2020年10月18日日曜日

学生の知能低下について 三木清 1937年、昭和12年5月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988 感想・要旨

 

学生の知能低下について 三木清 1937年、昭和12年5月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988 感想・要旨

 

 

感想 20201018()

 

 三木は1930年、日本共産党に資金提供して逮捕・転向し、本論文執筆頃(支那事変後かも)の1930年代末には、総力戦体制に協力する昭和研究会に関与していたが、それでも、三木は本論文執筆の頃も、マルクス主義的考え方を捨てていなかったのではないかということが、本文を読んでいると伝わってくるような気がする。また治安維持法違反被疑者の高倉テルが、葬儀のための釈放中に逃亡して来た時、彼女に着物と金を提供していることからも、三木のそういう心意気が伝わってくるように思われる。

 

感想 

 

この程度の批判が1937年当時でも可能だったということが分かる。三木は当時の「日本文化」論を批判する。本論文が言うところの学生の「知能」とは、知識と区別され、知識が単に大学入試のための知識を指すのに対して、知能は、批判精神であり、不要と思われるようなものも含めて、あらゆるものに対して関心を持ち、自分の頭で考え抜く力を指す。学生の知能の低下は、満州事変を境にして現れたと三木は言う。

 日本文化論の対象は、既定の、指定された目標であり、既に決められていて、自分で新たに考え出す必要がないから簡単である。簡単だから、知能を要しない。日本文化論でいくら古いものを探し出してみても、既に限界があり、新しい文化は生まれない、と三木は言う。

 

 三木は、ウイキペディアによれば、治安維持法違反で逮捕・拘留されて獄死したとあるが、実際は監獄の中で疥癬に悩まされ、それを起因とする腎臓病が悪化し、敗戦後の9月に、ベッドから落ちて死んでいるのが発見されたとある。またその逮捕・拘留の理由は、1945年、治安維持法違反被疑者(高倉テル)が葬儀のための釈放中に逃亡して三木の疎開先を訪れたとき、三木が金や衣服を与えたことであった。三木自身はマルクス主義を研究したことはあったが、マルクス主義者ではなった、とウイキペディアは言う。転向経験(日本共産党に資金提供1930)もあるが、「支那事変の世界的意義」と題する講演を行い、当時の全体主義・総力戦体制(昭和研究会の文化研究部会委員長)に貢献するようなこともしている。しかし、そのような見方は一面的なのかもしれない。ウイキペディアも言うように、当時の転向経験者は、与えられた状況の中で、当局に協力しつつ、当時の政治のあり方をたとえ少しでも批判しようとする「両義性」を持っていたという。

 三木清の「人生論ノート」は戦後ベストセラーになったとのこと。

 

要旨

 

編集部注

 

二・二六事件後、日本国内ではしきりに「非常時」が声高に叫ばれだした。

 

本文

 

364 満州事変後の国家の文化政策、特に教育政策が、「事変後の学生」を生み出した。

365 事変後、国家の文化政策・教育政策は積極化したが、それで非常時に国家が必要とする学生がつくられているか。また今日、学生の健康は憂うべき状態にある。それはファッショ政策の自己矛盾だ。

 

 今日の学生論は一見リベラルな立場から書かれているが、それは教育者的立場であり、当局的立場であり、批判性を失う恐れがある。今日の学生論は、学生に対して好意的であり過ぎる。学生だけを見る学生論ではなく、国家の文化・教育政策からの学生論が求められる。

 

366 試験準備の勉強は、学問について功利主義的なあるいは結果主義的な考え方を生じ、このような考え方は、知識欲を減殺するばかりでなく、知能を磨く上で有害である。以前の高等学校生は、青年らしい好奇心、懐疑心、理想主義的熱情を持ち、あらゆる書物をむさぼり読んだが、今日の学校の教育方針がそういう心情の成長を阻害している。青年の理想主義的熱情は、ヒューマニズムの精神から生まれるのが常だ。それは、社会の矛盾を発見し、現実に批判的になることから出てくる。そこから社会認識を深めようとする知的努力も生じる。しかるに、今日の学校では、このような社会を批判的に見ることを禁じている。学問そのものが批判的であることを許されていない批判力は知能の最も重要な要素である。今日の教育は、青年の批判力を養成しようとは欲せず、かえって日本精神や日本文化についての権威主義的で独断論的な説教を詰め込むことで彼らの批判力を滅ぼすように努めているようだ。

367 事変後の高等学校生はほとんど社会的関心を持たず、学校を卒業しさえすればよいと思って大学に入学するという話を某大学生から聞いたことがある。社会的関心を持つという危険なことから遠ざかろうとする現実主義から、彼らは学校の課程以外は「キング」程度のものしか読まない「キング学生」になる。彼らの現実主義・功利主義から、彼らの知能の低下がもたらされる。学生が理想主義的熱情を失ったのは、今日の社会が彼等に夢を与えないからだけではない。真の理想主義は人生や社会の現実を直視し、その矛盾を発見することから生まれる。学生の批判力を殺しておいて彼らの功利主義を責めることは矛盾だ。日本主義は理想主義ではないのか。この頃の教学では日本主義を「理想主義」と考えることすら異端として排斥されているそうだ。それ自身は真に現実主義的である学問の根底には、つねに理想主義的熱情がある。理想主義的であることを望まない日本主義は、現実そのものについては、架空の理想主義的見方で満足しようとしているようだ。「キング学生」は学校の成績は悪くないかもしれない。「高文学生」つまり高等文官試験に合格することを唯一の目的として勉強する学生の数は増えているだろう。しかしこのような勉強には何ら批判は伴わない。卑俗な現実主義は、人生においてただ間違いのないことだけを求める。詩人は言った、「人は努力する限り誤つ」と。間違いがないことは真に努力していない証拠だ。

368 今日の学生が勉強しないのは、彼らの将来に希望がないからだと言われている。彼らは「何のために勉強するのか」と問う。もし勉強しても食えるようになれないのなら、なぜそのような社会の状態の原因を追究しないのか。その原因がわかれば、その排除のためになぜ闘わないのか。社会的関心が高まれば、研究心も旺盛になることは、かつてのマルクス主義時代の学生が証明している。しかし今日の日本主義的学生は頭脳が悪く勉強しない。また頭脳のよい学生は功利主義的で社会的関心を失っている。このことは日本主義のためにも慶賀すべきことではないだろう。

 

 今日の学生は知識量では以前の学生より勝っているかもしれないが、それは彼ら自身の功績ではなく、新聞雑誌の発達や書物の普及による。先祖が蓄積した財産に寄食して豊かに生活している者は、先祖よりも優れているとは考えられない。今日の日本主義は、先祖の文化の遺産に寄食すべきことを人々に勧めている。そこでは新しい文化を生産するよりも過去の文化を反復することが問題となっている。日本精神とか日本文化とかは、学ぶに苦労を要しない。日本主義的学生にとって、頭脳も勉強も問題でないようだ。カントの哲学を理解することは困難だが、日本精神の講話や日本文化の講義は、どんな学生にも理解できる。ドイツ語でカントの『純粋理性批判』を読むことに比べて、日本精神に関する現在の書物や過去の日本人が書いた書物を読むことは容易だ。困難があるとしても、それは主として言語上ないし、文献学上のものであり、理論的なものではない。思想善導は、学生に、苦しんで思索することを教えるものではなく、その反対だ。日本主義は自ら非合理主義を標榜している。思想善導の結果が、学生の知能低下となって現れても不思議はない。

369 断片的な知識をどれほど集めても真の知識とはならない。このような知識を積むには多くの知能を要しない。一方、真の知能は理論的なものである。今日の学生は種々のことを知っているが、何事も根本的に知っていない。理論的意識は、組織的・体系的な精神であるばかりでなく、批判的精神である。しかるに今日の学生の間に次第にいちじるしくなりつつあるように見えるのは、権威主義である。学問の精神は権威の精神とは反対だ。権威を承認せず、権威を破壊するところに学問の精神がある。現在の権威主義は、学問における官僚主義の現われだ。政治における官僚主義が濃厚になるにつれ、学問の世界における官僚主義も濃厚になる。批判的精神を奪われた学生は、この官僚主義に感染しつつある。

 学問における官僚主義の結果は、研究の自主性の喪失である。研究の自主性の喪失は、知能の低下をもたらす。学生は「何を読むべきか」と頻繁に問う。この質問に対して与えられた解答にしたがって彼等がどれ程熱心に読書しているかは疑わしい。この質問自体に権威主義が潜んでいる。今日の学生は読書においても自主性を失っている。これは読書でも無駄を省こうとする功利主義の現われか。自主的な研究は自主的な読書から始まる。大きな学問とは無駄のある学問だ。

370 批判的精神の欠乏の原因は、今日の学校で研究の自由が束縛されていることだ。

 

 今日の学生の大多数がファシズム的教育に内心から同意しているとは私は考えない。不幸なことに、彼らは自分で内心思っていることと、公に言うこととを区別しなければならないということだ。そのことは彼らの良心を駄目にする。真理に忠実であるべき学問を駄目にする。これは道徳の問題でもある。

 

以上 20201017()

ウイキペディアより

 

三木清 1897.1.5—1945.9.26 

 

1922年、ドイツに留学し、ハインリヒ・リッケルトから歴史哲学を学んだ。1923年、マルティン・ハイデッガーやニコライ・ハルトマンから学んだ。また、ハイデッガーの助手カール・レーヴィットの影響で、ニーチェやキエルケゴールに興味を持った。1924年、パリに行き、パスカルを研究した。

1925年、帰国した。1927年、法政大学文学部哲学科主任教授。羽仁五郎とマルクス主義的雑誌『新興科学の旗のもとに』を起こす。1930年、日本共産党への資金援助を理由に逮捕され転向した。有罪判決を受け、公式には教職に就けなくなったため、法政大学を退職し、文筆活動に転じた。1930年、一人娘の洋子が生まれた。彼女は東大文学部の初めての女性教官永積洋子(近世通行貿易史専攻)である。

1930年代後半、後藤隆之介ら近衛文麿の友人が中心となって組織した昭和研究会に参加し、協同主義という多文化主義を掲げ、それが日中関係打開の新政策に繋がると海軍から期待されたが、中国からの反応はなかった。

 

支那事変後、昭和研究会内に世界政策研究会が発足した。酒井三郎が三木の論文「日本の現実」(中央公論)に注目した。三木は昭和研究会で「支那事変の世界的意義」と題した講演を行い、その中で思想・文化に関する研究会の設立を提案した。昭和研究会の中に、文化研究会が設立され、三木はその委員長に就任した。

総力戦体制に対する抵抗と関与という両義的な態度は、同時代の転向知識人の特徴だが、三木はその典型だ。軍部と皇道右翼によって、マルクス主義や自由主義は自立的な社会的活動の余地を奪われていた。(今日2020.10の6人の学術会議員への選任拒否と同じ構図だ。)総力戦体制の効率化・合理化は、体制派の主流に対する批判的意見表明を可能にする最後の可能性だった。しかし、昭和研究会は、軍部や保守派に敵視され、解体され、大政翼賛会に取り込まれた。当初の総力戦動員の合理性の追求は、戦争協力に変質した。

1930年代末から1940年代にかけて、三木は、マルクス主義をより大きな理論的枠組みの中で理解し直す「構想力の論理」を企てたが、未完に終わった。最後は親鸞の思想に再び惹かれた。

1945年、治安維持法違反の被疑者高倉テルが、葬儀出席のため数日間の釈放中に逃亡した際、三木の疎開先を訪れた。三木は彼女に服や金を与えたことを理由に、検事拘留処分*を受け、東京拘置所に送られ、同年1945年6月、豊多摩刑務所に移された。そこで三木は疥癬を病み、腎臓病が悪化し、終戦後の9月26日に、独房の寝台から転がり落ちて死んでいるのが発見された。48歳没。

 GHQは三木の死に驚き、治安維持法の撤廃を急遽決定した。

 

思想

 

高校時代 西田幾多郎の『善の研究』を読み、哲学専攻を決意した。

大学時代からドイツ留学まで 新カント派を研究し、歴史哲学を研究の中心テーマとした。

ドイツ留学時代 第一次大戦後のドイツはインフレで、日本人留学生は生活しやすく、大勢の日本人がドイツに留学した。そこで三木も多くの日本人留学生と交流した。羽仁五郎、大内兵衛、天野貞祐、九鬼周造、北昑(きん)吉、石原鎌、久留間鮫造、阿部次郎、藤田敬三、糸井靖之、黒正厳、小尾範治、鈴木宗忠、大峡秀英などである。

ハイデルベルク カール・マンハイム、ヘルマン・グロクナー、エルンスト・ホフマン、オイゲン・ヘリゲルらと交流した。

マールブルク 三木は日本でリッケルトの著作のほとんどを原典で読んでいたので、ハイデッガーの演習に参加した。歴史哲学を学んだ。カール・レービットの影響を受け、ディルタイ、フリードリッヒ・シュレーゲル、フンボルト、キエルケゴール、ドストエフスキーなどを読んだ。

パリ パスカルを研究した。

マルクス主義研究 パリからの帰国後、当時日本ではマルクス主義が研究されていたので、三木も研究を始めた。

福本和夫は文部省留学生としてドイツで学んだ。福本は、共産党が中核となって大衆を指導すべきだとした。

三木は1930年5月、日本共産党に資金提供したとして逮捕され、11月に懲役1年、執行猶予2年の判決を受けて転向した。

 

以上 20201018()

 

 

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