2022年1月1日土曜日

新体国史 上・下巻 中村孝也(こうや、1885-1970) 帝国書院 大正15年10月28日 要旨・感想

新体国史 上下巻 中村孝也(こうや、1885-1970) 帝国書院 大正15年10月28日発行 定価上巻金60銭、下巻金88銭 昭和2年2月3日訂正発行 定価上巻金99銭、下巻金146銭(たったの2年間で偉いインフレ)

 

 

全体の感想 20211219()

 

 これは歴史ではなく、物語だね。自己中の。そして天皇はその自己中史観にうってつけの存在である。しかし、戦前の歴史家がすべてこういう人ばかりではなかった。津田左右吉のようなクリティカルな歴史家もいた。現在でも櫻井よしこや加藤英明、藤岡信勝、西岡力、『慰安婦と戦場の性』の著者秦育彦など、右派の歴史家やジャーナリストがいる一方でクリティカルな歴史家もいるという混在状況はいつの世でも同じか。

しかしこういう自己中史観を師範学校で教え、そこで学んだ教師が生徒に教えることがもたらす影響と弊害は大きいと言わなければならない。今でも政府見解と称して、尖閣問題、竹島問題、慰安婦問題などについて自己中史観を教えているが、誤った方向を向いた由々しい事態と言わなければならない。

 

 

上巻の感想

 

著者は高崎出身で父親は小学校の教員。またすんなり東大に入ったのでもなかった。東大大学院時の指導教官は三上参次で、その時江戸時代の文化史を専攻。その後国史学科主任教授平泉澄の「皇国史観」に対抗したとのことだが、本書序言を見る限り信じられない。皇室中心主義を刊行方針の第一に掲げているし、本文は最初から日本書紀を史実と見なしている。

この序言を書いた大正15192610月の時点で、日本史の書きぶりをそれまでの西洋の影響を排除し日本中心主義=皇室中心主義に改めなければならないとしている。歴史修正主義はこの頃つまり大正末1926年ころから始まっていたようだ。次にその序言の中の「皇室中心主義」の部分を引用する。

 

「近頃国民普通教育における国史教授の必要はますます痛切に感ぜられてまいりました。それは欧米諸国の文化を取り入れることに忙しかった過去五十余年の歳月を重ねて、今や国民的自覚が汪然(深く広く)として盛んになって来た為めであります。この自覚はわが国民生活が皇室を中心として発達してきた事実を知ることに依って、最も徹底し得るのであります。これ即ち国史教育の任務であります。」(序言001

 

追記 2021815()

 

 中村孝也は1945.10GHQによって教員不適格者とされた。中村孝也は東大教授を依願退職1945.10したが、実際は退職したくなかったようだ。

 中村孝也は1951年、教職追放解除後、明治大学の商学部教授(-1959)になった。

 

感想 20211016()

 

 人名(天皇の変遷)など覚えることばかりだ。天皇の立派な人格についてはやたらと詳しい。脚色か。歴史的根拠に踏まえているのか。

対外関係は日本中心主義。文化的には中国の方が進んでいたと思われるのだが、対等な立場で交流したとか、朝鮮関係では、朝鮮が貢いできたとか、朝鮮に兵隊を送ったとか、朝鮮に日本の領土を設けたとかを喧伝する。

 

付記 20211019()

 

 神々や天皇に対する敬語は省略した。ただし、表現として面白いと思うものはそのまま残した場合もある。

 

感想 20211025()

 

 今、戦前の日本史の教科書(中村孝也『新体国史』)を読んでいるのですが、新発見というか疑問。なぜ漢字が日本に伝来する前の人物に、「伊弉諾尊、伊弉冉命、神武天皇」などと漢字で表記できたのでしょうか。ちなみに本書で漢字が伝わったことに関し、以下のように述べている。

 

「応神天皇のとき、百済から阿直岐(あちき)が我が国に来て、(二)ついで博士王仁(わに)が来て、論語と千字文を献上した。わが国に漢学が伝わったのはこれが初めてである。」上巻026

 

感想 2021114()

 

 身近な国内では「気にいらない」と周辺との権力闘争、遠い九州や東北に対しては制圧意欲、外に向かっても、朝鮮には朝貢を求めたり制圧したり、中国に対しては対等な関係を求めてプライドを維持しようとする。それが国史の神髄のようだ。

 

感想 2021115()

 

 菅原道真は他(宇多法皇)力本願で、自ら進んで抗議しようともせず、忍従の一字である。082, 083

 

感想 20211113()

 

 源頼朝が政治の舞台に台頭したのは、後白河法皇が源義仲を気に入らなかったという全くの恣意によるものらしい。当時の政治は為政者の好き嫌いという恣意が政治の動向を変える大きな要因だったようだ。115今の秋篠宮の父娘関係での娘の人権無視も、父の恣意に左右されていると言えるのではないか。

 

感想 20211225()

 

 敬語がストーリーの貧弱さをカバーする。漢字文化や仏教文化の隆盛。「そむく」という歴史観では人間関係の内実が分からない。

 

 

下巻の感想

 

感想 20211020()

 

源頼朝を始めとする源家(源氏)は三代で絶滅した。その原因は身内を疑ったことであった。また頼朝だけでなく、北条氏も家系内の内紛が激しい。

 

覚えるだけ、アプリオリに皇室への敬意を表明、こんな歴史の授業はつまらない。

 

感想 両統(てつ)(りつ)025 北条氏のころの天皇にとって即位したいという願望は最大の関心事だったようだ。兄弟・親戚が皇位を争い、反目し合い、その解決を北条氏に依頼する。それはすでに権力の移転を物語る。そんなに位が欲しいのなら喧嘩していないで交替でやったらどうだいと北条氏に言われる。平和な時代だ。

 

感想 20211125()

 

 右翼は南朝が正統だと言うが、実際は力に負けて南にはいられなかったのではないか。南の天皇が京都に帰るのを「お許しになる」というのは、事実と食い違うのではないか。南の後亀山は北の後小松に譲位した。1392年のことである。

 

感想 2021124()

 

 理由や根拠もなく日本人は偉いという間違ったメッセージを生徒に送っているのではないか。例えば、

 

山田長政は元和1615-23のころ暹羅(しゃむ)に赴き、その地に在留していた日本人とともに、「その国王を助けて国難を救った」ことがあった。濱田(はまだ)彌平が寛永1624-43の初めに台湾に渡ってオランダ人を「懲らしめた。」102

 

感想 2021126()

 

 著者は「善政」「天下がよく治まった」などの表現を用いるが、それはいったい何を意味しているのだろうか。それを聞いて生徒はなるほどと納得するのだろうか。それでは内容に関して何でもあなた任せになる恐れがないか。次の表現を見ていただきたい。

 

将軍徳川家綱(4代将軍、在位1651-1680)が職に就いたときはまだ年少だったが、叔父の保科正之が輔け、「天下はよく治まった。」しかし大老酒井忠清が政治を執るようになると、政治が「乱れた。」110

 

次に徳川家綱の弟徳川綱吉(5代将軍、在位1680-1709)が第5代将軍となった。堀田正俊(まさとし)が大老を勤めて「善政」を施した。110

 

感想 20211217()

 

 大正末年、昭和初期のころの師範学校(教育学部)では、韓国併合に関して、「韓国皇帝から国を譲るから受け取ってほしいと言われたから、それを受け入れた」と教えられていた。この考え方が日本の今の右翼をはじめとする一般の日本人の考え方にも影響していて、それが日韓間の徴用工問題や慰安婦問題を永遠の未解決の問題としているのではないか。

 

 「明治4319108月、天皇は韓国皇帝の『譲り』を『受け』て韓国を併合し、その名を韓国から朝鮮に改めた。」中村孝也『新体国史』下巻179

 

感想 靖国の遊就館も対華21か条に触れていないが、本書でも触れていない。そしてその後の中国との条約(日中条約)締結が「平和のため」と称しているが、実際はそれはその後中国人の反発を招く条約だったと吉川弘文館『標準日本史年表』は指摘している。そして韓国に関しては、3・1万歳独立運動についての記述がない。それでは民衆の韓国観は歪曲されるだろう。

 

「大正41915年、わが国は膠州湾占領の後の時局を考え、『永く東洋の平和を安定ならしめようと思い』、5月、支那と、山東省に関する条約南満州・東部内蒙古に関する条約(日中条約。反日の原因となった。吉川弘文館『標準日本史年表』)を結んだ。」中村孝也『新体国史』下巻183

 

 

要旨

 

001 序言 本書は文部省が制定した各種中等学校の教授要目を参酌して編述した。その編述方針は以下の三つである。

(一)皇室中心主義 国民普通教育における国史教授の必要が近年ますます痛切に感じられるようになってきた。欧米諸国の文化を取り入れることに忙しかった過去五十余年の歳月を経て、今や国民的自覚が汪然として(深く広く)盛んになって来た。この自覚は我が国民生活が皇室を中心として発達してきた事実を知ることによって最も徹底できる。これが国史教育の任務である。

(二)文化主義 国民生活の表現は国民文化である。国民文化には経済と政治と思想とがある。本書は政治の方面を主とし、思想の方面を次にし、経済の方面は軽く扱った。また、情操の涵養に留意し、文学・美術の説明を多くした。

002 (三)自修主義

 

論述の方法

 

(1)口語体とした。

003 (2)挿画の解説、古人の文章・詩歌の引用など参考文を多く取り入れた。

(3)挿画を多くした。

 その他道徳、宗教、学問、芸術の傾向について触れた。

 

004 大正十五年十月 

 

005 薬師寺吉祥天画像 吉祥天(きちじょうてん)は北方毘沙門天王の居所である()曼陀城功徳華光園の中の金憧(ショウ)殿に止住(居住)し、福徳を恵み与える女神である。(女性で重祚した)48称徳天皇764-77046孝謙天皇749-758、父は聖武天皇)が神護景雲元年に詔を下し、吉祥天女法を修め、五穀の豊穣を祈念した。この吉祥天女画像は大和薬師寺のもので、天平時代末期の作と言われる国宝である。

 麻布(まふ)の上に描かれ、竪(縦)一尺七寸五分、横一尺五分。賦彩が鮮麗で、三日月の眉、ふくよかな顔(かんばせ)、嫣(エン、にこやかに笑う)然として微笑を含み、ちょっと身を斜めにし、左手に宝球を捧げ、右手を施与(せよ)の印の形にし、楚々(女性について、清らかで控えめ)とした風姿で、まさに蓮歩(金の蓮の花の上を歩いたという、美人のあでやかな歩み)をうつそうとすれば、春風が軽く天衣を吹き、優美艶麗、まことに古今に絶する。当時、吉祥天は女性美の典型として(かっ)迎されたのだろう。

 

 

上巻

 

第一編 上古 国の初めから蘇我氏の滅亡まで -紀元1305年(-645

 

 

第一章 神代 皇基の遼遠(はるかに遠いこと)

 

001 天照大神 伊弉諾尊伊弉冉尊という二柱の神が大八洲国(おおやしまのくに)を開いた。その子で女神の天照大神は徳が高く、太陽のように高天原を治め、人々を慈しんだ。

 

 参考 大八洲国は今の淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州などの総称である。

 

002 素戔嗚命は天照大神の弟で、勇ましくまた荒々しかった。天照大神はそれを嫌い、天の岩戸に隠れた。すると世の中は常闇となり、あらゆる禍が起こったので、八百萬(やおよろず)の神々は岩戸の前に集まり、舞楽を奏し、天照大神の心を和らげ、岩戸から出てもらい、素戔嗚命の罪を責め、高天原から追い払った。素戔嗚尊は出雲に行き、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、須賀宮をつくり、朝鮮と往来した。感想 出雲は大八洲国(高天原)の外か。

 

 参考 八百万の神々が天の岩戸の前で舞楽を奏する時、天香山(あめのおかぐやま)の真賢木(まさかき、真榊)を掘り起こし、その上の枝に玉祖命(たまのおやのみこと)が作った八阪瓊勾玉(やさかにのまがたま)をかけ、中の枝に石凝姥命(いしこりどめのみこと)が作った八咫鏡(やたのかがみ)をかけ、下の枝に、青和幣(あおにぎて)や白和幣(しらにぎて)をかけ、天太玉命(あめのふとだまのみこと)がその賢木をささげ持ち、天児屋根命(あめのこやねのみこと)が祝詞(のりと)を申し上げ、天鈿女命(あめのうずめのみこと)がを持って踊った。

 素戔嗚尊は八岐大蛇を退治する時、その尾から天叢雲劔(あめのむらくものつるぎ)を得て、これを天照大神に奉った。

 この八阪瓊勾玉と八咫鏡と叢雲劔を三種の神器と申し奉る。

 素戔嗚尊が須賀宮をつくるとき、美しい雲が立ち上った。素戔嗚尊はこれを見て次の歌を詠んだ。

 

八雲たつ出雲八重垣つまごみ*に

八重垣つくるその八重垣を

 

 これが三十一文字の歌の始めであると言われている。

 

*つまごみ、妻籠(つまごめ) 妻として籠(こも)らせること

 

003 大国主命と出雲国譲り 大国主命は素戔嗚尊の子であり、医薬の法を教え善政を施したので、多くの人民が懐いて従った。一方天照大神は自分の子孫(大国主命も自分の子孫ではないのか)にもっと広く天下を治めさせようとし、武甕槌神(たけみかづちのかみ、甕はかめ)と経津主神(ふつぬしのかみ)を出雲に派遣し、その出雲地方を(天照大神に)「奉る(献上する)」べきことを大国主命に諭した。大国主命はそれに従い、杵築宮(きづきのみや)に退いた。今の出雲大社は大国主命を祀った宮である。

 

004 図解 出雲大社本殿 出雲大社は出雲国簸川郡(ひかわぐん)杵築町(きつき)にある官幣大社*であり、その建築様式を大社造という。屋根に千木*や堅魚木*(かつなぎ)をいただく。

 

*官幣社 明治以降第二次大戦終結まで、宮内省から幣帛(へいはく)を捧げられた神社。大社、中社、小社、別格の四等級がある。皇室崇敬の神社や天皇、皇族、功臣を祀った神社が大部分である。

*千木 大棟の上に交差した木。

*堅魚木(かつおぎ) 棟上に横たえて並べた円柱状の装飾部材。天皇など高貴な人の住まいのシンボルとして用いられるようになったようだ。コトバンク

 

005 参考 武甕槌神(たけみかづちのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)はその後東国を平定した。前者を主として祀ったのが常陸の官幣大社鹿島神宮であり、後者を主として祀ったのが同じく常陸の香取神宮である。

 

天孫降臨 天照大神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に言った。

 

豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)は、私の子孫が君(主君)となるべき地である。お前(皇孫)が(そこに)行ってそれを治めよ。天つ日嗣(ひつぎ)*が栄えますことは、天地と共に極まりないだろう。」

 

*天つ日嗣 天つ神の位、系統を受け継ぐこと。皇位継承。

 

感想 豊葦原瑞穂国とは日向のことか。

 

また天照大神は八咫鏡を手に取って、「この鏡を見ること、尚われを見る如くせよ」と言い、叢雲劔(むらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)とともに八咫鏡を瓊瓊杵尊に授けた。

このように八咫鏡は天照大神の御霊代(みたましろ、神霊の代わりとしてまつるもの)としての鏡である。

瓊瓊杵尊は天児屋根命(あめのこやねのみこと)や天太玉命(あめのふとだまのみこと)、天忍日命(あめのおしひのみこと)を従えて日向に下った。

006 これからそ(瓊瓊杵尊)の子の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、その孫鸕鶲草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の三代が九州で続いた。以上を神代という。

 

参考 天児屋根命の子孫は中臣(なかとみ)氏となり、天太玉命の子孫は齋部氏(いむべし)となり、天忍日命の子孫は大伴氏となった。いずれも永く朝廷に仕えて忠節を尽くした。

感想 神話と現実の歴史とのこういう根拠のない関連づけを津田左右吉は批判している。

 

 皇基の遼遠 天照大神が瓊瓊杵尊に賜った神勅によって、万世動きのない帝国の基礎が定まり、歴代の天皇は三種の神器を承けつぎ、それを皇位の印とし、常に我らの祖先を慈しんだ。

我らの祖先は、子が親を慕うような純真な感情を以て心を尽くして皇室に仕え、君民が力を一つにして世界に類のない美しい国体を永遠に維持している。

 明治天皇御製

 

神代よりうけし宝をまもりにて

治め来にけり日の本つ国

 

神代系図

 

伊弉諾尊

     ├┬― 天照大神―(あめの)(おし)()(みみの)(みこと)―瓊瓊杵尊―彦火火出見尊―鸕鶲草葺不合尊―神武天皇

伊弉冉尊  ┘|

      └― 素戔嗚尊―大国主命――――――――――――――――――――――()(すず)(ひめの)(みこと)

 

 

第二章 神武天皇

 

007 神武天皇 神武天皇は鸕鶲草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の子であるが、東の方の国々に多くの悪者がいることを聞き、これを平定しようとし、兄の五瀬命(いつせのみこと)などとともに水軍を率いて日向を出発して北に進み、瀬戸内海に入り東に航海して浪速に着き、ここから大和に入ろうとした。

008 大和の平定 ところがこの時大和の登美(とみ)の長髄彦(ながすねひこ)は饒速日命(にぎはやひのみこと)を奉じ、神武天皇の軍を防いだ。そこで神武天皇は海を南にめぐって紀伊に上陸し、八咫烏(やたからす)や道臣命(みちのおみのみこと)などを先導として大和に入り、あちこちの賊を平定し、長髄彦(ながすねひこ)を討った。

 そのとき光彩が燦然とした金色の鵄(とび)が飛んできて、神武天皇の弓弭(ゆはず、ゆみはず、弓の両端の弦(つる)をかけるところ)に止まり、賊は目がくらんで散々に敗走した。(こんな嘘を誰が信じるか。これが歴史と言えるのか。神話ではないか。)

 饒速日命(にぎはやひのみこと)は長髄彦(ながすねひこ)に「順逆の道理」を諭したが、長髄彦が従わなかったので、神武天皇はこれを「誅」し、帰順させた。残りの賊も帰服し、神武天皇は大和地方を間もなく平定した。

 

 橿原神宮拝殿及び神殿(絵の解説) 橿原神宮は畝傍山の東南、古の橿原宮址に建てられたという。祭神は神武天皇と五十鈴媛命でおはします。官幣大社。

 

009 即位及び立后 神武天皇は大和の畝傍山の東南の橿原に宮を建て、即位の礼を挙げた。大国主命の末裔である五十鈴媛命を立てて皇后とした。(立后)この年は我が国の紀元元年である。

 

 参考 神武天皇の即位は紀元元年辛酉(かのととり)正月元日であり、西暦紀元前660年に当たる。明治5年、従来の太陰暦を廃して太陽暦を用い、その年の123日を明治611日とした。これによって推算し、神武天皇御即位の日を211日*とし、この日を紀元節として祝し奉ることになった。

 

*疑問 旧暦で1月1日は123日の28日後であるから、紀元節は211日ではなく、129日とならないのか。

 

 明治天皇御製

 

 橿原の遠つ御祖(みおや)の宮柱

   たてそめしより国は動かず

 

010 政治の組織 神武天皇は天種子命(あめのたねこのみこと)と天富命(あめのとみのみこと)に祭祀・政治を輔(たす)けさせ、道臣命可美真手命(うましまでのみこと)に朝廷の警衛を担当させ、地方に国造(くにのみやつこ)や縣主(あがたぬし)などを置き、その地の政治をさせた。この頃、神を祭ることは政治の主なことであった。これを祭政一致という。

 

祭祀 天児屋根命005(あめのこやねのみこと)…天種子命(あめのたねこのみこと)→中臣氏

天太玉命005(あめのふとだまのみこと)…天富命(あめのとみのみこと)→齋部氏

 

警衛 天忍日命005(あめのおしひのみこと)…道臣命→大伴氏

饒速日命008(にぎはやひのみこと)…可美真手命(うましまでのみこと)→物部氏

   これは一時は敵であった。

 

こういう神話と実在の人物とを結びつけることには根拠がないと津田左右吉は言っている。

 

 

第三章 崇神天皇 垂仁天皇

 

011 四道将軍 神武天皇から八代経た崇神(すじん)天皇は、神武天皇の心を受けつぎ、遠いところまで「土地を開こう」と思い、大彦命を北陸に、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)を東海に、吉備津彦命を西道(山陽道地方)に、丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)を丹波路(山陰道地方)に遣わした。これを四道将軍という。その中で東国(東海)地方は最も大切なところであったので、後に更に自分の子どもの豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を遣わした。

 民政 崇神天皇は諸国に池や溝などを開いて農業を助け、船を造り、人民の数を調べて租税を割り当て、男には弭調(ゆはずのみつぎ)、女には手末調(たなすえのみつぎ)を「奉らしめた。」(税金を出させた)

012 神器の奉遷 崇神天皇は三種の神器を宮中において祀るのは神威をけがすと考え、八咫鏡叢雲劔を大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に遷し奉り、皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に、これに仕え、天照大神を祀らせた。そして新たに鏡と劔を模造し、これを八阪瓊勾玉(やさかにのまがたま)と共に宮中に留めた。

 

 神器の再遷 崇神天皇の次の垂仁天皇はさらに鏡と劔を伊勢国五十鈴川のほとりに遷し、皇女倭姫命(やまとひめのみこと)にこれを祀らせた。この宮は天照大神を祭る皇大神宮であり、宇治の内宮という。

 

 明治天皇御製

 

  昔より流れたえせぬ五十鈴川なほ万代にすまんとぞ思ふ

  とこしへに民安かれと祈るなる我が世を守れ伊勢の大神

 

皇大神宮(絵の説明) 正殿(しょうでん、本殿)の建て方を神明造という。皇大神宮は二十年ごとに改造したてまつる定めである。今の神宮は明治42年の御造営である。

 

014 農業の奨励 垂仁天皇も多くの池や溝などを開き、農業を奨励した。

 

 殉死の禁 昔は貴い人を葬るとき、多くの従者をこれに殉死させる習慣があった。垂仁天皇はこのことをあはれに思し召し、かたく殉死を禁ぜられた。また野見宿禰(のみのすくね)の意見を取り入れ、土で人や馬などの形をつくり、これを墓の周りに輪のように立てならべて殉死の者に代えさせた。これを埴輪という。今でも古代の墓から埴輪の円筒、土偶(土の人形)、鳥、馬などを始め、刀剣、鏡、金環、勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、丸玉、切子玉(きりこだま、立方体の角を切り取った形)や土器などを掘り出す。

015 上古の風俗 古墳などから掘り出される埴輪やその他の遺物から考えると、上古の風俗は簡素であった。(こうぞ)などの皮で織った筒袖の上着を着け、下半身に男は褌(はかま)をはき、女は裳(も)をまとって勾玉や管玉などをつなぎ合わせて首飾りや腕飾りとした。そして男は髪を左右に分けて「みづら」に結い、女は髷(まげ)を結んだり、束(つか)ねて(たばねて)下げ髪にし、肩に領布(ひれ)をかけた。

食器には素焼きの土器や木の葉を用い、米、粟、稗(ひえ)などの穀物や野菜、海草、魚肉、獣肉などを食物とした。家は木造で、地を掘って柱を建てて藤・葛(かつら)などで結び、茅などで屋根を葺いた。

 

参考 天地根元造(てんちこんげんつくり)は最も幼稚な建築様式である。地上に二本の柱を建て、木の棟木を架け、その結び目に各二本ずつ斜めに丸太を立てかけ、縄でからげる。そこで左右両側の斜面に縦横に数本の細い木を結びつけ、その上に茅などを当てがい、これにからげる。また棟木へ更に風押さえの短い横木(後の竪魚木(かつおぎ))を据え、その左右両端から縄を下げて第一の横木に結びつける。

側面の入口の他の部分は薦(こも、むしろ)などを垂れて、風雨を除(よ)ける。中央の二本の柱を延長して屋根を持ち上げ、左右の軒にもそれぞれ二本の柱を立てて屋根を支え、床を張り、床下を高くし、出入り口に階段をつくれば住宅らしくなる。

 

016 皇室系図

 

一、神武天皇 ― 二、綏(スイ、やすい)靖天皇 ― 三、安寧天皇 ― 四、懿(イ、よい)徳天皇 ― 五、孝昭天皇 ― 六、孝安天皇 ― 七、孝靈(リョウ、レイ)天皇 

┬ 八、孝元天皇 ―――――┬ 九、開化天皇 ―┬ 十、崇神天皇 ―┬ 十一、垂仁天皇

└―― 吉備津彦命(西道)  |          |         └― 豊城入彦命(東海)

         └ □ ―――――――― 丹波道主命(丹波)

└ 大彦命(北陸) ― (たけ)(ぬな)(かわ)(わけ)命(東海)

 

発掘品

 

陶棺 岡山県美作(みまさか)国英田郡平福村より発掘したもの。岡山県立博物館所蔵。

 

 

第四章 日本武尊

 

017 熊襲と蝦夷 九州の南の方に住む熊襲(くまそ)と東国一帯に「はびこっている」蝦夷(えぞ)は、崇神天皇に従わなかった。景行天皇は、これをみそなわして(ご覧になって)自ら九州へ下り、熊襲を抑えた。また武内宿祢(すくね)を東国に遣わし、蝦夷の様子を探らせた。蝦夷は今のアイヌと同じ種族である。(アイヌ蔑視が見え隠れする)

018 参考 景行天皇の瀬戸内海での行路は明らかでない。九州の豊国の東海岸を南に下り、日向高屋宮にいらせられ、そこから熊襲の地を経て、八代から船で北上し、また陸路で阿蘇地方に入って一巡して、元のところに帰ったようだ。

 

 日本武尊の西征 ところがその後程なく熊襲がまた叛いた。(景行)天皇は子供の小碓(おうす)命に命じて、これを討たせた。小碓命はその時まだ16歳だったが、知勇がすぐれ、女の装いをして賊の酋長川上梟帥(かわかみのたける)の家に紛れ込み、これを刺した。川上梟帥は驚き恐れ、日本武(やまとたける)尊という名を奉って死んだ。熊襲はこの時から少し穏やかになった。

 日本武尊の東征 (景行)天皇は日本武尊の武勇を頼もしく思い、今度は蝦夷を平定するように命じた。日本武尊は先ず伊勢に赴き、皇大神宮に参拝し、叔母の倭姫(やまとひめ)命から叢雲劔を授かり、駿河に行った。そこで日本武尊は賊の火攻めに会ったが、その神劔を抜き放ち、辺りの草を薙ぎ払い、逆に賊を焼き滅ぼした。その時からこの劔を草薙劔(くさなぎのつるぎ)というようになった。日本武尊はさらに進んで相模から走水(はしりみず、横須賀)へ行き、そこで海を渡って、上総(かずさ)に向かった。

020 その時暴風雨が急に吹き起こり、大浪が船を転覆させるほどだった。妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)は日本武尊の命に代わろうと祈念し、逆巻く波間に御身を投ぜられた。

 日本武尊は幸いにも無事に上総に着き、さらに海路を北に進み、竹水門(たけのみなと、本書地図では水戸の辺りか。https://nihonsinwa.comでは仙台や塩釜とも。)から上陸し、遠く日高見国(ひだかみのくに)まで分け入り、ことごとく蝦夷を征服した。そこから帰途に就き、陸路を南に下り、常陸、甲斐、信濃などを経て、尾張の熱田に出て、草薙劔をここに残し、近江に入り、伊吹山の賊を討った。日本武尊はそこで病気になり、都に帰ろうとして伊勢の能褒野(のぼの)に至り、そこでお薨(かく)れあそばされた。日本武尊の残した劔をお祀りしたのが、今の熱田神宮である。

 

参考 弟橘媛(おとたちばなひめ)は穂積忍山宿祢(ほづみのおしやまのすくね)の女(むすめ)である。御身を海に投ぜられんとしたときの御歌

 

 さねさし相模(さがむ)の小野に燃ゆる火の

火中(ほなか)にたちてとひし君はも

 

その後七日を経て御櫛が海辺に漂い着いた。その御櫛を納めて御陵(おはか)をつくった。日本武尊は後、足柄の坂に上り、東の方を顧み、「吾妻(あづま)はや」とお嘆きあそばされた。

甲斐の酒折宮(さかおりのみや)にいらせられたとき、日本武尊が

 

 新治(にいばり)・筑波を過ぎて幾夜か寝つる。

 

とお歌いになると、御火焚翁(みひたきのおきな)が

 

 かがなべて、夜には九夜(ここのよ)、日には十日を

 

とお付けした。

 

日本武尊は能褒野(のぼの)で御病気の時、大和の故郷を思われ、多くの歌をお詠みになった。

 

大和は国のまほろは畳なづく、青垣山、大和し、愛(うる)はし。

命の全(また)けむ人は、畳みこも、平群(へぐり)の山の隠樫(かくまかし)が

葉を、髻華(うず*)に挿せ、その子。

愛(は)しけやし、我家(わぎへ)のかたよ、雲い立ちくも。

 

*髻華(うず) 上代、冠や髪にさして飾りとした花木の枝葉や造花。かんざし。

 

 熱田神宮 官幣大社。名古屋市内にある。主神は叢雲劔を祀りたてまつり、天照大神、素戔嗚尊、日本武尊等を配しまいらせてある。

 

022 景行天皇の御東巡 景行天皇は日本武尊がお薨(かく)れになったのを嘆き、後に東国を巡り、日本武尊の功業のあとをご覧になった。また後に豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の曽孫御諸別王(みもろわけおう)を下し、東国を治めさせた。

 地方の政治 景行天皇の次に成務天皇が立ち、山河の形成によって国・県を分け、国造県主を置き、村に稲置をおき、地方の政治を整えた。

 

皇室系図 二

 

        ┌――― 豊城入彦命 ――― □ ――――――― □ ―――― 御諸別王

        ├――― 豊鍬入姫命

一〇、崇神天皇 ┴ 一一、垂仁天皇 ┬ 一二、景行天皇 ┬ 一三、成務天皇

                  └――  倭姫命  └―― 日本武尊 ― 一四、仲哀天皇

                       013, 019(やまとひめのみこと)

 

 

第五章 三韓・任那及び三国 神功皇后 文化の伝来

 

023 古朝鮮と三韓 昔、朝鮮半島の北の方から遼東にかけて、古朝鮮という国があった。また朝鮮半島の南には馬韓・弁韓・辰韓が西岸から東岸にかけてあった。これを三韓という。三韓は神代から日本と往来し合っていた。

 三国と任那 その後、古朝鮮は支那のに滅ぼされ、その郡となり、次いで辰韓の地に新羅の国が興り、しばらくして半島の北の方に高句麗(高麗、こま)の国が興り、馬韓は滅び、その地に百済の国が興った。これを三国という。しかし、我が国ではこれを三国と言わないで、昔の儘に三韓と呼んでいた。

024 弁韓の地方は多くの部落に分かれていたが、その中で大加羅(おおから)という部落は新羅に迫られ、崇神天皇の末年に使いを我が国に送って助けを求めた。崇神天皇は将を遣わし、その地を「鎮めさせた。」また垂仁天皇はこれに任那という国号を授けた。後世、我が国は任那に日本府を置き、その地方を治めさせた。

025 神功皇后の新羅征伐 (景行・成務の二代を経た)仲哀天皇のとき、熊襲がまた叛いた。仲哀天皇は皇后息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)と共に九州に下り、筑紫の橿日宮(かしひのみや)にあらせられて熊襲を討ったが、平定できないうちに陣中で死んでしまった。皇后は熊襲が従わないのは新羅を頼みとしているからだとし、大臣武内宿祢(おおおみたけうちのすくね)と相談し、別軍を遣わして熊襲を討たせ、皇后自身は水軍を率いて新羅の都に押し寄せた。

新羅王は一戦も交えずに降伏し、(うそ)長い間貢物を奉ると誓った。その後熊襲も背かず、百済も我が国に従い、高句麗も貢物を奉るようになった。皇后はその後応神天皇を産み、永い間政治を摂した。後世その功業を仰ぎ尊び、神功皇后という。

 

026 学問の伝来 朝鮮半島の諸国が相次いで服属してから、学問・工芸などが多く伝来した。先ず学問では、(一)応神天皇のとき、百済から阿直岐(あちき)が我が国に来て、(二)ついで博士王仁(わに)が来て、論語千字文を献上した。わが国に漢学が伝わったのはこれが初めてである。(三)その後支那の人阿知使主(あちのおみ)が多くの部民を連れて、朝鮮の西北部から我が国に帰化した。

王仁の子孫を西文氏(かわちのふみうち)と言い、阿知使主の子孫を東文氏(やまとのふみうち)と言う。共に永く朝廷に仕え、記録のことを掌った。また儒教も漸く行われるようになった。

 工芸の伝来 (一)支那の人弓月君(ゆづきのきみ)も多くの部民を連れて百済から我が国に帰化し、織物の業を伝えた。その子孫を秦氏(はたうじ)という。秦氏は永く朝廷に仕えて絹織物を掌った。(二)その他に、朝鮮から機織、裁縫、鍛冶(かぬち)、醸造などの工人が引き続いて渡来し、(三)応神天皇も使を南支那の地方にまで遣わし、機織・裁縫の工女を求めた。

 

絵と写真 神功皇后御木像と香椎宮 この神功皇后御木像は大和国薬師寺境内八幡宮に安置してあったもので、応神天皇、仲姫命と三体そろっており、平安時代初期の作である。

香椎宮は福岡市の東方の古の橿日宮の址にある。官幣大社で、祭神は、仲哀天皇と神功皇后である。

 

第六章 仁徳天皇

 

027 仁徳天皇の御仁慈 応神天皇の死後、その子の仁徳天皇が即位した。仁徳天皇は、初めて都を難波に奠(さだ)めた。また池を掘り、堤を築き、橋を架け、道を開いた。

或る時仁徳天皇は高台に登り、民の竈(かまど)から立ち上る煙が少ないのを見て、その貧しさを思いやり、三年間租税を免除した。後にまた高台に上り、今度は煙が盛んに起こるのを見て悦び、更に三年間租税を免除した。人民は仁徳天皇の御徳を慕いまいらせて、よく業を励み、国は富み、民は豊かになった。(作文)

 

 高どのに登りて見ればあめの下

  四方に烟りて今ぞ富みぬる  藤原時平

 

028 武内宿祢(017景行、025仲哀、神功皇后)とその子孫 仁徳天皇の皇后磐之媛(いわのひめ)は、竹内宿祢の孫で、(仁徳後の)履中(りちゅう)反正(はんしょう)(いん)(ぎょう)各天皇の生母である。兄弟が即位することはこの時から始まった。

竹内宿祢は景行天皇の時から数代にわたって朝廷に仕え、神功皇后を助け、新羅を征した。その子孫の蘇我氏、平群氏(へぐりし)、葛城氏(かつらぎし)は大臣(おおおみ)となり、大連(おおむらじ)の物部氏、大伴氏などとともに朝廷の政治に預かった。

 

 絵 仁徳天皇陵 仁徳天皇御陵は大阪府堺市の東方にあり、総面積が14万坪あり、歴代の山陵の中で最も壮大なものである。

 

029 竹内宿祢とその子孫

             ┌ 葛城()()(ひこ)―磐之媛

()元天皇―□―□―竹内宿祢┼―()(ぐり)木莬(づく)

             └ 蘇我石川―□―□―□―稲目(いなめ)―馬子―蝦夷(えみし)―入鹿

 

 

物部氏系図

 

可美真手命 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(あら)鹿()()

                       └ ・・・・・・・・()輿(こし) ―――― 守屋(もりや)

大伴氏系図

 

道臣命 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 金村

 

 

第七章 雄略天皇 朝鮮半島の変遷

 

029 雄略天皇 (仁徳・履中・反正・允恭・安康の後の二十一代)雄略天皇は、農蚕の神である豊受(とゆけ)大神を丹波から伊勢に迎え、皇大神宮の近くに祀った。これを山田の外宮という。また朝鮮から陶工・画工などを招き、使いを南支那に遣わし、機織・裁縫の工女を招いた。諸国からの「貢品」が多くなり、雄略天皇は大蔵(おおくら)を建ててこれを納め、蘇我氏にこれをつかさどらせた。

030 皇后の淑徳 雄略天皇の皇后は仁徳天皇の皇女で、草香幡梭(くさかのはたひ)といい、養蚕を自ら行い、その業を盛んにした。

 

031 参考 雄略天皇が葛城(かつらぎ)山に狩猟に行かれた時、一頭の猪が怒り狂って突進してきた。舎人(侍従)は逃げた。天皇は猪を仕留め、舎人を誅しようとしたが、皇后はこれを諌めた。天皇は舎人を許し、「人は狩りに行って禽獣を取るが、自分は善言を得た」と言った。

 

継体天皇 雄略・清寧・顕宗(けんそう)(にん)(けん)・武烈天皇の次の26代継体天皇は、15代応神天皇の五世の孫である。武烈天皇に皇子がいなかったので、継体が位を継いだ。

 

朝鮮半島の動揺 百済はよく我が国に従っていたが、高句麗は礼を失うことが多く、新羅はたびたび背き、百済や任那を苦しめた。

031 日本府にいる我が鎮将で叛く者がいた。継体天皇のとき、大連(おおむらじ)大伴金村(おおとものかなむら)が任那の地の一部を百済に与えたため、任那の人から怨まれ、大伴氏はこの頃から次第に衰えた。

 

(いわ)()の叛 新羅の勢力が盛んになり、任那を攻めた。日本の朝廷は軍を出して新羅を討たせた。筑紫(つくしの)国造(くにのみやつこ)(いわ)()は新羅と示し合わせ、その(日本)軍を遮った。大連物部(おおむらじもののべのあら)鹿()()は命令を受け、磐井を攻め滅ぼした。それから物部氏の勢いが盛んになった。

 

参考 磐井は生前に広大な墳墓をつくり、周囲に多くの石人を並べた。

 

032 任那の滅亡 その後、継体・安閑・宣化天皇の次の29代欽明天皇のとき、新羅が百済を攻めてその王を殺し、また任那も攻めて日本府を倒した。その後我が国は日本府を取り返そうとしたが、成功しなかった。我が将調伊企儺(つきのいきな)は捕らえられ、新羅王を罵って殺され、その妻大葉子(だいはこ)も捕らえられた。

 

 韓国(からくに)()()に立ちて大葉子は頒布(ふれ)振らすも日本(やまと)へ向きて

 

皇室系図 三

                                  23、顕宗天皇

 17、履中天皇 ― □ ┴ 24、仁賢天皇 ― 25、武烈天皇

14、仲哀天皇 - 15、応神天皇 ┬ 16、仁徳天皇 ┼ 18、反正天皇

              |       ├ 19、允恭天皇 ┬ 20、安康天皇

|       |       └ 21、雄略天皇 – 22、清寧天皇

                           |       └ 草香幡梭姫(030雄略天皇の皇后)

                           ├ 莵道稚郎子                        ┌ 27、安閑天皇

                           └ □ –---- -------------– -------– – 26、継体天皇 ┼ 28、宣化天皇

                                            └ 29、欽明天皇

 

第八章 仏教の伝来

 

034 仏教の伝来 仏教は2400年前にインドの釈迦牟(しゃかむ)()が開いた。後に支那に入り、また朝鮮に入り、26代継体天皇のときに支那人司馬(しば)(たつ)()が初めて仏教を我が国に持ってきて、これを礼拝した。しかし、そのころ、我が国人はまだこの教えを信じなかった。

29欽明天皇13年、552、百済の(せい)明王(めいおう)が仏像や経論(きょうろん)などを献じてその功徳を述べ伝えた。欽明天皇は群臣に仏教を拝すべきかどうかを諮ったところ、可否の論が大いに起こった。

 蘇我稲目と物部尾輿との争い このころ葛城氏、平群(へぐり)氏、大伴氏028はすでに衰え、大臣(おおおみ)()(がの)稲目(いなめ)大連(おおむらじ)物部(もののべの)()輿(こし)とが互いに争っていた。稲目は「外国で拝しているものだから、我らも拝する方が宜しい」と言い、尾輿は中臣(なかとみの)鎌子(かまこ)とともにこれに反対し、「我が国には昔から多くの神々があるのだから、このようなものを拝するのは宜しくない」と言い、互いに譲らなかった。そこで天皇は仏像を稲目に賜い、独りで礼拝させた。稲目は悦んで自分の家を寺とし、これを祀った。しかしその時たまたま悪疫が流行し、尾輿などは「これは神のお怒りのためだ」と申し上げ、その寺を焼き仏像を捨てた。

 

036 蘇我馬子と物部守屋との争い 

 欽明天皇の次の()(だつ)天皇の時も、大臣(おおおみ)は稲目の子の馬子であり、大連(おおむらじ)()輿(こし)の子の守屋(もりや)であり、それぞれが父の志を継いで烈しく争った。ところが敏達天皇の次の用明天皇の子の厩戸皇子は深く仏教を信じ、馬子と親しかったため、馬子は力を得て、用明天皇の死後、厩戸皇子とともに守屋を攻め亡ぼし、用明天皇の次に崇峻天皇を立てた。以後、物部氏は衰え、蘇我氏だけが勢いを振るうようになった。

 

皇室系図 四

 

       30、敏達天皇 -------- ------------- 34、舒明天皇 – 38、天智天皇

29、欽明天皇 ┼ 31、用明天皇 聖徳太子 山背大兄王  └ □ ┬ 35、皇極天皇・37、齊明天皇(女帝、皇極重祚*)

32、崇峻天皇                 36、孝徳天皇

       └ 33、推古天皇(女帝)

 

 

第九章 聖徳太子

 

037 聖徳太子の摂政

 

 崇峻天皇の次の推古天皇は、敏達天皇の皇后の炊屋媛(かしぎやひめ)であり、わが国初めての女帝である。厩戸皇子が(その)皇太子となって政を摂し、天皇を助けた。厩戸皇子(聖徳太子)は(一)制度を整え、(二)支那との交易を開き、(三)仏教を盛んにし、(四)学問美術をおこした。

 

 制度の制定 聖徳太子は冠位十二階を定め、諸臣の等級を整え、憲法十七条をつくって臣民に心得を教え、初めて暦を用いさせた。

 参考 冠位十二階は、大徳冠、少徳冠、大仁冠、小仁冠、大礼冠、小礼冠、大信冠、小信冠、大義冠、小義冠、大智冠、小智冠である。これを諸臣に授けて上下の区別を明らかにした。(身分制)冠位に徳仁礼信義智の名目(みょうもく)をつけたことからみて、聖徳太子が儒教を尊重したことがわかる。

038 憲法十七条は道徳上の訓えであり、「一、和を以て貴しとなし、(さから)うことなきを宗とせよ。二、篤く三宝(仏教)を敬え。三、詔を承けては必ず謹め。四、群臣百官は礼を以て本とせよ。…九、信はこれ義の本なり。事ごとに信あるべし。十、忿(いかり)を絶ち、人の違うを怒ること勿れ。…十七、大事は独り断ずべからず。必ず衆と共に論ずべし。」

 

支那との交通 この頃支那は隋の時代であった。推古天皇は即位十五年607年に小野妹子を隋に遣わし、「対等の」礼を以て国書を送り、初めて両国の交通が開かれた。翌年妹子が帰国するとき、隋の使いも初めて我が国に来たが、その使いが帰っていくとき、妹子は、南淵請安(みなぶちのしょうあん)高向玄理(たかむこのくろまろ)、僧(みん)などの留学生8人を連れて再び隋に行った。

隋は間もなく亡び唐がこれに代わると、舒明天皇犬上(いぬかみの)御田鍬(みたすき)などを唐に遣わし、初めて唐との国交を開いた。こうして支那の学問・芸術が朝鮮半島を経ずに直に我が国に入り、日本の政治・風俗などに影響を及ぼし、日本の国運の進歩を助けた。

 

039 参考 聖徳太子が最初隋の煬帝に贈った国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」とあり、二度目に贈った国書には、「東天皇(つつし)しんで西皇帝に(もう)す」とあった。聖徳太子が我が国の尊厳を示そうとした意気が「紙面に躍るのを覚える。」

 

聖徳太子及び二王子画像 この図は法隆寺に伝えられたもので、中央が聖徳太子、左が山背大兄王(やましろのおおえおう)、右が()(ぐり)(おう)であるという。冠、服制、服色、笏などから考えると40天武天皇(在位673686、舒明天皇の第3皇子。母は皇極(斉明)天皇。)のころに描かれたものらしい。わが国最古の肖像画である。

 

仏教の興隆 聖徳太子は篤く仏教を信じ、摂津(大阪・兵庫)の四天王寺、大和の法隆寺などを建て、仏像をつくり、自ら経文を講じ、熱心にその教えを広めた。そして推古天皇の末年に、寺院数が46、僧尼が1300人に達した。

040 美術・学問の進歩 仏工の鞍作(くらつくりの)(とり)や画工の僧(どん)(ちょう)など、海外から多数の寺工、瓦工、仏工、画工などが来日し、建築、彫刻、鋳金(ちゅうきん)、絵画、刺繍などの美術工芸が進歩した。また百済から天文・地理などの書物が伝わった。聖徳太子は蘇我馬子とともに国史を編纂した。

聖徳太子の薨去 聖徳太子は30年間摂政を勤め、推古天皇より先に死んだ。「人々はその徳を慕い、父母を失ったように嘆き悲しんだ。」

 

法隆寺西院全景

 法隆寺は推古天皇と聖徳太子が、用明天皇や歴代の天皇のために発願造営したものである。西院と東院とがある。西院は南大門から入り、中門、金堂、五重塔、講堂、歩廊がその主要部である。金堂と東歩廊とは側廊で連結されている。歩廊の中に金堂と五重塔を左右に配置することは他の時代に類例がない。わが国最古の木像建築物である。この図の向かって左方は中門、その右は五重塔、その右は金堂、その右は講堂、中門から出て、五重塔と金堂を囲み、講堂に連なるのが歩廊である。背景は生駒山である。法隆寺の中には多数の彫刻、絵画、工芸品を蔵す。

 

玉虫厨子及びその台座の絵

 

玉虫厨子は法隆寺の金堂の中にあり、推古天皇の厨子(仏像や舎利(仏陀の遺骨)、経巻などを納置するもの)である。

宮殿風の構造で屋根の棟の両端に()()(魚の尾の形)がある。玉虫の羽が金銅(すかし)(ぼり)唐草(からくさ)金具の下に伏せてあった。漆で全体を塗ってある。

宮殿の扉の三面とその後壁の一面、そして台座((しゅ)()座)の四面に、密()僧の絵が描かれている。密陀僧は鉱物質の絵の具で描かれ、厨子の絵の配色は青、赤、黄である。宮殿の扉に菩薩の立像、その後壁に多宝塔が描かれている。

台座正面に舎利供養の図がある。舎利とは仏または聖者の遺骨を言う。釈迦()()の遺骨は八王*に分たれ、八王は八つの塔をつくって之を収めたと伝えられている。

 

*二万の日月灯明仏の中の最後の日月灯明仏がもうけた八人の王子。

 

台座の右正面に大般(だいはん)涅槃経(ねはんぎょう)(しょう)行品(ぎょうぼん)施身聞偈(せしんもんげ)の図がある。(その図の意味はこうである。)帝釈天が恐ろしげな羅刹(らさつ)(らせつ、悪鬼)の姿になって竹林に下り、諸行無常・是生(ぜしょう)滅法(めつぽう)という()(仏の徳を褒め称えた韻文)を高らかに唱えた。たまたま巌下の苦行者がこれを聞いて心に大歓喜を生じ、「自分の肉身を餌食として施すから、後の半偈を聞かせてください」と熱心に懇願し、羅刹から生滅滅(しょうめつめつ)()寂滅(じゃくめつ)()(らく)という偈を説き示され、大いに喜んで巌壁などにこれを書き残し、高い巌上から身を躍らせて竹林の中に墜落すると、羅刹は忽然としてもとの帝釈天の姿にもどり、双手を伸べて苦行者を支え、柔らかに地上に置くという物語である。

 台座の右正面に金光明最勝王経巻十、捨身品(しゃしんぼん)第二十六の捨身(しゃしん)()()の図がある。(その図の内容はこうである。)昔ある国に大車(たいしゃ)王という大王がいた。夫人との間に三人の王子がいた。ある日三王子は父王に従って山に遊びに行ったが、三王子だけは一行から別れて大竹林に分け入った。たまたま一頭の虎が七児を産み、餓死しようとするのを見て、第三の王子摩訶薩(まかさつた)は大慈悲心を起こし、ひそかに二人の兄と別れてその林の中に引き返し、傍らの巌上に登り、衣服を脱いで樹木の枝に懸け、翻然(ほんぜん)身を躍らせて墜下(ついか)し、餓虎の餌食になったという物語である。

 

 

第十章 蘇我氏の滅亡

 

041 蘇我蝦夷(えみし)の専横 聖徳太子の死後しばらくして蘇我馬子も死に、またしばらくして推古天皇も死んだ。そこで蘇我馬子の子の蘇我蝦夷は舒明天皇を立て、次いで女帝皇極天皇を立て、恣に勢いを振るった。

 蘇我入鹿の無道 蘇我蝦夷の子の蘇我入鹿の無道は父よりも甚だしく、聖徳太子の子山背大兄(やましろおおえ)が温厚で徳望が高いのを恐れ、山背大兄王を害してそ(聖徳太子)の一族を滅ぼした。蘇我入鹿は自分の家を宮門(みかど)といい、自分の子を王子と言い、衣服や出入(訪問)などを天皇になぞらえた。

042 蘇我氏の滅亡 舒明天皇の子中大兄(なかのおおえ)皇子中臣鎌足と交わり、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)について共に学び、蘇我氏を討つ謀をめぐらし、皇極天皇4年、645年の夏、大極殿で不意に入鹿を誅し、また蝦夷も誅した。蘇我氏の本家は滅亡した。蘇我蝦夷が誅せられたとき、聖徳太子が編纂した国史のほとんどが焼失した。

 

 

第二編 中古 大化の改新から平氏の滅亡まで 645年から1185年まで

 

第一期 大化の改新から奈良時代の終わりまで(約140年間)

 

第一章 大化の改新

 

大化の改新 蘇我氏父子(蘇我蝦夷・蘇我入鹿)が誅せられた後、36孝徳天皇が、その姉である35代皇極天皇から位を譲られた。孝徳天皇は中大兄皇子を立てて皇太子とし、中臣鎌足を内臣に任じ、左大臣・右大臣を置き、大化という年号を建て、高向玄理(たかむこのくろまろ)(みん)(くに)博士(はかせ)とした。

 新政の大要 大化2年、646年正月、孝徳天皇は改新の(みことのり)を発し、これまで皇族や(おみ)(むらじ)国造(くにのみやつこ)(あがた)(ぬし)などが所有していた土地と人民を収めて公地・公民とし班田収受の法を行い、租・庸・調の税法を定めた。

044 班田収授の法とは、6歳以上の男女に一定の土地を(わか)ち授けてそれを耕作させ、その人が死ねば、これを収める制度である。その土地を口分田といった。また租とは田地の収穫の中からその一部を納めることであり、庸とは力役(りょくえき)の代わりとして米や布などを納めることであり、調とは織物その他の産物を納めることであった。そして中央政府に八省、百官を置き、家柄に関わらず才能のある人を用いることとし、地方では、国、郡の区画を定め、国司、郡司を置き、これを治めさせた。これらの新政は隋や唐の制度を考え合わせて定めた。

 

 改新の詔が発せられてから間もなく、皇太子中大兄皇子は「天に二つの日はなく、国に二人の君はいらせられぬ。故に、天下を保ち、人民を使うべきものは、ただ天皇がおはしますばかりである」と言い、自分が所有していた土地や人民を朝廷に返上して模範を示した。

 

第二章 蝦夷の服属 朝鮮半島の放棄

 

齊明天皇 36代孝徳天皇が死に、女帝の35代皇極天皇が37代齊明天皇として再び位についた。(重祚)中大兄皇子は元の通り皇太子として政治を助けた。この齊明天皇の代に蝦夷が服属し、朝鮮半島が我が国の支配から離れた。

 

阿倍比羅夫の北征 蝦夷は日本武尊の東征後たびたび背いて辺境を騒がし、特に日本海の沿岸に住んでいる(こし)蝦夷(えぞ)はまだ「天皇のお恵み」に浴していなかったから、孝徳天皇は、その地方に()(たり)(沼垂)(いわ)(ふね)の二つの柵を設けた。また齊明天皇のとき、阿倍比羅夫(あべのひらふ)は水軍を率いてさらに北に進み、(あき)()(秋田)、渟代(ぬしろ)(能代)、津軽などの地方を定め、渡島(わたりじま)の蝦夷をも平らげ、(しゅく)(しん)(ミシハセ)をも討った。粛慎はこのころ満洲地方に住んでいた種族である。

046 百済、高句麗の滅亡 朝鮮半島では新羅の勢力がますます盛んになり、と力を合わせて百済を攻め亡ぼそうとした。齊明天皇は皇太子(中大兄皇子)を従えて、筑紫の朝倉宮に行き、百済を救おうとしたが、行宮(あんぐう)で病死した。皇太子はその志を受けついだが、遣わした水軍が唐と戦い「利を失い、」百済は全く亡び663*、その後5年を経て、高句麗も唐に滅ぼされた。668

 

*白村江の戦い663.10 はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかい

 

朝鮮半島の放棄 皇太子(中大兄皇子)は百済が亡びた後わが軍を引き上げ、九州北辺の守を厳しくしていたが、唐から使いが来たのでこれと(よしみ)を修め、それ以来専ら内治に力を用いた。

 参考 朝鮮半島は神功皇后(14代仲哀天皇の后025)の時200から400余年間我が国に服属していたが、この時、我が支配を離れた。明治天皇の韓国併合によって全く帝国の領土となった。

新羅の統一 高句麗が亡びた668後、唐は平壌に安東(あんとう)()護府(ごふ)を置いてその地方を治めたが、まもなく新羅は平壌を取り、ほぼ半島を統一した。

 

第三章 律令の撰定

 

048 天智天皇 中大兄皇子は齊明天皇の死後も久しく九州に止まったが、やがて東に帰って位につき、近江の大津宮にいらせられた。(天智天皇)天智天皇は学校を起こし、戸籍を調べ、中臣鎌足に命じて令(近江朝廷の令)を撰ばせた。令とは官制やその他の政治上の規則である。

 

049 参考 中臣鎌足は大化改新の時から天智天皇(中大兄皇子)を助け、天皇は鎌足に大織冠という最高の位を授け、藤原の氏を賜った。大和()(ふの)(みね)談山(だんさん)神社は鎌足を祭った社である。後世藤原氏は大いに繁栄した。

 

律令撰修の沿革 40天武天皇の時、「近江朝廷の令」を修補し、新たに「(きよ)見原(みはら)朝廷の令」をつくった。42文武(もんむ)天皇のとき、忍壁(おさかべ)親王と中臣鎌足の子藤原不比等(ふひと)に命じて、またこれを修補させ、大寶元年701年、大宝律令が出来上がった。律とは刑法である。さらに44元正(げんしょう)天皇(女帝)の養老年間にこれを修正して、律十巻令十巻としたが、大体は大寶年間のものと異なっていない。

 

052 大寶令の大要の一 官制は中央政府に神祇官があり祭祀を司り、太政官は政治を司る。太政官には、太政大臣、左大臣、右大臣、大納言などの官がある。太政官の下に、中務(なかつかさ)、式部、治部、民部、兵部(ひょうぶ)(ぎょう)部、大蔵、宮内の八省がある。地方には国に国司、郡に郡司があり、九州には特に大宰府を置いた。すべてこれらの官庁には長官(かみ)次官(すけ)判官(じょう)()(かん)の四部官があり、長官は政を()べ、次官はこれを補け、判官は官庁内を取り締まり、主典は記録を司った。

 

大寶令の大要の二 学制は京都に大学があり、諸国に国学があり、官吏を養成した。

051 兵制は京都に衛府(えふ)があり、諸国に軍団があり、辺要の地には防人(さきもり)を設けた。すべて徴兵であり、男子は21歳から60歳までを正丁(せいてい)とし、その三分の一を取った。位階は親王(天皇の兄弟や皇子)が一(ほん)から四品までの四階、王(男子で、親王の宣下がなく姓を賜らなかった天皇の子や孫)は正一位から従五位までの十四階、諸臣は正一位から()()までの三十階であった。

大寶律の規定 大寶律によれば、刑罰は()(むち)、(じょう)(つえ)、()(労役)、()、死の五等であり、君父に対する罪が最も重かった。

 律令は永く我が国の政治の大本となり、大寶令の中の官制は様々な変遷を経ながら明治18年の官制大改革のときまでその形式を維持した。

 

第四章 奈良奠都(てんと) 西南諸島及び隼人の服属

 

元明天皇(女帝) 42代の文武天皇が死んだとき、その皇子が幼少であったため、天皇の母(げん)(みょう)天皇が位についた。

051 この代の初めに武蔵国から和銅を献上したので、年号を和銅と改め、和銅開珎(かいほう)という銭を鋳造させた。

 

図解 和銅開珎が出た後で平安時代の半ばころまでの約二百数十年間に、多くの銅銭が鋳造された。本朝十二銭とは次の十二種類の銅銭をいう。和銅開珎、萬年通宝、神功開宝、隆平永宝、富壽神宝、承和昌宝、長年大宝、(じょう)益神宝、貞観永宝、寛平大宝、延喜通宝、乾元(けんげん)大寶である。

 

奈良奠都 和銅3710年、元明天皇は奈良に都を(さだ)めた。(平城京)これ以前は代が改まるごとに大抵は皇居を移していて、その規模は小さかったが、大化の改新以後は政務がしげくなり、支那との交通も次第に盛んになり、ついに唐の国都に倣って、壮大な都を営むようになった。これから約七代70余年間、代々の天皇がこの奈良にいたので、この間を奈良時代という。

 西南諸島の服属 これより先、33代推古天皇の時代593から、九州の西南にある掖玖(やく)(屋久島)、(たね)種子島(あま)()(大島)、度感(とく)(徳之島)などの人々が次第に来て服属し、43代元明天皇707の時に、信學(しがき)(石垣島)、()()(久米)などの人々もまた来朝したから、西南諸島はたいていわが国に服属することとなった。

054 隼人の服属 次の44代元正天皇715の時、大伴旅人は詔を奉じて隼人を討ち平らげた。隼人は薩摩、大隅やその付近に住んでいた種族で、これまでにたびたび叛いていた。

 

第五章 聖武天皇 光明皇后

 

聖武天皇 44元正天皇(女帝)の次に、42文武天皇の子の45聖武天皇が即位した。聖武天皇は仏教を信じ、国ごとに僧と尼との両国分寺を建てさせ、奈良の都に東大寺を建て、金銅の廬舎那仏(るしゃなぶつ)を安置した。天皇は後に出家した。

 

 参考 国分寺の僧寺は金光明四天王護国寺といい、尼寺は法華滅罪之寺といった。東大寺は国分寺であり、その西大門に金光明四天王護国之寺という聖武天皇の勅額が掲げてあった。聖武天皇の発願で僧良辨(りょうべん)(かい)(さん)(初めて寺を開いた僧)となり、僧行基が資材を勧進し、僧菩提遷那が本尊廬舎那仏の開眼(かいげん)師となった。この四人を東大寺の四聖という。

 東大寺は南大門、中門、金堂、講堂、鐘楼、経蔵、東西塔の七堂伽藍をもつ。多くの建物がこれを廻っていたが、数回火災に会った。金堂つまり大仏殿は治承41180年、平重衡の兵火と、永禄101567松永秀久の兵火に会い、現在のものは元禄・宝永のころ、僧公慶が再建したものである。その規模は初めのものより少し小さい。

 奈良の大仏は10年を費やして出来上がった。現在の大仏は二回の火災で損傷を受けたものを修理したものである。

056 光明皇后 聖武天皇の皇后を光明皇后という。名は安宿媛(あすかひめ)という。藤原不比等の女(娘)である。昔から皇后はたいてい皇族の中から選ばれる習わしであったが、藤原氏は、鎌足・不比等の父子が朝廷のために功労をたてたから、この時その家から皇后を出し、皇室の外戚となった。

 光明皇后も仏教を信じ、悲田院()薬院などを設けて孤児や貧民などを救い、天皇を助け、仏教を盛んにした。

 

057 参考 光明皇后は藤原不比等の第三女である。このページに掲げる筆跡は、東大寺境内正倉院御物である光明皇后御筆(がく)毅論(きろん)に見える自署である。天平16年、皇后が44歳の時のものである。

皇后の生母を橘三千代という。三千代は(あがたの)犬養連(いぬかいのむらじ)東人(あずまびと)の女で、初め、30代敏達天皇の曽孫である()()に嫁ぎ、葛城王などを生み、美努王の死後、藤原不比等に再婚し、安宿媛を生んだ。

三千代は43代元明、44代元正、45代聖武の数朝に仕えた。

元明天皇の時、橘という氏を賜ったが、聖武天皇の時、その子の葛城王は、自ら請うて臣籍に下り、諸兄(もろえ)と改め、聖武天皇の後半期に左大臣となった。

葛城王が弟佐為王と共に橘氏を賜ったとき、元正天皇は次の歌を下した。

 

 橘は実さえ花さえその葉さえ

  枝に霜降れどいや常葉(とこは)の樹

 

058 皇室系図 五

 

34、舒明天皇 ┬ 38、天智天皇 ┬ 39、弘文天皇

│       ├ ・41、持統天皇(女帝)

│       ├ ・43、元明天皇(女帝)

│       └ □ ────── 49、光仁天皇 ─ 50、桓武天皇

│             ┌・ 44、元正天皇(女帝)

40、天武天皇 ┬ 草壁皇子┴42、文武天皇─45、聖武天皇─46、孝謙天皇・48、称徳天皇(重祚、女帝)

└ 舎人親王 ─ 47、淳仁天皇

 

35、皇極天皇(37、齊明天皇、重祚)、36、孝徳天皇は36ページを参照。舒明天皇の姪や甥のようだ。

 

 

第六章 奈良時代の文化

 

仏教の隆盛 奈良時代に、三論宗、(じょう)(じつ)宗、法相(ほうそう)宗、俱舎宗、華厳宗、律宗などの宗派があった。(奈良六宗)仏教は身分の高い人々の間で主として修められ、寺院は殆ど都市やその付近に建てられた。一方、行基は諸国をめぐり、寺を建て、教えを説き、田を開き、路を通じ、上下に尊信された。また、玄昉(げんぼう)のように僧侶の分に背き政治に介入した者もいた。

059 国史及び地誌の撰修 奈良時代は仏教だけでなく、学問や芸術も大いに進んだ。これより先40代天武天皇672は、古い言い伝えを舎人(とねり)稗田阿礼(ひえだのあれ)()ませ、43代元明天皇のとき707太安麻侶(おおのやすまろ)は稗田阿礼の誦むところによって古事記712をつくった。

また元明天皇は諸国に命じて古い伝説、物産、風俗などを記した風土記713を「奉らしめた。」この二つは今日残っている我が国の歴史や地誌の中で最も古いものである。

ついで元正天皇は舎人親王と太安万侶に命じて漢文で日本書紀720を撰ばせた。これを初めとしてこの後の天皇は勅を下して、しばしば国史を修めしめ、ついに六国史*を成すに至った。

 

*六国史とは日本書紀720続日本(しょくにほん)()797、日本(こう)()840(しょく)日本後紀869(もん)(とく)実録879、三代実録901をいう。いずれも勅撰の歴史である。

 

060 文学の発達 奈良時代は支那との交通が盛んで漢文学も発達した。漢文学では吉備真備(きびのまきび)阿倍仲麻呂が唐に留学し、吉備真備は帰朝後右大臣に上り、阿倍仲麻呂は唐に用いられ、そこで没した。

和歌では41代持統・42代文武両天皇のころ、柿本人麻呂がいたが、奈良時代(43代元明天皇以降)には山部赤人、山上憶良、大伴家持などがいた。万葉集はこれらの人々の歌をはじめ4500余首を集めている。

 

参考 阿倍仲麻呂は帰朝しようとして明州という港に至り、友人と別離の宴を催したとき、故郷の空を見て、

 

 天の原ふりさけ見れば春日なる

  三笠の山に出でし月かも

 

と詠んだ。しかし海上暴風に会い、安南に漂着して余儀なく唐に帰り、その朝廷に仕えてそこで没した。

 

061 万葉集は二十巻からなり、16代仁徳天皇の代(日本国語大辞典では34代舒明天皇629)から47代淳仁天皇の代759までの和歌4516首を収めている。このころはまだ仮名文字が発達していなかったから、漢字の音と訓を混ぜて記してある。その歌の二、三を以下に挙げる。

 

ひむがしの野に陽炎(かぎろい)のたつ見えて、顧みすれば月傾きぬ 柿本人麻呂

富士の()を高み(かしこ)み天雲もいゆき憚りたなびくものを 山部赤人

しろがねも黄金(こがね)も玉も何せむに優れる宝子にしかめやも 山上憶良

大伴の遠つ神祖(かむおや)(おく)(つき)(しる)くしめ立て人の知るべく 大伴家持

世の中を何に喩へむ朝開(あさびら)き漕ぎにし船の跡なきがごとし (しゃ)()満誓(まんせい)

 

これは仏教の思想の影響を受けたものである。

 

062 美術工芸 美術工芸は仏教が盛んになるにつれて大いに進歩した。寺院の建築、仏像の彫刻、鋳金(鋳造)、絵画、刺繍、漆器などである。美術史ではこの頃を天平時代という。東大寺の境内にある正倉院は、45代聖武天皇の遺物やその時代の美術工芸品を納めている。

 

参考 正倉院は東大寺の北の方にある。校倉という三(りょう)(かど)の木材を井桁に積み重ね、床下は九尺(1尺は30センチ)あり湿気を防ぐ。勅封の宝庫である。創建(そうこん)からこのかた一千余年間無事に今日まで伝わっている。その中には聖武天皇の遺物を始め、仏具、武器、楽器、鏡など三千余点が収められている。

 

正倉院及び御物

 

この図の下方は正倉院の建物の全景であり、上方は、琵琶、花皿、円鏡、()(がく)面(伎楽とはインド・チベットに起こり、推古天皇のとき612日本に伝わった舞楽。(くれ)(がく)とも。)、屏風画の樹下美人の図である。樹下美人の図の屏風は「鳥毛立女の屏風」と言われ、六枚折一双に六人の美人がそれぞれ樹下に立っている姿を描いている。もともと頭髪と衣服は鳥の羽毛を押して装飾されていたが、現在ではその羽毛は殆ど剥落し、頭と衣服は略筆の下画(したえ)が顕れている。顔面には彩色(さいしき)があるが、樹木や岩石は初めから墨絵だったようだ。

 

063 風俗 文化が進むにつれて風俗はしだいに華やかになった。衣服はもとは筒袖で裾が短く左衽(ひだりえり)(襟)のものが多かったようだが、この頃から袖が広く裾の長いものを右衽に着るようになった。家屋ももとは草葺や板屋が多かったが、(あお)瓦で屋根を葺き、赤い絵の具で柱を塗ったものを見るようになった。

 

参考 いつの世でも文化は都会から地方に及ぶものである。奈良時代でも都は繁栄して、

 

 あおによし奈良の都は咲く花の匂うがごとく今さかりなり

 

と謳われたほどだったが、地方では

 

 家にあれば()に盛る(いい)を草まくら旅にしあれば椎の葉に盛る。

 

と不便であった。地方を旅行する都の人は

 

 (こし)の海の手結(てゆい)の浦を旅にして見れば乏しみ大和偲びつ

 

とそぞろに望郷の思いに堪えなかったようだ。

 

 

第七章 和気清麻呂

 

064 藤原仲麻呂 45代聖武天皇の次は、その皇女46孝謙天皇が即位した。孝謙天皇は、藤原不比等(ふひと)051の孫である藤原仲麻呂の勧めによって、位を47(じゅん)(にん)天皇に譲ったが、政治は引き続き担当した。藤原仲麻呂は(淳仁天皇から)恵美押(えみおし)(かつ)という氏名を賜り、太師の官に任ぜられ、その勢いは一時盛んであったが、後に僧道鏡が用いられるようになった。藤原仲麻呂はこれを憎んで兵を挙げ、道鏡を除こうとしたが、却って誅せられた。(孝謙)上皇は淳仁天皇を廃して淡路に(うつ)し、自ら即位した。(48代称徳天皇)

065 和気清麻呂の忠節 僧道鏡はさらに重く用いられるようになり、太政(だいじょう)大臣禅師(ぜんじ)となり、法王の位を賜った。

たまたま道鏡に(へつら)う者がいて、彼は宇佐八幡(神宮)のお告げと称して、「道鏡に皇位をお譲りになるならば、天下はますます太平になるでありましょう」と(称徳天皇に)申し上げた。称徳天皇は初め和気清麻呂の姉和気広虫を宇佐に遣わして改めて神教を請わさせようとしたが、女性(にょしょう)の身ではるばる九州まで下ることは不憫であると考え、その弟和気清麻呂に代わりに行かせた。ところが和気清麻呂はやがて帰京して称徳天皇の御前で「我が国では開闢以来君臣の分が定まっている。天つ日嗣(ひつぎ)には必ず(こう)(しょ)(天子の血統)を立てよ。無道(ぶどう)のものは早く除くべきである。これが神教でございました。」と奏上した。僧道鏡は大いに怒り、和気清麻呂を大隅に流し、また姉広虫を備後に流した。

 

066 参考 和気広虫は法名を(ほう)(きん)()という。彼女は飢饉の時に捨子を拾って養ったり、藤原仲麻呂の争乱のときには、死刑に当てられた人々の罪を軽くしていただきたいとお願いしたりした。

 

067 (こう)(にん)天皇 48代称徳天皇が死に、藤原百川(ももかわ)が、38代天智天皇の孫の49代光仁天皇を迎えた。光仁天皇は即位前に道鏡を斥け、下野に(うつ)し、和気清麻呂と和気広虫を召し返し、即位後に前代の弊政を改めた。

 光仁天皇の代に初めて天皇の誕生日を天長節として群臣に宴を賜った。

 

藤原氏系図 一

 

┌(南家)武知麻呂 ─ 仲麻呂

├(北家)房前(ふささき) ─ □ ─ □ ─ 冬嗣

├(式家)宇合(うあかい) ─ 百川

藤原鎌足 - 不比等 ┼(京家)麻呂

├ 宮子媛(文武天皇夫人)

└ 安宿媛(聖武天皇皇后、光明皇后)

 

 

第二期 桓武天皇より平氏の滅亡まで(凡そ四百年間)

 

第八章 平安奠都 蝦夷の鎮定 渤海の入貢

 

068 桓武天皇 49代光仁天皇の次に50代桓武天皇が即位した。桓武天皇は都を平安京に(さだ)め、蝦夷を征伐した。

 平安奠都 桓武天皇は平城京から山城の長岡京に(うつ)った後、和気清麻呂の意見を採用し、延暦13年、794年、京都に都を奠め、これを平安京と称した。

069 歴代の天皇は明治の初めまでの1070余年間大抵この都にいた。初めの400年間を平安時代という。

 

図解 平安京の構えは平城京より大きく、正北に大内裏があり、朱雀大路が都の中央を北から南に通じて左京と右京を分け、朱雀大路の南端に羅生門がある。また東西に一条から九条までの大路があり、一条を四坊に、一坊を四保に、一保を四町に分けて区画した。一町の面積は方40丈(1丈は3メートル)であった。

070 大内裏には四方に十四の門があり、その門の名前は、上東門、上西門、陽明門、(いん)()門、(たい)(けん)門、藻壁(そうへき)門、(いく)(ほう)門、(だつ)()門、皇嘉門、談天(だつてん)門、美福門、安嘉門、朱雀門、偉鑒(いかん)門といった。皇居は中央より少し東北に位置し、諸官省はその周囲を廻っていた。

 

 蝦夷の鎮定 蝦夷は上代からしばしば征服されたが、朝廷の命に従わないものがまだ多く、45代聖武天皇は陸奥に多賀城を築き、出羽に秋田城を築いて蝦夷を討ったが成功しなかった。桓武天皇は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍にして蝦夷を征伐させ、陸中に膽沢(いざわ)城を築いた。その後、52代嵯峨天皇の時に、文屋(ふむやの)綿(わた)麻呂(まろ)が蝦夷を平定し、膽沢城に鎮守府将軍を置き東北を治めさせた。

 

 渤海の入貢 これより先満洲の一部に渤海が起こり698、聖武天皇の時代724-749に我が国に使いを送り、その後たびたび入貢した。日本も渤海に使者を遣わし、桓武天皇の時代781-806に、渤海が入貢する時期を定めた。渤海との交通は60代醍醐天皇のころ897-930まで続いた。

 

072 参考 新羅は唐の力を借りて百済を滅ぼした(663年、白村江の戦い046)が、我が国を憚って、天智天皇の時661-671から使いを日本に遣わし、貢物を奉り、その後も引き続き来朝した。ところが聖武天皇のころ724-749から、漸く「礼を失う」ようになった。淳仁天皇758-764は諸国に令を出して水軍を向けようとしたが、果たせなかった。それから年月が経ち、新羅はいつとはなしに日本に使いを送らないようになり、その政治が乱れ、朱雀天皇930-946のときに亡び935、高麗国がこれに代わり半島を統一936した。

 

 

第九章 仏教及び漢文学

 

073 嵯峨天皇 桓武天皇の後にその子の51平城(へいぜい)天皇、52代嵯峨天皇、53淳和(じゅんな)天皇の兄弟が次々に即位した。嵯峨天皇の時、宮中にはじめて蔵人(くろうど)を置き、機密文書を扱わせ、検非違使(けびいし)を置いて警察や裁判に当たらせた。その後蔵人や検非違使の権力が次第に大きくなった。

074 参考 嵯峨天皇の皇后は橘氏から出た。名を()()子という。仏教を信じ、檀林寺を建てたので檀林皇后という。

 

 天台宗と真言宗 最澄は近江の人で桓武天皇の時781-806比叡山に延暦寺を始めた。その後唐に行き、帰って天台宗を広めた805。後、伝教大師の号を賜った。

 空海は讃岐の人で、最澄と同じころ唐に行き、帰って真言宗を広め806、嵯峨天皇の時809-823、紀伊の高野山に金剛峯寺を開いた。後、弘法大師の号を賜った。空海は広く学問・技芸に通じ、書画・詩文を良くし、農業を奨めて民利を興した。この二宗派を奈良六宗058に加えて平安八宗という。

 

075 神仏混合の思想 これより先神仏混合の考えは既にあったが、平安時代になってから、神仏はもともと一体であり、インドの仏が日本に(あと)を垂れれば、神として現れるという思想が次第に発達し、後世、本地(ほんじ)垂迹(すいじゃく)の説*を大成し、仏教をますます敬神の国風と融合させた。

 

*本地である仏・菩薩が、衆生を救うために、仮に垂迹としての神や偉人となってこの世に現れるという説。

 

漢文学 平安時代の初めの代々の天皇は学問を好み、漢文学は盛んになり、小野篁(おののたかむら)、菅原(これ)(よし)(みやこの)由香(よしか)などの名家が現れた。

076 嵯峨天皇は詩文では小野篁と才を競い、書では僧空海や橘逸勢(はやなり)と並び三筆と称せられた。

 

私学校 官立の大学の他に貴族等が各々私学校を設け、一族の子弟を教育する風習が盛んに起こった。和気氏の弘文院、藤原氏の勧学院、在原氏の奨学院、橘氏の学館院などがある。僧空海も(しゅ)(げい)種智院を建て、庶民を教育した。

 

 

第十章 摂政関白

 

077 摂政 53代淳和天皇の後に54(にん)(みょう)天皇、55(もん)(とく)天皇が即位した。文徳天皇の母は、藤原不比等の四代後の藤原冬嗣の女(娘)順子である。順子は仁明天皇の女御。藤原冬嗣の子の良房は太政大臣に任ぜられた。人臣で太政大臣に任ぜられたのはこれが初めてであった。次いで文徳天皇の子56代清和天皇が9歳で即位した。清和天皇の母は藤原良房の女(娘)明子(あきらけいこ)である。明子は55代文徳天皇の妻=女御。藤原良房はやがて摂政になった。人臣で摂政になったのは藤原良房が初めてであった。

078 明子は染殿の(きさき)という。良房があるとき宮中に上がったとき、明子女御の前の花瓶に桜の花がさしてあったのを見て、

 

 年ふれば(よわい)は老いぬしかはあれど花をし見れば物思いもなし

 

と詠んで悦んだ。

 

皇室系図 六

 

51平城天皇

50桓武天皇      52嵯峨天皇─54仁明天皇┬55文徳天皇─56清和天皇─57陽成天皇

53淳和天皇             

58光孝天皇--59宇多天皇--60醍醐天皇┬61朱雀天皇

62村上天皇

関白 56代清和天皇の子57(よう)(ぜい)天皇が病気になり、藤原良房の養子の藤原基経(もとつね)は、58(こう)(こう)天皇を迎えて即位させた。光孝天皇の子59代宇多天皇は詔を下し、万機の政治を藤原基経に(あずか)(もう)さしめた。関白という名はこれから始まった。

 

076 「従三位大納言兼左近衛大将陸奥出羽按察使藤原朝臣基経

 

この書は56代清和天皇の(じょう)(がん)14年の貞観寺地目録帳の末に藤原基経が自署したものである。この書の中でとは位が相当の官より低いものをいい、とは位が相当の官より高いものをいう。

 

 藤原氏の繁栄 これより後、藤原氏は天皇が幼少の間は摂政となり、成人後は関白となることを常とし、その一門の人々で朝廷の主な官職を占めるようになった。皇族名門の人々でも藤原氏に縁のないものは良い地位を得ることが難しくなった。

 

藤原氏系図 二

 

┌ □--------------------------------------------------純友

├基経(良房の養子)----------------┬時平

藤原房前--二代略--冬嗣--┬長良--┴高子(清和の女御、陽成の母)    ├忠平

├良房――明子(文徳の女御、清和の母)   ├温子(宇多の女御)

├良門  一代略  胤子(たねこ)(宇多の女御、醍醐の母)└穏子(醍醐の皇后、朱雀・村上の母)

└順子(仁明の女御、文徳の母)

 

第十一章 菅原道真

 

080 宇多天皇 59代宇多天皇は藤原基経の勢いがあまりに盛んなのを安からず思っていたので、藤原基経が死ぬと、関白を置かず、自ら政治を執り行った。そして菅原道真を重用して藤原氏の勢いを抑えようとした。ついで宇多天皇は位を自分の子の60代醍醐天皇に譲り、髪を下ろして宇多法皇となった。

 菅原道真 菅原道真は野見宿祢(のみのすくね)の子孫で、学問徳行共に秀でた人で、60代醍醐天皇の初めに右大臣に任ぜられ、藤原基経の子左大臣藤原時平と並んで朝廷にたち、宇多法皇の信任を受けた。

081 藤原時平はこれを(ねた)み、一味のものと謀り、道真が醍醐天皇を廃して(とき)()親王を立てようとしていると讒言(告げ口)した。道真は大宰権帥(だざいのごんのそつ)(おと)され、筑紫に(うつ)された。宇多法王は驚いて救おうとしたができなかった。延喜元年901年のことである。

 大宰府の道真 菅原道真は大宰府で怨むこともなく怒ることもなく謹慎し、みだりに門外に出ず、三年間わびしい月日を過ごしてから死んだ。59歳だった。後に道真に罪がなかったことが明らかになり、醍醐天皇はその本官(右大臣)を復し、66一条天皇はさらに正一位太政大臣を贈った。

 

 参考 菅原道真は菅原(これ)(よし)の子で、幼少の時から聡明であった。15歳で元服したとき、母は我が子の前途を祝福し、

 

 ひさかたの月の桂(柱?)も折るばかり家の風をも吹かせてしがな

 

と詠んだ。その母の願いのように道真は学徳が世に秀でるようになったが、筑紫に遷されようとする時、宇多法皇の同情を望み、

 

 流れゆくわれは水屑(みくず)となりぬるとも君しがらみとなりてとどめよ

 

と訴え、いよいよ(やしき)を出るとき、日頃愛していた庭前の梅に別れを惜しんで、

 

 東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな

 

と詠じ、大宰府にいては一室に閉じこもり、

 

 都府楼(わずか)に瓦色を看る 観音寺只鐘声を聴く

 

083 あめの下かわけるほどのなければや着てしぬれ衣ひるよしもなき

 

と嘆いたこともあるが、人を怨むことはなかった。流されたその年の秋も()けた(たけなわになった)910日、去年の今夜清涼殿で催された御宴に侍して作った詩が天皇の御感に入り、かたじけなくも御衣を拝領したことを思い出し、

 

 去年の今夜清涼に侍す 秋思の詩篇独腸を断つ

 恩賜の御衣今ここに在り 捧げ持ちて毎日余香を拝す

 

と詠じ、天皇の優渥(懇ろで手厚いこと)なることを拝謝し奉った。

 

本書81頁に掲げた図は、京都北野神社所蔵北野天神根本縁起という絵巻物の一部であり、道真が恩賜の御衣を拝し、硯箱を側において詩を賦するのを見て、座上の客人や庭上の従者が感涙に(むせ)んでいる有様を描いたものである。後世、道真の学徳を慕うあまり、これを神に祀り、天満大自在天神といって崇拝している。なおこの絵巻物は鎌倉時代のはじめ藤原信実が描いたものと伝えられている。

 

084 延喜の御世 醍醐天皇は厳寒の夜、御衣を脱いで貧しい民の苦しみに同情を寄せた。このころ和漢の学者が多く出て、文学が進んだ。この御世を延喜の御世という。

 

第十二章 地方の情勢

 

 地方の情勢 延喜901-921のころ、都は太平だったが地方は乱れ、大化の改新の時に定められた班田収授の法はいつとはなしに(すた)れ、国司の支配を受けない荘園という私有地が次第に多くなった。国司は人民から重い税を取り立てて自分の利益をはかり、人民はその土地に安ずることができずに諸方に流浪し、盗賊が横行した。地方の豪族は私兵を養って自らを(まも)った。

085 武家の起こり これより先50代桓武天皇781-806のころから皇族のものに氏を賜り臣下の列に加えることが多く行われた。桓武天皇の曽孫高望(たかもち)から出た平氏56代清和天皇の孫経基(つねもと)から出た源氏はその主なものであった。それらや藤原氏の一門の中で、都では容易に立身出世できない人々で地方に下って国司などになり、そのままその地に土着して広い土地を所有し、多くの兵を養う者が多かった。(武士の起こり)

 平将門(まさかど)・藤原純友(すみとも)の乱 61代朱雀天皇930-946の時、平将門検非違使(けびいし)073になりたかったが聞かれず、怒って東国に下り、承平5年、935年、伯父(くに)()を殺し、天慶(てんぎょう)2年、939年、下総に偽宮を建てて朝廷に背いた。これと同じころ(さきの)伊予(いよの)(じょう)藤原純友(すみとも)も海賊を引き連れて瀬戸内海を荒らしまわった。

086 朝廷は東西の争乱に驚き、天慶3年、940年、藤原(ただ)(ぶみ)に命じて平将門を討たせようとしたが、その軍が至る前に、平貞盛藤原秀郷(ひでさと)と兵を合わせて、平将門を滅ぼした。次いで同天慶4年、941年、経基(つねもと)小野好古(よしふる)を助け、命を奉じて藤原純友を平らげた。(承平天慶の乱)

 源平二氏の勃興 その後、平貞盛源経基などは功績によってしだいに立身し、特に源経基の子の満仲(みつなか)やその子の頼光・頼信は藤原氏のために働き、源氏が先ず世に現れた。

 

皇室系図 七

 

61朱雀天皇

60醍醐天皇            63冷泉天皇 ┬ 65花山天皇

62村上天皇┤            67三条天皇 -- 小一条院

64円融天皇--66一条天皇 ┬ 68後一条天皇

69後朱雀天皇 ┬ 70後冷泉天皇

71後三条天皇

平氏系図 一

 

┌ 国香--貞盛

桓武天皇--葛原親王--高見王--平高望 ┼ □ -- 将門

└ □ -- -- 忠常

 

藤原氏系図 三

 

┌長良--  --    -- 純友

┌ □ ----冬嗣┴良房--基経 ┬-時平

藤原房前┤              │

└魚名---- -- -- 秀郷 └ 忠平

 

源氏系図 一

 

┌ 頼光 ------------- 頼政

清和天皇--貞純親王--源経基--満仲 ┤

└ 頼信--頼義┬義家

└義光

 

 

第十三章 平安時代の文化 藤原道長

 

088 国文学 平安時代初めの約100年間は漢文学が盛んであったが、宇多天皇の時、菅原道真の意見により、遣唐使を止めたため、漢学は次第に衰えた。片仮名やひらがなが漸く行われ、国文学が発達した。和歌では56代清和天皇858-876のころに在原業平がいて、延喜901-921のころに紀貫之がいた。紀貫之は、土佐日記を著し、また(おおし)河内躬(こうちのみ)(つね)らとともに、60代醍醐天皇897-930の勅を奉じて古今和歌集905を撰んだ。

 

 参考 片仮名は漢字の(へん)(つくり)を略し取って、音標文字にしたことから起こり、奈良時代にすでに用いられていた。平仮名は漢字の草体(草書体)を取って音標文字としたことから起こり、平安時代に入ってから広く行われるようになった。平仮名が行われるようになったことは、和文や和歌の進歩を助け、先ず竹取物語、伊勢物語などが出た。

089 在原業平50代桓武天皇の孫であり、在原氏を賜って臣下の列に入った。伊勢物語は業平のことを書いたものだと伝えられる。業平はかつて身の不遇を歎じて

 

 月やあらぬ春やむかしの春ならぬ

   わが身一つはもとの身にして

 

と詠じた。

 紀貫之は和歌や書が巧みで、その土佐日記は(自らが)土佐守の任期が満ちて京都に帰る途中の有様を書いたものである。婦人の作らしくし「男もすなる日記(にき)というものを、女もして見んとてするなり」と書き出している。貫之の歌を一つ上げると、

 

 川風の涼しくもあるか打寄する浪と共にや秋はたつらむ

 

凡河内躬恒の歌も古今和歌集の中に収めてある。

 

 090 ほととぎす我れとはなしに卯*の花のうき世のなかを鳴きわたるらむ

 

空木(うつぎ) エゴノキのような花木

 

古今和歌集は勅撰和歌集の初めのものであり、二十巻からなる。この後室町時代までに勅撰の和歌集が二十集できたので、総称して二十一代集という。

 

文官の礼装089 冠、垂纓(すいえい)(冠の後ろに垂れているもの)、(ほう)(衣服)、(しゃく)(くつ)(きょ)(足の後ろにずっているもの)

 

藤原道長966-1028 藤原氏は道長の時に栄華の頂に達した。道長は66代一条、67代三条、68代後一条の三天皇に仕え、30年間政治を担当した。68代後一条、69代後朱雀、70代後冷泉の各天皇は道長の女の所生である。

 

参考 藤原道長は幼少のころから胆略(大胆・知略)があり、才智が秀でていて、後に太政大臣となった。晩年に剃髪して壮麗な(ほう)成寺(しょうじ)を営んでここに移り住んだので、道長のことを御堂(みどう)関白という。かつて(むすめ)威子(いし)(たけこ)が入内(じゅだい)して後一条天皇の皇后となった*とき、道長は

 

 この世をばわが世とぞ思ふもち月の()けたることもなしと思へば

 

と歌って満悦の情をあらわした。*近親結婚

 

 以下も道長の歌である。

 

 曇なき鑑とみがく池の面にうつれる影の恥ずかしきかな

 故郷をいでにし後は月影ぞ昔も見きと思ひやらるる

 

091 藤原氏系図 四

 

┌公任

┌ 実頼 -- 頼忠┤

│       └遵子(64代円融の中宮)                   ┌ 伊周

│   ┌ 伊尹--懐子(冷泉の女御、花山の母)┌ 道隆 ----------------------┼ 隆家

│   ├ 兼通--媓子(円融の皇后)     ├ 道兼              └ 定子

   │   │                  │               (一条の皇后)

   │   │                  │                   ┌ (養女)嫄子

   │   │                  │                   │(後朱雀の中宮)

忠平 ┼ 師輔 ┼ 兼家------------------------------┼ 道長 -----------------------┬ 頼道 ┴ 寛子

│   │                  │               │   (後冷泉の皇后)

│   ├安子(村上の皇后、冷泉・円融の母) ├ 超子(冷泉の女御、三条の母)├ 頼宗

│   └怤子(冷泉の女御)         └ 詮子(円融の女御、一条の母)├ 能信--(養女)茂子*

│                   (*後三条東宮のときの妃、白河の母)│

└ 師尹--濟時--娀子(三条の皇后)                      ├ 教通┬ 生子

     │(後朱雀の女御)

├ 長家└歓子(後冷泉の皇后)

├ 彰子(一条の中宮、

     後一条・後朱雀の母)

├ 妍子(三条の中宮)

├ 威子(後一条の中宮)

├ 嬉子(後朱雀東宮の時の妃、

│  後冷泉の母)

└ 寛子(小一条院の妃)

 

この系図で見ただけでも冷泉天皇には女御が三人もいる。一条天皇にも皇后と中宮とがいる。

 

092 才媛の輩出 藤原道長966-1028のころ、文学が盛んで、66代一条天皇の中宮上東門院彰子(あきこ)(藤原氏)に仕えた紫式部と、一条天皇の皇后定子に仕えた清少納言がいる。紫式部は藤原為時の娘で、清少納言は清原元輔(もとすけ)の娘である。その他に和泉式部、小式部内侍、赤染衛門、伊勢大輔などもいる。

093 源氏物語絵詞「鈴虫」 益田孝氏所蔵 料紙は金泥、(きり)(はく)などで装飾され、雁や子草であしらわれている。

094 参考 枕草子の「春は曙…」

 

和歌

 暗きより暗きみちにぞ入りぬべき遥かに照らせ山の()の月 和泉式部

 大江山いく野の道のとほければまだふみも見ず天のはしだて 小式部内侍(和泉式部の子)

 紫の袖をつらねてきたるかな春くることはこれぞうれしき 赤染衛門(女性)

 いにしへの奈良の都の八重ざくらけふ九重に匂ひぬるかな 伊勢大輔(女性、いせのたいふ、いせのおおすけ)

 

095 美術工芸 美術工芸は「日本風」で優麗となった。絵画では百済(くだらの)(かわ)(なり)巨勢(こせの)金岡(かなおか)などがいる。書では小野道風(おののみちかぜ)、藤原行成、藤原(すけ)(まさ)などがいて、この三人は書道の三蹟と称せられる。建築では道長が建てた法成寺、道長の子頼道が造った宇治の平等院などがある。平等院の鳳凰堂の仏像は定朝(じょうちょう)(仏師)の作であると言われ、堂内の壁画は宅磨(たくま)(ため)(なり)の筆と伝えられる。その他織物、蒔絵などがある。

 

平等院鳳凰堂

 

建物は本殿、翼廊、尾廊からなる。本殿は方三間で、周囲に一間の裳層(しょうそう)がある。翼廊は本殿の左右に5間延び、さらに前方に2間曲折する。尾廊は本殿の後方に7間延びる。全体の形が鳥が翼を張り、尾を延ばしているようである。立面は、本殿は重層、屋根は入母屋造、裳階の屋根は正面の中央を破って一段高くしてある。

本殿は一段高い石段の上に建てられ、四方は壁と扉で囲まれている。翼廊は平地に建てられ、柱ばかりの吹き抜けになっている。屋根は全て本瓦葺。本殿の大棟の両端に銅鳳が載せてある。

本殿の内部は低い板張りの床の中央一間を仏壇とし、その上に定朝の傑作である丈(3メートル)六の金銅阿弥陀如来の座像がある。その衣文(えもん)(衣服のひだ)は流暢である。光背は唐草の(すかし)(ぼり)で、頭上の天蓋は、軒は唐草模様の透彫、()れは木彫で宝相(ほうそう)()の透彫である。

本殿の天井は折上(おりあげ)組入天井である。小壁には雲中供養の二十五菩薩がかけ列ねられている。柱、長押(なげし)(ぬき)(水平の柱)、組物(くみもの)などに宝相花や菩薩が一面に描かれ、四方の壁、扉にも、宅磨為成の筆と伝えられる浄土、菩薩、天人、山水が描かれている。

 

096 貴族の奢侈 当時の貴族は奢侈に流れ、政治に勤めず、車に乗って朝の花を訪ね、船を浮かべて夕方の月を楽しみ、詩歌・管弦・歌舞・音曲などに耽り、絵合(えあわせ)、歌合、蹴鞠(しゅうきく)、囲碁などを事とし、寝殿造という華やかな邸宅を構え、華麗な衣服や調度を用い、天下の乱れようとすることも知らないようだった。

 

平安時代の貴族 この図は「(こま)(くらべ)行幸絵詞」に拠って描かれたものである。この「絵詞」は68代後一条天皇が万寿元年10249月、藤原頼道(道長の子)の邸で催された競馬に行幸したときの様子を述べたものである。この図は寝殿造の母屋と庭上の池の一部を示している。船の中では雅楽を奏している。

 

097 図解 寝殿造の寝殿は正面に南面して建てられた正殿であり、主人がいる場所である。北対(きたのたい)はその後方にあり、夫人がいるところであり、左右の東対(ひがしたい)、西対は家族のいる所である。(いずみ)殿(どの)と釣殿は納涼・観月などに用いられる。これらの建物は長廊で連ねられている。庭には池があり、その中に島がある。その外多くの建物が付属し、庭には花木が植えられている。

 

 

第十四章 刀伊(とい)の入寇 前九年・後三年の役

 

刀伊(とい)の入寇 都では藤原氏の一門が栄華の春を楽しんでいたが、地方では争乱が相次ぎ、68代後一条天皇の寛仁(かんにん)3年、1019年、朝鮮の東北地方の刀伊が対馬・壱岐を襲い、筑前に迫った。大宰権帥藤原隆家(道長の甥)が防戦して退けた。藤原隆家の子孫は菊池氏となった。

 

098 平忠常の乱 後一条天皇の長元元年、1028年、前上総介*平忠常が下総に拠って朝廷に背いたが、源頼信が討ち平らげた。源頼信は源経基(つねもと)の孫で、兄は頼光という。086

 

*上総介は上総国国司の次官である。

 

 前九年の役1051 その20年後、70代後冷泉天皇のとき、陸奥の豪族安倍(より)(とき)がその子安倍(さだ)(とう)とともに乱を起こした。源頼信の子源頼義陸奥守に任ぜられて鎮守府将軍を兼ね、朝廷の命を奉じ、その子源義家とともに先ず安倍頼時を誅した。1057ついで安倍貞任と長い間戦い、出羽の豪族清原武則(たげのり)の兵を合わせて、康平5年、1062年、厨川(くりやがわの)()を陥れ、貞任を誅した。(前九年の役)

 

清原氏系図

 

清原武則 ┬ 武貞 ┬ 真衡

     │    ├ 家衡

     └ 武衡 └ 清衡(養子、藤原経清の子)

 

 

099 参考 源義家は石清水八幡宮(八幡市)で元服の式を挙げたので、八幡太郎義家と呼ばれた。17歳で前九年の役に従軍し、衣川(北上川の支流)の()を破って敗兵を追撃し、後ろから貞任を呼び止め、

 

 衣のたてはほころびにけり

 

と下の句を詠みかけたところ、貞任も馬を止めて、

 

 年をへし糸のみだれの苦しさに

 

とつけた。源義家はこれに感じて矢を放たないで引き返したという話がある。

 

 後三年の役1083-1087 清原武則は戦功によって鎮守府将軍に任ぜられ、もとの安倍氏の地を領した。その孫清原真衡(さねひら)の代になると、同族の清原家衡(いえひら)、清原武衡(たけひら)との間に争いが生じ、陸奥、出羽の地が再び乱れた。

100 陸奥守兼鎮守府将軍の源義家清原真衡を助け、弟源義光藤原清衡の力を借り、73代堀河天皇の寛治元年1087年、金沢(かなざわの)()(秋田県にあったとされる)を陥れ、清原家衡と清原武衡を誅した。(後三年の役)

 

参考 後三年の役の時、源義家は奥州へ下る途中の勿来(なこそ)関を通るとき、

 

 吹く風をなこその関と思へども 路もせに散る山桜かな

 

と詠じた。「真に千古の佳吟である。」

 

 「後三年合戦絵巻」は97代後村上天皇1339-1368のころ、画家飛騨守(これ)(ひさ)が描いたものと伝えられる。この頁に掲げられている「後三年合戦絵巻飛雁行を乱す図」は、源義家が金沢柵を攻めるとき、雁が乱れるのを見て、敵の伏兵を発見したとされる。

 

101 陸奥の藤原氏 藤原清衡100は藤原秀郷の六世の孫である。後三年の役の功により、もとの清原氏の地を領有し、それから90年間平泉にいた。中尊寺の金色堂は清衡が建てたものである。

 

奥州藤原氏系図

 

藤原秀郷 --(五代略)-- 清衡 -- 基衡 -- 秀衡 -- 泰衡

 

図解 中尊寺は54代仁明天皇の時代833-850に開基された。後、藤原清衡が堂宇を営み、その盛時には、寺塔40余宇、禅坊300余宇と伝えられる。

 金色堂は俗に光堂ともいう。後世更に覆堂(さやどう)をつくり、これ(金色堂)を覆って包んだ。図に見えるのは覆堂であり、その中に金色堂がある。

 

 さみだれの降りのこしてや光堂 芭蕉

 

102 源平二氏の対立 源頼信098のころから源氏が東国や陸奥・出羽で功を立て、おのずから東方に勢力を得た。平氏は平貞盛五世の孫である(ただ)(もり)が瀬戸内海の海賊を討って功を立てたので、西国で勢力を得た。086

 

 

中尊寺金色堂内陣

 

中尊寺金色堂の内部に三つの仏壇がある。この写真は中央のもので、壇上に阿弥陀如来(中央)・観世音菩薩(向かって右)・大勢至(たいせいし)菩薩の三尊、四天王の中の多聞天、()(こく)天、その背後に六地蔵が安置されている。十一体ともみな定朝(じょうちょう)の作と伝えられている。(確かでないものをまるで確かなことのように言う。)

周囲の四本の柱は「七宝(しつぽう)荘厳の巻柱(まきばしら)」といい、金銅の(たが)(竹をたがね、樽などを締め付けるための輪、銅鉄製のものもある)を八段にめぐらし、その上に鋲を打ち、九帯に分けてある。その中三帯には四方に一体ずつ、計十二体の大日如来が描かれている。(十二光仏)光仏のない六帯は、螺鈿(らでん)(夜光貝、(あわび)などを平らにし、文様に切って貼り付け、漆で研ぎだす技法。唐代に盛行した。)で宝相(ほうそう)()の模様を現わす。図中高く左右に懸かっているのは()(まん)(まん)()、ジャスミン)である。

 

 中尊寺一字金輪像

 

 中尊寺の一字金輪像(こんりんぞう)はもともと境内の中の大日堂の仏体であったが、今は宝物殿に蔵してある。一字金輪像は、日蝕、月蝕、風災などの時に修法(しゅほう)(密教の加持祈祷の作法、護摩をたく。)されたものであった。この像は平安時代末期の木彫仏像で、その「端厳(たんごん)(正しく厳か)微妙の麗姿は、さながら生けるがごとく、」宝冠、頸飾(くびかざり)、光背、蓮座など、優雅の趣を極めている。

 

 

第十五章 後三条天皇 院政

 

103 後三条天皇 70代後冷泉天皇1045-1068に次いで71後三条天皇1068-1072が即位した。後三条天皇の母は三条天皇の皇女であった(後冷泉天皇の母は道長の娘)から、天皇は藤原氏を憚ることが少なく、自身でも政治に預かり、藤原氏の勢いを抑えた。

 弊政の改革 このころ荘園の数がますます多くなり、朝廷の財政は乏しくなった。後三条天皇は宮中に記録所を設け、証拠が明らかでない古い荘園を取り上げ、新たに荘園を置くことを禁じた。また国司が重任することを差し止め、売官の風習を抑制し、自ら質素にした。

104 天皇は5年間即位し、子の72白河天皇1072-1086に譲位して院に退いて政治を行おうとしたが、譲位後すぐになくなった。

 白河上皇の院政1086-1129 白河天皇は子の73堀河天皇1086-1107に譲位し、院で政治を執った。この時から院政が始まった。上皇の宣旨(せんじ)院宣(いんぜん)というが、院宣は時として天皇の詔勅より重く、摂政・関白の力は軽くなり、藤原氏は衰えた。

 白河法皇の弊政 白河上皇1086-1129は後に髪を下ろして法皇1096となり、その院政は、73堀河74鳥羽75崇徳の三天皇の40年間に及んだ。白河法皇は仏教の信仰が篤く、多くの寺を建て、法事を行い、高野や熊野などに御幸(ごこう)し、殺生を禁じた。財政が乏しくなり、71代後三条天皇の改革は乱れた。

105 僧兵 仏教が盛んになるにつれ、寺院は大抵多くの荘園を領有し、僧兵を養った。奈良の興福寺、比叡山の延暦寺の僧兵が最も「わがまま」で、東大寺園城寺の僧兵がそれに続いた。寺々は相争い、相戦い、朝廷の命令を奉ぜず、京都に押し入って朝廷に強訴した。白河法皇もなすすべがなかった。そこで朝廷は常に源・平両氏の兵を用いて僧兵を抑えた。

106 参考 奈良を南都といい、比叡山を北嶺(ほくれい)といったから、興福寺や延暦寺などの僧兵を南都北嶺の僧兵ともいった。これらの寺が強訴する時、興福寺は春日神社の神木を捧げ持ち、延暦寺は日吉(ひえ)神社の神輿(みこし)を担ぎ上げ、院宣や詔勅をも憚らなかった。白河法皇は「朕の心のままにならないものは、加茂川の水と双陸(すごろく)骰子(さい)と山法師である」と嘆じた。

 

105 僧兵の図 頭を袈裟で包み、腹巻の上に()(けん)を纏い、(くず)(ばかま)穿(うが)ち、右手に珠数をかけ、左手に薙刀を持ち、左に太刀を()び、懐に帖紙(ちょうがみ)と扇を挟み、足駄を穿()いている。

 

 

第十六章 源平二氏の盛衰

 

106 保元の乱 白河法皇1086-1129の次に鳥羽法皇1129上皇-1141法皇-1156)が代わって院政を行った。鳥羽法皇の院政の初めのころ1141、その子75崇徳天皇1123-1141は、鳥羽法皇の指示により、3歳の弟76近衛天皇1141-1155に譲位して上皇となった。近衛天皇は17歳で亡くなり、崇徳上皇の弟後白河天皇1155-1158が即位したが、それに崇徳上皇は失望した。

107 その時、左大臣藤原頼長(関白藤原忠通の弟)は、兄の藤原忠通と仲が悪かった。保元元年1156年、鳥羽法皇が亡くなったとき、崇徳上皇はひそかに藤原頼長と謀り、源為義(源義家の孫)とその子源為朝平忠正(平忠盛の弟)に兵を挙げさせた。

一方後白河天皇は、源義朝(源為義の長子、父源為義や弟源為朝と戦ったのか)や平清盛(平忠盛の長子、叔父さん平忠正と戦ったのか)などの兵で崇徳上皇方を攻めた。

源為朝はこれを迎えて戦ったが、崇徳上皇方の軍は敗れ、藤原頼長は死に、崇徳上皇は讃岐に遷され、源為義や平忠正は斬られ、源為朝は伊豆の大島に流された。(保元の乱

 

感想 複雑。源氏・平氏が、上皇・天皇の争いに巻き込まれ、兄弟・親子・叔父甥が相戦った。悲惨な話だ。

 

108 皇室系図 八

                    (75)徳天皇 ┌(78)条天皇―(79)条天皇

(71)三条天皇―(72)河天皇―(73)河天皇―(74)羽天皇┼(77)白河天皇┼以仁王

                    └(76)衛天皇 └(80)倉天皇┬(81)徳天皇

                               └(82)鳥羽天皇

 

藤原氏系図 五

 

藤原頼通―師実―師通―忠実┬忠通

             └頼長

 

平治の乱 その後まもなく77後白河天皇1155-1158はその子78二条天皇1158-1165に譲位して上皇となり、院政を行った。藤原通憲(みちのり)(入道信西(しんぜい))*は厚い信任を受けた。

(保元の乱で勝った)源義朝は保元の乱によって一族を失い、藤原通憲と結びたいと願ったが、藤原通憲はこれに応ぜず、却って平清盛と結んだので、源義朝は不快に思い、藤原通憲と平清盛を怨んだ。

 

*藤原通憲1106-1160 父は實兼(さねかね)。一時高階経敏の養子となった。妻の朝子(紀伊局)が後白河天皇の乳母だった。保元の乱では源義朝の策を取り入れて後白河天皇方の勝利をもたらし、権勢を得た。近親の藤原信頼と対立し、平清盛と結んで源義朝を疎外した。平治の乱が起こると、藤原信頼、源義朝らに殺された。(コトバンク)

 

 時に藤原信頼1133-1160も後白河上皇に願って近衛大将になりたいと望んだが、また藤原通憲に妨げられたため、これを怨んでいた。

 

*藤原信頼 後白河天皇の寵臣。藤原通憲(信西)と対立。源義朝と平治の乱を起こし、藤原通憲(信西)を斬首したが、二条天皇親政派と組んだ平清盛に敗北し、六条河原で斬首された。Wiki

 

109 ここにおいて源義朝・藤原信頼の二人は相謀り、平治元年1159年、平清盛が都にいないときに兵を挙げ、二条天皇と後白河上皇を幽閉し、藤原通憲を捕えてこれを殺し、大内*に拠った。

 平清盛は事変の起こったことを聞いて京都に帰り、その子平重盛に大内を攻めさせ、藤原信頼を斬り、源義朝を逃走させた。源義朝は逃れて尾張に至ったが、家人(けにん)に殺され、一族の者の多くは捕らえられて斬られた。ただ源義朝の第三子源頼朝は特に死を免れ、伊豆に流された。(平治の乱)

 

源氏系図 二

 

源義家―義親―為義┬義朝┬頼朝

         │  ├範頼

         │  └義経

         ├義賢

         └為朝

 

 

平治物語絵巻院御所夜討の図

 

 平治物語絵巻は平治の乱の始末を描いたもので、住吉法眼慶恩の筆と言われる。この図は藤原信頼・源義朝等が院御所三条殿を夜討する様を描いたものである。

 

110 平氏全盛 これより平清盛の勢いは盛んとなり、79六条天皇1165-1168の時に清盛は従一位太政大臣に進んだ。

次いで80高倉天皇1168-1180が即位したが、その母は平清盛の妻の妹である。また清盛の娘の徳子がその高倉天皇の中宮になって平氏は皇室の外戚となり、「平氏にあらざるものは人にあらず」と言って誇るようになった。

 

参考 「平家物語」は平家一門の栄華を描き、「日本秋津(あきつ)(しま)はわずかに六十六箇国、平家知行(国務を執り行う)の国三十余箇国、すでに半国に越えたり。そのほか荘園田畑(でんばた)いくらといふ数を知らず。綺羅(きら)(美しい衣服)充満して堂上(殿上)花の如し。顕貴群集して門前市をなす」とある。

 

 

第十七章 平氏の滅亡

 

111 清盛の専横 平清盛を憎む者が漸く多くなり、治承元年、1177、後白河法皇(上皇1158-法皇1169-1179)の近臣である藤原(なり)(ちか)等は同志の人々とひそかに平氏を討とうと謀ったが、そのことが露見し、殺されたり流されたりした。平清盛はこのとき後白河法皇を「押し込め」ようとしたが、その子平重盛109に諫められて一時は思いとどまったが、やがて重盛が亡くなり、法皇を幽閉した。

次いで80代高倉天皇1168-1180は、三歳の81代安徳天皇1180-1185に譲位した。その母は平清盛の娘である。

112 源頼政の挙兵 安徳天皇の治承4年、1180年、源頼光087の後裔である源頼政087は、平氏のわがままに憤り、後白河法皇の子以仁王(もちひとおう)108を奉じ、その令旨を諸国の源氏に伝え、平氏の罪を鳴らしてこれを討とうとした。ところがそのことが露見し、宇治の平等院での戦いに敗れて死に、以仁王は流矢にあたって亡くなった。

 

 源頼政の辞世

 

 埋木の花咲くこともなかりしに

  みのなる果てぞ哀れなりける

 

頼朝の挙兵 源頼朝は伊豆に流され20年そこで過ごしたが、以仁王の令旨を受け、北条時政(源頼朝の妻政子の父)と謀って兵を挙げた。一度は石橋山(小田原近郊)の戦いに敗れたが、東国は頼朝に(なび)いた。

 平清盛はこれを聞き、孫の(これ)(もり)に頼朝を討たせた。しかし平維盛らは駿河の富士川に至り、源氏の軍の盛んな様を見て、戦わずして帰った。頼朝は鎌倉に引き上げ、東国を平定した。

 

源義仲の挙兵 頼朝の従弟である源義仲も以仁王の令旨を受け、信濃の木曽に兵を挙げ、北陸道に進み、平氏の軍を破り、京都に迫った。

 

114 平氏の都落 これより先、平清盛1118-1181はすでに亡くなり、その子平宗盛が家を嗣いでいた。平宗盛は源義仲が近づくのを恐れ、寿永2年、1183年、安徳天皇1180-1185と三種の神器を奉じて一族を率いて西国に逃げた。

 

参考 「平家物語」の平氏都落の哀れな一節

 

115 源義仲の負死 源義仲は入京して平氏に代わったが、行動が乱暴で、後白河法皇1127-1192はこれを悦ばず、ひそかに源頼朝をお召しになった。源頼朝は弟の源範頼源義経を遣わし、源義仲を攻めさせた。源義仲はこれを勢多(瀬田の別表記)と宇治で防いだが逃走し、近江の粟津に至って戦死した。寿永3年、1184年の春のことである。

 

 平氏の滅亡 源頼朝と源義仲が争っているとき、平氏は勢いを盛り返し、摂津(須磨の辺り)の福原に帰り、一の谷に拠った。範頼(のりより)源義経後白河法皇の命を奉じて東西からこれを挟み撃ちし、これを破った。

平氏は讃岐の屋島に逃走した。次いで源範頼は山陽道を九州に入り、源義経は翌年1185年、海を渡って屋島を襲い、敵を海上に追い落とした。平宗盛らは退いて長門(山口県)の彦島に拠り、源義経の軍と壇の浦で戦ったが遂に敗れた。平(とも)(もり)以下一門の将士は悉く花々しい最期を遂げ、平氏は滅亡した。寿永41185年の春3月のことである。

 

平氏系図 二

 

平貞盛―□―□―□―□┬忠盛―清盛┬重盛┬維盛

           └忠正   ├宗盛└資盛

                 ├知盛

                 ├重衡

                 └徳子

 

以上 上巻終わり 20211113()

 

 

 

 

新体国史 下巻 中村孝也(こうや、1885-1970) 帝国書院 大正15年10月28日発行 定価上巻金60銭、下巻金88銭 昭和2年2月3日訂正発行 定価上巻金99銭、下巻金146銭(たったの2年間で偉いインフレ)

 

 

要旨

 

狩野永徳筆唐獅子図大屏風

 

狩野永徳1543-1590古法眼元信の孫であり、天文121543年正月に生まれ、織田信長や豊臣秀吉に仕え、天正1815909月、48歳で死んだ。

 その作品には洛中洛外屏風、源氏物語屏風、安土城(琵琶湖東岸)天守閣七重の各層の室に描いた花鳥山水龍虎人物など、大阪城や聚楽第の室に描いたものなど、そして(うまや)図屏風、猿猴(えんこう)群游屏風、太()図、波浪図、群鶴図や本図などがある。そのうち、安土城、大阪城、聚楽第などのものは現存しない。

 この唐獅子図大屏風は、帝室御物であり、竪八尺横一丈六尺の六曲屏風である。巌石を背景とし、二頭の巨大な唐獅子が悠然闊歩する状態を画面全体に描写している。

 

 

 

第三編 近古 鎌倉幕府の始めから室町幕府の滅亡まで 1185-1573の約390年間。

 

 

第一期 源頼朝から北条氏の滅亡まで 約150年間

 

第一章 源頼朝 鎌倉幕府

 

001 守護地頭 源頼朝の弟源義経は平氏を滅ぼし、武功が高かったが、「専断」の行があり、頼朝の怒りに触れ、都を出て逃げ回った。

 このころ多くの平氏の残党が潜み隠れていた。頼朝は大江広元の意見を採用し、義経等を追捕(ついぶ)するために、またまだ起こらない(平氏の)反乱を抑えるために、82代後鳥羽天皇1185-1198の文治元年1185年、朝廷に奏し、自分の家人(けにん)を全国に配って守護や地頭にした。守護は軍事と警察を司り、地頭は年貢を取り立てた。これによって国司・領主などはいつとはなしにその力を失い、政治の実権が自ずから頼朝に帰した。

002 天下の平定 義経は陸奥の平泉に逃れ、藤原秀衡(ひでひら)に身を寄せた。しかし秀衡の子泰衡(やすひら)の代になると、泰衡は頼朝の命を受け、不意に押し寄せて義経を殺した。ついで頼朝は陸奥に下り、泰衡を攻め亡ぼし、天下を平定した。文治5年、1189年のことだった。

 

003 参考 頼朝が白河の関を越えたのは文治5729日であった。頼朝は白河の関の明神に奉幣して梶原景季を召し、能因法師

 

 都をば霞と共に出でしかど秋風ぞ吹く白河の関

 

という歌を思い出さないかと言った。景季は馬を控え、

 

 秋風に草木の露を払わせて君が越ゆれば関守もなし

 

と詠じた。

 

002 源頼朝1147.5.9-1199.2.9権大納言右近衛大将になったので、右大将頼朝ともいう。頼朝は正治元年正月に52歳で亡くなった。これは藤原隆信の筆になる頼朝の肖像画である。高尾神護寺所蔵。

003 義経が最期を遂げた高館(たかだち)判官(ほうがん)(だち)ともいう。北上川がそばを流れる。対岸の山は(たば)(しね)山である。

 

004 幕府の創立 これより先頼朝は鎌倉に居を定めた時、侍所を置き、和田義盛をその別当にし、部下を取り締まらせた。次いで公文所(くもんじょ)を開き、大江広元を別当にして政務を取り扱わせ、また問注所を置き、三善康信を執事にして裁判を担当させた。公文所は後に政所(まんどころ)と改称された。

 陸奥の藤原氏が亡びて天下が平定されたのちの建久3年、1192年、頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府が出来上がった。

 

 参考 大江広元と三善康信はもともと朝廷に仕えていて、このとき頼朝に招かれて鎌倉に来た。

 征夷大将軍の「征夷」というのはもとは蝦夷を征伐する意味であり、奈良時代の44元正(げんしょう)天皇(680-748、在位715-724)の時、多治比(たじひの)(あがた)(もり)持説(じせつ)征夷将軍になったのが始まりである。頼朝の征夷大将軍は蝦夷征伐の将軍の意味ではなく、武人で天下の政権を握る者の職名であった。

 

005 源頼朝の政治 頼朝は藤原氏や平氏が奢侈に流れたために衰えたことを思い、質素倹約を旨とし、武芸を励ました。頼朝は義経の死後、また「事をもって」弟の範頼も「除いて」しまった。頼朝が死ぬと、源氏は弱くなった。

 

 参考 建久411935月、頼朝は将士を率いて富士の巻狩を催した。その時曽我十郎(すけ)(なり)曽我五郎時致(ときむね)の兄弟が、父河津(すけ)(やす)の仇である工藤(すけ)(つね)を討った。河津祐泰は、その18年前に工藤祐経に殺され、兄弟の母は二子を連れて曽我祐信再嫁(さいか)した。

 そのことの知らせが鎌倉に伝わり、頼朝も殺されそうだという噂があったので、頼朝の妻政子は心配した。留守を命ぜられていた弟の範頼が政子を慰めたが、頼朝は範頼が「異心」を抱くのかと思って伊豆の修善寺に範頼を幽閉して殺したということだ。

 

006 源頼家 源頼朝の長子源頼家が源頼朝の次に征夷大将軍になったが、頼家はまだ年齢が若く、実際の政治は母政子と外祖父の北条時政が行った。北条時政は源頼朝が兵を挙げた時から頼朝を助けてきたが、時政は頼家を廃し、頼家の弟の実朝を征夷大将軍にし、後に頼家を殺した。その背景はつぎの参考の通りである。

 

 参考 源頼家の長子源一(まん)比企(ひき)能員(よしかず)の娘若狭(つぼね)の所生であったので、一幡が他日将軍になるとすれば、それは北条氏にとって不利なことであった。そのためであろうか、北条時政と政子は建仁3年、1203年、頼家の病に乗じ、東国28カ国の地頭職と総守護職を一幡に与え、西国38ヵ国の地頭職を頼家の弟千幡(後の実朝)に与えようとした。頼家はこれを知って大いに怒り、比企能員と謀り、北条氏を滅ぼそうとしたが、そのことならず、比企能員と源一幡は殺され、頼家は廃されて伊豆の修善寺に幽閉された。千幡は将軍となり、名を実朝と改めた。その翌年頼家は殺された。

 

 源頼家1182-1204は元久元年12047月、伊豆修善寺で死んだ。歳は23歳。京都建仁寺は頼家が建てたものである。墓は修善寺にある。

 

007 源実朝 北条時政の子北条義時が次いで執権となり、政所の別当と侍所の別当とを兼ねた。源実朝はしきりに官位を望み、ついに右大臣に進んだが、承久元年1219年正月、拝賀の礼を鶴ヶ丘八幡宮で行ったところ、頼家の子の僧の公曉(くぎょう)は、実朝を父の(あだ)であると思い、実朝を石段で殺した。公曉もついで北条義時に殺され、源頼朝の正統は三代28年で全く絶えた。

 

参考 源実朝は将軍になったとき13歳であった。北条時政はやがて源実朝を廃し、自らの妻牧氏の出である娘婿平賀(とも)(まさ)を立てようとしたので、政子は弟北条義時と謀って(父の)北条時政を退けた。その後、北条義時の権勢が強くなり、源実朝は楽しくなかったので、鎌倉の由井ガ浜で大船を造り、宋に渡ろうとしたが、実現しなかった。

 

 実朝の歌集を金槐集という。

 

 山は裂け海はあせなむ世なりとも君にふた心われあらめやも

 もののふの()(なみ)つくらふ小手(こて)の上に(あられ)たばしる那須のしの原

 箱根路をわが越え来れば伊豆の海や沖の小島に浪の寄る見ゆ

 いとをしや見るに涙のとどまらず親のなき子の母をたづぬる

 

 実朝は最期の日に門を出ようとするとき、

 

 出でていなば主なき宿となりぬるとも軒端の梅よ春を忘るな

 

と詠んだ。実朝が死に、頼朝の男系の子孫は絶えたが、女系の方は頼朝の娘の竹の御方がまだ生存していた。この人は成人した後で征夷大将軍藤原頼経(北条氏系統の第一将軍)の御台所(みだいどころ)となり、32歳で没した。

 

008 鶴ヶ丘八幡宮 はじめ源頼義988-1075安倍(さだ)(とう)(安倍頼時の子)を討つ(上098)とき、山城の石清水八幡宮を謹請してから鎌倉由井ヶ浜に神社を建てた。後、源頼朝がこれを北方の山上に遷した。これが今の鶴ヶ丘八幡宮である。今は国幣中社である。*国幣社とは明治から1945年まで、国土経営に功績があった神を地方官が祭った神社である。

 

009 政子 政子は雄々しい気性の婦人で、頼朝が亡くなった後に尼となって幕府の政治に与り、よく将士の心をつないだ。実朝の死後、弟の北条義時と謀って藤原頼経を京都から迎え、鎌倉の主とした。藤原頼経は頼朝の妹の縁を引いている。藤原頼経はこの時2歳だった。政子はその後見となって自分で政治を行った。(尼将軍)

 

 

源氏と北条氏と藤原氏との関係

 

┌義時

北条時政┴政子

      ║

源義朝 (将軍)()頼家(将軍二) 一幡

    女 └(将軍)() 公曉

     ╟――――女

    藤原能保  ╟――――

       西園寺公経  ╟――(将軍)()――頼嗣(将軍二)

            九条道家

 

第二章 北条氏の執権

 

承久の乱 後鳥羽上皇1198-1221は政権を朝廷に取り返そうと思い、北条義時(時政の子)が幕府の実権を握り、しばしば上皇の心に逆らったので、85代仲恭天皇1221-1221の承久3年、1221年、北条義時追討の院宣を下し、諸国の武士を集めた。北条義時はその子北条泰時、弟の北条時房などに兵を率いて京都に攻め上がらせ、仲恭天皇を廃して、86後堀河天皇1221-1232を立て、後鳥羽上皇を隠岐に、土御門上皇83代土御門天皇1198-1210)を土佐に(後、阿波に)、順徳上皇84代順徳天皇1210-1221)を佐渡に遷した。(承久の乱)

011 六波羅探題 承久の乱の後、北条泰時(義時の子)と時房(義時の弟)は京都に止まり、南北六波羅の邸にいて、近畿西国に備え、ひそかに朝廷を抑えた。

012 北条泰時の執権 北条義時の次に泰時が執権になった。泰時は、永く武家の法制の基となった貞永式目51か条を定めた。

 

 参考 吉野朝廷の臣下であった北畠親房は「神皇正統記」の中で北条泰時を評し、

 

大方(おおかた)泰時心正しく、政すなほにして、人を(はぐく)み、物に驕らず。公家の御事を重くし、本所(荘園の持主)の煩ひを(とど)めしかば、風の前に塵なくして、天の下すなわち鎮まりき。…泰時相続して徳政を先きとし、法式を固くす。己が分をはかるのみならず、親族並びにあらゆる武士どもを戒めて、高位高官を望む者なかりき」

 

 泰時の歌に

 

 事しげき世の習いこそ物憂けれ花の散りなん春も知られず

 

政務に勤務しているため、花を眺めて暮らす暇もなく、逝く春を惜しむ情を詠じたものである。

 

013 北条時頼の執権 北条泰時に次いで泰時の孫の経時とその弟時頼が執権となった。北条時頼も質素で公平だった。

*北条時頼は康元元年1256年、病気のために出家して最明寺にいたので最明寺入道という。012

 親王将軍 この時の将軍は藤原頼嗣(よりつぐ)(将軍二藤原(より)(つね)(将軍一)の子)であったが、北条時頼は藤原頼嗣を廃して、(むね)(たか)親王(後嵯峨上皇1246-1272の子、11歳)を迎えて将軍とした。この後も北条氏は執権の地位にあり、政治の実権を握った。

 

014 皇室系図 九

 

(81)徳天皇

(80)倉天皇┼□―――――(86)堀河天皇―(87)条天皇 ┌(将軍)()親王――(将軍)()親王

    └(82)鳥羽天皇┬(83)御門天皇―(88)嵯峨天皇┼(89)深草天皇┬(92)見天皇

          └(84)徳天皇――(85)恭天皇 │     └(将軍)()親王―守邦(将軍四)親王

                      └(90)山天皇―(91)宇多天皇

 

北条氏系図

 

┌政子

()政┼()時┬()時―□┬()

  │  │    └()頼┬()宗―()時―(一四)時―時行

  │  │       └□――(一〇)

  │  ├□┬()時―□――□――(一六)

  │  │ └□――□――(一三)

  │  ├()村―――□――□――(一二)

  │  └□―実時―顕時―(一五)

  └時房―□―□――(一一)

 

 

第三章 鎌倉時代の文化

 

015 仏教の新宗派 鎌倉時代には浄土宗、浄土真宗(一向宗)、法華宗(日蓮宗)、時宗等が起こった。浄土宗は先に僧(げん)(くう)法然上人)が起こしたもので、浄土真宗はついでその弟子(はん)(えん)親鸞聖人)が開いたものであり、時宗は僧()(しん)一遍上人)が始めたものである。その他に宋から伝わった禅宗がある。そのうちの臨済宗は僧栄西(えいさい)が持って来たものであり、曹洞(そうとう)はその弟子道元が持って来たものである。禅宗は専ら武士の間で行われ、公家にも信ぜられた。

016 参考 法然上人は美作(みまさか)(岡山県北東部)に生まれ、比叡山に登り、天台宗を学び、後、黒谷吉水で専修念仏を唱え、本願選択(せんじゃく)念仏集を著し、浄土宗を開いた。後、将軍源実朝のころ、その弟子たちが京都の鹿ケ谷で念仏会を開いたことで罰せられ、讃岐に流された。4年後許されて京都に帰り、建暦2年、1212年正月、寂した。歳80歳。円光大師という()号(おくり名)がある。

 

 親鸞聖人は初め範宴といい、比叡山に登り、また奈良に赴いて、今までの緒宗の教えを学び、後、黒谷の法然上人に謁して翻然として浄土門の教えに入り、ついで名を(しゃく)(くう)と改め、法然上人が配流(はいる)のときには、自らも越後に流され、自ら愚禿釈(ぐとくしゃく)親鸞と号した。赦免の後、永く北国や東国等で教えを説き、常陸稲田御房(ごぼう)教行信證(きょうぎょうしんしょう)文類(もんるい)を著し、浄土真宗を開いた。晩年京都に帰り、弘長2年、12628月に没した。歳90歳。見真大師という諡号がある。

 

017 日蓮上人は安房(あわ)(千葉県南端)の人で、比叡山に登り、諸国をめぐって諸宗の教えを窮め、妙法蓮華経を所依(拠り所)として法華宗を開き、念仏無問、禅天魔、真言亡国、律国賊という四個の格言を喝破して既成の宗派を排し、ついに幕府の咎めを受け、一たび伊豆の伊東に流され、二たび滝の口(藤沢市片瀬)で(くびはね)られようとし、三たび、佐渡に流された。これらの法難(仏法を広める際に受ける迫害)を経て、赦免の後、甲州身延山で修業を重ね、弘安5年、128210月、武蔵池上(東京都大田区の池上兄弟の館)で寂した。歳は61歳。立正大師の諡号がある。

 

018 栄西は備中(びっちゅう)(岡山県西部)吉備津(きびつ)の人で、初め天台宗の僧となり、後、宋に入って禅宗を修めた。臨済宗建仁寺派の開祖である。健保3年、12157月に没した。歳は75歳。

 

 道元は京都の人で、(につ)(そう)して禅宗を修め、帰朝後越前に永平寺を開き、曹洞宗の開祖となった。建長5年、12538月に没した。歳は54歳。承陽大師の諡号がある。

 

文学 漢学は衰えたが、北条(さね)(とき)2代将軍北条義時の孫)とその子北条(あき)(とき)は、武蔵の金沢に文庫を設け、和漢の書を集めた。(金沢文庫、横浜市金沢区)

国文学では保元物語、平治物語、源平盛衰記、平家物語などの軍記物がつくられ、力強い文体を開いた。和歌はなお盛んで、後鳥羽天皇や源実朝、藤原(しゅん)(ぜい)、藤原定家、僧西行などの歌人が出た。

 

鎌倉時代の風俗 この図は土佐吉光など数人が描いたと言われる「法然上人行状絵巻」の一部である。承久元年1219年、源空(法然)が讃岐に流されていく途中で、摂津経ヶ島で説教しているところである。京都知恩院所蔵。

 

019 美術工芸 絵画では土佐光長藤原信実(のぶざね)などが出て、当時の風俗を描いた絵巻物がよく行われた。運慶・湛慶は仏像の彫刻をし、粟田口吉光岡崎正宗などの剣工が現れた。

 武士の気風 鎌倉時代の武士は質朴剛健で恩義を重んじ、生命を軽んじ名を惜しみ、恥を知ることを本分とし、女子も質素で節義を貴んだ。武士の遊戯では笠懸(かさがけ)流鏑馬(やぶさめ)犬追物(いぬおうもの)などの勇ましいものが多く行われた。

 

*笠懸 笠を的にして馬上から弓で射る騎射武術。

*流鏑馬 馬で走りながら鏑矢を射流して板的に射当てる競技。

*犬追物 騎馬で犬を追い、弓で射る騎射訓練の武術。

 

 

第四章 元寇

 

020 蒙古と高麗 83土御門天皇1198-1210のころ、支那の北方の蒙古の地に()()(ジン)成吉思(チンギス)(カン))という英雄が現れ、アジアの国々を滅ぼしてヨーロッパまで攻め入った。その孫忽必烈(クビライ)はさらに南下して宋を侵した。高麗も先に蒙古に下り、クビライの時にはその属国となった。

 蒙古の来書 忽必烈(クビライ)は我が国をも従えようとし、90亀山天皇1259-1274の文永5年、1268、高麗王の手を経て国書を我が国に贈り、入貢させようとしたが、朝廷はこれに返書を与えなかった。その翌年1269、再び使いを送り、わが返書を促したところ、その時の執権北条時宗(八代将軍)は断然これを斥け、西国の将士に戦争の準備をさせ、その後に来た使者を皆追い返した。蒙古はこのころ国号をと称した。

021 文永の役 91後宇多天皇1274-1287の時、元は高麗の兵を合わせて対馬・壱岐に押し寄せ、筑前の博多に迫った。我が軍の将士は奮い戦ってこれを防いだ。たまたま暴風が起こって敵の戦艦の多くが破壊し、生き残った者は辛うじて逃げて行った。(文永の役1274、文永11年)

022 弘安の役 その後忽必烈はさらに使いを送ってわれを脅かしたが、時宗はその使いを斬り、さらにわれから進んで高麗を攻めようと企てた。そのころ元は全く宋を亡ぼして支那全国を統一し、勢いに乗じて必ずわが国を従えようと思い、大軍を発して押し寄せた。弘安41281、敵の東路軍四万が先ず来て壱岐を侵し、博多に迫ったが、わが将河野通有(みちあり)等がよくこれを防いだ。次いで10万の江南軍が攻めてきて、筑前・肥前の海上は敵艦に覆われたが、また大暴風雨が起こり、多くの戦艦が転覆し、敵兵はおおむね海底の藻屑と消えた。(弘安の役)

 

023 亀山上皇1301-1308御製

 

 世のために身をば惜まぬ心とも荒ぶる神は照らし見るらん

 四方の海浪おさまりてのどかなる我が日の本に春は来にけり

 

元寇海戦の図 この元寇海戦の図は竹崎(すえ)(なが)絵詞(えことば)に拠ったものである。竹崎季長絵詞は、蒙古襲来絵詞ともいう。肥後の国の住人竹崎五郎兵衛尉季長が、文永・弘安両度の戦役に出陣し、戦いが終わってから画工にその戦況を描かせ、自分で詞書(ことばがき)を書き、鎌倉幕府に申告したものであるという。

 ここに掲げた図は弘安4年の役にわが将士が小舟に乗って澎湃(ほうはい)たる大浪を漕ぎ分け、蒙古の大艦に躍りこみ、敵を撫で斬るところである。図中、下方の小舟に乗っているのは薩摩の国の守護島津下野守久親と同舎弟(実の弟)久長の軍勢であり、右上方の小舟に乗っているのは、大宰小弐経資(つねすけ)の軍勢である。中央蒙古の大艦の舷頭に真っ先に斬りこんだものは天草の大矢野十郎(たね)(やす)であり、その(とも)(船尾)の方で敵兵を組み伏せているのが、この絵詞の主人公である竹崎季長である。

 

 戦勝の原因 元寇はわが国未曽有の大難であったから、亀山上皇自ら「国難に代わりたい」と祈り、北条時宗以下の将士も心を一つにして事に当たったため、よく大敵を破って国威を輝かすことができた。(そうかな、台風については触れないのか)元はその後も幾たびか来寇を企てたが、そのことはついに行われなかった。

 

第五章 朝廷と幕府

 

024 大覚寺統 承久の乱1221の後、86後堀河天皇87四条天皇が相次いで即位した。四条天皇に子がいなかったので、幕府は88後嵯峨天皇(土御門上皇(承久の変で土佐や阿波に左遷された)の子)を即位させた。後嵯峨天皇はやがて院に退いて上皇となり、その子89後深草天皇(持明院統)、90亀山天皇(大覚寺統)の兄弟が相次いで即位した。

 ところが亀山天皇は、後嵯峨上皇の志により、後深草上皇をさしおいて自分で政治を行い、やがてその子後宇多天皇に譲位した。この血統を大覚寺統という。

 

 持明院統 幕府は後深草上皇が、嫡統でありながらその子孫を即位させられないのを見て哀れに思い、北条時宗のとき、亀山上皇に奏して、後深草上皇の子を後宇多天皇の皇太子(後の92伏見天皇)にした。この血統を持明院統という。(住み分けか)

 

皇室系図 十

 

                ┌(93)伏見天皇―量仁親王(後醍醐の皇太子)

(89)(持明)(院統)天皇―(92)見天皇┤

     │          └(95)園天皇

(89)嵯峨天皇┤          ┌(94)二条天皇

     └(90)(大覚)(寺統)皇―(91)宇多天皇┤

                └(96)醍醐天皇

 

025 両統(てつ)(りつ)(代わる代わる即位すること) このころから朝臣の間でも自ずから二派に別れ、互いに争っていた。92伏見天皇に次いでその子93後伏見天皇が即位すると、後宇多上皇は「お悦びにならず、」時の執権9代将軍北条貞時に、このことが後嵯峨上皇の思いに違うと責めた。

026 そこで北条貞時は両皇統が代わる代わる即位することに定めた。

 

 五摂家の分立 このころから摂政・関白に任ぜられるものが、近衛・鷹司(たかつかさ)・九条・二条・一条の五家(五摂家)の中から出ることになった。

 

 

五摂家の分立

 

             ┌兼経(近衛家)

    ┌()()―基通―家実

藤原忠通┤        └兼平(鷹司家)

    │        ┌教実(九条家)

    └()()―良経―家道┼良実(二条家)

             └実経(一条家)

 

 

第六章 北条氏の滅亡

 

027 正中の変 96後醍醐天皇は北条氏の「わがまま」を憤り、政権を朝廷に取り返そうと思った。そのころ幕府では14代将軍北条高時9代将軍北条時貞の子)が執権となり、「(おご)りに耽って」政治を怠っていたので、後醍醐天皇はこれを見て、正中元年、1324藤原(すけ)(とも)藤原俊基(としもと)らと謀り、ひそかに諸方の武士を語らい、北条高時を討とうと企てた。ところがその(はかりごと)が漏れ、藤原資朝らは捕らえられ、企ては一旦敗れた。

 元弘の乱 後醍醐天皇はあきらめず、その子護良(もりなが)親王035を延暦寺の座主(ざす)(寺務を統括する首席の僧)として僧徒を手なずけ、近畿諸国の武士も(いざな)い、再び北条氏を討とうとした。北条高時はこれを知り、元弘元年、1331、兵を発して、京都に攻め上がらせた。後醍醐天皇は神器を奉じ、ひそかに笠置山に行幸した。そこで北条高時はほしいままに皇太子量仁(かずひと)親王を立て、それを天皇と称した。これを光厳院(こうごんいん)という。光厳院は93後伏見天皇の子である。025笠置山(京都府山城国相楽郡)はその後程なく陥り、天皇は翌年1332年隠岐に遷された。

 

 参考 『太平記』の「主上笠置を御没落の事」の一節 

 

 風雨の中を逃げる道中、人々は別れ別れになり、後醍醐天皇の面倒を最後まで見た人は藤房*と季房(すえふさ)の二人しかいなくなった。後醍醐天皇は赤坂の城(楠木正成の居城)に向かって急ぎ逃げた。三日かけて山城の多賀郡の有王山にたどり着いた。天皇が、

 

 さしてゆく笠置の山を出でしよりあめが下にはかくれがもなし

 

と詠うと、藤房は

 

 いかにせん(たの)む陰とて立ち寄ればなほ袖ぬらす松のしたつゆ

 

と返した。

 

029 笠置山の山上に行在所(あんざいしょ、行宮(あんぐう)旅行中の天皇が仮の住まいとしたところ)の址がある。

 

*万里小路藤房(までのこうじふじふさ)公卿。藤原藤房ともいう。万里小路宣房の一男。

*万里小路季房(までのこうじすえふさ)万里小路宣房の二男。藤房の弟。子・仲房は北朝に仕えた。

 

030 勤王の諸将 これより先、楠木正成は詔を奉じて河内の赤坂城(大阪府千早赤阪村)に拠って兵を挙げたが、その城が陥るに及び、しばらく逃れて身を潜め、再び出てきて金剛山に千早城(ちはやじょう、大阪府南河内郡千早赤阪村)を築き、菊水の旗を翻して、義を天下に唱えた。護良(もりなが)親王(後醍醐天皇の子028)もまた吉野に拠り、勤王の士を召した。北条高時はこれを見て大軍を出して千早城を囲んだが、楠木正成はよくこれを防いだ。

031 この前後に播磨(兵庫県)の赤松則村(のりむら)、肥後の菊池武時など勤王の諸将が相次いで起こり、天皇もやがて隠岐を出て、伯耆(ほうき、鳥取県西部)の名和長年に頼(よ)り、船上山(ふなのえやま)にいて、将を遣わして京都を攻めさせた。

 

 北条氏の滅亡 北条高時は天皇が伯耆に着いたのを見て、足利高氏らに命じて兵を率いて西に向かわせたが、足利高氏は途中から天皇に帰順し、赤松則村らと力を合わせ、六波羅探題(承久の乱後に京都に置かれた鎌倉幕府の出張機関011)を陥れ、京都を平らげた。その少し前に新田義貞も兵を上野に挙げ、鎌倉を攻め破った。

032 北条高時以下一族のものの多くは自殺し、北条氏は滅亡した。元弘3年、13335月であった。これで源頼朝から142年間続いた鎌倉幕府は倒れ、政権は再び朝廷に返った。

 

031 新田義貞筆跡「承了」 これは新田義貞の軍忠状の証判を採ったものである。

「証判」とは臣下が自らの業績に対して上司の了承を得るために上司の判をもらうことらしい。

 

 

第二期 建武中興より吉野朝廷まで 凡そ60年間

 

第七章 建武の中興 足利尊氏の反

 

033 建武の中興 後醍醐天皇は六波羅探題が陥落した報を聞くと直ちに京都に向かい、楠木正成が兵庫まで迎えに行き、元弘3年、13336月、京都に帰った。後醍醐天皇は自ら政治を行い、護良(もりなが)親王(後醍醐天皇の子)を征夷大将軍とし、北畠顕家には皇子義良(のりなが)親王(後の97代後村上天皇041)を奉じて陸奥を治めさせ、足利直義(ただよし)には皇子成良(なりなが)親王を奉じて関東を治めさせた。035足利高氏、新田義貞、楠木正成、名和長年031、赤松則村(のりむら031)以下功を立てた朝臣や武士に恩賞を賜った。(建武の中興)

034 後醍醐天皇画像 紫野大徳寺所蔵。引直衣(ひきのうし)とは下直衣であり、上直衣(上着)に対する語。御帳台(みちょうだい)とは寝所。

 

皇室系図 十一

 

     ┌尊良親王

     ├護良(もりなが)親王

     ├恒良親王

     ├(なり)(なが)親王

(96)醍醐天皇┼(のり)(なが)親王((97)村上天皇)┬(98)慶天皇

     └懐良親王       └(99)亀山天皇

 

中興の失敗 しかし公家と武士との仲が悪く、賞罰で不公平が多く、また大内裏を造営するために諸国に費用を割り当てたので租税が重くなり、人々は新政を嫌い、元の武家政治のほうが良いと思う者が出てきた。

 護良(もりなが)親王と足利尊氏 足利高氏は天皇から重んじられ、天皇の名の(たか)(はる)の一字を賜り、名を尊氏と改めた。しかし足利尊氏はもともと自分で幕府を興して天下の権を握ろうとしていたから、人々が元の武家政治の方がいいと思うのを見て、武士の心を迎え、機会の来るのを待っていた。

036 護良親王はこれを察して尊氏を除こうと謀ったが、却って尊氏に讒言(ざんげん)(告げ口)され、鎌倉に流された。たまたまそのとき北条時行(北条高時014の子)が兵を起こして鎌倉に攻め寄せたので、足利(ただ)(よし)(尊氏の弟)は人を遣わして(鎌倉に流されていた)護良親王(後醍醐天皇の子)を殺し、自分は一時鎌倉から逃げ出した。

 足利尊氏と新田義貞 足利尊氏は北条時行の乱を聞くと、自分で出て行ってこれを討ちたいと願い、天皇の許しを待たないで東に下り、北条時行を追い払い、そのまま鎌倉にとどまった。足利尊氏は新田義貞を除くことを名目にして兵を集め、自らほしいままに征夷大将軍と称した。武家政治を思う武士の多くがこれに従った。

 

新田氏と足利氏の系図

 

┌義顕

┌義重(新田氏祖)…┬(七世)()―――――┼義興

源義家―義国┤         └義助(脇屋氏)└義宗

      └義康(足利氏祖)…┬(七世)()―――――┬義詮―義光043

                └直義     └基氏

037 足利尊氏の上洛と西走 朝廷(後醍醐天皇)は新田義貞と陸奥の北畠顕家033に足利尊氏を挟み討ちさせたが、新田義貞の軍は足柄・箱根の戦いで敗れ、京都に引き返した。足利尊氏は足利直義(033足利尊氏の弟)と共に新田義貞の後を追って京都に攻め上がった。

後醍醐天皇は比叡山に行幸し(逃げ)た。北畠顕家033義良親王を奉じて(陸奥から)西にのぼり、新田義貞、楠木正成、名和長年(伯耆(ほうき、鳥取県西部)の名和長年031)らと力を合わせ、足利尊氏の軍を破った。足利尊氏・直義の兄弟は九州に逃れた。延元元年1336正月のことであった。

 

038 足利尊氏の東上 足利尊氏は九州に行ってから、多々良浜(福岡市東区の多々良川の河口)の戦い菊池武敏を破り、殆どの九州の将士を従え、これに四国、中国の兵を合わせ、再び京都に向かった。新田義貞楠木正成と共にこれを兵庫で向かえたが敗れ、楠木正成は湊川(神戸市兵庫区)で戦死し、新田義貞は敗れて京都に帰り、後醍醐天皇は比叡山に逃げ、足利尊氏は京都に入った。その後官軍はしばしば破られ、名和長年(伯耆(ほうき、鳥取県西部)の名和長年)以下多くの諸将が戦死した。

 

図解 湊川神社は神戸市にあり、楠木正成を主神とし、その他殉難の将士を合わせて祀る別格官幣社である。その境内に徳川光圀が書いた「嗚呼忠臣楠子之墓」と題する石碑がある。正成は戦死の時43歳だった。(君たちも頑張って天皇のために戦死せよ。)

 

第八章 吉野の朝廷

 

039 吉野遷幸 足利尊氏は再び京都に入った後、賊名を避けるために、(後醍醐天皇が存在するのに)ほしいままに光明院(光厳院(量仁親王、後醍醐天皇の皇太子、93代後伏見天皇の子025, 027)の弟)を立てて、それを天皇と称した。次いで足利尊氏は使いを遣わして後醍醐天皇に還幸(京都の自宅に帰ること)を請うた。後醍醐天皇は新田義貞に皇太子(つね)(なが)親王035と皇子尊良(たかなが)親王035とを奉じて北国に赴かせ、自らは京都に帰った。ところが足利尊氏は後醍醐天皇を幽閉し、強いて神器を光明院に渡してもらいたいと願った。後醍醐天皇は偽器を授け、真の神器を奉じて延元元年133612月、ひそかに吉野に遷った。(南朝)足利尊氏が立てた光明院は北朝という。

 

金ヶ崎宮(福井県敦賀市金ヶ崎町、明治23年、1890年、金崎城址に創建)は官幣中社であり、尊良親王と恒良親王を祭神とする。

 

040 北畠顕家・新田義貞の戦死 新田義貞は越前に下り金ヶ崎城に拠ったが、延元2年、1337の春に落城し、皇子尊良親王は新田義顕(新田義貞の子)と共に自殺し、皇太子恒良親王は捕らえられて京都に送られた後、足利尊氏に殺された。

 (陸奥から来た)北畠顕家はさきに一旦陸奥に帰ったが、このころまた(のり)(なが)親王を奉じて西に上り京都を取り返そうとしたが果たせず、延元3年、13385、和泉の石津で討ち死にした。次いで同年(うるう)7月、新田義貞も越前の藤島で討ち死にした。

041 後醍醐天皇の崩御 延元4年、13398月、後醍醐天皇は吉野の行宮で病気のために亡くなった。皇太子の義良(のりなが、後醍醐天皇の子)親王が次いで即位し、後村上天皇となった。

 

勤王の諸将 これより先、北畠親房(北畠顕家040の父)は常陸にいて東国を味方につけようと努めたが、やがて吉野に帰った。

042 吉野の朝廷では不幸が続いた。楠木正行(楠木正成の子)は正平3年、1348年の春、足利尊氏の将高師直(たかのもろなお)と河内の四条(なわて)(大阪府北東部)で戦って討ち死にし、正平9年、1354年、北畠親房も亡くなった。北畠親房は吉野朝廷の柱石として重んじられていた。神皇正統記を著し、尊王の大義を明らかにした。ついで同正平131358年、新田(よし)(おき)(新田義貞の子)も武蔵の矢口(東京都大田区多摩川か)で殺された。独り、菊池武光は征西将軍(かね)(なが)親王を奉じ、一時威を振るった。

 

 北畠親房の歌

 

 身の憂さはさもあらばあれ治まれる世を見るまでの命ともがな

 

 北畠親房は按察使*であった。041

 

*按察使(あんさつし、あんぜつし、あぜち)719年に創設された地方行政監督機関。平安時代に形骸化し、兼官として名目だけ残った。

 

 足利氏の内訌 足利尊氏は先にほしいままに幕府を京都に開いたが、弟の足利直義と権臣高師直(たかのもろなお)らとの間に争いがおこり、将軍の勢いは軽かった。足利尊氏が死ぬと、その子の足利義詮036がほしいままに征夷大将軍と称したが、諸将の中で心服するものは少なく、内部の争いが絶えなかった。(どこでもそうじゃないのか)

043 後亀山天皇(1383-1392南朝)の還幸(行幸(吉野)から帰ること) 吉野の朝廷では97後村上天皇の後に、98長慶天皇99後亀山天皇が相次いで即位した。また京都では足利義詮の次にその子足利義満が家を継いで政権を執った。足利義満は、元中9年、1392大内義弘を南朝に遣わし、後亀山天皇の還幸を願った。天皇はその願いを許し、京都に帰り、神器を100後小松天皇1383-1412に伝えた。後醍醐天皇が吉野に遷ってからこのときまで57年であった。

 

 長慶天皇御製

 

 雲のうへうつらぬ星を北に見て南に向かう身をはづるかな

 

皇室系図 十二

 

(93)伏見天皇┬光厳院┬崇光院――□――――□―――――(102)花園天皇

     │   └後光厳院―後円融院―(100)小松天皇―(101)光天皇

     └光明院

 

 

第三期 足利義満より室町幕府の滅亡まで 凡そ180年間

 

第九章 室町幕府

 

045 室町幕府 足利義満は細川頼之(たす)けられながら政治を行った。元中8年、1391年、足利義満は山名氏清を滅ぼし、その翌年の1392年、後亀山天皇を京都に迎えた。その後、後小松天皇の下で征夷大将軍として威を振るった。足利義満は室町に花の御所を営み、幕府をそこに置いた。(室町幕府)

046 室町幕府の組織 室町幕府の組織は鎌倉幕府に倣ったものである。執権の職は管領(かんれい)といい、斯波(しば)、細川、畠山の三家がこれに任ぜられた。(管領(かんれい)侍所の長官を所司(しょし)といい、山名、赤松、京極、一色(いっしき)の諸氏がこれに任ぜられたので四職という。地方では鎌倉に関東管領があり、九州と奥州に探題があり、諸国に守護・地頭があった。

 

 足利義満の僭上(せんしょう、臣下が身分を越えて長上をしのぐこと) 足利義満はその子の足利義持に将軍職を譲り、その後は勢いに任せて、(自分の家に)出入りする行列を上皇になぞらえ、北山に別荘を構え、三層の金閣を建て、風流な庭園をつくった。義満のことを世人は北山殿と呼んだ。義満は権臣の大内義弘043を誅した。

 

金閣

 

 足利義満が京都の北山に営んだ別荘は、十三棟の殿舎を有する。その寝殿は八棟造で、屋上に八龍を置く。義満が没した後にこれを寺にして鹿苑寺と言った。今は金閣と庭園が残っているばかりである。

金閣は三層閣で上層を究竟頂といい、中層を潮音閣といい、下層を法水院という。

 上層は方三間、屋根は宝形(ほうぎょう)造、檜皮葺(ひわだぶき)で頂に露盤(塔の上の相輪の基部にある方形の盤)を据え、その上に一個の銅鳳を安置する。内外すべて黒漆に金箔を塗り、周囲に勾欄(こうらん)(欄干)をめぐらす。

中層は方三間、屋根は檜皮葺、同じく周囲に勾欄(こうらん)をめぐらす。

 下層は五間四面、屋根はなく、前面一間は広縁で、さらに狭い(おとし)(えん)(一段低くなった縁側)をめぐらし、ここから池の中に方一間の張出(はりだし)があり、これを(そう)(せい)という。その屋根は切妻造である。

 この建築の上層は寺院建築であり、中層と下層は邸宅建築である。

 庭園に鏡湖池があり、小さな多くの島々と十数個の立石(たていし)が点在する。

 

 

第十章 関東管領(かんれい)

 

047 関東管領 初め足利尊氏はその子足利(もと)(うじ)を関東管領にして鎌倉に居らしめ、執事の上杉氏がこれを輔けていたが、その後管領の勢力は強くなった。大内義弘043, 046が足利義満に叛いたとき、足利満兼(みちかね)(足利基氏の孫)はこの謀反に通じて自らも立とうとした。しかし大内義弘が敗れたので、足利義満に屈して義満と和した。

永享の乱 2代将軍足利義持はその子3代将軍足利義量(よしかず)に職を譲った。足利義量が死ぬと、4代将軍足利義教(よしのり)が将軍になった。足利義教は、2代将軍足利義持の弟で、僧侶(義円)だったが、還俗(げんぞく)して名を義教と改めた。

この時の関東管領は足利(もち)(うじ)(足利滿兼の子)であったが、ひそかに自分も将軍になろうとしていた。ところが足利義教が将軍になったので、不満に思い、その命令に従わなかった。そこで執事・上杉(のり)(ざね)がこれを諫めたところ、足利持氏は怒り、上杉憲実を殺そうとした。足利義教は上杉憲実を助けて足利持氏を攻め、これを破ってついに自殺させた。永享11年、1439のことであった。(永享の乱)

048 ()(きつ)の乱 足利義教は諸将を抑えてその勢力を弱くしようとし、播磨の赤松滿(みつ)(すけ)の領地を割いて、それをその一族の者に与えようとした。赤松満祐はこれを怨み、()(きつ)元年、1441年、足利義教を(しい)して国に逃げ帰り、兵を挙げて叛いた。足利義勝(足利義教の子)は山名持豊(宗全)に赤松満祐を攻め殺させた。(嘉吉の乱)足利義勝はやがて5代将軍となったが間もなく死んで、その弟の足利義政6代将軍となった。

049 古河公方(くぼう)と堀越公方 関東で足利持氏047が死んだ後、上杉氏の勢いが盛んになった。上杉氏は足利義政に頼んで、足利(しげ)(うじ)(足利持氏の子)を迎えて鎌倉の主にした。ところが足利成氏は上杉氏を怨み(父の仇だから)、これと争った。しかし足利茂氏は力及ばず、下総の古河に出奔した。(古河公方)

 上杉氏は足利義政に頼んで、足利(まさ)(とも)(足利義政の弟)を京都から迎えた。足利政知は伊豆の堀越にいたので、これを堀越公方という。

 上杉氏は山内(やまのうち)扇谷(おうぎがや)の両家が相争い、共に衰えた。関東地方は全く乱れて、これを統一するものがいなかった。

 

 参考 扇ケ谷家の臣に太田持資(もちすけ)という名将がいた。法号を道灌(どうかん)といった。道灌は江戸城を築いて古河公方の備えとし、扇ケ谷定正を輔けた。ところが山内(あき)(さだ)はこれを嫉み、扇ケ谷定正に(そし)り、道灌を殺させた。

道灌がかつて上京(京都)したとき、後土御門天皇から東国の様子を尋ねられたところ、道灌は次の歌を詠んだ。

 

 わが(いほ)は松原とほく海近く富士の高嶺を軒端(のきば)にぞ見る

 

それに対して天皇は道灌を褒め、次の歌を返した。

 

 武蔵野は刈萱(かるかや)のみと思ひしにかかる言葉の花や咲くらむ

 

050 足利氏系図

 

()持―()

┌義詮―()満┤  ┌()

  │     └()教┼()政―()尚      ┌()晴┬(一一)

尊氏┤        ├政知(堀越公方)―()澄┤  └(一三)

  │        └義視―()稙      └□――(一二)

  └(関東)(管領)氏滿()滿()兼―()氏―成氏(古河公方)

 

 

第十一章 応仁の乱

 

050 足利義政 足利義政は財政困難を救おうとして租税を重くし、しばしば徳政を行い、世の中が乱れた。

051 参考 徳政とは本来人民の窮乏を救うために租税を免じたり、物品を恵んだり、ある期限内の貸借を破棄したりすることであるが、このころの徳政は、幕府が財政困難で負債を免れようとして行ったことがよくあった。

 

藤が松花となるのを詠ずる和歌 義政

 

はるにあふ北の藤なみ色にいでてまつのこと葉の花に咲くなり

 

052 諸家の家督争い 足利義政には初め子がなかったので、弟の足利(よし)()を立てて世継ぎと定め、細川勝元をその後見としておいたところ、後に実子足利(よし)(ひさ)が生まれたので、その母富子(足利義政の妻)は、足利義視をやめ自分の子の義尚を将軍にしようと思い、山名宗全に義尚のことを託した。富子は山名宗全と細川勝元との仲が悪いことを知っていた。

 そのころ畠山氏では養子の畠山政長と実子の畠山義就との間に家督の争いがあり、また斯波氏では斯波(よし)(とし)斯波(よし)(かど)の二人の養子の間に家督の争いがあった。そこで山名宗全は足利義尚を助け、畠山義就と斯波義廉を引き、細川勝元は足利義視を輔け、畠山政長と斯波義敏を引いて相対した。

053 応仁の乱 103代後土御門天皇の応仁元年、1467年、畠山政長と畠山義就とが京都で戦いを交えた。そのとき山名宗全はひそかに畠山義就を助けた。細川勝元は怒って畠山政長を助け、この時から細川勝元も山名宗全も大兵を京都に集めて戦った。

後に、細川勝元も山名宗全も相次いで死に、6代将軍足利義政はその子の7代将軍足利義尚に将軍職を譲ったが、戦争はその後も続いた。

文明9年、1477年、両軍が兵を収めてそれぞれの国に帰った。戦いの初めからこの時まで11年を経た。(応仁の乱)

054 乱後の状況 この大乱のために京都の社寺・邸宅・民家などの多くが焼けた。幕府の威望は大いに衰え、群雄が諸方に起こり相争うようになった。

 

三管領家系図

                            ┌頼之

          ┌義清―□―義季(細川氏祖)…三代略┤

源義康(足利家の祖)┤                 └頼元…二代略…勝元―政元

          │                    ┌持国―――――義就

          │  ┌義純(畠山氏祖)…六代略…満家――┤

          └義兼┤                 └持富―――――政長

             │                 ┌義将…三代略…義健

             └義氏―□―家氏(斯波氏祖)…三代略┤

                               └義種…二代略…義敏

 

 

第十二章 室町時代の仏教・文物

 

仏教 室町時代も武家の間で禅宗が広く行われた。足利尊氏、その子の義詮、孫の義満などは禅宗を保護した。足利尊氏は天龍寺を建て、足利義満は相国寺(しょうこくじ、上京区、同志社の北東)を建てた。疎石夢窓国師)、()(みょう)国師)、満済(まんさい)などの「名僧」が出た。(坊主と権力との癒着)民間では法華宗と一向宗(浄土真宗)が広く行われた。

 

055 参考 足利義満の時、禅宗の大きな寺を選び、京都五山、鎌倉五山が定められた。京都五山とは、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺をいい、別に五山の上に南禅寺があった。鎌倉五山とは建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄明寺である。これらの寺の学僧の詩文を五山文学という。

 

 学問文芸 一般的に学問は衰えたが、上杉(のり)(ざね)047は足利学校を再興し、金沢文庫を修理した。一条(かね)()は和漢の学に通じていた。禅宗の僧侶の中には詩文に巧みなものが多かった。和歌はよく行われ、連歌が流行した。謡曲と狂言が興った。

056 東山時代 足利義政は職をやめた053後、東山に別荘を構え、その中に銀閣を建て、茶の湯を催し、世の乱れをよそに奢侈に耽った。美術史ではこの時代を東山時代という。

 

 山城嵯峨清凉寺釈尊画像記 平安時代の出来事(僧(ちょう)然が平安時代に釈尊をからもたらし、それを清凉寺の本尊とした)を室町時代の風俗で描いたものらしい。永正12年、1515年、104代後柏原天皇の勅により狩野(かの)元信がこれを描き、それに青蓮院尊応法親玉が詞(ことば)を書き入れたものらしい。

 

 美術工芸 絵画ではさきに2代将軍足利義持のころに、仏画の大家明兆(みんちょう)がいた。足利義政のころには、雪舟が出て、山水画を描いた。狩野元信が出て、和漢の長所をあつめ、狩野派の祖となった。土佐光信が出て、大和(やまと)絵を再興した。金工では名人後藤祐乗(ゆうじょう)がいた。このころの蒔絵はすばらしい。茶の湯の流行につれて陶器・磁器の製作が進んだ。

 

 雪舟は名を等楊といい、備中の人である。壮年のころ京都の相国寺に入り、また鎌倉の建長寺で学んだ。応仁元年1467年、明に赴き、揚子江を渡り、江蘇・山東などの地を経て北京に入り、絵画を修め、文明元年1469年、帰朝し、如拙周文の作品に感じ、山水画を描いた。

 

058 風俗 風俗は禅宗の影響を受け、淡白な趣を好んだ。家屋は書院造で、玄関と床の間を設け、畳を敷いたものが行われるようになった。武士の衣服では烏帽子(えぼし)素襖(すおう)直垂(ひたたれ)(衣服)の一種)・袴を用いていたが、後には肩衣(かたぎぬ)(袖なし胴衣(どうぎ))・半袴(はかま)が次第に行われるようになった。遊戯では猿楽・茶の湯、活花(いけばな)香合(こうあわせ)などが流行した。

 

第十三章 群雄割拠

 

室町幕府の衰微 7代将軍足利義尚6代将軍義政の子)は、衰えた幕府の勢いを盛り返そうとしたが、若くして世を去った。

059 その後、足利()(よしたね)、()()(一一)などの将軍があったが、その間に幕府の威望はますます衰えた。

政権はまず細川氏の手に移ったが、その細川氏が一族の間の争いで衰え、細川氏の臣三好長慶(ながよし)の勢いが盛んになり、主家に代わって政権を握った。次いで三好氏も衰え、その臣松永秀が勢いを得て、永禄8年、1565年、11代将軍足利義輝を弑し12代将軍足利(よし)(ひで)を擁して自ら権勢を振るった。足利義輝の弟足利(よし)(あき)は都を逃れて諸国をさすらったが、永禄11年、1568年、織田信長に奉ぜられて京都に帰り13代将軍となった。足利義昭は足利氏最後の将軍である。

 皇室の衰微 応仁の乱1467のころから織田信長の時に至るまでの間に在位した天皇は、103代後土御門天皇、104代後柏原天皇、105代後奈良天皇、106正親町(おおぎまち)天皇であった。この間の皇室は衰え、御料所(室町時代以後の皇室の領地)からの年貢も納まらず、皇居は荒れ果て、内裏の垣が破れ、燈火が遠くに漏れ、即位や大葬の大礼も容易に挙げられなかった。

 

060 後奈良天皇宸筆 般若心経

 天文81539年から同91540年にかけて諸国が飢饉となり、疫病が流行した時、後奈良天皇は自分の徳が足らないためだと歎き、般若心経(しんぎょう)を写し、山城醍醐三宝院の()(ぎょう)僧正を宮中に召し祈祷を行わせた。その般若心経の写しの終わりに、

 

(こと)()天下が大いに()み、万民の多くが死亡に()ちた。朕は民の父母として、徳が覆う能わず。甚だ自ら痛む。竊(せつ、ひそか)に般若心経一巻を金字(金泥で書いた文字)で写し、()(ぎょう)僧正をしてこれを供養せしむ。庶幾(こいねがわくは)疾病の妙薬と為さん。」

 

この後も天皇は自筆の般若心経を諸国の一の宮(諸国の第一に待遇される神社)に納めた。

 

御製

 

 いそのかみ古き()(がや)の宮柱建てかふる世に逢はざらめやは

 今も世を神にまかせて石清水ふたたび澄まむかげをこそ待て

 愚かなる身も今更にそのかみのかしこき世々の跡をしぞ思ふ

 

061 北条早雲画像 (ずい)は早雲の法号である。北条氏の印は虎の御朱印と呼ばれる。伊勢長氏が後に北条早雲と呼ばれるようになった。062長氏(ながうじ)は諱(忌み名)のうちの一つである。Wiki 戦国時代の武将である。

 

 戦国時代 皇室も幕府も衰え、地方で群雄が割拠し、100年間互いに勢力を争った。(戦国時代)

062 北条氏 東国では古河公方や堀越公方、それに山内・扇谷の両上杉氏などが弱くなり、伊勢長氏が出てきた。伊勢長氏はまず堀越公方を亡ぼして伊豆を取り、次いで相模の小田原に拠って次第に領地を広めた。伊勢長氏は後の北条早雲である。伊勢長氏の子伊勢氏綱安房(あわ)(千葉県南部)の里見氏を破り、孫の伊勢氏康扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉憲政(のりまさ)を追い払い、古河公方も亡ぼした。そこで上杉憲政は越後に逃げ、長尾景虎のところに身を寄せた。

 

 上杉謙信と武田信玄 長尾景虎は後に長尾輝虎と改称し、法名を謙信と号し、上杉憲政から上杉の家名と関東管領の職を譲られ、しばしば兵を出して伊勢氏康と争った。

 そのころ甲斐に武田晴信がいて、法名を信玄といった。武田信玄は信濃に攻め入って、村上義清を越後に追い払った。上杉謙信は村上義清を助け、武田信玄と川中島で戦ったが、決着がつかなかった。

 

 上杉謙信は天正615783月、49歳で亡くなった。

 武田信玄画像 この画像は信玄の弟信廉の筆といわれる。信玄の子勝頼が紀伊高野山成慶院に納めたものである。信玄は天正元年15734月、52歳で死んだ。

 

063 今川義元 駿河・遠江(とおとうみ、浜松)に今川義元がいた。今川義元は東海道の要地を占めていた。三河(愛知県南部)の松平氏(後の徳川氏)を味方につけ、永禄3年、1560年、尾張を攻めたが、桶狭間の戦い1560織田信長に敗れ、討ち死にした。今川氏はその後衰え、武田信玄に滅ぼされた。

 

 大内氏と毛利元就 中国では周防(すおう)の山口に大内(よし)(おき)がいた。大内義興は山陰、山陽、西海(九州地方)の六か国を領有し、明との貿易で利益を上げ、山口は一時京都より栄えた。しかし大内義興の子大内(よし)(たか)は、奢侈に流れ、家臣(すえの)(はる)(かた)に弑され大内氏は亡んだ。そこで大内氏の将毛利元就(もとなり)は兵を挙げ、陶晴賢を(いつく)(しま)で破り、大内氏の領土のほとんどを収め、次いで出雲の尼子氏を亡ぼし、孫毛利輝元がその後を継いで、中国に勢力を振るった。

 

毛利元就(もとなり)は弘治315571125日、三人の子供、隆元・隆景(小早川)・元春(吉川)に、兄弟が相助け合うべきことを教訓した書状を与えた。

 

064 その他の諸氏 奥羽地方に伊達、葦名(あしな)、最上、秋田、南部の諸氏がいた。近畿地方には、美濃(岐阜県南部)に齋藤氏、近江に浅井氏、越前に朝倉氏、伊勢に北畠氏がいた。中国の備前(岡山県)には宇喜多氏が、四国では土佐の長宗我部氏が四国の大部分を取り、九州では豊後(大分県)の大友氏、肥前の龍造寺氏、薩摩の島津氏などがおのおのの勢力を振るった。

 

 

第十四章 明との交通 高麗と朝鮮 ヨーロッパ人の来航

 

065 明1368-1644との交通 弘安の役1281の後も、日本の僧侶と商人が支那に往来していた。足利尊氏は京都に天龍寺を建てる時にその費用を得ようとして商船を元に遣わした。(天龍寺船)元が亡び明に代わった1368後、足利義満は貿易の利益を得ようとして、明と交通したが、その子の足利義持は一旦これをとどめた。足利義政の時、交通が再開されたが、幕府が衰えると、周防の大内氏が専ら貿易を行った。

 

066 勘合の符 この勘合府は周防の大内氏が朝鮮との勘合*に用いた銅印である。この印に「朝鮮国賜大内殿通信景泰47月」と書かれている。景泰は明の代宗の年号で、その4年は朝鮮の瑞宗の元年、日本の後花園天皇享徳21453年、将軍足利義政のときである。また別の図は「通信符」の文字の右半分である。

 

*勘合 室町時代、対明貿易(勘合貿易)で、正式の遣使船であることを証明し、また船数を制限するために明が発行した渡航許可証。日本のほかにアジア諸国に発行した。

 

倭寇 鎌倉時代の半ばころから日本の西国の人々などが、海を渡って元や高麗の海岸を侵した。明の初めのころ1368からその勢いが殊に甚だしくなり、支那人はこれを倭寇と呼んで恐れた。倭寇は足利義満1368-1394のときに一時押えられたが、幕府が衰えるにしたがって再び盛んになり、時には支那人もこれに加わり、支那の内地にまで侵入するようになった。彼らは八幡大菩薩と書いた旗を押し立てたので、明の人々はその船を八幡船と呼んで恐れた。

朝鮮の建国 高麗はさきに元の属国となってから国政が衰え、その上倭寇に荒らされて、ますます弱くなった。しかし李成桂が倭寇を抑え、後亀山天皇の元中9年、1392年、高麗に代わって朝鮮国を起こした。李成桂は今の李王朝の祖先である。

 

ヨーロッパ人の来航 室町時代の中ごろから、ヨーロッパで航海の術が大いに進み、東洋に来航するものがだんだん多くなった。ポルトガル人が後奈良天皇の天文121513年(吉川弘文館『標準日本史年表』では1543年または1542年)、大隅の種子島に漂着し、初めて鉄砲を伝えた。鉄砲はたちまちの間に諸国に行き渡り、戦術や築城法などが変化した。その後イスパニア人も来て、貿易を営んだ。彼らはいつも南方から来るので当時の日本人はこれを南蛮人と呼んだ。

068 図解

大友宗麟((よし)(しげ)1530-1587)は豊後府内の城主で、一時九州北部に勢力を振るい、毛利氏に対抗した。早くから外教(キリスト教)に帰し、法名をフランシスコFransiscoといった。この印章はF, R, Coを組み合わせたものである。

 細川忠興1563-1646は細川藤孝(幽齋)の子である。その妻は明智光秀の娘で、外教に帰依しガラシャと号した。この印章Tada Uoquiは忠興のローマ綴りである。

 黒田長政1568-1623の印章はCurodaCuroNagamasaN.G.M.S.とを組み合わせたものである。

 黒田如水((よし)(たか)1546-1604) 如水は孝高の号である。法号をシメオンといった。この印章はSimeonと如水Josuiとを組み合わせ、中央に十字をあしらったものである。

 

069 皇室系図 十三

 

(102)花園天皇―(103)土御門天皇―(104)柏原天皇―(105)奈良天皇―(106)親町天皇―□―後陽成天皇

 

 

第四編 近世 織田信長の上洛から江戸幕府の滅亡まで 1568-1868 凡そ300年間

 

第一期     織田信長より豊臣秀吉の薨去まで 凡そ30年間

 

第一章     織田信長

 

071 織田信長の上洛 織田信長は桶狭間の戦い1560063で今川義元を斃し、三河の徳川家康と結んで東の武田信玄に備え、北に向かって美濃の齋藤氏を亡ぼして岐阜に拠った。106正親町天皇は永禄10年、1567年、織田信長に御料所の回復を命じた。永禄11年、1568年、足利義昭が逃亡の旅の果てに信長のところにきた。織田信長は足利義昭を奉じて西上し、近江を「定めて」京都に攻め入り、三好・松永059の党を追い払って「大御心を安んじ奉り、」13代将軍足利義昭を将軍職に就かせた。

072 足利氏の滅亡 織田信長は次に伊勢の北畠064を従え、越前の朝倉義景064を攻めた。ところが近江の浅井長政064や比叡山の僧徒が朝倉義景を助けた。元亀元年1570年、織田信長は徳川家康と共に朝倉・浅井二氏の軍を近江の姉川(伊吹山から長浜市で琵琶湖に注ぐ)で破り、1571年、比叡山を焼き払った。ところが将軍足利義昭は織田信長の勢いが盛んなのを嫌い、ひそかに織田信長を除こうとした。天正元年1573年、織田信長は足利義昭を追い出し、足利義昭に代わって政権を握った。足利氏はこれで滅亡した。

 

天下布武の印 織田信長が上洛の後にこれを用いた。朱印である。

 

073 近畿の平定 この後、織田信長は朝倉義景・浅井長政の二氏を亡ぼし、伊勢長島の一向一揆を平らげた。また織田信長は長い間争いを続けた石山本願寺と和睦し、ほぼ近畿地方を平定した。この間に織田信長は近江に安土城*を築いてそこに住んだ。(安土時代)*近江八幡市安土町下豊浦

 武田氏の滅亡 武田信玄は早くから京都に上って天下に号令しようとする志を抱き、元亀31572年、遠江に攻め入り、徳川家康と織田信長の援軍を三方ヶ原(浜松市北西部)で破り、さらに西に向かったが、翌年の天正元年1573年、病没した。その子武田勝頼も家康と戦ったが、天正31575年、徳川家康・織田信長の連合軍に三河の長篠(愛知県南設楽郡鳳来町)で破られ、天正101582年、ついに滅亡した。

 これより先、元亀21571年、北条氏康062、北条氏綱の子)が没し、天正61578年、上杉謙信062も西上の志を抱きながら死んだから、東の方では織田信長に敵するものがいなくなった。

074 中国征伐 中国の毛利氏は先に本能寺を助けて糧食を送り、また織田信長に追われて逃げてきた足利義昭072をかくまった。

織田信長は天正51577年、その将羽柴秀吉にこれに迫らせた。羽柴秀吉は次第に数国を攻め取り、同天正101582年、備中の高松城を囲み、川を堰き止めて城を水攻めにした。毛利輝元1553-1625、毛利隆元の長男、毛利元就(もとなり)の孫)は高松城の危ない様子を聞き、叔父吉川(きつかわ)元春小早川隆景と共にこれを援け、秀吉の軍と相対した。

 本能寺の変 そのとき織田信長は武田氏を亡ぼして凱旋し、ついで自分も羽柴秀吉を援けに行こうと思い、その子織田信忠と前後して京都に入り、本能寺に宿泊した。ところがその臣明智光秀1528-82はにわかに叛き、本能寺を襲い、信長を弑した(自害させた)。織田信忠も二条の(やしき)Wikiでは妙覚寺)で自殺した。天正1015826月のことである。

 

織田氏系図

 

織田信秀┬織田信長―┬信忠―秀信

    └お市殿  ├信雄

    (小谷の方)└信孝

 

 

第二章     豊臣秀吉

 

075 山崎の戦 豊臣秀吉は本能寺の事変を聞くとすぐに毛利氏と和睦し、馳せ帰って山城の山崎(京都府乙訓郡大山崎町)で明智光秀を破り、これを亡ぼした。豊臣秀吉は他の諸将と謀り、織田信忠の子織田秀信を立てて、織田信長の後を継がせた。

 賤ケ嶽(すずがたけ)の戦い1583 滋賀県長浜市 山崎の戦いで勝利した秀吉の声望は大いに揚がったが、織田氏の宿将(老練な将軍)である柴田勝家滝川(かず)(ます)はこれを快く思わなかった。彼らは織田信長の子織田信孝と結び、豊臣秀吉を討とうとした。豊臣秀吉はまず滝川一益を伊勢に攻め、次いで柴田勝家を近江の賤ケ嶽に破ってこれを亡ぼし、織田信孝を自殺させ、滝川一益を降した。天正111583年のことであった。

076 小牧の役 暫くして織田信長の子織田信雄も豊臣秀吉を忌み嫌い、徳川家康の援けを借りてこれを討とうとした。徳川家康はその請いに応じ、天正12年、1584年、尾張の小牧山に陣取り、豊臣秀吉と対峙し、豊臣秀吉の別軍(主力とは別につくられた部隊)を長久手(ながくて、名古屋市東部の町)で破った。豊臣秀吉は織田信雄や徳川家康と和睦して帰った。

 

 全国の平定 この後豊臣秀吉は長曽我部元親を降して四国を定め、越中の佐佐成政、越後の上杉景勝を従えて北国を平らげ、天正151587年、九州の島津義光を降し、天正18年、1590年、北条氏政・氏直の父子を相模の小田原で攻め亡ぼし、関東諸国を定めた。陸奥の伊達政宗もこの時にやって来て降伏した。ここに応仁の乱から乱れていた天下が統一された。

 

077 黒田侯爵家所蔵大阪陣屏風図解 天守閣の右に大きな屋根の千畳敷、その下方に桜門がある。

 

 豊臣秀吉の尊王 この間に豊臣秀吉の官位が次第に進み、従一位関白となり、また太政大臣に任ぜられ、豊臣の氏を賜った

078 豊臣秀吉は「尊王の心が深く」、京都に聚楽第を造り、107後陽成天皇の行幸を仰ぎ奉り、諸侯に、皇室を尊び、関白(自分)の命に従うべきことを誓わせた。また皇室の御料(所領)を増し奉った。

079 秀吉は先に壮大な大阪城を築いたが、晩年になって、新たに伏見城を造ってそこに住んだ。このころの人情・風俗や美術・工芸品等は雄大華麗である。後世伏見の城地を桃山というようになったので、秀吉の時代を桃山時代ともいう。

 

 図解 飛雲閣 飛雲閣は京都西本願寺にある。三層の建築で、もとは聚楽第の一部であったが、ここに移された。中層・下層に軒唐破風(屋根の切妻についている合掌形の板、雨を入口の左右に落とすためのもの)を用いる。天井や杉戸に狩野永徳狩野山楽などの筆とされる画がある。

 

 狩野山楽筆花鳥画屏風 侯爵徳川義親氏蔵

 これは桃山百双屏風の類である。

 狩野山楽は近江国の生まれで、木村光頼という。豊臣秀吉に仕え、狩野修理亮といった。晩年は山楽と号した。

 

参考 聚楽第は天正141586年の築造である。その(あと)は明らかでないが、今の二条離宮の北の方であったろう。聚楽城とも称せられ、邸宅と城郭とを兼ねたものであった。周囲に高い石塁(石の砦)と深い堀をめぐらし、櫓と塀を建て連ね、城内に殿閣が軒を並べ、築山、泉水もあった。

080 天正1615884月、107代後陽成天皇が聚楽第に行幸した。

 

ここで著者中村孝也はこの行幸の模様を記述した太平記の部分を引用した後で、こう述べている。

「皇室に対して(人々が、そして太平記の著者が)奉る崇敬の感情が、美しく流れ満ちていることの快さよ。」

 

天皇は5日間聚楽第に「いらせられた。」秀吉は朝廷の御料を奉り、諸侯に忠誠の誓いをさせた。

 

著者は、後陽成天皇、正親町上皇、秀吉の三人が和歌を詠み合い、その最後の正親町上皇の和歌

 

埋もれし道もただしき折にあひて玉の光の世にくもりなき

 

を紹介した後で、こう述べてまとめている。

 

「嗚呼、埋もれていた道も正しい折にあって、皇室の御尊厳が照り輝くばかりにあらわれて来られた。聚楽行幸は秀吉にとって不朽の光栄であった。」

 

081 豊臣秀吉の政治 秀吉は五奉行を置いて政治を分掌させ、五大老をその上に置いて大事を議せしめた。また貨幣の制度を整えて大判・小判などをつくり、全国の田地を検査して石高を定めた。

 五奉行とは、石田三成、浅野長政、増田長盛、長束(なつか)正家、前田玄以(げんい)の五人をいい、五大老とは徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝の五人をいう。

 

 

第三章     朝鮮征伐

 

082 征明(明の征服)の計画 秀吉は早くから海外諸国を討ち従えようとする大志を抱いていた。国内を平定すると、まず明国に向かおうとし、朝鮮国王に書を与えて、日本軍の嚮導(きょうどう)(先頭)とさせようとした。しかし朝鮮がそれに従わなかったので、秀吉は関白職を養子の秀次に譲り、自らは太閤(関白を辞してなお内覧(天皇に奏上する前に文書を見ること)の宣旨(勅旨を宣し下達すること、またその命令)をこうむった人)となり、肥前の名護屋(佐賀県唐津市)に下り、大軍で朝鮮に攻め入らせた。

083 文禄の役 文禄元年1592年、加藤清正小西行長が先鋒となり、九鬼(よし)(たか)藤堂高虎が水軍を率い、宇喜多秀家が総大将となって朝鮮に押し寄せた。「わが陸軍」は釜山に上陸し、破竹の勢いで直に(けい)(じょう)に入り、国王を走らせ、二王子を捕虜にした。しかし我が水軍は朝鮮の将李舜臣に妨げられて、進めなかった。明は朝鮮の請いに応じて大軍を出して援けに来たが、小早川隆景は踏みとどまって碧蹄館(平城と漢城(ソウル)との間のようだ)で戦い1593.2.27、散々に打ち破った。

 和議の不成立 明廷は大いに恐れ、使いを遣わして和を請わせた。秀吉はこれに応じ、釜山に守将をとどめ、他の諸将を一旦我が国まで引き上げさせた。ところが明は和約を実行せず*、慶長元年1596年、明の使いの持ってきた国書に、「秀吉を封じて日本国王となす」という言葉があったので、秀吉は大いに怒り、使者を追い返し、和議は破れた。

 

*どう実行しなかったのか。沈惟敬の示した七か条で不満がないのではないのか。

 

084 参考 明の使いは()であった。わが将士の中にも戦いに飽きたものもいた。沈惟敬は以下の七か条を約したが、この和約は沈惟敬が勝手に定めたものであった。*その証拠はあるのか。

 

一 明の公主を日本の后妃とすること

二 貿易を旧に復すること

三 日明の大官は互いに誓書を取り交わして、永く親密を誓うこと

四 朝鮮の南半四道を日本に割譲すること

五 朝鮮の王子・大臣を人質として日本に遣わすこと

六 朝鮮の二王子を還すこと

七 朝鮮の大官から誓詞を日本に奉ること

 

085 慶長の役 慶長2年、1597年、小早川秀秋が総大将となり、わが軍は再び朝鮮に攻め入ったが、戦況は以前のようには振るわず、また慶長3年、15988月、秀吉の病が重くなり、63歳で亡くなり、諸将は遺命により兵を引き上げた。前後7年にわたる外征であった。

 

 豊臣秀吉と南方諸国 秀吉は明と朝鮮を征服しようとしただけでなく、天正191591年、フィリピン島の太守に書を送り、入貢を促した。また文禄21593年、高山(こうさん)国(今の台湾)にも書を送り、同じく入貢を求めた。

 

 高台院夫人(秀吉の妻)と大政所 秀吉の妻高台院夫人は、本姓を杉原氏といい、もとは尾張の人で、秀吉の身分が低かったころからよく夫を助けて苦楽を共にし、秀吉が高官に上った後は、北政所(きたのまんどころ)と呼ばれた。諸将は北政所の徳になついた。

秀吉は幼少のとき父と別れたから、生母(おお)政所に対する孝心が深く、征服の陣中でも母に書を寄せた。

 

 

086 豊臣氏系図

 

┌秀次(実は秀吉の妹の子)

木下弥右衛門┬秀吉

      │  └秀頼

      └朝日姫(家康に嫁す)

 

 

第二期     関ヶ原の戦いから江戸幕府の終まで 凡そ270年間

 

第四章     徳川家康 関ヶ原の戦い 豊臣氏の滅亡

 

087 徳川家康の経歴 徳川家康は三河の岡崎に生まれ、幼少のころは人質となって駿河の今川義元063のところにおり、桶狭間の戦いの(今川義元が戦死した)後にようやく国に帰り、それから織田信長と結託した。徳川家康は織田信長が亡くなった後、その子織田信雄を助け、豊臣秀吉と対峙して小牧山1584で戦い、やがてこれと和睦した。北条氏が亡びた(076、豊臣秀吉は天正18年、1590年、北条氏政・氏直の父子を相模の小田原で攻め亡ぼした)後、(徳川家康は)関東の地に封じられて、武蔵の江戸城に居り、諸将の中では最も威望が高かった。

 関ヶ原の戦い 豊臣秀吉が亡くなった1598とき、その子豊臣秀頼はわずかに6歳だったので、徳川家康は前田利家(五大老の一人)と共にこれを輔けた。

慶長41599年、前田利家が亡くなり、天下の実権はおのずから家康の手に帰した。五奉行の一人である石田三成は、家康が勢いに乗じて「わがままな」行いをするのを見てこれを憤り、会津の上杉景勝(五大老の一人)やその他の同志と謀り、ひそかに家康を除こうとした。

 家康はこれを知って、慶長51600年、先ず会津の上杉景勝を討とうとして東国に向かった。石田三成はそのすきに乗じて毛利輝元(五大老の一人)を推して盟主とし、西国の諸大名を語らい、兵を挙げて伏見城を攻め落とし、進んで美濃に入った

家康はこれを聞いて軍を引き返して美濃に入り、1600915日、関が原で戦い、西軍を破り、その将石田三成、小西行長083らを捕らえて斬った。ついで家康は大阪城に入り、上杉景勝・毛利輝元など西軍に属したものの領土を削った。これより豊臣秀頼も摂津、河内、和泉で60余万石を有する一大名のような有様となった。

 

088 天海1536?-1643は徳川家康の側近の僧侶。

徳川家康が常用していた馬印を金扇の馬標といい、家康は軍旗としてこれを用いた。木や竹などの柄を付けた装飾物である。

 

090 大阪冬の役 豊臣秀頼の生母淀君織田信長の姪である。淀君はひそかに豊臣秀吉の旧業を回復しようと思った。また大阪城中にもこれを(こいねが)うものがあった。家康はこれを知り、後々のことを心配し、ことさらに豊臣氏を激させ、慶長191614年の冬に、ついに(豊臣側に)兵を挙げさせた。

徳川家康は、その子徳川秀忠(第2代将軍)と一緒に城を囲んだ。豊臣方の真田幸村・木村重成などの諸将がよく防戦したが、諸大名で豊臣方を援けるものがなく、豊臣方の勢いは振るわなかった。しかし家康は堅固な大阪城を陥れることが容易でないことを知っていたので、間もなく一旦和睦した。

 

 参考 これより先、豊臣秀吉は天正141586年、京都に方広寺(ほうこうじ、京都市東山区大和大路七條上る)を建て、そこに大仏をつくった。ところが慶長元年1598年の大地震でその大仏が壊れてしまった。

豊臣秀頼は母淀君と共にこれを再建し、片桐且元を奉行(政務執行人)として、慶長1916144月、(きょ)(しょう)の鋳造を終わり、8月、供養をしようとしたが、たまたま徳川家康が、その鐘銘の中に「国家安康」「君臣豊楽・子孫殷昌(繁盛)」などの句を見つけ、自分を呪咀(咀(かむ)、詛(のろう))する心であろうと言い、厳しく豊臣秀頼を(なじ)った。片桐且元が色々苦心したがその甲斐なく、ついに冬の役が開かれることになった。(鐘銘事件)

 

090 大阪夏の役の図 この図は元和元年16155月大阪落城前における城門の内外の状況を描いたものである。原図は焼失し、これは摸本である。

 

091 大阪夏の役 ところが和睦の条件を実行するに当たってまた争いが生じ、大阪方(豊臣側)は徳川氏が誠実でないことを憤り、翌元和元年1615年の夏にまた兵を挙げた。徳川家康父子は軍を率いて攻め、たちまちに城を陥れた。豊臣秀頼、淀君は自殺し、豊臣氏は滅亡した。

 

 参考 淀君(織田信長の姪090)は近江小谷(おたに)城主浅井長政072(むすめ)で、母は織田信長の妹小谷(おたに)の方お市殿)であった。淀君は名を茶々と言ったが、豊臣秀吉の側室となり、淀の城にいたから淀殿または淀君と言われた。

淀君には妹が二人あった。天正元年1573年、浅井長政が滅亡したとき、茶々はわずかに7歳の少女であり、妹たちと一緒に母小谷の方に連れられて尾張(の織田家)に帰ったが、本能寺の事変1582(織田信長が自殺)の後、小谷の方は柴田勝家1575年か、織田信長に越前方面軍を任された。)に再嫁し、三人の女も一緒に越前北荘(きたのしょう)へ往った。ところが天正111583柴田勝家が滅亡(賤ケ嶽の戦い075で豊臣秀吉に敗れ自殺した。)したとき、小谷の方は三女を(柴田勝家を破った敵方の)豊臣秀吉の陣所に送り、自分は柴田勝家に殉して、潔く自殺した。

後、豊臣秀吉の妻となった茶々淀君となった。(たい)()という(おくりな)(死後の名。実名を諱(き、いみな)として忌む)がある。

次の妹は京極高次の夫人となった。常高院と言われる。

末の妹は徳川秀忠の夫人となった。崇源(すうげん)と言われる。

淀君は天正171589年、鶴松を生んだが、三歳で夭死した。次いで文禄21593年、(ひろい)が生まれた。お拾君が秀頼である。豊臣秀吉薨去のとき、秀頼は六歳であった。

末の妹の徳川秀忠夫人の子には家光忠長のほかに五人の女がいた。長女の千姫は後に豊臣秀頼の夫人になり、第五女の和子は後に108後水尾天皇の中宮となった。

長女の千姫には子がなかった。大阪落城1615のとき、千姫は逃れて徳川氏の許に帰った。

秀頼には別に一人の男子と一人の女子とがあった。男の子は国松といったが、豊臣氏滅亡の年1615伏見で捕らえられて殺された。女の子は後、鎌倉松ヶ丘の東慶(とうけい)に送られ、その第二十世の住職(てん)(しゅう)()となった。東慶寺は縁切寺と呼ばれる尼寺である。

元和元年161558日、大阪落城のとき、淀君は49歳、豊臣秀頼は23歳であった。二人とも自殺した。

 

豊臣秀吉       ┌鶴松

╟―――――――――┤  ┌国松

浅井長政           ┌女(淀君、大虞院)  └秀頼┤

―――――――――-―┼女(常高院)       └女(天秀尼)

小谷の方(織田信長の妹)│ ║          

║           │京極高次       

柴田勝家        └女(崇源院)     ┌千姫

╟―――――――――┼和子(後水尾天皇中宮)

徳川秀忠      ├家光

          └忠長

 

豊国祭の図 京都豊国(とよくに)神社*所蔵 

 

*東山区七條智積院北東の樹下社というのもあるが、博物館の北側、方広寺南側のものが本命のようだ。

 

 この図は慶長916048月、豊臣秀吉の七回忌に当たり、豊国神社で催された臨時大祭の光景を描いた屏風絵の一部である。この大祭は812日から同18日まで七日間に亘った。ここに掲げた部分は方広寺大仏殿の前で、京都の市民が狂喜乱舞している有様である。これを豊国踊りと言った。中央の建物は大仏殿である。回廊の外側に桟敷(地面より一段高く作られた観覧席)を設けている。踊衆は総勢500人、五組に分かれ、笠鉾(大きな傘の上にほこ、なぎなた、造花などを取り付けたもの)を押し立て、華やかな服装で踊り狂い、ざわめき合った。

 この屏風は六曲屏風で、左右一双あり、筆者は狩野内膳(一翁)、慶長111606年に本社に奉納されたものである。

 

 この絵の右上方に掲げた豊国大明神の神号は、豊臣秀頼が8歳の時の筆である。この筆は秀頼から与えられたものだそうだ。

 

 

第五章     江戸幕府 徳川家光

 

094 幕府の創立 徳川家康は関ヶ原の戦い1600の後、慶長81603年、征夷大将軍に任ぜられ、幕府を江戸に開いた。次いで慶長101605年、将軍職をその子徳川秀忠116に譲り、自分は駿府(静岡市、駿河国の国府の所在地)に退き、大御所と称せられたが、大きな事件があればこれを取り決めていた。

 大阪夏の役1615の後、元和21616年、75歳で亡くなった。勅して東照大権現という()号(死後のおくり名)を賜った。初め駿河の久能山に葬ったが、後下野の日光山に改葬した。

 将軍秀忠と将軍家光 第二代将軍徳川秀忠はよく父家康の遺法を守り、1623年、将軍職をその子徳川家光に譲った。徳川家光はよく諸大名を抑え、土井利勝、酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋などの名臣に助けられ、多くの制度を整えた。徳川家光を養育した春日局(かすがのつぼね)は雄々しい気性の夫人だった。

 

 参考 徳川家光と江戸城の図 江戸城の図は東海道絵巻の一部分で、諸大名が登城する有様を描いている。五層の天守閣が巍然(ぎぜん)として聳えているから、明暦31657年の大火以前のものである。

 春日局は名を(ふく)といい、齋藤利三の女である。初め稲葉正成に嫁ぎ、後、徳川家光の乳母となった。徳川家光が将軍徳川秀忠の継嗣(けいし)となったのは、春日局の尽力によるところが多いと言われる。寛永61629年、上洛して後水尾天皇に拝謁し、春日局という号を賜った。寛永2016439月、65歳で没した。

春日局は東京湯島麟祥院を建立した。

 

096 幕府の職制 幕府の(おも)な職は、大老、老中、若年寄である。大老は必ず常に置いたものではなく、老中が主として政治を行い、若年寄がこれを助けた。また寺社奉行、勘定奉行、江戸町奉行などがあり、地方では京都に所司代を置き、大阪、駿府に城代を置き、その他重要な地に奉行、郡代、代官などを置いた。

 

 朝廷と幕府 徳川家康は表面的には朝廷を尊んだが、公家諸法度を定め、(京都)所司代を置き、実は巧みに朝廷を抑えた。豊臣秀忠の女和子東福門院)は、108後水尾天皇の中宮になったが、天皇は幕府の勢いが盛んなことを快く思わず、中宮(和子)の所生である皇女明生(みょうしょう)天皇109代、女帝)に位を譲り、院に退いた。女帝は48称徳天皇764-77046孝謙天皇749-758、父は聖武天皇)以来初めてであった。明生天皇の弟110後光明天皇は皇威を振るい起そうとしたが早くなくなった。その弟の111()西(さい)天皇112霊元(れいげん)天皇のとき、朝廷と幕府の関係は穏やかだった。

 

 参考 後水尾天皇1611-1629は在位19年、寛永61629年、出家し、延宝81680年に亡くなった。宝算(ほうさん)85歳。1596-1680

「恐れ多くも」幕府について不満の情を述べた歌がある。

 

蘆原よしげらばしげれ己がままとても道ある世とは思はず

思ふことなきだに易くそむく世にあはれ捨てても惜しからぬ

 

098 幕府と諸大名 諸大名には、親藩・譜代・外様などの別がある。親藩とは徳川氏の一門をいい、譜代とは三河このかたの旧臣をいい、外様とは、初めは徳川氏と対立し、後これに従ったものをいう。親藩のうち、尾張の徳川義直、紀伊の徳川頼宜(よりのぶ)、水戸の徳川頼房は家康の子で、特に御三家と言われる。譜代の諸大名は幕府の重職につくことができたが、外様の諸大名は幕府の政治に関わることができなかった。関東、近畿、東海道その他の要地に親藩や譜代の諸大名を置き、外様の諸大名は遠方の地に置いた。なお天領という幕府の直轄地を諸所に交えて置いた。

099 その他幕府は武家諸法度を定めて諸大名を取り締まり、参勤交代の制を立てて、諸大名の妻子を江戸に置かせた。

 

第六章     海外諸国との交通 天主教の禁 島原の乱

 

 朝鮮・支那・琉球との関係 朝鮮と支那との交通は、文禄の役1592と慶長の役1597の後自然に絶えていたが、徳川家康は対馬の宗氏に命じて、先ず朝鮮との国交を回復させた。

明との交通は回復できなかったが、民間では多くの商人が往来していた。明が亡び、清がこれに代わった後も、清の商船は絶えず日本に来航していた。

100 琉球は先に秀吉の命を奉じて入朝したことがあった。徳川家康のとき、来聘(らいへい)(礼物を持って訪れること)を促したが応じなかったので、慶長141609年、島津氏に琉球を征服させ、琉球を長い間島津氏の領土とした。

 

 オランダ・イギリスとの交通 このころ葡萄牙(ポルトガル)や西班牙(イスパニア)のほかに、和蘭(オランダ)・英吉利(イギリス)の人々が来航した。家康は日本に漂着したオランダ人ヤン・ヨーステンJan Joosten、イギリス人ウイリヤム・アダムスWilliam Adamsを召し寄せて海外の事情を問い、慶長141609年、オランダ人に貿易を許し、慶長181613年、イギリス人にも貿易を許し、肥前の平戸や長崎などで貿易に従事させた。

 

101 参考 ヤン・ヨーステンは江戸に屋敷を与えられて住んでいた。八重洲(やえす)河岸(がし)という地名はそれから起こった。ウイリヤム・アダムスは後に日本に帰化し、相模の三浦半島に土地を与えられた。アダムスの船は(あん)(じん)役(水先案内)であったから、三浦按針ともいった。三浦按針の江戸の住宅があったところが日本橋安針町であるという。

 

 わが国人の海外渡航 海外に渡って貿易を営む日本人は、秀吉のころからずいぶん多かったが、江戸幕府の初めになってその風はますます盛んになった。幕府から朱印状を受けて、阿媽港(あまかわ)(マカオ)・呂宗(るぞん)・安南・暹羅(しゃむ)などの南洋の地方に往来する船が増えた。家康もノバ・イスパニアNueva Hispania(今のメキシコ)に使いを遣わし、通商を開こうとしたことがあった。

 

102 参考 海外に押し渡って日本人の武勇を示した者もいた。山田長政は元和1615-23のころ暹羅(しゃむ)に赴き、その地に在留していた日本人とともに、「その国王を助けて国難を救った」ことがあった。濱田(はまだ)彌平が寛永1624-43の初めに台湾に渡ってオランダ人を「懲らしめた。」

 

 天主教の伝来 ポルトガル人が来航して間もなく、天文181549年、宣教師フランシス・ザビエルFrancis Xavierが日本に来て、初めてキリスト教の一派であるゼスイット会の教えを伝えた。日本人はこの教えを切支丹または天主教といった。天主教はその後次第に広まり、織田信長は公にその布教を許し、九州の大友氏、大村氏、有馬氏などは使者をローマに遣わし、法王に謁見させた。

 

 参考 フランシス・ザビエルはイスパニアの貴族で、フランスのパリ大学に学んだ。ザヴィエルはイグナチウス・ロヨラIgnatius Loyolaを助け、耶蘇会Society of Jesusを起こし、ローマ法王のために尽力した。36歳の時にヨーロッパを出てインドの各地に教えを伝え、天文1815497月、薩摩の鹿児島に来て、江戸に移り、山口を経て、天文201551年正月京都に入った。京都は当時戦乱の最中であったためザヴィエルは非常に失望し、京都滞在10余日で荒れ果てた帝都を去り、舟で淀川を下り、平戸に帰った。しかし山口の繁華を忘れ兼ね、また大内氏(室町時代の周防の守護大名)の城下に至り、そこから豊後(鎌倉時代から室町時代にかけて大友氏が守護、大分県)の府内(大分市の旧称。奈良時代、豊後国の国府の所在地)に移り、155110月、インドに去った。

 

 この画像は1596慶長元年(ザヴィエル没後44年)に刊行されたザヴィエル伝を英訳して、1632寛永9年、パリで出版したものの口絵である。

 天正101582大友宗麟(そうりん)、大村純忠(すみただ)、有馬晴信102の三侯がローマ法王のもとへ使者を遣わした。その使者は、正使は伊東義賢Mancio千々岩清右衛門Michael、副使は中浦JulianMartinで、いずれも当時16歳未満の少年であった。アレキサンデル・ワリニヤノAlexandre Valignanという宣教師に連れられてインドの臥亜(ゴア、Goa)に行き、そこから別の宣教師が同行して4年後にリスボンLisbon港に至り、イスパニアで上下の歓迎を受け、イタリアに入り、壮麗な儀式でローマ法王グレゴリオ13Gregorio XIIIへの拝謁を遂げた。ここに挙げた画像は「法王グレゴリオ13世偉業聖績要略」の中に載せてある木版画に拠ったものである。日本の少年使節達は法王の前に跪いている。

それから多くの名誉を与えられてローマを辞し、ヴェニスでも歓迎され、イスパニアに帰り、リスボン港を出帆して、ゴアを経て天正181590年長崎に帰着した。往復9年を費やした。日本人が公にヨーロッパに使いとして赴いたのはこれが初めてである。

 

末吉(すえよし)(ぶね)の図 この図は大阪の商人末吉孫左衛門吉康が、南洋貿易の航海安全を祈願するために、その船の有様を描かせ、京都清水寺に奉納した、扁額(横額、室内や門戸に掲げる横長の額)三面の中の一面である。

孫左衛門の父、勘兵衛利高は、徳川家康に仕え、舟航(しゅうこう)や銀座(民営の銀貨鋳造所)を担当した。孫左衛門は大阪に住み、盛んに南洋貿易を営み、慶長1596-・元和1615-・寛永1624-43のころ、しばしばルソンや東京(とんきん、ベトナム北部)などに渡航した。

 

 この図は御朱印船である。三味線、骨牌(かるた)、双六(すごろく)、煙草盆(たばこぼん)、煙管(きせる)などが見える。檣(帆柱、マスト)の上で「南洋の土人」が働いている。

 

 またこの渡海朱印状は徳川家康が慶長9825日に出したものである。次のように書かれている。

 

日本より暹羅(しゃむ)に到る商船なり

右慶長91604甲辰825

 

 

104 天主教の禁止 豊臣秀吉は天主教がわが国の安寧を害する恐れがあることを憂えてこれを禁止した。家康も禁止した。しかし、伊達政宗は「宗法を求める」のを口実に、その臣支倉(はせくら)をローマに遣わした。また海外との交通が盛んだったので、宣教師がひそかに入り込んでいた。3代将軍徳川家光(在位1623-1651)は天主教と関係があると思われる書籍を輸入することや、わが国人が海外に渡航すること、海外に移り住んでいるわが国人が帰国することを禁止し、宗門の取り締まりを厳しくした。

 

105 南蛮船渡来の図 これは慶長頃に作られた六曲屏風絵の一部である。ポルトガル船が入港し、船長が船員を連れて上陸し、土産物を携え、長い行列を作って日本の役所にあいさつに行くのを、在住の宣教師が迎えに出て、日本の武士や町人などが物珍しげに眺めているところである。

長くて黒い衣服を着流し、黒い僧帽を戴いているのがゼスイット会の僧侶である。その間に交じって褐色の僧衣を着け、細い帯を結んでいる二人はフランシスカン派の僧侶である。

慶長の半ばころ、日本に来た宗派には、この他に、ドミニカン派とオーガスチン派とがあった。

 

106 参考 支倉六右衛門常長は伊達政宗の臣である。伊達政宗の命により、慶長1816139月、宣教師ソテロSoteloと共に陸奥から船で太平洋を横切り、今のメキシコに到り、それから大西洋を航海し、イスパニアを経てイタリアに入り、ローマ法王ポーロ5Paul Vに拝謁し、伊達政宗の書を呈し、元和61620年に帰国した。往復に8年を費やした。その帰国のころには禁教が厳しくなっていた。

 

 島原の乱 寛永141637年(徳川家光が将軍に在位していたころ)の冬、天草と島原の天主教徒は、益田時貞を戴いて島原半島にある原城址を修理し、ここに拠って乱を起こした。幕府は驚いて大軍を発して城を囲み、翌年1638年の春、漸く平定した。

 

 参考 原城は肥前国島原半島の南端にあり、もとは有馬氏のものであったが、後に(はい)()となっていたのを教徒たちが手を加えてここに拠った。

 図の左上の旗は、益田四郎時貞所用の旗である。中央に葡萄酒を盛った聖盃(はい)がある。その上に円形の麺麭(パン)に十字架を描いたものを載せ、左右に二人の天使が合掌礼拝している。

旗の上方のポルトガル語は「いとも尊き秘跡、(さん)(こう)せられよ」という意味である。

益田時貞は城郭の周囲に多くの旗と十字架を立て連ね、荘厳な祭式を行い、士気を鼓舞した。

右下方のものは踏絵である。向かって左側のものは真鍮踏絵で、聖母マリアがキリストを抱き、多くの人がこれを礼拝しているところである。向かって右側は板踏絵で、聖母マリアを中心に頭の上に七星、足の下に弦月がある。

108 原城址に立て籠もったものは、老若男女25千人といわれる。初め板倉重昌が命を受けて征討に向かったところ、一揆の勢いが盛んなのを見て、幕府はさらに松平信綱を遣わした。板倉重昌はこれを聞き、寛永151638年正月元日、奮戦して討ち死にした。「あら玉の年のはじめに散る花の名のみ残らば(さきがけ)と知れ」という辞世に武士(もののう)のあわれをとどめている。

松平信綱はついで到り、持久の策を取って6旬の日を過ごし、1638228日に漸く城を陥れた。

 

 鎖国 島原の乱の後に幕府はますます厳しく天主教を禁じ、寛永161639年、ポルトガル人を全て放逐した。これより先、イギリス人は貿易の利益が少なかったため、自分の方から辞して平戸を去り、次いでイスパニア人も来なくなった。そしてポルトガル人も追われたから、この後はオランダ人だけが日本に来ることになり、オランダ人は長崎の出島にいて貿易を営んだ。その後外国人で来るものは、オランダ人、支那人、朝鮮人などに限られ、海外との交通は大いに衰え、世は鎖国の有様となった。

 

109 参考 この長崎港図は、寛政年間1789-1800、円山応挙が長崎に遊んで描いたものである。図中央下方の出島にオランダ屋敷があり、オランダ人が住んでいた。左方丘の中腹にあるのが唐人(とうじん)屋敷で、支那人が在住するところであった。

 

 

第七章     徳川綱吉 徳川吉宗

 

将軍家綱(4代将軍、在位1651-1680) 第4代将軍徳川家綱が職に就いたときはまだ年少だったが、叔父の保科正之が輔け、「天下はよく治まった。」しかし大老酒井忠清が政治を執るようになると、政治が「乱れた。」

110 将軍綱吉(5代将軍、在位1680-1709) 次に徳川家綱の弟徳川綱吉が第5代将軍となった。堀田正俊(まさとし)が大老を勤めて「善政」を施した。しかし堀田正俊の死後、徳川綱吉は柳沢(よし)(やす)を重用し「奢りに流れ、」生母(けい)(しょう)と共に仏教に帰依し、「僧侶の言に惑わされて」生類憐みの令を布き、殊に犬を保護したので、世人は(そし)って綱吉を犬公方(くぼう)(将軍職の人)と呼んだ。政治が「乱れ、」財政が困難になったため、綱吉は粗悪な貨幣をつくらせて一時の急を救ったが、そのために物価が高騰し、人民は大いに苦しんだ。

 

小判の写真 慶長小判金 慶長一分判金、元禄丁銀、慶長大判金、宝字豆板銀、明和五匁銀、元禄二朱判金、文政二分判金

 

111 参考 徳川綱吉は多芸多才で、書画が巧みであった。この画110は「潮干観音の図」である。観音の背後下方に内大臣綱吉筆と記してある。

 綱吉は学問を好み、聖賢の道を慕い、論語を学び、忠孝を以て世を導こうとした。天和316837月、新たに発布した武家諸法度の第一条に「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべきこと」と令し、ここに初めて忠孝の二字を用いた。

この綱吉の和歌110は「教え置くことたがはずば行末の道遠くともあとは惑はじ」とある。当時文教が盛んで「有名な」学者が出た。

 

 元禄時代1688-1703 太平が久しく続き、人々は奢侈遊惰に流れた。浄瑠璃・芝居などが流行し、衣服・調度などが華美を極めた。(元禄風)その間にあって赤穂城主浅野長矩(ながのり)の遺臣大石良雄ほか46人の義士が、元禄151702年の冬、主君の(あだ)吉良(よし)(なか)を討ち、「武士道の精華を輝かせた。」

 

112 参考 幕府は毎年正月、朝廷に使を奉って年頭の御祝詞を申し上げ、朝廷はその後、勅使を江戸に下して、そのご挨拶をあそばされるのが例であった。

元禄1417013月、朝廷からの勅使が江戸に下られた時、浅野長矩は接待役の一人で、吉良義央から儀式について指南を受けるはずであった。しかし吉良義央は不親切で、その上大勢の前で浅野長矩を罵って辱めた。浅野長矩は殿中で吉良善央に刃傷(にんじょう)に及んだ。そのため浅野長矩は切腹を申し付けられ、赤穂の城地は没収され、御家断絶となった。

 家老大石良雄は浅野家の再興について苦心したがうまくいかず、ついに翌年17021214日、同志と共に江戸本所松坂町の吉良邸に切り込み、主君の讐を復した。

 

 この「忠勇義烈の事蹟」は当時の人々を感動させ、後に小説や芝居に仕組まれ、「忠臣蔵」という名で長く世間に感化を与えている。

 

 あらたのし思ひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし 大石良雄

 

113 新井白石 徳川綱吉の次に徳川(いえ)(のぶ)1709-1712、徳川家光の孫)が第六代将軍となり、その次にその子徳川(いえ)(つぐ)1712-1716がまた立って第七代の将軍となった。

その間に新井白石(君美)が重用された。新井白石は、113代東山天皇(在位1687-1709)の子(なお)(ひと)親王*が世襲の親王家として閑院宮を創める(閑院宮の祖となる)ことに与かり、朝鮮信使の待遇を改め、良質の貨幣をつくり、長崎貿易を制限し、金銀貨が海外に流出するのを防いだ。

 

*直仁親王は東山上皇の皇子だが天皇にはならず、天皇になったのはやはり東山上皇の皇子中御門であり、中御門は114代天皇になった。

 

114 参考 このころ朝廷では皇太子や皇子・皇女はたいてい出家した。

世襲親王家は、伏見宮京極宮桂宮)、有栖川宮だけであったが、このときに閑院宮が創設され、四親王家となった。

 

 朝鮮は徳川家康が国交を回復してから長く交わりを続けていた。その使者は、慶長121607年に初めて江戸に来てから、文化81811年に江戸に来ることを停めて対馬でこれを受けるようになるときまで、全11回来朝した。

この朝鮮信使の図は、将軍家重(在位1745-1760)の寛延元年1748年のものであるようだ。正使は正装して(かご)に端座し、華麗な書簡轎の(うち)に図書を載せ、旗を掲げ、多くの従者が意気揚々と進んでいる。道筋の諸大名は鄭重にこれを待遇した。

 

将軍吉宗 7代将軍徳川家継1712-16は幼少のうちに薨じ、徳川吉宗1716-45(紀伊徳川頼宜(よりのぶ)の孫)が入って8代将軍となった。

徳川吉宗は賢明で、倹約を奨め、武芸を励まし、良貨を鋳造して財政を整え、(たし)(だか)の制を定めて人材を挙げる途を開き、目安箱を設けて士民の訴えを聞き、公事(くじ)(がた)御定書百か条をつくって刑律を定め、教育に心を用いて禁書の令をゆるくし、人々に蘭学を修めさせた。また殖産興業に思いを注ぎ、荒れ地を拓き、水利を通じ、甘蔗(さとうきび)・甘藷(さつまいも)などの栽培を奨励した。このころ諸侯も産業に注意するものが多くなり、各地の産物が次々に出るようになった。吉宗のことを幕府中興の英主という。その治世を享保の治という。

 

 参考 足高(たしだか)の制とは職の高下によって役高を定めて置き、その職に就くものの家禄(俸禄)がその役高に及ばないと、在職中はその不足の高を足して与え、職をやめればもとの家禄に戻す制度である。(役職手当みたいなものか。)

 

116 田沼意次 次に徳川吉宗の子徳川家重1745-609代将軍となり、次に徳川吉宗の孫徳川家治1760-8610代将軍となった。徳川家治の時、田沼意次が老中となり、その子の田沼(おき)(とも)は若年寄となり、「悪政」が多かった。また天災も相次いで起こり、人民は苦しんだ。(天明の大飢饉1783-88

 

徳川氏系図 (一) 127頁に続く

 

              ┌()

()忠――┬()光――――┼綱重―()宣―()

()康┼義直尾張 └和子後水尾中宮 ()

  ├頼宜紀伊―光貞―()宗―()重―()

  └頼房水戸―光圀

 

 

第八章     江戸時代の文化

 

116 仏教 徳川家康は仏教に関し、法度(はっと)を下して取り締まる一方で、寺領を与えて保護もした。禅宗の崇伝、天台宗の天海は家康に重用された。

117 4代将軍徳川家綱の時に明の僧隠元が来て、禅宗の一派黄檗宗(おうばくしゅう)を伝えた。

 仏教は全国に行われ、幕府はすべての人民を必ず仏教の中の一宗に帰依させ、寺院に人民の戸籍事務を分掌させた。そのため僧侶は遊惰に流れ、腐敗に向かった。

 

 参考 天海は南光坊といい、学問が広く、徳川家康、秀忠、家光の三代の将軍に尊ばれ、大僧正となり、日光東照宮や川越喜多院を再興し、江戸に上野寛永寺を開き、東叡山と号した。天台宗中興の祖である。寛永20164310月に寂する。年108歳。慈眼(じげん)大師と謚(し、おくりな)せられた。狩野探幽筆といわれる天海の画像の上に、天海の自賛歌がある。

 

 愚かなる心をとめぬうつし絵の仮りの姿はさもあらばあれ

 

118 隠元は4代将軍家綱のとき63歳の高齢で日本に来た。大変尊信され、帰依するものが多かった。後、山城の宇治に土地を賜り、黄檗山万福寺を開いた。日本の黄檗宗はこれから始まった。隠元は大光普照国師という号を賜り、寛文131673年入寂した。年82歳。

 万福寺の建物は支那風で、総門、三門、天王殿、仏殿、法堂が一直線に並んで西に面している。仏殿は大雄宝殿といい、重層(二階建)、入母屋造り(屋根の構造)、本瓦葺である。

 

家康の学問奨励 家康は学問を好み、古書を求めて出版し、学校を建てて文庫を設け、藤原惺窩(せいか)(藤原粛)を召して書を講じさせ、その門人林羅山(信勝)を幕府の儒官とした。

 5代将軍綱吉(在位1680-1709)も学問を好み、湯島に聖堂を建て、林家の私塾をその傍らに移して幕府の学校とし、林羅山の孫林鳳岡(ほうこう、信篤)を大学頭(だいがくのかみ)とし、その校務を(つかさど)らせた。

 

 これより先3代将軍家光のころ、近江に中江藤樹がいた。中江は学問・徳行がすぐれ、近江聖人と言われた。その門人に熊沢蕃山(ばんざん、了介)がいる。

 

 元禄1688-1703時代の前後に、京都に伊藤仁斎、その子東涯、江戸に荻生徂徠などの漢学者がいて、それぞれ一派の学風を開いた。また山崎闇斎は神道を唱え、貝原益軒は平易な文章で多くの教訓書を著した。木下順庵(じゅんあん)は5代将軍綱吉に重用され、その門下の新井白石室鳩巣(きゅうそう)などがいた。

 下って11代将軍家斉(いえなり、在位1786-1837)のころ、林述齋柴野栗山(りつざん)、尾藤二洲古賀精里中山竹山頼山陽大塩中齋(平八郎)などの学者が出た。

 

120 参考 藤原惺窩(せいか)(粛)は冷泉(れいぜい)為純の子である。幼少の時寺に入って僧となったが、後に儒教に入って朱子学を唱え、徳川家康に尊信された。

 朱子学は程朱学ともいう。宋の程顥(ていこう、程明道)、程頤(ていい、程伊川)、朱熹(しゅき、朱元晦、しゅげんかい)などが唱えた。

藤原惺窩の門人林羅山(信勝)は後に剃髪して道春といい、著述が多い。林羅山は家康、秀忠、家光、家綱の4代に渡る将軍に仕えた。その子孫に英才が多く、朱子学は幕府に保護された。

 中江藤樹は近江高島郡小川村の人で、一生どこにも仕えず*、郷里の藤樹書院で子弟に教え、陽明学を伝えた。(*精選版日本国語大辞典によれば、初め伊予国大洲藩に仕えたが、脱藩帰郷し村民を強化したとある。)

 陽明学は陸王の学という。宋の陸九淵(きゅうえん、陸象山)、明の王守仁(しゅじん、王陽明)などが唱えた。熊沢蕃山(了介)は中江藤樹の門弟である。

121 伊藤仁斎荻生徂徠は共に古学派を開いた。古学派は宋・明の学問を越えて、直に孔子、孟子の古に復そうとするものである。伊藤仁斎は京都の堀川の塾で子弟を教え、その学統を堀川学派といった。伊藤仁斎の長子伊藤東涯、末子伊藤蘭嵎(らんぐう)はともに学に秀でていた。

 荻生徂徠は江戸にいて子弟を教え、その学統を蘐園(けんえん)学派といった。徂徠は豪放な人で、その門下に宰春台服部南郭山県周南などがいた。

 山崎闇斎ははじめは仏教を修め、中ごろに転じて朱子学を学び、後さらに神道を究め、一派を開いた。

 貝原益軒は筑前の人で、平易な文章で多くの教訓書を著し、一般の士民に感化を与えた。その妻は東軒と号し、才学が秀でていた。ここに掲げたものは貝原益軒が84歳、東軒が62歳の時の合作である。愛と敬とは人倫のもとであることを述べたものである。

 

122 

   愛

   敬

               東軒書

 

愛は是れ温和慈恵にして而して人の心を悪まず

敬は是れ小心翼々として而して人の心を(あなど)らず

二つの者は親に孝なるの心なり。凡そ人倫を厚くするの道は

須(すべか)らくこれを以て本となすべし

 

八十四翁益軒書

 

ここに掲げた画像は益軒65歳の時の寿像*である。*生きている間につくっておく像。

 木下順庵119は朱子学者で、その門下に新井白石室鳩巣雨森芳洲三宅観瀾祇園南海などがいる。白石は6代将軍家宣、7代将軍家継に仕え、政治や学問で貢献した。室鳩巣は8代将軍吉宗に信任され、その命によって児童のために六諭衍義*(りくゆえんぎ)の大意を書いた。

 

*六諭衍義 中国の明の太祖朱元璋(しょう)の六か条の教訓「六諭」を、明末に范鋐(はんこう)が解説したもの。琉球、島津藩、吉宗の順でもたらされ、室鳩巣の「六諭衍義大意」や、荻生徂徠の「六諭衍義和解」となった。

 

123 文学 元禄時代、北村季吟(きぎん)は和歌や和文で、近松門左衛門は戯曲で、井原西鶴は小説で、松尾芭蕉は俳諧で活躍した。

11代将軍家斉(在位1786-1837)のころには、太田南畝(なんぼ)が狂歌で、滝沢馬琴が小説で活躍した。

 

 参考 北村季吟は和歌をよくし、古書に詳しかった。

近松門左衛門は巣林子(そうりんし)と号し、大阪で竹本義太夫のために浄瑠璃をつくった。その作は時代物と世話物とに分けられ、時代物は歴史上の事柄を扱い、世話物は世間の出来事を材料とした。その文章の絢爛(けんらん)さは百花が春に匂うがごとくであり、その豪快さは天馬が空を行くがごとくであった。

井原西鶴は大阪の人で、はじめは俳諧を学び、後に浮世草子と総称される小説20余種を著し、元禄時代の文壇を飾った。

124 松尾芭蕉は江戸に出て俳諧を盛んにつくり、諸国を旅行した。

 

 古池や蛙とび込む水の音

 旅に病みて夢は枯野をかけ廻る

 

 太田南畝は蜀山人ともいい、狂歌の名人で軽妙な作が多い。

 

 みそ(こし)の底に溜まりし大みそかこすにこされずこされずにこす

 

 滝沢馬琴4002000巻の著作を著し、その小説には大作が多い。「南総里見八犬伝」「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」「朝比奈巡島記」などがある。

 

 美術工芸 寛永1624-44のころ、絵画では狩野探幽が狩野派を中興し、土佐光興(みつおき)は土佐派を盛んにした。また住吉具慶(ぐけい)は住吉派を興し、岩佐又兵衛は浮世絵の道を開いた。

 元禄1688-1703のころ、菱川師宣(もろのぶ)は浮世絵で活躍し、尾形光琳は光琳派の蒔絵を開いた。また英一蝶(はなぶさいっちょう)は人物花鳥の絵画が巧みだった。

 文政1818-29のころ、葛飾北斎歌川豊国安藤広重らは浮世絵で活躍し、円山応挙は写生が巧みで、司馬江漢は西洋画を描いた。また池野大賀(だいが)は文人画で活躍し、谷文晃(たにぶんちょう)は絵画の一派をつくった。

 織物では友禅染、透綾(すきや、透けるように薄い絹織物の一種)、銘仙などが、陶磁器では七宝焼、九谷焼などが発達した。

 

 宮川長春筆美人画 宮川長春1682-1753Wikiは尾張の人であったが後に江戸に住んだ。享保1716-36、元文1736-41にわたり浮世絵師として活躍した。菱川師宣の画風を慕い、岩佐勝以(又兵衛、勝以(かつもち)は諱(いみな))を学んだ。彩筆は優美で、配色は妙である。宝暦61756年、71歳で没した。

 菱川師宣筆美人画 菱川師宣1618-1694Wikiは安房(千葉県)の人で、後江戸に住んだ。初めは(ぬい)(はく)刺繍*を業とし、その上絵を書くために画を学んだ。土佐派岩佐勝以の画風を修めて一家を開き、日本絵師または大和絵師と自称した。浮世絵は師宣によって盛んになった。美人画が巧みだった。正徳正41714年、77歳で没した。

 

*縫箔 衣服の模様に金糸や銀糸を交えること。金銀の箔を押すこともある。

 

 尾形光琳筆小野小町草紙洗の図 尾形光琳1658-1716は京都の人で本阿弥光悦俵屋宗達を学んでから新しい道を開いた。人物・山水・花鳥などすべてに精妙を極め、意匠が巧みである。享保元年171659歳(あるいは76歳)で没した。

 小野小町草紙洗の図 小野小町は和歌の名人であった。ある人がその自作の歌を古歌だと言って古い歌集の中に書き入れたところ、小町はそれが偽りであることを知り、その草紙を洗って新しい墨を洗い落としたという物語をこの図は描いたものである。

 

 西洋学術の伝来 寛永年間1624-45における鎖国1633, 1635, 1639, 1641の後は、海外諸国の事情を知ることが困難になったが、新井白石1657-1725西洋紀聞采覧異言などを著した。

8代将軍吉宗(在位1716-45)は学問を重んじ、自らも天文学や暦学を修め、禁書の令を弛くして、天主教に関係のない書物を輸入することを許し、青木昆陽(文蔵)を長崎に派遣して、オランダ語を学ばせた。

この時からオランダ語を修めるものがようやく多くなり、10代将軍家治の時に杉田玄白前野良沢などが、ドイツ人クルムスの「解剖図譜」のオランダ語訳「ターヘル・アナトミア」を漢文に翻訳し「解体新書」とした。

11代将軍家斉のとき、大槻玄沢が蘭学階梯(かいてい、蘭学の入門書)を著した。こうして西洋の学術は次第に盛んになり、理学・博物学・兵学などを学ぶものが現れ、蘭学者は最もよく西洋の事情に通ずるようになった。

 

*西洋紀聞 屋久島に潜入したイタリアのイエズス会宣教師シドッチを尋問したときの質疑応答の記録。西洋諸国の地理・歴史・風俗と天主教に関する記述からなる。秘本とされ、公刊されたのが1882年だが、1793年に幕命によって献上した後は、知識人の間に広まっていた。

 

*采覧異言 ヨーロッパ、アフリカ、アジア、南北アメリカの地理・歴史・風俗・産物などについて江戸在留中のオランダ人などの外国人に尋ね、マテオ・リッチの「坤輿万国全図」、ブラウの「世界図」などを参照して記した。6代将軍徳川家宣の命による。

 

126 参考 杉田玄白は初め支那の医書によって外科術を学んだ。後にオランダ文の解剖書を得て、前野良沢と協力して解体新書を翻訳した。西洋医学の元祖である。このころ医師は剃髪する習慣があった。

 

 

第九章     徳川家齊(いえなり)及び諸藩の治

 

将軍家斉 10代将軍家治の次に家斉(在位1786-1837、吉宗の曽孫)が立ち、第11代将軍となった。これより先、8代将軍吉宗の子宗武(むねたけ)は田安家を起こし、同じく吉宗の子宗尹(むねただ)は一橋家を起こし、同じく吉宗の子家重9代将軍)の子重好清水家を起こした。これを御三家という。家斉は一橋家から出た人であった。

 

徳川家系図 二 160頁に続く

 

家康―頼宜紀伊―光貞―()宗┬()重――┬(一〇)

             │    └重好清水家

             ├宗武田安家―定信松平

            └宗尹一橋家―治済―(一一)

 

127 松平定信 将軍家斉は陸奥白河の城主松平定信を挙げて老中とした。定信は田安宗武の子で、享保の政治を模範として倹約を奨め、武芸を励まし、財政を整え、「風俗を匡し」、殖産興業に心を用い、昌平黌の教育を振るい起した。昌平黌は湯島の聖堂に設けられた幕府の学校である。定信は尊王の心が極めて篤く、皇居が火災になったとき、その造営を掌り、古い制度に復したことが多かった。(寛政の改革)

 

128 参考 松平定信が老中の首座になった1787ときは、天明大飢饉1783-88の後で、「険悪な」世の中であった。その翌年1788年の正月、定信は江戸本所吉祥院に願文(がんもん)を捧げた。

 

 天明81788年正月2日、松平越中守(定信)義、一命を懸け奉り、心願仕(つかまつ)り候。当年米穀融通宜しく、格別の高直(値)これなく、下々難儀仕らず、安堵静謐仕り、並びに金穀御融通宜しく、御威信御仁恵が下々え(へ)行き届き候様に、越中守の一命はもちろんのこと、妻子の一命にも懸かり奉り候うて、必死に心願奉り候こと。右条々相調わず、下々が困窮し、御威信御仁徳行き届かず、人々が解体仕り候義に御座候はば、ただ今のうちに、私死去仕り候様に願い奉り候。生きながらえ候ても、中興の功ができ仕らず、汚名を相流し候よりは、ただ今の英功を養家の幸、並びに一時の忠に仕り候へば、死去仕り候方が、却って忠孝に相叶い候義と存じられ候。右の仕合につき、御憐愍(れんびん)を以て金穀を融通し、下々が困窮に及ばず、御威信御仁恵が行き届き、中興全く成就の義を、偏(ひとえ)に心願奉り候。敬白。(松平子爵家文書)

 

129 定信は皇室を「尊崇したてまつる」心がきわめて篤かった。このころ京都で天皇の「御位におはしました」のは119光格天皇で、英名の君たる御聞こえが高かったから、世の人は「西に聖天子あり、東に賢宰相あり」と言って讃めたたえた。

 定信は在職7年の間に多くの改革をなして引退した。引退後は花鳥風月を友として、多くの美しい歌や文章を残した。その中の「花月草紙」はとりわけ「名高い。」その他「有益な」著述もたくさんある。

 

 文化文政の時代 松平定信が老中職を退いた1793後、家斉はなお40余年間1786-1837将軍職にあった。その中で文化1804-17・文政1818-29のころ、学問・芸術が進み、漢学・国学・蘭学や小説などで名家が出て、人々は太平の楽しみに耽ったが、幕府の勢いはようやく「衰え」始めた。

 

130 参考 天保(てんぽう)71836年は諸国の飢饉が特に甚だしく、多くの人民が困窮した。この時大阪の学者大塩平八郎は政治の腐敗を憤り、天保81837年、窮民を救うために乱を起こしたが、敗れて自殺した。

この年1837年、家斉の子家慶(いえよし)が次いで12代将軍となった。

 

湯島の聖堂での講釈には、御座敷講釈、稽古所講釈、日講所講釈などがあった。この図は御座敷講釈で、毎月四・七・九の日に開かれ、幕府の儒員が講師となり、大名と幕臣だけが聴講を許された

 

131 水野忠邦 12代将軍家慶(在位1837-53)の時、老中水野忠邦は幕府の勢いが衰えてゆくのを憂え、改革を企て、奢侈を禁じ、武備を励まし、享保・寛政の政治に復そうとした。(天保の改革1841-43)しかしその改革があまりに厳しすぎたため、人々はこれを歓ばず、忠邦は志を遂げずに職をやめた。1843

 

 参考 水野忠邦には文学風雅のたしなみがあった。次の歌は、忠邦の子水野忠精が御国替(大名統制策のための配置換え)で出羽山形に赴くときの送別の歌である。

 

 初雁(はつかり)はまだ聞かねどもけふよりは道ゆきぶりに言づてはせよ

 

 諸藩の治 江戸時代の間には諸大名にも「名君」が多く出た。

4代将軍家綱1651-805代将軍綱吉1680-1709のころ、水戸藩主徳川光圀や岡山藩主池田光政などが「名高かった。」

132 9代将軍家重1745-6010代将軍家治(いえはる、1760-86)のころ、熊本藩主細川重賢(しげかた)は西海第一の「名君」と言われた。10代将軍家治のころ、米沢藩主上杉治憲(はるのり)の賢名が高かった。

寛政時代1789-1800、諸藩の学問・教育はおしなべて(総じて)盛んになり、藩校も多く起こり、私塾・寺子屋などがあまねく全国に行き渡った。

 

 参考 徳川光圀は謚(おくりな)を義公といい、晩年常陸の西山に隠居したので西山公ともいい、権中納言であったから水戸黄門ともいう。黄門とは中納言の唐名(とうみょう)である。農政に心を用い、池や溝を開いて灌漑し、米穀を貯えて飢饉に備え、漆や楮(こうぞ)などを植えて蝋(ろう)や紙をつくらせ、牧場を開いて馬を飼育した。

 

 池田光政は左近衛少将に任ぜられたので池田新太郎少将ともいう。聖人の道を尊び、毎年元旦に忠孝の二字を掲げて礼拝し、中江藤樹*の学徳を慕い、参勤交代の途中にその講義を聞き、後にその(中江の)門人熊沢蕃山を迎えて藩の政治を改革した。また林業を保護し、学校を設けた。

 

*中江藤樹118, 120 江戸初期の儒者。近江国の人。王陽明の知行合一説に傾倒し、陽明学の首唱者となる。

 

 細川重賢は銀台公ともいう。教育を励まし、倹約を奨め、産業を興した。

 

 上杉治憲は鷹山(ようざん)ともいう。学問を好み、学校を建て、開墾を保護し、米穀を貯蔵させ、絹織物を奨励した。

 

 

第十章     国史・古典の研究 尊王論

 

133 国史の研究 幕府は林家118に命じて本朝通鑑(つがん1670、林道春(羅山)と林同勝(鵞峰)が、神代から1611年までを漢文で編集した。)を編纂させた。

徳川光圀は別に史館を開き、学者を集め、大日本史を編纂し、「わが国体を明らかにした。」世人は皇基の遼遠なことを覚り、大義名分をわきまえ、武家政治はよろしくないと考えるようになった。(その根拠はあるのか。)

134 徳川光圀の開いた史館を彰考館という。「往を彰(あらわ)し、来を考える」こと、すなわち既往の歴史を彰し、将来の世の成り行きを考えるという言葉から採ったものである。大日本史は神武天皇から100代後小松天皇(北朝の6代)までの歴史であり、明治39年、全部397巻が完成した。

 

 国学の発達 国学は元禄1688-1703のころ、大阪の僧契沖(けいちゅう)に始まる。京都の荷田春満(かだのあずままろ)、その門人で遠江(静岡県)の賀茂真淵、その門人で伊勢の本居宣長、それを継ぐ出羽の平田篤胤(あつたね)などは、古語や古文を修め、国史や古典を究め、「わが国体の尊厳なること」を明らかにした。荷田春満以下のこの4人を国学の四大人という。

 

 本居宣長と同じころ、盲人の塙保己一が群書類従を編纂し、幕府の保護を得て、和学講談所*を起こした。*1703年設立。国史律令の講習や群書類従・武家名目抄などの編纂を行った。

 

僧契沖  山遠み着くかたもなき雲の身は中空ながら消えぬともよし

荷田春満 踏みわけよやまとにはあらぬからとりのあとを見るのみ人の道かは

賀茂真淵 大堰川(おおいがわ)かへらぬ水に影見えてことそも咲ける山ざくらかな

本居宣長 敷島の大和心を人とはば朝日に匂ふ山ざくら花

平田篤胤 花鳥吾も哀と見てはあれどあはれと歌ふいと(暇)無りけり

 

136 参考 塙保己一が編纂した群書類従は665冊で、続群書類従1185冊である。和学講談所は塙保己一が幕府に請うて建てたもので、明治元年6月まで続いた。

 

 尊王論 国史の研究や国学の発達などによってわが国体が明らかになるにつれ、尊王思想がだんだん広く行き渡り、9代将軍家重1745-6010代将軍家治1760-86のころ、竹内式部(たけのうちしきぶ)、山県大弐(やまがただいに)、藤井右門などは「幕府のわがまま」(その証拠は何か。)を憤り、皇室が衰えて「いらせられる」のを歎いたため、重い罰に処せられた。

また11代将軍家斉1786-1837のころ、上野の高山彦九郎や下野の蒲生君平(がもうくんぺい)などは、尊王思想を鼓吹した。また頼山陽が著した日本外史(文政101827成立)は殊に広く愛読され、大いに尊王の気勢を助けた。

 

 

第十一章 露西亜人の来航 蝦夷地の開拓

 

137 露西亜人の来航 露西亜はヨーロッパの大国であり、東方に向かってシベリアSiberiaに入り、5代将軍綱吉1680-1709のときにはすでにカムチャッカKamtchatka半島に達し、11代将軍家斉1786-1837の寛政41792年、その使者ラクスマンLaxmanをして、日本の漂流民を送って蝦夷地の根室に到らしめ、書を幕府に呈して通商を開きたいと「請は」しめた。

次いで文化元年1804年、露西亜は再び使者レザノフLezannovを長崎に遣わし、通商を求めさせた。幕府は二度ともこれを許さなかった。

138 蝦夷地の開拓 露西亜が南下してくる様を見て、幕府は北辺の警備を大切にすべきことを考え、しばしば使いを蝦夷地に遣わした。

ラクスマンが来た後、近藤重蔵は命を受けて寛政101798年、択捉島(えとろふとう)に赴いた。また伊能忠敬(いのうただたか)は命によって蝦夷地方を測量1800し、さらにほとんど我が国の全部に及ぶ精密な地図を作った。

 レザノフ来朝後、間宮林蔵は樺太を探検1808して大陸まで渡った。蝦夷地はもと松前氏の支配に任せていたが、幕府は次第にその地を収め、やがてその全部を直轄地とし、松前奉行を置いて警備に当たらせた。

139 攘夷令 イギリスはそのころインドからさらに進んで支那に勢いを及ぼそうとしていた。文化51808年、イギリス船が突然長崎に入って乱暴を働いたので、長崎奉行松平康英は憤って自殺した。(なぜ自殺するのか。)

 このころ攘夷の論を唱えるものが多くなり、幕府は文政81825年、海岸に近づく外国船を打ち払うべしと命令を発した。しかし高野長英渡辺崋山などの蘭学者はこれを危険なことと考えて書を著したが、罰せれられた。

 

 海防論 これより先の寛政1789-1800のころ、仙台の林子平(はやししへい)は海国兵談などの書を著して国防を論じたが、老中松平定信はこれを世間を騒がすものだとして林子平を罰した。しかし、松平定信も国防の大切さを知っていたから、自ら江戸近海の沿岸をめぐって地形を察し、防備に心を用いた。

 天保年間1830-43、海防のことを憂えるものはますます多くなり、水戸の徳川斉昭(なりあき、烈公)は、その臣藤田彪(東湖)と共に武備を強化し、薩摩の島津齊彬(なりあき)、佐賀の鍋島齊正(なりまさ、閑叟(そう))なども軍事を修めた。かくして西洋の兵学・砲術などが次第にひろく学ばれるようになった。

 

141 参考 西洋の兵学・砲術などを研究した人々の中で、長崎の高島秋帆(しゅうはん、四郎太夫・茂敦)、伊豆の江川坦庵(たんあん、太郎左衛門・英龍)などがいる。江川坦庵が大砲を鋳造するために造った反射炉は、伊豆韮山(にらやま)の南中村字鳴滝に現存する。(今でもあるようだ。)

 

 

第十二章 亜米利加合衆国使節の来朝 開港攘夷の論 和親条約

 

ペリーの来航 弘化31846年、121代孝明天皇が即位した。アメリカ合衆国は10代将軍家治(在位1760-1786)のときに独立した国で、その勢いはずんずん発達し、太平洋を往来する米船舶は年々多くなっていた。

嘉永618536月、米水師提督ペリーは四隻の戦艦を率いて相模の浦賀に入り、国書を呈して、通商を開きたいと「請うた。」幕府は大いに驚き、吏員を遣わし久里浜でペリーと会見させ、国書を受け取り、明年に回答を与えると約束してこれを去らせた。

 

141 参考 ペリーを日本に遣わしたのは大統領フィルモーアFilmoreであった。ペリーは日本に来る前に赫々たる戦功を立て、その後東洋にある米国艦隊の司令官となり、嘉永6185363日、浦賀港に来て、9日、浦賀の南の久里浜に上陸した。

この図は当時ペリーの艦隊の乗組水兵が描いたもので、久里浜に上陸する光景である。また石碑はその上陸地点の海岸に立っている記念碑で、表面に「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」と記してある。またペリーの画像は明治421909年、日本の練習艦隊が米国を訪問した時、ペリーの孫の海軍少将某が記念として贈ったものである。その服装は中佐の制服らしく、ペリーが壮年のころのものである。

 

143 プーチャチンの来航 嘉永618536月、12代将軍家慶(いえよし)が薨じ、11月にその子家定が継いで13代将軍となった。

18537月、露西亜の水師提督プーチャチンPoutiatineも軍艦四隻を率いて長崎に入り、国書を呈して通商を求め、また樺太の境界を定めたいと申し出た。幕府はまた吏員を遣わし、今はこれに応ずることはできない旨を諭して去らせた。

 

 参考 この図はプーチャチンの一行が長崎に上陸した時の光景を、当時の日本人が見て描いたものの一部分で、中央が正使プーチャチン、その前後は随員、先頭の旗は露国の国旗である。

 

144 和親条約 翌年の安政元年1854年正月、ペリーは前年の約束に基づき、七隻の戦艦を率いて江戸湾に入り、回答を幕府に迫った。幕府は仕方なく、また吏員を遣わして神奈川の近くの横浜でペリーと会見させ、初めてアメリカ合衆国と和親条約を結び、下田・函館の二港を開き、米の船に薪と水や食糧を給すべきことを約した。しかし通商はまだ許さなかった。これを神奈川条約という。次いで幕府はイギリス、ロシア、オランダの三国とも大体同じ条約を結んだ。

 

 開港攘夷の論 幕府は今までどんなことでも専決する(天皇の意向を聞かない)習わしであったが、ペリーが来航した時は朝廷に奏し奉り、また諸大名にも意見を述べさせた。

この時から幕府の威信はようやく衰え、国論が一定しなかった。水戸の徳川斉昭(なりあき)や諸大名、武士は幕府の開港を悦ばず、攘夷の論が大いに起こり、天下は次第に騒がしくなった。

 

145 長州の藩士吉田松陰(寅次郎)は国事を憂え、海外に渡って世界の形勢を知りたいと思い、伊豆の下田に赴き、夜ひそかに米艦に漕ぎ寄せたが容れられず、そのことが顕れて捕らえられ、その師佐久間象山(しょうざん、啓)も連なって罰せられた。

 

 参考 吉田松陰は憂国の念に駆られ、下田港から米艦に乗って海外に赴こうとしたが失敗し、幕府に捕らえられ、長州藩に預けられて萩に帰った。後、萩の東の松本村に塾を開いて子弟を教育した。時に26歳であった。安政51858(吉川弘文館『標準日本史年表』では安政61859年とある)の大獄のとき、再び捕らえられ、江戸に送られた。死刑に処せられる数日前に故郷に送った手紙の中に次の歌がある。時に30歳であった。

 

 親思ふ心にまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん

 

 

第十三章 安政の大獄 幕府の衰頽

 

146 通商条約の議定 安政31856年、アメリカ合衆国の総領事ハリスHarrisが下田に来て、翌年1857年江戸に入って13代将軍家定に謁し、老中堀田正睦(まさよし)に向かって世界の大勢を熱心に説き、通商を開くべきだと求めた。老中堀田正睦(まさよし)は開港しなければならないと思い、ハリスと通商条約議し、新たに神奈川、兵庫、長崎、新潟の四港を開き、前に開いた下田を閉じるべきと定めた

 

147 仮条約の調印 安政51858年、老中堀田正睦は自ら京都に上がって、通商条約の勅許を請いまいらせた。ところがこのとき朝廷では鎖国攘夷の論が盛んで、正睦は勅許を得られず、江戸に帰った。

 

 その時近江彦根の藩主井伊直弼(なおすけ)が挙げられて大老となった。ちょうどこのときイギリス、フランスの二国が、連合して清国と戦い(北京を占領)、その戦勝の勢いに乗じて日本に来て強いて通商を開かせようとするという報(しら)せがあった。ハリスはこれをよい機会だと考え、しきりに通商条約の調印を促した。井伊直弼はやむを得ない形勢だと思い、朝廷の勅許を待たないで仮条約に調印した。安政518586月のことである。(日米修好通商条約)次いで幕府は7月、オランダ、ロシア、イギリスと、また9月、フランスとほぼ同じ通商条約を結んだ。

 

148 将軍継嗣問題 13代将軍家定は病弱で、子を持たず、その継嗣について人々の意見が相違した。尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)や越前藩主松平慶永(よしなが、春嶽)らは、水戸の徳川斉昭(なりあき、烈公)140の子で賢明の誉れが高く年も長じている一橋慶喜(よしのぶ)を迎えようとしたが、井伊直弼などはこれを悦ばず、多くの人々の意見を()し除けて、将軍家定の従弟である紀伊藩主の徳川家茂(いえもち)を迎えて継嗣とした。安政518587月、将軍家定が薨じ、家茂が継いで立ち、第14代将軍となった。年は13歳であった。

 

149 参考 徳川斉昭は謚を烈公という。外交問題が起こった時、尊王攘夷の論を唱え、「士気を鼓舞したが、」万延元年1860815日に薨じた。年61歳。前頁の懐紙(詩歌、連歌、俳諧などを正式に記録・詠進するときに用いる料紙)の和歌は、天保61835年、楠木正成の500回忌のときに詠んだものである。

 

 五百年(いおとせ)のむかしながらもいまに我臣(わがおみ)の臣たる友と契(ちぎ)らむ

 

 安政の大獄 これらのことから井伊直弼の専断を憎む声が大いに高まり、尊王攘夷を唱える志士らは同志の公家と結んで朝廷を動かし、ついに勅書を幕府に申し下し、幕府に衆議を尽くし内治を整え外侮を防ぐべき旨を受けさせた。また別に水戸藩にも勅書を請い受け、様々な謀をめぐらした。

 井伊直弼は安政51858年から61859年にかけて、幕府の政策に反対する親王・公家・諸大名等数十人を罰し、橋本佐内・吉田松陰・頼三樹三郎(らいみきさぶろう、頼山陽の第三子)等の志士を死刑にした。(安政の大獄)

水戸藩の志士等は殊に深くこれを憤り、万延元年186033日、桜田門外で井伊直弼を殺した。

 

150 参考 この桜田門の図は江戸の市中で売っていた胡粉画*によったものである。(*胡粉(ごふん)とは白粉。貝殻を焼いて作った白い粉)左の方の邸宅は井伊邸で、今の参謀本部があるところに当たる。右の方の門は桜田門である。33日の事変は図の中に見える二つの番所の中間で起こった。

 

151 幕府の衰頽 老中安藤信正は、衰え行く幕府の威信を回復するために、公武の合体を謀り、皇妹(孝明天皇の異母妹)和宮親子(かずのみやちかこ)内親王が、将軍家茂に降嫁(こうか)するように朝廷に願った。天皇はその願いを許し、和宮内親王は文久元年1861年江戸に下った。

しかし、尊王攘夷の志士は却って憤り、文久21862年の春、安藤信正を坂下門外で襲い傷つけた。

 

 参考 和宮親子内親王(静寛院)は、将軍家茂薨去の後も江戸に居り、後に官軍が東下して江戸に迫ったとき、徳川氏のために朝廷に様々訴えた。ここに掲げたものは「対鏡」と題する歌の中のものである。

 

 おろか成(なる)心のかげもうつるやとは(恥)ぢつつむかふ朝鏡哉(かな)

 たがためにかたち作らんあさかがみむかふかひなくうつる年月

 

 和宮内親王は後に一旦京都に帰ったがまた東京に戻り、明治10年薨じた。年32歳。墓は東京芝増上寺にある。

 

和宮親子内親王は、家茂の死後落飾(貴人が仏門にはいること)し、静寛院の院号宣下を受け、静寛院宮と名乗った。仁孝天皇の第8皇女、孝明天皇(在位1846-1867)の異母妹。

 

 

第十四章 長州征伐

 

152 京都の形勢 このころ諸藩を脱走した志士が四方に奔走して盛んに尊王攘夷を唱え、殊に京都に集まったものは同志の公家と通じ、大藩に頼って朝廷を動かそうとし、直ちに討幕論を主張する者もおり、浮浪の徒はこれに乗じて市中を横行し、人心が穏やかでなかった。

 文久21862年、薩摩の島津久光、長門の毛利元徳(もとのり)、土佐の山内豊範(とよのり)が相次いで入京し、朝廷の命を受けて市中を鎮定することになり、薩長土の三藩はこの時からようやく天下に重んじられるようになった。

153 幕政の改革 この年、文久21862年、朝廷は大原重徳(しげとみ)を勅使とし島津久光を従えて江戸に下らせ*、将軍の上洛を促し、幕政の改革を命じた。

そこで家茂は一橋慶喜を将軍の後見とし、松平慶永(よしなが、春嶽、越前藩主)148を政治総裁職とし、参勤交代の制度を緩くし、諸大名の妻子をおのおのその国に帰らせ、新たに京都守護職を置き、会津藩主松平容保(かたもり)をこれに任じた。

 

*このとき生麦事件1862.9.14が起きた。Wikiでは島津久光の「行列に(イギリス人が)乱入した」などと自己中の虚言が書いてある。

 

 しかし幕府の威信は少しも回復せず、次いで朝廷は再び三条実美などを勅使として江戸に下らせ、攘夷を決定せよと促した。(朝廷が主体となっていて、長州や公家の動きが出ていない。)

 

154 攘夷の実行 文久318633月、将軍家茂は京都に上り、「朝廷の御旨」に従って、同年文久31863510日を攘夷の期限と定め、これを諸藩に布告した。その期日になると、攘夷論の盛んな長州藩は、下関海峡を通ったアメリカ合衆国の船を砲撃し、次いでフランス・オランダの船も砲撃した。

翌年元治元年186485日から3日間、イギリス、フランス、アメリカ合衆国、オランダの連合艦隊が来て、下関を砲撃し、上陸して砲台を陥れ、長州藩は屈して和を請うた

 

 これより先153、島津久光が勅使に従って江戸に下り、その帰途、武蔵の生麦村で、その従士がたまたま行列を「犯した」イギリス人を殺傷したことがあった。1862.9.14

それにつき文久318637、イギリスの軍艦が鹿児島湾に入り、死傷者の弔恤(ちゅうじゅつ)金(遺族への妻子養育料(扶助料))(と生麦事件の犯人の逮捕と処罰)を求めたので、薩州藩士は奮戦して却ってこれを走らせた。*

 

Wikiによれば、イギリスはこの時「撤退」したようだ。その後同年秋に和睦交渉があり、また二年後には公使のハリー・パークスやアーネスト・サトウが薩摩を訪れて親睦している。

和睦交渉では、イギリスからの軍艦購入と扶助料支払いで決着したが、生麦事件の加害者は逃亡中として処罰されなかった。また島津家は幕府からその扶助料を借用したが、返金しなかった。

 

155 四国連合艦隊下関砲撃の図 英国従軍画家の描いたもの。

 

 朝議の急変 京都で長州藩のものが、同志の公家三条実美らとひそかに謀り、朝廷を動かして大和の神武天皇御陵へ行幸をしてもらって「攘夷御親征」を議し、その機に乗じて幕府を討とうと企てた。

 ところが松平容保は薩州藩と謀り、朝議を動かし、文久318638月、朝廷は急遽長州藩の皇居守衛を免じ、その藩主毛利敬親(たかちか)父子を罰し、三条実美らの参朝を停止した。

 長州藩士は「失望」し、三条実美以下七人の公家と共に京都を落ち、長州に走った。これを聞いた志士たちは大いに憤り、諸所に兵を挙げたが、皆間もなく平らげられた。

 

156 参考 この時長州に落ち延びた七人は、三条実美、三条西季知、壬生基修、沢宣嘉、四条隆謌、東久世通禧、錦小路頼徳であった。この図は沢宣嘉が明治3年に当時を追懐して描いたものである。

またこの長歌は久坂玄瑞(義助)の自作自筆である。玄瑞は長州藩士で、幼名を誠といい、七人の公家衆に従って長州に落ち延びた。「文久3818日おもふことありてこの舞曲をうたひつつ都をいて立侍る まこと」とある。

 

158 元治元年の変 翌元治元年18647月、長州藩の家老福原越後らは兵を率いて東上し、書を朝廷に奉り、藩主父子と三条実美らの罪を免除されたいと請うた。しかし朝廷が許さなかったので、長州の将士は、会津・桑名・薩摩等の諸藩の兵と京都で戦ったが敗れて国に帰った。(蛤御門の戦)

 

 長州征伐 幕府は朝廷の命を奉じ、長州征伐の軍(いくさ)を起こした。長州藩主毛利敬親155はひたすら恭順を旨とし、福原越後らを自刃させて罪を謝したので、戦いを開くこともなく終わり、翌慶応元年1865年、幕府は兵を引き上げた。

 

159 再度の長州征伐 ところが長州藩士高杉晋作らは藩主の為すことを悦ばず、同年1865年兵を挙げて恭順党を倒して藩論を一定し、毛利敬親父子を奉じて幕府と戦おうとした。

幕府は再び征伐することに決し、将軍家茂は自ら大阪まで進み出たが、薩長二藩はこの時すでに連合していた薩州は兵を出さず、攻め寄せた幕軍は長州藩に破られ、慶応21866年、将軍家茂が大阪城で病死した。

朝廷は勅して戦いをやめさせ186612月、一橋慶喜を15代将軍とした。同月孝明天皇が崩御し、翌慶応31867年正月、明治天皇が16で即位し、勅して長州征伐の軍を解かせた

 

 条約勅許 これより先、将軍家茂が大阪城にいたとき、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの四国は、軍艦を連ねて兵庫沖に来て、安政仮条約の実行を迫った。朝廷は世界の大勢を思い、慶応元年1865年、兵庫以外の四港を開くことを「許し、」慶応31867年、(それまで延期していた)兵庫の開港を許した。

 

 

160 徳川家系図 三 127頁から続く

 

 

  ┌紀伊頼宜…()宗―一橋宗尹…(一一)斉┬(一二)慶――――――(一三)

家康┤               └齊順紀伊家を継ぐ(一四)

  └水戸頼房………………………………斉昭――――――(一五)

 

 

第十五章 大政奉還

 

討幕の企て 明治天皇が即位1867.1するころ、幕府の力は全く衰えていて、内外の政治を運用する力が亡くなっていた。

薩州藩士の西郷隆盛や大久保利通などは、岩倉具視、三条実美(そのころ大宰府に在)そして長州藩士・木戸孝允(たかよし)らとひそかに謀って討幕を企てていた。

 

161 大政奉還 このとき前土佐藩主山内豊重(とよしげ、容堂)は、その臣後藤象二郎などを遣わし、大政を朝廷に奉還するように慶喜に勧めさせた。慶喜は在京中の諸藩の重臣を二条城に召して議し、次いで上表して大政を朝廷に返したいと「請うた。」慶応318671014日のことだった。またこの日は薩長の二藩に討幕の密勅が下った日だった。翌日1015日、大政奉還の勅許があった。ここに15265年間の江戸幕府は滅亡した。

 

162 王政維新 朝廷は(陰の人物は誰か)諸侯を京都に召し、三条実美や毛利敬親などの入京を許し、129日、王政復古の大号令を発し、摂政・関白・征夷大将軍などの諸官職を廃止し、天皇が親しく万機を「みそなわしたまう」(「見る」の敬語)ことになり、この時から命令はすべて朝廷から出ることになった。(王政維新)

 

第十六章 鳥羽伏見の戦 明治戊辰の役

 

 鳥羽伏見の戦 慶喜は大政奉還後も二条城にとどまり、また多くの旧臣や譜代の諸藩士がここに集まっていた。王政復古の大号令が発せられたとき、慶喜は全くこれに関与できなかった。またその同じ日に、会津・桑名の二藩士が皇居の警護を免ぜられて二条城に入った。二条城中の将士の憤りは絶えず、不穏になった。慶喜は事変が起らぬように大阪城に退いた。

しかし翌明治元年1868年正月の初め、慶喜は部下のものに擁護され、討薩の表を朝廷に奉り、会津・桑名などの兵を先鋒として、京都に向かわせた。薩長以下諸藩の兵がこれを鳥羽と伏見で防ぎ、嘉彰(よしあき)親王(後の小松宮彰人(あきひと)親王)が征討大将軍に任ぜられ、錦旗を奉じて親しく戦場に「お臨みになった。」会津・桑名などの軍は大いに敗れ、慶喜は船に乗って江戸に逃げ帰った。(皇室利用)

 

 徳川慶喜の恭順 朝廷は熾仁(たるひと)親王(有栖川宮)を東征大総督とし、西郷隆盛などをその参謀とし、三道から、軍を分けて江戸に攻めさせた。慶喜は懼れてひたすら罪を謝し、上野に退いて恭順の意を表し、その臣勝安芳(やすよし)は西郷隆盛に会い、慶喜の誠意を述べた。朝廷は江戸城、軍艦・兵器を収め、慶喜を水戸に退かせ、田安家達(いえさと)に宗家(そうか、一族の家筋)を継がせた。

 

164 関東奥羽の平定 しかし旧幕臣の中には慶喜の恭順を悦ばないものもいた。彰義隊の徒は輪王寺宮公現親王(後の北白川宮能久親王)を奉じて江戸の上野に拠った。しかし5月、官軍に破られ、大鳥圭介は下総に走り、次いで下野の宇都宮や日光などに転戦したが、敗れて東北に走った。会津藩主松平容保(かたもり)は奥羽と越後の諸藩と結び、若松城を死守したが、9月、力尽きて官軍に降った。関東・奥羽地方は全く平定した。

 

165 函館の戦争 これより先、旧幕府の海軍副総裁・榎本武揚(たけあき)などは数隻の戦艦を率いて脱走し、奥羽諸藩の敗兵を収め、大鳥圭介と共に函館に走り、五稜郭に拠った。官軍は海陸両面からこれに迫り、激戦の後に、翌明治218695月、武揚らを降した。ここに海内(かいだい、国内)が全く平定された。

 

166 皇室系図 十四 69頁から続く

 

            ┌(一〇九)正天皇(女帝)

            ├(一一〇)光明天皇                 ┌(一一七)桜町天皇(女帝)

(一〇七)天皇―(一〇八)水尾天皇┼(一一一)西天皇      ┌(一一四)御門天皇―(一一五)町天皇┤

            └(一一二)元天皇―(一一三)山天皇┤           桃園(一一六)天皇―(一一)()園天皇

                       └〇――――――〇―――(一一)()天皇―(一二)()天皇┐

┌―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘

└┬(一二)()天皇―明治(一二二)天皇―大正(一二三)天皇―今上(一二四)天皇

 └和宮親子内親王

 

 

第五編 現代 明治維新より現在まで59年間 1868-1926

 

第一章     五条の御誓文 廃藩置県

 

167 五条の御誓文 明治元年18683月、明治天皇は紫宸殿に「お出まし」になり、公家・諸侯を「率いて」(17歳で)天神地祇を祀り、五条の御誓文を宣せられた。

 

一 広く会議を興し、万機公論に決すべし

一 上下心を一にして盛んに経綸(けいりん、統治)を行うべし

一 官武一途、庶民に至るまで、各その志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめんことを要す

一 旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基づくべし

一 智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし

 

168 この御誓文の趣旨は、開国進取を推奨し、立憲政体を設立することである。

 

 東京奠都 この年18687月、天皇は江戸を改めて東京とし、8月紫宸殿で即位の礼を挙げ、9月、年号を明治と改め、10月初めて東京に行幸し、江戸城を皇居と定めた。

169 12月、京都に一旦帰って、一条美子(はるこ)を皇后とし、翌明治218693月、東京に行幸し、そのときから永くここにとどまった。

 

 官制改革 明治21869年、大宝令の制度に拠り、神祇官・太政官と、民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務の六省を置き、中央政府の管制を整えた。

 

 版籍奉還と廃藩置県 これより先、政権はすでに朝廷に復し、旧幕府と旧幕臣の領地は府県を置いて治めたが、諸藩はもとのまま藩主に支配され、全国統一の政治を行うことができなかった。木戸孝允・大久保利通などは、藩主に版籍を奉還することを勧めた。

明治21869年、薩摩・長門(山口県)・土佐・肥前(佐賀・長崎県)の四藩が連署してその土地と人民を朝廷に還したてまつりたいという旨を奉請した。

170 多くの諸藩がこれに倣い、その版籍を奉還した。朝廷は「その請いをお許しになり」、旧藩主を知藩事に任じ、旧領を治めさせた。

 

Wikiによれば、版籍奉還の時、藩主が非世襲の知藩事に任命されたが、例外もあり、御三卿*で維新立藩したばかりの田安藩と一橋藩は廃藩を命じられた。

*御三卿 徳川将軍家の一族。田安一橋清水の三家。八省の卿(かみ)に叙任される慣例から三卿という。田安は八代将軍吉宗の次男宗武、一橋は同将軍の四男宗尹、清水は九代将軍家重の次男重好を始祖とする。御三家と将軍家との間柄が血縁的にも疎遠になったための措置とされる。

 

ついで明治41871年、藩を廃して県を置き、元の知藩事を東京に集め、各県に県令を置いて政治を行わせ、ここに中央集権が完成した。(県令は薩長出身者が多かったのではないのか。)

 

Wikiによれば、県令には旧藩とは縁のない人物を任命したが、例外もあり、鹿児島県令の大山綱良(薩摩藩士)は数年間県令を務め、独立政権のような行動をする者もいた。しかし、明治61873年までには大半の同県人県令は廃止された。

 

第二章     征韓論 西南の役 立憲政体の確立

 

 征韓論 明治維新のはじめ1869政府は使い(宗重正)を朝鮮に遣わして王政復古のことを告げ、古くからの好(よし)みを温めようとしたが、朝鮮はこれに「応ぜず、却って無礼な行い」があった。(こういうとらえ方は一方的ではないか。)西郷隆盛、江藤新平、板垣退助などは問罪(罪を問いただすこと)の軍を起こして朝鮮を征討すべきだと主張したが*、朝廷の命によって欧米諸国をめぐって帰朝した1873岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らは内治を整えることの方が急務であると説き、激しくこれに反対したから、明治6187310月、西郷隆盛らは皆辞職した。*

 

*毛利敏彦は西郷隆盛が必ずしも征韓論を唱えていたわけではないと指摘する。毛利敏彦『明治六年政変』中公新書

 

 明治91876年、朝鮮との修好条約(日朝修好条規)を結んだ。(不平等条約であることに触れていない)

 

171 西南の役 征韓論が破裂した後、国内は何となく穏やかならず、佐賀(肥前)、熊本(肥後)、秋月(筑前、福岡県)、萩(長門)などで内乱が相次いで起こり、明治101877年、西郷隆盛も多くの子弟に擁せられ、兵を鹿児島に挙げ、進んで熊本城を囲み、その勢いは一時全国を驚かした。しかしやがて官軍に破られ、西郷隆盛は自殺し、その乱は平定された。

 

 立憲政体の確立 政府は五条の御誓文の、広く会議を興し、万機公論に決すべしという御聖旨に基づき、明治81875年、元老院を設けて立法の源を広め、地方官会議を開いて民情の通達を図り、公義を重んずる方針を執ったが、西南の役の後、民間の政治思想がようやく進み、国会の開設を希(こいねが)うものが日に月に多くなった。天皇は明治141881年、詔を下して、明治23年を期して国会を開くべきことを告げた。そこで政府は明治151882年、伊藤博文などを欧州諸国に派遣して各国の憲法制度などを調べさせ、明治171884年、制度取調局を宮中に置き、伊藤博文を長官として憲法その他の法令を起草させた。その翌年明治181885年、朝廷は中央政府の官制を改め、内閣総理大臣以下、各省の大臣を置き、伊藤博文が内閣総理大臣に任ぜられ、同211888年、最高顧問府として枢密院が設けられた。(国会の議決もなかった)同221889年の紀元節の祝日に大日本帝国憲法と皇室典範が発布され、翌明治23189011月、初めて帝国議会が開かれ、立憲政体が確立した。

 

173 年譜

 

明治元年18683月  五条の御誓文が宣せられた。

明治818754月  元老院が設けられた。

明治818756月  初めて地方官会議が召集された。

明治14188110月 国会を開設すべき旨の詔が下された。

明治151882年    伊藤博文らが欧州諸国に遣わされた。

明治1718843月  制度取調局を宮中に置いた。

明治18188512月 官制を改め内閣制度を創立した。

明治2118884月  枢密院が置かれた。

明治221889211日 大日本帝国憲法が発布された。

明治23189011月 初めて帝国議会が開かれた。

 

 

第三章     台湾事件 朝鮮事件 明治2728年の戦役

 

 台湾事件 明治41871年、「わが」琉球の人民が台湾の「蕃地」に漂着し、生蕃*に殺された事件が発生したので、政府が清国と交渉したしたところ、清国では「生蕃は化外*の民である」と答えた。よって明治71874年、わが政府は陸軍中将西郷従道(つぐみち)に命じて蕃地の一部を討ち従えた。(これも一方的な解釈)ところが清国はにわかに異議を唱え、日清両国の国交が一時「危ない」有様になったが、ついに清国に賠償金を出させ、わが軍は同年1874年の末、台湾から兵を引き上げた。(清国駐在イギリス大使トーマス・ウェードの調停について触れない。)

 

*生蕃 清代に台湾の先住民の高山族(高砂族)のうち、山地に住み、漢族に同化していなかったものの呼称。

*化外 王化の及ばないところ。

 

174 千島と樺太との交換 樺太にはわが国人とロシア人とが雑居し、その間の境界は不明であり、旧幕府のころから争いが絶えなかった。明治81875年、政府は樺太全島を彼に与え、千島全部を我に収めてその局(当面の事項)を結んだ。

 

175 朝鮮事件 朝鮮は長い間清国の勢力下にあってその「干渉」を蒙り、わが国を「排除」(おしの)けようとする傾向があった。明治151882年、朝鮮の「暴民」が乱を起こし、わが公使館を焼いた。朝鮮は罪を謝し、賠償金を出してその局を結んだ。(壬午の政変*)

次いで明治171884年にまた「内乱」(甲申事変*)が「起こり」、清国の兵と朝鮮の兵とが一緒になってわが公使館を「襲い」、またこれを焼いた。この時も「朝鮮は罪を謝し」、賠償金を出したが、清国に対しては同181885年、天津条約を「結ばせ」、(日清)両国とも兵を朝鮮に置かないこと、この後朝鮮に兵を出す必要があるときにはあらかじめ互いに通知すべきことを約した。(自己中な歴史観がにじむ。)

 

*壬午軍乱、壬午事変とも。日本式の軍隊の組織化に不満を持つ軍人が、それを推進した閔氏と日本関係者を襲った事件。大院君政権が復活した。

*甲申事変 日本の主導で朝鮮独立党が漢城で起こした政変。清国が応援し、「失敗。」

 

 明治二十七八年戦役 (日清戦争とは言わない)明治271894年、朝鮮で東学党が「乱を起こした」時、清国は(朝鮮の)難を救うのだと称して兵を朝鮮に出したので、わが国もまた兵を出し、清国と力を合わせて朝鮮の政治を「改革」しようとした。ところが清国はこれに応ずる誠意がなく、却ってますます兵を増し、わが兵を抑えようとしたから、同年18948月、天皇はついに戦いを宣した。わが海陸の軍はよく戦ってしきりに勝ち、明治281895年、清国に朝鮮の独立を認めさせ、台湾・澎湖島(ぼうことう)と遼東半島を割き、賠償金を出すことを約束させ、その局を結んだ。

しかしこのときロシア・ドイツ・フランスの三国が東洋平和のためと称してわが国に遼東半島を清国に返還させた。ついで朝鮮は明治301897年、国号を韓と改めた。

 

 

第四章     明治三十七八年戦役 韓国の併合

 

 明治三十三年北清事変 明治二七八年戦役の後、露西亜・ドイツ・フランス・英吉利などの諸国は清国が弱いのに乗じて清国の要地を租借し、勢力を張った。そのため清国民の中にこれを憤るものが多くなり、明治321898年、義和団の徒が乱を起こし、翌331900年、その勢いはますます盛んになり、(清国の)官兵もまたこれに加わって北京の列国公使館を囲んだ。

列国は連合して兵を出し、わが軍がその主力となり、北京に攻め入って公使館を救った。列国は清国に賠償金を出させ、謝罪を約束させ、その局を結んだ。

 

177 日英同盟 この事変に乗じてロシアは兵を満洲に入れ、次第に南下する勢いを示した。わが国はこの形勢を察し、明治3519021月、イギリスと同盟を結び、清・韓両国の領土を保全し、東洋の平和を維持することを約束した。(他人の領土をどうして「保全する」などと言えるのか。厚かましい。「東洋の平和」など嘘ぱっち)

 

 日露開戦の由来 ロシアは日英同盟が成立した年の1902年、清国に対して満洲から兵を退(しりぞ)けると約束したが、これを実行しないばかりか、さらに進んで韓国にも手を伸ばすようになった。わが国はこれを見て、東洋の平和を保全するために、露西亜に対してたびたび交渉を重ねたが、彼はこれに応ぜず、ひたすら兵備を修めてわれを屈せしめようとしたから、天皇は明治3719042月、ロシアについに戦いを宣せられた。

 

178 明治三十七八年戦役 (日露戦争とは言わない) それからわが軍は海を渡って遼東(半島)に入り、遼陽(遼陽市。遼寧省にある。遼東半島の付け根にある。)を取り、沙河(さかorしゃか。遼陽市の北部)の戦いに勝ち、陸軍大将乃木希典(まれすけ)の軍は旅順(遼東半島の先端)を陥れ、元帥陸軍大将大山巌の率いる満洲軍は奉天(瀋陽市。遼陽市の北方)の大会戦で敵の主力を撃ち破り、ついで海軍大将東郷平八郎の率いる連合艦隊は日本海の大海戦で敵の大艦隊を全滅させた。

179 アメリカ合衆国大統領ルーズベルトはこれを見て、両国に対し講和を勧めたので、両国はその言を容れ、おのおのの使を合衆国のポーツマスに遣わし、明治3819059月、平和条約を結んで戦いを止めた。

 この条約によってわが国はロシアに樺太の南半を割譲させ、関東州の租借権南満州の鉄道などを譲らせ、韓国におけるわが「優越権」を承認させ、大いに国威を発揚した。

 

 明治三十九年四月凱旋大観兵式 この写真は明治3919064月、青山練兵場で挙行された凱旋大観兵式の光景である。御馬車の裡におわしますのは明治天皇でいらせられます。

 

 韓国併合 この後、わが国は韓国に統監府を設け、韓国をわが保護下に置いた。明治4319108月、天皇は韓国皇帝の「譲り」を「受け」、韓国を併合し、(この歴史教育は間違っている)その名を朝鮮と改め、総督府を置き、これを治めさせた。

 

 

第五章     明治天皇の崩御 大正天皇の御即位

 

180 明治天皇の崩御 こうして国運は日に月に盛んになっていったが、明治4519127月、明治天皇が図らずも病気になり、国民上下挙って御平癒をお祈り申し上げた甲斐もなく、その月つまり7月の30日、ついに崩御あらせられた。宝算61歳でおわしました。国民の悲歎は言葉に尽くしがたいほどであった。913日から大葬儀が行われ、同月915日、霊柩を伏見桃山御陵にお歛(おさ)めまいらせた。ドイツ・イギリス・スペイン各国皇帝の名代、アメリカ合衆国・フランス共和国の特派大使、その他の友邦の特派大使が多く来たり会して深厚なる哀悼の意を表した。

 

宮城前にて明治天皇の御病気の御快癒を祈る図(みじめな民衆の姿。戦前昭和の宮城遥拝を思わせる。)

 

181 大正天皇の御践祚 明治天皇が崩御あらせられた730日、皇太子嘉仁(よしひと)親王が直ちに践祚し、大正と改元した。翌731日、朝見の儀を行い、祖宗の宏謨(こうぼ、遠大なはかりごと)に従い、憲法の条章により、統治の大権の行使を愆(あやま)ることなく、以て先帝の遺業を失墜しないことを期する旨の詔を発した。

 

 昭憲皇太后(天皇の生母)の崩御 越えて大正31914411日、昭憲皇太后が亡くなり、526日、伏見東御陵に葬った。坤徳(こんとく、坤は皇后の意味。乾徳(けんとく)は天皇の徳。)一世(いっせい)(その時代)に高かった。

182 御即位の大典 大正4191511月、天皇は神器を奉じて京都に行幸し、同月1110日、賢所を拝して即位の旨を皇祖天照大神に告げ、紫宸殿を御して(使って)*即位の勅語を下し、同月1114日、大嘗宮で大嘗祭を行った。この大礼はわが国未曾有の盛典であり、「わが国民の住むところ歓声世界に満ち、友邦も皆礼を厚くして祝し奉った。」

 

*御する 天皇が使用すること

 

 

第六章     世界大戦 ワシントン会議

 

183 日独戦役 大正31914年の夏、ヨーロッパ諸国の間で戦争が起こり、ドイツ・オーストリアなどと、ロシア・フランス・イギリスなどとが、世界の各地で戦いを交え、世界大戦役が始まった。わが国も日英同盟の「誼(よしみ)を重んじて」8月、ドイツに対して宣戦を布告し、11月、ドイツが先年清国に強要し租借していた膠州湾を「取り」、またわが海軍はイギリスの海軍と相応じて太平洋のドイツ領の諸島を占領した。そのため、ドイツの東洋と南洋における勢力が全くなくなった。

 

 日支条約 明治451912年、支那で革命が行われ、清国が亡び、支那共和国が起り、袁世凱がその大統領になった。大正41915年、わが国は膠州湾占領の後の時局を考え、「永く東洋の平和を安定ならしめようと思い」、5月、支那と、山東省に関する条約南満州・東部内蒙古に関する条約(日中条約。反日の原因となった。吉川弘文館『標準日本史年表』)を結んだ。*

 

19151月の対華21か条の要求交渉については触れていない。

 

 新日ロ協約 世界大戦役のはじめからわが国はしばしばロシアに軍需品などを送ってこれを援助したから、ロシアは大いにわが国の好意に感謝し、大正519167月、新たな協約(日露新協約。対米日露秘密同盟)を結び、日ロ両国は相対抗することなく、また互いに承認する領土権や特別利益(朝鮮)の擁護のために協議すべきことを約束した。*Wikiによれば、秘密条項では、日本はロシアの外モンゴルにおける権益を、ロシアは日本の朝鮮における権益を認めた。しかし、1917年のロシア革命後のソ連によって破棄された。

 

184 大戦の終局 その間に欧州の戦乱はだんだん広まったが、ロシアで革命が起こり、数百年来の帝国が亡び、次いで起こった共和政府は、ドイツと和した。しかし、アメリカが戦いに加わって英仏などの連合軍側に加わり、大正7191811月、ドイツ・オーストリアなどの国々が屈服した。

 そこで関係諸国の講和委員がフランスのパリで会議を開き、大正819196月、講和条約が成立した。

 これによってわが国は先に占領した膠州湾地域・山東鉄道・鉱山・海底電信線などに関してドイツが所有していた一切の権利と南洋の赤道以北の旧ドイツ領諸島の委任統治権を取得した。こうしてわが国は英米仏伊と並んで世界五大国の一つに列することになった。

 

1919年の3・1万歳事件について全く触れない。これでは民衆の朝鮮観は改まらない。

 

185 皇太子裕仁親王殿下 わが国の国際的地位が次第に高くなって行くに当たり、大正1019213月、皇太子裕仁(ひろひと)親王殿下が海外を巡遊し、英・仏、ベルギー、オランダ、イタリアなどの帝王や大統領を歴訪し、また最近の戦跡を視察し、同年19219月に帰朝した。

 これより先、天皇は長い間の病気(御不例)が治らず、大政を行うことができなくなり、同年192111月、皇室典範の規定により、皇太子が摂政に任ぜられ、国務を決裁することになった。

 

186 ワシントン会議 アメリカ合衆国は世界大戦の惨状に鑑み、列国間の平和を保とうとして、日英米仏と支那などの参加を求め、大正10192111月、ワシントンに会議を開いた。その結果、諸強国の間に海軍軍備縮小に関する協定が成立し、また日英同盟は廃棄され、新たに太平洋における日英米仏の四国協商ができた。そしてわが国はこの会議の日支協議に従って、大正111922年、膠州湾地方を支那に還付した。

 

 関東大震災 こうして国際間におけるわが国の地位は次第に高まったが、(膠州湾還付は意に沿わなかったのでは。)大正1219239月、関東地方に大震災が起こり、次いで東京・横浜に大火災が生じ、三日間にわたって燃え続けた。死傷者が数10万、財産の損失が数10億円に上った。しかし国民は少しも屈することなく、爾来孜々(しし)として復興に努めた。*

 

*朝鮮人や社会主義者の虐殺については触れない。

 

 

第七章     大正天皇の崩御 今上天皇の御践祚

 

187 大正天皇の御治世 大正天皇は明治天皇の第三皇子でおはしまし、明治1218798月、御誕生、同22188911月、立太子(公式に皇太子(皇位を継承する皇子)に立てること)、大正元年1912730日、34歳で御践祚、第123代の皇位にお登り遊ばされ、…ワシントン会議に使臣を遣わされては太平洋の平和を確保せしめられた。…

 

 大正天皇の崩御 しかるに天皇は日夜国事に御軫念(しんねん、宸念)あらせらるるの余り、御病におかかりになり、大正101921年、皇太子裕仁親王殿下を摂政となされ、ひたすら御療養を加えておられたところ、同151926年の秋、相州葉山の御用邸にましまして(いるの敬語)御病勢が重くならせられた。このことを漏れ承った国民は愕然として色を失い、御眷遇(けんぐう、特別に目をかける)を辱(かたじけな)うしたる臣僚は固より、名もなき僻村の民に至るまで、熱誠をこめて天地神明の加護を祈念したてまつり、あらゆる方法をお尽くしまいらせたけれども、その甲斐なく、ついに1225日を以て崩御あらせられた。宝算48歳でおはします。ここにおいて国を挙げて悲しみに(とざ)され、諒闇(りょうあん、天皇の服する喪のうちで最も重いもの)の大喪に服するに至った。

 

葉山海岸での熱祷の写真

 

189 今上天皇の御践祚 皇太子裕仁親王殿下は長い間摂政の大任に当たり、天皇の快癒を待っていたが、その病勢が進むと妃殿下と共に葉山に行啓(太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、皇太子妃、皇太孫の外出に用いる敬語)し、連日連夜看護したが、天皇が登遐(とうか、死ぬこと)したため、すぐ践祚の式を挙げ、第124代の天皇となり、年号を昭和と改めた。19261227日、天皇は東京に還幸され、皇太后は先帝の霊柩とともに還啓した。次いで昭和2192728日、多摩御陵に葬ることに決めた。

 

190 朝見の儀に賜りたる勅語 昭和天皇は葉山から東京に戻った日の翌日19261228日、朝見の儀を行い、次のようなありがたい勅語を賜った。

 

輓近世態が漸く推移し、思想はややもすれば趣舎が相異なることがあり、経済は時々利害が異なることがある。眼を国家の大局に著け、挙国一体共存共栄を図り、国本を不抜に(しっかり)培い、(日本)民族を無疆(むきょう、むきゅう、限りなく)に蕃(しげ)くして、維新の宏謨(こうぼ、遠大なはかりごと)を顕揚することに懋(務)めるべきだ。

今世局はまさに会通の運に際し、人文はあたかも更張の時期に膺(当)たっている。つまり我が国の国是は日に進みつつあり、日に新たになりつつある。だから博(広)く中外の歴史に徴し、審らかに得失の迹(跡)を鑑み、進むときにはその初めに循(したが)い、新たなことを行う場合には、その中庸をとるべきである。この点で深く心を用いるべきである。

 浮華を退け、質素を尚(とおと)び、模擬(まねごと)を戒め、創造に勗(つと)め、日進の過程で会通の運に乗じ、日新の過程で更張の機会を啓(開)き、人心を同じくし、民風を和し、汎(広)く一視同仁(差別せず平等に愛すること)の化(教え)を宣べ(広め)、永く四海同胞の誼(よしみ)を敦(厚)くすることは私の軫念(しんねん、考え)の中でも最も切なるものである。これは丕顕(ひけん、大いに明らか)な皇祖が考えた遺訓を明徴にし、丕承(ひしょう、りっぱに受け継ぐ)の皇考の遺志を継述する理由である。

 

感想 これが理解できた人は何人いただろうか。

 

191 わが国の現状 今わが国の財界は世界大戦時の好況に対する反動によって久しく不況のうちに沈み、労使問題は随所に起こり、思想界の混乱も「ゆるがせにしておき難い」有様である。(本音が出た。)その上に国家の大変*に遭遇したのだから、おのずから人心の動揺を免れないが、天皇は天資英明、寛弘(度量が広い)仁慈で、若い日本の儀表(模範)として仰がれている。また皇后は玉姿端麗、才藻(才知と文才)優雅で、新時代の女性の典型である。われらは踊躍(ようやく、小躍りする)してその後ろに従い、同化力のあるわが国民性を信頼し、*(自分のためではなく)君国のためにますます力を尽くそうと思う。

 

*何を指しているのか。対中問題か、それとも軍縮問題か。

*何を言おうとしているのか。滅私ということか。

 

新体国史巻下終

 

 豊臣秀吉朝鮮征伐図

 

以上 20211219()

 

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