『日米地位協定』 山本章子 中公新書 2019
感想 2019年8月13日(火)
米軍の本質を記述していると思われる、2000年頃の、稲嶺知事時代の、米国防省の文書が本書で示されている。184 “Scope Paper
for US-Japan Bilateral Meeting” とあるが、これが、いつのものか、どこのものか、示されていない。それによると、
日本人が基地の削減を望むことは、同盟の意味を理解していない。沖縄県には反基地勢力があり、地位協定に反対している。日米地位協定は、(地方自治体の口を挟むことではなく、)中央政府間の議題である。
米国防省の考え方は、「日米同盟」がアプリオリに善であるとし、日米関係に関する多様な考え方を端から踏みにじり、圧倒的多数に支持された沖縄の民意を、「反基地勢力」と表現し、一部の跳ね上がり集団と看做し、その存在を貶める。また、沖縄県や沖縄県内の各市町村など、地方自治体の意見を無視し、中央政府の指示に従えとする威圧的な上から目線である。
感想 2019年8月9日(金)
日米関係の真実を自民党政権は秘密にしてきた。それを暴いたのがジャーナリストであった。また、民主党政権も日米密約を調査・公開した。
自民党政権は、国民の在日米軍に対する不満を、いかに騙すかに腐心してきた。
在日米軍は、平時でも戦時下同様、日本の領空、領海を自由に利用することができた。
1960年の日米地位協定によって、それまで米軍に有利だった行政協定を、日本側に有利に、つまり「ドイツ並みに」改善したとされたが、実際は、それまでの行政協定と同趣旨の合意議事録という密約を交わしていた。これは騙し以外の何物であろうか。岸信介内閣での話である。そしてその後開かれた日米合同委員会も、その議事録の上に立って開かれ、合同委員会の合意事項も、多くは秘密にされてきた。
この意味で、当該自民党政権が、国民の気持ちを代表せず、一部の為政者の恣意で政治を行ったと言える。今そういう手法を彼等は「結果を出す」という表現で言い表す。「俺がやったことに、今国民は反対するだろうが、いずれ国民もその良さが分かって、ついてくるだろう」と言うのだ。それは独裁制とどこが違うのだろうか。とても民主主義的とは言えない。「自由民主党」ではなく「寡占独裁党」とういう党名が、その本質を表すふさわしい名称ではないか。
感想 2019年7月31日(水)
安倍晋三はその著書『美しい国へ』の中で、60年安保改定が以前の安保条約に比べて優れていると喧伝している。その意味は、日本の米国に対する自立性が向上したということを言いたいのだろうが、実は、地位協定の文面とは裏腹の内容、つまり、以前と変わらぬ権利を米軍に認めた議事録に基づいて、在日米軍の活動が行われていた。それを国民に伏せていたということを、安倍は知っていてそう言ったのだろうか。
岸は、昭和天皇がマッカーサーに媚びたように、米国の歓心を買いたかったのかもしれない。自らの命を助けてくれた強力な相手にすがりつき、自らの地位を何としてでも確保したかったのかもしれない。
また『美しい国へ』の中で安倍は、岸が警官隊200名を動員して野党議員を国会から排除して、強行採決したということには全く触れていない。野党社会党は「大馬鹿者」だから排除されて当然と考えているのだろうか。
それにアメリカが日本を守ることが60年安保に明記されたと安部は自慢しているが、アメリカは日本が兵隊を出さないで、ただアメリカ人だけで日本を守るようなことは全く考えていないことは、本書の記述からも明らかである。事前協議についても制約が多く、実質事前協議と言えないような内容だ。(ただし、これは1958年時点の米統合参謀本部の考えで、結局それがどうなったかについて、本書では触れていない。)047
感想 2019年7月26日(金)
アメリカは、アメリカの力を撥ね退けたいとする日本の要求を拒絶し、その極東戦略のために、戦争で敗れた日本をいつまでも隷属状態におくことができる、奴隷の主人のように強力なのか。
本書を読んで、その答えは否だと思った。しかし私はずっと、アメリカは日本を隷属させたいのだと思っていた。アメリカから逃れたい、しかし、アメリカはその強力な力で、いつまでも日本を隷属させ続けると。165
アメリカの軍事的庇護を求めたいという日本人が、これまでの戦後の日本の政治を担当してきた。(戦後の吉田茂がそうだったようだ。005, 007)だから日米安保条約は安泰だった。アメリカから逃れたいなどと一度もアメリカに言ったことがなかったのである。
しかし、それは一面的なものの見方であるとも言える。少なくとも戦後当初は、アメリカは在日米軍基地を手放したくなかった。アメリカは朝鮮戦争の渦中にあり、反共イデオロギーの下に、日本の基地を手放したくなかった。一方で、日本政府も戦前から反共イデオロギーであり、軍隊を奪われたことから、アメリカ軍の庇護を求めたいという気持ちもあって、双方の利害が一致して、米軍の駐留が継続されたと見るべきだろう。
今もアメリカは世界の覇権を求め、在日米軍基地を手放す気持ちはないし、安倍政権も力による平和=抑止力を望んでいるから、日米安保条約の構造は以前と変わらないと言える。
日米地位協定には、その表向きの条文と矛盾する密約としての211「合意議事録」があり、実際の運用は、その議事録に基づき、アメリカの要求を存分に認める。それは米国の力に依存したいという日本人の要望の当然の帰結であって、何ら問題はないのだ。209
日米安保条約の存続を望んでいる日本人の割合が、世論調査で示されている。内閣府の調査と、朝日新聞と『沖縄タイムス』の合同調査とで相当の差があるが、内閣府では70%1997.2、『朝日新聞』と『沖縄タイムス』の合同調査では52%1992.4*1、64%(沖縄は41% 沖縄は全国と20ポイントも差があることに注目すべきだ。)1995.11、『日本経済新聞』では60%1995.8*2が、日米安保条約の存続を支持している。164, 209
*1 少女暴行事件直後1995.11は42%
*2 少女暴行事件直後1995.10は43%、またその時、日米安保体制を解消すべきだとする意見が、29%1995.8から40%1995.10に増加したが、安保存続支持の43%よりは少なかった。1995年の世論は、一時的な現象でしかなかった。
だから少々アメリカ軍が事故を起こしても、米兵が性犯罪を犯しても、事故を日本の警察が調べられなくても、米兵の犯罪を日本の警察が取り調べできなくても、あまり文句を言えない素地があるのだ。
ドイツやイタリアのように比較的自国の要望を認めさせ、イタリアでは戦争時と平和時とで取扱を変え、平時では自国の要求を相当受け入れさせる例があるとしても207、米兵犯罪の一次裁判権は、アメリカにあることが多い。149, 154, 204
アメリカから多額の基地移転費208を要求されるのも、この理屈による。
しかし、アメリカはアメリカの庇護から外れたいと言えば撤退するだろう。フィリピンはそうした。163, 171 どんなに極東米軍の戦略の為に沖縄が必要だとしても、日本が米軍の庇護を必要としないと言えば、アメリカはグアムでも韓国でも、どこへでも撤退するだろう。
以上のことは、筆者が、米国務省の「地位協定に関する報告書」209から引用して述べている通りである。
アメリカでは国務省よりも軍隊の方が発言力を持っているようだ。
日本の人権状況をアメリカ人は不安視しているようだ。自白を強要する拘禁制度、安倍首相の選挙演説中にヤジを飛ばしたら自由を拘束するとか。だから裁判権を日本に渡したくない。203, 205
アメリカでは国会がうるさい=民主主義が日本よりは成熟しているので、アメリカの為政者は、国会対策もしなければならない。
本土での基地反対闘争が、結果的に沖縄に基地を集約させる結果になったようだ。
感想 2019年7月23日(火)
吉田茂が自ら進んで米軍の日本駐留の継続を求めたというが、その本心は何か。
それまで日本は武力一辺倒、富国強兵で対外進出をしてきた。長州は武力で日本を制圧した。力は正義なりと。そういう環境の中で育った人にとって、新憲法が想定する、武力なしの平和など想定になかったのかもしれない。だから力を求めて、強力なアメリカの懐にもぐりこんだと言えないだろうか。
それにしても強力なジャイアンに依存するとは売国奴的ではないか。それでは自主的な外交判断ができない。だから今でもアメリカの妾のような外交を続け、それにがんじがらめに縛り付けられていて、抜け出せる様相が全く見られない。アメリカも抜け出そうとしたら、経済的にか他の手段を駆使して、何らかの圧力をかけ、嫌がらせをしてくるだろう。
感想 2019年7月22日(月)
日米軍事関係は、密約と難解で騙しの美辞麗句=法律用語・外交用語の世界だ。学者が密約に一枚加わっていたとは驚きだ。京都産業大学の教授だ。東大卒。防衛研究所勤務経験あり。若泉敬(わかいずみけい)
キッシンジャーは、佐藤首相の密使である国際政治学者の若泉敬と面会し、有事の沖縄への核持ち込みを認める密約を結ぶという合意を取り付けた。この密約の存在は、沖縄返還交渉を担当する外務省には知らされなかった。096-097
ウイキペディアによると、この密使の事実を明らかにしたのは本人自身であり、『文芸春秋』で「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」1994と題して発表したが、自責の念に駆られて、67歳で、青酸カリを飲んで自殺した1996とのことだ。
しかし、何が状況を動かしたのか。それは民衆の動きだった。デモや集会による言論の力だった。政治家は上手くいかないことを極度に怖がるようだ。日本の政治家もアメリカの政治家も。
はじめに
日米地位協定そのものよりも「日米地位協定合意議事録」ivの方が問題で、これは1960年の安保改定の時の密約で、2000年初頭ころまで伏せられていたらしい。214従って、日米地位協定そのものを見れば、一見ドイツやイタリア並みで、不平等ではなく、米国に物言う協定となったとされたのだが、「議事録」が、それまでの占領下の、不平等性の強い「日米行政協定」の内容を引き継ぐことになった。
1960年の安保改定時の密約を国民に伏せていたのは誰か、それは安倍晋三が尊敬する祖父の岸信介だ。裏切り者め。
「合意議事録」によれば、米軍は、日本全国のどこでも自由に行動でき、米国人と財産を守れる。iv
また非公表の五・一五メモによる合意に基づき、米軍は、沖縄返還後、沖縄のどこにでも基地を建設でき、民用地も使用できる。vi
そして「思いやり予算」は、日米地位協定にも書かれていない、まさに特別配慮の「思いやり」である。
第一章 占領から日米安保体制へ 駐軍協定
占領軍の実態
004 1945年末の時点で、日本に駐留する米軍人は43万人だった。
米軍と英連邦軍からなる占領軍は、1940年代後半、日本国内の456平方キロメートルの軍用地(旧日本軍の軍用地は3000平方メートル)を確保し、1950年6月に朝鮮戦争が始まり、1952年4月の時点では、1352平方キロメートルを確保した。軍用地拡大のためには、軍用地周辺の民用地を接収することが多かった。
米軍人による強姦、強奪事件の報道は止められたが、日本政府が米軍に報告した、米軍人による犯罪件数は、1952年で6000件、死者は114人に上った。日本人による憲兵への抵抗や暴行も行われた。
米軍の駐留と講和条約の条件
006 米軍による日本の「植民地支配」とソ連から非難されることを恐れ、米国は、米軍の駐留が、日本の同意によるものだとしたかった。(『吉田茂と安全保障政策の形成』)それをよいしょと後押ししたのが吉田茂だった。吉田茂は独立後も米軍の駐留を求めた。
当時米では軍と国務省との対立があった。軍は日本の独立が時機尚早だと考えていた。(『アチソン回顧録』、アチソンは国務長官)
1950.4、吉田茂は池田勇人蔵相を密使としてアメリカにおくった。
講和後もアメリカの軍隊を日本に駐留させる必要があるだろうが、もしアメリカ側からそのような希望を申し出にくいならば、日本政府としては、日本側からそれをオファするような持ち出し方を研究してもよい。(『日米同盟の絆』 “To Base or Not to Base?”)
マッカーサーが軍と国務省との中間に立って、講和交渉を進めた。
和辻哲郎や丸山真男などによる「講和問題についての平和問題懇話会声明」1950.1.15は、いかなる外国の軍隊の駐留も求めない方針で、それは国民からも支持を受けた。「中立不可侵、如何なる国に対しても軍事基地を与えることには、絶対反対」
朝日新聞世論調査1950.11.15
再軍備賛成 過半数
米軍への基地提供 賛成37% 反対30%
日本政府は、サンフランシスコ講和条約に米軍の駐留を明記したくなかった。そこで出てきたのが、講和条約と切り離された、安保条約の前身である「日米安全保障協定」(以下「協定」)であった。それは日本が基地を提供する代わりに米は日本を防衛するという内容だった。
* 安倍晋三は、60年安保によって、米軍が日本を防衛することが義務化されたと喧伝しているが、最初の安保条約でも、日本防衛を明記している。
1951.1.25、日本政府は協定案をダレスに示した。この協定案が後に日米安保条約と日米行政協定とに分けられた。
1951.1、「協定」案第一項
米国の責任
米国は、日本の平和と安全が太平洋地域、とりわけ米国の平和と安全と不可分の関係にあることを認め、日本の平和と安全とを維持する責任を共に負う。*
*これでは日本はアメリカの属国に等しい。
国際連合が日本に対する侵略行為の存在を認定した場合には、米国は直ちに侵略に対応するため、すべての必要な措置をとる。(国連の集団安全保障『調書Ⅳ』附録九)
… これは日本の外務省の構想(1950春)(『吉田茂と安全保障政策の形成』)
「協定」には米軍の特権を明記しないように取り図られ、そのかわり日米合同委員会で米軍の特権・免責を認めることになったが、それは原則非公開で、公開は、日米両政府の判断によるとされた。
1951年2月当時NATO軍地位協定1951.6はまだできておらず*、米とフィリピンとの基地協定1947しかなかったが、それは植民地的で、協定期限が99ヵ年だったので、日本側は参考にしたくなかった。
*『サンフランシスコ平和条約・日米安保条約』
米軍の協定案(ダレス、原案はカーター・マグルーダー少将)
基地の継続的・独占的使用、基地区域の拡大、日本は米兵・軍属・家族に対する刑事裁判権を持たない、日本全土を戦闘作戦のために自由に行動でき、警察予備隊を米軍の指揮下に置く。
012 日本国内の治安維持に当たれる。(内乱条項)
日本側は、協定本文は日本側の要望を取り入れさせ、実際は日米行政協定で行うという方針を再提示し、ダレスもそれに沿って米国案を示した。
*米国案が通ったということだ。
国務省と国防省との対立
1951.3、日本は米国に、米国の裁判権を、基地内あるいは、基地外では公務中に限定するように要望した。
014 米統合参謀本部案
日本は征服された東洋人であるし、今朝鮮戦争が行われているから、日本側に一切の裁量権はなく、米兵・軍属・家族に関する日本の裁判権も認めない。
米国務省行政協定案
都市部への駐留を避ける、裁判管轄権はNATO並みとする、日本を対等に扱う。
リッジウエイの介入とトルーマンの決定
リッジウエイ連合国軍最高司令官は、講和後も在日米軍基地を増強すべきだとした。
1951.10、吉田茂は、連合国軍の司令部(第一生命館)の移転を要請し、横浜などの港湾施設、倉庫、商業ビル(第一生命館や明治生命館など)、ホテル(帝国ホテルや第一ホテルなど)、病院(聖路加国際病院、同愛記念病院など)、百貨店(そごう、松屋など)、娯楽施設(両国国技館、神宮球場など)、大学、住宅などの返還を求めた。
国務省と国防省は、リッジウエイを日米行政協定交渉から外した。
016 リッジウエイが移転に反対していた司令部は移転され、1952.9、第一生命館(司令部)は返還された。
日本はNATO軍地位協定に基づいて、1951.11、NATO並みの裁判管轄権を求めた。NATO軍地位協定は、基地内外に関わらず、アメリカ人同士で、公務中の場合だけ、米兵・軍属の一時裁判権を米に認めた。
017 しかし、NATO軍地位協定の場合、米軍は「好意的配慮」によって、ヨーロッパ諸国に裁判権を放棄させた。
国務省は日本に対して、NATO軍地位協定並みの裁判管轄権を認めたが、年1億5500万ドル(防衛分担金)の経費を払わせ、在日米軍駐留費のうち給与や装備は、米国負担とする案を示した。
国防省は裁判管轄権を認めなかったが、トルーマンが最終的に認めた。
しかし、それも当面(1953年のNATO軍地位協定発効の一年後1954まで)は、米国が米兵等の刑事裁判権を保有し、講和条約の一年後、日本が望めば再交渉するとさた。
日米行政協定終結 岡崎・ラスク交換公文の問題点
018 日米行政協定米国案
日米行政協定米国案によれば、米軍が継続使用したい基地や施設について、講和発効後90日以内に日米合同委員会で協議し、合意が成立しなければ、暫定的に米軍が使用できる。*(『調書Ⅷ』「行政協定の締結 交渉経緯」)
*サンフランシスコ講和条約第六条 「講和発効後90日後には、占領軍は退去する」に反する。
日本政府は1952.4の講和発効と同時に基地や施設を返還させ、改めて日本から在日米軍に基地を提供する形にするように求めたが認められなかった。
米国案が、岡崎勝男外相とラスク国務次官補との交換公文で決定された。
交換公文は国会の批准を必要としないが、条約と同等の効力を持つ。条約は国会の批准を必要とする。協定は国会の審議を必要とするが、吉田内閣は、日米行政協定の調印時に国会で審議しなかった。
019 六本木の赤坂プレスセンターは、現在まで米軍が返還を拒否して使い続けている。
17条の裁判管轄権について
NATO軍地位協定が発効する1953までの間、刑事裁判権が一切日本側に許されなかった。日本側は講和条約発効と同時に日本側に裁判権が認めるように主張したが、米国側は譲歩せず、日本は、NATO軍地位協定発効後の再交渉に望みをつないだ。
020 1952.2.28、日米行政協定が調印され、1952.4.28、講和条約、日米安保条約と同時に、日米行政協定が発効した。
NATO軍地位協定の発効
1953.8.23、NATO軍地位協定が発効した。
021 1953.4.14、日本側は行政協定17条(裁判管轄権)改正議定書を米側に提出した。
8月、米側が対案を提示した。
裁判管轄権の再交渉
1953.2、米統合参謀本部は、NATO以外の国には裁判管轄権を与えないことを国防長官に要望した。
022 米案
公務中の犯罪は、米側が一次裁判権を持つが、公務中かどうかの判断は米軍が下す。また、家族の犯罪も米国が裁判権を持つ。これはいずれもNATO軍地位協定にはなかったものだ。
日本に一次裁判権がある米兵犯罪で、日本にとって特に重要な事件を除いて、日本は裁判権を放棄する。これは1954年、オランダ、西ドイツとの協定でも踏襲された。(これをオランダ方式と言うが、むしろ日本方式と言うべきではないか。)
日本側が裁判権行使の意思を通告しなければ、裁判権放棄と看做される。通告の方式は日米合同委員会で決定する。
軽微な犯罪は犯罪通知から10日以内、殺人、強盗、放火、強姦など重大犯罪は20日以内に、裁判権行使の意思を通告しなければ、自動的に裁判権を放棄したと看做す。
身柄は米軍に引き渡す。
日本側はこれを全て認めた。
第17条の修正へ
外務省の三宅喜二郎参事官と在日米大使館のジュールス・バッシン法律顧問との間で交渉が行われた。
バッシンは、「特に重要な」事件以外での日本の一次裁判権の不行使を口頭で約束し、それを記録に残す方式を提案した。(つまり、密約にし、公表しないということなのだろう。)
三宅は「特に重要な」事件に限ることに反対したが、バッシンはNATOの一国で、一次裁判権を一括放棄させたと言う。
024 外務省は日米合同委員会の部外秘声明で「実質的に重要な」事件以外は裁判権を行使しないことを認めた。
ただし、重要性の判断は日本が決めるとした。
公務中の事件でも、公務中かどうかの判断を米国がすることを撤回させた。米軍提出の公務中の証明書を日本側が証拠として採用する。(それでは実質アメリカの判断となるのでは。)
米兵・軍属の家族の犯罪は米国に一次裁判権があるのを撤回させた。
1953.9.29に議定書・議事録が取り交わされ、1953.10.29に発効した。
「実質的に重要な」事件を除いて裁判権を行使しない方針を、日本側は日米合同委員会で表明した。この声明は非公開とされた。
025 駐留米軍への大きな反発
日米安保条約は全五条からなり、米軍駐留の権利だけを記した。
日米安保条約第三条は、駐留米軍の配備に関する条件は行政協定で決めるとし、その日米行政協定は29条からなっている。
日米行政協定の問題点
駐留の規模・場所・期限の定めがない。つまり「無制限に米軍を配備する権利」(ダレス)を認めた。
占領時の特権を維持した。
25条「米軍基地の運輸費、役務費など1億5500万ドルを日本が毎年負担する(防衛分担金)」
基地や施設を講和後も継続利用することを認めた岡崎・ラスク交換公文は日本国内で非難された。
026 講和時にあった750の基地、3000の施設は、返還どころか拡張された。
反基地闘争の高揚
1952.9、日米合同委員会は、米軍砲弾試射場として内灘砂丘の接収を決定した。
内灘村議会と石川県議会は反対決議をした。
政府は、内灘試射場を提供する見返りに、小松製作所に1億ドルの砲弾の受注を約束し、米軍砲弾試射場の使用期間を四ヶ月と約束し、地元の反対を押し切った。
1953.4、使用期限が来ても、日本政府は今度は、漁業補償と引換えに無期限の使用を打ちだした。
内灘の住民は座り込みをしたが、最終的に三年間の試用期間を認めた。
027 1953.4、浅間山・妙義山一帯の接収が決定されたが、反対運動が激しく、政府は断念した。
1953、アイゼンハワー政権が核兵器に依存した安全保障戦略を打ちだし(ニュールック戦略)、核搭載可能の大型爆撃機が日本に配備されることに伴い、基地滑走路の拡張工事が必要になった。
1954.3、日米合同委員会で米側は、立川、横田、木更津、新潟、伊丹(後小牧に変更)の拡張を要求したが、人々は接収に反対した。
日米行政協定では、米側が基地を要請すれば、日本側は提供を検討するとされ、その補償は日本政府負担で行うと定められていた。
砂川闘争と鳩山内閣の苦悩
1955.5、立川基地拡張の通告を受けた周辺住民は、反対闘争を行った。社会党、共産党、労組、学生団体がそれを支援した。
028 1954末、鳩山一郎内閣は基地拡張のための測量を強制的に実施した。
1956.10、警官2000人とデモ隊6000人が衝突し、双方合わせて1000人が負傷した。
鳩山内閣は測量を打ち切った。
1954.3の米のビキニ環礁での水爆実験で、第五福竜丸の乗組員が被曝したことと相俟って、反核運動が全国に広がった。
鳩山内閣は毎年の550億円の防衛分担金を200億円減額し、その分を住宅建設(どういう住宅か。米軍のための住宅か)にあてると公約していた。1955.4、米側が一年限り防衛分担金を178億円減額することで、日本政府は基地拡張に合意していた。
結局鳩山内閣は、横田以外の四箇所で基地拡張のための土地接収に失敗した。
宮澤喜一は、この問題を、住民の「反米思想」や「軍備反対思想」ととらえていた。
第2章 60年安保改定と日米地位協定締結 非公表の合意議事録
ジラード事件
031 1953.10~1957.5の米兵犯罪件数は1万631件、うち日本の警察が起訴した件数は240件であった。
1957.1.30、群馬県相馬が原演習場の周辺で薬莢を拾っていた女性を、米兵のウイリアム・ジラード三等特技兵が、近くに呼び寄せて射殺した。
032 同じ時期に福岡県板付基地や北海道千歳基地でも米兵が日本人を射撃した。
1956、静岡県東富士演習場で、米海兵隊員が、薬莢拾いをしていた日本人女性を撃って、重傷を負わせた。米兵は不起訴となったが、日本政府は(日本人に)再調査を約束した。
ジラードは公務中だったとして、米軍は一次裁判権を主張したが、日本政府も一次裁判権を主張した。
日米合同委員会で、米側はジラードが公務中だったという主張を変えなかったが、日本による裁判を認めた。
033 米議会、退役軍人団体、新聞、テレビ、雑誌は、米国が裁判権を持つように主張し、米世論もこれを支持した。
米国民は、ジラードが公務中で軍の財産を守ろうとしたと信じ、米軍人は海外でも米国憲法によって守られねばならないとした。
アイゼンハワー政権は当初、ジラードは公務外で、日本が裁判をすべきだとしていた。
議会下院は米兵の裁判権を他国に持たせないように地位協定を変更する法案を可決したが、上院で否決された。政権は同盟関係への悪影響を恐れた。
アイゼンハワー政権はジラードが軽微な容疑で起訴されるように密かに日本政府に約束させた。ジラードは傷害致死罪で起訴され、懲役三年執行猶予四年の判決を受け、判決後すぐに帰国した。
安保改定への始動
034 ジラード事件当時の政権は石橋湛山内閣だったが、石橋は病弱で、岸信介外相が実権を握っていた。
岸は1953年、A級戦犯から政界へ復帰し、1957.2.25、首相兼外相になった。1955年、河野一郎と保守合同を成し遂げ、米の歓心を買った。それはダレスに要請されたものだった。
岸はアメリカに提案した。
・米陸軍と米海兵隊を日本本土から撤退させること。
・日米安保条約を見直すこと。
つまり、
・米軍配備と基地使用の変更の際に日米で事前協議をする。
・日米安保条約を国連と関連づける。
・日米安保条約に5年の期限を設ける。
岸は社会党を恐れていた。
岸は日米行政協定の変更は考えていなかった。
日米行政協定担当だった外務省の西村熊雄は回想している。
行政協定の規定は、外国に駐留する軍隊として当然のものである。NATO諸国でもロンドン協定や他の公表されていない行政上の取り決めがある。
036 NATO諸国は「好意的配慮」に基づく裁判権放棄を迫られ、さらに二国間協定で自国の裁判権の一括放棄を飲まされていた。
従って岸政権にとって、基地の返還が喫緊の課題だった。
米軍基地削減へ 1957年の日米共同声明
1954.4、アイゼンハワー政権は、朝鮮戦争が終結すると、極東の米陸上兵力を削減し始めたが、それに米陸軍は反対した。
1954.5、中国が台湾の島々を攻撃したこと(第一次台湾海峡危機)に伴って、米海兵隊は日本本土から沖縄に移転し始めた。
037 ジラード事件後、岸内閣は、米陸軍・海兵隊の日本(本土)からの撤退を求めた。
038 1954年6月、岸が訪米し、21日、共同声明が出され、米陸軍戦闘兵力と海兵隊の日本本土からの撤退が発表された。(沖縄への基地集約のはじまり093表参照)
米空軍基地の削減も決定された。
これまで米空軍基地五箇所の内、横田を除く四箇所では、反対闘争で基地を拡張できなかった。
米陸軍基地82箇所、米空軍基地17箇所の返還が決まった。
1953年の駐日米軍勢力18万5829人、1341平方キロメートルから、1960年の4万6295人、335平方キロメートルに削減された。
岸は、日米首脳会談で、日米安保条約の国連との関係を交換公文で明文化することで合意した。
在日米軍の配備と使用に関する事前協議は、「実行できる時はいつでも」とされ(はぐらかされたということか)、また条約の期限は「そのままの形で永久に存続することを意図せず」(岸は5年を求めていた。034岸は安保条約を望んでいなかったのか。)とされる共同声明が発表された。
039 外務省は日米安保条約の問題点を検討する委員会(日米安保委員会)の設置を求め、1957.8、日米安保委員会を設置できたが、米側はその議題に、条約の見直しを含めることを認めなかった。
基地労働者解雇、厚木基地拡張
基地労働者は、日本政府がその雇用主となり、米軍に提供されていた。(行政協定12条4項)
米軍は基地労働者に対する日本の労働法の適用を無視していた。
040 日本政府は基地労働者の給与や勤務条件を日本の法律に基づくよう米側に求めた。
調達庁は防衛施設庁の前身である。1952年に、駐留米軍の物資や労働者を調達するために設けられた。
調達庁と米軍との交渉は5年半かかり、1957.9、基地労働者が、国家公務員や会社員と同じ待遇を保証されることになったのだが、それ以前の6月に、日米共同声明が発表され、日本本土での基地労働者1万人が解雇されることになった。
解雇される基地労働者には特別給付金が支払われた。
厚木基地は米海軍が管理し、ここでは他と違って基地が拡張された。
厚木基地は第七艦隊の修理と補給、偵察を担当した。
041 1957、ジェット戦闘機配備のため、滑走路拡張工事が開始され、1958年完成したが、その際、滑走路の両端各300メートルの農地と山林が買収された。
スプートニクショック 核戦争への恐怖
1957.8、ソ連が、大陸間弾道ミサイルを、10月、無人人工衛星スプートニクを、11月、犬を乗せた人工衛星を打ち上げた。
米はミサイル開発を強化し、NATO加盟国は核兵器を独自開発し始めた。
042 1958.3、ソ連が一方的に核実験の停止を宣言した。
社会党は米国の核戦略と在日米軍基地を批判し、日本国内への核持ち込み禁止決議を国会で採択するように迫った。
外務省作成の、外務大臣から米大使に言うべき問題点
米軍軍事力は頼りにならない、中途半端な軍事力は無意味であると共産側は宣伝し始めた。左翼勢力は核兵器問題に関心を集中し始めた。
安保改定への岸の決意
043 岸は選挙で勝利し、米駐日大使の応援もあり、一年前の安保条約の部分改訂ではなく、全面改訂を目指すようになった。
部分改訂を考えた理由は、憲法九条がネックで、全面改訂は無理だと、米側に指摘されたことがあったからだ。
1955、重光葵外相は、米側に全面改訂を申し入れたが、ダレスは、憲法九条がネックで、対等な相互防衛条約は不可能とした。岸もそこに同席していた。
1958.5、衆議院選挙(投票率77%)で自民党が勝利した。
衆議院選挙の結果は、憲法改正に必要な三分の二にわずかに届かなかったが、議席数はほぼ現状維持で、社会党の議席増を阻止した。(勝利とも言えないのではないのか)
岸は社会党の批判を無視できると考えた。
044 マッカーサー大使*も衆院選の結果を歓迎し、憲法九条を維持したままでの日米安保条約の改訂が可能だと判断した。
*マッカーサーの甥で、駐日大使1957.1—1961.3の、ダグラス・マッカーサー二世034
岸は8月、日米安保条約の全面改訂をマッカーサー大使に要請した。
外務省が指摘した安保条約の問題点
①米軍は日本防衛の義務を負っていない。(なぜこう言えるのか。旧安保条約の文面を参照せよ。)
②米軍はその一方的な決定で、日本の区域外に出動でき、日本が知らないうちに、戦争に巻き込まれる恐れがある。
③核兵器持込に不安がある。
この時日本側は、日米行政協定の見直しに関し、防衛分担金の廃止以外は要求しなかった。
米側の意向も、防衛分担金廃止容認だった。
外務省は、行政協定を条約に格上げする方針で、行政協定の改定交渉を、安保条約改定交渉後、早期に開始することで米側と合意したかった。
045 外務省は、吉田内閣が行政協定の締結時に国会審議をしなかったことを反省し、行政協定の国会での審議を重要と考えていた。
日本世論の中立主義
1957.6、米軍部は、日本の輿論が、対ソ連で中立主義的であるとして、安保条約の(日本に有利で、米国の既得権益を排除する)改定には消極的で、むしろ日本独自の防衛力の増強を求めた。
046 1958.7~8、米太平洋軍司令部は、岸内閣から安保改定の要望があったという報告を受けた。
米太平洋軍司令部は、日本とその周辺での無制限の米軍配備と基地使用を認める現状を望ましいとし、また対ソ戦争で、日本の世論の協力が現状では期待できないが、日本国民の協力を得なければ対ソ戦争を行えないのだから、そのためには米側の既得権を維持するという主張を取り下げ、日本の世論を懐柔すべきだという考えに変わった。
統合参謀本部の安保改定同意と条件
統合参謀本部は日米安保条約改定に同意したが、二つの条件を出した。
第一 日本本土の基地を使用できること
第二 日米行政協定を改定しないこと
この二つの条件が満たされれば、対日防衛義務の明文化や事前協議を受け入れるとした。(事前協議については言葉だけで、実質は拒否している。038)
047 さらに条件があった。
対日防衛義務を引き受ける条件として、
①自衛隊が防衛力を増強すること(米だけが日本を守るなんてまっぴらだ。九条を無視しても、日本が自らの軍備を増強せよ。)
②アジアで共産主義勢力が自由主義諸国を侵略した時、在日米軍基地を使えること(極東条項、日本が米国の戦争に巻き込まれる恐れがこれによって維持継承された。)
③在日米軍が自由に日本国外に拠点を移せること(日本を守ると言っても、米が負けそうになったら退却する、後は知らないぞということ)
また、事前協議の条件として
①在日米軍の再配備と作戦行動や、日本本土での核兵器貯蔵に関しては事前協議に応じるが、日本に拒否権は与えない。(それでは事前協議を拒否していることと同じではないか。)
②核搭載艦船の日本寄港や核搭載戦闘機の通過には、事前協議は適用しないこと(それでは事前協議の拒否そのものではないか)
9.11、ダレスと藤山愛一郎外相との会談
予想外の日米行政協定全面改定へ
048 1958.10.4、マッカーサー大使が、米側の安保改正案を示した。
1958.12.3、米側は、防衛分担金廃止以外の日米行政協定の変更には応じられない、それを変更するつもりならば、安保改定交渉にも応じられないとした。
外務省の東郷文彦アメリカ局安全保障課長は、防衛分担金以外の変更を断念した。
1959、米側が態度を変更し、日米行政協定を全面改定する方向へ向った。
その理由は、日本側の行政協定に反対する動きだと、波多野澄雄や原彬久が指摘する。
・池田勇人、河野一郎、三木武夫ら反岸派が、日米行政協定が全面改定されない限り安保改定を支持しないとした。
1959.2、河野一郎は、国民の日常生活に直接関係する行政協定の改定は最も大事なことだとし、労務、調達、裁判管轄権などの問題を解決すべきだとした。
050 ・1957、砂川闘争の参加者7人が立川基地に侵入したことに関する裁判が争われていて、東京地裁の伊達秋雄裁判長は1959.3.30、米軍の駐留を認める日米行政協定は、憲法違反であるとし、被告全員を無罪とした。
マッカーサー大使は藤山愛一郎外相に、高等裁判所を飛び越して、直接最高裁判所に訴える跳躍上告を勧め、最高裁長官と面会して速やかな判決を要望すると伝えた。
1959.12、最高裁は安保条約の違憲性は、裁判所が判断すべきでないとし、地裁判決を破棄し、差し戻した。
・1959.1、外務省が日米行政協定の全面的な見直しに取り掛かった。それは社会党の追及を恐れてのことだった。
051 ・西ドイツとNATO加盟国との間で、西独駐留軍の地位に関する捕捉協定が交渉中だった。
1959.3.6、米側が防衛分担金廃止以外の変更は加えない米国案を示したが、外務省が西ドイツ捕捉協定並みの行政協定全面改定案を対案として提示すると、米側は躊躇しながらも交渉に応じた。
マッカーサー大使が日米行政協定改定に動く
052 1958.9、ジョンソン米空軍基地(現自衛隊入間基地)内から、米兵が西武新宿線の電車に向けて発砲し、乗客一人が殺害された。(ロングプリー事件)
10.8、岸内閣が警察官職務執行法改正案を上程した。
053 社会党が反対し、11.22、審議未了・廃案となった。池田勇人国務相、三木武夫経企庁長官、灘尾弘吉文相らが辞任した。
マッカーサー大使は反岸派の先手を打って、行政協定の改定に乗り出した。マッカーサー大使は国務省から交渉を一任されていた。052
米側は、死活的利益に関わる実質的な変更はしない(=米兵の裁判権を米が確保)、長期的な基地確保を死守することなどを条件として行政協定の改定に合意した。
外務省の検討 日米行政協定改定案とは
054 米側は在日施設利用と在日米軍の地位に関して譲るつもりはなかった。
日米行政協定に関する外務省東郷文彦安保課長らの日本側改正案
新しい行政協定=地位協定は、国会の承認を求める予定になっていた。
055 ・第二条基地の提供 米軍が暫定的に使用している13の基地や施設を、返還若しくは提供に改め、岡崎・ラスク交換公文の解消をはかる。
・米軍と自衛隊が共同使用する手続を明文化する。
・第三条 基地の管理権 基地に出入りする米軍の便を図る(日本側の)権利を記述したり、基地外での米軍の行動に対して、日本側が協力義務を負うと記述したりして、基地内でも、基地外でも、米軍の意図を自由に認めるのではなく、日本側が自発的に協力するとして、一見日本政府に決定権があるかのように見せかける。
・基地内での実質的な治外法権の状況を、文面上は=外面的には改め、米軍の権利、権力、権能という表現を削除する。
・第24条 緊急事態の協議 第25条 分担金条項 を削除する。
・第12条・第15条(労使関係) 第17条 刑事裁判権 に関しては、既にNATO並みだとして変更しない。ただし労使関係では問題点があり、それは今後の運用面で解決するとした。
056 1959.8、西ドイツ捕捉協定が調印され、日本側は西ドイツ並みを要求した。
西ドイツ捕捉協定並みに 基地管理権をめぐる交渉
057 行政協定第二条では「日米両政府の合意で基地を提供する」ことになっていたが、実態は、米側が任意に、協議もなしに、一方的に何でもしていた。
西ドイツ補足協定では、駐留軍が基地内で全ての措置をとりえたが、西ドイツ軍もNATO軍の一員であり、西ドイツは駐留軍の基地の運用に関与でき、「西ドイツ政府が、NATO軍の基地出入りの便を図る」と規定した。
1953.3.6、行政協定改定米国案が示された。
第三条 「合衆国は、施設及び区域内で、それらの設定、運営、警備、管理のための権利、権力、権能を有する。」
それに対する日本の対案は、「権利、権力、権能を有する」を改めて、「必要な全ての措置をとりうる」とした。「権利、権力、権能」は治外法権を想起させるからだ。
058 米国案第三条第一項「施設・区域の支持・警護・管理のための合衆国軍隊の施設や区域への出入りに関して、日米協議のうえで、必要に応じ必要な措置をとりうる」としたが、
日本側は「必要に応じ」という文言の削除を要望した。日本側との協議を明文化したかったからだ。
非公表の合意議事録の作成へ
日本側は、国会審議を通過させるために、地位協定の文面上は日本側の要望を受け入れたようにして、一方では裏文書で非公表の議事録を作り、そこで米国側の実質的な権限をこれまでどおり維持したらどうかと米側に提案し、それが現在に至っている。
外務省は「現行議事録による権利権力権能の内容を全て残す」ことを保証する合意議事録の作成を米側に提案した。
059 日米地位協定の合意議事録第三条は、「在日米軍は基地の排他的な占有権を持ち、基地の周辺でも、施設及び区域の能率的な運営及び安全のため、軍事上必要とされれば、独自の判断で行動できる。」とした。
こうして米軍の基地保有権とその周辺での自由裁量が保証された。(だから日本から占領した土地でありながら、米軍基地はアメリカの資産だ、だから米軍が撤退するなら、その資産に見合う金を出せとトランプは公言するのだろう。)
1973.4、外務省は「日米地位協定の考え方」(非公開文書)を取りまとめた。そこには、安保改定時の合意議事録や、日米合同委員会でこれまで決められた日米行政協定の解釈を記載し、政府見解の手引きとした。(官僚は知っているが国民は知らない。)
この文書は、地位協定第三条に関して、「『管理権』の実体的内容については新旧協約上差異はない」としている。
見かけだけは、安保条約改定後の在日米軍基地の運用は、日米共同で行うとした。
日米行政協定の全面改正、日米地位協定へ
060 1959.3.20、日本側が日米行政協定の対案を示した。その際、委員会を設けて後で行政協定の改定を行ってもいい言ったところ、米側は、新日米安保条約とセットだとした。
061 藤山愛一郎外相は改定交渉を党内でも伏せていた。
日本の譲歩による最終決着
1959.8、西ドイツの補足協定が成立した。
061 東郷安保課長と中島敏二郎・条約局首席事務官が西ドイツに行った。
日本側は第3条の基地の管理権、第11条の通関、第12条・第15条の労使関係の改正を求めたが、1960.1、日本側が譲歩して「決着」し、日米地位協定が誕生した。065
新第三条で基地は日米の共同管理とされたが、実際は合意議事録で、旧来どおり、米軍の排他的自由運用を認めた。
通関 人の通関はNATO並みにしたが、物については、米軍の公用品以外の輸入品を税関検査の対象とするようにとの日本側の要求を認めず、(全て無関税となった。)
062 労使関係 すべての基地労働者を、日本政府を通じた間接雇用に切り替えるという日本の要求が認められたが、そのために増大する米軍の費用を、日本も分担させられた。(米軍のための仕事を米軍が払わないということだ。ちゃっかりしている。)
日米合同委員会
063 日米合同委員会は、旧日米安保条約締結交渉の過程ででき、そこで在日米軍の運用、基地の提供・返還について話し合い、その内容を非公表とすることを日本側は求めた。
行政協定の第26条、地位協定の第25条が、この委員会について規定するが、その規定は、安保改定時に修正されなかった。
064 議題を公開しない。
協議機関だが、決定権はない。従って(最終的な)密約が(ここで)結ばれることはない。(密約が結ばれる前段だと疑われるだけの素地を持っているのではないか。… 金井)
2000年代初頭まで非公表だった日米地位協定合意議事録に基づき、協定本文の規定に反する運用が行われてきた。
新安保条約の前に霞んだ国会審議
1960.1.19、ワシントンで新日米安保条約と地位協定が調印された。
日本側参加者の中に日本商工会議所会頭が含まれていた。日本側参加者は、岸、藤山外相、石井光次郎自民党総務会長、足立正日本商工会議所会頭、朝海浩一郎駐米大使。
1960.2.5から5.19まで、37回、日本の国会で審議されたが、地位協定についてはあまり審議されなかった。
1960.5.17、民社党は新日米安保条約を支持していたが、地位協定の問題点を発表した。
民社党は、地位協定第3条で、米軍の基地管理権が、旧行政協定と同じく完全に確保され、単に表現が変わっただけだと指摘した。(秘密議事録を知っていたのか。)
また、新旧協定第5条で、米軍や米国の公の目的を持つ船舶、航空機等が、米側の一方的通告でどこでも自由に出入りできるが、(そうではなく)飛行場や港を指定すべきだ」とした。(妥協的な提案)
066 5.19、岸は、警官500人を動員し、社会党議員を強制排除し、新日米安保条約と地位協定を強行採決した。国会会期末が5.26で、6.19に、日米修好100年を記念してアイゼンハワー大統領を招待していた。
安保闘争には数百万人が参加した。自民反岸派が内閣総辞職を求めた。アイゼンハワーの訪日は中止された。
6.19、条約・協定が自然承認された。それと同時に内閣が総辞職した。
他の同盟国 西ドイツ・フィリピンの場合
067 西ドイツ補足協定は、NATO軍地位協定と共に、西ドイツに駐留する外国軍の地位を定めたものだ。
西ドイツのNATO加盟前に、西ドイツを含めた欧州防衛共同体構想が検討されていて、そのとき西ドイツ駐留外国軍が使用する軍用地の収用に関して、西ドイツ国内法1957を新たに制定することになった。
1955.5、西ドイツが独立し、NATO軍に加盟し、米英仏軍の駐留を受け入れた。
068 1959.8、西ドイツ補足協定が調印され、この補足協定は、駐留軍の土地収用に関する西ドイツ国内法1957に準拠し、軍用地収用の手続、補償、返還に関して規定した。
西ドイツ補足協定は、一次裁判権を放棄した。
西ドイツ当局が逮捕した米兵の身柄を、米軍の要請で、米側に引き渡さねばならず、起訴までは西ドイツ側に引き渡されないこととされた。
フィリピン
フィリピンは1898年から1946年まで米国の植民地だった。
1945.5、フィリピンは米国と暫定的な基地協定を結んだ。
戦後、フィリピンは米軍を撤退させなかった。
1947、フィリピンは米比基地協定を締結した。
1951、米比相互防衛条約を締結した。
米兵犯罪や事故が多発し、フィリピンは、米との対等性を主張するようになった。
069 1956、フィリピンは、米比基地協定の改定交渉を始めた。
1959.10、ボーレン・セラノ協定を調印し、以下の合意がなされた。
・米比相互防衛条約や東南アジア条約機構以外の目的でフィリピン国内の米軍基地を使用する際や、長距離ミサイルを持ち込む際には事前協議を行うこと。
・協定期限を99年から25年に短縮すること。
フィリピンは、米比基地協定における裁判管轄権に関して不満だった。
1964、米兵が相次いでフィリピン人を射殺した。1965、米国は刑事裁判権の改定に応じた。ブレア・メネス協定という新基地協定が成立し、NATO軍地位協定や日米地位協定と同等の刑事裁判権を獲得した。(実質日本よりも有利だということだ。)
第3章 ヴェトナム戦争下の米軍問題 続発する墜落事故、騒音問題
厚木基地の騒音被害
071 1950年代、厚木基地は強化・拡張された。周辺住民は土地の買い上げと家屋移転の補償を求め、政府はそれを受け入れた。農家を中心に、大和市と綾瀬市の基地周辺世帯262戸が、1960年から1971年にかけて集団移転した。
1960、厚木基地の滑走路のかさ上げ工事が完了すると、ジェット機による離発着・飛行訓練が増加し、深夜早朝の騒音は基地周辺にとどまらなかった。米軍は発着艦訓練と空戦を行った。米空母艦載機が多かった。
F8ジェット機は安全に飛行できる最小の速度(失速速度)が高く、そのため離着陸時の速度も速く、騒音も大きかった。
072 1960年、大和市上草柳の住民は、「厚木基地爆音防止期成同盟」を組織し、爆音防止要望書を関係自治体、米軍、日本政府に提出し、テレビ・ラジオの受信料の不払い運動を展開した。
1960、厚木基地周辺自治体が、政府に「米海軍厚木航空機ジェット機騒音問題につき善処方要望書」を提出すると、日米合同委員会は、特別委員会を設置して、1963年に、厚木騒音規制措置を取りまとめた。それによると、
深夜早朝や日曜日の飛行自粛、人口密集地帯上空での低空飛行や基地周辺での曲技飛行の規制をした。
ただし、深夜早朝の飛行禁止は「運用上の必要に応じ、緊急と認められる場合」は除外された。現在でもそのままだ。
日本政府は、住宅移転や住宅防音工事の経費、テレビ・ラジオ受信料の手当を厚木基地周辺の住民に支払った。
ヴェトナム戦争と厚木基地の米軍機事故
073 1964、米がヴェトナムへの軍事介入を本格的に開始すると、神奈川県で17件の事故が起こった。
1964.4.5、日曜日の夕方、海兵隊機F8U‐2ジェット機一機が、厚木基地に着陸する際、町田市の商店街に墜落し、住民4人が死亡し、32人が重軽傷を負い、家屋27棟が全半壊した。直径15メートル、深さ5メートルの穴ができ、土砂や機体の破片が半径50メートルに突き刺さり、ジェット機燃料で周辺家屋が延焼した。墜落の衝撃で1人が死亡し、崩れた家屋で3人が圧死した。ジェット機のエンジンは地中20メートル深くまでめり込み、引上げができずに現在まで埋もれたままだ。
074 操縦士は上空1800メートルで脱出し、かすり傷で済んだ。
米軍は全面的に責任を認めて被害者に金銭的補償を行った。池田内閣は被害者(全員?)への補償額を従来の日収1000日分、最高150万円を、300万円に引き上げた。
075 1964.9月、空母艦載機が、厚木基地を離陸直後、大和市の舘野鉄工所に激突し、工場の5人が死亡した。うち3人は工場主の息子だった。また4人が負傷した。鉄工所と住居が全焼し、家屋4棟が全壊、6棟が一部損壊し、農地も被害を受けた。
1964.12月、戦闘機が厚木基地を離陸直後に、神奈川県愛甲郡清川村の農家の裏山に墜落し、家屋3棟が全焼し、家屋3棟が一部損壊し、山林、農地も被害を受けた。
1952.4~2007.12までの間、神奈川県で米軍機事故が計214件発生し、そのほとんどが厚木基地を離発着する航空機による事故だった。ジェット機による事故は107件と、そのうちの半数を占める。墜落事故62件のうち37件がジェット機による事故だった。
規定のない米軍の飛行訓練 日米地位協定の盲点
076 日米地位協定第5条第2項は、米軍の日本国内の移動を認め、そこから、在日米軍は081(移動=訓練と拡大解釈して、基地区域外の)日本の領空を自由に飛行できるという結論を導き出している。
外務省の『日米地位協定の考え方増補版』1983の「日米地位協定の一般的問題」によると、
米軍は日本と極東の安全を守るために日本に駐留しているから、訓練など軍隊としての活動を行うのは当然である。日米地位協定は、米軍の活動を基地内に限るためにあるが、基地外の活動も個別に認めることがある。
として、
077 早朝深夜の飛行や低空飛行も「緊要の場合」という口実で、規制の抜け穴をつくり、認めている。
地位協定第2条について、日米合同委員会合意によると、米軍の施設・区域とは、「建物・工作物等の構築物及び土地、公有水面」とし、上空の空間を提供するとはしていない。
基地外の飛行訓練を外務省が認める根拠は、
『日米地位協定の考え方』1973,
059; 1983, 076も「米軍が本来施設・区域内で行うことが予想されている活動を、施設・区域外で行うことは、日米地位協定では予想していない。」としつつ、
米軍の飛行訓練は射撃訓練とは違い、上空で行われるので、「直ちに我国の社会秩序に影響を及ぼさない」(だからいいのだ)としている。ただし「飛行訓練に伴う騒音等を考えれば、以上のことに疑問が呈されることもあるだろう。」
「自衛隊機が自衛隊基地の上空の外で飛行訓練をしているのに、米軍機は公海上空か施設・区域内のみで飛行訓練をしなければならないというのは合理的でない」
078 1960年代まで航空法など国内法がなかったので、自衛隊の訓練空域に制限がなかった。
1971年、訓練中の自衛隊戦闘機が、岩手県上空を航行中の全日空旅客機に衝突し、乗客155人、乗員7人が全員死亡した。(雫石事故)
翌月運輸省は「航空交通安全緊急対策要綱」を定め、民間航空路と自衛隊訓練空域とを分離した。しかしそれは法律の定めではない。
日米地位協定には平時と有事の区別がない NATO諸国との違い
079 ドイツのNATO軍地位協定・補足協定では、第57条、第1項で、駐留軍の国内での移動の権利を認めている。しかし、
第3項で「ドイツの交通規則は、軍隊、軍隊の構成員、軍属、及び家族に適用する」
としている。ただし、
第4項で「軍隊は、軍事上の緊急の場合に限りドイツの道路交通法取締規則の適用を受けないが、公共の安全及び秩序を尊重しなければならない。」
イタリアも、NATO軍地位協定のほかに、米国と締結した基地協定で、平時にはイタリアの主権が尊重され、有事では、NATO軍地位協定が適用されるとしている。
一方、日米地位協定、NATO軍地位協定では、いつでも緊急事態の運用が可能である。
そして敵対行為が生じた時、刑事裁判権に関する規定の適用を停止できる。(犯罪者を処罰できない)
日米地位協定第18条、戦闘行為であれば、日本国内で事故を起こして損害を与えても、民事裁判を逃れられる。
080 NATO軍地位協定では、敵対行為が発生したと、ある国(米)が判断すれば、他の加盟国はその判断の再検討や中止を求めることができる。
一方、日米地位協定にはこのような規定がない。アメリカの判断に日本は異議を唱えられない。
1965.2、米は北ヴェトナムの空爆を開始した。在日米軍は、爆弾投下訓練、強行偵察のための高速低空飛行訓練、空戦訓練を繰り返した。
高度15メートルを速度1000キロメートルで飛行しながら、偵察用カメラを操作する訓練中に多くの米国人が死亡した。
081 日米地位協定には、米軍飛行訓練に対する規制がない。また日本政府にも規制する意思がなかった。
自由に飛べる 飛行訓練への日本法令適用除外
外務省は、日米地位協定第5条の規定076を、それに基づいて日本がアメリカに(訓練の)許可を与えるという発想ではなく、米軍の当然の権利と看做している。
形式的には、道路法、道路交通法、航空法、港則法などが、米軍に適用されることになっている。
しかし、外務省は、米軍の移動の権利を妨げるような法令の適用・制定が、「地位協定上、我国の義務違反」だと看做している。
航空法では、離着陸時を除いて、150メートル以上、市街地では300メートル以上の高度を保たねばならないとしているが、日本政府は1952.7、この制限が、米軍機には適用されない「日米行政協定の実施に伴う航空法の特例に関する法律」を定め、1960年の日米安保条約改定後も、これを引き継いだ。
082 しかし、日米合同委員会は、各米軍基地での航空機騒音規制措置で、米軍機の最低高度を定めた。
厚木基地では488メートル(特定の訓練では244メートル)を最低高度としている。
沖縄県の嘉手納や普天間基地では、「原則として300メートル」とされている。
横田基地では、原則としてジェット機は610メートル、在来機457メートルとしている。
しかし重要なことは、以上が法令上の規制ではなく、個別の例外つきの規制にすぎないということだ。
ヴェトナム戦争中の戦車移動
1972年、相模補給廠戦車輸送阻止闘争が展開された。
相模補給廠は旧日本陸軍の造兵廠だった。ここで米軍は、極東米軍の物資補給や、機械・軍用車両の修理を行った。
1969年ころから相模補給廠で、修理した戦闘車両の走行試験が行われ、粉塵、騒音被害を周辺に与えた。
1972.5、河津勝相模原市長は、在日米軍司令官から、相模補給廠で修理されたM48戦車が、横浜港ノース・ドックからヴェトナムに送られたことを聞き出した。
横浜市と相模原市は、横浜防衛施設局長や在日米陸軍司令官、外務大臣、防衛庁長官に抗議文を送った。
084 横浜市と相模原市は、M48戦車と運搬トレーラーが、道路交通法に基づく車両制限令が定める重量制限を超過し、その交通には、道路管理者である市の許可が必要なのに、防衛庁は許可申請を行っていないと指摘した。
飛鳥田横浜市長は、防衛庁長官らに道路交通法遵守を申し入れた。河津相模原市長は、国内法と日米地位協定との関係を問う質問書を、横浜防衛施設局長に提出した。
米軍はこの手続を無視して戦車搬出を実施した。相模補給廠の正門前や横浜ノース・ドック入り口前で、社会党、共産党、労組、学生らが座り込んだ。飛鳥田市長も座り込んだ。米軍は一時戦車輸送を中止したが、機動隊(=米軍の意向をうけているはずだ)が、座り込みを排除して、兵員輸送車を搬出した。
085 田中角栄内閣は、相模補給廠の戦車修理部門の縮小・停止と、ヴェトナムへの戦車輸送停止を閣議決定した。(田中は後でこれと矛盾する措置を取りながら、なぜこんな閣議決定したのか。)
しかし、田中は、戦車輸送や兵員輸送車搬出の許可を出した。(矛盾)そして、田中内閣は、南ヴェトナム向けの戦車の修理は、日米安保条約に抵触しないとし、さらに米軍車両を道路交通法に基づく車両制限令の適用から外す法改正を決定した。
横浜・相模原両市は田中内閣の決定に抗議した。
以上、日本政府は個別に問題に対処し、米軍の日本国内の移動の権利を守ってきた。
米軍基地縮小 ジョンソン・マケイン計画
1968.1、原子力空母エンタープライズが佐世保に入港し、野党、労組、全学連が、核搭載疑惑で抗議した。
1968.5、原子力潜水艦ソードフィッシュが佐世保に入港し、科学技術庁が放射能の異常値を一時検知し、(再検査で通常値に戻ったとされる)それがメディアに漏れ、また米軍はデータ提供を拒否した。このことで原子力潜水艦の寄港が半年間中断された。
086 1968.6.2、深夜、軍民共用の福岡県板付基地(現福岡空港)に着陸しようとした米空軍のRF‐4C偵察機(ファントム)が、九州大学工学部屋上に墜落・炎上した。警察と防衛施設庁が現場に入った。水野高明総長が、米軍と日本政府に抗議声明を発表し、学生と職員4000人が、抗議デモを行い、米軍による事故機の撤去を阻んだ。
日米合同委員会は、板付基地からの米軍の移転で合意した。1969、板付基地常駐の米空軍部隊は、嘉手納基地に移転し、1970、板付基地の返還が合意された。
1968、佐藤栄作内閣の三木武夫外相、木村俊夫官房長官、中曽根康弘運輸相らは、在日米軍基地削減の声を上げた。(意外!ポーズ?他の政治的意図?)
087 1968.12、U・アレクシス・ジョンソン米国駐日大使と、ジョン・マケイン太平洋軍司令官*が、日本本土の米軍基地53ヶ所を整理・統合する計画を日本側と合意した。(ジョンソン・マケイン計画)
*ヴェトナム戦争に従軍し、捕虜となった経験のある、共和党員で、最近2018.8脳腫瘍で亡くなったジョン・シドニー・マケイン3世の父親。
幻の横須賀・厚木基地返還 佐藤栄作一人が米軍の存在を望んだために、返還は吹っ飛んだ。
1970、米国際収支が悪化し、在日基地の整理・統合計画が拡大した。
・横須賀基地に駐留する第七艦隊旗艦を佐世保基地に移駐し、横須賀基地の大部分を返還する
・第七艦隊空母艦載機の陸上基地である厚木基地の米軍機・米兵の大部分を普天間に移駐する
・板付基地を返還する
横須賀・厚木基地の返還は、外相・防衛庁長官と駐日米大使・太平洋軍司令官とで合意されたが、佐藤首相が、トーマス・ムーラー統合参謀本部議長に、直接反対の意を表明する。(そこまでして米軍が欲しいのかね)
海上自衛隊も、自分では管理できないとして、米軍の横須賀保有を、ムーラーに要望した。(軍と政治ボスの癒着)
088 1971.3、計画が変更された。1972.12、横須賀基地を第七艦隊の母港に決定した。
厚木基地は海上自衛隊に移管され、米軍と共同使用となったが、周辺自治体は厚木基地の全面返還を主張した。
防衛施設庁は、厚木基地の一部返還と、基地被害の対策強化で、周辺自治体の合意を取り付けた。
基地の日米共同使用の実態
日米地位協定第2条第4項が、米軍による自衛隊基地使用の根拠とされる。それは、
合衆国軍隊が一定の期間を限って使用すべき施設及び区域に関しては、合同委員会は、当該施設及び区域に関する協定中に、適用があるこの協定の規定の範囲を明記しなければならない。
089 日本政府は、厚木基地に関して、米軍機の、米軍専用(管轄)施設・区域への出入りのつど、(米軍の)使用を認めているとしている。
日本政府は、(日米地位協定第2条第4項が)使用期間ではなく、使用機や使用方法を限定しているとしているが、実際日本政府が、厚木基地を出入りする米軍機の種類や用途を規制していない。
日本政府は、むしろ、日米地位協定第3条第1項の第2文に基づき、自衛隊基地でも、米軍に完全な使用権が認められると解釈している。*
*日米地位協定第3条第1項の第2文
日本国政府は、施設及び区域の支持、警護及び管理のための合衆国軍隊の施設及び区域への出入の便を図るため、合衆国軍隊の要請のあったときは、合同委員会を通ずる両政府間の協議の上で、それらの施設及び区域に隣接し又はそれらの近傍の土地、領水および空間において、関係法令の範囲内で必要な措置を執るものとする。(関係法令の範囲内でとあるのに、それに従わなくてもいいのかな。)
この解釈から、自衛隊機には航空法を適用し、最低安全高度制限を課すが、自衛隊基地を出入する米軍機にはそれを課さず、低空飛行が行われるという事態が生じる。(意味不明)
厚木基地は自衛隊に移管されたが、実態の運用は変わらなかった。
090 現在2019、自衛隊管理下で、米軍と共同使用されている基地の数は、陸上自衛隊が80ヶ所、うち、北海道37ヶ所、東北17ヶ所で、海上自衛隊が14ヶ所、航空自衛隊が25ヶ所、計119ヶ所ある。
第4章 沖縄返還と膨大な米軍基地 密室の中の五・一五メモ
沖縄での米軍基地の拡大
091 1945.10、米軍は沖縄を、冷戦のための最重要基地に位置づけた。
1949.5、トルーマン大統領は、沖縄を長期的に保持し、その基地を拡充する決定をした。
サンフランシスコ講和条約第3条は、沖縄を、奄美・小笠原諸島共に、米軍の排他的統治下においた。
朝鮮戦争1950-53、第一次台湾危機1954-55、第二次台湾危機1958、本格的なヴェトナム戦争1965-73と共に、沖縄の基地は強化されていった。
092 1950年代、在沖米軍基地の面積が一挙に拡大した。
1950年代半ば、海兵隊が日本本土から沖縄に移転し、基地面積がそれ以前の1.9倍、300平方キロメートルになった。
1960、地対空ミサイル(ホーク)用の基地8ヶ所を建設し、1.9平方キロメートルの軍用地を接収した。
1961、核弾頭搭載可能な巡航ミサイル(メースB)用の基地4ヶ所を建設し、ヴェトナム戦争のための陸軍特殊部隊を配備し、海兵隊のゲリラ戦闘訓練場を建設し、面積が本土の基地を上回るようになった。
一方、1950年代から60年代にかけて(本土の)米軍基地は縮小された。
1952、講和条約発効時点の本土の米軍基地の面積は1350平方キロメートルだったが、
1968、本土の米軍基地の面積は220平方キロメートルに縮小した。
1974、関東地方の米空軍基地が横田に集約した。(関東計画)本土の米軍基地の面積は、97平方キロメートルに縮小した。一方、同時期の沖縄の米軍基地面積は、266平方キロメートルだった。
094 1968、米軍の兵員数は、本土と沖縄でほぼ同数だった。
1969~1972、沖縄に4万人の兵員が駐留するようになり、それは本土の2倍だった。
国土面積の0.6%に、在日米軍の3分の2、面積では4分の3が、沖縄に集中している。
表によると、基地面積では、1955年から59年頃までは、本土の基地面積のほうが圧倒的に多かった。また米兵員数でも、1953年から59年頃までは、本土の米兵員数が圧倒的に多かった。093
沖縄返還合意までの道程
沖縄返還を米に約束させることは、70年安保闘争を未然に防ぐための佐藤の作戦だった。
095 1968、嘉手納基地に常駐するB52戦略爆撃機が、北ヴェトナムを爆撃した。
米軍下で自治を行う琉球政府の行政主席を公選することになった。
民衆は本土並み返還を求めた。それは、核兵器を沖縄の米軍基地に持ち込まない、沖縄の米軍基地の規模を本土と同程度に縮小するという意味だ。
1968.5月末、三木武夫外相が、核抜き・本土並みをジョンソン駐日大使に質したが、ジョンソンはそれに答えなかった。
1968.11月、屋良朝苗が主席に当選した。屋良は即時返還、基地の全面撤去を求めていた。
1965.8、佐藤は日本の首相として初めて沖縄を訪問し、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我国にとって戦後が終わっていない」と言った。
外務省は米国の拒絶を予想して沖縄返還に反対していた。
核抜き・本土並み返還論が高揚し、自民党の大勢もこれを支持した。
096 1969.3.10、佐藤は核抜き・本土並みの方針を表明した。
1969.6月、愛知揆一が、1972年の沖縄返還を要求し、米もそれに同意した。
日本は沖縄からの核兵器の撤去と、日米安保条約・日米地位協定の沖縄への適用を求めた。
米国は、沖縄への有事の核持込と在沖米軍の戦闘作戦行動の自由を求めた。
日米安保条約の改定1960後、核持込や日本から紛争地への直接出撃など米軍の戦闘作戦行動は、事前協議の対象になっていたが、米軍は、沖縄返還後も、沖縄占領時代と変わらぬ、在沖米軍の運用を望み、在沖米軍基地を、事前協議の適用外とするように要求した。(事前協議が生きていたのか。空文句ではなかったのか。)
ヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官・国家安全保障担当は、佐藤の密使・国際政治学者の若泉敬(防衛庁防衛研究所所員1961‐)と、有事での核持込を認める密約を結ぶことで合意した。
097 この密約は外務省も知らなかった。(とされる)
1969.11、日米両政府は、核抜き・本土並みの施政権返還を決定する共同声明を発表した。
1969.12、在沖米軍は、軍事予算の制約から、基地労働者2400人の解雇を発表した。
本土並みの障害 米軍の全島基地方式の要望
日本政府は在沖米軍基地の縮小を目指した。
1970.10、国務省も国防省も、米議会工作上、在沖米軍基地の整理統合は望ましくないとした。
098 日本政府は牧港住宅地区、那覇軍港、与儀石油地区、那覇飛行場(現那覇空港及び自衛隊那覇基地)、北部訓練場の返還を最優先で求めたが、米側は、牧港住宅地区返還は考慮の余地がなく、那覇軍港の返還は受諾し得ないとの返事だった。
また、与儀石油地区は、移転後に返還可能、那覇飛行場は、自衛隊に移管されれば返還を検討するとした。
1969、ニクソン政権は、財政悪化のため、ヴェトナムから徐々に撤退を開始したが、軍部は(在沖米軍)基地を手放したくなかった。
米側は日本に対して、「米政府の前提は、在沖米軍の削減・縮小ではなく、その機能の維持であると議会に説明し、国防総省は、沖縄復帰に際して、財政支出はしないと議会に約束した」と言った。
それに対して、日本側(外務省)は(沖縄返還や在沖米軍基地の縮小のためには)財政支出をしてもいいと米側に約束した。
099 米軍はこれまで沖縄を軍事目的で統治してきたので、沖縄を自由に基地として使用できると考えていた。一時的に借り上げた民用地も基地と看做され、道路も演習場とみなされた。道路の歩道橋建設は、戦車の通行を妨げるとして却下された。
以上のことは、沖縄に日米地位協定を適用する上で大きな障害となった。
岡崎・ラスク方式回避の追求
1970.11、リチャード・スナイダー公使が、沖縄返還協定批准時から発効までの間の、沖縄の基地増設の必要性を主張した。
それに対して愛知外相は、在沖米軍基地への『岡崎・ラスク方式』*の採用はできない、協定署名から発効時までに決着すべきだと主張した。
*日米で合意できなければ、そのまま(暫定的=無期限に)米軍が、基地・施設を使用し続けるというもの。日米行政協定調印時に締結された交換公文。018
日本政府は、日米安保条約の改定時1960、岡崎・ラスク方式の廃止を目指し、日本から米国に、その基地や施設を提供することにして、この交換公文が失効したと看做していた。
しかし、1970年代に入っても、米軍は、日本政府の返還請求を拒否して占拠し続ける施設を持っていた。(赤坂プレスセンター)
101 愛知の反論に対して、スナイダーは、返還協定の批准前に、基地の返還計画を決定するように提案した。
結局、在沖米軍が、沖縄返還後も引き続き使用する基地のリストを、米国が日本に提出し、それを両国が協議・合意することになった。(ということは、いくつかの基地は、米軍所有のままになったのか。所有関係はどうなったのか。)
米軍部の執拗な抵抗
米軍部は整理・縮小に反対した。その理由は、本土の基地の整理縮小分を、沖縄に移動する必要がある、韓国が動揺する、などであった。
102 1970.12.22、ニューヨーク・タイムズが、次のような軍リークの報道をした。
日本と沖縄は、米国の税金で築いた在沖米軍基地のほとんどの返還を希望している。そうなると、潜水艦、P‐3哨戒機部隊などはグアムに撤退させられ、第三海兵隊は、迅速な行動が不可能になり、また住宅不足が悪化する。
この報道の意図は、1969年の佐藤・ニクソン会談1969.11.19-21の決定が、全ての在沖基地を残すということだ、という軍部の見解を広めようとすることだった。
1970.12.21、在沖米軍を統括する高等弁務官が「大幅な在沖米軍基地の縮小・兵力再編」を発表した。
しかし、それは、4平方キロメートルの不要な土地の返還と、米兵・軍属5000人の削減だけで、那覇空港に関しては「当分何の変更も加えることは考えていない」とした。
この発表の狙いは、基地従業員の整理方針であり、その後、3000人の基地従業員の解雇が通告された。
103 駐日米大使館の説明によれば、在沖米軍の執拗な抵抗の理由は、沖縄復帰後の在沖米軍基地の軍用地料が、日本政府負担となり、ただになる基地を少しでも多く残そうという動機からも来ていたとのことだ。
外務省はいくつかの基地の返還と、在沖米軍基地の縮小を、国民に見せたかった。(全部の返還ではないようだ。)そして民用地の米軍使用は認められないとも主張した。
外務省は、那覇空港(那覇飛行場)の返還を求めた。米軍は那覇飛行場を自衛隊に移管して、共同使用できることを望んだが、日本側は民間空港としての返還を求めた。すると、米軍は民用地になってもP‐3の離発着ができるように要求した。
北部訓練場
104 1950年代、米軍は国頭村(くにがみそん)と東村に接した国有林を接収し、海兵隊北部訓練場とした。地元住民は、この国有林の林業で生計を立てていたので、森林の中にフェンスを設けられず、訓練場と民用地とが混在していた。
1960年代、海兵隊は北部訓練場でゲリラ訓練を行い、国頭村の政府道2号線沿いに35棟程度の掘っ立て小屋からなるネイティブ・スタイルの村を建設し、地元住民をヴェトコンとして動員し、訓練を行った。
1970年末、海兵隊は、北部訓練場がある国有林に、新たな演習場を確保し、実弾砲撃訓練を行う計画を立てた。そして訓練中は、近隣の政府道2号線も海兵隊の管理下に置こうとした。
在沖米軍司令部(USCAR)は、地元の反対や自然破壊を理由に、訓練場所を離島にすべきだと勧告した。また、国頭村民の訓練阻止闘争や、沖縄県選出国会議員、国際自然保護団体などが反対し、訓練は中止されたが、新たな演習場はそのまま確保されることになった。
105 このことは、海兵隊は、沖縄復帰を目前にして、境界が曖昧な北部訓練場の領域を広く確保し、近隣の民用地が柔軟に使えなくなることに備えようとしたともとれる。
海兵隊は、北部訓練場外の隣接地域に二つの許可訓練場を持ち、進入訓練道として使用してきた。そのうち、国頭村の民用地を借り上げた安波(あわ)訓練場について、施政権返還前日の1972.5.14まで、使用を延長する許可を国頭村から得た。
安波訓練場は結局、沖縄復帰後も返還されなかった。地位協定第2条第4項bに基づいた、一時使用訓練場として正当化された。
日本側の抵抗 北部訓練場整理縮小の試み
日本政府は北部訓練場の一部返還を求めていた。
外務省は、米軍が北部訓練場の外辺部分を、実際の訓練地域へのアクセスのために、米軍が確保していることを知っていた。
外務省はそれに異議を唱えた。地位協定5条で、施設区域へのアクセスは確保されているのだから、訓練に全く使用することなく、ただ通過のためにだけ必要な部分を施設地域とすることは適当でないと米国に主張した。
106 そうすれば海兵隊の訓練地域は、かなりの面積を減じうると迫った。
さらに施設の数ではなく、総面積を減らせ、実際に訓練に使用しない部分は切るべきだ(=返還すべきだ)とした。
また外務省は、許可訓練場は地位協定とはなじまないとした。日米地位協定第2条は、米軍が使用する基地・施設の場所や範囲を特定したうえで、日本から提供すると定めている。
外務省は、米軍が日米地位協定第2条第4項(b)を根拠に、施政権返還後も、在沖米軍基地の、全島基地方式の運用を変えないだろうと予測していたが、その通りになった。
日米地位協定第2条第4項(b)とは、
米軍と自衛隊による基地の共同使用を想定し、日本の施設を米軍が一時使用する。
というもので、民用地や施設を、米軍が一時使用する際の根拠となっていた。
外務省は、米軍が、北部訓練場の面積を減少させると見せかけ、(一方では)許可訓練場を増やし、全体として面積が拡大することを恐れていた。
北部演習場近隣の許可訓練場の面積は、80平方キロメートルに及んだ。
那覇周辺施設への絞込み
107 1971、外務省は、在沖米軍基地の面積縮小の方針から、那覇周辺施設の返還へと方針転換した。
1971.3、吉野文六アメリカ局長はスナイダー駐日公使に、那覇周辺の目立つ区域の解放を要請したが、スナイダーは「日本政府は、米国の軍事的要請にとやかく言おうとすべきでない」とした。
(居丈高)
日本側は、P‐3の移転費用を日本側が負担すると申し出て、那覇空港の返還で、米側の同意を得たが、P‐3の撤去は沖縄復帰に間に合わず、那覇空港は民間空港になったが、滑走路、誘導路に日米地位協定第2条第4項(b)が適用され、那覇空港を米軍も使用し、那覇空港内に米軍専用施設が設けられた。
1975、P‐3が嘉手納基地に移転し、那覇空港は全面返還となった。
沖縄返還協定 先送りされた基地の整理縮小
108 1971.6.17、沖縄返還協定が調印された。
返還される基地は面積で15%、50平方キロメートル、在沖米軍が継続使用する基地の面積は、287平方キロメートルだった。(盗人、米国人)
屋良主席は不満を表明し、社会党、共産党は協定内容を批判した。
1971.11.17、自民党は衆議院特別委員会で、沖縄返還協定を強行採決した。
1971.11.24、自民党は、公明党と民社党を抱き込んで、「非核兵器(うそ!)ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議案」を採択し、日本政府に「沖縄米軍基地について、すみやかな縮小整理の措置をとる」よう求めた。(しかし、これは全くの嘘だった。110吉野アメリカ局長(=政府自民党)は、こんな決議をまともにやるつもりはないと米軍に伝えていた。)
11.24、衆議院本会議で沖縄返還協定の批准が可決された。
採択後、佐藤首相は、「在沖米軍基地の整理縮小について、復帰後すみやかに実現できるよう、現在からこの問題に真剣に取り組む方針」を表明した。(嘘)
110 (自民党の)沖縄米軍基地縮小決議108の採択直前、吉野アメリカ局長はスナイダー公使に、決議は「日本政府を拘束しないし、如何なる場合でも、佐藤が政権の座を去った後でも有効ではない」と説明した。
ただし米国駐日大使館は、協議の場を設けて佐藤の顔を(いちおう)立てようとした。
1972.1、サンクレメンテでの日米首脳会談後の共同声明で、米側は「双方に受諾しうる施設・区域の調整を、安保条約の目的に沿いつつ、復帰後行う」とした。(米が受諾できなければはいそれまで)
沖縄返還の期日が5月15日に決まった。
結局在沖米軍基地の整理縮小問題は、岡崎・ラスク方式のままとなった。
非公表の五・一五メモ 返還前と同様の基地使用
111 (政治は秘密裏に行われるもの。)
1972.5.15、沖縄の施政権が日本側に返還された。この日の日米委員会で、在沖米軍基地に関する協定が締結され、87ヶ所、287平方キロメートルの基地が、日米地位協定に基づいて、米側に提供された。(日本の所有になったのか?)
同時に、在沖米軍基地の使用条件や期間などを定めた五・一五メモが作成された。
このメモでは、在沖米軍は、返還前と変わらぬ基地の使用が認められ、住民が日常的に利用する県道の封鎖や貯水池の使用が認められ、飛行場以外の基地でも上空訓練が可能であった。
五・一五メモは非公表だったが、1973.4、恩納村(おんなそん)と金武村(きんそん)を結ぶ県道104号線を、海兵隊が実弾射撃訓練で封鎖したことに対して、沖縄県、恩納村、地域住民が、日本政府と米軍に抗議した際に受けた説明の中で、この五・一五メモの存在が明らかになった。
五・一五メモでは、県道が、米軍への提供施設とされ、米軍が常時使用してもよいとされ、しかも米軍の活動を妨げない限り、一般住民の使用が認められるとしていた。(ひどい!佐藤だろう)
112 また、1974.7、海兵隊が伊江島補助飛行場で、核模擬爆弾の投下訓練を実施していたことが、それを示す写真の存在で、判明した。(この時、その全容は明らかにされていなかったようだ。112)
佐藤首相は(自民党の)「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議案」108に基づき、「復帰後は模擬弾といえども、核訓練はさせない」と約束していた。
五・一五メモでは、在沖米軍が訓練で使用できる兵器は、訓練の為に水陸両用部隊が通常装備する兵器、通常弾、通常訓練弾とされている。(つまり模擬弾は通常兵器ということか)
五・一五メモの二つの問題
1977.7、名護市のキャンプ・シュワブ内で、ハリアー機の垂直離発着訓練が行われた。
名護市が、防衛施設庁告示第12号を根拠に、同キャンプで使用できるのは、地上と水域のはずだと抗議したところ、米軍は、空域使用も、五・一五メモで認められていると回答した。
沖縄県は五・一五メモの公表を政府に要求した。
1978、防衛施設庁が、五・一五メモの一部を公開し、在沖米軍基地22ヶ所の使用目的、使用条件を公表した。
113 1997.1、米海兵隊ハリアー機が、1995年12月から1996年1月にかけて、三回、鳥島射爆撃場で、劣化ウラン弾を、誤って、使用したことが判明した。沖縄県は、五・一五メモの全容を公開するように要求し、政府も、全容公開に近い形で応じた。(まだ隠している)
全島基地方式の運用は返還後も維持され、住民の生活圏で米軍訓練が継続された。
板付基地は1972年に返還され、福岡空港として民用化されたが、その滑走路は現在2019でも、日米地位協定第2条第4項(b)によって、米軍の緊急時の一時使用が認められている。
五・一五メモの問題点
その一、米軍に一時使用を認めた民用地が多すぎる。佐藤内閣が、返還後も残る基地を、少なく見せかけようとした結果と思われる。
114 その二、県道や貯水池など住民の生活に不可欠な場所での米軍の訓練を認めた。
日米地位協定では、米軍は、自らが使用した基地を返還する際、原状回復の義務を負わない。
返還後の在沖米軍基地の整理縮小 巨額な日本の負担
ニクソン政権は、1972年までに、南ヴェトナムから47万人、韓国から2万人、フィリピンから1万人の米軍を撤退させた。
1972、朝鮮半島南北共同声明が発表された。
1973.1、ヴェトナム和平協定が調印された。関東地方の米軍基地を、横田基地に集約する関東計画が始まった。
115 1972.7、田中内閣が発足し、アジアの緊張緩和を理由に、在沖米軍基地の整理縮小を米側に求めた。
米側は、沖縄が、ヴェトナムから撤退した海兵隊の移転先だとし、また関東計画で、沖縄の重要性が高まったとして応じなかった。
一方で、ニクソン政権は、在日米軍の日本側の費用負担を増やせば、在沖米軍基地の縮小に応じてもいいと考えていた。
1973.1、日米安全保障協議委員会(SCC)で、那覇空港の完全返還と牧港住宅地区の一部返還が合意された。
この時日本側は、P‐3の嘉手納基地内での代替施設の建設、普天間基地の改修工事などの費用と、三沢基地の施設建設費用、牧港の米軍住宅200戸の移転費用など、500億円を引き受けた。
普天間基地は、1968年に閉鎖が検討されていたが、P‐3移転を機に、嘉手納基地の補助飛行場として、ジェット機が使用できるように、機能が強化された。
116 日米地位協定第24条では、在日米軍の駐留費用は米国の負担となっている。米軍の移転費用を日本が負担することは日米地位協定違反である。
これに対して大平正芳外相が、新築でない代替施設の建設は、地位協定第24条を逸脱しないと(苦しい言い訳を)し、それを正当化した。「大平答弁」
1973.11月、米国がさらなる在沖米軍基地縮小計画を提示した。日本が移転費用2000億円を支払い、基地29ヶ所の全面返還、19ヶ所の部分返還を提案した。
1973.10月、第四次中東戦争が始まった。日本経済はインフレや第一次石油危機で、大きな打撃を受けていた。田中内閣は、米提案を、天文学的だとして、政治的・経済的に不可能だと回答した。米国側からは、これまで日本側が、財政的な制約はないと言っていたのと矛盾するとし不満を表明した。
1974.1、日米安全保障協議委員会で、38の在沖米軍基地の返還が合意された。しかし、沖縄が求める那覇軍港や牧港住宅地区の完全返還は、県内移設が条件とされ、また、北部訓練場のうち、無条件で返還される場所は、不要な山林や原野だった。
日本側は、移転費用に1000億円以上新たに負担することになった。
第5章 「思いやり予算」の膨張 「援助」の拡大解釈
「思いやり予算」の起源
117 (また密約)1969.11、柏木雄介財務官と、米財務省のアンソニー・ジューリック財務長官特別顧問とが、秘密の了解覚書を交わし、それに基づいて日本政府は、対米支払に応じた。
一、沖縄のドルを円に交換するにあたり、6000万ドル、あるいは両替した額、いずれか大きい方の額を、ニューヨーク連邦準備銀行の無利子口座に25年間預け入れる。
二、民生用及び共同利用の資産として、1億7500万ドルを、現金による5年間の年賦で支払う。
三、復帰に関連する軍事施設の移転コスト及びその他のコストとして、2億ドル*を、物品・役務の形で7年間提供する。
*後に7500万ドルに減額し、うち、6500万ドルを施設修繕費に充当。
四、社会保障費として、沖縄の基地労働者の年金などの増加分、3300万ドルを支払う。
118 上記の三に関して、
1971.6.9、ウイリアム・ロジャーズ国務長官が、施設修繕費6500万ドルの使途について、日米地位協定第24条のリベラルな解釈を求めた。
第24条第2項は、在日米軍の駐留経費に関する日本側の負担について、軍用地の接収費用と軍用地主への補償に限定しているが、米側は、沖縄施政権返還にかかる費用を、日本側にも負担させ、そのうち在沖米軍基地の施設修繕費については、沖縄に限らず、日本本土の米軍基地にも使いたいと要求した。愛知揆一外相は、外務省の官僚の反対を押し切ってそれに応じた。
その結果、6500万ドルを、在日米軍が、5年間にわたり、物品と役務にかかる(関わる=の形での)費用として使うことになった。在日米軍駐留費の負担(=思いやり予算)の起源である。(我部政明『沖縄返還とは何だったのか』)
上記四について、
これは、在沖米軍基地労働者が、日米地位協定下で、日本政府による間接雇用の対象になるにあたっての措置だった。基地労働者に日本国内法令が適用され、社会保障費の負担が発生した場合、それを米は、日本に支払わせた。
119 社会保険料の事業主負担、福利厚生費、労務管理費などは、米軍にとっては、直接必要のない経費と看做された。
日米地位協定第12条第5項によると、基地労働者の社会保障費は、日本の法令が適用されるが、別段の合意があれば、例外とするとある。
別段の合意に当たるものは、第12条第6項の、保安解雇に関するものだけだという日本側の解釈に対して、米側は、基地労働者が結ぶ基本労務契約も別段の合意であると看做し、日本の労働法令を遵守する必要はないとした。(意味不明)
日本側は、復帰後の基地労働者に対する社会保障費などの手当の必要性を主張するが、米国は、日本法令の適用に消極的で、それから生ずる出費を日本側に押し付けた。
このような、基地労働者の社会保障費の日本側による負担が、思いやり予算につながった。
1971.6.17、沖縄返還協定が調印され、第7条で日本政府による、3億2000万ドルの対米支払が盛り込まれ、その内訳は、資産引継ぎ補償費1億7500万ドル、基地従業員の退職金7500万ドル、核兵器撤去費7000万ドルと説明された。
120 しかし、それは表向きで、実際は、柏木・ジューリック覚書の通りであった。
外務省の難色 労務費の日本負担に対して
「思いやり予算」とは、日米地位協定に規定がない、在日米軍駐留経費の日本負担分である。
1978年から、在日米軍の労務費や施設費が、毎年の予算の中に組み込まれるようになった。
1976年から、米軍は公然と労務費の日本側負担を要求するようになった。1968年の労務費は1億4300万ドルで、1975年には、それが4億ドルになった。これは日本国内での物価上昇にともない、労務費が上昇したことによる。
1976.7.8、日米安全保障協議委員会で、米軍のノエル・ゲイラー米太平洋軍司令官が、労務費の上昇を問題提起した。それに対して、齋藤一郎防衛施設庁長官が、改善に最善を尽くすと応じたことから、国務省は、防衛設備の費用を日本が引き受けるかもしれないと期待した。
1977.3、ジミー・カーター大統領が福田赳夫首相に、労務費の一部負担を要請したが、外務省は地位協定の規定から、それは困難だと考えていた。
外務省はむしろ在日米軍基地の整理縮小に関わる移転費用で協力すると伝えていて、岩国や三沢に米軍住宅を新たに建設すると提案した。
防衛庁の理解 負担受け入れへ
122 防衛庁と防衛施設庁は、健康保険、退職金などの労務費を分担する作業を開始した。
1977.9、三原朝雄防衛庁長官は、労務費の分担を前向きに検討すると、米側のハロルド・ブラウン国防長官に述べた。(シビリアン・コントロールは既にないのか)
外務省、防衛施設庁、内閣法制局は、地位協定第24条の「米軍維持にともなうすべての経費」に該当しないものを(無理に)探し出した。福利厚生費だ。給与は米軍負担だが、それ以外を日本支出としても、地位協定に抵触しないと考えた。
123 1977、日米合同委員会で、労務費のうち61億8600万円を日本政府が引き受けることで合意した。
大平答弁の拡大解釈へ
カーター政権はこの61億円を「雰囲気を台無しにするほど」少ない金額だと、失望(=とけな)した。(あつかましい)
1977.6、米会計検査院は、上下両院議長に、公平な防衛費分担を検討すべきだと勧告し、労務費の分担と基地の共同使用を求めた。
1977.8、米会計検査院は、在日米軍基地労働者の賃金が、現地の賃金水準よりも高いと指摘した。
124 1978.4、ジョージ・ラヴィング在日米軍司令官は、亘理彰(わたりあきら)防衛施設庁長官に、基地外に住む米軍人の家賃が円高で上昇し、基地内に住宅を建てる費用の負担をするように求めた。また老朽化した基地内の施設の改修費用を求めた。
金丸信防衛庁長官は、「思い切った増額を考えてみてくれ」と亘理彰に指示した。
日本政府は、カーター政権が韓国から6000人の米陸軍を撤退したことに不安を覚えた。金丸は米軍を傭兵として使いたかった。
外務省も大平答弁を拡大し、大平答弁は、日米地位協定の解釈ではなく、運用面の指針に過ぎず、地位協定第2条に基づく新規提供を日本負担でできると拡大解釈した。
思いやり予算の開始
125 1978.3、在沖米軍は、牧港補給地区を海兵隊に移管するにあたり、基地労働者を解雇すると発表した。(意味不明)
1978.6、カーター政権は、福田内閣に、労働者の賃金と福祉手当を払え、払わねば9月30日までに、800人解雇すると脅した。
金丸は急遽訪米し、ブラウン国防長官に「思いやりをもって」基地労働者の退職金の一部を払うから解雇者数を減らしてくれと頼んだ。解雇者数は454人となった。
1978.6.29、金丸は参議院内閣委員会で「駐留経費について『思いやり』の立場で、地位協定の範囲内で(うそ)、努力したい」と答弁した。
126 1978.7、政府は、地位協定第24条の新解釈をつくり上げ、移設・改修だけでなく、新築の費用も負担し、地位協定に規定のない労務費の負担も、国会の承認があれば、地位協定の範囲内と看做す、と関係省庁間で合意した。(都合のいい国会承認という手段)
1978.12、日米合同委員会で、1979.4以降は、基地労働者の格差給、語学手当、退職金の内国家公務員の水準を上回る部分、格差給と語学手当以外の諸手当への算入分(意味不明)を、日本側が負担することになった。
1979年分は、前年度分を含めて、日本側は280億円払った。また日本負担で、横田・厚木基地内に米軍の家族住宅を建設することになった。
日米貿易摩擦と思いやり予算の膨張
127 1981、レーガン大統領は、米経済の不況を口実に、基地施設費の増額、基地労働者給与の全額負担、光熱水道費の負担などを求めたが、日本側は、地位協定の解釈上、給与や光熱水料は困難だとした。当時の首相は鈴木善幸。
1985年のプラザ合意で、ドル高から円高になり、円で支払われる基地労働者賃金の米側負担が、年間2億ドル分増加し、米側は、基地労働者給与の負担増を日本側に求めた。
1986、中曽根康弘首相は、日米貿易摩擦の中、基地労働者の給与に関して、日米地位協定に関する労務費特別協定を締結し、米側の要請に応じた。(特別と言えばなんでもできる。)
128 その結果、調整手当、扶養手当、通勤手当、住居手当、夏季手当、年末手当、年度末手当、退職手当などの経費の半分を限度として、日本側が負担することになった。そしてこの特別協定の有効期間は、1986年度から5年間とされた。
しかし、1988.3、竹下登内閣は、労務費特別協定を改正した。イラン・イラク戦争が口実だった。
その結果、労務費の日本負担額上限が上がった。上記八種類の諸手当の日本側負担分は、当初の半分から、全部または一部とされ、1988年に50%だったものが、1989年には75%、1990年には、100%となった。
膨張拡大 思いやり予算の推移
1991、当初は地位協定にそぐわないとして拒否していた光熱水料も負担するようになった。133
1996、さらに訓練移転費が加わった。
これらは地位協定違反であり、そのため特別措置として期間を限り、特別協定を締結して支払われた。
2018年度の思いやり予算の77%が労務費である。
130 特別協定は現在でも引き継がれている。
冷戦終結 揺らぐ在日米軍の意義
1987、日本政府は逗子市民の反対を押し切って、米軍住宅の建設を開始した。
1990.3、米軍住宅建設反対を唱える逗子市議会議員が、議会で過半数を占め、建設工事を止めた。
1989.11、米議会が、在日米軍駐留費のうち、直接経費の負担を日本側に要求する決議をし、1990.6、米国務省の防衛分担大使が来日し、駐留経費のうち円建て部分全額の負担を求めた。円建て経費とは、労務費、光熱水費、電話料金、廃棄物処理経費、艦船修理費などである。
マイケル・アマコスト駐日大使は、在日米軍駐留費全体の半分を持つように求めた。
132 1990.4.9、公明党の市川雄一書記長が、防衛予算の三年間凍結、日米安保体制の縮小を提案した。
湾岸危機の勃発 基本給、光熱水費の負担へ
1990.8、イラクによるクウェートへの進攻(=地域紛争の頻発の恐れ)が、自民党に、日米安保条約堅持の口実を与えた。国連と米国に協力するための日米同盟強化である。
ブッシュ大統領は、海部俊樹首相に、中東への米軍派兵にかかる経済的負担を軽減するため、在日米軍駐留費の負担増を求めた。
133 1990.12.20、新中期防衛力整備計画に、新たな米軍駐留経費負担が盛り込まれた。
同日の官房長官談話は、基本給や光熱水料の日本負担の、1991年度からの段階的な増額、1995年度には全額を負担する、5年間限定の在日米軍駐留経費特別協定1991.1の締結を発表した。
新協定によると、これまでの八種類の諸手当に加え、基本給、時間外手当、船員関係の諸手当が新たに追加され、44種類の給与支払経費の、「全額または一部」を負担することになった。
さらに光熱水費の「全額または一部」も負担することになった。
電話料金や廃棄物処理費は応じなかった。
日本の経済・財政と連動する負担
134 1994、ビル・クリントン大統領は、1996年以降の新たな駐留経費特別協定を目指し、1995.9、日本の国会でそれが承認された。
新協定では、新たに、夜間離発着訓練の、厚木から硫黄島への訓練移転費が盛り込まれ、その中には、訓練にかかる経費は含まれない(当然でしょ)が、燃料費、食費、住居費、周辺対策費が、日本負担とされた。
また基本給など手当の対象は、2万3055人を上限とし、日本負担とした。電気ガスにも上限が設けられたが、訓練移転費には上限がなかった。
1990年代以降、日本経済・財政が低迷し、円安となり、日本側は負担の軽減を求めた。
135 2001年から実施された、有効期間5年の新(特別)協定では、
米側の経費節減義務が明記された。(どれ程の効果があるのか)
2003年に年度末手当の支払が廃止され、44項目が43項目になった。
基地外の米軍住宅の光熱水料を日本負担から外し、基地内の光熱水料の上限を10%引き下げた。
その結果日本が負担する光熱水料が、33億円軽減された。
2016年4月に結ばれた八度目の特別協定では、2016年度から2020年度にかけて、日本負担上限労働者数を、2万2735人から2万3178人まで段階的に増加させるとしている。また、光熱水料の日本負担は、72%から61%に引き下げるとしている。
思いやり予算とは別の在日米軍関係経費
1996年以降、駐留経費以外に、新たな日本負担が発生した。
SACOと米軍再編関係経費である。
136 思いやり予算は2000年代以降減少し、2015年から微増しているが、SACOと再編経費を合わせると、対米支払は増加している。
SACOとは、「沖縄に関する特別行動委員会」のことである。
1996.12、SACOの最終報告で、普天間基地など11の在沖米軍基地・施設の返還、訓練・設備移転、騒音対策などが書かれた。また、
137 2004年~2006年、在日米軍再編協議で、在沖第三海兵師団の一部国外移転、普天間基地移設、在日米陸軍司令部の改変、厚木から岩国への空母艦載機移駐が決まった。
SACO関連経費のうち、次の経費が、2006年度から、米軍再編関係経費に引き継がれた。
・普天間代替施設の建設費用、北部訓練場のヘリパッド建設費用、県道104号線越え実弾射撃訓練の県外移転やパラシュート降下訓練の伊江島補助飛行場への移転費用、嘉手納基地の旧海軍駐機場移設と遮音壁整備経費
・SACO事業対象の基地・施設が所在する市町村に対する、公共施設の整備、防災、生活環境改善、開発事業等の交付金(地元対策)
以上述べてきた経費ほかに、日米地位協定で決められている本来の負担がある。
138 基地周辺対策費には、騒音対策費、軍用地の賃借料、在日米軍の既存施設の移転・建替費用、漁業補償などが含まれる。(基地周辺対策費は巨額である。)(防衛省分)
基地交付金は、NHK受信料負担、職業訓練費などである。(他省庁分)
139 日本経済不況の1990年代後半以降も、思いやり予算は増加した。沖縄の基地負担軽減の名目で、新たな負担が生じたからだ。
感想 2019年8月5日(月) 巨大米帝怖い。口、武力、経済力を総動員。その魔手からどうやって抜け出すことができるのか。
第6章 冷戦以後の独伊の地位協定 国内法適用を求めて
ドイツ補足協定 統一後の改定の動き
141 1990.6、ソ連は、ドイツのNATO帰属は、ドイツ自身の判断でよいとした。
142 ただし、旧東ドイツ地区にNATO軍が常駐しないことを条件とした。
英仏は米軍のヨーロッパ駐留を望んでいた。
ドイツは、1990.9月と11月、米ソ英仏との交換覚書で、二年後にNATO加盟国との駐留条約を終了できるようになった。
またドイツの要望に従って、NATO軍地位協定の見直しが認められた。
ソ連・ロシア軍が、1994年末までにドイツの東側地域からの撤退を完了することが決まった。
ドイツは、自国内に駐留するNATO加盟国に対して、地位協定の見直しを要請し、補足協定の改定を申し入れた。占領軍の既得権益が残されていたからだ。
143 西ドイツでは、地位協定批判が法廷闘争になった。
西ドイツ議会と裁判所が、環境法、建築法、航空法などの国内法令を、駐留NATO軍にも適用するよう求めた。
1988、駐留軍の航空機が事故を起こした。イタリア軍機が航空ショーで墜落し、7人以上が死亡した。また米軍機が西ドイツの住宅街に墜落し、多数の死傷者を出した。
1990、西ドイツ駐留の米英仏軍は40万人で、駐留軍が使用していた面積は1520平方キロメートルだった。
東西統一でドイツが完全な主権を獲得すると、NATO軍の占領軍としての権利が消滅した。
ドイツではドイツのNATO域外派兵という追い風の下で、補足協定の改定が1991年から行われた。
144 ドイツにはこれまで米英仏、ベルギー、オランダ、カナダの軍隊が駐留していた。補足協定もこれら6カ国と結ばれていた。補足協定改定後は、その他のNATO加盟国8カ国のドイツ駐留時にも、この協定が適用された。(同一の協定だったのか)
1991.5、NATO国防相会議は、緊急展開部隊を創設した。
1991.11、NATO首脳会議は、主力防衛部隊や即時展開部隊の創設方針を打ちだした。
1992.6、NATO外相会議は、全欧安全保障協力機構(CSCE)の承認の下での平和維持活動の域外派兵を認めた。
1994、NATOは、ボスニアのセルビア人居住地域を空爆した。
1992.4、NATO諸国は、ドイツも含めて、国連と連携する形で、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボへの派兵を検討した。
ドイツ国内では、域外派兵への反対が強かった。ドイツでは義務兵役制だった。西ドイツ時代は、NATO域外派兵は、憲法違反だった。コール政権がNATO域外派兵を可能にする憲法改正を試みたが、野党が反対した。
1994.7、ドイツ連邦憲法裁判所が、国連の枠組みという条件つきで、NATO域外派兵を認めた。
1995.9、ドイツ連邦軍は、ボスニア・ヘルツェゴビナを空爆した。
146 1991.1~1993.1まで、ドイツはNATO軍地位協定・補足協定の改定交渉を行った。
NATO諸国はドイツの参戦を望んでいた。
新補足協定 ドイツ国内法令適用の拡大
ドイツは、駐留軍とドイツ連邦軍とが対等であることを目指した。訓練、基地管理権、環境問題、基地労働者の待遇、国内移動、刑事裁判権などに関して、関係各州の代表を交えて交渉に臨んだ。
147 駐留軍の基地外部での訓練は、ドイツ政府の同意なしにはできないようにさせた。
駐留軍は、ドイツ国内法令に従わねばならなくなり、基地外訓練を事前にドイツ政府に申請し、許可を得なければならなくなった。空域訓練もしかり。
基地内の訓練でも国内法令が適用された。
ドイツ政府はこれまで駐留軍の安全性基準の問題点を指摘していた。
ただし、補足協定や国際法に規定のない事項については、駐留軍が独自に規則を定められるとした。
駐留軍基地内への立入権は、これまでその運用基準が曖昧だったが、改定時に取り交わされた合意議事録では、これを具体化し、ドイツ連邦政府、州政府、地方自治体は、駐留軍への事前通告を行えば、立ち入れるようになり、緊急の場合は、事前通告なしに立ち入れることになった。
譲らない裁判管轄権
148 新しい補足協定と合意議事録では、環境保全原則が導入され、基地内での環境汚染や、駐留軍の活動が記念物・自然保護区に及ぼす影響などを調査するための立ち入りが、認められるようになった。
しかし活動の停止や変更に直ちにつながるものではないという問題点もある。
駐留軍の使用する燃料は、ドイツの環境法令で低汚染物質とされている燃料、潤滑油、添加物のみを使用すると規定された。
基地内労働者に国内の労災防止法が適用され、労働基準監督局の管理が及ぶことになった。
149 ドイツ国内の移動について、有事を除いて、駐留軍とその関係者は、ドイツの交通法令・航空法を遵守するように義務づけられた。
ジェット機の低空飛行は、補足協定改定以前の1990年の総理大臣指令で制限された。これは騒音被害や健康被害の行政訴訟の成果である。
その結果、低空飛行は、ドイツ連邦国防省が指定した区域・時間に限り、事前の許可を経て行われるようになった。
低空飛行時間は、1980年、西ドイツ地域で、年間8万8千時間だったが、1990年には4万2千時間に減少し、1995年には、1万4千時間に縮小した。
ところが裁判管轄権では、抜本的な改定を実現できなかった。
日米地位協定同様、基地内外に関わらず、犯罪者が米兵・軍属で、
・米国とその財産に関する犯罪
・被害者が米兵・軍属の場合
・公務執行中の犯罪
については、米国に一次裁判権があるとする。
また「公務中」の解釈でも隔たりがある。
西ドイツの補足協定では、一次裁判権を一括放棄していた。
150 ドイツは一括放棄の撤廃を目指したが、加害者の母国で死刑に相当する重大犯罪が、一次裁判権放棄の対象から除外されるようになっただけだった。(重大犯罪には、ドイツの一次裁判権が認められたということか。)
イタリア国内の米軍基地と協定
1947、イタリアの占領が終了し、イタリアは主権を回復した。
1949、イタリアは他の加盟国と対等にNATOに参加した。
イタリアには米軍のみが駐留した。
1952、米伊間で、基地に関する交換公文が結ばれた。
1954、米軍の常駐に関する非公表の米伊二国間協定が成立し、米の核兵器が持ち込まれた。非公表の理由は、核持込に対する国内の反発を恐れてのことだった。
米は核の存在を肯定も否定もしない政策を取った。Neither Confirm Nor Deny (NCND)政策
151 1995、米伊が基地協定=了解覚書とその付属書を締結した。米は在伊基地を、中東・東欧戦争に使用したかった。ただし、付属書はモデル協定である。つまり、個々の米軍基地ごとに個別協定があり、それは非公表である。
1995、イタリアのアヴィアーノ基地からボスニア爆撃が行われ、その後のセルビア爆撃でもこの基地が使用された。
了解覚書付属書は、平時の適用を前提とし、有事にはNATO軍地位協定が適用される。
イタリアは冷戦期からNATO域外派兵に反対してきた。
イタリア基地協定の背景
1982、イスラエルが、PLOの拠点であるレバノンに侵攻し、レーガン政権が、在伊米軍基地を利用して、レバノン介入を計画したが、イタリア政府は、米軍基地のNATO域外使用を拒否した。
結局、イタリア軍が国連の下でレバノン平和維持軍に参加することで米と妥協した。これはイタリアの戦後はじめての海外派兵であった。
イタリアは、憲法第11条で、平和に寄与する国際機関への協力を除いて、戦力を放棄している。
152 1985、PLOメンバー4人が、伊旅客船アキレ・ラウロ号をハイジャックしたとき、レーガン政権は、リビアのムアンマル・アル・カダフィ政権がこれに関与したと主張し、1986年にリビアを爆撃したが、イタリアは、米軍機の自国内基地の使用や領空通過を禁じた。
イタリアは、ハイジャック犯が乗り換えたエジプト航空機が、米軍によってシチリア島に強制着陸させられると、ハイジャック犯の身柄を拘束し、米国への身柄引渡しを拒んだ。
イタリアは湾岸戦争で多国籍軍として参加したが、近隣のボスニア紛争には派兵しなかった。イタリアは第二次大戦中に、クロアチアの一部を占領したことがあったからだ。
153 イタリアが自国に有利な基地協定を結べたのは、国内の反戦世論の力がある。
イタリア基地協定の詳細と問題点
1995年に締結された了解覚書付属文書によれば、在伊米軍基地の管理権は、イタリア軍にあり、基地内の施設の地図を持つ権限も、イタリア軍司令官にある。
米軍の訓練や作戦行動、廃棄物処理は、イタリア国内法令の規制下にある。訓練・作戦行動は、事前にイタリア軍司令官の許可を取る必要がある。イタリア軍司令官は、米軍基地内のどこにでも自由に立ち入ることができ、米軍の行動を中止させることができる。
駐留米軍関係経費の負担は、基地を共同使用する場合は、基地使用の割合で決定される。
154 在伊米軍基地の管理権をイタリア軍が持つので、イタリア政府は、米軍基地提供関連の費用を負担している。
例外的に米軍の排他的管理が認められる特定の基地・施設の費用は、米側負担である。
1998.2、ボスニアでの平和維持活動に参加中だった、アヴィアーノ基地所属の在伊米軍が、高度・速度制限に違反して、スキー場で低空飛行訓練を繰り返し、その結果、スキーゴンドラのロープを切り、イタリア人3人を含むゴンドラの乗客20人が死亡し、ゴンドラの運転手1人が重傷を負った。
スキー場のある自治体の長は、米軍の低空飛行中止を何度も求めていた。
在伊米軍は有事だと主張し、国内法令に従わねばならない了解覚書付属文書を適用しなかったようだ。
事故を起こした米海兵隊員への一次裁判権について、イタリアのトレント裁判所は、NATO軍地位協定第7条第3項a(ii)に基づき、米国側に認めた。
155 米国軍法会議は、一人を除いて全員無罪にした。一人は、司法妨害で禁錮6ヶ月とした。
その判決に、イタリア政府や議会の関係者が反発した。事故被害者の中には、他のヨーロッパ諸国の人もいたので、反米感情がヨーロッパで高まった。
ビル・クリントン政権は、NATO軍地位協定第8条第5項(a)の民事責任規定にこだわらず、米国は40億ドルの補償金を支払った。
冷戦終結後、ドイツは駐留軍の訓練を規制できるようになり、イタリアは駐留米軍基地の管理権を持つようになった。
ただしドイツは、環境保全原則の導入や、一次裁判権一括放棄の撤廃では、限られた成果しか得られなかった。イタリアは国内法令の適用が、平時に限られた。
156 一方、冷戦終結後の日本政府は、日米地位協定の改定そのものに消極的だった。
第7章 沖縄基地問題への注目 度重なる事件、政府の迷走
1 二度の改定要求の機会 独、伊、韓国との岐路
改定要求の二度の機会 湾岸戦争と北朝鮮危機
157 1990.8~1991.1・2、イラクのクウェート侵攻から湾岸戦争までの間に、ブッシュ政権は日本に後方支援の名目で自衛隊の中東派遣を求めた。
158 米国は、自国内のイラク派兵消極論を説得するために、日本の軍事力よりも、共同介入の意志を必要とした。(しかし、軍事力に変わりはないのではないか。)
小沢一郎・自民党幹事長や外務省は、対米協力を国際貢献と言い換えて、軍事介入を推進しようとしたが、自民党内の護憲派や野党、世論の反発で実現しなかった。
(日本政府担当者には)中東派兵と引換えに、地位協定改定を要求するという発想はなかった。(筆者は恐ろしいことを言う。中東に派兵せよと言っているのだ。)
1993、北朝鮮が核不拡散条約から脱退し、1994、「韓国を火の海にする」と公言し、クリントン政権が、北朝鮮への軍事攻撃を検討したとき、(北朝鮮危機)日本の軍事的重要性が増した。
159 1995、新防衛計画の大綱、1996、日米安全保障共同宣言、1997、日米防衛協力のための指針の改定、1999、周辺事態法成立。
日本には朝鮮戦争への協力と引換えに、地位協定改定を求める発想がなかった。
なぜ日米地位協定改定が議論されなかったのか (すでにがんじがらめに米に取り付かれていて、変えることができるなどという勇気ある発想が浮かばなかったのではないか。…金井)
日本の政策決定者は、湾岸戦争や北朝鮮危機を通して、米国を支えるという発想が日本にはなかったと反省した。日本は米国に対して安全保障で「ただ乗り」している、だから米国に要求できない。「ただ乗り」はもう許されない、と彼等は考えた。
160 ドイツは、NATO域外派兵が憲法違反だという国内世論のために、米国の要求に応じられず、米国から批判されたが、ドイツはその後、NATO軍地位協定・補足協定の改定を実現させた。
韓国は1991、在韓米軍地位協定を改定し、1995、地位協定再改定の交渉を開始した。
2000.12、韓国は初の南北首脳会談を実現させ、米国との間で地位協定の再改定で合意し、日米地位協定並みの裁判管轄権や基地労働者の雇用への国内法令適用を実現させた。そして本文には反映されなかったが、合意議事録と了解覚書には、在韓米軍が韓国の環境法を尊重することが明記された。
湾岸戦争でのドイツの対応は日本と同じなのだから、米国の要求に答えないことが、地位協定の改善に関して米国に要求できないという論理は成り立たない。
韓国は米国の軍事力が自国の安全保障にとって不可欠であるとはいえ、駐留米軍の地位の見直しが不可能でないことを、これまでの韓国の二度の改定が示している。
少女暴行事件
161 1995.9.4、米兵三人が12歳の小学生の少女一人を商店街で拉致し、人気のない海岸に連れて行って輪姦した。
沖縄県警が三人の逮捕状を取ったが、三人の身柄を確保した米軍は、地位協定第17条第5項(c)を根拠に、起訴前の身柄引き渡し拒み、沖縄県警の取調べにも非協力的だった。
クリントン政権は、沖縄県警による取調べを実現した。
10.21、抗議の県民総決起大会が開かれ、過去最大の8万5千人が参加した。(しかしその要望は控えめなものだった。)
米軍人の綱紀粛正と米軍人・軍属による犯罪根絶
被害者に対する早急な謝罪と完全補償
日米地位協定の早急な見直し
基地の整理縮小促進
162 これは県議会の採択した抗議決議を踏襲したものだ。
外務省、河野洋平外相は地位協定の改定に反対した。
基地撤去論への危機感と世論209
163 外務省は、地位協定改定論が、基地撤去論に発展することを恐れていた。
フィリピン議会は米比基地協定の期限延長を拒否し、1992.11までに、米軍はクラーク空軍基地とスービック海軍基地を放棄した。
164 ・内閣府の安保条約に関する世論調査(賛成がやに突出している)
日米安保体制は日本の平和と安全に役立っている 63%1991.2 68%1994.1 69%1997.2
・『朝日新聞』と『沖縄タイムス』などとの共同世論調査
日米安保条約が日本のためになっている 52%1992.4 42%1995.11
・『日本経済新聞』世論調査 日米安保体制の維持 支持60%1995.8 43%1995.10
日米安保体制を解消すべき 29%1995.8 40%1995.10
165 クリントン政権の関心は、朝鮮半島有事の際に、日本への米軍の緊急追加配備を可能にすることだった。
外務省の危惧 最悪の日米関係
米は対日貿易赤字を抱えていた。
1992、ダン・クエール米副大統領は「アジア(=日本)が出て行ってもらって結構と言えば、さっさと出て行く」と言った。当時、米国世論の日米安保支持率が低下していた。
166 クリントン政権は日本に対して経済制裁をちらつかせた。
スミソニアン航空宇宙博物館は、原爆被害の展示を、全米退役軍人協会の反対で中止し、博物館館長が引責辞任した。
外務省は米国からの少女暴行事件謝罪特使派遣の打診も断っている。
大田知事の代理署名拒否
167 外務省は少女事件直後、米側と一ヶ月間交渉を行い、地位協定第17条の運用改善で合意した。
殺人、婦女暴行、その他の特定の場合の重大事件に限って、起訴前の米兵の身柄引き渡しに、米国側が「好意的配慮」を払うことや、それ以外の犯罪でも、米国は日本の要請に「十分に考慮」することで合意した。10.25, 170(これは合意に値するのだろうか。)
9.28、大田昌秀知事が代理署名拒否を表明した。
1972、日本政府は沖縄復帰後、軍用地主と賃貸借契約を結びなおし、在沖米軍に基地を提供した。(日本の領土となったのか)
契約に応じない地主には、公用地暫定使用法にもとづく強制使用措置をとり、3~5年の使用期限を迎えるたびに、軍用地主が、立会い署名・捺印を拒否すれば、市町村長が、市町村長が拒否すれば、県知事が手続を代行してきたが、大田知事は、9月末、軍用地の賃貸借契約更新の代行手続を拒否する考えを表明した。
168 それは米軍による土地不法占拠を意味する。
沖縄返還以後は、経費全額負担を前提とした基地返還が条件となったので、外務省は基地返還に消極的になった。
防衛庁主導の沖縄特別行動委員会(SACO)設立
10月中旬、秋山昌廣・防衛局長は、ジョセフ・ナイ国防次官補に、地位協定の運用見直しではなく、沖縄の基地返還に関する委員会を立ち上げるように要請した。
170 1995.11、在沖米軍基地の整理・統合・縮小や地位協定を議題にすることにし、暫くして、沖縄特別行動委員会(SACO)が設立された。
問題を基地問題そのものではなく、沖縄に限定した。(なぜそう言えるのか、言葉足らずではないか。)
171 1996.4.15、SACOは中間報告で、普天間飛行場など11の在沖米軍基地の条件つき返還、米軍機や訓練の本土移転などで合意し、また、日米地位協定の運用改善でも合意した。(地位協定の運用改善について論理が一貫していない。)
日米安保の本質 同盟と米軍駐留が分離できない
日米安保条約は、同盟関係に関する条約と基地協定とで構成され、一体となっている。
一方、NATOの一員であることと、NATO軍基地、米軍基地を受け入れることは、一体ではない。
フランスは1966年、NATOの軍事機構から脱退したが、NATOの加盟国であり続けている。ただし、2009年、フランスはNATOの軍事機構に復帰した。
フィリピンは、基地協定1947と、米比相互防衛条約1951とを、別個に結んでいる。1992、フィリピンから全米軍が撤退した後でも、米の同盟国であり続けた。
日米安保条約は基地協定である。
172 1955、鳩山一郎内閣の重光葵外相は、在日米軍の将来的な全面撤退と、基地使用の制限を前提とした相互防衛条約への改変を米に申し入れた。
中曽根康弘は、日本が自衛軍を創設し、米軍が撤退し、米軍の有事駐留を唱えた。
1972、久保卓也防衛局長が、米軍の有事駐留と日米安保の政治同盟化を提唱した。(「日米安保条約を見直す」)
1972、外務省も安保再改定を提案した。
しかし同盟条約と基地協定の切り離しを、米側が拒否した。外務省はそのため日米安保の再検討論議を抑えた。(そんなに米はかたくなだったのか、冷戦やヴェトナム戦争のせいか。信じられない。)
カードとしての普天間返還
173 1996.4.17、橋本竜太郎首相は、ビル・クリントン大統領と「日米安全保障共同宣言」に署名し、日米協議を継続し、日米安保再定義を行った。それは、「日米防衛協力のための指針」1978を見直し、朝鮮有事の時の日本の役割を目指すものだった。普天間返還は、少女事件を沈静化し、この「日米安保再定義」=朝鮮半島有事での日本の役割の向上の為に必要だった。
2 沖縄から米国への改定要請 地位協定への自治体関与
大田県政の地位協定見直し要請
174 1996、大田昌秀は、基地のない沖縄を目指す、国際都市形成構想を橋本内閣に提示した。これは、これまでの沖縄振興計画を越えた、他の都道府県と同等の、総合計画を目指したものだった。またこれは国土庁の全国総合開発計画の一環と位置づけられた。
1995.11、大田県政1990-98は、日米地位協定の10項目の見直しを要請し、それがSACOで検討され、1996.11、SACOで、地位協定の運用改善に関する日米合意が公表された。
175 第二条 基地の提供 県は基地の整理縮小を要求した。SACOは、11施設、50平方キロメートルの返還を謳ったが、ほぼ全てが、県内移設だった。普天間飛行場や那覇軍港は、2018年まで返還されていない。
第三条 基地の管理権 沖縄県は、米空軍嘉手納基地と普天間飛行場の航空機騒音への対策、環境保護、米軍基地内への立入、米軍関係者による事故の原因究明と報告、米軍の訓練規制違反に対する罰則などを求めた。
1996.3.28、日米合同委員会で、嘉手納・普天間における航空機騒音規制措置が合意された。
SACO最終報告で、嘉手納基地の海軍駐機場の移転と遮音壁の設置、普天間飛行場に配置されていた12機のKC130給油機の岩国飛行場への移駐と、普天間飛行場での夜間飛行訓練の運用制限が公表された。
176 日米合同委員会の航空機騒音規制は、普天間飛行場の場合、「進入および出発経路を含む、飛行場の場周経路は、できる限り学校、病院を含む人口稠密地域を避けるように設定」することが合意された。
しかし、2004年、沖縄国際大学にヘリが墜落・炎上した。
環境保護
SACOの最終報告で、県道104号線越え実弾射撃訓練の廃止、キャンプ・ハンセンの不発弾除去手続の継続実施、砂防ダムの建設促進が決定された。
1996.12、日米合同委員会で、米軍基地内への立入許可の手続が定められた。
第五条 国内移動と出入 民間空港の使用禁止、基地外での行軍禁止を県が要請したが、基地外での行軍禁止のみ、SACOで受け入れられた。
第六条 航空交通 那覇空港の進入管制業務の日本への移管を県が要求したが却下された。
沖縄返還時、那覇空港の進入管制業務は、嘉手納基地所属の米空軍が、地位協定第六条に基づき実施してきた。2010年、那覇空港の進入管制業務が日本側に移管された後でも、米軍関係者が那覇ターミナル管制所の業務に携わっている。
177 第十三条 税金 県は米軍関係者の私有車両への自動車税課税額が五分の一に優遇されているのを日本人と同率にするように求めたが、受け入れられなかった。
第十七条 刑事裁判権 起訴前の被疑者引渡しに関して、重大事件に限って米側の好意によって便宜を図ることとされたが、実際は守られなかった。
第二十五条 日米合同委員会 県が求める、日米合同委員会の合意事項の公表努力が、SACOに盛り込まれたが、(秘密にするな!)関係自治体の意見を日米合同委員会が聴取すべきだという県の要求は通らなかった。
高まる不満 在沖米軍基地の環境汚染
178 1996.3、那覇防衛施設局(現那覇防衛局)が、1995.11月に返還された米海兵隊恩納通信所跡地から、カドミウム、水銀、ポリ塩化ビフェニール(PCB)、鉛、砒素などを検出したことを、沖縄県に報告した。沖縄県の検査の結果、それらの有害物質は、特別管理産業廃棄物の判定基準を越えていた。
那覇防衛施設局は、在沖米軍に、汚泥処理槽を米軍基地内で保管するように求めたが、米軍側は、地位協定第4条に基づき、返還された基地の原状回復義務が米国にないとして、それを拒否した。
防衛施設庁は、航空自衛隊恩納分屯地内に、304トンの汚泥を移送し、保管した。
2004、恩納村は、自衛隊基地の汚泥の保管と処理を受け入れた。
2008、北九州で汚泥処理施設が行われることになり、汚泥はそこに持っていかれた。
嘉手納弾薬庫地区、北谷(ちゃたん)町、キャンプ桑江北側など、返還された米軍基地から有害物質が発見された。
1997.2、外務省から沖縄県に、鳥島射爆撃場で、劣化ウラン弾を誤使用した事実が報告された。
米海兵隊が、1995.12~1996.1まで、三回、実施していた。
179 鳥島の近くに久米島があり、久米島島民の健康被害が懸念された。
米国から日本政府への連絡は、事件発生から1年以上たった後だった。また外務省から沖縄県への連絡も1ヶ月かかっていた。
県は、日米両政府に以下の要請をした。
・事件の徹底究明と再発防止
・鳥島射爆撃場周辺の環境調査の実施
・全ての劣化ウラン弾が回収され、安全が確認されるまで、同射爆撃場での演習の中止
・事件・事故発生時の速やかな連絡体制の整備
日本政府が環境調査を実施し、鳥島における劣化ウランの影響範囲がきわめて限られていると結論づけた。
日本政府は、その後も鳥島とその周辺で、定期的な環境調査を継続した。
在日米軍、大使館も、劣化ウラン弾の回収と陸上の環境調査を継続した。
稲嶺恵一知事の苦悩
180 1998.7、海兵隊員が女子高生をひき逃げし、女子高生が死亡した。米軍は、地位協定の運用改善の合意に反し、起訴前の容疑者の引渡しを拒否し、地位協定第17条第5項(c)に基づいて、起訴後に身柄を日本側に引き渡した。
2000.7、海兵隊員が女子中学生に、準強制猥褻事件を起こし、また空軍兵がひき逃げ事件を起こし、沖縄でのG8サミットに出席したクリントン大統領が謝罪した。
一方森喜朗首相は「政府がどうこういう話じゃない。これ以上、政府として罰することはできない」と卑屈な態度を示した。森は1995年の少女暴行事件が、県知事の代理署名拒否やSACOに発展したことを知らないようだった。
沖縄県議会、各市議会が、抗議決議・意見書を可決し、県民による抗議集会がいくつも開催された。182
181 稲嶺恵一知事(在任1998-2006)は、自民党からの支持を受け、1998.11の知事選で、現職の大田に勝利した。大田は普天間飛行場の県外移設を唱えていた。
稲嶺は軍民共用と15年使用期限を条件に、普天間の辺野古移設を受け入れていた。
小渕恵三首相は、名護市の要望(地位協定の運用改善)を閣議決定した。
稲嶺回顧談「県内世論の60%が(普天間飛行場の辺野古移設に)反対だったが、日本防衛の為にやむなしとの考えもあり、苦渋の選択をした。」
2000.4、小渕恵三が急死した。
稲嶺県政の地位協定改定案
182 2000.8、稲嶺知事は、独自の日米地位協定改定案を、日本政府・米国駐日大使館に提出した。
地位協定第二条 基地の提供と返還 日米合同委員会で、地方自治体からの要請を検討することを要望した。
基地の使用範囲、使用目的、使用条件の明記を求めた。ドイツの補足協定を倣い、基地ごとの規模、種類、条件、提供期間の明文化を要請した。
第三条 基地の管理権 ドイツ補足協定を参考に、自治体による基地内への立ち入り、米軍事件・事故に関する情報公開と通報手続の詳細化、米軍の訓練に対する、航空法など国内法の適用を求めた。
また環境条項を新設し、米軍の環境保全義務、米軍に対する国内環境法令の適用、米軍に環境汚染の原状回復義務を課すことを要請した。
183 第五条 国内移動と出入 米軍による民間空港や港の使用を緊急時以外は禁止し、移動や出入に米軍の訓練を含めないことを要望した。
第十七条 刑事裁判権 1995年の運用改善では不十分なので改定を求めた。被疑者が逃亡し、起訴前の証拠の収集が困難であることを訴えた。
米国の、(沖縄県による)改定案提案についての認識
米国防省の対応
184 米国防省「日本人が基地の削減を望むことは、同盟の意味を理解していない。沖縄県には反基地勢力があり、地位協定に反対している。日米地位協定は、(地方自治体の口を挟むことではなく、)中央政府間の議題である。(国防省の考え方は、「日米同盟」がアプリオリに善であるとし、日米関係に関する多様な考え方を踏みにじり、「反基地勢力」と、圧倒的多数に支持された民意を、一部の跳ね上がり集団と看做すような表現を用いて、その存在を貶め、また、地方自治体の意見を無視し、中央政府の指示に従えとする威圧的な上から目線である。…金井)
185 米国側は稲嶺の知事当選が、辺野古移設容認だと受け止めた。
2001.7、衆議院外務委員会は「日米地位協定の見直し」を決議し、全国知事会も、日米地位協定の見直しをその要望に盛り込んだ。
田中真紀子外相は(地位協定)運用の改善を言い、小泉純一郎首相も、運用の改善で対応し、もしそれが効果的でなければ、改定も考えると閣議決定した。
2004.4、刑事裁判についての運用改善が日米合同委員会で合意された。起訴前の米兵の日本による身柄確保が行われるようになっていった。しかし、それ以外の稲嶺提案は検討されなかった。
沖縄国際大学ヘリ墜落事故
2004.8、沖縄国際大学に米軍海兵隊のヘリが墜落したことは、1996の日米合同委員会の合意、「学校などの上空をできる限り避ける」という騒音規制措置が、努力義務に過ぎず、実効性がないことを明らかにした。
稲嶺は小泉首相、川口順子外相、石破防衛庁長官らに、地位協定の改定、事故原因の徹底究明、海兵隊など在沖米軍の削減と訓練の分散・移転、日米両国が県の捜査や汚染対策に協力すること、大学や周辺住民への補償などを要請した。
それに対して、小泉首相は「沖縄の負担軽減」と言って対応した。
2005.9、小泉首相とブッシュ米大統領は、防衛政策の見直しと「沖縄の負担軽減」とを抱き合わせでやることで合意した。
小泉は稲嶺の、辺野古の「軍民共用」「15年使用期限」案181を葬った。そして辺野古移設と引換えに、在沖海兵隊の司令部要員8000人とその家族9000人を、日本の負担で、グアムに移転することで米と合意した。しかし、
2006.5、稲嶺は、(小泉の)新たな移設案を拒否した。
環境補足協定
187 2000.9、日米両政府は「環境原則に関する共同発表」で、在日米軍による環境汚染に関する定期協議を開催すると謳ったが、2002.1、1981年に返還された北谷町のキャンプ瑞慶覧(ずけらん)メイモスカラ射撃場地区跡地の地中から、大量のタール状物質のドラム缶215本が見つかっても、米軍は、那覇防衛施設局の照会に回答しなかった。
処理費用は那覇防衛施設局が負担した。
188 2006.11、稲嶺は知事選に出馬せず、仲井眞弘多(ひろかず)が当選した。
2013.12、仲井眞は、安倍晋三と会談し、五年以内の普天間の運用停止、オスプレイ24機中、約半数の訓練を、県外に移転、地位協定の補足協定の締結などを条件に、辺野古埋め立てを承認した。
2014.10、安倍晋三内閣はオバマ政権と、日米地位協定を補完する環境補足協定(2015.9成立)の締結で合意した。
それは、情報共有、環境基準の発出と維持(意味不明)、環境事故や基地返還協定の後の調査のための基地立入手続、一方の要請による日米協議開始などを定めた。
189 ところが、この環境補足協定は、自治体による基地の環境調査を制限した。日本政府・自治体による環境調査が、二つの場合に制限されたからだ。
・米国から日本へ環境事故の報告があった場合
・返還の決まった基地に返還日の7ヶ月前から環境調査または文化財調査で立ち入る場合
7ヶ月よりも前からの調査には、日米政府の合意が必要になった。
2014、在日米軍は、年一回の環境省による「在日米軍施設・区域環境調査」を拒否するようになった。
これは1978年から行われていたもので、日本側が基地内の水質と大気を調査し、対策は米側が行うというものだ。
沖縄県では、環境省が県に排水調査を委託していた。
環境補足協定にこの調査に関する規定がないことを口実に、在日米軍が拒むようになったのだ。
軍属による犯罪
190 2016.4、沖縄県うるま市で、元米海兵隊員が、散歩中の20歳の女性を、強姦目的で後ろから棒で殴りつけ、車内に引きずり込み、暴行して殺した。
犯人は退役後、米空軍嘉手納基地でインターネット関連業務を請け負う仕事をしており、地位協定上の軍属にあたった。
軍属とは、地位協定第1条(b)で、「合衆国の国籍を有する文民で、日本国にある合衆国軍隊に雇用され、これに勤務し、またはこれに随伴するもの」でかつ、日本国に定住する者を除くと定義される。
地位協定第17条第3項(a)で、米兵だけでなく軍属も、公務中の犯罪の一次裁判権を米国に認めている。
第5項(c)は、米兵・軍属を、日本当局が起訴までに身柄を拘束できないとしている。
実際は、米軍は、1980年以降、第3項を軍属には適用しない運用を行ってきた。また少女事件以後、重大犯罪は起訴前に被疑者を日本側に引き渡す取り決めになっている。
2015.10、安倍内閣は、辺野古沿岸部埋め立ての本体工事に着手し、仲井眞前知事による辺野古埋め立て承認を取り消した翁長雄志県政に対して、国土交通相による撤回勧告と指示を経て、代執行を起こした。
191 2016.1、福岡高裁の和解勧告に、安倍内閣は消極的ながら応じ、3月から一時的に工事を中断した。
安倍内閣は、
・軍属の範囲の限定
・日本に定住する者の軍属からの除外
・日米地位協定上の地位の見直し
・日米地位協定上の地位を有するすべての者の教育・研修の強化
などについて米側と協議することで米国政府と合意した。
米軍属は7300人いて、日米両政府は、軍属の定義の曖昧さが、米軍の責任や管理体制を曖昧にし、軍属の規範を弱めていると考え、2017.1.16、軍属の定義や範囲を明確にするため、日米地位協定に付属する軍属補足協定を締結した。
192 ところがこの協定の第3条第1項は、軍属の具体的な範囲を明記せず、日米合同委員会で軍属の範囲を決めるとしている。
軍属とされる、米軍との雇用業者に雇用される者の認定基準も、日米合同委員会で決めることになった。
米側が、軍属の認定基準を日本政府へ報告し、認定基準を日米合同委員会で定期的に見直すことになった。
2017.1.16、日米合同委員会は、うるま市殺人事件の犯人は軍属ではないとした。
193 軍属に分類される者の八類型192
しかし新基準は既存の契約には適用されないと決めた。
2016年12月のオスプレイ墜落事故
2017.1.16、翁長雄志知事は、問題の解決には地位協定の運用改善だけでは不十分だとした。
2016.12.13、名護市安部(あぶ)の沖合に、MV‐22輸送機(オスプレイ)が墜落し、大破した。
2004、沖縄国際大学にヘリが墜落し、2005.4、日米合同委員会は、基地外での米軍機事故に関するガイドラインを作成し、
・基地外の米軍機事故現場の規制は、日米両政府が共同で行う。
・事故現場には、内周規制線と外周規制線を設け、内周規制線は日米共同で、外周規制線は日本側当局で現場管理と立入規制を行う。(悪者を中に入れないように、日本は見張りをしておれ。)
・米軍は全ての残骸、部分品、部品、残渣(ざんさ)物を管理する。(日本は手を出すな。)
と決めた。
194 2016年末のオスプレイ大破事故の際、第11管区海上保安本部は、米軍の拒否で内周規制線の内側に立ち入れなかった。日本からの共同捜査の申し入れに対して、米側は回答しなかった。内周規制線内への立ち入りは、日米相互の同意に基づくという規定があったためだ。
沖縄県警は刑事特別法第13条により、機体の差押えを求めたが、米軍は拒否した。
海上保安庁は、現場の撮影と潜水士による水中の実況見分を行い、2017.9、米国が提供した事故調査報告書から、航空危険行為処罰法に基づき、捜査を続行した。
翁長県政の地位協定改定要求 強く求めた自治体関与
195 2017.9.11、翁長知事は、自治体の発言権を強めた「日米地位協定の見直しに関する要望書」を、外務・防衛両省と駐日米大使館に提出した。
第一条 米軍構成員、軍属、家族の定義
・軍属の情報やその範囲の定期的な見直しの結果を、地方自治体に情報提供すること。
・軍属でない米軍基地内で働く者の事件・事故後に、基地内に逃げ込んだ場合の逮捕や身柄の引渡し。
第二条 基地の提供と返還 辺野古移設を強行せず、自治体との協議やその意思を尊重すること。
第三条 基地の管理権 環境補足協定が成立しても、環境調査や文化財発掘調査の為に基地内に立ち入りができず、米軍による汚染事故の報告も限定的で遅い。188, 189
・環境条項を新設し、返還日の三年以上前から基地への立ち入り調査を可能にすること。
・米軍基地に対して、ドイツ並みの国内環境法令を適用すること。
・環境調査や文化財発掘調査のための基地立入が円滑に行えるよう、環境補足協定で、立入手続を明確化すること。
196 第四条 原状回復・補償 返還が予定されている基地の環境汚染が確認された場合、日米両政府が自治体に情報提供や原状回復を行うこと。
第十七条 刑事裁判権 基地外での米軍機事故の際には、日本当局が証拠物件を捜索、差押えまたは検証できることや、事故現場の統制を日本側の主導とすること。
安倍内閣は翁長県政の日米地位協定改定案を黙殺した。
2018.7.28、全国知事会は、日米地位協定の抜本的改定を含む「米軍基地負担に関する提言」を採択した。これは翁長知事の要望を受けて、二年間の調査を行った結果を踏まえたものだ。その中には、米軍基地への航空法や環境法令などの適用が盛り込まれていた。
2018.8.8、翁長知事が在職中のまま急逝した。
2018.9.30、二人の候補者が地位協定の改定を公約に掲げたが、辺野古移設阻止を主張する玉城デニーが当選した。
終章 日米地位協定の行方 改定の条件とは
米軍はなぜ日米合意を守らないのか
199
日米地位協定が原因でない対米問題もある。
米軍は二度に渡り普天間飛行場の進入・出発経路に関する合意1996, 2007を破った。2004, 2017
200 2017.12、宜野湾市の緑ヶ丘保育園と普天間第二小学校に、ヘリコプターが部品を落下させた。前者に関しては、今2019.3でも、米軍は事実すら認めていない。
2015.1、米国務省は「地位協定に関する報告書」を公表した。それによると、
地位協定の問題を扱う米国の国務省、国防省、統合参謀本部の部署は、人員が少なく、専門家だが、二、三年で配置換えされ、引継ぎができていない。(それは口実にすぎないのではないか)
国務省は地位協定の経験のない人を大使館員として派遣した。
2017.1、トランプが大統領になると、各省の政治任用の政府高官の任命を遅らせ、国務省の職務を無視した大統領令を発令した。
201 トランプは国務省の予算を国防省に回している。
2017、トランプは国務省に、同盟国への武器の販売をやらせた。
国務省での地位協定担当は、政軍局である。担当者は、ティナ・カイダナウ国務次官補代理である。
国防省での地位協定担当は、政策担当国防次官である。
トランプは自らの就任1年後の2018.1に、ジョン・ルードを政策担当国防次官を任命した。
感想 私はこれだけが約束を守らない理由とは思わない。もっと根の深いものがあると思う。
「NATO並み」の壁と実態
202 日本政府は1960年の安保改定で、日米地位協定がNATO並みになったと主張してきたが、2018年には、その立場を変更し、NATOは相互防衛条約だが、日本はそうでないから、両者が違うのは当然だとする軌道修正をした。
最近では、フィリピンや韓国の地位協定と比べても、日本の地位協定は不利だという議論もある。
NATO諸国と米国とのの互恵性は、対等性を意味し、駐留米軍は、駐留国の法律を守らなければならない。
203 NATO諸国が、米国並みの民主主義と人権尊重の国内法を持っていると認められていることが、その理由となっている。
国際人権NGOのアムネスティ・インターナショナルは、日本政府に、国内人権機関の設置、死刑制度の廃止、移民・難民の権利保護、ヘイトスピーチ=人種差別などへの十分な対応を求め、それに対して日本政府が対応しないことを批判してきた。また国連人権規約委員会は、日本の代理監獄制度や取調べの際の強制自白を批判している。
日本が欧米並みの民主主義的制度や法律の整備をしなければ、独伊のように、米軍訓練を規制し、基地周辺の環境保護を求めることはできない。
地位協定第17条 刑事裁判権 これはNATO並みであるが、NATO並みに不平等である。
204 地位協定第17条 基地内外に関わらず、事故・犯罪の加害者が米兵・軍属で、
・米国とその財産に対する犯罪
・被害者が米兵・軍属の場合
・軍務遂行中に行われた犯罪
などの場合、米国に一次裁判権を認めているが、それ以外の場合は、受入国の一次裁判権を認めている。
だが米軍が「加害者は軍務遂行中だった」と主張すれば、受入国は認めざるを得ない。
また相手国(米国)からの要請に「好意的配慮」を示せば、裁判権を相手国に譲ることができるとされるが、米国はこれに基づいて、裁判権放棄の圧力を相手国にかけてきた。
個別協定で一次裁判権を一括放棄している国もある。オランダ、ギリシャ、かつての西ドイツだ。
西ドイツは統一後、重大犯罪の場合、ドイツ側が裁判権を放棄しなくても良いように改定した。
米軍の裁判管轄権重視 国内世論対策
205 米国世論は、罪を犯した米国人の人権が、相手国で守られないのではないかという意識が強い。
少女暴行事件の犯人は三人とも黒人だったが、家族が来日して「人種差別のデッチ上げだ」、「陪審員が不当な判断をする」と主張した。
米兵三人は、那覇地裁で裁かれ、実刑判決を受け、日本で服役した。これは、モンデール駐日大使の働きかけが大きい。彼は犯人を「アニマル」と呼び、日本政府に謝罪した。
相手国の不公正な司法制度によって米国民が裁かれた場合、米国政府は、米国民の支持を得て海外に軍を展開できなくなることを恐れている。(「地位協定に関する報告書」2015.1)
米国は、戦時を除いて、建国以来第二次大戦まで、同盟国を持たなかった。
米国政府は、国内世論の孤立主義を恐れて、裁判管轄権を米国側に有利にしている。
在日米軍基地への国内法適用
206 稲嶺恵一知事と翁長雄志知事の地位協定改定案では、ドイツの補足協定が引用され、米軍基地への日本国内法の適用を主張している。
西ドイツはNATO加盟時から自国の軍隊の主力をNATOの管理下に置き、命令権や司令権の一部を委譲してきた。(これは大胆だ。)
ドイツ統一により、NATO軍の占領軍としての性質が失われ、補足協定を改定し、駐留軍に対する国内法の適用範囲を拡大し、訓練や環境保護に関する規制を強めた。
日本の法律では、在日米軍の活動をカバーできないかもしれない。(意味不明)
207 イタリアでは、ドイツ以上に国内法が、駐留軍に適用されている。
米伊二国間協定では、ほとんどの点で、イタリアの主権が優先されている。
米伊両国が非常時と認めれば、米軍の権利を広く認めるNATO軍地位協定が適用される。
日本では、米軍は常に非常事態を前提とし、その前提で訓練が日本上空や領海でも実施されているため、騒音や事故が多い。
安倍政権は尖閣諸島周辺の接続水域への中国船侵入を重大視し、北朝鮮の核・ミサイル実験に対してJアラートや避難訓練を実施し、これらの脅威を「国難」と呼び、平時を有事であるかのように喧伝している。それでは平時を前提とした地位協定の運用はできないだろう。
日米地位協定改定交渉の条件
208 1990年代以降、日本政府は地位協定の改定交渉を避け、運用改善で国内世論の批判を緩和してきた。
209 国務省の「地位協定に関する報告書」200によれば、米国は、相手国が米軍を必要としていれば、その交渉で優位に立つことができるとしている。(それは最も至極のことだ。)
また、駐留米軍が受入国の主権を侵害し、相手国の国民が米軍は不要だと考えれば、交渉で優位に立てないと分析している。(これも当然至極)
1995.11、少女事件直後の『朝日新聞』の世論調査によれば、地位協定の見直しを求める回答が80%、日米安保条約の維持に賛成が、全国で64%、沖縄で41%、どちらも反対を上回った。163, 164(数字が一致しない)
これでは日本の優位に日米交渉を進められない。
在日米軍の特権を記した合意議事録を撤廃せよ
地位協定の改定が難しいとすれば、1960年の地位協定合意議事録を撤廃するというのはどうか。それは1960年以前の米軍の特権を認める地位協定の解釈を撤廃することだ。
第三条 基地管理権と基地外での米軍の行動、第五条 米軍の移動、第十七条 刑事裁判権などである。
第三条 地位協定の条文では、米軍は、基地外では日本政府と協議し、日本の国内法に従うとしているが、合意議事録では、米軍の判断で米軍機の離着陸や操作を行うことができるとし、その結果、民用地で緊急離着陸を行うことができる。
211 第十七条 地位協定では、基地外での米軍事故や犯罪の際、米軍は日本当局との取り決めに従って無断で行動しないとあるが、合意議事録では「所在地のいかんを問わず、合衆国軍隊の財産について、日本当局は、捜査、差押え、又は検証を行う権利を行使しない」とある。
合意議事録の存在は2000年代に入るまで非公表とされてきた。(どういう経緯で公表されたのか。おそらく『琉球新報』による、外務省作成「日米地位協定の考え方」の暴露2004だろう。213)
そのため、合意議事録に従って在日米軍の運用について話し合う日米合同委員会の合意事項もほとんどが非公表だった。
合意議事録は密約であり、正当性がない。今2019.3では外務省のHPで公開されているが、1960年の締結時には、秘匿され、国会で審議されていないから、政府間合意とは呼べない。
212 合意議事録の撤廃交渉は、地位協定の改定交渉より楽だろう。
あとがき
213 1996、本間浩が『在日米軍地位協定』(日本評論社)を刊行した。
2004、『琉球新報』が、外務省が1973年に作成し、1983年に増補した内部文書「日米地位協定の考え方」を入手・公開したことから、地位協定の運用の実態が明らかになった。(恐らくこれで地位協定の合意議事録の存在が明らかになったのだろう。)
前泊博盛編著『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(創元社、2013)
以上の通り、ジャーナリズム関係者が労作を発表した。
214 2010、民主党政権が、日米密約に関する外交文書の調査結果を公表した。
在日米軍は、合意議事録を根拠にして、「移動」の名目で日本の領空や領海を自由に訓練でき、民用地でも、緊急の離発着や寄港ができ、基地外でも、事故や犯罪の現場を封鎖し、証拠や被疑者を確保できる。いずれも地位協定の条文には書かれていない。
216 沖縄県公文書館は、全米の国立公文書館、大統領図書館、大学図書館が所蔵する米政府史料を集めている。
国際政治学者の我部政明、ジャーナリストの屋良朝博、『沖縄タイムス』などにお世話になった。
山本章子『米国と日米安保条約改定――沖縄・基地・同盟』(吉田書店、2017)を上梓した。
夫は野添文彬である。
2019.3
以下省略
・参考文献
・沖縄県による日米地位協定見直し要請、大田県政案、稲嶺県政案、翁長県政案
・日米安全保障条約(新)
・日米地位協定
・年表
2019年8月9日(金)