2024年8月27日火曜日

『石橋湛山評論集』岩波文庫1984

 

『石橋湛山評論集』岩波文庫1984

 

 

感想 2024718()

 

 

問題の社会化

 

011 石橋湛山はマルクス主義を「極端な経済唯物主義」と端からくさすが、その論拠の詳細は語らない。本論発表当時1912/4は大逆事件1911直後である。何らかの恐怖やプレッシャーがあったに違いない。

しかしリープクネヒトの自由論批判演説「アメリカ人は自由、自由と言うが、その自由で貧乏は救済されるのか」は良しとして論を張った。

 

 

禍根をのこす外交政策

 

055 事後の教科書では「対華21箇条の要求1915と言われるが、当時の大隈重信政権はその詳細を国民に語らず、そのおおよその内容は海外の情報と、これまでの日本政府の対外政策の流れから知るしかなかったようだ。中国での利権に関与する列強の欧州戦争中のどさくさにまぎれた過大な要求だったが、それを取り仕切ったのが加藤高明(東大卒)であった。石橋湛山が指摘するように、これは前年の青島占領に続く、明らかに侵略行為であった。日清・日露もすでに侵略戦争であった。こう考えて来ると1930年代から敗戦までの「昭和維新ファッショ軍政」の流れは、突如起こったものではなく、日本の軍閥たちの長期的な意志だったと言える。そしてこの1915年当時からすでに政府は「挙国一致」と言って国民を侵略戦争に鼓舞していたようだ。「昭和維新」の時代はこの傾向の理不尽で強権的な押し付けの時代だったのでは。

 

 

騒擾の政治的意義080

 

084 米騒動の原因となった米価高騰の原因は、戦争中で物資不足の欧州に物資を送ったことから、国内の物資が不足して物価が上昇し、それに伴って米価も上昇したことによるらしい。米は豊作で十分にあったという。

 

感想  石橋湛山とマルクス主義 2024720()

 

石橋湛山の評論を読んでいると、湛山が勉強家で西洋の文物をよく知っていることがわかる。石橋湛山はマルクス主義を勉強したのか、しなかったのか。幸徳事件ではビビったはず。当時の夏目漱石や徳富蘆花も心を痛めた。*石橋湛山はリープクネヒトを肯定的にとらえるが、マルクス主義は「極端な経済唯物主義」011の一言でくさし、死後の明治天皇をたたえ、天皇記念の基金「明治賞金」031をつくったらと提案する。それでいてロシア革命は承認075し、植民地の解放086を唱える。この折衷主義は弾圧の時代を生き抜く知恵か。

 

*「大逆事件は夏目漱石、森鴎外、徳富蘆花、石川啄木、永井荷風らに深刻な衝撃を与えた」白井聡(しらいさとし)『国体論』集英社新書2018, 108

 

大日本主義の幻想101

 

感想 2024721()

 

植民地主義支配はいずれなくなるだろうという筆者の予言は正しかった。現にほとんどの植民地国が独立している。しかし日本本土が占領されることはないだろうという予言は当たらなかった。日本は皮肉なことに大日本主義を貫いたがために占領されることになった。とはいえそれは当初から一時的占領であることが約束されていたから、いわゆる植民地主義的な占領とは違う。植民地主義支配形態は世界的に敗れたといえるし、日本本土が植民地化されるなどということは幻想であった。筆者の予言は当たっていた。

 

しかし今日植民地支配戦争という形はとらなくても、南北問題=格差問題は依然として解決されていない。当時石橋が論じた1921年からちょうど100年も過ぎたのに、米帝などが繁栄する一方で、生活程度の低い国々が存在し、世界で最も裕福な26人の富が、貧困層38億人(世界人口の半分)の総資産に相当する(斎藤幸平231)という不公平が依然として解消されていない。

 

そして植民地戦争かどうかその性格付けは難しいが、今も戦争は続いている。ウロ戦争2022/2/24はもう2年以上続いているし、ガザなどでの中東紛争2023/10/7も終わりが見えないし、ミャンマーにおける国軍クーデターによる武力支配2021/2/1は終わりそうもない。願わくはウロ戦争はウクライナの勝利で終わり、ガザなどアラブ諸国が対等な独立を認められ、ミャンマーではスーチー民主派勢力の勝利に終わってほしい。

 

 

 

死もまた社会奉仕 ほか125

 

山縣有朋の独裁について語り、その死後、軍備縮小案が政友会から出されたが、それはその死と偶然ではないという。

 

山県有朋は皇太子祐仁親王(後の昭和天皇)の婚約相手・久邇宮(くにのみや)良子女王(後の香淳皇后)が色盲の家系(島津家・久邇宮家)であることから、その婚約反対を画策したが、それに反対する右翼・頭山満を含めた島津家や久邇宮家などの勢力に敗れ、その1年後に亡くなったという。

「宮中某重大事件」、19181月、皇太子妃として内定した久邇宮(くにのみや)良子女王は色盲の血統ありとして、元老・山縣有朋が婚約解消を工作したが、19212月に失敗し、山県は世間の非難を浴びた。

北一輝、大川周明らによる猶存社が、山県暗殺を紀元節に決行するという噂、靖国神社が舞台となる。

 

192223日、衆議院に「山県公国葬予算」が現れた時、山公の国葬に反対を唱えた議員が二人いた。二人しかいなかった。大阪選出の南鼎三と森下亀太郎である。

 

 

 

精神の振興とは ほか129

 

 

いわゆる鮮人の暴行(関東大震災)131

 

 

131 筆者は「鮮人」と蔑称を使っている。「鮮人」の暴動は嘘であったとも認めている。

 

朝鮮人や中国人の虐殺に関する詳細は述べていないが、「今更、心配は過ぎ去ったから、安心して来いなどと、鮮人や支那人を招くは、片腹痛い」とし、「万斛の血と涙とを以て、過般の罪を償わなければならない」と言っているから、およその見当はつく。また朝鮮人による暴動が喧伝されている時分について、「我が日本の運命もこれにて定まりたりと慨嘆せるは独り小評論子のみではなかった」と、この虐殺行為が国民性になることを恐れてもいるようだ。

自警団による朝鮮人の虐殺についても触れていて、「殺人行為を誇らかに語り、一ぱし国家のために大功を立てたかに思っている」132と、藤野裕子が『民衆暴力』で指摘していることを筆者も述べてそれを裏付けるが、その一方で「その行為を唆した者こそ処罰されるべきだ、自警団は裁判されて可哀そうだ」と擁護もする。

 

 

 

市町村に地租営業税を移譲すべし144

 

 

144 感想 2024722() 府県を廃止し、市町村という狭い地域に、つまり、人々が日常的に心を通い合わせられる狭い地方組織に、言葉の本当の意味での「自治」を行わせよ、という論である。同感。これは大正末年1925年の論文であるが、この当時と今とほとんど変わっていないことが分かる。府県は中央の下請けでしかない、不要である。市長を選ぶにあたって、自治どころでなく中央集権的支配への屈従をよしとし、中央とのコネが強い人を選ぼうとする傾向など、今日と全く変わらない。

 

148 「府県知事及びその下の内務部長・警察部長等は政府の辞令一本にその命を繋ぐ輩」とあり、「府県知事公選論もあるが」とあるからまだ知事公選制ではなかったようだ。今は知事を選挙で選んでいるからその点は違うが、都道府県の警察本部長人事は中央の国家公安委員会が預かっており、特高=公安人事権も警察庁が握っているらしいし、中央の役人の県への「出向」は今でもあるから、そういう点では当時と変わらない。現在の「出向」こそ中央からのお目付けなのだろう。自治は全くなし。全く名ばかりの「地方自治」。

 

メモ

 

149 府県の役割で中央と直結する部分(司法警察)は、府県を廃して、中央政府の主張所にする。郡が廃止され、その機能を府県と市町村に分けたが、良い結果が得られた。

151 中央政府は干渉を止めるべきだ。

152 中央政府は補助金を止めるべきだ。

152 東京市や諸市が市長を選ぶ際に中央政府との連絡に便宜な人を置こうとする弊害が現れた。

153 補助金制度がもたらす弊害は、もらった補助金を無駄な所に使って使い切ろうとすることである。中央政府は地租・営業税を失うが、補助金支出を減ずることができる。

154 地租は不労所得課税の趣旨で改正して市町村が徴収すれば、税額は今日の数倍になるだろう。

 

 

 

直訴兵卒の軍法会議と特殊部落問題155

 

・直訴という形式の中に見える天皇を最高権威者と認める態度。

 

・当時の水平社やアナーキズム運動の隆盛状況は荒畑寒村にもある通りである。この直訴事件の以前にも某連隊内で、部落差別を原因とした大騒動が起こっていたようだ。155

 

・部落差別問題に正面から向き合おうとしないかのように受け取れる軍隊上層部の差別意識。直訴事件を起こした北原泰作に、裁判上の法律的形式を提供しない。弁護人を置かない。本人の弁論も許さない。公開の公判を提供しない。弁護届を提出する余裕も与えられなかったという理由で審理再開の申請をしたが軍は却下。

・公判の1日後に懲役1年の判決。

 

 

共産主義の正体 その討論を避くべからず158

 

これは1928315日の日本共産党大弾圧事件後の論文。1928/4/28 著者は「共産主義は善いとは言わない」161が、「政治論・社会論に対する問題提起である163」と捉え、「共産主義が人類の性質上可能か不可能か」という観点から共産主義者との討論を求めている。

 

「マルクスの人類社会の進展論は宿命論的だ」160というが、歴史の必然性を指しているのか。著者は日本共産党を「社会の安寧秩序を破壊する矯激な陰謀」と一旦は田中義一政権の言葉を受け入れ、161 「共産主義を善いものだとも、その陰謀を企てた輩を志士仁人だとも説くのではない」としつつ「共産主義は社会生活に対する一種の理想に他ならない」161とも述べ、最後に162 「彼らは革命によってプロレタリア独裁をもたらす。共産主義が危険なりとせらるるは専らこの理想社会建設までの方法・手段にあるが、これは手段であって目的ではない」と共産主義の問題点を指摘しつつ擁護もする。そして「それは人類の性質上可能か不可能かの問題とともに合わせて討議に付せられるべき事柄である」と付け加え、慎重な態度である。最後に163 「彼らはこの討議を拒ままないだろう。共産主義は少しも恐れるに足りない。尋常の政治論経済論として取り扱うことができる」と結ぶ。

 

「共産主義が人類の性質上可能か不可能か」とは何を指しているのか。暴力革命という手段か、それとも国家消滅論か。後述されるように国家消滅論に関してはかなり批判的である。179

 

 

 

戦死者を思え 出兵は戯談事にあらず、国民は撤兵を要求せよ164, 1928/5/19

 

 

167 山東出兵に不賛成のはずの民政党も、正面から即時撤兵と言わなかった。

169 新聞も出兵に冷笑し不賛成だったが、撤兵は主張しなかった。

 

 

 

Ⅳ 戦時の抵抗1931—1945

 

 

満蒙問題解決の根本的方針如何1931/10/10 満州事変1931/9/18

 

 

178 今1931の中国国民党政権の下ではかつての清朝時代とは異なり、国民意識が高揚している。大正141925年の二十一箇条の要求のときのように渋々と日本の要求を受け入れる時代ではなくなった。だから排日行動に出る。それに対して日本側は過去の歴史や条約や支那に対する日本の功績を理由に彼らを非難しその不道徳を説くが、問題解決には無益である。

 

179 満蒙は中国の領土であり、それは感情の問題である。「かの国人が、彼らの領土と信ずる満蒙に、日本の主権の拡張を嫌うのは理屈ではなくして、感情である。」

 

179 日本共産党批判 

 

「近頃公判に付せられている共産主義青年の中には、ソビエトロシアを崇敬して日本を愛するを知らぬ者があるというが、それはあたかも親の恩恵に包まるる駄々っ子が、親の有難味を解せざるに等しい。内部(日本国内)においては種々なる苦情もあるけれども、とにかく外に対しては厳乎として国の独立を保ち、指一本も他国から差されぬ権威を持っていればこそ、そんな贅沢も言いもし、言えもするのである。しからば彼らは、我が国が(帝国主義戦争の結果)独立を喪い、ロシアに支配せらるるを好むかと尋ぬれば、口では何と言うか知らず心から然りと答える者はおそらくあるまい。(言論軽視)もし理屈のみ押すならば、…地球上に何十かの国に分かれて、各政治を異にするというのが、そもそもの間違いであろう。追ってあるいは世界一国という時代も現わるるかも知れぬ。が現在の実際においては、例えばいかに善政が布かれても、日本国民は、日本国民以外の者の支配を受くるを快とせざるが如く、支那国民もまた同様の感情の存することを許さねばならぬ。」

 

感想 2024725() この辺をみると著者がマルクス主義者でないことがよくわかる。国家主義者である。

 

180 日本愛国主義礼賛 「明治維新以来(その侵略戦争で)世界のいずれの国にも勝って愛国心を鼓吹し来れるわが国民の…」

 

中国の植民地独立戦争支持 「彼らの胸中には清朝時代に全く消滅せるかに見えた国民意識が驚くべき強烈さをもって蘇った。それは彼ら中華民国の建設者らが、いかに近代国民教育に意を注ぎ(賢明にもこれまた明治維新以来、新日本の建設者らが行えると同様の方法である)以て国民の愛国心を養い、国家の統一をはかるに努めつつあるかを見てもわかる。」

 

 

183 某支那通曰く「今日のような日支関係の悪化の原因は、日本の政治家たちが支那人の性質を日本人並みに解釈し、紳士として扱ったからである。支那人は生来忘恩不信の民であり、条約無視は平気であり、国際道義は通用しない。だからただ力を以て圧迫するほかない」と。

支那の統一国家建設の要求は支那の国民性とは異なる。支那が無視すると憤慨する条約は、支那の主権を侵し、国家の統一を妨げる。その条約を破棄しようと企てることは当然の趨勢である。

184 支那の統一国家実現は我が国の安全繁栄の妨げとなるか。国際情勢は支那の統一国家建設運動を実力で破壊することを許さない。それをすれば旧ドイツ帝国の二の舞となる。

人々は言う、満蒙を手放して日本の独立と国民生活の向上が図れるかと。しかし人口が多く土地が狭いという人口問題は、台湾、朝鮮、樺太、関東州、南洋諸島、満洲を得ても好転しなかった。鉄・石炭も満蒙からは得られなかった。それは平和的経済関係によって達せられる。

186 また満蒙は国防の第一線であるか。英国はその安全のために大陸を領有したか。国防戦は日本海で十分だ。代償なしに満蒙は手に入らぬ。もし満蒙に少しでも権益を維持しようとすれば、感情的に支那全国民を敵に回し、世界列国も敵に回すことになる。

 

感想 2024726() 妥当な意見。弱小だったときに強引に結ばされた不利な条約など破棄したい、これはほんの30年前(1908小村寿太郎)の我が身だったのではないか。それを中国人の低劣な国民性に帰するなど的外れである。

 

 

綱紀粛正論者の認識不足、我が政治の良化をかえって妨げん1934/3/3

 

188 メモ 論文「足利尊氏」が逆賊尊氏賛美論だと右翼議員に批判され、斎藤実内閣の商工大臣・中島久万吉が追放された1934/2/9が、「綱紀粛正」の観点から斎藤内閣打倒を叫ぶのは不適当。後任内閣の想定のない状態で斎藤内閣打倒を叫ぶのは議会制(憲政常道)の観点から危険。政治には金がかかる。著者は政治家の贈収賄事件が起こらないように、選挙公営論を唱えた。鳩山一郎現文相だけでなく、清廉潔白の故浜口雄幸も樺太工業の藤田氏から金をもらったと検事が明らかにした。

 

 

193 世界開放主義を掲げて 懊悩せる列強を指導せよ1936/9/19

 

感想 いつもの著者の持論。

 

 

198 ドイツの背反は何を訓えるか この神意を覚らずば天譴(てんけん)必ず至らん1939/9/2

 

感想 独ソ不可侵条約によって日本は軽蔑された。それまでのドイツに対するおべっかは恥ずかしい。

斎藤内閣がつぶれた。

 

 

207 いわゆる軍人の政治干与 責は政治家の無能にある1940/2/24

 

感想 軍人が政治に関与したらしいが、それは政治家が無能であるからだ。軍人の発言力が強くなってきてそれに迎合するかにも見える。

 

 

212 百年戦争の予想1941/7/5, 12, 19

 

感想 資本主義は資本家の力に依存している、政治家は資本家の意見を聞かなければならない。ごもっとも。でも共同経営という手法もあるのでは。

 

 

239 敢えて婆心を披瀝し新内閣に望む1944/8/5

 

239 当局による「政治誹謗」という用語による断定が民衆を恐怖させ、その発言を抑えた。今日の「左翼」「パヨク」というのもその一つかもしれない。その曖昧でいて暴力を含意する言葉に応対する言葉を失うからだ。

 

239 「近年政府を批判することは、政治誹謗等と称せられ、無用の誤解を受け、往々『面倒の事』になる危険があるので、従って世人は『昨非今是』で、現政府には出来るだけ甘い言葉を使って置くことが、一般の風潮であるかに見える」

 

 

感想 著者は相変わらず批判的な口吻ではあるが、基本的には政府の戦争遂行の方針に迎合しているように見える。「日本が国家として戦争に勝つ」ことが大前提となっている。

 

 

268 池田外交路線へ望む1960/8/8, 9, 268

 

感想 2024729()

 

一 日ソ協会と私

 

269 資本主義社会の中で発生する犯罪者を虫けらや気ちげのように特殊な存在と考え、自らとは距離をおき、自らが安泰な立場にいることは棚に上げておく。「若干の馬鹿や狂人は存在する。だから警察や刑務所もなくてはならぬ」とあっさり言いのける。

 

272 社会党のことを「アカ」呼ばわりし断罪する。「社会党の一部の諸君は表面中立を装いつつ、日本を赤化させようとする」

269 それでいて右翼による自らに対する「非国民」批判には気をつかっている。「訪中する私は、愛国者を自称する人々から「国賊」と誹謗するビラを撒かれた。訪ソした時の鳩山前会長の心中を察する」と慎重な発言。

 

二 新憲法と安保改定

 

273 マルクス主義批判では「古い19世紀の思想」とし、ロシア革命批判では「ロマノフ王朝の暴政の特殊性」が原因とするなどは、マルクス主義批判の常套句。筆者がマルクスやレーニンの本を読んだ上での批判か、極めて疑問。そして資本主義に関しては「高度に発達した社会保障制度をもつ資本主義社会」と、資本主義には何等問題がないかのようにのんびりしている。

 


 

解説 松尾尊兊293

 

 

石橋湛山1884--1973

 

湛山の危機は戦前に一回、戦後に一回あった。

 

307 戦前の危機 湛山は19409月の三国同盟成立が日米戦争をひきおこすと警鐘を鳴らし続け、朝日・毎日の二大紙を連携させて反軍運動を起こそうとした(軍部に当たらせようとした)。すると1941年、軍部からにらまれ(圧力がにわかに加わり)、社内幹部の間に湛山降ろしが始まったが、湛山は社長の椅子にしがみつき、その後は「長期戦への覚悟」を説く論陣を張ってごまかした。(303 湛山は三浦銕太郎(てつたろう)298の後を継いで主幹・専務取締役を継いでいた。)

 

311 戦後の危機は湛山が吉田内閣の蔵相1946/4として占領軍の方針に反対したことがもたらした。湛山は財閥解体に反対し、占領軍駐留費の削減を要求した。そのため19475月の衆議院議員選挙での当選直後に、戦時下での「軍国主義鼓吹」を理由に公職追放となり、19516月に解除されるまでの4年間臭い飯を食った。湛山はその後3年間の吉田茂との抗争後に鳩山内閣を実現し、鳩山引退後の195612月に首相になった。72歳のときである。

 

以上

 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿

大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社1990

  大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社 1990       第一章 枝吉家の人々と副島種臣 第二章 倒幕活動と副島種臣 第三章 到遠館の副島種臣     19 世紀の中ごろ、佐賀藩の弘道館 026 では「国学」の研究が行われていたという。その中...