2023年3月26日日曜日

『時代の証言者 伊藤千代子』藤田廣登 学習の友社 2020

『時代の証言者 伊藤千代子』藤田廣登 学習の友社 2020

 

 

感想・要旨 2023112()

 

049 仙台の尚絅女学校校長は、バプテスト派039の米人教師ミス・ジェッシーだったが、『根づいた花――メリー・D・ジェッシーと尚絅女学院』ロバータ・L・ステイブンス、河内(こうち)愛子訳、2003によれば、「1920年代に始まり1930年代に至るまで、日本では「近代的な」思想が若者の間に席巻し、尚絅の女子学生も共産主義思想や社会主義思想を満載した新聞をむさぼるように読み、キャンパスのいたるところで活発な討論が行われた」というが、本当なのだろうか。

 

049 また19341121日、宮城県下で活躍していた高橋とみ子は宮城県中新田警察署で虐殺されたが、この高橋も尚絅女学校の出身であるように、尚絅女学校の社会科学研究会の活動は盛んであった。

 

048 「この時期(伊藤千代子の尚絅女学校時代1924年)には、ロシア革命1917、米よこせ運動1932、小作争議1920—1926, 1929--1935が起こり、千代子の代用教員時代(1923年大正12—19243月)の信州では自由主義教育への攻撃*が始まっていた。」

 

038 1924年大正13年、松本女子師範付属小学校の川井清一郎訓導は、修身の授業で国定教科書を使わないとして県知事・梅谷光貞ににらまれ、文部省から視学委員(東京高等師範学校教授や広島高等師範学校教授)が派遣され、追及・休職処分とされ、退職に追い込まれた。(一部Wikiで補足)

 

伊藤千代子の小学校時代の教師・上條茂はこれに抗議して一時は教師をやめたというから、自由主義教育を目指していた教師もいたということだ。(詳細はWikiを参照)

 

047 平林たい子は高女卒業後すぐに堺利彦や(近藤)真柄*を頼って東京にでかけ、労働者になって社会運動(労働運動)に参加し、メーデーでビラまきをして検束され、関東大震災1923では予防検束され市谷刑務所に拘留されて東京から追い出された。次に平林は中国大連に行き、内乱予備罪で検挙されたという。

 そして伊藤千代子も仙台の尚絅女学校時代からすでに自らの反骨の厳しい将来を予見し、つぎのような言葉を級友・葛城よ志子への手紙の中で述べている。つまり、

 

「冷たい身震いが背をつたいます」047

 

*近藤真柄19031983は婦人運動家。堺利彦の長女。1938年、アナキストの近藤憲二と結婚。1921年大正10年、女性による社会主義団体である赤瀾会結成に関与し、1922年大正11年、共産党に入党。

 

083 当時の学生の半分が運動に関わっていたと伊藤千代子は言う。

 

077 東京女子大の学長・安井てつの生き様は、戦前の前橋の共愛学園の反骨精神とよく似ている。心の底では記紀信仰の強制を拒否していた。安井てつは特高に尾行されたとのこと。

076 キリスト者全てが学生運動に同情的ではなく、東京女子大の宗教主任渡辺善太は退学処分を主張した。

 

085 気になる点

 

・伊藤千代子は自ら進んで学費を山憲に寄付したのではなかった。夫から強要されたみたいだ。泣いたというから。

・伊藤千代子の東京女子大4年生頃とされる写真079に写る風貌で一点に思い詰めている様子が気になる。そんなにまでして。無理をする時代だったのか。なぜそこまで無理をするのか。

 

感想 2023116()  『地しばりの花』の中の東栄蔵の講演を読んで

 

水野茂夫1899-1972、浅野晃1901-1990など東大出は変わり身が早い。獄中生活が嫌だったのだろう。伊藤律(一高1913-1989)もそうだった。

一方伊藤千代子1905-1929は田舎者でうぶで純真で一途。「あの人達」の天皇共産党という方針変更についていけない。

水野・浅野・伊藤など全てが若い学生上がりである。(1928年時点で水野は29、浅野は27、伊藤は23

彼らと新左翼とは共通点があるのではないか。元全共闘の人が東京都知事になったり、右翼に転向したり、政治から離れてしまったりと、かつての自らの熱烈な主張をかなぐり捨て、変わり身が早い。私などついていけない。戦後水野はフジサンケイグループのトップになり、浅野は大学教授になった。(ただし相違点は闘争内容。戦後は暴力的。戦前は何をやっていたのか。結社、国会への立候補、新聞『赤旗』発行、コミンテルンとの連絡139、労働者の労働条件の改善137などか。)

 

問題の多い金銭感覚 他人(伊藤千代子)の卒業資金まで選挙資金に組み込まないとやれないようなやり方自体が無理だったのではないか。そういう非常識な活動は長続きしないのでは。信州の講演者・東栄蔵が、山本懸三、小林多喜二、伊藤千代子がこの資金で結びついたなどと美化するのはいかがなものか。(『地しばりの花』010

 

 

感想 伊藤千代子が東京女子大を卒業できなかった理由

 

著者は当初、郷里から送られてきた伊藤千代子の「卒業資金」を、浅野晃が山懸の選挙運動資金として取り上げたことを卒業できない理由としていたが、その後それが間違いだという証拠が出てきて訂正している。162つまり伊藤千代子はその後も手紙で郷里に3月分の学費送金を依頼し、卒業試験についても触れ、学業に前向きな姿勢がうかがえる。165

 

卒業試験3/2—9, 167315日の逮捕以前に終わっていて、試験を受けようと思えば時間的には受けられたから、315日の逮捕は退学の理由にならない。

 

伊藤千代子は浅野晃との結婚以来党関係の仕事で忙しく、229日には共産党に入党し、また工場勤務もしていたようで、授業を欠席していたから、試験勉強は容易でなかっただろうと推測される。

 

しかし一番の決定的な退学理由は、本人から大学宛に「病気のために」受講・受験できない旨の申し出165があり、大学側が保証人と相談して退学処分としたことのようだ。

 

 

感想 2023120() 浅野晃に転向の汚名が着せられているが、優秀な人材だったようだ。Wikiでは「赤旗の編集長」と紹介しているが、本書では共産党中央事務局長170としていて、この方がずっと浅野の共産党内の地位の高さを物語る。

また浅野はマルクスの『哲学の貧困』を翻訳156して弘文堂から出版した(19264月)という。その語学力に感服する。そして伊藤千代子はその浅野訳の『婦人論』を読んだらしく、自らのサイン155をしている同書が発見されたという。155

 

 


 

要旨・メモ

 

001 序文 秋元波留夫は東京府立松沢病院の医師・野村章恒の1937年の論文を藤田廣登に提供した。その論文は伊藤千代子を扱っていた。秋元波留夫は元都立松沢病院院長、日本精神衛生会会長、きょうされん顧問、精神障害者の共同作業所運動に参加。

 

005 序章 アララギ歌人の土屋文明は1935年のやばい時代でも、共産党員だった伊藤千代子の死を悼み、一連の6首の歌を昭和1011月号の『アララギ』に「某日某学園(東京女子大)にて」と題して発表したが、その最後の歌は「高き世をただめざす少女等ここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき」とし、伊藤千代子の名を堂々と明記した。

006 土屋文明は群馬県群馬郡(群馬町0091)上郊(かみさと)村の出身で、奥さん(塚越テル子)も群馬県群馬町上郊*2の出身であった。土屋文明は戦中・戦後(19455月から6年半)東吾妻町(原町)の川戸に疎開していた。

 

1 グーグルマップでは上郊村は箕郷町生原とある。

2ネット上の「高崎新聞」では上郊ではなく保渡田とある。

 

007 土屋文明が教頭として赴任した諏訪高女に伊藤千代子と平林たい子が在学していた。その時代は武者小路実篤や志賀直哉らの自然主義文学の白樺派の時代で、小学校でも人道主義・理想主義の白樺派教育が行われていた。諏訪高女時代の平林たい子は自由奔放でしばしば校則を破り、退学処分になるところだった。

008 葛城誉子(しげこ)は1998年の伊藤千代子の命日に、フィクション形式の『イエローローズ――伊藤千代子の青春』を著したが、その中に伊藤千代子の代用教員時代についての描写がある。葛城誉子は五味(後、葛城)よ志子の三女で、五味よ志子は伊藤千代子の小学校時代の級友で、伊藤千代子と長い間文通をしていて、伊藤千代子は五味よ志子に心の内を開けていた。021

 

「ある小さなもくろみ」

 

 伊藤千代子や同級の平林たい子は、小学校高学年ころから島崎藤村やトルストイ、ゴーリキー、ドストエフスキー、ゴーゴリなどを読み018、諏訪高女時代には土屋文明に英語を教えられ、将来英語を勉強したいと思うようになった。それが伊藤千代子が五味よ志子への手紙の中で語る「ある小さなもくろみ」である。

 

 伊藤千代子は諏訪高女時代から高島小学校での代用教員時代1922-24まで、小学校時代の恩師川上茂と恋愛関係にあり、結婚を前提で付き合っていたのだが、川上茂は松本女子師範学校に転任後に変心した。そのころの伊藤千代子の気持が、五味(後、葛城)よ志子への手紙に現れている。五味よ志子の三女・葛城誉子(しげこ)の『イエローローズ――伊藤千代子の青春』はそのことについて扱っている。

 

009 テル子夫人の援助

 

 土屋文明の妻テル子は伊藤千代子に半年間英語を自宅で教えた。土屋テル子の旧姓は塚越といい、土屋文明と同郷(群馬県上郊(かみさと)村、現、群馬町)の出身である。家庭はキリスト教信者で、1899年明治32年に、12歳で、東京の女子学院予科に入学し、予科から本科へ9年間在学した。高等科には進まないで、津田梅子が創立した女子英学塾(現、津田塾大学)に入学した。この女子英学塾は英語教師養成学校であった。1912年明治453月、塚越テル子は同塾を卒業し、足利高等女学校で教師になった。

 

010 女子英学塾受験 伊藤千代子は関東大震災の年の1923年、女子英語塾を二度受験したが、英会話が不得意なために失敗した。

 

仙台、尚絅女学校へ そこで伊藤千代子は仙台のバプテスト系の尚絅女学校へ入学した。同校は英語教育で定評があり、地元の高女やキリスト教関係者の子弟を全国から集めていた。

 

 東京女子大へ 伊藤千代子は尚絅女学校を席次2番で卒業し、東京女子大英語専攻部二年に、予科一年を飛び越して編入学した。東京女子大学はプロテスタント系で、新渡戸稲造が創立し、第二代学長は安井てつであった。安井てつは塚越テル子の女子英学塾時代の恩師であった。

 

土屋文明の悲しみと憤りの源泉

 

伊藤千代子は反戦・平和・主権在民の社会の実現、国民の生活と権利の擁護を目指した。

 

012 土屋文明の歌

 

うつりはげしき思想につきて進めざしり 寂しき心言ふ時もあらむ(昭和6年、1931年)

気力なきわが利己心はいつよりか ささやかにしのび身を守り来し(昭和9年、1934年)

暴力をゆるし来し国よ この野蛮をなほたたへむとするか(昭和12年、1937年)

 

我にことばあり――土屋文明の戦後

 

1945525日、土屋文明は空襲で青山の自宅とアララギ印刷所を焼かれ、群馬県原町川戸(現、東吾妻町)に疎開し、農業に従事したが、その目的は、

 

013 朝よひに真清水に摘み山に摘み 養ふ命は来む時のため

 

1945919日、土屋文明は上京し、防空壕の中のミカン箱を机にしてアララギ編集所を再開した。そして同年9月、8ページの『アララギ』九月号を再刊した。

 

垣山にたなびく冬の霞あり 我にことばあり何を嘆かむ

 

土屋文明には「日本文学報国会短歌部幹事長」の肩書(1942年)もある。

 

土屋文明の戦後の歌

 

1954年、アメリカの水爆実験で、第五福竜丸が被曝した時。「白き人間」とは白人。「蝸牛」はカタツムリ。

 

白き人間まず自らが亡びなば 蝸牛幾億這いゆくらむか

 

1960年、安保闘争の時

 

旗を立て愚かに道に伏すといふ 若くあれば我も或は行かむ

 

014 社会進歩への貢献

 

土屋文明は晩年「赤旗」紙上にたびたび登場し、選挙では日本共産党を推薦した。売上税に反対し、「共産党はいつも筋を通し物を言い、共産党に期待する、頑張ってほしい」と言っている。(1987322日、97歳)土屋文明(1890.9.18-1990.12.8)は1990128日、100歳で死亡した。

 

015 伊藤千代子顕彰記念碑

 

土屋文明は晩年に塩沢富美子(野呂栄太郎夫人)を訪れた。

伊藤千代子顕彰碑は19977月に建立され、伊藤千代子に思いをはせて歌った例の土屋文明の6005のうちの後半の3種が碑に刻まれた。

1928315日、伊藤千代子は滝野川の党印刷所で捕まった。その時伊藤千代子が持っていた文書は「政治経済情勢に関する日本共産党のテーゼ(草案)」であった。

 

 

016 第一章 生い立ち

 

一 逆境のなかへ

 

 伊藤千代子は1905年明治38721日、長野県諏訪郡湖南(こなみ)村(現、諏訪市南真志野)に、父義雄、母まさよの長女として生まれた。

 伊藤義勇(よしたけ)・よ祢(ね)夫妻には子供がなく、赤沼家四男の赤沼義男と、岩波家長女の岩波まさよの二人を同時に養子にし(両養子、一束(いっそく)養子)、伊藤家を継がせた。

 

 ところが1907年明治40220日、千代子が2歳の時、母まさよが20歳で急逝し、翌1908年父義男は離縁して伊藤家を去ってしまった。そこで伊藤千代子は養祖父母に育てられることになった。

 さらに運悪く、その5年後の1913年大正2年、養祖父の伊藤義勇が55歳で死去した。連帯保証人になったために土地や家財を失った失意の中であった。千代子が湖南尋常小学校2年生の時のことだった。いとこの岩波八千代は千代子が夜中に目を覚ますとおびえた様子だったと当時を振り返る。養祖母よ祢は駄菓子屋を営んでいた。

 

017 二 白樺の子

 

平林たい子との出会い 1914年大正3年、千代子が小学校3年生の時、隣村の母(岩波・伊藤)まさよの父母である岩波久之助・たつが、千代子を引き取り、千代子は中洲尋常小学校金子分校に転校し、平林たい子と出会った。

 平林ひさ子は二人より一つ年長であったが、平林たい子は「おへら」で、伊藤千代子は「弁天様」というあだ名だったという。

 

 川上茂との出会いと敬慕 1916年大正5年、千代子が小学校5年生の時、千代子が住んでいた中洲村中金子に本校ができ、そこに千代子らみんなが移ったが、その時川上茂が赴任してきた。川上は長野師範学校を卒業したばかりの22歳で、大正デモクラシーの中の白樺派自由主義教育の熱心な教師で、国定教科書にとらわれないで独自のガリ版教材を用い、生徒たちに「志を立てよ」と励ました。

018 川上茂は伊藤千代子が6年生の時に、伊藤千代子、平林たい子、小泉ゆき(たい子のいとこ)、岩波ムメヨ(後、松木)、新松義広、笠原芳巳の優秀者6人を集めて特別補習を行い、雑誌『白樺』、島崎藤村、長塚節などの文章をガリ版に刷って教えた。

伊藤千代子と平林たい子は諏訪高女に進学し、新村義広は諏訪中学へ進学し、名古屋高裁判事から弁護士になった。新村義広は「平林たい子追悼文集」の中で、当時の補習授業のことを回想している。同じく平林たい子も「文学的自叙伝」の中で、当時の補習授業のことを回想している。

 中野好夫編『現代の作家』によれば、平林たい子はこのころドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフ、ゴンチャロフ、ガルシン、ゴーリキーなどの本を義兄から借りて読んだ。また文章も書き始め、雑誌に投稿してそのいくつかが入選した。伊藤千代子もたい子からそれらの本を借りて読んだ。

019 伊藤千代子はこのころ川上茂を敬慕した。級友の五味よ志子も川上に憧れたが、身を引いて千代子に譲った。

 伊藤千代子は社会悪に苦しむ「わたしは鞭打つ」という詩を13歳の時に書いた。

 

 

 

021 第二章 「心の友」へ

 

 一 幻の手紙

 

 1997年、伊藤千代子の顕彰碑が建てられたが、その翌年1998年の千代子の命日に『イエローローズ――伊藤千代子の青春』が葛城誉子(しげこ)によって上梓された。この小説は伊藤千代子が、小学校時代の級友・五味よ志子(後、葛城よ志子)に送った手紙をもとにしている。葛城誉子は五味よ志子の三女である。

 

 小説の主人公付与子(葛城誉子)は、母・よ資子の健康祈願代参のとき、お千代の祈願も頼まれる。

022 付与子は母・よ資子が持っていた千代子からの手紙を発見した。

 この小説はアララギ歌人・吉田漱(すすぐ)にも拠っている。

 

二 千代子の実像

 

 伊藤千代子は東京女子大で社会科学研究会に参加した。

長野市在住で伊藤千代子の研究者・東栄蔵は、「伊藤千代子追悼録」110を発見したが、その中に伊藤千代子の手紙があった。

 また200012月、葛城誉子は著者(藤田)を訪ね、千代子の手紙を見せてくれた。

 

三 「心の友」よ

 

 伊藤千代子から五味よ志子への手紙は、千代子が131918年の諏訪高女入学のときから始まり、1925年、千代子が20歳のときの東京女子大入学時まで続き、47通の葉書と手紙がある。

川上茂は千代子の小学校時代だけでなく、千代子が高女生の時(1918年から1919年までの2年間)も、千代子に読書指導をしていた。しかし川上は1921年に松本女子師範学校へ転任し、1922年、千代子が高女を卒業して高島小の代用教員になった年に恋愛関係が破綻した。1923年、川上は結婚して上條の姓になった。

 

025 諏訪からの「脱出」の真因 千代子は高島小学校で代用教員を2年間(1922年から1923年まで)勤めてから、19245月、仙台の尚絅女学校へ入学した。

獄中の千代子はいとこの岩波八千代に「藤村や赤彦は社会の実情を教えてくれなかった。藤村を読むのなら藤村が若いころ、これから世の中に出ようと苦しんでいたころの作品を読みなさい」と勧めている。

 川上茂は千代子の10歳上で、千代子の婿養子になるだろうという評判があった。

 

026 キーワード 千代子は諏訪高女時代に土屋文明から英語を教わり、英語学習の重要性を自覚した。千代子は担任の三宅秀(奈良女高師出身)に、東京の女子大に進学し英文学を勉強したいと漏らしていた。(東栄蔵『伊藤千代子の死』)千代子は関東大震災の時(1923年)東京の女子英学塾(現、津田塾大学)を受験したが失敗し、再度挑戦したが、会話が苦手でまた失敗した。

027 仙台からの「脱出」 千代子は19245月、尚絅女学校高等科英文予科に入学した。そして1925年大正14年、20歳の時、東京女子大英語専攻部二年へ編入学した。

 

細井和喜蔵からベーベルへ

 

028 伊藤千代子はベーベルの『婦人論』を読み、女子が男子に劣るとされるのには原因があると五味よ志子に指摘し、細井和喜蔵の『工場』や『女工哀史』を読み、労働者の溌剌とした生活を五味よ志子に説明している。細井和喜蔵は労働運動で格闘していた。

 千代子は東京女子大学の社会科学研究会に参加してリーダーになり、マルクス主義学習会へ進み、日本共産党に入党して、三・一五で逮捕された。

 

029 友よ! 上條(川上)茂から五味よ志子へ、「千代子が主義者になり、お上にたてついて獄死した」という手紙が届いた。

伊藤千代子は獄中からいとこの岩波八千代や又いとこの平林せんらに大量の手紙を送った。

 葛城よ志子は伊藤千代子から自分に送られた手紙の束にこう記している。「昔も今もまた明日も、変わりない同じ懐かしさで、聡明なりし美しかりし人の、今日も亦明日も健在ならんことを切に思う。」

 

 

 

030 第三章 「ある小さなもくろみ」

 

一 千代子先生

 

 19224月、伊藤千代子は諏訪高女を首席で卒業し、隣接する上諏訪町立高島尋常高等小学校の代用教員になり、一年生の担任となった。

 葛城誉子(しげこ)によれば、「川上茂はその前年の1921年に松本女子師範学校に転任したが、その後もたびたび中洲村を訪れ、千代子はそのたびに会いに出かけたようだ。そして19224月、千代子は女学校を卒業して小学校の代用教員になったが、その時千代子は川上との結婚を考えていたようだ。代用教員は当時の女性にとって恵まれた仕事だった。もちろん学校推薦だった」とのことである。

031 とまどう千代子先生 五味よ志子に宛てた手紙の中で千代子は「深い理由があって代用教員になったのではない」と語っている。また平林せんは「児童の質問に戸惑っていた」と千代子が語っていたという。

弁当のない子と分け合って 東栄蔵(諏訪二葉高校同窓会誌「天つ野」)によれば、高島小学校の当時の校長は田中一造で、教師数は52人、優れた教育実践で知られていたとのことである。また田中修一(当時の学年主任)は千代子だけが弁当をいつも教室で食べ、貧しい子供に自分の弁当を分けていたらしいという。

 

032  二 わたしには「ある小さなもくろみ」がある

 

 代用教員一年目1922年大正1111の千代子の手紙によれば、千代子はすでにこのころには川上との恋愛関係を清算し、文学(読書)とも決別して、英語を習おうと決意し始めたようだ。

033 千代子は島崎藤村の『板倉だより』を読んで自立する決意を固めたようだ。

034 千代子は代用教員二年目の1923年大正12年の3月と8月末に上京し、女子英学塾を受験した。

一方、川上茂は1923年大正1248日、上條家の婿養子になった。市川本太郎『長野師範人物誌』によれば、川上茂は1921年大正10331日、松本女子師範学校の訓導になり、そこで在職中の1923年大正1248日、東筑摩郡本郷村大村(現、松本市)の上條家の婿養子になった。妻はやすゑ夫人である。

 

三 訣別

 

感想 1923年大正12119日付の千代子の手紙には、川上がすでに結婚しているのにまだ未練がましいところがある。また川上が少女をもてあそんでいたように見受けられるところもあり、千代子も自分の気持を言葉で相手に表現できなかったようにも見受けられる。まだ混乱して整理しかねているような文章だ。

 

038 ここで著者はわざわざ川上茂を悪者にするかのような一文を挿入している。川上が文部省による弾圧に抗議して辞職しながら、後には復帰して指導主事(視学)になり、多数の児童を満蒙開拓団に送り込んだというのだ。

 

 満蒙開拓青少年義勇軍と「大地の子」に寄せて

 

 1924年大正13年、川井訓導が修身の授業で国定教科書を使わなかったとして文部省から追及されたとき、上條茂はそれに抗議して退職した。(川井訓導事件)しかしその後復職し、12年後の1936年昭和11年、長野県視学となり、信濃教育界は満蒙開拓青少年義勇軍の送出を教師に強制し、全国一の7000人を送り出した。そのうちの1400人が当地で亡くなり、多くの残留孤児(大地の子)をつくった。戦後彼は戦争責任も公職追放も受けず、長野県教育界の中枢に返り咲いた。

 

 川上(上條)茂は平林たい子については回想するが、伊藤千代子については一言も語らなかった。

 

感想 川上は千代子だけには結婚挨拶状を送らなかった037のだから、何かしらあったのだろう。浅野晃も戦後、千代子についてなかなか語ろうとしなかった。それだけ傷が深かったのではないか。

 

 

 

第四章 仙台、尚絅女学校にて

 

039 1924年大正1354日、伊藤千代子は仙台に到着し、56日、尚絅女学校(バプテスト派)高等科英文予科へ入学し、寄宿舎での生活を始めた。校長は米婦人ミス・ジェッシーである。

 

040 一 学籍簿の発見

 

 伊藤千代子はここで1年間学んだ。彼女の学籍簿は尚絅女学院短期大学(宍戸朗大(あきひろ)学長)に保存されていて、宍戸がそれを発見した。

 

学籍簿

 

現住所 長野県諏訪郡湖南村4354

原籍  現住所(に)同じ

族籍  平民戸主

職業  農業

父母若しくは後見人 伊藤よ祢 孫 伊藤千代子(明治38721日生)

入学前の学歴 長野県諏訪高等女学校卒業

入学年月日  大正1356

卒業年月日  大正14331

席次 二番

 

041 高等科英文予科(修業年限1か年)入学の特定 この年1924年に英文予科に入学したのは16名(級友の加藤満の記憶では24名)で、出身別は宮城県10名(一女校(宮城県立第一)、二女校)と、長野県、鳥取県、滋賀県、神奈川県、岩手県、福島県から各1名。前年は山口県、神奈川県から各1名。翌年は東京府からも。

 

042 席次2番 伊藤千代子の総平均点は84点で、その内訳は、修身・聖書81点、体操81点、国語・漢文89点、英語は解釈89点、文法・作文91点、会話92点で、音楽67点、合計590点。

 

保証人欄は空欄である。

5月入学の謎 千代子は代用教員時代の終わりごろに肋膜炎を再発し、入学は4月ではなく5月となった。級友の加藤満(みつ)は二女校出身である。

 

 

二 尚絅女学校

 

043 著者は仙台の鈴木揖吉(宮城県学習協議会理事長)から尚絅女学校の資料を提供され、藤森明『こころざしいまに生きて――伊藤千代子の生涯とその時代』(1995、学習の友社)にもそれが反映されている。

 

奇跡的発見 『尚絅女学院七十年史』によると、終戦直後の19459月に全校舎提供の命令が下され、校舎は米軍に占拠されたが、その際書類を移動した。伊藤千代子が入学したころの高等科英文予科は、その発足直後であった。

044 尚絅女学院短期大学訪問 20015月下旬、鈴木揖吉は尚絅女学院高等学校を訪問していた。著者は20016月、尚絅女学院短期大学を訪問し、宍戸朗大学長、阿部達(とおる)事務長に面会した。同校は『尚絅女学院100年史』の編纂中で、その編集会議で1999628日号の赤旗日曜版における伊藤千代子の特集が紹介された。著者は同校の当時の同窓会誌『むつみのくさり』を見せてもらった。

 

学習環境 初期の高等科英文科の卒業生は「無試験検定の準備をし、随分勉強させられた。ジェッシー、エーカック、アレン、ニューベリ等の先生方の言うことを理解するのに一生懸命だった。ジェッシー先生の授業は大学の授業のようで、私どもを大学生として取り扱った」(『尚絅女学院七十年史』「英文科の授業」)と当時を回想している。

 

 

三 どうしても東京へ行きたい

 

 19252月、伊藤千代子は底の知れた仙台から東京へ脱出したがっていた。

伊藤千代子はその前年の192411月に寮を出て、斉藤なを子と共に、学校から10分の石切町の松生(まついけ)義勝先生宅に寄宿した。松生は東北大学理学部の研究員時代に人力車引きのアルバイトをしていたが、尚絅女学校初代学長のミス・ブゼルは、時間待ちに原書を読んでいる松生を尚絅女学校に招聘した。松生は女子生徒に上級学校への進学を勧め、斉藤なを子は東京女高師に進学した。松生は戦後の昭和20年代に東京水産大学の学長になった。

 

 

四 新しい「動き」の時代がやってきている

 

1924年大正138月、尚絅女学校時代の伊藤千代子は、五味よ志子への手紙の中で、

 

「ともかくどうした方面かに動かねば。動いてみるだけでも見ねば止むことのないような『動き』の時代が私たちにやってきているように思えます。」

 

と言って、平林たい子が諏訪高女の卒業式の日に夜行で堺利彦、真柄を頼って上京したことに触れ、たい子のことを行動的な「先駆者」と評価し、嫁にいくことが最も賢く安全だと考えている自分を反省している。

平林たい子はその後働きながら社会運動に入り、メーデーでビラまきをして検束され、関東大震災の時には予防検束されて市ヶ谷刑務所に拘留され、東京からの退去を命じられた。その後は中国大陸へ渡り、内乱予備罪で検挙された。

千代子はこの手紙の中で「動いてみるだけでも見ねば止むことのないような『動き』の時代が私たちにやってきているようだ」と書いているが、この時代の雰囲気がそれから分かる。

048 また千代子はこの手紙の中で社会運動の現実を「冷たい身震いが背をつたう」と予感している。

 千代子と三瓶孝子(福島高女卒)の二人だけが、東京女子大学英語専攻部編入試験東北会場(尚絅女学校)で合格し、千代子はその二年に編入した。

 

思想的成長への萌芽 この時期にロシア革命や全国的な米よこせ運動が起こり、小作争議が頻発した。また信州では自由主義教育への攻撃が始まり、192495日、文部省の意向を受けた調査官が松本女子師範附属小学校の川井訓導を修身の国定教科書を使わなかったと追求し、川井訓導は休職処分9/27から退職10/1に追い込まれた。しかし千代子はこれらのことについて手紙で触れていない。

 

049 河内(こうち)愛子訳、ロバータ・L・ステイブンス『根づいた花――メリー・D・ジェッシーと尚絅女学院』2003によれば、「川口校長時代の問題の二つ目は、1920年代に始まり30年代に至るまで日本の若者たちを巻き込んだ近代思想であった。尚絅の少女たちは新しい社会主義や共産主義思想を扱う新聞をむさぼり読み、キャンパスのいたる所で活発な討論が行われた。」とある。

 

 尚絅女学校にも社会科学研究会があり、宮城県は活動家・高橋とみ子*を生んだ。高橋は19341121日、宮城県中新田警察署で虐殺されている。

 

*高橋とみ子 「しんぶん赤旗」2006.6.29によれば、高橋とみ子は尚絅女学校の卒業生で、日本共産青年同盟に加わり、特高によって24歳で虐殺された。

高橋とみ子はプロレタリア美術家同盟やエスぺランチスト同盟に加わり、仙台市の片倉製糸や旭紡績の女工に日本労働組合全国協議会への参加を呼びかけた。19341020日に逮捕され、県内の留置場をたらいまわしにされた後の1121日、県北の中新田警察署で虐殺された。警察は自殺と発表したが、戦後になって虐殺されたと分かった

県内では1932年に125人が逮捕され、1934年に大弾圧が行われた。1935年と36年に旭紡績の女工は賃上げと待遇改善を求めてストライキを起こし、一人の解雇者も出さずに勝利した。

 

 

第五章 東京女子大社会科学研究会

 

050 一 開学

 

 東京女子大学は明治以来の専門学校令の制約がある中で、創立当初から「大学」の名称を用いた。当時女子高等教育は官立の女子師範学校と私立のキリスト教系の特にプロテスタント系の学校が担っていたが、後者は当初家塾や私塾から出発した。

 東京女子大学はアメリカのキリスト教伝道局が、プロテスタント系の女子高等教育施設を統合したもので、バプテスト系を含む10の伝道社(者)団(ミッション)で構成され、1918年に創設された。尚絅女学校も東京女子大学の創立に財政援助をしていて、東京女子大学への受け入れルートとなっていた。

 

051 東京女子大学は当初新宿区角筈(当時は東京府豊多摩郡淀橋町宇(字の間違いか)角筈)に仮校舎を設け、学長に新渡戸稲造、学監に安井てつが就いた。

 受験 東京女子大学は全国のミッションスクールから受験生を集め、受験場として東京・札幌・函館・仙台・会津・静岡・大阪・岡山・鹿児島の9つのミッションスクールを使った。

 仙台会場での合格者は伊藤千代子と三瓶孝子の二人であったが、三瓶は『ある女の半生――嵐と怒涛の時代』三一書房1958年の中で当時の事情を語っているが、その中で三瓶が語る「領栄女学校」は尚絅女学校の間違いである。また三瓶は、伊藤千代子がお茶の水女高師も受験して合格したことや、三瓶が東京女子大学で渡辺多恵子(後、志賀)と共に社会科学研究会を作ったとき、伊藤千代子もメンバーの一人だったと語っている。

052 清新の気風溢れる学校 安井てつは伊藤千代子が入学した19254月にはすでに学長に就任していた。安井は「サムシングのある学校」を目指した。

新渡戸稲造は東京府豊多摩郡井荻村(現、杉並区善福寺)に新校舎を建設し、1924年大正134月に新校舎が開校した。その時新渡戸稲造は国際連盟事務次長に就任し、安井てつが後任として学長に就任したが、安井てつはイギリスに留学した経験があり、男女差別を克服する教育を目指した。

少壮の社会科学系教授陣 東京女子大学の草創期の1921年大正10年、大学部に社会学科を設置し、進歩的知識人を教授に迎えた。森戸辰男、大内兵衛、矢内原忠雄、戸田貞三、菅円吉、松本潤一郎、古在由重らである。(『創設期における東京女子大学学生の思想的動向』東京女子大学女性学研究所編)

053 河崎なつとベーベル『婦人論』 河崎なつは東京女子大学の創立以来英語専攻部で日本語作文を担当していた。ちなみに戦後河崎なつは日本母親大会を創設した。

宮崎哲子(後、安東)は塩沢富美子とともに1927年に東京女子大学に入学し、同大の社研に入った。宮崎哲子は河崎なつの授業を受けたが、宮崎によれば河崎なつはベーベルの『婦人論』を学生に紹介し、女の地位が社会の経済組織と共に変化したことを説いたとのことである。

福永操によれば、河崎なつは文化学院でも教えていた。

 完全個室の学生寮 当時西荻窪駅ができたばかりで、そこから大学まで1.2kmある。学生寮は東西二棟あり、伊藤千代子は東寮に入った。『東京女子大東西寮六十年』によれば、寮には190の居室があり、そのすべてが個室で3畳の間であった。

054 1927年の春、塩沢富美子(旧姓、下田)が、青山女学院から東京女子大学英語専攻部に入学したが、塩沢は『野呂栄太郎と共に』の中で、「学生は食堂やパーラーと呼ばれる談話室で会話し、青山学院の修道院式の閉鎖生活と違った自由な雰囲気を味わった。外出は時間制限はあったが、いつでも自由で、寮長を寮生が選挙で選んだ」と回想している。

 伊藤千代子と東京女子大学英語専攻部で同級生になった福永操は、戦後「私たちの社会科学研究会もこの寮の個室で成長した」と回想している。

055 ローベン 塩沢富美子「信州への旅―諏訪湖」1975年(『信州白樺』21号所収)によれば、1927年の秋に伊藤千代子が寮を去った後、塩沢は千代子の部屋に移ったが、「机の引き出しにたくさんのローソクの燃えカスを発見した。当時寮の消灯は10時であったし、マルクスやレーニンは大ぴらに読めなかった。」

 知の源泉―学校図書室 東京女子大学の図書室は『改造』や『中央公論』などの先端の雑誌を置いていた。千代子の同級生の波多野操(後、是枝(戦前)、福永(戦後))によれば、「女子大の図書室でクロポトキンの訳書を発見して読んだ」とのことである。

 

 

二、社会科学研究会の誕生

 

 当時の全国の大学、高校、専門学校では、軍事教練反対や学校の民主化を求める運動が盛んだった。絲屋寿雄『日本社会主義運動思想史Ⅱ』によれば、1924年大正13914日、学生連合会が東京帝大で全国代表者懇親会を開催し、23校から56名が参加した。そして翌1925年、学生連合会は全国学生社会科学連合会(学連)に改組され、同年6月、関東学生社会科学連合会はその総会で学生運動を無産階級運動の一翼とし、マルクス主義を教育方針(教育テーゼ)とした。

 

056 中村新太郎『日本学生運動の歴史』によれば、東京女子大では1925年春、渡辺多恵子、三瓶孝子、伊藤千代らによって社会科学研究会が創設され、日本女子大でもこのころ、清家齢、西村桜東洋らが社研をつくったとされる。

 

 三瓶孝子は東京女子大入試の東北会場で伊藤千代子と知り合い、その後東京女子大での寮生生活や社研活動を共にした。三瓶孝子は既述の通り「私と渡辺多恵子が東京女子大で社研をつくった時、伊藤千代子は最初のメンバーだった」という。

 

一方福永操は「伊藤千代子は社研結成時には参加していなかった」とし、「三瓶さんによれば、1925年の春、三瓶さんと伊藤さんは入学早々社研に参加していたと言うが、私が休学から復帰した二学期の時点で、三瓶さんは社研活動に熱心だったが、伊藤さんは参加しておらず、1927年昭和23月に渡辺多恵子さんが大学部社会学科を卒業してから、伊藤さんはおそろしく熱心になった」と証言している。福永操は、伊藤が東京女子大学に入学する1年前の1924年に入学していたが、1925年春から8月まで病気(肺湿潤)で休学していた。

 

 『婦人解放に生きて―小澤路子さんを偲ぶ』新婦人神奈川県本部内、小澤路子さんの遺稿集発行人世話人会によれば、小澤路子は「東京女子大の社研に参加しが、そのメンバーには、渡辺多恵子(後、志賀義雄の妻)、波多野操(後、是枝恭二の妻)、伊藤千代子らがいた。研究会での学習文献は、福本和夫の『無産階級の方向転換』『共産党宣言』『なにをなすべきか』1902レーニンなどであった。いずれも発禁本で伏字が多かった。福本和夫が圧倒的だった」と証言している。

 

波多野操1907.5.8-1991は後に福永操と称す。兵庫県出身。父は裁判官の波多野高吉。北海道庁立札幌高校女学校(現北海道札幌北高校)卒業後、1924年、東京女子大学英語専攻部に入学し、その後中退。1927年、日本共産党に入党し、無産新聞編集長の是枝恭二と結婚。三・一五で逮捕。1955年、日本共産党に復党し、地域活動や運動史研究をし、『運動史研究』に執筆。Wikiより。

 

この波多野や伊藤の例から考えると、大学中退は当時流行っていたのかも。

 

 今井久代は岡谷市出身で、伊藤の諏訪高女時代の級友で、上京して兄の世話をした。1925年、兄の二高時代の友人の小澤正元(まさもと)1899-1988と結婚。小澤は東大新人会会員で東京帝大法科卒。今井久代は市谷刑務所の伊藤千代子に差し入れたり、松沢病院へ二回見舞いしたりした。

葛城誉子『イエローローズ――伊藤千代子の青春』によれば、今井久代は、自宅(小澤正元宅)のマルクス主義学習会に千代子を招待し、結婚相手として浅野晃を千代子に紹介したという。

 

 

三 学内社研の再出発

 

058 1926年の春、伊藤千代子は小澤正元宅のマルクス主義学習会に参加した。東京女子大社研では19273月、中心メンバーの渡辺多恵子が卒業して社会運動に入ってから、伊藤千代子、福永操、木野美佐子らが、新入生の塩沢富美子、宮崎哲子(後、安東)、服部民子(後、大森)、村上冬子(後、葉山)らを勧誘した。そしてそのおかげで19283月の弾圧後も、学習会が後輩によって担われることになった。ちなみに村上冬子は病気留年して宮崎のクラスに降りてきた。

 

059 塩沢富美子は青山女学院から東京女子大英語専攻部に入学した。塩沢は『野呂栄太郎とともに』(未来社)の中で、当時の東京女子大や市ヶ谷刑務所での千代子との再会を振り返っている。

 

 「入学当初(1927年)学校の入り口に『社会諸科学研究会』への入会案内の看板を見つけた。私が西寮に入って間もなく、東寮からわざわざ西寮に引っ越してきて私たちの食卓の一員となり、私によく話しかける一人の上級生・伊藤千代子がいた。伊藤千代子は学校公認の『社会諸科学研究会』の外に、マルクス主義研究会をつくろうと誘ってくれ、新入生数名がそれに参加した。その時伊藤千代子は4年生だった。『資本主義のからくり』(山川均、大正151926年)、『賃労働と資本』(マルクス)、『共産党宣言』『国家と革命』『唯物弁証法』(レーニン)などをテキストとして、毎週一、二回、放課後、寄宿舎で勉強会を開いた。私はそれに熱中した。」

 

060 宮崎哲子は1927年東京女子大学に入学した。宮崎によれば、

 

「当時はどこの大学でも社研は潰されていたが、東京女子大学の学生控室の片隅で『社会科学研究会に入りましょう』という看板が、先生がいないときには出され、いそうな時はひっこめられていた。病気から復学した同じクラスの村上冬子から借りて読んだ『空想から科学への社会主義の発達』(エンゲルス)に感激し、その後、『フォイエルバッハ論』(エンゲルス)、『反デューリング論』(エンゲルス)、『史的唯物論』(メドベージェフorブハーリン)、『鋼鉄は如何に鍛えられたか』(1934、ニコライ・オストロフスキー1904-1936、フィクション)などを読んだ。

 フユさん(村上冬子)と二人でクラスの中にメンバーを広めたところ、10数人が研究会に入会した。いくつかのグループに分かれて、『弁証法的唯物論』(ヨセフ・ディーツゲン1828-1888、ドイツ人)、『資本論入門』*、『賃労働と資本』(マルクス)、『帝国主義論』などの勉強に熱中した。

 

*『資本論入門』を書いた人は多い。マルクス自身、川上肇(昭和71932年、昭和23年)、宇野弘藏(昭和24年)、岡崎次郎(1978年)、向坂逸郎(1967年)ここではマルクス自身のものか。

 

 研究会は寄宿舎や下宿で開いたが、非合法だった。舎監室の前は通らない、会員は二人以上で連れ立って歩かない、睨まれている人と学校では口をきかないなどの非合法運動のやり方を実行した。寄宿舎の部屋は中から鍵をかけた。

061 時には学校の裏のくぬぎ林の中で研究会を開き、『われら若き兵士』『憎しみのルツボ』『インター』などを歌った。

 研究会の前に伏字が埋まっている本を回して伏字を埋めた。文芸部の交友会誌『樫』にも『フォイエルバッハ論』を紹介し、『唯物弁証法』や『変化の法則について』などの論文を寄稿した。」

 

 宮崎哲子は東京女子大学卒業後に安東義雄と結婚した。安東は投獄された。

宮崎哲子は1983年に「回想――出発のころ」を『新潟民主文学』に発表したが、「回想」を発表の途中で沼津市に転居した。その後安東義雄に先立たれたが、宮崎哲子も19961月、安東義雄の次女・小林百合子(京都在住)に看取られて亡くなった。

 

服部民子浪江八重子は、塩沢富美子や宮崎哲子とともに1927年東京女子大学に入学した。服部民子の父親は服部浜次*といい、明治期の社会主義運動家であり、服部民子は服部浜次の次女である。

岡村親宣(ちかのぶ)『無名戦士の墓』(学習の友社)によれば、「大森詮夫は非合法下の中央大学社研のキャップで、ドイツ語が得意であり、他大学の社研活動を援助していたが、東京女子大学の社研にも来て、『レーニン主義の基礎』をドイツ語で講読し、チューターを努めた。また東京女子大学の社研は『共産党宣言』もドイツ語で講読したが、そのテキストは堺利彦の筆記ノートであり、服部民子がそれを仲介した。

この東京女子大学の社研には塩沢富美子や浪江八重子がいて、浪江八重子は後に農業活動家の浪江虔(けん)の妻となった。浪江虔の旧姓は板谷という。また大森詮夫はこの東京女子大学の社研で服部民子と知り合って結婚した。ちなみに大森詮夫は後に弁護士になり、岡村親宣は(現在)東京本郷合同法律事務所の弁護士である。

 

*服部浜次1878.2.28-1945.6.8は、明治371904年横浜平民社を結成し、荒畑寒村や山川均に協力し、大正91920年、日本社会主義同盟の創立に参加し、昭和131938年、人民戦線事件で検挙された。

 

感想 本文を読んでいて、女性に関する記述として、「有名な某氏の妻」という説明しかない。今も依然としてそうかもしれないが、当時は一層女性が活躍していなかった時代であったようだ。

 

感想 著者は共産党の歴史を美化しようとしている。歴史はつくるものだという意気込みや熱意の現れなのかもしれない。

 

東京女子大の『学友会雑誌』第7号(19283月)に、「社会学部研究会委員会」の「社会学部報告」があり、その中に「社会諸科学」という名称が見られるが、塩沢が見た「社会諸科学研究会」はこれを指すのではないか。これは学校公認の団体であったが、三木清が講師に招かれたり、『フォイエルバッハ論』の連続講義が行われたりし、会員数は47名(在学生数325名)であった。

 

063 福永操は伊藤千代子より齢は一つ上だが、留年して同級生となった*が、その福永操によれば、「東京女子大学の社会科学研究会では、1927年当時、木野美佐子伊藤千代子は優秀なオルガナイザーで、新入生を多数獲得し、会員数は20数名になった。在校生全体が300人足らずだったから、これはかなりの数だった。学連の教育方針の研究コースを基本とし、私たちの本部で相談して、程度に応じて読みやすいものを選んだ。」

 

*福永操は、伊藤千代子が東京女子大学に入学する1年前の1924年に入学していたが、1925年春から8月まで病気(肺湿潤)で休学していた。056

 

東京女子大の社研メンバーは全国の女子学連の組織化に尽力した。1928315日に福永操や伊藤千代子が逮捕されたが、後輩がその後を継いだ。

 

 

064 四 女子大社研の前進――「女子学連」の促進体として

 

 女子学連は全国の女子校社研の恒常的な指導部だったのか、それとも女子校の中に社研を拡大し、それを学連の中に加えていく促進的な団体だったのか、はっきりしないが、その全国的組織の拡大運動の中心が、東京女子大と日本女子大の社研メンバーだった。

 

 文部省は(逮捕・拷問によって)それをつかんでいて、文部省思想局の1934年昭和98月の『思想調査資料』第24編「教育関係に於ける女子の左翼運動」によれば、

 

065 ①大正1519261月、日本女子大と東京女子大の学生有志が会合して婦人革命家ローザ記念研究会を開催し、同年9月ころ、両女子大学による合同研究会が成立した。そしてこの研究会に男子学連の幹部が講師として出ていた。

②両大学のメンバーの働きかけによって、在京の他の二校、関西の一校、東北の二校と連絡がつき、同年192612月、関西と東北から各1名が上京して会合が開かれた。出席者は123名であった。その中で①女子学生研究会の全国的組織を結成することの決議、②本部を東京に置くこと、③全国的組織の確立に努力すべきことなどを協議したが、決定には至らなかった。

③翌昭和219273月、西荻窪で、全国から178名が参加し、女子学連第一回大会を開催したが、女子学連は女子学生社会科学運動の統一指導機関であって、学生運動の指導機関ではないことを明らかにして、運動方針、教育方針、組織方針、役員などを決めた。役員は次の通りである。

 

中央常任委員長   (教育部長)      波多野操(東京女大)

  常任委員    (組織部長)    木野美佐子(東京女大)

  同                 (政治部長)      西川露子(日本女大)

地方委員              関東                     海野コウ(委員長 東京女大)、伊藤千代(東京女大)

                                                        森田京子(東京女大)

                            東北                     佐藤ヤス(委員長 宮城女)、荒愛子(宮城女)

                                                        佐々木愛子(尚絅女)

                            関西                     粟田律子(責任者 同志社女)

066 ④昭和219276月ころ、同組織が外部に漏れて危険を感じ、表面的に解散を宣言したが、メンバーを改めて同年9月再組織を行い、新たに伊藤千代(東京女大)、斉藤なを(東京女高師、尚絅女学校卒、千代子とともに上京)の二名を中央委員に加え、分担を決めて各学校の研究会と連絡を取った。

⑤昭和319282月から3月にかけて、中央委員の伊藤、波多野、斉藤が他の任務に就き、女子学連から去ったので、組織の立て直しを行った。

⑥この後三・一五事件以降、女子学連の指導者がぞくぞく検挙され、女子学連は壊滅した。

 

*伊藤千代は伊藤千代子、粟田律子は粂田律子(くめたりつこ)の間違い。

 

ところでこの文部省資料の発表1934年の3年前に、三村さちよなる人物が『改造』1931年昭和68月号に論文「『女子学聯』の思ひ出」を発表した。その内容は①女子学連の成立まで、②その組織構成、③ケルン*分子として活躍した人々であり、その人々の学校名と人名が記されている。

また伊藤千代子について「伊藤千代子女史は、三・一五で捕らえられて間もなく獄中で発狂し、松澤病院で淋しく死んでしまった。オルガナイザーとしてのよき素質に恵まれていた。19272月ころ、地下のポストに移って間もなく三・一五の嵐にひっかかってしまった。」としている。

 

*ケルン 組織の中心人物。ドイツ語kern 核心、本質。固い殻の中の実。

 

感想 この三村さちよなる人物の論文は前述の文部省資料と内容がそっくりで、また人名を発表している。活動家の人名など組織の機密情報を漏らすような組織内の人がいるだろうか。怪しい。この論文の出版年が1931年だから、1928年の3151929年の416弾圧の取り調べが一段落した後である。そして三村さちよがどういう人物か不明であるとのこと。(スパイだろう。)

 

 

第六章 留置場の寒さを思い、真綿を背負わせて――安井てつ学長

 

 

一 安井てつ学長文書

 

「安井てつ学長保管文書」の中の、東京女子大学女性学研究所『創設期における東京女子大学学生の思想的動向』19904月に、伊藤千代子についての記述がある。それによれば、

 

伊藤千代子(001番)は、詳細は不明だが、両親兄弟がなく、親戚によって保護された。長野県出身で社会科学に興味のある○○(諏訪)高女の同級生(今井(小澤)久代、第五章058)に(東京で)思想的影響を受けたらしいが、本校在学の当初は社会科学にあまり興味はなかったようだ。ところが本校の同級生の波多野操(003番)と交流するようになると欠席が多くなり、学校側が警告したが、病気を理由に欠席し、終に卒業試験が受けられない旨の連絡をしてきたので、保証人と相談して退学処分にした。

また本校の社研メンバーは伊藤千代子についてこう言っている。「伊藤千代子は長野県での代用教員時代に、子供の家庭状況を通して社会の矛盾を感じ、製糸工場の様子を見て疑問を持ち、大学に入ってから社会の矛盾や疑問を突き止めたいと思うようになった。その背後には小学校時代の教師や、高等女学校時代の理想主義教育の影響があると思われる。」

 

068 東京女子大学は逮捕者が続出して「アカの大学」とされたため入学志願者が減った。安井てつはこの時代の16年間学長を務めた。

 

069 東京女子大学女性学研究所『創設期における東京女子大学学生の思想的動向』19904月作成の発案(19843月)者は隅谷三喜男学長である。

070 安井てつ学長文書の構成は、昭和21927年から昭和71932年ころまでの、警察や文部省と大学との往復文書、生徒主事懇談会、学内の主事会記録、学生主事・石幡五郎の編と思われる『思想事情備考』などである。

三桁の番号は東京女子大学女性学研究所がつけたものであり、001番が伊藤千代子、002番が渡辺多恵子、003番が波多野操である。

当時東京女子大学ではキリスト教系のSCM(Student Christian Movement)も活動していた。

 

071 文部省専門学部局長・西山政猪から学長宛の「共産党事件について起訴せられたる者の調査表作成回付依頼」(昭和31928528日付)、学長から文部省への調査表の提出(同年618日付)、その準備のための「経歴調査表」12枚などが、「研究報告資料」の最初の文書であるが、その「経歴調査表」では、001, 002, 003の三人について同様に、「左傾主義、研究に入りし動機及其経過に就いては本人に就て直接調査するにあらずば全く取調べの方法なきを遺憾とす」ととぼけている。

 

072 伊藤千代子についての、学長から文部省への報告書(調査表)067における①「しばしば欠席した」という記述は、19279月初旬に伊藤千代子が寮を出て浅野晃と結婚した時期と一致する。塩沢富美子は『野呂栄太郎とともに』のなかで、「伊藤千代子は一年近く私たちの研究会のチューター(講師)であったが、卒業前から学校にあまり姿を見せなくなった」とし、『信州白樺』では、「1927年の秋も深まるころ、突然千代子さんは寮を去られ、その空いた室に私が移った。千代子さんはそれから学校にくることが稀になったようです」としている。

 

 

二 寮監・松隅トシの証言

 

073 松隈トシ(旧姓、大槻)は、1927年から1945年まで東京女子大学の東寮の寮監をしていた。東京女子大学の「研究報告」によれば、松隈トシの回想として、「昭和319283月の検挙者は寮生が多かったという。連行は安井てつ学長の配慮で夜の黙学時間に行われ、学長は学生に本当のことを話すように言い、背中に真綿を背負わせ、毛布やマフラーを差し入れた。」卒業生の青山なお『安井てつ伝』076にも同様の記述がある。

074 石幡五郎は当時の学生主事で、警察と折衝し、拘置所や留置場を巡った。(『東京女子大学50年史』)

松隈トシは連行される寮生に依頼され、家宅捜査前に重要書類を片付けた。「002さん、003さんは読書会のリーダー格で、001さん、008さん(塩沢富美子)は真面目な優れた方でした。(それらの寮生は)消灯後まで巡回する寮監の足音を気にしながら、物にとりつかれたように熱心に勉強されたようです。」

松隈トシはアララギ会の会員で、「土屋文明の東京女子大学での講演後のお茶の席で、文明が伊藤千代子のことを色々話された」という。

 

 

三 思想弾圧事件と向き合う安井学長

 

075 松隈トシ「東京女子大学の職員会議では、思想問題学生は退学させるのが常識とされていたが、安井てつ学長はそれに断固反対し、一人も退学者を出さなかった。安井先生は学生に時には裏切られる寂しさもあったが、人格主義を貫いた。」

『東京女子大学50年史』でも「安井学長が学生を甘やかしすぎるという批判もかなりあり、宗教主任の渡辺善太は思想学生を断然退学処分にすべしと強く主張し、安井学長と対立した。」

 安井てつは文部省や警察にありのままを報告したが、学生を悪者にはしなかった。

文部省が「思想問題資料蒐集に関する件」として「ビラ、ポスター、ニュース、手記、新聞、雑誌、図書、写真、その他の宣伝印刷物」の提出を大学に求めた時、安井は「当学に於いては提出すべき材料を有せず、其遺憾に存じ候」と答えた。

076 当時思想問題学生に対する文部省があげた処分報告は「放学、放校、除名、除籍、退学、諭旨退学、無期停学、停学、謹慎、戒筋(きちんと正す)、譴責、訓戒」などがあった。

石幡五郎・学生主事の回想でも、「世間の多くの教育者が文部省に迎合的であったが、安井学長は教育者の良心に基いて対処した」という。

安井学長は新聞記者に対しても「あなたの妹さんが思想問題学生だったとしても、少女の行為が筆誅に値するものと考えるか」と言ったという。

安井てつはやむなく天皇讃美や戦争協力に最低限従ったが、安井てつ自身が戦時中、特高に尾行されたという。

077 194011月、安井てつは石原謙に学長の座を譲った。空襲が激しくなっても勤労動員された学生を見守るために疎開しなかった。安井てつは1945127日逝去した。Wikiでは、安井てつ1870.3.24-1945.12.2 75歳。

 

 

第七章 卒業の「断念」(著者は後に訂正するが、卒業の「断念」ではなく、千代子が卒業できなかった理由は、大学による退学処分である。)

 

078 19279月上旬、伊藤千代子は東京帝大新人会の出身で共産党員の浅野晃と結婚した。

 

一、 卒業「断念」

 

 浅野晃に面会した東栄蔵は『信濃異端の近代女性たち』信濃毎日新聞社20029月の中で、「19281月、浅野晃は千代子の祖父母から送られてきた学費を、2月の総選挙に立候補する山本懸蔵(山懸)の選挙資金として所望し、千代子は涙ながらにそれを拠出した、と浅野晃が言った。」、「昭和319282月の総選挙に札幌・小樽地区から立候補する山本懸蔵は病気で(東京から北海道へ向けて)出発できないでいた。伊藤千代子は浅野晃に『この最後の学費で大学だけは卒業できる』と言った。浅野は『千代子がこの学費を私に渡すことは卒業を断念することだ』と思った。」と語っている。

 

079 当時浅野晃は労農党本部に勤めていた。山本懸蔵は1月下旬、北海道に向けて出発した。小樽では小林多喜二が待っていた。

 

感想 筆者は千代子の「涙」の中に「共産党への献身という決意」を読み取るのだが、それは読み取りすぎではないか。

 

二、「小さなもくろみ」から「大きなもくろみ」へ――郷里への真の恩返し

 

081 祖父母は(19282月の総選挙における)労農党・長野3区の立候補者・藤森成吉(せいきち)の演説を聞き、投票にも協力した。

 

*藤森成吉(せいきち)1892.8.28-1977.5.26諏訪市出身、東大独文科卒、小説家・劇作家。『何が彼女をそうさせたか?』改造社1927

 

084 岩波八千代は千代子よりも年下の従妹である。伊藤千代子は小学校3年の時に岩波家に引き取られた。

 

162 千代子の祖父宛の手紙167を読む限り、卒業試験を欠席するような内容は全く読み取れない。3月の卒業日程が書かれていて、「いつもより10円多くを31日位に着くように」と懇願している。165

 

164 千代子は岩波家の祖父母から毎月40円の送金を受けていた。(尋問調書1928127日)

 

229日に千代子は共産党へ入党したが、そのとき高田馬場から湯島に転居した。

 

卒業試験は3/2—3/9で逮捕以前だから、受験しようと思えばできたのに受験しなかった理由は、受験するつもりだったが、大学がその前に退学処分にしてしまっていたからなのだろう。

 

167 千代子から祖父への手紙

 

「今月(2月)下旬の臨時議会で、その人たち(労農党の当選衆院議員)がどんなことをするか、みんな大変注目されています。」

310日ごろには私は(郷里に)帰りたいと思っています」

「来月(3月)分は何時もより10円くらい多く送っていただきとうございます。そしてすみませんけれども、三月一日位につくやうに送っていただきたいのです。試験の始まる前までに(謝恩会、同窓会、記念品など)頼むものは頼まなければなりませんからどうぞおねがひいたします。」

 

この文面を見る限り、卒業試験を受けるつもりがないなど想像できない。

 

085 柳河瀬精『戦後の特高官僚』は戦後特高官僚が公職追放を免れた様を記述。

 

 

第八章 実戦のるつぼへ

 

 山本懸蔵は1928131日の夜に小樽に着いた。山懸は雑誌『改造』の同年4月号にその模様を「北海道血戦記」と題して寄稿した。

 

一 小林多喜二『東倶知安行』に寄せて

 

086 小林多喜二は北海道拓殖銀行の行員だったが、小樽の労農党選挙事務所で密かに山懸の選挙戦を手伝った。小林多喜二の『東倶知安行』はその模様を描写しているが、献金額について「一、三十圓也 東京×××子」とある。これは伊藤千代子のこととされているが、確証はない。筆頭は東京の労農党本部の壱千円である。当時の供託金は二千円であった。藤田廣登『小林多喜二とその盟友たち』学習の友社にその事情が記述されている。

087 小林多喜二は小樽高商を卒業後、北海道拓殖銀行小樽支店に勤めていた。小林多喜二の192811日現在の給料は月96円でエリート社員だった。また1924年入社時の初任給は70円だった。

 小林多喜二は1930年に「総選挙と『我等の山懸』」と題した一文を雑誌『戦旗』19302月号に寄稿している。それによれば山懸を迎えた労働者数は500人だった。

 

 

二 藤森成吉奮戦す

 

088 日本共産党は1922年に創立された。党内に解党主義が発生していたが、「二七年テーゼ」の下に組織再建の途上にあった。日本共産党は1928年の総選挙に、北海道一区に山本懸蔵、東京四区に唐沢清八など、全国に11人の党員を労働農民党(労農党)の下に立候補させた。浅野晃は共産党員として労農党本部事務局に勤めた。

 

 この総選挙直後の千代子から祖父宛の手紙がある。これは166頁に再掲されている。これは浅野あや子「伊藤千代子追悼録」に掲載されているもの110であるが、前半の5枚分が欠落している。

089 そこで千代子は、諏訪・伊那地方で立候補した労農党候補・藤森成吉の選挙運動と祖父母のその体験、全国で無産者政党から8人が当選したこと、3月下旬の臨時議会での彼らの活躍に対する期待、千代子が選挙後の後始末と入党希望者の受け入れなどで忙しいことなどを語っている。

 

*藤森成吉(せいきち)1892.8.28-1977.5.26 諏訪市(当時は上諏訪町)の薬種問屋に生まれる。諏訪中学卒業後、一高へ進学。土屋文明とは同じ寮の隣同士。東大独文科卒、小説家・劇作家、プロレタリア作家。1928年、ナップ(全日本無産者芸術連盟)委員長。『何が彼女をそうさせたか?』改造社1927、『磔(はりつけ)茂左衛門』『渡辺崋山の人と芸術』など。戦後は細井和喜蔵の『女工哀史』の印税相当分で東京の青山墓地に「無名戦士の墓」を建立し、その世話人会の会長になり、1972年、日本国民救援会会長や民主長野県人会初代会長などを歴任した。

 

 藤森成吉は19282月の第一回男子普通選挙で長野県三区(諏訪・伊那の南信地域)の労農党統一候補に乞われて立候補した。同選挙区には政友会の領袖で鉄道大臣を歴任した小川平吉が立候補していた。

090 この選挙には三木清、岩波茂雄(諏訪出身)、森戸辰男、大塚金之助、林房雄、河崎なつ、三宅雪嶺、奥むめおなどが東京から応援に駆け付けた。伊藤千代子は郷里の人々に藤森への支援を呼びかけ、祖父母の岩波久之助やたつらも演説会に参加した。

 選挙運動の中心は選挙権のない25歳までの青年だった。官憲の妨害、一票一円の買収の中を藤森は定数二の中の四位で、6919票を獲得したが、惜敗した。

 この総選挙で労農党は無産政党の中で最大の得票を獲得し、京都から山本宣治ら二名が当選した。またこの時東京女子大の級友・森田京子も労農党本部で「労働農民新聞」の全国発送を手伝った。

 

 

三 山一林組製糸工場同盟罷業

 

091 1927年、平野村(現、諏訪市)の山一林組の製糸工場で女子労働者(工女)がストライキを起こした。工女の労働時間は1316時間で、「朝は朝星、夜は夜星、昼は梅干いただいて」と言われるような長時間の劣悪労働を強いられていた。

 当時全国に六つの大きな製糸工場(片倉、郡是、山十組、小口組、依田組、山一林組)があった。工女は貧農の出身で、口減らしと親の借金の肩代わりに募集人に引率されて、野麦峠、和田峠、青崩峠、八ケ岳山麓などを越えて県外から集まった。工女の労働条件は劣悪で、低賃金、長時間労働、工場内では繭を煮る蒸気と熱気、戸外は零下10度以下の寒気、寄宿舎では40畳に30人が詰め込まれ、結核患者が続出し、外出と信書の自由を阻まれていた。

 

092 そして19278月末から9月にかけての20日間ストライキが起こった。山一林組には3工場があり、工女の平均年齢は17歳で、最高23歳、最低12歳、総計1,213人で、90%が女性で、組合活動の経験はなかった。そこへ総同盟がオルグに入り、労働組合をつくった。

1927828日に工女たちは大会を開き、嘆願書を会社側に提出したが、その要求が受け入れられなかったので、830日からストライキを開始した。

郡下の資本家団体、警察、消防団、在郷軍人団、右翼暴力団等は、工女を着のみ着のまま寄宿舎から追い出した。最後に47名が残ったが、声明を出してそれぞれの故郷に帰り、ストライキは敗れた。

 

声明文「18日間の努力も空しく、一時休戦のやむなきに至った。工場での待遇改善と人間らしい生活を求めるには、私たち自身しかいない。権力や金力がいかに偉大でも、工女の人格権を確立するまで闘うつもりだ。最後の勝利を信じている。」

 

093 「信濃毎日新聞」が応援した。「女工たちは繭よりも糸よりも自分達の方がはるかに尊いことを知った。女工たちは人間生活への道を製糸家よりも先に踏み出した。敗れたとはいえ、人間の道がなお燦然たる光を失わない限り、退いた女工たちは永久に眠らないだろう。」

 

 当時評議会系の南信一般労組の集会に千代子は参加していた。総同盟は評議会系を拒否した。南信一般労組のビラによると、「(総同盟)幹部が(評議会系の)応援を拒否するのは遺憾である。全労働者の応援を受け入れるべきである。資本家団体の諏訪製糸研究会は『争議団参加者はどの工場でも使用せぬ』と決議した。」

 

094 浅野あや子「伊藤千代子追悼録」に上条静枝が登場する。上条静枝は上條寛夫の夫人で、上条寛夫は労農党長野県連常任書記で、諏訪地方の労農党運動を担っていた。その上条静枝によれば

 

「一昨年(1927年)の夏、唐沢清八丹野節子セツ、渡辺政之輔婦人)が諏訪に来て演説会をした。私はその接待のための炊事を一人で担って疲れ切っていたが、千代子さんが時々見えて、肩をもんでくれた」

 

 労農党諏訪支部は19276月に結成された。またこのころ諏訪合同労組南信一般労組など階級的な労働組合が運動を開始した。上条静枝によれば、19278月、諏訪地方で1か月に12回演説会が開かれ、そのうち労農党の時局批判・政談演説会が8回、労組の労働問題講演会が4回開催された。そして唐沢清八と丹野セツの演説会は南信一般労組主催であった。また上条寛夫も弁士を勤めた。

 

095 唐沢清八は伊奈郡高森町出身で、諏訪地域の評議会系組織の諏訪印刷工組合同工会の活動家で、この後の(19282月の)第一回普選で東京4区から立候補した。千代子はこの唐沢を尊敬していた。

 

 192910月、千代子の訃報に接した諏訪の日本製糸労働組合は救援会連名で追悼文を発表した。(第12138頁)

 

「私たち工場に働く者の真の味方であり指導者であった伊藤千代子さんが亡くなってから丁度1か月経ち、今月24日はお命日である。賃金3割アップ、罰則制度廃止、汚い寄宿舎の改善などの要求を工場主にたたきつけることによって、千代子さんの追悼の日としましょう。

 千代子さんは私たち働く者が不当に苦しめられているのを見るにしのびず、大学をやめ、私たちの生活をよくするために東京本所の紡績上場に働き、勇敢に闘ってくれた。千代子さんはデニール罰*や粗製罰その他色々の罰を作って工場主が如何に巧妙に搾り取っているかを教え、…一人や二人で騒いだのではだめだ、みんなが一緒になり団結の力で…全製糸労働者は一つの組合に団結して闘うことが必要だとはっきり教えてくれました。

 千代子さんは死ぬまで諏訪の女工さんのことだけが心配だと云っておりました。私達は今日の輝ける指導者、伊藤千代子さんを闘いで葬うことにいたしましょう」

 

*デニール 仏denier 、長さ9000メートルの繊維の重さ(グラム)、記号d

 

 浅野晃は労農党諏訪支部にオルグに来た時、夏休みで帰省中の千代子に求婚した。(東栄蔵前掲書)

 

 

感想 2023222() 上記のように諏訪の女工の証言によれば、伊藤千代子は「大学をやめて東京本所の紡績工場で働いた」138とあり、また大学は千代子から受験できない旨の連絡を受けている。これらのことは、千代子から祖父宛の手紙の内容167、つまり卒業試験や謝恩会などの日程を説明し、3月分の仕送り額をいつもより10円余計要求する内容とは矛盾する。

千代子の真面目な性格を考えると祖父に嘘をつくなど信じがたいのだが、やはり千代子の真意は大学をやめて工場で働き、労働運動や選挙支援などの共産党の活動に専念したかったのかもしれない。

 

感想 2023325() 上記の解釈もあり得るが、今は訂正しておく。千代子に表裏はなく、本人は卒業するつもりだったが、大学が退学処分にしたから受験できなかったとしておく。本書の著者もそう考えているようだ。

 

 

第九章 1928315日 朝

 

096 一 入党

 

 1928127の第二回尋問調書によれば、千代子は1928229日午後2水野成夫(しげお)の推薦で入党したとある。168, 169

また「赤津益造外13名治安維持法違反被告事件予審終結決定書19291031」によれば、「被告人伊藤千代子に対する本件起訴事実は、同被告人は昭和319282下旬氏名不詳者の勧誘に応じて、日本共産党が前記のごとき目的を有する秘密結社であることを知りながら、これに加入したるものなり」とある。(当局の1年後1929年の資料の方が、日時・氏名が曖昧になっている、不可思議。)

 

097 千代子は入党後、党の中央事務局で事務処理や連絡、ガリ切りなどの雑用をしたが、169水野成夫事務局長がそれを千代子に指示した。

 

 千代子が1928315日の逮捕時に所持していたり、下宿先から押収されたりした文書の中には次の二つがあった。104

 

「政治経済情勢に関する日本共産党のテーゼ(草案)」

「大衆党活動の日本共産党のテーゼ」

 

千代子は滝野川区(現、北区)西ヶ原の党の印刷所で逮捕された。

 日本共産党は第一回普選で共産党のビラを演説会で撒いた。

1928315日の逮捕者(党員と活動家)は1600人だった。

 

 

二 本郷区湯島5丁目3番地 亀井方

 

098 「赤津益造外13名治安維持法違反被告事件予審終結決定書19291031日」によれば、

 

伊藤千代子 無職 当25年(歳)

本籍 長野県諏訪郡湖南村4354番地

住所 東京都本郷区湯島5丁目3番地 亀井方

 

浅野晃は1929114日、監獄(豊多摩刑務所、現中野区、廃所)から、浅野あや子「伊藤千代子追悼録」に一文を寄せ、「315日当時湯島の床屋の二階に巣くっていた」と述べている。

昭和71932年発行の地図と昭和36月発行の地図や、当時を知る近所の人(戸田)の証言から、浅野夫妻が当時住んでいた場所は、現在では「栗原の倉庫」(現、老人ホーム)であり、その隣には当時渡辺女学校の寄宿舎(現、湯島綜合センター)があった。

 

 

三 党印刷所へ

 

101 1928315日の朝8時半ころ伊藤千代子は滝野川の党印刷所(斉藤久雄宅)へ向かいそこで逮捕された。このことは浅野晃が東栄蔵に語ったことや、三・一五で逮捕された原菊枝が獄中で伊藤千代子から聞いた話(『女子党員獄中記』141)や、官憲の調書「徳田球一外36名治安維持法違反被告事件予審終結決定書」における、斉藤久雄に関する記述から確認できる。

浅野晃「千代子はその日の朝8時半ころ、いつものように共産党中央事務局へ出かけたが、水野成夫から託された『赤旗』の原稿を持って滝野川の党印刷所に行き、そこで逮捕された。」(浅野晃の東栄蔵への証言)

 

102 日本共産党は1927年に党の綱領的文書「二七年テーゼ」を発表し、その具体化の中で、党中央委員会の機関紙「赤旗」(セッキ)第一号を192821日に発行した。月二回の発行で、315日は第四号の発行日であった。この「赤旗」創刊の事情は、犬丸義一・塩田庄兵衛『赤旗復刻版』白石書店1973年の解説を参照されたい。それによれば「赤旗」第一号から第四号は滝野川の党印刷所で発行されたとある。

 前述の「徳田球一外36名治安維持法違反被告事件予審終結決定書」によれば、「斉藤久雄は同(昭和)三年一月上旬頃、同党中央部印刷局員に任ぜられ、同年三月一五日までその任にあり、北豊島郡滝野川町字西ヶ原百六番地被告人方の印刷所において、中央部より事務局を介して公布せられたる原稿に基き、赤旗第一号、第二号、第三号、第四号を印刷し、これを事務局に交付し、…」とある。

 

 

四 所持文書

 

103 感想 原菊枝『女子党員獄中記』によれば、伊藤千代子が1928315日に逮捕された時に持っていた書類は、手に持っていた書類二通と、懐に入れていた書類が二つ三つとがあり、前者は警官に取られたが、後者の懐に入れていた書類はトイレで処分したとある。

 

104 『現代史資料』(14 社会主義運動1 山辺健太郎著 みすず書房)の編者山辺健太郎によれば、「政治経済情勢に関する日本共産党のテーゼ(草案)」は、日本共産党第二回大会に提出するための草案であった。

 

105 予審判事第三回訊問(1928128日)によれば、伊藤千代子は「水野成夫は私に『大衆党の活動に付いての日本共産党のテーゼ』と『政治経済情勢に関する日本共産党のテーゼ』とを渡し、『この二つを翌朝までに原紙に切って古賀のところに届けてくれ』と申しました」と言っている。また千代子は検挙時には偽名を使い、「私は逮捕された時に村田かず子と名乗りました」とある。

 

 警視庁特高警察課長纐纈弥三文書の警視庁特高課「秘密結社日本共産党事件検挙調」によると、三・一五事件で同日から17日までに検挙された者に関する、党の印刷所を管轄する滝野川警察署管内での検束者名簿には、

 

「滝ノ川警察署関係 藤原久26、山田フミ23村田かず子23、喜入乕(とら)太郎27、水野成夫29=以上15日検束」

 

とあるが、藤原久雄は党印刷所の責任者、水野は党中央事務局長、喜入は同事務局員、村田かず子は伊藤千代子であった。

 

106 渡辺政之輔と市川正一は三・一五では逮捕を免れ、322日に「赤旗」5号を発行した。しかし、渡辺政之輔は1928106日、台湾のキールンで警官に包囲されピストル自殺した。また市川正一は1929428日に逮捕され、1945315日、宮城刑務所で獄死した。遺体は東北大学で解剖材料にされ、19483月に発見されるまでホルマリン池に放置されていた。

 

 

 

10章 市ヶ谷刑務所にて 獄中の千代子

 

 

感想 2023225()

 

 本章の文献

 

・原菊枝『女子党員獄中記』昭和51930年、107, 109

・塩沢富美子『野呂栄太郎とともに』1986年、108 

・浅野あや子『伊藤千代子追悼録』192912月、110 浅野あや子は浅野晃の妹。母は「浅野ステ」

・『地しばりの花』20051220日、114, 157所収の伊藤千代子の手紙

 

千代子の1929729日付浅野ステ宛て手紙の発見は、二度に分けられていて、その最初の3行は『伊藤千代子追悼録』に、その全部は『地しばりの花』に収められている。114, 115

 

Webcat Plusによれば、塩沢富美子1909-1990、『野呂栄太郎の想い出』新日本出版社19764月。

未来社『野呂栄太郎と共に』では、「塩沢富美子は野呂栄太郎の獄死後、塩沢自身の下獄中に自身の子が死亡したことを知り、その後医学の道に進み、社会活動を続けた。」とある。

一方Wiki「野呂栄太郎」では、塩沢は野呂の死後、妊娠中に逮捕され、釈放後に野呂の女児を出産したが、夭逝した。

 

107 伊藤千代子が警察で拷問を受けた後に拘留された市ヶ谷刑務所(未決監)は、現在は都立総合芸術高校であり、それ以前は都立小石川工業高校であった。

 

 

一 検挙、拷問

 

 滝野川警察署は千代子を取調べ、髪の毛を引っ張り、鉛筆を指の間に入れてねじ回し、殴り、蹴った。千代子は高熱を発したまま市ヶ谷刑務所の女区の病舎独房に収容された。その部屋は刑務所本館との入口に近く、クモの巣が張るじめじめした病人隔離部屋であった。千代子は警察での拷問のため10日間起き上がることが出来なかった。

 原菊枝は千代子の近くの病舎に収容されていて、千代子と直接会話した。その千代子の話によると千代子が入った部屋はこれまでは物置で、クモの巣が張り、トイレの中は塵芥とクモの巣であった。

 

 

二 同志たちを励まして

 

108 千代子は『資本論』や政治、経済、歴史、英語文献(制約があった)などを読んだ。仲間との連絡は大声を出して自らが誰かを示し、(一つ部屋を挟んでいたが)壁を叩いて信号を送り、運動場の中庭の地面に情報を書き込んでいた。そのため渡辺政之輔が自殺したことを早い時期に知っていた。

 

 1928年の秋、共産青年同盟員の氏名がばれ、塩沢富美子が市ヶ谷刑務所に入ってきたが、そのとき塩沢は鉛筆の芯を着物の襟に入れて持ち込んだ。そのため中庭の大木の根っこの石の下にチリ紙に書いて情報交換することができた。

 

109 千代子は獄中の他の同志に気を配って激励し、刑務所当局に待遇改善を要求し、獄外の人にも手紙で激励し、夫浅野晃にはその母親ステを通して健康を案じた。

 

 1929年の「こぶしの花が咲くころ」(3月~4月)千代子が運動場の中庭から「リツ、リツ」(塩沢富美子の変名)と塩沢富美子に呼びかけ、塩沢は一年ぶりに千代子の元気な笑顔を見ることができたが、それが最後となったという。その時千代子は「資本論は4月まで許可されたが今はだめ、何を勉強しているの」と言ったとのことである。

 

 原菊枝は「千代子さんは多くの外で働く同志のこと、そして中に同じく入っている、金銭にも衣服にも困っている同志のことを考え、…誰が困っている、誰々には本がないと、凡て自分のものをその方へ入れるように努めておられた。」「千代子さんにはいつもひと月に一回面会があったが、他の面会のない人に対して済まないと言って、自分の面会を広く利用できるように配慮した。」

 

110 浅野ステは月に1回面会に訪れた。また時々は浅野晃の妹のあや子も面会に訪れた。浅野ステは浅野晃と千代子とを交互に訪ねて、千代子は浅野晃と情報を伝え合うことができた。

 

 

三 獄中からの手紙

 

 千代子が亡くなった年の192912月、浅野晃の妹の浅野あや子が「伊藤千代子追悼録」をガリ版刷りで作成した。現在そのうちのB412頁分が残っているが、欠落部分は13頁と推定される。この追悼録は東栄蔵が浅野晃から譲り受けたものであり、その後それは日本共産党中央委員会に寄贈された。

 現存している部分には千代子の手紙17通があり、欠落分には30通近くがあると推定され、合計50通近くとなる。これは(千代子が拘留されていた期間に書かれた手紙らしく、)19283月から19297月までの16か月のものであり、月平均3通となる。

 その手紙の中に192855日に発信した佐々木なつ子宛の手紙がある。佐々木なつ子は本名を斉藤なを子といい、尚絅女学校時代の千代子の友人で、1925年に千代子と共に上京し、東京女高師に在学中であった。それによると、

 

192952日、当局は「本日より一日一回8銭の菓子の購入を許可す」と言いつつ、そのお菓子が来ない昼前に、「お前が読んでいる『資本論』をよこせ」と言って取り上げ、その後何度抗議しても『資本論』は戻ってこず、夜になって『資本論』差し止め告知が来た。「本のない一日は身のおきばもなくたまりません」と千代子は述懐している。

 

111 大澤久子(本名小澤久代小澤正巳夫人)宛1928710日付手紙では、「独房は蒸し風呂のようだ。機械的な語学と小説(ゴーゴリやゴーリキー)ばかり読んでいる。ギッシングのヘンリー・ライクラフトの手記(研究社、博文堂)など英語の本やブル新聞を入れて欲しい。」

小澤久代宛1928731日付手紙では、「監房は暗くシケ臭くてたまらない。帝国憲法を差し入れて欲しい。」

 1928年暮近く、千代子は頸部リンパ線炎となったが、所内の医師は水銀軟膏だけを処方。また足の裏に黒い斑点ができ、リューマチで座っていられなかった。

112 19292月ごろ生理が止まる。

 

 

四 変節攻撃のはざまで――誠実に生きた証し、生前最後の手紙

 

1929523日、水野成夫が「日本共産党脱退に際し党員諸君に」と題した上申書を書いた。水野は1929年の初めころから同内容の手紙を書き、それを平田勲検事が獄(市ヶ谷刑務所)内の主要メンバーに読ませて意見書が交換され、河合悦三南喜一門屋博などが水野の考えに同調した。それは天皇制支持を表明し、共産党の解体出直しを主張するものであった。

 水野成夫は千代子を党員に推薦した男であり、戦後はフジ・サンケイグループのトップとなった。

 

千代子は19295月~7月下旬までの間に4通の手紙を書いている。

113 192958日付の義妹淑子宛の手紙では、「人は地しばりのようにあらん限り生きようとするから大切な命も投げ出すのだ」と書いた。

1929726日付の義母浅野ステ宛の二通の手紙では、「裁判所に行って同志たちに会って感動し、泣きとおして一睡もしていない。自分もあの人たちのように日本の民衆の幸福のために命がけで闘う決意をした。あの人たちの中にはあなたが地上で最も愛されている人(浅野晃)もいる」と書いた。

 

114 千代子は当初(男性党員の変節の噂は)検察側の謀略だと考えて女性同志でがんばっていたが、「裁判所に行ってあの人たちの弁論を聞いてから、そのスローガンを革命運動の原点に据えるべきだと感動し、夫も私も頑張る」とステ宛の手紙に書いている。

 

115 『伊藤千代子追悼録』所収の1929729日付浅野ステ宛て手紙の最初の三行には「理屈がいやになりました。身の程知らずの私を笑ってくださいまし」と気落ちしつつ726日の前便の内容を否定するが、これに続く残り21行を含む『地しばりの花』所収の同日(729日)付の手紙の最後では、「私も真剣に準備している。せんさん(新潟で保釈された又いとこの平林せん)はもうずんずん歩いている」とし、決意を新たにしている。

 

81日付刑務所側の報告「挙動に不自然なる様子見ゆ」

 

千代子は党の間違いや弱点を隣房の同志に問いかけた後に、浅野晃の変節を知った。

 

116 浅野晃は19294月上旬ころには水野成夫の「手紙」に同調し始め、「感想」や「手紙への回答」を書いて検事に提出した。そして726、「共産党の態度が甚だしく誤って居り従来事々に重大なる政策上の過を犯して来た。…解党することが唯一の方法である」という「上申書」を書き、亀山慎一検事に提出した。その際「千代子にこの『上申書』を見せないでくれ」と懇願したが、亀山は千代子に見せた。

117 そして浅野晃は87、亀山検事に「『君主制廃止』の政策を撤廃し、組織を改めて(解党して)」という上申書を提出した。

 

塩沢富美子は「信州への旅」(前掲誌、塩沢富美子「信州への旅―諏訪湖」1975年(『信州白樺』21号所収)055)の中で、「6月には解党派問題の発生を風の便りに耳にしたが、私たち婦人の同志たちは結束してこの解党派に反対した。そののち千代子さんが一人で検事局に呼ばれ、検事から浅野晃の解党意見を読まされた。千代子さんはもちろん反対したということでした。」

 

1929930日、党は水野成夫、浅野晃らの解党派を除名した。

 

 

11章 苦悩に灼(や)かれて――千代子の死

 

 

118 一 伊藤千代子病歴記録の「発見」

 

 藤森明が著書を出版したころ、佐野英彦井上幸男を通じてに、秋元波留夫の新聞「赤旗」の記事1996.9.14を読み、秋元を取材するようにと伝えて来た。佐野英彦は戦前上智大の社研(に所属し)、全協の活動家で、当時94歳であった。また秋元波留夫は治安維持法下における精神的犠牲者について研究する精神科医で、彼も当時94歳で高齢ながら、精神障害者の共同作業所運動に参加していた。

 

*藤森明『こころざしいまに生きて――伊藤千代子の生涯とその時代』(1995、学習の友社)043

 

119 秋元波留夫は電話で私に「戦前の松澤病院での治安維持法弾圧犠牲者に関する研究資料が存在し、千代子の病歴も発見できるかもしれない」と話した。20001217日、私は秋元宅を訪れた。秋元は千代子の精神病に関する研究資料を持っていた。それは野村章恒(あきちか)医師の研究論文であった。

 

120 「心因性精神病、殊に拘禁性精神病に関する臨床的研究」東京府立松澤病院 医学士・野村章恒(『精神神経学雑誌』昭和121937320日発行所収)

 

 野村は語る。「本邦での心因性精神病の研究は比較的最近のことであり、文献が少ない。余は東京府立松澤病院在勤7年間中に同症を研究し、その治療と病症発生の機転を観察した。たまたまそのころは左翼無産運動の隆昌期で、共産党事件の最中であり、同種犯罪者の拘禁性精神異常の例を多数研究・治療する機会に恵まれた。余はこの種の資料を蒐集し、先ず心因性精神病の統計的観察を始め、次に拘禁性精神異常の各例の症状を比較検討した。」

 

 この論文は1925年大正14年から1935年昭和10年までの間に刑務所から松澤病院へ移送された、劇症発症という特異な精神病者30人の診察記録と観察研究を分析したものである。野村はその病状を拘禁性精神病と命名した。

 以下の表のように、30人中25人が治安維持法違反者の共産党員や活動家であり、20歳代がほとんどである。入院(件数)は昭和3年の三・一五事件、昭和4年の四・一六事件以後から増え始め、昭和6年、7年ころがピークとなる。

 

121

 

東京府立松澤病院の拘禁精神病者                 拘禁精神病者の犯罪種別

 

              入院       退院                                   犯罪種別              例数      

大正14  1            0                                        治安維持法違反   25          82.3

大正15  0            0                                        窃盗                     2            7.2

昭和2    0            0                                        傷害                     1            3.5

昭和3    0            0                                        殺人                     1            3.5

昭和4    3            2                                        血盟団事件          1            3.5

昭和5    2            2                                                  30         

昭和6    7            5                                                                   

昭和7    7            4                                                                   

昭和8    5            4                                                                   

昭和9    7            6                                                                   

昭和10  1            6                                                                   

 

 

治安維持法弾圧による拘禁精神病発症の人たち

 

姓名                     年齢       性別       職業       検挙       入院期間              転帰

松本倉吉              33                    木工       3        111か月         全治退院

片山峰登              29                    製図工   3        110か月         全治退院

朴得鉱                 25                    学生       3        5か月                  全治退院

箕輪郁彦              23                    学生       5        9か月                  全治退院(再発)

原田耕                 28                    著述業   5        5か月                  全治退院

上田三郎              23                    会社員   4        120            全治退院

宮原末勇              29                    電機工   8        8か月                  全治退院

岡田勝定              23                    学生       7        15か月           全治退院

金 志爀              27                    学生       8        1年余                  軽快退院

金 致延              29                    飛行士   8        2年余                  未治在院

鏑木義美              27                    学生       5        17か月           全治退院

石川四郎              27                    自由労働者 6        16か月           軽快退院(再発)

北浦千太郎          29                    著述業   3        28か月           全治退院

奥林義雄              21                    店員       5        4か月余               全治退院

井汲越次              29                    学生       4        12か月余       全治退院

森田京子              24                    学生       3        5か月                  全治退院

中本たか子          29                    著述業   5        8か月                  全治退院

片山 睿              26                    学生       3        21か月           全治退院

田村冬松              36                    鋳鉄工   7        18か月           軽快退院

大久保兼彦          27                    勤人       5        18か月           全治退院

田代文久              36                    著述業   8        2年余                  軽快退院

内野 実              28                    勤人       7        2年余                  未治在院

長谷川茂              26                    学生       7        8年余                  死亡

伊藤千代子          25                    学生       3        1か月余               死亡(肺炎)

小松儀四郎          23                    学生       7        3か月                  死亡(腸カタル)

                                                                                   

氏名の特定は秋元波留夫と藤田廣登による                                                                        

 

 

 

二 病歴記録

 

123 野村章恒の論文

 

29例 伊〇千〇 25 治維法違犯

 

以下は刑務所から病院への報告

 

家族暦 父母は入養子。患者の生後に母が死亡したため、父は離婚して消息不明。養祖母が健存で、主に祖母に養育される。*同胞なし。22歳に結婚したが、挙子(子をもうけること)なし。

 

*小学校3年生以降は岩波久之助・たつが伊藤よ祢から千代子を引き取って育てた。

 

本人暦 気質は快活・温順・無口。頭脳明晰。高女卒、成績優秀。後小学校教員となり、女子大学英文科に入る。これより前、夫の影響により、左傾思想に興味を持つ。入学後学内社会科学研究会に加入し、昭和3315日検挙、次いで刑務所に収容せらる。

 

発病以来の病状と経過 未決拘留中に頸部淋巴腫を病み、手術を受けたるも、回復治癒が遷延(長引く)したため、医師に病気の原因・予後を執拗に質問し心配していた。

 昭和481日、挙動に不自然なる様子見ゆ。即ち時に大声を出し、翌2日、独房の壁に向かって隣室の人と対話するような独語をなす。次第に独語が旺盛になり、談話内容は散乱し、拒食となった。ついで精神運動が興奮し、裸体に蚊帳を腰に巻き、部屋の隅に踵居(かかとで座る?)し、経血で身体を汚染し、他人の注意に一切応じない。

 811日、義母(浅野ステ)面会時に支離滅裂の高声・独語があった。全く周囲の見境がなかったと(刑務所は)言う。

 

以上が刑務所の報告

 

 

次は病院内の状況

 

入院後の症状と経過 入院当時の身体の発育は良好で、体格は強く、栄養は中等で、毛髪は豊富で、漆黒。変質・畸形はない。膝蓋腱の反射は亢進。姿態は無頓着・無遠慮。顔貌の表情に乏しく、強固。応答は自己の姓・年齢は正答。他は拒絶的ででたらめが多い。

 

「ここはどこか:病院…井上…」

「子どもはあるか:知りません。雀の学校…」

「姉妹は:あります。幾人か数え切れません」

「結婚は何歳か:25歳(正答)」

「東京の大地震は何年か:大正12年じゃないですか…ばかばかしい」

「法律とは何か:独裁独歩主義です」

「なぜ入院したか:私も共産党ですよ」云々。

 

「知人が自分を呼んでいる。アララギ社同人です」と言い、幻聴するもののようだ。病室では興奮し、落ち着きがない。

 

821日 病室内の診療室に伴ったが、拒診。絶えず独語を続ける。内容は散乱して纏まりがない。意志が阻碍し、「先生の所に行きたい」と泣き出しそうに大声で哀訴するが、間もなくゲラゲラと笑い、また顔を歪めて虐待されるような様子を呈し、「嫌だ、嫌だ、知らない」と連呼する。その後、831日まで10日間拒絶症で緘黙。

91日 高熱を発したが、拒診。

95日 午前9時、銹(さび)色の痰を多量に喀出

96日 夕刻から起き出て枕頭の手拭を取って頬冠をするなど悪戯がある。時に含嗽(うがい)をする。

98日 義母(浅野ステ)面会時に自発的に漬物を要求する。他人とは語らず、質問にも答えないが、義母との対話は相当によく纏まっていて、表情も普通である

924日 肺炎死亡。

 

要約 本例は家庭的慈愛に恵まれず、性格は真率(正直で飾り気がない)で研究心に富み、真面目で熱中性で、治安維持法に触れて入所し、15か月を経て夫の思想的転向に憤り、感動煩悶し、後に心気性(気が重くなる)となり、幻聴が旺盛で、意識が混濁し、興奮状態となり、入院後に肺炎となって死亡した。

興奮錯乱は緊張病のそれと酷似するが、感情の環境に対する反応は一部敏感で、単なる拒絶症として処理できないところがある。殊にその感情は現実社会への憎悪となり、義母や同志以外には反抗するもののようだ。病象(像、病気を特徴づける症状。病態)によって心因性憤怒感情による反応が著しく認められる拘禁性乖離性反応型に属すると考える。

 

以上野村論文

124 秋元先生(元都立松沢病院院長001)は千代子が回復傾向にあったという。

 

 

三 診察・診療拒否

 

125 千代子は市ヶ谷刑務所から松澤病院へ護送車で移送され、そこには私服が付いた。1931年昭和6年、プロレタリア作家中本たか子も松澤病院に入院したが、松澤病院での問診について「特高が来て訊ねるんだと解釈した」と回想している。(中本たか子は昭和51930年に検挙され、松澤病院に8か月間入院し、全治退院している。年齢は29歳であった。)

126 千代子が収容された中四棟病室*の入口と出口には鍵がかけられ、特高の監視下に置かれていた。また野村章恒医師は治療を転向完成の場と捉えたていて、それは千代子にとっては受け入れがたいことであったと思われる。以上の点から千代子が病院で診察や診療を拒否した理由が分かる。

 

*岡田靖男精神科医に特定してもらった。

 

 

四 空白の二週間

 

 98日の義母との面会から924日の死亡までの16日間の松澤病院の観察記録がないが、これは治療放棄だろうか。

127 この16日間に三組の見舞訪問があった。

 

今井久代は諏訪高女時代の級友で、松澤病院へ千代子を二度見舞ったが、「千代子さんの精神はもう正常に戻っていて、私が誰だかすぐ分かりましたの。まわりの精神病者を抱いては『かわいそうに、かわいそうに』と涙ぐんで、私が持って行った食べ物などもみんな『さ、お上がりなさい』とあげてしまうのですよ。」(葛城誉(しげ)子『イエローローズ』)

 

915日、浅野晃と母ステが千代子を見舞った。浅野晃は突然一泊の保釈出所を許されたが、私服刑事二人が同行した。浅野晃の「千代、わかるか僕だよ」という呼びかけに千代子は振り向いたが、一瞬「イヤ イヤ」というように首を振り、また私服刑事の姿を見て、仲間の中に逃げ込み、もう浅野晃の方を見ることはなかったという。(東栄蔵前掲書)

この浅野晃の仮保釈見舞いは浅野ステの刑務所側への懇願によって実現したと言われている。

 

千代子の死亡直前で最後の訪問者となった人は伊藤一郎である。伊藤一郎は郷里諏訪の千代子の親戚で、千代子の甥である。一郎が訪問した日は千代子が亡くなる数日前の920日ころであったと推定される。一郎は病院から「千代子が薬を飲まないで困っている」と要請された。一郎は「千代子、よ祢おばあさまへのお土産のつもりで薬を飲んでおくれ」と懇請し、千代子は「この薬を飲むと具合が悪くなる」と言いながらも、一服飲んで見せたそうだ。そしてこの時の千代子の病状はそんなに差し迫ったものではなかったという。それで郷里の親戚筋では戦後も長い間「お上に毒を盛られた」とささやかれていたという。

 

128 野村論文に収録された25人の入院後の経過では、1925年から1935年昭和10年までの間で、全治退院が16人、軽快退院が4人、未治在院が2人、他病併発死亡が3人であり、多くは治癒退院している。その点統合失調症とは異なる。

 

 中本たか子の回想 作家・中本たか子は治安維持法違反で検挙され、同じく市ヶ谷刑務所に収監された。中本たか子は千代子(の発症)から1年半後の1931年昭和61月に拘禁精神病を発症し、24日に松澤病院に強制入院させられた。

中本たか子は『わが生は苦悩に灼かれて』(1973年、白石書店)の中で、松澤病院入院当時を振り返っている。中本たか子はかつて千代子も収容された狂躁患者用の第四病棟に送られた。「患者は日中、食事の時間以外の大部分を硫黄の湯に入れられていた。夕食が済むと、みんなは湯の中から追い上げられ、はだかのままで、看護婦の持ち出した布団を病室にしいて、その中にもぐりこんだ」「後で、この病院内の別の病棟に移されてから、患者の話により、伊藤千代子が第四病棟で裸のまま監禁されてついに肺炎を起こし、この病院で死んでしまったことが分かった」という。

 

129 千代子は1929924日午前040分、24年と2か月の生涯を閉じた。「諏訪の羊羹が食べたい」が、老看護婦長に遺した最後の言葉だったという。

 義母のステが急いで獄中の浅野晃に千代子の死を知らせたが、浅野は「悲しかったが、涙は出なかった」と書いている。

 

 

五 特高警察の監視下に置かれた患者と転向推進の治療方針

 

 浅野晃が千代子を訪問した時には私服警官が病室にまで入って来た。そのことについて野村医師は論文の中で、「…ところがこのような開放作業治療は、昭和71932年以前は、面接時に警察官の付き添いを必要とし、警戒を厳しくするように要求され、そうでないと精神病院に入れることは危険だとされ、(治療が)困難だった」とする。

 

130 ところがそう言う野村の治療方針は、「…これらの狂信的(共産主義)信奉者が、長い病院生活の中で次第に時代の思想の変化に影響を受け、…彼らの英雄的・優越的感情が沈静化し、内省し、家庭を思い、父母弟妹を敬慕する感情が起こり、思想転向を表明するようになると、その症状は軽快する」とし、

 「本症の治療は終局において慰安説得に尽き、入院の理由から始めて退院の手続きまでをよく説明し、徒に自由を望んで保釈を願う単純粘着性観念を徐々に是正し、作業によって(刑務所への)再拘禁時の再発予防を自覚させて完全な治療をすることである。思想犯罪者に自己の体質・精神傾向を反省させ、思想転向に導くことができる」とする。

 

 共産党員らは刑務所で肉親や近親者や恩師らから変節を懇願されると同時に思想検事の峻烈な取調べと変節の強要をされる。検事に調書を取らせず変節も表明しないと、重病になっても、親の死に目にも保釈されず、(重病になっても)入院させなかったことは枚挙にいとまがない。変節を表明して活動から離れれば、この苦難から逃れられることを野村は治療に利用しようとした。

 

 

六 特高警察の死亡通告書

 

 特高警察から裁判所に「被告人の死」が連絡され、裁判が中止された。そこに死亡診断書が添付された。

 

特高秘第2598

昭和4924

警視庁特別高等課長 警視 上田誠一

 

東京地方裁判所 検事正 塩野季彦殿

執行停止中被告人死亡診断書送付の件

 

治安維持法違反被告人 伊藤千代子 明治38721日生

右者執行停止後管下松澤病院に入院せしめ加療中の処

本日午前零時四十分同院に於て死亡致候条 死亡診断書相添此段及報告候也

 

第六十一号死亡診断書

 

一 氏名                      伊藤千代子

二 男女の別                

三 出生の年月日          明治三十八年1905年七月二十一日

四 職業                        なし(家計の主なる職業 なし)

五 死の種別                 病死

六 病名                        拘禁性精神病兼肺炎

七 発病の年月日          昭和四年八月不詳日

八 死亡の年月日          昭和四年九月二十四日午前零時四十分

九 死亡の場所             東京府荏原郡松澤村 東京府立松澤病院

 

右証明候也

昭和四年九月二十四日

東京府立松澤病院 医師 菅 修 印

 

「転向」は当局が用いた用語で、「正しい方向に転じ向かう」という意味である。私は引用文以外は「変節」「裏切り」という用語を用いる。

 

 

第一二章 追悼

 

千代子の仲間たちは千代子の死後抗議の声を上げた。

 

 

一 数奇な運命を辿った手紙 平林せん

 

133 又いとこの平林せんは伊藤千代子の遺骨が帰郷したとき、その葬列を見送った。当時平林せんが書いた手紙が70余年後に発見された。それは当時豊多摩刑務所に収監されていた未決拘留中の浅野晃に1929109日に送ったものである。(豊多摩刑務所は戦後中野刑務所となり、その後廃所となった。)その手紙の要旨は以下の通りである。

 

「千代子姉の死はあまりにも夢のような意外な出来事であった。ささやかなお葬式でしたが、千代子姉の霊は私たちの心臓を堀りえぐる程力強かった。最後まで千代子姉の心は全無産階級のために戦ってくれた。

134 千代子姉は刑務所や病院など因習的な支配階級の中で死んだ。千代子姉のあまりにも清らかな美しい姿に感激せずにはいられない。

 私は千代子姉の霊を抱きしめて千代子姉の後を継ぐべきだと誓った。千代子姉を失った貴兄を忍ぶに耐えないが、しっかりしてください。

 

           十月九日 上諏訪町中浜町○○〇方 平林仙子」(〇は判読不能)

 

135 平林せんは共産党員として新潟で岡崎一夫河合悦三らと共に活動した。「赤色信越」紙を発行・配布し、三・一五で逮捕され、執行猶予で出獄し、郷里諏訪に帰っていて、千代子の葬列を見送った。平林せんは闘病生活の後、1940年昭和15年に33年の生涯を閉じた。

 

 20011月、佐野英彦118がこの平林せんの手紙の存在を指摘した。(小沢てつおが)『獄中の昭和史』(青木書店)を編纂中の1985年に、豊多摩刑務所の獄吏が収容者の手紙を書き写していたことが判明したが、この手紙群は獄吏から細田民樹を経て伊豆公夫に渡り、さらに『獄中の昭和史』の編集委員で中野区議の小沢てつおに渡っていた。

 

136 平林せんは1908年明治4166日諏訪郡中洲村に生まれ、千代子より三歳年下で、1920年大正9年、中洲小学校を卒業し、それ以後1927年昭和2年(20歳)まで隣村の湖南村東英社ヤマニ工場の製糸労働者として働いた。毎日朝6時から午後6時まで働き、日給は70銭から80銭であった。当時の平均日給が50銭だったらしいから、平林せんは熟練工だったと思われる。

 そこで1927年夏に帰省していた伊藤千代子に会い、労働問題に関心を持ち始め、千代子の紹介で労農党諏訪支部常任の上条寛雄に会い、上条から『空想から科学へ』や経済学書を借りた。そして同年192712月に東京の姉夫婦を頼って上京し、既に結婚していた新宿の千代子に面会し、千代子の紹介で港区三田の日本労働組合評議会の事務所の仕事を手伝い始めた。そこには長野県下伊那出身の唐沢清八がいた。

 翌1928年、信越地方の党組織の再建の任務を帯びた河合悦三とともに信越地方に赴いたが、これは千代子らの紹介であった。そこで「赤色信越」の印刷・発行を行った。

330日に検挙・投獄されたが、その事実が獄外に知られず、面会や差し入れなどの救援の対象外だった。平林せんが郷里に出した手紙を見た母親が、逮捕から5か月後に面会に来た。千代子はそのことを獄中に面会に来た郷里の叔母から知り、浅野晃の妹の浅野あや子に救援を依頼した。

 

137 平林せんは1929227日に懲役2年・執行猶予3年の判決を受けて出獄して帰郷し、千代子の葬列に参列した。

 その後平林せんは信州繊維労働組合の組織化に参画し、1929416日に壊滅された長野県下の党組織の再建活動に参加した。

 

 1931年ころ東京の全協繊維の本部活動に参加し、真弓信吾と知り合い、1933年二人は検挙された。真弓は同労組組織部長で福島県須賀川の出身である。

 1934年二人は結婚した。

 1940年昭和151212日、平林せんは結核のために清瀬の国立療養所東京病院で33歳で亡くなった。

 戦後の1948年の第一回解放運動犠牲者合葬追悼会で、平林せんと伊藤千代子は東京南青山2-33の解放運動無名戦士の墓に合葬された。

 

 

以下は、伊藤千代子の又いとこの平林せんが19281月から3月ころの間に新潟で執筆した「赤色信越」第五号「製糸女工号」の一部である。

 

 

赤色信越 第五号 日本共産党 地方機関紙 定価五銭

製 糸 女 工 号

 

労働者農民のために戦いつづけてきた「赤色信越」は今や労働者農民大衆の間に力強い支持者を見出しつつある。ここに長野県諏訪郡の女工さんより長い手紙が送られたので「赤色信越」を特別号としてそのままのせて十二万の女工さんに訴えることにした。同じように工場で苦しんでいる女工さんにはきっと力強く感銘を与えるにちがいない。吾々はかわいい娘を工場に出している父兄諸君につげたい。諸君の多くは貧乏な百姓だ。食うに困ればこそかわいい娘を小学校を出るや出ないに遠いところへ一人でやられたのだろう。募集人はウマイことづくめを並べたてても諸君だって女工生活の苦しい事位は想像されよう。諸君のかわいい娘は今工場の中から次のように叫んでいる。諸君はかわいい娘が立って暴虐な資本家と戦うことを極力助けてやらねばならぬ。かわいい娘の身体のために又嫁入り支度が充分に出来るために更に諸君の家計の一層助かるためにも。

 十二万の女工諸姉に訴う。

一年のほとんど全部を工場に働く私たち女工は獄屋にひとしい工場の中で二百度以上の熱い湯の中にいたいたしくやけただれた手――休養時間も満足に与えられずその上高い罰則になやみおまけに見番や監督にどなられてくやしい思いに耐えなければならない。月に二度の定休でも丁度にあったりなかったり会社の勝手で利用される。朝夕の時…

以上

 

二 工場で働く者の真の味方――伊藤千代子さんを闘いで弔う日

 

138 諏訪の工場労働者たちは伊藤千代子の死に抗議の表明をした。浅野あや子「伊藤千代子追悼録」に救援会諏訪支部準備会と日本製糸労働組合の連名で追悼文が掲載されている。

 

「工場で働く者の真の味方 伊藤千代子さんを闘いで葬う日」

 

「伊藤千代子さんは私たち工場で働く者の真の味方で指導者であった。今日24日は死後1か月後のお命日である。本日工場代表者会議あるいは懇談会で、『賃金が安すぎる、三割値上げしろ、罰則制度をなくせ、汚い寄宿舎を改善しろ』という要求を工場主にたたきつけ、千代子さんの追悼の日としよう。

 千代子さんは上諏訪の女学校を卒業して東京女子大へ入学したが、私達働く者が不当に苦しめられている有様が見るに忍びず学校をやめ、私たちの生活をよくするために、自分も東京本所の紡績工場に働きながら、勇敢に闘った。千代子さんは工場に働く私たちの苦しみをよく知り、デニール罰や粗製罰その他色々の罰を作って工場主が如何に巧妙に搾り取っているかを教え、…一人や二人で騒いだのではだめだ、みんなが一緒になり、団結の力で…その力をなお強くするために、全製糸労働者は一つの組合に団結して闘うことが必要だということをはっきりと教えてくれました。

 千代子さんは死ぬまで『諏訪の女工さんたちのことが心配だ』と言っておりました。私たちは今日の輝ける指導者、伊藤千代子さんを闘いでと葬う事にいたしましょう」

 

*デニール 仏denier 長さ9000メートルの繊維の重さ。記号d

 

129 三 海の向こうから寄せられた追悼 ――在コミンテルン・片山潜1859—1933.11.574歳、モスクワ)

 

 伊藤千代子の死の翌年1930年の1月、モスクワのコミンテルンで活動中の片山潜が「世界経済恐慌に打ちひしがれるる日本資本主義と日本共産党の任務」(原題は「世界経済恐慌の渦中にある日本」)と題する論文を『コミンテルン』誌5号(19301月)に発表した。その中で片山は世界恐慌下の日本資本主義を分析し、その結果として労働者と農民の闘いの必然的高揚を予見し、それにこたえるために三・一五、四・一六弾圧で破壊された党組織の建設を訴え、解党派を批判し、獄中で不屈に闘う千代子らを高く評価した。

 

「日本共産党の今最も危険な一人の敵は解党派である。彼は『×××(君主制)の廃止』というスローガンが日本では正しくなく、適用されないとし、共産党はコミンテルンから一切の繋がりを断たねばならないと明言した。この同志はブルジョワ法廷で党内情勢を語り、我が陣営内に騒擾をもたらし、収容されている同志の間に、特に東京の同志の間に、反対派を結成した。しかし伊藤千代、丹野セツ等の同志が法廷でも牢獄でも如何に堅く守って動かなかったかを強調しなければならない。特に同志伊藤千代は苦悩な生活を続け、婦人共産党員の名を辱めることなく、鬼畜のごとき拷問によってその命を失うまで、法廷におけるその行動に一糸の乱れさえ示さなかった。ブル新は彼女の死がその夫の清算派的傾向を苦に病んだために一層早められたと報じているが、同志伊藤はスパイが彼女を情け容赦なく殴打したにも拘らず、一言だに喋らなかったのである」(『現代史資料』14「社会主義運動Ⅰ」みすず書房)

 

感想 ちょっと事実と違うし、あがめすぎでは。あがめることによって日本のシンパがコミンテルンから離脱しないように働きかけたかったのだろうか。千代子の直接の死因は拷問ではなく肺炎だったし、千代子は警察に自らの思想獲得の経過や生い立ちについてかなり詳しく述べている。

 

『コミンテルン』誌は週刊で、本号は第5週目の1月末発行のものである。

141 本論文は前年1929年の経済指標をまとめている。片山潜は前年1929年の12月から病気入院していたが、その中での執筆だった。

 

 

四 『女子党員獄中記』――原菊枝

 

 原菊枝は1928315日、現在では墨田区の大平警察署に逮捕され、市ヶ谷刑務所に拘留された。原は19285月、病気のために女区の病舎雑居房に移され、そこで伊藤千代子と隣同志になり、同年8月に二人はお互いを確認し合い、邂逅を喜び合った。2年後原菊枝は出獄したが、その時解放運動犠牲者救援会の難波英夫に勧められてこの獄中記を著した。『女子党員獄中記』は1930年昭和51215日に発行され、翌193117日に早くも発禁処分となった。

 

*原菊枝が本書を贈呈したという難波卓爾と難波英夫とはどういう関係か。

 

142 原菊枝は獄中生活1年余の多くを千代子と共に過ごした。

塩沢富美子も同時期に獄中回想を出版した。

 原菊枝の『女子党員獄中記』は、解放運動犠牲者遺族会・三多摩いしずえ会によって、19815月に復刻されたが、その時澤地久枝1930--が「消された声よ蘇えれ」と題する跋文を寄せた。その中で澤地は原が千代子についてよく理解していたと述べている。

 

*原菊枝『女子党員獄中記』の復刻版は「治安維持法犠牲者国賠同盟新潟本部発行」ともある。142

 

143 また澤地久枝は九条の会の呼びかけ人の一人でもあるが、全国を歩きまわり、2005717日、諏訪での「伊藤千代子生誕100年記念集会」で講演した。演題は「証言者としての伊藤千代子」であった。

 

 

第一三章 いま、新しき光のなかへ――21世紀に生きる千代子

 

 

144 伊藤千代子の遺骨が特高警察の監視下に郷里諏訪に帰った時、近隣の人々は桑畑に身を潜めて迎えた。養祖母のよ祢は千代子の墓を建てたすぐ後に亡くなり、よ祢の甥の伊藤一郎が選定家督相続人となった。親類縁者は「国賊」「非国民」「お上に盾ついたもの」とののしられ、唾を吐きかけられ、迫害を受け、沈黙した。諏訪の級友や友人たちも口を閉ざした。そして「獄中で発狂して死んだ」という蔑みの言葉も一部に聞かれた。よ祢の甥144(千代子の甥127)の伊藤一郎は、本書のカバーを飾る、東京女子大入学ころの千代子の写真を持っていた。

1972年昭和471115日、千代子の墓は龍雲寺霊園の墓所に改葬されたが、その時千代子の骨には骨壺がなく、粥を煮る鍋のゆきひらの中に入っていた。墓所継承者の伊藤善知は「おやげねえ」と泣きながら抱いて改葬した。野呂栄太郎の骨壺は、郷里北海道長沼に帰った時、その骨壺は針金で固く巻かれていた。

 

145 1935年昭和10年、土屋文明は千代子の実名を挙げて詠った。同年、松澤病院の青年医師・秋元波留夫119は、治安維持法で弾圧された拘禁精神病者に理解を示した。

 

 細井和喜蔵の『女工哀史』の印税を基にして、藤森成吉081の発起で、1935年、東京の青山墓地に「解放運動無名戦士墓」が建立された。1948318日、パリ・コンミューンを記念した第一回合葬者として千代子と平林せんが選ばれた。

 

 千代子の級友、高島小の教え子、(同僚の)教師、尚絅女学校の級友・加藤満041ら皆が千代子のことを思い続けていた。

 

 アララギ派系統の東栄蔵や吉田漱は伊藤千代子を研究した。東栄蔵は『信州白樺』で、吉田漱は歌誌『未来』で、伊藤千代子を研究した。東栄蔵は戦後浅野晃に会って聞き取り、浅野の「千代の死」「伊藤千代子追悼録」「生前最後の手紙」を入手した。

 

146 塩沢富美子は『野呂栄太郎とともに』1986を著し、東京女子大の社研活動や獄中の想い出をまとめた。

共産党員でルポ作家(赤旗の記者)の山岸一章1923-1995は、『革命と青春』『不屈の青春』を著し、戦前の革命活動家を発掘した。山岸は早くも1960年代に千代子の研究を始めた。村上多喜男も山岸の取材を受けた一人で、村上は諏訪中学で浅野晃の授業を受け、後に共産党員になり、共産党東京市委員長になったが、その取材時に山岸は千代子の墓所と親戚を訪ね、1970315日、ルポ「信濃路」を『赤旗』に投稿した。私も千代子と同郷である。

 

 1980年代には日本共産党幹部・広瀬暢子(現、常任幹部会委員)も戦前の女性党員を研究した。

 

 

日本共産党が千代子を顕彰

 

 199235日、日本共産党第6回中央委員会総会で、宮本顕治議長は戦前の治安維持法下で245歳の若さで亡くなった四人の女性活動家を高く評価した。田中サガヨ、飯島喜美、高島満兎(まと)、伊藤千代子である。

147 1992年の第32回赤旗まつりで「不屈の青春――戦前の女性党員の群像」が展示され、その時千代子が紹介された。『日本共産党の七〇年』1994も千代子を取り上げた。

 

 

『こころざし いまに生きて』発刊と顕彰碑建立事業

 

148 諏訪の郷土史家・藤森明は諏訪の千代子の級友たちや伊藤家・岩波家などと接触し、地域新聞「新すわ」「茅野民報」などに記事を掲載した。私はこのころ藤森に接触し、『こころざしいまに生きて――伊藤千代子の生涯とその時代』199511月を執筆し始めた。

 この私の著書の出版記念会が諏訪で行われたとき、千代子の顕彰碑建立が提起され、1997721日、伊藤千代子の誕生日に、墓所の一角に顕彰碑が建立された。そしてその後の伊藤千代子顕彰事業は「伊藤千代子こころざしの会」に引き継がれた。

 

 

諏訪二葉高校、尚絅女学院、東京女子大同窓にて

 

149 千代子の出身校である諏訪二葉高校の『七十年誌』は「三代校長土屋文明とその時代」の中で千代子を扱い、2008年、『写真がかたる二葉百年の歩み』も刊行して、千代子を取り上げた。

 

 千代子の後輩でこの二葉高校出身の葛城誉子(しげこ、6回生)は、同人誌『木の花』(山室静・主宰)に、1990年から『イエローローズ――伊藤千代子の青春』を掲載し始め、1998721日の千代子の命日に上梓した。

 

150 同じく諏訪二葉高校出身の中村洋子12回生)は、コーラス・グループの経験を生かし、土屋文明の「伊藤千代子がこと」三首に高平つぐゆきが作曲した「伊藤千代子を歌う三つの歌曲」を歌うとともに、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の活動を紹介し、ジュネーブの国連人権委員会で千代子の事蹟を紹介した。中村が歌う三つの歌曲は、小林多喜二が愛唱した「折ればよかった」と一緒に『幸せ願い歌う』と題してCD化されている。

 

 尚絅の地仙台や東京女子大の杉並だけでなく、同窓の人々が各地で活動している。

 

 

二一世紀を生きる秋元波留夫医師

 

151 塩沢富美子は『野呂栄太郎とともに』の中で、千代子の病症を「拘禁性ノイローゼ」と理解していた。

 秋元波留夫は千代子の病症を「治安維持法拘禁精神病」と診断した。秋元は『精神障害者の未来のために』(共同作業所全国連絡会)の中で、「私が松澤病院に勤務していた1935年当時、拘禁精神病という診断で入院している治安維持法で投獄された人たちがいるのに驚き、戦争反対を唱える勇気のない自分を恥ずかしく思っていた。…それらの患者の症状は激しい興奮や幻覚妄想で、分裂病の急性期とほとんど区別できないものであった。これは単なる拘禁が原因ではなく、苛酷な取調べと良心の囚人としての精神的葛藤で起こる心因反応であり、治安維持法は人を狂気に追い込む悪法だと思った。」としている。

 さらに秋元は『実践精神医学講義』第32講「治安維持法と拘禁精神病」(2002年)の中で、「特高警察の残酷な取調べ(拷問、「転向」強要など)による身体的・精神的苦痛に加えて、自分の信念と肉親の情愛や将来の不安など、様々な解決困難な精神的苦痛が限界を越えるから精神障害に陥る」とし、さらに「治安維持法による拘禁精神病は、一般受刑者よりも病象が重く、多項で、分裂病に酷似するが、それは原因となる精神的苦痛や精神的外傷が強烈であり、分裂病様症状が、強烈な精神的外傷に対する生体反応であるからだ。これは『心的外傷後ストレス障害』Post Traumatic Stress Disorderというべきであり、治安維持法はPTSDを生む悪法である。」としている。

 秋元は20029月諏訪で記念講演をし、拘禁精神病の元凶として、治安維持法と特高警察を断罪した。秋元は「医療九条の会」の呼びかけ人の一人としても活躍した。200774日没。101歳。

 

 

苫小牧・勇払に千代子の痕跡を追って

 

153 浅野晃一家は19455月の東京大空襲で自宅を全焼したため、同年10月、水野成夫が経営する苫小牧の國策パルプ勇払工場の役員用社宅に寄寓し、生活費も提供された。浅野晃は1950年に上京するまでの間、勇払の近隣を講演して回ったため、地域文化の貢献者として、苫小牧市立中央図書館に著書、翻訳書、論文、手紙などが収蔵されることになった。

 千代子の最後の手紙4通は、浅野あや子の「伊藤千代子追悼録」とともに、東栄蔵が浅野晃に会ったときに預かったのだが、この手紙は再び浅野に返却され、197812月、浅野は苫小牧市立図書館にその保管を依頼した。

(東栄蔵の知人が)この手紙4通に関して苫小牧市立図書館に照会したが、ないとのことだったが、共産党苫小牧市議会議員畠山忠弘の尽力によって20021月、同図書館にあることが分かり、同図書館が200541日、その手紙4通を公開することになった。

 

 また苫小牧市から車で1時間の、鵡川(むかわ)の上流にある穂別町にも浅野の資料がある。浅野は穂別町の短歌会の指導をし、この村の電化に尽くしたため、浅野の死後、浅野の蔵書や手紙は穂高町に移され、その特別資料室で保管と整理がなされている。20036月、私は「浅野晃資料リスト」を入手し、その中に伊藤千代子のサイン(May 1. 1926 Chiyoko Ito)入りの「訳書 マルクス『哲学の貧困』」があった。

155 同書『哲学の貧困』は浅野晃が訳したものであり、大正151926415日弘文堂書房の初版本で、定価290銭であった。上山武男の夫人は浅野家と親交があり、私はその上山武男に穂別町の白山教育長と資料室担当の斉藤政義を紹介され、斉藤政義に資料室を案内してもらった。

156 1926年春は千代子が学外のマルクス主義学習会に参加し始めた年であった。千代子が死亡したときその所持品は浅野家にあり、郷里には返却されなかった。

 

 200573日、千代子生誕100年を記念して「伊藤千代子最後の手紙公開記念の集い」が苫小牧で開催された。

157 公開された手紙の写真撮影は禁じられたが、筆写は許され、その筆写が『地しばりの花――伊藤千代子獄中最後の手紙と「集い」講演録』2005に収録された。

 また2005717日、諏訪で「伊藤千代子生誕100年記念事業」墓前・碑前祭、記念集会、展示会、交流会が開催された。

 

 

 

補章 100年前、声をあげた女性がいた

 

 

158 CD『未来へつなぐレクイエム2』――長谷川テル、上甲米太郎、伊藤千代子、伊藤てる、三木清――、歌詞・詞曲:ケイ・シュガー 治安維持法国賠同盟大阪府本部制作

 

 

一 ベーベルの『婦人論』に学び、ジェンダー平等へ

 

伊藤千代子は19251224日付の五味よ志子宛の手紙の中で細井和喜蔵の『工場』と『女工哀史』や、ベーベルの『婦人論』についての感想を述べている。伊藤千代子が読んだ『婦人論』は、山川菊栄訳の『婦人論――婦人の過去・現在・未来』(1924年アルス社)のものと思われる。

千代子の東京女子大在学時に河崎なつ1889—1966 が『婦人論』を講義した。河崎なつは1918年大正73月から1929年昭和43月まで東京女子大に在任し、戦後、日本母親大会実行委員会委員長を務めた。

 

 

162 アウグスト・ベーベル1840—1913略年譜 倉田稔『ベーベルと婦人論』より

 

1866年、「国家に危険な学説を広めた」として有罪判決。

1869年、3週間収監。マルクスの『資本論』を読む。

1871年、ドイツ帝国議会議員に最高位で当選。

1878年、ビスマルクが「社会主義鎮圧法」を成立させた。プレッツエンゼー監獄に収監された。「婦人の現在と未来の地位について」を執筆した。

1879年、『婦人論』(「婦人と社会主義」)を刊行。ロンドンにマルクス、エンゲルスを訪問。

1883年~1891年、『婦人論』を「過去・現在・未来」と改題して刊行。

1910年、ドイツ帝国議会で軍備戦争政策反対の演説。

 

 

二 最後まで卒業への努力

 

162 19281月、労農党候補・山本懸蔵は、病気と主として選挙資金不足のために、選挙区の北海道へ(東京から)出発できないでいた。浅野晃は共産党から労農党本部へ応援に派遣されていた。そこへ千代子の郷里から学費(40)が届いた。浅野はそれを所望した。

 

「『その金を俺にくれないか。山懸にやるんだ。これだけあればすぐ出発させられる。』この金を私に渡すことは卒業を断念することを意味していた。千代子はさすがに泣いた。…千代子は『よくわかったから使ってください』とその金を(私に)渡した。」

 

これは東栄蔵に語った浅野の回想である。(東栄蔵『伊藤千代子の死』)

 

163 当時労農党は選挙戦で大衆的カンパを基にしていた。「東京女子大の学生は貯金、指輪、貴金属などを出した。」(『創設期における東京女子大の思想的動向』)

 

 小林多喜二は拓銀小樽支店の行員で、131日の深夜、小樽駅前で山懸を出迎えた。多喜二は労農党の選挙応援に参加し、応援演説をした。この選挙戦を描写した多喜二の『東倶知安行』には「一、参十圓也 東京×××子」とある。

 

164 予審判事の訊問で千代子は毎月養家の岩波家から40円くらい送金を受けていたと答えている。

 

 千代子は岩波家への手紙の中で、卒業試験3/2—9、送別会、謝恩会、クラス会、卒業式3/23などの日程を伝え、「3月分はいつもより10円多く、31日に着くよう送っていただきたい。授業は20日までとなっているが、学生が旅行に出かければなくなるので、10日ごろ帰郷したい」と書いている。この手紙は220日の普選開票直後から25日くらいまでの間に出されたものだろう。

 

165 千代子は住所を大学の寮に置いていたが、実際は浅野晃と高田馬場に住んでいた。そして229日に共産党に入党すると同時に湯島に転居した。

 

 「学校は千代子に欠席を警告したが、病気を理由に欠席を続け、卒業試験を受けられないという本人からの連絡があり、保証人と協議して退学者と認めた」と東京女子大は文部省に回答している。

166 千代子はこのいきさつを知らなかった。

 

感想 卒業試験は32日~9日で、それは検挙前だから受験は可能だったのだが、大学がその前に退学処分にしていたことを千代子本人は知らなかったようだ。

 

 

三 新しい時代は必ず来る――「訊問調書」に見る確信

 

 治安維持法による裁判記録の多くは、内務省警保局・特高警察から、1945815日前後に、占領軍に押収される前に焼却処分せよとの命令が出て、証拠隠滅された。戦後我々が目にする裁判記録は、裁判所の関係者や弁護士などが保管していたものが多い。

 

感想 「訊問調書」とカギカッコしてあるのはそういう意味らしい。

 

167 伊藤千代子の起訴・裁判記録のうち現存するものは「予審訊問調書」と「予審終結決定書」の二つだけである。「訊問調書」は戦前の裁判制度で本裁判の一つ手前の予審判事による訊問に関わる裁判用調書である。千代子は警察での拷問・取調べの後、市ヶ谷刑務所に収監され、未決拘留のまま予審判事の聴取を受けた。

 

168 伊藤千代子の「訊問調書」によれば、千代子の訊問は4回に分けられ、

 

第一回 1928126日 氏名・年齢・住所・本籍などの人定質問。2問。

第二回 1928127日 入党の動機、活動の内容、所信の披歴など21問。

第三回 1928128日 中央事務局の任務内容、検挙時に持参した謄写版原紙の内容など27問。

第四回 192931日 第三回の続き。10問。

 

などである。

 

169 第二回訊問調書

 

感想 伊藤千代子は聡明だ。170頁の第16問で千代子は共産党の目標を詳細に述べている。しかも獄中の過酷な条件の中で9か月近くも過ごしているのに、よく覚えている。しかし、当局の作文もあるだろう。例えば16問「国法上の秘密結社」など。「国法」とは治安維持法のことか。なぜ治安維持法と明記しないのか。

 

10問 思想の推移

答 女学校時代人道主義的思想を持っていたが、東京女子大入学後、同大の社会科学部研究会で唯物史観、支那問題、国際情勢に関する講演を聞き、またマルクス、エンゲルス、レーニン等の文献を読み、共産主義的思想を抱くようになった。現在は共産主義社会が理想的な社会だと考えている。

14問 日本共産党に加入していたか

答 現に党員である。

15問 日本共産党に加入した経過

答 1928229日に水野成夫宅を訪ねたとき、水野から「あなたは日本共産党に加入することになった。女で共産党に加入している者は少ないから光栄でしょう」と言われた。私は「光栄です」と答えた。そしてその翌日から水野成夫方(日本橋水天宮付近)で、午前10時半ころから夕方まで雑用をしたり、レポートを運んだりした。

 

16問 日本共産党に加入する前に同党に関する知識はあったのか。

答 入党する前から共産主義とは、現実離れした空想的なものではなく、現在の社会組織が持っている根本的な欠陥、即ち私有財産制度とそれから生ずる欠陥の原因を認識し、その欠陥のために必然的に到達するはずの次の社会への見通しを与えるものであり、また共産主義者とは、このような共産主義に関する認識を持っていて、私有財産制度が生み出した大多数の被抑圧民衆の利益のために身命を賭して徹底的に闘おうとする者である、だから共産党とは、そのような共産主義者の結集であるなどということを知っていた。

 

それだけでなく『マルクス主義』の昭和319281月号の付録にあったコミンテルンの日本問題に関する批判を読み、…

 

 そのために(日本共産党は)当面のスローガンとして、君主制の撤廃/宮廷・寺院・地主等の無償没収/戦争の危機に対する闘争/支那革命不干渉/ソビエトロシアの防衛/植民地の完全な独立/議会解散/十八歳以上の男女の普選/言論・出版・集会・結社の自由/すべての反労働者法の撤廃/八時間労働制/失業保障/高度の累進所得税等を掲げ、また中心スローガンとして、労働者農民の政府/プロレタリアの独裁を強調し、労働者階級の政治への関心の誘発・激成と党の拡大に努力している。また日本共産党は工場細胞を単位として順次上に地区委員会、地方委員会、中央委員会に統制される仕組みになっていて、それらが国法上の秘密結社であることを知っていた。

 

170 水野成夫は当時共産党中央事務局長*であった。

 

Wikiでは「赤旗の編集長」としている。

 

171 四 「ウエルカム・ニシムラ」――慟哭のなかに千代子を見送る(西村桜東洋獄中記より)

 

 1926年~1927年頃、学生数が約300人の東京女子大の社会科学研究会には数十人が所属していた。

 日本女子大の社研も清家齢*、西川露子、西村桜東洋などが活動していた。

 

*愛媛県史によれば、清家齢1901--1972の旧姓は若松といい、宇和島の生まれ。女学校卒業後の代用教員時代の同僚・清家敏住と結婚して上京し、日本女子大に入る。同大卒業後、労農党書記、関東婦人同盟中央執行委員、1928年、共産党に入党。3・15と4・16で逮捕され、1935年にも逮捕されてから栃木刑務所に。1940年出獄して帰郷。

終戦後愛媛県の共産党再建運動に参加し、1946年の総選挙に出馬したが落選。その後寺尾五郎と結婚。著書『伝説の時代』

 

西川露子1908--1983

 

 

 西村桜東洋1905--19831928年の第一回普選のとき労農党本部で活動し、山本懸蔵や岩田義道の連絡係をした。

1929416日に検挙され、都内各署をたらいまわしされ、大崎署(現品川区)では小林多喜二を殺した中川警部ら三人に拷問を受けた。

172 殴る蹴る、仰向けにして頭や顔、腹部や足まで、靴のままで踏みつけた。中川は「天皇陛下の名の下にお前を調べる」と豪語し、夜中の12時ころまで食事も水も与えず、拷問を繰り返した。同署に大勢いた東京金属労組の人たちは「殺されているのか」「まだ生きているのか」と総立ちになって抗議してくれた。(治安維持法国賠同盟「不屈」20001015日号)

 19297月中旬、西村桜東洋はようやく市ヶ谷刑務所に収監された。独房の壁に「ウエルカム・ニシムラ」と書かれていて、コツコツと壁を叩く音がした。「壁に立ちなさい、サインは私が書いたの、獄中に19人の同志が囚われていた」など千代子が話してくれた。また千代子に協力的な雑役婦からお椀の底にレポと鉛筆の芯が張り付けてあった。西村桜東洋は社研グループの最後の検挙者であった。

 

 *「不屈」172は西村桜東洋「遺稿集」175から引用しているようだ。

 

西村桜東洋「遺稿集」によれば、

 

173 「隣室には一つの部屋を経て伊藤千代さんがいた。伊藤千代さんはここの同志のことを一々私に話してくれた。」

 

 西村桜東洋が収監された19297月中旬は、獄中の党指導部中央事務局長・水野成夫が平田検事に屈服して天皇制廃止のスローガンを降ろし、共産党解体(「天皇制共産主義」とどこかにあったような気がする)を主張し始めた直後で、検事は水野の上申書を獄中の同志たちに回覧して転向に誘い込み始め、その影響が市ヶ谷刑務所の男子房に拡大し始めていた。

174 浅野晃は当初水野のこの主張に批判的だったが、やがて水野に同調した。

 伊藤千代子が編み笠をかぶせられて何度も検事局や裁判所に通う姿を西村は見ている。浅野は自らの上申書を「真面目で感受性の強い千代子だけには絶対見せないでくれ」と亀山検事に懇願したが、検事側はそれを逆用し、頑強に抵抗する千代子に転向を迫る武器として使った。

 女子舎房獄中の活動家の多くは病気等で保釈されたが、千代子と原菊枝だけは何度も病気保釈申請を却下された。(原菊枝『女子党員獄中記』)当局は転向しないリーダーは獄外に出さない方針だったようだ。

 7月末、浅野の変節は動かしがたい事実となり、千代子は隣房の同志に、「なぜこのように大量の変節者を出してしまったのか。自分たちの運動のどこに弱点があるのか」と問うた。西村桜東洋はこの10日くらい前の千代子の様子を書いている。

 その直後の81日、刑務所は千代子に関して「挙動に不審見ゆ」と記録している。そして17日後拘留執行停止で千代子は東京府立松澤病院へ護送された。

 西村桜東洋は『遺稿集』の中で、「千代さんは私に向かって『桜東洋さーん』と呼んだのに、私は彼女に手を差し伸べなかったことを悔いる」と書いている。

この「故 西村桜東洋の遺稿集」は、西村桜東洋の姉の息子・小川洵(ひとし)がまとめ、桜東洋の死の1年後の19848月に発行された。小川洵は当時全日本農民組合福岡県連合会委員長であった。

 西村桜東洋は拷問の後遺症で長い闘病生活を余儀なくされ、戦後は福岡で農民運動で活動したが、1983824日、福岡市の民医連千鳥橋病院で亡くなった。78歳だった。

 

 

五 「弔意と香典」――著名人らの呼びかけ

 

176 192910月初旬、千代子への弔意と香典を義母浅野ステに届けようとするアピールが出された。発起人には社会科学者が多く、有泉茂、服部之総、石島治志、櫛田民蔵、喜多野精一、蔵原惟人、小松千鶴子、大内兵衛、大矢壮一、小澤正元10人であった。このうち小松と小沢は諏訪出身である。

177 この呼び掛け文は櫛田民蔵が起草した。そこでは死因を急性肺炎としている。

千代子は労農党、全協、党活動で活躍したが、その間浅野ステや浅野晃の弟妹と交友があった。そのことは「伊藤千代子追悼録」や「地しばりの花」所収の千代子の手紙で分かる。

178 浅野晃は192848日に逮捕され、市ヶ谷刑務所に収監され、千代子の死の時には豊多摩刑務所に収監されていた。

 呼び掛け文には「千代子の在京の親戚の氷のような冷酷な態度」とあるが、信州の親戚は「非国民」「お上に盾ついた」「アカを出した家」と迫害を受けていた。従妹の岩波八千代の父岩波又治は東京の大森で海苔問屋をしていた。1018日、伊藤よ祢が亡くなり、姪孫の伊藤保江が墓所を継承し、その後弟の伊藤善知に引き継がれた。

 

呼び掛け文によれば、

 

「伊藤千代子さんは924日未明午前040分、浅野のお母さんの名を呼びながら、冷たい病室に誰一人親身の者の見とりもなく逝去された。…左記へ香典をお送りあらんことを願うものであります。東京市外野万町上高田438 浅野すて子様」(1929105日付、大原社研掲載176

 

とある。

 

 

六 花束もて贈る――解放運動犠牲者救援会声明

 

解放運動犠牲者救援会が1929107日に渡辺政之輔と山本宣治の追悼集会(追悼デー)を開催しようとしていたとき、伊藤千代子の死1929924日の報がもたらされ、救援会は「闘ひを以て記念された伊藤さんの死」と題する抗議声明を発表し、伊藤千代子の獄死に対する全国的抗議行動が行われた。

解放運動犠牲者救援会は治安維持法によって弾圧された者を救援する会である。渡辺政之輔と山本宣治は当時「東のワタマサ、西のヤマセン」と呼ばれていた治安維持法下の(代表的)犠牲者であった。渡辺政之輔は1928106日、台湾のキールン港で警官隊に包囲されて自死した。また山本宣治は192935日、神田神保町の常宿・光栄館で右翼に虐殺された。

 

 

「闘ひを以て記念された伊藤さんの死

                                                                                解放運動犠牲者救援会

 

 キールンの埠頭で渡政が白色テロルに倒れてとく(う)に一周年、十月七日を迎へるための記念事業の準備中、私達はまた日本共産党の新しい犠牲者伊藤千代子氏の訃を聞いた。検挙、拷問、一年有半の不当な拘留の間、一歩も敵にゆづることなく、きゃしゃな体でよく堪えて来た伊藤さんも遂に階級裁判と白色テロルの為に斃されたのだ。

 伊藤さんの闘争経歴其他については他に書く人があると思ふからここには書かぬ。何が彼女を死に至らしめたか、又、彼女を死に至らしめた白色テロルに対して全国の労働者農民は如何に抗議したかについて書いてみたいと思ふ。

 昨年三月の検挙された時から刑務所に送られるまでの一か月余、すべての党員及びその被疑者に加えられたところの暴虐を極めたあらゆる拷問の洗禮を彼女だけが受けなかったとは誰が云へやう。なぐる、蹴る、むち打つ等の小手調べから、さかさにつるされて顔を火のように充血させながら、じっと押し黙って奴等の憤激を尚一層つのらせたこともあらうし、頭髪をつかんで土足で歩く板の間をコヅキ廻されたこともあらう。又夜中にたたき起こされて四五人の刑事に取り囲まれながら一分の身動きさえも口汚くののしられ、二十四時間ぶっ続けに取り調べられ、人間が何処まで自尊心をおしひしがれる事が出来るのかを試した事も幾度かあったらう

 こうした拷問の末痛め傷つけられた肉体を癒すことなく、投げ込まれた刑務所での生活は、通信面会に読書の自由はおろか、もの言う自由も奪われて、一日一回三十分の運動、一週間一度の入浴、一日二合六勺の真っ黒い飯に一日四×八厘の副食物、このやうな毎日が、一年有半続けられて居る時、今年のあの殺人的暑熱に見舞われ、その間、この肉体的打撃に加えて、予審判事の弄する精神的拷問、これらがどっと押し寄せて伊藤さんを発狂させたのだ。しかも刑務所は伊藤さんが全く自分自身を失って暴れ狂う迄、その肉親にさえ知らさなかった

 これがどうして病死と言えよう。支配階級が直接白刃をぎして刺殺したも同然である。日本の労働者農民はこの虐殺に如何に抗議すべきかを知っていた。渡政、山宣を葬ふべく計画されていた解放運動犠牲者救援会提唱の白色テロル犠牲者追悼デー(十月七日)には押さえきれぬ憤激の涙を以て犠牲者中唯一の女性・伊藤千代子の名を加えて各地の工場、職場、農村で白色テロルに対する抗議が、

 

犠牲者と家族を救え 朝鮮台湾の解放運動の犠牲者と家族を救え 共産党、共産青年同盟被告を即時釈放せよ!

 

のスローガンを掲げて、職場懇談会、記念茶話会、五分間ストライキ等を以て闘われた。…

この事は同志伊藤の骨を新宿駅に送る時、全国の救援会から捧げられた貧しい花束と共に、伊藤さんに対する最もよき贈り物であったと信ずる。」

 

*×印は判読不能

 

以下は救援新聞創刊号の一部であるが、伊藤千代子の死に触発されて諏訪地方の紡績女工が立ち上がったという記事が掲載されている。

 

昭和四年十二月二十一日

救援新聞 月一回 一部 五銭

編輯発行

兼印刷人 玉井数馬

東京市京橋区南鍋町二ノ四

下野ビル

 解放運動犠牲者救援会

  振替東京六四四一二番

 

救援新聞の配布から

会員の獲得班の確立へ!

機関紙発刊記念闘争

 

全国の労働者農民諸君! 救援会員諸君!

吾解放運動犠牲者救援会は 茲に諸君の熱烈な支持、諸君の血の出るやうな基金によって、今諸君の手許に救援新聞…

 

 

伊藤千代さんの

死に刺戟されて

   諏訪の紡績女工起つ

 

同志伊藤千代の狂死を機会に、

同志伊藤外十四名の革命的犠牲

者を出した長野県の上諏訪地方

では紡績の女工さんを中心に、

救援会の支部が組織された。

 

 

182 七 獄に死にき

 

 1928127日の第二回訊問調書169問九の答で、伊藤千代子は「小学校時代から島崎藤村の小説類を読み、女学校時代にはツルゲーネフ、ゴーリキー、トルストイ等のロシア文学の翻訳を読み、代用教員時代には哲学、宗教に関する書籍を読んだが、東京女子大学入学以来、社会科学に関する文献を読んだ。その主なものは、マルクスの『賃労働と資本』や『哲学の貧困』、エンゲルスの『空想から科学へ』、レーニンの著作集、河上肇の唯物史観等である」とした。

 

 飯島喜美、田中サガヨ、高島満兎、相沢良、小林多喜二、野呂栄太郎、山本宣治等有為な青年が治安維持法下で亡くなった。治安維持法と特高警察は侵略戦争遂行の尖兵であった。

 

183 ポツダム宣言の第10項は「日本国政府は日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去すべきであり、言論、宗教、思想の自由、そして基本的人権の尊重を確立せよ」としている。

 

 201762日、自民党政権の金田勝年法相は、衆院法務委員会で「治安維持法は適法に制定され、勾留、拘禁、刑の執行も適法に行われた。従って損害を賠償すべき理由はなく、謝罪や実態調査も不要である」と言い切っている。諸外国は戦後処理を誠実に進めてきた。今日戦前の弾圧法犠牲者への名誉回復・謝罪・賠償が行われていないのは日本だけである。(慰安婦・徴用工問題も同様・同根)

 

 「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟」は50年間活動を続けてきたが、毎年次の要求を掲げて国会に請願するための署名活動をしており、現在1000万筆を集めた。

 

1 国は治安維持法が人道に反する悪法であったことを認めよ。

2 国は治安維持法犠牲者に謝罪・賠償せよ。

3 国は治安維持法犠牲者の実体を調査し、その内容を公表せよ。

 

184 また同組織は犠牲者を特定し、「治安維持法下の弾圧 Ⅰ『虐殺』、Ⅱ『獄死者』――国家権力の犯罪」にまとめている。伊藤千代子は獄死者とされた。

 

185 治安維持法被弾圧犠牲者数

 

A

警察署での拷問による虐殺者

93

氏名はパンフ『虐殺』に掲載

B

服役中・未決拘留中の獄死者

128

氏名はパンフ『獄死者』に掲載

C

服役中・未決拘留中の暴行・虐待、劣悪な環境などによる発病で出獄・釈放後死亡した者

208

同上

D

弾圧や周囲の圧力で再起できず自死した者

25

同上

E

宗教弾圧での虐殺・獄死者・準獄死者

60

同上

F

検挙者数

68,274

1928年から19455月まで

G

送検(検事局送局)者数

17,000

検事局処理人数

H

起訴者数

6,550

同上(起訴率約10%)

I

不起訴

起訴猶予

7,316

同上

J

処分留保・無嫌疑・その他

3,659

 

K

検挙に至らなかった拘引・拘束者数

数十万人

 

 

AE20194月現在の治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟による調査    死者合計514

FJは荻野富士夫『治安維持法関係資料集』第14巻による。  検挙者7万人、拘束者50万人

 

 

 

感想 国賠請求運動は、国を突き放して国に全てをやらせるのではなく、一緒になって真相を突き止めるためのチームを立ち上げるように提案すれば、国も乗って来る可能性があるのではないか。突き放したら金田勝年法相のような答弁しか出てこないのでは。しかも彼らは敗戦間際に資料を焼き捨てているから、調べようにも調べられない部分もあるのでは。

治安維持法が「人道に対する悪法」という、善か悪かという二者択一の表現も彼らの気に障るところかもしれない。治安維持法における「国体や私有財産の否定」という体制選択の問題は大きな問題だから、ここではそこまで踏み込まず、問題を以下のように具体的に二つに絞ってみてはどうか。

 

つまり、結社の自由の否定と、警察による非人道的な運用(拷問)の問題である。

治安維持法の一番の問題点は、警察によるその運用(拷問)である。そして拷問が戦前でも違法であったということは、自民党でも認めざるを得ないのではないか。

 

結社するだけで、当初1925年の懲役10年を、早くも3年後1928年に死刑にしたのは、拷問死者を出した後の後づけ論理なのだろう。しかもその三年後1931年には目的罪が追加された。

 感想修正 政治体制の転換を提案することがどうして犯罪なのか。「国体」と私有財産を否定することは、政治システムの一つの提案であるが、治安維持法はその提案を犯罪と見なし、当初の懲役10年を3年後には死刑に高め、さらには提案しなくても、そのシンパまで罰するまでエスカレートした。

 

戦前の拷問禁止条項(赤旗を参照)

 

1879年明治1210月、太政官布告「拷問無用」。それまでは修正された徳川幕府法令の「拷問法」で合法。

 

・刑法195

 

明治四十年1907年法律第四十五号(この前に明治十三年1880年第三十六号布告刑法があった)

 

・(特別公務員職権濫用)

第百九十四条 裁判、検察若しくは警察の職務を行う者又はこれらの職務を補助する者がその職権を濫用して、人を逮捕し、又は監禁したときは、六月以上十年以下の懲役又は禁錮に処する。

 

・(特別公務員暴行陵虐

第百九十五条 裁判、検察若しくは警察の職務を行う者又はこれらの職務を補助する者が、その職務を行うに当たり、被告人、被疑者その他の者に対して暴行又は陵辱若しくは加虐の行為をしたときは、七年以下の懲役又は禁錮に処する。

2 法令により拘禁された者を看守し又は護送する者がその拘禁された者に対して暴行又は陵辱若しくは加虐の行為をしたときも、前項と同様とする。

 

・(特別公務員職権濫用等致死傷)

第百九十六条 前二条の罪を犯し、よって人を死傷させた者は、傷害の罪と比較して、重い刑により処断する。(曖昧な表現)

 

伊藤千代子略年表

 

西暦

元号

年齢

伊藤千代子

社会・政治状況

1897

30

 

 

片山潜らの労働組合期成会・『労働世界』

1900

33

 

 

治安警察法公布

1901

34

 

 

社会民主党(社会主義政党)

1903

36

 

 

幸徳秋水・堺利彦らが平民社を設立

1905

38

 

7/21諏訪郡湖南村(現諏訪市)で誕生

 

1907

40

2

母まさよ死去、養祖母よ祢が母親代わり

 

1908

41

3

父義男が協議離縁

足尾銅山争議。労働争議240

1910

43

5

 

大逆事件、翌1911年、幸徳らが死刑に。

『白樺』創刊

1911

44

6

異母弟赤沼正美誕生

警視庁に特高警察設置。

東京市電スト6000人余

1912

1

7

湖南尋常小学校へ入学

 

1914

3

9

3年生 亡母の実家岩波家へ、金子分教場へ転校。平林たい子と同クラスに。生徒24

 

1916

5

11

5年生 中洲尋常高等小学校へ 担任・川上茂

信州白樺運動

中条百合子「貧しき人々の群」

1917

6

12

6年生

ストが頻発

1918

7

13

平林たい子と共に諏訪高女へ入学。土屋文明が着任

米騒動が全国に波及

1919

8

14

2 土屋文明から英語・国語・修身を教わる

東大新人会結成

1920

9

15

3 肋膜炎罹患。

土屋文明が校長に

普選運動が高揚、初のメーデー。

特高に労働課

1921

10

16

4 土屋テル子宅で英語の補習を受ける。

 

1922

11

17

高女卒業。土屋文明が松本高女へ転任。

高島尋常高等小学校代用教員。女子英語塾2回受験、不合格

日本共産党創立

1923

12

18

関東大震災で川合義虎らが虐殺される

共産青年同盟結成

1924

13

19

5 仙台尚絅女学校高等科英文予科入学

浅野晃が諏訪中学英語教師に~19252

学生社会科学連合会(学連)結成

1925

14

20

東京女子大英語専攻部2年に編入

大学内の社会科学研究会結成に参加

治安維持法公布、男子普通選挙法公布

日本労働組合評議会結成

7 細井和喜蔵「女工哀史」

1926

1

21

学外のマルクス主義学習会に参加し、浅野晃を知る。

学内の社研組織拡大、社研講師活動で塩沢富美子らを指導

京大学連事件、労農党結成

1927

2

22

女子学連結成に参加し委員に。

岡谷山一林組争議を激励

9 浅野晃と結婚

女子学連結成。(東京女子大、日本女子大が中心)

共産党27年テーゼ

金融恐慌、山東出兵

1928

3

23

2 普選の支援活動

2/29 入党(中央事務局)

315検挙、拷問、起訴、市ヶ谷刑務所へ拘留。

普選で党候補が労農党から立候補

山宣らが当選。

「赤旗」創刊。315検挙1600人余。

特高警察を全国に設置。

治安維持法が死刑法に。全協結成。

小林多喜二『1928315日』

1929

4

24

水野・浅野らが獄中で変節

8/1 拘禁精神病発症

8/17 松澤病院へ

9/24 急性肺炎で死去

3/5 山本宣治が右翼暴漢に刺殺される

416検挙1000人余

9/30 水野成夫・浅野晃らが除名される

「赤旗」復刊

1930

5

 

 

片山潜「コミンテルン」誌で千代子を称賛

1933

8

 

 

小林多喜二が築地署で虐殺される

1934

9

 

 

野呂栄太郎が品川署の拷問で病状が悪化し絶命

1935

10

 

土屋文明が「某日某学園にて」で「伊藤千代子がこと」を詠う。

秋元波留夫が松澤病院に勤務し、治安維持法弾圧による拘禁精神病患者を治療

1997

9

 

7/21 伊藤千代子顕彰碑を建立

2004

16

 

9/23 東京で千代子記念の集い

2005

17

 

4/1 苫小牧市立中央図書館が千代子最後の手紙4通を公開

7/3 苫小牧で伊藤千代子最後の手紙公開記念の集い

7/17 生誕100周年記念墓前・墓碑祭、記念集会

 

以上

 

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