2020年12月25日金曜日

帝国満州の最後を見て 古海(ふるみ)忠之 1964年7月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 感想・要旨

帝国満州の最後を見て 古海(ふるみ)忠之 1964年7月号 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

感想 「五国協和」=満州国は「夢」だったという。この認識は不可解だ。このことと「満州国建国は侵略だった」という告白とは矛盾しないか。天邪鬼か。*

 

「同時に、最近の若い人々の考え方の変化にも驚いている。現実的で合理的になったことは、私たちの時代より進歩であることは認めるが、反面どこにも『夢』がない。すべて、数字、そろばんで割り切り、自己の利益や楽を基にし、『祖国あるいは民族といった点で、どうも一本筋金が抜けているようにも感ぜられた。

 満州国建国の際、当時の若い人々は、満州において、理想の国家を作ろう、各民族が協和合作する理想の国家を作ろう、という夢を持ち、熱情を傾けて、その実現に努力したことを思い出す。」

 「私は満州国の経営の基礎は、日本の権益を守り、日本の経済的利益を図る意図があったことを否定しない。また、関東軍の主権者的存在から、侵略性のあったことも認めざるを得ないであろう。」

 「これら当時の世界史的趨勢(帝国主義・植民地主義の時代ということか)の中にあって、民族相協和する楽土を作ろうという、日本民族の間に生まれた夢と、それを実現しようとする努力は、たとえそれが失敗に終わったとはいえ、最近の世界的良識の先駆として認識すべきではなかろうか。」(満州国が帝国主義時代におけるユートピア国家だと考えているらしい。)675--676

 

 

 敗戦後満州国の日系官吏は満州国を廃止し、その後満州人によって治安維持会がつくられたが、ソ連によってつぶされ、満州人はソ連軍によってどこともなく連行された。

 

 8月17日深更、満州国の最後を決める緊急参議府会議が大栗子で開かれ、18日の午前1時過ぎ、満州国の解体と皇帝の退位を決定した。665

 満州国の首脳部は直ちに新京に帰った。

 8月19日、新京にソ連軍が入ってきた。

 8月20日、暫定的な行政機関として東北暫時治安維持会が結成された。会長は前満州国総理・張景恵、副会長は臧(そう)式毅、その他、呂栄桓蔡運昇らであった。

 8月22日、ソ連軍が治安維持会を解散させた。666

 

 満州国日系官吏外交官の中から、武部総務長官、下村外交部次長、大津樺太庁長官と(古海)の4人を除き、他は1946年7月に日本に帰された。670

 

 ソ連で下村外交部次長と私(古海)は最後まで取調べを受けた。取調べの内容は、ソ連に対する調査特務をやったかどうかというものだった。私は助かったが、下村君は25年の刑を受け、ソ連の監獄に入れられ、そこで亡くなった。670

 

 この取り調べて、ソ連で処罰する者、中共へ渡す者、日本へ帰す者に分けられた。671

 

追記 20201225()

 

 古海がこの一文を書いたのは1964年5月か6月頃と思われる。それは古海が日本に帰国1963.3してから1年しか経っていない。古海は異邦人だ。戦後の日本を知らない。だから古海は戦前の価値観を純粋に引き摺ったまま戦後の日本に現れたと言える。

古海は戦後日本の東京裁判、公職追放・解除、朝鮮戦争、サンフランシスコ条約、労働運動、安保闘争などを、身を持って体験したことがない。古海が戦後日本に違和感を抱き、戦前の価値観を主張するのも頷ける。

 

古海忠之 1900.5.5—1983.8.23  大蔵官僚、満州国官僚、実業家、東京府出身。

京都一中、三高を経て、1924年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。同年、大蔵省入省。

1932年10月、満州国国務院総務庁理事官・総務庁主計処総務科長兼特別会計科長。

1937年、満州国協和会指導部長と人事処長(局長)を兼任。満州国で、石原莞爾と対立。古海は星野直樹、岸信介、甘粕正彦、関東軍などから味方され、石原は1938年12月、舞鶴要塞司令官に左遷された。

石原は関東軍参謀長東條英機とも不仲だった。石原は野人的・理想家肌で、東條は官僚的・現実的だった。

甘粕総務部長、古海指導部長の二頭体制となったが、石原との均衡上、関東軍の介入で、古海は指導部長を解任され、ナチ党党大会など欧州視察に出された。

敗戦後まで武部六蔵総務庁長官の補佐役として実質的な副総理格として満州国の政策決定に関与した。

 1945年8月16日朝、甘粕は自殺前に古海と関屋悌蔵を招いた。

ソ連では、民主運動・反軍闘争の中で、日本人下士官や兵隊らから「おまえなんか、シベリアの白樺の肥やしにでもなれ」と言われた。(古海忠之『忘れえぬ満州国』)

中国の撫順では、認罪など自主的な思想改造学習(洗脳)を課された。

満期を残して1963年3月帰国できたのは、古海が岸信介ら保守右派と近く、中国が、高度経済成長途上の日本との関係改善に古海を利用するためだったと古海は述べている。

 

 帰国後は中帰連に加わり、日中協会の役員を務め、日中友好活動に携わった。岸信介の世話で1965年の参議院議員選挙全国区自民党候補として立候補したが落選した。

1966年2月、大谷重工業副社長。

1968年5月、東京卸売センター社長。

1978年2月、同会長、のち、テーオーシー相談役、ニューオータニ取締役。

 

 

メモ

 

編集部注

 

古海忠之は元満州国国務院総務庁次長で、満州国建国以来、経済建設面を指導した。古海はソ連と中国に18年間捕虜として捕らわれた。

 

本文

 

664 1945年9月27日、私は満州国日本系官吏としての使命を終えた。朝10時頃、将校2名がソ連兵数名を連れて私を逮捕に来た。

 

 ソ連軍侵攻以来、満州国の満系要人、総理・張景恵ら各大臣が逮捕され、飛行機でどこかへ連行された。私は逮捕されるのを待っていた。私は、私の従弟の橋爪義雄根本竜太郎君(現・代議士)と一緒に生活していた。

 

私が二人は私の部下だと言ったことや、二人の服装があまりにもみすぼらしかったせいか、二人は逮捕されなかった。関東軍の命令で妻と小学校6年の息子は、敗戦直前に無蓋貨車で安東(慶尚北道中部)に送られていた。

665 従弟の橋爪義雄は満州国経済部の役人、根本竜太郎君は、建国大学助教授・満州国総務庁参事官だったのだが(逮捕されなかった)。

 司法部理事官・岡崎格君(現最高検察庁検事)はまだ課長だったが、一緒に住んでいた満州国最高法院次長・司法部次長・斎藤朔郎君(現最高裁判事)と共に逮捕された。

 この日、総務庁長官・武部六蔵以下満州国日系首脳者達が逮捕された。

 

 私は大蔵省第一次移民団の一員として渡満し、王道楽土の建設や経済5ヵ年計画に取り組んだ。

 

 8月15日、敗戦に際して満州国の処理と満州国皇帝の処遇が問題となった。あくまでも満州にたてこもり抗戦しようとする動きも多数あった。満州国政府を盛り立て、大同学院、建国大学を率いて頑張ろうとする人々もあった。

 だが、天皇の放送の趣旨に従って行動すべきだと決した。「日本と満州は一体の国家である、と性格上はなっている。日本が負けた以上、満州国が存続するのはおかしい。解体すべきだ。」と考えた。

 17日、満州国解体の草案を作り、武部総務長官が通化へ行き、皇帝や閣議に諮った。

 皇帝以下の満州国要人はソ連軍侵攻と共に、関東軍の命令で、通化からさらに朝鮮国境に近い臨江に移っていた。敗戦の時は臨江近くの大栗子にいた。

 8月17日の深更、満州国の最後を決める緊急参議府会議が、東辺道開発株式会社大栗子鉱業所の社宅の食堂で開かれた。

 18日午前1時過ぎ、満州国の解体と皇帝の退位とが決定され、満州国を解体する詔書が、皇帝の名で出された。

666 退位式が終わると、満州国の首脳者たちは新京へ引き揚げた。

 彼らは外国放送で、日本が負けることを1年前から知っていた。蔣介石と連絡を取っている者もいた。

 

 私たち満州国首脳部は、満州を焦土としてはいけないと考え、諸施設を中国側に引き渡す方針を決め、五ヵ年計画で作られた第二松花江の豊満ダムを、現地の日本人が破壊すると言ってきたが、止めさせた。

 

 19日、ソ連軍が入ってきた。

 20日、暫定的な行政機関として、東北暫時治安維持会が結成された。会長は満州国総理だった張景恵、副会長は臧(そう)式毅、その他、呂栄桓蔡運昇らであった。日本人は含まれなかった。

 22日、治安維持会の委員全員がソ連軍司令部に呼ばれ、その解散を命ぜられた。

 ソ連軍は中央政府を作らず、その権限をソ連軍自身が握った。新京など地方機関は、ソ連軍が任命してやらせた。

 

 自殺者が多数出た。大杉栄を殺害した甘粕正彦大尉(当時満映社長)も自殺した。徹底抗戦を唱えていた人たちも日が経つうちに落ち着いてきた。わずかに通化で事件を起こした程度だった。*

 

 関東軍の家族が一番先に引き揚げた。その次に満鉄の家族が、一、二等寝台で引き揚げた。次は満州国政府の家族が引き揚げろと命令が出た。

 一般居留民はほっておかれ、市民はおもしろくなかった。私どもは居留民優先を鉄則で引き揚げに当たった。(どうして自分の家族は敗戦直前に帰ったのか。)

667 新京を目指して各地から居留民が集まった。開拓団の人々は悲惨だった。開拓団はソ連との国境近くに入植させられていた。関東軍も開拓団の処遇をいちおう審議したが、軍の機密が漏れるからと、開拓団はそのまま見殺しにされた

 満州では男は軍隊に取られ、年寄りと女・子供が残されていた。関東軍は前線から引いた。ソ連軍が追撃し、原住民が迫害された。

 私は満州で政治を担当した。

ソ連兵は掠奪した。ソ連兵の生活程度は低かったに違いない。ソ連兵はブルジョアのものを取り上げるのは当然だと教育されていたにちがいない。

 強姦も多かった。

 私ども官吏はソ連軍から権限を奪われているからほとんど何もできなかった。大使館の上村公使宅で相談し、居留民団をつくり、民間人の満州重工業の総裁・高碕達之助氏(後・代議士)に満州全国居留民団長になってもらった。

 人々は職を失っていた。

668 武部総務長官を始め、我々満州国日系官吏は、旧外交部大臣・謝介石の公邸の地下室に連行され、取調べを受けた。私はそこに10月27日まで拘禁されていた。

 

*どういう経緯で満州はソ連から中国に手渡されたのか。ヤルタ会談で、満州は中国の主権が認められていた。ただし、そこでソ連の満州での利権が言及されたが、それは蔣介石の承認を必要とするとされていた。(岡部伸『消えたヤルタ密約緊急電』pp. 35—36

 

 私たちの名目は抑留(インターン)であった。そしてソ連に対する侵略行為が明らかになれば、処罰されることになっていた。

 関東軍は捕虜になった。軍以外の者もシベリアに連行された。50万人の押送抑留は、戦後の復興事業に当たらせるものだった。

 物資も奪った。五カ年計画で我々が作った工場の施設や機械などを持って行った。

 我々の受け入れ準備はできていなかった。ソ連自体が食糧不足だった。

 バタバタ死んでいった。ビラカンは零下50度から60度で、小便がそのまま凍りついた。我々は兵舎にぶち込まれ、蒲団もなく、床に直に寝かされた。

 私は赤痢にかかった。便所はない。医者はいない。薬はない。48日間苦しみ、骨と皮になった。生命の危険を感じた。

 5カ国の人がいた。ドイツ大使の夫人ワグナーさんがいた。風呂にも何十日入れず、毎日シラミ取りをした。

 元来、労働は捕虜取扱規定に準じなければならない。(日本軍は捕虜規定を無視していたが、こんな時は捕虜規定などに言及する。)将校以上は本人の承諾がなければ労働させることができない。しかし、将官は別にして、下級の将校は承諾書を無理やり書かされた。インターン(抑留)もそれに準じた。私は将官の取り扱いを受け、初めのうちは労働をさせられなかった。

669 1948年ごろ、民主委員会を作らされ、反軍闘争をさせられた。幹部は兵隊に格下げされ、将校以上は軍国主義と看做され、批判された。

 1949年、私古海と外交部次長の下村信貞と大同学院長の井上忠也、参議の高橋康順7名が、将官ラーゲリ(収容所)から一般ラーゲリに強制的に移され、労働をさせられた。捕虜規定違反ではないかと言っても受け入れられなかった。「労働をさせてはいけないとはどこにも書いてない。労働をさせるのは俺たちの権利だ。」と言われた。

このハバロフスクのラーゲリでは随分いじめられ、一日中吊るし上げされた。労働もいやなところに回され、貨車から石炭を降ろしてトラックに積む、材木やレンガを運ぶなどだ。

 高橋さんはその時55歳くらいだったか、過労で足が立たなくなった。痛いと言うと労働忌避の言い訳だと看做された。高橋さんは杖にすがって、びっこを引いていた。びっこはついに直らなくなった。

 私もジャガイモの入った80キロの麻袋を倉庫から出してトラックに積み込む労働をさせられ、夕方一度座ったら立てなくなった。私もびっこをひくようになった。翌日私がどうしても行けないと言うと足を使わない軽労働に回された。

 ソ連人は荒っぽい。(日本人はそうでないのか)

670 私たちがチタからハバロフスクへ行かされたとき、零下40度でも、貨車にはストーブ一つがあるだけだった。(汽車に)石炭の準備はなく、駅に停まった時、石炭を持ってきて使う。石炭車があればそこからもらってくる。駅近くの民家から木を貰ってくることもあった。

 

 ソ連人は縦系統の指示ばかりで、横の連絡がない。(日本はそうでないのか)

 満州国日系官吏や外交官の中から、武部総務長官、下村外交部次長、大津樺太庁長官との4人を除いて、残りを1946年7月に日本に帰した。

 その帰された人の中に満州公安局(秘密警察)の人もいた。それも縦系統の指示の結果だ。

 

 ソ連人は嘘をつく。(日本人は嘘をつかないのか)それは軍人、官僚、党員を通じて顕著だ。

 新京からシベリアに送られるとき、収容所長は日本に帰すと言った。シベリアから中共に引き渡す時も日本に帰すと言った。

 中共へ引き渡す前日、収容所長は私に、「明日お前たちを日本に帰す。ついてはソ連における抑留生活や取調べについて感想を書け」と言った。翌日私は玄関で銃剣に取り囲まれた。(感想文で篩い分けしたのではないか)

 

 外交部次長の下村君と私は、最後まで取調べを受けた。ソ連に対する調査特務をやっただろうと追求された。私は助かったが、下村君は25年の刑を受け、ソ連の監獄で亡くなった

 この取調べで、ソ連で処罰する者、中共へ渡す者を区別し、残りは日本へ帰した。

 

671 1949年10月1日、中共政府ができた。その直後に武部総務長官を呼び、「中共政権をどう思うか、論文を書け」と言われた。

 中共に渡されたのは主として華北にいた連中だった。華北は日本軍が八路軍とやりあったところだ。39師団、59師団などである。

 

 八路軍は小部隊の日本軍の3倍の規模で攻めて来る。友軍をやられた日本軍は仇討ちだと一村を皆殺しにした。

 1020名が中共に渡された。1950年7月21日の夜、撫順に着いた。

 八路軍は日本軍を日本鬼と呼んで恐れていた。

 八路軍の工作員や指導員は「日本人に人情はないと思っていたが、君たちが家族に書く手紙を読み、人間味を感じ、再認識した。」と言った。

 八路軍と交戦した地域で日本軍がいかにむちゃなことをしたかが分かる。

 

 撫順に着いた時には朝鮮戦争が始まっていた。アメリカの爆撃が、朝鮮国境の水力発電所や間島*国境を越えて敢行された。9月、私達はハルビンに移され、そこで3年間過ごした。

 

*間島 吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯。中心都市は延吉。

 

 その間、取調はなかった。日課も簡単で、箱を張ったりする軽作業だった。

672 運動時間は、朝30分、昼30分、あとは読書三昧。6畳くらいの部屋に4人が入れられた。

 私は看守と喧嘩ばかりした。便所の使用回数で喧嘩をした。私は無期刑を覚悟した。

 監獄には(日本で)戦前出版された左翼系の本が多かった。無期になって読むものがなくなると困るので、「資本論」を写した。全部写し終わるのに2年半かかった。3巻3000ページである。「資本論」の次は羽仁五郎の「ミケランジェロ」にとりかかった。

 

 1953年、撫順に帰った。1955年から取調べが始まり、同時に独房に移された。写本も取りあげられた。取調べは1年かかった。

 第一回目の取調ではりっぱな乗用車で迎えに来た。検事長の少将の自宅で調べられた。柔らかいソファーに座らされた。少将はいきなり「お前はいつから侵略に来たのか」と言った。私は「侵略に来た覚えはない。満州国政府から政治経済面をやってくれと言われたから来たのだ。」と言った。

 翌日から木製の硬い椅子に変えられた。相手は私の言うことに反駁しなかった。言いたいことを書かせ、事実と違ったり、ぐあいが悪かったりすると再考を促された。

 自白、反省を促された。説教もされた。

673 ソ連では脅しが普通だった。拷問も正式にはできないが、それに近いこともあった。中共ではそれはなかった。

 定期的に批判会が開かれ、自己の錯誤を自己批判し、他人に批判を加える。やりきれない気がした

 

 第二の方法は、集団的な方向性をつけて指導する方法だ。

 

私たち指導者は戦犯としては罪が重いはずなのに、将軍には米を主体に、兵隊にはより粗末なものを提供した。煙草は月200本。酒はないが、不自由はない。こっちが決まり悪くなる。「一般と同じにしてくれ」と要求する。5度目に、本心からと思われると、待遇を同一にした。

 

1955年、選挙で委員を選ばせた。委員会が案をつくり行政を行う。労働、学習、運動、生活等である。指図はない。委員会の委員は12名くらいで、委員長、副委員長と、学習、体育、文化、生活、創作部とあった。

674 最初、委員会で創作(劇)をやらされた。自分のやったことを基礎として劇を作る。これ(劇)を全員で取り組む。半年やった。これは反省の機会になるし、調査の資料にもなった。

 

 労働は、養鶏、畠づくり、花壇づくりを主とし、作ったものは全部我々にくれる。

 配給は肉が1ヶ月に3キロ。労働の成果もくれるから、自分たちの食べたいものをつくるなど、労働に積極的になる。

 

 1956年5月、中共は、「日本人戦犯処理に関する件」という法律を出した。

 その骨子は「日本との間はかつて非常に悪かったが、現在は非常に仲良くなりつつある。戦犯一同も非常に反省している。だから日本人戦犯に対しても寛大に処置すべきである」というものだ。

 1956年8月、この処理規定に従って、44人を残して、微罪は不検挙として、(残りは)全員釈放された。

44人は裁判を受けた。太原組と撫順組とに分かれた。撫順組は私などソ連から引き渡された組で、太原組は敗戦後、太原を日本の一つの根拠にしようとして、親日軍閥閻(えん)錫山と組んで、八路軍と戦って捕虜になった人たちだ。

 私の裁判には、皇帝の溥儀以下、満州国大臣が全員出廷した。本来なら総務長官の武部さんが法廷に出るはずなのだが、ソ連から中国に引き渡されて2年目に、脳軟化症で倒れた。

 

 中国政府は日本軍から被害を蒙った国民に納得してもらう必要があった。裁判はそのためにも必要だった。(それを古海は「法廷は一つの儀式でもあった。日本軍国主義者をかくのごとく処罰した、という国内的な大きな宣伝である。恨みに思っている人民たちへの方策として必要なわけだろう。」と表現する。)

 国際的に言えば、満州の政治責任を、どう戦争犯罪に結びつけるのか、疑問であるが…(どういうことか。満州国建国が戦争犯罪ではないと言いたいのか。)

 薄儀以下全証人の映画を取り、全国へ回した。題は「寛大なる裁判」であった。

 帰す者は帰したというPRである。残された私らにしても、処理規定六項に、「表現がよかったならば、刑期のいかんに関わらず、いつでも釈放する」とある。

 早く帰りたいのは人情だ。そうなると表現をよくする競争が始まる。(ひねくれ者だ)「資本主義は悪いに決まっている。社会主義は良い。(単純化しすぎではない。)中国の悪口を言ったり、日本を誉めたりしちゃ表現が悪いことになる。学習はマルクス主義のものに限る。労働も一生懸命やらなくちゃならない。発言もやはり唯物弁証法的な形式において発表したほうがいいに決まっている。」

 こうして中共が狙っている線に自然に則ってくる。中共にいた連中が帰ってきて、洗脳されたというものの、大体はこれなのだ。(穿った見方だ)

 このことは日系戦犯ばかりでなく、いっしょに入っていた満州系戦犯、蔣介石系戦犯についても言える。彼らに対しては、「従善改悪」といって、悪を改めて善についたならば釈放される。

 「中共の職員は嘘を絶対につかない。中共軍の規律は非常に厳正である。したがってソ連は面白くないが、中共はいい」ということになる。

 「諸君の人格と健康と生活の三つは完全に保証する」と明言する。(日本の)若い人たちは、学校を出るとすぐに兵隊にとられ、支那戦線に長いこといて社会を知らない。理論構成として唯物弁証法は魅力もある。だから洗脳と言われてもやむを得ないことになる。(原文は「仕儀といえる」)

 また、帰るときは中国各地を旅行させる。元の支那を知っているから、五カ年計画後に良くなっているのを見ると、感心してしまう。

 しかし、日本に帰ってしばらくすると、再考するのだが。

 私は帰国前三ヶ月間、中国各地を旅行した。私は工業その他各方面の発展と生活程度の急上昇を見て驚いて帰って来た。

 ところが日本に帰ってみて、農工業の発展、社会施設、国民生活の向上に眼を見張った。それは中国の比ではない。敗戦の廃墟の中からよくここまできたものだ(彼は日本の敗戦時のことを知っていないのではないか。)と感嘆すると同時に、つくづく日本民族は優秀であるとの感を深くした。(これはどういう意図か。恥ずかしい。)

 同時に最近の若い人々の考え方の変化に驚いている。現実的で合理的になったことは、私たちの時代より進歩であることは認めるが、反面どこにも夢がない。すべて、数字、そろばんで割り切り、自己の利益や楽を基にし、祖国あるいは民族といった点で、どうも一本筋金が抜けているように感ぜられた。(自民族中心主義)

676 満州国建国の際、当時の若い人々は、満州において、理想の国家を作ろう、各民族が協和合作する理想社会を作ろう、という夢を持ち、熱情を傾けて、その実現に努力した。

 私は満州国の経営の基礎は、日本の権益を守り、日本の経済的利益を図る意図があったことを否定しない。また、関東軍の主権者的存在から、侵略性のあったことも認めざるを得ないであろう。(よくわかっているじゃないか)

 これら当時の世界史的趨勢(帝国主義時代ということか)の中にあって、民族相協和する楽土を作ろうという、日本民族の間に生まれた夢と、それを実現しようとした努力は、たとえそれが失敗に終わったとはいえ、最近の世界的良識の先駆として認識すべきではなかろうか。(彼が戻ったのはいつ1963.3か。彼は戦後の日本を知らない。満州国は帝国主義の産物ではないと言いたいのか。)

 満州でこうした体験をもった私達は、今度は祖国日本のために、その熱情と努力を再現しなければならない、と思わずにいられない。(また五族協和を唱えるのか)

 

1964年7月号

 

以上 20201224()

 

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