2020年9月14日月曜日

随筆宮本武蔵 吉川英治 1936年、昭和11年2月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988 感想

随筆宮本武蔵 吉川英治 1936年、昭和11年2月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988

 

 

感想 2020914()

 

 幼年時代の吉川英治は不遇である。父親が裁判で敗訴して刑務所に入れられてから家運が急激に衰え、学歴は小学校中退である。しかし、ウイキペディアにもあるように、向学心旺盛だったらしく、本随筆を読んでいても、読みの分からない漢字がたくさん出てくるし、宮本武蔵に関する文献を渉猟し、その真偽について論評を加えるなど、研究熱心である。

 

 吉川が本随筆で一番言いたかったことは、直木三十五のように宮本武蔵が冷酷だったと評することに対して、自分は確かにそれを否定しないが、それは武蔵の生い立ちが不遇だったためであり、またそこに却って孤独に生きる逞しさなどの利点として評価したいということではないか。299

 

 ただ感想として、本随筆は漫談風というか講談風と言うか、話を軽く繋ぎながら構成されており、起承転結のある纏まった文章ではなく、どちらかと言うとだらだらした文章だ。吉川の『宮本武蔵』は、抗しきれない、軍部・右翼の独裁傾向が増すこの暗い時代の民衆によく読まれたという。本文編集部注では「殺伐化していく時の流れを忘れさせる『清涼剤』」としているが、むしろ現実逃避のアヘンだったのではないかと私は思う。

 

 この時代に日本主義が叫ばれていたらしいことを述べた部分を抜粋する。294

 

武蔵の研究とか景仰(けいこう、けいぎょう、徳を慕い仰ぐこと)とかいうものは、近年の日本主義風潮の副産物ではない。

 

 この時代の差別構造の定着を物語る吉川の表現を抜粋する。304

 

吉岡憲法という人の憲法という名前について、これは政治上の憲法を連想するので、拳法のほうを自分は用いているが、憲法の方が正しいらしいとした後で、「政治語の憲法を聯想すると妙に人間慣れがしてしまうが、聖徳太子の御起草に用いられた憲法十七条の憲法は、群臣への訓示的な御用語で、いわゆる今日の憲法とは大いに意義が違っている。」

 

ここで「御起草」とか「御用語」など、差別社会の価値判断が民衆の心に染みついた表現ではないか。

 

 

ウイキペディア

 

吉川英治(本名は吉川英次、ひでつぐ)1892.8.11—1962.9.7

 

10歳の小学生の頃から雑誌に作文を投稿し、入選した。

1910年、上京し、浅草で象嵌職人の下で働きながら、川柳を習う。

1914年、「江の島物語」が『講談倶楽部』に3等で当選。

1922年、東京毎夕新聞社に入社。次第に文才を認められる。『親鸞記』を執筆。

1923年、東京毎夕新聞者が関東大震災で解散。作品を講談社に送り、作家として一本立ちする。

1925年、『キング』誌に「剣難女難」を連載し、人気を得た。

1930年、妻やすのヒステリーに耐えかね、半年家出をした。

1933年、松本学の唱える文芸懇話会の設立に関わる。青年運動を開始し、東北の農村を回り講演。

 

松本学 東京帝国大学法科大学卒の内務官僚。国維会結成1932に参加した「新官僚」。警保局長に就任し1932、共産党を弾圧し、日本主義を普及し、日本文化連盟を結成1932した。ゴーストップ事件を担当1933

 

1935年、「宮本武蔵」の連載を始める。

1937年、やすと離婚し、池戸文子と再婚。

 

1942年、海軍軍令部の勅任待遇の嘱託となり、海軍の戦史編纂に携わる。日本文学報国会理事。朝日新聞に「提督とその部下」を執筆し、毎日新聞夕刊に「安田陸戦隊司令」を連載。

 

敗戦後は暫く筆を取ることができなかったが、菊池寛の求めで執筆再開。(吉川は戦前の軍部を批判するような人ではなかったと思われる。学歴の影響か。)

1949年の所得番付で作家の中ではトップの250万円。

1950年、敗れた平家と日本を重ねた「新・平家物語」を連載。

1955年、このころ戦犯容疑による訴追から逃亡していた軍人辻政信に逃亡資金を渡した。「私本太平記」では従来逆賊とされてきた足利尊氏を見直した。

死後、赤坂の旧吉川邸は講談社の所有となった。

 

以上 2020914()

 

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