2024年6月21日金曜日

中島岳志『保守と大東亜戦争』集英社新書2018

 

中島岳志『保守と大東亜戦争』集英社新書2018

 

 

 

感想 2024617() 

 

筆者は「保守は急な変化を好まない」と言うが、本書に出て来る彼ら「保守」は全て特権階級だった。竹山道雄は銀行員の息子で、一高の教授となり、欧州に留学した。全く同世代ながら、農学校を出て小学校の代用教員となり、学費の要らない師範学校を出て、教員をしながら文検を受けた私の父とは資力が違う。関東大震災の時に国家権力によって南葛で殺された日立鉱山出身の息子たちとも違う。彼ら保守は自らの特権的地位を守りたかったから「変化を好まなかった」のではないのか。Wikiによれば猪木正道は民社党のイデオローグだったとのこと。頷ける。

 

感想 2024619()

 

保守を懐疑主義者とし、戦前の大東亜論者や戦後のマルクス主義者を極論主義者として対比することと、大東亜戦争を擁護するかしないかとは異なるのではないか。懐疑主義者や極論主義者は大東亜戦争論を擁護する人々の中にも、しない人々の中にも、多かれ少なかれ存在するのではないか。人格論と政策論とは異なるのではないか。

 

「保守」主義者の、大東亜論者とマルクス主義者との同一視に異議あり。確かに威勢の良さという点では類似点があるかもしれない。また私も個人的には威勢のいいのはあまり好きでない。しかし、大東亜論者は自国の利益だけを考え、他国に軍隊を入れ、その資源を獲得した。それはまさに侵略である。それに対してマルクスの視点はイギリス労働者の悲惨な状況であった。威勢の良さという現象面の共通性だけを捕えて両者を同一視するかのような著者の言説には納得できない。

 

 

私は「保守論者」の多くが戦後平和憲法の丸腰「絶対的平和主義」をくさすのには同調できない。私は「自国のために戦って死ぬ」なんてまっぴらだ。

 

 

「兵隊にとられた」日本の「無辜の民」の死の冒涜論に異議あり。「無辜の民」は実は無知の民であり、権力に反対するどころか迎合したのであり、それ自体に責任がある。どんなに苛酷な外地で栄養失調でなくなったとしても、無知で権力に迎合したという点で、責任があるのではないか。「無辜」とは言い難い。

 

 

 

疑問

 

・保守主義と理想主義(仏革命)とを対置し、理想主義が保守主義的伝統の長所まで全く無視しているかのようにいうが、いかに理想主義でもこれまでの歴史的経験の長所まで捨て去ってそれを教訓にしないなどということはあり得ないのではないか。単純な対置ではないか。

 

・筆者は日中戦争における前線部隊が「勝たない戦争はあり得ない」として戦争を継続し、国家意思に反して軍部・右翼の跳ね上がりが戦争を長引かせたとするが、それは頷けるが、それを太平洋戦争開戦にまで援用できないのではないか。筆者は戦前の戦争に国家意思がなかったかのように言うが、1941年の太平洋戦争開戦決定に際しても国家意思がなく単なる右翼の跳ね上がりが主導したというのだろうか。

 

・極東裁判で共謀を指摘されたことに筆者には異論があるようだが、太平洋戦争開戦時においても、日本の国家権力に共謀がなかったと言えるのだろうか。

 

・マルクス主義的歴史観を批判するが、戦争は資本主義経済の行き詰まりから生ずるという理論には説得力があると思うのだが。

 

・著者は「保守」=天皇機関説派を、宗教的右翼と対置するが、その天皇機関説派それ自体には問題がなかったのだろうか。彼らは過度なことを控え、自分の欠点を自覚している理想的な人たちだったのだろうか。

 

・東大教養部の大学教員だった竹山道雄が1950年の学生によるレッド・パージ反対試験ボイコット・バリストを、戦前の右翼ファッショ軍運動に重ねるのだが、竹山は、レッド・パージそのものについてどう考えていたのだろうか。その点が本書では欠落している。確かに学生の自信過剰な態度と右翼ファッショのふるまいとが似ているだろうことは認める。そもそも竹山道雄の中に、右翼ファッショと共産主義運動とを同一視する考え方が戦前からあったのかもしれない。

 

・猪木正道がマルクス主義の疎外論を良しとしながらマルクス主義を嫌うというのは理解できない。猪木正道1914--の思想的な揺れの原因は、彼が竹山道雄1903--や田中道太郎1902--より10年若く、比較的幼い時代に軍国主義の荒波にさらされたこととも関係があるのかもしれない。猪木正道「自分自身の意に反する戦争にも全力を挙げて協力し、たとえ生命を犠牲にしてもやむを得ないと19413月末に決心した」129

 

・猪木正道が「武器をとっても自国のために戦うべきだ」というのは、河井栄治郎の愛国主義によるものらしい。

 

 

 

賛成

 

・大正デモクラシーを引き継ぐ若槻礼次郎・幣原喜重郎外交(浜口雄幸内閣)が続いていたら日本のその後の進路も変わっていたのではないかという考えには賛成だ。本書に出て来る田中美智太郎・猪木正道もそう考えていた。

 

・大東亜戦争論が生み出される過程を見た世代と、幼少期だったためにそれを知らずに軍国少年だった世代とで、大東亜戦争論の見方が異なるという観点は理解できる。

 

・大東亜論者の野蛮な暴力性(現在の自衛隊に温存)と上滑りの日本主義(日本書紀礼賛)を著者が批判していることには賛成だ。安倍晋三を担ぎ上げた日本会議諸君が、なぜあのような馬鹿げたことを礼賛するのか信じられない。韓国からの植民地支配批判や、戦前の侵略行為に対する自己批判(河野談話1993・村山談話1995)に反発する自己中で盲目的な愛国主義としか言いようがない。

 

 


2024年6月14日金曜日

樋田毅『彼は早稲田で死んだ』文藝春秋2021

 

樋田毅『彼は早稲田で死んだ』文藝春秋2021

 

 

感想 東京の大学はすごい。本書は主に革マルについて述べているが、他の「セクト」についても同様のことが言えるのだろう。つまり、いわゆる「セクト」は組織的・軍隊的・財政的であり、それはアマチュア(一般学生)の域を越えている。早大一文・二文を支配する革マル派の財政は、授業料と共に天引きされる自治会費(学会費、年1400033)を原資とし、学生数は一文4500人、二文2000人だから、計900万円となる。その他に文化祭やサークルへの補助金がある。254参照

 

早稲田=革マルかと思っていたらそうではなく、革マルは一文を担当し、民青(浅野文夫・副執行委員長)は法学部を担当する062というように、学部によって住み分けしているようだ。しかし024では19725月に革マル派の一文の田中敏夫委員長が、早大全学中央自治会の委員長に就任したとある。

 

年表

 

1962年、革マル派が早稲田一文で根を張り始めた。034 それ以前は共産党分派の「構造改革派」が一文、政経、教育の主導権を握っていた。

19632月、革共同が革マルと中核に分裂。

1970106日、二文(現・文化構想学部)の山村正明25が焼身自殺。『いのち燃えつきるとも』大和書房029は山村の遺稿集である。山村は革マル派と対立し、暴行を受け重傷を負った。

1972118日、一文の川口大三郎が中核派のスパイとして革マル派に惨殺された。202 川口が中核派の機関紙の読み合わせ会に出席した。042 革マル派全学連馬場素明委員長は川口殺害の犯行を認めつつ、それをショック死とし、川口スパイ説を唱えた。

 しかしこのスパイ容疑は疑わしい。川口が中核派の某所(中核派中央委員会050、新宿区の(中核派の)アジト058)に入ったと革マル派は主張するが、本人は否定している。実際、中核派に関心を持った時期もあったが、ついて行けず、最終的にノンポリだった。また「スパイ」という限り、川口が革マル派の主要な地位についているはずだが、川口はそうではなかった。革マル派は自らが牛耳る一文に他党派の者が存在すること自体を「スパイ」というらしいが、それは「スパイ」という言葉の誤用である。

 

1974112日、樋田毅は学生運動から引退した。

 

201931日、田中敏夫19725月中旬ころ、前年度に引き続いて再任され、同年11月時点でも一文自治会委員長023)が、急性心筋梗塞で急逝。023関連して19725月中旬ころ、自治委員総会で、一年の大岩圭之助が同副委員長に選出された。

 

 

メモ

 

018 19724月、革マル派のHは一文一年J組を「担当」した。

022 (革マル派に反感を持つ樋田毅ら一年J組の有志は)林茂夫を一年J組の自治委員に立候補するよう事前に画策した。

024 一文学生大会で、反対票は、いかつい活動家の持つヘルメットに投票しなければならなかった。

 

025 二年J組の林勝昭は、社会経験のある28歳で、革マル派に対して堂々と物申した。065 林勝昭「川口は中核派のスパイではない」

026 中核派の幹部・本多延嘉(のぶよし、1975年に革マル派に殺害された)も早稲田出身である。

028 197263日、民青系の「一文民主化クラス・サークル協議会」のメンバーが、革マル派によるリンチで重態となった。革マル派は、民青系の「中国研究会」を早稲田祭に参加させないという。

029 このころ革マル派の暴力のために登校できない学生が30人もいた。

032 五木寛之は早稲田露文科中退である。

 

044--054 川口の同級生で親友の二葉幸三の記憶から、

 

048 野口洋二助教授ら二人の教員は川口救出に際して無能だった。

049 川口リンチの時に中から出て来た革マル派の女性活動家Sは「私たちは革命(階級闘争050)をやっている」と言う。また058では田中委員長は「左翼仁義」という。

 

056 19721111日、革マル派全学連は、川口死亡の責任を取って、馬場委員長が辞任し、声明を出した。

 

疑問点 「海老原・永原虐殺」とは、中核派が革マル派を殺したということか。

 

057 革マル派は川口死亡に対して一応非を認めている。

 

065 集会で林勝昭が「川口は中核派のスパイではない」と演説した。

066 19721113日午後から14日朝までの20時間近く、革マル派糾弾の集会が開かれたが、大学は4回警察に要請し、結局機動隊50人が、一般学生に糾弾されている田中委員長ら革マル派6人を救出した。

067 村井資長(すけなが)総長は毎日新聞に「川口は早稲田祭反対のグループに所属していた。派閥抗争が虐殺の原因だ」とした。

 

068 19721117日、二年J組が「川口君追悼学生葬」を開催した。革マル派の田中委員長が参列を申し出たため、発言しないことを条件に参列を認めた。 083 川口事件の責任を取って(革マル派)全学連委員長を辞任した馬場素明・前委員長が、事件に関して謝罪するために、クラ討連の集会11/18への出席を求めたのでそれを受け入れた。馬場は1970年~71年に一文自治会委員長だった。085 馬場は「リコール運動に対して暴力を振るわない、リコールの結果を尊重する、新執行部や全学生に対して暴力を振るわない」などと確約した。しかし「革マル派の一員として」と補足し、「革マル派として」ではなかった。それに馬場はすでに革マル派全学連の委員長を辞任し、責任はない。

 

077 仏文専修三年の山田誠が樋田毅に、渡辺一夫のユマニスムを説き、二人はその後渡辺一夫『寛容について』を学習した。その中に渡辺一夫の随筆「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」1951が収録されている。103 山田は中央線沿線在。

079 樋田毅は日本文学専修三年生の岩間輝生と集会で出会った。岩間は東工大卒業後、早稲田を再受験していたが、高校時代に都内在住の黒田寛一に会ったとき、「私の著作を読んでいるか」の問いに「読んでいない」と答えたら、露骨に不快な表情をされたという。103 岩間は荻窪在。

 

080 クラス討論連絡(代表者)会議(クラ討連)を結成。 083 一文クラ討連の結成は11/16

一般学生による1万人の集会に、ヘルメットや角材、竹棒で武装した革マル派100人が突入したが、撃退された。

 

082 革マル派自治会のリコール運動が全学部に広がる。後に直木賞作家となった松井今朝子は当時1P組だったが、当時のことを『師父の遺言』の中で、「一般学生の代表や、民青と関係があると目された学生は、革マル派の襲撃を恐れて自主退学を余儀なくされた。功利的な早稲田大学に心底白けた」と振り返る。

 

085 革マル派は馬場素明・前委員長の、クラ討連集会での約束11/18に反し、その翌日11/19「民青による第二自治会策動を許さない」というビラを撒き、振るわないと約束した暴力を、物陰に隠れて振るった。 091 私たちはそれに対して隊列を組んで救出に向かった。

 

088 革マル派自治会の田中委員長は、毎日新聞のインタビューの中で、「リコール署名を俺に出せ」と言っていた。革マル執行部の規約には、リコール手続きの規定がなかった。川口事件直後、大学は革マル派の自治会幹部の大半を除籍や無期停学処分とした。

 

089 革マル派自治会リコール学生大会開催に関する1000人を超える署名が数日間で集まった。それは革マル派自治会規約「全学生の1/10以上の署名」をはるかに超えていた。

 

1960年代末の全共闘系の「反戦連合」による「第二次早稲田闘争」の闘士で四年生のKが運動に参加してきた。これまで「反戦連合」は革マル派と武力衝突して大学本部を占拠したが、革マル派の反撃にあって指導者が拉致され、リンチを受け、学外に放置されていた。K「革マル派に反論する必要はない。彼らは独裁政府だ。無視せよ」

 

090 革マル派ビラは「田中委員長頭蓋骨陥没で重態」と喧伝したが、その実情は、川口の級友が革マル派の集会に押し掛けて田中に「殴っていいか」「わかった」ということだった。川口の級友は謝罪に向かったが、面会を許されなかった。

 

091 革マル派ビラ「クラ討連は民青に操られ、中核派に利用され、社青同解放派*が主導している」

 

*革命的労働者協会=社会党社青同解放派

 

1128日に学生大会を予定すると、革マル派は全国動員して威嚇行動を繰り広げた。学内でのそのデモは上下動を繰り返して練り歩き、人数は800人に達した。

 

092 学生大会の数日前、私は革マル派の演台に引っ張り上げられた。「マルクスの生まれ変わり」と自称するFは、1時間にわたってスピーカーを私の耳元に押し付け、「お前は革マル派の集会を潰した」と言いながら、私の両腕を後ろから引っ張り上げながら、脇腹や背中、尻をつねった。私は仲間に救出された。中国文革の紅衛兵による「走資派」と目する人のつるし上げと同じ手法だった。

 

1126日、各学部の代表者たちで構成される「全学議長団」と「全学部連絡会議」が、「学生大会に数千人の参加協力を求める」という緊急アピールを出した。

1127日の学生大会前夜から28日にかけての準備集会で、私は民青諸君に「臨時執行部」からの辞退を依頼した。それは第二次早稲田闘争のKが民青の臨時執行部への参入に異論を唱えたこともあった。小此鬼則子(後の児童文学編集者)はそういうやり方に反対したが、辞退してくれた。私は委員長候補に選ばれた。

 

095 11/28、一文学生大会が、1500人出席の下、周囲を他学部学生数千人が守る中で、教育学部15号館402番教室で開催された。定足数を1/5以上とし、出席者の過半数で決議し、リコールは2/3以上(仮規約)で成立とし、仮規約の条文中に新執行委員名が書かれていた。臨時執行部が選出され、私は委員長になった。後に自治委員(クラス委員)が(正規の)新執行部を選出するとした。

 

097 ところが一文の浅井邦二・学部長は「署名数が少なく、学生大会とは認めがたい」とした。

098 そして革マル派はビラで「全都の民青1500人動員」「役職者名を書き込んだ自治会規約は中共の綱領のような暴挙」とした。

 

上級生の中にはかつての全共闘運動や、反革マルのセクトに親近感をもつ人もいた。

 

099 理工学部を除く各学部で学生大会が開催され、革マル自治会をリコールし、臨時執行部を選出した。商学部だけは、学部当局が認める学生大会定足数2/34000人)を満たさないが、それは実態にそぐわないとして、1/41500人)で有効とした。しかし商学部当局は最後まで革マル派を公認し続けた。

 

 

中立を装う「11月会」を名乗るチラシ配布は革マル派の戦術だった。それは他大学の革マル派学生によるものらしい。また革マル派は暴力を継続し、殴り、蹴り、鉄板を使った。

100 また「新臨時執行部が校舎内で連日連夜酒を飲み、乱交パーティー」という無署名のチラシが撒かれた。革マル派には、暴力行使や政治宣伝、デマ工作、情報収集、人員配置などを取り仕切る司令塔と、その司令で動く兵隊がいるに違いない。

 

 

104 125日、一文自治会は浅井邦二・一文学部長、新保昇一・学生担当主任、野口洋二・学生担当副主任と団交したが、浅井は暴力根絶については触れたが、再建自治会は承認しなかった。また野口は「川口が殺された教室に行ったが何も見えなかった」と弁明しただけだった。

 

 

197318日、全学部自治会総決起集会を開催。黒ヘルの「行動委員会100人が現れ、武装をよしとしたが、私は反対だった。二年J組のNも行動委員会の一人だった。

106 黒ヘルの母体は「サークル連絡会議」や各学部の「行動委員会」と二年J組の一部であった。19721120日、一文学生大会11/281週間前に、「二年J組 118行動委員会」が31/33の賛成で結成されていた。107 田中ひろしは二年J組の民青だったが、行動委員会結成に賛成した。そしてそのときヘルメットについての論議はなかったという。1130日、一文の「三、四年行動委員会」が結成され、「革マル糾弾、民青批判」を唱えた。121日、「一文行動委員会」が結成された。127日、「政経学部行動委員会」が結成され、同9日、「法学部行動委員会」、「教育学部行動委員会」が相次いで結成された。臨時執行部の書記長で四年生のKも行動委員会に参加した。

 

 

1972122日、選挙管理委員会と、クラス連絡協議会(クラス委員選出までの過渡的協議機関)が発足。

1973112日、クラス委員選挙が公示され、113日からクラス委員の選挙が開始された。

 

 

108 1973118日、各学部間の打ち合わせのための、数十人による合同集会中に、「中核派が早稲田に来て、革マル派とぶつかる」との報に接し、法学部自治会(民青系)の前委員長・柳ケ瀬直人の誘導で、本部キャンパス東側の4号館一階の政経学部学生ラウンジに避難した。

 

中核派の200人と革マル派との戦闘は投石合戦の後に白兵戦となったが、革マル派は、多数の小部隊が指揮の下に鉄パイプをドリルやハリネズミのように駆使するなど、戦闘訓練が行き届いていた。最後は革マル派が雄叫びの下に突進し、中核派は蜘蛛の子を散らすように退散した。

110 中核派はそれ以前に地下鉄早稲田駅から早稲田大学に入る前に機動隊と衝突し、60人が逮捕されたが、革マル派は逮捕されなかった。ただし後日一人が逮捕された。

 

 

111 119日の午後1時過ぎ、革マル派が「文化団体連合会」の常任委員会を本部キャンパスで開催した。それに反対する「サークル連合」と「行動委員会」のデモ隊150人に向かって、革マル派の100人が竹竿で襲撃した。ところが3000人の一般学生が行動委員会側に加勢し、一部は投石を始めた。112 革マル派は11号館に逃げ込み、その後外部から革マル派の応援隊が来て、乱闘は深夜まで続いた。この時政経学部の一年生が頭蓋底骨折の重傷を負った。革マル派が11号館の34階から投げおろしたコンクリート片に当たったと思われる。

 

同日午後、政経学部の学生大会が開催され、M委員長は行動委の武装を批判した。113 数日後私は行動委員会の集会で武装方針を批判したが、反発を受けた。ヘルメットはかつての全共闘運動時代の反体制を意味し、その行動は「個人の責任」によるものとされ、統制がとれなかった。

 

 

115 1973125日、一文臨時執行部が学生大会を招集した。定足数(1/5)を大幅に超える1542人が出席した。暫定規約を採択し、再建自治会の承認を求める一週間ストライキ案を採択し、運動の九原則を確認した。

 

一、セクト主義的引き回しを許さない。

二、革マルのセクト主義の論理と組織を糾弾する。

三、具体的事実に基づいて主張する。

四、意見の違いは討論によって解決する。

五、運動の中味を皆と確認する。

六、討論を重視する。

七、介入や弾圧を許さない。

八、個々人の人間性を尊重する。

九、創造的な自治会をつくる。

 

116 127日、自治委員総会を開催した。自治委員65人が出席し、新執行部を選出した。その下に「自治会規約改正委員会」、「新入生歓迎実行委員会」、「団交実行委員会」を発足させた。117 委員長には私が、副委員長に二年T組の野崎泰志と一年J組のYが、書記長に仏文専修三年の山田誠が、執行委員に日本文学専修三年の岩間輝生079が選出された。

 

118 129日、一文教授会と公開団交。教授会からは「十人委員会」が出席した。

 

130日の学生大会による承認後、21日、新自治会の承認を求めるための(出入り自由の)バリスト(第二派)を行った。

26日・7日の両日とも、学生大会が定足数に満たず、結局ストを解除した。

 

 

27日、「一文団交実行委員会」が発足した。大半は行動委員会の同調者で構成され、執行部の1/29の団交を批判し、新執行部の「併呑」を唱えた。

 

 

121 2/8、一文教授会・教員会が「自治会再建についての見解」を学生に送付した。

 

一、クラス委員(自治会員)選出のための選挙管理委員会の設置

二、在籍者の過半数の出席の下に、クラス委員選挙を行い、公開の下で開票する。

三、クラス委員総会で多数の支持を得た執行部を選出する。

四、執行部による自治会規約案の提示と、全自治会員の絶対多数による承認。

 

5月、一文では革マル派支配が復活し、(前記四の)学部投票は困難になった。

 

 

124 3月半ば、「全学団交実行委員会」が発足した。それは各学部の「行動委員会」や「団交実行委員会」の集合体であり、かつての全共闘運動の再現・発展を目指していた。

 

一方、日本文学専修三年生のグループは執行部と距離を置き始め、同人誌『曠野』を発行した。

 

 

331日、「一文自治委員集会」を開催し、一年生10クラス、二年生11クラス、三年生の日本文学、日本史、仏文、文芸、哲学の五専修の自治委員が出席した。執行部による総長団交確約案に対して、「一文団交実行委員会」は入学式会場での村井資長総長との団交の強行を提案した。この時は執行部提案で押し切ったが、翌日4/1の「全学部42実行委員会」では、「全学団交実行委員会案」が通った。一文執行部は「全学部42実行委員会」への参加を保留した。

 

42日の入学式に参加を予定する新入生数は、8学部1556人だった。300人の機動隊が待機していた。

総長の式辞開始後、黒ヘルの150人が総長を取り囲んだが、総長は脱出し、入学式は午前・午後の部とも中止となった。

 

128 この日革マル派は中核派250人と高田馬場駅周辺で乱闘となり、地下鉄を止めた。

 

 

197344日、私どもの「入学式総括集会」を、革マル派の50人が襲撃し、角材や鉄パイプで仲間を殴ったが、私は殴られなかった。かつて私をつるし上げたことのある革マル派のFは、笑っているかのような顔をして仲間の頭に鉄パイプを振り下ろした。頭蓋骨陥没の重傷者も出た。またこの集会にいたらしい中核派の一人が、四階から中庭に飛び降り、骨折しながら逃げたと岩間輝生さんから聞いた。

131 3日後に大学が告示を出したが、4日の事件ことを「両派の争い」とし、「5日午後にも銅像前で両派が争い、負傷者が出た」とし、暴力を戒めた。

 

 

49日に授業が開始されたが、革マル派は新入生に対して「一文自治会常任委員会」を自称し、私どものことを「第二自治会」とした。私は新入生にこれまでの経過を説明し、1970年の在日の梁政明君の抗議自殺についても触れた。革マル派はクラス集会を襲撃し、個人テロも頻発した。

 

136 421日に一文学生大会を開催したところ、「統一学生大会」を叫ぶ革マル派が押し掛けたため会場を変更した。なんとか定足数900人を確保できた。ところが会場の外で社青同解放派200人がデモをして「文学部学生大会を支援する」などと言ったため、革マル派はそれを非難した。革マル派の暴力のために、級友の林茂夫022は登校できなくなった。

 

52日の教授会との団交にも革マル派が「統一団交」と称して乱入し、中止となった。その後の集会も同様だった。

 

138 58日、理工学部で講義中の村井資長総長を、政経学部を中心とする「団交実行委員会」と「行動委員会」の30人が拉致し、8号館入口前に連行して500人の一般学生の前で追求した。その後8号館301号室に移動し、500人の学生を前に総長団交を強行した。午後2時過ぎ、学生数は1500人に達し、団交では当局の革マル派利用を責めたが、総長は一切応じなかった。総長が体調不良を訴えたため、「17日に再び団交を開く」という確約書に署名させ、午後5時に打ち切った。

 

「団交実行委員会」と「行動委員会」は、「執行委員会を内包する実行委」を唱えた。

 

 

141 514日、私は法学部の学生集会で総長団交への参加を呼び掛けた。終了後22号館前で革マル派に襲われ、鉄パイプでめった打ちされた。彼らは無表情だった。「学館(第一学生会館)へ連れていけ」の声を聞いて、私は自転車駐輪場の鉄パイプに海老のように丸まってしがみついた。数分間だった。仲間は逃げ、通りがかりの学生は遠巻きに眺めるだけだった。1か月の重傷で入院した。額は傷だらけで、白目は内出血して真っ赤だった。骨折は免れた。

 

144 翌日5/15の革マルのチラシは「樋田に革命的鉄槌を下す」としたが、執行委員会のチラシ(山田誠書記長文責)は、「樋田君が14日午後745分、22号館前で、20名の革マルから鉄パイプで、左眼、右足、顔面をめった打ちにされた」とした。

 

 

146 516日、大学側は517日予定の全学総長団交の中止を告示し、総長は談話で「力の論理が支配している今は話し合いの時期ではない」とした。以前から革マル派は「団交実力粉砕」を叫び、執行委員会や行動委員会メンバーに暴行していた。また反革マル派は、機動隊に排除され、負傷者が出ていた。

 

 

148 625日、一文の二年生有志30人が「二年生連絡協議会」(二連協)を開催し、防衛のための武装方針を決定した。

 

同日私が登校したところ、革マル派が私を発見し、数時間にわたって私たちを鉄パイプ暴力で軟禁した。夕方一文時代の級友が救出に来てくれて、集団となって逃がれようとしたが、革マル派は殴る蹴るの暴行を加えた。この時級友の福井文治は「もう樋田は守れない」と言った。150 チラシ「文芸4年のみなさんへ」は「300人が見守り、100人が救出を援助した。革マルは手を出そうとしなかった」とする。

 

 

151 72日、二連協がオレンジ色や銀色のヘルメットと角材で武装した集会148を開催した。山田誠と岩間輝生はヘルなしでそれを見守った。このとき革マル派の妨害はなかった。私は登校して執行委員会を開催した。

 

 

153 713日午後2時、二連協50人が集会を開催したが、うち20人はヘルや竹竿、角材で武装していた。午後3時、一文の学生担当の教務主任・岩波哲男が集会に呼び出され、100人の学生から試験の中止を求められた。そこへ50人(後に200人)の革マル派が、(組み立てた折り畳み式の)鉄パイプで地面を打ち鳴らした後に雄叫びを上げて急襲してきた。その時の様子は下記の通り。

 

 防衛隊で二連協の二年K組の岡本厚「革マル派が校舎に逃げ込んだ残党狩りをはじめた」(岡本は後に岩波書店の社長となった)

二年J組の吉岡由美子はこれ以前に革マル派と口論したことがあり、革マル派を恐れていた。その後彼女は不登校となり、半年後中退した。今は前衛舞踏のダンサーになり、ベルリンで活躍している。吉岡「マルクスの本は読まなくても、革マル派のひどいことはわかった」

革マル派は岩間079さんが隠れた藤平研究室の前で防衛してくれた藤平先生を殴り倒した。岩間もその後登校できなくなった。

 

158 この日、叛旗派(共産主義者同盟叛旗派)が(文学部)正門付近に集結し二連協を守った。一文に叛旗派の活動家がいた。この叛旗派も革マル派に襲われた。

 

このころ100人が登校不能になった。160 武装論の活発化に伴って、集会・デモの参加者は減っていった。私は夏休みで帰省した。

 

 

161 9月、革マル・中核・社青同解放派の内ゲバが多発し、行動委員会メンバーもそれに巻き込まれた。

 

99日、西武池袋線保谷駅構内で、911日、東大駒場構内で革マル派と中核派が衝突。

915日、神奈川大学で、革マル派が社青同解放派を襲撃し、その反撃で社青同解放派が革マル派の東大生と国際基督教大学生を殺害した。

916日、日本橋・三越屋上に集まっていた早大行動委メンバーを革マル派が襲撃し、それに同伴していた社青同解放派が負傷した。

917日、山手線鶯谷駅構内で、革マル派と中核派が衝突した。

 

早大構内での革マル派の暴力は激しさを増した。革マルが構内で検問し、一般学生の間に諦念が広がり、登校できない学生が増えた。

 

一文自治会執行部は武装問題で分裂していた。私は山田や岩間079とともに個人として行動することにした。163 樋田・山田の連名でチラシ「一文四千の学友諸君!」を撒き、武装論を批判した。

 

118日の川口一周忌追悼前に、一文自治会執行委員会を開催し、15人中6人が出席した。自衛武装論を賛成3(委任状2を含めて5)、反対2、保留1で採択した。一文執行委員会、教育学部執行委員会と二文臨時執行委員会有志の連名で、自衛暴力論のチラシを配布した。

 

一方私と山田はそれに反論するチラシを配布した。執行委員の4人は非武装論者だった。

 

 

私達は川口一周忌追悼一文実行委員会をつくった。そこに一年生を含めて20の語学クラスと専修クラスが参加した。

岩間079ら日本文学専修四年も、武装論に反対してチラシ「118集会参加決議」を撒いた。

 

 

117日、革マル派が全国から1200人を動員した。

118日、大学から高田馬場駅までの沿道の商店は臨時休業し、小中学校は臨時休校となった。

118日、大学側はロックアウトし、機動隊600人を配備し、大隈講堂前での革マル派500人の集会を容認し、機動隊がそれを取り囲んだ。一方、正門の外では、社青同解放派などがデモをし、機動隊に投石した。

私らの「実行委員会」300人は正門から追い出され、鶴巻(南)公園(早稲田の東方)へ移動した。政経学部自治会や民青系法学部自治会と共催した午後の新宿体育館(現・新宿区立スポーツセンター)での追悼集会には600人参加した。

 

168 (一文の防衛武装論の)分裂グループは、一文の北側「箱根山」で追悼集会を開催。彼らは「一文自治会執行部」を名乗り、300人が参加した。

また日文専修は、桒原(くわばら)澄子の提案で、独自に追悼集会を開催した。早稲田奉仕園に50人が集まり、文学部正門まで歩き、山村政明と川口を偲び、正門前で黙祷した。

 

正門付近に続々と集まる反革マルの学生たちと機動隊が衝突し負傷者が出た。新聞報道によれば、革マル派の立看板には「小ブル雑派に死を」と書かれ、革マル系の商学部と民青系の法学部自治会が残っているだけだなどと報じた。

 川口の母親サトが、サークル連合111主催の追悼集会に参加し、「もう争いはやめて!」と訴え、「息子を殺した革マル派が自分の宣伝に集会を開くなど許せない」と語った。母親は大学から受けた600万円の見舞金の全てを、『母親の苦しみを二度と繰り返したくない』という願いを込めた、藤沢市のセミナーハウス建設に寄付した。早大学生新聞会などがその募金活動を進めていた。

 

 

171 追悼集会後、一年生は「一年生討論集会」を開催した。私たちは追悼集会の9日後に、100人で「新クラス連絡会議」を発足し、174 私はその議長になった。一年生を中心に10クラスが代表者を選出したが、二年生は動かなかった。登校できない100人に対する緊急対策(暴行事件発生に際して警報ベルの設置と集結を求めた)を文学部当局に求めた。またチラシ「革マル派の資金源を断ち切り、革マル早稲田祭を許さない」を撒いた。しかし大学当局は革マル派早稲田祭を公認し続け、1122日から26日までの開催を決定した。

 

1119日午後8時、一文の黒ヘル14人が早稲田祭中止と総長団交を求めて正門わきの図書館に籠城したが、当局は即座に機動隊を入れて不退去罪で逮捕した。その中には第二次早稲田闘争の闘士で一文自治会執行部書記長のKも含まれていた。Kは行動委員会の指導者であったが、1969年当時、反戦連合=全共闘グループは大学本部を占拠していた。一部は叛旗派と合流し、革マル派の立て看板を破壊し、火をつけた。行動委員会の行動はこれが最後となり、その後は裁判闘争を行った。

 

174 二年生の半数のクラスで6月に結成された「二連協」は自衛武装148したが、革マル派の急襲を受けて傷を負った。運動から離れる人も出た。

 

秋になっても二年J組でも自治委員が選出できなかった。新自治会規約案の学部投票は、革マル派の妨害でできなかった。

 

 

冬休み明けでも革マル派が検問を続け、私たちは文学部に入れなかったので、登校できない学友に対する単位取得の配慮を大学側に要請した。教授会もレポートでよしとした。

 

112日、8号館地下ラウンジで「クラス連絡会議第7回総会」を開催し、20人が集まった。私の闘いはそこまでで、闘いを終える決意をした。山田は慰留したが、山田も岩間も私の決意を受け入れてくれた。一年生グループも同時に闘いを終えることになった。

 

以上で私の闘いは終わり。

 

19734月、一文自治会常任委員会を名乗る革マル派のチラシには「自治会を混乱させた樋田一派を文学部キャンパスから追い出せ」と書かれていた。

 

 

赤報隊事件

 

189 198753日の小尻知博殺害事件後に、赤報隊の犯行声明文が東京の某通信社に届いた。「反日世論を育成してきたマスコミに厳罰を加えなければならない。特に朝日は悪質である」「全ての朝日社員に死刑を言い渡す」と書かれていた。

190 私が取材した右翼活動家や暴力団員は、「天誅」という言葉をよく使った。殺意を感じた。彼らは「実行後は自決するか警察に自首するかして自ら責任を取るのが右翼の美学だ」と言い、多くの右翼が赤報隊を支持し、「左翼との戦いは我々の絶対的な使命だ」と言った。以下は赤報隊による犯行事件。

 

19872月ごろ、(朝日新聞)東京本社銃撃事件

19875月以降、(朝日新聞)名古屋本社社員寮銃撃、静岡支局爆破未遂、中曽根康弘・竹下登元首相脅迫事件、

19905月、愛知韓国人会館放火事件

 

と続いたが、それ以後はなくなった。

 

赤報隊が事件のたびに送り付けて来た犯行声明文は、米主導の戦後民主主義を嫌悪し、戦前の日本を賛美していた。私が会った100人超の右翼活動家の多くも戦前体制への回帰を主張した。

 

右翼には新旧の二種類あり、米国を支持する反共という既成右翼と、反米でヤルタ・ポツダム体制打破を唱え、戦後社会を否定する新右翼とがあるが、元左翼は後者に入り込み、ヘルメットをかぶり、街頭デモをし、火炎瓶を米大使館に投げ込んだり、爆弾を製造したりした。また1982年、東京の新右翼は仲間の一人を公安のスパイとして殺害した。

 

赤報隊事件は20033月に時効となった。

 

 

 

193 一文自治会委員長だった田中敏夫と同書記長で川口実行犯のSは、川口事件の1年後に、獄中で自己批判書を書いて転向していた。

 

田中敏夫は川口事件の2か月後に引退し、19731月、それまで副委員長だった大岩圭之介が委員長代行となった。228 田中敏夫は川口事件の1年後に自己批判して組織を離れた。田中敏夫は川口事件当時、東大駒場の集会に行って不在だった。

 

1973119S(元一文自治会書記長)は自己批判書を書いて転向した。私は2019年の暮れにSに会った。その自己批判書には「人間的にも未熟な若い人々が暴力行使に慣れてしまうことが最も恐ろしい。傷つけ、傷つけられることを厭わない人間になることは真の勇気ではない」とあった。

 

19731021Sの自供に基づいて4人が再逮捕された。いずれも197212には監禁致死容疑で逮捕されたが、黙秘で釈放されていた。(その後警察がSだけから何らかの情報を得ていたのか)

 

S以外の3人は黙秘していたが、(1973年)1111Sを含む4人は監禁致死罪で起訴された。さらに10人が同容疑で逮捕されたが、多くは処分保留となった。しかし、元二文自治会委員長のWは傷害致死罪で逮捕された。こうして5人が起訴されたが、「殺意の認定が困難だった」として殺人罪とはならなかった。

 

S19747月末、懲役5年の実刑判決となった。一部事実誤認で控訴したが、刑期は変わらなかった。1974年の秋、他の4人にも判決が下されたが控訴し、判決が確定したのは19763だった。M(二文自治会委員長)は、懲役8年、W(二文自治会委員長)は懲役6年、T(二文自治会副委員長)は懲役36月、A(一文自治会会計部長)は懲役2年だった。

 

202 中核派の元早大キャップの証言「北新宿の柏木の部屋での機関紙の読み合わせ会に某一年生を参加させた。その某一年生は川口と同席していた。革マルの社会科学部学生大会の議案書に『川口は柏木の中核派アジトで会議に参加していた』と書いてあった。」(「川口事件を記録する級友たちの会」ネット公開、2020

 

203 革マル派全学連の馬場委員長(当時)は、川口事件当日の午後5時に文学部キャンパスで開催された「米軍戦車搬送阻止決起集会」で、「スパイ行為で川口を摘発した(午後2時過ぎ)」と言っている。

 

204 『革マル派五十年の軌跡』第五巻2017/6によれば、「118 早大でスパイ活動を摘発された中核派活動家・川口大三郎がショック死」とある。

 

 

 

205 一文自治会副委員長だった大岩圭之助は、辻信一と変名し、米コーネル大学留学後、明治学院大学の教授となっていた。208 2021325日、私からの二度目の要請を受け入れた大岩と面会した。同年419日、文藝春秋社の会議室で4時間対談した。前回3/25の一問一答式での出版に大岩が難色を示したからである。以下はその対談から。

 

 

211 大岩の父は朝鮮出身で、日本に留学してから朝鮮独立の闘士となろうとしていた。

大岩は戸山高校出身で、高校時代に革マル系の「反戦高連(反戦高校生連絡会議)」に加入し、生徒会副会長に立候補したが敗れた。父から毛沢東関連の英語で書かれた本を読まされた。アジ演説はうまかった。ラグビー部に入っていた。教員に暴力的に振舞った。二浪して早稲田に入った。

 

樋田は愛知県立旭丘高校の生徒会長になって、同校の制服を廃止させた。

 

230 19751月か2月ころ、大岩は革マル派の組織から離れた。

 

19741216日、マンション6階を含む都内の三か所で(革マル派と中核派との)内ゲバがあり、10人が重軽傷を負った。革マル派の幹部5人が重軽傷を負い、検挙された。その中の一人が大岩である。大岩は、その検挙された革マル派幹部(学生指導担当)の一番下っ端であった。大岩は入院はしなかった。収監された。大岩は同房のヤクザが読んでいた『宮本武蔵』に感動し、美味しいコーヒーといい音楽を聴きたいと思った。これは大岩にとって二度目の留置場体験だった。大岩は起訴されず、正月明けに釈放された。大岩は釈放後に上司に電話で「組織を離れる」と伝えた。

 

236 大岩は組織を離れて早稲田を中退した。京都でバーテンをしていたころに外人と知り合い、その後、米やカナダの大学に入学した。米の大学に2年通い、その後モントリオールのマギル大学に転学し、そこで鶴見俊輔の転向論の講義を聞いて感動した。それはプラグマティズム的転向容認論だった。

 

 

 

244 高橋源一郎は小説『さようなら、ギャングたち』の中で過去の自分の学生運動の矛盾を反省し、それを出発点としている。

 

 

250 19736月、岩間輝生079は「痩せ馬」というペンネームで、チラシ「立ち竦む君に」を書いた。「痩せ馬」は『ドン・キホーテ』の主人公が乗る馬「ロシナンテ」の日本語訳である。岩間は私をドン・キホーテに、山田誠をサンチョ・パンサに模し、自分たちを、見果てぬ夢を追って風車に向かう三人組に見立てた。

 

 

 

254 川口事件後、一文・二文教授会は、革マル派の自治会を承認しなかった。革マル派が早稲田祭実行委員会を支配していた時期の早稲田祭の際も、文学部キャンパスを早稲田祭の会場とすることを認めなかった。

 

早稲田大学第一・第二文学部編『早稲田大学文学部百年史』1992によると、

 

「その後旧自治会的活動に批判的だった新執行部の活動が衰えてしまったが、川口事件によって一般学生から見放された旧自治会は、1974年~1976年にもバリケードストライキを実行してはいるが、殆ど無力化してしまった。」

 

「革マル派との縁を切ることは文学部教授会の歴代執行部の共通した認識となった。」(元教授、第二章)

 

一方、大学本部側は川口事件後も、革マル派が主導する早稲田祭実行委員会、文化団体連合会、そして商学部自治会と社会科学部自治会の公認を続けた。

 

ところが、1994奥島孝康総長が就任し、「革マル派が早稲田の自由を奪っている体制を変える」と表明し、翌1995商学部自治会の承認を取り消して年間1200万円(2000円×6000人)を剥奪し、社会科学部自治会にも同様の措置を取った。

そして1997、早稲田祭を中止し、その実行委員会から革マル派を排除し、年間1000万円を援助と、教員用としての一冊400円のパンフ5000冊、計200万円の購入をやめた。1998年、早稲田祭は新体制で再開された。文化団体連合会も、学生会館の建て替えを機に、革マル派を外した。それまで大学公認のサークルに年間35万円を補助していたが、革マル派の名目だけのサークルへの資金を絶つとして、補助制度自体を廃止した。

 

奥島総長は革マル派から脅迫、吊るし上げ、尾行、盗聴などの妨害を受けたが、屈しなかった。川口虐殺事件から25年後のことだった。

 

 

 

260 山田誠はその後都立高校の国語の教師になったが、19938月、故郷の鹿児島への帰省中のJR竜ヶ水駅(鹿児島市の北北東方向の鹿児島湾に面する)で土石流に巻き込まれて二歳の次女と共に亡くなった。4年前(2017年ころか)に、山田誠の兄からの依頼で、私は、事故当時小学生だったが今では社会人になった山田の二人の遺児に、「お父さんは勇気と優しさとユーモアのあるすばらし人だった」と語った。

 

 

 

本書のタイトル「彼は早稲田で死んだ」は、1973年春に作成した新入生向けの小冊子の表題である。

 

 

樋田毅1952—

 

おしまい 2024613()

 

 

中島岳志『保守と大東亜戦争』集英社新書2018

  中島岳志『保守と大東亜戦争』集英社新書 2018       感想  2024 年 6 月 17 日 ( 月 )     筆者は「保守は急な変化を好まない」と言うが、本書に出て来る彼ら「保守」は全て特権階級だった。竹山道雄は銀行員の息子で、一高の教授と...