2025年12月2日火曜日

南京事件調査研究会『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房1999

 

南京事件調査研究会『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房1999

 

 

012 第1章 第1のウソ「南京大虐殺は東京裁判でデッチ上げられた」

014 「東京裁判によるデッチ上げ」説こそがデッチ上げ 藤原彰

 

著者藤原彰1922-2003は、元軍人。陸軍士官学校卒。戦後は東大卒業後、一橋大学社会学部教授。歴史学者。

 

・東京裁判の重要性はその提出資料の豊富さにある。

・ウソ論法の一つは、証言が「伝聞」に基づくというもの。

・否定論者 冨士信夫、渡辺昇一、藤岡勝信、小林よしのり、…

 

013 映画『プライド 運命の瞬間』1998は東京裁判での東条英機(のプライド)を描く。

015 時浦兼「南京の本当の真相はこうだ」は、GHQによる新聞報道「太平洋戦争史――真実なき軍国日本の崩壊」1945.12.8に、南京事件が突然登場し、翌年の東京裁判でそれが本格的に展開され、それは自虐史観の原型だとする。

 

016 石射猪太郎はその回顧録『外交官の一生』の「南京アトロシティーズ」の中で、三省局長会議(外務省東亜局長、陸海の軍務局長)で、日本軍の掠奪、強姦、放火、虐殺について軍側に警告したことや、広田外相が杉田陸相に軍紀の粛正を要望したことを述べている。そのため松井石根は19382月に中支那方面軍司令官を解任された。

 

018 内務省警保局『出版警察報』によると、「我軍が無辜の人民に残虐なる行為を為せる如く曲説するもの」という理由で発禁処分になったものが、19381月は9件、2月は54件、3月は29件ある。

石川達三「生きている兵隊」中央公論1938.3は即日発行禁止となり、石川は禁錮4年執行猶予3年の判決を受けた。石川は占領直後の南京に滞在し、兵士たちから取材した虐殺や強姦の様子を描いた。

019 東京裁判でのジョン・マギー証人(牧師)に対するブルックス弁護人の反対尋問で「日本兵による殺害のその瞬間を目撃したのは一人だ」という(マギーの)答えを引き出し、それを南京事件は「伝聞証拠しかない」という根拠としている。

 

020 東京裁判の資料の中には、証人11人の証言、安全区檔案(文書)、南京裁判所検案書、崇善堂や紅卍字会など慈善団体の死体埋葬記録、アメリカ大使館の事件関係の報告書、在中国ドイツ外交当局の報告書、ドイツ人ラーベの書簡など、豊富な資料が提出され、それらの記録は公刊され、現在でも読むことができる。

 

021 東京裁判判決「南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万以上であったことが示されている」

 

東京裁判に対する批判

 

・「平和に対する罪」は事後法であり罪刑法定主義に反する。

・東京裁判は連合国軍最高司令官の管轄下におかれ、判事も検事も全て中立国ではなく連合国から選ばれた復讐劇である。

・天皇や上海派遣軍司令官・朝香宮鳩彦(あさかのみややすひこ)王中将は免責にされた。

・資料の提供と交換に、731部隊や毒ガス使用の問題を除外した。

 

022 東京裁判で明らかになったこと

 

1920年代後半からの日本の中国への干渉と出兵、

・関東軍参謀による張作霖の殺害、

1930年代初めの右翼のクーデターである三月事件や十月事件

・南京やシンガポールやマニラでの大規模な残虐事件

 

などを、国民は裁判を通して初めて知った。また1万点以上の法廷に未提出の証拠書類がある。

 

023 一方南京法廷は谷寿夫(ひさお)第六師団長と、「百人斬り競争」の2人の将校を含めた3人の将校が裁かれた。

024 南京事件否定派は、「百人斬り競争」は冤罪だとし、鈴木明『新「南京大虐殺」のまぼろし』飛鳥新社1999も、それを繰り返している。

反対派は南京の軍事法廷が個別的で全体に及ぶものではないことをいいことに、南京法廷の判決だけを事件の全てとし、報復のためのデッチ上げだとする。

 

80年代後半に、それまで非公開だった南京軍事法廷での資料が『侵華日軍南京大と屠殺檔案』として中国で公開されるようになった。その日本語訳は『南京事件資料集(2)中国関係資料編』青木書店1992である。

 

 

026 第2章 第2のウソ「当時、日本では誰も南京事件のことを知らなかった」

028 本当に誰もが南京事件のことを知らなかったのだろうか 吉田裕

 

029 当時は報道統制があった。1937731新聞紙法第27により、陸軍大臣から、新聞記事掲載差止命令(陸軍省令第24号)が発動され、陸軍関連の記事は事前にゲラ刷り二部を警視庁と各府県警察部に提出し、そこで検閲を受け、陸軍当局の許可を得なければ掲載できなかった。

 

海軍でも新聞記事掲載差止命令(海軍省令第22号)が816日に発動された。

 

「新聞記事掲載事項許否判定要領」は、「支那兵又は支那人逮捕訊問等の記事写真中虐待の感を与ふる惧あるもの」「残虐なる写真」などの掲載を禁じた。

 

小林よしのりは『東京朝日新聞』19371220日付の写真報道「平和甦る南京 皇軍を迎へて歓喜沸く」をとりあげ、「この のどかさは一体なんだろう」(『戦争論』幻冬舎1988

 

静岡民友新聞社の従軍記者で南京を取材した片山兵二1938328日「陣中メモ日記」(わが青春の中国大陸従軍譚)1977)「中華門附近の支那人街を視察。商店もマバラに開いているが、軍人や我々日本人の顔を見ると素早く奥へ逃げ込む。特に若い娘らの逃足の早いことには感心する。」

松井石根中支那方面軍司令官の193826日の日記「支那人民の我軍に対する恐怖心去らず」(南京戦史編纂委員会編『南京戦史資料集』偕行社1989

 

031 外務省東亜局長石射猪太郎の193816日の日記「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦目も当てられぬ惨状とある。嗚呼之が皇軍か」(伊藤隆・劉傑編『石射猪太郎日記』中央公論社1993

 重光葵(まもる)は19421月、特命全権大使として南京に着任。「赴任して南京事件の実相を知るに及んで、我軍隊の素質、日本民族の堕落に憤りを発せざるを得なかった。」

032 19387月、第11軍司令官岡村寧治(やすじ)陸軍中将は上海で、次の事実を知る。

 

一、南京攻略時、数万の市民に対する掠奪・強姦等の大暴行があったことは事実である。

一、第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。

 

南京事件当時陸軍大学校の学生だった加登川幸太郎大尉は『偕行』19853月号の中で「筆者は48年前のこの事件のあった頃、陸軍大学校の学生であったが、すでに南京戦線である種の「不法行為」の行われたことを耳にしていた。この問題は軍中央部を悩ました。南京事件について日本軍がシロであったとは筆者は初めから認識していない。」

 

035 中国の日本人社会の中ではこの事件の噂はかなり広がっていた。法制史学者の滝川政次郎1953「当時私は北京に住んでいたが、南京虐殺の噂があまり高いので、1938年の夏、津浦線で南京に旅行した。焼けた民家がいずれも南京陥落後日本兵の放火によって焼かれたものであったと教えれた。私を乗せて走る洋車夫が私に語るには、現在南京市内にいる姑娘(クーニャン、若い娘)で日本兵の暴行を受けなかった者は一人もいないという。」

036 洋装店を営む住徳蔵は「日本兵は兵站がないために数日食事をとらずに突撃し、又は生芋を齧りて戦闘を続け、そのため、ある時の如きは揚子江にて捕虜12千名に対し食料を供給すること能わずして鏖殺(オウサツ、皆殺し)したる由なり」と語って、陸軍刑法違反で起訴された。

日雇の小林末造は「上海付近の戦争において我軍は支那兵約2万を捕虜としたるが、之を全部機関銃にて射殺し、死体は揚子江に流したる旨」と語り、陸軍刑法違反で起訴された。陸軍刑法第99条「戦時または事変に際し、造言飛語をなしたものは3年以下の禁固刑に処する。」

 

侍従(長)・徳川義寛1997「昭和12年の南京占領の時、日本軍がひどいことをしたということは、私は当時から知っていました。中国人捕虜を数珠つなぎにして撃ち殺すとか…」「当時も関係者の多くは事実を知っていたんです。陛下は「日露戦争の時の軍とは違う」ということはおっしゃっていました。」

 

038 第3章 第3のウソ「世界でも報道されず、国際連盟、米英仏などから抗議はなかった」

040 リアルタイムで世界から非難を浴びていた南京事件 笠原十九司

 

045 田中正明は、『南京事件の総括』謙光社1987の中で、「連盟」を「国連」とし、「支那事変」を「北支事変」とするなど基本的な間違いを犯し、さらに悪いことには、歴史的事実(英仏ソ中による国際連盟「支那事変問題の小委員会」*)の開催年月を、本来の19379月~10月から1年後の昭和131938年の南京事件以後に持って来るという改竄を行い、その小委員会で南京事件のことが触れられていないから南京事件はなかったことにする。

田中正明は自民党の歴史・検討委員会で講演を行った。田中正明1911-2006は松井石根の私設秘書、戦後は拓殖大学講師。

 

1937928日、国際連盟は「都市爆撃に対する国際連盟の対日非難決議」を全会一致で可決し、日本海軍機による上海、南京、広東などの無防備都市への爆撃を厳しく非難した。

106日、連盟総会は「日本の軍事行動が九か国条約と不戦条約に違反している」とし、「中国を道義的に支援する」と採択した。

113日~24日、ブリュッセルで九か国条約国会議を開催し、日本の中国侵略を「国際法違反である」と非難・警告する宣言を採択した。

 

046 19379月から10月にかけて、第18回連盟総会が開催されたが、そのとき、「日中紛争諮問委員会」*が組織された。(これが田中正明の言う「支那事変問題の小委員会」に相当する)

 

047 東中野修道も『「南京虐殺」の徹底検証』展転社1998の中で、「1938527の国際連盟の「諮問委員会」の決議文のどこにも「南京虐殺」は出てこない、南京虐殺が連盟に提訴された痕跡がない」とするが、当時の歴史を考えて見よ。1938年の前半は、蒋介石にとって中華民国の存亡がかかっている時機である。南京事件よりも国家存亡の危機の方が重要である。

193711月、イタリアが日独防共協定に参加し、翌12月、連盟を脱退し、19381月、フランス人民戦線内閣は末期的危機を迎え、3月、ナチスドイツのオーストリア併合と、欧州大戦が今にも勃発しそうな危機状況に直面していた。そうした中国にとって不利な国際情勢の中で、中国代表の顧維均は、国民政府が消滅させられそうなこの状況の中で、列強から中国援助と対日経済制裁を引き出そうとしていた。顧維均にとって南京事件よりも中国滅亡の危機を阻止することの方が、最重要関心事だったのである。また日本の中国侵略行為は、連盟総会とブリュッセル会議で、すでに非難決議されていた。

 

 

058 第4章 第4のウソ「中国でも報道されず、蒋介石も毛沢東も問題にしなかった」

060 戦争当時中国でも問題にされていた 井上久士

 

062 193877日、蒋介石は「全国の軍隊と国民に告げる書」「世界の友邦に告げる書」「日本国民に告げる書」という三つの文章を発表した。

 

063 東中野修道はそのうちの「友好国への声明」つまり「世界の友邦に告げる書」だけを取り上げ、そこで「蒋介石は南京虐殺について触れていない、広東の空襲にしかふれていない、だから南京虐殺はなかった」とする。

 

蒋介石は「日本国民に告げる書」の中で、南京の名前は出していないが、それを想定したことを述べている。

 

「貴国の出征将兵はすでに世界で最も野蛮、最も惨酷な破壊力になっていることを諸君は知っているだろうか。貴国がいつも誇っている「大和魂」と「武士道」はすでに地を払い消滅してしまった。毒ガス弾ははばかることなく使用され、麻薬販売は公然と行われ、すべての国際条約と人類の正義は貴国の中国侵略軍によって乱暴に踏みにじられてしまった。そのうえ一地区が占領されるごとに放火・略奪の後、遠くに避難できないわが無辜の人民および負傷兵に対し、その都度大規模な虐殺を行った。(中略)

 とりわけ私が実に口にするのも耐えられないが、言わざるを得ない一事は、すなわちわが婦女同胞に対する暴行である。十歳前後の少女から五、六十歳の老女までひとたび毒手にあえば、一族すべて逃れ難い。ある場合は母と娘、妹と兄嫁など数十人の女性を裸にして一堂に並べ強姦してから惨殺した。…このような軍隊は日本の恥であるだけでなく、人類に汚点を留めるものである。」

 

 

072 第5章 第5のウソ「30万人虐殺は当時の南京の人口20万人より多い。南京大虐殺の目撃者は誰もいない」

074 数字いじりの不毛な論争は虐殺の実態解明を遠ざける 笠原十九司

 

075 石原慎太郎は「南京大虐殺否定論」から「被害者少数論」へ転換した。

 

石原慎太郎は、国会議員であったとき、米『プレイボーイ』誌の記者からインタビューを受けた。(『プレイボーイ』月刊・日本語版、199011月号)

 

記者 (石原慎太郎が米による原爆投下を批判したのに対して)日本の歴史はそれほど血にまみれていないというのですか。日中戦争のあのすさまじい大量虐殺は絶対に正当化で来ませんよ。

石原 どこで日本人は虐殺をしましたか

記者 例えば1937年の南京大虐殺です。10万人以上の民間人が虐殺されました。

石原 日本軍が南京で虐殺を行ったと言われていますが、これは事実ではない。中国側の作り話です。これによって日本のイメージはひどく汚されましたが、これは嘘です。(はっきりしている)

 

076 ところがその2か月後の19911月には、石原慎太郎は南京事件の事実を否定できないと悟り、「犠牲者30万人という南京虐殺は虚構」として自説を修正した。(石原慎太郎「日本を陥れた情報空間の怪――南京事件・北方四島・尖閣列島問題の虚構」『文芸春秋』19911月号)

 

「南京での軍による不法な殺人については日本の関係者もほとんど認めてはいても、問題はその数です。

 断っておきますが、その数(30万人)が言われているものの十分の一(3万人)だろうと百分の一(3千人)だろうと、不法な殺人はもとより人道にもとるし、虐殺は虐殺でしかありません。そして私は日本軍が当時大陸で残虐な行為をまったく行わなかったなどというつもりもない。しかし、いわれているような、ごくごく限られた時間帯に三十万という市民や捕虜を殺戮するというのは異常極まりない話で、戦争は無残なものといいながら、それ以上に身の毛のよだつ話です

 

感想 石原慎太郎1932-2022ははっきりしている。自信があるのだろう。石原慎太郎のような軍国少年世代は、少年時代に受けた教育のせいで、戦前の日本政府の立場を擁護する人が多い。これは中島岳志も指摘するところである。

 

 

082 次は藤岡信勝1943- 藤岡信勝は当初は社会主義の信奉者だったが、その後右翼に転じた。藤岡は数にこだわり、個々の被害者の被害の実相には関心がないようだ。

 

藤岡信勝「中国人民の犠牲者30万人というようなことを、何の疑問ももたずに長い間信じ込んでいた。自分の思考枠の(に)合致する限り、最も大きい数字を信用するという心理的メカニズムを持った。社会主義を信奉し、日本帝国主義を批判する思想を持っていた時は、一番大きい数字を信用することにした。ついに50万の大台にのったかという感慨をもって、南京大虐殺50万人虐殺までも信じた。」

ところが今度は社会主義を批判し、日本帝国主義を肯定する思想に転向すると、「30万などという天文学的数字になるはずもない」と、南京大虐殺否定に転じた。その後、一時期秦郁彦の「南京大虐殺四万人説」を信じ、「四万人説が正しいとすると、三十万人説は、一人を殺したのも百人を殺したのも殺人の罪に変わりはない、(三十万人説は)本当は一人しか殺していない犯人に対し、百人殺しの罪をかぶせて痛痒を感じない人権感覚の麻痺の現れである。(藤岡信勝『近現代史教育の改革』明治図書1996

083 その後藤岡は急速に右傾化を強め、「虐殺ゼロ人説」へと転落し、「中村粲(あきら)氏の『南京事件一万人虐殺説』を批判する」(『正論』19993月号)を執筆した。*中村粲1934-2010

 

 

158 第9章 第9のウソ「中国軍の捕虜、投降兵、敗残兵の殺害は虐殺ではない」

160 国際法の解釈で事件を正当化できるか 吉田裕

 

160 「陸戦の法規慣例に関する条約」(1907年調印)の付属文書「陸戦の法規慣例に関する規則」(ハーグ陸戦法規)は、交戦者の資格として次の四条件を定めている。

 

一、部下の為に責任を負う者その頭に在ること

二、遠方より認識し得べき固著の特種徽章を有すること

三、公然兵器を携行すること

四、その動作に付戦争の法規慣例を遵守すること

 

東中野修道は『「南京虐殺」の徹底検証』(展転社1998)の中で、南京防衛に当たっていた支那軍正規兵は、以上の四条件を満たさないから、交戦者としての資格がなく、捕虜となる資格がなかった。従って「俘虜は人道を以て取扱はるべし」(第四条)という条項は適用されない。だからそのような投降兵を殺戮しても戦時国際法違反とはならないとする。

 

162 ところが実際は、前記の一で定める軍の中には民兵も含んでいた。つまり、前記の一は、民兵制を採用している諸国の意向を受けて緩やかに解釈されていた。164 また立作太郎が『戦時国際法論』(日本評論社1931)の中で指摘するように、戦時重罪人は軍事裁判所で裁かれなければならないのに、日本軍はそれを怠った。

 

169 『封印の昭和史』(徳間書店1995)の著者小室直樹1932-2010と渡部昇一1930-2017は、前記のハーグ陸戦規定を盾に、中国人投降兵の殺害を正当化するが、このように投降兵の殺害を正当化する立場に立つと、米による日本兵の殺害に対して何ら異議を申し立てることができない。彼らは『封印の昭和史』の中で、米軍による日本兵の虐殺について述べている。

 

「逆に、日本軍は南の島でずいぶん玉砕したと言われていますが、降伏した日本兵はあらかた殺されています。英語を話すことのできる者だけは情報を得るために生かされましたが、それ以外の投降兵については、アメリカにしてみれば厄介なだけだったのです。そこで大量に殺してブルドーザーで埋めたわけですが、これらの人を捕虜といっていいかどうか分かりませんが、そのようなことがあったということは、向こうの記録にちゃんと書かれています。」

 

 

捕虜の殺害を正当化するもう一つの論拠は、緊急事態(苛烈な戦場でのやむを得ない場合)である。(『南京戦史』偕行社1988166,029)『封印の昭和史』169での「正当防衛や緊急避難の権利」、『「南京虐殺」の徹底検証』047,160での「自己防衛の権利」も同様の論理である。

171 それは「戦数」つまり「戦争の必数なるもの」をいうが、横田喜三郎『国際法(下)』(有斐閣1940)は、「範囲が広く不明確な例外は、戦争法規違反に口実を与えがちである」とする。また海軍大臣官房『戦時国際法規要綱』1937は、「戦争目的のために戦争法規を度外視してもいいというのは正当でない」とし、「緊急状態を脱することができないような場合や、戦争の目的を達成しがたい場合に、戦争法規外の行動をし得るという説は、ある場合には戦争法規を度外視してもいいという主張であり、採用すべきでない」とする。また信夫淳平は『戦時国際法講義』第二巻の中で、「ある状況下では捕虜を殺害してもいい」とするが、それは「軍の安全上絶対に他なしという場合」だと限定的だった。

 

 

173 藤岡信勝は『近現代史教育の改革』の中で「敗残兵を追撃して殲滅するのは正規の戦闘行為であり、これを見逃せば、脱出した敵兵は再び戦列に復帰してくる可能性があるのだから、殲滅は当然だとする。

 

19454月、沖縄海域で巡洋艦「矢矧(やはぎ)」は、戦艦「大和」などとともに米軍機の攻撃を受けて沈没し、米軍機は漂流する日本海軍将兵に数時間執拗に機銃掃射を加えた。(池田精一『最後の巡洋艦・矢矧』新人物往来社1998

194112月のマレー沖海戦の際に、日本の海軍機はイギリスの戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈したが、日本機は英駆逐艦による生存者の救助作業を妨害しなかった。児島襄『太平洋戦争(上)』(中公新書1965)はこの時の様子を次のように書いている。

 

「日本機は、二隻の大艦の沈没を見届けると、翼をふって英海軍将兵の敢闘をたたえながら雲間に姿を消した。さらに翌11日、確認のために飛来した鹿屋空の壹岐春岐大尉は、二束の野花を戦場に投下した。一束は日本武士道の戦士たちのため、もう一束は最後まで勇敢に戦った英国騎士道の戦士たちのために捧げられた。」

 

174 「ニューギニア増援に向かった日本軍の輸送船八隻が、連合軍機の攻撃によって撃沈された19432月のビスマルク海海戦では、漂流する多数の日本兵に対して、連合軍機が数日にわたって機銃掃射を反復し、さらには出撃した魚雷艇が海上を捜索して日本兵を射殺した。」(吉田裕『現代歴史学と戦争責任』(青木書店1997173

 

ジョン・ダワーの『人種偏見』(TBSブリタニカ1987)は、これを「人種偏見に色取られた戦争犯罪」としてこの事件を鋭く告発している。また戦後のオーストラリア社会では、海上を漂流中の350名の日本兵を機銃掃射で殺害した空軍パイロットを戦犯として処罰すべきだとの声が上げられ、大きな論争に発展している。

 

 

 

196 第11章 第11のウソ「中国軍がやった残虐行為を日本軍の仕業にしている」

198 妄想が産み出した「反日攪乱工作隊」説 笠原十九司

 

198 小林よしのりや、小林よしのりが基にする東中野修三や犬飼總一郎(南京戦に参加した元将校)らの「反日攪乱工作隊」説の源は新聞だったようだ。

 

200 『東京朝日新聞』19371216日によれば、

 

「なお潜伏二万五千 敗残兵狩り続く 外国権益を特別保護」

 

 「敗残兵にして便衣に着替えて市中に潜伏するもの二万五千名と推定されているので、我軍は清掃(粛正)に努力し、一方敗残兵の嫌疑あるものは取り調べ、老若男女に保護を加えている。外国権益に対しては特別に保護を加えると共に、皇軍の厳粛ぶりを示すのはこの時とばかり、将兵一同は市内建築物、物資の保存保護に努め、倉庫等には一々歩哨を立て在庫品の紛失を防いでいるが、中を調べると既に(中国人)敗残兵のため掠奪されて倉庫はからっぽとなり、歩哨を立てなくてもよいというナンセンスさえあった。」

 

『東京日日新聞』19371221日によれば、

 

「自国軍に掠奪される哀れな支那避難民 ドイツ婦人記者の南京脱出記」

 

「フランクフルター・ツァイツング紙支那特派員リリー・アベック女史は、南京陥落を前に逃亡する支那兵と共に漢口に赴いたが、女史が十二月初旬に漢口から郵送した南京脱出記…長江筋一帯の船舶は全部支那軍に徴発されており、民衆は逃亡兵の掠奪に遭って、すっかり興奮している。」

 

『東京日日新聞』19371220日によれば、

 

「南京悶絶戦慄の一か月 一外人(特に匿名)の日記」

 

「十二月十二日 城外の支那軍総崩れとなり、八十七師、八十八師、教導総隊は、学生抗日軍を残し市内に雪崩込み、唐生智は激怒して彼が指揮する三十六師に命じ、これら敗残兵を片っぱしから銃殺する。…敗残兵の放火、掠奪ならざるはなく、恐怖に陥る。」

 

『ニューヨーク・タイムズ』193819日(南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集(1)アメリカ関係資料編』青木書店1992)によれば、

 

『ニューヨーク・タイムズ』のダーディン記者は、

 

「南京に中国軍最後の崩壊がおとずれた時、人々の間の安堵の気持は非常に大きく、また、南京市政府及び防衛司令部が瓦解した時の印象はよくなかったので、人々は喜んで日本軍を迎えようとしていた。

 しかし、日本軍の蛮行が始まると、この安堵と歓迎の気持はたちまち恐怖へと変わっていった。日本軍は広く南京市民の支持と信頼をかち得ることができたかもしれなかったのに、逆に、日本への憎しみをいっそう深く人々の心に植え付けた。」

 

 

216 戦前の日本政府は、「中華民国」という正式な国名があり、略称として「中国」という呼称があったにもかかわらず、蔑視し軽視する意味でことさら「支那」と公文書にも表記し、正式な国名を無視した。日本国民も日清・日露戦争以降、中国や中国人に対する優越感と蔑視意識から、「支那」「支那人」と呼び、日中戦争では「暴戻なる支那の膺懲」「抗日支那の膺懲」というスローガンのもとに侵略戦争を強行した。中国から1930年に、国民政府外交部から日本政府に、「支那」ではなく「中国」の呼称に変えるよう要請がなされたが、日本側はほとんど無視した。

 

 19466月、戦勝国として東京に来た中国代表団から日本の外務省に、「『支那』という呼称を使ってはならない」という通達があり、外務次官は、新聞社、出版社、大学等に対して「支那」という名称を避けるよう通達した。以後、日本人は「支那」という呼称を一般に使用しなくなった。

現在では中国侵略戦争への反省とともに、「支那」という呼称に象徴される日本人の中国人蔑視、侮蔑意識が、侵略戦争を支えていたという反省に立って、そして何よりも中国人が「日本人が『支那』と呼ぶとき、日本が中国を侵略し、中国人を侮っていた頃の歴史を想起する」として忌み嫌っていることを尊重し、良識ある日本人は「支那」という言葉は使わない。

 

217 ところが東中野氏はことさらに「支那」「支那人」という呼称に執着している。

 

 

 

218 第12章 第12のウソ「南京大虐殺の写真はニセものばかりだ」

220 南京大虐殺はニセ写真の宝庫ではない 笠原十九司

 

224 日本軍が撮らせず、報道もさせなかった虐殺写真

 

225 東京日日新聞のカメラマン佐藤振壽は、中国軍敗残兵100名を虐殺している現場に居合わせたが、写真は撮らなかった。「銃殺や刺殺を実行していた兵隊の顔は引きつり、常人の顔とは思えなかった。」(「従軍とは歩くこと」『南京戦史資料集Ⅱ』偕行社1992

 

「新聞掲載事項許否判定要領」(193799日、陸軍省報道検閲係制定)

 

四 左に列記するものは掲載を許可せず

12)我軍に不利なる記事写真

13)支那兵または支那人逮捕訊問等の記事写真中、虐待の感を与える虞あるもの

14)惨虐なる写真、ただし支那兵または支那人の惨虐性に関する記事は差し支えなし

 

五 映画は本要領に準じ検閲するものとす

(『不許可写真Ⅰ』毎日新聞社1998

 

226 『不許可写真Ⅰ』には「南京市内掃蕩隊が敗残兵を獲物に引き揚げた 1213日」と題する写真がある。それは数名の中国兵を後手に縛って銃剣をつきつけて連行する場面の写真であるが、不許可とされ、ネガまで没収された。

 

小林よしのり『戦争論』には「ニセ写真」ではなく「出所のはっきりしている南京写真」として「平和甦る南京皇軍を迎えて歓喜沸く」を掲載している。

 

 

写真の誤用(写真の誤用とは当時の写真の場面を、元々の説明とは異なるように説明したものを言うらしい。それで笠原十九司は秦郁彦から追及されたようだ。)

 

右翼は写真の誤用を利用して追求し、出版を差し止めるという成功体験をした。中国帰還者連絡会議『新編三光』(光文社1982)、森村誠一『続・悪魔の飽食』(光文社1982)と『悪魔の飽食』は出版停止に追い込まれた。222

秦郁彦はやらせ写真を信じて私が正反対のキャプションを捏造したと非難攻撃する。229

 

227 私が誤用した写真は、『アサヒグラフ』19371110日号の「硝煙下の桃源郷――江南の『日の丸部落』」と題する4枚の写真のうちの1枚であった。

同写真が撮影された上海郊外の宝山県の盛橋(同誌では盛家橋)は、その写真のキャプションによれば、「わが軍の庇護によって平和に蘇った」部落で、日本軍部隊長が村長格に収まって「村民から先生先生と慕われている」「食べるものがなくなれば、皇軍の残飯が給され」「働けば働くだけ賃金を貰い」「昼夜を分かたぬ庇護を加えられて…部落民の喜しそうな顔を見るがよい」とある。私が誤用したのは「我が兵士に護られて野良仕事よりかえる日の丸部落の女子供の群」というキャプションがついた写真だった。

 

228 李秉(へい)新・徐俊元・石玉新主編(主編は中国語で編集長)『侵華日軍暴行総録』(河北人民出版社1995)は、「日本軍の宝山県における暴行」の節で、激戦地や日本軍の被害が多大だった地域での日本軍による報復として通例だった住民への虐殺・暴行の激化を指摘している。宝山県では15歳の少女が焼き殺され、泥沼に隠れていた家族三人がそのまま生き埋めにされ、盛橋周辺の村では数百から千人単位が殺害されたと指摘する。本多勝一も盛橋の隣の羅〇(江の工の上に又)を訪れ、住民2244人が殺されたと聞き取っている。(本多勝一『南京への道』朝日文庫1989

 

232 マギー牧師のフィルムは、虐殺現場や犠牲者の姿を撮影した唯一のものと思われる。「MBSナウスペシャル・フィルムは見ていた――検証南京大虐殺」(1991106日放映)は、マギー牧師の記録フィルムを中心に制作された。またナンシー・トン制作のビデオ『天皇の名のもとに――南京大虐殺の真実』は、マギーフィルムを収録している。*

 

*アマゾンがDVD6,285円で販売中。また、UPLINK渋谷で2025/12/21,24,26に放映予定。

 

また東宝文化映画部制作『南京』1938は、南京占領直後の南京城内の掠奪、破壊、放火された街の様子や、疲弊して無気力な表情の難民などを映し出している。本作はビデオ「戦記映画復刻シリーズ21」日本クラウン社となっている。

 

233 東京朝日新聞(193813日付)「南京・今ぞ明けた〝平和の朝″ 建設の首都を飾り 光と水のお年玉 万歳・電灯と水道蘇る」と比較せよ。

 

 

 

238 第13章 第13のウソ「『南京大虐殺派』は洗脳された自虐的な左翼だ」

240 歴史修正主義の南京大虐殺否定論は右翼の言い分そのもだ 藤原彰

 

242 洞(ほら)富雄1906-2000『近代戦史の謎』(人物往来社1967)が、最初の南京事件の歴史研究だった。これは1972年に『南京事件』として増補再刊された。

本多勝一『中国の旅』(朝日新聞連載1971、単行本1972)が南京事件論争のきっかけとなった。

鈴木明1929-2003『「南京大虐殺」のまぼろし』文藝春秋1973

山本七平(筆名・イザヤ・ベンダサン)1921-1991『私の中の日本軍』文藝春秋1975

 

文部省教科書検定は、肯定・否定の両説があり、歴史的事実として確定していないから、教科書に載せるのは時期尚早だとして(南京事件の)削除を命じた。

1982年、教科書問題が国際問題となった。鈴木善幸の外交決着。自民タカ派の反発。肯定否定の対立。

245 田中正明は原文の300か所も改竄して『松井石根大将の陣中日記』を出版した。

偕行社は南京戦参加者の証言を集め、事実をもって大虐殺という冤を晴らそうとしたが、「何千人という捕虜を命令で殺した」という証言が集まり、編集部は「遺憾ながら日本軍はシロではなくクロであった。不法殺害の犠牲者は3000から13000という説があるが、…中国人民に深く詫びるしかない。まことに相済まぬ。むごいことであった」と謝罪した。偕行社はその後も編集事業を進め、捕虜処断16000、市民の殺害15000としている。

また軍事史家の秦郁彦は『南京事件』(中公新書1986)の中で虐殺の存在を認め、その数は38000ないし42000人としている。

246 19931020日、家永三郎・教科書第三次訴訟東京高裁判決(1965年第一次訴訟提起)は、南京虐殺の存在と強姦の多出を認め、その削除を要求した検定を違法とした。1997年、最高裁判決も高裁判決を支持した。

 

ところが1990年代後半に、破綻したはずの否定論がまた叫ばれ出した。それは政治的右翼的軍国主義的キャンペーンというべきだ。「自由主義史観」を名乗る歴史修正主義である。

 

以上

 

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