荻野富士夫『よみがえる戦時体制 治安体制の歴史と現在』集英社新書 2018
感想 2024年2月21日(水) 嫌な雰囲気。現代の治安維持法としての共謀罪法はすでに動き出している。内偵、尾行、電話傍受、ネット介入調査、防犯カメラ、道路の自動車ナンバー監視Nシステム、「民間」防犯宣伝車(パトロールカー)、内閣情報調査室(内調)による調査活動、自衛隊による民間調査、公安警察による居丈高な警備…。共産党の某が鉄道線路を横切ったことが問題となったが、誰かが尾行していたに違いない。
なぜ外交努力をしないで、軍拡に走るのか。戦後70年間金権自民党政治が続き、一時民主党政権になっても、日米安保という枠組みから抜け出せない思考停止。マレーシアのマハティールが言うように、米中ともに仲良くする発想にはなれないのか。
そして最近では陸自や海自は公然と靖国神社に参拝するようになり、戦前の好戦性を前面に出しつつ天皇を公然とかつぎ出し始め、防衛相はそれを規制すること自体を見直そうと発言し、問題視しないように見受けられる。
著者略歴・著書
荻野富士夫(おぎのふじお) 1953年埼玉県生まれ。小樽商科大学名誉教授。早稲田大学文学部卒業。日本近現代史。『特高警察』『思想検事』(岩波新書)、『小林多喜二の手紙』(岩波文庫)、『「戦意」の推移』(校倉書房)、『日本憲兵史(小樽商科大学研究叢書)』(日本経済評論社)
はじめに 「来るべき戦争準備」に抗するために
戦争の「からくり」を見抜く多喜二
007 1933年2月20日、小林多喜二が東京の築地署で特高警察の拷問によって殺された。殺された理由は二つ考えられる。一つは多喜二が小説『一九二八年三月十五日』の中で、友人が小樽の警察署で受けた凄惨な拷問の実態を「煮えくりかえる憎悪」を燃やして生々しく暴露したことに対して、特高警察が報復しようとしたことである。小林多喜二は1930年5月、大阪の島之内署で「ようもあんなに警察を侮辱しやがったな」*1と脅され、「竹刀で殴られ、柔道で投げられ、髪の毛が何日も抜けた」*2という拷問を受けた。釈放後、再び警視庁に検挙され、小林多喜二に対する「当局の取り調べはもっとも峻烈であったため、出所後、顔面筋肉の一部が硬直」*3するほどだった。これらの延長線上に1933年2月20日の拷問の末の虐殺がある。
*1 江口渙『たたかいの作家同盟記』上巻、新日本出版社、1966年。江口渙1887-1975、男性。1912年、東大英文科進学、1917年、中退、1930年、日本プロレタリア作家同盟中央委員長、小林多喜二の葬儀委員長を務めたことで検挙された。
*2 荻野富士夫編『小林多喜二の手紙』岩波文庫、2009年、1930年6月9日付斎藤次郎宛多喜二書簡
*3 『東京朝日新聞』1931年5月20日付
008 もう一つの理由は、満州事変後の反戦・反軍運動を全身でリードする小林多喜二に、特高警察を尖兵とする支配層=為政者層の脅威が集中したことである。小林多喜二は1932年以降、毒ガスマスク製造工場労働者の反戦活動を描いた『党生活者』1933を始めとする小説や評論だけでなく、日本反帝同盟執行委員として、上海での国際反戦会議の準備に奔走していた。
多喜二虐殺の報にフランス共産党機関紙『ユマニテ』1933年3月14日は「過去数か月間に彼は決然として極東における帝国主義的略奪戦争と反革命戦争に抗する運動の先頭に立ち続けた」とし、「彼の不屈の革命的活動は日本帝国主義の脅威となっていた」と評価した。*
*荻野富士夫編『小林多喜二の手紙』岩波文庫、2009年
その「脅威」とは多喜二が戦争遂行の「からくり」を的確に見抜いたことである。評論「八月一日に準備せよ!」*において多喜二は「戦争が外部に対する暴力的侵略であると同時に、国内においては反動的恐怖政治たらざるをえない」とするが、これは1932年4月以降地下での潜行生活を強いられた気持ちを反映している。その「反動的恐怖政治」について小林多喜二はこう書いている。
「賃下げ、大衆的馘首(かくしゅ)、労働強化が経営内に行われ、ファシスト、社会ファシスト、愛国主義者、平和主義者、…の残るところなき利用、警視庁と憲兵隊の協同、特高部の設置(課から部へ昇進させて、その陣営を強化した)、在郷軍人、青年団、青年訓練所その他の組織の軍事編成、あらゆる革命的諸組織への徹底的弾圧…等々は、来るべき戦争遂行の準備と密接に結びついている。」
*『プロレタリア文化』1932年8月
009 この多喜二の一文は日本共産党機関紙『赤旗』(せっき)第82号掲載の「八月一日を準備せよ‼」を参照したものだが、多喜二の晩年の小説には「来るべき戦争遂行の準備」のために張り巡らされた「からくり」とその各部分の「つながり」具合が描かれている。
例えば、『党生活者』では「倉田工業」の工場長から「もし皆さんがマスクやパラシュートや飛行機の側(がわ)をつくる仕事を一生懸命にやらなかったら、決して我が国は勝つことはできないのであります。でありますから或いは仕事に少しのつらいことがあるとしても、我々もまた戦争で敵の弾を浴びながら戦っている兵隊さんと同じ気持と覚悟をもってやっていただきたいと思うのです」という掲示が出されたとある。井上ひさしの最後の戯曲「組曲虐殺」2009年の言葉を借りれば、多喜二はこうした「もっともらしい理屈に騙されるな」と警告し続けた。
010 治安維持法下でも拷問は違法だった。従って警察は多喜二の死を拷問の結果とは認めず、「心臓麻痺」と強弁する。特高はその後の治安維持法違反を名目とする取調べに際し、広く知れ渡った多喜二の死を有効に活用した。
多喜二の時代全体のつかみ方に学ぶ
多喜二は時代全体をつかむ点で優れていた。「賃下げ、大衆的馘首、労働強化が経営内に行われ」る事態は今日の日本でも長く続いている。それらが今後加速され、社会の不安や不満が醸成され、破裂する危険性が高まり、社会的秩序が流動化し動揺する。このような高まる国内危機を回避するために対外危機を作り出す事態は、昨今の北朝鮮情勢の緊迫化とともに現実味を帯びてきた。*
*疑問。現自公政権は、対米追随による戦争に巻き込まれることはあっても、米国抜きに自ら戦争を始めるつもりはないのではないか。)
満州事変後、特高警察などが増強されただけでなく、国民のなかからも戦争協力の側に回る動きに多喜二は注目したが、このことは現代における社会と人心の誘導・統制に示唆を与える。
小説『沼尻村』1932で協調路線の全農のダラ幹(組合の堕落した幹部)である「山館」は言う。「満州は我々の生命線だ。あそこを取れば、自然我々のこの苦しい状態も楽になるのだから、内で騒ぎを起こすのはあまり感心しない」と。また『党生活者』に登場する会社の御用団体「僚友会」が用いた論理は「今度の戦争は以前の戦争のように、結局は三井とか三菱が、占領した処に大工場を立てるためにやられているのではなくて、無産者の活路のためにやられているのだ。満州を取ったら大資本家を排除して、我々だけで王国をたてる。内地の失業者はドシドシ満洲に出かけてゆく、そうして行く行くは日本から失業者を一人もいなくしよう」というものだった。多喜二はこのプロレタリアのための戦争という正当化の欺瞞性と危険性を明らかにした。
012 「満州は日本の生命線」というスローガンが声高に叫ばれたが、満州はそこに居住し生活する人々の「生命線」であり、その奪取がどれほどの犠牲と破壊をもたらすかについての想像力はなかった。現代の私たち自身が「日本の生命線」を守るための戦争というワナ、「プロレタリアのための戦争」というもっともらしい理屈に、コロッとはまってしまう危惧が今急速に高まっているのではないか。
戦時体制とは
013 安倍晋三政権は「戦争ができる国」づくりを目指しているが、「戦争ができる国」つまり戦時体制の確立した国家とはどのようなものか。
戦時体制を戦争遂行のために全てを総動員する体制とすると、(そのような体制をつくろうとする)意図が二つ想定される。一つは総力戦を遂行するための体制の構築である。そこでは国家の危機の名の下に軍事が優先され、国内の政治、経済、教育、社会、文化などあらゆる点で統制が急速に整備され、それに抗する社会運動や批判的な意識は完全に抑え込まれ、基本的人権も大幅に縮小され、出版言論などは統制されるばかりか、却って巧妙に動員される。武力衝突という戦闘状態が続き、日本と敵国の双方が人的・物的な犠牲を生じることは不可避となる。
東条英機の(が)独裁政権に至る(までの)軍部の実権把握が想起されるが、アメリカの強い影響力の下に従属関係にある現代及び近未来の日本では、そうした事態がそのまま再現される可能性は少なく、かつての関東軍の暴走に引きずられた総力戦遂行国家へのなだれ込みのような事態はあまり想定されない。しかし2017年2018年時点の東アジアで意図的に軍事的緊張が創出された状況では、近未来に、同盟国アメリカに引きずられた偶発的な武力衝突をきっかけに、なし崩し的に戦闘状態に拡大する可能性はある。
014 もう一つの戦時体制構築の意図は、多喜二の言う「来るべき戦争遂行の準備」を通じて、常に国内・国際的な緊張を高め、それらをテコに異論や不満を封じ込める態勢を持続することである。いつでも戦争を始める・始められる臨戦態勢を敷くことによって、政権・為政者層にとって望ましい秩序を継続させることが第一義となると同時に、市場や原料の確保などを目的とする「国益」(企業の権益)の確保・拡充が追及される。
その目的は何か。それは国益・権益の追及であるとともに、復古的・保守的な国家・社会の実現、そうした価値観による社会統制の一元化のためである。当面の到達目標は自民党が「日本国憲法改正草案」2012として提示しているものである。
この意味での戦時体制とは、
「賃下げ、大衆的馘首、労働強化が経営内に行われ」る事態のさらなる深刻化
→社会の不安・不満の情勢とその破裂という危険性が高まり、社会的秩序が流動化し、動揺する事態
→高まる国内危機を回避するための対外危機の創出
という道筋をたどって戦争前夜の緊張状態を作り出し、それを持続するというものである。言い換えれば、政権・為政者にとって望ましい秩序が恒常的に継続する状況の出現であり、そこでは基本的人権は制限され、権力によるだけでなく国民相互による監視と情報統制・情報誘導が常態化し、多様な価値観を必須とする思想・教育は、統制され一元化される。新しい「戦時体制」の出現である。
近代日本はいつ戦時体制を確立したのか
015 明治初年から1945年の敗戦に至る75年余の間に日本が関わった対外出兵・事変・戦争は15回あったと岩井忠熊は指摘する。*1その頻度は単純計算で5年に1回になる。事変や出兵は短期間であり*2、戦争は複数年以上継続されたので、明治・大正・昭和前半の日本は、戦時と平時が交錯し、平時は来るべき戦時の準備期間だったと言える。そして最後のアジア太平洋戦争の終盤を除いて、戦争はすべて日本国外の他国の領土で行われた。
*1 岩井忠熊『「靖国」と日本の戦争』新日本出版社2008
*2 満州事変は長期にわたり、シベリア出兵も例外的に5年に渡った。
満州事変以降を本格的な総力戦段階とすると、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦まではその前史と考えられる。1927年と28年の山東出兵を先駆とする、1931年の満州事変から1941年のアジア太平洋戦争に至る十五年戦争が、総力戦としての常態的な戦時体制と考えられる。
016 しかし十五年戦争の当初から常態的な戦時体制が確立していたわけではなかった。1920年代に浮上した総力戦構想は、満州事変を契機として本格的な実行段階に入り、37年の日中戦争でその完成に向けて加速し、1938年の国家総動員法の成立や1940年の大政翼賛会の成立、1941年の国民学校令の制定と治安維持法改正などを指標として、対米英戦争を前に戦時体制が確立した。日中全面戦争から1941年までの期間を戦時体制の形成過程(第一章)とし、アジア太平洋戦争の段階を戦時体制の展開・崩壊の過程(第二章)とする。
15回におよぶ事変・出兵・戦争の名目の大半は海外在住の日本人の保護や在外権益の擁護であった。1920年代後半の三次にわたる山東出兵や1932年の第一次上海事変はこの両方を名目とした。1927年5月、田中義一内閣は「済南帝国居留民及び膠済鉄道沿線要地における帝国臣民保護のため」(27日付閣議決定)に山東出兵を断行した。この出兵によって「もし排日行動などの誤解的運動が起こるとしても、そんなことを恐れて邦人の生命財産を放棄することは絶対にできない」という田中義一の談話が「権益」の擁護が何を意味するかをよく物語る。それは結局「数十年の間折角扶植した経済的地位」*に他ならなかった。*『大阪毎日新聞』1927年5月30日
017 満州事変時の関東軍の平時の任務は、南満州鉄道とその付属地(大連―長春間)の警備という、在留日本人の保護と膨大な権益の擁護だった。1937年の盧溝橋事件の軍事衝突の主役である支那駐屯軍の前身は、義和団戦争時の北京議定書1901によって配置された清国駐屯軍だったが、その名目は北京の公使館や在留日本人の保護だった。
本書の課題
家永三郎『太平洋戦争』*は「なぜ無謀で破局的な戦争を阻止できなかったのか」という問いに回答を与えてくれる。家永三郎は「戦争に対する批判的・否定的意識の形成の抑止」を、治安立法による表現の自由の抑圧と、公教育の権力統制による国民意識の画一化から説明した。
*家永三郎『太平洋戦争』岩波書店1968、増補版1986
018 戦争に対する反対・批判の言動を出現させないために、治安維持法を基軸に、特高警察と思想検察を主な担い手とした治安体制を構築するとともに、天皇中心の忠君愛国主義教育の土台の上に1930年代後半以降に組み上げられた「教学錬成」体制=皇国民錬成教育を行った。
私は特高警察から考察を始め、戦争に反対する人々を抑え込み戦争に自発的に協力する意識を作り上げる枠組みを実証的に再確認した。
第二次・第三次安倍政権は「戦後レジームからの脱却」を掲げ、特定秘密保護法の制定、安保関連法の制定、共謀罪法の制定と、新たな戦時体制の構築に向かって一挙に加速した。安倍首相は論拠を示さないまま「1930年―40年代の世界と現在の世界とを、また日米同盟と日独伊三国同盟とを同列に扱うのは間違っている」とした*が、そのことは安倍政権の靖国問題や従軍慰安婦問題への姿勢と通底している。
*2014年7月14日、衆議院予算委員会「集団的自衛権」をめぐる集中審議。
019 安倍政権下で進行する諸施策は、新たな戦時体制作りに収斂している。本書はこの収斂する有様を構造的・全体的に把握し、それぞれのつながり具合と、全体のからくりを見通すことを目的とする。これは経済や思想などの方面からもなされるべきだが、私は国家の暴力装置である治安体制の観点から現代を批判する。現代の治安体制の急速な整備強化はどんな意図からもたらされ、どこに向かっているのかを推し量るうえで、かつての戦時体制を支えた治安体制の構造を理解し、それを現代と比較し、それらの異同を明らかにすることは、現代を見つめなおし、抵抗のよりどころを形成する上で有効なはずだ。
このように戦前回帰や復活を警告し叫ぶ声に対して、治安維持法的弾圧はまだ復活していない、戦前と現代とで社会状況が大きく異なっているからそうした見方は杞憂であるという反論がある。また、治安維持法と、特定秘密保護法や共謀罪とは全く異なる法であり、安易な類推は避けるべきだという見方もある。
020 確かに治安維持法と特定秘密保護法や共謀罪法のそれぞれの条文に書かれた法益は異なる。しかし、取り締まり当局におけるその恣意的な運用という点では共通していて、そこに大きな懸念がある。その点について立川反戦ビラ事件の裁判で弁護側の証人に立った奥平康弘*1は次のように発言している。*2
*1 奥平康弘1929—2015 法学者、東大卒、東大名誉教授、九条の会の呼びかけ人の一人。
*2 魚住昭・大谷明宏・斎藤貴男・三井環ほか『おかしいぞ! 警察・検察・裁判所』創出版2005、篠田博之「はじめに」より
「いま日本の社会では、治安維持法とか治安警察法とか、或いはひょっとしたら破防法とかいった特別刑法をつくることは、恐ろしく難しい。それだから今のところは普通犯罪法でいかざるを得ない。普通の市民の秩序を守るものを形として犯罪行為に仕立て上げ、そして機能的にこれを公安警察的に展開するということが、今後の社会の中で大いにあり得る。…たまたまこの時期今ご指摘のような事件(立川反戦ビラ事件)が出て来たというのは、…やはり治安維持法がなくても、治安維持法に近いような格好の、新しい現代的な何かが出て来るという兆候を示すかなと考えている。」
021 ここで破防法に関する部分は、団体解散という本格的な運用がなされるとしたら、という意味だろう。10年を経た今日、奥平の杞憂はいよいよ現実化してきた。
第一章 戦時体制の形成と確立
―どのように日本は戦時体制をつくっていったのか
022 私の一般教育科目「歴史学――近代日本とアジア」を受講する学生は、修学旅行で広島・長崎・沖縄を訪れているせいか、戦争被害の悲惨さは知っていても、私が太平洋戦争勃発直後に99%の国民が戦争を支持し、協力していったと話しても、そんなことはないだろうという表情を浮かべる。それは多くの国民は内心では無謀な戦争に反対していたはずだという願望的な思いが強いからである。*
*荻野富士夫『大学「歴史教育」論』校倉書房2013
戦時体制の前史
023 日露戦争は初めての総力戦であったが、一年半で国力を消耗しつくし、海軍がバルチック艦隊を破っても、その後の継戦能力はなかった。
日清・日露の戦争の間に、軍備拡充と関連し、情報漏洩を罰する軍機保護法1899が制定され、勃興しつつあった労働運動や初期社会主義運動を予防的に取り締まる治安警察法1900が制定されるなど戦争遂行態勢の準備を進めた。日清戦争では非戦論は微々たるものだったが、日露戦争では非戦論・反戦論が高まり、言論・出版への取り締まりが厳しくなった。抑圧と取り締まりの中心は警察の高等警察部門であり、これはすでに後の特高的機能を発揮し始めていた。司法では、出版物について執筆者や編集者を「裁判攻め(責め)」にして、戦争や政府を批判する言動を封じ込めた。
第一次大戦は将来の総力戦を学ぶ場となった。1920年代には軍備の近代化だけでなく、思想戦や経済戦の概念も浮上した。本格的な総力戦が準備され、戦時体制の構築が急がれたのは、1931年の満州事変以降のことである。その前提として1920年代を通じて高揚する社会運動に対応するための治安体制が整備され、1928年の日本共産党に対する大弾圧である三・一五事件を契機に確立した。それは明治国家体制に生じた不具合やゆがみを修正して資本主義体制に再編しようとする大きな潮流の中で重要な位置を占めた。
治安体制とは何か。
025 体制の変革や戦争遂行態勢の障害となるものの抑圧と排除を治安体制の任務とすると、治安体制は、為政者層の治安の理念・意思、治安法制、治安機構、実際的運用(機能)という四つの面からとらえることが出来る。
戦前の治安体制を支える主翼の位置にあったものは、法令としての治安維持法であり、機構・機能としては、特高警察と思想検察だった。これらによって思想犯罪は、警察による長い内偵捜査を経て、検挙―検察―公判―行刑という流れで処理された。特高警察は警察全般の中で、思想検察は検察・司法全般の中で、「国体」にかかわる犯罪を取り締まるゆえに、責任と自負が強く、それぞれの中枢的地位を占めた。
社会運動の抑圧と取締に限っても、他に思想憲兵と、「教育警察」と称せられた学生主事・生徒主事、その司令部としての文部省学生部(のち思想局、教学局)が存在した。
治安維持法の改正1928とともに各取締機構の拡充・創設が一斉になされたが、その契機は三・一五事件であり、1928年に、社会変革を防止するという意味での治安体制は確立したといえる。
026 これらの取締機構は重層的に配置された。社会運動に関わり思想犯罪者とされた場合、日常的に「特別要視察人」として特高警察の視察と尾行を受け、1930年代後半からは、同時に、思想犯保護観察制度の下で、保護観察司による「観察」を、実際は監視機能が濃厚な「監察」を、受け、それらは個人別の「名簿」に記録された。中には憲兵による監視がなされる場合もあり、二重三重の監視下に置かれることもあった。また政治・思想・労働などの団体も監視を受けた。
各取締当局は思想情勢全般について相互に情報交換するほか、個々の思想事件に対しても、役割を分担し協調するが、時には情報の制限や具体的対応において齟齬・衝突もあった。例えば学生の処分で、学生主事は学校からの放逐を急ぐのに対して、「転向」の有効性に気づき始めた警察・検察当局が難色を示すこともあった。
広範な社会運動の高揚に対峙して、1920年代末までに治安体制が確立すると、30年代前半を通じてそれぞれの組織と機能は能力を発揮し、共産主義に主導される変革の潮流をほぼせき止めた。30年代後半以降の治安体制は、「社会運動の監視から、社会それ自体の監視へ」*という段階に入った。総力戦としての戦時体制の形成過程では、戦争に障害となるとみなしたあらゆるものを抉り出して一掃するとともに、国民を戦争に動員する方向に展開したのである。
*江橋崇「昭和期の特高警察」、『季刊現代史』第七号1976
027 戦時体制の形成と歩を合わせて、「主翼群」とも呼ぶべき治安維持法とその運用者たちは、その活用に習熟してゆくが、それだけでは治安体制は万全とはならない。社会運動や不穏と見なす言動を集中的・強権的に封殺することと並行して、より広い対象を統制し動員する「輔翼群」という存在があってこそ「主翼群」の機構・機能は、その能力を全面的に発揮できたと言える。
つまり、情報統制、経済統制、教学錬成などの機構と機能である。また治安維持法を補完する治安法令が整備されていった。つまり治安警察法、出版法、新聞紙法、暴力行為等処罰に関する法律*1、改正軍機保護法1937*2などである。
*1 1926年、「労働運動死刑法」と呼ばれた治安警察法第17条の削除の代わりに制定され、労働運動の抑圧に活用された。現在も存続し、労働運動に適用されている。
*2 日中戦争の本格化を前に、1920年代以降ほとんど適用されていなかったものを再生させた。これは国民防諜を進めるテコとなり、「流言蜚語」の取締りに威力を発揮した。
治安の理念・意思
028 1933年は国内で統計上最も治安維持法違反の検挙者が多く、1万4千人を超え、長野県二・四事件(教員赤化事件*1)、司法官赤化事件*2が起こった。
*1 1933年2月4日から半年余の間に長野県で多数の学校教員などが治安維持法違反として検挙された。県内の日本共産党、日本共産青年同盟、日本プロレタリア文化連盟関係団体、労働組合、農民組合などに及んだが、特に日本労働組合全国協議会(全協)や新興教育同盟準備会傘下の教員組合員への弾圧は大規模で、全検挙者数608名中230名が教員だった。4月までに検挙された教員のうち、28名が起訴され、このうち13名が有罪とされ、服役した。また検挙された教員のうち115名が行政処分を受け、懲戒免職や諭旨免職によって教壇を追われた者が33名におよんだ。
この事件を契機に全国各地で同様の弾圧が行われ、1933年12月までに、岩手県、福島県、香川県、群馬県、茨城県、福岡県、青森県、兵庫県、熊本県、沖縄県で多数の教員が検挙された。
*2 1932年(昭和7年)11月12日、東京地方裁判所の判事・尾崎陞[1]が日本共産党員であるとして、治安維持法違反により同地裁書記・西舘仁ら4人とともに逮捕された。翌1933年(昭和8年)2月から3月にかけては、長崎地方裁判所の瀧内禮作判事と雇員1人、札幌地方裁判所の為成養之助判事、山形地方裁判所鶴岡支部の福田力之助判事と書記1人も相次いで逮捕された。
逮捕された9人の容疑内容はいずれも「研究会を開いた」「カンパに応じた」「連絡を取り合った」などの行為だったが、日本共産党の目的遂行のための行為とみなされ、判事4人と西舘が起訴。1934年(昭和9年)2月5日から9日まで行われた一審では、転向しなかった西館が治安維持法違反で懲役10年、尾崎が懲役8年などの判決が言い渡された[2]。西館らは控訴、1934年6月30日の二審の判決では西館に懲役8年、尾崎に懲役6年、為成、滝内に懲役3年、福田に懲役2年の判決が言い渡された。一審と比べて減刑されたものの、西館は転向の姿勢を最後まで見せなかった[3]。
この事件をきっかけに、蓑田胸喜ら原理日本社の右翼活動家や一部政治家は、司法官「赤化」の元凶として帝国大学法学部の「赤化教授」の追放を主張するようになった。このうち司法試験委員であった京都帝国大学法学部教授・瀧川幸辰への非難が強まったことで、翌1933年の滝川事件の発端ともなった。
1933年4月1日、斎藤実(まこと)内閣は「思想対策協議委員」を設置した。「中正堅実なる思想対策樹立のために、関係各庁の連絡協議を図り、必要なる事項を調査審議するため」とされ、内閣書記官長、内務・司法・陸海軍・文部の各次官らを委員とし、10月までに「思想善導方策具体案」「思想取締方策具体案」「社会政策に関する具体的方策案」が閣議に報告・決定され、内務・司法・文部各省を中心にその具体化が図られた。それまでは特高警察と思想検察がそれぞれ独自に思想対策を実行していたが、ここに治安体制全体の意思統一がなされた。
029 このような戦前の治安体制を支えたものは万世一系の天皇制の特殊性と優秀性を強調する国体観念だった。1935年の内務省警保局「特別高等警察執務心得」では、「特高警察に従事する者は、常に国体の本義に関し、確固不抜の信念を抱持してその任に当たるとともに、事に臨みては率先躬(み)を挺して公に奉ずるの覚悟あるを要す」*と規定した。こうして「天皇の警察官」意識が鼓吹され、その自負のもとに拷問やスパイの使用などを含む法の逸脱や拡張解釈が許容された。
*奥平康弘編『現代史資料45 治安維持法』みすず書房1977
昭和天皇自身も思想問題に関心を持ち、日米開戦時や敗戦前後の治安状況について情報収集を熱心に行い、組閣時には、警保局長などの内務省人事に注文をつけた。「天皇の警察官」や「天皇の検察官」を自任する治安当局者はそれを激励や叱責と受け止めた。天皇は1936年、共産党潰滅の功労者として内務・司法官僚48人に叙勲を行った。つまり国体を体現する天皇自身が治安体制の要だったのである。*
*荻野富士夫『昭和天皇と治安体制』新日本出版社1993
特高警察
030 士族反乱や自由民権運動に対する明治前半期の国事警察は、20世紀を迎えるころから労働運動や初期社会主義運動に対する抑圧と取締りを担当する高等警察に移行した。1910年の「大逆事件」の衝撃は最大限に活用され、社会主義に対する恐怖と脅威を国民の間に深く植えつけた。1911年、警視庁に初めて特別高等警察課が創設され(翌1912年に大阪府に特高課を新設)、社会主義者に対する視察態勢が一層厳重化された。「冬の時代」の到来である。1911年6月、内務省から各府県警察部に「特別要視察人視察内規」が訓令され、以後の社会主義取締りのための視察基準となった。
1910年代後半、取締り当局による視察・情報収集の対象が拡大され、「要視察朝鮮人」「要視察外国人」が、さらに米騒動後に再興してきた労働運動に対しては「労働要視察人」が、特高警察の視野に入るようになった。またデモクラシー思想や社会主義思想の影響を受けて各地に組織され始めた思想団体・研究団体も、視察対象に加えられ、個人は「思想要注意人」とされ、その言動が注視された。吉野作造や与謝野晶子もそのリストに入れられていた。普通選挙運動の動静も情報収集している。
031 こうした特高警察(外事警察を含む)による「要視察」体制は1910年代に確立され、それ以降は運用機構の急速な拡充と精度の向上が図られた。1942年の長野県特高課の「共産主義運動の視察取締について」*は、「視察の方法」のうち「態度」として「(イ)熱意と努力、(ロ)足で内偵すること、(ハ)材料の集積統合、(ニ)常に研究を怠らざること」としている。
*『特高警察関係資料集成』第五巻1942
1920年代前半に主要府県に特高課や外事課が設置され、1928年の三・一五事件を契機に全国に特高課が設置された。
特高警察の指揮系統は、内務省警保局保安課・外事課・図書課を中枢・頭脳とし、各府県警察部特高課を胴体とし、各警察署に配置された特高係を手足とした。保安課長や特高課長は高等試験合格組のエリートが占め、第一線の特高警察官は〝たたき上げ組″という二層構造であった。1930年代には「全ての警察官の特高化」というスローガンが掲げられた。
032 1930年代後半になると、特高警察は「共産主義運動」と見なしたものを抉り出すほかに、反・非「国体」的とする宗教団体にも襲いかかった。また銃後の治安確保という要請は、監視対象を国民生活や思想に広げ、流言蜚語や生産阻害などに現れる「人心の動揺」への警戒と抑圧を強めた。そして拷問による取り調べは黙認された。
外事・図書・経済の各警察などを含む広義の特高警察官の総数は、最大時で警察全体の1割、1万人に達した。
植民地の朝鮮では「高等警察」と呼ばれ、民族独立運動を対象とし、また「満州国」では特務警察と呼ばれ、反満抗日運動を対象とし、国内よりも苛酷な運用がなされた。
特高警察関係の訓示や会議で強調されたことは、検挙者数の多さではなく、未然の防止であり、行動を伴う事件が起きるのは望ましくないとされた。つまり視察内偵を徹底し、不穏とされる動向を未然に抑圧することが重視された。この考え方は共謀罪の考え方に共通する。
社会運動の抑圧と取締りのための指示(訓令・通牒)とそれを実施するための様々な情報は、警保局→府県警察部→各警察署→各駐在所・派出所という流れで行き渡り、その逆の流れで要視察人・団体、更に人心の動静などに関する情報の「報告」がなされ、警保局に集中した。情報のうち重要なものは警保局保安課によって『特高月報』や年報の『社会運動の状況』などにまとめられ、特高警察全体で共有された。内相や警保局長は、しばしば通牒や会議の場で「報告」の遅延や内容の不備を叱責して引き締めを図った。
思想検察
033 戦前の治安体制において思想検察は特高警察と両輪をなした。思想検察を人的に体現するのが思想検事である。1920年代半ばに司法省刑事局や東京地方裁判所検事局に思想問題を専門に扱う部門が置かれ、三・一五を契機に、思想犯罪の司法処理を担当する思想検察が確立したが、創設されたばかりの思想検察は特高警察の後塵を拝した。思想検事の総数は何度か増員を経た1940年代初めでも78人しかいなかった。これは検事全体の1割に当たる。
034 思想検事は、警察から送検されてきた思想犯容疑者に対して起訴の適否を決め、法廷で論告求刑をする経験を積み重ねた後の1930年に自立し、治安維持法の拡張解釈論理を開発し、また転向施策を主導して特高警察と肩を並べられるようになった。思想検察が佐野学や鍋山貞親を転向させた。そして拡張解釈の限界を痛感した思想検察は、治安維持法改正でも中心的役割を果たした。*
*1934年と35年の改正には失敗するが、36年には転向施策を確実にするための思想犯保護観察法の制定に関与した。
思想検察は公判廷で裁判官を凌いで主導権を握り、刑務所での行刑、例えば仮釈放などの時機の判断、保護観察や予防拘禁の運用においても、その権限は強大だった。彼らも「天皇の検察官」を自負し、特高警察と競合して検察主導の「思想戦」を目指したが、圧倒的な人員を誇る特高警察を指揮することは困難だった。
治安維持法の制定・拡張――1930年代末までの国内の場合――
1922年の過激社会運動取締法案は、ロシア革命による共産主義思想・運動の流入を阻止するために立案されたが、条文の曖昧さを突く議会内外の大きな反対運動が起こって廃案となった。また1923年の関東大震災後の「治安維持令」は大地震後のどさくさに紛れて緊急勅令で制定したが、使い勝手が悪く、本格的な治安立法が望まれた。それを受けて1925年4月、法益を「国体」変革と「私有財産制度」否認を目的とする結社の処罰に絞ったとされる治安維持法案が提出され、まだ反対運動があったが、成立にこぎつけた。これは普通選挙法の成立と日ソ国交の成立の動きと関連していた。
国内における治安維持法の最初の適用は、1926年の京都学連(学生社会科学連合会)事件である。第一条の結社行為ではなく、第二条の実行協議行為が問われたように、反対運動を考慮して慎重な運用だった。しかし、非合法下の日本共産党への全国的大弾圧である1928年の三・一五事件で、治安維持法の発動が本格化した。緊急勅令による「改正」によって「国体」変革行為の最高刑を10年から死刑に引き上げるとともに、目的遂行罪を導入した。「死刑」への引き上げは、「国体」に歯向かうことが重罪であるという意識を社会に植えつけた。
036 目的遂行罪によって、共産党の国体変革という目的の遂行に資したと当局がみなせば、労働組合、救援会、プロレタリア文化運動などが取締りと処罰の対象となった。そのため検挙者数が増え、1931年には1万人を超えた。また転向への誘導もなされた。
こうして治安維持法の威力を充分に認識した特高警察や思想検察は、その最大限の活用を図っていった。内務官僚の木下英一は『特高法令の新研究』1932の中で、「至れり尽くせりの此の重要法令」と呼び、「法の蔵する弾力性を筒一杯活用し、以て社会運動に節度を与えてその健全な発達を促し、社会運動の目途する社会変化に秩序あらしめねばならぬ」としている。社会運動の存在は認められても、それは当局にとって都合の良い「健全」で「秩序」あるものに封じ込められた。
取締り側は1935年ごろには共産党の組織的な運動を壊滅させ、1930年代後半からは社会民主主義に標的を広げ、自由主義、民主主義への抑圧と取締りを強めて行った。さらなる拡張運用の展開は大審院(現在の最高裁)の判例によって加速された。例えば1938年11月、「具体的には何ら結社と関係なく、また結社の目的と関係なきもの」も、コミンテルンや共産党がどういうものかを知悉していれば、「同党の拡大強化を図らん」としたものと認定された。さらに1940年9月の判決では「結局において」ないし「窮極において」という論理を用いて、どのようなものでも治安維持法の目的遂行罪が適用され、処罰されていった。
前述の「法の弾力性」を一歩進めて、1930年代後半には次のような取締り観を特高警察はもつようになった。以下は大阪府特高課の「最近に於ける共産主義運動の動向とその危険性」*による。
*『特高警察関係資料集成』第五巻1937年3月所収
「共産主義運動の取締に当たりては、日独防共協定締結の趣旨をも考慮し、国家的大乗的見地に立ち、更に一層積極的熱意を以て査察内定に努め、取締の徹底を期し、些々たる法的技術に捉われず、現存法規の全的活用を図り、法の精神を掬(く)みて、其の適用を強化拡張し、苟も共産主義を基調とする運動なるを確認するに於ては、非合法は勿論、仮令表面合法たりとも仮借なく断乎制圧を加え、以て斯の種運動を我国より一掃せんことを期すべきなり」
038 1936年9月、思想検事主宰の神戸地裁管内の警察署特高主任会議で、某特高主任は「現下の社会情勢に照らし、思想犯罪の捜査、検挙、取調等に付いては、総て必要なる限度に於いて、従来の慣習を踏襲することは已むを得ざるものと被認(みとめられる)」と答申した。日中戦争前夜の情勢では、「従来の慣習」として日常茶飯事化していた拷問を含む取調べは「已むを得ざる」ものとしてその違法性は無視された。思想検事もそれを黙認したと思われる。
治安維持法違反の検挙者中に占める起訴割合も上昇し、1937年には16%だったが、39年には54%になった。これは銃後の治安確保が最優先された結果であり、30年代前半なら起訴猶予や執行猶予付き有罪とされた「犯罪」行為は、30年代後半には起訴猶予が起訴に、執行猶予付きは執行猶予がつかない実刑判決になった。
1930年代後半、治安維持法の適用は「国体」にまつろわない(服従しない)とされた民衆宗教や創唱宗教(人に先駆けて唱える)、無協会派キリスト教にも広がった。
国外における治安維持法の運用
039 戦前の日本が植民地とした朝鮮、台湾、樺太、租借地の「関東州」、第一次世界大戦後にドイツから奪い取った南洋諸島でも、治安維持法をはじめ様々な治安法規が適用・運用された。国内において小林多喜二のような拷問致死は多数あったが、治安維持法裁判による判決では死刑はなく*、無期懲役が最も重いものだった。おそらく日本人故に、いつの日にか回心して真の日本人に立ち返るという考えがあったと推測される。
*ゾルゲ事件の死刑判決は、「国防保安法」の適用である。
ところが民族独立運動への見せしめとして、朝鮮では治安維持法による死刑判決があった。朝鮮近代史研究者の水野直樹*1によれば、1930年10月の第五次朝鮮共産党事件の被告で、朝鮮共産党の満洲総局に加盟し、併せて中国共産党にも加入したとして、治安維持法だけで死刑判決が下されたとし、騒擾や放火*2などの併合罪による死刑判決は、約20件、48人にのぼるとされる。水野は「朝鮮における独立運動、共産主義運動が武装闘争の色合いを帯びることが多く、それを抑えるために日本当局が強硬な手段をとり、厳しく処罰することになった」とする。
*1 水野茂樹は、朝鮮における治安維持法の植民地的特徴として、勅令による施行、植民地独立を目的とする運動への適用、中国で活動する朝鮮人(帝国臣民)への適用、重い量刑と多くの死刑判決、転向基準の厳重さ、「大和塾」という保護観察所、そして予防拘禁制度の先行実施などを指摘する。(「治安維持法による死刑判決―朝鮮における弾圧の実態」、『治安維持法と現代』2014年秋季号)
*2 警察署を焼き討ちした場合など。
040 朝鮮においては日本国内よりも(1年)早く、1925年中に、朝鮮共産党に対する弾圧に、治安維持法が発動された。さらに満洲における朝鮮民族独立運動の本拠地とされた間島(かんど)*1では、1925年8月の電挙団事件で、治安維持法の最初の発動がなされた形跡がある。これは外務省警察の間島総領事館警察署によるものである。間島の龍井村の学生たちが、「我らは現社会の不合理なる一切の制度を破壊し、大衆本位なる歴史的必然の新社会建設を目標とする」という綱領をもつ電挙団を組織し、朝鮮独立と共産主義に関する宣伝文を撒いたとして、16人が検挙され、4人が訴追された。この4人が治安維持法の第一号の適用と思われる。*2
*1 現在の中国・延辺朝鮮族自治州
*2 間島警察部長で外務省警察の中心人物だった末松吉次は、翌1926年に「国体を変革し、又は私有財産制を否認することを目的として結社を組織し、又はこの目的を以て騒擾暴行せんとする犯罪を扇動した者に対しては治安維持法の実施により、根拠ある取締りを為し得る」と、法的な手掛かりができたと言っている。(『外務省警察史』復刻版第二三号)
遼東半島の付け根部分の「関東州」は租借地であり、実質的に植民地であるが、ここでも治安維持法が適用された。1927年7月、大連で中国共産党の弾圧に使われた。日本統治下の関東州で、中国共産党が「秘密結社を組織し、私有財産制度を否認し、社会組織を変革し、一切の政権を労働者農民等の手に収めんとし」たとして、大連の共産党地方委員会書記ら17人を検挙し、重いものには禁錮10年の判決を下した。
041 日本は1931年9月18日、満州事変(柳条湖事件)を起こし、一挙に中国東北部を占領し、翌年満州国をつくったが、これに対して激しい反満抗日運動が起こった。増強された関東軍はその鎮圧に躍起になり、1932年9月、満州国に「暫行懲治叛徒法」と「暫行懲治盗匪法」という二つの治安法を施行した。前者の「叛徒法」は「国憲を紊乱し、国家存立の基礎を急殆(きゅうたい)もしくは衰退せしむる目的をもって結社を組織したる者」を処刑し、「首魁は死刑」とすると規定した。
1938年、日本の三・一五事件にちなんで、あえて3月15日に行われた関東憲兵隊による弾圧では、中国共産党員と抗日工作員300人以上が、「叛徒法」違反で検挙され、89人が有罪とされ、そのうち5人が死刑とされた。また、5人が細菌戦研究の人体実験用「マルタ」としてハルビン郊外の七三一部隊に送られた。*
*チャムス憲兵隊富錦分隊成井昇の撫順戦犯管理所での供述
042 「暫行懲治叛徒法」よりも「暫行懲治盗匪法」の方が、武力討伐の一環として、多くのゲリラ活動を鎮圧するうえで手っ取り早く使われた。「暫行懲治叛徒法」は形式的ながら裁判という手続きをとるのに対して、「暫行懲治盗匪法」には、「臨陣格殺」と「裁量措置」という規定が盛り込まれ、最高指揮官による現地での緊急措置として、即決処分で銃殺を行うことを可能にした。これが猛威を振るった。
思想憲兵
憲兵は軍隊内の軍紀・風紀の取締りという軍事警察を担当するとされるが、創設当初から国民の生活を干渉した。
憲兵は1881年に創立されたが、1884年の秩父事件など、自由民権運動激化事件を鎮圧・弾圧し、1890年代の1892年、高知県・佐賀県などでの初期議会期の選挙を取り締まり、日露戦争後は、1905年の日比谷焼き討ち事件や1918年の米騒動など、都市民衆の騒擾を鎮圧し、軍隊を背景として強力な治安機能を発揮した。
1920年代からは思想警察的機能を備え、1928年には思想憲兵を創設し、主要な憲兵隊に特高課を置いた。思想憲兵は「主として軍の存立、安寧秩序に影響を及ぼす社会運動」*、即ち反戦反軍の運動・思想、それにかかわる社会情勢一般や人心の動向を対象とし、軍事警察の概念を拡張して、抑圧と取締りに加わって行った。しかし社会運動・思想の現状認識や情報収集能力、具体的弾圧の経験とノウハウの蓄積では特高警察の後塵を拝し、1930年代を通じて国内の社会運動の抑圧と取締りの主役は特高だった。
*陸軍憲兵学校『憲兵実務教程(高等警察)案』1937
043 1930年代後半以降、憲兵は戦争遂行体制の確立に向けて、防諜と治安確保を掲げ、民心の監視と抑圧の役割を担うようになり、それと同時に国内では憲兵全体が思想憲兵の性格を強めていった。
1937年3月、憲兵練習所作成『憲兵実務教程(警備)』の「緒言」に、
「国民思想の変易は国家観念に動揺を来たし、一面権力蔑視の風潮を生じ、社会生活の不安は理性を失い、自暴的気風を呼び、ともに排他的雷同的にして、時に臨み多衆の勢を用いて過激に事を為さんとするが如き、公共の安寧・静謐(ひつ)を脅かし、国家の隆運を阻害するの虞(おそれ)多きに至れり」
とし、憲兵は平素から社会各方面に関心を向け、「情勢の機微を洞察」しなければならないとし、「警備上顧慮すべき社会情勢」の第一は、もはや「要視察要注意人の状況」ではなく、「地方住民の経済及び思想状況」だった。
044 前述027の改正軍機保護法の運用を担ったのは、特高警察とともに憲兵だった。1940年12月、憲兵司令部本部長の各憲兵隊への通牒「憲兵の防諜措置を適正ならしむべき件」には「最近憲兵が実施しつつある防諜関係法規の解釈並びにその指導要領において、往々にして適切を欠くものあるにつき、徒に民心を委縮せしめざる様」という注意がなされ、2年半ほどの運用状況を概括して次のような状況を指摘した。
「各隊における実情を見るにややもすれば法規、通牒の趣旨の把握十分ならざるため、その解釈取り扱い妥当を欠き、不必要に民業を圧迫し、行き過ぎのかたちとなりて現われあり…かくのごときは徒に産業、貿易の振興、生産拡充を阻害し、文化の発展、銃後援護事業等に支障を来さしめ、現下の国策に沿わざる結果となり、延(ひ)いては憲兵の威信を失墜し、国民をして防諜の真の意義を誤解せしむるに至るの虞なしとせず。」
045 このように憲兵中枢にとって各憲兵隊による軍機保護法や陸軍刑法などの防諜法令運用の実態は、解釈に妥当性を欠き、行き過ぎと認識された。ところが憲兵司令部は1941年8月、再び通牒を発し、「最近各隊における軍機保護法違反事件…処理の実情を観るに、…苛察に流れ、或いは其の処置適正を欠くもの少なからず」とするとともに、警察による「誤りたる法規運用が、反軍思想の淵由とならざるよう注意せられたし」と釘を打たざるを得なかった。*これは防諜を名として憲兵が国民生活の隅々まで監視の目を光らせ、自らが「苛察」と認めるほど、些細な流言蜚語などが取り締まられていたことを示している。
*『憲兵令達集』第二巻、防衛研究所図書館所蔵
1940年5月、憲兵司令部の憲兵少佐緒方泉は「最近の国内思想情勢」(『偕行社記事』)「緒言」でこう語っている。
「銃後の治安は表面平静を保ちつつあるも、事変の長期にわたるに従い、国内経済の統制は益々強化され、ある種の産業は特に殷賑を極めるに反し、他方一部の平和産業は不振を来たし、中小商工業者の転業失業、或いは物価騰貴により、銃後の国民生活は不安を生じ、その状漸次顕著ならんとする実情である。
故に今後共産主義者、その他の詭激思想を抱懐する徒輩においては、かかる社会情勢の不安増大せんとする趨勢を利用し、不逞の企図を遂げんがため、反戦反軍思想を醸成すべく策動し、或いは国家の機密を探知蒐集すべく暗躍する等、不祥事惹起の虞あるに鑑み、当局における対策の宜しきを得べきは勿論であるが、国民自ら益々堅忍持久、銃後の完璧を期するとともに、各自日本精神を堅持し、一致団結万難を排して聖戦貫徹に邁進するの覚悟を新たにするよう、愈々切なるものがあるのである」
046 戦争の長期化とともに「共産主義運動」への警戒が再び高まるなかで、「社会状勢の不安増大せんとする趨勢」となった。その点からも社会不安を除去しなければならず、戦争遂行のために「国民思想を訓練」し、統制することが急務であり、それを実行させる重要な役割を憲兵は担っていると考えるようになった。
思想憲兵は国内以上に、朝鮮における独立運動の取締りや、「満州国」における反満抗日運動の取締りに本領を発揮した。
043 挿画 若い女性による陸軍自動車学校生徒への「左翼文」の手渡し(憲兵司令部「軍隊(軍工場)内細胞組織及策動概見表」、『季刊現代史』第4号、1974年)
学生主事・生徒主事の配置
047 三・一五事件の検挙者の中に学生が多く含まれていたため、文部省は学生運動の抑圧・取締りに乗り出し、1928年、学生課を新設し、翌1929年、学生課を学生部に格上げした。そして学生部学生課長には、各県の特高課長や外事課長を歴任した内務官僚を出向させた。中学校や小学校の教員の中にも思想運動の影響が広がると、1934年、学生部は学生局に格上げされた。
官立の大学と高校には、教員や事務職員の中から、大学には学生主事を、高校などには生徒主事を配置した。「思想善導」策が実施される一方で、1933年ごろまでには警察的機能が優先され、停学や退学処分が頻発し、復学を条件にした転向への誘導や監視が重視された。
1930年代半ばから学生主事・生徒主事は思想動員・教学錬成の主導者となるとともに、学生生徒・教員の思想動向を探知した。1935年の天皇機関説事件では、各大学の憲法講座担当の学説が調査された。
教学錬成
048 天皇機関説事件への対応を契機に、国体明徴と教学刷新が為政者層を通じたスローガンとなり、岡田啓介内閣の下に1935年11月、教学刷新評議会が設置され、会長に松田源治文相が就き、委員には各帝国大学総長や内務・司法・陸海軍各次官が並んだ。答申原案の作成の中心となった幹事の伊藤延吉思想局長は、「国体・日本精神に基づく教育的・学問的創造のため」という観点から、「精神諸学」を中心とする学問研究と、あらゆる教育領域における刷新を推進した。1936年10月の「教学刷新に関する答申」の中で、「学校を以て国体に基づく修練の施設たらしめ」「真の日本人錬成の教育」*とする方向が明示され、数年後に小学校は国民学校に転換されることになった。
*掛川トミ子『現代史資料42 思想統制』みすず書房1977
1932年に設置された国民精神文化研究所は、転向学生を収容し、師範学校や中学校の教員の再教育に成果をあげたが、マルキシズムに対抗する「国民精神文化」の理念を樹立できなかった。それでも1930年代後半以降は国体明徴の波に乗り、人文科学中心だった研究部は、法学、政治学、芸術、自然科学にも拡張され、「皇道の闡明(せんめい)、皇道信念の確立」*が目指された。
*教学局編『第八十一回帝国議会説明資料』1942年8月、『文部省思想統制関係資料集成』第四巻
049 1937年7月、教学刷新評議会048の答申を受けて思想局が教学局(外局)に拡充されたが、これは国体の本義に基づく教学の刷新・振興が重視されていたことを物語る。*1教学局の向かうところは共産主義思想の芟除(さんじょ、取り除く)と、共産主義運動の温床ともいうべき個人主義とこれに胚胎する諸思想の排撃、そして日本精神を根本とし、実践に重きを置き、国民的性格の涵養に力を注ぐこと=錬成教育にあった。*2
*1 ただしその後の教学局は「不振」だった。
*2 教学局初代長官・菊池豊三郎「年頭所感」、『文部時報』1938年1月
この個人主義思想の排撃がエスカレートするあり様は、1941年3月の教学局「教育関係における最近の左翼思想運動」*1にうかがえる。そこでは「国民の一部、殊に学生、知識階級中に浸潤せる唯物主義乃至自由主義的思想傾向は、容易に払拭しがたきもの」があり、「文化運動においても、今までと異なり、殆どマルキシズムの本体を現さないくらいにその調子を下げ、或いはヒューマニズム運動、シュール・レアリズム等の線に沿って益々巧妙に且つ広範なる運動に向かってきている」*2とする。
*1 『思想研究』第11輯、1941年3月、『文部省思想統制関係資料集成』第六巻
*2 例えば、サルバドール・ダリの絵画「記憶の固執」について、「完全に充足される世界は、この正統シュールレアリストにとって、完全に人間性が解放されるべき「コンミュニズム」の社会でなければならぬ」と解釈する。(文部省教学局『極秘 思想情報』第三〇号、1942年9月、文部省思想統制関係資料集成)第七巻)
本書52頁に掲載された、ダリのこの絵画「記憶の固執」に関する1942年当時の文部省の極秘の解説文は判読しにくいが、判読すると以下の通りである。
「記憶の固執(原画、ダリ筆) 図解説
ダリの絵画は、彼自身言うように、凡て非合法的な心象を最も厳格な精密さを以て表出することにある。想像的な非合理の世界は、現象的現実の外部的世界に比べて決して劣らない、客観的な密度を持つものであると云う理念。従ってその「象徴」は芸術的には最早、ある何者か比喩的に暗示するという間接的な性質のものでなく、ダリによれば、食べられる「チーズ」と同様な客観的存在であり、「チーズ」そのものの如く、リアリテイを持つものであって、一切の分析力を侮蔑拒否するような客観性が、ダリの芸術の特異性である。
このような現象が真に分析されるのには、現在未だ存在していない「精神病理学の物理学」とでもいうべきものが必要だと言っている。
しかしこの絵を現実に見る者が(は)、自ら(おのずから)其処に現実との連関なしに見過ごすことはできない。この意味でダリの「記憶の固執」と題する作品を観察するならば、だらりと垂れ下がった懐中時計は、先ず吾々の常識的な空間と時間の観念を顛倒し、不安の極致を感ぜしめるものである。
しかも荒涼たる場所とその無限の水平線はこの不安を一層助長しつつ、人間の無限の欲望を象徴している。地面に横たわる奇異な生物、即ち人間の顔と同時に胎児かオタマジャクシを想わせる対象は、「不完全な人間性」「抑圧された人間性」の象徴の如く感ぜられる。
また一個の時計の側に群がる蟻の群れは苛立たしさ、むず痒さ等の如き欲望を刺激する感覚の象徴である。
このようにダリの絵画を合理的に考える場合、「人間の欲望」が全主題となっており、しかもこの欲望が一層抑圧され、矛盾に満ちた現実の世界においては、かかる矛盾と非合理と不安とを描いた絵画は、一層この人間的欲望の切実さを感ぜしめるものである。
要するにダリの絵画を現実の思想性、政治性という観点からみれば、それが性的欲望の抑圧であれ、また如何なる欲望の抑圧であれ、それが完全に充足される世界は、この正統シュールレアリストにとって、完全に人間性が解放されるべき「コンミュニズム」の社会でなければならぬとするのである。」
感想 当時の文部省関係者はよくこの絵画を見ている。この絵画の解説文があったのかもしれない。しかし最後でいきなりこの絵画と政治とを結びつけているが、唐突な感じを受ける。またこの解説文から推量されるように、ダリ自身がこの絵画と共産主義との親和性について語っているのかもしれない。
050 錬成教育は地方国民精神文化講習会*や日本文化講習会や大学・高校などの日本文化講義などを通じて行われた。東京市教育局長として迎えられた皆川治広は、東京控訴院長や司法次官を歴任し、転向学生のための施設を主宰していたが、1940年の錬成講習で次のように語った。*
*『東京市錬成教育の概況』1941、『文部省思想統制関係資料集成』第10巻
「国民学校の進むべき道は、未だ草や木に蔽われているの観がある。之を伐(き)り開いて皇国の進むべき大道たらしむるには、教師自身が真に皇国の進むべき道を確認し、確固たる国家観、人生観を把握して日に進み日に新たなる創造発展の教育実践をせねばならぬ。皇国の道は即ち惟神(かんながら)の大道である。今や我々は神前に叩頭(ぬかづ)いて、己を去り、天地と一如となって、恩を神武天皇肇国の古(いにしえ)に馳せ、惟神の精神を体現せねばならぬのである。単なる紙上の知識や、一席の講義では之を真に自我のものとして実践力たらしめる力のないことは、過去の教育が実証している処である。」
講義は全東京市1万7千人の小学校教員を対象に、二泊三日の塾的鍛錬を中心に行われた。午前中の「始禊祭」(しけいさい、禊はみそぎ)から始まり、午後の禊行・体操行など、夕食後の「拝神行」という日程で、食事も清掃も行として行われた。講習終了後は「各自身も心も清らかに、足音も高く家路に急ぐのである」*
*『東京市錬成教育の概況』
文部省編纂『国体の本義』と教学局編纂『臣民の道』は、国民精神涵養の聖典として位置づけられ、国民の必読書とされた。1937年3月刊行の『国体の本義』編纂の目的は「正しき日本精神の体現と新しき教学の確立とに進ましめる」*1こととされ、累計190万部*2が刊行された。1941年7月、『臣民の道』が、思想の帰一化をさらに押し進め、国民生活のあらゆる領域・場面での実践を不可欠として編纂された。発行部数は250部以上に達した。
*1 文部省の各大学への送付状
*2 内閣印刷局版、1943年3月
『臣民の道』は『国体の本義』の註釈篇ないし姉妹書という位置づけがなされたが、4年間という刊行の時差は、内容において大きな相違をもたらした。『国体の本義』は「我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化(じゅんか)し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献する」としたが、『臣民の道』では「我が国民生活の各般に於いて根強く浸潤せる欧米思想の弊を芟除(さんじょ、取り除く)」することを必須とし、それらを「自我功利の思想」と全面否定している。
情報統制
053 国家権力による情報の統制・操作は、1936年の情報委員会の設置に始まったが、その委員長は内閣書記官長が勤めた。この情報委員会は翌1937年に内閣情報部に拡充され、国民を戦争に協力させ、動員するために、国家目的に即して統制された情報が大量に発信された。国民に向けた啓発宣伝が大きな任務であった。
1936年10月に『週報』が創刊されたのがその始まりで、その最大時の発行部数は150万部、定価5銭であった。内閣情報部時代(1937年~1940年)の『週報』は、その重点を「内外情勢の解明と、国内諸施策の具体的指導」に重点を置き、特に「食糧増産、防空等、国民生活に関係深い問題について」は特輯号を発行した。*
*『戦前の情報機構要覧』、『言論統制文献資料集成』第20巻
また『写真週報』は写真と平易な文章による啓蒙宣伝を目的としたもので、『週報』の大衆版の役割を持ち、内閣情報部から1938年2月に創刊された。定価は10銭で『アサヒグラフ』などを圧倒し、最大50万部が発行された。またこれは後に隣組などで回覧されるようになった。
054 情報発信の重要性を認識した政府は、1940年12月、さらに「国策遂行の基礎たる事項に関する情報蒐集、報道及啓発宣伝」(「情報局官制」第一条)を掲げた情報局へと拡充した。これは(1940年)8月の「内閣情報部の機構を改め、外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部、及び内務省警保局図書課の事務等を統合し、情報並びに啓発宣伝の統一及び敏活を期すること」(「公文類聚」)という閣議決定を受けたもので、内閣情報部の拡充を軸に、関係各省の情報機能を一元的に統合しようとするものだった。*
*この時点(1940年8月の閣議決定時点)では「内閣情報局」と称され、長も勅任の長官の予定だったが、より強力で権威ある機関が求められた結果、企画院や興亜院並みの親任の総裁を長とする情報局として発足した。
ただし情報委員会から情報局まで一貫して自らが情報収集に当たる仕組はもたず、各省と地方から提出される情報に依存し、業務の中心は検閲や情報操作を含む情報統制であった。情報局第四部第一課は内務省警保局検閲課を包含し、検閲課長が第一課長を兼ね、検閲課員の多くは情報官を兼務した。
055 出版社には事前に編集企画案や予定執筆者名の提出を義務付け、さらに用紙統制を駆使して編集権への介入も始めた。1941年ごろ、新聞社政治部長の検閲事務打ち合わせ会、総合雑誌編輯長懇談会のほか、総合雑誌『中央公論』や『改造』との個別の「連絡会議」も恒常的に開催された。
感想 徹底した情報検閲だ。
経済警察
1938年4月の国家総動員法公布に伴う統制経済と連動してその造反(違反)に対する取り締まりと統制のために経済警察・経済司法の態勢が整備された。1938年7月末、警保局に経済保安課が、8月上旬、各府県警察部に経済保安課或いは経済保安係(特高課内)が設置された。経済警察が治安体制の一翼を占めることは、その任務に就いての内務次官通牒「重且大にして、その運用の適否は直ちに一般国民生活及び国民思想に極めて大なる影響を及ぼす」*とすることからも明らかである。
*谷口寛「経済警察の整備とその後の状況」、『警察協会雑誌』1938年10月
056 経済警察始動時の各道府県の予定人員は合計1440人だったが、統制経済の進展に伴って急速に拡充され、1941年2月、警視庁の経済保安課が経済保安部に昇格した。1938年の経済警察創設から1941年8月末までの取締り総件数は145万件で、このうち1割弱の悪質重大犯が検事局に送られ、全体の8割弱は物価関連の違反であった。*経済警察発足1年後の1939年に、専任の経済係判事・経済係検事が、主要な地方裁判所・検事局に配置された。
*警保局「警保局所管事務の概況」1941年10月、『特高警察関係資料集成』第35巻
経済犯罪に対する取り締まり方針は、当初は温情主義で慎重に臨んだが、1939年2月以降経済犯罪が増加し、闇取引が増加し、再犯者が出現し始めると、厳罰方針に変化した。国家総動員法に基づく価格等統制令の施行(いわゆる九・一八ストップ令)は国民生活を直撃し、経済犯罪の検事局受理数は、1940年全体で、12万7千余名となり、1939年の4倍以上となった。この状況に対して当局は「このままにして推移せんか(すれば)、法令の威信を損傷し、延(ひ)いて国民生活の不安を醸成し、統制経済本来の使命を全うすることを得ざる」*という本末転倒な状況に対する危機感を募らせた。1941年の件数はやや減少したが、対米英戦切迫を一因に増加に転じ、物資配給・買いだめや国民徴用などに関する「流言蜚語」も増加した。
*検事正宛検事総長通牒、1940年4月6日、寺西博「統制経済法規違反事件に関する研究」、『司法研究』第29輯2、1941年
外務省警察
057 日本が植民地を領有し、傀儡国家満州国を作り上げる過程で、統治のための治安体制の整備は重要かつ急務だった。日本は日清戦争後の台湾領有の過程での反対運動の鎮圧や、日露戦争後の朝鮮植民地化の過程での独立運動を鎮圧した。
戦前は外務省警察(領事館警察)があり、外務省自身が国外に警察機関を持ち、特に1930年代は、憲兵や警察・司法と共に治安体制の一翼を担った。
日本は日清戦争勝利後、不平等条約を強いた中国に対して、1896年以来外務省警察を配置した。1930年以前は、特高警察的観点から焦点となった上海を除き、外務省警察の主力は満洲、特に間島におかれた。在留日本人の保護と取締りを名目にして、領事裁判権を根拠にし、強引に領事警察権を主張し、中国側の抗議をかわし、警察官の配置を既成事実化していった。警察署は領事館や分室に置かれるだけでなく、警察官だけの分署や派出所も各地に設置され、領事館機能を肩代わりした。1910年代半ばからは満洲での不逞鮮人の取締りに比重を移した。
058 1937年、在満外務省警察官を満洲国に移譲する記念として編纂された写真帖『警華帖』に、外務省人事課長松本俊一は以下のような緒言を寄せた。「過去30余年間、在留邦人保護のため、共匪馬賊の検挙討伐は勿論、殆ど軍人と同様、幾多の事変に敢然銃砲を執りて立ち、国策の第一線に輝かしき功績を重ねて来た」*この一節は満州における外務省警察の実相をよく伝えている。
*『外務省警察史』復刻版第六巻
しかし、外務省警察は、軽機関銃などで武装するとはいえ、圧倒的な軍事力を持つ関東軍の補完的な存在にすぎず、本来の役割と自認する特高警察機能に立ち返ろうとした。「昭和10年1935年関東軍秋季治安粛清計画に基づく在満外務省警察行動要綱」は「思想対策計画の実施」を重視すべきとし、その留意点の第一に、「特に共産匪及び反満抗日分子(特に鮮人)の根本的芟除(さんじょ)を目的とする諜報及び捜索・検挙に万全を期するを要す」(同前第九巻)とした。1937年11月末、治外法権の撤廃により、在満洲外務省警察官約1400人の大半は満州国警察官に転官となった。
1930年代前半の中国関内*の外務省警察の主な役割は、在留邦人の保護取締りと権益の擁護だったが、1937年に日中戦争が全面化すると、陣容を急拡大し、軍事行動への直接支援や自らも戦闘に参加した。しかし、1938年春以降は、後方の治安確保に重点を移し、警戒や取り締まりの主対象は、抗日運動や中国民衆の動静そのものだった。そしてこの機能をより効果的にするために1938年6月、天津警察部を拡充し、「北支警務部」を北京に、1939年10月には、「中支警務部」を上海に創設した。いずれも中心は第二課=特高課であり、「一、防共、防諜及び警察情報に関する事項、二、治安及び宣撫に関する事項、三、(略)、四、抗日、反満運動に関する事項」(同前第二八巻)などを担当した。
*陝西省の渭水盆地。函谷関以西の地。
中国関内の外務省警察の予算と定員は、1939年10月末は1988人だったが、1941年度の定員は2945人*1、配置箇所は105*2へと急増した。
*1 内訳は「北支」1661人、中支1000人、南支284人
*2 内訳は警務部2、警察署42、警察分署36、警察派出所25
軍隊の思想問題への関心
060 軍隊の治安機能 軍隊は憲兵とは別に思想問題に関心を寄せ、軍隊の存立基盤として社会状況を把握しようとしていた。
まず、三・一五事件を契機として、軍隊内にも「赤化」将兵が存在し、大きな衝撃を受けた。1928年6月、陸軍省は「国防上留意すべき世態の実情及び思想方面における動静に関し、必要なる資料を蒐集綜合して将校の参考に供する」ことを目的に『調査彙報』を発行した。*その第六号(1928年12月)の「在営思想要注意者の行動」には「今日の反抗は国家社会、延いて軍隊に対する反感から来ているものであって、其の根底は深く、社会的病菌――思想的病菌――は結核菌の如く何人にも吸われつつあるを知らなければならない」とある。この『調査彙報』は広く軍隊全般に配布され、思想対策の参考にされた。
*松野誠也編・解説『調査彙報』、『十五年戦争極秘資料集』補巻29
061 また師団や連隊に「思想業務取扱主任」を置くようになった。1929年7月の「第八師団(弘前)思想業務取扱要領」(密大日記)は、連隊区司令部の思想業務範囲として、在郷軍人や「要注意壮丁」「管内思想一般」などの思想状況の調査について詳細に規定していた。徴兵忌避の状況も詳細に調べられた。
もう一つ(の思想調査が活発化した時期)は1937年の日中戦争全面化の時機であり、中国戦線への出動が増大する中、1930年代後半に、「管内思想一般」に注視する必要に迫られた。留守第12師団司令部(久留米)の「昭和14年1939年下半期における管内思想情勢」(密大日記)には、「事変の長期化と物資の欠乏、物価高騰等による生活の逼迫感により、聊(いささ)か倦怠の風潮台頭し、事変の迅速なる解決を希望するのあまり、政府不信任乃至は反軍的気運の兆しを認めるは遺憾なり」とある。また1940年1月の中部防衛司令部「大阪附近一般情勢」第四号(密大日記)は「年末における市内商業界」について「戦時色の如き皆無というべく、国民精神総動員など単に掛け声のみなる情態は正に深憂に堪えず」と観測している。
海軍による沈黙の威圧
062 小林多喜二の小説『蟹工船』は、急成長した工船蟹漁業を含む北洋漁業の権益を擁護する、カムチャッカ半島沿岸を巡行する駆逐艦を描いている。多喜二は平時における経済的権益と海軍との結びつきが「帝国軍隊――財閥――国際関係――労働者」という一本の糸でつながっていることを提示した。平時における海軍の存在意義は、国益や権益の擁護という点で戦時体制とつながっている。
1924年、第一八駆逐隊は、青森県大湊要港部から出港してカムチャッカ半島西海岸の警備に当たり、帰港後に「カムチャッカ警備報告」*を提出したが、その巻一には、
*防衛研究所図書館所蔵
「国防上将又(はたまた)国益上、平時カムチャッカ方面における研究の必要なる事は、(日本がソ連の)隣接国として今茲に贅言を要せずと雖も、…来年度に於いても、尚日露問題円満に解決せざるものとせば、毎年の漁期に於ける同胞数万の生命及び数千万円の国益を保護するは、之れ吾海軍の使命にして、其の趣意に於いては支那の警備と同様なるべく、…又他日、日露問題円満解決の暁に於いても、生命財産の安固を保証すべき警察なく無武力のカムチャッカ方面には、帝国海軍の擁護無くしては到底十分なる漁業家の活躍は不可能なるべきを信じて疑わず。」
063 さらにカムチャッカ方面の資料収集と研究は「国防上及び国益上」にも重要としている。蟹以上にサケ・マスの工船漁業が盛況になると、国益は1億円以上とされ、貴重な外貨の獲得資源とされた。それは日露漁業や日本水産などの企業の利益に直結していた。*
*北洋における漁業権益の根拠は、1905年の日露戦争講和条約に規定された。この漁業権を獲得するために日露戦争が戦われたのではないが、1920年代にソ連による漁業権の回収が勢いを増すと、この漁業権は、日露戦争の戦勝と犠牲によって贖われたものだというとらえ方が一般的になった。雑誌『水産』1922年1月では「露領沿海州の漁場を獲る為に同胞十万の碧血(へきけつ)が流され、其の漁業を贖(あがな)うために数十億円の国帑(ど)が費やされた」と論じた。日露漁業株式会社社長の堤清六は、漁区をめぐる日ソ漁業交渉が難航する1926年9月、「露領漁業は義理や御情けで貰い、金銭で贖うた利権」ではなく、「国運を賭し、血涙と犠牲を払って勝ち得たる国家重大の利権」*と述べている。1930年代には、「満蒙の生命線」にならって、「北洋の生命線」と呼ばれ、その危機が叫ばれた。
*『小樽新聞』1926年9月12日付
(上述の通り)海軍は「毎年の漁期における同胞数万の生命及び数千万円の国益を保護する」ことを使命とし、それを平時における軍隊の果たすべき役割と意識していた。実際は二隻程度の駆逐艦が巡航したのだが、不法操業を監視するソ連側の警備艇は100トン程度で、1000トン以下の駆逐艦でも圧倒的な軍事的優位に立っていた。交戦は必要ではなく存在を誇示すれば足りた。
064 1931年、大湊要港部は海軍省に「北海警備に関する所見」*1を提言し、「大正時代に於いて我警備艦が時に決心の閃きを現したる時代には、一本の軍艦旗能く全カムチャッカ沿岸にその威武を発揚し、沈黙の威圧相当に其の功を奏したる」とある。また1930年代に北洋警備駆逐隊の参謀長をつとめた森徳治は自らの経験をまとめた『海のまもり』*2の中で、「国策の前駆として、また後ろ盾としての日本海軍」とした。
*1 防衛研究所図書館所蔵
*2 海事普及協会、1954年
064 軍隊の役割は武力の行使という戦争・戦闘だけでなく、平時に軍隊が存在する、あるいは基地があるということだけで重大な意味を持っていた。もともと関東軍は南満州鉄道(満鉄)の権益を確保するために配置された。満州事変に先立つ山東出兵1927—1928は、北伐による中国の国民革命の実現を阻止し、中国における日本の権益を守るためになされた。
国民の戦争支持・協力
着々と拡充されて行く治安体制によって戦争への抵抗や批判は押しつぶされたが、逆に国民自らが戦争や軍隊を支持・協力して戦争体制を支えた側面もあった。
065 小林多喜二は『蟹工船』の中で、漁夫・雑夫が帝国軍艦に対して素朴な信頼感を持っていて、ストライキを起こした際でも駆逐艦がやって来ると、「帝国軍艦万歳」と叫び、「我が帝国の軍艦だ、俺たち国民の味方だろう」「国民の味方でない帝国の軍艦、そんな理屈なんてあるはずがない」と信頼して歓迎する様を描写している。ところがストがあっという間に鎮圧され、リーダーが拘引されてようやく一本の糸つまり「帝国軍隊―財閥―国際関係」によって労働者が裏切られたと悟るのだが。
066 また小林多喜二は『不在地主』1929年の中で、北海道S村での軍隊の機動演習での軍隊と農民との関係を描いているが、第一次世界大戦のときの対ドイツ戦で、中国の青島で右手を負傷した在郷軍人が言う「やっぱり兵隊って、ええものだね。――ラッパの音でも聞いたら、背中がゾクゾクしてくるからな」
国民の軍隊への親愛は素朴で根が深い。「戦争のこと位百姓に分からせるに面倒なことはない」*1「労働者はとにかく戦争のお蔭を蒙っていると考えていた」*2
*1 小林多喜二『沼尻村』1932年
*2 小林多喜二『党生活者』1933年
戦意は国民の戦争支持・協力を示す。愛国心・敵愾心は、戦意・士気の要素であり、それを源泉に将兵を戦場に送り出し、銃後の生活に従事し、窮迫する生活や空襲に立ち向かう。
067 1929年5月、東京憲兵隊長岩佐禄郎は、近衛第一師団団隊長会議で、「現時社会の状態を観察致しまするに、世人は稍々(やや)もすれば陸海軍に対して軍閥(だ)と攻撃し、軍閥打破等と叫ぶのであります」(「公文備考」)このころは大正デモクラシーの余塵が残り、満州事変以前には、軍部への批判的雰囲気がただよっていた。
ところが1931年9月18日の柳条湖事件直後、民衆は「異口同音、暴戻支那を徹底的に膺懲(ようちょう)*1し、満蒙の特殊権益を確保せよ」*2と強硬意見を吐露するようになった。
*1 征伐して懲らしめる
*2 憲兵司令官「満州事件に対する反響内査の件報告」1931年9月23日、『資料日本現代史』第八巻、大月書店、1983年
急高騰した戦意は1934年ごろに落ち着くが、沈静化した世論に刺激を与えようと、1935年前後に、日本の国際的孤立を強調する「非常時」が高唱されたが、このころは社会の底流に軍部に対する批判的気運がまだあった。また陸軍青年将校による二・二六事件は、軍部への国民の不信感を増大させた。
しかし1937年7月7日、盧溝橋事件を発端とする日中戦争は、一挙に「戦意」を沸騰させ、久留米の第一二師団司令部留守部は「管下一般は渾然一体となり、挙国一致の真の姿を顕現しつつあり」*とする。
*7月19日「北支事変に関し、団下及び管内一般状勢の件」、「密大日記」
それまでの「国内の相克的気運、特に濃厚なりし反軍なりし反軍的風潮は、日支事変の勃発により、挙国一体の良気運に転進」*した。
*1938年2月、第一二師団司令部留守部「昭和12年1937年下半期に於ける管内思想情勢」同前
068 北支事変から支那事変へ急拡大するなかで、戦意は高い水準で維持されていたが、次第に戦死者の増加や増税など日常生活圧迫を理由に、戦争を批判し忌避する声が上がった。経済的恩恵にあずかる上層階級の戦意は旺盛だったが、中流以下の民衆は、経済の不振や生活の窮迫に直面し、戦意を低下させた。
日中戦争が1年を経過すると、戦意は高騰状態の維持と、低調傾向の表面化という二様を呈した。戦意の維持では1938年下半期について「一般に事変に対する認識に漸次徹底し、特に憂慮すべき具体的事象なく、おおむね順調に推移せり」*
*東部防衛司令部「昭和13年度後半期思想情勢」同前
しかしよく見ると、1938年後半からの史料に「跛行景気(釣り合いの取れない景気)に対する不平不満」という類の表現が頻出するが、それは社会の底流に、戦争長期化にともなう歪みや矛盾の拡大から、戦争継続への倦怠感や怨嗟が広がりつつあることを反映している。帰還将兵の言動や応召遺家族の生活・風紀問題が焦点となった。
1940年から41年の対米英戦までは次第に戦争倦怠・厭戦気分が高まり戦意は漸減し、平和待望的気運が醸成された。愛媛県の「昭和十五年県政事務引き継ぎ書」*は「事変に対する楽観乃至倦怠感は、銃後精神の弛緩的傾向を生じ、憂慮すべき状態にありたる」としている。
*『愛媛県史』資料編・近代4、1982年
069 この頁の戦意過程図が示すように、満州事変後と日中戦争全面化後に戦意は急騰した。その戦意の度合を70%程度、80%程度としたのは目安である。そしてその時点ではまだ少数派ながらも反戦反軍運動が展開されていた。
1940年前後の生徒の戦意調査
「思想動向調査」は総力戦下における効果的な思想指導の手がかりとされ、各府県が生徒や教員を対象に実施した。国家観、戦争観、国際観、時局観、現状認識、人生観などを問い、戦意の測定に応用した。その結果は教学錬成教育の成果を示している。
070 1940年、文部省社会教育局は徴兵検査時(20歳)に2.8万人を対象に思想調査*を行った。
*文部省社会教育局『壮丁思想調査概況』1941
「諸君は支那事変についてどう考えていますか。(次の設問から一つを選び、その番号の上に〇をしなさい。)
1 事変に対する国民の覚悟がまだ十分でないように思われます。
2 何時になったら事変が終わるのかわからないので、不安に思っています。0.6%
3 こんな大事変は相当長引くものと覚悟しなければならないと思います。
4 何のために戦争をしているのか自分にははっきり判りません。0.4%
5 我等はどんなに苦しくても、戦争の目的を達するまで頑張らねばならないと思います。78.3%
調査結果講評「一切の犠牲と困苦に耐えて支那事変を遂行し、所期の目的を達成すべき決意を示した5の解答を選んでいる者が圧倒的優位を占め、全壮丁の78.3%にも達している」1、3、5の合計は96%
2は0.6%で、その評は「かかる退嬰的な(尻込みして引き下がる)青年らしからざる怯懦な態度を持つ壮丁が、なお存在することは遺憾」とする。4は0.4%で、その評は「全く国民としての自覚を忘却している非国民的な態度」とした。
071 静岡県は1940年2月、師範学校、中学校、実業学校、高等女学校、青年学校、青年学校教員養成所など27校の上級生徒3044人に対して、匿名、自由記述で、「国体意識、時局認識、時局下生徒としての覚悟等」*という調査を行った。
*『文部省思想統制関係資料集成』第10巻
設問「東亜新秩序の建設とはどんなになることか。
・日本を盟主とする日満支一体関係の樹立 41%
・日満支一体の東洋平和、延いては世界平和 30%
・東洋人の東洋たらしむること 20%
1941年7月、埼玉県思想対策研究会が青年層思想調査*を行った。青年学校、中等学校上級生4339人を対象に、農村、都市、工場青年、学校青年、また県の東西南北の四地区別に無記名で行った。
*『埼玉県青年層思想対策報告』1941年8月
「第一問 聖戦既に四年、この間我が国内や世界の状勢にも大分変化があったが、諸君の気持や考え方にも相当変化があるであろう。自分の気持がどういう風に変わっているかを反省し、次の諸例の中で、自分の気持に最も近いと思うものを一つ選び、その番号の上に〇をつけよ。
1、段々冷静になり、吾々は自分の銃後の務めを全うしなければならぬと考えるようになった。堅実
2、国の前途を憂えるようになり、一生懸命国家に尽くさねばならぬと思うようになった。堅実
3、初め皇軍の連勝に血湧き肉躍る思いがしたが、段々別に感情も湧かなくなった。不堅実
4、新体制に協力し、大いに頑張らねばならぬと思う。堅実
5、初め有頂天になって喜んだが、段々元気がなくなり、不安になって来た。不堅実
6、早く事変が済んで、又前のような自由な時代が早く来ればいいと思う。不堅実
7、此の際吾々の生活を切り詰めて、一層国防を強化しなければならぬと考えるに至った。堅実
8、段々吾々の生活が困難になって来て苦しいと思うようになって来た。不堅実
結果は、「堅実」とされる7が最大、次が4、そして7と4の合計が3/4を占めた。
「不堅実」とされる6を76人(1.7%)が選び、これは「不堅実」とされる中では一番多く、次は3の58人(1.3%)だった。
全体の講評は「全調査人員の96%が、現在の我が国青年として堅実にして積極的なる思想の所有者であり、約9%が不堅実なる意識の抱懐者であるか、或いは少なくとも、その意識に消極的な点や不鮮明な点を含む」とした。県文教当局にとって、この約1割の「不堅実」者の処置と、「堅実」者中の4割強の「積極的なる意識」を持たない層への働きかけが新たな課題となった。
第二章 戦時体制の展開と崩壊――どのように治安体制はアジア太平洋戦争を可能にしたのか
074 アジア太平洋戦争の開戦直後、国民の戦意は99%(目安)に達し、戦勝祈願の神社参拝や提灯行列が至るところで行われた。長期化し泥沼状態に陥った日中戦争の成り行きにうんざりしていた国民は、大国アメリカとの戦いに不安は感じつつも、緒戦の大勝利に酔いしれ、南方の新たな権益獲得の機会到来と意気込んだ。その後1944年前半まで戦意は高水準で維持された。*
*荻野富士夫『「戦意」の推移――国民の戦争支持・協力』校倉書房2014
開戦の方向が固まった1941年11月2日、東条英機首相らの上奏で、開戦の名目はまだ「研究中」だった。*戦争の終結についてはドイツの攻勢による英米の休戦を待望するという他力本願であった。それは大国アメリカを敵とするうえで、全く不十分な戦略しかなく、一か八かの決戦に挑んだということを意味する。国力の全てをつぎ込む総力戦は、戦争に動員される国民に大きな負担をかけ、その無理強いと矛盾が政府・軍への批判となって噴出することを恐れた指導層は、戦争を否定視・疑問視する言動を萌芽のうちに摘み取る必要があった。
*参謀本部編『杉山メモ』原書房1967
075 アジア太平洋戦争の遂行は治安体制を一段と高め、戦争反対・批判から厭戦気分までを一掃するだけでなく、国民生活のあらゆる場面で統制と動員を図っていった。
治安体制の徹底へ
1941年12月8日の対米英開戦直後、東条英機首相は「本戦争の勝敗は一に高度国防国家体制の完成の如何に懸かる」とし、「刻下の急務」として「国民生活の確保と其の志気の昂揚」のための対策を各省に求めた*1。また1942年9月の「中国、四国ブロック特高実務研究会」で、警保局の某官僚が「昨年に比して(思想犯罪の)検挙が減って居ります。首相からも内務大臣に、今年はもうないのかと申されておる」*2と発言しているように、東条が内務省に指示していたことが分かる。
*1 「公文別録」1941年・内閣三、国立公文書館所蔵
*2 『特高警察関係資料集成』第26巻
076 1943年9月10日の閣議で東条首相は「一億の足並みを揃えて戦争に勝つ如く法律を解釈し運用して行かねばならぬ。…内務省、司法省はしっかりしなければならぬ。どうしてもだめの時にはピシリと考えねばならぬ」*1とし、さらに1944年2月、臨時司法長官会同に東条首相は異例にも出席し、「悪質なる経済犯罪は、真剣なる国民大衆の士気を阻喪せしめ、ややともすれば、厭戦思想を醸成する」として「必勝のための司法権行使」を強く迫った。*2このように東条は自ら治安当局を叱咤し、取締の厳重化を迫った。東条は一時内相を兼務したこともあるだけでなく、かつての関東憲兵隊司令官時代の子飼いの部下を憲兵司令官や東京憲兵隊長などに配置し、東条独裁の手足とした。
*1 「東条英機大将言行録(廣瀬メモ)」、伊藤隆ほか編『東条内閣総理大臣機密記録』東大出版会1990
*2 『法律新聞』1944年3月5日
1944年7月、東条内閣から小磯国昭内閣に代わり、翌月の8月、決戦体制構築のための治安対策要綱である「総動員警備要綱」が策定された。*その「治安維持」の項では、「非常事態に対処する国政一般の運用に即応し、社会人心の不安を除き、国論を統一し、政府及び陸海軍に全幅の信頼を懸けしめ」という方針の下に、「流言蜚語の取締り」「要視察人及び要注意人に対する措置」「怠業、罷業其の他重要生産阻害行為の取締り」などを列挙した。「空襲警備」と並んで「騒擾警備」の規定があるのは、米騒動的な国内騒擾が引き起こされることへの恐れを痛感しているからだ。
*『特高警察関係資料集成』第37巻
077 内務省はこの要綱に基づき、1944年10月「内務省総動員警備計画」を策定し、そこで、要視察人らに対する査察を徹底し、「進んで視察線外にある反戦、反軍其の他の不穏策動をなす虞ある者」の発見に努める、とした。
治安維持法の再改正へ
日中戦争の長期化とともに治安体制の厳重化の要請が強まり、治安維持法の再改定を実現した。特高警察は治安維持法の拡張解釈にためらわなかったが、法の厳密性を尊ぶとされる司法官僚は拡張解釈の限界を感じていた。
1938年6月の思想実務家会同で、治安維持法の改正を求める要望が出された。「現行治安維持法を以て現在の思想運動を取締ろうと致しまするのは、恰(あたか)も真直なる物尺を以て曲がりくねった材木を計ろうとするに等しく、其の不便なことは誠に想像に余りがある」*1また、思想検察のエース格の池田克(かつ)は、その著書『新法学全集』の一冊『治安維持法』1939年の冒頭で、「其の(実際の)適用範囲は年毎に拡大され来たり、今や解釈運用の限界点に達し」としている。1940年5月の思想実務家会同でも、某思想検事は「無理に有らゆる方面から証拠を蒐集して…治安維持法の解釈を最大限度に拡張して、辛うじて時代の要求に応じて居る状態」としている。*2
*1 『思想実務家合同議事録』、『思想研究資料特輯』第45号
*2 『思想実務家会同議事録』、『思想研究資料特輯』第79号
078 これらのことから、当時いかに治安維持法の拡張解釈が甚だしかったかが分かる。その解消の方向は、拡張・濫用しつくした治安維持法の運用の実態に合わせて、法の改正を行うというものだった。
司法省を中心に立案された改正案は、1941年3月、無修正で成立し、5月から施行された。議会審議ではほとんど異論が出なかった。条文数は7条から65条に増加し、格段に威力を増した。
司法省は改正時の(左翼側の)現状を「運動形態は、従来の統一的・組織的態様より、分散的・個別的態様に移行し、且党の目的遂行のためにする活動より一転して、党の組織再建・準備又は党的気運の醸成のための活動に終始するに至りたり」と観察し、「現行法の不備なる点」として、「支援結社に関する処罰規定を欠如せること」「準備結社に関する処罰規定を欠如せること」「結社に非ざる集団に関する処罰規定を欠如せること」などを挙げ*、新治安維持法の「第一章 罪」に盛り込まれた。しかもそれぞれについて目的遂行の処罰も規定したから、「国体」に反すると考えられる可能性の全てを網羅したと言える。「集団」の場合、「結社性を認め得る読書会、研究会の如く、集会・宣伝・啓蒙等の方法により、党的気運の醸成に努むるとともに、共産主義者を養成・結集して党再建に資するが如き行為を担当せるものをも包含する趣旨」であるとする。
*司法省『改正治安維持法説明書(案)』1941年3月
079 また第七条で「国体」の否定と「神宮若しくは皇室の尊厳を冒涜すべき事項」の流布が規定され、第八条ではそれぞれの目的遂行の処罰が新たに規定され、宗教運動の取締りが飛躍的に容易になった。
第二章は「刑事手続」の規定で、ほぼ同時に成立した「国防保安法」とともに、控訴審を省略して二審制とし、また検事に強制捜査権を付与し、弁護権の各種制限、手続きの簡素化などを規程した。
第三章は、「予防拘禁」の規定である。1940年ごろから、かつての共産党指導者の中で、懲役10年の刑を科されても非転向のまま出所して来る人がいた。すでに運動を展開する余地はなくなっているが、その存在を社会に野放しにしておくのは危険と考え、依然として共産主義思想を持っているというだけで予防拘禁するという、処罰体系を逸脱した制度をつくった。予防拘禁は非転向者を社会から隔離しておくことと、思想を入れ替えさせて日本精神に立ち返らせることを目的としたが、転向する人はいなかった。082予防拘禁は2年毎の更新を可能とした。予防拘禁は朝鮮では日本国内よりも先行して実施された。
新治安維持法の猛威
080 1941年4月、新治安維持法の運用徹底のために臨時思想実務家会同が召集され、そこで名古屋控訴院検事局の思想検事は「法益及び現状の重大、並びに立法理由に鑑み」「最高度の早期検挙」の断行、「犯罪をして常に最高限度未遂の域を越さざらしめ」「一網打尽、以て抜本塞源(そくげん、災いのもとを取り除く)の実績を挙ぐること」を提言した。その際「人権を極力尊重し」としたが、実態とかけ離れていて理解に苦しむ。*これは反・非国体的言動と見なせば、萌芽だけでなく地中の根をも抉り出そうとする究極の予防的取締りである。
*『臨時思想実務家会同議事録』、『思想研究資料特輯』第88号
081 実際には読書会や研究会程度のものが、厳罰の対象となり、『日本イデオロギー論』などで知られる哲学者戸坂潤を中心とする唯物論研究会事件*に対する1944年4月の判決は、研究会を支援結社と見なし、その組織化が日本共産党・コミンテルンの目的遂行行為に当たると認定された。*かつてのように「結局のところ」や「窮極において」などの飛躍の論理を用いる必要がなくなった。
*判決には「改正治安維持法第二条に所謂(いわゆる)結社を支援すと為すには、主観的に被支援結社を支援するを以て足り、その支援結社と被支援結社との間に、客観的に組織上の関連あることを要せざるものとす」とある。
特高警察による検挙に於いても同様であった。1941年の検挙数は、対米英開戦直後に一斉検挙が行われて1000人を超えたが、翌年からは500人前後が検挙された。運用の中心は新たに拡張された目的遂行によるものであった。
「予防拘禁」については、1941年12月末、東京予防拘禁所が開所し、1945年5月までに65人が収容されたが、当初の想定人員を下回った。共産主義者が大部分だったが、宗教者もいた。朝鮮では1944年9月までに89人が収容された。いずれも敗戦後解放されるまで一人も拘禁に屈して思想の入れ替えをしていない。
「満州国」の治安維持法
082 第一章で満州国における1932年9月施行の「暫行懲治叛徒法」と「暫行懲治盗匪法」に触れたが、対米英戦争開始直後の1941年12月27日に、日本の新治安維持法を母法とした「満州国治安維持法」が制定・施行された。
「第一条 国体を変革することを目的として団体を結成したる者、又は団体の謀議に参与し、若しくは指導を為し、その他団体の要務を掌理したる者は、死刑または無期徒刑に処す。情を知りて前項の団体に参加したる者、又は団体の目的遂行の為にする行為を為したる者は、死刑又は無期若しくは十年の徒刑に処す。」
徒刑とは懲役刑のことである。国体とは満州国の国体、つまり皇帝溥儀の国体である。この満州国の治安維持法の意図について、飯守重任(しげとう)は、戦後中国の撫順戦犯管理所で供述している。*
*1954年6月、中央档案館(档案は役所の永久保存用の文書記録)・中国第二歴史档案館・吉林省社会科学院編『東北「大討伐」』1991
「この法律(満州国治安維持法)の立法目的は、1941年に八路軍が熱河を解放するため、偽満(満州国)を襲撃したということで、関東軍の侵略行為の効果を収め、偽満の治安を回復するという目的を達するため、八路軍の作戦に協力した愛国人民を迅速に処理しなければならなくなったからである。…特別治安庭を設置する際、関東軍は熱河の愛国人民に対して軍法審判で軍が処罰するより、裁判事務に詳しい裁判所で審理した方が、裁判の間違いを減らすことができるだけでなく、民心を安定させることができそうだと考えた。」
083 満州国警務総局特務処編『特務彙報』第四号の「特務関係主なる検挙者一覧表(共産党関係)」は、満州国治安維持法の運用実態を示していて、1943年1月から3月までの3か月間で、8900人以上が検挙されたことが分かる。また『治安維持法関係資料集』第四巻は、一つの事件で5000人が一挙に検挙された例も示している。これらを特別治安庭で一審だけで裁判するから、100人を一度に処理することになる。
084 反満抗日運動の激化に対する「熱河粛清工作」に関して、錦州高等法院次長の横山光彦は(戦後の中国での取調べに際して、)「熱河地区に屡々(しばしば)大検挙を行い、日本帝国主義軍隊、憲兵隊、特務、司法警察、検察庁、法院の全能力を挙げて、数千数万に上る革命志士及び愛国人民を逮捕し、数千名を高等検察庁を経て高等法院に起訴し、其の治安庭又は特別治安庭に於ける判決を以て、惨殺・弾圧を宣告したのであります」と供述した。*
*新井利男・藤原彰編『侵略の証言』岩波書店1999
この横山の供述を裏付けるものとして、先の飯守重任082の「いわゆる熱河粛清工作に於いてのみでも、中国人民解放軍に協力した愛国人民を1700名も処刑に処し、約2600名の愛国人民を無期懲役その他の重刑に処している」という証言がある。*ただし横山はこの後日本に帰って「供述は嘘だった」と翻している。
*「カトリック教徒たる親友に宛てた手紙」『アカハタ』1960年8月12日付
1943年9月、満州国は予防拘禁と保護観察を実施するために「思想矯正法」を公布・施行した。
南方軍政下でも抗日ゲリラ運動への取締り策の一つとして、治安維持法に準じた治安法令が制定された。1943年2月、マライ・スマトラ方面軍は「治安維持令」を制定した。その第一条は「帝国軍の占領地に於ける統治を紊乱することを目的として集団を結成したる者、又は集団の役員、その他指導者たる任務に従事したる者は、死刑に処す」*としている。
*昭南(シンガポール)軍政監部『富公報』第12号、倉沢愛子編『南方軍政関係資料』第一巻、竜渓書舎1990
085 1943年8月分の馬来(マライ)軍政監部「戦時月報」によれば、同月の管内高等法院での治安維持令の処理数(一審制)は64件、304人で、大部分が支那人、つまり抗日華僑である。罪名別では、「統治紊乱集団結成」の指導、加入、支援などで、おそらくほとんどが死刑判決と推測される。2月の施行以来10月末までの累計は、269件、1229人に及んだ。*満州国同様、形式的な司法処分を駆使して抗日運動を弾圧した。
*11月分の「戦時月報」防衛研究所図書館所蔵
治安維持法は傀儡国家や占領地域では日本国内以上に悪法だった。
軍隊と経済戦
平時おける軍隊の役割の一つは「沈黙の威圧」による権益確保であった。戦時における軍隊の役割は、武力戦勝利による占領地の拡大と軍事支配の安定が第一義だが、戦時でも大半の時間は駐屯や巡回警備、巡航警備に割かれ、その駐屯や巡回警備が必要とされるのは、軍事的要衝という理由の他に重要な国防資源や市場の確保という経済的意味が大きい。
086 「大東亜共栄圏」の確立という表現自体が経済戦の側面を意味している。1941年11月20日に制定された「南方占領地行政実施要領」において、まず軍政を実施し、「治安の恢復、重要国防資源の急速獲得、及び作戦軍の自活確保」の三原則が目指された。
野戦憲兵といえる中国派遣の憲兵にとっても、役割の中に経済戦における勝利への貢献が加わった*1。北京憲兵隊の某曹長は「北支那経済戦断想」*2と題する文章の中で、「北支の地位は共栄圏の何処よりも枢要」とし、北支那派遣憲兵隊の任務は「我戦力の増強、華北一億の経済安定等」に係り、「経済警察的範囲に止まらず、軍の企図する諸施策への推進上、協力を致しつつある」と論じ、「軍需資材を可急(及)的に増産し、増送」することが急務とされ、そのためには「民生の安定」が不可欠であるとした。民需を犠牲にして軍需を増産し、それらを日本に移送すれば、必然的に中国民衆の生活が困窮し治安が不安定になるが、それを見越して力で民生の安定を図ろうとした。そのために「北支における憲兵は敵側実在勢力の剔抉(てっけつ、暴き出す)に挺身するとともに、経済戦の分野でも大いなる構想をもって諸施策を遂行しつつある」と位置付けた。
*1 笠原十九司『日中戦争全史』下、高文研2017は、「アジア太平洋戦争への突入が日中戦争の性格を大きく変質させた」とし、「日本が総力戦としてアジア太平洋戦争を戦うための食糧・資源・労働力などを収奪して供出させる総兵站基地の役割を中国戦場に課した」と指摘する。
*2 『憲友特号』第八号、1944年5月
087 石門憲兵隊(石家庄)の某憲兵少尉は「物価問題解決策とこれに伴う敵側謀略の警防対策に就いて」*と題して論じている。『警友特号』は憲兵内部の極秘扱いの雑誌のためか、「中国参戦の意義は畢竟するに、経済的寄与でなければならぬ。即ち中国の持つ資源をより多く日本に送り、それによって日本の戦争能力を向上させることが、中国の現在における可能且唯一の参戦手段」と明確に述べている。ここで某憲兵少尉は「国防重要資源の対日増供」という目標に向けた経済統制の厳重化から生じる「売り惜しみ、買いだめ」や物価騰貴の防止、流言蜚語の取締りなどの日常の憲兵活動を、経済戦として意義づけたのである。
088 ここにも多喜二の言う「帝国軍隊―財閥―国際関係」という「一本の糸」を見出すことができる。
*『警友特号』第10号、1944年7月
「横浜事件」のフレームアップ
088 横浜事件は、戦時下の新治安維持法(1941年3月)による最大の弾圧事件である。その発端の一つは、神奈川県警察部特高課による、1942年9月の川田寿・定子夫妻の検挙であった。この検挙は「米国経由の対内地共産主義運動」*に対する警戒網にからめとられたものであり、「米国共産党員事件」と名付けられた。そこから引き出された「つる」は、河田寿の「人的関連」を手掛かりに、1943年1月の「世界経済調査会事件」や1943年5月の「ソ連事情調査会事件」へと伸びて行った。
*神奈川県警察部「横浜事件関係者一斉検挙の経緯」
一方、細川嘉六を中心とするグループが「共産党の再建を企図して、自己に接近する之等の左翼グループを漸次その傘下に絡めようとしていた」*1という見取り図が描かれ、「日本共産党再建準備会」を主軸とする事件像にまとめ上げられた。「愛政グループ事件」は工場労働者の左翼化を目指すものであり、1944年1月の『改造』・『中央公論』関係者の一斉検挙は、雑誌編集や出版物を通じて左翼運動を展開していたとされる。1945年5月検挙の岩波書店編集者の小林勇の場合は、「左翼出版物を通じ、一般大衆の左翼意識の高揚啓発を企図し、岩波新書其の他の刊行物を通じて共産主義運動を為し居りたるもの」*2と途方もない。
*1 警保局保安課長「治安状況に於て」1944年1月、『特高警察関係資料集成』第25巻
*2 「特高月報」1945年上半期原稿、明石博隆・松浦総三編『昭和特高弾圧史』2、大平出版社、1975年
089 「横浜事件」では個々別々の事件を抉り出し、それらを「全体として一つの大きな組織」という虚構にまとめあげていく。
司法省もそれに同調していた。1944年1月26日、衆議院本会議で司法省刑事局長池田克は、共産党の再建と拡大強化を最近の「中心的な流れ」とし、「細川嘉六を中心として、共産党の組織の再建準備運動が行われていた」と説明した。*
*『帝国議会衆議院秘密会議事速記録集』
富山県泊での「党再建準備会」結成の経緯は次のとおりである。*
*1944年12月29日付の細川らに対する横浜地裁予審終結の決定、笹下(ささげ)同志会編『横浜事件資料集』東京ルリエール、1986年
090 「(1941年7月5日)被告人細川嘉六が中心となり、当面の客観情勢に対処すべき方策に付鳩首協議したるが席上、右平館利男より内外の客観情勢は我国に於ける「ブルジョア」民主主義革命の気運を益々醸成せしめつつありて、革命の主体的条件たる日本共産党(略称「党」)の衰微弱体化せるを急速に復興再建せしむる為の運動の展開こそ焦眉の急務なるを以て、該運動の指導体として所謂「党再建準備会」なる秘密「グループ」を結成し、之を速やかに拡大強化して、同「党」の中心勢力たらしむべきことを提唱したるに対し、被告人細川嘉六を初め其の他の者も一同之に賛同して、茲に右「グループ」の結成を決定…
この筋書きの大半は神奈川県特高警察が描き、その線に沿って拷問を多用して「自白」を引き出し、或いは捏造した。そして「党再建準備会」結成後の活動と検挙の経過は、次のように描かれている。*
*神奈川県特高課「横浜事件関係者一斉検挙の経緯」(仮題)1945年2月以降、「返還文書」国立公文書館所蔵
091 「今次中核体たる日本共産党再建準備会の結成を見るや、急遽社内共産主義分子を糾合結集に努むるの外、各種言論機関に横断的組織を結成し、党活動に即応し不逞なる目的達成の為め、報導(ママ)宣伝機能の左翼的発展飛躍を企図狂奔中、検挙せられ、之等中核分子の検挙取調を通じ、多年国民思想赤化の温床的存在として我がジャーナリズムに君臨し来たれる「改造」「中央公論」両誌の左翼的実相と、其の基盤たる社内編輯部員の自主的組織の存在を剔抉(てっけつ)暴露し得るに至り、昭和19年1944年1月、両社の編輯長以下社内共産主義分子の一斉検挙を断行し、之が組織を覆滅(完全に滅ぼすこと)せしむるに至りたり。」
神奈川県特高警察は各事件の全てを「共産党再建準備会」に結びつけようとし、「全機能を挙げて全霊を傾けて、徹底的なる取調べと捜査に当たった」結果、「横浜事件」の虚構へと暴走して行った。そしてその苦心を強調し、「被疑者はいずれも稀に見る尖鋭共産主義者として革命的信念を絶対堅持し、容易に取調に応ぜざるのみならず、其の運動方法は巧妙巧緻を極め、物的証拠の存置を避けて、専ら口頭連絡に依るを原則とし、同志的信頼を基調とせる結果を遂げ居り」*とする。1944年7月、中央公論社と改造社が解散を要求された。しかし、1945年の敗戦直後の狼狽した形式的な有罪判決では、この「共産党再建準備会」は雲散霧消した。
*神奈川県特高課「横浜事件関係者一斉検挙の経緯」(仮題)1945年2月以降、「返還文書」国立公文書館所蔵
092 戦争に対する客観的・合理的分析や批判を遂行しようとした点で、被疑者とされた多くが固い信念を持っていた。1942年1月に発足した高木健次郎・板井庄作らの「政治経済研究会」は、「現下における我が国の客観情勢並びにその戦力を判断し」ようとしていた*1。また中央公論社の編集者木村亨が企画・編輯した『支那問題辞典』*2は、「正確なる支那の認識、支那の実態把握の急務」*3を目指した。
*1 警保局保安課「最近の左翼事件に鑑み注意を要する事項」1943年11月
*2 細川監修、尾崎秀美(ほつみ)協力、1942年3月刊
*3 「刊行のことば」尾崎秀美執筆
思想清浄=皇民化
新治安維持法を手にした特高警察や憲兵は、反戦運動は言うまでもなく、厭戦的・批判的言動と見なしたものを「共産主義運動」「民族独立運動」取締りの名の下に地表下から抉り出した。
1942年12月、長野県特高課「共産主義運動の視察取締に就て」*は特高警察の使命を「国家総力戦に於ける思想的防衛陣、治安確保線」と位置づけている。その取締り観は、
*『特高警察関係資料集成』第五巻
「平時ならば警察の対象となるべきは行動であって思想ではないと云う様な呑気な時代離れのした事を考えるのも許されたか知らぬが、現在の情勢下に於ては左翼思想其のものを正面から問題として取り上げ、例(ママ)え其れが運動としての程度に成長して居らなくても、其の葉を枯らし、根を掘って剿滅(そうめつ、掃滅)しなければならぬ。法律に於て予防拘禁制の創設に依って思想其のものが問題とされるに至った、まして特高警察の立場は其れよりも二歩も三歩も歩んだ立場から思想の動向と対策を考えなければならない。」
感想 恐ろしい。現在の公安はこの末裔だ。
093 ここでは戦時下であることや、新治安維持法によって予防拘禁制が創設されたことを理由に、「左翼思想其のもの」の予防的取締りを強く求めている。そして、実際の検挙事件を三つに分け、「非合法本位の形態」、「合法場面利用の形態」、「合法非合法結合形態」とし、そのうち「当面一番注意を要すべき」ものが三番目の「合法非合法結合形態」であり、(その例として)生活主義教育運動や、「企画院グループ」事件などを挙げている。これらは「公然と国策に便乗し、之を推進することを標榜しながら、秘かに自己の勢力を団体に植えつけて他日に備えると云う、極めて漸進的な堅実な方法が採られて居る」と分析する。また二番目の「合法場面利用の形態」とされるものは、唯物論研究会や、村山知義、久保栄、滝沢修らの新劇関係者の検挙を挙げている。
094 この取締り観の行き着いた先に「思想清浄」「思想洗浄」があった。これは横浜事件にも当てはまるが、ほぼ同時期の弾圧であった関東憲兵隊による満鉄調査部事件にも当てはまる。満鉄調査部という再就職先での思想「転向者」たちの存在そのものが対象になった。(その)第二次検挙組の一人である石堂清倫(きよとも)は次のように証言している。*
*井村哲郎編『満鉄調査部――関係者の証言』アジア経済研究所、1996
「私は長い間それを誤解していまして、憲兵隊や検察官の取調べのときにも何もやっていないと抗弁しました。けれども、それを向こうではせせら笑って取り上げない。彼らはこう言うのです。「君たちの考えは全く甘いものだ。今はもう何もやれないことは、こちらも百も承知している。しかしこの国家非常の時局に銃後を固める当局としては、将来万一のときにお前たちが何かをやるに決まっているような精神構造そのものを問題とするのだ。その点から見ると、お前たちの抗弁する態度自体が大いに危険なのだ。行為に対してだけ罪を問われると思うのは間違いである。すすんで服罪して同胞の警戒心を高めることが求められているのだ」ということであったと思います。そういうことを憲兵隊でも検察庁でも放言しておりました。」
095 戦争遂行体制の確保のために、「抗弁する態度自体」が問題視され、その一掃が図られた。関東憲兵隊司令部編『在満日系共産主義運動』1944の冒頭の「緒言」に、取調べの態度として、「熱誠と温遇を以て彼らの迷蒙を解き、皇民意識に大悟して思想清算への努力を誓約せしめ」とある。天皇と国家に帰一する「精神」「態度」にまで完全に転向することが求められ、そのために「思想洗浄」「思想清算」が必須とされた。そこからは社会全体の「思想洗浄」が導かれる。
拷問
何重にも処罰の範囲を拡張した新治安維持法の下で、特高警察は「全機能を挙げて、全霊を傾けて、徹底的なる取調べと捜査に当た」った。地表下から抉り出されたものを立件するために、厳しい拷問で自白を引き出すことが一般化した。「小林多喜二の二の舞を覚悟しろ!」*という威嚇は、残虐な拷問の開始を予告し、死の恐怖を与えた。これは横浜事件だけでなく、特高警察に共産主義運動の実践やスパイと見なされた戦時下の事件の取り調べでなされたことである。
*木村亨『横浜事件の真相』筑摩書房1982
096 北海道の綴方教育連盟事件での拷問の実態が、松田文次郎の獄中メモ「取調べに関する若干の反省」*1で明らかになった。小学校教員だった松田は起訴され、拘置所で公判を待つ1942年6月から12月までの間のメモによれば、特高警察による取り調べの際に「自分の証拠については一通り釈明もしたつもりだったが、…叩く、蹴る、座らせる、脅かす。そのうちに自分も妙な気持になり、手記を直され、教えられているうちに、「赤く」なっていた」*2と書いている。メモは公判を担当する弁護士に実情を知ってもらうために密かに書かれた。紙や筆記用具の入手も、それを拘置所から持ち出すことも、通常ではできなかったはずだから、看守の協力があったに違いない。
*1 松田文次郎「獄中メモ」北海道立文学館所蔵
*2 佐竹直子『獄中メモは問う』北海道新聞社2014
感想 戦後の冤罪事件と同じだ。
097 思想検事の取調べでも「いつまでぐずぐずしてるんだ。もう半年もなるんでないか。外のものはみんなもう終わるゾ。この分だと君だけ来年廻しだね」と迫られ、「一日三時間か四時間しか眠られず、心身共にヒロウコンパイ何が何やらわからず、結局圧しつけられてしまった」という。
拷問は特高警察による肉体的な暴力だけに止まらず、思想検事による威嚇・誘導などの精神的拷問によって正常な判断力を失わせることもあった。*
*もう一人の綴方教育連盟事件関係者の小坂佐久間も、弁護士に宛てたメモのなかで次のように書いている。(『小坂佐久間文集―私の国語人生』1986年)
「みんなが、すっかり、赤に捏(で)っち上げられ、坂本や小生に就いてもヒドイ供述をさせられていたため、それ等がみんな責め道具として使われ、真実を主張すればするほど、不当な圧迫、威嚇、悪どい詐謀、時には拷問で報いられ、「流石は聯盟の首謀者、中心人物指導者だけあって、ズルイ、強情だ、」で、ヒドイ目に逢って来ました。…弁解は全く封じられ、有利な証拠は抹殺され、そして、無理押しとコジ付と、謀略の捏造、威嚇と恐迫等々で、みんな、身に覚えのない、主義の信奉、実践と、左翼一色に塗りつぶされてしまった」
北海道大学の英語教師レーン夫妻と学生の宮澤弘幸らは、対米英開戦時の非常措置で一斉検挙され、軍機保護法違反のスパイ容疑を問われ、その取り調べ時に激しい拷問を受けた。警察をたらいまわしにされるなかで、「両足首を麻縄で縛られて逆さにつるされ、殴られた。両手を後ろに縛られて、それに棒を差し込んで痛めつけられた」これは戦後宮澤が妹に語った言葉を妹が書き取ったものである。*
*北大生・宮澤弘幸「スパイ冤罪事件」の真相を広める会編『引き裂かれた青春――戦争と国家秘密』花伝社2014、本書の中に1939年6月8日の「心の会」発足時の記念写真が掲載されている。097
098 宮澤弘幸は公判で「警察検事廷に於いては強制せられて、恰も故意を以て軍事上の秘密を探知せんと企てたるが如く供述したれども、そは真実にあらず、又事実にあらず」*と暴露した。この強制が拷問である。しかし大審院は「軍事上の秘密を探知した事実は動かしがたいのだから、拷問による強制があったかどうかは問題にならない」と退け、軍機保護法の処罰としては異例に重い懲役15年の判決を下した。(感想 拷問の結果得られた「事実」でも「動かしがたい」のか。筋が通らない)
*大審院判決に引用されている弁護側提出の上告趣意書
戦時下に於ける思想犯罪では日常的に拷問が行われた。当時でも拷問はタテマエは違法だったため、特高側の文書にその痕跡が残ることはほとんどない。それに比べて抗日運動を対象とする関東憲兵隊や中国戦線・南方戦線の憲兵隊の場合は、拷問が不可欠な手段であると憲兵教育用テキストなどは明記している。
支那駐屯憲兵隊教習隊の教材『滅共実務教案』1941には、取調べにおいて「緩厳の用法が肝要」とし、そのうちの「峻烈」は、「所有(あらゆる)苦痛を感受せしむる方法に依る取調」であり、「最も有効」とする。(他に「温情」と「詐術」がある。)1941年4月、支那駐屯憲兵隊教習隊の司法諜報防諜専習下士官現地演習の「共産党員取調要領」を問う質問で、演習参加者は「拷問は特別のものに限るも、手段方法を研究するを要す」「老人又は気の弱き党員には多少肉体的苦痛により自白せしむるを可とすることあり」*などと答えている。
*『剿共司法図上対策及現地演習記事』防衛研究所図書館所蔵 (剿滅(そうめつ、掃滅))
099 また昭南(シンガポール)憲兵隊の大西覚中尉は講話「占領地に於ける密偵の使用法」において、「逆用密偵」が最も重要で有効とし、その獲得法として二つの懐柔法を挙げている。そのうち「剛を以て懐柔するもの」は、「徹底的に威圧威嚇を加え、或は逆用可能なりと認むる者を、惨虐なる場面を実現せしめ、然る後、助命を条件として逆用するもの等」とし、拷問を活用した。*これらの事例は実際の取り調べ時の経験の蓄積から抽出された拷問のノウハウであった。
*『憲友特号』第101号、1944年7月
流言蜚語の取締り
100 アジア太平洋戦争下に治安維持を目指して戦時諸法令が整備された。開戦直後の1941年12月21日に「言論、出版、集会、結社等臨時取締法」が施行された。「戦時下国内の安寧秩序保持のため」として、政事結社、政事集会、屋外集会、多衆運動や、出版物の新規発行の許可制と、刑罰の大幅加重が行われた。また流言蜚語の取締りが規定され、戦時下の国民の言動・生活に深く関わった。(この影響は卑屈な今の日本人にも残っているのでは)
1945年度の司法省作製『言論出版集会結社等臨時取締法違反事件報告書』(「旧陸海軍関係文書」)が残っている。これは各検事局などからの報告をまとめたもので、「敗戦」に関するものが圧倒的に多い。次いで、「空襲」「官民離間」が続く。その一例は以下の通りである。
「敗戦」に関するもの
「戦争がこんな事になったのは軍の遣(や)り方が悪いからだ。現在は戦争は明らかに負けて居るのだ。こんな状態では先の事は判らない。俺は戦争なんか負けても勝ってもそんな事は構わない。美味(うま)いものでも食って好きな事をして居るのだ」(1945年2月ごろ検挙、4月21日判決確定。(2か月間も拘留か)略式命令罰金150円、保険外交員、62歳、群馬県)
「空襲」「敗戦」に関するもの
「名古屋は大変なものです。今では三分の一位焼野原になって居ります。こんな事では戦争は負けるか勝つか判らない。負けた方が楽で良いかも知らん。米国が政治をする様になっても、こんな苦しい事はなかろう、配給等も良くなって楽になるかも知らん。此戦争は余り手を拡げ過ぎたからこんな困難な事になったのである」(1945年5月1日検挙、8月27日判決確定、略式命令罰金50円、鍼灸業、60歳、石川県)
「官民離間」「敗戦」に関するもの
「政府は其の指導方針に於て最初長期抗戦だと言い乍(なが)ら、今度は短期決戦だと言い、何でも彼(か)でも米英撃滅だと謂う様な激しい字句を使って居るが、之では国民は麻痺して仕舞う。之は皆上層部の指導が悪いからで、官吏は斯様(かよう)に口先許(ばか)り甘いことを言うが、陰では悪いことをして収賄したりする。だから国民は誰も真面目に蹤(つ)いて来ないし、生産力も低下し、戦争は勝目がないのだ。」(1943年8月ごろ検挙、1945年6月12日判決決定、(2年も拘留か)懲役8月、執行猶予3年、銀行員、53歳、北海道)
102 治安維持法違反とされる事犯が一定のイデオロギー性をもち、組織性・継続性があったのに対して、この臨時取締法違反は、イデオロギー性・思想性が薄い個人的犯罪が対象になった。偶発的であり、無知に起因する場合が多く、大半は検挙された警察や憲兵段階で訓戒後に釈放された。戦局が劣勢になるにしたがって運用が活発化し、国民の言動や生活を抑圧した。
さらに戦時刑事特別法(1942年2月)、裁判所構成法戦時特例(同)の制定、陸軍刑法・海軍刑法の軍事に関する「造言蜚語罪」の刑期の引き上げ(1942年2月)、戦時刑事特別法改正による「国政変乱宣伝罪」の追加(1943年3月)などが、治安の観点から実現した。
国民生活・思想の監視と抑圧
戦局の悪化に伴い、特高警察や憲兵による国民の生活・思想の監視と抑圧は一層強まった。
新たな事態として、労務統制の緩みや(朝鮮からの)徴用工の増加などに警戒が向けられるようになった。1943年5月の警視庁「労働者の生活実態並思想動向に関する件」*1は「日本的勤労観の漸次喪失し、国内思想分裂対立の萌芽発生の徴あり」とし、軍需工場などの徴用工員の長期欠勤者に対する一斉取り締まりが行われた。1944年1月の警保局保安課「最近に於ける労働情勢悪化の状況」では「「憂慮すべき事態」などという言葉を使用して済ましては居られない程の緊迫感と焦燥さえ感ぜられる」*2としている。
*1 『特高警察関係資料集成』第20巻
*2 『特高警察関係資料集成』第36巻
103 (1944年)4月の警保局保安課「都市に於ける社会不安の温床と目せらるる諸現象に就て」*は、「人心の動揺」に警戒の目を向け、「民心の尖鋭化と共に国民各層の戦争をよそにした精神的弛緩、生活問題に対する不安焦燥は漸次疲労感に転移し、更には社会不安に発展する前兆と見て取れる」と危機感をあらわにしている。
*『特高警察関係資料集成』第36巻
郵便物の検閲も広範に行われ、(ええ本当か)「底流に於いては戦争の長期化するに伴い、反国策的思想、厭戦乃至反戦的思想散発の徴あるやに看取せらるるものあり」*などと、国民の考えを郵便物から抽出し、特に戦意の弛緩や低下、生産の停滞や減退などに着目している。
*内務省警保局外事課『外事月報』1943年3月分
憲兵も「民心の動向」に関心を向けていた。1944年6月の新潟県の村松憲兵分遣隊「状況報告」*に、「闇の横行に依る物資の偏流」などが顕著となり、「下層住民の思想を悪化せしめ、資本家を呪詛し、或は戦争厭忌の素因となる」と憂慮している。
*北博昭編『十五年戦争末期国内憲兵分遣隊報告』、『十五年戦争極秘資料集』補巻18
104 「敗戦的思潮」につながるとして、流言蜚語の頻発と拡散にも注目していた。憲兵司令部の「六月中に於ける造言飛語」1944年7月に、憲兵の知得した335件について、「内容は依然として、戦況、空襲、食糧関係等多発しあるが、特に本期は、北九州地方の敵機空襲に伴い、空襲関係激増を示しあり」とする。*1また「本期太平洋戦局の苛烈化に伴い、敗戦臆測的造言、乃至は「サイパン島は玉砕せり」等の未発表戦況に関する臆測的造言、漸次多発の傾向あり」とする。*2
*1 1944年6月16日に中国本土からB29が飛来し、八幡を襲った。これは本土初空襲であった。
*2 『東京大空襲・戦災誌』第5巻、東京空襲を記録する会、1974年
1945年ごろに京都府警察部が作成した『特高警察実務必携』*は、一般警察官向けの特高警察的教養のために作成されたものだが、「職務中たると否とを問わず、例えば出勤、退庁の途次の電車内、街頭通行人の口吻に耳を傾け、或いは親族知己等との交際を通じ、又は隣組常会其の他種々の機会を利用する等、片言隻句の中に内部に底流する民心動向の真相把握に努めねばならない」とし、のぞき見や盗み聞きも、「国家の治安維持、国土防衛の大目的」からは必要とされ、奨励された。
*『特高警察関係資料集成』第20巻
105 1945年5月の警保局「最近に於ける治安情勢」*1は人心について、「正に総浮腰の観があるのでありまして、戦局不振に基づく不安動揺は、漸次全国的に拡大しつつある」とし、さらに7月の「沖縄島失陥に伴う民心の動向」*2になると、次のように現状を認めざるを得なかった。
*1 『特高警察関係資料集成』第36巻
*2 警保局保安課『思想旬報』号外、『特高警察関係資料集成』第38巻
「沖縄島失陥に伴う民心の動向は極めて顕著なる敗戦感一色に塗りつぶされたるやの感ありて、之に基因する厭戦、反戦、自棄的無気魄状態(へ)の推移は、極めて警戒を要するものあると共に、空襲激化、(食料不足、インフレ激化に伴う)生活逼迫に伴う戦争疲労感の台頭と相俟って、敗北主義的気運の浸透を懸念さるるものあり、他面に於いて戦局不振の責任を糾弾する反軍、反官、反政府思想の深刻化、一般化ある等、今後に於ける民心の推移は極めて注意を要するものと認めらる。」
106 (1945年)8月上旬の全国特高課長会議では、増大する不敬言動の要因に、「大衆一般の戦局悪化に伴う厭敗戦感と戦時生活の逼迫から自然発生せる苦痛」の高まりがあるとして、厳重な警戒を指示している。*
*警保局保安課「最近に於ける不敬、反戦反軍、其他不穏言動の状況」、『特高警察関係資料集成』第20巻
感想 安月給なのにあくまでも権力の犬に甘んじる警官の悲しい本質が現れている。
「経済治安」の悪化
統制経済の進展とともに、経済警察・経済検察による「闇」の取締りが本格化した。アジア太平洋戦争開戦から一年半が経過した1943年4月ころの経済犯罪の状況は「「生活必需物資に関する末端配給部面に於ける氾濫」の一語に尽きる」*とされた。
*司法省刑事局『経済月報』1943年4月
軍需生産の確保は、多くの場合において、物と人の両面で「戦時国民生活の確保」とぶつかる。戦争遂行のためには国民の士気を高めなればならない。そのためには生活必需物資などの「戦時国民生活の確保」も至上命令だった。しかし実際の対応は、経済犯罪に対して一段と厳しい取り締まり方針で臨む他なく、さらに「戦時国民生活」を圧迫して犠牲を強要する。1944年全体の経済犯の検事局受理数は「少なくとも19万人前後」と推定され、1945年については敗戦までの間に、1944年の趨勢以上だったが、都市空襲で「検挙能力の低下」を来たし、「恐らく10万人前後」になるだろうと推定された。*これらは検事局の受理数だから、経済警察における違反の摘発はそれ以上である。
*八木胖(ゆたか)『経済犯論』東洋書館1947
107 統制経済崩壊の兆しは1943年初頭から始まっていた。1943年1月に開催された各控訴院並八大都市地裁経済係検事協議会で、福岡地方裁判所検事局は、現状を「経済事犯の発生の面が一般国民全面に及び、而も食料品等の闇取引は最低生活戦を脅かすようになった今日に於いては、経済犯罪と思想犯罪とは最早切り離して考えることはできない程度に深刻なる治安問題を内蔵した様相を呈して居る。…経済治安の乱るるところ、茲に思想問題として様々なる忌むべき事態が発生する」
宮城控訴院検事局からの答申にも「中小工業者の生活難、出征遺家族の処遇等より、惹(ひ)いて不平不満、厭戦、反戦、反軍の思想を醸成し、国家治安に暗影を投ずるが如き事は須臾(しゅゆ、少し)も許すべからざる重大事」とする。*ここに経済犯罪と思想犯罪が合体した「経済治安」の観点が浮上した。
*司法省刑事局『経済月報』1943年1月
1943年に労務統制違反事件に対する取り締まりも本格化した。松阪広政検事総長は訓示の中で「殊に労務の統制は、戦力増強の根基を為すものとして、特に其の完璧を期さねばなりません」*1「労務統制の成否は、直に戦局を左右すると云うも敢えて過言ではない」*2と指示を繰り返した。*3
*1 警察部長会議、『法律新聞』1943年5月1日
*2 司法官会同、『法律新聞』1943年5月10日
*3 1943年8月、「労務統制関係違反の検挙並に之が処理に付、隔意なき協議を遂げ」るために、経済検察事務打合会が開かれ、「国民徴用令違反検挙並に処理に関する事項」「企業整備に関連して発生する違反の検挙並びに処理に関する事項」などが指示された。(『経済月報』1943年8月)
108 戦前に経済検事だった菊池健一郎は戦後になって「司法の面より観たる敗戦原因の研究」*をまとめ、そこで1944年以降「各種の犯罪傾向は益々極端化し、食糧の逼迫化とともに、戦時経済破壊の深淵に一歩ずつ近づいて行った」とし、1945年の状況を次のように述べている。
*『司法研究』第34輯5、1947年9月
「司法の面より通観すれば、昭和20年上半期に至って、遂にインフレーションは悪性化し、食糧配給不手際による食料の逼迫化は甚だしくなり、資材は極度に貧困化し、国民の戦意すら低下し、我が国戦時経済は壊滅の深淵にはまり込み、原子爆弾の出現を見ずとも、戦争継続は国の破滅以外にあり得ぬ状態に立ち至ったものと認むることを得るであろう。…労務者の生産意欲は減退し、生産は極度のダウンカーブを示し、経済生活は極度に混乱し、唯一の頼みとする国民の戦意すら低下して、終に降伏への道を選ばざるを得ざるに立ち至ったのである。」
感想 戦後になれば何とでも言える。美文・作文調
109 統制経済の崩壊とともに、「経済司法」も機能不全に陥った。
「戦意」の高揚から弛緩へ
日本の敗戦直後、アメリカは次の戦争に向けて、B29による爆撃の、主に経済・産業に対する有効性と影響を測定するために、戦略爆撃調査団を日本に派遣し、その中で、日本人の戦意について調査した。その結果は「真珠湾(奇襲攻撃)の時点では、日本人は中国との戦争に少々疲れており、アメリカと戦うことを好んでいたわけでなく、(対米英)戦争(開始)のニュースに対する彼らの最初の反応は、心配であった。ところが、日本の緒戦の勝利の後には、彼らの精神は著しく高揚した。しかしその後サイパン失陥後から、彼らの戦意は瓦解し始めた。これは、永びいた戦争による疲れの積み重ね、社会不安、消費物資(特に食糧)の益々ひどくなる不足、打ち続く軍事的敗退などが、抵抗する意志を弱めた過程であった。さらに空襲が日本人の大多数に直接の目前の圧力を加え、戦意は突如下り坂になった」とする。*1また戦略爆撃調査団は『戦略爆撃が日本人の戦意に及ぼした効果』という図を作製している。*2
*1 アメリカ戦略爆撃調査団報告第14号、戦意部『戦略爆撃が日本人の戦意に及ぼした効果』、『横浜の空襲と戦災』4、横浜市、1977
*2 『東京大空襲・戦災誌』第五巻
111 日本側は1945年10月10日、新潟県新津警察署長が「米国軍戦略爆撃調査に関する件」を米調査団に提出したが、これは戦意の推移を特高警察の調査をもとにまとめたものである。*
*『新潟県史』資料編16、1985年
「一度(ひとたび)大東亜戦争勃発せるや、帝国陸海軍の上げ得たる緒戦の赫々たる大戦果に酔い、国民各層に亘って、「米英何するものぞ」と国民の戦争に対する意気大いに揚がり、緒戦期に於ける国民の思想動向も、高低の差こそあれ、大東亜戦争完遂の一点に結集せられ…国民各層斉(ひと)しく今次大東亜戦争は理屈を抜きにして勝てるものと信じ込み居りたるの状況なるが、戦争の長期化と共に、国民の思想動向についても、…底流には和平を希冀(きき、待望)する思想が漸次瀰漫(びまん)し来たりつつありたる状況にして、一方本土を主戦場とする本土決戦が不可避なる事実として来るにつれ、国民は戦争の前途に対して一抹の不安を感じ…軍並びに政府と遊離しつつありたるの状態なり」
112 アメリカの調査は1945年11月から12月にかけて日本人男女約3150人に対するインタビューとして行われた。その中で岩手県姉体村の某主婦は「日本に勝ち目がないとはっきり思うようになったのは、今年の5月、沖縄が落ちた時で、もう駄目だと思った」と答えた。*戦略爆撃調査団の報告書は、1947年6月に『日本人の戦意に及ぼした戦略爆撃の影響』としてまとめられた。
*1945年11月18日「戦略爆撃調査団資料」
一方日本側による戦意調査は特高警察や経済検察、憲兵、文教当局などが行った。その民心の動向調査は、戦意について知る手掛かりとなる。前章に続くが、文教当局が「国民の思想指導」の為に実施した生徒・教員に対する大規模な「思想動向調査」がある。
113 茨城県教育課は1941年12月中旬、「突如として大東亜戦争勃発し、古今未曽有の国民的感激の中」で、男女中等学校、青年学校生徒及び国民学校児童を対象として「思想動向調査」を実施した。*「東亜新秩序の建設についてどんな考えですか」の問いに、78.1%が「どんなことがあっても」(貫徹する)を選び、18.8%が「外国などに遠慮なくもっとどんどん」を選んだ。それに対する当局の評は「真剣な雄叫びをあげて居ることは心強い限り」とする。その一方で「戦争を長く続けていては」と弱気なものが1.5%、「うまくいくかどうか、不安に思っている」が0.6%あり、それに対する評は「遺憾なこと」とされ、これらの弱腰の者に対して「断乎として東亜新秩序の建設に邁進する気魄を涵養すること」が求められた。
*『文部省思想統制関係資料集成』第10巻
対米英戦1年後の1942年12月、佐賀県思想対策研究会が師範学校、中学校、実業学校などの生徒2万人に対して「思想動向調査」を行った。*第一問「大東亜戦争は何のための戦争ですか」に対する回答は、「大東亜共栄圏確立のため」が37.7%、「世界平和の為」が13.2%、「東洋平和の為」「八紘一宇の理想顕現の為」「大東亜新秩序建設の為」がそれぞれ8.8%と続いた。そして調査実施主体は「調査後の感想」の中で「戦争目的の把握」に関して、「大東亜共栄圏確立への自信と米英撃滅の意気亦熾(さかん)なるものあるを認む」と高く評価した。
*『佐賀県教育史』第3巻、1990
感想 こういう好戦的で自己中で確信的な教育を受けた人たちが、私たちのお父さんお祖父さんであり、お母さんお祖母さんだったのだ。そしてその教育を忠実に守り続けているのが、今の右翼・右派なのでしょうか。
114 文部省教学局思想課『東京都に於ける教員及び中等学生思想調査概況』*は、東京都下の国民学校男女教員、中学校男教員、高等女学校女教員、中等学校生徒らを対象に、1943年7月、教学局が実施した調査の報告書である。「学生の思想動向」は「極めて健全な国家的な傾向にある」とし、「教師の思想動向」は「大体において現状適応的であり、さらにはその方向に急進しようとする態度を持ち、私生活についてもこれに積極的な切り換えをなして、国家の要求に応じようとする態度にあり、国家の呼吸と共にある」とする。しかし全体の1割から3割前後に、「相当注意すべきものが存在している」としているが、これは戦意の停頓・弛緩につながる層である。
*『文部省思想統制関係資料集成』第九巻
1941年12月8日のマレー半島上陸・真珠湾攻撃に続く連戦連勝により、一挙に国民の戦意は沸騰し、99%以上の国民が「我々の戦争」ととらえ、戦争支持・協力の側に位置した。先述の米戦略爆撃調査団の調査での「戦勝についての疑念の増大」と「日本は勝てないとの確信の増加」という二つの図の逆転が、戦意の高さを示す。
115 第一章69頁の図のように、1942年の前半では戦意は高いが、後半から1943年にかけては、次第に戦局の劣勢と生活の窮屈化により、戦意の弛緩・停滞の兆しが現れる。そして1944年になると、厭戦・悲観気分が広がり、1944年7月のサイパン島失陥を大きな転機として、明らかに戦意は低下し始めた。
1944年8月末の警視庁情報課「最近に於ける諸情勢」第7輯*によると、サイパン島失陥により「帝都空襲の公算愈々大」と予測し、「民心の焦点は日常生活より再び戦局に移行し」た。それは敵愾心を再燃させたということではなく、「このような戦いぶりで勝てるだろうか」という疑念が生じ、戦争指導に対する政府や軍の拙劣さへの誹謗や批判が表面化して来たことを意味する。従ってその「戦意たるや極めて低調」で、闘魂更に振るわずして、寧ろ一部少数に敗戦的思想の薀(うん)醸(醸し出す)せんとする傾向」さえうかがわれるとする。
*「旧陸海軍関係文書」
「戦意」の急低下
1944年7月のサイパン島失陥で予想された本格的な本土空襲は、1944年11月から実施され、大都市から地方都市へと移って行った。統制経済は実質的に崩壊し、厭戦・悲観論が強まった。1945年3月12日に名古屋市街地が空襲されたが、その直後の3月13日に、愛知県特高課は「民心の動向」を次のように報告している。
(一)罹災者 予想外に被害甚大なりし為、未だ呆然自失の態なるも、有資産階層及婦女に在りては意気消沈しつつある者多く、却って無資産階層に於いて敵愾心を抱き居れるが如く看取せらる(略)
(二)罹災せざる一般市民 今次空襲を機に緊迫感を一層増大し、憤激を新たにしたるが、健全なる市民層に在りては、「現状にては駄目なり」とて強力なる対策を切望しつつあり、従而(したがって)此の際徹底せる施策を為すに非ざれば、民意の趣くところ、逆作用的に軍並びに当局に対する不信より戦争遂行への確信を喪失するの虞あり(強力なる対策などあり得るのか)
これに次ぐ3月14日の続報は、事態の鎮静に伴って民心が冷静に向かっているが、「大勢は戦争下、災害発生も亦已むなしと諦観的態度を示しつつある」とし、女性の中には恐怖感が助長され、都市での居住を嫌忌する傾向も生じているとする。*
*「三重県特高資料」防衛研究所図書館所蔵
117 1945年4月6日、岐阜県特高課は「沖縄決戦に対する民心の動向」について「一般大衆は防空疎開、其の他身辺の雑事に心捉われ、其の程度意外に薄弱なるやに看取せられ、又之を認識するも結局サイパン島、硫黄島と同一運命を辿るものならん等、安易なる観念を持ち居る程度にして、其の戦意の低調なる」とし、また一部の有識者の不満は「政府無能、軍部無力なりとする言動として現れつつあり」と憂慮する。*こうした状況は全国的なもので、前述の特高資料にあったように「総浮腰の観」という表現が出てくる。
*「三重県特高資料」
1945年6月の沖縄の失陥前後から、戦意の低下は急加速した。7月に警保局保安課がまとめた「空襲激化に伴う民心の動向」*には「思想治安の観点より特に留意を要する」点を次のように指摘する。
(一)空襲に対する恐怖感情漸次濃化し、且農山村を除き、殆ど全国的に普遍化しつつあること
(二)一般に士気阻喪し、生活問題に絡んで自己保全に汲々として、戦争と生活との乖離現象は益々其の度を深めつつあること
(三)一部に悲観的、敗戦的気運を生じ、厭戦的和平言動相当増加しつつあること
(四)軍不信乃至反軍的気運、漸次表面化しつつあること
(五)略
(六)一般に刹那的気風瀰漫し、自棄的傾向濃化しつつあること
*『東京大空襲・戦災誌』第五巻
118 1945年8月、警保局保安課は「最近に於ける不敬、反戦反軍、其の他不穏言動の状況」*をまとめ、その中で「戦意」崩壊の兆しが現れた状況を述べている。それによれば、ごく最近の傾向として「厭戦敗戦的色調」が濃厚となり、「本土決戦を前に、民心の動向は必ずしも楽観を許さぬ状態にある」とし、つぎのように続けた。
「素(もと)より之等の気運に乗ぜんとする指導的反戦和平分子の断乎たる制圧がある限り、斯かる自然成長的言動のみにしては組織されたる大衆運動となって直接国内危機を齎(もたら)すが如きことはあり得ずと思料されるが、万一敵の本土上陸実現に際しては容易に彼の宣伝謀略に乗ぜられ、奔敵(ほんてき、敵に向かって走る)投降等の売国行為に出でるものの蔟(ぞく)出する虞があるのみならず、最も戦意昂揚の緊急なる刻下、斯かる士気道義の弛緩頽廃の一般化傾向が存在するということは、それ自体敗戦主義的戦争サボ(サボタージュ)の一般化傾向を示向するものとして、厳に注意警戒を要する重要問題と認められる。」
119 もはや本土決戦に国民は耐えられないという認識を(当局が)持たざるを得ないほど、戦意は低調になっており、現状のまま本土決戦に突入すれば、革命が惹起され、「国体」の動揺・解体に至るかもしれないと察知していた。
*『特高警察関係資料集成』第20巻
1945年5月の東部憲兵隊「流言蜚語流布状況に関する件」*の「所見」に「沖縄戦局の難渋、空襲激化、敵の内地侵攻等、戦局緊迫に伴い、益々戦局悲観、敗戦和平希求的流言多発し、民心の和平気運を醸成せしむるの虞あり」とある。
*『東京大空襲・戦災誌』第五巻
120 1945年6月5日、憲兵司令部本部長は、内地各憲兵隊司令官に向けて「敗戦的和平希求動向監察取締強化に関する通牒」*1を発し、その中で、現状を「漸次戦局の緊迫に伴い、国民の一部に日本敗戦必至なりと盲断し、和平の実現を希求待望するの気運濃化しつつあるやに看取せらるるものあり」とし、この「気運が漸次国民の間に浸潤するに至らんか、敵の思想謀略及び一段と苛烈化を予想せらるる今後の戦局とに依り、国民の戦意は急速に低下し、皇土の決戦の遂行をも困難ならしむるの虞大なる」とした。本土決戦を前に、憲兵はこの「敗戦的和平希求動向」を封殺するために、国民生活・言論の取締りに益々狂奔した。
8月15日の敗戦の時点で戦意を維持していたのは、米戦略爆撃調査団の集計によれば、25%であった。それは大日本帝国崩壊のデッドラインを越えかねない水準だった。敗戦の選択は必然だった。*2
*1 『太平洋戦争期内務省治安対策情報』第三巻
*2 米戦略爆撃調査団報告書は戦意を職業別に集計し、知識階級(専門家、経営者、支配人、官吏)は「最低水準の戦意」を、手工業労働者と農民は「中間の戦意」を、サラリーマン(事務員、販売員やサービス員)と非労働者(主婦、学生、隠退者、失業者など)は「最高の戦意」を持っていたとし、女性は男性よりも「戦意」が高く、若い世代が年配者よりも「高い戦意」を持っていたとする。
感想 緒戦における連戦連勝で99%が戦争遂行に沸いた1941年12月8日直後に比して、1945年8月15日の時点の戦意は25%に低下しても、当局は、革命は一部「指導的分子」を牢屋に入れておけば起こらないと踏んでいたようだ。その判断理由を想像するに、この時の一般民衆は厭戦気分をぶつぶつ言うだけで、自分のことしか考えていなかったからかもしれない。また戦争反対(厭戦)は知識人や男に多く、戦争遂行は青年や女性に多かったという。それは青年の場合は皇民錬成教育の成果で、女性の場合は、女性が直接戦争にはいかないからか。
感想 戦後から今に続く日本人の「反戦」思想とは、敗戦直前の1、2年間に経験した窮乏と敗戦直後の惨めな敗戦意識であり、そこにはイデオロギー性はないようだ。
筆者も指摘するように、1945年6月の沖縄陥落以降の日本人の戦意では、とても内地戦は戦えないと警察当局も知っていたようだ。その意味で、敗戦を決定した御前会議での3対3の中の、戦争継続・本土決戦を主張する3票の主張は、おかしいのではないか。なぜならば、それはあまりにも現実離れし、全日本人の玉砕を想定し、飛び跳ねているからであり、ごりごり右翼の発想ではなかったか。次項の最後で筆者が触れているように、敗戦直前において、特高や憲兵の現状認識は、上層部(内閣顧問)から信用されていなかったという。
治安体制の自壊へ
経済検察は「経済治安」の観点から敗戦の兆候を1945年初頭には把握していたが、特高や憲兵は少し遅れて1945年春、戦意が急低下したころに、それを認識したようだ。それは「経済犯罪」が目に見えるのに対して、「思想犯罪」は目に見えず、疑心暗鬼に事件の抉り出しに追われていたからだろう。そして特高警察も思想検事も憲兵も、戦意の崩壊の大きな流れを押しとどめることはできなかった。
121 1945年6月6日、警保局保安課長は「独逸の戦列離脱、沖縄戦局の急迫化、主要都市に対する相次ぐ敵機の大規模来襲等により、国民の一部にありては戦局の前途に対し不安を抱き、或いは焦燥悲観するものあり、漸次敗戦的和平気運濃化の傾向あるやに看取せらる。斯くの如き気運の国民全般に波及瀰漫せんか、将来益々苛烈化を予想せらるる戦局下にありて決戦体制を攪乱するの虞なしとせざる」という現状認識に立ち、「敗戦的和平策動並びに言動者等の視察取締に関する件」*という通牒を発したが、敗戦濃厚の「気運の国民全般に波及瀰漫」する状況をどうにもできなかった。
*『太平洋戦争期内務省治安対策情報』第三巻
122 各府県の特高警察は民心の動向を警戒するとともに、左右両翼や朝鮮人の要注意人物をいつでも検挙・検束できるように「非常措置」の準備を進めた。左翼分子に対しては視察内偵を行い、親ソ的乃至ソ連礼賛的傾向や国体無視或いは国体軽視の傾向が生じていることをつかんでいた。*しかし8月15日の敗戦時に、この「非常措置」を発動して「反戦主義者」を一斉検挙・検束することはできなかった。その一つの理由には、対米英開戦時の一斉検挙・検束とは異なり、それを断行できるだけの治安体制の実力を失っていたと考えられる。
*警保局保安課『思想旬報』1945年7月、『特高警察関係資料集成』第30巻
なぜなら1945年6月ごろ、治安体制が機能不全に陥り始めた兆候がうかがえるからだ。反戦反軍や厭戦などと見なした者の摘発に狂奔する特高警察や憲兵を、為政者層の一部が見放す動きが出てきた。
1945年6月28日、終戦工作に従事していた海軍の高木惣吉は「時局収拾対策」*の中で、「治安維持の内面的準備工作」として「警察、憲兵を以てする治安維持対策は、政府の方針決定に従順機敏に随伴することに依り、表面上は解決せらるべきものなれども、従来の実情に徴するに、期待に副(そ)わざること多く、特に憲兵の場合に然り」とする。治安的観点からなされた監視では民心の正確な把握はできないという判断が、特高警察や憲兵への批判を導き出した。
*伊藤隆編『高木惣吉 日記と情報』下巻 みすず書房、2000年
123 同様な判断は、鈴木貫太郎内閣の五名の内閣顧問が、6月下旬から1か月間、勤労動員、民意高揚、民需軍需の調整などの分野を各地で行政査察してその結果まとめた報告書にも現れている。1945年8月7日付の報告書「行政刷新に関する綜合的意見要領」*に、「下情上達の機構乃至方策不整備なる為、民意即応の施策決定に遺憾の点多き」とし、その実例の一つが、「憲兵、警察の情報のみにては不十分」とある。
*『第13回行政査察(戦災処理関係)報告書』防衛研究所図書館所蔵
戦時教育の破綻のなかで
「皇国民」錬成教育も崩壊の一途をたどった。1945年5月、戦時教育令が公布されて学徒隊が編成された。学徒隊は「国民防衛の一翼」と「生産の中核」としての役割を学生に担わせるものである。これに関連して東京帝国大学学生課長は「学内教育を本則とし必要なるとき動員するというよりは、広義の勤労を教育の本旨とし、特に必要ある場合は学内教育をもなし得るという、謂わば教育理念上の転移」であると説明し、さらに教職員を念頭に「戦時教育における戦線離脱の退却者は、厳重に非難されねばならぬ」と述べた。*学生主事の役割は学生の勤労意欲をかきたて、監督統制することであった。ここには教育は存在しない。
*『大学新聞』1945年6月11日
124 一方驚くべきことに、勤労動員下の軍需工場内の学生寮で、社会科学書籍の読書会が開催されていた。河合徹はかつて人民戦線事件に連座して1年間拘留されたあと三光汽船*に勤務し、動員中の龍谷大学学生寮の寮長を務めていた1945年春ごろ、部屋に遊びに来る学生数人と読書会を行った。河合徹は『回想録 十五年戦争の中の青春』(日本図書刊行会1988)の中で次のように述べている。
*当時の三光汽船の社長は河本敏夫1911—2001で、河本は戦後政界入りして通産大臣などを歴任した。
「戦争・国家・宗教・哲学等に就いて対話が始まる。僕は彼らの輝く眼を見ている中に、この学生たちに真実を語らないわけには行かなくなった。僕は特高の眼を警戒しながらも、岩波文庫の「フォイエルバッハ論」「空想より科学へ」を家から送らせ、これを教科書として読書会を始めた。僕自身も今何をすべきかの判断はつかない。また戦後の構想なども五里霧中である。しかしこの戦争はかならず敗北に終わること、新しい社会主義の時代はかならず到来するにちがいないことを説いた。」
125 参加した学生の一人加藤西郷は1927年の生まれで、「十五年戦争の時機に成長し、中等・高等教育機関に入ってもマルクス主義や自由主義の名残りにさえ触れることができなかった」*世代に属する。この「教育錬成」のシャワーを浴びた世代が、特高の監視をかいくぐり、また実際に特高に引っ張られることも経験するなかで、このような社会科学の読書会を行っていた。あまりにも非合理的で、強権的な思想指導が徹底されればされるほど、それへの反発・批判が生み出されたのだ。
*米山俊彦『戦争末期における反体制思想学習の記録』野間教育研究所1997
敗戦後の治安体制
敗戦の事態に特高警察や憲兵は治安の役割が一層重くなったと自認・自負し、大増員を計画したが、GHQによって中止させられた。
126 各府県の特高課などの報告を受けた警保局の8月中旬の文書には「日本の敗戦は共産主義者の待望せる所にして、戦闘停止後の彼らの動向には凡(あら)ゆる努力を集中し、遺漏なき視察内偵を継続中」「生活問題に対し極度の不安を抱き、民心は相当の動揺の兆を現出しつつある」*
*「事務引継書類綴」、『特高警察関係資料集成』第36巻
憲兵司令部は「治安情勢」を連日のように発行し、8月19日付第二号には、「民心は逐次平穏に向かいつつあるも、未だ動揺の色濃く交通機関の混雑及金融機関への殺到、及婦女子の都市及沿岸よりの逃避は依然として続けられあり」とし、8月20日付第4号では「一般的に軍に対する侮蔑的態度、漸次露骨化しつつある」と指摘する。*
*「終戦後治安状況」其の一、防衛研究所図書館所蔵
警察当局は新治安維持法の宗教結社・集団に対する適用や、新たな「予防拘禁」の適用を控える方針を打ち出し、8月15日以後、おそらく治安維持法の新たな発動はなくなったと思われる。それでも当局には治安維持法を廃止する意志はなく、そのために京都学派の哲学者三木清は獄死した。また占領軍の進駐前に公判中の横浜事件などの司法的決着を急いだ。事実上治安維持法は失速した。
127 特別要視察人制度や「保護観察」制度で監視対象とされ言論を制約されていた「左翼分子」らは、8月下旬からは自由に活動できる領域を増やし、要視察人制度などを実質的に打ち破って行った。そして集会・多衆運動に対する警察の統制も利かなくなり、予防拘禁所内では自主的な運営が勝ち取られた。治安体制は大きく動揺していた。
10月4日のGHQの人権指令がこの動揺を決定的にし、治安体制を解体し、民主化への大きな障害となっていた治安維持法の廃止や、特高警察官の罷免などを命じた。GHQ情報教育部長のダイク大佐はその背景について「今回の命令は日本政府が自らの発意に基いて同様な改革を行う意思がないことが明確になって初めて発せられた」*と説明した。
*『毎日新聞』1945年10月6日
128 この人権指令は東久邇内閣を倒壊させたが、いくらか予測していた治安当局*1は、この指令の緩和や骨抜き、サボタージュに全力をあげ、その後の治安体制再構築のための根を残した。しかもこの指令から思想検事の罷免は漏れていて、司法省内部の機構改革で済ませた。*2
*1 三・一五事件の内偵や、「スパイM」の操縦で知られ、「特高警察の至宝」と呼ばれた毛利基(もとい)は、警視庁特高課長を経て破格の出世を遂げ、佐賀・岐阜・埼玉各県の警察部長を歴任していたが、敗戦後の9月15日、おそらく責任追及を逃れるために「病気」を理由にして退官した。その際、それまでの「功績顕著なるものある」として内務大臣から「賞詞」が授与された。これは沖縄県で戦死した島田叡知事に次ぐ二度目の受賞だった。(『朝日新聞』1945年9月16日付)
*2 その後の「公職追放」によって池田克、松阪広政ら一部の司法官僚と思想検事が追放された。
第三章 戦後治安体制の確立と低調化
――速やかな復活にもかかわらず「戦前の再来」とならなかったこと
129 韓国にとって1945年8月15日は独立記念日「光復節」である。その日韓国では治安維持法で牢屋に入れられていた人々を民衆が助け出したが、日本ではそうはいかなかった。菊池邦作*は9月、治安維持法の撤廃と政治犯の釈放を要求したが、相手にされなかったようだ。また政府はGHQの人権指令を骨抜きにし、治安体制を素早く復活させたが、戦前と全く同じでもなかった。
*菊池邦作は『徴兵忌避の研究』立風書房1977を著した。治安維持法で検挙され拷問を体験した菊池は「この法律さえ制定されなかったならば、日本軍国主義者はその野望を達成できず、今次大東亜戦争は勃発せずに済んだであろう」と語る。(「日本民主化に関する基本的要綱」、多喜二奪還事件80周年記念文集編集委員会編『多喜二文学と奪還事件』2011)
感想 この想定それ自体が甘いのでは。為政者は政権維持に必要だから治安維持法を制定・改正した。
日本政府は8月15日以降も治安維持法と特高警察・思想検察を存続させた。政府・為政者層は、敗戦に伴う社会秩序の混乱を恐れ、軍解体後の治安体制を唯一の頼りにしていた。10月4日のGHQの人権指令によって戦前の治安体制が「解体」され、思想犯も釈放されたが、人権指令の履行にあたり、日本政府はサボタージュと骨抜きに終始した。そして冷戦進行に伴うアメリカの占領政策の転換とも相まって、敗戦後数年を経ずに治安体制を作り出し、戦前的理念・組織を継承した。しかし戦前の治安体制との違いもある。
戦前治安体制の復活
130 安倍晋三は「1930―40年代の世界と現在の世界、日独伊三国同盟と日米同盟とを同列に扱うのは間違っている」*と言ったが、私は日米同盟=日米安保体制は1940年の日独伊三国軍事同盟と同列であり、ファシズムを志向していると思う。
*2014年7月14日、衆議院予算委員会の集団的自衛権をめぐる集中審議
131 日本政府は公然と戦前と同じ戦時体制を目指してはいないが、戦後70余年間にもっともらしい理屈と既成事実を積み重ね、曲折を経ながらも、実質的に再び戦時体制の構築に向けて少しずつ進んでいる。
戦前の治安体制は戦後間もなく復活し、日本の独立と合わせて1950年代前半に確立した。戦後の民主化の潮流と様々な社会運動の沸騰に、政府為政者層と、冷戦激化に向けて占領秩序の維持を最優先するGHQは、大きな危機感を抱き、戦前と同じような治安体制の復活を必要とした。それは21世紀にもつながるが、戦前的な社会運動の封じ込めや思想統制をもたらさなかった。そのことは60年安保闘争の大きな高揚が物語る。
新たな戦時体制の構築は容易にはできなかった。在日米軍基地から米軍が出撃して兵站の拠点になったことはあったが、日本国憲法の下、日本が主体的に戦争を仕掛け、内外に犠牲者を生み出すことはなかった。
132 1952年に破防法が制定された時には治安維持法の復活が叫ばれ、1966年の「建国記念の日」制定時には「紀元節の復活」が叫ばれた。近年の特定秘密保護法や共謀罪法の制定に当たっては、「現代の治安維持法」とアピールされ、反対運動が高揚した。
破防法では団体活動の解散条項が凍結状態にある。その理由は、制定時に「治安維持法の復活」という呼びかけが多くの人々に浸透して反対運動が盛り上がったことや、施行後に何度かあった団体解散の徴候に反対運動・世論が盛り上がったことなどが、その安易な運用を阻止し続けているからだ。
しかし安倍政権となって新たな戦時体制構築のピッチが急となり、戦前回帰が現実的になった。
人的な継承
133 GHQの人権指令1945/10/4は戦前治安体制を強権的に解体させたが、その根を完全に除去することはできなかった。それは日本の治安当局・為政者層が巧妙・執拗に温存を画策したからである。
「横浜事件」をフレームアップした神奈川県警察部では、1945年10月8日、特高課と外事課が廃止となり、12月21日、特高・外事警察関係者256人が「依願免の形式で退職」した。これは県警察官の9%であり、「定員不足に悩む警察部としては実に大きな痛手」だった。その中で、特高警察官の一部は県の機関である「勤労署」や建築課などに再就職した。*
*神奈川県警察史編さん委員会編『神奈川県警察史』下巻、神奈川県警察本部1974
また追放の基準日を人権指令が出された10月4日としたために、それ以前に特高警察から離れていた者は罷免を免れた。その一人が、8月15日時点で藤沢警察署長であった松下英太郎である。松下は横浜事件の捜査・取調べの第一線の実行部隊の隊長とされる特高課第一係長だった。松下は罷免を免れただけでなく、神奈川県警察部の「監察官」に就任した。1946年4月16日付『民報』は「特高追放の網を潜り拷問警視が監察官」という見出しで次のように報じた。
「神奈川県では民衆の批評に注意を払い、民衆から愛され、信頼される警察を作るために監察官の陣容を大きくし、これまでの主任警視一名を二名に増加したが、新任されたのは、なんと以前特高課第一課長で戦争中拷問警察官で鳴らした松下英太郎警視である。民主警察を作るといいながら、警官の正邪を明らかにするお目付け役の監察官の幹部に、特高課上がりで民衆を苦しめた警察官を入れていることは、警察官の再訓練の上にも悪影響を及ぼし、警察官がこれまでのように特高警察的になってしまうのではないかと危ぶまれている。」
その後松下は、横浜事件関係者(笹下会)が神奈川県特高警察官を共同告発する1947年4月27日の時点で、「元神奈川県警部」となっている。その退職の経緯は不明である。松下を巡る人事は、神奈川県警察部において、横浜事件についての無痛覚・無責任だったとうかがわせる。
次は池田克。池田克は治安維持法を名実ともに支える第一人者であった。1945年10月、池田は名古屋控訴院検事長から大審院検事局次長となり、治安維持法廃止後の治安維持立て直しの切り札的役割を果たした。1946年6月、池田は全国の各高等検察庁・地方検察庁に通牒「労働争議及び食糧闘争関係事犯の検察方針並びに経済事犯の新取締方針に関する件」を発したが、その中で、大衆運動が「合法運動を逸脱し、放置し難い犯罪を随伴する」場合は、秩序維持の立場からそれらを取締りの対象とする、という指示をした。*これは戦前の取締りの論理そのままである。
*法務府検務局『労働関係実務資料集』「検察資料12」
この直後池田は、公職追放となったが、1952年4月に追放解除となり、1954年11月、最高裁判所判事に任命された。そして治安維持法について問われると「あの時代の国家の事情としては、国会を通ったのだし、望ましいことではないにしても、止むを得なかったのではないか」*と他人事のようにその運用の責任を、法を成立させた国会に転嫁した。池田は松川事件裁判でも、(最高裁の中の)少数派の有罪の立場をとった。池田の治安観は戦前と戦後を通じて一貫していた。
*『週刊朝日』1955年2月27日号
次は田中義男である。戦前の田中は思想統制担当で「教学錬成」に関わった文部官僚だった。田中は群馬県・長崎県の各特高課長などを歴任した後に文部省に移り、思想局思想課長や教学局庶務課長を務めた。戦後は公職追放解除後の1952年2月、文部省初等中等局長(その後文部次官)となり、教員の政治活動規制の中心となった。*
*久保義三『昭和教育史』戦後編、三一書房1994
136 憲兵は戦後に戦争犯罪追及と公職追放に見舞われたが、一部はその経験を生かして戦後の諜報組織加わっていったようだ。陸軍憲兵学校出身の某元憲兵は、公安調査庁に勤務し、中堅幹部になった。*
*牟田照雄「陸軍中野学校の考察」『Intelligence』2015年5月
上坪鉄一 上坪は関東憲兵隊で憲兵隊長を務めた。撫順戦犯管理所で認罪と有罪判決・服役を経て、1958年帰国後、「公安調査庁や防衛庁等への就職の話」を断り、出版社に勤務した。*
*伊東秀子『父の遺言』花伝社2016
公安調査庁は1952年7月の発足の4年後に、旧内務省庁舎の人事院ビルから、九段の旧憲兵隊司令部の建物に移転した。
理念の継承
戦前の治安理念は「国体変革の防遏(ぼうあつ)」であったが、戦後民主主義の滔々たる潮流のなかで、新たな治安理念を必要とした。戦後のごく初期には「安寧秩序の維持」が用いられたが、1946年6月の「社会秩序保持に関する政府声明」では、「民主主義の擁護」が名目となり、それが「平和主義及び民主主義の健全な育成発達を期するため」として制定された団体等規制令1949や、その後の破防法(破壊活動防止法1952)に引き継がれた。
137 破防法の最終名目は「公共の安全の確保」となったが、この論理は各自治体で制定された公安条例に踏襲された。これらの新たな治安の理念は、実質的に「安寧秩序の維持」と同義である。破防法の立案者関之(いたる)は、その解説の中で次のように述べている。*
*関之・佐藤功対談『破壊活動防止法の解釈』学陽書房1952
*関之は戦前は経済検事であったが、戦後は法務府特別審査局総務部長として破防法立案の中心となり、後に公安調査庁総務部長になった。
「内容的な比較においては、「公共の安全」という方が、やはり新憲法の精神を現わして、そこに国家全体の民主主義的な秩序が平穏に守られて行くという意味合いにおいて、よりよい表現ではないか。何だか「安寧秩序」ということになると、昔風な、旧憲法的な考え方がそこに出て来て、どことなく権力的な感じがしておもしろくない。」
138 両者は同義としたうえで、「安寧秩序」を避けたのは「語感」や「天下り的な、権力的な感じがして非常に悪い印象」を与えるためであった。
戦後治安体制の存在意義は、名目は「民主主義の擁護」や「公共の安全の確保」であったが、実質は占領期の占領政策遂行の保障であり、講話独立後は、日米安保体制の国内的保障であった。「民主主義」の意味は、「自由主義体制」=「資本主義体制」であり、多数決を絶対視する議会制民主主義であった。
占領期の1950年ごろに群馬県の国家地方警察が士気高揚のためにつくった「治安の闘士」という警察行進歌の三番の歌詞は次のようである。*
*作詞・作曲明本京静『上毛警友』1950年6・7月合併号
「嵐吹け、兇徒(ぞく)来たれ、何するものぞ 断固たつ我等あり、死をも恐れず
熱血凝(こご)るところ、理想の楽土 ああ期するあり、そのあした
挙(こぞ)り起(た)つ吾等こそ治安の闘士
139 この歌の一番に「国の治安を担いて起てる」とあるように、日夜錬磨した「破邪の警防」を武器として「兇徒」を迎え撃つというこの「治安の闘士」は、機動隊を連想させる。機動隊は反政府的社会運動の集団に対して急速に整備された。1952年のメーデー事件、1958年の警察官職務執行法改正反対運動、そして1960年の安保反対闘争などにこの「治安の闘士」が動員され、もう一つの「民主主義」を求める集会やデモは鎮圧の対象となった。
思想検察からいち早く衣替えした労働検察・公安検察は、戦後の治安秩序の再構築にあたったが、1954年5月、全国公安労働係検事会同で、最高検察庁の公安部長は、かつての思想検察と見まがうばかりの「転向」論を次のように展開した。*
*法務省刑事局『公安・労働実務資料集(三)』「検察資料67」
「日共党員による公安事件は、その本質上いわゆる確信犯というべきものであり、彼等がその信奉する思想的乃至政治的な立場を棄てて転向を表明するに至る動機は、多種多様なものがあろうかと思料されるのでありますが、彼等の取調に当たる検察官が信念を堅持し、毅然たる態度にて接することが、彼等の転向に影響するところ決して少なくないことは、過去の経験に徴しても明言しうるところであります。しかのみならず、広くこの種公安事件を適正に処理するためにも、検察官が彼等の思想的乃至政治的信条に対して確乎たる信念を持つことが、先ず基本的な要請であります。」
140 共産主義思想の放棄=「転向」を求めることが「この種公安事件を適正に処理するために」あたりまえの方針になっていることは、戦前の思想検察と何ら変わりがない。「過去の経験」には治安維持法下の思想犯罪「処理」の膨大な経験の蓄積が含まれるはずである。そして「確乎たる信念」とは反共の理念であり、「天皇の検察官」の意識であった。
敗戦を経ても「天皇の警察官」や「天皇の検察官」意識が戦前と基底でつながっていたことは、昭和天皇の侍従入江相政(すけまさ)の戦後の日記に散見する「賢所裏で警察大学終了生482名に賜謁」*1「優良警察官の奉拝」*2などからうかがえる。ストライキの頻発や共産党の進出を憂慮する昭和天皇自身の治安感覚も不変だった。1948年3月、芦田均の組閣に際して、すでに象徴となっていたはずの昭和天皇は、「共産党に対しては何とか手を打つことが必要と思うが」*3と述べている。
*1 1950年4月15日、『入江相政日記』第二巻、朝日新聞社、1990
*2 1953年3月6日、同第三巻
*3 『芦田均日記』第二巻、岩波書店、1986
各組織の継承
141 GHQの人権指令による特高警察と思想検察の解体も束の間、GHQの了解のもとに、占領秩序と為政者にとっての「民主主義の擁護」の名目で、「公安警察」と「公安検察」とがいち早く創設され、戦後社会運動・民主主義運動の高まりに呼応して拡充整備された。*
*荻野富士夫『戦後治安体制の確立』1999
早くも1945年末に、「社会秩序維持」のための「多衆運動」の「不法行為」の取締りを名目に「警備公安警察」が創出された。また1946年2月23日、勅令101号「政党、協会其の他の団体の結成の禁止等に関する件」が施行され、国家主義団体の調査や外国人登録を担当する内務省調査局は、密かに左翼出版物の動向も監視した。この内務省調査局は1947年末の内務省解体後の総理庁内事局を経て、1948年2月、その第二局は法務庁特別審査局に、同年3月には、第一局が国家地方警察に移行し、罷免・追放されていた内務・特高官僚は「逆コース」到来とともに復活した。
司法・検察官僚は戦後の司法機構にほとんどそのまま流れ込み、「不法」な労働運動・大衆運動の抑圧と取締りに積極的に乗り出した。1947年9月に労働係検事が、また1951年12月に公安係検事が設置され、中央の法務府に労働社会課と公安課が設置された。
142 1948年11月、(法務庁)特別審査局141は、元思想検事でゾルゲ事件や企画院事件を担当し、戦後は不敬プラカード事件*を担当した吉河光貞*が第二代局長に就任すると、左翼社会運動の取締りに急転回した。特別審査局とその後身の公安調査庁の中枢は、「公安検察」と「公安警察」から構成された。
*不敬プラカード事件 1946年5月の食糧メーデー(飯米獲得人民大会)の際に、日本共産党員の松島松太郎が掲げたプラカードが不敬であるとし、一審では不敬罪で起訴されたが、GHQにより名誉棄損罪に変更された。控訴審では不敬罪容疑が復活したが、大赦・免訴となった。松島松太郎「朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね、…」恐ろしい。何も言えない。
*吉河光貞1907—1988, 東大法学部在学中は新人会員で日本共産党員だったが、卒業直後に離党し、翌年から検事に。変わり身の早い奴だ。
戦後治安体制の主翼群である「公安警察」や「公安検察」と、公安調査庁は、分担協力しつつ競合・対立もした。それは戦前と同様である。また公安検察は経済検察とも確執があった。経済検察は特捜検察につながる。
戦前治安体制の「補翼群」としての経済警察・経済検察は、敗戦時に崩壊しかけ、取締機関に(民衆の)非難が集中して機能停止状態に追い込まれたが、1946年、統制経済の再始動とともに復活した。眼前の経済急迫が「国民生活に加うる圧迫の深刻なる点に鑑みまするならば、治安上由々しき事態の発生をすら予想して、万一の場合に備うるの覚悟がなければならぬ」*とするが、これはかつての「経済治安」に対する警戒と同質である。
*1946年2月の経済係判検事合同での佐藤藤佐(とうすけ)司法省刑事局長、司法省『新経済月報』1946年4月
143 外務省警察は敗戦後間もなく消滅するが、引き揚げた警察官は「人権指令」の影響を受けることなく、その特高警察経験を生かして、各府県警察や特別審査局、入国管理局などに再就職した。
感想 戦前の外務省(特高)警察(外務省は国外(中国)に警察組織を持っていた)は、1945年10月のGHQ人権指令の影響を受けることなく、各警察や特別審査局、入管などに入った。入管=特高である。特別審査局1952/8とは、破防法対応の法務省の外局(前身は法務府特別審査局1950/8)である。
また社会労働運動の抑圧は「民主主義制度擁護」を名目にGHQ了解のもとに行われた。
治安法令の再整備
GHQ「人権指令」は治安維持法や治安警察法の廃止を余儀なくさせたが、行政執行法*や警察犯処罰令*などは残存した。さらに占領政策「保護」のために制定されたポツダム勅令・政令を足がかりに治安法令が再整備された。
*行政執行法 1900年に成立・施行。1948年の行政代執行法の成立時に廃止。保護検束、予防検束、衛生・治療の強制、居住制限、住居捜査、土地・物件の使用・処分権の制限、強制、物件の処分、蒸し返し検束など。
*警察犯処罰令 1908年の内務省令。1948年の軽犯罪法により廃止。警察が裁判所を経ずに罰(拘留・科料)を加えることができた。
なかでも1949年4月の「暴力主義的及び反民主主義的な団体」の禁止を目的とした「団体等規制令」(ポツダム勅令第101号を改正)は占領期最強の治安法であり、これに基づいて、9月、在日本朝鮮人連盟が解散させられ、公職追放された。その解散理由は「全国各地に亘って、しばしば占領軍に対する反抗反対或いは暴力主義的事犯を惹起し、ポツダム宣言を忠実に履践して平和なる民主的国家を再建しつつある我が国民生活の安全に対し重大なる脅威を醸成し来たった」とする。*
*法務府特別審査局『特審資料』1951年2月1日
144 また1947年の二・一ゼネスト禁止令や1950年の、朝鮮戦争直前の日本共産党中央委員会の追放、『アカハタ』発行停止などのマッカーサー指令は、占領期に、法令と同様の効力を持ち、この指令によってレッド・パージの遂行も可能となった。これらの執行の主役は特審局(法務府特別審査局)であり、その規模は二倍に拡充された。
1948年7月の大阪府公安条例を先駆とし、公安条例が各地に制定され、集会・デモの規制・取締りを規程し、大衆運動の抑圧に威力を発揮したが、GHQが条例モデル案を提示し、強く要請していた。
感想 米軍、特審局(特別審査局142)に要注意、彼らが大衆運動を規制する主役だった。
法務府特別審査局とその後身の公安調査庁の中枢は、「公安検察」と「公安警察」から構成された。142
破壊活動防止法の成立
講和「独立」とともに団体等規制令などが失効し、それに代わる新たな治安立法が必要とされた。「講和後の治安対策の中心は日米安保条約」とされ、「公安保障法、ゼネスト禁止法や、集会デモ取締法、防諜法などの立法」*が準備された。その中心が「公安保障法案」であり、これが1952年7月制定の破壊活動防止法となった。
*大橋武夫法務総裁談、『朝日新聞』1951年9月17日付
145 新治安法案の狙いは、「…順序としてまず共産党を非合法化する前の緊急対策として、これらを取締るための厳重な立法を行うこと」*にあった。講話「独立」後の日米安保体制を機能させるためには国内の治安維持が不可欠だった。1950年代前半、共産党を中心とする勢力は、脅威・障害と見なされていた。
*関之『破壊活動防止法の解説』文化研究社1952
対共産党取締機関としての特審局の活発な活動や、大橋武夫法務総裁の治安体制構想などが、新聞で大きく報道されると、世論は治安維持法の再現、特高警察の復活だと猛反発した。
146 破防法案の立案当事者は「この法の立案は、治安維持法の苦き経験を反省することにより作業を進めたものであり、従ってこの法案からは、治安維持法が内包していた法的欠陥は、十分に排除した」と関之137は弁明した。かつて治安維持法運用の当事者であった元思想検事の吉河光貞142を長とする特審局が「治安維持法の苦き経験」と述べる点に破防法の欺瞞性が現れている。
治安維持法と破防法の成立経緯はよく似ている。立案当初*1は取締り対象を最大限に拡張した構想を提示し、世論の動向を観測しつつ、次第に当面必要とする範囲に取締り対象を絞り、「完全な法案」に近づけた。*2
*1 治安維持法の場合は1922年の「過激社会運動取締法案」がこれに当たる。
*2 共謀罪法2017の場合も、対象とする犯罪数を半減させて取締範囲を制限したかのような手法を用いた。
破防法の場合、立案当初は、団体届出制、不法団体解散・財産没収、公職追放、予防拘禁制まで構想していたが、反対論に配慮する形で、最終案は「必要最小限度の規定」=「暴力主義的破壊活動」に絞ったとして、思想取締りに及ぶことはないとしたが、「暴力主義的破壊活動」の概念は不明確であり、「教唆・扇動」規定に現れる思想取締り志向などが隠されている。また除外された部分は、かつての治安維持法同様、破防法運用の拡大された先の「改正」が繰り返される恐れがある。
147 治安維持法と破防法との類似性は、行政警察的な機能を持っていることである。破防法は本来的に「ある危険活動を行う可能性がある場合に、その可能性を失わしめる」「一種の保安的な行政処分」*という予防的な措置を目的としていた。そうした「調査」を業務とするのが公安調査庁であり、尾行・張込みなどスパイ活動を日常的に行っている。
*関之「破壊活動防止法の要旨」、『警察学論集』1952年7月
感想 既に治安維持法は破防法として復活していた。
自衛隊の警務隊と調査隊
1950年、警察予備隊が発足し、再軍備が始まった。GHQからその「大綱」が示され、その第一に、「予備隊の性格は事変、暴動、一定の限度を超えた政治的ストライキ、悪質な政治陰謀などに備える治安警察隊」であるとされ、さらに「強力な情報網をもつ」とされた。*1治安機能は軍隊に本質的に備わるものだが、特に重視されたと言える。当時の警察予備隊は国内の治安状況を強く意識していた。室戸久志は「講和条約発効後の国内に於ける日共遊撃活動は、益々激化の一途を辿るものと予想される」*2としているが、これは1930年代の憲兵の治安認識と同一である。
*1 『日本労働年鑑』1952年版
*2 室戸久志「日共が日本国内に於いて展開しようとする遊撃戦と武装行動綱領の二つの正体と概略」、警察予備隊本部警務局編『警察予備隊資料』第三、四集、1952年3月、6月
1952年8月、警察予備隊が保安隊(自衛隊の前身)に拡充され、軍隊としての性格を強め、憲兵的機能が創設された。1953年2月13日付『毎日新聞』は「保安隊の「MP」既に駐屯地へ配属 腰に警棒、自動ピストル 巡察はジープに乗って」という見出しで、「警務隊」創設を報じ、「〝憲兵化″を極力戒しむ」と警戒した。
149 この記事によれば、警務隊の規模は定員720余人で、本部中隊と、四管区ごとに一個中隊が配置され、保安隊の駐屯地に分隊が置かれた。その任務は①保安隊、警備隊(海上警備隊、のち海上自衛隊)内部に起った犯罪捜査、②保安隊員、警備隊員が一般国民に対して犯した犯罪の捜査、③一般国民が保安隊、警備隊に対して犯した犯罪の捜査」を挙げる。①と②は軍紀に関わる軍事警察だが、③では「一般人の捜索(捜査)はできる限り避け」、また留置も自らは行わないなど「運営上」の注意を極力払うとしながらも、保安隊や警備隊に対する「犯罪」とみなされるものへの捜査を実行するとしている。*
*ただし警務隊は軍隊内の警察任務を重視した米軍の憲兵をモデルとして発足し、1960年代を通じて、自衛隊では、警務隊の戦前憲兵制度との継承関係を否定していたようだ。
警務隊とは別に戦前軍隊の情報部門を引き継いだ調査隊も保安隊の発足とともに創設された。創設時の規模は214人で、本部の他に、本部直属の分遣隊と、各方面部隊に5つの分遣隊が設置され、警視庁出身の磯山春夫が隊長となった。陸軍中野学校の出身者も加わった。1954年の防衛庁発足後は、陸上自衛隊調査隊となり、600人を擁した。海上自衛隊、航空自衛隊にも調査隊が編成され、それぞれ40人と60人であった。
150 自衛隊の各駐屯地に配置された調査隊派遣隊には「自衛隊の行動及び部隊の健全性保持に影響を及ぼす担当地域内の情勢を「基本的対情報収集項目」として平素から自主的かつ継続的に収集記録する」任務があった。*1また次のような、自衛隊を巡って社会的な関心の集まる問題についても、入念な調査を行っていた。*2
「基本的情報収集項目による収集活動は当面の状況に応じ、中央が命ずるEEI(情報主要素)に応えるように努力の重点を指向する。ちなみに1960年代後半には地対空ミサイル、ホークの米国からの導入に伴う対象勢力の動向把握がEEIであった。当時の左翼はミサイルを侵略戦争の兵器と誤解し、集会、デモ、抗議行動を繰り返しており、横浜港における揚陸妨害、駐屯地への輸送・搬入阻止が懸念されていた。」
*1 高井三郎「知っておきたい情報科部隊の歴史と実情⑥」、『丸』2014年10月
*2 高井三郎「公然活動による情勢把握は常套手段だ 情報保全課「流出文書」の真相」、『軍事研究』2007年8月
これらの任務は調査隊から現在の情報保全隊に引き継がれた。2003年末からのイラク自衛隊派遣反対運動に対する監視活動はその一つである。(後述)
1950年代半ばに治安体制が確立した
151 戦後の社会運動の急激な再興と社会秩序の混乱に直面した支配層は、占領・講和期に治安体制の再生と創出を急いだ。占領期の政策転換=逆コースが進められた1948年ごろから、治安体制の確立は最優先課題となった。
1952年4月の独立を挟んだ第13回国会では「何よりも独立後の防衛・治安力の急速な強化がなされた」*この国会で破防法が成立し、1951年、「公安検察」が設置され、1954年の新警察法の警察中央集権化によって「公安警察」が強化され、1955年までに戦後治安体制が確立し、現在の治安体制の原型となった。
*朝日新聞「「独立国家」を顧みて」1952年8月1日
爆発物取締罰則、暴力行為等処罰法、行政執行法、検察に顕著な機構や人脈、抑圧取締りのノウハウなどが戦前から踏襲された。表向きは人権指令を遵法しつつ、罷免を免れた元特高関係者が巧妙にもぐりこんだ。
152 1950年代に公安警察は戦前の特高警察の規模を上回り、公安調査庁は1700人を擁した。機動隊は中央集権的な警察の指揮下に入り、安保改定時の巨大な反政府運動に実力で対峙した。さらに自衛隊の「治安出動」も背後にある。
文部省による教育統制も強化された。1953年5月、大達茂雄*1が第五次吉田内閣の文相になり、初等中等局長だった田中義男を文部次官に昇格させ、田中の後任に緒方信一*2を据え、この大達、田中、緒方のラインは日教組対策と言われ、1954年6月、「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」などの教育二法を実現し、教職員の政治活動を制限した。
*1 昭南特別市長、小磯内閣内相
*2 青森・三重県特高課長、警視庁外事課長を歴任した。
日米安保体制下の治安体制へ
1955年11月、保守合同が実現して自由民主党が生まれたが、その「一般政策」の第六「独立体制の整備」の一つとして、「共産主義、反民主主義活動に対する対策を確立し、国内治安を確保する」*が追加された。その具体的な取り組みとして、1956年2月、治安対策特別委員会(委員長・青木一男)が設置され、公職追放解除後に国会議員になっていた相川勝六、富田健治、町村金吾ら旧内務官僚がそのメンバーとなった。
*自民党編『自由民主党党史 資料編』1987
1956年から1957年にかけて、鳩山一郎内閣が日ソ国交回復に取り組み、それが治安への危機感を強めたが、かつての治安維持法制定の理由の一つも、日ソ国交の樹立が共産主義思想の流入への対策であった。1956年6月11日付『朝日新聞』は、治安対策特別委員会を中心に「総合的な国内治安対策」構想を練る動きがあるとし、岸信介・幹事長が「今の治安体制では治安の予防措置は覚束ない、昔の特高警察的なものは避けなければならぬが、独立国で政治警察を持たない国はない」と報じた。
また日本経営者団体連盟*1も治安対策強化を検討し、国家機密保護法の制定、共産党員の公務員・銀行・基幹産業からの排除、外事警察の復活などを自民党に要望し、その中で、「入社試験の際の思想・経歴調査を強化し、社員の昇進では公安調査庁などと連絡を強めて、社内の重要な地位へ進出するのを防がねばならない」*2などの対策が講じられた。
*1 これは経済団体連合会と統合し、現在の日本経済団体連合会となった。
*2 『日本労働年鑑』1958年版
154 1957年2月、岸政権が発足し、総評の春闘に刺激されて総合的な警備対策の樹立が急がれた。1957年6月2日付『朝日新聞』は「政府は間接侵略や大規模な騒乱、天災地変などに対処して、直ちに強力な警備体制を布(し)けるよう計画を作ることになり、内閣官房調査室、警察庁、防衛庁、法務省、公安調査庁など関係当局間で連絡を取りながら、具体案の検討を始めた」と報じた。
1957年6月、岸首相が渡米したが、その際に安保改定を提議するとともに、自民党治安対策特別委員会が立案した「治安対策要綱」を米側に提示したと言われる。*1 1957年7月22日付『東京新聞』が報じた「治安対策要綱」が、それに関連すると推測される。
①日共を中心とするすべての反民主主義活動を抑圧するため、破防法改正やその他の新立法を制定する。
②天災地変や暴動が起こった場合の対策として、戒厳令に代わる新法をつくること。
③防衛関係の広範強力な秘密保護法、スパイ取締法の制定をはかること
④総評などによるゼネスト対策として、鉄道営業法、公労法を改正(罰則を設ける)し、あらゆる非合法実力行使を抑制すること
ここでは反政府的な運動は「反民主主義」として抑圧される。また「戒厳令に代わる新法」は2012年の自民党改憲草案の「緊急事態」に引き継がれた。(後述)日ソ国交回復を契機とする治安への危機感から、安保改定に備えた治安体制の再強化に移行した。岸首相の治安構想は、1957年6月の渡米前に駐日大使ダグラス・マッカーサー*2に語ったと言われる次のNHK記事から類推できる。*3
「憂慮される暴力集団の横行に対処するため、警察の権限と権威の強化を図るための法案を9月の国会に提出する。これによって、共産主義者に対する対応を強化できる。12月の通常国会では、減税法案を出す準備をしている。これは労働運動、教育界、秘密情報保護のためにとろうと考えている戦略を遂行する上で、また政権の人気を維持するために重要である。引き続き自衛隊の増強も計画している。さらに参議院の全国区の廃止と、衆議院の小選挙区制導入を決意している。これによって両院で自民党が三分の二の議席を獲得し、憲法改正を可能にしようと考えている」
*1 星野安三郎「戦後治安立法の制定過程」、『法律時報臨時増刊 治安立法』1958年12月
*2 連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの甥
*3 NHK取材班『戦後50年その後の日本は』第一巻、日本放送出版協会1995
156 この60年前の岸信介の企図は、そのまま孫の安倍晋三によって実現の直前まで進展した。そしてこのNHKの記事は、第一歩を踏み出した新たな戦時体制が、米の意向に沿ったものであることを強く示唆している。
岸はまず1958年2月、防諜法案の国会提出に言及した。自民党の治安対策特別委員会153と国防部会がまとめた法案は、防衛に関する折衝中の外交交渉も防衛秘密とし、漏洩に対して最高刑15年の懲役としたが、これは安保改定に備えるものであった。
157 これに対して1958年9月23日付『朝日新聞』社説は、「〝国防省″と〝防諜法″の危険性」は「この法案が、戦前、戦時にわたり、国民が苦しめられた軍機保護法や国防保安法の復活を思わせるところに、見逃せない危険性がある」とし、他社もこぞって批判的論陣を張った。また自民党内の足並みもそろわず、防諜法案の国会提出は見送られた。
それに代わって岸は1958年10月、抜き打ち的に警察官職務執行法改正案を提出した。改正理由は「我が国が独立を回復し、警察が現行法規を忠実に執行し治安の確保を図る段階になって、その不備欠陥が次第に明らかになるとともに、情勢の変化に伴う新しい要請も加わり、漸く法改正の必要が痛感されるようになった。」*ここで「情勢の変化」とは1950年代半ばからの労働運動・市民運動などの広範化と激化を指す。
*警察庁『警察官職務執行法の一部を改正する法律についての資料』1958年
岸は「警察官が責任をもって治安維持にあたるには、犯罪が起こる前にそれをある程度予防する措置を講じなければならない」*と語る。「改正」法案のポイントは警察官の制止や立入権限の拡大強化であり、戦前の治安警察法や行政執行法の再現を目指した。この行政警察的機能が全開してこそ、破防法などの治安法令の威力が発揮される。警察庁の説明は「個人法益の保護」に傾いている現状を不備欠陥と考え、「公共の法益の保護」を重視するとした。
*原彬久『岸信介 権威の政治家』岩波新書1959
158 これは戦後の警察「民主化」の最後の砦を壊そうとするものであり、反対論を考慮して、隠密裏に改正作業が進められ、新聞に報道されると一挙に国会に提出された。『週刊明星』は1958年11月9日号で「またコワくなる警察官 デートも邪魔する警職法!」と題する記事で「警職法改正という最初の治安立法の第一のコマを倒せば、あとはもうショウギ倒し、ゾクゾクとお化けが登場してくるに決まっている」とした。破防法反対運動を上回る反対運動が全国規模で急速に展開され、岸内閣打倒にまで高まると、警職法改正案は廃案を余儀なくされた。岸「千載一遇の機会を失した」*
*岸信介『岸信介回顧録』廣済堂出版1982
159 警職法は改正には失敗したが、その後の運用で実質的に拡張解釈がなされた。安保闘争時の機動隊は、国会を取り巻く教授団に対して、「重武装の千人くらいの機動隊が、アッという間に私達に襲い掛かった。…私は先頭の彼らが「おまえらもミナゴロシだ」と叫んで殺到するのを何度もはっきり聞いた」*と証言する。このことは今の沖縄の辺野古や高江での機動隊警備と重なる。
*藤田省三「6・15事件流血の渦中から」、『朝日ジャーナル』1960年6月26日号
安保改定時の国会請願デモ隊が国会構内に突入した事態に、自民党は「国会の審議権の確保のための秩序保持に関する法律案」、いわゆる国会周辺デモ規制法案を1959年12月に提出し、翌日衆議院で可決させた。(その後、修正案が参議院で可決されたが、衆議院で採決されず廃案となった)国会突入の中心となった全学連に対して、法務省・公安調査庁が、破防法の団体適用を検討し始めたと報じられたが、間もなく断念された。しかし全学連は公安調査庁から破防法の「容疑団体」とされ、その活動が常時監視されるようになった。
160 警察側も対決姿勢を強め、1959年12月の全国警備課長会議で、柏村信雄警察庁長官は、安保阻止統一行動(第八次)を「全学連や一部過激分子が大衆行動を混乱に引きずり込んだもの」*と指摘し、「集団的不法越規事案について断固とした取締りを行うよう」に指示した。
*『朝日新聞』1959年12月4日付
1960年6月15日のデモ隊と機動隊との衝突による樺美智子の死という事態に危機感を抱いた自民党は、治安対策特別委員会153や暴力対策特別委員会が中心となり、一挙に防諜法、共産党員の公務員就職を禁止する特別立法、警職法改正などに動き出し、その治安観を共有する岸信介首相は、自衛隊の治安出動も画策した。しかしその強権的姿勢は自民党内部からも反発を受け、退陣を余儀なくされた。
1960年代「治安体制」の安定
池田内閣の国家公安委員会委員長に山崎巌が就任した。山崎巌は東久邇内閣で内相を務め、「人権指令」によって罷免された人物だ。しかし新政権が「低姿勢」を方針としたために、強権的治安対策は転回された。1960年7月31日付『朝日新聞』は「治安立法強化せず」という見出しで、治安政策の転換を次のように報じた。
「岸前内閣は先に安保新条約をめぐる混乱に対して、治安立法を含めた積極的な治安対策を早急に確立するとの方針を決めたが、山崎国家公安委員長は就任以来、池田首相、国家公安委員、警察庁幹部らと再三にわたって打ち合わせた結果、(一)警職法、警察法、暴力行為等処罰法の改正などの治安立法強化はいっさいやらない。(一)デモ取締りのための特別な対策は当面たてない。(一)その他、いわゆる〝大上段の″治安対策には手をつけない。(一)その代わり、ここ数年計画で警察の機動力増強に努める、というハラを固め、その方針に沿って治安対策に対処する意向である。」
同記事によれば、警察当局にも安保闘争の要因として、「岸内閣の強引な政治のやり方に対する反発が主」という認識があるほか、新治安立法が必要な差し迫った状況はなく、警察機動力の増強*1の方が当面の治安維持に有効という判断があった。さらにこの直前に公安条例(が)合憲の(だという)最高裁判決が出たこともあった。また池田首相自身もまもなく「内閣としては国論を二つに割るような政策をとる考えはなく、憲法改正、治安立法、小選挙区制などを強行する考えはない」*2と言明した。
*1 1万人増員計画の達成や「機動隊制度の再編成、訓練方式の改革」などの実現。
*2 『朝日新聞』1960年8月18日付
162 しかし本質的には、反体制運動に対する抑圧的取締りの態勢はそのままだった。1960年10月の浅沼稲次郎社会党委員長暗殺事件、1961年2月の嶋中事件(風流夢譚事件)という衝撃的な右翼テロ事件が続くと、「テロ対策」を名目として、自民党治安対策特別委員会153が、新治安立法の緊急性を訴えて、政府・治安当局を突き上げ、旧内務官僚で警保局長・長野県知事などを歴任した富田健治を小委員長とする「破壊活動防止小委員会」が、「破壊活動防止法改正案要綱」をまとめた。そこでは(右翼の)テロ対策よりも「〝安保騒動″のような事態の再発防止を目的に、集団的暴力行為の規制を主眼」*としていた。
*『朝日新聞』1961年4月6日付
政府側から破防法改正ではなく、単行法の制定という意向が示され、「政治的暴力行為防止法案」(政暴法案)として1961年5月、国会に提出された。富田健治はその法案の意図を「破防法の対象になっている内乱、外患誘致、騒擾等よりも、犯罪として少し低い、軽い行為を対象とするものであるから、現行破防法を第一級とすれば、第二級破防法の意味」*と述べた。破防法には「公共の安全の確保」とあったが、政暴法案では(右翼の)テロ防止に名を借りた「民主主義の擁護」を目的に掲げた。
*「政治的暴力活動防止法案について」、『民族と政治』1961年5月
163 池田内閣は自民党内の治安強硬グループの突き上げにあって政暴法案を国会に提出し、衆議院で強行採決を行った。一挙の成立が困難となると、継続審議としたが、世論の大きな反対にあって、1962年5月、政暴法案を廃案とした。池田内閣の「低姿勢」はポーズにすぎず、機会さえあれば治安体制の強化を狙っていたのである。
池田内閣は政暴法案がひどい摩擦を引き起こしたことに懲り、大平正芳官房長官は、改めて「正しい低姿勢をとり、治安立法、労働三法などは一切政策の表面に出さずにきたが、今後もその方針を続けたい」*とした。1962年1月の自民党大会で田中角栄政調会長から報告された「政策大要」は、「国民所得倍増計画を着実に達成するため必要な政策」*を最優先とし、1950年代まで掲げられていた国内治安の確保は取り上げなくなった。これに連動して自民党内の治安グループの発言力は低下した。
*大平正芳官房長官談、『朝日新聞』1961年6月27日付
治安体制の相対的役割の低下(この項は著者の歴史観)
164 1960年代は政治的に治安政策の比重が低下したが、それは治安体制が縮小し弱体化したからではなく、治安状況が安定したからである。60年安保以後、治安体制に依存する必要性が減った。また治安体制に依存することのマイナス面が考慮されるようになったからとも考えられる。
1950年代半ばの治安体制の確立以後、警職法改正反対闘争、安保闘争、三池争議1959—60などを経験した治安当局は自信を深めた。第二次池田内閣の国家公安委員会委員長・安田謙は「現行の法体系でも、それを十分に活用すれば、治安対策は円滑に運営できる」*とした。
*『朝日新聞』1961年7月26日
戦前に治安体制が必要とされたのは、総力戦遂行の障害を一掃する必要があったからだ。それに対して戦後は、そういう総力戦争が起こらなかった。また大多数の国民は十五年戦争による犠牲を反省していた。
しかしその例外もある。1950年の朝鮮戦争開始の前後にGHQは強権を行使し、日本の治安当局もそれに乗じ、短期間ではあったが、共産党を事実上非合法化し、レッド・パージを断行した。
1960年代は社会運動も総体として停滞していった。「政治の季節」から「経済の季節」に転換した。
戦後社会運動の基底には、自由と平等に成り立つ民主主義があった、戦争を否認する平和主義があった、一人一人の人格が尊重される人権主義があった、それらの理想を実現しようとする人々の願いがあった。それらの希求が社会運動の基底にあり、社会で共有されたことが、治安体制に抗した。この戦後の諸価値は理念だけではなく、戦前の特高や治安維持法に対する嫌悪感・恐怖感にも根差していた。
166 だから戦後の治安体制は「民主主義の擁護」で粉飾せねばならず、特高は「公安警察」に、思想検察は「公安検察」に、治安維持法は「破防法」に名称変更し、その復活ではないと装わざるを得なかった。為政者の言うところの「民主主義」ではなく、戦後民主主義の諸価値への希求と尊重が、破防法の適用を阻止し、またさらなる強力な法制化を阻止し、言論・出版の自由を確保してきた。
治安体制強化の衝動
1960年代に治安当局の役割は相対的に低下したのに、治安機構・機能の強化が常に図られていた。1962年は「警備公安警察の強化の年であった。」*外事警察が拡充され、島根、広島、群馬、新潟、三重、愛知、岐阜、静岡の各県で公安条例が制定されたり、厳格化されたりした。また警棒や拳銃の使用基準が緩和された。
*広中俊雄『戦後日本の警察』岩波書店1968
167 1963年5月、江口俊男警察庁長官は、自民党の安全保障調査会(そのメンバーは治安対策特別委員会153と重複している)の例会に講師として招かれ、「近頃はここ二、三年のうちで最も事件が少なく比較的平穏に過ぎている」としつつ、警職法の改正や防諜法の制定、そして「自衛隊、警察、その他を含めて最大限の実力を発揮するための装備と、その行動の裏づけとなる法令の整備」*を要望した。
*自民党安全保障調査会『安全保障と治安問題』1963
1960年代以降、治安体制は、繰り返し機構・組織を拡充し、法令を改正し、1990年代に「質的」転換を遂げ、さらに2010年代にさらなる「変質」を急速に進めている。例えば、以下の資料が示すように、1960年代後半の激動の政治の季節(学園闘争?)が遠のいた段階でも、公安調査庁は様々な「業務」を行っていた。実は公安調査庁は絶えず政府内から不要論・縮小論に曝らされていた。そのためおそらくその存在意義をアピールするためか、公安調査庁は1968年7月付の文書「公安調査庁業務概要」*の中の「調査結果の利用」の項目に「行政面への利用」を掲げた。
*ミシガン大学図書館所蔵。㊙扱いではない。
168 イ 法務大臣に報告し、行政面への利用を願うこととする。
ロ 参考資料、情報は関係官庁に送り、行政の資に供する。
ハ 官公庁、重要産業内に潜在する(日本共産党の)党員については、事情の許すかぎり管理者に通知し、適切な処置の資に供する。
ニ 公務員等の採用について依頼に基づいて点検を行う。
ホ 国鉄、国税、全司法等のごとき矯激な労組に対しては、その白書を作成し、関係官庁の行政の資に供する。
ヘ 日共の直接指導下にあり、年ごとに勢力を拡大している民青同(日本民主青年同盟)の重要産業、学生間への浸透状況等の実態について資料を関係者に供する。
ト 学生諸団体の越規的行動に対する実態を調査し、関係諸官庁の行政の資に供する。
チ 北鮮系朝鮮人(引用ママ)の共産主義教育の実態についても白書を作成し、行政の資に供する。
リ 破壊的団体の構成員の違法行為についての資料をとりまとめ、これが(の)取締りの資に供する。
ヌ 与党の関係委員会については、求めに応じ、常時情勢の説明をなし、施策の資に供する。
169 これらから公安調査庁が日常的業務としてレッド・パージ的な「調査活動」を行っていることが分かるが、それは「公共の安全」の名の下に、基本的人権を侵害する。
治安体制は常に現状に不安を感じ、その不安を封殺するために自らの強化を繰り返すが、それは治安当局の本来的な衝動である。不十分ながらも戦後的価値観が社会に定着してきたことに当局がいら立ち、焦っているからだろう。戦後治安体制の理念「民主主義の擁護」を放棄し、1970年代半ばに、某政府当局者は公然と治安維持法肯定論や特高警察容認論を唱える。1976年から77年の国会審議で、稲葉修法相1909--1992は、治安維持法による検挙・裁判・刑執行、特高警察による不法な拷問・長期不当拘留・スパイ使用などの弾圧が、「悪法も法」とし、また当時の社会秩序維持のためとして正当化し、一片の反省もなかった。政府のその基本的姿勢は、2005年の南野(のおの)知恵子法相1935--の治安維持法容認発言(後述)となって現在に引き継がれている。
感想 他人を苛めると、そしてそれが特にひどい苛めになると、謝罪だけでは済まなくなる、と苛める本人自身が自覚しているのではないか、だから永遠に苛め続けることにもなる。戦前の治安維持法による死者は500人と言われている、小林多喜二だけではない。
苛める側が、その苛酷な苛めに対する贖罪方法を、誰か(天皇)に頼んでも、頼まれる方も何ともできない。苛めて来た側は、苛めたことの意味を、言葉で(自分の頭で)考えたことがあるのか。それを避け続けて来た今、仲間内に隠れて無思慮のうちに埋没していないか。
第四章 長い「戦後」から新たな「戦前」へ
――どのように現代日本は新たな戦時体制を形成してきたのか
170 集団的自衛権の容認、交戦義務としての「駆けつけ警護」を負わされ自衛隊の南スーダン派遣などによって日本は戦時体制に入った。
この章は「積極的平和主義」、シーレーン防衛論、それに1980年代以降の新たな「戦前」への転換過程を見て行く。
現代と日中戦争前夜との類似性
171 2014年の夏から秋にかけて、「慰安婦」問題をめぐって、植村隆元朝日新聞記者と当時植村隆が非常勤講師を勤めていた北星学園に対して、誹謗・中傷、威嚇がなされた。そこには常軌を逸した卑劣さと怖さがあった。週刊誌が発端となり、全国紙がそれに追随し、ネット上では猛烈なバッシングが行われた。それが民間から沸き上がったという点で、1930年代半ばの日中戦争前夜の状況とよく似ている。
1930年代半ばには、治安維持法は新たな標的を探し始め、1935年の天皇機関説事件、1937年の矢内原忠雄事件、1938年の河合栄治郎事件という「学問の自由」や「大学の自治」に関わる言論抑圧と統制が一挙に進んだ。その発端は当時の民間右翼・国家主義者だった。
天皇機関説事件で岡田啓介内閣は、統治権の主体が天皇にあって機関説を否定する「国体明徴」声明を二度出さざるをえなかった。そしてそれを契機に「教学刷新」の大合唱が起こり、矢内原・河合の各事件では、自由主義的学説や言論を追放した。当時東大経済学部で、矢内原・河合と同僚だった大河内一男は、「日華事変が始まった昭和12年1937年7月から昭和16年1941年ぐらいまで、この間が思想統制としては陰湿で、いろいろな検挙があり、非常に暗い時代で」*あったと回想する。
*「「平賀粛学」と戦時の経済学部」、『東大経済学部五十年史』東大出版会1976
172 2013年末の特定秘密保護法の強行可決、2014年7月の集団的自衛権容認の閣議決定という政治状況の下で植村バッシングが起った。そして2015年9月の安保関連法の強行可決、2017年6月の共謀罪法の強行可決へと続く。安倍政権が「一強」であり続けているのも、新たな戦時体制に伴う思考と行動を容認し支持する一定の支持集団(政治的・社会的土壌)があるからだ。植村問題を契機に、現代の言論統制と社会の窒息化の兆候に対して、人々は危機感と怒りを共有し、私も人々と共に植村・北星学園支援に立ち上がった。「今こそ声を上げねば」と思ったのである。その世論喚起が、植村氏とその家族に対する不当な中傷や威嚇は撥ね除けた。これは現代の言論統制の進行を阻止し、新たな戦争前夜が近づいていると警鐘を鳴らした。*
*「負けるな北星!の会」記録編集委員会『北星学園大学バッシング 市民はかく闘った』2017
173 しかしその後の安保関連法と共謀罪の成立・施行は、枠組みとしての新たな戦時体制の完成に大きく前進した。
新たな「戦前」への始動
1931年9月の柳条湖事件は国民を排外主義に沸騰させ、日本は総力戦体制の構築に急旋回した。 1930年代半ばの日中戦争前夜=戦時体制の始まりとしての満州事変に相当する戦後の時機=事件は見当たらない。そして三谷太一郎は『日本の近代とは何であったか』岩波新書2017において「戦後日本は国民主権を前提とする「強兵なき富国」路線を追求することによって、新しい近代日本を形成した」とする。
174 しかし戦前のような急旋回はなかったが、戦後は時間の経過とともに変容し、新たな「戦前」への転換は1980年以降徐々に進められてきた。つまり「強兵」と「富国」が再び結びつき始めたのである。三谷太一郎も「2011年の東日本大震災と原発事故を契機に、行き詰まった「富国」路線が「強兵」の主張を呼び覚ましつつある」とするが、治安体制と防衛の点からは、経済の停滞と裏腹に、(三谷が指摘する2011年の)かなり前から「富国+強兵」路線が目指されていた。
その兆候はまず1980年代の警備公安警察の活性化に見ることができる。私は最初の著書『特高警察体制史』(せきた書房1984)増補版1988の「あとがき」で次のように述べた。
「1984年以来、予想を上回るテンポで警察をめぐる状況は、より一層社会運動を抑圧し、国民の生活と思想を管理統制する方向に進みつつある。1985年6月の「国家秘密法案」の国会上程、1986年11月の日本共産党幹部宅電話盗聴事件、1987年秋の沖縄国体での過剰な厳戒警備などがその代表的な事例である」
175 1980年代に顕著となった「過剰な厳戒態勢」の到達点として1989年2月の昭和天皇の「大喪」警備を私は念頭に置いていたが、その予測通りの空前の警備が展開された。日本共産党幹部宅電話盗聴事件は、神奈川県警察本部警備部公安第一課が行った組織犯罪だったが、警察はあくまでも関与を否定しつづけた。
また、1988年、公安調査庁は日本共産党本部前のマンションの一室からビデオカメラで党本部を出入りする人物を撮影していた。
シーレーン防衛論の登場
シーレーン防衛論は防衛庁の制服組の間では以前から検討されていたが、1981年5月、レーガン米大統領が鈴木善幸首相に「1000カイリ防衛」を約束させた。その目的はデタント後の新冷戦の中でのソ連軍による太平洋進出を阻止することであり、航続距離が長いバックファイアー爆撃機を持つ極東ソ連軍の脅威が強調された。
176 シーレーンの範囲は当初、京浜地方からグアム島までの南東航路帯と、阪神地方からフィリピン海峡に至る南西航路帯が想定されたが、実際はこの二つの航路帯を挟む、グアム以西フィリピン以北の扇状海域を意味するようになった。この広大な海域でソ連軍の潜水艦や航空機の侵入を防ぐ役割を米国は日本に求めた。このことが1983年1月の中曽根康弘首相訪米時の「日本列島不沈空母」や「三海峡封鎖」構想となった。
その後も米国は日本に防衛力強化を求め続け、防衛庁はそれをテコにして、「五九中業」(1986年から91年までの中期業務見積り)*の中で、「シーレーン(海上交通路)防衛能力の強化を最重点項目」とし「量の確保と同時に質的充実にも力を入れる」方針を打ち出した。(『読売新聞』1984年1月16日付)
1985年に国家機密法案が浮上したのは、日米軍事同盟の強化を背景として機密保持の要請が高まったからである。同法案はこの時は廃案となったが、2013年に特定秘密保護法として成立した。
*「五九」とは昭和59年1984年のこと。この年、昭和59年1984年に、自衛隊の将来的な軍事力計画の見積もりをした。これは正式の閣議決定に基づくものではなく、防衛庁内だけの計画であった。
二様の「積極的平和主義」
第二次、第三次安倍政権は「積極的平和主義」の名の下に集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、その具体化として安保関連法制の成立を強行したが、実は安倍の言うこの「積極的平和主義」という言葉には原典があった。
猪木正道は1991年1月号「THISI IS 読売」の中で、「積極的平和主義への転換」と題し、湾岸戦争での日本の対応を「腰ふらついた日本の政府」「自衛隊派遣でサル知恵」などと批判し、「世界のGNPの15%を占めるに至った経済大国日本が、見ざる・聞かざる・言わざるの受動的・消極的平和主義で責任を果たせるはずがない。我々は今や受動的・消極的平和主義から能動的・積極的平和主義へと躍進しなければならない」と論じ、自衛隊法改正や「非常事態法の制定」なども提言していた。
また1991年7月、関西経済同友会の安全保障委員会も、ポスト冷戦体制の中で「自国本位の平和主義」から脱却し、「経済力にふさわしい国際的責任を踏まえた「積極的平和主義」に立つべき」とし、国連の平和維持活動PKOへの自衛隊派遣や有事法制を含めた危機管理体制の本格的整備などを提言していた。*
*『朝日新聞』大阪版1991年8月1日付
これらは経済大国として自信を深めて「富国」のさらなる拡充と、専守防衛から海外派遣を新任務とする自衛隊の「強兵」志向とが結びついたものである。安倍首相の「積極的平和主義」の源流ともいえる。
178 一方1990年前後の「積極的平和主義」は、以上の説の対極の意味でも使われていた。自衛隊の違憲を問う百里基地訴訟で、原告住民側は「非武装、非暴力の抵抗、積極的平和主義こそ憲法九条の精神」とした。*
*『北海道新聞』1989年6月21日付
また奥平康弘は湾岸戦争での戦費負担と自衛隊派遣について批判し、「日本の貢献策」について、「今日までの日本国憲法の平和主義は、非戦、反戦の「消極的平和主義」だったと言える。しかし、米ソ対決の冷戦構造が終わり、国際情勢が変わったと同時に、国際社会における日本の発言力や責任が、飛躍的に高くなってきた。従来の「消極的平和主義」に加えて、「積極的平和主義」の役割が求められるようになってきた」*1とした。ただし、奥平の「積極的平和主義」は軍隊化した自衛隊の活用ではなく、「丸腰」でも平和に役立つとし、「自衛隊とは全く違う国民合意が得られる非武装の組織」とする。*2
*1 『北海道新聞』1991年2月14日
*2 奥平は死去する前日の2015年1月25日、調布九条の会で、「まやかしの「積極的平和主義」」に「断固として反撃」しようと呼びかけた。「日本国憲法の平和主義はまさに普遍的なことであり、世界に向かって普遍的に主張しうることです。その対極にあるのが、覇権的とか、好戦的とか、帝国主義先制攻撃平和主義とか、そういうものです。彼らが今、好き勝手に形容詞をつけている「積極的平和主義」もそういうものです。この状況をしかと眺めてみましょう」*3
*3 「伝言――「積極的平和主義」という言葉」、奥平康弘『「憲法物語」を紡ぎ続けて』かもがわ出版2015
1992年2月、自民党の小沢一郎元幹事長に主導された「国際社会における日本の役割に関する特別調査会」が提言し、新たに「安全保障に関する日本の持つべき理念」として「積極的・能動的平和主義」を掲げ、憲法前文を引き、「正義と秩序を基調とする国際平和を守り抜くために、時として、国際社会が一丸となって専制を黙認しようとすることは、決して日本に名誉ある地位をもたらすものではない」とし、自衛隊はPKO活動だけでなく、「国連軍」への参加も可能とした。日本も軍隊・軍備を持つ「普通の国」になるべきだというものである。
これに対して自民党内からも異論があり、栗原祐幸・憲法調査会長は、(小沢一郎の提言は)憲法前文の「つまみ食い」であり、「憲法の精神を「積極的平和主義だ」と断ずるのは非常な独断だ」*としたが、自衛隊の専守防衛の枠を取り払うことに反対ではなく、PKO活動への協力を着実に積み重ねることが先決だとする。
*『朝日新聞』1992年2月21日付
180 また、1992年12月、自民党政調会長の私的諮問機関「安全保障問題懇談会」は、「現行憲法下で集団的自衛権を認め、自衛隊が多国籍軍に参加できるという憲法解釈の見直しを求める提言をまとめた。*ここでも「国際平和に貢献する「積極的平和主義」への転換を求めている。
*『朝日新聞』1992年12月23日付
感想 当時私は新聞をよく読んでいなかった、そして考えていなかった。当時の論客は、猪木正道の「経済大国」とか、小沢一郎の「名誉」とかの言葉に踊っていて、戦争の現実を見ていない。小沢一郎の「専制」とか、奥平康弘の「帝国主義」などの言葉も現実とかみ合っていない。小沢一郎の「国際社会が一丸となって「専制」を黙認しようとすることは、決して日本に「名誉」ある地位をもたらすものではない」など、現実から遊離している。それが自衛隊を海外派遣せよという結論に利用されていた。自衛隊を南スーダンに連れて行って初めて現実の戦争の意味が分かったのではないか。
1986年の警察による日本共産党幹部宅電話盗聴事件 174や、2014年の植村隆に対するバッシング 171などと、2013年の安倍晋三による特定秘密保護法強行採決、2014年の集団的自衛権容認閣議決定、2015年の安保法強行採決、2017年の共謀罪法の強行採決とが同時期である172とのことだが、確かにこのような関連には思い当たることがある。つまり、その頃の安倍晋三による強行採決に反対する集会やデモでの警察によるいつにない過剰警備である。高崎労資会館での集団的自衛権に関する集会2014/8/23では、会場の周辺の道路に多数の機動隊のバスや隊員を配置し、会場に入場する車を一々チェックし、会場の入り口に多数の私服を配置し、中には会場横の廊下にまで入っていた者もいた。また高崎駅前での集会では、私服がデッキから階下の集会の様子をビデオ撮影していたし、城址公園での集会では大勢の私服が遠巻きに睨みを利かしていた。政権と警察との関係が疑われる。
「安保再定義」――クリントン・橋本龍太郎会談
1989年の冷戦終結から1991年の湾岸戦争後にかけての自民党内での自衛隊のあり方に関する議論は錯綜していたが、全体的には「積極的平和主義」への転換の方向に集約されていった。その流れを決定的にしたのが、1996年4月の橋本龍太郎首相とクリントン大統領との会談であり、その時彼らは「日米安全保障共同宣言」を発し、「両国間の緊密な防衛協力が日米同盟関係の中心的要素」とした。これを「安保再定義」という。
この「安保再定義」を受けて、1997年、朝鮮半島有事を想定して「新ガイドライン」が合意され、「日本周辺地域における事態で日本の平和と安全に重要な影響を与える場合(周辺事態)の協力」として、「施設の使用」(「補給等を目的とする米航空機・船舶による自衛隊施設及び民間空港・港湾の使用」など)、「後方地域支援」((米軍のために、自衛隊による)補給・輸送・整備・警備など)、「運用面における日米協力」(情報交換・機雷除去など)などが押し付けられた。この「周辺事態」には地理的な限定がなく、専守防衛からの逸脱であり、自衛隊の海外派遣に大きく道を開いた。そして(日本国内では)1999年周辺事態法が成立した。
その後、2001年にテロ対策特別措置法が、2003年にイラク特別措置法が成立し、自衛隊の海外派遣を増大させた。2001年の9・11テロ事件以降、有事法制の議論が高まり、2003年に武力攻撃事態対処関連三法や2004年の国民保護法など、有事関連七法が成立した。
「戦争ができる国」批判の登場
このように自衛隊がその役割を大きく変質させ、憲法九条を空洞化し、新たな戦時体制が構築される中で、「戦争ができる国」というキーワードを用いて憂慮と危機感が表明されるようになった。全国紙のデータベースや国会図書館サーチで「戦争ができる国」を検索すると、1998年ごろから登場する。その初出は『朝日新聞』1998年6月24日付の湯浅一郎(ピースリンク広島・呉・岩国)の「戦争協力法を本当につくるのか」であり、それは周辺事態法案への注意喚起であった。
182 2002年8月15日付『北海道新聞』社説は、「終戦記念日 備えが憂いを招きかねない」と題し、「わが国を再び「戦争ができる国」にする有事法制の真の狙いは新たな対米協力にある」と論じた。さらに翌年2003年の社説「終戦記念日 再び加害の側に立つまい」では、「専守防衛の国是を踏み越え、米軍の要請があれば、自衛隊員が、世界中どこへでも派遣される可能性が現実のものとなりつつある」とし、「戦争ができる国へ、米軍とともに戦う国へ、と突き進む今」に強く警鐘を鳴らした。
現代史家の山田朗(あきら)は2002年7月の『前衛』で、「有事関連三法案が登場したことによって、湾岸戦争以来進展して来た<戦争ができる>国家・国民づくりは、新しい段階に踏み込んだ」と論じた。海外派遣を恒常化させつつある政府・与党に対して、「戦争ができる国」=新たな戦時体制の構築という認識と批判が広く定着した。
自衛隊海外派遣反対運動抑圧の本格化
183 日米安保が「日米同盟」として再定義され(橋本龍太郎首相とクリントン大統領との会談1996/4)、自衛隊の海外派兵が相次ぐ事態に、各地で反対運動が高まり、これに呼応して治安当局の活動が活発化した。2003年11月からの自衛隊イラク派遣反対の市民運動に対して、「陸上自衛隊情報保全隊」*が監視活動を行った。
*この「情報保全隊」は、2000年の、陸上自衛隊幹部による在日ロシア大使館武官への秘密情報漏洩事件を契機に、2003年3月に、「調査隊」を改組して創設された。定員は1000人。「主な任務は他国の諜報活動による自衛隊からの情報流出防止、自衛隊に批判的な団体と隊員との接触の監視、秘密を取り扱う隊員の身辺調査など」とされた。(『朝日新聞』2016年2月2日付)
陸上自衛隊の情報保全隊が作成した「イラク自衛隊派遣に対する国内勢力の反対動向」*の「趣旨」では、「(この報告は)自衛隊イラク派遣に対する国内勢力の反対動向に関する全国的規模のものを週間単位でまとめたものであり、今後の国内勢力の動向について分析の資とするものである」とし、2004年1月12日から18日にかけての「国内勢力の動向に関するコメント」では、「全般」として、「(反対集会・デモは)派遣自体が本格的に始まった今週は、先週と比べ、総数的に再び急増するとともに、内容的にも、大規模人員を動員した集会・デモ、自衛隊イラク派遣に関連する駐屯地及び基地に対する抗議行動が、中方(中部方面隊か)を筆頭に各地で行われた」とする。
*本書185頁に掲載された、自衛隊情報保全隊「イラク自衛隊派遣に対する国内勢力の反対動向」(2003年12月2日)には、日本各地での反対集会、デモ、ビラ配布、街宣、署名集め、模擬投票、(自衛隊への)申し入れ、抗議などとともに、その主催者と思われる略号が書かれている。P, NL, GL,S, 市民、諸派などであるが、憶測すれば、PはCP=Communist Party,
NL=Naturalist League(変か), GL=General League, 総評は1989年に解散したから不適切、まさか連合ではあるまい。Sは何か。
184 同時に明らかにされた東北方面情報保全隊の「情報資料」(2004年1月16日)では、1月7日から14日までの間に、東北地方で26件の活動が見られ、「ほとんどは、自衛隊のイラク派遣に反対する宣伝活動」だったとする。この「情報資料」が「2 一般状勢 (1)国政及び地方自治体の動向 (2)治安情勢 3 反自衛隊活動 4 外事」という構成になっているように、広範な領域・問題について日常的な情報収集が行われていたことを示す。
184 この情報収集活動を違法として訴えた裁判の控訴審における情報保全隊の元隊員による証言によれば、「対象となり得る」とされた「情報収集の目安」には、「イラク派兵反対や核兵器廃絶の署名を集めること」や「スーパーの前で反戦平和の歌を歌う」ことなども含まれる。(『朝日新聞』2016年2月2日)このことは、戦前の憲兵が、反戦反軍とみなした一般社会の言動を、監視と抑圧の対象にしたことに相当する広範な情報収集が、現在でも行われていることを示す。
また2004年2月の、公安警察による立川反戦ビラ事件は、反対運動に対する威嚇であり、委縮効果を狙ったものであった。立川反戦ビラ事件は、市民団体のメンバー3人が、東京都立川市の防衛庁官舎で、「自衛隊のイラク派遣反対!」のビラを郵便受けに入れたことに対して、2月末に住居侵入容疑で逮捕され、75日間拘留された。事務所や自宅も家宅捜索された。第一審の判決は政治的なビラの配布について「憲法21条1項の「保障する政治的表現活動の一態様であり、民主主義社会の根幹をなすもの」とし、商業的宣伝ビラに比べてはるかに大切であるという判断に立って無罪とした。ところが控訴審・上告審では罰金刑の有罪判決が下った。(最高裁はひどい)
その後も同様な事件が相次いだが、それらは新たな戦時体制の構築と密接な関係がある。これは治安体制による抑圧の本格化を物語る。
「周辺事態」への自衛隊出動へ
186 1980年代、ソ連脅威論からシーレーン防衛論が主唱されて海上自衛隊が増強されたが、ソ連崩壊・冷戦終結によってその論理を見直し、1990年代後半、集団的自衛権行使容認論と関連して、新たなシーレーン防衛論の前兆が生まれた。
1996年5月、「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」見直しに際し、日本側は「極東有事」を「日本周辺地域事態」に改め、「朝鮮半島有事や、中国・台湾間の紛争に加え、南沙諸島での武力衝突、海上輸送路(シーレーン)での海賊行為、「第二次湾岸戦争」などの危機にも自衛隊が米軍の後方支援実施のための共同対処計画の研究が可能となる」と『読売新聞』1996/5/18が報じた。その2年後の1998年4月、防衛事務次官が、「日本の領土・領海だけでなく、シーレーン(海上交通)に危険が差し迫った場合にも、周辺事態と判断できる」と発言するようになった。(『朝日新聞』1998/4/14)
このように「周辺事態」に自衛隊出動の道が開かれる中で、経済界からも集団的自衛権の行使を求める声が上がった。1996年、牛尾治朗経済同友会代表幹事は、読売新聞紙上*で「米軍の場合、海外進出企業が地域紛争に巻き込まれても、空母を派遣すれば安泰かもしれない。(本当か)しかし日本の場合、現状のままだと、個別企業が天に祈るしかない」(そんなに武力はオールマイティか)と、暗に自衛隊出動による海外進出企業の保護を求めた。これはかつての日本軍が「権益」擁護を名目に出兵したのと同じ論理である。
*『読売新聞』連載「日本は安全か――安保再考」(1996年)これは1997年に読売新聞安保研究会『日本は安全か――「極東有事」を検証する』として増補刊行された。
さらに牛尾治朗は、アジアにおいて「地域的な紛争の発生が避けがたい」現状(本当か)では、「日米安保が安定の基軸」であり、集団的自衛権は「企業の常識からいうと当然だ」とする。これは市場経済の繁栄のためには「(武力による威圧的な)平和秩序の維持」が必要であり、「地域的な紛争」を(武力で)解決するための軍事力の発揮に、日本も積極的に関与すべきという論理である。その「平和秩序の維持」とは、日米にとっての「権益」確保・拡充のために好ましい状況であろう。
「海上警備行動」の発動
1990年代後半、不審船対策としての「海上警備行動」の発動によって海上自衛隊の活動が拡大した。*
*「海上警備行動」は自衛隊法第82条に規定されていて、「防衛大臣は海上における人命若しくは財産の保護又は治安の維持のため特別の必要がある場合には、内閣総理大臣の承認を得て、自衛隊の部隊に海上において必要な行動をとることを命ずることができる」とするが、これを「海上における警備行動」と規定している。
1999年3月24日、日本海で日本漁船を装った国籍不明の不審船拿捕のために、初めて海上警備行動が発動された。*
*実はこの事件以前からすでに「海上警備行動」発動の準備がされていた。1996年9月、朝鮮民主主義人民共和国の潜水艦が韓国に進入したが、この事件を直接の契機として、(1996年)12月24日、潜航して日本の領海に侵入した外国の潜水艦を浮上・退去させるため、閣議抜きで首相が自衛隊の出動を承認できる、とする対処方針を閣議決定した。『北海道新聞』1999/3/24によれば、これに基づき、「海自は1997年から第一線の自衛艦隊を中心として西日本沖の太平洋などで定期的な訓練を開始し、昨年(1998年)6月上旬には、朝鮮半島近くの日本海側で、護衛艦と対潜哨戒機の部隊が、海自の潜水艦を「目標」に、本番さながらの追跡を繰り広げた」とする。
188 1999年3月23日、『北海道新聞』が「海自と海保 潜水艇侵入に共同対処 マニュアル作成へ」と報じた翌日の3月24日、日本海沖に現れた不審船二隻に対して初めて「海上警備行動」が発令され、護衛艦が追跡・警告射撃し、哨戒機が爆弾を投下したが、不審船は逃走した。
「海上警備行動」発動にもかかわらず拿捕できなかったこともあり、すぐに武力行使を認めるための自衛隊法の改正や、「対領空侵犯措置」に類似する措置を領海・領土にも適用すべきだという声が防衛庁関係者や自民党から上がった。1999年5月3日、読売新聞社が「領海警備強化のための緊急提言」と題して、「一、自衛隊に領海警備任務を付与せよ 二、領海警備における自衛隊の武器使用は、国際法規・慣例に準拠させ、武器使用基準を整備せよ」と提言した。この提言の背後には「自衛権の発動という本格的な有事に至らないまでも、国の安全を脅かすような不法行為から、我が国の領域をいかに守るか、という新たな課題に取り組まなければならない必要性が出てきた」ことがある。
2001年12月22日の東シナ海での不審船銃撃・沈没事件では、海上保安庁の巡視船と航空機がこれに対処したが、(自衛隊の)「海上警備行動」にまでは至らなかった。しかし、「万一の場合に備えて、海上自衛隊が、「威嚇の目的」(首相周辺)で、イージス艦を現場に向かわせるなど、万全の態勢を取った」と『朝日新聞』2001年12月3日が報じた。
2002年4月に政府がまとめた今後の不審船対策の指針は、「工作船の可能性の高い不審船について、不測の事態に備え、政府の方針として当初から自衛隊の艦船を派遣する」、「遠距離から正確な射撃を行うための武器を整備する」*1ことが盛り込まれた。*2
*1 『日本の防衛(防衛白書)』2002年版
*2 防衛庁防衛研究所編『東アジア戦略概観』2000年版の第三章「東アジアにおける海洋の安全保障環境」の中で、「日本海を舞台に展開された不審船の追跡」「活発化する中国の海洋調査活動と海軍艦艇の行動」「アジアの海に跳梁する海賊」の後に、それらの「排除或いは抑止」のために「平時において海洋の治安と秩序を維持し、海洋を安定的に利用できる状況を確保するための海上防衛力の役割」を強調する。(それと同時に、「それを有効に機能させるための多国間の協調的対応」の必要性も上げる)。こうした見解は2000年代の海上自衛隊の拡充の方向を指し示した。
「積極的平和主義」の再登場
190 1990年代に「積極的平和主義」が間欠的に提唱されたが、定着はしなかった。それでも自衛隊のPKO部隊としての海外派遣は、なし崩し的に、付随的任務から本来的(武力行使的)任務へ移行した。そして2000年代になると、「積極的平和主義」が憲法9条の拡張解釈として再登場した。その流れを作ったのが、2001年3月に発表された、経済企画庁の外郭団体である「綜合研究開発機構」の報告書『積極的平和主義を目指して――「核の傘」問題を含めて考える』である。これは1999年から2年がかりの討論結果をまとめたものである。その「要約」の冒頭部分は、
「我々日本人は21世紀(美辞麗句)に向けて、日本自身の生存が世界の他の地域と分かち難く結びついているという認識に立ち、世界の平和のために積極的に貢献することで「世界の中で生きる日本人」としてのアイデンティティを確立していく努力を行う必要がある。(米の入れ知恵か)確かに、従来からの「平和の破壊者、侵略者にはならない」、「核兵器は保有しない」、「武器は輸出しない」といった日本の平和主義も世界平和に大きく貢献してきているが、今後は、これに加えて(=これを捨てて)、「日本は世界平和のために何かをする」という積極的平和主義を展開していくことが望ましい。」
191 ここでは「消極的・受動的平和主義」を全否定せず(形の上では全否定しないが、実質的には全否定している。日本の従来の平和主義は、「積極的」=武力的「平和主義」とは相いれない)、(従来の)「国際貢献」(という言葉)を「世界平和」(という言葉)に替えて、そのために、「積極的平和主義」を促す。この第5章「21世紀の平和維持活動と日本の役割」(要約)では、国連の平和維持活動に「これまで以上に積極的に参加して行く必要」を強調し、「凍結されたままになっている、自衛隊の部隊などによるいわゆる平和維持活動の本隊業務(武力行為)の早急な凍結解除」とともに、「日本のPKO五原則の見直し」を提言し、その具体的内容は、しばりとなっていた「停戦合意の存在や日本の参加への関係当事者の同意等の条件」は、「国連の平和維持開始の決定によって満たされたものとみなすこと」および、「武器使用の容認」――「国連の慣行との整合性を図る努力」を行って「憲法解釈の問題」を乗り切ったものとすること――などである。つまり、海外派遣された自衛隊が「制約なく」活動できることを優先する。
この国連平和維持活動に関する討議を主導したのは、10名の「コア研究会委員」の中の三名の防衛庁関係者と思われる。伊藤憲一(日本会議、1938—2022)もこの委員の一人であった。
192 2003年7月、柳井俊二(中央大学教授、外務審議官・外務次官)も、「日本が侵略を繰り返さないという日本の平和主義、言うならば、「消極的平和主義」(馬鹿にするな)、それだけではもう足りません、国際平和への貢献(美辞麗句)には十分ではない。積極的に(武力で)平和を維持・回復する、そういう「積極的な平和主義」というものが必要なんです」(『政策情報 TODAY & TOMORROW』222号)
「美しい国」
2006年9月、第一次安倍政権が誕生したが、2007年9月までの第一次安倍政権では「積極的平和主義」の言葉は用いず、「美しい国」を用いた。2006年7月、安倍晋三は、ポスト小泉に向けて、自民党総裁選向けに政権構想をまとめた『美しい国へ』(文春新書)を出版した。2006年9月26日の首相就任の記者会見で、安倍は自らの内閣を「美しい国創り内閣」と命名した。
安倍は同29日の衆参両院本会議での所信表明演説で、『毎日新聞』によれば、「政府の憲法解釈で禁じられている集団的自衛権の行使について、「個別具体的な例に即し、よく研究する」と、歴代首相として初めて集団的自衛権行使容認に向けた検討に着手する方針を表明し、憲法改正に言及し、教育基本法改正案の早期成立を目指す考えも示した。そして持論の『美しい国、日本』を掲げ、(日本の)文化や伝統、(日本の)自然や歴史を大切にする姿勢を強調し、「戦後レジーム(体制)」からの脱却を意識した保守色の濃い内容となった。」(『毎日新聞』2006年9月29日)
また『毎日新聞』2007/4/21は、「「美しい国」大合唱、保守の「精神論」全面に」という見出しで「保守主義を掲げる安倍政権が、国民の精神面に働きかける取り組みを強めている」とし「各省庁も「美しさ」のオンパレード」ぶりを取り上げた。また2007年6月19日の閣議決定「経済財政改革の基本方針2007」(骨太の方針07)が、「「美しい国」へのシナリオ」という副題をつけたことに対して、『毎日新聞』社説は、「経済財政構造や構造改革にまで美しい国を持ち出す意味はどこにあるのか」と批判した。こうした抽象的・情緒的な観念を貫こうとしたことが、第一次安倍政権の行き詰まりと唐突な抛り出しを必然化した。
194 その頓挫の反省をもとに第二次政権では、やはり抽象的でありながらも、「積極的」な平和主義という強いメッセージを前面に押し出し、戦後レジームをかなり解体させ、アメリカへの従属性を強めた。
教育基本法の「改正」
第一次安倍政権が始まる前年の2005年4月24日、『朝日新聞』は第二次小泉政権の文相・中山成彬(なりあき、文科相2004/9/27—2005/10/31)のインタビュー記事を掲載した。それによると中山成彬1943--はこう語った。
「先の大戦の敗戦のショックが大きかったことと、戦後のマルキシズム(へ責任転嫁)、共産主義の影響で、日本の戦前は非常に悪かったという歴史観がはびこった。…戦後、国民をいじめるのが国家だといわんばかりの風潮もあった。だが、皆国に守られてるのですよね。自分のことだけでなく、国、(日本)人のために貢献できる人になることを目標にして生きていくことが大事だ、と考えていくべきではないかな。」
195 中山成彬文科相は「叩き込み」という語句も用いるが、それは1930年代後半の「教学錬成」を想起させる。この発想で2006年12月、教育基本法の改正が強行された。(ただし、2006年12月当時の第一次安倍内閣の文科相は伊吹文明である)
これ以前の1990年代後半以降、自民党内で教育基本法改正の動きが強まった。2003年3月、中央教育審議会が教育基本法の見直しを答申した。その中で「新しい「公共」(=国家)を創造し、21世紀(美辞麗句)の国家・社会の形成に主体的に参画する日本人の育成」「日本の伝統・文化を基盤として、国際社会を生きる教養ある日本人の育成」が「注目」され、これらはそのまま「改正」教育基本法の中に盛り込まれた。
教育刷新審議会『教育改革の現状と問題』日本放送出版協会1950によれば、戦前総力戦を遂行するために「弾圧と拘束」が猛威を振るい、その結果「わが国の教育は全く極端な国家主義と軍国主義的色彩に塗りつぶされた」とする。*
*1950年、戦後教育の再建に際して、南原繫らを中心とする教育刷新審議会は、戦前教育を総括した。同審議会の報告書『教育改革の現状と問題』の「序論」によれば、
「一貫してわが国民教育の大本」であった「教育勅語」の「基調をなすものは、皇室を中心とする日本国体観と、これに基づく忠君愛国の国民の養成に在った」「この教育方針は、満州事変を経て、日華事変に入るに及んで、更に極端化され、戦争体制に即応せしめるために、1937年昭和12年設置された教育審議会の決議による、いわゆる「教学刷新」において頂点に達した観がある。これは一に「皇国の道」を教育の基本とし、「皇国民の錬成」を目標とするということであった。「小学校」の名称を改めて「国民学校」とし、あるいは文部省に「思想局」や「国民精神文化研究所」を設置したのも、この時であった。それは学校教育についてのみでなく、一般の社会教育についても同様であって、わが国の教育は、まったく、極端な国家主義と軍国主義的色彩に塗りつぶされるに至った」(『教育刷新委員会教育刷新審議会会議録』第13巻1998)
戦前教育の過誤の痛烈な自覚から、戦後の「教育の根本改革と新たな再建」が導かれ、1947年、教育基本法は施行された。翌1948年、「教育勅語」は国会で排除・失効が決議された。(この時は)既に1950年前後の「逆コース」の中で、戦後民主主義教育の方向転換がなされつつある段階だったが、教育刷新審議会は、戦時下の教育統制の実態を直視し、戦後教育改革を総括しようとした。そこでは「日本国民と日本の教育者が過去数十年、その下で窒息させられていた弾圧と拘束」にも言及した。
196 この戦前の反省を無視して、2017年、教育勅語が容認・肯定された。
そして実際の教育現場では(戦前の)「弾圧と拘束」に匹敵する弾圧が行われた。1999年以来石原慎太郎都知事は「君が代」斉唱を強制し、異常な教育統制を行った。2000年2月、石原都知事はその施政方針演説で「21世紀(美辞麗句で無意味の枕詞)の東京を切り拓いていくのは、「志」と「創造力」を持った若者です。私は、まず他人を思いやる心を持ち、地域や国家、国際社会に目を向け、進んで「公」(=国家)に貢献する、「志」をもつ若者を育てていくことが必要と考えます」(「石原知事施政方針」都庁ウエブサイト)これは教育基本法改正の先取りである。また2008年以来橋下徹大阪府知事2008/2/6—2011/10/31も同様な教育統制を行った。
「生命線」としてのシーレーン防衛論
197 「米側は日本の1000カイリ・シーレーン防衛を見直してマラッカ海峡やペルシャ湾にまで拡大させたいという要望を持っている」と『朝日新聞』2001/5/13が報じたが、2001年6月末の小泉純一郎・ブッシュ日米首脳会談は、日米同盟の強化では合意したが、シーレーン防衛拡大への具体的な進展はなかった。
198 ところが2001年9月11日に米同時多発テロ事件が起き、その衝撃と報復として、(米国が)アフガニスタンやイラクで対テロ戦争を行い、状況が一転した。米側の「日本の旗を揚げて欲しい」という要望に応じ、日本政府は「目に見える協力」に前のめりとなって自衛艦の派遣を急ぎ、2001年9月中のインド洋への軍艦*1の派遣は、防衛庁設置法第4条の「調査・研究」に基づく情報収集・警戒監視活動として予定されたが*2、世論が強く批判して、一時保留となった。
*1 イージス艦を含む護衛艦3隻と補給艦1隻
*2 『朝日新聞』2001/9/25, 『毎日新聞』2001/9/27
政府は「テロ対策特別措置法」の成立を急ぎ、2001年10月5日の閣議で同法案を決定し、「国際(=米国への)貢献」の名の下に、10月29日に可決した。国会では「シーレーン確保」という趣旨は出さず、受け入れ国の同意を条件に、自衛隊の活動範囲は、「現に戦闘が行われておらず、(自衛隊の)活動の期間を通じて戦闘が行われない(世界中の)公海やその上空、外国の領域」へと拡大し、「条件付きながら、自衛隊が全世界に出向くことが可能となった」(『北海道新聞』2001/10/5)
199 そして同法の施行直後に、海上自衛隊の護衛艦二隻と補給艦一隻がインド洋に向けて出港し、米軍のアフガニスタン空爆に対する後方支援を行い、実績作りを急いだ。しかし、その活動の実態はそれを逸脱し、アラビア海で活動するイージス艦「きりしま」は、この時点より少し遅れて2002年に派遣されたが、「米英艦に給油する海自補給艦を守ることだけでなく、対イラク戦に軸足を移しつつあった米軍を支える役割を担い始めていた。」(『北海道新聞』2003/2/11)「テロ対策特別措置法」の趣旨は補給艦中心の後方支援だったが、実際はその趣旨を逸脱していた。そしてこの逸脱の既成事実が積み重ねられた。
それでも2000年代前半は「シーレーン防衛」を無理に前面に打ち出せなかった。2002年7月、中谷元・防衛庁長官はインド国防相との会談で「我が国のシーレーン防衛に向けた防衛力整備は1千カイリまでで、その先は米軍に期待している。歴史的経緯があって難しい」と述べた。(『朝日新聞』2002/7/10)
2002年12月、アメリカがイラク攻撃に踏み切った時、ペルシャ湾を航行する日本のタンカーを守るためとして自衛艦の派遣が検討された。その根拠は自衛隊法の「海上警備行動」で、石破茂防衛庁長官は「アメリカは公海上を航行する日本の船を守る義務はない。それならば日本の護衛艦が守る」(『朝日新聞』2002/12/7)とし、(自衛隊法の「海上警備行動」が、自衛艦)派遣を優先させる名目とされた。しかしこの時点ではその現実には至らなかったが、その後も「イラクが機雷を使った場合を想定し、ペルシャ湾に掃海艇を派遣する」案が検討された。(『朝日新聞』2003/2/12)
200 「シーレーン防衛」を求める声が次第に高まった。防衛庁防衛局長・事務次官などを歴任した秋山正廣は、『朝日新聞』2004/7/23への寄稿の中でこう述べた。
「1000カイリ・シーレーン防衛政策は、近年および今後の海洋安全保障を展望すると、この方針を堅持するのは妥当ではない。
日本は資源の多くを海外に頼る一方、製品や半製品を海外に輸出している。そのほとんどは海上輸送による。日本の船舶が行き来する航路帯(シーレーン)の安全は「国益」そのものだ。…アメリカの軍事力はいまほとんどイラクに投入され、シーレーン防衛にまで手が回らない。(経済界重視一辺倒)日本(の経済界)が自ら守らなければならないのは自明の理ではないか。大体、海上自衛隊はすでに、日本から1千マイル以上離れたインド洋に給油艦や護衛艦を派遣し、アフガニスタン復興に従事する各国の軍隊(結局失敗)を後方支援している。海賊対策として海上保安庁はこれまで、巡視船を海外での共同訓練やパトロールに派遣し、大きな成果をあげてきた。今後は危険がありそうな海域には護衛艦を派遣し、共同訓練やパトロールを通じて、日本の船舶を守るべきである。(「訓練」の域を越えているのでは)
201 秋山正廣は『読売新聞』2006/11/9への寄稿でも「国家の安全保障の根本は単純明快、「備え(軍事力が)あれば憂いなし」である。(外交努力が本筋では)わが国に海上自衛隊があり、海上防衛とシーレーン防衛が国家防衛の重要な要素となっているのは事実だ。」
また2005年12月8日、前原誠司・民主党代表はワシントンで「民主党の目指す国家像と外交ビジョン」と題する講演を行い、「日本の主権・権益を守るための防衛力や法律の整備は、毅然として行われなければならない。シーレーン防衛は1000カイリ以遠を米国に頼っているが、日本も責任を負うべきだ。これには憲法改正と自衛隊の活動・能力の拡大が必要になるかもしれない」とし、集団的自衛権の行使を容認した。(『朝日新聞』2005/12/9)この自民党とも見まがう見解は民主党内外から批判を受けたが、その後のシーレーン防衛論現実化の一つの呼び水となった。
202 2007年、海上自衛隊のインド洋での給油活動継続の際に「シーレーン防衛」が再び議論された。*
*『読売新聞』2007/10/1は(インド)洋上での給油活動を「現場報告」し、「海自給油、一か月後期限切れ テロ監視網の緩み必至」という見出しで、「シーレーンが日本にとって「命綱」であると強調して自衛艦のインド洋派遣と給油活動の継続を求めた。
「テロ対策特別措置法」は二年間の時限立法であったため、失効が迫っていた。福田康夫政権は、海上自衛隊のインド洋派遣と燃料補給活動を継続しようと、新テロ特措法案(補給支援特別措置法)の成立を図り、その際にシーレーン=「命綱」・「生命線」という防衛論を唱えた。
2007年10月9日の衆議院予算委員会で、中谷元(自民党)が福田康夫首相に「日本の生活のためにもこの海域のシーレーンというラインを守らなきゃいけません」と質問すると、福田首相は「シーライン」を「日本の生命線」と呼び、原油輸送を念頭に「日本の血液の補給が止まってしまうということになりますので、これ(補給停止)は何としても阻止する。これは、ですから、諸外国に協力するという観点もございますけれども、同時に、我が国の「安全」を守るということが大事」と答えた。(衆議院委員会議事録第168国会)
「海上交通」=シーレーンの安全確保が「国益」とされ、インド洋上のイージス艦活動も、シーレーン防衛を名目とする実質的な集団的自衛権の行使といえる「米軍との一体化」をさらに進めるものであった。
203 これ以前にシーレーン防衛の既成事実化がすでに図られていた。この一月前の2007年9月、ベンガル湾で、インド、アメリカ、日本、オーストラリア、シンガポールの五か国が海上合同演習「マラバール」を実施していた。これは「インド洋から太平洋への原油輸送など、シーレーン防衛で、参加国の連携を強化するのが狙いで、インド洋沿岸諸国を支援して軍事協力網の拡大を図る中国に対する牽制を意識したもの」であった。(『北海道新聞』2007/9/5)
2008年から2009年にかけて、内閣官房・外務省・防衛省が、「防衛問題セミナー テロに立ち向かう日本」*205という説明会を各地で開催したが、その資料は「我が国にとってもテロは身近な脅威」と現状認識し、海上自衛隊の活動は、「海上阻止活動に参加する各国艦船の作戦効率の向上に大きく寄与し、海上阻止活動の重要な基盤である」とし、「わが国の補給活動に対する各国からの評価は高い」とし、「海上輸送路に当たる海域の安定化は、石油の安定供給にも関わる」と説明する。そして結論部のチャート図には、「補給活動を中断すると…」「日本が国際社会で果たすべき役割を果たせない」事態となり、「自らが恩恵を受ける活動に、日本は『ただ乗り』」という批判を受けて、「国際社会で孤立。我が国の信頼・地位が低下」していくと危機感を強調する。
*205 我が国に対するテロの脅威
我が国に近く、関係も深い東南アジアにおいてもテロが生起
例
・2002年10月、インドネシア・バリ島での爆弾テロ:202人死亡
・2005年10月、インドネシア・バリ島で再び爆弾テロ:23人死亡
→イスラム過激派「ジュマア・イスラミア(JI)」が関与
アルカイダとの関係が疑われている
・ボジンカ計画:1995年、イスラム過激派が計画していた複数航空機テロ未遂事件、フィリピンで発覚。
同計画の試行として1994年、フィリピン航空機内爆発事件が発生、日本人1名が死亡。
我が国にも過去にアルカイダ関係者が不法に出入国・国内に潜伏
我が国はアルカイダからテロの標的国の1つとして名指し
↓
我が国にとってもテロは身近な脅威
補給活動を中断すると…
●日本が国際社会で果たすべき役割を果たせない。
●自らが恩恵を受ける活動に、日本は『ただ乗り』。
↓
国際社会で孤立。我が国の信頼・地位が低下。
内閣官房・外務省・防衛省「防衛問題セミナー テロに立ち向かう日本」
http://www.mod.go.jp/rdb/hokkaido/seminar/shiryou/seminarsiryou15.pdf
(上記サイトを調べると、防衛省や防衛局が出てくるが、このパンフレットそのものは出てこない。)
感想 その本質を知らずに、ジュマア・イスラミア(JI)を「イスラム過激派」と決めつけたり、アルカイダを悪魔の代名詞にして喧伝したりして、民衆の恐怖心をあおり、武力保持の必要性へ民衆を扇動する。相手を知ろうとしないことは危険なことだ。事態の本質をつかみ、対話によって問題を解決しようとしなければならない。
海賊対策としてのシーレーン防衛論
204 2008年ごろになると「アフガニスタンでの対テロ戦争」という名目が役に立たなくなり、自衛隊からの給油量も減少し、この「テロからのシーレーン防衛」から「ソマリア沖の海賊対策としてのシーレーン防衛」に変更された。そして商船やタンカーに被害が出ると、「日本にとっての生命線であるシーレーンを守れ」という声が、新たな「国際貢献」の名の下に高まった。
海上保安庁では距離や装備の面で限界があるとして、自衛隊派遣論が具体化した。『朝日新聞』2008/10/18によれば、「政府内ではかねてから海賊対策の可能性を探っており、海自艦船が、対象海域を航行する商船を護衛し、哨戒機が海賊の動向を監視し、また後方支援として、他国の海賊対策船に給油することなどが検討されている」と報じた。
2008年12月25日、麻生太郎首相が、自衛隊法の「海上警備行動」を根拠に、(海自の)派遣方針を明言し、『朝日新聞』2009/1/23が「麻生首相は、「護衛艦がそこに存在しているだけで犯罪抑止効果がある」と考えている」と報じ、2009年1月下旬、浜田靖一防衛相が、海上自衛隊の派遣準備の指示を行い、2009年3月13日、(海自に対する)「海上警備行動」の発令となり、翌2009年3月14日、護衛艦二隻が出港した。
206 海洋政策研究財団(現笹川平和財団海洋政策研究所)の「ニューズレター」第206号2009/3/5は、元海将で三井造船顧問の古澤忠彦・安全保障懇話会理事長の「シーレーンの安全確保のために」と題する寄稿を掲げ、その中で古澤忠彦は「シーレーン防衛は国家戦略として位置づけられるべきであり、海上防衛力(海自)、海上警備力(海保等)、および海事基礎力(海運界等)が、国家の強い意志で主導され、この三者が三位一体となってこそ、強力な海洋総合力(シーパワー)が構成され、安全な海上物流が達成される」とした。これはかつて戦前の北洋漁業で漁船・工船に掲げられた「日章旗」と、軍艦旗の「旭日旗」とが渾然一体となっていたのを髣髴とさせる。まさに富国強兵の再来だ。
当初は、派遣ありきという結論がありながら、つなぎの緊急措置として「海上警備行動」を根拠にしていたので、政府はこれを解消しようと、2009年3月13日、海賊対処法案を国会に提出した。(海自に)「海上において海賊行為に対処するための必要な行動をとる」という新たな任務を付与し、護衛対象を日本関係の船舶の他に他国の船舶にまで拡大し、武士使用を拡大して船体射撃も認め、第一条の「我が国の経済社会及び国民生活にとって」という国益が前面に押し出された。与野党対立の末、海賊対処法は2009年6月19日に可決され、7月24日に施行され、海上自衛隊のP3C哨戒機も、ジブチを拠点にアデン湾での警戒監視活動を開始した。
207 日本経済団体連合会は、2010年4月20日「海洋立国への成長基盤の構築に向けた提言」において、ソマリア沖の海上自衛隊の護衛活動について「船舶の安全な航行にとって大きな効果をあげており、産業界として高く評価する」と政府を援護射撃し、さらに「マラッカ・シンガポール海峡に関しては、わが国のエネルギー供給ルートとして船舶が通過するなど重要性が高いため、関係国の協力により、適切な対策を実施する必要がある」と、この海域での(海自の)活動も要請した。
中国海軍脅威論とシーレーン防衛
読売新聞編集委員の勝股秀通は「様変わりしたシーレーン防衛」と題し、「想像をはるかに超えた中国海軍の増強と近代化がもたらす脅威の増大」と「シーレーンを跳梁する海賊たち」の二点を取り上げ、前者について、「今こそ中国の潜水艦の脅威に対し、日米が共同して対処するシーレーン防衛のための作戦研究が必要である」(『世界の艦船』の特集「現代のシーレーン防衛」2009/2)
208 また『読売新聞』は社説「南シナ海 中国進出の抑止は国際提携で」2010/8/18の中で、「国際的な海上輸送の要衝である南シナ海で、中国が海軍力を背景に高圧的な姿勢で進出しつつあるが、そうした排他的な動きを取ることは認められない」とし、日本へのシーレーンが通る南シナ海・東シナ海における中国海軍の脅威への「国際提携」(=日米提携)による「牽制網」での対抗を強調する。
護衛艦隊司令官などを歴任した金田秀昭は「東アジア地域と北インド洋地域の相互依存関係が、シーレーンを靭帯として、急速に増加している」とし、「日本がとるべき方策の第一は「対中国海洋戦略」を構築し、わが国の「海洋の自由」確保のため、自律的かつ能動的に行動すること」とし、「その際圧力を撥ね返すという毅然とした態度を取ることが重要であり、東シナ海や南西諸島方面に常設の統合機動運用部隊を常時展開させ、更に国際法上許される範囲で、中国周辺海域において自衛艦や自衛隊機を含む活動を活発に実施するなど、適当な方法により、防衛・警備力の常続的なプレゼンスを明示することが必要である」とする。(谷内(やち)正太郎編『日本の外交と総合的安全保障』ウェッジ2011)(これは喧嘩を売る行為だ)これは領有権や海洋権益問題では一歩も引かず、圧力には圧力で対抗すべきという力の論理である。
209 「中国の脅威」と第一線で対峙する海上自衛隊の「現場」では、日本がシーレーン防衛構想で対抗すべきだとする意志は固い。『毎日新聞』長崎版2012/1/11によれば、海上自衛隊佐世保地方総監部の加藤耕司総監は、年頭の訓示2012/1/10で、次のように日本の安全保障を巡る厳しい情勢認識を示しながら隊員を鼓舞した。
「中国海軍の活動はインド洋、アフリカ沿岸、南太平洋に拡大し、沿岸国への影響力もかつてなく強まっている。また極東ロシア軍は北方領土を巡って兵力の増強を進め、北朝鮮は支配者の世代交代に伴い、不安定の度を増している。我が国の主権を維持し、シーレーンの安定利用を将来にわたり確実にするためには、「精強・即応」に加え、外洋での周到な作戦を可能にする「持久力」が必要だ。自らの熱と意気で西海鎮護の任を全うするとの志を新たにしてもらいたい。」(精神論、情緒的)
210 その後南シナ海では漁業資源に加えて豊富な埋蔵資源をめぐり、中国と周辺の東南アジア諸国との対立がさらに深まった。『朝日新聞』2015/3/31によれば、「中国に対抗してアジア太平洋リバランス(再均衡)政策を取るアメリカは、その主戦場たる南シナ海において、海上の警戒・監視について日本に強い期待を寄せている」とのことだ。
また『北海道新聞』「日中競り合うインド洋 シーレーン防衛へ(安倍晋三)首相 沿岸国と軍事提携模索」2014/9/7によれば、「インドを囲む国々の港湾を整備する中国の「真珠の首飾り戦略」に対抗して、安倍政権は、中東と日本を結ぶシーレーン防衛を重視し、インド洋沿岸諸国との連携強化を模索している。また2012年末、安倍首相は「安全保障ダイヤモンド構想」――中国の海洋進出にくさびを打ち込む狙いで、日本と米ハワイ、オーストラリア、インドをひし形に結び、その域内の民主主義諸国で海洋権益を守る――を提唱した。」
「富国強兵」路線としての新シーレーン防衛論
211 2012年、核開発問題を巡ってアメリカとの対立を激化させたイランは、ペルシャ湾のホルムズ海峡の封鎖で対抗する可能性を示唆した。イランとアメリカとの軍事衝突が起きた場合を想定して民主党の野田佳彦首相は、自衛隊法に基づく海上自衛隊の掃海艇による機雷除去や海自護衛艦によるタンカーの護衛について検討を開始した。*これはペルシャ湾におけるシーレーン防衛の想定である。
*『朝日新聞』2012/2/19
2013年8月、安倍首相は、(民主党政権時の)2011年6月に開設されたジブチの自衛隊活動の拠点を視察し、それを海賊対策以外にも活用する方針を明らかにし、中東有事での哨戒機の派遣や、緊急時の邦人救出など、多目的に使えるよう施設の強化が目指され、事実上の海外基地としての位置づけがはっきりしてきた。*そのことを防衛省幹部は、「積極的平和主義に基づけば、自衛隊が海外に唯一つ持つ拠点を生かす方策を考えるのは当然だ、米国やNATOとの連携やテロ情報の共有といった観点からも、拠点の多目的化は有益だ」と説明している。
*『朝日新聞』2015/1/19
このように東シナ海・南シナ海・マラッカ海峡・インド洋、そしてペルシャ湾とソマリア沖のアデン湾へと、日本の想定するシーレーン防衛の範囲は太い帯としてつながった。それは海賊と中国海軍の脅威への対抗を掲げ、また国際貢献や海洋安保協力を名目とする、海上自衛隊の活動の拡張であり、富国強兵路線の一環としての新シーレーン防衛論である。
秋山正廣200, 201は、この新シーレーン防衛論のさきがけとなった。「日本がPKOに初めて参加して20年が過ぎ、今では海外活動が自衛隊の本体任務となった。これまでは国際社会の要請に応えるという受け身の姿勢が根底にあったが、国益に基づいて日本が主体的に進めるべき外交の一翼を、自衛隊が担う時機が到来しているのかもしれない」*と自衛隊の海外活動のあるべき方向を提言した。
*『朝日新聞』2013/1/19
秋山正廣は「受け身の国際貢献」から「主体的国際貢献」への転換を予測し、そこで自衛隊が主体的に外交の一翼を担うという発想は、「積極的平和主義」と軌を一にしている。国益の確保を巡って他国との競合や対立が生じる場合、本来任務となった自衛隊の海外活動の展開が外交の一翼を担うとは、国益の観点に立った沈黙の威圧を背景とする力の外交である。
213 1980年代から今日に至る、国益と国際貢献を名目とするシーレーン防衛構想と海上警備行動は、2014年7月1日の集団的自衛権の行使容認閣議決定と、2015年5月に国会に提出された安全保障関連法へと直結した。
そのためのステップとなったのが、2014年5月15日、首相の下に設置されていた「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)」による集団的自衛権行使を容認する論理を打ち出した報告書であった。「我が国を取り巻く安全保障環境の変化」を理由に、「我が国として採るべき具体的行動の事例」として「事例3:我が国の船舶の航行に重大な影響を及ぼす海域(海峡等)における機雷の除去」であった。湾岸戦争時のペルシャ湾での機雷除去に触れたうえで、「今後、我が国が輸入する原油の大部分が通過する重要な海峡等で武力攻撃が発生し、攻撃国が敷設した機雷で海上交通路が封鎖されれば、我が国への原油供給の大部分が止まる。これが放置されれば、我が国の経済及び国民生活に死活的な影響があり、我が国の存立に影響を与えることになる」として、集団的自衛権行使の必要なケースとした。
機雷除去・掃海作業は中東のホルムズ海峡が念頭におかれていたが、そのシーレーンは中国がフィリピンやベトナムなどと領有権を争う南シナ海を通っており、この海域での自衛隊の米軍後方支援やシーレーン防衛のための武力行使も想定されていた。(中国との戦争を想定していた)
214 2014年版の防衛白書『日本の防衛』は、安保法制懇の報告書と軌を一にする。この年度から索引に「シーレーン」が登場したが、この白書は中国の動向を意識し、「海洋において、近年資源の確保や自国の安全保障の観点から、力を背景とした一方的な現状変更を図る動きが増加しつつある。このような動きや海賊問題などにより、シーレーンの安定や航行の自由が脅かされる危険性も高まっている。また特に中東からわが国近海に至るシーレーンは、資源・エネルギーの多くを中東地域からの海上輸送に依存しているわが国にとって重要であることから、これらのシーレーン沿岸国などの海上保安能力の向上を支援するとともに、戦略的利害を共有するパートナーとの協力関係を強化する」とする。
図表「最近のわが国周辺での安全保障関連事案」をみると、「ロシア軍の活動の活発化」や「北朝鮮による核・ミサイル開発」「北朝鮮による軍事的な挑発行為や挑発的言動」「わが国のシーレーンに向けられた中国の脅威――中国による軍事力の広範かつ急速な強化、中国による東シナ海における活動の急速な拡大・活発化、中国軍による太平洋への進出の常態化」などを列挙している。「沖縄の在日米軍」の項では、「沖縄が南西諸島のほぼ中央にあることや、わが国のシーレーンにも近いなど、安全保障上きわめて重要な位置にある」とし、「沖縄の地政学的位置と在沖米海兵隊の意義・役割」という図表を掲げている。
215 安保関連法制*は米によってお膳立てられていた。(安保関連法制は日米ガイドラインと「不可分一体」である。)2015年4月27日に改定が合意された「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」のV. 地域の及びグローバルな平和と安全のための協力 A. 国際的な活動における(米日の)協力」の第三項「海洋安全保障」にこう記されている。
*2015年9月、安保関連法が強行可決された。
「日米両政府が海洋安全保障のための活動を実施する場合、日米両政府は、適切な時は、緊密に協力する。協力して行う活動の例には、海賊対処、機雷掃海等の安全な海上交通のための取り組み、大量破壊兵器の不拡散のための取り組み、及びテロ対策活動のための取り組みを含むことができる。
216 これは集団的自衛権の行使そのものである。シーレーン防衛構想とそれに基づく海上自衛隊の活動領域の拡張をテコに、憲法9条を否定する集団的自衛権の行使容認へ突き進んだのである。
感想 2015年の「安保関連法」は米の要望であったようだ。というのは、集団的自衛権そのものを意味する「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」が2015年4月27日に日米で合意された4か月後の2015年9月に「安保関連法」が強行可決されていたからである。
「日本国際フォーラム」の提言「積極的平和主義と日米同盟のあり方」
安倍首相の(第二次)就任2012 1年後2013のキーワード「積極的平和主義」2013/9/12は、2009年10月の「日本国際フォーラム」の「積極的平和主義と日米同盟のあり方」*1を原典としている。*2
*1 伊藤憲一『新・戦争論――積極的平和主義への提言』新潮新書2007.9の最終章「日本の選択」の中で、伊藤憲一は以下のように「世界不戦体制」「不戦共同体」を強調する。
「今日の「世界不戦体制」は、第二次世界大戦と冷戦という二つの世界覇権戦争を勝ち抜いた米国を中心とする西側先進民主主義諸国の「不戦共同体」として出発した。ソ連圏崩壊後のあと、北大西洋条約機構NATOや日米同盟などは、その存在目的を再定義し、地域や世界の平和と安定を守る国際公共財としての位置づけを明確にした。NATOや日米同盟のそのような変化は、国際連合の集団的安全保障体制を補完し、それと協調することによって、西側先進民主主義諸国の不戦共同体を世界的な不戦共同体に拡大させようとする動きだと言える」(ロシアや中国が抜け落ちている)
「日本人は誰がこのような世界不戦体制を支えるべきかという問題を素通りすべきではない。消極的平和主義=偽物の平和主義(そうかな)から、積極的平和主義に踏み出すべきである」
ここでは自衛隊の専守防衛からの転換や集団的自衛権の行使についてはまだ直接には触れていない。
*2 柳澤協二『亡国の安保政策――安倍政権と「積極的平和主義」の罠』岩波書店2014
「日本国際フォーラム」の理事長は伊藤憲一(191、日本会議、1938—2022)で、安倍晋三は2014年3月の時点で、その参与だった。同フォーラムはその提言で「国際社会における日本自身の立ち位置や行動基準も、これまでの消極的・受動的平和主義から、積極的・能動的平和主義へと進化することを求められており、(美辞麗句)日米同盟のあり方はそのような文脈の中で再考する必要が生まれている」とし、2008年9月、「日米関係の再調整と日本の針路」について審議を始め、2009年6月から「積極的平和主義と日米同盟のあり方」とテーマを修正し、同10月に同題の政策提言をした。その核心は「国土防衛のための提言」の中の次の4点である。
1 「非核三原則」などの「防衛政策の基本」を再検討せよ
2 米軍再編プロセスに協力し、集団的自衛権の行使を認めよ
3 「武器輸出三原則」は根本的にそのあり方を見直せ
4 国家の情報収集・分析体制を整備・強化せよ
218 1の「防衛政策の基本」に関しては、「平成26年度2014年度以降に係る防衛計画の大綱について」(2013年12月閣議決定)の中で、まだ「我が国は、日本国憲法の下、専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国にならないとの基本方針に従い、文民統制を確保し、非核三原則を守りつつ、実効性の高い統合的な防衛力を効率的に整備する」と、名目上は維持しているが、2の集団的自衛権は閣議決定による解釈改憲と安保関連法として、3の武器輸出三原則は「防衛装備移転三原則」(2014/4閣議決定)として、4の機密保全体制の不備の改善は特定秘密保護法として、安倍第二次、第三次政権下に実現した。
1の「防衛政策の基本」はタテマエであり、それも今後の憲法改正でなくなるだろう。しかし首の皮一枚だけでも残っていることは大事なことだ。*
*2022年12月16日に岸田文雄内閣が閣議決定した「安保三文書」における敵基地攻撃能力の保有方針で1の「専守防衛」もなくなった。
「国際協調主義に基づく積極的平和主義」
219 2013年4月17日付『読売新聞』で、読売記者が安倍首相に「憲法96条を先行改正して憲法9条の条文改正はそれからとなると、時間がかかります。朝鮮半島情勢を踏まえれば、集団的自衛権の行使を禁じた解釈をまず見直す必要があるのでは」と誘い水をかけたところ、安倍はそれに応じて「集団的自衛権の行使の検討を行う」と答えた。
2013年9月12日の「安全保障と防衛力に関する懇談会」で、安倍首相は「国際協調主義に基づく積極的平和主義の立場から、世界の平和と安定、そして繁栄の確保に、これまで以上に積極的に寄与して行く」と述べたが、これが安倍首相が「積極的平和主義」という言葉を使った最初であると思われる。そしてこの直後に、アメリカの保守系シンクタンクでの講演で、ついで国連総会での演説で安倍首相は「積極的平和主義」の言葉を用いた。また、ニューヨークでの記者との懇談で、集団的自衛権を行使する自衛隊の活動範囲に関して「国民の生命と財産、国益に密着するか、という観点」に言及したが、安倍首相が「国益」という「富国」を追求することが、自衛隊の海外派兵という「強兵」と結びつくことを明確に意識している点は注目すべき点だ。
220 『読売新聞』は2013年9月13日の社説で「日本の将来への包括的指針を示せ」と題して安倍首相の「国家安全保障戦略」に全面的に賛同し、次のようにその具体的な展開を求めた。
「山積する安全保障の課題に取り組むには、まず日本の領土・領海を守る自衛隊や海上保安庁の体制を拡充する必要がある。自衛隊と米軍との協力を拡大し、日米同盟を強化することも欠かせない。
首相の掲げる「積極的平和主義」に基づき、国連平和維持活動PKOや海賊対処行動などで日本が従来以上に役割を果たし、国際社会と連携することが大切だ。経済・エネルギー面の国際協力も着実に進めねばなるまい。」
『読売新聞』は、安倍首相のニューヨーク講演後の2013年9月27日付で「「積極的平和主義」を追求せよ」と題する社説を掲げ、また「国家安全保障戦略」が閣議決定された翌日2013年12月18日付の社説は「日本を守り抜く体制を構築せよ 「積極的平和主義」の具体化が急務」と題して、集団的自衛権に関して「安倍政権は行使に慎重な公明党や内閣法制局との調整に入るべきである」と述べたが、実際そのように調整が進み、安保関連法が成立した。
221 2013年10月15日の衆院本会議での施政方針演説で安倍首相は「単に国際協調という「言葉」を唱えるだけでなく、国際協調主義に基づき、積極的に世界の平和と安定に貢献する国にならねばなりません。「積極的平和主義」こそが、我が国が背負うべき21世紀の看板であると信じます」と述べたが、その後の本会議や予算委員会での質疑で「積極的平和主義」の定義について問われると、「積極的という言葉を加えたのは、これまで以上に積極的に世界の平和と安定に貢献すべきだとの考えによるもの」*という程度の答弁しかしていない。
*衆院本会議2013年10月25日
「平和学」の坪井主税(ちから)札幌学院大学名誉教授は次のように指摘する。*
「もともと「積極的平和主義」とは、ノルウェーのヨハン・ガルトゥングが「消極的平和」を戦争のない状態、「「積極的平和」を、戦争だけでなく、貧困や搾取、差別などの構造的暴力がなくなった状態」と定義して定着した。安倍首相がアメリカでのスピーチの際に用いたのは “Proactive Contributor to Peace”(「率先して平和に貢献する存在」)であり、これを首相のホームページでは「積極的平和主義」と訳しているが(外務省の和訳も同様)、ガルトゥングの定義する「積極的平和主義」は
“Positive Peace”なので、少なくとも英語圏の世界では、安倍首相の発言は「積極的平和主義」とは受け取られない」
「 Proactiveは軍事用語では「先制攻撃」のニュアンスで使われるから、米国人は「日本は集団的自衛権の行使容認に踏み切ります」と受け取るだろう。逆に和訳によって日本では「軍事力を行使しない」と誤解する人がいるかもしれない。言葉のマジックだ。」
*『東京新聞』2013年10月19日付
222 安倍首相は「積極的」の部分で集団的自衛権行使を可能にし、そのための自衛隊の拡充を盛り込み、「平和主義」の部分に憲法の平和主義の維持を意識させ、実質はその空洞化をさらに進展させる。これはダブル・スタンダードであり、それこそ安倍首相の積極的平和主義の本質である。またそこには軍事的な先制攻撃も含意されている。
223 「積極的平和主義」で実際に意味するのは「積極的」の部分だけであり、その実態は「富国強兵」である。「平和主義」は「富国強兵」をカムフォラージュする見せかけである。かつて、そして現在まで「民主主義」が、「自由主義体制」=「資本主義体制」として、多数決を絶対視する議会制民主主義として僭称されてきたように、「平和主義」も「富国強兵」という実態を覆い隠すものになった。
安倍首相が2013年10月15日の施政方針演説で「我が国の国益を長期的視点から見定めた上で、我が国の安全を確保していくために「国家安全保障戦略」を策定してまいります」という言葉の中に、「国益」重視の「富国強兵」路線が明確となった。それは国防方針の転換という次の段階で具体化する。
「国家安全保障戦略」における「積極的平和主義」
2013年12月17日、「国家安全保障会議」と閣議で、「国家安全保障戦略」が決定された。これによって1957年の「国防の基本方針について」以来、専守防衛を基調としてきた国防方針が56年ぶりに変更された。その「国家安全保障の基本理念」は、「我が国は今後の(厳しい)安全保障環境の下で、平和国家としての歩みを引き続き堅持し(嘘)、また、国際政治経済の主要プレーヤーとして、国際協調主義に基づく積極的平和主義の立場から、我が国の安全及びアジア太平洋地域の平和と安定を実現しつつ、国際社会の平和と安定及び繁栄の確保にこれまで以上に積極的に寄与していく」とした。またこの国家安全保障戦略を踏まえて、同日「防衛計画の大綱」も改定された。
224 「国家安全保障戦略」では「積極的平和主義」について定義しない。半田滋は(この「国家安全保障戦略」が)「海外の紛争から距離を置いてきた戦後の平和主義を消極的とみなして否定し、第一次安倍政権で掲げた「戦後レジームからの脱却」を実現する狙いがある」とする。*
*半田滋『日本は戦争をするのか――集団的自衛権と自衛隊』岩波新書2014
この「国家安全保障戦略」の「Ⅱ国家安全保障の基本理念」の「2我が国の国益と国家安全保障の目標」は、「国益」を、主権・独立の維持、領域の保全だけでなく、「豊かな文化と伝統を継承しつつ、自由と民主主義を基調とする我が国の平和と安全を維持し、その存立を全うする」とするが、現実に追及・確保されるべきものは、「経済発展を通じて我が国とわが国国民の更なる繁栄を実現し、我が国の平和と安全をより強固なものにすること」であるとし、そのためには「海洋国家として、特にアジア太平洋地域において、自由な交易と競争を通じて経済発展を実現する自由貿易体制を強化し、安定性及び透明性が高く、見通しがつきやすい国際環境を実現して行くことが不可欠である」とする。
225 この国益を守るために安倍首相は「国際協調主義に基づく積極的平和主義」を掲げるのだが、国家安全保障の目標の第一は抑止力の強化と脅威の排除であり、日米同盟の強化は第二の目標となっているから、第一目標は自前の軍事力の確立と拡充である。つまり、「積極的平和主義」は富国強兵である。
安倍首相は2014年1月24日の衆議院本会議での施政方針演説の中で、フィリピンにおける台風被害の緊急支援、ソマリア沖アデン湾の海賊対処行動、シリアにおける化学兵器の廃棄での協力などを挙げ、「こうした活動の全てが、世界の平和と安定に貢献します。これが「積極的平和主義」です。我が国初の国家安全保障戦略を貫く基本思想です」と述べ、また「「国際協調主義に基づく積極的平和主義」の下、日本は米国と手を携え、世界の平和と安定のために、より一層積極的な役割を果たしてまいります」という。後者(「また「「国際協調主義…」以降の部分)は集団的自衛権や集団的安全保障のなどの文脈で述べられたものだが、積極的平和主義の定義や説明は、この施政方針演説でもなされなかった。
226 2014年4月1日、安倍首相はそれまでの「武器輸出三原則」を緩和する「防衛装備移転三原則」を閣議決定し、2014年5月15日、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」の報告書の中で、国家安全保障戦略に言及し、「日本国憲法の平和主義は、この国際協調主義に基づく積極的平和主義の基礎にあるものである」とし、この憲法解釈に基づいて集団的自衛権行使容認の結論を導いた。
これらの集大成として2015年9月19日に安保関連法が成立した。外務省の説明は「いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを断固として守り抜くとともに、国際協調主義に基づく積極的平和主義の下、国際社会の平和と安定にこれまで以上に積極的に貢献するための「平和安全法制」が成立しました」とする。(「日本の安全保障政策 積極的平和主義」2016年3月改訂)
227 2013年12月17日の「国家安全保障戦略」231の閣議決定の直後の12月26日、安倍首相は靖国神社を参拝した。アジア各国の反発は織り込み済みだったが、アメリカによる不快感表明は予想外だった。しかし安倍首相はこの参拝を行ったことが抑止力の強化と脅威の排除という国家安全保障の第一目標と結びついた主体的な独自性の発揮だと意識したものであったろう。その後の参拝は抑制されたが。
「制服組」の進出
『朝日新聞』2016/4/24が「制服組 じわり政治の表に」という見出しで「自衛隊の制服組(自衛官)の影響力が安倍政権で強まっている。政治の表舞台である首相官邸に現れる機会が急増。防衛省では背広組(文官)との駆け引きの結果、部隊運用の権限も強めた」とし、また『日本経済新聞』2017/1/29「「首相官邸」欄から見る政権四年」として「安倍首相の面会数が外務・防衛省で増」と報じた。
228 1963年、防衛庁の「制服組」が「三矢研究」を極秘に行っていた。つまり、第二次朝鮮戦争を想定し、日本国内に、経済や言論の統制を含む国家総動員体制を敷き、防衛上必要な場合には、「日米統合作戦司令部」を設置し、「日米共同作戦」を実施するという図上演習訓練を行っていた。これが2年後の1965年2月に国会で暴露され、憲法に違反し、文民統制上の大問題とされ、防衛庁長官が引責辞任し、防衛庁幹部も処分された。文民統制は警察予備隊発足の際に、戦前の軍部権限拡大の反省から、旧内務官僚が中心となって組織・制度作りをしたことに由来する。この「三矢研究」事件以来、文官の「背広組」(内局の防衛庁職員)が、「制服組」を統制・監視する「文民統制」という不文律が確立し、「背広組」が優位に立って来たが、「制服組」はこれに不満を高めていた。
この「背広組」優位がぐらつき、「制服組」の進出が顕著になったのは、防衛庁が防衛省に昇格し、それまでは自衛隊の付随的任務であった海外での活動が本来的任務に格上げされた2007年ごろからであるが、それは安倍第一次政権2006—2007と重なる。
2008年、石破茂防衛相が、背広組と制服組の統合を狙う組織改編構想を打ち出して波紋を広げた。*背広組トップの防衛事務次官の汚職事件が防衛省の組織改革を促す一方で、航空自衛隊幕僚長の論文問題からは「制服組(の)役割拡大に(対する)慎重論」が導かれた。(『朝日新聞』2008/11/12)それでも2009年に、背広組の幹部らが(防衛庁)長官に直接提言して補佐するという防衛参事官制度を廃止したことは、背広組後退の第一歩であった。
*『日本経済新聞』2008/5/4「石破組織改編構想」について「防衛省改革 主導権争い 防衛相VS.自民国防族、指揮系統巡り 制服組に慎重論 (制服組の)権限縮小に懸念」
229 2013年、前年末の衆議院議員総選挙で自民党が掲げた「自衛官と文官の混合組織への改編」という公約を土台に、制服組の権限を強化する方向で、自衛隊の組織改革が進んだ。『読売新聞』2013/8/6は(自衛隊の)運用体制の見直しについて「中国の海洋進出や北朝鮮の核・ミサイル開発などで日本周辺の安全保障環境が緊迫する中、自衛隊が緊急事態に迅速な対応が取れるようにする狙いがある」と報じた。それは自衛隊の部隊運用を統合幕僚監部に一本化し、制服組の一元運用を目指すことであった。そして2013年8月、安倍首相の指示を受け、制服組の将官(空将補)が初めて内閣官房(内閣安全保障・危機管理室)に配属された。(『読売新聞』2013/8/10)
この組織改革(自衛隊の部隊運用を統合幕僚監部に一本化)は、安保関連法案の審議入り前の、2015年6月の「改正防衛省設置法」の成立によって実現した。*それによって、官房長・局長ら背広組の優位性がなくなって統合幕僚長・陸海空幕僚長ら制服組と対等な関係になり、これまでは自衛隊の運用を背広組が担って来た「運用企画局」を廃止し、制服組中心の統合幕僚監部に統合されることになった。そして2015年10月にその組織改編を実施した。その目的は「集団的自衛権の行使を柱とした新たな安全保障法制の整備に備え、有事での迅速な運用を可能にするため」(『読売新聞』2015/2/26)であった。
*この「改正防衛省設置法」によって、「防衛装備庁」が外局として新設され、それが、武器輸出三原則の廃止を受け、「防衛装備品」の開発・取得・輸出などを一元的に担うことになった。
230 以上のように安倍政権の下で文民統制が撤廃されて制服組が着実に進出し、前記『朝日新聞』2016/4/24の「制服組 じわり政治の表に」227という記事となった。河野克俊統合幕僚長*は国家安全保障会議NSCに出席している。同記事で「昨年2015/4改訂された日米防衛協力のための指針(ガイドライン)に基づき設置された「同盟調整メカニズム」では、自衛隊と米軍の制服組が、平時から有事まで「運用調整」に当たることになった。(制服組の)防衛省内での影響力が高まったうえ、現場同志(日米)の軍事的に専門的な見地からのやりとりが頻繁になる(だろう)」と指摘する。
*河野克俊統合幕僚長は、安倍首相が自衛隊の存在を憲法第九条に明記する意向を示したことに関して、2017年5月、「非常にありがたい」と発言した。これは自衛隊法第61条の「政治的行為の制限」からみて、また公務員の憲法尊重擁護義務からも不適切な発言だったが、安倍政権は河野擁護に努めたばかりでなく、統合幕僚長の定年を再延長した。
『毎日新聞』2016/10/26は「米軍・自衛隊、一線越える一体化 半世紀のタブーを破り、陸自に「日米共同部」新設」の中の「日米共同部」は、防衛省2017年度概算要求の一つとなっている。そして『毎日新聞』は「武器の悲願を次々に実現させている安倍政権。米軍と自衛隊の一体化に突き進む中、文民統制が危機に立たされているのではないか」と結ぶ。
231 朝鮮民主主義人民共和国をめぐる軍事的緊張の下、日米・日米韓の軍事演習が頻繁に実施されており、実質的に「同盟調整メカニズム」が機能し、運用されているはずである。50年余前に「三矢研究」で計画された「日米統合作戦司令部」の設置と「日米共同作戦」の実施が、もはや現実のものとなり、戦時体制に準じた状況が生まれている。
「生命線」と「国益」を掲げる現代
中谷元・防衛大臣はジブチで「日本の経済にとって(ソマリア沖は)生命線であり、日本の船舶の安全を考えると、引き続きこの活動は必要だ」と語った。(『朝日新聞』2015/1/19)しかし実際はこの時ソマリア沖の海賊の出没は減少していた。自衛隊の海外基地ジブチでの「生命線」発言は生々しい。
232 これ以前の2009年3月にソマリア沖の海賊対策として自衛艦が派遣されたが、その時、麻生太郎首相は「海賊行為は貿易に多くを依存する日本にとり、国家存立の生命線を脅かすものだ」とすでに「生命線」と語っていた。
九州防衛局も『きゅうしゅう』2009/9の中で「現在、世界的な脅威となっているソマリア沖・アデン湾の海賊。日本の生命線といえるこの海域で、自衛隊は海賊対処に取り組んでいます」としている。
明治の半ばに山懸有朋は「主権線」「利益線」を唱えたが、その概念を越えて1930年代前半に「生命線」が広く国民の間で呼号されて国家の存亡に直結するものとして浸透していった。満州事変・満州国建国に至るナショナリズムの高揚を通じ、国際連盟脱退通告、ワシントン軍縮条約の破棄通告などから自ら国際的孤立への道を選択し、「非常時」の到来が強い危機感をもって語られた。
233 「満蒙は日本の生命線」が主唱され、その「生命線」の範囲は万里の長城を越えて中国の本体に及んでいった。「生命線」の内実は、南満州鉄道(満鉄)に代表される「特殊権益」であり、それは「国益」と重ねられて不可侵とされた。また北洋の漁業権益に対するソ連側の権益回収の動きが強まると、「北洋の生命線」の危機が喧伝された。
中谷元の「生命線」発言2015/1/18に続いて、「国益」の確保が前面に出て来た。(2015年)2月10日の閣議で、それまでの「政府開発援助ODA大綱」に代わって、「開発協力大綱」が決定された。「協力の目的として、(日本の)平和と安全の維持や更なる繁栄の実現を念頭に、「国益の確保に貢献」と初めて表現した。また、軍や軍関係者が関わる支援として、災害援助や復興など非軍事分野に限り、実質的意義に着目し、個別具体的に検討すると銘記した。」(『日本経済新聞』電子版2015/2/10)
この「開発協力大綱」は先の「国家安全保障戦略」220と関わり、「国際協調主義に基づく積極的平和主義」の立場からも用いられている。つまり日本の「国益」に沿っているかどうかという観点で、「開発協力」という経済支援の基準が判断されるようになった。富国強兵路線が鮮明となったと言える。
234 「生命線」という言葉は麻生首相時代の2009年3月に、「国益」は2014年10月の安倍首相の施政方針で用いられていたが、2015年の初頭に「生命線」と「国益」が二つとも期せずして用いられたが、このことはそれらの言葉の高唱によって大多数の国民の戦意を上昇・沸騰させていった1930年代を想起させる。今1930年代と重なる戦争への道を再び歩み始めたと言える。自衛隊がアジア近隣地域に先頭を切って主体的に出て行く場合は考えにくいが、集団的自衛権を実際に行使することによってアメリカの軍事行動に追随して戦争に巻き込まれる可能性は高まりつつある。
安倍政権が進めて来た諸施策は、「積極的平和主義」を大きく掲げて新たな戦前に向けた戦時体制の構築を成し遂げつつある。本書冒頭で引いた多喜二の言葉――「戦争が外部に対する暴力的侵略であると同時に、国内に於いては反動的恐怖政治たらざるを得ない」――が実感を持って想起される。国内における反動的恐怖政治を準備するために、治安法としての特定秘密保護法2013/12/13と共謀罪法2017/6/15が相次いで成立した。
第五章 「積極的平和主義」下の治安法制厳重化
――新たな戦時体制形成の最終段階へ
235 特定秘密保護法や共謀罪法が成案化され、国会で強行採決されて行くとき、新聞の投稿欄にしばしば特高警察や憲兵についての体験談が掲載された。78歳の某女性は、黒ずくめで角を生やした人物が木の陰で目を光らせていて、その脇に、「何もしゃべってはいけません。憲兵に連れて行かれます」とある図柄に、子ども心に「不快な思いを感じた。あんな嫌な気分になる世の中が二度と来ないようにと思った」という。*憲兵のこうした国民監視の根拠になったのが、改正軍機保護法などの防諜法令であった。
*『朝日新聞』2013/12/17
この章では再び国民が不快な思いや嫌な気分を味わう可能性を十分に秘め、反動的恐怖政治の武器となり得る特定秘密保護法と共謀罪法の成立の背景と経緯を検証し、それらが現代の戦時体制構築の終盤において重要な役割を担っていることを述べる。また、戦時体制の国家として当面の到達目標となる自民党「憲法改正草案」の問題点を指摘する。
特定秘密保護法の成立(2013年12月6日成立、13日公布)
136 以下は日中戦争の始まる直前の1937年3月31日付『東京朝日新聞』の社説の一部である。
「(軍機保護法)改正案では秘密を侵すとか、売るとかの意思の有無を問わない所に、根本的の危惧が存する。…憂えるのは玉石混交一網打尽式の取締が、騒ぎの大きい割合に実効が少なく、然も往々にして無辜の民をして、国民として最も恥ずべき売国の濡衣に悲憤の涙を絞らせるような結果を招来しないかである。…一歩誤れば死刑以下の懲罰が待って居るのでは、障(さわ)らぬ神に祟(たた)りなしの恐怖心理が募るのは当然であって、それを奇貨措(お)くべしとして、仮令(たとい)現在の当局にはその虞がないとしても、将来執政の任に当たるものの考え次第では、列挙事項を増加し、若くは解釈を極端に拡げる場合があったら、この法律一つで優に言論弾圧ファッショ政治が出来る訳である。」
これは当時の林銑十郎内閣が1937年2月に議会に提出した軍機保護法改正案に対する反対論である。軍機保護法は1899年に、日露戦争に向けた軍備拡充に伴って制定されたが、大正デモクラシー期にはほとんど適用されなかった。ところが1937年7月の日中戦争の本格化を前にして、違反とされる事件が急増して防諜気運を醸成し、その上で全面改正が意図されたのだが、この時は1937年3月末に議会が解散して成立しなかった。ところが次の近衛文麿内閣が、盧溝橋事件直後の1937年7月25日、次議会に再提出し、8月7日にスピード成立した。この『東京朝日新聞』の社説は、2013年に二度の国会で強行採決して成立した特定秘密保護法に対する反対論としても、秘密の範囲の広範さと茫漠性、「障らぬ神に祟りなしの恐怖心理」という委縮効果などの点で、十分に通用する。
特定秘密保護法制定の根拠は二つとされる。つまり①「厳しい安保環境」や「緊迫する国際テロ情勢」に対応して「的確に情報収集をおこない、収集した情報を基に迅速かつ適切な判断を行う」ために、関係国から信頼される「情報保全体制」を整備する必要があること、②国家安全保障会議の審議を効果的・効率的に行う必要があること、という二つの理由である。そして「特定秘密」指定の範囲は「安全保障に関わる四分野」――防衛・外交・特定有害活動(スパイ行為等)・テロリズムの防止に関する各事項――に限定したので、広く国民が処罰の対象になることはない」とする。*
*内閣官房特定秘密保護法施行準備室「特定秘密の保護に関する法律Q&A」2013/12/27
238 このタイミング(2013年12月13日)での特定秘密保護法の成立に固執したのは、「国際協調主義に基づく積極的平和主義」を押し出した「国家安全保障戦略」(2013年12月17日)の推進と関連している。新たにテロリズムの防止を加えているが、これは1985年に頓挫した「国家機密法案」176以来の宿願の実現であった。
しかもスパイ防止・取締りを本質とする国家機密法案には長い前史があった。再軍備が進むとともに、防諜法案が繰り返し提案された。それでも戦前の軍機保護法・国防保安法(1941年制定)の悪法性の記憶が国民の中に深く刻み込まれていたので、その都度阻止された。例えば1954年3月6日付『読売新聞』は、吉田茂内閣による「秘密保護法」制定の動きに対して、「往年の軍閥横暴のシンボルだった悪法」=軍機保護法と重ねて、「あの悪法で国民がどれだけ苦しめられたか、その記憶はあまりに生々しい」と反対し、翌日の1954年3月7日付の社説「軍機保護法の再現以上」において、「戦前の軍機保護法と軍用資源秘密保護法そのまま合わせて一本にして復活したものよりなおきびしいもの」と論じた。
239 新しい「戦時体制」を準備する上で、防諜体制の整備は不可欠だった。防諜体制としてはすでに日米相互防衛協定等に伴う秘密保護法(MSA秘密保護法1954)や自衛隊法などがあったが、その根幹となる特定秘密保護法を成立させることは、再軍備以来の念願であった。
「現代の軍機保護法」=「特定秘密保護法」
「特定秘密保護法」(2013年12月6日成立)を「現代の治安維持法」とする見方が高まり、国会周辺は反対運動の声で包まれた。「特定秘密」は自己増殖し、無限定であり、知る権利が阻害される。また与党の某政治家が反対運動のデモをテロと同一視したことにより、公聴会や参考人聴取が形式的なセレモニーであることが判明し、特定秘密保護法が国民の言論を封殺する治安法であるという反対論に向かった。
とはいえ特定秘密保護法は秘密保護を法益とするから、厳密にいえば、「改正軍機保護法」や「国防保安法」と比較すべきである。特定秘密保護法は現代の「国民防諜」体制構築のための第一歩である。かつての改正軍機保護法はスパイ検挙というよりも、それを名目とした「国民防諜」に貢献し、国民の言論を強力に統制した。*
*軍機保護法の改正後、「国民防諜」の掛け声の下に、各地で防諜講演会が頻繁に開催された。防諜協会編『スパイは何処にゐるか 「わかり易い防諜の話」』名古屋新聞出版部1941は、陸軍省防衛課の大坪義勢(よしとき)中佐が名古屋市で行った講演の筆記である。大坪はこう言った。
「日本の防諜の現況は戸締りもせず、火は起こし放しで、一家総出の花見と同一の寒心すべき状態にあります。速(すみ)やかに「国民挙って防諜の戦士」にならねばなりませぬ。」
「どんな苦しいことでも我慢して一億一心、この非常時局を突破する、如何なる宣伝にも乗らない、日本政府を信頼し、その号令に絶対、服従する、これで防諜はできる。ここには婦人方が居られるから一言いたしますが、外国人に心酔して居る婦人などが、よく彼等の手先に使われる。…どうも日本の女は、日本人以外の者が無暗と好きなようだが、これは何事か。大和撫子(なでしこ)などと言う言葉はこうした近代女性には使用禁止に願いたいと思う。総て日本の女は外国人と結婚すべからず、今女は余って困って居りましょうが、是非日本人と結婚するのです。そうして立派な子供をうんと生むことです。立派な国民を作り、やがて立派な日本を作るのです。これも防諜の一つです。」
この講演の意図は、戦争を遂行する当局を信頼して不平不満を言わない国民を強調することであり、そのために相互監視や密告も奨励された。また「日本の防諜の現況は戸締りもせず…」と同様な宣伝は、戦後の国家機密法案の提出時や特定秘密保護法においても、「日本はスパイ天国」と盛んに言われた。
240 特定秘密保護法には、特定秘密を漏らすおそれの有無を判断するための「適正評価」の制度がある。公務員以外でも防衛産業の民間企業の職員も対象になる。その調査事項は「特定有害活動及びテロリズムとの関係」や「信用状態その他の経済的な状況」などに法定されていて、本人の同意を必要としているので、プライバシーの侵害にはならないと説明されているが、スパイ行為との関わりの有無などは、取締当局がそう認定して目星をつければ、入念な内定調査が可能である。
2014年12月に施行された特定秘密保護法は、反対運動を考慮して暫くは慎重な運用がなされるだろう、また直接の目的である機密漏洩に関わる事件は頻繁には起こらないかもしれないが、この法律の機能はそれだけではなく、国民が知ることのできるはずの情報や事実を隠し、それを探知・収集しようとすることを断念・委縮させ、ひいては「国民防諜」体制の構築につながる恐れがある。
241 特定秘密保護法が安倍政権の進める新たな戦時体制構築に向けた一環であることは、反対運動を蹴散らして二度も強行採決をするという対応に現れている。その後の記者会見で安倍首相は「厳しい世論については、国民の皆様の叱正であると、謙虚に、真摯に受け止めなければならないと思います。私自身がもっともっと丁寧に時間を取って説明すべきだったと、反省もいたしております」と述べたが、その後「丁寧」な説明がなされたことはない。「謙虚に、真摯に」の言葉も、その場しのぎのポーズであったことは、次々と出される新たな戦時体制構築のための法案の強行採決が常套手段となったことでも明らかである。
共謀罪法の成立
242 安倍政権は2015年に安保関連法を強行採決し、2017年6月には共謀罪法を強行採決した。
共謀罪法の国会提出の口実は二つあった。一つは「国際越境組織犯罪防止条例」批准のために必要だという口実である。この口実は2003年から2005年にかけて共謀罪法案が三度国会に提出された時に利用されたが、法務省の見解「共謀罪は一定の条件が整えば、目配せだけでも成立する」としたため、それが内心の自由の蹂躙であると問題視された。三度目の共謀罪法案はしばらく継続審議となっていたが、2009年7月に国会が解散され、断念・廃案となった。ところが2016年の夏、オリンピックでのテロ対策を口実に突如としてよみがえった。しかしその3年前の2013年のオリンピック招致決定時には、「日本は安心・安全だ」と宣伝され、テロ対策のための共謀罪新設の必要という説明はなかったはずである。
243 安倍政権はその成立時から戦時体制の構築を念頭に共謀罪法を位置づけていた。第一次政権では教育基本法を改正し、第二次・第三次政権では特定秘密保護法、安保関連法を強行可決し、その延長線上に共謀罪法をおき、憲法改正につなげて行く戦時体制の構築である。
「現代の治安維持法」
「共謀罪法」は現代の「治安維持法」である。2005年7月の衆議院法務委員会での共謀罪法案審議の際、南野(のうの)千恵子(1935--)法相は「治安維持法は戦前の特殊な社会情勢の中で、国の体制を変革することを目的として結社を組織することなどを取り締まるために、これを処罰の対象としていたものである」としたが、それが日本国憲法に違反するかどうかについて問われると「お答えしかねます」と答弁した。これは「悪法も法なり」という立場に立ち、「戦前の特殊な社会情勢」下では必要なものであったと示唆したものである。この答弁は共謀罪法案が現代の治安維持法であることを裏付けるものであり、反対運動の攻勢を招いた。
244 その反省の上に立ったからか、四度目の共謀罪法案の提出に当たり、金田勝年(1949--)法相は、「治安維持法については申し上げる立場にございません」(衆院法務委員会2016/10)、「治安維持法の内容や適用された事例を含めまして、歴史の検証については、歴史家の研究、考察に委ねるべきものと考えております」(衆院法務委2017/6)としていたが、(共謀罪法案では)「捜査機関の恣意的な運用は制度的にできない上に、テロ等準備罪の処罰範囲が極めて限定的である、こうしたことを踏まえますと、これを戦前の治安維持法になぞらえる批判というものは全く当たらない」(衆院予算委2017/2)と(治安維持法が何かについて触れないくせに)断言した。
捜査機関は治安維持法を恣意的に運用し、処罰範囲を拡張し続け、戦争に反対して障害とみなした者を根こそぎ一掃し、「思想洗浄」に狂奔した。共謀罪法もその拡張解釈によって、市民運動や労働運動の抑圧に使われかねない。
245 共謀罪法の問題点の第一は、国会審議における説明が(警察によって)反故にされ(ないものにされ)かねないことである。1925年の治安維持法案審議において、若槻礼次郎内相は「無産階級の人が適法なる運動をすることに向かって、決して拘束を加えるものではありませぬ」(衆院本会議1925/2/19)と説明していたのに、1930年代後半での同法の運用は、自由主義や民主主義、さらに異端とみなした宗教にまで及んだ。「適法なる運動」の判断基準が取締り側に委ねられ、(その判断は)恣意的になされた。戦後70余年を通じて、政府は治安維持法の制定や運用について一つの反省もない。共謀罪法が「一般人を対象としていない」という説明は不信をかきたてた。
共謀罪法の問題点の第二は、治安維持法の適用が拡大するのに比例して、特高警察や憲兵の組織が拡充されたことである。取締り当局の組織拡大や捜査方法の拡充は必至である。政府は「一般市民団体も組織的犯罪集団に一変すれば共謀罪の対象になりうる」としているから、その「一変する」時期を(捜査機関が)確実に把握するためには、狙いを定めた「一般市民団体」に対して、事前の長い間の監視と捜査によって、また社会全般に広範な情報収集の網を張って、様々な情報を蓄積することが前提となる。そしてその監視は市民運動を委縮させる。
感想 共謀罪は、市民運動・労働運動など、例えば反原発・反基地・環境保護などの運動を前もって警察が内偵を積み重ねることから成立する。245, 249一体その目的は何なのだろうか。政権の言うことをきかない奴を排除して、民衆を対米追随による対中国・北朝鮮戦争に協力させるということか。
「テロの脅威の喧伝」という諜報機関の燃料
246 共謀罪法の問題点の第三は、共謀罪法が実行行為のない段階で「犯罪の合意がなされた」として処罰することができるので、監視社会になる恐れがある。社会や政治への批判や疑義を萌芽のうちに摘み取り、犯罪行為が発生する以前に摘発を行うため、盗聴・検閲・内偵をする人員や予算が増大し、その拡大された組織を運用していくためには、さらに新たなターゲットを探すことになる。社会秩序を乱すとして反対・批判・異論があぶり出され、封じ込められ、抑圧されることになる。
米国家安全保障局による広範な情報収集活動を告発したエドワード・スノーデンの法律顧問ベン・ワイズナーは、「テロの脅威を煽ることが、諜報機関が自らの存在を正当化するために必要とする燃料のようなものだ」*と述べている。かつての特高も「国体の変革・否定の危険性」を煽り、僅かな芽をも摘み取るためとして組織と予算を増殖し、監視と取締りの範囲を広げていった。
*『スノーデン 日本への警告』集英社新書2017
247 共謀罪法を運用する主体は警察である。現在の警察は戦前の特高警察と異なり、「一般人」を対象として内面の思想や信条に踏み込まないだろうか。確かに警察法第二条に「その責務の遂行に当たっては、不偏不党且つ公正中立を旨とし、いやしくも日本国憲法の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用することがあってはならない」とするが、沖縄の辺野古や高江で、警視庁や大阪府などの機動隊は反対派を排除し、反対派のリーダーを長期間拘留した。金田法相の言う「捜査機関の恣意的な運用は制度的にできない」など空語である。
もう一つ、強行採決に至る国会審議は不徹底・不十分で、今後の共謀罪法の運用で参照・参考とされるはずの質疑応答が欠損している。質疑応答は今後の運用の指針や基準の例示になり、いくらかは「捜査機関の恣意的な運用」に対するしばりや歯止めになるのだが、今回政府与党はまっとうな審議に向き合わず、強行採決した。
248 今国会の貧弱な審議は、後世の法学や歴史の研究者が共謀罪の成立過程を検証する際に資料的価値が乏しい。戦前の治安維持法の成立や改正の過程では、議会での政府側の説明や質疑応答を見ることができる。当時の司法官僚は、治安維持法の運用に当たり、過去の議会での審議ぶりを整理・参照していた。ただしそれは厳密な運用を心がけるというよりも、拡張解釈を探り出すためであったが。司法省刑事局編『思想研究資料 特輯』に、『帝国議会治安維持法案議事速記録並委員会議録』が存在する。
反対の声を高くして長く叫び続けることが、取締り当局の「恣意的な運用」を監視・抑制することになる。
警察当局などは、標的と判断した市民運動や労働運動に対して、その民衆運動の「変化」した瞬間を見逃さないために、今後監視と内偵を本格化するだろう。おそらく反原発や反基地、環境保護団体などが狙われるだろうが、そこで委縮・自己規制しては思うつぼだ。
249 この危険性の記憶が次第に薄れ、将来のある時に共謀罪が適用された時、メディアは冷静に批判的に報じるか、大いに懸念がある。戦前の治安維持法事件での当局の発表を、新聞はさらに脚色してセンセーショナルに報道した。
自民党「憲法草案」の「緊急事態」条項
憲法改正は自民党立党以来の宿願である。(自民党内では)すでに何度も憲法改正のための提言がなされてきた。2012年4月、自民党は「日本国憲法改正草案」を発表したが、その時点では一挙に全面改正するのは無理とされ、地震などの大規模自然災害という事態に対処することを名目にして、内閣総理大臣に全権を委任する「緊急事態」条項の実現を先行させようとする「お試し改憲」の動きがあった。しかしその後自民党一強体制が成立し、一挙に全面改正を指向するという状況が生まれたが、安倍首相が「2020年までに第九条に自衛隊を明記する」と唐突に提言したことにより、状況は流動的である。しかしやはり最終的には2012年の「憲法改正草案」が(自民党内での)改正論議の基軸になるだろう。
250 (自民憲法改正草案の)第98条と第99条の「緊急事態」条項は現憲法にはない。第98条の「緊急事態の宣言」の第一項は次の通りである。
「内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃(戦争)、内乱等による社会秩序の混乱(対民衆運動)、地震等による大規模な自然災害(口実)その他の法律で定める緊急事態(曖昧)において、(首相が)特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて(国会抜きに)、緊急事態の宣言を発することができる。
第99条「緊急事態の宣言の効果」は、「法律と同一の効力を有する政令」の制定とともに、「何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において、国民の生命、身体及び財産を守るために(口実)行われる措置に関して発せられる国その他公(お上)の機関の指示に従わなければならない」(ええ)とするが、これは戦前の大日本帝国憲法に規定されていた緊急勅令に相当する緊急政令の制定権と、基本的人権の制限を可能にする権限を、内閣総理大臣に与えることを意味する。
251 自民党「日本国憲法改正草案Q&A」(増補版2013)によれば、基本的人権の制限について「国民の生命、身体及び財産という「大きな人権」を守るために、そのため必要な範囲で「より小さな人権」がやむなく制限されることもあり得る」とする。ここで「大きな人権」とは国益=現統治体制の維持であり、「必要な範囲」は内閣総理大臣の意思により伸縮自在となる。
「緊急事態」宣言を出す要件は、「外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱*、大規模な自然災害等」とされているが、自民党の2012年の政権公約は「憲法改正」の⑥として、「武力攻撃や大規模災害に対応した緊急事態条項を新設」として(敢えて「内乱」の言葉を削除し)、また一般的に「緊急事態」条項の必要性を(自民党があれこれの場合に)主張する際にも、もっぱら東日本大震災などを念頭においているかのような説明を前面に出しているが、それは治安的性格を薄めるための隠蔽テクニックである。特定秘密保護法や共謀罪法に通底する「社会秩序の混乱」につながる不穏とみなすものを(政権公約などのカンパニア行動では)「緊急事態」の名目のもとに一掃しようとしているようだ。
*戦前における「社会的混乱」の事例は、1905年の日比谷焼き討ち事件、1918年の米騒動、1923年の関東大震災、1936年の二・二六事件などであるが、米騒動以外の三例は緊急勅令による「行政戒厳」が宣言され、軍隊や警察が動員されて「社会秩序」の鎮静化が図られた。また米騒動でも出動した軍隊と民衆とが衝突した。
252 現代日本で「社会秩序の混乱」という事態が現実化する状況は現時点では生れにくいが、例えば韓国で現職大統領が辞職に追い込まれるほどの100万人規模の集会が日本で出現すれば、それは「社会秩序の混乱」とみなされるかもしれない。
この自民憲法草案が成立し、憲法改正が行われれば、強権的政権が「外部からの武力攻撃」の恐れを強調したり、あるいは地震などの大自然災害による社会の混乱を理由にしたりして、非常事態を宣言して基本的人権を制限・抑圧することが可能になる。
国防軍「審判所」の設置
自民党憲法改正草案の第九条は「自衛権」を明記し、第九条の二(国防軍)の五項は「国防軍に属する軍人その他の公務員が、その職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所(軍法会議)を置く」とする。
軍法会議を裁判所とは別に設けることになる。自民「日本国憲法改正草案Q&A」によれば、「審判所とは、いわゆる軍法会議のこと」とし、「軍事上の行為に関する裁判は、軍事機密を保護する必要があり、また、迅速な実施が望まれることに鑑みて」(審判所を)設置する、と説明する。
253 (軍法会議=審判所が扱う対象は、)軍人及び公務員が出動命令・戦闘命令や情報収集活動などの職務を拒否した場合、あるいは国防軍や職場から離脱・逃走した場合、軍事機密を漏洩した場合などが想定されていると推測できるが、それらの迅速な処罰のために設置された「審判所」で審判が行われる。またこの条文には出てこないが、論理的に言えば、それらの反軍・反戦的とみなされた犯罪行為を内偵し、検挙し、取調べを行い、おそらく国防軍の中の検察機関に送致するという一連の手続きを執行するのは、一般警察でなく、国防軍の中の憲兵以外にない。現在は自衛隊内の犯罪行為に対する捜査・検挙・取調べ機関として警務隊が設置されているが、犯罪容疑者の司法処分については検察庁と裁判所が行う。
254 国防軍に「審判所」を設置することは、戦前並みの憲兵を設置することである。軍人だけでなく、軍事行動に関わる公務員も対象とするので、現在の警務隊の権限や規模が拡充されるだろう。現在の警務隊は一般国民が自衛隊に対して犯した犯罪の捜査も行っているから、新たな憲兵もそうした機能を引き継ぎ、反軍・反戦的傾向を監視し、取り締まるだろう。
この審判所設置の規定をおいた理由は二つある。一つは「独立国家が、その独立と平和を保ち、国民の安全を確保するための軍隊を保有することは、現代の世界では常識である」(「日本国憲法改正草案Q&A」)とし、軍隊=国防軍に軍法会議を設置することは必然だという考え方である。軍法会議の名称を回避し、憲兵についても明記しないことは、それらに付随するイメージを回避したいからだろう。
審判所設置の規定をおいたもう一つの理由は、最終段階に入った新たな戦時体制の構築において、さらに軍事機密の保護を図り、戦争遂行にとって障害となるものを迅速に処理するために、軍法会議と憲兵の存在を位置づけ、それらを機能させることが必要不可欠とみなしているからだ。
「自衛軍」ではなく「国防軍」としたことは「独立国家としてよりふさわしい名称にすべき」(「日本国憲法改正草案Q&A」)という自民党内の多数意見の結果とされるが、そこには新たな戦時体制構築の到達点が意識されている。
「米軍とともに戦う国へ」
255 自民党の「憲法改正草案」は、本書がこれまでに扱って来た「新たな戦時体制の構築」の到達点である。自民の戦前回帰のイメージは1930年代40年代であり、そのころの大日本帝国は独善的な「八紘一宇」の実現に向けて能動的に戦争を仕掛けていたが、現在の為政者は能動的に戦争を仕掛けようとはしないだろう。
「戦時体制」は二つの意味を持つ。一つは、戦争遂行体制を完成して実際に戦争を仕掛け、継続することである。もう一つは、戦時体制を構築して国内外で緊張を高め、それをテコにして国内の異論を抑え込み、(海外の)市場や原料を確保して国益=企業利益を確保・拡充することである。現代の為政者が求めているのは後者である。
256 現代の日本は日米安保体制下にあって米に追随しており、そのことは地位協定によく現れている。
米は日本が「能動的に戦争をする国」になることを認めない。安倍首相(第二次安倍政権)が2013年12月26日に靖国を参拝した時、米は不快感を示した。「侵略国家日本」の出現は米にとって脅威である。もし日本が侵略国家になれば、米はそれを阻止し、押しつぶすだろう。
米が日本の新たな戦時体制構築を容認しているのは、対中国・北朝鮮での軍事的緊張下で日本に軍事的役割を分担させたいからだ。米の軍事力は相対的に低下傾向にあるので、米は、同盟国日本が地球の裏側まで自衛隊を派兵して米軍を補完するという、集団的自衛権の発動を強く求めている。とはいえ米にとって日本の新たな戦時体制構築には利益と不利益とが同居している。米はおそらく日本をコントロールできると自信を持っているのだろう。
日本が「戦争をする国」になることを望まなくても、受動的でも「戦争をする国」になる可能性がある。2017年8月に米朝関係の緊張が高まり、北朝鮮がグアムに向けてミサイル発射を検討中と言明した。そのとき小野寺五典(いつのり)防衛相は、北朝鮮がミサイルを発射したら、日本が撃ち落とす(迎撃)ことは可能だと言った。小野寺五典は何ら見当もせず即座にそう言った。「存立危機事態」に該当するというのだ。「密接な関係にある他国への武力攻撃が発生し、日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」などの三要件を満たしたとき「存立危機事態」が認められるとするが、グアム周辺へのミサイル発射がそれに当たるかどうか厳密な検討もなく早くも拡張解釈を行った。
258 また安保関連法の下での「新任務」として、海上自衛隊の補給艦が5月以降、日本海などで米海軍イージス艦に燃料を補給した。2017年9月15日付『朝日新聞』によれば、政府関係者は「法制上、後方支援できる地理的範囲は世界に拡大し、文字通り米軍の戦いを支える形になる」と認めたとのことだ。
8月17日、トランプ・安倍政権下での初めての外務・防衛担当閣僚会合(2プラス2)で、北朝鮮の弾道ミサイルの脅威に対抗するとして、「防衛計画の大綱」改訂の考えとともに、陸上配備型迎撃ミサイル「イージス・アショア」の導入計画を米側に伝えた。国内議論もなく、二基で2000億円である。これは米追随の問題点である。北朝鮮脅威を「燃料」としてまた一歩戦時体制に近づこうとしている。
新たな戦時体制の危うさ
259 安倍政権が「積極的平和主義」を主張する際に用いる常套句「我が国の安全保障をめぐる環境が一層厳しさを増している」(「国家安全保障戦略」)は「脅威という燃料」の一つであるが、北朝鮮の核開発や大陸間弾道ミサイルの実験、中国軍の南沙諸島などへの海洋進出は、それらに対する備えとしての迎撃ミサイルの増強配備、避難訓練の強要、海自や海保の装備増強、南西諸島への新たな自衛隊配備などのための「脅威という燃料」となっている。
日中経済関係の相互依存の大きさからすれば、中国との軍事衝突の可能性は低く、今後「沈黙の威圧」の応酬が続くだろう。しかし東アジアの不安定要因である金正恩政権、それに対抗するトランプ政権の冒険主義的行動によって、偶発的或いは意図的な軍事衝突が起こり、それが本格的戦争に発展する危険性がある。安倍自民党政権の問題点は「安全保障をめぐる環境」の厳しさに対して、あくまで軍事力で強硬に対応することに終始する点である。(安倍は)真の解決である対話を放棄し、米朝の挑発合戦に進んで加わった。そこに「新たな戦時体制」の危うさがある。
260 東アジアにおける「力による平和」の突っ張り合いから「沈黙の威圧」が破裂して軍事行動にエスカレートすれば、計り知れない犠牲を生み出すだろう。自衛隊が出動し、在日米軍が日本の基地を使って軍事行動を本格化するだろうと予想される時、民衆は反対運動を展開するだろうが、為政者はその運動を抑圧して取り締まるだろう。
新たな戦時体制の遂行のためには、その障害となる恐れがあるとみなされる市民運動や労働運動、学生運動などは抑圧・統制され、国民は戦争の支持・協力のために動員され、情報は秘匿・独占され、その漏洩は厳しく処罰され、報道も統制されて政府為政者に好都合な方向に誘導されるだろう。教育・言論・学問・芸術においても、統制と動員の圧力が強まるだろう。
基本的人権の制限や民主主義・立憲主義の破壊の進行と、新たな戦時体制の出現とは表裏一体の関係にある。
おわりに 再び多喜二に学ぶ
261 「組織の胞子(たね)」(『党生活者』)の拡散
(自公政権の)当面の到達点としての憲法改正が日程に上り、新たな戦時体制が完成、あるいはよみがえった。民主主義・平和主義が僭称され、真の民主主義・平和主義は突き崩されつつある。
262 しかし閉塞感にとらわれてはならない。小林多喜二の言う「光」を求め続けねばならない。
*多喜二が恋した田口タキ1907—2009は、小樽の料理屋で働いていたが、高給取りの多喜二が金銭で彼女を貰い受けた。しかし彼女は、多喜二が思うような人間ではないと、多喜二のもとから去って行った。
263 『党生活者』の「組織の胞子(たね)」、『蟹工船』、『地区の人々』1933の「火を継ぐもの」
「何代がかりの運動」
264 敗戦後(戦前は)「負けとった」(負けていた)民主化・非軍事化(運動)は、日本国憲法として実現し、多喜二の「蒔いた胞子」はみごとに開花した。多喜二の母セキは「多喜二は、「きっと我々の主張が必ず実現する時代が来ると思う」と言っていたが、丁度それは今の世の中のことを予言したようなもの」と言った。*(甘い、自分で勝ち取ったものではない)
*小林廣編『母の語る小林多喜二』新日本出版社2011
『東倶知安行』1928.9の「何代がかり」
(革命の)胞子の拡散や大地への浸透の具合は、どれほど懸命かつ執拗・賢明に社会変革のための闘いを展開したかにかかっている。(努力しようとする心情次第か)
「大まかな進路」
265 1929年3月、山本宣治は治安維持法改悪に反対して右翼に暗殺されたが、山本の言葉は多喜二の以上の言葉に共振する。山本は生物学者で労働農民党の代議士だった。山本は「国際婦人デー」に向けた「戦争反対同盟」の「檄」のなかで、
「資本家地主共が今しようとしている戦争は、断じて我等労働者農民のための戦争ではない。それは数十万、数百万の、諸姉の愛する夫と兄弟を殺し、不具にして悲しませ飢えさせる許りでなく、婦人労働者の労働を烈しくし、しかも賃金を引き下げ、農村婦人には今よりも更に重い戦時特別税を搾り取るであろう。しかもこの惨酷な搾取と殺戮とに少しでも不平を云うならば、「御国のためになるぬ」との美名の下に牢獄と拷問とに投げ込まれる」*
*『山本宣治全集』第七巻、汐文社1979
266 山宣は戦争遂行の準備や弾圧などの、眼前の「さざなみに動かないで、大まかな進路をとりたい」とし、「やはりほととぎすが泣く迄は根気よく待たねばならぬ。但し懐手で待つという社会民主主義であってはならぬ」*と、社会変革に向けて、根気よく主体的に働きかけることの重要性を説いた。
*「議会の一角より京大の若き友に」、『帝大新聞』1929/1/28付、『山本宣治全集』第五巻
また山宣は言う。「猿は三尺しかとばなかった。多くの鎖でガンジガラミにしばられた一大巨人であった無産階級が、今や眠りよりさめんとして一度身動きすれば、忽ちに多くの鎖の一部はたち切られるのだ」と。*
*労働農民党京都天田郡支部結成式へのメッセージ、1927年11月、『山本宣治全集』第五巻
「腐葉土」となる抱負と覚悟
267 学生団体「自由と民主主義のための学生緊急行動SEALDsシールズ」は、「次代への展望」を垣間見せてくれた。彼らは特定秘密保護法の反対運動に立ち上がり、集団的自衛権の容認に反対し、立憲主義の擁護を訴えた。そして解散にあたり、自らを「腐葉土」にたとえた。*
*『朝日新聞』2016/8/16
「胞子」や「腐葉土」になる抱負と覚悟を持ち、「大まかな進路」を遠望しつつ、「何代がかり」の運動の一角を担う精神の持続性をもつことが私たちに望まれる。
感想 小林多喜二はその小説『党生活者』の中で、「奴ら(警官)が「(革命)組織の胞子」を拡散してくれた、私たちは負けてはいない」と言うが、それは夢の中だけの話ではないか。現実ではない。「革命」は一朝一夕には成し遂げられず、ひたむきな努力が必要であるという、「革命」を実現しようとする側の熱い心情にも値打ちがあるが、一方の現実として、そんな熱意はどこ吹く風と、自公政権を支持する、「金で動かされる人々」がいる。彼らは裕福で、生活に不満がない。だから自公政権は安泰。一方共産党の支持率は低迷している。著者はそれでも夢を持っていて、「何代かかってもいい、自分は「腐葉土」(SEALDs)でいい」と言うのだが、気の長い話だ。
また共産党が仮に政権を奪取できたとしても、その後の政治システムを今のうちに提示すべきではないか。何もしなければ先輩の轍を踏むことになるだろう。今でもその兆候はあるのに。つまり共産党支配層による権力の独占という弊害である。民衆はそれを見ているから、それを後回しにすると、「夢物語」とバカにされることになる。
あとがき
268 現政権を容認・肯定する分厚い世論が、安倍晋三政権が批判を寄せ付けずに、教育基本法の改正から共謀罪にいたるまでの実現を可能にした。彼らは、北朝鮮の核・ミサイル開発への対抗として、憲法改正を含む日本の軍拡を支持し、国民の安全・安心と国益を守るためには武力行使もやむを得ないと考える層と重なる。国民は、戦争を不可避とする理屈に飲み込まれようとしている。
269 参考文献
『特高警察体制史』せきた書房、1984年。増補版、1988年
『戦後治安体制の確立』岩波書店、1999年
『思想検事』岩波書店、2000年
『外務省警察史』校倉書房、2005年
『横浜事件と治安維持法』樹花舎、2006年
『戦後文部省の治安機能』校倉書房、2007年
『多喜二の時代から見えてくるもの』新日本出版社、2009年
『特高警察』岩波新書2012年
『「戦意」の推移』校倉書房、2014年
『北洋漁業と海軍』校倉書房、2016年
『日本憲兵史』日本経済評論社、2018年
270 2018年3月21日
荻野 富士夫
以上