2024年8月26日月曜日

毛利敏彦『明治六年政変』中公新書1979

 

毛利敏彦『明治六年政変』中公新書1979

 

 

 

Ⅰ 岩倉使節団 明治4111218711223日~明治61873913

 

023 岩倉欧米使節団の全権委任状には条約改正を交渉し調印する権限が明記されていなかったので、それではだめだと米に言われ、日本に取りに帰ったというが、これと同様なことは陸奥宗光が広島談判で清国に対して行った仕打ちではないか。

 

023 日本側で条約改正交渉入りを勧めたのは、その時アメリカで大使(少弁務使)をしていた森有礼と、それに同調した伊藤博文だった。アメリカ側にも条約改正を勧めるデ・ロング公使もいたが、実際の交渉相手である国務長官フィッシュの対応は「厳しい」ものだった。

また条約改正のための「全権委任状」を取りに伊藤博文と大久保利通が日本に戻ったが、副島種臣外務卿は外国での交渉に反対し、全権委任状は発行したが、その委任状には「条約の調印を許さない」とあった。

前述の米側の対応の厳しさと国内事情とにより結局条約改正には至らなかった。

余談だが、この時森有礼1847-1889が駐米大使(少弁務使、1870明治3年秋~1873年明治6年夏)としてすでにアメリカにいたということは驚きだ。

 

 

 

Ⅱ 留守政府

 

徴兵制施行も軍国主義の条件

 

039 1872年明治51128日、国民皆兵を標榜した徴兵告諭が布告された。

 

 

 

Ⅲ 波瀾の政局

 

080 外務省顧問として雇用された米人リゼンドルが、日本に対して、朝鮮や台湾を獲得することは大いに国際的に利益があるからとして、台湾に漂着した沖縄宮古島の島民54人が殺された事件1871/12/19、明治4118を利用し、中国を挑発して台湾を占領するように唆した。

 

「前清国アモイ駐在アメリカ領事リゼンドル(李仙得)は「朝鮮と台湾は東アジアの戦略上の要衝であり、ここを押さえた国は国際政治で優位に立てる。また清国の台湾支配は有名無実であるから、清国政府が台湾原住民による八重山島民殺害事件に対して適切な処置を取らないときは、日本は進んで台湾を占領するがいい」とし、さらに「外交上の布石として軍事行動に先立って清国に台湾原住民を処置するよう交渉し、清国の履行能力の欠如を立証しておく必要がある」と助言した。

リゼンドルの意見は政府を動かし、副島外務卿を特命全権大使に任命して清国に派遣することになった。」

 

081 副島外務卿は台湾を分捕ることに自信をもっていたようだ。副島は「特命全権大使」に任命されて清国に向かう時天皇に向かって「(私は)外人の台湾を覬覦(きゆ、望んではならない望み)するものとして、敢えて我が王事(天皇)を妨げしめず。清人をして生蕃の地を甘譲せしめ、土地を開き、民心を得むこと、臣に非ずんば恐らくは成す所なかるべし」と上奏し、欧米諸列強に対抗して台湾を植民地に獲得したいとの野心を自信満々に披瀝した。また大隈参議への手紙では「台湾の半分だけなら交渉で手に入れるのを受け合ってよい。今台湾全島を手に入れようとすれば清国との戦争になるかもしれない。しかし台湾の半分を入手しておけば、四、五年以内には全島も交渉で手に入れて見せる。この機会を失ってはならない」と大言壮語している。この時の副島はすでに立派な帝国主義者である。

 

082 明治元年12、日本は朝鮮との隣好を望む文書を釜山に届けたが、朝鮮側は日本が中国しか使わない「皇」や「勅」という言葉を使ったので、中国に気兼ねをして、日本から交際を求める文書を受理しなかった。この時日本の士族社会の一部は、「無礼だ武力で懲らしめてやる」と怒ったというが、この段階ではまだ侵略的な意味合いはなかったのではないか。*

 

*そうでもないかもしれない。木戸孝允は1868年末の版籍奉還のころ、すでに朝鮮侵略的な発言をしていた。木戸孝允はその日記で岩倉に「(朝鮮の)土を攻撃し、大いに(日本の)神州の武威を伸長せんことを願う」と述べていた。大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社234

 

「朝鮮の無礼の責任を武力で問うべしという征韓論が士族社会の一部に発生した。また国内の矛盾を国外にそらし反政府のエネルギーを放散する狙いもあった。明治元年末に徴士木戸孝允はそのような征韓論を主張した。

朝鮮側が交友文書を受け取らなかった理由として、日本が朝鮮を征服する意図をもっているのではないかという危惧もあった。」

 

 

 

Ⅳ 朝鮮使節問題108

 

日朝間の軋轢とは何だったのか。そもそもそれは同等な軋轢だったのだろうか。日朝間の軋轢は西洋化を認めるかどうかということか。

 

朝鮮側の不満 釜山の日本施設(草梁倭館or大日本公館)への抗議文「日本は西洋の制度や風俗をまねて恥じることがない。朝鮮当局は対馬商人以外に貿易を許していないのにそれに違反した。近頃の日本人の所為を見ると日本は無法之国というべきである」109「妄錯生事後悔あるに至らしめよ」110

 

*日本は草梁倭館から対馬藩の役人や商人を退去させ、外務省の官僚に置き換えて東京の三越(三井組)に、対馬商人の名義を借りて商売を試みさせた。またそもそも草梁倭館は朝鮮政府の所有物であった。109

 

その結果、日本公館への生活物資の供給と同館在住の日本人の貿易活動が、朝鮮側官憲の厳しい取締りで困難になった。109

 

 

110 朝鮮使節に関する閣議原案は「陸軍若干、軍艦数隻を派遣し、九州鎮台に即応態勢を取らせ、軍事力を背景に使節を派遣する」というものだった。そして板垣は「居留民保護のために、兵士一大隊を急派せよ」とこれに賛成した。板垣退助が先ず外交ではなく、朝鮮への軍事侵攻論者だったとは意外。

 

西郷隆盛は「武力ではなく外交でやってみては」と提案したが、それは武力攻撃の口実であったとする説があるが、それはおかしいのではないか。西郷自身にもそういう発言はあるが*、真意は外交で問題が解決できるかもしれないと考えていたからそう提案したのではないか。

 

*これは板垣取り込みのための方便であった。120

 

既にこれ以前にも日本は軍隊を率いて朝鮮を「訪問」していた。つまり草梁倭館の接収事務に派遣された外務大丞・花房義質は、軍艦春日に搭乗し、歩兵二小隊を乗せた汽船有功丸を伴った。このように廃藩置県の際に釜山の草梁倭館or日本公館の吏員の交代時に軍隊を連れ立って行ったということそのものが、すでに帝国主義的態度を取っていたと言える。111

 

また副島は清国を訪問した際に、清国からの朝鮮の独立(宗属関係は朝鮮の外交上の自主性を損なわない)も認めさせていた。ということは朝鮮が台湾同様、カモであるという認識がすでに日清間にあったということか。114

 

 

1、早くも1873年明治6年ごろ、その後の日本が行う戦争を予想させるかのような考え方があったとは驚き。つまり朝鮮を手なずけ、英国と手を組んで、ロシアとの戦争を準備するのがよいというものである。これはなんと西郷隆盛の考えである。135

 

2、18世紀末からすでに樺太や千島を巡って断続的に日露間で紛争が発生していて、幕府もそれに警戒していた。132

 

3、西郷隆盛は純然たる平和主義者ではないが、武力を示しながらも、問題を平和裏に解決する手法を常としていた。124

 

4、朝鮮問題解決のための好戦的な閣議原案の作成者は、上野景範・外務少輔であった。当時外務卿副島種臣は清国に出張中であり、大輔・寺島宗則は駐英大弁務使で転出していた。109

 

 

 

Ⅴ 廟堂分裂

 

権力争い 伊藤博文は大久保を参議に入れて新参の後藤、大木、江藤らを追い出そうとしていた。162

 

三条の閣議原案は「朝鮮に使節を送ることは戦争を伴う」から、それ以前に軍艦をアメリカから発注して軍備を整えた後で使節を送るべきであり、従って使節を送る時期を遅らせた方がいいというものであった。また三条は積極的に対朝鮮戦争をやるべきだということも述べ、大分混乱していたようだ。165

暗殺すると脅すとはただごとではないが、それが当時の現実だったようだ。島津久光が西郷隆盛を「逆臣」として暗殺しようとしていたというのだ。そして大久保利通も島津による暗殺の恐怖を抱いていたという。170

 

Wikiでは西郷隆盛は征韓論者とされ、またそれが通説とされているが、それは明らかな間違いである。西郷隆盛はこの時代の人には珍しく、外交論者であった、つまり話し合いで朝鮮問題を解決しようとしていた。西郷の太政大臣宛ての文書「始末書」を見よ。184その間違いの原因は1907年明治40年に出された煙山専太郎『征韓論実相』による。182それは「江藤が長州派を駆逐しようとして、薩摩派を味方につける目的で、西郷派遣支持の立場を取った」とする。183

むしろ三条やそれを代弁した大久保の方が征韓論者=軍事力を背景とした韓国侵略論者と言える。板垣もこの閣議では西郷外交論に賛成しているが、もともとは武力征韓論を主張していた。江藤はこの閣議では大久保を批判したが、どちらなのかよく分からない。182

 

大久保利通はなぜ三条や岩倉にそれほどまでに参議として所望されたのか。*それがその後参議を辞任した後でも参議として生き残る道を残したのではないか。194

 

154頁にその解答があるが、それはそれ以前の文脈からすると矛盾する。つまり大久保は外遊中に所望されて帰朝したが、帰朝した時には問題が解決されていて、大久保は必要とされず、関西旅行を楽しんでいた。ところが154頁では、伊藤が大久保を必要とし、三条・岩倉も大久保を必要としたとある。

 

 

意外で非合理で無法な結末

 

大久保は怒り狂いながら死んだふりをしていて、三条が大久保の憤激に狂乱して倒れると、密かに再起を願い、岩倉に三条の代役を務めさせ、西郷使節派遣の閣議決定を天皇に上奏する段階で逆転するという意欲を新たにした。*朝鮮問題などどうでもよく、自らの面子の方が重要だった。

 

*これはもともと伊藤の案だったが、大久保は長州の伊藤を通さず、その案は借用し、鹿児島族の開拓次官・黒田清隆と謀り、同じく鹿児島人の宮内少輔・吉井友実を宮中に接近させ、岩倉の三条代行を勅令させた。196

 

 

朝鮮に取り残された日本人官吏はその後どうなったのだろうか。次は直接江華島事件につながるのだろうか。

 

朝鮮対応は結局大久保の案177が採用されたと推測されるが、それは戦争反対論であった。ただし大久保は使節派遣が戦争につながるという論証はしていない。

 

三条の閣議原案165以外に、上野景範・外務少輔案もあった。109

 

 

策士伊藤162, 194

 

162 新任参議(後藤、大木、江藤)を解任するとともに、大久保を参議にすべきである。

194 岩倉を太政大臣代理にし、岩倉が閣議決定を天皇に上奏する時に、朝鮮使節を阻止させる。

 

なぜ三条や岩倉は事前に西郷と相談せずに、使節遅延の原案を作成したのか。周囲の入れ知恵か、それとも自らの考えか。西郷使節派遣が一旦決まっていたのに。朝鮮に対する恐怖からか。167

 

朝鮮人は「傲慢で礼節を知らない」(大久保利通)176、「野蛮」(江藤、これはそのように言う人がいると江藤が聞いている)180、「無礼」(西郷隆盛、これもそのようにいう人がいるという西郷の言葉)187とあるように、当時の日本人の中にはそう評する人が多かったようだが、西郷隆盛は虚心に談判し、友好関係を築こうとし、軍隊を同伴することに反対した。

 

196 大久保利通は、開拓次官・黒田清隆の提案に基づき、同じ薩摩藩出身の宮内少輔・吉井友実を通して、宮内卿兼侍従長・徳大寺実則に渡りをつけ、岩倉具視を太政大臣代理とする伊藤博文案と同様の策を自ら講じていた。

 

以上  2024826()

 


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