2019年7月19日金曜日

『昔夢会筆記』(せきむかいひっき)――徳川慶喜公回想談―― 渋沢栄一編、大久保利謙校訂 平凡社1966 要旨・抜粋・感想


『昔夢会筆記』(せきむかいひっき)――徳川慶喜公回想談――
渋沢栄一編、大久保利謙校訂 平凡社1966


感想 本書を読みながら、これは私の手に負えない代物だと思っていたが、大久保利謙氏の解説330を読んで、本書が難解である理由が分かった。
本書は一人の著者が一定の構想の下に書き下したものではなく、大部の『徳川慶喜公伝』を編纂するための準備段階として、編纂者が史料上の問題点を慶喜に問いただす過程をそのまま記述したものであり、文体も、座談会の速記であったり、著者が慶喜の発言を含めてまとめたりして、統一したものでなく、また、年代が前後したり、内容的にも、時代背景に関する説明もなく、いきなり編纂者の、史実における疑問点だけを慶喜に問うたりするものだから、当事者にしか分からないような文章になってしまったのである。  201979()

感想 これは私の手に負えない代物だ。この時代の詳細は分かりかねる。
徳川慶喜という人物、この時すでに晩年で老境に入り、少しぼけているようで、ぼけていないようにも見える。「覚えがない」という答が多いかと思うと、はっきりと自己主張するときもある。当時の政権に配慮しなければならない事情もあったかもしれないし、もともと彼自身が朝廷よりだったのかもしれない。

 慶喜は豪胆なのか、小心なのか、徳川側なのか、朝廷寄りなのか、掴みどころのない人物だ。

 それにしても、孫崎亨氏は『アーネスト・サトウと倒幕の時代』で、よくこの難解な書物から的確な情報を掴み取り、我々に提示してくれたものだと感心する。
201973()


感想 日本はまだアングロ・サクソンの時代にいると、アーネスト・サトウが『一外交官の見た明治維新』の中で言っていたような記憶があるが、本書に出てくる参会者が討議?し、いや正確には昔話を仲間内で回顧する言葉遣いの端々に、身分制を前提とした心的態度を感じざるを得ない。上様に配慮する言葉遣いや敬語表現、自らを過度にへりくだる態度などの中にそれが見られる。
この時代の日本人の社会関係のあり方は、「民主主義」の時代となった今でも引き続き存続している気がしてならない。周囲を気にして自分の意見を表明しない、あるいはできない。多くの人が世論調査でわからないと回答する。これは自分の頭で考えず、テレビのニュース・キャスターの低俗な発言を鵜呑みにし、それを無自覚的に自分の意見だとするような日常生活を送っている人が多いからではないか。それは、自らの意見を表明すると相手から憎まれるかもしれないと思い、それよりも自らの意見は言わないでおき、平穏な自分の殻に閉じこもっていた方がいいという心的態度の反映ではないか。
 日本が戦争へと突き進む要因はそういう心的態度だったのではないか。 201958()



徳川慶喜公伝 自序 1917年、大正6年6月 男爵 渋沢栄一述

要旨

慶喜公の冤罪022を晴らしたいという渋沢の意図から発した本書だが、時代が変遷し、公が東京の御住居になって宮中へも時々御参内なされたり、明治35年には公爵を授けられたりして、次第に状況が好転し029、当初は編集作業を秘密裏にやり、公の死後に公刊する予定だったが、今度は公然と作業が出来るようになった。しかし公は出版前に亡くなってしまった。031

渋沢栄一は埼玉県の農家の子017で、24歳で徳川慶喜に仕え、一時期明治政府の役人になったこともあったが、辞めて銀行業に専念したようだ。022

メモ

017 私は24の年に埼玉県下八基村字血洗島の農家から江戸に出て、攘夷を実行しようと同士と共に横浜の異人館焼き討ちを企てた。
018 翌年私は徳川慶喜公に仕えることにし、一橋家の家来になった。三世の義を結ぶ決意であった。
その後慶喜公が徳川の宗家を御相続され、引き続いて将軍職を御拝命となり、私も幕臣となった。
幕府の滅亡に際して、公が宗家を嗣がれることは不利であるので、私は憂慮に堪えなかったが、尊卑の懸隔が甚だしく、公との意思疎通が出来なかった。
原市之進という立派な側近が公のそばにいたので、私は原に、慶喜公に思いとどまるように進言したが、甲斐なかった。

公の御弟徳川民部大輔殿(民部公子)が、フランスの博覧会に参列のため、私が同行した。1867年、慶応3年正月横浜を出立し、博覧会終了後、公子のお供をしヨーロッパを巡回中、日本では公が幕府の政権を返上されたことを知った。
019 鳥羽伏見の出来事には驚いた。それは無謀のことだと思った。日本が群雄角逐(ちく)の時代になると思われた。私は公子と共にヨーロッパで長く学問をするつもりだった。
しかし水戸中納言慶篤侯が薨去(こうきょ)され、公子が水戸家を相続されることになった。私はこれは藩内の党争の結果であり、順当の御相続とは思われなかったが、お迎えの人が強情で、我々はやむなく慶応4年、明治元年11月、帰国した。

慶喜公は駿府に退隠されていた。政権を返上したのに、なぜ鳥羽伏見の戦端を開かれたのか、なぜ大阪から俄かに軍艦で御帰東されたのか。
020 有栖川宮が大総督として東征した際に、公が一意恭順謹慎、惟命是れ従うというご決心をなされたのはなぜか。怯懦(きょうだ)暗愚と評されてもいささかも弁解しない御決心をなされたのはなぜか。私は慶喜公の腑甲斐ない有様に憤慨した。
020 天子に対しては何様のことも犠牲にせねばならぬという、公の御趣旨は御尤もではあるけれども、実際は薩長二藩が事を構え、朝命を矯(た)めて無理に幕府を朝敵としたのである。幕府に力があれば薩長を朝敵にすることもできた。そのことは1864年、元治元年の蛤御門の先蹤(せんしょう)で歴然である。
人は権勢に阿附せず情義に厚き行動をもって一生を送らねばならぬと厳父の庭訓(ていきん)によって深く骨髄に染みていた。志士をもって自ら任じるからには、正義人道によって行かなければならぬと始終心がけていた。
私は維新政府には奉仕せず、その年の冬駿府に帰り、慶喜公に久しぶりに拝謁した。公の幽居宝台院を訪れたのは夕方だった。
021 公は私の疑問とすることを「甲斐なきこと」とされ正面から答えてくれなかった。

私は1869年、明治2年の元日を駿府(この年の6月から静岡と改称した。)で迎え、商法会所を創設した。
私が東京へ出たとき『山陽遺稿』の中で、烈婦阿正の話を読んだ。阿正が夫の死後、他に再嫁しても不義でも不貞でもないと親戚が勧告したが、阿正はこれに従わず貞節を遂げようとすると、親戚に強迫され、阿正は自殺したという話だ。私はこれは狭い女気であるが、その貞操の堅いところを買ってやりたいと思った。また山陽がこれを激賞したのも心地よかった。私は「読烈婦阿正伝」という漢文一篇を作ったが、杉浦蘐(けん)堂*という老人がこれを見て、私の心の内を察した。つまり、新政府には仕えぬという私の意思である。

 *もと甲府徽(き)典館の儒員で、外国奉行調役杉浦愛蔵氏の父

 朝廷の公に対する御仕向はあまりに御情がない。私は厭悪の念を起こした。
022 これは冤罪だ、この公をかく幽暗の中に閉蟄せしめておいて、他の人々がしきりに威張り散らすのは、けしからぬと私は憤慨した。

022 明治2年11月、私は大蔵省に召されて余儀なく新政府に奉仕する身となり、再び東京に移住した。またこのころから公の御謹慎も少しく解けて、これまでのごとく、宝台院の一室に幽居せられぬでもよいことになった。
 新政府の官吏となるのは余儀ないこととはいえ、実に不本意だったので、大蔵省の召について静岡藩庁へ辞退の取次ぎを請求したけれども、藩庁では朝命に背くことになるから、取次ぎは出来ぬと言われ、ついに東京に出て辞令を拝受したが、機会があれば辞職いたそうと考えていたので、仕官の後一月ばかりたって大隈大蔵大輔の築地の邸を訪い、官を辞したいということを請願した。
 大隈「今日の維新の政治はあたかも高天原に八百万(やおろず)の神たちが神集うたようなもので、この神々が新たに日本を造りつつあるので、君もやはり一柱の神の仲間である。それ故に静岡藩もなければ、薩摩も長州もない、そんな小事を論じては困る。君も最初は階級制度を打破しなければならぬと言って奮起した人ではないか。」「何ゆえにこの日本を我が物と思うてくれぬか。」と私の請願を許してくれなかった。また私もその説のいかにも快濶雄大であるのに服して、出来る限り勤めてみましょうと答えた。しかし私は、数年の後に強いて大蔵省を辞して、宿望を遂げるようになった。

023 私は大阪へ銀行の用があるときは静岡の紺屋町の公の御住居へ数回参った。後に深草町に御新邸ができてからも伺候した。
 公は私の在官中の見聞を話題として、三条・岩倉・大久保利通・西郷隆盛・木戸孝允などの諸侯の話を申し上げると、公はいつもそ知らぬ風をなされた。
しかし追々と歳月が経るに従って、明治20年以後、公は徐々に語り始めた。
政権返上の御決心が容易ならぬことだったと(私が)思うと同時に、鳥羽・伏見の出兵は御本意ではなく、当時の幕臣の大勢に擁せられてやむを得ざるに出た御挙動であったこと、しかしてそのことを遂げんとすれば、日本は実に大乱に陥る、またたとい幕府の力で薩長その他の諸藩を圧迫しうるとしても、国家の実力を損することは莫大である、ことに外交の困難を極めている際に当たってさような事をしては、皇国を顧みざる行動となると悟られたためであること、またここにいたって弁解するだけかえって物議を増して、なおさら事が紛糾するから、愚といわれようが、怯と嘲られようが、恭順謹慎をもって一貫するより外はない、薩長から無理としかけられたことではあったが、天子を戴いておる以上は、その無理を通させるのが臣子の分であると、かく御覚悟をなされたのだということを理解したのは実に1887年、明治二十年以後のことであった。
024 真に国家を思う衷情があれば、黙視せられるより他に処置はなかったのだということを、私はしみじみと理解した。御苦衷を人に語るべきではない、かえって他人よりは逆賊と誣(し)いられ、怯懦と嘲られても、じっと御堪えなされて、終生これが弁解をもなされぬとは、実に偉大なご人格ではあるまいかと、尊敬の念慮がいや増した。
 1893年、明治26年、私は旧友の福地桜癡(ち)に、公の御事蹟を記述して、公の大冤魂を天下後世に申雪する方はあるまいかと、初めて御伝記編纂のことを言い出した。
福地氏自身も幕府の歴史を書きたいと思っていた。慶長1596-1615・元和1615-1624の初めより、慶応・明治の終わりまでの史実を書きたいと。そして維新後の歴史は、とかく徳川家を讒誣(ざんぶ)することのみを記した書が伝わっているが、これは後世を誤るものだと言った。
私は、それは大変なことなので同意しなかったが、慶喜公の伝記は私が調べておくので、福地に編纂の主任を引き受けてくれと言ったところ、福地は同意してくれた。
025 私は公の伝記を編纂することに関して、平岡準蔵氏に公の気持ちを打診してもらった。平岡は東京で米穀商をしていて、藩庁のころから余剰金を公のために蓄積し、私の経営する銀行で利殖を謀っていた。
 ところが公はお許しにならなかった。公は世間に知られるのは好ましくないとのことだった。
そこで必ず世間に知られぬように、公の死後に発表すればどうか、私は百年の後を期していると、平岡氏を介して再度伺うと、公は、それほどの熱意ならばと、承諾されたが、世間に公にするのは、死後相当の時期においてしてくれとのことだった。
旧幕臣の古老から内々に聞き取り調査を始めた。朝比奈閑水(元甲斐守昌広)は外国奉行で、その実父は十二代将軍の御小納戸頭取を勤務して、当時の大奥のことを熟知していた。
026 また駒井朝温(元甲斐守)、松平勘太郎(元大隈守)、浅野氏裕(元美作守)、杉浦梅潭(たん)(元兵庫頭)などから聞き取り調査した。旧幕臣だけでなく、水戸藩、会津・桑名などの諸藩や、幕閣に列した諸家についても調べた。
 福地氏は、幕府を根拠にして書くべきだ、公は御一身に国家の安危を担われたのだから、公の伝記は幕末史であり、外国のことは公の御一身の変化に関係している。また家康公の幕府を立てた時の精神と形式も調査して、その根源を研究し、幕府がそれだけの権力を持っていながら、なぜ公が敝屣(へいし、破れた履物)を捨てるがごときことをしたのかを記述しなければならない。従って、公のご一身を述べる本伝と、前提に属する前記との両方を書かねばならない、と述べた。私は、それは大変だと思いながらも、書く人に任せることにした。
 翌年の1894年、明治27年に旧桑名藩士の江間政発氏に材料を託した。福地氏はその材料に基づいて本伝(慶喜公の伝記)を執筆することになった。
 1901年、明治34年、深川の(渋沢)宅の一室に事務所を開き、福地、江間両氏がここに通勤し、福地氏は伝記の前記を起草し、外国関係の洋書を翻訳した。
 1904年、明治37年、福地氏は代議士になり、多忙となり、また病気にもなり、編纂事業を中止し、遂に病死した。
027 穂積陳重、阪谷芳郎と相談し、穂積の紹介で、三上参次に相談し、荻野由之博士に執筆主任になってもらうことになった。そして福地氏の旧稿は継承しなかった。1907年、明治40年6月、編纂所を兜町の事務所の楼上に設け、数名の編集員を置いた。
026 徳川家康が幕府を建てたのは天子を後にする精神ではなかったが、国家の統一のためには朝廷を押し付けたこともあった。
 幕末での外国との交渉で朝幕に分かれるのは国体の観点から望ましくない。幕府の閣臣はもっと早くこのことに気づくべきだった。国家は武力で勝ち取った将軍家のものであるというのは思い誤りであった。慶喜公はその点を考慮して政権を返上した。私は公の冤魂を慰めるために本書を書こうと思った。王政復古は、慶喜公の、大勢看破の明と、大事決断の勇と、忠君愛国の誠とが与って力ある。私はこの伝記を感情に走らないものしたかった。もし福地氏の案だったならば、頼山陽の『日本外史』のような文学的・感情的な歴史となっただろう。今回の荻野博士の伝記は、史実に忠実である。
029 文政の末年(文政13年=1830年)、白川楽翁公が、頼山陽に、『日本外史』の一覧を求めた。山陽は楽翁公に書を書いた。山陽は自らを宋の蘇轍に比し、楽翁公を韓魏公に比し、史家はその当時の人に知られることだけを期待するものではないとした。つまり、蘇轍が韓魏公に向って、「私は閣下に知られることを求めてはいない、百年先のことを期しているのだ」と述べたように、山陽も、「千百年の先を見込んで『日本外史』を書いた」と楽翁公に述べた。

私もこの伝記を現在発表しようとは思わなかったが、時代が変わった。公も東京に移住し、宮中にも時々参内され、1900年、明治33年には麝香間(じゃこうのま)祇候となり、1902年、明治35年に公爵を授けられ、社会的交際も可能になり、先年公が薨去されたときには、聖上から誄詞(るいし)を賜り公の御奉公の精神を御表彰遊ばされた
030 このような時勢の変化に連れ、公も編纂を嫌がることがなくなり、世間も怪しまなくなり、私も公然と編纂事業を経営するようになったため、編纂者の発意で、私が会主となり、公を中心として、毎年数回会同して、種々の疑点を公にお尋ねし、公の前で討議することになった。公はこの会を昔夢会と命名した。
一章脱稿すると私が一覧した後で公に見せ、公が付箋をつけた。当初は公の死後本書を出版する予定だったが、公が東京に転居された頃には、本書を一日も早く出版するように変更した。しかし、その時公が薨去された。ただし、初稿本の公の静岡移住の章までと、第二稿の三分の一は、公がご覧になった。

032 維新の政変のような大事において如何に処すべきか。それは私を捨てて公(おうやけ)に従うことだと思う。我が国民において貴ぶところのものは、国家に対する犠牲的観念である。忠君愛国もその一つだ。自らの功労が世間に表れることを求めず、その苦心に対する報酬を望まず、他より毀損されても、他より侮辱されても、自らの精神を動かさず、一意国家の為に身命を擲(なげう)って顧みない偉大な精神である。公は国難を一身に引き受けられた。本書が懦夫を立たしめることを願う。
(1917年、大正6年6月 男爵 渋沢栄一述)

感想 江戸時代から1945年まで、日本人は神話の世界に生きていた。日本は神が作った国であるとする『日本書紀』の世界が信じられていた。慶喜然り、この渋沢も然り。
 また国家のために一身を奉げよという渋沢の最後の言は、すでにこの時代の国家主義的傾向を示唆していないか。

昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 

第一

感想 この「第一」が書かれたのが、明治40年1907、日露戦争1905後の頃で、ロシアに対抗し、朝鮮を目指し、ますます自国の権益を軍事的に追求するために、挙国一致し、国家の為に一身を奉げさせようとする時代背景を反映してか、最初の部分を読んでみての感想だが、慶喜が国家や天皇の為に尽くそうと努力した点が強調される。また「史実を忠実に伝える」ように配慮して本書が編纂されたと渋沢が言っていたように、ここには自らの主張がなく、政府に対して従順で、去勢されたような文章だ。渋沢が当初考えていた冤罪を雪ぐという目標は一体どこへ行ったのか。

003 半弓と弓術との事
慶喜が幼少の頃疱瘡にかかり、寝ながら弓を達磨目がけて撃って全てあたったが、大きくなって弓道をやってみて、弓道はそれほど簡単でないと悟ったという話。

烈公とは慶喜の父親。水戸齊昭(なりあき)卿。

井上甚三郎鯁直の事
慶喜が歩打球*をしているとき、手で鞠を掴んでプレーをしたのを、井上甚三郎が見ていて、井上は笊(ざる)に鞠を沢山入れて、ゴールにそれを一度に投げ込み、慶喜のアンフェアーなプレイを諌めたという話。

*江戸時代に既にサッカーがあったのか。

烈公の御教訓の事

烈公(慶喜の父)は、尊王の志が厚く、登城に先立ち、庭で京都の方に向って拝することを習慣としていた。烈公は私が20歳の時、私に「幕府を輔翼すべきは今更言うにも及ばない事だが、もし一朝事起こり朝廷と幕府と弓矢に及ぶ事があれば、私たちは幕府に背いても、朝廷に向って弓を引くようなことがあってはならない。これは義公(水戸光圀卿)以来の家訓だ。」と言った。
三家・三卿 三家とは尾張の徳川家(尾州家)、紀伊の徳川家(紀州家)、常陸の徳川家(水戸家)。
三卿とは、徳川氏の支族で、田安、一橋、清水の三家の家格。

烈公の攘夷論の事

烈公の攘夷論は、藩内の武備充実のための名目であり、必ずしも外国船を実際に打ち払うためのものではなかった。それは日本の砲術が西洋のものに比べて幼稚であることをよく知っていたからだ。
しかし世相が変わって、それは実際に外国船に対する攘夷論に変質した。

005 井伊直弼御詰責のこと
私は井伊掃部頭(かもんのかみ、直弼)に「勅許を待たずに条約を締結したのはまずかった。事情をつぶさに京都に話すべきだ。」と言った。

三条実美・姉小路公知両卿東下(とうか)の時の事
三条中納言(実美)と姉小路少将(公知)の両卿が攘夷の勅を奉じて東下した時、私はこのような事は不可能だと知っていたので、「できない事はできないと明らかに奏上するのが覇府(=幕府)の務めだ」と老中に言っていた。老中は「とりあえず勅諚を受けておき、後日周旋したらどうか」と言ったが、私は「そのようなことは決して成功しないだろう」と言った。私が言った事が行われないようなので私は後見職を辞するつもりで登城しなかった。すると兄の因州(松平(池田)相模守慶徳)は、「攘夷が不可と言うのは烈公の先霊に済まない。兄弟の縁を切る。」と言った。
006 私は止むを得ず登城した。老中は「今は攘夷が不可だとは言えない事情がある。安藤対馬守(信睦(のぶよし、後に信行、信正))等が、井伊掃部頭の遺策で、和宮(かずのみや、親子(ちかこ)内親王、後に静寛院宮)の降嫁(こうか)を奏請し、公武合体を計ったのだが、宮は既に有栖川宮(熾仁(たるひと)親王)との婚約が済んでいて、宮ご本人も関東へ下るのは厭がったので、主上(孝明天皇)も強制できないと考えた。」
「そこで幕府は、孝明天皇が攘夷を望んでいるのだから、『幕府が十年後には攘夷の方針を採ることにするが、そのためには公武合体すべきだ。従って宮の降嫁が必要だ』と奏上した。」
「すると主上が降嫁を許可した。」
「いま攘夷の命を拒否すれば、宮が戻ってしまう。だから一旦は攘夷の勅を受けて、後で周旋すればよい」と私に言った。
この時礼遇改正がなされたが、朝廷の言う事は至当なことであった従来は将軍が上段に座し、勅使を下段に坐せしめていたが、今回からは京都からの勅使を玄関まで送迎することになった。私はそのことに賛成した


感想 この箇所は、以前は将軍が天皇の使者に対して上段に座っていたが、それを今では改めるという力関係の変化を示唆している。

007 昭徳公(家茂公、いえもち)が初めて上洛し、攘夷の勅許を受けるとき、表面的には勅諚奉公を私に一切委任することにし、私は将軍家に先立って帰府(江戸に帰り)し、将軍家はなおしばらく京都に滞在し、朝廷との調節に努めた。このようにして、攘夷が行われないようにした。攘夷はもとより行われるべきでないからだ。そして形勢が難しくなれば、私が辞職すればよいと決心した。

感想 ここを読むと、幕府自らの意思を通しながらも、表面的には(孝明)天皇に屈服している弱弱しさが見受けられる。

老中等昭徳公の参内を恐れたる事
 昭徳公の上洛後、たびたび(天皇の)召に応じて参内するようになったが、老中はこれを恐れた。将軍家が承諾してはいけない事を、将軍家の中でも若い者が承諾してしまう恐れである。従って出来るだけ参内しないようにし、どうしても参内しなければならないときは、将軍家御扣(ひかえ)所(麝香(じゃこう)の間)の前の廊下で扣え、主上に拝謁の時には、小御所前や御学問所前の廊下で扣えていた。

008 鷹司関白と御談話の事
 私が上京のとき、鷹司(たかつかさ)関白(輔熙(ひろ))に、外国の兵艦が強大で、鉄砲も鋭利で、運転も自在であると説明したが、鷹司氏は「さもあらん」と、よく理解されたかと思ったら、「日本人には大和魂あれば」と言い出し、「貴所(あなた)も烈公の御子なれば、必ず攘夷はなされような=なされるだろうな」と言い、私はその度し難きに困じ果てたりき。

感想 この箇所は、孫崎亨氏が『アーネスト・サトウと倒幕の時代』の中で指摘していたことだ。

生麦償金支払いの事
 生麦償金の議が起こったとき、朝廷は表面的には償金は決して支払うべきでないという立場であったが、鷹司関白、近衛関白(忠熙、ただひろ)、青蓮院宮(尊融法親王、後に朝彦親王。また粟田宮、獅子王院宮、中川宮、尹(いんの)宮、加陽(かやの)宮、久邇(にの)宮などと称す)などは、償金を払うのはやむをえないと思っていた。
私はそのことを知っていたので、中根長十郎(正言)、平岡圓(えん)四郎(方中)の二人を、神奈川の小笠原図書守(ずしょのかみ、長行(ながみち、肥前唐津藩世子、後に壱岐守))のもとに遣わし、(図書守を)諭した。
 図書守は独断で償金を支払い、自ら責任を取ろうと罪を待った。これは京都に徘徊する雑輩の物議を沸騰させるのを避けるためだった。天皇も咎める事はないだろう。ただし失敗は、率いた兵の数が自己防衛にしては多すぎ、京都を清掃するには少なすぎた事だ。そしてついに罪せられた。

009 蛤門の変の事
 元治元年(1864.7.19(8.20)禁門の変)長藩は「入京嘆願」と称して大兵を上京させた。会桑両藩士はこれを直ちに討とうとしたが、私は歎願なのだからとし、それを制止した。
しかし結局暴発が起こった。その前夜(7月18日)、私は御所から参内を求められ、9時ころ三人を従えて出かけたところ、関白以下が私を迎え、長藩の密疏を示した。その末尾に「会藩に天誅を加える」とあったので、私は会桑以下の諸藩に兵を出さしめた。
 19日午前4時頃、伏見で砲声が聞こえたが、これは長兵と大垣兵とが戦を開いた事を示すものだった。
私は菊亭家に入り、身支度を整え、馬で御所周辺を巡回したところ、下立売御門付近で鉄砲で狙撃されたので、御所内に入ったところ、混乱していたので、一旦兵士を追い出し、部署を定めて再配置した。
私は御所の塀の外で陣を構えていたが、参内を求められたので、参った。鷹司家に潜伏していた長兵が塀越しに銃を撃ち、銃弾が玉座にまで届いた。
この時長州荷担の堂上等(裏松前中納言(さきのちゅうなごん、恭光)がその首魁だった)は、長州と和睦すべきだと主張した。
011 私はそれを退けたが、経過次第では、朝廷から長州の入京を許す事になるかもしれなかった。
私は御前を退き、会桑と大砲方に命じ、鷹司家に火を放った。ここに潜んでいた長兵は死んだり、逃れたりした。この戦闘は正午に終わった。
その後私は承明門に陣取っていたが、20日午後3時ころ禁裏附糟谷筑後守(義明)から密報があり、十津川郷士が今夜鳳輦(ほうれん)を奪おうとする計画があるとのことであった。またどこからか郷士が禁中に入ったという知らせもあった。*十津川は奈良県の川。
私は筑後守に、会桑両藩にその兵を常後殿の塀の外に集結させるように伝え、関白にもその事情を知らせた。
私が参内すると、天皇は常御殿にいて、縁側に板輿(はんよ、木製の輿(こし))があった。
012 私は天皇を紫宸殿に移し、会桑の兵を庭の中に入れたところ、郷士等は板輿を擁して出て行った。
宮中にも手引きする者がいたようだ。* 私の人生経験の中で必死の覚悟をしたのは三回だが、これはそのうちの一つだ。他の二件は、条約勅許奏請のときと、官軍が江戸討ち入りした時とである。

*岩倉具視か。

条約勅許御奏請の事

012 慶応元年1865、英・仏・米・蘭四国の軍艦が兵庫に来て、兵庫の開港を迫った。風聞には、これは全く薩州の計策で、当時薩州は長州と合体していて、長州を助けて幕府を苦しめようとし、英国と示し合わせて、英国が他の三国に勧め、将軍家が大阪に来ているのを利用したとのことだ。*

*西郷隆盛か。

 昭徳公(家茂、いえもち、007)が、私を大阪に呼び出したので、私は京都から大阪に向かったのだが、登城する前に、阿部豊後守(正外、まさと)と相談した。
 これより先、豊後守は、松平周防(すおう)守(康直、後に松井康英)、松前伊豆守(崇廣、たかひろ)等と謀り、外人が「一日で勅許を得よ」と言ったが、それは到底無理であり、それならばむしろ独断で開港を許すのがいいと考え、周防守は兵庫に向ったとのこと。
 私は、「将軍家が上洛して直接勅許を得るべきだ、戊午(ぼご、安政5年1858日米修好通商条約調印)の件もある、私も勅許をもらうために京都へ行って努力する」と言って、周防守を兵庫から呼び戻させた。
 一方、大阪町奉行井上主水正(もんどのかみ)は、指詰めすると言って外人を脅し、回答までに外人から一週間の猶予を得て兵庫から戻ったが、その時周防守と遭遇した。
013 私は「先に行くから、後で将軍家が来て欲しい」と言って、京都に戻った。
 朝廷では老中が専断して開港を許したとして公卿らが激昂していた。そして朝命で阿部豊後守松前伊豆守は老中職を免じられた。朝廷からの直接の免黜(めんちゅつ)は初めてのことで、老中等は不満だった。そして今は松平周防守一人だけが、老中職に在職することになり、松平は、将軍家に勧めて、「将軍家が病だから」として、将軍職を私に譲らせ、自分らは昭徳公を擁して東帰しようとした。
私は大阪に出向き、会桑にもその内容を伝え、大阪に集まってこの件での尽力を要請した。
私は下阪の途中、伏見で尾張玄同(大納言徳川茂栄、もちはる、後に一橋家を継ぐ)が上京するのに出会った。
私は御守衛総督の立場から、尾張玄同の目的を問い正したところ、(将軍家が)将軍職を譲ることを朝廷に伝えるためだと明かした。
014 また尾張玄同はこの件につき、秘密としておくのではなく、すでに布告されていたことを知り、たぶらかされたと憤った。私は尾張に「あなたは上京して関白(二条齊敬(なりゆき))に(将軍職委譲の件について)申し上げ、私の大阪での相談の結果を待て」と言った。
私は原一之進(忠成)に、玄同から(将軍職委譲の)話があっても、関白にそれを許可しないように(関白に)申し上げさせた。
私は下阪途中の八幡付近で、将軍家の行列に会ったので、伏見に引き返して待った。籠を待ち拝謁を願うと、若年寄が私の佩(はい)刀を預かろうとした。それは将軍に対する礼儀だったので、私はそれを拒否し、将軍家に面会した。
将軍家は「どこも病気ではないが、年寄りたちがこう言えというのだ」とし、老中は「私は微力で兵庫開港の勅許が得られない」「あなたの能力を見込んでのこと」と言った。

私はもう一度天皇への奏請を決意し、将軍家には京都の二条城で待っているように告げた。
私は天皇に、条約勅許・兵庫開港がやむを得ない理由を伝え、詳しくは国事係りに申しておくとし、国事係総員の出席を求め、彼等に国家の利害や外国艦砲の威力を説き、今条約を勅許しないと国難が降りかかると言ったが、
015 関白以下は頑として肯んぜず、退散しようとした。すると小笠原壱岐守が「皆ちゃんちゃん坊主になるよ」と放言したので、私はそれを制して、「腹を切る」と言い、座を立とうとした。すると関白らは別室で協議した。伝奏両人が出てきて、条約勅許の御沙汰書を私に渡した。(関白等は出て来ず、御沙汰書の文面は、私等が用意した文面と同じものだった。)
しかし、兵庫の開港はどうしても許されないとのことで、私は御沙汰書の文面にある「条約の儀、御許容あらせられ候間、至当の処置致すべき事」を利用し、兵庫開港御差し止めの廉を曖昧にした。つまり「(開港しなくても)兵庫の開港は勿論だ」と解釈できる。なぜなら、開港を諾せざれば、「至当の処置」とは言わないし、他方「兵庫開港御差し止め」とあるのは、いまだ(開港の)期限の来ていないからだ」と弁解できた。これも私が三度死を決したうちの一度である。
 
将軍職を襲(つ)ぎ給いし事
015 昭徳公(家茂、いえもち、1846—1866, 病死)が薨(こう)じた慶応2年、板倉伊賀守(勝靜(きよ)、後に松叟(そう、おきな))と永井主水正(もんどのかみ、尚志(むね)、後に介堂)が、遺命だからとして、私に徳川家を相続せよと言う。
016 私は「先年御養君*の一件」があり、野心があるのではないかと疑われるのは厭なので、拒否した。彼らの打診が度重なるので、私は原市之進に「今のような困難な状況で徳川の家を維持する事は難しい。この際断然王政の御世に復して、忠義を尽くそうと思うがどうか」と尋ねたところ、原は「徳川家を持続したほうがいい」とのことであった。私は政権奉還は思い止まったが、板倉と永井を呼び、「徳川家を相続するだけで、将軍職は受けないなら可だ」と答えたが、二人はそれでもいいとのことだったので、徳川家を相続した。 *誰か。
 しかし老中等は将軍職も受けるように強要し、また外国との関係もあるので、結局将軍職を受けた。私の政権奉還の意志はこのころからあり、その覚悟をしていた。

政権御奉還の事
017 土佐の後藤象二郎(元燁(よう))や福岡藤次(孝弟(たかちか))らが、松平容堂(山内豊重)の書を持って来て、政権奉還を勧めた。
板倉、永井も「今は余儀なきこと」とし、私は「譜代大名以下旗本をも召し、衆議を尽くすべきだが、紛擾するとまずいから、一旦決めてしまってから、事後知らせるのがいい」と言ったところ、同意した。
そして後藤、福岡らだけでなく、薩摩の小松帯刀(たてわき、清廉(きよやす))や諸藩の重役にも政権奉還を言ったところ、後藤、小松らは「御英断」とし、小松は板倉に「今直ちに参内すべきだ」としたが、翌日上表した。
しかし、朝廷に人物がなく、外国の制度に倣うことはなおさら容易ではなく、今の政権奉還は大害になるおそれがあるかもしれない。
朝廷より「奏聞の趣尤もに思し召され、政権奉還の儀聞こし召さる。ただし国家の大事と外国の事とは、衆議を尽くしたる上にて決定せらるべければ、その他の小事はしばらく従前のとおりたるべし」との御沙汰があった。そして王政復古を出した。
 この時老中以下は政権奉還に賛同したが、内心は直ちに聴許しないだろうと予測していて、「従前の通りたるべし」との御沙汰があるだろうと期待していたのだが、直ちに聴許されたので失望しまた不満でもあった。
018 関東の者は総じて時勢に疎く、私は説明に困った。
 薩長両藩に下された倒幕の密勅は、これより先既に内定していた。政権奉還の後では妙なので、それ以前に発せられた。私の上表と同時に発せられたらしい。小松はこの間の事を知っていたので、「今直ちに奉還を奏聞せよ」と勧めたようだ。

二条城を出でて下阪し給いし事
018 王政復古が宣言された日1868.1.3、尾張大納言(徳川慶勝、よしかつ)等が二条城に来て、「朝廷の経費が不足しているので、徳川家から200万石を出せ、また内大臣も辞任せよ」という勅諚を伝えた。
それに対して私は「幕府の石高は400万石しかない、後日返事をする」とした。私は、諸大名一般に石高に応じて割賦で負担させるべきだと考えたのだ。
(二条)城中の兵士は怒り、老中も、「これは無理だ、薩摩が勅使を曲げたのだ」と言い、武力行使を唱えた。
私は天皇に対する騒乱が発生するのを恐れて下阪した。
019 私は朝廷に「勅許を待って下阪すべきだが」と言い訳をした。私は(二条)城を大場一眞齋(景淑、主膳正、かみ)に預けて、城中の兵を集め、会桑の兵も連れて西下した。

 このころ松平豊前守(正質、後に大河内氏)は、外国公使と会い、「徳川家は朝廷の委任で、依然外交のことを掌る」と通告し、委任状を作って示した。
仏国公使は「徳川家が政権を奉還し、政権を失えば、味方できない」と申し出て、豊前守はそれは一大事とし、私に委任状を示すように求めたが、私はそれを許さなかった。そこで豊前守は密かに委任状を作って示したのだろう。

鳥羽伏見の変の事
 このころ江戸では市中警護の庄内の兵と薩摩の兵とが争端を開き、そのことで大坂城中の憤激は上下とも激しくなった。
後日私が江戸に帰ったとき、在京の薩摩藩士吉井幸輔(友実)が、在府の同藩士益満休之助に贈った書状を見た。「慶喜は大阪にありて案外謹慎なり。この分にては或いは議定に任ぜられんも計られざれば、今しばらく鎮まりおるべし」とあった。
この書簡は、江戸の薩邸に集まった浪人が庄内兵の屯所に発砲し幕威を陵辱したが、これが薩藩の使嗾によるものであることを示唆している。江戸でも幕威を保つためには薩邸を討たざるを得ないので、干戈を交えた。
休之輔は、薩邸焼き討ちの際に機密書類が押収されたことから、幕府に拘禁された。
020 その後山岡鉄太郎(高歩、鉄舟、てつしゅう)が謝罪謹慎を総督府に歎願する際、その途中の危険を慮り、休之助の拘禁を許して、(休之助に)案内させた。(意味不明)

 大阪城中では上下暴発の勢いを制しがたく、松平豊前守は「大阪を徘徊する薩人一人を斬るごとに15金与えたらどうか」と言い出したが、私はそれを抑えた。
 京都から越前の中根雪江(師質)や尾州の某らが4、5人下阪し、私に入京を勧めたので、私は軽装で入京しようとしたが、会桑両藩以下旗本がこれを聞かず、「好機なので十分兵を擁して入京し、君側を清めるべきだ」と言った。かれらは堅く決心しているようだ。
 新村氏が言うには「大小目付部屋の光景は驚くべきもので、彼らは論議に夢中だった。」
 私は風邪を引いて寝ていた。板倉伊賀守が私の所へ来て「あなたが兵を帯びて上京しなければ、叶うまじき」と何度も言ったが、私は読みさしの『孫子』の「知彼知己百戦不殆(あやうからず)」を示し、「今幕府に西郷吉之助(きちのすけ、隆永、隆盛)や大久保一蔵(利通)や吉井幸輔に匹敵する人がいるか」と尋ねたが、伊賀守は「なし」と答えた。私はこれでは勝てない、朝敵の汚名を蒙るだけだとしたが、板倉や永井は「公がこの請を許さないならば、部下が公を刺し脱走しかねまじき勢いなり」と言う。私は、それは国乱の基だと警告した。
しかしこのころは江戸で薩邸を討ったあとで、私は城中の激動を収めることができなかった。彼等は「君側の姦(かん)を払う」と外国公使に通告し、入京の途についた。私は大阪城に止まった。

東帰御恭順の事
021 私は開陽丸で江戸に帰る道中で、板倉以下に「この上はひたすら恭順の他はない」と告げた。
帰府の後、勝安房守(義邦、海舟後に安芳)が、私に「あくまでも戦うつもりなら、軍艦を清水港に集め、東下の敵兵をそこで扼(やく、おさえつける)し、一方で薩州の桜島を襲って、敵の本拠をつくべし」と言った。私は「既に一意恭順に決したり」とし、勝も私のその意をうけ、西郷吉之助と会談して、江戸討ち入りをやめることになった。




第二  1909年、明治42年3月20日 兜町事務所において

ペリー渡来の時の御建白の事
022 『嘉永明治年間録』に基づいて慶喜に質問している。一段下げて書かれた部分は質問者の質問事項である。

ハリス出府の時の御建白の事
023 『如是我問』『昨夢紀事』などの文献に基づいて質問者が質問する。

三老中と御激論の事

養君御辞退の事
024 大奥の老女は老中よりも怖いので、御養君を断った。私が御養君となることを嫌ったのは、当時の幕府は既に衰亡の兆しがあっただけでなく、大奥の老女が実に恐るべき者で、実際老中以上の権力があり、殆ど改革の手をつけることができなかったからだ。

養君とは養子のこと。次期将軍を約束される人物。「家定に子どもができないことから、その養子が求められた。御三卿と御三家から養子を取る決まりになっていた。」とある。(www5a.biglobe.ne.jp  02堀田正睦)

大老・老中御詰責の事
025 1858年、私が呼び出したのに大老の井伊掃部頭(直弼)は多忙だとして出頭しなかった。井伊直弼が宿継奉書でアメリカとの無断調印を報告したのは不敬である。
026 ちなみに言う。掃部頭は断には富みたれども、智には乏しき人なりき。しかしてその動作何となく傲岸にして、人を眼下に見下す風あり。けだし、体躯肥満にして常に反身をなせるより、自ずから然か見受けられしものか。

大久保忠寛の政権奉還説の事

横浜鎖港御請振につき御激論の事
027 長州は鎖国を唱え、薩州は開国を唱える。然るに幕府は開国を唱えるのだが、薩州の言う事には反対だとして、酒井雅楽頭(うたのかみ、忠績)と水野和泉守(忠精、ただきよ)は「薩州の言いなりになるくらいなら辞職する」などと言う。

京都守護職更迭の事
028 1864年、朝廷における長州派は、松平春嶽を守護職にしたかったので、松平肥後守(容保、かたもり)を外して、春嶽を守護職にしたが、春嶽は主上の信認が薄く、兵力も不足していたので、間もなく肥後守が復職した。

禁裏御守衛総督御就任の事
028 島津大隅守がこの地位を狙っていたが、私が就任した。

仏国公使再挙を勧め申せし事

肥後藩士再挙を勧め申せし事

老中の動作の事

雪中若菜の御歌の事


第三 1909年、明治42年5月6日 飛鳥山邸において

烈公御直諌(かん)の事
031 1858年、慶喜公は、(実父の)烈公が、暴言を吐き、幕府の方針(幕議)とは異なる内容の書簡を(京都の)鷹司家に送っている事を咎めた。暴言とは「(堀田)備中守に腹切らせ、ハルリスの首を刎ぬべし」「数百万人を引率してアメリカに渡航せん。百万金を得て大阪城を借らん」などである。
事後、公は、堀田備中守には鞍を、土岐丹波守(頼旨)、川路左衛門、永井玄蕃頭(げんばのかみ、後に主水)、岩瀬肥後守、井上信濃守(清直)には唐織(からおり)を贈った。

*私の読みが間違いでなければ、これは慶喜が自分の実父を諌めたということのようだ。

一橋邸にて御謹慎の事
032 1859年、私(=慶喜公)は謹慎させられたが、そもそも三卿は幕府の部屋住みだから、当主でない部屋住みのものが隠居を命ぜられるのはおかしいと批判した。(意味不明)

国のため民のためとての歌の事
033 「国のため民のためとてしばし世を忍ぶが岡に墨染の袖」という歌は、私が上野で謹慎中に詠んだ歌とされるが、実は幕府の坊主大竹三悦が詠んだ歌である。


第四 1909年、明治42年6月8日 兜町事務所において

御名と御別号との事(慶喜の様々な名前について)
034 昭致は「あきむね」と訓ず。七郎麻呂、子邦、興山、経綸堂、一堂などの別称がある。

一橋家御相続の事

尾水と連合御建白の事

安政の断獄の事

島津久光の幕政改革意見書の事

後見職辞退を思い止まり給いし事
037 1862年、再度の勅使が東下しようとするとき、幕議が攘夷の勅諚を遵奉することを決定したが、そのとき私は後見職の辞表を出した。ところが松平春嶽が、国家の為に辞職を思い止まるよう私を説得し、板倉、永井、岡部駿河守なども私を責め立てたので、私も止むを得ず再び出仕した。

大久保忠寛外転の事
037 老中が将軍の施政方針を伺う際、御側(そば)御用御取次という役職を作って、老中と将軍との連絡係りとした。しかし(この職に就いた)大久保越中守は資質が偏固で、自分の意によって手心を用い、政務を阻害したので、私は板倉周防守と将軍家に伺って、越中守を講武所奉行に外転させた。しかし松平春嶽は越中守を高く評価し、この議に反対した。1862年のことである。

井伊直弼等処罰の事
038 意味不明

加因備三藩と長藩との関係の事
039 蛤門の変の時、戦端が開かれると、加州藩の世子松平筑前守(前田慶寧、よしやす)が、大津に引き揚げた。長藩が鳳輦(ほうれん)を移動する場合に備えて、それを置く場所が必要だった。加賀藩には近江に領地があった。これは『防長回天史』に出ている。
 因州や備前(松平(池田)備前守茂間政)などは、私の兄弟だったが、長州と結託していた。

初度の長州追討に昭徳公*の上洛を促し給いし事
039 薩摩藩の小松帯刀(たてわき)は、将軍家が兵を長州に進めるよう私に勧めた。私も同意見で、将軍家や会津の上洛を促した。しかし関東では容易に上洛を決行する兆しが見られなかった。帯刀は私一人でも進軍するように促し、薩摩藩も協力すると言ったが、私は一人では判断できないと断った。

*家茂(いえもち)14代将軍1858--1866。昭徳は戒名。

征長総督更迭の事
040 1864年、(第一次)長藩追討の総督として、紀伊中納言(徳川茂承、もちつぐ)を任命しながら、いくばくもなくして尾張前大納言(さきのだいなごん、徳川慶勝)に変更したのはなぜか。
 尾州は躊躇逡巡したが、西郷吉之助が周旋したらしく、ようやく総督を引き受けた。
長州は降伏し、吉之助が斡旋して急に軍を還した。それはおそらくこのころ長州では激派が意を得んとしていたからだろう。板倉伊賀守によれば、吉之助は一刻も早く兵を引き上げるべきだと説いていたという。尾州と西郷との間には長州措置に関して内約があったようだ

小笠原長行*の勅勘(天子の咎め)赦免の事
041 *小笠原図書(ずしょ、長行、ながみち)

阿部正外、本庄宗秀上京の事
041 蛤門の変以来、私は将軍家の上洛を促したが、関東は、「故格旧例や入費などを在京の有司は頓着しない、ただ朝廷に迎合している」とし、私が在京しているのを不可とした。1865年、阿部豊後守と松平伯耆守が上京したが、彼等は京都の状況を知り、私に対して何もできずに江戸に帰った。


第五 1909年、明治42年7月15日 兜町事務所において


感想 何を話しているのか皆目分からない。話のテーマが次々と変わっていくようだ。また話者自身も話している内容の真偽が定かではないようだ。
「御前」という言葉が出てくるが、誰を指しているのか。天皇か、それとも将軍か、慶喜のことか。47ページに「御前が御参内」とあるから将軍か。045, 047
「台命」とは幕府の命令か。「勅諚・台命」と併記しているから。045


042 「風聞」
042 「指切り」…指詰めして信頼を勝ち取ろうとする、以前に話題となったことを再検討をしている。
043 「小座敷」、「休息の間」、「居間」、「座敷」などの用語の適不適を問題にしている。
044 中川の宮の日記
045 参勤交代を復活し、婦女子の江戸詰めを再開したと記録にあるが、慶喜はその話は知らなかった。
050 宮様の御日記から江間政発が引用する。宮様とは誰か。
052 勅譴があったとあるが、何のことで勅譴があったのか。1866
春嶽から伊達宗城に宛てた手紙から、小林庄次郎が引用する。
殿下=二条関白
053 御前(=慶喜055)が、原市之進を使って、朝廷の後宮(尹宮053か)を動かし、公卿の中で薩長に傾いている常陸宮や近衛忠房を譴責したのではないかとの問いに、慶喜はそんなことはなかったと答えた。
054 中御門(なかみかど)宰相と大原三位(さんみ)が、若い者をおだてて朝廷に強訴したことで、譴責された。常陸宮、中御門、大原などは、幕府に反対する態度を取っていた。
 堂上方(=公卿)には兵力がない。
近衛忠房も薩州の側で、幕府に反対の方である。大原は激論家で近衛をそそのかす可能性がある。
055 常陸宮に対する譴責の御沙汰。
原市之進が中根雪江に秘密をばらすことはない。
056 朝廷のほうからも関白あたりから、慶喜が将軍職を受けないことは国事にさしつかえると言っていた。
057 資料に「慶喜が将軍職を受けないのは、徳川家が天下を乱すと言える」とあるが、慶喜はそんなことはないと言う。
慶喜が兵庫開港の勅許を得ようとしたという資料を慶喜は肯定し、天皇が死んでそれは中止になったと言う。
昭徳公(家茂公、いえもち)007
朝廷から節刀(せっとう、天皇の刀)を賜って、長州征伐をやることになったのだが、進発になろうという時に、細川を始め討手の者が解兵した。
058 征討は難しかった。
島津、大蔵、伊達、良之助などを呼び寄せ衆議したとき、私は王政に復すべきだ、国家の為に衆議を尽くすべきだと思った。
ところが長州は小倉や浜田を占領した。*それで旗本や会・桑などが、意地を張った。

062 これは二度目の長州征伐の時のことらしい。

私は長州を憎んでいなかった。長州は錦旗に発砲したが、主人の命令ではなかった。止むを得なかった。だから寛大にしてもよいと考えていた。
長州には浜田や小倉を大人しく還してもらいたいと思い、その交渉を勝にさせた。勝は薩摩に友人がいた。
春嶽、伊達、容堂、良之助らに梅澤孫太郎を使者に送り、国家について相談したい、長州には兵を引いてもらいたいと伝えた。(不完全な文章)
059 勝が廣澤兵助や井上公爵(?)と談判し、長州は兵を引くことになった。
ところが薩州に倒幕論者いたので上京が遅れた。
兵庫開港を勅許しないと国家のためにならないと考えて上京した者もいた。つまり島津、伊達、春嶽、良之助の四藩は、兵庫開港はやむを得ぬ、勅許にならないといけない、そしてそれと同時に長州に寛大にすべきだと言う。長州無罪、無事入京というのが彼らの腹案だった。
原市之進、小松帯刀が参内した。
060 帯刀は無罪説、市之進は、寛大はいいが、罪のある者の中での寛大だとした。二人が議論し、小松が折れた。ところが伊達伊豫が来て、向こう(長州)へ贔屓し、話が割れてしまった。
兵庫開港には四者が一致し、朝廷に私が届け、勅許になった。
ところが四藩は、兵庫開港はまだ言っていない、幕府が拵えているんだといい始めた。その理由は、当時の諸侯と家来との関係にある。当時諸侯は、家来に立派な者がいれば賢人で、家来に何もなければ愚人だった。つまり家来が承知しなければ意見が通らないのだ。それで前言を翻すことになった。そしてその話はそれきりになった。
061 そして結局勝を長州に送っても効果がなかった。それにその時分には、倒幕ということで向こうはできていたのだ。
初度の長州征伐で三大夫の首を斬ったが、その際西郷の介入があった。
兵庫開港のころに薩長の連合が始まった。
あの御進発のときに薩摩は出兵しなかった。「天理に背き候戦闘につき出兵仕り難し、此の段御断り申し候」
長州は謝罪したのだから、その処置をしなければならぬ。処置に服し、兵を引き上げるべきだ。ところが謝罪をした時にはすでに過激派が起りかかっていた。その起らぬうちに西郷は兵を引き揚げようとした。一方板倉も処置に服した上で引き上げるべきだと総督に言ったが、西郷はとりあえず一刻も早く引き上げようとした。そこにはいろいろ事情があったらしい。
062 二度目の長州征伐のときに勝を呼んだ。ところが岩下佐次右衛門が上がってきて再征伐をやめろと言う。一方会津・桑名はどうしても再征伐だという。この時、勝は薩摩との関係の仲介となった。勝を大阪に呼んで、岩下を押さえ、長州征伐をやった。
御進発が始まってからも、岩下がやめろと言う。ところが会津・桑名は聞かない。そこで勝が出てきた。勝を薩摩にやって(薩摩を)押え、再征伐を続けた。
幕府や関白が、私に将軍職を引き受けろという。しかし越前・宇和島は、私の将軍職継承に反対していた。
063 そして私に対する「上様」という称号や、私が二条城に入ることを止めさせたという噂があるが、それは嘘だ。静観が正しい。越前の春嶽も、静観していた。
越前家の書類には、諸侯の賛成があった上で、(慶喜が)将軍職を引き受けるとあるが、そんなことはなく、彼らはただ観望していただけだ。
064 最初私は長州の方を緩めに=優しく扱い、私が家を継いで、将軍職は受けないで、天下の大改革=王政復古をやろうと思っていた。当時の堂上の方々の力は弱かった。豊太閤のとき、五大老・五奉行があったが、当時それはできなかった。
私は原市之進と王政復古について相談したが、結局現状維持となった。当時王政復古は難しかった。
三島「豪傑が(天皇の)下にいて、自分らが支配するということに、誰も気がつかなかった
065 薩長では殿様を使わないで、下のほうに豪傑が隠然としていたから、王政復古ができた。」
公「それに外国の切迫も、王政復古の原因だ。王政復古になれば、責任逃れではいけない、国家に尽くさなければならない、このことについて諸侯を集めて衆議すべきだ、長州はもうどうあろうと寛大な対処でいい、などと考えたが、その通りにはならなかった。」
公「相続時の関東下りについては、誰からも言われていない。」
公「当時将軍は京都に住むことになったが、実際内外の事が治まるまでは京都にいる必要があった。」
小林「将軍宣下の御礼参内後、再び参内し、兵庫開港の勅許奏請のはずだったが、天皇が死んでしまい、そのままになっていた。
その頃民部がフランス博覧会に行くときロセスが066同行することや、軍艦注文の件もあり、公はフランス側と会った。
また英国公使が、「これまで幕府を日本の政府と思っていたのは間違いだった、今度は天皇に面会して直接条約を結ばねばならない」とし、大阪に行って談判したいとのことだったが、これは取り止めとなった。
066 公は四か国公使を引見するために、来阪しようとしたが、天皇崩御で延期となった。
二条摂政は、兵庫開港のことは、諸侯の意見がまだまとまっていないから、勅許は出ないと言っていたが、御前(慶喜)は、四カ国を引見し、幕府だけで開港を決めたとあるが、どうか。
公「それは間違いだ。私は勅許を求め続けた。」
067 公「私は兵庫開港をロセスに承諾したということはない。市之進がそう言ったとあるが、それでは松前伊豆の場合と同じことになる。これはないことだ。」
1867年4月、大阪にいた英国人が敦賀へ行った。(アーネスト・サトウか。)「潜伏夷人も計り難し」と朝廷から出た御書付にある。
その時外人十数人が伏見街道を通行し、そのことで堂上が動揺し、「夷人が京都に潜伏しているかも知れぬ」とし、薩・因・備の諸藩に警衛を命ぜられた。
土州の浪人が、滋野井(しげのい)・鷲尾の両家へ行って、短銃で脅した。
英国公使が「京都へ行く」と言い出した。「京都へ行けなければ敦賀へ行く」というのだ。その裏面で薩摩が扇動したようだ。
068 公「そうかも知れない。」
慶応3年6月、政令が二通りになるのは不都合だから、御前=将軍に摂政を任じたいと、板倉や永井と相談し、越前に話した。これは虫のいい話だ。
この時公は大政返上を三人で相談したと公から承った。
069 二条へお引取りの一件は、1863年、文久3年8月18日、九門の固(かため)を皆そっと取り替えてしまったのと同じ論法だ。
長州も七卿落ちなどしないで、命を奉じてじっとしていればいいものを、眞木和泉が聞かなかった。
二条の一件のころ、先帝が信頼していた会津をはじめ、御固御免となった。
 下からの突き上げが強く、上様がどうおっしゃろうが、何でもかでも薩長をやってしまえというのは至極もっともなことだった。
070 神戸源四郎がそれ(=政権返上を持って(京都の天皇のところに)上がった。それから神戸源四郎は会津にも行き、肥後にも行き、承知を受けた。
神戸源四郎が戻ってきた。九州でも、会津や桑名でもそれで良いとのことだった。そこでめでたく酒宴を開いていたが、そこへ伏見で戦争が始まり、会津・桑名が負けたという知らせが入ったのだ。
(現今1909年)朝鮮との新協約で、よく話がついて兵を解くことになっても、部下の兵が暴発することがあった。朝鮮国王の承諾を得ているのにだ。朝鮮国王が伊藤さんに会いたいというので、伊藤さんは朝鮮国王にあって無事帰ってきたが、そのときは主権者は承知していても部下への命令がきかない時だった。
会津の野村左兵衛は、志士と談判するときは、大政奉還はいけないとは言わないが、実際は従わなかった。
071 軍令。
長州が蛤門で暴動を起こしたとき、長州の軍令が出回っていた。
討薩の表。
朝廷が私に軽装で上京しろと言ってきたのに、関門で足止めされた。そして向こうの隊が後ろへ引くと、大砲を撃ってきた。その次に左右の藪に潜んでいた部隊が攻撃して来て、こちらの隊はつぶれた。   向こうの方の言い分は、上京するのはいいが、甲冑を着けての上京は不可だとするのだ。
072 討薩の表竹中が持っていた。当時は両方とも干戈を交える決意で、どちらも好戦的だった。
薩摩の藤堂が最初に火蓋を切った。談判する者が呼び返されて引くと、大砲がこちらに打ち込まれた。(薩摩の)吉井や海江田は自分から先に撃ったと言っている。
竹中丹後が談判していた。すぐ藤堂が撃ったのではなく、藤堂はその時まだ幕府側について、山崎の関門を固めていて、幕府の兵隊はそこへ引いた。しかしその時薩摩から使いが来て、藤堂に寝返りを誘った。そして藤堂は山崎からこちらに撃って来た。そこで幕府軍はそこから引いた。
073 私(三島毅042)が(鳥羽伏見の戦いを)ただの喧嘩のように扱って旧主の碑文を書いたとき、川村は、軍令状が旧主から出ていたので、ただの喧嘩ではないように書き換えてくれと私に言った。川村は討薩の表を軍令状と認めたのかもしれない。
淀の堤で山砲や砲弾などを準備し、敵の方へ馬首を向け、大砲は後ろを向いていた。
074 長州側と談判している時、長州の山田が左側に兵を配置し終わったら、長州側が撃ちだした。(長州側が)「返事を待ってくれ」と後ろに下がったとき、正面からこちらに撃ち始めたのだ。淀の堤では馬を振り替えることができないので、こちらは土手の下に馬もろとも落ちてしまった。
上様(慶喜)が(戦っては)ならぬとおっしゃっても、会桑や竹中丹後などは、薩州を討つつもりだった。
二条の城から大阪へ引き上げる時、手代木は「観戦しましょう」と言った。そして肥後守と越中守など会桑の首脳を(慶喜が)いっしょに連れ出したが、彼等を残しておけば、戦いが始まるからだった。
075 一方部下は(慶喜の)号令を待っていた。そして御三方(慶喜、肥後守、越中守)の行方が分からぬと、大騒ぎになった。
江間政發042は、紀州へ逃げた。
私は風邪を引いて大阪城で寝ていた。(部下は)勝手にしろとも考えていた。私は行かないつもりだった。
その時私は将軍職を御免になっていた。内大臣の職はまだ持っていたが。

1863年、三年町の島津久光から、歴史を編集している主任(島津三郎)がこちらに来て、一週間くらいいたことがある。その時、御前(慶喜)に一筆書いてもらいたいと三郎に言われて、書いてやったことがある。
私(慶喜)には記憶がない。
076 越前、薩州、土佐、宇和島の四藩が召された時、薩州から「今日上京したからお知らせする」と、旧来幕府に対する届け書とは違う形式のものが出された。それは並みの諸侯に対する形式だった

土佐は薩長連合の当初からそれに加盟しなかった。容堂には見識があった。肥前の閑叟(そう、おきな)も観望家だった。
 1867年6月、長州処分を議するとき、伊達宗城が越前の毛受鹿之介に、「大蔵大輔殿も自分も、帰国したら、長防の処置は、肥前などへ御依頼になって決せられるようになるだろう」と言った。
 閑叟が京都に出てくるなら閑叟の意見も聞いてみようということだった。
077 当時肥前の態度は薩長と違って、観望的態度だった。肥前は割拠の世になるだろうと予想していた。
小松帯刀と原市之進が参内し議論をした。このように陪臣が堂上方と話をすることは、慶喜時代にはすでにあったようだが、古くはなかった。
諸大夫(しょだいぶ)の間にも出られるが、堂上方とは御台所口(みだいどころぐち)で話をした。御仮建ができ、それが諸大夫の間と命名され、そこで参内者がお互いに情報交換を行った。
7月19日、主上(将軍)が参内し勅語を賜った。
御学問所の御上の間に陛下がいて、その次の間に堂上方がいる。そしてその次の間で天皇の勅語を賜る。それで下ると御書付が伝奏から渡される。天皇自身からは直接口では何も言わない。軽いと思われるからだ。
078 恩賜の御衣や御太刀を公が拝領した。7月19日に着た御陣羽織はなくしてしまった。
天皇からの下され物を伝奏が渡す。伝奏は幕府では奏者番という。
9日の宴会の最中に伏見での戦いの報が入った。
先に触れた、原市之進が越前に話したことは根拠がないことだとしても、幕府へ政権を委任をしなければならないので、委任の御沙汰は先帝からあった。それは昭徳院様(家茂公、いえもち)のときで、慶喜になってからはなかった。

感想

徳川幕府の将軍は名誉職であり、政権担当能力がなく*、実際の政治は部下=老中に任せていたようだ。だから外国による開国要求と国内保守派の鎖国・攘夷の主張とが対立する困難な外交問題が浮上すると、幕府政権は対処できなきなくなり、幕府外勢力から天皇の勅許を求める要求が出てくる原因となったのではないか。

*「部下が戦争をするのならさせておく、私は観戦する、風邪を引いているから」これが鳥羽・伏見の戦いにおける慶喜の態度だった。長く平和な徳川幕府の時代は、それで十分やっていけたのだろう。

 この『昔夢会筆記』は、仲良しサロンでの昔を語るよもやま話し的なものであり、これといったきちっとした筋に基づいて構成されていない印象を受ける。そういうものと思って読んだほうが、疲れないのかもしれない。しかし、今日の常識からすればおかしいな、と思われるものにぶち当たることがある。前記の事例はその一つだ。

第六 1909年、明治42年10月11日 兜町事務所において

疑問 「御前」は天皇を指すのかそれとも慶喜を指すのか。ウイキペディアによれば、慶喜は在任中に江戸に入城しなかったとある。さらに、その年譜によれば、

1847.9.1、一橋家を相続する。
1847.12.1、左近衛権中将と刑部卿を叙任。
1859.8.27――1860.9.4、安政の大獄で隠居謹慎蟄居処分を受ける。
1862.7.6、一橋家を再相続し、将軍後見職に就任。(――1864.3.25)
1862.11.1、権中納言に転任。
1863.12――1864.3.9、朝議参預に就任。
1864.3.25、禁裏御守衛総督(――1866.7晦日)・摂海防禦指揮に転職。禁門の変で指揮をとった。
1866.8.20、徳川宗家を相続。
1866.12.5、正二位・権大納言兼右近衛大将に叙任。征夷大将軍に就任。静岡県静岡市葵区紺屋町(現在は料亭浮月楼)に移住。
1867.9.21、内大臣に転任。右近衛大将如元。
1867.10.14、大政奉還。
1867.12.9、征夷大将軍を辞職。
1868.4.11、解官。
1869.9.28、謹慎解除。
1872.1.6、従四位に復帰。
1880.5.18、正二位昇叙。
1888.3.6、静岡県・静岡城下の西草深に移住。
1888.6.20、従一位昇叙。
1897.11.19、東京・巣鴨に移住。
1898.3.2、明治天皇に30年5ヶ月ぶりに謁見。
1900.6.22、麝香間祇候。
1902.6.3、公爵受爵。徳川慶喜家創設を許された。貴族議員就任。
1908.4.30、明治天皇から大政奉還の功により、勲一等旭日大綬(じゅ)章を授与。
1913.11.22、死去。勲一等旭日桐花大綬章を授与される。

 以上から慶喜は本章が書かれた頃には京都にいて、江戸の幕府とは独立していたようだ。どうも御前とは慶喜を指しているようだ。

080 (第一次)長州征伐1864.8.24—1865.1.24に関して、様々な方面から「やれ」と働きかけがあった。「御前」は永井を江戸に遣わした。
081 会津の公用人も永井に同行したかもしれない。小森久太郎も同行したかもしれない。小森は肥前守の催促で、永井は御前の催促であった。
会津は老中に手紙を送って御進発を促した。
近衛様も書面を天璋院のお側の老女に送り、天璋院から将軍へ進発を勧めた。
薩摩の修理大夫の弟である島津備後も、将軍進発を促す書面を天璋院に送った。
しかし、天璋院は役人を憚り、近衛の書面は将軍家に届かなかった。
尹宮(いんのみや)が津、芸州、久留米、肥後、薩摩の五藩に内命を下し、江戸に下って幕府の有司を説いたが、幕府の有司はそれを採用しなかった。
尹宮が御前の御沙汰にストップをかけ、自分がやるとしていたが、幕府が受け取らなかったので、天皇に御沙汰を願い、朝廷が催促の御沙汰を出した。
082 宮様(尹宮か)にもそのことが耳に入り、阿部豊後守が出てきた(京都に来た)時、関白は(阿部に)将軍を進発させるように命令し、朝命となった。
そういう御沙汰があったかもしれないよ。(公、のんびりしている)
関東は、将軍が上京すると、前の通り京都に止められ、江戸に帰れなくなる、人質になってしまうという理由で、将軍の上京を止め、御進発を拒んだ。
083 (幕府の)役人は(長州が)御進発と聞くだけで降参するだろうと考えていた。
(幕府の)有司の中で諏訪因幡守が巨魁であると勝海舟は言っている。諏訪は祖宗の御法度を重視していた。
松前は、老中になった翌日に長州行きを命ぜられたが、彼は長州との講和を考えていた。
長州の稲葉閣老が専務である。
長州は「将軍御進発」を聞いても萎縮しなかった。
松前が岡崎に到着した時にはすでに、長州は片がついた。
084 講和説があったかどうか分からない(公)

 第二点目の質問は、武田伊賀の件である。武田らは1864年10月23日、水戸を脱走したが、彼らの目論みは、京都で御前に会って歎願するつもりだった。彼らが美濃に来た時、党中の三木左太夫、鮎澤伊太夫は、本隊と別れて尾張に出て、11月の朔日(1日)か2日に京都に入った。彼等は内訴をするつもりだった。
085 彼等が京都に入ったなど聞いていない。(公)
 この前月、京都本国寺党は、会津の手代木を通して、水戸の正義党の処置の寛大を内願した。取次ぎを頼まれた会津の公用人が、尹宮へ要望した。

武田伊賀は加賀で降伏し、350人が斬罪となった。
彼らは「攘夷」を口にしていたが、あれは党派の争いだ。彼等は幕府に手向かい、戦争をした。私の身の上も危なかった。処分は関東に任せられた。(公)
(関東の)総大将は田沼玄蕃頭だった。
江戸は私等(慶喜)が武田と気脈を通じているものと考えていた。
民部が総大将で御前(慶喜?)が補助をして出張した。
向こう(武田?)も禁闕に上訴した。原市之進や梅澤孫太郎ら武田党のものを連れてきた。
情実はあるが幕府と戦ったのだから処分せざるを得ないことになった。
087 武田耕雲齋を知っていたので斟酌するつもりだったが、向こうが降伏して、斟酌の話はなくなった。

 次のテーマ 枢密顧問の088海江田武次の『実歴史伝』によると、水戸の日下部(くさかべ)伊三次が、京都で一橋公に会い、公は日下部に国詩を贈った。公はその時幕譴に触れ幽居中であった。その国詩とは、

後ついに海となるべき山水も、しばし木の葉の下くぐるなり

これは(慶喜が)密勅を賜るときの運動に出かけたときの話だ。
密勅が出たとき私は謹慎していたので、これはありえないことだ。謹慎中は人には会わないから。
088 またこの国詩が書かれたのは、この時ではないのではないか。
当時一橋(慶喜)は、有志の間で望みをもたれていて、日下部が一橋から歌を戴いたとなると、日下部に重みがつくことになる。
短冊は真物だが、日下部は書生であるので、公に会えるはずがない。
089 外国人が日本語で話すのは実に閉口する。あちらの言葉だと分からぬといえば向こうもやめてしまうが、日本語で話をするのに、分からぬではどうも気の毒で、あれにはまことに困る。(公)

昭徳院様が御上洛の時、松か何かを御植えになり、それを静岡の某宿屋で珍重しているとのこと。
それはない。植えたことはあるが、静岡ではない。

「ご膳の上のお百姓」は烈公の趣意で、膳の全てについている。それは被り笠を百姓が仰向けに持っているもので、それが膳に載っていて、食べる前に飯粒を5、6粒取り、その笠の上に置いてから食べる。農は国の元であるということを子どもに教育する趣意である。本物は青銅製で、烈公の御書判(かきはん)が押してある。


第七 1909年、明治42年12月8日 兜町事務所において

感想 武家中心の時代と思われる江戸時代でも、幕府はその全期間ではないとしても、その職制に関して朝廷の制約を受けていたようだ。そしてそれに薩摩が絡んでいたようだ。

091 後見職(うしろみしょく)は、将軍家の後身をするもので、朝廷で言えば摂政のようなものだが、将軍家に代わって一切の政を裁決したということではない。
092 後見職や総裁職を置くようになった経緯はこうだ。大原三位が島津三郎を連れて勅使としてやって来た。三郎が勅命を伝えたが、幕府側は最初は不承知だった。すると薩州人が閣老の登城や退散の途中で、帯刀しながら拝見=脅した。それで後見職を(朝廷から)お受けすることになり、閣老から勅命を達した。幕府のほうでは後見職や総裁職を望まなかったのだが、ついに(勅命を)お達しになった。(私は当時)謹慎していて、今度はひっくりかえって後見となるなんておかしいと思い、お断りしたが、上(天皇)を無視することになるから、とにかくお受けさえすればよいということで、お受けした。
後見や総裁から秘密がもれることがあった。
093 御用部屋で評議することもあったが、閣老、目付、三奉行などそれぞれを召し、形式的には相談だが、実は同意させて、後見・総裁の名前で行った。
諸大名もお受けするのがよかろうということだった。(意味不明)
後見・総裁は、家に帰って横井平四郎や家来に話すから秘密にはできない。
 政事総裁職は幕府の総理大臣に当たるが、総理大臣の実権を持っていなかった。
越前家の記録によると、老中の権力が非常に強く、御前や春嶽の意見も行われなかったことがよくあったとのことだ。
 後見職があれば、将軍家の親政とはいえず、形の上では御前(将軍家)が、政治に関してお聴きになった。
094 文字上(表現上)は、総裁は総ての政治を裁決し、後見は将軍の全ての行状を世話することになるが、事実はそうでなかった。
 後見職が老中の行為に不承知なら、罰するか身を引かせるかすべきだと言われたことがあるが、それには困った。またこの制度によって秘密が漏れるのも困ったことだった。(公)
1862.閏8、参勤交代の件で幕府が評議し、板倉閣老が将軍家の御親裁を仰いだと越前家の記録にあるが、一旦御前(後見職としての慶喜?)の手を経て将軍家に申し上げるべきではないのか。
(その通りだ。)後見や総裁が、老中と将軍家との中間を担うのが普通だった。(公)
095 (明治の)内閣で、天皇の御裁可をもらうための書付に、大臣十人が署名をする。同意をすると書判(かきはん)をする。それを総理大臣から侍従長に送り、侍従長が御前(天皇)へ持って行き、裁可を受ける。(天皇の)御質問には、大蔵省なら私が出る。そして天皇が署名する。(阪谷芳郎080
 (江戸幕府では)老中同志が同意し、それを後見や総裁に話し、それでよければ、(将軍家に)申し上げるが、書判などはなく、署名もしない。しかし重大な場合は書かないこともない。また携わらぬ閣老が、「不快」で「心得ない」として、(将軍家に)申し上げることもあった。
今(明治時代)の(やり方)は、書判をし、天皇の裁可の後、官報に載せるとき、また書判を取る。
096 (江戸時代では)奉書はあるが、署名はない。
(江戸時代の)御右筆(ゆうひつ)や書留役が証言役を果たすことについて
(江戸時代では)閣老が認めて(将軍家に)ご覧に入れる。
幕府には辞令書がない。
幕府の書類の保管のためには、各部の御右筆の留目付の留がいる。
また月番がいる。評定も月番に任せる。一番末の閣老が月番になると、事の運びが遅い。
097 御用部屋で評議を聞くのか、御詰所で老中が来て話を聞くのかについて

 扣(ひかえ)所閣老や総裁が評決を持って来て、大君と後見に告げる。
事態が多端になったため、総裁御用部屋に行くようになった。御用部屋には総裁、閣老がいて、三奉行や諸役人が評議する。議論の終わりで総裁の意見を聞く。その次に後見に向う。決まったら御前に言う。
 御側御用御取次という役は、昔はなかった。古くは閣老が直に出て(将軍家に)申し上げた。
閣老が(将軍家の元に)出ても(すぐには謁見できず)(の間)に控えさせられるのはおっくうなので、後世は御用御取次という役職を作って、(将軍家に)申し上げた。
(古くは)閣老が(将軍家に)謁見の為に出向くとき、まずアポイントメントをとり、行って御次に扣(ひかえ)えていると、将軍家が茵(しとね)の上に座るというように、手続が煩雑だ。それで御取次という役職ができた。
しかし御取次のために行き違いも生じた。
大久保越中守は最初御目付にいたが、(御取次になった人だ。)
御用御取次が御用部屋に入って評議に加わると、具合が悪いこともあったが、それは人物次第である。
春嶽侯は御用御取次に権力が備わるのを心配した。春嶽は大久保を最も信用していた。大久保は、初めは大目付で、外国奉行を兼ねていた。

 次は幕府の改革について 「改革」と言うが、実は雄藩=幕府外勢力に対する譲歩としての、参勤交代制度の廃止のようだ。

099 1862、大原左衛門督が島津三郎を従えて関東に降り、勅旨を伝宣した。
1862.4.15、(参勤交代制度の廃止が)発布された。
そのとき九世大和守が老中で、安藤對馬守が老中をやめて3、4日後のことだった。この時、九世と安藤が合議したようだ。
 1862.閏8.15、御前から板倉侯に書簡があったとき、(板倉が)登城を辞退した。不満があったらしい。
 参勤交代制度を廃止し、大名の妻子を国に還すという考えは、早くからの春嶽の考えで、安政のころ春嶽はそのことを阿部伊勢守に話したが、阿部はその時廃止に反対した。廃止は1862年になってからだった。
春嶽の考えは横井小楠(しょうなん)の説に基づく。(『小楠遺稿』)
100 それによると「幕府の勢力はもはや諸大名を制することはできぬ。大名のほうで無断で妻子を国に還したり、参勤交代を怠ったりすることに対して幕府は何もできない。それなら制度を廃止し、諸大名に恩を施したほうがよい。」
島津三郎は(攘夷のために)全国の武備を整え、船を拵えなければならないから、参勤交代を緩くしたほうがいいと言った。大原が江戸に着いたときに、そう言ったようだ。
お触れを出して参勤交代を廃止した。
諸大名はそれ以後強くなった。
会澤安(やすし)が烈公(斉昭)に「大名を国に還したほうがいい」と言った。
101 塩谷宕(とう)陰芳野金陵などの学者も(参勤交代に)反対した。
長州の世子長門守が勅旨を奉じて関東に下向したとき、「参勤交代の制度を廃止したほうがいい」と建白した。(『忠正公勤王事蹟』)
長門守が一橋宅へ来て覚書を差し出した。その中の一か条に「攘夷をしなければならぬ」とあった。
長井雅楽(うた)の開国説を退け、(長州の)藩論が攘夷に一決した。(『世子奉勅東下記』
しかしそのことは『防長回転史』には見えない。
島津三郎が来たときは、後見職を置き、政事総裁を置くという建白があり、長門守が来た時は、五大老を申しだしたのか。
いや五大老は島津や大原が来たときだったようだ。(公)
九条家から幕府に、参勤交代を止めるのは(幕府にとっては)迷惑ではないかという注意があった。
102 つまり、宮中は参勤交代の廃止は止むを得ないと考えているが、幕府がそれを受けると(幕府に)迷惑がかかるのではないかとの注意である。
また和宮の生母観行院から和宮に書簡があり、「今回の勅使の下向は、島津家を慰めるためのものだと認識して欲しい」という内容だった。

次は1862.8.7、御前*と春嶽と老中が連署し、朝廷に御書面を提出した件

*この御前は慶喜のことか。

102 その内容は、「勅諚を遵奉し、失政を改革し、公武一和の実を上げるが、春嶽の上京は暫く猶予してもらいたい。今後も思し召しの旨があれば、御申聞け願いたいが、時勢において行われ難いことは、自然お断りを申すかも知れぬから、その事はお含み願いたい。」とある。
 その以前の7月23日、御前が春嶽大原卿を訪問し、大原卿から10か条の難問をつきつけられたときにもそういう要望を付け加えている。
それは攘夷のことだ。
103 東久世伯に一昨々日伺った時の話だが、東は、「あの当時攘夷が流行していた。眼色の変わった奴は片っ端から斬殺してしまうというのが攘夷の原則であった。攘夷を大別すると三つあり、水戸の攘夷、長州の攘夷、天子の攘夷とである。水戸の攘夷は本物でない。それは、ためにするところの攘夷である。長州の攘夷もそうで、攘夷は反対党を潰すための口実だった。攘夷の発頭人は、三条などの七卿で、これが長州を動かし、伏見の役となった。
三条の攘夷は、主上の叡慮を安める為にする攘夷のように見える。従って長州が攘夷をすると聞いて大変うれしかった。」
 しかし伊藤侯爵や井上侯爵の話を聞くと、馬関の戦争は、長州の攘夷が本気の攘夷だったことを示しているようだ。攘夷を餌にして幕府に迫るという考え方は後になってからの話だ。
104 幕府による条約勅許や開港論が出てきたとき、それに反発するように攘夷論が出てきた。

永井主水正が新撰組の近藤勇を連れて長州に行ったとき、長州の中原邦平が言うには、「(長州との)周旋を名目に防長内の景況を調べるつもりらしいが、人選に気をつけたほうがいい。近藤は人斬り屋で、周旋には不向きだ」とし、長州は(永井の来訪を)謝絶した。
それに対して永井は反論したが、内心は大将株の高杉晋作に会って、機会を見てやってしまうということも、当時の状況から考えられなくもないことだ。
105 永井が長州へ派遣したいとした人物は、近藤内蔵助(近藤勇の変名)、武田観柳齋、伊藤甲子太郎(きねたろう)、尾方俊太郎の四人で、いずれも京都の壬生浪士、すなわち新撰組の強の者で、役名は、近藤が用人、武田が近習(きんじゅう)、伊藤が中小姓(ちゅうごしょう)、尾方が徒士(かち)であった。
永井「この四人を派遣したいがどうか」と(長州の)応接役の宍戸備後助に尋ねたところ、
宍戸「弊藩の疑惑を解くために来られるのですか。」
永井「いや懇談したいのだ。そうすれば幕府と長州の事情が分かるし、これまでの互いの齟齬が融和するかもしれない。」
宍戸は謝絶した。
 会津は新撰組の者を長州へ探索に入れたらしい。(公)
薩州の高崎猪太郎は藩の命令で長州の状況を調べた。会津もやっていただろう。

次は烈公薨去の件

106 1860年、烈公が水戸で薨去した。『烈公行実』や鈴木大の日記によると、8月15日、胸痛でその晩になくなった。その時順公*は江戸にいて、(父斉昭=烈公の)生前慎解(謹慎解除)を求め、輪王寺宮*や久世閣老に歎願していた。
また『水戸見聞実記』によると、8月上旬、貞芳院*が輪王寺宮に手紙で慎解の執り成しを求めたが、宮は、「幕府の態度もだんだんよくなっているようだから、そのうち城内の散歩くらいは許されるだろうし、また近々御慎解もありそうだ」と返書を書いた。
私も謹慎中だった。(公)
107 (烈公の)葬式の時に、尾州、紀州、因州は御名代を遣わしたが、一橋公は断ったと『松宇日記』にある。
謹慎中であるから断る事もできなかった。(公)
水戸の篤敬(あつよし)も同じ心臓病で亡くなった。
私はこの父の死に際して歌を詠んだ。(公)

順公 徳川慶篤(よしあつ)水戸藩10代藩主。慶喜の兄。(1832—1868.4.27)安政の大獄では、父の斉昭や尾州藩主徳川慶恕とともに不時登城した責任を問われ、慶篤は登城停止処分となった。
*東叡大王=輪王寺宮は、関東でつくられた皇統。
貞芳院は、斉昭の正室。吉子女王。慶喜の母。

108 1861年末、大橋順蔵が、久世、安藤の両閣老を斬り、輪王寺宮を奉じて日光により、攘夷の旗揚げをしようと、御前(慶喜)を謀主に仰ごうとした。大橋は(御前の)近習の山本繁三郎を説き、書面を御前にやろうとしたが、山本は一旦は承諾したが、後に後悔し、そのことを家老に訴え、大橋の陰謀が露見し、1862年1月12日、大橋は捕縛された。
 慶喜「山本が書面を持ってきた。大橋の家内の実家が金満家だから金もある。…という書面だった。山本は用心までその書面を出した。それで大橋、山本が吟味(裁判)になり、山本は「容易なるぬ事だから出した」にすぎないとされ、赦免となった。」
それは8月、町奉行所でのことだ。それから9月5日、山本は、御前の素読相手となりった。
堀織部正(おりべのしょう)の遺書を大橋が作ったとのこと。また「ふるあめりかに袖は濡らさじ」という横浜の女郎のものとされる歌を、順蔵の門人が作ったと言われる。また坂下(事件)の時の斬奸趣意書を大橋が書いたと言われる。
109 大橋はただ斬奸趣意書を書いただけであった。坂下事件は水戸と長州の結託によるものだった。

将軍家を大君と呼ぶか王と呼ぶかについて

 公「フランスのロセスは将軍のことをマゼステーと言った。マゼステーはを意味し、私は帝ではいけないとした。英の公使は(将軍のことを)ハイネスと言った。ハイネスは帝でもなく閣老でもない。」
 皇族だ。
 公「私はどうするかと問われたので、ハイネスでいいと答えた。ところが閣老は、ハイネスはいかん、マゼステーがいいと言う。私は京都に帝がいるからいかんと言った。英公使とはハイネス、仏公使とはマゼステーと言った。」
 今(明治42年)皇室では、ハイネスは殿下、マゼステーは陛下、エキセレンシーは閣下と訳す。
ペルリやハルリスは、大君の上の者と話をしたいと言ったが、日本では将軍が政治の全てを任されているから、それと談判しなければならないと言った。相手は理解しないようだったが、段々慣れてきて江戸で条約交換となった。しかし理解できないようだった。
110 向こうは(日本のやり方を)両頭政府と言った。日本側は、幕府は政権を持った大頭だと説明した。
民部公子*に渋沢がお供して(フランスに)参りましたとき、向こうでは伏見宮や小松宮と同様に、民部をハイネスつまり皇族の扱いをした。渋沢の『航西日記』によっても、皇族扱いだったことがわかる。(民部が)将軍の弟だからそれでちょうどよい。

*民部公子は徳川昭武。斉昭の子。慶喜の異母弟。

 大君は「おおきみ」という詞だから、『易』の「武人為干大君」からきたものらしい。
新井白石によれば、日本国源家宣(いえのぶ)と言うと、京都の天子と紛らわしい。日本で大君を将軍の意味で使っているが、朝鮮では(大君は)王族の一つで、皇室外の者である。朝鮮で(将軍の事を)日本王と言っても不敬ではなく、対等の交際ができるとして、(将軍を)ということにしたが、それは一代だけで、後は(将軍を呼ぶ時)大君とした。(意味がよく通らない)

次はちょっとしたエピソード

慎徳院が小金の鹿狩りのとき、御前(慶喜)に金の采配を授けたとか、浜御殿で御前(慶喜)に、「将軍家は丸袖の襦袢は着ない」と言ったとか、小瀬某が言ったのを聞いたことがある。小瀬某は東湖の門人であるとのことだった。しかし小瀬某は当時一介の書生であり、慎徳院や御前の前に出られる身分ではなかった。
111 公「幕府では15歳になるまでは子ども扱いで、大奥に出ることができる。私が初めて登城した11歳の時、御伽(おとぎ)の外山岩太郎をつれて菊の花見に出かけたことがある。岩太郎は下様風の裄(ゆき)の長い襦袢を着ていて、女中がそれを見苦しいとして、剪刀で岩太郎の襦袢の袖を切ったことがあった。」


第八 1908年、明治43年1月25日 兜町事務所において

 謹慎の様子

112 1859.8.27、(幕府114の)思し召しの御旨があり、御前(慶喜)に御隠居御慎というお達しがあった。『新家雑記』によると、「御前は、思し召しが家の欠点にかかわることだから、罪科の詳細を尋ねようと、家老の竹田豊前守に話し、豊前守が松平和泉守に話したところ、和泉守が素直にお受けしたほうがいいと言った」と書いてある。

113 『新家雑記』(水戸の新家という人の雑記)からの引用

113 公「そのことには覚えがない。ただし『思し召しこれあるについて隠居謹慎』という御書付があった。」「『不肖の我等御屋形を汚す段、幾重にも恐れ入る』という書面は出さなかったのではないか。」
114 公「和泉守が素直にお受けしたほうがいいと言ったのも、なかったように思う。」
 お側の者が、あまり謹慎が過ぎるので切歯扼腕していたのではないか。
御慎のときに「こういうことをしてはいけない」という命令を箇条書きしたものがあります。
公「いやそれはない。外出しないで本を読むくらいだ。麻の上下を着て、雨戸を閉めていた。」
115 先例書老公ではなく君側の者に送ったことはないか。たとえば病気の時の医者の手配など。
公「何もなかった。」
そういうものは、外の御三家にはあるが、御三卿にはない。御前(慶喜)の思し召しで雨戸を引き、服を正していた。

一橋家の日記からの引用

116 公「これは一橋から家中へ達したものだろう。公辺から出したものではない。」
三上「御三卿は知らないが、大名の謹慎のときは謹慎規則が出ると思う。『柳営秘鑑』に似たものがある。」
117 荻野「先代の墓に参詣しないでよいということは、老公卿自らでなく、他から出たようだ。」「公儀並びに御手前御霊前の向き、御名代これなく候事」という箇条は、老公から御屋形お触れをする言葉としては穏やかではない。」
公「これは家老から家中に達したものではないか。」
御家老から内意を伺って一同へ達したもののようだ。
公「家老がそういう箇条を拵えたのではないか。」
この時、御附は一人もいない。皆が屋形付になり、御前のお付はいなくなった。
一橋附となって、離れてしまい、家来ではなくなった。
今までは刑部卿附で今度は一橋附となり、家来が一人もいなくなった。

 生麦事件

118 幕府の役人は、島津三郎の挙動に不快感を抱き、三郎が外国人との争いを始めて幕府を困らせるのではないかと憤激した。御目付の服部歸(き)一は、兵を出し島津三郎を追撃すべきだと提案したが、老中は消極的だった。一方春嶽は、島津は下手人を差し出し、公儀(幕府)の指図を待つべきなのに、後始末を幕府に託し、京都に向うとは不都合だから、島津の旅行を差し止め、下手人を出させるべきであり、そうしないと幕府の威光が立たぬと主張したが、春嶽の意見は採用されなかった。
 事件後三郎は急いで上京した。幕府はいずれにしても三郎に下手人を出させ、外国人の前で処刑し、賞金を出すと結論し、三郎を追いかけないことにした。
119 三郎があちらに着いてから下手人を出させ、外国人の前で処刑し、賞金は相当にやるという結論だった。ところが三郎に掛け合っても、供の中の誰がしたか分からない、是非出せというなら供の300人全員を出すという。
 その時大原三位が関東にいて、生麦事件の翌日(関東を)立ったのだが、その勅使に従って老中一人が京阪地方に上がり、守衛に当たるというのが春嶽の考えだった。
また、神奈川奉行の阿部越前守は、事件後、島津三郎の程ヶ谷の宿舎へ、支配組頭若菜三男三郎(わかなみおさぶろう)を遣わし、下手人を出させ、事件が決着するまで程ヶ谷に止まるように掛け合ったのだが、三郎はそれを聞き入れず、京都に立った。そこで越前守は、小田原藩に、箱根の関を閉じるように命じたが、幕府の了解を取らなかった。これを知った幕府は驚いて、今三郎の機嫌を損ねたら京都の首尾を損ずるとし、越前守を責罰し、小田原藩には通過させるように連絡した。
120 『幕末外交談』(田邊蓮舟)にそのことが書いてある。
公「神奈川奉行には三郎を止める何(職権121)がない。」
イギリスの公使が兵隊を繰り出して三郎を止めようとした。
神奈川奉行は命令ができないが、大事件だから放棄しておくことはできなかっただろう。
121 越前守に職権がなくても、彼はやっただろう。
越前守が恐れた事は、イギリスの兵隊が居留地以外に出て、日本の大名を砲撃することだった。それは国体に関することだ。越前守は「しばらくお止まりくださいませんか」くらいは言える。「止まれ」という差紙(さしがみ)はつけられないにしても。
122 三郎の行動は、三郎の日記や大久保一蔵の日記でわかる。
幕府は三郎が京都に行ってから差紙をつけた。
幕府が三郎に「300人出せ」といえない力関係になっていた。
123 幕府は300人を殺すのを怖がっていた。

1862、将軍家御上洛の御評議がまとまった。当時京都には攘夷論者が大勢集まっていて、将軍家がそこへ行くのは危険だった。そこで将軍家の上洛前に、後見職か総裁かが先に京都に行って交渉してから行くことにした。9月5日、御前に御上洛を願う御評議があった。御前は当初固く辞退されたが、12日に受けた。
 三条や姉小路が攘夷を提案してきた。私は、攘夷はできないから辞職するとした。来春上洛し、攘夷ができないことを申し上げ、攘夷をやめてしまうつもりだった。*
*慶喜の上京の議は9月、両卿(三条・姉小路)の着府は10月、慶喜の辞表提出は11月が正しい。

幕府は朝廷からもっと鄭重に扱うように勅使待遇の改善を求められた

124 11月11日、松平肥後守が登城し、勅使待遇法改善に関して、会津の家臣(柴秀治124)が三条卿から預かった覚書を幕府に提出して説明したが、板倉周防守は反対した。
公「昔東照宮が天下を取ったときの作法は、押し付けの作法だった。板倉が反対というわけではなかった。松平肥後も改めるようにしたいと言った。」
三条は「従前のような待遇なら、勅旨を述べずに帰る」と柴秀治に言い、それならどうしたらよいのかとの柴の問いに対して、覚書が出た。
125 柴がその覚書を持って帰って肥後守に渡し、肥後守が幕府にそれを呈出した。しかし、本来なら(京都)所司代を通して幕府に提出されるべきものだった。これは手落ちであるという議論も当時はあった。
 公「伝奏から所司代に言うべきだった。しかし以前は守護職はなかった。」「板倉は、攘夷は不可能であり、(将軍が)上洛したときにやめにしたいと考えていた。」
公「この手続に私が反対したと越前家の記録にはあるが、私は反対していない。」

朝廷から幕府への攘夷命令

11月29日、御前は春嶽とともに、三条、姉小路を清水邸に招待した。そのとき三条、姉小路は、幕府が攘夷を受けたからには、すぐ全国に布告せよというものだったが、幕府としては、攘夷を受けるつもりはなく、来春大樹(将軍、征夷大将軍)が上京したときに撤回するつもりだった。従って、来春上京したときに、様々な見込みについて話し、その上で布告すると答えた。しかし、向こうもこちらの腹の内を知っていた。
126 その時、肥後守は守護職だったが江戸にいて、来年京都に行くところだった。126
それで藩士を前もって京都に送っておき、肥後守のために斡旋をさせた。当時京都では三条が全権を握っていたので、三条とコンタクトを取っておく必要があった。肥後守は、守護職として京都の政事をするためには、朝廷の要路を必要とした。
公「御尊奉(接待マナー)の改善には賛成したが、攘夷には不賛成で、辞表を出した。」
127 因州(鳥取藩、池田家)が慶喜のところに来て、「攘夷はできない、烈公にすまない」と言った。
また板倉や岡部駿府が慶喜のところへ来て、岡部は、京都に出ても攘夷は不可とした。もう一つの考え方は、一旦は受けておいて来春に反故にするというものだった。
安藤對馬が「和宮を幕府にくれない」と言い、和宮も嫌がり、陛下もそれでよかろうと言ったのだが、井伊掃部頭の考えでは、攘夷のためには国内一致が必要で、そのためには公武合体しなければならない、そしてそのためには和宮を関東に遣わすのがよい、そうすれば7、8年ないし10年すれば、攘夷ができるというものだった。それで和宮は関東に下向した。

128 朝廷接待に関するマナーの改善は、幕府の権威失墜をも意味した。

 勅使接待に関して、これまでは将軍が真ん中にいて、勅使が横座にいた。ところがそれを改めて、勅使を真ん中にして、将軍が(勅使の)正面に行き御辞儀をし、勅語を伺うことになった。それから玄関まで送り迎えすることにもなった。

 島津三郎問題

12月5日、勅使が登城したとき、島津三郎を守護職にすることに関して、幕府は異存がないと答えた。
公「守護職の話はなかった。官位を上げるという話はあったが。」
129 11月に朝廷から御沙汰が下った。12月5日に幕府はそれを受けた。(攘夷の)発表は、将軍家が上洛した後がよかろうということだったが、結局発表はしなかった。
公「大原が来たときは官位だけがテーマだった。」「三条や姉小路が勅使で江戸に来たとき、島津をどうするということはテーマにならなかった。」
井野邊「今の話題は、二度目の勅使についてである。三条が江戸にやって来て、勅諚が下った時のことである。三条が江戸に来た後に、伝奏からも幕府へ(島津を守護職にするという)御沙汰があった。それに三条が持ってきた勅諚もあった。」
そのときの守護職は会津一人だったが、それを朝廷は変えて、二人にするというものだったので、幕府は、島津守護職案を受けた。
1863年の春、島津三郎、春嶽、山内容堂が京都に来て、近衛関白と青蓮院宮もそれに合流した。それは急激派つまり長州と長州派堂上勢力を一度に挫いてしまおうとするものだった。島津家の機嫌を損ねないように、島津守護職案を幕府が承諾したらしい。
130 三条は島津を嫌っていて、翌年、薩長の軋轢を原因とする騒動が起った。

御前の家来について

御前が後見職だったころの家来は、平岡圓(えん)四郎、黒川嘉兵衛、原市之進らで、中根長十郎も少し手伝った。
1862、御前が京都に出向されたとき、武田耕雲齋が供をした。
『一橋家日記』によると、岡部駿河、竹本甲斐守(大目付)、水野、井上、小笠原らが御前を尋ねている。
将軍家が官位一等を辞退した件で、朝廷に御奏聞になった。

 民部公子(民部公子は徳川昭武。斉昭の子。慶喜の異母弟)のフランス行きに同行した渋沢の話

131 渋沢栄一は1900年に男爵、1920年に子爵。

132 1866年末、渋沢は原市之進に呼ばれ、フランス行きを打診された。私(渋沢)の役目は、会計、書記などの庶務であった。それと私が攘夷派と開国派との中間派であることから、その調停役としての意味合いもあった。
原市之進が言うには、「民部公使が大使としてフランスの博覧会に行き、その後、イギリス、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、スイスなどのヨーロッパ各国を回ることになるだろう。その後は3年から5年、留学生としてフランスの学問を学ぶ。水戸から7人の付き添いが同行し、民部の『御手許の用を足す』ことになる。御傅役(おもりやく)は、山高石見守であり、全体の総括をする。外交上のことは外国奉行の向山隼人正が行き、その他組頭、調役も行く。私の役目は山高の下で、会計と書記などの俗事である。
民部公子をフランスにやる事に関して、本国寺の水藩士の間に議論があった。外国方(担当133)はあまり大勢では困ると言い、水藩士は20人~30人を要求した。そして彼らは攘夷の観念を強く持っていた。私(渋沢)は最初攘夷家だったが、今は攘夷ではいけないと考え付いた人だ。」

133 篤太夫(とくだいふ)とは渋沢栄一のこと。

「大目付の永井主水がこの事業の係りである。外国方の人々は博覧会と各国礼問が済めば帰国する。残るのは水戸の7人と渋沢、山高、その他通訳等に関する1、2の外国方である。
礼問中の通訳は、ジュリーという学校教師をしていたらしいフランス人と、シーボルトであった。シーボルトは若いが英仏日語を話す。その他に外国方から仏英の通訳官がつく。医者は高松凌雲、砲術方は木村宗蔵が御付として行く。」
134 私(渋沢)は永井主水正に引き合い、外国奉行支配調役の杉浦愛蔵に会い、山高に会った。
フランス人のレオンロセスは幕府方であり、イギリスの公使は当時はパークスであった。ロセスは幕府に同情的だった。レオンロセスはナポレオン三世に厚く信じられていた。ロセスが同行するかは分からなかった。
135 衣服係と床屋として、両方できる綱吉を雇い、私の手に属した。
水戸の7人とは、菊池平八郎、井阪泉太郎、梶権三郎、大井六郎左衛門、皆川源吾、三輪端蔵、服部潤次郎であった。
1867.1、長鯨丸で神戸から横浜に来た。小石川の屋形に行ったこともあったと思う。
横浜では、会計は小栗上野介に、外国奉行は川勝近江守や成島甲子太郎(騎兵頭)に引き合った(面会した)。
外国方で重なる人は、向山隼人正、田邊太一、杉浦愛蔵であった。会計方は日比野清作、生島孫太郎であった。徒目(かちめ)付は行かず、御小人目付(こびとめつけ)として中山某、通弁は保科信太郎(山内勝明)、山内文次郎、山内六三郎(堤雲)、名村泰蔵(吾八)、箕作麟祥(貞三)らで、一行の総勢は28人だった。
ロセスは一緒に行かなかった。ウィルニーというフランス人が横浜造船所で技師長をしていて、彼の協力者で汽船会社の役員のグレーがいて、グレーが同行したが、彼は商売で同行したにすぎない。
小栗や川勝が、フランス人と(横須賀の)拡張の件で話し合った。
136 フランスとの友好関係の構築が渡仏の目的であったが、フランスの力を日本にもたらし、(仏人の)商売人に造船所の投資をさせることも含意されていた。
 博覧会が過ぎた8月のころ、公使が各国を回るときになって、外国方の人と御付の水戸の7人との間で確執が起った。水戸の7人は、「礼儀作法の件で外国に指図されたくない」と国粋主義的主張をした。「外国人が日本に背いたことをさせるのは不都合だ」と言うのだ。またボーイがコーヒーを注ぐときでも、(水戸の7人は、直接ボーイが民部公子に注ぐのは不可で)必ず取次ぎでなければだめだという。喧嘩はしなかったが。
またある時はお供連れを減らすということで大衝突した。水戸の井阪泉太郎、梶権三郎は鯁(こう)骨男子で、自分たちは「本国寺を代表してここへ来た。刀にかけて承知しない。」と言う。二人だけおいてあとは日本に帰そうとしたら、水戸の7人は「一同で帰る」と言う。公子と彼等は、公子が幼少の頃から彼等が世話をしてきた仲だから、公子も機嫌悪くなり、涙ぐむ。
138 とうとう帰すことになって、私が連れて帰ることに決定した。そうすると向こうが折れて、二人残るのでいいということで妥協した。結局外国奉行の説に服従したことになる。
 8月、スイス、オランダ、ベルギーを回った。10月イタリアへ、マルタ島へ、そこからイギリス軍艦のインデミオン号でマルセーユに向ったが、船が故障した。その時、向山はいなく、山高と私がいた。私たちは大和魂を見せて褒められた。それは私達が「身を船長に任せる」と言ったことである。
139 それからその年の12月にイギリスに向った。ポルツモースなどへも案内してもらった。イギリスでの待遇はプリンス扱いで、礼式は有栖川宮と同等だった。マルタ島での待遇は君上同等であった。
140 高いところへ公子を置き、士官らに握手をさせ、君臣の格であった。
イギリスではウインゾルで謁見があった。イギリスでは商売人の待遇は悪かった。
フランスではウィレットという騎兵大佐がついていたが、それはナポレオン三世の指図によるもので、彼は陸軍大臣の贔屓の大佐とのことだった。
翌年の1月ごろ伏見・鳥羽の騒動が聞こえてきた。3月、東久世、伊達両公の名前で、民部公子を帰国させろという通知が来た。
141 御直書(慶喜の手紙)が来て、その中に政権返上と大阪での顛末が書かれていた。また「留学に精を出せ、私も(ロシアの)ペートルに倣って海外へ出かけるかもしれない」とあった。
その頃、外国方は江戸の指図で帰った。水戸の7人もだんだん帰り始め、菊池平八郎、三輪端蔵の二人だけになり、それに私と小出備之助という少年の、4人だけになった。
1868年5月か6月ころ、上野の騒動の後のころ、その御直書が届いた。
その少し後で駐日公使のロセスが、フランスに戻って来た。ロセスが私どものところを訪ね、「薩長の合同で御一新がなり、大君が隠退した。大君は弱弱しかった。もう少し強く出ていたら、あれほどまでにはならなかったのではないか、日本ではさらに騒動が起こるだろう、あなた(民部公子)がフランスの軍制や政治を勉強すれば利益があるし、帰国後によい順序で迎えられるかもしれない」と言った。ロセスは名誉領事のフロリヘラルトという人と一緒だった。
142 しかしロセスはその後あまり来なくなった。というのはナポレオン三世が、日本に引き続いて力を入れることに関心を持たなくなったかららしい。ロセスは、日本を去る頃は、民部公使と何らかの渡りをつけることが利益になると考えていたが、帰国後その考えをやめたようだ。
 民部公子を日本に帰すのは間違っていたと、私は帰国してから公(慶喜)に話した。ロセスも同じ考えで、「御前(慶喜)が負けぬ気なら、自分(ロセス)も十分働こう」と思っていたに違いない。
143 「ロシアのペートルと徳川とは時代が違う、御前は日本をどうするつもりなのか、なぜ世継ぎになったのか」などと公子はフランスから御前に諫言の返事を書いた。
私が考えるに、ナポレオン三世は、東洋に手をつけることは難しいと考えを変え、ロセスも公子を擁護しなくなったのではないか。
7月、(先に日本に帰っていた)井阪泉太郎、服部潤次郎が迎えに来た。彼らは、前中納言様が御逝去になった後の水戸の御家の相続を民部公子にしたかった。前中納言様に対して、水戸の激党は怪しからんと思っていたから、その世子の相続に反対したのだ。そこで相続人が民部公子に決まった。
そして渋沢が公子の留学を支持していたのを知っていた水戸藩の井阪などは、もし渋沢が相続を妨げでもしたら、殺すつもりだったと言っていた。ロセスも渋沢に肩を持つかも知れぬ状況だったからだ。
144 私(渋沢)もそのことを知っていたから、フランス外務省が(公子の留学を)勧め、コロネルウィレットも(公子を)抑留したが、公子は日本に帰ることになった。
 政府の別の要件でフランスに参った栗本鋤(じょ)雲、三田葆(ほ)夫がパリにいた。
(公子がフランスに来る際に)ロセスが公子のお供をすることは、おそらく無かったでしょう。しかしロセスの斡旋で公子が仏国行きになったとは言える。またこれは実現しなかったが、横須賀に関係を持っていたウィルニーと商人のグレーが申合せて、横須賀造船所にフランス資金を投入しようとしたようだ。ナポレオン三世の考え方が変遷したのだろう。そのためかロセスは、公子の帰国の際は冷淡だった。

145 同行の仕立屋に関する笑い話と、その仕立屋がオランダでけんかをしたために汽車に乗り遅れた際に、自分が汽車を降りて次の汽車で彼と同行したという話。それが可能だったのは渋沢が、フランス語ができたからだという自慢話。
146 渋沢は同行者の荷物の管理、会計、日記の記帳などを担当し、余った経費を返却した。フランスの名誉領事が、渋沢がフランスに置いてきた道具を売却処分した金額を日本に送金したが、外務省はそれを新政府のものだとした。渋沢は、それは民部大輔のものだと説明し、返してもらった。こんなことから渋沢は静岡の勘定組頭を仰せつかった。

 私(渋沢)がフランスから日本に帰国するときに公子に同行した者は、水戸藩の菊池平八郎と三輪端蔵、それに小出俑之だけだった。
 公子は私に水戸で仕事をしないかと勧めた。私は慶喜の仰せを伺ってからと返事をした。井阪や服部も、私が帰国に反対しなかったので、私に同情的だった。
 日本に帰ってから私が小石川の公子の屋敷に行ったところ、公子は、「老公(慶喜)は宝臺(だい)院に蟄居しているので、公子から老公(慶喜)宛の手紙を書くから、その返書を待って、水戸に来い」と私に言った。
11月3日に(フランスからの)船が着き、12月23日に駿河に行き、公子の書状を大久保一翁に取り次いでもらったところ、その翌晩(老公慶喜に)拝謁できたが、その時私は老公の間違いを指摘した。
しかしなかなか返事が来なく、そのうちに静岡藩庁から勘定組頭を言渡された。
148 私は腹が立った。私はその仕事を拒否し、国で百姓でもしようかと思った。そしてこんな役所の書付は要らないと平岡につき返した。その後大坪本左衛門が来て、これはどうすることもできないことだと私に言った。
その後大久保が私に藩の役所に来いと言う。そこで大久保は、宝臺院様(慶喜)が、「この手紙を持たして渋沢を水戸にやるのはよくない、渋沢を藩で使って、水戸にはやらぬほうがいい」とのことだと言った。
149 (大久保)一翁が言うには、「水戸へ行くのはお前のためによくない、水戸の連中はああいう人々だから、渋沢のためにならぬ」という(慶喜の)思し召しなのだろうと言った。私が浅慮だった。
また大久保は私に、平岡と小栗尚三が、是非渋沢を勘定所で取りたいとのことだと言った。

公「ロセスは殺されたのか。」(なぜいきなり殺されるという発想になるのだろうか。)
渋沢「いえそういうことはございません。」

150 1864年冬の武田耕雲齋*、藤田小四郎、田丸稲之衛門らの処分は難しかったことだろう。
天皇に訴えるということは、中納言様*に泣きつくことであり、また官規に触れ、人を斬り、財を奪った。
難しい点は、動機が強盗や賊徒ではなかったことや、寛大すぎると幕府の吏員の口実になることだ。
田沼玄蕃守に(慶喜が天狗党員を)引渡した事に関して、巷説では自分さえよければいいのかと批判された。東京府知事になった高崎猪太郎も批判した一人だった。私は高崎と一橋家でいつも付き合っていた。

平岡はあの年の6月、水戸の人に殺され、黒川がその後任となった。私は黒川の秘書だった。原と梅沢が敦賀へ行った。(天狗党の討伐に行ったということか。意味不明)

*武田耕雲齋 

1864.3、水戸藩の天狗党員823名が尊皇攘夷を掲げ、朝廷に直訴するために水戸から京都に向う途中、幕府軍と交戦したが、頼りにしていた禁裏御守衛総督の一橋慶喜が、討伐軍の総大将であることを知って、12.17、加賀藩に降伏し、翌年1865.1.27、幕府の役人(田沼玄蕃守)に引き渡され、353名が処刑された。

*中納言様とは誰か。候補は、

家定1824—1858、13代将軍(在位1853—1858
斉昭1800—1860、斉昭は権中納言とあるが、1864年時点で死亡している。
慶篤1832—1868.4.27、慶篤は当初天狗党を支持していたが、幕府が討伐を決定すると、耕雲齋を罷免し、松平頼徳を将とする討伐軍を派遣し、藩政を混乱させた。


第九 1910年、明治43年5月7日 飛鳥山邸において

 攘夷暴徒(桜田門、東禅寺*、坂下門)の大赦にまつわる幕府と朝廷とのつばぜり合い

*東禅寺事件 1861、1862、イギリス公使館として使われていた東禅寺を攘夷派が襲撃した。

151 1862、朝廷から幕府へ御沙汰があり、大赦を行った。
 1862.7.10、春嶽が大赦を主張したが、御前(慶喜)は反対した。その理由は、御前(慶喜)や春嶽にも責任があり、桜田事件の水戸浪士は不届き千万であるからだ。
7.13、春嶽が力説して大赦の勅旨を奉ずることで意見が一致した。
7.15、それを将軍家が御裁可した。(『再夢紀事』)
152 大赦にすると、斬りこんで殺そうとした者が良いことになる。「井伊は悪い」、攘夷をやろうとしていた時分だから、「外国人を殺すことは国のために良いことだ」、「(坂下事件の被害者)安藤信正は悪い、天下の為によくない奴を殺そうとしたことは国のために尽くしたのだから赦せ」などということに対して、「ご尤もです」では、幕府の規律、懲罰体系がぐらついてしまう。
私(公)ども春嶽、板倉など、井伊にやられた人が浪士を赦すと、党派分裂を起こす恐れがある。
井伊や堀田*を罰しないほうがいいと私は考えた。

*堀田正睦1810—1864.4.26 桜田門外の変後の1862年、正睦は朝廷と幕府の双方から命令され蟄居処分となった。これは井伊直弼の安政の大獄に対する報復人事であった。安政の大獄で正睦は井伊直弼から不問に付されていた。正睦は死後大赦となった。

153 朝廷が赦すということに対して全く反対だとも言えない。
大赦の範囲に関して、戊午の獄*と桜田関係のものだけを赦すことにした。

*戊午の密勅 1858年、孝明天皇が、幕府寄りの関白九条尚忠の参内のないまま、水戸藩に幕政改革を指示する勅諚を直接下賜した。その内容は下記の通り。井伊直弼は怒り、安政の大獄につながった。「戊午の獄」とは「安政の大獄」(安政6年、1859年)と同義である。

・勅許なく日米修好通商条約に調印したことへの呵責と詳細な説明の要求。
・御三家および諸藩は、公武合体の実をなし、幕府は攘夷推進の幕政改革をせよ。
・以上二つの内容を水戸藩から諸藩に廻達せよ。

板倉周防守は東禅寺の暴徒を赦さないとした。
154 それを赦したら外交関係に支障がある。
公が水戸の浪士や大橋順蔵*などは赦せないと記録に残っている。
結局、東禅寺や坂下関係者は赦さないが、安政の獄と桜田門外の変の関係者だけを赦すことにした。

*大橋順蔵(訥庵)1816—1862.8.7(毒殺) 儒学者、尊王論者。坂下門外の変につながる老中暗殺計画を立てた。計画がばれて逮捕されていたが、宇都宮藩家老間瀬和三郎の赦免運動によって出獄し、宇都宮藩邸に預けられたが、4日後に毒殺された。

 攘夷の勅諚と行幸

155 1863.4、攘夷の勅諚を受け、帰府(江戸に帰る)にあたり、3月、松平春嶽侯、水戸の中納言殿、小笠原図書守が、4月22日、御前が京都を立った。
松平肥後守が御前に言うには、そうすると京都滞在の将軍が若輩だけになり、堂上方から難題を吹きかけられ、それを受けてしまう恐れがあるから、御前は留まっていたほうがいい、江戸では水戸殿に攘夷を委託することが決まったのだから、(御前が江戸に帰ると)政令が二途に別れる恐れがある、とのことであったが、御前は江戸に帰った。その理由は、
156 会津の『七年史』によると、御前に不満があったとのこと。
 公「当時朝廷から些細な事で難題が来て、返答に困っていたからだ。その頃長州では倒幕運動が盛んになっていたから、難題もそこから派生して来た。
 それは石清水行幸後のことである。賀茂行幸の次に石清水行幸があった。そしてその次に大和行幸
 さらに伊勢行幸関東行幸が、眞木和泉の建作で行われそうになった。
157 しかしそのことが破れて、中山の暴発となった。(意味不明)
それで8月18日、大和に行幸しかけた。
八幡行幸のとき、私(慶喜)は閣老に、(天皇の)お供しないほうがいいと言われたが、前日私が参内すると、三条、東久世、豊岡などが私に行けと言う。私は病気(下痢)だったが、行くことにした。山の頂上には行けず下で寝ていた。
書物によると、「将軍に神前で攘夷の節刀を賜るはずだったが、将軍が病気で出ない、一橋も仮病で登らぬ」とある。
(天皇が)還幸になるとき、(私は)衣冠をつけて拝謁しなければならない。供の者は200人から300人。そのとき何か騒ぎが起こるのではないかと双方とも懸念していたが、私はそれを制した。
158 あちらは御親兵や浪士、こっちは供が並んでいて、その前を(天皇が)お通りになる。(私は)それが済んで、引きさらって行った。
石清水行幸のとき、将軍家は病気で出かけなかったとされているが、それは実は仮病だった。出かけたら大変なことになるところだった。(意味不明。攘夷の件で何かやらされるということか。)

 次は公が京都から江戸に攘夷の勅命をもってくることに関して

158 4.22、公が京都を立つとき、武田耕雲齋をお召し連れになりましたが、それはそういうお達しに基づくものだった。
耕雲齋は京都で松平余四麿様をお助け申すことになっていたが、一橋(公)のたっての願いによって耕雲齋を同行させることになった。また、耕雲齋には、一橋様が江戸に着いたら、また京都に上って来いというお達しが出ていた。
159 公「耕雲齋には用はなかった。途中で浪士が岡部駿河を斬ろうとした。
当時は道中水戸人を連れていた。程ヶ谷で神奈川奉行の浅野伊賀守山口信濃守の二人が(公のいる)本陣に伺うとき、「攘夷をするために一橋様がお下りになるが、攘夷などとてもできない、しかし供方は水戸の攘夷家ばかり連れているから、こちらも少し長い刀を指して行かねばなるまい」と出かけたが、公は、浅野等に会って、攘夷をしなければならぬと(二人に)諭した。
公が二人に「もっと近くに寄れ」と言い、「周囲は水戸の攘夷家ばかりだから、開港や(リチャードソンの)償金に関して話していると聞かれたら面倒だから、静かに話しをせい」と諭した。これは浅野が言っていることだ。
公が熱田に泊まっているとき、江戸から目付の堀宮がやってきて、「江戸のほうでは償金を渡すことになった」と御前に話したが、その時公は「実は今攘夷という勅命を受けて下っている。ぜひとも攘夷をしなければならぬ、そういうこと(償金支払)になってはよろしくない、私が江戸でよく話して聞かせる」とし、異存なら手討ちにするというひどい御書面を付け、耕雲齋に熱田から先発するように命じた。
160 公はその時攘夷家の偉そうなのを選り抜いてお連れになったのだろう。
 「攘夷に従わぬやつは手討ちにする」というのが、官吏征伐の(天皇)の思し召しで、江戸の有司は熱田からの御紙面を見て驚き、攘夷の厳命は「始末がつかぬ」からとして、閣老は総引き込みで登城せず、小笠原は、御前が江戸に来ると引き違いに、かの断行(償金支払)をし、御前の使命も空しくなった。
償金(の支払)は小笠原の独断で行った。
武田耕雲齋を連れてくることは装飾品にすぎなかった。
 
攘夷を受け入れるということは方便であって、実際はできるものではなかったのではないか。
 公「どうせできないものなら、今断然できないと言え、という話があったが、いや私(公)が受けて行こう、書付を皆持って行く、だめなら私が謝罪する、と私が言ったところ、大樹公(将軍)は、実際できない、そしてできなければ倒幕となるから、ここは緩めてやろうということだった。」そして
「朝廷のほうからはどんどん来る、朝廷も(幕府が)できぬ事は知っている、できぬから(私は)辞表を出す、辞表を出すと、なお尽力せよと朝廷は言う。そして今度はさらに大和行幸問題が出てきて、京都(朝廷)は長州の方へひっくり返った

161 春嶽が先に逃げて帰った。

 春嶽が夜逃げをした。(攘夷はできないと)届けたまま(京都から)帰ってしまった。後は春嶽の家来に、堂上方に対してうまく立ち回り、小言の出ないようにさせた。

 山田方谷(ほうこく)は、主人を引かせるつもりだった。自分が先に隠居して見せ、国に帰るとき、もし説が立たなければ、引きなさいと主人に言った。

 ところが春嶽が先に逃げ、引くに引けなくなった。そして一人の御老中*で、なお難しくなった。(意味不明)

*誰のことか。松平春嶽も慶喜も老中経験はないようだ。
山田方谷でもないようだ。山田は学者で松山藩の政策アドバイザー。主人は松山藩主板倉勝静で、勝静は鳥羽伏見の闘いのとき老中をしていた。山田はその時松山に帰って来ていたが、朝敵と目されて戦うよりも、勝静を隠居させ、開城することを朝廷に伝えた。ウイキペディア。

 山田は、「なぜ攘夷を受けたのか、引きなさい」と主人に迫った。

 あの年、長州の堺町御門の固め(守護)がやめになった。亥年の8月18日までの形勢は激しかったが、それをがらりと変えたのが薩摩の力だった。その頃長州と薩摩は互いに忌みあっていた。それがなければ倒幕はその時行われていただろう。

 孝明天皇の伝記や宸翰(しんかん、天子の文書)によると、天皇の方針がころころ変遷したようだ。
162 しかし反覆(はんぷく、ひっくり返し)の綸旨(りんし)もある。
 公「私共は表向き攘夷で、朝廷では関白や中川宮が、密かに真の叡慮でそのことをそう言えと言う。八幡行幸のとき(天皇も)迷っていて、酒の勢いで攘夷を祈願した。いろいろ秘密の御沙汰がある。天皇が酒の勢いで八幡へ行くくらいだから、行幸は叡慮ではなかったのだ。」(まさに天皇制の本質、公卿が天皇を攘夷で利用していた。)
三条が天皇にひどく迫ったようだ。御宸翰の中には「三条には実に弱った」とある。
8月18日に天皇は、17日までの叡慮は真の叡慮ではないと言った。
兵権を薩摩に任せても、長州に任せても治まらない、やはり徳川家でなければ治まらないという(天皇の)お話も伺っていた。しかし天皇は真実を公言しないようにと言った。

163 先帝の真の叡慮は、外国の事情や何かについて一向御承知ない。昔からあれ(外国人)は禽獣だとかただ聞いているから、外人が入国するのはやだと天皇はいう。犬猫と一緒にいるのはいやだとおっしゃる。どうかしてああいうものは遠ざけてしまいたい、さればと言って今後戦争するのもいやだ。あれを遠ざけておいてくれ、とおっしゃる。
 公「天皇に申し上げる人も、事情が分かっていない。最初私が鷹司関白と会ったとき、私が外国の蒸気船や大砲の事情を説明すると、関白はなるほどそうかと言われ分かったようだったが、最後には日本には大和魂があるから、決して恐れることはないなどという。」
 ペルリの画像を天覧に供したが、あれはなるほど禽獣の態である。

1863.5.9、小笠原図書頭が生麦の償金を英国に渡し、兵を率いて上京した。小笠原が横浜で英国公使に軍艦を借りる相談をしていたとき、急に小笠原を措いて、御前自身が上京することに一時決まったが、公が病気になり、結局小笠原が京都へ参ることになったようだ。また『官武通紀』には、小笠原が横浜で渋ったから、公が行くことになったとある。真実の程はどうですか。
164 公「小笠原が償金を独断でイギリスに渡したが、朝廷はそれを承知しないだろう、だから兵力でなんとかしようというものだった。」

公「私が上京というのはこれとは違って関係ないことだ。私はその前に辞表を出していたが、辞表が受理されず、なお尽力せよということだった。ところが8月、七卿が長州へ落ちた。(追放)それでこれはいいチャンスだから、上洛して取決めようということになったのだ。」
公は10月26日に出発し、11月26日に京都に着いた。
京都の事件(七卿落ち1863)は、8月18日である。
最初蟠(ばん)竜丸で出たのだが、勝が順動丸を大阪から浦賀に引いてきたので、その順動丸を止めてそれに乗り換えて行った。
165 公「私が兵庫についたとき、一条様から葬式に同行してくれとの要請を受けたが、(誰の葬式か)私は葬式には同行せず、兵庫に留まった。」
「そこへ小松帯刀(たてわき)が来て、京都の情報を提供した。私は葬式が済んだ時分に京都へ行った。」
旅館は東本願寺の向いにあった。それから(公は)三条屋敷に行った。
私ども(渋沢)の上京は11月25日か26日で、14日に程ヶ谷を立っていたが、そのころはすでに(公は)お着きになっていた。
順動丸は勝の日記によれば、浦賀を立ち、下田、清水港に寄港した。兵隊など供の者が陸を先に行き、私(公)の乗った船はそれよりも後に行くから、時間がかかった。
166 御供船が舵を損傷し、三浦に上陸し、陸を供することになった。

その前のことだが、小栗長門守が来てから(公が)上京した。
公「昭徳院様(家茂、いえもち1846--66)が船で帰ったことを朝廷は咎めた。朝廷は家茂に滞在していろという御沙汰を出していた。
ところが尾州の慶勝が、「後は私に任せてお帰りなさい」と言い、届け放しで(昭徳院は)お帰りになった。
怒った朝廷の御沙汰を小栗が持ってきた。それは攘夷御親征のために大和に行幸し、大和で御親征の評議があり、その内容は倒幕だという予告だった。
会津、薩摩、中川宮らは、大和行幸となっては容易ならぬと判断した。
167 そして今がチャンスだから出るが宜しい、ということで(私は)上京した。」

 7.16、小栗がお屋敷に来た。(後を読んでみると、小栗が京都から江戸のお屋敷に来たということらしい。)18日に御前は「後見職辞任を申し上げたところ、『なお忠勤せよ』との御沙汰なので、国家の為に尽くしたい」と(朝廷の命令を)受けている。
そのあくる日、「仰せ立ての趣があるので、御前が上京する」という幕府からのお達しが出た。
これは(七卿落ちの)変の前のことである。
小栗が下ってくるときには、長州と薩摩の連合ができていたようだ。
中川宮様や近衛様から、島津三郎に至急上京しろというお達しがあり、長州の方も、三条様からのご沙汰で、表向き上京しろというお達しがあり、長州も、小笠原上京を聞いて、上京した。

会津を江戸にやった後で、大和行幸をやろうという(公卿側の)目論みだったが、会津は動かなかった。それで小栗に言いつけた。(意味不明)
小栗が来て、向こう(朝廷)の状況を話した。それから公が上京を決断し、幕府が一橋中納言の上京を発表した。
168 公「小栗が来て委細を話し、早く上京するほうがいいということになった。」
ひっくり返ることは想像できなかった。(長州を追放することから、長州を採用することへの逆転か)
会津と薩摩の消息が通じていたのは、ずっと前のこと、この年の6月ころだ。
薩人は九門内に入ってはならぬとなって不首尾となった。それで今度は長州の天下になった。薩は睨んでいた。ところへ大和行幸が出てきた。会津がくっついて来た。(意味不明)
168 小笠原図書守が兵を率いて上京した時、小笠原には堂上方の中で内通する人がいたが、その人は不慮の災難に会ったのことだ。それは姉小路少将で、小笠原と姻戚関係があるらしい。
5月10日限り攘夷というあの時、私(本昔夢会参加者の三島毅)は、江戸に事件を上申するために来た。(意味不明)

長州征伐

169 越前家の記録によると、1864.1.2、京都の御前の旅館に、春嶽、肥後守、伊達、島津などの諸侯が会い、薩摩の小松、高崎それに越前の中根が陪席し、元勧修寺宮様の還俗の件について話したのだが、そのついでに、長州が薩摩の船を撃ったと小松が話した。
9日、越前の中根と酒井御前の旅館に来た時、平岡黒川が、御前の御内意として、長州の処置を越前側に話した。すなわち、廟議を以て長州を征伐し、紀州を将軍の御名代とし、会津を副将とするとした。
そしてその夕方、御前、会津、島津、伊達などが春嶽の邸に集まり、以上のことを決定したとのことだ。
公「長州征討は長州の暴発以後である。紀州の件は江戸で決めた。」「長州の暴発以前は、長州征討を考えていない。福原三謀臣が来て御所に発砲してから後のことで、軍令状をつけて長州征討をした。」
それ以前は、長州が処分に服さなかったときに征討することや、大樹公の御親征などを会津が提案していた。
170 公「そこまでは行かなかった。あくまでも寛大の方針だった。」「それは暴発後である。」
渋沢「そのとき征討論はなかった。私は、長州は尤もだ、一橋様は因循だと思っていた。」
平岡が1月9日、征討するなら会津を副将とし、京都守護職を越前にすべきだと言っていた。
公「それは暴発後だ。」
守護職が替わったのは暴発以前であり、越前が会津に代わった。越前を守護職とするという御前の内意を、平岡と黒川が、越前の中井と酒井に伝えた。暴発前の子年の2月に会津が(守護職を)やめた。
幕府の目付中根一之丞が長州へ行って、奇兵隊によって殺された。
公「会津を征討に向け、越前を守護職にするということに一旦はなったが、やめた。」
171 伊達の日記によると、暴発以前の亥年の8月18日以降に、京都で長州処分の相談があった。
渋沢「会津が守護職をやめて長州征討に行き、春嶽が代わって守護職になったが、あの時平岡は生きていた。これは暴発以前ということを物語る。平岡の変死は子年の6月である。長州の暴発は7月19日である。」(公は後に渋沢の言うとおりだと言って、暴発以前という自説を訂正した。)
越前家の記録でも平岡が関係している。
172 会津が軍事総裁となり、越前は兵がないので兵を呼び寄せ、守護職を引き継いだ。また暴発の時は、会津が先頭に立ったから、それは会津が復権していたことを意味する。
 幕府の征討案は、紀州・越前を中心とする京都案とは異なっていた。
 暴発前に長州の伊原主計(かずえ)が嘆願状を持ってきた。
長州は、薩摩の船を撃ち、中根一之丞を殺害し、七卿をかくまった。このことに対して処分しなければならない。七卿を処分し、中根の下手人を出させ、薩摩船を撃った者を処分させる、そしてそれに服従しなかったら征討だ。
御内評定(ひょうじょう)があった。

前年の5月10日が攘夷鎖港の公武一致した期限だった。長州は、その勅諚を奉じて実行したのに、それが悪いというのは間違いだとした。それを長州は奉勅始末、つまり奉勅を罰する、という伊原主計が書いた書付を出した。
173 7月以降、尾州が征討の大将を引き受けた。
紀州から尾州に移ったのだ。(長州の)三謀臣を処分しようとするのだが、処置の言渡をせずに兵を引き揚げた。
寅年の夏、7月20日、1866.6.20(発表は8月20日)前将軍が薨去し、御前が将軍家を相続した。
前将軍薨去の少し前、一橋が将軍家の名代として長州征伐し、御前がその総大将となることになっていた。
渋沢「それまでは勘定組頭だった私はそのとき御使番に昇進した。
174 その直後一橋が将軍家を相続し、長州征伐の御評議はやんだ。
私は一橋に奉公する前は、長州へ逃げようとしていた。幕府に捕らえられそうな気配になり、長州へ逃げるしかなかったのだ。長州に知人の多賀屋勇がいた。私は世上の大勢を観察した。頼朝のとき、大江廣元は幕府に功労がありながら、昇進しなかった。今幕府と朝廷との関係が一変すれば、長州が世に雄飛する気運があるに違いない、長州へ逃げるのが一番いいと考えた。
ところがその時平岡円四郎が私に、ぐずぐずしていると縛られるから、一橋へ奉公しろ、そうすれば縲絏(るいせつ、つかまること)は免れる、時代が急変する事は無い、努力し、勉強しなさい、仕官する機会は今しか無いぞと勧告され、それに従った。
そして三年後に長州征伐に駆り出されることになった。私は御使番に栄転した。陣笠が裏金の白敲(たたき)で、それは名誉なことだった。国元にいよいよ討ち死にする時機になった、潔く死ねるだろうと言ってやった。
175 ところが急に一橋が将軍様になった。出陣の申し渡しがあった時には平岡はいなかった。それは原・梅澤がいて、黒川は引き、佐久間、榎本などがいた頃だった。」
穂積亮之助は水戸の人だった。


第十 1910年、明治43年7月19日 兜町事務所において

176 1863年の春、御前が上京の折、浪人が跋扈していて苦心された。
公「浪人の処分を朝廷の命令を受けてからするかどうかについては記憶がない。浪人処分の方法は、本国に送還するか、旧主がいない者は幕府が扶持(援助)するという評議があった。しかし、その通りには行われなかった。というのは悪いことをして国を逃げ出した者は国に戻りにくいからだ。」
177 当時の守護職の松平肥前守は、浪人を手荒く処分すると面倒なことが起こるから、彼等に言路を開くべきだと主張したが、公はそれでは浪人がますます我が儘になって、秩序が保てなくなると主張したため、1月20日に評議が中止になった。しかし2月3日に肥後守が再度要請し、御前も承認し、2月8日に浪人に対して言路を開き、思う事を言わせるよう、お触れを発布した。
公「浪人の件は会津に任せた。」
新撰組ができ、それは会津の付属になった。

1月22日の夜、池内大学が大阪で殺された。馬場文英の筆記によると、大学が武田耕雲齋と仲がよかったので、幕府の役人がそれを利用し、耕雲齋を介してして、大学に働きかけ、朝廷に攘夷期限の御沙汰を下さないように運動した。大学が殺されたのも、その事と関係しているようだ。

178 会津の守護職は所司代の上に位置している。2月8日に守護職から浪人の言路を開く御触書を出し、それを守護職から所司代に回し、所司代からお触れを出させようとしたところ、所司代がこれを拒んだ。所司代は、老中の命令を受けるが、守護職の命令は受けないと言った
 公「所司代の兵力を補充するために守護職を設けた。当時浪人や藩士が大勢京都に入っていた。長州や薩摩を所司代だけでは押えられないので、守護職ができた。肥後守が守護職になった。平常の事は所司代がやるが、両方が打ち合わせをすべきだ。
179 薩摩や長州が幕府を憎んだのは、会津の兵力を憎んだからだ。人選(何のか、守護職の人選か)は薩長を含めてやった。」(意味不明)
当初所司代には大名を指揮する権限を与えられていた。
守護職は兵力増強のための押えとされたが、後になって守護職の思うようにやれということになった。そして守護職が全権でやるようになった。所司代も昔からのことは継続したが、所司代は小録の大名が勤め、兵力が不足することがあった。守護職は老中の支配下ではなく、将軍家に直属した。

180 1862年、御前は上京の際に、500人のお供をお連れし、その中で講武所の兵隊は、槍剣隊と小筒(づつ、小銃)組が、200人から300人だった。
1863年7月末から8月の初め頃、京都で親征論が盛んになったが、その裏面には倒幕が潜んでいた。これは幕府にとって好ましくない傾向だったので、御前や老中が京都に行って挽回しなければならないと松平肥後守が江戸にたびたび言っていた。
 京都から攘夷という勅命が出ているが、江戸では何もやれていない。こんな状況で上京すれば、変事が起こるかもしれない。
 ちょうどその時、松平餘(よ)九麿様を御前のお手元において芸術を習わせる目論見があり、餘九麿を引き取った。
黒川嘉兵衛の話では、公は上京すれば、二度と江戸には戻らず、御末弟(餘九麿)を養子にして、京都に出かける覚悟だったと言っている。
公「徳信院様、つまり一橋の祖母が、儲君(ちょくん、皇太子)問題で、私(公)に言うには、『当主の者が三代とも、僅かにして代が変わったが、それは嘆かわしいことだ。しかし、このたび水戸からお前が継ぐことは喜ばしいことだ。昨今御養君(養子)の噂があるが、(餘九麿)自身には結構なことだが、一橋は空明きになる。嘆かわしいことだ』と言った。」
公「私もそれを心配しているので、『(上京を)受けないつもりだ。万里(まで)小路という上臈(じょうろう、年功を積んだ高僧)にそのことを頼みたいので、徳信院様から万里小路に頼んで欲しい』と頼んだところ、万里小路は、手紙が手許にあるのは不都合だからと言って書面を返したが、その事はいずれ申しあげるつもりだと約束してくれた。」
公「その後隠居問題や謹慎問題が生じたが、その謹慎が解け、相続となり、徳信院様も喜んだ。ところがまた私が混乱の京都に出向く話となったとき、徳信院は私が行かぬようにと望んだ。しかしどうしても行かねばならない、私の弟の餘九麿を、留守中はこちら京都へ、芸術の稽古のためとして呼びましょう、私に万一のことがあれば、餘九麿を後に立てますとして、餘九麿を引き受けた。」「その件では幕府の許可も得た。」
182 餘九麿は後に会津の養子になり、その後松平大学頭の養子となった。会津にいたころは、若狭守と言った。

 御前が後見職の御辞表を出されたことが、中川宮様のお手控えと『孝明天皇御実記』に出ているが、少し変だ。熱田から出したものとすると、関白様への御添書があるはずで、在京中はお世話になったとか書いてあるはずだが、それがなく、第二回目にそれがあるのが変だ。初回にそれがあるべきだ。
公「熱田から出した記憶がない。」
偽書か。
公「熱田で堀宮内(くない)に事情を聞いたというのはその通りだ。」
辞表には沿えたものが必ずあるはずだが。
公「あの時分の辞表には沿え書が無いのが普通だ。」「辞表にある殿下とは関白殿下、鷹司殿下という意味だ。」
183 第一の辞表は堀宮内に会ったときのものだ。熱田に着いたのは夕刻だ。すると掘宮内に会ったのは夜だろう。
江間「浅学短才で大任に堪えないから、後見職を御辞退申す、その代わり攘夷は必ず遂行する。」
公「後見職でいては攘夷ができない、だから後見職を辞めて一己(こ)になって攘夷をやるというのは、不思議だ。覚えのないことだ。」
この不思議な辞表を受け取った松室礼重は、京都の地下人(じげにん)で、その人の手控えと中川宮の控えに書いてある。そしてその中に5月9日に到着したとあるが、4月26日に熱田から出したものが5月9日に届くのも、時間がかかり過ぎる。これは本物でないのかもしれない。
184 『岩倉公実記』にも書いてあるが、もとが一つだから資料として取るに足りない。重要な資料は松室の手控えと中川宮の手控えだけだ。この辞表は何か為にするものだったらしい。辞表は、「綸言(りんげん)汗の如し」の文言があるのが初めの辞表だ。(意味不明)

 次は本昔夢会のメンバーである江間政発の武田耕雲齋に関する話

感想 非常に複雑、禅問答のようで、当事者にしか分からないような話だ。またついでながら当時は身分がものを言う社会だったということが分かる。

184 武田耕雲齋には武田猛つまり武田源五郎という子どもがいて、その子が武田耕雲齋の祀りを引き継いでいた。武田源五郎は越前を脱して、今も存命である。私(江間)は、先日彼を招待していろいろ話を聞いた。
 穂積亮之助が彼(武田猛)を援助した。穂積は公の御内意をもって、「耕雲齋の祀りを絶やすのは不憫(憫然)だ。その方(穂積)が行って救い出せ」という(公の)御沙汰を蒙って、梅澤に相談した。
これまで武田勢は趣意書や嘆願書を出していたが、それを通じて穂積がかの陣(武田勢)へ往来していたことから生ずる伝手(つて)で、穂積が耕雲齋に会った。
185 (穂積は)一行の中から武田猛、梶又左衛門、原孝三郎の三人を連れ出して京都へ行った。

私(江間)が武田猛に、「越前脱走の時、お父さんとはどんなお別れをしたのか」と尋ねた。猛は「父に呼ばれたとき、これから藤田小四郎と共に加賀の陣屋へ行けと言われた。私はそのとき15歳だった。藤田小四郎らと4、5人で加賀へ向った。その直後穂積は(上記の)3人を連れて京都へ行った。」
武田猛「京都で綿引泰が私等の世話をしたかどうかは覚えていない。私は京都の因州(因幡州)の屋敷に行った。」
186 武田猛「(上記の)三人のうち一人は、三木左太夫である。三木は伏見の鳥取藩の屋敷に入り、その後岡山で潜伏していた。」

この三人の中に原市之進の弟(孝三郎)がいた。この原の弟や武田猛を穂積が助けたことから判断すると、原、梅澤、穂積などが君公の名前を矯(た)めていたのではないだろうかと想像できないか。

 原市之進が斬られたこと(江間の話の続き)

 薄井達之筑波党の軍師だったが、その党を脱党した。薄井は信州飯田の郷士で、耕雲齋の徒党であったため、飯田藩は薄井の郷里である飯田の老母と妹を縛って牢屋に入れた。
薄井は藤田小四郎に相談し、自首して母や妹を助けようと思うと言った。すると藤田は自首をするよりも脱党を勧めた。
187 藤田は薄井に彼ら(筑波党)の素志を京都の一橋様に伝えて欲しいと言い、薄井はそれを約束し、まず江戸に出た。
薄井は阿波の家老稲田九郎兵衛の家来と親しくなり、阿波藩の家来の家来となり、京都に出た。
当時京都の一橋家には御用談所があり、その主任が原、梅澤、黒川、川村、渋沢篤太夫、渋沢成一郎、穂積亮之助らであった。薄井がそこへ出向くと、渋沢篤太夫はびっくりし、危ないから早く帰れという。薄井が怖気づいて帰ろうとすると、自分(薄井)の弟子の某の倅が話しかけてきたが、薄井は逃げた。それから薄井は阿波へ逃げ、次に江戸に出た。

188 当時小栗上野介の意見で軍制の改革が行われていて、旗本が浪人や百姓を集めて兵隊を拵えていた。
佐野豊太郎という旗本は7先石で、御船手頭(おふなてがしら)をしていて、本所の割下水に屋敷があった。その人が7千石に対して一中隊の歩兵を拵えたが、薄井が軍学を知っていたので、薄井は屋敷に招かれ、兵隊を訓練した。

その時こちら(佐野豊太郎が住んでいた江戸か)では新徴組(しんちょうくみ)や一派の壮士党があった。後者の主なメンバーは山岡鉄太郎、高橋伊勢守、関口艮(ごん)輔だった。彼等は原を売国の奸臣と思っていた

関口艮輔が薄井のところに来ると、薄井は、京都の原から薄井に届いた「世の中が変わったからすぐ上京しろ」という書面を関口に見せた。
翌日の夕刻、関口が脇差の短いのを刺して薄井のところにやって来た。
189 関口は薄井に「浜町の菊池長四郎の別邸で送別会を開こう」と誘い、薄井が長い刀を指そうとすると、懇親会だから短いのにせよと言った。彼等が本所の津軽の表門まで来ると、待ち伏せしていた依田雄太郎が後ろから薄井に斬りかかった。前からは鈴木恒太郎が刀を振りかざしていた。

関口はいなくなった。薄井が番兵に声をかけると、依田ら三人は逃げた。そのうちに弟子の一中隊がやって来た。

薄井は翌日関口の宅を訪れた。関口艮輔は「我々がやった。お前が原のところに行くと、我党の機密が京都の原にばれるからだ。」と言った。それに対して薄井は、原は奸物ではないと諭した。山岡鉄太郎、中條金之助、榊原采女、小草瀧三郎、松岡萬らも呼び寄せ、薄井は彼等を説得し、彼等は納得した。

ところが依田はすでに原を斬りに京都へ向っていた。山岡は、原には護衛がいるから大丈夫だ、ほっとけと言ったが、原は結局斬られてしまった。
薄井は、自分が彼らの処罰対象者となっているリストを山岡から見せられた。関口は薄井を関口の別荘に引き取って、傷の手当をしてくれた。

191 尾高惇忠は、山岡鉄舟と高橋泥舟の相談を聞き、彼らのような当時の豪傑と言われる人でも、目先が見えないのだから、幕府が倒れるのも無理はないと嘆息した。尾高は、彼らが原という大事な味方を斬ってしまったと言った。


1865年、慶応元年2月、松平伯耆(ほうき)守と阿部豊後守とが上京した

2月5日、伯耆守が京都に着した。阿部はその二日後の7日に上京した。6日、御前が伯耆守を招いた。
尹宮の日記によると、7日、黒川嘉兵衛が尹宮に6日の様子を説明した。そして
192 御前が伯耆守になぜ上京したのかと尋ねると、伯耆守は最初は阿部が来てから話すとしていたが、酒が回ると、十一か条の要求を述べ、それを尹宮にあなた(御前)から話してくれと漏らしてしまった。

1.関東では開鎖の論が以前ほどやかましくなく、穏やかになった。
2.(朝廷からの)大樹公御進発(の要望)はこれまでやかましかったが、去年の暮、同列どもが皆申合せ、断然御進発お見合わせとなった。
3.諸藩の兵が京都の宮門と九門の警護をしているが、それはよくないから止める。
4.諸藩の周旋方も有害だから、止めて引揚させる。
5.朝廷が上洛を迫るなら、幕府の内閣は総辞職すると決議している。
6.(朝廷に対して)伯耆守は表から厳正に望み、豊後守は裏から穏和に望み周旋する作戦だ。
7.禁裏をはじめ国事係り等へ金銀を贈り、文政年間1818-1830の通りにするつもりだ。
8.朝廷は天下の政治に干渉するが、それはよくないことで、天下を混乱させるから以後止めてくれ。
9.一橋、会津、桑名の三家を関東へ下し、自分たち二人が京都に残って取り扱う。
10.尾張老公は御参府*にならなければならぬ。

*参府とは大名が江戸に参勤すること。一般に江戸に出ること。

御前が、会津は近々下向するらしいと言うと、伯耆守は非常に喜んだ。

黒川嘉兵衛は尹宮様に以上の通り申し上げた。191
以上のことは薩摩の大久保一蔵の日記にもある。

193 公「会津はこの二人(松平伯耆守と阿部豊後守)のどっちつかずの態度に立腹した。」「阿部は(公のところへ)来て、鉄砲や馬の話をしたが、肝腎の国事のことには触れなかった。」

194 宮様の日記に「伯耆守赤面、豊後守白面にて周旋の含みの事」とある。
老中二人が、御前や会津や桑名を引き戻すのはおかしいと、薩摩の大久保は怒った。(引き戻すとは朝廷を牽制して政策の変更を迫ることか。)
8日、阿部と伯耆守の二人が御前のお屋敷に参殿した。その時の話しは、野中某が浅井将監(しょうげん)から聞いた書付によると、
二人は、「江戸は手薄である、将軍家は心配している。あなた(公)の実家の御屋形の一条は容易でない。」
195 「30日から50日間御東下(江戸に戻る)されたい。これは上意(将軍家の意向)だ。」
公「実家の処置振りが良くないのは中納言様の失策のためであり、弟の自分が関東まで出て干渉するなど、不愉快なことだ、お断りしたい。」
二人「是非一度帰府(江戸に帰る)ということは、上様の上意だから再検討してくれ。」
公「再考する必要はない。一昨年江戸を立ったとき上様から直命を受けている。一橋の屋形へは二度と帰らず、京都の土となる覚悟で来ている、だから決して帰らぬ。」
11日、二人は再度公の元へ出たが同じ事だった。

二人はそれから後会津に参り、𠮟られた。
二人はその前に所司代を呼んだが、越中守は二人をやりこめた。「理屈だけではだめだ、あなた方は私にそもそも命令する身分ではない。」
196 二人は今度は参内したが、関白が立腹したため、豊後守は即日江戸へ出立し、伯耆守は大阪へ行けと命令された。(誰に命令されたのか。)


武田耕雲齋の倅を助けたのは原市之進の専断であったのか、それとも一橋公の御沙汰が必要だったのか。
公「幕府は水戸の奸(かん)党に肩を持っていた。自分(公)の手で殺す事はできない。武田は加州(加賀)に降伏した。それで江戸から田沼玄蕃が、武田を受け取りに行った。」
197 公「本国寺にいた水戸の人々を関東に下すようにたびたび言っていたが(誰が言っていたのか)、遣って皆殺しにしたくなかった。そこで御一新になり、鈴木市川の罪をちゃんと立てるようにという朝廷のお墨付きを本国寺の水藩のものが持参して下った。(意味不明、水戸藩自身で罪人の処分せよという内容のお墨付きか。)

中納言様(慶喜の兄、水戸在住)が、朝比奈彌太郎をかばったが、断然やれという御前の御沙汰があり、無二無三にやった。
公「朝廷が、烈公の趣意を奉じ鈴木朝比奈らを厳罰にせよというお墨付きを本国寺へ下げた(伝えた)。それは、私が戦争で江戸に帰り、大慈院で謹慎する前のことだった。途中から綿引という(原)市之進の弟子が来て、『こういうもの(お墨付き?)が出たので守護して帰る。どうしたらよいか(誰に?)伺って欲しい』と言った。」
「私は、水戸の中納言を呼び出して、屋敷に帰さなかった。屋敷の奸党は、中納言にお帰り下さいと言う。」
「私は、奸党の首魁藤咲傳之丞を呼び、留めたまま帰さなかった。」
198 「私は本国寺の連中を皆城中に呼んだ。鈴木、長谷川が頭だった。そこで勅諚を拝見した。」
「中納言が水戸に帰る前に、京都から来た者を、勅諚を持って(水戸に)帰らせた。その後で、中納言、幕府の兵隊の順で水戸に帰した。そして帰ったら処置(処罰)をせよとしたところ、水戸の奸党は逃亡した。そこ(水戸)では、本国寺にいた天狗という者が事を執った。(ヘゲモニーを握っていた。)」
「逃げた奸党は会津へ行き、徳川家のために薩長を討たねばならぬと言い、会津に加勢した。」
「会津が降伏し、仙台でも庄内でも片付いた。奸党は行き場を失い、どうせ死ぬなら天狗と戦って死のうと水戸へ引き返して来た。私は謹慎を仰せ付けられていたので、勝に、『これから水戸で戦争が始まるから水戸にいてはいけない、今のうちに駿州宝臺院で謹慎するように願ってくれ』と言ったところ、勝と大久保が、三条さんなどへそのことを願った。(戦争には関わりたくないということか。)三条は喜んだ。
私は銚子から静岡へ行き、宝臺院に入った。入るとすぐに奸党が水戸に押し込み、弘道館の戦争となった。
199 鈴木*が脱走して捕まり、市川も捕まった。その後私は宝臺院で謹慎解除になり、静岡にそのまま留まった。

*鈴木は天狗党の鈴木である。

私は、兄の中納言に水戸に帰ってはならぬと言った。中納言は、朝比奈弥太郎を呼び水戸に帰りたいと言ったが、私は兄を留置した。


第十一 1910年、明治43年10月18日 兜町事務所において

 御親兵、つまり御所警護兵を派遣するかどうかをめぐる、幕府と長州とのせめぎあい

200 1862、文久2年、三条、姉小路が勅使として関東(幕府)に来て、御親兵の御沙汰を伝えたが、幕府はその時は断った。
1863、文久3.2.21、御前は、「御親兵として畿内近国の諸大名が半年交代で禁裏の守衛をやり、その大名は守護職の支配下に置きたい」と朝廷に建白した。
公「その時私は将軍それ自身が御親兵だと申したが、これは書付に残っている。202
この建白は将軍家の上洛以前に行っている。
公「関東は御親兵を置きたくなかったのが本音であった。」
幕府から建白が出ると、朝廷での評議が盛んになり、建白が出た翌々日に朝廷は公卿に可否を下問した。また、2、3日して長州の世子長門守から御親兵を貢献したいという建白が出た。
公「松平餘四麿山内兵之助長岡良之助が御親兵担当となり、山内に御沙汰があった。餘四麿は1863.11に死去した。彼は私の兄弟だ。私は京都赴任中は餘四麿に会わなかった。御親兵担当者たちは5月には任務についている。202
202 そのご沙汰に、5.13の日付で、三条中納言が署名している。その中に「先日松平餘四麿と山内兵之輔にお世話方を言いつけた。」とある。
公「三条が御親兵を担当(総督204)した。」
公「餘四麿は幼少の頃水戸へ行ったので、私は餘四麿にはあまり会わなかった。」
荻野「長州から御親兵を送ることを耳にし、それでは都合が悪い、向こうが出ないうちに関東から先に出した方がいいというので出したのではないか。」
203 会津はこぞって御親兵を担当したので規定の人数を出さなかった。薩摩は藩内に長州党的な者がいたから御親兵を出したかもしれない。
餘四麿以下三人は佐幕派である。水戸や山内の党派は、幕府側と長州派とに分かれた。
204 幕府が言いつけた将軍家や近畿の諸侯の御親兵を、長州は討ってしまえということになる。
三条が御親兵の総督となり、激徒の組合ができた。
長州、薩州の過激派による御親兵と、幕府の譜代、親藩の御親兵との間には軋轢があったか。
公「長州と会藩は敵視し合っていた。」
 8月18日、七卿が東寺へ逃げたとき、御親兵が三条を護衛してそこへ行き、そこで「進退を勝手にしろ」という御沙汰があったので(誰から?)、皆うれしがって京都に帰った。

賀茂行幸、八幡行幸、大和行幸を長州が建白した。

205 この中には幕府を討とうという内密の計画が含まれていた。
公「賀茂行幸のとき彼らは将軍の権威を貶めることに専念していた。次の八幡行幸ではそれがさらにエスカレートし、破裂しそうになった。さらに次の大和行幸ではそれがもっと高まった。『大和に行幸軍議を尽くされて』というのが倒幕だ。」
「賀茂のときはまだ倒幕がはっきりしなかった。御鳳輦(ほうれん)が通御(通過)する際、昭徳院様(家茂、いえもち、慶喜の前の将軍)は後ろに下がっていた。」

*鳳輦とは天子が行幸のとき乗る車。
*通御とは天皇が通過すること。

「将軍家も鳳輦に御辞儀をするが、当然そのはずである。その後から堂上方がお供でついて来る。それらの者が将軍家の前を大手をふるって挨拶もしないで通る。昔なら関白も、将軍家の前を黙って通るということはならぬ。それを大いに愉快として、彼らは将軍の権威を落とすことに力を入れる。」
「八幡行幸では破裂しそうになった。諸藩から固めの兵が出て、長州などからも出て、軍服で固めた。」
「次は大和行幸で、会津、薩州、中川宮様などのお骨折りで、ああいうことになった。」
賀茂行幸のとき(天皇は)将軍家を社頭にお召しになり、恵み深い勅諚を賜ったこともある。
206 また御前は神前で攘夷の節刀を賜ったこともある。
公「八幡の時、攘夷の節刀を賜った。加茂では将軍に供奉(ぐぶ、天皇にプレゼントすること)させ、御辞儀をさせたと言えば、それで彼等は満足した。しかし八幡の時は異なる。間違い(将軍に対して失礼な行為)があれば(彼らにとっては)それでいいのだ。」
八幡の行幸のとき尾張大納言と松平肥後守が、将軍家の供奉ご辞退に反対し、肥後守が登城して御前に諫言したので、一時供奉すると決まったが、その夜にまた取りやめになった。
公「理屈の上では出なければならぬ(供奉しなければならぬ)が、結局当日病気ということでお断りした。」
公「私は三条や堂上の者と是非出なければならぬかどうか論じ合った。行幸があるのに供奉しないということは理屈に合わないから、病気だとしてお断りした。」

1863、文久3.3.10、御前が将軍家の京都での滞在日数を延ばして欲しいと建白すると勅許になった。また17日、今度は関東に帰りたいと言うと差し止められた。その事情は如何。

公「攘夷の期限が決まったので、長く京都に居られないことになったが、閣老も朝廷も公武合体まで京都に滞在したほうがいいということになった。ところが三条など過激な人たちは、期限通りに(私どもを)帰して攘夷をさせるのだと言う。こちらはゆっくり京都にいて合体したいと考えた。
ところが長州や三条やその他の者の考えが変わって、今度は(将軍を関東に)帰しても(将軍が)攘夷をできないから、こっち(京都)に留めて、その間(将軍の)権威を貶めて困らせた方がいいというようになった。
そして参内のときに(将軍の)名誉が傷つけられることがあり、これでは真の合体とはならない、早く帰った方がいいと判断し、その攘夷を借り物にして早く帰ったほうがいいとなった。
しかし朝廷が帰ってはならないと言い出したので、こちらはそれなら京都にいようということになったのだが、結局私に、攘夷を受けて帰れということになった。

207 主上(天皇)と将軍家は合体で意見が一致したが、互いが互いをどうするかについての意図はなく、意図があったのはそばの者たちだった。彼らは我々を引き留めておいて、我々の権威を貶める策に変わったのだ。国事係が出てきて、何やらあれこれ言うが、閣老はそこに出席できない。私共は遠くに離れて控えていて聞いているだけだ。またそんな状況で何か同意を強制されても困るので、攘夷を受けたからそれを借りて帰ることにしたのだが、ところが今度は帰ってはならぬと言うのだ。
208 困ったことには、(将軍家が)参内し、主上と関白と将軍家とが話すのだが、(将軍家は)策略を施すことができず、とにかく何も言えないのだ。」

 将軍家が参内したとき、御前は御所のどこにいたのか。

 公「御所内の麝香(じゃこう)の間で将軍が祇候(しこう)する。麝香の間の外に廊下があり、私は廊下の向こうの端に行って座っている。国事係りが入り口のところへ来て話を聞いている。」
御前は中納言という官職にいて、三条と同じ官職だったが、三条とは別の席だったのか。
公「私は閣老の一つ上に過ぎず、小御所で関白が将軍家と対面する時も、廊下の隅にいるので、話を聞くこともできない。朝廷から将軍家に委任するから、国家の為によろしく頼むと言うのだが、それではそれを表向きにはっきり言ってくれというと、それは言えないと言うのだ。
朝廷は国事係に遠慮している。国事係に決定権がある。

主上(天皇)自ら戦争は好まないと言ったのか。

公「表向きではないが、内実は衝突ではなく一致である。ところが私どもはその主上のお考えを言うことができない。主上が言ってはならぬというのだ。」
209 三島「八幡行幸のとき私は京都にいて、主人の参内を止めたことがあるが、家老が過激なことをするなと私どもを抑えた。」
公「長州は(兵隊に)軍服を着せていたのに、幕府が歩兵に軍服を着せると、異様なことだとやかましかった。長州は八幡行幸の時も軍服だった。何かしら敵はこちらの失敗を待っているのだ。」

生麦償金の件は(幕府への)委任事項であるから好きにやっていいと、将軍が3月19日に参内したときに、関白が言った。
しかし、あのときの関白は鷹司で、長州派である。勝手にやれというのはおかしいではないか。

(公が)関東に帰ると宣言したとき、水戸の大場一真齋がそれを不可だとし、御前に諫言した。
210 公「横浜を鎖港にするようにという件で、(私は)水戸の中納言と考えが一致していた。一真齋は鎖港を喜ぶ側だから、そのために(私が)下ることに反対するとは、その意図が理解できない。」

 1863.11、尹宮(いんのみや)*が簒位*を計画しているのではないかという噂があった。

*尹宮朝彦親王は伏見宮邦家親王の第4王子。
*簒位とは帝位を奪い取ること。

 尹宮は自身の雪冤を島津三郎に頼んだ。その結果、御前、松平春嶽、島津三郎らが、12月5日、尹宮のために雪冤書を書くことで一致した。

211 1863.12、御前、松平春嶽、松平肥後守、伊達伊予守、島津三郎らが連署し、勧修寺に幽閉されていた濟(さい)範法師つまり元勧修寺宮を、山階宮に取り立てるように建白した。*


*山階宮晃親王(やましなのみやあきらしんのう、1816—1898.2.17)は、日本の皇族。伏見宮邦家親王の第一王子。勧修寺宮済範親王。

天保12年(1841年)108日、二歳年下の叔母(系譜上は妹)の幾佐宮隆子女王と出奔。明石・姫路方面へ行った後、京に戻るが、仁孝天皇が激怒し、天保13年(1842年)722日に光格天皇養子・二品親王・勧修寺門跡の地位が停止され、伏見宮家から追放された上、東寺での厳重籠居を命じられる[5]

安政3年(1856年)蟄居が解かれ、安政55月に勧修寺に戻り、氷室殿と称する[6]

文久3年(1863年)、島津久光・松平容保・徳川慶喜ら公武合体派が、時勢への見識が高く、海外情勢にも関心が高いとされた親王を政治に参画させるべく、還俗を孝明天皇に願い出る[7]。親王の還俗には朝廷内で反対が多く、父・仁孝天皇が罰した者を許すことに孝明天皇も反対だったが、幕府や大藩に押し切られ[8]、文久419日に還俗を許され伏見宮に復し、同月17山階宮の宮号を賜った。同月27日、孝明天皇の猶子となり親王宣下を受け、翌日に国事御用掛に任ぜられる[9]

その後、島津久光と手を結び、一会桑政権*と対立。慶応2年(1866年)830日に大原重徳ら対幕府強硬派公卿22名が行った参内に加担したとみられ、国事御用掛を罷免、蟄居を命じられる。しかし孝明天皇崩御後の慶応3年(1867年)329日には処分を解かれた[10]

*一会桑政権とは、京都において、徳川慶喜(禁裏御守衛総督・一橋徳川家当主)、松平容保(京都守護職・会津藩主)、松平定敬(京都所司代・桑名藩主)の三者により構成された体制。


主上(孝明天皇)は、先帝(仁孝天皇)の譴責を自分の代で赦すことに反対した。またこの宮は、長州に加担していた。この宮は優秀だったが、親王宣下はどうか。
公「宮は行状が正しくなかったが、春嶽、宗城、三郎が、宮の還俗の建白をした。それに朝廷は反対しなかった。異論はあったが、それが行われた。1864、文久4.1.9」
そして宮は俗親王となり、山階宮となった。
212 すぐに宮が還俗し、親王宣下をすることは難しいという議論が朝廷内にあった。臣下に下って四位から追々関白まで昇進するのがよかろうという意見と、すぐに親王宣下がよいという意見があった。御前は後者の立場だったと伊達宗城の日記にある。春嶽、肥後守、伊予守、三郎が連署して建白し、宮の還俗と親王宣下を要望した。
 臣下に下り、追々昇進というのが堂上の説で、親王宣下は武家の説だったのではないか。
 臣下に下るべきだとする正親町三条前大納言の説に、御前や尹宮が同意であることを耳にした伊達宗城は、宮が俗親王になることを希望すると日記に書いている。
 親王宣下となると宮様が一家増える。臣下に下れば、廣幡(ひろはた)や醍醐と同列になる。摂家*のなかには、自己の勢力を考慮して、宮が臣下に下って逐次昇進ということには不同意だったという説があるが、臣下に下っても摂家にはなれないのではないか。

*摂家とは摂政・関白に任ぜられる家柄。

そうすると摂家には異論がないはずなのに、摂家の中に議論があるのは、どういうことか。
公「私は、勧修寺宮済範親王が有能だったから、抜擢されるのが良いと申し上げた。」


 1863.12、春嶽が御前に、創業か中興かと尋ねたところ、御前は創業だと答えた。
春嶽が、誰と組むべきかに関して、在京の諸侯と相談すべきだと言ったところ、御前の考えもそれと一致したと越前の記録に残っている。
幕府は、8月18日の政変後のことだから、将軍家を興すには好機であると考え、京都にいる諸侯も、公武合体を唱えてはいたが、春嶽も三郎も、ただ参政権を得たいと思っていたに過ぎなかったようだ。そういう中での御前のおっしゃる創業とはどういう意味だったのか。

公「創業とは、幕府の創業を意味する。」
214 公「薩州、長州、土州などみなが、家老(小松帯刀、大久保一蔵)を京都に派遣していたが、幕府は、老中や若年寄や目付などを京都に派遣しないで、目付の支配(支配向)を探索に出せというぐらいだった。閣老派遣は規則でできなかった。」
中興というと寛政や享保ですか。
公「幕府における非常の抜擢は、永井主水正が若年寄になったくらいで、人物はいるのだが、それを抜擢する方法がないのだ。」
215 公「新規にやるべきで修繕ではだめだ。」

 長州征伐

 1864.7.23、朝廷が長州征討を幕府に命じ、同日、紀州、土州、讃州など八藩に、大阪、兵庫、西宮などの警衛を命ずる幕令が出て、また、阿州、筑前など21藩に、出兵の準備を命ずる幕令が出た。
公「これらは関東の幕府が出した命令だ。京都在住者には私から伝達したが、紀州の総督とか彦根、讃州などに関しては関東が命じた。
公「暴発が7月19日で、命令が7月23日。大変遅い。」
216 閏5月22日、再度の長州征伐のための進発で、昭徳院が大津から京都に来て参内した。23日、昭徳院は二条城へ帰り、そこで、御前、会津、桑名や、お供の閣老が会議を開いたが、会津の記録によると、論が二説に別れ、第一は、(長州の)大膳を死罪、長門を助命とする一橋の主張と、第二は、会津の説で、輿論を考慮して、父子とも蟄居、周防(すほう)一国を没収とするというものだったが、結局議決に到らなかった。如何でしょうか。
公「阿部豊後は(長州藩の父子を)呼び出して斬るべきだと言うが、実は本音は、一国を取上げるくらいで済ますという考えだった。寛大な処置を望む人が京都には多かった。私は黙っていた。」
217 公「会津などが寛大な処置を求めるだろうし、最初から寛大にしておくと、さらに寛大になってしまうから、当初は厳しく言ったまでのことだった。」

(軍の)進発ではなく単なる上洛だという話もあったが、上洛ではこれまで失敗していたので、阿部が長州征伐という名目にした。(これは昭徳院の上京の名目をどうするかということらしい。)
長州は悔悟していない、御所からの仰せ(征討)もある、そこで進発だと一般には公言した。
ところが進軍には名目がない、処置(処分)さえすればそれでよい、再び征伐するのはよろしくないなどと主な藩から建言があったが、それでも進発した。
218 途中京都に寄るべきだと会津が言い、そうすることになったが、すぐそれを言うのはまずい、たまたま京都に立ち寄ると宣言する(「触れ出す」)だけにしておこうということになった。(意味不明)
京都に入り、参内した。
それ以前において、関白・近衛などが、慎重に衆議すべきだという勅書を(天皇が)下さるのがよいとしたが、御前や会津、桑名などは、勅書でなく勅語で、書付なしで願いたい、ただのご機嫌伺いにしたいと要望し、また朝廷の趣意は尊重する、参内は簡易に願いたい、難しいことを言い始めると関東の有司が暴論を言い始めかねない、と会津はしきりに(関白や近衛に)要望した。
23日、肥後守が関白に会ったが、勅語さえなくて、喜んだと記録に書いてある。
公卿の書付では、陛下の御前で関白が綸言を伝えたが、その内容は、三つの箇条からなり、

1.「朕長門父子を召さんと欲す、而して到らざる時は則ちこれを討て。」
2.「朕長門父子を召さんと欲す、汝糾(ただ)して而して辞(反論)なくんば、則ち之を誅せよ。」
これは謝れば赦すという意味だ。
3.朕群藩を召さんと欲す。汝京洛に滞り、衆言の帰するところによって而して誅伐を期せよ。」

公「これは事実と違う。大樹(将軍)に委任するから、しかるべく扱えとのことだった。」
第一箇条は幕府に有利な勅語だ。
公「事実はそうではなかった。呼び出して来なければ討つというのは阿部豊後の論と同じであった。」

24日、昭徳院が大阪へ下り、御前は安部豊後と共に大阪へ行き、昭徳院を訪ねてから、京都に戻り、「毛利淡路と吉川監物(けんもつ)を呼び出し糾問したらどうか」と天皇に提案したところ、朝廷からは差し支えないとの返事であった。

220 阿部は翌朝大阪へ、御前も一日遅れて大阪へ下った。昭徳院の実記によると、「時々一橋殿御登場(昭徳院の)御機嫌を伺われた」とある。
御前は御用部屋で閣老と話したとのことだが、三奉行、大目付、勘定奉行などと評議したのか。
公「阿部や松前と私的に話しただけで、公然たる評議はしなかった。えらい勢いで(京都や大阪に)やって来たが、実際(長州の)大膳を呼び出して、出てきたら斬ってしまうなど、本心にはなかった。向こう(長州)が恐れ入って降参するだろうという目算は間違っていたが、その間違った目算に基づいて、阿部豊後は打毬(だきゅう)ばかりしていたし、将軍も、天主台で遠望したり、武術や乗馬をご覧になったりして、評議することもなかった。

 小笠原図書守の復職

6月29日、会津が京都から大阪に下り、小笠原の復職を評議した。板倉防州などが在職中に小笠原の復職を主張し、京都の幕府とも交渉したが、一橋(御前)だけが承知しなかったと会津の書簡にある。小笠原を出すと、朝廷との調和が破れると御前はお考えだったのか。
公「阿部豊後、松前が外国との条約の件で退役となった。残ったのは周防一人となった。」
222 その時は阿部も松前も無事であった(免職にならない時だった)。(小笠原の)再任は、阿部、松前の免職が機会(と入れ替え)になった。

 昭徳院(徳川家茂、いえもち、1846—1866.8.29)の薨去後、御前が一時長州征伐の総督になった。
前征伐の時、紀州が初め総督だったが、なぜか尾張の前老侯が総督に命ぜられた。再征伐の時には、尾張の玄同侯が辞退し、紀州が総督を引き受けた。
公「前年三謀臣の首を斬った。その翌年が進発だ。」(意味不明、三謀臣とは長州の三謀臣か、また進発とは、長州再征伐のことか)
渋沢「私はもと勘定組頭だったが、御使番格になり、戦争のお供を命ぜられた。長州に行ったら、どうしても向こうが強い。こっちが弱いのだから死ぬに限っている。死ぬ覚悟をして国に送った手紙がある。原市之進から、ここで追討しなければ、幕府の威信が落ちると聞いた。あの時長州を討ってしまえば、御一新は急にはできなかったはずだ。あれは幕府のためには不幸なことだった。
公「相続前に長州征伐を引き受けた。前任者が不快で、征伐も何もできなかったからだ。いよいよ行くときになって昭徳院が薨去した。長州征伐は、見合わせを願って、全国の諸侯を集めて大会議を開くことになった。」
公「私は昭徳院の後を相続した。相続後、勝を呼んで、(長州に)使いにやった。勝は長州に知る人がいたからだ。
「向こうは小倉と浜田を取っていた。」
「長州との戦争は止めにして、国家の為に大会議をしようということになった。」
「私は相続のときに将軍職は受けなかった。」
「長州に寛大にするかわりに、向こうも浜田と小倉の兵を引いてもらいたいという方針だった。」
その前に名代を立てることが決まったが、それは遺言から変化したのですね。(意味不明)
公「長州も(外国に)大敗した。向こうが兵を引き、こっちも寛大にして、あとは国家のことに取り組もうとしたのだが、薩長の方では倒幕が決定していた。

 渋沢「御床机廻の人は、今度(戦争に)行ったら、もう一人も生きて帰らぬという意気込みだった。猪飼さんはどうでしたか。」
 猪飼「御床机廻は皆討ち死にの覚悟でございました。」
渋沢「紀州や彦根は意気地がなかった。一橋もあまり兵気の振るう家ではなかったが、皆覚悟をしていた。」


昭徳院が御前を煙たく思っていたという会津の記録があるが、どうか。
公「そんなことはなかった。」
閏5月23日、昭徳院参内の翌日、昭徳院は肥後守を召し、病気の慰問等の話があったのだが、そのとき、御前に対する疑惑や注意を肥後守に述べたが、肥後守は、それは考え違いだとしたと会津の記録にある。
225 (そういう記録があるのは)昭徳院の側近の豊後守や伯耆守が、御前に信服していなかったからだろう。
公「昭徳院は、老中が病気だと言えと言うからそう言ったとし、少しも悪いところがない。」(意味不明)
昭徳院の将軍職辞職は、朝廷をびっくりさせるための、嘘勢をはった脅しだった。(意味不明)
公「昭徳院は私に軍職を譲り、『私は帰る』とおっしゃるのだが、それは長州問題や条約問題という難題を私に押しつけるものだった。」
その辞表文を向山黄村(むこうやまこうそん)が書いた。

226 渋沢「昭徳院の薨去を境として、長州に対する硬軟の態度ががらりと変わった。そのキーは薩摩の長州擁護が関係していないか。」
公「薩摩は以前から長州に加担していた。」
渋沢「薩長は倒幕を常に口にしていたが、あの時は別々だったのではないか。子年の7月19日に京都で変事があったが、幕府が倒れたのは、伏見・鳥羽にではなく、長州征伐にあったと私は思う。」
渋沢「私は今更逃げても武士の恥と思って死ぬ覚悟をしていた。最初徳川を倒そうとした私が、その徳川の為に死ななければならぬとは、人生の皮肉だった。」
書付の中には事実を生み出さんがために拵えたもの(フェイク)もあるから、注意せねばならぬ。


第十二 1911年、明治44年4月6日 兜町事務所において

227 1864.3、御前が禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮を拝命した時、1862年以来勤めてきた後見職を辞退したが、その背景は如何。
公「京都にいては関東のことには手が届かないからだ。」
薩州や越前には異論があったとのことだが。

1864年の子年の正月、21日、27日に、将軍家が御上洛したとき、公武合体のありがたい勅諚が発せられた。
2月14日、再び参内し、1月27日の勅諚に対する請書を渡した。すると15日に、請書の「横浜鎖港に関しては、すでに外国へ使節を差し出しており、成功させたいものだが…」の後半部分「成功させたいものだが…」が、鎖港を意味していないのではないかと、朝廷が御前を批判した。
その時松平春嶽、島津大隅守、伊達伊予守なども同じく参内していて、大隅守が御簾の前で開国説を主張したので激論になった。
翌日も尹宮の屋敷で、御前が激論をぶった。二説あり、一つは、横浜鎖港の件は、朝廷への鎖港確認の要請であり、御前から尹宮を通して内願したという説と、もう一つは、この未確定な表現(「成功させたいものだが…」)は、参与の諸大名にまだ諮っていないという意味であり、従って朝廷が参与の意向を確認する必要があるという説とである。
公「大隅守がにわかに開国説に変わった。(薩摩は薩英戦争で敗れた、1863.8.15昭徳院が上洛する前に、板倉、井上、水野、酒井雅楽(うた)などが衆議を尽くし、この前の上洛では長州に攘夷を迫られ、今度の上洛では薩州に開国を迫られ、幕府の立場が二転三転するのではまずい、したがって開国はいけない、という江戸での衆議があった。
229 公「(昭徳院は)水野和泉、酒井雅楽と共に上洛した。私の方にも薩摩から開国の要望があったので、私は同意した。攘夷や鎖港では結局朝廷を欺くことになる。御用部屋で私は開国を説いた。酒井、水野は私の考えを尤もだとしたが、議論は平行線となり、結局大君(将軍家か)の判断を仰ぐことにした。しかし、その結果は、すでに使節を立てたのだからとして、鎖港に決定した。
薩州は、この前は長州が不可能な攘夷を迫ったのだから、今度は薩州が押し通し、開国にしようと決意した。
水野や酒井は、薩摩の開国説が通れば辞職するという。
230 私は、閣老がいなければ何もできないから、横浜鎖港に決定したが、薩州は強引だった。請書にも横浜鎖港と書いてある。
 朝廷にも開国を嫌う人がいた。薩州も怖いが、攘夷も可能性がない。
 請書が出た後で、朝廷から横浜鎖港に関して問いただされた。15日、朝廷から詰問され、朝廷で、春嶽や三郎と御前との激論があった。」
公「(本当に)鎖港をするのか、(それで大丈夫か、)というお尋ねが朝廷からあったが、大丈夫です、成功してみせますと答えた。
231 その後尹宮で暴論があった。」(意味不明)
伊達宗城の日記によると、朝廷では激論ではなく、平和的な話し合いだったとある。
市之進は鎖港の方針を喜んで水戸に報告した。

尹宮

*尹宮朝彦親王1824—1891 は、伏見宮邦家親王の第4子として生まれた。尹宮は尊攘派だが、公武合体派でもあり、その点で長州とは異なる。

231 原市之進の書簡によれば、尹宮には驕飾や擁蔽(ようへい)の振る舞いがあったとのことだが、どうか。また尹宮は御前の気を引こうとしたとのことだ。
(御前が)尹宮から下がり、原に会って大気焔を吐いたと原は語っている。また板倉は薩州の意見を聞くべきだと思っていた。
232 公「私は、横浜鎖港は本気でなかったが、前回は長州の意向を受け入れて、横浜鎖港の方針を決定し、今度は薩摩の意向を受け入れて開国に決定するのでは、方針に一貫性がなく、よくないことだと思った。

1867.3.4、浪士の強迫で、今まで幕府に同情的であった朝廷の議奏廣橋大納言、六条中納言、久世宰相、伝奏野中中納言の四人が罷免された。また大阪にいた英国人(アーネスト・サトウか)が、敦賀へ参るということで、伏見街道を通行し、京都の公卿が恐怖心に襲われ、朝廷から薩州、因州、備前の三藩に京都を守護するようにとの沙汰があった。
御前はこの二点を朝廷の失態であるとし、4月28日、二条摂政を訪問し、厳しく話をした。これについては越前の記録がある。
公「会津などが(警護に当たって)いるから、三藩に命じる必要はないと言った。一方薩州は警衛を望んでいた。」

233 当日、御前が二条摂政邸で、摂政に辞職を迫ったという説があるがどうか。
公「それは言った。」
「私(二条摂政)も辞任するが、大樹公も職を辞すべきだ」と言われたとのことだがどうか。
公「それはない。」
伊達宗城は、御前の振る舞いが穏当でないから、謝罪すべきだと老中に言ったとのことだがどうか。
 公「そんなにひどい議論ではなかった。」

234 越前の資料によると、1867.5.23、御前は、兵庫開港の勅許を得るために参内した。
公「このころは島津が長州と密かに合体していた。島津は、兵庫開港に異議はないが、長州の処置とセットでやれと言うのだ。それに越前、宇和島が同意した。薩摩は、幕府が開港で窮していることを知っていた。大蔵、伊達、島津は開港せよと言う。そこで私は島津が開港せよと言っていると朝廷に言った。島津はまだ言わぬなどと前言を翻すようなこともあったが、兵庫開港を外国人に返答してしまった。薩州は長州にはもう罪がない、官位を戻し、入京させるのがよいと言うのだ。
235 幕府はそれには反対だった。

 民武が清水家を相続した背景は如何。
 公「民武のフランス行きと清水家相続とはセットになっていた。また、玄同が一橋に行ったのは、尾州の慶勝(よしかつ*)が玄同をどこへでもやってくれろと板倉に手紙をよこし、尾州は玄同を出したかったし、一方玄同も出たかった。それで一橋へ遣ったらどうか、ということになった。

*徳川慶勝1824—1883 は大名。尾州藩藩主。弟に、徳川茂徳、松平容保、松平定敬がいる。

最初は玄同が清水家に行くことになっていたが、途中で民武が清水家に行くことになった。
民武がフランスに行くことに水戸の本国寺の者が反対した。それで民武を清水家に入れたという噂がある。
236 最初民武は会津へ養子に行くことになっていたが、会津には餘九麿が行った。御前が民武を西丸に入れたかったから、会津行きを断ったという説もある。

政権奉還

 江間政發「福岡孝弟(たかちか、土佐藩士)が、後藤と共に御前に拝謁したとき、私も福岡の話を聞いていた。
237 その時御前の御側には、松平越中守板倉伊賀守、若年寄の永井玄蕃頭、大目付の戸川伊豆守松平大隅守、目付の設楽(しだら)岩次郎、榎本亨造、梅澤孫太郎らがいた。
江間「こちら側の証人である旧主越中守のところに私が出頭し、『あなたも御側にいたのだから、あの時の詳細を聞かしてくれ』と言った。以下の話はこれに基づいたものだ。」

 越中守「13日、二条城へ召し出された各藩の留守居が列座しておるところへ、私(越中守)と板倉永井が出席した。(御前に)拝謁前のことだったが、まず越中守が口を開き、政権奉還の趣意を説明した。その後板倉が「意見のある者は将軍家が会って話を聞く」と言ったところ、諸藩の留守居は50人いたが、誰も意見を言わなかった。
238 彼らは藩論をまとめてから改めて上申すると言って退散した。ただし、その中で面会を申し出た者がいて、それは薩摩の小松帯刀と土佐の後藤象二郎の二人と、他に一緒に来た者で、福岡藤次(孝弟239と芸州の辻将曹であった。その時同席した松平大隅も、この4人だと言っている。242, 243
 将軍家は上段に、小松らは下段にいたが、将軍家は上段でも下段の近くにまで進み、小松らを近くに引き寄せて話した。小松は「今日の仰せは時勢御洞察の英断、皇国のために在り難き思し召しである」とし、「今日にでも参内して御奏聞されたい」と申し上げた。そして後藤がその後を継いで、「私ども三藩を始め他藩でもこの政権奉還に異論はないが、朝廷がもしこれを取り上げなかったらどうするのか」と尋ねた。すると将軍家は、「我が意を貫徹する」と答え、「親藩、譜代の面々に諮詢して公議を経た上で奏聞するつもりだ」と答えた。
越中守(松平定敬か)の話は以上の通りである。また越中守が言うには、
239 後藤象二郎はこのような高貴の周旋に慣れていないせいか、平日の豪放に似合わず、畏縮して大いに汗をかき、そのことが後々の噂の種となった。
同席した松平大隅守の話では、後藤の汗の件には気づかなかったし、我が意を貫徹するという将軍家の発言も聞き取れなかったとのことである。
福岡藤次の話では、拝謁したのは4人の他に、備前で一人、宇和島で一人いた。そしてこの二人は、4人とは別に拝謁した。

帯刀は、衆議を募るのがよい、それまでは外国の事や国家の大事件は朝廷が評議し、その他はこれまでどおりに(幕府に)お任せになるのがいいと言った。
板倉に小松帯刀が言うには、ただ今から御参内し、このことを申し上げたらどうかとしたが、将軍家は、手続を経て、明日参内すると答えた。そして板倉は小松に、この件について朝廷に周旋しておくようにと言った。
小松が朝廷に前もって言ってくれたので、将軍家が翌日参内したときには、「衆職を召して衆議を尽くした後で正式にやるとして、それまでは外国の事、国家の大事は朝廷が致し、その他の事は前の通りに(将軍家が)心得よとのこと。
241 ところが実際は衆職を召す事もなく、9日から非常の大御変革があって、復古になった。
越中守によれば、この時の御前の御演達(演説)はすばらしく、感動的だったとのこと。その御趣意の書付も残っている。
ここに越中守が書いた当時の配置図がある。
242 各藩の留守居を集めた席には、御前は出席していなかった。そこに宇和島からは都築荘蔵、備前からは牧野権六郎が出席した。
福岡によると、二条様は、幕府から奏聞があるから御取次ぎになるがいいと福岡に言われると、そんな軽率な事はできないと一旦は断ったが、小松が大声で言うと、奏聞を引き受けたとのことだ。

御前が大阪に下り、朝廷からお召しがあったとき、後藤象二郎に会いましたか。
公「後藤は大阪には来なかった。来たのは中根雪江、尾州からは田沼か誰かが来た。」
244 ある書によれば、公が下阪し、朝廷からお召しがあった時、公は後藤象二郎と相談し、後藤が「大勢で上洛すると物議を生ずるから、単騎・軽装で来られるのがよろしい」と忠告したそうだ。
 そして公がこれを容堂に告げると、容堂は「もし内府(公)が単騎で入京するならば、自分は土州兵をもって死を決して護衛する」と言い、それを書面に認めた。そして後藤がその使者には私を使ってくださいと請求したところ、容堂は、それは危ないとし急に出さなかった。この件で後藤は、薩長の間で疑われるようになった。これは記録にある。
 公「後藤は大阪に来なかった。」
大久保一蔵が当時の手紙を持っているのだが、見せてくれない。
245 尾越両老侯は12月26日下阪、29日まで滞在し、尾は不快で登城しなかったが、越は数回登城し拝謁した。(越前の記録)
春嶽は公に護衛を付け、下阪しているはずだ。
戸田大和守は頻繁に大阪に来た。(このあたり内容が飛んでいて分かりにくい。)


第十三 1911年、明治44年6月14日 兜町事務所において

246 1864.6、長州藩士が、嵯峨天竜寺、山崎、伏見辺に参ったとき、有栖川帥宮(そちのみや)を攘夷別特使として関東に派遣するという評議が京都に起こったが、それは横浜鎖港を幕府に催促する目的だったのか。それとも、有栖川がかねてから長州と縁故があったので、その有栖川を京都の外に出す意図があったのか。
公「有栖川派遣については聞いていなかった。」
 御前は有栖川が京都に居ることを不都合だと考えたのか。
247 公「有栖川は長州に加担していた。このころは(長州が)破壊寸前だった。」
 一条家の大炊御門(おおいみかど)大納言は、横浜鎖港催促の建白を朝廷に出していた。
公「聞いていない。」

 長人が京都に来たのが6月の末で、暴発が7月19日、その間、薩摩、会津、桑名は、長州の異志を討伐しなければならぬと御前に進言したが、御前は許さなかった。それはなぜか。
公「会津、桑名、薩摩は、先んずれば人を制すと考えたが、それは長人の叛意が明らかだったからだ。その討伐の名義は、長人は入京を禁じられていた、愛訴歎願と言いつつ兵器を携えて来ているということだ。しかし私の考えでは、表向きは歎願である、堂上方や諸藩の中には長藩を支持するものが多かった。したがって説諭して聞かない場合に討つのなら名義が立つと考えた。これは永井主水正や戸川鉡三郎とも相談した結果だ。
248 しかし説諭しても長藩は聞かず、兵を引き取らず、兵力をさらに増強していた。そこで期限を切った通達を出しに、永井と戸川を遣った。そしてその期限のときに長藩が暴発した。従って軽率に討ったという非難は免れた。人事を尽くさずに兵を用いると、後のことが面倒になる。戦争になるのは皆分かっていたが。

当時薩州の態度を懸念されていたか。
公「あの頃の薩州は、会津や桑名と一緒になって長州を討つことになっていた。」

東寺を本営とする計画はなかったか。
公「それはない。御所を固めることを中心にした。一方、会津は、長州を討つことを激しく主張した。」
249 公「会津を抑えるのは大変だった。長州を討つべきだという会津の考えは、状況から見てよく理解できた。」
 萩野「長州が三方にたむろしていただけでは、入京したとは言われないので、長州側にも争う余地はあったでしょうね。」
公「それにあの時分は、長州加担の堂上が殆どだった。」

1865.9、兵庫開港を要求して四カ国の軍艦が摂海に集結したとき、大阪町奉行の井上主水正が兵庫の軍艦に参り、10日間の回答猶予を求めた。
公「あれは私や阿部豊後の命令ではなく、井上の自身の判断によるものだった。阿部豊後、松前伊豆、松平周防が当時の政局を担当*していた。彼等は相談し、開港延期は通らない、国家には代えられぬから、(外国の話を)聞き届けるとして、周防が、決答を外国人に言うために兵庫へ向った。*閣老250
その時私は京都から大阪に来が、夜だったので阿部豊後の家に行って、話を聞いた。
前回ハリスが来たとき、朝廷に伺いながら、その許可が出ないうちに条約を結んだという議論がやかましかった。だから今回は日延べをして、朝廷の許可を得なければならぬと皆が言っているときに、井上主水が自ら進んで外国艦船に談判に向かい、日延べを求めた。パークスが応接したが、パークスはどうしても聞かなかったので、井上は指を1本切ると脅し、1週間ないし10日間の日延べを勝ち取った。
250 そこで結果(結答)を外国人に言いに兵庫に向かっていた周防を呼び返し、これから朝廷に向かうことで一致し、私は京都に帰った。
ところが将軍(昭徳院)が、中納言(私)に後を譲って辞職した。また阿部豊後、松前伊豆も、自分らは閣老でありながら、主水がやったことを自分ではどうにもできなかった、朝廷に何も言えないからとして、二人は退役し、周防一人がお供して伏見(後継の手続か250)に行った。」
 昭徳院の辞職の動機は、阿部や松前を朝廷が罰し、老中まで朝廷から任免されることが、旗本の有司の感情を害したため、あすこが動き始めた。(意味不明)
公「旗本等はそれでは幕府は立たぬと言った。」
 将軍様に辞職を迫るとは、(旗本有司は)よほど怒ったものだ。
公「この将軍辞職劇は、今まで朝廷側が何かにつけて幕府に注文をつけてきたことに対するあてつけだった。このような背水の陣の中で、後任の私が努力奮発するだろうという期待も昭徳院にはあったようだ。」

251 1866.1、長州処分の件で幕府は朝廷に奏請した。毛利大膳父子は悔悟謹慎しており、また祖先以来忠勤であるから、寛大にしてやり、朝敵の罪名を除き、領地10万石を削り、大膳は蟄居隠居、長門は永蟄居とし、家督はしかるべき者に申し付け、三家老の家を永世断絶にすると奏請した。
 その時尹宮や二条関白が、朝敵の罪名を除くと、自分たちの立場がなくなるといったらしい。
公「知らない。」
 将軍家から御所に、朝敵の罪名を除くと言ったらしい。
公「それはない。罪名を除いた上での上記のような処分は厳しすぎる。この時は阿部豊後がまだ在職中だった。初めての将軍のご上洛で将軍が二条城に着いたときに阿部が言った大膳父子の処分は、斬首だった。ただしこれは後で罰を軽くするという含みがあった。」
 寛大の程度を朝廷が言渡すことになったが、文言で混乱をもたらす恐れがあるからとして、単に寛大の処置は叡慮であるとすると朝廷が仰せられた。それを小笠原壹(いち)岐守が持って広島へ行ったが、朝敵の罪名を除く件は毛利に伝えなかった。
252 公「幕府は長州を朝敵にせよと言う、朝廷は寛大にせよという。幕府は長州から朝敵の罪名を除くとは提案しなかったのではないか。」

1866.5、岩倉具視(友山公)が、外夷に対処するために全国合同を計画し、そのためには主上が石清水に行幸し、そこに徳川家、越前、会津、桑名、その他の諸藩を召して、天皇が諸藩に依頼するという計画を密奏した。このことを川村恵十郎が御前に知らせたとのこと。
 公「聞いていない。」
 渋沢「水戸市長の原百之が、香川から聞いた話を私にした。それは前々代の岩倉が蟄居していたこと、水戸藩士の香川が、御前の指示で、あちこちに遣わされたこと、また、一橋公は岩倉と交際があったことなどである。」
253 公「私は岩倉とは交際していない。石清水への行幸に関して、徳川家、越前、会津、桑名への、天皇からの依頼についても知らない。そのことは後に薩摩などが岩倉に言ったことで、この時は岩倉はまだ蟄居していた。」
 渋沢「原百之が原市之進の書類や遺墨を私に提供してくれたが、そこには長州の暴発後のことが書かれていた。原百之は原市之進の兄の子である。原家は今では落ちぶれたようだ。原市之進が書いた「送殷員外使回鶻(こつ)序」を私は渡仏の時に貰った。
254 1865、幕府は長州処分で大膳父子と五卿を江戸に呼び寄せようとした。また同じ頃参勤交代を復活させようとしたが、それ(参勤交代の復活)には薩摩が大反対で、朝廷の力を借りてそれを阻止しようとした。
小松帯刀と大久保一蔵が、尹宮と二条関白へ強制的に願い出たが、朝廷は当初それを採用しなかった。しかし、小松と大久保が幕府に伝える勅命案をつくると、関白は当惑し、ついに朝命をもって所司代に(参勤交代を復活しないように)伝えた。
御前はそれを見て肥後守や越中守と相談し、それを関東に伝えるのを暫くはやめたいと朝廷に申し上げていたところ、(御前は)松平伯耆守にその朝命を関東に伝えさせ、朝廷もそれを許した。(方針転換か)
公「そのとき松平伯耆守と阿部豊後の二人が私のところに来た。」
 阿部豊後は(松平伯耆守よりも)先に関東に帰った。
公「私は、豊後・伯耆の両人に、大樹(将軍)が早いうちに上洛するように伝えよと言った。また毛利大膳父子の出府(江戸幕府に出向くこと)を命じ、五卿を江戸に呼び出すという命令が、関東へ発せられた。また諸大名の参勤・妻子出府の件も、文久二年1862の例に復することにした。
255 しかし毛利大膳父子や五卿の関東への呼び出しは、できないことだと思っていた。」
 
伯耆が大阪に行ったのは、長州藩士などを取り締まるためだ。

 勅諚を所司代へ出したが、所司代の家臣を江戸に下すというのが正規のやり方だ。(意味不明)
 伯耆と豊後の二人が来たが、二人は、御前や会津に責められ、関白にも𠮟られた。豊後は、将軍を速やかに上洛させろと言われ、早速帰った。伯耆に対しては、なぜ兵隊を連れてきたか、という御下問があり、伯耆が、摂海の外国人や禁闕の警備などの用心のために兵を連れてきたと説明したところ、それでは摂海へ行って防禦せよと関白が命じた。
公「記憶がない」

256 将軍が(江戸を発って)二条城に到着し、御前や会津、桑名と評議したとき、御前が、大膳を助命し、長門を死罪にしようと言ったとあるがその通りか。
 公「(将軍の)御参内が済んだ後で、私が阿部豊後に、大膳父子をどうするのかと尋ねたところ、父子を呼び寄せて斬ると言った。しかし後になって、それは後で寛大にするつもりだったと阿部は言った。」
 公「大膳父子の処分に関しては、私が言ったのではなく、豊後が言ったのだ。」

 1867、米と仏が兵を朝鮮に出そうとしていたとき、幕府はそれを仲裁しようとし、平山図書守と古賀謹一郎を朝鮮に遣わそうとしたが、そのときご一新となり、中止した。
後の人々はこのことについて、幕府が、「日本は海外に発展しなければならぬ、今朝鮮を救って恩を売り、それから支那に手をつけ、支那と朝鮮と日本の三国合従(がっしょう)の策を講じ、東洋の勢力をもって西洋と拮抗させる」という計画であったと言うのだがどうか。
257 公「覚えがない。この時分は京都の一条で大混乱であったから、朝鮮のことはよく覚えていない。」
 御前から朝鮮へ遣わした国書らしいものがあった。
 公「忘れた。」
 この問題は政権返上を提案したころのことだ。平山は対馬まで行って戻って来た。
 このころロシアが対馬を占領したことを契機に朝鮮経営問題が浮上した。あの時の対馬の家老大島友之允(いん)が朝鮮征伐を言い出した。その計画を立てたのは、山田方谷(ほうこく)だ。
 三島毅「私は対朝鮮戦争について書物に書いたことがある。宗(そう)家は朝鮮と始終交易の約束があった。ところが朝鮮が違約して、交易をしてくれぬようになり、対州(対馬)は交易で身を立てていたので、疲弊して、主人(板倉周防守)に就いて公辺(公儀)に救助を願った。ところが公辺(公儀)も忙しいから、それができず、山田が朝鮮を討ったらどうだと私に勧めた私はその策を書いて老中へ提出した。山田の案は、長州などの国内問題に対する目を、あちら(朝鮮)に向けて、(朝鮮を)分捕ろうというものだった。主人(板倉)は了解したが、退役したため、できずじまいになった。
258 1872年の征韓論はそこから出てきた。

 大政奉還後の処分について、公にはどんな考えがあったのか。

 公「朝廷の指図の下で国家のために尽くそうと考えていた。旗本をどうするかは考えていなかった。」
 当時山内容堂は議政府を設け、諸大名、旗本、諸藩士から俊才を選抜し、会議制度で政治をやり、公を議政府の議長に据え、徳川家を政治の中心にしようと考えていた。
 公「それは山内の考えであり、私は朝廷の指図の下でやろうと考えていた。」

259 1866.8.16、(公が)御参内した時、公がこれまで将軍家の名代として長州へ出陣することになっていたが、急に中止となったことに関して、二条関白が、公は長州を討つべきだとこれまで主張してきたのに、急に解兵を言い出すのは不都合である、として御前を責めたと『岩倉公実記』に書かれている。
 公「(長州に向う)兵を止めて、諸侯を集めて議したらよかろうと私が言うと、関白はどうとも言わなかった。」

260 1866.2.23、(公が)御参内したとき、(天皇は)公が国事に尽力すことを褒め、(公が)官服三領に御沙汰書を添えて頂戴したということが、『長防追討録』に書かれている。
 公「これは全くない。」
 (公が)相続後将軍職に就く一ヶ月前のことだが、御沙汰書に「今般その方儀」とあるがこれは公が蔑まれている表現でよろしくない。
 公「その通りだ。」
 (公がまだ)公方(くぼう)様にはならず、上様のときだから、「其方儀」は不適切な表現ではないか。

 民武をフランスへ遣わした趣意について、世間では様々に取りざたされている。フランスの歓心を得るためとか、民武がフランスの学術・制度を研究し、日本でそれを実行するためとか、英国公使は幕府が日本の政府ではないと申していて、それでは困るので、幕府が実際の主権者であることをヨーロッパ諸国に示すためとか、様々取りざたされている。
261 公「深い意味はなかった。」
 渋沢「君公にまで上せて評議一決したことはないが、関東では、老中の考えの中に、以上のような目的があったと出発前に原が私に説明した。ナポレオン三世が、書面を遣わして民部の留学を依頼し、学問上の監督を選んでつけるから、留学は国交に関係していると原から申し付けられた。御守役には山高石見守が命ぜられた。元来私は攘夷説を唱えていたので、洋行は少し変節のきらいがあるが、数年前のようにどこまでも攘夷ができるとは思われないと私は考えた。原はこの殷員外を送るの序を私に書いてくれた。
お供は、向山隼人正、組頭田邊太一、通訳方で保科信太郎、山内文次郎、英語の通訳方は、山内六三郎、翻訳方が箕作禎一郎、俗事役は日々野清作、生島孫太郎、その他御小人目付などが数名、総体30人、水戸から7人、京都では山高石見守、木村宗蔵、高松凌(りょう)雲など4人が指名された。

 その一団がイギリスに行った時、向山がイギリスの外務大臣に向って、パークスが将軍家のことをハイネスと言うことに関して抗議した。
 渋沢「イギリスは将軍家のことをマゼステーとは言わないと言う。それはもう一つ上があるからだ。従って将軍は殿下highness となるのだと言う。こちらは、将軍は国君で、外国に対して対等の権利を持つのだから、マゼステーと言われるべきだと主張した。そこで大君という名をつけて、大君すなわち陛下としたのだが、向こうはそうしなかった。」
263 渋沢「このことについて正式な談判はしていない。またこれより前、田邊太一が、薩摩を政府と認めるべきだと言って議論になった。薩摩は、向山隼人正を名代とし、岩下佐次衛門と五代才助を渡仏させ、モンブランが薩摩の顧問となって、フランス外務省で談判した。
 ハイネスは皇族殿下を意味し、マゼステーは陛下となる。
 公「当時、将軍のことをロセスはマゼステーと言い、パークスはハイネスと言った。そのことに関して板倉がどちらにすべきか私に尋ねた。私は上記の理由で、ハイネスでいいと言ったが、板倉は不満だった。
私がロセスと内閲しているところへ、パークスがやってきて口論になったことがある。ロセスの通訳の塩田三郎に事後尋ねたところ、どちらが先に私に挨拶するかどうかで争っていたとのことだった。」
264 ハイネスにすると一級下の交際となるから都合が悪い、また国君が二つというのもおかしい。

 条約の勅許を幕府が朝廷に乞うたが、それより前はどうか。
 公「それより前は、朝廷が全て政治のことには口出ししないことを関東は希望した。ところが井伊掃部頭(直弼)が暴断で志士を殺し、皆が腹を立てた。」
 公「条約の勅許の件でも、朝廷はもともと関東に任せていたので、朝廷へは開国を伝えればそれでよかった。しかし、幕府側が、開国は別だ、皇国に関わることだとし、朝廷の考えを聞きたい、朝廷の許可が下りれば人心も掌握できるし、幕府の言い訳も立つと考えたのだが、それは弱腰だった。そして朝廷の返事が出る前に、外国に迫られて開国の返事をし、それが違勅ということになり、反対者との応接が始まった。」

265 渋沢「政権返上は阿部伊勢守が端緒を開いた。阿部伊勢守の取り扱い(=交渉)の結果、堀田備中守が上京し、許可を得るはずだったが、結局できなかった。そこで今度は掃部頭が間部を遣った。間部は志士を残らず縛った。」

 諸藩士が京都に集まり、堂上方に出入りし、密勅が出てるようになったのは、幕府が勅許を朝廷に請うた時からだ。

 渋沢「幕府には全国の意見の粋を集める能力がなかった。事情が通じず、弱体化し、疑念が生じ、策を弄し、問題が大きくなった。」
 渋沢「朝廷の意見を伺わなくても、幕府の権力は保てなかっただろう。」

 公「板倉内膳が所司代の時、天皇が行幸を望んだが、板倉は、それは規則違反だとし、もし行幸するなら鳳輦(ほうれん)に向って一矢を放ち、私は黒血を吐いて死ぬ。これが関東へのご奉公だと言ったので、天皇は驚いて行幸をやめた。」*

*これは鳩巣の小説の中の仙洞(後水尾上皇)附高木伊勢守久延のことであるが、それを公は誤解したようだ。

 渋沢「それは板倉勝重のことでしょう。」

 萩野「これは本来は多賀豊後守の話なのだが、それが勝重になっている。1643年、三代将軍の時、禁裏附役人に遣わした書付に、御所の御座の間と表の方は昼夜とも錠を下して閉めておけ、用のあるときだけ開けよとある。付武家(つきぶけ)が、宮中の出入りを見張っていた。表の方からの交通を遮断して、大名も浪人も連絡できなかった。」
 有徳院(吉宗1684--1751)のとき、天皇が都鳥を見たいと所司代に言ったところ、関東から都鳥が送られた。大きな箱に都鳥献上と書いてある。箱の中には白羽の矢で翼が縫ってあった。(優雅な都人と違って)武門(=武家)は、(都鳥を見るのではなく、力で)都鳥を射止めて献上したのだ。このことを林述齋が、吉宗を称揚しながら、話した。このようなことは慎徳院(家慶、いえよし1793--1853)の時代にはとてもできない話だ。


第十四 1911年、明治44年11月9日 飛鳥山邸において

長藩御処分案のこと
268 1867.5.24、幕府は、長藩の処分を寛大にすべきだという朝廷からの御沙汰を受け、芸藩に長藩を諭させ、長藩が謝罪書を提出したら、毛利大膳父子(大膳敬親たかちか、長門廣封ひろもち、廣封は後に元徳もとのりと改める)の官位を復し、領土を元の通りにしようとした。ところが、芸藩はそれを拒み、在京の越前、薩州、宇和島の三藩もその案を非とし、行われなかった。
 7月24日、改めて芸藩に命じ、毛利家末家のうちの一人と吉川監物(きつかわけんもつ、経基つねもと)と家老一人を大阪に召致するという命を伝えさせた。その時公はどんな処置を考えていたのか。
 実はこれといった成案はなかった。上坂した時の態度で臨機応変の処置を考えていた。成案がなかったことが、うまくいかなかった原因だ。
269 私は最初長州が謝罪したら、大膳には隠居させ、家督を長門に継がせる考えだった。吉川監物も、長州に謝罪させて穏便に済まそうと考えていたようだが、薩州がそれなら長州を助けない、と言ったので、周旋が不成立に終わった。後に(吉川は)薩州の案に賛成し、謝罪は行われなかった。
御参内夜を徹せし事
 1867.10.15、(公が)御参内あり、政権奉還の勅許を受け、退出が翌日の16日の暁七つ(午前4時)に及んだ。このような徹夜の御参内は、重大な議事でもあったせいか。
 これは当時の慣習によるものだ。正午に参内すべしと言われて正午に参内しても、摂政(二条斉之なりゆき)は、薄暮にならないと参内せず、主上に拝謁するのが9時から10時になることは珍しくない。その後あれこれと用事もあり、暁七つくらいの退出となる。
 退出の合図があって、供の者が股立ちを取り、(袴の左右の裾を摘まみ上げて、帯や袴の紐に挟み、活動しやすくすること)蝋燭を点け、主人の退出を待つのだが、退出すると言っておきながら、まだ用談があることが普通で、一本の蝋燭が尽きて二本目になるころ退出となるのが普通だ。従って摂政が寝るのは暁近くになり、起床は11時ころとなる。今から考えれば、時刻は不規則だった。私は時々摂政に、一日だけ議事を調整すれば、その翌日からは時刻を正しくできるのではないかと勧めたのだが、一度も採用されなかった。
270 宮中灯火のこと
 宮中にては灯火は何を用いていたのか。
 各室二挺蝋燭を用いた。庭燎(ていりょう、庭でたくかがり火)は、普通は用いなかった。
宮中における御居間のこと
 宮中にての公の御居間はいずこに候や。
 一橋の時は諸大夫(だいぶ)の間、将軍になってからは、麝香(じゃこう)の間であった。関白も同じ麝香の間であったが、(私のとは)別にあった。
政権御奉還後の御処置のこと
 政権奉還後も朝廷や国家のために尽力するつもりとの話は前に聞いたが、王政復古の基礎についてのお考えは如何。
 成案はなかった。公卿や堂上の力だけでは実行できない。諸大名の力だけでも実行できない。諸藩士でもしかり。朝幕とも有力者は下にあって上にはなかった。その下の者の百事公論で決定すればいいのだが、その方法が見つからなかった。松平容堂の建白が出て、上院、下院の制を設けるべきだとしたが、これはいい考えだ。上院に公卿、諸大名、下院に諸藩士を選び、公論で行えばいい。そしてついにこれで断行することになった。
左右の者に向かって日本も西洋のように郡県となるべきだと(私が)語ったこともあったが、これは漠然とした考えで、その順序、方法は思い浮かばなかった。すぐには実行できないと思っていた。

271 12月9日の大変革(王政復古の宣言)の後でも、旧幕府が外交のことを担当したのはなぜか。
 それは各国公使が、今後どこが外国事務を取り扱うのかとやかましく尋ねるので、本来は朝廷だが、朝廷は無経験で、準備もないのでできないだろうから、一時の権宜として引き受けるということと、もう一つは、二条摂政が、朝廷は外国人を引見することなど今はできないから、従来通り幕府が外国と応接せられたいという依頼があったからだ。

 1867年、慶応3年12月11日、二条城を引き上げる日の前日、板倉伊賀守は、関東の同列に、兵士、および軍艦を至急(大阪に)回せと伝えた。これは台命(将軍又は三公の命令)か、伊賀守一人の取り計らいか。
 政権返上後は、私は一人の大名に過ぎないから、多数の兵を率いる必要はない。供廻も減少し、身の回りの警護に必要な人数だけを残し、他は帰府させた。会津・桑名も国に帰そうとしたが、板倉伊賀守が反対した。「万一の時に備えるべきだ。帰国せよと言っても承服しないだろう、その他の兵士も同様の考えだ」とした。軍艦・兵士の西上を促したとすれば、それは、伊賀の一存だ。

272 大阪城御引上げの時の事

 1868.1.6、会津藩士の神保修理(しゅり、長輝)が公に拝謁し、開戦の不可なることを諌めたとのことだが、如何。
 御東帰のことは、板倉伊賀守や永井玄蕃頭と相談した結果か。
 天保山沖で米国軍艦に搭乗した時の様子は如何。
 開陽艦に転乗したとき、英国の軍艦が一艘入港し、既に入港していた一艦と共に示威運動をした。その時公は、開陽艦の副長澤太郎左衛門(貞説)に操練させ、これに対抗させたとのことだが、如何。
 大阪城御引上げのときの同城の留守は誰がしたのか。

 神保修理は私に、「もうどうにもならないから江戸に戻り、善後策を検討した方がいい」と言い、永井玄蕃もそれに同意した。
私は当初は、刺し殺されても、会津・桑名を説諭し、それぞれの国に帰らせ、再び上京して、「今では一個の平大名にすぎない、(朝廷は)以前の通りに(諸君を)使ってくれるだろう、朝廷の為に努力すべきだ」と懇願すればよかったものを、それもできず、「どうにでもやれ」と言ったのは失敗だった。
またこのように後悔したとき、神保の話を聞き入れて、江戸に帰り恭順謹慎しようと決心したが、そのことは人に言わなかった。
273 私は諸有司や諸隊長にどうすべきか尋ねた。彼らは私に早く出馬すべきだと言うので、「よきほどにあしらいおき」、板倉や永井に、恭順のことは言わないで、ただ江戸に帰ることだけを言ったところ、二人は、「ともかく一旦江戸に帰るのがいいだろう」とのことだった。
再び大広間に戻ってみると、また出馬を要請するので、私は「さらばこれより打ち立つべし、皆々その用意をすべし」と言った。(なんとも優柔不断、不可解)私は彼等が戦闘の準備しているすきに、伊賀、肥後、越中(松平貞敬)ら4、5人を伴い、密かに大阪城の後門から抜け出した。(指導者失格)
 天保山で船を捜したが、開陽丸は薩摩を追跡していて、碇泊していなかったので、停泊中の米艦に頼むべく、仏国公使にそれを仲介してもらおうとして、使い(山口駿河守(直毅、泉處と号す)だったと思う)をロセスに送った。米艦は歓待してくれた。とかくしているうちに開陽丸がもどり、それに転乗した。
 この時英国軍艦が来て、しきりに開陽丸の周辺を乗りまわし、偵察をした。澤太郎左衛門が私に、暫く隠れていた方がいいのではないかと言ったので、私は暫く船室にいた。暫くして英艦は立ち去った。
 私は江戸に向う船中で伊賀守に「会津・桑名や旗本などがどんなに騒いでも、私は動かないつもりだ。天皇のもとを一歩も退くべきではないが、大勢の勢いには抵抗できず、好きにせよと放任し、遂に鳥羽・伏見の戦いとなった。これは失策だった。(後悔などするな)私は、江戸に帰ったら、恭順謹慎して朝裁を待つ決心をしているので、おまえらもそうせいと言ったところ、伊賀守は、「仰せではございますが、関東の役人の話も聞かなければ、約束できない」という返事であった。
274 英艦に対して澤に命じて操練をさせたというのは流言にすぎない。
 この時大阪城に留まったのは、永井玄蕃頭と妻木多宮(頼矩)だったと思う。
 後で聞いた話だが、私が出帆した翌朝、長藩の一小隊(隊長は井上聞多(馨、かおる)とのこと)が大阪に到着したが、幕府側は妻木の命令で、何の抵抗もしなかったとのことだ。

御東帰途中の事

274 1868.1、海路江戸に向う途中、一旦由良に寄港する命を下されたが、変更して江戸に直行した。由良への寄港は、お供の中に再挙の謀があったためではないのか。
 また途中浦賀に寄港したが、山口駿河守を上陸させ、ロッシュと密談させたのか。

 由良の件は暴風雨のためで、大阪に戻るという話はなかった。浦賀の件は知らない。

御東帰の後、松平定敬が策を進め、勝義邦が進止を取った事

275 御東帰の後、松平越中守が何か公に勧めたが、公はそれに耳を傾けず、恭順謹慎したと『七年史』にあるが、松平越中守の勧めたことはどんなことか。

 東帰の後、城中は混乱していた。主戦論は会津や桑名だけでなく、老中以下諸有司が全て主戦論者だった。越中守の策のことは覚えていない。
 勝安房守が、「公が恭順の方針ならば、一死をもってそれを貫徹し、もし雪冤の方針ならば、軍艦で薩州の本拠を衝き、また別の艦隊を清水港に向わせ、官軍を防ぐ策もある。進止いずれなりとも御意のままに遵行する」と言ったが、私は、断然恭順とし、勝もそれに従った。大久保一翁にもその旨を諭し、彼も勝同様に従った。

松平容保、松平定敬が江戸を退去した事

 松平容保(肥後守、会津藩主)や松平定敬(越中守、桑名藩主)が、江戸に東帰後に、江戸を去って恭順したが、それは公の戒諭のせいか。

 越中守は柏崎に、肥後守は会津に退去し謹慎した。それが私の戒諭のせいかは分からない。また戦備を整えよという意味でもなかった。

仏国公使が再挙を勧めたこと

276 東帰の後、ロセスが私に再挙を勧めたが、私はその時同席していた小笠原壱岐守を退席させ、「日本の国体は他国と違い、首を斬られても天子に向って弓を引くことはできない」とロセスに言った。ロセスもそれに納得した。

公が上野へ御退去のとき、近藤勇が護衛しようとしたこと

 東帰の後、上野大慈院へ退くとき、有司が話し合い、安全のために人を払うなどということは、もうすべきでないと決めたところ、近藤勇(昌宜)は、途中万一の変があるかもしれないから、新撰組の面々と相談し、城から上野まで部下を配置し密かに護衛しようと苦心したのだが、議論が変わって、いつもの通りに人払いをしたので、近藤は怒ったという。

(朝廷から公への)水戸への御退去(命令)の期日を延期したこと

 1868.4.4、勅使橋本少将(實梁、さねやね)と柳原侍従(前光、さきみつ)が江戸城に入り、水戸での御謹慎や江戸城引渡しなどの五箇条を田安中納言に伝えた。そのとき、(朝廷側は)「本月11日を期して、右の各件を処置すべし。この期日は緩いのだから、(期日の繰り延べなどの)歎願をしてはなるぬ」と申し渡したところ、7日、中納言が「慶喜は来る10日に水戸へ退去謹慎するだろう」と約束した(ことを私に話した)が、実際は11日に延期した。その延期の理由は、表面上は病気だったが、実は江戸城の無事引渡しを見届けたかったのではないかとの噂だが、それは本当か。

277 記憶にない。

水戸へお供した兵隊のこと

水戸へ御退去のとき、彰義隊が水戸までお供すべきという決まりだったが、彰義隊を千住から還したとのことだが、公は水戸へ誰もお供をさせなかったのか。また彰義隊の過激を避けるためだったのか。

 遊撃隊や新撰組(土方歳三、さいぞう、義豊、がこれを率いていたと思う)などを召し連れたと思う。彰義隊は連れて行かなかった。それは大勢を憚ったからだ。千住まで見送ったものは、これ以外にもいた。その時一同に恭順を説いたことはなかった。


第 十五 明治45年5月15日 飛鳥山邸において

278 毛利慶親父子と御書ありしということ

 1864年、元治元年3月22日、長州藩士の有福半右衛門が上京し、藩主松平大膳大夫父子(大膳大夫慶親長門守定廣、慶親は後に敬親と改名し、定廣は後に廣封と改名した)の書を公に渡した。
 その書は2月26日付で、「攘夷の国是を変えないで、三条元中納言以下正議の堂上(公家)を復職させ、烈公(慶喜の実父、常陸水戸藩第九代藩主)の遺志を継ぎ、国家の為に尽力されたし」という内容だった。
 4月9日、公から(有福半右衛門が)返書を貰い、その内容は「攘夷に尽力されていることは感謝に堪えない。貴藩は勤王誠忠であるから、台命に応じ、使節を差し向け、公(自分の?)の命令を仰ぐべきだ」とあった。有福半右衛門は26日、山口に帰り、この書を大膳父子に渡した。以上のことが『防長回天史』にあるが、真偽のほどは如何か。
 公「そのようなことはなかった。有福半右衛門自身が来なかった。」

279 井上義斐(主水正)が先期(即時)開港問題について四国公使と談判したことと、松平康直(松平周防守)が兵庫に使いをしたこと

 1865年、慶応元年9月、先期開港と条約勅許の問題が起こった。

 26日、井上主水正が兵庫に赴き、10日間の猶予を外人に承諾させた。外人は井上主水正が指を切ろうとしたので、誠意を感じ決答の猶予を了解したとされる。
しかし、『パークス伝』や『立花子爵種恭、もと出雲神)実歴談』では、立花出雲守が、イギリス艦上でパークスや米蘭公使と談判したとある。
 立花出雲守は、当時若年寄で、大目付田澤對馬守政路)と目付の竹内日向守と共に英艦に赴いたことは、(立花)出雲守の『(立花子爵)実歴談』にあり、また『パークス伝』にもある。
 一方、主水正は、大阪町奉行で、資格がかみ合わないのではないか。
 同じ日に、幕議は(天皇に諮らないで)専断で、外国公使に決答すると決め、松平周防守が決答をもって兵庫に赴いたとされるが、記録では、その出張の件が見当たらない。

『続再夢紀事』によると、公が中根雪江に「松前伊豆守が幕使として兵庫に向った」と話したとある。
後に阿部豊後守松前伊豆守が罰せられたが、(松前)伊豆守が兵庫に向ったとした方が自然な解釈ではないか。如何か。

280 公「立花のことは知らない。また大目付や目付が外国人と談判することはなく、監察のために列席するだけだ。将軍家の急な命令で私が下阪した時、私は、まず阿部豊後守の宿屋に入った後で、豊後守と登城した。そのうち松前伊豆守も登城した。私は、周防守が外人に決答しないでいればいいがなと思っていた。たまたま井上主水正が登城し、「職掌内のことではないが、大事なことなので、私が指詰めを計り、外国公使に7日間(記録では10日間とあるが、公が7日と主張した)の猶予を承諾させた」と言ったが、その時座は心配の雰囲気に包まれた。

 伊豆守は私を別室に入れ、「老中の私ができなくて申し訳ない。これから公が尽力して御勅許を奏請していただき、勅許になれば、私等はどんな処罰でも受ける」と言った。
 私は松平肥後守に宛てて、決答が猶予となった事情を詳細に記すとともに、朝廷に対しては周旋を望む長い手紙を書き、それを会津の公用人へ渡して送った。
 私は将軍家にも「すぐ上洛し、勅許を仰ぐべきだ」と勧めてから、帰京した。
 それから参内したが、朝廷から「井上主水正は町奉行の身分でありながら、猶予の談判を成功させたのに、豊後や伊豆らは老中の重職にありながら、外人を説得できず、軽率にも専断して決答したことは不届きだ。両人には腹を切らせ、主水には厚く賞を与えよ」と御沙汰があった。
この御沙汰を伝えたのが、関白二条斉敬(なりゆき)か賀陽宮(かやのみや)かどちらだったか、定かでない。
 「両人は決して朝廷を軽視したのではない。国家のことを思ってやったことだ。切腹は気の毒だ」と、私が(松平)肥後守とともに、関白(二条斉敬)や賀陽宮を宥めたところ、阿部豊後守松前伊豆守は免官蟄居となった。主水正は10月16日、勘定奉行勝手掛に昇進し、大阪町奉行を兼ねた。
 専断の決答をもって兵庫に赴いたのは、(松平)周防守に違いない。(松前)伊豆守は(大阪城に)登城していたから、兵庫に行けるはずがない。当時は豊後守と伊豆守が、幕府の全権を握っていた。周防守はただ議場に参列しているだけで、意見を言わない。だから豊後と伊豆が咎められ、周防は罰せられなかった。

一橋家領地加増の議ありしこと

281 1865年、慶応元年10月10日、幕府は公に政務輔翼を命じ、官位一等を進めることを朝廷に奏請した。朝廷は、公を従二位大納言に任じ、御車寄せの昇降を許し、摂海防禦実備のため、領地(摂河泉の三カ国のようだ)を宛てようとしたが、公が官位と領地を辞退した。
 原来(=元来)領地のことは、幕府の否むところであるから、この朝命が下されると、有司中に、これは(朝廷への)公の内請によるものだと看做し、猜疑した。(意味不明)
松平伯耆守・小笠原壱岐守らは、賀陽宮に会って、「中納言(公)が、三国を望まれるとは、どんな魂胆か」と言った。
 また家臣の川村恵十郎(正平)は、賀陽宮に「中納言には困ったものだ」と言っていたが、公が辞退すると、「安心した」と、賀陽宮の日記に記載がある。
 これ以前、元治1864のころ、朝廷から、摂河泉播の四カ国を一橋家に増封し、京畿を守護させると幕府に打診があったが、小栗上野介(忠順)が反対して頓挫した、と栗本鋤雲(鯤)の記録に見える。
 一説にこのことは、平岡圓四郎、黒川嘉兵衛(雅敬)等が内々に運動したためのようでもある。
こういうことは当時耳に入らなかったか。
282 公「従二位大納言宣下の件については、記憶にない。御車寄昇降の件はあった。領地の件については、摂河泉を一橋にやったらどうかという話が朝廷であって、その旨を松平周防守が私に伝えたとき、私は拒絶した。それ以外のことはない。
 元治の頃も同様で、河村恵十郎用談所の下働きで、私に直接話が出来る人ではなく、原や黒川を通してしか私に物が言えない。賀陽宮に言ったことも、黒川などに取り次いでもらったものだろう。
元来私は幕府から非常の嫌疑を受け、謀反の野心があるとか、長州と内通しているのではないかとか言われていたので、私は領地を増したいなどとは思わなかった。
 
 渋沢「一橋家の領地の件は、主君の気持ちを考えずに、黒川など我々臣下が密かに希望したことだ。
 しかし、一橋家が兵を募った時は、つくづく領地の必要性を感じた。

王政復古令の発令を予期し給いしこと

 1867年、慶応3年12月9日の王政復古令の発布の前に、中根雪江が二条城にやって来て、公に会い、その件を話したということが、『岩倉公実記』にあるが、その通りか。
 公「中根が二条城に来て、近日王政復古の大号令を発し、関白・将軍・守護職・所司代など全部廃止されることになるだろうと、目を丸くして語ったことは事実である。
 このとき周りの者を退出させて話を聞いたと思うが、私はこれに驚かなかった。すでに政権を返上し、将軍職を辞していたから、当然のことだと思った。
 中根が退いてから、板倉伊賀守を呼び、その旨を告げ、「何事も朝廷の言うままに従うこと」と言ったところ、板倉もそれに同意した。
283 「しかし、会桑は承服しそうになかったので、会桑には伏せておいた。その時尾張大納言が来て、「内大臣を辞し、二百万石を上(たてまつ)る(差し上げる)べし」との朝命を伝えた。
 当時の幕府の歳入は200万石に過ぎなかった。今もし200万石をたてまつったら、全く収入がなくなる。内大臣は辞してもいいが、200万石上納は到底できない。それを聞いて臣下が天皇の前で暴発したら一大事と思って、私は急に下阪した。

六国公使御引見のこと

 1867年、慶応3年12月26日、英米仏蘭孛(プロシャ)伊の六カ国の公使・領事を大阪城で引見し、外交事務はなお徳川家が取り扱う旨を宣告した御口演書(口述書)に、12月9日の復古令を公がひどく非難したとの記載があるが、本当か。

 公「六カ国の公使・領事等を引見したことはない。英米仏蘭の公使等を別件で引見したことはあるが、孛伊の公使は、一度も引見したことがない。
 「外国事務を依然徳川家が取り扱えということはあった。私は板倉伊賀守と、『朝廷はいまだ外国事務を処置する設備がないが、各国公使から、主権者は誰だ、外国事務はいずれが取り扱うのか、などと問い合わせられたら困るだろう』と言い合った。
 「仏国のロセスが、外国奉行の一人に『フランス本国の命令は、あくまでも幕府の為に尽くすべしというのだが、幕府がもし政権を失えばそうもいくまい』と言ったので、奉行は、ここでフランスの同情を失ってはまずいと思って、議論が沸騰したのだが、この書(口演書)が発せられたのはこういう背景があるのだろう。
 松平豊前守が、(外国から)助力を得る目的で外人に渡すのだとして、(自ら)委任状を書いて来て私にその決裁を求めた。
284 私はそれに対して、「彼等は外人なのだから、援助を求めてはならない」とし、その書も見ないで制止した。しかし、豊前守は承服せず、「もはや御指図を受け申さず」とし、塚原但馬守(昌義)と共に憤然として退座した。私は板倉を呼んで、「豊前守は困ったものだ」と共に嘆息した。
この書(口演書)を見ると、国内の事情を悉く打ち明け記しており、外人にこれを渡すべきではない。私があの時この書を見ていたら、こんなものを(外人に)渡させなかっただろうと後悔している。

除奸(悪い事を廃する)の御上表(天皇への意見書)のこと

1867年、慶応3年12月19日、大目付戸川伊豆守(忠愛)に、「天下列藩の衆議を尽くし、正を挙げ、奸を退け、万世不朽の規則を立てて欲しい」という上疏を持って入京させたのは、公の命令か。
公「これも前と同じく松平豊前守などの計らいによるものだろう。この前のものは外国に対してで、これは国内に対してのもので、同じ目的から出たもののようだ。私は知らない。

坂兵の配置のこと

 1867年、慶応3年12月末、橋本、淀、八幡、山崎、西の宮、伏見などに兵を配置されたのは、公の命令によるものか。
 公「中根雪江といま一人の誰かが下坂して、(私に)軽装で上京せよとの朝命を伝えた時、(朝廷側が)『今新選組が伏見に陣取っているので、これをまず退去させるべきだ』と言ったので、(私は)その命令を伝えて退去させようとしたが、なかなか退去しない。それどころかますます陣を強化するようだった。従って、私が兵を配置するなど勿論ないし、彼等が勝手に陣取っていたのであって、引上げの命令も行われなかった。」

285 賀陽宮の陰謀に関与し給いしということ

 明治元年8月、賀陽宮が異図ありとの嫌疑がかけられ、広島に幽閉された。公もこれに関与したという記述もあるが、当時、朝廷から尋ねられたことなどなかったのか。
 公「私は関与していない。また朝廷から何のお尋ねもなかった。私が静岡に住んでいた時、一度誰かにこのことに関して尋ねられたことがあり、賀陽宮から何か言われたことがあるか、家の事務員に調べさせたが、誰も知らなかった。宮が広島に左遷された理由は分からない。


第十六 1912年、大正元年11月9日 飛鳥山邸において


御誕生日のこと

286 誕生日が諸書では1837年、天保8年10月2日となっているが、瀧村小太郎編纂の年譜には、9月29日となっている。どちらが正しいのか。
 公「実際は9月29日なのだが、この9月は小の月で、九月晦日であった。そして晦日は文恭公(家斉公)の忌日で、通例祝宴を催さなかったので、10月2日に変更した。

生麦償金支払いのこと

 1863年、文久3年5月、小笠原図書頭が独断で生麦の償金を交付し、また図書頭が兵を率いて上京したが、公はどこまでこれに関知したのか。
 公「朝廷の態度は、表向きは、渡せとも渡すなとも言わなかったが、この件は日本側の落ち度であるから渡さねばなるまいとの考えであり、(幕府側の行動を)黙許していた。私はそのことを知っていたので、帰府(幕府に帰る)し、中根長十郎、平岡円四郎の二人を横浜に遣わし、黙許の意を伝えさせたので、小笠原の独断となった。
287 また償金を渡したとしても、軽装で(軍隊を伴わないで)上京していたら問題はなかったのだろうが、兵を率いて上京したために、このようなことになった。これは小笠原の失敗だ。これには私は関知していない。
 柴太一郎がここで補足した。
 当初守護職は「図書頭の上京を止めよ」との朝命を受けていた。(朝廷側から)兵力を用いないで、使者だけで(図書頭の上京を)差し止められたのだが、梅澤孫太郎、後に守義と改名)が、風聞書を公の辞表に沿えて、関白(鷹司輔熙)に差し出したところ、(図書頭が兵を連れて上京するという報に関白が驚き、)その結果「兵を以て差し止めるべきだ」との朝命が出たのだ。その時、梅澤は公の意を受けて風聞書を差し出したのではなかっただろう。

*幕府側が兵隊を連れてくるなら、朝廷側も兵隊で対応するということらしい。

栗本鯤(こん)を御信任ありしということ

 1865年、慶応元年10月10日、二条城で、公や尾張玄同らが、栗本瀬兵衛(鯤、匏庵(ほうあん)、また鋤雲(じょうん)、後に安藝守に任ず)に、兵庫先期開港引き戻し(もとへ戻す)の談判を委任したと瀬兵衛の自記にある。
また、瀬兵衛が仏国公使館書記官のカションと親交があったので、瀬兵衛に交渉を一任していて、瀬兵衛が立会人を求めても、瀬兵衛の身分がすでに目付であったことからそれを不用とし、慣例を破って単独で交渉させたことが、渡井量蔵の筆記に見えるが、事実か。
288 また、先述の二条城で、玄同自ら茶盞(さん)を取り、座右の洋酒を注いで、瀬兵衛に遣わされた(上げた)とのこと。御用部屋で酒を用いたことはあったのか。
 公「栗本には京都で一度会っただけで、任用したことはない。引き戻しの談判の件は、全く無根だ。
 昭徳公が京都滞在中に、時々御用部屋で酒を飲んだことがあったが、それは私と玄同との間くらいで、他は接伴しただけだ。洋酒云々は無根だ。

箱館御出陣の議ありしということ

 明治元年、榎本釜次郎(武揚)等が箱館に拠ったとき、これを公に追討させようとする朝議があり、公が出陣を志願したにもかかわらず、朝議が一変し、これを許さなかったとのことだが、その通りか。またその後公は釜次郎を説諭したのか。
 公「そのような朝議があったとは知らない。榎本には大慈院に謹慎中に一度説諭したことがあるが、函館に拠ったときには何も説諭しなかった。

*これは戊辰戦争のことを言っているようだ。

静岡にて御謹慎のこと

299 宝臺院での御謹慎の様子を知りたい。
 公「宝臺院で謹慎の時は、安政の時ほど厳重ではなかった。宝臺院は、大久保一翁の発議によるものだ。大久保は前年駿府町奉行をしていたので、静岡のことをよく知っていた。

夫人を東京におき給いしこと

 明治2年10月まで貞粛院夫人を東京に置かせたのは、謹慎中で遠慮をしたせいか。
 公「その通りだ。謹慎が解除されてから静岡に呼び寄せた。

御別号のこと

 1870年、明治3年2月17日から一堂の名を用いられた理由は。
 公「一堂の名は勝が選んだいくつかの名前の中から採用したものだが、書きにくいのであまり使わなかった。
 興山の号は烈公*から授かったもので、『詩経』から取ったものだ。

 *烈公は慶喜の実父。

静岡御謹慎後の御家職と相談相手は誰だったのか

 公「家職は家・家・家だったと思う。
 *家職とは家の事務担当者。

 豊崎信「当時の書類に、令扶従の目がある。全て千駄ヶ谷の宗家が任免したものだ。」

290 公「その任免の書付が千駄ヶ谷から回って来たものを、私が渡した。
 相談相手は勝安芳溝口勝如(もと伊勢守)の二人で、主として溝口に相談した。そのため溝口は春秋に一度ずつ静岡に来た。

静岡残留のこと、ならびに東京移住のこと

 1871年、明治4年、廃藩置県により旧知事の家達公は静岡から東京に移住したが、公は紺屋町の邸に留まった。1897年、明治30年に東京に移住したが、事情があったのか。

 *家達(いえさと)とは徳川家達。1863-1940 徳川宗家第16代当主。静岡藩初代藩主。

 公「勝が勧めた。勝はこのことを西郷隆盛と話したが、その時西郷は『静岡で差し支えない。朝廷の方は私がとりなす。御出京の時機も追って私が知らせるから、それまでは今のままにいるべきだ』と言ったとのことだ。
 「私は初め静岡を終焉の地と定めたが、老境に入るにつれ、静岡は良医に乏しく、困ったことになるかもしれないと思い、東京に移住した。

公爵以前の御族籍のこと

 公爵を賜るまでは、公は宗家のご家族だったのか。
 公「公爵を賜るまでは身分がなく、宗家の籍に入っているほかになかった。

御遊猟のときのこと

 公が静岡に御在住のころ、甲府近傍で御遊猟された時、山梨県知事藤村紫朗がこれを聞き、部下の警察官に失礼のないように注意しておいたが、公が夜着いた様子がなく、警察官が宿泊届けを調べたが、見つからず、翌日、前夜、佐渡幸という旅館に従者一人の名前だけを書いた二人の客人が、公らであると判明し、公らが向った先を追ったが、見つからなかった、という話を聞いているが、事実か。この外に遊猟や旅行の話などないか。
 公「遊猟の時でも姓名を秘密にしたことはない。また甲府に赴いたことは一度もない。
 当参会者の豊崎信は、公が静岡で遊猟中に、田んぼの中にはまって、泥だらけになったという話をした。

小日向邸へ移住した年月のこと

 今の小日向第六天町の邸に移住されたのはいつか。
 公「1901年、明治34年12月24日である。

御家憲(家訓)を御伝記に掲載すべきかどうかのこと

 1901年、明治34年、公は家憲を制定してから退隠されたが、その条項を伝記に掲載してはどうか。
 公「大綱だけならよろしい。


第十七 1913年、大正2年5月3日 飛鳥山邸において

慎徳公が寵遇したこと

293 慎徳公が将軍だったとき、公は一橋の館へ行かれたとのことだが、どんな様子だったのか。

 *慎徳公とは徳川家慶(よし、1793-1853)のことで、第12代将軍である。

 公「慎徳公が地を謡い、私が舞を舞ったが、これは先例にないことだった。

 孝明天皇から御製と簫(しょう、笛)を戴いたこと

 孝明天皇から「詠織女渡天河」という宸筆による歌と、秋風丸の簫を戴いたとのことだが、いつのことか。また、この歌は通常の書風とは異なるようだが、どうか。
 公「私が上京中、二条関白から貰った。しかし、このころは宸筆と言っても、実際は代筆であることが多かった。

測量法、製図法および電信機等を御下問(目下の者に問い尋ねること)したこと

294 1866年、慶応2年の暮、黒田久孝、川上萬之丞、市川齋宮(いつき)らを召され、久孝には測量を、萬之丞には製図を、齋宮には電信機のことを御下問された。そして齋宮は、再三召されたと西周助の伝にみえるが、事実か。
 公「記憶にない。

仏語学習のこと

 1867年、慶応3年3月から、西周助を召してフランス語を習われたが、間もなく止められたとのこと。これも西の伝にあるが、事実か。
 公「事実だ。政務が多忙だったため止めた。

 *西周助とは西周のこと。1829-1897

二条城お引上げの時のこと

 政権を奉還し、二条城から大阪へ引き上げるとき、馬に乗って引き上げられたとの記載があるが、その通りか。
 公「枚方か橋本あたりまで歩き、それからは馬を用いた。

油絵習得のこと

油絵を学ばれたのはいつのことか。
 公「中島鍬次郎は、かつて開成所を出た者だが、油絵の心得があり、私が宝臺院に謹慎中のとき、同人から習った。中島も本当に絵を学んだわけではなかったのだろう。



第十八 1910年、明治43年6月12日 小日向公爵邸において

幕政改革が言われた日から、公が登城しなかったこと

295 1862年、文久2年8月15日、将軍家が黒書院で、諸大名に対して、制度改革を言われた日から、私が仮病を使って登城しなかったため、将軍家が、老中を私に遣わして、登城を促したと稿本(『続再夢紀事』)にはあるが、私は別に不平はなく、たまたま病気だった日に、幕政改革が打ち出されたのだ。
 また同月20日、海軍の制度改革に関する御前会議が西湖の間で開かれたが、私が進献物廃止の件で不平があって欠席したように書いてあるが、(『続再夢紀事』)この時は出席していたように記憶する。勝が海軍を全備するには500年はかかるといつもの大袈裟なことを言うのを耳にしたのを覚えているからだ。
 このことについて調査したところ、15日から23日まで公は登城せず、また松平春嶽へやった手紙の中では、「私(公)には不平がある」と記されていて、それを公に見せたところ、(この昔夢会筆記の集会があった年の)7月16日に、「記録がそうなら、私の記憶違いだろう」と公が言った。

 *結局不満があって二度とも欠席していたということか。

三条実美等が公の旅館にやって来て、攘夷の期限を設定するように迫ったこと

296 1863年、文久3年2月11日の昼ごろ、三条や姉小路ら八人が勅使として(私らの)旅館に来訪するとの連絡があったので、すぐに春額、肥後守、容堂らを呼び寄せた。
三条が勅諚を伝え、「幕府は既に攘夷の命令を受けたのだから、早くその期限を切るべきだ。」
私(公)「将軍が上洛する日が目前に迫っているから、その上洛を待ってから奏上する」

 幕府側は、これまで、一旦は攘夷の勅を受けたが、将軍家が上洛してから、その朝意を覆そうとしていた。しかし、長州が将軍家の上洛以前に期限を切れと迫り、この八人が来たのだ。

 三条「幕府側の攘夷の期限が定まっていないので、浪士が暴発する恐れがある。天皇も気をもんでいる。」
私「浪士が暴発しても恐れることはない。守護職と所司代がある。私も後見職だから鎮圧は簡単だ。」
三条「天皇の意思を貫徹しないでは、勅使の任を果たしたとは言えない。」

 三条等は久坂義助通武)等の暴論に左右されているので、このまま手ぶらで帰れば、浪士らに強迫されるかもしれないと、必死だった。

 私は「総裁等と評議する」として、別室で春嶽、肥後守、容道らと協議した。容堂が、三条と姻戚関係だから三条を説得しようというので、容堂に任せた。
297 容堂が三条を説得したが、三条は浪士の強迫を訴えた。それで容堂は三条の為になんとかしてやってはどうかと我々に言う。
我々は「朝命というのは一つの政索だろう。こちらも政索で答えよう。できぬ相談だが、早い方がいいだろうとして、5月10日を攘夷の期限と定める」と答えた。三条らは安心して帰った。

 以上の話によれば、この時、5月10日を攘夷の期限と定めたようだが、当時の記録によると、この時は、将軍家の御滞京を10日間とし、御帰府の後20日を限って攘夷とすべきだ、と答えたとされている。そしてその後数度の改正を経て、4月20日になって、5月10日を期限と定めたとある。
 この関係書類を公に見せたところ、7月16日になって、「三条が旅館にやってきたときに期限を定めたのは間違いで、記憶違いだった。記録の方が正しい」と言われた。

 また、4月18日付の公から松平相模守への手紙(因州池田屋尺牘(せきどく)草案取収)の中で、「拒絶=攘夷は、4月22日が期限のところ」とあるが、別の記録には、23日とあり、どちらなのかを公に尋ねたところ、公は「22日は誤写だろう」とした。
それでは「23日と定めて朝廷に伝えたのはいつの日か」との(参会者のうちの誰かの)問いに対して、公は「覚えていない」とのことだった。

 *ここで5月10日説と、4月23日説とがあるが、どうなっているのだろうか。

昭徳公が八幡行幸の供奉を辞せられしこと

 *昭徳公は辞退したが、私(公)は山の麓まで供奉したということか。
 *昭徳公1846-1866とは、徳川家茂(いえもち)、第14代将軍。

 八幡行幸(1863年、文久3年4月11日)に、将軍家が天皇に供奉する件で、私をはじめ幕府の皆が憂慮していた。
298 天皇が行幸し、将軍家を天皇の前に召されると、どんな勅命が飛び出てくるか予想できず、もしそれを受けてしまえば、全てが終わってしまう。天皇の前では将軍家ただ一人しか出席せず、老中は従えない。私はひょっとしたら出席できるかも知れないが、将軍は天皇から10間離れ、私は将軍からさらに10間離れて着座することになるから、反論のしようがない。それに天皇の左右には諸藩の親兵がいるので、将軍家は敵の中に一人いることになる。
 その前日、三条から、将軍も供奉すべしとの話があったとき、私はこれを辞退しようと思ったが、議論が難しくなるので止めて、その時になって仮病を使って辞退しようと決めた。
 私が、節刀(天皇から授かる刀)を賜ることを恐れたとか、中山侍従(忠光)の暴発を恐れたとか言われるが、いずれも誤りだ。朝命はただなんとなく八幡への攘夷祈願の行幸に供奉すべしというだけである。節刀下賜は、幕府がいまだ知らざることであり、何の恐れることはない。中山の暴発も恐れることはない。ただ天皇の前で将軍家が苦境に陥るのを恐れたのだ。

八幡行幸に供奉し給いしこと

 八幡行幸の日、私は腹痛で下痢をし、八幡の山の下の寺院で寝ていた。急に天皇の前に召されても、出仕できないと伝えて、出仕を断った。翌日は快方に向かったので、還幸の際にはまた供奉の列に加わった。私が節刀を賜ることを恐れて、仮病を使ったと世間は言うが、前述の通り、幕府はこれまで節刀を賜ったことなどなかったので、恐れることはなかった。

昭徳公常に短刀を懐にせられしということ

299 昭徳公は上洛の折、もし進退が極まった時は、すぐにも自殺できるように、常に短刀を懐中に忍ばせていたとのことだが、(本多氏の『維新史』)真偽はどうか。
 公「全くの虚説なり。」


第十九 1910年、明治43年7月12日 小日向公爵邸において

熱田より出したという辞表のこと

300 1863年、文久3年4月、江戸に帰る途中の26日、熱田から後見職の辞表を関白(鷹司輔熙)に提出したと『久邇宮文書』や『松宝禮重手録』にあるが、(公によると)そのような記憶はない。また旅の途中でそのようなことをするのは、軽率である。ただしこの時江戸から上ろうとしていた目付の堀宮内(利孟)を引見したので、彼から何らかの情報が伝わったのかもしれないが、それで判断するのは片手落ちだ。
『昨年蒙大任候以来云々』とある辞表は、誤りだ。(意味不明)


第二十 1910年、明治43年7月16日 小日向公爵邸において

板倉勝静(いたくらかつきよ)や小笠原長行が、開鎖(開国・鎖国)の決定を公に請うたこと

301 1862年、文久2年10月、三条等が勅使として下向した前後に、山内容堂(土佐)の周旋で、私が辞表を出した事情はほぼ本文(稿本)の通りであるが、ちょっと筆が足りない。
 9月19日、板倉と小笠原が手紙を私に送り、「今の急務は、開鎖いずれかに決定することであり、一時的に天皇の意に従っておいて、後で変更すればいいというのは、権詐の術である。方針を定めるべきだ」と『国事記』や『七年史』にはあるが、そのようなことはなかった。もしこの手紙のようならば、板倉は私と同じ意見だから、不平を言って辞表を出すはずがない。(意味不明、一時的に天皇の意に従っておいてあとでそれを変更すればいいというのが公や板倉の考えだったということか。)

勅使の待遇改正に反対したこと

 1862年、文久2年10月、三条等が京都から江戸に向うとき、会津の者に授けられた勅使待遇法改正案が、江戸で松平肥後守によって提出されたとき、板倉周防守がその案を非難し、私も異議を抱いたと記されているが、(『続再夢紀事』)私は、待遇法改正案に賛成だった。

勅使送迎のこと

302 1862年、文久2年11月27日、三条等が江戸城に入城し、勅諚を伝宣したときの様子が『続再夢紀事』にあるが、(公によれば)それは誤りだ。
 この時勅使は駕籠のまま玄関の式台に着き、将軍家は式台の上の拭縁(ぬぐいえん)まで出迎え、私は式台の左に、老中等は右に出て迎えた。その後、将軍家が勅使を先導し、私は勅使の後に従った。
勅書拝受の時は、勅使が上段に座り、将軍家は中段に、私は将軍家の後方、同じく中段に座った。春嶽や老中は、下段か中段かどちらかだったがよく覚えていないが、次の間に控えた。
 将軍家が勅書を拝受すると、私はこれを賜り、それを老中に授けた。

勅使を清水邸に招待したこと

 1862年、文久2年11月29日、私が主催して三条等を清水邸での饗宴に招待したと『続再夢紀事』にあるが、これは三条等の申し込みで会見したものであり、饗応というほどのものではなく、僅かに茶菓を差し出したくらいのものだったと記憶している。

『続再夢紀事』によると、

「29日、いつもの時刻に松平春嶽が出勤し、夕方退勤し、それから清水邸に向った。本日は一橋公の催しで、勅使両卿を請侍した」

とある。また、『三条実美公記』によると、

「29日、幕府は、勅使の入城と勅書の拝受を祝い、翌日勅使を勅使館に遣わし、三条実美公や公知朝臣(姉小路)を清水邸での饗宴に招待すると言った。この日の晡時(ほじ、午後4時)、清水邸に赴いた。」

とある。これらは公の発言と矛盾している。

島津久光を京都守護職にすることに同意したこと

303 1862年、文久2年11月、私が春嶽の主張に従って、島津三郎を守護職にするという朝旨を遵奉し、それに同意したと『続再夢紀事』にはあるが、私はもともとこのことに反対だった。しかし一時の方便で、朝議に異論を挟まなかっただけで、後で何とかするという条件つきの賛成だった。


第二十一 1911年、明治43年8月8日 小日向公爵邸において

酒井忠績上京のこと

304 1863年、文久3年8月18日の政変(禁門の変)後、酒井雅楽守(うたのかみ)が、8月晦日に江戸を出発して上京したが、それには政治上の意味はなく、ただ天機(天皇のご機嫌)を伺うだけの目的であった。

横浜鎖港談判のこと

 1863年、文久3年9月14日、築地の軍艦操練所で、米蘭の公使と横浜鎖港の談判をしたが、そのとき実際談判をするところを私も見てくれと言われ、屏風の陰で談判の様子を聞いていた。

 老中「このたびしかじかの理由で鎖港する。」
 公使「こういう重大なことは本国政府に照会した上でないと答えられない。」

このやり取りは平穏だったが、後で聞いてみると、公使には前もって老中から、「来る14日にしかじかのことを談判するが、これは幕府の本意ではないから、それを含んで聞いてくれ」と言っておいたとのことだ。
 初めは横浜で談判するはずだったのが、操練所に変更になったのも、私が陰で聞きやすくするためだったのではないか。このことを聞いた時は腹立たしかった。

305 『鈴木大日記』によれば、公はこの時応接の席を見て、曲彔(きょくろく、椅子)の位地を変え、屏風を立て直し、金屏風に穴を開け、紙撚(こより、ひも)で結んだので、外国人がびっくりし、「さようの事も候いしや」と伺ったところ「さる事はなかりしよ」とて微笑まれた。(意味不明)

 この時老中が、「さきに神奈川で小笠原が言った鎖港の告知を取りやめにする。」と言ったと、『夷匪入港録』にあるが、それに対して公は、
「記憶にないが、今考えてみれば、おそらくこれは、他日改めて鎖港の使節を遣わすときの支障にならないようにするためだったのではないか。」と答えた。

 また公使が「それでは日本が条約を破ることになる」と言うと、
池田修理(長發、後に筑後守)が、「条約は仮のつもりだった」と言ったが、それには私(公)も呆れたと『鈴木大日記』にあるが、それに対して公は、
 「今は記憶にない。」

 この談判を私(公)が朝廷に奏上するに当たって、「さる14日、横浜で、鎖港談判をしたから天皇はご安心下され」と言ったと、『七年史』にあるが、それに対して公は
「間違いだろう。あるいは横浜の鎖港談判というべきところを、横浜でと誤記したのではないか。」

後日鎖港談判の使節を外国に遣わすことは、岡崎藤左衛門の意見に基づくものだったということが『幕末外交談』にあるが、それに対して公は、
「その通りかもしれないが、確信できない。しかし、私が外国の商人を退去させたいという考えであったことは事実だ。」

感想 慶喜は朝廷寄りの考え(攘夷)をしていた、あるいはそういうそぶりを、明治43年の今になってもしなければならないという事情があったのだろうか。

松平直克が政事総裁職に任ぜられたこと

1863年、文久3年10月11日、松平大和守(直克)が、政事総裁に任ぜられたが、彼が私といろんな点で同じ意見だったので、私が彼を推薦したと『続夢紀事』にあるが、大和守が私と同じ考えの人だったことは確かだが、この任命は、そういう深い理由ではない。しかしよく記憶していない。

再度上京のこと

306 1863年、文久3年、再度上京した。当初は東海道を陸路で行くつもりだったが、海路に変更になった。その理由は、八月十八日の政変後、京都を追われた攘夷党の浪士が、「一橋が上京したら、開国になるだろう」と、途中で私の上京を妨げるかもしれないと恐れてのことだった。

 蟠竜丸で築地を出航10.26し、浦賀に着いたところ、勝が順動丸で大阪から来たので、その船に乗り換えようと平岡円四郎を向わせた。勝は迷惑そうだったが、それで西に向った。
 大阪11.21を経て京都11.26に入った。旅程が数十日かかったのは、供の者がみな陸路だったから、所々で寄港したからだ。

 同行者は、平岡圓四郎や成田藤次郎らが集めた床机廻(しょうぎまわり)という一橋の兵と、講武所の兵であり、水戸の兵は連れて行かなかった。しかし、後で、京都で原市之進など水戸の者を身近に置くことになった。警衛の者はおよそ500人余であった。

 私の上京に関して有司や水戸の者が反対したと『伊達宗城在京日記』にあるが、当時水戸は鈴木石見守重棟)などの奸党派がヘゲモニーを握っていたので、攘夷のこと(攘夷せよという圧力)はさほどやかましくなく、例えば、京都の本国寺と江戸の小石川との間を往来した武田耕雲齋(正生、後に伊賀守)も、攘夷にも開国にも固執していなかった。



第二十二 1911年、明治44年3月1日 小日向公爵邸において

昭徳公の遺命

 *昭徳公とは、将軍・徳川家茂1846-1866.8.29, 二十歳で死亡。

307 1865年、慶応元年5月15日は、昭徳公が遠征(第二次長州征討、長州攻撃1866慶応2.6.7)する前夜だったが、昭徳公は跡目に田安龜之助(後の家達)を立つべしと言われたと『宰相典侍嗣子記』や溝口勝如談にあるが、天璋院様(家定公夫人、家定1824—1858 8.14、13代将軍、在位1853—1858)はそのことを知っていたが、私は何も知らなかった。それで私が相続することになった。

宗家相続辞退

 1866年、慶応2年7月、宗家相続の議が起こったが、大奥や諸有司など周囲の期待に反して、私には相続の自信がなかった。

宗家相続に見込みの人がいると発言した

 板倉が私にしきりに相続を勧めたとき、私が「見込みの人がいる」と言ったと『続再夢紀事』にあるが、覚えていない。しかし、紀州に相続を勧めたことがあるので、そこの中納言のことなのだろう。

相続を承諾したが、将軍職は辞退したこと

308 この理由は、初め板倉などが「将軍になるとならぬはあなたの意志次第だ。ともかく相続だけは請けるべきだ」と言ったので相続したのであって、私は、相続した後、広く天下の諸大名を集めて国是を議し、公論の帰するところに従って、将軍職を請けるか請けないかについての去就進退の決断をしようと考えた。

原忠成が諸大名に、公を将軍に推薦させようとしたこと

 原市之進が諸大名に、私を将軍に推薦させようとしたと『続再夢紀事』にあるが、このことは聞いたことがない。それがあったとしても、市之進の個人的な見解だったのだろう。またそのころ、朝廷の意向も、大阪の評議も、私を将軍にしようとしていたので、原の周旋は無駄であった。

大藩中から適任者を選んで、将軍に任ぜられたい、と天皇に言ったこと

 1866年、慶応2年8月8日、私が、代理出陣に際して、参内して節刀を賜ったとき、「私は鈍くて大任に堪えない」からと将軍職を固辞し、「徳川でなくても、他の大藩の中から適任者を選んで、将軍にして欲しい」と言ったと『岩倉公実記』にあるが、覚えていない。

紀州藩の家老が将軍職を請けるように勧めたこと

309 1866年、慶応2年9月、紀州の家老渡邊主水が、諸大名召集以前に、私に将軍職を請けられるように勧めたとき、私が、「私にはこれに関して深意があるが、それをあなたには言えない。そのうち(紀州の)中納言殿に会うこともあるから、そのとき言うつもりだ」と言ったと『続再夢紀事』にあるが、覚えていない。
 しかし、私は紀州が最適任だと思っていたので、その旨を中納言殿に言ったが、中納言殿は固辞した。そのことが誤解されたのかもしれない。しかし、もしそのことだとしても、私は、中納言殿が送った使者には直接会っておらず、原市之進や榎本亨造(道章、後に對馬守)等が応接したと記憶している。

代理出陣

 私は代理で長州へ出陣しようとしたが、それには成算があったわけではない。また京都を去り難いという気もあった。
ところが、まもなく小倉表の解兵があり、形勢が一変したために、出陣が中止になったが、出陣するそぶりをしていたのではない。



第二十三 1911年、明治44年6月29日 小日向公爵邸において

幕政改革の復旧と水戸の紛擾

310 1863年、文久3年、衣服の制を元に戻した。1862年、文久2年の改革の前は、手重(人手を多く使うという意味らしい)で、例えば、将軍家がトイレに行く時、数十人がお供をし、一人は水を取り、一人は手水盥(ちょうずだらい)を持ち、一人は手拭を捧げるという有様であったが、トイレくらいは自分で行ったほうがよいだろうということで、1862年、文久2年からは、一人でやることになった。それでも希にお供をする者がいたが、それも一人くらいだった。そのほか万事につけ、これに準じて簡便に改正したが、三年間やってこれを廃止し、またもとの通りにし、トイレのお供が100人になった。これらは衣服の制が元の慣習に戻ったのと同じで、江戸の老中、太田道淳(資始)、諏訪因播(忠誠)、若年寄の酒井飛騨(忠毗)等が担当したことだ。私は京都にいたのでこれについては知らない。
 江戸の老中は万事につけ元に戻し、また水戸の奸党を庇護したので、奸党は勢いを得て、幕府を更迭し、天狗党を取り調べもせずに殺戮した。そのため水戸の紛擾は一層ひどくなり、ついに武田耕雲齋に、名目上は攘夷として、兵を挙げさせることになった。

311 公は老中太田道淳、諏訪因幡、若年寄酒井飛騨守が制度を元に戻したと言ったが、太田は1863年、文久3年5月14日に老中を辞め、諏訪は1864年、元治元年6月29日老中格になり、その後7月23日に老中になったのだから、諏訪と太田とは同時の老中ではない。
酒井は1864年、元治元年7月19日に若年寄になった。
 衣服の制の復旧は、1863年、文久3年12月で、参勤交代の復旧は1864年、元治元年9月だから、この復旧の時の当局者は、諏訪や酒井であって、太田ではない。ただし、水戸との関係は太田だろうから、暫くは公の話すままにしておく。

貞芳院太夫夫人を文明夫人と称したこと

 私の母である登美宮は、烈公薨去の時から貞芳院といっていたが、暫くして登美宮に復し、1903年、明治36年逝去の時から、文明夫人と称えられた。このことはかねてからの烈公の遺命によるものであった。


第二十四 1912年、大正元年9月26日 小日向公爵邸において

王政復古後の献金

312 1867年、慶応3年12月14日、戸田大和(忠至)が大阪に来て、献金のことを話すと、板倉が、小堀数馬宛に手紙を書き、それを大和に渡し、大和がこれを数馬に渡したところ、数馬は二万両とか三万両とかの金を差し出した。
 この件は板倉の朝廷に対し奉る気持ちを表している。その書簡は今でも岩倉家に保存してあるので、その書簡を(本書に)掲載したらいい。

六国の公使を引見したこと

 1867年、慶応3年12月16日、大阪で英米仏蘭伊孛(プロシャ)の六カ国の公使を引見したと『慶応三年十二月外国人謁見次第』にあるが、私はこのことは覚えていない。
 ただし、いつのことかは忘れたが、英米仏蘭の四カ国の公使を、大阪で引見したことがある。それは親睦と、諸大名召集までは従来の通りに行うようにという朝廷からの御沙汰があって、その旨を告げるためでもあった。ただし、全員が同時にではなかった。またその時晩餐を共にした。
313 仏国は軍楽隊を派遣し、食事中に奏楽した。英仏二国は調練(練兵)の様子も見せた。
 英公使は壁にかかった三十六歌仙の絵を見て、サトーに説明させたが、私は、人丸の「ほのぼのと明石の浦の朝霧に」の歌意をサトーから質問された。そのとき私は、お望みならば寄贈すると言った。
 またあるとき仏公使との謁見に引き続いて英公使が現れ、両者が口論を始めた。塩田三郎にその意味を尋ねたところ、英公使が仏公使に、他を出し抜いて一人謁見することは望ましくないと言っていたとのことである。

薩摩藩邸焼き討ち

 1867年、慶応3年12月25日、薩摩藩邸を焼き討ちしたが、板倉はそれに反対だった。
 江戸市中取締りの庄内藩屯所の人数が増えたので、薩摩藩邸を焼き討ちしようという意見もあったが、宥める者がいて中止となった。このことが京都に伝えられて、板倉は憂慮し、「薩摩藩邸の焼き討ちなどもってのほかだ。上方も江戸も、静まっているのだから、薩摩藩に乗ずる機会を与えないことが重要だ」と言った。
 幕府には暴徒を打ち払う余力がなかった。江戸では焼き討ちを機会に上方の挙兵を誘おうとしたので、ついにこのような結末となった。(意味不明、ついに戊辰戦争となったということか)

開陽艦で東帰

 1868年、明治元年正月6日夜、私が大阪城を出て天保山に行き、すぐに開陽丸に乗ろうとしたが、開陽丸は薩摩の船を追撃していて不在だったので、山口駿河を大阪に遣って、ロセスと協議させたところ、ロセスが米艦で東帰したらいいだろうということで、紹介状を認めてくれた。天保山から米国の軍艦に乗り込んだが、直に開陽丸が帰港したので、開陽丸に乗り移った。



第二十五 1913年、大正2年9月9日 小日向公爵邸において

条約勅許を天皇に願ったこと

315 1865年、慶応元年9月、英米仏蘭四国の艦隊が兵庫に来て、兵庫の早期開港と条約の勅許を迫ったが、そのとき、阿部豊後守(正外、まさと)や松前伊豆守(崇廣、たかひろ)は、全く朝廷に話を聞かず独断で開港を許可すると四カ国の公使に回答するつもりだったようだ。
阿部は、薩長などを幕府の威光で簡単に圧伏できると考え、毎日のように打毬にふけっていた。幕府の独断で回答すれば、外国も幕府の威厳を認めるだろうし、そうすれば、薩長などどうにでもなると考えていたようだ。

 私が当時あくまでも勅許を仰ぐべきだと主張し、「勅許が得られるまでは、公使等を説得して、回答の期限を延期させ、もし外国公使がそれを承知せずに上陸してきたら、悪いのは外国だから、そのときは止むを得ず戦うべきだ」と私が論じたが、諸有司は、「国家のために、他に方法がないのだから、承諾の回答をせざるを得ない」と言ったと『御進発略紀』にはあるが、それは誤りだ。私はこのような暴言を吐いたことはない。

 また井上主水正がパークスやロセスと談判して回答の猶予を得た時、私が阿部や松前をなじって、「誠意を尽くして応接したが、回答の延期を承諾してくれなかったとのことだが、主水正のようになったのはどういうことか」と言ったところ、二人とも十分尽力できなかったことを謝罪し、「隠居して命令=懲罰を待ちます」と言ったと『七年史』にあるが、私は阿部や松前を詰ったことはない。二人が自ら謝罪したのだ。

316 私が松平周防(すおう)守(康直、後に松井康英)と話して、主水正を、阿部豊後の使いとして兵庫に向かわせたと『続再夢紀事』にあるが、これは間違いで、全く主水正の一存であった。間接的にも私が命じたことはない。

 諸書に、外国への回答の猶予期間を、私が10日間だと言ったとしているが、私は7日間だと記憶している。

 稿本の按文に、

「26日、幕議が一旦兵庫開港承諾を決めると、その回答を各国公使にするために、老中を兵庫に派遣した。その老中を、『続再夢紀事』の一説や『御進発略記』では、阿部豊後守とし、また小笠原刑部手留にも、27日(26日の誤りか)、阿部豊後守は、向山栄三郎(一履、黄村、後に隼人正)を従えて、兵庫に赴いたが、公は下阪してこれを聞き、軽騎でこれを追わしめ、岸和田で追いつき、豊後守を召し返したと書いてあるが、岸和田は紀州路で、兵庫街道ではないので信じられない。

 『続再夢紀事』では、当時中根雪江が公から承ったことを記し、(諸外国に兵庫開港を許可することを伝えに兵庫に向った人=上使を)松前伊豆守としている。『慶応黄清濁篇』も同様だ。これは事実かもしれない。

 公の最近の談話では、(上使を)松平周防守だとおっしゃったが、周防守を派遣したということの傍証はない。

かつこの上使*が松前伊豆守であるからこそ、後に阿部豊後守とともに罪を被って、朝廷から免職の御沙汰を受けたのだろう。しかしまだ疑いはある」と(稿本の按文に)ある。(意味不明、松前伊豆守が使者として兵庫に遣わされたという説が有力だということか。)

 *幕府の上意を伝えるために、幕府から大名に派遣された使者。

 阿部や向山を召し返すとは、私が阿部の旅館についたときに周防を呼び戻したことの誤りか。私は、周防呼び戻しの使いを出してから登城した。阿部・松前は二人とも登城していていて、周防は昼ごろ登城した。(意味不明、周防が使者だったから、遅れて登城したことの説明になるということか。)

 阿部・松前の二人が免職になったのは当然だ。

初めて登城したとき、奥女中を叱責したこと

 1847年、弘化4年10月1日、一橋家を相続した後、初めて登城し、将軍家に拝謁し、御次(おつぎ、貴人の居室の次の間)に下ると、奥女中が「一橋様の御母君は御名を何と仰せられ候や」と公を侮り、嘲弄したが、公は「予は有栖川宮の孫なるぞ」と言ったので、女中らは一言もなく、平伏したと渡井量蔵の談話にある。
 昔このことを(この箇所を書いている本参会者の誰かが)朝比奈閑水(昌廣、もと甲斐守)に尋ねたら、朝比奈が「登城の時、奥女中に会うなどあるはずもない。たとえ大奥に入ったとしても、元来女中は何事にあれ、尋ねられたら返答するが、三卿に対して自分から物を言うことは、決まりの上からできないことになっていた。」と話したが、その通りか。

 公「そのようなことはなかった。はじめの登城は11歳の時で、将軍家にお目通りが済んでから大奥に案内されたが、通路の両脇に若い美人の女性が多数並んでいる、異様な光景に驚いた。水戸では近侍の女は老女一人だけであったからだ。私が自分の部屋に戻ると、女中が二、三人ずつかわるがわる挨拶に来て礼をして帰るのだが、ひどくうるさく感じたので、ついに悪口を言ったが、有栖川の孫とは言わなかった。

子規(ほととぎす)をうちとめたということ

 一橋家を相続した後の、午年の春の頃(牛年だと二通り考えられる。1846年、弘化3年、10歳、相続前、あるいは1858年、安政5年、22歳。従って、午年というのがおかしい)公が小石川の邸に入られ、兄弟とともに烈公=父の周りにいたとき、烈公が、庭の樅(もみ)の梢に一羽の子規がとまっていたので、「七郎、あれを打ちとめよ」と言ったので、公は小銃を手にとり、庭に下りて、一発でしとめたので、一座の人は感嘆したと、その席に侍っていた寺門勤が話したというが、その通りか。

 公「それに似たことはあった。15、16歳の頃だったと思う。他の兄弟と烈公の周りにいた時、庭の木に烏が止まっていて、烈公が「刑部、あれを打ち止めよ」と言ったので、小銃を手に取り、縁の近くに進んで、障子の隙間から打ち留めた。」



第二十六 昔夢会以前 巣鴨・小日向公爵邸において

烈公の教養=教育のこと

319 烈公は諸公子の教育に熱心に心を用い、公の近侍の女中も、烈公の意を受け、公の寝相の悪いのを改めようとして、枕の両脇に剃刀を立てておき、また、武士は寝る時、左を下にして寝てはいけない、もし敵に右の利き腕を取られたらどうにもならない、このことは忘れるな」と毎晩ねんごろに教え戒めたので、公はその通りだと思った。そしてそれが習い性となって、年老いても、右を下にしないと安心して眠れなかったとのことだ。

 藤田健(どういう関係の人か不明)が言うには、烈公の子弟の教育は、極めて厳格で、夜中でも諸公子の部屋に入り、「昼間は何の書を読んだか、どんな遊びをしたか、寝相はどうか、寝てからの行儀も心得るべきだ」などと言い、頭が枕の一方に片寄っている時は、自ら直させたとのことだ。

幼少の時の課業と気質について

320 水戸諸公子の幼児時代の課業は、起床と同時に四書・五経のうち半巻を復読し、近侍の者がその間に髪を結い、背後で勉強しているかを点検する。その後、朝食を取り、午前十時まで習字、それから弘道館で教官から素読(意味は後回しにしてまず読むこと)口授を受ける。そして館中で、文武の修業の様を見学し、午後は習字・復読。夕方少し遊戯。
 兄五郎(池田慶徳)は温順であったが、公と八郎(松平直侯)、九郎(池田茂政)は、気象(気性)が勝れ、勇ましく、手荒い振る舞いが多く、厳しく戒められることもあった。

 烈公の生みの母外山氏は、烏丸家の息女で、名を補子(ますこ)といい、瑛想院と称せられ、水戸城中の翠(みどり)の間にいた。公らは毎月一日、十五日、二八日に翠の間を訪ねたところ、尼君は、公のいたずらを知っていたので、ある日厳しく戒めたところ、公は「この坊主め」と罵り、尼君の頭を打ちたたいたところ、今度は厳しく戒められ、灸をすえられた。烈公も公を一室に閉じ込め、謹慎させた。尼君は公の快活さを愛で、親しく教訓したとのことだ。

追鳥狩参加のこと

321 1844年、弘化元年3月22日、烈公が千坡(せんば)の原に恒例の追鳥狩をした。これは甲冑による教練だった。公も、兄の五郎と従軍した。二人は今年8歳の同年齢で、甲冑はつけなかったが、陣羽織を着て、太刀を佩(は)き、馬にまたがり、未明に追手の橋上に出て、腰掛にかけて待った。
先陣が順次城門を繰り出し、中軍が過ぎると、公も、馬にまたがって烈公の後について行った。終日の長途の行軍で、軍勢の駆け引きを見学した後、また中軍に列なり、夕刻帰城した。公は疲れ果て、物の具も脱がずに寝入ってしまったが、烈公が抱いて中に入れ、夜食を共にした。(日時は『松宇日記』より)

初めての登城のこと

 1847年、弘化4年9月1日、一橋家相続の後、公は暫く小石川邸にいたが、10月1日、大城に登り、槙徳公に会い、同月5日、また登城し、大奥で槙徳公に会った。
 殿中の坐作(ざさ)進退は格席に応じて規格があり、それは厳粛で、あらかじめ習礼があった。表では、御側御用御取次(おそばごようおとりつぎ)の本郷丹後守が、大奥では、上﨟(じょうろう)姊小路(あねこうじ、橋本勝子、勝光院)が公の輔導をした。
 槙徳公は公に、水戸で読んだ書物や、城下の風物や、今年の作柄について尋ね、公は謹んでいちいちに答えた。 (日時は『一橋相続日記』よる)

 槙徳公は槙徳院とも言われ、徳川家慶(いえよし)のことである。12代将軍。1793-1853

五十三間の観菊のこと

332 毎年10月、本丸の五十三間(馬場の名)で、観菊の催しがあり、展示物を見物の人にくれた。
 公は一橋家相続の後、1847年弘化4年10月11日、初めて田安卿と見物した。公にとっては珍しく、手に入れたいと思った。そのことを口には出さなかったが、すべて譲ってもらった。
 また泉に金魚がいて、槙徳公が公にそれをすくわせた。公は水中にはまってしまったが、自若としていていた。(日時は『一橋家日記』による)

槙徳公が寵愛したこと

 慎徳公がある日亀有あたりで遊んだとき、公は田安卿と共に駕を共にした。慎徳公は公が鷹を知らないのを知り、やり方を丁寧に教えた。また慎徳公が一橋邸に来て謡曲をする時には、謡いや舞を公と交互にやった。

鹿狩に随従したこと

323 1849年、嘉永2年3月18日、慎徳公が古い慣習を復興して、下総小金原に鹿狩をした。公は田安卿と随従し、尾張・紀州の両世子とともに、前夜夜半に大城を出発し、松戸駅で休憩し、狩場に着いた。帰館したのは、その夜の10時頃だった。(日時は『一橋家日記』より)

安政の地震

 1855年、安政2年10月2日の午後10時頃、江戸に大地震があった。死傷者いく万なるか知ることができない。築山も崩壊した。(日時は『武江年表』による)

蛤門の変のこと

324 1864年、元治元年7月、蛤門の変(禁門の変)の時、長州派の公家らが和議を主張し、遂に主上を要し(主上にお願いして)、有栖川宮邸へ移動しようとしたが、公が遮ってこれを止めた。
このことは、常に公と行動を共にした小松帯刀の話として、その詳細を筆記したものが、『島津家文書』にあったので、ある日公にその筆記を見せたところ、「この書は、帯刀の直話であるし、事実もこの通りだ」と公が語った。

以上

201973()


解説 大久保利謙

一 本書の成り立ちと構成

327 本書の構成は、最初が、慶喜を招待して座談応答する本来の昔夢会形式と、次は、会以前にあらかじめ稿本を準備しておいて、編纂員が慶喜の邸に赴いて、その稿本の正誤を問い、その後編纂員がそれをまとめた形式とである。前者が17回、後者は8回あった。そして、最後は、昔夢会以前の、小日向の慶喜邸で開かれた会で慶喜から聞いた話である。

328 興山公とは徳川慶喜のことである。
 昔夢会の参会者は、陪席者と編集員とで構成された。

 陪席者の一人新村猛雄は、慶喜の家臣だった。幕府の主計頭で、明治以降は家扶となり、『広辞苑』の新村出の養父である。(血のつながりはないのかもしれない。)
 三島毅は、明治の漢学者として著名な中洲先生である。備中松山藩の人で、藩主板倉勝静が老中となると、京都でスパイ活動をした。
 稲葉正縄は、幕末の老中で淀藩主だった稲葉正邦の子である。
 
次に編纂委員
 阪谷芳郎と穂積陳重は渋沢栄一の姻戚である。
江間政発は調査を担当した。
小林庄次郎は、最初の起草者で、東大文科大学史学科卒。外務省の幕末外交文書の整理を担当。『幕末史』(明治40年9月刊)この昔夢会伝記起草開始後すぐの明治42年9月に病没。第五回まで参加。
 第7回以降は井野辺茂雄、藤井甚太郎が編纂を担当した。
井野辺茂雄は『国史大系』の『徳川実記』の校訂を担当した。著書は『幕末史概説』『幕末史の研究』『維新前史の研究』
藤井甚太郎は昔夢会以降、文部省の維新史料編纂会に移った。著書は『明治維新史講話』

昔夢会の最初は、慶喜の話を編纂員が筆記した。五回からは速記。14回から筆記にもどった。
330 慶喜は明治40年時点で、70歳だった。
若い歴史の専門家は慶喜と主従関係がなく、史実の確認のために忌憚なく質問した。本書233ページの部分は、慶喜が急所を突かれて逃げようとしている。

二 本書の読解に参照すべき文献

331 参考文献

幕府関係

・渋沢栄一編『徳川慶喜公伝』は、慶喜が77歳でなくなった1913年大正2年11月の5年後の1918年大正7年1月に刊行された、幕府を中心とした該博詳細な幕末史である。本書で渋沢は慶喜から朝敵の汚名を雪ぎ、慶喜が王政復古の功労者の一人であったと弁護する。
332 ・越前福井松平家、すなわち慶喜と最も因縁の深い松平慶永(春嶽)の家が編纂した『昨夢紀事』(日本史籍協会叢書本)や『再夢紀事』(同)、『続再夢紀事』(同)は、研究者が準拠していたものだ。
 これは1853年、嘉永6年から1867年、慶応3年までの、幕府・松平慶永中心の政治記録であり、同藩の家老中根雪江、村田氏寿らが相受けて編纂した。ただし、地の文が、後年の筆録である点に注意が必要だ。
・『七年史』は北原雅長が明治37年に刊行した会津藩関係のもの。
・『広沢安任手記』も会津藩関係書である。これは日本史籍協会叢書の『会津藩庁記録』に収録された。
・田辺太一『幕末外交談』(1898年、明治31年刊、これは『東洋文庫』にも収録された)
・海江田信義『実歴史伝』(1887年、明治20年)

 朝廷側の史料

本書第10回の、1865年、慶応元年の、第一回長州征伐のための、家茂将軍の東上前後の話に、老中阿部正外と本庄宗秀の上京の件があるが、そこで『朝彦親王日記』が出てくる。
 当時、朝彦親王中川宮と称し、慶喜との交渉が深かった。これは、『徳川慶喜公伝』七の附録巻末の「引用書目」や、「日本史籍協会叢書」で復刻されている。


三 徳川慶喜と渋沢栄一

333 徳川慶喜の父は、水戸藩の徳川斉昭である。
 慶喜は、安政年間、1854年~1860年、将軍家定の後継に擬せられたことがあったが、それは叶わなかった。また安政の大獄で処罰され、一時失脚した。自分に優先した紀州藩の慶福(よしとみ、14代将軍家茂)の急死を受けて、第15代将軍となった。(家茂の急死と慶喜の将軍就任は、朝廷側特に岩倉具視の陰謀かとふと思った)
 慶喜は父斉昭から水戸家の相続者に擬せられていたが、阿部正弘のはからいで一橋家を相続した。そしてこれは慶喜が将軍候補となる素地となった。
 安政年間、1854年~1860年、将軍家定が病弱で、慶喜の後嗣問題が起こったが、慶喜自身は後嗣を望まず、周囲が望んだものだ。
334 『徳川慶喜公伝』一には、「将軍家継嗣の外議」とある。『昔夢会筆記』の第二回で、慶喜は当時のことを語っている。
 しかし、松平慶永の『逸事史補』には、「慶喜公は優秀で、自らも才略があることを自覚し、家定公の後嗣となることをひそかに望んでいた」とあるが、慶喜は「外議」によって一橋家に移されたのであり、この慶永の評は、慶喜が将軍の後嗣に擬せられたことに対する慶永の反発を表している。
 慶喜はこの将軍後嗣問題で政治的生命を絶たれたが、井伊直弼が斃れてから政界に復帰し、後見職に迎えられ、幕府、朝廷、雄藩(薩長)間の調整にあたり、政局を熟知した。
 薩摩派や会津藩側から、慶喜は、能力、学識に優れ、社交的で、人望があるようだが、それは表面的で、実際は、考えが定まらず、その自覚もないとされている。(山川浩『京都守護職始末』)そのため、臨機の人とか権謀の人という評価も出てくる。
 1862年、文久二年、慶喜は後見職となり、政治家として独立した。
335 1862年、元治以後、慶喜は京都に住み、幕権の維持が困難なことを知るようになった。
 第二次長州征伐で将軍家茂が急死し、慶喜は、宗家を相続し、将軍職に就任したが、慶喜はこのとき、宗家の相続は受諾したが、将軍職は固辞し、その代わりに王政復古の断行を考えた。これは本書の第五回に出ている。
 慶喜の王政復古論は、岩倉具視や薩長倒幕派の王政復古とは違い、幕政を王政復古へ転換して国政を一新する方策である。将軍職就任後の慶喜の政策は、この王政復古をめざすものだったが、薩長に押されて成功せず、結局土佐藩の応援で、大政奉還に打って出たが、これも後手となって自らの目標を果たせず、敗北した。
 慶喜の方策は、公武合体の王政復古だった。「長州を緩め、家を継いで、将軍職を受けずに、王政復古を果たそうとした」(本書63-64
 しかし結局将軍職を継がざるをえなくなり、将軍として幕政回復の強行政治を行った。すなわち薩長の雄藩を断乎押え、王政復古を行うというものだ。
 しかしそれが失敗して、大政奉還を行ったのだが、これも薩長側から倒幕的王制復古のクーデターを打たれて、敗北した。大阪城の項がそれをよく物語っている。

 渋沢栄一に関して

 幸田露伴『渋沢栄一伝』がある。
 渋沢栄一は、1840年、天保11年2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村の豪農の子として生まれ、父は苗字帯刀を許され、村役人に選ばれ、農業と藍玉商を営む農村商業家で、地方知識人だった。
 渋沢栄一は尊攘思想を受け、横浜の外国商館襲撃を企てた。江戸に滞在中、一橋家の川村恵十郎と交わり、同家の用人の平岡円四郎や用人格の黒川嘉兵衛と知り合い、一橋家に仕官し、慶喜の家来となった。

四 本書の資料的価値

337 昔夢会は、慶喜の伝記編纂の資料調査のために催されたものである。
 主要な質問者は、渋沢栄一や陪席者や古老ではなく、江間政発、小林庄次郎、井野辺茂雄、藤井甚太郎らの起草担当者であり、彼らは慶喜の曖昧な返答を史料によって究明し、史実を確認しようとしている。
 自叙伝や回想録の史料的価値はしばしば問題となるが、本会では、最初に史料を慶喜に渡した上での回想である。
338 本会の質問事項は、すでに記録された明白な史実は扱っておらず、記録外のことに集中する。それをいくつか列挙すると、

 第一は、1857年、1858年、安政4、5年の慶喜の将軍継嗣問題。
 第二は、1862年、文久2年、謹慎免除後、政界に復帰し、将軍後見職に就任するときで、これは慶喜が政治家として活動を始める契機となった。第7回と第1回に出てくる。
 第三は、1862年、文久2年の政権委任問題から石清水行幸(第9回、第10回)、攘夷発令のこと。
 第四は、1864年、元治以降、後見職から禁裏御守衛総督に転じ、薩摩藩などの雄藩と対立して、独自の政権を築いてゆくこと。
339 第五は、長州征伐から宗家相続、将軍職就任問題。原市之進の話。第1回は条約勅許、将軍職就任を扱い、第5回では、小林庄次郎がするどく質問している。
第六は、慶喜が政界を引退する大政奉還、王政復古、鳥羽伏見の戦いである。これは第1回、第14回、第15回等に出てきて、本書の山場である。

以上の点につき次に詳述する。

 第一は、1857年、1858年、安政4、5年の慶喜の将軍継嗣問題。
 
慶喜が一橋家を継いでから、嘉永1848となり、ペリーが来航1853した頃、慶喜の将軍継嗣問題が起こった。『昨夢紀事』が、安政4年秋から始まる慶喜の将軍継嗣問題を扱っている。本書では第二回が扱っている。023-025
 質問者は、『昨夢紀事』の安政4年11月28日の条にある、慶喜が三家老と激論した記事に関して真相をただしているが、慶喜はこれを否定して、「三人との対談のことは全く無根の虚構説なり」とはっきり否認しているのだが、『昨夢紀事』のこの記事は、慶喜の腹臣である平岡円四郎の話であるからかなり信憑性があるはずだ。
そして『徳川慶喜公伝』一では、このことは一橋家の日記に見えるから、慶喜の記憶の誤りと断定している。一方平岡の話は、誇張が多く信じ難いと批判している。

 慶喜の継嗣問題について、『昨夢紀事』第三、1858年、安政5年3月7日の条に、中根雪江が平岡円四郎から聞いた話が載っている。
340 これによると、平岡は慶喜の継嗣のために熱心に運動をし、慶喜もこれをすすめている。本書第二回の「養君御辞退の事」で出てくる、『昨夢紀事』第三019-020の一節を以下に示す。(省略)

この抜粋部分、全く意味不明だが、最後の部分では、何やらを断っている様子が伺える。
西城=江戸城の西丸で、将軍の後嗣者の居所。大統とは将軍職かそれとも一橋家か。越前=松平慶永。夷人とはペリーのことか。御前とは慶喜のことか。伊賀=老中松平忠固。大和=老中久世広周。

341 以上の『昨夢紀事』の記述に関して、本書で慶喜は訂正を加えているが、慶喜の辞意の内容は『昨夢記事』とほぼ一致し、『徳川慶喜公伝』もこれによっている。

 1866年、慶応2年10月、岩倉具視の画策で、大原重徳ら二十二卿が列参を強行したため、孝明天皇の不興を買い、二十二名の公卿が勅譴を受けたが、本書第五回で、小林庄次郎が、『続再夢紀事』第六090-091に引用されている、伊達宗城宛松平慶永の書簡を示して、質問している。(本書053
『続再夢紀事』はこの書簡を引用しているが、説明がない。
小林は、原市之進が慶喜の謀臣として、朝廷に対して働きかけたことを知っていて、質問しているが、慶喜はその指摘を否定している。

342 『続再夢紀事』第六、1867年、慶応3年6月21日の条に、慶喜の側近が、慶喜を朝廷政府の摂政にしようとする策謀があったと話している。
 この時の時代背景は、兵庫開港勅許と長州処分に関して、慶喜と、それに対すると島津久光や山内豊信、松平慶永、伊達宗城らとの四侯会議が決裂し、薩摩藩が武力倒幕を決した頃である。
 慶喜の謀臣原市之進が、倒幕派を相手に政争を行う中での慶喜摂政策は、慶喜側が朝廷を乗っ取ろうとする策謀であった。このことに関して『続夢再紀事』第六356-359は、以下のように述べている。

これは、前の抜粋より分かり安い。それによると、

慶喜側の板倉伊賀守が、中根雪江を越前藩に遣って、越前の大蔵太輔(松平慶永)に働きかけ、熊本の細川家の澄之助(熊本藩主細川護久)に、慶喜摂政案を提言させるよう周旋して欲しいと働きかけたところ、越前の本多修理が反対したというものである。その理由は、幕府の反正改革が十分でないとしている。

343 以上のとおり、この策謀は葬られたが、翌22日の『続再夢紀事』に、その後日譚がある。(省略)


 話は以上で途切れているが、慶喜側近は、この策謀を時期尚早とし、あきらめたわけでなく、諸侯を抑えられれば実行可能と考えていたようだ。

 この話に関して、本書第5回で、小林庄次郎が慶喜に質問している。068 慶喜は否定しているが、それが真実かどうかあやしい。
 板倉が、自分と永井玄蕃(尚志、この時若年寄格で慶喜の謀臣の一人で、大政奉還当時の謀臣)との間だけの話だとし、慶喜には関係がないように言っている342が、これは表向きと解される。慶喜の王政復古策に通じる策謀を、板倉が慶喜の承諾なしに、松平慶永に周旋を託すとは考えられない。
344 慶喜は「つまらない話で、早く言うと、こびりついていたいというようなものだ」と自嘲めいた発言をしている。
『徳川慶喜公伝』がこの話を削除しているのは、慶喜を弁護できなくなるからではないか。

 慶喜の話には、従来の史料に記されていない事柄がある。例えば、

 第三回、第五回、第八回で慶喜が話している、謹慎中での生活033によれば、大名でも謹慎・隠居の処罰を受けると、全く外界と遮断され、政治的行為は一切できなかったことがわかる。
 第七回で、井野辺茂雄が後見職の職掌や実態を質問すると、慶喜は詳しく説明した。091-096 
幕府の官制・職掌には、はっきりした規定がない。
345 第八回で、井野辺が後見職就任当初の側近者の名前を尋ねている。093 
第二回で、禁裏御守衛総督就任の事情028 
第十回で、京都守護職の職制や権限の話178 
 第七回で、井野辺が官職の任免の手続を質問したとき、元桑名藩士の江間政発が、老中や若年寄になる際、辞令書はなく、将軍からの御意があるだけであると説明した。096
 第五回で、慶喜が自分の日記を上野に謹慎中の、明日討ち入りという前夜に全部焼却した075としているが、惜しいことだ。

以上
201978()

さらに田村貞雄氏による年表と人名略伝があるが省略した。

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