“Over
Here – The First World War and American Society” David M. Kennedy 1980
『第一次大戦とアメリカ社会』デイビッド・M・ケネディ オックスフォード大学出版 1980
感想・要旨・メモ
ウイルソンは必ずしも「理想の天子」ではなかったようだ。ウイルソンは戦争を否定して大統領選に勝利しておきながら、当選数ヵ月後にはその公約を覆し、開戦の提案を行った。049
ウイルソンはその巧みな弁舌で国民を動かした。多く人々はウイルソンの変貌後も、その巧みな弁舌に導かれてウイルソンについていったようだ。
ウイルソンのお先棒を担いだのが、教育者で哲学者であるデューイだった。その論理は一見洗練されて知識人には受けたようだが、よく考えてみると、こじつけとしかいいようがない。これは私の意見。
また、もう一人、ウイルソンのお先棒を担いだ人が、『週刊文春』のような、こき下ろし専門の雑誌の編集者だった。その一人George Creelは、ウイルソンによってCommittee
on Public Informationの委員長として雇用され、国民の宣伝の為に利用された。059
しかし、私の感想だが、アメリカは、国民を法律で縛りつけるよりも、宣伝で国民を動かそうとしたと本書に書いてあるのだが、いかにそれが、オーウェルの小説『1984年』の悪い比喩が当てはまるとはいえ、日本の治安維持法のように、強圧的に拷問によって白昼堂々と人の生命を奪うという野蛮な行為を正当化するよりはずっとましなのではないか、と思った。062
アメリカでも、日本の関東大震災1923後の朝鮮人虐殺とまでは言わなくとも、1918年4月、セントルイスで、あるドイツ人に対するリンチ事件が起こり、日本では裁判が行われたかどうかはわからないが、国家が主導した事件だから、裁判などおそらく行われなかっただろうと思われるが、アメリカでは裁判が行われ、その被告たちは無罪となった。リンチは500人の暴民が気勢をあげる中で行われた。「愛国的殺人」と弁護団は述べたというから、殺してしまったのかもしれない。一人の陪審員は「今我が国で誰一人として国家に忠誠を誓わないものはいない」とし、ワシントン・ポストは「リンチは過激だったが、これは健康的で健全なhealthful and wholesome目覚めである」とした。しかし、本書の著者は、one of the war’s most infamous cases としている。戦争突入後のアメリカでは、国家に対して積極的に忠誠を誓わない、19世紀後半に流入してきた外国生まれのアメリカ人、特にドイツ人に対する厳しい世論が形成されていたようだ。068
ウイルソンは極右の郵政大臣Postmaster
Generalや法務大臣Attorney Generalを雇い、そのため結果的に自らの支持基盤を失ったのだが、それは実はウイルソンが本当にやりたいことだったようだ。彼は言葉と本音とが異なっていたのだ。087
外国語新聞の英訳義務と事前検閲077、忠誠を誓わないと郵政大臣が判断した出版物の郵便対象からの除外や、平和主義者・ドイツ人・社会主義者などに対して、白昼堂々と暴力を振るう、KKKなどの自警団の導入とその行動の司法の側からの黙認081など、戦争中のウイルソン政治は、First
Amendment(=言論の自由の尊重) など糞くらえだった。
疑問 アメリカではなぜ自警団に参加する人が多かったのか。その動機は何なのか。おそらく自らが正しいと思ってやっているのだろう。現在のヨーロッパでもその現象が見られる。ドイツでは反移民の民衆活動が行われ、衝突事件を引き起こしている。
第一次大戦当時のウイルソン政権は三段階の変遷をした。
1 1915年、ウイルソンはmilitary
preparedness 014へ変貌した。04911月4日ウイルソンは戦争準備に好意的な発言をした。033 1915年秋に、ウイルソンは防衛政策を変更した。036
2 政府による初期の穏やかな戦争協力への民衆説得活動。
3 政府は参戦後、戦争遂行のために、国民に対する強引で暴力的な手段の行使を実質的に認めた。
民衆の暴力 探偵やKKK それらの利用を政府=司法長官が進めた。
どうしてアメリカ人は大衆的暴力を好むのか。暴徒数が1000人も。014
どうして平和主義者や労働者をいじめるのか。
ウイルソンは、ソ連を好まなかった。ウイルソンにとって国際連盟は、共産主義化を防ぐためのものだった。
専制主義=ドイツとの戦いと言っておきながら、同盟国内にはロシア帝政が含まれていて論理的には矛盾していた。革命が起こってそれがなくなり、論理的なつじつまあわせが出来てほっとしたが、実はウイルソンは社会主義を望んでいなかった。090
デューイは政府批判とも受け取れるような美辞麗句を連ねるが、本質的に権力迎合的な人だ。デューイがこのころの人だということが本書を読んでいて分かった。
メモ
Creel059, 075は、CPI=Committee on Public Informationの委員長。彼は元来、揚げ足取りのジャーナリストMuckraking journalistだったが、ウイルソンが雇用した。065 法ではなく宣伝で民衆を動かす手法である。061
保守的な郵政省長官Postmaster
General 077のBurleson 075
保守的な司法長官Gregory 082
“100 percenters” 069とは、「100%純血のアメリカ人」という意味。
再び感想 一章まで読み進め、その要旨をまとめた後での感想 筆者の態度に関して 2018年9月1日(土)
客観的に史実を記述しようとする筆者の態度が読み取れるが、全体的に悲観的な印象を受ける。また部外者的でもある。筆者がウイルソンだけを責めているとは思わないが、ウイルソンを責めても、ウイルソンだけが世界史を動かしていたわけでもないのだから、あまりウイルソンを責めても何かが発見できるわけでもないと私は思う。ウイルソンが言論の自由を弾圧し、戦争に突き進んだという側面はあるとしても、ウイルソンの積極的な能力も評価してやるべきだと私は思う。ウイルソンの弁舌は素晴らしい。半独占のスタンスを明らかにし、ヴァージニアの権利の章典=民衆が政治の主体であることを聴衆に紹介する説得力ある演説は素晴らしい。
本書では個別的歴史的事象の記述は詳しいのだが、総体としての歴史の大きな流れが見えて来ない。
しかし、本書によって、アメリカの負の側面が詳細に渡って見えた。今まではウイルソン=民族自決・国際連盟の提唱などプラス面しか知らなかった。
PROROGUE: SPRING, 1917
006 フランスでは、第一次大戦中、Verdun での戦況の悪化に伴い、兵士が反乱mutinyを起こし、規律維持のために、反乱兵士のくじ引き処罰executionが行われた。
007 イギリスでは1916年4月Easter、戦争によるアイルランドのhome
rule への進展が遅れにいらだつアイルランド民族主義者が反乱を起こした。
008 イギリスでは1916年労働党員Arthur Hendersonが初めて入閣した。Hendersonは1917年3月の革命後のロシアから帰国すると、ロシアが提唱する全参戦国労働者による和平条件を討議する世界大会を支持し、戦争終結を唱えた。
010 1917年3月1日、アメリカの新聞が、ドイツの外務大臣Arthur Zimmermanから在メキシコドイツ大使宛の電信を傍受し、その内容を公表した。それは、メキシコが対米戦でドイツ側に加われば、メキシコがアメリカから奪われた、ニュー・メキシコ、アリゾナ、テキサスの三州を奪還してやるというメキシコへの提案だった。
012 ウイルソンは、大統領選挙中「100%アメリカ主義」というキャッチフレーズを用い、自らを英国贔屓だと批判する人々を「不忠のアメリカ人」だと中傷した。また、民主党員は、共和党の敵対候補Charles Evans Hughesがドイツ贔屓であるとほのめかした。
013 ウイルソンは公平な兵役義務
“universal liability to service” だとして徴兵制を提案した。
014 ウイルソンはドイツ出身のアメリカ人がもし不忠を働いたら容赦しないと発言した。
014 1917.4.1、平和主義団体Emergency Peace Federationの議長David Starr Jordanはボルティモアで1000人の暴徒たちに「奴をすっぱいりんごの木にくくりつけよ」と言われた。Jordaは元スタンフォード大学学長だった。これは4月2日にウイルソンが参戦宣言を要望する前日のことである。
015 国会内の廊下で、反戦を訴える青年が、参戦派の議員Massachusetts Republican Senator Henry Cabot Lodgeに「臆病者」と言ったら、その議員は「おまえこそ嘘つきだ」と言い返し、青年の顎をぶん殴った。青年も殴り返した。
018 1916年、ウイルソンの最初の国防大臣Lindley M. Garrisonらが提唱する徴兵制continental forceに反対する人達の論拠は、それが個人の自由と自発性というアメリカの歴史的な理想に反するというものだった。またそれは、大勢の黒人も同様に兵隊になることを意味しており、徴兵制は頓挫した。
018 1916年、ウイルソンも徴兵制に反対し、Garrisonは辞任することになった。これは一年前の話である。
018 だから一年後ウイルソンがその立場を翻し、徴兵制を要求した時、民主党の議員は怒り狂った。
021 上院議員Norrisは、戦争に反対の発言をした。戦争は東部の人たちだけを富ます、戦争は一般庶民にはなんら利益をもたらさないと。すると「反逆罪!反逆罪!」と聴衆は叫んだ。
021 上院議員Robert La Folletteも反戦の発言をし、同様の反響を呼び起こした。
022 概して、西部は反戦で、東部は好戦であった。この東西離反は、十九世紀末の階級的離反に基づく大衆的高揚を反映していた。
政府のやり方は陰謀的で大衆的でなかった。政府は、公式の参戦宣言以前にすでに、新聞の検閲や言論の自由の権利を制限する政府の権限を強める法案を導入していた。
024 ウイルソンは、ドイツ陸海軍関係の大使館員を、米から連合国への軍需品の輸出を阻止するために、東部海岸の港湾や工場での労働運動の扇動やサボタージュに関与したとして国外追放した。
ウイルソンはさらにいわゆる半人前のアメリカ人hyphenated Americansを攻撃した。彼らはアメリカの寛大な移民政策の恩恵を受けて自由とチャンスを享受しておきながら、不忠の毒をアメリカの血管に注ぎ込んだとした。
025 1916年6月と1917年2月に、司法長官Thomas Gregoryは、スパイを罰し、言論・出版の自由を制限する法案を提出したが、いずれも否決された。
1917年4月2日、下院議員Edwin
Webbと上院議員Charles Culbersonは、Gregory案と同様の法案を提出した。それは、徴兵活動を含めた軍活動へのいかなる干渉interferenceをも罰し、出版物を検閲し、反逆的資料頒布のための郵便制度利用を禁止するものであった。
ウイルソンは、新聞協会の削除要求にもかかわらず、出版物の検閲権限を主張した。上院議員Hiram
Johnsonは「合法的な批判ができなくなる」と批判した。アメリカ人よ、アメリカ人たれ!
026 戒厳令 1917年6月5日「スパイ法」が施行された。戦時における軍活動への妨害に対しては、一万ドルの罰金と20年の禁錮、法令違反の郵便利用に対しては、五千ドルの罰金と5年の禁錮を課した。郵政長官Burlesonは、民族団体や労働団体・政党に対して、これを適用できる権限を与えられた。
027 郵政長官Burlesonは、この法律の施行以前から、社会主義団体の出版物に対して、この禁令をすでに適用しており、法施行後は、その勢いを加速した。
党内で少数派ではあったが、多くの社会主義者が、第二インターナショナルの右派を真似て、歓待するウイルソンの懐の中に納まった。彼らは戦争賛成の社会主義者となった。
AFL会長のゴンパースは、もとは平和主義者だったが、ずる賢く計算高く、戦争賛成の英国労働組合やモルガンやロスチャイルド、さらにはウイルソンにも励まされて、1916年にはすでに戦争準備に与していた。そしてウイルソンは1916年10月、ゴンパースを、動員機関Advisory Commission of the Council of National Defenseの役員に加えていた。
029 ゴンパースには、労働者階級の利益になるために資本の側からの譲歩を獲得することと、労働者階級からは忠誠を取り付けることの二つの課題があった。その忠誠は、1917年当時はまだ一般的な現象ではなかった。
多くの黒人はリンチやテロを恐れたが、それと同時に、この好機を利用して、黒人将校の訓練施設を創設するように請願する黒人たちCentral Committee of Negro College Menもいた。彼らはこの国家の危急のときに何らかの役に立ちたいと思い、隔離的な施設の創設でも甘受するとその委員たちは述べた。
031 戦争準備団体preparedness groupの中にNational Security Leagueがあった。それは財界が組織し保守的な利益に奉仕する団体で、政治・経済上の自由主義に対抗する組織であった。
032 ウイルソンは1915年の夏、右派擁護に向きを変え、「合理的な戦争準備主義」reasonable preparedness擁護を唱え始めた。
034 戦争は必要か? AUAM*1内部では、非妥協的で原則的な方針と現実的なものとり的要求とが相反する動きの中で、Paul Kellog*2は、Lillian Wald*3に、以下の提案をした。土地再配分への取り組み、職業訓練校としての軍隊の活用、子どもの労働禁止などである。
*1 American Union Against Militarism, 前身はAnti-Militarism Committee
*2 AUAMの創設者
*3 セツルメント活動家でAUAMの創設者
035 こじつけ AUAMの中では、改革的政策を追求し、戦争を支持し、ウイルソンの導きが民主主義に向かっているなどと考える人が多くなった。
036 改革を唱える人々の大多数は、変貌後のウイルソンに付き従うとともに、自由の精神が失われていくのを感じた。
038 Henry A. Wise Wood*「アメリカは世界最強の商人帝国となって、必要とあれば海外で軍隊を使ってもかまわない」それでいて「慈愛深く、博愛主義だ」と言う。
*Naval Consulting Boardの創設者
040 偽善 戦争に協力的な社会主義者やゴンパースや多くの自由主義者たち「進歩的な目的のためには戦争に協力せよ」「戦争反対は不毛だ」「戦争に協力して、このチャンスを社会改良に生かせ」
042 そんな単純なことか? ロシア三月革命に関して、ウイルソンの戦争演説「ロシアですばらしいことが今起こっている」
043 美辞麗句 ジャーナリストのFrederick Lewis Allen「アメリカは若々しい。ヨーロッパは封建的で古い」
044 多くのアメリカの知識人は、戦争が社会的義務と市民的責任の気風をつくる場としてそれを歓迎した。
1 The War for the
American Mind
046 アメリカでは戦争の危機が迫っているわけでもなかったので、ウイルソンはあえて情緒や観念に訴える手段を考え出さねばならなかった。
047 John Dewey
048 私も同感 ウイルソンは生涯福音伝道者で、人を動かすのにその人柄や修辞技術を多用した。
049 ウイルソンは数ヶ月前に戦争反対を唱えて大統領に再選されたのだが、急変し、戦争推進に舵を切った。
050 なぜ? 1917年末にはほとんど全てのアメリカ人が戦争反対から戦争支持に回った。
進歩的な人々は自らをウイルソンと同一視し、ウイルソンの人格と戦争支持の注意深い合理性を信じた。
051 殺された? デューイのかつての弟子Randolph Bourneは、デューイの戦争支持を批判し、1917年末の雑誌Seven Artsの閉鎖の一年後になくなった。Bourne「戦争支持の知識人たちは、原則から便益へ、価値から技術へ、理性から暴力へと堕落した」
た。
052 Bourne「戦争が阻止できないなら、いつ君たちの自由主義的な精神で戦争を阻止できるときがやって来るのか」
056 教科書からは連合国に不都合な史実が伏せられ、戦争は「愛国主義、英雄主義、犠牲」で満たされた立派な冒険であるとされた。
軍隊の教科書が学校にも配布された。Harding*編纂の歴史教科書である。それによるとすべてドイツが悪い。「ドイツだけが戦争を引き起こした。ドイツの軍人は神の精神や人倫にそむき、残忍な行為に走り、ドイツは軍国主義国家であり、それに対して連合国は平和を心から望み、そのことをドイツ人は馬鹿にする」ところがHardingは連合国やアメリカでの戦争観の相違には触れなかった。
*Samuel B. Hardingはインディアナ大学の歴史学教授
057 ドイツだけが悪いとする認識 加盟団体は“War Issue Course” が必修で、その中味は“National Board for Historical Service”がQ&A形式で準備した。ドイツが戦争を引き起こした、客観性のない単純化、文化的ステレオタイプ、憎悪、反動的見解、民主主義と専制との戦いとする規定などである。
コロンビア大学はこの「戦争問題教程」を歓迎し、「現代文明」としてこれを発展させ、その課程はアメリカの他の高等教育機関で、次の二世代に渡って模倣されることになった。
058 歴史学者のAndrew C. McLaughlin「教育水準を下げよ。」
059 『週刊新潮』ライターMuckraking journalistの政権への抜擢 ウイルソンはすっぱ抜き記者のGeorge Creelを「宣伝委員会」Committee
on Public Information=CPIの長官に据えた。
061 法ではなく宣伝で民衆を動かす “Official Bulletin”はCPIのつまらない宣伝日刊紙だが、彼はそれで民衆の心をつかめると考えた。
“Four-Minute Men”もその手の出版物であった。75,000人が銀行の頭取、実業家から選ばれ、一言ずつ発言した。
062 密告の奨励 歌の活用
063 アメリカは19世紀に流入した移民に対して何らの同化教育を行わなかった。
064 アメリカ人は流入する移民を恐れていた。その急進性と不満をどう抑えるかが問題だった。
067 ナショナリストとしてのウイルソン ウイルソンは1915年の下院での戦争準備提案の中で、外国生まれの人たちをこき下ろした。彼らは「感情の動物」で「不忠、アナーキー」で「追い出されるべき」だとした。
067 反共 “National Security League”の委員長Charles B. Leydecker「危険なプロレタリアートから我が国の議員を保護しなければならない」「プロレタリアートとは、倹約、勤勉、理性などがなく、移民の多くはプロレタリアートだ」1918
068 恐ろしいアメリカ人 関東大震災時の朝鮮人虐殺を想起させる。ドイツ人だったというだけで一青年Robert Pragerを、500人もの暴徒が、裸にし、アメリカの国旗で包み、リンチを加えた。(既述)1918.4そしてその首をくくった。073
071 ゴンパースの生い立ち クリールとゴンパースとは同盟関係にあった。
ゴンパースは社会主義とイデオロギーを嫌い、理論とインテリを軽蔑した。労働条件と高い給料がありさえすればよく、直近の利益で満足した。
社会主義者は反戦を掲げることによってますます悪党になったとゴンパースは考えた。
072 「これは労働者の戦争なのだ」が労働省の謳い文句だった。
ウイルソンも労働者に対して大胆な発言で、平和論者を脅した。1917.11「私が反対するのは平和主義者の気持ではなく、その愚かさだ。私は彼らに同情を寄せるが、理性的には彼らを軽蔑している。私も平和を求めていて、どうすればそれが得られるかを知っているが、彼らはそれを知らない」
1917年8月1日の早朝、モンタナ州ブットで数人の自警団員がIWWの事務員フランク・リトルの部屋に押し入った。リトルは拳骨で小突かれ、車の後ろに綱でくくられ、引っ張られ、鉄道の柱につるされた。ニューヨークタイムズはそのリンチ行為を嘆いたが、IWWはドイツの手先である、政府はこういう反逆的陰謀者を早く片づけろと主張した。
二、三週間後、暴徒は平和主義者の牧師Herbert
S. Bigelowを捕まえ、猿轡をはめ、上半身裸にし、白衣を着た男どもが鞭でこっぴどく叩いた。「ベルギーのあわれな女や子どもの名において」と言いながら。
074 京大の経済学者河上肇の追放を思わせる事件 コロンビア大学学長のバトラーは1917二人の教授を追放した。一人は平和団体と関与したとして、もう一人はヨーロッパに徴兵された軍人を送らないように下院に請願したとして。ニューヨークタイムズはその学長を褒め称えた。
セオドア・ルーズベルトは、武装商船法案に反対した上院議員に向かってこう言った。「今回は反逆者ながら首をくくられないで済んだが、戦争が始まれば首をくくられるべきだ」1917
某牧師もこう言った。「ドイツ人にはキリストの許しが与えられるだろう、ただしそれは彼ら全員が銃殺された後の話しだ」「もし諸君が私を喜ばせてくれるならば、カイザー、ティルピッツ、ヒンデンブルグらが首をくくられる姿を見せてくれ」
クリールやウイルソンは自警団の行為を非難したが、自らの発言が自警団の行為を助長した点は決して認めなかった。
075 1917年6月のスパイ法は、郵政省長官に、同法違反や、反逆や暴動、合衆国の法律に対する暴力的な抵抗を宣伝する郵便物を禁止する権限を与えた。
076 すっぱ抜き記事作家のUpton Sinclairは、ウイルソンに訴えた。「あなたの郵政長官バールソンは、現代の社会の動きについて、子どもじみた認識しかないから、バールソンが、我々のようなラジカルな出版元が何を発言してもよく、発言してはならないかを決定することは大災害をもたらす」
077 検閲(既出) 外国語新聞の英訳義務と事前検閲 10月の、敵との商行為法Trading-with-Enemy Actは、郵政省長官の検閲権限を強めた。外国語で発行される新聞に、政府の行動、好戦的な団体、戦争行為などを扱った記事を英訳し、事前に郵政省に提出する義務を負わせた。ただし、忠誠を誓う新聞は除外された。そのためほとんどのその種の新聞は、転向したり、廃刊となったりした。
078 司法は正当な司法手続と犯罪統制手続とを区別し、後者に対しては、正義や法的正確さを求めず、厳しく弾圧した。
079 司法がリンチを容認 反動的で保守的な司法 司法が正当な法律的手続をから、犯罪的な騒擾、政治的な扇動を除外するという風潮は、その後数世代に渡って引き継がれることになるのだが、その風潮は自警団の行為やリンチを勢いづかせた。リンチが法が規定していない部分を補う法として容認され、自警団は自治組織と看做された。
司法長官のグレゴリーはそういう風潮に同情的であった。裁判所は、徴兵制度の合法性を議論したり、ハンプシャー州で起こったことだが、「この戦争はモルガンの戦争であって、民衆の戦争ではない」と主張したりした*だけで、有罪の判決を下した。*三年の禁固刑
080 2018年5月16日、スパイ法が改正され、反乱法Sedition Actが通過した。それは上記の「不忠な発言」を合法的に取り締まるためのものだった。国家の形態・憲法・国旗・軍服などに対する不忠、冒瀆、下品な言葉、悪口など、つまりそれら組織に対する軽蔑的で侮辱的で不敬なあらゆる表現を禁じた。
軍法会議 “court-martial
bill”は、スパイ取り締まり活動に関する司法省の権限を防衛省に拡張し、防衛省の「不忠問題」での権限を拡大するものであった。
081 KKKの代わりをする警察制度創設 グレゴリーはKKKなど夜間騎馬隊やリンチ法に好意的であったが、粗野で激しやすい自警団つまり忠実な市民がタールや松明やロープなどを使わないようにするために、新たに警察組織を設けようとした。つまり自警団を取り締まるのではなく除外しようとした。
082 グレゴリー司法長官だけの権限で決済できる財源による自警組織=特高の創設
083 政府や司法の下部官僚たちは、スパイ法の強硬な適用で、バールソンやグレゴリーを凌いでいた。IWWが最も活動的な西部諸州で、スパイ法や反乱法が多く適用された。
084 最高裁は、戦争中に奪われた言論の自由を積極的に回復しようとはしなかったが、1919年、言論の自由について確定した見解を示さざるを得なくなった。
1917年のHand裁判官の判決は、郵政省長官にMasses郵送禁止を止めさせたが、直後に巡回控訴審裁判所Circuit Court of
Appealsで覆され、またHand裁判官の言論の自由に関する見解も最高裁で支持されなかった。
裁判では有罪とされたケースが多かった。社会主義者のDebsもその一人だった。デブスは刑務所に収監された殉教者となった。
086 唯一Abramsのケースでは、裁判官Holmesは戦時下における反乱法の適用による有罪を非難した。
民衆はホームズを「英雄的」と看做していただけに、その多くの反動的な判決に失望した。1917年以前にはなかった法曹界におけるこの言論の自由抑制の風潮は、その後のアメリカ社会に引き継がれた。
087 ウイルソンの本音 ウイルソンは理屈の上では言論の自由を尊重したが、実際はその敵であった。ウイルソンはバールソンを抑制しようとはしなかった。ほんの弱々しくAmerican Protective Leagueの半自警団的性質に抗議しただけであった。
088 1917年ウイルソンは個人的にはIWWに殴りこみ、集団的に訴追し、指導層を収監することに賛成であった。
090 George Creelは戦後CPIの活動を一冊の本にまとめて自慢した。“How We Advanced America”である。
2 The Political Economy
of War: The Home Front
アメリカは参戦に際して問題を抱えていた。民間企業を国家の政策に如何に動員mobilizationするかという問題で意見の食い違いがあった。
三つのグループがあった。進歩主義者は二派に別れ、Danielsは旧来の農業中心Jeffersonian values 097の考え方であり、反トラスト法を支持した。一方、セオドア・ルーズベルト098は、私企業の自由な活動を歓迎するとともに、政府によるチェック機関の創設を提唱した。それと最後のグループの反進歩主義のLodgeは、私企業の完全な独立・優先を唱えた。
093 AEF=American Expeditionary Force
095 ウイルソン政権は1914年11月102 Federal Reserve
Systemを創設し、銀行を監督した。また、国家所有の商船海軍merchant marineを創設した。
ウイルソンは1914年、反トラスト法を強化するClayton Actを通過させるのを支援していたのだが、反トラスト法を和らげる目的のWebb-Pomerene
billを支持し、輸出産業を支援した。
098-105 この部分は戦費をいかに調達するかについての工夫を述べたものだが、経済学は難しい。特に102-105の部分は難しい。
戦費を税金ではなくインフレによって賄うというものらしい。105 生活必需品の生産は増加しないのにお金だけが増えるからインフレになった。104
ウイルソンの娘婿099で財務長官のマカドゥーMcAdooがやった。
当時の相場よりも低い利率3.5%で、多額$2billionの、30年満期長期国債bondを発行し、それを Liberty Loanと名づけた。当初民衆が購入するはずと目論んだが、銀行が国債を買った。
マカドゥーは財務省と中央銀行とを区別した。
このやり方は、私的な投資システムを壊さずに済んだ。105
105-106 この部分は前章までの書きぶりとは打って変わって、ナショナリズムを礼賛するかのようだ。マカドゥーは全国遊説して国債を国民に買ってもらおうとしたのだが、それはよいとしても、強制するかのような発言はいかがなものか。そしてそれを批判した人はつるし上げだったらしい。When Senator Warren G. Harding called the loan drive “hysterical and
unseemly,” he was blasted by gusts of derision and sarcasm on the Senate floor.
106
マカドゥーは「国債を買わない者はドイツの友人だ、アメリア市民の資格がない」とまで言った。そして政府は国民の熱狂の陰にかくれて、実際の戦費がいくらになるのかを伏せたのだ。
106-108 progressivesは課税によって軍需費の半分を賄おうと考えていた。ウイルソンもそれに賛成だった。マカドゥーも戦費の半分は課税によることを考えていた。
107 Liberty Loan billとWar Revenue
billとは同時に下院に上程されたが、前者が三週間で通過したのに対して、後者は大統領の手元に届くまで半年もかかった。
後者は所得税の増額や控除額の減額、贅沢品に対する消費税の導入などを柱としていた。
107 Claude kitchinはHouse Committee
on Ways and Meansの議長。やり手。North
Carolina Populistで北東部の工業家には非協力的な環境で育った。
107 La FolletteはSenate
Committee on Financeでprogressivesとして活躍した。
108 戦前と戦時の平均収入を比較して、戦時の利益に対して課税することにしたが、それでは、北部の方が南部の農業者や繊維産業よりも有利な結果となった。
108-111 戦費調達を税金で賄うとする政権側の目論見と、それに反対する南部の議員との論争などが続くが、このあたりは人物像の描写が複雑で掴みにくい。
Kitchinは政権側でexcess-profits taxを進めようとする。Danielsは南部の声を代弁する。
109 LodgeとWeeksは保守派の上院議員でKitchin案に反対である。
109 戦費は増すばかりである。$15 billionにもなるだろうとMcAdooは推計した。マカドゥーは税金対国債の比率を1対5にしようとした。La Folletteはその案に反対した。JohnsonはLa FolletteのLodgeやWeeksに敵対する立場を支持したが、その行動にはついていけないと思った。
110 10月に増税法案が通過した。excess-profits tax ratesを上昇させた。歳入は$600 millionしか増えなかった。
110 戦費はさらに増えそうだった。キッチンはさらなる増税案を考えた。
111 ウイルソンもマカドゥーに説得されて国債よりも増税を支持した。国会議員は選挙対策に走り、ウイルソンはそれを批判した。
111-113 米国の財政に所得税収を導入することは、進歩的で公平であった。というのは、戦前は税収の75%が関税と消費税で賄われており*、消費税は低所得者にとっては不利であったからだ。
ところが1921年に共和党が政権を取ってからは、その所得税収入が何度も減額されるようになった。とはいっても、所得税収が戦前の極端に低いレベルまで下がることはなかった。
*戦後は75%が所得、利得、地代収入などからの税金構成となった。
共和党の財務長官Andrew Mellonはexcess-profits taxを1921年に廃止し、所得税率も下げた。
しかし、進歩的な税制とは言っても、それは観念的なものに過ぎなかった。その原因はウイルソン政権のindifferenceやpacifismや資本の側の反対などによる。
112 国家税収は戦前の五倍より下がることはなかった。その税収で復員兵や国債所有者への支払いに当てられた。
111 ウイルソンの5月27日の演説に勇気づけられて、ラ・フォレッテは1918年の夏、さらに進歩的な新たな法案作成を目指したが、11月に戦争が終わり、歳出も減額し、1918年の法War Revenue Actの進歩的側面が目減りした。
113 国家負債は1915年の$a billionから1920年の$20
billionに跳ね上がっが、その成長率は税率より下がることはなかった。それはMellonにとっては癪の種だった。
Federal Reserve System の下に設置されたOpen Market Committeeは、政府の安全保障財政を管理することになった。またfederal Bureau of the Budgetが1921年に設置され、財政を国家管理の下に置く制度が整った。
113-116 アメリカの機能的な防衛の組織化に貢献した人は、実は車屋さんHoward E. Coffinだった。如何にして効率化を実現するかということが彼の一番の関心事だった。部品の「標準化」が彼のモットーだった。
彼が採用され、Council of National Defense*及びその下部組織のCivilian Advisory Committeeを持ち、その組織自体の機能化を計り、草の根の小さな地方組織*にまで広げていった。また、防衛省と外務省は関与できなかった。防衛や外交を一番の関心事としていたのではなく、効率化ということが一番の関心事だったからだ。
*カムフォラージュするためにCouncil of Executive Informationとも呼ばれた。
*ジェファーソンもこのような小地方組織wardを考案していた。
114 合理化のためならばドイツの社会組織も学んだ。
116 地理的制約のない機能によって結ばれた組織であった。
117-120 フーバーは九歳のときに孤児となったが、鉱山業で財をなした、たたき上げの人であった。大統領になった人でもある。フーバーは主にヨーロッパで活躍していたが、そのフーバーが5月19日、ウイルソンによって農業担当相に指名された。フーバーHerbert Clark Hooverは基本的には価格によって農民を誘導し、規制や強制は出来るだけ避けた。農民は将来の農産品の価格高騰を狙っていた。
118 フーバーは凶作とアメリカ軍やヨーロッパの需要による食糧不足の時代でも配給制度を嫌った。国民に自発的に小麦のない日や肉のない日を作るように依頼した。それはマカドゥーが低利の国債を買ってもらうように頼んだのと同じだった。
119 フーバーは生産・流通においても、生産割当てquotasではなく、価格の作用を用いた。つまり農産品の価格を高くした。しかし、買占めは規制した。規制をするにしても協議によって規制案を作った。
フーバーは地区食糧管理者を選出する案を各地区に示した。非協力的な農民もいた。
121-123 農民の組織化 これまでのようなアナーキスト的、ボルシェビキ的な過激な農民組織*ではなく、企業的利益を目論み国家に対して忠誠を誓う組織化を行った。
*Farmer’s Alliancesの後身であるFarmer’s Unionやthe left-leaning Nonpartisan Leagueなど。
121 American Farmers Councilのような農民組織が提唱され、フーバーの行政手腕とそのような農民組織との融合がなされた。
121 アメリカの農民は1890年代のポピュリストの崩壊以後アメリカ社会では少数派に転落していた。
1911年ごろFarm bureauという組織が地方にでき、county agentがその組織を取り仕切った。
*county agentはChamber of Commerceの公務員であった。
121 これは政府の政策を宣伝する公務員county agentが、国家・州・地方政府と同時に、私的機関bureauの組織者として雇われて給料をもらうというような異常なことであった。
121 farm bureauは1914年のSmith-Lever
Actから大きな刺激を受け、それがcounty
agentに国家資金を援助することを可能にした。
122 1919年、全国組織のAmerican Farm Bureau Federationが結成された。それは反ボルシェビズム、反アナキズムであり、American Legionを賞賛した。
戦争はこのような保守的で国家にとって御しやすい農業団体を生んだ。それは堅実な銀行や商業的利益の導入で農家を手なずけるフーバーの政策に合致していた。
123 1917年のLever Food and Fuel ActによってFood administrationが創設され、大統領は小麦の価格を定めることが出来、大統領は政府の穀物会社を作った。そしてその会社は農産物価格を高止まりさせるための資金を提供した。また大統領は燃料価格を統制でき、Henry GarfieldがFuel
Administratorに指名された。
123 この法案に対する反対もあった。国家による価格の統制や他産品の価格の維持の保証がないなどである。またWeeksはこの機会に自らのかつての法案を復活させようとした。そしてウイルソンはそれを認めてしまったようだ。
123-126 主に共和党との政争で、ウイルソンは大統領権限を強めるようになり、その後ウイルソンはそのdictatorial behaviorを批判されるようになった。
まず1917年から1918年にかけての石炭問題。石炭不足で民衆が石炭を奪おうとした。船舶用の石炭が途中で取り上げられて届かない事態になった。閣僚Garfieldが突然ミシシッピ川以東の工場を四日間閉鎖する措置をとった。ウイルソン政権の不評は高まった。ウイルソンは政権担当能力が弱いと批判された。
123 Fuel Administrator Garfieldはその無能さを露呈した。石炭が不足した。地方の公務員が選挙民の暖房用に通行中の石炭列車を接収した。この問題を共和党員Lodgeが政争に利用した。
124 DanielsとBakerが標的とされた。
125 1月19日身内の民主党員Garfieldが、三人からなる戦争内閣をつくり、大統領権限を弱体化する法案を提出した。ウイルソンにとっては先のWeeksの案の方がまだましだった。ウイルソンはベイカーにこれらの上院議員の攻撃をはねのけさせた。
ウイルソンはLee Overmanに、下院に諮らずにexecutive agenciesを改選できるように大統領権限を強化する法案を提出し、それが5月20日に通過した。ウイルソンはこれまでリンカーン的な強権的手法を控えていたが、ここでそれは終わった。
126-131 このためにウイルソンが独裁者になったかといえばそうではなかった。ただ一つだけウイルソンが変更を加えたことがあった。それは軍事産業委員会War Industries Board=WIB, 1918の再編成であった。軍事産業委員会は問題を抱えていた。そのこまごまとした描写の後に、最終的に軍事産業委員会の委員長になった、独特な風貌の男Baruchについての記述が延々と続く。
126 このWIBの前身がCND=Advisory Commission of the Council of
National Defenseであり、それは産業界をいかに動員するかについて取り組んでいた。
CNDはcooperative committeeの創設を狙い、産業界を取り込もうとしたが、military bureauが縄張り意識から反対したし、この委員会の構成メンバーから除外された企業も反対した。
CNDの下で石炭産業関係者が集まり、石炭価格を設定した。その協定に内務大臣=長官のFranklin Laneは賛成したが、ウイルソンは懸念を示した。その協定が、政府が「取引制限」に基づいていくつかの石炭産業会社を告訴している協定内容と同一だったからだ。産業界は反トラスト法を馬鹿にしているように思われた。
下院はLever billにSection Threeを追加して、政府機関と産業界との契約を禁じることになった。しかし、それはウイルソンにとってCommissionを通してこぎつけたこれまでの政府と産業界との関係を水の泡にするものだった。ウイルソンは自由放任にすべきか国家統制すべきかで揺れた。
128 WIBは1917年6、7月ごろ姿をあらわし始めた。その目的はLever billにSection Threeを追加した議員たちを出し抜くことだった。
しかしBoardには価格設定の権限がなく、契約権はmilitary bureausにあった。そのためBoardの協力委員会cooperative committeeの産業界メンバーは次々と辞任した。
129 そこで現れたのがBaruchだった。彼は膨大な事実を把握していて、ウイルソンから “Dr. Facts”と呼ばれた。しかしHouse大佐はその選任1918.3に疑念を感じた。
Hooverは時代遅れの保守と看做されていたが、バルーチは革新家とかイデオローグとか看做されてもいいだろう。
130 バルーチは自由市場経済に組織性と合理性が欠けていると考え、civilian needsとcivilian wantsとを区別した。彼の考えは難しいのだ。また彼は、生産部門は経済合理性と徳を備えているが、流通部門は操作的な宣伝によって人々の福祉に寄与しないと考えた。
131 バルーチは産業の結合を唱えた。だから反トラスト法は企業活動を低下させるとした。また戦争によって企業家は競争相手とともに、相互の結びつきや協力の利点を学んだ。それは公衆の利益にもなるし、不利益にもなる。だから政府機関の監督が必要だ。それが出来るのは自分やフーバーのような奉仕を語り、自称階級観のない人間だ。
132-135 混迷して分かりにくい。バルーチの取り組みを述べたもの。参戦が企業の国家への取り込みに寄与した。戦争が終わるとこの組織自体がなくなった。またその非合法性を戦後になって訴追されたこともある。バルーチのアグレッシブな性格が企業を動かした。
132 アメリカでは、国家と私企業との関係が常に問題となった。「公の利益」という問題は、アメリカ人を悩ませ続けた。公私関係の問題だ。フーバーの食糧管理問題も、この公私関係の問題の難しさに関わっていた。
132 Boardは1917年に創設された。WIBの商品部門は、かねてから付き合いのある企業家からなる戦争奉仕委員会war service
committeesと価格交渉をした。戦争奉仕委員会とは、米国商務室the
United States Chamber of Commerce*の下で組織された私的な企業家の組織である。
*the United States Chamber of Commerce自体が、米国商務・労働省の援助で組織された私的団体である。
133 war service committeeはcooperative committeeよりもWIBとの関係は密接だった。公的な権威を授けられるほどの親密さだった。
133 バルーチの試みはある程度成功した。商務室も勝利し、そこが反トラスト法の避難所となった。商務室が言うには、戦争奉仕委員会が、産業界の国家的な組織化に向けた基礎となるだろうと。ウイルソンは反トラスト法を擁護すれば、産業界を組織化できなくなるだろう、と司法長官に語っていた。
しかしウイルソンはバルーチに全面的に賛成というわけではなかった。ウイルソンはBoardsの執行力を強化しただけで、その権力を拡大しようとはしなかった。購買権は陸海軍の下にあった。ウイルソンはBrookingsを委員長とした価格決定のための委員会を別に設けた。Boardsはさらに鉄道省の支援も必要とした。したがってバルーチには一枚の古い書類と彼の人格と指導力しか頼るものはなかった。戦争期間中Boardは脱法行為をしていて、実際戦後に訴訟沙汰となった。
134 法的な権威を持たないBoardは、甘言、勧告、脅迫、交渉などあらゆる手段を用いた。特に価格問題でそれを用いた。軍事ビューローは低価格で購入したかったが、ウイルソンは連合国や国民と同程度の価格で購入するように主張した。それは政府と取引のある会社に懲罰を加えないためであった。
135 WIBは低価格よりも生産性を重視した。それはフーバーの食糧政策と同じだった。Boardは価格を一定にした。そのため生産性が高く、低コストの製品が勝利した。
新規参入は価格競争を武器にして参入するから、高止まりの協定に反対した。また生産コストの高い鉄鋼の中小企業家は、大企業U.S. Steelと政府との価格決定への参入に反対した。価格設定はBoardの采配の難しいところだった。価格が企業の自由意志による同意に基づくからだ。
136 Federal Trade Commissionの調査や下院の法案なども動員して業界の価格は決められた。バルーチは企業家が公衆の利益の敵だと公衆に知らせるぞと脅しながら価格設定を行った。
136-138 ウイルソンの政策は中間的で折衷的で、複数主義だった。
136 WIBが資本の言いなりになっていると評する人もいたが、政府の専制性を指摘する人もいた。たとえば農家は政府指定の価格以外では販売できなかった。特に共和党関係者は反発した。
137 しかしよく調べてみると政権は揺れていた。ウイルソンの態度は曖昧で躊躇した。その政策はいくつかの勢力の平衡関係の中にあった。WIBがその代表格であった。
138-141 アメリカの自画自賛と戦争はいい結果をもたらしたから良かった?アメリカは戦後世界におけるアメリカの優位を考えていたから、百パーセント戦争に投入しない政策を取った。戦争はよい効果をもたらした。
138 ウイルソンがどっちつかずの政策を取れたのは、アメリカが戦場から離れていたからである。
139 戦後ヨーロッパでは中産階級が弱体化したが、アメリカではそのようなこともなくて済んだ。
第一次大戦の戦費は当初$33 billionで、その後の利子と退役軍人に対する補償を含めると、$112 billionとなったが*、それでもアメリカは大もうけした。
*南北戦争時のthe Union sideの戦費は$13 billion、第二次大戦時の戦費は$664 billionであった。
つまりアメリカは、平時経済に差しさわりがなくて済み、戦後のアメリカの国際競争力は増強された。下院の質疑によると、the Bethlehem Shipbuilding Companyは、年間の平時の利益は$6 millionであったが、戦時には、$49
millionに増加した。
War Finance Corporationは、発電能力を増加した。
140 アメリカの戦後の国際経済秩序で有利に働いたものは、いくつかあるが、それはウイルソンらの意図的な取り組みによるものであった。例えば、商船海軍の創設、平時の資本構造の維持、アメリカ農産品の代価を連合国に支払わせること、「非基幹産業」を制限しなかったことなどである。
戦争はまた標準化によって産業効率を高めた。そして組織の改善も行われた。Federal Reserve BoardによるCapital Issue Committeeは、ニューディール時代のSecurities Exchange Commissionの原型となった。官民協力のWIDは、フランクリン・ルーズベルトのNational
Recovery Administrationの原型となった。
141 また戦争によってもたらされた利点は、組織化であった。Anti-Trust Divisionは程よく力を抜いてくれた。官民が協力し、産業が組織化された。ガルブレイスは官民の関係は気持ちが悪いほどabhorrentが普通だと言った。
142 戦後アメリカ政府特定の利益集団に関与し、その他の組織されない集団は除外された。
142 このあたりは本章をまとめているのだが、抽象的な表現で分かりにくい。
143 二十世紀が始まる頃のアメリカは、それまでの同質的なアメリカではなく、大都市には外国人が流入し、産業化は醜い階級間対立を引き起こしていた。
143 自発性には危険がつきまとうことを戦争が教えた。自発性では人々を戦争に向けられないからだ。それが自由民主主義の特徴だ。
感想 ここで“Over Here”の著者のスタンスが見えてきた。詳細な記述をする陰にかくれて、為政者の側から事態を見ていた。「外国人や社会主義者は汚い」と言う。
3 “You’re
in the Army Now”
144-150 徴兵制にするか志願制にするか ウイルソンはイギリスの志願制の欠点を考慮した。イギリスでは志願制のために、本国に残った人の能力にばらつきが起こった。またウイルソンはセオドア・ルーズベルトが志願制を提唱していたのに反発した。
144 1917年4月6日、宣戦布告が行われた。その直後にウイルソンは徴兵制を要求した。しかし徴兵制はアメリカの伝統から逸脱し、ウイルソンの元々の考えにも反するものであった。
145 アメリカでは1914年ごろからUMTが語られていた。軍の育成でUMT=universal
military training方式を採用するかどうかで議論があった。国民皆兵訓練方式である。
この方式を推す理由の一つは軍の強化に役立つというものと、もう一つはアメリカ国民を、出身国、階級に関係なく均一化・一体化し、また効率と奉仕という価値観を醸成するのに役立つというものであった。後者は、自由、平等、民主主義、個人主義などの価値観とともに語られた。
一方ではUMTに、平等、友愛を見ず、むしろ異端のプロシャ的な国家的強制という図式を見る人もいた。
146 育ちの相違は御しがたいとUMT提唱者自身が考えていた。実際UMT主唱者団体*1は富者や特権階級だった。
*1National Security LeagueやMilitary Training Camps Association*2など
*2将校を目指す裕福な実業家や学生の会であるPlattsburg Campsが前身
Amos Pinchotは言う。徴兵制度は産業界の搾取や帝国主義のためにある。そこではストライキも暴動もなく、民衆の不満もない。民衆はライオンの前の子羊にすぎない。
Bakerは、1916年のウイルソンの徴兵制度に対する反対のおかげで、前任者のLindley
Garrisonの後任として軍務長官になった。
147 ウイルソンは徴兵制度がアメリカの伝統をそこね、強制と編成というヨーロッパ的な制度に堕するものと考えていた。1917年2月まではウイルソンもベイカーも志願制度を想定していたが、その月に徴兵制度を認可し、Selective Service Systemの運用が始まった。
ウイルソンはこの制度が自らの考えの取り下げとは考えていなかったようだ。ウイルソンはこの制度を、志願兵制度で十分な兵員が集まらなかった場合の予防的な措置と考えていた。
イギリスは1916年まで徴兵制を拒否していたが、最初の二年間の志願制度によって、優秀な軍人を失ってしまった。また戦後、政界の人材にこと欠くようになった。また経済でも国内に優秀な人材がいなくなってしまった。
148 事情はアメリカでも同じだった。Plattsburgersなど志願を望む学生たちである。プリンストン大学では1917年3月に学生に志願しないように働きかけた。ウイルソンは徴兵制度を「適材適所」政策と考えていた。つまり、はっきり言えば、学生には軍隊に行かせないで、下層労働者に行かせるというものだろう。
4月18日下院軍事委員会は、志願制度を維持し徴兵制度に反対する法案を提出した。
一方セオドア・ルーズベルトはGeneral
Leonard Woodとともに志願制度を提唱し、その雛形を示していた。そしてスタッフにアメリカ独立戦争に参加したフランス人のLafayetteに敬意を表して、フランス貴族の末裔を迎えようとしていた。
149 将校希望者のほとんどがIvy Leaguersだった。
ウイルソンはルーズベルトら共和党のSelective
Service billの修正を拒否した。
最終的な法案は、正規陸海軍とNational
Guardには志願を認め、新たな国民軍National
Army*には認めなかった。
*ところがこの国民軍に全体の77%が必要とされた。
150-154 徴兵を如何に進めるかは難題であった。南北戦争の頃の徴兵の際には、暴動が起こった。そこで今回は民衆に徴兵事務を担当させ、当局は表に出ないことによって、上手くいった。その間に、徴兵の日には愛国的な祭りをして気分を盛り立てるのが良いとか、いやそうではない、厳粛に愛国の責任感を持たせるのがよいなど、様々な議論があった。
150 21歳から30歳までが登録対象となった。6月5日が登録日に設定された。
151 南北戦争時のUnion Armyでの経験では、6%しか登録しなかった。また不公平な兵役回避、恣意的で高圧的で強制的なやりかたなどが人々の怒りを買った。一番悪かったのは軍主導で登録事務をやったことだった。彼らのやり方がひどかったので、彼らのうち百人が殺傷された。ニューヨークではアイルランド人が暴動を起こし、軍がそれを抑え、強制的に登録を執行した。
152 ベイカーは登録を地域単位で市民によって行わせることにした。5000の地域に分散して行った。
153 ウイルソンやCrowderは兵役のことを意識的に「サービス」という言葉で表現した。サービスはこのころのはやり言葉になった。
そしてサービスという言葉には、様々な意味が込められるようになった。例えばアメリカ人は博愛的であるとかである。
しかし為政者や報道関係者は、その言葉が個人と集団の領域の交渉の過程であることを知っていた。
Crolyは1909年の本The Promise of American Lifeの中でこう語った。時代の中心的な問題は、個人の積極的な面を犠牲にしないで、狭い個人の利益をまもる古臭い信条のかわりに、協力的な国家主義を採用することであると。Crolyは “Hamiltonian
means to Jeffersonian ends”の採用を要求した。それは逆説だ。
154-158 徴兵登録は概ね上手くいったが、うまくいかなかった面もあった。それは登録における不平等だった。扶養家族がいる男の免除、外国人の除外などである。
154 6月5日1,000万人が自主的に登録し、重大な事件も起らなかった。7月20日に式典が催され、抽選が行われた。9月にはキャンプに兵隊を集めた。ニューヨークの人たちは熱狂的に徴用を支持した。
155 上手くいかない面もあった。
156 登録事務が地方に任せられたために、共和党員が自党の下働きを兵役免除した。ジョージア州フルトン郡では、白人815人中の526人を兵役から免除し、黒人202人中の6人を免除するという不公平な取り扱いがあった。
割当て制度は全人口に比例した登録を規定していたのだが、それは非宣言non-declared外国人を無視していた。つまり予備的市民権証書を持たない人たちを無視していたのである。
157 一方ブルックリンでは登録者の四分の一が非宣言のロシア人であるような場合もあった。あるヨーロッパ人は「外人部隊」American Foreign Legionと恨めしそうに言った。また将校が点呼したとき自分の名前だと分かる人が一人も居らず、将校がくしゃみしたら、十人が前に進み出たという笑い話がある。米軍人の手紙では49ヶ国語が使われていた。
158 1917年までアメリカは移民の立場を明確にしていなかった。当初陸軍は英語を話さない外人と不適格者を貯蔵軍depot brigadeに送った。しかしアメリカ化が叫ばれてから、軍は「育成大隊」development battalionsをつくった。標準以下だが治療可能な隊である。
158-160 一方では人種隔離部隊の結成という問題が生じた。イタリア人やスラブ人だけで構成される部隊も結成された。黒人部隊の編成をどうするか。黒人はまとめられてキューバに送られることになった。黒人部隊が反乱を起こして、白人の一般人を17人殺害した。彼ら13人は軍法会議にかけられて処刑された。黒人が武器を持つことを白人は恐れた。
158 ジョージア州のゴルドン・キャンプでは、イタリア人やスラブ人だけで構成される部隊companyが出来た。外国政府もアメリカ国内で自民族の部隊を作らせてくれと米政府に頼んだ。それはオーストリア・ハンガリー帝国支配下の少数民族、例えばポーランド、ユーゴルラビア、チェコスロバキアなど少数民族の独立を目指すためのものであった。それで1918年7月、スラブ人部隊の結成を下院が承認した。
一方黒人部隊に関しては、白人は恐怖と軽蔑の気持ちを抱いていた。
159 南部の白人は恐れていた。人種主義者のJames K. Vardamanは「横柄でもったいぶった黒人軍人を各地域にもたらすことになるだろう」と言った。軍部は人種問題を避けた。どのレベルで黒人部隊を隔離すべきか。中隊companyか、連隊regimentか、師団divisionでか。
4月に黒人志願兵による部隊が結成された時、黒人の入隊を止め、更なる黒人の志願兵を拒否し、黒人の徴兵は延期された。
ヒューストンで黒人軍人を含む暴動が起こった。彼らは黒人隔離主義者による侮辱と攻撃を受けて、8月23日の夜に暴れまわり、17人の白人を射殺した。
テキサス州の下院議員は、テキサス州からの黒人部隊の追放を要求した。ミシシッピ州の上院議員は有色人軍隊をキューバに隔離するように要求した。黒人の徴兵が止められ、軍法会議は百人以上を告訴し、12月8日、13人全員に処刑の判決を下し、三日後に上告する暇もないときに、処刑を執行した。
160-163 黒人兵がフランスで実際に使われることは少なかった。米国内で訓練する際に、黒人だけからなる部隊の存在が危険視され、各部隊内での黒人の比率を低くするように、黒人を分散する措置がとられた。また黒人の兵役免除率は低かった。それは黒人の普段の収入が低く、それに対して兵隊になると給料が良かったからだ。
160 8月31日、ベイカー軍部長官は、黒人問題に関する会議を開催し、黒人師団を創設するためにEmmett J. Scottを黒人問題担当の助手にした。それとともに軍は、黒人新兵を、南部を含めた各駐屯地に分散させた。
9月22日、初めて黒人の徴兵がなされた。米国内での訓練に際しては、黒人が配属される各部隊での白人対黒人の比率は2対1に定められた。
第92黒人戦闘師団black combat divisionは七つの宿営地cantonmentsに分けられ、単独では訓練されないことになったが、それは第92師団がフランスへ赴いたときの欠点となった。
161 しかし唯一黒人将校訓練のための黒人だけからなる宿営地が存在した。アイオワ州Des Moinesの宿営地である。戦前黒人はPlattsburgでの将校訓練宿営地での訓練から除外されていた。そこの将官Leonard Woodが混血を嫌ったからだ。また軍は黒人副官のYoungを解任した。*
ウイルソンは、ヤングの病気の疑いにかこつけて、その診断結果が出る前に、ヤングが病気で職務を遂行できないだろうと発言した。
黒人組織NAACP=National Association for the
Advancement of Colored Peopleは、従来の黒人と白人との統合の主張を緩和し、隔離された宿営地の建設をベイカーに提案した。それには反対する人もいた。
7月、Fort Des Moinesでの黒人将校訓練計画が創設されたが、10月のそこの卒業生639人は全員が左官級以下であった。これらの人たちは第92師団に配属されたが、上官は白人だった。そしてこれは試験的なものとされ、Fort Des Moinesは閉鎖された。
162 American Expeditionary Forceとしてフランスへ遠征し実際の戦闘に参加した兵隊の割合は、黒人では5人に1人であったのに対して、白人では3人に1人の割合であった。黒人は予備大隊に配属され、港湾労働者や一般労働者として使用された。
黒人では36%が兵役資格者とされたが、白人ではその比率は25%であった。その原因は黒人には志願が禁じられていて、有資格者が多く残っていたからだ。
黒人の兵役免除数が低い理由は、軍の給料や家族への配分額が、普段の収入よりも良かったからだ。黒人は全人口の10%を占めていたが、13%が徴兵された。
163-167 アメリカでは宗教的理由による兵役忌避を認めていたが、その取り扱いは曖昧だった。兵役忌避者狩りが行われた。兵役忌避の理由が疑わしい者を軍法会議にかけることもあった。徴兵年齢を拡大したが、その計画ははかばかしく進行せず、宣伝ではなく銃剣によって徴兵せざるを得ないかとささやかれていた時に戦争が終結した。
163 選択的兵役法Selective Service Actには兵役忌避の規定があった。戦争に参加することを禁ずる信条を持つ宗教団体には兵役を免除した。しかしどの教派がこれに当てはまるかが示されていなかったので、Local boardsの適用は恣意的だった。
この法律は当初、非宗教的兵役免除、例えば人道的・政治的な反対者や自らの民族に銃口を向けることを嫌がるドイツ人などについての規定がなかった。また兵役に代わりうる仕事も明示していなかった。 そのため二万人の良心的兵役忌避と認められた人達が軍に送られた結果、そのうちの一万六千人以上が武器を取るようになった。Civil Liberties Bureauは防衛省に、非戦闘業務を定義し、彼らを監獄のような場所から解放するように求めた。
164 ウイルソンは非戦闘業務を明確にすると共に、宗教以外の兵役忌避者を認めた。6月Board of Inquiryが発足し、兵役忌避の定義を明確にした。
上手く行ったところもあるが、兵役忌避者をあれこれと言って辱め、「おまえはこの国に住む資格はない」などと言うboardの少佐もいた。
絶対的な忌避者の場合は、状況がもっと深刻だった。宗教的・政治的な理由で、点呼にも答えない者もいた。Civil Liberties BureauのChiefであるRoger N.
Baldwinの場合のように、裁判に訴えた場合もあった。
しかしほとんどものは兵役につかされ、軍法会議に掛けられた。
165 そしてほとんどが有罪とされ、軍の監獄に入れられ、ひどい懲罰的な扱いを受けた。
1918年、良心的兵役忌避者に対する政権の善意の限界が示されると、防衛省の態度が硬化した。ベイカーは、運動に関与し、むっつりした反抗的な者は、即座に軍法会議にかけるように指令した。そしてKeppelはベイカーに、こっぴどく殴った将校を釈放するように勧めた。
33万7千人が特に何らの原則もなく兵役を逃れたとされる。そのうちの12%が徴兵させられ、またそのうちの半分が登録させられ、残りは名前が公表されるだけだった。政権はこういう人たちに対する処置に関して当初はためらっていたが、1918年の中ごろまでに、司法省は一万人を起訴した。司法省はその年の3月に一網打尽に捕まえる計画を立てた。警察やAmerican Protective Leagueの自称愛国者を動員し、軍人も参加し、5万人を拘留した。該当者と思われる人に対して、町のあらゆるところでSelective Service documentsの提示を求めた。
166 このやり方は各方面から批判を受けた。1917年12月、General Crowderはすでに網の目を細かくするために適格者を五つに分類していた。*1918年、彼は「労働か戦闘か」という命令を出し、怠け者やウエイターなどの比較的重要でない職業の者をクラスⅠとした。
*調査用紙と身体・心理検査によって、登録年齢の男の四分の一が文盲で、三分の一が虚弱体質で、かなりの数の者が知的に劣っていることがわかった。
167 また8月、下院が適格年齢を18歳から45歳までに拡大し、新たに1千300万人を徴兵することになったが、このころは以前のような自主的に登録する雰囲気はなくなっていた。そこでクラウダーは報道を利用することにした。9月12日が登録日だった。宣伝の熱はますます高まったが、それは登録の難しさを示すものだった。誇大広告よりも銃剣を突きつける必要も出てきたが、そのとき戦争が終わった。
168-174 ヨーロッパ戦線へのアメリカ軍隊の投入量とその方法がここのテーマである。
まず量について。当初の予想より大幅に米軍を増強せざるを得なくなった。その理由はソ連が戦線から離脱したためにドイツ・オーストリア軍が優勢となり、仏英から増援を求められたことである。
次に方法であるが、英仏は英仏軍への米軍の編入を要求した。つまり米軍が米軍として独立しないということである。それにはパーシングGeneral Pershingが反対した。まず言語の問題がある。次に作戦の違いもある。英仏軍は持久戦を考えていたが、パーシングは西部戦線に大量に派遣して、相手の軍隊を完全に叩き潰す作戦を考えていた。それは南北戦争以来の米軍のやり方だった。これは第二次大戦でも生きているのではないだろうか。つまり無条件降伏の要求、沖縄戦での大量投入、原爆投下、東京大空襲などにその思想が生きているようだ。
168 当初は米軍の投入は不用ではないかと思われていた。それに船が不足していた。1917年3月30日の時点でフランスは米軍を必要だとは考えていなかった。軍隊の海外派遣は米憲法に違反する恐れもあった。
169 訓練にも一年や二年を要した。
1917年6月に初めてアメリカ軍がフランスに上陸したが、これはその三ヶ月前には考えられないことだった。
1918年6月に派遣されるべき米軍の規模は、要求される規模の百万人のうちの650,000人とされた。船が足りなかったのだ。結局最初の徴兵数は687,000人となった。1917年末までに175,000人が送られていた。戦争終結の11月11日であるArmistice Dayまでには、四百万人が送られ、その半分はフランスとされていた。
1917年秋、連合軍は巻き返され大敗した。10月ドイツ・オーストリア軍は対イタリア戦Isonzoで勝利し、捕虜275,000人を捕らえ、イタリア軍はPiave川まで敗退した。
170 英軍はFlandersで敗退した。戦線はわずか二マイルの進撃後、11月にPasschendaeleで止まった。そのときの戦いで300,000万人が戦死した。同じ11月、ソ連で革命が起こり、休戦協定が結ばれ、それがドイツ軍の1918年3月21日の大反撃を準備した。
連合軍は米軍の余剰軍を直接徴兵させてくれと要求した。イギリス軍は怒り狂うアイルランド人seething Irelandも徴兵しようと考えていた。*
*つまりアイルランド人はこのとき戦争には加わっていなかったということだ。日本が朝鮮人の反対もあったが、朝鮮人を軍隊に徴兵していたのと対照的である。
British Prime Minister David Lloyd George, “The difference of even a
week in the date of arrival may be absolutely vital.”
米軍人の英仏軍への融合amalgamationに、ベイカーは反対、ウイルソンは揺れていた。
171 Tasker Bliss, American military representative on the Supreme War
Councilは容認に傾いた。しかしCommander in
Chief of the American Expeditionary ForceのGeneral John J. Pershingパーシングは断固反対だった。
融合ではパーシングは名前だけの将軍となってしまうが、融合に反対する理由はそればかりでなかった。連合軍指揮官Fochはパーシングに「ロアール川まで退却せよということか」と警告した。それに対してパーシングは
“Yes, I am willing to take the risk.”と答えた。
パーシングは、服従的でないライバルのWoodとは違って、その如才なさと政権の外交政策に対する黙認的態度のため、ウイルソンやベイカーにAEFの運営を任された。
172 米国人の英人に対する偏見、1917年4月の仏軍における反乱、連合国軍によるパレスチナやトルコのGallipoliなどの東方戦線での再開への反対など、パーシングの融合に対する反対理由としてあげられる。
173 また決定的な西部戦線で勝利して、戦後の国際関係でアメリカの優勢を導くという政治的判断も働いていた。
パーシングは、大量の正面からの対決を望んだ。彼はインディアンとの戦いで、戦争の目的が相手を殲滅することであることの重要性を学んだ。南北戦争時の将軍の作戦行動を模範とした、votive fires祈願成就の炎が、アメリカ軍の作戦精神の中で燃えていた。これは日本の精神主義と共通しないか。フランス人が防衛戦に力点を置くようになったのは、過去五十年間のフランスの歴史を反映していると彼は考えた。
174-177 アメリカと英仏との駆け引き イギリスはアメリカ軍を自軍の一部として使いたかった。パーシングはアメリカ軍独自の行動をとりたかった。またイギリスは船を沢山もっていたが、アメリカはあまりもっていなかった。結局その駆け引きは、パーシングがアメリカ軍を大幅に増強する決断をすることによって、イギリス側が船を提供することになって終結した。両者の関係は必ずしも心からの信頼関係の上に成り立ったものではなかった。
174 1914年から1917年にかけての戦線の膠着状態の原因は、フランス人の優柔不断のためというよりは現代の軍事技術のせいであった。長距離砲と機関銃は、守備には有利だった。しかしパーシングはその事実を無視した。彼は広い開かれた土地での攻撃的な戦闘行動を強調した。彼は軍人がライフルを用いることを重視した。
パーシングの軍事理論
175 アメリカには船が足りなかったが、そこをイギリスにつかれた。イギリスは自国の軍隊に米軍を編入しようと目論んだ。
1917年から1918年にかけての冬の間、その駆け引きは続いた。パーシングはイギリスの提案に妥協した。つまり、イギリスがアメリカの六師団divisionsを輸送する船を提供するが、その歩兵団はイギリスの地区内で前線訓練を受け、緊急事態の時には前線に配置されるが、アメリカ軍の司令官によって呼び戻すことが出来るというものだ。
176 さらにパーシングは黒人の四歩兵連隊をフランスの指揮下に置くことにも賛成した。彼らは戦争終結までその状態におかれた。それはアメリカ軍にとって珍しいことだった。
3月21日ドイツの攻勢が始まった。3月27日ベルサイユでSupreme War Councilが開催されたが、パーシングは米軍の増派を断った。同Councilが5月にAbbevilleで開催された。7月アメリカ独自の軍が編成され、融合の議論が収まった。
ウイルソンはTasker Blissに米軍の意向を代表させ、政治的な代表を避けた。イギリスは中東やロシアに向けるために、大西洋で利用可能な船舶数を少なめに見積もっているのではないかと疑われた。また商業船舶は戦後の船舶ビジネスでの競争を考えて考慮外とされた。
177 アメリカはヨーロッパの腐敗に関与することを避けた。アメリカの軍事概念は、個人と集団のイニシアティブや軍備の豊富さと作戦判断に基づくものだった。
1917年末、パーシングはフランスに派遣される師団を30師団から100師団へと大幅に引き上げ、ベイカーは徴兵年齢を拡大した。イギリスは船舶の調達を確約した。
1918年の5月に245,000人、6月に278,000人、7月に306,000人のアメリカ軍が投入されたが、11月には戦争は終わった。
177-185 米国で戦意を盛り立たせたものは、中世的騎士道精神の、闘いを美しいと考える、南北戦争以来の伝統であったようだ。アメリカも日本と大差はない。死んでもラッパを離さなかった*1とか、三人の自爆した突撃精神(爆弾=肉弾三勇士*2)とか、天皇の為に、お国のために、靖国神社で再会しようという戦争美化の戦意高揚策とほとんど同一のものであったといえよう。
*1木口小平(きぐちこへい)は日清戦争でラッパ手であった。「死んでも口からラッパを放しませんでした」は、明治35年から昭和20年まで、小学校の修身教科書に使われた。1894年の話。(ウイキペディア)
*2爆弾三勇士以外にもこのような自爆攻撃に参加して死亡した人がいたようだ。また、この三人は実は失敗したという説もある。ただマスコミがこれを戦意高揚の為に利用したことの方がに意味があったのだろう。1932年の第一次上海事変での出来事。(ウイキペディア)
178 中世の挌闘における英雄主義、騎士道精神、名誉、ロマンチシズムなどが、二十世紀初期のこの時代にまで生き続けていた。Rudyard KiplingやRupert Brookeなどのイギリスの詩人がそのような精神を語っていた。その精神は、John Brown*1のハレルヤのこだまと共に南北戦争の思い出となってアメリカ人の精神を感動させた。
*1熱烈な奴隷制度廃止論者で、1859年に蜂起し、ハーパーズフェリーにある連邦武器庫を襲撃し、絞首刑となった。
米国では南北戦争が開始されたころ*セオドア・ルーズベルトやウイルソンは少年時代をすごし、その記憶を当時でも残していた。
* “Beauregard’s batteries fired on Sumter.”とはブールガールの大砲が、スムターで火を噴いた、つまり南北戦争が開始されたことを意味する。
南北戦争を記念する地名の数々。
179 Oliver Wendell Holmes, Jr.は軍人の後裁判官となり、戦争を美化する発言を行った。「戦争の中でのみ人間は名誉ある神聖な愚行を行える」
ホームズの次の世代であるセオドア・ルーズベルトは、戦争のことを
“Pleasingly dangerous gentlemen’s sport”だと言っている。
このように戦争を美化する人たちは、年輩で、エリートで、古い家柄で、北西部出身で、英仏贔屓であった。このような人たちからアメリカ独自の軍隊の訓練や戦争への介入が強く提起された。
彼らは、主導的な文人、大学の学長(プリンストン大学学長John Grier Hibbon)、保守的な出版会社、雑誌の編集者などだった。そしてその中のある人はこう言った。「戦争は再生だ」「道徳の理想主義の観点から、戦争は厳しいが必要だ」「神聖なものの復活」などと。
古典のHorace*1からも引用され宣伝された。
“dulce et decorum est pro patria mori”*2 また、歩兵を戦争に導く女神のポスター、映画、書籍、小説家Walter Scottなどもこの宣伝に与した。
*1ホラティウス
*2It is sweet and proper to die for the
fatherland. これは靖国神社の大伴家持の歌*3と同じだ。
*3海行かば 水漬(づ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ かへりみはせじ(or 長閑(のど)には死なじ)
180 名門大学出身の学生は進んでフランスのLaffayette Escadrill air unitやイギリスのNorton-Harjes Ambulance Serviceなどに加わった。
Alan Seegerは英雄視された青年の一人である。ハーバード大学卒、詩が得意で、1840年代を夢見るロマンチシストとして1912年にパリに出かけ、バイロンのような栄光と詩人のような死を求め、1914年フランスの外人部隊に入隊し、戦争について語り、手紙に書いたり寄稿したりした。
181 彼はフランスの田園の魅力と戦争の厳かな壮大さについて語った。連続砲撃のオーケストラを聴いて幸せだ、colonnes par quatre(四列縦隊のことか)で軍隊が進軍するのを見るのは美しいなどと。
1916年シーガーが戦死すると、文化の守護者たちは彼をアメリカで最初の戦争の英雄に祭り上げ、アメリカのRupert Brookeと呼んだ。ルパートとは、戦争の初期に戦死したイギリスの詩人だった。
182 彼は、彼が実際死んだ日でなく、7月4日に死んだとされた。彼の詩が出版された。セオドア・ルーズベルトが彼の詩の中に出てくる。「ルーズベルトが指揮を取るなら、私は鉄砲や砲弾の中に飛び込んでもいい」と。ルーズベルも彼を褒め称えた。
Hiram Johnsonは、Robert W.
Serviceの詩*を家族に読んで聞かせた。
*その中の一節にはこう書かれている。“I’ll die as a soldier dies
on the Field of Glory.”
シーガーもサービスも1917年のベストセラーとなった。さらにArthur Guy Empeyの作品もベストセラーになった。エンペイはLiberty bondの集会で何回も演説していた。エンペイの作品の出版者は、George Haven Putnumで、戦争準備推進国民連盟Pro-preparedness National Security
Leagueの創設者だった。
エンペイはイギリスで参戦し、こう語った。「戦争はスリルのあるスポーツのような冒険だ」
184 エンペイは、戦争は文明のためのものであり、犠牲精神は素晴らしい、イギリスに祝福あれ、戦争の悲惨さは戦争がもたらす満足感よりなるかに劣ると語った。
三年間にわたって戦争の残虐さが報道されても、上記のような戦争賛美論が優勢で、人々から死の恐怖を緩和した。
歴史家のWilliam L. Langerはこう語っている。「私はアメリカの上層部が行う政治を知らなかった。平凡な日常よりも戦争の興奮とリスクを体験してみたかった。冒険と英雄主義にあこがれていた」と。
185 John Dos Passosも同様だった。「私は戦争忌避者の良心を尊敬するが、実際戦争を体験してみたかった」と。何これ、アメリカ人て、そんなに命を大切にしない人たちなのか。
185-189 アメリカでは日本と違って軍隊に対して性において禁欲的であった。慰安婦など考えもつかなかった。フランスがアメリカの為に慰安婦を提供しようと提案したが、アメリカは断った。また知能テストが行われた。文盲が被験者の四分の一いることが分かった。最近アメリカに流入した移民や黒人の成績が悪かった。しかしその知能テストには文化的な違いが考慮されていなかったむきもある。
185 セオドア・ルーズベルトが「大いなる冒険」と銘うった、ヨーロッパへの軍隊輸送が行われた。訓練施設は意図的にアメリカの大学のキャンパスを思わせる工夫がなされ、華やかな雰囲気だった。
Temperance crusadersは、飲酒習慣を変える運動に取り組んできた。Anti-Saloon Leagueは憲法で飲酒を禁じるように政府に働きかけ、防衛省が軍キャンプ近隣での酒の販売を禁止し、軍人にも酒を買うことを禁じた。1919年憲法修正第18条*が批准された。
*1919年全州が批准し、確定した。1933年修正第21条で廃止された。飲料用のアルコールの製造・販売を禁止する。
186 American Social Hygiene Associationは性病教育を政府に要求し、CTCA=Commission on Training Camp Activitiesに業務を委託した。これは各種団体の連合体であった。それはBall睾丸、whores売春婦などの言葉をおおぴらに口にし、マスタベーションを奨めた。また愛国心の名において純潔を奨めた。「Gonorrhea淋病に冒された者がどうしてアメリカの国旗を仰ぐことができようか」「dose梅毒患者は反逆者だ」などと。
パーシングは効率と道徳の両面から性病を取り締まった。1918年2月、フランスの首相Premier
Clemenceauが寛大にも売春宿の提供を申し出たが、ベイカー防衛省長官は「これを大統領に見せてはならない。戦争を止めるというかもしれない」と語った。
軍隊は性を公の議論の場に持ち込み、性愛を非神話化する価値観を20世紀のアメリカ文化に植え付けた。
また知能テストによる配属決定も行われた。それは、フランス人のAlfred Binetが二十世紀当初に開発したものを、1916年、スタンフォード大学のLewis Termanが改良し、スタンフォード・ビネテストと呼ばれた。
アメリカ心理学協会が政府にこの知能テストの導入を提言した。このとき膨大なデータが集められ、その後の心理学研究に応用された。
この知能テストのうち、αテストは文盲以外の人に、βテストは文盲に課され、上級、平均、劣等に三分類された。
188 このテストの結果、驚くべきことに、25%が文盲だと分かった。ほとんどのものが5年から7年の教育しか受けていないことも分かった。教育を受けた期間は、白人の土着民が6.9年、移民が4.7年、黒人が2.6年であった。白人の土着民のうち18%が高校に通っていたが、そのほとんどが卒業していなかった。したがって兵隊のほとんどが教育を十分に受けていない教養のない人だということが分かった。これはアメリカの参戦前に兵役に志願したハーバード大学の学生とは対照的である。
土着や古くから移民した者には上級者が多く、新しい移民は劣等級であった。ロシア、イタリア、ポーランド出身の者の半数は、劣等級であった。αテストを受けた黒人の80%は劣等級であり、黒人の文盲率は高かった。
その質問事項が黒人や最近の移民に対して公平だったかは疑問だ。Rosa Bonheurという画家の才能やOverlandの車が製造される都市名などの質問項目である。このころ心理学はまだ初期の段階だったし、発達した後でも文化的偏見が疑われた。
188 脚注で、この知能テストの結果、白人の47%が、また黒人の89%がmorons精神遅滞者と認定され、それが社会的な恐怖を引き起こしたとあるが、本当なのだろうか。
189 軍は心理テストに疑念を抱き、1919年1月にテストをやめた。ところが戦後になって教育機関がこの知能テストを多用した。また戦時中のテスト結果は、最近の移民や黒人の軽蔑的評価につながった。
189-190 米軍は兵隊をどうやって運搬したか。フランスに到着した兵士はどんな行動をしたか。前線の戦いはどう推移したか。
189 兵隊は様々な準備をさせられた後、船に乗せられてフランスに送られたのだが、豪華な客船もあったが、ほとんどはひどいもので貨物船を急ごしらえしたものだった。*兵隊が持って行った備品の中で安全かみそりがあるが、それは一世代の髭剃りの方法を変えた。兵隊のほとんどがHobokenから出航した。半分はイギリスの船を用いた。
フランスの港に着くと40-and-8’sと呼ばれる悪名高い貨物列車に乗せられ、内陸の訓練基地に運ばれた。そこに着いて兵隊がやったことの全ては、ただ重い荷物を背負ってひたすら歩くばかりだった。
189 脚注 *Diary of
Eugene Kennedyによる。また、兵隊は戦死よりも病死が多かった。肺炎が最多で、1918年秋のインフルエンザによる合併症で五万人が死んだ。これは一般人の10倍の死亡率であった。
190 1918年の春、ドイツのLudendorff将軍が攻勢に出た。ドイツ軍はSomme,
Oise, Aisne, Marneなどの谷を進撃した。パーシングは英仏軍に、援軍を送った。ドイツの進撃は7月18日までで止まった。仏軍将軍のホッホHochは、ついに米軍独自部隊American
First Armyの編成を認め、フランス軍の右翼を任せた。米軍はVerdunからVosges Mountainsに至る範囲を受け持ち、パーシングの本領が発揮された。
4
Over There – and Back
191-202 米軍がヨーロッパに投入された。パーシングは自らが得意としない作戦へも協力させられた。 黒人だけの一部隊が困難な状況で敵前逃亡し、そのことで黒人部隊全体に対する軽蔑や偏見が広まった。 米軍の一部は武勲を競うあまり、連合軍同士の撃ち合いの恐れもあった。
191 フランス東部ベルダン近くでの連合軍の戦いについて。
193 1918年9月16日、パーシング指揮下の米軍部隊がSaint-Mihielで勝利したが、英仏はこれをあまり評しなかった。米軍は軍備が不足している、連合軍の大砲に依存しているなどである。
194 脚注 連合軍は物量ではドイツに負けてはいなかった。アメリカが必ずしも世界の兵器廠ではなかった。アメリカ独自の軍隊を組織することは労力と時間の無駄であった。航空機はほとんどが英仏のものだった。
198 10月14日、パーシングはKriemhilde Stellungでの苦しい戦いにようやく勝利した。
198 クレマンソーは米軍を酷評し“They are merely unused.”、 ホッホに、パーシングの更迭を提案した。ホッホはクレマンソーの要求を無視し、パーシングを更迭することはなかった。
199 米軍の訓練不足による失態について。10月上旬、Argonne Forestで歩兵大隊が、補給、大砲による援軍射撃、側面からの援助もなく突き進み、ドイツ軍に5日間囲まれ、その部隊の70%が戦死した。
200 黒人だけで構成される第92師団は、アメリカ本土での訓練ではバラバラに分散されて訓練を受け、フランスに来てからは合流したが、敵前逃亡したとして軍法会議にかけられ、不名誉な偏見をその後ずっともたれ続けた。彼らは、経験もなく、大砲の援軍もなく、道具に不足し、適切な地図もなく、部下との連絡もしばしば途切れがちで、敵前逃亡した。一方、第93師団はフランス軍とともに立派に戦った。
201 10月3日、新しいドイツ政府が、ドイツ軍司令官の要求に基づいて、ウイルソンに休戦交渉を求めた。10月下旬、ブルガリア、トルコ、オーストリア・ハンガリーが戦線を離脱した。
Meuse-Argonneでの米軍の戦いは拍子抜けで終わった。11月1日、パーシングが攻撃を再開したとき、ドイツ軍は敗走中であった。
201 アメリカの将軍はSedan攻略でアメリカのために戦功を立てようとして競った。パーシングのいくつかの師団の指揮官たちは、フランス軍だけでなく米軍をも叩こうとし、11月6日の夜、第一師団のパトロール隊は、一時的であったが、第42師団旅団指揮官のダグラス・マッカーサーを拘留するようなハプニングもあった。
202-205 パーシングの戦術を批判する。パーシングの大量に前面から機動的に対決するという戦術が、Saint-MihielやMeuse-Argonneで成功したが、それは戦術の正しさのためではなく、ドイツ軍が敗走する段階にあったからだ。47日間戦われたMeuse-Argonne回廊での戦いのように、機動性と物量とは両立せず、もし両者ともに同程度の力量で対決したならば、上手くいくはずがない。
202 パーシングの言う、ライフル一つを背負った歩兵を主体とした戦術も古風である。確かにAlvin C. YorkやSamuel Woodfillのように成果をあげた例もあるが、前者にあっては、幼少の頃から狙撃の訓練を積み重ねていたし、後者にあっても幼少の頃から武器になじんでいた特殊な例である。
203 個人芸は、訓練不足、指揮の乱れ、無経験などをカバーできない。
連合軍は米軍の欠点を指摘した。接近戦に弱いとか、規律の欠如などである。
アメリカ軍はイギリス軍の物量・人員とも五倍を投入した。
204 一人のドイツ人を殺すのにアメリカ人10人を要した。
ドイツ軍司令官が休戦を申し出た時も、アメリカ軍ではなく、はるかに戦績のいい英仏軍を相手にした。米軍は持久戦で貢献した。米軍はMeuse-Argonneでドイツ軍の四分の一を粉砕した。
機動戦ではなく持久戦で貢献したことは皮肉なことだ。
205 パーシングは米軍を1919年の春の最後の決戦に使おうと温存していた。Meuse-Argonneの戦いは連合軍に要求されて仕方なくやったもので、訓練も十分でなかった。
205-208 米兵はフランスで何を見たか。驚くなかれ、米兵は戦争の厳しさよりも、フランスの自然の美しさ207や、歴史の古さ206に驚嘆していたのだ。なぜか、それは公平に休暇のローテーションが行われたこと、寒い冬ではなく暖かい春や夏にフランスを経験したこと208などの理由によるのだろう。それに対してイギリス兵は年中塹壕の中で過ごし、厳しい冬の寒さを経験していた。
205 二百万人の米兵が参戦した。参戦したアメリカ人の階級や年齢からして、彼らは普段は日記を書かないのに、戦争の期間中だけは日記を書き、戦後それを出版したり、図書館に寄贈したり、自らの家に保管したりした。
戦後に思い出として書かれたものは、戦争についてあまり触れていない。アメリカ人は防御戦を経験せず、参戦期間は短く、戦い方は機動戦で、しかも戦争終末期の戦いだった。
206 米兵にはピンク・チケットというパリ旅行の機会が与えられた。休戦後はスポーツ大会や軍事作戦を考えるための教育的な機会が設けられ、ニースやモンテカルロ旅行も与えられた。しかし、悲観的なことを書き記す人もいた。
207 米兵にとってフランス人は衰弱した国民のように見えた。それを象徴するのが古い農機具を使う黒い服を着たフランスの老女であった。それに対してアメリカ人はフランス人にとっては、若々しく元気でたくましく見えただろうと米の新聞記者は自画自賛した。
イギリス兵はフランスでの日の出と日没を唯一の楽しみにしていたが、アメリカ人はフランスの自然の美しさに引かれた。イギリス人は塹壕の中で生活し、アメリカ人は移動することが多かった。
208 アメリカ人の多くはフランスのカトリックの宗教的儀式に注目した。犠牲の精神がこの時代に適合していた。
209 フランスの宗教と愛国心が米兵に深い感動を与えた。バスティーユの日のミサで奏される「マルセーユ」は感動的だった。
209-212
209 米兵は異国フランスの光景を見て、自らの言葉で表現しようがないため、大袈裟な定式化された決まり文句で表現した。
兵隊はしらみや食糧不足に悩まされ、軍制に不満だった。
210 軍隊内の階級と服従は、アメリカ人に摺り込まれた平等や個人主義の価値観に反するものだった。反ドイツキャンペーンは、ドイツ人は奴隷的で従属的なフン族なのだから、銃剣で刺してもかまわないという宣伝を繰り返していた。戦争長官Secretary of War のHenry L.
Stimsonは、幕僚staff officerだったころ、相手が正規兵だからと言って、いつも叩頭を強いられるのはいやだと述べた。戦争が終わった帰路の船上で徴募された兵士たちが「Sam Browne*の葬式」を行ったところ、上官はSam
Browneのベルトを海上に捨てた。歩兵将校は、傲慢なエリートである空軍パイロットに対して、地上からパイロット目がけてよく銃を放ったものだ。
*剣を下げるための皮製の肩掛け、士官や准士官が着用した。
空中戦や大砲の炸裂を見るのが楽しみだった。
211 しかし大砲は死をもたらした。近代戦は恐ろしい。兵隊は大砲には無力だった。
212 しかし兵士の戦争の記述を見る限り、戦争を否定的に見るものは少ない。
戦争は言語の記述を越えていた。兵隊が、アーサー王の円卓の騎士*の精神的末裔であるとスターズ・アンド・ストライプスは報じた。
*King Arthur’s Round Table 円卓の騎士
戦争記述でよく見かける言葉は、 “feats
of valor,” “the cause,” “crusade”など神がかった言葉である。
213-218 米兵の心のうちは戦中、戦後でどんなだったか。それはアメリカ西部の荒々しさ、男らしさ、平時では得られず、戦時でしか得られないものを価値あるものと看做す。そして戦後、セオドア・ルーズベルトらはこの戦時的・男性的精神を兵士たちの心の中に温存させ、共産主義によって兵隊の精神が捕らわれないようにと画策していた。
213 Alan Seegerの亡霊や十九世紀の文学的精神は、米兵の心の中にいつまでも残っていた。G. A. HentyやSir Walter
Scottなどの文学は、George CreelやWoodrow Wilsonの言葉を伝え、兵士は彼らの言葉を自らの経験を解釈する際に用いた。それは伝統的な文化を伝えるものだった。
イギリス人も1914年や1915年の開戦初期は、古典的な言辞で戦争を賛美した。しかし、ソンムの戦いでそれが変わった。仏独軍がベルダンの戦いで経験済みのことを学んだのだ。ソンムSommeの戦いでは60万人の死者が英独軍双方に出た。1916年7月のことである。それはPaul Fussellが伝える通りである。
214 それに伴ってイギリス人の戦争表現が、模倣段階low mimetic phaseから皮肉段階ironic
modern phaseへと変わった。かつては英雄の行動が全軍人を指導したが、いまや軍人は葛藤と戦争の愚かさを知った。二十世紀の小説や戯曲がそういった戦争認識であるように。
これは膠着して果てしなく続く戦争にぴったりの認識だ。イギリスの戦争回想作家であるRobert Graves, Edmund Blunden, Siegfried Sassoonらは、それを作品のテーマとすることを認めている。
ところがアメリカの戦争体験は英仏とは異なり、膠着した戦争経験がなかった。そのため、文学作品においても驚きとロマンスが、疲労と諦めに変わることはなかった。それは舞台芸術ではなく映画であった。
215 またアメリカ人の性格が上機嫌だったことも、このことに影響しているのかもしれない。イギリスの戦争作品は、その長い文学の歴史を反映した。英軍人はThe Oxford Book of English Verseを携行した。Paul Fussellが言うように、アメリカの戦争作品は、一面的で風刺に欠ける。
しかし、イギリスの文学はアメリカにも輸入されていた。スターズ・アンド・ストライプスは、英人作家のキプリングを引用した。アメリカの戦争作品が、ただ皮肉の段階に移行しなかっただけだ。そして引用する文献も少なかった。米人はロマンティックな中世文学を引用し、19世紀のスコットランド人作家Sir Walter Scottを多用した。スコットは、人気はあったが、正統的な作家ではなかった。しかしアメリカ人に対する影響力は強かった。
216 Raymond Fosdickの戦争作品にはスコットの影響が見られる。Heywood Hale Brounの例でもしかり。
漫画やポスターはドイツ軍人を鬼として表現したが、対するアメリカ軍人は、勝利の女神や自由の女神のために戦うとされた。
217 戦争は、伝統文化のスポークスマンであるホルムズやルーズベルトが推奨したロマンティックな期待に適った。アメリカ西部と戦時のフランスとは共通点があった。広大さ、移動、男社会の冒険、苦痛、暴力などである。危険は平和な文明社会では抑圧される。殺すことは戦争でしか満たされない。
Laurence StallingとMaxwell Andersonの戯曲What Price Glory?, 1924にも、戦争と平和の対比が表現されている。二人の男の恋人争奪戦が、戦争の開始に伴う応召で帳消しとなるというストーリーである。その意味でこの作品は戦争を賛美していると言える。
戦争の神話化は1919年2月15日に始まっていた。セオドア・ルーズベルトJr.は、パリで二十人の将校を前にしてAmerican
Legionアメリカ人軍団の創設を提唱した。それは戦争の記憶を保存することを目的とし、戦いにおける友情を聖化するためであった。
218 これは戦前の戦争準備社会とパーシングの仲間によって勧められていた。左翼とボルシェビズムが退役軍人に広まるのを彼らは恐れたのだ。
しかし軍団の構成員は幹部の意図を知らなかった。軍団の成果の一つは、軍隊の階級を廃止することだった。
218-224 戦後の文学作品を読み、二つの類型を指摘する。一つは、戦争体験の中に、男性的で、騎士道的で西部的で、非日常的な美しさを見い出すものと、戦争の悲惨さや権力の圧制を批判するものとである。
218 1923年のピュリツァー賞は、男性的で、騎士道的でロマンティックな作品である、Willa CatherのOne of Oursに与えられた。主人公Claude Wheelerは、西部にもはや希望が持てず、フランスにおける殉教的な死の中に充実感を見出す。
219 戦争の公式的な意味を個人的な意味として捉える。
消防士をテーマとする作品の中で、ボランティアは、戦中だけでなく戦後も男らしさの意義を認めた。戦後も消防車運転手団体が、若者をフランスに送る団体を組織した。
Dos PassosのThree Soldiers,
1921は公式的な戦争見解に反対したとき、ハーバード大学の批評家Kenneth Murdockは戦争の敬虔さを擁護した。
220 イエール大学の総長Arthur Twining Hadleyも、戦死は無駄死にではなかった、若者は正しい方向を目指していたとした。
1920年代の中ごろには、この戦争生きがい論は沈静化したが、1933年になっても、詩人Archibald MacLeishは、Malocom Cowleyの戦争犬死論に反論し、有効性や成功かに関わりなく、信念に基づく戦死の高潔さ、寛大さ、忠誠を擁護した。
休戦の三十年後になって、パリでのウイルソンの目論見が失敗し、ヨーロッパで全体主義が生まれ、「十字軍」がなんら政治的な有効性を持ち得なかったことが分かった後でも、ダートマス大学の教授Ramon Guthrieは戦争美学を論じた。
221 批評家Robert Morss Lovettもそういう一人だった。
しかし、全体はそうではなかった。Cowleyは情緒的戦争感を攻撃した。
Edith Whartonの1923年の作品A Son at the Frontは、理想主義を擁護する一面と共に、戦争に対する幻滅をテーマとする一面もあった。
休戦後は、理想主義から幻滅へと向かう兵士を描く作家が増えた。John Dos Passos, Thomas Boyd, Stallings, Ernest Hemingwayなどである。
222 「武器よさらば」は1929年の作品であるが、一般の家庭の幸福を描き、戦争文学の対極であると言える。
E. E. Cummings, William
Faulknerなども幻滅派である。
Cowleyは1948年に幻滅派を評して、rebels in art and lifeとし、Stanley Coopermanはdynamicだとした。またAlfred Kazinは、アメリカ戦後文学が世界に置き去りされた活力を掴み取り、勝利を自らのものにしたと言った。
223 抗議文学に対する“rebels,” “dynamic,” “vitality”などという評は、 幻滅“disillusionment”とも、ヨーロッパ戦争文学者Erich Maria Remaruqueの “All Quiet on the Western Front”「西部戦線異常なし」における “so alone, and so without hope”とも異なる。それは戦争ロマンチシズムのエネルギーと対極のエネルギーを表現している。つまり抗議文学は、ロマンチシズムとは方向が違うだけである。Dos Passosの “One Man’s
Initiation”の前半における十字軍的エネルギーは、後半の告発的エネルギーに転化される。
抗議文学の抗議の対象は、戦争の悲惨さそのものではなかった。ヘミングウエイもStallingsも、第二次大戦に参戦しようとしたように、戦争にノスタルジアを感じていた。
223 抗議文学者の抗議の対象は、暴力そのものよりも権威に向けられていた。「逃走」というテーマは、アメリカのフィクションを百八十度変え、市民社会を究極の避難所とする。
224-230
224 戦後の幻滅文学は、戦時暴力の否定や、アメリカ社会にもともとあった、権威に対する反感などから生じたのではなく、新旧二つの文化的態度の葛藤の中で生まれた。つまり、伝統的な価値観に対する新しい作家たちの挑戦から生まれた。
225 戦争は、その葛藤を生んだのではなく、その契機になった。人間の経験は、古い世代の古い、敬虔な言葉で表現できないのだ。ヘミングウエイは神聖で古風な言葉に当惑したし、カミングズはよどみのないウイルソンの言葉と庶民の言葉との隔たりを指摘した。
226 またウイリアム・マーチは、戦死した息子の最後を母親に、ずけずけと汚らしく説明する司令官の言葉をからかった。
ジョン・ドス・パソスは、アーリントン墓地での、無名戦没者のしかつめらしい埋葬式を皮肉った。
227 しかし新しい幻滅作家にとって、戦争は自らの文学的力量を高める契機ともなった。戦争が必ずしも成功とはいえなかったこと、ウイルソンがパリで成功しなかったことは、彼らの発言を強めることになった。もしウイルソンが成功していたら、彼らの出番はなかっただろう。
第二次大戦後の文学は、第一次大戦後の文学のような創造的な発展をしなかった。第二次大戦が成功したからだ。
第二次大戦後のJoseph Heller(1923-1999)やThomas Pynchon(1937-)などの反戦作家は、抽象的だと批判されたし、彼らには第一大戦後の文学者に見られた怒りが見られなかった。
また第一大戦後の作家は、ヨーロッパの作家と違って、戦争がどういうものかを本国の人々に伝える上で苦労したことも、彼らの文学に磨きをかけることになった。
228 第一大戦後の作家は、自らが参戦した経験をもっていた。ヘミングウエイはイタリア人と共に戦い、ドス・パソスとカミングズはフランス人と共に戦った。
それともう一つ、戦後の幻滅作家と伝統擁護作家との間には、一つの共通点があった。空虚で人工的な産業社会に対する反感である。しかし彼らは、戦争が現代社会に取って代わりうるかどうかという点で、意見が分かれただけであった。若い作家にとって戦争は、現代文明の機械化や抑圧そのものであった。無名戦士の無名性そのものが、近代文明の性格を表していた。
229 新しい作家は古い作家と社会観において不安を共有していたが、新しい作家は、古い作家の戦争観を変質させた。しかし、新しい作家は、その不安からの脱出口を読者に明示しなかった。
アメリカの古い文化は、戦争中でも生き残った。戦争はそれを弱めたかもしれないが、破壊はしなかった。
古い作家は、新しい作家に負けた。しかし、民衆の間ではまだ根強く古い文化が残っている。彼らにとって新しい作家は、obscureでmystifyingな存在である。
230 戦争はアメリカ文学に、新旧作家間の対立と民衆と作家との乖離をもたらした。
5 Armistice and
Aftermath
231-241 ウイルソンの苦境。パリ講和会議でウイルソンがイニシアティブを取れなかった国内事情。 ウイルソンは民主党出身だったが、当初は民主党と共和党を含めた超党派的な存在として大統領になっていたようだ。ところが途中1917から共和党の攻勢が強まり、ウイルソンは民主党色を前面に出さざるを得なくなったようだ。
231 1918年11月6日、ベルリンが全権公使に休戦提案をホッホに届けさせ、11月7日、その公使が到着した。ところがこれは一面的で一時的な警戒態勢の解除であって、全面的な停戦ではなかったのだが、米国の新聞United Pressの記者は、本国に休戦協定が成立したものとして報道し、それを号外として発表した。そしてシカゴ・オペラ・カンパニーのイタリア人指揮者は、“The Star Spangled Banner”と連合国各国の国歌の斉唱を指揮した。
232 国務省がそれを訂正しても、国民の浮かれ騒ぎは収まらず、かえって国務省を非難するほどだった。
11月5日、共和党は下院で237議席を獲得し圧勝した。上院では二議席分民主党に上まった。
233 それは1912年にセオドア・ルーズベルトが引き起こした党の分裂を解消するものであった。
選挙直後、マサチュセッツ州の共和党の上院議員であるHenry Cabot Lodgeは、ウイルソンの和平交渉に盲目的に賛成することはアメリカ人の義務に反するとした。
1917年共和党は党利の為に動き始めた。ロッジとその同僚John W. Weeksは、戦争に反対するようには見えないが、政権を批判するような策略を画策した。
234 つまり、共和党のほうが愛国心、国家主義、政治的手腕では優れていて、ウイルソン政権は戦闘性に欠け、視野が狭く、行政的にも無能であるという宣伝である。共和党は、1917年から1918年にかけて、ウイルソンの兵士動員計画の失敗、鉄道システムの破産とその国有化、東部での石炭不足と政府による工場の閉鎖命令、船舶建造と軍隊派遣の遅れ、航空機生産計画における腐敗などを叫び続けた。ところがウイルソンは1918年の春までには下院の秩序を取り戻し、夏には連合国の優勢が見えてきた。
選挙が近づくと、共和党は狙いを、ウイルソンの講和協定と戦後の社会・経済問題に変更した。セオドア・ルーズベルトは三月こう述べた。民主党は戦争準備が上手くなかった、兵士動員計画の失敗は咎められるべきである、それに対して共和党は戦争準備を推奨していたし、戦争開始後は民主党以上に軍事的方策に協力した。さらにルーズベルトは、ウイルソンは
“brains and steel”が必要な時に “kid gloves and fine phrases”で戦争に勝とうとしたとウイルソンを冷笑した。そしてold Rough Rider=ルーズベルトは、講和政策に関しては、ドイツを徹底的に叩き潰すべきだbeat Germany to her knees、。それが正義だ、それが永続的な平和をもたらすと述べた。そして戦後政策としては、土地改革、反トラスト法の改廃、州間の商売におけ国家による許可制、労働界の代表の最高産業会議への招待なども提案し、最後にGrand Old Party=共和党は、頑迷な反動家や陰険な扇動家や愚かな空想家を避けなければならないと付け加えた。
235 共和党の主要人物として以下の人々が挙げられる。Elihu Root, William Howard Taft, Hiram Johnson, Henry Cabot Lodge,
new Republican National Chairman Will Haysらである。
その中でも特に三人が有力だったようだ。Rooseveltはwar-horseとして、Lodgeはstrategistとして、 Haysはtacticianとしてである。そして特に一人だけ、Haysが有能だった。
共和党内にも進歩的な部分と保守的な部分とがあった。共和党は、戦争中、保守的傾向が強くなり、進歩的な部類は、ウイルソンに投票したことがあったため、1918年頃の進歩的な共和党員は共和党に団結しにくい状況だった。ロッジは口では団結を説いたが、進歩主義的な共和党員をあまり好まなかった。なぜならば彼らが労働界と少数派に与したからだ。
1912年、進歩的な共和党員は、アルマゲドン*で立つためにルーズベルトと共に共和党から出て行った。
*アルマゲドンとは「大決戦」の意。
進歩派はルーズベルトが復帰後も数年党外に止まったが、一方保守派は規制や労働政策に反対だった。
ウイルソンは少数派大統領minority Presidentだった。それは共和党の分裂のおかげであった。1916年、ウイルソンは戦争反対を掲げて大統領になったので、参戦以降はその点には触れたくなかった。
民主党は下院でかろうじて多数を維持した。上院の1912年組の中には、元来は共和党の強い州で当選した議員が多かった。これも共和党の1912年の分裂のおかげであった。
南部の民主党員は徴兵に反対したが、それは民主党やウイルソン政権にとっては不都合なことだった。
237 民主党は上院議員の死亡によって8名を失い、共和党との差をますます縮められた。特にウイスコンシン州のPaul O. Hustingの偶然の死は、ベルサイユ条約締結に大きな影響を与えた。
1918年4月にウイスコンシン州で選挙が行われた。ウイルソンはJoseph E. Daviesに連邦貿易委員会Federal
Trade Commissionの議長を辞任し出馬するように依頼した。社会党候補のVictor Bergerと共和党候補のIrvine
Lenrootがこの措置に反対した。結局レンルートが勝利し、同時にウイルソンは彼の非党派的な公平という評判を失った。
238 1918年6月、ウイルソンがミシガン州上院議員選挙で、自動車産業のヘンリー・フォードを立てたことも彼に苦境をもたらした。フォードは予備選挙で民主党だけでなく共和党の候補としても出馬したが、共和党の予備選挙でTruman H. Newberryに敗退し、11月に民主党単独で立候補した。
239 フォードは1915年、「平和船」をヨーロッパに送る計画をしたが、失敗していた。そして「いつ如何なる時も平和を望む男」だとして、共和党は彼を攻撃した。また共和党は、ウイルソンが候補者選定で独裁的だと攻撃した。
240 ここでウイルソンが10月25日に信任投票vote of confidenceを求めたとあるが、それは上下両院で民主党の候補に投票するように国民に直接呼びかけたということのようだ。イギリスのロイドジョージもこの信任投票を近いうちにやる予定とのこと。そこでウイルソンは、はっきりと共和党のやっている行為を批判した。
241 11月5日、民主党は上院で6議席を失ったが、共和党は下院で30議席を獲得した。これをウイルソンの自業自得の結果とされる評価は正しくない。たとえば、フォードは、普段は共和党が過半数を占める州で敗れたが、善戦した。また下院の中間選挙では、政権党が敗れることが常識であった。しかも二十世紀の最初の三回までは共和党が有勢であったし、ウイルソン政権は、1912年の共和党の一時的な内部分裂のためにもたらされたものであった。だから1918年の選挙結果は、もとに戻ったといえる。
民主党内で南部の州が民主党の政策に反対していたことは民主党にとって問題だった。ウイルソン自身が南部出身だった。南部のMason’sやDixon’s系列の議員が、委員会議長をほぼ独占していた。
242 軍事訓練施設の配置、歳入法案、価格統制などで、彼らが支配していることが批判された。
ウイルソンは1916年の選挙で、南部と西部の利益を結びつけることで勝利した。西部の小麦農民は、低い関税や、借金しやすさ、小麦価格の上昇を望んでいた。
戦争は小麦の需要増をもたらし、小麦価格は上昇した。収穫が減ると価格はさらに上昇した。ウイルソンはLever Food and Fuel Actの下に、1917年の小麦価格を、一ブッシェル当たりの価格を一定の$2.20に固定した。そして小麦の作付面積も増加した。
243 しかし当初は高めの価格設定だったが、他の物価が上昇したために農民の不満は高まった。フーバー農林大臣は、ウイルソンに、小麦価格の設定権を大統領又はFTC=Federal Trade Commissionが握ることを提案したが、ウイルソンも議会もあまり関心を示さず、法案修正案は廃案となった。
しかしその後の物価高騰と農民の要求とで、小麦価格を上げる法案修正を下院が行ったが、ウイルソンはそれに対して拒否権を行使した。ウイルソンはインフレや、小麦を購入するイギリスの要求を考慮した。
244 一方綿花の価格は急騰した。西部諸州で民主党は選挙戦で敗れた。一人の民主党員が当選しただけだったが、その議員は、綿花価格に対する政権の無策を批判していた。
244-246 1918年の選挙の翌日、セオドア・ルーズベルトは、選挙戦をドイツの無条件降伏のために戦ったとしたが、ニューヨークタイムズは、選挙戦は国内問題に関するものだとした。共和党のNicholas Murray Butlerは、Henry Cabot Lodgeに、新たな下院は「(ウイルソンの)圧制と、社会主義やボルシェビズムなど破壊的分子に対する防護壁を築くだろう」と述べた。
245 しかし、ウイルソンの敗北の原因は、国家統制の欠如だったかもしれない。南部の綿花の値段を統制していたら、ウイルソンは勝利していたかもしれない。
進歩主義者の間に「再構築」という考えがあったが、それは1917年にイギリスで提唱されたNew
Republicという、労働者によって指揮される社会という考え方に発するものであった。イギリス労働党もこれに関心を寄せ、「労働と新しい社会秩序」という報告書をまとめた。それは社会主義的であった。
246 自由主義者は当初、戦争が国家権力を強めるからという理由で、戦争を支持していた。ジョン・デューイの「社会的可能性」理論もこれである。ウオルター・リップマンも、戦争は自由の実現のための献身だとした。この考え方は、戦争がプロシャ主義の根絶のためであるという言説の背後に隠れていた。
個人を集団へ従属させ、集団を社会へ従属させることによって、統制を強めてきた。統制がなければ戦争はできない、階級を国家の利益に従属させねばならない。Grosvenor B. Clarksonはそういう論者だった。
247 またA. M. Simonsは、戦争が、資本の手から政府や労働者の手に権力が移行し、政府はすべての構成物がそれに集約する大きな組織力であると言った。
しかし、実際は、戦争によって変化はもたらされなかった。Charles W. Eliot「アメリカ人は変化を求めるよりも現実に満足している」や、John Dewey「戦時における実現されなかった希望に乗っかって戦後の変化を期待するのは不可能である」などの覚めた現実的な見方。
248 CND=Council of National Defenseが戦後の改革を担当していたが、ウイルソンはあまりの力ではなかったようだ。Grosvenor ClarksonがCNDの長官だった。
250 12月4日、パリで講和会議が開かれ、ウイルソンはそれに出席した。
休戦のとき、アメリカは国民総生産GNPの四分の一しか戦費に使っていなかった。実質的にほとんどの企業がその生産活動を短縮されたことがなかった。WIB戦争産業委員会は、いわゆる非基幹産業に対して制約はしていたが、潰してしまいはしなかった。
251 Bernard Baruchは辞表を提出した。WIBの機能は実質的に停止した。戦後は景気がすぐに回復した。産業界は、戦時中に行われていた、反トラスト法の緩和の継続を求めた。
252 ICC=Interstate Commerce Commissionは、1887年に設立され、船舶業界の鉄道業界に対する不満を和らげるために設立され、国家的な規制権をもっていた。
1917年アメリカ経済は、戦時動員によって刺激され、好況を呈していたが、そのため鉄道業界に課税がなされることになった。
253 1917年12月5日、ICCが鉄道運賃値上げを許可しなかったので、鉄道労働組合がストライキに打って出た。労働組合は経営側と利害を共有していて、運賃の値上げが給料の値上げにつながると考えていた。
1917年12月26日、ウイルソン大統領が鉄道の国有化宣言を行った。財務長官のWilliam Gibbs McAdooがRailroad Administrationの長官に指名された。
進歩主義者のいく人かは鉄道の国有化を唱えていた。
254 ウイルソンは、鉄道業界の人員も指名される委員会が、Railroad Administrationの長官に助言できると保証した。さらに下院は、Federal Control Act, March 1918によって、戦争終結の21ヶ月後には鉄道の国有化はなくなり、賃借料も払うと保証した。さらに下院は、ICCの価格決定権を剥奪したが、これには船舶業界が反対だった。ICCがこれまで鉄道運賃の高騰を阻止してきたからだ。鉄道運賃はRAが実質的に決定できることになった。
255 1918年5月25日、McAdooが鉄道労働者の給料と、その直後に鉄道運賃を上げると、船舶の運賃も上がった。
256 進歩主義者が鉄道の国有化案から手を引いていくのに対して、労働組合brotherhoodsは、政府RAを大風な給料支給者と看做し、政府を彼らの永遠の使用者にしようとした。1919年、労働組合の代表Glenn Plumbは、政府が鉄道会社を$18
billionで購入すること、会社、労働界、国民の三者の代表からなる中央執行機関を創設することなどを提唱した。この案は農業者組織や社会主義的な学者から支持を受けた。ゴンパースとA. F. of L.は、その社会主義的であることを理由に一旦は退いたが、この案を強引に押し通さないこと、下院による組織労働者への攻勢に対して共に自衛することなどで一致した。
この流れを変えたのが、アイオワ州上院議員のAlbert
Cumminsであった。LodgeはカミンズをICCの議長に据えた。それには中西部の進歩主義者を懐柔する意図があった。カミンズは鉄道関連法案を担当することになった。彼は船舶業界の利益代弁者であった。1919年までに彼は鉄道国有化案を捨てていた。ICCの鉄道運賃決定権を取り戻そうとした。労働者の利益は、彼の念頭にはなかった。
257 1919年の春、カミンズは法案を上院に提出した。それは、鉄道業界に投資に見合った利益を保証し、その利益を超過した額の半分をICCに戻させ、それを不振な鉄道会社に再配分し、鉄道を反トラスト法の適用から除外するという法案だった。
一方、カミンズ法案は、労働者のストライキを禁ずる条項を含んでいた。その法案が上院で可決されると、ゴンパースと鉄道ブラザーフッドは連携し、ロビー活動を展開した。もはやプラム案どころではなかった。
結局1920年のTransportation Actで、ストライキ違法条項は削除されたが、Railway Labor Boardが創設され、それが労使の調停機関となった。その調停案に強制力はないとされたが、RLBの最初の行動は、ストライキ参加労働者の給料から12%を差し引くという命令であり、さらに戦時中の労働慣行も廃止することだった。Boardは、1922年には、さらに12%を差し引いた。
258 そしてBoardストライキを違法とし、Justice
Departmentはそれに沿った決定的な命令を出した。
感想 アメリカ政府、特に共和党は、日本におとらず、社会主義や労働界に対して厳しいね。だからゴンパースのような妥協的な男が出現するわけだ。
258-270 感想 労働組合特に西部の森林労働組合を統括していたIWWに対して、ウイルソン政権は、給料と労働条件の改善を提示して、ストライキを禁止したというのが実情のようだ。しかし、この部分の最初では、政権から派遣された人物がIWWの主張を認めているのだが、それとこれとの関連をはっきりと読み取れなかった。
258 労働組合ほど戦後の改善に期待していた団体はなかっただろう。サミュエル・ゴンパースもその一人だ。賃上げが実現し、八時間労働も標準的になりつつあった。そしてゴンパースのライバルであるIWWが消え去りつつあったことも、ゴンパースにとっては満足だった。
259 ところが1918年11月、労働運動を支援してきた好都合な状況が、急速に消え去りつつあった。
1912年ウイルソン政権は、労働界から長官を起用した。ウイルソン政権は、1914年のClayton
Actでは、労働組合を反トラスト法の規定から除外した。1915年のLa Follette Seaman’s Actを擁護した。1916年のAdamson Actは、八時間労働を鉄道労働者に適用した。
一方そういう動きに反発する勢力も出てきた。共和党は労働界の動きに反発した。戦争が終わると、労働の供給量は増え、イギリス労働党やロシア革命の影響もありそうだった。
ウイルソン政権は、戦争遂行の為に労働者を優遇する政策を取った。ストライキは止めさせねばならなかった。強制的にストライキを止めさせようとする意見もあった。軍の将校や鉄道事業者は1914年、1915年、鉄道労働者を開戦時に徴兵する計画を立て、組合幹部を軍法会議で脅して軍隊規律を課そうとした。
260 太平洋岸の労働組合指導者も、労働者を造船所で働かせようとした。しかし、政権は強制的な手法を避け、労働者と契約を結ぶことにした。
1917年春、戦争省は、陸軍野営場や宿営の建設で労働者を必要としていた。労働組合は未組織の非熟練労働者と同じ仕事をすることを嫌い、クローズドショップ制の維持を求めた。
政府は賃上げ分を業者に補償するcost-plus basisの手法で、業者にも労働者にも有利な条件を提示した。ゴンパースとベイカー戦争長官との間で協定が成立し、Cantonment Adjustment Commissionが創設された。それは軍、労働界、一般から構成される、労使問題協議機関である。その他の、政府が中心となって雇用や発注を行う機関でも、同様なことが行われた。造船所、衣服、皮革などの業界である。*Cantonment 宿営
261 その組織commissionsは、政府と労組指導者の自発的協定で組織され、法的な権限を労働者に対しても業者に対しても持たなかった。政府は、労働者に対して最低生活賃金、八時間労働、現存の労働慣行の尊重、女性に対する同一労働同一賃金などを提示したが、一つだけ譲らないものがあった。それはクローズドショップ制である。ゴンパースもその変革を望んでいたが、労働者の猛烈な反対が予想された。
労働者は各地から続々と集まった。最高賃金が設定されていなかったから、業者は次から次へと労働者を替えた。就業率が600%、つまり一つの仕事に一年間で六人が就業したということである。1200%の工場もあった。イギリスでも同様の事が起こり、その対策として、イギリスは雇用者の同意で仕事を辞めたという証明書がなければ雇用させないようにしたが、アメリカでは労働者の満足の方を重視し、強制的なことはやらなかった。
262 そこでアメリカは、労働者教育と労働者処遇を重視した。労働省の推奨のもとにindustrial service sectionsが設けられ、労働者の処遇方法が研究された。
しかし、そういう政策がいつも成功したわけではなかった。1917年には4,450件のストライキが発生し、ミシシッピ川以西の西部では特にそれがひどかった。モンタナやアリゾナの銅山、太平洋沿岸の造船所、太平洋岸北西部の森林などである。ウイルソンもその対処に動き、Felix Frankfurterを仲裁委員会の長官に指名した。彼は有能な人で、後日最高裁判事にもなった人である。
263 注 ウイルソンは、フランクフルターの調査・助言に基づいて、カリフォルニア州知事William D. Stephensに、労働組合指導者Tom Mooney*の死刑判決を保留し、裁判のやり直しを命ずるように申し入れたが、知事は死刑判決を無期懲役に減刑しただけで、当の労組指導者は1939年まで牢屋に入っていた。フランクフルターはMediation Commission長官も引き受けていた。
*1916年7月、ムーニーは「サンフランシスコ戦争準備の日」パレードに爆弾を仕掛け、数人を殺したとして死刑判決を受けていた。フランクフルターは、彼の判決が偽証に基づくものと結論づけた。また労働省長官のWilliam B. Wilsonは1919年、政権がムーニーの再審に取り組んでいることを明かにした。
フランクフルターは、アリゾナ州Bisbeeの銅山労働者には認証された組合がなく、資本に蹂躙されていることを知った。
その労働者の多くはIWWの労組員だったが、1917年6月28日、ストライキを起こした。地方のシェリフHarry
Wheelerは、ex-Rough Riderだったが、即座に連邦軍の派遣要請をした。しかし、軍がその必要を感じないと判断すると、ウイーラーと市民は、自ら自警団を組織して、6月12日の早朝2000人で武装し、労働者居住区に襲いかかり、ライフルで脅し、労働者1200人をニューメキシコ州コロンバスへ移送した。コロンバス当局者が受け入れを拒否すると、今度は同州の太陽が照りつけるHermanasへ移送した。連邦軍が救出するまで、労働者には二日間食糧も水も与えられなかった。
264 一方Bisbeeは、新たに連れてこられた労働者の豚小屋となった。そして追放者は武装自警団によって忌避された。いく人かはビスビーへ戻ろうとしたが逮捕された。彼らはSelective Serviceに身体検査をしてもらおうとしたのだ。
フランクフルターは、労働者の移送は非合法であるとしたが、司法長官のThomas W. Gregoryは、この一件には連邦の事件となるような根拠はないとした。しかしコミッションとウイルソンが圧力をかけると、グレゴリーはいやいやながら自警団vigilanteを起訴した。自警団がビスビー鉱山の所有者であるPhelps-Dodge会社によって雇われていることが判明した。
ところが会社の関係者は一人も起訴されなかった。アリゾナ地方連邦裁判所はぐだぐだと裁判を長引かせ、自警団に対する起訴を取り下げ、最高裁がその判決を支持した。
太平洋岸の北西部でも事情は同様だった。ワシントン州やオレゴン州のDouglas fir forestのトウヒspruceは航空機製造に必要とされた。1917年ここでも一年間ストライキが続いていた。労働者は八時間労働、労働条件の改善を要求していた。ここでの仕事は季節的で、移動的で、断片的な仕事で、会社は労働者を酷使していた。フランクフルターが指摘するように、そこの労働者には選挙権がなかった。仕事もなかった。
265 森林で働く労働者は、戦争には冷淡で、愛国心に欠け、既成秩序にも反感をもっていた。だからIWWが彼らの支持を取り付けられたのだ。あるWobbly――森林労働者はWobblyと呼ばれていた――の言葉を紹介しよう。毛布もなく、妻子にも会えず、その行方も分からず、移動しているから選挙権もなく、しらみだらけの家に住み、腐った食べ物を食べ、法と秩序を代弁する人からはこっぴどく怒られるなら、どうして愛国者になれようか。
フランクフルターによって起草されたコミッションの報告書は、樵の苦境に同情を寄せ、八時間労働は人間としての威厳の主張であり、IWWの主張は、格闘する人々の団結を必死に求めるものであるとした。フランクフルターは頑固な会社側が、労働者を中庸から急進に駆り立てたとはっきりと会社側を責めた。
ところがここで政府側は急変する。1917年9月、政府はIWWを急襲*するのだ。その後11月、軍はColonel Brice P. Disqueを派遣し、私服10,000人からなるSpruce
Production Divisionの指揮に当たらせ、彼らに、親会社的労働組合Loyal Legion of Loggersつまり、4-Lを創設させ、忠実に仕事をさせた。これはウイルソンの支持のもとに行われた。ゴンパースも当初はこれを祝福した。休戦時にディスクは120,000人を組織していた。
*「急襲」と言っているが、ここでは次に述べる第二組合のことを言っており、本当に武力行使に出たというわけではなさそうだ。筆者は大袈裟な修辞を用いることがよくある。
266 組合員は、戦争の為に真面目に働くと誓約した。そしてディスクは1918年2月、八時間労働を経営側に認めさせ、最低賃金や職場の改善も行った。
AFLが森林地帯への接近を試みると政府はこれを禁止し、AFLは4-Lには不満だった。4-Lは使用者も加入でき、組合員はストライキをしないことを誓約させられた。
政府は他でも同様の組織を創設した。WIBにおける流通業界、Farm Bureau Federationを創設に関与した郡の役人なども同様の働きをした。
267 フランクフルターやIWWは、政府の政策の外縁を占めるものであり、主流ではなかったらしい。
彼らは政府の影響力を取り払おうとした。ゴンパースは当初それを非現実的だと批判し、Council of National Defenseの以下の声明に賛同した。つまり、普通の条件では変えられないようなことは変えてはならないということ。この声明こそ政府の意向を代弁するものだ。
政府の考える組合は、もともと労働者に権力を与えないことを前提としていた。労働省長官は、労働組合の存在を要求する組合はごく一握りだとウイルソンに答申すると、ウイルソンは安堵した。政府は本当の労働組合を戦時中は認める余裕はなかった。本当に独立した労組を承認するかどうかに関する政府の立ち位地がAnomalously midwayだと言っているように、政府の態度は揺れていたようだ。
1918年政府は、War Labor
Boardを創設し、その労働政策を合理化した。それは労組の存在を認めつつその権力は認めないというものだった。ウイルソンはWLBに、労働者の組合を組織し集団交渉する権利を保護するように指示した。経営者は労組のオーガナイザーに干渉してはならない、組合員と非組合員とを差別してはならないなどと定めたのだが、それと同時にオープン・ショップ制を認めさせるものだった。そして集団交渉をしてはならないとしたが、これは前言との矛盾である。
一方ウイルソンは、労働者差別を禁ずるWLBの規則を小ばかにした二社、Smith and Wesson arms plantとWestern Union telegraph companyとを接収commandeeredした。1926年、会社抱きかかえの労組員数はAFLのそれの半分にもなった。また、外部の指導者を排除するShop committeeというやはり抱きかかえの組合ができた。
*感想 ウイルソンが会社を接収したと言うのは本当なのだろうか。
政府の戦時労働政策は「善意」*の労働組合を助長した。労働組合によるオルグが非合法ではなくなり、返って政府の庇護さえ受けられたので、労働組合の利点が、労働者に浸透するようになった。また政府は企業に対しては、戦時契約を突きつけ、最終的には命令した。政府は戦争末期までAFL関連組合に対する規制を緩めなかった。1918年5月まで政府は労働組合に対して、賃上げと労働時間の短縮という武器しか持たなかった。
*Bona fide 善意
269 1918年の初め頃、大工がlabor boardの調停に満足せずストを起こしたとき、ウイルソンには労働者を説得し、恥の気持ちを起こさせるしか方法がなかった。そのためウイルソンはSelective Service Systemを改正して、労働政策を強める決意に至ったようだ。
1918年5月、Selective Service
DirectorのGeneral Enoch Crowderが「仕事が軍隊か」令を公布した。非雇用の労働者は真っ先に徴兵リストに載せられるというもので、当然労組は反発した。
イギリスではすでにそれが行われていた。ストライキ参加者を真っ先に徴兵したのだ。ベイカー戦争長官は、ストライキ参加者は非雇用者には含まれないと保証したが、労働者はストライキを減らすようになった。1918年の秋、労働者の不安は現実のものとなった。機械工がストライキしたとき、ウイルソンは彼らにこう言った。「君たちは今後一年間、戦争関連の職種への就職が禁止されるだろう。そしてその期間中draft boardsは、君たちの戦争への貢献度から照らして、君たちの兵役免除の申請を拒否するように指示されるだろう」機械工は慌てて職場に戻った。政府は、velvet gloveに隠れたmailed fistを暴露した。
戦争が終結し、労組に対する強制的手段がとられることはなかった。Bridgeportのエピソード*は例外的な強制的手段であった。
感想 初読と違って、パソコンに整理しながら再読してみると、269ページの疑問、なぜ政権の労働組合に対する対応が急変したのかの問いが幾分分かるような気がする。ウイルソン政権の中にも様々な人がいた、フランクフルターのようなIWWに肯定的な人もいたし、それほどでもない人もいただろう。またウイルソン自身が揺れていたのかもしれない。もともとウイルソンは労働組合に対して肯定的であった。しかし、戦争遂行に舵を切ってからは、自らのこれまでの方針を否定しなければならなかった。だから労組に対して強いことも言わなければならなくなったのだろう。ストライキ参加労働者の前線への徴兵である。2018年9月22日(土)
270-279 要旨 戦後の労働組合運動は、労組指導者が予想していたこととは裏腹に、厳しいものだった。経営者側は労働組合の団体交渉権を認めようとしなかった。それに筆者が言うには、大衆が労働組合運動から離れていったと言うのだが、本当にそうなのだろうか。筆者の思い入れがあるような気がする。
この時期に一番注目を浴びた労働運動は、鉄鋼業界の労働運動だった。この業界には19世紀の末に死者を出すほどの激しい労使の対立の歴史があった。
ゴンパースもこの時期にはよく闘ったようだが、それはIWWがすでに沈滞していたためなのだろうか。
270 1918年8月1日、30人の労働組合運動の代表者がシカゴに集まり、National Committee for Organizing Iron and Steel Workersを結成し、鉄鋼業界での労働組合の組織化を目指した。ゴンパースが議長を務め、労使の平等を訴えた。
鉄道業界と違って、鉄鋼業界は労働組合の組織化に抵抗した。1892年、Carnegie Steel Companyは、Amalgamated Association of Iron and Steel Workersを、Homesteadのストライキで潰していた。7人が殺され、その後25年間、反労組的政策が他の業種でも実施された。
271 鉄鋼業界では戦前から機械化が進み、熟練労働から単純労働へと重点が移行していた。それまでの労働組合運動の主役は熟練労働者だったので、労働運動でも単純労働者の組織化が重要となった。
戦後は政府の経営側に対する縛りも弱まり、労働側は政府の力に頼らないで労働運動を進めるしかなかった。
272 1919年は労働運動が高揚し、5人に1人が運動に参加したが、それと共に大衆の平穏を求める声も高まった。
インフレによる賃金の目減りや、12時間勤務による、交替時における連続24時間勤務など、労働条件が問題視されたが、それ以上に労働組合の存在そのものが問題だった。
経営者側の代表はU. S. Steelの議長Elbert H. Garyだった。ゲイリーは技術畑の出身ではなく、金融界の出身だった。彼はJ. P. Morgan
and Companyの出身で、1901年、House of
Morganは、鉄鋼業の組織化を支援した。彼は良い商品をつくることよりも、金儲けのほうに関心があった。彼は賃上げや労働者の株購入、ボーナス、低利の住宅ローンなどを提供したが、八時間労働と労働組合の存在そのものは認めようとしなかった。「使用者や資本家は高い教育を受けているのだから、権力と影響力をもっている。したがって使用者は労働者に対する義務がある。しかし経営権は使用者が手中に収めなければならない」というのが彼の持論だった。
273 1919年4月26日、鉄鋼労働者を組織するための三人の代表委員が彼に面会を求めたが、彼は面会に応じなかった。彼は上院の調査委員会で説明した。「労働者と契約する義務はない」
労働者は団体交渉権が認められなければ、ストライキを予定していた。ゴンパースらがウイルソンに調停を求めると、ウイルソンはBernard Baruchを派遣したが失敗に終わった。
戦争中でも鉄鋼業界は、政府の労働政策に抵抗していた。1918年、ゲイリーに八時間労働を認めさせるために、フェリクス・フランクフルターは政府の介入を示唆したが、ゲイリーは動かなかった。
274 戦時中にはあったかもしれない政府の強制力は、今はなかった。
労働者は1919年9月22日にストライキを決行することにした。
そこでウイルソンが動いた。ウイルソンは労働側に10月6日のIndustrial Conferenceまでストライキを延期するように要請したが、労働側の指導者はそれを拒否し、9月22日に、250,000人がストライキに参加した。
注 11月に石炭産業労組United Mine Workersがストライキを予定していたが、政権はこれを戦争中であるから協定違反だとして禁止した。その法的根拠が全く形式的なものであったために、ゴンパースはウイルソンに怒りをぶちまけた。しかしウイルソンは10月2日に心臓発作に見舞われ、間接的に指示をしていただけであった。戦争は実質的に終わっていたが、平和条約は締結されておらず、政権は戦争がまだ継続中だと看做した。労組との賃金協定が「戦争終結まで」有効とされていた。政権は1917年から18年までの石炭不足の悪夢に取りつかれていた。
1919年5月、ウイルソンはパリから下院の第66議会にメッセージを寄せた。それは労働側に好意を寄せるものだった。ウイルソンが産業会議の召集を要請した理由は、国民の自発的な協力を期待したからだったが、国民は動かなかった。ウイルソンにとって下院でその種の立法化をすることも、共和党が多数を占めているから無理だった。
275 パンアメリカンビルに57人の産業会議の委員が集まった。ストライキが各地で続発しており、民衆は平穏を求め、様々な提案をこの産業会議委員長のBernard Baruchに寄せた。教育の重要性を説くものもいた。民衆の要求は労使双方に不満であり、権力への反感が背景にあった。
276 産業会議は経営者、労働側、市民の三者で構成された。その構成は戦争労働委員会war labor boardsの場合と同様だった。労働界では最初から参加を拒否する人もいたが、ゴンパースは参加した。ゴンパースは団体交渉権を要求し、現在の鉄鋼ストの調停を提案したが、第一案で紛糾し、第二案は審議されることもなく終わった。
使用者側は、交渉相手とする労働組合の定義を、企業内労働組合company unionsとショップ委員会shop
committeesとに限定し、労働組合は各企業内のものとするとした。ゴンパースは、それは労働者を分断するものだとし反発した。つまり使用者側は企業内組合を、ゴンパースは産業別組合を考えていた。
277 使用者側は第二段目の戦術として、産業裁判所industrial tribunals、つまり調停委員会の設置を提案した。使用者、労働者、それと政府が指名する市民審判員の三者からなる調停委員会である。ゴンパースは、それは軍事労働委員会と同様に調停を強制するものだとして反対した。労働組合で重要なことは、団結権と団体交渉権だ、産業の民主主義だ、とゴンパースは主張した。
労働者の組織化というゴンパースの案に対して経営者側は反発し、不釣合いにも市民委員として参加していたElbert Garyは「産業会議は、労働者の組織化などのような問題は取り扱わない」「この会議は調停をしたり妥協をしたりすべきではない」とにべもなく反対し、産業会議は物別れとなり散会した。
278 産業会議は10月から1月まで二回two stages開催されたが、結局何ら成果を得られず終了した。唯一の成果は、関係者の意見の食い違いを明らかにしただけであった。また1919年の市民の態度は、何度もストライキ重ねる労働組合に対して敵対的であった。
使用者側はそういう市民の不安を煽り、労働者さえも分断する戦術を用いた。William Z. Fosterが標的にされ、彼の著書「シンジカリズム」がアナキスト的だとされた。市民は東欧の革命を恐れ、それは東欧からやってきた移民がストライキ参加者であることと符合していた。フォスターは、もとWobblyで、 national
Committee for Organizing Iron and Steelの書記局員をしていた。
企業側は軍隊と協力して暴力的に組合を弾圧した時もあった。かつてホームステッドのストライキではピンカートンが銃を乱射した。1919年でも、鉄鋼会社は5000人を金で雇って動員し、Wood指揮下の軍隊が、ゲイリーに協力した。
279 1919年は労働界にとって敗退の年であった。労働界は非熟練労働者の組織化に失敗した。労働界が復活するには10年待たねばならなかった。
使用者側は20年間にわたって移民を雇用し続けてきたが、エイジャントを鉄鋼の町に差し向け、労働者相互間の敵意を煽った。さらには黒人の非組合員を導入し、白人と対立させた。
279-284 感想 当時のアメリカ社会では、政権のトップであるウイルソン自身が、黒人差別を当然と考えていた。だからこそ黒人に対するリンチ・暴動事件が各地で当然のことのように起こり、そういう蛮行を咎めることもなかった。だから未だもってアメリカ社会で、黒人に対するリンチをなんとも思わずに暴行を加える事件が起こっているようだ。
279 30,000人の黒人がピケを破って工場に入った。その背景には戦争があった。黒人指導者の戦争に対する対応は割れていた。急進的な編集者で後の労働運動組織者のA Philip Randolphは、黒人の戦争への介入に反対し、有罪の判決を受けた。牧師のAdam Clayton Powell, Sr.は戦争への黒人の参加と引換えに、黒人の市民権の獲得を要求した。
*Quid pro quo代償
前二者と違って一般的な黒人の対応は、穏やかで、差別に怒っていないかのようだ。その代表者がW. E. B. Du Boisである。戦争という非常時だからとして、日頃の不満を抑えて白人と肩を並べるというのだ。ゴンパースもそういう考えだ。黒人が戦争に参加することによって、白人の黒人に対する評価が高まり、自分たちの実質的な利得も得られるというのだ。Emmett Scottもそうだ。彼はベイカー戦争長官の助手をしていた。
280 戦争が黒人に北部での就業を可能にした。それまでのヨーロッパからの移民がなくなったからだ。ゲイリーはアジアからの移民を検討したが、黒人の方が手っ取り早いことを知った。それは1916年から始まった。
南部諸州は、これまで300年間に渡って黒人を迫害してきたが、和解の気運が出てきた地方団体もあった。しかしそれと同数の地方団体では、警察による迫害や不法監禁、鞭打ちが行われた。南部の多くの地方自治体が、黒人移送の斡旋団体を厳しく規制し、斡旋団体に25,000ドルのライセンス料を課し、さらに10人の地方の牧師、10人の製造業者、25人の実業家の推薦をその許可条件とした。ニューオーリンズの市長は、鉄道会社に対して黒人の移送を止めるように要請した。労働者雇用サービス省は、南部の政治家の要請に基づいて、北部へ向かう黒人への援助事業を中止した。
281 政権は、南部の白人には甘く、黒人には一見無関心を装っていつつ厳しかった。ウイルソン自身が南部の出身であり、彼は、「南部の伝統的な人種制度は、説明の必要はない」とし、ホワイトハウスでThe Birth of a Nationを上映し、南北戦争後の再建を
“history written with lightning”だとするKKKの解釈を認めた。ウイルソンは1913年、郵政省長官Albert S. Burlesonによる連邦従業員隔離政策の拡大を不問に付した。黒人の代表がウイルソンに抗議に向かったが、ウイルソンは無礼だとして退けた。1916年の大統領選挙でウイルソンは、セントルイスで、共和党員が、選挙人名簿を水増ししようと、移住した黒人を取り込んでいるcolonizeと批判し、人種差別を掻き立てた。ウイルソンには、白人票を増やし、黒人を脅しつけ投票させないようにする目論みがあった。
282 セントルイスのアルミニウム鉱山業者は、ストライキに備えて、黒人、移民、白人からなる混成群を採用した。一方、労組は伝統的に黒人に敵対的で、黒人を組合員に加えなかった。1916年5月、白人が市に黒人の流入阻止を要請した。6月、暴動事件が散発した。7月2日、セントルイス東部は、暴動の町と化した。九人の白人、それ以上の黒人が街頭で死んだ。黒人指導者はウイルソンに連邦の介入を要請したが、ウイルソンは沈黙した。ウイルソンはもともと黒人に対して不親切であったし、調査をすれば前月までの白人の蛮行が暴露されることを恐れた。ウイルソンは黒人指導者との面会も拒否した。司法省の法律家や地方の米国弁護士United States Attorneyが、グレゴリー司法長官に法律に基づいて介入の必要性を説いたが、司法長官はウイルソンに「連邦の介入を必要とする如何なる証拠もない」と述べ、事件はそれで終わった。
282 注 実際は下院が調査を実施した。一年後、ウイルソンは二人の黒人指導者が書いたメモをTumultyの要請で受け取った。そこには来る下院選挙で黒人の浮動票を生かす方法もあると示唆されたが、ウイルソンはそれを無視した。
283 それでも黒人はDefenderの歌を聴きながら、北へ移動した。シカゴは “the top of the world”であった。1919年、Defenderの町シカゴで暴動が起こった。7月27日、ミシガン湖の湖畔で反黒人の暴動が起こり、13日間続き、何千人もの人々が家から焼け出され、15人の白人と23人の黒人が死んだ。Knoxville, Omaha, Washingtonなどでも暴動が起った。
南部のいくつかの地点で人種間問題が改善したが、実際は200人の黒人が、戦時中の暴動で死んだ。1917年リンチで38人、1918年には58人、1919年には70人以上が殺された。北部は自由の避難所から暴動の街に変化した。
それでも北部は、南部と比較すれば、黒人にとっては移動と才能のチャンスを、さらには政治的登竜門の機会を提供した。その後の二十年間で黒人の居住区は拡大し、ハーレムでは黒人芸術のルネッサンスが生まれ、政治的指導者が育った。
284-287 感想 1920年に女性の参政権が認められたが、仕事上では、女性は戦時中に部分的に協力したこともあったが、戦後は退職を強いられた。そして女性は政策的に家政と育児に限られる存在として扱われた。
参政権が百年来の運動の成果もあって認められるようになった点は、さすがアメリカの力強さを示すものだが、経済面での女性の進出は、まだまだの感がある。日本では明治時代に製糸業で女工が活躍していたが、この点に関してはひょっとして日本の方が進んでいたのだろうか。
284 戦争評価では黒人の場合と同様に、女性の場合も意見が分かれていた。Jane Addams, Crystal Eastman, Emily Green Balchなどは、戦前から平和主義者だった。またAEFに入って電話交換手や看護婦として戦争業務を担当したり、フランスにおもむいてYMCAのボランティア活動をしたりする人達もいた。巨大組織のNational American
Woman Suffrage Associationは、Carrie Chapman
Cattが指導していたが、戦争準備賛成を参戦前から表明しており、戦争を通して婦人参政権と経済的な男女平等が実現すると考えていた。ウイルソンは明白に婦人参政権を擁護し、1918年にウイルソンは、戦争勝利のためには女性の参政権が必要だと上院で明言して、1920年、Nineteenth Amendmentとして女性参政権が保証された。
285 戦争という流動的状況の中で、女性たち*は、労働者や市民としての男女平等の実現を夢見ていた。
*例えばWomen’s Trade Union League
しかし実際は戦時中の女性の就業は限られていてまた短期間であった。百万人の女性が軍需関連の仕事に就業したが、初めての雇用はごく僅かで、ほとんどは、あまり儲からない仕事から軍需関連工場へ転職した独身女性であり、その彼女等も戦後はすぐもとに戻った。或いは既婚女性で、かつて雇用経験のある女性だった。またもっと少ないが重工業に就労した女性もいたが、その半数は、1919年に退職してしまった。
1919年、ニューヨークのCentral Federated Unionは、女性は開戦時に就業する際に抱いた愛国心と同じ愛国心でもって、戦後はその職場を明け渡すべきだとした。1920年時点での女性の就業率は、1910年と比較して少なくなっていた。
285 既成の労働組合は女性労働者に反対だった。AFLの女性に対する態度は、上院議員の態度と同じで、女性の市民権に反対だった。ゴンパースは、女性労組員を女性問題に関する労働委員会の議長役に起用せず、富豪の夫人を起用した。
女性は軍需関連の仕事をあまり分担せず、ボランティア活動の取りまとめや、子ども養育支援計画の創設や、赤十字活動や、食糧保存活動のパンフレットの配布など、「有害でない」活動に従事した。
女性労働者支援を目的としてMary Van
Kleeckによって運営されたWomen in
Industry Serviceの活動は、僅かな成果しか得られなかった。女性保護の基準はあっても無視された。ニューヨークで対等な賃金を得られた女性は、受給資格があっても、9%に過ぎなかった。
女性参政権は確かに大きな成果であったが、女性の実際の生活上では、期待値以下だった。下院が労働省内に女性局Woman’s Bureauを設置し、戦時中のWISの活動を引き続いたが、戦中にあった僅かながらの就業機会も、戦後になると閉ざされてしまった。新設されたWoman’s Bureauは、傍観するだけだった。1921年のSheppard-Towner Actは、女性と幼児の健康ケアを提供したが、それは伝統的な女性の地位を象徴するような法案だった。
287-295 感想・要旨 戦後のアメリカの社会主義的労働運動は、急進的だったようだ。そこへテロ事件が発生し、彼らが証拠もないのに標的にされ、当局の大弾圧が行われた。運動を担った人々の中には移民が多かったので、本国に送り返される人が多かった。社会主義運動は沈滞した。しかし、再び中庸を唱える部分を中心とした大同団結がなされ、民衆の一定程度の支持を取り付けたが、十分な労働者の支持は得られなかった。
現在でもアメリカ社会では左翼運動があまり高揚しない原因は、このころの弾圧と運動主体自らの意気消沈とが影響しているのではないかと思った。
287 戦後激化した左翼労働運動は、戦前の、階級のない社会という中庸な改革を唱える人たちを背後に押しやってしまった。1919年から1920年にかけて、鉄鋼ストライキや人種暴動が発生した。
288 ヨーロッパでは共産主義運動が盛り上がった。ポーランド、ベルリン、ハンガリー、バーバリア=バイエルンなどである。また1919年にコミンテルンが結成された。
1919年2月、シアトルで造船ゼネストが実施された。人々は住宅不足と物価高騰で悩んでいた。35,000人の造船労働者がストライキをした。Seattle
Central Labor Councilは、普段からゴンパースなど保守派と対立していたが、造船労働者を支援してゼネストを提起した。2月6日、60,000人がゼネストに参加した。ただし、電気や、燃料と食糧の配達、ごみ収集などはストライキから除外された。
ところがシアトルの市長Ole Hansonは、連邦軍の出動を要請し、スト参加者のことを、アメリカ政府を分捕り、ロシアのようなアナーキーを企てるdeep-Red revolutionistsと決め付けた。
一方、4月28日に、爆弾が市長の事務所に郵送され、翌日には爆弾がジョージア州上院議員の家のメイドの両手を奪った。郵政省長官Burlesonや司法長官A. Mitchell
Palmer*など宛の爆発物が34個郵便局で発見された。*1919年3月グレゴリーの後任
1919年5月1日、ボストン、クリーブランド、ニューヨークなどで激しい集会が開かれ、「愛国的な」暴徒と乱闘になり、一人が死亡し、40人が重傷を負った。6月2日、八つの都市で同時爆発が起こり、二人が死亡した。そのとき司法長官の自宅の一部が被害を受けた。
289 アメリカでは社会党が分裂して、二つの共産党ができていた。構成員は合わせて約70,000人で、ほとんどが外国生まれだった。ニューヨーク州警察と連邦司法省のエイジェントが、6月12日、ロシア・ソビエト・ビューローの手入れをした。これは将来のソビエト大使館であるが、米国はボルシェビキ国家を承認していなかった。ビューローは、レーニンの「アメリカの労働者に」というビラを配布していた。二度目には、社会主義者のRand SchoolとIWWのニューヨーク事務所の手入れをした。ニューヨーク州議会の特別反暴動委員会は、州上院議員のClayton
R. Luskの指揮下に、捜索で発見された多量の配付物や名簿が、アメリカにおけるボルシェビキ革命の兆しを示す証拠であると宣伝した。さらに次の暴動のメンバーとして、黒人がそのターゲットになっているとも付け加えた。
司法長官のパーマーは、司法省調査局に、反急進主義組織であるGeneral Intelligence Divisionを新設し、J. Edgar Hooverをそのトップに据え、下院は革命家を探し出すための特別予算を組んだ。
ボストン警察のストライキ、全国的な鉄鋼ストライキ、石炭ストライキなどが大衆を不安にさせた。石炭業者はそのストライキをレーニンやトロツキーが指導していて、モスクワからの資金供与があると主張した。
290 下院は、ウイスコンシン州で正当に選ばれた社会主義者議員Victor Bergerを拒否し、上院はシアトルのゼネストで逮捕された海外出身の労組員の海外放逐がなされていないとパーマー司法省長官に抗議した。
パーマーは11月7日、十余の都市でロシア労働者連合を同時に捜索した。その後の捜索も加えると、数百人が逮捕され、1919年12月21日、249人が「ソ連の箱舟」Soviet Arkとあだ名をつけられたBuford号でロシアに送還された。2020年1月2日、さらに共産主義者の事務所が捜索され、33都市、4000人の国家転覆容疑者が逮捕された。
感想 以下の部分はアメリカでも非常にファッショ的な弾圧が平気で行われていたことを示すものだ。非常にイデオロギー的で反共的だ。
パーマーやその部下の手法は高圧的だった。逮捕状なしに捜索・逮捕がなされ、逮捕者は手荒な扱いを受けた。パーマーは外国人送還の手法を多用した。というのは、その手法は、1918年のAlien Actに基づき、行政手続きだけで処理でき簡単に送還できたからだ。国家転覆を宣伝していると看做される団体の名簿に載っているだけで送還できたのだ。一般の裁判ではスパイ・国家転覆法に基づき、告発し、公の裁判を実施する必要があった。
1920年、パーマーはさらに、逮捕された外国人被疑者は、国家利益のためになると判定された後でのみ、その逮捕状を調査し、評議してもらう権利を有する、という恣意的・抑圧的手法Star Chamber tacticsをむき出しにした行政手続に変更した。
パーマーは1921年、このことについてこう弁解している。「私には何も謝ることはないし、名誉だと思っている。私は誇りと情熱をもって指摘したい。家を焼き払い、宗教と国家を破壊する外国人扇動者に対して、私の部下が少々手荒で不親切で簡略でぞんざいであったとしても、公衆の利益のためならば、十分見逃されるだろう」
291 感想 正に反動 パーマーを援護した組織が多数あった。それは復員した兵士の愛国団体と企業家団体であった。KKKも復活してこれに加わった。彼らは組合員と非組合員とを分断し、全てはロシアの陰謀とされた。クローズとショップ制自体が共産主義だと吹聴された。
パーマーの「大赤狩り」の支持者・活動家たちは、1919年の在郷軍人会であった。彼らは国家安全同盟やアメリカ防衛会など、戦時中の愛国会の兵士で構成されていた。そして最近復活したKKKや最近生まれたアメリカ「在郷軍人会」もこれに加わった。かれらは11月11日の休戦記念日に各地で喧嘩をしかけた。その結果一方では彼ら自身の会員の射殺と、他方ではWobblyの暴力的な去勢が行われた。
産業家組合の「製造業者国家協会」も、同じ反急進集団であった。彼らにとって急進主義は、すべての労働運動をボルシェビズムと看做す便利な根拠となった。クローズドショップは「隠れたソビエト化」であり、組合自体がボルシェビズムであった。元大統領のWilliam Howard Taftもこれに一役買った。
この運動は、労働組合や労働者そのものを敵視する風潮を作り、1919年の鉄鋼ストを潰した。全てのストライキは「共産主義を樹立するための陰謀」とされた。
この流れは1920年の春には収まりかけた。ニューヨーク州議会が数人の社会主義者議員を放逐したとき、上院議員Warren G. Hardingと司法長官パーマーは、それに異議を唱え、Charles Evans Hughesは、ニューヨーク弁護士会に、彼らの復権のための援助を提供した。また労働省の官僚も、海外への追放命令を取り消し始めた。裁判所も不法逮捕を理由に彼らの釈放を命じた。しかし591人が海外に追放された。しかし追放該当者が数千人とされるから、少なくなったと言えるかもしれない。
292 パーマーは、1920年5月1日に大革命暴動が起こると予想したが、それは起こらなかった。パーマーの襲撃手法を批判する書籍も出版され、人々の目を覚ました。著者は、Felix Frankfurter, Ernest Freund, Roscoe Poundらであった。1920年9月にウオールストリートで爆弾が爆発し、30人が死亡したときも、民衆はそれを孤独な狂人の仕業と受け止め、パーマーのように、依然として国家反逆者の陰謀だとする考えを支持しなかった。
しかしアメリカ社会には「赤の恐怖」が依然として残り、組織労働者は痛めつけられた。AFL内の保守層はウサギ=AFL内左翼を追いかけ、結局自らのクローズドショップ制を犠牲に供した。1920年代初期、労働組合組織率は急速に低下した。使用者側は、オープンショップ制を「アメリカ計画」だと宣伝し、労組のクローズドショップ制を切り崩した。
多くの進歩主義者が、階級のない社会という夢を捨てた。Hiram Johnsonのように保守に転向したり、Frederic
C. Howeのように無感動になったりする人もいた。
293 しかし、闘いを続けた人々もいた。William Allen White, Harold Ickesなどは、ニューディールで活躍した。また階級理論に基づく政治理論を捨てない人々もいた。その根拠は、戦争とその後の混乱である。またLillian Waldなど、イギリス労働党に傾倒する人もいた。G. D. H. Cole, Sidney and Beatrice Webb, Graham Wallasなど、イギリスの社会主義者がNew Republicの文壇をにぎわした。同じくイギリスの社会主義者Harold Laskiは、戦時中にNew
Republicの出版局で活躍した。
1920年に、中庸の社会主義者、労働組合関係者、急進農業者たちが「労農党」を結成した。ニューリパブリックの編集長のHerbert Crolyは、労農党の大統領候補Parley
P. Christensenを支持した。
一方で1919年、進歩主義者からなるゆるい組織「48委員会」が組織された。それはBull Moose運動を引き継ぐものだった。そして労農党をためらいながら支持した。率直に階級理論を打ち出すことを毛嫌いし、社会の調和、中庸を求めた。そのため、労農党から離脱する人もいたが、いやいやながらも残る人もいた。
294 1920年、クリステンセンは大統領選挙で、わずか290,000票しか獲得できなかった。1922年、彼らはConference
for Progressive Political Actionを結成し、二年後にはProgressive Partyと名称を改め、Robert La
Folletteを大統領候補に据え、減税や農業者支援、鉄道・電気の国有化、戦争に関する国民投票などを公約として掲げた。普段は中庸のAFLも支援した。選挙活動をする動員はなかったが、5,000,000票を獲得した。
1920年代は、労働界は弱小であった。La
Folletteは予備選挙に勝つことができなかった。
295 意味不明 フェリクス・フランクフルターにとって、1944年とは何か特別な意味ある年なのだろうか。
6 The Political Economy
of War: The International Dimension
296-308 要旨・感想 299ページまでは、19世紀から第一次世界大戦までの西欧とイギリスの事情を述べている。19世紀の西欧列強が、植民地争奪戦を展開しつつも協調していたというのは初耳である。レーニンなどの捕らえ方とは異なる。またイギリスは当時絶大な経済力・政治力をもっていた。その金融の力を示す指標が、ポンド決裁である。そのことは今日のドル決裁の威力と同じである。
299ページ以降は、アメリカの事情を述べている。当時の世界の諸般の事情=西洋のアメリカに対する圧迫を主な原因として、アメリカが国家的な取り組みとして、商船を確保し、南米との交易を始めとして世界に交易圏を広げ、世界がドル決裁へと移行していく様子が描かれている。
296 戦前までの欧米の資本主義経済は、成長と相互依存による高成長を続け、富の分配で不公平を生じながらも、富と生活水準は飛躍的に高まった。彼らは植民地争奪戦をしていたが、調和と調整の国際関係のおかげで、資本・物品・人材などの国境を越えた交流が行われていた。この時期に工業製品の比重が、農産・原材料に比較して高まった。
列強の調和を維持したのが、イギリスのポンド決済システムであった。ポンドが信用され、イギリスの中央銀行=イングランド銀行は、他の中央銀行に比べて少ない金の備蓄量で運用していた。
297 イギリスは獲得した富を自国に貯めておかず、南北アメリカを中心として海外に、その三分の一を貸付したり、投資したりした。イギリスは世界の半分の投資をしていた。世界中が、鉄道や電気など、イギリス製品の規格や技術、部品に依存し、そのことがイギリスの市場確保と産業の成長に貢献した。イギリス商船のトン数は、世界の三分の一を占めた。またイギリスは世界各国に燃料基地を提供し、イギリスの銀行や保険は、イギリスの経済的安泰を確保した。
イギリスが世界中のあらゆる資源を利用でき、貿易、市場、調整、投資、信用、海運などの経験に基づく知識を持っていたことは、イギリスにとって国際ビジネスでの成功のための大きな強みであった。
二十世紀になると、ドイツとアメリカがイギリスのライバルとして浮上し、ドイツは大戦の原因となり、アメリカは戦争の結果としてライバルとなった。
298 アメリカは独立戦争以来の百年間、西欧諸国に食糧や原料を提供し、その完成品を輸入し、主にイギリスの貸付による慢性的な貿易赤字を続ける、経済的な植民地の地位に甘んじていた。しかしアメリカは1896年に貿易黒字国に転換し、1914年には海外の借金を完済した。
感想 アメリカも明治維新の頃はまだ貿易赤字に悩む新興国だった。その点は日本と共通点があると言えるかもしれない。
1913年、アメリカの貿易における工業完成品の稼ぎは、農産品や原料による稼ぎを凌駕した。その年のアメリカの世界に占める貿易高は11%で、ドイツは13%、イギリスは15%であった。アメリカの貿易相手国は、ヨーロッパからアジアや南米に向かった。アジアや南米はもともとイギリスの海運、通商、金融の縄張りだった。両国の競争は必然であった。
299 ウイルソンは世界経済に積極的に関与した。ウイルソンは貿易が世界の繁栄と平和に役立つと考えていた。1910年、1912年におけるアメリカの輸出額は、それぞれGNPの5%、6%であった。
ウイルソンは、政治の貿易への干渉は、人為的で抑制的である、通商は市場原理が誘導すべきだ、関税、差別的貿易協定、帝国主義的偏向制度などは効率を阻害すると考えていた。ウイルソンはまず関税を引き下げた。Oscar Underwoodが政権の関税法案を起草したが、「関税を高止まりさせていては、貿易によって得た余剰利益を処分することはできない」と述べた。ウイルソンは「輸出を増やすには互恵的でなければならない」「アメリカの優秀な労働者が作り出す商品が、世界の市場を支配し、アメリカの効率の恩恵を世界中に与えるだろう」と信じていた。
300 ここで言われていることは経済分野で分かりにくいが、ウイルソンは1913年のFederal Reserve Actを修正して、連邦準備銀行Federal Reserve banksが手形振出draftsを引き下げることを可能にした。その結果、米国の銀行は輸出入における引き受け金acceptancesを引き下げ、海外で支店を展開する際の利便性を高めることができた。
またウイルソンは、国内外通商局の予算を四倍にして、ラテンアメリカを始め海外での貿易の可能性の調査に当てた。
アメリカは開戦時には世界市場で有数の一員になりつつあった。これは、ウイルソンの信念、つまり、善意は通商を通じて商品と共に運ばれる、通商条約は国家間の平和を保証する、という確信に根ざすものだった。
301 開戦後ニューヨーク証券取引所は四ヶ月間閉鎖され、外国為替取引特にポンド取引価格が乱高下し、世界の信用システムの弱さが露呈した。また船舶が利用できなくなった。イギリスは戦争用にほとんどの船を振り向け、アメリカの商品を運ぶ船がなくなり、南部の綿花は港に山積みされ、価格も半減した。
それに対して財務長官マカドゥーは、緊急に資金を流通させ、「綿花ローンファンド」を設立し、綿花価格を吊り上げた。取引がロンドンのポンドではなく、ニューヨークのドルで決裁できるようになった。またマカドゥーは一時的な措置として、財務省内で外国貨幣の割引交換を行った。
船の不足がアメリカにとって致命的だった。アメリカの船舶は、かつては力強かったが、1914年には荒廃し、アメリカの船舶bottomsは、アメリカの輸出額の10%を輸送するだけだった。また戦争国は自らの船舶を引き揚げた。
302 通商相William C. Redfieldは、外国で製造された船のアメリカ籍化を提案し、Ship Registry Actが1914年下院で可決された。さらにWar Risk Insurance Bureauを財務省内に設立し、海運業者に政府保証を与えた。
この危機に際して当初はアメリカの貿易を維持しなければならないと考えていたが、1914年8月中旬、この危機を緊急事態としてではなく、好機として捉えようとする意識変革が、政界にも民間にも生じた。ラテンアメリカがアメリカの掌中に入りそうである。1914年8月15日、パナマ運河が開通した。8月16日、マカドゥーは南米への進出をウイルソンに提案し、ウイルソンも同意した。これまで中南米航路は、イギリスや他のヨーロッパ諸国に握られていた。
303 ウイルソンは、アメリカの港に拘留されているドイツ船を買うべきだ、民間企業が運に任せてそれに着手する以前に国がそれをすべきだとし、1915年5月、汎アメリカ財政協議会をワシントンで開催し、反ヨーロッパ、汎アメリカ主義を唱えた。
当初産業界はこの案に賛成したが、海運業界は、政府所有の海運業は社会主義的だとして反対した。National Foreign Trade Councilは、造船業への私的投資が損なわれるとした。連合国も購入する船のほとんどがドイツ商人のものだとして反対した。国際協定も、拿捕されることを避けるために交戦国の船を中立国に転籍することを禁じており、英仏はその協定の変更を望まなかった。
304 ところが情勢が変化した。1915年のアメリカの対南貿易額は、前年比で戦前のレベルにも達しなかった。またイギリスは、大半の船舶を軍需用に転用し、中立国の船舶を、それまでイギリスが押さえていた航路に向かわせようとしなかった。そして大西洋の海運業に高率を課した。1915年末、イギリスは95%の船舶を軍需用にし、アメリカの物資を南半球に送る貨物船は僅かしか残されていなかった。1915年12月、イギリスは商船を政府が監理することにした。また1916年6月、連合国は、パリ経済協議会で、排他的な経済連携計画を公言し、戦後の経済圏からアメリカを除外する決定を行った。翌月、イギリスはアメリカの会社のブラックリストをいっそう拡大し、イギリスの市場や商業施設へのアクセスを禁止した。
アメリカの産業界はこのようなヨーロッパの排外的な動きに反発し、一旦は「社会主義的」と拒否していたマカドゥーの案shipping bill支持に回った。マカドゥーはさらにこの機会を利用し、米海軍の戦争準備に結びつけた。1916年9月7日、Shipping Actにウイルソンが署名した。
305 この法律に基づいて船舶委員会Sipping Boardが設立され、それが商船を所有し、運用し、緊急船団協会Emergency Fleet Corporationが、船舶の購入と建設を担うとされた。しかし船舶委員会の権限は戦後五年までとし、それによって私企業の参入の余地を残した。
戦争はウイルソンの戦略の範囲を広げかつ加速した。
1913年の連邦備準備金法Federal
Reserve Actはアメリカの国際的な金融問題の解決に貢献したが、1914年時点でアメリカは長期的にはまだ$3.2billionの負債を抱えていた。そのほとんどをイギリスが所有していた。短期的には開戦時に$0.5 billionの負債を抱えていた。
306 ところが戦争が始まり、ヨーロッパ諸国がアメリカの物品を買い始めると、立場が即座に逆転した。当初それは金で支払われていて、1917年にはアメリカの金所有は二倍になった。しかし、金では、購入高をカバーできなくなり、さらにポンドの価値が下落し、アメリカ国内にインフレをもたらしたので、資本の移動で決裁することになった。英仏は自国内のアメリカ名目の抵当dollar-denominated securitiesを統制或いは確保しようとし、それをニューヨーク市場で売却した。またウイルソンが1915年に交戦国に対するローンの禁止を解除すると、これを借金の担保物件として用いた。アメリカの銀行や輸出業者が長期のローンを拡大すると、ヨーロッパの資金の保証のない借金は増えた。1917年4月、アメリカの中立が終了する頃までには、$1.4billion分の、外国が所有するアメリカの担保物件が、アメリカに戻り、アメリカはヨーロッパの借金をseveral billion dollars分、新たに獲得した。また、1917年と1918年にアメリカ財務省は、巨大な融資をヨーロッパに提供した。
アメリカの資産が増え、イギリスの資産は減り、海外の資産がニューヨークに集まった。短期の国際引き受け金acceptance financingが、ロンドンからニューヨークに移転した。ニューヨーク経由で再輸出される、コーヒーやカカオなど南米商品の金額が、対前年比で50%増加した。
307 それでも南米諸国はイギリスのポンドに執着した。ドルが不慣れな事と関連施設が少ないことなどがその理由であった。そこで、ニューヨークのナショナルシティーバンクは、1914年にブエノスアイレスに支店を開設し、その後二年以内に、他の南米諸国や東洋、イタリアにも支店を開設した。1916年、連邦準備金法を改正し、アメリカの銀行業界が海外で銀行の連合体を結成できるようにして、翌年、アメリカ銀行協会は、アメリカ外国銀行業会社を設立し、南米に支店を創設した。また内外通商局は領事館員や通商公使館員にマーケットの調査をさせた。またこの年に連邦関税委員会を創設し、関税を状況に応じて自由に変えられるようにして、競争力をつけた。またWebb-Pomerene法によって、輸出関連企業を反トラスト法の適用除外とした。
こうして世界交易におけるアメリカの首位が決定的になりつつあったが、次のような警句を述べる人もいた。通商長官のWilliam Redfordである。「通商とは一人勝ちであってはならない、それは戦争であってはならない、相互利益をもたらすものでなければならない。抉り取るようなことをしてはならない。社会的に望ましくないことは、永続的に儲かることにはならない」
308-324 要旨・感想
アメリカによるドイツ資産の強奪312 アメリカは、少しずつだが結局は全面的に、ドイツの得意とする化学・薬学関連企業の米国内資産を永遠に、しかも合法的に、奪ってしまった。
大戦中のイギリスの国力を侮ってはいけない。イギリスは大戦中であっても依然として南米での貿易を有利に進めていて、アメリカはそれに対して、イギリスに「門戸解放」を要求し、それを実現している。アメリカに関してよく言われる「門戸開放」という言葉は、アメリカがまだ新興国であることを示すものであったことが理解できた。318
大戦中、交戦国が財政難に陥った隙に、アメリカの経済力は、イギリスの政策までも締め付けようとしたようだ。米国内でそれが発議されたが、筆者はそれを実際にイギリスに発信した証拠はないと言っているが、本書の該当ページ320の注を読んでみると、発信した証拠があったようにも読める。はっきりしない。しかし、ウイルソンはそういうアメリカの経済力に基づいた政治的発言力が、いずれは増すだろうと嘯いている。322
308 1916年3月、ドイツが中央ヨーロッパの長期的経済統合計画Mitteleuropaを立てたという噂を聞いて、連合国側も1916年6月、パリ経済協議会を開催し、排他的なブロック経済を提案した。国家統制、域内共通関税、金融、輸出政策、原料の共同使用、世界市場の域内国による調整的配分、常設機関Comité Permanent International d’Action Économiqueをパリに置いた。
309 ドイツや連合国の域内経済連携構想は、アメリカなど中立国にとっては致命的な脅威であった。米国も輸出政策で、政府と産業界を結合した、類似のブロックを作ろうとアメリカの高官William S. Culbertsonが提唱し、shipping billもそのような国際情勢の中で成立した。
309 国務長官ランシングは、ウイルソンに中立国による同盟の結成を提案した。
ウイルソンはパリ会議が彼のshipping billの成立に寄与したことは肯定的にとらえたが、中立国の同盟案には反対した。ウイルソンは、開かれた世界経済の推進を再確認した。彼は、域内経済ブロック構想が経済活動を沈滞化し、平等な機会を奪うと考えた。
しかしウイルソンは、パリ協定が、これまでイギリスが独占してきた地域、特に南米へのアメリカの進出を阻害するだろうということは分かっていた。アメリカはちょうどこのころ南米に進出しかけていた。
310 これはアメリカ参戦1917.4.6前夜の話だった。皮肉にもアメリカは、ドイツとの戦争に向かいつつある時に、イギリスとの経済戦争を激化していた。これは大戦への参加の意義が問われる事態であった。パリ在住のアメリカの公使は、1918年、アメリカもパリ会議に参加したらどうかと奨めたが、それは1916年に決めたアメリカの方針に反するとして、否定された。経済戦争は止めなければならないのだ。
アメリカは連合国の交戦国であったが、連合国の戦争中の実践と戦後の目標には距離を置いた。アメリカの目標は、アメリカの関与は増したとはいえ、戦前の多極的な国際的経済関係を回復することだった。そのためにはドイツが世界経済に参入する必要があった。
311 そこでジレンマが生じる。アメリカ経済は、ドイツを排除しようとするパリ経済協議会に協力しないで、どうやって連合国に協調できるのだろうか。またアメリカは、ここ二年半の中立状態のおかげで獲得した経済的優位を維持発展しつつ、それと同時に、今では戦争をする上でのパートナーではあるが、これまでは通商上のライバルであった国々との協力関係を維持していけるのか。そして最後に、アメリカの中立状態で得られた経済的手段を、どうやってウイルソンの包括的な政治目標に寄与させられるのか、という問題である。
311 ドイツ資産の強奪
アメリカの参戦の直後、Emergency Fleet Corporationは、アメリカの港に停泊するドイツ船籍の船を捕獲し、ウイルソンは戦後のパリ講和会議で、それらの船を永遠にアメリカの所有とした。また1917年10月、ウイルソンはA. Mitchell PalmerをAlien Property Custodianに指名し、米国内の外国の資産を管理させた。当初は管理するだけだったし、その資産が浪費される場合は、売却を許可した。ところが1918年3月、売却規制が撤廃され、パーマーは、資産を友好的で個人的な資産とそうでないものとに分けた。後者は化学薬品や繊維など、膨大なドイツ企業の投資であった。そしてパーマーはその資産を戦後まで保持するつもりで、それを売却する権利を要求した。それは数百万ドル分だった。イギリスも同様の措置を受けたが、金銭で代金を受け取った。ドイツに関しては、ドイツ国内のアメリカ資産と帳消しにされることによって、ドイツ資産を没収した。
312 戦前のドイツは、ラインラントの染料、有機化学、薬など、化学工業で世界をリードしていて、アメリカの企業は中間生成物をドイツに依存していた。ところがイギリスが大西洋を封鎖したので、その供給がなくなったが、パーマーが米国内のドイツ化学工場を没収したことによって、米国内での自力生産が始まり、アメリカの同業企業は大儲けした。1918年3月、Trading-with-the-Enemy Actが修正され、米企業はドイツの利益を購入した。さらに1918年11月4日、パーマーは同法を改正し、ドイツ資産以外に、ドイツの特許も没収した。パーマーが言うには、ドイツが米国のパテントを横取りし、それを行使しなかったために、アメリカの産業が停滞したというのだ。パーマーはその特許を安値で米化学企業Chemical Foundationに売却した。
313 1921年、下院は米化学工業の為に保護関税をかけ、1922年、Fordney-McCumber Tariff法を制定し、染料に法外な税金をかけた。
パーマーは戦時中の一時的な利益ではなく、長期的な利益を目論み、アメリカ化学工業の成長に期待を寄せ、化学者の育成に努めた。ここに政府主導による研究・開発という視点が見られる。彼はドイツの経済的基盤を根絶しなければならないと言った。しかしその本質は、アメリカだけが戦争による利得に無関心であるというウイルソンの方針を修正するものだった。
世界大戦といっても、中立国はたくさんあった。スイス、オランダ、スペイン、スカンディナビア諸国、中南米諸国などである。中南米諸国はいやいやながら1917年4月交戦国に編入された。
アメリカは中南米など中立国市場へのドイツの接近を規制した。イギリスが、アメリカの参戦まで、ドイツがアメリカに通商・金融面で接近するのを止めようとしたのと同じである。アメリカはJ. P. Morgan銀行を通して、ヨーロッパの中立国の市場で、ドイツマルクに対してベアになるように協調した。チューリッヒではドイツの抵当物件securitiesの換金を阻止するために介入した。
314 1917年10月、ウイルソンはWar Trade Boardを設立し、輸出入に許認可制を導入して、米国や中立国によるドイツへの貿易を規制した。イギリスがヨーロッパの中立国での規制をしたのに対して、アメリカは中南米を規制した。
315 ランシングはBoardを通して、エクアドルのココアプランテーションにおけるドイツの利権を永久に根絶しようとした。またBoardは、ペルーやグアテマラのドイツ資産を没収するどころか、それをアメリカ企業に売却するように強制した。
ところが戦争が終わると、エクアドルの一件は「戦争事項」として帳消しにされた。
1918年4月、ランシングは、学術団体The Inquiryに、中南米におけるドイツの商行為の調査を依頼した。Boardは財務省にたいして平和会議の席上で、中南米に残っているドイツ資産の米国への強制的移転を要求するように依頼した。またそれができなければ、中南米のドイツ資産にアメリカ資本が投資できるようにせよと要求した。国務省や商務省は1919年までに熱心にその方針にそって行動をした。
316 中南米に対するアメリカの積極的な介入にイギリスは警戒した。1918年、イギリスの中南米での投資額は、イギリスの全海外投資額の四分の一あった。1914年から1917年にかけて、アルゼンチンの輸入額におけるイギリスのシェアは30%下落し、アメリカのシェアは3倍近くまで上昇し、今やイギリスをはるかに追い越してしまった。
317 イギリスはアメリカには内緒でSir Maurice DeBunsenを南米に派遣し、その地位の維持に努めたが、アメリカ側はそれを警戒した。イギリスがブラックリストをつくってアメリカの通商を差別しようとしている、イギリスは敵対的で不公平だ、アメリカの船がイギリスの物資を運んでやっているのに、イギリスの船は南米行きのアメリカの物資を運んでくれない、等々の苦情が上げられた。
318 感想 ここまで読んできての感想。筆者は淡々と事実を書き連ねているのだが、ここまで読んできて、戦争は、適当な口実をつけて相手のものをふんだくることを常套手段としているということが分かる。そのことを詳細な記述の中でうっかり忘れてはならない。戦争をしてはならない。譲り合わねばならない。しかし持てる人、お金持ちは、相手に譲るという気持ちにはなりにくいだろう。権力者は権力を捨てたいと思わないだろう。だから貧乏人よ、声をあげよ、お金持ちや権力者にひるむな!あなたの声こそすばらしいのだ。あなたの声が歴史を動かすのだ。
イギリスの会社がブラジルの海軍や他の軍需装備品の契約しようとしたとき、アメリカの大使が、イギリスの会社は門戸を閉ざすだろう、おれにも参入させろと言ったら、イギリス側が折れて、アメリカの会社を交渉の仲間に入れてやったという。軍需装備品の契約は、経済的側面ばかりでなく戦略的側面もある。イギリスはいくつかの地中海諸国の海軍に自らの規格や装備品を導入していたので、戦争中もその地中海諸国はイギリス側についていた。
319 イギリスは1917年の春までは金融界の王者で、戦争開始からこの時までに連合国に対して$4 billion貸し付けていた。(これは驚きだ)ところが1915年になるとExchequerは、担保物件secure
collateralに基づいてアメリカのモルガンから借金しないと資金を確保できなくなった。そしてアメリカが参戦するとアメリカ財務省が金融の中心になり、結局$10 billionを一般債権obligationsとして拠出した。金融の中心のこのような交替は、国際経済に不安定要因となった。
1917年7月、マカドゥーは突然イギリスへの融資を止めた。
イギリスはモルガンに$400 millionの借金があったためだ。モルガンは1915年以来短期回転信用revolving
short-term creditをイギリスに提供していた。1917年2月借入金が$72 millionに達した。
320 イギリスはそれにさらに$325 millionを追加した。モルガンは財務省の資金でその借金を清算しようとした。モルガンのパートナーが6月28日に財務省に現れ、$400,000,000分の小切手を要求した。マカドゥーはためらった。
マカドゥーは6月30日にChancellor
of the Exchequer宛にメモを起草し尋ねた。イギリス政府は必要以上に海軍力を増強するつもりなのか、イギリス政府は戦中或いは戦後に発効する、特に優先的な通商関係があるのか、そして、イギリス政府は領土的問題を抱えているのかどうかと。
ここには鉄拳的な外交が現れていないかと指摘する歴史家がいる。その通りである。しかし、このメモが実際イギリス政府に送られたかどうかは疑問である。
321 マカドゥーはアメリカの財政力を利用してイギリスの政策策定に干渉したのだ。そのことはアメリカの政界で批判された。政権内では、彼のAssistant SecretaryのOscar T. Crosbyが、マカドゥーを支持しただけだった。マカドゥーがウイルソンに、各国政府に対して、アメリカがその財政援助によって各国の政策に干渉するつもりはないという内容の書簡を送ることに承認を求めたとき、ウイルソンは、異議を唱えた。ウイルソンは国務省の諮問官Frank L. Polkに照会した。Polkはマカドゥーにいらぬ政策議論を呼び起こすから止めたほうがいいと忠告した。
それでもマカドゥーは、現にアメリカは資金を提供して諸外国の戦争に加担しているではないかと言い、自説に固執した。それに対してランシングは諸外国の誤解を招くような言動はつつしんだほうがいいと反対した。
322 感想 第一次大戦前後の日本とアメリカの国際的な位地は、よく似ている。日本は東アジアの盟主に、アメリカは西半球の盟主に、なりつつあった。そして両国とも周囲に対等な国々がなく、したがって気兼ねなく自らの意志を押し通す環境があった。それに対してヨーロッパではそれは許されない。弱小国はあったけれども、各国がほぼ対等な関係で独立していたから、自分勝手な振る舞いは許されない。現在でもそうである。
マカドゥーを批判する人々は、現実問題を哲学的問題よりも優先し、マカドゥーは問題提起をする時期を間違えただけだと言った。ウイルソンは「我々が各国の財政を牛耳っているのだから、戦争が終われば、我々の方針を彼らに強制できるようになる」と言っていた。
イギリス側は、海軍の建造、優先的な貿易関係、労働協定などマカドゥーの質問には答えず、戦争遂行、ポンド交換への支援、モルガン負債の償還、軍需装備品の購入などのために、ただ只管マカドゥーに資金の提供を求めた。マカドゥーは財務省からの支援金を米国国内で消費するようにという点で成功した。またドル・ポンド交換は支援されたが、ポンドとそれ以外の通貨との交換は支援されなかった。
323 イギリスは、米国国内での購入に関して、Allied Purchasing Commissionを通して全ての必要品を購入した。
それでもいくつかの障害があった。Allied
Purchasing Commission以外の各国独自の支払い方法の提案だとか、イギリスが隠し財産を作ってモルガンへの返金にあてているとか、米国外でかくれて小麦を買っているとか、
324 1919年までにアメリカは総額$10 billionを諸外国に貸し出し、そのほぼ半分をイギリスが占めた。
連合国がアメリカ国内で貸付金を消費しなければならなかったことは、アメリカの輸出業者を儲けさせた。イギリスの場合は、他国にイギリスが貸し付けても、結局アメリカのドルに交換しなければならなかったために、イギリスの財政は悪化した。またドルは、他国の通貨との両替が不要となり、ドルの価値は下落しなかった。
324-331 米英が対立 しかしチャーチル328は冷静を失わず、譲歩した。指導者はこうでなくてはならない。対立を煽るようであってはならない。
324 イギリスはドイツの潜水艦攻撃で船舶を沈められても、依然として世界第一の商船を保有していた。
325 ウイルソンは主力艦を含めた、イギリスを凌ぐ海軍の建造方針を打ちだした。しかし、大きな船舶は潜水艦攻撃に弱かったので、イギリスはアメリカに、潜水艦攻撃用の駆逐艦の製造を求めたが、アメリカは関心を示さなかった。アメリカが戦後のイギリスや日本との戦いに備えているのではないかとイギリスの海軍省長官は疑った。
1917年、イギリスの商船はアメリカのそれの8倍もあったが、終戦時には戦前の排水量に比較して、15%減少した。
終戦時にはアメリカの商船トン数は、イギリスのそれの40%になっていた。
326 アメリカは建造中のイギリス船を徴発し、かつドイツ船舶も没収した。イギリスは徴発船舶の原価分をアメリカに支払ってもらい、それをモルガンへの返済に充てた。
北大西洋の危険な場所で戦争のために使わないで、儲かる中南米やアジア航路で使用しているという英米両者の疑惑
1918年、ウイルソンはロンドンで開催された海運の調整のための会議Allied Maritime Transport Council (AMTC)によって、アメリカの船舶が制約されることを拒否した。
327 船舶を戦争目的でなく、戦後のpost bellum繁栄の為に使用していたのは、イギリスではなくむしろアメリカの方であったようだ。
328 米英の石油タンカーの使用に関する同様の言い争い
1918年、イギリスの船が、半数以上のアメリカの軍人をフランスに運んだことにより、イギリス国民の生活水準が下がり、苦情が寄せられた時、チャーチルは、英語を話す両国民が戦争で苦楽を共にすることは、今後のためにもなると説得した。
329 1918年の春、ウイルソンはドイツの攻勢後も、日本やブラジル航路の船を差し向ける考えはなかったようだ。
アメリカはその一方で船舶の建造に努め、1918年の終わりの半年間で、戦前の一年間の世界の船舶建造トン数の半分を建設した。Emergency Fleet Corporationがその建設の采配を振るった。
Edward N. Hurleyという元機械製造業者の男がいた。Shipping Boardの議長をし、官民の合同事業推進を唱えたが、政治的には洗練されておらず、輸出に過度に期待していた。Federal Trade Commissionの副議長していたとき、輸出業の反トラスト法からの除外や、海外での銀行業の促進を要求した。またNational Foreign Trade Councilを創設し、南米での商圏の開拓に尽力した。
330 1918年、彼は戦争支援どころか、戦後を見越した商機の拡充を宣伝して回ったが、ウイルソンは時期尚早だとして反対した。しかし、Webb-Pomerene法が通過し、輸出業が反トラスト法の規制から除外され、彼は大いに勇気づけられ、新たなアメリカ商船団の創設を唱えた。
331 ウイルソンも本心では彼と同じ考えではあったようだが、彼の逸り気を抑え、また自分自身も、公の場で公然と戦後のアメリカの覇権を口に出そうとはしなかった。またマカドゥーも、ハーレーとほぼ同じ考えだったと示唆する記述もあるが、彼もRedfieldにその逸り気を諌められたとある。
感想 アメリカ人は日本人と同じように島国だから、発想が内向きになり安いということが分かった。自己中心的な発想になりがちなのだ。
331-337 要旨・感想 ウイルソンの戦後政策は、アメリカの経済力を利用して自らの国際政治構想を推し進めることだったが、その彼の構想自体が、自己矛盾していた。戦時中ウイルソンはヨーロッパ主導の国際政治への関与に消極的だった。また米国内の私企業も国際関係による自由な経済活動に対する縛りを嫌った。またウイルソンの政治構想の陰にかくれた、米経済による一方的な国際的支配を諸外国は疑った。つまり、ウイルソンの唱える国際連盟という国際政治構想は、内外の支持を得られなかった。
331 ウイルソンは、短期的な経済的利益ではなく、長期的な国際政治的視点に立って、アメリカの経済力を国際政治に利用すべきだと考えており、部下の狭小な国益追求を制限しようとした。
332 ウイルソンは戦後の国際経済を重視したが、それは1916年のパリ経済会議の頃と変わらぬ方針だった。ウイルソンは1918年の「14か条」でもその方針を貫いた。つまり国際世界での障壁のない平等な経済の樹立である。
ウイルソンが期待していた米経済力の発展は、遅れ気味であった。それにイギリスの海運力はまだ健在で、アメリカが自らの経済的優位を前面に出して自説を主張できる状況ではなかった。
333 また米兵のフランスからの帰還は、イギリスの船に依存していたので、イギリスにはその帰還を妨害する選択肢もあった。
また財務省の海外への経済支援は、国内産業の発展にも寄与しており、アメリカが戦後海外支援を打ち切ると、西欧諸国はアメリカの農産物(豚肉)購入の契約を打ち切り、その結果、米国では農産物がだぶつき、価格が暴落し、政府はそれに対して最低保証価格を設定し、損失を補填してやらなければならなくなった。すると農場主はまた生産を増やし、さらに価格は下落する悪循環に陥った。
334 その解決の為に政府は輸出品に対してクレジットを設定した。結局この問題は、米経済力には諸外国にアメリカの主張を認めさせるだけの力がないということをはっきりと示した。
もう一つの問題は、私企業が公的企業に優先するというアメリカの主義である。戦争産業委員会におけるボランタリー重視、商船の国家権力による使用を許す法律の五年後の廃止、戦後の海外信用事業への財務省の参入の厳しい制限などにそのことがよく現れている。したがってWar Finance Corporationの輸出関連金融事業は嫌われた。国家が国家に貸付を続けるということは、中央集権をもたらし、また他国の内外政策に介入する恐れがあるからとして、国家による海外への貸付金は打ち切られた。
335 ウイルソンは戦後の協調的な国際政治構想を掲げたが、一方ではそれを保証する協調的経済圏構想には反対だった。それは矛盾である。
1916年、アメリカはパリ経済会議の決議に反対した。Comité Permanent International d’Action Économiqueに招待されたが断った。Allied Maritime Transport Councilにもいやいやながら参加した。
ウイルソンは国際政治においては多極主義を掲げながら、経済的には一国主義を押し通すという矛盾した行動をとった。
あるイギリス人はウイルソンの政策をよく見ていた。つまり、ウイルソンは経済を口にするが本心は政治であり、資源の国際化を唱えると。
ウイルソンは商品貿易協定で諸外国の制約を受けてはならないという指示を出していた。
336 ウイルソンは部下に留意点を二点示したが、それは矛盾するものだった。第一点は、国際的な協力精神の実践、第二点は、アメリカの自由な活動を制限するような国際的約束をしてはならないということだ。
もう一つアメリカの一国主義を示すことがある。国際的な経済的制約は、アメリカの金持ち連中にとって非常にコストがかかるということだ。フーバーは、アメリカは世界の食糧品の半分以上を生産している、その価格や流通で国際的制約を受けたくないと言った。
戦時中ウイルソンは経済的には参入したいが、政治的には参加したくないということで各国から批判を受けていた。ところが戦後はその方針を逆にして、政治的には参加するが、経済的には参加したくないと変化した。
337 ウイルソンは米経済力を出し惜しみしたために、戦後にはその力が時代遅れになってしまっていた。戦時中ウイルソンは、連合国との交渉から完全に手を引き、1916年のパリ交渉を阻害した。そのためドイツは孤立せずに済んだ。それでも連合国は戦後ドイツを厳しく制裁し、経済的な不平等と障壁を作ってしまった。アメリカは望んでいた国際会議での主導権を振るえずじまいになった。
337-345 感想 筆者はアメリカがイギリスとは違って、その経済力に相応した海外投資を行わなかったことが、戦後の世界恐慌対策に十分な貢献をしなかったことになる、と批判しているようだが、アメリカとイギリスの地理的な位地、つまりアメリカが世界の諸外国と地理的に離れて位置していたのに対して、イギリスはヨーロッパに近接していたこと、それとイギリスが世界各国に対して植民地的な対応ができた、つまり自らの腹を肥やすことにもなる海外投資ができたのに対して、アメリカが植民地的対応ができる相手国は少なかったこともこのことに関連しているのではないか、そのことを見落としてはいないか、と指摘したい。
337 戦中・戦後のアメリカの貿易相手国で、ヨーロッパは依然として首位ではあったが、アジアや中南米との貿易額が相対的に増加した。
338 アメリカは戦前の債務国から戦後の債権国に転換した。その転換の大きな原因は、海外保有のアメリカ資産が国内に還流したことであるが、私企業による海外投資と輸出も増加した。そしてEdge Amendment to the Federal Reserve Act, 1919.12が、私企業の海外投資を活性化した。
この法はアメリカの銀行が結束して、手形引き受け会社acceptance corporationsを創設し、短期資金を貿易業界に提供するのに役立った。またそれは、銀行が結束し海外投資会社を設立し、外国政府や外国の会社に、長期貸し出しを行うのにも役立った。これらの会社は、債権を発行して米国民の資金を調達した。それは戦時中の財務省のやり方をまねたものだ。Edge Amendment法は民営化を促すものだった。
339 しかしアメリカの私企業による海外貿易や投資は、喧伝されるほど大きなものではなかった。Merchant Marine Act, 1920は民営化を促し、Shipping Boardの役割を、業界の規制と船舶の建造や港湾施設の整備だけに限定した。この規制的役割は、以前の鉄道におけるInterstate Commerce Commissionの役割と同じものだった。この法案によって政府保有の船舶の民間への払い下げが義務づけられたが、船舶業界に対する補助金の廃止と1920年代初期の世界的な不況の為に、船が供給過剰となり、アメリカの船荷は海外諸国に追い越された。
金融でも同様だった。海外の資産は戦争で費やされて枯渇しており、復帰するためには、アメリカの投資が求められ、それでアメリカの輸出も高いレベルで継続できるという仕組みになっていた。ところがアメリカ国内での投資の方が、海外投資よりも優るだろうという予測がすでにあった。
340 アメリカは戦後五年間、年間$300 millionから$700 millionを海外に貸し出していたが、1924年のDawes Planによって、それが年間$one billionになり、その額が1929年の不況まで続いた。しかし、世界の貿易額は、1929年になって始めて1914年のレベルにまで回復できたに過ぎなかった。
Edgeによる長期貸し出しは、戦後十年間でその存在を示すことがなかった。外国金融市場でのポンドからドルへの切替は、ごく限られたものでしかなく、イギリスの勢力が依然として強く、1920年にアメリカが開設した銀行の支店は、1921年、1922年には閉店してしまった。
341 その理由は何か。借金を抱えている国々は、借金額がとても返済できないほどの多額であるといつも不平をこぼしており、そのためアメリカの保守的な銀行は、回収の見込みのない貸し出しを避けようとした。それとアメリカ政府は自らの貸し出しを回収することを優先し、民間企業の資金回収には関心を示さなかった。
もう一つの最も重要な要因は、アメリカが国内投資を重視したことである。海外投資は危険で回収の保証がなく、利率が高いが、投機的であった。戦前のイギリスの海外貸付が堅実であったのに対して、1920年代のアメリカの海外投資業者は、熱狂的であるだけで経験や原則のない
“carbonated swagger”(炭酸の泡のように活性化し威張って歩く人)と呼ばれた。
342 アメリカの世界貿易額に占める率は世界一になったが、その額はかろうじてイギリスを越える程度だった。1920年代の中ごろまでに、アメリカの貸出額は、イギリスの二倍になった。また貿易額は、1920年をピークとしてその率は減少し、戦前の二倍の水準で止まった。1921年から1925年にかけて、アメリカの貿易額の伸び率2.5%は、GNP伸び率9%に比べて僅かであった。裕福な戦時中の中立国からの需要とそれにともなう国内の物価高騰を恐れて、輸出を余剰生産額にまで制限するように推奨するWTB職員もいた。
343 米政府はその推奨を無視したが、アメリカが王風に海外に投資したという話は大袈裟であった。アメリカは国際社会に必要とされていたが、その要望を満たさなかった。
GNP比で、アメリカの海外投資額5%, 1930は、イギリス30%, 1914に及ばなかった。アメリカは1920年代、国内生産額の6%しか輸出しなかったが、イギリスは往時三分の一を輸出していた。
344 イギリスの貸付と輸入は、対位法の原則で行われていたが、アメリカは市場原理に左右されるままで、世界恐慌を乗り切ることになんら手助けすることができなかった。イギリスは国内が不況の時には資金を放出し、海外投資に向け、国内が好況のときには、海外からの資金を回収し、同時に海外からの輸入を増加させた。アメリカはそのようなことをせず、一般的なビジネスサイクルに従った。1920年代では海外投資を増やし、1930年代には急激に減少させた。
さらに悪いことは、1922年のFordney-McCumber
Tariff法だった。それは高率を輸入品に課し、海外投資家の米国内での事業参入をひるませる、内向きの法案だった。それは「交渉のための関税」であり、「開放」政策を認めさるものだった。それは米企業家の国内市場重視の傾向を反映している。
345-347
345 ウイルソンの開放政策は理想主義的で利益に裏付けられなかった。アメリカ人は一方的に継続的に輸出も資本も余剰surplusを続けられないということが理解できなかった。(一人勝ちを続けられると考えていた)アメリカ人は余剰資本を、海外に向けないで、国内や株式市場投機に向けた。
346 1928年以降、アメリカ人は主な信用資産を株式の投機に向けた。フランクリン・ルーズベルトは国際主義者と言われているが、とんでもない、彼は不況の解決策はアメリカの経済的孤立主義であると一時は考え、ロンドン経済会議をぶち壊した。
戦争のおかげでアメリカは、イギリスが百年かかったところを、四年で世界経済の覇者となった。その速さや、イギリスの経済構造との相違、両国が置かれていた世界情勢の違いなどがアメリカの失敗の原因かもしれない。アメリカは、イギリスが失いつつあったmantle of “empire”(帝国のマント=庇護者)の跡継ぎにはなれなかった。
Epilogue: Promise of Glory
348-359 感想 パリ講和会議に向けた各関係者についての記述。ウイルソン、保守層、各国の指導者、社会主義者、ロシアのボルシェビキなど。ウイルソンは、ボルシェビキの提案を補強する内容の14か条の提案を行ったが、ウイルソンはボルシェビキのように、戦争を止めることには反対したし、本心はボルシェビキがアメリカにまで勢力を伸ばすことを好ましく思っていなかったようだ。その点について詳しくは記述されていない、或いは私の読みが浅いのかもしれないが。そして、左翼陣営が分裂したことによって、ウイルソンのパリ講和条約での発言力は落ちてしまったようだ。
348 1918年12月4日、ウイルソンはアメリカから大勢の声援を受けながらヨーロッパに向かった。
ウイルソンは、ヨーロッパでの米軍の戦果が不十分で、戦争の予想外の早期終結などの為に、自らの発言力を弱めいたが、大衆への訴えという武器をもっていた。ウイルソンは各国の代表を信じていなかった。
349 出発数週間前の選挙で、「民主的な下院」を訴えるウイルソンの民衆党は、共和党に敗れていた。
参戦当初ウイルソンは、交渉による和平を唱え、左翼陣営に協調的だった。ウイルソンは「勝利なき平和」を唱え、連合国との形式的な連携を拒否し、イギリスやフランス、場合によってはドイツの野党労働党や社会党に秋波を送り、戦争終結と自由な平和を唱えるロシア三月革命を褒め称えるように見えた。
だからアメリカの左翼陣営は参戦に賛成した。労働界の参戦を勝ち取るためには、進歩や自由といった大義名分を必要とした。アメリカはその理想を西欧各国にも求めた。
350 ウイルソンの、国際社会での左翼のリーダーシップを取ろうという主張は、アメリカの進歩主義者の参戦への協力をもたらし、またそれは西欧社会にも広まった。だが、1917年5月15日、ペトログラードのソビィエトは、ストックホルムでの社会主義者党の国際会議を提案した。そして「民族自決に基づいた、領土併合や賠償金のない和平」を唱え、「ペトログラード方式」と呼ばれた。それはウイルソンの啓蒙的で非懲罰的な和平提案に正面から挑戦し、ウイルソンはそれに理論的に挑戦することになった。
351 ウイルソンは大々的に反ロシアキャンペーンを行い、米国内の左翼を幻滅させた。彼らにはウイルソンの提案とロシアの提案とがさほど異なるようには思われなかったからだ。ウイルソンは、ストックホルムの会合に参加しようとする米国社会党員にビザを発給しなかった。アメリカの社会主義者は分散させられ、中には投獄される者も出た。交渉による和平という手法はロシアの手に移り、アメリカの手法は
“knockout blow”と呼ばれた。
ウイルソンは、ドイツ国内に革命を起こし、ドイツ国内の進歩主義者に政権を取らせ、それと和平交渉するという提案を行った。ウイルソンが穏健な革命を考えていたのに、「革命」という言葉は保守層をぞっとさせた。しかもドイツの反対党の主力は社会主義者で、親ロシア的のかなり強硬な分子もいた。そして1917年11月、ロシアでボルシェビキ革命に成功したとき、ウイルソンや保守層はしばし考えた。
ウイルソンの外交上の立場は、右派にも左派にも、不安定だった。ウイルソンは保守派の帝国主義的連合国に反対だったが、彼らの勝利knockout blowを認めたし、他方、ウイルソンはボルシェビキの急進主義反対しながら、進歩主義的平和とドイツ革命を支持した。
米国内の進歩主義的な労働組合American
Union Against Militarismもジレンマに陥った。進歩的な立場から戦争に協力すると、いままで反対していた保守的な人達と共謀することになった。そして左派に対してはよりはっきりとした平和主義的で急進的なCivil Liberties Bureauや社会党などの挑戦を受けた。ウイルソンも世界では同様の立場だった。アメリカは保守を掲げておらず、国際社会では進歩的だった。ウイルソン民主党は左派だった。それは弱かった。ウイルソンは、復讐的な平和を考える保守と対決した。
CPI=Committee on Public
Information’s Foreign Sectionは世界の世論をアメリカ大統領に従わせようと目論んだ。
1.アメリカは不敗・不滅だ
2.アメリカは自由と民主主義の国だから、信用できる
3.ウイルソン大統領の信念と指導力のおかげで、連合国の勝利は平和と希望をもたらす
353 ジョージ・クリール委員会は、西欧で大々的なウイルソン宣伝をおこなった。出版社に対しては贈賄も行い、政治的・社会的革命を宣伝した。アメリカ企業の提案に基づき、CPIは、映画配給会社とともに、アメリカの教育的宣伝をしない団体には映画を配給しない措置をとるように手配した。また海外出身者団体には出身国への宣伝もさせた。
感想 2018年10月7日(日) 再読してみて、分からないところが分かってきた。ウイルソンは、自己中心的で、ほぼ同じ内容の進歩的な提案をするにしても自分がやらなければ気がすまない人のようで、そのためにボルシェビキや左翼陣営を分断させてしまい、ストックホルム会談も中止に追い込まれた。それに一役買ったのが、悪者の左翼指導者AFLのゴンパースという男だった。ウイルソンの14か条の提案は、レーニンの提案とほぼ同じ内容であるのに、ウイルソンが改めて提出したことは、レーニンへのあてつけとしか受け取られなかった。
354 その宣伝の最大の目的は、左翼が、戦線を離脱しないように説得する*ことだった。1918年1月のウイルソンの14か条の平和工程表は、そういう目的を持っていた。それは1917年5月のボルシェビキによる反併合、反賠償、民族自決主義を増幅するものだった。ウイルソンも長い間そう考えていた。しかしそれをこのタイミングで発表することは、レーニンに対するあてつけと取られた。*1918年初にボルシェビキは早々と戦線を離脱した。
14か条には四つの目論見があった。当時休戦条約を交渉中のロシアを戦線に踏みとどまらせること、ドイツの反体制派勢力を強化すること、連合国の国民の士気を高めること、弾圧に対する反発を相殺する兆候を見て興奮する、アメリカの自由主義者をなだめることなどだった。社会党指導者のデブスはこの14か条を、社会主義者を含めた大衆による支配を信ずる人々の賛同を得られるものとして評価した。
しかし、1918年3月、ロシアはドイツに過酷な条件を押し付けられながら、ブレストリトフスクで単独の休戦協定を結び、1918年3月21日、ドイツは攻勢を強めた。
1918年の春から夏にかけて、イギリス労働党の指導者Arthur Hendersonは、ストックホルム国際社会主義者会議を再燃させようとしたが、ウイルソンはそれを潰した。ウイルソンはそれが、早すぎる停戦をもたらし、ドイツ帝国主義の滅亡を阻害し、ボルシェビズムの過激化を招き、それが全世界に広まることを恐れた。またそれは自由主義的平和を目指すウイルソン自らの独占権を奪われることを意味した。
355 1918年4月、国務省はヘンダーソンの入国ビザを不許可とした。政府はサミュエル・ゴンパースの労働界の敵が勢いづくのを防いでやり、1918年の夏、ゴンパースのAFL代表団がヨーロッパへ遊説する際に政府補助金を与えた。その代表団の任務は、ヨーロッパ労働界の反戦意欲を弱めることだった。9月、ゴンパースはその部下John Freyに、ロンドンでのInter-Allied
Labor and Socialist Conferenceで、ストックホルム会議開催反対の意見を表明し、「スペードをスペードと呼ぶな。悪党と呼べ」などと指示していた。ストックホルム会議は実現しなかった。
ゴンパースの居丈高の態度は、ヨーロッパ労働者の反感を買った。それは各国の政府の立場と変わらなかった。ウイルソンの親友のRay Stannard Bakerは、「ゴンパースがやるように、はっきりとした民主的で、社会的に建設的な目的もなしに、戦争を果てしなく続けよと言うことでは先が見えない」とウイルソンにヨーロッパから報告している。イギリスの社会主義者Sidney Webbは「ノックアウト方式や、ドイツの社会主義者との接触を一切取るなと宣伝するアメリカ労働界の代表団は、ヨーロッパに来ないほうがいい」と言った。
356 ゴンパースはウイルソン単独の自由主義的和平にしがみつき、ヨーロッパの自由主義界を分断した。そして打ち負かされたドイツや革命ロシアをなだめることなど全く期待できない勢力を強める結果となった。つまり連合国の社会主義的労働運動は右傾化した。休戦協定が結ばれる時には、ドイツに対する厳しい休戦協定への反対運動は、分断していて、穏やかなものだった。
ウイルソンがパリに到着すると、 “Wilson
the Just”と呼ばれ、もてはやされたという。
357 ウイルソンがアメリカに帰ってほしい、とヨーロッパの人々が思ったとあるが、前言と矛盾しないか。ウイルソンはパリ会議で、イタリアがイレデンタ併合党員によるFiume地方の併合を放棄するようにイタリア国民に向けて訴えたが、イタリアの代表である首相Vittorio Orlandoは、パリ会議から抜け出し、国会はそれを支持した。
ウイルソンが社会主義界におけるボルシェビズムの兆候を嫌がらずにそれと協力していたら、また(ボルシェビズムと)指導権を分かち合うことができたら、ウイルソンのこのような借金を減らせたかもしれない。
357-363 感想 1919年9月25日、ウイルソンは遊説中の列車内で頭痛と不眠を訴え、遊説を中止しワシントンに戻ったが、10月2日、おそらく脳梗塞と思われる症状で倒れ、その後言葉がたどたどしくなったりthick of speech、部分的に麻痺が起こったりpartly
paralyzed、怒りっぽくなったりsickly
petulanceしたが、一命はとりとめ、ホワイトハウスに住み続けたa reclusive invalid in the White Houseという。しかし、この病気が元で、1924年2月3日に亡くなった。ロイド・ジョージも語っているように、ウイルソンも、戦争中に塹壕で亡くなった兵士と同じく、戦争の過酷さを背負って亡くなったのだろう。361
357 ウイルソンの業績は二点ある。一点は、ドイツが所有していた海外の植民地を直接戦勝国が奪い取るのではなく信託統治下においたことである。もう一点は、国際連盟the incorporation of the League of Nations Covenant(盟約、誓約書) as Section I of the peace treatyを、平和協定締結後ではなく、その前に結成したことである。
358 ウイルソンが帰国すると共和党の上院議員たちが、同盟treatyの盟約covenant部分は米国の主権を大きく制約するから承認できないと非難したが、ウイルソンは盟約と条約は密接に連携しているから分離して修正することはできないと拒否した。
しかしウイルソンはパリに戻ると修正を提案し、それが認められた。つまり、連盟は関税や移民など内政に干渉できない、各加盟国の連盟脱退の権利、モンロー宣言に基づくアメリカの要求は連盟の支配権に勝る、アメリカは不要な信託統治を拒否できるなどである。
すると他国も自国の要求を言い出した。英仏は戦争犯罪war guiltの導入とドイツに対する厳しい賠償を求めた。フランスは、喪失したアルザス・ロレーヌ地方だけでなくドイツのザール盆地を要求した。クレメンソーは条約で、アメリカのフランスに対する軍事援助を勝ち取った。しかし、これは後でアメリカ上院の反発を受けることになった。イタリアはブレンナー峠を併合し、20万人のドイツ語を話すチロリアンを吸収し、多くがスラブ系のフィウメの港を請求した。日本は中国の山東地方におけるドイツの保有物と同地での交易権の放棄を強硬に拒否した。
359 これらの要求の多くは黙認され、ドイツはむっつりとしてそれに署名した。
ウイルソンの存在は戦勝国の怒りを静めた。一方で米軍の存在はドイツ軍に最後の鉄槌を下し、妥協的和平よりも復讐の和平をもたらしたという面もある。
1919年春、New Republicの編集者であるHerbert Crolyは、過酷な和平条件を批判し、外国事情からの孤立を唱え、上院でのベルサイユ条約の拒絶を求め、ベルサイユ条約が「非人道的で独りよがりの資本主義社会に仕える政治家が作り出したもの」とした。しかしCrolyやWalter Weyl、Walter Lippmannらにとって、この条約を批判することは、自らを批判することでもあった。彼らは参戦を支持し、ウイルソンの平和計画を支持していたからだ。
360 William Randolph Hearstなど孤立主義者は、本条約があまりにも自由主義的で国際主義的だと批判した。特に盟約の第10条、連盟国は外部からの攻撃に対して、その無欠の領土や政治的独立の保全を誓約するという部分である。彼らはそれがアメリカ人と武器の白紙委任だと看做した。
またアイルランド系アメリカ人は、本条約によっては故国アイルランドが、イギリスの圧政からの独立が保証されていないと訴えた。イタリア系アメリカ人は、ウイルソンのフィウメへの干渉に憤激した。ドイツ系のアメリカ人は、本条約が銃口で脅された野蛮な強制であると不平を述べた。
最大の反対は上院だった。上院は憲法に基づいて批准を要求されたが、上院の指導権は選挙の結果Henry Cabotの手waiting handsに渡っていた。そのためウイルソンは上院から誰も代表をパリに同行せず、そのため上院での可決はやりにくくなっていた。ロッジは上院で時間稼ぎをするとともに、反連盟運動を展開し、Henry Clay FrickやAndrew Mellonなどの実業界がその運動の金銭的支援をした。
361 上院の引き伸ばし戦術によって批准できなくなることを恐れて、ウイルソンはいつもの国民に直接訴える手段に出た。つまり全国遊説である。
1919年9月3日、ウイルソンは全国遊説を開始したが、共和党員は彼の後を追って火消しをして回った。
ここは感想の記述も参照されたい。10月2日、ウイルソンは左手の感覚が麻痺し、数分後に意識を失って床に倒れた。ウイルソンはホワイトハウスの人目を避ける病人となり、かつての明晰な頭脳はかげり、その政治判断は、病弱の不機嫌で阻害された。
362 11月6日、ロッジ上院議員は、連盟条約の第十条、他国への武力援助義務条項を制約し、下院の承諾要件を加える条約批准案=ロッジ留保案を提出した。ここでロッジ案に賛成するか、反対して条約を批准しないかどちらかの選択肢しかなかったが、ウイルソンは民主党員に反対するように言った。1919年11月19日、上院はベルサイユ条約を拒否した。1920年3月19日、再投票が行われ、民主党議員の多くがウイルソンの忠告を無視して、ロッジ修正案に賛成したが、連盟条約を批准するための三分の二に届かなかった。また、ウイルソンは下院提出の交戦状態終結議案に拒否権を発動し、ウイルソンの任期中は戦争状態が終結しないことになり、次の共和党のハーディング大統領になって戦争終結ができた。1921年の夏、Warren G. ハーディングは、歴代大統領のうちのトップで当選を果たした。
ウイルソンは亡くなった。「彼は地上の煉獄を生きた」とパリのル・タンは評した。ロンドンのデイリー・イクスプレスは簡単にこう述べた。
“Blessed are the peacemakers, for they shall inherit the
earth.”
363-369 感想 筆者はこれまでの記述でも文学的な描写が目立ったが、この部分は全体がほとんどそれに尽きる。文学的表現は分かりにくい。この部分の内容を比較的分かり易い後半部分の内容から推察すると、こうだ。第一次大戦で息子をなくしたアメリカ人女性を――父親は除外された――政府が予算を組んでフランスに墓参りの便宜を図った。息子を戦争でなくした家族に招待状を送ったが、手紙が戻ってきたケースが40%はいた367らしい。その中から希望した女性が、ヨーロッパに置き去りにされた息子の眠るフランスまで船で出かけるという内容である。本当は遺体を連れ戻したかったのだが、多くはフランスに残すことに同意したという。またフランスに送られる時でも、船は一つなのに、列車やホテルでは黒人は隔離され、死体の代表を選んでアメリカで埋葬する時でも、黒人やユダヤ人を避けたかもしれないとのことだ。小説家・画家John Dos Passos*のからかいとして記述されている。368
*John Roderigo Dos Passos, 1896-1970, 最初は左翼シンパだったが、スペイン内戦に参加した以降は徐々に反共主義者に変貌した。第一次大戦に志願して参戦した。ウィキペディア
タイトルの“Over Here”が何処から来たかというと、当時 “Over There”という軍歌363に送られて、アメリカの軍人がフランスに渡ったということから来ているらしい。
363 1927年9月10日、二万五千人の「第二のA. E. F.」所属の元軍人とその家族が、パリで開かれるAmerican Legion conventionに参加するために、15艘の船でニューヨークを出航した。
在郷軍人会は政府に「元軍人に農場を」という掛け声で農場の支給を要求したが、工業化の中でそれは意味を成さず、次に、兵隊をしていなかったら得られたであろう収入と兵隊をしていたときの給料との差額を要求した。これに対してカルビン・クーリッジ大統領が拒否権を行使したが、それを乗り越えてこの支給法案が成立した。
アメリカはヨーロッパ諸国に高関税を課し、借金の返済を迫り、不人気だったが、パリに着いた元軍人らは暖かく迎えられた。
パーシングが「彼らは自由のために命を捧げた」と演説し、ニューヨークタイムズのかつての特派員は感傷的な特報記事を書いた。
彼らは深刻なことは考えようとせず、陽気に振舞った。
彼ら「憲法修正第18条*による避難民」は、七年間の法の渇きを癒すためにバーをうろつき、集会の内容はどうでもよかった。
*飲料用アルコールの製造・販売を禁止するかつての条文。1919.1.16, 1920-1933 この話が1927年のことだから、7年間というと1920年に禁酒法が施行された年と一致する。1927年はまだ米国内では禁酒法が実施されていたが、フランスでは公然と酒が飲めたということらしい。
365 凱旋門を行進する二千の軍人は茶番だ。マルクスの言うとおり、「歴史は繰り返す。茶番として」
その近くにフランス人の無名戦士の墓があり、行進する元兵士たちは色とりどりの花を投げたという。彼らは沿道の人々から「トム・ミクス」*と声援を送られたそうだ。
*トム・ミクスは西部劇の俳優。Thomas Edwin Mix,
1880.1.6-1940.10.12若くして軍に入隊し、フィリピンの「キャンペーン」で戦った。西部劇出演年は1909~1935。死亡原因は自動車で流された橋の前で止まれずに転落死した。
彼らは、無数の旗で包まれたダム・コロンビア像*や「大衆の中で溺れ死んだ二人の孤独な黒人」などを含めた何百万のパリ市民に見物されながらパリ市内を行進した。
*ダム・コロンビア像 「コロンビア婦人」 何のことか不明
*“two lonely Negroes drowned in the mass”とは何のことなのだろうか。「大衆の中で溺れ死んだ二人の孤独な黒人」何のことか?
しかしフラン人の受けは、アメリカ人の浮かれ騒ぎとはちょっと違っていたようだ。Literary Digestはこう報じた。「フランス人にとって、アメリカの元軍人が、悲しく神聖な墓地に巡礼するのに休日のようなお祭り騒ぎをするのはとても理解できない」「アメリカ人はヨーロッパの古い軍国主義を嘲笑しているのか」またNationはこう報じた。「戦争は大袈裟なパレードみたいなものではない。米退役軍団は、味も素っ気もなくショッキングである。それは戦場に流れるジャズみたいなものだ」
366 しかしその受け止め方の違いは、戦争体験を比較してみると理解できるかもしれない。アメリカ人は戦争に遅れて参加し、ヨーロッパ人のような果てしもない過酷な体験をしなかった。
1927年、米欧の相違を物語る事件がもう一つあった。それは左翼についての考え方だ。戦後アメリカは移民の左翼を処刑した。その中で銀行強盗と殺人の罪に問われたイタリアのアナーキストNicola SaccoとBartolomeo
Vanzettiの処刑8.23がある。彼らに対する追悼集会が、米退役軍人のパレードとさほど遠くない地Clichyで開かれた。それは絶望的で侮蔑的な集会で、そのことは左翼の凋落傾向を物語っていた。
この死刑執行は、ヨーロッパの左翼が、アメリカの戦後の民族主義と赤狩りに対して7年間の抗議を続けた後で行われた。そのときアメリカでは移民の急進主義者たちが死刑に処せられていた。
アメリカの復員兵は反移民・反急進主義で悪名高かったので、フランス当局は左翼の反撃を警戒していたが、フランス左翼はパリ郊外のClichyで小さなデモをしただけだった。彼らはPlace Sacco-Élys éeesの除幕式を行った。彼らの助命嘆願をしたAmerican Civil Liberties UnionのRoger Baldwinが、これに参加したが、彼の孤独で負け犬のような姿は、戦後アメリカ左翼の凋落を物語るものだった。
経済の分野でも米欧の相違が現れた。1927年、ヨーロッパの実業家はアメリカの高関税政策に折れ、絶望した。米下院はジュネーブのWorld Economic Conferenceへの拠出金を出し渋った。それは関税を引き下げ、自由貿易を促進するための会議だった。アメリカは1920年代を通じて懲罰的な(高関税)計画を取り下げなかった。フランスはアメリカの高関税政策を突き破るために、ドイツと通商条約を結んだ。するとアメリカはFordney-McCumber Tariffで、報復的に関税を50%引き上げると脅した。フランス代表はアメリカに赴き、アメリカの物品に対する旧来の関税に戻した。これは米仏の、米元軍人パレードの狂乱と歓待の集会をコケにする出来事だった。
367 しかし両国間の絆がまだ失われていないことを示す出来事もあった。三千人のアメリカ兵がヨーロッパの地に眠っていた。1919年、多くの家族は死体を米国に帰国させるように嘆願したが、結局ほとんどがヨーロッパに残留させることに合意*した。1930年、下院は予算を計上し
“Gold Star mothers”*を息子の眠るヨーロッパに派遣することにした。この時代の風潮を反映して、父親は除外された。
*「天国との距離はフランスからでもインディアナからでも変わりはない」とある母親は言ったという。
戦争省War Departmentは、親族に三万通の手紙を郵送したが、40%があて先不明で戻ってきた。手紙が届いた人のうち政府の事業に賛同した人は六千人だった。しかし、何人かの黒人女性は、道中の船で一グループにまとめられ、鉄道やホテルでも隔離されることに抗議して、政府の事業を断った人もいた。家で尊厳と名誉を持して過ごしていたほうがいいと、悲しいけれど彼女はそう望んだ。
368 1930年から、再び派遣事業が行われ、今回は高齢の婦人がほとんどだった。これは3年間にわたって少しずつ行われることになっていた。当時Fordney-McCumber Tariffよりも高い関税を課すSmoot-Hawley tariff billが下院にかけられている頃だったが、彼女らはそんなことは気にかけていないようだった。
5月16日に彼女等はパリに着き、さらに小グループに分けられた。彼女等はドイツ系アメリカ人で英語が話せない人が多かった。式典もスピーチも行われなかった。Suresnesでは6人の母親が選ばれ、献花をした。その中にはミュンヘンからの親戚が加わった人もいた。その家族は互いに戦った敵同士であったかもしれない。
5月20日、180人の母親が、かつてのMeuse-Argonneの戦場の中に位置するロマーニュ高原のMontfauconにある最大のアメリカ人墓地に向かい、道中、アーリントン墓地に埋葬するための6人の無名戦士を選ぶように求められた。
369 翌朝彼女たちは、一万四千の十字架とダビデの星Stars of Davidが並ぶ、ミューズ・アルゴン墓地で献花した。また道中ベルダンのDouaumontの丘の上に、無数の石造りの霊廟を見た。そこには攻囲戦で亡くなった百万以上の独仏の無名戦士の遺骨が納められている。
最後に母親たちはバスから降り、雨のしょぼ降る大理石の野原に、懐かしいが変に待ち続けている名前を見つけ、跪き、アメリカで息子が遊んだ土や花を振りかけた。冷たい雨が激しく降り始めた。母親たちはエスコートされ、子どもを一人残してバスに戻った。子どもたちは約束された栄光を今でも待ち続けている。
終わり
本書の著者David M. Kennedyは、スタンフォード大学歴史学教授で、彼の最初の著書は、Birth Control in
America: The Career of Margaret Sangerであり、それは1971年にBancoft賞を受賞した。
著者の博識と調査研究の深さに感服した。
David M. Kennedy, 1941.6.22-, 歴史家・作家
最近の著書は、
・Freedom from Fear: The
American People in Depression and War, 1929-1945, 1999
・The American Pageant: A
History of the American People, AP Edition, 2010, 共著者、Lizabeth Cohen, Thomas A. Bailey
2018年10月9日(火) 金井正之
2018年10月10日(水) 感想
筆者の政治的立場はどういうのだろうか、左翼か。左翼シンパのようにも思える。しかしあまり明確な態度は示していないように見受けられる。それはアメリカ社会の豊かさがもたらすものか。彼の文学的歴史表現手法にもそんな感じを受ける。
日本の左翼にも同じことが言えるかもしれない。また日本の左翼は外部から動かされていた面が強い。例えば戦前、貧農を巻き込めたかというとそうではないようで、むしろ右翼に持っていかれていたようだ。戦前の後半では朝鮮人をも巻き込んだようだが、その点では一歩すすんだのかもしれないが。
それに対して韓国の左翼は現実生活にもまれて成長してきたように思われる。植民地統治時代はもとより、その後の独裁政治の圧制をはねのけようとする動きがあった。たとえそれが全く自らの力によるものではなく、世界情勢の有利さを利用したものであったとしてもだ。
韓国の左翼はその点で北朝鮮よりも経験が豊かだと思う。北朝鮮による、圧制をはねのけようとする運動は、戦前の植民地時代の経験しか持たず、その後は外部左翼勢力の影響下に生きてきた。
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