2020年12月14日月曜日

東京大空襲・救護隊長の記録 久保田重則 1972年3月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 メモ・感想

東京大空襲・救護隊長の記録 久保田重則 1972年3月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

感想 20201213()

 

この人は戦前でもいい人だったようだ。*困った人の助けになれる医者でよかったという。608救護活動を報告した上司の医者(陸軍軍医学校校長)もそのように言った。609

当時筆者は28歳。604大学を卒業して満洲で3年間軍医をして、東京の陸軍軍医学校に勤めていたとき、3月10日の東京大空襲に遭遇し、救護活動に当たった。

 

 *追記 20201214() しかし、筆者は詳細には触れず、生物兵器を生産する工場の教官をしていたと軽く触れるだけだが、これは大きなことだ。598

 中国の浙江省や湖南省常徳市石公橋鎮桃源県で、日本軍はペスト菌やコレラ菌を撒いた。1940—42(宮内陽子『日中戦争への旅 加害の歴史・被害の歴史』217)その加害に関与したのが筆者自身だった。筆者はそのことに触れない。ただ日本人の被害と自らの救護活動のみを強調する。戦後30年近く経過しているのに、中国の被害を知らないはずがない。生物兵器の使用は、国際法違反である。

 

戦争は人を自己中にさせる。筆者はそれを物語る事件に二件遭遇した。一件は、鉄筋のビル(本所国民学校の講堂)に最初に避難した人達が、後から逃げてくる人たちを中に入れてやらなかった。もう一件は、隅田川に最初に逃げて浅瀬にいた人が、後から川に入ってくる人に深みに押し出され、溺死した。609

 

悲惨な光景 折り重なる死体の山はどうしてできたのか。僅かの空き地をもつ学校など、2、3階建ての木造の建物の中に避難していた人々が、建物もろとも焼かれ、木質部は燃えて風で吹き飛ばされたが、死体だけが残されて積み重なった。600

 

おいしい乾パンが不味い乾パンに変質。 自分たちがやっと食事にありつけたとき、何も食べない避難民がドアの隙間から羨ましそうに見ていた。607

 

戦争を告発する文章があちこちで見られる。

 

604 それなのに、戦争はどうであろう。一人の生命を救うための医師の努力をあざわらうように、一度に何千、何万の生命が葬られていく。しかも、積極的に、計画的に、ますます残酷な手段で、大量殺戮が繰り返されている。

 

610 このような呪わしい戦争を絶滅して、人々の生命を守りぬくための方途を、どこに求めたらよいのであろう。私たちが長い間信奉してきた科学は、はたしてどのような役割をつとめることができるのであろうか。疑問はいくらでも湧いてくるのだった。

 

憲兵批判 普段は大きい態度を取っていた憲兵が、この時はいやに人懐っこそうに私に話しかけてくる。608

 

 

メモ

 

編集部注

 

597 マリアナ基地からのB29による本土爆撃は1944年11月29日に始まった。初めは軍需工場への精密爆撃だったが、1945年3月に都市の無差別爆撃に変わり、夜間に低空から焼夷弾を落とした。3月9日深夜から10日未明にかけて、東京下町の市民が最初に犠牲となった。死者数8万4千人とも10万人とも言われる。

 

本文

 

 1945年3月9日午後10時30分、警戒警報のサイレンが南関東一帯に鳴り響いた。10日の午前零時15分、B29三百機が東京の空に殺到した。浅草、本所、深川、城東、向島など、東京の下町の人口密集地帯が、焼夷弾2000トンの絨毯爆撃を受けた。

 約2時間20分、熾烈な波状攻撃が続いた。(2時35分までか。)東京の40%、27万戸が焼失し、死者は8万人を超えた。

598 その日の風速30メートルの強い北風にあおられ、合流火災による高熱の猛火に遮られ、人々は逃げ場を失い、折り重なるようにして死んだ。

 隅田川にも炎が渡った。

 罹災者は100万を越え、大半は火傷や外傷を受けた。

 

 陸軍軍医学校は救護班を準備していた。第一救護班は人員24名とトラック4台で、都内全域を担当した。第二救護班は皇居担当で、人員16名とトラック3台だった。(いかに一般人が軽視されていたかが分かる。)

 当時私は軍医大尉で、第一救護班の班長だった。

 

 陸軍軍医学校は牛込戸山町にあった。陸軍の軍医と衛正下士官の教育、軍陣医学の研究、傷病兵の診療にあたった。内科、外科以外に、軍特有のいくつかの機関を持っていた。

 防疫研究所もその一つである。校内の広大な一角が高い塀で区切られ、出入を厳重に規制し、細菌・昆虫兵器の研究と製造が極秘に行われていた。(国際法違反)

 このような生物兵器の運用や防疫の要員を教育するために、丁種学生隊が設けられ、学生には、全国から選抜された優秀な衛生下士官があてられた。

 私はこの丁種学生隊の教官で、これらの学生に特殊な防疫教育をした。また救護班長として、都内救護の企画や班員の教育を続けていた。

 

 3月10日、午前3時30分、(空襲終了の1時間後)第一救護班に出動命令が出され、3時45分、24名がトラック4台で軍医学校から一ツ橋の東部軍管区司令部に向った。

 下町方面の空は全体が一つの大きな火柱となって大空に吹き上げていた。

 司令部に到着し、「本所、浅草、深川方面の負傷者救護に任ずべし」という命令を受けた。

 民間医師の大部分は召集され、医療機関の多くは疎開していた。残りの大半も壊滅に近かった。

599 午前4時40分、司令部をあとに本所区役所(現在の墨田区役所)に向った。

 (惨状の描写は情緒的。)

焼けただれた工作機械が象のように並んでいる。これだけ膨大な工業力*の再建が、空襲下ではたして可能であろうか。不安は深刻に襲ってくる。

 

*早乙女勝元『東京大空襲』岩波新書の中で記述されている米空軍グアム司令部によれば、東京の工業力の50%が粉砕された。

 

 本所区役所で、亀沢町4丁目の本所国民学校に救護班を設置することが決まった。午前6時、区役所を出発した。人間の黒焦げ死体が山のように積み重なっていた。群衆は僅かな空き地をもった学校などの建物に火を避けて集まり、三階までぎっしりつまったが、建物が焼け落ち、木材は燃焼して火災の旋風で吹き飛ばされ、その後に人々の死体が残ったのだ。

 

 本所国民学校は関東大震災にも耐えたコンクリート三階建てである。講堂で救護所を開いた。塵埃や煤(すす)が眼に入り見えなくなった人が多かったという。

601 「軍医さんお上手ですね」と感謝と賞賛の言葉をもらった。破傷風の血清を夕方までに使い果たした。

 

カール・バーガー『B29』サンケイ新聞社によると、この夜、焼夷弾2千トンと普通の爆弾8発が投下された。

 

602 講堂の外壁に数多くの死体が並んでいた。最初に講堂に逃げ込んだ人たちが、後から逃げて来た人たちを入れてやらなかったのだ。曰く「外の人の命と私たち何百人の命とはかえられません。」

 彼らを責めることは無理だろう。道徳の限界を越え、自己保存の本能だけが作動する窮地に彼らは立たされた。罪は、そのような窮地に彼らを追い込んだ戦争そのものにある。(戦争を許した人の責任ではないのか。戦争は人間ではない。)

 

603 ここに避難している人達が、再び家を持ち、楽しい家庭を作って、元気に生業につくのは、はたしていつの日であろうかと、深夜の静寂の中で私は考えた。

 

3月11日早朝、往診の依頼を受けた。道中母親が生後何ヶ月目かの男の子をかばうようにして四つんばいになったまま裸のまま死んでいた。強烈な母性愛。これでも戦争は続けられなければならないのだろうか。たとえ勝ったとしても、その栄光とこの人たちの生命をかえることはできるのだろうか。(これは今思っていることか、それとも当時思ったことか。)

 病人は半座位で横たわっていたが、死んでいた。私は今まで一度も死亡診断を下した経験がなかった。

 

604 私は為政者をはじめ全ての人が、他人の(貴重な)生命に対して、この(生命の)厳しさをもって臨むべきだと考える。

 戦争はどうか。一人の生命を救うための医師の努力をあざわらうように、一度に何千、何万の生命が葬られていく。しかも、積極的に、計画的に、益々残虐な手段で、大量殺戮が繰り返されている。

 人類は、とくに権力者は、もっとも貴重でもっとも尊厳なものであるべき人間の生命を、彼らの目的を達成するための手段として遠慮なく利用してきた、ということが言えないだろうか。(これも今の感想か、それとも当時の感想か。)

 

 負傷者の列が途切れたので、区役所と協議して、午前10時、次の救護所を開設すべく吾妻橋近くの大日本ビールに向った。二階の調理室で救護所を開いたが、狭かったので付近の二、三の建物に班員を分散して診療に当たった。

破傷風の血清が補充された。

606 「兵隊さんに治療していただけるんだよ。」と母親が、国民学校に入ったくらいの男の子を説得する。

夜になった。今夜は交替で休むことにした。

 大学を出てすぐに軍隊に入り、歩兵連隊付軍医として三年間、北満洲の草原に馬を飛ばした。未経験の手術が多い。

 夜12時過ぎ、出動後初めて班員そろって夕食を始めた。乾パンと缶詰。ビール会社からサイダーの差し入れがあった。

607 隣のホールにあふれて避難していた人達が、中間のドアのガラスの破れ目から顔を押し当てて私たちの食事の様子を眺めていた。乾パンが喉につかえた。

 老警官が娘を連れて来た。青壮年の警官は全部召集されていた。娘に乾パンを与えて欲しいという。ガラスの破れたドアの向こうからのぞいている。婦長が娘を階下に連れ出して乾パンを食べさせた。娘は一部を食べずに父のために懐に入れた。

 

3月12日の朝、軍医学校に薬品や包帯材料を取りに山田中尉を長として向わせた。道路は昨日と一変して人通りが多くなっていた。肉親探しや焼けた家の様子を見に来た人たちだ。

608 憲兵将校も歩いている。「軍医殿はいいですなあ。この状況の下で打つ手(仕事)を持っておられるんですからね。我々憲兵にはまったく打つ手がないのですよ。」

自嘲的に寂しげに語る顔に、日頃の傲慢な憲兵の姿とは打って変わった裸の人間の姿がうかがわれた。

 私は医師でよかったとしみじみ喜びを噛みしめた。そして今こそ私たち衛生部員が庶民のために全力をあげて闘うべきときだとその使命を感じた。(自己宣伝か)

 

 正午ころ、軍管区司令部から伝令が来た。次の作戦準備のため軍医学校に帰還するようにとのことだ。心残りだった。午後2時、大日本ビールの建物を後にした。

 

三日間の診療結果の概要 患者のべ数1953名、うち死亡5名。救護所内の人が930名、救護所外から来た人が500名だった。二箇所の救護所に避難していた人は1500名だったから、これから類推すると100万人の罹災者の半数50万人が何らかの負傷をしたことになる。実際に治療を受けられた人の数は少なかっただろう。

 

 司令部に報告し、3月12日午後3時30分、軍医学校に帰着。学校長の井深軍医中将に復命した。 井深校長「軍医学校が軍の為にも民衆のためにも、お役に立つときが来た。人々の命を守っていこう。」 人間味のある井深中将の言葉が、27年後の今も私に何かを語っているように思えてならない。

 

 丁種学生隊の某婦人職員は夫とともに大火災の中を逃げ回り、隅田川の中に飛び込んだ。あとから入ったので「よかった」らしい。後から入った人は前から入っていた人を川の深みに押し出し、そのため数千、数万の人が溺死した。

610 戦争は敵に対するばかりでなく、味方同士の間でも残虐だ。

 このような呪わしい戦争を絶滅して、人々の生命を守りぬくための方途をどこに求めたらよいか。科学はどのような役割をつとめることができるのか。

 

 3月18日(1週間後)、天皇が突然本所や深川一帯の最も大きな被害を受けた被爆地域を視察した。天皇は視察を自ら発意した。まだ死体の片付けも済んでいない広大な下町の廃墟を親しく見られた。* これは当時としてはまったく異例のことであった。(当時はそう報道されたのだろう。)

 

*これには疑問があるようだ。天皇が視察する前に死体は片づけられたそうだ。

 

深川八幡境内陸海軍統帥権者昭和天皇の視察(写真)
空襲報道と天皇-「日本ニユース」第248号を巡って 川村健一郎著


 ……とくに死体処理については、死体が放置されていると戦意の低下につながるという配慮から、三月十日の午後には着手されたが、空襲下で救護活動にあたっていた久保田重則の回想によれば、あまりにもおびただしい数のために……「あらゆる機関を動員しておこなわれた」。巡幸路は「昼夜兼行」で優先的に死体をとりのぞかれ、「三月十七日の夜までかかって、天皇の目につくところだけは、なんとか片づけた」という。……不動尊、八幡宮周辺は昔から深川公園(旧永代寺境内)という平坦で広大な土地があるのです、ましてや取り扱の難い炭化した遺体を階段上の石の玉垣を巡らした場所に運び込むのは不自然です。やはり、天皇の目から空襲の真実!犠牲者の遺体を隠蔽したとしか思えません。!

 

1971年、当地を再訪した。当時焦土の中に残っていた国技館は日本大学の講堂に、本所区役所は墨田区役所に、本所国民学校は堅川(たてかわ)中学校に、大日本ビールはアサヒビヤホールになっていたが、いずれも当時のままだ。

 

1972年3月号

 

以上 20201214()

 

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