『植民地下の暮らしの記憶 農家に生まれ育った崔命蘭(チェミョンラン)さんの半生』聞き書き 永津悦子 三一書房 2019
感想
満17歳で結婚する1944年ころまでの生活を中心として語られている。当時の朝鮮文化とその下での女性の生き方が分かる。彼女の家は、両班ほどではないとしても、比較的裕福な家庭だったと思われる。少なくとも最下層ではなかった。健康にも恵まれ、学校での成績も良く、日本語も堪能だったようだ。
朝鮮にはその風土に合った古くからの文化があった。それは畑作重視に見られる。朝鮮が乾燥気候だったからだ。
結婚に関わる様々な儀式を通して、親戚付き合いが重視された。同じ意味で、法事も重要な行事だった。家族や親戚、地域社会との人間関係を重視することは、社会保障のない時代に生き残るために助け合うための人間の知恵だったのかもしれない。
しかし、女性の権利を重視しようとする現代の価値観からすれば、戦前の朝鮮における女性の社会的地位は極めて低かった。食事の慣習にそれが端的に現れている。男性は子供でも部屋でお膳を使って食べたが、女性は、土間に筵を敷いて藁製の座布団に座り、かまど脇の台に器を載せて食べたという。
また朝鮮は格差社会だった。ある一つの町に某両班とその使用人しか住んでいなかったという。「弱い者」から先に徴用工に引っ張られたというのを読んだことがある*が、うなづけることだ。
*『調査・朝鮮人強制労働②財閥・鉱山編』竹内康人
朝鮮での就学率が低かったとの指摘があるが、それは、従来から朝鮮にあった学堂が禁止され、日本の学制の押し付けに対する反感もあったからではないか。それに義務制でもなかったからなおさらだ。
はじめに
004 崔命蘭さんは川崎市の在日高齢者交流クラブ「トラヂの会」(トラヂ도라지は桔梗の意味)の会員である。
006 日本(朝鮮総督府)は、朝鮮人に対して学校制度で差別した。義務教育でないこと、就学期間を短くしたことである。また教育用語を日本語にし、就学率は低かった。1942年の時点での普通学校(日本の小学校に相当)に於ける非就学率は、女子が66%、男子が34%だった。
第一章 渡日まで
015 崔さんは1927年3月29日に生まれた。
019 姉の夫の兄二人は、三一独立運動に参加した。そのとき殴られて早くに亡くなったが、南山*にある石碑に名前が刻まれている。
*南山は城内里の南方にある小高い山である。城内里は、崔さんが生まれた慶尚南道昌寧郡霊山面城内里である。015
019 創氏改名は1939年に公布された。
020 1934年に崔が学校に入学したとき、日本人用の学校は「小学校」といったが、朝鮮人が通う学校は「普通学校」といった。1938年、5年生の時に学制が変わり、「尋常小学校」と呼ばれるようになった。
授業料をとられた。月額30銭(2~4年生)から50銭(1年生と5、6年生)だった。
022 1年生の時の朝鮮語の授業は、週1回だけだった。朝鮮語を生活で使うことを3年生から禁止された。
023 そんなものかなと思っていた。
「私どもは大日本帝国の臣民であります」と毎朝唱えた。
どこかが陥落すると、昼は日の丸の旗で「旗行列」、夜は「提灯行列」を、先生に言われて行った。
024 「見よ東海の空あけて…」などと歌いながら歩いて回った。今はそれを右翼が街宣車で流している。
025 「さっさと逃げるはロシア人、死んでも尽くすは日本人」という歌も、お手玉をしながら歌った。
026 ミシンが一台あり、本物の釜があれば、その家は生活力があるんだと言われた。
029 私の家では満17歳になった私を嫁に行かせないと、挺身隊に取られてしまう、大変だという話でもちきりだった。
第二章 自小作農家の暮らし
034 私の家には一時期、一年契約で通いで、20歳近くのモスム(머슴作男)に、水汲みや農作業をしてもらったことがあった。水田は家で所有しているものの他に借りたものもあった。
035 女たちは三食のご飯やおやつを作って、頭にのせて田んぼに運んだ。日照りで田植えができないときはそばや粟を植えた。
036 夕顔の実は食べるだけでなく、パガヂ(바가지ひさご)にもなった。
037 藁ぶき屋根は、毎年長兄が作り直した。
041 孫を含めて男たちは、クンバン(家の中心にある一番広い部屋)で、お膳を使って食べたが、女たちは、台所になっている土間に筵を敷き、藁製の座布団に座って、かまど脇の台の上に器を載せて食べた。水などを男から催促されると、隣接する小さな窓から渡したが、父には部屋へ持って行って渡した。
044 「女がスズメを食べると瀬戸物の器を割る」からと、女にはスズメをくれなかった。
夏の暑いときは、庭のピョンサン(평상平床038)の上で寝たり、男たちは市場へ行って寝たりした。
045 風呂がなかったので、夏は川の水で汗を流し、女たちは人に見られない所で身体を洗った。冬はしなかった。私が嫁に行くまで、近所に共同風呂がなかった。
046 小麦の籾は、専門の籾とり屋ができるまでは、水を入れて、乾かし、食べるときは、パンシル(敷地入口(大門テムン)近くの物置038)で、踏み臼に水を入れて皮をむいた。
047 霊山面で一番の金持ちの辛さんという両班は、農地をたくさん所有し、農家に貸していた。収穫時には小作料の米を積んだ、辛さんの家に運ぶ牛車が私の家の前をたくさん通った。辛さんが住む校洞(キョドン)という町には、辛さんの親族と雇人しか住んでいなかった。(当時の小作料は5、6割が普通だった。)
048 昔は「白米を食べたかったら日本に行って、お金を儲けたかったら満州に行きなさい」と言われていた。
おかずは、キムチ、具の入った味噌汁があればいい方だった。
麦の収穫前で柿の花が落ちるときは、お客さんに食べさせるものがないので、嫁入りした娘は「お母さん、いつ来てもいいけれど、この時期に来ちゃいけない」と言うと聞いたことがあった。(この時期を春窮期と総督府や新聞は記している。)
049 麦がない貧しい家ではサツマイモを朝も晩も主食にした。
051 夕顔は、パガヂにすることを優先し、パガヂにできない夕顔は干ぴょうにした。魚はお金がかかるから普段は買わなかった。
052 お父さん以外は、魚の頭と尻尾を食べるくらいだった。
055 アジュカリ(トウゴマ)から油を搾り、皿型の灯りに利用したり、アジュカリの葉にご飯を包んで食べたりした。今は海苔に包むようになったが。
1月15日の夜は「タルシンダ」という行事を行った。村の小高い場所に松を積み上げて燃やした。
1月13日は法事の日で、法事は13日の夜12時過ぎから行われる。法事に来れなかった家に、御馳走を届けた。15日の小正月の御馳走を朝早く食べるためには、14日の夜準備をしなければならない。13日から15日までは大変だった。
058 桔梗の根は干して法事に使った。
059 硬い渋柿はお湯と一緒に樽に入れておくと、朝になると甘くなった。当時は「初めてなった柿の実を女が先に食べたら、実がなるのが一年おきになる」と言われた。
060 チャメ(マクワウリ)が盗まれないように、一日中見張るための小屋を建てた。夏は蚊帳帳を吊ってお父さんが見張りをした。私も夏休みの昼には勉強道具を持って見張りをした。チャメは大事な換金作物だった。三歳年上の同級生に「あんなにあるのに一つもくれない」と言われた。
061 カマスや米は供出対象だった。
夏は瀬戸物の、冬は真鍮の小便用の「ヨガン」を部屋に置いた。
062 野菜には人糞をやらなかった。麦、米には化学肥料もまいた。
063 牛の餌を作るとき、押切で切った藁を栄養のある大麦や米のとぎ汁で煮たら、政府から調べに来た人に「煮ないで食べさせなさい」と牛用の大きな釜をひっくり返された。当時、日本人は警察署長や学校の校長になっていて、役所で働いていた一般の職員は、ほとんどが朝鮮人だった。直接指導に来て釜をひっくり返したのも朝鮮人だった。
064 豚の血はスンデ(腸詰め)にした。
065 秋になったら、畑から綿の木を抜いて収穫し、干して綿の実が開くたびに綿を集め、全部開き終わったら、家に運んで焚きつけにした。
066 法事(チェサ)には親戚がみんな来た。盆や正月には廊下に法事料理などのお供え物を置き、庭に筵を敷いた。4、5人が縁側に、他の人は筵の上に立ち、みんなでお辞儀をした。明け方の薄暗いときから、親戚の家だけでなく、近所の年寄りのいる家などを訪問し始め、二軒目で朝ご飯を食べた。午前中の11時ころまでに三、四軒回った。法事は長男の家がやるしきたりだった。長男が先祖を祭る行事を行うため、長男の家が傾かないように、きょうだいが助けた。
妻に男の子が産まれない場合は、妾を置いても文句を言えなかった。
第三章 自小作農家の女性
070 長兄の嫁が家事をするので、母は家事をほとんどしなかった。
071 長兄の嫁は朝の4時に起き、夜の7時45分ごろに寝た。
072 朝、女が用もなく他の家を訪れるものではないというのが常識だった。今でも朝方に女性から電話がくるのは好まない。
073 長兄の嫁は朝早く起き、朝食と昼食をつくった。主食は大麦だった。丸い大麦は平たい大麦より煮えやすいが、二回煮なければならなかった。
朝食、昼食とも田畑で食べた。暑いときは昼食は家で食べた。田畑の仕事のない冬は、家で食べた。
075 チマは人絹を買って作った。
076 夏の夜は暑いので、大麻からできるサンビの布をかぶって庭で寝た。カラムシからできるモシは最高の品で、金持ちしか着られなかった。
ミシンのある家は少なかった。持っている家に行って使わせてもらった。冬物は普通手縫いで作るが、冬物でもチマはミシンで縫った。また、ヌビ(刺し子縫い)チョゴリ(上着)もミシンで縫った。
078 「蛇の目ミシン」という名前を聞いたことがある。
服は10日間着ていたので、木綿の服は一着を三回洗った。川で洗った後、家でソーダを入れて煮て、また川でゆすいだ。取り込みまでやる場合は、朝から一日がかりだった。
冬は汗を流さないので、襟は汚れるが、一冬洗わずに過ごした。冬物は中に綿が入っていたので、ほどいて洗濯した。
079 絹物でも下着でも、多少糊付けした。糊は米や小麦から作られた。色物には小麦糊を使った。
糊付けした布を磨いた石の上で棒で叩いた。チョゴリにはアイロンをかけた。
080 「女の人生は三つだけ~生まれた時・結婚する時・死ぬとき~」と言われた。
081 一般的に女性は早く結婚して、挺身隊に動員されるのを防ごうとした。また、戦争中だったので、徴兵前に結婚して子孫を残そうとした。(1944年4月16日から7月31日まで、朝鮮各地の兵事区で徴兵検査が行われた。京城日報)
結婚が決まると、親は娘を外に出さなかった。
「食べる物は何でも食べていい。寝るのはどこでも寝てはだめだ」と言われた。恋愛結婚は村に一軒あるかないかで、恋愛は、親は結婚式に顔を出せないくらい恥ずかしいことだった。従姉の娘は恋愛結婚したが、従姉は外へ出られず、よその結婚式にも出られなかった。
私の結婚を取り持ったのは父の従姉で、相手を見に行ったのはそれぞれの母親だった。
082 結納は、男の家から結納金や、結婚式の時に着る服が二、三着、かんざし、指輪、敷布団や掛布団のカバー、餅などが送られてくる。女の家からは、夫やその親、兄弟が着る服、枕、お膳かけ等を持って行く。それを예단イェダン礼緞という。するとさらに男の家から「後金」がくる。
お膳かけは、真ん中に牡丹の花、四隅に四君子(蘭、竹、菊、梅)の刺繍をしたものだ。贈り物の着物は披露宴の日に持って行く。お客さんには作った物を入れた箪笥の中を見せる。
083 枕やお膳かけは自分たち夫婦が使う物なので嫁入りしたときに持って行く。
結婚のやり方は様々である。その日のうちに女の家で式をやって男の家で披露宴をする家もあれば、娘の方でやって一年たってから嫁に行くのもある。お金のある家は、一年ぐらい、あるいは三年ぐらい、実家に娘を置いておき、その間夫が行ったり来たりする。
私は家の庭で結婚式をやった。式の前に髪をあげ、結納でもらったチマチョゴリに着替え、かんざしを挿し、指輪をはめた。新郎新婦の前にお祝いの品が並べられていた。その中には生きた雄鶏とめんどりがいた。
084 式が終わってから夫を家に残して、私が夫の家に行って披露宴をした。욱각시ウッカクシという身の回りの世話をする女性の付き添いが二人私について、そのほかに상각サンガクという、本来は父がついて行くのだが、父が厄年だったので、私の従兄がついて、夫の家に普通のバスで行った。
夫の家ではお膳で食事をいただき、夫の義父がいなかったので、義母から紹介され、親戚全員に私がお辞儀をし、挨拶を交わした。夜11時過ぎまで座っていて大変疲れた。バスがない時間だったので、馬車で三里(12キロ)離れた実家に4人で帰った。着いたのは午前2、3時ごろだった。
085 クンバンに入って、私が着ている服の紐を夫がほどいて脱がすとか、いろいろと儀式があった。私は事前に何も知らなかった。
翌朝、夫は姉たちから「大切な娘に何をした、処女を奪っただろう、白状しろ」と言われ、親戚の女たちが赤ん坊の負ぶい紐で夫の片足を縛って吊り上げ、足の裏を板みたいなもので叩いて遊んだ。責められた夫が許しを求めて、豚をつぶすお金を出したので、結婚式用に家で飼っていた豚をつぶして茹でてみんなで食べて楽しく過ごした。
086 三日ぐらい夫婦でクンバンで過ごした後、夫は実家に帰った。
また、사돈을 청는다サドヌル・チョンヌンダといい、結婚式や披露宴以外に、結婚後の別の日に、相手の父母や叔父などの親戚を招待し合う儀式がある。終戦の年だったので私はこの招待し合う儀式はできなかった。
付録 その他 資料・写真
101 四、川崎市ふれあい館「ウリマダン」で作った作品から
おわりに
103 昔から日照りや洪水などの自然災害に備えて、朝鮮半島では多種類の雑穀を作り、食料自給を図ってきた。政府はその朝鮮の農民に米作を強要し、日照りの時に食料不足に陥らせた。また、日本に米を送るために作ったカマスは、日本の農機具会社が広めたようだ。
朝鮮では日照りの時は棚田でそばや粟を植えたと崔命蘭さんは言うが、私の実家の地域、神奈川県葉山町では、水源がたくさんあり、1000万年以上前にできた硬くて水を通さない葉山層群が分布し、粘土質の土が地表を覆い、それが雨水を溜め、地下水となってあちこちに出ている。政府は雨水を溜めこまない朝鮮半島の土質を知らなかったのか。
105 牛の餌として여물죽(ヨムルジュ煮た飼い葉)、餌づくりの道具として여물솥(ヨムルソ飼い葉を煮る釜)という単語がある。それは朝鮮の伝統的な餌の作り方があったことを示す。政府の役人が、餌を煮ていた釜をひっくり返した根拠は何か。
2020.1.31
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