2019年10月7日月曜日

中曽根康弘 インドネシア原住民慰安所を設置 2019.10


海軍主計士官(将校)の地位にあった中曽根元首相が、慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達をしていた。

     『終わりなき海軍』

中曽根康弘は、戦時中に海軍に所属し戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本である『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)の中で、慰安所を設立した事実を書いた。タイトルは「二十三歳で三千人の総指揮官」。当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、いかに人心を掌握し、戦場を乗り切ったかという自慢話である。

「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」

2007323日、中曽根が日本外国特派員協会で会見をした際、アメリカの新聞社の特派員からこの記載を追及されたが、そのとき、中曽根元首相は「旧海軍時代に慰安所をつくった記憶はない」「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」「具体的なことは知らない」と完全否定している。
『終わりなき海軍』の編者である松浦敬紀は、その10年ほど前、「フライデー」の取材に「中曽根さん本人が原稿を2本書いてきて、どちらかを採用してくれと送ってきた」「本にする段階で本人もゲラのチェックをしている」と言っていた。


     防衛研究所の戦史研究センター所収の資料「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「第2設営班資料」)

 この資料は、第2設営班の工営長だった宮地米三が記録し、戦史研究センターに寄贈したものである。
2設営班とは、中曽根が当時、主計長として統括していた海軍設営班矢部班のことである。

「第二設営班矢部部隊」
「一編制」
「主計長海軍主計中尉中曽根康弘」
5、設営後の状況」

「バリクパパンでは◯(判読不可、飛行)場の整備一応完了して、攻撃機による蘭印作戦が始まると、工員連中ゆるみが出た風で、又日本出港の際約二ヶ月の旨申し渡しありし為、皈(ママ)心矢の如く、気荒くなり、日本人同志けんか等起る様になる。主計長の取計で、土人女を集め、慰安所を開設、気持の緩和に非常に効果ありたり」

また「上陸時」と「完了時」の地図があり、「上陸時」から「完了時」の地図の変化のひとつとして、孤立した民家の周辺に、設営班が便所をおいたと記されており、その場所に「上陸時」になかった「設営班慰安所」と書き加えられている。


彼女(土人女)たちは、「日本軍に命じられた村の役人の方針で、どんなことをさせられるのかも知らないまま、日本兵の引率のもとに連れ去られた」ことを証言している。そして、年端も行かない女性達が「いきなり慰安所で複数の日本兵に犯された」という悲惨な体験が語られ、その中にはこのパリクパパンの慰安所に連れてこられたという女性もいる。


安倍政権が、慰安婦問題はなかったことにするために立ち上げた自民党のプロジェクト「日本の名誉と信頼を回復するための特命委員会」の委員長に中曽根の息子である中曽根弘文が就任した。

フジ産経グループの総帥だった鹿内信隆も、慰安所づくりに関与したと発言している。


出典


感想 戦前の日本軍が犯した罪を認めることは「日本を貶める」ことにはならない。それを否定することこそ貶めるということを理解すべきだ。「広島や長崎への原爆や東京大空襲はなかった、それは日本人のでっち上げだ」と言われたらどう思うか、立場を入れ替えて考える度量の大きさが求められる。

2019年10月3日木曜日

戦争中の国際社会の南京大虐殺に対する反応 ―― 米国を中心として 南京師範大学 張連紅 要旨・抜粋・感想


2018年南京大虐殺81ヵ年 証言を聞く東京集会報告集 全水道会館 2018.12.12
戦争中の国際社会の南京大虐殺に対する反応 ―― 米国を中心として 南京師範大学 張連紅

017 日本の兵士たちは、自分たちが行った残酷な暴行を、家族に伝えなかった。日本国民は東京裁判で初めて昔の暴行の数々を知るようになった。しかし当時外国人の記者たちは既に国際社会に向けて報道していた。
 日本軍は南京を占領してから最初の6週間のうちに、一般人と戦争捕虜に対する大規模な虐殺、女性に対する強姦、略奪放火等の暴行を行った。
南京の西側外交官も日本軍の暴行を各国政府に報告した。

018 
一、戦争中の西側記者は国際社会に対して南京大虐殺の暴行を適時報道した。

 日本軍は南京を攻撃する前の夕方、全ての西側人士に南京から離れるように要求したが、5名の米英記者が南京に留まり、戦争の進展具合を報道した。ニューヨーク・タイムズの Frank Tillman Durdin, シカゴ・デイリー・ニューズの Archibald T. Steel, AP通信社の C. Yates Mcdaniel, 米国パラマウントの Arthur Memken, 英国ロイター社の L. C. Smith である。日本軍は南京占領後、西側記者にすぐに南京を離れるように要求した。15日、スチール、ダーディン、スミス、メンケン等4人は、米国砲艦オアフ号で上海に向かい、翌日AP通信のマクダニエルは南京を離れた。
電報を打てたのはオアフ号に乗船してからのことだった。シカゴ・デイリー・ニューズは、スチール記者の報告に基づき、米国時間15日、中国時間16日、目撃者の叙述、陥落都市四日間の地獄のような日々、街路の死体は5フィート(1.5メートル)の高さに積み重なっていることなどを主題とした詳細な報道を行った。

 私はたった今、南京攻撃が始まってから最初に首都を離れた外国人とともにオアフ号軍艦に乗った。南京を離れるに当たって、私たちが最後に見た場面は、300名の一群の中国人が、長江に面する城壁の前に整然と並んで処刑されており、その死体は膝の高さまであったということである。これはこの数日の凄まじい南京の風景の典型的な写真である。…
 子羊を屠殺するような虐殺。どれくらいの数の軍人が被害に会い殺されたか、計算もできない。5000から20000の間かもしれない。
 陸路が切断されたので、中国軍人は挹江門を通ってどっと川辺に向かったが、挹江門はすぐに閉鎖された。
 長江を渡る船を見つけることができなかった沢山の軍人が長江に飛び込み、十中八九が溺死した。
… 彼らは捜し出せた中国兵や官員を全て殺戮することで、ようやく満足した。 … 一人の日本兵が増え続ける死体の山の上に立って、歩兵銃の弾を、まだ少しでも動ける死体に注ぐ。日本人に言わせるとこれは戦争で、私たちに言わせればこれは計画的虐殺だ。最も正確な統計によれば、日本人が南京で処刑したのは2万人、上海から南京の過程での殺戮は11万4千人の中国兵である。この過程での日本人の損失は1万1千2百の兵である

021 『ニューヨーク・タイムズ』南京大虐殺に関連する報道1937.12.13--1938.1.31(全21回より抜粋)
発表日時      題目        記者
1937.12.19 日本人は南京暴行を取り締まる ハレット・アベンド Hallett Abend
1937.12.24 日本軍大佐はまだ処罰されていない ハレット・アベンド
1938.1.9 中国指揮官逃走:日本軍の暴行は南京の陥落を示している:侵略者は20000人を処刑、日本軍が、包囲された市民を集団虐殺――中国人死亡総数33000人に達す ダーディン
1938.1.15 日本軍は数百の婦女、少女に残酷な対応 ハレット・アベンド
1938.1.23 日本軍は南京での略奪を継続;米国領事正式に抗議 
1938.1.25 南京の混乱は続く、それは軍隊の反乱を暗示 ハレット・アベンド
1938.1.26 南京の日本軍は法を破り、天理をわきまえない(社説)
1938.1.28 外交官が日本軍兵士に平手打ちされた:米国駐在南京代理公使ジョン・アリソンが平手打ちされた。――米国は日本に抗議、軍当局は兵士の行為を支持。 ハレット・アベンド

資料出所:張憲文編集『南京大虐殺史料集』第6冊『外国メディア報道とドイツ大使館報告』、第29冊『国際検察局文書・米国新聞雑誌報道』、江蘇人民出版社2005, 2007

023
二、南京暴行を経験した西側人士の日本軍暴行の暴露
 日本軍南京占領の初期、20人以上の西洋人士が南京に留まり、日本軍の暴行を目撃した。14人の米国人、6人のドイツ人、2人のロシア人、1人のオーストリア人(1938年3月15日、ドイツによるオーストリア併合で、ドイツ人になった)、1人のデンマーク人であった。
 西側人士が組織した南京安全区国際委員会の会則があるので、ほとんど毎日、日本領事館に日本軍の暴行事例を報告しなければならなかった。この人たちのほとんどは、戦争の期間中、書簡、日記、講演、映像等で国際社会に南京の日本軍の暴行を暴露した。
 南京安全区国際委員会のマネジャー役を担ったフィッチは、米国に行き、真相を伝えた。
 南京国際紅十字会の主席宣教師の John G. Magee は、16ミリ撮影機でこっそりと日本軍の暴行を撮影した。その最初のもの(1―4号フィルム)を、フィッチ George Ashmore Fitch が預かり、上海に運び、上海コダック社で編集・現像し、4セットをつくった。
 フィッチは1883年1月中国蘇州で生まれ、中国名は費呉生という。米国のニューヨークユニオン神学校とコロンビア大学を卒業し、1909年長老会から中国への伝道に派遣され、上海国際基督教青年会YMCAで働き、1936年、南京に来て、国民政府の新生活運動顧問となった。
024 デンマーク人1人と、ドイツ人1人は、南京城から20km離れたコンクリート工場にいた。24人の欧米人が当時南京に残っていた。
 国際安全区は、城内の西側にあり、主に欧米の教会の資金によって作られた大学や、大使館、領事館が集中した地域で、面積は3.86平方km、南京城の8分の1を占める。国際安全区が作られてから暴行を避けるために25万人の難民が安全区に避難した。20数名の安全区の欧米人は難民を守るために活動した。日本軍の暴行を日本領事館に報告し、暴行を止めさせるように要請した。また彼らは書簡、日記、映像等を上海に運び、そこから国際社会に発信して日本政府に圧力をかけた。
025 マギーは第三者の立場で客観的に南京の状況を撮影した。夏淑琴さんの家族の被害状況も撮影した。日本の従軍記者たちは平和的で友好的に日本の軍人を歓迎する南京市民という作られた情景を撮影するばかりだったが、国際社会は、欧米人の発信した情報によって、日本の発信が偽物であることを見破っていた。
 フィッチが、マギーのフィルムを運んだ。1938年1月29日の朝、フィッチは英国外交官プリダ・ブルーン Prideaux-Brune とともに英国のガンボート「ビー(ミツバチ)号」で南京を離れた。彼は次のように回想している。

朝6時40分日本軍の列車に乗って上海に着いた。私は一群の平然として恥知らずな兵隊たちと押し合いへし合いして一緒だったので、少し緊張した。なぜなら8巻の日本軍暴行に関する16ミリフィルムを私のラクダの毛のコートの裏に縫いこんでいたからである。その大部分は金大病院(鼓楼病院)で撮影したものだ。上海に入るとき私のカバンは詳細に検査された。… これらはとても恐ろしいものであるが、人々は見たものを真実だと言わないわけにはいかない。… 私は米国のコミュニティー教会やその他の地方でこの映像を上映するように求められた。

026 彼が記憶違いしているところがある。彼が最初に上海にフィルムを持って乗ったのは英国のガンボート「ビー」号で、2月12日、米国軍艦「オアフ」号に乗って、南京に戻った。2月20日、彼が二度目に上海に行ったときの交通手段は汽車で、マギーのネガフィルムは、最初に上海に行ったときに運んでいた。
 フィッチは、米国へ向かう途中、広東省主席呉鉄城の主宰で、日本軍の南京での蛮行に関する講演を行った。この旅行は国際宣伝部から派遣要請されたものであった。ホノルルでは中国ホノルル駐在総領事梅景周と会見し、講演とマギーフィルムの上映を一度行った。1938年3月14日、フィッチはサンフランシスコに到着し、『日本軍南京のレイプ』と題する発表を行い、ロサンゼルスでは、講演とマギーフィルムの上映を行った。フィッチは、フィルムを上映したときの様子を、次のように回想している。

… one where I showed my films which caused something of a sensation, even illness on the part of a couple of the audience.

 3月18日、フィッチはワシントンに来て、国会外交事務委員会、戦争情報局、新聞界などでマギーフィルムを上映した。その後、ニューヨーク、シカゴ等多くの都市で講演したが、マギーフィルムの上映回数は少なかった。その主要原因は、彼の友人が、フィルムはとてもぞっとする ghastly もので、時には観衆の気分を悪くさせると言ったからである。
027 元AP通信の記者 Earl H. Leaf も、4月初め、ロンドンからニューヨークに来て、マギーフィルムを上映した。マギーフィルムは、米国で一定の影響をもたらし、1938年5月16日、米国雑誌『ライフ』は、 These Atrocities Explain JAP Defeatという題で、南京暴行の写真を掲載した。
 1944年、フランク・カプラ監督の映画『我々は誰のために戦うか:中国の戦争』は、マギーフィルムの日本軍の暴行の映像を引用し、人々に大きな影響を与えた。
 もう一つのセットは、英国の平和活動家M・レスター女史が、4人の日本人牧師と協力し、日本に持ち込み、日本人に見せた。またもう一つのセットは、ドイツの外交官がドイツに持ち帰り、ヒトラーに見せた。
029 マギーフィルム以外にも多くの書物、日記、書簡が発表され、人々に大きな影響を与えた。

三、戦争中の西側外交官の南京の暴行に関する報告

 日本当局の要求に基づいて、日本が南京を占領する1937年12月13日の前日の夕刻、米英独の南京駐在外交官は、国民党政府と共に、南京から漢口に避難したり、揚子江に停泊していた軍艦や、上海に避難したりしていた。南京陥落後、彼らは南京に戻ることを日本側に要求し、1938年1月6日、米国駐中国大使館三等書記官アリソン、副領事ジェイムズ・エスピィ等三人は、南京の米国大使館に戻ることを許された。三日後、ドイツ外交官ローゼンと英国外交官プリドー・ブルーンも南京に戻った。日本軍はほしいままに虐殺、強姦等の暴行をなおも継続していた。以下は米国外交官アリソンの報告である。

米国住民は、人を身震いさせるような状況について話してくれた。日本軍は、ほしいままに中国市民を虐殺し、女性を強姦し、しかもあるときはそれが米国敷地内でも起きた。そして12月最後の1週間に日本軍人は米国大使館の中を略奪した。大通りのほとんどの商店が略奪され、大多数が放火された。
1月18日、ようやく日本側は米国大使館に無線通信を設置することに同意した。
031 1月15日の正午から本日(18日)正午までの間に、日本軍兵士は、15回以上、米国敷地内へ不法侵入し、略奪するとともに、避難していた10名位の中国人女性難民を拉致した。

1月25日、アリソンとエスピィは以下のような報告書を作成した。

日本兵は野蛮人の如くやりたい放題にこの都市を侮辱した。全市の数知れない男性、女性、子供が殺害された。一般市民は理由もなく銃殺され、あるいは刺殺され、それは尽きることがない。日本人が言うには死体を処理しているとのことだが、室内、城の壕のなか、道端にまだ死体を見ることができる。
 日本兵は至る所で性欲を満たすために現地の女性を探した。当地の外国人は、このような事例が一晩で数千を下らないと確信している。米国財産に関する事件は、一晩に30件ある、という米国人の統計がある。
殺人と強姦はなお不断に発生している。この街は、この強盗軍隊が意のままに蹂躙するに任せている。日本兵はほとんど全ての家、全ての建物に侵入し、欲しい物をあらいざらい取って満載して帰る。
 このとき漢口にいたジョンソン Nelson Trusler Johnson 米国大使も次のように語っていた。「中国兵が安全区に逃げ込み、武器を外国人委員会に提出したが、日本兵はそういう中国人を大勢殺した。日本側の意図は、そんなことをしても白人は助けてくれないことを中国人に示すためだったのではないか」と。
グルー Grew, Joseph C 駐日米大使も、キリスト教総会のボイントン Boynton 神父の考えを代弁し、次のように語った。「日本の将校が故意に、日本兵に勝手気ままにさせたのは、それが(中国人)処罰の一つのやりかただったからだ。」また、駐漢口ジャビス領事も同様のことを語っていた。
032 (以下の部分は文章としておかしく意味不明である。日本側が、南京で30万人以上が殺されたと海外で報道されている事実を知っていることが、日本の外相広田からワシントン駐在日本大使に宛てた電報1938.2.1の解読によって明らかになり、それが『シカゴ・デイリー・ニューズ』に報道されたということか。)米国が解読した「広田電報」の内容は、次の通りである。
「少なくとも30万人の中国市民が殺された。多くの場合、残忍な手段で。略奪、強姦、少女に対する強姦、市民に対する残忍非道な野獣の行為が、敵対行動が既に停止した地域で継続していると報道された」という内容で、日本軍が、上海から南京進撃までの間と、南京占領後とで、少なくとも30万人の中国市民を虐殺したとしている。
 ルーズベルトは、部下から上がってくる報告を新聞社にリークすることによって、日本政府は、日本兵の略奪を制止する能力がないことや、米国財産を保護することができないこと、将校でさえ中国人女性を強姦していることなどを証明できると考え、また中国国内の米国資産に対する日本側の侵害行為に対する対抗処置として、米国内の日本資産の凍結を検討した。
 1938年1月9日、ドイツ大使館南京事務所の政務秘書ローゼンと行政秘書シャルフェンベルクは、南京に戻り、南京情勢をドイツ本国に報告した。この報告は1980年末にドイツの学者によって発見された。

絶え間なく米国教会病院に送られる女性がいる。これらの女性は心身に大きな傷を受けており、まず輪姦され、その後銃剣で殺害されなかったとしても、他の手段で傷を負っていた。ある女性の頸部は、半分ほど割られたが、この不幸な女性は生きながらえ、ウイルソン医師を驚愕させた。ある妊婦は腹部を刺され、腹の中の嬰児は刺されて死んだ。沢山の強姦された幼い少女たちの中の一人は、ほとんど20人に輪姦された。英米煙草会社パーソンズ氏の住宅を、私の英国人同僚が視察したとき、一人の女性の死体を発見した。ゴルフの棒を下からこの女性の体に直接差し込まれていた。毎晩日本兵が金陵大学院の中に設置された難民区に乱入し、彼らは女性を連れ去り、強姦するのでなければ、他人の目の前で、家族の目の前で、彼らのおぞましい性欲を満たすのだ。

034 この報告は1938年3月まで続いたが、駐中国ドイツ大使トラウトマンを含めたほかの外交官の報告は、ドイツの「親日棄華」の外交政策と一致せず、1938年6月、タッドマン(トラウトマンか)、ローゼン等はドイツに召還されて捨てられた。ローゼンの南京滞在中の報告は沢山あったが、どういうわけか、ローゼンが国民政府の駐米大使に連絡したにもかかわらず、極東国際軍事法廷と南京国防部軍事法廷で証拠として取り上げられなかった。

 この20年間に中国の研究者は、書簡、日記、写真などを手に入れ、2005年から2010年までの間に、72冊の資料集として出版した。それは政府側の資料であり、米英独の歴史資料館の資料を収集している。

四、結語
 当時の日本当局は、西側記者が南京に留まって取材報道をするのを強制的に阻止しただけでなく、上海における西側記者が国際社会に電報を打つのも厳格に報道検閲した。日本当局は、南京に留まった西側人士の行動の自由を厳格に制限し、威嚇し、西側外交官が南京に戻るのをいろいろな理由で遅らせた。しかし国際社会の主流メディアは絶え間なく報道し、西側主要国の政府と民衆は、日本軍の南京における暴行を広く知った。
 日本政府上層部も、その報道を通して南京の様子を知った。駐在国日本外交官も同様にそのことを知り、それを日本の外務省に報告した。南京の日本領事館員も日本政府に報告した。
英米の外交官は南京に戻ってから日本に抗議したが、日本の民衆は、厳重な統制のために知らされなかった。当時金陵女子大難民所の宣教師ヴォーリン女史は、「日本の良識ある人が、南京で起きていることを知ったらいいのに」と書いている。
036 『ニューヨーク・タイムズ』の記者ダーディンはこう言った。

日本軍の南京占領には、最高至上の軍事的・政治的意義がある*が、彼らの野蛮で残忍な、捕虜の集団虐殺、街全体における略奪、女性の強姦、市民の虐殺と恣意的な破壊によって(私は)失意に沈んだ。この蛮行は、日本軍と日本国家の名誉の上で汚点となる。(*戦争行為は誉めているのか。)

 またドイツの外交官ローゼンはこう言った。

日本の軍隊による放火は、日本が占領してから一ヶ月以上経った今でも燃えており、女性と幼い少女に対する凌辱と強姦行為はまだ継続している。南京の日本軍はこのようなことをなすことで、自分自身のために恥辱の記念碑をうち建てた。

 国際社会が暴露したので、国際社会の中国に対する同情と反日感情の高まりが引き起こされた。米国では、組織的な日貨排斥運動が出現しただけでなく、「日本侵略に参加しない米国委員会」「日本侵略排斥委員会」「米国平和民主連盟中国援助委員会」「中国救済キリスト教委員会」などが設立され、米国に普遍的な反日感情が出現した。
シカゴ駐在日本領事館は「米国人の対日感情が甚だしく悪化した。このことは、私たちの演説に対する聴衆の態度や、領事館に送りつけられる脅迫文書や、新聞の記事や、また多くの人が日米協会主席の辞職を要求したことなどで分かる。」と報告した。
また、ワシントン駐在日本大使館は、東京に次のような電報を打った。反日感情の原因の第一は、「南京と上海への爆撃の誇大報告、無数の無辜の市民に大災害をもたらしたことが、米国人の感情を逆なでした。… 南京占領時の混乱の誇大報告…」第二は、「大量の軍隊の派遣、大破壊、戦争法規と人道に対する違反行為の責任」である。さらに「米国宣教師の中国民衆に及ぼした思想的影響」も原因として上げた。

037 質疑応答
(1)「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の会員からの意見表明。
父親は復員したが、精神に異常を来し、ちゃんとした仕事に就けず、貧乏の中で私は成長した。父は戦争のことは口を閉ざしたまま亡くなった。
(2)30万人説など数の問題は、なぜ重要な問題ではないのか、との問いに対する張教授の回答。
これは、1996年から1999年まで中日両国政府の下で集まった両国の学者の一致した意見である。
 第一に、暴行、性暴力が大規模かつ広範囲に行われたことを確認する。
第二に、正確に何人殺されたかという結論に達することは難しいので、とりあえず、東京裁判で確認されたこと(日本軍が占領してから最初の6週間で、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万人以上。埋葬隊記録では155,000体だが、これは焼き捨てられた死体や、揚子江に投げ込まれた死体を計算に入れていない)、それと南京軍事法廷で確認されたこと(被害者総数は30万人以上に達する)を記録として確認しようということで両国の学者は一致した。
はっきりした数字にたどり着くには大変な裁判が必要だ。また日本軍は資料を廃棄した。これまで知られている事実は、すべて中国の証言や資料に基づくものだ。当時の被害状況を完全に把握することは不可能だ。この資料は、種々な制約の下に行われた、中国国民党の被害調査に基づいたもので、完全で正確とはいえない。
日本政府が30万人ではないことを明らかにする義務を負っている。私たちにも数字を正確にする義務はあるが、具体的な一人ひとりの悲劇の事実に眼を背けることはできない。
―――――――――――――――――――――――――――――
常志強さん自身の証言は、以下で見ることができる。


以上 2019103()

2019年10月1日火曜日

常小梅さん証言 「私の父は南京大虐殺幸存者の常志強」感想・要旨


2018年南京大虐殺81ヵ年 証言を聞く東京集会報告集 全水道会館 2018.12.12


常小梅さん証言 「私の父は南京大虐殺幸存者の常志強」


感想 

常小梅さんのお父さんの体験を聞いて、我々日本人の祖先がどれほどむごいことをやったか、大変申し分けないと思った。常さん家族がなぜこんな目に会わなければならなかったのか、日本のやり方は間違っていたとしか言いようがない。近隣諸国は仲良くしなければならない。日本はどこかで判断を間違えたに違いない。言い訳は許されない。貪欲、差別、自己中天皇制か。

常さんのお父さんの家族は大所帯だった。曾祖母、祖母、父母、姉、弟4人の10人家族だった。そのうちの6人、父母、弟4人が、日本兵に殺され、姉も、その後細菌をばらまかれて、発疹チフスで亡くなってしまった。取り残された父は、苦しい人生を送ったが、助けてくれる人もいた。
父の家族の体験を彫像で表現したものが、南京の侵華日軍南京大虐殺遭遇同胞起念館*に展示されている。

*大屠殺、遭難、遇難など様々な表記がある。


要旨

父の名前は常志強という。1928年2月4日生まれで、現在(2018)91歳である。私は父の娘で1960年生まれである。
私の父の家族は、南京の夫子廟で小さな雑貨店を営んでいた。父は聡明で聞き分けがよかった。
1937年8月15日、日本の戦闘機が南京を無差別爆撃した。父の祖母と曾祖母は纏足で逃げることができなかった。1937年の冬、二人をおいて難民区へ逃げることにした。
1937年12月12日の午後、南京城を守る中国軍はいなくなっていたが、住民はそのことを知らなかった。1937年12月13日の早朝、南京は陥落した。日本軍は城内に砲撃を加え、城内は火の海になった。しばらくすると城内に日本軍が入ってきて、日本兵は、誰彼構わず難民に向かって撃ちまくり、人を見るとすぐに刀で切りつけ、銃剣で刺した。父の母が、泣き始めた一番下の子供小来来を抱いて乳を飲ませようとしたとき、日本軍人が銃剣で母を刺したが、まだ子供を抱きしめていられた。しかし、二度目に刺されると、子供を放してしまい、子供は大声で泣いた。日本兵は銃剣で子供の尻を突き刺して放り投げた。他の弟たちが日本兵に向かって噛み付いたり、服を引っ張ったり、足にしがみついたりして、母を守ろうとしたが、日本兵は、その三人の子供を銃剣で突き刺した。父はこのとき9歳だった。父は気を失った。父の姉も何度か銃剣で刺され、気を失った。
二人が目を覚まし、小来来を母の胸元に抱かせ、乳を飲ませようとしたが、母は次第に目を閉じていった。また父の父は、拳銃で背中を撃たれて死んでいた。
翌日父と姉は中年の女性に助けられた。彼女を「太ったママ」と呼んだ。張という人だった。殺された彼女の夫は演劇の役者だった。日本兵が入ってきて、太ったママに歌を歌わせた後、彼女と父の姉を強姦した。父の姉はそのとき11歳だった。
三人で金陵大学に逃げた。20万人の難民がいた。その後二人は優しい夫婦に出会った。夫は姜阿州と言い、二人を引き取って育ててくれた。
難民は運動場へ追いやられ、男の群れと女と子供の群れとに分けられた。日本軍は、男の中から一人を引っ張り出し、その人に知人がいなければ、縄で縛って集団虐殺した。
難民区が解散すると、一人の知人が現れ、二人を家に連れ帰り、父の祖母と曾祖母に会えた。父と姉は王府園へ行き、家族の死体を捜した。王府園の人は、母親にしがみついたまま凍死した子供がいたこと、その母子を離すことができなかったことなどを話してくれた。
祖父は39歳で犠牲者になり、祖母は30歳だった。私の大叔父は8歳、二番目が6歳、三番目が4歳、四番目は2歳になっていなかった。
父の姉は日本人が経営する被服工場で長時間働き、父は柴を刈り、野菜を掘り、炊事をした。油条(中華風長揚げパン)や焼餅(中華風焼餅)を売り歩き、米を買って来て売った。日本兵は米を袋ごと水につけ、売ることも貯蔵することもできないようにした。
1938年から1940年にかけて米価が4倍になった。1942年に日本の偽政府は配給を始めたが、それだけでは不足だった。老人や子供は並んでも米を買えなかった。

昼に米を買いに行き、夜城に戻る。
少年は数十里も歩く。
勇気を出して墓地を抜け、
生きるために両肩を腫らして、

1943年から1944年にかけて、南京では多くの人が流行性の疫病にかかった。当時は日本軍がばらまいた細菌の毒によるものだとは知らなかった。当時日本軍第1644部隊の本部が、南京城内中山東路北側にあった。元は陸軍中央病院だったところだ。細菌武器と毒ガス武器の実験がここで行われていた。当時明故宮空港から飛び立つ飛行機から、よく一種の霧状のものが撒かれていて、まもなく疫病が蔓延した。父と父の姉は時々明故宮空港の付近で草刈をした。ある日草刈に行った姉が、突然高熱を出した。高熱は7日7晩引かず、身体中斑点だらけになった。医者は発疹チフスと診断した。姉はなくなった。
 今日侵華日軍南京大虐殺遭遇同胞起念館の彫像広場に、乳飲み子を抱いたまま横たわっている母親とそれを脇で見る子の彫像「最後の一滴の乳」がある。私の父の母と父の末の弟と父の像である。

現在父は、幼い頃住んでいた南京夫子廟と、自分の家族の受難の光景がある南京大虐殺遭難同胞記念館によく足を運んでいる。
父は今絵を描くのが好きだ。

南京大虐殺の惨劇は中国人民にとって、心を切り裂くような歴史の一ページである。このことは私たちの努力によって、世の中の人たちに警告しなければならない。歴史を教訓とし、今日の平和を尊び、悪魔のような戦争から遠ざからないといけない。中日両国民の友好が何代も続きますように。

以上 2019930()

大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社1990

  大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社 1990       第一章 枝吉家の人々と副島種臣 第二章 倒幕活動と副島種臣 第三章 到遠館の副島種臣     19 世紀の中ごろ、佐賀藩の弘道館 026 では「国学」の研究が行われていたという。その中...