ソウル旅行記 2019年6月4日(火)~7日(金)
今回のソウル旅行の目的は、韓国との親善を目指すことがメインであり、それに実践的韓国語学習という目的もあった。
この二つの目的はタイアップしており、私の言語能力が乏しいために、今回の成果はいずれも不十分なものでしかないという結果となったが、それは最初から分かっていたことだった。しかし、およその感じを実感として体感することができたことが、せめてもの成果だろうか。
初日6月4日(火)
金浦空港の税関を通った後、先ず眼に入ったのが、隣り合って並んだ二つの銀行の両替ブースの、元気な声で客引きをする若い女性たちだった。私は、その二つの声に合わせて、左右に揺れ動きながら、結局右側の窓口で一万円を両替することにした。
次はインフォーメーションの日本語ブースで、韓国語や、韓国語で言えないときは日本語で、T-moneyカードをどこで入手できるかを尋ねてみた。戻って三階、あるいは、地下鉄の入り口周辺で買えるとのことなので、地下鉄に向った。
とっつきの洋品店に入って、T-moneyカードをどこで入手できるか尋ねたが、ここでは扱っていないというだけで、どこで入手できるかは教えてくれない。こういうのが韓国人の日本人観かと思って、少々がっかりした。
券売機が目に入ったので、少しいじってみた。
次は、声を張り上げて食料品を売っている若い女の子にたずねてみたが、私の韓国語が通じないらしい、今度は女の子がスマホで日本語に翻訳してくれるのだが、その日本語も何を言っているのか分からない。そうこうするうちに事情が飲み込めたらしく、彼女は相向かいのセブンイレブンを指差してくれた。私もこんな近くにコンビにあるとは、指差されるまで分からなかった。コンビニで売っているということは、前から私も知っていた。
セブンイレブンでT-moneyカードを購入。これは現金のみで、カードは使えないようだ。T-moneyカードのチャージも現金でないと受け付けない。やはり、キャッシュは必要だ。T-moneyカードに券売機でチャージする。これは日本語、中国語、英語にも対応するようになっていた。
次は地下鉄、どちらの方角へ行くかが問題。入り口が一つしか見あたらない、不安を感じながらも、ホームに降りて、並んでいる若い女性に尋ねてみた。「イ
チハチョル、チョンノ3ガエ カヨ?」(この地下鉄、チョンノ3ガへ行きますか)すると「ネー」(はい)と返って来て、ほっと一安心。後でよく見ると、ホームの乗り口上部に、次の停車駅と進行方向が矢印で書いてある。それにホームに降りる前に、二つのホームがある場合は、行き先と矢印が書いてあるので、それを見ればよいことに気づいた。
チョンノ3ガで降りる。夜の八時だというのに、町は人々で賑やかだ。屋台があちこちに並んでいる。食べ物屋もあちこちにある。さてホテルはどっちか。ここで役立ったのが、なんといっても地図とシルバーコンパスだ。山歩きでシルバーコンパスの使い方を習ったことが、こういう都会でも役立つのだ。地図上で進行方向を定め、目的地に向う路地を突き止め、ゆっくり歩いて行くと、ホテルが薄暗い闇の中に現れた。事前説明の通り、ホテルの下にコンビニがあった。
「アンニョンハセヨ」と言ったが、フロントの男性は日本語で対応した。
ホテルのコンビニで明朝の朝飯用に、サンドイッチと牛乳を買って、帰りがけにフロントの女性に、「イー クンチョエ スーパーマーケット イッソヨ」(この近所にスーパーがありますか)と尋ねたところ、今度は韓国語で、よく聞き取れなかったが、「オルンチョゲ カソ フェンダンボドロ コンノミョン イッソヨ」(右に曲がって、横断歩道を渡ればありますよ)とか何とか言ったような気がした。翌朝行って見ると、確かに、ちょっと小規模ながらスーパーがあった。しかし朝早くてまだ開店していなかったが。
6月5日(水)
朝の運動をかねて、タプコル三一記念公園に行ってみることにした。今回もやはりシルバーコンパスが役に立った。公園内には朝の九時にならないと入れず、外から中の様子を塀越しに見たり、説明文を読んだりした。
ここで韓国の現実を知った。日本でもあることだが、仕事にあぶれた大勢の老人たちが、この公園の周辺でたむろしている。中には将棋をしている人たちもいる。ちょっと異様な光景だったが、仲間と仲良くやっている感じ。ここに限らず、韓国の人は、仲間同士の仲がいいみたいだ。食堂でもほとんどがグループの客で、仲間うちで仲良く話しこんでいて、すまし顔をしている人は、あまり見かけない。
仕事のない人は、ここに限らず、大通りの交差点の大きな木の下にもいたし、それとは部類が違うが、夜になると、じゅうたんを歩道に敷いて、夜店を開く人も多い。
ホテルに戻って朝食を済ませ、一休みしてから、インサドン通りを歩いて、日本大使館前に行くことにした。
インサドン通りはきれいだ。服や美術品を扱ったしゃれた店が多い。
二つの地区の間で地図が欠けたところにあったため、日本大使館前の通りを見つけるのに失敗し、おかしいと思って引き返した。ついに日本大使館前の、例の慰安婦像を発見。12時にならないのに、既に、三、四人の初老の男女が、日本大使館に向って抗議の声を張り上げていた。何を言っているのか、その言葉を理解できなかったのが、残念だ。今度はもっと勉強して来ようと思う。慰安婦像と一緒に子どもの写真を撮影していた女性に、「チゴジュセヨ」と言って、私も慰安婦像と一緒に記念撮影してもらった。そして、その女性と、近所にいた初老の感じのいい男性にも、前から用意しておいた、私の元慰安婦のおばあさんあてのメッセージを渡した。そこには私のメールアドレスも書いてあって、もし相手にその気があれば、メールしてくれると期待するものだった。
集会は12時始まりだというのに、中学生や高校生が、あちこちからぞろぞろ集まり始めている。あまり暑いので、12時になるまで、近くのスターバックスで一休みした。
出て来ると、すでに集会は始まっていた。元「慰安婦」のおばあさんと思われる女性も演台に上っていて、中年くらいの女性が、おばあさんを聴衆に紹介しているらしい。
おばあさんが退場すると、今度は同じく中年の女性が、気合の入った演説を始めた。そして演説の最後の方で、聴衆の中高生と意気を合わせ、一方、中高生の一部は、用意していたプラカードを演説する女性の掛け声に合わせて、高く掲げる。そうするように指示する女性も聴衆の横にいる。言葉の内容が分からないのと、およその雰囲気がつかめたのと、それにあまりにも暑いので、最後まで付き合わずに、そこを後にした。これが私の今回の旅行のメインなのだから、最後までいるべきだったのかもしれない。
近所の光化門周辺を歩く王朝時代の行列を見たり、敷地内の博物館を見たりして、地下鉄5号線でホテルに帰って、一休みした。
午後二時頃から、今度は駱山公園からソウルの町を展望しようと、ホテルから歩いて向った。地図上では大したことはないと思っていたが、予想以上に距離があって疲れた。途中でまた、二つの地区間の地図の途切れているところがあって、大学路についたかなと思ったら、まだソウル大学病院だった。病院の敷地を通過して、大学路を横断すると、徐々に上り坂になり、途中のきれいな喫茶店を通過し、少し頑張ると、ようやく頂上にたどり着いた。ここはソウルの町が一望できる場所なのだが、そしてそのことはいいことなのだが、残念なことを申し上げて申し訳ないが、大気汚染で、高いソウルタワーや近くの北漢山は、薄ぼんやりしていて、興ざめだ。
疲れたので、帰りは地下鉄に乗って帰ることにした。4号線と1号線を乗り継いで、チョンノ3ガに到着、途中、トンデムンで下車し、清渓川の噴水を見物した。
チョンノ3ガ近くの大通りの歩道上には、早くも夜店を開こうとして、露天商の人たちがじゅうたんを敷き、商品を並べ始めていた。
6月6日(木)
朝の散歩に、1987年の、独裁制からの解放運動の拠点となった、明洞のカトリック大聖堂へ行くことにした。インサドン4ギルと5ギル通りを通って下ると、意外と近いのだ。しかし、実際は往復で一時間半かかった。ここでもやはりシルバーコンパスが役に立った。朝早いのに聖堂の中には、静かに座って、何やら知らないが、祈りを奉げている人々がいた。
ホテルに帰って一休みをして、今日のメインであるナヌムの家に行くことにした。13時の約束である。1時間半くらいかかると見て、10時頃出発した。
地下鉄3号線の中で、私の両側に座った中年の男が話しかけてきた。私が地下鉄の地図を広げて、きょろきょろ現在地を確認していたからなのだろう。「オディソ ネリセヨ」(どこで降りるのか)などと尋ねられた。私が降車駅や今日の目的地がナヌムの家であることを明らかにしたら、握手を求めてきた。私は別れ際に、用意して来たメッセージを渡した。
ナヌムの家は京畿広州駅からタクシーで20分、料金は1000円くらい。ナヌムの家には、すでにメールで、群馬の高崎のYさんがいることを知っていた。Yさんと慰安婦問題関連の話をしてから、館内を見学し、説明もしてもらった。
ナヌムの家を訪れる人の国籍で一番多いのが日本、次がアメリカとのこと、またソウルの挺対協はキリスト教系で、ナヌムの家は仏教系とのことだ。いずれも1987年の民主化運動との関わりが深いのかもしれない。
おばあさん方は、国際公聴会の韓国の李美卿(イーミギョン)さんの報告にもあるように、小学校もろくに出ていないような人が大半で、つまり、ハングルが読めない。だから、絵に描いて自らの言いたいことを表現してもらったという。そういう絵の中で、いくつかショッキングなものがあった。一つは、伝染病のチフスにかかった慰安婦たちが、穴の中に入れられ、火をつけられたが、二人だけが朝鮮兵に助けられて逃げられたというもの。もう一つは、怒りが昭和天皇に向けられ、昭和天皇を銃殺にする絵だ。
おばあさんと一緒に夕飯でも食べていかないかと勧められたが、遅くなるし、今日は夕方から雨が降るという予報なので、現に既に雨がぽつぽつ降り始めていた、と言うと、それではおばあさんに会ってから帰られたらということで、会いに行った。
その日は元気なおばあさん三人はどこかのイベントに出かけているらしく、寝たきりで痴呆症になりかけた二人のおばあさんに会った。ここは介護施設なのだ。
ボランティアでフィリピン出身のカナダ人の若い女性が、かいがいしくおばあちゃんの面倒を見ていた。私が用意していたメッセージを取り出し、「チェソンヘスムニダ、コングアングア ヘンボグル キオンハムニダ」(失礼しました。ご健康とご幸福を祈念します)などと言っても通じないようで、フィリピンの女性が私の言葉を短く切って分かりやすく話してやった。またYさんも、この人は日本から来られたのですよ、などと私を紹介するのだが、通じているのかどうか、心もとない。もう一人の韓国人らしい中年の女性が、私にカラメルのような飲み物を出してくれた。別れ際におばあちゃんが「さよなら」と言ったのでびっくりした。分かっていたのだ。私はまた近づいて何と言ったか覚えていないが、何かしらおばあさんに言って別れた。「アンニョンヒ ゲセヨ」だったかな。
Yさんがタクシーを呼んでくれ、程なく近所にいたタクシーがやって来て、京畿広州駅に到着した。今回の旅のメイン行事が終わった。
ホテルについてから、これまでいつもサンドイッチやおにぎりばかりだったので、ホテル前の食堂に入り、牛肉入りのうどんを食べた、名前はソゴギクスだった。カードで払えるのかなと思ったら、どういうわけか、機械が合わないのか、「アンテダ」(だめだ)ということで、現金で払った。こういうことは京畿広州駅近所のコンビニでもあった。
昨日も今日も、日本大使館前で昨日私がメッセージを渡した男性から早くもメールが届いていた。辞書がないので、インターネットで調べれば調べられるが、また疲れていたので、返事を書く気が起こらない。返事は帰ってから、6月9日の日曜日の夜頃に書いて、すぐに送った。
6月7日(金)
「チェックアウト ハゲッスムニダ」(チェックアウトします)ホテルのフロントの女性に、食べ残しの半分残ったオレンジを渡した。「タ モンモゴヨ マシッソヨ」(全部は食べられません。おいしいですよ)などと言って。
金浦空港の免税店で、みやげ物屋の叔母ちゃんたちの元気な勧誘と説明を聞いてから、ひとまず冷却期間をおくために座ってネットで調べて、(空港や地下鉄ではワイファイが通じる。しかし、ラインの送信には失敗した。)結局コチュジャンを11米ドルで買うことにした。
羽田で顔認証用の、競馬のゲートみたいなものしか見当たらず、そこに入った。今度からはこれでいいのかとそばにいた中年の女性出入国係官に尋ねたら、それにはろくに答えず「早く向こうへ行け」と大仰に言われて、日本人警官は怖いと思った。
以上がソウル旅行記だが、韓国には、民主主義を勝ち取った理想的な歴史があると思っていたし、また実際そうなのだろう。しかし今回の旅行で空想的な韓国像が、現実的な韓国像に変わったような気もした。
しかし、そう判断する前に、大使館前の集会で発せられていた言葉を解読しなければならない。
また、しかし、「イルボン、イルボン」(日本、日本)と何度も激しく繰り返し、聴衆の子どもたちを扇動していたように見受けられたが、日本のどういうものを「イルボン」と看做しているのか、韓国との親善を願う私などをどう評価しているのかなども知りたいと思った。少なくとも現政権のような右翼と同一視されたくはない。
そして私にメールを送ってくれた人は、独島愛運動の顧問をしているのだ。領有権問題は基本的に、私にとって不毛でつまらないものだ。
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