2020年1月31日金曜日

伊藤詩織『ブラックボックス』文藝春秋 2017.10 感想

伊藤詩織『ブラックボックス』文藝春秋 2017.10 感想


 アメリカ人の世界認識の狭さ 伊藤が訪れたカンザス州の高校の同級生は、日本が中国の一部だと考えていたり、日本にマクドナルドがあると知って、目を丸くして驚いたりしたという。そして彼らは州から一度も出たことがないのに、アメリカが一番だと考えていたという。伊藤はそのような閉塞した社会の中で、国際ニュースを貪欲に見たとのこと。
 「自由で民主主義のアメリカ」と言われてきたが、実は狭小な世界認識しか持っていない国民が多いのではないかと知り、これではアメリカ人は、世界をリードできる優秀な国民とは言えないのではないかと思った。029

 中村格・元警視庁刑事部長は、伊藤から、突然の逮捕不執行の理由と、警視庁捜査一課の捜査報告書に、伊藤と山口敬之が乗ったタクシーの運転手の、伊藤が「最寄りの駅で降ろしてください」と言っていたという証言が抜け落ちていることについて、聞かれようとすると、一目散に逃げ出してしまい、また、同じ内容の質問状にも未だに返事をしていないとのことだ。247
 彼は民主党が下野するとき、菅義偉に泣きついて、自らの地位に執着したとのこと。213

 また『週刊新潮』は普段は嫌韓や反中などの低俗な記事が多いが、伊藤の件では、たとえ性被害に関する刑法改正への伊藤の意図をそらしてしまったとはいえ、中村格が逮捕執行を直前に取りやめさせたことを中村本人の口から明らかにさせた点では、功績があった。212

 山口敬之は北村滋・内閣情報官にも日頃から相談しているようだ。「北村さま、週刊新潮より質問状が来ました。伊藤の件です」と、山口は、北村にメールすべきところを、誤って週刊新潮にメールを返送してしまって、このことがばれてしまった。214

 伊藤が司法記者クラブで記者会見をしようとしたら、伊藤周辺に不審な(妨害的な)行為225が見られ、また報道機関に対して「ひどいネタだ」と、侮辱的な、報道をやめさせようとする指令が、警察を含む政府サイドから出されたらしいのだが、そういう警察を含めた政府サイドのネットワークが存在するのだろう。これは映画『新聞記者』の中でも示唆されていたことだ。
224 知人のジャーナリスト「政府サイドが各メディアに対し、『あれは筋の悪いネタだから触れない方が良い』などと、報道自粛を勧めている。」
227 会見後、嫌がらせや脅し、批判のメールが殺到した。

 検察審査会も取り上げてくれず、「不起訴相当」なのだそうだ。002, 249

 日本のマスコミは今後も伊藤を採用してくれないのだろうか。230

 肉体的・精神的に支配されることに対する恐怖感。233
 スポーツは気分を爽快にしてくれる。229
 
 伊藤の執念はすごい。

 権力と警察や報道との癒着、恐ろしい。


2020.1.29


『植民地下の暮らしの記憶 農家に生まれ育った崔命蘭(チェミョンラン)さんの半生』聞き書き 永津悦子 三一書房 2019 抜粋・感想


『植民地下の暮らしの記憶 農家に生まれ育った崔命蘭(チェミョンラン)さんの半生』聞き書き 永津悦子 三一書房 2019


感想 

 満17歳で結婚する1944年ころまでの生活を中心として語られている。当時の朝鮮文化とその下での女性の生き方が分かる。彼女の家は、両班ほどではないとしても、比較的裕福な家庭だったと思われる。少なくとも最下層ではなかった。健康にも恵まれ、学校での成績も良く、日本語も堪能だったようだ。
 
 朝鮮にはその風土に合った古くからの文化があった。それは畑作重視に見られる。朝鮮が乾燥気候だったからだ。
 結婚に関わる様々な儀式を通して、親戚付き合いが重視された。同じ意味で、法事も重要な行事だった。家族や親戚、地域社会との人間関係を重視することは、社会保障のない時代に生き残るために助け合うための人間の知恵だったのかもしれない。
 しかし、女性の権利を重視しようとする現代の価値観からすれば、戦前の朝鮮における女性の社会的地位は極めて低かった。食事の慣習にそれが端的に現れている。男性は子供でも部屋でお膳を使って食べたが、女性は、土間に筵を敷いて藁製の座布団に座り、かまど脇の台に器を載せて食べたという。

 また朝鮮は格差社会だった。ある一つの町に某両班とその使用人しか住んでいなかったという。「弱い者」から先に徴用工に引っ張られたというのを読んだことがある*が、うなづけることだ。

*『調査・朝鮮人強制労働②財閥・鉱山編』竹内康人

 朝鮮での就学率が低かったとの指摘があるが、それは、従来から朝鮮にあった学堂が禁止され、日本の学制の押し付けに対する反感もあったからではないか。それに義務制でもなかったからなおさらだ。
 

はじめに

004 崔命蘭さんは川崎市の在日高齢者交流クラブ「トラヂの会」(トラヂ도라지は桔梗の意味)の会員である。
006 日本(朝鮮総督府)は、朝鮮人に対して学校制度で差別した。義務教育でないこと、就学期間を短くしたことである。また教育用語を日本語にし、就学率は低かった。1942年の時点での普通学校(日本の小学校に相当)に於ける非就学率は、女子が66%、男子が34%だった。

第一章 渡日まで

015 崔さんは1927年3月29日に生まれた。
019 姉の夫の兄二人は、三一独立運動に参加した。そのとき殴られて早くに亡くなったが、南山*にある石碑に名前が刻まれている。

*南山は城内里の南方にある小高い山である。城内里は、崔さんが生まれた慶尚南道昌寧郡霊山面城内里である。015

019 創氏改名は1939年に公布された。
020 1934年に崔が学校に入学したとき、日本人用の学校は「小学校」といったが、朝鮮人が通う学校は「普通学校」といった。1938年、5年生の時に学制が変わり、「尋常小学校」と呼ばれるようになった。
 授業料をとられた。月額30銭(2~4年生)から50銭(1年生と5、6年生)だった。
022 1年生の時の朝鮮語の授業は、週1回だけだった。朝鮮語を生活で使うことを3年生から禁止された。
023 そんなものかなと思っていた。
 「私どもは大日本帝国の臣民であります」と毎朝唱えた。
 どこかが陥落すると、昼は日の丸の旗で「旗行列」、夜は「提灯行列」を、先生に言われて行った。
024 「見よ東海の空あけて…」などと歌いながら歩いて回った。今はそれを右翼が街宣車で流している。
025 「さっさと逃げるはロシア人、死んでも尽くすは日本人」という歌も、お手玉をしながら歌った。
026 ミシンが一台あり、本物の釜があれば、その家は生活力があるんだと言われた。
029 私の家では満17歳になった私を嫁に行かせないと、挺身隊に取られてしまう、大変だという話でもちきりだった。

第二章 自小作農家の暮らし

034 私の家には一時期、一年契約で通いで、20歳近くのモスム(머슴作男)に、水汲みや農作業をしてもらったことがあった。水田は家で所有しているものの他に借りたものもあった。
035 女たちは三食のご飯やおやつを作って、頭にのせて田んぼに運んだ。日照りで田植えができないときはそばや粟を植えた
036 夕顔の実は食べるだけでなく、パガヂ(바가지ひさご)にもなった。
037 藁ぶき屋根は、毎年長兄が作り直した。
041 孫を含めて男たちは、クンバン(家の中心にある一番広い部屋)で、お膳を使って食べたが、女たちは、台所になっている土間に筵を敷き、藁製の座布団に座って、かまど脇の台の上に器を載せて食べた。水などを男から催促されると、隣接する小さな窓から渡したが、父には部屋へ持って行って渡した。
044 「女がスズメを食べると瀬戸物の器を割る」からと、女にはスズメをくれなかった。
 夏の暑いときは、庭のピョンサン(평상平床038)の上で寝たり、男たちは市場へ行って寝たりした。
045 風呂がなかったので、夏は川の水で汗を流し、女たちは人に見られない所で身体を洗った。冬はしなかった。私が嫁に行くまで、近所に共同風呂がなかった。
046 小麦の籾は、専門の籾とり屋ができるまでは、水を入れて、乾かし、食べるときは、パンシル(敷地入口(大門テムン)近くの物置038)で、踏み臼に水を入れて皮をむいた。
047 霊山面で一番の金持ちの辛さんという両班は、農地をたくさん所有し、農家に貸していた。収穫時には小作料の米を積んだ、辛さんの家に運ぶ牛車が私の家の前をたくさん通った。辛さんが住む校洞(キョドン)という町には、辛さんの親族と雇人しか住んでいなかった。(当時の小作料は5、6割が普通だった。)
048 昔は「白米を食べたかったら日本に行って、お金を儲けたかったら満州に行きなさい」と言われていた。
 おかずは、キムチ、具の入った味噌汁があればいい方だった。
 麦の収穫前で柿の花が落ちるときは、お客さんに食べさせるものがないので、嫁入りした娘は「お母さん、いつ来てもいいけれど、この時期に来ちゃいけない」と言うと聞いたことがあった。(この時期を春窮期と総督府や新聞は記している。)
049 麦がない貧しい家ではサツマイモを朝も晩も主食にした。
051 夕顔は、パガヂにすることを優先し、パガヂにできない夕顔は干ぴょうにした。魚はお金がかかるから普段は買わなかった。
052 お父さん以外は、魚の頭と尻尾を食べるくらいだった。
055 アジュカリ(トウゴマ)から油を搾り、皿型の灯りに利用したり、アジュカリの葉にご飯を包んで食べたりした。今は海苔に包むようになったが。
 1月15日の夜は「タルシンダ」という行事を行った。村の小高い場所に松を積み上げて燃やした。
 1月13日は法事の日で、法事は13日の夜12時過ぎから行われる。法事に来れなかった家に、御馳走を届けた。15日の小正月の御馳走を朝早く食べるためには、14日の夜準備をしなければならない。13日から15日までは大変だった。
058 桔梗の根は干して法事に使った。
059 硬い渋柿はお湯と一緒に樽に入れておくと、朝になると甘くなった。当時は「初めてなった柿の実を女が先に食べたら、実がなるのが一年おきになる」と言われた。
060 チャメ(マクワウリ)が盗まれないように、一日中見張るための小屋を建てた。夏は蚊帳帳を吊ってお父さんが見張りをした。私も夏休みの昼には勉強道具を持って見張りをした。チャメは大事な換金作物だった。三歳年上の同級生に「あんなにあるのに一つもくれない」と言われた。
061 カマスや米は供出対象だった。
 夏は瀬戸物の、冬は真鍮の小便用の「ヨガン」を部屋に置いた。
062 野菜には人糞をやらなかった。麦、米には化学肥料もまいた。
063 牛の餌を作るとき、押切で切った藁を栄養のある大麦や米のとぎ汁で煮たら、政府から調べに来た人に「煮ないで食べさせなさい」と牛用の大きな釜をひっくり返された。当時、日本人は警察署長や学校の校長になっていて、役所で働いていた一般の職員は、ほとんどが朝鮮人だった。直接指導に来て釜をひっくり返したのも朝鮮人だった。
064 豚の血はスンデ(腸詰め)にした。
065 秋になったら、畑から綿の木を抜いて収穫し、干して綿の実が開くたびに綿を集め、全部開き終わったら、家に運んで焚きつけにした。
066 法事(チェサ)には親戚がみんな来た。盆や正月には廊下に法事料理などのお供え物を置き、庭に筵を敷いた。4、5人が縁側に、他の人は筵の上に立ち、みんなでお辞儀をした。明け方の薄暗いときから、親戚の家だけでなく、近所の年寄りのいる家などを訪問し始め、二軒目で朝ご飯を食べた。午前中の11時ころまでに三、四軒回った。法事は長男の家がやるしきたりだった。長男が先祖を祭る行事を行うため、長男の家が傾かないように、きょうだいが助けた。
 妻に男の子が産まれない場合は、妾を置いても文句を言えなかった。

第三章 自小作農家の女性

070 長兄の嫁が家事をするので、母は家事をほとんどしなかった。
071 長兄の嫁は朝の4時に起き、夜の7時45分ごろに寝た。
072 朝、女が用もなく他の家を訪れるものではないというのが常識だった。今でも朝方に女性から電話がくるのは好まない。
073 長兄の嫁は朝早く起き、朝食と昼食をつくった。主食は大麦だった。丸い大麦は平たい大麦より煮えやすいが、二回煮なければならなかった。
 朝食、昼食とも田畑で食べた。暑いときは昼食は家で食べた。田畑の仕事のない冬は、家で食べた。
075 チマは人絹を買って作った。
076 夏の夜は暑いので、大麻からできるサンビの布をかぶって庭で寝た。カラムシからできるモシは最高の品で、金持ちしか着られなかった。
 ミシンのある家は少なかった。持っている家に行って使わせてもらった。冬物は普通手縫いで作るが、冬物でもチマはミシンで縫った。また、ヌビ(刺し子縫い)チョゴリ(上着)もミシンで縫った。
078 「蛇の目ミシン」という名前を聞いたことがある。
 服は10日間着ていたので、木綿の服は一着を三回洗った。川で洗った後、家でソーダを入れて煮て、また川でゆすいだ。取り込みまでやる場合は、朝から一日がかりだった。
 冬は汗を流さないので、襟は汚れるが、一冬洗わずに過ごした。冬物は中に綿が入っていたので、ほどいて洗濯した。
079 絹物でも下着でも、多少糊付けした。糊は米や小麦から作られた。色物には小麦糊を使った。
 糊付けした布を磨いた石の上で棒で叩いた。チョゴリにはアイロンをかけた。
080 「女の人生は三つだけ~生まれた時・結婚する時・死ぬとき~」と言われた。
081 一般的に女性は早く結婚して、挺身隊に動員されるのを防ごうとした。また、戦争中だったので、徴兵前に結婚して子孫を残そうとした。(1944年4月16日から7月31日まで、朝鮮各地の兵事区で徴兵検査が行われた。京城日報)
 結婚が決まると、親は娘を外に出さなかった。
 「食べる物は何でも食べていい。寝るのはどこでも寝てはだめだ」と言われた。恋愛結婚は村に一軒あるかないかで、恋愛は、親は結婚式に顔を出せないくらい恥ずかしいことだった。従姉の娘は恋愛結婚したが、従姉は外へ出られず、よその結婚式にも出られなかった。
 私の結婚を取り持ったのは父の従姉で、相手を見に行ったのはそれぞれの母親だった。
082 結納は、男の家から結納金や、結婚式の時に着る服が二、三着、かんざし、指輪、敷布団や掛布団のカバー、餅などが送られてくる。女の家からは、夫やその親、兄弟が着る服、枕、お膳かけ等を持って行く。それを예단イェダン礼緞という。するとさらに男の家から「後金」がくる。
 お膳かけは、真ん中に牡丹の花、四隅に四君子(蘭、竹、菊、梅)の刺繍をしたものだ。贈り物の着物は披露宴の日に持って行く。お客さんには作った物を入れた箪笥の中を見せる。
083 枕やお膳かけは自分たち夫婦が使う物なので嫁入りしたときに持って行く。
 結婚のやり方は様々である。その日のうちに女の家で式をやって男の家で披露宴をする家もあれば、娘の方でやって一年たってから嫁に行くのもある。お金のある家は、一年ぐらい、あるいは三年ぐらい、実家に娘を置いておき、その間夫が行ったり来たりする。
 私は家の庭で結婚式をやった。式の前に髪をあげ、結納でもらったチマチョゴリに着替え、かんざしを挿し、指輪をはめた。新郎新婦の前にお祝いの品が並べられていた。その中には生きた雄鶏とめんどりがいた。
084 式が終わってから夫を家に残して、私が夫の家に行って披露宴をした。욱각시ウッカクシという身の回りの世話をする女性の付き添いが二人私について、そのほかに상각サンガクという、本来は父がついて行くのだが、父が厄年だったので、私の従兄がついて、夫の家に普通のバスで行った。
 夫の家ではお膳で食事をいただき、夫の義父がいなかったので、義母から紹介され、親戚全員に私がお辞儀をし、挨拶を交わした。夜11時過ぎまで座っていて大変疲れた。バスがない時間だったので、馬車で三里(12キロ)離れた実家に4人で帰った。着いたのは午前2、3時ごろだった。
085 クンバンに入って、私が着ている服の紐を夫がほどいて脱がすとか、いろいろと儀式があった。私は事前に何も知らなかった。
 翌朝、夫は姉たちから「大切な娘に何をした、処女を奪っただろう、白状しろ」と言われ、親戚の女たちが赤ん坊の負ぶい紐で夫の片足を縛って吊り上げ、足の裏を板みたいなもので叩いて遊んだ。責められた夫が許しを求めて、豚をつぶすお金を出したので、結婚式用に家で飼っていた豚をつぶして茹でてみんなで食べて楽しく過ごした。
086 三日ぐらい夫婦でクンバンで過ごした後、夫は実家に帰った。
 また、사돈을 청는다サドヌル・チョンヌンダといい、結婚式や披露宴以外に、結婚後の別の日に、相手の父母や叔父などの親戚を招待し合う儀式がある。終戦の年だったので私はこの招待し合う儀式はできなかった。

付録 その他 資料・写真

101 四、川崎市ふれあい館「ウリマダン」で作った作品から

おわりに

103 昔から日照りや洪水などの自然災害に備えて、朝鮮半島では多種類の雑穀を作り、食料自給を図ってきた。政府はその朝鮮の農民に米作を強要し、日照りの時に食料不足に陥らせた。また、日本に米を送るために作ったカマスは、日本の農機具会社が広めたようだ。
 朝鮮では日照りの時は棚田でそばや粟を植えたと崔命蘭さんは言うが、私の実家の地域、神奈川県葉山町では、水源がたくさんあり、1000万年以上前にできた硬くて水を通さない葉山層群が分布し、粘土質の土が地表を覆い、それが雨水を溜め、地下水となってあちこちに出ている。政府は雨水を溜めこまない朝鮮半島の土質を知らなかったのか。
105 牛の餌として여물죽ヨムルジュ煮た飼い葉)、餌づくりの道具として여물솥ヨムルソ飼い葉を煮る釜)という単語がある。それは朝鮮の伝統的な餌の作り方があったことを示す。政府の役人が、餌を煮ていた釜をひっくり返した根拠は何か。

2020.1.31


2020年1月26日日曜日

調査・朝鮮人強制労働②財閥・鉱山編 竹内康人 社会評論社 2014 要旨・抜粋・感想


調査・朝鮮人強制労働②財閥・鉱山編 竹内康人 社会評論社 2014
連絡先 paco.yat@poem.ocn.ne.jp  fax. 053-422-4810


序文

 徴用工問題、あなたは被害者である朝鮮人の立場に立つのか、それとも明治以来優遇されてきた財閥の側に立つのか。口では被害者の立場に立つようなことを言う人でも、内心は、もし多額の補償金を大勢の被害者に払ったら、経営が成り立たなくなるのではないか、そうしたら日本経済はますます減速するのではないか、などと思ったりしなかっただろうか。実は私もそういう一人だった。

 本書を読むと、被害者の実情が次第にはっきりしてくる。逆さづりの拷問は、日本の警察の常套手段だったようだが、この日本の警察の拷問文化が、逃走に失敗したり、ストライキしたり、監視人に歯向かったりする徴用工にも適用されていたのだ。そして逆さづりにしておいたのを忘れて、死んでしまった人もいたという。

 さらにひどいのは、北京周辺で行われた労工狩りに会った中国人たちだ。食事の量が極端に少なく、しかも粗末な豆の饅頭で腹を壊し、飲料水が十分に供給されず、雪をたべたり、自らの尿水を飲んだりさえしたという。その上、生活環境も過酷だったため、連行された人たちの半数が死んでしまったのである。なんとかしてくれよ、と言いたくなるのではないだろうか。中国人は、今でも、中国で戦死した日本人の追悼行事を中国で行うことを許さないという。(『日中戦争への旅 加害の歴史・被害の歴史』宮内陽子)

 国際社会の論理は個人請求権を認めるものであり、日本の裁判所がこれまでに出した、「日韓協定で解決済」という論理は、通用しないようだ。そもそも日韓協定自体が、被害者を問題視していなかったし、韓国併合が合法か非合法かに関して決着されずに締結されてしまい、冷戦の論理が優先されたようだ。

 韓国では、1960年4月19日の学生デモが発端となって、民主化され、それに呼応して金日成も連邦制による南北統一案を提案したが、1年後の1961年、朴正煕がクーデターでその流れをつぶし、反共独裁制に逆戻りさせたという。ちなみに1960年の民主化以前の大統領・李承晩は、独裁制に対する民衆の抗議の高まりの中で、妻を連れてアメリカに亡命したという。朴正煕のクーデター場合も、アメリカの介入がにおわないだろうか。金日成による南北統一など、アメリカは気に入らなかっただろう。

 企業は政府の命令で動いたにすぎないという言い逃れはできない。企業が非人道的な仕打ちを積極的にやっていたことを、忘れないでもらいたい。企業が大金を持っていて、それでもって人々を動かせる「経済活動」を奔放にやれたこと、これは政治権力と同じく立派な権力機関でなくして何か。

 もう一つ、企業が「雇用」情報=連行情報を開示しないことは大問題だ。企業は敗戦直後、戦争犯罪の訴追を恐れて、不利な情報を焼却したともいわれる。企業が持っている「雇用」情報は、政治権力の情報と同様、民衆を支配する情報である。連行者の名前、出身地、雇用場所、雇用期間、仕事内容、未払金、厚生年金情報、郵便貯金情報などを開示すべきだ。日本企業はフォルクスワーゲン社を見習うべきだ。

2020118()
 


感想 20191225()

 戦時中に朝鮮人が日本内地に強制連行された形態で、「募集」「官斡旋」「徴用」と、その待遇がまるで異なるかのように説明する現安倍政権だが、実はこれらは実質的に全く変わらない、監禁状況下のタコ部屋での強制労働であった。そういう個人の意思に反した強制労働をさせ監禁する行為を、「強制連行」というのではないか。
 「募集」「官斡旋」「徴用」という表現の違いは、当時の軍国主義政権が人手を必要とする緊急度の時間差による違いを表現したものに過ぎない。1939年ころから始まった日本の鉱山への朝鮮人の連行は、当初「募集」や「官斡旋」などの名称を付けていたが、それでは労働力が効率よく集められなかったので「徴用」に切り替えたに過ぎない。
 「募集」は詐欺的であり、これは慰安婦を駆り集めるときの手法と同じ構図である。高賃金、二年契約、帰還時の運賃やボーナス支給など、ウソばっかりだった。実際は、逃げないように、強制的に貯金させられ、食費を天引きされた賃金は小遣い銭程度で、労務係やスパイが常時監視し、逃亡に成功しても、三菱・三井などの大企業の労務係や警察の網に捕まり、「お前を殺しても罪にはならない」などと言われながら、竹刀や木刀で殴られた。また日常的に殴られ、それに反対するための団体交渉やストライキも行われた。そして皇民化教育のための歌の斉唱や軍事教練がなされ、仕事場に向かうときは、点呼され、寮から坑内まで軍隊式に行進させられ、名前ではなく番号で呼ばれた。
 こういう非人間的な扱いを受けた「労働者」を労働者と呼べるのか。まさに奴隷ではないか。こういうのを「強制連行」と言うのではないか。
 また朝鮮から家族が呼び寄せられ、子供を産ませ、逃亡を防ぐ手段とされた。
 「官斡旋」は、実際は、朝鮮の町役場への、労働者を駆り集めるための割り当てであり、「今応じないと後でひどい目に会うぞ」と脅された、実質的強制=「徴用」であった。

 なぜ日本人は朝鮮人を強制的に連れてきて、監禁し、奴隷のように労働させ、日常的に暴力を加えるような非人間的な行為ができたのだろうか。それは蔑視である。そしてそれを大いに支えたのが天皇制という差別構造だ。天皇は歴史的に古くから存在し、神のような別格な存在で、偉いのだ、そして私はその天皇の赤子で忠臣だ、という奇妙な優越感だ。宗教的な選民意識だ。このことは、戦時の虐殺、慰安婦、関東大震災時の虐殺など、すべてに共通する。そして現安倍政権は「募集」や「官斡旋」であって、「徴用」ではない、などと戦後70年の今になっても、国民を欺き、自己中な宣伝を信じ込ませようとすることは、国際的常識からして、犯罪的なことだ。

感想 20191229()

 仮設 「徴用は国策であり、企業がそれを代行した。企業はお金を払って朝鮮人を連行した。敗戦後、企業は朝鮮人を雇用できなくなり、それを損失と見なして、国からその分の補償金を得た。」これまでの記述を読んで、このような考えにたどり着いたのですが、どうでしょうか。150

感想 20200114

 排ガスに関する改竄問題はあったが、フォルクスワーゲンの戦争責任に対する態度は素晴らしい。こういう企業に頑張ってもらいたい。340 日本企業も国際人としてのプライドを持って積極的に行動していただきたい。日本の戦犯企業数は多い。リスト参照。336--337
 日本の裁判所のこれまでの判決は間違っている。冷戦時に被害者の立場を無視して締結された日韓協定は改定されるべきだ。




第1章 三菱財閥の強制労働

1 三菱財閥による強制労働

016 連行された人々は団結して帰還を求め、自由を求めて逃走し、民族の独立に向けて地下組織をつくるなど、様々な形で抵抗した。半数以上が連行先現場から姿を消しているところも多い。

 戦後、連行に関与した企業は、朝鮮人・中国人を使用して損害を受けたとして、日本政府から補償金を得た。

 2003年、三菱高島・崎戸炭鉱に連行された中国人が裁判を起こし、2004年、三菱槙峰鉱山に連行された中国人が裁判を起こした。
017 三菱側は、認否を拒否して史実を認めず、時効、除斥を理由に、不法行為と賃金不払いを正当化し、国策や別会社を口実に責任を回避した。その後の日本の判決はこれに追随した。国も国家無答責論や日韓請求権協定で解決済みとして責任を回避した。そして歴史を改竄する歴史家は強制連行はなかったというキャンペーンを行うようになった。

2 三菱と侵略戦争

 三菱は1874年の台湾侵略時に武器兵員を輸送し、1875年の江華島事件で兵員を輸送した。1880年代には政府から長崎造船の経営権を獲得し、高島・鯰田(なまずた)など、九州の炭鉱を経営した。1890年代に軍艦の建造を始め、佐渡や生野の鉱山の経営権を政府から譲り受けた。
 1911年、朝鮮の兼二浦で経営を始め、1910年代、美唄や大夕張などの炭鉱経営を始めた。1918年、三菱鉱業が設立された。1917年、美唄・高島・上山田で朝鮮人を使用し始めた
 三菱は、神戸造船で潜水艦を建造し、長崎兵器で魚雷を生産した。
018 1920年代、サハリン南部で石炭開発をし、1928年、三菱航空機を設立した。
1930年代、朝鮮各地で鉱山開発を進めた。1934年、造船と航空機部門を合体し、三菱重工を設立した。三菱長崎は軍艦を、三菱名古屋は軍用機を、三菱東京は戦車を製造した。中国東北部で三菱機械工場、台湾で船渠を建設した。
 三菱はアジア各地で資源を収奪し、現地民衆を酷使した。
 三菱重工の資本金は1934年に5500万円、1945年に、10億円となった。1942年、造船統制会の会長に三菱がついた。

3 三菱鉱業と三菱重工への連行

(1)三菱鉱業への朝鮮人連行

019 1946年、厚生省は供託金の関係で、朝鮮人の名簿の提出を各県に指示した。この名簿の一部が発見された。(「朝鮮人労務者に関する調査」)この名簿には氏名・本籍地が記されているものが多い。
020 中瀬鉱山については「健康保険厚生年金保険・被保険者資格喪失届」も発見され、この資料から氏名が分かる。
 秋田の尾去沢鉱山の名簿は、官斡旋・徴用分だけである。解放後、朝鮮人連盟と尾去沢鉱山側とが交わした給与金覚書が残っている。
021 長崎の高島炭鉱の名簿には未払い金の表がある。
022 1945年、福島の中島飛行機地下工場建設のために、佐渡から219人が転送された。
 香川の三菱直島精錬所の保険者名簿から131人分の氏名が分かり、連行状況は、『募集日誌』から知ることができる。大日本産業報国会作成の『殉職産業人名簿』から、1940年から42年までの労災死者の一部を知ることができる。伊豆でボーキサイト代替鉱石として採掘された明礬石採掘鉱山に、三菱名古屋から朝鮮人が転送された。
023 美唄の死亡者資料の中には、埋火葬関係書類から作成されたものがある。これは白戸仁康「美唄町朝鮮人死亡者名簿」として『戦時外国人強制連行関係資料集』Ⅲ朝鮮人2上に収録されている。1944年5月の事故で70人の朝鮮人が死亡している。

024 (2)三菱重工(造船・飛行機・兵器工場)への朝鮮人連行

 「長崎市朝鮮人被爆者一覧表」から、長崎造船福田寮への、黄海道長渕などからの連行者約80人分の氏名が分かる。また金順吉作成名簿から、釜山からの連行者の一部が分かる。長崎三菱の原爆碑にも十数人の氏名が刻まれている。
024 原爆で全滅した長崎兵器に、朝鮮人女子勤労挺身隊が連行されていたと言われるが、その資料は発見されていない。
 名古屋三菱(航空機生産)道徳工場に、13歳から15歳ほどの朝鮮人少女300人が連行された。裁判によって連行者の一部が判明している。当時の地震による死亡者氏名も分かっている。
 広島の造船・機械工場へ、約2800人が連行され、1948年9月、1951人分の供託がなされた。深川宗俊『海に消えた被爆朝鮮人徴用工』の巻末に、三菱広島の死亡者・生存者の名簿が収録されている。
025 アメリカでの訴訟の原告には、三菱横浜造船へ連行された者がいる。
 京都知事引継書に、1945月現在で、227人の朝鮮人が京都発動機に在籍していたと書かれている。
026 美唄、大夕張、方城、高島、崎度などの炭鉱の多くが、朝鮮人女性による慰安所を持っていた。

 炭鉱・鉱山で約6万人、重工業で約2万人、地下工場建設で数万人とし、三菱関連での朝鮮人連行者総数を約10万人と推定できる。それは日本本土での労務関係の連行朝鮮人数の一割であるから、日本全体では約100万人が連行されたことになる。

027 三菱関連での中国人連行者数は4000人を超え、これは連行中国人総数の一割以上であるから、日本全体では4万人の中国人が連行されたことになる。
 戦後三菱鉱業は、これらの連行によって損失を受けたとして、補償金約287万円を政府から獲得した
 台湾からも少年工が高座海軍工廠に連行され、その一部は名古屋三菱工場(大江・道徳)へ転送された。
 連合軍捕虜も連行され、三菱の細倉鉱山、生野鉱山、明延鉱山、神戸造船、長崎造船、横浜・神戸の三菱倉庫での労働を強いられた。

4 アジア各地での事業拡大

 三菱は、朝鮮、サハリン、中国、台湾、シンガポール、タイ、インドネシア、ビルマ、マレー、フィリピンで工場や炭鉱を経営した。
 サハリンでは南樺太炭鉱鉄道を支配し、内幌、塔路、北小沢などの炭鉱を所有した。
 サハリンへ連行された朝鮮人は1万人以上であり、三菱系へは2000人である。三菱系の炭鉱から戦争末期に約1000人が九州へ転送された。

028 5 朝鮮人死亡者数

 福岡県の「労務動員計画による労務者事業場別調査票」に、1944年1月までの死者数が記されている。
029 一つの炭鉱で死亡者が50人いたと推定される。
 長崎の高島(端島坑)や崎戸の炭鉱での埋火葬関係書類から、一部の死亡者が明らかになっている。
 三菱崎戸で、中国人が抵抗し、27人が検挙され、刑務所で被爆死した。


6 連行された人々の抵抗

030 1939年5月、石炭鉱業連合会が朝鮮人の連行を政府に要求し、6月、北海道石炭工業会が、三菱に900人、北炭と三井に2800人など、計5810人の集団移入を厚生省に求め、7月、労務動員実施計画綱領が策定された。連行労働者の統制・監視に共和会が組織された。

 10月末、手稲鉱山でストライキ・帰国要求、美唄で入坑拒否、11月、手稲で労災死を契機に抗議行動が起こり、12月、雄別浦幌で改善要求スト、1940年1月、美唄で就労拒否、待遇改善要求、落盤死に対するスト、2月、殴打に抗議するスト、3月、大夕張で殴打抗議・労務係更迭要求ストなどの争議が起きた。

030 1940年9月末、大夕張に「慰安所」をつくり、12人の朝鮮女性を連行した。
031 2年が経過した1941年には定着奨励の名のもとに継続雇用が強要され、皇民化が強化された。

031 安在浩井出組連行者の通訳として大夕張に来たが、他の通訳や朝鮮料理店(慰安所)経営者などを組織し、採炭サボタージュをすすめ、朝鮮独立を目指した。安在浩は1943年10月検挙され、11月取調べ中に逃亡したが、同月天塩で再検挙された。

 1945年10月中旬、北海道で朝鮮民族統一同盟が結成され、その委員長に10月初旬に釈放された安在浩がなり、それに孫邦柱金興坤も加わり、帰国や生活条件の改善、賠償などの要求を出した。10月末の朝鮮民族統一同盟の大会で「強制移入労働者」を酷使した資本家への慰労金要求が出されたが、占領軍と企業は賠償について基本的に拒否した。(北海道の朝鮮民族統一同盟に関しては、金興坤の自伝や桑原真人、守屋敬彦の調査記事に基づく。)

032 企業としての戦争責任を自覚するならば、三菱は三井と共に、被害者個人への賠償に向けて、基金を率先して設立する立場にある。ドイツでの基金の設立はその先例になるだろう。企業は厚生年金の名簿や供託金の明細書などの残存資料から、連行者名や、未払金などの実態を明らかにすべきである。

032 三菱関連裁判で三菱がとった対応は、史実を認知せず、賠償を時効だとし、連行は国策であって自らの責任はなく、1965年の日韓請求権協定で解決済みだとした。また三菱は、安全を軽視した強制労働による死亡や連行資料を隠蔽し、遺骨を放置した。

033 2003.10、三菱鯰田炭鉱に連行されて死亡した金長成氏の遺骨が、市民団体の努力によって遺族に返された。また2004.5、三菱美唄に鉄道工業によって連行され死亡し、その遺骨が放置されていた具然喆(てつ)氏の遺族が判明した。

 三菱鉱業は戦後、金属部門を石炭部門から分離し別会社とした。石炭部門を継承した三菱鉱業は、1973年、セメント部門を統合し、三菱鉱業セメントとし、1990年、再び金属部門(三菱金属鉱業)を合併して三菱マテリアルとした。三菱マテリアルの資本金は990憶円で、韓国・中国に関連企業を持っている。三菱マテリアルは創業を1871年としている。三菱マテリアルは、三菱鉱業が1939年から1945年までの間に、約6万人の朝鮮人を強制連行した史実を認め、過去の強制労働清算事業から学んで責任を取ることは、社是のとおり「時代をリードし、そのニーズに答える」ことになるだろう。

035 参考文献
金興坤「怒りの海峡」(『人間雑誌』七草風館 1981
朴慶植『在日朝鮮人関係資料集成』四・五 三一書房 1976

(初出「日本の過去の清算を求めるソウル国際集会資料集」2004.5



第2章 三井財閥の強制労働

039 三井は10万人の朝鮮人を強制連行した。連合軍捕虜や中国人も連行した。三井の炭鉱や北海道炭礦(こう)汽船など三井関連の事業所に連行された中国人は1万人であり、そのうちの2000人が死亡した。

1 三井財閥の成長と労働力動員

 本稿は主として三井文庫編『三井事業史』第三巻や栂(つが)井義雄『三井財閥史 大正・昭和編』に基づく。

040 三井鉱山の中心は、亜鉛と鉛を産出した神岡鉱山と、石炭を産出した三池炭鉱であった。
 1930年代初めまでの、三井物産系列企業は、東洋レーヨン、豊田紡績、内海紡績、郡是製糸、豊田自動車機械、小野田セメント、小野田鉄道、朝鮮無煙炭、台湾製糖などであり、三井鉱山系列企業は、太平洋炭鉱、松島炭鉱、北海道硫黄、神岡水電、三池窒素、東洋高圧、北海曹達、北樺太鉱業などであった。また王子製紙、電気化学工業、芝浦製作所、北海道炭礦汽船、釜石鉱山なども三井系列企業であった。
041 化学産業部門は毒ガスを製造した。また中島飛行機の製品を取り扱った。三井銀行は帝国銀行となった。

2 三井財閥関連企業への朝鮮人連行

048 石炭統制会の統計史料「給源別労務者月末現在数調」によると、1944年10月現在で、三井系炭鉱の朝鮮人現在員数は、三井系の北炭で1万7000人、北海道の三井で6400人、九州の三井系で、9800人、計3万3200人である。これに茅沼や東幌内を加えれば、3万4000人となる。(「主要炭鉱給源別現在員表」)
 現在員数の倍の人数が連行されていたと考えられるから、三井系の炭鉱に連行された朝鮮人数は、北炭を含めて、6万人と推定される。
 三井系では9600人の中国人が連行された。これは連行中国人4万人の25%を占める。
051 三井系探鉱・鉱山での未払金は判明分だけで、当時の金額で167万円である。


第3章 三井鉱山神岡鉱山

1 三井神岡鉱山の成立と戦時増産

053 岐阜県の北部にある神岡での採掘の歴史は、8世紀にはじまる。16世紀に和佐保や茂住で銀が採掘された。
 19世紀末、三井資本は政府支援の下、鉱区を買収し、三井神岡鉱山が成立した。鉛・亜鉛を産出する。
 鹿間で亜鉛の精錬が行われ、茂住に浮遊選鉱場がつくられ、鉱毒水と煙害をもたらし、カドミウム、鉛、亜鉛の採掘に伴って、鉱毒が高原川に流された。
054 1912年、イタイイタイ病患者が発生した。鹿間谷の煙害で、草木が枯れ、蚕が死んだ。1916年、阿曽布村で精錬中止を求める村民大会が開催され、翌年1917年も円城寺で住民大会が開かれ、1918年、神岡鉱山での亜鉛焙焼が中止された。
 1920年代、精錬による煙害問題が発生した。
 1922年、茂住で朝鮮人の就労が確認される。1927年、吉城郡坂谷トンネルが崩落し、三人が死亡し、争議団がつくられ、大林組と交渉が持たれた。富山から朝鮮人の白衣労組が支援し、船津警察と消防団による弾圧に抗して闘った。
 1928年2月、茂住で、神岡水電工事のトンネルが崩壊し、朝鮮人が生き埋めになった。大林組は、暴力団、警察、消防団と一体となって争議団を弾圧した。富山の白衣労組が支援に駆け付けたが、争議団幹部全員が検束され、拷問を受け、支援の朴広海も検挙された。

055 鹿間堆積場からの亜鉛による環境汚染が進み、神通川流域での鉱害が深刻になった。
056 1942年、亜鉛電解工場と焙焼硫酸工場が建設された。
057 神岡鉱山の地図
058 1944年の神岡鉱山での労働者数は6500人で、『特高月報』によると、連行された朝鮮人の現在員数を1185人(7月)としているので、朝鮮人の比率は20%となる。神岡では連行者以外の朝鮮人も多数働いていた。

2 神岡の水力発電工事と鉱山への連行

058 1939年末、神岡水電は、牧と東町に発電所を建設した。1942年、この二つの発電所は、日本発送電に統合された。
059 発電工事が始まった1939年末は、全国各地への朝鮮人の強制連行が開始されたときであり、牧発電工事を請け負った大林組と、東町発電工事を請け負った間組は、ともに政府から1940年に朝鮮人を連行する承認を得た。『協和事業年鑑』によれば、1940年、間組と大林組が、三か月間、労働者訓練を行った。

059 1939.12、政府の指示により、岐阜県協和会が設立され、連行された朝鮮人や在日朝鮮人を統制・管理した。
060 岐阜県協和会は、1940年末、男1万1883人、女7211人を組織し、1940年に貯蓄を強制した。また、1940年9月13日、船津署で、「移住労働者指導員打合会」が開かれ、間組、大林組、三井神岡鉱山の指導員が集められたが、そのテーマは、移住労働者訓練方針、訓練徹底、風俗習慣の内地化、労働者家族の指導などだった。(『協和事業年鑑』1942

 金蓬洙(しゅ)の調査記録によれば、朝鮮人の事故死の状況は、頭蓋骨骨折、全身打撲、前胸部打撲、左前額部打撲等であった。

060 『東京のコリアンタウン枝川物語』によると、黄水祚(そ)は慶北(慶尚北道)慶州の出身で、22歳の時に渡日し、大阪、神戸を経て東京の深川に移っていたが、そこへ弟から手紙が届いた。手紙によれば、弟は、故郷の者と共に「募集」によって岐阜県船津の間組ダム建設現場へ連行され、タコ部屋に入れられた。仕事はきつく、事故で仲間が何人も死ぬ、恐ろしくていられない、と訴えていた。黄氏は弟を救いに岐阜の船津に行った。逃げ道を確認したうえで、土工姿に変装して夜中に飯場に行き、弟を連れ出して逃亡させた。
061 この証言から、間組が慶北慶州から集団的に朝鮮人を甘言で連行し、タコ部屋に押し込め、死と隣り合わせの労働を強いたこと、そこからの逃亡者がいたことなどを知ることができる。

 東町発電工事は、高原川上流の吉城郡上宝村と神岡町との境の浅井田にダムをつくり、そこから導水路を掘り、東町発電所に水を運び、その水を牧発電所に導水路で運び、発電するというものだった。

 1941年、神岡鉱山の共愛会が産業報国会に再編され、また、船津文化商業報国隊が組織され、神岡鉱山へ動員された。

061 1942年12月に連合軍捕虜が連行された。神岡に連行された連合軍捕虜の数は約900人であった。

 1943年、女子学生が船津女子勤労挺身隊として動員された。

062 「移入朝鮮人労務者状況調」や「厚生省調査報告書」によれば、1945年までに、神岡鉱山に連行された朝鮮人は2000人を超えた。
063 厚生省勤労局調査の朝鮮人名簿によると、連行は主として全羅北道から集団的に行われた。
 『特高月報』に朝鮮人争議が記録されている。
065 「埋火葬認可証」によれば、全羅北道の出身郡が分かる。
 神岡鉱山に2000人の朝鮮人が連行されているから、一回100人として、20回連行されたといえる。
066 1942年分が欠落している厚生省による死亡者名簿の作成に使われた事業所側の原簿は、三井鉱山に今も存在するとみられる。企業側の積極的公開が望まれる。(戦前からの大財閥三井が、まだ朝鮮人強制連行に関する資料を十分に公開していないようだ。)

(3)連行朝鮮人の抵抗・帰国

066 以下、連行された朝鮮人の抵抗を『特高月報』や金賛汀(てい)や金蓬洙の調査に基づいて論じる。
 三井神岡鉱山は、三井系の炭鉱から労務係を連れてきて、タコ部屋的管理を行い、桜の棒で殴打し、逃亡者を竹刀が壊れるまで殴りつけた。寮にスパイを置き、事務所に連れてきて「一人や二人を殺しても何でもない。殺しても罪にならない」と語りながらリンチを行った。
 1943年5月10日、労務係が事務所に朝鮮人を連れてきて殴打した。この労務係は日頃竹刀で殴り、時には刀で殴ることもあった。リンチを見ていた同僚が事務所の壁を叩くと、労務係は刀を持って外へ出たが、朝鮮人は棒で対抗し、労務係を襲った。警官と憲兵が動員されたが、朝鮮人側は会社側との団体交渉を勝ち取り、生きていける食事の保証とその改善、労務係のリンチの中止、配給物資のピンハネ中止、入浴を日本人並みに毎日とするなどの要求を掲げた。会社側は要求を受け入れる姿勢を示し、就労を求めたが、朝鮮人側は、会社側の実行状況を見極めるために三日間のストライキに入った。会社側は食事を改善し、労務係を更迭した。
067 ところが、5月12日、朝鮮人10人が逮捕された。これに対して130人が寮に集まり、さらに250人が神岡警察署に押しかけ、逮捕者の釈放を要求した。しかし、リーダーたちは検挙され、5月25日、呉山辛煥らが起訴され、検挙された他の朝鮮人と日本人労務係は起訴猶予となった。6月17日、判決が出て、呉山辛煥ら三人が懲役6カ月執行猶予2年、中山道洙ら三人は懲役4カ月、執行猶予2年、孔徳忠郎ら4人が懲役3カ月執行猶予3年が言い渡され、刑が確定した。(『特高月報』、朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成』)

 1943年7月、25人の朝鮮人が賃金台帳の不整理と賃金歩合に関する朝鮮人差別に抗議し、ストライキを起こした。このストは警察官と労務係の説得で解決したと『特高月報』7月分は伝えている。
 1944年4月11日、東町協和寮で朝鮮人による争議が起きた。高ら数人が、給食量が一人一日5合8勺と少ない、その理由は朝鮮人炊事夫が米穀を横流ししているからだとし、炊事夫を殴打し、食堂や寮事務所のガラスを破壊し、警察が説得に入った。同日夜、寮に帰った朝鮮人ら80人が、寮事務所に押しかけたが、高ら6人が検挙され、傷害罪とされた。(『特高月報』6月分)
 1944年7月3日、第一協和寮で期間満了帰国者の送別会が開かれ、酔って帰った朝鮮人が前寮長に殴打され、争議に発展した。これまで寮長らが暴力的で苛酷な管理を行ったことに対して、直接行動が発生したのだ。事務所のガラスが破壊された。10人が検挙された。(『特高月報』8月分)
068 厚生省勤労局報告書の神岡鉱山の名簿によると、1700人の連行者中、400人が逃亡した。

 金学業の証言 金は1920年、慶尚北道善山郡に生まれ、1939年に渡日し、小倉、門司、岡山、岩国、鶴見、東京、常滑などで仕事をした後、1944年8月、神岡鉱山で仕事を始めた。
 金の妻の家族が空襲を逃れ、神岡に疎開したため、金は神野組という朝鮮人親方の組に入り、組夫として神岡鉱山で働いた。神野組は、親方、親方のいとこ、義父、金の四人からなる小さな組だった。仕事の前に皇国臣民の誓詞を斉唱させられた。仕事内容は、竪坑から地下の坑内に落とされた土砂を竪坑内のホッパーで受け止め、それを採炭現場に運び、足場を作って採炭しやすくするというものだった。
 朝鮮人居住区と日本人居住区とが区別され、朝鮮人が住んでいたのは風が吹き抜けるような場所だった。
069 前平に親方連中が飯場を持ち、南平に所帯持ちの朝鮮人が住んだ。通洞口入り口の左側に連合軍捕虜の収容所があった。強制連行された朝鮮人は、栃洞の鉱山事務所の西方の左側の傾斜地に収容された。金が来る前に事務所が襲撃されたことがあったという。神野組、高橋組など五六組が土砂を運ぶ仕事をしていた。
 解放後、連行された朝鮮人は帰国した。そのころ「朝鮮人を叩き殺す」「(日本が)負ける方に協力した」「殺されたり襲われたりしている」という噂が流れた。金は10月、知人を頼って各務原に移り、そこで朝鮮人連盟の活動に参加した。(各務原市の聞き取り1996
 連行朝鮮人が収容された場所は、前平の奥の泉平地区である。神岡鉱山労働組合編『鉱山と共に50年』に、前平・泉平・南平の地図が掲載され、泉平で戦時中、朝鮮人が多数働いていたとある。

 戦時下神岡で海産物の商売をしていた朴広海によると、神岡鉱山では土木関連事業全体を大林組が請け負い、解放後、大林組に帰国のための生活費と手当てを要求し、一か月分の手当てを勝ち取ったという。(朴広海「労働運動について語る」(三))
 神岡鉱山から連行朝鮮人の帰国が始まったのは10月初めだった。
070 「要員充足難とその対策」1945.10.31によれば、8月15日現在、鉱山全体で移入半島人が1414人、組夫(半島人)が253人、白人俘虜が919人、労働者合計が5924人とある。

3 神岡での朝鮮人遺骨調査

 2007年7月28日、「韓国・朝鮮の遺族とともに 遺骨問題の解決へ」全国連絡会が、神岡・高山で現地調査を行い、29日、名古屋市内で全国集会を開いた。

(1)三井神岡鉱山と朝鮮人遺骨

071 三井神岡鉱山に2000人の朝鮮人が強制連行され、三井神岡水電に2000人の朝鮮人が動員され、全体で4000人の朝鮮人が連行された。
 埋火葬許可証や厚生省名簿から、50名の朝鮮人死者が判明していたが、今回の集会の事前調査で、神岡の寺院から30体の朝鮮人の遺骨が発見され、高山の寺院からも、神岡からの移住者を含むとみられる遺骨が、46体発見された。
 1965年、金蓬洙の埋火葬認許証調査を含む現地調査があり、その後、金賛汀の調査があった。厚生省の名簿が発見されたことから、神岡鉱山への連行者の一部が判明し、その結果、水電と鉱山への強制連行の概要が分かり、寺院での遺骨調査が取り組まれた。
 2006年、強制動員真相究明ネットの下嶌義輔によって、神岡水電工事で亡くなった金文奉の遺族が済州島で発見され、今回来日した。また韓国での真相糾明委員会の調査によって、神岡鉱山での強制労働体験者である金得中(全羅北道在住)の証言が得られた。金得中も来日し、現地で調査した。
072 全国連絡会が、神岡での調査に基づく死亡者名簿を示し、飛騨市に真相究明を求めたところ、飛騨市は戸籍受付帳から未解明の部分の住所の情報提供に応じた。飛騨市はまた、両全寺に残されていた金文奉の遺骨の返還に協力した。
 曹洞宗や浄土真宗大谷派が、遺骨問題の解決に向けて活動し始めた。曹洞宗は1992年、懺(ざん)謝文で戦争加害を反省し、東アジア出身の人々の遺骨調査をしている。2007年の中間報告は、42の寺で350体を、過去帳で510例を確認した。
 真宗大谷派は1995年の不戦決議に基づき、2007年から調査票を配布し、全国調査に入った。遺骨返還だけでなく、強制連行の実態調査も目標にしている。
 これらに影響され、全国各地の寺が、朝鮮人遺骨の調査活動をするようになり、新たに遺骨が発見された。

(2)2007年の神岡での現地調査

 遺骨と遺族が発見され、連行体験者の証言の収集が行われた結果、2007年7月28日の神岡での現地調査が実現した。
 073 被連行者の金得中も、神岡現地調査に同行した。金は、全羅北道益山郡熊浦面出身で、1926年生まれの80歳である。1941年に黄海道の大同里の炭鉱に連行されたが逃亡し、群山の桟橋で米の荷役仕事をした。1944年2月、18歳の時、神岡鉱山に連行され、発破、削岩、ドリル掘り、運搬などの作業をやった。また南平に慶尚道出身の在日朝鮮人が居住していたことなどを証言した。

 神岡の両全寺には四体の遺骨があり、三体は子供のもので、一体が済州島出身の金文奉のものである。この遺骨を遺族の金大勝が引き取った。
074 洞雲寺は毎年八月神岡鉱山殉職者の追善供養をしている。ここには二体の遺骨があり、過去帳に13人の名前がある。今回の調査で戸籍受付帳から遺骨の一つ李道致の本籍地が確認された。現在81名の神岡関連の朝鮮人の名前と死亡年月日が判明している。
 円城寺は、廃寺となった神岡寺の遺骨を引き継いだ。鉱山内の光円寺には六体の朝鮮人遺骨がある。
075 高山の本教寺には、戦後死亡した朝鮮人の遺骨46体がある。それは1947年から1983年までのものである。2006年、日韓合同調査団がここを訪れ、また高山市役所の調査で、26体の本籍が判明した。

(3) 「韓国・朝鮮の遺族と共に 遺骨問題の解決へ」全国集会

 名古屋での全国集会で、共同代表の内海愛子が講演し、日本政府は朝鮮人の引き上げを連合軍に肩代わりさせ、援護法では国籍条項で朝鮮人を排除し、遺骨収集を放置した、と問題点を指摘した。
 韓国の真相糾明委員会の朴聖圭と「恒久平和のための真相究明法の成立を目指す議員連盟」のあいさつの後、金得中が証言し、続いて遺骨を受け取った金大勝が挨拶した。
 上杉聡が基調報告を行い、2005年6月の日本政府の遺骨調査開始以来、2000体の遺骨情報があり、また戸籍受付帳によって、神岡の80人中50人の本籍情報を得ることができたとし、戸籍受付帳は法務省の管轄であり、今後それを全面開示し、遺骨問題を民間と政府による友好運動にすべきだとした。
 曹洞宗の人権擁護推進本部は、500人分が確認され、21体の身元が判明したと報告した。真宗大谷派は、遺骨返還だけでなく、被連行者が、どう生き、どう死んだかも明らかにしなければならないとした。
 北海道フォーラムは、浅茅野陸軍飛行場工事での90余の朝鮮人死者とその遺骨を発掘する活動を紹介し、国家の責任で返還して欲しいという要望に日本政府は応えるべきであるとした。
077 長崎代表は、高島でなくなった沈載璇の歴史を報告した。沈は、佐賀の炭鉱に連行され、8・15を大村飛行場で迎え、高島で死亡した。遺骨は高島にあるとのことだ。
 愛知の朝鮮半島出身者遺骨調査会は、遺族調査、東山霊安殿での納骨状況の改善、追悼式の実行が課題だとした。

 集会決議は、政府が戸籍関係資料や年金・供託名簿を公開し、死亡までの経過を調査し、遺族への遺骨返還とその費用を負担するように要請した。


 神岡の発電工事と鉱山労働へ4000人の朝鮮人が連行・動員された。三井神岡鉱山には朝鮮人に関する資料が残されているように思われる。三井金属が出版した写真集やその年表から見て、資料が保存されている可能性が高い。
 
(「岐阜の鉱山での朝鮮人強制連行」『静岡県近代史研究』二五 1999、2007年全国集会現地調査記事から編集)



第4章 三菱鉱業細倉鉱山

081 細倉鉱山は宮城県栗駒山の麓の栗原市(旧鴬沢町)にあり、鉛や亜鉛を産出した。

1 細倉鉱山の歴史と朝鮮人

082 細倉鉱山では9世紀から採掘がはじまり、16世紀の採掘を示す史料がある。1890年、細倉鉱山株式会社が設立され、1899年、高田商会が鉱山を経営し、1917年、高田鉱山となった。同年、友愛会高田鉱山支部が設立された。これまでの鉛や銀の採掘に加えて、亜鉛の生産・精錬が始まった。これは第一次大戦時にイギリスが亜鉛の輸出を禁止したためである。
083 細倉鉱山資料館に高田鉱山時代の地図がある。そこには駅近くの秋法に、朝鮮人飯場と合宿所があり、朝鮮人募集要項が展示されている。それによると、坑夫、車夫、雑夫の職種、二年契約、満20歳から35歳まで、賃金は最初の三カ月が一日60銭以上、その後は70銭以上、就業上の負傷や病気の医療費は無料で、さらに鉱夫救済会が見舞金を出すとされている。これは1920年代ころものと思われる、強制連行前史である。
 1928年、共立鉱業が鉱山を経営し、1934年、三菱鉱業が経営を引き継いだ。1930年代、感天、二貫目に竪坑、浮遊選鉱場、亜鉛精錬工場、鉛焼結工場増設、中央竪坑、川口発電所などが建設され、1940年代、労働者数が2000人を超え、朝鮮人1000人を連行し、連合軍捕虜は280人連行された。1945年8月、米軍の爆撃を受け、操業を停止した。
084 細倉鉱山には感天坑、富士坑、二貫目坑の三つの竪坑があり、それらが鉱山正門の通洞坑と繋がっている。社宅は柳沢、秋法、荒町にあり、連行朝鮮人は金剛寮に収容された。朝鮮人家族は三月平の沢近くか、荒町の社宅に居住した。連合軍捕虜は中学校の跡地に、受刑者は三月平の社宅近くに収容された。駅の近くに協和会館があったが、現在は文化会館となっている。

2 細倉鉱山への連行

 厚生省勤務局名簿には、963人分の氏名、本籍地、連行年月日、連行後の動向などが記載されている。集団的連行は1940年4月から始まり、1943年4月には、佐渡から転送された者もいる。死亡者は9人である。8・15解放前に500人が逃亡し、解放後の逃亡を含めると、600人になり、逃亡率70%となる。
087 連行者の40%が軍威郡出身である。計画的に郡の各面に割り当てていたようだ。
 日朝協会仙台支部学生班・東北大学朝鮮研究会編集『宮城県朝鮮人強制連行の調査報告 太平洋戦争中の細倉鉱山における朝鮮人労働者の実態』は、会社と行政における史料を踏まえた、1960年代の調査である。
088 この調査資料には、1944年中ごろから1945年までの、人員配置状況が示されている。550人の朝鮮人は、坑内に420人、坑外に30人、精錬に100人配置されていた。全労働者数は2300人であった。
 本資料は、鴬沢町役場の埋葬許可証や非本籍人戸籍書綴を閲覧している。1941年から1945年にかけて、子供を含む31人が死亡している。そのうち三歳未満が16人である。朝鮮人の出生数は1944年9月から1945年8月まで41人が生まれた。子供の数の増加は、家族を呼び寄せたためである。

089 郷土館に校務日誌が展示されている。『回想わが母校』には金慶一という名前が見られる。

 本調査団は、募集状況について募集係から聞き取りを行っている。それによると、募集が総督府から面への強制割当であったことを明らかにしている。そして逃亡防止のために、連行の際は三菱の労働服を着せ、連行後は家族を呼び寄せた。金剛寮に連行し、朝は訓話を行い、寮から会社に行くとき、舎監が点呼し、軍隊式に行進させて連行した。会社を辞めることは許されなかった。逃亡防止のために、強制貯金をさせ、小遣い銭を与えた。寮の出入り口には会社直属の詰め所を置いて監視したが、半数が逃亡した。逃亡者は犯罪人として扱われ、逃亡が見つかると、鞭でたたかれた。賃上げのストライキがあった。
 慶尚北道英陽郡から連行された朝鮮人の聞き取りがある。1941年、18歳の時に、慶尚北道英陽郡から連行された。役場から日本に行けと言われた。役場の人に無理やり連れて来られた。逃亡したが捕らえられて、連行された人もいた。下関に着くと監視が厳しくなり、青い服に戦闘帽姿で列車に押し込められた。第四金剛寮に入れられ、少年と年寄りは精錬に回された。八畳に8~10人が詰め込まれた。侍映画をよく見せられ、逃げたらこのように斬られると脅された。軍隊訓練をさせられ、動きが鈍いと殴られたり蹴られたりした。職場では番号で呼ばれた。精錬所で鉱石を運ぶエレベーターの綱が切れてけがをしたが、十分に治らないうちに働かされた。連行されて4週間目のころ、会計用紙と賃金が合わなかったので、全員が立ち上がり、寮長を交代させたが、指導した二人は朝鮮に送還された。軍威郡・英陽郡から200人が連行されたが、最後まで残ったのは20人余だった。
090 日本人がトラックに乗せてくれ、逃げることができた。朝鮮人が経営する飲み屋が二軒あった。この連行者は厚生省名簿の1942年12月の官斡旋による連行者の一人である。

 金賛汀『証言朝鮮人強制連行』によると、この連行者と同時期に英陽郡から連行された鄭英斗の証言がある。鄭は、慶尚北道英陽郡の出身で、1941年12月に「募集」されて連行された。立場の弱い者から連行された。金剛寮に入れられ、運搬夫を強いられた。募集の際は、賃金は一日2円、最高6円、一日8時間労働で2年間、帰国旅費と100円の報奨金を出すということだったが、それは詐欺だった。実際は12時間以上の労働を強いられ、賃金はわずかだった。1943年正月、殴打に抗議し、押しかけて謝罪を要求する争議が起こった。このころ労務に殴打され、食事代を天引され、低賃金で、副食は泥のついたジャガイモだった。警官隊が導入され、自由行動ができなくなり、闘っても改善されなかったため、逃亡者が増加した。満期になったが、半年前に連行された人が帰国できない状況であり、説教され殴られることを恐れ、残留を願い出るように仕向けられた。1943年の夏、5人で逃亡計画を練って逃亡し、土建現場で働いたが、細倉の労務に発見され、若柳署に連行され、竹刀で拷問された。1944年9月末、6人で逃亡し、築館から南方町方面へ行き、8・15まで亜炭鉱で働いた。8・15の3日後に細倉鉱山へ行くと、300人が残っていた。約束の報奨金や貯金の支払いを要求したが支払われなかった。詐欺!

 細倉鉱山は1987年に閉山し、感天坑跡地は細倉マインパークになっている。精錬施設は現在も操業している。鉱山正門近くに細倉鉱山資料館がある。小学校跡地に鴬沢郷土館がある。資料館に昔の労働者の生活の在り方が記されることを期待したい。

(2002月調査



章 三菱鉱業生野鉱山

093 伝承では生野鉱山は9世紀に始まる。16世紀に鉱山の開発が進み、江戸時代、金香瀬を中心に金や銀の採掘がおこなわれ、江戸末期には太盛山での開発が始まった。
 侵略戦争時、生野鉱山に1300人、明延鉱山に1420人、中瀬鉱山に250人の朝鮮人が連行された。

1 生野鉱山の歴史

094 藤岡寅勝『明治以降の生野鉱山史』によると、1868年、明治政府は生野鉱山を直営した。1872年、明延と中瀬が、生野の支山とされた。生野鉱山は金銀の外に、銅・鉛・亜鉛を、明延鉱山は、銅・錫・タングステンを、中瀬鉱山は、アンチモンを産出した。
 生野鉱山は1896年三菱に払い下げられた。払下げ料金は、生野・佐渡の両鉱山と大阪の精錬所を合わせて173万円だった。1918年、三菱鉱業が発足した。
 生野では金香瀬太盛で竪坑や巻上機、亜鉛選鉱場を建設し、明延では錫製錬場を建設し、タングステンや亜ヒ酸の精錬を試みた。直島*で銅の精錬所ができると、生野での銅精錬は廃止された。
 *直島は香川県北部の島。風戸に銅の製錬所がある。
 1920年代の生野の労働者数は3000人で、1925年に生野で労働組合が結成され、争議が行われた。三菱側は共栄会を設立して融和を図り、労務係を置いて、労務管理を強化した。共栄会は1927年、協和会と名称を変え、1945年まで存続した。
 1938.6、ケージ墜落事故が起こり、12人が死んだ。
095 1939.11、朝鮮人が強制連行された。1941年、南方からの錫鉱を処理する施設が増設された。1938年の労働者数は1700人、1943年には2600人になった。
096 1944年、生野で弾薬類の地下保管が始まった。生野鉱山から、三菱航空機水島工場の地下工場建設のために、削岩夫や支柱夫が派遣された。棚原(やなはら)鉱山*から、増産挺身隊20人が、3カ月の予定で派遣されてきた。

*柵原鉱山は岡山県久米郡美咲町吉ヶ原394-2 黄鉄鉱など硫化鉄鋼を産出した。

 1944.3、連合軍捕虜を収容しはじめた。連合軍捕虜440人が連行された。1944.5、朝鮮人を収容していた清和寮が焼失した。
 生野鉱山では1970年、数回の坑道崩壊があり、カドミウム鉱毒汚染への批判が高まり、1973年に閉山した。

2 生野鉱山への朝鮮人連行

 生野鉱山では1922年ころ朝鮮人が働いていた。金蔵寺の「生野鉱山殉死者霊簿」によると、1927年の記事に、李炳欞(れい)・金永述の名が見られる。1930年には100人の朝鮮人が在住していた。奥銀谷小学校の卒業生名簿に1934年から1944年の間に17人の朝鮮人の子供の名がある。(『鉱山と朝鮮人強制連行』金慶海)また生野小学校の同窓会誌を見ると、1942年3月の項に平沼永柱*の名がある。
097 朝鮮人連行に向けて、兵庫県協和会生野支会が1939年7月に結成され、11月に生野鉱山への連行が許可された。厚生省勤労局名簿によると、1340人の朝鮮人連行が記載されている。
 連行は1939年12月から始まった。協和会生野支会は、1940年1月、連行朝鮮人に神社参拝をさせて皇民化を進め、4月、協和会館に150人を集めて総会を開き、7月には朝鮮人女性を集めて講話会を開催した。12月、連行した朝鮮人への労務者訓練を行った。
 1942年3月、180人の朝鮮人を集めて時局講演会を開いた。8月、朝鮮人43人が争議を起こし、3人が逮捕され、32人が逃亡した。9月、立志寮の77人が献金をさせられた。
 1943年9月に連行された公州から連行された河憲中の写真が『強制動員寄贈資料集』にある。1944年5月、生野からの逃亡者2人に懲役刑(3カ月と6カ月)の判決が出された。
 名簿によると逃亡者数は820人を超え、8・15に在籍していたのは330人だった。
098 藤岡寅勝『明治以降の生野鉱山史』によると、1945年8月に、採鉱課に朝鮮人382人が在籍している。
 厚生省名簿によると、死亡者数は16人である。

 大日本産業報国会作成の『殉職産業人名簿』022に基づいて、NHKは咸安郡で調査を行い、そこで証言を得た。それによると、宗允(いん)鎬は、1942年、面長に「日本に行かないか」と誘われ、「今行かないと強制的に連行され、ひどいことになる」と言われて応じた。1942年6月の咸安からの連行は、100人を20人ごとの隊にして行わわた。事故の発生を事前に知らせず、行ってみると、外出の自由がなく、食事代や強制貯金で差し引かれ、ほとんど賃金をもらえなかった。
099 飯場は監視され、逃亡して発見されると、見せしめに皆の前で殴られた。宗は1942年12月に逃亡し、京都の鉱山で働いた。
 趙丁奎は、1944年4月、新婚後1年のある晩、二人の警官に連行された。生野ではランプを落として殴られ、両耳が聞こえなくなった。朴敬述は、1944年4月、二人の割り当てが来て、誰も行きたがらず、くじを引いて連行された。朴庚寿が帰国時に持ち帰ることのできた金銭は、たったの61銭に過ぎなかった。(NHK『調査報告「朝鮮人強制連行」』)
 以上のことから、割当、脅迫による強制連行が行われ、強制労働の中で逃亡が起きたことが分かる。
100 崔明国は、豊岡に在住していた。連れて来られた人々は募集時の提示と現場に来てからの待遇が違うため、夜中に逃亡した。豊岡で警察が朝鮮人を捕らえると、在住朝鮮人に食事の供出を命じたこともあったという。(『鉱山と朝鮮人強制連行』金慶海096
 当時の写真を見ると、「産業報国」の文字の下に「我らの職場は戦線に通ず、銃取る覚悟で銃後を守れ」とある。職場の戦場化は、労働者の人間としての権利と尊厳を奪うものだった。
 2004年8月、生野鉱山の収容所に連行され労働を強いられた元イギリス兵エリック・ロビンソンは、4人の家族と共に生野鉱山を訪問した。(福林徹「イギリス兵元捕虜の生野訪問」POW研究会)

3 明延鉱山

 明延鉱山では9世紀から採掘がおこなわれたと伝えられている。近代になって三菱の経営となり、錫の採掘が行われた。
101 厚生省名簿に1942年11月からの連行者899人分が掲載されており、また、中央協和会の「移入朝鮮人労務者状況調」には、1942年6月までに520人連行されたと記されているから、連行者数は1400人を超えることになる。
 『鉱山と朝鮮人強制連行』金慶海096によれば、連行は1939年12月から始まり、1940年4月に朝鮮人が賃上げストライキを行った。12月、339人の労務訓練が行われた。朝鮮人の子供も増え、1942年4月には鉱山託児所に朝鮮人幼児が50人ほど預けられた。
 名簿によると、8・15までの逃亡者数は438人であり、連行者の49%を占める。
102 すでに渡日していた朝鮮人が、1942年から明延で働いた例もある。(尹泰隆自伝)山名猛は1941年から1945年の間、朝鮮人や捕虜を担当した。朝鮮に出向き全南などから連行したが、逃亡者が多かった。連行された朝鮮人家族の女性が洗鉱場で働いた。(『鉱山と朝鮮人強制連行』)
 白褆(し)寅の証言がある。白は慶尚南道居昌の出身で、従兄と共に居昌から連行された。飯場は鉄条網で囲まれていた食事は豆かす入りの玄米だった。引率者の監視を受けながら、坑内に入った。削岩機を背負って60度の急傾斜を昇降した。逃亡者を見せしめに木刀で滅多打ちにした。このままでは死んでしまうと思い、従兄と脱走し、汽車に乗ったが、鉱山監督に捕まった。再び逃走し、脱出に成功した。(『証言集二強制連行編』、『平壌からの告発』、『朝鮮人強制連行調査の記録・兵庫編』)厚生省名簿には「白原褆(し)寅」の記載がある。明延に連合軍捕虜300人も連行された。

4 中瀬鉱山

103 中瀬鉱山は16世紀から金山として採掘された。アンチモンも産出した。1935年、中瀬鉱業が設立され、1936年、日本精鉱と改称した。1943年、日本精鉱から三菱鉱業に経営が委任された。
 厚生省名簿によると、集団連行された191人分と、「自由募集」による62人分の計253人分の氏名がある。「健康保険・厚生年金被保険者資格喪失届」に朝鮮人の名前がある。集団連行191人中の逃亡者数は67人(35%)で、「自由募集」62人中の逃亡者数は30人(48%)である。(「自由募集」の方が逃亡率が高い。)
 1944年10月、30人が、寝具不足を理由に争議を起こした。
 連行に関わった岸谷喜諒の証言がある。(『鉱山と朝鮮人強制連行』)岸谷は1943年に中瀬鉱山の勤務課に入り、1944年、朝鮮に補佐役として赴き、労務の手配をした。八鹿から中瀬まではトラックで朝鮮人を運んだ。連行数50人を目標にしても、実際は30人、20人と、時の経過と共に次第に減っていった。
104 現地では労働力が減り、役所も困惑していた。
 連行された人々の多くは坑内労働を強いられ、寮は万年床で、衣服は連行時のままで、シラミが湧いた。誠和寮の守衛室では見せしめのリンチが行われた。真冬にドラム缶に全身を浸し、水から出た肩を棒や竹刀で叩いた。1945年11月、266人が帰国したが、その内訳は徴用が109人、「自由募集」が9人、家族組夫が148人となっている。(『鉱山と朝鮮人強制連行』)
 
 生野鉱山跡は「シルバー生野」となり、観光用の坑道、資料館、鉱物館などが整備されているが、連行された朝鮮人や連合軍捕虜について記したものは少ない。

(2002年調査



章 日本鉱業日立鉱山

107 日立鉱山は日産発祥の地であり、戦時下では国内最大の銅生産地だった。
 厚生省労働局報告書の茨城県分に、日立鉱山の名簿があり、2430人の(朝鮮人の)氏名があり、また静岡県分の河津鉱山の名簿には(日立鉱山への朝鮮人)転送者についての記事がある。

1 日立鉱山の歴史

(1)日立鉱山の成立

108 日立での鉱山開発は16世紀に始まる。1905年、当時赤沢鉱山と呼ばれていたが、久原房之介がこれを買収し、1906年、日立鉱山と名称を変更した。1908年、大雄院に精錬所を移動し、1909年、第一竪坑で開削を始めた。採鉱量は国内4位だった。1912年、久原鉱業を設立し、このころの銅生産量は、古河や藤田に次いだ。
 1916年、佐賀関と朝鮮の鎮南浦に精錬所を建設した。
109 1917年、久原鉱業の銅生産量は国内1位となった。1918年、国内生産で、金の49%、銅の30%を占めた。1920年、久原鉱業から日立製作所を分離した。

 1912年7月、日立鉱山で日本人と朝鮮人とが喧嘩した。1912年9月、朝鮮人坑夫が逃走した。(『日立市関係「いはらき」新聞表題検索目録Ⅰ』)
 大雄院の友子の墓碑群に、坑夫「韓国住人郭順吉」(日本人名森田仙太郎)のものがあり、その側面に、韓国人三人の名前がある。

(2)日産コンツェルンの形成
110 第一次大戦後、安価なアメリカ産の銅が輸入され、戦後の経済恐慌と相まって、久原産業は経営難に陥ったが、1926年以後、久原の義兄の鮎川義介が経営を引き継ぐとともに、久原自身は政界に入り、1928年、久原は衆議院議員になり、さらに同年、田中義一内閣の逓信大臣となり、1939年、立憲政友会の第八代総裁になった。
 1928年、鮎川は久原産業を日本産業と改称し、1929年、鉱業部門を日本鉱業と命名した。1931年、「満州」侵略戦争がはじまると、政府は金輸出を再び禁止し、政府の金買い上げ価格を上げた。日本鉱業は当時国内の金生産量の30%を占めていたので、増益となった。日本鉱業は台湾の金爪石や朝鮮の大楡洞・雲山を買収した。
 日本鉱業を中心にして日本産業はコンツェルン化を進めた。日本産業は、1937年、日本鉱業、日立製作所、日立電力、日本水産、日産化学、日本油脂、日産自動車、日産海上火災保険など直系12社、孫会社130社、従業員14万人の日産コンツェルンを形成した。軍部の要請を受け、1937年、中国東北へ本社を移し、満州重工業開発をつくり、満州で14社を傘下に置いた。日産は三井、三菱に次ぐ大財閥となった。日本鉱業はアジア太平洋戦争中に南洋に進出した。

(3)日本鉱業と朝鮮人強制連行

111 日本鉱業の中核である日立鉱山は、産金法の下に、1940年から他社の金鉱石も買い入れ、金を増産した。国の産金政策が転換され、銅生産が推奨されると、今度は銅生産が強化された。
 日立は4200人の朝鮮人を連行し、中国人を900人、連合軍捕虜を800人連行した。
 日本鉱業傘下の各鉱山は、朝鮮人の使用を政府に申請し、割当の許可を得て、朝鮮人を連行した。日本鉱業関係の朝鮮人の連行先は、50個所が判明している。(省略)
 1942年の連行現在員数は、5000人超である。(日本鉱業『所長会議資料三』1941 朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』所収、中央協和会『移入朝鮮人労務者状況調』、厚生省勤労局調査名簿、長澤秀「第二次大戦中の植民地鉱業労働者について」など)
 国内の炭鉱では、山陽無煙(山口)、遠賀(福岡)、山田(福岡)、矢岳(長崎)などで朝鮮人を使用した。
114 日本鉱業傘下の国内の鉱業所への朝鮮人連行数は4万人超である。
 日本鉱業は朝鮮、中国、東南アジアにも多くの鉱山を持ち、アジアの民衆に労働を強制した。
 1941年の日本鉱業の労働者数は6万人で、うち日本人は2万5千人、朝鮮人は3万2千人、台湾人は4千人であり、朝鮮人が半数を占めていた。1943年3月の日本鉱業傘下の朝鮮半島の鉱山での朝鮮人労働者数は2万人、日本国内の朝鮮人労働者数は5千人、台湾の台湾人労働者数は6千人であった。台湾の鉱山は金瓜石鉱山である。(日本鉱業「事業概況」、長澤秀「第二次大戦中の植民地鉱業労働者について」所収)
 日本鉱業は、フィリピンではマンガン産地のブスアンガ島の全鉱山を委託経営した。日本鉱業は1942年5月に入山したが、1942年9月大反乱が起きた。抵抗組織のリーダーは鉱山ポリスであり、鉱山に駐在していた日本人20人や町に住む日本人の多くが殺され、鉱山施設も破壊され、鉱山労働者は皆逃亡した。
 ボボール島のマンガン鉱山でも、1942年10月ころから抵抗運動が強まり、日本人が拉致され、殺害され、労働者が逃亡した。労働者が集まらず、探掘は再開できなかった。1943年半ばにフィリピン全土で抗日闘争が起き、各地の鉱山をゲリラが支配した。(『日本占領下のフィリピン』)

2 日立鉱山での朝鮮人強制労働
(1)連行朝鮮人数
115 日立鉱山は1939年度に650人、1940年度に550人、1941年度に800人、計2000人の朝鮮人連行を政府から承認され、1942年6月までに、1900人超の朝鮮人を連行した。(中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」)
 厚生省勤労局名簿によると、1942年8月以降、朝鮮人連行数2340人が記載され、これを中央協和会資料と合計すると、4200人超の朝鮮人が連行されたことになる。
 また旭日鉱山、河津鉱山、大谷鉱山、高玉鉱山、鷹峰鉱山などからの転送もあった。河津鉱山の厚生省名簿には、河津鉱山から1943年3月に90人が(日立に)転送されたという記録がある。これを加えると、日立鉱山に連行された朝鮮人総数は4500人超となるだろう。
120 連行された朝鮮人の寮の周囲には鉄条網が張り巡らされていた。(『茨城県朝鮮人慰霊塔』)
 4200人という数字は、金属鉱山では日本最大である

(2)朝鮮人連行の状況・「募集」
120 『日立鉱山史』によれば、1940.2.14、最初の朝鮮人162人の連行(入山)が行われたとしているが、「いはらき新聞」によれば、370人が連行されたとしている。それは、連行者が(日立の)鉱山部門だけでなく、精錬や諏訪鉱山にも配属されていたことによる。「いはらき新聞」によれば、1940年3月17日、18日に計250人が連行されたとあり、1940年の2月と3月で、計600人が連行されたことになる。これは1939年分の連行者である。
 豊崎格は、連行者を伏木で迎えた。特別列車で日立に連行した。寮は強制収容に近い扱いであった。後に下関まで迎えに行ったが、列車の海岸側はシャッターを下ろして見えないようにした。(『鉱山と市民』)
121 は全南務安郡の出身で、1940年2月に「募集」で連行されたが、そのとき坑内に入るという条件は示されていなかった。日本語ができたので班長にされ、江戸一郎と命名された。木浦で連行され、富山の伏木に船で送られ、列車で日立に連行された。逃亡させないように出入り口で警戒された。二年間辛抱すれば好きなところに行けると思い逃亡しなかった。一の鳥居に見張りが置かれ、毎日監視していた。寮では顔を互い違いにして寝た。建物の前に見張りがいた。最初の一年は月2回くらいの休みがあった。逃亡者が出ると班長が処罰された。日本人と結婚して、熊ノ沢の社宅に移った。1945年4月、福島市信夫山の中島飛行機の地下工場建設のための掘削現場に送られた。日本が戦争に負けると解雇された。(『鉱山と市民』、山田昭次「日立鉱山朝鮮人強制連行の記録」所収証言)
 入四間(鉱山周辺の地名)から朝鮮人の子供が本山小学校に通った。戦後、本山に日立初等学院という朝鮮人学校ができた。(『鉱山と市民』)
122 李日燮(しょう)も、前羅南道務安郡から16歳の時に30~40人と共に連行された。年少だったので、トロッコ駅舎の掃除の仕事をした。過酷な労働状況や、逃亡して捕まり半殺しにされた話を見聞きし、二歳年上のと二人で逃走した。その後飯場に入り、千葉、立川、児玉の飛行機工場で働いた。1945年、21歳の時に徴兵され、高崎の工兵隊に入隊させられたが、一週間で解放を迎えた。(『茨城県朝鮮人慰霊塔』)
 金永鎮は1941年全羅南道務安郡から25歳の時連行された。その時妻は妊娠していた。連行される前に逃げようとしたが、巡査と面の職員に捕らえられ、汽車で木浦から釜山、船で下関に渡り、日立に連行された。寮は藁がむき出しの畳で、窓は戸板、7~8畳に12人が居住した。ご飯はサツマイモやジャガイモが半分入れられ、量も少なかった。坑内で鉱石を積む雑夫とされ、病気や負傷でも労働を強制された。賃金はすべて渡されるわけでなく、月に一度発行される外出券がないと自由に外出できなかった。逃げれば叩かれ、生涯脚が動かなくなった人もいた。1943年1月、4人で逃亡した。従兄弟を頼って広島に行った。三井三池炭鉱で6カ月、挺身隊労働を強いられた。朝鮮に帰り、家族を連れて広島に戻ったが、原爆投下後の親戚の安否を尋ねて入市し、被曝した。(山田昭次「日立鉱山朝鮮人強制連行の記録」所収証言)
 金性在は、連行された朝鮮人について次のように語った。15・6歳の青年が連行され、江戸、青葉などの姓と一郎、二郎という名がつけられた。部屋は一人一畳、布団は汚れて臭く、外には出られず、犬を連れた監視員が24時間巡回していた。食事は、麦やトウモロコシ、豆の類で一膳、おにぎり二個を腰にぶら下げて坑道に入った。地下は蒸し暑く、体中から汗が噴出し、まるで地獄だった。休もうとすると監督から殴られた坑道で息を引き取るのも珍しくなかった。風呂はなく、水で簡単に洗った。ある日三人の若者が逃げようとしたが、一本杉のあたりで捕まり、見せしめに一日中殴られた。(『茨城県朝鮮人慰霊塔』)

123 連行された人々は警察と会社の監視の下にあり、発見された逃亡者は殴打された。
 強制労働と粗末な食住、自由の抑圧の中で、1941年6月、50人が待遇改善を求めて争議を起こしたが、全員検挙され、22人が送局された。1942年11月、食事問題で集団暴行未遂事件が起きた。諏訪鉱山でも1940年3月、朝鮮人への暴行を契機にボイコットが起き、二人が送還された。(『特高月報』、『日立戦災史』)

(3)朝鮮人連行の状況・「官斡旋」・「徴用」

 1942年8月、全南の務安、長城から、官斡旋で朝鮮人を連行した。
124 1944年の連行は、忠清道と全羅道から行われた。10月から徴用による連行が始まり、この時、咸鏡道からも連行された。
 1942年8月に長城郡から連行された朴東玉は、1943年に落盤で死亡した。その時の様子を支柱夫の鈴木利作は次のように証言する。7時ころ落盤で三人が袋詰めになり、朝の4時まで埋まっていた。暑くてどうにもならず、朴は「アイゴー、アイゴー」と言ってなくなった。(『鉱山と市民』)
 1942年の全羅からの連行に関わった内田貞夫によると、1942年全南へ連れに行った。ほとんど強制的な連行であり、野原で見つけたり、野良仕事の最中に連れてきた。下関から日立まで列車で36時間、一列車に70~80人を乗せ、両方の出口を労務係が監視し、逃亡を防ぐために胸章をつけさせられた。日曜外出での逃亡が多かった。(『鉱山と市民』)
125 宮崎武雄官斡旋徴用による連行の際に、日立から朝鮮に出向いた。警察、役場、道庁、総督府へ連絡しての連行だった。長興や木浦など4か所から連行した。毎月100人以上がいなくなった。(『鉱山と市民』)
 押手惣一は朝鮮人を監視する仕事をしていた。御沢の朝鮮寮を監理し、朝鮮人に食券を渡し、逃亡者の捜索にも一度参加したことがあった。寮を巡回した。逃亡して連れ戻された者は、殴られ蹴られた。入四間の家族持ちの朝鮮人地区の見張りになり、出勤を監督した。六畳一間の八軒長屋が15~16棟あった。朝鮮人の助手がいた。大角矢と入四間に駐在所が置かれた。(『鉱山と市民』)

(4)朝鮮人の死者と遺骨

 (日立鉱山に)朝鮮人が4200人、中国人が1000人、連合軍捕虜が800人連行された。
 中国人は1944年6月から連行された。中国人死者の遺骨は、帰国の際に水戸の信願寺に預けられ、その後の遺骨返還運動で、残骨の発掘が行われ、1957年5月に送還された。
126 日本鉱業は本山寺近くの火葬場跡地に中国人・朝鮮人の碑を建てたが、連行の経緯や死者名を記さなかった
 鉱山の火葬場の待合室は本山教会と呼ばれていたが、1972年に本山寺となった。朴慶植は、1940年から45年までの、68人分の死者を探し出した。(朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』)
 1976年に本山寺の過去帳からまとめた「朝鮮人殉難病没者名簿」には、連行期の58人の朝鮮人氏名がある。このうちの10数人が労働者の朝鮮人であるとみられる。この過去帳資料と厚生省名簿から割り出せる日立鉱山分の連行期の朝鮮人労働者死者数は40人ほどである。
 厚生省名簿に記載されている死者については、遺骨は返還したとされているものが多いが、本山寺の過去帳資料を見ると、『殉職産業人名簿』にある慎順範の遺骨は、未返還である。慎順範は、初期の連行者か、すでに渡日していた労働者と思われる。
 相沢一正「茨城県における朝鮮人・中国人強制連行に関するノート」によると、「鉱員移動月報」「整理簿」「鉱山従業員現在員調」「稼働台帳」が存在する。日本鉱業記念館の展示に、1945年5月15日からの本山労務部戸籍「出生届送達控簿」が展示されている。殉職者名簿もあるはずだ。公開が望まれる。行政でも、戸籍、年金、供託関係の名簿があるはずだ。厚生省名簿に記されていない事柄を明らかにすることが求められる。

127 日立市の平和台霊園には朝鮮人の納骨堂と追悼碑、中国人の追悼碑がある。茨城県朝鮮人納骨堂は1979年に建立され、2006年に修復された。修復の際に、植民地支配による強制連行、遺骨が無縁仏のままに捨て置かれていること、歴史の事実を風化させず、平和な時代を築いていく決意などが碑に刻まれた。ここに納骨されている遺骨の多くは本山寺に残されていた日立鉱山関連の遺骨である。
 2005年5月、茨城の民団と総連は共同で、茨城県に対して、遺骨の収集・返還に向けて、自治体・寺院などでの調査、県内強制連行の全面的な解明について要請した
 中国人の「日中友好之碑」は1994年に建てられた。正面に日立鉱山に連行された経緯と追悼と友好の決意が記され、側面に死者の氏名が刻まれている
 本山寺には中国人・朝鮮人の碑と無縁塔がある。本山の跡地にある日鉱記念館の展示には、戦時の朝鮮人、中国人、連合軍捕虜の労働について記されていない。労働者の地平から、強制労働の歴史を含めて記され、無縁とされている人々の恨みが解き放たれるような表現を得るならば、この地は和解と友好の国際的な場となるだろう。

 日立鉱山は1981年に閉山したが、日本鉱業の事業は日鉱金属(金属資源開発や加工部門)とジャパンエナジー(石油部門)に継承された。日鉱金属は1992年に設立され、韓国でLGグループと合弁企業(現LSニッコーカッパー)を設立し、LG金属の銅精錬事業を継承した。また2000年、三井金属鉱業とパンパシフィックカッパー(PPC)を設立し、2006年、両者の銅精錬をこのPPCに統合した。また日鉱金属は2002年、ジャパンエナジーと共同持株会社新日鉱ホールディングスを設立し、新日鉱グループを形成している。
129 アジアの強制労働に対する被害者個人への日鉱の賠償は避けられない。日鉱が率先して基金を創設すれば、信頼と名誉につながるだろう。
 『経済協力 韓国105 労働省調査 朝鮮人に対する賃金未払債務調』から、日本鉱業日立鉱山の未払金は、給与関係とみられる供託金、遺族関係、厚生年金関係、郵便貯金、国債貯金、有価証券など、5700件分を超え、総額は80万円、1000倍すれば8億円になる。

(2007年調査


章 古河鉱業足尾銅山

131 足尾での銅採掘は、16世紀中ごろの記録が残っている。17世紀に江戸幕府の直営銅山となり、輸出品にもなったが、幕末に休山した。明治政府が所有し、1887年、古河市兵衛が買収し、1884年、日本最大の銅産出量を記録した。
 銅精錬の煙が周辺の森林を破壊し、鉱毒は渡良瀬川流域を汚染した。銅の生産は戦争遂行のための国家政策であり、国家は、鉱業停止を求める汚染地の民衆を弾圧した。1907年に「足尾暴動」、1919年に大争議が起こり、1921年、鉱山で最初のメーデーが開催された。
 戦争の拡大に伴って、1935年、新たな選鉱場が建設され、1939年、足尾銅山鉱業報国会が設立された。鉱山労働者が徴兵されると、その穴埋めに朝鮮人、中国人、連合軍捕虜が強制連行された。

1 名簿から見た足尾鉱山への朝鮮人連行

133 厚生省勤労局調査の足尾鉱山名簿には、2461人分の連行年月日、氏名、住所、異動日、異動理由が記されている。
 1940年8月から1943年3月までに、慶南梁山、蔚山、全北鎮安、慶北醴(らい)泉、奉花、忠北清州などから1000人が連行された。連行は1939年の「募集」から1942年の「官斡旋」という形になるが、いずれも実質的には強制的動員だった
139 中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」には、足尾鉱山に、1942年6月までに698人が連行されたとあり、厚生省名簿でのこの時期までの連行者数は654人で、44人少ない。「移入朝鮮人労務者状況調」には1939年から1941年まで、各年の連行「割当」数が承認されたとある
 1943年、北海道の鴻之舞鉱山や千歳鉱山から転送があった。(守屋敬彦編『戦時外国人強制連行関係資料集Ⅲ朝鮮人2下』にある住友鴻之舞鉱山強制連行者名簿)
140 これらの転送は、金鉱山を休止して他の鉱山に転送する政策の反映である。
 これらの転送者は1945年4月までに、満期や逃走で、8割が現場を離脱していた。
141 1944年も連行が継続され、1944年までの足尾への連行者数は、2000人となる。
 1944年9月から「徴用」が適用され、連行者数は2400人となった
142 北海道炭礦汽船の史料によると、朝鮮現地での逃亡が多かったが、これは厚生省名簿には反映されていないから、現地での連行者数は名簿以上だったと推測できる。
 足尾鉱山での逃走者数は840人で3割だが、徴用適用以前は5割である。病気、送還、解雇、一時帰国者は230人である。満期帰国は413人であるが、その6割が北海道からの転送者だった。8・15解放時に残留していたのは、連行者の3割、865人であった。家族を含めると900人となる。
 名簿での死亡者は33人であるが、鴻之舞鉱山の名簿と足尾銅山での調査によって、5人分の誤りと1人の欠落が明らかになった。病気、逃走、無記載は、実際は死亡していた。例えば、松田潤成は名簿では逃走となっているが、死亡調査記録では凍死していた。また山本守文は、死亡記録では病死だが、名簿では病気となっている。子供の死者を含めれば、連行期の朝鮮人死者数は70人となる。(『遥かなるアリランの故郷よ』)

2 証言からみた朝鮮人連行の状況

143 「募集」「官斡旋」「徴用」と連行形態の変化に伴い、国家による強制力がいっそう強まった。行政と企業は結託していた。証言から、連行当初から行政による割当と動員が行われ、連行現場で暴力的に支配されていたことが分かる。

 1940年から41年にかけて「募集」によって慶南の梁山郡から連行された人々の証言を以下に示す。(『遥かなるアリランの故郷よ』)
 1940年8月、朴聖述は精錬所に連行された。家族の呼び寄せが行われ、妻の金末順は、旧正月過ぎの5日に足尾に向かった。「行きたくない」と逃げても、後で続けて何回も割り当てが来るため、とりあえず二年契約で行く人が多かった。三養会配給を受け、後に給料から天引きされた。解放後、高崎で何カ月か滞在し、博多から船で帰った。働いて貯めた金は換金してもらえなかった。

 1941年3月、梁山郡院洞面花斎里から、趙性載、徐正友、辛三洪らが連行された。募集だったが、警察が先頭に立って斡旋し、面職員と警察が来て、行かないと制裁を受けた。三人は精錬所に送られ、団鉱場での砕石や運搬などの三交替労働を強いられた。寮の監督は、疲れて寝ている人を桜の棒で叩くなど、日常的に殴打が行われた。

 は兄の京載の代わりに行った。17歳だった。最初の日、煙い仕事場が嫌でさぼったところ、雪の中に何時間も立たされた。手紙は検閲された。脚気になり、本山病院に入院し、通訳として何か月かいた。病院には1カ月で10数人の朝鮮人が担ぎ込まれてきて、足を切断された人もいた。逃げて死んだ人もいることを聞いた。沢入から汽車に乗って逃亡した。相模原の橋本などで土木仕事をした。協和会手帳をもらった。解放直後、日本で稼いだ金は紙切れ同然だった。
144 は結婚直後に連行された。家業の精米所がつぶれ、小作の田畑を他人に譲った。逃亡したが、捕らえられ、警察に留置された。鉱山に連れ戻され、監視され、金は一銭も渡されず、売店では労務係が支払った。再び逃走し、水力発電所で働き、関釜連絡船で戻った。解放前の冬、平安道の精錬所に徴用され、解放を迎えた。
 は精錬の団鉱場で働かされ、賞金をもらって送金したが、収入は少なく、10月に逃亡した。辛の聞くところによれば、同村の李ドゥマンは、坑内の陥没事故にあい、体調を崩して帰国後、亡くなったという。名簿には「山本斗満」とある。

 「官斡旋」について述べる。
 厚生省名簿によると、鄭雲摸は、1943年3月20日に連行された99人の中の一人で、職種は線路夫、逃亡日は1944年3月21日となっている。
 『遥かなるアリランの故郷よ』によると、鄭は、1921年生まれで、忠北清州郡桔倉面新平里出身で、連行当時は上新里に住んでいた。父を17歳の時になくし、母の世話をしていた。1942年(名簿では1943年)2月ごろ面に呼び出され、「日本に行って二・三年仕事をして来い」と言われた。足尾鉱山の坑内部長の斎藤もその場にいた。「母の面倒を見ている」と言うと、その場で殴打された。翌日早朝、家を囲まれ、引っ張られ、トラックで清州に連れていかれ、そこで作業服を着せられた。列車で釜山に運ばれ、そこから船で下関へ行き、足尾鉱山の砂畑に連行された。集合、整列、暴力的管理下で宮城遥拝での不動の姿勢などの訓練を強制された。仕事は坑内の線路工夫だった。反抗したときに、腕をのこぎりで挽かれ、木刀で頭を殴られた。その時、「半島人の一匹や二匹くたばってもすぐ補充できる」「一匹三銭で1000人でも2000人でも引っ張ってこられる」と言われた。落盤で同胞が死んだとき、葬式もしないで埋めてしまおうとしたので抗議した。ドスを持った男に刺され、留置場に入れられたこともある。賃金をくれというと国債をよこし、これではだめだというと、三~四円しかくれなかった。逃走者は捕まれば死ぬほど殴られた。日本人が逃亡を助けてくれ、1944年4月東京に逃走した。解放は群馬の安中で迎えた。

 負傷時の治療や故郷への手紙の送付の件で、日本人と朝鮮人とを比較するように問われると、鄭は、「朝鮮人と日本人を比較すること自体が間違いだ。比べられない。比べられるくらいなら私は証言しない。」と答えた。

 次は「徴用」の場合。趙観變(ぺん)は、厚生省名簿によると、1945年2月15日、京畿道の楊平郡から連行され、10月15日に帰国した。
146 『遥かなるアリランの故郷よ』によると、趙は1928年6月に生まれ、「徴用」により面事務所に召集され、三日後に連行された。移動中は汽車の窓を塞がれ、外が見えないようにされた。鉱山では支柱の大工工事をさせられたが、仕事を一日でも休もうとすると、事務所に連れていかれて殴打された。死なない程度の食事であり、一カ月に手渡されたのは小遣い銭程度の5円だった。手紙は何回か来たが、解放近くになると、できなかった。解放はラジオで知り、集団で帰国した。

 次に日本人の証言。
 「脱走を監視するために奥銀山の家に夜二人が常駐した。巡査の派出所も置かれた。庚申山道には細い針金が張られ、逃亡者がそれに触れると鐘が鳴るようになっていた。捕まると水を入れた盥(たらい)を頭の上で支えさせ、家の柱に縛り、棒で殴った。冬、六林班方面に脱走して橋の下で凍死した人もいた。庚申川沿いの傾斜地で自殺した人もいた。(『町民がつづる足尾の百年第二部』)
 「足を負傷して坑内に入らないと、電線を足につけたり、納鉱場のわきで鞭で叩いた。ぞっとするような見ていられないことが再三あった。」(『足尾に生きたひとびと』)
 「よく半島人が死んで、リヤカーで運ばれた。大根みたいな足がピーンとしていた。」(『足尾に生きたひとびと』)
 「深沢の入口の栃本屋は朝鮮人の宿舎で、夜には朝鮮の歌を歌い、それに合わせて踊る風景が見られた。高原木には夫婦連れも多く、駅できれいな民族衣装を見た。」(『町民がつづる足尾の百年第二部』)

3 足尾鉱山からの帰国

147 連合軍捕虜は1945年9月初めに、連行中国人は11月28日に帰還した。中国人は257人が連行され、連行途中を含めて110人が死亡した。
 敗戦時に足尾鉱山では戦時資料を焼却したというが、1946年の厚生省の調査に足尾鉱山の名簿があるから、労働者名簿が保存されていたということである。名簿によると、解雇日が10月15日、11月21日、12月5日の三回に分けられている。
 
 足尾の朝鮮人は在日本朝鮮人連盟を組織し、足尾鉱山側と交渉した。その経緯を古庄正「足尾鉱山・朝鮮人強制連行と戦後処理」がまとめている。以下この論文による。
 『下野新聞』1945.11.3によると、足尾鉱山の朝鮮人900人は帰国を求めて働かず、食料の増配や帰国の際の特別手当を要求していたが、そのうちに第一次の350人が帰国した。11.15 『下野新聞』11.21では、先に300人が帰国し、11月21日に、320人が、22日に、80人が帰国し、計400人が帰国するとある。これが帰国の第二次である。
 古庄論文によると、11月4日付で、朝鮮人連盟(在日本朝鮮人連盟中央総本部栃木県本部)が出した要求は、即時の帰国、帰国までの十分な衣食住の提供、帰国に際しての食料などの支給(含む家族)、帰国者の釜山までの見送り、一年以下1000円、一年以上二年以下2000円、二年以上三年以下3000円の比例での慰謝料の支給、年金・貯金・預金など一切を本人に渡すこと、強制労働と暴虐の中での逃走者の年金・貯金・衣服などを朝鮮人連盟中央本部に提出すること、連行者(1941年12月8日~)の氏名・本籍地、逃走者・死亡者の氏名・本籍地、残留者の数の明示、死亡重軽傷者への同様の慰謝料の支給、死亡者への一万円の支払い、足腕を失った者への5000円支給、手足の指を失った者への1000円支給などがある。

 この要求に対して、鉱山側は占領軍司令部に、県司令官の来山を要請した。11月6日、栃木県は朝鮮人の徴用を解除した。(それまでは働かせるつもりだったということか。)11月10日、厚生省が労使に調停案を示した。
 その案は、帰国についてはできるだけ早くできるように処置、帰国までの衣食住は会社が最善の努力、帰国に際しては、乗船地まで(要求は釜山まで)随行、退職慰労金(要求は慰謝料)は、二年未満300円(要求は2000円)、三年未満400円(要求は3000円)、三年以上500円(要求は4000円以上)、逃走者への退職慰労金は不払い(要求は退職慰労金については要求しておらず、年金・貯金・衣服の返還を求めた。)、貯金・預金・未払金は清算支払い(現金の持ち帰り金は制限。(どういうことか。空手形か。))、厚生年金などは必要に応じ会社側の立て替え払い(必要がなければ払わないということか。)、逃走者の預貯金の朝鮮宛送金は、連合軍と政府の決定に従って処理(無条件には払わないということか。)、会社は朝鮮人の入所者・脱走者・死亡者・存山者の明細な経過を公表、死亡傷痍者への厚生年金・慰藉料・特別慰藉料の支給(死亡者に1000円(要求は1万円)、足腕を失った者に500円(要求は5000円)、指を失った者に100~300円(要求は足の指も含めて、1000円)というものであった。

 厚生省案は朝連への委託を拒否した。朝鮮人側はこの案を拒否した。鉱山側はこの調停案提示の翌日、米軍による治安維持を依頼し(要求にこたえないことを最初から自覚していたということか。)、機関銃隊約100人が派兵された。朝鮮人側は抵抗をつづけ、栃木県米軍司令部は、足尾に派兵した軍隊長を通じて、斡旋案を提示した。
149 その斡旋案は、12月5日の輸送で帰国の完了(33人を除く)、会社側は乗船地まで(厚生省案と同じ)見送り、10月15日から帰国完了まで会社側による衣食の負担(含む家族)、連行者(1941年12月8日~帰国)の氏名、本籍地、逃亡者・死亡者の氏名・本籍地、残留者の数の明示、8・15以降の甲種勤労所得税控除の場合の払い戻し、8・15以前一年未満の無断退出者の預金・協和資金を朝鮮人連盟足尾支部に引き渡し、12月5日の帰国者に乗船地まで毛布一枚を貸与(けち)、帰国時に退職慰労金の(慰藉料とは言わない)支給(勤続二年未満350円(要求2000円、厚生省案300円)、三年未満500円(要求は3000円、厚生省案は400円)、三年以上650円(要求は4000円以上、厚生省案は500円)、無断退出者は除外)、死傷痍者への給付金・慰藉料・特別慰藉料(死亡者遺家族2000円(要求は1万円、厚生省案は1000円)、足腕を失った者に1000円(要求は5000円、厚生省案は500円)、手足の指を失った者に1000円(要求も1000円、厚生省案は100~300円))の支給(障害を持った者にはこれに準じて支給)、遺骨は帰国に際し、会社側が責任をもって遺族に届けること、争議解決に際して会社は義捐金として朝鮮人連盟足尾支部に2万4000円を支払うこと。(これは要求にもなかったことだ。)

 この内容で、帰国の日の12月5日に、鉱山側と朝鮮人連盟支部との間で協約が成立した。だが、この協約にある慰労金などが実際に個人に支払われたのか疑問だ。すでに11月末までに7割が帰国していたこと、帰国時の持ち帰り金額に制限があったこと、会社から朝鮮への送金は不可能であったこと、これが第三次の帰国の直前であったから、すべてが支払われたとは思われない。
 厚生省の名簿にも、逃亡者への未払金はなし、と記されている。連行末期(勤続2年未満)の帰国者について、10月に退所した者にも350円が支払われたと記されている。しかし、10月に帰国した者にお金が渡ったのか疑問だ。逃亡者についての未払金も多かった。鉱山側の作為が感じ取れる
 古庄正「朝連資料に見る企業の戦後処理」(『アリラン通信』)によれば、足尾鉱山の連行朝鮮人888人分の35万3250円が朝鮮人連盟に支払われた。連行朝鮮人への支払いは四分の一ほどになり、27万円ほどが朝鮮人連盟の保管金となった。逃亡者への未払金は支払われなかった。朝鮮人連盟は保管金を委員長名義で保管し、厚生大臣の了解を経て金銭の分配を行うことを決定したが、厚生省側はこれを拒否した朝鮮人連盟は解散させられ、政府はその財産を没収した。(どうなっているのか。米軍の斡旋を無視したということか。不明朗なにおいがする。)

4 朝鮮人強制連行についての歴史認識

150 古河鉱業は、足尾以外に、阿仁(秋田県)、永松(山形県)、飯盛(和歌山県)、久根(静岡県浜松市天龍区)などの鉱山でも連行朝鮮人を使用した。戦争末期にボーキサイトの代用鉱として西伊豆の明礬石が採掘されたが、古河はその採掘のために戦線鉱業仁科鉱山を経営した。古河は炭鉱も所有していた。福島の好間、福岡の大峰・峰地、下山田、目尾などである。
 古河電工は軽金属部門を置いた。小山工場、大阪伸銅所などである。新潟県警察部特高文書から、古河電工横浜電気製作所から60人の朝鮮人が新潟から帰国したとある。(「鮮人集団移入労務者送出に関する件」『朝鮮問題資料叢書一三』)川崎市の古河鋳造や埼玉県戸田市の古河電工軽金属処理所にも連行朝鮮人がいた。
151 古河電工が鉱山、炭鉱、工場へ連行した朝鮮人の数は2万人だろう。

 証言 鄭雲摸は1997年、日弁連に人権救済を申告した。日弁連は2002年に勧告を出した。(朝鮮人強制連行真相調査団『資料集一四 朝鮮人強制連行・強制労働 日本弁護士連合会勧告と調査報告』)

 足尾での労働は、任意ではなく、処罰の脅威の下で強要されていたから、1930年に採択された「強制労働に関する条約」に違反する。鉱山での地下労働の強制、労働が60日を超えたこと、労働災害に対する無補償、健康保持への無配慮などでも、強制労働条約に反している。また、連行されての強制労働は奴隷的苦役であり、1926年に採択された奴隷条約に反する。さらに足尾鉱山への強制連行とそこでの強制労働は、殺人・奴隷化・強制的移動その他の非人道的行為など「人道に対する罪」にあたり、戦争犯罪である。

152 日弁連は、日本政府と古河機械金属に対して、被害実態の把握、責任の所在の明確化などの真相究明と謝罪の上での、金銭的処置を含めた被害回復を行うように勧告した。

 足尾銅山観光の展示には年表があり、「補充として朝鮮人労働者を使用」「捕虜となった中国人が坑内に就労」とあるが、強制性についての記述はない。2006年、足尾町が日光市と合併するときに発行した『足尾博物誌』の年表に「朝鮮人労働者が労働に従事」「中国人が強制連行され、坑内労働に従事」とされ、朝鮮人には強制性を明記していない
153 中国人を追悼する「中国人殉難烈士慰霊塔」は石とコンクリートでできていて、裏側に110人分の死者名が刻まれているが、朝鮮人を追悼する碑は木製で、「足尾朝鮮人強制連行犠牲者追悼之碑」が10本ほど建てられ、その横に木製の看板があり、墨で死者の氏名が記されている。小滝坑周辺に無縁の墓石が散在していた。

 田中正造「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」1912 これは足尾鉱毒被害者が移転させられ、その抗議が弾圧された時の言葉である。

(2007月調査




章 藤田組花岡鉱山

1 花岡鉱山

157 2002年9月、秋田県大館市で、戦時下での強制連行に関するフォーラムが開かれた。1945年6月30日、大館市花岡で、花岡鉱山の整備を請け負った鹿島組へ強制連行された中国人が蜂起した。

 秋田県北方には黒鉱*鉱床があり、銅・金・銀・亜鉛・鉛などを産出する。花岡、小坂、尾去沢(おさりざわ)、小真木などの鉱山があった。

*黒鉱は、銅・亜鉛・鉛の原料となる暗灰色の緻密な鉱石。

 (鹿島組花岡での中国人蜂起に関して、)2007年、東京高裁で中国人被連行者と鹿島建設との和解が成立し、NPO「花岡平和記念会」が設立され、記念館が2010年に完成した。
 フォーラムでは、花岡、長崎、広島、七尾、ウトロ*、高槻、雨竜などの地域報告、戦後補償裁判の総括、中国人遺骨の行方、中国人船員の連行、東北での連行状況などの報告が行われ、花岡現地でのフィールドワークも行われた。

*ウトロは京都府宇治市にある地域の名称。戦時中ここに飛行場が建設され、大勢の朝鮮人が連行され、今でも朝鮮人が住んでいる。

158 (大館市)現地で活動を続けてきた李又鳳が証言した。解放後大館を中心に4万人の朝鮮人が在住し、朝鮮人連盟の活動が行われたこと、生きるための酒造りが弾圧され、検挙者を出したこと、自由労働組合を結成して活動したこと、遺骨送還運動を担ったことなどを証言した。
 
 戦時下、花岡鉱山は年間3000トン以上の銅を産出した。1943年12月、国策会社帝国鉱業開発が、藤田家が所有する藤田組株式100万株を、譲渡代金未定のまま、帝国鉱発名義に書き換えて、花岡の経営権を握った。これによって経営の実権が政府に移り、大規模な増産計画が立てられ鹿島組がこの鉱山の整備を担った。
 資料「華人労務者事業場別就労調査報告書」の、花岡鉱山分と鹿島組花岡分とがある。
 花岡鉱山の事業場報告書には、1944年の生産量が指定されたと記されている。
159 花岡鉱山に2000人の朝鮮人が連行され、中国人と連合軍捕虜はそれぞれ300人が連行された。
 鹿島組花岡への連行数は、中国人が1000人で、連行期間中の中国人死者数は400人を超えた。
 花岡事件の経緯は『大館市史』にまとめられている。鉱山史として同和鉱業の『創業100年史』がある。
 厚生省勤労局名簿には花岡鉱山に連行された1965人分の朝鮮人名簿がある。1942年7月から始まり、1945年1月までである。
161 中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」に1942年6月までの連行数が記されているが、花岡鉱山についての記載はない。
 花岡での朝鮮人の数は、花岡鉱山への朝鮮人連行者数が2000人で、鹿島組への連行者数が600人で、在留朝鮮人が600人だから、計3000人くらいになるだろう。

 証言 鄭龍喆(てつ)(『朝鮮人強制連行調査の記録』関東編)「少しでも遅れると殴られ、逃亡を防ぐためにお金を渡されず、逃亡して捕まると両足にツルハシを入れて板場に座らせ、その上に乗って上下に揺らした。竪坑に横穴が空き、水と土砂が流入し、労働者が埋もれた。土の中から這い出そうとし、手の指の肉が取れて死んだ人がいた。4人の仲間と便所から逃走し、富山や千葉で働いた。」厚生省名簿では1942年7月の連行者に「山村龍喆」「逃走」とある。
 金鐘烈によれば、「1942年11月に連行された。鴻之舞から来た労務担当者は警備員を増やした。朝4時半起床、朝礼で整列させられ、皇国臣民の誓詞や宮城遥拝をやらされた。態度が悪いと殴られた。北海道式のタコ部屋的労務管理がなされた。」(「朝日新聞」(秋田版)1972.8.10-11

 1944年5月29日、七ツ館坑で出水し、崩落した。七ツ館鉱床は花岡川の下にあり、その水が坑内に流れ込むことを恐れた会社側は、労務者(朝鮮人11人、日本人11人)の生存を知りながら、落盤口を封鎖した。この事故を契機に花岡川の付け替え工事が行われた。工事を鹿島組が担った。
163 連行中国人が収容された中山寮や中国人の遺体が埋められた鉢巻山跡や大穴は、第二滝の沢ダムの鉱泥の底に沈んでいる。1949年、鹿島組はコンクリートの穴に遺骨を埋め、上からコンクリートを流して固めたて、追善供養塔をつくった。その後、中国人の遺骨をここから掘り起こして、第一次の送還が行われた。400人分の遺骨である。2001年、現地市民団体の保存の声を無視して、鹿島が追善塔を改修し、2002年、この塔の横に「告示」と題する看板を設置し、蜂起日を間違って7月1日としている。

 現地の追悼会6・30行動を記録した『蘇生する六月』がある。
164 そこには中国人や現地住民の証言や集会の記録が収められている。2001年の報告書には、中国人が帰国後に無理やり国民党軍に編入されたこと、1950年の慰霊祭への弾圧などが報告されている。また返還されても遺族の手に渡っていない遺骨も多いとみられる。
 
2 小坂鉱山

 小坂鉱山は19世紀の江戸幕府末期に発見され、銀が採掘された。明治政府の経営後、1884年、藤田組が経営した。黒鉱から銀、銅、亜鉛、鉛が取り出され、鉛、亜鉛、蒼鉛(ビスマス)の精錬が行われた。大館・小坂間に鉄道が敷設され、発電工事が行われた。1910年代後半、労働争議が起こり、日本鉱夫組合小坂支部が結成され、煙害への賠償を求める農民組合との連携も進められた。
 1937年、元山選鉱場が操業し、1938年、沼平第六発電所が運転を開始し、1939年、鉛精錬所が完成し、1941年、新銚子第一発電所が運転を開始し、1942年、元山選鉱場が拡張された。
166 電力供給に向けて十和田発電工事(新銚子第一発電所)が進められた。
 政府は帝国鉱業開発の経営を強化し、1943年、帝国鉱業開発は、日本産金振興を吸収し、藤田組傘下の小坂・花岡鉱山を支配した。1943年12月、帝国鉱業開発は、藤田組株式を帝国鉱発名義に書き換えて経営権を奪い、小坂・花岡鉱山を国家資本の下に組込んだ。

 厚生省名簿には、小坂鉱山の480人分の、多田組小坂鉱山の271人分の名簿がある。小坂鉱山関連で氏名の分かる連行朝鮮人は、750人である。十和田発電工事関連を含めると2000人となる。
167 小坂鉱山には1943年11月から連行が始まり、1945年まで続いた。
 多田組は1945年、小坂鉱山のタリウム工場建設や、東日本溶銅会社小坂工場建設に朝鮮人を動員した。多田組は小坂の相内鉱山の露天掘りと坑道工事にも朝鮮人を動員した。

 証言 申鉉杰(げんけつ) 「慶北盈(えい)徳郡知品面出身で、1923年生まれ。1944年、17歳の時に徴用通知が来た。日本語が少しわかった。下関から汽車で大館まで来た。寮の出口は一か所しかなく、いつも監視が見張っていた。寮は高いフェンスで囲まれていた。逃亡者が捕まると、朝鮮人監督に、別室で袋叩きにさせた。日本語が分かったので、運輸部に配属された。空腹で、体はもやしのように痩せた。慶州出身の李隊長は、1945年、思想問題で警察に連行され、帰ってこなかった。給料は強制貯金され、ほんの少ししか渡されなかった。小坂鉱山で働いていた朝鮮人から渡された埼玉の地図を頼りに、1945年7月、二人で逃走した。木炭車の運転手が、「俺にも赤紙が来て明日出征するから」と、毛馬内駅まで送ってくれた。埼玉県の高麗に行き、日和田山の軍事トンネル工事を請け負う朝鮮人の梅田組の飯場に入り、そこで日本の敗戦を迎えた。」(野添憲治編『秋田県における朝鮮人強制連行』)厚生省勤労局の名簿では申さんは「平田沃田」の創氏名で記載されている。

 金竜水 「小坂鉱山の飯場で二年間朝鮮人を使った。敗戦後遺骨を持ち帰るとき、知人のいない人の遺骨はそのまま残された。」(『秋田県における朝鮮人強制連行』)
 
 中国人は200人が連行され、連行途中の7人を含め62人が死亡した。連合軍捕虜は350人だった。

 花岡鉱山の施設の多くは消滅したが、小坂鉱山の施設は残っている。郷土館に鉱山の歴史と鉱石が展示され、小坂銅山資料も保存されている。『小坂町史』がある。小坂鉱山事務所は、移設後観光施設になった。中国人が収容されていた康楽館も、観光施設になっている。
169 花岡、小坂、花輪、尾去沢、不老倉、小真木の各鉱山に連行された朝鮮人の総数は判明分だけでも4000人超である。『鹿角市史』には強制連行の記述がない。

3 住友鉱業鴻之舞鉱山

170 住友財閥で主に朝鮮人を強制連行したのは、住友鉱業と住友金属である。
 住友は16世紀から銅精錬を始め、江戸期に、阿仁(秋田県)、吉岡(岡山県)、別子鉱山で銅採掘を行った。住友は、資本主義化とともに、鉱業、金属、機械、化学工業に投資し、1904年、四阪島に銅精錬所を新設し、1937年、住友別子鉱山と住友炭礦を合わせて住友鉱業を設立した。住友金属は、プロペラを生産し、ジュラルミンやニッケルを生産した。
 住友鉱業の炭鉱部門は、北海道の赤平、奔別、歌志内、奈井江、九州の忠隈、潜龍、芳野浦等の炭鉱を所有し、鉱山部門は、鴻之舞、伊奈牛、八十士、国富、別子等の鉱山と、四阪島の精錬所を所有した。土肥鉱業と大日本鉱業も住友系である。
 1935年、住友伸鋼鋼管と住友製鋼所とが合体して、住友金属鉱業を設立し、大阪伸鋼、尼崎、和歌山、堅田(滋賀)、豊橋、富山に工場を持っていた。住友電気は伊丹に、住友化学は新居浜と大分に工場を所有していた。住友特殊製鋼が藤沢にあった。
 住友は、炭鉱、鉱山、工場のすべてに朝鮮人を強制連行した。戦時中、疎開工場として兵庫県広野や三重県津に地下工場を建設したときも朝鮮人を使った。その総数は3万人超である。

171 鴻之舞鉱山は金を産出した。(三菱は佐渡金山を所有した。)
 鴻之舞鉱山は紋別市の西南にあり、1916年に金鉱が発見された。坑口は元山と倶知安にあった。
 1930年代は政府の産金政策で拡張した。青化場*を拡張した。

*青化(せいか)法とは、金を水溶性の錯体に変化させて、金鉱石から金を浸出させる製錬方法であり、湿式製錬技術と言われる。シアン化法ともいう。開発者の名をとって、マッカーサー・フォレスト法ともいう。Wikipedia

 1939年、鴻之舞鉱山増産施設臨時建設部が発足した。1942年、政府が金山整理令を出し、1943年に鴻之舞鉱山は休山した。
 朝鮮人数は、1940年1月に302人だったが、1942年6月には1646人となり、この時の日本人労働者数は2611人であった。
172 鉱山が休山となり、朝鮮人は別子、足尾、奔別、花岡、金屋渕(奈良県)に送られた。支山の伊奈牛鉱山(銅、鉛)、八十士鉱山(水銀)にも転送された。(『鴻之舞五十年史』)
173 鴻之舞鉱山の史料は、紋別市博物館と北海道開拓記念館に収蔵されている。紋別市博物館には「住友鴻之舞鉱山文献資料目録(第一次稿)」1988があるが、非公開である。原資料は「寄託文書」扱いで、住友が許可しないと見られない。目録自体は博物館の作成だから、公開を要求したところ、目録を閲覧できた。住友は、1973年の鴻之舞鉱山閉山後40年も経っているのだから、全資料を博物館に寄贈し、閲覧できるようにすべきだ。北海道開拓記念館の鴻之舞鉱山文書は閲覧可能だ。
 資料目録には、「労務手帳関係書類綴 解用報告書(半島)」「貯金番号簿附申込綴(半島労務員の部)」「住友鉱業株式会社八十士鉱移住半島鉱員名簿」「第〇次新規徴用名簿」「第一分団個ハ(人)名簿忠清寮」「半島労務員募集関係書類」「伊奈牛坑半島労務員名簿」「半島人等名簿」「被保険者台帳(喪失分)」「被保険者証」「朝鮮人労務員名簿」などである。
 守屋敬彦編『戦時外国人強制連行関係史料集』Ⅲ朝鮮人2下1991には、朝鮮人名簿や統計が収録されている。
 鴻之舞鉱山への連行者については、1939年10月から1942年9月までの2589人の氏名が確認できる。八十士鉱山では22人、伊奈牛鉱山では116人の氏名が確認できる。
 沈殿池工事を請け負った地崎組へは400人の朝鮮人が連行されたが、彼らは後に東川の工事現場に送られたとのことだ。
174 1939年10月から1942年5月までは「募集」扱いである。次が官斡旋で、1942年6月から行われた。
 そのやり方は、鴻之舞鉱山が北海道庁に連行者数を申請し、それを北海道庁が承認し、さらに朝鮮総督府が許可して行われた。連行者の三割が逃亡し、送還による解雇も行われ、また二年満期で帰国した。(本当か。帰国できなかったケースを耳にするが。しかし、記録にかなりの帰国者数がある。176
 連行者の顔写真が載っている資料もある。「慶尚南道労務者写真名簿第五協和寮」である。しかし、名簿では慶尚南道ではなく、忠南の出身者としている。
176 浅田政弘『北海道金鉱山史研究』に調査記事がある。鴻之舞鉱山以外の北海道の金鉱山、つまり、珊瑠、徳星、北隆、手稲、千歳、恵庭、轟、静狩、大金などでの朝鮮人の連行状況を鉱山ごとに分析している。
 中央協和会の統計では、北海道の金鉱山に連行された朝鮮人数は、1942年6月で、5500人としている。
177 追悼碑に朝鮮人のことが記されていない。現在、上藻別駅逓所の建物が、鴻之舞金山資料館になっている。また紋別市博物館に、鉱山の歴史を示す映像と坑道の模型がある。

 サハリンの警察資料から、サハリンや北海道を主とする逃走者の名簿が発見された。逃亡者名簿が発見された現場の一覧表が178頁にある。

180 強制動員真相究明ネットワークは、2010年9月、韓国で、住友鴻之舞鉱山に連行された南稷(しょく)熙(き)、鄭石龍、朴炳来、孫冠植、姜泰然への聞き取りを行い、『朝鮮人強制労務動員実態調査報告書』(守屋敬彦他)としてまとめた。(同ネットワーク刊2010.12.3

(2010年5月調査)



第9章 石原産業紀州鉱山

1 石原産業紀州鉱山の成立

(1)紀州鉱山の開発

181 8世紀、奈良東大寺の大仏建立の時、紀州から大量の銅が出されたと言われ、古い坑道の壁に14世紀の前半を示す延元二年の文字が残されている。江戸期に紀和町各地で30を超える銅山が開発された。近代になり、石原産業が紀和町各地の小さな鉱山を統合して、紀州鉱山を設立した。
 石原産業は板屋、湯ノ口、地薬、上川などの鉱山を買収し、1934年7月、入鹿村(現熊野市紀和町)に紀州鉱山を開設した。板屋から大嶝(とう)・湯ノ口を経て惣(そう)房に至るトンネルを掘った。つまり、1936年に、大嶝、湯ノ口間の730メートルと、湯ノ口、惣房間の3007メートルのトンネルを掘った。
182 清水組がこの掘削工事を請け負った。トンネルは10キロメートルを超える。その時、朝鮮人を使用したとみられる。
 1937年4月、板屋で選鉱場の建設を開始し、それが1939年7月に完成し、また1942年10月にその選鉱場の拡張工事が完成した。
 石原産業は製錬場を四日市に建設した。1939年5月から1941年までに第一期工事が完成した。工場の敷地造成を清水組が請け負い、岸壁工事を大本組が請け負った。四日市工場の工事場に、清水、春本、高田などのが入っていて、その組が朝鮮人を使用した。
 1941年、板屋から阿田和までの架空索道を完成させ、阿田和駅に貯鉱場を設け、ここから銅鉱を浦神港に運び、浦神港から四日市工場などの精錬工場へ運んだ。
 
(2)石原産業のアジア侵略

 石原廣一郎は1910年代マレーに行き、1920年代、南洋鉱業公司(後の石原産業)で3万人を雇用した。1931年、帰国し、大川周明らと国家主義運動を進めた。大川が神武会を結成したとき、そのスポンサーになり、五・一五事件や、「国家改造・海外拡張」をねらう明倫会に関与した1936年の二・二六事件で、反乱将校を支援し、決起趣旨を上奏した。石原は反乱幇助罪で起訴されたが、無罪になった。(赤澤史郎・粟屋憲太郎編『石原廣一郎関係文書』)
185 石原は紀州鉱山の他に、久宗(徳島)、旭(大分)、円満地(和歌山)などの鉱山を所有し、植民地には美田(樺太)、石峰(朝鮮)などの鉱山を所有した。
 1941年12月、石原は南進論を持論としていたので、戦争を支持した。石原は、マレー半島の工場をすでに経営していたが、軍の指令を受けて、鉱山を増やした。
 マニラ支社は、カランパ(鉄)、ピラカピス(銅)、アンチケ(銅)、シパライ(銅)などを所有し、ジャワ支社は、ソロ(銅)、サワル(鉛)、バラン(水銀)、レンバン(褐炭)などを所有し、昭南(シンガポール)支社はトト(金)、コタテンギ(錫)、マラッカ(ボーキサイト)、バヤル(ボーキサイト)、ケマラン(鉄、マンガン)、セミンゴール(錫)、南岸(ボーキサイト)を、そして海南島の田独(鉄)や、ボルネオ島のラウト(炭)を所有していた。また石原産業は海運業も経営していた。
 1945年12月、石原廣一郎は戦争犯罪人として逮捕され、巣鴨に拘置されたが、1948年12月、岸信介、安倍源基、笹川良一、児玉誉士夫らと共に釈放され、経済侵略(財閥の戦争責任)と強制労働(植民地・占領地での戦争犯罪)の追求が曖昧になった。

2 石原産業紀州鉱山への朝鮮人強制連行

(1)連行者数

186 石原産業紀州鉱山への朝鮮人強制連行を示す資料に、中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」(1942、以下史料1)、「国民動員計画に依る朝鮮人労務者状況調」(1944.12、「三重県知事引継書」1945所収、以下史料2)、厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」(石原産業紀州鉱山分1946、以下史料3)がある。
 1939年から連行が始まり、史料1と史料3の統計から判断すると、連行者総数は1357人であるが、史料2の、1944年末の連行数1225人に、史料3の、1945年の連行数134人を加えると、1359人となる。
 石原産業四日市工場にも、1944年から1945年にかけて、300人が連行され、(石原廣一郎『創業35年を回顧して』)これも加えると、1650人となる。
 紀州鉱山の産銅量は、1943年で2800トン、日本第六位であった。
187 史料3の名簿の集計表では875人だが、名簿では729人であり、名簿に欠落がある。
 紀州鉱山への朝鮮人連行は、1939年の承認を受けて、1940年に行われた。内務省警保局『社会運動の状況』(1941年分)の中の「募集に依る朝鮮人労務者移住状況」から、1939年分の「募集」連行者の1940年末の状況を知ることができる。
 三重県分は200人の予定に対して、連行実数は198人であり、そのうちの58人が1940年末までに逃亡した。
 1940年から1945年まで、14回の連行があったと推定できる。他の鉱山からの転送者数は1350人である。

191 連行に従事した1915年生まれの許圭によると、会社が連行人数を決め、大阪の鉱山局に申請し、各郡への割り当てが決まり、許可証を受ける。朝鮮に行き、道庁や警察に挨拶に行き、金を渡す郡警察で名簿と徴用者を引き渡され、指定列車で釜山へ行き、船で下関へ、下関から列車で大阪を経由して阿田和へ行き、トラックで紀州鉱山へ連行した。(1997年聞き取り。)
 許は1940年から1945年にかけて朝鮮人を連行し、連行者の労務係をした。江華、三陟(ちょく)、陽平、永川などから連行した。三重県矯風会のテコ入れで、労務担当の社員になった。三重県矯風会(のち協和会)は、在日朝鮮人を強制連行政策の手先として利用した。
 1943年4月、大分の旭鉱山から紀州鉱山へ転送があった。1940年12月末に連行された宗福興の証言と持参写真から、この転送が明らかになった。(韓国・強制動員被害真相糾明委員会所蔵資料)

(2)抵抗・逃亡と争議

 三重県知事引継書に、1944年12月末の紀州鉱山への連行者1225人中、376人が逃亡したとある。逃亡率30%である。
192 1944年までの逃亡者数376人に、1945年度分の逃亡者数50人を加えると、420人となる。
 1944年、300人の朝鮮人の連行の他に、6月に連合軍捕虜が300人連行され、さらに木本中学、南牟婁(ろう)高女、立命大、上智大の学生や、勤労報国隊員の動員も行われた。これらを合わせると800人となる。全体の労働者数は3000人超だったと言われる。
 1944年に争議が起こった。
193 日本鉱山協会「半島労働者に関する調査報告書」1940.12によると、連行された人々は三か月間の訓練を受け、「日本臣民にして産業戦士として来山した」ことを鼓吹され、「皇国臣民の誓詞」を奉誦させられた。浴場、食堂、社宅は日本人とは別であった。
 入山して二か月後、本番の賃金が低く、また請負制が行われないことを理由に、12~13人が作業を休んだ。鉱山側は日本人並みの本番の賃金と請負制の検討などを約束して「処置」した。
 連行された人々は1940年に賃金差別に対するストライキを起こし、差別の撤廃と賃金の増額を求めた。また満期帰国や家族の呼び寄せ、労災補償なども求めたのだろう。
 1941年7月、130人の連行者が争議を起こし、警察官に暴行を加えたとして30人が検挙され、金子命坤ら13人が、公務執行妨害罪や傷害罪で木本区裁に送検された。(『特高月報』)
 1944年2月、第二協和寮の賄夫婦(朝鮮人)が飯米を横領したとし、26人の朝鮮人が抗議したが、全員が検挙され、26人が書類送検され、鉱山側へ引き渡された。(『特高月報』1944.3
 1944.7、病者に対する待遇改善を求める争議が起きた。これに658人中の143人が参加した。
194 八紘寮の朝鮮人は舎監が戻ってくると、病者の待遇改善を求めた。これに対して、鉱山側は、警察力で弾圧し、警察官がリーダーの金らを施縄して検挙すると、一同は喊声を上げて広場に集合し、また8人が検挙された。
 この8人は8月5日に送局され、8月15日、木本区裁で有罪判決を受けた。懲役8カ月1人、懲役6カ月1人、懲役6カ月執行猶予3年が2人、懲役5カ月執行猶予3年が1人、懲役3カ月執行猶予3年が1人だった。
 『特高月報』によると、朝鮮人は「連れて行くなら寮生全部を連れていけ」「俺が死んだ後は皆がいるぞ」と叫んで抵抗したと記されている。(『特高月報』1944.8
195 許圭証言 戦争終結直前、坑道入口に「朝鮮民族は日本民族たるを喜ばず。将来の発展を見よ」とカンテラの火で焼きつけられていた。当局はこの落書きを問題視し、憲兵が派遣され、仕事を中止して犯人調査が行われた。
 三重県知事引継書に記されている、1944年末時点での朝鮮人総数2288人と、連行者在留数800人を基にして、連行者以外に鉱山周辺に1500人の朝鮮人が居住していたと推察できる。これらの朝鮮人は付近の石原産業の薬師炭鉱や妙法鉱山へ動員された人々とみられる。
 紀州鉱山南方の和気地区にある本龍寺に朝鮮人の遺骨が残っていることを島津威雄らが発見した。その遺骨は1945年8月3日に20歳で死亡した安陵晟(せい)の遺骨の可能性がある。
196 厚生省報告書にも石原産業薬師炭山に動員された9人の名簿がある。彼らは1945年4月以降に雇用されている。このころ2000人の朝鮮人が紀州鉱山周辺に在住していた。
 1945年9月に連合軍捕虜が帰国したが、朝鮮人の帰国ははかどらず、11月、朝鮮人760人が帰国を要求して争議を起こした。(『三重県の百年』)
 連行された朝鮮人が帰国したのは12月だった。12月24日に314人が多くの未払い賃金を残して帰国した。また独自に帰国した人も多かったはずだ。

(3)死亡者数

 石原産業編「従業物故者忌辰録」は、1940年から45年までの朝鮮人死者8人の氏名を記述しているが、このうち厚生省名簿の5人の氏名と一致するのは一人だけである。また厚生省名簿の統計では10人となっている。
 この二つの史料と「紀州鉱山の真実を明らかにする会」の調査資料によると、紀州鉱山での朝鮮人死者は35人、四日市工場での死者は3人、計38人分の死者の名簿を作ることができる。197しかしこれがすべてではない。
198 「従業物故者忌辰録」には、趙龍凡、曺春木が戦没とされているが、厚生省報告書名簿では二人が徴兵されたとあり、その後の生死は明らかにされていない。

 史料の多くが隠されたままである。

3 権利と尊厳の回復に向けて

 厚生省勤労局調査報告書は誤りや脱落が多く不十分である。1990年代、韓国政府が日本政府に対して強制連行関係名簿の提出を求めたことから、この厚生省勤労局調査報告書のコピーが韓国政府に渡され、それが在日韓国民団によって公開された。しかし、日本政府は日本国民に対してこの報告書を公表していない
199 どこへ連行されたのかも、生死が分からないという人もいる。紀州鉱山に連行された1350人のうち600人の氏名が判明していない。
 日本政府と企業は一体となって植民地朝鮮から、甘言や拉致によって連行し、労働を強要した。この強制連行は奴隷化であり、戦争犯罪である。今でも連行実態が隠されていることは、この戦争犯罪が継続中であると言える。連行され、弾圧され、死亡した人々の氏名が明らかにされなければならない。
 日本政府、石原産業、地元警察、裁判所は、関連資料を公開すべきだ。学籍簿も調べるべきだ。石原産業内に連行者名簿があるはずだ。
 1990年代に入り、日本の過去の戦争犯罪に対して、アジアの民衆がその事実を明らかにし、賠償させ、後世に正しく伝えるようにという要求が出された。今戦争によって踏みにじられた人間の権利と尊厳の回復にむけての意思表示が続いている。
 1997年、「紀州鉱山の真実を明らかにする会」が結成され、調査を始めた。同会は鉱山の現地調査と江原道麟蹄郡・平昌郡などへの現地調査を行った。麟蹄郡では、紀州鉱山に連行された金興龍・丁栄鈺・孫玉鉉(けん)・金石煥らの、また平昌郡では、金烔(とう)儀、尹東顕・秋教華・崔東圭らの聞き取りをした。労務係の許圭からも聞き取った。
200 事実を明らかにし、連行の責任追及を行い、後世に正しく伝えなければならない。史料の発掘と公開が求められる。史料は政府、企業、紀和町内に残っていると思われる。地元での調査と証言の収集が求められる。
 紀和町の町史や鉱山資料館には、連合軍捕虜についての記述や展示はあるが、朝鮮人については少ない。戦時下1350人を超える朝鮮人が紀州鉱山に連行された事実を明らかにし、そこでの抵抗を評価し、死者を追悼する必要がある。1944年末、鵜殿警察署管内に2000人を超える朝鮮人がいたのである。
 クマノ・ムロという地名は古朝鮮語に由来するとみられる。この地にはそのような地名が多い。真実を明らかにし、友好に向かう作業は地域でもできることだ。
 『紀和町史』は、旧連合軍捕虜が1990年代に来日し、「許すが忘れない」と紀和町で発言したと伝えている。これは歴史的な和解と今後の友好に向けた言葉である。これは日本人自身の人間性の回復につながることだ。

4 紀州鉱山朝鮮人追悼碑

 2010.3、紀州鉱山へ強制連行された朝鮮人を追悼する碑「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑」が完成し、3月28日、熊野市紀和町で除幕集会が開かれ、120人が参加した。
201 1940年から45年にかけて1300人余の朝鮮人が石原産業にによって連行された。イギリス兵捕虜も連行された。紀州鉱山関連で死亡した朝鮮人の氏名は、この10数年の調査で、35人が判明しているが、故郷が判明した人は6人だけである。本名が分からない人も多い。調査の過程で追悼碑をつくる会が結成された。

 除幕集会は、テビョンソ、ケンガリ、チンなどの楽器による追悼演奏で始まった。碑文は次の通りである。

追悼
朝鮮の故郷から遠く引き離され
紀州鉱山で働かされ、亡くなった人たち。
父母とともに来て亡くなった幼い子たち。
わたしたちは、なぜ、みなさんがここで
命を失わなければならなかったのかを明らかにし、
その歴史的責任を追及していきます。

202 碑の横に建立宣言が掲示されている。そこには、1940年から45年までに1300人超の朝鮮人が強制連行され、強制労働させられたこと、これまでに知りえた朝鮮人の死者数は35人であること、紀州鉱山では連行朝鮮人によるストライキなどの抵抗があったこと、石原産業が海南島などアジア各地で強制労働を行ったこと、この追悼碑を起点に、紀州鉱山をはじめ海南島やアジア太平洋各地で、日本政府・日本軍・日本企業によって命を奪われた人々を追悼し、その歴史的責任を追及する決意などが記されている。
 碑文朗読の後で追悼の舞が演じられた。白衣の舞は、死者の名前が記された石の前にうつ伏し、天に向かって刺される指、閉じられたまなざし、真横に突き出される腕、開かれるまなざし、空を舞う白く短い布、地に落ちた布は拾われ、再び翻る。
203 舞の後、韓国現地で収集された、紀州鉱山に連行された人や遺族の言葉が代読された。
 次に駐名古屋大韓民国総領事館領事など参加者が発言した。江原道麟蹄郡で調査に関わった韓国の参加者は、「過去が明らかにされる中で友好が深まる」と語った。また地元の紀南国際交流会や老人会代表が追悼会に賛同する旨を述べた。
 主催者「紀州鉱山の真実を明らかにする会」の代表、総連三重、民団三重の代表が発言した。
 献花とテビョンソによるアリランの演奏が行われた。
204 除幕集会の後に、屋内で集会が開かれ、追悼集会を年1回行うこと、植樹や説明板の設置、石原産業の企業責任の追求、資料館での展示の追加や行政文書の公開、市史への記述の追加などの要請、海南島やマレーシア、フィリピンなどでの調査活動、冊子や映像の作成などの課題が提起された。

(初出「紀州鉱山への朝鮮人強制連行について」『熊野誌』四三 熊野地方史研究会1997
「朝鮮人関係追悼碑の調査」『戦争責任研究』六八 2010



第10章 天竜の銅鉱山

209 浜松の北、天竜川沿いに、久根鉱山と峰之沢鉱山がある。久根の経営者は古河市兵衛で、峰之沢の経営者は日本鉱業である。石川県小松駅の南方に尾小屋鉱山があり、ここに峰之沢鉱山から朝鮮人が転送された。尾小屋鉱山の経営者は横山隆平である。

 久根・峰之沢の両鉱山は、浜松市天竜区にあり、銅鉱を産出した。労働力として朝鮮人1000人が連行された。また峰之沢鉱山には中国人200人が連行された。
 
1 古河鉱業久根鉱山

210 久根鉱山の始まりは18世紀の片和瀬鉱山である。1892年、原久根鉱山として採掘がすすめられた。鉱毒汚染に地域住民が反対し、1898年、政府は採鉱・精錬の停止を命じた。
 その後、古河市兵衛が久根鉱山を買収した。
 1930年代後半、久根鉱山の名合支山での採掘がはじまった。職場は戦場化され、収容所化された。「産銅報国」が叫ばれ、1944年、「大増産運動」「決戦皆勤運動」が取り組まれた。
211 「出せ一山の底力」「今こそ示そう久根魂」の大のぼりがはためき、「ここより戦場」の立看板が出された。三交替制であったが、7時30分に入坑し、21時まで働かせることもあり、危険な乱掘が進んだ。
212 連行された朝鮮人は日本人坑夫のことを「先生」と呼ばされた。
 募集条件と違うため、朝鮮人はストライキを起こした。リーダーは山香駐在所で特高に縛られた。逃走者は会社の従業員が飯田線豊橋駅で監視した。日本人坑夫は朝鮮人を2~3人連れて坑内に入った。朝鮮人は日本名をつけられた。例えば「金田太郎」は家族連れで3年くらいいたが、最後は青白くよろよろしていたという。(沢田猛『石の肺』)
 鉱山は収容所となり、皇民化政策で朝鮮人の民族性を否定され、警察と労務係が監督し、生きて故郷に帰れても、胸に蓄積された鉱滓(こうさい)が体を蝕んだ。

 厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」によれば、1940年8月から1942年5月まで「募集」や「縁故募集」と称して朝鮮人140人が連行された。
 1942年11月から1944年5月までは「斡旋」形式で、181人が四次にわたり連行された。またこの時伊豆の持越鉱山から11人の朝鮮人が転送された。(持越鉱山は、伊豆半島の中央部よりやや西寄りの山中にある。)
213 1944年11月から1945年5月まで徴用形式で三次にわたり137人が連行された。また1945年6月、峰之沢鉱山*から30人が転送された。 *峰之沢鉱山は浜松市天竜区にある。
 以上久根鉱山に500人の朝鮮人が連行された。

 中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」によると、労務動員計画によって、1940年に60人、1941年に60人の連行が承認され、1942年6月までに120人が連行されたが、その時の現在数は86人しかいなかった。
 中央協和会の『協和事業年鑑』によれば、朝鮮人労働者に対して皇民化・就労訓練が行われた。1940年8月から11月まで、仕事の交替時間を利用して、「一般教科」「国語」「礼儀作法」などの「指導」がなされた。彼らは民族の言語や氏名を奪われ、「皇民」として生きることを強制された。
214 朝鮮人は逃亡した。厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」によれば、久根に連行された朝鮮人458人(転送者分を除く)のうち、1945年8月15日現在で、259人が逃走に成功し、帰国送還者が70人で、現在数は129人であった。1944年5月に「斡旋」によって連行された者54人の中の45人(83%)が、1945年8月までに逃走に成功した。1945年1月に「徴用」で連行された44人は、6月14日に集団逃走を取り組んだ。
215 1945年6月、7月には50人前後が逃走に成功している。

 聞き取り証言 1941年に久根鉱山に入社し、選鉱場での1年の見習いの後、事務を担当した松浦の証言。
 「労働者数は600人で、その構成は、日本人坑夫、学徒動員者、勤労報国隊、転換労務者、朝鮮人であった。学徒動員は1年間、半年で交替した。3年生と2年生で構成され、沼津工専(沼津工業高校)の採鉱科(採鉱冶金科)から来た。勤労報国隊は1年交替で、浜松や磐田*方面の商店主などで構成され、板運び、丸太運びの雑用をした。伊津の金山などから久根に送られてきた転換労務者もいた。 *磐田市は浜松の東にある。
 戦時中は金山の金よりも鉄や銅そして人間が求められた。太平洋戦争に入って朝鮮人労働者が増えたが、それまでは村内に朝鮮人の古物商が1~2軒あるだけだった。逃走するには飯田線で豊橋方面に逃げるしかない。労務担当は、朝鮮人が朝出勤しないと現場から連絡が入ると、労務係が社宅にいるかどうかを調べ、不在なら張り込んだ。徴用された日本人は、名古屋の三菱や豊川の海軍工廠などへ行った。」(久根にて、1990年談)

 久根鉱山の資料庫は豪雨で流され、資料が散逸したという。廃坑跡の坑口からは今でも鉱毒水が流れ出ている。
216 鉱山跡に鉱毒用沈殿池がつくられた。

 名合支山への道中で会った老女は、「朝鮮人の家が天竜川の河原にあった。隣に私の住んでいた家もあった」と言った。そこは今ではダム建設によって水没している。
 佐久間町山香地区の北方に、明光寺がある。
 平出猪象(1927年生)は、戦後復員して久根鉱山に入り、そこで24年間働き、塵(じん)肺となり、訴訟を担った。
 「1942年ごろ朝鮮人が増えた。350人くらい働いていた。1942年ころ朝鮮人が家に大勢遊びに来た。私の父は『指導員』とされ、技術を教え、『先生』と呼ばれていた。連行されてきた人の中には、医者としての仕事を失い、無理に日本に行けと言われて来た人もいた。私は1943年から45年まで戦争に行っていた。
 朝鮮人は逃げても会話ができず、三信鉄道の切符が買えなかったので、仲間を探して豊橋方面に逃げたようだ。朝鮮人は集落をつくっていたから、その中に逃げ込んだようだ。逃げると会社から警察に連絡し、憲兵・警察が動き、連れ戻した。警察内に専門の人がいた。連行者50人に1人の割合で監督者がついた。在郷軍人が朝鮮人を監視した。労務係になったのは、朝鮮巡査や軍隊出身者だった。朝鮮長屋を在郷軍人が監視した。大輪近くの名合支山にも朝鮮人がいた。
 朝鮮人は人柄がよく、優しく親切だった。仕事がきついとき、日本人は無視して通り過ぎるが、朝鮮人は声をかけて手伝ってくれた。大事にしてやると恩義を忘れない。私の父の体を心配してくれ、戦後朝鮮から手紙がたくさん来た。
217 私は1972年から塵肺訴訟を行い、朝鮮人労働者についても調べて陳述した。運動がなければ世の中は変わらない。」(佐久間にて、1990年談)

2 日本鉱業峰之沢鉱山

217 峰之沢での採掘は17世紀にはじまる。「金山地蔵」「女郎塚」などがその名残だ。1888年、峰之沢鉱山と命名され、1907年、日立鉱山を開発した久原房之介が峰之沢鉱山を買収した。
 1920年、鉱山火災で一時休山したが、1934年採鉱を再開し、1938年、日本鉱業の直営となった。

(1)朝鮮人強制連行

218 日本鉱業は1939年から1941年までに全国で1万人の朝鮮人を連行した。
 1945年1月、中国人が強制連行された。1945年2月、鉱山火災が発生し、休山となり、4月、中国人は日立鉱山に転送され、朝鮮人の一部60人は尾小屋鉱山*に転送され、6月、朝鮮人の一部30人は久根鉱山へ転送された。 *尾小屋(おごや)鉱山は、石川県小松市の東南方にある。

 厚生省「朝鮮人労務者に関する調査」によれば、1940年から45年にかけて496人が連行された。中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」によれば、1939年から1942年6月までに180人が「募集」で連行された。
219 1943年から1944年まで「官斡旋」で201人が連行された。
 1944年11月から1945年1月まで「徴用」で90人が連行された。他に「縁故」で1938年から1944年までに25人が連行された。
220 1940年から45年にかけて連行された496人のうち、1945年8月までに逃走に成功した者が、240人であり、帰国・送還者は78人であった。
 「徴用」された朝鮮人の逃走率は低いが、「募集」や「斡旋」では高く、61%である。「徴用」で低いのは取り締まりの強化のためと思われる。

 1941年10月、原田星鶴ら20人が争議を起こした。配給で肉が手に入らず、昼食に肉が入っていないとして20人が憤激し、朝鮮人賄夫婦を屋外に連れ出して殴打乱暴した。警察が7人を検挙し、本籍地に送還した。(『特高月報』1941.10、『在日朝鮮人関係資料集成』四 所収)
221 厚生省の「朝鮮人労務者に関する調査」の名簿によると、原田星鶴は京畿道水原郡出身で、1941年7月に連行された。この時の連行者84人のうち、逃亡者は42人、帰国送還者等は36人であった。これは「募集」であった。

 1943年9月21日、峰之沢で争議が発生した。「国民動員計画」によって連行された朝鮮人のうち39人が関わった。「訓練」期間中だった。飲酒を禁ずる「隊律」を破ったとして飯場頭が一人の朝鮮人を叱責すると、同僚の朝鮮人が飯場頭を殴打した。中心人物2人が検挙され、他は「厳諭」された。当局はこれを「誤解に基づく闘争」とした。(『特高月報』朝鮮人運動の状況1943.10、『在日朝鮮人関係資料集成』五 所収)

222 小池善之「『厚生省調査報告書』と朝鮮人連行」は、厚生省名簿の誤りを指摘している。
 全華寿は1942年5月、慶尚南道固城郡から、面の役人と警察官の命令で連行された。飯場には外から鉄の棒がかけられ、暴力は日常的で、逃亡者は皆の前で叩かれた。全は二年後に帰国したが、厚生省名簿では6か月後に逃亡したとされる。また全の知人の巴山点玉は、連行4か月後に落盤事故で足を切断して帰されたが、厚生省名簿では「1943年9月逃亡」となっている。

 厚生省名簿では逃走日が月末であるため、「逃走日」は、逃走と処理された日を指しており、実際に逃走した日を指していない。
 日本鉱業「所長会議資料三」1941(『朝鮮人強制連行の記録』所収)によれば、日本鉱業は取締方法の確立をもとめ、「内地人を割り当てず、すべて移入半島人により労務供給」が行われることに関して、作業能率の低下を懸念して、監視と統制を強めた。
223 証言 山本萬(1926年生) 峰之沢鉱山で事務員をしていた。「入社後現場事務所で働き、その後事務所に移った。戦時中の乱掘で坑内が荒れ、落盤が多くなり、1947年から48年にかけて事故が増えた。
 入社時の労働者の構成は、日本人800人、朝鮮人30人くらいで、後に中国人が200人入った。
 事務担当者として朝鮮人を受け持ち、出勤状況をつかみ、賃金を算定する経理を担当した。坑内は一交替だったが、忙しくなると二交替になった。逃亡者は秋葉山を越えて逃げた。川沿いだと見つかるからだ。戦後、佐久間町浦川で、逃亡朝鮮人に会った。逃亡後現地に住み着いていたのだ。
 鉱山に、生産管理のための軍政官が駐在した。賃金は三形態あった。本番式(日給固定制)、半請(半分が本番で、半分が請け負い)、請負式(切羽から〇〇トン掘って運ぶと〇〇円など)である。いずれも日給制だった。労働者は4人で1集団(掘削係1、支柱係1、運搬係2)を構成し、グループごとに賃金を支払うことが多かった。職域ごとに賃金が決められていた。
 朝鮮人の名簿には、番号とともに朴〇〇、金本〇〇と書かれていた。軍隊出身者や朝鮮巡査出身者が、労務担当をしていて、7~8人いた。見張りと警戒をしていた。
 朝鮮人の飯場は「赤ズリ」にあった。半島飯場と呼ばれ、豚をさばき、ドブロクをつくり、キムチを作っていた。労務担当を除いて、一般の労働者は近づかなかった。家族持ちは日本人の社宅に住んだ。飯場頭の娘が婿を取り、結婚式があって招かれた。飯場のばあさんの葬式もあった。
 1944年ごろ朝鮮人が増えた。労務担当が朝鮮から連行した。朝鮮人が飯場に帰ってこないという連絡があると、労務担当が探しに出かけた。中国人は坑外の仕事をした。衰弱して皮膚病が多く、戦力にならなかった。饅頭を食べていた。」(龍山にて、1990年談)

224 地元の鉱山管理者は「峰之沢には中国人は連行されたが、朝鮮人の連行はなかった」と語った。これは日本の植民地支配と戦争犯罪の責任をはっきりしなかったことの反映である。
 村の老女は「朝鮮人は『半島さん』と呼ばれていた。時々朝鮮のばあさんがチョゴリ姿で山から降りてきた」という。皇民化によって朝鮮人は「半島人」と呼ばれ、民族名が示されなかった。
 龍山村役場の倉庫で、鉱山労働者名簿の一部や戦後の外国人登録関係の綴が発見された。史料調査や、連行された人々からの聞き取りが早急に行われる必要がある。

(2)中国人強制連行

225 日本鉱業峰之沢鉱山の「事業場報告書」の中の「華人労務者就労顛末報告書」によると、1944年、労働力が330人分不足したが、朝鮮人の連行では予定人員の5~6割しか連行できず、実際、逃亡者や帰国者の補充にすぎなかった。また1944年3月、連合軍捕虜の連行を予定していたが、戦局の悪化で中止となり、中国人が連行されることになった。

 静岡県中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会『静岡県峰之沢鉱山中国人俘虜殉難者慰霊報告書』や沢田猛『石の肺』や田中宏・内海愛子・石飛仁編『資料中国人強制連行』を参照されたい。

 峰之沢鉱山の労務担当の板津久一は、中国の塘沽(たんくー)へ出向き、中国人を連行した。そこには衰弱した中国人しかいなかった。(『静岡県峰之沢鉱山中国人俘虜殉難者慰霊報告書』)
 中国人は河北省から狩り集められた。拘禁と粗悪な食料や虐待のため、中国人は衰弱しきっていた。峰之沢鉱山は200人の「契約」を結んだ。そのうち3人は、収容所から埠頭までの300メートルの間で死んだ。1944年12月23日、塘沽を出港したが、2週間で10人が死亡した。そして下関で3人が死亡し、二俣町で2人が死亡した。1945年1月6日、峰之沢に到着したが、翌朝1~2人が死亡した。死因の三分の一が疥癬、三分の二は大腸カタルとされている。

226 水窪警察署の特高が中国人を監視した。巡査部長他2人が中国人担当として常駐した。中国人は選鉱や運搬をさせられた。3カ月で66人が死亡し、これまでの死者合計は、84人となった。42%である。
 「華人労務者就労顛末報告書」によると、中国での「募集」機関は、華北労工協会塘沽弁事所で、「自由募集」「行政拠出」「俘虜」が混在したとされる。
 197人は河北省出身だった。農民が144人、商人が12人、苦力が4人などであった。生存者のうち独身が63人、家族持ちが97人となっている。(37人は調査前に死亡)
 中国人が疲労していたため、鉱山側は当初予定していた坑内作業に就労させられなかった。
 中国人は二俣警察署長、磐田勤労動員所長の臨席の下、入山式を行い、1人あたり0.56畳の寮に入れられた。選鉱、選鉱場内清掃、鉄工補助、鉱石の運搬、坑木・杉皮の運搬をやらされた。労働時間は午前7時から午後4時半までとされた。稼働率は、日本人や朝鮮人の70%だった。

 1月26日、韓貴、鄭小牛が、隊長の千景林と通訳の李長清を暗殺して逃亡しようとしたが、事前に発覚し、検束されたが、のちに2人は釈放された。
227 逃走失敗が二度あった。2月28日、蘇向武など4人が、逃走に失敗し捕らえられ、3月27日、李茂徳など2人が逃走に失敗し捕らえられた。

 2月28日火災が発生し、4月5日、中国人は日立鉱山に転送された。(「華人労務者就労顛末報告書」)
 『慰霊報告書』によれば、山に逃げて村人に捕まった中国人は、殴られ蹴られた。村の警防団、労務担当、警察が山狩りを行った。

 証言 何天義編『二戦擄(ろ)日中国労工口述史』第三巻に11人の証言がある。また『中国人強制連行強制労働損害賠償請求第二次訴訟「訴状」』に、畢(ひつ)兆亜、畢兆倉、劉玉洪らの証言がある。
 小池善之「強制連行された中国人(その一証言編)静岡の事例」にも二人の畢さんの証言が掲載されている。

 康慶和は河北省秦皇島市山海関出身で、1944年5月、鉄路警務隊に入り、青年協進社にも参加した。隊長の卓季平らは八路軍と連携していた。八路軍は秋、範庄で県の日本顧問や偽軍を襲撃した。隊の関係者が日本軍に捕らえられ、拷問された。11月、卓さんら7人は北京へ、康さんら9人は塘沽収容所に送られた。虐待と非衛生な環境の中で、死者が次々に出た。脱走のための暴動が起きたが、日本軍に虐殺された。

 12月中頃400人が日本へ連行され、下関を経て、200人が峰之沢に連行された。隊長は塘沽出身の于(う)だった。日本人の係は罵倒し、殴打した。さんは病気になり隔離された。疥癬になる人が多かった。
228 連行された人の80人が死んだ。鉱山で火災が起きたが、朝鮮人が放火したという。火災のため日立鉱山へ転送された。日立で疥癬が治り、二三班の班長になった。(『二戦擄(ろ)日中国労工口述史』)
 畢(ひつ)兆亜らは現在唐山市豊南県に住んでいる。連行当時、畢(ひつ)兆亜は18歳で、畢(ひつ)兆倉は17歳だった。1944年旧暦9月の朝、10人くらいで農作業に出かけるために歩いているとき、日本軍に取り囲まれ、銃剣を突きつけられ、縛られて日本軍の駐屯地に連行された。畢(ひつ)兆亜の兄、畢(ひつ)兆存も連行された。日本軍は食事を与えず、八路軍だろうと尋問し、暴行した。

 劉玉洪は当時23歳で、天津市漢沽(こ)区東尹郷看財村に住み、地主の家で働く農民だった。1944年9月の早朝、地主の家の庭を清掃しているとき、他の三人とともに日本軍に連行され、日本軍駐屯地で畢さんらと一緒になった。

 4日ほど監禁されたのち、3人を含む14人が、労工を収容する寨(さい)上五分所に連行され、さらに塘沽収容所に送られた。食事は饅頭だけで、水はなく、尿を飲まざるをえなかった。夜は逃亡防止のために裸にされた。収容されて20数日後に、電灯を割って逃走したが、発見され、機関銃で撃たれた。感電死した者もいた。隠れていた者も殺された。畢(ひつ)兆亜は、収容4日目に水を探しに行ったところを捕らえられ、暴行され、歩けなかったため、逃走できずに生き残った。この逃走事件で数百人が殺された。中国人にその死体を埋める穴掘りをさせた。餓死者や凍死者も出た。さらに500人ほどが連行されてきた。日本人は日本へ送ると言い、布団と服を配給した。労働契約のないまま、12月23日(新暦)、500人ほどが塘沽から船に乗せられ、出発した。
229 船では饅頭が支給されただけだった。197人が峰之沢鉱山に連行されたが、船中で10人、移動途中で5人が死亡した。ともに連行された李俊嶺はトラックから降りて山道を歩く途中で死んだ。
 鉱山では、塘沽で支給された上着一着で過ごした。隊長が于景林、小隊長は李志芳、于守業、康慶和だった。収容所は守衛や警察に監視され、朝は饅頭が二つ、夜はおかゆが一杯だった。みかんの皮と葱(ねぎ)を拾って食べた。中国人が何度も暴行され、血だらけになった。暖房はなく、夜は冷えた。風呂はなく、疥癬が蔓延し、医者はいなかった。畢(ひつ)兆亜は若かったので、野菜作りをした。逃げて捕まった人は死ぬほどの暴行を受けた。鉱山が火災になり、木の伐採やイモ栽培をやらされた。何日か後にまた火災があった。ともに連行された14人のうち、李俊嶺、畢(ひつ)兆龍、畢汗樹、畢紹青が死んだ。峰之沢で三カ月の間に66人の中国人が亡くなった。事故死はなく、不十分な食事、不衛生、重労働のために、過労、病気、飢餓で死んだ。116人が日立鉱山に転送された。
 中国では、畢(ひつ)兆亜と兄が連行されたため、農地は荒れ、借金生活になった。母は連行を悲しみ、失明した。畢(ひつ)兆亜は、連行され、頭を殴られたため、耳鳴りやめまいの後遺症がある。畢(ひつ)兆亜さんは謝罪と賠償を求めている。(『中国人強制連行強制労働損害賠償請求第二訴訟「訴状」』、小池善之「強制連行された中国人 その一証言編 静岡県の事例」)
 宗雨田、于慶祥、于従沢らは、河北省唐山市開平区栗園鎮于庄出身で、1944年旧暦10月、路上で捕らえられ、唐山の中島部隊に送られて尋問された。その後、塘沽収容所へ送られた。別棟に収容されていた滄州の人々は逃げようと暴動を起こしたが、60人余が殺された
 峰之沢鉱山では、総隊長は于景林で、三小隊の中の一小隊の小隊長は于守業で、班長は于従沢、于広聚だった。日本人は中国人幹部に中国人を殴らせた。日立鉱山に転送され、1945年11月に帰国した。(『二戦擄(ろ)日中国労工口述史』)
 趙文秀は河北省濼(ろく)県小馬庄鎮邢(けい)各庄出身で、17歳の時、日本軍に捕らえられた。楊宗祥は同鎮新庄子出身で、1944年旧暦9月29日に光庄で捕らえられた。龔(きょう)景勝は同鎮金各庄出身で、16歳の時に捕らえらえた。
230 董(とう)連福王凱も同鎮金各庄出身で、董は9月29日に、27歳の弟とともに日本軍に捕らえられた。捕らえられた人々は雷庄に送られ、そこから塘沽へ送られた。塘沽の収容所で虐待され、峰之沢に連行された。
 峰之沢で同郷の李茂徳、龔丙超は逃走したが捕らえられ、日本人からリンチを受けた。そのとき受けた李茂徳の足の怪我は解放後も直っていなかった。趙文秀は一銭も支払われなかった。日本軍によって郷里が破壊され、家屋が焼き尽くされたことに対して、日本政府と企業に賠償と謝罪を求めている。(『二戦擄(ろ)日中国労工口述史』)
 楊生は河北省濼(ろく)県雷庄鎮徐庄出身で、1944年旧暦9月26日に日本軍に捕らえられ、雷庄守備隊に連行され、その後塘沽へ送られた。峰之沢で王景海王瑞徳が逃走したが捕らえられた。日本人は中国人に円陣を組ませ、二人をその中に入れ、隊長に棒で殴らせた。二人は病棟に送られたが、王景海は翌日死亡した。死者は当初は木箱に入れて埋葬されたが、多くなるとそのまま埋葬された。黄玉書は寧河県出身で、1944年10月、日本による労工狩で捕らえられ連行された。(『二戦擄(ろ)日中国労工口述史』)

 中国人収容所は藤下さん宅の麦畑に作られた。麦が50センチくらい育った時、貸すと答える前に、麦が掘り起こされ、飯場がつくられたと藤下は証言した。

 1945年9月19日、于景林ら二人は峰之沢に遺骨を取りに来た。数人の骨を81人分に分骨した。1953年8月18日、遺骨が「慰霊実行委」によって発掘され、9月14日、浜松市の大厳寺で慰霊祭が行われた。1975年、日中友好協会の浜松支部と磐田支部によって、峰之沢の墓地に「殉難慰霊碑」が建てられた。

231 奥天竜の平岡ダム建設現場で連合軍捕虜が酷使され、戦後、捕虜虐待が厳しく追及された。秋田県花岡鉱山でも中国人への虐待が犯罪として追及された。
 峰之沢鉱山では中国人の強制連行や虐待暴行の罪は問われなかった日本が中国河北省で行った人間狩りと強制連行の実態は解明されていない。中国へ送還された遺骨は遺族のもとへ送られず、多くが天津市の抗日殉難烈士記念館内に安置されたままになっている。峰之沢の遺骨もそこにある。

 朝鮮人強制連行についての実態は隠されたままである。戦前は民族性を抹殺され、皇民化され、侵略戦争に動員されていた朝鮮人は、8・15後「外国人」とされた。日本政府は植民地支配を正当化しているその責任や戦争犯罪について隠蔽し、天皇制を中心とする支配体制を温存している連行された人々の生死の確認や賠償は行われなかった
232 連行名簿や連行証言についての認識が、日本人の中で共有されていない。
 奥天竜への連行には未解明な点が多い。
 
3 日本鉱業尾小屋鉱山への転送

 峰之沢鉱山の朝鮮人の一部は、石川県の尾小屋鉱山に転送された。
 尾小屋鉱山は石川県小松駅から南に20キロメートルのところにある銅山である。東に白山を望み、郷谷川に沿って大倉岳に向かって南に向かうと、尾小屋鉱山の跡地に出る。社宅跡地に尾小屋鉱山資料館があり、共同墓地内に横山鉱業の追悼碑があり、山神もある。
 尾小屋での採掘は17世紀末に始まった。18世紀末に金山谷松ヶ溝で銅鉱が採掘された。1881年、横山隆平らが開発をさらに進めた。1904年、横山鉱業部が設立された。横山鉱業部は、1895年から経営していた平金鉱山(岐阜の銅山)に加えて、波左羅の五十谷鉱区、五国寺の大谷鉱区、阿手鉱山、白山支山、倉谷鉱区、金平鉱山などを買収した。
233 1919年、尾小屋鉄道による輸送が始まり、尾小屋鉱山友愛会支部が、坑外夫を中心に結成され、労働運動が進んだ。1920年、それが坑内夫に拡大し、争議に突入し、全日本鉱夫総連合会に参加したが、1921年、組織が解体した。
 1927年、横山鉱業部は、発電、運輸、鉱山を分離し、尾小屋鉱山を設立したが、破産し、売山し、1931年、労働者側が売山権を獲得したが、結局日本鉱業に移管された。
234 日本鉱業は金平支山、岩淵支山も買収した。鉱毒水や煙害もすすんだ。
 1939年、日本鉱業は朝鮮人60人を強制連行する承認を得て、1940年2月、尾小屋鉱山の労務課長久手嘉平が朝鮮半島に派遣され、忠清北道清原郡米院面などから「募集」し、2月14日に30人、3月18日に30人を連行した。(「北国新聞」1940.3.24、「朝日新聞(石川版)」1942.4.7)そして4月3日から、連行した59人に対して、第一回労務者訓練が、三カ月間行われた。(『協和事業年鑑』)軍隊的訓練を行い、宮城遥拝、神社参拝などを強要し、皇民化を進めた。(日本鉱山協会資料)
 1940年4月12日、朝鮮人を監視・統制するために、石川県協和会が設立され、これまで警察署単位で設立されていた同仁会は協和会の支会として再編された。(『協和事業年鑑』)
235 1942年12月までに242人が「募集」連行された。その後、「斡旋」で223人が連行され、合計465人となった。逃亡は募集で93人、斡旋で21人で、現在員数は募集で92人、斡旋で196人で、計288人である。(「移入朝鮮人労務者状況調」、『特高月報』など)
 1942年12月までの呼寄せ家族数は128人である。1942年12月までに連行された朝鮮人の総数は、家族を含めて593人である。(『特高月報』)呼寄せられた家族の写真がある。236(「写真目録」)
 「民族別職種別鉱員数」1943.3によると、朝鮮人224人中196人が坑内で、日本人は726人中237人が坑内で働き、朝鮮人の坑内労働比率が高い。(小松現代史の会資料集)
 北幸作『銅に咲く華』も、坑内での日本人と朝鮮人との比率が半々だとしている。
 1943年にも朝鮮人は連行され、1944年10月16日、「半島壮丁労務者練成所」が開かれた。(「北国毎日」1944.10.16)また朝鮮人慰安婦が連行された。
 1945年4月、静岡県の日鉱峰之沢から60人の朝鮮人が転送された。217
236 1943年から45年にかけて200人が連行された。1942年までの連行者数600人を加えると、計800人となる。逃亡者を差し引き、現在員数は200人から300人であった。
237 連行二年後の4月、1940年3月に連行された忠清北道清原郡米院面の13人が、「一生を鉱山で働く」と連署し、国防献金をしたと報道された。(『朝日新聞(石川版)』1942.4.7)皇民化の宣伝である。

 1945年4月に峰之沢鉱山から尾小屋鉱山に転送された60人の名前と住所が「朝鮮人労務者に関する調査」の名簿で分かる。忠南洪城郡、全南海南郡、潭(たん)陽郡、長城郡などから峰之沢へ連行された人たちだ。
 石川県の研究者である朴仁祚(そ)は、これに基づいて、1999年に、忠南洪城郡金馬面で調査を行い、遺族から、1943年に連行された趙萬元(創氏は富村)が帰国後、珪肺で亡くなり、林洪奎は病んで帰り、間もなく死んだことを聞き取った。(朴仁祚「洪城郡調査資料」)
 また、2000年5月、1944年に連行された全南長城郡森西面の金炳(へい)必(1931年生)を探し当てた。金は13歳の時に連行され、父親が徴用を逃れたために、代わって峰之沢へ連行された。4人で逃走し、朝鮮人飯場に入ったが、一週間で捕らえられ、リーダーは殴打されたが、金は14歳で若かったので、リンチを受けなかった。鉱山では雑役をした。その後尾小屋に転送された。(朴仁祚「未知の国に13歳で連行された金炳(へい)必さん」『キョレイ通信』七)

238 強制連行された朝鮮人と中国人の叫び声は、彼らを強制連行し、その後もその罪に問われることもなく、また悔い改めることもなく延命し、政治的・社会的権力を探り続けている者たちを告発する。

(初出「久根・峰之沢鉱山と朝鮮人強制連行」『静岡県近代史研究』20 1994
「日本鉱業峰之沢鉱山『華人労務者就労顛末報告書』(抄)『静岡県近代史研究会会報』一九四 1994.11
「日本鉱業尾小屋鉱山への朝鮮人強制連行」『キョレイ通信』2001」)



第11章 伊豆の金鉱山

1 持越金山

241 1912年、(天竜川沿いの)久根鉱山210で鉱夫800人が賃金要求のストライキを行い、80人が検挙された。湯ヶ島鉱山(伊豆)で鉱夫40人が賃金不払いに反対してストライキを起こした。1913年5月、青野奥山鉱山(伊豆)の創業五周年祝賀会の時に、鉱夫100人が事務所を襲撃した。
242 1919年5月、土肥鉱山で解雇撤回を求めて鉱夫数十人が事務所に押しかけ、所長宅を襲撃し、20人余が検挙された。前年の1918年3月、浜名郡の満俺鉱山会社と亜鉛電解鉱業会社伊豆精錬所で争議があった。
 1920年、蓮台寺鉱山(伊豆)で全国鉱夫同盟会蓮台寺支部が結成された。蓮台寺支部は待遇改善を要求し、3月、ストライキを行った。
 1934年、土肥鉱山で従業員同盟が結成され、2月、坑内籠城ストライキを行った。これより先、土肥鉱山では、一区共済会や坑夫組合などが待遇改善を要求していたが、それに対して会社側は解雇で応じたので、労働者側は従業員同盟を結成したのだ。
 1935年3月、大仁鉱山で労働者100人が、賃上げなど待遇改善を要求した。1936年2月、八幡鉱山で争議が起きたが、全日本労働総同盟が調停した。

(1)持越鉱山と日鉱持越支部

 1914年、持越鉱山で鉱区が発見された。1932年、持越金山が創設された。1934年、清越鉱山が持越鉱山支山として操業を開始した。1936年、持越鉱山、八雲鉱業、橋洞金山(朝鮮)、中外硫黄が合併し、中外鉱業が設立された。1938年、清越鉱山では新鉱脈が発見され、政府は産金を奨励し、採掘が活発化した。
 1930年代の静岡での鉱山労働運動の中心は、持越鉱山だった。1931年持越鉱山で組織化が始まった。東部合同労働組合や、日本労働組合全国協議会の長縄三師団らが組織づくりを担った。1933年9月18日、長縄が検挙された。(『不屈のあゆみ』所収年表)
 1935年12月、持越金山の労働者は従業員大会を開き、会社指定の売店の改善を要求し、1936年5月、賃金三割引き上げなどの待遇改善20項目を掲げた。1936年5月、全日本労働総同盟の静岡県東部組織の支援で、日本鉱山労働組合持越支部が結成された。組織人員1300人であった。1937年2月、全日本労働総同盟静岡県連合会が結成された。他の5つの鉱山でも支部準備会が組織された。
244 総同盟静岡県連の中心は、関東紡績労組沼津支部と、日本鉱山労組持越支部だった。県連の創立大会で山田重太郎が議長に、鉱山労組の三宅寅市が副議長に、鉱山労組の金判権(金山政夫)が書記長に選出された。(『静岡県労働運動史』)

 組合結成以前、労働者には賃金額が明示されず、生活用具は会社の配給所で高価に売られ、労災時に手当がなかった
 1937年3月、持越鉱山の大沢坑でガス事故が起こり、48名が亡くなった。組合幹部が先頭になって救出活動を行い、組合幹部の一人が死亡した。この事故で採鉱能率が半減し、会社が事業不振を口実に、5月277人を解雇した。
 会社は組合を憎悪し、組合を否認し、活動者層を解雇した。組合側は解雇に反対し、団結権を要求し、650人がストライキに入った。会社側は解雇発表と同時に二日間の休業を発表し、暴力団を用い偽電を打ち警察は、争議団員を検挙した
 争議団は、食料品配給所、労働銀行、警備隊、家族委員会、子供会、婦人部、従業員大会などを組織した。日本鉱山労組労働総同盟社会大衆党静岡県連合会、全国農民組合静岡県連合会などが支援した。
 6月、争議団は突撃隊を組織して上京した。その中に金判権もいた。金判権は組合幹部で、情報部長であり、後に副団長になった。演説、交渉にあたった。争議団幹部や本部からの応援者は、持越の達原にあった金夏永(ラーメン業)宅を本拠にした。(「持越鉱業所・争議関係資料」)
245 7月、全従業員が持越鉱山従業員組合を組織し、その顧問一人を総同盟本部から推薦すること、解雇者277人に対して手当金と和解金の支給を行うことという内容で妥結した。(つまり解雇を認めるということか。)争議団内部に不満の声が上がったが、総同盟指導部は、三井系鉱山に団結権を認めさせたとして、会社側と合意した争議団は解団し、日鉱支部は解消させられた。金判権が解団式の開会を宣言した。
 資本側は組合を否認したかった。結局、産業別組合を企業内組合に変質させ、指導部メンバーを解雇した。新組合の発会式は、11月の明治節の日に行われ、一同が君が代を歌い、鉱山監督局、協調会、特高課、中外鉱業本社会長らが出席し、議長は鉱山の労務課長だった。ここで結成された持越鉱業所従業員組合は、その精神を、「産業報国の精神に則り、会社に協力」するとともに、「組合員相互の資質の向上並びに共済その他の福利増進を図る」としている。
 当時の総同盟の活動方針は、「産業協力」であり、資本に「産業報国」を要求し、資本の功利主義と非国家性を批判した。(国粋主義労働組合だ。)
 これは、天皇制に従属し、「産業報国」を基調とする企業別組合の始まりだった。それは労働者の権利よりも、労働者を国家と資本に従属させ、労働者を徴用するものだった。
246 総同盟は団結権を認めさせたことを成果と考えた産業報国は産業協力を取り込み、総同盟運動は自滅した
 1938年12月、労組評議員会は、組合を解散し、総同盟顧問と絶縁し、持越鉱業報国会の結成を決定し、1939年2月、同会が結成された。さらに、田方郡下で、持越、土肥、大仁の各鉱山と、東洋醸造、日本金銭登録器の五社が連合する連合産業報国会が発足した。

 こうして労働運動は国家による徴用に対抗できなくなった。これは植民地朝鮮から徴用・徴兵が行われるのと軌を一にしていた。
 1937年12月、日本無産党員が全国一斉に検挙され、東豆労働組合を担い日本無産党熱海支部のメンバーだった在日朝鮮人労働者が弾圧された。崔徳守、韓徳銖、宗義保ら11人が検挙され、1938年5月、東豆労働組合が解体した。(宗すず・古葉清一『いわゆる騒擾事件』)

(2)持越鉱山への強制連行

247 金の増産政策は、軍需物資の輸入のためだった。政府は鉱山に補助金を出した。
 厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」によれば、1942年3月10日、慶南密陽郡などから持越鉱山に49人が連行され、36人が逃走した。
248 1942年10月18日、11人の朝鮮人が、祭典を利用して逃亡を狙ったが、探知された。朝鮮人たちは監視強化に反感を抱き、帰国を申し出たが、警察が「斡旋」して終息した。11人は「国民動員計画」によって連行されていた。(『特高月報』1942.11
249 1943年、金山整備令によって持越金山は休鉱した。清越鉱山は中止されなかった。持越鉱山から久根鉱山へ15人が転送された。(『戦時外国人強制連行関係史料集』朝鮮人二下)

2 大仁鉱山

 大仁や修善寺などの鉱山は、16世紀末から「瓜生野金山」として知られていた。16世紀末の伊豆には、瓜生野、土肥、縄地、湯ケ島などの金山があった。

 証言 津田諦 「1936年から大仁鉱山の選鉱場で働き始めた。1930年代、帝国産金が、大仁鉱山を買収し、「大仁金山」と命名した。当時帝国産金は、北海道の北ノ王と朝鮮半島の四ケ所の鉱山を所有していた。
250 持越鉱山で労働組合が結成されたころ、大仁でも労働組合的性格を持つ「山中」という組織ができた。
 1943年4月、金山整備令によって大仁は採掘を中止した。大仁から久根、峰之沢に多くの鉱山労働者が転送された。江戸時代の朝鮮キセルが金山に残されていた。これは朝鮮との交流を示すものだ。」1991

 証言 遠藤雪雄 「大仁鉱山の採鉱課で選鉱係をしていた。親方に率いられ班を組んだ朝鮮人が大仁にやって来た。彼らは坑内の雑夫として使用された。(これは強制連行とは違う在日朝鮮人らしい。255
251 女性は選鉱をした。日本人でも徴用を忌避して鉱山へ来る者がいた。」
 「選鉱場では、男10人と女30人が働いていた。この中に朝鮮人が2~3人いた。金山整備令によって採掘が中止された後は、地下工場に転用され、航空機部品製造が行われた。守衛となり、出入りを厳重にチェックした。陸軍の監督官や憲兵が訪れ、「他言してはならない、秘密を守れ」と指示・統制された。1990

 証言 裵(はい)龍好(1916年生) 「1941年ころ大仁に来た。慶尚北道の生まれだ。朝鮮で書堂に4年ほど通ったが、日帝が書堂を閉鎖した。大邱近くで育った。大邱は、同世代の友人の父親が日本人に殺されたり、友人の父親が上海臨時政府に参加したりと、朝鮮独立運動の強い土地だった。光州学生事件の時は小学生だったが、その時レポ役を務めた。メモを渡す役目だった。特高の監視が厳しかった。

*光州学生事件とは、1929年10月30日、学校帰りの旧制中学の日本人学生たち(福田修三ら)が列車の中で朝鮮女学生朴己玉のチマ・チョゴリをからかい、朴己玉の従兄弟の朴準埰が、福田を殴り、日本人生徒と朝鮮人生徒との間に決闘が始まった。警察は朴準埰と朝鮮人生徒だけを逮捕した。
 朝鮮人生徒は日本の警察や、日本人寄りの報道をした光州日報に抗議した。再度日本人学生と朝鮮人学生との衝突が発生し、警察は朝鮮人学生を検挙した。
 光州高等普通学校の高校生は、検挙者の釈放を求めるとともに、日本による統治政策を批判し、示威運動を展開した。その中の250人の朝鮮人が逮捕され、朝鮮人生徒らは同盟休学を結成した。この運動は1930年まで続いた。合計4万人の学生を動員した。
 1953年、大韓民国は11月3日を「学生の日」とした。(ウイキペディア)

252 1933年、愛知県瀬戸市の兄を頼って日本に渡った。兄は粘土掘りをしていた。朝鮮では日帝に土地を収奪された。日本に来ても16~17才では仕事がなかった。大阪の朝鮮人集落で仕事を得た。当時は朝鮮人を採用しない職場が多かった。
 1937年、結婚した。1939年、福井で長男が生まれ、瀬戸に住むことにした。朝鮮人の徴用が始まり、協和会によって1940年、日本車両熱田工場に動員された。協和会は朝鮮人を豊川海軍工廠、名古屋三菱、日本車両に動員していた。賃金は(日本人の)半額だったので、もっと収入の良いところを探した。
 富士川発電工事の募集人が瀬戸に来た。一日3円という甘言で募集した。三人で富士川へ向かった。こうすれば徴用割当から逃れられた。トンネル工事の雑役で、発破の後のズリをトロッコに乗せて運搬する仕事だった。重労働に耐えきれず、7~10日ほど働き、給料をもらい、現場を離れた。
 神奈川県横須賀の久里浜で海軍施設工事の仕事をした。瀬戸には住めなったからだ。飯場はほとんどが朝鮮人だった。スコップでトロッコに土を積む仕事だ。監督に叱責された。賃金を得るとそこを離れ、大仁鉱山に向かった。

253 鉱山は徴用と同じ扱いとされていた。社宅があり家族とも住める。瀬戸から朝鮮人が10世帯ほど、家族を含めて14~15人が、大仁鉱山に入った。1941年の初め頃だった。1943年までここにいた。坑内の雑役をやらされた。ズリを外へ運搬する仕事で、一日1円弱だった。
 労働者数700人から800人中、朝鮮人労働者は100人くらいだった。大仁警察署から協和会の指導員として朝鮮人が一人派遣されていた。大仁鉱山の労働者の自治組織の役員になった。この会は、相互扶助と労働者の要求を会社に差し出す役割をもった。朝鮮人の役員は1人だった。選挙は6カ月に1度行われた。雑役夫100人から4人が役員に選ばれた。役員は鉱夫や選鉱夫からも選出され、役員会を構成した。
 ある日入坑していたとき、カンテラが爆風で消え、暗闇の中を歩いていたら、前日までは貫通していなかった竪坑が貫通していて、5~6メートル下に転落した。幅1.7メートルの穴を、体をすりむきながら下のズリに落ちた。救急所に運ばれたが、深い傷はなかった。腰の骨を痛めた。労務課と交渉し、坑内の仕事から選鉱場の仕事へ配置換えを要求した。役員として世話活動も行った。夫が死んだ選鉱場で働く女性の悩みを聞き、代弁して交渉した。そのためか特高に家宅捜索を受けた。
 1943年、転職を申し出たところ、会社は私の自治活動を嫌がっていたためか、応じた。瀬戸に戻り、1カ月して、岐阜県八百津の丸山ダム工事現場(飛鳥組、大林組、間組)に行った。重労働で住居も不十分だったのでやめた。
254 1944年2~3月ころ、岐阜県蛭川村の恵比寿鉱山へ向かった。タングステンを採掘していた。修善寺で一緒に働いていた4~5世帯がここに入山した。一家は日本人鉱夫の住居の離れを借りて住んだ。神岡鉱山からも恵比寿鉱山に仕事に来ている人がいた。恵比寿鉱山に朝鮮人が強制連行されてきた大井駅から朝鮮人は縛られ数珠つなぎで連行されてきた。朝鮮服の者もいた。彼らは鉄条網を張ったバラック小屋に収容された。その人数は100人ほどになった。逃亡者が出た。警防団が動員され、発見されれば半殺しの目にあった。私の自宅を訪れると装って逃亡しようとした朝鮮人に握り飯を持たせてやった。

 1945年4月、名古屋は空襲で灰燼に帰した。家族を先に朝鮮に出発させ、番交代時に鉱山を離れた。

 岐阜県瑞浪のトンネル工事現場でも働いたことがある。間組が請け負い、川崎航空機の地下工場の建設工事だった。ここで強制連行された中国人に会った。飯場の朝鮮人は飯を食べることができたが、中国人は米ぬかを蒸かした饅頭を朝晩一個ずつしか与えられなかった。中国人は3~4日おきに一人、二人と死んだ。『岐阜県中国人俘虜殉難者遺骨送還事業報告書』1956 によると、39人の中国人が死亡した。
 中国人と話すことを禁じられていたが、話してみた。食物を与えようとしたが、「急に食べると胃をやられる」と言って断られた。彼らは生き延びるために殴られる回数を少なくしているようだった。
255 日本人監督は中国人が休むと樫の棒で殴った。中国人たちは殴った日本人に死体を見せつけているようだった。ここには1カ月いた。敗戦後の10月、未払い賃金を受け取りに鉱山に行くと、鉱山に籍が残っていた。」(1990 春日井市で聞き取り)(ご本人は朝鮮に帰らなかったのか。一旦帰ってまた戻ったのか。家族もまた日本に呼び寄せたのか。)

 「銀行の労務士が調査したところ、大仁鉱山が社会保険に入っていて、私(裵)が在籍した記録があった。厚生省の確認もでき、年金を受け取ることができた。軍の管理下にあった工場、鉱山については名簿が現存するはずだ。」

 裵は1994年に亡くなった。大仁鉱山へ朝鮮人が直接連行されたことはなかったが、徴用を忌避して大勢の朝鮮人がここで就労していた。その実態の解明が求められる。
  
3 日本鉱業河津鉱山

(1)蓮台寺鉱山 

 河津の蓮台寺鉱山での採掘は、17世紀ころから始まった。近代では1910年から採鉱が始まり、1914年に久原鉱業が買収した。1929年、久原鉱業は日本鉱業と名称を変更した。
 河津鉱山では朝鮮人の強制連行が行われた。厚生省名簿によれば、1940年2月から1942年11月にかけて238人が強制連行された。忠北清州慶南晋州からの人が多い。中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」によると、1942年6月末までに、220人が連行され、現在数は128人としている。
 1943年、金山整備令にともない、河津鉱山での採掘は中止され、選鉱場で明礬石蛍石の処理が行われた。「金鉱業整理に伴う労務者配置転換案」によれば、河津鉱山から90人が日光鉱山*に、100人が日立鉱山に転送予定とされているが、厚生省名簿では、日立に94人、日光へ64人、木戸ケ沢へ10人、吉野へ4人が転送されたとしている。 *日光鉱山は栃木県塩谷町にある。

 証言 渡辺佐吉(1922年生) 「1937年から河津鉱山で働いた。日本鉱業河津鉱業所は伊豆地域の蓮台寺鉱山、小松野鉱山、須崎鉱山、白浜鉱山、大峰鉱山、大松鉱山の6か所を所有していた。小松野鉱山は南伊豆にあり、1937年に、日本鉱業が買収した。白浜鉱山からはマンガンが掘り出された。大松鉱山は河津鉱山とも言ったが、1937年から死山化し、1942年(金山整備令は1943年ではなかったか256)の金山整備令で休鉱となった。蓮台寺鉱山には、猿喰坑、桧沢坑、掛橋坑などの坑口があった。
 はじめ小松野鉱山で雑役夫をしたが、後に火薬の管理者になった。鉱石は馬鉄で下田の武ヶ浜に運搬し、船に乗せた。鉱石のほとんどは日立鉱山の製錬所に運ばれた。
257 1940年に200人ほどの朝鮮人が連れて来られた。そのうち60人が須崎鉱山と大松鉱山へ送られ、140人が蓮台寺鉱山で使用されたようだ。朝鮮人はトロッコを引く車夫として使われることが多かった。彼らは写真を撮られ、日本名をつけられ、アルバムに貼られた。
 地下足袋を給与して証明印を押す仕事をした。労働時間は朝の7時から15時までだったが、火薬の関係で朝の6時前から仕事は始まった。
 小頭が蓮台寺鉱山の一区に4人、二区に2人置かれ、労働者を管理した。1990

 証言 神農孟龍(慶南晋州出身、1922年生、下田に在住、1999年没) 蓮台寺鉱山に動員された後で日本にとどまった。病床についていた。厚生省名簿によれば1941年1月に河津に来た。激しい咳が出る。

 証言 高野昇平(1911年生) 1934年から1962年まで蓮台寺鉱山で車夫として働いた。トロッコの押し方を朝鮮人に教えた。仕事は請負制だった。それを「ワッパリ」といった。
258 朝鮮人の家族持ちは日本人鉱夫の間に居住させられた。
 山崎という軍隊出身の労務係が朝鮮人を統率した。朝8時前に職長のところへ割札を出すことになっていた。朝鮮人は4列に並べられ、軍隊式に行進させられた。服に名札を付け、戦闘帽を着用させられ、事務所に近づくと歩調をとって歩くことを強いられた。1990

 「半島人労務者に関する調査報告」(朴慶植編『朝鮮問題資料叢書』二 所収)によると、
259 河津鉱山では20人に一人の割合で「指導員」を置き、二カ月間の「講習会」を開き、毎晩6時半から一時間「国語教授」と「国民精神の陶冶」、「鉱山の知識」の「扶植」を行った。これは「鉱業報国精神」を喚起することをねらったものだった。そして全員を協和会に入会させ、創氏改名や、女性と子供を中心に「服装改正」などを通して「内鮮融和」をねらった。民族意識の台頭には警戒を怠らなかった。
260 「臣民義務の涵養」策として、「国旗」所持、家族居住者に対して「祝祭日」での「国旗」の掲揚、会合ごとの「皇国臣民の誓詞」の朗読、「兵器献納基金」や「協和会下田支会旗新調費」の募金を行った。また「神社参拝」、「出征」軍人の「歓送迎」、「警防団への加入」を計画した。「不良労働者」に対しては「戒告」を行い、「改悛」しなければ、送還するとした。

 河津鉱山では朝鮮人は主として坑内の運搬夫、雑役夫として利用され、時には鉱石の船積みをさせられた。
 賃金は日収最低1円80銭が「保証」されていた。日給制と出来高制が併用された。休日労働は3%増額され、時間外労働に対しては、坑内夫が1割3分、坑外夫が1割2分割り増された。1か月収入が58円98銭となる。稼働奨励のために、精勤手当が二工賃分、臨時手当が、出面一日につき10銭であった。
 社宅は、家族持ちが一戸10畳半、単身者は13畳~9畳の部屋が6~4人に支給された。食費は1日30~40銭が徴収され、寝具貸与は1組1日6銭で、寝具の購入金額に達した場合、本人に支給された。
 朝鮮人の契約期間は2年だった。河津鉱山では「鉱業報国」のために「温交会」が組織され、親睦・福祉・労使協調・共済が計画された。
261 送金・貯金 一人平均毎月、送金は、7円96銭、貯金は11円8銭であった。金銭管理は事務所が行い、班長、指導員の証明がないかぎり払い戻しをしなかった
 労働者の手元には28円が残る計算となるが、その通りになったかどうかあやしい。

 1940年4月20日、蓮台寺鉱山で朝鮮人監督の更迭を要求して争議が発生した。(『特高月報』1940.4)60人が連行された。会社側は日本人指導者を一人増加させることで4月4日に争議を解決した。(5月4日の間違いでは。)

(2)須崎鉱山

261 須崎鉱山は1910年代に発見され、1915年に久原産業に買収された。金、銀、硫化鉄を産出し、高品位のテルル金鉱も発見されたが、1941年の大豪雨で坑内が浸水し、採掘を中断した。
262 証言 田中重利(1917年生) 「1933年ころから8年間ほど須崎鉱山の選鉱場で働き、選鉱の片づけや貯鉱場への運搬をした。連行前から朝鮮人鉱夫は働いていたが、「割当」の形で送られてくるようになった。選鉱場では3~4人の朝鮮人が働いていた。選鉱してトロッコで運搬し、船積みした。
 6人で一つの組を作って請け負った。(トロッコ)一台につき10銭の手当が出た。当時の労働者の平均賃金は日給1円20銭ほどであった。請負の仕事すると、月40円になることもあった。外浦地域は漁師や船員が多く、鉱山で働いたのは二~三人だった。皆、二三年でやめた。白浜や大賀茂からも働きに来たが、東北地方から来る人が多かった。」1990

 練馬区立下田学園の敷地に、鉱山の貯鉱場・事務所・竪坑があった。
 周辺住民の証言 「当時、須崎小学校に、朝鮮人の子供が各学年に二人ほどいて、全体で12~13人いたが、鉱山が水害で閉鎖される1941と急にいなくなった。

263 1940年7月17日、須崎鉱山で、強制連行された朝鮮人がストライキを起こした。閉鉱の1年前だった。(司法省刑事局「労務動員計画に基く内地移住朝鮮人労働者の動向に関する調査」『集成』四 所収、『集成』とは、朴慶植『在日朝鮮人関係資料集成』
 林海成ら28人は、家族呼び寄せの履行を要求していたが、鉱山側はそれを実行しようとしなかった。連行された人々は、家族の呼寄せ、労働条件の向上、賃上げ、差別待遇の廃止を求めてストライキを行った。ストの発端は、7月16日の鉱山での神祭例祭での酒の分配の差別だった。17日の午前6時30分の始業からストライキが始まった。彼らは、家族の呼寄せ、硫化鉄鉱採取に伴う有害性対策などの労働条件の向上、物価高に伴う朝鮮への送金額(の増額)、日本人労働者と比較しての差別待遇の改善などを要求した。
 争議に参加した労働者の多くは坑内運搬夫だった。(当時)日収最低額は1円80銭、請負制で最高賃金が2円65銭、平均日収額は1円98銭であった。下田警察が調査に入ったところ、朝鮮人労働者の要求は、家族呼び寄せの即時履行、坑内作業に対して日収2円以上の支給、坑外作業に対して1円80銭の支給、以上が不可ならば帰国させよ、というものだった。午前9時に10人がストから脱落したが、18名がストを続行した。午後5時、労働者側は要求を撤回して、従来通りの条件で就労した。鉱山側が待遇の「迅速な善処」を約束したからというものだった。
 1940年2月、静岡県産業報国会連合会が結成され、県下143工場に産業報国会がつくられた。

4 土肥鉱業

(1)土肥鉱山

264 土肥金鉱では、12世紀末に八幡神社が建てられ、14世紀の足利政権や17世紀の徳川政権によって金が採掘された。
 近代の19世紀末、土肥の有志が開発を計画し、20世紀に初めて探鉱し、1917年、土肥金山KKが設立された。同社は住友の別子銅山と製錬契約を結び、1931年に住友資本の系列に入った。1934年にストライキが起こった。1937年、政府が産金を奨励し、増産した。湯ヶ島鉱山を開発し、1937年に縄地鉱山を併合した。1942年、土肥鉱業と名称を変更し、1943年の金鉱業整備令下でも、酸硅鉱を伴う有望金山と見なされ、採掘が継続された。労働力不足に対しては、勤労報国隊、女性の坑内労働への導入、朝鮮人の連行などで補った。朝鮮人440人が連行された。
 1940年10月から朝鮮人の連行が始まり、1944年まで続いた。
265 1945年、休業命令を受けて(金の)採掘が中止された。住友鉱業は、宇久須鉱業の経営を進め、明礬石採掘に転換した。土肥の朝鮮人90人が宇久須へ転送された。

 以下、平井和子『西伊豆土肥の女たち』の中の、元労務係、朝鮮人寮保健婦、補導員の妻、選鉱婦などの証言からまとめた。
 「労務係が朝鮮人を下関や名古屋に迎えに行った。『今日は何人逃げた』と言って、逃亡者にリンチを加えた。朝鮮人寮での娯楽はバクチだった。給料を支払うと翌日仕事に出なくなった。朝鮮人を枕木のようなものの上に座らせて鞭で叩いた。
266 朝鮮人は坑内作業、雑夫、車夫の仕事をした以外に、会社の田畑の作業もさせられた。」

 鉱山側は敗戦時、自らに不利な資料を燃やしたようだ。

267 証言 佐藤幸四郎(1913年生) 「土肥鉱山で支柱夫をしていた。朝鮮人は1939年ころから『募集』されてやって来た。初めは学歴があり、日本語ができる人が多かった。私は1944年に徴兵された。朝鮮係の守衛が配置され、警察要員として朝鮮人巡査が配置された。同僚の鉱夫は30代で死ぬ人が多かった。鉱山を渡り歩き、よろけて死んだ。せき込み、骨と皮になって死んだ。焼くと肺が石になって残った。」1990

268 証言 中山輝明 「湯ヶ島鉱山で採鉱係だった。1940年ごろ朝鮮人労働者がやって来た。1943年に土肥鉱山に転勤したとき、湯ヶ島(伊豆半島内陸部)に40人ほどの朝鮮人がいた。土肥鉱山では200人くらい(の朝鮮人)が使われていた。私は後に徴兵された。」1990

 地区住民の証言 「憲兵隊が入って朝鮮から人を連れてきた。」

 1941年10月11日、日本人寮長による暴力的労務管理に対する怒りが爆発した。協和寮には当時176人が居住していた。事務所係員が10日、忠清南道出身者を殴打したことに対して、同出身者100人余りが事務所に押しかけて乱入した。日本人関係者が傷を受け、窓ガラス50枚が粉砕された。警察官が導入され、11人が検挙され、8人が「傷害罪暴力行為等処罰に関する件法律違反」とされた。(『特高月報』1941.10、『集成』四)
 「逃走して警察に捕まっても殺されない。本籍送還で済む」という認識もあったようだ。(『特高月報』1942.11
269 1944.2.1、土肥鉱山でサボタージュが発生した。雇用期間満了が2月14日と近づき、帰国を要求していた朝鮮人に対して、会社側は、「鉄道乗車券の販売制限」を口実に、帰国の延期を伝えた。労働者は即時帰国を要求し、サボタージュに入った。警察が説得して就労させた。(『特高月報』1944.3
 会社側は定着を説得し、再契約を強要した。「有能なる作業労務者の育成」「皇国臣民たる資質の錬成」という「指導」の内実は、他の場所での徴用をちらつかせての、定着・再契約の強制だった。(中央協和会「移入労務者定着指導に関する申合事項」1944.2

(2)縄地鉱山

 縄地鉱山は河津にあった。縄地鉱山の採掘は16世紀に始まった。近代になり、土肥金山KKが開発を行い、住友資本は、高根鉱業所として採掘した。1943年金鉱業整備令によって休山となった。
 縄地鉱山に朝鮮人の強制連行があった。住友資本系列の土肥金山KKは、1939年、縄地鉱山を直営し、朝鮮人を送り込んだ。

270 証言 加藤ツル(1918年生) 「商店を経営していた。三交替制の一の番で働き、昼間は農作業をし、三の番でまた働くことで体を壊した人が多い。」1990

 金山再編に伴い、連行朝鮮人も他の鉱山に転送された。朝鮮人35人を山梨県の土肥鉱業茂倉鉱山*に転送予定とある。(「金鉱業整理に伴う労務者配置転換案」)
 
*茂倉(もぐら)鉱山は山梨県南巨摩郡早川町にあった。早川町は見延町の南西にある。

(3)湯ヶ島鉱山

271 湯ヶ島鉱山は伊豆半島の内陸部にある。湯ヶ島鉱山は16世紀から採掘され、近代になり、土肥鉱業が経営した。ここにも朝鮮人が連行された。厚生省名簿によれば、1942年1月に、忠清南道牙山から33人が連行されている。
 戦後、中外鉱業が買収して経営したが、1974年、鉱脈が枯渇して、採掘が中止された。
272 元坑夫の証言 「塵肺に苦しんでいる。湯ヶ島鉱山事務所の労働者用ロッカーの中に、戦後に結成された全日本金属鉱山労働組合連合会関係資料が置き捨てられていた。付近の農家には『全鉱湯ヶ島鉱山労働組合』の赤旗が泥にまみれていた。階級の魂は永遠であるようだ。」

(初出「伊豆鉱山と朝鮮人強制連行」『静岡県近代史研究』一七 1991


第12章 西伊豆明礬石鉱山

1 戦時体制と明礬石開発

275 西伊豆の宇久須と仁科で、明礬石が採掘された。

 宇久須で明礬石を発見した山本階の「宇久須鉱山年表」によると、山本階が、宇久須で大久須金山を経営していた佐藤鎌三に明礬石を見せると、佐藤が関心を示し、佐藤は、1934年5月、武田健一の知人である、浅野同族会社前川益以に、住友財閥へ紹介してもらった。
276 住友東京支店は、佐藤の鉱山開発援助要請を一旦拒絶したが、前川武田が動いて、彼らが明礬石の分析結果*を示しながら住友に要請すると、住友は調査をすることになった。住友の矢部忠治技師長が試験・調査し、その結果、1936年2月に、佐藤と住友との間に契約が成立した。契約内容は、住友が明礬石の採取権・鉱業権・土地所有権を得ること、佐藤に無利子で10万円を融資すること、会社設立までの費用を住友が負担することなどだった。

岩谷東七郎「宇久須明礬石浮遊選鉱試験報告(予報)」1934.9加賀谷文治郎「伊豆宇久須村明礬石鉱床に就いて」(『日本鉱業会誌』1935.2

 矢部は、鉱床が地表近くに限られていること、確定鉱量、高い実収率、純良アルミナを生産できること、製品のアルミニウムの品質は劣らないこと、これによってつくられたジュラルミンは、充分利用できることなどを示した。 
 日本学術振興会の岩井周一も、宇久須の明礬石について研究した。

 1941.5、インドネシアからのボーキサイトの輸入が停止した。日本は一時インドネシアを占領し、インドネシアからボーキサイトを運んだが、敗退し、1943年ころから、中国の礬土頁岩や伊豆の明礬石を使うことにした。
277 1939年、日本軽金属が設立され、政府指示で、礬土頁岩を主とする生産計画が立てられたが、供給が間に合わず、明礬石を主とすることに転換した。(『日本軽金属二〇年史』)

 1941年5月、佐藤謙三前川益以は、国内資源(明礬石)を利用してアルミニウムを生産し、その副産物として出る硫酸カリからカリ肥料を生産するという一石二鳥の提言をし、その際、輸入物よりも割高になる分の補助金の要求も忘れなかった。

 1943年、政府は伊豆での明礬石開発命令を出した。


 仁科での鉱山開発 

 西伊豆の仁科鉱山は、内田与作が鉱山を発見し、浅田化学が採掘を続けてきた。
 1942年12月、住友本社の進藤淳之介豊田英義は、仁科の明礬石鉱区を視察した。
278 これは軽金属統制会の委嘱によるものだった。視察の結果、分布・品位・鉱量などさらなる詳細な調査が求められた。
 すでに佐藤謙三も試掘許可願を東京鉱山局長に提出していた。1941.6
 1943年、宇久須鉱業KK宇久須鉱山が設立され、仁科(白川)にも戦線鉱業KKが設立された。日軽金も開発を援助した。
 静岡県軍需課「軽金属増産推進に関する件」(静岡県「長官会議資料」)によると、1944年静岡県は軍需省の求めに応じて支援したが、はかどらなかった。開発工事は国営化された。1945年、軍需省が直営し、建設工事を竹中工務店が請け負い、運輸は、伊豆合同運送、清水港運送、静岡機帆船が担った。
 1945.3、軍需省は古河に戦線鉱業の経営を命令した。その株式構成は、戦時金融金庫から100万円、帝国軽金属統制会から50万円、古川工業から75万円、日本軽金属から75万円であった。一方、宇久須鉱業は住友が経営するようになった。
279 仁科鉱山の突貫工事に朝鮮人が使われた。鉱山整備は、日軽金や鹿島組が関与した。
 中国人も強制連行された。日本土木建築統制組合の動員「割当表」によると、宇久須の鹿島組に200人、日本軽金属の仁科の栗原組に100人が割り当てられた。
 選鉱のために、清水の蛍石選鉱場や、住友鉱業の土肥鉱山、日本鉱業の河津鉱山の設備が転用された。全国の機器も転用された。松崎に粗アルミナ工場(4トン)の建設も予定されたが、1945年の地鎮祭で敗戦となった。
 日軽金清水工場は、アルミナ製造のために日産80トンの精鉱を必要としたが、入荷は不十分だった。さらに苛性ソーダやマグネシウムも不足した。
 日軽金蒲原工場へ学徒動員された学生の証言によると、明礬石からつくるアルミナの品質は悪く、純度は20%を割り、1945年7月、炉の半分が明礬石の使用のために動かなくなり、さらに米軍機が工場裏のダムを攻撃し、発電が止まり、工場は麻痺したとのことだ。(『豆州歴史通信』1995.2

2 宇久須鉱業

280 宇久須鉱業は、田方郡土肥町(現伊豆市)に本社が置かれ、東京支社と宇久須鉱山を持ち、宇久須村(現西伊豆町)の深田の鉱区を中心としていた。
281 大久須に金山があり、1933年ごろ採掘されていた。露天掘りだった。現在宇久須では珪石が採掘されている。

(1)朝鮮人強制連行 

 宇久須鉱山採掘現場に600人の朝鮮人が強制連行された。厚生省名簿によると、1944年5月に75人、1945年2月に413人が連行された。この中には三菱名古屋からの転送者48人が含まれている。また1945年5月に土肥鉱山から92人が転送された。
 1945年8月、北海道の住友鉱業伊奈牛鉱山から朝鮮人が転送された。
 鹿島組の鉱山土木工事に連行された人もいたから、800人ほどが宇久須鉱山関連で連行されたとみられる。

 証言 山田憲一(1916年生) 「労務係をしていた。日本人は70人で、事務所に15~16人、現場事務所(見張)に5人、現場の日本人労働者は50人くらいだった。朝鮮人は200人、中国人も200人くらいだった。
 労働は8時から16時くらいまでで、班長の日本人労務係が、朝鮮人・中国人を宿舎に帰し、17時で仕事を終了した。日本人職員は朝鮮人を私用に使い、防空壕を掘らせた。ビンタもした。朝鮮人の飯場は掘立小屋だった。朝鮮の親方(班長)は日本語ができた。
283 中国人に集合・休憩・解散の命令をした。朝礼で「国旗」の掲揚、注意事項・作業指示を行った。仕事内容は、採掘、運搬(トロッコ押し)、雑役だった。土肥のトラック会社と契約し、土肥に明礬石を運んだ。
 鉱区は深田と八木沢山にあった。深田が85%を占めた。選鉱場建設のための敷地が整備されたとき敗戦となった。はじめ4本の坑道を掘って採掘した。明礬石が99%の鉱区もあった。軍需省の指定を受けた時は露天掘りだった。
 朝鮮人に対して「朝鮮」と呼ぶと、「朝鮮人も日本人も天皇陛下の下皆同じだ」と私(山田)は怒った。
284 朝鮮人・中国人それぞれから二人の作業責任者を選んだ。中国人を「ニイコウ」と蔑称した。
 請負制の方が仕事がはかどった。請負を「コマリ」といった。請負にすると仕事がはかどり、一時ころには仕事を終えて飯場で休んでいた。朝鮮人200人のうち180人ほどが仕事に出てきた。「稼ぎに日本に来た」というが、さらってきたようなものだ。40歳くらいから17~18歳の青年がいた。
 朝鮮人飯場は、中央にストーブ、電球は2本、隊長がドア近くに居住した。
 中国人は採掘、道路建設に従事した。中国人5人が逃亡した。警防団が山狩りをした。
 死亡した中国人の遺体は土葬にした。戦後、一体を班長の日本人が掘り起こして火葬にした。残りを中国人が掘り起こして火葬にし、本国に送った。1990

 1944.9.27、宇久須鉱山で朝鮮人争議が起こった。「金本某が作業を懈怠(かいたい)している」と、鉱山付属運転助手が叱責すると、口論になり、金本は殴打された。朝鮮人30人が支援し、運転助手を包囲して乱打し、重傷(全治1か月)を負わせた。現場係員は運転助手を事務所で保護した。朝鮮人たちは作業事務所を取り囲み、「助手を出せ」と対峙した。警察が出動し、主謀者10人を検挙し、全員が傷害罪とされた。(『特高月報』1944.10、『集成』五)
285 鉱山への580人の連行者のうち183人が逃走した。

(2)中国人強制連行

 1945.1.17、中国人199人は青島を出発し、1月30日、宇久須に連行された。「契約」とされていて、当初「契約」は200人だったが、一人が、華北労工協会の職員が北京から青島に連行する途中で、逃走した。戦後の報告の中で、鉱山からの逃亡者のうち、土肥の警防団に捕らえられた一人は、トビ口*であばら骨を打たれて死亡したとある。連行と労働の結果14人の中国人が死亡した。(田中宏・内海愛子・石飛仁編『資料中国人強制連行』)

*トビ口とは、棒の先端に鳶(とび)のくちばしに似た鉄製の鉤(かぎ)をつけたもので、物をひっかけたり、引き寄せたりするのに用いる。

 宇久須鉱山の「華人労務者就労顛末報告書」によれば、中国人は山東省で「募集」され、北京訓練所で一か月の「団体訓練」を受けた。連行された中国人の年齢は12歳から66歳であり、農民が6割だった。宇久須鉱山職員4人と、労務員3人、警察官3人が、1月22日に神戸港に出張し、1月30日に沼津からトラック6台で連行した。2月から採掘準備や作業用道路の開鑿などの土木工事に使い、6月から荷役、7月から運搬などにも使った。5月5日に逃亡者が出た。

286 「山本階関係史料」の中の「関係者名簿」に手書きで、「華北労工協会・嘱託・山本実 1945.2.1--12.3」とある。山本は中国人送還の渉外事務を担当していたと思われる。彼の名前は、中国人を強制連行した熊谷組田子浦飛行場建設現場の記録にもみられる。山本は、中国人によって殺害計画の対象とされていた。山本は富士から宇久須へと現場を移動し、中国人を監視していたようだ。
 中国人は1945年12月1日に出国した。

3 戦線鉱業仁科鉱山

 戦線鉱業は地元住民、動員学徒、受刑者、朝鮮人、中国人を使って明礬石を採掘した。
 戦線鉱業の初代社長は、陸軍中将の建川美次、二代目社長は十河信二、主管は中村陸軍少将だった。1945年3月、古河鉱業がこの戦線鉱業の経営を命令された。戦線鉱業は国策会社として成立し、軍の力をバックに強制接収した。
287 戦線鉱業の事業所所長は宮崎益歡、大川英三、職場長が石井国平、江端清、直接取扱責任者が、芝原守衛、高田寿夫、杉野克次、釘宮幸雄、警察関係者が、水口巡査部長、山下計男(松崎署)、医師が、山田万美、長谷川美夫、藤野精である。(『中国人俘虜殉難者調査概要』)
288 『百年のあゆみ 豆陽中下田北高』によれば、戦線鉱業に学生30人が道路作りに動員された。彼らが傾倒したのは、拓大出身の右翼、釘宮労務課長やその下の朝日青年であった。
 朝鮮人は白川線の建設に従事したり、戦線鉱業の仕事に従事したりした。

(1)朝鮮人・中国人の連行

 戦線鉱業が厚生省勤労局に提出した名簿には、486人の朝鮮人の氏名、住所が記されている。
 厚生省名簿によれば、1944年11月から1945年3月にかけて、4回にわたって、朝鮮人が戦線鉱業に連行された。鉱山土木への連行者もあった。戦線鉱業関連で動員された朝鮮人の数は、2000人から3000人という。
289 厚生省勤労局名簿によれば、1945年3月から7月にかけて、毎月20人以上が逃走に成功している。8・15までに連行者の40%が逃走した。

 某住民の子供の証言 「朝鮮人は川の西側に粗末な小屋を建てて集落をつくった。悪臭が漂い、不健康であり、労働は過酷だった。少しの休みもなかった。馬・牛以下の条件で働き続けた。少しでも休んでいると監督が殴りつけた。食料は米の粕やヌカ、豆だった。一掴みの米を盗んだとして朝鮮人が裸にされ、太い青竹が割れるほど叩かれていた。逃亡して捕まると、駐在所の前に一列に座らされ、土木業者や消防団長から、殴ったり、蹴ったりの制裁が加えられた。体を折り曲げてアイゴー、アイゴーと泣き叫んでいた朝鮮人たちの声や姿が、今もはっきり思い出される。」(『父母に聞く戦争体験』)この証言は仁科のものと思われる。

 仁科村白川に動員された張東奭(せき)(1913年生)と妻の金順子の証言 

 「1945年1月に白川に来た。二人とも慶尚南道馬山の出身である。『名前を変えなければだめ』と創氏改名を強制された。二人は馬山で結婚した。日本に行って働けという徴用の命令を受けた。張の父の弟が日本に渡り、伊豆の熱川で妻子と暮らしていたが、妻子を残して、仁科の白川で働くと聞いた。当時の徴用は「明日行け」というやり方だった。金によれば、列車で熱海に着いてから、バスで伊東を経て熱川へ行った。バスに乗るにも点数カードを与えられ、それを使って熱川へ行った。そこから白川へ向かった。二人の子供を連れていた。着いてすぐ、もう一人が生まれた。
290 最大時には2000人の朝鮮人が住んでいた。張の労働時間は、朝7時から夜5時まで、叔父が請け負った仕事に従事した。叔父は親方で、30人ほどの部下を持っていた。住居は物置以下のバラック小屋で、一家一部屋で、5~6人が八畳位のところに住んでいた。張は、配給で配られた地下足袋だけでは足りず、藁草履を編んだ。藁草履で仕事する方が多かった。
 単身の徴用者は数十人で一つの小屋に入った。
 張の賃金は一か月30円ほどだった。トラックの出入りのための道路建設と採掘の仕事をした。中国人の食料は朝鮮人よりも悪かった。朝鮮人にはパンの配給があったが、中国人には豆かすだけだった。中国人は栄養失調と豆かすだけの食料で腹を下し、次々に死んでいった。日本人家督が中国人を『仕事をしないから』と殴り叩いた。痩せて栄養失調の人間を殴る光景を見ていられなかった」と金は語る。1990、西伊豆にて。

(2)証言からみた強制連行

291 証言 戦線鉱業の元事務員 「白川や仁科の地元労働者の賃金は、1カ月25円ほどだった。中国人は僅かの食料で働かされ、少しでも仕事をおろそかにすると、鞭で打たれていた。少しの食料をあてがわれ、鞭で叩かれながら、仕事をしていた奴隷がいたのだ。」(県立松崎高校社会科編『父母に聞く戦争体験』)
 『豆州歴史通信』には、伊豆新聞の記事からとして、中国人が憲兵に打ちのめされ、動物のような泣き声で、泥の中を転げまわっていたという証言が紹介されている。

 証言 平馬(1915年生) 「戦線鉱業で中国人の現場監督だった。名古屋に行き、朝鮮人を徴用した。1938年9月、徴兵され名古屋で入隊した。鍛冶の技術があったので、軍馬の蹄鉄を打つ仕事をした。2年3カ月の軍務の後、浅田化学で働き、白川道の建設に従事した。1943年、浅田化学は、戦線鉱業に再編され、名称を変更した。戦線鉱業は軍需会社だった。戦線鉱業で採鉱の仕事をした。露天掘りだった。社長は建川中将だったが、後に宮崎という軍人が社長になった。
 日本の労働者はトラック5台ほどに分乗し、1台に30~40人が乗り込み、隣村の田子、仁科、松崎から200人ほどがやって来た。白川からは30人ほどが仕事に出た。学徒動員で拓大の学生、浜松工業の生徒、それに下田北など、近隣の学校からも動員された。受刑者も100人ほどが働かされていた。
292 朝鮮人は、旧来から土木工事で使われるために移住してきた人たちと、徴用で連行されてきた人たちがいた。名古屋に一時期居住していて地理が分かるというので、戦線鉱業の労務課長に連れられて三人で名古屋に、朝鮮人の徴用のために出かけた。200人の青年を名古屋の三菱工場から連行した。連行途中空襲に会った。三菱は空襲を受け、生産現場が破壊され、労働者が余っていたのだ。「若い娘も働いている」「仕事はいいし、空襲もない」「仕事の環境がいい」と甘言でだまして連行した。列車で沼津まで来て、沼津からトラックで仁科に連行した。
 徴用され連行された朝鮮人は、半数近くが逃亡した。昼頃弁当を持ったまま三人ほどのグループで逃げた。昼食が終わり、点呼をとると、いないことが分かる。労働時間は7時30分から17時ころまでだった。
 1945年1月、中国人が連行されてきた。中国人を監督する仕事についた。労務課長は事務所にいた。中国人住居の周囲は竹で囲われ、逃亡できないようにされていた。監視人が夜、外から鍵をかけた。中国人の中から隊長を選んだが、かれは八路軍の少尉だった。仕事の行き帰りに監視人がついた。二人の通訳がいたが、そのうちの一人は、日本人に兄が殺されたと言った。
 現場の監督になり、通訳を通じて中国人の作業監督に命令を出した。中国人にいつ襲撃されるかわからなかったので、常に刃物を携帯した。
 中国人と朝鮮人の作業現場は異なっていた。
293 中国人は7日分の食料を6日で食べてしまい、明日の分を渡さなければ仕事に行かないと要求した。
 ある時、点呼をとると、ズボンの中に饅頭を隠している中国人がいた。逃亡するための用意と判断して、彼を宿舎の梁に縛ってぶら下げた。降ろすことを忘れ、ぶら下げられたまま死んでしまったという話を聞いた。(責任逃れのための言辞か。)
 管理に従わず抵抗した中国人を、所長が「日本刀でぶった切る」と騒いだが、周囲がやめさせた。(所長に逆らえる人がいるとは、本当か。)食料を独り占めにしたとか、腕力が強いとかいう理由で、中国人が別の場所に移され、問題を解決した。年輩者が班長になり、動揺がなくなった。
 中国人は採鉱現場まで駆け足で行かされ、日本人の近くでは、「イチ・ニ、イチ・ニ、歩調をとれ!」と行軍させられた。
 仁科では上鉱でも明礬石の含有率は42%にすぎなかった。軍部は一日100トン生産せよと命令した。現場は含有率5%のものまで、100トンの割り当てをこなすために出した。削岩機が導入されていたのに、中国人はツルハシで採掘した。御殿場線のレールを外してインクラインを作った。1990、仁科にて。
 
 中国人の死因は「栄養失調」、「大腸カタル」と記されているが、それは抵抗し、虐待された人の死を意味する。抵抗する者を、虐待し、転送することで、戦線鉱業の「秩序」は保たれたが、それは収奪と支配の安定であった。死体は、葬式もせず放置された。

 証言 後藤たまゑ(1918年生) 「土地を安く買いたたかれ、戦線鉱業に奪われた。夫は戦線鉱業の用度係に採用された。
294 朝鮮人を「半島の人」と呼んでいた。」1990、仁科で。

 証言 武さよ(1918年生)「8月15日の敗戦時、『女は襲われる。危ない』と言われ、息子を二人連れて営林署の官舎の方へ逃げた。戦線鉱業の車庫の横に、毛布にくるまれ、死体のまま放置され捨てられている中国人の姿を見た。」1990、仁科にて。

(3)連行された中国人の抵抗

 東京都中央区銀座の東京華僑総会・東華教育文化交流財団に、峰之沢、清水港運業会、熊谷組富士、宇久須鉱山、戦線鉱業仁科鉱山などの事業場報告書がある。これは戦後、外務省が調査した際に企業から提出された資料である。花岡鉱山での中国人蜂起とそれへの弾圧を占領軍が知り、各事業所関係者は、戦争犯罪の追及を恐れていたが、その中で、この報告書を出した。そのため、中国人は「契約」によって就労したとされ、中国人に対する虐待は隠されている。
 これらの史料によると、中国人は1944年12月末、塘沽を出港し、1月初めに戦線鉱業仁科鉱山へ強制連行された。連行途中船中で20人が、車中で2人が死亡した。連行直後の1月に、22人が、2月に、21人が、3月に7人が死亡した。
295 連行された人たちの出身地は、河北省濼(ろく)県、寧河県、豊潤県、固安県、天津市などであった。戦線鉱業仁科鉱山に連行された人たちは、峰之沢鉱山(天竜川沿いの鉱山)に連行された人たちと同じ時期に運ばれた。連行された人々は、抗日戦争の捕虜や、河北省での労工狩りで集められた。塘沽の北砲台強制収容所で虐待されていたために衰弱していた。
 その後の死者数は、4月が3人、5月が4人、6月は12人、7月は5人、8月は7人、10月は1人であり、死者の合計は、104人となる。これは連行者の半数以上にあたる。

 この中で抵抗が組織された。これは花岡鉱山で中国人が蜂起した時期に近い。抗日兵士や共産党員を中心にしたリーダー8人が、6月24日に検挙され、松崎署などに投獄された。彼らは8・15後、清水へ転送された。

 戦線鉱業が戦後作成した事業場報告書のなかに「華人労務者幹部組織図」がある。30人で1班、60人で1小隊を形成した。

 旧組織(1945.1.7--6.22)隊長◎宗宝珍、現場通訳・楊希齢、本部付(副隊長・通訳)◎王忠郷、炊事長◎龐(ほう)孟新、医師・李雅中、書記◎張文泉、第一小隊長◎曽守山、第一班長◎劉志序、第二班長◎王老趙、第二小隊長◎張殿甲、第三班長・王克郷、第四班長・張瑞生、第三小隊長・李慶先、第五班長・陳立庚、第六班長・李國珍。

296 検挙されたのはこのうちの◎の8人である。
 弾圧後の新組織(1945.6.24--12月)は以下のようになった。

 隊長・張瑞生、通訳・揚希齢、本部付(医師・書記)李雅中、炊事長・陳立庚、第一班長・李慶先、第二班長・王克郷、第三班長・李國珍。

 華北労工協会理事長・趙琪、戦線鉱業KK仁科鉱業所宮崎益歡、鉱山統制会勤労部・鋼澤利平らによって交わされた「契約書」がある。これは日本政府と企業によるでっち上げである。
 
 証言 張文泉 (何天義編『日軍槍刺下的中国労工』四)

 1943年1月、荊県(現天津市内)で抗日ビラを配布したために検挙され、軍事裁判で4年の刑を受け、北京の臨時監獄に収容された。1944年10月中旬(旧暦)、列車で塘沽の収容所に送られた。塘沽収容所には、1200人余が収容され、周囲に電気鉄条網が張られ、塔にサーチライトと機関銃を備えて監視された。寒冷な土地であるのに毛布は二人に一枚しかなく、食事量は少なく、水が欠乏した。人々は雪を食べたり、尿を飲まざるをえなかった。多くの人が病に倒れた。南棟で蜂起が起きた。リーダーは皆の前で殴打され、殺された

297 200人ごとに隊(三中隊)が編制され、12月に日本へ連行された。王担元はまだ息があったのに海へ捨てられた。下関から静岡の仁科に連行され、アルミ用鉱石の採掘をさせられた。休日はなく、収容所の外から錠がかけられた。食料は少なく、毎日のように死者が出た。死者の名をノートに記録した。食料の増加を求めてストライキを行い、再度ストを行い、増量を勝ち取った。5月5日に、要求して死者の追悼会を行った。

 6月23日、仕事中に仲間が足の甲を骨折した。県の病院での治療を求めたが、監視人は拒否した。山麓の鉱山事務所での交渉となり、朝鮮人が支援してくれた。仲間たちは「私たちを人として扱わず、あまりにいじめている。闘おう」と憤激した。宗総隊長や張さんも「時機は熟した。いつかはこうなる」と判断し、鉱山事務所を襲撃し、逃げ遅れた日本人を殴打し、ガラスなどを破壊した。中国人・朝鮮人の怒りの中で、鉱山側は病院送りを認めた。
 翌日、憲兵隊が親切を装い、「公正処理」を語り、調査するとしたが、それは口実で、早朝、武装兵に包囲され、警察や憲兵によって一か所に集められた。総隊長・宗宝貞(宝珍)、書記・張文泉、中隊長・張殿甲と曽寿山(守山)、班長・劉志緒(志序)と王洛池(老趙)、食事長・龐(ほう)夢新(孟新)、通訳・王忠郷の8人が検挙された。張ら3人が下田警察に、他の5人は松崎警察に送られた。
 下田が米軍の空襲に会うと、日本人は防空壕に逃げたが、張ら3人は牢獄に残されたままだった。3人は松崎へ転送され、他の5人とともに拘束された。そこで殴打と拷問を受けた。牢獄生活で疥癬になった。王忠郷は日本語が分かり、ラジオニュースから情勢を理解した。
 8月15日、日本が降伏すると、その日に清水へ送られた。12月、汽車で佐世保に行き、仁科の他の仲間と再会した。骨折した仲間はすぐ現場へ帰され、傷口が腐り、片足を切断していたことを知った。
298 連行時の200人は、90人余りに減っていた。帰国する際、船から祖国の影に向かい、「ああ祖国よ!私は帰って来たぞ」とそっと呼び掛けた。
 
 李鉄山の証言(小池善之「強制連行された中国人 その一証言 静岡県の事例」)

 「定県の出身である。1944年の晩秋に辛李庄で逮捕された。定県の憲兵隊に連行され、木の檻に入れられ、三週間後、塘沽収容所に送られた。仁科では食事が悪く、重労働だったため、多くの人が亡くなった。若かったので山で木を集める仕事をした。一度病気になった時、隊長が配慮してくれ、仕事を受付だけにしてくれた。当時病気になってよくなる人はいなかった。病棟に行っても治療はなく、食事を減らされ、死ぬだけだった。鉱山で大きな石が中国人の足に当たり、大けがをした。中国には骨の復元の方法があるのに、監督の吉田は足を切断すると言った。中国人は吉田を殴り、治療を求めてストライキに入った。憲兵隊が来てリーダーたちを逮捕した。当時は亡国奴隷*であり、蚊を殺すように命が扱われた。日本人はどんどん殴った。(私が)連行されると、(中国に残された)家族は、物乞いをして生活した。今、杖と介添えがないと歩けない。」 

*亡国奴隷とは、中国人が日本にとっては国を亡ぼすような奴隷的存在ということか。

 帰国できた人も多くの後遺症に悩まされた。

(4)連行された中国人の証言

299 1994年、二人のかつての被連行者、劉蔭郷龐雲志が、仁科・白川を訪れ、西伊豆町の追悼行事に参加して体験を語った。劉蔭郷の証言は『二戦擄日中国労工口述史』第三巻に、劉恩発証言として収録されている。同書には呉廷湿李玉蘭(李干革)証言もある。
 戦線鉱業への被連行者のうち1994年段階で13人の生存が確認された。劉蔭郷(天津漢沽)、劉志序(天津河東)、李千革(天津寧河)、李潤徳(同)、巌万有(天津東麗)、王忠郷(天津南開)、郭勤堂(河北東光鎮)、孫吉林(河北武邑県)、龐雲志(河北徐水県)、尹輝(河北濼県)、竇永龍(同)、楊朝鳳(河北豊潤県)、王汝珍(河北楽南県)の13人である。
 この中の王忠郷は、抵抗し弾圧された一人である。
 1994年の追悼行事での証言と、当時確認できた生存者の一覧は、西伊豆町の冊子で紹介されている。(西伊豆町資料)
 酒井郁造は仁科での中国人死亡者の遺骨送還に関わってきたが、1995年夏、西伊豆町長らと中国を訪問し、仁科への被連行者の郭勤堂李潤徳らと会見した。その時の聞き取りは、酒井による三島市民講座での講演レジュメ1995で紹介された。これらの資料によると、被連行者の証言は以下の通りである。

 郭勤堂は1925年生まれで、東光鎮南関村の出身である。この村の近くで抗日ゲリラに参加していた。1944年、日本軍に逮捕され、約1か月後に天津に連行され、塘沽収容所に入れられた。冬だったので雪を食べたり、自分の尿を飲んだりして渇きをしのいだ。船中で4人が重病となり、海中に投げ捨てられた。仁科の山の中に連行され、豆で作った饅頭を与えられた。野菜や木の根をほじって食べることもあった。病気でも現場に行かなければならず、日本人の監督に殴られた。そこで80数人が死んだ。配給をもらうために下に下りた時、朝鮮人から日本の敗戦のニュースを知らされた。そこで、一、住む建物の提供、二、集団での行動を認めよ、三、仕事を止める、四、早く中国へ帰国させよと要求を出した。これらの要求を出すと、少し食物がよくなるなどの変化が現れた。西伊豆を出るとき現地の人が見送りをしてくれた。日本の帝国主義を憎むが、日本人民はそうではない。中日両国の友好を希望する。

300 龐雲志は河北省東光県の出身で、保定市除水県在住。16歳で東光県の遊撃隊に参加した。1944年11月ころ、町を歩いていたとき、日本軍に捕らえられた。尋問され、塘沽収容所に送られた。龐は若かったので仁科では食事を作る仕事に回された。ある人は、食料を盗んだと、柱に逆さにつるされた。食料不足で衰弱して死ぬ人が多かった。帰国後は解放軍に加わって新中国成立のために働いた。

 劉蔭郷(劉恩発)は、天津市漢沽区営城鎮在住である。1944年旧暦9月21日、親戚を訪ねる途中で、日本憲兵隊に捕らえられた。日本に送られる船中で、抵抗や不安で食事がとれなくなり、20人が亡くなった。日本に着くと窓のない汽車に乗せられ、沼津に行き、そこから船で西伊豆に送られた。宿舎は木の皮で屋根を葺いたもので、板敷きの上に藁を敷き、角材の枕で寝た。巡査が人数を確認した。採掘現場まで4キロ歩いた。毎日、木の根や土を掘って運んだ。食事は大豆かすや糠(ぬか)の饅頭で、量が少なく腹が減った。骨と皮ばかりになり、病気になった。治療が不十分で仲間が死んでいった。趙連賀は、劉の手を取り、高粱の粥が欲しいと言って亡くなった。営城鎮の李廷貴は、傷口に蛆が満ち溢れ、劉がそれを取り除いた。李は帰国後すぐに亡くなった。戦争が終わるとアメリカの船に乗って故郷に帰った。
 
 呉廷湿は、固安県李各庄出身である。1944年旧暦10月、日本軍の労工狩りに会い、13カ月に渡る非人間的な生活を体験した。共に捕らえられた村人に、呉秀峰、呉景沢など9人がいたが、そのうちの6人が死亡した。日本軍の兵舎から北京を経て天津の塘沽収容所に送られた。逃亡しようとすると殺された。32人が大部屋に押し込められ、21日間収容された。仁科では朝6時に起こされ、鉱石を掘らされた。豆の餅は消化が悪く、多くの人が腹を悪くした。病気は死を意味した。呉秀峰は腹を悪くして死んだ。宗克己も死んだ。

 李千革(李玉閣)は、天津市寧河県東棘塊郷王洪庄の農村に住んでいる。当時この一帯は解放区だった。1944年、北沽で日本軍に捕らえられ、尋問され、塘沽新港の収容所に送られた。飢えと寒さの中で無力になっていったが、八路軍幹部によって収容所で暴動が起こされた。逃亡できた人は僅かだった。日本兵に殺された人は、塘沽の万人坑に埋められた。下関に着くと体を洗われ、服も消毒された。仁科では日本人監督が一挙一動を監視し、逃亡を防ぐために朝昼晩と点呼された。病棟に入れられると、生きて戻れなかった。寧河県東沽塊の李永年も亡くなった。敗戦のニュースを聞き、3日後には現場に行かなくなった。強制労働のために両手の骨は変形し、両脚の関節は炎症を起こし、凍傷にもなった。中国に帰ってからも、鉱山で足を悪くしたため、農作業はできなかった。妻は毎日泣いてばかりいて、目が悪くなっていた。2001年、李は新聞記者に、1996年の、静岡県日中友好協会の人々からの年賀状を示し、1995年に日本を訪問して友好の握手を交わしたことについて語っている。

 李潤徳は、寧河県大卒郷大月河村に住んでいる。寧河県の市場で逮捕された。連行された人の中に医者がいたが、彼はいっしょに帰国できなかった。帰国後は人民解放軍に入り、その後農業に従事し、会社に勤めたこともある。李は擦り切れた『華人労働従事證』を保管している。そこには、滞在と連行先での労働を許可する静岡県知事の印がある。

302 地崎組が連行した中国人の『華人労働従事證』が、『中国人強制連行・暗闇の記録』に掲載されている。これは北海道知事が、滞在と労働を許可している。山口県の入国印の下には、種痘やパラチフスの注射済みの印がある。
 北海道炭礦汽船平和探鉱に連行された中国人の『華人労働従事證』が、北海道大学図書館北方資料室にある。そこには、在塘沽日本領事館領事の証明印があり、「華北労工協会労工省證」と記されており、本人の原籍や氏名、顔写真、残留家族責任者名なども記されている。

 この「労働証明書」は、捕虜や日本軍が駆り集めた人々を「労働者」として捏造して連行したことを示すものだ。国家や企業だけでなく、県が就労を承認することで、県も関与していたことを示すものである。

 『静岡県中国人俘虜殉難者慰霊報告書』(同実行委員会)に、堤傳平仁科村長の弔辞がある。この弔辞は1954年の慰霊祭で読まれたものだ。
 ここでは中国人104人を「英霊」とし、「諸君こそ興亜殉難の戦士」と位置づけ、「東亜民族解放の理想」のために「殉難」したとし、また死因を集団赤痢とし、「鉱石の発掘に従事」したことを「当時の日本人として感謝」するとしている。
 ここには強制連行や強制労働については触れられず、暴力的な労務管理支配や少量の食料という虐待についても触れられていない。戦後9年後も、絶えることのない天皇制下の臣民観念の存在を示している。
303 慰霊実行委員会の代表の久保田豊の弔辞は、これとは異なる。軍国主義の国民的責任を問いつつ謝罪し、アジアで再び戦争の惨禍を繰り返さないという決意が述べられている。
 1995年に中国を訪問した山本勤也・西伊豆町長は、日本の侵略と強制連行という犯罪を詫び、過ちを犯さないために殉難中国人慰霊碑を建てて、今年が20周年になることを伝えた。(「日中ふれあい通信」静岡県日中友好協会1996.5

 戦線鉱業事務所跡地に1976年に建てられた「中国人殉難者慰霊碑」がある。この碑の建設経緯が、静岡県賀茂郡西伊豆町の中国人慰霊碑建立実行委員会が1976年に発行した『鎮魂』に記されている。
304 しかしこの中国人殉難者慰霊碑完成記念誌『鎮魂』には、朝鮮人強制連行については記されていない。強制連行された朝鮮人に対して、謝罪し、責任をとる動きがなかったのだ。

 以上の伊豆の調査を始めた1990年は、天皇代替わりの際に、天皇裕仁の戦争責任について発言した本島等長崎市長が右翼に狙撃され、代替わり行事への国民動員がなされた時だった。
 天皇制とアジア侵略について書かれた、林炳澤『朝鮮民族に対する戦争責任』、金靜美『事実を明らかにし怒りをとき放つ』、尹健次『孤独の歴史意識』などの著作がある。
305 「英霊」という思考は、天皇制による徴用・徴兵を容認する表現だ。他民族支配も、これと本質的に同じ問題として考えるべきだ。
(初出「伊豆鉱山と朝鮮人強制連行」『静岡県近代史研究』1991
「戦線鉱業仁科鉱山での中国人の抵抗と弾圧―1945年6月」『静岡県近代史研究会会報』1995.7


第13章 岐阜の鉱山

309 「労務動員計画実施に伴う移住朝鮮人労働者の状況」(内務省警保局)に、「金属山に岐阜より10名移住」1939 とある。また聞き取りから、静岡の大仁鉱山から岐阜の恵比寿鉱山へ移動したという話を聞いた。

1 恵比寿鉱山

 岐阜県中津川市の旧蛭川村は、花崗岩ペグマタイト*鉱物の産地である。蛭川村の北部に恵比寿鉱山がある。

*中津川市は名古屋の北東、飯田の西方にある。蛭川村は中津川市の西北西、恵那の北にある。
*ペグマタイト pegmatite 粗粒の火成岩。

 恵比寿鉱山は戦時下にタングステンを採掘した。
 1910年に恵比寿鉱山が発見されたという。1917年、恵比寿鉱業が設立され、1929年、東京エビス電球の経営下に入った。
310 恵比寿鉱山では、主にタングステン(鉄マンガン重石)や蒼鉛鉱が採掘されたが、この他に、灰重石、揮蒼鉛鉱、トパズ、自然蒼鉛、方解石、錫、揮水鉛、蛍石、硫砒鉄鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱、放射性モナズ石なども伴出した。

*モナズ石とは、モナザイトのことで、セリウム、ランタン、イットリウム、トリウムなどを含むリン酸塩鉱物であり、花崗岩、片麻岩、砂鉱床から産出する。

 タングステンは当初は電球用として使われたが、後には軍需用として重視されるようになった。

*タングステンは、融点が高く、合金にすると強くなる。321

 1939年ごろから鉱山の開発が進み、1942年に、木下章三、栢森誠が共同鉱業権を獲得し、1943年5月、木下によって共栄工業が設立された。
 1942年の恵比寿での労働者数は600人で、村人も就労するようになるとともに、朝鮮人を投入するようになった。

 『恵比寿鉱山時代の思い出集(第一集)』によると、「1941年から1942年ころ、増産体制がとられた。選鉱場は2交代、坑内は3交替になった。」(纐(こう)纈(けつ)貞治)

 「1944年に100人余の朝鮮人が徴用で来た。飯場では足りず、部屋の空いている家を借りた。朝鮮人の飯場頭を率いた日本人親方(大戸組)が、私(安江)の家で間借りをしていた。恵比寿鉱山に朝鮮人がたくさん動員されてきたのは、1943年から1944年のはじめだった。政府の財政支援のもとで、山を削って選鉱場の建設が行われ、朝鮮人がその建設に使われた。朝鮮人の親方が5、6人いた。飯場で結婚式があった時には呼ばれたこともあった。工事は1945年に中止され、朝鮮人は各地に仕事を探しに行ったようだ。」1996(安江美佐子)

 「朝鮮人と共に働いたが、交替時間になっても出社しない人もあり、大声で朝鮮語でしゃべられると恐ろしかった。」(村弘)

311 厚生省勤労局調査報告(岐阜県分)には、1945年に連行された朝鮮人23人分がある。これは神岡鉱山からの転送者である。

 証言 裵(はい)龍好--1994 「1944年2月か3月ころ恵比寿鉱山に行った。大仁鉱山(伊豆の鉱山)での経験があったので鉱山側も喜んで迎えてくれた。大仁で共に働いた4~5世帯とともに仕事に就いた。住居は日本人鉱夫の住居の離れを一家で借りた。神岡鉱山からも来ていた。あるとき朝鮮人が大井の駅から数珠つなぎで縛られて連行されてきて、鉄条網を張ったバラック建ての飯場に閉じ込められた。100人くらいになった。逃亡者も出た。警防団が動員され、捕らえに行った。見つかった者は半殺しにされた。私の住んでいるところに来て逃げようとする人もいた。握り飯を持たせて逃走を助けたこともある。私も1945年4月ごろ恵比寿鉱山を離れた。」1990

313 恵比寿鉱山は蛭川村和田地区の西側にある。蛭川村の中央を北から南に和田川が流れる。和田川の支流、切井那木川を上がっていくと鉱山跡がある。鉱山跡に、日本マイクロ機工恵那工場の建物と鉱山事務所がある。
 鉱山事務所から西に向かい、橋を渡ると、北側に選鉱場跡がある。坑口から水が流れ出て一帯が湿地になっている。
 恵比寿鉱山は硫砒鉄鉱も産出した。恵比寿鉱山の北方に、1939年に開発された遠ケ根鉱山がある。ここでタングステンの採掘とともに硫砒鉄鉱も採掘された。硫砒鉄鉱から亜砒酸が生産される。亜砒酸は、くしゃみ性の毒ガス兵器(あか弾・あか筒)の原料である。
 遠ケ根鉱山の隣の中津川市(旧福岡町)の福岡鉱山は、1941年に再開発され、タングステンやベリウムを産出した。ここにも朝鮮人が動員されたらしい。

2 平金鉱山

314 高山市の東方20キロに丹生川町旗鉾がある。旗鉾郵便局から国道の下をくぐって南2キロのところに吉井谷がある。ここからさらに林道を1キロ登ると、金沢町と呼ばれていた鉱山町の跡があり、ここから橋を渡り、さらに上ると、平金鉱山の跡がある。

 平金鉱山は銅を産出した。1892年に発見され、1894年に横山鉱業によって採掘された。鉱区は標高1723メートルの山中にあり、全盛期の1907年には、男740人、女170人の鉱山労働者がいた。
315 製錬の煙と鉱毒水が汚染をもたらした。鉱山周辺約20キロの山林は荒廃し、鉱毒水は小八賀川の下流を汚染した。国府の三川に鉱毒防止用の沈殿池がつくられた。横山鉱業は1918年に平金鉱業を停止した。

 1937年、平金鉱山が昭和鉱業によって再開された。不足する労働力を朝鮮人で補った。

 証言 尾前吉勝 岩井谷に住む。昭和鉱業時代、朝鮮人の親方が仕事を請け負い、日本語の分かる朝鮮人が班長になった。黒谷川の対岸に朝鮮人の飯場がつくられた。鉱石はトラックで運ばれた。1996

316 厚生省勤労局調査(岐阜県分)によれば、1943年11月10日、昭和鉱業平金鉱山へ、42人の朝鮮人が全羅南道から連行され、この中から14人が逃亡した。

 ズリが硫黄臭を漂わせている。

3 天生鉱山

 天生鉱山は白川郷の東側の天生峠を越えたところにある。天生峠は、飛騨市河合町から、西方の白川村に抜ける峠である。飛騨市河合町から峠に向かう。道路南側を流れる川は、天生谷川と金山谷川に分岐し、この金山谷川の2キロ上流に天生鉱山がある。天生鉱山は金を産出した。

317 19世紀から採掘がはじまり、日本産金振興の経営となり、のち、帝国鉱業開発の所有となった。戦後、採掘が再開されたが、現在は廃鉱となっている。
 現地の聞き取りでは、「朝鮮人がたくさんいた」とのことである。
 厚生省勤労局調査報告(岐阜県分)によれば、天生鉱山に、1942年7月9日、忠清南道から23人が連行され、1944年7月満期とされている。

4 平瀬鉱山

 白川郷の合掌村から庄川を南に上流へ向かうと、平瀬温泉がある。平瀬小学校で、平瀬橋で庄川を渡ると、平瀬鉱山の坑口と選鉱場跡がある。ここはモリブデン(輝水鉛鉱)を産出した。
 平瀬鉱山は1911年に発見された。1940年、大阪の寿重工業が採掘権を獲得し、海軍が支援した。労働者数は1943年に約1200人となった。

 モリブデンは合金鋼として金属に強固な被膜をつくり、耐摩耗性や耐腐食性を強め、軍艦用の鉄板に用いられた。

318 厚生省勤労局調査(岐阜県分)によれば、1943年12月9日、日本水鉛平瀬鉱山に41人の朝鮮人が慶尚南道から連行された。そのうちの逃亡者は26人である。
 『特高月報』によれば、1943年10月26日、この日は祭日だったが、日本人事務主任が村長に殴られ、鉱山の朝鮮人が「主任を救え」と糾合し、地域民と乱闘になったとある。

5 御嵩亜炭

 御嵩(みたけ)町は多治見市の北にある。亜炭は炭化度が低い石炭である。1870年代に御嵩で亜炭採掘会社が設立された。亜炭はボイラー燃料として用いられた。
 1938年ころ石炭の配給が統制されると、石炭の代用燃料として工場で使用された。1945年、航空燃料と軍需工場の燃料確保のため、一部の亜炭鉱は軍直属となり、兵士が御嵩国民学校に宿泊して採掘するようになった。朝鮮人も増加した。可児や御嵩で亜炭採掘に当たった朝鮮人は2000人になったという。
 戦後も亜炭採掘が進められ、御嵩で国内生産量の4割を掘り出した。戦後も朝鮮人が採掘に従事した。
 裵(はい)永讃は、1945年7月ごろ兄の住む御嵩に移り、亜炭採掘現場で働いた。

(初出「岐阜の鉱山での朝鮮人強制連行」『静岡県近代史研究』二五 1999


第14章 丹波のマンガン鉱山

321 丹波地域ではマンガンが採掘され、朝鮮人が動員された。1989年、李貞鎬がマンガン記念館を設立し、マンガンと強制労働について展示し、坑道を整備した。
 マンガン記念館は、2009年に閉館となったが、2011年に市民運動の支援によって再開された。李龍植は記念館の運営を引き継ぎ、『丹波マンガン記念館の7300日』を出版した。

1 丹波のマンガン採掘

 マンガンは電池の原料であるが、鉄と混ぜて鋼鉄となり、キャタピラやレール、砲身、銃身などに使われる。鉄マンガン重石タングステンの原料である。タングステンは鉄鋼の強度を増し、砲弾や装甲などに使用された。

322 丹波では20世紀になってから採掘が本格化した。丹波のマンガンは良質でドイツに輸出された。鉱山は京北、美山、日吉地区にある。被差別部落民が労働を担った。土地が得られなかったからだ。
 1935年ころ朝鮮人の労働者が増加し、帝国鉱業開発が主導し、1941年、帝国満俺KKが設立され、戦時には陸軍が集鉱した。
 マンガン鉱山は小規模経営だったが、当時、労働者数が3000人いた。鉱山で働けば徴用と見なされ、南方への徴用を逃れることができたからだ。栗村鉱業大谷鉱山日南鉱業鐘打鉱山へ、朝鮮人が強制連行された。
 地域住民の証言では、殿田の駅前に選鉱所ができ、運送は日通や丹波貨物が行い、鉱石は鉄道で輸送された。朝鮮人を奴隷のように扱っていた。(『丹波マンガンの労働史』)

 解放後の1945年、マンガン労働者の飯場で朝鮮人連盟が結成され、日吉町殿田支部の活動が顕著だった。朝鮮戦争時には丹波地区に、在日朝鮮統一民主戦線(民戦)が設立され、祖国防衛隊が組織された。

2 丹波マンガン記念館

323 丹波マンガン記念館を開設した李貞鎬は、1932年に慶尚南道金海郡金海面で生まれ、2歳の時、京都の叔父の奉律を頼って(父が)渡日し、園部に住んだ。貞鎬が9歳の時、父がなくなり、叔父に育てられた。
 1947年、15歳の頃、貞鎬は珪石鉱山で働くようになり、翌年マンガン鉱山で働いた。朝鮮戦争時、叔父の奉律は、民戦丹波地区の議長団の一員となり、貞鎬は祖国防衛隊京北隊長になり、1960年代後半から、新大谷鉱山の下請けで働いた。

 新大谷鉱山では20世紀初めに地表のマンガンが掘削され、1916年、坑内での採掘がおこなわれるようになった。戦時には40人の朝鮮人が動員された。1953年からは三洋開発鉱業が経営した。
324 1968年、坑内下請が禁止になり、(叔父が)白頭鉱業を設立した。貞鎬は1971年、この会社を引き継いだが、1978年に倒産した。(貞鎬は)1981年、新大谷鉱山と、その横の弓山鉱山を買い取り、1983年まで採掘した。貞鎬は塵肺による喀血に苦しんだ。
 1983年、貞鎬は、マンガン博物館の建設を願い、新大谷鉱山の跡を利用して丹波マンガン記念館を1989年に開設した。これは「朝鮮人の歴史を残したい。館は俺の墓替わりだ」という思いを体現したものだ。採掘の展示、朝鮮人の強制労働、被差別部落民の鉱山労働などを展示した。DVDがある。
 貞鎬は、体が動かなくなり、1995年、呼吸困難で死亡した。息子の李龍植が館の経営を引き継いだ。館は私費で20年間経営された。

3 丹波マンガンと朝鮮人労働

 丹波マンガン記念館で展示されている証言

 李徳南 1930年、夫を追って丹波に来た。夫は30年間、亀岡、殿田、山家、大野、滋賀などのマンガン鉱山で働いた。
325 姜順徳 1922年、慶南で生まれた。夫を追って2年後に渡日した。
 全谷介 1905年、慶南に生まれた。21歳の時に渡日し、奈良の工場で働き、32歳の時、美山に来て、鉱山や土建で働いた。
 金教道 父母が京都に移住し、1931年に生まれた。マンガン鉱山で働けば徴用がないから、1941年、家族で丹波に移動した。
 李達基 1922年、慶南で生まれた。9歳の時、父と京都に移った。父は辻中鉱業から掛橋鉱山での採掘を請け負い、故郷周辺から朝鮮人を募集した。達基自身も鉱山で働いた。(早い段階の人は純然たる「募集」もあったのか。)
 李従基 1917年慶南生。父が亡くなり、17歳の時、一家で丹波に移住し、マンガン鉱山で働いた。戦争末期、園部の地下工場建設現場でトンネル工事の飯場頭になった。そこには北海道のタコ部屋や徴用を逃れた人もいた。
 辛秀申 慶北で生まれた。19歳の時、徴兵を逃れるため、自分の名前や年齢を偽って渡日し、神戸、大阪を経て、丹波でマンガンや珪石の採掘現場で働いた。本当の名前で登録できたのは、1985年のことだった。

『丹波マンガン記念館の7300日』に出てくる証言によれば、

 李鐘秀 慶南晋州市大谷面出身。日本は食料や家財道具などあらゆるものを収奪した。父は丹波のマンガン鉱山で働き、家族も日本に渡った。
 李新基 (慶南晋州市大谷面の)村の者は、日本の炭鉱に連行されて帰らなかった者が多い。

 厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」の長崎県分の名簿によれば、鯛(たい)之鼻炭鉱*の名簿があり、大谷面からの連行者の記載もある。また同福岡県分の三井三池炭鉱万田坑の名簿にも、1944年1月と2月に、大谷面から万田坑に連行された15人分の名簿がある。

*鯛之鼻炭鉱は長崎県松浦市(旧・北松浦郡福島町)にあった炭鉱。

326 丹後の西方の兵庫県篠山でも、マンガンや珪石が採掘された。厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」の兵庫県分の名簿には、篠山地域の鉱山のものも含まれている。多くは小規模経営の珪石鉱山のものであり、記載人数は10人くらいである。名簿にはマンガンを採掘していた福住*の鉱山のものもあり、7人の名前が記されている。

*福住は丹波篠山市の東方にある。

4 タングステン・ニッケル

 京都・丹波地域の鉱山である、タングステンの大谷鉱山、和知鉱山、鐘打鉱山で、朝鮮人の強制連行が行われた。ニッケルを産出した福知山北方の大江山鉱山や福井の若狭鉱山でも朝鮮人が連行された。
 京都府知事引継書によると、栗村鉱業大谷鉱山に50人、栗村鉱業和知鉱山に49人、日南鉱業鐘打鉱山に50人、大江山鉱山に383人が連行された。(京都府朝鮮人強制連行真相調査団の調査による。)

 栗村鉱業大谷鉱山は亀岡市にあった。1914年ころからタングステンを採掘した。
 証言 金甲善 大谷鉱山に強制連行された。1922年、慶北に生まれた。1934年5月、二年契約で大谷鉱山に連行された。ダイナマイトの穴あけやトロッコ押しなどの坑内労働を強いられた。人間の限界を超えた重労働と空腹で、1944年に逃亡し、美山町で土建の仕事や、岩谷や荒倉などのマンガン鉱山で働き、そこで解放を迎えた。(『丹波マンガン記念館の7300日』)

327 日南鉱業鐘打鉱山は、船井郡京丹波町(旧和知町)にあり、タングステンが採掘された。採掘は1930年から始まった。
 証言 鄭甲千 鐘打鉱山で、連行者とともに働いた。1918年、慶南南海郡で生まれた。1934年ころ福岡の麻生赤坂炭鉱の募集で働いたが、落盤事故に会い、入院した。落盤で死んだ人は犬のように埋められた。友人を頼って鐘打鉱山に行った。鐘打鉱山の労働者のほとんどが徴用者だった。1942年ころ海軍が視察に来た。解放後も鉱山で働いた。(『丹波マンガン記念館の7300日』)

 大江山鉱山は与謝郡与謝野町(旧加悦町)にあった。ニッケルを産出した。
 大江山鉱山については、和久田薫『大江山鉱山 中国人拉致・強制労働の真実』が、事情を説明している。
 1934年、昭和鉱業の出資で大江山ニッケル鉱業が設立され、1935年から試掘が始まった。1940年、大江山ニッケル工業となり、軍が支援した。大江山ニッケル工業は、加悦鉄道の営業権を獲得し、鉱山まで専用線を引き、宮津に製錬工場を建設した。朝鮮人、中国人、連合軍捕虜を連行した。朝鮮人の慰安所もおかれた。労働者数は約3000人だった。
 
 福井の若狭鉱山でも強制連行があった。ここは鉄やニッケルを産出した。
 証言 金載錫 1917年、慶南に生まれた。
328 17歳で大阪の知人の工場で働き、1942年、大飯の犬見興業の若狭鉱山に行った。そこで強制連行された朝鮮人と働いた。(『丹波マンガン記念館の7300日』)

 丹波マンガン記念館の展示館には、マンガンの鉱床、マンガン鉱石、マンガン採掘用の工具や写真、朝鮮人の証言などが展示されている。
 外部には、コンプレッサー、クラッシャー、ホッパー、輸送用牛車、鍛冶小屋、飯場などがおかれ、飯場の内部が復元されている。
 川端大切坑が見学用に拡大され、坑道内に人形を置き、坑内運搬と掘削、枠入れなどの坑内労働を再現し、地層についての説明もある。この坑は1950年に開坑された。

 京都の東山区の万寿寺、左京区の清光寺に、朝鮮人の遺骨が安置されている。無縁仏である。

(2009年5月調査)


おわりに 強制労働問題解決のために

331 朝鮮人の連行先としては鉱山や炭鉱が多く、三井・三菱などの財閥系企業が多い。連行した多くの企業が今でも存続している。多くの未払金が支払われずに供託された。
 日本での強制連行関係の企業裁判が終わり、現在では強制労働被害者救済のための立法化が課題となっている。

 三井・三菱と強制連行

332 三井財閥 三井鉱山は、炭鉱では、福岡の三池、田川、山野、北海道の砂川、芦別、美唄、サハリンの川上、内川、西柵丹、千緒などを所有した。三井系の炭鉱には、北海道炭礦汽船や太平洋炭鉱があり、北炭は、夕張、平和、真谷地、登川、角田、幌内、万字、新幌内、空知、赤間、天塩など、北海道の主要炭鉱を所有していた。
 鉱山では、岐阜の神岡鉱山、鹿児島の串木野、秋田の大沢などを所有した。釜石鉱山、北海道硫黄、中竜鉱山も三井系であった。
 三井鉱山による朝鮮人の連行は、北炭を含めて6万人である。
 石炭や鉱石を利用した化学工業では、三井染料、東洋高圧、電気化学工業などが朝鮮人を連行した。三井鉱山は、現在では、三井金属鉱業や日本コークス工業となっている。
 三井物産の直系工場は、東洋レーヨン、豊田紡績、郡是製糸、豊田自動車機械などがあり、傍系企業では、王子製紙、東京芝浦製作所、三井造船などがあり、北炭は日本製鋼を傘下に置いた。軍需生産を担った東芝、日本製鋼、三井造船、内海紡績などに朝鮮人が連行された。
 三井は、台湾、満州、朝鮮での経営を進め、中国や南方の占領地での鉱産資源などの生産や流通を、三井物産、三井鉱山、三井化学工業、三井農林、三井船舶、三井造船、三井倉庫、東洋綿花などが担った。三井は軍に協力して巨大な利権を得た。

 三菱財閥での朝鮮人連行の主要な企業は、三菱鉱業と三菱重工業である。
 朝鮮人が連行された三菱系の炭鉱は、九州の新入、方城、鯰田、上山田、飯塚、勝田、高島、崎戸などであり、北海道の、大夕張、美唄などであり、雄別も三菱系である。
 北海道の三菱系炭鉱では、鉄道工業、原田組、黒田組、地崎組、松村組、土屋組などが坑内外の労働を請け負い、その中に朝鮮人もいた。
 鉱山では、佐渡、生野、明延、尾去沢、尾平、槇峰、細倉、手稲、新下川などが連行に関与した。
 朝鮮人女性が性的奴隷にされたところもある。
 三菱鉱業関連の朝鮮人動員数は6万人とみられる。

333 三菱重工業は、三菱長崎で軍艦を、三菱名古屋で軍用機を、三菱東京で戦車を製造し、中国東北に、三菱機器工場、台湾に船渠を置いた。戦争の拡大に伴って、アジア太平洋地域に、三菱製鋼、東京金属、三原車両、名古屋発動機、水島航空機、川崎機器、広島造船機械、京都発動機、静岡発動機、熊本航空機、名古屋機器、茨城機器、三菱化成などの工場が建設された。その工場建設や、工場労働、地下工場などの建設に朝鮮人が動員された。長崎、広島では原爆の被害も受けた。

 三菱関連での朝鮮人連行数は、炭鉱や鉱山で、6万人、重工業で、2万人、地下工場建設で数万人であり、計10万人となる。
 三菱は朝鮮でも鉱業開発を進めた。金堤、青岩、佑益、海州、蓮花、月田、花田里、宝生、三光、鉄嶺、甘徳、大同、大宝、茂山、下聖などの鉱山や、朝鮮無煙炭、清津製錬、兼二浦製鉄などの事業を行い、サハリンでは、南樺太炭鉱鉄道を支配し、内幌、塔路、北小沢などの炭鉱を経営し、ここにも朝鮮人を連行した。三菱は、中国、シンガポール、マレー、タイ、インドネシア、フィリピンなどにも経営を拡大し、軍の支配下で多くの民衆を労務動員した。

財閥系企業と強制連行

 戦後、占領軍は、財閥を解体し、三井、三菱、住友、鮎川(日産)、浅野、古河、安田、大倉、中島、野村、渋沢、神戸川崎、理研、日窒、日曹などを財閥に指定した。これらの財閥系企業は朝鮮人の強制連行をした。現在、これらの企業は金融資本の統合をし、三井住友、三菱、みずほの三大コンツェルンに統合された。合併・買収で社名が変わっているが、存続している企業が多い。

334 「朝鮮人強制労働企業現在名一覧」「日本強制動員現存企業名簿」(韓国強制動員被害調査及び強制動員被害者支援委員会)から、強制連行・強制労働が判明している企業名は以下のとおりである。

 三井・住友のコンツェルンは、三井住友銀行を核とした企業集団である。
 三井グループの連行企業名(省略)
 住友グループの連行企業名(省略)
 三井系と住友系の企業統合が進んでいる。住友金属と新日鉄が統合し、新日鉄住金が形成されたが、これはグループ外との企業統合である。

 三菱コンツェルンでは、金融資本が三菱東京UFJに統合された。三菱グループの主な連行企業は、三菱マテリアル、三菱化学、三菱重工業、三菱製鋼、三菱電機、旭硝子、日本郵船などである。
 
 みずほコンツェルンは、芙蓉、第一勧業銀行、日本興業銀行などのグループが、みずほ銀行に統合されるなかで生まれた。

 芙蓉グループは、安田財閥を中心に、浅野、春光系(日産・日立)、大倉、根津、理研、森などで形成された。連行企業は以下のとおりである。(省略)
 第一勧業銀行グループは、古河三水会、渋沢、川崎睦会(神戸川崎)などで構成されている。このグループの連行企業名は以下のとおりである。(省略)
 
 日本興業銀行グループの連行企業名は以下のとおりである。(省略)

 財閥系以外の企業 戦時の国家独占体であった日本製鉄(現新日鉄住金)、日本通運、国鉄、日本発送電(現電力各社)の工事にも多くの朝鮮人が連行された。

 国鉄の建設部は地下工場建設工事を請け負い、駅での軍事物資の運送荷役にも朝鮮人を動員した。
 日本発送電は水力発電工事を各地で行い、請け負った土建業者の下に、多くの朝鮮人が連行された。 
 軍による飛行場建設や海軍工廠、陸軍造兵廠などの現場にも多くの朝鮮人が動員された。

336 図表15-1 強制連行企業・業種別一覧

338 利益は金融資本に集まった。三井住友、三菱東京UFJ、みずほには社会的・歴史的な責任がある。
 金融業の野村證券は、野村財閥の下で形成された。野村鉱業(現野村興産)は戦時下に、朝鮮人や中国人を連行した。

 ホテルオークラは大倉財閥の下で形成されたが、朝鮮での文化財の収奪に関わっている。大倉土木(現大成建設)は発電工事やトンネル工事で多くの朝鮮人を連行した。

強制労働被害者への個人賠償権の確立

 「強制連行・企業責任追及裁判全国ネットワーク」が戦後補償裁判の過程で結成され、日本製鉄裁判(釜石・大阪)、三菱重工裁判(名古屋、長崎、広島)、不二越裁判、東京麻糸紡績沼津工場裁判、関釜裁判、日本鋼管裁判等で、相互に支援し合って企業責任を追及し、国際労働機関に、強制労働を禁止する29号条約違反の認定を求める申し立てを行った。
 また、同ネットワークは、日本での裁判が終わるころ、「朝鮮人強制労働被害者補償のための財団設立法」の制定をすすめ、2012年、強制労働被害者補償立法をめざす日韓共同行動を提唱した。

 一方、韓国では、1980年代の民主化運動を経て、戦争被害者による運動が形成され、名簿の公開、遺骨の返還、未払金の支払いなどの要求が高まった。
 そして、2000年、太平洋戦争被害者補償推進協議会が設立され、韓国内で、三菱重工と新日鉄に対する裁判が起こされた。また、韓日会談文書公開運動をすすめ、公開を実現させた。

339 2004年、韓国政府内に日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が設立されると、この委員会に22万6000件の被害申告がなされ、委員会は真相調査と被害認定を行った。
 2012年8月、「日本強制動員現存企業名簿」(「戦犯企業リスト」第三次分)が提出された。該当企業数は、のべ299社、実数で276社となった。また被害者支援のための財団づくりが進められた。

 2012年、5月24日、韓国大法院は、三菱重工広島と日本製鉄の高等法院判決を破棄した。
 この判決は、日本の国家権力が関与した反人道的行為と、植民地支配に直結した不法行為への個人の損害賠償権を認め、この損害賠償権は、日韓請求権協定の適用対象に含まれないとした。また消滅時効は、信義誠実の原則に反するものであり、権利の濫用であるとした。そして、別会社による免責は、韓国の公序良俗に反するとした。さらに日本のこれまでの判決は、韓国の強制占領を合法とし、国家総動員法による徴用令の適用を適法とする立場であり、三・一独立宣言、四・一九*精神に基づく大韓民国憲法の核心的価値に真っ向から衝突するものだとした。

*1960年4月19日、独裁政治に反対する学生デモに一般民衆が呼応し、李承晩大統領が辞任に追い込まれた。李承晩は婦人とともにアメリカに亡命した。
 野党の張勉が首相になり、8月、金日成が南北連邦制による南北統一案を提示したが、1961年、朴正熙が軍事クーデターを起こし、その後は民主化と南北統一の動きが抑えられ、反共独裁政治が復活した。

 反人道的な不法行為に個人賠償請求権を認めることは国際的な動きであった。
 2013年7月10日、ソウル高等法院で、日本製鉄の、7月30日、釜山高等法院で、三菱重工の、差し戻し判決が出され、原告が勝訴した。三菱重工は、被害者への損害賠償を命じられた。

 こうして、強制連行という反人道的行為や、植民地支配と直結した不法行為への損害賠償請求権が確立するようになった。

340 2013年11月6日、日本経済団体連合会、日本商工会議所、経済同友会、日韓経済協会は、「請求権問題が良好な日韓経済関係を損ねかねない。経済界は、この問題を解決し、日韓両国と日韓経済界がともに成長・発展することを求め、両国政府と経済界が協力すべきだ」とした。
 これまで日韓請求権協定で解決済みとしてきた日本の経済界も、未解決であると認めざるを得なくなった。連行被害者への包括的な賠償を行う基金・財団の設立が、問題解決の現実的な方法である。

企業の歴史的責任と企業文化の形成

 韓国での原告勝訴の判決を受け、新日鉄住金や三菱重工は、連行被害者への賠償をせざるを得ない。
 日本での戦後補償裁判は、史実を認知せず、賠償を時効とし、連行は国策であって責任はない、日韓請求権協定で解決済みとしてきた。

 国際連合は「グローバルコンパクト」を提唱しており、多くの日本企業もこれに参加している。このグローバルコンパクトの原則4は、あらゆる強制労働を排除する。過去の強制労働に対する賠償の実施は、アジアとの和解と友好の出発点となる。

341 ドイツのフォルクスワーゲン社は「記憶保存の企業文化」を示している。外部の専門家に委託して軍需生産と強制労働を記録し、社史を編纂する。社の敷地内に強制労働の記念碑を建立する。社内に強制労働記念の地を設定する。強制労働に関する「記憶保存資料館」を建設して、文書を管理し、継承する。強制労働者の所在地に助成金を支出する。強制労働被害者の社への訪問などの人道的支援を行う。カタログや強制労働関係資料を出版するなどの活動をしている。
 フォルクスワーゲン社は、「記憶・責任・未来基金」の設立にイニシアティブを発揮した。その基金によって、ドイツ企業は、戦時の強制労働が人道に対する犯罪であったことを認め、歴史的責任をとった。

 日本の連行企業は、企業資料を調査し、連行者氏名・出身地・仕事内容・未払金・厚生年金・郵便貯金などを公開すべきだ。朝鮮人連行とその動員実態(経過や現場、収容された場所など)を明らかにすべきだ。関係資料を被害者認定・被害者支援資料として韓国側に提供すべきだ。朝鮮人強制労働の史実の展示など具体的に示し、関係文書を管理すべきだ。外部の専門家に依頼し、軍需生産と強制労働の歴史を記録し、社史に反映させるべきだ。社の敷地内に強制労働の記念碑・追悼碑を建立すべきだ。関係企業として、被害者補償基金を設立するための補償立法の制定に努めるべきだ。現在の歴史認識を改め、アジアの友好・教育事業をすすめ、市民団体と対話すべきだ。

342 このような企業文化の形成とともに、戦争被害者の権利と尊厳の回復に向けての財団や基金の設立と、そのための立法が求められる。

 1965年の日韓条約・請求権協定は、冷戦下の産物であり、戦争動員被害者を救済するものではなかった。植民地主義を清算し、戦争動員被害者の権利を認める新たな日韓の協定が結ばれるべきだ。

以上 2020117()


斎藤幸平『人新世の「資本論」』2020

  斎藤幸平『人新世の「資本論」』 2020       メモ     西欧による東洋・中東・ロシア蔑視     マルクスは当初「西欧型の高度な資本主義段階を経なければ革命はできない」 173 (進歩史観 174 )としていたが、ロシアのヴ...