2020年12月7日月曜日

疎開する文学者に 結城哀草果(あいそうか) 1944年5月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 感想・要旨

疎開する文学者に 結城哀草果(あいそうか) 1944年5月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

感想 都市・農村間の格差の指摘は良いとして、戦争観について正面から何も語らない。戦争をアプリオリに存在するものとしてとらえているようだ。どうして戦争を起こすのかについての視点は、関心事ではないようだ。

 そして日本主義礼賛のようだ。(疎開文学者に)「美しい日本的民風を大いに起こしてもらいたい」とか、「皇国文学の維新の鐘が鳴り渡るものと思う」とか言い、最後には「日本文学に栄光あれ」と結ぶ。

 

当時東京と田舎では生活水準が10倍もあったようだ。「田舎で子供5人を月百円足らずの金で養育しているのに、疎開者は同じ5人の子供に金千円を見積もって来ているという話をいくつも耳にしている。」569

 

追記 2020127()

 

 横光利一でも、この結城哀草果でも、郷土史をやっていた私の父にしてもそうだが、世界を知らない田舎人だ。確かに田舎に美しさはある。しかし自分だけを美しいと感じる人は、世界から相手にされない。彼らにはそういう自覚がないようなのだ。それは別に自分の美しさを捨てて、よその美しさだけを採用せよという意味ではない。自分も世界の中の一人として共存しようよ、ということだ。

 

 

結城哀草果(本名は光三郎、1893.10.13—1974.6.29)生涯を山形県菅沢で過ごした。歌人、随筆家。

 

要旨

 

編集部注

 

1944年3月、空襲に備えて都市人口の疎開が決定された。防空活動に従事できない老人や病人は強制的に農村に移住させられた。

 

本文

 

565 (1944年)3月11日、山形県正庁で第八回山形県協力会議が開かれ、山形市の一議員が「厳しき戦局に鑑み、戦友愛の昂揚に関する件」という議案を提出した。帝都防衛のためにやむなく地方に疎開する人々が不安に思っていることは食と住である。県民は戦友愛をもって疎開者を迎えるべきである、というものであった。

 

 私はこれに反論したい。地方人は極度に節米し、食糧生産に献身している。その上多数の疎開者を迎えるだけの力と準備があるのか。戦友愛は疎開してくる人に持ってもらいたいものだ。都会生活をそのまま地方に移し、地方民を下目にして安逸すれば、地方民の反感を集めるし、地方の純粋性を害する。

566 疎開者が空襲から逃れ、空気の澄んだ静かな土地と、都会よりも豊かな物資にありつけると考えて来るとすれば、それは間違いだ。

 地方では若者が国家に動員され、女と老人だけで農作業に当たっている。地主階級も作男がおらず、自分で農作業をしなければならない状況だ。田舎が呑気でよいところだと思って疎開しに来ることは間違いだ。

 疎開者は第一に地方の生産に協力すべきだ。地方人は、消費ばかりで生産しない疎開者を喜ばない。それは国家の意志にも合わない。いかに優れた文学者であっても、その土地の人に感謝・協力し、その土地の性格・民情を理解してから文学的活動をしてもらいたい。

 

 上泉秀信氏が福島県石城郡渡辺村に疎開したとき、上泉氏の疎開についての談話が新聞に載った。上泉氏は「疎開時代」に促されて移住したのではなく、長年の懸案をちょうどこの「疎開時代」に実行した。氏は田舎に入って農の生活に親しみ、そこに心と生活の故郷を見い出し、落ち着いて仕事をしたいと、数年前から私に相談していたが、それについて私は賛否を示さなかった。

567 田舎の方で氏を迎える準備ができているのかと思い、私は賛否を容易に言えなかった。

 現在の農村は晴耕雨読を許されない。晴耕雨耕でも足らない。また上泉氏にも気苦労が多いはずだ。文学に理解のある秋田県、気候の比較的暖かい福島県が疎開に適し、氏の故郷でも山形県は適さないと私は考えた。渡辺村の風土と人情が氏に合うのかと私は心配した。

 

隣村のN部落では、共同事業の農道改修が4月に完成し、迎春の半日、部落各人が配給酒を持ち寄ってその祝いをしたが、その席に招かれた県の官吏がこういう歌を歌った。

「上田どうして桑など植えて、お米食う気か、食わぬ気か」

それに答えて白髪の農民古老が歌った。

 「お米とるのは大切なれど、落下傘部隊が可愛さに」

 農業の「国家性」は県官が考えるように単一なものではない。農民は、落下傘と不可離の絹糸と桑園との関係を示して、官吏に応酬したのだ。

 

 最近東都の一作家が地方都市近接の耕地調査を依頼されて山形まで来た。その接待(斡旋)を依頼された県農業会は、作家が着くはずの汽車の時間に二度まで山形駅まで出迎えに行ったが、その日は作家が現れなかった。実はその作家は山形市から二つ手前の上ノ山温泉で下車して一泊し、その翌日県農業会に現れた。企画部長のT氏は、「作家の××氏は昨日来るはずになっていたから、今日来る者は大方贋物だろうから取り合わないよ」と言った。

 T氏は作家が地方をやや下目にしていたのを戒めたのだ。

 

 文学者が田舎にくる場合、まず文学者であることを捨てて、一個の農民に生まれ変わるべきだ。そして暫くは沈黙し、地方の性格、民情、風土等を静かに凝視して、勉強・理解すべきだ。田舎が蔵する混沌は容易に分かるものではない。私は50年田舎に住んでいるが、謎が数限りなくある。「村の指導」の難しさはそこにある。(いきなり上段に構えて「村の指導」などと言い始めた。)

 文学者が田舎に来ていきなり主観的な文化観を指導しようとしたら失敗に終わるだろう。先ず農民と村に感謝し、内から村を見るべきだ。そうすれば俗な疎開婦人のように「田舎はよいわネ」などと言わなくなるだろう。これまでの農村訪問記のように、一人合点で村を誉めたり批判したりすることも慎んでもらいたい。

569 疎開早々疎開地を資材にして原稿料稼ぎをするような文学者は浅はかで、地方人に軽蔑される。(農村の)目新しい感じから農村的文筆をしてもらいたくない。

 

 疎開文学者は同じ仲間の文学者の指導をしてもらいたい。疎開者と地方民との疎通を図ってもらいたい。

 疎開者が東京の生活をそのまま疎開地に移すことは一番問題だ。田舎では子供5人を月百円足らずで養育するが、疎開者は同じ5人の子供に金千円を見積もって来ているという話をいくつも耳にする。そのため地方人の生活に亀裂を生じる。この弊風を除去するように疎開文学者は働いてもらいたい。

 

 地方民が自然美に気づかずにいることや、優れた伝統文化の恩恵を知らないことがある。疎開文学者はそのことを地方民に教えてもらいたい。村の祭典は氏子や村全体のもので、そこに日本的な美しさがあるが、近来もっぱら「唯物的に」考えられてきた。疎開文学者は、そこに精神的な意義を吹き込んで美しい日本的民風を大いに起こしてもらいたい

 疎開文学者と疎開地との理解が深まれば、皇国文学の維新の鐘が鳴り渡るだろう筆者たちは少人数でそれを守り続けてきた。疎開文学者にも協力してもらいたい。

 

 来るべき時が遂に来た。日本文学に栄光あれ。

 

1944年5月号

 

以上 2020127()

 

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