時出された連盟脱退の詔書は、この問題に対する国内の批判を封ずる役割を演じた。満州事変によって醸し出された国民的興奮の雰囲気の中で、日本は国際的孤立に向かって決定的な歩みを始めた。

 

112 満州国承認1932.9の後に、関東軍司令官が駐満大使と関東長官を兼ねた。1934年12月、対満事務局が置かれ、陸相がその総裁を兼任し、対満政策の決定権は陸軍の手中に帰した。さらに駐満大使のもとに関東州や満鉄付属地を管轄する行政事務局が置かれ、その長は関東軍参謀長が兼ねうるとされた。こうして満洲全土に憲兵政治の網の目が布かれた。

 

116 1934年10月、陸軍省新聞班が「国防の本義と其強化の提唱」というパンフレットを発行した。すでに陸海軍とも「1935、36年の危機」を説くパンフレットを発行していたが、この「提唱」は、はっきりと国内の政治・経済機構の改革を主張し、「たたかいは創造の父、文化の母である」と書き出し、国防目的のために国家の全活力を綜合統制すべきだとした。そのため「個人主義的自由主義的経済観念」を退け、国防国家建設の必要性を力説し、国防の一環として国民生活の安定と農山漁村の更生を計るべきだと主張した。各新聞はこれを大きく掲げて世論を煽ったが、それは軍部の圧力によるものだった。一人『朝日』はこれを黙殺したが、陸軍当局から注意を受けた。

 

 こうした軍部の攻勢に対して、政民両党の中に軍部批判が起きた。1935年初めの第67議会で、民政党の斎藤隆夫や政友会の安藤正純は、軍人の政治干与や予算の軍事費偏重を攻撃した。高橋蔵相は健全財政を唱えて、これ以上軍事費を膨張させて公債を増発するのは危険だと答弁し、広田外相は協調外交を強調した。こうした軍部批判に対する軍部・右翼の反撃のきっかけは天皇機関説問題であった。

119 この事件は、天皇や国体を盾に取れば、どんな非合理な言辞も大手を振るってまかり通ることができ、それが世論を煽り立てて暴力的な威力を発揮することを、まざまざと証明した。文化人や良心的政治家は、満州事変以来社会の底辺で積み上げられてきたファッショ的地盤が、ここまで大きくなっていたかを改めて思い知らされた。彼らは国体の暴力の前には、抵抗しても無駄だと諦めて沈黙してしまった。

 

122 広田外相は国民政府を利用して排日運動を抑えようとし、大使を交換した1935.5が、陸軍は国民政府との協調は一時的な仮装に過ぎないとして広田外交に反対した。1935年5月末、華北(河北、北京、天津など)では、酒井隆支那駐屯軍参謀長は、梅津(美治郎支那駐屯軍司令官)・何応欽協定を結び、チャハルでは、土肥原・秦徳純協定を結んだ。

 これらの華北工作は、板垣征四郎関東軍参謀副長、土肥原賢二特務機関長らが、酒井支那駐屯軍参謀長や参謀本部と結んで実施した。

この出先軍部による専断工作は広田の対華外交方針を妨げるものであったが、外務省は、統帥権の発動であるとしてこれを承認した。1935年9月27日、外務、陸海軍、大蔵四省間で決定された対華外交の基本要綱は「満州国と接壌関係にある北支においては積極的経済提携の実現を急ぐと共に、政治上においても日満支三国共同して赤化防衛に努め、以て北支の特殊的地位を確立すること」と謳った。

 

133 1936年、二・二六事件で岡田内閣が倒れ、広田弘毅が組閣することになったが、陸相候補の寺内寿一大将は、新内閣の顔ぶれが「依然として自由主義的色彩を帯び、現状維持的」であると反対し、国防強化など国策の樹立を要求し、広田はこれを受け入れ、1936年3月9日ようやく組閣を終えた。

戒厳令は7月まで解かれず、言論・報道・集会の自由は極端な制限の下にあった。3月22日までの1か月間は、二・二六事件に関して陸軍当局発表以外の記事を載せることが一切許されなかった。

 

135 1936年8月7日、広田内閣の首相、外相、蔵相、陸相、海相の五相会議は、対外政策に関する「国策の基準」を決定したが、その内容は一切公表されなかった。これはその後の戦争政策の見取り図であった。

136 「帝国の根本国策は、外交国防相俟って東亜大陸に於ける帝国の地歩を確保すると共に、南方海洋に進出発展するに在り。」そのために「国防軍備の充実」「外交の刷新」「政治行政機構の改革」「財政政策の確立」を掲げた。日本が「東亜の安定勢力」として「東亜共栄圏」の盟主になるとの構想や、対ソ攻撃、中国侵略とならんで、南方進出の方針が政府方針として決定された。

 

143 政友・民政両党と軍部との対立で広田内閣1936.3.9-1937.2.2が総辞職した後に組閣を命じられた宇垣一成は、政党との密接な関係や軍縮方針を陸軍中堅層に反対され、組閣が流産した。軍部大臣現役制のため陸相が得られなかった。

その後に成立した元陸相の林銑十郎内閣1937.2.2-1937.6.4には政党代表者の入閣がなく、池田成彬の推薦によって日本興業銀行総裁結城豊太郎が蔵相となった。三井財閥の代表者の池田は5年前には血盟団事件の暗殺リストに載っていた。

結城の財政方針は軍事費以外の行政支出を削減し、本格的な戦争経済に乗り出そうとするもので、結城は「これからは財界と軍部は抱き合ってゆきたい」(抱合財政)とした。そして日本経済連盟会は「今後二、三年間は国防費一本槍の方針の下に予算編成を行うべし」と声明した。

 

165 石川達三「生きている兵隊」(『中央公論』1938年3月号)は、戦争の非人間性を描き、戦意高揚の妨げになるとして発禁にされた。

 

169 平沼騏一郎内閣1939.1.5-8.30 平沼は右翼団体「国本社」の首領であった。独ソ不可侵条約締結1939.8.23により自滅。「複雑怪奇な新情勢」172

 

1939年2月、日本の陸海軍は海南島を占領し、さらに3月、フィリピン西方海上の無人諸島の領有を宣言し、「新南群島」と名付け、英米を刺激した。

中国では日本軍占領地域での経済的困難が増すと、国民政府の法幣が通用する英仏の租界を経済的に支配しようとして、(英仏と)対立し、6月、天津の英仏租界を封鎖した。東京で有田八郎外相と英クレーギー大使とが会談したが、7月、アメリカが日米通商条約を破棄したので、イギリスも硬化して日英会談は決裂した。

 

171 関東軍はノモハン事件1939.5-9に敗北した。これは近代的装備を持つ相手と戦った最初の体験だった。植田謙吉関東軍司令官は辞職し、「精神力と並んで物力も顧慮しなければならぬ」とする陸軍当局者談が発表された。関東軍の作戦参謀は転勤を命ぜられたが、その後中央部の要職につき、対米英戦の主張者となった。(林三郎『太平洋戦争陸戦概史』)

 

172 陸軍大将・阿部信行内閣1939.8.30-1940.1.16 民衆の厭戦気分や生活苦を見て衆議院が退陣を要求。軍部も不支持。 阿部信行内閣は欧州戦不介入方針。172, 178

176 海軍大将・米内光政内閣1940.1.16-1940.7.22 陸軍「バスに乗り遅れるな180、米内は物足りない」と、畑陸相が単独辞職。179

 

176 斎藤隆夫「反軍演説」1940年2月2日 新聞はその内容を明らかにせず、官報速記録も後半全部を削除していて詳細は分からない。軍部は「聖戦を冒涜する」とこれを非難し、これに民政両党や社大党が同調し、斎藤を議会から除名した。ただし、政友会久原派の牧野良三ら5名が除名に反対し、社大党では安部磯雄、片山哲、水谷長三郎ら8名が採決を欠席し、党から除名された。

政党は軍部と結びつくことで政党勢力の回復を目論んだが、それは自ら議会での言論の自由を否定することであった。

この直後から政友・民政・時局同志会、社大党の「革新派」議員は「聖戦貫徹議員連盟」をつくり、既成政党の解散と親軍の挙国政党の結成を求めたが、それは政党の存在そのものを否定することになった。

 

179 第二次近衛内閣1940.7.22(政治革新、新体制運動)-1941.7.18 日米交渉打ち切りを主張する松岡洋右を更迭。

1940.7.26 「基本国策要綱」を閣議決定。

1940.7.27 大本営政府連絡会議が「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定し、南方へ進出し、場合によっては対米戦も予定した。

 

191 1940年11月、ルーズベルトは異例の三選を勝ち得た。ちなみにルーズベルトは後に四選された。

 

198 第三次近衛内閣1941.7.18-1941.10.18

 

200 前年の1940年12月、「内閣情報局」ができ、陸海軍、外務、内務各省の関係事務をあわせて「対外思想戦」の中核となり、言論統制を強化した。

出版界では同月、内閣情報局の下請機関として用紙割当権限を持つ「日本出版文化協会」をつくり、図書・雑誌の企画に干渉した。

新聞連盟は、内閣情報局次長や警保局長が参与理事となり、「官民一体一如」の名のもとに、政府・軍部の宣伝に奉仕した。

 

202 東條内閣1941.10.18-1944.7.22

 

201 1941年10月2日、米国は先の4原則192*の確認と、(満州を除く)中国と仏印からの日本軍の全面撤兵を要求する覚書を野村大使に手交した。それに対して、陸軍は絶対承認できないとし、海軍は近衛首相に決断を一任した。近衛首相は、対米戦決行も、対米交渉継続も決断できず、内閣を放り投げた。

 

192 日米諒解案(民間案) これは、日中間の協定による日本軍の中国本部からの撤退、中国による満州国承認、蒋・汪両政権の合流、日中間の防共共同防衛などを条件として、米国による日中間の和平の斡旋、日米間の通商及び金融の提携、日本が南方の資源を獲得することへの米の協力、太平洋の政治的安定などを含んでいた。

 

米政府は以上の民間案に、次のハルの4原則をつけて、日米が約束するために、ルーズベルト・近衛会談開催しようと提案した。

*米国務長官ハルの4原則「全ての国の領土と主権の尊重、内政不干渉、全ての国の平等の原則の尊重、太平洋の現状維持」

 

 

203 1941年9月1日、海軍は開戦の準備を始め、戦時編成を発令し、船舶の徴用を行った。

9月18日、陸軍も作戦準備の命令を出し、大兵力の華南、台湾、北部仏印への移動や、兵站基地での資材の集積を進めた。

 

10月18日、東條は組閣を終え、天皇や重臣の意見も汲んで日米交渉を再度考慮するとしたが、それは口先だけのようだった。

 

11月1日、日本は「大本営政府連絡会議」で対米開戦を決定した。「帝国国策遂行要領」を決定し、武力発動の時機を12月初旬とし、日米交渉は12月1日を期限として続け、それまでに要求が通らなければ、交渉を打ち切るというものだった。

11月5日、「帝国国策遂行要領」を御前会議で採択。

 

11月5日、日本は海軍・陸軍とも開戦の準備の命令を出した。海軍は九州佐伯湾に集結中の連合艦隊に作戦準備命令を出し、真珠湾奇襲のための機動部隊はそれぞれの根拠地を出て、発進基地である千島の単冠(ひとかつぶ)湾に集結を始め、南方作戦部隊も行動を始めた。

 

11月6日、陸軍は寺内寿一を総司令官として南方軍の編成を発令し、マレー、フィリピンなどの攻略部隊は輸送船によって海南島や仏印の根拠地に集結し始めた。

 

11月5日、来栖三郎大使が(米国にいる)野村大使の交渉を補佐するためにアメリカに飛び、野村大使は会談の再開を申し入れた。アメリカ政府は日本側に交渉打ち切りの口実を与えないように、日本に最初の一発を発砲させて参戦の名目を立てるべく、交渉の再開に応じた。

 

11月18日、臨時議会で、各派共同提案の「国策完遂決議案」を全会一致で可決した。その趣旨説明で島田俊雄は「鉄は白熱の時に打たねば駄目である。かような意味において吾々は、政府が戦争目的遂行の一本鎗でやって行かるることを希望する。道草を喰うことは止めてもらいたい」と演説した。

(日本人全体に戦争責任がある。軍部だけではない。)

 

11月20日、野村・来栖両大使は、さきの御前会議決定11/5に基づく日本の最終提案をハルに提出した。それは「日本が仏印以外の東南アジアにこれ以上武力進出を行わぬことを条件に、アメリカは資金凍結以前の状態に通商関係を戻し、日本が蘭印などから物資を獲得するのを援助すること、蒋介石政権の援助をやめること」などを要求するものだった。しかもこれは最終案でこれ以上一歩も譲れないという但し書きがあった。

 

これに対してアメリカは11月26日、回答(ハル・ノート)を野村大使に手交した。その内容は「中国や仏印からの全面撤兵、アジアの状態をすべて満州事変前の状態に戻す」というものだった。11月27日、米陸海軍省は前線司令官に戦争警告を発した。

 

真珠湾攻撃に先立つ1時間50分前に、日本軍の先遣部隊はマレー半島のコタバルに上陸を始めていたが、イギリスにはなんの通告も送られなかったし、マレー、フィリピンに対する航空攻撃もすでに始まっていた。宣戦布告に先立つ奇襲は、日清、日露戦争以来の日本軍の常套手段であった。

また米に真珠湾攻撃の30分前に手交するよう計画されたものは、宣戦の通告ではなく、単に交渉打ち切りの通告であった。

 


遠山茂樹・今井清一・藤原彰 昭和史 岩波新書

  遠山茂樹・今井清一・藤原彰 昭和史 岩波新書 新版 1959.8.31 、初版 1955.11.16     感想  2026 年 10 月 5 日 ( 月 )   ・丸山眞男的断罪、生々しい。同時代を批判するからなのだろう。私と同世代の戦後の歴史学者の方...