2023年11月12日日曜日

たたかいに生きて 山本菊代自伝 拓殖書房1992

たたかいに生きて 山本菊代自伝 拓殖書房1992

 

 

 

要旨・感想

 

Ⅰ 戦前編 19051945

 

1 生い立ち

 

010 山本菊代は川合義虎のように純然たる労働者の出身ではなく、どちらかというとインテリ上がりのようだ。岡山県和気(わけ)郡塩田村大字奥塩田の橋本達治と志加の三女として生まれた。その奥に柵原(やなはら)硫黄鉱山があり、鉱山が稼働している間だけ鉄道が通っていた。

 

橋本菊代には教員という職業経験もあるが、いきなり労働運動団体(関東婦人同盟)の書記になった。

 

橋本菊代の家で彼女に影響力のあった人は東京の兄で、彼女の教育や結婚のことに口出しをし、彼女が労組活動をするのにあまり気が進まなかったようだ。

 

橋本菊代が労組活動や社会主義運動に入るきっかけとなったのは、東電労組の姉の夫の影響であり、その家にはソ連帰りの河田賢治が居候していて、そこに野坂参三らの大物が訪れて来て、橋本菊代は河田賢治から集会への参加を進められ、組合の仕事を手伝い、そうこうするうちに関東婦人同盟の書記になった。

 

 

生家はもともと専業農家だったが、父が商人に転業して土地や母屋を売り払って失敗した。とは言っても全くの底辺とは異なり、兄弟の学歴はそこそこあり、橋本菊代は高等小学校を卒業後、准教員養成所を出て幼稚園の教員となり、その後東京の共立職業学校を出て、小学校の教員となった。

 

013 兄は岡山県立工業学校を、長女は日赤岡山支部の看護婦養成所を出て、次姉は一時養女に出されたこともあったが連れ戻され、岡山県で小学校の教員をし、弟は東京の中学を受験するために上京している。

 

家の近所に文化人の医者が住んでいて、実家では山陽新聞を取っていた。

 

 

橋本菊代は高等科卒業後、東京の兄の勧めで、女子師範を受験したが失敗し、岡山県の準教員養成所に入学し、幼稚園の教員7か月務めたところで、東京の共立女子職業学校(洋裁014)を目指して16歳の時に上京したが、その直後に猪苗代水力電気(後の東京電灯)猪苗代発電所の技師と結婚した長姉のところに行った。

 

013 その1年後の17歳の時にまた上京し、共立女子職業学校に入学して兄と同居していたが、そこへ猪苗代の義兄が東京転勤となって一家を構えたので、そこに移り住んだ。またそこに弟が中学受験のために上京した。

 

共立女子職業学校卒業後洋裁を習っていたが、肺湿潤にかかって家庭で療養し、共立女子職業学校卒業の翌年(18歳)、岡山県の小学校正教員の試験を受け、小学校に勤務していたのだが、東京の兄が岡山での橋本菊代の縁談を断つために東京に呼び寄せて(勤務期間8カ月で)退職させた。そしてまた姉の家に居候することになったが、ここでの居候が社会主義運動に入るきっかけになったようだ。つまり、

 

014 (1925年)義兄西村祭喜は普通選挙権獲得のための「政治研究会」で活動していて、橋本菊代もそのポスター貼りやビラまきを手伝った。そのメンバーの中にはシベリア出兵中に社会主義者になった中尉・長山厚直がいて、その異父妹は伊藤はなであった。

 

義兄は東京電灯の組合に寝泊まりし、姉の家にはソビエトから帰国した評議会の活動家、河田賢治が隠れていて、それを野坂参三や山本懸蔵、杉浦啓一、松尾直義らが訪れてきた。

 

015 橋本菊代は河田賢治から評議会全国大会の傍聴を勧められた。また(前出の伊藤)はなに勧められてメーデーに参加し、ついに伊藤はなや高野実(戦後初代総評議長)、長山厚直らが住んでいる住居兼豊島労働組合の事務所に転居したが、兄は嘆いた。

 

016 橋本菊代は東電労組や豊島労組の雑務を手伝い、河田の骨折りで森永製菓の入社試験を受験したが不合格となり、東電労組の後身関東電気労組(関電)の雑役を手伝った。この地域には野坂参三が所長の産業労働調査所や労働者農民党、無産者新聞社、東京市従業員組合や俸給生活者組合の事務所、雑誌「労働者」の編集室017等があった。橋本菊代は「政治研究会」014の後身の「大衆教育同盟」の学習会に参加した。

 

016 橋本菊代は19277月に発会となった関東婦人同盟の書記になった。もう一人の書記は女子大出のインテリ小沢路子で、書記長は田島ひでであった。ちなみに田島ひでは戦後愛知県選出の共産党の代議士になった。

 

 

2 若き共産党員

 

感想 三・一五以降の共産党の悲惨な闘いは(丸山眞男に)「自虐的」と揶揄されることもあるが、もしこういう闘いを、朝鮮人による民族独立運動のように、国内でやるのを止めて、例えばソ連とか中国でやっていたら、戦後の日本国内での共産党の活動はすぐには再生されなかったのではないか、という意味で有意義だったのかもしれない。

 

当時警察側も進化しつつあり、スパイを育て、尾行を徹底し、まとめて逮捕し、日常茶飯事に拷問で割り出すなどして、ほぼ安泰となったのだが、その安泰を米国に打ち負かされたことに、現在の保守勢力は内心快からぬ気持ちを持っているのではないか。

 

023 渡辺義通は自伝のなかで「前の日につけたばかりのペンネームで人が訪ねて来たので、同志だと思って迎えたら特高だった」と言っているが、警察の網の目は相当高度に張り巡らされていたのではないかと思われる。

 

018, 019, 020 「婦人同盟」廃止の議論とはどういうものだったのか。関係者内部でも例えば、山内みな(『山内みな自伝』)や田島ひで(『ひとすじの道』青木書店)などのように、「分からない」とか「ショックを受けた」という人が大勢いたようだ。

 

 

要旨

 

017 192773日、関東婦人同盟が結成され、山本菊代はその書記になり、虎ノ門近くの桜川町の事務所に住み込んだ。

田島ひで『ひとすじの道』青木書店を、田島が中国派になったというので、日本共産党が青木書店に働きかけて絶版にさせた。同書に関東婦人同盟の組織の経過、構成メンバー、宣言、綱領などが書かれている。

018 関東婦人同盟を、結成までは市川義雄が、結成後は門屋博が指導した。

192711月半ば過ぎに山本菊代は評議会の松尾直義から大阪で活動するように言われ、丹野セツと共に大阪に行った。大阪では河田賢治しか知人はいなかった。(女性は)森井ウタ子(鍋山貞親夫人)一人しかおらず、しかもその森井も、丹野セツが東京に連れて帰ってしまった。東京出発の時に書記の小沢路子016から紹介された薬剤師の鈴木某さん、労農党大阪府連書記長の長尾他喜雄の夫人(徳島県の塩田争議で結ばれ、新婚早々)の三人で活動を一から始めた。鈴木は学生時代の研究会の経験はあったが、労働婦人や地域婦人の中での活動は初めてだった。長尾夫人は塩田以外の経験はなかった。

019 この三人が評議会や労農党の同志の指導で活動した。私の寄宿先の飯石豊市宅は、(飯石が)総同盟時代の活動家で、労組関係の人の出入りが多く、中村義明がビラの書き方を教えてくれた。

私らの三人体勢以前の1927年前半には小見山富江中村鈴子が大阪で活動していた。

 山内みなは『山内みな自伝』の中で、「関東婦人同盟の事務所に集まる人がだんだん少なくなった。書記長の田島ひでは全国準備会以後顔を出さなくなったが、地方支部は拡大し、自主的に支部をつくった。執行委員会を開けなかった。事務所は柳、橋本、山内、加藤、三井、清家(寺尾)としなどが運営した。」

020 「関東婦人同盟の解散声明文書をつくって発送した。橋本(菊代)がこの家を事務所として使わせてくれた。」

 

 私は(1928年)316日に帰京したが、関東婦人同盟には顔を出さなかった。私が大阪に行った当時、山内みなは早稲田大学の社会科学研究会の学生の合宿で働いていて、婦人同盟の事務所から遠ざかっていた。

 田島ひでは今では故人となったが、当時田島は日本共産党の女性政策の突然の変化にショックを受けた。また日本共産党の幹部がコミンテルンでの会議を終えて帰国したとき一緒に同行した中国共産党員の女性を田島家が預かった。

021 19281月、田島ひでは徳田球一の立候補地の福岡県に彼に同行した。また田島は松本治一郎の選挙も応援し、選挙が終わってから帰京した。共産党は当時非合法組織だった。

 

 1928315日の朝、私は大阪で特高刑事に踏み込まれたが、幸い私は特高と顔を合わせたことがなく、また寄宿先の総同盟時代から労組の猛者と言われた飯石豊市019が特高を適当にあしらって私のために時間稼ぎをしてくれた。前日の14日、杉浦啓一014が神戸の演説会に行ったまま帰らなかった。私は三、四日前にもらった「赤旗」と財布を持って裏から家を出た。評議会の事務所は様子がおかしいので引き返した。鈴木さん018のいる医院にも特高が張っていた。「赤旗」を始末して家に帰ると、特高は引揚げていた。私はその日の夜行で帰京した。

023 しかし、今考えると、大阪で党の再建に協力するか、町工場で労働婦人になって自分を鍛えるべきだった。

 

東京に帰って愛宕山の近くの関東電気労働組合の事務所か、関東婦人同盟の事務所かのどちらかに行こうとしたところ、愛宕山下の路上で小沢路子に会った。小沢はその近くのお寺の離れに住んでいた田島ひでのところに私を連れて行った。私はそこで全国一斉の検挙であることを知った。

 

 日本共産党は「二七テーゼ」を発表し、19282月の選挙では労働者農民党の候補11名が立候補した。公然と大胆に政権演説の壇上やビラで「帝国主義戦争反対」「中国から手を引け」「植民地の完全独立」「君主制廃止」「一切の地主階級の土地没収」「耕地を農民へ」「労働者・農民の政府」などを訴えた。厳しい弾圧下でのこの選挙闘争の意義は極めて大きかったと思う。この訴えは労働者・農民の支持を受け、共産党員11名の得票は36千もあった。田中義一内閣は大衆団体の事務所まで全国一斉に捜査し弾圧した。

023 田島ひで、小沢路子、私の三人は共産党員ではなかった。その夜は田島のところに泊まり、翌朝小沢に連れられて小田急幡ヶ谷駅近くの渡辺義通が隠れていたシンパの家に行った。その翌日小沢と私が渡辺を訪ねると、夫人が「義通さんが今朝つかまった、原っぱまで逃げ、取っ組み合いの末つかまった、急いで帰れ」という。私たちは前日つけられていたのかもしれない。

 渡辺義通は自伝のなかで「前の日につけたばかりのペンネームで人が訪ねて来たので、同志だと思って迎えたら特高だった」と書いている。一見平和に見える現在でも、この教訓を頭に刻み込んでおく必要を強く感じる。

 

 三・一五の検挙後、起訴された共産党員は警察から市ヶ谷刑務所に移され、党員たちには自由に面会できたが、それは当初だけで、間もなく接見禁止となり、予審判事の許可が必要になった。私は野坂竜、田島ひでたちと救援活動を始めた。刑務所の待合室は共産党と共産青年同盟の家族や救援活動者たちのたまり場となり、情報交換の格好の場となった。

024 それから間もなく市ヶ谷刑務所の近くの古屋貞雄弁護士の事務所が「解放運動犠牲者救援会」の事務所となった。私は野坂参三検挙後の(品川区)武蔵小山の野坂竜家の居候となった。野坂夫妻がロンドン留学中につくった本ネルの着物をもらった。また野坂家には群馬県出身で東京合同労組や関東婦人同盟で活動していた田口つぎも一緒だった。田口は間もなく野坂家を出て非合法活動に入り、19287月の中間検挙で逮捕され、獄中で肺結核を再発して重態となり執行停止となって出獄したが、生家は受け入れず、東京の救援ハウスで闘病の後、群馬の生家の離れで敗戦を待たずに淋しくなくなったとのことである。

 

 私は居候しながらたまにレポをした。1928年の三・一五後の410日、労働者農民党、労働組合評議会、全日本無産青年同盟に解散命令が下され、非合法化された。

 

025 私が野坂竜さんの家に同居して二か月後の初夏の早朝に数人の特高が踏み込み、竜さんと私は警察に連行され、同房に入れられた。ところが何の調べもなく四、五日後に一緒に釈放された。戦後出版された日本共産党の検挙関連の書物から、モスクワのクートベ(東洋勤労者共産大学)帰りの者が日本共産党と連絡をつけるために野坂家を訪ねると特高は睨み、張り込むために私達を検挙したようだ。

 私たちの検挙は、物静かで何となく物思いげな青年、相馬一郎が野坂家を訪ねて来た直後だった。相馬一郎は野坂家の次に渡辺政之助を訪れ、ほどなく検挙された。相馬は出獄後同じくクートベ帰りの服部麦生と一緒に軍に協力し、その事の呵責から日中戦争中に自殺した。

 

026 それから三か月後の真夏のある日、野坂竜さんが都内でレポ中に逮捕された。野坂竜さんは三・一五後に職場を産業労働調査所から希望閣(共産主義関係の出版社)に代え、共産党のレポをしていた。私は野坂家を出た。

 

それから私は東京電灯と闘争中の関電労組と連絡を取り、友人宅や組合のアジトを転々とした。解散命令を受けた評議会の再建――全協産業別単一労働組合全国協議会)としての再建――が、今まで中立組合であったためにそれほど打撃を受けていなかった関電労組の重要な任務となった。これを察知した警察の関電労組に対する弾圧は厳しく、東電は組合の活動家24名を一挙に馘首した。さらに警察は831に行われた東京電灯従業員大会を解散させ、参加者を片っ端から検束した。関電労組はこの日から非合法化され、全協再建途上で壊滅的な打撃を受けた。

027 この争議に関連して、東京貯金管理局に勤めていた西村ヒサは、関電労組の吉田資治の演説(19282月の普通選挙の時の演説か)に感動し、関電労組事務所で雑役の手伝いをし始めていたのだが、その西村ヒサも組合員と共に検挙され、警察から職場に通報され、馘首された。

 その直前のある日、私が一夜の宿を頼みに関東婦人同盟の執行委員であった中田小春宅に行ったとき、西村ヒサがいて、北海道に帰るという。西村ヒサと中田小春は同じく北海道の出身だったと後で知った。それから何日か後に西村ヒサが津軽海峡で投身自殺したという新聞記事に接した。

 

 非合法化された関電労組の中での私の仕事はアジトを守り、雑役をしながらレポをすることだった。

 この年1928年の11月末、当時私の隠れ家だった彫刻家の三角恭宅で義兄の西村祭喜から「三田村君から君(橋本菊代)は入党しているかと聞かれたから、まだだと言ったら、すぐ入党させるようにと言われた」と聞かされた。三角恭は後に共産党に入党し、検挙、投獄で体を壊して亡くなった。

028 入党を勧められたことは、革命運動への誠実さが認められたことを意味し、やっと自分も革命戦士になれるのだと喜び感動した。私は入党に承諾した。(甘い、人がいなかっただけでは)しかし私は系統的に勉強していないし、活動経験も浅く、不安であった。命がけで働くことを誓い、その感激で興奮した。私は東電細胞に所属した。キャップの西村祭喜(義兄)、細胞員の吉田資治滝口国太郎と私の計4名で細胞を構成した。

 当時の東京電灯では、福島県の猪苗代発電所、群馬、新潟、山梨県等の発電所、各地の変電所、東京都内の工事現場等の分会活動家の多くが馘首され、その再建の中核を吉田資治が担い、西村は全協の確立を担当し、滝口は夏の争議で検挙され、3か月間長期拘留されて健康を害し、心臓脚気のため絶対安静の体で釈放され、新宿区戸塚の両親宅で療養していた。

 私は滝口家を訪ね、情勢報告した。

 

029 私たちの細胞が今だ細胞新聞も発行できない1929416日の夜に私は逮捕された。私は全協関係のレポとして一日一回丹後吉郎兵衛(東京合同労組の活動家、後にスパイと判明)の家を訪ねていた。丹後は妻・高橋ヨキと新宿区の長屋に住んでいた。高橋ヨキが東京市営バスの車掌をしていた当時、私は関東婦人同盟の書記をしていて、市バスの車庫にオルグに行っていた。

 私と丹後との間で安全信号として私の訪問予定時間の直前に付近の電柱になわをかけ、私が帰ったらそれを外すと取り決めていた。416日の夜なわがぶら下がっていたので、「今晩は」と入ったところ、捕まった。

030 丹後夫妻も検挙されていた。翌朝戸塚警察署に高橋ヨキさんがいたので、縄のことを尋ねたら、「忘れた」という。

 それから3年後の1932年、私と高橋ヨキさんは同時に釈放になった。丹後はそれ以前に釈放されていたが、公判には一度も出廷せず、行方不明とのことだった。丹後に関する不名誉な噂が流れていた。敗戦後「特高月報」を見ていたら、丹後が(党)中央部で活動していたとある。丹後は再検挙されず、東京で染物屋をしていたという。その丹後が戦後共産党の本部に姿を現わしたが、「スパイは帰れ」と追い返されたという。

 

 非合法活動では出かけた者が予定の時間に帰らない場合は、先ず所持品を始末し、一晩たっても帰らない場合は、その家から出ることが常識だった。私は逮捕された時豊島区大塚の友人宅にいた。そこには義兄の西村もいた。戸塚署には警視庁から中川警部補が拷問係を従えて調べ室に陣取っていた。

 

 

3 逮捕・長期拘留

 

031 中川警部補と拷問係が「名前を言え」「住所は」「オーイ橋本、住所はどこだ」とどなりながら額を小突く。頬といわず体のあちこちを麻縄を束ねたもので殴りつける。痛さを通り越して感覚がなくなる。指と指との間に六角棒をはさみ、二本の指を強く握って力任せにひねる。次々に指をかえてやる。指の間に血がにじむ。内出血で紫色になる。気が遠くなる。

 今度は床板に正座させ、太ももの上に革靴のまま上って踵できりもみする。全体重を踵で支えて体を回す。吐き気がする。目の前が真っ暗になってうつ伏してしまった。「仮病を使っている」と頬に平手打ちをくらわし、体中ところかまわず麻縄で叩きまくる。髪の毛をつかんで床板に頬を叩きつける。何時間やられただろう。その日の拷問は終わった。ようやく立ち上がり、脚を引きずり一階の留置場に帰ったときは周りは寝静まっていた。

 

032 あくる日も拷問係を連れて中川が来て昨夜と同じく、殴る、蹴る、髪をつかんで引きずり回す。今度は床板の上に正座させて腿と脛の間に太い樫の棒を入れ、その上から奴らの全体重をもって押し付ける。何回か気絶しそうになる。そのたびに平手打ちをくらわす。五十歳を過ぎた頃から太ももが冷蔵庫に入っているかのように冷えるのは、この時の後遺症か。

中川は拷問の効き目がないと思ったのか、午後から口説きの戦術に出た。二昼夜近く経ったから義兄の西村は逃げているだろうと思い、「友達の家に一寸の間おいてもらっているので所・番地は分からない」と言って半分でたらめの地図を書いた。半分でたらめとはいえ敵に負けたことは否定できないので、その夜は心の痛手に胸がうずいた。

 

 三日目の調べで中川が「加藤光徳がいたよ」と言った。加藤は私が出かけたときはいなかった。加藤はその家人の甥の北海道大学学生で、休暇を利用して来ていたのだろう。一方、義兄の西村は関係書類を始末し、翌日家人に「何も隠す必要はない」と言い残して、中央と連絡を取り、東京だけでなく関西でも活動し、5月、市川正一との連絡場所で捕まった。

また大阪の西村の叔父夫婦が西村の行方を追う官憲に検挙・拘留されたり、岡山の田舎の私の郷里で私の母が西村の末娘を預かっているところにも行き、孫の負い紐を兵児帯と勘違いし、(私を)「かくまっている」と執拗に追及されたと母は臨終のときに言い残した。

 

033 戸塚署では住所追及以外はしなかった。私は戸塚署から本富士署に移された。ここでの調べは党関係であった。「いつ入党したのか」「誰に推薦されたか」私は黙秘した。今度はどうしたのか手を出さなかった。病気療養中の滝口国太郎028について聞かれた。検挙されてから1か月以上経っていた。 「彼の家に行っただろう」私は「病気見舞いに行った」と答えたが、滝口の入党や私の入党は否定し通した。

5月末のある日、検事局に連れて行かれ、そのまま市ヶ谷刑務所に投獄された。私が滝口のことを黙っていれば、滝口は検挙されないだろうと思っていたら、保釈出獄後、重体の滝口までが起訴され、予審・公判まで持って行かれた。

034 それはなぜか。日本共産党東京地方の責任者の菊池克巳が(1929年)318日に検挙され、それがきっかけとなって重要ポストの党員が検挙された。同じ日に、党中央事務局の間庭末吉が検挙され、彼のアジトから党の刻印、党員名簿、暗号符、「赤旗」の全国配布図までが特高に持ち去られたという。前年の三・一五検挙でも党員名簿をとられ、全国の同志500名以上が敵の手に奪われた苦い経験が何ら生かされていなかったことはあまりにだらしがないことである。

 

 検事局送りの朝、が届けてくれたと思われる着物と下着が特高から渡された。若芽の出る初夏になっていた。霞が関の検事局で簡単な調べの後に市ヶ谷刑務所に向かった。同刑務所は今はなくなったが、牛込区市ヶ谷富久町112番地である。三・一五直後は門内のあちこちに差し入れや面会人が何人もいたが、午後だったからか誰もいなかった。編み笠を持った中年の女性看守に迎えられた。

035 その女性看守は、制服と思われる紺サージの着物に同じ布の袴をつけ、頭はめったに見かけない時代遅れの髪型で、一見田舎のおばさんという感じの人だった。編み笠は藺草(いぐさ)で編み、目のところだけ編目を粗くして、被る人には外が見えるが、外からは被っている人間の顔がわからないようになっている。刑務所内では男女が完全に遮断され、女の監房は高い塀に囲まれ、出入りはその塀にある小さいくぐり戸(必ず鍵がかけてある)を通って女監房の区域に入る。監房に入れられる前に、生まれ落ちた時と同じ姿にされ、髪の毛の中から尻まで調べられ、身体の特徴はホクロ一つも見落とさないで書類に書き込んだのち、腰巻、襦袢、帯、着物すべて藍色のものを着せられ、監房に連れて行かれる。

 部屋は畳二枚と一畳分の板の間で、そこに流しがあり、トタン板の水桶、ひしゃく、箱膳が置いてあった。板の間の半分は上げ板式になっていて、その中に便器がある。便所を隠すために板で作った小さい屏風があり、それが後に大変役に立った。

 私が入れられた部屋は病舎であり、他の監房と違う点は上部に30㎝くらいの窓があり、そこに78センチくらいの間隔で鉄棒がはめ込まれていて、立てば部屋から外を眺められることである。部屋の後ろ側はみんなが運動する庭に面していて、羽目板の方に窓があり、鉄棒がはめられているが、病舎には金網が張ってなかった。

 どこかで壁板をトントンと叩く音がする。「扉の前に立ちなさい、あなたは治安維持法の人?」「そうです」「私、三・一五の原菊枝」彼女のことは野坂竜から聞いていた。「あなたの名前は」「私は橋本菊代」看守が足音をしのばせてくるから長話はできない。一つ置いた右隣の原菊枝との話は続いたり途切れたりしたが、その日のうちにおおよその獄内の実情を知る事が出来た。私から二つか、三つ奥の監房に伊藤千代子がいることが分かり、その日のうちに彼女とも話ができた。

 

 この二人の同志によって、

1)三・一五の是枝操(後の福永操)は出産のために、

2)志賀多恵子は病気のために保釈出所されたが、次の諸氏が在監されていることが分かった。

 

3)三・一五の今野トシ(東京合同労組婦人部長、関東婦人同盟員)、

4)中間検挙の田口つぎ(東京合同労組の活動家、関東婦人同盟員)、

5)野坂竜。野坂参三『風雪のあゆみ』(六)によると、「三・一五事件直後、続けて三回も警察に検束され、三回目の10月の中間検挙でついに市ヶ谷刑務所に投獄されることになった」とあるから、私が世話になっていた時の夏の検挙では保釈され、その後の活動中に検挙されたのだろう。

6)小松千鶴子(東京女子大出身)、

7)森田京子(東京女子大出身、192810月、浅草の三田村四郎の隠れ家が襲われ、三田村はピストルを発射して逃れ、森田は検挙された。)

8)丹野セツ(1926年開催の労働組合評議会第二回全国大会で、総本部への婦人部設置の提案者)は192810月、国領伍一郎の隠れ家で検挙された。

9)大原佐久(刑務所内で原菊枝から始めて聞いた人)、

10)下田富美子(共産青年同盟関係、現在は塩沢姓)たちであった。

 

037 四・一六関係では、

11)西川露子(日本女子大) 私と彼女は1926年夏の社会科学の講習会で知り合い、その後関電労組の事務局に訪ねてくれたことがあった。

12)高橋ヨキ029(現小川姓、元東京市営バスの車掌で、東京市交通労組の婦人部長) 私は関東婦人同盟書記の時に知り合った。

13)また高橋ヨキと丹後吉郎兵衛(スパイ)の隠れ家で検挙された大谷みつよ(東京市営バス営業所の事務員)はこのとき初めて知った。

 

 私が投獄されたのち市ヶ谷刑務所に投獄された人たちは、

 

14)清家齢(後若松姓を経て、寺尾姓) 私が彼女を知ったのは西川露子と同じく社会科学の講習会で、彼女は1927年日本女子大卒業と同時に労働者農民党の書記となり、同年7月関東婦人同盟結成後は婦人同盟の執行委員として活動。

15)西村櫻東洋 清家齢とともに19274月に日本女子大卒業後、労農党の書記になり、19277月関東婦人同盟の執行委員になり、いつも清家とともに出席した。三・一五事件直前に関根悦郎と結婚したが、関根は三・一五で検挙された。

 

038 以上、治安維持法関係者は(私を含めて)16名で、思想犯は一つおきにしか入れないから、女監房の収容力は限界に達していたようだ。監獄に入れられることを「臭い飯を食う」というが、堺利彦は千葉刑務所での獄中記の筆名を「貝塚四分六」としている。貝塚は地名で、四分六は麦六分米四分のことだと少女時代に聞いたが、実際は米は古米で虫がついていたり、麦は真ん中の黒い筋がそのまま残っている丸麦で、臭いにおいがし、口の中でボソボソしていて普通では食べられた代物ではない。

 食事になると、頑丈な扉の下部に物を出し入れするための四角い窓があり、奥からお膳を持って来て、お湯、味噌汁、ご飯の順に手順よく食器を窓の外に差し出さねばならない。ぐずぐずしていると配食の雑役囚から文句を言われる。お湯はあかがねの大きなやかんで配るのだし、味噌汁は大きな手提桶で配って歩くのだから重労働であるし、この作業に看守が一々ついてくる。

 朝食と夕食は味噌汁と漬物二切れとご飯だけ、昼食は汁がなく、煮物がつく。煮物は例えば、大根の切干とか昆布の千切りや大豆の煮豆、時たま魚(塩辛い鱒(ます)の類)がつき、年に何回か肉が二、三切れ入った馬鈴薯の煮ころがしが出たように思う。これでは栄養が足りないから、金のある人は、未決の間は、牛乳や差し入れ弁当を買うことができた。また外から差し入れすることもできた。私は差し入れ弁当はほとんど食べなかったが、寺尾(清家)とし『伝説の時代』によれば、一食二十五銭から二円まであったとのことだ。その他おやつも買うことができた。一日一品、十銭の制限で、大福、塩せんべい、チョコレート、キャラメルや夏みかん、トマトが買えた。金は手元には持てず、刑務所に領置し、その中から使用した分を差し引く。

039 戦後の未決では新聞・雑誌が読めるというが、私たちの時はニュースは一切許されず、外とは完全に遮断されていた。三・一五事件直後は『資本論』など左翼系の書籍の差し入れができたが、その後すぐ禁止になった。監房の中で持っていられるのは三冊までで、差し入れされたものは刑務所に領置し、必要に応じて手許のと取り換えることができた。所持金があれば図書目録を取り寄せて買うこともでき、また刑務所に備え付けの図書があり、それを利用することもできた。

 一日30分の運動は手足を思う存分動かせる唯一のものであった。その運動場に洞穴のある桜の木の幹に「タワリシチ」(同志)と刻んであった。同志たちは下駄の音を殊更に響かせながらせっせと歩いた。

 入浴は週二回で、雑居房と既決囚は数人で入るが、思想犯は一人で入れ、解放感を味わえるもう一つの場であった。病舎にいた私は風呂場に行くのに雑居房、独居房など全ての監房の前を通る。看守が「廊下の真ん中を通れ」と厳重に監視しているから廊下を歩く者からは声をかけれれないが、監房の中の同志は話しかけてくれたり、名前を呼んでくれたり、それができないときは咳ばらいをしてくれたりしてくれた。

040 衣類は未決の間は自分のものが着られ、差し入れもしてもらえた。監房内で着物を常時三枚持つことができたと記憶する。布団の差し入れもできたが、仲間はせいぜい毛布くらいだった。

 食事を配る雑役婦は、私たちが買うおやつや、差し入れの衣類、書籍等を運んでいた。小柄でこまねずみのようによく働いていた。私より先にここの住人になっていた西川露子は雑役婦をシンパにし、後から来る同志に鉛筆の芯とレポを送ってくれた。彼女は一番齢が若かった。しかしこれが発覚するとただでは済まないので、雑役婦は限定的に使い、他の手段を考えた。それが運動場の桜の木の幹の洞穴や石の下などに小さくたたんだレポをおくことだった。

041 この獄内ニュース網の確立は三・一五や中間検挙の同志の大部分が保釈出獄した後の1929年夏ごろだったと思う。このニュース網で中央幹部でただ一人検挙を免れていた佐野学6月に上海で捕らえられたことを知った。また8月に入ってからだったが、三・一五で検挙された中央指導部の水野成夫、門屋博、浅野晃、村山藤四郎、是枝恭二*らが「皇室は日本民族の統一の中核であり、日本は君主制の下で資本家・地主の支配を倒し、労働者・農民の政府をつくる社会主義革命を遂行できる、従って日本共産党の綱領から君主制廃止を除くべきだ」という転向意見を検事局に上申したことを知った。この転向意見にはインテリ党員だけでなく、労働者出身党員の中からも賛同者が出たが、女性党員の間には全く動揺がなかった。

 

*波多野(是枝、福永)操1907—1991 東京女子大中退。1927年日本共産党に入党後、『無産者新聞』編集長の是枝恭二と結婚。三・一五で検挙され、19342月、再犯で検挙。戦後は1955年日本共産党へ復党後、地域活動に従事する傍ら、思想研究や運動史研究を行った。

 

 だが、伊藤千代子は転向者の中心人物の一人である浅野晃の夫人であった。彼女は「デマではないかと思う」と言っていたが、裁判所に通うようになり、帰って来て、「浅野が上申書を私に読ませてくれと検事に言った(これは検事の作り話で、浅野は見せないでくれと言っていた。藤田廣人『時代の証言者 伊藤千代子』2020)ので読みにいっている」「浅野たちは何か他に考えがあるのではないかと思う」と言っていた。また西村櫻東洋は「今、党中央部は敵と大きな取引をしているのよ」と言ったという。

 

042 伊藤千代子は裁判所通いが長くなるにつれ、裁判所から帰ってから食事をしている様子がなかった。静かで物音一つしないかと思うと、急に部屋中を歩き回る足音が聞こえてきた。そのうちに壁板を叩いて私の名前を呼び、「今までの共産党は間違っていたのだろうか。あなたはどう思う」「私どうしたらよいのだろう、淋しくてしようがない」「何もかも分からなくなった。瘋癲(ふうてん)病院(精神病院)に行きそうだ」と言って急に黙ってしまうようになった。伊藤千代子が階級的良心と浅野晃との愛情にはさまれてのたうちまわっているとき、悲しいことに私にはどうしてもあげることができなかった。

 ある夏の日の夜もまだ明けぬ闇の中で突然伊藤千代子の部屋からの「天皇陛下万歳!」と天を突くような大声に私は飛び起きた。彼女はさらに「お母さん!」「でた…でた…月が」の童謡を歌い出した。女性の看守長が駆け付け、看守もバタバタと来る。この伊藤の叫びは高い塀で遮られた男子房にまで聞こえたという。志賀義雄が「伊藤さんの天皇陛下万歳!は男房まで聞こえた。彼女は検挙された時は敵のひどい拷問と闘ったしっかりした人だったのに」という意味の事を書いている。

 彼女は幼少のころ亡くなったという母に救いを求め、童心に戻ったのか(小学校の教師だったから。藤田廣人『時代の証言者 伊藤千代子』2020)「チイチイパッパ、チイパッパ」とよく歌っていた。食事はしなかった。真夏の暑い盛りで、着物を脱ぎすて、裸になってチイチイパッパを歌っていたという。また看守が扉を開けると裏庭に飛び出て、キャッ、キャッと声を出して運動場、廊下の区別なく走り回った。しかしあるとき清家齢さんの扉の前に立ち止まり、トン、トンと扉を激しくたたいて、「清家さん、頑張ってね、しっかりやって頂戴」と口早に言って走り去ったという。寺尾としは『伝説の時代』に「必死になって彼女が投げかけたこの言葉、狂った中にもなお一筋残る正気、私は泣けた。飛び出して抱きしめてやりたかった。一緒に泣いてやりたかった。そうすれば正気を取り戻すことができたのではあるまいか、私は今でも残念に思っている」と書いている。誰か一人でも顔つき合わせて話し合うことができたら、発狂は防げたのではないか。伊藤さんは市ヶ谷刑務所から松澤病院に入院し、発病の年の924日に亡くなったということである。

 

 ブタ小屋と言われる不衛生な警察の留置場のたらいまわし、拷問、栄養失調、この後に続く長期の独居房での拘禁は人間の心身を損なわずにはおかない。田口ツギさんは肺結核が発病して保釈、豪商の令嬢であった森田京子さんは伊藤千代子さんとは対照的に毎夜シクシク泣き、「四郎さん、四郎さん」と独房の中で三田村四郎の名を呼び、「四郎さんはどうしているのでしょうね」と細い声でひとり言をいい、拘禁性うつ病になった。みんな大なり小なり健康を害していた。大先輩の野坂竜さんは9月、丹野セツさんは10月に保釈または執行停止で出所した。四・一六以前の同志は下田富美子さんただ一人になった。

 

044 同志間の連絡レポは絶対安全とは言えない。看守が運動の時間中に監視することもあるからだ。その場合はどうすることもできない。ある時西村桜東洋が水野・浅野たちの転向問題について、自分の指を傷つけ、その血で彼女の心の叫びや、転向批判、天皇制廃止の正しさを論じたレポをダリアの根元に置いてきた。それがどうしてか看守の手に入ってしまった。夕方彼女は厳重に調べられ、手を調べられ、看守部屋近くの房に移された。その後も何回か露見したが、女監房の女性看守長は熱心なクリスチャンで、こうした反則に対して一度も懲罰を加えることはなかった。

045 このような不時の場合の緊急連絡は、裏窓が運動場に面している監房にいる私の役目と考えた。便所を隠すための薄い板の屏風を窓の下に移して踏み台にし、窓の鉄棒に掴まって鉄棒の間から顔を出し、運動している同志に連絡した。時には小さくたたんだレポを、かねて用意しておいた小石にしばりつけて運動場めがけて放り投げることもあった。背後に看守の足音を感じ、飛び降りようとしてあわてて屏風を踏み外してひっくり返ることもあったり、新人同志に呼びかけても反応がなくてがっかりすることもあった。中本たか子さん(後、藤原惟人夫人)は「中央公論」の19376月号の「受刑期」に、「東側の舎房の端れの窓に若い婦人がとび上がって私を見下ろして言った。『あんた元気』『はあ』私はずっと後ろに看守が立って見張っているので気兼ねしながら、小さな声で云った。すると窓の婦人は元気な声で、あることを告げた。私は両手をあげて見せた。『元気でね。さいなら』彼女はそう言ってすぐ顔を引っ込めた。」これは1930年夏のころであったが、私と同じ並びの監房にいた内山ちとせさん(後、阿部義美夫人)から、「作家の中本たか子さんが来るから、来たら(中本さんに)連絡してくれ」と言われて、中本さんが来るのを待ち構えて連絡した時のことと思う。

 西村桜東洋のレポ発覚事件から看守の監視が厳しくなりレポ交換が困難になった。そこで西村桜東洋が一つの名案を考え付いた。市ヶ谷刑務所は江戸時代の小伝馬町の牢屋の古材で建てたものだが、入浴する湯舟の中の排水口が木の栓で、水漏れを防ぐために栓を布で包んであり、その端がワカメのように湯舟の中でひらひら泳いでいる。レポをキャラメルのろう紙とかチョコレートの銀紙に包んで、水が浸み込まないようにして湯舟の中で泳いでいる布の先にしばりつける。糸はタオルから引き抜けばいくらでもある。帰りに咳払いを一つする。(レポを)取ったものは咳ばらいを二つする。最後の入浴者が総ざらいをする。この方法はかなり長期間続けることができた。

 浴場の脱衣棚を利用することもあった。また鉛筆の芯がなくなった場合に備えて、薬品によるあぶり出しをまねて、石鹼水で取り組んだ。こうして孤独に陥ることもなく、未決生活を送ることができた。この獄内ニュースによって1930年にモスクワで行われたプロフィンテルン第五回大会に日本代表が参加したことや、全協内の刷新同盟代表南巌演壇から引きずり降ろされたことを知り、刷新同盟の活動に批判的であった私たちは胸を躍らせた。

 

感想 これをセクト主義というのではないのか。橋本菊代もそれに迎合しいい気になっているのには納得できない。「刷新同盟」「南巌」とは何か、悪党か。

 

*大原社会問題研究所「産別民同がめざしたもの(2) 水戸信人「神山は19306月、全協指導部の極左的偏向に反対して佐藤秀一、南巌、内野壮児らと全協刷新同盟を結成した。」

 

 石鹼水の実験は成功しなったが、初秋になり、野坂竜からもらった厚地の本ネルの着物の差し入れの衿を解いたところ、シャープペンシルの芯が五、六本出て来た。これは一回きりで、その後は衿を解いてあった。男もこれをやっていたというから、誰かが見つかったのだろう。

 

047 1930117日のロシア革命記念日に、四・一六の同志が中心となって革命歌を歌うデモをした。

 

同志よ固く結べ!生死をともにせん!

いかなる迫害にも!あくまで屈せず!

我等若き兵士!プロレタリアの!

残虐の敵すべて!地にふれふすまで!

 

日本共産党万歳!ロシア革命記念日万歳!

 

拍手

 

当時の男の看守長が長いサーベルを振りかざして「コラ!ヤメロ!ヤメンカ!」と扉を開けて靴のまま室内に侵入しても私はものともしなかった。歌い終わり、感激の涙があふれた。

 

049 懲罰は読書禁止30日から15日で、清家齢が首謀者とにらまれたらしく30日だった。西川露子は「西川露子、読書禁止25日」と大声で皆にわかるように宣言した。

その後一日間ハンストした。就寝の合図までだったが苦しかった。

参加せず「何の意味もない」という同志もいた。

 

寺尾としはこの日を1年前の1929117日とするが正しくない。懲罰を受けた同志の中に1930年の二・二六事件の同志の国松や立見がいるし、中本たか子は「中央公論」19376月号~8月号「受刑期」(その1)の中で、(田中正弦のアジトにいるところを検挙・拷問されて刑務所に入って来てまだ2週間ばかりで――山本注)戸惑ってこのデモに参加できなかったことについて触れている。また西村も中本とレポの交換をしたと書いている。

 

感想・疑問 伊藤千代子もその映画ではこの歌唱デモをやったことになっているが、伊藤千代子のそれは原菊枝の獄中記(193012月)によると、1929年の315日弾圧記念日のことらしい。そして原菊枝によれば、この時は3人が参加しただけで失敗し、次回の10月11日とされている、秋の「ロシア××記念日」では成功したとある。原菊枝は193012月以前に出獄しているから、この秋の歌唱デモは1929年の秋か、1930年の秋か、あるいは1929年の秋も1930年の秋もいずれもやったのかもしれない。

 

 二度目の冬(1930年)、西村桜東洋が肺結核を発病し重体となった。西村桜東洋は1929年の四・一六事件の時、上部との連絡を突けようとして友人宅を訪ねたときに、そこに張り込んでいた刑事に逮捕された。東京市バスの赤襟嬢(バス車掌)の出勤時間が書かれた手帳と投函予定の葉書を、青山署に連行される途中に、トラックの下に投げ込んだため、殴り蹴とばされた。大崎署に回され、4日間連日連夜拷問されたが、大崎署長が「こんな大騒ぎをして取調べ、万一死ぬるようなことがあったら困る。しかるべき方法をとってくれ」と申し出て拷問から解放された。

 肺結核となった西村桜東洋は重態となって獄外の医師の診察が認められ、1930年の暮れに保釈された。

053 西村桜東洋は、京都帝大を追われて東京での開業を準備していた安田徳太郎博士の治療により危篤状態を脱したが、その後数年間闘病生活を余儀なくされた。

 

 清家齢は度々喀血するようになった。宇和島市の母親が上京して保釈運動をし、19316月に保釈された。清家齢は幸い郷里での二、三カ月の静養後に健康を取り戻して上京し、獄外・獄内の被告の公判闘争準備に参加した。中間検挙の夫・清家敏住が転向し、宇和島に帰郷していた清家敏住と話し合って離婚した。恋愛結婚だったのに。彼女は一審公判の終了後に地下に潜った。

 

 

4 つかの間の出獄

 

054 四・一六の女性六名のうち、上流家庭の子女・西川露子は家族の保釈運動の結果か、清家齢と前後して出獄した。彼女は出獄後私によく手紙をくれた。保釈出獄していた三・一五の共産青年同盟の同志と結婚したが、その同志は結婚後間もなく肺結核で死亡した。彼女は夫の霊前で「今後は二人分の活動をします」と誓ったが、私が出獄した19325月には、被告会議や公判に一度も姿を見せず、二度と彼女に再会することはなかった。しかし彼女の叡智と勇気に感謝するとともになつかしさを感じる。

 西川露子に続き大谷みつよ(東京市営バス営業所の事務員037)が保釈・出獄した。当時出獄した同志や獄外共産党は、出獄した同志を、検挙後の取り調べに対する態度を調査のうえ、公判闘争や党の活動部署を与えていたようだ。大谷みつよとは公判廷以外では会うこともなかった。

055 その大谷みつよが敗戦後暫くして寺尾としを訪ねたというが、寺尾としも亡くなり、大谷の消息が分からないまま何年か過ぎたとき、四・一六の竹内文治から、大谷みつよが病気入院していることを知らされ、私は四・一六の西村と高橋ヨキ(現・小川姓)に連絡し、世田谷の病院に見舞いに行ったが、その日の朝に亡くなっていた。1976413日のことである。

 風間丈吉の手記によれば、大谷みつよは保釈出獄後に共産党中央部のレポとして活動中、スパイ松村に売られ、再び投獄され、北海道旭川刑務所で服役した、とある。大谷みつよの活動場所は東京で、九州とはかかわりないが、西村桜東洋は久留米市野中町の正源寺境内の解放運動戦士の碑に、九州の解放運動戦士4000名と共に彼女の名を刻んだ。

 

 高橋ヨキと私の二人はなぜか保釈されず、1932年、獄内生活三度目の一月を迎えた。その時、三・一五、四・一六関連被告で保釈されないのは、丹野セツ、高橋ヨキ、私の三人だけだった。

 

三・一五から四・一六事件までの党の基本的綱領や中央指導部の構成は変化がなかった。獄中の幹部はこの間の全被告の公判の統一を計画し、佐野、徳田、市川、杉浦、鍋山、志賀、国領、三田村、中尾、高橋10名の法廷委員会を組織し、この法廷委員会の指導の下に統一公判を要求した。三・一五と中間検挙を第一グループとし、四・一六を第二グループとした。

 第一グループの第一回公判は1931615日で、丹野セツは市ヶ谷刑務所から出廷した。第二グループの私たちは公判に備えて法廷委員の予備調書を差し入れしてもらい、党の政策や活動の勉強をした。そのとき幹部・佐野学の予審調書を読んで佐野の性格を知った。佐野は自分たちが第一次共産党事件で服役中に、五色温泉で第三回大会を開催して福本イズムを党の指導理論として採用したのはけしからんと、怒りを込めて党に対する不満を予審でさらけ出した。ぶつけ先を間違っていると、またインテリの弱さを感じた。

 

 私は保釈願いを出し続けた。岡山から母が上京して検事や判事に保釈を要請したが、「あなたの娘は悪い人間だから出すわけにはいかない」と言われて後ろ髪を引かれる思いで帰って行った。母はそのとき痩せていて、本人も子どもも気づかないうちに相当進んだ肺結核になっていた。病院は入院させてくれず、母の妹と祖母に看病してもらっているという知らせを受けた。

 

 

感想 2023918()

 

065 綱領 or 32年テーゼ 橋本菊代のような下部の党員にとって、綱領は考えるものではなく、覚えるもののようだ。そして下部党員の行動は、上部の命令に服従することであって自分の意見を言うことではなかったようだ。橋本が頭に叩き込んだと思われる32年テーゼは一読して分からない。綱領はいわばおまじないのようなものだったのかもしれない。はっきり分かっていることは「労働者対資本家の対立」だけであり、あとは粉飾のように見える。このことは共産党以外の綱領についても言えるのでは。

 

070 警察は1932年以降弾圧をエスカレートしたようだ。1932年、上田茂樹が行方不明になったが、警察は検挙の事実さえ否定し、今でも何ら手掛かりがない。070小林多喜二(1933/2/20虐殺076)の虐殺はよく知られているが、その前年の1932113日、岩田義道072も拷問・虐殺11/3された。そして警察は岩田の葬式参列者さえ逮捕した。逮捕されると知りながら参列する人が多かったという。また弁護士さえ逮捕061し、弁護士資格を剥奪062した。

 

 

057 1932419日、私達第二グループの公判の初日、高橋ヨキと私は市ヶ谷刑務所から編み笠を被って出廷した。幹部級の党員を除いてほとんどが保釈となっていた。公判廷では刑務所から出廷した被告の席と獄外から出廷した被告の席との間を広くし、席と席との間に警官を配置して私たちの交流を遮断しようとしたが、それにをものともせず三年ぶりの再会を喜び合った。

 確か刑務所から二回出廷したのちの五月のある晩、高橋ヨキと私は突然保釈となり、二台のタクシーに乗ってあっけなく別れた。私は迎えに来ていた兄とともに板橋の姉の所に行き、当分そこにいることにした。

 この突然の保釈は、最末端の平党員がまる三年間も刑務所にいることに驚いた法廷委員が裁判所に抗議した結果であった。1977年か78年ころ、私は志賀義雄から「市バスの車掌ともう一人の女性が保釈になっていない、男では秋笹政之輔氏が喉に包帯をして出廷していることに対して徳田と二人で抗議した」と聞いた。

 

058 1931年から32年にわたる私たちの公判闘争当時は世界的な大恐慌で、失業者40数万人、農漁村の欠食児童27万人にのぼり、日本帝国主義は1931918日、柳条湖事件を自ら起こして中国に出兵し、傀儡満州国をつくり、中国各地への侵略を画策していた。国内ではファシストが横行し、血盟団員によって前大蔵大臣井上準之助、続いて大財閥三井の大番頭団琢磨が射殺され、さらに右翼思想に影響された陸海軍将校の蜂起により首相犬養毅が射殺された。その一方で革命的闘争に対しては手段を選ばない弾圧を強行した。

 

 板橋の姉は、夫の西村祭喜が東京電灯(東電の前進)で労組を組織して首になり、労働運動に専念することになったので、一時郷里の岡山に帰っていたが、末娘を母に預け、二人の娘を連れて再び上京し、生薬(きぐすり)屋と産婆を開業していた。これらの開業には私の兄、姉にとっては弟、が物心共に援助した。兄はまた私の三年間の未決生活中毎月10円差し入れてくれた。

059 姉は当初労働運動や社会運動を積極的に支持するだけの意識は持っていなかったが、夫が投獄されてからは、姉の家が居住地域の板橋だけでなく滝の川や十条周辺の労働者や革新的な人々の交流の場となり、姉自身も産児調節(家族計画)の指導をしていた野尻医師を中心に無産者の産児調節運動に参加し、ある時には二人の幼児を家に残したまま仲間と共に戸塚署に留置されたこともあったという。(警察はこういう普通の人まで逮捕する)姉の家には東京合同出身で四・一六の共同被告宮内盛春が同居し、姉の家から公判に通った。私は公判の日にはこの宮内や東京高等蚕糸専門学校(農工大の前身)の学生その他の傍聴者とともに、数人なら市電より安上がりのタクシーで出廷することが多かった。

 

 公判を階級闘争の場として、獄内の指導者による法廷委員会の他に、獄外の被告、弁護士、赤色救援会(モップル=革命運動犠牲者の国際組織日本支部)の三者で組織した「モベヒ(三者の頭文字)の会」という公判対策委員会を組織し、私はその一員となって会議に出席した。また地下に潜って大衆団体の指導をしていた三・一五事件の被告松尾茂樹から(私に)連絡があり、(私は)赤色救援会東京地方フラクションのキャップを命ぜられ、その活動もした。

060 ちょうどその時1932515日、陸海軍の青年将校や右翼が蜂起して首相官邸などを襲撃し、犬養首相を射殺し、裁判所警備の警官がそちらにまわされ、公判が10日間余休廷してから、公訴の事実審理が始まった。私たちの公判は一般刑事事件のように裁判長の訊問に答えるのではなく、「モベヒ会議」で決めた方針に基づいて、労働者、農民、女性解放のための共産党の活動がいかに必要か、またその活動の正当性を各被告が演説するのであった。さらに証拠調べでは、私たちの検挙と投獄が、拷問による暴力と徴発によってデッチ上がられたものであることを示すために、法廷委員の市川正一が全般的に拷問の事実を暴露し、さらに直接の拷問者である当時の特高課長であった纐纈や、労働課長であった浦川や、私にも拷問を加えた中川警部、亀山検事たちを証人として喚問することを要求した。

 この時拷問の具体的事実の暴露を、清家齢と私がした。私が拷問を受けた時のことを思い浮かべて怒りを込めてその事実を暴露したからだろう、裁判長が発言中止を命じただがそれにはお構いなしに私は述べ続けた。警備の警官であったか、法丁(廷吏)であったか、覚えていないが、私を法廷から引きずり出そうとしたが、法廷委員が裁判長に抗議し、共同被告の道瀬幸雄がかばってくれて、ようやく自席にもどることができた。こうして630日と71日の二日間の証拠調べが終わり、75日に求刑である。

 

 三日間にわたる弁護士の弁論は実に立派だった。布施辰治弁護士をはじめ、上村進、細迫兼光、神道寛次らの長老弁護士を筆頭に、20名の弁護士たちは裁判長から「弁護士は憲法を認めないのか」と妨害されるほど迫力ある弁論をし、角田、梨木、窪田氏など少壮弁護士は献身的に世話をしてくれた。また谷村弁護士に対して、裁判長は「被告と同じ立場の弁論である」と弁論中に度々妨害した。結局求刑は三・一五、四・一六関係の被告201に対して、死刑1名、無期懲役3名の他、有期刑の累計は1023に及んだ。

 ちょうどこの時解放運動犠牲者救援弁護士に対して弾圧が加えられ、東京では細迫兼光、谷村直雄、阿川準一の三弁護士が検挙されたが、われわれ被告団の抗議によって釈放された。719日、築地小劇場で開催された求刑に対する抗議のための「死刑、重刑反対」の演説会では各弁士に「中止」が連発され、満足に演説することができなかった。それでも各地域で重刑反対の抗議集会が開かれ、判決日の前日には裁判所に対して「共産党員に対する死刑、重刑に絶対反対」の抗議投書が多く届いたということだ。

 この年193291日、解放運動犠牲者の無罪を要求する「無産団体協議会」が結成され、大衆的に統一した運動が展開された。1029日の判決の前日28日には上野自治会館で「無罪釈放労農大会」が開催されたが、この大会は開会と同時に「解散」の弾圧を受けた判決の当日獄中の同志を奪還する計画があるという噂が流され、刑務所から裁判所までの沿道は蟻の這い出るすきもないほどの厳戒ぶりで、傍聴者は徹夜で列をつくっていたが、いざ開廷となると、右翼の学生や青年が、傍聴席をほとんど占領し、「共産党員を刑罰にせよ」というビラを法廷内に撒いた。これに対して共産党の挺身隊も「死刑、重刑絶対反対」のビラを撒き、法廷内の空気が極度に緊張した中で、宮城裁判長が判決文を言い渡した。

062 判決では三田村四郎が死刑から無期になったが、三名の無期は求刑通りだった。また183名(18名は求刑後分離公判となったのか――山本注)の有期刑の累計は777年となった。中堅幹部以外は少数を除いて求刑より多少刑期が減ったが、私たちの仲間の清家齢さんは求刑通りであった。彼女が法廷委員との連絡をつとめ、先頭にたったからだろう。四・一六(で検挙された私たちの仲間の女性関係者)では西川は出廷せず、西村は重態で公判延期、残る3名はともに求刑4年が判決では3年半になった。判決言い渡しに対して、佐野学が直ちに立ち上がり、「天皇制を擁護するために下されたものであるから全員控訴してさらに闘う」と宣言し、弁護士を通じて控訴の手続きを取った。敗戦後当時の「改造」を読んだが、「判決が求刑よりも軽くなるのではないかと検事が懸念し、判決前日、裁判所側と合議してねじをまいたが、判決の結果に満足した」ということが書いてあった。

 私たちの公判が終わった直後の1111日、解放運動犠牲者のために渾身の力をこめて論陣を張った布施弁護士が、そのために大審院から弁護士除名判決を言い渡された。

 

 

感想 2023923()

 

一審判決後(1932年暮or1933年初)も橋本菊代が活動できたのは、控訴中だったせいのようだ。しかしその最中に、市川の兄の家に身を寄せていた彼女は踏み込まれ、兄が対応する中を逃亡し、地下に潜らざるを得なかった。073

 

 

063 モップルの活動 私は出獄後間もなく、赤色救援会の会員にもなっていなかったのだが、共産党の大衆団体指導部の松尾茂樹から、赤色救援会東京地方委員会のフラクションのキャップとして活動するように言われた。寺尾とし『伝説の時代』192によると、彼女が出獄した当時は「保釈になった者は皆敵に対して譲歩していたので、党は保釈と同時に(保釈になった者全員を)党籍から除外し、被告会議での活動の中から改めてフラクションがつくられた」とある。

松尾茂樹が対支非干渉同盟の活動をしていたころ、帝国主義諸国の対支干渉を阻止するための国際会議が1927年の夏に上海で開催されるにあたり、日本代表を無事に送り出すために偽装代表が仕立てられ、その偽装代表は捉えられて29日間警察の留置場に入ってくるという仕事があった。(その当時は検挙されると住所不定にされ、29日間拘留された)私は松尾茂樹の要請で日本代表の出発予定の前日、同じく替え玉の朝鮮人青年と二人で労働者農民党の大山委員長宅に泊まり、翌朝彼とは別々にスーツケースを持って東京駅に行き、特高に捕まり、日比谷署で29日間南京虫攻めにあった。このことと私の未決中での忍耐を松尾茂樹が信頼してくれ(て、私を赤色救援会東京地方委員会のフラクションのキャップに指名し)たのではないかと思う。

064 私は松尾茂樹からモップル東京地方フラクションキャップとしての活動を指示されるとともに、「この年(1932年)の11月にモスクワで開催予定のモップル世界大会に東京地方代表として出席すること、そのために東京地方の活動報告書を作成すること」を言い渡された。そしてそのころモップル委員長で中央フラクのキャップであり世界大会中央代表の滝沢一郎と、(世界大会に出席する)職場代表の松田俊次を(松尾茂樹から)紹介され、この二人と常に連絡・協議して報告書を作成した。日常活動の直接の指示・指導は滝沢一郎から受けた。

 東京地方の活動家を紹介してくれたのは確か滝沢一郎からだったと思う。私の記憶にある活動家は、現在「旧縁の会」世話人の一人である俣野旭、現在消息不明だが、東大工学部の学生で「クロさん」と呼ばれていた、本所の中小企業の息子、もう一人は、「旧縁の会」世話人の山本喜三郎であった。山本喜三郎は兄山本忠平が家業の洋服仕立てを投げ捨てて革命運動に参加したあと、父親を助けて家業の洋服仕立てをしていたが、兄忠平の死因不明の獄死に接して階級的怒りに燃え、救援活動に専念していた。

 私は任務を果たすために日本の現実を認識する必要があった。世界恐慌による日本の大不況(の状況)は、東京府の失業者数124000人(193231日調べ)、日本帝国主義による満洲侵略と傀儡政権満洲国建国、国内での階級闘争の激化、労働者・農民に対する弾圧、労働者の闘い、中でも3月の地下鉄ストなどに現れていた。またその反面革命運動内での疑心暗鬼、東京江東区内での朝鮮人党員に対するスパイ容疑による上野公園での射殺事件、江東地区委員の中でのスパイを否定する党員に対する除名などショッキングな出来事があったことを(報告書作成中に)知った。

 

新綱領三二テーゼ 

 

065 共産党の綱領は、私が入党した頃は二七テーゼで、それは日本帝国主義による山東出兵等中国に対する侵略が切迫していた情勢を反映し、日本帝国主義が侵略戦争に突き進む矛盾を分析し、当面の日本共産党の任務は「君主制の廃止封建的大土地所有者である天皇、地主、国家、寺社土地の没収」その他を含むブルジョア民主主義革命であったが、19314月に「日本革命はブルジョア民主主義的任務を広範に含むプロレタリア革命である」という政治テーゼ草案が発表になっていた。

 私が出獄して一か月ほど後に(19326月か)「三二テーゼ」と言われるものが発表になった。それは「当面せる革命の性質」として、「日本における具体的情勢を評価するに当たって、必ず出発点とせねばならない第一のものは天皇制の性格と比重である。1886年以後に成立した絶対君主制は、その政策が幾多の変化を見たにもかかわらず、無制限の権力をその掌中に維持し、勤労階級に対する抑圧と専制支配のための官僚機構を間断なく作り上げてきた。日本の天皇制は、一方では主として寄生地主という半ば封建的階級に立脚し、他方では急速に富みつつある強欲な大ブルジョアジーにも立脚し、これらの階級の頭部と極めて緊密で永続的なブロックを結び、かなりの柔軟性をもって両階級の利益を代表してきたが、それと同時に、日本の天皇制は、独自の相対的に大きな役割と、えせ立憲的形態で軽く粉飾されているに過ぎないその絶対的性質を保持していた。自己の権力と収入とを貪欲に守護している天皇制的官僚は、国内に最も反動的な警察支配を敷き、国の経済と政治的生活においてなお存在するありとあらゆる野蛮なものを維持するためにその全力を傾けてきた。天皇制は国内の政治的反動と一切の封建制の残滓の主柱である。この絶対主義的支配体制に基き、日本資本主義は、東方及び南方のアジアにおける軍事力の独占と地理的便宜を駆使して、中国・朝鮮を始めとして、これらの地域の植民地化・武力占領・略奪を行ってきた。この点からみても、天皇制国家機構は、搾取諸階級の現存の独裁の強固な背景となる危険性がある。これを粉砕することこそ、日本における革命的主要任務の第一のものとみなされねばならない。そして日本人民の真に民主的支配の道は、大資本のこのような反人民的搾取や支配を越えてのみ、即ち天皇制の廃止、地主の収奪の排斥、及びプロレタリアートと農民など勤労人民を主体とする独裁の樹立によってのみ達成される。」

 

066 私はマルクス・レーニン主義を勉強していなかった上に、丸々三年間左翼的文書に接していなかったので、これ(三二テーゼの理解)は大変な仕事だった。公判闘争やモップル活動は緊張の連続だったが、生きがいを感じた。

 

067 某日モップルの上部との街頭連絡の途中に交番があり呼び止められた。相手に渡すレポを持っていたので走って逃げる途中にそのたたんだレポを飲み込んだ。交番に連れて行かれたが、嘘をついて解放された。

 また万世橋近くの本屋で後ろから肩を叩かれたこともあった。振り向くと蝙蝠傘のステッキを持った人相の悪い男が立っていて「髭さんといつ会うか」。「知らない」とその場はそれで済み、「髭さん」の松尾茂樹にそのことを話すと、「あの男は農民部のおっさんだから大丈夫だ」と言う。一度も顔を会わせたことのない私を知っていることに疑問を持ち続けた。この男は後のリンチ事件のスパイ大泉だった。

 その当時の生活費は、毎月10円の(兄からの)差し入れを入獄中に貯めておいたのを使った。また関東電気労組員で会社を退職し下駄屋をしていた人に下駄を持って売ったらどうかと言われ、売れても売れなくても半非合法生活には隠れ蓑になると思ってその親切に甘えた。

 

母の死

 

068 重態の母は岡山県津山市にいた。母には息子二人と娘二人がいた。息子二人は勤め人で、娘二人は私と姉だが、姉は夫が投獄され、三人の子供を抱えていた。母は郷里の塩田から母方の祖母と叔母のいる津山に移っていた。祖母は778歳の高齢だった。

 私は審理と求刑が終わり、判決までに間があった。モップル世界大会への報告書も出来上がった。松尾と滝沢と相談し、津山に母を見舞うことにした。母の生前に一目会いたかった。敵の警戒心をはぐらかす狙いもあった。

津山には父が塩田から来ていた。母は骸骨のように痩せていたが、足ははちきれそうに腫れていた。身動きは叔母と祖母の手を煩わし、微かに息をしていた。

私は二三日後に東京での連絡の仕事があった。叔母は「そうか、まあ仕方がない。お前は裁判で立派に立て板に水を流すように陳述したというから、いまさら帰らずにはおられないだろう」「片山潜さんが日本に帰りたがっておられるそうじゃが、帰らしてあげたいな」と言った。片山潜の故郷は津山の近くだった。母には直接言えず、父に代弁してもらった。母は頷いて微かに聞こえる声で「お前の友達はみんなよい人ばかりだ」父は「悪いことをしたんじゃない。貧乏人のためにしたんだ」この父の言葉は私がきいた最後の言葉となった。

069 翌朝出発することにしたが、その真夜中に母は静かに息を引き取った。夜が明けた日は彼岸の中日だった。幸い東京での連絡の仕事は予備線が一本残っていた。(私は母を)津山で荼毘にふし、母方の親類の人達と、神戸から駆け付けたと(ともに)、母の遺骸を持って塩田に帰った。塩田には千葉県市川市在住のも帰っていて、葬式を済ませ、私は一人で東京に帰った。

 19835月、私は娘と夫正美の三人で、津山市の母方の従兄弟を訪ねたが、従兄弟から「あの時は早く改心して帰って来ればよいと思ったが、それは間違いだったんだな。あんたたちは先覚者だったんだ」と、そして祖母や叔母が当時「『菊が帰って来てくれた』と大変喜んでいた」と聞いた。

 

相次ぐ共産党員虐殺とスパイの暗躍

 

070 1932年ころの天皇制権力による共産党に対する弾圧は特に厳しかった。共産党創立当初からの古い党員上田茂樹は保釈出獄後地下に潜り行方不明になった。910日の「赤旗」は上田茂樹が敵に虐殺されたと報道した。当局は検挙の事実すら否定し、現在も謎のままである。また左翼的文化団体や労組などに対しても片っ端から弾圧し、多数の犠牲者(逮捕者)が出て、その犠牲者に対する救援、家族との連絡、教育、宣伝活動等で忙しかった。

 母の葬式を済ませて帰京した9月末ごろ、松尾茂樹から、「敵の警戒が厳しく、国外脱出は貨物船の船底に潜入するほかなく、女は無理だからモスクワ行きは中止」と言われ、がっかりした。

 10月ごろ、私は姉の家から千葉の市川市の兄の家に移った。106日夕方の号外は、川崎第百銀行大森支店の「銀行ギャング事件」を報じた。その翌日から商業新聞は、共産党が資金集めのためにやった事件だと派手に書き立てた。「赤旗」はこれを否定したが、事件関係者だとして(某人の)検挙があった。まさかと思った。また「獄中被告奪還」の噂もあり、厳戒の中の1029日、三・一五、四・一六の判決が言い渡された。(既述)

071 その判決の日の翌日1030日、全国から熱海に集まった共産党の地方幹部を中心とした全国的大検挙があり、全国で1400名が検挙された。(熱海事件)この時西神田署に検挙された三・一五の岩田義道4日後の113日、死体となって家族に引き渡された。「銀行ギャング事件」「熱海事件」などは、天皇制政府が共産主義運動の息の根を一挙に止めるために、Mこと松村(飯塚盈延)をスパイとして共産党中央に潜入させて仕組んだものであることが(後に)明らかになったが、当初は共産党中央は松村の正体がつかめなかったらしく、そのため、残存していた中央委員の宮川寅雄、源五郎丸芳晴、児玉静子、田井為吉の4人が121日会議中に検挙された。

 

山本喜三郎の入党

 

 東京地方の山本喜三郎は責任感が強く誠実な活動家だった。彼の兄忠平の獄死後の19318月、私は彼に入党を勧めた。彼は非常に喜び快諾した。私は直ちに上級組織に推薦し、10月末か11月初めころに承認された。このころは毎日のように検挙者が出たが、幸い私を直接指導する滝沢や、共産党中央の大衆団体指導部の松尾も健在だった。おそらく松尾の紹介であったかと思うが、指定の連絡場所に一面識もない男性が現れ、「共産党中央部を経験のないインテリに任せていいかどうか」と聞かれた。この人は後の「労働者派」という分派の中心分子の藤原某であった。その他にも二、三の労働者派の人から連絡があったが、内容は記憶していない。

072 岩田義道の労農葬が124日午後1時から本所公会堂で開かれた。ところが天皇制警察はその葬式まで徹底的に弾圧した。葬儀委員長を始め、会場に来るものを片っ端から検束し、公会堂に通じる道の通行人を誰彼となく検問し、検挙者数百名、その他会場へむけたデモ参加者数百名を全員検束した。この会場に行けば検束されることが分かっている中で、このように集まったということは、革命的労働者階級の天皇制警察に対する怒りが当時如何に強かったかを示している。

 モップルではこの労農葬の直後松田俊次が検挙された。私がモップル活動を始めてから最初の検挙者だった。

 

 10月末の判決後四・一六関係の同志には誰にも会っていない。(その前の)まだ単衣の着物を着て公判に通っていた頃、若松とし(清家齢)から「(半非合法活動をしているのだから)いつも同じ着物を着ていてはまずい、あんたのその着物を高橋ヨキさんにやれ、その代わりにあんたには私のをやる」と言われ、私の縞の着物と彼女の着物とを交換した。私はヨキさんは労働者出身だから全協関係で活動していると思っていたが、実は牧瀬菊枝『ひたむきの女たち』1976によれば、「ヨキさんは上部から『早く下獄して合法性を獲得しろ』と使いが来て、地下に潜らず一審で下獄した」とあり、驚いた。1978年の秋、(私が)西村桜東洋と共にソビエトからの帰路、新潟の高橋ヨキさんを訪ねた時、やはり「判決後すぐ下獄した」とのことだった。「銘仙の着物を清家齢からもらってとてもうれしかった」と言っていた。

073 若松とし(清家齢)は「大谷みつよ(東京市営バス営業所の事務員037)さんと竹内文治氏は同じ市電関係だし、二人が結婚することを望んでいる」と公判中に言っていたが、その後どうなっただろうか。1970年ごろ神山花子から、「大谷みつよはスパイMこと松村のレポとして活動中に松村に売られ、熱海事件当時に検挙された」と聞いたが、風間丈吉『非常時共産党』はそれを裏付ける。(当時)若松としについて、滝沢からも松尾からも何も聞かなかった。

 

 

深夜の脱出

 

 1932年の暮れか1933年になってからか定かでないが、純毛の長コートを着ていたから寒中であったに違いない。ある晩、いつもの通りモップルの活動をして市川の兄の家に帰り、私の仮の部屋にしていた応接室にいたところ、門が強く叩かれた。兄が出て門を開けた。その間に私は台所に行った。兄が戻って来て「お前のお客様だ」という。私は兄に応対を頼み、台所から裏道に出た。幸いコートは着たままだった。買い物にでも行く格好で歩いた。背広姿の男が立っていたが怪しまれず、市川街道に出た。街道から裏道へ走った。畑や竹藪の中を歩き中山駅に着いた。汽車に乗って洗面所の鏡を見ると髪が蜘蛛の巣だらけだった。

074 もう他家を訪ねる時間ではない。関東電気労組員で、妻が深川森下町で今でいうスナックを経営し、自身もそこで働いている宮島という関電労組の事務所で手伝いをしている青年がいた。宮島君は全てを了解し、その夜はそこで泊った。

 私はその時から非合法生活に入らざるを得なくなった。着物は宮島君がスナックの妻君からもらってくれた。また中田伊代(のちの滝沢夫人)からも借りた。出獄後遠慮していた関電労組の元の組合員の何人かの家を泊まり歩いた。また山本喜三郎064が心配してくれて、今の墨田区向島か請地で建築業をしていた穴倉家を紹介してくれた。この家は主人と、設計図を作製していた息子と、琴子という娘の三人暮らしで、家族全員が理解者で、大変お世話になった。山本喜三郎によれば、穴倉はモップル第三回大会開催の資金面で大いに協力してくれたとのことである。のちの1939年に娘の琴子が結核で亡くなり、その時私は刑期を終えていたので葬式に参列した。穴倉自身も敗戦を待たずに亡くなったことを1983年ころ山本喜三郎から聞いた。

075 私は兄の家を出てからもモップル活動を続けた。党からの手当も当てにならず、兄に無心するために亀戸駅近くのガード下で会社から帰宅する兄を待ち受けた。それは一度だけだった。兄は日立製作所亀戸工場に勤めていた。「いくらいるのだ」と言い10円くれた。1937年私が刑期を終えたとき栃木刑務所に迎えに来た義姉が帰りの電車の中で、私の逃亡が新聞に二段抜きだったかで報道されたのを見た義姉の友人から「お宅の旦那は妹さんを逃がしても会社をやめないでよいの」と言われたと言った。

 1977年のころか、敗戦後松戸で入党したある青年のお母さんから「あなたが市川の家から逃げられたとき、お兄さまは辞職願を出されたが、工場長が『橋本君と妹さんは別人格で仕事上には何の関係もない』と辞職願を取り上げなかったそうです」と聞かされた。この夫人の夫も日立亀戸工場勤務であった。兄は1943年に亡くなったが、このことについては何も言わなかった。兄は厳格で誠実であった。

 

 

小林多喜二の虐殺

 

076 1933220日、小林多喜二が築地署で虐殺された。近親者に渡された死体にはむごたらしい拷問の跡があった。中川警部が「お前『三・一五事件』に書いてある通りにしてやろう」と言いつつ殺したという。私は今これを書きながら中川の苦み走ったすごい顔がちらつき、四・一六事件の時の拷問を思い出す。

 小林の告別式は弾圧が厳しく、弔問者は片端から検挙され、ほんのわずかの近親者だけの淋しいものであったと聞く。弾圧はこれに止まらず、告別式直後、彼の所属する文化連盟が急襲され、300名が検挙された。怒りに燃えた諸団体(モップルももちろん参加)が連盟して弾圧に抗議し、小林多喜二労農葬を行うことに決めた。「同志小林多喜二労農葬について激す」のアピールを出し、「労働者、学生、失業者はデモを組んで同志小林の労農葬に参加せよ!!」と訴えた。葬儀は315日午後3時、会場は築地小劇場、モップル東京地方もモップル中央の指示に基づいて葬儀闘争に入った。

 

山本正美との出会い

 

077 この小林多喜二労農葬闘争の最中に松尾茂樹から共産党中央の人の秘書への部署変更を言い渡された。共産党員である私に部署選択の自由はない。<共産党員である以上自分を必要とする部署で最善を尽くすのみ>と決意して承諾した。しかしこうなれば滝沢と会う機会もなくなるだろう。中田伊代074から借りた着物を返し、ひそかに身辺整理した。

 それからほどなく松尾とともに神楽坂のその人の住居に行った。こざっぱりしたアパートだった。相手の名前も経歴も何も分からない。(表向きは)関西大学卒業関西出身(兵庫県だったかと記憶している)の日活映画会社勤務の西村某の戸籍謄本を本人のものとして見せてくれた。「聞かざる」「言わざる」は非合法生活の鉄則である。仕事場は別の所にあり、その日の夜「兄貴の家に行きましょう」と言って、目白駅から少し入った閑静な住宅地の一戸建ての家に入った。この家には物静かな女性が一人いた。ここが中央部のアジトだった。

 既述025の通り三・一五事件の直後、野坂家でクートベ帰りの相馬に会った。相馬からは一見してソ連帰りを感じた。その後、その年(1928年)の夏、クートベ帰りの三人と一週間同じ家(野坂家か)で生活した。彼らは日本で活動するために帰国したのだが、共産党と連絡がつかず、私のいた家に一週間ほど預かった。彼らには日本の天皇制警察の弾圧が分かっていないらしく、のんびりしていた。今私の目の前にいる人(西村某)もクートベ帰りのようだが、前二者と違って、日本の現状を知っているようだった。日本の非合法生活については私の方が経験者だと思うのだが、彼は私を子ども扱いして細々と注意する。私は「小生意気な」とは思ったが顔には出さなかった。

 数日後大井町に小さな一戸建てを見つけて引っ越した。引っ越す前に私の服装を整えなければならない。私はその頃の会社員の妻の普段着であった銘仙の着物一枚を着た切りだった。それでは映画会社勤務の妻には不自然である。関東電気労組員の妹さんに仕立てを頼み、その間彼女の着物を借りた。西村某はその時も「派手でないもの、値の張らぬもの」と細々と注意を忘れない。それでいて物の値段など分かっていないようだった。

 その当時のエピソードを一つ。西村某と新宿の二幸で昼食をした。その時としては珍しい自動販売機であった。西村某が金を入れると一枚余計に食券が出て来た。西村は「前の人が困っているだろう」などと言ってまごまごしている。私は特高を気にして気が気でなかった。

 

079 毎日会社員を装って一緒に「兄貴の家」に行き、西村の口述を筆記するのが私の仕事だった。一回だけレポに行かされた。西村はこの時も警戒について細々と注意し、帰りについては特に注意した。指定の場所に行くと、私がかつて万世橋近くの本屋で特高と勘違いした農民部のおっさん(この男は後のリンチ事件のスパイ大泉067)が来た。松尾は「大丈夫」と言ったが、私は彼が私をマークしていると思った。それであんなに注意したのだろうと西村の真意が分かった。彼が折に触れて日本共産党に関して話したことで今も記憶していることは次の三点である。

 

(一)銀行ギャング事件について 党の財源の基本は一銭、三銭でもよい、労働者、農民その他シンパからのカンパである。革命時には銀行そのものを革命軍は押さえねばならないが、今のようなときには党破壊の口実を与えるだけだ。

(二)ハウスキーパーの問題 必要な限界を逸脱して個人的に乱用した場合は、それだけでも除名されるべきだ。

(三)同志に対してはいつも暖かい気持ちで接しなければならない。

 

 ある時西村が「君にも婦人部の活動をしてもらうことになった。部員の一人は君のよく知っている人だが、もう一人は若くて生粋の労働者だ。この労働者を助けて仲良くやって下さい」と言った。「私の知っている人」とは若松としと見当がついたが、若い労働者は全然分からない。連絡がつかなかったのだろう、いくら待っても紹介してくれなかった。そうしたある日彼と二人で原稿を執筆し、「赤旗」の「婦人版」を編集した。この婦人版が出版されたのかされなかったのか、見ずじまいに検挙された。

 

080 左翼労働組合は三・一五以来51日のメーデーに合法的に参加できなくなっていた。1933年のメーデーには全協系の労働組合は敵の弾圧を考慮して、各地域で分散デモを行った後に中央メーデーに合流する計画を立てたが、成果は得られなかった。

 

 

5 治安維持法下の政治犯

 

 

感想 スパイの暗躍 川崎第百銀行大森支店の「銀行ギャング事件」070はおそらくスパイが仕掛けたものだろうが、*下部の共産党員あるいはシンパがその下で働いていた可能性がある。橋本菊代はスパイ松村の資金局で美人局083を経験した女性党員の存在を証言しているし、橋本菊代自身が上からの命令は絶対だと言っている077から、下部の党員が上層部の指令に疑問を持たずにやった可能性がある。

 

Wikiでは「当時スパイM松村昇こと飯塚光延が党組織の中心にいて、本事件を今泉善一が指揮し、大塚有章らが実行した」とある。またWikiでは「新聞発表が1933118日に解禁」とあるが、当のWikiが掲載する東京朝日新聞の写真には、「1932107日の記事」とある。この銀行ギャング事件はその前日の1932106日に発生した。

 

 共産青年同盟書記長085伊藤律はスパイだった可能性がある。スパイ山本某(本名今井藤一郎)か三船留吉かまたはその二人の下で伊藤律は活動し、その下で働いていた飯島喜美は「彼に売られたかと思った」と言っているからだ。しかし伊藤律自身は自身が「今井藤一郎や三船に売られた」と山本菊代に言っている。三船留吉は19334月に共青委員長から党の東京市委員長に転じた。086, 088

 

1932年、33年ころの日本共産党は、それまでの執行部が28年、29年と逮捕された隙に、警察がスパイを投入して、執行部の中に入り込み、銀行強盗事件を起こしたり、「労働者派」という分派ができたりで、獄内闘争は従来の執行部によって闘われていたものの、獄外では惨憺たる状況だった。そんな中を山本正美(西村)がソ連から送られて来たのだが、その山本もわずか半年くらいでスパイの餌食になって検挙されてしまった。

 

 

再び検挙される

 

081 西村は芝公園から上野公園までの統一メーデー(のデモ)を見て来て、「まるで葬式のように元気がない」と言っていた。西村はその翌々日5/3の朝に大井の家を出たまま深夜になっても帰って来なかった。私は多分会議か誰かと会うことになっているのだろう、夜が明けたら目白のアジトに行かねばと54日の朝出かけようとしたら数人の男たちが家の周囲にいた。(西村はいつ帰ると言わなかったのだろうか。)裏庭に飛び降りると後ろから「このやろう」と羽交い絞めにされた。「金はどこにある」「そんなものあるか」と言いながら座敷に引きずり上げられた。実際家には金も党関係のものも一切おいてなかった。

082 大井署に一か月、上野署に三カ月留置されたのち、保釈取り消しとなり、再び市ヶ谷刑務所に投獄された。大井の家は第三者が知るはずがない。しかし、大井駅近くのスーパーで胡散臭い人間、家の上の道にニッカーズボンをはいた男、戸籍調べ、押し売りが来ていた。戸籍調べでは関西訛りがまずかったのか。警察を甘く見ていた。

 

闘う女性の美しさ

 

 この4か月間(19335月~8月)の留置場生活で出会った同志について書く。大井署には1932121日に検挙された源五郎丸芳晴がいて、彼とは話ができたが、共産青年同盟書記長の伊藤律もここにいたそうだが、全く会えなかった

 上野署では女性の先住者が二人いた。一人は20歳くらいの若い天草生まれの紡績女工で、取り調べは終わっていたが、拷問はひどく、裸にして柱にしばりつけ、所かまわず煙草の火をつけるなど凌辱的で、何回か気絶したという。もう一人は東京女子大生で、スパイ松村時代資金局にいた。この人も部屋の羽目板につかまらなければ歩けないほどの拷問を受けていた。裕福な家庭の娘で、家人に無断で債券や現金を持ち出して共産党に提供し、そのあと資金局から女給になり、客を酔いつぶれさせて金を巻き上げるように指示されてカフェーで働いていたと言った。今まで商業紙のデマとばかり思っていたことが事実であり、党内に巣くったスパイの党破壊工作は、真面目な人間の人間性まで破壊させようとしていた。

083 8月下旬のある晩の留置場の就寝時間が過ぎた頃、私たちの寝ている保護室に、頭からびしょ濡れで息絶え絶えの女性が担ぎ込まれてきた。拷問で水をかけられたのだろう。毛布を敷いて寝ずに看病した。この人は私が中央の秘書として中央部アジトに通っていた時、そのアジトの女性だった。

 人間が命がけで闘うとこんなに美しくなるのかと圧倒された。彼女は街頭連絡中に検挙され、拷問で気絶し、水をかけられ、拷問また水を何回か繰り返しているうちにぐったりし、さすがの特高刑事もあわてて拷問を中止したのだ。

084 私は保釈取り消しで市ヶ谷刑務所に投獄されるまでの間、同房の同志と共に、特高が取調べだと彼女を連れに来ても、「回復していない」「取り調べられる状態ではない」と彼女を保護室から出すことを拒否し続けた。この女性は風早八十二氏の夫人嘉子さんである。

 嘉子さんから、中央アジトに出入りしていた何人かの同志や風早氏も検挙されていないことを知った。また西村は53日に新宿の中村屋の食堂で検挙され、西村が留置場からよこしたレポによると「三日に会うはずの相手は党の東京市委員長の三船で、三船はスパイだから洗ってくれ」と書いてあったという。ずっと後に聞いたことだが、このレポは西村と同じ留置場にいた朝鮮人の同志が持ち出し、モップルの三人のお母さんの一人である伊藤よし(江)さんのところに届けられ、そこから中央部に届いたという。三人のお母さんとは、渡辺政之輔のお母さん、伊藤憲一のお母さん、三浦重道のお母さんで、差し入れや公判傍聴等の活動をした。

 後日談だが、風早八十二氏はその年1933年の1111日に検挙され、風早氏もこの上野署に留置された。その時風早氏は看守からか牢名主からか私たちの留置場内での闘いを聞き、それが縁で、私たちは刑期終了出獄後から1961年の第八回党大会までの間交際があった。

 

085 また上野署では帝国女子専門学校の学生大山津禰江(つねえ)とも一緒だった。彼女は釈放後風早嘉子と親交を持ち、風早宅で知り合った岡部隆司と結ばれた。

 

飯塚喜美さんの思い出

 

 私は飯島喜美と上野署で出会った。彼女は521日に検挙されたから、他の警察署に1か月留置されてから上野署に来たことになる。彼女のことについて書かれた文献は多い。私は「赤旗」に書いた。山本正美は『激動の時代に生きて』に、鹿野政臣早大教授は「婦人公論」に、山岸一章は『不屈の青春』に彼女のことを書いた。私は鹿野政臣教授から(彼女に関する)予審決定書の写しをもらった。また『日本共産主義青年運動史』の著者である名古屋市立女子短大の斉藤勇教授の協力を得て、飯島喜美のオルグ先の浜松市の共産青年同盟員の林田氏を、彼女の甥と上田市に訪ねた。また当時共産青年同盟書記長だった伊藤律や、当時(飯島喜美と)一緒に活動していた山代巴大竹一灯子(旧姓久津見)ら多くの人々の協力を得た。

 

 飯島喜美は191112月、現在の千葉県旭市で生まれた。(1923年、)数え年13歳の尋常科6年卒業と同時に女中奉公に出た。その後、1927年、15歳の時、東京モスリン亀戸工場の女工となった。彼女の希望は看護婦だったが、父がそれを嫌い、女工になることを勧めたと彼女は(私に)話した。

086 東京モスリン亀戸工場では女工の賃金のうち4割を社内貯金に、6割を手渡ししていたが、飯島が入社した年の夏、何の前触れもなく一方的に6割を社内貯金、4割を手渡しにした。女工たちの不満は爆発し、伊藤憲一084敗戦後共産党の代議士、当時は同工場の労働者)らが組織していた青年前衛隊が中心となって「手渡金減割反対」闘争を展開し、会社に撤回させた。入社して間もない飯島喜美も集会に参加して積極的に行動した。飯島は生活の中から社会の矛盾や資本のからくりを身をもって知り、その後学習会や労働組合活動に参加し、19305月、モスクワで開かれたプロフィンテルン第五回大会に代表として参加するまでに成長した。そしてプロフィンテルン大会終了後、モスクワに残ってクートベに入学し、マルクス・レーニン主義の勉強をした。飯島喜美は上野署で私に会ったとき検挙された場所など何も話さなかったが、ただ一言「彼に売られたかと思った」とだけ言った。私はその言葉がひどく気になったが、非合法活動のために聞くのをやめた。

 飯島喜美は私が党中央責任者の秘書だったと分かると、大きな目を輝かせながら熱を込めてモスクワでの生活について話し始めた。「クートベでの教師は西村で、西村のモスクワでの名前はアレキセーェフといい、西村の人柄を全面的に信頼し、西村なら全国的検挙や労働者派などの問題を抱えていた日本共産党を再建してくれ、労働者派に関して自らが受けた譴責処分は当然だと思う」と話した。

087 飯島喜美によれば、時期や個人名は言わなかったが、中央委員の一人から、「みんなが検挙された場合は(君=飯塚喜美が)コミンテルンと連絡を取って党を再建するように」と言われたという。飯島喜美の素朴な労働者的感覚から、共産党中央部の構成はインテリではなく、しっかりとした労働者出身でなければと思っていたようだが、それは彼女の善意に基くのだろう。全党の総力を結集するのではなく、関東地方の藤原こと内海秋夫ほか二名とともに「労働者派」を組織し、中央機関紙「赤旗」とは別に「赤旗」号外を発行していたが、その時彼女のクートベでの教師西村が帰国した。ソ連帰りの人間に対して誰一人として文句を言わない中を、彼女だけは「私たちが党を守ることが必要なのではなく、党が我々を守らなければならない、インテリの党ではそれができない」と食ってかかったという。

 

 鹿野早大教授著「埋もれた婦人運動家(2)飯島喜美」『婦人公論』19722月号によれば、作家山代巴は「(飯島喜美が)譴責処分後工場に入ってやり直した」とあるが、私は(飯島喜美は検挙直前は)工場には入らなかったと思う。飯島喜美は上野署で私に「その日の生活にも困り果てて川崎の海岸で貝を拾って飢えをしのいだ」「東京に出かけようとしても靴下がなく出かけられなかった」「淋しくてたまらなくなったとき、元の工場の門の前にへ行き、外出して来る人が『喜美ちゃん元気だったの』と寄ってきてくれた、私はそれで脱落せずに持ちこたえられた」と語ったからだ。

 

 (既述079の)連絡が取れなかった共産党中央の婦人部長の予定者が飯島喜美であったことが分かった。共産青年同盟書記長だった伊藤律は私への手紙の中で「飯島喜美を一時伊藤律周辺が預かり、のち三船が彼女を連れて行った」と言う。飯島喜美が工場で働くつもりだったことは事実だろう。指に糸紬ぎのたこがあったことを浜松の共青メンバーだった林田から私は聞いたからだ。飯島喜美は共産主義青年同盟のオルグとして浜松に行き、浜松では大変よいオルグが来てくれたと喜んでくれたが、一方では組織が一網打尽にされ警察に何もかも握られ、彼女に不信感を抱いた人もあった。飯島喜美が私にもらした「彼に売られたかも…」が重要性を持ってくる。

088 飯島喜美と党中央との連絡を邪魔した者が誰かは明らかでないが、彼女は山本某(本名今井藤一郎)か三船か、またはその二人の下で共青のオルグをし、売られ、検挙され、彼女がオルグした浜松の共青組織も一網打尽にやられた。その三船19334月、共青委員長から党の東京市委員長に転じた。飯島喜美の予審決定書には「(飯島喜美は)静岡県の同志を上京させ、同盟の山本某と会合させ、静岡県の同盟の活動方針を協議せしめた」とある。伊藤律は私への手紙の中で「私の上部は山本こと今井藤一郎三船で、(私が)今井と連絡の時、『飯島喜美を部署が決まるまで預かってくれ』と言われ、その後部署が決まったから、(飯島喜美に)三船に引き渡すからと言って飯島を連れて帰った」とある。また伊藤律自身も「今井、三船の二人に売られた」と詳細に私に手紙で書いてよこした。(本当か。そうかもしれない)そして220日に築地署で虐殺された小林多喜二の検挙も、来るはずの三船の代わりに築地署の特高刑事たちが張り込んでいたと、島根きよし「日本共産党スパイ史」に書いてある。また同書によれば、共産党では松村こと飯塚盈延、共青では三船留吉をスパイと気づかず、長期間泳がせていたとある。

 

 

市ヶ谷刑務所から栃木刑務所へ

 

089 私は193354日に検挙され、9月初めころだったか、飯島喜美風早嘉子らと別れ、再び市ヶ谷刑務所に運ばれた。その時特高警察から、獄中の共産党幹部らのうち、佐野学鍋山貞親に続き、三田村四郎高橋貞樹らの転向声明により、一部の長期拘留者に動揺が起きていることを知らされた。私は知らなかったが、モップルの活動家も根こそぎ逮捕され、労農弁護士団の弁護士も多数検挙されていた。刑務所内の雰囲気もすっかり変わり、治安維持法違反の被告は急増しているはずなのに、いくら合図しても何の反応もない。何らかの反応を期待して、117日に「ロシア革命万歳!日本共産党万歳!」とありったけの声を振り絞って叫んだ。同志の反応はない代わりに、敵の反応はすごく、私は運動場にある四方を厚い板で囲んだ、薄暗い牢獄の中の牢屋に入れられた革の胸搾衣を被せられ、食事をするのも器のそばににじりよって犬食いをするほかない重罰が一週間加えられた

 突然姉が面会に来て、「弁護士さんも検挙されて誰も来ない。控訴を取り下げて下獄したらどうか。皇太子(昭仁あきひと)誕生(19331223日)の恩典もあるという話だ」と言った。私は弁護士がいなければいなくてよい。これも一つの闘いだと思った。ところが「弁護士なしには公判は開かれないから、私があなたの弁護をします」と言って一人の弁護士が面会に来た。その人は敗戦後の片山内閣の司法大臣鈴木義男弁護士だった。その弁護士は一度顔を見せただけで、何一つ打ち合わせもなく、公判は全く形だけのものであった。判決は一審通り36か月。未決通算200日も変わらなかった。(控訴審判決か)

090 193466日、既決囚だけを収容する栃木刑務所に送監された。ここは朴烈事件の金子文が自殺したところである。ここでは独居房で熨斗(のし)折りの作業で、一日いくつというノルマが課された。1935年初秋のころだったか、その日は週2回の入浴日で、入浴中に新人が一人入ってきた。飯島喜美だった。彼女は2年前に上野署で別れたときとは打って変わって瘦せ細り、「私、案外安かったのよ、三年よ」と言った。ところが私はその「三年」を忘れていて、19805月、飯島喜美の刑期を聞きに栃木刑務所に行ったが、家族以外には教えられないと断られた。19836月、飯島喜美の墓参りに夫山本正美と千葉県旭市085に行き、菩提寺で遺族の住所を教えられ、末の弟さんに手紙を出したところ、甥にあたる人が資料を持って私を訪ねてくれた。その資料の中に私が1937年の出獄直後に父親の飯島倉吉に宛てて「三年だと言っておられたから…」という葉書があった。栃木刑務所内では彼女の姿は便器を出すときに垣間見るくらいだった。

 

飯島喜美の死

 

091 綿入れの着物を着ても寒い193512月に入ると、飯島喜美の部屋の便器を雑役が出し入れし、牛乳が支給されるようになった。飯島喜美と一緒にプロフィンテルン大会に出席した風間静子(旧姓児玉)は『運動史研究⑤』の中でこう書いている。児玉静子は飯島喜美と同じ側で中一房置いた監房にいた。

 

「あまりにも変わり果て、病みほうけた喜美さんの姿に驚き、毎夜就寝後(彼女は工場で作業し、部屋(房)にいるのは夜だけだった)枕を外して敷布団に耳を押し当てて、飯島さんの寝返りの気配や咳により、生きていることを確かめていた。ある日の払暁、異様な気配を感じて目が覚め、いつものように枕を外して敷布団に耳を押しつけて、飯島の部屋の物音を聞こうとしたが、聞こえてこない。死の世界のようだ。明け方の4時ころ彼女は死んだ。見る人もなしに、私以外に誰も知らない。私は寝床からそっと這い出して紙石盤に忘れまじき一行を書き留めた。『昭和1019351218日午前4時栃木刑務所支所一舎30房において肺結核にて死す。飯塚喜美、行年25歳』」

 

092 また私と同じ側だがもう少し近い房にいた森田シゲノは「飯島のロシア語のうわ言を聞いた。私がロシア語を知っていたら意味がわかっただろうに」と山岸一章に語っている。

 この二人より離れたところにいた私は、牛乳の支給が、迫りくる死への刑務所の選別とも知らず、食欲が少し出たのかくらいに思って喜んでいた。ところがある日の午後、線香の匂いがし、釘を打ち込む音もしてきた。起床前の明け方、いつもと違った気配があった。あわてて大きな声で看守を呼び、最後の別れをさせてくれと要求した。看守部長に面接して告別を要求した。しかし彼女らは冷酷にも「蓋をしてしまった」と拒否した。

 「なぜ執行停止にしなかったのか」の私の質問に、「親元に連絡したが、家庭の事情で引き取りに行けないから宜しく頼むという返事があった」と答えた。親には深い事情があるのだろう。憤りの涙で見送るしかなかった。遺体は刑務所が荼毘に付してお骨を親元に届けたとばかり思っていたが、喜美さんの甥木下豊によると、刑務所は危篤になると千葉医学専門学校(現千葉大学)と連絡を取り、研究材料にすることの承諾を親から取って、遺体を千葉医専に送って解剖したとのことである。(親が拒否している人は解剖の好材料か)

 

093 飯島喜美が25年間の生涯で一番生きがいを感じたのはモスクワ滞在の一年間だったのではないか。彼女がモスクワの生活を語るときだけは眼が輝いていた。

 伊藤憲一は共産党機関誌『前衛』19583月号の中で、飯島が在ソ中にヤクザと結婚していたように書いているが、その事実はなく、それは飯島だけでなく、彼女を受け入れて勉強させたソビエトにも非礼ではないか。また山岸一章は『青春の不屈』の中で、「彼女の遺品の真鍮製のコンパクトの外側に「闘争・死」と刻まれていた、それは獄中で死と闘いながら刻んだ」かのように書いているが、肛門の中まで調べる軍事警察的天皇制下の刑務所は、化粧道具はもちろん、金属製の物に字が刻めるようなものが持てるほど生易しくはなかった。

 

 私は栃木刑務所では、健康でさえあれば三年後には自由になれると思って、健康のために一日30分の運動を少々雨が降っても実行した。藁草履でペチャペチャ歩き、おかげで生涯水虫を背負い込んだ。水虫は栃木刑務所の形見であり、今でも私の心を引き締める。

 

 

父を失う

 

 栃木刑務所での服役生活とは直接関係ないが、この三年間に起きたことについて二、三述べる。1935年の春、刑務所に拘禁されているばかりと思っていた義兄の西村祭喜が面会に来た。西村も四・一六の被告で判決10年であったのに、大審院(今の最高裁)で執行猶予となったという。一方私のような一兵卒が実刑三年で服役している。西村祭喜に「コミンテルンの日本共産党に対する指導は誤っている」「日本の天皇は特殊の存在である」「国民感情がどうのこうの」と佐野一派の一国社会主義論をしゃべられるのはたまらなく不愉快であり、さらに私の指導者であった人間がと思うと情けなく腹立たしくなり、「お説は聞きたくないから」と言って帰ってもらった。

 

094 自己批判 父は私の刑期があと八、九カ月という時に、腹膜炎で亡くなったと兄から知らされた。出雲大社参詣途中の津山市でバスを降りたときに倒れ、(近所の)叔母の家に担ぎ込まれ、そのまま寝つき、母の時と同様、祖母と叔母の看病を受けたが息を引き取ったという。また兄は手紙の中で、両親には何人も子どもがいるのに、両親とも親類の厚意に甘えなければならなかったことが心苦しいと述べていた。

 さらに兄は私の出獄後の生活設計について質問した。私は出獄後も革命戦線に復帰する決意だったが、兄の家から逃亡して迷惑をかけていたので、兄に安心させるために、「姉の所で産婆の修業をして資格を取り、できればある人の親に孝行したい、活動から引き下がるつもりだ」と書いた。これは敗北宣言である。

 

095 すると私は数日して工場作業になり、熨斗折り作業から和裁に変わった。転向という屈辱が私の頭にのしかかって来た。

 

 

山本喜三郎の証人調べ

 

 私がこのような転向の苦悩をしているとき、長尾予審判事が、私が山本喜三郎の入党推薦者だったことの証言を求めてやって来た。私は「知りません」長尾は「転向なんて嘘ぱっちだ」と捨て台詞を残して帰った。

096 出獄後山本喜三郎から聞いたことだが、彼の弁護士は三人で、敗戦後幸徳事件の再審運動で活躍した森長英三郎と、私の官選弁護人となった鈴木義男089(鈴木は山本喜三郎の裁判では自腹を切ってやった)と、他一名であった。鈴木義男弁護士は公判で「橋本菊代は被告に同情し、入党推薦を否定している…」と述べた。山本喜三郎は懲役二年、執行猶予二年となった。

 後日談だが、山本喜三郎は私の証言拒否を喜び、彼の厚意でコミンテルン第七回大会でのディミトロフの人民戦線論の報告書を出獄後間もなく読むことができた。また山本は兄が肺結核で病床にある時、物資不足の中を何かと物資を回してくれた。

 

若松としとの再会

 

 四・一六共同被告の若松としは、一審判決後に地下に潜った党活動中に検挙され、服役のために(栃木刑務所に)やって来た。若松は「共産党は全国検挙で全滅した。私が最後の党員だ。モスクワから帰った高谷覚蔵に売られた。リンチ事件後、警察の追及は極度に厳しくなり、党からの活動費支給が全くなくなり、友人・知人からのカンパも受けることができず困窮している時、ある文学青年から求婚され、万策尽きて身元を隠して結婚したが、活動中に検挙され、何も知らないその青年を社会的に葬ることに忍びず、転向の手記を書いた」と言う。

 私も「父が死亡し、兄から将来の生活設計を聞かれ、出獄後活動するためには、今兄を安心させる必要があると思って活動放棄の手紙を兄に書いた」と告白した。若松は「あんただけは頑張ってくれていると思っていた」と残念がった。刑務所側から転向者として扱われる屈辱も、「出獄後こそ」という気持ちで耐えていたが、党が全滅したとは、何を好んで偽装転向などする必要があったのか、(党の全滅を知っていたら堂々と転向していたということか)泣くに泣けない、くやんでもくやみきれないと思い、奈落の底に突き落とされた気持ちになった。

 

感想 橋本菊代は自分から主体的にやろうとする気持ちがなく他力本願である、また家族(兄)の桎梏から自由になれていない。若松としも家族ではないが、パートナーに迷惑かけられないという気持ちが優先して転向に至った。

 

 

6 出獄そして結婚

 

 

感想 山本正美は獄中資料を取り寄せて日本の状況の変化に応じた戦略論を練り上げ、それを戦後「東京新聞」に寄稿した。

橋本菊代の山本正美との結婚は、橋本の山本に対する一目ぼれで、押し掛け女房のようだ。

若松としは最後の党員として逮捕されたのに、橋本菊代より先に出獄していた。

 

 

「ある人」

 

098 私のこの惨めな敗北に対して刑務所は若干日の恩典を与え、私は193754日に出獄した。私は8日早く釈放されたと思い、また寺尾とし『伝説の時代』にも「8日早く」と書いてあるが、1980年に栃木刑務所で飯島喜美の刑期を調べた時のついでに自分の刑期も調べたら、15日早く出獄していた。

 刑期が終わっても所轄警察署の監視下に置かれ決して自由ではなかった。私は本気で産婆になろうと思ってお茶の水高師出身で産婆になった大久保静子に会った。義兄は私の出獄後間もなく中国民衆の反日抗争を宣撫する工作員として渡支した。姉は以前の生薬屋をやめ、弟(私の兄)に、古いが部屋数の多い家を買ってもらって、地方から上京する見習を数人おいて、産院を開いていた。私は姉の内弟子にはならず、その年193710月から神田三崎町の助産婦学校に通うことにした。

 出獄後何日かして兄に呼ばれ、結婚について聞かれた。私は兄に手紙で「ある人の親云々」と書いていた。私は彼については上野署で風早嘉子から彼の検挙の状況を聞き、飯島喜美からは彼のソビエトでのことを聞いたが、それ以外の事は知らない。また私は特高に彼について何も話さなかったが、特高も彼について私に何も話さなかった。彼の氏名すら知らない。彼と一緒にいたのは50日ばかりであったが、その生活態度は付け焼刃でない厳しさがあって信頼していた。しかし彼は社会主義国のぬるま湯の中で生活した人間だ。クートベ帰りは大部分が弱い。検挙後の態度を調べなければならない。兄に「ある人の親にしてあげたい」と書いたのは「一種の方便」でもあった。兄は新聞報道で知ったのだろう、彼は高知県出身で本名を山本正美といった。

 

獄中の山本との結婚

 

099 日本共産党が壊滅し、モップルもなくなり、(山本に)知人がいなければ、山本正美に差し入れをしなければならないと考えたが、結婚はしばらく待ってもらうことにした。

 何日か後に、兄から聞いた山本の名前で面会に行った。彼は「何しに来たか」という態度で、苦々しかった。差し入れがどうなっているのかと聞くと、辺見重雄夫人伊藤よし江(伊藤憲一のお母さん084)に世話になっているとのことだった。辺見重雄は山本正美の検挙後も党中央部で活動し、リンチ事件に関与した後に検挙された。私は吾嬬(あずま)町(現・江東区)の伊藤よし江宅を訪ねた。伊藤よし江が山本正美に差し入れするようになった契機については、風早嘉子から「『三船がスパイで、三船に売られた』という(山本正美の)留置場から党中央宛てのレポが、伊藤よし江に届き、押上の東京帝大セツルメントの学生が金や衣類を伊藤家に届け、伊藤よし江が差し入れしている」と聞いた。

100 私が訪問した時に(息子の)伊藤憲一もいて、伊藤憲一は「山本正美は三二テーゼ作成に参加し、クーシネンにかわいがられた。今(山本正美の)公判中である」と言った。私は(山本正美の公判を)何回か傍聴した。彼は十数名の傍聴者に向かって共産党の政策を講演するかのように訴えた。(その姿に惚れて)私は結婚の手続きをして差し入れその他の面倒を見ようという気持ちになり、栗林弁護士と兄を保証人にして結婚の手続きをした。また山本の親の了解を得るためと、岡山の叔母たちへの謝礼も兼ねて、高知と岡山へ旅行した。山本は親と10年以上音信不通だった。

 兄は「某小学校教員からの私への求婚を私に相談せずに断り、私が家出した時には私の結婚相手としてもう少しよい人を思っていたらこんなことになってしまった」と悔やんでいた。私の結婚保証人になったのはその困った結果だろう。

101 山本の両親は土讃線の終点からバスで行った窪川町に住んでいた。家業は行商人向けの木賃宿だった。もともとは幸徳秋水と同郷の中村だった。正美とは10年以上音信不通で、葬式をしようとしていたところ、東(高知市や安芸郡方面)の人が「生きている、新聞に出ていた」と知らせてくれたとのことだった。私は高知市で静養していた川崎堅雄の所にも寄ってから津山に向かった。

 驚いたことに津山の叔母の家には地元の特高刑事が座敷に上がり込んで待っていた。津山にはもう一人叔母がいる。市川市の兄の家に帰った。

 

日中戦争に突入

 

 193777日、軍事警察的天皇制下の日本軍部は、中国北部で盧溝橋事件を起こし、日中戦争が始まり、赤紙一枚で青年が戦争に駆り立てられ出した。母の実家では大黒柱が若い妻と子どもを残して戦地へ(のち戦死)赴き、父方の従兄弟は村役場の吏員として召集兵を姫路の連隊まで見送ったとき、宿がなく野宿同然の無理をして腸チフスに罹り、これもまた妻と二人の幼児を残して死んだ。私が旅から帰るとすぐに弟に赤紙が来た。また市川市は市内にある砲兵隊への召集兵の宿泊先を民家に割り当て、兄の家では東京町田市の青年が宿泊の後、戦地に出発した。このように「日支事変」は国民の生活を一変させ始めた。

102 若松としは共産党は全滅したと言い、モップル関係の党員も全員検挙されたそうだが、一応転向を装ったせいか、執行猶予となり、私より先に出獄した。私が出獄したとき、私の出獄歓迎のハイキングが計画され、非合法時代の同志達と多摩遊園地に行った。これは私の高知・岡山旅行の前だったと思う。明日の命も分からない白色テロルの中で、仲間たちとこんなに早く再会でき感激した。その中に初対面の人がいた。四・一六の大阪事件の松本広治で、彼は敗戦後産業界に入り、「反核産業人」の世話人として亡くなるまで反核活動をした。

 

山本の公判傍聴

 

 当時(1937年)は山本正美の一審の公判中で、私はそれを傍聴した。共産党が全滅し、モップルの弁護士がつくことのできない公判だから、傍聴人がいない暗黒裁判かと思ったら、10名以上の若い学生が傍聴に来ていた。面識のある人は伊藤憲一だけだった。山本正美は肩をいからせ風を切るように入廷した。事実審理は全くなく、山本正美が十数名の傍聴者に向けて演説調に「プロレタリア革命の任務について」陳述した。一回の公判は二、三時間であったが、その間山本は全く疲れを見せず、健康そうだった。私は安心した。

103 私はその頃山本正美の今までの公判陳述を筆記した大学ノート八冊を未知の人から渡された。それを紛失しないように保管するために、もう一部を私が筆写して保管することにし、元本は松本広治102が保管することになった。このノートには1936825日から193748日までの19回分が納められていた。(山本正美が検挙されたのが193353日だから、公判開始まで3年余もかかっている。また橋本菊代が出獄したのが193754日だから、その1年前から公判が始まっていたことになる)このノートは日本国家権力機構の分析と、日本の革命の性質と任務について述べられていて、つまり三二テーゼの個々の問題についての分析であった。公判はまだ続いていて、(山本正美の)陳述のための資料蒐集とその差し入れ許可を得るために、栗林弁護士は大変努力した。栗林弁護士は「非転向者につく弁護士がいないとかどうとかいうことで引き受けたと思う」とはっきりしなかった。弁護料を出した人がいないから官選弁護人だったのだろう。後に宮本百合子から栗林弁護士を紹介してくれと求められ、紹介した。宮本、袴田は一緒の裁判で、袴田の弁護人にもなられたのだろう、戦後袴田から、高い弁護料を請求されたと私は非難された。

 

 私の出獄後何日かして関東電気労組時代の同志吉田資治027, 028が刑期満了で出獄した。私は彼に歯科医の吉仲トヨを紹介し、二人は結婚した。私は無収入で産婆学校の費用も小遣いも兄からもらい、差し入れもしていたので、結婚祝いの会食に来ていく着物がなく、代わりに義姉が出席した。それ以後兄からは小遣いが制限され、物が渡されるようになった。

 

産婆になり、産院勤務

 

104 私は193710月から産婆学校に通い、19383月に卒業した。4月に各県で資格検定試験が行われ、どこの県の試験でも、いくつでも受けられた。私は東京都と千葉県を受け、いずれも合格した。資格を取っても人命にかかわる仕事なので暫くは姉の所で見習をしてから産院に勤務しようとしていたが、ちょうどその時東京医療利用組合立の中野組合病院(組合長は加賀豊彦)に産院が新たに開設されて産婆を募集していることを知った。同病院事務長の黒川泰一は、仕事の都合で分離裁判だったが、四・一六の共同被告であったので、私は黒川の紹介で193812月の産院開設と同時に産婆として就職した。この病院は今でもあり、淀橋、中野、杉並の進歩的な人が多く利用し、医師も従業員も良心的で、三人の医師のうち二人がクリスチャンで、患者や従業員に思いやりがあり、親切だった。夜勤のときクリスチャンの女医との雑談の中で、金子健太が元気に出獄したことを知った。また杉浦啓一014, 021が訪ねてきて、とても懐かしそうに「××日に出獄した」と話して帰ったが、それから間もなく亡くなったようだ。10年間の獄中生活の間に夫人は去っていた。杉浦啓一と同じ金属労働者として一緒に活動していた松尾直義014, 018も病気で出獄し、死に直面し、一目夫人に会いたいと言ったという。

105 私と同時に就職した産婆に、敗戦後全日自労の婦人部長大道俊がいた。大道俊は東京市従業員組合の委員長大道憲二大道武敏、タス通信特派員大倉旭らの妹で、関西で検挙・投獄された。彼女も私と同様に黒川泰一の紹介で就職した。私が産院をやめてからのことだが、日中戦争の激化に伴い、特高が大道俊をつけ回し、産院に居づらくなった時、産院の小野産婦人科部長に他の職場を紹介してもらったと自伝に書いている。この小野部長はクリスチャンだった。大道俊はその自伝で「自分が集めたカンパを山本菊代を通じて同志に差し入れた」とあるが、私は産院では寄宿生活で、山本正美の資料蒐集、差し入れ、公判傍聴で精いっぱいで、婦長から外出が多すぎると注意を受けていて、人様のお手伝い迄できなかった。大道俊の記憶違いだろう。

 

異常な予感

 

 193936日は(仕事が)休日だったので久しぶりに公判を傍聴した。山本正美は今までは草稿なしの演説調だったが、この日は草稿の棒読みで、次回(公判)まで二か月の猶予を要求した。公判翌日37日付の山本正美からの手紙が届いた。

 

106 「この前の手紙にも『最近執筆が余り進まない』と書いたが、昨日の公判では資料を棒読みし、公判の最後に『考えたいことがあるから』と次回公判まで二か月の余裕をおいてもらった。最近特に今年に入ってからの日本は非常に激烈な変動期(経済的にも政治的にも)にある。その内容は具体的には書けないが、それがどのようにまたどの方向に向かって進行するかは、日本だけでなくアジア及び世界の運命を大きく左右する。

 第二に、僕の行動について。この日本の動向に応じて社会人としての僕の態度や行動も定まる。現在の日本の動向如何で、従来とは異なったやり方で、社会の発達のためにも、勤労者の生活の向上のためにも、自分の才能を注ぐことができると思う。(一か八かという態度は正しいとは言われないだろう。)事実審理の終了までにこの二点について検討したい。」

 

 この手紙は青天の霹靂であり、私の人生にとって重大問題となった。この数カ月前酒井定吉(私は一面識もない)が板橋の姉の家に挨拶に来て「モスクワでは大変お世話になった」と言っていたが、その酒井が今度は「敵の投げたパンに食いついた」と罵倒の葉書をよこした。

 

107 私は山本から最初の手紙を受け取ると風早八十二084に相談した。風早も(山本には)何か動機があると判断し、(私は)山本に直接の動機を質した。山本は「心配無用、オヤジ(家長)の人格を信用すべきだ。信頼に値しなくなったら、その時は決然たる態度(離婚)に出ることだ」とし、

 

「僕を余り馬鹿者扱いにしてはいけない。僕にとって重要なことは実際的効果の問題だ。僕のここでの六カ年の活動は全く孤軍奮闘だ。それで社会の発達に役立ち何か反響があれば、どんな犠牲でも惜しまないが、そうでなければドンキホーテ的に見えてくるのだ。道楽に運動しているのではないから、社会発達と歴史推進のために実際的効果がないこと、また(そういう)やり方では満足できない。…情勢が余り分からないから、今日までは(党関係者に)一切干渉しない考えでいたが、床の間の飾り物にはなるが、歴史の推進にはなり得ないようなやり方になっているように見える。…大胆さが足りない、積極性の不足だ。時勢を見る目と、それに答える能力が欠けていると見えて仕方がないが、どうだろうか」

 

108 山本は案外落ち着いているが、私は狼狽し、彼の真意がつかめず、彼の人格を無視するようなことを言ったり書いたりしたから、山本は怒って「再度そういうことを書くなら、お互いのことも最後的決断をしなければならなくなる」こういう鉄格子を挟んでのやりとりが四カ月続いた。その後の結論は「欧米帝国主義と発展的アジア民族との闘争が起ることは火を見るより明らかだ。その時日本(労働者農民を中心とした国民)はどちらの側に立つべきか。アジアの解放の先頭に立つべきである。ソ連との戦争はさせてはならぬ。」

 

 さらにその後戦局を展望してか、

 

「敗戦の可能性、寄生地主的土地所有の崩壊のきざし(農民の出兵や軍需工業への動員等による農業労働力の減少等によって)、支配体制の亀裂(官僚と軍部との対立等)、政府の『戦勝』宣伝とは逆に国民の『戦況』に対する不安等、日本帝国主義の地理的有利による東アジアの軍事的占領や寄生地主的天皇制の実質的崩壊、反軍国主義的・反独占資本主義的努力並びに国民の奴隷的状態に反対する全ての勢力の連帯達成のために共産主義者が全力を傾けねばならぬ時が来る。…」

 

109 それに備える必要性と対応を私にわからせようとしていたのであろう、彼の言う「反吐がはきたくなるような奴隷のことば」で、

 

「今日の日本国民は、アジアを欧米並びに一切の(本当なら日本だろう)帝国主義から解放することが日本自体の歴史的使命であり、またそれのみが日本の『国利民福』になるのだということを切実に理解してきており、もはや欧米資本主義と共同してアジアを虐げたり、分割したり、支配したりすることは、結局自他ともに共倒れになるのだということを理解してきているし、また国内では従来のままの制度のやり方では行き詰まってしまうに違いないから、何とかして資本主義を統制し、改新し、それを一部少数者の利益のためでなく、全国民の利益に奉仕させよう…」

 

 彼は私が風早らと接触していることを知っていた。彼は短期間であったが党の最高責任者であったから、あくまでも党を守るべきだと思ってそれを優先させた。山本正美は1945122日、5日の二回にわたり『東京新聞』に「現段階と労働者階級」を寄稿したが、その下地はこのころにあったのではないかと思われる。『東京新聞』に連載した当時は一部の人から、「発表の時期が尚早で理解されなかった」と言われたが、山本は「政治家は先が見えないといけない」と言っていた。

110 最近埼玉大学の三輪教授から「『東京新聞』に発表の理論がどこから導かれのか知りたかった」と言われたが、(山本正美は)「三二テーゼの発展だ」と答えた。

 風早八十二から「まず(獄)外に出すことだ、保釈のために小林杜人が運営している更新会に行ってみろ」と助言を受け、高田馬場近くの事務所を訪ねたが、(関係者には)誰にも会えず、相手にもされず、自分の愚かさを知らされて帰った。その時の惨めさはまさに「反吐が出そう」であった。結局保釈は全然話にならず、裁判終了後直ちに服役した。

 

労研就職、戦時下の農村調査

 

 山本正美の服役後、私は助産婦として病院に勤務していたが、1940年の初夏ごろ、風早から労働科学研究所に勤めないかと言われた。労働科学研究所の仕事内容はよく知らなかったが、かつて左翼運動に参加していた人たちが活動していたので、風早の厚意に一任し、病院を退職して待機していた。ところが19407月、風早が検挙され、そのころ私も理由不明のまま板橋署に検挙された。取調べで分かったことだが、岡部隆司085も風早と同じころに検挙され、肺結核で病床にいた岡部夫人を見舞った吉田資治027夫妻も検挙された。私は二晩留置されてから釈放されたが、労働科学研究所への就職は未定のままで途方に暮れていた。ところが産院への就職で紹介者となってくれた黒川泰一が労働科学研究所の暉峻所長と知り合いで、虫のいい話だが、また黒川に頼んで就職が決まり、栃木県筑波村に設置される農業労働調査所に11月開所と同時に就職した。

111 1937年の日中戦争突入以来、若者は戦闘力として召集されるだけでなく、軍需工場での重要な労働力であり、食糧増産の必要性に反比例して農業労働力は減少した。これを補うために農業の共同作業が強権によって遂行され、労研の農業労働調査所もその実現の実験場となり、それに付随して農村生活の実情、健康状態、乳幼児の発育状態、食生活の実情等の調査・指導に当たった。私は医師の指導の下で乳幼児の育児指導や発育状態を調査するとともに、妊娠末期の妊婦の労働と胎児の発育状況との関係を、朝から晩まで妊婦に張り付いて調査した。この調査は後に計見良宣研究員によって「労働科学」に発表された。当時の農村では嫁は労働力としてしか認められず、妊娠中でも卵一個も自由に食べられなかった。そこで姑を対象に栄養講座もした。この共同作業はソビエトの集団農場を連想させ、毎日が楽しかった。

 

 

7 日本天皇制国家の敗戦

 

 

感想

 

・立花隆(『日本共産党研究』(下))の戦前の共産党員の男女関係に関する知走った揶揄

 

立花隆は、スパイ大泉が女性関係にルーズだったとして、一般的に党員が「性的にルーズで、乱れた関係が多かった」というが、当時は愛し合っても役所に届けることもできない人もいたはずで、それをルーズだというのは厳しすぎて片手落ちなのではないか。中にはルーズだった人もいるかもしれないが、少なくとも山本正美はその点橋本菊代に注意をしていた。そしてハウスキーパーは弾圧下では無理のないことだったのではないかと橋本菊代は言う。121

 

・党員間の人間関係のやっかみ 橋本菊代は1964年に党を除名234されても党の外で活動を続けた。

特に戦後は党員間の人間関係が息苦しい。戦後すぐ橋本菊代は党本部に行ったが、そこで西村桜東洋は橋本菊代が話しかけたのに挨拶もせずに猛烈に党活動をしていたという。橋本菊代は西村桜東洋のこの全く人間味のない猛烈党員ぶり127に一時党活動をする気がなくなったという。120, 127

また袴田里見は戦前の山本正美に対する恨みつらみを橋本菊代に向かってああだこうだと言い、113徳田球一は山本正美の論文活動を封殺するために、山本正美に「俺の秘書にならないか」と打診したという。山本は「方針が違うから」と断ったとのこと。

 

・橋本菊代の記憶力のよさに感服

 

 

 

農村保健婦

 

112 軍事警察的天皇制は戦場をさらに拡大し、1941128日、真珠湾を攻撃し、米英に宣戦布告、第二次世界大戦に突入した。国の全ての機関が強制的に戦時体制に組み込まれ、労働科学研究所は大日本産業報国会の一機関となったが、それと同時に私は農業科学研究所から追放された。その時治安維持法関係者は他に二人いたが、その人たちは実刑を受けなかったので、追放にはならなかった。私はまた職探しかと思ったが、暉峻(きしゅん)所長の計らいで全国保健協会(以下、全保協)の小見山新一の下で働くことになった。

 その当時日本の乳幼児死亡率は資本主義国では第一位だった。また結核、高血圧による脳卒中等、農村の保健問題は重要であったが、医療施設は極めて貧弱で、殊に農村ではいたる所が無医村だった。それを補ったのが、町村の信用組合内の保健婦であった。その中央センターが産業組合中央会内の全国保健協会であった。

 私はここで拾われたが、保健婦の資格を持っていなかった。農業労働調査所があった筑波村110で働いていた時、たまたま栃木県の衛生課長が、(私の)娘時代の友人だったため、保健婦の資格を取るように勧められていた。その年(1941or 1942年?)の4月、栃木県の保健婦試験を受けて資格を取ったが、付け焼刃の勉強で取った資格だから、実際は頼りない名ばかりのものだった。全保協は、地方の保健婦の再教育のための講習会を手伝い、農繁期には神奈川県平塚在の集落(成瀬村)で共同炊事乳児託児所を開設し、私は保育所を担当した。また同じ神奈川県成瀬村で、清水保健婦が乳児託児所を開設し、私と共に小見山新一医師の指導を受けた。(企画の)終了後、両所(私と清水と)の経験をパンフレットにまとめて手引書として出版した。私は全保協時代に岩手県と富山県の産業組合主催の保健婦講習会に講師として出張したが、冷や汗ものだった。それでも私は千葉県の農村託児所を見学したり、所沢保健所の五味氏を訪ねたり、賛育会に転職していた小野医師を訪ねたりして指導を仰いだ。また小見山の『保健婦読本』や高橋実著『東北一純農村の医学的分析』は私の保健婦としての手引書だった。

113 神奈川県成瀬村の全保協で保健婦として駐在していた前川政子が退職し、私がその後任として赴任した。前川は経験が豊かで、全保協の指導的保健婦だった。私は経験が浅かったが、幸い村には産婆で経験豊かな保健婦がいたので助かった。筑波村で手ほどきを受けた自転車に乗って村を巡回した。

 第二次大戦の戦線は南へ南へと拡大し、この村でも年寄りや女子供と体の弱い人たちばかりが残され、農村でありながら食料品の入手が困難になった。筑波村当時は東京へ帰るたびに病床の兄に卵4キロを持って帰れたが、この村では乳児の離乳食に卵入り雑炊とかお粥をつくって(いたから、兄へのみやげ)などいえる状態ではなくなった。私は小鳥の餌用の小さな擂り鉢と小さな摺り粉木(こぎ)を用意し、ご飯と野菜の煮物は何でも擂鉢に入れ、それに味噌汁をかけて摺り潰し、即席離乳食をつくるように指導した。

114 私は労研をパージされるまでは、風早の検挙後も、筑波村から東京に帰った時、留守宅を訪ねたり、川越で一人寂しく病床に就いている岡部隆司夫人(大山津禰江085)を風早夫人と見舞ったりしていたが、保健婦になってからは人を訪ねる時間的余裕もなくなり、また反政府的と見たら片っ端から弾圧されるので、うかつに人を訪ねることもできない状況だった。だから全保協に移ってからは知人との交友がほとんど絶えた。しかし(産業組合)中央会にも隠れた進歩的な人がかなりいた。敗戦後法政大学の社会福祉の権威となった吉田秀夫や、後に豊田四郎の夫人となった藤岡さやか、作家の耕治人夫人、名古屋の新日本婦人会員の金子などが全保協あるいは産業組合中央会で活躍していた。

 

今様浦島を迎えて(口が悪い)

 

 神奈川県成瀬村での保健婦活動にようやく慣れた頃、山本出獄の通知を受けた。彼の刑期は8であったが、未決通算と皇紀2600年(1940年)記念の減刑で、予定より早い出獄となった。天皇制に反対した者が天皇紀によって減刑されるとは皮肉なものである。日頃義姉が「兄さんに頼んで小さい家でも買ってもらったら」と言ってくれていたが、その頃の兄は肺結核が再発し、入退院を繰り返し、また築地の病院から月一回往診を受けていたので、私のことどころではなかった。成瀬の下宿に迎えることもできないので、義兄西村が中国にいったままで不在だったので、当座姉の家に迎えることにした。山本の検挙1933.5.3080, 081から10年近く経ち(山本の出所は1943年か)、彼の物は一つもなく、母の形見の着物と羽織を男物に仕立て直し、出獄時の衣服とした。当時は女でも60歳くらいになると地味なものを着ていた。

115 山本は1926年にソビエトに行き、1931年(1932年の間違いか)末に帰国し、帰国後5か月くらいで逮捕され、その後10年間警察のたらい回しと獄中生活とで、まさに今様浦島である。当時の社会情勢は敗戦色が濃く、ガダルカナルで全滅的敗北(1942/8/7—1943/2/7)を喫し、山本五十六連合艦隊司令長官は戦死した。ヨーロッパでは、ドイツ・ナチス軍に侵略されていたソビエトは、160日間続いたスターリングラード(現ボルゴグラード)市の攻防戦(1942/6/28—1943/2/2)や、3年間に及ぶレニングラードの戦いに勝利し、ソ連軍はベルリン目指して進軍していた。このような状況で言論弾圧は極度に達し、右翼の中野正剛までが憲兵隊に拘引され自殺した。*

 

*東条英機総理大臣を批判する論文「戦時宰相論」を朝日新聞に載せた現職の衆議院議員で東方同志会の中野正剛に対し、東条の意を受けた特高が、19431021、中野の身柄を拘束した。(行政検束)中野は釈放10/25されたが、直後10/27に自殺した。

 

 彼をひとまず郷里の両親のもとに滞在させた。私が東京(の姉の家)から成瀬まで通うことは不可能だから、厚木市のアパートの一室を借りた。彼には東京に知人はなく、またうかつに人を訪問することもできない。することは読書以外にない。気難し屋なのか、社会の変化になじまないためか、下駄ばきのまま丹沢の大山に登って霧に包まれ、遭難の一歩手前で運よく霧が晴れて助かった。彼はいずれ働くための洋服を買いに小田原に一人で行ったが、洋服は買わないで白足袋族の履く雪駄を買ってきた。

116 私は厚木から成瀬に通勤した。全保協の内部事情のためであったか、それとも山本の仕事探しのためであったか、1943年の夏の終わりごろ、厚木から兄のいる千葉県松戸(の借家119)に移転した。私は保健婦を辞めて家庭に入った。前任者の前川113保健婦から引き継いだ自転車を松戸に持って帰ったから、全国保険協会からの派遣保健婦は廃止になったのかもしれない。東京都の結核病院であった松戸療養所(敗戦後国立)に入院していた兄が(1943年)11月に亡くなった。兄はもともと健康ではなかった。兄の働いていた日立製作所は軍需工場化し、兄はそこでの無理がかかり死期を早めた。松戸の商店主の中でも徴用で軍需工場で働き、結核で死んだ人もいた。

117 山本は松戸に移転してからクートベの同僚沼田一郎からロシア語の翻訳の仕事を譲り受け、家で翻訳を始めた。しかし家には終始特高が来るし、私が妊娠してつわりでぐずぐずしていたためか、翻訳の仕事を持って高知県の親元に帰った。

 その1か月後に私が便所で倒れた。近所に住んでいた弟が発見してくれた。子宮捻転で安静を必要とした。電報で彼を呼んだ。彼には翻訳完了後の仕事のめどはなかった。義姉が兄の生前の知己を頼って日立製作所の入社試験を受けたが、採用されなかった。私の事件もあり、敗戦後聞いた話では、彼は大物の党員と目されていたとのことである。保護観察所から紹介された工場に勤めるほかなく日本航空機工業の足立区花畑の工場に就職した。このころ高知県窪川町役場から赤紙の前触れの封書が来た。戦争に駆り出されたらたまらないので、私は「治安維持法違反による懲役刑を受けた者は残念ながら軍務に服することは許されていない」と書き送ったところ、それっきりになった。

 

福島への疎開

 

 日本(軍事警察的天皇制)軍はサイパン島全滅に続き、ビルマ・タイ方面も全滅、B29による日本本土空襲が始まった。東京の初空襲は1944111日だったと思う。B29が東京空襲のたびに入るときも出る時も松戸の上空を通過する。1127日に松戸に爆弾が投下され、1人が重傷を負った。翌年1945225日の夜中、爆弾投下で5名が死亡、2名が重傷、被災戸数5戸。私の家の後ろの家に日本軍の高射砲弾が屋根を突き抜け、座敷に落ちた。

118 310日の東京下町の空襲に続き、413日夜、池袋方面の空襲で板橋の姉の家も直撃弾を受け、姉と姪が避難してきた。その直後姉は福島県猪苗代発電所の知人を訪ね、その知人の紹介で某農家の一室を借りて帰って来た。姉は「得体のしれない恐ろしい爆弾が発明されたというから、すぐ疎開しろ」と言ってきた。私は娘を背負い、(姉の娘か)が娘の玩具と衣料品を背負って、磐越西線の大寺駅で下車し、そこから1時間夜道を歩いて関電労組の活動家小林良一の父一郎宅にたどり着いた。

 驚いたことに私より一歩先に姉の友人が娘と孫を連れて着いていた。この人は郡山駅で乗り換えたとき、「荷物を持ってあげる」と言った人に赤ん坊のおしめまで全部持ち逃げされたという。私の夫も東京の超満員電車の中で、持っていたレインコートをもぎ取られたことがあった。この姉の友人は弁護士夫人で、何不自由なく暮らしていたのが、下着の着替えも孫のおしめもすべてなくなった上、食糧事情が思いのほか悪かったので二、三日で東京に帰った。

 山本は工場が長野県須坂市の小学校に疎開することになった。空襲下で借家を空き家にしておけず、松戸の借家を家主に返し、姉も福島県の私たちの所へ疎開してきた。疎開先の小林はかつて義兄の下で働いた人で、その人の姉に対する厚意のお蔭で、私も食料などにあまり苦労しなくて済んだ。しかし勤労奉仕は疎開者だからとか、乳飲み子がいるからとか容赦せず、娘を背負って松の根っこ掘りに駆り出された。と言っても一回だけであった。というのは戦争に負けたからである。松の根っこを掘り起こしてそれから油を採取するようなことで戦争に勝てないと誰もが思っていたが、口に出さなかっただけだ。

 

敗戦、そして党幹部解放

 

 戦争が終わり、松戸への引き揚げの打ち合わせのために長野県の山本の所に行き、一旦福島に戻って荷物を整理し、娘を背負ってまた長野県川中島へ行った。東京の栗林弁護士103から「獄中の同志が1010日に解放されるから、それに間に合うように帰京せよ」との電報が山本宛に届いた。ここ長野県で山本と一緒に働いていた三・一五の長江甚成に一緒に復党するように勧めたが、彼は帰らないと言ったという。山本は1010日までに帰りたいと言い、私も是非帰りたいと思った。しかし今まで働いていた航空機の部品工場が解散し、この工場で働いていた人たちの生活の問題があり、山本は工場に残っている資材を現金化し、これらの人達に分与する責任を果たすために、買い取ってくれる農家を探して奔走した。また戦前高倉テルの影響を受けたという川中島村の小学校の校長から学校の教師に話をしてくれとの要請があり、心ならずも1010日の同志の解放出迎えに行けなかった。その資材が売れ、金を労働者に分け、私たちが松戸に帰ったのは10月末だったと思う。この資材の売りさばきは会社の指示ではなく、山本の個人的判断によるものだったが、敗戦という支配階級の予想もしなかった絶対主義的天皇制国家の崩壊状態の中で、経営者から文句の言える状況でなかった。

 松戸に帰っても住む家がなく、亡兄の家の一部を借りた。松戸に帰った日の翌日であったか、代々木の共産党本部に行った。そこで闘病中とばかり思っていた西村桜東洋さんに会った。桜東洋さんがピチピチ動いているのに私はすっかり圧倒され、声をかけるのもはばかられるようで、彼女の病気回復を喜びながらも、それすら言えず、娘を背負っている私は取り残されたという思いにかられた。127

 その足で徳田、志賀ら幹部を国分寺の自立館に訪ねたが不在であったが、そこに山本の大阪時代の同志山辺健太郎がいた。山辺の妹節子は四国の空襲で亡くなり、その夫の栗本一夫もその後亡くなったとのことで、山本は親友栗本の死を残念がった。戦争を阻止できなかった自分たちの弱さを痛感した

 年が明け1946年、私たちが復党した後のことであるが、ある時共産党本部勤務の酒井定吉106が松戸の(私たちの)家に来た。酒井は「転向は問題ではなく、党の幹部の解放の時に出迎えなかったことがまずかった」と言った。山本は長野でのことを言って弁解するようなことはなかった。

 

ハウスキーパーのこと

 

121 戦前の日本共産党を語るとき、多くの人が必ずといってよいほどハウスキーパーを重大な問題にしているようだ。ハウスキーパーとは「主婦、家政婦、やりくり上手な主婦、家屋管理人」という意味である。ところが立花隆は『日本共産党研究』(下)の中で、「この時代はハウスキーパー制度もあって、婚外関係が当たり前で、一般に女性問題には寛容だった。一部には極めて潔癖な人もいたが、大泉のようなスパイに限らず、乱れた関係が多かったことも事実である」(168頁)と書き、その証拠として「大泉は女性のことで(は、も)たびたび問題を起こし、後に別の(女性)問題が起きた時に、大泉の下にいた谷口直平が、野呂栄太郎と山本正美に訴えたところ、(両人は)『女のことは私事だ、私事をもって公の非難をすることはいけない、君は大泉を擁護すべき立場にいるのではないか』と逆に叱責されたという」とある。しかしこれは谷口か立花かどちらかの勘違いだと私は思う。というのは大泉に対していち早く臭いと疑問を持ってチェックしていたのは山本だったことと、私が山本の秘書になった時一番聞かれた(言われた)ことの一つがハウスキーパーの問題であったことは、既述の通りである。

122 私は直接は知らないが、性問題にルーズな活動家が若干いたかもしれない。大泉のように女性にだらしないスパイが、残念にも山本の検挙後にスパイであることが見抜けず、大熊光子は大泉を信じ、彼の女性問題や常に酒を飲む等のだらしない生活をたしなめていたという。(大熊光子は)検挙(された)後に(大泉が)スパイであったことを知り、彼女は獄中で自殺した。戦前の非合法活動の経験のない人には想像もできない弾圧下で、天皇制特高警察が蟻の這い出る隙もないほど網の目を張っている中での活動で、やむを得ずハウスキーパーの形を取らざるを得ない場合があっただろう。*また共産党員の中に思想と愛情で結ばれて結婚しても非合法生活では法律的手続きを取りたくても取れなかった人もあったであろう。

 

*感想 ハウスキーパーは、それを通して秘密が漏れるという危険もあったが、連絡手段として便利だっただろうと私も思う。

 

 ところが共産党員だけでなくすべての左翼運動の弾圧を業とした特高警察は、一般国民を反共主義にするための最も効果的な手段として、(共産党関係者の女性問題を)殊更に歪曲して大々的に宣伝したのが実情だったと私は思う。

 またハウスキーパーだった人が一度検挙されると元の戦線に戻らず運動から離れ、行方知れずに消えてしまった人があった。それはハウスキーパーやレポの仕事が、運動の実態や仲間から隔離されたところでの無内容な活動だったからだという人もいる。確かにその一面はあったかと思うが、そうだといっても、革命運動、特に非合法活動の場合、やむを得ないことだったと私は思う。

123 私たちが先輩として尊敬した共産主義者の中にも、また指導的部署で活動していた人たちの中にも、脱落して戦線に復帰しない人が大勢いたが、私はそのことよりも、検挙後、殊に女性に対して、耐えられないほどの残忍な侮辱的拷問をし、さらには家族に対しては共産党への恐怖心を植え付けて厳重な監視を条件に釈放し、またリンチ事件は大々的に報道するといった天皇制国家のあり方の方を重大(問題)視する。また共産党そのものの壊滅や、第二次世界大戦(勃発による有無を言わせない戦時体制への国民の組み込み)等によることの方が大きかった(大きな問題だった)のではないかと思う。

 

 


 

Ⅱ 戦後編

 

8 敗戦、そして復党まで

 

復党の自信を失う

 

127 194510月末に長野県から松戸市の亡兄の家に帰ったあと、山本の両親からの要望で私は(一人で)高知県の家を訪ねた。両親は私を長くとどめておきたかったようだが、私は山本から共産党の動きに関する情報を得て、田舎で安閑としておられず、19461月早々松戸に帰った。山本から「すぐ共産党に復党した方がよい」と言われたが、次の理由で二の足を踏んだ。

第一は疎開先から松戸に帰った翌日に共産党本部を訪ねたとき、闘病生活を続けているとばかり思っていた西村桜東洋さんの生き生きとした姿を見て嬉しかった。私は嬉しさの余り駆け寄って声をかけたが、桜東洋さんは私に目もくれず、寸暇を惜しんでこまネズミのように働いていた。これが私にはひどくこたえた。

 第二は私が高知から帰宅した時、山本は風早と二人で自炊していたのだが、風早は山本に「君は会合で発言しない方がいい。その場では君の意見に賛成しても、翌日には前言を翻して、反対する人がいるのだから、君の発言は無駄だ」と言っていた。

128 それから数日後、風早は、川崎己三郎から「山本の所にいると君の不利になるから早く出た方がいい」と言われて出て行った。

 山本は朝早く出かけて夜遅く帰って来たが、ある時山本は「徳田書記長から俺の秘書になれと言われたが、戦略問題で意見が違っているのに秘書にはなれないと断った」と私に言った。

 山本は1945122日、5日の二回にわたり、湯本正夫の名で「東京新聞」に「現段階と労働者階級」という論文を寄稿した。その後も「社会評論」やその他に戦略論を展開した。その内容は日本共産党が敗戦後も三二テーゼを踏襲しているのに対して、山本は日本の情勢は戦争の過程で三二テーゼは古くなったと考えていた。それをまとめたのが「現段階と労働者階級」であった。徳田は山本を野放しにしておくと、あちこちの出版物に発表しかねないと考えて、秘書にして縛っておきたかったのだろう。

 第三に、これは後に知ったことだが、私に関して袴田が誤解していたことだ。袴田は山本に対して数々の恨みつらみを持っていたが、戦前女房(私)が泣き落として山本を転向させたと思っていた。その袴田が党の重鎮として共産党本部で頑張っていた。私はそのような雰囲気の中で復党してもたとえ末端の細胞活動にしても自信が持てなかった。

 

山本論文の波紋

 

129 私はそれからずっと後に、上田耕一郎の『戦後革命論争史』が、またその十数年後に、東大出版会『講座日本史』(10巻)の中で、犬丸義一の「戦後日本マルクス主義史にかんする覚書」が、山本の「現段階と労働者階級」を取り上げていることを知った。それを知ったのは、私たち(夫婦)がボルゴグラード滞在中(1971--74)のことであった。当時山本は日ソ貿易推進の嘱託として三井物産で働いていた。山本と(三井物産の)同じ課にいて、結婚後モスクワ大学に入学した某女性から、(私は)「ソビエトの歴史学者トペーハから、前記の本のことを聞いた」という手紙をもらった。私は197412月に帰国して、犬丸の本を買った。

 犬丸は「(当時は象徴天皇制の)日本(国)憲法制定以前で、時期尚早であったが、新しい要素を敏感に把握した点で、歴史的意義が深い問題提起であった」と書いている。上田も前記『戦後革命論争史』の中で「時期尚早の感は免れないとしても、『社会主義革命論』の主要論点がほとんど網羅して提起されており、歴史的意義をもつ先鋭な論文である」としている。しかし「共産党本部では宮本顕治が真っ先に『…ブルジョワ的革命を一応達成したものとして、我々の今後の闘争目標を設定するならば、それは決定的誤謬である』と反論した」と上田は書いている。

130 山本は「誰にでも分かるようになってからでは遅い、政治家は先が見えなくてどうする。理論は曲げられない」と言い、共産党への復帰よりも戦略論争に熱中していた。そういう山本も、戦前モスクワから帰国した時に最初に会って中央部との連絡をつけてくれた細川嘉六と、山本の獄中での思想の動きを知っていた風早の二人の努力と証明によって、1946年に復党したようだ。

 

*橋本菊代は本書65頁で「二七テーゼにおける日本の革命目標はブルジョワ民主主義革命であるが、(三二ではなく)三一テーゼ(三一年政治テーゼ草案)の革命目標は、ブルジョア民主主義革命を広く含むプロレタリア革命だと言い、さらに三二テーゼに関して詳述している。Wikiによれば、三二テーゼの革命目標は、ブルジョア民主主義革命だとし、それは二段階革命論と呼ばれるとしている。

 

「生活擁護同盟」で活動

 

 配給だけでは生きていけないことを、ヤミ米を拒否し続けた山口良忠判事の餓死が証明した。1946126日の日比谷公園での野坂帰国歓迎大会*や、519日の人民広場での食糧メーデーでの徳田書記長による30万人の人民を前にしての人の心を揺さぶる熱弁にすっかり感動し、人民広場から上野公園までのデモ行進に、一歳半の娘の重みを感ぜず、みんなと共に行進した。*野坂はここで尾崎行雄まで含めた平和革命を提起した。

 

 19462月半ばごろ、松戸で女性中心のデモに出会った。保守的な松戸では思いがけないことだった。私はデモの後についた。目的地は市役所で、参加者は戦災者であった。

131 東京で戦災に会った人たちは江戸川対岸の松戸に集まっていた。遊郭や、松戸駅裏の高台一帯の旧陸軍工兵学校の建物と演習場が住宅に当てられ、東京の工芸学校が入っていた校舎を除いて、その他の通信講堂、馬小屋、物置など全てが戦災者の住宅となっていた。戦災者は自分たちでそこにある材料で床を張り、仕切りをして住んでいた。デモはその人たちの市に対する特別配給要求であった。

 指導者は笹森登美夫で、彼は工兵学校続きの住宅に住んでいたアナキスト的で精力的な活動家だった。彼は戦災者を中心とする「生活擁護同盟」(以下同盟)を組織し、戦災者や引揚者の救援活動をしていた。松戸市には他の民主的団体はなく、共産党は松戸市ではまだ公然化していなかった。同盟は対市闘争だけでなく対県闘争や、他地域との連携が必要だった。同盟は共産党の千葉県委員会と直接接触していたようだった。私が最初に共産党の千葉県関係者と会ったのは、同盟に訪ねて来た県委員長石内の夫人と佐藤二郎県委員の妹であった。

 

132 笹森は同盟だけでなく、「相互扶助組合」を組織し、消費組合運動も始め、木炭の配給を始めたが、物資の入手が困難で成功しなかった。同盟の事務所はいつも青年男女の協力者で活気があり、私もほとんど毎日娘を背負って協力した。

 

 同盟での私の活動で特筆できるものが二つある。一つは19464月ころソビエト映画の鑑賞会を開催したことだ。山本のアドバイスでフィルムをソビエト大使館から借り、松戸駅前の常設映画館で上映した。人々は初めてのソビエト映画で食い入るように見入った。それから何日か後に私はGHQに呼び出され、フィルムの出所を尋ねられた。

 二つ目は同盟による演説会の企画で、労働、農民、市民の三問題のそれぞれの活動家でありかつ理論家である人を私が探した。山本のアドバイスで農林省、国鉄本社などを探し歩いた。講師としては農民問題の井上晴丸しか覚えていない。松戸には公会堂がなかったので小学校の講堂を借りた。満員で大成功だった。この二つの催しは松戸では今までにないことだった。

 

133 生活問題 松戸近在の農家は衣類等との物々交換でないと食料品を分けてくれない。福島会津に預けたままの衣類があった。風早家と我が家のために米を買って娘を背負いながら持って帰った。

 

 

復党証明書を手に

 

 そのころ私に共産党本部から呼び出しがあった。袴田は私が部屋に入るや否や「戦前山本は僕を東京市委員長にすると約束しながらしなかった」「(山本の)予審中に僕が面会を申し込んだが、(山本は)会うのを拒否した」「(山本は)戦後実家に帰って短波ラジオを持ってくると約束しておきながら持って来なかった」と私には関係のない山本への恨み言を言った。

 第一の問題については山本が『激動の時代に生きて』の中で書いている。第二の問題は彼らの審理過程での問題だろうが、本人が判断したことなのだろう。第三の問題は、戦地から帰国していない弟がその短波ラジオを入手したので、袴田に約束ととれるようなことを言った山本の責任である。軽率だった。

134 私が袴田と面接したころ、山本も私のことで徳田書記長と会っていた。山本は「徳田書記長は君の泣き落としで僕が転向したと誤解していた。妻は僕の転向(偽装転向)には反対し、泣いて説得したと言って誤解を解いた。また書記長から『地方自治体選挙の時、松戸市で市会議員に(妻を)立候補させろ』と言われ、承知してきた」と言った。誤解されていたとは情けなかった。

 

 「東京新聞」経済部長をしていた堀江正規がよく松戸の私たちの家に泊まりに来た。堀江は山本の「現段階と労働者階級」を職をかけて「東京新聞」に掲載したと言った。ある日堀江が私に復党証明書を渡した。その経緯は今も分からない。私は堀江が共産党員とは知らなかった。とにかく私は嬉しかった。

135 私は松戸駅近くの旧将校住宅の共産党本部に出向き、神山利夫を訪ね、その場で日本共産党松戸細胞に所属した。神山利夫は神山茂夫の弟で、党本部に勤務していた。松戸には数人の党員がいたが、公然化すると生活ができなくなるような職人や小商人、地方公務員だった。

 

大豆粉(調理法)の講習会

 

 日本共産党松戸細胞で昼間公然と活動できる人は神山夫人と私ぐらいで、その神山夫人も洋裁塾を開いていた。

 そのころの松戸細胞は県委員会や地区委員会との組織的関係がなく、神山が本部の方針を直接伝え、日常活動は自主的に行われていた。内部の学習活動が重視され、「自由大学」という党員以外にも呼びかけた学習会を開催した。講師は神山が東京から招いた。

136 当時は常磐線が電化されておらず、本数も少なく、呼んだ講師を神山宅や場合によっては私の家で引き受けた。堀江巴一も講師の一人だった。

 

 当時主食(米)の一日の配給量は330グラムだったがいつも空手形で、肉や魚野菜はほとんど入手できず、卵は貴重だった。それで米の代わりに米国からの大豆の粉が配給された。それは米国では家畜のえさで、西ドイツは拒否したという。なぜ私たちは米の配給を要求しなかったのか。

 大豆粉の食べ方が分からないので、松戸市役所と松戸細胞婦人部との共催で講習会を開催した。会場の設営、準備、講師料等の経費は市役所負担で、私たちは計画立案した。参加者は現在は伊勢丹の駐車場となっている市役所周辺の人達で、とても感謝された。

 

 

街頭演説で党員獲得

 

137 主食配給制に関わることでは量の増加や遅欠配、配達などの問題があった。戦時中の召集・徴用で労働力が不足し、米は配達ではなく各自が持ち帰っていた。

 私たちは千葉県食糧事務所松戸出張所と何度も交渉し、ポスター、チラシ、街頭演説を行い、ついに配達を認めさせた。街頭演説を聞いた男性が「アカハタ」の読者となり、後に入党した。

 

 職場への働きかけ 戦争で荒廃した各工場を自主管理して生産を再開した。読売新聞社を始めとする各地でストが行われ、松戸では亀有と我孫子にある日立製作所で長期間ストが展開されていた。それは自由大学135の効果であったと思う。職場から入党し、東京からの党員の転入もあり、松戸細胞は二けたの党員を擁するようになった。職場で複数(三人)の入党者があったのは郵便局だった。

138 当時の松戸市の人口は5万人くらいだった。郵便局の電信係の竹川善次郎は郵便局を辞めて書店を開き、オルグ活動をした。

 

 某日曜日に神山の動員で、隠匿物資の摘発のために流山市へ行ったが、摘発すべき建物を発見出来なかった。商店には自由販売の商品がなく、敗戦後は配給の品物が隠匿され、闇に流れていた。隠匿は旧軍関係者などによるもので、共産党は隠匿物資を販売ルートに乗せるために摘発をしていた。

 

 戦後最初の衆議院選挙が1946310日に行われ、千葉一区(現在は一区と四区に分かれている)から確か小松七郎が立候補した。この選挙から50年問題までの国政選挙で、日中公然と活動できる党員は私以外にほとんどいなかったので、(選挙活動では)私が案内役となった。得票はいつもわずかだった。第一回の衆議院選挙で全国から5の共産党員が当選し(戦前の1928年の普選よりも少ないのでは)、北海道からは柿沢とし子が当選した。この国会で共産党は「人民共和国憲法」を対案として出したが否決された。しかし新憲法の前文に「主権在民」の原則を入れる事が出来た。新憲法には天皇の地位など保守反動的条項があり、民主化を達成する点で不満足であった。

 

 国政選挙で千葉県の共産党員が当選するようになったのは、京葉地帯が首都のベッドタウンになってからであり、私のいた時代は落選の連続だった。

 

 竹川善次郎138同志と私は、赤旗をかついでよく職場に出かけたが、その中心は国鉄の松戸電車区だった。二・一スト前には党員を獲得できなかった。二・一ストの前夜、神山が「米占領軍の命令でゼネストが中止となった、本部では徳田書記長をはじめ手分けしてスト中止を説得して職場巡りをしている」と言いに来た。日本初めてのゼネストと張りつめていたが、力が抜けた。

 

 

9 幼児を抱えて市議選へ

 

子どもの転落事故

 

141 1945年、私がチラシの原稿を書いている時に、満一歳の娘が二階から転落したが、落ちた地面が雨上がりで柔らかかったため土が頭でめり込み、何ともなかった。

生活擁護同盟関係で、父親が戦死し、母親は310日の東京大空襲で死に、たった一人の兄は父方に引き取られた13歳の女の子綾ちゃんは、母方の叔母に育てられていたが、その叔母が再婚して行先がなくなり、私が引き取った。山本は北海道新聞東京総局の論説委員をしていて出張が多かったが、ある程度の経済的なゆとりはあった。

142 綾ちゃんは中学に行きたがらず、数え年三つの私の娘の子守りをしてくれた。

 

人々に助けられて

 

 娘が家の前のドブに転落し、近所の人で郵便局勤務の小島さんが拾い上げて連れて来てくれた。

143 綾ちゃんは一年後養女にもらわれ、その後婿養子をとった。

山本が松戸市在住の文化人を組織してつくった「民主主義科学者協会松戸支部」の会員の産婦人科医は、娘の自家中毒症を救ってくれた。また娘が疑似疫痢に罹った時は、岡山県で共産党の活動をしていた医師が助けてくれた。

娘は今イギリスで女性学を学んでいる。

 

共産党市議候補

 

 1947年は選挙の年だった。45日の県知事と市町村長選挙に共産党は候補者を出さず、弁護士の社会党候補と医者の保守候補との一騎打ちとなったが、保守の強い松戸では保守が勝利した。同月420日は参議院議員の投票日で、425日は衆議院議員の投票日だった。また430日は県議選と市議選の投票日であった。共産党は神山利夫が指導した。市議会議員選挙では、町工場(鋏工場)労働者で立候補直前だった町田利一に私が入党を勧め、農民の中で活動していた党員の久保田栄助と私の三人が、共産党から立候補した。ちなみに町田利一の鋏工場からは党員が4人育った。

 

144 県議選の告示直前に神山が山本を県議に立候補させるように言ったが、生活擁護同盟の笹森登美夫委員長131も県議選に出るつもりをしていて、笹森と神山・山本との間で激論となった。最終的に笹森が折れて市議選に廻り当選した。(山本はいやいやながら立候して落選し、橋本菊代も落選している。この選挙は共産党の売名行為でしかなかったようだ)

 

 私にはポスターも事務所もなかったように思う。選挙中は町田利一が食事を用意してくれた。山本は呼ばれたら出向くくらいで、選挙活動をしなかった。共産党員は10名余しかなく、しかも三つに分かれる。久保田栄助は農民党員2名と共に選挙活動をし、私は幼児を抱えてメガホンを持ち、郵便局勤務の青年・森島優にリヤカーを引いてもらってくまなく回った。しかしその森島は税金闘争の途中から姿を見せなくなった。公然と共産党の活動をしたので職場でとがめられたのかもしれない。

 

145 当時の松戸市の人口は52千人(現在は46万人)で、農業・商業・勤め人が1/3ずつで、有権者数28,997人、投票数25,330、投票率87.4%であった。(私も)選管も獲得投票数を記録していなかった。共産党の(市議選候補)3人は全員落選した。票の差し替えの不正があったという噂もあった。

 

 山本の獲得数は500票くらいだったようだ。私は100枚の名刺を持て余した。朝鮮総連の人が助けてくれた。市議選には立会演説会がなかったので、青年団体の人が立会演説会を企画してくれた。

146 神山が野坂参三を呼んでくれ、中部小学校講堂で応援演説会を開催した。保守の強い松戸で共産党議員三人を出しただけでも画期的で、党の宣伝になった。(甘い)投票日には夫婦でお願いしますと頭を下げた。これは神山の指示だった。

共産党候補は実は4人であった。引揚者代表の大塚金利も党員だった。共産党本部から大塚に対する地方議員のグループ会議への召集状が私の家に届けられ、(それから)旧北京大使館勤務の大塚が党員であることを知った。大塚は松戸市で引揚者とともに合作社(協同組合的企業)をつくり、東京で東西貿易通信社を経営していた。

 

 四・一六の若松齢(旧姓清家、のち寺尾姓)は愛媛県で1946年と47年の衆院選を、西村桜東洋は福岡市議選で選挙戦を戦った。二人はのちに共産党中央との意見の相違のために党から裏切者とされて除名となった。寺尾としは日中友好運動中に、西村桜東洋は九州での農民運動中に亡くなった。

 

 

野坂竜さん、若松としさんとの再会

 

147 1947122日、野坂竜が岩田ミサゴを伴って16年ぶりにソビエトから帰国した。岩田ミサゴは、193210月に警視庁で虐殺された岩田義道071の娘で、1931年にプロフィンテルン日本代表としてモスクワに駐在中の山本懸蔵のところへ夫人関マツが行く時に同行した。その時彼女はわずか6歳で、野坂竜と帰国した時は23歳くらいであった。私は野坂竜から共産党本部に来るように言われた。私は三・一五のあと野坂家に居候し、1928年の夏に野坂竜が検挙される時まで、武蔵小山の野坂家で一緒に生活した。18年ぶりで、懐かしく嬉しかった。

 

 ところがその共産党本部の待合室で思いもかけない20年前の同志の消息を知ることができた。それは19277月に関東婦人同盟が誕生したころに、そこで知り合った永島暢子のことである。私の隣に腰掛けていた某女性が私に「永島暢子のことを知っているか」と話しかけてきた。その某女性は「敗戦後の満洲の収容所で発疹チフスが発生し、多くの子供が発病し、永島暢子はその子供たちを看病中に自身も感染して亡くなった」、「献身的な看病で、そのことを共産党に報告したかったので来た」と言った。その某女性は共産党とは直接関係がなかった。私は関東婦人同盟で永島暢子と特に親しかったわけではない。

148 一方、1985年の初めころ、小平市の相京節昭から、永島暢子の郷里の青森県の岩織という人が永島暢子の足跡を調べていると聞き、私は共産党本部でのこの話を伝えた。ところが1981530日付「旧縁の会」No. 7の「永島暢子のこと」に、鈴木裕子と熱田優子が投稿し、その中で熱田は「敗戦の年にソ連兵が満洲に入ってきたとき、彼女は身を守るため自殺したと聞いている」と書いている。共産党本部は(私の話を)記録していなかったのではないか。

 

 私は野坂竜に共産党本部の二階に案内され、同じく野坂竜に会いに来ていた塩沢富美子と一緒に(野坂竜に)会った。野坂竜から私は山本がモスクワに残して来た娘ビクトリアの写真を、塩沢は野呂栄太郎の写真を受け取った。ビクトリアは1947年には14歳のはずだが、写真は一、二歳ころのものだった。野坂竜は「ビクトリアが疎開先から帰っていなかったので、帰国する時は会っていない、養育費はビクトリアの母親が再婚したので渡していない」また山本の転向に関しては「皆残念だと言っていた」と言った。

149 ビクトリアの母親は1945年、彼女が13歳の時に亡くなった。

 

野坂竜は「丹野セツに何とかしてあげたいが、(渡辺政之輔の)おっかさんの面倒を見ていなかったからそれができない」と言った。戦後の共産党本部には戦前の女性活動家が一人もいなかった。*丹野セツと野坂竜とは同志として長い関係があった。また塩沢富美子は研究室設立のための資金貸与を申し出たが、野坂竜は財政部長亀山に伝えて置くと慎重だった。

 

*西村桜東洋は戦後すぐに党本部でせっせと働いていたのでは。120, 127

 

150 四・一六の若松齢は郷里宇和島で敗戦を迎え、1946年と1947年の衆院選挙に立候補したが惜敗した。若松齢は「20歳違う同志と結婚し、宇和島を引き払って一緒に上京する、宿を頼む」という葉書を私によこした。その年の初夏に再会した。栃木刑務所以来の10年目の再会だった。彼女のその同志は寺尾五郎という若い大男だった。

 

 

10 民主納税会の税金闘争

 

税務署から取った覚書

 

151 戦争、敗戦による経済的混乱からようやく落ち着きを取り戻しかけた1948年の3月、中小、零細業者や農民に対していきなり苛酷な所得税が課されることになった。高額所得税に腹を立てて、東京南部地区(曖昧な記憶)の某税務署に火炎瓶だったかを投げつけたという新聞記事を見た近所の八百屋が私の家に来て「気味がいいナー!わしらも何かぶっつけたい気持ちだ。一つ頼む」と言った。

 1948323日、この八百屋に松戸税務署前の金毘羅さんの庭を借りてもらい、納税者大会を開いたところ、予想に反して業者や農民など大勢の人が集まり、税務署との間の道路にまで人がはみ出た。松戸市の老舗の店主たちは離れたところから様子を見ていた。そこは松戸の官庁街で、職業安定所、税務署、東葛地方事務所、松戸市役所など明治以来の木造建築が立ち並んでいた。敗戦後民主化の波が押し寄せていたとはいえ、お上と思っていた官庁街で零細業者や百姓が共産党の指導下で堂々と物申したことは、松戸市としては前代未聞のことであったかもしれない。

 

152 大会決議を以て、共産党代表を含む代表団と税務署との交渉が始まった。交渉の介添役として神山利夫、山本正美の二人が参加した。交渉の結果、税務署が出した当日の覚書の写しは以下の通りである。

 

覚書(原文のまま)

 

一、署の査定基準額は大体の目安であって法的拘束力はないから納税者の誠意ある自主的申告は尊重して審査して実情にそわせる。

一、税務署の決定基準によって既に申告したものに対しても右の審査の結果実情にそわない場合は過納分を払戻す。

一、災害その他の事由により著しく資力を喪失して納税困難と認められるときは所定の手続きをした者に対しては所得税を軽減し又は免除して確定まで徴収を猶予する。

一、税額の決定にあたっての調査については所得税法第六十四条の趣旨にしたがい納税に協力する民主的団体に対し所得事項を諮問の上で民主的に課税徴収する。

 

昭和二三年三月二三日

松戸税務署長

日本共産党松戸市委員会委員長

森島優殿*

 

*橋本菊代の市議選でリヤカーを引いた郵便局勤務の男144

 

153 この交渉の一番の成果は、共産党を民主的団体として認めさせ、共産党との団体交渉を税務署に確約させたことだろう。この結果直ちに交渉団体として「松戸地区民主納税会」(以下民納)を組織し、会費を20円とし、謄写版(ガリ版)を買った。しかし松戸の党活動に貢献した神山利夫は、五〇年問題の時に私たちの前から突然姿を消し、それと同時にこの謄写版も行方不明になった。また民納名簿も紛失した。民納は五か年間の活動で一応の使命を果たして自然解散になっていて、名簿その他は書記の私が保管していたのだが、196211月の市議選で共産党の候補者が交替し、全日自労出身の神田から吉田玲子に変わり、そのための有権者名簿作成にあたり共産党地区委員会から来た地区委員に、返すことを条件にその名簿を渡した。ところが選挙が終わって地区委員が引き上げる時になってその名簿が見当たらない、「見つけて必ず返す」と言いながら、断りもなく帰ってしまった。ところが数年前の市議選の時、元民納会員の家を、知るはずのない共産党員が訪問したのだ。

 

154 この他にも二、三疑問があるが、そのうちで我が家に関するものを述べる。その地区委員が松戸の党を指導していた時、山本はGHQから北海道新聞をパージされて収入がなく、私は常任ではないが、松戸の党活動にほとんど専念し、知人の厚意でわずかな時間に和裁の賃仕事をしていた。地区委員がオルグに来ても誰も食事を出す人がいない、まして泊める人はいない。私の家では米の試し米(1キロ入りの試食米)で生活していたが、同志的友情から(その地区委員に)夕飯を出して泊めてやり、朝食も出した。彼は味噌汁がうまいとお世辞を言う。ところが50年問題のとき、船橋市の古い党員の都賀が突然山本に面接に来て、(山本の)問題(点を指摘して、それ)は「根も葉もないファッショ的本を出した」とか、「検事局へ行った」というデマとかだった。(そんなことを知っている人物としては)私をおだてて食事をしていた彼以外に思い当たる人はいない。

 

感想 橋本が管理していた地区の民納名簿を、某地区委員が持ち逃げしたかもしれないことや、党の地区委員が山本に対してデマの反党的行為を追及することなど、党地区委員会との軋轢について言いたいのかもしれない。橋本は地区委員会とは少し距離をおいて行動する傾向があったと、どこか159に書いてあったような気がする。

 

税務署からの威嚇

 

155 税務署との覚書に基いて各町村支部が一斉に実地調査を要求した。次に流山の例を述べる。国税庁と松戸税務署が予告なしに農家に押し掛け、農家の人達は役人にどぎまぎした。

 「一筆毎の作付けは」「それらの日記を見せろ」「日記がなければ、あなたたちの言うことだけでは信用できないから、あなたたちの負けだ」と脅かし、庭の柿の木を見て「これも農家収入に入る」、庭の苗木を見つけて、現金収入はまだ何年も先のことなのに「これはいくらの収入になるのか」、二、三羽の鶏を見て「一羽何百円の所得だ」という。農民は自家用の野菜をいろいろつくっているので、税務署の問いにすぐには答えられない。実態調査は実際は農民への威嚇だった。

 

 こうした税務署の圧力に対して、「誠意ある調査をするつもりなら、何日に行くから何と何を揃えておくようにと予告すべきだ。庭の柿の木は所得対象ではなく、菓子代わりの子どものおやつであり、鶏は魚や肉の代わりの子どもの栄養源である。農村では勤め人の家でも、商人の家でも皆柿の木はあり、鶏も飼っている、それをなぜ農家だけが厳しくされるのか。脅しをやめてもっと誠意ある調査をするように」と抗議並びに要求をした。また「現在の基礎控除、扶養控除では我々農家では一年一年借金が増え、耕作放棄もやむを得ないような気がして将来が不安になる」という抗議とも陳情ともつかないものを税務署に突き付けた。

 

党指導部の無知

 

156 米GHQ194721日のゼネストを中止させ、議会解散・総選挙の指示以後の対日政策、つまり日本を極東の「反共の防壁」にするという占領政策にたいする批判を一切禁止し、それに反すると軍事裁判にかけ、日本人民の権利を無視した。それに対して日本共産党は大衆組織としての民主主義擁護同盟準備会を組織した。19491月の総選挙で、社会党は111議席から48議席に転落し、日本共産党は4議席から35議席に躍進した。それに附け込んで日本共産党は社会党員に日本共産党への入党を呼びかけ、流山では民納の責任者で社会党員の橋詰留吉を入党させた。もう一人入党させたように思うが、はっきり覚えていない。

157 現在の共産党の入党基準は知らないが、社共合同提唱当時の基準は緩かった。この共産党躍進は日本だけのことではなく、仏伊ではすでに共産党員が政府の閣僚に入り、東欧諸国では人民民主主義革命が成功し、中国・北朝鮮でも人民政府が樹立された。他方世界資本主義国は深刻な経済恐慌に見舞われ、米帝国主義の対日政策は益々狂暴化し、時の吉田反動内閣に対して、19494月に団体等規制令を公布させ、共産党の組織や党員の登録制を施行させた。

 党指導部は日本独占と米占領軍の支配下での団体等規制令の本来の意味が分からなかったのか、共産党上部から「(共産党の)躍進を証拠立てるためにも全員登録しろ」という通達が送られて来た。これは我々の組織を丸裸にすることである。しかも登録先は警察であったと記憶する。松戸細胞は党の指令に敢えて違反し、非公然の同志は伏せ、公然化している者だけを登録し、上部の無警戒に抗議した。果せるかな、団体等規制令施行後一年も経たない19502東京都の教員246名が追放され、その後次々と全国の企業から労働者数十万人が追放された。山本も北海道新聞から追放されたが、道新では参議院議員の木村禧八郎と山本の二名で抑えられた。一部の職場を除いて大衆的な反対闘争も展開できなかった。松戸の党では職場から居住への転換で党員が増えた。出版関係の同志と、国際電電公社の二名を覚えている。

 

158 さらに「隠し田摘発」という党の方針は特に理解できなかった。隠し田とは農地解放で地主が田畑を隠して開放しなかったという意味ではなく、農民の先祖が地主や領主の苛酷な搾取から逃れるために、実際は耕作しているが農地台帳には載せなかったり、実際の面積より少なく台帳に載せたりして小作料や献納を少なくすることである。隠し田は農民の生きるための知恵である。その摘発が共産党上部からの通達により県党会議で議案として討議された。「農民党員は率先して自分の家の隠し田(縄のべ)を洗いざらい出せ」という、その結果供出米も税金も過重になる。一方で農民は供出米と税金過重と闘っていた。党は「課税や供出が多ければそれだけ戦闘的なる、生活にゆとりがあると戦闘性がなくなる」などと馬鹿げたことを言う。これは農民の生活の実態を知らない指導部の無能さの暴露である。案の定その直後に脱党した農民がいた。西村桜東洋の所属する福岡の農民党員はこの方針に反対して集団脱党したという。*

 

*西村桜東洋は1949年、1950年のころはすでに党本部を去って福岡にいたようだ。

 

 もう一つ(党中央との軋轢)。ある時民納の幹事会に何の連絡もなしに、国鉄従業員の外套を着た見知らぬ男が出席して発言した。農民や小商人と違って弁舌はうまかった。彼は「農民の組織は民納のように問題別組織ではなく、農民の問題を広範囲に取り扱う地域単位の農民委員会が一番いい」という。しかし耳を傾ける人はいなかった。また1950年の民納の新年会を流山の木村という集落で開いたときまたその人が出席した。この人は国鉄新橋機関区にいた共産党員で、共産党千葉県委員会から頼まれた私の見張り役だった。確か千葉県で継続的に税金闘争を闘っていたのは、木更津松戸だけで、既述のように松戸は県委員会の指導ではなく、独自に闘っていたことと、戦略論で意見を異にする山本の女房が中心にいることが気になったのではなかろうか。

 

 

再び納税者大会

 

159 民納は業者・農民を合わせると東葛飾郡(千葉県北部)のほとんど全域にわたるため、税務署との交渉はほぼ毎日あり、その他に現地に子連れで出向いた。幸い19487月にシベリア抑留帰還者の原田が家業を妻に任せて専従書記となり、民納の組織活動は進展した。

 

 これほど大きな国からの税金旋風に対して、千葉県内では木更津での業者の闘争と、私どもの松戸での闘争を除いて、反対闘争が起らなかった。闘争は手探りで行われた。

 

 1949年に再び新たに不当な(国からの徴税)決定書を受け取り、私どもは前年1948年を上回る納税者大会を計画した。

160 共産党国会議員は当選者35名に社会党や無所属からの鞍替えをプラスし、それに参院議員を加えると、総勢40名近くになった。1947年秋のキャサリン台風の被害者の実情調査を私が共産党に頼みに行くと、板野参院議員が私をジープに乗せて来てくれた。ところが松戸納税者大会への国会議員支援を求めて共産党本部に行くと、「手続きを踏んで要望せよ、いきなりでは困る」と言われた。私が食い下がると、国会内の事務局へ行けという。

 議事堂内の共産党事務局へ行くと、戦時中私が産業組合内の全国保健協会で働いていたとき、同じ建物の「家の光」に勤務し、農繁期には共同炊事と保育所作りを一緒にやった藤岡さやかがいたので、私が事情を話すと、山口武秀の松戸への応援を確約できた。山口は茨城県の農民運動の優れた指導者だったが、当日は来れなくなり、代わりに鳥取県選出の米原昶が来てくれた。納税者大会後、米原代議士を中心として税務署と交渉した。

 

161 その交渉時の19494月付「税法改正の陳情運動署名簿」の農民側の趣意書は次の通りである。

 

「供出は安い価格で飯米も残らず取られ、肥料・農機具等買うものは高く、野菜等売るものは安くなる一方、私達農民の生活もいよいよどんづまりが近づいてきました。しかし今の税はどうでしょう。この税金のために気が狂ったり、首をくくったり、耕作放棄をやむなくされている人がどれだけいるでしょうか。私たちが日本再建のために最後まで耕地を護っていくには、今の税法を改正して、基礎控除・扶養控除の引き揚げを政府に要求して認めてもらわねばなりません」

 

業者側の趣意書では、

 

「私たち中小商工業者が今日ほど政府の一方的天下り不当課税の連続によってたえず生活を脅かされている時はありません。このまま行くなら最早生きることすらできません。憲法の精神に違反した今日の課税を速やかに改正して、我々中小商工業者が安心して商売が続けられるようにしなければなりません。そのために現行の所得税法の基礎控除を引き上げ、高額累進所得税の制定を政府に要求する以外に道がありません」

 

162 「昭和24年(1949年)度分所得税確定申告書」によれば、基礎控除額15000円、扶養控除11800円となっている。また同一世帯全員の総合所得に対して課税するので、零細業者でも家族の中に給与所得者がいるとさらに不当に高額な課税となった。

 

 書記の原田が刑務所への差し入れ稼業が忙しくなって書記を辞任し、再び私がその後を引き受けた。

 

 

国会に資料を提出

 

 私には農民運動の経験が全くなかった。私の農民との接触は税金闘争が始まってからである。農民と一緒に農業経営について勉強しなければならない。基礎控除や扶養控除の引き上げは私たちの力だけではどうにもならない。そこで実際の所得を認めさせる方法として、収穫を得るまでに支出した諸経費を計上してみた。その結果農作業に必要な諸用具の実際の耐用年数と税務署のいう耐用年数との間に大きな差があることが分かった。どこへ指導を求めたらよいか分からず、共産党本部へ行ったが、何の資料もなく、「松戸市に伊与木茂美がいるから相談してみろ」と言われた。伊与木は山本と同県人で山本と親しいが、官庁勤務で日曜以外は家にいない。こうなったら自分たちでやるしかないと、鎌、鍬から納屋の屋根の葺き替えまですべて調べて整理した。そうすると税務署のいう耐用年数との違いが一目瞭然となった。

 これをどう生かすか。その当時参議院議員で経済問題の権威者であった労働者農民党(日米単独講和に反対し、鈴木茂三郎ら左派社会党が1948102日に分裂して結党)の木村禧八郎157は北海道新聞社東京総局の論説委員で山本と同じ職場である。*「木村は自分の党のことより共産党のことを心配している」と山本に言われて相談した。木村に「国会に請願しなさい、私が紹介議員になってもいい」と言われ、木村参院議員に紹介議員になってもらって請願書類を提出した。資料をつくり流山市鮨ケ崎木村両集落の農民と、松戸市和名ケ谷の農民と木村との連絡はついたが、最も活動的だった鎌ケ谷市の農民と連絡を取る時間的余裕がなかった。そこでやむなく連絡のとれた農民で請願した。請願書に耐用年数の明細表を添付した。

 

*参議院議員と新聞社とを兼業できたのか。

 

 私は共産党を避けて労働者農民党の木村を紹介議員に選んだのではない。効果のある方法を選んだのである。その直後木村にも出席してもらって新年会を集落の神社の社務所で開いた。ところがこの新年会に前記の国鉄労組伊藤重三が出席した。実は私が国会請願で共産党議員を紹介議員にしないで、労働者農民党の議員を紹介議員にしたため、(伊藤は私の)監視役であったと後で知った。私はもともと共産党員は共産党本部の方針に従うべきだと考え、山本にも「共産党は一つしかない、意見の相違はあっても党の方針に従うべきだ」と常に言っていた。当時社共両党の統一が提起されていて、共産党と労農党とが競争するのではなく、重税に苦しむ農民に対する木村の厚意に甘えたもので、統一戦線くらいに考えていた。共産党本部の雅量のなさに驚き、また淋しかった。

 

164 私にとっては請願の効果の方が重要だった。国会で農民の請願が取り上げられ、必要経費中の農業用品の耐用年数についての農民の主張が認められた。和名ケ谷の農民と連絡し、木村の所へ案内し、多忙だったが、農民に喜ばれた。私が先に流山の農民が「税金闘争として画期的効果をあげた」と書いたのはこのことである。流山の農民の必要経費の闘いによって重税の一角を突き崩せた。

 

 

11 共産党員、私の地域活動

 

敗戦後の住宅難

 

165 敗戦による世相の激変によって誰もが様々な経験をしたが、私も同様で、疎開先から松戸の亡兄の家の一部を借りていたのだが、三年ほど経ったころ、義姉から私たちが使っている三部屋を別々の人に貸したいと言われた。兄の長男は桐生の旧制高等工業学校を卒業し、父親が勤務する日立製作所の工場への就職が保証されていたと聞いていたが、敗戦による激変で、甥は結局新制高校の教師になった。

 父親の遺産は新円切り替えで凍結され、円価格も下落し、親子4人の生活と弟妹の教育費は、長男の収入に頼っていた。私たちはそのことに気づかなかった。

 

 戦前は敷金だけで貸家が借りられたが、戦災による住宅難で、家主は権利金という高額の礼金を要求した。私たちには貯金が全くなかった。ところが既述の大塚金利146が合作社(協同組合的企業)の事業の一つとして分譲住宅を計画し、私がそれを紹介して申し込んだ友人が棄権して、それを譲り受けた。しかし総額は確か27万円で、当座頭金8万円が必要で、その頭金8万円は結局山本の高知県の父親から借金した。頭金以外は民科*の松戸支部の柴田氏から「千葉相互無尽銀行に入り、二、三回掛け金を掛けて無尽を落とすとよい」と教えられ、無尽に入った。

 

*「松戸地区民主納税会」(以下「民納」)の間違いかと思ったがそうではないようだ。「松戸市文化連盟」より狭い人脈の共産党関連の文化組織のようだ。世界大百科事典によれば「民主的科学者協会会」(1946112日に創立)で、マルクス主義の研究者を中心に結成された。173

 

166 建築が始まって柱が組み立てられた時に税務署に評価してもらい、無尽を落とした。世間体など構わないとはいえ、あまり楽しい役割ではなかった。山本は共産党本部の戦略論争に熱中して世情に無関心で、私が家事で山本に何か要求すると「一般の主婦は三人も四人もの子供を抱えて必死にやっている、君は小ブルだ」と非難する。家庭のことは私の仕事になった。山本は多分その頃産別会議の顧問をしていたが、産別内で細谷松太らによる民主化の問題が起きていて、山本は共産党本部から「君がいると君より産別内の細胞の権威が低くなるから、産別会議の顧問を辞めるように」と言われて辞めた。(山本が)産別会議のためにすればするほど党との壁が高くなる。一方私は党との平穏な関係を望んでいた。

 

167 194811月に新居に移った。松戸駅まで約10分、敷地48坪、六畳二間と四畳半一間と台所約一坪、設計は建設省、松戸初の分譲地であった。大工は元石屋のにわか大工で、戦地から帰還したが石碑の仕事がなくて大工に早変わりした。材料はかき集めで、隙間風が入り、夜は天井から星が見え、冬は天井に雪が積もり、私が天井に這い上がって雪かきをした。

 それでも権利証で借金ができ、養父(山本の父)や友人(大塚)のお蔭で土地付き住宅の所有者となり、不思議な気がした。この住宅地に党の竹川(郵便局の電信係の竹川善次郎138)や、神山の友人で「日本経済新聞」記者の武藤政一郎が住み、竹川の母親は私の子どもが病気の時「私が光子ちゃんを看ますから奥さんは活動をしてください」と言って何かと面倒をみてくれた。また隣人は、私が夜寝た娘を一人置いて出かけた時に娘が目を覚まして泣いていると、自分の家に連れて行って預かってくれた。

 

168 19491月の衆議院選挙で、共産党は前回4名だったが、一躍35名に躍進した。社会党は1947年の143名が41名に転落した。吉田茂が党首の民主自由党(前年1948年、自由党に民主党が合流)は264議席で、吉田内閣が留任し、4月に団体等規制令を施行した。530日、東京都公安条例反対デモで警官隊と衝突して東京都交通労組員が死亡し、65日、東京芝浦電気が左翼労働者を中心に大量の首切りを発表してストに突入、東神奈川では国電の人民電車事件*があり、福島県では平警察署占拠事件が起き、74日、国鉄は大量(37000人)の人員整理を発表し、5日、下山国鉄総裁が行方不明となり、その翌日常磐線綾瀬駅近くで轢死体で発見された。その1週間後の13日、三鷹電車区で無人電車が暴走し、817日、東北本線松川で列車が転覆した。当時最も戦闘的だった国鉄労働組合を破壊するためのデッチ上げ事件であった。さらにその本当の目的が国鉄内の共産党組織を破壊するための工作と思わないわけにはいかない事件が相次いだ。松戸の共産党が一番接触していたのは国鉄電車区だった。敗戦後ようやく芽をふいてきた民主主義が一挙に吹き飛んだと痛感した。

 

*人民電車事件 1949610日午後622分、前日からストに入っていた国労管理の東神奈川発赤羽行き「人民電車」が運転され、京浜間を往復し、労組員が「電車往来危険罪」で一斉逮捕された。

 

 共産党本部は米帝国主義の軍事占領下でも民主人民政権が可能だと甘く考え、団体等規制令に警戒心を持たなかった。この規制令によって吉田内閣は在日朝鮮人連盟に解散を命じた。松戸の同連盟事務所は江戸時代の街道筋の遊郭の一軒におかれていて、そこには事務所ばかりでなく、朝鮮民主主義人民共和国を祖国とする多くの人達の住居もあり、高齢者の人達がかなり多く住んでいた。警官が物々しく包囲する中で解散された。私達も駆け付けたが、ただ見るだけで何の抗議闘争もできず、権力に対して力の弱さを痛感した。

 

 

共産党事務所設置

 

169 共産党松戸細胞の党員が増え、市街地細胞を二つにし、主水、古ヶ崎、馬橋、矢切などにも細胞が確立し、国立松戸療養所にも党員患者がいて、拠点としての事務所が必要になったが、既述の町工場の労働者斉藤乗一が(自分の家の)軒下を事務所に使ってよいと申し出てくれた。場所は大通りでないが松戸駅まで二、三分のところにあった。斉藤家は父上、姉、妹など6人家族であった。民主主義社会になったとはいえ、共産党に対する偏見がまだまだ払拭されていないとき、母屋の入り口に共産党の事務所の看板を出させることは容易なことではない。しかも無料の提供である。ところが私たちがどれだけ感謝の気持ちをもったか疑わしい。板囲いをして部屋をつくり、民納(民主納税会)の謄写版を持ち込んだ。

170 神山が「戦前の友人が復員した」と言って福光一雄という人を(事務所に)連れて来た。どこから復員したのか、どんな経歴の人なのか、何の説明もないまま事務所で寝起きしてもらうことにした。共産党の事務所の住人になるにしては全く無原則であった。党から常任手当は出せない。生活費をどうしていたのか。服装はいつも復員時のままで、冬はいつも兵隊の外套が部屋に掛けてある。その部屋に泥棒が入ったと福光が言うのだが信じられなかった。そのうち福光は誰にも一言も言わないで姿を消した。また中心的活動家だった(郵便局勤務の)竹川138も、新聞販売店を開業すると言って名古屋に行き、活動の中心だった神山50年問題の時に姿を消した。そして民納が買ってくれた謄写版も姿を消した。

 

 

ソ連の冷凍植皮術

 

 冷凍植皮術は皮膚の一部を切り取って冷凍したのちに植皮する手術で、進歩的な医師の間で問題になっていた。この治療法はもとはソ連で開発されたものだが、日本には中国から帰国した医師によってもたらされ、奨められた。その推進部隊が共産党の代々木診療所であった。松戸でもやろうということになり、希望者が三人あった。一人は肺結核を治療中の私たちの同志の青年で、一人は画家、もう一人は思い出せない。主催は党松戸市委員会機関紙松戸新聞社で、後援は千葉県東葛地方事務所、松戸市役所、松戸保健所、松戸文化連盟だった。1950121日午後1時から、東葛飾地方事務所敷地内の東葛自治会館で施行された。見学者は石橋・松戸市助役(のち市長)、総務、民主保健、衛生の各課課長、東葛飾地方事務所の小出所長ほか1名、松戸保健所所長及び庶務主任と芳沢保健婦他3名、国立国府台病院外科の大高医師、松戸市医師会の年代、吉田、板倉、山鳥、杉岡の各医師のほか、内田医院の鶴井医師、助産婦2名、国立松戸療養所から医師2名と軽症の結核患者、その他遠隔地からは手賀村(現沼南町)の村役場の厚生主任、夫の癲癇を治したいと思っている赤ん坊を背負った主婦などを含め、50名であった。

施術者は代々木診療所の馬淵外科主任の他、共産党本部科学技術部の林俊一と、代々木診療所佐藤孟男所長ら三名で、施術に先立ちが、この手術の歴史的発展、日本における植皮の原理と展望、共産党の植皮手術に対する態度などを説明し、佐藤所長は「この手術はまだ実験中だが、今までの手術の結果からみて、粘膜の病気やリューマチ、喘息等のアレルギー性の病気に対して患者の自覚症状に効果があった。その他、視力障害、聴力障害がよくなった例がある。肺結核など結核性疾患には術後に熱、咳、痰等の症状がよくなったとの声があるが、これだけではまだ結核がよくなったという確信はもてない。目下全国的に実験をすすめているので協力してほしい」と要請した。

172 この三名の術後については、一人の青年同志の場合、断定的には言えないが、一応恢復して付添婦組合の書記ができるまでに回復した。(結核患者の多い当時、各結核病院に付添婦の労働組合があった)他の二名については追跡調査していない。

 

 当時は結核が蔓延しており、ストレプトマイシンは使用され始めたが量が少なく、食糧事情も悪く、患者は増える一方で、結核の病院、療養所はどこも満床だった。その後手術の技術が進歩する一方、ストレプトマイシンが増産され、新薬のヒドラジットが開発され、食糧事情もよくなって栄養が取れるようになり、植皮手術の必要がなくなったようだ。その後私も肺結核になって入院したが、植皮術については話題にもならなかった。当時の見学者は患者よりも医療に関係している人が大半だったが、それは結核が蔓延して治療が大変だったことを物語っている。栄養のある牛乳も、病人、妊婦、二歳以下の乳幼児に対しても、医師が必要と認める場合にしか買えなかった。

 

 

「松戸市文化連盟」の活動

 

 松戸市は今でこそ人口46万人の衛星都市で、(常磐線沿線では)仙台までの間でこれを超す市はないというほど急激に人口が増えた。交通機関も、JRの他に営団地下鉄千代田線があるが、ラッシュ時は身動きができないほどの混雑で、今東京葛飾区の高砂に通じる北総線が完成したが、どれだけ緩和されるか疑問である。

173 今(1992年)から42年前の1950年頃の松戸市は常磐線はまだ汽車で、駅の出口は西口しかなく、町の街灯は少なくてうす暗く、雨が少し降っても道はぬかるみ、市民の集まる公的集会場もなく、小学校の講堂か、町内会の集会場を利用するほかなかった。図書館など思いもよらなかった。

東京空襲を逃れてきた文化人と従来からの町の文化人が一つになって「民科」(「民主的科学者協会会」)の支部をつくったが、一、二回の講演会を開いただけで立ち消えになった。

さらに幅広い人たちで「松戸市文化連盟」が組織された。委員長平野威馬雄(フランス文学者)、副委員長植松喬(朝日新聞松戸通信員)、同副委員長年代愛三(産婦人科医)、書記長原安祐(画家)、常任委員柴田周三(日本農業新聞編集責任者)、佐山直(弁護士)、溝江徳明(千葉大園芸学部教授)、水島正夫(建築デザイナー)、薄場聡(会社員)、山本正美(北海道新聞社東京総局論説委員)、吉松勉(思い出せない)、大塚金利(松戸市市会議員)、田中移(無職)、尹周絃(元在日朝鮮総連責任者)、顧問大塚幸之助(傘製造工場主)らで(委員が)構成されていた。また委員ではなかったが、幸徳秋水を中心とする大逆事件の再審請求で奔走していた森長英三郎弁護士や千葉大園芸学部の川村教授も協力した。

 

教育委員会民主化への取り組み

 

174 松戸市は東京都と江戸川一つ隔てているだけだが、封建制の強い宿場町での面影が強く残っていて、それだけに「松戸市文化連盟」173の任務は大きかった。「文化連盟」が先ず取り上げた活動目標は、一、社会教育委員の公正な詮衡、二、市民会館、図書館の建設促進、三、街灯の設置徹底化、四、松戸からぬかるみの追放、五、電話網改善の促進、六、常磐線電車の新橋乗り入れ運動の展開、七、松戸駅東口開設、九、新京成の松戸乗り入れ促進、一〇、競輪場、商工会議所等の重要問題についての公聴会の開催、一一、PTAのボス化反対等であった。

 (松戸市文化連盟の)正副委員長が市長市議会議長に面接し、図書館併設の市民会館の建設と、街灯を現在の倍くらいにすることを要求した。(図書館併設の市民会館が建設されたのは14年後の19641215日であった)また1948715日に公布された社会教育委員会の設置が6か月も遅れていて、県から督促された市は20名の委員の選考にかかっていた。「松戸市文化連盟」は社会教育委員会の有名無実化や学校教育者の独占場となることを防ぐためや、市長の選定の厳正を期するために、平野文化連盟委員長173以下六名が市長に面会し、市の教育課が極めて官僚的であることを批判するとともに、松戸全市の一流文化人を網羅している「松戸市文化連盟」が推薦する委員を全面的に採用するように要求した。これに対して市側は、委員選定は厳正を期すると言明し、選定に当たっては各文化団体による協議会をつくって行うと約束し、この約束は実行された。

175 社会教育委員会は社会教育法によって、学校長、社会教育団体、および学識経験者の三分野から市長が委嘱することになっている。松戸市の第一回協議会ではこの三分野の比率をどうするかで激論となった。当日の出席者は小中学校校長全員、文化連盟代表、市内の十二の小文化団体であった。論戦は小文化団体はそっちのけで、校長団と文化連盟代表とで行われた。20名の委員選定を文化連盟は、校長7名、社会教育団体7名、学識経験者6名を提案したのに対して、校長団は校長10名、社会教育団体7名、学識経験者3名を主張した。約二時間もみ合った末に、文化連盟案に落ち着いたと当時の共産党松戸市委員会機関紙「松戸新聞」171は書いている。私は一時期、娘を高知県の山本の実家に預けて「松戸新聞」の編集、発行、配布に専念した。

 

感想 橋本菊代さんは自分の子どもを遠方の親に預けて党活動をしたというが、私にはできない。

 

 

12 五〇年分裂の頃

 

 

感想 組織について 橋本菊代さんは党上層部のことは詳しく分からなくても、世のため人のためと思うだけで党執行部について行く。党執行部を批判することもあるが、基本的にはついて行く。組織とはそんなものか、黙従。私は嫌だね。どこへ向かっているのか分からずに人について行くなどできないね。(夫との意見の食い違いについて述べた「山本正美のこと」184参照)

 

共産党の選挙戦術方針は最初から当選を目的としてはいないようで変だ。立候補者を1人に絞れば当選できたのに2人立候補させる。選挙を通した宣伝だけを目的としているかのようだ。(次の「再び立候補」を参照)

 

 

再び立候補

 

176 コミンテルンは19435月に解散され、194710月、「共産党労働者党情報局」コミンフォルムが結成されたが、そのコミンフォルムが突如195016付機関紙で「日本の情勢について」という論文を発表し、野坂の名をあげて、野坂の「アメリカ占領下でも平和革命の可能性」論を批判した。共産党本部はそれへの対応や党内での意見の収拾などで混乱したが、私達末端は「アカハタ」の発表を通じて知るだけで、日常活動には支障がなかった。やがてこのコミンフォルムの批判に対して日本共産党中央委員会が「所感」を発表した。この「所感」を巡って意見が対立するさ中に、マッカーサーはそれを見越したかのように、19506624名の中央委員全員を公職追放し、同月26、「アカハタ」の発行を1か月停止し、されに718無期限の発行停止にした。椎野悦郎を議長とする臨時指導部ができたが、却って分裂した。

 

 このような状況の中で敗戦後2回目の地方自治体選挙が行われ、私は再び(松戸市議に)立候補することになった。投票日は1951423で、夫の山本は前年(1950年)に北海道新聞社をパージされ、選挙資金がなかった。私の選挙責任者・関村豊作の発案で、民納の書記であった原田159から、確か1000円借りた。この金は結局返済できず、カンパしてもらった。(この金銭感覚も理解できない)

177 この時の選挙に私の他に、東京の職場を(パージで)追われ失対事業で働いていた神田賢勇が失対労働者の代表として共産党推薦で立候補した。一方社会党は国鉄労働者2人と他3人の計5人を擁立した。

 敗戦後の混乱が一応落ち着き、共産党以外の立候補者は自動車で選挙運動を行っていたと記憶する。神田は労組の中でも一番急進的な労組である日本日雇労働組合松戸支部を代表した。私は最初から立候補させるが当選はさせない方針だと、神山が選挙責任者の関村に言ったとのことだ。関村は中国に出征し、東京の家は戦災に遭い、工兵学校跡の住宅にいた家族のもとに1946年に帰国した青年で、神山の方針にとらわれず、1週間の選挙期間中私と一緒に歩いた。

 共産党には選挙運動用のマイクが2人の候補者につき1本しかなく、神田の選挙参謀の田矢失対労組委員長は駅前の演説の際に、「山本にマイクを使わすと票を取られる」と、私にマイクをなかなか使わせなかった。私には昼間公然と活動できる人がおらず、食事は神田の選挙事務所で世話になった。前回の選挙は子どもを抱いての選挙運動だったが、今回は娘が小1になっていたので、夕食の買い物は娘がした。

 

178 忘れられない感激がある。娘が豆腐屋に豆腐を買いに行くと、油揚げをサービスしてくれた。私が代金を払いに行くと、「わざわざ忙しい奥さんに来ていただいて恐縮だ」と背骨を曲げて謝られた。

 また学生党員の野本宏のお母さんは優秀な長男を肺結核で亡くし、次男の宏も大学入学後発病し、自宅療養中に入党し、恢復期に神山宅の学習会や会議に出席していたが、宏の帰宅が遅いと母が迎えに来た。その時の神山の対応は冷たかったが、母は共産党支持を貫いた。私の選挙には陣中見舞いを持って来てくれた。

 野本夫人と同郷の伊藤助産婦も協力してくれた。女性史研究家の隅谷しげ子によると、このころ「婦人民主新聞」購読者が松戸に50人ほどいたが、この二人に負う所が大きかったという。

 

179 私の得票数は297票、神田は261票、計558票。社会党は国鉄労組員1名が当選し、立候補者5人の得票総数は1109票。最下位当選者の得票数は360だった。

 

 

コミンフォルム批判と50年分裂

 

 党中央「所感派」(後の臨時指導部)とそれに反対する「国際派」との対立はついに末端の細胞活動に混乱を与えるようになった。優れたオルグ才能を持っていた竹川(郵便局の電信係の竹川善次郎138138が党から去った170後の細胞活動の中心は神山利夫となったが、党事務所の住人で神山の友人の福光170がいつの間にかいなくなり、神山も自宅は党事務所の近くなのに姿を見せなくなり、神山の助手のような田中青年も、私の家に時々ソ連や中国の放送を聞きに来るだけで、松戸の活動から離れて行った。

 それでも私の選挙責任者の関松や、東京千住の皮革工場の活動家秋谷、党事務所を提供してくれた斉藤169、冷凍植皮手術を受けた石戸*、細胞の他の同志はなじめなかったようだったが、私や子どものことで家族の方にお世話になった石橋、出版労働者出身の高柳などは活動を続けた。

 

*石戸青年が療養所に入院中か、自宅療養中か定かでないが、先の選挙の時に落選した笹森登美夫131, 144が選挙ポスターに「布施辰治弁護士推薦」と書いた件について、細胞から布施弁護士に事実確認の問い合わせをしたところ、それに対する返事が石戸宛に来ている。このことから石戸は自宅療養しながら細胞活動をしていたと思われる。

 

180 活動内容は「球根栽培法」(偽装書名のパンフ)その他非合法出版物による「新綱領」の学習や、「全面講和、再軍備反対」の署名活動などで、195158日の吉田内閣による単独講和、日米安保条約調印後は、県からの指導は、米軍基地反対闘争に集中していたようだ。

 

 千葉県各地に米軍基地ができ、県委員の小松七郎138は九十九里浜での米軍演習に反対して投獄された。

 山口県に駐屯していた米軍が松戸の隣村風早村(現沼南町)藤ケ谷へ移動し、米兵相手の女性がその後を追って転入し、農家は納屋などを改装して女性に部屋を貸し、松戸市内でも部屋を貸す家があり、子どもの教育上問題になったが、私たちはこの問題までは活動できなかった。

 

 亡くなられた労働運動研究所常任理事の由井誓の『遺稿・回想』(新制作社)の中に、「パルチザン前々史」や「内側からみた日共五〇年代武装闘争」(43頁)に、新綱領の極左冒険主義の一部分が載っている。ちょうどそのころ、松戸で県・地区委員出席の会合があった。私の記憶にある構成員からみて、それは細胞会議ではなかった。その席上、「東京で蜂起すると茨城方面から警察予備隊が大挙して押し寄せるだろう。その時は江戸川の東側で食い止めること、すなわち江戸川に葛飾橋が架かっている。その橋の松戸側で食い止める」ということが話し合われた。これは米軍占領下で天皇制残存のまま平和裏に人民革命が遂行できるという平和革命論から極左冒険主義への偏向であり、私は蛙のたわごとだと思って聞いていた。その後、小河内村へ入った工作隊が、革命の成功を信じ、農村解放区を夢みて個人(所有)の山林の樹木を伐採し、刑事事件に問われたという報道を聞き、(私は)共産党中央部(当時の臨時指導部)に疑惑の念を持った。

181 私はそのころ、「党の出版物を預かってもらえるところを探してくれ」と言われて、全く党には無関係の文房具屋に頼んだ。何年か後にその店がガサ(家宅捜索)に遭ったと聞いた。また「アカハタ」発行停止後の非合法新聞「平和と独立のために」の秘密出版所が松戸の某所にあり、そのレポをしていたとか、印刷関係者を宿泊させたという人の話を最近聞いた。

 

 

感想 橋本菊代さんは「米軍占領下で天皇制残存のまま平和裏に人民革命が遂行できるという平和革命論から極左冒険主義への偏向であり、私は蛙のたわごとだと思って聞いていた」と日本共産党中央を批判しつつ、「『党の出版物を預かってもらえるところを探してくれ』と言われて、全く党には無関係の文房具屋に頼んだ」と協力もしている。ご都合主義。

 

 

わが家の家計

 

 松戸は都会ではなく地方である。周囲の人々が党員の行動をうるさく観察しているから、ホロ酔いかげんでも歩けない。

182 山本の客が三人やって来た。後からその人たちが小野義彦、井汲卓一、内野壮児だったと知ったが、その後内野とは労働運動研究所で一緒になり、長い付き合いをしていただいた。

183 私は戦後の非合法時代に裁縫をやったり、短期間東京の国民研究所かどこかに働きに行ったりした。

山本は「エコノミスト」などに日ソ貿易に関する小文を寄稿したり、細川嘉六の厚意で細川嘉六名義で『現代用語の基礎知識』に執筆したりした。このころかと思うが、堀江正規134と風早八十二に一回ずつ(経済的)援助をしてもらった。

ところが山本が何人かと土建関係の業界新聞を立ち上げて借金が払えなくなり、家を売ると言い出して夫婦喧嘩になった。それを耳にした民納の流山の農民の人々が借金して立て替えてくれた。私の家は三部屋のうちの一室を人に貸して生計の足しにした。

 

 

山本正美のこと

 

184 私は理論的に弱く経験主義であるのに対して、山本正美は何かとレーニンを持ち出して発言し、「君は教条主義者だ、平目だ、袴田だ」と私を批難する。私は党に多少問題があっても、自分の持ち場で自分の持っている力を全力投球するのが党員としての任務であると考えていて、山本には「満足できなくても党内で活動することが必要だ。妥協することも時と場合によっては必要だ。多数で決定されたことには従うことが必要だ」と言い続けた。

 山本は「社会主義社会実現のために理論は曲げられない」と、敗戦後の党主流の戦略――三二テーゼの踏襲、土地問題に対する方針、野坂のアメリカ帝国主義占領下での平和革命論、コミンフォルム批判に対する所感派の意見、極左冒険主義の方針など――に常に批判的だった。

185 私達夫婦は二人とも共産党員だった。山本は青年期をスターリン時代ではあるが、レーニンの築いた党の伝統や諸原則がまだ生きていた時代のソビエトで、各国共産党の優れた共産主義者の集まっていたコミンテルンで、生活を保障され、恵まれた環境で教育を受け、活動し、帰国後は短期間ではあったが、一般社会とは異なった生活を送った。そのことから山本は純情で、潔癖で、頑固で、風変わりな人間になったと私は考える。木村禧八郎も山本のことを「風変りな人間」と評したという。

 

 山本が産別顧問の時、党本部から「君が産別にいると産別内の細胞の権威より君の方が権威を持つようになるからやめてくれ」と言われ、顧問を辞めた。山本には出世の野心がない。私もそれでよいと思っている。

 

186 山本が北海道新聞社から追放され、共産党本部との軋轢もあったころ、ラジオやテレビの分解修理に夢中になり、社会運動から遠ざかったことに私は不満だった。

187 山本と私との共通点、労働者階級に対する信頼や非合法時代の苦しい闘いの経験が、離婚しなかった理由だと思う。

 

 

13 六全協から党七、八回大会

 

 

感想 「犬も歩けば棒に当たる」などと言えば失礼かもしれないが、何もしなければ平穏だが、やれば何か良くないこと、気分の悪くなることも起こる。それにしても当時の党内の人間関係は、今でもそうかもしれないが、路線問題でぎすぎすしていたようで、濡れ衣を着せられることもあったようだ。橋本菊代さんははっきりとしている。叩いた者の名(古田玲子)を挙げてここに記録・発表する。193

 

山本の職場

 

188 前述のように一挙に何万円もの借金をしたため、その返済で生活は苦しかった。分割払いでよかったが、期日に払わないと恩を仇で返すことになる。この苦境を知ってか、党員の石橋169が山本に東京商工興信所(現東京商工リサーチ)勤務を勧めた。山本は生活に困っていたのですぐに応じた。企業や商店の信用調査だろうが、私は特高を連想して気が重かった。興信所は社会の吹き溜まりの無責任集団と思っていたが、実際そういう人もいただろうが、女性を含む数名の共産主義に心を傾けている人たちがいて、山本の入社後に細胞も労組もできた。青年男女が新橋から松戸のわが家に労組の会合か懇親会かで集まったり、細胞会議をわが家でやったり都内の同志宅でやったりしていたようだ。またこの縁で都内の党員の家に娘が高校進学のときに寄留させてもらった。当時松戸に高校が一校しかなく、中学校は都内へのもぐり込みを推奨していた。また山本が就職して3年目のころ、小学生の娘が山本の職場の方々とメーデーに参加したところ、それがニュース映画に撮影され、娘は感激した。

 

189 平和革命論に対するコミンフォルムの批判、党の分裂、極左冒険主義、国家権力の弾圧等で、1952年の第二五回衆院選挙では(共産党員は)一人も当選しなかった。第二六回選挙でようやく大阪第二区の川上貫一が当選した。1955727日~29日の第六回全国協議会で、(幹部の)極左冒険主義、セクト主義、家父長的個人指導などが自己批判され、811日にこの六全協の報告会が東京の日本青年館で開かれ、私は田島ひでと参加した。そしてその会場に、北京に行っていたが帰国した野坂、紺野、志田の三氏が姿を現わした。また党主流から排除されていた党員たちが復党手続きをした。山本は正式に除名されてはいなかったと私は思ったが、山本は六全協の決議を全面的に支持し、自己批判書をつけて復党手続きをした。しかし私は山本の復党手続きには賛成だったが、その内容には不満があった。山本は虚偽の事実をデッチ上げられ、そのために私は二年間針の筵の生活を強いられた経験があるので、私は上部の人達だけでなく、一般党員に対する被害も掘り起こしてその根本を明確にしなければ、セクト主義や官僚主義は克服できないと思ったからだ。ところが山本は「今、党は大変なのだ、個人の一つ一つに関わってはいられない、少々のことはがまんしろ」と普段とは違った物わかりのよいことを言っていた。

 

感想 米軍による非合法化の中では「極左冒険主義」もやむを得なかった一面もあるのではないか。また同じ論理で、米軍の支配に服さない独立後なら、1955年の六全協で「極左冒険主義」を自己批判できるゆとりも生まれたのではないか。

 

 

山本正美の除名

 

190 党が正常に活動するようになり、東京商工興信所の細胞も伸びたのだろう、山本は細胞の推薦で中央区の地区委員になり、19564月に職場をやめて専従となった。その頃私は肋膜炎(後肺結核と診断)で入院した。山本は地区委員会から都委員(組織部長)になった。山本は第七回大会で共産党本部提案の「党章」に反対し、全国大会後の都大会で都委員をやめた。第七回大会では共産党本部提案の「党章」は採択に至らず、継続審議となった。

 

 第七回大会後の19601月、岸首相とアイゼンハワー大統領との間で新安保条約が調印され、批准のために国会に上程されることになった。新安保条約批准阻止闘争が労働者、インテリ、学生、男女あらゆる勤労国民によって全国的にくり拡げられ、毎日何十万というデモ隊が国会を包囲し、この闘いの中で東大生の樺美智子の尊い命が犠牲になった。しかし共産党はこの学生の生命を張っての闘いに批判的で、樺さんの死を冷淡視した日本で社共が統一戦線を組んでこれだけ闘ったのは戦前戦後を通じて初めてだったのにである。この大闘争を経て日本共産党は第八回大会を迎えた。大会に先立ち、継続審議になっていた「党章」の討議が行われた。山本は「党章」の日本資本主義の規定に反対だったので、「前衛」に発表したり、松戸居住細胞の討議に参加したりした。

 

191 当時松戸に現共産党副委員長の上田耕一郎が住んでいて、市委員だった。全国的討議の中で、春日庄次郎の去就が注目されていたが、その春日が突然「一時党を離れ、外部から見守る」と発表した。この春日に続いて中央の動きが活発化し、山本ら旧都委員も動き出した。私は山本に「闘わないで党から出るようなことはしないでくれ」と言った。また千葉県西部地区委員であった橋本古田両氏が、その考えの根拠は分からないが、離党しないようにと諫言しに来た。

 

 山本たち旧都委員は離党届を出さないで、大会直前に連名で「派閥的官僚主義者の党内民主主義破壊に対する抗議」と題する声明文を発表した。もちろん即座に除名となった。(なぜ「もちろん」なのか)この時私は千葉県西部地区委員をしていた。「反党分子」の山本正美と地区委員の山本菊代が同じ屋根の下に住むことになった。その後、第八回大会中のある日、同じ西部地区委員の我孫子のS氏に松戸駅でばったり会った。彼は私に「『党章』は正直いって自分だってよく分からない。だけど反対してもしようがない。あまり深く考えない方がいいよ」と言った。彼はその後も我孫子の経験を話してくれた。

 

 山本除名の直後、西部地区委員二名が我が家に来て、「夫が除名になってもよい。『党章』に全面的に賛成できなくてもよい。このまま地区委員に留まって活動を続けてもらいたい」と言った。私は多分全国的に脱党者が続出していたので他への波及を考慮しての処置だろうと推察した。第八回大会終了後の間もない時、除名になった内野壮児182の夫人が脱党届を出したところ、「山本の女房は党に留まっている。脱党を思い留まるように」と言われたと聞いた。私は「山本の除名は労働者階級に対する裏切行為のためではなく、彼ら(山本ら)は彼らなりに日本の革命運動に真剣であるがための共産党首脳部との意見の相違と考えるから、私に直接関係はないし、そのことで私に責任はない。私自身党から出る必要を感じないから出なかっただけである。それを他の人への対応に利用されるのは迷惑なので利用しないでほしい」と県委員会に申し入れた。県委員会は「(その利用の件について)全然知らない。本部へ伝えておく」とあっさり承知した。

 

 山本は私の進退については一言も言わなかった。「党章」は党の綱領として採択された。一党員ならまだしも、地区委員として活動する以上、十分理解できた上での賛成でなくては矛盾に出くわす。地区委員長の鶴岡は、赤線をみっちり引き、折り目が破れそうになっている「アカハタ」を大事に鞄に入れて持ち歩きオルグをしている。私はそれを見て私にはそんな真似はできない、地区委員をやめるべきだと思った。私が地区委員になったのは細胞からの推薦ではなく、松戸出身の前地区委員の古田地区委員191との交替であり、地区からの強い要請によるものだった。私は(地区委員としての)進退についてまず細胞に諮った。

 地元の松戸居住細胞では厳しい意見がでたが、それは私の前に西部地区委員だった古田玲子一人だった。古田は私の辞任に賛成した。(古田玲子は慰留から排斥に変化したようだ)私はそれは当然のことと思ったが、古田の「山本さんと離婚なさった方がよいと思います」の言葉は丁重だが刺を感じた。それに対して私は「(山本は)党を除名されたからといって労働者階級を裏切ったわけではない。たまたま共産党の戦略と山本の考える戦略とが一致しなかっただけで、離婚の必要は感じません」と拒否した。

 

 

また新しい問題

 

 その後しばらくして、党から除名または離党した人たちの組織「社会主義革新同盟」の機関紙「新しい路線」が松戸の「アカハタ」読者(元党員の)原田氏に送付され、原田は「アカハタ」の配布者古田玲子に「こんなものが来たが、これは何なのか」と聞いた。細胞会議で古田は「山本(正美)さんは地域活動をしていなかったのだから、山本が原田を知るはずがない。これは奥さんの手引きだ」と強引に主張した。私が「敗戦後山本は地域活動をしていたからこそ、松戸で知り合った『日本農業新聞』の編集責任者柴田に、あなたの夫の古田宏の就職を頼み、古田宏は『家の光』に就職できた。(山本正美は)民納の税金闘争に協力していた関係で原田と親しくなり、原田が家を建てる時には住宅金融公庫からの借り入れ保証人になった」といくら説明しても、古田は頑として聞き入れなかった。そこで事実を調査するための調査委員会を設け、委員が原田に会って原田と山本との関係を確かめた結果、私の説明と違わないことが証明された。

 

194 その後毎日深夜に電話がかかって来て眠れなかった。

 

 私の家の近くに住んでいて平和運動から入党した慶応大学出身で浅草の民商の書記をしていた真面目な青年が「『クルプスカヤ伝』を探しているが、見つからないので、読み次第必ず返すから貸してくれ」と言ってきた。『クルプスカヤ伝』は山本が共産党本部の依頼を受けて翻訳・出版したもので、彼はクルプスカヤ夫人を大変尊敬しており、一言一句注意して翻訳した本で、我が家に一冊しかなかった。私は何の疑問も持たずに安心して貸したのだが、いつまでたっても返しに来ないので何回か催促に行った。「まだ読み終わっていない」が「いまちょっと見つからない」へと変わり、とうとう返してくれなかった。これは「反党分子」の出版物を社会から葬り去るための引き上げであったことを後で知り、自分の甘さと、日本共産党の偏狭かつ執念深さに驚くばかりであった。(根拠は?)

 

 

14 必死に闘った付添婦さん

 

付添婦組合へ

 

195 私は19521月に国立松戸療養所の付添婦組合の書記に要請された。何万と借金を抱えていたし、労組の書記なので喜んで就職したが、就職してみるとこの職場が容易でないことが分かり、また結核に感染する危険もあった。(橋本菊代は1956年に肺結核にかかった190

 

 付添婦のほとんどは戦争未亡人か引揚者か、夫が病気で入院していて、子持ちの中年女性が多かった。一家の柱として、あちこち職探しをしてやっと見つけた仕事だった。そしていつ放り出されるか分からず何の保障もない不安定な職場でもあった。

 

 第四次吉田内閣の通産大臣池田勇人は「中小企業の倒産はやむなし」「貧乏人は麦飯を食え」と傍若無人に発言し、米独占資本と日本の大企業のためのデフレ合理化政策を遂行した。

196 この政策は勤労国民の生活を窮乏化し、労働強化と栄養不足により、結核患者は増加した。厚生省の調査によれば、19538月~10月の結核患者数は1371万人、その年の日本の総人口8698万人の16%で、6人に1人が結核患者だった。また総評の19541218日付「調査資料」によれば、「労働者は生活を維持し少しでも収入を多くするために残業や休日出勤を余儀なくされていて、残業賃金は定時賃金の3割~5割という長時間労働が一般化している」と書いてある。労働強化と栄養不足が国民病結核の元凶である。

 

 結核患者のほとんどが生活保護と健康保険適用者であり、1953年度の生活保護費の半分は医療費であり、健康保険(の医療費)では1951年を100として、1953年が14619543月~10月は163と増加した。吉田政府はこの赤字を保険料の値上げと、患者負担に転嫁した。ここに付添婦闘争の原点がある。長い闘いであった。(健康保険に入っていない人もいたのか)

 

 厚生省は195012月、付添料が高いとして突然支払いを停止し、付添婦制度の廃止を意図する完全看護(現在の基準看護)と賃下げ方針を東京都民政局に通達した。また東京都の場合、看護料を東京都民政局の一括(直接)払いから銀行経由に変更した。それは入金の遅れを意味し、蓄えのない人には生活に関わる問題であった。(付添婦労働)組合は、日本医師会私立療養所協会に共闘を申し入れ、都医協(東京都内私立病院従業員組合)とともに、都庁や厚生省、国会議員に陳情した。その結果、参議院厚生委員会で社会党の山崎道子が質問し、医療費と看護料の支払いを早くするよう厚生省から全国に通牒を出させた。

 

197 次に厚生省は付添制度について保健局と民政局の連名で「看護給付の取り扱いについて」という通牒を出していたことが判明した。その内容は結核について言えば、

 

「1、絶対安静ではあるが、ベッドの上で食事をし、便器を使うだけではいけない。(看護給付を支給しない)

2、必ずしもそうではないが(意味不明)、手術のため常時監視を必要とするもの」(でなければ看護給付を支給しない)

 

 そして

 

「付添期間を最小限にし、一人つきにして賃金を引き下げ、勤務時間は延長する」(「一人つき」とは患者一人を付添婦一人が看るという意味らしい)

 

というものであった。

 

 これが実施されたらほとんどの付添婦は職場を失い、重症患者は介護者をもぎ取られ、看護婦は労働強化になる。そこで(付添婦労働)組合は全国医療労働組合(全医労、国立療養所と国立病院の従業員の労組)、日本患者同盟(全国の入院患者の組織、略称「日患」)、都医協と共闘し、通牒撤回闘争を展開し、厚生省と国会に陳情した。

 

 

闘いが奏功

 

 付添婦の中年おばさんたちには労組加入の経験も、座り込み闘争の経験もなかったが、必死に闘った。都庁民生局は「看護給付の承認条件について」という追通牒を出し、結核で入院中の患者の看護を承認する病状基準を明らかにし、従来の三人つきを認めた。都庁保険課はベースアップの通牒を出した。それは5年以上の看護婦に450円、5年未満の看護婦に360円、補助婦に250円(の日当)であったが、組合は直ちに闘争委員会を開き、補助婦の日当を5年未満の看護婦と同一の360円にするように要求した。

 なお三者(全医労、日患、付添婦組合)共闘委員会は、195221日に参議院で開かれた医療懇談会に、付添婦の次の要求を提出した。

 

一人つきで食べられる賃金(一日360円)(付添婦が複数の患者ではなく一人の患者につくということか)

②勤務時間拘束12時間、実働8時間

③時間外、夜間勤務手当制度を設け、基準法により支給。

④有給による週休

⑤二人以上を看る場合は一人増す毎に2割増

⑥付添婦に健康保険、失業保険の適用(健康保険に入っていない人がいたようだ196

 

 215日の衆議院厚生委員会で金子(社会党)、苅田(共産党)両議員が付添婦問題を質問し、付添婦が傍聴した。保険の質問が終わり、付添婦問題になった時、自由党の厚生委員長が休憩を命じたが、その時共産党の苅田議員と組合代表がその場で保険局長に陳情し、局長から全国に賃上げの通牒を出すという確約を取った。その後、22日付で全国の都道府県に看護婦の経験を加味した付添看護料の賃上げ通牒が出された。当時付添婦は国立療養所で4000人働いていたと言われる。東京地方付添婦組合の拠点は、結核療養所や結核病院が集中していた清瀬地区であった。毎日が闘いだった。

 

 

党の査問に不信

 

199 以上は私が付添婦組合の書記になった当時の実情である。組合員は全員女性だった。私は松戸療養所の付添婦組合書記から、都内の柴又病院の付添婦組合書記を経て、(付添婦組合)本部の書記になった。その時の本部は、委員長が堀江ハル、書記長は物上律(現場付添婦)、(本部の)日常活動は3名の書記が当たった。組合員数に比べて書記3名は多すぎる感はあったが、厚生省は完全看護による付添婦制限の方針を維持したままで、この方針と対決するために、付添婦組織の拡大、医療機関の組合や患者組織との交流、理事者側との接触、付添婦に対する健康保険・失業保険の適用などで多忙だった。書記3名全員が共産党員で、中心は、堀江家(付添婦組合本部事務所)に同居していた所感派の非合法活動家(堀江の甥)の紹介で書記になった加藤、もう一人は夫人が亀有駅前で古本屋をしている渡辺だった。私は当時50歳近かった。渡辺は夫婦とも結核の恢復者で、古本屋の週一回の仕入れは夫の仕事で、その日は組合事務所への出勤が午後になった。書記手当は付添婦の組合費から出る。堀江委員長は渡辺本人にではなく、骨と皮のように痩せ細った妻を呼び出して厳しく遅刻の責任を問うた。私は聞いていて重苦しかった。渡辺は間もなく退職した。

 

200 堀江委員長、物上書記長は中野療養所以来の共産党員だったが、うまが合わなかった。堀江は本部常駐で、堀江の住居の一部が組合事務所となっていた。堀江の家に同居していた甥の活動家は、徳田書記長の中国亡命時に列車の中で(徳田の)防衛をしたことが、堀江を権威づけた。それに加えて、当時は所感派と国際派とが分裂していて、党都委員会のグループ指導は不適切だった。物上はいつもは柳に風で受け流していたが、(付添婦)組合の大会(1953年度?)直前のグループ会議の直後に、沼袋の三楽会館で、「共産党員であることに意義が感じられなくなった、脱党する」と私に言ったが、私はそれを思いとどまらせた。

 「両雄相まみえず」ということの上にさらに凄惨な場面(査問)が起った。(査問者が)都委員(会)だか関東地方委員(会)だか名乗らないから分からないが、組合内党員の査問が東大赤門前の宿屋の二階で行われた。私に対しては「山本君はどうしているか。加藤君は党員ではない。加藤は水野茂夫*の親戚で、彼の家庭の経済状態では酒が飲める状態ではない」(私は加藤書記が酒を飲むかどうかは全く知らない)などと、組合活動とは全く関係ないことを聞かれただけで終わった。また物上書記長には「山本は亭主が不遇でいるので党に対して不満を持っている」と言ったという。

 

*水野茂夫は三・一五事件当時の最高幹部で、獄中でいち早く転向した。

 

201 私はこのことで共産党に対する信頼が一挙に崩れた。「山本は亭主が不遇でいるので党に対して不満を持っている」という言は、私に対する侮辱であると同時に、日本共産党の体質をよく現わしていると思った。加藤書記は別れの挨拶もしないで、その日以来出勤しなくなった。また堀江が「裏の重要活動をしている甥っ子」と言っていた所感派の活動家も、堀江の家からいなくなった。その後早稲田大学の演劇部で活動していた阿部文男が書記になったが、堀江委員長、物上書記長の体制は変わらなかった。

 

感想 共産党は党中枢・組織維持のために常日頃から査問と称して党員の動向を探ると同時に、中枢にとって嫌な党員をこの査問を通して排除したのかもしれない。

共産党中枢部は、飲酒(「松戸は地方で狭いから党員はホロ酔いかげんでも歩けない」と千鳥足を不評とする件は既述181)や、転向者(水野茂夫)の親戚や、党中央批判(山本正美)など、党中枢を少しでもゆるがせにする要素があったら始末したかったのではないか。最近でも「党防衛」という言葉をよく耳にする。

 

堀江ハル『付添婦 愛のたたかい』桐書房事業出版部 1987.2 2,200

 

 

厚生省の三通牒撤回運動

 

 1954年の国家予算は文教・厚生関係予算を削減し、日本を米帝国主義の砦とするために、日米相互防衛援助協定に調印(19543月)し、防衛庁、自衛隊等を次々に創設した。

 

 この予算案が19531230日の新聞で発表され、日患同盟日本患者同盟197)は直ちに各支部に通達を出し、各政党の地元国会議員を施設に呼んで話し合うなど様々な方法で国会議員に働きかけ始めた。全国看護労働組合(東京地方の付添組合が全国規模に発展したもの、略称全看労)も地方支部に、患者と共同で国会議員に生活保護費、社会保障費削減反対の陳情をするように指令し、行動を起こした。また付添婦の労働形態が日雇であることから、全日本日雇労働組合とも共闘し、社会保障費削減を撤回させた。

 

202 この時付添婦の力になった国会議員は、奈良県選出の社会党の八木昇と、静岡県選出の長谷川保だった。また総評の書記長は高野実015で、私はこの時28年ぶりに高野と再会し、1926年に私の家出を手引してくれた伊藤はな014(高野実夫人)が故人になられていたことをこの時に知った。

 このように19541月の政府の社会保障費削減政策を押し返したが、厚生省は間もなく(医療関係費の)赤字補填の補正予算を削減するために、19545、「入退院基準、付添制限、患者心得」という三つの通牒を出し、都道府県から末端の福祉事務所まで徹底させた。そして都道府県庁や福祉事務所は保護を打ち切るために戸別調査を行い、被保護者は保護打ち切りで苦しめられ、福祉事務所職員は労働強化に追い込まれた。

 

 この三つの通牒撤回運動をすすめるために、全看労(全国看護労働組合)は日患同盟全医労(全国医療労働組合197)の三者共同署名の檄を全国に出した。この通牒撤回闘争は結核患者の闘いとして歴史的であった。

 

203 運動は大阪を皮切りに始まった。大阪は通牒が出されたその月のうちに立ち上がり、730日、1200名が府庁に座り込み、府議会を突き上げ、三つの通牒反対の決議をさせ、厚生省に意見書を提出させた。

 

 次いで岡山は625日に座り込み陳情。県側は入退院基準の実施を延期したが、看護(付添)制限では譲らなかった。

 愛媛 実施延期を約束させた。

群馬 713日に陳情し、二つの基準を延期させた。

栃木 病人の陳情に警官を出動させた。

千葉 726日、27日に陳情。実施を中止させた。

茨城 726日に座り込み、実施を保留させた。

 

私はこの前日の725日に国立療養所青嵐荘に行った。ここにはリハビリ施設があって回復後一定期間医師の指導下で訓練し、その後社会復帰する施設が整っていたので、目を見張った。この時飯田ももに会った。座り込みの当日の早朝に療養所でおにぎりをつくってもらい、ゲートルに地下足袋姿の飯田もも団長を先頭に、付添婦と共に水戸市の県庁に乗り込んだ。

 

神奈川、宮城、石川等各県でも座り込み陳情したが、警察の干渉と県の不誠意とで決裂した。神奈川では飛鳥田一雄国会議員が県との斡旋をしたが、県の不誠意で成功しなかった。

 

東京では727日~29日、都庁広場に2000人が夜を徹して座り込んだ。しかし都知事には誠意がなく、座り込みの患者に薬剤を投与する医療班の活動や食事の搬入にまで妨害した。そして村山療養所の入退院基準に引っ掛かり退院させられていた女性患者米津さんは、この陳情に参加して病状が急変し、都庁側にベッドや処置等の協力を申し入れたが、一切拒否され、手遅れのために愛児を残して一命を捧げられた。

 

204 政府は患者や付添婦の血の出るような陳情に対して、閣議を開いて「三通牒を撤回しない」と決定し、この通牒の中止または延期・保留を約束した県に対して、約束は無効であるとの通牒を出し、一切の要求を拒否した。さらに三通牒を強化して、病人、付添婦、医療労働者を苦しめた。814日、総評と全医労、民主団体の斡旋で、全国の代表が大臣と交渉したが、大臣は一切耳を貸さず、何も得る所がなかった。

 

 付添婦はこの闘いの中で団結の必要と、患者や医療関係者だけの問題ではなく、全国の労働者、農民、市民、学生の問題として運動をすすめ、全国民と連帯しなくては勝利しないと知らされた。

 

 この闘いの中で全看労(全国看護労働組合)の組織が新たに20分会ができ、459名増えた。その後の活動でさらに組織は伸び、19552月には66分会、組合員1881名となった。しかし完全看護を実施する病院もあり、東京で173名、広島で30名が脱退した。

 

 この後各地で次の闘争に備え、神奈川県では県評*(何の略か)が各労組にオルグをはじめ、病院の町清瀬では、「付添婦300人が失業したら税収入が減るだけでなく、逆に生活保護費を出さねばならなくなる」と町長自らが先頭に立って町議会で取り上げ、1955年の地方自治体選挙では、全看労関東支部委員長の物上と日本患者同盟の沢田が町議員に当選した。

 

*県評 「○○県労働組合評議会」を「○○県評」という。全労連系(日本共産党系)である。

*全労連(全国労働組合総連合) 1989年に連合が結成された時、総評のうちの自治労から自治労連、日教組から全教など、共産党支持の各労組内非主流派が結成した新単産と統一戦線促進労働組合懇談会加盟単産とでつくられたナショナルセンター。

 

 

15 党員グループのあつれき

 

新しく暗い経験

 

206 私は全看労の書記になるまでは居住細胞での活動が中心で、税金闘争で農民や業者と接触し、女性とは少数の党員やシンパとのお付き合いで、私生活も核家族で、嫁姑の生活体験がなかった。

 全看労は日本でも珍しい女性だけの労働組合で、私はそこに雇われて書記になったが、そこの女性たちは社会的経験が豊かであった。さらに当時共産党は50年問題で分裂のさ中だった。

 そこでの経験は陰惨で、私は驚き、戸惑い、耐えがたかった。

 例えば、上部団体の党グループ会議に、全看労グループとして、党籍のはっきりしない書記を個人的関係から出席させたり、全看労のグループ会議に、活動的だが非党員の人を、委員長(党員)の独断で出席させたりと、組織無視が平気で行われていた。また付添婦廃止の攻撃に対処するための重要なグループ会議で、現場で働いている書記長(党員)が日常の経験から発言すると、「今まで一緒に活動してきた者からこんなことを言われるくらいなら、あなたなんかいない方がいい」などと言って相手の真剣な発言を封じ込め、その後の会議はお通夜になった。

207 またその同じ書記長に対して、誤解による(私はでっち上げと見たが)異性問題を抜き打ち的に会議に出し、書記長の所属する細胞からの意見聴取や事実調査もしないで、本人が欠席している時に――所属細胞が指示して欠席したのだが――、「事実だから欠席した」と欠席のまま、判断を下そうとしたので、私は有能な同志を葬り去る危険を感じて、必死に(除名)決議に反対したら、翌日「馬鹿野郎」と委員長に言われた。(女も怖い)

 

 

転籍手続き

 

 前述の加藤書記を入党させるために、推薦母体が必要になり、私の党籍を事務所に移すことになり、19541月にその手続きをした。(実際は加藤書記がやめたのでその必要はなくなった)ところが1954331日に都委員会が受け付けたのだが、(私の)その転籍書類が(堀江ハル委員長の意地悪で)行方不明になった。堀江委員長や事務局細胞責任者坂上は「まだ来ません」「問い合わせ中です」としか言わない。そこで私は千葉県西部地区委員会を通じて関東(地方)委員会と都委員会に調査してもらったり、千葉県西部地区委員会の指示で、私が関東地方委員会に出向いて調べてもらうことになり、そのことを細胞責任者に報告した。

208 私が細胞責任者に報告してから二三日目に、「問い合わせ中です」と言われてから10か月経ったある日のこと、「書類が来たから割符と照合してくれ」と細胞責任者から私は言われた。転籍書類の割符は堀江委員長を通じて東京都文京支部に渡されていたはずだ。

 堀江委員長は「文京支部では防衛のために疎開させてある」と言うのだが、3週間経っても割符は帰ってこない。それだけでなく、来たと言われた党籍の書類もそのまま立ち消えとなり、「来るには来たが、そのままになっている」という。ところがその後すぐ「来たというのは僕の聞き違いだった」とか「もう一度信任状をもらってくれませんか」とか言い、二、三日後には「あれはもうよいです」と取り消す。

 

 その頃私は清瀬地区の分会書記から「一か月もかからずに解決できたはずだ。(加藤を)早く組織につくようにしてくれ」と言われたが、その間に(私の)転籍書類に「分派」と書いてあったとグループ員から知らされた。

 私は「分派」と書いてあったと聞いて黙っておれず、千葉県西部地区委員会に行った。委員会では「絶対書かない」という。私は次に県委員会へ地区委員を連れて行った。県委員会も「書かない」という。そこで地区委員がどんな書類が文京支部にいっているのか調べに行くことになり、地区委員と私は都委員会に行った。都委員会が「責任を持って解決する」と約束したので、ひとまず都委員会に一任することにした。

 

209 しばらくして堀江委員長が細胞責任者の坂上に「書類は来ていないと言っておけばよい」と言っていたことが判明した。六全協以降、山本が都委員に選出されて専従となり、全看労のグループ指導に当たっていた都委員会の全看労担当者から「堀江委員長が握っていた」と聞かされた。都委員会の片山さとしが文京区の党会議で「東京都委員会は伏魔殿だ」と言ったというが、その頃は都委員会だけでなくいたるところが伏魔殿だった。

 

 堀江委員長は私を味方にしようと思ったのか、中野療養所時代からの物上書記長について「あれこれ」(よからぬことを)話したが、私はそれを受け流していた。また私は物上書記長は職場の信頼が厚いし、組合内での活動ぶりなどから信頼していたので、堀江委員長の思惑通りには動かなかった。また山本の分派云々は査問の時に何かを聞いたのか、あるいは堀江が文京区の居住細胞に属していたので、そこから(山本が)所感派に反対だということを聞いたのかもしれない。私が物上書記長のことで堀江の期待に沿わなかったので「子飼いの猫」に嚙みつかれたと思ったらしく、私を辞めさる口実を探していたのだろう。私は針の筵の上を歩く気分だった。しかし辞めれば分派を認めたことになるので、辞めなかった。日患同盟の小島から「よく頑張った」と言われた。

 

 衆参両院の社会労働委員会で「付添婦廃止は、看護要員の増加や設備・給食の改善をしないで強行してはならない、もし廃止する場合でも付添婦の配置転換などに万全の方策を講じなければならない」と決議されたにも拘わらず、厚生省は既定方針を強行し、4000人の付添婦から2270名の常勤制度への切り替えに着手した。清瀬の東京療養所では130名の付添婦に対して常勤がわずか36名の割り当てしかなく、今後の手術は不可能だと悲鳴を上げた。全看労は再び国民にアピールした。

 

発病、そして入院

 

210 私は組合のこの重大な時に倒れた。近所の町医では診断がつかず、開設したばかりの同志の診療所で、一過性浸潤で肺は真黒だと言われたのだが、横になっていても胸苦しくもだえ苦しんだ。松戸療養所分会の持田が、国立国府台病院に連れて行ってくれ、肋膜に水が溜まっていると分かり、その場で入院した。

 ところが治療は無責任で荒っぽい。正規の医師も立ち会わず、インターンだけで針を胸に刺し、ピリピリ張り付くようで我慢できず、止めてと叫んだ。水の取りすぎだった。

 また回復状態を調べるためにレントゲンを撮ったところ、肺結核と分かり、結核病室に転室した。ショック。

211 ある日看護婦が面会だと私を連れ出した。普通面会人は病室に来るはずなのに、おかしいと思っていたら、その面会人は戦時中に私達を監視していた特高刑事の主任だった。敗戦後特高刑事は公職追放になっているはずであるのに、奴は市川警察署にいた。どうして私の入院を知っているのか。もっともわが家の係二人のうち一人は松戸市役所の職員になっていた。「何か不自由なことがあったら」などと言う。私は今後の面会拒否を宣言した。(検察による戦後の共産党対策がこのころにはすでに始まっていたのか)

 ダニのような特高刑事だ。私は逃げ出したくなって、東京都内で患者会の強い市原病院に転院した。千住の場末のゴミゴミした町中にあり、病室の枕元で夜中じゅう水揚ポンプがうなっていて眠れない。前記の持田さんの紹介で、石橋松戸市長を介して、松戸療養所に転院した。

 ここは敷地内に森があり、広くて静かで、医師は慈恵医大系で、外科には茨城県の青嵐荘からパージされて来た優秀な医師がいた。また私がこの療養所の付添婦組合の書記をしている頃の患者会の活動によって食事もよい。現在でも他に比べて食事がよいとの定評である。

 

 松戸療養所では19564月から付添婦制度が廃止され、かつての組合員は一人もいなかった。全国看護労働組合は、付添婦の生活を守るために清瀬地区と都内二か所に労働組合による(看護)労働者派遣事業を始め、かつて松戸療養所の組合責任者だった持田が委員長になり、都内の市原病院の近くに事務所を置き、清瀬地区は物上が担当し、名目(だけの)完全看護制度と闘っていた。現在も労働組合の派遣事業として継続している。

 

212 私の病状は順調で、空洞の部位が肺尖部で手術も簡単だと勧められたが、私は臆病で、年齢も高いし、家事労働にも耐えられ、また姉に頼んでいる娘を引き取ることなどから、手術しないで退院した。まる1カ年の入院生活だった。

 

 

寺尾としさんの党除名

 

 寺尾としは1927年以来の私の同志であり親友であるが、1955927日付で神山茂夫らとともに日本共産党から除名された。

 その数日後に寺尾としから手紙があった。

 

「過日の『アカハタ』紙上での発表で驚きになったでしょうね。私自身も驚いた。以前には神山の研究所に行って多少交渉もあったが、今は研究所をやめて全く関係を断っている。神山が分派を結成していると言われているところに、神山には豪語癖があり、理論は浅野や茂木にやらせ、文化活動は寺尾にやらせ、財政は誰々にと見せかけているのではないか。私は3年前に関係していたが、その後は関係がない。処分とはわけが分からない。…神山理論や彼の態度が反党的であるのは当然で、私達も党の批判・決定を全面的に支持している。一旦決定された以上は服従すべきは当然であるので、主な仕事から一切手を引くことにした。…ない事実はいずれ明らかになるだろうと確信している。当分は悲境に立っても、革命のためとあらば止むを得ないと淋しいアキラメをしております

 長い運動の過程ではいろいろなことが起こる。党の発展のためには陰で人に知れず枯れる草のあるのは、またやむを得ないでしょう。しかし私達はまだ枯死したくない。慎重にこの後を歩いて行って、やがてはまたあなた等と同じ陣営に帰りたい。しかし味方から誤解を受けるということは一番痛手には違いありません。…」

 

寺尾としは私がソビエトに行っていたときに亡くなり、告別式にも参列できなかった。寺尾としは女性としては珍しいくらい豪胆で、物事にこだわらない性格だった。何の理由もなく、事実調査もせず、除名されたことに私は淋しかった。

 

*ソビエト訪問の時期は揺れている。また複数回訪問したのかもしれない。

19714月~1974年、251

       1978年、073

 

 

 

214 ここで西村桜東洋について触れておく。西村桜東洋は日本女子大以来の寺尾としの親友で、私とも1927年の関東婦人同盟以来の同志である。西村桜東洋は敗戦後福岡県の日本農民組合の書記をしているとき、日本共産党の農民運動の方針と意見が対立し、共産党の「縄のベ」摘発や農地法による農民の土地買収への反対などで対立した。論争の結果、福岡の農民党員と共に集団脱党して党の怒りに触れ、「農民運動の活動資金源として経営していた食堂の食器などを破壊されるなど、およそ考えられないことが起きた」と私に語った。このような暴行を受けながら、西村桜東洋はホーチミンやレーニンに学び、福岡飛行場(第二次大戦の際に農民の耕地を軍の板付飛行場にした)の補償金獲得闘争を20年間闘い続けてついに勝利し、福岡市のど真ん中に農民会館を残して1983824日に永眠した。

 

 

松戸での勤評闘争

 

 私が退院した時、石橋内閣の後を受けた戦犯岸信介1957.2.25—1960.7.19は、組閣早々の国会で「自衛の範囲なら核兵器保持可能」と放言し、米帝と台湾の蒋介石の軍事行動を支持して中国敵視政策を一貫して取り、国内政策では反動的な教育政策として勤務評定実施を通達した。(安倍晋三とそっくり)日教組は直ちに反対声明を発表したが、愛媛県ではいち早く県財政の赤字克復を理由に、教師の昇給制限の名のもとに勤評を実施し、教員組合をめちゃくちゃに破壊した。岸信介の本当の狙いは教育の反動化であり、そのための日教組破壊であった。

 

215 この時私の娘は中学一年生で、親としても無関心でいられなかった。その頃の松戸市の教員組合は管理職も総ぐるみで、支部長、書記長、分会長など長のつく役職はほとんど学校長であった。松戸市議会は、政府の勤評通達が19578に出たのに対して、12月議会で勤評反対を決議した。議員定数30名中、社会党2名、共産党1名の議会で反対決議がされたのは、保守系議員中にPTA会長が何人かいて、影響力の強いPTA会長が(松戸市議会の)文教委員長をしていたからではないかと思う。

 松戸地区労*も「勤評阻止共闘会議」を組織して教組に協力した。娘の通う中学校の分会長=校長から、「授業放棄するかもしれないが、民主教育を守るためだから理解して協力して欲しい」と要請があり、校長=分会長との懇談会が何回か持たれた。

 保護者全員が心底から支援を決意したかどうかは分からないが、一応全員協力の態勢を取って915日の統一行動に備えたのだが、千葉県では前日になってグニャグニャと崩れた。千葉県教組は「力関係で止む無く…」としたが、私は千葉県教員組合が全県的に校長が組合の長になっている組織的体質によるものではないかと思った。その後教師に対する勤務評定は全員を「よい」と評価し、仮採用の教師には一段上の評価にしたという。

 

*総評→県評→地区労 1980年代の再編で解散するところと、全労連、全労協、平和フォーラムに参加するところと、参加せずに従来通りやっているところとがある。

 

大型団地建設反対闘争(農民と首都圏開発を進める政府との闘い)

 

216 私は家庭で1年間療養し、不十分ながらも地域活動ができるようになった。私が松戸の活動から数年間離れていた間に、党員が変動し、昔一緒に活動していた人たちはほとんどいなくなった。中心的活動家は、東京から移入した共産党本部勤務員の(意地悪な)古田玲子193、極左冒険主義時代の破防法粉砕闘争時に、板橋区「岩の坂事件」*で死亡したと一時報道された橋本秀夫、松戸市議会議員の神田賢勇らだった。

 

 政府と柴田知事は、京葉工業化政策を強行し、自民党内閣の首都圏整備法1956年に制定された。この法律は東京都と地続きの松戸市、柏市、市川市、船橋市ならびにその周辺を、首都で働く勤労者のベッドタウンとするもので、京成津田沼と松戸を半円形に縫って走る新京成電鉄が、19554月に開通した。日本住宅公団は新京成電鉄の開通を待ち構えて、11に松戸市金ケ作に、当時東洋一と言われた大住宅都市建設を発表した。しかしその予定地は山林が1/3、半分は畑、その他稲作の田圃もあり、約70戸の農家が点在していて、その中には敗戦後に入植した人たちの住居もあった。これらの農家は水田がなくなれば飯米を買わなければならなくなるし、畑を取られたら耕作面積が少なくなり、経営が成り立たなくなるので、住宅建設に反対した。松戸の共産党は、日農本部や、金ケ作で争議中の全金千葉工業分会国労松戸電車区の労働者等とともに、農民の反対闘争を支援した。しかし住宅公団は農民の納得が得られないままに、警察に守られながらブルドーザーで暴力的に土地の整地を強行した。農民や支援者が逮捕される中を、19605月(5年がかりで)に団地の一部が完成した。この団地建設は、松戸市史さえ「完全な解決を見られないままに賃貸棟が完成し、…」と記述している。それによって松戸の人口は78900人から一挙に99684人に急増した。ちなみにこの団地で最後に完成したE地区には、現在日本共産党副委員長の上田耕一郎が入居し、橋本秀夫が「東大時代の友人だ」と言って上田耕一郎をわが家に連れてきた。以後私は上田と一緒に党活動をした。

217 上田耕一郎は「党内では」柔軟性があり、「新日本婦人の会」の結成が地区の党会議で提起された時、「新しい組織をつくらないで、現在ある『婦人民主クラブ』を拡大強化すべきではないか」と発言した。また第九回原水禁大会への松戸代表の選出にあたり、今まで大会に出席したことのない共産党関係の組織で代表を独占しようとしたとき、党の指導部を抑えて公平な選出に努めるなど、市民活動にも参加して、松戸の人々に親しまれた。

 

Wikiによれば、板橋区「岩の坂事件」は、戦前の私生児処分のための赤ん坊殺し事件で、本文は戦後のことを言っているから時代が合わない。

 

Wikiによれば、「岩の坂もらい子殺し事件」(1930年発覚)

東京の板橋にあった岩の坂地区で貰い子が1年で41人が殺害された疑惑が発覚した。この地区の長屋の住民には、古くから上流階級などの不義の新生児などを貰い、子殺しをしていた者がいたとみられる。容姿の優れた女児と体力のある男児は育て、炭鉱夫や遊女として売ることもあったという[11]。また、わずかな期間で不審な死に方をした新生児も多かった[12]が、犯罪として実証された事例はほとんどなかったようだという[13]

 

 

細胞活動の点検

 

218 19594月に全国的に統一(地方)選挙があり、共産党の地方自治体当選議員は、前回比130名増、総数740名となったのだが、その直後の参院議員選挙では須藤五郎一名しか当選せず、得票数も得票率も減少した。このことに中央委員会はショックを受けたのか、六中総で「選挙戦の結果と当面の中心任務」を決議し、さらに81日付で「党を拡大強化するための全党同志に送る手紙」というものが末端の細胞にまで届けられた。さらにこれに追い打ち的に細胞の点検が行われた。私の所属する松戸居住細胞に、千葉県西部地区委員会から「重大な課題を提起している六中総の決定を実践するに当たって、重要な県、地区、細胞において、それぞれ点検と指導の会議を組織し、…」という通達が来た。

 その内容は、

 

一、大会(第七回大会)の決定とその後の中央委員会の決議にどのように取り組んで来たか。

二、大会決定の実践としての党建設、特に三中総決定の実践によってどのような成果を挙げたか。

三、六中総の決議の実践のために、とくに党拡大についてどのように取り組んで来たか。

 

 以上の内容についての点検を松戸居住細胞が受けることになった。

 

219 195910月上旬、我が家を会場にして、中央から安藤一茂中央委員、宮原関東地方局員、他に県委員2名が参加して点検が行われた。

 前記中央委員会からの手紙に対して返事を出したか、出していないか、これから出すのか、出さないつもりなのかということであった。その時点では一人も出していなかったが、その後4名が出した。なお出すつもりの人もいたが、安藤中央委員は、(松戸居住)細胞が書かないと決議したと受け止めてゴタゴタした。この当時は党の拡大と「アカハタ」読者の増加が至上命令で、割当部数は買い取り制であった。買い取り制にすればそれだけは読者が増えるとの考えであろうが、そう簡単には読者は増えない。結局は細胞負担で買い取り、山積みというのが実情であったようだ。(さながら一般会社の増収目的のパワハラみたいだ)

 

 

16 母親運動と私

 

女性の国際的つながり

 

 単独講和条約を締結し、日米安全保障条約が発効した後は、「安定独立」は名ばかりで、全国の500か所に米軍基地ができ、児童憲章が制定されても、農村や炭鉱地帯での児童の不就学、欠食児童がますます増加し、少女の人身売買、売春などの社会問題が深刻化した。この中で「日本子どもを守る会」や「炭労主婦協議会」が結成された。また高良参院議員が単身ソ連と中国を訪問し、その帰国歓迎報告会に参加した女性団体によって「日本婦人団体連合会」が誕生した。

 その後、「国際民主婦人連盟」から「世界婦人大会」へ招待され、日本代表10名がこれに参加し、三項目の提案「朝鮮戦争即時停止」「原子爆弾、水素爆弾、ナパーム弾、細菌兵器などの製造・使用の禁止」「米英ソ仏中五大国による平和のための話し合い」を行った。その大会では「婦人の権利」「子どもの幸せ」「平和を守るためにはどうしたらよいか」について討議が行われた。代表団は帰路ソ連と中国を見学した。帰国後代表は、都市、農漁村、炭坑など全国各地で報告集会を開き、その結果、「婦団連」(日本婦人団体連合会)、「日本子どもを守る会」、総評の三団体の協力で、1952125日から3日間、「第二回婦人大会」が芝公会堂で開かれた。

221 この大会で、日雇女性労働者の惨苦に満ちた生活の訴え、欠食、長欠児童の増加する炭坑地域の子どもの実情、パンパンをまねて遊ぶ子供の問題、機械化による大量首切り、封建制と闘う女性労働者の問題、自衛隊に入るほか生活の道のない農村の次三男の問題など、日本の女性を取り巻く苦しい状態が浮き彫りにされた。そしてこの大会での話し合いの中から、女性の苦しみの原点は再軍備政策であり、これと闘うためには女性は幅広く団結して統一行動を組み、働く女性を中心に、農村、市民、知識人、学生などを結集し、母と女教師がそれぞれの地域で手を結び、国際的に連帯して闘うことなどを決議した。

 この決議の実践の一つとして、「第三回全国婦人教師研究協議会」が、沖縄をはじめ全国の女教師2000名が参加して、「基本的人権をどう守るか」「平和確保のための実践」について討議し、平和と女性教師解放のための女性教師の使命として、

 

一、日本の子どもを守りましょう

二、お母さんの体を守りましょう

三、憲法を変えないようにしましょう

 

というアッピールを採択した。そして日教組婦人部は母親と連帯して活動家を養成し、各地で「母と女教師の会」を開催した。こうした諸活動を通して、195567日から3日間、「第一回日本母親大会」が開催された。第一日の全体会議は豊島公会堂で開かれ、全国からあらゆる階層、いろいろな世代の母親2000人が集まった。私達付添婦組合は付添婦制度の存亡の危機にあったので、100個のマッチ箱をつくり、支援へのアピールを行った。

 

222 「日本母親大会」直後の195577日から10日まで、スイスのローザンヌで「世界母親大会」が開催され、日本から14名の代表が参加した。後に母親の標語になった「生命を生み出す母親は、生命を育て、生命を守ることを望みます」という標語は、この大会に参加したギリシャ人の詩人ペリデイス夫人の詩である。また同年アメリカのビキニ環礁での水爆実験で、日本のマグロ漁船第五福竜丸が被爆し、原爆マグロ問題がおこり、福竜丸被曝者久保山愛吉が死亡した。この三度目の被爆に接し、「原水爆反対のための世界大会」が開催され、その後毎年夏には母親大会と原水爆禁止世界大会が開かれることになった。

 

 

松戸の母親運動

 

 「日本母親大会」(195567日-9日)から3年後の19587月に「千葉県母親大会」が千葉市で開かれた。松戸市では「(千葉県母親)大会」の直後に「千葉(県)母の会」の河井事務局長を迎えて、約30名で「松戸市母の会準備会」を発足させた。そして同会は日本母親大会、千葉県母親大会、「関東地区母と女教師の会」、教員組合の教研集会等に参加したり、独自に学習をしたりした結果、2年後には会員が150名になった。また「松戸市母の会準備会」は、「千葉県母の会松戸支部」を確立し、「松戸教職員組合婦人部」とともに、「松戸市母と女教師の会」を開催した。さらに1962年に「松戸教職員組合婦人部」と「(松戸市)母の会」が中心となって、「松戸市母親連絡会」(略称母連)を結成した。

223 当時松戸市には市立の保育所が一か所もなく、町の篤志家や宗教者の善意による民間保育所しかなかった。(保育所の)教育も松戸市は千葉県内七市の中で最低だった。(何が最低なのか)「松戸市母の会」は松戸市の先覚的活動を担った。この母親たちは理論家でも女性活動家でもなく、ただ平和と子どもの幸せを願う普通の家庭の主婦であった。

 「千葉県母の会準備会」代表は三枝トシ(松戸市内の小学校で唯一の女性PTA会長)、「母の会松戸支部」初代会長は三好鈴恵、副会長は斉藤孝子、その他の会員は、海老原和子、和田きよし(女性)、高萩、河西、若林、増田、広田、小林すゑ、高橋、石井、古谷、山本(私)等であった。また「手をつなぐ親の会」の利田は、私達(母の会)と「(手をつなぐ)親の会」とを繋いでくれた。以上の人達は千葉県母親大会あるいは日本母親大会に参加し、松戸市の母親運動の生みの親とも言える。(この母親運動は)後に教組の婦人部と結びつき、(母親と女教師との)「母親連絡会」を組織し、婦人部の先生の協力のもとに小中学校の各校に「母親連絡会」を組織し、各学校から二名の理事を選出して、以下の活動(小児麻痺ワクチン獲得運動など)を展開した。この人たちは今でも松戸市で何らかの社会的活動をしている。

 

 メモ ここに出てくる組織を整理すると、次の三つがあるようだ。

 

・母の会

・連絡会 女教師と母の会の結合したもの

・親の会

 

224 私たちの最初の活動は小児麻痺の問題だった。1960年に(おそらく7月下旬、225頁の記述と対応しているようだ)第六回日本母親大会が開催された時、私は初めて小児麻痺が流行していることを知った。同大会の分科会「体の不自由な子どもたち」で、新日本医師会が「小児麻痺をなくすための提案」を行い、千葉母親大会も「小児麻痺から子どもをまもる」と決議した。

 1960年の母親大会の前年1959年に、青森県八戸市の周辺で小児麻痺が集団発生した。政府には十分なワクチンのストックがなく、1人分を30人で使用するようにとのこと。八戸市の医師が新日本医師会と日ソ協会に相談し、日ソ協会がソ連にソークワクチンの提供を求め、ソ連から3万人分のワクチンが八戸市に送られて来たのだが、政府は「検定」能力がないとしてそのワクチンを凍結してしまった。

 一方アメリカからは商業ベースで有効期間すれすれのワクチンを送られてきたが、流行地に無関係に市販された。そこで日ソ協会と新日本医師会、青森県民が協力してソ連製ワクチンの使用許可運動を展開し、使用許可された。

 小児麻痺の集団発生の原因は米軍基地の米兵だったらしい。アメリカでは子どもだけでなく大人も小児麻痺を発病するという。

225 私たちは小児麻痺(の集団発生)について(1960年)7月下旬に初めて知った。924日午前10時に松戸駅前でワクチン配給陳情の署名活動を行った。午前中の2時間で500名の署名が集まった。松戸保健所の坂口所長も私たちの署名活動を激励してくれた。

 927日にその署名簿を持って松戸市役所と保健所に陳情に行った。坂口保険所長は、千葉県衛生課と厚生省への私たちの陳情活動に、保健所の星野保健婦をつけてくれた。厚生省の役人が私たちの陳情を十分聞こうとせず二階に上がろうとしたので、私は声を張り上げて抗議した。すると役人は引き返してきて、「本当はこうした陳情に来てもらうと仕事がやりやすい」などと言い出した。そのとき私たちはワクチン割当の増加まで確約させることができなかったが、私たちのこの陳情は全国で初めての試みだった。

226 また松戸の自衛隊基地官舎の母親も署名活動に協力してくれた。「今までの運動に立場上ついて行けなかったが、署名をやらせてください」と署名簿を持って署名運動に協力した。松戸市で3500名の署名を集めることができた。

 

 

国産生ワク問題での軋轢

 

 その後小児麻痺はますます広い地域に蔓延し、1960101日から29日までの累計で4939名が発病し、うち274名が死亡した。1961318日の時点では(いつからか)、新発病は351名で、前年の301名よりも50名多く、死亡も増えた。

中央では毎日のように厚生省や中央政府にワクチンの「大量反復実施」を迫り、私たちは市役所や市議会に陳情請願を繰り返した。その結果、松戸市は1961524日、25日にソークワクチン注射を行うことになった。生後6か月から1.5歳までの乳幼児を対象としても、希望者1350名に対してワクチンは824名分しかなかった。

227 千葉県では19613月の時点(いつからか)で11名が発病し、1名が死亡した。それから6月までの間に、18名が発病し、2名が死亡した。東京都足立区大谷田町で615日に集団発生した。619日、東京の母親1000名が厚生省に陳情し、1日間交渉した結果、2日後の622日に、厚生省がソ連製生ワクチンボンボンを1000万人分、カナダから液状生ワクチン300万人分を緊急輸入すると発表した。その後私たちはワクチン投与年齢の20歳までの引き上げと無料化運動を行った。

 

 厚生省はこの間に国産ソークワクチンを生産したが、60万人分のうち20万人分しか合格しなかったので、生ワクチンの生産に転換し、ワクチンの種のセービン株を輸入して、投与しようとした。ところが私たちは学習会の中で、新日本医師会の久保全雄博士から、「動物実験と野外実験(少数の人体実験)が必要であり、厚生省は野外実験を無視している、天然痘の予防接種でも少数ながら天然痘が発病するケースがある」ことを知った。

 

228 私達母親連絡会(母親と女教師とで構成)は新日本婦人の会(新婦人の会)にも呼び掛け、2月27日、石橋市長に「学校給食にアメリカの脱脂粉乳使用をやめること」「国産ワクチンの安全性と有効性が確認できるまでは、安全性の確認されているソ連製生ワクチンを投与すること」を陳情した。しかし県の指示で3月末に国産生ワクチン投与が告げられた。私は東京の学習会の情報を入手し、県母連に資料を提供した。

 

 私達母親連絡会の方針は、「投与するか否かは親の選択とし、判断材料を提供し、投与場に医師を配置して予診・監視し、飲んだ日は安静にして消化の良い食べ物を与え、熱や下痢の症状が出たら医師の診察を受けるとともに市役所にも連絡すること」というものであった。

 

229 ところが新婦人の会はソ連製生ワクチン以外は拒否という方針に固執し、共闘は崩れた。母連側は斉藤、児玉、中井、私、新婦人側は小川らであった。共産党の古田市会議員が、母連と市との交渉中止を母連会長代行の私に指示したが、私はそれを拒否して母連の決定事項を市側に確約させた

 私たちは前記の注意事項を掲示し、実施状況を監視した。

 当時私は母連の事務局長で、新婦人の会松戸支部の責任者でもあった。私は新婦人の会から突き上げられた。党員グループ会議では普段煙草を吸っていない人がくわえタバコですごみをきかせて私を責め立てた。新婦人の会は拒否するばかりで傍観するだけだった。

 

230 全国で2199000人が国産生ワクチンを服用し、発病18例、死亡11名、千葉県では船橋市高根団地で投与した1名が発病した。その後、船橋市は「発熱や下痢の後1週間以内や、重症結核や心臓・血管系の患者、病弱者」など7項目の者に対する投与を見合わせるよう注意することになった。

 

 新婦人の会は「創意ある反対運動」と題して三重県新婦人の会が「戸別訪問をして予診した後に国産生ワクチンの投与を勧めた」と宣伝した。松戸の新婦人の会は、私たちの母連が同じこといやもっとていねいにやったことを「反人民的」と攻撃した。

 

 私たちは自分たちの方法がよいか悪いか分からない。私たちは市に以下の陳情を行った。

 

一、国産生ワクチン投与を一時停止し、再検討する。

二、一と矛盾するが、万一事故の起きた場合は国と自治体が責任を持つ。

三、事故の原因を科学的に明らかにするために、服用児全員の副作用の調査をし、効果を判定する。

四、投与年齢を大幅に引き上げ、有効性・安全性の確認されている外国製を使用し、薬の選択は親の自由にさせる。

五、投与を無料にする、ごみその他の糞尿処理など環境衛生をよくする

 

第二回の投与が6月に行われた。各投与場に医師2名が配置された。私達母連は2回目の投与の際にアンケート用はがき3500枚を用意し、投与場で親に渡した。699枚の回答が来た。何人か軽度の下痢、不機嫌、食欲不振があったが、医師にかかった子供はいなかった。

 

 

非難の果てに党除名

 

231 私が(母連に)国産生ワクチンを拒否させなかったとして私に対して党規律違反として査問委員会が開かれたのだが、肝心のワクチンに関することは何も言わず、私の過去のこと、しかも私を批判する当のご本人が提案したことを私がやったのに、それを非難するのだ。つまり、新婦人の会が結成されたころ、党員はその夫人を会員にして新婦人の会の結成に協力したのだが、その夫人たちを出席させるために、「生活物資か何か、行ってよかったと思える手土産が必要である」と某党員が言ったので、私は肉の加工品やニットを割引してもらったり、布団カバーや敷布を調達して配布したりしたのだが、そのことを、「山本は物を安く買って来て歓心を買った」と批判するのだ。また178歳の若造の民青員が私のことを「山本には階級制がない」などと非難・攻撃した。党や新婦人の会は小児麻痺の問題ではただ一回だけ市長交渉をしただけで、何ら大衆的活動をしていない。

232 上田耕一郎が上申書を一緒に出そうという。私は事実経過だけははっきりしておきたかったので党にも新婦人の会にも上申書を出した。

 私は党を除名され、新婦人の会を脱退した。野坂参三は『風雪のあゆみ』の中で私のことを「反党分子として除名された」と書いている。光栄なことだ。

 共産党は「ソ連製生ワクチン以外は拒否せよ」という通達を出していないはずだ。もし出したとしたらそれは乱暴だ。

 除名後数日間は山本のときと同じように深夜に電話をかけて来て寝かせなかった。またその意図は分からないが、二人の女性が、どちらかと言えば保守的な母連の某会員を訪問して「山本は夫と離婚すれば除名しなかった」と言ったり、古田市会議員は保守系議員にまで「山本は除名した。民主主義運動から放り出すのだから相手にしないように」と言って歩いたりしたとのことだ。私の活動の場が党組織ではなく大衆団体だったことは幸せなことだった。

 

 

感想 「反人民的」230「反党分子」232など空語。事実で語れ。

 

 

ゴミ収集の無料化

 

233 私は前記のように1964年に共産党から除名された。少し遡り、1961年に施行された松戸市長選と市議補欠選挙について述べる。敗戦後助役になった石橋余市は、二期目の1957年の市長選では社共両党と地区労の推薦で市長に当選したが、第三期選挙では、共産党は過去4年間の石橋余市の反市民的市政を批判し、社会党と地区労に、革新的候補による革新統一選挙を提案した。

 しかし当時の社会党松戸支部の某実力者は石橋余市と癒着し、真面目な社会党員や地区労の社会党支持者が社会党独自候補の擁立を要求しても無視し、社会党総支部会議や地区労委員会、運営委員会を延期・流会させ、共産党からの申し入れを握りつぶした。そこで共産党松戸市委員会は、独自候補を立てることにした。

 

 市長選は、自民党の川島正次郎派となった石橋余市、自民党の始関伊平代議士をバックにした輸入候補の坪内八郎、それと共産党の海老原喜一郎の三つ巴の闘いとなった。また共産党候補も松戸市住民ではなく、千葉県西部地区委員で我孫子市在住の輸入候補だった。

 

234 この市長選と同時に2名の市会議員の補欠選挙が行われた。この補欠選挙も党勢からみて共産党が勝つ見込みは全くなく、ただ共産党の市政に対する政策の宣伝のためであり、その時の市委員会の中心的活動家の橋本秀夫古田玲子の立候補が当然と私は思ったが、捨て石の選挙には誰も立候補したくないのか、闘病生活をやっと終えて普通の活動に戻ったばかりの私にお鉢が回って来た。私は党員である以上拒否するわけにもいかず、立候補することにした。

 

 立候補するに当たっての私の気がかりは、真冬の1月なので、健康状態であった。10日間の短期間で無事に終わった。私は付添組合の書記に続く入院で、松戸の党とは疎遠だった。その間に党内の雰囲気もすっかり変わり、なじみにくかった。しかし大衆的活動では社会的に恵まれない付添婦と付き合い、闘病生活後は党の基本組織ではなく、幅広い母親の中で活動したので、気軽に市民の中に入っていけた。私は市民の切実な問題を取り上げた。

 

 中心問題はゴミと糞尿問題だった。当時市はゴミ収集のためにコンクリート製又は木製のゴミ箱を各戸に備え付けさせ、さらにゴミ収集料も取っていた。市民税を徴集しておきながらゴミ収集料も取るという不条理や、水洗便所のない時代で、道路も整備されていないため、雨が降り続くと、道路から雨水が流れ込み、便つぼから汚物が溢れ出た。私のこの叫びは効果があったようで、選挙一か月後の三月市議会はゴミ収集料を撤廃すると決め、41日からの実施が発表された。

 

235 選挙得票は、共産党に対する市民の支持の一応の目安と言える。市長は石橋余市が現職の強みか坪内八郎に2000票差で当選、共産党の海老原喜一郎は松戸市民に全く知られていなかったせいか892票だけだった。市議補欠選では2名のところを4名が立候補し、保守系無所属と社会党候補が当選し、私は、総得票数23,233票中の2,857票で、得票率は12%だった。(総得票数が市長選でも同じとすれば、石橋余市12,170 (得票率52%)、坪内八郎10,170 (得票率43%)、海老原喜一郎892票(得票率4%)となる)

 

 この選挙は私にとって愉快でなく後味が悪かった。共産党市長候補の海老原喜一郎が選挙後いくばくもなくスパイ容疑で除名が発表された。市長候補の決定は地区の決定であるが、松戸市委員会から二名の地区委員が出ている。市議補選には中心的活動家は出馬しないで私が押し付けられ、(除名された海老原と)私は行動を共にした。第二は、共産党市長候補の得票に比べて私の得票数が、橋本、古田両氏の予測以上だったらしく、「市長候補との開きがありすぎる」「どうしてかわからない」と、さも取り過ぎたかのような取り扱いをされ、選挙総括もしなかった。第三に、私は松戸での活動に数年間の空白があり、前二回とは違って党内の雰囲気に慣れていなかったためか、早朝の駅前での出勤市民へのアピールを一人でしなければならなかった。渡辺という青年が車の運転をしてくれたが、私の駅頭演説の後に話してくれる人がなくて息つく暇もなく叫び続けねばならなかった。

236 最後にもう一つ、共産党だから資金が乏しいことは分かっていたが、終盤戦にガソリン代がないから車は使わないと宣告された。渡辺青年は仕事を休んで車を運転してくれるというのに。(夫の)山本が、風早、堀江、守屋や、青木書店社長その他付添婦組合時代の同僚の書記からカンパを集めて来て車を動かすことができた。あの選挙は何だったのか。10日間叫び続けた結果、ゴミ収集料が無料化されたことでよしとするか。

 

 

 

17 共産主義者と人間性

 

感想 共産主義という時代の「先進性」を若くして我が物にしたことが、橋本菊代の人生で度々受ける悪意を乗り越えていく上での支えとなったのではないか。当時共産主義は時代の先端であった。また橋本菊代はエネルギッシュで豪胆な人だ。このことは一般に共産主義者について言えるのではないか。橋本菊代だけでなく、丹野セツ、西村桜東洋、寺尾(若松、清家、田岡)齢、原菊枝など皆豪胆でエネルギッシュな人たちだ。もちろん伊藤千代子のように聡明だが繊細な人もいたが。

 

 

教組婦人部との接触

 

237 私は50年問題で苦い経験をしたが、1958年に母親運動に参加するまでは、共産党やその同調者の中だけで活動していて、いわばぬるま湯の中にいた。

 ところが母親運動は、思想、信条、宗教、階級的立場などが様々で、ただ平和と子どもの幸せだけを願うという共通の一点で集まる集団だった。私は「母の会」第二回総会で規約が改正されて副会長が二名となった時に選挙で副会長に選ばれ、それを素直に受けたのだが、三好会長(「母の会松戸支部」初代会長三好鈴恵223)から「当然辞退してくれるものと思っていた」と言われて冷や水を浴びせられた気分だった。(共産党員だから辞退せよということらしい)

 

 その後(1962222)母親運動が「母の会」から「母親連絡会」に発展し、私はその事務局長に推薦された。当時松戸市には私立保育園が存在せず、子どもを九州の実家に預けて休暇のときだけ子どもに会いに行く教師もいると聞き、教組婦人部と共同で市議会に「保育所設置の請願」をすることになったのだが、その請願書を提出する直前になって親組合の松戸教組委員長から「(共産党員の私との)共同請願はまかりならぬ」と言われた。(教組の)婦人部長が謝りに来た。ストップをかけた教組委員長は進歩的な校長と言われた人だったのだが。

 

238 婦人部の先生の中にも組合活動には熱心でも共産党は大嫌いという人もいた。気苦労だった。私は共産党が理解されるためには行動で信頼を得ることだと考えて努力した。

 後日談だが、この時(1962年)から8、9年後(19714月~1974年、251)、私が夫の仕事の関係でソビエトのボルゴグラードに滞在中に婦人部の先生から手紙があり、松戸の保育所について「山本さんの努力の結果だ」とあり、嬉しかった。この時の感激は終生忘れられない。

 

組織のエゴに困惑

 

 既述の通り、私は全看労での女性党員とのあつれきでうんざりしていたので、母親運動ではその轍を踏まないように気を付けていたのだが、また巻き込まれてしまった。母親運動の対市、対市議会交渉の請願では、共産党市議会議員を紹介者にすることは戦術上から得策でなく、また(会員の)思想信条もまちまちだから、私は市長交渉では議員の紹介を経ずに、単に組織の代表として直接交渉した。ところが共産党の古田玲子議員から「なぜ私を使わないのか」と抗議された。また「母と女教師のつどい」に女性議員を招待した集会で、古田議員が最前列に着席していたので、私は古田が討議の内容を分かっているものと思って、小金小学校附属幼稚園の希望者オーバーの問題について報告しなかったのだが、「報告してくれないから知らなかった」と細胞会議で叱られた。

 

 また私が古田議員を誹謗したという問題が起った。278年前(1965年)は飛行機旅行は高根の花という時代だったが、母連の人達の間で「市会議員は視察旅行で行きは寝台つきの一等車、帰りは飛行機である。私たちの陳情には予算がないと言っておきながら、視察旅行で飛行機を使うというのは、金の問題より議員の姿勢の問題だ」と話題になった。その直後私が某新婦人の会会員宅へ行ったところ、「市会議員の視察旅行は大名旅行だが、古田さんは『いやがらせのためについて行く』と言っておられた」と言われたのに対して、私が「この問題では母連でもみんな怒っていた」と言ったところ、それが「共産党員(古田)に対する誹謗だ」とされ、「新婦人の会に混乱を持ち込み、更に動揺を与えた」として非難された。しかもこれと同じころ県議会議員の視察に対しては共産党県委員会は「大名旅行をしている」と非難声明を出しているのである。共産党にはこのころ県議会議員はいなかった。共産党には他の組織や人の場合は悪いことでも、身内の場合はかばうという、世間一般とはちょっと違うところがあった。

 

240 味方をかばうことで私が一番腹立たしかったのは女性に対する考え方であった。市会議員のK氏が私に「僕もいずれ結婚しなければならないと思う。その時はよろしく」と言った。私はK氏にすでに二回女性を紹介していた。ところがその日の午後、党の西部地区委員が私に「Kは結婚するそうだが、Fちゃんとの関係は解決したのだろうね」と言う。私は当時市委員長をしていたので事実関係を調べた。K氏はK氏と同じ全日自労のFさんと10年以上実質的に結婚していて、それは市議会でも公然化しているのだが、今度共産党中央委員のS氏の紹介で、「アカハタ」経営局勤務の女性との結婚が決まり、Fさんには式の日取りが決まってから話し、一晩話し合ったが喧嘩別れになり、Fさんは党を離れたということが分かった。Fさんは再婚で娘がいて、二人の子どもを抱えている妹もいる。家族の大黒柱である。(一人親か)このような複雑な家庭人よりも中央委員か紹介する若い女性の方が世間的には条件がよい。しかし10年間も実質的に結婚しておきながら、抜き打ち的にはいさようならではあまりにひどい。女性の人格を無視した封建社会と何ら変わらない。

 そしてこの結婚式は市会議員の結婚式ということで、旧徳川邸跡の会場で園遊会形式で挙行された。後日共産党員のモラルの問題に関する会議が開かれたのだが、古田玲子は「三角関係の場合は誰かは不幸になるのだから、この場合市議のK氏の幸福を考えればよいのだ」とし、篠原は「Fは他の者には言わない約束をしておきながら、他言した。これは裏切りだ」と言った。これが自分こそ松戸の共産党を背負っていると自負している人たちの発言だった。(運動をしていると、こういう問題は頻繁に起るのだろうな)

 

松戸市の教育闘争

 

241 私は教職員組合の教研集会に1959年ころから参加し始めた。「父母との結びつき」分科会の助言者が教育学者の海老原治善で、彼からその後松戸市の教育問題で指導を受けた。

 松戸市の教育問題で私たちが最初に取り上げたことは、市が「予算がない」として私立幼稚園の二年保育を一年保育に縮小するという、時代に逆行した問題であった。調べてみると松戸市の教育予算は千葉県8市(千葉、船橋、市川、松戸、習志野、銚子、柏、野田)中で、総予算に対する比率、市民一人当たり、児童・生徒一人当たり(の予算額)が最低で、教組の調査では敗戦後全く改善されず、学校教育法が施行されてから123年になるのに、高等学校は旧制高等女学校一校しかなく、やむを得ず東京都内に寄留して東京都民を装って都立高校に越境入学せざるを得なかった。既述の通り、私の娘もそうだった。また学校の設備も不十分で、中学校卒業時の記念品として講堂の椅子の寄贈を学校側から要請されるなどの行政の肩代わりが当然視されていた。

 

 60年安保闘争の際に単独強行採決した岸内閣の後を受けた池田内閣は、独占資本の要望を担って全国一斉学力テストを実施した。この闘いの中で私たちは海老原先生を中心に、教組、市民団体等と協力して「松戸市教育白書」をつくり、1962年の「母と女教師の会」の討議資料とした。話し合いの結果、教育予算増額の署名運動を行い、2122名の署名簿を教育費増額の趣意書と共に市議会に請願した。

 

242 その頃の市会議員は「俺たちのやっていることに口を出すな」と言って、紹介議員になることを拒否する者もいた。それでも私たち母連は問題があるごとに保守系議員に説明して請願・陳情を行い、アメリカ製脱脂紛乳を全乳に換えさせた。私たちは年一回の母親大会の他に、最低年二、三回は教育問題の学習会を開いた。海老原先生から教育に熱心な先生方を紹介してもらった。松戸には藤田恭平鈴木喜代春などの先進的な講師もいた。

 

 このころ教師の給料は地域の等級によって異なり、旧松戸地域は二級地で、同じ松戸市でも小金地区は三級地で、小金に転勤すると左遷と思われた。「給料の差をなくしてください」と小金地区の母親が教研集会で訴えた。私たちは直ちに給料と期末手当の差額分を市が補填するように市役所に陳情し、その後解消した。

 

 

仲良し学級でよかったのか

 

243 一人のダウン症の児童の入学を契機に、南部小学校に「仲よし学級」が開設された。それは親の要望であったが、今考えると差別ではなかったかと考える。当時はそういう子どもがいると恥のように思って家に閉じ込めておく家庭もあり、そういう子どもを学校に入れるように勧めることが大きな仕事と考えていたのだが。

 

当時「仲よし学級」の運営費が市から出ないので、学級の子どもたちが雑巾を縫い、それを売って学級費に充てていたので、校長と(当該)学級の母親、私達母の会で相談した。その時中学にも作って欲しいという要望が出た。

 日本母親大会や松戸母親大会でも「身体の不自由な子ども、知恵の遅れている子ども」の分科会があった。中学校でも「仲よし学級」が開設された。

 

 しかしそれは差別ではなかったか。母親たちは「大勢の中でお客様扱いされるよりものびのびと能力に応じた教育」を望んでいたのだが。

 

 

保育所づくり

 

244 松戸市の人口は敗戦時に43000人だったが、1955年の首都圏整備法の施行によって、東京都内の労働者のベッドタウンとしての公団住宅が造成され、周辺に住宅が急増した。働く女性も、保育所があれば働きたい女性も増加した。

 

 私は「関東地区母と女教師の会」や「母親大会」で、「保育所づくり」の分科会に出席した。「新しい時代の人間作りのための、乳幼児の時からの集団での社会生活と自立的な生活訓練の必要性」が強調された。前述の通り、私は教組婦人部との保育所設置のための共同請願には失敗していた237ので、今度は全市の労組と提携した。つまり地区労を中心にして陳情・請願を重ね、ようやく市立保育園第一号が196351日に開所した。ところが三鷹市の方針「保育所は預けるのに便利な場所が第一条件」に反し、松戸市の保育所は国鉄・私鉄ともに不便な低地にあった。また三鷹市では原則的に競輪・競馬の収益金を福祉に回し、そのほとんどは保育所に回していたが、松戸市ではどうだったのか。

245 196351819日に甲府市で「関東地区母と女教師の会」が開かれたが、その中で甲府市は人口12万人だが、保育所が20か所あり、幼児1200名を収容し、さらに民間保育所が1か所あり、それに年間10万円を補助金として助成していた。

 一方松戸市の当時の人口は甲府より若干多い13万人だったが、保育所数は7か所で、その内訳は公立は1か所だけで、あとは宗教家や篤志家の善意に頼っていて、しかも補助金はなかった。私たちの要請で市長の交際費から1000円助成されるようになった。民間保育所は幼児の85%を受け入れていた。

 

 松戸市における保育所設立運動の歴史 1962103900名の署名を持って市議会に請願して以降、毎年12回市議会に請願を続け、さらに市長や市議会の関係委員会にも、市立保育所の新設、民間保育所拡充のための助成、保母の研究費の助成等を要求した。

 

246 松戸市母親大会では保育所長から助言を依頼し、1年に1か所の保育所の新設と民間保育所への「法外援助」を要求した。19644から、民間保育所への助成金を1000円から処置児一人につき100円の「法外援助」を実現した。また個人または無認可保育所に預けている人には保育手当を支給するという要求では、所得税納税額8万円未満の人に補助金を支給することに成功した。民間保育所への補助金も一人につき100円から200円に増額した。

 松本清市長は「すぐやる課」を設置し、19713月に陳情した時には大見得を切った。私はその直後夫の仕事先のソビエトのボルゴグラードへ約1年間滞在予定(1971年、1972年)で出発したが、延期して3年後に帰国したのだが、19635には1か所だった市立保育所が24か所になり、民間も6か所が20か所に増え、4555名の乳幼児を収容できるようになっていた。ここまでに10数年かかった。今は満杯にするのに苦労しているという。

 

247 高校増設 敗戦後松戸市には旧制高等女学校が1校しかなかったが、市会や県会に陳情・請願を重ね、松戸市が助成金1000万円を出して開校した高校は、千葉県選出代議士川島正次郎が校長の、専修大学付属高校で、生徒のほとんどは東京からの入学者で、松戸の中学生は東京都に寄留して東京の高校に通った。しかも最低1学期間は通学定期が買えず、親の負担も大変だった。松戸市に県立高校の第二号ができたのは学校教育法が制定されてから18年後の1965だった。

 

 

日本母親連絡会の裏と表

 

 母親運動は「核戦争の危機から子どもの生命を守る幅広い運動体」とされていたが、内部は分裂していた。私は千葉県母連の木村事務局長の代理となり、中央の実行委員会に出席してそのことを知った。

 核実験反対そのものには異論はないが、「如何なる核実験にも反対」する立場と、「平和を守るためには、平和の敵を明らかにし、核実験でも平和を破壊する核事件と平和を守る核実験とを区別すべきだ」という考え方が対立した。後に部分核実験停止*でも意見が対立した。また母親大会開催地や会場の問題、人事問題でも対立した。

 

*部分的核実験禁止条約 キューバ危機1962後の1963年に米ソ英の3国で取り決められた。「部分」とは地下核実験は停止しないという意味である。仏中など10数か国は後進核開発国の核開発を抑制するものと受け取り、調印しなかった。

 

248 また第12回(母親)大会に備える実行委員会で、山家事務局長が「息子が突然箸も持てなくなったので、1年間事務局長を辞めさせてもらいたい」と申し出たところ、辞任を認める立場と、「後任人事が大変なので、バックアップするから辞めないでもらいたい」という意見(新日本婦人の会)とが対立し、日教組が「後任事務局長を出してもよい」と言ったところ、それは「組織乗っ取りだ」とする意見が出て紛糾した。結局、総評と日本婦人の会が不参加のまま、第12回母親大会が開催された。大会後反省会議が開かれ、

 

「母親連絡会は…複雑な情勢と、運動の進展に伴って、例えば事実経過の中の(進行中の)ソ連の核実験や部分核実験停止などの問題で、所属政党のイデオロギーを持ち込んでそれを押し付け、党勢拡大や組織拡大の場にされる傾向があったが、今後は統一して運動の前進に取り組む」

 

と確認されたのだが、

249 すでに「体質的」問題になっており、15回大会も分裂し、総評、日本婦人の会、婦人民主クラブ*が参加せず、母親運動は分裂した。

 

*婦人民主クラブ 主流派1946(佐多稲子)、共産党系1970、中核派系(西田綾子)1984、平田派2010などに分裂した。

 

 

母親運動への党の介入

 

 松戸市では、指導的立場にある女性共産党員は、もともと母親大会には関心がないと公然と言っていて、(私が)共産党の細胞会議で「母と女教師の会」や後には「母親大会」への参加を呼び掛け、また「新婦人の会」にも母連への加入を勧めても、「(母連の)規約を検討してから」とか、「(党の母連への)影響力の存否」とか言って加入しなかったのだが、母親大会への参加者が400人になると、新婦人の会が(母連への)団体加入を申し込んで来た。しかし母連の人達は小児麻痺生ワクチン投与問題で、共産党からデマや中傷による組織攪乱工作を受けていたので、新婦人の会に自己批判を要求した。ところがその時に当時者だった人が、とぼけて「そんな過去のことは知らない」というので、教組婦人部は団体加盟を断った。(こうなるともうだめだね)

250 その後も(新婦人の会は)教組婦人部大会、千葉県母親大会、千葉県母親連絡会常任委員会などに団体加入を要求した。(ある時)母連総会の前に岩田会長が辞任を申し出て、それに対して理事会が慰留したが、辞意が固かったので、後任会長に斉藤孝子を内定して総会を開いたが、突然岩田が「もう一年やってもいい」と言い出した。そして会員でもない新婦人の会の人が入っていて、「岩田は無理やり辞めさせられた」と言った。それに対して岩田の発言を求めると、岩田も当初の辞任の意向を認め、信任投票で会長に斉藤孝子、事務局長に山本が決定された。斉藤孝子は元は千葉県の新婦人の会の呼びかけ人で、新婦人松戸支部結成にあたり、党の会議で上田耕一郎が斉藤孝子を支部長に推したが、古田玲子は未経験の女性を推した。また斉藤孝子は小児麻痺生ワクチン問題の時の母連の会長で、その時新婦人の会から非難・攻撃を受け、新婦人の会から脱会していた。おそらく新婦人の会では斉藤会長案や山本事務局長案には反対だったのだろう。

 

251 それから2年後19714月に私はソビエトに行き、3年後1974年に帰国したのだが、帰国直後に松戸市長選があり、母連と新婦人の会会員で、共産党の古田玲子が理事長をしている保育所の園長が、保育所園長の肩書ではなく、「松戸市母親連絡会会長」の肩書を詐称して市長選挙に立候補した。(橋本菊代が不在の間に新婦人の会は母連にもぐりこんでいたということか)

 

*ブログ「小松実のひとりごと」2017120日によれば、古田玲子に関して、「日本共産党元千葉県議の古田玲子が亡くなられた。享年87歳。(1930年生だから戦後派)古田玲子は松戸の市議を2期、その後千葉県議を4期務めた。私(小松実)は古田玲子の4期目に初当選し、14年間古田玲子と県議を共にした。古田玲子は県議会でヤジを飛ばして議場を沸かせた。県議引退後は高齢者福祉施設を運営し、エネルギッシュだった。

 

 

交通事故から歩道橋を

 

 196457日、登校中の学童が松戸二ツ木の国道の、信号のない横断歩道で、みどりのおじさんの合図を無視した車にはねられ重傷を負った。母連は理事会を急遽開き、15日に、事故現場だけでなく馬橋、相模台、第二中学校脇など交通量の多い国道に歩道橋を設置するように、またみどりのあばさんを配置するように市に陳情し、事故現場の二ツ木には信号をつけさせた。歩道橋は市役所から建設省に陳情して2年後に建設されたが、このとき地下道には思いつかなかった。

 

日曜診療のさきがけ

 

252 1968年に常盤平で小学4年の女児が休日に発病し、何軒かの医師を訪ねたが応じてもらえず死亡した。新住民は医者とのつながりが薄い。私たちは「日曜・休日の当直医制」を創設してもらうために、事件後直ちに署名活動を開始した。2700名の署名が集まり、市に陳情した。

 なかなか実現しなかった。隣の市川市でも日曜に急患が出て、診察を受けられないままに死亡した。市川市はこの事件を契機に「日曜当番医制」を創設した。また柏市、野田市ではすでに実施していて、船橋市では市から医師会に150万円の補助をしていた。私たちがさっそく松戸医師会に要望したところ、「市の補助があればできる」(がめつい医者)とのことで、その確認をもって市に何回か陳情した。事件から1年数か月後の1969101日から日曜当番医が実施された。これが現在の松戸市衛生会館内の夜間・日曜・休日診察の始まりである。

 

253 1970年頃霞ヶ浦や、静岡県の駿河湾における製紙工場によるヘドロが問題になった。松戸でも工場排水による汚染により、坂川という小川に魚がいなくなった。私たちは水の汚染問題を母親大会で取り上げることにして、東大の宇井純(現在沖縄大学教授)に助言者を依頼したところ、中西準子(現在東大助教授)を紹介してもらった。

 中西準子は松戸に来て、糞尿処理場からの流水路、工場廃水路と(糞尿)処理場からの流水路が合流する坂川を、江戸川への流入口まで視察した。これには松戸市役所の担当者、母連の斎藤会長と私が同道した。江戸川への流入口近くではヘドロとなり、ガスが泡を立てていた。この下検分に基いて中西から助言してもらって勉強したが、当時は水問題に対する認識が浅く、継続できず、また私が大会後にソビエトに3年間行ったため、一回だけの勉強会で終わってしまった。

 

義理の娘、ビクトリアとの出会い。

 

私は1964に共産党を除名されたので、大衆団体での活動だけでは政治的に無期律になるのを恐れた。同年19645に国会に部分核禁止条約が国会に上程されたとき、志賀、鈴木の両氏は、共産党の方針に反して(その条約の批准案に)賛成し、共産党から除名され、「日本のこえ同志会」(以下「こえ」)を結成した。私はこの「日本のこえ」に参加した。山本はすでに「社会主義革新運動」(以下「社革」)に参加していた。後に「こえ」と「社革」との統一問題が起こり、志賀は「こえ」を守り、いいだももは「こえ」を出て「社革」と統一し、「共産主義労働者党」(共労党)を結成した。その時私も「こえ」を出て、「共労党」に参加した。

 

私が「こえ」に在籍した期間は短かったが、その短期間の間に志賀多恵子に勧められて「第二回平和と友好のためのハバロフスクの集い」に「こえ」の代表として参加した。「こえ」からは久米茂、谷川正太郎、平木登美子と私の4人が参加した。私は社会主義国に行けると思い嬉しかった。出発前の結団式で平木登美子の推薦で私が「ハバロフスクの集い」で日本の女性運動の現状を報告することになった。

ハバロフスクでの全会議が終了したとき、米帝と戦っているベトナム(ベトナム戦争1955.11.1(諸説あり)—1975.4.30、米軍が参戦したのは196482日)の人達への激励文を共同作製した。

 

255 「集い」の終了後、ハバロフスクの保育園を見学した。夕飯も給食で、母親は仕事を終えた後に映画を見てから子どもを迎えに来る人もいるらしい。その後モスクワとレニングラード訪問した。モスクワのレーニン廟前の赤の広場はゴミ一つなく、ゴミを拾っている人がいる。

 

 夫の山本は1932年に日本に革命運動をするためにソビエトから帰国したのだが、その時ロシア女性との間に生まれて間もない娘ビクトリアを置いてきた。山本は「ソ連だから心配ない」と言っていた。守屋典郎が訪ソしたときビクトリアを探したが、分からなかった。私は山本のプロフィンテルンでの友人である、ルキヤノワ女史とトペーパ氏の名前と、ビクトリアの祖母の住所をメモしてから訪ソしていた。ハバロフスクの集いにトペーパも参加していて、私はトペーパに会った。トペーパは「妻に探させる」と約束した。

 モスクワとレニングラードの訪問を終え、翌々日は帰国という時の別れの交流会にトペーパ夫妻が見えて、ビクトリアの所在が分かり、翌日は労働日ということで、すぐ出かけることになった。モスクワの町はずれの静かで淋しい所にビクトリアは住んでいた。(これはいつごろのことか。1964年以降だろうが、259頁によれば1968年だったようだ。)

 

256 ビクトリアは「13歳の時に母を亡くして孤児になった。モスクワの外国語大学英語科を卒業し、某研究所で英語関係の仕事をしている。結婚して5歳の男児がいる。父親(山本正美)の消息を共産党に照会したが、分からなかった」と言う。トペーパに「ビクトリアに何かお土産は」と言われ、私は用意してなかったので、私のつけているネックレスを渡した。

 

 

生涯闘いに徹す

 

 松戸の母親運動は特定のイデオロギーを持ち込むことがなく、母親は具体的要求に基いて自主的に運営した。そして、松戸市の婦人会館開館記念行事での福祉問題分科会関係者と、かつての母親運動の活動家とが、「高齢者を枯れ木とみなす非人間的保守的政治」を、「人間が人間として生きられる社会」にするために、「松戸市の福祉を考える会」を10年前の1982年に立ち上げ、私もその一員になった。

 

 (その2年前の)1980128、東京渋谷山手教会で「戦争を許さない女たちの会」の集会があった。この集会の目的・背景は以下の通りである。

 社会党が提出した大平内閣不信任案が賛成多数で可決されたとき、大平内閣は選挙史上かつてない衆参同時ダブル選挙を行って圧勝した。(大平は選挙中に死亡)選挙後の鈴木善幸内閣1980/7/17—1982/11/27には、軍人上がりの中曽根康弘や右翼の奥野誠亮が入閣し、平和憲法改憲論が浮上し、815日には鈴木首相をはじめ大勢の閣僚が靖国神社を参拝した。また自衛隊と米軍との合同演習や、1981年の国防費を前年度の9.8%増とするなど、にわかに軍国主義化したことに対する女性の抗議・反対のための集会であった。

 松戸でも東京の女たちに倣い、確か19818月の敗戦記念日に「戦争を許さない松戸の女たち」の集会を開いた。軍国化はさらに進み、教育でも高校の教科書に自衛隊は違憲ではないと書かせ、元米駐日大使ライシャワーは「米国の日本への核持ち込みは了解済みである」と発言したことなどを踏まえて、1982年から、女だけでなく老若男女こぞった「戦争を許さない市民の会」に発展し、今日にいたっている。この会は多い時で年3回開いた。

 

258 1990年の湾岸戦争では自衛隊派遣反対の集会とデモを組織した。

 

 19899月、天皇裕仁が発病し、市役所の「病気快癒祈願記帳所」に反対し、市民の監査請求運動を組織し、千葉地裁・東京高裁へ告訴・公訴し、19914月、最高裁へ上告し、日本社会の矛盾と抑圧、差別の根源である天皇制に正面から反対した。

 

 私は前述の通り「日本のこえ」を出て、「共産主義労働者党」の結成に参加したが、その後この党の武力闘争傾向に一致できず、内藤知周、長谷川浩、松江澄、原全吾ら旧「社会主義革新運動」(254、山本正美が当初参加していた団体)の人達とともに、(「共産主義労働者党」の)第三回大会の時に脱党し、その後これらの人達と、「社会変革の基盤は労働者階級であり、労働運動の強化が必要である」との観点から「労働運動研究所」が創設され、私もこれに参加した。

 

 

付 ボルゴグラードの日々

 

65歳の新婚生活

 

259 197010月ころ、山本が三井物産ソ連東欧室の「対ソ技術交流三井会」の担当者だったことから、ソ連行きの話(誘い)があり、家族も同伴できるという。日本の科学技術をソビエトに輸出し、ボルゴグラード市に工場を建設する。その建設現場の通訳としての招待だった。一番乗り気になったのは娘の光子だったが、ソ連では娘でも24才になると家族とは認められず、私だけが山本に同行した。

 私は当時母親連絡会の事務局長をしていた。責任放棄であり迷ったが、社会主義国での生活の魅力にひかれ、母連の了解を得て行くことにした。

 山本は197011月の第一陣で出発した。私は1年間の予定(結果的に3年間になったが)で1971422日、第一陣の家族と、後陣の技術者や通訳と出発した。途中モスクワに1泊し、3年ぶりに片山潜の娘の片山やすと再開(1968年に会っていた。ハバロフスクの集いは1964年以降だが、1968年だったのかもしれない)した。ボルゴグラードはボルガ河のほとりにあり、工場や宿舎はさらに下流にある。

260 宿舎は日本人のために新築したというホテルで、目の前にボルガ河が見えて快適だった。寝室と居間兼食堂の二間で、備品は、食器戸棚、食器一そろい、テレビ、デスク、姿見、冷蔵庫、衣服戸棚が揃っていて、65歳で新婚生活気分を味わった。ただ炊事場と浴室・便所が一緒には驚いた。

 夫たちは朝バスが迎えに来て、夕方送られてくる。実働8時間、週5日制、昼食は職場の食堂。私の仕事は夫婦二人の炊事と衣類の洗濯だけで、部屋の掃除は毎日掃除婦がしてくれ、寝具類のカバーは週二回取り替えてくれる。私は社会運動に入ってはじめてゆっくりくつろいだ。

 給料はルーブルで、普通の生活に事欠かなかった。生涯を通じて時間的にも経済的にも一番恵まれた生活だった。

 ボルゴグラードは第二次大戦のときナチスドイツと戦った「スターリングラード攻防戦」で有名で、ブレジネフ時代にスターリングラード1925--1961からボルゴグラードに改名された。「攻防戦」と言われるように、一つの拠点が朝奪われたら、夕方までには取り返し、一日のうちに占領と奪還を何回も繰り返したという。その闘いを記念する丘ママエブが町続きにある。何回か行ったが、いつも大勢の人が来ていた。

261 丘に入ると当時の戦況を伝える生放送が流れてくる。丘の中腹に戦争関連の銅像が沢山ある。倒れる戦友を抱きかかえる像、手榴弾を持って敵陣に入る兵、従軍看護婦の像など。池のほとりにある赤旗で包まれた戦死した我が子を抱きかかえて泣き悲しむ母の像(悲しみの母)を見て涙がとまらなかった。天皇制軍国主義の日本では息子を失っても涙さえ出させなかった。天皇制軍国主義の日本の母はあまりにも残酷である。

 

 私達妻は最終的に10名になった。子供は13名。日本の責任者に要望してホテルの1室を解放してもらって積み木、滑り台、玩具をそろえてもらった。幼稚園に入りたいという声があり、交渉してもらったが、ソ連の働いている親の子でも全員が入園できないので、日本の母親は働いていないのだから我慢してくれとのこと。しかし入園の希望は捨てきれず、「ソビエト婦人」誌の日本人記者の赤沼が来訪した時に工場側に話してもらい、何人かが入った。大企業は幼稚園を建設している。幼稚園では毎日ではないが、シャワーを浴びて帰ることがあったようだ。

 

 

仲間づきあい

 

262 私たちが子どもの生活や家庭生活、学校、工場などの見学を申し込んだところ、幼稚園、8年生の学校、医科大学、工場などの見学ができることになった。工場はパン工場で、休暇や保養所の利用などでは、一番労働がきつい部署の人を優先するとのことであった。家庭の見学では、午後に夫たちに子どもの世話を任せて出かけたが、迎える家庭では職場から帰ったばかりだった。きれいに整頓され、服装よりも家具や備品の方が整っていた。立派な食器や食器棚は、良い品が店頭に並ぶのを待っていてそれまでに貯金しておいて買うのだそうだ。部屋の天井が高い。窓にかかったレースと布のカーテンが美しかった。

 日本の中学校に当たる学校を見学した。理科の授業では各机に実験器具が備わっていて、生徒は各机で実験していた。しかし低学年では二部授業だった。児童数の急増のせいかもしれない。学校給食は何種類かのメニューがあってそれから選べる。教職員は副食物の半製品を買って帰るとのこと。

263 山本のハバロフスク滞在時の知り合いがボルゴグラードで国際関係の仕事をしていて、そのお宅に招待されたり、私どものホテルに招待したりした。その家庭には10歳の少年がいて、ピオネール(10歳~15歳の共産主義少年・少女団pionjer)の赤いネッカチーフにアイロンをかけていた。両家族で観劇後夕食を共にしたこともあった。

 肉類の値段は日本の1/10くらいで量が多かった。現在ロシアでは肉が一週間に一度しか食べられない状況が報道されているが、淋しい限りだ。

264 ロシア料理を習ったが、今でも役立っている。

私達婦人部は休日にヒムコンビナート*の婦人委員会の人達と何度も交流し、女性の政治・経済的地位、母性保護、家庭生活での女性の地位などについて話し合ったが、その中の話で、彼女たちの親世代が反革命軍と闘ったと誇りを持って話し、「スターリングラードの攻防戦では、敗走するドイツ軍を男たちがドイツまで追撃する間に、女たちは町の修復を担って工場労働にも携わり、その事が女性の地位を高め、女性は解放された。法律や政令で女性の地位が高められても、実際に闘わなければ本物でない」と教えてくれた。

 

 ボルゴグラードで夫以外に通訳をしていた人を紹介しよう。一人は子ども時代に日本で過ごし、両親と樺太に行き、そこで敗戦を迎え、その後ハバロフスク市に移住し、モスクワの大学を卒業し、通訳としてボルゴグラード市のヒムコンビナート工場で勤務していた。おじさん(朝鮮人?)は北海道で治安維持法で検挙された。日本の軍事警察的天皇制は私達に言語を絶する拷問を加えたが、朝鮮人にはさらに残虐だった。おじさんは消息不明のままとのことだった

265 もう一人は満鉄従業員で、敗戦後日本に戻って日本語を知らない妻や子どもに苦労を掛けるより、白系ロシア人の入国を認めた妻の祖国ソビエトに骨をうずめるべく、タジク共和国かで通訳してから、ボルゴグラードのヒムコンビナート工場の建設現場での通訳としてやって来た。

 

社会主義再生への期待

 

 私がソ連から帰国した時既に結成されていた労働者党に入党した。1981年に労働者党は建設者同盟と組織統一し、統一労働者党と名称を変更したが、その後国際共産主義運動についての意見の相違で、若干脱党者が出た。ソビエトではゴルバチョフが人間を土台とした社会主義を目指してペレストロイカを進めたが、ソ連邦は崩壊した。今旧ソ連の共和国は全く混迷している。

 

266 私はソビエトの社会主義に魅せられて、「日本にも社会主義社会を、日本共産党こそが労働者・農民を解放する」と、社会主義社会の建設を信じて疑わず、そのために牢獄生活も貧乏生活も苦にせず、人民に奉仕することと共産党を人民の間に拡大することとは一体であると信じて疑わなかった。ところが私は理由のない理由で共産党を除名され、それまで信じていた一枚岩思想が、実は党指導層の官僚主義的統制であったと知った。また日本共産党にしがみつかなくても共産主義運動の道があることも知った。

 さらにボルゴグラードでの女性との話し合いの中で、女性が実際に闘わなければ真の女性の解放は得られないということを学んだ。1917年の革命で女性が完全に解放されたという私の認識は皮相的だったことを知った。法律で上から与えられただけでは社会主義国でもまだ本物ではないことも知った。この教訓がなければ、1991年の「八月政変」によるソビエト社会主義共和国連邦の崩壊によって私は今まで命がけで活動したことが無駄であったと意気消沈していたかもしれない。確かに淋しいし、官僚主義的だったとはいえ、当時のソビエト国民はぬるま湯の生活だったのではないか。今寒いロシアで食料も燃料も乏しいという。ハバロフスクでは燃料不足で死者が出たという。旧ソ連の人々はこの苦しい生活の中からの脱出の道を自ら探り、労働者・農民、その他の勤労者の社会を創造してもらいたい。ソ連・東欧を反面教師にして日本の社会主義の道を探ることが私たちの課題である。

 


 

あとがき

 

268 1980年代の初めに「統一労働者党」婦人部の学習会で勧められ、統一労働者党の機関紙「労働者」109号から155号までに戦前の足跡を、戦後の足跡は「労働運動研究」誌209号から248号まで、計37回連載し、それを本書にまとめた。

 戦前の部は、軍事警察的天皇制の下での厳しい弾圧の中で、汗みどろ血みどろとなって闘った同志達は今ではほとんど故人となったが、それら同志への手向けとして書いた。

 戦後の部は、封建的な松戸市で民主化への一歩を踏み出した人々、反戦平和運動を進めて来た日本人民、子どもの幸せと平和のために必死に活動した母親たちへの思いで綴った。

 夜間診療は母親の一年がかりの運動でやっと実現させた。このような松戸市における歴史的足跡を当時の機関紙やその他の資料に基づいてまとめた。

 

269 ところで1979年「千葉県母親運動二十年のあゆみ」が出版され、そこには母親運動だけでなく全県下の運動が記されているが、松戸市の運動についてはわずかに小児麻痺予防ワクチン投与に関する署名活動の一部と、1977年の母親大会の開催が記載されているだけである。市川市同様松戸市でも女教師の努力で日本母親大会の1年前の1954年に「第一回母と女教師の懇談会」が開催され、その後も「母と女教師の会」が開催され、千葉県母親大会が開催された年には、「第三回母と女教師の会」が開催されている。私は第二回の時に初めて参加した。さらに女教師は地域ごとの集いも開催されていたとのことである。

 田島ひでが中国派になったとして田島ひで著『ひとすじの道』018が日本共産党によって絶版にされたというが、それと同様に、私が共産党を除名されたせいでこういう取り扱いを受けるのだろうか。

 

 また母親運動の記録集を出版しようとして、図書館に行き市議会事務局で議事録を調べたが、重要人物で参加できない人がいて中断した。

 

 福田玲三が本書を校閲し、木村俊子、奥山えみ子の協力を得た。1989年の天皇裕仁病気快癒祈願記帳所設置反対運動で知り合った拓殖書房の西村祐紘が出版した。

 

山本菊代

19925

 

 


 

日本共産党史の貴重な記録

元モップル中央委員長 滝沢一郎

271 私は本書のゲラを一読した。

私は昭和初期の学生運動から出発したので、三・一五、四・一六関係の被告のほとんどは先輩にあたる。私と同世代に人たちが(共産党運動の中で)多数を占めるようになったのは、田中清玄等の二・二六事件*以後からだった。

 

19297月、佐野博、田中清玄、前納善四郎(東京合同労組フラクション)の三人が、三・一五、四・一六弾圧以後の党を再建する。(武装共産党)1930226、(和歌山市の南西部の)和歌浦で武装共産党と官憲が銃撃戦となった。三二テーゼはスターリンがこれを戒めるものであった。

 

このころ(昭和初期)の共産党中央部に、三・一五や四・一六で検挙された党員で漸次保釈出獄してくる人を調査して適当と思われる左翼諸組織に再配置するという、いわば出獄被告対策部があった。三・一五の出獄者の松尾英樹がその責任者で、私はモップルからこれに参加していた。

 非転向で出獄した橋本菊代を迎えて最初に参加してもらった組織がこの組織(出獄被告対策部)だった。私はこの時初めて橋本菊代を知った。以下略。

 

1992617

 

山本菊代 1905年に岡山県に生まれ、1920年上京。1927年、関東婦人同盟で活動。

 

以上

20231031()

 

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