荒畑寒村『矢中村滅亡史』新泉社1970
感想 2023年12月29日(金)
荒畑寒村1887--1981は、私の父同様1907年ころに生まれ、1927年ころの青年期に活躍した日本共産党員の世代より20年くらい前の人、田中正造は寒村より46年も前の人で、江戸時代の天保12年1841年の生まれ、宇井純は東大の助手を長年(21年間)勤めていたが、公害問題(新潟水俣病)を扱ったせいか、出世できずに沖縄大学へ転出したようだ。原敬は立派な人かと思っていたら、矢中村を弾圧した時の内務大臣で、鉱毒問題の中心人物古河市兵衛の番頭で、陸奥宗光の子分とのこと。
・田中正造1841年天保12年-1913年大正2年
・陸奥宗光1844年天保15年-1897年明治30年
・木下尚江1869年-1937年 1901年、社会民主党結成、日露戦争で非戦論を唱える。田中正造を看護。
・荒畑寒村1887年明治20年-1981年昭和56年
・宇井純1932年昭和7年-2006年
・陸奥宗光1844年天保15年-1897年明治30年 Wikiによれば、
明治21年(1888年)駐米公使となり、同年駐米公使兼駐メキシコ合衆国公使として、メキシコとの間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功する。帰国後、第1次山縣内閣の農商務大臣に就任する。
明治23年(1890年)、大臣在任中に第1回衆議院議員総選挙に和歌山県第1区から出馬し、初当選[5]を果たし、1期を務めた。閣僚中唯一の衆議院議員であり、かつ日本の議会史上初めてとなる衆議院議員の閣僚(農商務大臣)となった。このとき農商務大臣秘書であったのが腹心原敬である。陸奥の死後、同志であった西園寺公望・星亨(かつて陸奥宗光の部下であった自由党の実力者)・原敬が伊藤を擁して立憲政友会を旗揚げすることになる。
明治24年(1891年)に足尾銅山鉱毒事件をめぐり、帝国議会で田中正造から質問主意書を受けるが、質問の趣旨がわからないと回答を出す(二男潤吉は足尾銅山の経営者、古河市兵衛の養子であった)。同年5月成立した第1次松方内閣に留任し、内閣規約を提案、自ら政務部長となったが薩摩派との衝突で辞任した。11月、後藤象二郎や大江卓、岡崎邦輔の協力を得て日刊新聞『寸鉄』を発刊し、自らも列する松方内閣を批判、明治25年(1892年)3月、辞職して枢密顧問官となる。
外相時代 好戦的な、朝鮮王宮占拠 日清戦争開戦の張本人
その後、第2次伊藤内閣に迎えられ外務大臣に就任[注 4]。
明治27年(1894年)、イギリスとの間に日英通商航海条約を締結[注 5]。幕末以来の不平等条約である領事裁判権の撤廃に成功する。
以後、アメリカ合衆国とも同様の条約に調印、ドイツ帝国、イタリア王国、フランスなどとも同様に条約を改正した。陸奥が外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正(領事裁判権の撤廃であり、関税自主権は戻らなかった)を成し遂げた。同年8月、子爵を叙爵する。
一方、同年5月に朝鮮半島で甲午農民戦争が始まると清の出兵に対抗して派兵。7月23日に朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立、25日には豊島沖海戦により日清戦争を開始。イギリス、ロシアの中立化にも成功した。この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる参謀次長川上操六中将の戦略と気脈を通じたもので「陸奥外交」の名を生んだ。
戦勝後は伊藤博文とともに[注 6]全権として明治28年(1895年)、下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては、遼東半島を清に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。
・原敬1856年安政3年-1921年大正10年
1905年(明治37年)には陸奥の次男が養子として入った古河鉱業(現:古河機械金属)の副社長となり、翌年の内務大臣就任まで続けている[59]。
・古河市兵衛1832年天保3年-1903年
生家の木村氏は京都岡崎で代々庄屋を務めたが、父の代には没落しており、木村巳之助(古河市兵衛の幼名)は幼少の頃から豆腐を売り歩く貧乏暮らしで苦労を重ねた。継母が病に倒れた際、盛岡南部藩で高利貸しを営んでいた母方の叔父が見舞いに訪れ、その際、その親族のもとで修行をすることを希望し、嘉永2年(1849年)、盛岡に向かう。
盛岡では叔父のもとで貸金の取立てを手伝う。やがて南部藩御用商人の鴻池屋伊助店(草間直方が旧名時代に起こした店)に勤めるが、まもなく倒産する。
安政4年(1857年)、叔父の口利きで京都小野組の番頭だった古河太郎左衛門の養子となり、翌年には古河市兵衛と改名した。
その後、養父と共に生糸の買い付けを行っていたが、養父に才能を認められ、順調に小野組内の地位を高めていく。明治維新期の時流にも乗り、東北地方の生糸を横浜に送り巨利を挙げるなどの成功を収めるが、明治新政府の公金取り扱い業務の政策変更の結果、小野組は壊滅的な打撃を蒙り、市兵衛は再び挫折を味わうことになる。しかしその際、政府からの引き上げ金の減額などを頼みに陸奥宗光のもとへ談判に行き[2]、これが縁でのちに宗光の次男を養子に貰った。
また、小野組と取引があった渋沢栄一の経営による第一銀行に対し、市兵衛は倒産した小野組の資産や資材を提供することで第一銀行の連鎖倒産を防ぎ、渋沢という有力な協力者を得ることに成功した。
小野組破綻後、市兵衛は独立して事業を行うことにした。まず手始めに秋田県にある当時官営であった有力鉱山、阿仁鉱山と院内鉱山の払い下げを求めたが、これは却下された。続いて新潟県の草倉鉱山の入手を企て、渋沢から融資の内諾を得るものの、やはりこれも最初は政府の許可が得られなかった。
しかし市兵衛は小野組時代から縁があった旧中村藩主相馬家を名義人に立て、市兵衛が下請けとして鉱山経営を行う条件で、明治8年(1875年)に政府から草倉鉱山の払い下げを受けることに成功した。草倉鉱山の経営は順調で、明治10年(1877年)には市兵衛は鉱山業に専念する決意を固め、いよいよ足尾銅山を買収することになる(現在の古河機械金属)。
同年1877年、市兵衛は草倉鉱山と同じく相馬家を買い取り名義人として立てて足尾銅山を買収した。相馬家では家令であった志賀直道(志賀直哉の祖父)が市兵衛の共同経営者となり、のち渋沢も共同出費者として名を連ねた。
当時の足尾銅山は江戸時代を通じて無計画に採掘が行われた結果、旧坑ばかりの生産性が極めて低い状態にあり、長年採掘が続けられていたことなどから再生の可能性は低いと判断されていた。そのため一時官営化されていたものの、市兵衛の経営権取得時にはお雇い外国人であったゴットフリイの調査結果に基づき民間に払い下げられていた状態であった。
しかし市兵衛は足尾銅山不振の真の原因は旧態依然たる経営状態の中で計画的な探鉱、採掘が行われていないことにあると見抜き、足尾銅山の経営に乗り出した。
しかし市兵衛が足尾銅山の経営に乗り出した当初は、経営にならない状況が続いた。まず当時の足尾銅山で採掘の現場を仕切っていた山師集団の強い反発に遭い、経営権を入手したものの、市兵衛が実際に足尾銅山の経営を行えるようになったのは約半年後のことであった。続いて山師集団の反発を抑え、足尾銅山の再建に取り掛かったが、約4年間も成果が挙がらない状況が続いた。現場責任者の坑長も立て続けに3人交代し、4人目のなり手が現れなかった。
明治13年(1880年)、市兵衛は4人目の坑長として当時まだ20歳代の半ばであった甥の木村長兵衛を抜擢、そして翌明治14年(1881年)、木村坑長のもとで待望の大鉱脈を掘り当てた。
その後、足尾銅山では立て続けに大鉱脈が発見され、銅の生産高は急上昇し、大銅山へと発展した。古河財閥は足尾銅山発展の中で形成されていった。しかし鉱山の急発展の中、日本の公害問題の原点とも言える鉱毒問題が発生していくことになる。
鉱山経営を進める一方で、銅山を中心とした経営の多角化にも着手する。明治17年(1884年)には、精銅品質向上による輸出拡大と、銅加工品の生産による国内市場開拓を目指して本所溶銅所を開設した。この事業は後の古河電気工業へと発展した。
・古河潤吉(陸奥宗光の次男)1870年-1905年。1873年、3歳の時、古河市兵衛の養子となる約束をし、1880年、10歳のときに古河家に入る。
・ちなみに治安維持法制定時1925年の内相が小川平吉で、首相は加藤高明(護憲三派内閣)
感想 陸奥宗光も原敬も有能であるが、陸奥宗光は朝鮮王宮を占拠し、日清戦争を開始し、原はフランス語が堪能だったが、自分の利益だけを考え他者のことは考えない。また古河市兵衛はいつも順調な人生ではなかったが、自分の利益だけを考える商売人だった。
メモ
明治24年1891年、田中正造が議会で矢中村の窮状を訴える。
明治33年1900年、大兇徒嘯集事件。
明治34年1901年、田中正造が明治天皇に直訴。
明治40年1907年6月、矢中村は土地収用法で強権的に滅亡させられた。その弾圧の中心人物は原敬内相であった。原は陸奥宗光の「乾児」であり、古河工業の「大番頭」であり、陸奥宗光は古河の姻戚であり、農相であった。009
明治41年1908年、硫酸銅溶液が洪水の度に排水溝や浄化装置を素通りして流れ出しているのに、政府は何の手も打たない。その結果流域の農漁業に影響が出て、農業では年間3億円の被害を出し、魚と漁民はいなくなった。013
要旨
政府資本家共謀の罪悪
001 明治40年1907年6月、足尾鉱毒問題の最後の拠点であった栃木県下都賀郡矢中村が、政府の強制土地収用法により住家が破却され、村民は追い立てられ、事実上滅亡に帰した。
私は明治38年1905年以来、しばしば田中正造翁にお目にかかり、鉱毒問題や矢中村問題の経緯を聞き、また翁から他日この問題のために一書を著すよう逍遥されていた。私は矢中村強制収容の報を聞き、痛憤置く能わず、一気呵成に本書『矢中村滅亡史』を書き上げた。それは私が二十歳のときだった。
私が本書の中で鉱毒問題に端を発した矢中村の滅亡に至る歴史的経緯を、「政府と資本家とが共謀した組織的罪悪」と論断し、最後に「平民階級が(の)復讐の碧血*をもって帝王の冠を衂(ちぬ)らしめよ」と書いたから耐まらない、1907年8月25日の発行と同時に、本書は発売頒布を禁止された。*
*碧血(へきけつ) 忠誠の人の血、青い血。
*「耐らない」という表現の中に言論弾圧を容認する気持ちがないか。
002 本書は今私も持っていない。最近古書店では本書が何千円もしているのに、著者にリベートがないのは不合理だと笑い話の種にしていたが、そう高くては私などにはとても手が出せなかったところ、去る昭和38年1963年5月、明治文献社が本書を写真復刻で出版してくれた。56年ぶりのことである。
官憲による矢中村破却が、鉱毒問題を埋没して世人の記憶から永久に抹殺し去ろうとする政府と資本家の共謀による組織的罪悪だという本書での断定は、今でも改める理由がない。この小冊の復刻版が、明治時代における資本主義発達の一過程を闡明するとともに、現代の公害問題の本質を究明する上での一素材を供することを願う。
野に呼べる人の声
私が初めて矢中村を訪れたのは、明治38年1905年7月、私の第二次東北地方社会主義伝道行商の途中であった。当時、私は矢中村問題についてほとんど知らなかったが、足尾銅山鉱毒問題については新聞などから多少の知識があった。田中正造翁が明治34年1901年の暮れに、明治天皇に直訴したことを知り、私は翁に対して同情と敬慕の念を抱いていた。
1905年7月14日、私は矢中村に入り、田中翁にお目にかかった。そして翁の案内で渡良瀬川の堤防や村内を視察し、その夜はともに農家に泊まり、鉱毒問題の歴史や矢中村の現状などの説明を聞いた。鉱毒問題の発端は明治20年代の初め1887年ころにある。それから約20年が経ち、問題は最後の抵抗拠点である矢中村の存亡に絞られてきていた。
004 その翌朝村に入り込んで来た測量士や警官らに向かって田中翁が「この村泥棒め!」と大喝すると、彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。彼らは矢中村買収の調査のために入り込んだ栃木県庁の吏員と護衛の巡査などであった。
「村泥棒め!」は実に「野に呼べる人の声」である。私はこの様子を平民社に送った。それが7月28日発行の『直言』第26号に載った「忘れられたる矢中村」である。(本書付録Ⅰ、171)
付録Ⅰ
忘れられたる矢中村
皆な大泥棒ですぞ
171 「彼らは皆な大泥棒ですぞ、彼らをお捕らえなさい。逃がしちゃ可けませんぞ」これは栃木県庁の吏員が数名の巡査を連れて、矢中村買収の調査に来たのを追う田中翁の大叫声である。かつては足尾銅山から流出する鉱毒のために全村が疲弊し、女は妊むも流産し、子は生まれるも発育せず、壮丁は去って他に赴き、独り老いたる翁の細く痩せた腕に重い鍬を取り、毒土積寸黄茅白葦、満目(衆目)蕭条たる廃田に涙していた栃木県下都賀郡矢中村は、世の志士仁人に忘れられつつある間に、悪魔の十年計画の陰謀はここに熟し、その買収の議は、蚕が桑を含むように、徐々に進みつつある。以下にその買収案の真相を説く。
堤防を破壊せるは政府なり
172 明治35年1902年9月、赤麻沼が大氾濫を起こし、堤防を84間(150m)に渡って破壊した。翌明治36年、37年、1903年、1904年にも氾濫し、一村はほとんど泥海になった。1902年から1904年までの3年間の損害額は合計58万9100円に上り、収穫量は一反につき、麦作が前年比24%、稲は40%、大豆は18%、小豆は14%に落ち込んだという。そこで全村の住民が堤防の修築を嘆願したが、県庁は引き伸ばして今でも修築しない。それどころか政府は3年間で10万円の費用を投じて、吏員は堤防の石を崩し、波よけの柳を切り払って売り、芝草を剥がし、長さ800間(1440m)に渡って崩壊させた。そのため昔は幅12尺3.6mあった堤防が、今では2、3尺60㎝、90㎝となっている。赤麻沼に沿った堤防を人力で破損したことははっきり見てとれる。これは大罪悪である。
政府買収の口実
173 県会は図々しくも土木監督技師の報告だとして言う、「矢中一村を安全に保つには、赤麻沼、渡良瀬川の堤防に少なくとも120万円を費やし、さらに堤防建設後の修築のために年間6万円ずつ費やさなければならない。しかも今日まで3年間で10万円を費やしたが、何の利益もなかった。だから矢中村は、他に保全の道がないとすれば、これを買収して貯水池とすべきである」と。今(県の)調査委員は30余名の巡査を引き連れて、着々その歩を進めている。
矢中村は他に救済の道がないのだろうか、県会は10万円を費やして築堤工事を急いだのだろうか。
吏員らがただこの村を買収するために3年間で10万円を費やしてこの貴重な堤防を破壊していたと誰が知ろうか。もし矢中村が普通の土地ならば、或いは止む。(意味不明)稲は除草もせず肥料もやらなくても種を播きっぱなしで育つ。横井博士は「矢中村は日本有数の肥土だ」という。だから彼らは買収したいのだろう。
洪水のために作物が実らない。そのために土地を矢中村以外の人に売った人が多い。一村の面積1057町3反8畝余(10㎢)のうち、他の村人が所有する地はその4/10を占めるという。利害関係のうすい彼ら(県議会議員)は買収案に賛成し、次いで狡猾な奸吏は村民を欺いて買収しようとしている。一村の買収予算額は48万円で、反当りで畑地は30余円、田地は20余円、原野は10余円。村民が住んでいる家屋は一坪8円という。しかも田畑は荒廃無収穫の時の価格を標準とするもので、もしこれに堤防を築き、修繕を加えた場合は、価格が500円に飛び上がるという。そして農民は一村が買収されると、那須野の辺りの不毛の地に追い払われなければならない。村民2000人は他に出れば生活できない。副産物を失うだけでも年間5万円の損失である。圧制暴虐酷待を受けながら従順に国民の義務を守って、遠く満洲の野で軍務に従う50余名の壮丁が、戦いが止んで故郷に帰ったとき、荒れ果てた故郷の姿を見て泣く名誉の戦士に同情せざるを得ない。
矢中村を貯水池にすれば、周囲4里、直径1里半に及ぶ大湖水が現れる。もし暴風が起れば水があふれて、矢中村に接続する栃木県藤岡町、赤麻、部屋、野木の諸村や、埼玉県の川辺、利嶋の両村、それに群馬県の海老瀬村などは忽ち大洪水大惨事になるだろうことは明らかだ。
矢中村は肥沃無類の地なり
しかもなお政府はこの地を買収して貯水池としようとしている。矢中村はそれほど役立たずの地か。否、赤麻沼、渡良瀬川の両堤防を強固にすれば、用水は堤防内に十分あり、地味良好な矢中村は驚くほどの収穫があるだろう。赤麻沼沿いの堤防の212間余385mは、長期間破損したまま県会は顧みなかったが、本年1905年6月、村民が数多の時日と3000円近い費用を出して、仮の堤防を建設したところ、農作物は驚くほど良好な発育をし、4万5000円の利益を上げ、また副産物による1年の利益は5万余円となった。
これは堤防を築けば足りる話だ。政府は堤防を強固にするのに120万円の金と毎年6万円の修築費を要すというが、村民は30万円で赤麻沼、渡良瀬川の両堤防を強固にできるという。政府予算は村民案の4倍である。このことから政府がいかに買収しようとしたいかその意図が見える。
176 政府は地味の良好、収穫豊富という事実を没却して、敢えて没収しようとしている。そして買収した矢中村は県の財産となり、次に国の財産となり、最後は十年計画通りに大地主・大資本家の手に入るだろう。このことは明らかだ。
ああ世は資本家万歳の世なり、紳士閥繁栄の世なり、官吏のもうかる世なり、然りしかして平民の疾苦する世なるかな。
村民二千余名の悲鳴を聴け
(原文引用)矢中村民二千余名、その三分の二は非買収派にして鋭意熱心反対運動を試みつつありといえども、冷酷鬼の如く残忍夜叉の如き政府は憎々し気なる眼光にて冷かに打ち見やりつつ、ジリジリと押しよせつつあり。ああ一世の志士よ、仁人よ、憂世家よ、愛国者よ、宗教家よ、東都を去る二十里の地にかかる阿鼻叫喚の大地獄あるを知らざるか。世より葬られ、人より忘れられたる矢中村は、今や悪魔の手に捉へられむとしつつあるを知らざるか。ああ冷酷なる世人よ。老義人田中正造翁が痛憤の言を聞け!「日本国はいま亡びています、政府の役人共はみな冠をかぶった盗賊です!」何等悲痛の叫びぞや、かくても尚ほ諸君の目は盲ひなりや、更に村民が哀訴の声を聞け!「堤防さへ出来れば米でも麦でもよく出来るんです」何等悲哀の訴へぞや、かくても尚ほ諸君の耳は聾せりや。
鉱毒と氾濫のために矢中村の全村400戸の1/4は実に憐れむべき状態にある。鈴木某の家は木を立て、藁を束ねて囲った掘立小屋で、畳二枚分の広さの床に破れた筵を敷き、親子五人が住む。また間明田某の家には壁がなく、臭く汚く近づくこともできないほどである。そして夏はこういう家屋でも耐えられるが、冬はとても耐えられず、土に穴を掘って住んでいる。それは堤防が不完全で収穫がないためである。
義憤の叫びを揚げよ
私利私欲のために無辜の良民を虐待し、天が人類に与えた土地を掠奪し、村民が生命と頼む堤防をわざわざ破壊し、あらゆる暴虐無道の大罪悪を犯しつつある政府は、矢中村民に対して日本国に対する義務を強いる権利があるのか。かつては鉱毒のために苦しめられ、今は暴戻な鬼のために墳墓の地を追われようとしている矢中村民のために義憤の叫びを揚げよ。
矢中村の闇を裂いて聞こえる老義人の大絶叫「大泥棒が入って居ますぞ!」
(『直言』明治38年1905年7月28日)
平民社 日露戦争非戦論から開戦論に変質した『萬朝報』(朝報社)に抗議して退社した幸徳秋水と堺利彦が、非戦論を唱え続け、また社会主義思想の宣伝・普及を行うために、1903年10月27日に設立した新聞社。週刊『平民新聞』を発行1903/11/15—1905/1/29したが、当局の許可が下りなくなり、消費組合直行団の機関紙『直言』に移った。
田中翁の悲哀と苦悶
それから2年後の明治40年1907年6月10日、私は矢中村に二度目の訪問をした。今回は堺利彦先生から「社会問題辞典」の資料調査を命ぜられ、たまたま上京していた田中翁の帰村に同伴したのであった。田中翁は(東京の)石川三四郎君の家に泊まっていた。この時の見聞を私は「矢中村を訪ふの記」と題して『社会新聞』第4号、6月23日発行に寄稿した。(本書付録Ⅱ)
005 翁は耄碌したというが、矢中村については微に入り細を穿ち、その話は滔々として尽きることを知らない。
私はまた翁の内心の悲哀苦悶に触れたと感じた。村民は永く苦しく、前途暗澹として復興の希望を持てない闘いに疲弊し、栃木県当局の甘言に誘惑され、金銭に買収され、離村する人の数は年とともに増えていた。局外者には無理もないと同情される離村者でさえ、翁の眼には古河や政府に買収されて同志を裏切り、郷土を売る変節漢と見られ、猛烈な熱罵を浴びせられた。そのため村民の多くは翁を恐れ憚り、翁と進退を共にする同志の数は減って行ったのだが、それは無理もないことだった。
付録Ⅱ
矢中村を訪ふの記
179 明治40年1907年6月10日、田中正造翁と共に矢中村を訪れる。「社会問題辞典」の材料を調査するためである。
汽車が新宿を出発するとすぐに翁は頭を窓にもたれかけて昏々と眠る。東奔西走する老義人が疲れた身を暫し旅路の汽車に休むのを見てそぞろ涙ぐまれる。
古河駅で下車し、更に人力車(腕車)で矢中村にすすむ途中で、翁は一軒の家を訪ね、文字が風雨で廃滅しているが僅かに意味を識別できる木標を示した。それによると、明治29年1896年9月17日と明治31年1898年同月同日の大洪水は、堤防を4尺120㎝上回り、そのため矢中村は毒流に埋没し、埼玉県河辺村(現・春日部市か)の住民は高瀬舟に乗って堤防を越えて茨城県古河町雀の宮に避難したとある。また屋上の破目に青苔(こけ)が蒸しているが、これは明治39年1906年の浸水の痕跡であるとある。
180 環のように矢中村を廻る堤の上を行くと、二荒、足尾、黒髪の連山が雲間から微かに見える。村を見渡すと惨憺たる有様で、漫々と濁水が漲り、真菰(まこも)や葦、葭(か、葦のまだ穂が出ていないもの)などがはるかに見え、畑には雑草が茂り、家は壊れて土台だけが高く残っている。わずかに残った人家から煙が淋しく立ち上る。鶴見某方に立ち寄る。字下宮三国橋から藤岡町甲申塚までの一里十町5000mの間は、この家一軒しか残っておらず、夕暮れになると道行く人もいないという。
(人力)車を捨てて歩く。小間物の箱を曳いた一老爺(や)に会う。彼は田中翁と見ると、額が土に着くほど恭しく礼をし、箱の中から七色唐辛子一壜(たん、かめ、びん)を取り出して翁に捧げる。村人たちは永く苦しい戦いに疲れて一人また一人と変節し、裏切り、買収されて、今はほとんどが翁に背いているとき、この貧しい一老爺の七色唐辛子の贈り物は、老義人の淋しい今の心に如何に暖かい慰藉(しゃ)を与えたことだろうか。
夜9時近くに間明田某宅に着いたが、ちょうど上京中だった星野光四郎君170が来て、田中翁と共に話をしてくれた。
181 翌朝、翁と星野君に頼んで材料を調査する。踏みとどまっている村民10人ばかりが翁を訪ねてきた。翁の政府批判の言葉は激しいが、翁はまた村民を励ました。
私は午後星野君と共に破れた堤防を見に行ったが、加藤安世氏を訪ねて同行してもらった。加藤君は私の友人で、明治38年1905年に矢中村に来て田中翁を助けていたのだが、最近運動から遠ざかり、今は全く関わらなくなっていた。今春(加藤)君に対する醜声が聞こえて来て、「収賄した」とか「買収された」とか「彼の姿をしばしば買収事務所で見た」とか言われ、加藤君は一変節漢として肩身を狭くして矢中村に住んでいた。私はこれが本当かどうかわからなかった。
去る1907年5月の出水で全村のほとんどが沼地となった。今は水が漸く引いたが、まだあちこちで舟でないと渡れないところもある。青年二人が一人の変節漢(加藤君)を挟んで藻刈舟をこいでゆく。舟を捨てて堤防に上がると、惨憺たる風物が眼前に展開する。明治35年1902年以来築いては破れた堤防は220間400m余の切り口を開き、政府の官吏によって草を剥がされ、柳を切られ、石を盗まれ、土を崩され1000間1800mの傷口を現わしている。明治39年1906年に築いた堤防の内側の小堤防は、去る5月の浸水で見る影もなく、濁水が村を浸しつつある。
政府はこの6年間巨額を投じて堤防を破壊し、陰険な手段で住民を追い、土地収用の名の下に、警察力を用いて、老人を威嚇脅迫し、青年には遊蕩で誘惑する。暴戻な政府を誰が信用するか。200年来住み慣れた村民は、他国に流離巓沛(てんぱい、つまずき倒れる)し、わずかに踏みとどまった50戸の人民も、豊穣な田畑は空しく荒れるに任せ、(離村する人たちは)近い所では茨城県雷電、新郷村大鼓あたり、遠い所では群馬県西谷田村離の諸村に、麦二石五斗の収穫に対する小作料一石二斗を払って小作に赴きつつある。明治の聖代に生まれた愚直の人民はいかに禍であることよ。田中翁曰く「これは矢中村の土地を収容するのではなく、村民の生命を収容しようとするものである」と。
私は舟で帰る途中、加藤君に尋ねた。「君はこの村に来てから次第に田中翁と意思疎通しなくなったが、それが原因で翁や村民から離れ、君が岳父の頼みで土地買収事務所に赴いて買収に応じたため、醜声が放たれるようになった」と。加藤君は頭を低く垂れ、その声は震えていた。彼も弱い人の子である。希望なく光明もなく長い苦闘に疲れたのだ。ユーゴ―『レ・ミゼラブル』の探偵ユーベルを叙して曰く「彼は餓えてありたればなり」と。
183 舟で水路を行くこと二里7800m、漸く稲荷森の堤に達する。
(『社会新聞』明治40年1907年6月23日)
政治家の公正な意見
006 私が1907年20歳の時に『矢中村滅亡史』を著した時、某新聞は田中正造に輪をかけた妄論誣説だと評した。
明治40年1907年3月26日~29日の日刊『平民新聞』紙上に私は「矢中村の強奪」と題する記事を連載したが、その中に、同年1907年3月21日、衆議院議員島田三郎が政府に提出した「矢中村の枉法(おうほう、法を曲げる)破壊に関する質問書」を引用した。島田代議士は、こう語った。
「栃木県下都賀郡矢中村を破壊し、人為的に土地を衰退させ、偽って人民を誘惑し、力で人民を駆逐し、その結果独立村の状態を失わせ、これを藤岡町に合併させ、連年故意に堤防を築かず、村民が私費を拠出してこれを築こうとするのを妨げ、甚だしきは脅迫してこれを毀損し、同時に土木吏員を派して土地買収を強い、言うことを聞かない者には土地収用法を適用しようとする。これは国法を無視して良民を虐待するものではないか」
「県庁は、明治35年1902年の災害以後明治37年1904年の春まで、10万円を堤防修築費に支出したが効果がなかったとして、これを強固にするには120万円を必要とし、更に年々6万円の修繕費を必要とするとし、これを内務省に告げ、その報告を以て本村の保存の方法はないと決めたという。…この報告は政府に同村を貯水池とする決意をさせた理由だろうが、村民はこの報告が全くの虚偽であることを証明するために、去る明治38年1905年の春、自費を拠出し、…その費用僅かに2900円で仮堤防を修築し、これで夏作7万円以上の収穫があった云々」
「全村を水底に沈めようとする無情の処置は、これを貯水池として洪水の際にこれに水を蓄え、付近と下流の水勢を緩和するためだというが、渡良瀬川、思川(おもいがわ)、巴波川(うずまがわ)の集流と利根川の逆流をこの地に集める計画は、いったんこれを集めて散ずるという水勢は激甚であり、却って四隣を犯す害が多い。…明治39年1906年の洪水は全村に侵入し、暫時貯水池と同等の形勢を現したが、そのために、近隣や下方の水害は減ることがなく、却ってその支流が暴漲して猛烈を加えたことは、貯水池設計の実効がないことを証明する云々」
続いて1907年同月3月30日と31日の紙上に、私は「無法なる貯水池計画」と題して、静岡県選出の代議士河合重蔵の調査結果を掲載した。この記事は本書にも採録してある。河合代議士は明細な数字をあげて矢中村貯水池計画が全く現実を無視した無謀無法な設計であり、議会で吉原政府委員が答弁したように「矢中村を貯水池としても別段何の効果もない」ことを暴露した。
008 この記事は私が河合氏の談話を筆記したもので、数字に多少の誤りがあるかもしれない。殊に利根川その他の流域の里程が過大となっているのは私の不注意であった。
「銅が人間を食った」怪談
以上のような無法無謀な潴水池(潴はみずたまりの意)計画は着々と実行に移され、ついに明治40年1907年6月末、官憲の暴力による強制土地収用となった。政府はこの一寒村を亡ぼすのに数年間にわたり威嚇、脅迫、誘惑、買収し、村民が命と頼む堤防を敢えて破壊し、殆ど執念とも見られるような暴状を極めた。
一国の政府が権力をもって人民を迫害窘逐(窘(くん)は苦しめるの意)し、一村を水没滅亡させるとは信じがたいことだ。このような田中翁が言うところの「亡国」の実情も、鉱毒問題の歴史的経緯を見れば怪しむに足りない。明治20年代1887年~1896年の初期に端を発した足尾銅山鉱毒問題は、利根川流域の4県、幾十万の生民を累年にわって残害荼毒(とどく、苦しめる)し、明治33年1900年の大兇徒嘯集事件を惹起した。
爾来20年間、洪水とこれに伴う流毒の災害は跡を絶たず、特に渡良瀬川沿岸の被害は激甚を極めた。そのために矢中村はその最期の抵抗拠点となり、矢中村が存在する限り鉱毒問題は社会の注意から消え去らず、そのため政府は故意に堤防を破壊し、連年に渡る洪水の被害を増大し、村民を疲弊困憊させた末に、矢中村を買収して洪水氾濫の際の瀦水池とする暴挙に出た。田中翁の言ったように矢中村の収用は、「土地の収容ではなく、村民の命の収容」であるが、政府にとっては鉱毒問題を水没させる懸案の実現であった。
009 矢中村はこうして亡びた。足尾銅山主古河市兵衛と姻戚関係にあった陸奥宗光が農相の時代に初めて重大な社会問題となった鉱毒事件の最後の抵抗拠点となった矢中村は、政治的には陸奥宗光の乾児(子分)であり、経済的には古河市兵衛の大番頭であった内相原敬によって亡ぼされた。これは資本主義政治の害悪を赤裸々に露出した事件であった。
昔イギリスで資本主義が勃興したころ、羊毛の紡績業が盛んになり、貴族は領内の耕地を囲って羊を飼い、農民は強制的に土地から駆逐されたので、「羊が人間を食う」と言われたが、古河市兵衛が足尾銅山を経営したのは日本資本主義の勃興時代であり、彼はその富を蓄積する上で、当路(重要な地位にいる)の大官要人と結託し、政府もまた資本主義産業の発達のためには一村を強制収容し、住民の生計の資を絶つことを意としなかった。イギリスでは「羊が人間を食った」が、日本では「銅が人間を食った」のである。
矢中村不滅論
010 本書『矢中村滅亡史』は昭和42年1967年9月に、筑摩書房「明治文学全集」の中の『記録文学全集』の中に加えられたが、その際私は第96巻付録の「月報」31号に、以下の短文を寄せた。そこで矢中村「滅亡史」の結末はその「不滅論」に帰したが、それに現代日本の公害問題として意義があるだろう。
一
矢中村の滅亡は、明治14年1881年以来20数年に及ぶ足尾銅山鉱毒被害民の最後の抵抗拠点を亡ぼし、鉱毒問題を瀦水池に埋没して社会の耳目から永久に抹殺するために政府が行った犯罪である。
明治40年1907年6月、土地収用法の名による合法的暴力によって万斛(石)の恨みの中に水底に沈められた矢中村は、60年後の昭和41年1966年に再び立ち上がり、足尾鉱毒問題を訴えている。
011 昨年(昭和41年1966年)9月26日、参議院商工委員会で足尾銅山の鉱毒問題について、議員*と通産大臣三木武夫、経済企画庁長官藤山愛一郎など政府委員との間で質疑応答が行われた。日本のブルジョワ階級とその政府は、生き代わり死に替り足尾銅山の鉱毒の怨みを訴える矢中村の亡霊に恐れおののいている。
*この「議員」は荒畑寒村ではない。寒村は1949年の衆院選に立候補・落選してから政界を退いている。
二
足尾銅山鉱毒問題の原因は、政府委員が認めているように、「坑内から出てくる硫酸銅を含んだ水をそのまま渡良瀬川に流し込んだ」ことにある。その被害は渡良瀬川・利根川沿岸の栃木、群馬、埼玉、茨城、千葉の五県の地、5万町歩500㎢、30万人に及び、(そのことを)明治24年1891年、田中正造代議士が第二帝国議会で質問したことによって初めて、鉱毒問題が社会の耳目を慫動させることになった。
この毒水は製銅技術の向上や鉱山保安法の規制などによって今では完全に処理され、無害に帰していると言われるが、実はそうではない。現在でも栃木県と群馬県の一部を含む8400ha(84㎢)の耕地が年間3億円の鉱毒被害を受け、参議院で問題とされるようになった。
足尾銅山での採鉱の余り、ズリ、サンド、カラミなどのいわば銅山の排泄物は、明治時代以来付近の斜面や谷間に捨てられ、それが含有する6/100の鉱物が、河川によって四方に横溢された。戦後昭和35年1960年に、簀(さく)子橋、天狗沢、有越沢、原などに完全な堆積場を設けたが、古い堆積場がまだ数十か所ある。
012 これらの堆積場は急傾斜地に設けられ、数十年間にわたる採鉱と、特に戦時中の乱掘の結果、数千万トンの鉱滓(さい)が堆積されている。その他、社宅、グラウンド、道路、学校などの敷地にもその鉱滓が使用されている。
平時でも降雨の際はこの鉱滓の硫酸銅を分解した毒水が河流に注ぎ、豪雨となれば洪水となって氾濫し、鉱毒は排水溝や浄水装置を素通りして、完全な堆積場も殆ど効果がない。
三
仮に今足尾銅山が廃業しても、数千万トンの鉱滓は残存し、生民はその犠牲となって苦しめられることに変わりはない。それに対して政府当局は、昔と変わらず冷淡無策である。「被害民は関係官庁の農林省、通産省、(経済)企画庁のどこへ訴えたらいいのか分からない。農林省は農民側に立って対策を望んでいるが、通産省は古河鉱業をかばって容易に応じない」と商工委員の某代議士は難詰する。
013 昭和33年1958年、水質保全法が制定され、石狩川、江戸川、淀川、木曽川と共に渡良瀬川も調査河川に指定されたが、それから7年も経つのに未だもって渡良瀬川の水域指定も、水質基準の決定も行われていない。
政府は60年前鉱毒問題を葬るために矢中村を瀦水池としたように、今(1970年)も6000万トンの水をためて鉱物を沈殿させる神戸ダム*を作っている。しかし洪水が起これば毒水が一時にダムを横溢し、常時は毒水を徐々に流出し、鉱毒の被害に変わりはない。渡良瀬川や利根川の水を灌漑に用いる8400ha(84㎢)の耕地は、依然として年間3億円の被害に苦しんでいる。往時は3000余を数えた沿岸の漁民は、両河川の魚族の激減により、流離散亡してしまっているではないか。
資本主義制度があるかぎり(共産主義でもそうではないか)公害と国民の被害は永久に解決されないだろう。矢中村は永遠に亡びない。本書は「政府・資本家共謀の罪悪」を糾弾してやまない。
*神戸ダムは草木ダムの旧名。着工1965年、竣工1976年。
序 (田中正造から荒畑寒村宛ての手紙。荒畑寒村が、二度目の矢中村訪問1907/6/10後、田中正造宛てに手紙を書き、それに対する返事がこの序のようだ)
015 「連日の大雨で村民の仮小屋は大破して老幼まで蓑笠のままで夜を明かし、そのために多数の病人が出た。私は7月12日忙しく上京し、慈善家の医師に図って仮の救済病室を設けようとしたのだが、幸い明治34年1901年、35年1902年ころに鉱毒被害民三千余人の患者を救った医師諸君の援けを受けることができ、三日目に矢中に帰村した。爾来天気がよくて肉体上の病人は案外増加しなかったが、精神的患者が出て来て悩んでいる。
御承知のように、家屋破壊の当時は、百余名の警官が民家を囲んで姓名不明の人夫を指揮して少数の村人を侮り責め、殆ど暴力で以て家屋を破壊してしまった。こうして居場所を失ったところへ雨が降り、立ち退くべき小屋もなく、暗夜に燈火もなく、風雨に打たれ、叩かれ、晒され、日夜生命を刻まれるという悲しみ。かつては多年官吏の迫害に会い、堤防を打ち砕かれ、数限りない苦しみに心身が疲れ果てた末に、知識も乏しく、食料も乏しく、細民にとっては幾分精神に狂いの来るのも無理のないことである。誠に矢中村は家屋破壊の当時よりも、今は一層の悲境に陥り、ただ東京その他諸県の仁人が設備した救済会がどうなってゆくのか、それだけに希望をつなぎ、わずかに悲しみを慰めているところである。
016 目下の事態はこの手紙にとても述べ尽くすことができない。憐れとも何とも言い難い。ただし法律は自治の旧村を潰してこれを公益だと偽り、土地物件を掠奪して良民を路頭に飢えさせ、またしばしば矢中村の旧堤と人民が造った新堤を砕き、6年間村民を水で苦しめ、実価の十四五分の一で補償と偽り、善良有益な村を盗み、四隣諸県に有害な瀦水池を造り、その外形を亡ぼすことができても、この問題の真相が貴君の著述によって社会の耳目に入れば、政府資本家の亡状(無礼な言動)と罪悪は覆うとしても覆うことはできないだろう、この一事は到底法律の力では及ばないところである。矢中村はその地勢が頗る水利に富み、天与の肥沃地である点で日本無比、関東第一位にある。もし政府の悪干渉を除けば、天は人民と協力して忽ち天下無比の一大美村を造り出し、社会の公益を増進することは疑いもない。鉱毒は人の生命を刻み、多くの町村を滅ぼした。今や鉱毒は変態して、土地を収容し、土地を奪うことになった。しかし天は之に与さない。矢中村は早晩必ず復活するはずだ。
丁未(ひのとひつじ)1907年8月1日
田中正造」
序 (7月28日付の木下尚江の荒畑寒村宛て手紙)
019 「貴兄の該事件に関する観察は(貴兄の)書物が出版されたら読むとして、同問題に関する私の感想を二三述べ、貴評を仰ぐことにする。
一、矢中村の滅亡は政治というものの本来性を、最も明確にしかも露骨に説明したものだと思う。政治形式における君主専制、封建制、近代立憲制の如何を問わず、政治の実質は人類の一面である権力欲の魔性の発動であり、ただその手段が古代では武力という直接掠奪により、近世では法律という複雑な間接的方法に変化したに過ぎない。このことは歴史が明証し、学者が是認するところである。矢中村の滅亡は法律の作用による、だから「法治主義」という善良な偶像信徒の愚矇(もう)者流は、矢中村の滅亡は気の毒だがやむを得ないと確信するもののようだ。(一方)批評家の要務はその法律なるものがいかに運用されたかの実相を指摘し、この虐政を生み出した人類意識の根本に正確な判決を与えることであると私は思う。貴兄ご著作の本意も必ずここにあると思う。しかし事実は多く隠微に属し、今日未だ知悉することのできないことも多いだろう。小生は貴兄が一層の研究を積み、大成を他日に期せられることを願っている。小生は矢中村滅亡事件は法治宗信徒の惰眠の枕頭に投じた天賜の爆裂弾だと確信している。(法治主義に対する嫌悪感があるようだ)
020 一、労働の神聖な威厳という信念は、小生が矢中村最後の非劇中で学んだ極めて貴重な教訓である。最後まで踏みとどまった十数戸の村民は、いずれも列伝に値する勇者であると思う。そして彼らの間に共通の生命は、労働という自信の力であると小生は見て取った。彼らはいずれも自己の両腕でその田を求め、その家を建てたのである。田地が農民にとって貴重なものであることは当然のことであり、特に自らの汗で得た田畑は、彼らにとって最早田とか畑とか屋敷とかいう単純なものではなく、実に血と涙の最愛の恋人である。彼ら十数戸の農民が脅喝欺騙(へん)などあらゆる政府の悪い手段に耐えてその生活を継続したのも、実にこの恋人と終始を共にするという大精神ではないか。400戸の村民中で先ず政府の術中に陥り、その田と家とを捨て売りして他に転じたものは、いずれも坐して父祖の遺産を相続した資産家であり、労働の真義を会得していない輩である。
一、彼ら十数戸の農民が、婦女小児に至るまで、最早警官を恐れず、政府を恐れず、法律を恐れず、家屋破壊の黒子(後見)を眼前に控えながら、麦を打ち、魚を釣り、平然として日常の稼業に従事して驚かなかったことは、小生が特に崇厳の感に打たれ、しばしば落涙したるところに候。
021 一、この暴政弾劾の声の間に育ち、我が田地が奪われ、我が家が壊れるのを目撃した児童の中から、天晴超絶の人格が成長するだろうことを、小生は毫も疑わないところである。確かに矢中村は滅亡した、国法上は滅亡した。しかし、これはむしろ児戯にすぎない。「矢中の水村」は小生にとって誠に長(とこ)しえの恋である。
1907年7月28日 伊香保の陋屋にて
木下尚江
感想 荒畑寒村もそうだが、この木下尚江1869-1937も情緒的。「伊香保の陋屋にて」とあるが、木下尚江の父は松本藩の下級武士。木下尚江は1901年、幸徳秋水、片山潜、堺利彦らと社会民主党の結成に参加。1904年、毎日新聞に、キリスト教社会主義の立場から、非戦論を盛り込んだ小説「火の柱」を連載。Wikiより。
自序
023 今年1907年6月10日、私は田中正造翁とともに矢中村を訪ねた。その時翁は私に「他日矢中村のために一書を著して世に訴えよ」と言われた。ところが帰ってからいくばくもなく、矢中村破壊の悲報が入り、私は痛憤のあまり、直ちに執筆した。それが本書である。
明治40年1907年7月
著者
凡例 編集部
028 平民書房版『矢中村滅亡史』(明治40年8月刊)は即日発禁となった。
カバーと表紙の版画は、小口一郎の連載版画集『野に叫ぶ人々』の「人畜におよぶ被害」である。
緒言
030 明治14年1881年に「渡良瀬川の魚類を食うな」と注意した栃木県知事・藤川為親は、鉱毒問題を提起したために島根県に左遷されたが、それから26年が経った明治40年1907年7月5日、鉱毒被害や瀦水池問題の紛争地であった矢中村は、遂に政府の狂暴無残な毒手によって破壊されて終わった。
20年間という長い間政府当局の暴状を弾劾し、村民のために尽瘁してきた老義人田中正造翁の熱誠は消滅するのか。流離巓沛(てんぱい、つまずき倒れる)し落ちぶれても墳墓の地を去るのを拒む村民の苦衷は消滅するのか。そうかも知れない。しかし矢中村が亡び、田中翁が死に、村民が悉く離散しても、ある事実は断じて亡びない。それは政府の力と資本家の富とを以てこの小さい村を滅亡させたという組織的罪悪である。
031 今日の矢中村問題の淵源は鉱毒問題にある。明治10年1877年、政府は足尾銅山を古河市兵衛に貸与し、古河はこれに巨万の資本を投じ、精巧な機械を設けて採鉱した。すると銅の産出量が急増し、鉱業会の面目を一新した。しかし世人がこの表面的で莫大な利益を喝采している時、銅鉱から出る悪水や毒屑は、山林伐採による洪水のために谷を埋め、渓流に注ぎ、渡良瀬川の魚族を殺し、両岸の堰樋(せきひ)を通じて田圃に浸潤し、草木を枯らし、田園を荒廃させ、人は病んでも医薬で対応できず、児は胎んでも流産し、たまたま生まれても母乳は毒水である。昔は豊かな田千里と言われた関東の沃野は、鶏や犬の声が絶え、黄茅や白葦がやたらと茂り、遂に荒野の原と化してしまった。
感想 荒畑寒村が20歳の時1907年に著した本書『矢中村滅亡史』新泉社1970によれば、1907年明治40年当時の「明治」政権は、民衆が陳情しても聞く耳を持たず、兇徒として逮捕拘禁し、本書を出版直後に発禁処分にした。1902年明治35年、赤麻沼が氾濫して矢中村の堤防が破れた時、県庁はこれを奇貨として復旧工事の名のもとに2年間で10万円の巨費を投じ、修復するどころかかえって堤防を破壊したというから恐れ入る。
この時に当たって、我が政府はそもそも如何の設備を以て、この可憐なる幾万無告の(自分の苦しみを表現できない)良民を救済せんとしたか。請う見よ、一代の義人田中正造翁が、この問題を提(さ)げて議会に号叫するや、政府の無情冷酷なる、常に曖昧なる答弁を以て、一時の苟安(こうあん、安楽)を是れ事とせりき。しかし爾後年々災害交々(代わる代わる)到って、被害地の窮状ますます甚だしく、ために被害民蓑笠糧(かて)をつつんで東上し、以て当路の有司(官司)に情を具せんとするや、暴戻残虐なる官憲は、彼らを路に要(待ち伏せ)して獄舎に幽囚し、冠するに兇徒嘯集の罪名を以てせるに非ずや。ここにおいてか一代の義人田中正造翁、あえて身を以て至尊(明治天皇)を冒し奉り、この幾万無告の蒼生が(の)惨状を直訴するや、官憲己が(自分の)曠職(こうしょく、職務を怠ること)の責を蔽わんがために、誠実神のごとき義人(田中正造)を目するに、発狂人を以てせるに非ずや。ああ耳ある者は聞け、心ある者は想え、病躯を駆って生命の保安を訴えんとしたる窮民は是れ兇徒か。十年可憐無告の窮民のために絶叫するも、遂にその事聞かれざるを悲しんで、直訴せる義人はこれ狂者か。ああ明治政府の人民を虐待し、人道の戦士を酷遇する、そもそもまた極まれりというべし。
032 爾後年々その惨状は増したのに、担当官吏はこの問題に対して根本的救済策を講じず、却って被害が最も激甚な矢中村を買収してそれを瀦水池とし、以て政府資本家の積年の罪悪と、被害人民の積年の弊害と困憊と惨状と憤怒とを毒流の底深くに沈めてしまおうとした。これこそ暴政、悪虐、大罪悪ではないか。
032 明治35年1902年、赤麻沼が氾濫して矢中村の堤防が破れた時、県庁はこれを奇貨として復旧工事の名のもとに2年間で10万円の巨費を投じて、却って堤防を破壊した。爾来村民がどんなに懇願強請しても、決して修復せず、警察力で恐喝し、法律の威力で圧迫し、村民を他村に追放することに努め、硬骨剛直の者には金銭で目をくらまし、誘惑して酒色(女遊び)を以て買収し、こうして明治20年1887年の春に陸奥宗光によって企てられた陰謀は機運が熟し、原敬によって遂に今日の実行(瀦水池化)となり、数十年の大疑案は一朝にして消滅した。一小村の矢中村は数十年という長い間鉱毒で数十万の良民を苦しめて来た足尾銅山主古河家の顧問で内務大臣の原敬によって滅亡された。
033 こうして矢中村は滅亡した。悪魔は凱歌を奏しつつあるが、正義の力は弱いと言うな、国家権力は強いと言うな。彼らの陰険で残忍な組織的罪悪は明らかである。熱血も涙もない冷腸漢でも、この狂暴な為政者の残害と、これによって苦しめられてきた幾万の愛々たる同胞とを見たとき、痛憤して愛憐の涙が湧かない者はいないだろう。
私はこれまでにもしばしば政府の暴政と村民の惨状に関して世間に訴えてきて、また事がついにここまでに至ったのだから、これ以上何も言うことはないのだが、一片の志を禁じることができない。本書で私はこの権力者の大罪悪をうまく表現できただろうか。以下為政者・資本家等の大陰謀、大罪悪を残りなく語らせてほしい。
第一 鉱毒問題の起因
035 今日の当面の矢中村問題は瀦水池問題であるが、実はその遠因は鉱毒問題にある。瀦水池問題と鉱毒問題とは同じ問題である。従って先ず既往数年間の鉱毒問題について語らせて欲しい。
鉱毒問題の発生源は足尾鉱山である。東京を隔たること北に40里157km、野州(下野、栃木県)が上州と接し、峯巒(らん、連山)重畳(ちょうじょう)としたところの一帯に銅脈があるが、これを足尾銅山という。言い伝えによれば、慶長15年1610年に近傍の土民が始めて足尾銅山を発見したと言われるが、爾来約300年間ここは徳川氏の直轄であったが、明治になって日光県が管轄するようになり、明治10年1877年3月、政府はこれを古河市兵衛に貸与した。古河はこれに巨万の資本を投じて設備を盛んにし、規模を大きくしたが、鉱毒予防の設備にはまったく手をつけなかった。そしてこれを監督する政府もこれを顧みなかった。人々が設備の宏壮や規模の雄大、産鉱の多額などを見て、驚倒駭魄(がいはく、驚かす)し賛嘆喝采している間に、その裏面では恐るべき銅鉱の流毒が無言の間に播布していた。
精銅が運搬された後には、坑口に廃石や鉱屑を堆積残留する。この廃石は百分の六の鉱物を含有するが、その鉱物は甚だしく土地を荒らし、人畜を害する力を持つ。そして年々間断なく搬出するこの廃石の捨場が欠乏し、鉄路を延長して山腹を横切り、渓谷に捨てたり往来の道路に埋めたりした。こうして到るところの渓谷や凹地を埋めていって漸く鉄路を延長せざるをえなくなったとき、会社はこれに要する費用が巨額になるのを恐れて、多くは渡良瀬川に投入した。この恐るべき多量の毒素を含有する銅屑や鉱石と、坑口から流れ出る毒水などが谷を埋め、渓流に注ぎ、渡良瀬川を奔流し下った。また鉱業の発達に伴ってこれに要する木材は、銅山付近の山林を濫伐して用いた。また銅山から噴き出す毒煙が近傍二里四面の山林を不毛にし、かつては老樹古木が鬱蒼としていた山林も忽ち兀(こつ、禿山)赭(しゃ、赤土)となり、岩石が磊(らい)々として、一樹半枝が目を遮ることがなくなった。そのため一朝豪雨が沛然として至る時、河水が忽ち増加し、水勢急渦を巻いて奔流すると、数流の支流もともに水量が増加し、河身がほとんど横溢しようとする。さらにこの年の洪水のために、上流から流れる土砂が河身を埋めて河床が高まったので、水勢は下流に行くにしたがって遅くなり、却って上流に逆流して遂に堤防を決壊して両岸に氾濫し、田園を一面の毒海となした。そしてしばしば襲来する洪水は、常に恐るべき多量の鉱毒を運び、渡良瀬川や利根川沿岸一帯の地を荒蕪させていた。
以下鉱毒問題史について記す。
第二 鉱毒問題第一期
038 足尾銅山流毒の結果は明らかだったが、下流沿岸の田園がその用水を通じて害毒を被ることは漸次的であるため、すぐに農民を驚かすことはなかった。しかし直ちにその影響を被ったものは河岸の漁民であった。渡良瀬川の鮎は漸くその影を見せなくなり、鮭も遡って卵を託せず、その他の雑魚も斃死(へいし)するものが非常に多くなった。そこで明治14年1881年栃木県知事藤川為親は、渡良瀬川河流の魚類の販売と食用を厳禁した。
ここに魚族は種を絶ち、沿岸の漁夫農民が漸く離散零落する悲運の時代がやって来た。
明治21年1888年の大洪水は、渡良瀬川と利根川沿岸一帯の地を泥土の蒼海と化し、鉱毒が田圃を覆いつくしたため、翌明治22年1889年、栃木県の足利、安蘇、梁田(やなだ)、下都賀の四郡では鉱毒のために大変な不作となった。そして渡良瀬、利根沿岸一帯も漸く鉱毒が犯すところとなった。鉱毒は両岸の堰樋を通して田圃に浸潤し、用水に混入し、作物を枯死させ、人畜を斃した。この沿岸の地は5万町歩500㎢、住民は30万人。一年毎に鉱毒は激甚を極め、祖先伝来の田園は荒れ、五穀は実らず、家畜は斃死し、大勢の人が病んで斃れた。無告の人民は人為の災害によって着る衣もなく、食うものもなく、死んだ子を負い、病んだ親を擁(いだ)き、葦と茅の間をよろよろとさまよい、有司の冷酷と世の無情に号叫していた。
039 翌明治23年1890年、時の栃木県知事折田平内は鉱毒試験田を、下都賀郡矢中村、安蘇郡植野村、足利郡吾妻村、同毛野村、梁田郡川辺村、同久野村等に設置し、技師を聘(へい)して土壌分析を行わせたが、正確の結果が得られなく、更に農科大学に依頼した。
当時被害民はあくまでも忍んでいたが、同年1890年8月と翌1891年の9月にも大洪水があり、毒土が堆積し、作物は枯れ、人畜が頻繁に斃れて遂に堪えることができなくなり、同年1891年12月、以下の町村*の被害民一同が連署して一篇の請願書を政府に提出し、救済の道を哀求した。曰く「速やかに鉱毒除去の道を講ぜよ、そうでなければ直ちに鉱業を停止させよ」と。
*栃木県、群馬県、茨城県、埼玉県、千葉県の各町村は以下の通りである。
・栃木県安蘇郡植野村、犬伏村、境町、足利郡吾妻村、久野村、筑波村、梁田村、御厨村、山辺村、三重村、山前村、葉鹿村、小俣村、北郷村、足利町、富田村、毛野村、下都賀郡三鴨村、藤岡町、矢中村、野木村、生井村、寒川村、部屋村、赤麻村、
・群馬県邑楽郡谷田村、渡良瀬村、多々良村、海老瀬村、伊奈村、赤羽村、千江田村、梅嶋村、佐貫村、三野久村、六郷村、長柄村、高島村、千野村、館林町、郷谷村、大ケ野村、韮川村、矢場川村、林泊村、大嶋村、山田郡桐生町、広沢村、境野村、相生村、毛里田村、
・茨城県猿島郡古河町、新郷村、香取村、静村、五霞村、猿嶋村、境村、森戸村、長須村、岩井村、中川村、長郷村、神大実村、沓掛村、七重村、生子菅村、逆井山村、長田村、八俣村、幸島村、岡野村、桜井村、勝鹿村、
・埼玉県北埼玉郡川辺村、利嶋村、
・千葉県東葛飾郡関宿町、二川村、木間瀬村、川間村、野田町、旭村、梅郷村
またこれと同時に1891年12月、田中正造代議士は第二議会で「足尾銅山鉱毒加害の儀に付き質問書」を提出し、
一、数年間政府が之を緩慢に付し去る理由如何。
二、既往の損害に対する救治の方法如何。
三、将来の損害に対する防遏(ぼうあつ)の手段如何。
の三点に分けて政府の答弁を促した。これは鉱毒問題が天下社会の公問題となったはじめである。
041 しかし第二議会は月(1891年12月)の29日を以て解散させられ、時の農商務大臣陸奥宗光は荏苒(じんぜん)として(のびのびにして)空しく時を過ごし、議会解散後になって漸く初めてその答弁書を公にした。その要は以下の通りである。
一、群馬・栃木両県下の渡良瀬川沿岸の耕地に被害があるのは事実だが、被害の原因が確実でない。
二、右被害の原因について目下各専門家が試験調査中である。
三、鉱業人は可能な予防策を実施し、独米から粉鉱採聚器を購入し、一層鉱物の流出防止の準備をした。
この答弁書を見れば、渡良瀬川沿岸の被害が足尾流毒の結果ではないと言うことはできないことは第三項を見れば明らかだが、その原因究明がまだ明らかになっていないから専門家が試験中であると言って、一時的に質問の鋒(ほこさき)を避けたという要旨である。
この答弁書が提出される前に議会は解散した。つまり陸奥宗光農商務大臣は責任を免れようとして議会の解散を機に急に答書を認め、急遽これを公にして、一時を糊塗しようとした。また陸奥宗光の次子がこの問題の当面の責任者である古河市兵衛の養嗣子であって姻戚関係にあり、被害民は憤慨激昂して「陸奥はその姻戚である古河の利益を保護するために、態度を曖昧にして責任を免れた」と叫んだ。私はすでに物故した陸奥に対して濫りに陸奥の当時の心情を忖度するものではないが、今は私も不幸にして「政府資本家が共謀結託して矢中村を滅亡させた組織的罪悪の端緒をここに発する」と宣言せざるを得ないことを悲しむ。
第三 鉱毒問題第二期
043 先述のように第二議会は明治24年1891年12月29日に解散されたが、翌明治25年1892年の春、政府の(選挙)干渉の下で、流血殺傷のうちに総選挙が行われ、その後の第三議会は官民が大反目する中で召集された。激烈な政府の干渉に打ち勝って再選された田中正造は、曩日(どうじつ、のうじつ、さきの日、昔)の陸奥宗光の答弁書をとらえ、さらに鉱毒問題に関する第二の質問を痛憤淋漓(りんり、元気)として試みた。
これより先に、試験調査に従事した各専門家の報告書が公にされた。大学教授丹波敬三の報告は「…田圃の被害の原因は、土壌中に存する毒であり、その毒は足尾銅山にある…」とし、また農科大学の報告は「…渡良瀬川の河底に沈殿している汚泥は植物に有害な物質を含有している。被害地が有害物を含有する理由は、この汚泥が洪水氾濫の際に田圃に澱渣(てんさ、よどむ、かす)または流入したことによることは明らかであり、足尾銅山鉱業所の排出水が渡良瀬川に入ったものが、有害物を含有することは事実である」としていた。
044 田中正造代議士の先の第二議会での第一の質問に対して、時の政府が答弁したことは、「渡良瀬川の沿岸の耕地の被害は、その原因がまだ明白でなく、今その試験調査中である」としていたが、その調査がすでに完了し、被害の原因が足尾銅山の流毒であることが明白になったのだから、政府は当然の職務としてその善後策を講ずるべきである。そして鉱業条例第59条は「鉱業上に危険があり、または公益を害すると認められる場合は、所轄監査署長は鉱業人にその予防を命じ、または鉱業を停止すべし」とある。だから政府がこの時点で執るべき方法は、直ちに鉱業の停止を命ずるか、周密な予防(策をとるよう)の命令を発するか、どちらかしかなかった。
しかし政府はそれをせず、言を左右に託して一時の責任逃れをしようとした。当時陸奥宗光は既に農相の職を去り、河野敏鎌がこれに代わっていたのだが、その答弁書は、
一、足尾の鉱毒が渡良瀬河岸被害の一原因であることを試験の結果によって認めたが、この被害は公共の安寧に危殆ならしむる如き性質を有せず。
二、既往の損害は、行政官たる者(私達)には何らの処分をなすべき職権がない。
三、将来予防のため、鉱業人は粉鉱採聚器の設置準備中である。
四、鉱業人は上野国待矢場両堰水利土功会と契約し、自費で両堰水門内に沈殿場を設け、時々これを浚渫すべく準備中である。
045 政府当局は何でこうも冷淡なのか。上記の答弁書第一項「この被害は公共の安寧に危殆ならしむる如き性質を有せず」とあるが、鉱毒の被害は狭いと言っても、5万町歩500㎢に渡り、被害に苦しむ生民の数は30万人もいる。これが公共の安寧を危殆ならしめないとすれば、何が公共の安寧を危殆ならしめるのか。
また政府は被害の程度は鉱業を停止するほどではないというが、もし政府がそう認定するのなら、必ず流毒の予防策を講じなければならないはずだ。粉鉱採聚器は今でも銅山選鉱所で稼働しているが、粉鉱採聚器は却って利を収めるために、銅山が孜々として(一生懸命に)その(粉鉱採聚器の)精良なものを選んでおり、また鉱毒は粉鉱だけが原因ではない。これ(粉鉱採聚器)で流毒の予防ができないことは明白である。時の政府がもしこれを以て流毒予防の効果があると信じるなら、それが技術官の虚偽の報告に基づくものでないとすれば、人民の無識を蔑視して一時の難を逃れようとするものなのだろう。
また二、三の水門での沈殿作用だけで渡良瀬川全ての流毒をどうにも処理できない。従って答弁書中の第三、第四項は、政府が負うべき予防の職務に叶うものでない。さらに既往の損害に対して行政官に職権がないと言うが、何という冷淡、無情なことか。全く人民を蔑視愚弄するものであり、憤慨しない者がいようか、被害地人民はなおさらだ。
第四 鉱毒問題第三期
047 政府当局者が従来民衆の利福を尊重せず、渡良瀬沿岸の惨状を直視せず(雲烟霞眼(うんえんかがん)視し)、当然の職務を怠り、ひたすら鉱業者だけの私利私福だけを庇護保全してきたことは明らかだ。しかし渡良瀬沿岸の被害の原因が足尾銅山の流毒にあることが証明され、河岸人民の苦喚悲叫がますます囂々(ごうごう)とし、世論も漸くこれに注意し始めたため、政府も長い間何もしないで沈黙していられなくなった。政府は被害地の人民の口を閉ざさせ、再び鉱毒問題を訴えることのないようにしたのである。
これより先古河市兵衛は被害地人民に向かって示談の方略を講じた。そして両者の斡旋に奔走したのは県知事以下の各郡村長や大小官吏であった。明治25年1892年3月20日、仲裁委員が選定された。交渉の結果1892年6月15日、古河市兵衛は栃木県安蘇郡、梁田郡、下都賀郡に対して4万円の出金を約束した。7月28日、梁田、足利両郡に対して3年年賦で3万円の出金を約した。群馬県では6月中に邑楽郡渡良瀬、大島、西谷田、海老瀬など諸村の被害民が大挙して上京した時、中村群馬県知事は県議会議員野村某などに仲裁させ、古河に1万5600円の出金を約束させた。また群馬県待矢場両堰の除害工事新溜渫(りゅうせつ、溜は「たまる」、渫は「さらう」)費に対する寄付として、6500円を出金させて調停した。
048 地方の官吏が多数の人民の被害の惨状を顧みず、鉱業者の利益のために示談の周旋に奔走し、みだりに官職の権威を濫用して無知の民衆を圧服しようとすることは暴虐である。これは単に地方の官吏だけの発意ではなく、中央政府の内命に出たものであった。矢中村の滅亡は政府資本家共謀の組織的罪悪である。
示談契約書を見ると、鉱業者の利益を保護するために些少の金銭で被害人民の口を覆おうとしたに過ぎないことが推測できる。
契約書
049 下野国上都賀郡足尾で古河市兵衛が営む銅山から流出する粉鉱のために渡良瀬川沿岸の各町村に加害があったが、これについて今般仲裁人が立ち入ってその扱いに任じ、梁田郡久野村人民から正当な手続きを尽くして委員を付託された総代稲村忠蔵他12名と古河市兵衛との間で熟議し、以下の通りの契約をした。
第一条 古河市兵衛は粉鉱の流出を防ぐために、明治26年1893年6月30日(今から1年後)を期し、精巧な粉鉱採聚器を足尾銅山工場に設置する。(鉱毒の原因は粉鉱だけではない)
第二条 古河市兵衛は仲裁人の取り扱いに任せ、徳義上、示談金として、左のように支出する。
第一項 金319円61銭9厘 これは本件のために要した失費に充てる。
第二項 金5000円 これは久野村の関係地に配当する。
第三項 金2200円 これは水防費として、明治26年1893年10月30日、同27年1894年4月30日の両期に、半額宛て支出する。(今から1年後と2年後)
第四項 第一、第二両項の金額は即時支払う。
第五項 第三項の金額は、やむを得ない支障が生じて水防工事ができないときは、さらにこれを該村の関係地に配当する。
第三条 前条の金円を古河市兵衛が払ったのだから(支払いたるについては)、明治29年1896年6月30日までは*粉鉱採聚器の実効試験中の期限として、契約人は何ら苦情を唱えることはできないことは勿論のこと、その他、行政や司法の処分を乞うことも一切してはならない。(粉鉱採聚器がうまくいかない間でも文句を言うな。この契約が明治25年1892年8月だから、それから先4年間は黙っていろということである。)
第四条 明治29年1896年6月30日以降になり、粉鉱採聚器の効果があったときは、この契約は終わりにし、(その後は)互いに和睦すべきである。
第五条 万一前条の粉鉱採聚器の効果がなかったときは、さらに明治26年1893年7月から起算して、なお将来に臨機の協議をし、別段の約定をする。(いまのところその後のはっきりとした保証はないということ)
第六条 古河市兵衛は渡良瀬川源流の連山の立木を伐採するが、その水源涵養を害しないように努め、伐採後に苗木の植え付けを怠らないこと。(古河市兵衛による伐採は可能で、植林は努力義務である。)
第七条 これに関係する地を他日他人に売却・譲与する場合は、必ずこの契約があることを買い受け人や譲受人に承諾させた上でその手続きをなすべし。また古河市兵衛が鉱山経営名義を変更する時も同様とする。ただし本文承諾の手続きをしないで売買譲与した者は、買い受け人または譲受人から何と申し出があっても、古河市兵衛とその関係者は、一切関係せず、この契約者は連帯責任として責任を負うこと。(埒明(らちあけ)申すべきこと。ちゃんとやれということ)
第八条 関係地の区域は別紙図面と明細書で証明する。
第九条 この契約書は二通作り、互いに取り換えておく。前条のごとく、示談ができた時は互いに親睦を主とし、将来異変のないよう一同連署した。
明治25年1892年8月
証
一、金1909円97銭2厘
051 右は栃木県毛野村大字川崎において、足尾銅山鉱毒事件について、明治26年1893年3月6日付の御契約もあり、今般ご協議の上、更に頭書の金額を貴殿から領収しましたことは確実です。依って同鉱山の御稼行によって常時不時を論ぜず(いつでも)、鉱毒の土砂その他渡良瀬沿岸等所有の土地に迷惑をかけるような何等の事故が生じても、損害賠償その他の苦情は一切申しません。(苦情ケ間敷儀一切申間敷候)尚自今右の土地を売買・譲与するときは、買い受け人または譲受人に本文契約を守るべき旨を承諾させ、いささかも貴殿の御迷惑にならないように取引します。云々。
明治29年1896年7月16日
栃木県足利郡毛利村大字川崎
地主総代
保証人
古河市兵衛殿
これに対する古河市兵衛の返事は次の通りである。
念書
本日貴殿等と拙者との間に取り結んだ契約によって、足尾銅山鉱毒事件は全く落着した。ついては同山において既設の粉鉱採聚器を継続使用し、かつ将来事業の拡張の際にはさらに同機器を増設し、可及的(なるべく)粉鉱を流出しないように勉めるから、このことについて念のため申し入れおく。(なるべく、つまり完全でなくてもいいと平然として言っている)
古河市兵衛
毛野村大字川崎総代宛
また、前年に結んだ契約書が満期になったとき、つまり明治30年1897年2月に、足利郡民と鉱業者古河市兵衛との間で次の示談書を締結した。
契約書
下野国上都賀郡足尾で古河市兵衛が営業する銅山から流出する粉鉱や土砂等につき、渡良瀬川沿岸町村に加害があり、先年仲裁人に任じ、旧梁田郡御厨村、筑波、梁田、山辺、及び旧足利郡葉鹿村の被害地関係者と、古河市兵衛との間で示談して契約書を取り換えていたところ、その契約書の期限がすでに終わったので、今般さらに仲裁人の取り扱いによって、足利郡御厨村、筑波、山辺、梁田、及び葉鹿の五つの村の人民から、正当な手続きを尽くして委任付託された栗原嘉藤次他28名と、古河市兵衛との間で熟議し、次の通り契約をした。
第一条 古河市兵衛は示談金として左のように支出する。
第一項 金600円也 これは明治30年1897年12月までの示談金として支払う。
第二項 金354円也 これは来たる明治31年1898年から永久に毎年4月25日に、前記の金円を支払う。
054 第二条 古河市兵衛が前条の示談金を支払うのだから、関係地人民は、政府や帝国議会や裁判所に対して何等の請願や出訴をしないことは勿論のこと、永久にこの問題について苦情等を一切申し出ないこと。
中略
第五条 古河市兵衛が将来該銅山の営業を休止するか、粉鉱土砂流出の予防法等が完備して、渡良瀬川沿岸に対する加害が皆無と公認された場合は、この契約は全く終了したものとし、互いに無効であること。
鉱毒は粉鉱だけが原因ではない
これらの契約には根底において事実誤認がある。これらの契約書はいずれも銅山から流出する粉鉱が鉱害の原因であるとし、だから粉鉱採聚器の据え付けが唯一の鉱毒除毒の方法だと断定して締結したものである。しかし私は元足尾銅山の一事務員の、『六合雑誌』第232号、明治33年1900年4月15日発行、への寄せ書きから、鉱毒が粉鉱だけではないことを知った。つまり、
(上略)鉱毒の原因を以下に述べるが、その前に、鉱毒は天然の作用で下流に惨害をもたらすものではなく、人工を加えなければ鉱毒を流逸させることはできない。また世人が信ずるように、その水や泥渣がある時に急に雨水に会って運搬され、下流に害を及ぼすのでもない。劇烈で真正の鉱毒の元素を包蔵する箇所を説明しよう。
抑々足尾銅山は明治15年1882年、横山歩砒*が良鉱に当たってから事業が盛大になり、次第に出鉱量が増加したのだが、その捨石を百分の六の良鉱が付着したまま放棄した。(捨て石は洗鉱所に送られて洗浄され、貧鉱なら捨石として他所に運搬して放棄する。)本口坑では飯場の屋敷地から下部へ百尺30mほどをこの捨石で埋め立て、それは年を経るに従って凝結して殆ど水成岩状になっている。そして年々捨石で渓谷を埋め、捨石場が欠乏してくると、鉄路を延長して山の中腹を横切り、道路を廃してこれを埋め、一昼一夜(24時間ずっと)二十五人四分の人夫で、16才を満たすべき筥車(きょしゃ、かごの車)に盛った捨石(28年の調査)が、間断なく坑内から運び出される。(分は1/10人を、才は鉱石の量や重さを指すものと思われる)例えば有木坑では1日495車、4(1車から16才が得られる)の捨石を以て、次第に渓谷が埋められてゆくと、他の渓谷に鉄路を延長し、明治29年1896年、京子内と称する一大凹地を填充した。(長さ3町327m、幅1丁、深さ65尺20mの不正形三角の渓谷)そして京子内が欠乏すると、ここからさらに2280尺690m隔たった高原木まで鉄路を延長した。このように距離が遠隔するにつれて運搬費用は増加する。例えば、坑内から京子内まで、1車16才の捨石(の運搬費用)は平均5銭で、1日500車とすれば25円となる。しかし高原木まで延長すると、距離がその2倍以上あるから、1車平均12銭の運搬費を要する。そうすると1日の経費は35円増加し(総計60円)、これは1年間で1万2700円増となる。また急勾配の山腹を貫通する鉄路の維持費は1年1000円を下らない。従って鉱業当局者は、坑内と捨石場との距離の接近を求めるために、大雨が襲来するのを待ってこれを渡良瀬川に除去するのである。ところがこの捨石には凝集性があり、粘着して強固な地盤となり、大雨でも決して溶解や崩壊流出することがない。現に本口飯場の敷地は百尺30mの断崖状となっているが、崩壊の恐れがなく、その捨て石の上に家屋を建築している。強いてこれを破壊しようとするなら、ダイナマイトを用いないとできない。従って大雨が一度来ると、昼夜を問わず人夫を非常招集し、鉄桿(てっかん、鉄のてこぼう)やダイナマイトでこれを崩壊して渡良瀬川に投入する。
以上のように坑内から間断なく運び出される100分の6の鉱物を含有する多量の捨石は、渓谷を埋め、暴風雨の時を待って一時に下流に放棄される。これが鉱毒の源泉である。以下二三の例をあげ、鉱毒を蒙った下流沿岸の年月を示そう。
*Wikiでは木村長兵衛が大鉱脈を発見したとある。
明治23年1890年9月の洪水の時、本口と京子内の大半の捨石を昼夜100余人の人夫を以て放流した。翌明治24年1891年9月30日の大水の時もこの仕事をしたが、その後明治29年1896年7月21日の大風雨までは洪水がなかったため、捨石が非常に蓄積し、高原木までレールを延長する計画を立てていたのだが、この7月21日の大水の時、雷雨の中を懸賞してその幾分かを放流した。さらに8月17にも暴風雨があり、この時は前の数倍の人員を投入し、ダイナマイトを用い、固着した基礎を破摧(さい、砕い)した。そして同年1896年9月8日には全力で、遂に1町100mに3町300mの広さ、深さ65尺20mの間に堆積した捨石を悉く皆放流した。この年月と耕作物の害を蒙った年月とを比較すれば、思い当たることが多いだろう。
057 (中略)厳重な除害の命令も、容易にその効果がなかった。今鉱主が行う卑劣な手段の一二の例を挙げれば、明治26年1893年10月12日、鉱毒の件で山田泰造氏が足尾に出張したことがあった。銅山は直ちに足尾町長に命令を下し、全ての旅人宿を閉鎖させ、寺院・劇場等演説の会場に適した一切の場所を閉鎖しただけでなく、壮士(無職の用心棒)を使嗾(しそう、嗾はけしかける)して山田氏の一行を妨げ、路傍に立ち往生させた。また新井、田村、野口、高橋の一行の場合は、阿言(おもねり)を呈して額で地を叩き、盛膳と慰労の御礼を以て彼らを幻惑した。鉱毒調査をする人がどこからやって来ても、直ちに電話をして中央事務所から東西南北の出張所に命じて、全ての鉱毒の原因となるものを覆い隠し、坑内のポンプも運転を中止したため、坑内から流出する水を認めることができなかった。こういう弥縫(びほう)策を行う銅山では、どんなに厳重に調査をしても中々鉱毒を防止することができなかった。
要するに鉱毒の原因は、未だ人が調査していないところにある。即ち人為的に鉱毒を流出させるのだから、沿岸の5万町歩500㎢の荒地と30万人の生命は、まさに古河が責任を負わなければならない、云々。
058 以上の通り、銅山主の罪悪は明らかである。しかし彼らの狡譎(けつ、偽る)さは、粉鉱を鉱毒の真因とし、些少の金銭で被害民の口を緘しようとする。その手段は陰険で、憎んでも憎み足りない。政府がこの事実を知らないで示談を斡旋したとすれば、不明の罪を逃れられない。またこれを知ってしたのなら、政府自らが詐欺の大罪悪を公然と行ったということではないか。ところが無知蒙昧な被害民の多くは、或いは政府の欺言を信用し、或いは官吏の圧制に恐れを抱き、或いは些少の金銭に心を奪われ、ついにこのように些々たる一時金を以て、永久の損害要償権を鉱業者に売却し、或いは年々若干の金を得て、鉱毒の惨害を忍ぼうとするようになったのである。
感想 2023年7月23日(日)
ビッグモーターが客の車を傷つけてまでして修理代金を稼ごうとしていたとのことだが、足尾銅山の経営者・古河市兵衛も、置き場が遠くなると経費が余計に掛かる固まった廃鉱石を、大雨の日にダイナマイトで破壊して渡良瀬川に流し込んだという。056
古河はそのことは隠し、鉱石の粉だけが鉱毒の原因だとして、独米から購入した041粉鉱採聚器に注意を集中させた。また古河は、県議会議員を仲介に立たせ、村の地主連を村民の代表にさせ、わずかの金で以て、今後提訴や、政府・行政・国会等への要望は一切するな050, 054、という契約書を結ばせたという。時代が変わっても金銭欲は変わらない。
第五 鉱毒問題第四期
059 かかる間の明治29年1896年7月1日(056では7月21日)、同8月17日、同9月8日に相次いで大洪水があり、水嵩(かさ)が2丈2尺7mを超え、渡良瀬川沿岸の人民は毒浪の中に漂い、地層数尺1.5mは毒に染み、田圃は植物の培養力を失い、人畜もその余毒に犯された。そして渡良瀬川の毒水は利根川に混じって江戸川に氾濫して東京府に押し寄せ、本所・深川両区を浸し、本所小梅在の農相榎本武揚(たけあき)子爵*の邸内にまで浸入した。
翌明治30年1897年2月、田中正造氏はこの件について(国会で)質問し、それに対して政府は3月18日、内務大臣伯爵樺山資紀(すけのり)と農商務大臣子爵榎本武揚の連署による答弁書を公表したが、それは政府が資本家を庇護し、被害人民の口を緘し、鉱毒問題を暗黒裡に埋没させようという意思であることを暴露した。この答弁書こそ政府の肺肝を見透かすことができる資料である。即ち、
060 「栃木県上都賀郡足尾銅山鉱毒事件は、明治23年1890年以来の数回の調査により、渡良瀬川沿岸の地に鉱毒が含有するという結果を得た。そして明治25年1892年、鉱業人は仲裁人に任せ、正当な委任を付託された沿岸町村被害人民総代との間で熟議契約し、被害者に対して徳義上、示談金を支出し、かつ明治26年1893年7月から同29年1896年6月30日までを、粉鉱採聚器の実効試験中の期限として、その期間は契約人民は何ら苦情を唱えられないことは勿論のこと、その他行政や司法の処分を請うことも一切行わないことを鉱業人と契約した」
また、
「群馬県邑楽郡渡良瀬村外数村人民は、明治25年1892年7月中に、第一に記載した契約を鉱業人と締結し、その請願事項に対して示談が整ったから、政府はこの処分をしなかった」
政府はこのように鉱毒問題を政府の責任から放擲し、さらに、
「なお鉱毒等から生じる町村共有地の損害は、第一に記載した契約書第五条049によって、さらに明治26年1893年7月から起算して、なお将来について、臨機に協議を遂げ、別段の約定をなすか、もしくは民法上自ら救済の途があれば、これによる以外にない」
文中の契約第五条とは、前述の示談契約書のことであり、私はこのことから、かの示談書は、政府の意思から出たものであり、政府が鉱毒問題を政治(議会)壇上から駆逐し、鉱業人と人民との民法的関係に一任しようとしたことの明らかな証拠であると考える。
061 政府にはすでに鉱業者を監督してその鉱毒を予防するという真意はなく、それどころか被害人民を詐騙瞞着し、被害人民を鉱業者庇護の器械にしようとする。この冷酷無責任な答弁書を見た被害人民は憤慨措く能わず、明治30年1897年3月23日、大挙死を決して上京し、当路の有司に状を具せんとしたが、不幸にして途中で横暴な警官がそれを抑留した。そして警報一たび飛来して政府は騒然となり、周章狼狽し、翌3月24日、にわかに鉱毒調査会を設け、被害地に対して免租の命令を発した。
鉱毒調査会の設置と被害地に対する免租処分は、このような窮迫の時機に成立したものであるが、もし被害地人民の決死の運動がなかったならば、これらの不完全で不備の一時的な糊塗策に過ぎない施策さえ容易に設けられなかっただろう。そしてまた当時の内閣が大隈・松方両伯の連合であり、民間の政治家が入って政府の要地にいたことは、被害地人民にとって幸福なことであった。もし既往の政府だったら、人民の決死的運動も、ただいたずらに憲兵巡査の人民保護の佩剣(はいけん、帯剣)と悪漢捕縛の捕縄とを汚すに止まり、一毛も利するところがなかっただろうと思う。
同年明治30年1897年5月27日、鉱毒予防命令が初めて出された。その命令とこれに基づく除害工事についての詳細な評論をする暇はないが、その鉱毒予防の実施によって、鉱毒が減却することはなかった。そのことは渡良瀬川の有名な鮎、鮭、鱒がほとんどその影を失い、ただ僅かにハヤを産するに止まり、そしてこのような魚類の減少は、沿岸2000人以上の漁業者を1/10にも足りない少数に減らし、また河水を水田に落とす入口に接近する場所に植えた苗は著しく他所よりも発達を害され、刈り取った藁などを焼くとその残灰中に多量の鉱物を発見することなどから明らかである。
062 さらに免租の仮処分には三種類があり、
一、渡良瀬川から直接田の用水を引いている場合、
二、渡良瀬川の逆流が流れ入った支流を用水とする場合、
三、明治29年1896年の渡良瀬川の洪水に浸された場合
に類別し、免租期間はこの類別に応じて差異があり、被害が激甚だった場合と軽微な場合とを区別する必要があった。ところが政府は軽微な被害地の人民が、目前の租税を免れる小利に迷ってさらに大きな損害に気づかないことに乗じて、荒地に対する非常方法を以て被害地全部に臨むという大失政を敢えて行った。(意味不明)
この租税処分によって国庫は年々30万円の減収となったが、その政治上の国民の損害はさらに大きかった。例えば衆議院議員の選挙権の場合、渡良瀬川沿岸における有権者数が著しく減少した。次に免租前後の比較表を掲げる。
063 郡名 免租前有権者数 免租後有権者数
足利 826 399
山田 688 264
新田 1,075 461
邑楽 946 156
安蘇 789 763
またこれは町村の自治制にも影響があり、公民の数が大きく減少して、多くの村制が根本から破壊され、群馬県邑楽郡大島村、栃木県足利郡久野村、同下都賀郡矢中村では自治制が廃滅した。
免租は政府の一時逃れの処分にすぎず、その結果は国民の権利を削り、地方自治を破った。こうして鉱毒の浸潤のために田畑は不毛の死地となり、産業を失っても訴える所のない幾万の男女は、これによって利するところがなかった。
*榎本武揚(たけあき)Wikiより
かねてより足尾銅山の鉱毒被害は問題となっており、1895年(明治28年)には、栃木県知事佐藤暢と群馬県知事中村元雄は連名で政府に足尾銅山に関する要望書を提出するが、榎本はこれを放置[168]。1896年9月の大洪水で鉱毒被害が拡大・激化。翌1897年2月、田中正造が国会で鉱業停止を命じない理由の回答を求める質問書を提出し、政府の取り組みを非難する演説を行った[169]。これに勢いづいた被害農民は1千名を超える陳情団(第1回大挙東京押出し)を上京させ、榎本は3月5日、被害農民と面談した[170]。3月18日、先の田中の質問に対して、政府は榎本と内務大臣樺山資紀の連名で「示談契約は古河鉱業と被害農民の民事上の問題であり政府は関与しない。鉱業停止も鉱業条例に適合するか断言できない。但し政府は黙視していたわけではない」という回答書を出した[170]が、この回答は被害農民の反発を招き、第2回大挙東京押出しを引き起こす[171]。3月23日、榎本は谷干城や津田仙の助言を受け入れ、津田の案内で現地を視察。同日夜、大隈重信に相談し、24日に鉱毒調査委員会を設置した[171]。27日に再度陳情団と面談[172]の後、29日に大臣を引責辞任、前官礼遇を受ける[173]。なお辞表では「脳症に罹り激務に耐えがたい」ことを辞任理由としている[174]。
感想 民衆など物ともしなかった榎本武揚が民衆の抗議を受けて辞任したということはまだ人間味があると言えるか。
第六 兇徒嘯集事件起る
064 明治31年1898年9月17日、明治29年1896年に比すべき大洪水が起こり、堤防の高さ当時1丈8尺6mを4尺1.2mも超え、渡良瀬川沿岸一帯はことごとく毒海と化し、埼玉県阿辺村の人民は200石積みの高瀬舟で、高台のある茨城県古河町雀の宮までの1里4km余を送致された。出生時死亡率をみると、全国の無害の地域では生れる者6に対して死ぬ者2であるのに対して、毒気激甚の地では生者2に対して死者6である。しかもその生者2も、毒を飲み、毒を食い、やがて毒に死すべき薄幸の人である。家の軒は朽ち、壁は風雨に破れて寝る所もなく、人生の惨事ここに極まれりというべきかな。
065 一方古河市兵衛は広壮な邸宅を構えて巨万の富を擁し、日夜酒色に耽溺し、自己が所有する銅山から20里80kmのところにある千里4000km(これは誇張)の沃野が毒原と化して葦と茅が徒に茂く、凍餓に苦しむ人民30万は訴える所もなく、天に向かって慟哭しているのも知らないかのようである。また当路の有司も被害民の哀叫に耳を貸さず、田中正造氏の議会での痛憤の怒号も、人民が病躯を駆って哀訴する苦衷も、彼らの一顧にも値しなかった。彼らは愚かだ。噴火の山頂で長夜の宴を張っている痴人であった。
見よ、被害民は遂に憤怒せり、最後の大破裂は遂に来たれり。聞け、明治33年1900年2月12日の夕べ、群馬県邑楽郡渡良瀬村早川田の鉱毒事務所雲竜寺の梵鐘は、殷々として(大きな音で)晩秋の荒原に咽んだ。これを聞くや、群馬県邑楽郡多々良、渡良瀬、大島、西谷田、海老瀬、郷谷、大毛野の諸村と、栃木県足利郡毛野、吾妻、久野の諸村、そして同県下都賀郡矢中村の人民約3000人が、蓑笠に身を固め、「…人のからだは毒に染み、孕めるものは流産し、育つも乳は不足なし、二つ三つまで育つとも、毒の障りに皆斃れ、…悲惨の数は限りなく…」と悲愴の声に鉱毒歌を歌いながら、老を助け病躯を支え、瞬時にして雲のように(雲竜寺に)集まった。これは彼らが旧年中から密かに議を疑していたものであり、ここまでやったのは、請うても聞かれず、訴えても顧みられず、屈辱と虐待の連続で、遂に忍ぶことができなくなり、大挙して被害地34ケ村、1064字の惨状を親しく国務大臣に訴え、もし不幸にして肯(うなず)かれなかったら、非常な方針に出ようとする決意であった。
065 これより先、群馬県警察は本部を館林に移し、栃木県警察は本部を佐野市に移し、憲兵数百人もまた佐野市に屯所を設けて非常に備え、各渡船場には警察官が数十人ずつ出張し、警戒はすこぶる厳しかった。
明治33年1900年2月13日午前10時頃、雲竜寺を出発して館林町に向かったときの鉱毒被害民の総数は1万2000人と言われた。栃木県足利郡久野村長の稲村与一がこの将であり、同県安蘇郡堺村助役の野口春蔵は一隊の青年を率い、馬に騎して号令指揮し、旗や太鼓も堂々と、途中邑楽郡役所を襲ったところ、郡長は恐怖のあまり逃走した。さらに館林町に向かい、警察署の門前で警察官との争闘を惹起し、5名の被害民が警察官のために負傷させられたが屈せず、警察官が死力を尽くした防禦を蹴破り、更に進んで川俣に至った。ここには警察官の全力と、数百の憲兵とが警戒していたため、野口春蔵が指揮する青年団2500人は、川舟二隻を大八車に載せ、舟の前に斜めに切った青竹数竿(カン、さお)を剣のように装着して曳き、警官がもし峻拒(きっぱりと拒む)したなら、これで突き破ろう進んだところ、一隊の憲兵と巡査が突如藪影から躍り出て道を遮り、洋刀を突き立て、靴で蹴倒し、拳で乱打し、土砂を投げかけ、負傷して倒れる者を捕縛し、被害民は遂に十数名の負傷者を出して退却した。
067 ところが館林警察署長は憲兵や巡査等を率いて逃げる被害民を追撃し、罵詈(ばり)し、突き倒し、踏み蹂(にじ)り、或る被害民は帯剣で乱打され、ある老人は5人の巡査によって水中に投げ込まれ、或る者は捕らえられて両眼に泥を塗られ、或る者は口の中に土砂を押し込められ、負傷者は路傍に横たわって呻吟し、流血は点々として、数里20kmに渡り、まるで戦場のようであった。
こうして被害民の計画も奮闘も遂に警官が破ることになり、志空しく水泡に帰した。ところが官憲の圧制暴手は続き、栃木県足利郡久野村長稲村与一、室内忠七、設楽常八、安蘇郡堺村助役野口春蔵、群馬県邑楽郡渡良瀬村長谷富三郎、多々良村亀井助次、西谷田村荒井嘉兵衛、その他この挙に加わった被害民は全て兇徒嘯集罪として前橋地方裁判所に送られた。
兇徒嘯集!ああこれが彼らの熱血と紅涙とを傾け尽くして僅かに勝ち得た報酬であった。ああ自己の権利を擁らんがために、自己の生命を保全せんがために、自己の窮状を訴えんがために、病躯を堤し老躯を支えて、大挙東上せんとする者は、兇徒か悪漢か、そもそもまた暴民か。ああパンを求めて石を与えられる。幾度か訴えて遂に聴かれず。最後の手段を取って志また挫折する。夕月の光り冷たき獄舎の鉄窓裡に、空しく世の無情を嘆き、有司の冷酷を憤り、想いを田園が荒廃した故郷に馳せ、病める妻子の安否を気遣う。彼らの心情もまた悲しからずや。
第七 田中翁の直訴
069 これと同時に田中正造翁は鉱毒問題を党争とするのを憂えて憲政本党を離党し、次いで衆議院議員も辞した。そして爾後は、私人として鉱毒問題を世間に向かって絶叫し続けた。
この時田中翁は同郷の人々の悲報(兇徒嘯集事件の失敗と逮捕起訴)を耳にした。世人はなんと冷酷なことか。翁の痛憤絶叫に耳を貸す者もなく、嘲笑、讒誣(ざんぷ、無実をそしる)などの迫害を受けた蹌踉(そうろう、よろめく)とする老義人の心情はいかばかりだったか。悲痛の涙か、否、勃然(顔色を変えて怒る)たる憤怒の熱血か。違う、翁の心中はこの時すでにあの直訴の覚悟をしていたと推し量ることができる。
翌明治34年1901年12月中旬、第16議会が招集されて天皇陛下が議会の開院式に行幸あらせられ、鹵簿(ろぼ、行幸の行列)粛々として還幸(行幸から帰る)し給うとき、或る者が日比谷の野原でこれを待ち受け、敢えて聖駕を驚かした。紫電(鋭い目の光)が飛び、白刃が閃き、兵馬が動く。しかも大呼して言う、「お願いがあります」と。当代の義人田中正造翁は、その老体を早くすでに警官の手に託されていた。
070 悲しい現象(こと)だ。昔は佐倉の義民が、哀れを将軍に直訴して磔殺(たくさつ、引き裂いて殺す)され、今日憲法が明らかなとき、この人は聖駕を日比谷の野原に待ち受けて直訴する。これは前例のない大怪事である。ああ暗黒!どうして文明の大怪事でないといえようか。しかしこれはまたやむを得ないことだ。翁はとうてい尋常の手段では行われないと思って、一身を聖駕の下に投げうち、同胞30万の窮状を哀奏しようとした。以下心血熱涙を傾けて草した一篇の直訴文を見られたい。誰がこれを読んで泣かない者がいようか。
謹奏表
草莽(そうもう、民間)の微臣田中正造は、誠恐誠惶(恐れる)頓首頓首(頭を地につける)謹みて奏す。伏して惟(おもんみ)るに、臣は田間の匹夫(ひっぷ、卑しい男)であり、敢えて規(のり)を越え、法を犯して
鳳駕(ほうが、天子の乗物)に近前する、その罪実に万死に当たっても甘んじてこれを為す所以は、真に国家民生のために図り、一片の耿々(こうこう、明らかなこと)を竟(つい)に忍ぶことができないことがあるからである。
陛下は深仁深慈に臣の狂愚を哀れみ、暫く乙夜の覧を垂れ給わんことを。
071 伏して惟(おもんみ)るに、東京の北40里157kmに足尾銅山がある。その採鉱製銅の際に生ずる毒屑(せつ)毒水が長い間澗(かん、谷)谷を埋め、渓流に注ぎ、渡良瀬川を奔下し、沿岸はみなその毒を被った。そして鉱業が発達するにしたがって流毒は益々多く、さらに毎年山林を乱伐して水源を赤土としたために、河身が変わり、洪水が頻繁に到達し、毒流が四方に氾濫し、毒屑が浸潤した地域は、茨城、栃木、群馬、埼玉の四県とその下流の地数十万町歩5000㎢に達し、魚族は斃死し、田園は荒廃し、数十万の人民は産業を失い、飢え、病んでも薬がなく、老幼は溝や谷間に隠れ、壮者は他国へ去った。このようにして20年前の肥えた田や沃土は、今では茅や葦が繁茂する惨憺とした荒野となった。
臣は夙に鉱毒の惨害が止まるところないことと、民衆の疾苦が極限に達するのを見て憂悶していたが、先に衆議院議員に選ばれると、第二議会でその状態について政府に質した。爾後議会毎に救済を求めてからもう10年になるが、政府は左右に責任を転嫁して適当な措置を講じない。また地方で牧民の職にある者もこれを顧みない。そこで人民が窮苦に耐えず、群起して保護を請願すると、有司は警官を派してこれを抑圧し、誣(ふ)して兇徒となして獄に投ずる。国庫に収める租税は数十万円を減じ、公民の権利を奪われる人民が多く、町村の自治も全く頽廃し、飢餓や疾病や毒に中(あた)って死ぬ者が年々多い。
072 陛下は不世出の(ふせいしゅつ、世に稀な)資力を以て列聖の余烈を(威光)を紹(つ)ぎ、徳は四海に溢れ、
威は八紘に展べ、億兆は昇平(平和に治まる)を謳歌する。一方、
鳳輦(ほうれん、天皇の乗り物)の下をさほど遠くに去らないのに、数十万の無告の窮民は空しく
雨露の沢を希(こいねが)って天に向かって号泣するのを見る。これは聖代の一汚点ではないか。その責任は政府当局の職務怠慢にあり、上は
陛下の聡明を覆い隠し、下は国家民生を無視することに原因があるのではないか。四県も
陛下の一家ではないか、四県の民は
陛下の赤子ではないか。政府当局が
陛下の土地と人民をこの悲境に陥らせて反省しないのを臣は黙視できない。
伏して惟(おもんみ)るに、政府当局者にその責任を尽くさせ、以て
陛下の赤子を日月の恩に浴させる方法は、次のことでしかない。
第一、渡良瀬の水源を清める
第二、破壊された河身を修築し、天然の旧に戻す
第三、激甚な毒土を除去する
第四、沿岸無量の天産を復活する
第五、頽廃した多数の町村を恢復する
第六、毒水毒屑の流出を根絶する
こうして数十万の生霊を塗炭から救い、人口の減耗を防遏(ぼうあつ)し、我が日本帝国憲法と法律を正当に実行し、その民の権利を保護させ、さらに将来に国家の基礎である無量の勢力と富財の損失を予防できるだろう。そうでなく毒水の横流に任せれば、その禍は計り知れないと臣は恐れる。
臣の齢は61、老病は日ごとに迫り、余命いくばくもない。ただ万一の報効(功を立て恩に報いる)を期し、一身を以て利害を計らない。鉄鉞(エツ、まさかり)の誅を冒して聞こす。情は切に、事は急である。哀れみ察し給はんことを。臣痛絶呼号(大声で叫ぶ)の至りに任(た)ふるなし。
明治34年1901年12月10日
草莽微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首。
073 翁は初め事を決行しようとするとき、あらかじめ死を決し、故郷栃木県安蘇郡小中村の勝子夫人の許に離縁状を送り、かつその一子で郷人某の妻となっていた某女を呼び、将来の事どもをねんごろに訓しめたという。30万の無告の生霊のために10年の心血を注ぎ尽くしても、世人はかつて顧みず、有司は遂に聴かなかった。そして故園の惨はいよいよ増し、焦心苦慮、悲憤嗟嘆の中に郷党(田中正造翁)は牢獄の人となった。
進むも死、退くも死、死を決し、生を賭して敢えて至尊を冒し奉る。誠に止むを得ざるに出たものである。政府は慌ててついに田中翁を発狂者となし、かろうじてわずかに事なきを得た。その厚顔無恥は実に唾棄に値する。
Wikiによると、政府は田中正造を狂人と見なして不問にして即日釈放した(田中本人の言葉)。この「謹奏表」は幸徳秋水の作で、田中が加筆修正したものと言われる。田中は妻カツに遺書を書いている。また田中は1902年、川俣事件1900公判であくびをかいたとして重禁錮40日の判決を受け、服役した。
感想 所詮お上に陳情するような運動は顧みられないということではないか。またこの時代1901年ころ、天皇はこれほど偉い人になっていたのか、そして田中正造は天皇に対して何と卑屈な態度を取っていることか。
第八 鉱毒問題の埋没
075 被害民は鉱毒の被害に悩み、政府の圧制に苦しみながらも、20年間、不撓不屈の精神で常に反抗し、弾劾し、奮闘し続けて来たが、この間に疾病や不作は間断なく襲い、遂にかつての気焔を失ってしまった。
これを見て政府は「これは鉱毒が絶滅した証拠だ」と公言する。しかしこれは長い間の苦闘による被害民の疲労や、政府の圧制と資本家の買収のせいである。鉱毒は確かに往時に比べてやや減退したが、絶滅したのではない。
田中翁が第二議会で鉱毒問題を叫んでからもう二十年になるが、今でも鉱毒問題は未解決であり、田園を氾濫する洪水や人民が訴える疾苦は依然として続いている。
ところが政府資本家はこの積年の罪悪を暗々裏に埋没し、この問題を社会の耳目に触れないようにする罪悪を公然と行おうとした。つまり鉱毒問題の中心地であり渡良瀬川の氾濫が最も激甚な矢中村を買収し、この矢中村と政府資本家の20年来の大罪悪を瀦水池=毒水の底に沈めようというのだ。
076 しかし矢中村は関東の中でも比類のないほど豊穣の地であり、村老の語るところによれば、稲は肥料をやらなくても雑草を一回とるだけで一反につき7俵から9俵(玄米で1俵4斗)取れたという。だから村民はこの豊穣の地を捨てて他郷に流離することができず、鉱毒と水害が襲って来ても止まっていたので、政府資本家は人民を追い立ててこの村を奪うことは尋常の手段ではできないと考えていた。
政府資本家が人民を追い出すために用いた手段は陰険で陋劣であった。人民の生命・財産・自由を保護すべき政府は、村民の生命にも比すべき堤防を破壊し、殆ど市井の無頼漢のように威喝脅迫して村民を追い出し、洪水の際には樋門(ひもん、堤防を横断する暗渠構造の排水路)を釘付けして、村を濁浪のうちに漂わせ、村民の漁具を盗んで、不作に苦しんでいる村民をさらに飢えさせ、硬骨剛直の青年を金銭で買収し、酒色で誘い、堕落・腐敗させて買収した。政府資本家よ、今でも矢中村を滅ぼしたのは矢中村の村民だと言うのか、田中翁と言うのか、社会党だと言うのか。日本政府は厚顔無恥で冷血無情である。
077 以下政府が奸計の全てを挙げて無知無力の村民を残害した罪悪を記述する。矢中村の堤の中の農民が在住していては出水氾濫ごとに鉱毒問題の記憶が新たにされるので、政府は明治35年1902年の大洪水以来、矢中村の堤防を修築せず、人民の塗炭の苦しみを見るのに乗じて、他の地域に転住させ、住民の数が少なくなると「村として維持することは困難だ」として遂にこれを藤岡町に合併させた。そして今年(明治40年1907年)6月29日になると土地収用法を借りて強制的に破壊してしまった。今後は、風が荒れ雨が降り、破れた堤防から洪水が随意に進入しても、それはもはや日本の官憲が顧みるところとはならなくなった。矢中村の滅亡は矢中村一村の事件ではなく、多年の宿題だった鉱毒問題の埋葬を意味した。つまりこれは社会の公益を犠牲にして国民の膏血で私腹を肥やす資本家政治の凱歌である。明治の聖代に生まれた弱者貧者はなんという禍であることよ。
078 鉱毒問題が議会で叫ばれてから十有余年。陸奥宗光も死に、古河市兵衛も死に、陸奥の次男で市兵衛の養子になった某も死んだ。そして陸奥によって据えられた鉱毒地理葬の計画は、彼らが全て死んだ今日になって、政治的には陸奥の子分で経済的には古河の雇人である現内務大臣の原敬によって初めて成就された。ここに一種の詩味を感じないわけにいかない。
鉱毒問題から転じて次に矢中村滅亡の当面の問題である瀦水池設計の歴史について述べる。
第九 官林の払い下げ
079 矢中村治水問題の原因は、渡良瀬、利根の河流がしばしば氾濫し、そのために矢中村が常に多大の損害を被り、政府もこの堤防修築に莫大な金額を恐れ、むしろ矢中村を瀦水池にして洪水の際に横溢氾濫する洪水をここに導いて他村への損害を避けることが得策だと考えたことによる。
瀦水池の設計の可否については後述する。今は河川の氾濫の原因を闡明し、政府資本家の共謀的犯罪を暴露する。
明治21年1888年、22年1889年のころ、政府は足尾銅山付近の官林7600町(歩)75㎢を古河市兵衛に、また栃木県の官林3700町36㎢を下都賀郡長の安生順四郎に払い下げた。そしてその合計1万1300町の官林と材木との払い下げ価格は僅か1万1100円にすぎなかった。これは怪しむべき驚くべきことだ。また渡良瀬河岸一帯の鉱毒と氾濫は、この官林払い下げに由来するところが多い。この広漠蓊鬱(おううつ)していた深林も、やがて古河、安生によって濫伐され、忽ち兀赭(ごつしゃ、禿山の赤土)となり、断崖絶壁の間にわずかな大樹の残根を残して、春草や夏苔も生えなくなった。すると秋になると冷雨が降って峯頭山腹の砂石が一時に洗い去られ、急奔直下渡良瀬沿岸一帯の地を鉱毒の泥海と化した。
080 このような洪水が年年歳歳限りなく到り、そのたびに足尾銅山から流出する鉱毒は常にこれに運び去られて、沿岸一帯の地に散布された。故に鉱毒と洪水とは密接な関係にある。そして渡良瀬、利根の二流は、水源の濫伐と銅鉱の流毒、及び山林の崩壊によって川床が高まり、いったん暴雨が来ると水勢が一時に暴漲して横流し、堤防を決壊し、沿岸の全郷を浸した。この原因は銅山の流毒と山林濫伐である。
渡良瀬、利根の二流が合流する地点は、栃木、群馬、茨城、埼玉の四県にまたがるが、中でも栃木県の被害が大きかった。そのため(栃木県民は)地方税の負担に耐えられず、108万円の県債を起こして河川を修理した。(官林と材木との)払い下げ額は1万1100円だったが、河川修理費は108万円となった。ここに政府当局の没常識、無責任が極まったと言える。
081 これより先、洪水の被害が漸く甚だしくなり、人民の愁訴も次第に高まり、政府も省みて明治30年1897年に9万6000円を投じて1万1300町歩の山に苗木を植え付け、ついで68万円を投じて苗木を植え付けた。またこれより先、明治29年1896年の大洪水の時に、毒水が東京府に進入して本所の榎本邸も浸したので、栃木、群馬、茨城、埼玉四県の知事は、鉱毒問題が東部に聞こえるのを恐れて政府に対して河川の浚渫、利根の川床を低くすることなどを請願し、政府は河川改良費として650万円を支出した。政府当局がその罪跡を隠滅しようとして焦心苦慮した点は、むしろ憐れむべきことだ。
しかしこの弥縫の策、糊塗の策は何等の効果もなかった。古河市兵衛と安生順四郎が国庫に収めた金額は僅か1万1100円にすぎなかったのに、後になって河川修理や苗木の植えつけ、河身改良などのために要した金額は合計800余万円*となった。しかもその効果はなかった。(売却した山林の面積)1万1300町歩もひょっとするともっと大きかったかもしれないし、800余万円の使途も信ずることができない。
*9万6000円+68万円+650万円=727万6000円
第十 矢中村買収の口実
083 先に政府はその非行を悔いて800余万円を支出して河身を浚渫し、堤防を修築し、苗木を植え付けると声高に言っていたが、却ってますます山や河を荒らしたのはなぜなのか。(政府は)利根川の下流の河身を650万円で改良していると言っていたが、一方で群馬県の利根川の利根官林4000町歩をわずか4000円で古河に払い下げ、群馬県の官公吏議員らが鉱山主古河のために斡旋奔走したのはなぜなのか。
官林の払い下げや山林の濫伐が恐るべき悲しみをもたらすことを政府当局はよく知っているので、数百万の巨費を投じて善後策を講じている。このために群馬県の官公吏議員らはかつて河水が氾濫して東都を浸したとき、鉱毒問題が社会に聞こえるのを恐れて、河身改良費を政府に請願したではないか。しかるに今また当時の罪悪を続けて恥じない。政府と彼らがその罪悪を、同村の一小利に幻惑されて無意識のうちに犯しただけでなく、何らか他の企てが疑われないか。
084 その結果年々の洪水や氾濫となり、栃木、茨城、千葉、埼玉、群馬、東京等に水害をもたらしたのだが、その原因は世人の目に入らず、その原因が森林の濫伐や足尾銅山の産出であることを知る人はほとんどいない。
神橋を流失した明治35年1902年の日光の大谷川の氾濫問題は、利根の洪水問題に比べれば言うに足りないが、ここは内外人が遊覧し、皇族の別邸もあるところなので、政府は中禅寺湖の中に瀦水池を穿ち、大谷川の氾濫を緩くしようとした。大谷川の氾濫は水源地の山林の濫伐から来るのに、その原因を無視して瀦水池を考案する。これは屋根を修理しないで家の中に壊れた擂鉢(すりばち)を置くに等しい。政府が原因に触らない理由は、古河銅山主の利益に影響するからである。
しかしこの手法は今に始まったことではない。利根川は関宿で分岐して江戸川となるが、関宿の分岐口はかつて26間あったが今は14間しかない。それは明治29年1896年の洪水の時に、渡良瀬沿岸鉱毒地の農民が蜂起した結果である。この時の農相榎本武揚は初めて鉱毒地を視察してその惨状に驚き、さらに渡良瀬川の毒水が利根川に混じって江戸川に氾濫し、東京府に押し寄せて本所・深川の両区を浸し、現に本所深川小梅の榎本邸内にも鉱毒水が浸入して狼狽したからである。彼は鉱毒問題調査会の設立を発言したが、この難問解決能力がないことを自覚して引責辞職した。
こうして江戸川の氾濫は政府の恐怖するところとなった。なぜならは江戸川の氾濫は直ちに東京市民の間に足尾鉱毒問題の絶叫を喚起するからである。ここにおいて鉱毒問題予防の急策として、江戸川の河口が縮小されたのである。その結果は直ちに利根川河水の停滞・逆流となり、ちょっとした大雨でも、群馬、栃木、茨城、埼玉の沿岸地帯が氾濫することになった。こうして政府は利根川逆流の中心地である矢中村を瀦水池とする一時的な弥縫策を案出したのである。そして脅迫、詐欺、賄賂、略奪などの悪政暴虐の限りを尽くし、今日のように強制暴行を働き、矢中村を滅亡させたのである。
086 政府が矢中村を買収しようとした口実が洪水の氾濫であり、また故意に洪水氾濫の原因を作ったのも政府であったことをお忘れなく。
第十一 日本無比の沃土
087 栃木県下都賀郡矢中村は、渡良瀬、巴波、思の三川で囲まれ、400年の歴史がある。その堤内の反別面積は970町歩で、これに堤外の地を加えると、1200町歩に達するだろう。明治38年1905年頃までは人口2700、戸数450を有し、土地が肥沃であった。村の古老によれば、稲は苗を植え付け肥料をやらなくても、植えつけた後に一回除草するだけで、平均一反7俵ないし9俵(玄米で1俵4斗入)の収穫があり、鉱毒被害がなかった時代では、同村大字内野字深谷の秋田某の所有地では12俵半、字下宮稲荷森鶴某の所有地では11俵半の収穫があった時もあり、どんな悪土でも1反5俵を下ることはなく、また畑地では多少の肥料を要したが、土質が軟かで石塊が全くなく、耕作に費やす労力を省いたという。
この事実は兇徒嘯集事件当時の東京控訴院判事、横井農学博士、弁護士50余名を、被告人50余名が案内して渡良瀬沿岸の鉱毒被害地を視察した時、鉱毒の被害のために昔日の面影がなかったにも拘わらず、横井博士は「このように鉱毒の浸潤があっても、このように作物が豊穣なことは、全国無比の沃土なり」と嘆賞したことからも分かる。
088 1年間の米麦その他雑穀および正副産等の収入は20余万円、諸種の費用と労銀等を7万円としてこれを除いても、15万円以上の純益があった。純益に対する利子を1分として、1500万円ないし3000万円を下らず、4朱の利益としても、370万円の村価があった。
*朱 1割の1/10、一歩
封建時代の矢中村は小大名土井某8万石の領地で、同県下生井村、部屋村、埼玉県下川辺村、利嶋村、茨城県下新郷村、古河町新田などと共に、土木の知識が未だ発達せず、築堤が不完全で、しばしば水害に犯され、厄介村と呼ばれていた。当時の統計によれば、3年に1度ずつ水害を被り、その都度藩中の武士等は百姓と共に堤防の修築をしたとのことだ。貧弱の小藩では堤防費の負担は重く、租税だけでは収支が償わず、これらの諸村を持て余していた。
しかし明治維新以来、追々完全な築堤ができて水害が漸く減じ、明治10年1877年前後になると、稲の収穫は1反12俵に上るまでになった。堤内が原野のときの明治初年の地価は1反1円にすぎなかったが、爾後年々の人口の増加に伴って騰貴し、明治17、18年1884年1885年頃には1反40円位にまで上昇した。しかしその後洪水のために堤防が破れるたびに鉱毒が侵入して害毒が田圃に浸潤し、それに伴って地価も下落し、田畑の作物も昔日の面影がなくなった。明治35年1902年、足尾銅山、黒髪山、甲申山等の南北10里、東西3里余の山林の濫伐のために(堤防が)崩壊し、善良な肥土が渡良瀬沿岸一帯に溢れ、厚く従来の毒土を覆うと、毒土で荒廃した土地に珍しく麦が茂り、稲が実るという奇跡が現出した。
当時矢中村は最も多く善良な新土を堤防の内外に置かれたので、かつて12俵の収穫があった地では8、9俵を、5、6俵だった地では3、4俵を収穫できるまでに復活した。だから矢中村は今後十分完全な堤防を修築して鉱毒の流出を防止し、河身を改良し、水源の涵養をすれば、天下無比の天産地になるだろう。ところが政府はあえてこの天産、この利益、この沃土を無視して、1500万円ないし3000万円の村価を顧みず、1反につき畑は30余円、田は20余円、原野は10余円、村民の家屋は1坪8円(など、総額)僅か48万円を限度としてこれを買収しようとするが、不当なことである。
第十二 安生の奸計
090 明治23年1890年旧暦7月8日の大洪水はおびただしい鉱毒をもたらし、渡良瀬川沿岸の堤外地や無堤地は悉くこの鉱害を被った。矢中村も土質が変わり、作物が枯れ、家畜は斃れ、人は病み、大人は他国に流離し、婦女は孕んでも悉く流産し、子は生まれても発育せず、老人は細く痩せた腕で鍬を取り、毒土が積もり茅と葦だけになった廃田を見て哀泣するという惨状になった。
時の農商務大臣陸奥宗光は、鉱毒被害地を調査させたが、当時すでに矢中村は他村のように堰樋を通して用水を導かず、用水は堤防内に十分あるので、もし堤防を堅固にすれば、鉱毒洪水などの被害は免れることをよく知っていたが、却って堤防を破壊して矢中村を滅ぼしたのである。政府が矢中村を買収して瀦水池とする真の理由は、矢中村やその付近の村の為にするのではなく、政府資本家の積年の罪悪を埋没するためであった。
091 この間に鉱毒問題は漸く世の知るところとなり、人民の動揺も漸く激しくなり、ここにおいて故伯爵大木喬任(たかとう1832--1899)の姻戚で、陸奥宗光や古河市兵衛とも密接な関係にある、旧下都賀郡長の安生順四郎は、今なお実権を握っており、明治27年1894年3月16日、安生自らが資本主となり、排水器を購入して設置し、矢中村民はこれに対して、土地1反歩につき、毎年玄米1斗1升8合ずつの割賦で、満5カ年で債務を弁済し、もし遅延した場合は、更に米1升につき1升5合ずつの利米(利息米)を付加するという契約を結んだのである。
その契約書は曖昧で、周到に認めてあり、村民を欺瞞しようと謀ったことは明らかであるが、その曖昧な契約書の中にも安生がその責めを免れられない規定がある。曰く、
第二条 資本主安生順四郎においては、…若し予見の如き効を奏せざる場合には、起業者(農民)の意見により、再び排水器を購入し、その代金は猶ほ相続き支出すべき事。
しかし排水器はついに一度もその効果を発揮しなかった。もし完全に排水工事を行おうとすれば、400馬力が必要なのに、安生は僅か70馬力の機械を据え付けたのである。安生は初めから排水器を成就して村民の塗炭を救おうとしたのではなく、この工事を名目に、村債を起こして、村落疲弊の準備をし、かつこの間に私利私欲を貪ろうとしたのだった。
092 安生はこの排水工事に要した資本は4万2000円とするが、実際は老朽腐蝕した10年以前の旧式の排水器を廉価で購入し、愚直な村民を欺き、以て巨利を得んとしたのであった。故に彼はその工事が不成就だったのを見て、次の契約規定により、直ちに排水工事を中止し、ただその費用だけを村民から奪い取ろうとした。その規定は、第二条二項である。
然れども右不成就の原因が堤防破壊等に基因せし時は、起業者(農民)より資本主に対する弁済義務は右不成就の年度、又はその水害を被りたる翌年度より、残年期を以て弁済の義務を果たすべき事。
ここにおいて起業者の村民と資本主の安生との間に争論が起った。栃木県技師堀田某は、県会においてこの説明をして曰く、(とあるが、その発言内容が欠けているようだ。次は著者自身の言葉と思われるのだが)
効果がなかった原因を、安生は不可抗力に起因すると言い、地主(村民)は工事の不完全なことに起因すると言う。
こうして工事は延引し、争論も遷延し、明治35年1902年、明治36年1903年の頃になったが、この間、古河や安生等の奴隷である栃木県庁は、種々な陰険な手段を施して「不可抗力」論を保護しようとした。つまりこの間に堤防の波除(なみよけ)のために数十年間培養された数百株の柳を伐採し、徳川時代から築かれていた堤防の堅牢な部分を削って脆弱にして不可抗力の水害を益々大きくしたのである。村民は県庁の土木吏が修築工事と称して堤防を破壊したことを知らなかった。
093 安生が排水工事を企てたのは、鉱毒問題の予防策として古河のために忠義を尽くしつつこの工事によって一攫千金の巨利を占めようとしたことだった。この排水工事がなぜ鉱毒問題の予防策なのか。足尾銅山の事業が拡張するに伴って周囲の山林は濫伐され、このため水源は荒廃し、渡良瀬川沿岸は年々洪水が氾濫して度々損害を被ったので、この際排水器の設計をすることは、愚直な人民を篭絡するのに最適だったからである。
古河鉱業、山林伐採、水害激甚、排水器設立、器械の不備、不備の隠蔽、堤防破壊、土地買収、誘惑強迫と続き、最後に土地収用法が出て来て、強制執行となった。寒風悲雨ここに20年の出来事である。
第十三 醜類、法廷に争う
094 この前後の明治29年1896年と明治31年1898年に、高さ1丈8尺5.45mの堤防を4尺1.2m越える大洪水があり、矢中村は滔々たる濁流に埋没した。その時、埼玉県川辺村の人民は難を避けようと200石の高瀬船に乗って毒流が黄流する矢中村の上を通って1里離れた北方の高台、茨城県古河町雀の宮に赴いたほどであった。
この時安生はまた村会を誘惑し、明治31年1898年に10万円の村債を起こして堤防を修築することに決め、村会を開いて、内務・大蔵両大臣の許可を得たのだが、10万円を貸してくれる者が見つからなかったので、翌明治32年1899年、勧業銀行から5万円借り入れた。しかしこれは年度を隔てた(村会の)認可のない別種の借り入れで、しかも安生はこれを自己の掌中に籠握し、矢中村のために消費しなかった。
095 政府はこれを村債とみなし、かつ該金額を安生が預かっていても、安生は無資力となったから、排水工事について安生が持っている債権(債務)の弁済は、村民から受けなければ返済できないと認め、結局これを村の損失に帰し、更に詐欺にすぎない排水工事の資本金4万2000余円に、4朱の利(利子)を加えた7万5000円で(政府が)排水器を買い上げ、(安生は)この中の5万円で、いわゆる矢中村債の5万円を支払った。(意味不明)
安生の排水工事はすでに詐欺的なのに、その資本金を弁済し、さらにその個人の負債も返済することになった。どの政府が個人のためにその損害を償い、その負債を弁ずるものがあるだろうか。しかし(日本)政府は安生に対しては親切だが、矢中村民には残暴である、それはなぜなのか。政府は公平であるべきなのに、安生が大木伯091の姻戚で、陸奥や古河等の子分であるためこれを保護し、一方多数の村民には資産がなく、高位顕官に知己がおらず、賄賂も送らないからとして、保護の対象から外すなどという理由は通らない。ところが政府がそうするように見えるのはなぜか。私が政府を安生らと一味同臭の徒党というのも、わかるだろう。
096 同年明治32年1899年12月、安生は大野某に、「5万円を献金するから、さらに(県会から)5万円を増補して、10万円の費用で、堤防を修築するよう」に県庁に申請させた。またそれと同時に県会議員横尾輝吉に2000円の贈賄をして堤防修築の成就運動を頼んだ。安生はこうして10万円を引き出し、その中の5万円で堤防を修築し、他の5万円は密かに着服し、(5万円の)献金もうやむやに葬り去ろうとした。ところが県会は遂に(5万円ではなく)2万円の支出を決議した。安生らは怒り、明治33年1900年春、横尾を告訴した。横尾は一時入牢したが、遂に裁判官の仲裁で示談となった。
奸奴は権力を恃んで暴戻(道理に反する行為)をほしいままにし、公吏は苟苴(こうしょ、一時の間に合わせ)を貪って醜類の悪行を応援し、醜類は醜類と法廷で醜事を争い、そして裁判官もまた醜類の間を斡旋奔走して示談調停させる。これは大怪事ではないか。こういう大怪事が明治聖代に大ぴらに行われるのを見て、私は我が日本国に憲法や法律、警察、裁判所があるのかと疑う。
憐れむべきは矢中村民である。彼らの愚直で、正直で、世の罪悪を解しない美しい心は、却って悪漢の乗ずるところとなり、恣に翻弄され、嘲笑され、打たれ、蹴られ、踏み越えられ、遂に家を奪われ、業を奪われ、墳墓の地から追われる。彼らは現代の社会制度、黄金政治、資本家万能の時代が生んだ痛ましい犠牲である。
第十四 政府、堤防を破壊す
098 水源が荒廃したために洪水が年を追うごとに甚だしくなるのに、県庁の汚吏は悪漢・安生の奸計を援けるために、堤防の石垣を崩し、除派のための柳を切り去り、堤防を削り去るなどの悪虐暴戻の限りを尽くして水害を招致しようとしたので、年々の災害はどんどん増加していった。こうして明治35年1902年9月、同村(矢中村)北方の赤麻沼が大いに氾濫し、滔々たる濁浪がたちまちにして堤防100間180m余を決壊し、瞬時にして全村は黄濁色の急渦に飲み込まれた。
かつて10年余の久しい間、激甚な鉱毒に悩み、わずかに余生を保ってきた農民が精励刻苦して作った米や麦、豆、大根など、彼らの生命に値する一切の作物は、政府と官吏と資本家との手によって空しく滔々たる毒流に流され、枯れ、腐ってしまった。
099 この悲しむべき災害を見て、当時県知事だった溝部惟幾は、矢中村買収案を初めて県会に提出したが、それが決定される前に、早くも教科書事件*126で獄裡に呻吟する身となった。ここにおいて県庁はやむなく官吏を派遣して堤防修築の工事をさせたのだが、これは最初から修築名目の堤防破壊の内命を含んでいたので、明治36年1903年、明治37年1904年の二回にわたる復旧工事によって却って100間180m余の切れ口を220間400mに広げ、徳川時代から築いていた堤防の太い部分を左右に1000間1820m以上切り細め、高い所を削って低くし、積み替えるという口実で、そのうち250間450mの石垣を取り崩して隣村の赤麻村の石材普請場に売り払った。7月、8月ころの洪水期に、最も大切な石垣を積み替えようとするのだ。そしてまた防波の柳を切り倒して売り払い、堤防の芝草も剥奪して波に打たせた。そして明治37年1904年7月13日に洪水が押し寄せて来たので彼らは周章狼狽して逃走してしまった。
*教科書疑獄事件 1902年に起った小学校の教科書採択をめぐる贈収賄事件。116人が有罪となり、1903年に、それまでの検定制度が国定制度に変わった。
この復旧工事名目に堤防破壊の内命を含んでやって来た栃木県庁の官吏らの振舞いを以下に例証する。
100 村民の生命財産を託すべき堤防を修築する場合、必ず経験があって理論に精通した者を選んで工事を司らせるのが普通だが、県庁が選んだ人物は、巡査上がりや博徒無頼漢であり、一人のこれが経験あり、(このうち一人は経験があったが、)理に通じる者はいなかった。これは無責任、無方針、大失敗ではないか。このことから栃木県庁が最初から矢中村に対して悪意があったのではないかと疑われる。
第二は、明治36年1903年5月6月ころ、(堤防の)破れた個所を繕う際に左右から土を埋めて築き、飛び越えるほどの高さになった時、官吏若林某は、人夫を叱責して、自ら指揮して竹束、葦、藁などを下に埋めたまま土を積ませたので、或る者が耐えかねて、「之では出水の時に忽ち根底から流れ去るのではないか」と注意したところ、若林はその者を叱責してそのままにさせた。そのため後に洪水氾濫の時に6尺1.82mばかりの箇所が忽ち浮き出て流失した。これは故意に堤防を破壊した明白な証左ではないか。県庁は弁疎(言い訳)するが、責任は免れない。
101 第三は、明治37年1904年4月から二回目の復旧工事に着手したのだが、村民が農作業を投げうって水防工事に出たところ、官吏はそれほど多数は要らないと追い返し、時間が切れたと言って追い返し、今日は雨が降るといって休み、賃金を安くし、規定の賃金を払わないなど、村民が人夫に出るのを厭にさせた。
人夫30人40人に対して官吏もまた30人40人いて、ただいたずらに費用を乱費した。また工事の際に村の娘や妻女が土運びに出ると男よりも重用し、殊に容色美なる村娘等には男子よりも高額の工賃を払い、仕事をさせないで官吏等の天幕内に引き込んで酒宴の酌をさせ、また赤麻沼に屋根船を浮かべてこれらの女を相手に酒を酌み、甚だしい場合は沼尻を出て巴波川に浮かび、更に思川を遡って古河町に至り、放蕩の極を尽くして帰る者もいた。またある者は、土一荷に対して切符一枚を渡すのが通例なのに、自己の寵愛する女には殊に二枚三枚を渡して得々としている。これでも日本政府の官吏かと驚き呆れるばかりだ。
このように(栃木県庁の官吏は)遊情淫逸に日々を送り、堤防修築では工事を進めると装って、実は却ってその要所を破壊して堅牢な個所を脆弱にし、傍若無人に凶暴に振舞い続けた。そして月日だけが徒に経過して工事は進まず、遂に7月13日の大洪水となって彼らは周章狼狽して逃走した。この二年間に(彼らは)100間182m余の切れ口は220間400mに切り広げ、1000間1.8km余を切り崩し、その工事費は11万円とのことであるが、子細に調査すると、この堤防破壊(然り私は敢えて破壊という)の工事に費やした額は、多く見積もっても最大2万円にすぎない。それでは残金の9万円は何に消費したのか、着服や酒色か。そして1毛も堤防のためには消費されなかったのである。
102 これは帝都を去ること20里78kmの出来事であるが、峻厳烈日のような明治政府の監督の下であり得ることか。もし矢中村を訪ねることがあれば、北方の赤麻沼に沿う字移堤を見て欲しい。そこには蛇が屠殺されたように工事が中断されて腹部を現わした堤防が、ヤモリのように横たわっているのが見えるだろう。また1000間1.8kmに渡って全く人為的に欠損された堤防が見えるはずだ。横暴残虐で冷酷無情な明治政府と貪婪(どんらん)飽くことを知らぬ虎狼のような資本家とに対して、火と血との復讐を宣告せよ。
第十五 矢中村の運命決す
103 数十人の官吏と11万円(これまでは10万円としていた)の築堤工費とを以て県庁が2カ年にわたって堤防を破壊しているとき、明治37年1904年7月13日に洪水が氾濫し、官吏が打ち捨てて逃げ去った堤防の破れ口を決壊して全村に横流し、(矢中)村民はまた窮乏と疾病の悲惨な生活を味わうことになったが、村民はこのような洪水を数十年間堪え忍んできた。悲運なことよ。
ここにおいて県庁はこの洪水を奇貨として、「矢中村の堤防にはすでに11万円を投じ、2年間修築工事をしてきたが、なお洪水のために破壊された。これはとうてい人力で抗すことのできないものだ。もしこれを完成させようとすれば、堤防修築費に120万円、年々6万円の修繕費を要す」という流言を流した。そしてその年の秋に知事白仁武(しらにたけし)は上京して内務大臣芳川顕正に会い、「堤防(修築)の費用だけは大きいのに、その功績は上がらず、もし完成しようとすれば120万円の修繕費と年々6万円の修繕費を要す」とまことしやかに述べた。
104 それに対して芳川内相は「今(我が国は)露国と争い、内は財政が乏しく、外債に辛くも息を吐く有様。なかなか一県一村の堤防くらいにそのような莫大な金額を投ずることは夢にも思わない。宜しく取り計らえ」としたので、白仁は喜んで帰県して買収の準備に取り掛かった。
1904年12月19日、白仁武は県会議員一同を集めて酒や芸妓で馳走し、32名の議員に76人の巡査を付きまとわせ、翌20日、8名(の議員)を「土木委員」の肩書で(を与えて)買収し、同日夜の8時に、突然秘密(議)会を開き、12時に、矢中村買収の件と「爾後堤防を修築しない」ことを議決した。しかもこの決議の項目には「堤防建設費48万円」と書き、決して「矢中村買収費」とは書かなかった。私はこの間の事情についてあえてやかましく書く必要はない。というのはいやしくも一村を買収するような重大な問題を、(本来なら)正々堂々とした県会の議場で、(この場合のように)戦々恐々として急遽議決することにまつわる諸事情は、容易に推測できるからである。
105 翌明治38年1905年の春、県庁は(矢中村に対して)「爾後決して堤防を修築しない」と言ってきた。村民はやむなく各自が醵金(きょきん)して2750円を得て、さらに寄付金150円も得て、また埼玉県から700余人の義捐(ぎえん)人夫もあり、6月になって、政府が破ったまま3年間放置していた赤麻沼に沿う堤防212間385mを仮堤防だが修築した。その結果同年の夏作の収穫は7万余円となった。これが県庁が明治35年1902年の災害以後、明治37年1904年の春まで、11万円を費やして堤防修築したのに効果がないとし、これを堅固にするには120万円の修築費と年々6万円の修繕費を要すとして内務省に報告したところの矢中村である。
明治35年1902年以来、堤防が破壊されたままで洪水が横流して来ると、何も遮るものがなく、その時の矢中村の損害は1カ年平均で14万5000円(夏作を除く)に達し、明治38年1905年の調査によれば、1反あたりの収穫が、麦2割4分、稲4割、大豆1割8分、小豆1割5分に減少した。しかし村民が僅少な費用で田畑の畔にも等しいような仮堤防を作ると、夏作の収穫が7万余円となったのである。県庁が堤防を修築しなかったために被った3年間の損害は58万9000円に達した。そして県庁が堤防を築かなかった理由は、数年間一村を水浸しにして田圃が荒廃して作物が実らないと、地価が下落するから、それを見て安値で買収しようとしたのである。
106 明治35年1902年以後の田畑の地価の下落幅は、市価で年々10円で、原野は5円であった。田地反別350町歩、畑地反別277町歩の損害は37万6700余円となり、原野反別340町歩の損害は10万2000円となる。県庁は人為的に土地を衰退させ、1反の畑地を30余円で、田地は20余円で、原野は20余円で、1坪の宅地は8円で買収しようとした。この奸策邪計は憎むに堪えない。
村民が修築した仮堤防は一時の急ごしらえの田畑の畔のようなもので、とても洪水を防ぐことはできなかったから、村民は大挙して県庁や内務省に請願に行った。
初め田中正造翁は10人の村民を連れて上京したが、上野ステーションに到着すると、下谷署の警官のために拘引され、一夜を冷たい拘留所に明かし、翌日追い返された。そこでまた10人ばかりで再び上京し、本所区北村某という元矢中村民の家に宿泊したが、本所署に引致され、北村政治外一人が拘留され、他は追い出された。次いで一同は(矢中)村民の茂呂近助の縁者の小石川区某方に行ったが、今度は小石川署の干渉に会って追い出され、一行数人は宿舎も食事もなくなったところ、漸く深川区の某氏に救われた。しかし警察の干渉は止まず、どうしても内務省にたどり着けなかった。こうして19日を過ぎる間の8月16日に、堤防がまた破れたという悲報が届いた。これより先、川鍋岩五郎は明治35年1902年から明治37年1904年までの間に、幾度か県庁を訪れて堤防修築を請願したところ、明治37年1904年の暮れに、遂に「予戒令」*を執行された。
*予戒令 明治25年1892年1月28日~大正3年1914年1月20日 騒ぎ(選挙運動)を事前に鎮圧するための勅令。
107 「人民保護の警察」と言われるが、政府は紳士閥階級の奴隷であり、警察は政府が罪悪を行う器具ではないか。だから政府や資本家の奴隷や器具である警察が、村民が自己の生命と権利とを保存するために上京して状を有司に訴えようとするのを、このように虐待し凌辱したことは怪しむに足りない。「人民保護の警察」がこのように暴悪であるから、私は一時も安んじて警官に生命と権利を託することはできない。
第十六 排水器の買い上げ
感想 2024年1月19日(金)
この章の論理構成は分かりにくいが、栃木県が排水器を安生順四郎から買い上げる行為の一部は、栃木県が勧業銀行からの安生の借金も返済することである。
108 この間に明治27年1894年から紛争を重ねて来た安生順四郎の奸計に基づく排水器は、明治37年1904年の春に県庁が買い上げることになったのだが、彼らはあらゆる奸策を廻らし邪計の限りを尽くした。彼らの貪婪(どんらん)飽くなき欲を憎むべきだ。
知事白仁武は、(排水器の)買収予定金額が1万円と定められていたのに、矢中村土木補助金の中から6万5千円を支出して(買収予定金額の1万円と合わせて)合計7万5千円で、この老朽で無用の排水器を買い上げた。
そして白仁知事は、この中から直接5万円を、明治32年度1899年度における村債の弁償として勧業銀行に返金したが、残金の2万5千円は遂に使途不明となった。095
さらに県庁はこの(7万5千円で)買い取った排水器の価格を200円だとみなし、いったんこれを矢中村に下げ渡した後で、更に200円で買い上げると言って、しかも一銭の金も(矢中村に)渡さないで、今度は760円で東京の一商売人に払い下げた。
109 ここに数個の疑問が生じる。つまり、買収予定金額1万円の排水器を7万5千円で買い上げたこと、5万円を勧業銀行に返済したが、残金2万5千円の使途が不明であること、また7万5千円の排水器が僅か760円で払い下げられたことなどである。
明治32年度1899年度の村債はもともと安生の誘惑で村会が勧業銀行から借り入れたものだが、これは年度をまたがった(隔てた)(議会の)認可のない別種の借り入れであり、矢中村のために費消されず、全く安生個人の(排水器購入のための)負債であった。ところが県庁は、安生が多大の債権(債務の間違いか)を持っていて、殆ど無資力となったので、結局これを村の損失(負債)として、村民に賦課して村の債務にしようとした。しかし村民には弁償能力がないので、県庁は安生の奸計による排水器を買い上げ、直接5万円を勧業銀行に返済し、さらにこの排水器を時価200円と見なして矢中村の財産目録に編入したのに、またその時価で排水器を買い上げると言って、一銭も(矢中村に)払わずに、760円で一商人に払い下げた。
感想 安生は自分の手持ち資金で排水器*を買ったのではなく、村債(10万円)を起こし、それを利用して勧銀から5万円を借金し、その一部で排水器を買い094、その残金は、村会にではなく、安生の手元に置いていたようだ。
*「排水器購入費」はおそらく「排水工事の資本金」4万2000円の一部なのだろう。095, 111
堤防を破壊し村民の財産を掠奪して憚らない県庁が、一個私人の負債を返済してやるほど親切なのは奇異なことである。
110 ところが会計検査院が「1万円と予定していた排水器に7万5千円を支出した」点を指摘して不当と認定し、政府に質問をしたところ、内務大臣原敬は以下のような答弁をした。(これが分かりにくい)「矢中村そのものの買収予算額(の算定)は、洪水のために(暫く)調査が困難だったが、(その後の)調査の結果、桑樹6万株以上と予測していたところが1万株にすぎなかった、また民有と思っていた社寺の敷地が官有だった、また宅地反別が半減したことなどから、予算金に剰余が生じ、件の(この)剰余金額をこれ(排水器購入のための7万5千円)に当てた。要するに、(矢中村)買収の目的が遺憾なく達せられたので、全く差支えない。」政府の横暴無責任もここに至ってまた極まれり。
県庁はさきに排水器を買い上げるのにあたり、土木建築費48万円の中から(排水器買い上げ代金として)7万5千円を支出した。ところがこの土木建築費は実は矢中村買収費である。だから矢中村は48万円で買収されたのではない。(その差額分40万5千円であるということか)そして7万5千円中の5万円は勧業銀行に返済したが、残る2万5千円の使途は不明である。
しかしこの間、栃木県会議員等がピストルで賄賂の奪い合いをした。弁護士関口某と進歩党の横尾輝吉とが、互いに賄賂横奪の告訴をし合った。2万5千円の使途不明金がどう使用されたのかがおのずから明らかになるだろう。(賄賂となったということらしい)
更に栃木県庁が7万5千円で買い上げた排水器が払い下げられるとき、僅か200円未満(760円では?)で一商人に渡ったことから、県庁がいかに悪漢の安生順四郎を庇護したかを知ることができる。(安生から排水器を760円で買い上げず、7万5千円で買ってやったということか)そして(以上のことから)安生が4万余円(4万2000円)を費やしたという排水工事も、大げさで虚栄であることを知ることができる。ともかく800円未満(760円)の価値の排水器を、時価わずか200円と見なして矢中村の財産に編入した県庁は、村民を詐瞞してその財産を掠奪したのであり、これは赦すことのできない罪である。
このように筆を執っている間も、我が心は悲憤の炎に燃ゆ。愚かな5000万の鸚鵡(おうむ)と豚(の村民)よ、爾が戴く政府、国家が、このように暴戻、悪虐、残忍、冷酷であることを知らないのか。爾が何ものよりも尊崇する政府、国家とは、人民の膏血で腹を肥やし、その権利を蹂躙し、その財産を掠奪し、法律の暴力を借りて人民をその墳墓の地から追い払うものであることを知らないのか。爾が崇拝する国家の本質とは、法律という爪と、政府という牙を持ち、軍隊、警察等の擁護の下に力弱き人類を取り食う怪物なるを知らざるか。
まとめ
安生順四郎の奸計により矢中村は洪水対策として村債10万円を組んだ。*
安生順四郎(矢中村)は村債を利用して勧業銀行から5万円借りた。
安生は排水器を4万2千円の範囲内で買い、総額4万2千円で排水工事をした。
栃木県は安生順四郎(矢中村)の排水器を7万5千円で買った。
栃木県は排水器を200円だとして矢中村に供与したが、すぐ200円で取り上げ、その代金は払わなかった。
栃木県は排水器を東京の某商店に760円で払い下げた。
栃木県の土木建築費48万円は矢中村買収費である。県はその中から7万5千円を引き出し、うち5万円を勧銀に返金したが、残る2万5千円は安生順四郎の手に渡ったのか、使途不明である。
*安生順四郎個人が借金したもので、村債ではないというのが実情のようだ。129
第十七 政府、人民を苦しむ
112 政府は誘惑と賄賂とを以てその計画を実行してきたから、いかに村民等が反対運動をしても、いかに村民が悲境に陥っても、その計画を中止させることはできなかった。それは思うにもし彼らがそれを中止したとすれば、十数年来の彼らの罪悪が一時に発露するからだ。矢中村を絶やすまでは彼らは一時も心安きことはない。明治38年1905年から39年1906年にかけて彼らは死に物狂いになっていた。
この時期に政府は百余名の無頼漢を古道具商に化けさせて矢中村に入り込ませて村民を誘惑し、悪漢に村民の水防工事の妨害をさせ、村民が自費で築いた堤防を暴力的に破壊し、有力な運動者を誘惑買収し、欺き偽って村民を他郷に流離させ、他村の悪漢に警官の保護の下に村民の漁具を盗ませ、樋門を釘づけにして麦を撒く時期の畑を水没させた。現政府の暴戻残虐の状はいくらもある。
113 政府がもし真に社会人民の利益のために矢中村を買収して瀦水池にしたいのなら、どうして当初から正々堂々と臨まないのか、どうして正当な法律の明文に従って適法の処置を施さないのか、どうして矢中村に匹敵する土地を選んで村民を安全平穏に移住させないのか、彼らは隠秘隠密で急いで買収を議決した。彼らは市井の無頼の悪漢を利用して村民を苦しめた、村民を欺いて他郷に流離させた、官吏自らが愚直な村の青年を色街に誘って、遂に放蕩児にさせた。これらは日本政府が敢えて行うべきことか、正当な解釈に基づいた法律の適用か。国家、政府、憲法、法律がそういうものなら、そういう国家、政府を奉戴し、そのような憲法、法律を遵守することは人類最大の恥辱である。
矢中村の買収問題は奇々怪々な事実ばかりだ。国家、政府、法律、権力という大きな黒幕に覆われた恐るべき大罪悪を以下さらに暴き出そう。
114 さきに多数の村民が実情を訴えるために上京した後の8月18日に、人民が築いた堤防がまた洪水で100間ばかり破れた。前年の9月、堤防の普請中に出水した時に、部屋分署の巡査10余名が(矢中村に)やって来て水防に尽力したところ、後で大いに叱責されたためか、今回は一人も助けに来る巡査がいなかった。また県庁が海老瀬村、古河町、修場などの防水義捐人夫が矢中村に入ることを禁じたので、残留の村民が修復の届け出を県庁に差し出したところ、願書にせよと命じた。そこで改めて願書を出したところ、様式が違うとして返送された。それならと村民が県庁を相手にせず、自ら修復を始めたところ、県庁の内命を含んだ悪漢数名がやって来て、水防工事を妨害した。また県庁は100余名の無頼漢を古道具商として(矢中村に)入り込ませ、彼らに「全村移転が近日に迫っているから古道具を買い受けに来た。今日は特に高価に買い受けるから、農具や家具、樹木などこの際思い切って売れ」と言いふらして、村民等に堤防を築くことは無益だと思わせ、また警部巡査十数名を派遣して「早く立ち退かなければ、家屋を破壊して無理に引き立つぞ」と脅迫した。そのため村民は失望して他郷に流離したり、自暴自棄になって田畑を耕さず荒廃に任せたりした者などが多かった。
明治38年1905年5月、40余名の県会議員、警官、土木吏員等が(矢中村に)入って来て田畑を踏み荒らし、村民の家内の価格等を取り調べた。多くの村民は明日にも買収されるのではないかと驚いたため、田畑350町歩のうち、100余町歩の植え付けをしなかった。同年暮れに(栃木県から)堤防を築かないという告示が出てからは、畑地270町歩のうち麦を蒔いたものは120町歩しかなかった。栃木県知事は同県の農会会長でもある。県下の農業の発達に努めるべき職にある者がかえってこれを衰退させようとするとは奇怪なことである。
115 翌明治39年1906年10月11日、県庁が同村(矢中村)字下宮の樋門を固く釘付けしたため、村内の田畑は浸水して折角蒔いた麦の種は腐って流失してしまった。何者がこのような悪事を行ったのかと疑っていたところ、後に時の県知事久保田氏が、この悪事を行った土木課長を叱責したことから犯人が判明したのだが、その後久保田氏は知事から満鉄の理事に敬遠(降格人事)されてしまった。下端の一土木課長が独断でこのような悪事をできるだろうか。そしてこれを咎めた県知事久保田氏が却って敬遠されたのを見れば、ここに中央政府の命令があったと疑われるのである。
また明治39年1906年11月13日、県庁の手先となった同村(矢中村)の宮内某、内田某らが夜陰に乗じて、村内の簾(すだれ)、網、笯(とりかご)などの漁具を盗み、村民が漁業に従事できないのに乗じて、他村の者数百人を村内に入れ、魚を漁らせた。後に彼らは告訴されて漁具の一部は返却したが、良いものは返却しなかった。そして当時警官は鵜の目鷹の目で村民に少しでも不穏な挙動があれば捕縛しようと、夜間でも密かに村内を偵察していたのに、このあきれた盗人の振舞は少しも目に入らなかったようだ。
以下さらに県庁が硬骨剛直な村民や運動者を買収するのにどんなに苦労したか、県庁の口車に乗って他郷に遊離した村民がどれほど悲惨な生活を送ったかを述べる。
第十八 買収の悲劇
117 軍隊と警察が売淫を保護し奨励する日本政府のことだから、その官吏の中に妓夫のような者がいても不思議ではないが、いやしくも官吏たるものが、人民をその故郷の地から追い出すために、これを遊郭に誘って家財を蕩尽させ、遂に他郷に流離させるなど、これ実に明治聖代の大怪事に非ずや。
矢中村大字内野字高砂に茂呂忠造という青年がいた。相応の財産もあり、熱心な非買収派であったが、県庁は早くもこれに目をつけ、買収しようと苦心した。県庁の官吏は明治38年1906年から39年1907年にかけて忠造を酒色で誘惑し、遂に買収に成功した。官吏等はまず忠造に賭博を教えて身を持ち壊させ、次いで古河町の遊郭に伴い、娼妓に言い含めて忠造を惑溺させ、その財産の大半が蕩尽されたとき、娼妓に落籍を乞わさせ、忠造は遂に多大の借金をして落籍した。県庁の官吏はさらに債権者に頻りに督促させ、忠造には家財を売り払うことを勧め、明治39年1907年、忠造は遂に家財を売り払って東京に出た。これより先、忠造はその家財の半分を実姉に譲っていたが、県庁は早くもこれを知り、某人に彼女に婿を周旋させ、後に婿某を説いて買収に応じさせた。
118 日露戦勝中に矢中村も50余人の兵士を出した。墳墓の地を滅ぼし、父母兄弟を他郷に流離させた国家・政府は、その国家・政府のために、むざむざ幾多の壮丁を、讐(あだ)も怨みもないロシアの同胞と戦わせ、空しく命を鉾鏑(ぼうてき)に暴した。その一人に川島平四郎という青年がいた。平四郎は陸軍歩兵上等兵として満洲に従い、明治37年1904年11月26日、清国盛京省三里橋で戦死した。そこで遺族は一時金400円を下付されることになったのだが、平四郎の母と兄には当時300円の借金があったので、その金で負債を弁済しようとして、しばしば村役場に問い合わせても、村役場は「達しが来ていない」とか「未だ金が下りない」とか言ってちっとも取り合ってくれなかった。それなのに村役場は、「買収に応じて立ち退けば、直ちに金を下付する」と言い出した。またこれと同時に、県庁は日夜「家を売れ、早く立ち退け」と厳しく責め立て、遺族が遂に根負けして買収に応じたところ、漸く僅か400円の金が下付されることになった。
敵弾が深く胸を貫き、「無念!」のただ一声で、敵陣を睨んで後ろに倒れるとき、どうして忠勇な我が兵士が、その名誉な死後において、死を以て報効を期した我が国家が、却って故園を廃頽させ、父母を追い、兄妹を離散させるなどと思うだろうか。しかし敵弾に斃れたものはまだ幸いかもしれない。なぜならば彼らは名誉な凱旋軍人として懐かしい旧山河を踏み、死を賭して守ったその国家から却って虐待、凌辱、窘窮(きんきゅう、苦しみ行き詰まる)されなかったからである。乞う吾人をしてここに一場の悲劇を挿入するを許せ。
119 明治38年1905年の暮れ、一人の凱旋兵士が古河駅で車(列車)を降り、大勢の郷党(郷里の人々)に囲まれ、形のおかしい凱旋門をくぐり、矢中村を目指して帰って行った。しかしこの時揚々としていた彼も微かな不満を感じていた。親愛な父母兄妹の姿が見えなかったことだ。最も熱心に彼を迎え、狂せんばかりに喜ばないではいられない人とは、彼の父母であり兄妹ではないか。
しかし彼は「年老いた父母や、家事に忙しい兄、そしてまだ幼い妹らがここまで来るのは耐えがたく、自分のために清められた家にいて、自分を待っていることだろう」と思いつつ、懐かしい故郷の家に向かって急いだ。彼は名誉ある凱旋軍人ではないか、そして山河は旧態依然として彼を迎えるのではないか。あの黒髪山の峰よ、思川の清流よ、これらはみな親しい旧知己ではないか。美しい自然の景色に接し、彼の心は幼かったころの昔に戻り、彼の足は楽しさの余りに踊った。
120 野菊が咲き乱れる断橋(だんきょう、壊れ落ちて渡れない橋)を過ぎ、鶏犬の声がのどかな幾村かを過ぎ、彼は漸く我が故郷近くに着いた。環のように村を囲む堤に上ると、懐かしい我が故郷が眼前に展開した。しかし「家々から煙がのどかに立ち昇り、田圃には作物が豊かに実っているだろう」という彼の空想は、一目にして打ち破られた。建ち並ぶ家の数がいかに減ったことよ、肥沃を誇っていた田園がいかに荒廃したことか。軒が傾いた家から微かに立ち昇る煙もうら寂しく、鶏犬の声も絶え、白葦黄茅が徒に茂る。彼は愕然として驚き、その理由を尋ねようとしたが、彼を送って来てくれた人々の姿は彼の後ろにはなかった。
彼は訝(いぶか)りながら我が家を目指して急いだ。やがて我が家の近くに来たところ、何ということだ、確かにあったわが家の跡は、積み上げた土台だけが徒にうずたかく、欠けた茶碗や古い下駄などがあちこちに散乱している。これを近所の人に尋ねたところ、「あなたの生家はすでに買収されて他郷に流離した」と。村民はあまりの痛ましさに事実を話さず、彼が既に失われた家に戻って悲嘆の涙に暮れるのを見るに忍びず、中途で離散したとのことである。
ああそうか、彼は聞き終わってこう叫んだだけだった。涙だけが潜々として頬を伝う。親と別れ、兄妹と別れ、故園を辞し、遠く遼東の野に転戦したことは、愛する御国のためではなかったか。しかし今戦いが終わって帰ってきたら、住み慣れた故郷の地は空しく荒れ果て、親も兄妹も遠く去ってここにいない。夕暮れの風が枯れた葦を乱し、落日で力ない渡良瀬川の岸に立ち、彼は叫んだ「ああ我は何ゆえに白骨となって故郷の山河に見えなかったのか」と。
121 何と悲惨な物語か。しかしこれを私の架空の空想だと思わないで欲しい。これは実に私の万石の熱涙に値する一つの実際の悲劇なのである。しかし悲劇は最初からこれだけに止まらない。住み慣れた故郷を出て他国(他郷)に赴く者、何とか止まって敢然として政府に反抗する者、銀髯(ぎんぜん、白いほおひげ)を揮って村民を督励し、悲憤の眦(まなじり)を決して(大きく目を開く)政府の亡状(無礼な態度)を弾劾する老義人など、これらはみな悲劇の中の人ではないか。
政府が最も恐れかつ忌む者は、所謂狂暴な無政府党ではないか。そしてこの狂暴な無政府党を作り出す者は政府自身ではないか。政府よ、感謝する、爾は虐待と酷遇と迫害と嘲弄と軽侮と悪政とを以て、常に我が親愛なる多くの狂暴な無政府党を造っている。
第十九 政府、人民を欺く
122 政府は明治38年1905年から明治39年1906年にかけて矢中村問題の運動者を買収し、多くの村民を欺いて他郷に移住させた。即ち明治38年1905年10月ころ、鉱毒問題当時から田中翁と共に奔走尽瘁(じんすい)してきた左部彦次郎を買収して土木吏員とし、翌年明治39年1906年12月には左部に、熱心な非買収派の村長川鍋岩五郎の長男を買収させ、次いで岩五郎も買収した。そして川鍋父子はいずれも日給40銭、50銭で県庁の土木課に雇われている。
村民の移住は明治38年1905年10月ころに9名の村民を同県塩谷郡に移住させたことに始まる。当時県庁は言った「開墾地、開墾に要する農具、肥料、苗種、また建築費、食糧1年分を無料で与える」と。そしてこれに応じて移住した者には「土地の肥沃、作物の良好などの点で、矢中村より優れている」という書面を出させ、先に約束したことは守らず、地代、建築費、肥料代金を先に村民が県庁に売った土地・家屋の代金から差し引いて渡した。そして地味は不良で、(矢中村のように)無肥料で1反2石以上の収穫はなく、住むに堪えず逃げ帰る者には、郡長、村長、警官が「なぜ県庁との約束に背いて帰って来たのだ」と叱咤して追い返した。
123 同じころ(県は)同県那須郡那須野村にも数戸の村民を移住させたが、当時県庁は「移転料として一人につき3円ずつ与え、その他建築費、土地、肥料等をも与える」といつものように詐称した。男子だけが(先に)赴いたところ、その地は赤松の林で、地味は不良で、麦は僅かに産するが、米は全く取れず、最も多く産するものは稗(ひえ)や粟(あわ)で、とうてい生活を支えることはできなかった。さらに同村民は、矢中村村民に領分を狭められると恐れて隊を組んで鉈(なた)や鎌で迫害したが、警官の保護を受けて何とかしのいだ。
また県庁は移住の当初、土地を無料で与えると言っていたが、実はその土地は近衛侯爵あるいは西郷侯爵の所有地で、移住者は自分の土地のつもりで他人の土地の小作していたのだ。だから矢中村破壊の当時、同郡に移住した染宮長助は、(移住先の)故郷を見舞おうとして来た人に「塩谷、那須の二郡の移住地は惨憺たるもので、県庁の言うように良い土地でないばかりでなく、当初県庁が約束したことは悉く無効となり、60、70戸の人民は皆餓えて泣いている。私たちは今にして田中氏の先見に服す」と涙を流しながら憤慨したという。那須郡に移住した者が家族を引き纏めに(矢中村に)帰って来た時、田中翁は矢中村を去って他に転住することの得策でないことを懇々と説諭したからである。
124 明治39年1906年8月、落合熊吉ほか6人は、同年の春、堤防修復のために多大の負債を生じ、遂に負債を弁済するために県庁の買収に応じた。それ以前、買収土木官吏の柴田四郎は、落合外7人を同郡国谷の官林に誘い、1人に4町ずつ与えると言って遂に買収に応じさせた。しかし移転後はさる景色だになく(意味不明、4町の官林が譲渡されなかったということか)、しかも1万2千円ほどのもの(材木)をわずかに2600円で村(民)に売り、村民はさらにこれを栃木町の某材木商に3900円で売った。そして落合らがもらったものは、開墾の時に堀除かなければならない根っこだけだった。官吏等が、愚直な村民を欺いて愚弄するやりかたは以上の通りである。(3900円と2600円の差額1300円が、村民の負債弁済のための資金ということか)
その後彼ら7人の中の宮内吉蔵はそこで住むに堪えないで他に転住し、6人だけが止まった。残った6人の悲惨な状況は、塩谷や那須に移住した者らに劣らなかった。彼らは「私たちは昨年8月の移住に係り(移住して来て)、まだ一作の収穫もしていないので、将来(この土地が)嘱望に値するかどうかは当座分からないが、地味は比較的良好である、しかしもともとここは山林を新たに開墾した土地なので、矢中村の土地では肥料がなくても1反歩に2石以上の収穫があったのに、当地では過硫酸加里、締粕(かす)、糠(ぬか)など約5円強の肥料をやっても、麦作は6斗以内の見込みで、大根や葱(ねぎ)などの野菜類は、どんなに肥料をやって耕作しても、日が経つにつれて消滅して(枯れて)しまう。そしてこの近辺には川がないから漁をすることもできず、蘆(あし)もないので笠を作って売ることもできない。また里まで遠く道も複雑なので(石橋まで4里強、宇都宮まで7里)、幼児に使い用をさせることもできない。そのため朝夕に大人の余計な仕事が多い。だから我らは3町有余の土地を抱えながら、1年間の長い年月を徒食している。そうでなくても経費のかかる新たに開墾した事業であり、県庁から受けた土地家屋の買収補償金と少しばかりの移転料は早くも使い果たし、今や飢えをしのぐ資金もない」と語ったとのことだ。
第二十 (歴代栃木県知事の)罪悪の受け継ぎ
126 栃木県知事は赴任する時に矢中村買収の罪悪という重大な事務引継ぎがあった。
折田平内知事039は鉱毒問題の当時、被害民と鉱業者との間に立って示談調停に奔走したが、次に述べる相継ぐ歴年の三人の知事は、中央政府の内命を含み、悪漢安生順四郎と共謀して彼の奸計を援け、村民を苦しめて来た。つまり明治35年1902年から明治37年1904年までの3年間に、溝部惟幾(いいく、1857--1903)、菅井清美、白仁武(しらにたけし、1863--1941)の三名である。
明治35年1902年の暴風雨水害に対して県知事溝部惟幾は多年計画してきた矢中村買収案を初めて公にし、災害土木費という名目で、108万円の県債案を立て、臨時県会を開こうとしたが、同年1902年有名な教科書事件099で入獄したため、菅井清美知事が赴任した。菅井は明治36年1903年1月16日に臨時県会を開いて前任者溝部が計画した議案を可決した。そしてこの108万円中の41万円を銀行に預金した。
127 しかし銀行に預金するほど借金をする人がいるだろうか。そしてわずか108万円中のほとんど半分を遊びに使う人がいようか。また人民がそのために6万円以上の利子を払うなどということがあろうか。このような県当局の処置の不法、暴戻は驚くべきことだ。
次に白仁武が菅井清美に代わって赴任し、明治37年1904年、先に預金しておいた41万円を引き出して収入金として繰り入れ、災害土木費若干万円と算出し、さらに帝国議会の協賛を経て、栃木県災害土木補助費として22万円を国庫から得た。そしてその中から県費36万円、国費12万円、合計48万円を矢中村補償処分費として、同村買収を企てた。年度がこのように錯綜していることがすでに不当であるし、さらに県費は災害土木復旧費であって、決して新事業費ではない。国費はその補助費だから復旧事業以外に使用してはならないはずだ。
ところが県庁はこの災害土木費とその補助費とで矢中村を買収しようとし、さらにそれを賄賂に使い、村民を堕落させる遊蕩費に使い、県庁と関係の深い一個人の負債の弁償に用いた。このことから県庁がいかに熱心に矢中村を滅亡させようとしたことがわかる。
128 さらに菅井知事は、人民がその県債のために6万円の利子を払っているのにもかかわらず、41万円預金するほどあり余った県債を起こし、しかも次の白仁知事がこれを引き出して、新たに収入金として計算し、これを矢中村の買収に充てたことは、前知事から矢中村買収案を受け継いだと言える。この買収案は数代前の溝部知事時代から企てられたものである。
ああ呪われた矢中村よ!爾は痛ましいが安心しなさい。矢中村が被った滅亡という事実が存在するかぎり、現代の国家、政府、法律、議会とが悉く資本家権力者の奴隷であり、専有物であり、平民階級の当面の仇敵であることを、万邦の同胞が永久にその脳裏に刻み付けるだろうからだ。
第二十一 矢中村の合併
129 このように県庁が熱心に陰険邪悪な手段を講じて村民を他郷に流離させようとしたのは、そうすることによって住民数が減少し、村を維持するだけの資力を失ったとして、矢中村を買収しやすくするためであった。そのため県庁の陰険奸悪な手段に陥れられて故郷を後にする人も少なくなかった。こうしてかつては戸数450、人口2700だったものが、明治40年1907年には、戸数70、人口400となった。そして残忍な県庁はさらに村民を苦しめたのである。
130 明治37年1904年の暮れ、村民は村債と排水器に関して村役場に明確な回答を促したところ、村長や村会議員は明白な回答ができず、そのため助役、収入役、書記を除いて他の者は辞職した。そこで12月12日に選挙が行われ、助役の田中芳郎を村長に選出した。ところが知事が田中芳郎を郡吏に任命し、郡吏の猿山定二郎を村長代理として派遣した。(そんな選挙無視が許されていたのか)ところがその猿山定二郎は、安生などが借りた負債を村債だとごまかした。翌明治38年1905年、郡吏鈴木豊三が猿山定二郎に代わって村長代理となった。鈴木豊三は、島田栄造、小川長三郎、河嶋次郎吉等の墓地を売り、さらに字高砂の共有地を売ろうとしたが、それは村民が取り戻した。また鈴木豊三は村債でないものを村債とした。
明治39年1906年4月21日、鈴木豊三村長代理は白仁知事の命令を受けて、残留村民140戸のうちの堤内住民76戸に対して、前年明治38年1905年比で38倍強の苛税を課した。しかしこの村債は全て虚構であったので、村民は収税を拒否した。すると遂に1906年6月27日、財産差し押さえが執行されたのだが、転住すれば財産差し押さえを免除するとしたので、村民は競って買収に応じ、遠く他郷に流離した。鈴木豊三が6月28日に同村字下宮の落合幸造の家に来て財産を差し押さえて帰ろうとしたところ、田中翁が「こ奴は村の共有地を売りし者なり」と言って、栃木警察部屋分署の巡査清野竜吉外3名に向かって告訴したところ、遂に官吏侮辱罪*を惹起した。
*官吏侮辱罪「官吏の職務に対し、其目前に於て形容若くは言語を以て侮辱したる者は、一月以上一年以下の重禁固に処し、五円以上五十円以下の罰金を附加す。其目前に非ずと刊行の文書図書又は公然の演説を以て侮辱したる者亦同じ」旧刑法が布告された明治13年1880年7月17日から、本罪廃止が施行された明治41年1908年9月30日まで有効だった。
131 これより先、明治39年1906年4月15日、矢中村村会が急遽召集された。当日の議案は知事白仁武の諮問案であった。
町村合併の件に付諮問
下都賀郡矢中村
下都賀郡矢中村は瀦水池設計の必要上、其の土地家屋等大半を買収し、村民を他に移住せしめたるため、将来(矢中村が)独立して法律上の義務を負担するの資格無きに至れるものと認むるにより、矢中村を廃して其の区域を藤岡町に合併せんとす。
但し本月十六日迄に意見答申すべし。
明治三十九年四月十四日
栃木県知事 白仁武
町村の廃合は自治体にとっては死活の重大問題であり、審議熟慮を要し、十分の時日をもって審議すべきことである。そしてそれは監督行政官の責任でもある。ところが栃木県知事白仁武は14日に諮問案を発し、16日までに答申せよと命令した。町村制第42条に、町村会の召集と会議の事件(議案)を告知する際、急施を除き、少なくとも3日前にすべきだと規定している。町村廃合は「急施を要する」ことではなく熟慮を要することであるのに、このように急な答申を命令するのは、胸底に悪意があるのではないかとすぐにわかる。
132 政府の悪意は明治39年1906年4月15日の村会開催のやり方で暴露された。この日午前9時ころ、鈴木豊三130郡書記は村長職務執行として村会召集状を発し、次いで直ちに再招集状を発した。そして集まった少数の議員に向かって「これは再招集の村会である。だから法廷の出席議員数に達しなくとも直ちに議事に着手すべし」と言った。町村制第43条には「町村会は議員が三分の二以上出席しなければ議決できない、ただし同一の議事で召集が再回となり、まだ三分の二に満たない場合はこの限りでない」としている。鈴木豊三はこの但し書きの条項を濫用し、まだ一回も開かれていない村会を再召集の村会と仮装したのである。
このような暴行は鈴木豊三など一介の郡書記などができることではない。これは初め14日に県知事が諮問案を発したときにすでに計画されていた法律の蹂躙である。現に保安課長は多数の警官を引率して県庁から派遣され、この小さい村会を脅迫した。*このように明白な不法行動は、小胆な県知事が敢行できるものではなく、中央政府の命令である。
*多数の警官や軍隊が睨みをきかせながら契約書や条約に判を押させようとする手法は、朝鮮併合時にも使われた手段だった。ただしここでは脅迫に屈しなかったが。
無力無能な村会議員等は、この不法な会議(開催)を拒否できなかったが、村の死滅に関わることだったので、遂にその諮問案を否決した。しかし大きな政府の罪悪の手は、この諮問案否決によって収められず、果然(予想通りに)7月1日に矢中村は隣地藤岡町に合併された。これは道義や法律を蹂躙した、資本家政治の黄金万能の勝利を顕彰する罪悪の記念であった。
133 そして矢中村民は7月19日、先の不法な徴税命令130に対して、その取消の訴願書を藤岡町長宛てに提出した。ここに奸悪な徒輩が矢中村を陥れて私利を貪ろうとする様が歴然としている。
矢中村民訴願書
栃木県下都賀郡藤岡町大字内野百四十四番地平民農
訴願人 嶋田政五郎
外三十七名
一定の申立
134 明治39年1906年4月21日130下都賀郡矢中村長職務管掌下都賀郡書記鈴木豊三が訴願人嶋田政五郎外37人に対して発したる各徴税伝令書は之を取り消すと御議決相成度候
事実及理由
下都賀郡矢中村の明治39年度1906年度の歳入出予算俵中の歳入の部の合計を閲(けみ)するに、金6万7083円62銭2厘とあり、また歳出合計を閲するに、金169円23銭とあり、右歳入金より歳出金を除くと、その差金6万6914円39銭2厘と相成候。しかして下都賀郡矢中村長職務管掌下都賀郡書記鈴木豊三が明治39年1906年4月15日の同村会131に提出し、可決相成たる第二号議案中、下都賀郡矢中村負債の部を見るに「一金6万6914円39銭2厘、右の債務は財産を処分し、その不足額金2300円は村税に賦課徴収し、以て此の際整理するものとす」とあり。果たしてしからば、右不足金を称する金2300円を、矢中村税戸別割、反別割として賦課徴収するがために、徴収伝令書を発したことは明らかな事実である。今下都賀郡矢中村の債務であると称する金額中で最も不法と認めるものを左に列記し、以て該金額が当然矢中村の負担に属すべきものかどうかを弁ぜんとす。
番号 |
借入金額 |
債権者住所氏名 |
債務者住所氏名 |
一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 十一 合計 |
50,000円 300円 300円 170円 300円 150円 150円 100円 100円 1,000円 1,650円 54,220円 |
株式会社日本勧業銀行 副総裁 藤島正健 下都賀郡矢中村恵下野 加藤伊右衛門 茨城県猿島郡古河町 丸山義一 下都賀郡矢中村恵下野 加藤惣吉 同郡同村内野 染宮太三郎 同郡同村内野 田中徳次郎 同郡同村内野 田中明之信 同郡同村下宮 茂呂甚吉 同郡同村恵下野 内田安三郎 茨城県猿島郡古河町 丸山義一 下都賀郡藤岡町 嶋田島三郎 |
下都賀郡矢中村 助役 大野東一 下都賀郡矢中村 村長 茂呂近助 同人 同人 同人 同人 同人 同人 同人 同人 同人 |
136 第一点 第一号の金5万円は、当時矢中村助役の大野東一が、株式会社日本勧業銀行から借り受け、之を上都賀郡清洲村大字久能の安生順四郎に預け入れ、その後明治34年1901年中に、当時の矢中村村長の茂呂金助が、その預金5万円のうち金1万円を安生から受け取り、さらに之を茨城県猿島郡古河町大字古河の丸山義一に預け入れたものであり、右金額はいずれも矢中村の収入役が受領した証拠がない。そのことは明治32年度1899年度の矢中村収入簿に、その受け入れを登記した事実がないことに徴して明らかである。
町村制第71条によれば、「町村の収入役は町村の収入を受領し、その費用の支払いをなし、その他会計事務を掌る」とある。案ずるにたとい町村会が借入を議決し、適法にその借入をしたとしても、その金員を町村の収入として収入役が受領したのでなければ、その債務に対して町村が責任を負うべきでないことは、大審院第一民事部の明治36年1903年4月11日言渡35(オ)第662号の、江草村対真部千代造の貸金請求事件に関する判決が明示するところである。だから矢中村の村債であると称する第一号の金5万円は、前述の理由により村民が負担すべき義務がないことは明らかである。
第二点 第二号から第九号までの合計、金1,570円は、明治33年1900年10月16日の矢中村臨時村会で議決した議事録に記載してあるように、矢中村地内の堤防拡築請願費という名義で借り入れたものであるが、実際は加藤伊右衛門、加藤惣吉、染宮太三郎、田中徳次郎、田中明之進、茂呂甚吉等が、堤防拡築の運動をした(ときの)費用の手控(覚書)を算出し(たものであり)、あたかもこれらの者が矢中村に対して債権を持つように装ったものであり、真正の村債ではない。
理由省略
137 第三点 第十一号の金1,650円は、嶋田島三郎に対する負債のように見えるが、実際は同人から借り入れたものではなく、全くの虚構の債権である。この点に関して、同人が任意に供述した聴取書や田中明之進から同人に宛てた債権譲受証書に徴して明らかである。
理由省略
要するに以上三点で論じた(第十号を除く)金53,220円の村債は、矢中村民が負担する義務がないから、その弁済に充てるために町村税として賦課したのは不当の甚だしいものであるから、茲に本訴願を提起致候
立証省略
右訴願人(氏名省略)
明治39年1906年7月19日
下都賀郡藤岡町長 森 宗吉殿
第二十二 政府、堤防を破壊す
138 政府は初め法律の仮面を被って栃木県知事に矢中村を滅亡させようとしたが、明治39年1906年4月15日の村会が知事の諮問案を否決したので、政府はその真相を暴露し、公然と暴行を行うようになった。即ち買収に応じない村民に対して県庁は4月17日に赤麻沼の急水(急流)予防工事を破毀する命令書を発した。麦の穂が出て、雪解けの洪水が近々やって来ようとするときに、急に堤防を破壊せよという命令を発したのである。これは狂人の沙汰ではないか。明治政府のこの度の一大治績は、吾人万邦の同胞と共に永遠に記憶し、他日報復の時があるのを期する。
そもそもこの急水工事は、村民が2900円の私費で築いた仮堤防が、明治38年1905年8月18日の洪水で破れたのを復旧しようとして県庁に修復届を差し出したところ、願書に(変更)せよとして突き戻し、願書を出したところ、様式が違うと突き返し、一向に取り上げる気配がなかったので、村民が600円を支出し、これに寄付金150円を加えて修復工事に従事し、殆ど完成した時に前述の破壊行政命令が出されたのである。
139 そしてその命令には「(明治39年1906年4月)27日迄に堤防を破毀せよ、然らざれば官が自らこれを破毀し、且つその費用を村民から徴収すべし」とあるが、このような不法な命令は、洪水期がまさに目前に迫っている時に首肯できるものではない。村民が断乎としてこれを拒絶したところ、県庁は同月(4月)30日に多数の官吏と人夫を派遣し、ことごとく堤防を撤回してしまった。これより先、村民等の間で独力で堤防を修復しようとの意見が起ると、村役場は大いに驚き、「麦の弁償金を与えるから、堤防を築くのを中止せよ」と村民らの間を説いて回り、漸く一部の者に中止させたが、結局麦の弁償金は与えられなかった。村民を欺いて堤防を築かせないなど、村役場のすべきことか。上は政府国会より、下は県庁村役場に至るまで、現代の政治機関は悉く盗賊のみ。
栃木県知事は(明治39年1906年)4月17日に堤防破壊の命令書を発すると同時に、官有地借用の人民に対して「25日までにその家屋を破壊して立ち退くように」との厳命を伝えた。この命令書をよく調べてみると、政府が矢中村民を敵視してこれを滅亡させようという計画が、一朝一夕のことではないことが分かる。
140 命令書
矢中村恵毛野 佐山梅吉
下都賀郡矢中村大字恵毛野官有堤塘(とう、つつみ)上に設置したる家屋は、明治37年栃木県令第61号の手続きを経ないから、之を取り払い、原形に復すべし。
明治39年1906年4月17日 栃木県知事 白仁 武
吾人は今ここで取り扱い期日の長短のような細末を論じるつもりはない。ただ取り扱い命令の原因を調査すれば足りる。命令書によれば、(佐山梅吉が)栃木県令第61号によって借用継続の出願をしていないというのだから、問題は簡単で、彼ら借地人が借用の継続を出願したかどうかを調査すればよい。ところで前記の佐山梅吉はその隣人数名と連署して明治38年1905年3月10日の日付で、矢中村役場を経て(に)借用継続の願書を出しているのである。ところがおかしなことに、明治39年1906年4月初旬、その願書が突然矢中村役場の手によって、漫然として「評議相ならざる趣につきひとまず却下」と付箋して返付(却)されて来たのである。この願書には、矢中村役場が「明治38年1905年3月15日」に、下都賀郡役所は「明治38年1905年3月24日」に、各々これを受け付けたという調印がある。下都賀郡役所がいつこれを上達し、県庁がいつこれを受け付けたのか、それは県庁の受付印を調べないと知ることができないが、爾来1年間この願書が郡役所と県庁との間に停滞していたことは疑いないことだ。吾人は郡役所がこれを握りつぶす勇気がないと信じるので、必ず県庁の手で空しく握られていたことを信じるが、これが最も事実に近いものと思わざるを得ない。だから「借用の出願なき」がために、家屋の取り払いを命じた県知事は、全く詐偽手段を弄して良民を陥れる予備を試みたのである。
141 計画的で組織的な明治政府の罪悪に驚くばかりだ。世人はとかく田中翁の絶叫を聞き、その弾劾の事実が余りに極端だとしてなかなか信じられないと冷笑した。しかし上述のような一、二の文書・証拠を点検してくれば、どんな懐疑的な人でも、もはや資本家と政府と県庁とが結託共謀した組織的罪悪を疑う者はいないだろう。そして資本家階級の奴隷であるあなたの政府に対して、財産と生命と権利とを託することが甚だ危険であると思わない者はいないだろう。田中翁は最初から虚言者ではなかったのだ。
しかし注意せよ。これは矢中村だけのことではないのだ。もし以上のようなら、法律の存在は法律が皆無であるよりも危険である。なぜならば政府は法律という武器を逆用して国民を残害するからだ。目前の明治政府はまさにこれではないか。
*破毀も破壊も同じ意味で使っているようだ。
第二十三 瀦水池無効の実例
142 政府がその強大な全力を挙げて、この一弱小村に酷遇、凌辱、虐待を加えるなら、資力のない村民はどうやってこれに耐えられるのか。故郷を離れる者が漸くに多く、家を取り壊した跡だけが残っている。こうして堤内の住家は17軒までに減少し、堤外の住家と合わせて50戸ばかりに減少した。そして同村(矢中村)字下宮の三国橋から藤岡町の庚申塚までの1里の間は鶴見某の一軒だけとなり、夜間は堤上を通行する者が全くいなくなった。
しかし田中翁がいる。銀髯(ぜん)を揮い、老躯を挺して暴戻な日本政府を弾劾し、悪逆な県庁の官吏を𠮟咤し、翁に従う十数戸の人民とともに孤軍奮闘し、断じて暴戻な政府に降伏しない。しかしここにおいて政府は愈々(いよいよ)その兇暴を逞しくし、一気呵性に貧弱な矢中村を亡ぼそうとした。
143 明治39年1906年2月、当局は矢中村字内野と字恵毛野の小学校二か所を廃校にし、堤外の字下宮に一か所だけ残したのだが、その際に村会には全く諮(はか)らず、白仁知事の専断であった。
同4月15日に開かれた村会には衛生の項目がなく、また小児に対して種痘も施さなかった。
同6月、当局は田中正造翁に対して遂に予戒令*を執行し、翁が矢中問題に関して論議し行動する自由を束縛し、自由に罪悪を公然と行おうとした。
*予戒令
1892年(明治25年)1月28日、第1次松方内閣において、「予戒令」が緊急勅令として公布、即日施行。
1913年(大正2年)12月20日、第1次山本内閣において、「予戒令廃止ノ件」の草案が枢密院の審議に付される。
1914年(大正3年)1月20日、「予戒令廃止ノ件」の施行によって廃止。
予戒令は浮浪者や無産者、集会の妨害行為、他人の業務に干渉する者の取締を目的に制定された勅令である。警視庁の長である警視総監、内務省北海道庁の長である北海道庁長官、官選の府県知事に、「予戒命令」を発する権限を与えた。
自由党や立憲改進党などの衆議院の民党各派は予戒令の廃止を目指し、第4回、第8回、第10回、第12回および第13回帝国議会衆議院において、予戒令廃止の「建議」を5回提出し、いずれも民党各派多数の衆議院において可決されたのに、すぐ廃止にならなかった。
そして村費で造った消防器械は、一部に一個、計五部に配置してあったのだが、明治38年1905年末から明治39年1906年にかけて(全て)売り払われてしまった。
その他前述のように、当局は村民の財産を差し押さえ、官吏自らが樋門を釘付けにして畑を水浸しにし、警官に村民の漁具を盗む者を護らせ、村民が自費で築いた堤防を破壊してその費用を徴収するなど、あらゆる乱暴狼藉を尽くした。
いったいどこの政府がこのように貧弱な国民を虐待凌辱することがあるか。そしてこのような無礼を公然と行って恥じない日本政府は、人民に国民としての義務を負わさないか。否、政府は日露戦争では矢中村から実に50余名の壮丁を徴集し、馬、麦、馬糧(ばりょう)を徴発した。そして平時の租税では明治39年度1906年度に、村民は前年度比実に38倍の苛酷な税金を賦課された。
144 このような人為的な迫害に苦しみつつあった矢中村の村民は、同年明治39年1906年7月にまたもや洪水が横溢して矢中村に氾濫したため、困憊疲弊、再起不能に陥った。
明治39年1906年7月13日から雨が降り続き、16日に氾濫の極に達して堤防が決壊し、全郷が濁流の底に埋没し、家が漂い、人は溺れ、押し流されて行く家畜の悲鳴と暴風雨の音が暗黒を満たした。
この出水のために矢中村の隣地の各村落でも、堤防が破壊され、田畑を荒らし、人家を荒らし、栃木県の損害額は50万円に上った。群馬、埼玉、茨城等諸隣県の損害もこれから推計できる。
栃木県庁が矢中村を買収して瀦水池とする所以は、洪水が氾濫したとき渡良瀬、思の両川が利根の大奔流に衝突して合流できず、反射して逆流となって栃木県下を水攻めにするから、県の南端にあり、渡良瀬、思の両川が合し、埼玉、茨城の境界にある矢中村を瀦水池としてこの逆流を緩和し、周囲の他村の洪水被害を免れさせようというものである。しかし矢中村を瀦水池としても全く利益がないことは、明治39年1906年7月の出水の当時、隣村の被害が従来に比べて全く減退しなかったことから知ることができる。また隣村の人民の経験によれば、洪水が矢中村の堤防を決壊して浸入すると、その付近は多少水量が減るのが常だが、多くても3寸10cmを越えることはないとのことだ。一方この水が辺りに拡散することから受ける被害は、利益よりもはるかに大きい。即ち、逆流は一時緩和するが、そのために付近一帯の浸水が引けるのに、7日が10日と長引き、そのため赤麻その他の村落は、農作物が腐食し、明治39年1906年の洪水の際も、桑の葉が全く収穫できなかった。
だから明治38年1905年から、矢中村の近くの群馬県下海老瀬、埼玉県下利嶋、川辺の諸村は、帝国議会に、茨城県下古河町、新郷村などは内務大臣に、栃木県下生井、野木、赤麻、寒川、穂積、三鴨の諸村と藤岡町は県庁に、いずれも矢中村を瀦水池にすることに反対し、年々その廃止の請願を提出していた。
矢中村を瀦水池にしても全く利益がなく、却って近村が害を被る事実は以上の通り明らかである。吾人はさらに数理の上から、矢中村がとうてい栃木県下の水害を防ぐだけの面積がないことを証明しよう。
第二十四 瀦水池設計の無謀
146 静岡県選出の代議士河合重蔵が明治40年1907年3月28日に有志のために矢中村瀦水池問題について精細に調査したところを発表した。当時著者がこれを筆記して平民新聞紙上に掲げたものが以下の通りである。
矢中村を瀦水池とする政府の設計を見ると、利根川の流域を1000方里とし、これに1秒につき13万5000立方尺の水を流すことができるから、従来の雨量なら洪水氾濫を起こすことは全くなく、これ以上の雨量があった場合でも、矢中村を瀦水池とすれば、39億余立方尺の水を(そこに)入れられるから、たとえ瀦水池(矢中村)を溢れた水が押し出しても、1秒に13万5000立方尺の水*がこの瀦水池を満たすのに約8時間を要すから、(矢中村以外の)村民が8時間以内に十分避難する暇があるというものである。
*平時の水量で計算しても無意味では。
*39億/13.5万/(60×60)=3900000000/135000/3600=8.024691358時間
147 しかし政府のこの言に多少の掛け値があることを知るべきだ。利根川1000方里の流域に1秒13万5000立方尺の水を流すというのが政府の設計だが、栗橋から上流の600方里の流域では、すでに62万立方尺の出水がある。これに思川と渡良瀬川の流域150方里の出水14万立方尺とを合計すれば、利根川本流の出水の5倍以上となる。*だから(政府が言うところの)8時間で瀦水池(矢中村)を充満する水の5倍以上の水が横溢する。即ち瀦水池は8時間の1/5、1時間36分で充満する。政府の偽騙を見よ。政府が無辜の人民を虐待してその土地を掠奪するための詐偽はこれに止まらない。
*(62万+14万)/ 13.5万=5.6
政府は言う「矢中村を瀦水池とすれば、39億立方尺の水を貯えることができる」と。しかしこれに要する土地の面積は3000町歩必要である。ところが矢中村の総面積は僅か930町歩である。またこれ(矢中村)を取り巻く堤防は高くて3間(18尺)ないし4間(24尺)だから、この堤内を水で充満しても、その全容積は僅か18億余立方尺にすぎない。*もし政府の設計に従ってこれに39億立方尺の水を入れるとすれば、この堤防を高さ20数尺分築き上げ、高さ40尺とし、また堤内の面積を2000余町歩に拡張しなければならない。ところが政府は「堤防の高さは10尺で十分だ」と言う。このような見え透いた詐欺騙満で朴直な田舎漢を欺くとは憎い限りだ。
*39×930/3000=12億立方尺
堤防の高さを現状の20尺とすると6億立方尺増加し、 12+ 6=18億立方尺
さらに堤防の高さを20尺積み増して40尺にすると12億立方尺増加し、 12+12=24億立方尺
そしてさらに面積を2000町歩にすると、 2000/930=2.15 24×2=48億立方尺
となり、39億立方尺にはならない。
1間=6尺。
148 矢中村の面積が39億立方尺146の水を容れることができないことは明らかな事実であり、その瀦水の全容積はかろうじて18億余立方尺147にすぎないから、1秒に75(76)万余立方尺146を流す水が矢中全村を満たすには40分*で足りる。しかるに政府はその12倍の8時間とするが、国民を欺くのも甚だしい。
*18億/75万/60=40分
以上の話は(降雨が)平常な時の設計であり、もし明治32年1899年の和歌山地方の降雨のように平地で6尺の雨量、もしくは数年前の足尾の雨量1尺ならば、利根川の上流や、支流の思川や渡良瀬川の水は、天に至る程の勢いで奔流し、さらに栗橋から下流の水もすさまじい勢いで逆流して堤防を突き破り、瞬く間に堤内を浸し、一度堤内を浸した水は再び溢れて、近村を破るだろう。その間1分以内だろうという。だから矢中村を瀦水池にしてもしなくても、その相違はわずか1分の差にすぎない。(その根拠は?)
149 各河川の許容水量設計で、四国の吉野川は53万立方尺、岡山の高梁川は26万立方尺、信州の築摩(千曲)川は25万立方尺の水を流せる設計となっていて、これらの地方の実際の水量は利根川の1/10にすぎない。しかるに利根川は1秒につき13万5000立方尺を流せるだけだ。だから矢中村を瀦水池にし、さらに近郷一円を瀦水池とし、栃木県全域を瀦水池としても、水害を免れることはできないだろう。いわんや水源の森林が依然として不断に伐採されているのだからなおさらだ。元を捨てて枝葉に走る為政者の頑迷奸譎(かんけつ、譎は偽る)なことは驚くばかりだ。
第二十五 土地収用法出づ (この章は著者の心情をよくまとめている)
150 矢中村を瀦水池とすることは、利害の点からも数理の点からも、害だけが多く利益が伴わないことは既に論じた通りである。しかもなお県庁は、誰もがすぐにも理解できるこのような道理を無視し、関東無比、否日本無比の肥沃豊穣な矢中村を、有害無益の瀦水池に変えようとしている。誰がその没常識、没道理に驚嘆しない人がいようか。しかし彼らが道理と、議論と、常識との前に眼を閉じて、敢えてこのような暴行をほしいままにしようとするのは、矢中村を滅亡させないと、彼ら県庁の官吏の不正行為、歴任県知事の罪悪、否日本政府と資本家とが数十年来犯して来た鉱毒問題という大罪悪を埋没させることができないからだ。
鉱毒問題は古くから言われてきたが、事態は今なお新しい。鉱毒は既に絶滅したとか鉱毒問題は過去の事だと誰が言うのか。事実は最も雄弁にその言の虚妄を証明しているではないか。
151 明治39年1906年の洪水は渡良瀬川沿岸に大破壊をもたらし、沿岸一帯の地ではまた鉱毒が氾濫し、そのため沿岸住民は再び数十年前の惨状に陥った。そして沿岸の各村民は遂に大塚源十郎、大出喜平の両氏を総代にし、明治40年1907年2月19日に両氏は上京して河川修復の請願に尽力した。このことは当時の新聞が報道した通りである。
吾人はしばしば鉱毒問題と渡良瀬河岸の洪水との密接な関係を論じてきた。そしてこのことは前記の事実によってよく証拠立てられる。即ち一方での山林の濫伐による洪水は、一方では銅山から投棄される鉱毒を運び、渡良瀬沿岸の沃野を荒蕪(こうぶ)しつつある。そして明治14年1881年に渡良瀬川の魚族がこのために斃死してから爾来20有余年、長く苦しい戦いに疲れた被害民が沈黙するようになった。このため鉱毒問題が絶滅したと考える人々がいるが、被害民の沈黙は鉱毒の絶滅を意味しない。山林の濫伐によって何度も起る洪水が、依然として鉱毒を運んで田園を荒蕪する害は莫大である。そして明治40年1907年に鉱毒被害民が上京したという事実は、鉱毒が今でも絶滅していないことを示している。
152 渡良瀬河岸一帯の地が洪水のために害を被るごとに、鉱毒問題という記憶が、それを全く忘れた人々の頭にも再び燃え上がって呼び覚ます。そしてまたその被害人民が昔のようにいつか蜂起するかもしれない。この煩悩苦悩こそ遂に資本家と政府とが、矢中村を瀦水池として洪水を緩和して近隣に害を及ぼさせず、この数十年の宿題である鉱毒問題という大罪悪の記憶を世人から除き去ろうと企てたのである。
そしてこれを企てたのは古河市兵衛と陸奥宗光であると吾人は断言する。歴代の内閣諸大臣が支配し、その部下である歴任の県知事が陸奥の権力と古河の金力とに叩頭服従し、彼ら(陸奥宗光と古河市兵衛)の組織的罪悪を扶けたのである。私のこの考えを牽強付会と言わないで欲しい。この数十年間における鉱毒問題と矢中村問題を考えて見れば、その背後に潜む政府や資本家等の罪悪的大勢力の存在は明らかである。
金力と権力とは現社会における最も強大な勢力だろう。しかしこれら以上に強いものは、正義の力である。政府がその金力と権力とで強力な一撃を加える時、これに耐えて抗するものがいるだろうか。しかし貧弱な矢中村の村民は数年間にわたってこれに耐え、敢然として勇戦奮闘してきた。政府が堤防を築かないときには、彼らは独力でこれをし、県庁が顧みないときに彼らは厳重な警吏の羅職(らしょく、らしき、無罪の人を罪に陥れる)を潜り、中央政府に迫った。そして村民の同盟員が散じたり変節したりして、止まる者がわずか10名となっても、意気は変わらなかったのである。
153 政府の虐待、酷遇、凌辱は却って矢中村民の志を堅くさせた。ここにおいて政府は百方策尽きて、窮余ついに無法にも明治40年1907年2月、県庁に土地収用法の適用を認可した。世間の言うところによれば、内務大臣原敬は首相西園寺公望に泣きつき、漸くこの認可を得たと言う。内相原敬は現に古河鉱業の顧問であり、陸奥宗光の子分だったことを思えば、今回の件は言われなくてもおのずから会得できることだ。
土地収用法が遂に出ると、矢中村民の激昂は高まり、中央政府に請願してその取消を実行させようと意見をまとめ、家業が忙しいにも顧みず、最愛の妻子と(訣別の)水杯を交わし、田中翁に従って上京した。そして彼らは、請願が受け入れられるまでは乞食をしても踏みとどまり、やむを得なければ、首相邸の玄関で餓死しようとまで言っていたが、田中翁の懇切な説諭によってひとまず帰郷した。(田中はさほど過激ではなかったようだ。)彼らが首相邸に向かう途中で二重橋の前を過ぎるとき、一行の中の七十歳の老翁が、燃えるばかりの熱涙をこぼしながら「大したもんじゃねーか、おらあこんなことをする金があったら、田中の爺様に楽をさしてやりてえんだがやい」と悲憤の眦(まなじり)を決して叫んだという。これこそ日本政府が言うところの恐るべき無産府党、虚無党ではないか。政府に大いに感謝する。爾は常に吾が最愛の同志を造りつつある。
154 これより先、明治40年1907年1月26日、下都賀郡長は村民を藤岡町役場に召喚し、「もういくら騒いだとて駄目だから、この際従順に買収に応じたがよかろう。いつまでもぐずぐずしていると土地収用法を適用するぞ」と傍若無人の暴言を吐いた。しかしその土地収用法が出てからも、村民はなおかつ平然として耕耘に励んでいたので、更に手段を替えて、村民を栃木警察部屋分署に召喚し、巡査刑事らが居並ぶ前に引き据え、署長が自ら「買収に応じるか、拘留に処せられるか、どちらかを選べ」と威嚇脅迫するなど、悪逆残忍な亡状(無礼な言動)の限りをつくした。政府は陰険邪悪な奸手段で村民の墳墓の地を奪おうとし、これに賛成しない者がいれば、暴戻な警察権で臨み、揚言(公言)して「東洋の君主国」と言う。厚顔無恥なる者よ、爾の名前は日本国なり。
しかしこのような威嚇や脅迫も、自己の信念が正義であることを知って敢えて他を顧みない村民にとっては、空を吹く風の声程にも感じられなかった。彼らは明治40年1907年5月になり、先に破れた北方の字移堤の堤防を修復するには2000余円を要するから、更に新しく地形の高所を利用して、長さ700間余の仮堤防を築いた。しかし皇天は無情でありこの小亡国民を憐れまなかった。明治40年1907年5月12日、赤麻沼の波浪はまたもや村民が粒々(一粒一粒)辛苦の血涙で築いたこの仮堤防を流し去った。そして村民はこのために1万8000円の損害を被った。人為の迫害が来なければ、天為の災害がやって来る。可憐無辜の良民を連続する災害が疾苦させる。冷酷な皇天と暴虐な政府に対する私の痛憤の熱涙がますます盛んに流れる。
155 この災害に続いて彼らを襲ったものこそ明治40年1907年6月29日の強制破壊であった。そして20有余年の長い間、紅涙と熱血と絶叫とで明治政府の悪政を弾劾し、横暴な官憲に対して悪戦を続けて来た矢中村民は、この最後の一撃によって破れ、矢中村は遂に過去の歴史となった。
第二十六 矢中村の滅亡
156 (以下の一段落は名文なので原文のまま)明治政府悪政の紀念日は来れり。天地の歴史に刻んで、永久に記憶すべき政府暴虐の日は来れり。準備あり組織ある資本家と政府との、共謀的罪悪を埋没せんがために、国法の名によって公行されし罪悪の日は来れり。ああ、記憶せよ万邦の民、明治四十年六月二十九日は、これ日本政府が矢中村を滅ぼせし日なるを。正義と人道との光り地に堕ちて、悪魔の凱歌は南の極みより、北の涯にまで亘る。ああ、国家よ、政府よ、皇室の尊厳よ、国威の発揚よ、かくのごとき迷信と、罪悪と、虚栄と、偽善とを擁して、平民階級という噴火山頂に眠れる痴人よ。爾が狂歌乱舞の足どりの下には、革命の猛火炎々として、すでに地の極にまで及べるを知らざるか。
吾人は当時の新聞によって矢中村破壊の惨状を偲ばんと欲す。
初め県庁は23日を強制破壊決行の日と予定していたが、残留16戸の村民116人が前日の22日の夜に間明田粂次郎方に会して最後の酒宴をし、歌いかつ舞いて一夜を明かそうとしていたところ、宴半ばにして強制破壊執行延期の通告が来た。これはこれより先に田中翁が県庁に知事を訪い、「目下麦の収穫中だからしばらく延期してはどうか」と忠告したのを受け入れたことによる。そして遂に29日に決定したので、村民は25日の夜に某宅に会し、次の決議をした。「吾らは矢中村に対し、土地収用法を適用し、土地物件の買収強制執行をなすを、あくまで県庁の不当残酷の処置なりと信ず。官吏が凶暴の所為を以て臨まざる限り、断じて腕力に訴え抵抗せざる事を約す」と。
26日、村民が万一の用意にと郵便貯金を引き出そうと藤岡郵便局に行ったところ、同局は不法にも払い渡さなかった。郵便局さえこの可憐無告の人民を苦しめるとは、政府の矢中村民虐待は準備万端だ。
こうして29日はやって来た。植松第四部長が率いる破壊隊200余名は、午前8時、恵毛野の佐山梅吉方から破壊に着手し、家財道具は雷電神社に運搬し、次いで家屋を破壊した。この時梅吉は中津川保安課長に「官吏は人民の家屋を破壊し土地物件を没収するが常務なりや」と問いて動かなかったが、田中翁と木下尚江氏が説諭して承諾し、妻子とともに堤上に出て、住み慣れた家が壊されて行く悲愴の光景を見守っていた。
158 田中翁は破壊隊の中に県属(県の官吏)の柴田四郎がいるのを見ると、「それそこにいる土木の柴田奴、あれが矢中村を水に浸して人民を苦しめ、村の独立を破壊した。村民は彼の肉を食らい、骨をしゃぶるも、恨みは尽きない。その遺恨重なる柴田がぶっ壊しの先頭で押し寄せてきた。先日から木下(尚江)さんその他の人々の勧告によって、村民は役人に勝手に家屋敷を渡すことになっているが、柴田の野郎の大泥棒、大詐欺師を見ては喧嘩せずにはいられぬ。県庁はどこまで百姓を苦しめるのか。大概の人間なら泥棒した所や詐欺をした所には、二度と足を踏み入れないのが人情だが、柴田の野郎は一度ならず、二度ならず、足を踏み入れ、なお足らず、家をなくして人民が泣くのを見に来た、人情も何もない犬畜生だ」と悲憤の熱涙を揮って怒号した。(田中正造は村民には官吏に逆らうなと言っておきながら、特定の個人には立腹している。)木下尚江氏は佐山梅吉の長男千代次の頭をなでて涙を流しながら「6月29日を忘れるな」と言い、周囲の人々には「恐るべき無政府党は、矢中の亡村から生まれようとしている。暴法悪政は矢中の村民に政府を恐怖させず、また信頼させず、知らず知らずのうちに無政府党にさせた。彼らは迫害に慣れ、貧苦を恐れず、今やその住所を奪われても平然としている。恐るべきことではないか」と。
既に佐山梅吉方の破壊が終了すると、更に小川長三郎、川島伊勢五郎等の居宅を破壊し、午後5時、破壊隊は藤岡町に引き上げた。こうして3戸15名の人民が家をなくして過ごさなければならない、風の凄い荒村の第一夜が来た。
凄愴たる夜雨が来たが、之を凌ぐための一枚の廂(ひさし)さえない。飯を食おうとして用意していた鍋や釜も運搬された佐山梅吉の家族5人は、飢えと寒さに震えながら、父子が相擁(いだ)いて痛憤の涙に一夜を明かした。
159 明治40年1907年6月30日午前8時、破壊本隊が内野字高砂の茂呂松右衛門方に至った。同家は矢中村の最旧家であり、父祖伝来480年の歴史があり、現今の建物は121年前の建築であり、本家、納屋、物置の三棟からなり、矢中村では珍しい大家である。松右衛門は保安課長の説諭に泣いてその命に応じると語り、父祖伝来の位牌を捧持(ほうじ、捧げ持つ)し、前庭に一枚の筵を敷いて再拝(繰り返し二礼する)頓首し、保安課長に向かって我が家の名誉ある歴史を語り、この家を去るに忍びないことを訴え、之と共に妻のしまは、声を上げて号泣し、吉松(松右衛門の息子か)の長男留吉もまた祖母しまの袖を控えて(にぎって)涕泣(ていきゅう、涙をながして泣く)し、凄惨の状見るに堪えず。
これを見た吉松は悲憤措く能わず、赤裸(真っ裸)になり、アルコールを煽りつつ、「たとえ殺すとも、足一歩も矢中を去ることはできない、我が家は400余年間ここに住み慣れたものだ。法律だからと言って服することはできない」と怒号してやまない。中津川保安課長と植松四部長(内閣法制局第四部か)が代わる代わるその不心得を説き聞かせたが承諾しない。「法律で破壊する家なら、そのサーベルは要らないはずだ。サーベルを持っているのは殺すという了見か、殺すのなら殺せ」と絶叫し、四部長も保安課長も辟易して退却し、田中翁、木下尚江氏が代わって懇々とその不心得を説き聞かせたが、耳に入らないので、今やまさに破壊されるべき他の村民が吉松を押さえ、「苦しいだろうが服従せよ、初めから泣かない、手向かいしないと約束したではないか」と説く者も説かれる者も涙なり。やがて吉松は悲愴の声を絞り、30余名の人夫に向かい「官の命なればとて、もし承諾せぬに破壊せばそのままには置かず」と絶叫すると、工夫らは青くなって引っ込み、田中翁は「悪いことが出来ました」と汗と涙を両手に拭いつつ泣いて吉松を諭し、辛うじて事なきを得たり。(なんで諭すのか)
160 次に破壊すべき渡辺長輔方には一人の狂妹がいた。そのため県庁からは任意に(自主的にという意味か)取り壊してはどうかと勧められていたのだが、長輔は病妹のために節を枉(ま)げよう(県の命令に従う)か、村民に対して面目がなくなるがどうしたものか、誓約を守ろうか、病妹の手当をどうにすべきかと、煩悶懊悩し、鳴咽(いん、むせぶ)し、物も言えない。田中翁は黙然として座し、永く病める妹は狂って騒ぎ、老母は涙のうちに「コレさえなければ早く立ち退いたのですけれど、馬鹿でも気がふれているので…」と長く鳴咽し、「気がふれているのですから、縊(くび)り殺すこともできず…」と泣き、長輔は地上に座し、「この家は妹と二人で拵えたのだ、気違いの妹はここで飼い殺しにするつもりでいたのだ…」と側の竹を手に取って地を叩き、「土地収用法が何だ、家屋敷まで取った上に家を壊すとは何だ、壊すなら俺を殺してから壊せ」と怒号号泣し、田中翁もまたこれを見て熱涙が地に滴(したた)る。
この悲惨な光景にはさすが荒々しい警官や人夫も顔を背け、眼を瞬(またた)いて一語もなく、密雲低く垂れて雨まさに来たらんとし、凄愴の気が人に迫る。こうして破壊隊は木下尚江氏の忠告に従って引き上げた。荒村の茅屋、一日ごとにその数を減じ、夕陽は斜めに廃址を照らし、風になびく尾花も哀れ深し。
7月1日は島田熊吉方を破壊する。田中翁は数日来の疲れからか、破壊中は庭の柿の木の葉陰の涼しいところで横臥し、そのいびきは雷のようだ。この村のために死生を賭し、昼夜衣帯を解かず、6年の長期間を1日のように、奔走尽力して来た翁が結ぶ夢はどんなものか。
161 7月2日はさらに人夫を数十人増やし、嶋田政五郎、水野彦一、染宮与三郎等の居宅を破壊した。水野彦一の女(むすめ)リウは「父上が不在だから一指も触れさせない」ときっぱりと拒絶し、染宮与三郎の老母某は、祖先の家を去るに忍びず、「殺せ、殺せ」と泣き叫んだ。この夜は大いに雨が降った。
7月3日は水野常三郎、間明田粂次郎157、間明田千弥などの家を破壊した。間明田粂次郎方は村民の進退を決した策源地であり、参謀本部であった。しかしいと穏やかに執行を受け、水野方も無事終了した。間明田千弥夫婦だけは頑として命令に服せず、保安課長に向かって、「6月15日に植松第四部長は我らを藤岡町役場に召喚して、『汝らを放り出してもぶち壊す』と言った。面白い。余は放り出されるまで立ち退かない」と辞色ともに激しく言ったところ、既に四部長が来ていて、巡査に命じて手取り足取り千弥夫婦を抛り出した。
同日、間明田粂次郎方の破壊の際、田中翁は人夫の壊し方が乱暴を極めると見て、憤怒の眦(まなじり)すさまじく、保安課長に対して「なぜこのような取り扱い方を制止しないのか」と詰(なじ)り、人夫に対しては「この野郎共何をしやがるんだ。一円の日当は我々人民が負担するのだぞ」と叱咤し、「この仕打ちは取り片付けではなく、飢饉時分に昔あった一揆の打ち毀しと異なることがなく、暴動の所為なり」と杖を打ち振るって絶叫した。黒雲は急に北に走り、南風は颯々(さつさつ)と梢を鳴らし、荒村の風物はますます凄愴である。
162 7月4日は、竹沢勇吉、竹沢駒造、竹沢房造方を破壊する。この日は何の異常もなく、無事終了したが、田中翁は竹沢房造方を破壊する時、蓬髪を振り乱し、悲憤の形相凄まじく、「かかる無情なる事をなす者は、必ずや村民の怨恨が祟る時があるだろう」と人夫等を呪詛したので、人夫等はみな恐れ慄き、容易に破壊に従事しなかったという。
7月5日は狂女がいたために延期になっていた渡辺長輔の家と宮内勇次の家を破壊した。強制破壊を始めてから7日間で全部の破壊を終了した。
家を失った者は竹を柱とし、芦を屋根とし、麦わらを板敷としてその上に筵を敷き、蚊帳をつるもあり、小舟を沼田に浮かべて竹でこれに蚊帳を張りかけ、淋しい夢を結ぶもあり。或いは雨戸を寄せ、筵を張って僅かに雨露を凌ぐもあり。中には蚊帳がなく終夜やぶ蚊に攻められながら苦しみ明かす者もいる。見るも憐れ深い寒村の荒涼とした沼田の水に、夜半の月影が清く映り、凄愴の景観はそぞろ(思わず)人をして泣かしむ。
これより先県庁は初め古河町で破壊に使役する人夫を募集するつもりだったが、古河町町長は町民に向かって「矢中村ブチコワシの人夫に雇われるナとは言わないが、その募集に応ずる人には立退料を与えるから古河町から他所へ移転してもらおう。そしてこの古河町へは、再び足踏みすることはお断わり申す」と語ったところ、一人としてこれに応ずる者はなく、県庁はやむを得ず去って他に求めたという。吾人は古河町町長の侠気と見識とに心服する。
超えて7月11日、次の告知書が来た。
告知書
今般旧矢中村大字内野、同下宮の残留13戸、及び大字恵下野(恵毛野?)の官有堤140上の3戸に対して強制処分をなし、家屋等は取り解(ほど)き、その材料は藤岡町大字内野字篠山、字高砂の官有地、又は同町大字藤岡町字新町の鹿島神社境内、及び恵下野旧雷電神社境内に移転した。ついては右各戸人民はこの際その住居を定めるまで、県が字篠山又は鹿島神社の境内の官有地に、一時仮小屋を造ることを許可したのに、まだ当該の所に引き移った者はおらず、そのまま旧所有地を占拠しているのは、固より不当であるだけでなく、家屋住居の設備がない場所に、不完全極まる小屋をかけ、辛うじて雨露を凌ぐようなことは、衛生上から見ても寒心に堪えない。ついてはこの際速やかに前記篠山その他任意適当と信ずる所に引き移るべし。もしその希望する箇所で河川法の施行地に係り、県知事の許可を要する場合、又はその他の官有地に属する場合には、相当の手続きにより、速やかにその旨申し出をなすべし。なおまた各戸に属する、取り解いた家屋の材料は、前記篠山その他の場所に移転し、それぞれ各自に委付し、已にその任意処分に帰したので、県は固(もと)よりこれを保管する責任はないが、この際混雑の折柄、取締のため、一時巡査を配置したが、強制処分着手以降已に十数日を経過し、物件の移転処分は一応終了したので、右取締り巡査は引き上げるから、今後は各自が相当の処置をなすべし。
明治40年7月11日 執行官 栃木県事務官 植松金章
(もったいぶった文章だ)
164 家屋破壊を「取り解(ほど)く」と称し、「不完全な小屋をかけ、辛うじて雨露を凌ぐが如きは、衛生上より見るも寒心に堪えず」と称するがごとき、読者は、いかに植松第四部長が辞令作成に巧みであることと、県当局の人民を保護する念が極めて敦厚(とんこう)であることに、微笑破顔することだろう。しかしなぜまず村民のために粗末でも仮小屋を造ってやり、その後で住居を「取り解か」なかったのか。それは貧弱な村民の住居を「取り解く」際に県庁が執るべき相当の処置ではなかったか。この点について私は県当局の大きな失政を認め、またこの好四部長と人民に親切な県当局のために、痛惜するところだ。
結論
165 鉱毒問題の最後の運動地である矢中村は遂にこのようにして滅亡した。明治政府の権力と資本家の金力とは、彼らの希望通り、彼らの計画通り、遺憾なく矢中村を滅亡させた。陸奥宗光が死に、古河市兵衛が死に、陸奥の次子で古河の養嗣子(ようしし、家督相続人となる養子)だった某も死んだ。そして古河と陸奥によって企てられた鉱毒問題の埋没は、経済的に古河の雇人で、政治的には陸奥の子分だった現内務大臣原敬によって流々(勢いよく)仕上げられた。紳士閥はこれで初めて安堵の胸を撫で下ろしたことだろうし、英断でこれを決行した原内相は密かに得意の鼻をうごめかせていることだろう。そして地下の陸奥や古河は手を打ち、舌を吐いて(出して)子孫の繁栄と紳士閥階級の万歳のために歓喜踊躍していることだろう。
166 矢中村の滅亡は彼ら紳士閥にとっては真に快いことだろう。しかし彼らのこの快適さを買うために、彼らの無事泰平を保つために、資本家と為政者との共謀的大罪悪を埋没し、彼らの意を安んじ、長夜の宴に耽らせるために、いかに多大の犠牲が払われたことか。如何に悲惨な歴史が形づくられたことか。吾人は一篇の矢中村滅亡史を書いて来たが、益々憤慨に堪えない。
そもそも明治10年1877年、政府は足尾銅山を古河市兵衛に貸与したときから鉱業主と結託し、多大の便宜と利益を提供したのに、平民階級に対しては陵虐するばかりだった。明治14年1881年、栃木県知事藤川為親が、渡良瀬河岸の魚族の斃死を見て初めて鉱毒問題の先鋒となると、政府は鉱業主の利益のために、明治16年1883年、藤川氏を島根県に追い出した。それから20有余年、政府は鉱業主のために、鉱毒被害民に示談調停をさせ、恫喝脅迫して沈黙させ、情を訴えようとする被害民を捕えて獄に投じ、数千円の金で大森林を払い下げ、そのため水源が荒廃すると、数百万円を出して河川を修理し、とうてい覆うことのできない資本家の罪跡を埋没させるために遂に矢中村を買収しようとするに至った。
政府は矢中村を買収するに際して、堂々とした憲法治下における明白な法律の明文もなく、敢えて陰険邪悪な奸計を弄し、正義を無視し、人道を蹂躙し、権力と金力とを擁して、横暴不義、残忍酷薄な手段を廻らし、虐待、凌辱、酷遇、詐瞞、邪計、奸策の限りを尽くし、可憐(かれん)無告の村民を塗炭の苦しみに疾(や)ましめた。田園は荒廃し、家業は衰退し、老幼は溝に落ち、大人は他郷に流離した。そして無告の窮民が雨露の沢を希(こいねが)い、空しく天に向かって号泣するも、残忍冷酷な有司は少しもこれを顧みなかった。
167 これに加えるに、堤防修築と称して却って破壊欠損させ、救済と称して却って荒蕪の地に追う。甚だしいものに至っては、脅迫威嚇して村民を故郷から追い出し、酒色で誘惑して堕落させ、流言を放って狂乱させ、警官の護衛の下に盗賊を村内を横行させ、樋門を塞いで農作物を腐食させ、洪水がやって来そうなときに官憲自らが人夫を率いて、村民が自費で築いた堤防を破壊した。そしてその終局には、遂にこの度のような大暴行、大悲劇を演出し、暴力で村を滅亡させた。これは驚嘆すべき大蛮行ではないか、憤慨すべき暴虐ではないか、痛憤すべき悪政ではないか。日本国今や憲法もなく、法律もなく、あるのはただ暴力と、悪政と、鉄鎖のみ。
矢中村の滅亡は世人に何を教えたか。正義の力は弱くてよることのできないことか。人道の光は薄くて頼むことのできないことか。否、資本家は平民階級の仇敵であり、政府は資本家の奴隷にすぎないこと、これこそ、矢中村の滅亡がもたらした最も偉大な教訓である。政府は資本家古河の利益のために、信じられないような陰険邪悪な手段を施し、無辜の人民を苦しめ、彼らから食糧、着物、遂には住居を奪った。このような残虐横暴は、政府が古河等の行って来た鉱毒問題という積年の大罪悪を隠蔽するために企てた、数年間にわたる準備や組織を伴った大罪悪である。
168 このようなことは矢中村だけのことだろうか。現代社会の全ての貧者・弱者は矢中村民と運命を同じにしている。彼らが終日孜々として労働して産出した富をことごとく資本家が掠奪する。政府や議会、憲法、法律などは悉く資本家の手足であり奴隷にすぎないから、彼らが画策することは常に資本家だけの利益となり、平民、貧者、弱者に対しては全く利益にならない。こうして矢中村はこの黄金万能の力と資本家政治との害毒と、悲惨と、残忍とを最もよく顕現し表明している。
呪うべきかな、黄金万能の時代よ、憎むべきかな、資本家政治よ、彼らは今や遂に最後の一撃をちっぽけな矢中村の上に加えて倒した。矢中村はついに滅亡した、鉱毒問題から転じて瀦水池問題に至るまでの間実に20有余年。暴戻な資本家と戦い、政府の悪政を弾劾して来た矢中村は、遂に歴史のものとなった。しかし政府よ資本家よ、爾らこれを以てよく意を安んじることができるか、爾らよく肉体を殺すことはできても、その精神を殺すことができるか。愚かなことだ、爾が長夜の宴に酔いしれつつあるとき、革命の猛火は既に炎々として、爾が眠っている屋上楼下を包んでいるのを知らないのか、爾は田中正造翁が、7月2日の矢中村破壊の際に、「勲章も、サーベルも、早晩必ず起こるべき天地の大転覆と共に、無用の長物となるべし」と絶叫したのを知らないのか。その通り、天地の大転覆は早晩必ず来るだろう。その時、爾が誇りとする王冠も、勲章も、サーベルも、政府も、軍隊も、警察も、電火の杜を焼くように瞬時にして滅亡するだろう。
矢中村を記憶する者は田中正造翁も記憶すべきである。翁は老齢すでに耳順(60歳)を越え、しかもなおかつ正義人道のために、迫害嘲罵のうちに立って悪戦する。誰がその志の悲壮なことに泣かないだろうか。翁が初めて第二議会で鉱毒問題を叫んでから十有六年。この間実に一日のごとく東奔西走ほとんど寝食を忘れていた。そして明治37年1904年7月29日、その前科の老躯を挺して矢中村に入り、今日にいたるまで奮闘し、一日もやめたことがない。下野日日新聞(或いは下野新聞)は、かつて翁が同志数名と創設したものであるが、鉱毒問題以来、東奔西走のため日も足らず、いまだかつて新聞紙を精読したことがないとのこと。社稷(自家)が危うくなりつつあるときでも、10年間家を顧みず。しかも半生のことは空しく(自分の本来の)志と異なり、老いてどこに帰ろうか。名花は色褪(あ)せて、風もないのに散り、志士は物寂しく窮途に老いようとしている。老義人の心情もまた悲しからずや。
170 矢中村問題の運動者にはかつて加藤安世氏と遠藤友四郎氏がいたが、加藤氏はなぜか中途で退き、遠藤氏は星野氏と代わって帰京し、今は星野光四郎氏が田中翁を扶けて矢中村復旧のために熱心に運動している。
矢中村を記憶し、矢中村民を記憶し、田中正造翁を記憶する者は、また矢中村を今日の矢中村にした明治政府と資本家古河某とを記憶すべきだ。そして他日必ずや彼らに向かって、彼らが矢中村民に行ったのと同じ方法手段で復讐する時があるのを期せよ。悪虐な政府と暴戻な資本家階級とを絶滅せよ。平民の膏血で彩られた、彼らの主権者の冠を破砕せよ。そして復讐の冠を以てその頭を飾れ。
感想 政府=国家権力が強権的でいられるのは民衆の力がないことが原因なのだろう。明治政府の強権的性格は、矢中村の家屋の打ち毀し156と、その後の処分に関する告知書163の横柄な書きぶりの中に最もよく現れている。
しかし民衆も黙ってはいない。民衆といっても農民や田中正造のことではなく、荒畑寒村のことである。荒畑寒村がすでにこの当時から無政府主義的立場に立って政府打倒を考えていることが分かる。
民衆にも果敢に闘った事件が一つある。それは明治33年1900年2月13日の川俣での警官隊との闘い064であったが、結果的に負けたとしても一大示威行動だった。このときすでに兇徒嘯集罪などという立派な罪名が整えられていた。
田中正造は政府や官憲に迫力を以て物を言うが、官憲による矢中村の家屋打ち毀しでは、農民に対して政府の行為に従うように説得したとあるが、どういう意味なのだろうか、そんなものなのか。田中も口では激しく批判を言うが、結局は権力に忍従か。木下尚江も田中と同様に、農民に対して権力に従うよう説得している。
この当時すでに予戒令106という予防拘禁のはしりのようなものがあった。明治政府はこれをどこで知ったのか。ヨーロッパ以外には考えられない。
184 本書の初版は1907年明治40年8月に発行されたが、即日発禁処分となった。そして絶版のまま年を閲(けみ)したが、1963年昭和38年5月、明治文献社が写真復刻で出版した。
その後明治文献社に不信行為があり、私は同社に対して出版関係を絶つと言い渡したが、今年1970年の8月上旬、俳優座の東演の「その人を知らず」のプログラムの裏表紙に、明治文献社が出版する『矢中村滅亡史』の広告を発見した。そして今でも種々の紙誌に同じ広告が掲載されている。
これより先、1970年7月上旬、小田切秀雄が読売新聞紙上で本書を紹介・批評し、それを見た私の一知人が本書を書店に注文したところ絶版だと言われ、さらに大売捌店に問い合わせても絶版だと言われたので、出版元の明治文献社に照会したら、7月中旬に出版できるとのことであった。私もそのルートで本書を入手した。
185 その道の人によれば、これは先年(昭和38年1963年)出版した500部の残りとのことだが、昭和38年から昭和45年1970年までの間に500部も売れないとは信じがたい。
明治文献社は数年前故白柳秀湖の処女出版『鉄火石火』を無断出版し、著者の遺族から告訴されて警察から検事局に移るばかりになっていた時、生前の著者と懇意だった私に泣きつき、謝罪・賠償するから告訴を取り下げてもらいたいと私に哀願した。結局白柳の遺族は明治文献社を許したが、私との約束に背いて賠償しなかった。
その海賊版の白柳秀湖『鉄火石火』と私の『矢中村滅亡史』が一緒に前記の演劇のプログラムの裏表紙に広告されていたので、白柳氏の遺族に友人を介して問い合わせたところ、『鉄火石火』の販売を許したことはないとのことだった。
著者の検印廃止は海賊版をチェックできない。今後本書の海賊版を発見した時には断乎たる処置に出ることを警告しておく。
昭和45年1970年10月11日
荒畑寒村
感想 ケチ。海賊版が出ても荒畑寒村にとっては自分の書籍が世間に広まり、大勢の人々に読まれることはいいことではないのか。心が狭いな。印税が入らないということか。福沢諭吉もその著書の海賊版が多数出たようだが、「断乎たる処置に出る」などと言っただろうか。否、自らの著書の出版部数が多いことを自慢している記述をどこかで読んだ記憶がある。
宇井純1932—2006 解題「足尾鉱毒事件の意味するもの」
188 明治政府の富国強兵策は戦後の産業保護政策に引き継がれ、高度成長の下に公害を生み出している。公害に対する民衆の抵抗は行政に無視され、党利党略によって捻じ曲げられ、政治に正しく反映されていない。公害の発生源である企業の責任は専門家や官僚制によってあいまいにされ、不問に帰される。その背後に政治家、官僚、財界の組織的な結びつきが隠されている。足尾鉱毒事件当時の政治と経済との結びつきは、古河家と陸奥、西郷、原など、家族・主従関係として誰の目にも明らかであったが、現代の政財界の関係は容易に国民の眼前に姿を現わさない。
18世紀から19世紀にかけての西洋資本主義の勃興時代に、新興階級の産業資本家は王侯貴族から政治権力を奪い取るために、生産の倫理性を主張して民衆を取り込まねばならなかった。つまり少なくとも一度は企業の社会的責任が真剣に企業家と民衆との間で議論の的となった。
189 他方、日本の資本主義は最初から生産至上主義であり、倫理が欠落していた。つまり産業は常に政治権力の手厚い保護の下にあり、生産が善であることは自明の理とされた。足尾鉱山側はいったん補償金を被害地農民に支払ったが、日露戦争が開始されるとそれを理由に交渉を打ち切り、当初の責任を回避した。今日の製鉄資本は「製鉄は国家なり」とし、最近松下幸之助は「利益を上げることが企業の社会的責任である」とした。ここには企業活動から生じる負の問題の議論が入る余地がない。
産業資本の興隆期に足尾鉱毒事件の被害者たちは代議制政治による社会正義の実現を信じて運動を起こしたが、次々に弾圧と妨害に直面してやがて敗れる様が本書に描かれている。このことは現代にも当てはまる。公害だけでなく他の社会問題についても、明治と現代との間で本質的な相違がないことは、大鹿卓の矢中村取り壊しに関する著書の中で、某氏が、その様相が砂川基地反対事件と酷似していると指摘している通りである。鉱毒事件の被害者が信じた「明治の聖代」と、敗戦後の日本人が信じた「戦後民主主義」とは同様の幻想ではなかったか。
190 以下、本書に掲げられた数々の事実が、どのように今日の公害を巡る事象の中に生き返っているかを考えてみよう。本書第二における田中正造の議会での質問に対する政府の答弁書は、調査の引きのばしと(鉱毒被害と足尾鉱山との)因果関係の否定であり、しかも農商務省地質局は調査依頼を拒否した。今日の二回の水俣病で、農商務省の後身である通産省は、これと全く同様の答弁を繰り返している。
本書第三では、科学者の分析によって公害の因果関係が明らかになると、政府答弁は「危険は大したことはない」「これまでの損害を取り締まる権限がない」と変化する。カドミウム汚染米に関する政府答弁も同様である。チッソ株式会社の水俣病に対する法的責任は不問にされている。だから住民自らが民事訴訟を提起する以外にチッソを取り締まる道はない。
191 本書第四では、因果関係が明らかになった段階で、鉱山側と、被害地住民を代表する村の総代或いは自治体が、県の仲介で(鉱山側の)鉱毒防止の努力と引き換えに示談契約を結ぶが、この示談契約以降に、銅の生産量は増加し、鉱毒も激化する。今日の公害防止協定は、企業の自発的努力を前提とするとともに、公害を公認し、却って汚染の拡大激化のきっかけになっている。富士市をはじめその実例は多い。現在の(公害)防止協定のほとんどが、近い将来の公害の免罪符となっている。この示談によってしばられた地主は、自作農を中心とする鉱毒反対運動に参加せず、運動は分断される。今日では自治体と住民との分断は各地に出現している。この協定で鉱山側は対策として外国技術の導入を誇示するが、これは今日でも同様であり、その結果深刻な結果をもたらす。被害者による調査を拒否し、さらに暴力でこれを妨害する。現代ではさらに組織的に、水俣や新潟では工場守衛と警察とが緊密に協力した。鉱山事務員の証言「鉱毒の原因はいまだ人の調査せざるところに在りて存す」この証言は、今日の官製調査団の全部に当てはまる。
本書第五では、事態が重大化して初めて政府は鉱毒調査会を設けるが、中央の権威が具申する対策は現地の実情から遠くへだたり、効果はほとんどない。鉱毒予防命令が実施されても、鉱毒の被害は大して減らない。近年の水質基準も同様であり、かえって汚染の公認、激化となり、それは世論対策でしかない。工事監督に当たった鉱山保安局長の南挺三は後に足尾銅山の鉱長となるが、これは天下りであり、監督官庁と企業との結託である。
192 本書第六で、追い詰められて請願の直接行動に移った農民を待つものは、警察と憲兵による弾圧だった。水俣、富士、坂出、臼杵をみよ。このやり口は最近特に多用される常套手段である。これは政治権力の本質を表すものとして、明治から今日まで不変である。権力にとって唯一で万能な弾圧は、青年運動として展開し始めた鉱毒事件を抑圧するほど強硬であり執拗だった。それは今日の学生狩りを思わせる。この手口は今後も通用するか、それは民衆が足尾から何を学ぶかにかかっている。
第九章は官林の払い下げを論じているが、これは1970年に入って急ににぎやかに論議され始めた社会的費用論と、それからこじつけられる処理費用全国民負担論への回答を与えている。公害の根源を絶たずに破壊された自然に公金を投入して手直ししようとすると対策は、その場しのぎであるばかりか、被害者である国民に不当な負担を強いる。明治政府はこの負担を矢中村一村の民衆に転嫁した。現在の政策は一方でこの負担を高物価で全国民に拡散し、他方で人間の生活基盤である自然を集中的に破壊してその場を凌ごうとする。その典型を田子の浦を中心とする駿河湾の自然破壊に見ることができる。
193 本書第十二で、公害、災害に際して貪欲な資本家は必ず儲け口を見出す。災害復旧に名を借り、公害防止を名目に、利益を求めてハゲタカのように群がる。その動機は利潤だけだから必ず手抜きがあり、公共投資の実効が上がらない。そしてここで決まって不可抗力論が持ち出される。三池の炭坑爆発や新潟加治川の水害を始めとしてこれは責任回避の手段として繰り返し用いられている。
中央政府の出先機関としての知事は、矢中村の買収と強制収容を計画する(本書 第十五)。そしてこのとき使われる手段は、秘密会議と強行採決である。この手口は富士、坂出等で繰り返されたが、これは代表民主制が買収工作のために有利な制度であることを示唆している。住民から決議権をできるだけ切り離して少数の代議制に仮託することは、抑圧の一形態となり得る。そしてこれに抵抗する村民の請願は、警察によって阻止される。荒畑寒村曰く「政府は紳士閥の奴隷にして、警察は政府が罪悪を行う器具に非ずや」。今日の学生が警察や裁判所を「権力装置」と呼んでいる通りである。過日、鹿児島地裁所長飯守裁判官は、公害反対運動を反体制運動と見なし、「国家の安寧のために厳重に取り締まる」と言明したが、これは権力装置が本音を吐いた実例である。
194 反対運動の先頭に立つ村民の青年に対して、恫喝とともに誘惑の手も伸ばされ(本書 第十八)、戦死者遺族への一時金までが転向強要の道具として使われた。恫喝は学生青年に対して繰り返され、誘惑は水俣病患者訴訟の切り崩しのために用いられている。さらに被害地の住民を移住させ(本書 第十九)、その跡を鉱毒対策のために水没させようとする手法は、今日では四日市で大気汚染の被害に堪えかねた住民が移転した跡地を公害緩衝地帯として利用している通りである。反対運動を封ずるために町村合併を強行したが(本書 第二十一)、住民の自治権力の強弱は公害反対運動の明暗を分ける。三島・沼津や富士川・蒲原・由比では住民の自覚が強く、この手口は失敗したが、依然として反対封じのための町村合併がしばしば用いられている。
このほかに堤防破壊、樋門の釘付け、漁具の夜盗などによって村民の生活を破壊して村民を疲弊させた後で、県庁は強制立ち退きを警官の介入の下に強行する(本書 第二十五)が、この過程はそのまま現代の砂川や三里塚で再現されている。最後まで反対する住民を先祖代々の住家からたたき出すことで明治政府は足尾鉱毒反対運動にとどめを刺し、鉱毒そのものを塗りつぶすことに成功した。直接その命令を下した内務大臣は、前古河合名副社長、後の首相原敬だった。
195 矢中村遊水地計画は、明治中期に進行した河川改修理論の帰結だった。河川の流れを自然に任せる治水方針から、堤防で狭い河道に閉じ込める方針への転換は、水源地山林の荒廃を前提とする限り、大面積の遊水地を必要とした。この転換が治水面で必ずしも賢明な選択でなかったことは歴史が証明している。三里塚の空港は、首都の空の軍用機による占領を動かせぬ前提とする限り、航空機輸送の増加に対応するための技術的対策の一つとして、政治的課題の技術的対策として計画された。目前の利益のためにひたすら技術的対策を強行して住民の意志を無視するならば、その対策自体が歴史的に無意味となるだろう。
足尾鉱毒事件は現在でも解決されていない。渡良瀬川流域の農民にとって鉱毒は生まれる以前から存在し、人間の方がそれ(鉱毒)に適応しなければならない自然の一部となっている。公害対策としての水質基準は何の役にも立っていない。このことに疑いを持つ人は足尾の谷を登りつめて欲しい。山林は荒廃し、多量の鉱滓が堆積し、現在の技術では天文学的投資額でも復旧は困難である。公害を発生源から根絶しないなら、事後の投資をどんなに投入しても、自然は不可逆的に崩壊し、人間の生活基盤は脅かされて行く。現在の公害対策が、企業の無制限な発展を前提として発生源根絶を回避している間に、第二第三の矢中村が発生してきた。
196 しかし矢中村滅亡の教訓は、大正時代のいくつかの公害事件で、被害者や企業によって生かされたこともある。日立は大煙突を建設し、岐阜の荒田川の汚染は下水道建設をもたらした。大正時代は資本家も矢中村から学び、公害防止技術を不十分ながら開発した。その点で今日の資本主義がいかに退廃しているかは、多発する公害の実例から知ることが出来る。日本資本主義は戦争経済と高度成長を進めてきた。もし別の発展の道を選んでいたら、今日の公害の激化もある程度食止められたかもしれないが、遅かった。人類が資本に食いつぶされるか生き残れるかは、矢中村の教訓を生かせるかどうかにかかっている。
1970年10月20日
荒畑寒村『矢中村滅亡史』1907に見える国家権力と人民との関係 FBに投稿
洪水対策と称して瀦水池をつくって矢中村民を移住させ、移住しようとしない者には法律(土地収用法)でもってその家屋を破壊する。次に掲げる告知書は、すでに家屋を解体し終わった後の後始末に関するお役人から村民へのメッセージである。もったいぶった文体だ。その役人の尊大な精神は今の政治家や企業家、役人、警官にも十分当てはまりそうだ。
瀦水池案で洪水問題が解決できないことは実際の大洪水で立証済なのに、政府はそれを強行した。その理由は足尾鉱山主に忖度し、足尾鉱山がもたらす害毒問題や足尾の禿山がもたらす洪水問題を、その被害の苦しみを訴える人々を抹殺することによって、世間の眼から永遠に隠蔽したかったからだ。
この家屋解体時の内相が原敬であった。原敬は、本書発行時1907年の約20年前の1890年に農商務大臣だった陸奥宗光の秘書として仕えていたが、その陸奥宗光の次男は足尾鉱山主古河市兵衛の養嗣子であり、陸奥宗光と古河市兵衛との関係は深かった。ちなみに養嗣子(ようしし)とは跡継ぎを保証された養子である。さらに原敬はこの1907年時点で、足尾鉱山の顧問もしていたから、古河鉱業の利益を考えないというのが無理だろう。つまり、古川市兵衛、陸奥宗光、原敬の三者は切っても切れない縁で結ばれていたのである。
度重なる洪水と鉱毒に苦しむ矢中村周辺の栃木・群馬の民衆は、その訴えを無視し続ける政府に対して直接請願するために上京する途中、その請願行動を阻止しようとする警官隊と渡り合ったこともあった。1900年の川俣事件である。
荒畑寒村はそのような「兇徒嘯集事件」ばかりでなく、政府や県知事、郡長らによる無視や陰謀、そして最後には家屋を破壊されてもなお闘おうとする姿勢を崩さない矢中村の民衆の姿の中に、無政府主義運動の存在理由を見出す。
本書の中で度々荒畑寒村が言及するように、無政府主義運動はこの1907年ころすでに元気に活躍していたようだ。日露戦争反対を唱える平民新聞を発行した平民社(1903年設立)は幸徳秋水や堺利彦によって設立され、社会主義を宣伝し、荒畑寒村自身がその平民社の記者だった。この無政府主義運動の20年後の1920年ころから日本共産党員が活躍する時代になる。
告知書
今般旧矢中村大字内野、同下宮の残留13戸、及び大字恵下野(恵毛野?)の官有堤140上の3戸に対して強制処分をなし、家屋等は取り解(ほど)き、その材料は藤岡町大字内野字篠山、字高砂の官有地、又は同町大字藤岡町字新町の鹿島神社境内、及び恵下野旧雷電神社境内に移転した。ついては右各戸人民はこの際その住居を定めるまで、県が字篠山又は鹿島神社の境内の官有地に、一時仮小屋を造ることを許可したのに、まだ当該の所に引き移った者はおらず、そのまま旧所有地を占拠しているのは、固より不当であるだけでなく、家屋住居の設備がない場所に、不完全極まる小屋をかけ、辛うじて雨露を凌ぐようなことは、衛生上から見ても寒心に堪えない。ついてはこの際速やかに前記篠山その他任意適当と信ずる所に引き移るべし。もしその希望する箇所で河川法の施行地に係り、県知事の許可を要する場合、又はその他の官有地に属する場合には、相当の手続きにより、速やかにその旨申し出をなすべし。なおまた各戸に属する、取り解いた家屋の材料は、前記篠山その他の場所に移転し、それぞれ各自に委付し、已にその任意処分に帰したので、県は固(もと)よりこれを保管する責任はないが、この際混雑の折柄、取締のため、一時巡査を配置したが、強制処分着手以降已に十数日を経過し、物件の移転処分は一応終了したので、右取締り巡査は引き上げるから、今後は各自が相当の処置をなすべし。
明治40年7月11日 執行官 栃木県事務官 植松金章
以上