2022年1月29日土曜日

佐藤熊治郎『現代教育思潮批判』目黒書店 大正15年10月 要旨・感想

佐藤熊治郎『現代教育思潮批判』目黒書店 大正1510

 

 

感想 

 

 筆者の立ち位置 筆者は生徒の自主的・主体的学習を重視する新思潮的教育法を、従来の教師の説話を主体とした教授法と本質的に変わりがないとし、新思潮的教育法を教育心理学的知見などあれこれ駆使して論破しようとするのだが、新思潮的教育法を積極的に排斥するようでもなく、むしろ従来の教授法を防衛するための批判にとどまっているように見える。そして時には教授法に限らず広く西欧思想を紹介していると思われる場合もある。

 筆者が新思潮的教育法を批判せざるを得ない立場の根底にあるものは、文部省の日本史(国史)教育方針ではないだろうか。新思潮的教育法は、絶対的で揺るがすことのできない文部省の国史教育方針を、ややもすれば批判する恐れもあることを警戒しているのではないかと思うが、これはあくまでも想像である。

 

イギリスの当時の歴史教育 本書の最後で当時のイギリスの歴史教育が紹介されているが、日本で今でも主流となっている教師の説話を中心とする教授法と、生徒が自学自習しその自主性を尊重する西欧的教授法との相克が、すでにこの大正の時代にもあったことが分かる。当時の日本は西欧的教授法を一部では採用したが、全体としては排斥することになったようだが、筆者が批判するだけあって、当時新思潮的教育法があちこちで行われていたと思われる。

 

 

筆者の新思潮的教育法批判

 

「自発自展の力を認めぬ教育は人間を物扱いする教育であるが、一方、助成作用を無視しまたは軽視する教育は自己を否定する教育であり、学習という語をもって教授という語に置き換えんとする教育説のごときも自己否定に陥る傾向を帯びている説である。」024

 

これを西欧の教育思潮に基づく新思潮的教育法に当てはめることは誤解である。

 

拘束の必要性 「第七 自由対拘束の問題」039

 

子どもの教育で「助成」とすべきところを「拘束」という語彙を選択するのはまずいのではないかと思ったが、それは伏線であった。この節の最後で拘束の必要性を主張し、拘束も自由と同様に必要であるとする結論を導く。子供の教育では子供を拘束しないと子供が価値を実現できないとし、全くの自由放任はけしからんとなる。その論理構成は以下のとおりである。

 

「自由が環界の刺激に対して自発的に反動することだけを意味するなら、ヒントや援助を与えることは拘束になるが、この種の拘束は教育上必要だ。

自由・自立は拘束よりも偉くない。

エレン・ケーは子供の悪さは道徳の胚子を包んでいる大事な皮殻であるというが、は善根の皮殻であり、絶対の自由を子供に与えることによって内からその皮殻を破って善が発芽すると楽観しうるほどに都合よくできてはいない。加えるべき手の加えられないために起こった歪んだ発達を経験上の事実から拾い集めることができる。

ガウデイクは教師の作用がゼロになるのが教授の理想であるというが、それは教員の使命を解せざるものである。

子どもの人格的発達のためには自由だけでは不可である。子供から見れば拘束と思える助成も必要である。自由は最高の原理ではない。最高の原理は価値を実現する人格の発達である。

自由と拘束は相提携すべきものである。社会で履行すべき義務があるが、主観主義者はこの拘束を蛇蝎のごとく嫌う。外からの拘束を我々の内面の自己目的つまり自らが自らに課する拘束に転じさせねばならない。それによって人は個的主観から人格になる。教育の手段としての自由に対する拘束即教権は、これを目指すべきである。」

 

論理が非常に陳腐で浅く保守的である。西洋の教育思想を十分理解していないのではないか。

 

 

感想

 

本書は教育(教授)心理学に基づく教育論である。本書の狙いは自学自習を説く「新思潮」ダルトンプラン116, 118, 119の批判であるようだ。筆者が指摘するように、子供は教師のアドバイスがなければ、燃素説と酸化説の違い098や、地動説と天動説の違い095を発見することはできない。それは至極当然のことであるが、ダルトンプランの本質は筆者が批判する通りのものなのだろうか。

 

 

感想

 

「第二十三 科学としての歴史と国史教育」144に至って漸く筆者の立ち位置が判明した。筆者は文部省が示す歴史教育方針145を「新思潮」による教授法で覆すようなことは慎むべきだという立場である。

小学校教育を行う教員もその授業を受ける小学生も専門的な歴史家ではないのだから、分をわきまえて上(歴史家や国家)によって決められたことを教えるだけでいいのだという考えだ。それを筆者はそのものずばりと言わないで、心理学的語彙で脚色して言うが、それはペダンティックとも言える。

 

筆者には文部省の教育方針を毫も疑う気持ちがないようだ。筆者は文部省の小学校令施行規則から抜粋する。

 

第五条 国史は国体の大要を知らしめ、兼ねて国民たるの志操を養うを以て要旨とす。

尋常小学校においては建国の体制、皇統の無窮歴代天皇の盛業忠良賢哲の事蹟、国民の武勇、文化の由来、外国との関係等の大要を授け、以て国初より現時に至るまでの事歴を知らしむべし。

高等小学校に於いては前項の旨趣を拡めて稍々詳らかに我が国発達の蹟を知らしむべし。

国史を授くるには成るべく図書・地図・標本等を示して、児童をして当時の実情を想像しやすからしめ、特に修身の教授事項と連絡せしめんことを要す。146

 

 そしてその方針をこう評価する。「建国の体制、皇統の無窮の如き、他に類を見ることのできない我に独特の構造である。」147

 

筆者は歴史家が創作的に理会した結果物がただ一つだと考え、様々な歴史家によって構成された歴史観の対立など眼中にないかのようで、「しかるに教授に於いて我々の取り扱う材料は、歴史の資料ではなくて、歴史家の創作的に理会したその結果物である」としている。149

また全ての歴史上の文化を明らかにしなければ歴史を叙述できないとするが、それは非常に律義で、不可知論的歴史観ではないか。149

同様に「様々な諸価値の連関を解き明かさなければ歴史は理解できない」というのも、不可知論に陥っている。150

そういう不可知論から筆者は、小学校教員や小学生など歴史の素人にとって「歴史家を信用することが安全な策である」とするが、これは「歴史家」を信用しすぎており、危険なことであり、筆者が批判する「盲断即裁」そのものに筆者自身が陥っているのではないか。

そして素人は口出しするなという考え方は、子供は馬鹿だということにつながり、子どもには能力がないから原拠による学習は無理だという結論になる。

さらに原拠による歴史学習に関して「二千五百有余年の長年月にわたる歴史を有する我が国史教育がこれを許さない」とし、原拠による学習では大部の歴史全てを教えられないという。

 

 

 

筆者の提起する問題は多岐に渡っているが、本書の最後の方で触れている国史教育に関する主張が、筆者の主眼かと思われる。

 

問題解決学習法によって導かれる自学自習・共同学習の方が、教師が一方的に説明する授業よりも、生徒にとって創造的学習と言えるのではないかと私は思うが、筆者はその長所を認めない。

 

筆者は文部省の国史教育方針と「歴史家」の創造とを同一視し、歴史家による創造は一つしかないとし、歴史家間での歴史解釈の違いを想定していないように思われる。

 

 

 

要旨

 

 

001 序言

 

 新しい教育思想が一時革命的に伝統を蹴落とすこともあったが、古いものが程よく新しいものの中に織り込まれ、新しいものが古いものの中に抱き込まれて静かになるのが世の常である。今は新しい教育思想が静まって動揺の時期を脱した観があるが、まだその余波がおさまらず、新旧が融合されていないところがある。

旧いものを復元して新しいものを鎮めなければならない。

 

 

 

001 現代教育思潮批判

 

第一 教育の予想する発達

 

教育の目的は社会進歩に貢献することである。シライエルマツヘルは「子供を現状の国家に役立つように教育すべきだとするなら、不完全なもの(国家)を存続させることになり、教育によって何も改善されない」とする。シライエルマツヘルにとって教育の目的は社会の進歩である。

 

002 発達とは、機械的な非自由から自由に高まり、連想作用のような盲目的な自然法に支配された生活から自己意識に導かれる規範的生活に進むことである、と学者は考えている。(意味不明。またどういう学者か。おそらく西欧の学者なのだろう。)ここで「進む」、「高まる」、「自由になる」という表現の中に価値観が含まれている。「発達」は「変化」に価値観を付与したものである。変化は発達の上位概念である。発達に対する言葉は固定や退歩である。

 教育における発達とは、教育を受ける者自らが善く高い価値を意識しつつそれを実現するための能力の発展である。その価値は外部から添加されず、教育を受ける者自身の中に内在しなければならない。価値の実現に向かって伸びる素質が教育を受ける者に内在することが、人間が人間たる条件である。教育は教育を受ける者を物Sacheと観ないで人間Personと観ることによって教育と言える。教育と技術を同一視できない。

 

004 第二 天稟と環界

 

人間は動物と違って価値の実現に向かって伸びる素質を持っているから、自分で目的を立てて価値を意識してその実現に向けて努力する。

 

005 人間の心理現象は自然科学的心理学では理解しつくせないという考えから生まれたのが精神科学的心理学である。同様に文化現象としての教育も自然科学的に説明しつくすことができない。教育のこの根本的な素質はアリストテレスのエンテレヒーEntelechie*に該当し、心理学では傾向Dispositionである。*可能態としての質料がその目的とする形相を実現して運動が完結した状態。

 傾向は目の前に現れた現象ではなく潜勢である。それが現実となるためには外からの客観的な何かが補充しなければならない。

 傾向の中には生得のものと後得のものとがある。嬰児が生後百数十日で発するアーやカーは生得のものであり、家庭や地方的な独特なものの言い方は後得である。生得の傾向がなければ後得の傾向もあり得ないから、生得と後得とを区別することは難しい。

生得の傾向は客観的触発の欠乏のために十分に発現しないことがあるが、反復的で同質的な触発によって得られる持続的傾向は、外部の影響によるものであることが分かる。傾向を生得と後得とに分けることは理論上は可能である。

 生得の傾向を天稟または天賦といい、持続的な後得の傾向を性質という。情意面から人間を呼ぶとき性格Characterというが、これは生得の天稟を意味することもあるが、生得のものに外部の影響が加わったものを意味することもある。ショペンハウエルが知性を進歩させることはできるが、性格を変更することはできないという、この性格は天稟である。

 

007 生得の天稟は直接には父母から与えられ、間接には無限の過去に遡る。天稟とそれを触発する環界は車の両輪である。環界は客観的世界であり、天稟は自己の内面であるが、天稟は父母を通して遠い祖先につながる点で自己以外の世界である。自我・人格・人間はこの車の両輪(天稟と環界)をつなぐ心棒である。

008 かくして内界と外界との接触点が人間である。過去から現在にかけて学問と生活を通して人間対環界の関係が問題として生ずる。

 

 マルクスの唯物史観は経済活動が宗教・道徳・科学・技術・芸術・政治・法律等一切の文化現象を左右すると説く。この学説によれば、人間対環界の関係で、人間が環界に機械的に支配されることになるが、その説に反論する人は、奪うことのできない深い内面性を提示してマルクスに対抗する。(マルクスの言おうとしたことはこれとはずれているのではないか。)

 

 人間の徳性が生得のものか、それとも外部の影響によって得られる後得のものかは重大な問題である。生得の犯罪者を説くロンブロゾーによれば、極悪非道の行いだけでなく人間の行動の一切が天稟に帰することになる。

 

009 教育は発達途上の若者を外部から正しい方向に、より善くより高い方向に進めることができるという前提で初めて成立する。学問と生活の両面で錯綜した問題を引き起こす、人間対環界の関係は、教育にとって重大な問題である。教育学は常に教育は可能かを問題とする。

 

 

第三 先天論と経験論

 

 人間(生徒)は外の世界(学問・生活)と内の世界(天稟・素質)の接触点にある。人間対環界の関係は内界対外界の関係である。(いつのまにか人間を天稟と同一視している)人格の発達の原動力は内界か外界か、これは教育の諸問題と関係する。

 

010 発達の条件は内界(天稟)と外界(環界)である。生物学者のダルイン(ダーウィン)派の自然淘汰説では、生物の形態も生態も自然の影響を受けて発達し、その影響に順応できるように変化すると説く。この説は発達の原動力が主として外にあると観る。

011 これに反してネーゲリやその一派は、発達の可能性が天稟つまり原形質の中に備わっているとする。前者は順応を、後者は天稟を発達の因子とする。生物学の大勢はこの二説に傾いていて、生物学によれば、生活の基体(独語Substrat、 英語substratum)つまり天稟が外界の影響によって起こす連続的過程が発達である。

 

 生物の発達に関する生物学者の二種の見解が、人間の発達に関する心理学や哲学に現れている。先天論と経験論(後天論)である。経験論を極度に推し進めると、人間が生まれた当座は白紙だと考える。

012 ラウラ・ブリッヂマンLaura Bridgmannやヘレン・ケラーHelen Kellerなどがそれを裏付ける。

 

 一方、発達における生得の天稟を重視するのが先天論である。ロンブロゾーは生得の犯罪者を論証し、ショペンハウエルは性格の不変性を説いた。この見解を裏付ける経験的事実もある。このことを教育で考えれば、ルソーはエミールの天稟を認め、外界の悪影響を避けるためにエミールを社会から隔離して教育する。(ただし、ルソーが外部の影響を恐れることは経験論を認めていることになる。)また他方では、悪い天稟は拘束すべきだということになる。以上は消極的な措置であるが、積極的措置を考え、優生学に基づいて法律や社会運動で、悪い天稟で生まれた者を断つべしとなる。

これに反して経験論を教育問題に当てはめれば、社会的組織を改善して人間を改良すべきだということなる。しかしこの楽天論のために犠牲が払われることもある。経験論は人に積極的に働きかけることになるが、それは人間を物扱いするという弊害ともなる。

014 生物学者の間では生物の発達に関して生得の素質と順応との綜合が行われているが、我々の天稟と環界との関係でも、先天論と経験論との中間点に真理が存在しているのではないか。天稟は潜在しているだけで、未だ現実とはならないものである。人間の動作や行為はすべて内外二つの条件が含まれている。嬰児が発するアーやカー006も潜勢の現われであるが、嬰児を取り囲む心地よい温気や明るい光線、傍にいて愛孫の無邪気な顔に見とれているお婆さんなどがなくしてこの内に潜む音が出るはずがない。

015 内界と外界とが有機的に相互に持ち合っている。人間は両者の統一体である。両者に軽重はない。教育上の新思潮の中には両者のいずれかに軽重をつけようとするものがある。

016 先天論も経験論も一部に真理があるとすれば、そのいずれも捨て去ることはできない。内外の二世界を統一体としての人間やその行動の二条件とすることによって、どちらかに偏して一方の真理を捨て去るという矛盾を解決することができる。ウイリアム・ステルンはこれをコンファーゲンツKonvergenz収斂・収束と呼び、その理論をコンファーギズムスKonvergismusと呼ぶ。コンファーゲンツとは環界が、自発自展の力を備えている天稟を刺激し覚醒し、一方、天稟はこれに反動し、これを利用し、その発展を遂げることである。

017 統一体としての人格のどの部分が内の因子に、どの部分が外の因子に依存するかの問題となる。(意味不明)(心理)テストその他の研究に関して最も困難な点はその見分け方である。(意味不明)

 

感想 凡庸な折衷論。本書のメイン・テーマは独英仏へ留学(1922大正11年)した成果の紹介か。

 

 

第四 環界としての自然・文化・人類同胞

 

018 自然は作られる材料であるが、自然の中には人間の手が加わっているものもあるから、自然と文化を区別することは難しく、程度の違いで区別するしかない。

 

019 人間は価値あるものをつくる。価値の中には生命や種族の保存がある。これは実用的価値である。

020 一方、内的自然(生物としての人間)に文化の手が加えられたものの中で最も顕著なものが、道徳的生活(文化)である。カントに畏敬の情を起こさせた価値当体としての文化は、作った個々の人間を離れた独立の意味や法則を持つ。それは宗教・科学・芸術・法・経済などである。

 

021 人間は自然と価値当体から影響を受ける。自然は天稟の中の自己保存の要求を刺激し発展させる。しかし人間には動物と違って、自己保存の要求以外に自己発展の要求がある。この自己発展の要求が実現された結果が、歴史的発達の結果としての価値当体としての文化である。子どもはこの文化に刺激されて天稟中の自己発展の傾向を実現・発展させることができる。

 

022 以上の自然と文化のほかに人間の環界の一面として他の人間がある。文化は人間が作ったものであり、人間の生活内容をなしているが、その文化を作った個々の人間の主観を離れて独立の意味を担い、すでに出来上がったものとして固定的であり、自然同様に非人格的である。

他方人格と人格との相互影響は、人間と文化との関係以上に密接である。人格間の相互影響は、個人間ばかりでなく、個人と群衆との間にもあり、例えば社会問題がそれである。

 

023 心と心との感応作用のほかに、自然と文化の(人に対する)影響が、他の人を介して行われることがある。親が子に飲食物に関する注意を与え、医者が患者に療養上の心得を説き聞かすことなどは、自然の人に対する影響が親や医者を通して行われる例である。親は子に価値当体としての道徳を教える。かくして第三者(親や医者)の意識が(人と自然との間に)介入する。

 教育は、子供の天稟と、その環界として自然や文化や人類同胞などの間に割り込み、子供の発達を助成する作用である。この助成は内から自発・自展する傾向に対する助成であり、環界に触発されるその傾向の発展に対する助成である。

 

024 自発・自展の力を認めない教育は、人間を物扱いする教育であるが、一方、助成作用を無視または軽視する教育は、自己(教育)を否定する教育である。学習という語を以て教授という語に置き換えようとする教育説も、自己否定に陥る説である。この種の謬見を避けるために、以下、教授・教育・陶冶という概念を吟味する。

 

感想 ここで自学自習の教育説を批判する伏線を張っている。

 

 

第五 陶冶・教育・教授の意義

 

 上記の通り、人間の発達は内界と環界との交流つまりステルンのコンファーゲンツによって行われるものであり、教育は、このコンファーゲンツによって行われる発達を助成するものである。

陶冶・教育・教授という語は、その語義から見て、内界と環界のいずれかに重点を置いている。そこから教授という語を退け、専ら教育や学習という語を使用すべきだという主張が現れてくる。

 

 (日本では)陶冶と教育は、今日までの用例から見て、その区別がほとんどできない。

026 ドイツ語で陶冶をビルデウングBildungという。ビルデウングはビルトBild形象、絵、写真とビルデンBilden形成するからなる。Bildungは、生物の本質中に備わる形式原理つまり形象が、内から発展して完全な形を成す過程を意味する。それが人間にも転用され、その天稟中に具わる本質が形成されることを意味するようになったとのことだ。

陶冶は本来自己形成であり、自己発展である。これを動詞に使用して他を陶冶するという場合も、自己形成や自己発展を助成することを意味しなければならない。この助成作用の概念の中核としている語が教育という語である。

 

027 教育はナトルプの用法に見られるように、特に意志の教育を意味する。ヘルバルトとその学徒が用いている教育的教授という語も、教授は単に知識の伝達に終わるべきでなく、道徳的意志に影響を及ぼすことを主眼とすべきであるという意味を現わしている。教授という語につけた教育という語は意志の教育を意味している。

 

 このように教育という語には広狭二様(知識の伝達と意志の教育か)の用例があるが、その概念の中心的要素は助成作用である。教育は教育するものと教育されるものを予想しており、その関係は(教育という語の)語義でも重要である。陶冶概念の中心要素である自己形成・自己発展という目的を実現する手段として教育が必要である。

 

 教育は自己形成の手段としての助成作用であるから、対者(生徒)が独立してその目的に向かって(自力で)努力できる時期に終了するが、自己形成・自己発展は無限の課題であるともいえるから、この点で陶冶は教育より広い(長期的な)意味を含んでいる。

 

028 教授概念の中心要素は、教育の主体(教師)と客体(生徒)の中間に介在する教材である。教育が主体と客体の直線的関係であるとすれば、教授は、教材を中間に挟んだ三角関係である。(教授を擁護するために教材を援用しているようだ。)

教授は対者を受動的位置に立たせる嫌いがあるが、教授という語を教育辞典から抹殺すべきだとすることは、個々の字義に拘泥しすぎた考えである。(意味不明)教授概念の中心要素が教材であるとすれば、これ(教授)を教育辞典から抹殺することはできない。教授は教育の作用を表す上で不可欠の語である。

 この三つの概念(陶冶・教育・教授)はそれぞれ独特の意味を持っている。その一つだけの概念を採って教育の全局を支配するなら、偏った思想や実行に陥る。

 

 西洋における古代から中世にかけての教育は、被教育者を蝋細工のように見て、外部から任意の形を与えることができるとした。孔子は「憤せざれば啓せず、悱(ヒ、いらだつ)せざれば発せず、一隅を挙ぐるに三隅を以て返へらざれば復びせず」と言って啓発教育を説いた。わが国の教育もヨーロッパの昔と変わらなかった。

これを内界対環界の問題に照らしてみれば、(日本の教育法は)経験論の立場に立つものであり、前述の三つの概念(陶冶・教育・教授)に照らせば、助成作用が語義の中心となっている教育という概念の立場に立ち、被教育者を受け身の位置に立たせる受動主義である。そしてこの受動主義に主知主義が結合した。主知主義は、眼を内なる作用に向ければ形式主義となり、外の材料に向ければ実質主義になる。(意味不明)古く(日本で)行われた教育は、材料の機械的記憶を専らとした点で実質主義である。(意味不明)

030 (日本のこれまでの教育は)主体と客体との間に介在する教材が語義の中心を占める教授という概念に立て籠もるものとみられ、デルペルドのいう教授上の唯物主義である。(意味不明)

この受動主義や主知主義を打破して、被教育者の活動性を目覚ました第一人者がコメニウスであるとされている。この考え方はその後カントフィヒテの哲学の影響を受け、自己活動という原理が教育学の中で重要な位置を占めるようになっている。ルソー、ペスタロッチ、フレーベルは言うまでもなく、今日新思潮の提唱者から受動主義・主知主義と罵られているヘルバルトやその学徒の教育学の中にも自己活動が重要な一原理として認められている。チラーはその教授学で夙に今日の革新論者の推奨するところの討論法を説いていた。ディーステルエッヒは「子供が自分でできることは子供にさせよ」と要求する。内に自発自展の力が具わることを認めないでは自己活動の原理も生まれない。

 

031 この思想の立場は、自己形成・自己発展が概念の中心を占める陶冶という語を根源としている。自己発展の思想を極限まで追求したのがルソーやその流れをくむエレン・ケーである。ルソーにとって自然から与えられたものはすべて善であり、この善を破壊するものが人間の手である。ケーにとって子どもの悪さは道徳の胚子を包んでいる皮殻にすぎない。側から細工を施さなくても時が到来すれば内から皮殻を破って道徳が萌え出る。最善の教育は(人為的な)教育をしないことである。

自発自展の力を信頼するルソーやケーの思想は、主として犯罪者を扱ったロンブロゾーの悲観的先天論に対して極度に楽観的な先天論である。(国の)内外共に児童中心主義はルソーやケーの思想に負うところが多い。この概念(児童中心主義)でも、その反面の陶冶という概念でも(反面なのか疑問)、語義の中心となる自己形成・自己発展にこだわり、助成作用を意味する教育や、教材が意味の中心である教授を斥け軽視すれば、人の子をそこなうという重大な罪を犯すことになる。(理由を述べよ)我々は次節で新旧思想の間の矛盾を取り出して考える。それに先立って本節の結論をまとめる。

 

子どもの発達は内に具わる自発自展の力とこれを触発する環界とのコンファーゲンツによって行われるとすれば、その発達を遂げさせるためのわれわれの仕事は第一に自己活動・自由活動・独立活動を一原理として立てなければならぬ。これを原理とする我々(教員)の仕事は、陶冶の意義に合致する仕事である。子供の天稟中に潜んでいる力が側から手を下さないでも環界の触発でひとりでに伸びるなら問題ないが、そうであり得ない限り(それを説明しなければ、反論にならない)我々の仕事は助成を一原理として設けなければならない。助成を一原理とする仕事は教育の意義に合致する。さらに材料を待たず、自己形成材料を介さない助成作用はあり得ない。(説明しなければ)

033 複雑な環界の中から陶冶の材料として精選されたものが教材である。コンファーゲンツの原理から見て、この教材なくして発達はあり得ない。教材は教育や陶冶にとって極めて重要である。我々の仕事は教授の意義に合致する仕事である。教材を介しての我々の仕事に(さらに)自己形成と助成作用を根本原理として認めれば、陶冶の意義にも教育の意義にも教授の意義にも合致して、(教授という)字義に拘泥する偏屈な考えに惑わされることもなくなる。(意味不明)

 

感想 筆者の結論は決まっている。子供の自主性重視の教育論を疑問視し、教授の必要性を説く。この子供の自主性重視の教育論を否定する際に、ルソーなどの極端な例をやり玉に挙げる。結論に至る論理構成が弱く、独断的である。

 

第六 現代の教育思潮

 

034 ドイツでヘルバルト・チラー派が頽勢になってから、勤労学校(作業学校)・行動学校、能産学校、生活学校、体験学校、共存体学校などの教育思潮が起こった。アメリカではプロジェクトメソツドダルトンプラン、日本では動的教育、自由教育、自学主義等などの諸説が現れた。

 

035 ヘルバルト・チラー派の段階法は、その中心統合法と共に、新しい思潮の非難の的となっている。しかし、その流れをくむものの中には、今日の「新しがり屋」が唱える自己活動、自由活動、独立活動などの身体的作業を重んずべきことが現れていた。そのほかに、体験を出発点や帰着点にすべきこと、郷土的直観を重視すべきこと、共同と分業に関すること、児童中心思想なども、ヘルバルト・チラー派の段階法の中に含まれていた。自己活動はヘルバルトの教育学の根本概念であり、「子どもができることは子供に」ということはチラー教授学の無上命法*であるとして新思潮に反撃を加えている者も(ドイツに)いるから、ドイツではまだヘルバルト派の思想が存続しているのかもしれない。

 

*無上命法 断言的命法、定言命法とも。条件付きの仮言的命法と異なり、行為そのものを価値ある目的とし、絶対的・無条件的に命令すること。例えば「汝殺すなかれ」

 

036 作業学校は当初身体的作業を高調するものとして現れたが、漸次その思想が洗練され、今日では精神的・身体的な自由活動や能産的独立活動を原理とする学校を意味する。現在のドイツ憲法の中にも公民科と並んで作業教授が学校の教科として規定されている。

行動学校はライの主張であり、実験教育学の立場から、発表を高調しているから、その点で作業学校と気脈が相通じる。

能産学校の主張の中には、社会主義の見地から経済的生産を高調するものもあるが、このような「偏狭」を避け、能産を、経済的生産の意味を込めた価値創造の意味に解釈し、価値を創造すべき人格として十分に発達させ、その創造的人格を通して、自らが関与する共同生活のために義務を果たすことができるように陶冶することが学校の原理であると主張しているものもある。だからこれは作業学校とほとんど違いがない。

037 体験学校フーゴ―ガウデイクが主張するものである。ガウデイクは人格の陶冶を目的とし、自己活動自由活動を方法上の原理とする学校を作業学校と呼んでいるが、また作業学校は体験学校でもあるべきだとしている。リンデエーバーの方法論も体験主義である。

アメリカから伝わって、一時日本の教育者の注意を惹いたプロジェクトメソツドは、今日ではアメリカでもあまり勢力がないとのことである。日本でもかつて「全我活動」という名辞が流布しただけで、今日ではほとんど忘れられている。

ダルトンプランはその「御本尊(中心人物)」のパーカーストが招かれて来日したため、わが国の教育界にどよめきを与えたが、「健忘症」と新奇を好む日本の教育界では、この思潮も遠からず意識の中から消え去るだろう。(こういう批判の仕方はおかしいのでは)

 

038 生活学校は、従来の学校のための学校とか、規則で定められた教育課程のための学校などから脱却し、将来の学校は人間としての真の生活のための学校にすべく、学校即生活でなければならないとする。

共存体学校は、人間の生活は孤立生活ではなく、共存共栄の生活であるとする。一般に教育は生活を高めるための教育であるから、どんな教育思潮もこれを含まないものはない。プロジェクトメソツドとダルトンプランも、学校を生活とする具体案を持っている。標語の違いは着目点の違いに過ぎない。

 

 わが国で色々な名前で呼んでいる新思潮は、その具体案では大同小異であり、その出所はアメリカの実用主義を根拠としているか、ドイツ流の理想主義を背景としているかのいずれかである。次にこれらの思潮に現れる方法上の具体案を考察するが、その前にその原理を吟味する。

 

 

第七 自由対拘束の問題

 

039 新思潮の全てに自由という原理が貫通している。ダルトンプランでは自由・共同・個別学習を挙げているが、個別学習は自由学習だから、基本的には自由と共同の二つの原理に帰着する。作業学校では自己活動、独立活動、自由活動などを挙げるが、それらは自由の原理のバリエーションである。エーバーの教育的美学も現代における方法上の根本問題である自己活動という原理を解決するための一案として現れた。わが国の教育思潮も用語は異なるが自由を根本原理の一つとしている。ところがこの自由という根本原理は現代になって初めて発見されたものではなく、夙にルソーペスタロッチフレーベルの教育思想の基調をなしていた。ヘルバルト学派の根本概念は自己活動である。

 

040 抑々(そもそも)自由を方法上の根本原理とする根拠は何か。それは発達の本質から生じる。子供の天稟中に自発自展する力が潜在的に具わっており、それが環界に触発されて発展するのが発達である。この点で発達は自己陶冶である。そこから「自分でできることは自分でやらせろ」となり、自由を方法上の一原理として立てざるを得ない。

 

041 しかし「自分でできることは」の反面に「自分でできないことは」が含まれている。この自分でできないことは絶対にさせる必要はないのだろうか。それはできないことの意味によって変わってくる。もしこれを天稟の傾向の中に存在しないことを意味するならば、自分でできないことはさせる必要はないことになる。しかし自分でできないことでも、他からヒントを与えたり、ヒントだけで足りなければ援助したりすることによって、眠っている力を覚醒し発展させられることもある。(それなら自分でもできるのではないのか。)潜在的な力は環界の触発がなければ発動できない。(これもそういう規則にrigidすぎないか。)外部からの触発が最も好条件の時でなければ(潜在的な力が)動き出さないこともある。皮相的に二三の場合から推測して天稟があるかどうかを即断することは、教育上危険ではないか。

042 簡単な一二曲しか演奏できない教師の下では、全ての子供が音楽に対する天稟を欠乏するかのように見えるが、その同一の子供が、修養を積んだ老練家の下では、いずれも優れた天稟の所有者であるかのように見える。自発自展だけを見てコンファーゲンツの一面である環界の刺激と、その刺激の仲介者、あるいは自分が環界そのものになる教育者の作用を看過するものは「発達の条件を弁えぬ盲目者流である。」かくて環界の刺激に対して自発的に反動するだけで、それ以外の手を借りない場合(だけ)を「自由」とするなら、他からヒントを与えられ、他の援助を受ける場合は「拘束」となる。教育上、この意味の「拘束」を欠くことができるか。これを欠くことができないなら、自由と並べて「拘束」も一つの原理として認めざるを得ないことになる。

 人格としての発達を遂げさせることを目標とする者にとって、この意味の「拘束」は自由と扞格する(一致しない)ものではない、むしろ「拘束」は欠くことのできない自由の姉妹である。我々が助成を一原理として認めたのはこの理由に基づく。

 

疑問

 

・自由論者はこの助成を「拘束」だとして批判したのだろうか。

・教科目によって事情が異なるのではないか。理系科目では筆者の言うように、教材を用いた教授が必要だろうが、文系科目では、日本の教育のように記憶を第一とする教育ではなく、欧米のように生徒の自発的な発表を尊重・重視し、自律的で個性的で自分の意見を持った人間を生むことを重視する教育法の方が、人のより良い生き方の追及という点から見れば望ましく優れているのではないか。

 

043 「自分でできることは自分でやらせよ」という要求をこれまで容認して論を進めてきたが、この要求は無条件に許されるものではない。自由や自律は無条件に拘束より尊いとは言えない。やることが正しく価値ある場合、少なくとも現在や将来のために無害な場合を想定して許されることである。(価値を一義的にとらえすぎていないか。)エレン・ケーは「子どもの悪さは道徳の胚子を包んでいる大事な皮殻である」と言う。大人の身勝手から悪さに見えるだけで、その実は善悪の範疇外に属する遊戯もある。またカール・グロースのように、子供は幼いために遊戯するのではなく、遊戯するために幼い時代を与えられたのであり、この遊戯で将来大事な各方面の力を練るのであると考えれば、子供に対する同情の深いケーの見方に一理ある。

044 しかし、「真の教育は教育しないことである」と極論するケーの思想は、選ばれた少数の人間に対しては妥当するかもしれないが、大多数の尋常普通の人間を教育する場合の原理ではあり得ない。大人の規範で子供を律すべきでなく、その過失の悉くを罪悪視すべきでないことはもちろんだが、さりとて悪が善根の皮殻であり、「絶対の」自由を与えることによって、内からその皮殻を破って善が発芽すると楽観できるほど「都合よくできていない。」加えるべき手が加えられずに起こった歪んだ発達を、「経験上の事実」から拾い集めることができる。(示してください。)もちろんその反対に手を加えすぎたために同様の結果を来す場合も多い。

 

045 これを学習に移して考えても同様である。ガウデイクは「教師の作用がゼロになるのが教授の理想である」と言っている。(その意味を背景も含めて詳細に説明してもらいたい。)わが国でもこれに近い思想を抱いている人が絶無とは言えない。(これが)教育の目的が自己陶冶に至らしめることであるという意味なら別だが、教育の期間についての言ならば、このようなことは空想に過ぎない。(意味不明)それだけでなくこのようなことは、子供の発達を促す一因子として子供と教材との間に介在する自分(教員)の使命を理解していない。(ガウデイクでも教師が不要だと思ってはいないと思われるが。)子供の中には助成がなければ歩けない者が多い。無駄骨を折り、わずかの収穫で平気な者もいる。独立して歩き始めても、任せておけば同じ道を往復するに止まる者もいる。練習すれば同種の問題は立派に解答するが、別種の問題を与えると呆然としてできないことがある。これは人格が可塑的に多方面に練られない結果である。(意味不明)だから自由だけが子供の人格的発達を遂げさせる唯一の原理ではあり得ない。自由と共に、子供から見れば「拘束」となる「助成」を必要とする。(子供は助成を「拘束」と思うか、疑問。)その理由は、自由が「方法上の原理」であり、「最高の原理」ではないからである。(意味不明)最高の原理は、価値を実現する人格としての発達である。(自由よりも「価値」か。その価値は誰が価値と決めるのか。)

 

 以上発達の見地から自由と拘束は相互に他を容れないものではなく、むしろ相提携しなければならないものであることが分かった。教育の究竟の目標は、人格の内部で「拘束が自由の中に融け込み」、「自由が拘束を容れて」これを自己目的とするに至る境地である。(恐ろしい論理だ。)家庭、郷党、職業、社会、国法、道徳法などがすべて我々に履行すべき義務を課す。外から課せられる義務は拘束である。主観主義者が蛇蝎のように嫌うものは拘束である。外から課せられる拘束が我々の内部で自己目的になれば、(そんなことはあり得ない)受動は能動になる。そして拘束は他から受ける拘束ではなく、自らに課する拘束になる。(それを「拘束」と言うか疑問。)この拘束によって自己の「個的主観を脱却」して単なる人間が「人格」になる。(意味不明)拘束は自由の仇敵ではなく、その兄弟姉妹である。(屁理屈、こじつけ。)教育の手段としての自由に対する拘束即「教権」は、これを目指して進むものであり、進むべきものである。(「教権」が出てきた。)

 

感想 本節の最後の結論は筆者の隠された立場を暴露している。筆者にとって重要なのは個人ではなく、国家の法なのだ。個人は忍従して社会によって課せられる拘束を自由だと思えという乱暴な論理展開である。恐れ入りました。これではせっかく欧州に留学しても、あまり意味がなかったのではないか。

 

感想追記 以下のような言い方は学者として傲慢ではないか。教育官僚(師範学校教員)はこの程度か。時代の傲慢さを感じる。日露戦争1905、韓国併合1910、留学1922先のドイツにおける円高。そして本書1926

 

046 右の如く発達といふ見地から観て自由と拘束は相互に他を容れないものでなく寧ろ相提携しなければならぬものであるが、教育の究竟の目標とすべきことは人格の内部に於て拘束が自由の中に融け込み、自由が拘束を容れて之を自己目的とするに至る境地である。家庭でも郷党でも職業でも社会でも国家の法でも道徳法でも凡て我々に対して履行すべき義務を課する。外から課せらるる義務は拘束である。主観主義者の蛇蝎の如く厭ふものは此の拘束である。外から課せらるる拘束が我々の内部に於て自己目的になれば受動が変じて能動になり、拘束が他から受ける拘束ではなくて自ら課する拘束になる。此の拘束によって自己の個的主観を脱却して単なる人間が人格になるのである。であるから拘束は自由の仇敵ではなくて其の兄弟であり姉妹である。教育の手段としての自由に対する拘束即教権は之を目指して進むものであり進むべきものである。

 

 

第八 能動対受動の問題

 

048 教授上の問題の種になることの一つに、能動(自発活動)対受動(他動)の関係がある。この関係は自由対拘束の関係の他面に過ぎない。人間の心を(どんどん詰め込む)容器のように扱った教育法に対して、自発を説き能動を高調するようになったのは、伝統に縛られていた教育的自我(教育担当者)の自覚による。それは一大獲物だったが、一方で、能動と受動とが扞格して相容れないかの如くに考えるに至り、思想上でも実行上でも混乱が生じた。

 

陶冶即自己形成・自己発展は、能動と受動との相関によってのみ行われる。内に自発自展の力が具わっていても、これを触発するもの(環界や教師)がなければ、潜勢は現勢にはならない。触発によって発動するものは、受動かつ他動である。

 

ところが触発する刺激は無数あり、その悉くに反動できるわけではなく、その一部分にだけ反動するに過ぎない。刺激のうちのあるものが作用し、他のものが捨てられるのは、内部の傾向選択である。意識するとしないとにかかわらず、自発自展しようとする傾向によって行われる選択である。選択は自発である。人真似に終始する人間は他動的人間であるが、他動的人間の中でも、真似の仕方に相違がある。この相違の起こる根源は、内部の自発性以外にない。

 

049 万事につけて新機軸を打ち出す人間は、自発的・能動的人間であるが、その作為の結果に地方的・民族的色彩が現れる。この色彩の根源は環界以外にない。この地方的色彩を離れた一般的のもの、例えば科学上の発見でさえも、その発見は内部の自発性だけに規定されるのではなく、刺激をする環界もこれに与かる。錬金術が偶然化学を発見させたのはその一例である。画家はモデルを創作の用に供するが、創作はモデルによっても規定される。能動があるところに受動がないことはない。また逆に受動があるところに能動を欠くことはない。したがって能動と受動とを区別するには、この二つの因子の中でどちらが優位を占めているかによって区別する外はない。

 

050 以上、主として内界対環界の関係で作用する能動と受動について述べたが、この関係の中に教育が割り込む場合はどうなるか。ガウデイクは「教育者の活動がゼロになったときが上乗(最上)の教授である」という。ルソーやエレン・ケーにとって「真の教育は教育しないことにある」のだが、そうすれば内界と環界との関係に教育が割り込まない場合が能動であるということになる。能動をこの意味に解する場合には環界の影響を重視しなければならぬことになる。したがってケーにとって、環界を理想的に整えることが、細工に流れやすい具案的教育以上に重要であり、我が国でもケーの思想そのままを言う人もいる。「環界を理想的に整えよ」という主張に対して、どんな異論も挟むことができないが、問題はそこにあるのではない。

 

051 我々の置かれているこの事情の下で、環界を理想的に整えることができるかどうかがすでに(実現困難な)問題であるが、たとえこれが可能であるとしても、子供に人格的発達を遂げさせることを目的とする場合、この消極的態度で済まされるだろうか。天稟が環界に触発されて自己形成するその作用の中に、すでに能動と受動とが含まれているが、しばらくこの作用を能動と解して、この関係の中に教育が割り込む場合を受動または他動と解すれば、この意味の他動は欠くことができない。(意味不明)

他動は能動への出発点であり、受動は創造の基礎である。ただ我々が特に注意するべき点は、子どもの発達や個性に鑑みて、受動によらざるを得ない場合でも、努めて子供を能動的にさせ、受動から漸次能動に高めるように工夫すべきことである。内界と環界との間に割り込んで環界の仲介に当たる(教育の)役目も主としてここにある。このような平凡な真理を述べなければならないところに、現代の教育界の(混乱した)世相が現れている。

 

第九 作用対内容の問題

 

052 作用(内、生きる力)対内容(外、知識)の問題は、形式陶冶対実質陶冶の問題である。これは内界対環界の関係に起因する。(教育の)理論でも実行(学校現場)でも、内外いずれかに傾くものが絶えないから、この問題が繰り返される。

 

今日の中等以上の学校で、知識の習得とともに内面の力を伸ばそうとしている学校は、全くないとはいえないにしても、ごくわずか(暁の星)であろう。我々が従事している初等教育界でも、理論を云々する場合はともかく、実行上は知識を習得させることに傾いている。傾かざるを得ない事情に迫られている。(無反省)

053 子供に中等学校入学の難関を切り抜けさせるには形式陶冶がどうのこうのと、まぬるいことを言っていられない。抜け目のない出版業者はテスト対策の練習本を作っている。もし今ベーコンが生きていれば、知識こそ力だと言うだろう。知識を力と考える者にとって、内面の作用は知識を収得するための手段に過ぎない。

 

 このような(知識重視の受験)教育が行われているのに、その反対に出て、(学習の)目的を内面の力を練らせることに置き、知識はその単なる手段と観る者が現れるのは自然なことである。ペスタロッチは夙に人間の本姓の中に具わる内面の力を発展させることが教育の目的であると唱え、デルペルドの教授学上の唯物主義に対する形式主義を代表している。現代における新思潮の提唱者の多くはこのペスタロッチの考えに傾いている。

054 形式主義を極論すれば、子供の学習内容が何であるかを問題にしない。これ(学習内容)を手段として、その内部の力を錬磨しさえすればよいからである。

 

 これに反して教授上の唯物主義は、内容だけを確実に保てば(教え込めば)これを収得する際の活動の様相は問題にしない。能動でも受動でも、要はその目的(知識習得)を果たさせる方法を選べばよい。この二つの方向は、前述の陶冶の立場教育教授の立場とに該当する。

 

 内なくして外はなく、外なくして内はない。人格は内外を貫くその一線上に成立する。ところが教材価値当体としての文化から精選されたものであり、これを獲得することによってのみ、単なる人間が人格になる。(知識を得れば人格者になれるということか。)学習者も教授者も、価値当体としての教材を単なる手段視しないで、これ(価値当体、知識)をそれ自身のために求めることによって、その材料が人格陶冶の材料になる。(知識が陶冶の材料になるのか。)

055 教材をそれ自身のために求めるということは、自己の個的主観を背後に押し退けて、内容そのものに専念することである。(知識の美化)それは自己の法則を具えている内容に自己を打ち込むことである。内容に自己を打ち込む者は、知識の分量を目的とするものではなく、自己の人格的発達を目的とするものだ。(屁理屈)これによって、知識の分量を目的とするものと同等の、むしろそれ以上の効果を収めることができる。それはそのことを意識するしないに無関係である。*

 

 内容は客観的には固定したものである(意味不明、進歩しないものという意味らしい。)が、もしわれわれがこの固定したものを取り入れて自己の生活内容とするだけなら、進歩はない。取り入れたものによってさらに新たなものを作り出すものは、我々の内面の力である。(それを陶冶と言うのではなかったか)価値の創造者としての人格の陶冶を目的とする教育(豹変!)は、客観的価値を収得させることによって、新たにこれ(客観的価値)を創造する力を練らせなければならない。(知識を詰め込むことによってか。)これを目的としない教育は発達を否定するものであり、自らを否定するものである。

 

056 すなわち、内(作用)が主でも、外(内容)が主でもなく、人格としての発達を遂げさせることが主であり、作用と内容は相関連して、その必須の条件となる。(すり抜け論法みたいだ。)

 

感想 論旨がつかめない。意味不明。知識教育を実質陶冶だと言いたいようだ。しかし私は知育で陶冶が達成できるか疑問に思う。

感想追記 *この部分の原文は下記の通りである。高慢ちきではないか。

 

我々の既に解する所に依れば内なくして外はなく、外なくして内もない。人格は内外を貫く其の一線上に成立する。而して教材は価値当体としての文化から精選されたもので之を獲得することによってのみ単なる人間が人格になる。学ぶ者も学ばしめる者も価値当体たる教材を単なる手段視しないで之をそれ自身のために求めることによって始めて其の材料が人格陶冶の材料になる。教材をそれ自身のために求めるといふことは自己の価値主観を背後に押し退けて内容其のものに専念一向することである。自己の法則を具へてをる内容に自己を打ち込むことである。内容に自己を打ち込む者は知識の分量を目的とするものではなくて自己の人格的発達を目的とするものであり(意識するとせざるとに拘りなく)之に依って知識の分量を目的とするものと同等の、寧ろそれ以上の効果を収めることが出来る。055

 

 

第十 生活対学校の問題

 

056 以上の作用対内容の関係は、姿を変えて生活対学校の関係として現れる。従来の学校を学校のための学校と呼び、将来の学校は生活のための学校たるべく、生活即学校でなければならないと主張する場合、その生活は内なる世界を意味し、これに対して従来の学校は、その主な役目である知識の伝達を意味しているからである。

 

しかしその生活の意義は必ずしも一定していない。あるものはスペンサーに倣って生活を生物的生命と解釈し、直接間接に自己保存に関係の深い知識を与える学校を生活のための学校と考えるだろう。この実用的見地に立つ者にとって、実用に疎い古典語などに力を入れる学校は学校のための学校を意味することになる。実用は尊いのだ。しかしこれを唯一の目的とする学校は、人間を動物以上に高めることを弁えない学校である。実用のために人間が堕落していることを考えてみよ。

 

057 あるものは生活を子供の生活の意味に解釈する。子供の生活に即してなどと言っているのがその一例である。この場合その対立概念は大人の生活である。人為的な義務教育の年限に拘泥して子供の力や興味に合わないことを教材にしたり、将来の生活に対して何の価値もないことを教授したりするなと主張する者もいるから、将来のために子供の現在を犠牲にするなという主張も出てくる。

 

他の主張を全く斥けるのでなければ姑息な妥協になると考えるのが我々の一習癖であるが、相互に矛盾を具えている二者を容れながら姑息の妥協にならない解決の方法もある。

 

058 子供を大人の縮図と観て、その生活を大人になるための準備や手段であるとだけ観る者は、将来の生活に無価値なものは現在でも無用であると考える。この点から観れば、教材から削除すべき第一のものは、大人の生活に何の関係もない童話であろう。モイマンは童話を斥けるが、それは子供の観念界を攪乱するという別の見地からである。将来の生活だけに目を向ける者には、童話は一文の値打ちもないが、将来のために現在を犠牲にするなと叫ぶ者には、童話は子供時代の心の構造に適した貴重な材料であり、子供を子供らしい倫理的・審美的理想世界に遊ばせるための尊い教材である。こうして両者の間には相寄る余地はないようだが、それは畢竟時間と生活との関係を見誤っているからだ。

 

059 現在の生活の内容の中に過去が織り込まれている。自分の経験だけでなく、天稟の傾向は父母を介して遠い祖先につながっている。此の連続性の中から現在や将来の区切られた部分を生活の意味とするのは井中仰天である。

ゲーテの言だと記憶するが、「人生は決して到着することのない旅路に上ったようなものである」という。到着することのない旅路は、ナトルプの無限の課題である。その一歩一歩は手段でありまた目的でもある。達せられた目的は次に起こる前進のための手段でもある。したがって現在は目的であるとともに手段でもある。将来のために現在を犠牲にする教育は間違っているし、現在だけをみて将来を見ない教育も偏狭である。グロースが子供の遊戯は将来の大事な各方面の力の練習であるとみているように、子供の現在の力や興味に適してしかもそれが将来のためにもなる練習をさせることは困難ではない。偏見のために実行を災いされることがあるので議論を醸すのだ。

 

060 生活の意味を解釈するとき、生活は成長を意味するとする者がいる一方で、作為を意味するという者もいる。また経験を意味するという者もいる。これから生命観という哲学上の問題につきあたるが、ここではそういう哲学的問題に手を焼かずに、独断的に、一歩一歩よりよい価値を作為して自己を高めようとすることが生命の意義であるとする。

これは自己保存の傾向に対する自己発展の傾向であり、また内対外の問題を引き起こす。生命(生活)を内なる世界と観れば、自己の法則の上に立つ客観的価値は外の世界である。この関係に促されて価値を生命の手段と観るべきか、それとも生命を価値の手段と観るべきかという問題が生じる。実用主義者の中には価値を生命の手段と解する者もいるし、新思潮の中には客観的価値としての教材を生命(この場合の生命の意味が判然としない)発展の単なる手段であると説く者もいるが、我々は単なる生物的生命人格的生命となりうるのは、価値当体に関係してだけと考える。つまり、生命は価値を作為しこれを内容とすることによって高まり、価値は生命に担われ生命に作為されることによって価値として成立する。生命は価値を体現し、価値は生命を真の生命にする。相互に他を待って成立するもの(生命と価値)を引き離し、一方を目的とし他方を手段とみなすことは当を得ない。価値の体現者として毎日自己を新たにするのが生命の意義である。(なるほど)

 

感想 論旨の展開が分かりにくい。生活対学校、心の内面対教材・知育、子供の現在対子供の将来、生物的生命対人格的生命などと論旨が変化していくが、それらの相互の論理的関係がはっきりしない。

 

 

第十一 特殊対一般の問題 

 

062 個性が論じられている。「子供の自由を尊重せよ」という場合のその子供は個性の所有者である。発動(行動)する方向を規定するものが個性であるなら、個性の尊重を要求せざるを得ない。新思潮のどれもが個性の尊重を要求している。

 

 特殊個性に対応するものは一般である。また一般も、他の一般と対立するときは特殊になる。例えば国家や文化や国民性は、他民族のそれらと対立し独特な相を具えているが、それはこの一例である。

特殊対一般の問題を突き詰めると、「特殊価値対絶対価値」という大問題に遭遇するが、この問題は哲学者に任せ、ここでは一般を「教育上の一般的要求」とする。これが個性尊重の要求と相容れないと考えると「問題が起こり、」実行の上でも混乱を来す。(意味不明)

 

 個性は独特な相であり、他から区別される固有なものである。ところが区別は共通なものの間でだけ言える。甲と乙とが同一でないということは、甲でも乙でもない一般的なものを参照して初めて言える。即ち特殊と共に一般的なものが予想されている。甲乙を一貫する一般的なものがない場合は特殊も存在せず、補足できない混沌界となる。

 

064 特殊の相から(特殊について)言えば、(人間以外の)生物でも無生物でも、空間的に同在するものでも時間的に継起するものでも、他から区別されそれ自身がまとまったものである限り、個性の所有者と言えるが、人間の個性は何らかの点でそれらの個性と区別されなければならない。

 

その区別の第一要素は自己意識である。人間にとって自己意識が個性即ち他から区別される特殊相の中心である。我々人間と生物的生命を共有する動植物は、自分の他からの区別を意識しない。少なくとも自覚という程度では意識しないが、我々人間は、心身の両面で自我に属するものを自分自身として他から区別する。

 

人間はただ自己意識によって自分を他の自我から区別するばかりでない。意識が発達するにつれて、自分の考え方や感じ方、意識の仕方など、自分の性格が他の性格と異なることに目覚める。他との比較によって自分に独特なものを自覚するようになる。この自己に独特なものが、意識的無意識的に、行為不行為の選択原理となる。

 

065 自己に独特なものを自覚するようになる自己意識の根底は意志である。意志の特徴は「努力」である。積極的にあるものを獲得しようとする努力、または消極的にあるものを避けようとする努力である。内から自発自展しようとする生得の傾向である。

 

ただ努力という点から観れば衝動も努力である。ショペンハウエルが「万象悉く意志である」とした世界観には深い意味がこもっているが、人間に現れる努力としては、衝動と意志とを同一視することはできない。衝動の要求は個々の要求であって、全体を規定する中心点として意識されることができない。だから猪突的である。子供に現れる最初の生活はそれである。

066 個々の衝動の内容以外に我々の努力の内容となるものがないと考えれば、意志は衝動の総体を呼んだまでのものであり、衝動の内容を離れての意志は空疎であり、したがって一切の衝動を満足させることが生活の目的と言える。

 

しかし衝動の全内容が即意志の内容とは観られない。意志は、個々の衝動の充足を全体としての目的とは観ないで、自己を「自己以上のもの」、「超個人的なもの」(神)に従属させる。社会を支配する道徳上の規範や理念としての善などがそれ(自己以上のもの)である。学者は真理への意志というが、同様に芸術的創作の根底は美への意志である。これらの超個人的な理念が意志の方向であり、これを具体的に実現することがその努力の内容である。意志自らがとるこの方向を認めない者には、衝動の総和以外の意志は、空疎や幻影に映る。(言い過ぎ)

 

067 以上のとおり、意志を根底とする自我は、自律的に自己の目的を立てることによって、他から区別される統一体であり、同時に自己に独特なものを具えていて、その独特なものを自覚する統一体である。自己に独特なものを具えている(人間以外の)生物や無生物の一切も個性の所有者であるが、人間においてはこの独特なものが意識的に全体としての目的に統一されることによって「人格的」となる。教育上個性を尊重せざるを得ない理由はここにある。単なる個的特殊相としての個性は、教育の目的物にならない。それ(自己独特なもの)が人格と関係し、人格の属性であると観られることによってだけ教育上重要な一視点となる。そして人格は「一般的超個人的な価値」と関係し、それを体現するものとしてだけ、人格であり「価値体」である。カントは人間を「目的当体」として取り扱えと言ったが、それはこの点を指している。

068 自己を他と比較することによって自己に独特なものを見出すことができるのも、この一般的で超越的な価値があって始めて可能となる。一般が存在せずして特殊はあり得ない。(民族・国家・一般社会等も個人に対する一般であるが、今はしばらくこれらの団体生活の内容である文化だけについて言っておく。)

 

 このように人格には特殊的な面と一般的・超個人的な面の両面があることから、教育上、その一面だけを観て他面を顧みない見解が起こりやすい。人間を人格にさせるものは、一般的超個人的価値であるが、この方面にだけ着眼すれば、固定的なプランを立て、これを鋳型にして人間を一様に作り上げることになる。これに反して特殊の方面だけを眼中に置けば、主観的な個相をそのままそのものの価値と観る。過去の教育が前者に傾いた反動として現今の教育はややもすると後者に傾こうとしている。前者は内に具わるものを無視し、具わっていないものを押し付けようとする点で、人間を物扱いする教育であり、後者は主観的な個相の悉くを価値と観る点で、価値を抹殺し去る。価値は無価値や反価値と対立して存在することができ、有価値・無価値は、ある一般的なものに照らしてだけ言えることだからである。(むむ)

 

069 以上のとおり、個性は超個人的価値と関係して人格的個性となり、超個人的価値は、個性の所有者である人格によって実現され作為されるものなら、教授訓練ではこの二方面を視点とすべきである。教材を選択するとき、複雑多様の文化の中からある限られた分量を抜き出すことにならざるを得ないが、教材の客観的価値の観点から選択される。教材の価値は単なる特殊相的個性によって定まるのではなく、一般的なものによって定まる。

文化は固定的でなく生々発展するものであり、またそのように発展させるべきものである。これを発展させるものは個性を具えた個人的人格である。文化の向上発展という理想を実現させたいとき、個性とその発達が、教材選択の重要な一視点となる。個性とその発達を無視して教材を選択したのでは理想を実現できないし、一方客観的価値の見地を離れて教材を選択したのでは主観主義に陥る。子供に学習材料を選択させる場合でも、客観的見地を離れては無意義となる。

 

070 情意の陶冶を目的とする訓練でも、特殊と一般は相即不離である。意志の道徳的訓練は、特殊的個性だけを基礎としたのでは実現できず、道徳の要求は一般的要求である。一方この要求の実現のための教育は個性が重要な一視点となる。個性を顧みない教育は、道徳を固定的なものとみる教育であり、これを外部から植え付けられると考える教育である。普遍は特殊によって内容を得る。個性による特殊化なくして一般的道徳は実現されない。一般は特殊を通してだけ実現される。しかし他方では、特殊が生得なものならば、それはある傾向を具えた基体に過ぎない。ルソーやエレン・ケーが楽観しているように、その傾向の中に善根だけが植え付けられているのではない。善根でも悪根でもある中性のものを具えているにすぎない。これを触発し補充するものとしての客観的道徳を欠くことができない。教育の目的が人格の陶冶であるかぎり、特殊と一般は相互に連関して離れない。

 

感想 前節にもあてはまるが、これはある説を取り上げてその批判を詳細に展開するものではなく、その批判されるべき説の中にある用語に関して自説を展開したものである。

 筆者の論理構成は折衷法のようだ。この節以外でもそういう印象を受けた。

 

 

第十二 個性研究の展開

 

072 個性を明らかにする方法としてテスト法が最近喧伝されている。そのテストが目指していることは、個々の注意力や記憶力の測定の他に、それらを含めた統一的知能の測定である。我々は指導上また学級やその中の分団の組織で学業成績を用いているが、学業成績には知能の全面が現れない。

 

073 知能はドイツ語でインテリゲンツといい、優れた知能すなわち叡智を意味する。ウイリアム・ステルンは知能を定義して「知能とは新たな要求に対して意識的にその思考を向ける一般的能力であり、生活の新たな課題と条件に対する一般的精神的順応力である」とする。

 知能測定法は数十数百種案出されているが、テストでは知能を測定することはできないと私は考える。エツビングハウスは文の空所補充をさせる結合法を提唱するが、ここでは文の骨格がすでにできているから自発的構成的想像力は測れない。テストで自発性を捉えることは難しい。テストは被験者に刺激を与えてそれに反応させることしかできないからだ。その反応の自由度を広くして自発性を測定する方法として二語法や三語法があるが、刺激が与えられる限り、真の自発性は測定できない。真の自発性は内部の要求や興味に動かされるときに現れる。テストだけでは知能を測定できない。

 

074 テストのこの欠点を補うものが観察である。観察は観察者の一定の視点と被験者の内心を捉える心の眼を要する。ナトルプの言うタクト(熟練)とはこのことを指す。個性の尊重と個性調査は日本でも十数年前から提唱されてきたが、道半ばである。その方法が難しく、実務者の時間や準備教育が不足しているためであろう。

 

075 個性は価値を実現する人格の重要な一面である。個性の測定は人格の測定でなければならない。しかしテストでは個人の特質の全てを測定できない。したがっていくつかのテストを組み合わせ、ある見地から整理し、評定することになるだろう。しかし部分を集めても有機的全体にはならない。むしろ全体が部分を規定する。部分は全体的個性観を補充するだけだ。精神科学的心理学は全体的な人格の特質を捉えようとする。それに対して部分から出発する個性の捉え方を自然科学的心理学という。

 

076 精神科学的心理学は人間の心的生活がある形式を具えているとする。その形式は固定的でなく流動的であり、その流動性に一定の方向性がある。その方向性の起点は自我であり、自我は価値を実現しようとする。その向かう価値から個性を捉えることができる。価値に向かう心の傾向を構造という。精神科学的心理学は構造の心理学とも称する。

077 価値をつかもうとする傾向には人によって偏倚がある。そこから個性の類型化が可能となる。スプランガーは理論的、美的、社会的、経済的、政治的、宗教的という六つの生活形式を考案した。精神科学的心理学は理会によって個人の価値の傾向を把握する。理会は、価値を本質とする自我によって相手に現れる価値関係(後述)を捉える認識である。精神科学的心理学は理会の心理学とも呼ばれる。

 

078 しかしその理会は困難である。またこれだけで全体としての人間は把握できない。人間には精神面だけでなく、心や物(肉体)をなどの自然面もあるから、精神科学的心理学は自然科学的心理学で補われなければならない。(また折衷論)

 

感想 この節は批判というより解説である。

 

 

第十三 現代の教育思潮に現れている方法上の具体案

 

079 教育教授の方法に関する具体案として以下のようなものがある。

 独自学習 ダルトンプランでは特別に時間を設定して自習手引(学習細目)によって自習させる。ガウデイクはこの時間を作業時と呼んでいる。

 共同学習 共同学習は対話、討論、自由発表、子供の発問などによって行われる。この子供の発問は教師が主となる問答法で行われる。

ガウデイクは生徒に発問の系列を作成させる。ガウデイクが校長であった女子高等学校で生徒が作った模範的発問を以下に掲げる。新統治者(当時のエーベルト大統領)という題の発問系列である。

080 

国民は新統治者に何を期待するか。新統治者は以前の統治者と同じ考えで進むか、それとも他の意味で働こうとするか。国民は前の統治者の下で満たされなかったものを彼(新統治者)によって得られると思うか。新統治者は何歳か。彼に国家の事業を指導するだけの才能があるか。彼は以前何であったか。彼は国民から選挙されたのか、それとも相続権によってその地位に就いたのか。彼は何か特別の興味を持っているか。…彼は卓越した統治者であるか。彼の宗教的信仰は深いか。彼は国民を理解しているか、国民は彼を理解しているか。…

 

081 独自学習は共同学習によって確かめられ、補正され、整理される。ダルトンプランにはこの他に、独自学習における記帳の点検がある。

さらにドイツでは作業学校の思想から派生した

合科教授

がある。これは日本では奈良女高師付属小学校が率先して試み、東京女高師付属小学校と御影師範付属小学校(現・神戸大学教育学部)でも実施している。プロジェクトメソツドも合科教授の一種である。

 この他に、

 

課題の自由選択や自由製作(自由画や自由作文など)

課外の自由学習

共同作業

教材の芸術的取扱

家庭課業

 

などがある。ガウデイクは家庭課業を重視している。

082 ただし自学法が自学にならないときもある。(後述)

 

 

第十四 学習活動

 

 広義の学習とは、子供の内的世界が環界によって触発され、その触発に反動することによって成長する過程である。自己陶冶としての発達もこの意味である。

083 環界の刺激に対する子供の内的世界の反動が子供の内面に止まる場合と、外部に表現される場合とがある。体験はその内面的躍動を言い、表現は外部に発動したものを言う。そして表現になるまでの過程を作為という。この作為された表現の価値を自己の価値意識で認識することを、精神科学派は理会という。以上のとおり、人間の内面的活動は、体験、表現(作為)、理会に分けられる。しかしその区別が難しいことがある。体験の中に作為があり、理会も一種の作為である。また自由は体験、作為、理会に適用される。

ガウデイクは、作業は体験でなければならないと言ったが、その意味は、作業が理会を含んだ作為であるということである。そして作為のための体験も重要であるから、この理会と体験は二大原理とされる。(意味不明)

 

其の一 体験

 

084 体験という語はドイツの教育界でもまだ一定した意味を持っていないようだ。心理学者の中には意識に上ることをすべて体験という人もいる。痛み、疲れ、想像などすべてを体験という。これに反して知的・論理的な働きの加わらない直観作用を体験という場合もある。さらにリンデやエーバーは冷静に知的に考察するのではなく、自己の感情や生命を投入して物を活かして観ることを体験という。

 

085 体験に相当するドイツ語はエルレーベンerlebenであり、生活・生命・生活するという意味のレーベンlebenにエルという接頭辞をつけたもので、erlebenは、あるものを生活するという意味になるそうだ。

 日本の教育界ではエルレーベンを体験と訳している。この体験の「体」に深い意味が籠っている。単なる経験よりも体験の方が一層深い経験を思わせるからだ。この語義からして、心理学者が言うようにすべての意識が即体験であると解釈することは物足りない。意図のない機械的な連想も意識に上るが、自我はこれに無関心であり、末梢的意識である。この意識を体験と呼ぶのはあまりにも皮相的である。

086 また感情が含まれるだけでも体験とは言えない。感情は些末な生活から沸き起こる場合があるからである。体験には生活の中心が伴わねばならない。単なる知識の獲得も体験にはならない。神や仏に関する知識を得ただけでは、神や仏を体験し信仰したことにはならない。

087 「あるものを生活する」という意味からも、身に応えて覚えたという意味からも、あるものが自我の中心を占めた情態を体験という。つまりあるものが人の価値意識を動かし、それに対して無関心でいられない情態を体験という。これを他人が強いることはできない。他人は人に刺激を与えて促すだけだ。体験は自己活動であり、自由な独立活動である。体験を教育教授の目標とすべきである。体験は教育教授の一大原理である。

 

感想 最近の教育思潮に偉く肯定的ではないか。いつも批判していた態度はどこへ行った。

 

その二 作為

 

088 作為は言語や文章、造形、動作や行為となって現れる。その価値あるものは科学的知識、芸術的・技術的作品、道徳的・宗教的行為、政治的・経済的活動となって現れるが、すべての体験が必然的に作為となって現れるだろうか。これは教育教授上の問題である。

 すべての体験が外的に表現されるわけではなく、内的作為もあり得る。内的作為は後の外的作為の根源である。内的作為は自己形成とも言える。大芸術家は瞑想の中で内的体験に耽る。体験が深いほど意識が明瞭でなく客観化が困難な場合がある。内面的自己形成としての体験がなければ、修身教授や歴史教授は意味がない。修身教授にも共同学習に先立つ独自学習が必要だとする者は、自由の表面的意味にとらわれているといえる。(意味不明。説明不足ではないか。)

 

其の三 理会

 

090 精神科学派は理会を認識から区別する。この区別は自然科学と精神科学の区別につながる。自然の認識では具体的体験から自己を引き離し、それを時空の中で起こる運動として考察し、因果の範疇に当て嵌(は)めて統一する。したがって価値の観点は除外される。さらにその統一は自然を考察する主観の中にあるだけで、観察される自然は統一という事実を知らない。

 一方理会は相手の価値関係を捉えようとする。裁判官は犯人の人物を判定し、教育者は子供の個性を捉えようとし、歴史家は歴史的人物や事件の中に意味を探ろうとする。それは理会である。自分の価値意識によって相手(対象)の価値や意味を捉えようとするからだ。認識では自我は背後に押し退けられ、物と物との因果関係だけを探るが、理会では自分の価値と相手の価値との関係を探る。認識の場合は統一が認識する主観の中だけに存在するが、理会の場合は統一が相手の中にも存在する。したがって統一的理会(見解)は割れることがある。それは人格の高低深浅によって理会が異なるからだ。修身や国語、歴史などの学習では、(認識ではなく)理会が中心となる。

 

 

第十五 教材の本質と思考過程

 

093 作文や描画、造形、数学、そして自然現象の認識など、いずれも作為であり、理会も一種の作為であると述べた。自学主義教育の長所と短所は、作為の精神過程の究明から明らかになる。作為の精神過程の究明のためにはその前に、作為の対象となる材料の構造を明らかにしなければならない。その材料の構造が作為の精神過程を左右するからである。数学は自然科学的・因果的認識ではない。また芸術的感情移入によって自然現象を認識できない。

 自学主義の理科教授を取り上げてみよう。自然物や自然現象を認識する場合、思考がどう働くのかを調べる必要がある。自然科学者の精神過程を調べてみよう。

 

 

第十六 コペルニクスの地動説に含まれる思考過程

 

097 コペルニクスが地動説を発見した精神過程を分析してみると、次の五段階がある。

 

第一段 トレミー説への懐疑。デウイー(デューイか)はこれを困難との遭遇とか問題の構成という。

第二段 問題解決に向けた材料の蒐集。デウイーのいう困難の所在の確認

以上二段では観察や直観が働いている。

第三段 新理論の構成。デウイーの問題解決の臆測。これは綜合とも呼べる。ここでは直観が作用する。

 トレミーの理論と観測の結果との不一致は帰納(計算と観測)によるが、トレミーの学説から脱却できたのは直覚の作用(天籟(てんらい)(天の声))である。

098 第四段 仮説の検証。これは分析である。

第五段 確定。

 

 

第十七 ラボジエーの燃焼説に含まれる思考過程(省略)

 

 

第十八 発見の過程中に含まれている重要な要素

 

103 思考は問題との遭遇によって触発される。

104 次に目論見(意図・視点)を持った実験や観察が起こらねばならない。それがあって始めて観察が、単なる知覚から判断や推理になる。

105 臆説を立てるときに直覚が重要である。直覚は分析ではなしえない閃きである。

また実験技術も重要である。

 

 

第十九 自学主義の理科教授を批判する

 

107 新思潮の提唱者は研究題目の設定も子供任せにしているが、これは空想に過ぎない。燃焼現象は普通の人にとっては自明なことであり、疑問に思われない。何らかのヒントを与えてやらなければ、燃焼現象に疑問を持たないだろう。多くの科学者が幾代にもわたって発見した真理を教える時、教師のヒントが必要である。絶対的自由の下ではなく拘束されることによって子供の題目は定まり、そのとき受動は能動に転じる。今日では科学者が発見した真理が技術に応用されて日常的になっているから、その真理に気づきやすいが、それは子供が決定した問題とは言えない。子供の内面的要求となっているかどうかが問題である。ただし子供に問題を提出させるのを止めろとは言わないが。

 

反論 ヒントを与えられる方式では決して発明は起こらないだろう。ラボジエーやコペルニクスは教師からヒントを与えられたからその自説を発見したのではないだろう。自由な精神がそうさせたのではないか。

 

 

 パーカーストは第八学年用の自習手引を挙げている。以下それを引用する。

 

 第一週 運動と力

 

自動車はガソリンの爆発なくして運転するか。

材木の中にネヂがささってゆくのはどうしてか。

自転車の心棒に油をさすのは何のためか。

滑車を使用するのはなぜか。

 

これらのことについて君たちは不思議に思わないか。

我々は日常発生することに注意しているが、どうしてそのことが起こるのか、なぜそうなっているのかについて考えることが少ないようである。

 

今月は物理学上の法則によって完全に説明できる日常の出来事を研究してみたい。

我々は日常使用している器械の型について多少の知識を持っている。また多くの器械がどうして作用するかを見ている。

 

これらの器械の作用に対して正しい理解を得るために、運動と力との関係を研究することは大切である。今月の作業では運動と力を研究しよう。

 

 

111 この自習手引の題目を決めたのは児童ではなく教師である。この自習手引で題目を子供の題目にする努力は、過去の「教授段階」(指導法)の予備と変わりがないではないか。教科書でもそれに基づいた自習書でも題目は大人が決定し、教科書だけで教える場合には教師が問題を子供の問題とさせるように触発し、自習書を使用する場合はダルトンプラン同様それを自習書に任せる。(いずれも生徒を触発しており、異なるところがないではないか。)

 

112 第二に思考の過程での意図や視点、技術について述べる。

 

観察の場合の意図・視点の具体例は、燃焼によって蠟燭や薪炭の灰以外の大部分が消えうせるのはなぜか、そしてそれを探るためには燃焼のどこに注意すればよいか、などの疑問である。

燃焼の秘密を(あば)技術の例は、蝋燭の炎の暗い部分にガラス管の一端を挿入し、ガラス管の他端のガスを燃焼させることである。

この意図や視点、技術を普通の子供の創意に待つことはほとんどできず、自習書でもそのヒントを示している。

 

自習書に現れる、梃子やニュートンの運動に関する三法則などで生徒に与えるヒントの例示(省略)

 

116 以上のとおり、自由を根本原理とするダルトンプランでも、自学を自称する自習書教授でも、理科的思考を練るための意図や視点、技術などは、子供の自発性に任せず、外から注入されたものである。

理科教授の目的は、子供に真理を発見させることではなく、追発見させることである。発見的方法で子供の思考を練らせ、科学的精神を涵養することが、人格陶冶としての理科教授の任務である。理科教授は科学者を養成することではない。(卑小な考え)

 

117 思考の進行は生徒自身の発意に基づくべきである。自習書ではお膳立てがすべてできていて、子供を受動的にさせており、従来の教授と何ら変わらない。この点でパーカーストの自習書もロンドンのリンチの自習書も同様である。

自習書によらずに教師が直接指導すれば、指示と自習との区別を臨機応変に選択できる。また自習書は子供にとって余計な労力である。そして自習書学習では生徒間の進度の違いが出てきて、共同学習にふさわしくない。

 

119 従来の教授方法も、自由・能動を叫ぶダルトンプランや日本の自学主義も、意図や視点、技術を教師が教えている理由は、子どもが未発達だからである。その点で自由を原理とする教授は不可能だといえる。助成は不可欠の原理である。自習書による学習が自学主義にかなうというのは、外形だけを考えて精神活動の過程の本質を弁えていないからである。

 

120 さらに国史教育でも自学主義が同様の謬見に陥っていることを指摘したいが、次は私の「精神科学の本質と国史教育」に基づく論考である。

 

 

第二十 精神科学が教育に及ぼす影響(ドイツの場合)

 

 二三年前から精神科学派の哲学と共に文化教育学が紹介され、すでに数種の著書が刊行されている。この文化教育学は精神科学の性質(人の性格か)に関する研究に促されて起こったものと思われる。

ドイツでは前世紀からヘルバルト学派が倫理学と心理学を基礎にした教育学を提唱した。また生物学と社会学を基礎としたベルゲマンの社会的教育学が起こった。そして倫理学や論理学、美学などを基礎としたナトルプの批判的社会的教育学、形而上学の新理想主義を基礎とした人格教育学、教育を芸術とみなす学説、技術的応用的科学としての教育学などが起こった。

 

 教育学の科学化に寄与する精神科学の哲学的考察は、ドイツ科や文化科をもたらした。数学や自然科学に対して、国語、宗教、歴史、地理、公民などの国民の文化生活に関する教科を、文化科やドイツ科という。これらの教科の目的はドイツ国民とドイツ精神である。歴史は国民の国家的・経済的・社会的・精神的生活の発展史、つまりドイツ人の国民的・有機体的生活の発展史と考えられている。

122 これは一種の運動であり、(第一次)大戦後、教育令が改正され、従来の主知的で専門的な高等学校の学科課程で、文化的教科が重視されるようになった。

 

 精神科学とともに歴史教育に大きな影響を与えたものは、世界大戦とその後のドイツ革命である。この二大事件の中でドイツ国民は(他国民や民族との)共存共栄と自己の地位から発生する責任を自覚し、階級的集団つまり労働者階級が台頭した。これらの経験から歴史教授にも社会的・革命的思想が波及し、児童・教師・家庭の父母などを一団として共存体を組織し、手工的作業教育や、学校を自治的団体に組織することなどが歴史的生活を理会するための予備や補充であると考えられるようになり、歴史における経済関係が重視されるようになった。教授学者の間でも、従来主位を占めていた戦争史や統治者の歴史に代わって文化史が尊重され、歴史の集団現象や経済的・社会的運動に留意すべきことが提唱されている。

 

 以上は教材の選択に関することであるが、これとともに戦前からの問題であった作業学校方式を歴史教授にも適用すべきだと高調されている。従来のように教師の説話や因果関係の説明は不十分であるとし、児童生徒の自己活動・自由活動に基づいて学習すべきだという。直接原拠に当たらせて歴史を学ばせるなどはその一例である。

 

124 以下歴史教授で採用されている自学主義の利害得失について述べる前に、歴史教授に影響を及ぼしている精神科学について述べる。

 

 

第二十一 精神科学の観方の発展 ウントからリツカートまで

 

 ドイツで自然科学に対して精神科学を対立させ、精神科学を独立させた最初の人はウントだと言われている。ウント以前では自然科学は、感覚的知覚に関する矛盾のない説明であるとし、これに対して精神科学は、内的または心的知覚の説明の体系であるとされてきたが、ウントは心的現象にも物理的・身体的因子が結合していて離れないから、この定義は不完全であるとした。

ウントは外的知覚(目耳鼻口皮膚の五感か)と内的知覚(頭か)という区別を斥け、心的現象の中に自然の側にはない特徴がありさえすれば、自然科学と精神科学との区別ができるとし、意志活動や目的の措定、評価作用などを心的現象に独特なものとした。つまり、歴史、言語学、法学、経済学などの精神科学では、意志し、思考する主体としての人間が、それらが取り扱う現象の本質的因子であるのに対し、人間の精神的方面を見地外におき、(自然)現象を取り扱う場合を自然科学とする。

 人間の結合(交流)から起こる現象についての認識は、意志し思考する主体としての個人の認識なしには認識できないから、機械学Mechanik自然科学の基礎であるように、心理学が精神科学の基礎となる。精神科学は精神現象に独特な因子(人間の意志や目的、評価作用)によって自然科学から区別されるが、両者とも一般的法則を目的とする点では共通している。

 

126 ウントは研究対象(自然と人間)によって自然科学と精神科学を分類した。それに対してウィンデルバントは、科学の分類はその対象によるべきではなく、その対象を観る見地によるべきであると唱えた。ウントの場合、自然科学と精神科学は対象を異にしても、一般的法則を目的とする点では共通していた。しかし、ウィンデルバントは、対象が外的自然であれ、内的心理的現象であれ、一般的法則を目的とするものを自然科学とし、一度限りの個性を取り扱うものを精神科学とする。したがってウントの精神科学やその基礎である心理学は、ウィンデルバントでは自然科学となる。

 

127 リツカートはウィンデルバントの精神科学を発展させた。ウィンデルバントは、(ウントの言う)対象(自然と人間)を捨て、対象を処理する(観る)場合の形式的見地を分類の基礎としたが、リツカートは(対象を観る)形式的見地とともに内容的見地(ウントの言う対象)も科学の分類に必要であるとする。(p.142を参照せよ。)

 経験科学の対象は自然文化である。自然は造化の所産であるが、文化は人間の所産である。文化には人間が認める価値が体現されている。自然科学は、研究の対象を人間から独立した造化の所産と観て、人間の価値意識に無関係なものとして理解する。それに対して文化科学は、価値が体現された文化現象を研究対象とする。自然科学は概念化一般化を目標とし、文化科学は独特な価値の体現者としての個性の把握が目標である。(自然科学では)個々の事物や現象に共通な要素を抽象して一般的概念や法則に構成することで一般化が行われる。自然科学はあたかも個的で独特な人に既製品を着せるが、文化科学は自然科学から遺された個的な部分にピッタリ合う着物を着せる。

しかもその個的なものはただ個的でなく、他を以ては置き換えることのできない価値の体現者である。文化科学文化価値を選択原理とし、様々な文化現象の中から本質的なものと末梢的なものとを区別し、人格や時代が体現している価値を捉えようとし、絶対的価値を予想する。この絶対的価値体系があってはじめて歴史上の価値を理会できる。哲学は絶対的に妥当する価値体系を問題とする。(恐ろしいことを考えている。歴史における絶対的価値とは、日本書紀の国造りの神話か。)

 

 

第二十二 精神科学派の精神科学の意義

 

129 リツカートは精神科学という概念を捨て、それに替えて文化科学という概念を採用する。その理由は、精神は心意と同義であることが多く、ウントが精神科学と呼ぶ心理学は、一般化を目的とする自然科学的心理学であり、個的価値の把握を目的とする科学とは異なり、個的価値を把握する科学を精神科学と呼ぶなら、(ウントの)自然科学的心理学もその中に包括されて意味があいまいになるからである。

 

 一方ディルタイの流れをくむ精神科学派は、精神はその語の中に価値関係を含み、価値を見地外におく心意から区別できるとし、誤解を招きやすい文化という語よりは、精神科学の方が適当であると考える。

 

130 精神科学派の出発点は人間の具体的体験である。精神科学は自然科学とこの具体的体験から分枝するが、いずれも人間の体験に上らぬことに関する言説は空虚であるとする。自然も最初は体験されるが、自然科学はこの体験から人間を引き離し、自然を人間から独立したものとする。

 色彩の相違を物理学者は電磁波の波長としてとらえる。色彩は人間の体験以外に存在しないが、その体験から人間を引き離した残りの部分を時間・空間・量・運動などの概念に当てはめて、その現象(色彩の相違)を支配している一様性や一般的概念を構成する。物理学者は質の相違(色彩の相違)を波長という量に還元して一般的法則を打ち立てる。

人間から独立した現象を整理するための時間・空間・量・運動などの概念は思考が作ったものである。また自然科学が究竟の目標とする因果も、思考が作ったものである。

 

 一方、精神科学が対象とする文化はこれと異なる。体験から人間を捨象したら文化を理会できない。文化の根源は体験であり、文化は体験によって客観性を具えるようになる。

132 外的物理的なもの(絵画における画布)を介して現わされる意味が文化である、価値が文化である。これを客観的精神とか精神世界と称する。その源は個人や団体の心意である。

 文化は客観的精神である。文化は個人の心意によってつくられても、いったん出来上がると作者から離れて独立する。科学の命題もしかり。それは個的主観を超越し、独立の意味の世界を構成する。それで客観的精神とか精神世界と呼ぶ。

133 文化は時空や歴史に制約されているから絶対的妥当性がないとも言えるが、科学の命題は人が判断しなくても常に妥当し、道徳の規範もそれを実行する人がいなくても妥当する。具体的事実としては絶対的に妥当しないが、その意味の上では恒久的である。哲学者はこれを理念とか妥当とかいう。一切の文化にこのことが当てはまる。

 

 スプランガー文化のこの性質を次の形式で表している。

 

理念

   /\   精

物 / 文化 \ 神

理 ―――――― 世

界 \    / 界

\/ 

心意

 

134 宗教家・芸術家・哲学者・科学者などの個人の体験から生み出された客観的価値は、他で置き換えられない個性を持っていて、この特殊相の根源である人格の内面を、心意の構造という。心意の構造は固定の組織ではなく、価値体験(価値執意、価値作為)である。つまり、価値の方向を持った作用である。それは無限に多種多様である。

 この個性を理想的(理念的)に構成したものがスプランガーの生活形式である。この理想化したものをさらに個的にすることによって、実際の個性に近づけることができる。理想的に描いた生活形式に照らして個々の人間を眺めることによって、各人の個性を捉えることができる。

136 個人は客観的価値を自己に取り入れることによって人格的に発達し、また自分で客観的価値を作為することによって精神的に発達する。個人はこの取入れとそれに基づく作為によって客観的精神につながれている。文化は個人または団体の連関的体験から産出され独特な構造を具えているから、個人の心意の構造が自己以外の心意の構造や文化の構造と本質を異にすれば、理会することができない。個人の心意の構造と他の心意や文化の構造との間に一致点があることが理会の先験的基礎である。

137 ここに某個人の表現がある。それは物理的なものが結合しているから固定している。しかしその根源を遡れば個人の体験から産み出されたものであり、それによって意味を持つようになる。理会はその内面の意味を捉えることによって成立する。スプランガーは理会とは、個人や団体の体験と行為の中に内面的な有意義を捉えることであり、客観化された精神の意義をつかむことであり、価値関係を捉えることであるとしている。

138 心意と心意との直接の接触は不可能である。個的心意と客観的精神との直接の接触も不可能である。物理的表現を通して近づくことしかできない。表現に接して知覚したものを自身の体験に組み入れるから、表現と理会とを完全に一致できない。自身の体験に新たな要素が加わることによって、表現されたものを自身の中で構成する。理会は構造の模写ではなく、理会者自身の能産活動である。

139 以上のように理会は知覚したものを自身の体験の中に組み入れることによって可能となる。自然科学の場合のように自分の個性を捨てては理会できない。理会の対象は価値(意味、意義)である。理会は生活の内面で起こり、個的特殊性を具えている全人格を以て理会する。したがって人格の深浅高低によって理会に差異が生じる。

 

ここで理会と似た概念を区別しよう。理会は同情ではなく、価値を捉えるための認識作用である。同情は認識を前提しない。我々は理会しなくても同情できる。

 また理会は感情移入ではない。感情移入は木や石に対しても行われ、想像作用に属する。理会は価値関係を認識する思考作用である。理会の対象は木や石のような無心のものではなく、価値の体現者である。

140 また理会は他者の体験を追体験することではない。スプランガーの例を示そう。子供がなぜ遊戯をするのかの問いに、それは子供にとって愉快だからと答えるなら、それは追体験である。子供に体験された遊戯の主観的意味を述べたに過ぎない。これに対して、カール・グロースのように、子供は遊戯によって将来の生活に大事な各方面の力を練ると解するなら、遊戯の体験以上の意味を捉えたと言える。遊戯を子供の生活の現在と将来に関係させて理会したと言える。

 

141 以上によって自然科学と精神科学との差が明らかになった。研究対象を体験の連関から引き離す自然科学では、生活と自然との直接の交渉はないが、精神科学では生活と科学とが密接に連関している。生活が思想を構成し、人格の活動によって、他の人格や客観的精神の意味や価値を捉える。理会の基礎は人格であるから、自然科学の認識のように一般的妥当性はない。人格が内面的に深いほど理会も深くなり、人格が文化の中から多くを取り入れ自分の生活を豊かにすればするほど、その理会も高まる。理会と体験とは相互に規定し合う。理会は体験によって可能であり、体験は理会によって高まり、広まり、深まる。生活が豊かであるほどよく理会でき、理会によって我々の生活が豊かになる。

 

142 自然科学と精神科学との区別をウントは対象によって行い、ウィンデルバントは対象を取り扱う見地によって行い、リツカートは対象とこれを見る見地の二方面から行った。自然科学が造化(造物主)の所産である自然の一般化を中心とするのに対して、精神科学(文化科学)は人間の作為である文化の個性化を中心とし、その個性化のために絶対的に妥当する価値の体系を予想する。しかしリツカートは個性化の方法を十分に説明していない。

 

精神科学派にとっても、繰り返せない個性を捉えることが精神科学の目標になるが、それを捉えるために自然科学の認識に対して理会を挙げ、理会の先験的基礎として、心意と他の心意や文化の構造との一致を説いて理会の意味を明らかにしようとする。

143 リツカートと精神科学派との差異点は、リツカートが価値の体現者としての個性を捉える際に、絶対的に妥当する価値の体系を予想するのに対して、精神科学派はこれを認めない。ある具体的価値を理会しようとするとき、すでに理会の基礎となる価値が予想されているが、精神科学はこの予想となるもの(価値)も、具体的価値を離れてはあり得ないとする。即ち理会の基礎と理会されるものとが相関的であり、このいずれもが他から導き出せず、他を基礎として立てることができない。つまり循環的である。

 

感想 尻切れトンボで意味不明。個性を捉える際に絶対的に妥当する価値体系の存在を認める(リツカート)か認めない(精神科学派)かを問題とし、暗に精神科学派を批判しているらしいが、筆者自身も判断しかねているのかもしれない。

 

 

第二十三 科学としての歴史と国史教育

 

144 科学者としての歴史家の対象は、記録や文書、遺物、遺蹟などの資料であり、歴史家はこれらの資料を通して過去の文化を理会し、その発展の道程を明らかにする。一方教育者は歴史家によって編まれた歴史を子供に媒介することを目的とする。歴史家の目標は創作的理会であり、教育者の目標は歴史家の創作を借りて子供の人格的発達を助成することである。

 

145 小学校令施行規則によれば

 

第五条 国史は国体の大要を知らしめ兼ねて国民たるの志操を養うを以て要旨とす。

尋常小学校に於いては建国の体制、皇統の無窮歴代天皇の盛業忠良賢哲の事蹟、国民の武勇、文化の由来、外国との関係等の大要を授け以て国初より現時に至るまでの事歴を知らしむべし。

高等小学校に於いては前項の旨趣を拡めて稍々詳らかに我国発達の蹟を知らしむべし。

国史を授くるには成るべく図画地図標本等を示して児童をして当時の実情を想像し易からしめ特に修身の教授事項と連絡せしめんことを要す。

 

146 科学としての歴史を扱う歴史家は文化価値を視点として理会という方法によって、ただ一度限りのもの、繰り返すことのないもの、つまり史的人格や事件、時代の構造を捉えようとする。しかも歴史家はその個々のものを明らかにすることによって、史的発展の蹟を捉えることを目標とする。

 国史教育が国民生活の歴史的発展を理会させることは、科学としての歴史の目標と一致するが、小学校令施行規則第五条第一項中の「兼ねて国民たるの志操を養うを以て要旨とす」は、科学としての歴史の問題外である。歴史家は歴史的真理以外のものは対象としないが、歴史教育は人格的・国民的陶冶の見地から、歴史的真理を他の目的(子供の人格的発達)に利用する点で異なる。

ここまでは問題が生じないが、問題が生じるのは、ドイツの作業学校の原理や、日本における自学主義、自由主義、独創主義、学習主義などの原理を国史教育に適用する場合である。以下それぞれについて述べる。

 

 

第二十四 国史教育の特質は、歴史家のような創作ではなく、その追体験である。

 

148 自学主義は歴史の材料(資料・教材)によって子供の精神的力を伸ばそうとするのだが、その精神的力はどんなものなのか。それは史的人物や事件、時代の構造を理会するための力であるはずだ。

 

149 教授における材料は歴史の資料ではなく、歴史家が創作的に理会した結果である。教育者は歴史家が捉えた歴史的真理を信用して、それをそのまま子供に媒介する。教育者が歴史の原拠に当たる場合でも、歴史家のように広く当たることはできない。教育者が二三の原拠に当たっただけで結論を導くことは、盲者蛇を恐れずの危険を冒すものである。ある時代の特色を捉えようとすれば、その時代の生活内容を構成するあらゆる文化を明らかにしなければならない。宗教や道徳、学術、芸術、政治、法律、経済、軍事、教育などの個々の文化事象は相互に連関している。個々の文化とその連関を明らかにし全体を大観してから時代の構造を描かねばならない。史的人物の動機や行為は、諸価値が相互に複雑に相互連関する体験から起こる。しかもこの体験は全体としての連関的体験とつながっている。これを理会することは易しくない。教育者は歴史家を信用することが安全である。原拠に当たって研究する意気は尊重するが、盲断即裁を避けるべきである。歴史家でも真に深く研究できることは一部に過ぎない。

151 教育者は新たに創作して構成するのではなく、歴史家を追(じょう)(従)して、その歴史的真理を受納するのがよろしい。教育者は歴史家が構成したものを類化することしかできない。それは創作ではなく追創作であり、能産ではなく再生である。教師の説話や教科書によって学ぶ子供の理会作用も、能産ではなく再生である。国史教育の特質は再生にある。それに反して国史教育でも自学、自由、独創を原理とするというのは、何を意味するのだろうか。

 

感想 筆者の考え方は非常に他力本願的で自立的でない。教育者でも生徒でも、歴史家になる可能性を秘めているはずだし、歴史家と同様の創作的体験をしないと、歴史の真の意味が分からないのではないか。筆者は歴史学習を暗記物に貶めている。

筆者は歴史家の創作物を子供に教えるというが、その創作物は一つではないはずで、歴史家によって異なるはずだ。それともこの時代は皇国史観一つしかなかったのだろうか、そんなはずはない。皇国史観一つだけを信頼して自己中史観に陥り、大きな間違いを犯すことになったのではないか。

 

 

第二十五 原拠使用の問題

 

152 歴史教育に自学主義を適用するための方法の一つは原拠による学習である。この方法はドイツでは主として高等学校の生徒を対象に行われているが、まれに国民学校(小学校)の上級も対象にされている。日本で新教育思潮に先走る者は小学校の教育者であり、原拠を使用して自学主義教育を行っているようだが、前述のようにこの方法は空想に過ぎない。

 原拠による学習は子供の能力では不可能である。資料から新たに歴史的真理を創作することは歴史家でなければできない。(子供は馬鹿だ。)また子供にこれができるとしても、国史教育の目的がこれを許さない。(国定史観以外の歴史観を許さないということのようだ。)二千五百有余年の長年月にわたる歴史を有する我が国史教育がこれを許さない。

153 施行規則の要旨にも現れているように、国初から現時に至るまでの国家としてのまた国民としての発展を大観させることが国史教育の任務である。そのために国史の分量は多い。原拠を以て自学させることは空想である。たとえ内容を取捨できるとしても、内容を少なくしてしかもある歴史的事象に関連する史的発展を理会させられるかは疑問である。

 

 

第二十六 二三の原拠を利用することの問題

 

154 原拠を用いる学習は歴史の創作ではなく、歴史認識(理会)の第一歩にすぎず、教科書や教師の説話を直観的にするための教材に過ぎない。子供に歴史を創作する能力はない。またわずかな素材から結論を導くなら、真理感や科学的精神を養うどころか、盲断即裁の悪習を植え付けることになる。

 

 

第二十七 自習書の問題

 

156 国史の自習書を頼りに教科書を自習させることが自由主義教育であると言う自学主義教育者や自由主義教育者がいる。自習書の中には教科書を敷衍するタイプのものと、教科書の中の重要事項を詳細に述べたものとがある。

 

このことに関して和気清麻呂を例にして説明する。(省略)

 

158 この自習書は「学習と受験」と冠しているだけあって詳細である。

 

 自習書の編纂者もそれに基づいて学習する子供も、その行うことは歴史の能産・創作ではなく、再生・追創作である。能動ではなく受動である。事実間の内面的連関は歴史家によって与えられている。

159 人物や事件の個相や構造の根源である価値と価値との関係(和気清麻呂の場合では、道鏡の非望と我が国体とが相容れないこと)は歴史家によって創作されている。子供はこの内面的連関を理会する。それは歴史家の創作活動ではなく、歴史家が創作した内面的連関を辿って心の中に構成する類化や追作という理会である。

なぜ生徒はこういう理会ができるのか。それは生徒に人間の生活に関する経験があるからであり、我々の心の構造と歴史的文化の構造とに一致点があるからだ。

160 こうして内面的経験を基礎とした類化が行われる。過去を知ることによって現在が理会されると同時に、現在によって過去も理会される。ドイツでは学校を共存体組織にしたり、手工的作業教育を行ったり、自治制度を設けたりするなどは、歴史教授の予備や補充であると考えられているが、これもそういう意味(生徒自身の内面的経験を基礎とした類化による学習・理会)がある。理会されるべきことは過去でも現在でもなく、価値である。それを内面的意味という学者もいる。

教師の説話を注入や受動であると考えて、自習書や教科書の自修によってこの注入や受動から脱却できると考えることは、歴史的認識の本質を弁えない謬見である。従来の教授と自学主義との違いは耳に訴えるのか、目に訴えるのかの違いに過ぎない。

 

 

第二十八 読むことと聴くことの問題

 

161 読書でも教師の説話でも、意味や価値を追創作的に理会する上で相違がない。

読書ではいつでも参照できるが、講義では聞き落とす欠点がある。しかし生きた音声の方が文字よりも内的生活を触発する刺激力が強い。また読書の場合は文字の理解力に左右される場合がある。(新聞(文字)はテレビ(音声)に比べて思考の質が高いのではないか。)

162 以上の相違点はあるが、生活の内的・外的経験が基礎となって価値関係を理会する作用は、両者に共通である。歴史におけるその(価値関係の)理会は、読書でも説話でも、再生や追作である。

163 それでは自学主義の長所は読書力や読書習慣か。しかし国語力の涵養は国史教育の目的ではない。歴史を観る心眼を養い、国家と国民の発展の大観を獲得し、国家的・公民的情操を養うことが国史教育の中心目標である。

国家的・公民的情操を涵養する場合、説話の方が有効である。説話を聞いて自分を磨くことは重要である。自学主義が進歩的だというが、我輩の鈍感を以てしてはこれを理会するに苦しまれる。

 

 

第二十九 問題の構成及び討究法

 

164 (歴史的)事実間の関係を明らかにして、その内容を精確に理会させるためには、意識的・反省的に学ばせる必要がある。自学主義の国史教育では、独自学習で問題の構成を説き、その問題の構成で理会したことをさらに共同学習で討究させるのもこの意味がある。また問題を構成し、これを解決するために事実間の関係を探るためには、次々と消える説話法よりも文字による学習の方が容易である。そして問題解決を自学主義では子供が行うが、説話法では教師が行う。

しかし、歴史で解決されていない問題は存在しない。(歴史家によってすでに解決済みだ)問題が解決されていない歴史は、事実の寄せ集めに過ぎず、そこには創作の手が加えられていない。

166 人物の動機、事件と事件との関係、諸価値間の関連を問題とし、それを解決したものが歴史である。子供は歴史の問題を創作しない。子供は歴史家に倣って問題を作り、歴史家に倣ってそれを解決する。この点で自学法と説話法とで差異はない。

 

 歴史家が解決した問題を生徒が十分に理会できない場合がある。「教授段階」教授法では、説話の次に「探求」というセクションが設定されていた。それは歴史の内容を類化した後に、意識的・反省的に事実関係や価値関係を明瞭確実に理会させることを目的とした。自学主義で独自学習の後に共同学習を設け、発問・討究・自由発表などの方法をとるのも同様である。古風の教授では発問者は教師、応答者は生徒と固定していたが、自学法では発問者が子供、応答者(解答者)も子供であり、子供の力で解決しない場合に初めて教師が援助する点で、自学法は一つの進歩と言える。しかし自学法も「段階教授」法と同様に、教師の実力がないと共同学習の討究は駄問駄答になる。

168 実際ダルトンプランでも共同学習での発問者は子どもでなく教師であることが多い。そしてダルトンプランの場合でも問題を設定してこれを解決するのは歴史家である。その一例として、ロンドンのリンチの学校の自習手引きを次に挙げる。

 

第一 自習手引

 

感想 これはロンドンのリンチの学校の自習手引であるが、この手引の中に当時のイギリス人の民族主義的観念を垣間見ることができる。優越的で積極的である。生麦事件のイギリス人を想起する。

 

第一期

 

169 英帝国は「太陽の没しない」国である。英国はカナダ、オーストラリヤ、ニュージーランド、南アフリカのような大きな属領や、エヂプトのような大きな保護領や、ウガンダやニゲリヤなどの広い面積を占める領地を領有している。どのようにしてこの大帝国が建設されたのか。この問題に十分かつ巧みに答えることが今年学ぶ歴史であろう。不足を忍び困難を切り抜ける発見者や植民者の頑強な精神、真の英国民の特質をよく現わしている権利と正義の精神などを示す大胆な冒険の物語を読むことは、ただ面白いという以上に何物かを与えるだろう。そのような精神は、海陸での勇敢な行為光栄ある勝利、国内における優れた政治的手腕などとともに、この帝国を今日にあらしめた。英国の小さな母国は5,000平方哩(マイル1.6km)に過ぎないが、今日の英帝国は14,000,000平方マイルの地を領有している。大英国が一国家として存在するためには、海上の支配力を維持しなければならない。だから諸君が学ぶ歴史はまず英国が新世界に至る航路の発見で他の国民と大競争をしたころから始めなければならない。

 

 今週は次の本を読め。

 クリストファー・コロンバスの話(「埠頭開拓者」第三巻 pp. 45—61

 クリストファー・コロンバスとアメリカに至る最初の航路(「三つの有名な航路」pp. 5—8

 これは二日(単位)の作業である。次の問いに答えよ。これは三日(単位)の作業である。

 

 問題

1、 コロンバスの航海前に知られていた世界を示す略図を描け。

2、 コロンバスの前半生の物語を記せ。

3、 誰が喜望峰を発見したか。

4、 喜望峰はどのようにしてそう命名されたか。

 

各自の作業をカードに記入する前に先生に見せよ。またこの作業は全部筆答せよ。

読んで研究せよ。

家庭読書

 

第二期

 

171 今週はクリストファー・コロンバスとアメリカに至る最初の航海の話を続けよう。(「三つの有名な航路」pp.8—24)読んでいる間に諸君の注意を惹くことがたくさんあるだろうが、諸君にとって重要なことはこの発見が真にどんな意味を持っているかを理会することである。

 

172 読書は二日(単位)の作業である。そして問題は三日(単位)の作業である。

 

 問題

1、 コロンバスがアメリカに至る際に取った航路を示す地図を描け。

2、 コロンバスがアメリカに航海した話を簡単に書け。

 

読んで研究せよ。

家庭読書

… 以下略

 

171 以上のように自習手引では発問者は教師である。そして共同学習における発問者もほとんど教師である。

 要するに独自学習で問題を構成して研究させ、共同学習でその解決を確実にさせることも、形式が子供の創作活動に見えるだけであり、本質は説話法とその反省作用との組み合わせと異なるところがない。歴史教育はどんな方法でも(歴史家の創作の)受動・再生・追作である。これは精神科学としての歴史の本質に由来する。

 

感想 独自学習方式と教師による一斉授業方式との違いはあるのではないか。独自学習の方が生徒にとっては創造的のように見えるが、筆者はその部分を捨ててしまうようだ。それは上から与えられた絶対的で既定の指導要領を寸分なりとも変えるわけにいかないからか。筆者は大英帝国の歴史観に接してクソと思ったのか。

 

結び

 

174 以上、具体案の中で重要なものを考察したが、これまで言及されなかった問題点の中で重要なものは「合科教授」である。合科教授は日本でも二三の学校で試みられているが、その根本原理を説明しているものが見当たらない。ドイツでは一部であるが幼年児童を対象にした合科教授と上級児童を対象とした合科教授とがある。私は幼年児童を対象にした合科教授について雑誌「学校教育」で述べた。その他の合科教授については資料がない。

 

175 私の教育主義(イズム)は何かと問われれば、「イズムにこだわらない」と答える。偏見と錯誤はイズムから生まれることが多い。イズムは盾の両面を観ない。盾の表裏が互いに他を容れないとするのは間違いである。両面共に必要である。

 

感想 筆者はここで自身の折衷主義を暴露しているようだ。またこれは「結び」になっていない。筆者は羅列することしかできないようだ。

 

以上 2022124()

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