2024年8月27日火曜日

陸奥宗光『蹇蹇録』岩波文庫1983

 

陸奥宗光『蹇蹇録』岩波文庫1983

 

 

 

第一章 東学党の乱

 

024 戦争(軍隊派遣)はいとも簡単に決定された。これは幕末維新当時の連戦錬磨の列強常識の反映か。けんかの論理である。当時の「日韓条約」*がどういうものだったかは知らないが、韓国が清国に派兵を依頼したとあるから、韓国は日本よりも清国の方を信頼していたのかもしれない。韓清間は朝貢関係にあったようだから。日本はその間に割って入ったのである。

 

*「日韓条約」 刀剣ワールドtouken-world.jpによれば、

 

「日朝修好条規」(にっちょうしゅうこうじょうき)とは、1875年(明治8年)の「江華島事件」(こうかとうじけん)をきっかけに、日本が李氏朝鮮(りしちょうせん:1419世紀の朝鮮王朝)に迫り、翌1876年(明治9年)に日朝間で結んだ修好条約です。1871年(明治4年)に、清(しん:1720世紀初頭の中国王朝)との間で結ばれた対等な「日清修好条規」(にっしんしゅうこうじょうき)と異なり、日本に有利な不平等条約となっています。

 

日朝修好条規への経緯は、日本が幕末に欧米列強国と条約を結んだときの欧米列強側と、まさに同じ手法でした。そして、その内容も、釜山(ぷさん)・仁川(いんちょん)・元山(うぉんさん)の3港を開港させて、李氏朝鮮側の関税自主権(かんぜいじしゅけん:関税を自主的にかける権利)を認めず、かつ日本の領事裁判権(りょうじさいばんけん:日本人が罪を犯した場合、日本の法律で裁くこと)を認めさせるという、日本にとって有利な不平等条約だったのです。

 

024 「翌二日6/2、内閣総理大臣の官邸において内閣会議を開くこととなりたるに、たまたま(臨時代理公使)杉村(濬ふかし023)より電信ありて、朝鮮政府は援兵を清国に乞いしことを報じ来たれり。これ実に容易ならざる事件にしてもしこれを黙視するときは既に偏傾なる日清両国の朝鮮における権力の干繋(かんけい)をしてなお一層甚だしからめ、我が邦は後来朝鮮に対しただ清国のなすがままに任するの外なく、日韓条約の精神もためにあるいは蹂躙せらるるの虞(おそれ)なきに非ざれば、余は同日の会議に赴くや、開会の初めにおいて先ず閣僚に示すに杉村の電信を以てし、なお余が意見として、もし清国にして何らの名義を問わず朝鮮に軍隊を派出するの事実あるときは、我が国においてもまた相当の軍隊を同国に派遣し、以て不虞の変に備え日清両国が朝鮮に対する権力の平均を維持せざるべからずと述べたり。閣僚皆この議に賛同したるを以て、伊藤内閣総理大臣は直ちに人を派して参謀総長熾仁(たるひと)親王殿下および参謀本部次長川上陸軍中将の臨席を求め、その来会するや乃ち今後朝鮮へ軍隊を派出するの内議を協(かな)え、内閣総理大臣は本件および議会解散の閣議*を携えて直ちに参内して、式に依り聖裁を請い、制可の上これを執行せり。

 

*衆議院が内閣の行為を非難する上奏案を議決した(6/1、正しくは5/316/1は議会側がその上奏案を奉呈しようとする)ことに対抗して、内閣側は議会解散の詔勅の発出を奏請しようとした。

 

感想 202482()

 

日本は明治の早くから帝国主義的な獲物獲得に精を出してしたようだ。朝鮮に対する修好条約1876は治外法権を認めさせ、関税自主権の放棄を要求していた。日清戦争の根拠とされたものが天津条約1885と壬午軍乱1882後の済木浦条約である。天津条約では軍隊の朝鮮への送付に関して日清ともに互いに知らせ合うという条項、済木浦条約では朝鮮における日本の軍隊の駐留権である。これが戦争開始の建前として利用された。日本はずる賢く淡々と獲物を狙っていたといえる。決して友好的隣人関係ではなかった。最初から。友好的な通商関係に則った繁栄を目指していたとは言えない。日本防衛のため?どうかな。

 

感想 2024827()

 

江華島事件1875920日は、明治六年政変187310月のわずか2年後のことである。『明治六年政変』の著者毛利敏彦は明治六年政変を政権内部の権力闘争に焦点を置いているが、明治六年ころの三条や大久保の、延期された対朝鮮強硬開戦論が、1875年当時にも引き続いていていたと言えないか。

 

 

第六章 朝鮮内政改革の第一期066

 

感想 202482()

 

策士。喧嘩の策士。日清間の問題解決のための諸外国による仲介の失敗の間隙をぬい、韓国に対する武力的優位の上に立ち、あらかじめ練っておいた、できもしない要求を韓国に突きつける。在韓の袁世凱は急遽本国に退避。日本軍は韓国駐在の中国軍隊を追い払い、海上で戦闘開始。

「韓国の近代化」を助けるというのは明白な嘘。軍隊で近代化を助けられるのだろうか。中国は韓国の近代化は韓国に任せるとするが、それが常識では。中国が宗主国然としていたいのならそうさせればいい。そうさせたくないのは、自らに侵略の下心があるからではないか。

日本の民衆も「韓国の近代化」を叫んで沸いたらしい。その動きは政府にとっては好都合だったろう。

 

 

第七章 欧米各国の干渉077

 

 

感想 202483()

 

・韓国「日本の言うところの近代化の必要は分かったよ。だがそれは自分でやるよ。いらぬおせっかい

・日本「朝鮮の近代化は必要」とか「日中による朝鮮の共同統治」は口実であり、「東洋の情勢(平和)」という怪しげで意味不明な言葉とともに、日本による朝鮮の武力支配を意味しているのではないか。そうしないと自分が潰されると恐れて。それも日本による朝鮮武力支配の口実。

 日本は今がチャンスとして、すでに進めてきた韓国に対する強行措置を推進したいがために無理な注文を中国につきつけ戦争に導いた。その前には韓国に対しても無理な注文をつけて日本の要求を強引につき進めようとしていた。

・中国「朝鮮は中国の属国だ」(「保護属邦」「愛恤(じゅつ)属国」「保護藩属」071)「軍隊派遣は朝鮮からの要望による。」天津条約1885.4(日清ともに韓国から即時撤兵)

・ロシア「朝鮮国は独立国であり、朝鮮国が列国と結んだ条約を無視するような、日本による朝鮮への武力介入を許さない085

・イギリス「日本の中国に対する(無理難題の)発言は外交儀礼に反し、天清条約の精神に反している。日本の朝鮮近代化策に清も入れろ。今の状態で開戦すればその責任は日本にある。」094

・米「朝鮮の変乱が已に鎮定されたのに、日本が清国同様軍隊を朝鮮から撤退することを拒み、かつ朝鮮の内政に急激の改革を施そうとすることは遺憾である。朝鮮の独立・主権を侵してはならない。日本が朝鮮半島で戦争を始めれば、それは遺憾なことである。」099

・独仏「日清間の妥協は東洋平和に得策である」としつつ、仏「清に打撃を加えて迷夢から覚まし、将来日仏同盟を結ぼう」などとも言っていた。

 

 

 

第八章 六月二十二日以後開戦に至る間の李鴻章の位置102

 

 

感想 202484()

 

日本は中国の通信を傍受していたのか、スパイ(探偵者105)網の充実に驚く。中露間の通信や駐日中国公使と中国本国との通信などについて述べている。

 

李鴻章は軍を増派しようとしたが、北京政府に「皇太后の還暦祝いだから」と一時ストップされたことも清の敗戦につながったかもしれないというのだが、各国にはそれぞれの事情があり、それだけが原因とも言えないのではないか。113

 

 

 

第九章 朝鮮事件と日英条約改正

 

感想 202484()

 

朝鮮在住の欧米人と日本軍人との軋轢は用心すべきでことであったが、このことが当時進められていた不平等条約(領事裁判権)改正問題にも波及した。イギリスとは在朝鮮イギリス人海軍教師コールドウィルの解雇問題が発生したが、それは嘘だとして、なんとか調印にこぎつけた。アメリカとは当時ちょうど日本人兵による旅順口での中国人婦女子虐殺事件が発生してアメリカ世論が沸騰し、調印が反故になりかけたが、苦労の末ようやく調印にこぎつけた。

日本の司法制度の後進性は今でも問題となっている。死刑制度とか、拘留期間が長い(人質司法)とか、弁護士の接見を許さないとか、日本の司法は欧米と比較して遅れている。日米地位協定の差別性もこの問題を含んでいるのではないか。

 

議会を蔑視して仲間内だけで決めるやり方、中国人や朝鮮人などに対する蔑視などにみられる驕りが垣間見られるが、自己中で侵略的な態度はすでにこのころから存在したといえるのではないか。

 

 

 

第十章 牙山及び豊島の戦闘129

第十一章 朝鮮内政改革の第二期149

第十二章 平壌および黄海開戦の結果172

第十三章 領事裁判制度と戦争との関係183

 

感想 202486()

 

本書を読み進めて来て、陸奥宗光の聡明さが分かるが、価値観の基準を欧米だけに求め、その価値観で中国や朝鮮を評価しようとすることがひっかかる。欧米の価値観が優れているとしても、心まで奪われなくともよかったのではないか。つまり欧米と太刀打ちする上で欧米の文化を採用するとしても、東洋独自のものもあってもよかった、あるいは欧米の価値観・尺度を改変するとか、東洋からの主張もあってもよかったのではないか。

朝鮮を保護国化167しようとする際の下心には、朝鮮を中国やロシア、その他の列強に奪われたくないという利己心が働いていたのではないか。その下心は日朝修好条規1875の締結時点からあったと思われる。

清との平壌や黄海での戦い172に勝ったとき、日本の民衆が沸き立ったというが、その民衆とはどういう階層だったのだろうか。おそらく上流階級ではないかと思われる。確かめてはみないが。

 

 

第十四章 講和談判開始前における清国および欧州諸列強の挙動199

第十五章 日清講和の発端216

 

感想 上奏文に見られる頑なな伊藤博文 いったん決まった講和条件について下々が何と言おうと頓着しない。「かくの如くいやしくも廟謨を画策する所の閣、幕両臣の意思一に帰するにおいては、縦令(たとい)世上に如何なる物議ありとも敢えて顧慮するに足らざるなり。」231

 

講和条件は諸列強の横槍を恐れて最後まで公表しなかった。甲案は、228, 207

 

一 清国に朝鮮の独立を認めさせること、その永久の担保として遼東半島と大連湾(or台湾)を割譲させること。(乙案:各国が朝鮮の独立を担保する)

二 軍事費分の弁償金を償還させる

三 清国が欧米列強と結んでいた不平等条約を日本にも結ばせ、その上新たに数港を開港させ、黄河と揚子江での日本の船舶の航行権を認めさせる。

 

 

好戦的な民衆223225

 

強奪的な講和条件を要求する民衆が多かったが、谷子爵は例外的に、「領土の割譲は将来の日清関係上好ましくない」と伊藤博文を諫めた。225

 

「我が国一般の主戦の気炎未だ少しも衰退するに至らざる」も、講和の説を唱え出す者が出てきて、その講和の説は寛厳精粗様々であった。世間は徒に大言壮語であったが、政府当局の各部責任者は譲与を主とした。

 

海軍 遼東半島の譲与よりむしろ台湾全島の譲与を望み、あるいは遼東半島を重視し、清国が不可というならいったんそれを朝鮮のものとし、日本はこれを借り受ける。「台湾全島はぜひ欲しい。」

 

陸軍 「遼東半島はわが軍が流血の上略取したものである。台湾はまだわが軍が行っていない所である。遼東半島は北京の喉元に位置し、国家にとって将来是非領有しなければならないところである。」

 

財政部局 領土割譲にあまり熱心でなく、巨額な償金を求めた。

 

青木公使 盛京省、吉林省のほとんど、直隷省の一部。清韓国境に5000平方里の中間地を設け、それを軍事根拠地とする。償金は英貨1億ポンド、10年年賦、償金の担保として東経120度以東の山東省、および威海衛、それと砲塁、兵器、駐兵費を要求する。

 

ロシアの西公使 「遼東半島特に朝鮮と接する部分はロシアが到底許容しないだろう、むしろ巨額の償金を要求し、その抵当を遼東半島にすれば、ロシアも口を挟まないだろう。

 

国民 清国から多額の譲与を求め、帝国の光輝と各自の経営上の利益を願う。

 

民間政党の強硬派 清国の東北部(盛京省)と台湾、償金3億円以上。

改進・革新両党 中国全土4百余州を分割するくらいの覚悟を持って、山東、江蘇、福建、広東の4省を求める。

自由党 吉林、盛京、黒龍の3省と台湾を求め、日清通商条約を欧洲のそれ以上の好条件にする。

 

一方、二、三の有識者は「苛酷すぎるのは善くない」とし、その中で谷子爵は1866年の普墺戦争を例に、「割地の要求は将来の日清間親交を阻害する」としたが、そういう説は万緑叢中紅一点の観であり、とても社会の狂爛を挽回することはできなかった。

 

 

第十六章 広島談判235

第十七章 下ノ関談判(上)251

 

清国の全権大臣・李鴻章を暴漢がピストルで襲い重傷を負った263とのことだが、その背景は何か、この右翼暴漢事件が発生する原因は何か。それは国家の態度・政策ではないか。この事件は好戦国家がもたらしたものではないか。清国に対する敵対的言辞を国民に炊きつけて戦争に踏み切った国の責任ではないか。戦前における民間右翼の多発は、国の好戦性が大いに関与していないか。国家としてのアメリカやイスラエルの好戦性は、個人としてのアメリカ人の沖縄での性加害や、イスラエル人のガザや東部自治区占領地での横暴・暴虐の原因ではないか。

「頭の半分を包帯で覆い半眼で応対するほどだった」268というから、頭を撃たれたようだ。

 

李鴻章が負傷したことから、諸外国による日本の評判が悪くなることを危惧・計算して、当初李鴻章が提案し、実質的に日本が蹴った休戦協定を復活させるなどは、まるで浪花節的な対応である。266

李鴻章が日本側に言っている通り、領土割譲など、余りに苛酷な講和条件を突きつけることは、将来の日中関係を阻害するものといわねばならない。遼東半島を割譲してそこを日本の軍事基地にすることは北京(京師)の首根っこをつかむことになると李鴻章は大いに恐れていたようだ。このころからすでに清国は諸外国に依存しており、後の三国干渉につながった。262

 

休戦協定再考 休戦協定といってもその効力期間は21日間だけで、しかも台湾・澎湖列島付近は除外、つまり戦闘継続であった。また「戦闘力を増加しない」と言いつつ、「戦闘に従事させなければ兵員を配置・運送できる」という曖昧な表現もある。270

 

 

第十八章 下関談判(下)271

 

感想 2024811()

 

・清国の情報が日本側に筒抜けになっているが、どのようにして入手したのか。295

・中国側全権大使の李鴻章・李経方は父子か、「我ら父子」284

・最終的な講和条約の概要298

 

・日本の対外侵略はいつから始まったのか。明治早々から始まっている。なぜ西洋帝国主義をまねたのか。なぜ西洋帝国主義を批判しなかったのか。それは人間としての常識ではなかったか。日清戦争当時、少数派の一人谷子爵は、李鴻章同様、「領土割譲は今後の日清関係によくない」とまっとうなことを述べていた。それに対して日清講和会議における陸奥宗光も伊藤博文も、極めて冷酷な対応ぶりだった。

 

1870、明治3年、樺太開拓使設置

1872—1879、沖縄処分

1873、征韓論起こる

1875、江華島事件

1876、日朝修好江華条約

 

 

第十九章 露、独、仏三国の干渉(上)302

 

 

人名メモ

 

303  西駐ロ公使、青木駐独公使、

306 広島行在所滞在 伊藤総理、山県・西郷陸海二大臣

307 松方大臣、野村内務大臣309

311, 313, 318 加藤駐英公使

312 栗野駐米公使

314 高平イタリア公使

317 ヒトロヴォー駐日ロシア公使、林外務次官

319 曾禰駐仏公使

320 伊藤総理、松方大蔵大臣、西郷海軍大臣、野村内務大臣、樺山海軍軍令部長

 

 

感想 2024812()

 

・天皇に配慮する記述 本書の題名『蹇蹇録』(「蹇蹇」とは、忠義の心を失わずに悩み苦しむ)がそれを物語る。最終決裁や李鴻章負傷時における皇室の配慮などの記述に現れている。実際天皇を中心に下僚たちが広島に京都にと決済を求めて走り回っている。

 

・さっさと三国干渉を受け入れる状況判断の賢明さ。423日から54日までの約10日間に結論を出した。322

・伊藤博文の勝者然とした中国に対する杓子定規の冷淡さは、岩倉使節団が受けた欧米の態度を反映しているのかもしれない。

 

 

 

第二十章 露、独、仏三国の干渉(中)325

 

 

感想 

 

・ロシアに対する警戒は日清戦争の後半から始まった。ロシアは当初日本が勝つとは思っておらず、英国と協調する動き327があった。ところが、日本が平壌や黄海を皮切りに勝利を続けると軍艦を東洋に配備し、軍事力を行使してまで日本の遼東半島占領に反対するようになった。

 

メモ

 

325 ロシアは1894630日、日清両軍隊の朝鮮からの撤退を求め(勧告し)ていた。

326 カシニー伯爵駐清ロシア公使、ヒトロヴォー・ロシア駐日公使077

327 トレンチ英公使

330 「莫斯科(モスクワ)新聞」は往々にしてロシア政府の声を代弁した。

333, 341, 342 (ロシアの)ロバノフ公爵はロシアの外務大臣。

334 直隷省とは現在の河北省。北京政府の直隷の地という意味。

339 金州 金州城は遼東半島南端に位置する。

346 日英同盟や日露戦争を予想させる記述がある。

350 「あたかも彼のフォン・ブラント一流の輩が、清国のためドイツ政府および社会のあらゆる部分に対して頻りに遊説し、その謬説を流布し居りたる際なれば、」

351 伯林(ベルリン)

354 ドイツがロシアに接近したのは露仏の親交を妨げるためであった。

356 「獅子身中の虫」とは恩を仇で報いること。

357 アルマン仏国公使

357 蘇士(スエズ)海峡

358 浦塩斯徳(ウラジオストク)、西伯利亜(シベリア)

358 「同地方在留の日本人は三ウエルスト以内に帰住し、」

360 比斯麦(ビスマルク)公、亜弗利加(アフリカ)

362 アノトー仏国外務大臣

362 ロシア皇帝は、フランスの外務大臣が露仏同盟の存在を明言したことに対する謝意表明として、ドイツのビスマルクをだしぬけに、フランス大統領に「サン・タレドレノの勲章」を授与した。

 

感想 ドイツが露仏の親しい関係に嫉妬してロシアに接近し、それまで良好だった日独関係を捨ててまでして露仏独三国干渉に加わったというのだが、信じられない。

 

 

 

第二十一章 露、独、仏三国の干渉(下)363

 

 

感想・メモ 2024814()

 

輻輳する列国の利害は、今日も変わらない。

 

ロ土戦争後のサンステファノ条約でロシアがトルコから得た領土は、クリミア戦争の結果結ばれたパリ条約1856を口実にする英墺の横槍によって破棄される羽目になった。そしてベルリン会議(条約)1878を仲介したビスマルクは双方に目配りし、その言質は豹変した。このことについて歴史家ゴルチャコフ公爵*が語っている。同様に下関条約の遼東半島割譲も、ロシアの要求によって破棄されることなった。

 

*ゴルチャコフ1798-1883 帝政ロシアの政治家・外相。

 

日本による清国に対する領土割譲要求に関して特に大陸部分についてはロシアが利害を持っているらしいことは日本側もそれとなく分かっていた。367

国内世論の清国に対する領土割譲要求の大声も無視できないが、かといって過大な要求もできない。そこで兵隊の血を流して得た遼東半島の割譲は要求項目から落とせなかった。368

 

364 露独仏に対する遼東半島還付の盟約後、清国とは芝罘(チーフ―)で批准交換された。

365 陸奥宗光は外交だけでなく武力も必要だという。

366 小松大総督宮が帷幕の謀臣とともに全国の精鋭を尽くして旅順口に進軍せられたり。

370 伯林(ベルリン)、土耳古(トルコ)

 


 

解説――『蹇蹇録』刊行事情――407 中塚明1929-2023

 

『蹇蹇録』には幾種類かの刊行本があり、その間の相違点には、ある種の政治的な意味がある430とのことだが、私はあまり興味がない。むしろ当時の歴史を本書に沿って解説して欲しかった。日本の対外進出=帝国主義的進出はいつごろ始まったのか、伊藤博文が清国との条約交渉においてなぜあれほど冷酷になり得たのかとか、陸奥宗光自身の軍事優先主義とか、当時の世界の政治状況をも踏まえて説明してもらいたかった。

Wikiによれば中塚明は「九条科学者の会」を立ち上げ、伊藤博文が安重根に射殺されたのは東学農民軍の虐殺の責任者として当然だとする。

 

メモ

 

411 原敬は陸奥宗光が本書執筆中は外務次官だった。陸奥宗光の秘書官には呉啓太や中田敬義などがいた。

413 林董(ただす)は日清戦争中は外務次官だったが、その後駐清公使に転じた。

427 『蹇蹇録』はゴードン・バーガーGordon M. Bergerによって1892年に英訳された。

435 西園寺公望は第二回欧州旅行以来の陸奥宗光の盟友。

444 陸奥宗光の孫は陸奥陽之助という。2002年没。

 

以上

 

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