阿部定猟奇事件 若梅信次 1955年、昭和30年8月号 三十五大事件 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988
感想
本文は、毎日新聞(1936年当時の東京日日新聞)記者の戦後の回顧談である。
阿部定による殺人事件が起きた1936年5月頃は、東京を始め、町々駅では壮行会が開かれ、人々は家族を兵隊にとられ、どんどん中国へ行かされていた。二・二六事件が終わっても、戒厳令がなお長期間2/27—7/16に渡って行われており、軍部によるクーデター的支配が続いていた。
そういう危機的な時代なのに、人々は性スキャンダルである阿部貞事件に現を抜かしていたという。当時の日本人は政治に対してなぜおかしいと思わなかったのだろうか。なぜ発言しなかったのだろうか。それほどまでに愚民だったのか。
メモ
350 日の丸の旗、万歳の声、征途につくカーキ色の若者たちは、雪崩のように「大陸」の要地に送り出されていた。街には兇悪な犯罪が続出し、何か呪われたように、人々の気持ちは灰色におののいていた。(宗教への逃避か)
352 事件の当事者は、被害者である料理店吉田屋の主人・石田吉蔵42と、加害者であるその店の女中田中かよこと阿部定31の二人である。
人々はお定の汚れた話題に一時のうつを晴らたものである。(一時のではなく永遠のではないのか。)
353 (スケベな)校長大宮某49は、事件前年の春、お定が名古屋市の某旅館の女中をしている頃、花見で知り合った。教育者である大宮氏は「幾度か彼女との悪縁を絶たんとしたが、年増女の魔の手に引き摺られて、今日に至った」と述懐した。(お定を貶める一方的な校長の価値判断)
大宮某は上京してお定と会い、50円の小遣いを渡した。
354 大宮氏は教育者として自責の念に堪えず、辞表を提出した。(もっともらしい。事件になったからそうせざるを得なかっただけではないのか。)
356 お定には懲役6年の判決が下された。
357 お定は畳職・阿部重吉の四女として生まれ、小学校時代から遊芸を仕込まれ、少女時代に家運が傾き芸者に出た。
以上 2020年10月11日(日)
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