ジョン・ラーベ著、エルヴィン・ヴィッケルト編『南京の真実』講談社文庫2000 ラーベの日記
ラーベRabeはカラスの意。
009 ラーベの日記とその時代 エルヴィン・ヴィッケルト
012 ラーベはヒトラーが平和を望んでいると信じていた。
017 1930年、ラーベはドイツを去った。ユダヤ人がドイツでどんな目に会ったのか、ドイツでもごくまれにしか報道されなかった。上海のドイツ語新聞や英語新聞も報じなかった。
018 1938年以降は、ヒトラーが戦争を起こすのではないかということの方が重要な関心事だったが、1930年代末、ドイツ系ユダヤ人が上海に亡命してきて、ユダヤ人の迫害について初めて知った。
018 ラーベは30年間中国に暮らした。
019 帰国後ラーベは日記を清書し、資料と合わせて八百ページからなる二巻本にまとめ、『南京爆撃』と名付けた。
ラーベの日記 1937年9月21日~11月18日
026 ラーベが語るナチ党の精神 9月21日 ドイツや、ナチ党、ドイツ政府について中国の役人に尋ねられると、ラーベはこう説明した。
一つ、我々は労働者のために闘います。
一つ、我々は労働者のための政府です。
一つ、我々は労働者の友です。
我々は労働者を、貧しきものを、見捨てはしません。
これを読んでいて参政党やれいわ新選組のことが思い浮かんだ。
ラーベはナチ党員で、支部長代理まで務めたことがある。
027 ラーベの南京で骨をうずめる覚悟 「私はナチ党員だ。この国は三十年という長い年月、私を手厚くもてなしてくれた。今、その国がひどい苦難にあっているのだ。金持ちは逃げられる。だが、貧乏人は残るほかない、資金がないからだ。虐殺されはしないか。彼らを救わなくていいのか。せめてその幾人かでも。しかも、それが他でもない自分とかかわりのある人間、使用人だったら。」
ラーベはここで南京に残る決意を固めた。翌日9月22日に空襲があったと書いているから、空襲が始まったころかもしれない。(笠原十九司『南京事件 新版』岩波新書2025, 029によれば、南京空襲が始まったのは1937年8月15日のようだ。)
031 中国人の民族意識 9月26日 昨夜、周文伯が26時間汽車にゆられて上海からやって来た。交通部(運輸省)に依頼されて電話機の修理にやって来たのである。周はわが社の優秀な技術者の一人である。
私は周に言った。「道中君に万一のことがあるかもしれないということを家族は承知しているのかね。」
周は答えた。「私は女房に言いました。『俺が死んでも、ジーメンスが何かしてくれると思うな。北部の親戚の所へ行け。…俺が南京へ行くのは会社の為だけではない。何よりも先ず祖国(国民政府)のためだ』と。」
普通の中国人はこのように考えないと思われている。だが現にこういう人々がいるのだ。なかでも貧しい人や中流の人たちの間では益々増えてきている。
033 10月6日 トラウトマン(駐中国ドイツ)大使がお茶を飲みに来た。
036 ドイツ人で南京に残っている人は男が60人、女が12人だった。
038 紳士的なラーベ 防空壕(ラーベが邸内に作った防空壕)の中では、赤ちゃんを抱いた女の人を優先すること。彼女たちが真中で、次にそれより大きい子どもをつれた女の人。最後が男性。男たちの驚きをよそに、私は繰り返しこう言って譲らなかった。
固有名詞が覚えられない。
059, 061 ローゼン ドイツ大使館員、いやいやながら南京に残された。祖母がユダヤ人で、ユダヤ系の血を持つため、出世できない。
073 ローゼン 作曲家の曽祖父イグナーツ・モシェレスはベートーベンと親交があった。1938年、休職を命ぜられてイギリスへ亡命。1940年渡米。戦後帰国して外務省に入省。1960年、モンテビデオ大使を最後に退官。翌1961年、死去。
スマイス教授 国際安全区委員会事務局長
私は国際安全区委員会代表
063 国際安全区委員会から日本大使に宛てた電報は国際難民安全区設置の許可申請であったが、日本政府からは返事が来なかった。
張 ボーイ
ヒルシュベルク先生(医師)、
064 11月23日は私の誕生日。
ローレンツ騎兵大尉。
065 国際クラブ デンマーク、中独英米人の交流の場。
067 「南京の住民は町(南京)を離れよ」と指令が出た。
070 今南京には20万人の非戦闘員がいる。
071 スマイス事務局長 084参照。南京安全区国際員会メンバーのリスト
071 ヒルシュベルク先生
075 プリドー=ブリュン英領事
アチソン米大使館書記官
076 蒋介石「最悪の事態になったら(南京が占領されたら)、日本人が行政(警察)を担当すればよい。」
079 ヒトラー・ユーゲントのリーダー、バルドゥア・フォン・シラッハの詩
「総統のかくも偉大なるところ、それは
われらが総統にして
あまたの民の英雄たること。
また、彼その人、
率直にして堅固、かつ素朴、
彼のなかにわれらが世界の源あり。
その魂ははるか天空へと達しながら、
なお人としてとどまられた。
君やわれと等しき人として。」
101 南京市長の馬は昨日12月7日南京から逃げ出した。
101 12月8日 南京防衛軍司令長官は唐生智という。(笠原十九司139, 150)
111 12月11日でも安全区に兵士がいる。それは日本に対する約束違反。
093 12月5日、アメリカ大使館の仲介で、ついに安全区についての東京からの正式回答を受け取った。やや詳しかっただけで、ジャキノ神父によって先日電報で送られてきたもの088と大筋は変わらない。
094 12月6日、ローゼンによれば、(12/2、)トラウトマン大使の和平案が、蒋介石に受け入れられたそうだ。(ところが日本側はそれを蹴った。(斡旋を断った。)笠原十九司150)
096 なぜ金持ちを、約80万人という恵まれた市民を、逃がしたんだ?
099 12月7日、上海放送はトラウトマン大使の和平案が蒋介石に拒否されたと言っている。ローゼンからの極秘情報によれば、すでに書いたが、もうそれは蒋介石に受け入れられたということだが。
115 12月12日、上校(しょうこう)とは、中国軍の中校と大校との間の位。日本の佐官(大佐)に相当。
116 唐の魂胆は分かっている。蒋介石の許可を得ずに休戦協定を結ぼうというのだ。日本軍宛ての公式書状で「降伏」という言葉は使われては具合が悪いのだろう。休戦願いは国際委員会の一存だと見せかけなければならない。
120 12月12日夜の9時、龍によれば、唐将軍の命令で中国軍は今夜9時から10時の間に撤退することになっているとのこと。後に聞いたことだが、唐将軍は8時に自分の部隊をおいて船で(揚子江対岸の)浦口に逃げたという。
126 12月15日、朝の10時、関口鉱造少尉が来訪。少尉に日本軍最高司令官宛ての手紙を渡す。11時、日本大使館補の福田篤泰氏。作業計画についての詳しい話し合い。
128 日本軍特務機関長との話し合い。1937年12月15日 出席者ジョン・ラーベ氏・代表、スマイス博士・事務局長、シュペアリング氏・監査役
128 四、武装解除した中国人兵士を我々は人道的立場に立って扱うつもりである。その件は我が軍に一任するように希望する。(信じられない)
130 パナイ号爆撃 日本海軍から聞いたのだが、アメリカ大使館員を避難させる途中、アメリカの砲艦パナイが日本軍の間違いで爆撃185され、沈没したそうだ。死者2人。イタリア人新聞記者のサンドロ・サンドリと梅平(メイピン)号の船長カールソンの二人だ。
笠原十九司によれば、水兵2名とイタリア人新聞記者のサンドロ・サンドリ、それに米商船美安号の船長の4人が死亡した。182 日本側は誤爆としたが、ルーズベルトは誤爆と認めなかった。185
131 スミス氏(ロイター通信社)講演「12月13日の夜になると、中国兵や民間人が掠奪を始めました。…しかし中国軍が組織的に掠奪行為を目論んだというのは正しくない。」
132 12月14日の朝になっても日本兵は市民に危害を加えなかったが、昼頃になると6人から10人くらいで徒党を組んで日本兵があちこちに見られるようになり、連隊徽章を外して家から家へと掠奪を繰り返した。中国兵の掠奪は主に食料に限られていたが、日本兵の場合は見境なしで、組織的に徹底的に掠奪した。」
136 12月16日 岡崎勝男・上海総領事が訪ねてきた。彼の話では、銃殺された(中国人)兵士が何人かいたのは確かだが、残りは揚子江にある島の強制収容所に送られたという。
141 12月17日 今日日本大使館に抗議の手紙を出した。それを読んだ福井淳(きよし)書記官はどうやら強く心を動かされたようだった。
146 12月19日 菊池氏…
148 12月20日 午後6時、大阪朝日新聞の守山特派員が訪ねてきた。
149 12月21日 日本軍が街を焼き払っているのはもはや疑う余地がない。たぶん略奪や強奪の跡を消すためだろう。昨夜は市中の六ケ所で火が出た。
152 我々は日本軍の松井石根司令官と会談し、全員が彼と握手した。大使館で私が代表して意見を言い、田中正一副領事に、日本軍は町を焼き払うつもりではないかと思っていると伝えた。
159 12月24日 鼓楼病院地下の遺体安置室にも入った。昨夜運ばれたばかりの遺体がいくつもあり、それぞれ、くるんでいた布をとってもらう。なかには、両眼が燃え尽き、頭部が完全に焼け焦げた死体があった。
サンパン 小型の平底船
162 12月25日 入れ違いに福井氏がやってきた。目下この人は日本大使館で一番上のポストにいる。高玉氏も一緒だ。
164 早くも悲惨な情報が次々と寄せられている。登録の時、健康で屈強な男たちが大勢より分けられた。(剔出てきしゅつ、写真13)行く着く先は強制労働か、処刑だ。若い娘も選別された。兵隊用の大掛かりな売春宿をつくろうというのだ。
171 12月28日 今日は方々から新たな報告が入った。難民はいくつかの学校に収容されている。登録前、元兵士が紛れ込んでいたら申し出るようにとの通告があった。保護してやるという約束だった。ただ、労働班に組み入れたいだけだ、と。何人かが進み出た。ある所では50人くらいだったといいう。彼らは直ちに連れ去られた。生き延びた人の話によると、空き家に連れていかれ、貴重品を奪われたあとで素裸にされ、5人ずつ縛られた。それから日本兵は中庭で薪に火をつけ、一組ずつ引きずり出して銃剣で刺したあと、生きたまま火の中に投げ込んだというのだ。そのうちの10人が逃げ延びて塀を飛び越え、群衆の中に紛れ込んだ。人々は喜んで服をくれたという。
173 日本軍は散乱した中国人の遺体の埋葬を許さない。
ガソリン責め殺害に関する記述がある。東史郎の言うところの郵便袋事件が思い起こされる。
177 12月30日 新しく設立された自治委員会は、五色旗(北京政府時代の中国国旗)をたくさん作った。(五色旗は中華民国の初期に五族協和を旨として用いられた。)
179 松の盆栽を二つ買った。福井氏と南京地区西部警備司令官の佐々木到一少将に渡す年賀だ。(佐々木到一は奈良と津を代表する歩兵第30師団のボス)
荒城の新年――1937年12月31日~1938年1月12日
182 12月31日 明日は1938年1月1日。いよいよ「自治委員会」がおごそかに樹立される。(おそらく傀儡政権のことだろう。)
184 1938年1月1日 夜の9時に日本兵がトラックに乗ってやって来て女を出せとわめいていた。戸を開けないでいたらいなくなった。
186 1月2日 我々が密かに恐れていたことがついに起こった。中国の爆撃機がやってきたのだ。
190 1月5日 またもや漢中門が閉まっている。昨日は開いていたのに。クレーガーの話では漢中門のそばの干上がった側溝に300程の死体が横たわっているそうだ。機関銃で殺された民間人たちだ。日本軍は我々外国人を城壁の外に出したがらない。南京の実態をばらされたら困るからな。
194 感想 2025年12月12日(金) 1月7日 日本の軍人は中国人の死体は野ざらしにしておくべきであると考えていた。ある時中国人の死体を棺に入れて葬送しようとしたら、日本の軍人が死体を棺の中から外に放り出したという。日本人の中国人に対する蔑視がここにも現れていると思った。
「リッグズが今日の視察の報告書を持ってきた。…我が家の収容所にやはり近くに住んでいた女性がいる。弟と一緒だが、こちらは両親と三人の子どもをなくした。全員日本兵に射殺されてしまったのだ。せめて父親だけでも埋葬したいと、なけなしの金で棺桶を買ったところ、これを聞きつけた日本兵たちが蓋をこじ開け、亡骸(なきがら)を放り出したという。中国人なんかその辺に転がしておけばいいんだ、というのが、彼等の言い分だった。」
195 1月8日 福井氏が言うには、日本大使館が国から新しい車を取り寄せるそうだ。ドイツ大使館員に、おそらく他の大使館にもそうだろうが、盗まれた車を弁償するという。
197 1月9日 11時にクレーガーとハッツが本部に来て、たまたま目にするはめになった「小規模の」処刑について報告した。日本人将校一人に兵士二人、山西路にある池のなかに中国人(民間人)を追い込んだ。その男が腰まで水につかったとき、兵士の一人が近くにあった砂嚢のかげにごろりと寝ころび、男が水中に沈むまで発砲し続けたというのだ。
200 1月10日16時 自治員会は、安全区の中、我々の本部の近くに販売所をつくった。
感想 20万人の中国人を救うべく南京に残り、南京安全区国際委員会の代表になった独ジーメンス南京支社の責任者ラーベさんは、この時55歳。結局、仕事の都合でというか会社の方針で、南京を去ることになった。1938年2月23日のことである。様々な団体から送別会を開いてもらい、また南京の中国人からは、特に女性たちからは、泣いて引き留められ、後ろ髪を引かれる思いであった。ラーベさんは責任感が強く、機転が利き、些事にこだわらない、実践力のある人だ。
ラーベさんなど安全区の委員や独米英の外交官、それに日本の外交官や軍人までが、南京戦争直後であるのに、それぞれの立場で、それぞれの利害を抱きながら交流していたことは驚きだ。
日本人が南京在住の独英米人に芸者接待したのは、南京での日本軍人による残虐行為を隠蔽する目的の口止め料なのだろう。
ちなみに私が小学校5、6年生の頃、担任の音楽の先生のもとで、「ドナウ川のさざ波」という合奏曲を練習し、発表会というか、外部の音楽の専門家の指導を受けたことがあり、私は大太鼓を叩いていたのだが、その「ドナウ川のさざ波」を1938年の南京戦直後2/9に、日本人軍楽隊が日本からわざわざ南京までやって来て、ラーベさんだけでなく、英米などの安全区委員らも招待して、日本大使館が軍事演奏会を開催したという。「ドナウ川のさざ波」という曲は戦中からある曲だったのだと感慨深い思いがしました。
またちなみに、ラーベRabeとはドイツ語で「カラス」の意味です。
荒廃する南京――1938年1月13日~2月5日
205 1月13日、イギリス海軍を通して上海の中国本社からの無線電報を受け取った。1月10日付で、ここをたたみ、韓をつれてできるだけ早く上海に来るようにとある。明日「外国人も中国人もいまは街から出られない」と返事をしよう。
211 1月13日、ドイツ大使館南京分室事務長シャルフェンベルク「…部隊が統制を失ったからだ、ということはかんたんだ。だが私はそうは思わない。アジアの人間の戦争のやり方は、我々西洋人とは根本的に違っているからだ。…」
217 1月18日、午後スマイスとフィッチがやって来た。米だけでなく他の食料品も運んではいけないし、倉庫から取って来てもいけないことになったというではないか。上海から取り寄せることも禁じるという。
218 中国本社から事務所をたたむようにという電報が届いた。
219 隴海(ろうかい)鉄道*沿線での大規模な戦闘が迫っている。*隴海(ろうかい)鉄道は、江蘇省連雲港(徐州の東)と蘭州市とを結ぶ鉄道。そして蘭州市からヨーロッパのロッテルダムにつながる。
220 1月19日、今日(従業員の)解雇通知を書いた。中国本社の指示で事務所を閉鎖しなければならないからだ。
224 街には日本軍の大きなポスター(写真10)が貼られている。「家へ帰りなさい!食べ物を支給します。日本軍を信用しなさい。我々は皆さんの力になります。」(しかしこれは現実とは真逆だった。おそらく日本軍にとって、中国人を保護している国際安全区の存在は厄介だったのだろう。)
227 マギーがまたしても悪い知らせを持ってきた。…近頃は中国人の若者を使って豚を捕まえさせている。なかなか捕まえられなかったり、全然捕まえることができなかった若者は、銃剣で突き刺された。一人は内臓がはみ出して、垂れ下がっていたという。
そうだ、日本軍は犯罪者の寄せ集めだと思えばいいのだ。普通の人間にこんなことができるはずがない!
230 1月23日16時30分、平倉港での礼拝。ミルズの説教は素晴らしかった。幾度となく彼はドイツと(ヒトラー)総統、及び総統の平和への努力について語った。
231 1月24日 我々も堕ちたものだ。心の支えも節操も失ってしまった!パットナム・ウィールの『北京からの書簡集』は1900年の北京包囲について書いたものだが、ウィールはその中で、自分をはじめとする他のヨーロッパ人の掠奪を赤裸々に綴っている。我々だって堕ちてしまった。いまや五十歩百歩だ。
233 1月25日 我々が届を出さなかった事件の一つにこういうのがある。ある中国人が日本人のために一日中働き、お金の代わりに米をもらった。疲れ切って家族とともに食卓に着くと、テーブルには妻が今さっき置いたばかりの鉢がのっており、おかゆが少し入っていた。これが一家六人の夕食だった。そこへ通りかかった日本兵が面白がってその鉢に放尿し、笑いながら立ち去った。彼は何の罰も受けずに済んでしまった。
234 1月26日 中国人兵士の死体はいまだに野ざらしになっている。家の近くだからいやでも目に入ってしまう。いったいいつまでこんなことが続くのだろう。信じられない。
235 安全区を出て人気のない道を行く。どの家にもそのまま入っていける。ドアが軒並みこじ開けられているか、大きく開けっ放しになっているからだ。そして繰り返しすさまじい破壊の結果を見せつけられる。なぜこんなに野蛮なのか。理解できない。
いったい何のためにこれほどひどいことをするのだろう。ただただわけが分からない。日本大使館の態度から、軍部のやり方をひどく恥じていることがずっと前から分かっているだけになおさらだ。何とかしてもみ消そうとしている。南京の出入りを禁止しているのだって、要は南京の実態を世界に知られたくないからだ。だがそんなことをしたところで、しょせん時間の問題だと思うがね。ドイツ、アメリカ、イギリスの大使館が再び外交官を(南京に)おくようになってから、何百通もの手紙が上海へ送られているのだから。それにはここの状況が克明に記されている。大使館が電報で報告しているのは言うまでもない。
南京の中で、安全区は人々が生活していることを感じさせる唯一の場所だ。ここの中心部には次々と新しい露店ができている。
236 我々はドイツをはじめ、アメリカやイギリスの各大使館に頼んで、何とかして食糧を取り返してもらいたいと考えている。市内の倉庫にはまだ米や小麦粉があるはずだ。だが日本軍の手に渡ってしまったので、取り戻せる見込みは極めて少ない。
237 1月27日 今日はヴィルヘルム二世の誕生日だ。私のように皇帝の時代に生まれた人間は、やはりそうすっぱり忘れることはできない。ただし私が懐かしんでいるのは皇帝ではなく時代だ。指導者としてはヒトラーの方がいいと思っている。だが、よく言うように、思い出というのは心の奥底にしみついている。皇帝の誕生日がめぐってくるたび、色鮮やかな制服に身を包んでパレードをしている人々の亡霊が現れるからだ。どの人も誇らしげだった。
240 上海にいる妻ドーラに宛てた手紙 1938年1月27日 「プリドー・ブリュン・イギリス領事が近いうちにイギリスの砲艦で上海に行く。郵便物をたくさん抱えて行くが、その中に君宛ての包みが三つある。中には私の南京での日記が入っている。クトゥー号もしくは漢口の倉庫にある私の日記の第一巻はすでに製本してある。誰か読ませたい人がいたら、貸しても構わないよ。ただ党の許可なしには一切公表することはできないだろう。…いつここを発てるか、まだ分からない。市内では自由に動けるが、町を出ることは禁じられている。少なくとも当面は。」
241 1月28日 (キリスト教青年会「励志会」所属のアメリカ人の)フィッチが、今日、何の前触れもなく田中領事から上海へ行く許可をもらった。証明書とか旅券、あるいはそういう類のものを一切よこさないだけに、なおさら変な気がする。
昨日の晩、福井氏に、「フィッチのために上海へ行く許可を出してもらえないか」と言ったとき、にべもなく断られたのに。ひょっとすると昨日の件で、アメリカ人に対して弱腰になったのかもしれない。なにしろアメリカと日本との間には、ここのところ、それからそれへと不愉快な事件が続いたから。昨日、アメリカ大使館の南京責任者・アリソン書記官が、何と日本兵に横面を張られるという事件が起きた。直ちにこれはワシントンに報告され、今日、ロンドン発の最新ニュースとしてラジオが伝えたばかりだ。日本はアリソン氏に謝罪することはしたが、アリソン氏が日本語でけしからんことを言って兵士を怒らせたからだという立場をあくまでも崩そうとしない。
242 「難民収容所を2月4日に強制的に解体する」との通達。難民はいやおうなしに瓦礫の町へ戻らなければならない。
244 1月29日 マギーが8歳と4歳の少女を見つけた。親族は11人だったというが、残らず残忍な殺され方をしていた。近所の人々に助け出されるまでの14日間、母親の亡骸のそばにいたという。姉が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという。(悲惨!)
248 1月31日 中国の新年。使用人や従業員の祝日だ。難民が庭できちんと整列して、三度お辞儀をしてくれた。難民たちから、中国語が書かれた、縦横3×2メートルの大きな赤い絹の布を渡された。感謝状と思われる。その内容は「あなたは仏様のような慈悲と勇気をお持ちです。あなたは幾千もの寄るべなき民をお救い下さいました。どうか天の恵みが授けられますように。あなたに幸福と神の祝福が訪れますように。収容所難民一同」
250 6週もの間、わが家の前に打ち捨てられている中国兵の死体が、ようやく埋葬されたと聞いて、胸のつかえがおりた。
2月1日 ヒトラー全権掌握五周年記念祝賀会へ祝電を打とうとしたのだが、ユダヤ人の血を引くローゼンは招かれていなかった。
中国人難民は家に帰ったものの、妻や娘が強姦されたという。そして続々安全区に戻ってきた。(これは1月28日の通達「難民収容所を2月4日に強制的に解体する」の余波だろう。)
251 2月2日 昨日本間少将が到着。南京の混乱を鎮めるために日本政府から全権を与えられているそうだ。ここには2日しかいないというが、それで足りるのだろうか。
上海日本大使館の日高信六郎参事官と昼食。我々が記録した日本兵の暴行はこの三日間だけでもなんと88件もある。これは今まで一番ひどかった12月を上回っている。日高氏は全く困ったものだとつぶやいて、部隊が交代する時には往々にしてこういう事件が起きがちだと言い訳した。
253 2月3日 うちの庭でも70人もの女の人が跪いて頭を地面にこすりつけながら泣き叫んでいる。みなここから出ていきたくないのだ。私は繰り返し訴えられた。「あなたは私の父であり、母です。これまで私たちを守って下さいました。お願いですどうか見捨てないでください。最後まで守ってください。辱められ、死ななくてはならないというのなら、ここで死なせて下さい。」結局、年寄が何人か出て行っただけだった。
254 張によると、自分たちがかつて住んでいた家の近くの家で人が殺された。17人家族のうち6人が殺された。娘たちをかばって日本兵に縋りついたからだ。年寄りは撃ち殺され、娘たちは連れ去られ強姦された。結局女の子一人だけが残され、見かねた近所の人が引き取ったという。
局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこらじゅうで見かける。吐き気がして息苦しくなる。70を越えた人さえ、何度も暴行されているのだ。
255 2月4日 恐れていた2月4日が過ぎた。何も起こらなかった。今日は正月の最終日だ。雨や雪もなんのその、人々は爆竹を鳴らしてにこにこしている。貧しい人というのは、こんなにも欲がないものだ。殴り殺されさえしなければ、それで満足なのだ。
南京との決別――1938年2月6日~4月15日
264 2月6日 ドイツ大使館南京分館からローゼンの報告
「今月の5日に日本大使館でパーティーが催されました。新しく任命された日本の駐屯部隊司令官大谷直次郎少将が当地の在外公館のメンバーを招待したのです。大谷少将は、日本軍の規律正しさについて述べました。『我軍は規律正しさで世界に知られている。日露戦争においても、満州出兵においても、これが破られることはなかった。このたび中国においてこのような事態が起こってしまったのは、ひとえに中国側の責任である。(日本軍ではなく)他国の軍隊だったら、もっとひどいことが起ったに違いないと確信している。蒋介石は軍のみならず、人民全体にも抵抗を呼びかけ、それが日本兵の感情を甚だしく害したのである。なぜなら、進撃途上で、食糧その他の必需品を一切手に入れることができず、その結果、兵士は人民に怒りをぶつけずにはいられなくなったのだ。』」(身勝手)
266 米大使館の南京責任者であるアリソン氏が原稿の写しを要求すると、今のはまったくの即興だったという。たった今まで時々原稿を見ながら話をし、福田書記官がもう一枚の原稿を見ながらとつとつと訳していたのに。
268 2月7日 許さんによると、明け方、蓮沼の近くで、中国人4人が日本兵に射殺された。一人の老人が家の近くに自分の力車を隠しておいたのを取りにいった際射殺された。奥さんと親戚の男の人二人が、助けに駆け寄ったところ、これまた同様に撃たれたという。
269 午前中、紅卍字会の使用人二人に案内され、ソーンと一緒に西康路の近くの寂しい野原に行った。ここでは二つの沼から中国人の死体が124体引き揚げられた。その約半数は民間人だった。犠牲者は針金で手を縛られて機関銃で撃たれ、ガソリンをかけられて火をつけられた。なかなか焼けなかったのでそのまま沼の中に投げ込まれた。近くのもう一つの沼には23体の死体があるそうだ。
273 2月9日 昨日の午後日本大使館から軍事演奏会に招待された。ローゼンは断ったが、委員会のメンバーはほぼ全員参加した。シャルフェンベルク、ヒュルター、アリソン(米大使館の責任者)、ジェフリーらである。ジェフリーは可愛らしいゲイシャを真中に「ドウメイ」のために記念撮影まで撮った。
日本軍の軍事演奏会のプログラム
演奏曲目
指揮 陸軍軍楽中尉 大沼哲
一、序曲 軽騎兵 ズッペ作曲
二、円舞曲 ドナウ河の漣(さざなみ)イヴァノビチ作曲
三、ワンステップ 支那町 シュワセツJ. Schwaly作曲
四、長唄 老松 大沼哲編曲
五、歌劇 アイダ ヴェルディ作曲
六、序曲 ウイリアムテル ロッシニー作曲
七、行進曲 我らの軍隊 陸軍軍楽隊作曲
274 2月10日 昨日の夕方福井氏が訪ねてきて、「よろしいですか。もし上海で新聞記者に不適切な発言をなさると、日本軍を敵にまわすことになりますよ」と脅した。
275 私は福井氏に言った。「我々はあなた方とこの辺でより良い関係を結んで、友好的に協力しあいたいと思っています。それなのになぜ鼓楼病院に食料品を取り寄せられないのですか。なぜ赤十字病院を訪問できないのですか。あそこに食糧を支給しているのは我々なんですよ。」福井氏は肩をすくめ同じことを繰り返すばかりだった。
276 2月11日 シンバーグから聞いた話はもっとすさまじい。だが今度は中国人の話だ。同郷の一人が隠し金を持っていると睨んだ4人の中国人が、その男を縛って火あぶりにし、金のありかを吐かせたという。
277 マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムを持ってきた。ローゼンは上海で複製をつくらせている。ベルリンに送るつもりだ。私にも一本くれることになっている。フィルムに写っている負傷者の何人かには見覚えがある。そのうちの幾人かとは、いまわのきわに話しができた。鼓楼病院の遺体安置所で見た人たちも写っていた。
279 在漢口大使館あてのシャルフェンベルク事務長の記録 1938年2月10日
「日本人が最近よく接触を求めてくるようになった。2月3日には再び大使館の人間が全員、日高参事官に招かれた。軍人抜きの集まりで、日本側の出席者は、福井総領事と専門担当員が一人。美味しい食事とワイン。静かで落ち着いたひと時だった。
2月5日に同じメンバーがまたティーパーティーに招かれた。今度は駐屯部隊司令官天谷少将の招きで、日高参事官をはじめとする日本大使館員や本郷少佐など日本人将校が数人出席した。
天谷少将がスピーチを始めた。福田書記官が通訳した。天谷少将は『外国人さえいなければ事態はもっと円滑に運んだに違いない』と決めつけた。『中国人は外国人の蔭に隠れ、外国人が抗議してくれるのをあてにして日本軍に抵抗しようとした。どうか私の中国人政策に干渉しないでいただきたい。』
原稿の写しはもらえなかった。
280 アジアの戦争は我々ドイツ人が考えている戦争とは本質的に異質だということが身に染みてわかった。捕虜にしないということは、冷酷な行為につながる。略奪は当たり前で、まるで三十年戦争の時代に戻ったようだ。
281 紅卍字会はまだあちこちに野ざらしになっている遺体を埋葬する許可を得て、終日前にはシュレーダー家の近くの沼から何と120もの死体を引き上げた。
2月8日午後4時、外国人は皆、すでになじみになった日本大使館の大広間に集められ、陸軍軍楽隊のコンサートに耳を傾けた。わざわざ東京から呼ばれた42人編成の楽隊が勢ぞろいして、見事な演奏を披露した。
282 我々外国人は並んで座っていた。全員が席に着くと、「大使館スタッフ」のゲイシャがお茶を配った。目の保養にと、とびきりきれいな女性四人が呼ばれていた。
四曲目が終わったところで休憩になった。軽食がふんだんにベランダに用意されている。ケーキ、いろいろな菓子、パンやクッキー、果物などが、帝政ロシア風の細長いテーブルにのっていた。再びゲイシャがお茶をつぎに来た。煙草を渡してくれるとき、特に火をつけるときに色っぽくしなをつくる。その様子を大勢の報道カメラマンが撮影していた。後で映画や新聞を通じて、南京での日本人と外国人の心温まる親善関係を見せつけ、耳目を驚かせようという魂胆だ。P・シャルフェンベルク」
『ノース・チャイナ・デイリー・ニューズ』からのラーベの抄録 1938年1月30日
288 吉田茂駐英日本大使の「日本軍の南京での特殊性論」批判
「日本大使は(南京虐殺に)懐疑的
ロンドンの『デイリー・スケッチ』のインタビュー(1938年1月29日)に答えて、吉田茂駐英日本大使は、中国で日本兵による言語を絶する残虐行為が行われたとの報道に遺憾の意を表明するとともに、次のように付け加えた。
『我国の軍隊がかくも自制心を失い、伝統に反するとは極めて考えにくいことである。そのような行為は我々日本人の伝統とまったく相容れないものであり、我国の歴史始まって以来そのようなためしはなかった。*日本軍は非常に規律正しいのだ。』
* 吉田茂は1932年の平頂山事件、1894年の甲午農民戦争での朝鮮人ジェノサイド、1923年の関東大震災時の民衆=在郷軍人会の朝鮮人虐殺を知らなかったのだろうか。おそらくとぼけているのだろう。」
289 2月14日 脚気の患者が出たので、緑豆を百トン送ってくれるよう、上海に頼んでいた。豆は今日蒸気船万通号で南京に着くはずだった。上海の日本海軍からは、船に積み込んで下関で荷揚げする許可が下りていたのだが、南京の陸軍に申請したところ、案の定却下されてしまった。
南京で脚気が発生していることなど知らないと日本側は主張しているが、これは格別驚くべきことではない。ここの人たちの健康状態について全く無関心なのだから。
291 2月15日 委員会の報告には公開できないものがいくつかあるのだが、一番ショックを受けたのは、紅卍字会が埋葬していない死体があと3万もあるということだ。いままで毎日200人も埋葬して来たのに。そのほとんどは下関にある。この数は、下関に殺到したものの、船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている。
アメリカ人の友人が次々と送別会を開いてくれるのに感激している。いまミニ・ヴォートリンさんが来て、別れの茶会に招待してくれた。南京が最悪の状態だった昨年12月、女性の難民を400人引き連れて、金陵女子文理学院に避難させた女性である。
イギリス大使館のジェフリー氏が今日、2月22日出航予定の太古公司の蒸気船万通号か、その2日後のイギリスの砲艦エイフィスで上海に行けるよう、イギリス海軍に頼んでくれると言った。
2月16日 アリソン氏来訪。「緑豆問題」が解決したと知らせてくれる。豆を輸入し、安全区の中でも外でも分配できることになった。
293 2月18日 ミルズを副代表ないし私の代理に、という私の案が受け入れられた。あと2か月ほど私が代表を務めるが、2か月経っても私が戻ってこなかった場合、ミルズが跡を継ぐことになる。「南京安全区国際委員会」の名称を「南京国際救済委員会」に変更することになった。フィッチがアメリカに帰るので、ソーンが後任になった。もうしばらくスマイスに事務局長のほか財務委員も兼任してもらうが、いずれ免除することになっている。
295 2月21日 夜8時に独米日の大使館員を招いてパーティー。英大使館のジェフリー氏は、夜8時以降は日本の衛兵が外出させないので、来られなかった。これについては長いこと抗議してきたが、ジェフリー氏は控えめな人なので断乎とした処置を取ることができない。独大使館からはローゼン、シャルフェンベルク、ヒュルター、米大使館からはアリソン、マクファディエンが参加した。
298 2月22日20時 夜10時のラジオニュース。ドイツが満州国を承認した。従ってトラウトマン大使は国民政府に対して難しい立場に立たされることになった。大使が辞任するのではないかと心配だ。(注・トラウトマンはその後しばらくして解任された。)
299 (私を乗せた)イギリスの砲艦ビー号は、朝9時に錨を上げた。午後には鎮江を通る。揚子江の夜間航行は禁止されているので、口岸で停泊する。
300 2月28日 昨日の午後2時に上海に入港した。
301 1938年3月16日、ドーラとコンテ・ビアンカ・マーノ号で祖国へ向かった。香港では先に行っていた汪がクワイ埠頭で出迎えてくれた。19歳の奥さんとその一族も一緒だった。1938年4月12日、ジェノヴァに上陸。4月13日、ミュンヘンで、息子のオットーが入隊してオーストリアに進軍したという話を聞いた。4月15日、ベルリンに到着した。
帰国後のラーベ
303 1938年4月15日のラーベの帰国直後、ドイツのマスコミはラーベの報道を避けた。一方中国国民政府はラーベに勲章を授けてそれに対抗したが、ドイツの新聞はそれも無視した。
ラーベは帰国後の1938年5月2日、ジーメンス本社でマギーのフィルムを見せながら講演会を開き、ヒトラー宛てに南京の実情を知らせる書簡を送ったが、ヒトラーはそれを無視し306、その数日後に、ヒトラーのお咎めを受けて逮捕された。307
しかしラーベはもともと民族主義者的であり、ヒトラー政権に盾をつくことなど毛頭考えていなかったので、何時間も尋問されたが、「丁重に」放免された。ただし書籍の出版や講演を禁止され、マギーのフィルムの上映も禁止・没収された。日記は1938年10月に戻されたが、フィルムは戻されなかった。
彼が強制収容所へ送られたという噂があったが、実際はジーメンス社からアフガニスタンへ赴任し309、その後間もなくベルリンに戻っていた。しかしその後はジーメンス社で高位につくこともなく、定年退職となった。それは戦後のことである。ラーベは脳卒中のため半日で死亡した。ラーベは中国に30年間滞在した。
310 ラーベは日記を『南京爆撃――生けるブッダの日記から』(1942年10月1日)二巻本として内密に書籍化した。これは刊行禁止の期間中であった。ラーベは、日記を取り上げられてから日記をつけていなかったが、敗戦間近の1945年4月24日から日記をつけ始めた。
311 戦後ラーベはすぐに非ナチ化を許されなかったが、第二審で許され、ジーメンスに再就職した。
311 1943年、ラーベは空襲にあって家を失い、娘婿の家に移ったが、飢えに苦しんだ。
311 1947年、ラーベは65歳で退職したが、年金が少なく、ジーメンス社で臨時雇いの仕事をし続けた。中国の軍事顧問団がラーベに食料を提供し、蒋介石夫人も気を使った。住居と年金を保証されて中国への移住も提案されたが、それは東京裁判で検察側証人として出廷することが条件だった。彼は断った。南京時代のミルズの妻が募金してラーベに救援物資を送った。
1950年1月5日の昼、ラーベは会社で脳卒中を起こし、その晩に死亡した。
1937年のドイツと中国
ドイツは当初中国と良い仲であった。トラウトマン大使が日中和平に尽力したのもその表れかもしれない。しかし1938年2月にドイツが満州国を承認した後には、同大使も罷免され、ドイツは中国を見捨てたようだ。
313 ラーベは英語が堪能で、ダンスも得意だった。
1996年、ラーベの日記が公表された。ユダヤ人を救ったオスカー・シンドラーには商業上の利益がからんでいたらしいが、ラーベの中国人に対する動機は純粋であった。ラーベが生きた時代のドイツは「恐るべき簡略された時代」(ブルクハルト)であった。
第一次大戦後の独中関係は良好だった。蒋介石政権を承認して大使館を北京から国民政府の首都南京に移したのは西側諸国中でドイツが最初だった。独中間の貿易高もイギリスに優っていた。1927年以来、蒋介石に招かれたドイツ人軍事顧問は、蒋介石軍を訓練し、ドイツのハプロ社が武器を供給した。蒋介石は養子の緯国をドイツ軍に送って訓練させ、国民政府軍に規律と秩序を導入した。
1936年11月、ベルリンで日独防共協定が結ばれた直後、私(エルヴィン・ヴィッケルト)は上海のクリーベル独総領事に「防共協定を結ぶなら、日本ではなく中国の方がよかったのではないか。領土拡張に躍起になっている日本には問題がある」と言った。領事はそれに賛成した。領事は総統とランツベルク刑務所で一緒に拘留された経験がある。当時ドイツでは軍事・外交に関して保守層が権力を握っていて、ヒトラーの親日政策には反対だった。日独防共協定では、日本側代表は武者小路駐独大使、ドイツ側代表はノイラート外務大臣ではなく、ナチの外交官リベンドロップだった。
1937年6月27日、蒋介石はドイツ駐華大使トラウトマンに、日独和平交渉の希望を匂わせた。317 日本軍は8月の上海攻撃で中国軍の激しい抵抗にあい困惑していた。中国軍は兵器では劣るが、予想以上に手ごわかった。10月21日、日本の広田外務大臣はディルクゼン駐日ドイツ大使に、「ドイツかイタリアかどちらかが南京政府に調停を勧めれば喜んで受け入れよう」と言い、日本が提案する和平条約の草案を示した。
11月5日、トラウトマンが示した和平条約案に、蒋介石はためらった。ところが数週間後に日本軍が中国軍を破って南京に向けて進軍すると、蒋介石は講和を決意した。
12月3日、トラウトマンは蒋介石に乞われて漢口から南京に戻り、蒋介石は一か月前の和平案がまだ有効だとの確認を取り、日本の和平案を受け入れると表明した。その夜ローゼン書記官はトラウトマン大使の電報を送信した。
12月6日、ラーベの日記で「ローゼンは日本が南京を占領する前に平和が訪れるといいと言っている。」
318 ディルクゼンが蒋介石の意向を広田に伝えると、広田は「この数週間で事態は変わった」とし、「日本が要求している華北政権は、南京の中央政府から独立すべし」と言った。
ヒトラーは平和の使者?
アメリカ人宣教師のミルズは、ヒトラーの平和への努力を称えた。ラーベのヒトラーへの働きかけのせいかどうかは分からないが、結果的に日本は安全区を承認した。ヒトラーの当初の外交政策は平和とヨーロッパ列強との対等の地位の獲得だった。
320 ラーベは1934年にナチ党員となった。チャーチルはその年「ヒトラーの勇気と不屈の精神」を称え、1936年秋、ロイド・ジョージはヒトラーを「当代ドイツの最も偉大な男、ドイツのジョージ・ワシントン」と呼んだ。
当時のドイツ帝国国防省と外務省の官僚は、ヒトラーの命令に従うだけではなく、ヒトラーの日本寄りの姿勢が明らかになった後でも、在華ドイツ大使館は、ローゼンだけでなく、大使も、日本人の戦争犯罪に驚愕し、厳しい態度を取った。ドイツ外務省も同様で、日本兵の残虐行為に関するマギー牧師のフィルムを帝国宰相官房に送った。
しかしヒトラーは戦争を決意していた。それに対してノイラート外務大臣やブロンベルク国防大臣、フリッチュ大将は、批判的意見を述べた。ヒトラーは三か月後3人を解任した。そしてリベントロップが外相になり、満州国を承認し、1938年夏、ドイツ人軍事顧問30人に中国政府との契約を破棄させ、ドイツへ呼び戻した。
ジョン・ラーベはナチだったのか。
321 ブラックマン『東京裁判――もう一つのニュルンベルク』1987は、二人のナチ党員(ラーベとトラウトマン)には日本の戦争犯罪を非難する資格はないという。
1997年、某女性ジャーナリストが、ドイツのテレビで、ラーベの働きについて米人の証人に発言を求めたところ、某ドイツ人同僚は、「昔のナチ党員の身の証を立ててやる必要はない」と言った。
1996年12月、『ニューヨーク・タイムズ』がラーベについて記事を書いた。「人命を救ったナチ党員」「ハーケン・クロイツを中国で人命救助に用いたナチ党員」
ラーベは1934年3月1日、ナチ党に入党した。
1945年6月5日、ラーベは日記に、当時彼が設立した南京のドイツ人学校の経営資金を得るために入党したとある。ラーベは南京で党地方支部長の代理になったときもあった。ベルリンの「ドキュメントセンター」には、ラーベの党の仕事について何も書かれていない。
ヒトラーは1933年3月総統になった。何百万の人々がナチ党員になったが、「古くからの闘志」に「三月ナチ党員」として軽蔑された。日和見主義者や、出世目的もあったからだ。また軽い圧力もあった。
323 フランソワーズ・クライスラー『近くて遠き国――中国 ドイツと中国との関係――その歴史と現在』1989には、「ドイツ国外の外交官やジャーナリスト、教師、企業の代表にとって、ナチ党およびその支配への参加を免れることはまずむりだった。」とある。
324 「アメリカ人の友人はみなヒトラーの介入を望んでいた」とラーベは日記に書いている。一方でウイルソンは「彼の人柄とヒトラー賛美とがどうしても結びつかない」と書いている。
ラーベは1930年にドイツを離れ、その8年後に帰国した。彼は当時のドイツを知らなかった。
当時ドイツには三種類の人がいた。第一はナチ、第二はヒトラーの正体を見破っていた知識人、第三は立派なドイツ人。ラーベは立派なドイツ人のナチで、インテリではなかった。
328 ヒトラーへの上申書 1938年6月8日
331 あるとき岡という日本の少佐が私を訪ねてきました。南京が陥落した後、私を保護するために遣わされたという。「なんですかね、あなたは!いったいなぜここに残ってるんですか。何のために我々の軍事にちょっかいを出すんですかね。あなたに何の関係があるというんですか。こんなところでうろうろしてもらいたくないですな!」
333 南京電力会社のタービンはわが社の製品です。役所の電話や時計もすべてそうです。中央病院の大きなレントゲン設備、警察や銀行の警報装置も。これ等を管理していたのはわが社の中国人技術者でしたので、彼等はおいそれとは避難できませんでした。この人たちをはじめ、事務所の従業員、何十年も私の家で働いている使用人、それに中国人マネジャーなどが、家族を大勢引き連れて私の周りに集まっておりました。
335 1937年7月28日、私は瀋陽と天津の間にある保養地の北戴河に避暑に出かけた。北戴河は日本に占領されて久しかった。
336 北京同様天津もとっくに日本に占領されていました。
337 私が7月に(避暑で南京を)発った時には、南京の人口はおよそ135万人でした。その後、8月半ばの爆撃の後に、何十万人もの市民が避難しました。9月後半になると空襲が激しくなった。
338 当時はまだ車でなら上海と行き来することができました。9月の末頃から南京の状勢は日を追って厳しくなりました。
339 トラウトマン・ドイツ大使が南京のドイツ人を避難させるために手配したクトゥー号は錨を上げ、危険地域を脱出しました。ところが大使がドイツ人を連れてクトゥー号に乗り込み、漢口へ向かい、そこで乗客と荷物を下ろしたところで、チャーター契約が打ち切られてしまった。私は服をほとんど(その船に載せた)荷物の中に入れていた。(ラーベも脱出するつもりだったようだ。)
ところが11月の末頃、アメリカの金陵大学の教授や教師たちが、ジャキノ神父が上海でつくった安全区を手本に、南京でも中立区をつくろうと提案した。安全区の業務は以下の通りである。
一、地区の安全確保 地区全体を、安全区を示す旗で取り囲んだ。
二、難民の収容
342 私たちは25万人の難民という人間の蜂の巣に住むことになった。中でも一番貧しい人たち、食べるものさえない6万5千人を25の収容所に収容した。彼等には一人一日一カップのコメしか与えられなかった。
343 安全区の保護を要請した私の手紙対する返事が日本側から届かなかったので、私はヒトラーとクリーベル総領事に打電したが、返事は来なかった。ところが実際は安全区は爆撃されなかった。
344 12月2日、ドイツ大使トラウトマンが、中国税関の艀(はしけ)に乗って突然漢口からやって来た。蒋介石に和平案を提示するためだ。
最後まで残っていた各国大使館員は、ジャーディン社の船で避難したが、この船は後に爆撃された。
344 三、食糧支給 米のほとんどが撤退した中国兵によって持って行かれた。およそ2万の兵を残して中国軍は撤退した。
四、衛生設備の設置
346 1938年2月1日まで埋葬が許可されなかった。
五、病院 安全区には鼓楼病院一つしかなく、アメリカ人の医師と看護婦が2人ずついた。負傷した中国兵の治療は日本軍に禁じられ、赤十字病院で治療すべきだと言われた。
赤十字病院は鉄道部、国防部、国立中央大学、外交部の4か所につくられた。外交部を除き日本軍によって取り払われ、閉鎖された。12月13日の朝、外交部の病院を訪ねると、中国人医師や看護婦は逃げてしまっていて、患者たちは放置され、死体だらけだった。
六、警察業務 残された500人の警官にモーゼル拳銃だけ持たせたが、後に日本軍によって元兵士とみなされ処刑された。
350 12月9日 我々は唐将軍に南京市内の防衛を諦めるように説得した。
12月12日 午後6時半
359 紅卍字会という仏教系の赤十字組織(注:必ずしも仏教系とはかぎらない)を通して私たちは一つの沼から124体もの死体を引き上げた。
360 信じられないこととお思いでしょうが、婦女子の暴行は安全区にいくつもあった女子収容所のまんなかで行われた。そこにはそれぞれ5千人から1万人の女性が寝泊まりしていた。
361 (ドイツ以外の)外国の国旗が尊重されることは全くなかった。アメリカ国旗はしばしば引きずりおろされ、汚された。60軒あるドイツ人の家のうち40軒以上が略奪され、4軒は完全に焼き払われた。我家から私が放り出した日本兵は100人は下らない。時には命の危険がないわけでもなかった。ナチ党員のバッジとハーケン・クロイツの腕章の他に身を守るすべがなかった。
362 2月1日まで、埋葬も禁じられていた。
中国側は10万人の民間人が殺されたというが、これはいくらか多すぎる。我々は5万から6万と見ている。
わが家の収容所の難民は650人に膨れ上がった。
364 次第に食糧が少なくなってきた。
私たちは(日本軍から解散しろと言われたが)委員会を解散しなかった。しかし日本軍の意を迎えるために、名称を「南京国際救済委員会」に改称した。
個別の私的な掠奪集団の後に、組織的な掠奪部隊が登場した。
365 日本軍部隊が交代してから幾分統制は取れてきた。憲兵隊もいた。
(安全区から)10万人が出て行った。年寄りの男性や子どもが私の(ドイツへの)出発前に(安全区から)出て行った。
解説 南京の惨事とラーベの日記 横山宏章 長崎シーボルト大学教授
370 日本国内の南京虐殺に関する論争を「中国が利用しないはずがない。中国はそのことから多大な経済的利益を引き出し続けている。」*私はこの考えに賛成できない。
370 文献
・ティンパレー編「戦争とはなにか――中国における日本軍の暴虐」、洞富雄編『日中戦争 南京大残虐事件資料集』第二巻・英文資料編、青木書店、1985所収
・「『ニューヨーク・タイムズ』南京特派員T・ダーディン記者報道」同上所収
・南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集』①アメリカ関係資料編、青木書店、1992
・笠原十九司『南京難民区の百日――虐殺を見た外国人』岩波書店、1995
・滝谷二郎『目撃者の南京事件――発見されたマギー牧師の日記』三交社、1992
372 文献
・郭歧「首都陥落――血と涙の記録」1938 *郭歧は当時安全区に逃れていた南京守備隊員。
・「地獄の南京」、雑誌『半月文摘』所収、1938.5
374 文献
・徐淑希編『南京安全区檔案』、洞富雄編『日中戦争 南京大残虐事件資料集』第二巻・英文資料編、青木書店、1985所収
376 ルイス・スマイス博士の被害調査によれば、都市部より農村部の被害の方が大きい。
377 ここで横山は日本軍の蛮行理由を類型化している*が、私は帝国主義的な植民地に対する蔑視が蛮行の根底にあると思う。イスラエルもしかり。欧米の中東に対する考え方もしかり。
*類型化
一、日本軍の体質
二、南京戦の特殊性
三、激戦の極限状況
378 日本軍は善良なる庶民だったので罪の意識がなかった。*これは嘘だと私は思う。
文庫版訳者あとがき 平野卿子
379 編者エルヴィン・ヴィッケルトは、元駐中国大使で歴史学者。1936年、学生旅行中にラーベ宅に数週間滞在。自伝『勇気と高慢』(90年代初頭)を出版。ヴィッケルトは95年、ウルズラ・ラインハルト*からラーベの日記の存在を知る。*ラーベの孫。ヴィッケルトは第二次大戦中、外務省広報官として日中で勤務した。
380 ヴィッケルトは97年にラーベの日記の中心部分を出版した。本書はこのドイツ語版をそのまま訳したものであるが、解説と資料は抄訳し、戦後の部分は省略した。
以上
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