森まゆみ編『伊藤野枝集』岩波文庫2019 森まゆみ(1954-)は作家。
Ⅰ 創作
「雑音」 大阪毎日新聞に連載1916年1月~4月、本書は全体の2/5を抄録。21歳。2月には大杉栄と恋愛関係に。
女性同人誌(婦人月刊誌)『青鞜』の同人たちの間の人間関係を描いているが、中心は平塚らいてう(明子はるこ、1886-1971)を中心とした某女性と某男性との三角関係がメインテーマである。その前に煮え切らない男女関係から平塚らいてうが男性を奪うという話もある。
前者の三角関係での平塚らいてうに恋する女性は「紅吉」といい、本名は尾竹紅吉(一枝、1893-1966)。平塚らいてうが選択した男性は奥村博(後に博史、1891-1964)という洋画家。紅吉は激しく嫉妬する。
後者の三角関係で平塚が奪った男性は、西村陽吉(辰五郎、1892-1959)。西村を奪われた女性は哥津(小林哥津、哥津子、1894-1974)。小林哥津と西村陽吉との関係は煮え切らず、小林哥津は西村を奪われても静かに身を引く。
当時の東京の女性は、煙草を吸い、酒も飲み、人力車(俥(くるま))を使い、電話代わりに電報を日常的に使っていたようだ。街灯はアーク灯である。山手線が夜遅くまで走り、市電も走っていたようだ。
このころすでに伊藤野枝は辻潤(純一)家に入り、辻の母とも同居していたようだ。
登場人物
2 明子(はるこ)平塚らいてう、喫煙者
3 哥津子=小林哥津(かつ)
4 物集和子=藤岡一枝
5 紅吉=尾竹紅吉(こうきち)、一枝、富本一枝 肥満、子どもみたい、変り者、喫煙者
6 西崎花世=長曽我部菊子=生田花世
7 小笠原貞 油絵画家
8 保持研(やすもちよし)「小母さん」クリスチャン
9 岩野(旧姓遠藤)清子、岩野泡鳴(ほうめい)の妻。遠藤達之助と再婚。
阿部先生
10 純一(辻潤)
純一の母
11 荒木郁子
岩野夫人
045 御風さん
本間兄弟
徳田秋江
050 平塚らいてう
哥津
12 東雲堂の若主人=西村陽吉(辰五郎)
13 中野初子
059 泡鳴氏=遠藤?
070 月岡
14 奥村博(のち博史)洋画家。平塚らいてうと共同生活
075 お内儀(かみ)さん
077=8 保持さん(再掲)
15 小野東=小野さん(再掲)079、保持と結婚。
「乞食の名誉」初出推定は『文明批判』1918、初収録は聚英閣1920 大杉栄との共著
081, 095 Y氏(夫妻) 山田嘉吉1865-1934、わか1879-1957夫妻。山田嘉吉は四谷に語学塾を開き、平塚らいてうHや伊藤野枝など青鞜の関係者がここで学んだ。
野上彌生子N、斎藤琴S、渡辺政太郎・若林八代夫妻W、機関誌『青鞜』S
081, 096 主人公はとし子 婚家の窮屈さ、赤ん坊を育てることについて大変だと姑からあれこれ言われるのを避けるために、赤ん坊を背中におぶって勉強会に参加し、夜更けに帰りたくない婚家に向かう。その中に、過去の刺激的で革命的な読書(エンマ・ゴルドマン)の回想を挿入する。
097 婚家の姑の価値観 「書物を読みに他所まで出かけてゆくなどと、家持ち子持ち(の妻)のする事じゃない」
101 エンマ・ゴルドマン1869-1940、エマ・ゴールドマン。リトアニア(ロシアのコブノ地方)出身のアメリカ人。その『婦人解放の悲劇』を伊藤野枝が翻訳。
103, 3 ソフィア・ペロヴスカヤ(ペロフスカヤ)1853-81 アレクサンドル二世暗殺1881を指揮して処刑された。「ソフィア・ペロヴスカヤは、エンマがペテルスブルグに到着した1882年には、不死のワルハラ(Valhalla戦死した戦士が住む楽園)に入っていた。」
エンマの関心はセンチメンタル・ロマンスのマルリットから、ネクラソフやチェルニシェフスキイ(小説『何をなすべきか』)に移った。
104 エンマはロシアからアメリカに移住したが、アメリカに対する理想的概念はすぐに破られた。一人のザア(皇帝)の代わりにその数人を発見し、コサックは重い棍棒を持った巡査に代わり、チノヴニクの代わりに、もっと苛酷な工場奴隷使役者がいた。エンマは、ロシアのそれよりもずっと組織だった不自由な聊かの慰藉もない苛酷な工場に仕事を見つけた。
105 シカゴ事件 シカゴのハアヴスタア社に対する大同盟罷業では、罷業者の虐殺や、労働者の首領等の死刑が執行された。1887年11月11日(のことらしいのだが、ネットから完全に削除されている)
エンマは社会主義・無政府主義の文学に傾倒した。ジョン・モスト(ヨハン・モスト、ドイツ人、英米で活躍1846-1906)の『自由』によって、無政府主義者として自覚し、ニューヨークに出て、ジョン・モストやアレクサンダー・ベルクマン(バークマン、7―1870?-1936 エンマのパートナー、リトアニア生れ)に出会った。
107 1892年、ピッツバーグで大同盟罷業が勃発した。ベルクマンはフリック(8-1849-1919、鉄鋼業者)を斃そうとしたが失敗し、22歳の彼は、22年の処刑(拘禁)を申し渡された。
108 エンマもこの時迫害を受けた。
またその9年後1901年、レオン・ツオルゴオズ(チョルゴッシュ、9、1873-1901)が大統領マッキンレーを暗殺した時にもエンマは迫害された。
ベルクマンは仲間から厳しく批判されたが、エンマはベルクマンを支持した。
114 とし子は1年前にエンマ・ゴルドマンの伝記を読んで感動した。
感想 1918年3月、大杉栄が日本堤署に逮捕されて東京監獄に収監されたことはWikiには載っていないが、本書の年表に乗っているし、伊藤野枝自身が同年3月9日、後藤新平・内務大臣あてに手紙を出して逮捕に抗議している。そこで野枝が触れているように、警官は理由もなく大杉らを逮捕したようだ。恐らく大杉の出版物『文明批評』が気に入らなかったのだろう。検閲であり、言論の自由に対する弾圧である。恐ろしいことだ。本文「乞食の名誉」も、その『文明批評』に掲載されている。同年4月に全てが没収されたようだ。年表参照。1918年1月、『文明批評』創刊。
「白痴の母」 『民衆の芸術』第一巻第四号(1918年10月)所収
精神障害や知恵遅れは自己責任 貧乏も自己責任 精神障害者の犯罪も自己責任 何とも痛ましい話。
「火つけ彦七」 『改造』第三巻第八号 1921年7月夏季臨時号 被差別部落民による復讐
感想 被差別部落民である自分に対する差別に対して、弱者いじめの強欲な金貸しとなって立ち向かい、それに失敗すると今度は火つけをして復讐するという悲惨な話。
先の「白痴の母」も、自身の知恵遅れの、年齢は中年の子どもが、他人の幼い子どもに苛められ、それまでは何度も耐えてきたが、今度こそはと我慢ならずに、その他人の子どもを傷つけてしまったという、世間の目を気にして自害するという痛ましい話。
当時はこういう悲惨な話が日常的にあったのかもしれない。民衆の歴史を扱った歴史書にはほとんどお見掛けしないので分からないが。
Ⅱ 評論・随筆・書簡
書簡 木村荘太宛 1913年6月24日 18歳 すでに辻潤と同棲しているころ。初出は小説「動揺」に収録。『青鞜』第三巻第八号、1913年8月号
感想 よくもこんな私的なこと(ラブレター)を公表するものだ。
本人もこの手紙の中で言っているように、成長期に価値観の異なった環境で育てられたため、自主自立して権威に反抗する性癖がついたのかもしれない。*そのため伊藤野枝は精神的に不安定で、動揺しがちで、実家や婚家から逃げ出して男(辻潤)の家にいつく1912.3こともできたのかもしれない。また辻家に籍を入れたのは三年後1915.7.20とのことだった。そして翌年には大杉栄と恋愛関係1916.2になり、その2か月後の1916年4月には、満1歳にも満たない二男流二を連れて辻の家を出ている。
伊藤は自分の美貌と才能を自覚していたのかもしれない。辻潤との三角関係であっても木村荘太を引き留めておきたいと、欲張りである。「親しいお友達として御交わりして導いて頂きたいと思います。」171
*「小さいうちからいろいろな冷たい人の手から手にうつされて違った土地の違った風習と各々の人の違った方針で教育された私は、いろいろな事から自我の強い子でした。そして無意識ながらも習俗に対する反抗の念は十二三才くらいからめぐんでいたので御座います。」165
ちなみに伊藤野枝は祝い着を次男の流二1915-98の養家・若松家に送った。Wiki
感想 大杉栄が1918年3月に逮捕・勾留された理由は、「酒飲みのいさかい事件」関連160*とのことだが、その理由は間違いではないか。真実の理由は、大杉らの『文明批評』(1918年1月)出版など、それまでの大杉の政治活動を当局が気に入らなかったことではないか。その証拠に、この当時から伊藤野枝にも尾行がついていた225ようだし、1923年に殺されるという運命が決まっていたようだし、大逆事件1911もあるし、大杉は長いこと牢屋に打ち込まれていたが、他の3人は釈放されたとある(伊藤野枝の後藤新平・内務大臣宛て書簡252)などが状況証拠である。つまり政治的弾圧、言論弾圧である。
*「3月2日、大杉栄は、会合の帰りに新吉原を通行中、酔っ払いの器物破損騒ぎに関わって日本堤署に拘禁された」160
*職務執行妨害253
「編輯室より」 1914年11月号 『青鞜』第四巻第10号、1914年11月号 19歳
174 平塚らいてうが10月12日に千葉県の御宿へ行って、伊藤野枝がその後の編輯を引き受けることになったようだ。このころすでに伊藤野枝は辻潤との間に第一子一(まこと)を生んで1913.9いて、その子がまだ一歳にも満たないころである。
176 大杉栄と荒畑寒村の平民新聞が、出るか出ないうちに発売禁止になった。10頁の新聞である。
「両氏の強いあの意気組みと尊い熱情に尊敬の念を捧げていた。労働者の自覚について書かれたものだが、労働者についてのみ云わるるときに限って何故いわゆるその筋の忌憚にふれるのか怪しまないではいられない。」
「『青鞜』を引き継ぐについて」 『青鞜』第五巻第一号、1915年1月号
181 吉原に行ったり、酒を飲んだり、マントを着て歩いたりしたことに、世間の人は何とか言ったらしい。
184 平塚らいてうは(1914年)10月号の編輯を終えると、後は私(伊藤野枝)が当分代理をすることにして、旅に立ち、185 私が11月号の編輯をした。
188 (1914年)11月15日に平塚氏が訪ねてきた。189 私自身が青鞜によって育てられたから廃刊は惜しい(と私は平塚らいてうに言った)。
191 1年以上私は少しも他手(ひとで)に委ねずに、乳も自分以外にはやらずに、(子どもを)育ててきた。私は子どもを家において外出することも全く稀だった。
192 けれども私は仕事をしなければなりません。私は子どもに留守をさせることに慣らしてしまおうとして忍んでいる。幸いに子どもは安心してなつくことの出来る小父さんと小母さんを見出した。(辻潤と姑のことか)
194 私は今まで通りの規則で(青鞜の編輯を)やりたくない。まず私は今までの青鞜社の全ての規則を取り去ります。青鞜は今後無規則、無方針、無主張、無主義です。私はただ何の主義も方針も規則もない雑誌を、すべての婦人たちに提供します。ただし男子の方はお断りいたします。
ただ原稿の選択はすべて私に一任さして頂きます。
感想 無規則、無方針、無主張、無主義といいつつ、原稿の選択は私一人でやるというワンマンぶり。
「青山菊江様へ」 『青鞜』第六巻第一号、1916年1月号 21歳
感想 公娼制度廃止を律儀に唱える青山菊江と、公娼制度にはそれなりの理由があるから存在するのだと反論する伊藤野枝。ただし伊藤野枝も、公娼制度の廃止は可能だと後で言っている。209しかし伊藤野枝は口汚い。もっと冷静・簡潔に、論理的に展開すべきだ。
青山菊江1890-1980は山川均の妻となった。戦後の片山内閣で、労働省婦人少年局初代局長。伊藤野枝との廃娼論争を、平塚らいてうと母性保護論争を戦わせた。397
感想 伊藤野枝が平塚らいてうから雑誌『青鞜』の経営を引き受ける時、雑誌に出品する作品の選定は私一人がやる、と言っているのだが、みんなしていっしょに相談して決めるという民主的な方法は思いもつかなかったのだろうか。そもそもこの時代はそういうものだったのか。この時代には進歩的な社会民主党ができたり、共産党ができたり、また伊藤野枝らのアナキストも現れているが、こういう進歩的な人たちも、ボスによる独善的な方法で物事を決定して当然だとしていたのだろうか。
「ただ原稿の選択はすべて私に一任さして頂きます。」森まゆみ編『伊藤野枝集』岩波文庫2019,
194
また伊藤野枝は公娼について、それは男に欲望があって必要だから公娼制度は存在するのだと、貧困女性の社会的立場に思いやらず、公娼制度を肯定するかのようなことを言っているのだが、これも賛同できない。
それともう一つ、大杉栄との間にできた第一子の女の子に「魔子」と命名したことである。どんな理屈で「魔子」などと命名したのだろうか。将来子どもが一生困ることになるということは考えなかったのだろうか。
それと大杉栄との四角関係。殺傷沙汰にもなったというのだから、伊藤野枝はおそらく関係者の了解を得ずに大杉との関係に入って行ったのだろう。問題ですね。
231 「彼女の真実――中條百合子氏を論ず」 『文明批評』第一巻第一号、1918年1月創刊号 23歳
中條百合子の『貧しき人々の群』を評価。中條百合子が18歳の時の作品。処女作。『禰宜様宮田』も評価している。
257 「山川菊栄論」 『解放』第二巻第一号、1920年1月号 25歳
「青山菊栄様へ」199とはずいぶん異なり、山川菊栄を高く評価している。与謝野晶子や平塚らいてう批評も面白い。結局伊藤野枝は、赤瀾会1921.4で山川菊栄と合流している。
263 「与謝野(晶子)氏は…不潔な長屋に住み、まずいものを食べ、まずいものを食べ、過労と睡眠不足とに身を細らしながら、而もなお十二時間も十四時間も働かされて掠奪され踏みにじられている労働者を捉えて、自分達より遥かに幸福な人達だなどと飛んでもない事を云う人だ。どうてい労働問題に理解をもつ事の出来る人ではない。」
266 「私は知識が決して不必要とは絶対に言わない。しかし労働者が死物ぐるいで、あの正しい生存権の奪還をはかっている時に、彼れ等が踏みにじられ掠奪されている間に暖かい褥(しとね)の上で、日あたりのいい机の上で、習得された知識を自分の特権をでもかざすように、労働者達の上に押しつけ見せびらかすという事は、労働者の感情をふみつけにしたものでなくて何であろう。
私は山川氏がそんな態度をとられたというのではない。しかし、現在知識階級の多くの人々にそういう態度をとる人が多い。…」
272 「ざつろく」 第一次『労働運動』第五号、1920年4月30日
市川房江らの「新婦人協会」を批判。
「最近有名な知識階級の婦人達の手で生まれた「新婦人協会」は、その社会的事業として、婦人労働者救済という方面にまで手をのばされるのだそうです。結構な事だと思います。しかし、この、中流階級もしくは知識階級の人々の、婦人労働者救済という事は、労働階級の婦人達に本当に徹底的な幸福を齎すことはおそらくできないでありましょう。それは、どれほどの感激をもってされたにしても、特権階級の下働きをして慈善事業をしている盲目な宗教家の仕事と同じ結果しか得られはしないでしょう。」
「ただ一つその人々の仕事を正しい方向に進めるものは、自分たちの全生活が、貧しい同胞から剝ぎとったものであるという自覚です。その知識も教養も、それ等に依って得た地位も、生活の保護も、怠惰も、総てが貧しい人々からの掠奪である事を思えば、人々の眼はきっと違った方向に注がれるでありましょう。そしてその思想も、事業も一転した時、はじめて、本当の貴い仕事が出来るのです。」
274 「婦人の反抗」 第二次『労働運動』第12号、1921年6月4日 26歳
警官が、メーデーに参加した赤瀾会の女性たちの髪を引っ張り、着物の襟を取り、引きずり、殴り、蹴る。
「五月一日の夕刊、及び翌日の新聞紙は一斉に、警官がメエデエの行列に参加した婦人達に対して働いた暴行を報道している。そして殊に、五月二日の読売には、当日上野精養軒裏で赤瀾会員が巡査等に髪の毛を掴まれ、襟をとらえられ、引きずられながら、なぐられ蹴られしている光景を見ていた、アドヴァタイザ婦人記者の談話を載せている。…」
276 「為政者等は一方にこれを(反骨の若い婦人らの運動も奴隷の諦めだと)決して間違えず、常におそれながら、彼等の政策はつねにそれとは反対の行為に出ている。」
278 「無政府の事実」 第三次『労働運動』第一号、1921年12月26日、第二号、1922年2月1日 26歳、27歳
村落共同体的無政府主義の提唱。その良さを採用すべきではないか。近頃、地方自治体の拡大化や無用論があるが、それは中央集権的支配の強化を意味しないか。
278 「地方には権力も、支配も、命令もない。ただ人々の必要とする相互扶助の精神と、真の自由合意による社会生活を私は見た。」
280 「組合には規約もなければ、役員もない。用のない時は何時も解体している。」
288 「組合や家の何かの相談には熱心に注意する人達も、村会議員が誰であろうと、村会で何が相談されていようと、大部分の人は全く無関心だ。」
「役場は、税金の事や、戸籍の事や、徴兵、学校の事などの仕事をしている処、というのがたいていの人の役場に対する考え方だ。」
「村の駐在所や巡査も、組合のお蔭で無用に近い観がある。」
289 「盗みをするという事はもとよりよくない。しかし、彼等を監獄へやった処でどうなろう。」
290 「こういう事(盗みなど他人の悪事を警官にばらさないこと)も、ずっと遠い昔から、他人の不幸をつくり出す事ばかりねらっているような役人に対して、村の平和をできるだけ保護しようとする、真の自治的精神から来た訓練のお蔭だと云っても、間違いはあるまいと私は信じている。」
292 「村の生活に馴れたものには、殊に都会の利己的な冷ややかな生活にはとても堪え得られないのだ。」
299 「禍の根をなすもの」 『中央公論』第三八年第六号、1923年6月号 28歳
これは男女共学につながる考え方であり、大賛成。男女隔絶教育はいけない。男女関係の構築は、男女が互いに意見を述べ合った上でなされなければならない。女は大人しく黙っていて何も知らない方が嫁入りのためにはいいという考え方では結婚は破綻する。
299 「大抵の若い娘の夢は、みんな、自分の未来の、男を対象にした夢ばかりです。…人間としての自分の将来を考える事は、不正規な事としてあるのです。」
300 「そうして貰い手、もしくは買い手のつくのを待っているのです。」
「若い娘たちは死力をつくして護らなければならぬ自分の大事な処女性というものが、自分にとって、何故それほど大事であるかという、真の疑問に答える何物を持っているのでしょうか?彼女はただ盲目的に、処女性を捧げた男に自分の一生を捧げなければならぬという道徳を信じていはしないでしょうか?」
301 「娘の夢のような憧憬が異性を求めて近づいて行ったとき、そこに大きな破綻が来るのです。」
女性の(もちろん処女の)憧憬には大方の場合、非常にぼんやりとしたもので、何の欲情をも伴わないのが普通なのです。」
302 「もしその男が女の保護者の気に入れば幸いだが、気に入らなければ、いろいろなもつれが生じます。同時にまた、男に、女を引き受ける意志がないときにも同様です。」
「女は、弱くあれ!と育てられて来たのではないでしょうか?…その男に自分の一生をまかさねば生きて行く道はないのだというように惨めな運命を、よくよくのみ込ませられているのではないでしょうか?」「処女には「拒絶」という事は教えてないのではありますまいか?」
303 「何故もう少し、自由に男の子と女の子とを一緒にする事ができないのでしょう?今まで仲よくして来た男の子と女の子と、何故無理無理に引き離さなければならないのでしょう?無分別な「隔絶」のみがすべての悪い結果を持ち来すのです。」
304 「性別を意識するより先に、まず「人間」に対する識別を教えらるべきです。…男と女との差異を画然と立てた教育がまず打破されなければなりません。」
305 「また、幸いにして、理解や愛が生じた場合にはそんな事もありませんが、男か女かが、そのおしつけられた生活に、何の興味も持ち得ない事になれば、それは悲惨な結果を生じます。そしてただ室咲きの花のように育てられて来た女には、大抵の場合に、自分自身の生活の中心意義さえ把めない消極的な人間が多いのです。すべてがただ、与えられる生活を与えられるままに享けてゆくというより能のない人間の方が多いのです。そういう女は、男の生活に対して何の興味も持つ事が出来ず、何の理解も出来ないのです。そして相手の男はたちまちその女に対する興味を失って、その興味の対象を他へ求めるようになります。これは、その成立から推して行っても当然の結果だと云わなければなりません。」
308 「他人の娘がどれほどひどい屈辱を被っても、否、時によれば平気で他人の娘の節操を犯す人達が、自分の娘の節操に関する場合には何故あれほど騒ぎ立てるのでしょうか?これが富裕な人々の贅沢な手前勝手でなくて何んでしょうか。未婚の娘の処女性は、ただ富裕な階級の人々にとってのみ大事なのです。貧しい家の子には、そんな貴い節操の持ち合わせはないのです。その節操は、否応なしに踏みにじられます。
「踏みにじられた女達は何よりも早く、男に対する鑑識眼を持つようになります。そうして能動的に男を動かすようになります。」
311 「人間が立派に出来あがりさえすれば、他人のために余計な心配をする必要はありません。」
312 「内気な娘とお転婆娘」 『改造』第七巻第八号、1925年(死後発表か)8月号
上記の評論と同じ文脈で、大人しい箱入り娘と、積極的に物事に対処する娘とどちらが安全か。前者の方が安全だとする考え方は間違っている、悪い男の言いなりになって反発できず、犯罪の泥沼に陥る危険性がある。それに対して積極的に周囲に対処する娘の方が、彼女が陥っている問題が明るみにされるから、問題対処の可能性がある。一方、大人しい女は周囲に相談しないから、問題の深みにはまっていき、気づいたときには手遅れになっている。
314 「何事も、内輪に、控目にという事は一面に必要な事ですが、目のあたり馬鹿らしい侮辱を受けたり、迷惑を感じたりした場合にまでもじっとそれを我慢しているという必要は少しもないと思います。」
320 「お待ち、今にお父様がおかえりになったらよく御相談してからにしないじゃ、…」
321 「まあお待ち、後でお父様に叱られるような事があっちゃいけないから。…」
「そんな奴に眼をつけられるんだって、やはりお前がおきゃんだからです。…万事落ちついて女らしくなくっちゃ…」
325 「…実際には、みんなおとなしいすなおな一方の女にしようとします。」
「なるべく総ての点で自分の考えなどどうでもいいような、決断のにぶい、従属的な傾向を帯びた女の方が歓ばれます。その結果は、何時までたっても、女の生活は向上しませし、男の生活までも堕落させるだけです。」
Ⅲ 大杉栄との往復書簡 大杉栄との恋文交換
女(伊藤野枝1895-1923)の方が積極的に愛を求める言葉を発している。他人の恋文などつき合っていられない気がした。四角関係の一人*は、戦後政治家として活躍した。もう一人*は左翼の義妹である。大杉は若い女に鞍替えしたのか。
*神近市子1888-1981 女子英学塾(津田塾)に在学中に『青鞜』に参加。そのため青森県立弘前高等女学校の教師を免職となる。その後東京日日新聞記者、大杉を刺し、重傷を負わせた。(日蔭茶屋事件)戦後社会党議員。売春防止法成立に尽力。
*堀保子1883-1924は堺利彦の最初の夫人の妹。大杉の妻。
348 大杉は旅行の際、刑事に尾行されている。1916年5月6日の書簡。
尾行されている。しかも4人の刑事が、大杉の旅程の地域が変わるごとに交代して連携している組織的行動が見て取れる。当局の出方にもっと警戒すべきだったのではないか。1911年の大逆事件の当局の対応、幸徳秋水に対するフレームアップを見ても、警戒すべきだったのではなかったか。
大杉栄も伊藤野枝も、英単語を書簡の中で散りばめているが、彼等は翻訳をしていた。当時海外の文化がどんどん入っていたようだ。大杉は1922年12月中旬、上海経由でフランスに外遊もしている。それは実はドイツでの国際アナキスト大会への出席のためだったようだ。439
377 伊藤野枝「叔父(代準介)はアメリカにすぐ行けと云うのです。そして社会主義なんか止めて学者になれと云うのです。」
378 「(大阪に行く道中で)「労働運動の哲学」を持っていた事は本当に嬉しゅうございました。」
383, 437, 438 1920年1月31日付書簡 1919年12月、大杉栄が5月の巡査殴打事件により、懲役3か月となり、東京監獄に入獄。翌日、豊多摩監獄に移監。この書簡の「中野」とは豊多摩監獄=中野刑務所を意味するようだ。気温が「東京とは10度も低い」とは大袈裟か。
384 「雑誌はまた昨日禁止になりました。ボルガ団の記事がいけないというので、皆んなで一段ばかり削ることになりました。」
386 「ツルゲネエフのオン・ゼ・イヴ(On the Eve)を読みました。」
解説 「嵐の中で夢を見た人 伊藤野枝小伝」 森まゆみ
405 伊藤野枝の実家は海産問屋や諸国廻漕問屋を営む旧家だったが、野枝が生まれる前に落ちぶれていた。
406 1925年12月、『大杉栄全集』の別冊として『伊藤野枝全集』が刊行された。2000年、『定本 伊藤野枝全集』全四巻が学藝書林から刊行された。
407 伊藤野枝の母ムメは、野枝の死後、遺児エマやルイズを育てた。
409 1908年、野枝が13歳の時、1年弱の間、父伊藤亀吉の妹キチが嫁いだ代準介の許にあずけられた。代準介は木材関係の仕事をしていて裕福で、玄洋社の頭山満(みつる)の遠戚だった。その一人娘に千代子がいて、野枝はこの千代子と東京で同じ上野高等女学校に通うことになる。
410 野枝は福岡の波多江の小学校に週に一二度遊びに行っていたが、ある日嵐になって女のK先生と学校の側の宿に、男のH先生は学校の宿直室に泊まると、翌日野枝は図画担当のS先生に詰問され、校長に呼び出された。
「あなたは一体慎みを知らない。女はもう少し女らしくするものです。第一もうあなたぐらいの年になれば遊ぶことよりも少しでも家の手伝いでもすることを考えなくてはならない」
「私は何も悪いことは一つもしません」と野枝は抗弁したが、聞き入れられず、「明日から学校に行かない決心をした」
1909年、14歳、高等小学校卒業後、今宿郵便局の事務員を勤めたが、東京の代準介に手紙を再三書き、上京して女学校への入学を希望し、念願かなって年末に上京した。それを後押ししてくれたのが、代準介の隣家の作家・村上浪六(なみろく)だった。村上は野枝の「気ちがいじみた」手紙を見て、野枝の才能を認め、代に上京を勧めたのだった。
1910年の春、野枝は代の娘千代子の通う上野高等女学校4年に編入した。
413 上野高等女学校は自由な学風だった。
上野高等女学校の英語教師辻潤は、開成中学を中退し、国民英学会で学んだ。
414 末松福太郎はアメリカ帰りで、野枝は彼に会ったこともなかったが、1911年、在学中の16歳の時に彼と結婚させられた。
野枝は1912年に女学校を卒業し、代一家と帰郷するが、9日目に結婚を嫌って婚家を出奔し、辻潤宅に入った。婚家の末松家から「ノエオカエサネバウツタエル」と電報を送られ、辻はそのことから上野高等女学校辞職させられた。
辻潤「とうとう野枝さんというはなはだ土臭い襟アカ娘のためにいわゆる生活を棒にふってしまった」(「ふもれすく」1923)(卒業式の翌日に上野の美術館にデートして抱擁しておきながら、よくそんなことを言えたものだ。)415 『辻潤全集』五月書房刊参照。
416 『青鞜』同人は皆、良家のお嬢さまばかりだった。平塚らいてう、保持研子(よしこ)、木内錠子(ていこ)、中野初子は日本女子大卒で、物集(もずめ)和子は東京帝大教授の娘で、跡見高等女学校卒。姉の芳子は小学校時代のらいてうの同級生。
このころ伊藤野枝は、戸籍名の「ノエ」を「野枝」と書くようになったらしい。
418 瀬戸内寂聴は野枝のデビュー作である詩「東の渚」1912年を「幼稚」と評した。
420 木村荘太は終生野枝を愛していた。木村が戦後自死する直前に書いた『魔の宴』1950参照。
421 野枝は子連れで山田嘉吉・わか夫妻のもとに語学の勉強に通った。
平塚らいてうは内省的で、カリスマにはなり得ても、編集事務は不得手だった。
422 ギリシャ語の「アナルシイ」は「支配がない」という意味で、アナーキズムは、一切の権力・権威を認めず、個人が自由に発言する相互扶助社会をつくろうという思想である。
野枝は鉱毒事件で苦しむ農民に衝撃を受け矢中村を訪れている。そのことについて辻潤は「幼稚なセンチメンタリズム」と、大杉は「生々しい実感こそが尊い」と評した。
辻潤は野枝の子一(まこと)を育て、国家に一切加担せず、1944年アパートで餓死した。
堀保子は堀紫山の妹で、堺利彦の亡妻美知子の妹。
神近市子は女子英語塾(津田塾大)出身の新聞記者で、『青鞜』社員。
426 野枝は、辻潤との第二子流二を、御宿の漁師の里子に出し、そのままになった。
1916年11月、神近市子が大杉栄を刺した。葉山日蔭茶屋事件。野枝は、市子に同情する宮﨑資夫(すけお)に病院で殴られた。以後、大杉と野枝は同志から孤立した。
427 1918年元旦、大杉が『文明批評』を発刊、野枝は印刷人になったが、三号で押収・廃刊。
1919年、第一次『労働運動』も、六号で廃刊。
野枝の「階級的反感」1918は、亀戸の東京モスリン女工に反感を持たれた経験を書いた。「喰い物にされる女」1918は、十二階下(浅草・凌雲閣下の私娼窟)で客を取らされる下層の14歳の少女を描く。
429 大杉と野枝は住居を転々とした。本郷菊富士ホテル、巣鴨、亀戸、田端、日暮里、西ヶ原、曙町(横浜)、鎌倉、逗子、… その間野枝は長女魔子、次女エマ(のち大杉の妹の養女となり幸子と改名)、三女エマ、四女ルイズを生んだ。
1917年、社会主義冬の時代から、労働争議、米騒動、水平社成立など大正デモクラシーの時代に。
大杉は「労働運動社」を組織し、上海での社会主義者の集会に出かけ、第二次『労働運動』を創刊。
430 1922年12月、大杉はフランスへ。ベルリンの国際アナキスト大会参加が目的だったが、結局リヨンからベルリンに入れず、翌1923年、パリ郊外のサン・ドニのメーデーで演説して逮捕され、ラ・サンテ監獄に収監され、日本へ強制退去させられた。
431 1923年8月、野枝は男子ネストルの出産後の9月16日、大杉栄、甥の橘宗一(むねかず)とともに日本軍によって麹町の憲兵分隊で虐殺された。憲兵隊の組織的関与は否定Wikiされているが、それを隠蔽するために甘粕正彦が形式的に犯人にされたに過ぎないはずだ。
423 伊藤野枝略年譜
年譜から見る限り大杉栄が逮捕・拘留されたのは二回ある。最初は1918年3月、大杉らが、日本堤署に拘留され、東京監獄に収監された。
次は1919年12月、大杉は(同年)5月の巡査殴打事件により、懲役3か月となり、東京監獄に入獄、翌日、豊多摩監獄に移監。
また、大杉は入院もしている。1921年2月中旬、築地の聖路加病院に入院。3月下旬退院。
437 1916年、21歳のとき、伊藤野枝は「特別要視察人(甲号)」に編入された。
森まゆみ編『伊藤野枝集』岩波文庫2019
感想 2025年3月18日(火) この時代(1910年代)の反政権活動について思いつくこと
天皇の暗殺を企図したり、デモで警官を徴発したり、牢屋に入ることを誇りにしたりする等は間違っているのではないか。
日本の天皇は、ロシアのツアーと違って、直接圧政を行っていたのではなく、旧憲法1889が示すように、為政者に利用されていたのであり、もし打倒しようとするなら、その対象は(難波大助1923のように)天皇ではなく、天皇を利用する為政者たちである。また政権打倒と言っても、(大久保利通1878のような)為政者を暗殺すればそれで十分だと考えるのは間違いである。悪政を行う為政者の考えを変えることが究極の目的ではないか。
田中ウタはデモで警官を徴発して、それを自慢していたようだ。また当時の進歩主義者は、牢屋で語学を覚えたとか言って牢屋に入ること自体を誇りとする向きもあったのではないかと思われるが、そういったことは、目指すべき究極の目的を取り違えているのではないか。究極の目的は、いかに人権(その対極は軍事)が尊重される社会にするかということではないか。
今日の日本におけるイデオロギー論争で目指すべきことは、戦前の身分差別に根ざした自己中の民族主義ではなく、陳腐な言い方かもしれないが、世界人としての平等な人権ではないか。
以上